☆いい女☆で行こう!

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「大切なもの」と痛み、および魂の関係
でもそれなりに好きなものがあり、それなりに叶えたい夢があったりする。
ただ、ほとんどの人にとって、もう「大切なもの」はなくなったのだ、なぜ大切なものはなくなったかというと、人が弱くなったからだし、世の中がやさしくなくなったからだ。
おれの場合、たとえば先日の野反湖の景色が魂に突き刺さっているあたり、おれは何でもかんでもにその「大切なもの」を触れてしまうのだと思う、この言い方はややこしいが書き間違っているわけではない、「大切なものを触れてしまう」で表現は正しい。
同じ場所にいき、同じことをして、同じものを見て、同じものを食っても、おれの場合は何かことごとくが「違う」というものになってしまう、おれの周囲にいる全員が「なぜだ?」と不思議がる定番のところだが、これはつまり、おれの魂が何もかもについてその「大切なもの」を触れるということから起こっている、通常の人はこの痛みに耐えられない。

「大切なもの」を触れることによって、それは魂の一部となるのだが、そのぶん、「大切なもの」は直接自分の魂の痛みにもなる、ふつうこの痛みに耐えられないので、「大切なもの」が発生しないように人は生きているものだ、ましてきょうび世の中はまったくやさしくないので、そんな弱点を持つといくらでも痛みを踏みにじる攻撃を受けてしまう、やめておいたほうがいいというその判断は100%正しい。
おれの場合けっきょく、他人の言うことをまったくアテにしていなくて、ほとんど人の話なんか聞いていないのだと思う、人の話なんかよりおれの大切なもののほうが大切というわけだ、これだけでも極度の奇人変人だが、それに加えておれの場合は痛みに苦しんでいるわけではないので特殊を極めている。
痛みがなければ魂ではないので、痛みは常に魂の必要条件だが、痛みについては「許される」「許されない」があり、許されていない人の痛みは「痛苦」になってその魂を苛(さいな)み続けてしまう、よくあるパターンとしてうつくしがろうとして耐えきれず自死する詩人などがこのパターンだ、その死に方は直観的に「何かダセェな」と知られるのだが、このダサさは「痛みが許されなかったんだな、草」というダサさだ。
つまりありていにいうと、人には第一の関門として「痛みに向かえるか」というガキみたいな試練があり、次に二次試験として、痛みが「許されるか」「許されないか」という試練を受けるのだ、一次試験さえオリる人は論外であって、試練としては二次試験のほうが遥かにキツい、おれはたまたま他人の言うことをまったくアテにしなかったので、何かしらまったく別のものによって、痛みの多くが許されることになった、ちなみに許されない痛みを根性で耐えることを「我慢」といい、これは「吾我の驕慢」という意味だから、痛みが許されなかった人はけっきょくド根性の後にモンスターになってしまう。

おれの場合、痛みは偉大なるおれさまと世界が許した。

むしろそれをおれは「世界」と呼んでいるのだ/「九折さんと歩いていると景色が異様にきれい」「街の明るさが増している気がする」という定番の現象は、おれが痛みの肩代わりをしているからだ、だから一緒に歩いている人もひととき「大切なもの」を触れることができる、もし自分かぎり単独でその大切なものと痛みを引き受けたら、それだけで二日間ぐらいベッドにもぐりこんで痛みに泣いているだろう(本来、青春というのはそういうことのための時間だったのだが)(しかもそれでも許されるパターンは極めて少ないという)。
誰でもそれなりに、好きなものがあり、叶えたい夢がある、そして楽しく生きている、が、大切なものがあるかというと、なかなか無いものだ、そこで焦って勇猛果敢なつもりで「大切なもの」に向かうのもよいが、想像を絶する痛みの予感で五秒ともたずパニックに陥るだろう、そしてすごすごといつもの楽しいワタシウフフに戻ってくるしかないのだが、それでもその壮絶な痛みの予感に触れて戻ってくるだけでも少しはマシな価値があるだろう、そこでそのことをバカにしないでいられたら、それだけでも人としてはとても「強い」部類に入る、ほとんどの人は痛みの予感からそれをバカにする・汚すという方へ転じるだろうが、あれ、もしそうなら、もうそんなことは一切やらないほうがいいなあ(矛盾)。
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