☆いい女☆で行こう!

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アウトプットは大威張りで、インプットはわがままに
れは本当に世間の話を聞いておらず、ゆえにおれにだけに救済のヒントがある。
ヒントどころか、おれじたいが救済そのものだが、おれは他人の誰かに何かを一切期待していない、おれは他人の中にもあるおれに期待しているのみだ。
期待? より正確に言っておこう、おれは他人の中にあるおれを信じているというか、他人の中にあるおれだけを相手にしているのであって、そのほかの戯言は聞こえていないのだ、このむちゃくちゃなやり方というかむちゃくちゃな感覚が、今になって唯一の救済の手掛かりになった。
おれは他人の人格を認めていないわけではない、いや、認めていないのかな、おそらく認めていないのであろう、おれは他人の主体は認めている、ただしそれが主体であるならば、それは他人ではなくおれであるはずだ、おれは他人の中にあるおれとしか接触しない、だからおれにとって他人なんてものは存在していない、その魂のうちにおれがいない誰かなどおれの世界に存在を認めない、そんなものはただの汚れた物質だ。

一方、おれが外側の何か作品等を楽しむときにも、けっきょく本当には、おれが勝手に作品を利用して、想像力で遊んでいることがわかった。
作品それ自体の概要や品質など、どうでもいいのだ、どうでもいいというのは言い過ぎだが、おれはけっきょく他人が表現したらしきものなどまったくアテにしていないし認識もしていない、ただおれが外部の作品にも入り込んで遊ぶだけだ、おれはおれとしか遊ばない。
これは何もデタラメを言っているのではなくて、まともな奴なら誰だって知っていることを、わざわざ再発見して言いなおしているだけだ、おれと誰かの距離感のなさ、おれが知人の誰の家に押し入って泊まり込んでも何の違和感にも迷惑にもならないというこの現象は、おれがおれの家に泊まりに行くだけだからということに結論できる、そしておれが他人のうちにもおれをぶちこんでいるので、そのときはじめてその他人も、「わたし」という主体を獲得するのだ、おれの世界においてはおれを通してしか主体という現象は獲得できない。
おれはこの五年間か、十年間ぐらい、ひとつの戦いをしてきたように思う、おれは他人の中のおれとだけ接触し、他人の中におれを入れ、他人の中のおれを引っ張り出してきたのだが、そのことをなぜか「がんばって拒絶する」人々が急激に増えたのだ、それでおれは生来のリベラル気質を発揮して、徹底的にフェアに構えた、そしてフェアに理知と理路だけで語ることにした、そうして「理路整然」なんてやり方をさせたら、けっきょくまた九折さんが勝つだけだ/そんなことを何年も続けて首をかしげていたが、ついにそうして「頑張って拒絶する」人々に対してフェアネスと理路を徹底するということは、「意味がない」と結論づけることができた、それは頑張って拒絶する人々に何の意味もないからだ、もちろんそれでもおれは誰かに何かを無理強いするということは性格上ない。

おれはフェアに、理路整然と、彼らに手がかりを与えてきたが、その手がかりは彼ら自身に、「絶対に無理だよ」という壁を教えるものにすぎない。

おれは生来的に、クソがつくほどリベラルな気質があって、たとえば何の経験もない十五歳の少女が、「クソアニメを見てオナニーしているだけのわたしだけど超絶の神技を手に入れて自分の優越感と承認感に恍惚となりたい、だけどあなたのことは認めたくないから方法だけきっちりわかりやすいように教えてね」というとき、おれは本当に方法だけきっちりわかりやすいように理路整然と説明するのだ、そして十五歳の少女が自己陶酔と承認欲求を叶えるためだけに神技を会得して無事クソアニメオナニーを続けていくことができるかというと、無理だ、絶対に無理なレベルの壁・精神の次元の壁があるのだが、おれはそれでもそれを「無理だとは思わない」と断じるほどにリベラルだ/おれはむしろ当人の意志がそれなのだから「そこで何億年経とうが一人でやれよ」と考える、幼児的万能感を叶えるためなら地獄に落ちてでもやれ、おれは相手がガキだろうが何だろうが、当人の発言と意志を最優先にする、たとえそれがどれだけ誤っていようともだ。
おれが超えられる壁は、人為的に超えられるたぐいの壁ではない、それを超えようと思うと、そいつの中にいるおれにしか超えられない、そのとき魂のおれが陽であってそいつの人格は陰なのだが、この陰は否定されているのではなく、陰陽が一体になって世界を為すのだ、陰でしかない無経験アニメオナニー陶酔人格が陽たる魂のおれなしに人為の及ばぬ壁を超えられるわけがない、重力に引かれるだけの陰たる人格がどうやって壁を超えられる道理があるか/それでもおれは、当人が己の人格の陶酔を言い張るなら、当人にそれを最優先させる、そしてそれは本当に「何の意味もない」ということが結論づけられた、つまり何億年経っても一ミリも何も進まないということだ、当人がそれを選んだとしてもそれはおれの選んだことではない、何しろ当人が自分の中におれはないと言っているのだからおれには何の関係もないと当人も言っている。
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