☆いい女☆で行こう!

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おれは超スゴイ
という現象は存在する。
おれは、わざわざ「愛」なんて追いかけるつもりはないのだが、おれにその気があろうがなかろうが、おれからは愛の現象が発生してしまっている、そのことに敏感なのはむしろおれの側ではなくおれに接触する他人の側だ。
ただ、おれに接触する他人は、そのことに敏感なくせに、それが何なのかはわかっていない/一方でおれのほうは、基本どうでもいいと思っているのか感覚的に鈍感なのに、それが何なのかはよくわかっている、おれは理詰めで生きてきた者だからだ。
愛という現象は存在する、そしてその現象はおれから発生しているが、おれの意思として発生しているのではない、よって愛というのは人の意思ではない、もともとこの世界にある意思だとしか言えない、だからおれが何かを蹴飛ばそうとも、また誰かがおれを蹴飛ばそうとも、そんなこととは無関係にこの世界の意思たる「愛」は現象として存在するのだ、それがなぜなのかはおれは知らん、そんなもんおれに聞かず当事者に聞け、この意思の当事者たる世界に聞け。

聖書ではていねいに、われわれのようなバカでもいくらかわかりやすいように、「第一に、汝の神を愛せ」「第二に、汝の隣人を汝のごとく愛せ」と書かれてある。
おれはその第一にも第二にも心当たりがないというか、そもそも心当たりを必要としていないのだが、この文言が的を射ているのはわかる、このことを理詰めで理解したのはおれが二十歳のころ、エーリッヒフロムを読んでいたころだが、そのことはもう面倒なのでいちいち説明しない、聖書に書かれている隣人愛の説明はびっくりするぐらい正鵠を射ている。
おれは意図的に愛や隣人愛を実現しているわけではないが、ある種の仕組みによって「勝手にそうなっちゃう」のだ、端的に言うとおれは故障しているというか頭のネジが外れてしまっていて、根本的に「自分の他人の区別がついていない」のだ、だから「汝のごとく汝の隣人を」と言われても、あるいは言われなくても、そもそも汝やら隣人やらというのがすでに「よくわからない」という状態になっている。
おれがずっと昔から追求していた、あるいは追跡していた、現象のすべてを一言でいうとそれは「魂」(ないしは「命」)ということになるようなのだが、この魂とか命とかいうのは、正確には「誰の」というふうにカウントできるものではないようなのだ、だからおれは自分の魂と誰かの魂の区別がついていない、区別がついていないというよりそもそも区別がないシロモノらしい、だからおれは人のことは平気で蹴るが魂を蹴るわけではない/そりゃそうだ、どうしておれがおれの魂を蹴るなんてバカをやるのか、魂というのは「誰の」というものではないのだ、すべてひとつの主体のものだ。

おれは何もすごくないから超スゴイ。

なんというか、立派ですごい人というのは、何かスゲーがんばっていて善人だからすごいのだ、そこがおれの場合は違う、おれは見たまんま何もすごくないのに、にもかかわらずすごいから超スゴイ/おれはおれの何かを磨いているわけではまったくないのだ、もともと磨く必要がまったくないものが存在していてただそれだけを取り扱っているので結果的におれが超スゴイことそのものになるというだけだ。
ハッピーという概念があるが、自分がハッピーという状態になろうとする、つまり「アイムハッピー」という発想は誤りだ、ハッピーとは出来事のことであり、無理やり形容詞ふうに言うと「出来事ィ」ということなのであって、「出来事ィ」というのはそれじたいが主体であり主格だからだ、「わたしが出来事ィ」なんてことはありえないのでアイムハッピーという文脈は成り立たない、あるのは「出来事ィは出来事ィ」という、ハッピーイズハッピーしか成り立たない、「超スゴイ」はそれが人格ではなくていわば常時それが「出来事ィ」ということだ、人格ではなく出来事格だから超スゴイ、もちろんこんな話は何のこっちゃわかってたまるかというような話ではある。
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