☆いい女☆で行こう!

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おれだけが異様に気楽な理由
鏡を新調しようとして、検討のために久しぶりに百貨店に入ったのだが、改めておれが、他の一般的な人々とかけ離れて存在しているかがわかった。
ずっと以前から、それこそまだガキのような時分から、「なんでおれだけヘンに見えるのだろう?」と鏡に映った自分を気持ち悪く感じていたのだが、どうやらそうではなかったようだ、おれはどうやら実際に「違う」ので、違って見えて当たり前なのだった。
今になってようやく、本当にようやくという感じだが、おれはおれの特殊性を理解することができた、今になってようやく説明できるようになった、おれだけがありとあらゆる場所でひとり、「事情がない」という状態で突っ立っているのだ、だから鏡越しに自分を見ても空間の中で「なんだこいつ」と見えてしまう。
もちろんおれだって、表面的には「眼鏡を新調しようと思って」という事情を持って百貨店内にいるのだが、おれの場合はけっきょく事情がおれを支配していないのだ、おれがこれまでに無数の、ナゾの攻撃を受けてきたことや、逆にナゾの愛され方をしてきたことのすべては、この一点をもって説明がつく、おれはおれ自身で見ても浮いてしまうぐらいに、おれひとりだけ「事情がない」のだ、事情がない生きもの・事情に支配されていない生きものとしてずっとそこに突っ立ってしまっている。

おれは最近、生きものの身体が、やがて打ち滅ぼされるということから、「生きものの身体って、 "折檻" されるために存在しているよな」ということに気づいた。
折檻されて、痛苦によって滅ぼされるというのが肉体・身体・生の真相だ、それが暴力や性で為される場合もあるが、そうでもなくても事故や病気や老衰によって、肉体というのは急激にであれ緩慢にであれ「折檻されて痛苦によって滅ぼされる」ものだ。
おれはそのことについて、「イエスキリストでさえその肉体は折檻を受けて一度滅んだ」と指摘する、むしろその贖罪と肉体の真相を顕すためにキリストのストーリーはむごたらしい磔刑のシーンを含んでいると言える。
それで、折檻されて痛苦で滅びるというのは誰の肉体でも同じだし、痛苦というのは誰にとっても「痛くてキツくてイヤです」というものなのだが、同じイヤにしても、その向こうで許されている人と許されていない人がやはりいるのだ、ほとんどすべての人にとって生の反対は死であって、痛苦の果てに「滅びる」ということが、けっきょく最悪すぎてそのことを直視することができない/おれはその痛苦の向こう側についてはいつの間にか許されているので、そのことを直視できるし、生きるといっても根本的に「事情がない」のだ、人の事情はけっきょくこの一点、「痛苦の果てに肉体が滅ぶ」ということにどう救われたらいいのかわからないということから生じている。

水の反対が油であるとき、「生」の反対は「命」だ/ただしそこに命がないとき、生の反対は空っぽの「死」だ。

水の反対が油だとして、水が減っていけばどうなるか、それは油で満たされていくということになるだろう、とはいえそれは油が存在する場合に限る、もし油がないときに水が減っていけばどうなるか、それはただ空っぽになっていく、こうして水が減っていってゼロになったときが空っぽの死だ、この痛苦を伴う破滅エンドに対抗する方法がわからないので、人は他の生きものと同じように遺伝子を残して「生」に寄与しようとする、それは痛苦と滅びに対する救済を「生」に帰依することで得ようとする発想だ/この帰依がすべての「事情」を発生させている、つまり人々はこのひとつの帰依のもとで仲間として暮らし、同じ帰依の姿を全身で顕している。
そこがおれの場合、水がなくなれば「そりゃ反対の油で満たされていくだろ」というケースであって、おれが生を失っていくというのは命で満たされていくということなのだ、おれには破滅たる空っぽの死が用意されておらず、いわゆる「死を恐れない」ということじたいを必要としない、もちろん生は大事な資産なのでそれを無駄に捨てるつもりはまったくないが/「人は死んだらどうなるのでしょう」というありがちな問いに対し、「おれは死ぬコースではないので、おれに訊かれてもなあ」とおれは答えるしかない、おれだけがずっと異様に気楽なのはこれが理由なのだ、別におれはそうなろうとしてそうなったのではなく、気づいたらこうなっていただけだ、あとはあまりにもおれがおれ自身のことを話さずに来たのがいまいちマズかったかもしれないと思うだけだ。
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