☆いい女☆で行こう!

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おれだけが異様に気楽な理由2
の反対を油としたとき、生の反対は命だ、ただしそれは命が "あれば" に限定される話であって、命がない場合、生の反対は空っぽになる、この人たちにおいては生の反対は「死」になる。
われわれに与えられている生は有限なので、この生は放置しておいても時間と共に目減りしていくのだが、これは何を意味しているかというと、滅びに向かっている肉体の国の「通貨」だということだ、滅びゆく国の通貨なのでその資産価値は目減りしていくのが当たり前だ。
じゃあこの通貨・資産をどうすればよいかというと、ここにマトモ銀行とインチキ銀行を用意する、そしてマトモ銀行において両替をすると、正当なレートで生の通貨は命の通貨に両替される/命はほとんど魂と同じものだが、こちら命は永遠の国のものなので、その資産価値が目減りすることはない、そういうことなら誰がどう考えても、目減りしていく通貨を永遠の通貨に両替したいと思うだろう。
一方、ここでインチキ銀行に頼って両替をすると、インチキ銀行においては為替がまともでないというか、そもそもインチキ銀行は命という通貨を流通させる窓口になっていない、だからどうなるかというと、つぎ込まれた生の通貨はどこかへ雲散霧消するのだ、つまりただの詐欺だ、「お預かりしたご資産につきましてはですね……」/こうして生の終わり・生の尽き果てるときが、イコール残高空っぽ、「無」だということになる人が続出して、この人たちが「生の反対は死だ」と捉えているのだ、この人たちは何も誤っているのではなく、この人たちにおいては本当に生が尽きたときには死ぬのだ、その先がどうなるのかはおれの知る領分ではないので知らない。

われわれはふつう、生活・生涯で何をやっているかというと、「生」の通貨で「生」の通貨を買うという、いわば等価交換をしている。
「生」を費やして働き、働いて得た給与で衣食住を買い、つまり「生」を買っている、これは一般的に「生きるにはしょうがない」ことであって、だからこのことを「生業(なりわい)」という。
問題は、この「生を生に等価交換する」ということを繰り返していっても、これはやがて滅びる肉体の国の通貨だから、どれだけ盤石に資産運用しても、けっきょくは残高ゼロになってしまうということだ、大量の通貨を残したとしても資産価値は数学的にゼロになってしまう。
そしてそのときになって「目減りしない永遠の口座のほうは残高どうなっていますか?」と言われると、「そんな口座に入金したことは一度もない」「はあ」「だって入金できる通貨を得たことがないんだもの」「はあ、じゃあもうおしまいっすね、ガチのゼロで無ですね」ということになってしまう。
なぜこんな、ミエミエの破局にそのまま突っ込んでしまうかというと、「このままでは破局に至る」ということが、怖くてどうしても直視できないからだ、つまり生というものが「やがて滅ぶ肉体の国の通貨」だということが直視できない、だからいつまでもこの通貨の資産価値があるように思い込んで、恐怖を抑圧してしまい、最後の最後までこの使えなくなる資産に依存・しがみつくことになる、先の短い老人がむしろカネや生に狂気じみた執着を見せることがあるのはこの性質による、先の短い老人のほうが抑圧と依存の強迫が目前にせまって強くなっているのだ/彼らは死を恐れたことは一度もないのだが、それは命なき死を直視したことがこれまでに一度もないからだ、潜在的には直視できないほどそのことを恐れぬいているというのが真相だ。

われわれの生の使い道は二つ、1.生に交換するか、2.命に交換するか。

誰でもわかっていること、車が壊れたらガソリンはもうエンジンの燃料にはならないわけで/ガソリンのみを求めて走り回った車は、確かに最後までガス欠にはならなかったかもしれないけれども、ついにはそのまま廃車になり、「どこも走らなかった車」とも言いうることになる、人が生きながら何の命もなかったというのはそういう状態だ。
車はアイドリングしていてもガソリンを消費するし、それよりはガソリンを求めて走り回っているほうが活発に見えるが、けっきょくのところどうなるかというと廃車になるのだ、それで「けっきょくどこをドライブしたの」と言われると、両方ともうつむいて黙ってしまうことがよくある/ドライブそのものが廃棄になることはない、命が永遠だというのはただそれだけのことだ。
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