☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
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おれだけが異様に気楽な理由4

る容器のうち、水と油が反対ならば、水が尽きれば油に満ちるはずだ、ただしそれは油が得られた場合であって、油が得られなければ容器は次第に、水が尽きるほどに「空っぽ」になっていく。
生の反対は命であって、同じ容器において、生が尽きれば命に満ちるはずだ、ただしそれは命が得られた場合であって、命が得られなければ容器は次第に、生が尽きるほどに「空っぽ」になっていく、これが「死」だ。
人はみな、生を尽きさせていくのは同じだが、人それぞれに、命が満ちていくタイプ(永遠の命・魂)と、空っぽが満ちていくタイプ(死・無)がある。
われわれは魂において、それが命に満ちるという国のよろこびは否定のしようがなく、またそれだけに、反対側においてはそれが無に満ちて空っぽに死の国へいざなわれるという恐怖もまた、耐えがたく直視できない/こう考えるとわかりやすい、われわれは生きものとして、「耐えがたい空っぽの死にどう対抗するか」という問題に向き合わされ続けている。

耐えがたい、また耐えようもない空っぽの死にどう対抗するか、この対抗策として、われわれはけっきょく生と命のどちらかに頼る、所属する、あるいは帰依しようとする。
たまたま永遠の命や魂なんてものが得られた場合は、それは万々歳ということで話は済むが、そうでない場合はけっきょく、命ではなくて生のほうに所属・帰依し、「死」に対抗することになる、<<生に帰依する>>、それがつまり、生きものとして遺伝子を残そうとすること、子孫を残して繁栄させようとすることだ、連綿と続く生によって永遠に死を超克しようということ、そうすればたとえ自分の肉体は死んでも「遺伝子は残ったもんね〜」ということになる。
古典的なキリスト教の場合、「神父は結婚しなくていいだろ」「神父は子孫残さなくていいもんな」と考えられているのは、もう神父は永遠の命の側へ帰依したので、生へ帰依する要素は持たなくていいじゃんという発想なのだ、もちろんその発想が制度になったとして本当に機能しているのかどうかおれは実態を知らないしこの先も知ろうとは思わない。
このことのちょうど反対側で、人は自分が永遠の若さなど持っていないということを認めたとき、生に帰依して死に対抗するということで、遺伝子を残して子孫を繁栄させることを発想するのだ、それは非宗教的な宗教ともいうべきで、人は本能的に子孫を残そうとするのではなく、繁殖の本能にすがって死に対抗しようとする宗教行為を選ぶのだ/死に対抗するということ、いつまでも滅ばずにいることの願い、つまり「万歳」をどう為すかにおいて、永遠の「命」を得ようとする者と、リレーされる「生」を徹底的に有利にしようとする者に分かれる。

死に対抗する三択/ひとつは永遠の命、ひとつは際限のない生、ひとつはすべての視認をやめる。

もちろんこれが、ウソだったら困るのだ、永遠の命というのがウソだったら困るし、際限のない生というのもウソだったら困る、たとえ宇宙が滅んでも永遠の命は残ってもらわないと困るし、たとえ宇宙が滅んでもウチの子たち・子孫は繁栄していてもらわないと困る/そして「死とか考えても意味ないから考えなくていいじゃん」というのがウソでも困る。
表面上に限れば、異様に気楽なのはおれだけではない、盤石の「生」を確保して、子孫の繁栄もばっちり間違いなしという状態に至った人は、同様にまったく気楽になるだろう、若いあなたならこの先にそれを知ることになるし、十分な大人ならすでにこれまでに知っているだろう、盤石の生と子孫の繁栄を確保した人がまるであなたに勧めるように「腰を落ち着けた」と力強く言うこと、確かにそう述べる当人からは目の奥に決定的な「気楽さ」が感じられて、あなたは一種の迫力に戦慄さえ覚える/おれはどちらが正しいのかは知らない、いや正確には、おれが正しいほうを知っていたとしてそのことは他の誰かには何の意味もないということだ、ただおれが気づいて報告できることは、この一点、死に対抗するのに命をもってするか生をもってするかという二者択一が必然的に起こるということだけだ、あとはその二者択一ごと土に埋めて知らんぷりを続けるぐらいしかない。

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