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ようやく時代を取り戻すセオリーが出来た
ちおう、理論上だが、時代を取り戻すセオリーが出来た/理論上と言って、そもそもセオリーは理論だが……
今、やる気や熱気が燃え盛っている人なんてまったくいない状況だが、これは正しい判断・賢明な選択であって、今このときに無為無策のまま「思いきりやる」というようなことは成立しないということ、ズッこけて大ダメージを負うだけだというのが正しい判断だった、多くの人はその判断を採ったにすぎず、その点ではただ賢明だったというだけで何も悪く言われる筋合いはない。
かつて、なんとなく誰でも「思いきり」をやれる状態があった、そのことに上手なのもヘタなのもいたが、一定程度、誰だって何かを「思いきり」やれる、青春の権利みたいなものが広く一般にあった、それはそういう「時代」だったとおれはひとまとめにしてきた/当時は若い大学生が酔いつぶれて路上に寝て煙草をモクモク吸っていても誰もそれを悪く思わなかった、「青春がある」という、そういう「時代」だったからほとんどの人はキーキーしていなかった。
この、わけのわからない「時代」というものについて、「何がどうなってこうなるのか」を追究してきたように思う、かつては何があって、今は何が失われたのか、そのことを追究しているうちに呪い・呪縛といったことに突き当たった、その後もおれは「じゃあそれを打ち払うもの、それに拮抗していたかつてのものは何だよ」ということを追究してきた、それでようやく、ここにきて時代を取り戻すセオリーが、理論上は得られた、いいかげんそのことはまとめてコラムに書かなきゃなと思っている(早くしろ)。

人の呪縛、その身に課せられている業(カルマ)、その身そのものがそれである罪・十字架から、人は通常逃れることができない/このことがまず大事だ、定義として、人は努力や善行によって己の呪縛や十字架から逃れることは決してできない、このことが人々をここ十数年、不毛の苦しみとむなしさに追い詰めていったと思う。
呪縛・十字架から逃れられないというのは、エセ宗教的な意味ではなく、もっと単純でリアルな意味だ、つまり面白くない奴が面白い奴になることはないし、頭の悪い奴が頭のいい奴になることはないし、キモオタがナイスガイになることはないということ、「実際にはそんな奴見たことないでしょ」ということだ、この残酷な事実を無視して、やれ努力やら自己実現やらを自己責任でやらされたことにここ十数年の不毛と苦しみがあった。
呪縛・十字架を打ち払えるのは努力や善行ではなく「主体性」なのだ、もちろんだからこそ自己責任やらが強引に言われたのだが、自己責任で主体性を行使できる奴はもともと主体性を獲得している奴であって、そんな奴は初めからこの現代のムードから独立している、だからそうではない/「主体性」って何なのか、そして「主体性」はどうやったらロードできるのか、ディールできるのか、行使できるのか、ということが問題だった、どう考えてもリアルには、「呪縛・十字架に縛られている奴が、いきなり主体性なんかロードできるわけないだろ」というのが現実だった。
要は、主体性とは "誰のものでもない" ということだ、主体性というのは「わたし」のことであり、吾我とは異なる「わたし」という現象なのだが、これは「わたし」でありながら同時に誰のものでもない、誰のものでもないのでつまりおれのものということになるのだが、このわけのわからない話で合っているのだ、主体性が外部から入ることによって、本当に心身の呪縛・十字架・業・罪が砕かれて突破されるのだ、あなたの努力ではなくあなたに入り込んだ主体があなたの全身をガチで変えてしまうということ、またそれ以外にあなたの全身が変わることは決してないということ。

キリストならどんな十字架でも「あなたの罪は許されました」の一言で粉砕しただろうが、おれはどんなささやかなことでも全身全霊でそれをやらないとできない。

それがつまり、権威の差だ、ここでいう権威とはつまり、ロードできる主体性の強さと量、まあ言ってみれば主体性を「仕入れる力量」のことだ、ロードされた主体性の強さと量によって、相当する強さと量の呪縛が打ち払われる/一言でそのすべてを行使できるなんつーのは、何といってもスゴすぎるだろう、まあそんな極端な存在を基準にしてもどうしようもない、おれも微弱ながらそういうことのロードができるということ、おれは宗教の話をしているのではなくただ「主体性」という現象について話しているのみだ。
おれが誰か、イライラしている奴に、「イライラしないほうがいいんじゃない」と意見したとする、あるいは「笑おうよ」と意見したとする、そんなものは当たり前だが何の役にも立たないだろう、だがおれは意見ではなく命令する、命令といっておれはそいつに命令しているのではなく、そいつに取りついている悪霊やら罪やらに命じているのだ、これが真相だ、おれが「イライラするな」と罪業のほうに命令したとき、そいつはもうイライラすることはできない、そいつが言うことを聞くのではなくて、罪業のほうが主体性に権威負けして打ち払われてしまうからだ、だから当人としてのそいつが頑張ることや努力することなんて何ひとつない。
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