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ようやく時代を取り戻すセオリーが出来た2
の言い方をすると、意外と「諦めなくていいんだ」ということにもなる、何かをまっとうに思い切りやるということ、それで生きているうちに命ある何かを得るということ、それは能力によらず手続きによってちゃんとやれるということだ。
とはいえ実際には、「誰でもできる」なんて話はなくて、そもそもこの世界に「誰でもできる」なんてものは存在していない、ただその出来るとか出来ないとかが、能力や根性の問題ではなくて、ほとんど「運」と「トラブらないか」に掛かっているということになる。
「運」というのは、主体性をロードできる誰かと出会えるかということで、「トラブらないか」というのは、その出会った誰かとトラブってしまうということだ/何しろ主体性というとふつう「自分のこと、自意識のことでしょ」と思っているので、実際の主体性と接触すると認識の違いでトラブることがよくあるのだ、こうなってしまうともう別の機会と別の誰かをあたるしかなくなる。
あるいは、「運」ということをさらに言えば、主体性を模索するうちに、典型的なハズレを引いてしまうこともあるということだ、そこはなんというか、好事魔多しとも言うし、自分がハズレを選んでしまうようでは、まあ見る目がなかったと受け止めるしかない、だいたいこのハズレを引くパターンと、本来の主体性とトラブるというのはワンセットになって起こりがちだ、本来のそれをロストする上にハズレまでがっちり入り込んでしまうというのはダブルパンチだが、しょうがない、それはそういう性質のものだ。

ただ、その「運」と「トラブらない」ということが健全なていどにはたらけば、思いがけず「諦めなくていい」ということだ、思いがけず多くの人にはちゃんと可能性が残されていることになる、つまり「思ったより捨てたもんじゃない」ということが十分に残されている。
どこまでも吾我に対するこだわりを捨てることであり、「自分を変えるのは自分ではないのだ」という意外なことを発想に持つということだ、自分は自分の身という呪縛・十字架に縛り付けられているので、自分ではこれを変えることはできない、これを変えられるのは自分ではなく外部からサーブされた「主体性」なのだ、この主体性は外部からのものなので、呪縛・十字架とは無関係にはたらく、だからこそ呪縛を打ち払って内部から身・体質を変えてしまえる。
ここで言わずもがな、外部から主体性をロードするといっても、それは信じている誰か・何かからしかロードできないわけで、そこで自分の信じる対象がハズレだったら、もちろんハズレを引きこんでしまうことになる、それでももちろん身・体質は内部から変わるが、これは逆にロクでもないほうに変わってしまう、その意味ではいっそ何も信じないほうが安全ではあり、だからこそ現代のわれわれは基本的に何も信じないようにして生きている、そうでもしないといくらでも周囲から危なっかしいものが入り込んでくるからだ。
そして、「信じる者は救われる」かというと、原理的にはそりゃそうかもしれないが、現実的にはそうではない、もう一段階知らなくてはならないことがある、それは信じるといってもそれは根本的に呪縛十字架側の意思決定ではないということだ、われわれ呪縛されているアホが自ら何かをまっとうに信じるなどということはできない、できるわけがない、だから信じるといってもその第一、その端緒は主体性の「侵入」によって起こっているのだ、そもそも主体性が侵入してくれなきゃあなたは何かを信じるということさえできないということ/これを誤解しているといつまでも迷路にはまり込む、自分の意思で何かを信じられると思うことさえ誤りなのだ、自分の意思で何かを信じようとしてもそりゃ「あなた」のやることなのでいつまでも旧来の縛られたあなたから脱出はできない。

おれと食うメシがやたらウマいのは、おれの主体性があなたに入り込んで、あなたの全身を「食事する身」に変えているからだ。

おれが食パンをちぎってあなたに食わせるだけでも、その食パンはやたらウマいのだが、それはおれの主体性があなたの身に入り込んで、あなたの身が呪縛されたいつもの身体ではなく、「食事をする身」になっているのだ、だからやたら食事がウマくなる、おれの命令があなたの体内に入り込んで、呪縛と十字架を滅ぼしているのだ、だから体質が変わる、言ってみればただそれだけだ/そのことにあなたの意思なんかまったく無関係だというのがわかるか、あなたがそこで自分の意思うんぬんをいじくったら、あなたの体質が加速するだけだ、たとえそれが強烈な信仰体質であったとしても、それはやはり呪縛・十字架なので解放にははたらかない、だからどこまでもあなたの意思なんか活躍していないのだ、活躍しているのは最初から最後まで「主体性」という現象、それのみだ。
ここでおれの主体性があなたに侵入しても何ら問題はないのがわかるだろうか、なぜならおれの主体性が侵入したとして、それが干渉・命令するのはあなたの体内の業(カルマ)・呪縛・十字架・悪霊などに対してだけだからだ、おれの主体性はあなたに命令するのではなくてあなたを縛り付けているものに「出ていけ」と命令するだけだ、あなたに対してはなにひとつ命令していない、だからその命令が通ったときに踏みつぶされるのはあなたではなく「あなたを縛り付けていたもの」だ、あなたを縛り付けていたものが踏みつぶされると、あなたはどうなるか、あなたを縛り付けていたものはもうないのだから、あなたにはあなたしか残っていない、だからあなたは結果的に主体性を持つことになる、こういうからくりだ。
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