☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
やさしい人と、憂さ晴らしの人
とえば、誰かが結婚詐欺に引っかかったとする。
すると、「あの人ってさあ」「ねー……」と、ヒソヒソ話が交わされ、ひっそりとした嘲笑や見下しが起こったりする。
よくよく考えると、こうしたヒソヒソ話や、嘲笑や見下しに、まったく縁のない人もいるし、まるで生まれつきというように、ヒソヒソ話が似合う人もいる/そしてこうした属性は、ほとんどの場合、生涯のあいだ変わらない、ヒソヒソ話の中学生グループは、おばあさんになってもヒソヒソ話をするグループになっている。
こうしたヒソヒソ話や、嘲笑や見下し、またいわゆるいじめなどでもそうなのだが、何が根底にあるかというと「憂さ晴らし」なのだ、人によって憂さが溜まっていく人と溜まってゆかない人があり、憂さが溜まっていく人は憂さ晴らしなしに日々を過ごしていくことはできない。

誰か他人が損をしたり、恥をかいたりしたとして、もしそれを傍目に見る人が「憂さ」をもっていないのならば、ヒソヒソ話やら嘲笑などは起こらない/根底にあるのは「憂さ晴らし」というメカニズムなので、憂さがなければメカニズムは挙動しない。
根本的に憂さが溜まってしまう人の場合、どのように人にやさしくしようとしても、無理なのだ、人は憂さが溜まると憂さ晴らしをしないではいられないので、いつでも潜在的に憂さ晴らしを探している人になってしまう、そういう人が「やさしい」とは決して言えないので、憂さの溜まる人は構造的にやさしい人になるのは不可能になる。
ブラック企業なども典型的にそれだが、ブラック企業というのは、単に労働条件が劣悪というのみならず、そうして過酷な労働をさせられている人を見て、すっきりする、憂さ晴らしができる、という人によって形成されるのだ/人が恥をかいたり、困っていたりする、そういうさまを眺めているのがどうしても好きな人がいるのだ、憂さ晴らしというのはそういうメカニズムなので本人も止められない。
地域によっては、他人の畑にわけのわからない嫌がらせをする農家がいたり、新しいクラスメートの中で全員が「まずはいじめられないようにしないと」と図りあったりする、これらのことはすべて「憂さ晴らし」というメカニズムから生じている、その中では、憂さ晴らしのターゲットにならないことが最大の関心というふうになっていくものだ/「やさしさ」の反対は「憂さ」ということか、そしてなぜか、この「憂さ」は、性的に抑圧されている人の中に特徴的に溜まっていく、憂さ晴らしには一種のオーガズムがあるのかもしれない。

「憂さ」という、ナゾの倦怠物質がある。

憂さが溜まる人は、他の誰かがドジを踏んだりすると、うれしくてたまらないのだが、なぜ他人のドジが自分の「すっきり」になるのか、冷静に見ると理由がわからない、理由は「憂さ」と「憂さ晴らし」としか説明できないが、やはりナゾだ、なぜなら憂さ晴らしをした人も、半日後にはふたたひ憂さが溜まっていっているからだ。
よく「三大欲求」というような言い方をするけれど、人によっては、そこに「憂さ晴らし」を足して、四大欲求にしたほうがよいのかもしれない、われわれは「おなかすいた」「眠い」「セックスしたい」という欲求についてはよく自覚しているが、「憂さ晴らししたい」という欲求については自覚が非常に薄い。
視点変えてこ | comments(0) |
生前と死後2
まり、「そんな人はもういない」のだが、「あの人」はいるのだ。
ああ、楽園の味がする。
すべては、「あの人」という存在を、生前情報で捉えようとするのが悪い。
楽園というとトロピカルの味と香りがする、なんとわたしの想像力のベタなことよ。

生前の人をガンガン祈りまくるのはたいへんよくない。
逆に、存在しない人に向かって、呪いをかけるようなことになるからだ、もちろん存在しない人に向けて呪いをかけているのだから、それは全部自分に返ってきてしまう。
生前の○○さんの記憶がはっきりあるということは、生前の○○さんが、呪われている度合いが高かったということだ/網膜や鼓膜に焼き付いているというのは、呪いなのだ、「思い出せる」ということは「染みついている」ということだから。
本当に「存在」に近づいた人は、フワッフワした「あの世」みたいなところにいくのではなく、現実以上にバリバリの「あの世」に行くのだ/われわれにはきっと、真のあの世が現世よりもバリバリであるという可能性を想定する知性が足りない。

この世は「地方」で、あの世は「中央」だ。

片田舎から出たバレエダンサーがパリで踊るようになったら、それを「どこかで達者に……」とフワッフワには想定しない、片田舎よりパリの徒真ん中のほうがバリバリだからだ、そして中央で踊るようになったとき、すでに「地方にいたあのコ」は存在していない/「地方にいたあのコ」を抱え続けているのなんて地方に残り続けている者たちだけだ。
われわれはどうも、タチの悪い田舎者と同様に、この地方の感じを、世界の中心だと思っているようだ、いちおう地方より中央のほうがバリバリというのが正規なのだから、地方にいる奴が中央に行った奴のことを祈ったり悼んだりするのはどうかと思うよ。
正しく見ないとな | comments(0) |
生前と死後
はり、人が生きているというのは錯覚らしい、もちろん生身のそれは生きているのだが、人の「存在」はそもそも生死と無関係だ。
つまり、生前がどういう人だったかということは、その人の存在にあまり関係がない、びっくりするようなことだが、しかしマイケルジャクソンの映像などを見ていると、彼がすでに故人で「死んだ」という感じがどうしてもしない。
人が、己の「存在」に近づくほど、その人は「生きている」という感じがしなくなってくるのだ、錯覚が薄くなって真実に近づいているからだろう。
仮に誰かが死去したとして、その人の生前の「その人らしさ」を思い出して、「かわいそう」と感じるのは、やはり鋭く危険なことのようだ、なぜ危険かというと学門として誤っているからだ、生前の「その人」に死後の「その人」を引き当てることはできない、そんなことをするとまるで存在に還った人を生死のこだわりへ引きずり落とすかのごとくになる、これはけっこう鋭く呪われるものだ。

先日、われわれは「人」に高値をつけすぎていると指摘したが、それと同様に、「生きている」にも高値をつけすぎている。
かといって、死んでかまわないということにはならなくて、生きているうちに自分を己の「存在」に近づけねばならないのだが/とにかく生死の前後にあるものを同列にならべるのはおかしいのだ、フィクションをノンフィクションに貶めていることになる。
この世にあったものがあの世にいくわけではない、この世のものがあの世にいくことなどありえない、この世の情報をもとにあの世の人を指差すことはできない、「あの人」というなら厳密にはその「あの人」はもともとこの世に存在していない。
まったく奇妙なことだが、この世の人格とあの世の人格はまったく別の人格だ、にもかかわらず同じ「あの人」だ、「生きているうちに、もっとあれこれしたかったでしょうに」と想定して悲しむきらいがあるが、そういうものではない、その「もっとあれこれしたかったあの人」という人はもう消えている、同じ「あの人」なのにもうまったく違うものだから、そこにこの世情報を当てはめて想定するべきではない。

ナマモノの持ち込みは禁止です。

鶏肉をジューッと焼くと、元は生鮮品だったものが、生鮮品ではなくなるのだが、この焼き鳥に生鮮の話をしてもしゃーない、焼き鳥はもう生鮮品ではないので「?」という反応になる、あの生鮮はどこにいったんだという話になるが、それでいてやはり同じ鶏肉ではあるわけだ。
海外に転居した人を、「もっと日本であれこれしたかったでしょうに」と、想定して嘆き悲しむだろうか? もしそんな人がいたとしたら、その人は自分の住む場所しかまともでないと思っているのだ、そりゃ聞かされたほうも周囲の人も「?」となるしかない/「かわいそう」というのはあくまで生きていた人に向けるものだが、その生きていた人はもういないので、誰のことを悲嘆しているのかわからない、これは学門としての誤りなのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
新しい未来を切り拓け
サいタイトルだが、ダサくてもカッコよければそれでいいだろう。
人は、どう生きるかを探しているが、納得というのはたいていハズレで、正解は新しい未来を切り拓くことにある。
新しく切り拓かれた未来は、まったく新しいが、それでいて同時に、もともとそういうものだった、というような感じがする。
新しく切り拓かれた未来は、成り立っているのだ、だから納得なんか必要ない。

グッドな未来を切り拓くものでもない。
新しく切り拓かれた先は、まったく新しい「未来」なので、「未来」というものが直接イイのだ、直接イイので納得なんか必要ない。
「納得」というのは逆に、未来を閉ざすことだ、未来がなくなれば誰だって納得する。
未来は、お願いするものではなくて、切り拓くものだ、だから説得力があるというか、直接イイので、誰だってその直接のイイに引き込まれるものだ。

未来が切り拓かれたとき、「もともとこうだった」という気がどうしてもする。

納得というのは、違うのだ、「みんなこうでしょ」と思っているのだ、「みんなこう」というのは間違っていないが、実は<<「みんなこう」で「納得」しても、そこで安穏が得られる根拠はない>>、全員でイライラし続けるかもしれないのだ、そりゃよくよく考えれば当たり前の話。
新しい未来を切り拓け、それは夢に向かう道ではなく、すでに夢が現実になった瞬間だ。
 
できるオンナだね | comments(0) |
フィクションとノンフィクションを取り違えない
「フィクションとノンフィクションを取り違えない」。
これは、話としてはシンプルだが、実際としては困難をきわめる。
誰にだってふつう、「かわいそう」とか「グッとくる」とかの現象があるからだ、これがなかったらまるで人でなしのように見える。
だが、もしカミサマがフィクションにご在中なら、その「かわいそう」とか「グッとくる」とかは、取り出されてはいけないのだった、なにしろ学門として正しくないからだ/「人でなし」というと実に悪い感じがするが、前提としてわれわれは「人」に高値をつけすぎじゃないか。

けっきょく、カミサマ的なものから切り離された、厳密な意味での「人」は、まったくいいものではない、相互に共食いをするような生きものだ/もしそうでなかったとしたら、そもそもカミサマなんて要らないだろう。
このことをよくよく見るのだ、誰にとってもいつか役に立つときがあるだろう、その人が「人」らしいほど、その人の性根は思っていたものとは異なるものを内臓していくのだ、それは悪意によるものではなく、そもそも「人」というのはそういうものなのだと知られねばならない。
カミサマを廃棄して、「人」こそすばらしいじゃないかと考え、大規模にそのヒューマニズムを実行してみたのが、かつての共産主義だが、共産主義はご存知のとおり、戦争より悪質で膨大な流血をもたらした、それはある意味、「人」の本性を表示したひとつの大きなシーンだったとも言える。
人は、ノンフィクションなのだ、そしてこのノンフィクションの生きものから、フィクションは生じない、人がしばしばフィクションを作品や神話として出力することがあるが、あれは実は人からフィクションを出力しているのではなく、フィクションが人に入力されているのだ、主体の存在について、実はフィクションの側に「主」があったということになる/ヒューマニズムは、この主体のありかを「人」に定義して生じる思想だ、こうしてフィクションとノンフィクションの取り違えが起こる、つまりノンフィクションの分際からフィクションが出力できると思い込むことで取り違える、たとえば共産主義はそれをユートピアと呼んだ。

人のやさしさは、人ならざるもののやさしさに及ぶことはない。

だから、人のやさしさを、人ならざるもののやさしさと、取り違えてはならないし、人ならざるもののやさしさを、引き下げてもいけない、人が人に対して威張っていい理由はどこにもないが、人ならざるものを引き下げていい理由もやはりない。
人ならざるものの、やさしい音色が響き渡る、これを取り違えてはならない、人為の判断と加工と演出で、人ならざるもののはたらきは捏造できない/<<人から離れよ>>、それは他人から離れるということではなく、己自身という人から離れるということだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
祝福と呪いと「恐れるなかれ」
々からわかっていたことだが、呪いには祝福で対抗すべきだ。
呪いをやっつけようとしていると、それがノロイであれマジナイであれ、同じ領域に立たねばならないので、ダメなのだ、ただの呪力のやりあいになってしまう。
「呪い」などというと実におっかないが、呪いというのは、それが実在する人にとっては実在するのだ、実在しない人にとっては実在しない/祝福の領域に立つ人にとっては呪いは実在しない。
うーん、ちょっと「やはり」と失笑してしまうが、それはいいとして、祝福の領域に立っている人には、呪いは効かない、その領域に呪いは存在しないからだ、だからこそ呪いに対しては祝福で対抗すべきであり、対抗というよりは、祝福のほうがより上位にあることを知るしかない/呪いの力を持つ人だって、本当の本当にそうなりたかったわけではないし、本当の本当には、そんな領域からは出たいのだ、誰だってやがてはそこから出られるとこころの奥で信じて生きているのだ。

呪いの根源は奥が深く(なんだこの話)、根源的には「フィクションとノンフィクションを取り違える」というところから起こっている。
この取り違えの最大が、当然ながら宗教において起こるだろう、カミサマが存在するというのはわれわれにとってフィクションという事象平原が不可思議(観測不能)に存在しているということであって、信仰というのは、そのフィクションをノンフィクションに引きずり降ろしてくることではない。
その意味で、やはり直観に知られているように、「宗教はコワイ」のだ、もちろん宗教だけでなく、同じことは他のさまざまなことに当てはまる/宗教に限らず、人が人に何かを「教える」というとき、その教える側が必ずしも「開眼」しているという前提はない、<<もし開眼した人が前提であればその人は必ず祝福の領域に立っている>>。
というわけで、呪いというのは、フィクションとノンフィクションの取り違え、つまるところ「やっちまった」人が、背負わされる形で得る力なのだ、この呪いを背負っている人は、どれだけ「いい人」に見えて、どれだけちゃんとしていて、どれだけ活躍していて、どれだけほがらかに笑っていても、目の奥がやさしい光で満たされることはない/このように、呪いというのは何も「悪い」わけではなくて、ただ祝福とは領域が「違う」のだ、どちらがよいとか悪いとかの話ではないので、呪いの人は呪いの人の領域に立ち続け、祝福の人は祝福の人の領域に立ち続けるべきだ。

祝福の人は、すべてを祝福につなげること、呪いの人は、すべてを呪いにつなげること/つまり、「恐れるなかれ」。

祝福の人は、けっきょく呪いのことができないし、呪いの人は、けっきょく祝福のことができないのだ、常にゆくべき道をゆけ、すべてのものを祝福につなげるか、そうでない人は、すべてを呪いにつなげるのだ。
祝福するのに困難なものを見つけたとき、レベルの高い学門が生じるし、また、呪うのについに困難なものに出会ったとき、そこにはやはり何かが生じるのだろう、何がそこに生じるものなのか、僕の側からはわからないし視えない。
正しく見ないとな | comments(0) |
涅槃寂静(単位)
槃寂静は単位だ。
三割三分、三厘、三毛……と続いていって、その終端が「涅槃寂静」になる。
これはむろん、ミリとかマイクロとか、ナノとかピコとかも同じだから、ナノテクノロジーというものがあるのならば、涅槃寂静テクノロジーというのも成り立っておかしくない。
ちょっと今、用事でゴタゴタしているので、あんまり丁寧に書き話す気になれないが(おれがゴタついているわけではない、おれ自身は常にハッピーでラブアンドピースだ)、涅槃寂静というのは単位なのだ、そりゃナノ秒やピコ秒にさえ間に合わないわれわれには、ヨクト秒(涅槃寂静秒)の速さには到達できない。

われわれは何かを「認識」し、それに対して「思念」を起こすことで行動し、挙動している。
だが、その認識や思念が起こるのには0.01秒ぐらいは掛かるので、とっくの昔に "間に合っていない" のだ、もう遥か昔に何かが起こり、遥か昔に終わってしまった。
われわれは、イライラするといって、3億年もイライラするつもりはないし、三日間もイライラはしにくい、三時間ぐらいならなんとか……それが三秒でまるっと終わったら「速っ!」となる、それが三ピコ秒で終わったら普通の感覚では把握さえできないだろう。
カルマは阿頼耶識に発生するとかいうので、10^-22秒以内に「終わる」ことができたら、人はカルマから離脱して動けるのだろう、そりゃそんな微粒子を閉じ込められる格子はない。

0.01秒も経ったら、もう学べるわけがない。

だってもう、だいぶ前に終わっているし……もう面倒なので本当のことをズバズバ言うが、人に「もう終わっています」というワザを何度か掛けると、なぜか知らんが、掛けられた当人が、そのワザをいつのまにか獲得しているのだ、別に獲得するつもりではなかったとしてもだ/何年も掛けて何かを練習したり修行したりするのは、一瞬を入れるためなのだ、何年も掛けて一瞬を入れるのだ、一瞬が入ってくれるなら別にもったいぶってキャリアの年数を増やさなくていい。
われわれの世界で、実際には何が起こっているか? われわれが世界を観測したとき、肝心なもののすべてはとっくの昔に終わってしまっているわけだ、目の前に次々に起こり、次々に終わっている、だからわれわれはこの世界の根本の大半を見落としてしまっている、そんなことはいかにもありそうじゃないか。
正しく見ないとな | comments(0) |
正式と実物
社では、二礼二拍手一礼が正式なのかもしれない。
それが正式だというなら、そのとおりにしたらよいだろうが、どれだけそれを正式にやっても、二礼二拍手一礼それじたいはカミサマではない。
「正式にはどうやるのか」というのは、あくまで「式」のことであって、「略式にはこう、正式にはこう」という答え方しかない。
正式なものはただ正式なだけであって、何ら「実物」とは関係ない、正式に夫婦になったものが夫婦の実物になれるわけではないし、正式に教師資格を得た者が、教師の実物になれるわけではまったくない。

なぜかというと、「正式」ということの背後には、「◯◯式」というものがあるからだ、例えば結婚式だと神前式とかキリスト教式とかがあって、その「式」が先にあるからこそ、そこから専門的に正式とか略式とかが発生しているにすぎない。
そして、この「式(正式・略式)」というものには、必ず背後の権威団体がある/どのようにするのが正式かと、カミサマが教えてくれるわけではないので、われわれは必ず「正式にはどのようにするのでしょう」と、権威団体の担当窓口に問い合わせするはずだ、そして「正式にはこうです」というのは、必ず最後には「ウチがそう決めてますから」という権威の本尊に突き当らざるをえない。
権威団体の担当窓口は、そうして「正式」のやり方を教えてくれるが、それは仮に権威団体が東スポだった場合、「東スポ流・東スポ式・正式作法」を教えてくれるにすぎず、その式が求めるところの実物をもたらしてくれるものではない/もし僕がトヨタから正式に「お前はサイドブレーキな」と任命を受けたとしても、僕はサイドブレーキの実物にはならない(なれない)し、このとき<<何が正式かを決めるのはトヨタであってサイドブレーキではない>>、サイドブレーキの思惑とは関係なくトヨタがサイドブレーキを決定する、だからそのへんの生ハムを「正式サイドブレーキ」と認めても構わないのだ(もちろんそれは結局、正式なだけでサイドブレーキの実物ではない)。
このようにして、つまり「正式」というのは、単に背後の団体さんパワーが決定しているのだ、だから団体さんの意向によっては、「あれ? 実物なんてどうでもよくね?」ということが往々にしてある、そりゃ「バレンタインデーには男性にスタンガンを贈るのが正式」と教会が言い出したら、正式というのはそれだとわれわれは従うしかない、結婚式では誓いの回し蹴りをするのが正式と言われたら、「正式」というのはしゃーないのだ、粛々とそれに従え。

ブッダもキリストも、当人が「正式」を定めてはいない。

「正式」を定めているのは「団体」だ、その団体がブッダやキリストを「掲げている」というだけで、なぜその「正式」が重要なのかは、団体のみが知ることだ、団体が掲げているものは関係ない/ブッダもキリストもその正式が重要なのかどうかはわからず、ただ「正式」を定めるには、団体とそのボスが一番偉いのであり、よってキリスト教の「正式」にはイエスキリスト当人さえも従う必要がある、冗談ではなく「正式」というのはそういうことだ。
仮に現代にソクラテスが再誕して、辻で小学生たちに算数を教えていても、それは「正式には教育ではない」ということになる、本当にそういうものだ/言うなれば、この「正式の実物離れ」と呼ぶべきものは、現代において驚くべき深さにまで進行している、だからこそわれわれは実際のこととして、よほどのやむを得ない用事があるときを除いては、自ら「正式」の誰かに接触しようとはしないのだ、それはもはや「正式」に触れることが実物から離れることに等しいと奥深くで直観されているからだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
学門をしよう

、ちょっとゴタゴタしている。
ゴタゴタしている中で、僕は思うのだが、やはり学門なのだ、われわれは学門をするしかない。
なぜ学門をするかといって、学門をやらないと、われわれは気が狂ってしまうからだ。
気が狂うといって、われわれの狂気は、甲高く叫ぶような形ではやってこない、もっとじわじわ、「平凡」「無難」「妥当」という形でやってくるのだ、だからわれわれは抗して学門をせねばならない。

われわれはすぐ実感を頼りにする。
実感はわれわれの味方ではなく、われわれが実感を手にしているわけではないのに/気づくだろうか? われわれが実感を手にしているのではない、実感の側からわれわれのほうに突き刺さりに来ているのだ。
夢のような導きと、グッと来る実感が、対極に起こるのだが、後者の方は何も味方じゃない/学門をやるということは、人の世から離れるということだが、われわれは人の世でじっくりと狂っていくのだ、われわれはどうしても「人の世は正しくない」という見切りをつけられない、それでいくらでも勧誘にかかってしまう。
人の世はけっきょく正しくないのだが、一方で、学門が「正しい」というわけではない、なぜか? それは、学門に導かれてゆくときに、それが「正しい」という実感は与えてもらえないからだ、何につながっているのかわからないが「これがわたしだ」ということだけが視える、だから学門をやろう。

学門をやるということは、成功や失敗から関心が消えるということだ。

過酸化水素水に二酸化マンガンを入れると、酸素ガスが噴き出てくるが、それをもって「成功」とは言わない、正しいとも言わない、ただ「学門」だ、この「学門」に入らないと、われわれにとってはどうしても有利に生を為すことが「成功」になり、そのくせ最後は必ず死んで「失敗」する、成功と失敗で捉えると、われわれは偽りの成功からやがて絶対の失敗に行き着くしかない。
どうやっても「成功」はないし、どうやっても「失敗」はない、ただ学門だけがある、周囲には成功しようとしているふりをしていればいい、どうせ誰にもわかりっこない/成功も失敗もないのでは何をしたらよいかわからないか? そんなことはない、毎日の目覚めに見出すことがあって面白い、なぜこんなことがまかりとおるのかという不思議と面白さでいっぱいだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
"ガチ" 4/稽古と実戦は別ジャンル(当たり前)

んというか、面倒くさくなってきたので投げやりに言うが、「フィクる」という前提と能力がないと、学門的稽古はムリどす〜 やっていれば上達するとか100%ウソどす〜
割と自分のことを、ビッグ・アホだと気づいていない人もいるので、そういう人はメラメラっと、ガチるマインドで稽古に取り組むわけだけれとも、そんなフンガーフンガーやったところで、何かになるわけなかろうべ/あなたの内なるキモチなんて、学門はわずかも汲み取ってくれませんから……何です、その「内なるキモチ」ってやつ、もちろん外なるキモチにしても同じだけれど、それって学門に何の関係もなくない? などと、おいどんは思うわけです(たい)。
例としては、剣道なんかがわかりやすいけれども、もともとサムライが真剣で斬り合いをしていたわけで、その稽古をするにしても、木剣や真剣でやっていたらケガ人と死人続出になるので、「竹刀」を導入したわけだな、もともと竹の棒を竹刀に「見立てる」ということで稽古をしていた、そうして「フィクって」いたわけだな、そりゃそうでなきゃ竹の棒を振り回していてもただの竹棒振り回しマニアでしかなくて何の意味もない、竹の棒が振れば速いのは竹だからであって当たり前だ!!
が、そういったことは、やがてウヤムヤになり、フンガーフンガーとなっていくので、案の定、剣道は「竹刀でガチる」というスポーツになっていった、ただガチるといってもケガをしたら本末転倒なので、「打ち込んでよい箇所をルールで決めよう」となっていった、そうして剣道は「竹刀でガチる、ただしルール内な」「ルールから外れたらそっち側が負けだから」というスポーツになった、当たり前だ/そうして誕生したスポーツ剣道が、何ら悪いわけではないが、わずかでもそうした竹刀ガチりマインドが入り込んでいたら、竹の棒を真剣に「見立てる」という、フィクった上での「稽古」はできねーよという話なのだった。

なぜか、漠然と自分に自信のある人に限って、稽古のフィクり要素の部分はポカーンと聞き流し、よくわからないまま稽古が開始されると、「ガチったらなんとかなるやろ」という乱暴をやる、もともとそういうプランで取り組むつもりだったというような気配、しかしそれで発達していくのってただのガチ筋肉とガチ鼻息だけであって、それは稽古でも何でもありませんで……
こういうとき、冗談でなく、「この人たちは、火星に探査機を飛ばせと言われたら、そのときも、『とにかく筒に燃料入れて火を点けよう』『ガチったらなんとかなるやろ』という、自信と乱暴をやるのだろうか……」と考えてしまう/最近になって、こういう人たちにはなぜか学門に対して「憎悪」があるということに気づいた、そうして気づいてみると、とにかくガチるマインドの人は、一般則として学門を憎悪しているのだ、何がどうなってそうなるのかは知らないし、別に僕が知らなくていいことだと本来思う。
ただ何にしても、「ガチったらなんとかなるやろ」ということは、学門的稽古においては一ミリもないわけで、むしろガチればガチるほどヘタクソになりマース、と断言しておこう/どうもどこかで、その場しのぎをし、今日一日を何かガンバったふうにして、キツいことを避けようとする気配があるような気がするのだが、それは僕の気のせいかね、学門としての「教え」が視えないと何の努力もできないのだが、何か諸事情によって、「盲目的にがんばる」というフリをするという、自己演出がパターン化していません?
単純な話、「稽古は実戦じゃないですよ」ということが、根本的にわかっていない人が少なからずいるみたいだ、稽古と実戦は別ジャンルでっせ、そしてガチりマインドの人は稽古場ではなく実戦場にいけばいいじゃん……何か都合のいいイケイケ実戦を詰めば、特別なアタシになれると思っている人が世の中に多くいるような気がするのだが、「実戦」はみんな毎日、実生活でしているでしょう、それで実生活の結果がリアルなすべての「戦果」じゃないか、ウソ稽古にガチりマインドを注入したところで本稽古にはなりませんので、何がわかっていないかというと単に稽古の「学門」がわかっていないということだ、そしてこれを諭そうとするとなぜか「憎悪」で反発する人があるのだった、うーん何かそれは精神がムチャクチャになるドラッグでもキメているのじゃないかね。

「稽古」があなたに "入る" のであり、あなたの内から何か能力が出るわけじゃない。

そりゃ学門なのだからそうでしょう、運動方程式 f=ma があなたに「入る」のであり、あなたの内から重力がドカーンと出ますかいな/努力と訓練と暗記とクセで身につくなら、稽古なんかせずライザップにでも行けばいいのであって、稽古というのはもっとナゾのものだ、なぜナゾかというと、それが何であるのかは稽古が己の身に正しく入ってからしか視えないからだ、そりゃ f=ma が本当に己の身に入るまでは、「運動方程式ってけっきょく何なんだよ〜」というのは視えないじゃないか、学門というのはすべてそうだろ。
うーん、ガチる人は本当に、ライザップに行こうね、どう考えても「ライザップがわたしの中に入る」ってことはないだろ、どう見ても「ライザップにわたしが入る(入会)」のであって、それは稽古の逆だ、ライザップにあなたが入れば、あなたは自負と筋肉をムキムキにするが、自負と筋肉をムキムキにすると、あなたの中に稽古は入らない、そりゃムキムキに張り詰めているものに何かが「入る」ってことはないよ、ライザップは何もフィクっていないだろ、稽古の目的とはフィクションがそのまま身に入るということだ/そう考えれば、僕がいくつかの稽古で異様に習得が速いのもつじつまが合うだろ、「フィクったものがそのまま身に入る」、だから本当にそういうことなんだよ、稽古の中には何のガチりもなくて、身に宿すべきフィクった何かだけが集められてあるのだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
"ガチ" 3/「フィクる」ということ

かりにくければ、「ガチる」の反対側に「フィクる」があると捉えればよろしい、言葉・数式・学門はフィクションですし、音楽も踊りも物語もフィクションです。
たとえば武道には色んな「型稽古」がありますが、「型」というのはひとつのフィクションです、こうして「ガチる」の反対に「フィクる」がある、というのがわかりやすいでしょうか、学門のすべてはフィクションですので、「フィクる」という能力と教えがなければあらゆる稽古が空転します。
フィクるという能力がなく、また教わってもフィクることができない者は、何もかもをガチることしかできません、そして学門はフィクションなのですから、ガチる人は学門においては寸分の獲得も向上もできないということになります/稽古はフィクることが前提です、フィクることがわからない人は即刻フランス外国人部隊に入って「ガチ」の戦場でがんばってください、そうした人はたいていガチることには無限の自信があるものです。
たとえば「重力」というノンフィクションがあったとして、これを「ガチる」には、重い石のものすごい「重さ」を身に浴びたり、高層ビルから飛び降りて地面に叩きつけられる「強烈さ」を体験しまくるというようなことになりますが、そうした人は f=ma の方程式にたどり着くでしょうか、重力加速度が時間に比例して9.8m/s/sと知るでしょうか、「移動距離はt秒後に ∫atdt だな」と導かれるでしょうか/物理学は学門ですが、ガチる人にはどうしてもこれらの方程式が「何の意味があるねん」と "憎悪" の対象に感じられます。

もちろん世の中には、身をもって出来なければ何の意味もないということがあります、むしろほとんどのことはそうです/浸透圧の数式を知ったところで、料理人のような旨い煮物が作れるわけではありません。
ただそれでも、断言しておいてよいでしょう、真に「夢のような」ものを産み出そうとするとき、それは煮物であっても学門です、机上の学門ではなく、俎上の身をもった学門ということになります、いつかのときこのように思い出せるように覚えておいてください、<<ガチったものはどうしても言葉には到達しません>>、どれだけ実戦に通用する高度で鍛えられた技術を持っていたとしても、その「ガチ」は、高い評価を受けながら、けっきょく真の祝福を受けられません/たいへんハイレベルなのですが、それはただハイレベルだったというだけで、やがて消え去っていきます。
なぜ「ガチ」のものは、そうして「永遠」には到達できないように縛られてあるかというと、それはけっきょくわれわれの生が有限だからです、誰でも少し考えればわかることですが、宇宙的に見ればわれわれの生は「正解」ではありません、宇宙的にはわれわれの生など、あってもなくても同じようなものです/われわれが「ハイレベル」のまま死んでいくのだとしたら、そのとき「何がハイレベルだ、あほくさ」と首をかしげながら消えていくよりないでしょう、ハイレベルで死んでいくことと、低レベルで死んでいくということに、そのときになって「今さら何の違いがあるのだ」と、そのときにはもう口論する意義さえ消え失せようとしているのです、生きているうちは「ハイレベル」ということがずいぶん立派に見えるものですが……
そのようなわけで、仕組みは困難ですがシンプルです、机上の空論などは確かに意味がないでしょう、もちろん身をもって現成せしめることが本分ですので、つまりただ「己の身をフィクる」というだけです、そうするとそこには死滅とは無関係の――この宇宙を解き明かした数式や言葉と同じく――永遠の世界が現成します、身をもって永遠の世界を現成する、ただそれだけのシンプルなことです/だが己の「身」という、最もノンフィクションに感じられるものを、ガチらせるのではなくフィクらせるということ、それがあらゆる意味で困難をきわめるのでした、ニュートンの数式は確かに宇宙の一端を定義してニュートン物理の世界を展開していますが、われわれは身をフィクらせて、宇宙の一端の定義と展開する世界を証することができるでしょうか。

ニュートン方程式が実戦で使えないというロケット開発者はいない。

さあ、めくるめく血みどろの「ガチる」世界の背後に、端然と仕組みたる言葉と数式が佇んでいるのだとしたら、われわれはガチ世界から何を抽出してエッセンス化し、そのエッセンスから何を数式として己の身に宿らせればよいでしょう、己の身をフィクらせるというのはそういうことです/このことを無視して、われわれは常に行き当たりばったりの「ガチ」で、人に何かを言い、握手をし、キスをし、セックスをし、乱暴をするのでしょうか、実際に多くの人はそのようにしていますが、彼らに向けてあなたは嘘偽りない beautiful の賛嘆を向けることができるでしょうか、とにかくガチで火薬を筒に詰め込めば、人類は火星に探査機を送れたでしょうか。
本来の手続きは、思われていることの逆です、先に火星にまでロケットを飛ばして着地させたいという望みがあり、そのためには物理の秘められたる法則を解き明かす必要があったのです、フィクるというのはそういうことです、「火薬量を倍にしたら飛距離は何倍になる?」「総重量を半分にしたらどうなる?」「これらの実験からデータを集めたら、火薬量xと筒の重さyで飛距離はzになるという一般式を導出できるのでは?」/こうして彼らの追究した学門によって、実際に探査機は火星に降り立つわけです、それが果てしなく誠実な営みだと見えるか、「意味なくない?」と憎悪の対象に見えるかは人それぞれです。

正しく見ないとな | comments(0) |
(映)
のときのような
人の姿には戻れない
だが僕は忘れずにゆこう
僕たちは何も見ていなかった/光の中で/夜の中で/すべてを得ていた

何もかもわからなかったのだ
まだわかるということを識らなかった
変わったのは時代ではなく世界だ/僕は忘れずにゆこう/わかってから得るものだと思い込む愚かしさを
僕たちは何も見ていなかった/映していた/事実などまだどうでもよかったあのころのこと

夢が映っているのだと思っていた

そのとおり夢が映っていた
僕はあのときの夜のすべてを記憶していない/忘れていないから今も記憶にはならない
恋女のマインドね | comments(0) |
"ガチ" 2

あきの人が増えてきました。
穴あきの人は、どこかで誰かに "ガチった" のです、ガチるということは必ず呪詛を含みます、そりゃ全力で呪うぐらいしないとガチとは言いませんから。
呪いなんてオカルトなので、効きはしませんが、呪いを掛けた人同士には効きます、呪いを掛けるには己が呪いを信じ込まねばならないからです、そうして信じ込んだ結果、その当人同士には呪いが効き合うという、オモシロつじつまが用意されています/そりゃオバケを信じていない人が呪わしいオバケの話はできないように、呪いを信じていない奴は呪いを掛けることはできません。
どこかで誰かに(何かに) "ガチった" 人は、そのとき呪いの穴を自分の精神にポッカリ空けているわけです、そりゃ自分で空けたのだからしょうがない、その後は自分がその穴に吸い込まれていかないよう、自分をガッチリ固定していなくてはならないのでした、こういう人はこの先ずっと自分の固定した範囲の中でしか動けません、「諸事情あって命綱つきの人生です」というような形になります。

「人を呪わば穴二つ」というのは、まさにこのことで、人の背後に「闇の穴があるぞ、闇の穴に落ちるぞ」と呪いを掛けるには、その穴の存在を信じ込まねばならないので、自分の精神の中に、その穴の実物を構えねばならないのでした、自分の精神に自分で穴の実物を構えたら、そりゃ穴が空いていてアタリマエ/誰かに(何かに)ガチった人は、この自作の「闇の穴」前提で生きねばならず、それはガチったり呪ったりしたことのない人から見ると「?」「この人はなぜ、入念に命綱を巻いているのだろう?」と見えるわけです、だがそれは当人にとってマジの命綱であり、つまり「闇の穴つき」の人とはあまりにも事情が異なるということが、見えないところであるのです。
この「穴」があるので、かの人はフィクションの世界で大いに羽ばたけないのです、穴のない人はフィクションの平原を自由に飛び跳ねてゆけますが、「穴」のある人はそうはいかない、「むかし自分で、この平原に穴を空けましたので……」と、常にリアルにビビりながらしかフィクションの平原を歩けない、そうしてリアルにビビりながら歩いているということは、それはもうフィクションの平原ではないのであります。
血眼、血涙、充血、流血、鬱血、血縁といって、呪いは主に血を媒介しますが、ノンフィクションの血液がフィクションに流れ込むと、肉に血が染みて、肉に霊が宿らなくなります、この血がフィクションの平原に穴を空け、当人はその穿たれた穴に落ちないようにしないと……と、ずっと恐怖と警戒を保ったままその先をゆかねばならなくなります/「人を呪わば穴二つ」、それはもう穴がひとつでもあると自由に跳ね回ることはできないわけですが、実際には穴がひとつどころではない、日常的に誰かを(何かを)呪って生きてきた人は、落とし穴だらけの平原を一歩ごと検査しながらしか歩けなくなります、そんなものを「歩いている」とはもはや呼べないかもしれませんけれども。
中学のころを思い出してください、何か「学門」ということからあまりにも縁遠い気配の人々は、何か荒み、やつれてあわれで、何かが呪わしくあり、下品で、口や声が汚く、人当たりはどうごまかしていたとしても、何かどこかずっと「上の空」ではありませんでしたか? あの「上の空」は、ずっと自分が自分の空けた穴に落ちないように、気をつけ続けているということです、その穴に落ちたら本当に「落下」しますからね/知能の問題ではないのです、そうしてフィクションの平原に穴を空けて生きてきた人というのは、勉強そのものが「恐怖」なのです、学門というのもフィクションの手続きを経るものですから、穴を空けて生きてきた人にとっては、勉強するということは己の穴あきの平原をまた歩かされるという、恐怖そのものなのでした。

穴あきの人は、「右手を挙げてください」と指示されるだけで、サッと「恐怖」が走ります。

なぜなら、言葉そのものもフィクションだからです、穴あき平原を歩かされる人は、「右手を挙げて、図(2)にある c 方向に伸ばして前後の人と対峙してください」と指示されるだけで、正直「恐怖の嵐」なのです、だからこの人は、恐怖から逃れたいがために、ずっと筋肉の単一作業を繰り返していたいと望みます/たとえばポル・ポトが志向したように、すべての知識人を殺し、すべての書物を焚し、指導者に指示された農作業だけを肉体労働として繰り返して生きればよいというのは、最もノンフィクションにのみ密着した生き方でしょう、こうすれば人は己の穴あき平原のことをなるべく忘れていられます、思えばポル・ポトというのもそういう人だったのでしょうか?
 "ガチ" る → 呪う → フィクション平原に「穴」が空く → フィクションが「恐怖」になる → 言葉、数式、学門が「恐怖」になる → すべてのやりとりが「上の空」になる → 単一作業をして生きたいと望む、という、こういう仕組みです/誰かに(何かに)ガチった人は、そのガチ勝負に勝ったにせよ負けたにせよ、そのときに空けた穴のせいで、その先はずっと恐怖&上の空になります、そのサンプルは意外なところに見つかるでしょうし、そのほかにもテレビメディア等でいくらでも見つけることができます。

正しく見ないとな | comments(0) |
"ガチ"

羅万象、真空の気に満ち、天から人へ命令が下りているところ、是を能くするのが吾ら無上の唯一の道であります。
しかるに、天から人にと、命令は常なれども、天からわたくしへ、吾我へ、寵愛を受けたのごとき特段の命令が下ることなどありえないのです/そのとき偶々選ばれた者がその場にてわたくしだったということはあれども、そのとき吾はただ人なり、吾が吾のまま天意を能くするということはありえません。
天意を能くするとき己は必ず人であります、吾我から離れて天意に従う人々の一端となりて、よってそこには他ならぬ人々そのものの光景が現成するということになります。
浅薄には、人はそれぞれに上下、優劣の身に分かたれては、ときに虐げらるが謀反せんともがきたるがごとくに見えますが、真に天意に従いて人々の光景が現成するところ、上はただ上の人なりて、下はただ下の人なりける、もって人々そのものの現成と為すは、誰の精神にも直截の本懐なのであります、このよろこびに一度でも浴したるはその者の生涯の果報と相成るでしょう。

きょうびわれわれは "ガチ" といって、天意から見放されたるましらどもの、血眼になった闘争こそを、一種真実の姿だと称えて、あろうことか猿の合戦に真の天分を見いださんと、曲学の鬱血を祭壇に奉っております/そこに醸されたる迫力は、天意から見放された人々の行方のなさ、無明の叫喚に他ならないのですから、これを "ガチ" だといって奉るようなことがあってはなりません。
われわれは、己が身を清浄に錬磨し、精神を正しきに修め、常に真空の気の満ちたりしに育て上げ、天意あらざるは微塵も動かざるも、天意に従いては勝速日に動くというふうに、この地に立てられたアンテナそのものに己をならしめねばなりません、すべてが天意に通じた命令の園となるとき、人々そのものの姿は初夏の花壇がごとき繚乱と無縫の光景と相成ります。
たとえば戦争においてさえ、そこに軍神も武産も見守りあそばず、ただ血に駆られた "ガチ" どもの、つまるところは生産と名誉の奪い合いをするのであれば、たとえそこで仮初めに勝利者となりえても、この勝利者は魂に何らの果実も得ず、内心では己の為した魂の空漠と荒廃に只々心胆を寒からしめられるでしょう/そしてやがては己の掘った暗渠の墓穴が、どのようなおそろしい先へとつながっているものか、己で見分しにゆくことになるのです、これまでに何の光景も得なかった者が、ついに "すべての光景がない世界" へと己を連行してゆくほかなくなります、わざわざそのような暗雲へ己が生を費やしたとはなんと無念なことでありましょう。
而してわれわれは、いつのまにか刷り込まれた曲学阿世そのものたる "ガチ" の酸鼻に不毛を見抜き、いついかなるときも、天意に殉じたるときは吾と彼でなく人と人であると、われわれの得るべき光景の荘厳へ一刻も早く目を覚まさねばなりません。

人々は上下にも共に勝者たるも、吾と彼ならば闘争を俟たず敗者たり。

いかなるときも、吾の力を恃むのではなく、森羅万象を尊ぶのです、言霊は天地に響きますよう、能く見れば人々は天意の下に協したる不可分の者たちにすぎず、然れば吾が勝ちたるや彼が優れたるがごときはなく、あとはところどころに虫食いとなった "ガチ" の人々があるにすぎません/またそうした "ガチ" の人々も、己が協せざる見放されし者ということを明らかに知った方がよいのです、光景のない世界へ誰かを蹴り落とそうした呪は、必ず己のぶんも穴を空けています。
 "ガチ" の人は、そうして己が空けた、憎悪の呪の穴、無限に光景がない穴のことが怖いのです、よって真空の気を己に満たすことはできず、重い空気の気を体内に充填して、己を固定しています、このことは、かつて呪った強度の何倍もの強さで、真にこころの底から悔いるまで消えはせず、何より「もうこの "穴" から逃れられないのだ」と決断して悔いる必要があります/悔いのあとに何かしらの救いがあるとしても、吾の力で逃れて解決できると思い込む傲岸のうちには、救いの妙手が届いたりはしないからです、救いは必ず吾我の無力へ完全に行き着いた後にしかもたらされません。

正しく見ないとな | comments(0) |
WS報告024(3)/マスターと命令とミリ秒と作品と礼拝の世界
ークショップ関連のネタで、報告するのを忘れていた。
「世間」ではなく「世界」という場合、世界というのは<<マスターの命令なしにはびた一文動かない>>、「びた一文」という慣用句の使い方を間違っているのだが、「びた」と言いたいのであえて間違ったまま使おう、「何度も言っているように、マスターの命令なしではびた一文動かないんだって」。
「創作というのは、チームワークだろ、チームワークといえばリーダーシップだ、リーダーシップといえばマスターだろ、マスターと言えば命令だ、そして命令といえば本当はミリ秒なんだよ、風向き等もあるにせよ、本質はミリ秒にたどり着くしかない」「これを "開闢" という、開闢は集中の反対だ」「集中は、空間がありつつ、何かが一点にギャッと集まるから集中だろ、開闢はその逆、ある一点から空間がパッと始まるんだ、だから開闢だ」「誰かがマスターに立って、命令を出すところに踏み出さないと、世界は本当にびた一文動かない」。
ワーク中、「びっくりしすぎた」といって、スタジオの隅で丸まって眠っていた人がいたが、後日になって連絡が受けると、やはり「びっくりしすぎてダウンしたw」という報告だった、うーんそうか、びっくりしすぎたか笑、まあびっくりするんだな/そういうものなんだなあと、そういうことは、僕は他の人からヒアリングしないと知らないのだった、僕はもうずっとそういう開闢法の中にいるようなものだからな。

キャパシティをオーバーしたら、トラブルになる前に自己責任で離脱して休憩しなさい、という、アタリマエのことを、当ワークショップでは「分別(ふんべつ)」と呼んでいる/別にわざわざ呼ぶ必要はないのだが、いちおう関連するネタがあって、わかりやすいので「分別」とした。
それはいいとして、「作品」というのは実作業において不思議なもので、マスターが本当のところを捉えていると、プレイヤーには何かが視えてくるのだ/マスターの無比なる「命令」があって、プレイヤーはわけのわからないまま命令どおりに動くのだが、何もかも「わからん!!??」のままやらされているのに、やらされているとただちに、自分の役割・やり方が「視えて」くるのだ、それで「何これ」となり、「わからないままわかってくるこれは何?」、それがあまりに未知の現象なので、場合によってはびっくりして寝込む(らしい)。
なぜ作品に関連しては、マスターの命令というのが、「ミリ秒」で「開闢」でなくてはならないのか、なぜそうでないかぎり、どれだけ大声を出してもびた一文動かないのか、なぜ前日から刺激的に膨らませたイメージを、吹っ切れたように展開するという方法では、内輪満足にしか成り立たないのか……それは、ソ連の文学理論家ヴィクトル・シクロフスキーの有名な言い方で言えば――<<芸術は、ものが作られる過程を体験する方法であって、作られてしまったものは芸術では重要な意義を持たないのである>>、からに他ならず、またガストン・バシュラールに言わせれば、想像力とは「イメージではなく、イメージを歪形する力」ということだし、そうした想像力というのは人間の「よい状態」というのではなく、人間の「存在そのもの(イグジスタンス)」なのだとウィリアム・ブレイクが言っているとおりになる。
僕はこれらのことを、単に作品のメディアに現成せしめるのみならず、われわれの肉体と脳そのものが、かかる芸術作品と想像力のサーバーユニットそのものでありつづけるという、そういう肉体と脳を具体に現成せしめることができるのではないかと――具体をフィクション化できるのではないかと――現在のように取り組んでいる、そうなるとそれは愛(世界愛)であり神話であり礼拝である(また永遠であり存在である)ということから切り離すことはできず……ただ具体的な実践者として、思いがけず「速さ」、「ミリ秒の中にすべてを捉え、ミリ秒のうちにそのすべてに従う全身でなければ、このことは為されない」という、時間軸上の問題へのアプローチが大きな一手として出現してきたことを、面白いなあという感興と共に報告している、今のところ明確に「作品はミリ秒で完了しろ」という作法を打ち出している説はヨソにたぶんないと思う。

作品はミリ秒で完了し、完成には時間が掛かる。

完成にどれぐらい時間が掛かるかというと、厳密には完全な「完成」というのはないにせよ、一定の「完成」に到達するためには、具体的な技術レベルの問題が出てくる、「作品」という現象そのものがミリ秒で隅々まで捉えられたとしても、「具体的にプレイできないじゃん」ということがある/だから「作品」ということを考える場合、あくまで小作から取り組むのがいい、技術的にはカンタンなはずの小作を、間違いなく「作品」であらしめる、そのためにミリ秒へのアプローチをさぐる。
だがそれにしても知るべきことは、作品はミリ秒で「完了」するのだということ、ここをじっくり努力して、汗を掻いて、血の滲むような思いをして……ということでは、努力と意欲の痕跡が生じてくるだけで、「作品」というものは生じてこない、それは「作品」の原理と異なるからだ、ミリ秒の「開闢」の中にしか「作品」という現象の性質は生じてこない/この純然たる「作品」という現象について、それをプレイするのも、また向き合って観るのも、一種の礼拝の作用をもつ、だから作品は人を物理的に膝から崩すほどの作用をもっているのが望ましい、そのとおり人が寝込むぐらいのほうがいいのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
「地球外生命体っているんですかね〜」「お前さぁ……」

球外生命体はいるのだろうか、というネタで、話が盛り上がるとき、いやそんな話で盛り上がるときなんて実際にはないけれども、このネタについて僕はいつも思うことがある。
地球外生命体というのが、いるのかいないのかは知らないし、どうせ知りようもないのだから興味もないのだが、もし「いる」となったら、それはもうきっと、宇宙にぎっちょり、有象無象にひしめいているぜ/地球外生命体が「いる」とかいうレベルではなくて、タウンページの何億倍も、リストに書き切れないぐらいいるぜ、その中で地球の存在なんか忘れ去られるぐらいだ。
どうもこの、「地球外生命体はいるのだろうか」というネタについて、発想の根本のあさましさというか、増長を感じて気に入らない、全宇宙は全体がメガロポリスみたいに生命体だらけで、地球もその中の小さな一部屋にすぎないという可能性を考えないのだろうか、その視点からいえば「地球外生命体」という言い方そのものがヘンだ、まさか太陽系しか宇宙がないとでも思っているわけでもあるまいに。
なんとなく、「地球外生命体」というのではなく、宇宙全体がアホみたいに生命体まみれだったとすると、われわれ地球の住民としては「夢がない」と感じられるのだが、僕はどうせ仮想するなら、その夢のない仮想が好きだ、「何が地球外生命体じゃ、アホらし」「これだけ生命体がひしめいている宇宙で、よく地球限定の視点なんか持てたな」「新宿で電球を自慢しているぐらいアホだぞ」/単に観測しえない宇宙全体のことを考えるにしても、「生命体でぎっちょり」という可能性を持ち得ないのでは知性として何かがマヌケだ。

宇宙は広すぎるので、というか、宇宙のエリアに比べると、三次元で最速たる「光」の速度が遅すぎるので、どうせ他の生命体とは接触できないに決まっているが、もし生命体が単なる偶然の産物ではなく、何かしらのインテリジェンスの作用が及んでいるのだとすると、そりゃもう宇宙は全体が生命体でぎっちょりだろう、この宇宙に恒星(太陽)の数って、400,000,000,000,000,000,000,000個もあるんだぞ、この恒星系に惑星が複数個くっついているんだから、もういくらでも生命体スポットはあるだろう/仮に太陽2000億個にひとつ、生命体のある惑星が生じるにしても、宇宙全体では2兆個の生命体惑星があるということになる、その中のひとつでしかない地球が、ことさら「地球外生命体!」などと言い出すのは、何か気恥ずかしくてイタい話だ。
だいいち、われわれが知っている「惑星」って、もうけっこう前にボイジャーが頑張って海王星ぐらいまで見に行ったのが限界じゃないのか、そんな情報量で地球外生命体を考察しようなんてどう考えても片腹痛いぜ/太陽系をがんばって調べましたというのは、宇宙全体の広さに比べると、まるで世界中のすべての書物を知ろうとするのに、「五十音で、あいうえお、かきく、まで覚えました!」と言っているようなものだ、人類の歴史をフル出力してそのレベルだから、もう初めからムリなのだ、人為以外の何かが用意してくれた量子テレポーテーションでも起こらないかぎり、われわれが他の恒星系の惑星のことなどを知る方法はない。
ところで、それに付随して思うのだが、われわれは聖書や仏典やその他の聖典や神話を読んだとき、それがわれわれの知る地球の歴史と整合しないので困惑するのだが、それは聖典や神話に書かれていることを、地球限定の出来事だと勝手に決めつけているからではないか? もしわれわれの魂に「輪廻」というようなことが本当に起こるのだとして、その輪廻が地球上だけで起こるとは限らないじゃないか、この宇宙が生命体でぎっちょりなら、他の恒星系や、場合によっては他の銀河、他の宇宙(マルチバース)に輪廻するという可能性もある/また、UFOとか宇宙人襲来とかいう前に、他の恒星系から輪廻してきた魂もこの地球上の誰かには混ざっているという可能性も考えたほうが、まだ説得力があるじゃないかと、僕は仮想にせよ思っている。
聖典や神話には、「んなアホな」と言いたくなるような話も混ざっているのだが、それが「んなアホな」と聞こえるのは、われわれが地球のことしか知らないからであって、ヨソの恒星系から輪廻してきた魂がレアケースとして混じっているなら、神話に書かれているようなことも実際にあるかもしれないではないか/われわれはあまり自分のことを賢いと思わないほうがいい、古代ギリシャ人が根拠無く言い張った、「完全数496は宇宙創世に関係がある数字」というのが、まさか現代に来て「マジだった」と知らされるとは思っていなかったし、古く仏教において「十方世界」と書かれてあっても、この宇宙は10次元+時間次元という最新物理学に今さら驚かされているのだから、われわれの常識なんていつも何も賢くないのだ/宇宙には生命体がぎっちょりで、魂の輪廻は地球に限定されずあちこちに行くこともありまっせという、夢のない仮想が僕は一番しっくりきて好きだ。

地球外生命体は「いる」と主張する人こそ、それを地球外だと "珍品扱い" しているのがヘンだ。

もし地球外生命体が「いる」のなら、それはぎっちょりいるのであって、「珍しいもの」という扱いではないはずだ、そちら側の人こそ、地球を主格扱いする気持ち悪さをやめるべきではないか、自分たちの乗っている船以外はすべて海賊船に見立てるというのは精神的にどうかしている/地球外生命体は、「飽きてつまんねーぐらいいる」と言い換えてはどうだろうか。
ずっと前から、人は猿から進化したというダーウィンの説について、それが聖書の表記と異なるということで揉め事が起こっているのだが、それだってたまたま地球の猿に、はるか遠くからアダムとエヴァの魂の断片が輪廻してきて、その結果として猿が二足歩行する「人」になっていったということなら、つつがなく説明がつくのじゃないのか、まあそんなことはどうでもよくて、こんなところで戯論を言い立てていてもしょうがないのだけれど/誰の何にも関係ない、まったく意味のない話をしてしまった、うーむ反省はしていない。

視点変えてこ | comments(0) |
物理的に倒れ伏すという「礼拝」が起こる仕組み3/代表例としての「おじぎ」

れわれは「力」を偉いと思っているのだ、なぜならわれわれは生きものだから/生きものの世界においては、力があるほうが生き残れる、弱肉強食のルールで勝利してゆける。
だからこそ、われわれは自分が誰かを「やっつける」ことを快とし、誰かに「やっつけられる」ことを不快とする、われわれの救われがたさは、この「力への帰依」にある/われわれは、力あるものに頭を下げている、つまり会社の上司に頭を下げているし、たくさんお金を払ってくれる太客に頭を下げているし、権力のある顔利きに頭を下げているし、腕力のあるガキ大将に頭を下げている。
つまりわれわれは、ふだんから「力」に礼拝していることになる、このパワー礼拝は本来の礼拝の作用をもたらさない、そりゃ銀行に頭を下げて救われるならわれわれは生きていくだけでバリバリに救われることになるだろう、銀行に頭を下げずに暮らしていけるケースなどほとんどないのだから。
生業をしていると、お金に頭を下げるわけで、そのこと自体、通貨発行権を持っている中央銀行に頭を下げているようなものだから、われわれはごく一般的に、力の信徒であるわけだ、生存本能というのはそういうものだからしゃーない、こんなものにわかに解決なんかできっこないので、あるていどうまいことごまかせ。

仮に、AがBに、「力」を行使したとする、するとAはBに対して上位になる、ところが数千分の一秒に出現するカミサマに接触すると、「な、なんだこれ!?」と、上位と下位が反転する、「力」を行使しているAの側が、下位になっていくのだ、力を使えば使うほど下へさがっていく/そこでAは、己の信じていた「力」の正体を知るのだ、「力」は「重さ」であって、自分を下へと押し下げていく性質のものだということを知る。
数千分の一秒に生じることを捉えるには、われわれは極限まで力みを捨て(ゼロ状態になる)、真に胴体の中心から、全身をひとつにして挙動しなくてはならないが、もしこのことが可能になれば、どういうことが起こるかというと/たとえばAがBに力を行使していたとして、Bが胴体の中心からまっすぐ、ひとつで「おじぎ」をしたとする、本質的には数千分の一秒だけその「おじぎ」は生じ、ただちにゼロ状態に戻るので、あとはおじぎの「残り」が動作するだけになるが、このときBは「うおっ!?」となり、ペシャンコになるのだ、AがおじぎでBをペシャンコにしたのではなく、BがAに向けて行使していた「力」が自分自身をペシャンコにするのだ、相手をやっつけるつもりだった力は相手を持ち上げることに向かってしまい、相手を持ち上げるぶん自分の地位は下へ押し下げられていく、「こなくそ、こなくそ」と力を入れるほど本人が下へ押し下げられてペシャンコになる、つまり数千分の一秒に生じたおじぎで力の「偉い」が反転するのだ。
AがBに「力」を行使しているとして、このときBが、真に「礼拝」に及んでいるミリ秒のおじぎをバッとすると、Aは「うわっ!?」とスッ転ぶのだ、これは物理的な現象(自分の力)だが、本質的には具体的な接触のみで生じるものではない、なぜなら具体的には触れていなくてもこの転倒は生じるからだ/触れてもいないのにスッ転ぶし、その「反転」の原因主は数千分の一秒しか生じないので、見ていても何が起こっているのかはさっぱりわからない、どうせ何かのヤラセか催眠術のたぐいにしか見えない、けれども四人同時にこの技をかけると、四人が同時にスッ転ぶので、そんな単純なヤラセとか催眠術とかのたぐいではない、ヤラセにしてもそんなにきれいに揃って同じ形にスッ転ぶのはむつかしいはずだ、確かに「投地」というような形で四人が同じ形につぶれていく。
だから、ありふれた話に決着するのだが、力を威張らせずに、身体の中心から全身をひとつに「おじぎ」をすること、それを生活の中で当たり前にすることは、とても大切なことだ、日常生活の中でこれを常に養っておくことの、いかに有為で救いにつながることだろう、頭を下げるというのは瞬間のうちに起こるべきことで、頭を下げるというのは力づくでグイーンと下げるものじゃない、われわれは単なるバネ仕掛けの筋肉人形ではないのだから。

Bが数千分の一秒で、目に見えない「おじぎ」をしたとき、Aは「うはっ」と、<<うれしそうに苦しんで>>倒れる。

面白い話、「おじぎをした側が勝つ」んだぜ、まったく面白い話だ、ただしそのおじぎは勝速日というような速さだが、力の強いほうが勝つのではなく、おじぎをした側が勝つのだから、見ていても面白いし、力が強いままスッ転ぶ当人も面白いのだ、うれしそうに苦しんで倒れるというのが特徴で、このほかに「嬉しそうに倒れる」というわけのわからない有様はない。
自分の力で自滅していく当人が「うれしそう」なのは、いかなる力の強い者だって、自分が弱肉強食の世界でただ有限の時間を生かされるということ、そしてそのまま老衰で死んでいくだけということを、こころの底からよろこんでいるわけではないからだ、われわれが各種の力を信仰しているのは、因果の結果であって魂の希求の結果ではない/だから、「自分が力を使っているのに自分がつぶれていく」という、一般の因果律に反転している現象の只中、誰だってそのことをよろこぶ、人は自分の力でつぶれていく中、魂のどこかで「こ、これは、わたしがおじぎしていないからだよ〜」ということを知っているようだ、だからまるで我が意を取り戻したような顔でよろこびながら倒れる。

正しく見ないとな | comments(0) |
物理的に倒れ伏すという「礼拝」が起こる仕組み2

れわれは、必要があって己に「呪縛」を掛けているのだ、「呪い」というのは「のろい」と読んでもいいし「まじない」と読んでもいい/とにかく呪縛だ、「悪いことをすれば悪人でダメ、天罰がありますよ」というのろいを己にかけ、「善いことをすれば善人でイイ、きっと報われますよ」というまじないを己にかけている、そうして自分を縛り上げている。
なぜそうして自分を縛らなくてはならないかというと、縛っているものを解いたら、カルマ行動が発現するからだ、われわれの身は煩悩と業と因果のかたまりであり、こんなものを解放してやると、ただちにカルマぶっ放しの行動・行為しかしない/われわれはふだん、おおむねは善人であり、表面的には善行しかしないものだが、それは呪縛の結果として善人と善行が強制されているにすぎず、ぶっ放した結果として善行が炸裂しているのではない、われわれは己の行為を善に保つために、己を呪縛で固定してあるのだ、そのことまで含めて善人は善人と呼んでよいのが一般的なルールだろう。
悪い子はいけません、よい子でいなさいと、親に教わったのではなく、親に呪縛を与えられたのだ、なぜ親がそれをするかというと、親は一親等の存在であり、呪いというのは主に血を媒介して為されるからだ、あんまりこんなことには詳しくならないほうがいいが、とにかくこれは呪縛であって、生きていくのに必要な呪縛だから、責めるにはあたらない、ただしそれを「教わったこと」と誤解し続けていると、結果的によいことには行き着かない、なぜなら呪縛された善人は「礼拝」の仕方にたどり着けないからだ。
もちろん、呪縛をいきなり全部解いたら、破滅しかしないので、徐々に解きほぐしていく必要がある/そして呪縛を解きほぐすということは、固定を取り外すということ、つまり己のカルマを発現させるということであり、ここから生じるカルマ行動を、カミサマにつぶしてもらえないと、人はただカルマ行動からカルマを増大させていくばかりになる、そんなカルマ増大に向かうばかりなら、呪縛されたままのほうが遥かにマシじゃんというのも、人が持つ直観的な判断だ。

予備的な話になるが、女性がデタラメに男に抱かれるわけにいかないのも、これが理由だ、女性には男のペニスと射精を求めるという業(カルマ)があるが、このカルマをぶっ放して、さらにカルマが増大して身が重くなるのでは、自ら致命傷を招くようなものなので、女性はこのことに慎重になる、これは当然の判断だ/だから女性は、直観的に「この人なら大丈夫」と思った人に抱かれようとする、その「この人なら大丈夫」というのは、自分のカルマ行動をつぶしてくれる人ということだ、このカルマ行動をつぶされた姿が、そのまま「礼拝」という形になる、だから礼拝すればカルマ行動がつぶれるのではなく、逆だ、カルマ行動がつぶされたときの姿のことを、人類はこれまで礼拝と呼んできた。
だから、礼拝うんぬんの手続きは、本当にはこうなる、1.主に両親と世間による呪縛(カルマ行動の封印)→2.適切な場を得て、呪縛の徐ろな解除→3.適切な程度の、カルマ行動の発現(つまり、「悪いこと」を自白的に行為する)→4.カルマ行動が、刹那のカミサマに接触し、上下と「重さ」を教わる→5.物理的に、己の重さが膝に来て、立っていられなくなり、自ら倒れ伏す(礼拝)/こういう手続きだ、むろんこのような「礼拝」が生じるには、導き手となる誰かがそこに必要であり、装置や施設や情報だけで成立させられることではない。
われわれが少しでも因果を逃れるのは、実にむつかしいことで、つまり呪縛していた「悪いこと」を実際に発現・行為し、その行為がただちに、刹那のカミサマに接触して、物理的につぶされねばならないのだ、自分の身そのものと、カルマ行為の重さでつぶれる、その重さが実際に膝に掛かってきて、立っていられなくなる/ただし、あくまで己の重さでつぶれるということ、他の何かのエラソーな力でつぶされるのではない、だからお説教や権力でつぶされるのではまったくない、そんなイージーな話ではないのだ。
われわれの身の内は、ふつう善人ではないので、それを呪縛で封印して、善人を気取っていてもだめなのだ、カルマの増大はやや防げるが、その呪縛善人モードでカルマを償却はしてゆけない/だから呪縛を解いて、少し「悪いこと」をしなくてはならない、実際にわれわれがそうした「悪いこと」をできてしまうのは、封じてあるだけで本当は「悪いことをするという能力」があってしまうということだ、この悪いことをする能力を実際に発現させて、行為し、この行為が、世間や司法や権力や腕力の「力」でつぶされるのではなく、カミサマに触れて、己の身の重さと行為の重さでつぶされねばならない、それで重さが膝に来て立っていられなくなり、倒れ伏した姿を「礼拝」と呼ぶ、礼拝というのはそこまでのものだから、そりゃ何度もペシャンコに倒れ伏していたら、そのたびに少しずつ身は軽くなっていくだろう、そのことが繰り返されていくうち、自分の中から「悪いことをする能力」そのものが消えていくのだ(カルマが償却された)、だから呪縛の必要がなくなってくる、こうして「悪いことをする能力」を消し去っていった人は、たとえば友人の尻を後ろから蹴ったとしても、それがなぜか「悪いこと」にはならない(それがカルマ行動ではないからだ)。

悪いことをしようとした瞬間、数千分の一秒、カミサマが出現し、「うおっ!?」と上下が掛かり、物理的に自滅する、その自滅でペシャンコになった姿が「礼拝」だ。

こんなこと、得がたいとか有り難いとかいうレベルじゃない、フツーに「ない」だろ/なお、カミサマが「出現」するというのは、そういう姿のものがババーンと出現するわけじゃない、そういう空想的なものではないのだ、風景としては何も変わるところはないのだが、何か違うものが現れているように見える、そして何より、自分がつぶされていくということそのものに、「こりゃカミサマだ」ということがわかるだけだ、カミサマそのものは、作用としていずれわかるようになるが、出現そのものは数千分の一秒なので、まず通常は観測されない、ただ「今何があった? 何かヤベー瞬間があるのだけはわかるし、その後はもうアカンのはわかるわ」という程度にしか認識できない。
せめて知っておいたらよいことは、「善人」の周辺にいるあいだは、どうやっても「礼拝」は起こらないということだ、もちろん単なる悪人というのでもダメだが、礼拝というのは「悪いことをしても悪いことにならない」という人の周辺で起こる/その人は悪いことをしても悪いことにならないのだが、その人に向けて自分も同じ悪いことをしてみようとすると、なぜか「うおっ!?」となり、重さが掛かってペシャンコにつぶれてしまう、そういう形で「礼拝」は起こる、なお余計な情報だが、大げさに悪いことをしようとすると、その重さで自分が本当にケガをしたり損傷したり、精神的にマジで死んだりすることもあるので、大げさなことは考えないことだ、われわれのカルマが償却される速度というのは鉛筆の芯が減る速度の数万分の一しかないと思え、だから鉛筆の先ほどの悪いことを、そのたびにつぶされていくということ、それでもじゅうぶん膝にきてつぶされるから、それだけわれわれのカルマは物理的に重いということだ、重いというかつまり身の「力」だけどね、力は腕力だったり権力だったり魅力だったり、まあとにかく「礼拝」というのは本当はそれぐらいむつかしく、むつかしいという以上に極めてレアなのだった。

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物理的に倒れ伏すという「礼拝」が起こる仕組み

るほどなあ、つまり、やはり「礼拝」には一定の効果があるのだ。
「効果」というといかにもさもしい感じがするが、まあ「作用」があるわけで、その作用の根源はカミサマなのか何なのか、単に観測できないルートから作用があるので、それを聖霊とかカミサマとかホトケサマとか天とか菩薩とか言うのだろう、その作用ルートが「観測」できないのは、単にわれわれの観測能力が低いからであって、それだけわれわれがアホで無能なのだからしゃーない/さっさと村田製作所が観測センサーを開発できないのが悪い。
われわれは、高所から飛び降りると死ぬので、「重力」等は観測できるのだけれどね……何しろ顕微鏡というアイテムがなければ、微生物も観測できないのがわれわれだ、素粒子うんぬんを観測するのにさえ、CERNというような大がかりの装置を必要とする、あげくにわれわれはアホなので、観測できないものは「ない」と決めたがり、逆に「ある」と説明しようとさえする/観測できないものを「ある」と説明できるわけがあるかよ、問題はそれが「ある」か「ない」かの問題ではなく、「たとえAそのものは観測できなくても、Aからの作用はあるかもしれない」ということだ、仮にわれわれが視力を失ったら、太陽光はもう見えなくなるわけだが、見えなくても作用はあるので、「この世界って、昼と夜があるんじゃね?」ということは言い得るだろう、「だって、何かあたたかいものが当たる時間帯と、それがまったく当たらない時間帯があるし、そのあたたかいものの当たる方向って時間と共に移動しない?」ということで。
とにかく、僕としては経験上、見てきたこともそうだし、己が体験してきたこともそうだが、「礼拝」というのは一定の作用と効果が本当にあるのだ、ただしわれわれが「なるほど」といって、安易に礼拝の旅に出ても、何の効果も得られず、ただ旅費だけが嵩むだろう、それはなぜかというと、単に礼拝というのが本当は「とてもむつかしい」からだ、正しいやり方というのがあって、それはとてもじゃないが誰かに教えてもらうより獲得できるわけがねーよというレベルのむつかしさなのだった。

何しろわれわれは、本当にアホなので、何かしら神社や仏閣や、教会や神棚や仏壇に礼拝しようとするとき、自分を「聖なる心地」にしている/冷静に考えれば、これはアホなのだ、われわれに聖なる心地が得られるのだとすれば、それは礼拝の「後」であるべきであって、礼拝に臨む前から、聖なる心地などが得られるのであれば、もう礼拝する必要はない、こんな単純なことにも気づかないほど、われわれはアホであり、なぜアホかというと、まともに誰かに「教わる」ということを経てきていないからだ。
「教わる」というのも、何か形式や情報を、言語化して暗記すれば、それで「教わった」と思っているしな……だから困ったことに、われわれはある意味ですっかり「出来上がって」いるのだ、礼拝なんて激ムズのことはわれわれにはできっこないから、本来は教わらないといけないのだが、その「教わる」ということもなかなかにむつかしいので、まず「教わり方を教わらないといけない」という状態にある、けれども教わり方を教わるにしても、教わり方を教わっていないわけで、どうもできねーじゃんという、わかりやすい閉塞に陥っている。
だからどうすればいいのか、ということになるのだが、どうすればいいと考えたところで、誰かがそれを教えるとか、誰かにそれを教わるということも、ほとんど破綻しているのだから、まあどうなのだろう、あるていど諦めるということも、リアルなこととして必要だ、せめてわれわれが他人のことを諦めるのと同程度には、自分のことも諦める必要がある、そうでないと辻褄が合わないしな/墜落する状態のまま飛び立った飛行機が、今さら上空で「どうしろってんだ」という話で、まあそういうこともあるさと、笑おうが笑うまいが、行き着く結果は同じか、だからもうあとは個人の趣味しかない。
そういった、いまいち笑えないテンヤワンヤに行き着く前に、僕はすべてのことを前向きに、光あるように保っておきたいのだ/僕はよく友人に、「ごくふつうの程度には、神社やお寺にもお参りしたほうがいいよ」と勧めるが、それが何かになると勧めることはまずない、「何かになる、のじゃなくて、何かにならなくて済む、ということ、自分の知らないところで」と言うことが多い、何しろ本当の礼拝の仕方なんて僕も知らないし、ただ僕が知っているのは、われわれには聖なる心地で礼拝になんか臨めないよということだ、これは別に聖人でなくても単なる理知でわかるだろう、<<あなたが清潔ならシャワーを浴びなくてよろしい>>。

汚いもん見せて土下座しな。

汚いものを見せ、自白し、晒し、その姿のままひれ伏すことだ、ああなんてシンプルなんだろうな/われわれがやるアホは二通りあり、ひとつは清潔なわたしで拝むこと、ひとつは不潔なわたしで居直ることだ、われわれは人間が小さ〜いので、不潔な己を認めるときは、オラついてふんぞり返ることしかできないし、何かに伏して頭を下げるときは、清潔なワタシを気取って頭を下げることしかできない、どちらも傍目には見苦しいということがわかるのに、自分でやるときにはきっちりその見苦しさをなぞるものだな。
われわれが、己の汚いところを開示し、それで一ミリも居直らないなんて、なかなかできることじゃない、だからわれわれにとって、礼拝などむつかしすぎるのだ……あはは、そのぶん、本当に「礼拝」というものが成り立つときは、本当に面白い、実際には「うわっ」と自分でおどろいてひれ伏すからだ、まさにこのこと自体おどろくべきことだが、人が礼拝をするのは、人の意志ではないのだ、人がカミサマに出会うと、人は己自身の重さで倒れ伏すのだ、伏せようとして伏せるのではなく「うわっ」と倒れてしまう、「無理です無理です、立っていられない、ちょちょちょちょ」という感じだ、礼拝とはそうした物理的なもので、カミサマが頭を抑えつけるのではなく、カミサマが人に "重さへの抵抗をやめさせる" のだ、それはカミサマに出会うたびに起こり(出会うといっても本当に刹那で、おそらく数千分の一秒というような単位だ)、そのたびに「ふおっ!?」と、膝から崩れ落ちそうになる、倒れ伏す挙動自体は己の重さから生じているので、挙動は物理的だ、カミサマは重さへの抵抗をやめさせているというより、正確には物理的な "「上下」を教えている" というだけだ、物理的に上下を教わると重い者が下に行くのは当たり前であって、だから己の身の重さで倒れ伏せる、本当に物理的に膝にくるような形だから、絵的にも面白いのだ、そして倒れ伏せることを繰り返したあと、立ち上がると身は少しだけ軽くなっている。

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オードリーヘップバーンに掛けられないなら技じゃねえよ

ーむ、どうも腹が立ってきたな、やっぱり正しいことはあるていど大きく表示しておかないと、果たすべき義務を履行していないことになるみたいだ。
たとえば合気道では基本の技を、一教とか二教とか言うけれども、どこの道場でも当然、屈強な兄さんがトリャーと取り押さえをしたり、エイッと投げを掛けたりしている、それをもって護身術だと言うのだけれども、護身術といってもつまり、そりゃ「相手をやっつける技」だ、たとえ相手がケガを負わなくても、それはやはり相手をやっつけている技だ/僕はいかなる理由があれ、相手をやっつけることは不徳のたぐいであり、たいへん気分の悪いものだと感じている、誰かをやっつけた時点で、根本的には自分も負けのコースに入るのだと思う、思うというよりは確信する。
合気道の開祖、植芝盛平さんと、その弟子である塩田剛三さんにおかれては、弟子にいかなる技を掛けたとしても、弟子を「やっつけて」はいない、なぜなら技に掛けられた弟子はギブアップを示すタップ(「参った」のサイン)を出していないからだ、植芝さんと塩田さんの技は、掛けられた相手がウオッとか「ぬあっ!!??」とかなったりするが、掛けられた側がそのあとイケイケかつ「やさしく」なっている/僕は、合気道などに関しては、完全なズブのシロウトだが(何しろ一秒も習ったことがない)、それとはまったく関係のないこととして、「人ってそんなに甘くない」と断言したい、たとえ相手にケガをさせなかったとしても、一度でも誰かを「やっつけた」なら、その人はその先、永遠に敵であって、ずっと呪いあう関係になる、相手にケガをさせなかったことなど何の言い分にもならない、<<誰かをギブアップさせるとか「仕留める」とかいうことは、兵士でないかぎり模擬にも決してやるべきではない>>、ギブアップさせた(負かした)ということは殺したのと同じだ。
護身術だといい、屈強な兄さん同士でトリャーとやりあい、相手が抵抗できない形にして「参った」をさせあっているが、本当にその技は、うら若きたおやかなオードリーヘップバーンにも掛けられる技なのか? もしそんな可憐に微笑む麗しき花のような女性のやさしい細腕には掛けられないというのなら、それはけっきょく「ケガはさせない暴力」ってことじゃないか/われわれは本当に、うら若きオードリーヘップバーンが、肩関節と肘関節を固定されて締め上げられ、「参った」とタップするところを見ていられるのだろうか、そこには「なぜそんな非道な暴力をやるのだ」という悲嘆が湧き起こるのではないのか。

僕には何の資格も立場もないので、与太話として聞き流してもらうけれども、一教とか二教とかいうのは、護身の技なんかじゃない、<<掛けられた相手の身にカミサマを入れる技>>だ、だから何度も技を掛けられると、掛けられた相手は次第に「やさしく」なっていく、身が軽くなり、こころがやさしくなっていくのだ、人為では獲得しえないナゾの精神が「あれ? 何これ?」と得られてくる、だからこのことをかつては武産合気と呼んだ/護身術などではまったくないのだ、相手をやっつける技などではまったくない、相手にカミサマを入れる技だ、この誤解はまったく正反対を向いているじゃないか、正反対ってのはさすがにヤバくないか。
何の資格もない僕から、たいへん不遜に、この与太話を主張しておきたい、われわれの身の内には、「人を攻撃する機能」があるのだ、ふだんはそんなものが決して発現しないよう、入念に管理してコントロールしているが、たとえ完全に管理しきれたとしても、その管理の下にやはりその機能は「ある」のだ、そしてこの「人を攻撃する機能」が、存在自体おそろしくて、この機能が存在するうちは、人はどうやっても救われないのだ/そこで身の内にカミサマを宿し、カミサマにその「人を攻撃する機能」を消し去ってもらうというのが営為の本質だ、それに比べると「護身術」というのは何だ、人には人を攻撃するという機能があるということについて、初めから全面的に屈服しているのが根本のスタイル(文脈)じゃないか、僕は合気道に何の関係も持たない一市民だが、合気道に携わる人は、合気道というものをそんな護身術というような、「自分だけ被害を受けず合法に善人として生き残ろう」というつまらないものに定義してよいのか。
そうじゃないだろう、本当は、<<暴漢になど決してなりたくないわれわれの身の内から、暴漢になりうる潜在的な機能そのものをカミサマによって消し去ってもらう>>という営みだ/塩田剛三が後世に残そうとした技の正体は、「人を攻撃するという機能が "空転" して、元あった攻撃機能のエネルギーが和合のエネルギーに転じてしまう(笑い、むつみ合うエネルギーに転じてしまう)」ということだ、決して単なる自己防衛の技なんかじゃない。
そして植芝盛平の技は、単に人の攻撃機能を空転させるのみならず、その身に人為以上の何かの "存在" を宿す技だった/だからこれらの技は、掛けられた側が救われた心地でつい「ありがとうございます」と言ってしまうという徳性がある、生まれて初めて人と和合するエネルギーの根源を得、さらにはわれわれに「人以上の何か」を見いだす直接の体験と開眼を与えてくれるのだ、そりゃうれしくなって何度も技に掛けられようとするし、技に掛けられて「参った」なんてギブアップはしない、いっそ永遠に技に掛けられていたいと望むものだ(そして言うまでもないが、一教にせよ二教にせよ、極められた関節が痛いなんてことは一ミリもない、だからうら若きオードリーヘップバーンに掛けても平気だ、そもそも痛くないとかいうレベルの話ではなく、いっそ「自分で床に座るよりもラクに地面に伏せることになる」と感じられるのが本来の技だ、なぜそんなにラクなのかは理屈の上では不明で、だからこそ武産の存在を前提にせねば説明がつかないというのがそもそもの原理だ)。

武の中に、技の形をした身の「投地」作法があり、攻撃のカルマの持ち主が、師にすがって攻撃行為のエネルギーを礼拝行為のエネルギーに転じさせてもらうのが営為の本質だ。

われわれの身の内には、煩悩やカルマや因果があって、煩悩三毒というからには、身の内にどうしても毒ガスが溜まっているのだが、植芝エンジンにすがると、自分の毒ガスが燃焼して礼拝動作の挙動エネルギーに変わるということ、そうしたら毒ガスも減らせる上に光まで得られるのだから、こんなエコな完全解決は他にないぞということで、「ありがとうございます」となるのだ、それのどこが護身術なのか、護身が重要なテーマとして考えられていたのはあくまで歩兵の戦争と植民地政策とゲリラ戦が身近だった帝国主義時代の政治状況に関連してのことだった、だから有事には護身にも使えるというだけで、技の主眼が護身にあるわけではまったくない/相手の攻撃力を利用するというのは、相手の毒水がなぜか笑いの酒に変わるということであり、相手の毒水を相手にぶっかけ返して自業自得にさせてやるということではない
自分が相手をやっつけると、相手は「参った」となるのだが、そうして相手を「やっつける」ということが、そもそもおぞましいのだということに、なぜ気づかないのか、自分を攻撃してきた奴など「参った」になればいいというのことなのか、そんな他人の自業自得ぶりの上にふんぞり返ってほくそ笑むのが、われわれの信じうる聖なる道か/つまるところ、「やっつけたら気持ちイイ」のか? もしそうだとすると、それは暴漢と同じ穴のムジナじゃないか、暴漢をケガなくやっつけて「護身術」だなどと、バカなことを言っていてはいけない、もしわれわれが聖なる能力を持ちうるとしたら、それは己と暴漢を同じ身分として、暴漢にも共にカミサマの前で礼拝させてやることだ、「やっつけたら気持ちイイ」なんて性根の腐った元いじめられっこじゃないんだからさ。

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