☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
永遠のピンポイントとただのブレ
ることは一切なくてもいいし、逆に一千万個あってもいい。
だがわれわれの目標は「点」だ、面積も体積も持たない数学上の「点」。
「点」以外の一切はただのブレなのである。
意識することもなければ、意識する必要もない、「点」だけがあって、それはつまりゼロ次元ということなので、その他の次元の事象は何億あってもまったく変わらないのだった。

われわれの目標、また目的は「点」であって、その他のすべては、良くも悪くも評価には値しない、「評価」という一切そのものが逸脱ないし脱落でしかない。
別に女を抱こうが男を殴ろうが、変わらん、ゼロ次元は「点」でしかありえないので、集中力さえ必要ない、ゼロ次元では一点に集中するほかありえないから。
その他の有象無象は、あってもよし、なくてもよし、すべてのものはどれだけデッカく見えても、本当には見えてなんかいないのだ、われわれが真に見えるものはその「点」しかないのだから/視認して意識したものに何か意味があると思ったら大間違い。
逆に、われわれをうっとりさせるすべての事象は、ゼロ次元の「点」に支えられて生じている、何千億でも生じることができる、うっとりする側は知らなくてよいが、うっとりさせる側はやがてこのゼロ次元の「点」にすべてを差し向けるしかないのであった。

台風はデカいが、その存在は点だ。

ご存じのとおり、台風には「目」があって、その目のさらに中心が台風の座標ということになるだろうが、そうであれば台風の中心そのものは、台風がどう起こっているかを知らないわけだ、何十兆の風が吹いても台風のピンポイントはそのことに無頓着なまま。
つまり、われわれの目標、また目的となる「点」は、完全無欠に「つまらない」点だ、数百京の美の中心には、美を支えまるで無頓着なままの、永遠のピンポイントが存在している、それ以外の一切はただのブレなのである。
正しく見ないとな | comments(0) |
自分はどんな奴になりたいか

分がどんな奴になりたいかは、けっこう重要だ。
「こういう感じの、ステキな人になりたい」……とイメージを膨らませる、すると、これは必ず失敗する。
なぜなら、本当に素敵な人は、必ず<<あなたを驚かせる>>からだ、あなたを驚かせるということは、真に素敵な人はあなたにとって「未知」の人だということになる。
これがやっかいなところだ、けれどもこう考えないとこの作戦は必ず失敗する、「自分はどんな奴になりたいか」? その解答は、現在の自分の所有するイメージの中には「無い」というのが正解になる。

考え方を変えよう、「自分はどんな奴になりたいか」について、「自分の知らない奴になりたい」と考える、実はこれが正しい。
どんな街に住んでいて、どんな仕事をしていて、どんな能力を持っていて、どんな表情を見せるかについて、「知らない街に住んでいて」「知らない仕事をしていて」「知らない能力を持っていて」「知らない表情を見せる」と考える。
「自分はどんな奴になりたいか」、その向こうから、「自分の知らない声」が聞こえてくる、ここで想像力がはたらき始めている、想像力がはたらくということは、イメージを持たないということだ。
想像力がはたらき始め、イメージを持たないことに徹したとき、「何をしてもいいし」「何をしてはいけないということもない」ということが見えてくる、自分が自分の「知らない奴」になるためにはどうするべきか、理由なしに見えるようになってくる。

「どんな奴になりたいか」は、自分が描くのではなく、向こうから声が掛かってくる。

「自分はどんな奴になりたいか」について、「自分の知らない奴になりたい」と答える習慣は、よい習慣だ、自分を閉じ込めず、いつも真新しく切り拓いていく習慣になる、想像力のフタが開く。
「トレーニングしてみようかな」「勉強してみようかな」、いろんな想念が湧いてくる、そのときに思い出されるべきことは、「何をしたらいいということは特にないし」「何をしてはいけないということも特にない」「何かが足しになるというわけではないし」「足しにするつもりじゃないなら何をやったっていい」ということ、あとは向こうからの声が届いていれば空回りは起こらない、手抜きして生きないことがもう始まっている。

恋女のマインドね | comments(0) |
完全燃焼は選ばれし者
きているうちに一度でも「完全燃焼」に至った人は別格だ。
人は「栄光」によって格差がつくのではなく、「完全燃焼」によって格差がつく。
ふつうわれわれは、「ヒートアップ」するばかりで、「完全燃焼」には至れない、われわれはふつう焼け付きを起こすことしかできず、完全にクリーンな光を放つ「完全燃焼」には至れないものだ。
「完全燃焼」に至ったとき、初めて余分のすべてが燃え尽き、人は最奥の信頼を得ることができる、そこまでいって初めて「その人」の本当の姿を見ることができるからだ、まあしかしそんなゼータクをわれわれ凡人が夢見るのは分不相応だと覚悟すべきではある。

いわゆる「選ばれし者」とは、まさにその「完全燃焼」に至れる人であって、単なる身分に気取っている人ではない。
だから、人は「選ばれし者」になんかなりたがらない、「完全燃焼」なんかさせられてはたまらないからだ、全エネルギーを一カ所に燃やし尽くせという話、それは癒やし文化の正反対だと言える。
「完全燃焼」に至った人は、自己説明や、いわゆる「人づきあい」のようなことをせずに済むようになる、なぜなら説明しなくても、その人の本当の姿がすでに露出しているからだ、説明しなくても「この人」というのがわかる。
「完全燃焼」……それは不可能を可能にする力だが、だからこそ人はそれを厭う、なぜなら人は、不可能に見えることをやらされるのが大キライだからだ。

越えられないものを越えて、止(と)められないものを止(と)める。

逆に、「越えられないものは越えられない(当たり前)」「止(と)められないものは止(と)められない(当たり前)」とするのが、癒やし文化だ、この文化の中で人々は話が合う。
不可能に見えることをやらされることほど、心理的に苦痛に感じられることは他にない、これに苦痛を感じない人は、不可能に見えるものを「不可能……?」と疑っているのだ、これでは人と話が合わないだろう。
視点変えてこ | comments(0) |
愛と失格

の世界に、楽しいことなどないし、むしろ「楽しいことなんか要らんだろ!!」と感じる、その状態を愛(世界愛)という。
世界愛のない人は、楽しいことや、充実することを探し回るし、むしろ個別に設定されうる「愛」があるふうに言いたがるが、もうそういったハズレのことは、あまり考えたくないのであった。
世界愛というのは、「評価」や「選択」がない状態なので、「迷いが無い状態」ということでもある、何がいいとか悪いとか、何が楽しいとか楽しくないとか、そういうことがないのだ。
評価も選択もないのに、何かしら身は燃え、口は叫び、意志は跳ねている、「お前はゴミか」とゲラゲラ笑いながら、誰かがときどき神がかりなほどうつくしい、でもうつくしいからこそ評価は向けない、そういう状態を世界愛と呼ぶのだった、まあ僕の独自の呼び方だけども。

試みに、自分一人、自分に向けて、「しっっっかーーく(失格)!」とカッコよく言ってみる。
そこで、ムフフ、あるいはウヒヒ、アヒャヒャと、笑いとよろこばしさが起こってくる場合、その人には世界愛がある。
あるいはそこで、何かしら躊躇や、モヤモヤしたもの、作り笑い等が出てくる場合、その人は世界愛を見失っている/世界を信じていないのでそうなる。
失格におびえる人は、失格にこころあたりがあるからおびえるのだ、失格におびえない人は「まあこんな奴もともと合格せんやろ」と思っているからおびえずに済む、それでいて笑っていられるのは世界を愛しているからだ。

「失格」が光っていたら合格している。

光なら、失格だって光っているわけで、闇なら、合格だって闇っているだろう、「闇(やみ)っている」という言い方はムチャクチャな気がするがまあいい。
ムフフってならない? ならないならシーチキンの油で顔を洗って反省すること、「評価」や「選択」がはびこっているという状態は迷いまくっている状態ということだ。

バカをやろうかあ | comments(0) |
夢の中で動けるように訓練をする
の中で動けないと使えない。
夢の中で動けるように訓練をする。
夢の中でフワフワせず、夢の中で夢よりも静かに動く、しかもくっきりと早く動く。
そうしたら夢が続く、夢を壊さず、しかも夢に飲まれずに生きてゆける。

夢の中で動けるように訓練をする。
夢の中で話せるように訓練をする。
夢の中で察知できるように訓練をし、さらには、夢の中で戦えるほどに訓練をしてもよいかもしれない。
夢の中といって、眠っているときにそれをしろってんじゃないよ、起きているあいだも「夢」は続いている、夢の世界があるのじゃなくて、そもそも「世界」そのものが夢なのだから。

夢の中にしか値打ちはない。

そりゃそうだろ、どこの母親が、生後六ヶ月の赤子に、「あなたはスクワットをして大腿筋を鍛えるのよ」なんて話すんだ、人は夢の中を生き続けるに決まっている、そうでなきゃ人間らしくない。
夢の中で動けるように訓練をする、そうでなければ、あなたの何ひとつも人に夢心地を与えることがないだろう。
視点変えてこ | comments(0) |
テキパキはカッコいい美徳
まりむつかしい方法論を持ってもしょうがないので……
「テキパキする」という美徳がある、この美徳に文句をつける人は人類史上いなかった。
毎日、どうせすることがないので、とりあえずテキパキするのだ、とはいえテキパキするのがダルい気はすることはある。
そのときは、「テキパキしてないなら、とりあえずカッコよくはないわな」ということを思い出す、思い出して認める、そして自分がカッコよくないということは土足で踏まれた肉まんのレベルで致命傷なので「それはさすがにマズいな」と思いとどまることができる。

人は、自分がカッコよくないとき、自分に失望するのだ、こうなるともう動けなくなる。
そして不思議なことに、そうして失望して動けなくなっているとき、自分が何に失望しているかはわからないのだ、「自分のカッコ悪さに失望しているのかああああ」ということに、なぜか気づけない、この仕組みはまったく意地悪なものである。
「自分はテキパキやらせてもらいます」「きみ、やけにテキパキにこだわるね、なぜ?」「いや、自分のポリシーなんで」と、これだけで十分カッコいい、このとき初めて自分のやるべきことが見えてくる。
テキパキするということは、「意志決定と初動がメチャ早い」ということだが、それでもカッコよさが足りない場合は、テテキキパパキキ、というぐらいにレベルアップすればいい、それで「なんつー処理速度だ」と瞠目させるほどならそれはもう強制的にカッコいいのだ。

意志が弱いのじゃなく、動体視力が弱いのである。

この世界の具体的事象は、すべて時間軸上に流れて存在しているので、動体視力が弱いとそれが「見えない」「取りこぼす」のである、それで人から見るとモタモタして無能に見える。
不思議なことだが、達成度80%の掃除を、30分でやるのと、二日にわけて四時間でやるのとでは、30分でやったほうが部屋の清潔感は上がるのだ、それは動体視力が高いぶん、部屋に流れているものまでよく見えて掃除してしまえるからだ/だからテキパキやることは、カッコいい上に実効も余分に得られて一石二鳥なのだった。
できるオンナだね | comments(0) |
明らかにすると明るくなる
だっていろんなこと思うが、「思う」というのは、あまり意味がない。
「思う」ということより、「明らかにする」というのがいい、そして「明らかにする」ということは、人を明るくする。
たとえば、「誰かと愛し合った経験があまりないわたしは根本的にダサ〜い」ということを、明らかにする、明らかにしてしまえば、人は明るくなる。
「ダサいとか言われて、それを認めたりしたら、むしろ暗くなるじゃない」という気がするが、それはちゃんと「明らか」にしていないからだ、明らかにしてしまえば明るくなる(まあ少々の心理的負担を経るわけではあるがね……)。

だってほら、「女にモテたい! しかしモテない! そんなこんなで十余年〜」と言っているヤツは明るいじゃないか。
異性にモテないとか頭があんまりよくないとかは、別に隠しても明らかにしても同じなのだから、明らかにしてしまえばいい、隠して暗くなるほうがよほど損だ。
村人じゃあるまいし(と唐突に日本のムラ社会をdisる)、いろんなことを明らかにして、それで友人にヘンな顔をされるとしたら、それは友人じゃないんだよ、そんなんは友人のやりなおしでっせ。
人に、悩み事を打ち明けるとかいうことは、基本的にキモチワルイことなので、そういうキモチワルイことはせずに、陰部を打ち明けるようなヘンタイ行為はやめて、まず自ら「明らかにする」ということを済ませてから、人に話そうね。

「まあ、デキの悪い奴なんでな」と、まず自分の基本を明らかにする。

そうしたら人は明るくなる……えっ、そりゃまさか、自分が性根からデキのいい奴だなんて思い込んでいるエクストリームバカはいないよな、そんな奴は紀元前二百万年に滅んだと聞いているので大丈夫なはずだ。
人は、明らかになったことには、感情的にならずに済むのだ、そして感情的にならずに済むということは、人が一日中明るくいられるということなのであった。
できるオンナだね | comments(0) |
遡る時計
二時、老いるというのはウソです、われわれは一週間後のセミを見て「老いている」とは感じません。
遡(さかのぼ)って十時、所有するというのはウソです、登記した土地や手に持ったペンを「所有している」と言い張る同士があるだけです。
遡って八時、ゲットするというのはウソです、食べた肉はアミノ酸になり細胞を増やすだけで「わたし」を増やしません。
遡って六時、傷ついたというのはウソです、記憶喪失になれば「傷」は具体に残っていません。

遡って四時、朱肉が赤いというのはウソです、視力がなければ赤色なんて見えません。
遡って二時、「この世界にわたしが生まれ落ちてきた」ということ、これをわれわれは未だ「ウソだ」と言えません。
我々は二時に生まれて、四時にはもうウソにだまされていた。
そのまま十時間が経って、「こうして老いて死んでいくんだよね」と最後のウソにまで行き着かされた。

生後六ヶ月まで、あなたはだまされていなかった。

遡っていくと、あなたは生後六ヶ月のところに行き着く、これほど確かなことがあるだろーか(当たり前すぎて笑える)。
ん? 生後六ヶ月のあなたと現在のあなたが、何か別の「わたし」だなどと言い張るつもりかね、そんなことはありえんよなあ。
視点変えてこ | comments(0) |
世情はアテにならない

情はアテにならない。
なぜなら、このところの世情は、明らかにこの世界を愛してはいないからだ。
世情は、最も頼もしいもののように見える。
けれども、けっきょくこの世界を愛してはいないのだから、最終的には間違っているのだ、現在、世情は「最も頼もしくかつアテにならないもの」という不思議なものに成り下がっている。

この世界は実在しているので、まずこの世界をよろこびましょう。
この世界の中に、「わたし」も存在しているので、「わたし」の存在もよろこびましょう、ちなみに「世界」なしに「わたし」にだけこだわるとそれは「我執」になります。
「世界」があれば、自動的に「わたし」もあるので、「わたし」をわざわざ考えなくていい、ピックアップした「わたし」は必ず「我執」です。
「わたしのするべきこと」なんて考えなくていい、見えてくるべきは「するべきこと」ではなくて「愛すること」、「したいこと」ではなく「し続けたいこと」。

「し続けたい」のじゃなければ、けっきょくは「やめたい」じゃないか。

世情はアテにならない、世情は「ああしろ」「こうしろ」「こうするべきだ」と声高だが、あなたの「し続けたいこと」についてはなぜか「へーそう、じゃあ勝手にすれば?」と異様に冷淡だ、ゆがんでいるのがミエミエじゃないか。
「し続けたい」ことが特にないなら、それは必ず「この世界」を見失っているからです、「この世界とわたし」を常に不可分のワンセットにして考えましょう、いつもあなたの目の前に広がっているそれです。

正しく見ないとな | comments(0) |
(メモ書き)
さまじい開放感、あるいは爽快感があって……
異様な時間を過ごした、放浪(ボエーム)は光かがやいている。
けれども、僕もいいかげん賢くなったので、開放感や爽快感などはどうでもいいということも、すでにわかっている。
何もない世界が一番すてきなのだが、このところはなんでもかんでもが土足でぐちゃぐちゃにされることがあるので、気をつけなくてはならないのだった。

メモ:動静系、流れ系と、もうひとつ「無限系」があることが発見された(たぶん)。
メモ:実用レベルでの原動力の一切を「世界愛(Love)」に収束させて捉えるのが、おそらくもっとも妥当で有用だ。
メモ:「識」は明らかにフィクションに接続する能力だが、この能力は胴体でなく眉間にある。
メモ:どうやら眉間の接続で「識」の直接コミュニケートができるようだ、ある友人は「生まれて初めて『言葉』を獲得した」と言った。

「言葉」を持たない人は、頭を下げることができない。

別にそれは罪悪ではないのだ、犬や猫だって頭は下げないのだから。
頭を下げるのは人間だからだ/そして人間の定義が「識」によって成り立つこと、およびその「識」の能力が額(眉間)にあるからこそ思わず「頭が下がる」のだと捉え直せば、そこから得られる象はわれわれが経験的に見る人間の像に合致している。
正しく見ないとな | comments(0) |
学門万歳、勉強撤廃

「学門万歳、勉強撤廃」、これが我が党のスローガンである(出馬はしません)。
なぜ勉強撤廃かというと、勉強というのは「強いて勉める」ことだからだ、そういうシンドイことはよくない。
そういうことは、シンドイ上に、けっきょく学門にもつながらないので……その意味で学門をナメてはいけない、勉強なんかしていたら学門なんか身につくかよというぐらい学門はキビシイ。
次のように示されるべきだ、「勉強を忘れさせるのが学門である」、ホレこうすると、学門というのがいかにキビシイかが切実に伝わってくるだろう、ざまあみろという感じである。

つまり、たとえばマジモンの数学者は、数式を愛しているので、その愛のさなか、勉強なんてことはすっかり忘れているということなのだ、それぐらい学門はキビシイ。
学門というのは、形而上と形而下の、両方の世界を捉えるためにやるので、つまり「この世界」を識るためにやる、だから学門の識を学識という。
そうして学門でマジの学識が得られるためには、それが「お勉強」ではなく、マジの「世界への愛」にならなくてはダメだ、形而上と形而下の両方の世界を学門によって識る、識るほどに愛さざるをえない、そして「この愛があってこそ、わたしは存在できる」というところまで到達する、それでようやく学門だ。
学門は、物事に詳しくなるためにやるわけじゃない、そんなアホな動機はさっそく生ゴミに捨てよう、学門は「この世界」と愛し合った思い出を残すために身を投げ出してやるものだ。

学門とは、「知識に思い出が残る」ということ。

一つの数式とか、一つの文言とか、一つの術とか、一つの原理とか、なんでもいい、ただ「知識」だ、なんでもない「知識」に「思い出が残っている」ということ、それが学門に取り組んだ証拠、この世界と愛し合ったことの証拠になる。
誰でも生後六ヶ月までは、「この世界」の何もかもを見つめて、手を伸ばし、身を投げ出して学門をしていた、あの眼は「学門の徒」の眼差しなのだ、何かに詳しくなんかなりたくない、ただこの世界と愛し合うことだけがやめられなかった。

恋女のマインドね | comments(0) |
初めからゴールインしていろ、もともといつか死ぬと決まっているテメーは

こしばらくの、僕自身の煩悶が、ようやく解決するように思う、「識」とは何かということ、および、その実質を自分の生きてきたことに直接結びつけること。
「この世界」に「わたし」が生まれ落ちてきたことを、直覚する能力、および「この世界」と「わたし」が直接「見える」という能力が「識」だ、この「識」がない人は、目の前の世界を「色、形、名前」で認知しかしていない。
このことは、理論的に正しいのだが、この理論だけでは息吹がなくて、これを持ち腐れにしないためにはどうすればいいのか悩んでいた、その解決はけっきょく、とてもダサいが「愛」という言い方のアレにあったと認めざるをえない。
僕はつまるところ、愛してやまれない「この世界」のことを、多くの人がほったらかしにして、一人でごたいそうなことを考え込んでいるのが腹立たしいのだ、「いいか」と僕は説教口調になりたい/われわれ現代の日本人がショボいからわれわれは自前で貧しくなっているだけであって、「この世界」は変わらんのだ、自分たちのショボさを「この世界」のせいになすりつけるな。

「識」という言葉にのっとって言うなら、次のように言える。
――「この世界」を識るならば、必ず「この世界」を愛するはずであって、「この世界」を愛するからには、必ず行うべきことが湧いて出てくる。
この当たり前の「識」と、そこから続く「行為」の原理は、ときに見失われることがある、かといって見失っているヤツが正しいということは永遠にありえない、見失ったヤツはただただ根こそぎ反省すればいいだけのことだ。
朝起きた瞬間からの、呼吸の鷹揚、眼差しの清明、四肢の屈託のなさ、眼輪の安穏、胸の躍動、声の無辺、これらのことが少なくとも約束される、そりゃ愛するものの真っ只中に目が覚めるのだから当たり前だ。

初めからゴールインしていろ、この世界を愛するのがゴールだ。

この世界を愛しているヤツには、そのことがわかるはずだ、それは初めからゴールインだろ、そこからどれだけ走り回ったってゴールの外にこぼれおちる心配はない、だってもうゴールインは済んでいるんだから。
ゴールインしていりゃ、もう無敵だよ、だって憎たらしい競争は済んだんだから、あとはもう遊び回るしか残っていなくて、遊び回るのに東奔西走いそがしいんだから。

正しく見ないとな | comments(0) |
「完全迷子」の定義

「この世界」を愛するヤツ、愛さないヤツ、ここでズバッと分かれている。
「この世界」を愛していないなら、友人やら恋人やら、語らいやらは要らないのだ。
にもかかわらず、「この世界」を愛していない人ほど、友達やら○○フレンドやらと、ダベり続けることを欲している、それも悲惨なほど欲している、それは慰めが強烈に欲しいからだ。
逆に、「この世界」を愛しているなら、別に友達やら○○フレンドやらをわざとらしく欲さないのだ、それでいて気づけば友人や恋人がいて、語らいは勝手に発生している。

「この世界」を愛さないヤツ、特に愛さないとどこかで決めたヤツは、永遠に迷子になりつづける、そりゃ当たり前だ、われわれは「この世界」の他には行けないのだから/このことはもはや、「完全迷子の定義」とさえ呼びうる。
完全迷子ということなら、それでけっこうですよと、突っぱねる方法もあるのだが、これもなかなか続かない、なぜなら迷子でのんびり暮らしていけるものではなく、その迷子は水面下でぐいぐい苦しみ続けるからだ。
アホだなあ、と正直なところ言いたくなる、あくまでこの世界に自分が生まれ落ちたのであり、自分がこの世界を産み落としたわけではあるまいに、こんなデカいものと勝負して勝てる気になったのが大いなる誤りだ。
右にいっても左にいっても、「この世界」からは出られないぞ、唯一言えることは、人はあくまで個人的な事情でこの世界を「愛さない」と決めるのであり、その個人的な事情が、「この世界」の本当のサイズを上回ることは決してないということだ。

この世界を愛している人は、わけもなく笑うことができる。

この世界を愛していない人は、笑うのに理由がいる、そしてその理由はたいてい汚らしいものだ、そして何もかもが一時的な慰めにしかならず、癒えない渇きが増大していくのみ、「完全迷子」なんだからそりゃしゃーない。
ひとつだけ真面目な警告、「この世界を愛していない人に籠絡されてはならない」、彼らの主張は表面上、ごくまっとうで、正当で、熱烈で、情にも訴えるように聞こえる、けれどもどこまでいっても変わっていない、彼らはこの世界を愛していない。

正しく見ないとな | comments(0) |
直接のアレに基づいていなければ機能しない

ったく別のことを考えている。
まったく別のことと言っても、ある意味「元通り」のことではあるのだが……
この世界は、愛に支配されているので、いくら自分が正しかったとしても、愛に基づいていなければ機能しない。
どうせ愛というのも人それぞれ、自分アレンジで定義しているので、話はすれちがうだろうが、それでもこの世界は愛と呼ぶべき直接の「アレ」に支配されている、この支配に従わなければどんな正しいふうも機能しない。

思いがけない単純なところで決着がついている。
誰だってこの世に生まれ落ちてきて、「この世界」に「わたし」が存在している、このことは誰にとっても本来同じだ。
ただ、「この世界」を、愛すると決めたヤツと、愛さないと決めたヤツがいて、ここの差ですべてのケリがついている。
この世界を愛する、といって、その「愛する」もそれぞれが自分アレンジをしているので、話はすれちがうだろう、それでも、この世界は愛と呼ぶべき「アレ」に支配されているので、この支配に従わなければどんな正しいふうも機能しない。

この世界を愛さないという決定は、同時に、自分を愛さないということの決定でもある。

世界を愛さずに、自己愛だけが肥大していくか? そう見えて、実は逆だ、自己愛が「満たされる」なら人は幸福になりえるが、そうじゃない、自己愛が激しいと見える人は、自己愛に「渇く」から苦しんでいるのだ、自己愛がしおれるからこそ渇きが加速していく、世界を否定した自己愛は初めから永遠に渇き続けると数学的に証明されうる。
なぜなら、「この世界」に「わたし」が生まれ落ちている以上、「この世界」なしには「わたし」はありえないからだ、こうして「わたし」を失った人こそ自己愛の渇きに大声をあげはじめる、まるでこの世界を支配する愛と呼ぶべき直接のアレを謗ったことの罰のように。

恋女のマインドね | comments(0) |
パーティ報告73(5)
かしいな、今回のパーティは、正直僕の体調が低迷していて、いまいちキレがなかったと思ったのだが、今回に限って振り返るとやたらに書き話すことが多いぞ、本当はグラセフ4のニコ・ベリックについても話さないといかんのに。
まだまだこんなもんじゃないんだが、いいかげんキリがないのでこのへんにしておこう、これってアレかね、まーた何か知らん現象で、密度が上昇してるってことなのかね(それとも単なる気のせいかね)。
今思っていることは、なぜか今さらになってだが、パーティはこれからもぐいぐいやっていこうということ、もっと前向き&前のめりにやっていいということが、なぜか今回確認された。
ワークショップの需要も、今さらだがやはりあるねえ……今回は青年一名の根本的な成長が確認された、今になって去年のワークショップはずばり正しくてテキメンだったことが証明されているのだった、これぐらいはたまには自慢させていただく(当該青年は、大学卒業と就職内定おめでとう)。

ぐちゃぐちゃに報告すると、やはり僕の身体動作は、断然速くなっているらしく、動作はそろそろ「見えない」「消えている」というあたりに近づいてきたようだ、まあ店内の照明が暗かったからというのもあるとは思うが。
文学志望の人間が、月ごとに身体動作が速くなるというのはどうなの……とも思うが、まあしゃあない、あとそういえば、一人の女性のネックレスをいじくって「おしゃれ」を実現して歓声が上がるというシーンもあった。
「彼女は、このニットじゃ胸元がさびしいから、ネックレスをしているわけだけど、このネットはもともと胸元がルーズなものだから、そこにネックレスを垂らすとルーズにルーズが重なって、ややだらしなさが出てしまうの」と説明して、ネックレスを垂らすのではなく首元に二重巻きにした。
そうすると、そういうことに対しては、女性陣の反応は早いな、「あ!」「ああっ!」とソッコーだ、「絶対そっちのほうがいい!!」「九折さんすごい!!」、こういった鮮やかな称賛は、僕がどんなスゴイ小説を書いても頂けないものであった(お前らみたいなモンはホントなぁ……)。

パーティを続けるのは、みんなの大好きなものがあるからだ。

ようやく、ひとつのことがわかりかけている、厚かましい僕にはわかりにくいことだったのだが、どうやら多くのまっとうな人は、「大好き」ということに、そのまま虚心で乗っかれるわけじゃない、「大好き」ということに向けて突然放り込める態度を持たずこれまでを生きてきたから。
参加者のみなさまへ、これはひとつのコンセンサスです、僕はほとんどの範囲で人が持つ「躊躇」のシステムをどうやらわかっていません、僕は人のありようを穿って見る性癖はないので、あなたが内心で「躊躇」をしているとき、「躊躇」は何ら九折さんには伝わっていないと覚悟しましょう、だっておれそういうのホントわかんないからね、ごめんね。
そのほか | comments(0) |
パーティ報告73(4)

「人が、『話す』ってことはな、話の内容やないで、みんな話の内容やなく、その『人』を見よるで」
「たとえばおれが、こう……『おれは京都でいうと、中心地じゃなく、宇治川のあたりが好きなんだよな』、と話すわな。この声でな。そうしたら、誰も別に宇治川のことなんかわからへんやろ、そうやなくて、それを話している『こいつ』のことがわかるやないか」
「はい。たしかに、何か安心しますね」
「そう。人が話すということは、内容じゃなく、『こいつ』が『こいつ』に伝わるということ、そうやって『人と人とのあいだ』に起こることを指して、人間世界というの、人が閉じこもってその内側に人間世界があるわけじゃない、人間ってもともとは『ジンカン』って読んだんだから」

「内容はなんでもええねん。人に、相手に、目の前の『こいつ』に伝えることやねん。それで、話の内容なんかようわからんけど、目の前の『こいつ』のことがわかるねん。『こいつ』が伝わるんやな」
「はい、そういえば僕、九折さんが話すことのなかで、『九折さんの話すまともなことシリーズ』っていうのを持っていて。温泉とか旅行とか食べ物の話とかされるじゃないですか。僕それが好きなんですよ」
「www お前、まるでおれの話すことの大半が、まともじゃないといわんばかりの……まあたしかにそうかもしれんが」
「まあそれはいいとして。とにかく、人が人に話すということは、話の内容以前に、『こいつ』が伝わるということ、自分がそうしているように、人は自分が話しているとき、話じゃなくて『人』を見よるで」

『お前、唐辛子を触った手で、目とか鼻とかこするなよ』

「たとえば料理をしているときに、そうはっきり『伝える』わな。伝えておかんとやってまいよるやろ。で、それをはっきり『伝える』ことで、『こいつ』がどんな奴か伝わるんや」
「ゆゆしき問題ですよ、これ、どうしましょう」と、そのことの不得手を自覚した誰かが青ざめて言った、「ほんとに、どうしような」と僕は答えた。

そのほか | comments(0) |
パーティ報告73(3)
「割り箸、ジョッキ、セックス。これ、言葉だね。同じように言ってみて。割り箸、ジョッキ、セックス」
「割り箸、ジョッキ、セッk……あっダメだwwww」
「な、割り箸とジョッキには反応しないのに、セックスにはメラつくだろ。同じただの言葉なのに。こんな単純なことなんだ」
「これって、その、封印しているやつがけっきょく反応しているってことですか。そりゃそうですよね」

「みんなで揃って、おれに『バーカバーカ』って言ってみて」
「バーカ、バーカ」
「な、何も起きないだろ。じゃあ同じことを、彼女に向けてやってみよう」
「バー……あっ、ダメだwww 何かできない雰囲気がすでにあるwwww これってつまり滅却できてなくて、封印したもの同士が反応しあっているってことですよね。すごいわかる」

「こんなん不自由すぎるやろ」

「メラメラ、ウルウル、ワーの爆弾を、封印して埋めたとしても、そりゃ『地雷』になるだけで、そんなんぜんぜん平和な街ちゃうやろ、平和なふりしてちょっと脇道に入ると係員が出てきてピピーッて笛吹くような世界やで」
「たしかにwwwwww」
そのほか | comments(0) |
パーティ報告73(2)
「え、じゃあ、九折さんは何一つ『我慢』はしていないってことですよね。封印しているわけじゃなくて、滅却してるってことですから」
「そりゃそうだよ、見りゃわかるだろ」
「じゃあ、めっちゃラクってことじゃないですか」
「そりゃそうだよ、見りゃわかるだろ」

「『立場』が、人にキャラをやらせるっていうか、我慢を強いるところがありますよね?」
「あるねえ。友人関係でも往々にしてそうだし、特に身内はね。身内はあるていど、そういう安全装置というか避難場所みたいな機能もあるから、しょうがないところだけど」
「アホな質問ですけど、どうやったらその滅却ってできるんでしょう」
「それについて、ここ数ヶ月で重要な発見をした。つまり、人間としてやるべきことが上位にあるから、他のしょーもないことが滅却されていくということ。その上位のものが見つからないかぎり、根性で滅却とかできることは決してないよ」

「あなたは何をしにこの世に生まれてきたの」

「少なくとも、メラメラしたり、ウルウルしたり、ワーッてなったり、そんなことをするために生まれてきたわけはないよな。でもいつのまにかそうなっちゃうの。生後六ヶ月以降は」
「この世界があって、自分が生まれ落ちてきている。でもこのことを本当に識ってしまうことは、一種の恐怖でもあるんだ。いろいろ生活上の事情もあるから、うまくやりくりしていかなきゃいかんしね。でも結果的に、ごくありふれた言い分に行き着いたんだ、つまり『あなたは何のために生きているの』っていう、ずっと昔からある定番の言い分でよかったんだ」
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パーティ報告73

「滅却」と「封印」は違う。
人は邪(よこしま)なこころを持つ。
とんでもないスケベごころや、プライド、嫉妬心、憎悪や不満、傲慢や反発など、下卑たこころをいくらでも持つ。
人はその邪(よこしま)なこころを、ふだんは封印している、我慢しているし抑圧している、それで一般的な「いい人」になるのだが/それは邪なこころを埋めてあるだけであって、邪なこころが「ある」か「ない」かといえば、バリバリに「ある」のだ、われわれはそれをなぜか「いい人」と呼ばされている。

「滅却と封印は違うだろ」と僕は言った。
「え、じゃあ、いくら封印していても、それは実際『ある』ってことで、けっきょく表に出てくるということですか」と問われ、「そう」と僕は答えた。
「今ここで、お前らが全員下着姿になっても、おれは変わらないし、おれが小説を書いているとき、アイドルグループの全員が裸でやってきても、おれは変わらん、それは我慢とか抑圧とかじゃなくて滅却ってことだろ」と僕は話した。
「それって、めっちゃ難しいっていうか、こうして実際にできる人がいるのは可能性としてわかるけど、自分でやれって言われたら絶対無理」と誰かが話した、僕は「うん、むつかしすぎて無理だ、と引き受けて生きていくのも正当な一手だと思う」と答えた。

「滅却」にはメソッドがある。

誰よりも僕が一番、これまでのスケベ「行為」は多くしてきたと思うが、必ずしも「行為」は「スケベごころ」を必要とはしていない/「行為」に必要なのは「識」だけだからだ、そして僕はスケベ行為は好きだがスケベごころは好きではない、スケベごころは正直キモチワルイ。
滅却するということは、無気力になるということではないし、関心がないフリをするということでもない、滅却するということは、「識」と「行為」に純化するということ/逆に滅却されていないということはただ「駆り立てられている」ということであって、実はそこには何の行為も発生していないのだった。

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第73回Quali's Party[10月14日(土)]無事盛会!

10/13 Quali tweet> 急に冷え込むなよ〜体調崩れるだろオイ pls entry



(ポスターはなかった、でもそんなことは
問題じゃなかった。いいね?)


joined: ひろみ、あきら、ゆか、まいこ、ゆうさく、くおり
日時:2017年10月14日(土)19時〜23時
場所:原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB



おかげさまで無事盛会でした! 次回もよろしくお願いします。
鉄板揚げギョーザをサービスされちゃったぜ〜 九折


キラキラ次回(11月18日[土])加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


費用男性5000円 女性3000円
参加資格ブログorサイトのファンであること
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