☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
WS報告005(2)
魄を分離するといって、それは「心臓」→「横隔膜」にセンターを移動するということなのだが、まあ念のために言っておくと、おれ自身の能力はそんな次元のもんじゃねえ、これはワークショップのために次元を落として取り組んでいるんだ、おれの次元はもっとぶっとびなのでそこんとこヨロシク、そりゃおれは直接女の子をメロメロにしうる領域じゃなきゃ本分じゃねえよ。
まあその次元のこともどこかでnotice程度には表示したくあるが……まあいいや、とにかくギリギリ「視える」ところからコツコツとだな、それでいうと、「腹から声を出す」というのもやってみたいと思った(こうして書いておかないとおれは忘れるのだ)。
腹から声を出す、といって、「ああ、やっぱそうですよね」と多くの人は賛同すると思うが、ふへへへ、実はこのことは根こそぎ誤解されているのだ、腹から声を出すといって、「やっぱり口先三寸ではダメですよね」と思われていると思うが、違うのだ、「腹から声を出す」というのは、腹→喉→口で声を出すということではないのである。
じゃあどういうことかというと、「腹」から、それ自体をスピーカーのようにして声を出すのだ、「腹」から直接サウンドアウトするのだ、喉を経由しないのだ/そりゃふつう「ええっ」とビビるような話じゃないか、「腹から声を出すって、直接ですか……」とドン引きされるとたいへん面白い。

横隔膜自体が「エコー」の能力があるということ。
だから、横隔膜の下部に、エコーアウトすると、「腹」が直接鳴っているように聞こえるのだ、聞こえるというかたぶんマジで鳴っているのだろう、それは喉から出る「音」とは性質が違うのだった。
僕も学生時代に合唱団にいたので、いわゆる「発声法」みたいなものは、基本的に一通り知っているつもりだ、だがあの発声法というのは基本的にベルカントを土台にしており、横隔膜の下部にサウンドアウトするというようなキショイ話は出てこない、少なくとも僕の知る限りそんなぶっとび発声を教えている教本はない/ベルカント唱法は、マイクのなかった時代、オーケストラを飛び越えて客席に声が届かないといけないので、とにかく声量と響きの大きさを最大化することを基本の目的に作られている、もちろんそれはひとつの精髄であってインチキのものではまったくない。
が、われわれがベルカント唱法を身につけても、あまり意味がないので、僕が伝えたいことは別だ/まあそれ以上は説明できないが、おれが実際に横隔膜の下部からサウンドアウトしたら、フツーに「うお!」とびっくりするよ、それはエコーだから届いてくる性質が違うし、「なぜか声の向こうからオーケストラが聞こえてくる」というようなやつだ、エコーだから実は「空間」「世界」が届いているんだな、次回はこの露骨なやつをやってみよう(出来るのはどうせおれだけだが、横隔膜に直接覚醒の作用があるかもしれないと期待している)。

「この声ってどこから出ているんですか」「うーん、たぶん、横隔膜の『思い出』からなんだろうな」

「思い出」が、人の身のどこに入るのだろう、どこに刻まれるのだろう、思い出というのは単なる記憶とは違うし……/どうもこの解答が、横隔膜ということらしい、少なくとも大きな部分を横隔膜が担っているのは間違いない、「横隔膜って呼吸するための膜っていうだけじゃないんですね」「そりゃそうだ、スリーエムが開発しました、みたいな話じゃねえもの」。
ワーク中、自分の身体に手を当てて、「うわー、あった、あったわ、横隔膜あったわ」と歓喜している人がいた、たいへん素直で健全でいいと思う/おれは別に横隔膜がスゴイという話をしたいのじゃない、横隔膜がないのはヤバイという話をしているのだった、横隔膜がないままこの先を何十年も生きるのはキツすぎるだろう。
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WS報告005(1)
から書けばいいのかわからんが、とにかくまた19時から朝の5時までやった、ダレている時間はない、少なくともおれはない(いや、たぶん誰にもない)。
とにかく、当初はおれが言っていた、全員にとっては「なんのこっちゃ……」が、ここにきてプレイヤーの全員に「視えてきた」「つながってきました」ということになったので、たいへんめでたい、とにかくおれが何のことを言っているのかがわかってきたのだ。
これについてはやはり、横隔膜の発見が大きかった、つーかテメーらはここまで具体化しないとわかんねーのかよという話だが、むしろそうしたプレイヤーとの関わりの中で、僕自身が「どこ」を使っていたのかがわかってきた、これは僕一人ではわからんことなのだ。
ある種の現象を、僕はできて、他の人はできないわけだが、そうなると「どこが違うんだ?」ということになる、プレイヤーだけでなく僕もなる、その中で僕自身も「ここが違うのか」「おれはここを使っていたのか」「へえええ〜」と発見していく、それで学門が進む/これまで僕が何も知らないで出来ていたことが、今は明瞭に「これ」とわかって出来るようになったということ、そうなると今度は、出来ることの精度が格段に上がっていく(いや別に、もともと精度が低いわけでもねーけどよ)。

「ノー」の出どころと、「イエス」の出どころが、まったく違うということ、それぞれは次元が異なる事象だということ、これがうまくハマったし、その先に「全身にイエスが満ちている者にならないと」ということは説得力を持った。
まだ全員、「言語が入るとぜんぜんダメですわ」という状態だが、それが「ぜんぜんダメだわ」という自覚レベルに至ったということがすばらしいことだ、前にも言ったが「できね〜」というのはすばらしいことなのだ、「出来ているか、いないか、よくわかりません」というのが本当の蒙昧だから、その蒙昧状態よりは遥かに躍進したことになる。
やっていることはずっと同じ、気魄は人に触れ、「触れるだけ、何もしない」、霊魂は横隔膜でエコーを聞く、「イエス」を聞く、包む感じになる、エコーというと「行け行け行け行け……」とやまびこだが、「こんなことがマジで正しいんだ」という驚き。
そして、横隔膜・エコーについては、「直接法」とでもいうべきか、直接横隔膜から横隔膜へ共鳴させてやるのが手っ取り早いというのがわかった、むしろこれが唯一の方法なのかもしれないな、あと「格はずし」のワークをやるのを忘れた、こんなことでまだ半分も書き話せていないと思う。

ヘンなことをしているようだが、違う、まともな奴になるための訓練をしている。

朝にはデニーズに行って、メシを食ってアイスコーヒーをがぶ飲みし(暑いんだよ)、「言葉」についての点検をして、○△□×とやってみると、「な、言葉に見放されているだろ?」「ほんまや、これめちゃまずいですやん、逆に笑けてきますわ」となった、こうしていよいよ本丸に手ごたえが出てきたのだ(本丸に討ち入れるかどうかは知らん)。
「胸は身体の表側にあって、肩は身体の裏側にある……のじゃないよ、そりゃたとえば、ブラジルが地球の裏側にあると思っているんだろ? 勝手に日本が表だと思ってさ。自分の見えているほうが『表』で、見えないところは『裏』だという、その思い込みから逃れないかぎり、肩は身体につながらないよ/たとえば冷蔵庫にマヨネーズのボトルがあるじゃん、あのマヨネーズのボトルの裏表なんて気にしないでしょ、身体もそういうものだよ、肩がつながるとあなたの腕は腕でなくなりようやく『身体』になるよ、そのとき腕は『消える』んだな」
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第82回Quali's Party[7月21日(土)]参加者募集!

Recent entry: ひろみ、ゆか、あきら、りさ、ともこ、まなみやじー、つかごん、かず、くおり
7/19 Quali tweet> 今を調整してしまったら、十年後の思い出にならない。 pls entry


キラキラ加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


日時2018年7月21日(土)19時〜23時
場所原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB待ち合わせ:原宿竹下通り商店街突き当たり竹下口交差点ムラサキスポーツ前
費用男性5000円 女性3000円
参加資格ブログorサイトのファンであること
→その他詳細はこちらから

皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております! どうぞお気軽にご参加くださいませ。九折

宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!

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ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 7/16更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第七回】7月20日(金)19時〜@世田谷公園
【第八回】
7月27日(金)19時〜@世田谷公園
【第九回】
7月28日(土)19時〜@世田谷公園

(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(基本的には雨天延期です、随時ご連絡いたします)
(場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)

→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第82回】7月21日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第83回】8月18
日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


呪縛から離れてスパスパ動く。ストレスは大キライ〜。
ただしカルマが噴き出して精神的にアレになる人もある。まあそんなことはおれは知らん。


みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

(ワークショップの各カリキュラムは以下続きをご参照ください)

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陰陽はイエス・ノー3
、もうこのへんから、役に立つ話ではなくなってくるけれども。
気魄(生命力の側)は、基本的に「ノー」だ、基本的にノーということは、全般的にノーであって、全般的にノーということは、「すべてを禁じる」ということだ、すべてを禁じた上で何をどうすることができるか。
すべてを禁じる、ということにおいて、唯一有効なのは、その禁則そのものを共有することだけだ、お互いに「全て禁じようね、全てノーだ」と、禁則を共有するということ、ここにおいて気魄というのは、相手に「触れるだけ、何もしない」という鉄則が成り立つ。
これも劇場を例にとればわかりやすい、われわれは劇場の客席にいて、演者に「何かされる」ことがあるだろうか、また客席側から、演者側に「何かする」ことを許されているだろうが、許されていないはずだ、ここにおいて舞台と客席は互いに<<禁則を共有>>している、われわれの気魄・生命力・ノーが為すべき仕事はこれなのだった。

気魄の側がそうして「すべてを禁じる」のであれば、霊魂の側は逆だ、霊魂の側は「オールイエス」ということになる、「お前のばあちゃんが来世でカボチャの天ぷらを揚げる名人になりますように」と言い出しても、それはイエスになる。
なぜオールイエスになりうるかというと、<<禁則を共有>>しているから、相手に「何かされる」ということがないからだ、何もされないのならば、そりゃオールイエスでかまわないだろう、こうして気魄と霊魂は互いの本分を十全に尽くす。
また逆に考えれば、世界を否定し、すべてを台無しにする人は、この気魄と霊魂の仕事を入れ替えることになる、つまり霊魂は引っ込んで何もしないようになり、気魄は禁則を放棄して暴れ回り、「何かしまくる」ということだ、こうすると世界のすべてを台無しにできる(そりゃこんな客が一人でもいれば劇場はオシマイだ)。
気魄と霊魂の仕事を入れ替えると、一般に「呪い」という状態になるのだが、現代では特級に呪われた人々が、たとえば成人式で壇上に乱入したりする、あれはもう呪われているので止められないのだ、基本的に地方で起こることが多いが、それはその地方が中央に対して生き残るために呪いの力を使ってきたことの残滓だと思われる/まあそんなことになってもカワイソーでしかないので、誰だってそんなことにはならないよう、まともに気魄と霊魂の本分を尽くすべきだ。

ノーは人の声だが、イエスは世界の声だ。

イエスとノーは、それだけ出どころが違うのだ、われわれはノーを「言う」のだが、イエスは「聞く」のだ、われわれは、人を一ミリも揺さぶってはならないが、同時に、世界の揺さぶりには果てしなく合一せねばならない。
ダンダンダン! と物音を立てて、「ノー」と言ってみると、それはいかにも「ノー」の感じがする、それは自分の立てた物音で「聞く」ということがなくなるからだ/一方で、静かにして、耳を澄まし、横隔膜でこの世界を聞き取りながら「イエスイエスイエス……」と言ってみる、イエスは聞きながら言うのだ、聞いたイエスが口から出てくるだけという感じだ、われわれの内側からイエスが出てくることは決してない、われわれが内側からイエスを引っ張り出してきたらそれは必ず捏造でありニセモノだ、イエスとノーはこれぐらい違うもので、イエスは「言葉」だが、ノーは言語であって言葉ではないのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
陰陽はイエス・ノー2
陽はイエス・ノーであり、生命力・気魄・アクションが「ノー」(陰)、世界・霊魂・エコーが「イエス」(陽)だ。
それが実際にどのように作用しているかというと、たとえば劇場を見るとわかりやすい、劇場において、観客たちは客席でジッとしている、なるべく静かに、モソモソ動かないように/これは生命力・気魄・アクションの側において、客席に「ノー」が突きつけられているということだ。
一方で、舞台上に、たとえば強大な力を持つ「魔女」が出現したとしても、そのとき「魔女なんかいるわけないだろ」というノーの声は上がらない、それは舞台上のことは世界・霊魂・エコーの側であって、そこには「イエス」しかないからだ。
われわれが劇場にいるとき、客席でジッとしていること(ノー)や、舞台上に魔女が出現すること(イエス)は、ごくありふれたことで、当たり前のことだ、このように陰陽はイエス・ノーということは、何も摩訶不思議なことではない、われわれがそこにある理法をいちいち自覚はしていないというだけだ。

イエスの力を帯びなさいよ、ということ/イエスの力を帯びないと、演劇どころか、実はまともに人と話もできないよ、ということ。
たとえば「キレーな脚してんなあ」と発言すると、セクハラになるのだ、なぜセクハラになるかというと、陰・ノーの力で発言しているからだ、イエスの力を帯びていないので、「あら、ありがとう」という話にならない/もちろんおれが言えばスカートの裾ぐらい捲ってくれる勢いだけどな(陽・イエスの力)。
全身がノーの力を帯びているのに、女性をデートに誘ったら、そりゃノーが返ってくるに決まっている、別に誘いを断られるのはいいのだ、イエスの力を帯びていて、「あら、ありがとう」という話になればそれだけでいい。
最近は「陽キャ」という言い方と、そのキャラづくりが流行っているが、たいてい怒鳴っているだけで、全身にイエスの力を帯びている奴を見ることはほとんどないな……そりゃまあ、そんな専門的な見方をするヘンタイがいてたまるかという話なのだが、何にせよ、それは陰キャに対するノーから発生している陽キャなので、本質的には陰なのだ、とにかくノーの出どころからイエスの力が出ることはない。

紳士服のフロアに婦人服は売っていないように、ノーのフロアでイエスの力は売っていない。

それぐらい、イエスとノーは別モノなのだ、ノーのフロアをどれだけ探し巡っても無駄だ、案内に訊いたら「下のフロアにございまして……」と言われるのがオチだ。
問答や議論というのは、どう笑顔で取り繕っても、根本的に陰・ノーの力を帯びてしまう、だから仲が悪くなる、一方で「話」や「言葉」というのは、正しく使えれば、陽・イエスの力しか帯びない/だからイエスのフロアで話さないかぎり、人は人とまともに話すこともできないのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
陰陽はイエス・ノー

効的な話をしたい、実効的かつシンプルな話を。
全身が「イエス」で満ちるといいな、それは己の顔と身体と声が「イエス」のカタマリになるということだから、これほど手っ取り早くナイスな方法はない。
陰陽、という言い方は誰でも聞いたことがあって、魂魄という言い方でいうと、気魄(生命力のほう)は「陰」なのだ、生きものは血で生きているから。
そして、霊魂のほうが、思いがけず「陽」なのだ、霊魂のほうには「ノー」がないということになる、そりゃ幽霊が出てきて「No, No」と言い出すのはヘンだもの/まあ丸暗記しておいたらいい、陰陽とは実は「イエス・ノー」のことで、イエスが陽、ノーが陰、そして実は霊魂の側が「イエス」であって、生命力の側が「ノー」なのだ。

ここに決定的でガビーンな新説が示されているのがわかるだろうか、つまり、人間の全身において、「イエス」と「ノー」は出どころが違うということだ、イエスとノーは互いに「反対」ではなく、それぞれ「別モノ」なのだ、こりゃ一般には気づかねーだろう。
生命力・気魄のほうは陰であり「ノー」だから、いくら生命力で「イエス! イエス!」と連呼しても、ダメなのだ、そのとき全身に宿っていく力は「ノー」の力なのだ、じゃあこれってものすごく不運アンド不穏の人間になっていく気がしません?
そりゃ誰が考えたって、直観的に、全身に「イエス」の力がみなぎっているほうがいいに決まっている/わかりやすくいうと、生命力で「全力!」とやっても、得られるのはノーの力なのだ、一方で「全身全霊」というと、こちらは全身が霊魂なわけだから、イエスの力に満ちる、これは原理が底から違うのだからどうしようもない。
さあそれで、もちろんイエスもノーも両方ビシッと使えないといけないわけだが、実際にそれが「できる」かな? という問題になる、横隔膜から出るエコーが「イエス」で、心臓から出るアクションが「ノー」だ、イエスとノーはそうした機構の陰陽から生じていて、字面で使い分けられるものではない、いやあ知らぬ間に全身が「ノー」だけで満ちているとかコワイじゃないか。

断られやすい人・長く一緒にいられない人・頑張っているのにどこか憂鬱になる人は、全身に「ノー」の力が満ちている。

単純に、「イエ〜ス」「ノー!」と、口に出して言ってみてもいい、「イエ〜ス」のほうが口にしやすいという人は、今はほとんどいないと思う、「ノー!」のほうが力強く言えるだろう、ためしに「胸焼けが苦しくて息がつまるふう」にして、それを振りほどくごとくに「ノー!」と言ってみればいい、「ノー!」は力強く言えるはずだ、これは気魄の側、生命力の側で陰の側だ。
現在、インターネットに噴出する口論は、まるですべてを「ノー」と否定することを土台にしているかのごとくだが、それは陰陽において全身が陰でギンギンになっているからなのだ、ユーザーが口論のスレッドとエッチ画像のスレッドを交互に閲覧するのは、否定的口論が「陰」で、エッチ画像も「陰部」だからだ/この人にはもうイエスの力が残っていないので、自動的に「断られやすい人」「長く一緒にいられない人」「頑張っているのにどこか憂鬱になる人」になる。

正しく見ないとな | comments(0) |
仮称、「明るいうつ病」2

れは、医学的なうつ病ではない、医学的なことはお医者さまにまかせるべきだ。
そうではない、ナゾの現象に懸念を覚えている、それは、やさしさや愛が逆に「ダメージを与える」というナゾのケースがあることだ。
ふつう、アダルト・チルドレンや人格障害方面の問題というと、「受けた愛情が足りなくて……」という捉え方が基本なのだが、何かそれだけで話が済まない、やさしさや愛を受けるとそれが「刃」になって突き刺さってしまう、という類型があるようなのだ。
この人にとっては、やさしさや愛を受けた瞬間、それが「すごく痛い」と感じるようなのだ、まるで無数の棘に突き刺されるような……原因や機序はまったく不明だが、どうもそういう類型があるくさい、ということだけ報告しておきたい。

だからこの人は、やさしさや愛が「ない」ほうが、痛みがないのだ、それでわざわざ、やさしさや愛のない人や環境を選びたがる。
人にこころを向けられず、冷淡に、ないがしろにされるほうが、痛みがなくて「楽」だという状態だ、最新にはそういう研究結果もあるのかもしれないが、僕の古い心理学の知識には該当する類型はない。
この人の苦しいところは、やさしさや愛が「刃」「棘」「刺さる」「痛い」にもかかわらず、その突き刺さる痛みのほうへ自らが寄っていってしまうということだ、やさしさや愛に感動しないわけではないので、そちらにどうしても寄っていくのだが、寄っていけばいくほど「突き刺さって痛い」ということになる、これではやがてpanicと破綻は避けられない。
奇妙な話なのだが、これはどうも実際にある現象らしい、やさしさや愛を向けられると、パッと顔が和らぐのではなくて、「……ギャー!」となるのだ、そのときなぜ本人も「痛い」「刺さる」のか、そして「ギャー!」なのかは、よくわからないらしい、これは心理的トラブルよりもっと根源的な次元の事象という感じがする。

やさしさや愛が、宝だった時代は過ぎたのかもしれない。

いや、それは引き続き宝には違いないのだが、実効的には宝ではなく「刃」「棘」になってしまうということだ、そんな残酷な話があるかよ〜という気もするのだが、逆に何かの神話にはそういう構造の話も残されているかもしれない(詳しくないのでおれは知らん)。
実際、冷たいものや心ないものに、「癒される」と感じる人はすでに少なくないみたいだし、やさしさや愛はすでに人にダメージを与えるシロモノでしかないのかもしれない/これは僕がややこしい話をしているのではなく、ややこしくなった人の話をシンプルにしているのだ、おれ自身は何一つややこしくねえよ。

視点変えてこ | comments(0) |
ドアホにならないために(真面目な話)4

いうわけでだ、僕は正直なところ、ウフフッと生きている人を見ると、気が遠くなるのだ。
そりゃもちろん、余計なお世話だとはわかっているのだが、何かしらん、何一つとも噛み合わずにウフフッとなっているのを見て、オゥ、テリブル、という気分になるのだ、率直にいえばもうそのたぐいを見たくないのだ。
このところ、清涼飲料水のCMを見ると、若い人々がマスゲームのように踊っているのだが、あれは僕から見ると、何の「説」でそのように動いているのかがわからないのだ、何の「説」もなしにただ動いているだけに見える、そしてそうしたものは、見ているだけで正直「怖い」のだった。
もちろん、そんなCMに対して、僕に何の意見があるのでもない、ただ僕は、「何の説もなしにただ動いているのではないか」という「説」を唱えているのだ/このところ、こうして「説」を唱えると、「なるほど」ではなく「ポカーン」という表情で迎えられることが多くなってきた、このこともやはり正直「怖い」のだった。

あなたは勉強したり、お出かけしたり、異性と絡んだり、新しいアルバイトを始めたり、するかもしれない。
ぜひその背後には、「学門のない自分になったらきっとわたしは後悔する説」や、「街中でこそ得られる作用がある説」や、「異性と敬愛しあう時間が当たり前でないとやることがなくなる説」や、「新しいことをこなすストレスが自分の地力を育てる説」などがあってほしい。
ウフフッという状態から、やりたいことをする、キョーミのあることを……ということではないのだ、自分が何をしたらよくて、また何をすべきかということは、「説」が照らし出すのだ、自分のウフフッでその日を消費して終わらせるものではない。
ウフフッという状態を、何年も続けていると、やがて「どういう説で生きているの」と訊かれたとき、「そうですねえ……えーっと……」と、ごまかして言わねばならない奴になるぞ、人はそのとき「何の説もありませんや」とスパッと答えられるものではないのだ/はっきり申し上げると、己で採択した「説」なしに生きた時間は、どれだけ多忙あるいは遊興的でも、自分が生きた時間にはなっていないものだ、必ず忘れて消去されていく、まるで本当に何もせず生きてきたみたいに。

今あなたは、何の「説」の時間を生きているか。

あなたが女性だったとして、一人の男性と出会い、「ウフフッ」となり、その男性とお近づきになり、ハダカになってセッセッセをしたとしても、それは本当に「何にもならない」ぞ、粘膜に慰めぐせがついてコントロールが利かなくなるだけだ/端的にいうと、「ウフフッ」は本当に人生の時間の無駄なのだ、あなたはこの夏、何の「説」の時間を生き、この夏、何の「説」が証されて残るのか。
……さて僕は、今ここに、どういう「説」を唱えただろうか? ウフフッという顔面の気配は控えてもらって、もう一度訊ねる、僕は今ここにどういう「説」を唱えましたか/それにズバッと回答できないということは、「説」が見えていないということだ、ここでフワフワして「えーっと、その……」とわかっているふうになるのはドアホ傾向において本当にまずい(回答例は以下続きに記載しておきます)。

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できるオンナだね | comments(0) |
ドアホにならないために(真面目な話)3
「たくさん遊んで生きないと、怨みが残ってしまう」という、意見ではなく、「説」を唱えている。
「力を入れると身体は止まり、力が脱けると身体は動く」という、意見ではなく、「説」を唱えている。
「言語が血に入ると、言葉ではなく呪いになってしまう」という、意見ではなく、「説」を唱えている。
「身分差の中で、ある種の行為はカルマになり、ある種の行為はその償却になる」という、意見ではなく、「説」を唱えている。

「『我慢』をすると、我が肥大する」という、意見ではなく、「説」を唱えている。
「脳みそに不快をさせても、何も得られずダメージだけ残る」という、意見ではなく、「説」を唱えている。
「フィクションは、ノンフィクションと比較して、時間軸上を先行している」という、意見ではなく、「説」を唱えている。
「心臓の気魄にアクションが授受され、横隔膜の霊魂にエコーが授受される」という、意見ではなく、「説」を唱えている。

僕はこれらの「説」どおりにやっているだけで、何の努力もしてはいない。

だから、これらの「説」が、「説」として見えなければダメだ、たとえその説を採用しないとしても、説は「説」として見えなければダメだ、これは単純な知性の問題だ。
たとえば、煮物に味が染みていくのは、煮込むときの火力ではなくて、煮汁が冷えていくときの浸透圧現象なのだ……そういう「説」があるのでその通りにやってみたらよいが、このことに何の「努力」がいるのだろう? まずは説が「説」として見えなくてはならない、この「説」が見えない者は定義として「ドアホ」と認められる。
できるオンナだね | comments(0) |
ドアホにならないために(真面目な話)2

鍋の底は、釉薬が掛かっていないので、水洗いしないほうがいい、ひび割れの原因になるから……という「」を、金物屋の主人に聞いたことがある。
ライターのガスは、給入直後、すぐに点火しないほうがいい、ガスでメカが冷えているので、着火機構の具合が狂うから……という「」を、喫煙具屋の兄ちゃんに聞いたことがある。
目玉焼きを作るときは、卵をなるべく低くから落とし、卵に衝撃を与えないほうが、食感がグンとよくなる……という「」を、テレビ番組で聞いたことがある。
ステレオを組むときは、アンプの電源を、タコ足配線につながず一つだけコンセントにつないでやったほうが、電圧が安定して音に艶が出る……という「」を、ヨドバシカメラの店員に聞いたことがある。

「わたしは絶対に負け組にはなりたくないんです」というのは、何の「説」だろうか、「意見」ではないだろうか。
「こんなことは絶対許せません」というのは、何の「説」だろうか、「意見」ではないだろうか。
「えー、絶対うらやましい、わたしも行きたーい」というのは、何の「説」だろうか、「意見」ではないだろうか。
「○○が好きなんです、うふふ、すごくいいですよね」というのは、何の「説」だろうか、「意見」ではないだろうか。

土鍋と、ライターガスと、目玉焼きと、アンプの「説」は、あなたに入っただろうか。

知性の封鎖によって、「説」というジャンルそのものが、身に入らないという人があるのだ、その人は残念ながら、定義上「ドアホ」にならざるをえない。
あなたは若い頃就学し、部活も男女交際もし、その後就職し、その後結婚したり出産したりするかもしれないし、娯楽や趣味やスポーツもしていたりするかもしれないが、それらすべては何の「説」に立脚したものだったのだろう、そしてこれまでに、何の説が証されてきただろうか。

できるオンナだね | comments(0) |
ドアホにならないために(真面目な話)

「ドアホ」を定義しておこう。
「ドアホ」というのは、「そのとき思ったこと」をし、そのとき思ったことを「意見」として言う者だ。
これは、どれだけ上品ふうにしても、定義上「ドアホ」なのだ、注意されたし。
「ドアホ」というのは、自分の意見や思ったこと、あるいは行動の背後に、「説」がないのだ、だから時代の気分だけでいくらでもズルズル行方不明になる、これは性格の問題ではなく残念ながら知性の問題だ。

そのときだけフォォォと、「やる気」になってもダメなのだ、またアンニュイになってもダメだし、エロティックになってもダメなのだ、残念ながらそれは感性でも何でもなく、ただの気分屋、もしくはそれより下位の、体内物質に支配されるだけの物体人間でしかない。
誰だって、「今何をすべきか」という問いかけ、あるいは分岐路の前に立たされているものだが、この問いかけと分岐路に対して、「説」で行動を決定する者と、「そのとき思ったこと」で行動を決定する者があるのだ、後者は定義上「ドアホ」であって、これは後々本当にヒサンなことになるから、なんとかこのドアホ路線は避けられたらいい。
つまり一方には、「わたし厳しいことに挑戦します!」と、そのときの気分で「思ったこと」を選ぶだけの人があり、もう一方には、「人はけっきょく、自らに課した厳しさの総量によってのみ、その行き先のグレードが決定するのでは?」というから、「厳しいほうを選びます」という選択をする人があるのだ、この両者は実は互いにまったく話が噛み合っていない。
まともな人は、行動のすべてが何かしらの「説」に立脚しているのに対し、「ドアホ」というのは、そのときの気分を探して「思うこと」に支配されているだけなのだ、この「ドアホ」のリスクは十分に鑑みられるべきで、誰だって自分にその点検を課すほうがいい。

あなたはどういう「説」で生きていますか。

たとえばあなたが女性だったとしたら、「女はどう生きるべき」だろうか? その問いかけを前にしたとき、これまで構築してきた「説」をレポートする人もあれば、一方で、そのとき「思うこと」「気分」だけで慌てて「意見」する人もある、この後者は本当にタチが悪い(仮説を検討し合っているところに「思うこと」をブッ込んでくるのでタチが悪い)。
男でも女でも、たとえば「うつくしく生きよう」とするとき、まず「どう生きればうつくしくなりうるか?」ということについて、一定の「説」が見つかる必要がある、そして人が生きるというのは、その「説」を半ば自らの身で実証してみせようという試みでもあるのだ/定義上「ドアホ」は、この「説」の試みから完全な門外漢になっている。

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仮称、「明るいうつ病」

とつの危機感を覚えている。
それは、あえて粗雑に言うと、「明るいうつ病」がありうるのではないか、という危機感だ。
これはいわゆる「非定型うつ」のことを言っているのではない、そもそも僕は医者ではないのでうつ病うんぬんを正式に言う資格を持っていない。
僕が危機感を覚えているのは、医学的にはうつ病ではなく、ただそのような言い方にすればわかりやすい、一種の「ジレンマ」があるのではないかということだ、つまり反動的な形から「明るいコ」がやめられない、という状況があるのではないかということ、これは社会生活上は「明るいコ」として機能できているので、医療マターとしてはうつ病に診断されない(ということはやはり、医学的にはうつ病ではない)。

「明るいキャラ」にならないと、朝起きられないし、「明るいキャラ」にならないと、人と話せない、というような状況があるのではないかということ。
このことについて、唯一の解決は、先に判明している/どんなに小さくてもいいので、「世界」との直接関係を恢復することだ、自分がこの「世界」に生きているということがわからないと、自分の生きる方法は、やみくもに人に対して「明るい」ということでしか定義できなくなってしまう。
「明るいコ」がやめられなくなって、対人関係が実はしんどいという人も、きっと少なからずいるのだろうが、その解決の糸口は、実は対人関係そのものにはない、世界との関係が恢復しないといけないのだ、世界との関係が恢復しないかぎり、「人とつながる」「人と打ち解ける」という発想は必ず誤解の温床になる。
カミサマを擬人化する必要はないし、「カミサマはいつも見守ってくださっている」というイメージを持つ必要もない、また「明るいコ」というキャラが悪いわけではまったくない、何はともあれ自分が「世界」に触れるしかないのだが、その決定打は「言葉」になる、言葉が獲得されればこの問題は、「そんな問題があったっけ?」と忘れ去られて解決する。

あなたが誰かとつながっていようが、つながっていなかろうが、「あなた」と「世界」の関係は変わっていない。

独り身であろうが既婚者であろうが、子供がいようがいまいが、「あなた」と「世界」の関係はずっと同じまま、変わっていないのだ/ここで「世界」とのつながりが得られていないと、人は人とどうつながるかだけが世界だと思うようになり、それだからこそ人とのつながりが正常化しない、その結果「明るいコ」「明るいキャラ」、そしてそれがやめられずに苦しみ続けている「明るいうつ病」になってしまう。
対人関係の中で露見する「明るいうつ病」は、対人関係が焦点ではない、「世界」との関係恢復が焦点になる/さしあたり重要なことは、そうした「明るいコ」の「明るいうつ病」が、どこにでもあるし、誰にでもあると、周知されることだ、第一にその知見が当然にならねばならず、第二にその解決は医学的でなく、「世界との関係回復」にあるということが知られねばならない、これは対人関係の問題ではないのだ。

視点変えてこ | comments(0) |
サタデー・ナイト・(    )
たパーティの告知を作るのを忘れていた、今回は何人くるんだろう、よーわからんがまあいいかという心地である、いやまったくよくはないのだが……
僕が何も言わないでも(告知なんか作らなくても)、わらわらっと人が来てくれたらそれでいいのだが、そうもいかないというか、まあそのへんは突っ込むと色々あるのでお茶を濁すとして、まあパーティはやるので、おヒマな人はいらっしゃってね、別に興味があるとは思わないが、それでいえばおれだって別に興味があるわけじゃない。
人はけっきょく、土壇場で「かっこいい」と信じることしか選択しないので、こんなものは強制できないし、けっきょく催促もできないのだった、このよくわからんパーティに、行ってみるというのが「かっこ悪い」と感じるなら、そりゃその人は無理にやってこられる理由がない。
僕のほうはというと、このよくわからんパーティを、続けないのはかっこ悪いし、やめたりしたら超かっこ悪いし、何か知らんがシレッと宣言どおり「やる」「続ける」のがかっこいいので、そのようにしているだけだ、そして内心でかっこ悪いことをごまかして生きると、その後の報いがえげつないので、僕はなるべくかっこ悪いことをしたくないのだった、そんなわけで今月もこの土曜日にはパーティをやるのであります、いやあ相変わらずおれは静かでアクティブでかっこいいぜ。

パーティで何をしたいかというと、そうだな、さしあたり重要なこととしては、超おだてられながら酒が飲みたい。
月に一回ぐらい、女におだてられながら酒を飲まないというのでは、男としてミガキニシンのように悲しいものだし、女のほうもどうだろう、女も月に一回ぐらい、男をおだてながらお酒に相伴するということぐらいなければ、女としてあぜ道のモリアオガエルのように悲しいのではないだろうか、まあおれは女じゃないのでわからんけれども。
おだてられながら酒が飲みたい、これだ、このアホなことを罵る者は、生涯に一度もおだてられながら酒を飲むということを得なくなるだろうし、このアホなことを謗る女は、けっきょく本職が焼いたシャトーブリアンを一度も口にせず人生が終わるだろう、そんなヒサンなことになるぐらいなら、何かまともにアクティブになったほうがいい。
このご時世、気分の悪い論争ツイートが数万もリツイートされるし、東横線沿いの盆踊りには髪の毛を盛った人たちがどこからともなく殺到してきて超自撮りしまくるのに、一方ではおれの名文はゼロリツイートだし、おれのパーティはさんざん煽らないと誰も来ないからなあ、その中でこそおれはかっこいいからまあかまわないのだが、とにかくおれはおだてられながら酒が飲みたいのだった、それ以外にパーティうんぬんに用事はない(当たり前)。

土曜の夜は、お互いどこかでかっこよく過ごそう。

炎上ネタをリツイートしたり、自撮りのイベントに行くことは、本当にかっこいいのだろうか、まあおれはそのことを審判できないので口出しできないが/ただ本当には「かっこいい」と信じていないことを、「かっこいい」と偽って続けていると、そのことはやがてとんでもないツケになるのだった、これだけはマジだから、お互いかっこよさにはウソのないようにいこう。
「イケてる風情」というのと「かっこいい」とはまったく別モノだから、本当にかっこいいものを選ぶべきだ、夏の土曜日は、途切れたらもう来てくれないものだし、おれはまだ遊んでいるよ、そうして遊び続けることが生命だと信じる人は、どうぞ怯まずタイトルの空欄を埋めてね。
恋女のマインドね | comments(0) |
(五感じゃないじゃん)

ワッキワのこの世界
あれはあの世の花の匂い
ちげえじゃん、五感じゃないじゃん、てっきりだまされたわ
すべての柱か影がわたしを取り巻いて立ち上がるのをわたしはみた

「たかが歌詞じゃねえかこんなもん」って本があってね
あかんわ、だまされているわ、五感じゃないじゃん、五感なんか感じたことないじゃん
唯一あるのは、「接近」なのか〜、なぜわざわざ、こんなだまされやすいシステムを作ったの/おれは何もかもに接近していたのか
そうだよやっぱ、「接近」だよ、五感なんかはたらいていたら、何も感じられなくなっちゃうじゃないか

五感じゃないじゃん、虚数iを認めたとして、これは五i感じゃん

この世界に接近するだけでよかったのか〜、どおりで僕は、夜や、空や、夕焼けの色や、季節や、雲や、天空から降りてくる風や、女の子の匂いが、好きすぎると思った、これって五感じゃなかったのね、接近したから五感がはたらいているのかと思った、てっきりだまされたわ
気魄が引きちぎれるまで人に触れ、霊魂が引きちぎれるまで言葉を使えってことね? この世のすべてと出会えなくなるまで使い切れということね? それだとわりといいセンいっているんじゃないか、ぬほほほほ

正しく見ないとな | comments(0) |
ことのしんそう☆

魄(こんぱく)を分離するといって、たとえば気魄が右側に残り、霊魂は左側へ移動したとしよう、マスター状態がうんたらかんたらでね……(これは実際にできる)
で、別に、そんなことはどうでもいいのだ、気魄は人に「触れるだけ、何もしない」のだし、霊魂のほうは、ノーマルで全身全霊だ、こちらも別におれが何かをがんばるわけじゃない。
つまり、気魄が右側に残り、霊魂が左側に行ったとして、魂魄が左右に分かれるだろ、じゃあ真ん中はどうなるかというと、真ん中には「何もない」のだ、「何もない」が「ある」ことになる、そりゃもともとこの世界は「何もない」が「ある」という状態なのだからアタリマエだ。
魂魄分離といって、霊魂と気魄を分離して使えて、おおスゲーとなるが、そのこと自体、僕としてはどーでもいいのだった、それがいかに「どーでもいい」かに到達してもらうために、教えたいことがないではないのだった、つまり僕は重要なことへ人を案内しているのではなく、「どーでもいい」ことへ人を案内しようとしている。

魂魄分離が、ビターッと成り立てば成り立つほど、真ん中は「何もない、がある」という状態になり、「どーでもいい」度が上がる。
中心がその「どーでもいい」のだから、中心には成長もなく、下落もない、パワーアップもなければ、ダウンもない、グッドもバッドもない、完璧もなければミスもなく、時間もなければ永遠もないのだ、魂魄のどちらが重要ということではなく、どちらも重要でないということ、何一つ重要でないということは、同時にすべてのものが完全均一に重要でもかまわんということ、ありとあらゆる差分がないということ。
気魄の側から見れば、この世界は互いに「迷惑」をしないべきであり、同時に霊魂の側から見れば、この世界はなにもかも「ひとつ」だ、そしてこの魂魄を等分に分離できたら、この世界は「ひとつ」というよりは「0つ」と表現すべきになる、「迷惑」もなければ「ひとつ」もない、つまりいかなる演算を向けてもこの世界は可変でないということ(そりゃ世界から演算が出ているのだから演算で世界は変化しねえよ)。
0つ、究極そこに行き着く、ということではなく、初めからそこに行き着いているのであり、誰もそこから動いてはいないということ、そりゃ0つの世界からどうやって動くんだよ、すべての成分は「ある」と同時に「ない」ので、「0つ」なのだ。

だから女の子の下着姿はうつくしくなく、だから女の子の下着姿はうつくしい。

この世界は、「それぞれ」なのか、「ひとつ」なのか〜、それがびっくり、「それぞれ」でもなければ「ひとつ」でもないのだ、すべてのものは「ある」のだが、「ない」が「ある」のだ、「ない」が「ある」からこそ、すべては「それぞれ」でもあり「ひとつ」でもあり、かつどちらでもないということになる、実は何も変わっていないということ、変わるという現象は世界にない。
別におれが悟っているわけじゃない、悟っていても悟っていなくても同じだということ、何も変わっていないし、「誰」ということも存在していない、悟るなんてことが存在しない以上、この世界に「悟っている人」などというものは存在しないし、だから同時に「悟っていない人」というのも存在していない、みんな一緒というのでもなく、「みんな」というのがそもそも存在していない、存在させても存在させなくても何も変わっていないのだから、この世界は真相しかないのだから、あえてそれを真相と呼ぶ必要もない、ジャン! これで終わっているし、これがずーっと続いている。

バカをやろうかあ | comments(0) |
他人のことに口出ししない理由

は目の前で女が発狂していても、口出しはしないし、男がオラついていたりキャラっていたりしても、口出しはしない。
なぜ口出しをしないかというと、「判断が違う」からだ、発狂している女や、オラついている男は、それを「かっこいい」と判断しているのでそうしているのであり、かつその判断は正しいかもしれず、間違っているかもしれない、その正誤の審判は誰にもできない(少なくとも僕にはできない)。
たとえば、震災千羽鶴を全力で否定する人は、それが「かっこいい」と判断しているから全力否定しているのであり、あるいは男性の内なる心を猛烈に穿って糾弾する女は、それを「かっこいい」と判断しているから猛烈糾弾しているのだろう、それが「かっこいい」のかどうか/それはけっきょく、僕には審判できないので、僕には口出しをする権利がない、口出しする気がないのではなく権利がない。
ヒステリー女と、メランコリー男がいたとして、そこにサバサバ女と、意識高い系男が加わったとき、それぞれがそれを「かっこいい」と判断しているのだから、僕には口出しできない、僕の側は口出しされることがあるが、それは口出しすることが「かっこいい」という向こうの判断なので、僕の側からは申し上げるべきコメントはない。

僕にとって「かっこいい奴」というのは、「何にも頼っていないのに、結果的に、何かに導かれているような奴」だ。
僕にとっては、その逆、「何もかもに頼ろうとしているのに、けっきょく、まったく導かれていない奴」が、かっこわるい奴ということになる/あくまで僕自身の限りにおいて。
人は誰しも、土壇場で、必ず「かっこいい」と判断するほうを選んでいる/たとえばヒステリー女は、「そうだ、ここでヒステリーを起こすのがカッコイイ!」と、その瞬間に信じるから、ヒステリーを起こすのだ、人は誰しもそうした「正当性」の実感の中で生きている。
何がかっこよくて、何がかっこ悪いのか、それを審判する権限はけっきょく僕にはないので、僕は他人のことに口出ししない、口出ししないことが構造上決定しているので、実はそもそも他人のことなんか見ていないのだった、僕の目に映るのはかっこいいものだけだ、そしてかっこいいものは僕にとって他人ではない。

TSUTAYAに行ったとき、かっこ悪いディスクが置いてあったとしたら、それについてどう思うということはなく、ただ借りないだけだ。

生活上、何をしているかというと、かっこいいと思えないものはそもそも目に映ってもいないのだが、あくまで一人の生活者および年長者として振る舞うとき、「トラブル」になりそうなことについては、前もって沈静することに、最低限の協力をするというだけだ、だから仮に世情に「かっこ悪いもの」があふれかえったとしても、それは僕の視界には入ってこないので、それらの一切についてはノーコメントになる/どんなディスクもTSUTAYAにそっと置かれていればいい、誰が借りていくのかは知らない。
他人のことに口出しはしないし、かっこいい奴は僕にとって他人ではない/たまに、「未だに幸福になれる可能性が残されていると思っているのか……」と、内心で愕然として思うことはあるが、言わない、それは向こうからこちらを見たとしても同じことを思っているに違いないからだ。

恋女のマインドね | comments(0) |
意志と価値観/全身全霊とは

は全身全霊でこのブログを書いているが、こんなしょーもないものに思い入れがあるわけではない。
全身全霊になるのは、思い入れのせいではなく、ただ僕の意志だから全身全霊なのであって、僕は僕自身の意志に関するかぎり、全身全霊にならないことがない。
何せ自分の意志なのだから、全身全霊にならないほうがおかしい/自分の意志なのに全身全霊にならないということは、あれか、部分身・部分霊でガンバリますということか、そんなバラッバラの取り組みをするほうが僕には手間に思えるし気色悪く思える。
僕にとって全身全霊になるというのは、ノーマルのことであってスペシャルのことではない、つまり僕は、自分の意志には全身全霊が当たり前であって、価値観によって全身全霊になるのではない。

価値観としては、たとえばこんなブログ、「まあ、あったほうがいいんじゃないですか、毎日何百人も、楽しみに見にきているみたいだし」としか思わない、価値観としてはそんなものだろう。
が、価値観というのは基本的にヨソのことであって、価値観うんぬんで僕のスイッチが入ったり切れたりはしない、価値観がどうであろうが、僕は自分の意志としてやると決めたことには常に全身全霊だ、悪党を斬り殺す場合も全身全霊だろうし、女子中学生をレイプする場合も全身全霊だろう、仮に僕がそのことをするという意志を持った場合においては。
価値観としてどれだけ「すばらしいことです」と言われても、僕は僕の意志がないときは全身全霊どころか完全にゼロだし、価値観として「しょーもな」と言われても、僕は僕の意志で向かうときには全身全霊だ、たとえばこの夏はきっと僕は避暑に出ると思うが、全身全霊で避暑に出ると思う、そしてもちろんそんなことに価値観上の重きは置かない、そもそも僕には価値観なんてものは飾りにしか存在していないが……
若くうつくしい少女が、えっちな自撮りを送ってくれたりすると、途端に「よーし、やるぞ!!」という英気がみなぎってくるが、それは価値観や興奮で昂ぶっているのではなく、美少女の全身(と全霊)には、僕も全身と全霊をもって迎えるのが僕の意志というだけだ/仮に美少女の側がそういう意志でなかったとしても、いいのだ、きれいな下着が似合っているね、僕の意志と全身全霊は、そうした安っぽいものにこそ起動するという掟、そのこと自体が僕の意志だからいいのだ。

PCのキーボードは、どのキーを押しても即座に反応する、これはキーボードが全身全霊だということだ。

「価値観」というと、たとえばEnterキーだけアツアツになり、Enterキーだけ押してもいないのに反応するとか、押すたびに感情的な汁が出るとかで、一方でctrlキーを押されても「えー……」とイヤがって反応しないとかだろう、それはキーボードが全力で自我を主張しているのであり、即刻買い換えの案件だ、キーボードたることへの意志がないキーボードを、わざわざ使う必要はない/僕が男たることへの意志を失ったらそのときはただちにヨソのものに買い換えてくれ。
僕は自分の意志に向けては常に全身全霊であって、それが「ノーマル」だ、価値観サイドの人は逆に「スペシャル」を求めるのだろう、価値観上のスペシャルに昂ぶったらアタシもスペシャルかもしれないという動機で/別にそれがいいとか悪いとか思わない、価値観サイドの人の苦悶を取り沙汰することは僕の意志にはないので、そのことについては僕の関心はゼロだ、「価値観」に僕の意志は向かわない。

恋女のマインドね | comments(0) |
panicはひとつの「生き方」3

panicはひとつの「生き方」だが、僕はそれを否定しているわけではない。
僕自身の生き方は、きっとpanicではなく、他の生き方を選択できているのだと思うが、僕が自分のその生き方を肯定しているわけではない。
僕は自分の生き方を肯定するわけではないし、他人の生き方を否定するわけでもない、もちろんその逆でもない、じゃあ「人はどう生きるのが正しい生き方か」と訊かれたとしたら、僕は断じて「知らん!!」と即答するだろう、「聖書か仏典に訊いてこい」としか思わない/だってそのために聖書とか仏典とかがあるのだし、もし僕が「正しい生き方」なんて解答できるのなら、聖書も仏典もこの世に要らないじゃないか、僕にはそんな神々のブツを漬物石にするような根性はない。
僕は自分の生き方を肯定するわけではないし、他人の生き方を否定するわけでもない、なぜ肯定も否定もしないかというと、別に哲学があるわけじゃなくて、「そんなにヒマじゃない」からだ/僕は正直なところ、「正しい生き方とは」と言われても、「人が生きたらそれが生き方じゃね?」としか思わない、それが正しかろうが誤っていようが「生き方じゃね?」としか思わない、そもそも「正しい生き方」なんてできるという前提が僕にはブッ飛びすぎて失笑を誘われる。

僕はこれまで、実にたくさんの人に、僕の生き方を否定されてきたが、そのとき僕の側は、先方の何も否定しなかった。
また、今になって、僕の生き方を絶賛というか、崇めるがごとく肯定してくれる人もあるが、それについても冷淡なものだ/肯定でも否定でも、「したけりゃ勝手にどうぞ」としか僕は思っていない、僕はそもそも生き方の否定や肯定という発想がどこから出てきているのかがわからない。
panicという生き方は実相だし、そうでない生き方も実相だろうし、「その両方が実相です」と見えているのが正解だろうが、それは学門として正解なのであって、正解だから肯定するというわけではないし、何であれは「正解のほうが正しい」のかどうかさえ、僕は「知らん」と感じている、正直「そんなことはどうでもよくね?」としか思っていない、だって他人の生き方に口出しをするほど僕はヒマじゃない。
あくまで前提に、もしpanicという生き方を、離れたがる人があったとしたら、という限定条件で考えると、panicを「実相じゃない」とか否定している奴はダメだろうな、という判断を述べているだけだ、別にそのままでかまわない/数学的誤解をしたままギャアアアと生き続ける人があったとして、その人の何が否定されるべきとも僕は思わない、ただ本人が「ギャアアア」であることの事実は免れないというだけで、わざわざ「ギャアアア」の実相を選ぶのは、変わった趣味だなと思うだけだ。

それをした人は、それをしたのだ。

別にそれがいいとも、悪いとも思わない/もちろん、おれの大切なものに余計な手出しをした奴はブッ飛ばすが、それはただブッ飛ばすのであり、何が正しいとも悪いとも思っていない、おれは悪い者をブッ飛ばすというような善人でもないしヒマ人でもない。
panicというのは、「何か」から目をそらし、否定し、逃避するときの「無敵モード」として用いられるのだが、それをした人はそれをしたのであって、そういう生き方をしてきたのだ、それを反省したけりゃ反省したらいいし、後悔したけりゃ後悔すればいいが、そんなことをしても木星の公転軌道は変わらない/これまでに何かを肯定し、何かを否定してきたのだろうが、同じ実相に肯定と否定を貼り替えているのは、僕には「ヒマなことをしている」としか見えていない。

正しく見ないとな | comments(0) |
panicはひとつの「生き方」2

ルト宗教者が、そのカルト宗教に疑心を抱いたとしても、けっきょくそのカルト宗教から脱却することはできない。
なぜかというと、ことの本質が、カルト宗教への信仰で成り立っているわけではないからだ/ことの本質は、俗世の否定で成り立っている。
冷静に見れば、実は簡単な話で、俗世の否定からカルト宗教に入信した者が、次にカルト宗教を否定したとしても、それは「俗世とカルト宗教の両方を否定した者」になるだけであって、俗世に帰ってこられるわけではないのだ、それではけっきょく行き場所がなくなるので、彼は引き続きカルト教団に居続けるしかなくなる。
これは数学的な話になるのだが、仮に「俗世」という集合と「カルト宗教」という集合があったとして、互いは補集合ではないのだ、スキマがあるのである、俗世からドロップアウトしてカルト宗教に入ったとして、次にカルト宗教をドロップアウトしても、俗世集合に戻るのではない、そのどちらでもない空集合Φにいくらでも落ち込めてしまうのだ、おそらくサルトルが嘔吐したのがこの空集合Φだ。

これは、勝手に事象を集合化して捉えるという、軽薄な知性の誤解によって起こっているだけのことだ。
つまり、わかりやすくいうと、たとえば異性愛を否定した者が同性愛者になれるわけではないし、同性愛やトランスジェンダーを否定した者が異性愛者になれるわけではないということ。
異性愛を否定し、同性愛を否定し、バイセクシャルを否定し、トランスジェンダーを否定すると、単純に「性愛のない奴」に行き着くだけであって、自動的にどこかの受け皿に入れてもらえるわけではないのだ、空集合Φに放り込まれてグッバイにしかならない。
人は、何かを否定して逃避するために、panicを用いる、それはいつものクセになり、やがてそれはひとつの「生き方」に固定されるのだが、そのpanicという「生き方」を今になって否定したところで、別の「生き方」へ参入させてもらえるわけではない/男を否定した男がオネエになったとして、このオネエが今になって女を否定したとしても、このオネエは男に戻れるわけではない、どうなるかというと、わけのわからない空虚の穴に転落していくのだ(だからこのオネエはもうオネエをやめることはできない)。

唯一の正解は、「どちらも実相です」。

この世界に、実相でないものなんてないのだから/しかしどうやら、多くの人が、たとえば panic と echo があると、そのどちらが虚であり、どちらが実相か、という振り分けをしたがるようだ、「どちらも実相」ということが数学的に掴めないらしい(見たまま掴めばいいのだが、思念がそれを許さない様子)。
何もむつかしい話ではなくて、たとえば大企業を否定してベンチャー企業に就職した人が、今度はベンチャー企業を否定したとしたら、それで大企業に入れるわけじゃなくて、単に無職になるというだけだろう、大企業もベンチャー企業も「実相」であるのが当たり前なのだが、どうも多くの人は「どちらが正しいか」という根拠不明の振り分けをする準備が前もってあるらしい/panic も echo も実相だ、不明の振り分けをするpanic病・echo病の人も実相として存在する。

正しく見ないとな | comments(0) |
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