☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「連動」する「非直接関係」

「自己責任」とか「自己実現」とか、われわれはジコジコ言い過ぎた、結果、われわれはアホのなれの果てだ。
われわれは、「お隣さん」というと、やれ責任や負担をなすりつけあったり、気を遣わされたり、空気を読まされたりして、そのことで疲れ果てたのだが、そんなことはそもそもが間違いだった。
われわれは誰しも、お隣さんとは何の関係もないし、何の連帯もしていないが、われわれは存在として「連動」しているのだ、これは「連動」としか言いようがない。
われわれは、人間というと「無関係」か「直接関係」のどちらかしかないと思っているが、そうではない、「非直接関係」と呼ぶべきものがあるのだ、少なくともまともに機能する人間は必ずこの「非直接関係」の感覚を隠し持っている。

たとえば、あなたが今これを読んでいたとして、僕は今これを書いているわけだが、このときあなたと僕のあいだには何の関係もない、関係のあるフリをされてもお互いに困る。
しかし、それがまるきりの「無関係」だったら、あなたは「することがない」はずだ、こんなことは街中でも同じで、街中の99.9999%の人はあなたと「無関係」に見えるので、あなたは街中で「することがない」。
「非直接関係」の感覚がないと、万事「何をしたらいいのかわからない」のだ、じゃあ一方で、一般的に「家族」や「同僚」「上司」などは直接関係があるのだが、この直接関係のほとんどは気を遣うばかりで負担になりメンドクサイ。
この「直接関係」と「無関係」のあいだを往復しているだけでは、本当に「何をしたらいいかわからない」ままだ、「連動」する「非直接関係」に気づけ、今これを読んでいるあなたと、書いている僕と、読んでいない誰かがあるわけだが、これらがどう「連動」するかが見えたら、あなたは自分が何をしたらいいか本当にわかる。

あなたがピアノを弾く日も、世界中で電車が走っている。

よもや自分がピアノを弾くときに、世界中で電車が走っていることを思い出す人はないはずだ、けれどもそこがミソで、まさかのまさか、ピアノを弾く力は「お隣さん」が運転手として電車を走らせているところから生じてくる、ピアノを弾く力の源は電車が走っていることとの「連動」にある。
あなたがまともにピアノを弾くということは、まともな電車の運転手と握手するということなんだ、信じがたいことだろうが、どうか一度は信じてみろ。

正しく見ないとな | comments(0) |
ヘイ、「お隣さん」には力がある
もや「お隣さん」に力があるとは誰も思うまいて。
みんなして生きているので、僕にとっては銀行員や農業従事者、アイドルグループや暴走族、年を食ったフリーターなどすべてが「お隣さん」だ。
これら「お隣さん」は、自分に関係がないようだが、やはり関係があって、何か関係があるのかと言われたら、やはり関係はない。
関係はないのだが、それは「お隣さん」なのだ、"存在する"のである、このことを見失うとわれわれは力を失う。

なんというか……われわれはすべてのことを、「お隣さん」との兼ね合いや按配(あんばい)の中でやっているのだ。
すべてのことを、「自分だけ」と思ってやっていると、われわれは必ず行方不明になってしまう。
一丁目のギターシンガーは、二丁目の八百屋が営業しているから、そっちはそっち、こっちはこっちで、歌が唄えるのだ、これは馬鹿げているようだが真実の真実である。
感覚的にね、そういう感覚があり、そういう機能もある、われわれは何か大きな分業の中にいるのだ、「お隣さんはああだから、こちらはこうなんだ」ということでがんばろう、それで初めて力が出るよ。

八百屋が野菜をヨイショと売るから、魚屋が魚をセイヤと売る。

八百屋の「ヨイショ」があり、魚屋の「セイヤ」があるから、その中であなたはホイ? となるのだ、この中で按配されていないとあなたは動けない、これなしで動こうとするとあなたはヤケクソの行方不明しかできなくなる。
「お隣さん」がクラシック音楽をやるから、こちらはロック音楽ができるのだ、お隣さんがあって「こちらはこうやる」、それは互いに気を遣う関係ではないが、お隣さんは「あってもらわなくては困る」存在だ、お互い邪魔しないけれど深い関係がある。
正しく見ないとな | comments(0) |
あなたは今、「何の時間」を生きているか

なたは今、「何の時間」を生きている?
われわれは、日々を健全にするためだけにも、自己の前進をしなくてはならないが、前進というのも「こうなりたい!」というだけでは進めない。
あなたは今、「何の時間」を生きている?
通勤の時間なら通勤の時間、受験勉強の時間なら受験勉強の時間で、それが「○○の時間」ということはとても大切なのだ、それが失われたとき人はいつのまにか進めなくなっている。

たとえば、あなたは「拡大」しろと言われても、「えー、よくわかんない」と否定的に答えるかもしれない。
でも、「あなたは今、"拡大の時間"を生きなさい」と言われたら、「"拡大の時間"ですか」と前向きな実感を思案することができる/"拡大の時間"……。
われわれは実は、キモチの切り替えなんてできなくて、できるのは時間の切り替えだけだ、今生きている時間を「○○の時間」に切り替えることだけができる(「時間」というのは実物だからだ)。
修行の時間、上昇の時間、静養の時間、拡大の時間、挑戦の時間……それら「○○の時間」を捉えることで、人はようやく主体的に動けるようになる。

出会いやセックスは、拡大の時間の道ばたに咲く。

出会いに執心する女や、セックスに執心する男はキモチワルイのであって、そうではない、拡大の時間を生きているもの同士なら、いつの間にか出会っていつの間にかそういうこともしたねということか付随するというだけ、われわれは執心「プレイ」に耽るほどヒマな時間を生きてはいない。
仕事であれ学問であれ、友人であれ芸術であれ、それ自体がテーマになるなんてヒマなことはわれわれにはない、「拡大の時間なので」と生きつづける勇ましさの周囲に、すべてのことが見逃されず息づき始めるだけだ。

恋女のマインドね | comments(0) |
胸を打たれる人、打たれない人
い空と、青い海に、胸を打たれる人がいる。
が、一方で、実はそういったものに胸を「打たれない」という人もいる。
これらの差は、ささやかなようでいて決定的だ。
胸を打たれる人と、打たれない人とのあいだで、何かが通じ合いやりとりされるということはけっきょくない。

何か「わめく」人がいて、あるいは反転してむっつりと「押し黙る」人がいる。
どちらも騒々しくてかなわないが、僕には彼らが「胸を打たれていない」と見える。
胸を打たれていないと、さびしいので、何か強い主張を持ったり、何かをむさぼったりしているが、それにしたって誰も何も胸を打たれていないのは変わっていない。
胸を打たれる人がいて、胸を打たれない人もいる/人が事情により、胸を打たれない人に転向することはよくあっても、その逆、胸を打たれる人に転向するということはほぼない。

胸を打たれる人、打たれない人、互いにどうか尊重を。

胸を打たれない人は、打たれない人の事情がきっとあり、胸を打たれる人は、そのとき貴重なものがきっとあるのだ、そのときわれわれに何ができるかといえば、互いを「尊重」するしかできない。
どちらも、時計とカレンダーの上では同じ時間を過ごしていて、互いにそれを台無しにしないためには、互いにそれを尊重しあうことだ/僕には青い空と青い海を見に行く用事があって、そこにわめかない人・押し黙らない人を同道に得るのは僕にとって大切なことなのだ。
恋女のマインドね | comments(0) |
時間は「素材」である

ラダラしないためには「尺」が有効だ。
おそらく人間は、切り取られた「時間」という感覚に直結して引き出されてくる特別な能力を持っている。
もし人間が永遠に生きるのだとしたら人間はひどく無能化するだろう。
むろん、人間の存在(イグジスタンス)は永遠だし、芸術というのはその「永遠」をやるのだが、それはたとえば四分間なら四分間のうちに、その「永遠」をやるということだ、「永遠」の上映時間が四分間ですということになる、永遠の四分間をやるのだ。

「時間」というのは本当に不思議だ、何しろ「四分間」というのは勝手に終わる、僕が何をしなくてもだ。
たとえば「ボレロ」という、ほとんど繰り返しのような音楽があり、十五分ぐらいで演奏されるのだが、「ボレロ」を演奏する指揮者はきっとその「十五分」をやりに行く、という感覚で指揮台に立つはずだ。
「時間」というのは、「素材」なのだと思う、1kgの粘土で作れるものは1000kgの粘土で作れるものと違う、また料理でも一人前の素材と十人前の素材は量が違うし、1mのキャンバスと10mのキャンバスでは描かれるものが違う。
永遠の四分間というとき、第一にその「四分」が素材なのだ、われわれが電子書籍に違和感を覚えるのは、手に取ったときの本の重みという「素材の量」がわからないからだ、実はわれわれは「それが何分であり」「何人前であるか」ということを先に合意して授受のやりとりをしている、時間芸術ではその分量合意が「時間」になるのだ。

分量合意が、授受の絆を作る。

こんな話、まったく僕にしか役に立たんと思うが、まあいいじゃないか、誰だって授業時間には授業を受けるし、勤務時間には仕事をする。
おそらく必要なことは、たとえば仕事をする場合なら、「勤務時間」という時間そのものを実現することなのだ、誰だって何だって「○○時間」という時間を実現することはよいことに決まっている。

正しく見ないとな | comments(0) |
美人モデルと、お笑い芸人が破局するとき
能人の、離婚や不倫がよくニュースになる。
ふと、不思議に思うのだが、なぜ著名というほどの芸能人なのに、離婚や不倫……というより、破局側の"トラブル"に至ってしまうのだろう。
芸能界には、美男美女がそろい、またそれぞれに十分裕福なはずだ、しかもタレントなのだから才能に長け、華やかで退屈がないはずだ。
にも関わらず、離婚や不倫というトラブルや破局に至ってしまう、それは「なぜ」なのか、思えば当たり前の疑問を僕は思い浮かべている。

われわれ一般人はふつう、美男美女ではあれないし、裕福というのも難しいし、才能なんか無縁だし、華やかさなんて手の届かない話だ。
しかし、それらのすべてを兼ね備えている芸能人でさえ、男女仲は破局、しかも忘れてしまいたいようなクラッシュに至ってしまうのだとしたら、われわれなどはどうしたらいいのか。
逆に言えば、男女仲が輝かしく残っていくために、本当に必要なものは何なのだ? 少なくともそれは、美男美女であるとか、裕福さとか才能とか華やかさということではないのだろう。
われわれが、わざわざテレビ画面の向こうにまで見たいと思う彼らが、なぜ居宅では互いに「顔も見たくない」ということになってしまうのか? 破局した芸能人たちが「本当のこと」をレポートしてくれたら、われわれはそこに本当に必要な知恵を発見することがあるかもしれない。

美人モデルと、お笑い芸人が破局するとき、なぜ彼らは「うつくしい妻」と「愉快な旦那さん」ではいられなかったのか。

仮に、「結婚したいタレント」ランキングを作ったとして、その上位者が、実は男女仲を形成するのに向いていないという可能性も十分にある、ではかけがえのない男女仲を作り出すのに本当に必要なものって何なんだ。
つまりわれわれは、「わかっていない」のだと思う、わかっていないものはどうしようもないが、わかっていないのならわれわれはそのことを学ぶのに慎重であるべきだ。
視点変えてこ | comments(0) |
「グレート」の感性と幸運の人
とえばマハトマ・ガンジーやキング牧師などの伝記や映像を見聞きすると、その偉大さに圧倒される。
「偉大さ」を感じるということ、それは「グレート」という感性だが、実はこの感性は誰でもが持っているものではない。
誰でもが持っているものではないし、かつて持っていたとしても、だいたい加齢と共に失う感性でもある。
そして、「偉大だ」「グレート」という感性を失うと、経験上、人はガクッと老け込み、同時に何か持っていた「運」をガクッと失うものだ、そうして生は彩りを一気に失ってしまう、そういうことはよくあるものだ。

誰だって神社や仏閣を巡ることはあるだろうし、美術館に行くこともあるだろうし、モーツァルトやベートーヴェンを聴くこともあるだろう。
けれどもそれらを見聞きするとき、そのそれぞれの見聞を「偉大だ」と感じられるとは限らない、特に「あれ? 昔はもっとわなわなと感動していたのに」と自分の変化に気づくことはよくある。
それは老いたということであり、しかも年齢に由らず文化的に老いたということなのだが、このことを契機に、生きることは急激に「つまらなく」なる、毎日が本当はダルくてしょうがないというふうになる。
自分が生きるのに、何一つ「グレート」と感じられなくなるということ、世界から一切の「グレート」が消え去るということは、実はおそろしいことなのだ、このことに対抗するにはせいぜい「老けてんじゃねえよ」と真っ向から自分を罵倒するしかない。

「カミサマは偉大」なのではなく、人が「偉大さの中にカミサマを見つけてきた」のだ。

「偉大」「グレート」というのは、よくよく見ると、何がグレートなのかはよくわからない、よくわからないがわなわなと「グレート」だった、そのよくわからない「グレート」の向こうに、カミサマと呼ぶべき事象があるということを、古代の賢人たちが見抜いてきたにすぎない。
いくらでも、楽しいことや刺激的なことはあるけれども、「グレート」と感じられるものがないでは、いくら楽しんだり刺激を受けたりしてもはっきり言って無駄だ、あるとき突然やってくる若い生命の終わりに、あっさり引き込まれたりしないように。
正しく見ないとな | comments(0) |
全責任を自分「だけ」が引き受けて立て(繰り返し)

日、「全責任を自分だけが引き受けて立て」という記事を書いたけれども……
この、「全責任を自分だけが引き受けて立て」というのがとてもいいのだ、それも特に、全責任を自分「だけ」が引き受けて立つ、というところがいい。
自分「だけ」なのだ、他の誰かがどうこうは関係ない、このときこの瞬間自分「だけ」が。
自分がどう生きたか、そして何を愛して何を得たかなんて、自分「だけ」が知り、自分「だけ」が抱えて満たされてゆくものだから、これがいいのだ、こんなもの僕「だけ」のやり方でかまわないけれども。

自分「だけ」が全責任を持つ。
いつものことだけれど、僕は人に、決してしんどいことは勧めない、必ず何かしら解放のエネルギーを得られる方法のことを勧めている。
人間の胴体は、「責任」に反応してエネルギーを生産する自動的な仕組みがあるのだ、これを解放して使う、そうしたらもう本人は頑張る必要がない(それぐらいエネルギーは自動的に湧いてくる)。
自分「だけ」が全責任を持つというとき、その人はあらためてこの世界に「存在」する、自動的にそうなる、そういうエネルギーの仕組みがあるのだった、なんと素敵なことだろうね。

他人の評定を求めることが、人間のエネルギーを終わらせる。

たとえば男性が女性を口説くとき、その彼「だけ」が全責任を持たねばならない、そうでなければそこに誰が存在して口説いているのか意味不明だ、そしてそのときの男が女に評定を求めるときほど、女がガックリ疲れることもほかにないだろう。
もちろん自分「だけ」が全責任を負うわけだから、誰よりも自分は自分に厳しくなくてはならない/このところは自分「だけ」というと、自分に甘くて「無責任」を破裂させようとするきらいがあるが、そうじゃない、「全責任を持つ」のだから無責任であっていいはずがない。

できるオンナだね | comments(0) |
僕の迷惑より相手の地獄

は今、目黒区の、商店街と住宅街が半々になったところに住んでいる。
それで、夜中の二時や三時になっても、だいたい通りに酔っ払いが歩いているのだが、彼らの話し声がすさまじくデカいので驚く。
電話をしながら歩いている人も多いのだが、真夜中だというのに、まったく昼間と変わらない大きな声で話している。
たぶん、街の気配もヘッタクレも、本当にゼロなのだろう、今さらそれは非難する気にもなれないが、ただ誰にでも「そんなふうになってはいけない」ということ、および「そんな奴と友人になってはいけない」ということは申し立てておきたい。

まあ、ずいぶん以前に、防音の二重窓を入れたから、個人的にはいいんだけどね。
それにしても、とにかく文化的にも脳みそ的にも、すでに気配とか配慮とかいった感覚の能力をすでに完全な不能にしている人が少なくないのだ。
ありのまま言うと、深夜だから声のトーンを落としている、声をひそめている、という人のほうがはるかに少ない、ほとんどゼロなのではないかというありさまだ。
僕自身、夜中に街を歩くとき、ふと思い出して確かめてみたりするのだが、やはり真夜中で近隣に住居があるという状況では、どうしても声を張り立てる気にはならない、そこはたぶん本当にもう生きものとしての感覚が根こそぎ違うのだろうと思う、このことは現代においてもう引き返せないものの一つだ。

僕も迷惑を被るが、彼らだって地獄なのだと思う。

たぶん、気配とか配慮とか、あと文化とか、そういったものが不能になるよう育てられて、もう修正は利かないのだ、そういったことの自覚はたぶん誰の内にもうっすらとあるのだと思う(その地獄に比べたら僕の被る迷惑なんて些少なものだ)。
しゃべり方とか声の出し方とか、愛し方とか未来の見方とか、たぶん本当にわからないのだ、そしてそういったものはたぶん彼らにおいてはもう取り戻されまい、現代のわれわれはこういった感覚不能の事実を冷静に見つめてゆかねばならないのだと思う。

視点変えてこ | comments(0) |
最も多くの人を滅ぼすもの

たしは今、わたしの書斎に一人座して、何者にも答えないようにしよう、ブログなどというのは電子ツールでしかない。
われわれは、紙に書くということを忘れ、それによって人に話すということもどのようであったかを忘れてしまった。
そのことはつまり、いかなる場所においてもわれわれに一人で座すということを忘れさせた、われわれは何もかも「入力」しかできなくなった。
わたしがここに公開しているものは、ふつうの人間が決してやりはせぬ、究極のプライベートの公開だ、それもこの世にありとあらゆる赤の他人に向けて。

わたしは、一定の習慣によって形成された架空のような話しやすさの空間に与しない。
Aさん、Bさん、Cさん、……と笑顔で連なる座席の並びに、わたしは列しない、この世界に漠然とした「他人」が存在する――それに気を遣うのが「やり方」――というやり方を採らない。
わたしは、女性に花を贈るとしたら、わたしの世界に咲く花をしか贈らない、わたしは夜のうちすべての新聞紙を焼き捨てて、わたしの世界の酸素を吸うものだけをわたしの友人とする。
誰にでも本来、そのようにする権利があるのだ、その中でこそ人と人は出会えた、わたしのカレンダーは市販のそれとは存在が異なり、わたしのカレンダーは生命を持つのだ。

「一般的な世界」は世界ではない、「一般的なあなた」があなたではないように。

人はいつのまにか、常識を教え込まれ、常識の中を長く生かされ、やがて「常識がある」という実用から逸脱して「常識の共有が世界である」というとんでもない誤解に何十年も陥る/これが最も多くの人を滅ぼす。
どこまでいっても「世界」というのは、すべての「あなた」に対して謎のまま差し合いで存在する一対一の対象なのだが、それをみんなで常識的に共有できるものとすり替えてしまう、もちろんそのすり替えは可能だがそのときはあなたもあなたの世界も存在しない。
 

正しく見ないとな | comments(0) |
破裂寸前の男性と、パニック寸前の女性
ーティで女性陣から、「多くの男性が、少し踏み込んだだけで、"破裂"しそうなんです」「おっかないんです」という話を聴いた。
詳しい説明をここに書く気にはなれないが、とにかく「いわゆる"地雷"がたくさんあって」「いつ不機嫌になるかわからないんです」ということらしい。
僕はここ数年来、不機嫌になった記憶がないので、女性たちがいう「破裂寸前」の感覚はよくわからなかった、「そりゃあなたはそうでしょうよ」と言われる。
近頃は多くの男性が、コンプレックスか、それ以上の何かによって、皮のすぐ一枚下には「破裂寸前」を抱えているらしい、女性たちにとっては「とにかく危険すぎて」「距離を取るしかないの」ということだった。

一方、僕自身の感覚としては、近頃の女性は、皮のすぐ一枚下には「パニック寸前」を抱えているような気がする。
「このごろどうなの」と訊くだけで、何か情動が恐慌に向かう気配が起こったりする、同じことが男性においては「破裂寸前」の様子で起こるのかもしれない。
この状態で男女が、服をひんむいてイチャイチャしようというのは、むつかしいというよりはもう「重大なリスク」がある、と予感される。
かといって、若い男女が服をひんむいてイチャイチャしないわけにもいかないし……つまり皮の一枚下までグール化がせりあがっているのだが、それにしても誰だってまともに生きるしかないのだ。

「まあしゃあない、まともに生きよう」

われわれにとって最も重要な約束、「まあしゃあない」「まともに生きよう」、この約束が守られないかぎり、われわれには一ミリたりとも自己の問題に向き合う資格を許されない、それは破裂もパニックも節度において許されるわけがないからだ。
われわれは、失うべきでないものを失ったせいで、このグール化寸前の状態を引き受けるハメになっているわけだが、何が失われたのかなんて安易に追求しないほうがいい、「まともに生きよう」のほうがはるかに優先だ。
正しく見ないとな | comments(0) |
パーティ報告69(2)
回のパーティはなぜか特にごきげんで快適だった。
僕はアドバイス的な発想はやめてしまった、それは新しい関係のためでもある。
「関係」ということが話され、その話はみんなに心地よく、また単純に重要なこととして滲みていったふうだった。
「成り立っている関係というのは、見ているだけで気分のいいものじゃないか、そのみんな大好きなものが、枯渇しているってわけだ」と僕は話した。

昔話などをして、僕と友人がどういう「関係」だったか、僕と先輩が、僕と後輩が、僕と恋人が、どういう「関係」だったかを話した。
成り立っている関係というのは、見ているだけで気分のいいものだ。
僕が先輩にコキ使われるのは、そういう「関係」として、(大変ではあったけど)気分のいいものだったし、僕も後輩をコキ使うときには、そういう「関係」として気分のいいものでなくてはならない。
今多くの女性はきっと、女性という「立場」と「役割」を、「我慢」して引き受けているのだと思う、しかし「我慢」して家事を担当している奥さんは数ヶ月で旦那を投げ飛ばしたく思うだろう、それは当たり前のことだ。

「おいハイボールがねえわ」と僕が言うと、彼女は「あ、はい」と腰を浮かせた/戻ってきて彼女は、「このほうがずっと楽」と言った。

もし僕が、「ハイボール注文してくれない?」「あ、はい」「ありがとう」なんてやっていたら、必ず彼女を疲れさせただろう、そんな厚かましい「お願い」をするぐらいなら自分で立ち上がって注文しに行けばいいのだ。
「自分から"関係"を持ちかけていく、そういう仕手をする、得意なやり方を持つべきだ」と僕は話した、それぞれの納得と共に、「でもすごく勇気が要る」と彼女らは畏れて話していた。
そのほか | comments(0) |
パーティ報告69

「まとも」に生きていこう、ということを話した。
「かといって、今世間で言われている"まとも"をなぞろうとすると、われわれはブッ壊れて、まともではなくなってしまうので……」
「ありとあらゆる手段を駆使して、いろいろインチキをしてもいいから、われわれは"こころある"まともな生き方をしていこう」
「自分が生きていくのに、怨恨を残すのはイヤだもの」……まともに生きていこうねという繰り返しの話は、そのたび滲みとおるように受け取られた。

「環境、はヨソの誰かが影響する、この世界は陰謀に満ちているかもしれないし、放っておいてもイージス艦をコンテナ船にぶっつけるというようなヘマをやらかす、そんなもんはわれわれはどうしようもない」
「しかし、その環境の中でわれわれが何を発するか、それは完全に自分の責任なんだ、100%自分の責任として、われわれは自分の声を発し、自分の振る舞いを発している」
「この、100%自分の責任というのは、何かを背負わせようとしているのではなくて、一種の快楽なんだ、100%自分の責任ということがわかると、自動的に腹の全体にフツフツ湧き出るものがあるんだよ、これがスゲー便利なんだ」
「そもそもおれは、誰に対してもシンドイことなんか勧めないものな、おれは必ず楽なほう、解放のほうを勧めているよ、100%自分の責任ってことは、100%""自らに由る"ってことなんだ、それを字義通り"自由"というんだね」

ありとあらゆる手段を駆使して、「まとも」に生きていこう。

ある女性は、その翌日に就職面接があったのだが、面接を済ませてきて「案外悪い気分じゃなかった」「自分は一生身内でブツブツ文句を言いながら暮らしていくのだといつの間にか"思い込んで"いた」と連絡をくれた。
僕はヴェーダ哲学におけるウパニシャッドが説く梵我一如のことについて話したが、同時に「かといって、それでおれのブラッドボーンの腕前が上がるわけではないしな」とも話した、「まとも」という奥深い中庸が人間を一番健全に満たすのだと僕は思う。

そのほか | comments(0) |
全責任を自分だけが引き受けて立て
くパーティ行けよ!! と自分でも思うのだが(まだシャワーも浴びてねえ)まあ、まあ。
あなたが生きているのはあなたの責任だ。
おれが生きているのがすべておれの責任であることのように。
社会とかそんなの何のカンケーもあるか。

なんと言えばいいのか、習ったことは何の役にも立たない。
だから習わないほうがマシだ!!
ヨソで習ったことを自分と何かのあいだに挟み込んでいるだろ?
違う、全部自分だ、全部自分の責任、そうでなきゃまるであなたが存在していないふうじゃないか、そういうのは本当にいけない。

全部自分で引き受けたら、自分の内部にオーケストラホールが。

口癖は、「は? "わたし"以外に何があるのよ」だ、照らし合わせるな!!
あこがれの人、頼りになる先生、正しいメソッド、全部そのときは放り出せ、全責任を自分だけが引き受けて立て。九折
できるオンナだね | comments(0) |
「やさしさ」を実現する方法
や猫は、飼い主にいじめられるとすぐ神経症になる。
神経症になった犬や猫は、穏やかでなくなる。
穏やかでなくなった動物は、興奮していきりたったり、反転して自失状態になったりして、生産性を失う。
現代はそういう時代だと思う、お互いにいじめあって、お互いに生産性を失っている。

この時代において特に、「やさしさ」とは、相対的な「性質」ではなく、ただ独立してある「要素」だ。
この時代において特に、「やさしさ」とは、絶対的なバカが持つものだと思う、周りの状況がわかっていないバカが絶対的な「やさしさ」を振るう。
この時代に「やさしさ」をやろうというのは、「バカ」をやろうとすることとほとんど同義だ、だからこそそれは困難なことで、人は賢くはなれてもなかなかバカにはなれない。
しかし、「やさしさ」を実現する方法はこの現代にもあるということだ。

だから僕は、なるべく人の話を聴かない。

穏やかでなくなった人の話を聴いてどうするの、そこに生産性がありえないことはすでに脊椎動物のレベルで決定されている。
人の話なんか聴かなくても、この世界は消えない。
バカをやろうかあ | comments(0) |
外なる自由

当の「自由」ということについて話そう。
多くの人は、自分を自分という枠の中に押し込め、その内部においては自分の「自由」、つまり「わたしの勝手でしょ」と思っている。
でもそれは、言い方を変えれば、一歩外側の世界のすべては自分にとって「不自由」だと宣言しているのと同じだ。
本当の「自由」というのはそうじゃない、自分の一歩外側の世界を「自由」にする、そのときに起こる快楽と快適さについて僕は言いたい。

もちろん、それは「自分」の外側のことだから、身勝手は許されないのだ、身勝手をするとただのストレスと近所迷惑になる。
それでも「自由」というのは……つまり、外には風が吹き、樹木が芽吹いている、そのことにわれわれは非難を向けない、風が風であり樹木が樹木であることにわれわれは攻撃と制約を向けない。
つまり、われわれもそうして外側へ「自由」を創出するためには、われわれ自身が世界そのもの、自然そのものにならなくてはならない、われわれが風や樹木のようであったとき、われわれの「自由」に攻撃や制約は向けられない。
僕は自由の信奉者として、また自由の経験者として、言っておきたい、それはまったく快適で、すごい勢いで、かつ静かで穏やかなものだ。

風や樹木のように、自分の外側に世界を創れ。

われわれはこの「世界」を、当たり前に「風」が吹き、「樹木」が芽吹くものだと捉えている、なぜその中で「あなた」だけが「世界」でなく不自然な物体になってしまうのか?
自分の外側に世界を創れ、われわれは世界を生きているので、そこに「世界」があるならそれを不自然とは感じない、不自然に感じるならそこに「世界」がなく「我」だけがあるからだ。

できるオンナだね | comments(0) |
第69回Quali's Party[6月17日(土)]無事盛会!

6/19 Quali tweet> えっ? パーティが終わってからポスター制作を!? Pls entry.

joined: ひろみ、りさ、こりん、あきら、まなみ、まいこ、くおり
date:2017.06.17(Sat) in Harajuku

  キラキラ次回(7月15日[土])加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


おかげさまで無事盛会でした! 次回もよろしくお願いします。九折

宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!

そのほか | comments(0) |
グッドラックパーティ
ーティに来る人は、やれ東大卒の元テレビウーマンだったり、音大卒のエステティシャンだったり、慶応卒の帰国子女だったり、正看護師だったり現役の国立大生だったり、公務員だったりする。
つまり、言い方は悪いが、いわゆる「底辺」の性質がまったくない、これは単純にすばらしいことだ。
そして一方で、僕が知ったのは、これら本来「優秀」な人たちが、やはり「それだけでは納得して生きてゆけない」ということだった、そこに僕がでしゃばる余地があった。
「優秀」ということは、生きる上で「有利」ではある、けれども「有利」はイコール「獲得」ではない、ある女性は「このままじゃお先真っ暗なの、自分でもわかるのよ」と言った。

自分が生きる時間を、問答無用に「かけがえのない何か」にしたい、最近の僕の言い方で言うと、それは「いくら優秀で充実していても、代表作にならなきゃ意味がない」ということになる。
そういうことならそういうことで、真正面から向かうのも悪くないじゃないか、と僕は思っている、少なくとも僕自身がそこへ真正面から向かうことで、それを見物する人は自分のことへの参考にできるだろう。
僕は、出来のいいものを作りたいわけではないし、出来のいい人間になりたいわけでもない、ただまぎれもなく自分の生きた時間を得ていたいだけだ/こんなアホなことに正面から向かう奴は少ないので、僕がでしゃばる余地があったわけだ。
それら本当の意味で「成功」しないといけないわけだが、そうなるとつくづく、最重要で必要なのは「幸運」だということになる、幸運が全てを決するだろう。

幸運を与え合うのでなければ、友人ではいられない。

われわれがカミサマを見られるとしたら、それは幸運によってでしかありえないし、われわれは性欲でキスをしたいのではなく、幸運に口づけをしたいだけだ。
そして、どれだけ底辺性がゼロで、優秀さや美貌を持っていたとしても、かけがえのない時間へ至れる「幸運」が得られるかどうかは別だ、そこにやはり僕がでしゃばる余地があった(今月もよろしく)。
恋女のマインドね | comments(0) |
骨の髄まで震えてからのこと
放送で、NHKの特集「ニッポンの家族が非常事態!?」がやっていたので、その後半をチラリと観た。
内容は、申し訳ないが、この世のものとは思えないとんでもないアホの内容だと僕には思えた。
「オキシトシンホルモンを点鼻薬でブチこめば夫婦円満!」というような、ヤク中のススメとしか思えないようなヤケクソの内容だったから、さすがにそれがヤケクソな結論だというのは、製作者側もわかっていると思う。
もし人間が、精神や文化を持たない家畜の群れにすぎないのだとしたら、確かにオキシトシンをブチこんで解決ということでいいだろう、だがそれには人間の尊厳を根こそぎ破壊するというのが大前提だ。

僕はこれまで、いろんな人と暮らしてきたけれど、その中で「ストレスを覚える」なんて対象になったことがない。
今だって、誰のところに遊びに行ったって、帰り際には「えー」とおおげさに言って引き留めてもらえる、「もう少しいようか」と言うと「やった!」と言ってもらえる。
このことに関しては、「そんなに甘くないんだよ」と、さすがに僕にも自慢させてもらいたい、僕は自分の愛される・愛されないに容赦なく向き合ってきたのだから。
よもや多くの人が、実は「パパキャラ」と「ママキャラ」をやっているだけで、本当には何も成立していないなんて考えもしないだろう、そんなことは誰も考えなくていいが、もし「本当のことを」と望む人があれば、その人は本当のことを考えなくてはならない。

「砂糖を入れたら甘くなるって、人間はそんなものじゃないのよ」と友人は言った。

人間を、オキシトシンとかテストステロンとか、ホルモンデータで量ろうとする尊厳の侮辱が、逆に最大のストレスをかけあっている、これは「怨み」と「憎悪」を呼び、内在的に殺し合いの欲求を高めているだけなのだ。
人と人が向き合えば、オキシトシンが増える? それはそうかもしれない、だがそれは向き合って骨の髄まで震えてからのことだ。
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あなたの「代表作」
「青春」はふつう、誰にとっても、自分が生きる上での「代表作」になる。
「代表作」になるべきだが、残念ながらそうはならない場合もある。
友人は、「代表作、と言われると、とてつもなく怖い、何かが怖い」と言った。
人間は、髪形をヘンテコにして、タトゥーを入れたり、ピアスを無数に空けたり、奇抜な服装をしたり、わけのわからん言行をしたりできるけれども、そんなことをいくらやってもそれらはその人の「代表作」にはならない。

「代表作」を問われることは、とても厳しいことで、それだけその人間のど真ん中を射抜く問いだ。
いくら「充実」ということを蓄積してみて、その写真を大量にアップロードしてみても、それらは決してその人の生きた「代表作」にはならない。
「代表作は?」と自分に問いかけて生きることは、とても厳しいが、とても有益なやり方だ、実はこの「代表作」に向かう人間とそうでない人間には大きな差異が生じる。
人間は、自分の生きる「代表作」に向かわない限り、ある機能のスイッチが入らないのだ、人間は己の「代表作」に向かわないかぎり根本のスイッチが入らないようにできている、このスイッチを入れずに努力することは初めから当人を徒労に苦しめる行為になる。

あなたの「代表作」が、あなたの歴史だ。

あなたはどんな時間を生きてきた? どんな情熱とどんな愛の時間があったか、そこにずばり代表作を提出できる人は幸いだ、たくみに弁解するなんて余計なことをせずに済む。
あなたがあなたの生きる時間の「代表作」に向き合ったとき、あなたの内で重大なスイッチが入る、このスイッチなしに人は何かをまともにするということはできないのだ。
 
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