☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
パーティ報告97(1)/ひがみ、うぬぼれ、オピオイド!
っきょく二十四時間コースなので、もうそのことは報告しない、長々と話しこんで追究する先、「ひがみ、うぬぼれ、オピオイド!」ということがわかった(なんじゃそりゃ)。
オピオイドというのは麻薬の一分類で、麻酔・鎮痛剤、いわゆるアヘン→モルヒネ→ヘロインのたぐいだ、アメリカ人が心身の苦しさからこのオピオイド系麻薬に頼らざるをえず、蔓延し、トランプ大統領がブチギレて公衆衛生に対する非常事態宣言を出したのがこのオピオイド系麻薬についてだ/もちろん当パーティは麻薬とは何の関係もないし、そんなものに手を出している者の参加はお断りさせていただく。
じゃあ何についての話かというと、「生きる力」についての話なのだ、どうやら「生きる」ということそのものが、捉え方・感じ方・得方として、僕のそれと一般のそれはまるで違うらしい/今や世の中に優秀な人は老若男女問わずびっくりするほど多いが、そうして優秀になるために必要とした「生きる力」はどこから得たかという話なのだ、そしてほとんどの人は呪術の力を借りている、もちろん当人にその自覚はないままにだ。
正しくは――といっても、僕がそれを正しいと捉えているだけだが――「生きる」ということは、大地より成り立っていて、この大地からの生きる力を、いかにして上位、なるべく天の方へ、持ち上げて昇華し、天への寄与とするかということなのだ、もちろん天から食べ物が降ってくるわけではないから、地からのエネルギーで生かされているというのは自明のことなのだが、それでも多くの人にとって「生きる」というのは、そんなにはっきり「地」につながったものではない。

では多くの人が現在、どのようにして「生きる」という力を得ているかというと、「ひがみ」と「うぬぼれ」なのだ、これは血に刻み込まれて抜けなくなるもので、詳しく言う気にはなれないが(詳しくなるだけでふつう呪われてしまうので)、「ひがみ」こそ呪術の基本中の基本なのだ、血に起こる「ひがみ」というすさまじい苦しみこそ呪術の基本であり、そのすさまじい苦しみに恐怖して反発的に生じる、これもやはりすさまじい愉悦なのが「うぬぼれ」だ、現代の人はこの「ひがみとうぬぼれ」という基本的な呪術によって力を得て優秀になった、単に生きるという力を高みへ持ち上げるだけでは、これだけたくさんの人がこんなに優秀にはなれないものだ。
そして、ここからは勝手な仮説だが、この呪術の力で人が(苦しみながら)優秀になったとして、その呪術の作用はその後抜けてくれるわけではないから、ずっと苦しいままなのだ、呪術で得た力というのはそのように、自分で制御できず自分に強制的にはたらくので、当人はその後ずっと呪術の強制力から逃れることができない/そして、その生涯つづく苦しさ――血の騒ぎ、「ひがみ」の恐怖と「うぬぼれ」の愉悦の苦しさ――から、一時的であれ逃避を与えてくれるのが、オピオイド系麻薬なのだ、アメリカを席巻するオピオイド麻薬は、人々が優秀になるための力として自分に掛けた呪術の、然るべき代償として今人々に降りかかっていると僕は考えている。
わかりやすい例でいうと、僕は高校卒業時、偏差値が40を切っていた、その後一年間で詰め込んで勉強し、国立大学には問題なく入れたのだが、この一年間の勉強の日々を、僕はわずかも苦しいと思ったことはなかった、それは僕が呪術によらず、自身の生きる力を高く昇華することのみで勉強したからだ/僕などより学業成績が高いものは現代の若い人にいくらでもいるだろうが、その過程としての勉強が、暗く苦しいどころか、明るく栄光ある歓喜の時間だったという人は極めて少ないはずだ、その暗さは呪術の力を掛けていることによる。
多くの人は、いや現在のほとんどの人は、生きるといって、「大地の歴史と力を胴体の底に受けて」などいない、では何によって生きているかというと、血に刻んだ「ひがみの恐怖」と「うぬぼれの愉悦」だ、大地と共に天を目指す者として胴体に力を得て生きている者と、仕込まれた呪いによる「血の狂瀾」から力を得て生きている者を、同種に扱ってはいけない、現在すべての学校教育とスポーツ教育はただの「共食い競争」という呪術の閉じ込め箱であり、その点でいえば僕はあえて学校教育も受けてきていないしスポーツ教育も受けてきていないと言えるだろう/今回のパーティを含めて、すべての周辺が今、僕にそのことを教えてくれた。

「ひがみの恐怖とうぬぼれの愉悦」に、血が狂瀾することだけで生きているので、現代人は内心にも「マウント」をやめられない。

僕はこれまで、グラビアアイドルの写真を見たとき、何のために若い女性が、水着姿で乳を揺らしているのかわからなかった、明らかに何も愛したことがない目を白日に晒して、偽りとさえいえない無意味な笑顔の顔面で、いったい何をしているのだろうと、いったい誰がこれをよろこんでいるのだろうと、不可解だったのだが、その理由が今はわかる、それらはすべてひがみに苦しんでいる者へ偽りのうぬぼれを与えるために作られているのだ、現代に流行するエログロ風味のマンガ本もすべてそうだ。
「ひがみの恐怖とうぬぼれの愉悦」という、血の狂瀾だけが今、人々の生きる力なのだが、これが生きる力に直結しているからこそ、今さら取り外せないという構造的問題もある、これだけが生きる力なので、何かに取り組むというとき、あるいは朝起きて会社に行くというだけでも、この「生きる力」を――うぬぼれであれひがみであれ――使わないでは一ミリも動けないのだ、これをどうしたらいいという話は今のところまったく視えてこない、ただ今はこの現代の根本的な呪いが視認できたのみだ、今見せかけに優秀な人はすべて呪いの力にブーストされてきただけというのが真相だ、これは本当にどのようにも包み隠せない。
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WS報告060(1)/全乗っかりの法則
ーティを挟むと、金曜のワークショップの内容を忘れる、ええと何をやったんだっけ……
ところで、まったく関係ないが、おれがいつも吸っているシャグたばこ「PePe」がこのところ全国的に品薄らしい、理由は知らない/なので各員はもし出来たら代行で購入しておいてくれ、おれは困っているのだ、リッチグリーンを希望だがなければイージーグリーン(色の薄いほう)でもかまわない、そんなわけでしばらくはマニトウで過ごそうか、おれはバージニア葉しか吸えないのだ。
さて、動画を確認して思い出したのだが、金曜日は「I said のコーナー」をやったのだった、これはどういうワークかというと、自分の「意志」を見せるというワークだ、自分の意志を見せるというと「当たり前じゃん」と思えるがなかなかそうはいかない。
正しく自分の「意志」を見せるというと、ルートチャクラから第二のチャクラへ、エネルギーが上昇して解放されなくてはだめだ、へんちくりんな説明だがチャクラ的な説明が胴体については一番わかりやすいので採用している、そしてどうせ出来る奴は「九折さんがそう言っているからマジなんでしょ」と真に受けて取り組み、そのまま出来るようになるだけだからいいのだ、このことを最近は「全乗っかりの法則」と呼んでいる。

全乗っかりの法則、つまり人を信じ、人の話を信じるといって、その人の言うことに「ぜんぶ乗っかる」という方法があるのだ、これはオススメでもなければ強制でもなく、ただ「そういう方法がある」という、改めての提示にすぎない。
全乗っかりといって、何もかも全乗っかりする必要はないし、そんな方法を使わなくてもいいのだが、実際にそういうことにびっくりするぐらい勇敢というか、びっくりするぐらい素直な人がいて、たとえばそういう人に、僕が無意味に「ショートヘアにしたら」と言ったとしたら、その人は何の躊躇もなく(というか何のテンションもなく)、「はい」といってそのままショートヘアにしてしまうだろう、こういう人は怖いのだ、何が怖いといって、僕の言ったことをたちまち身につけてモノにしてしまうから怖いのだ/それは僕が言ったことを身につけるのに当人が抵抗を持たないという、超伝導のような仕組みで伝達が起こってしまうということだ、この方法をバカスカやられると、僕としてはいいかげん教えることがなくなってしまうほど、人の進歩や成長は急速に起こってしまう。
この「全乗っかり」という方法、よくよく考えると、確かに有為な方法で、この方法を持っている人は、おおよそ己の愚かさを知っているのだ、己の愚かさを根本的に知っているので、自分のことを自分で決めるということが、必ずしも正しいわけではないということを、骨の髄から知っているところがある、それで自分のことを決めるのに、「自分で決めることよりもこの人が決めたことのほうが正しい」と判断していて、まるで自分でショートヘアにしようと決めることよりも、躊躇無く僕の言うことを聞いてしまうのだった。
そこで、僕自身も思い出すと、やはり僕自身もすべての進歩の際に、必ず「全乗っかり」をどこかで採用しているということが思い出される/そもそも僕は、愛のある人・光のある人が、愛をもって話してくれていることに、あるいはその話そのものが愛を帯びているときに、それを「疑う」ということのやり方がよくわからないタイプなのだ、疑うという機能がまともにはたらいていないという状態でもある、つまり僕は「全乗っかり」か「全聞き流し」のどちらかしか機能を持っていなくて、現在の僕のすべては何一つ努力ではなく全乗っかりのみで得られてきたということがわかる、それ以外のことはすべて聞き流してきたのだ、我ながらなかなか厚かましい奴で恥じ入るよりない。

僕には「信じる」というプロセスがない。

「疑う」というプロセスがないので、それを書き換える「信じる」というプロセスもない、ブッダが阿弥陀如来を説いたなら「そうなのだろう」という気しかしないし、キリストが死後によみがえったというなら「そうなのだろう」という気しかしない、単にアホなのかもしれないが、僕はそもそも全乗っかりする話しか耳に入らない体質なのだ、その他のことは長距離トラックのエンジン音のような何かの騒音にしか聞こえていない、このふたつを聞き分けるプロセスや、このふたつを審査するプロセスさえ僕は持っておらず、まるですべては勝手に僕の耳から魂にすべりこんでいるように思える。
ワークショップでは、努力や積み重ねで得られるものは何一つ提示していないので、言い換えれば「全乗っかりで得られるものしか提示していない」という状態だ、そりゃ僕自身がすべてそれのみで現象を獲得してきたのだからしょうがないだろう/じゃあ何に時間が掛かるかといえば、全乗っかりしてもしばらくは生身の側が完成に向かってゆくのに時間が掛かるということだ、あまりに高次元な現象あるいは激しい現象は、全乗っかりしても「身体がついてゆかない」ということがある、そこで全身のタフさと全身の体質の盤石を鍛えるのに時間が掛かるということはある、でもそれらはすべて全乗っかりの「後」に進められることだ、全乗っかりする前にゴソゴソトレーニングすることは何の足しにもならない、じゃあそのときは何をしたらいいかというと、「全乗っかりしない自分」を確認するという作業をすればいいのだ、これこそ真に値打ちのある自己追究の時間と言えるだろう。
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第97回Quali's Party[10月19日(土)]無事盛会!

10/21 Quali tweet> 毎日がパーティでね pls entry

joined: ひろみ、あきら、りさ、ゆか、りえ、こりん、ゆうさく、くおり
date:2019年10月19日(土)19時〜23時
place:原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB


おかげさまで無事盛会でした! ありがとうございます。
次回もよろしくお願い致します。九折

キラキラ次回[11月16日(土)]加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


費用男性5000円 女性3000円
参加資格ブログorサイトのファンであること
→その他詳細はこちらから

皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております! どうぞお気軽にご参加くださいませ。九折

宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その6」はこちらから!

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ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 10/18更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第百十回】10月18日(金)19時〜@19:00〜世田谷公園、21:00〜マイレッスンスタジオ
【パーティ回】10月19日(土)19時〜@Dinning bar CLIMB
【第百十一回】10月25日(金)19時〜@公園とスタジオ検討中
【第百十二回】10月26日(金)19時〜@公園とスタジオ検討中
【第百十三回】11月1日(金)19時〜@公園とスタジオ検討中
【第百十四回】11月2日(金)19時〜@公園とスタジオ検討中
【第百十五回】11月8日(金)19時〜@公園とスタジオ検討中
【第百十六回】11月9日(金)19時〜@公園とスタジオ検討中


(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。世田谷公園では青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(公園場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり)

(雨天時・寒冷期・深夜はスタジオを使用します、随時ブログで通知致します)
(スタジオは主にこちらを使用しております→マイレッスン "三軒茶屋" スタジオ

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)
→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第97回】10月19日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第98回】
11月16日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第99回】
12月21日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB

♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


グローバル化ですよグローバル化(今さら)


みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

 

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余裕がない
だの愚痴でしかないが、余裕がない。
まるで暴風雨の中でライターを点けているような気分になる。
風の流れを読み、雨滴を弾きとばしながら、「理論上は可能なはず」といってライターを点火しているような、曲芸をしているような気分だ。
集中力の極限を用いれば、確かにそれは可能だが、それを通常営業とするのは不自然すぎるだろう、もうおれが不自然だからといって、おれ自身も注目しなくなってしまったけれども。

草津に行って骨休めしてきたのだが、帰宅して一晩経つと、起床後、もう自分を追い込んでいることに気づいた。
目が覚めると、もうその時点で、異様なほど自分を追い込んでいるのだ、そうでなければ書くものなんて見つからないからだ。
だがこれは不自然な状態で、不自然といってもそれしかもう方法はないにせよ、不自然ということも見落とすわけにはいかない、これではもう親族が全員急死しても一ミリも動揺しないような状態だ、そんなことは僕にとってはへっちゃらだったとしても、そんなやり方を元に誰か何かをおすすめするわけにはいかない、非人間的すぎる。
余裕がないのだ、「うぬぼれ」を題材にまとめた話を書こうとしているのだが、それ以前に余裕がなさすぎ、一秒も隙間なく自分を追い込んでいるのが病的だと、ひとまず自己確認するしかなかった、これはただそれだけの話で他意は無い。

目覚めると、すでに自分を追い込んでいて、一方で「自分の部屋か」と、目覚めの場所に驚いている。

つまり、自分がどこで眠っていて、どこで目覚めているかも、すでに見失っているのだ、こんな余裕のない状態を常にするというのは、僕には可能でも、他の誰かに勧められたものじゃない、何かもうちょっとまともな状況が訪れてほしいものだ、ただの願望にすぎないにしても。
この先に何かあるのだろうか、もう何かあってほしいというような希望さえ、不必要なものだとして消去してしまったが、そういったことも含めて余裕がなさすぎるだろう、脳みそも全身の霊も、常に何か大量の演算をしている、そうすれば確かに暴風雨の中でもライターの火は点くのかもしれないが、これを「まとも」とは言えないなと、あてもなく認めているのだった、だからどうしたらいいという方法にはまったくあてがない。
バカをやろうかあ | comments(0) |
「うぬぼれ」再考5
に立たない話はしない。
何十年も生きていくのに、すべては「うぬぼれ」に吸い込まれて、すべてが無為になるというパターンを、もう見たくない、単純に飽きたという事情もある。
チヤホヤされただけで、情緒がジワッとゆるむ奴は、どうしようもないアホで、何ひとつ徳性が解放されていないという、シンプルな話をしている。
チヤホヤされない人は問題ないかというと、そうではない、チヤホヤされないのはただの気の毒な話で、チヤホヤされたいうぬぼれ欲求が、常時「不満」の状態を作りだしているだけだ、年寄りが機嫌の悪い顔で歩いている理由はそれだ、チヤホヤされないからブチギレという老人がいくらでも街中を歩いている。

生きるために頑張る人ばかりになり、何かのために生を燃やす人がいなくなってしまった。
別にそれはかまわないのだが、その方向に徳性は皆無だし、何百年生きたとしてもすべてが無駄になる、何かのために生を燃やさないのだとすると、すべての原理は「うぬぼれ」でしかないということで、このことに飽きたと申し上げているところだ/YouTuberを何万人検索したとしても、「何かのために生を燃やしている人」はいない、YouTuberはすべて「うぬぼれ」の原理でしか駆動していないし、だからこそ広告料をアテにして食い扶持にしようと必ず考えているのでもある。
誰も「何かのために生を燃やす」とは考えていなくて、そのことをまさか罪とは考えないし、誰だって「自分なりに頑張っている」と思っていて当然だが、その発想は根底を「うぬぼれ」に支配されているので、後に必ずブチギレ顔の老人になってしまう、自分をチヤホヤしてくれるセールスマンの営業トークにしか乗っからない老人になるのだ。

「チヤホヤされつつ、そのことを食い扶持にする」という願望だけが蔓延している。

YouTuberもそうだし、アイドルもそうだ、若い人の大半がアイドルとYouTuberになる願望を抱えているのは、はっきりいって異常であり、異常であるのみならず猟奇的だ、ケツの穴をいじくりまわすと人はそういう生きものになる、とんでもない話だが本当にそうなので致し方ない。
自身に巣くっている「うぬぼれ」に対抗しなくてはならないのだが、「うぬぼれ」に対抗しようとした途端、いきなり「死にそう」な体感になるだろう、それで合っている、これまで不潔な「うぬぼれ」パワーで生きるエネルギーを得てきたのだから、それをいきなり断てば急に「死にそう」な感じになるのは当たり前だ、その中で自分は何かとつながっているかを考えなくてはならない、まあろくな結果しか出てこないだろうから、理屈はそうでもさしあたり気軽に取り組むしかない。
正しく見ないとな | comments(0) |
「うぬぼれ」再考4/「うぬぼれ」と「天使」
(深い哀しみの中からは常に戦士が立ち上がる)
「うぬぼれ」の感情は、生の情緒であり、生まれ落ちた身の、生来的、生理的なもの、では「そうではないもの」にどうして接続するか。
もし「そうではないもの」に全身を支配されたとき、初めはその未知の歓喜に、あなたの全身はびっくりし、混乱と思わず拒絶反応を示すかもしれない。
われわれは神ではないが、生まれ落ちた身の、生来・生理から切り離されるとき、天使のようになる、それは天使のようというよりは、天から使わされているのだから天使なのだ、天使という事実であってそれは不遜なことではない、天に使わされた者の位はそこまで高くない。

生後六ヶ月までの赤子が、明らかに大人と異なる霊性を具えているのは、まだ頭蓋骨(頭頂)が塞がっていないからで、また身の業(カルマ)が立ち上がっていないからだ/生後六ヶ月までの赤子は、無力だが天使の状態にある、「天使のよう」ではなくて「天使」だ、だから逆に生後六ヶ月までの赤子は大人びている。
生後六ヶ月までの赤子には、「うぬぼれ」は存在しえない、なぜならまだ「生」のメカニズムが立ち上がっていないからだ、だから天使の状態で、大人を使役する資格を持っている、母親をはじめとして大人たちが甲斐甲斐しく世話するのは「かわいいから」ではなくて、直接赤子が「偉い」からだ。
すべての営みを、うぬぼれと無縁のものとすること、レベルの高低は問題ではない、レベルが低くてもうぬぼれから無縁であれば、それは命であり魂そのものだ。
周囲をよく見て、また歴史的な芸術をよく見て、自分が真に愛しうるもの・真に尊崇しうるもの性質をよく見ろ、ただ「うぬぼれ」がないという一点、それだけで営為は命そのものになり、魂そのものになる。

二つのジャンルに区切られる、そのジャンルは「うぬぼれ」と「天使」だ。

慾望を我慢したとして、その者の位が上昇することはない、我慢しているのは「都合によって隠しているだけ」だ、生後六ヶ月までの赤子は何も我慢していない/何らの隠蔽・細工・我慢なしに、すべてを解放した上で「天使」でなくてはならない。
レベルの高低に関係なく、ただ偽りのない解放状態で、エネルギーを下層から上層へ引き上げている者は、「天」に使役されている、そうでない者、上層エネルギーを下層へ引き落として「うぬぼれ」に消費している者は、「生」に使役されている、よってあなたが女なら、あなたは生きもののメスではなく天女にならねばならない、レベルの高低は関係ない。
正しく見ないとな | comments(0) |
「うぬぼれ」再考3
り分かりやすいように、簡単な話をしよう。
胴体の最下部に、ルートチャクラ、「生きる力」というチャクラがあるとし、たとえば心臓付近に第四のチャクラ、友愛や親愛、兄弟愛のチャクラがあったとする。
このとき、「生きる力」から得られたエネルギーが、体内を上昇して、友愛のエネルギーとして解放されるなら、それはエネルギーの方向として「上昇」しているのがわかる、胴体の最下部から心臓まで上ってきているのだから当たり前だ。
逆に、誰かから友愛・親愛・兄弟愛を受けたとしても、そのエネルギーが胴体の最下部にまで落ちて解放されるのなら、それはエネルギーの方向として「下降」「落下」しているのがわかる、今話しているのはただそれだけのことだ、エネルギーがチャクラ間を「上下」どちらに行っているかというだけの話だ。

分かりやすく、アホに感動の名作映画を見せたらどうなるか、と考えよう。
アホに感動の名作を見せると、その作品の示している世界や愛、すべての徳性が、アホの体内を落下してゆき、すべては彼の「うぬぼれ」に消費されることになる。
極端な話、天才バレリーナの踊る姿を、アホのキモオタに見せたらどうなるかというと、アホは「ぶひひ、この僕にそんな身体のラインを見せつけて、けしからんですね、お仕置きものですね、ぶひひぃ」と、すべてを己のうぬぼれにしか転換しない、彼はそうすることで自分の生きる力を補充しないと死んでしまうような行状なのだ/ざっくりした言い方になるが、実際キモオタやそういうたぐいの性癖者は、そのことで「生きる力」を補充しているのだ、それがないと死に向かっていってしまう。
まさか、映画やバレエを観たところで、そんなブヒヒとかならないですよと、大半の人は思うだろうが、そこは甘く考えないほうがいい、あなたが天然で生きる力を大地から直接爆発的に得ているような人でないかぎりは、決して甘く考えないほうがいい/僕がきれいな花園を見つけて、「すごくいい香りがするから」といって花束を作ってあなたに差し上げたとしたら、あなたはそれを受け取って、一ミリも「うぬぼれ」に転換しないかというと大変アヤシイものだ、エネルギーの行き先をどうしたらいいかわからない――まだ高度な精神を解発していない――なら、困ったあげくそのエネルギーは落下して「うぬぼれ」として味わわれるしかない仕組みだ。

「生きる」ということは、すべての命を食い殺し、胴体の最下部から大便として排出するという営為だ。

「生きる」ということは、そういう「落下」の方向だということを見よ、生きるというのはそういうことだとして、では「命」とは? ということになるのだ、命というのは逆、生きるエネルギーを上位の高さに持ち上げて解放することを言う/なんでもかんでも消費するのみの人は、本当にただ「生」のシステムにしか属しておらず、案の定カルマ(業)を溜め込む営為しか重ねていない、生きていて異様な苦しさを感じるのはそれが理由だ、そんなものヴィーガンになったとて解消されない。
生きるエネルギーを、自らの意志および怒りとし、意志はガッツ(はらわた)となり、はらわたは胸(ハート)となり、ハートはジョークとユーモアを創作し、ユーモアは叡智を見いだし、叡智は世界を与える、やがて世界はわたしになる、という仕組みだ、下層エネルギーを上層エネルギーに持ち上げて解放するのがナイスであり、その逆が「うぬぼれ」というだけだ、仕組みとしては簡単だが、受け取った花束を一ミリもうぬぼれにしないというのは実際にはとても困難なことだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
「うぬぼれ」再考2

れわれは、地上に「生み落とされた」のであって、「生み上げられた」わけではないので、「生」というのは本質的に「落下」だ、この性質を冷静に見る必要がある。
たとえばここに、二人の料理人がいるとする、この料理人は、表面上は同じような料理人に見えながら、一方は「生きるために料理をやっている」と感じられており、他方は「料理をやるために生まれてきた」と感じられている。
「生」は方向として「落下」だから、「生きるために○○する」というのは、方向として落下にあたる、このことを「業」といい、だから「生業(なりわい)」というし、職業といい営業という/われわれが生まれ落ちたことは業(カルマ)であり、生きねばならないというのもまた業(カルマ)だ、この業(カルマ)が償却されるまで輪廻が続くと仏教説はいう。
「生きるために料理をする」という料理人は、料理という徳を、生きるために落下させているということ、だからこそ彼はいかにも職業人(プロフェッショナル)に見える、他方「料理をやるために生まれてきた」という料理人は、生きるという業を、料理という徳のために昇華させているということ、だからこそ彼はいかにも明るい求道者に見える。

女性は生まれつき、即座に「プロ」になる方法を所有している、つまり売春をすればただちに「プロの女性」になる/プロというのは「食い扶持を稼ぐ」(それによって「生きる」)ということだから、女性は生まれつき、潜在的にプロの売春婦たりえるということ、そのことはすべての女性に一度ならずそう考えたという心当たりがあるはずだ。
そして女性が、売春婦あるいは、そうでなくても「生きるために」セックスをし、ヴァギナの力を使ったとき、自分は何か「転落」したという印象を、自分自身に受けるはずだ、それは「生きる」ということの方向がそもそも落下の方向であることを意味している。
なるべくその「落下」を防ぐために、たとえばお医者さんは、直接お金を受け取らないシステムになっている、誰だって医者に掛かったとき、その治療費は「病院・医院」の「会計受付」に払ったはずだ、医者当人にカネを渡すシステムは基本的にない、それは習い事の「先生」に対してもそうで、なるべく剥き身でカネを渡さないようにして、「プロ」=「生きるための落下」を起こさないように配慮している。
誰だって胴体があって生きており、まず知るべきは一点、落下と昇華という矢印の方向について、「生きるために徳性を落下させている」のか、「徳性のために生きることを燃やしている」のかを知る必要がある、前者はいわゆる「プロ」であり、だからこそ、たとえばオリンピックには原則としてプロは参加できない/それは、プロには「うぬぼれ」が許されるが、オリンピックには「うぬぼれ」が許されないということでもある。

「生の情緒」が、「うぬぼれ」だ。

反証に、幽霊をイメージすると、幽霊というのはさすがに「うぬぼれ」は持っていなさそうだ、仮に幽霊が出現したとして、それをチヤホヤおだてようという発想は誰も持たない/つまり「うぬぼれ」という情緒は「生理的」だということ、生きるということが情緒としてはうぬぼれであって、「生まれ落ちた」ということは「うぬぼれを宿された」ということに等しい。
かといって、じゃあ即死しろというわけでもない、生の情緒がうぬぼれだったとして、即死してそれを解決しようという話ではない、「うぬぼれ」という情緒がそういうものだとネタバレすれば、それに対抗することが十分に可能だというだけのことだ/うぬぼれを元として何かを営むこと(落下の方向)と、己の燃焼を元として何かを営むこと(昇華の方向)は、まったく別のジャンルだということ、さらには正反対のジャンルだということ、プロスポーツとオリンピックは別ジャンルであり正反対のジャンルでもありうるのだが、このところはオリンピックも実質的にプロ化してしまったので、かつてのようなオリンピックの神聖さはありえなくなった(メダリストはそれを食い扶持にするのが通例になった)。

正しく見ないとな | comments(0) |
「うぬぼれ」再考

前にも「うぬぼれ」の話はしたけれど、ここにきて再考、再考しても同じような話だが……
どれだけ金持ちでも、どれだけ有能でも、どれだけ歌と踊りが上手に見えても、どれだけ美貌にすぐれ身体能力に秀でていても、一ミリでも「うぬぼれ」が混入するなら、それは別ジャンルになる。
うぬぼれが混入するものは、すべてうぬぼれから始まっており、どう取り繕ってもうぬぼれに終始することになる/このことを教わっていない女性はとても不利だ、教わっていれば対抗することじたいはさして困難ではないので。
うぬぼれは、利己的遺伝子に由来した、まったく霊的ではない生身のものであって、つまり生きものの「生きる力」を支えている、生きものの性質とは、突き詰めるところ「自己の遺伝子が繁栄したら他のことはどうでもいい」ということだ、まるでかつての徳川家の発想そのもののような具合だ、これは善悪ではなく、ただその「うぬぼれ」が混入するかぎり、それは別ジャンルのものになり、すべてのことはただうぬぼれを満たすためだけに存在することになる、このことを教わっていないのは非常に不利だ。

「生きる力」というのは、チャクラ的にいえば、ルートチャクラ、胴体の底にあるチャクラで、つまり女性でいえば穴が空いている部分だ、よって女性は生来的にこのチャクラの常時開放があり、だからこそ女性は「おだてられる」「ちやほやされる」ということにとても弱い/もちろん男性でも同じところをいじくって活性化すると、穴が空いて制御が利かないぐらいうぬぼれ屋になる。
トレパネーションという発想があって、正気の発想ではないが、チャクラうんぬんというのは物理的に穴を空けることでも効果があるのだ、女性はその点、生来的に穴が空いているので、このルートチャクラの制御に多大な苦労をする/だからこそ、女性は生きものとして「生む」という機能を持っているのでもある、<<われわれのうちでヴァギナを通過せずに生まれてきた者はいない>>ということをお忘れなく、「生」の本質とはそういうものだ、脇の下から生まれてきたブッダ以外はこの例外たりえない。
「うぬぼれ」が一ミリでも混入すると、それは別ジャンルになるということなのだが、それについては次の記事でもうちょっとマジメに書き話したほうがよいだろうか、ともかくこれは面白いもので、人によっては追究するところ、「わたしはけっきょくうぬぼれ派」というような人が少なからずあって、そういう人は「うぬぼれ」を除去すると、実は一ミリも動けないのだ、多く活発で活動的な人はただの偽装されたうぬぼれ派ということが実に多い。
人はどう取り繕っても、けっきょくは自分が心底から信じているほうへ強制的に流れていくしかないのだが、つまり堰を切って――解放されてみて――自分がどちらに流れるかというと、けっきょく「うぬぼれ」のほうじゃんということはすごく多いのだ、それは自分がどちらのジャンルに属している者かということを示している、表面上がどれだけ立派な、立場と権威のあるご老人でも同じだ、本質は生身と霊の胴体だから。

チヤホヤされると、女性はヴァギナがごきげんになる、男性はケツの穴がごきげんになる。

おじさんたちが、キャバクラに行って、セックスもできないのに高いお金を払うのは、若い女の子たちにチヤホヤされて、ケツの穴をごきげんにしているのだ、それでキャバクラでの遊びがしわいと(ケチだと)、「ケツの穴が小さいわね」となる/「うぬぼれ」は生きる力なので、おじさんたちはそれで生きる力をゲットしているのだ、このことが積み重なっていくと、やがて男性も自身のアナルで性交するようになる、一般にオカマさんがふっきれたナルシシズムを持っているのはそのせいだ、だからオカマさんは自分にとんでもない派手な名前をつける(また、キラキラネームが流行るのも、同じ「うぬぼれ」からの現象だ)。
実験してみるとわかるのだが、女性と性交するとき、その女性と性交するのに目の前でお金を段階的に積んでいくと、その積まれたお金に比例して、女性のヴァギナは活性化し、濡れて、ごきげんになっていくのだ、本人の意志とはまったく関係なしにだ、この実験の事実をもし目の当たりにすることがあったとしたら、ほとんどの人は恐怖すると思う、ヴァギナという器官そのものがマネー(血、生きる力)の供与によって変動していくのだ、「生」というシステムはそういうすさまじいシステムであって、このことは隠蔽していても各人の内部ではたらき、当人を支配している、その支配に属するかぎり、いかなる表面の事象もすべて「別ジャンル」になるということだ。

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或る少年の告発

(この声の主はフィクションです)「僕たちの邪魔をしないでほしいな」
「見てごらんよ、このあたりの建物は古いだろう、歴史があるんだ」
「確かに僕たちの暮らしは、スラム同然さ、でも生活が貧しいということは、生きることが貧しいことを意味しない」
「僕たちは、この町から出たことはないけれどね、でも世界中に色んな人たちが色んなように暮らしているのは知っている、見たことはないけれど知っているさ、見ていなくてもつながっているからさ」

「何のために生まれたのかなんて知らないし、何のために生きるかなんて知らないよ」
「でも、同じ場所に生まれて、こうして仲間たちがいる、同じ場所に生まれたってことは、仲間なんだろう」
「そして他の場所でも、同じように、生まれた者同士が仲間になって、僕たちのように暮らしているのを知っているよ」
「それがどういうことなのか、僕たちにはわからない、でも見たこともない彼らがそうやって生きているんだから、僕たちも生きていくんだよ、そうやってロックを感じる、同じ魂が僕たちにもあるんだ、僕たちが子供だとしてもね」

「僕たちは子供だけど、バカじゃないよ、僕たちの使命は、バカな大人たちにならないことさ」

「僕たちの邪魔をしないで欲しいな、もうすぐ日が暮れる、これからがいいところなんだ」
「僕たちは満足している、その満足している僕たちに、満足していないあなたが説教することはないよ、あなたはいつからか、このつながりから切れてしまったんだろう、僕たちはそうならないことに必死なんだ」

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WS報告059(2)/オンラインワークショップ感想
ンラインワークショップを、実際にやってみた、初めは「空手の通信教育」みたいにバカにしていたのだが、実際にやってみるとそうでもない、たいへん知的にタフなワークであって、参加者たちからも好評だった。
まあもともと、おれは文学の徒であって、テキストを組むのが本分だから、こちらのほうが圧倒的なものをお見せできたというところはあるのかもしれない。
もちろん僕のことだから、前もって何の準備もせず、つまりこの形式でいうと何の書き溜めもなく、始まったらその場ですべてを提出していくわけだが、こちらが書斎に専用のキーボード(東プレ)を構えているといっても、そもそも単位時間あたりに提出されるテキスト量とその組み立ての速さじたいに、格差を見せることができたと思う、参加者はついてくるだけでも精一杯だったろうし、ましてスマートホン端末からではテキスト入力なんか追いつかなかっただろう/あれでもおれはのんびりやっている感覚で、そのあたりもう一般的なペースというのはおれにはわからないのだ、どうせ同じように生きていくなら誰でも、そうしたケタ違いの部分を持てれば何よりだと思う。
オンラインの、テキストオンリーで、けっきょく20時から朝の5時までやったのだから、そのあいだずっとテキストの生産を続けるだけでも、訓練のない人にとっては至難のはずだ、そして内容的に面白くなければ、そんな長時間絶対にやっていられないので、ある意味「本当に面白いか」ということがダイレクトに試される形式だったと思う/ライブに耐えうる生産量を出力するのはなかなか本当の力が問われるところだ、誰か同じように朝の5時までやってみたら、本当に必要なものは何かというのが直接わかると思う、まあ誰もそんなアホなことにトライするとは思わないが……

金曜日の夜中には、「おすすめを訊かれたとき、おすすめを答えてはならない」というワークをやった、土曜日は20時から、「五行詩から考える言葉の性質」をやり、その後は「ミニミニ物語と理論のコーナー」をやった。
これらが何のワークだったかというと、つまるところ、意識と言葉を切り離したいと思って取り組んだことだ、われわれには「思う」という機能とその習性があって、「思う」と「言葉」はまったく別モノなんだよ、ということを直接知ってほしかった/われわれにとって「思う」ということは弱みであって、能動的な機能ではない、思うことをやめられないのがわれわれだ、これを振り回して創作と言い張るようではとんだ取り違えになる。
一人の青年は、ワークの作用で「自宅がスタジオマイレッスンになった」という恐怖の悲鳴をあげていたが、そのせいか、後半には突如、「なんだこいつ」と周囲の度肝を抜くような高次元のテキストを出力するようになった、いきなりそこまで跳躍されることを予想していなかったので、もう彼に示す次のステップというと、しょうがないのでゴリゴリの文学の手法を提示するしかなかった、そうなるとおれも別のスイッチが入ってしまうので、そこからは全員何か別のムードに吸い込まれていってしまった(しゃーない)。
ミニミニ物語のコーナーといって、「物語はA→A’である」ということ、および「動力たる "→" は思念でなく "出来事" である」ということを示した、まあこれは面白かったのじゃないか、魂と出来事の関係がよくわかるし、出来事を直接ディールするほうが結果的に魂は濃密に得られる/これは何をやらせようとしているのかといって、先に言ったように、「思う」と「言葉」は別モノなので、切り離そうとしているのだ、それを切り離さないでいることは、知られざるにしても実はシッチャカメッチャカな状況なのだ。

「思う」と「言葉」を直結しているのは、「テメーどの線をスピーカーにつないでんだよ、アホか」というような状態だ。

また僕はこうも言った、「自由闊達に話せるとしたら、それだけでひとつの成功者じゃないか」/仮にこのブログ記事を、当該ライングループにそのまま貼り付けたら、こうしたささやかなブログ記事でさえ、どれだけのテキスト量があるかはっきりわかるだろう、われわれはポカーンとしているから色んなことを見落としているのであって、もし物事のすべてが視えるようになれば、この世界は手に入れたいものであふれかえっているのがわかるだろう。
ワークショップではいつも言っていることだ、「誰だって、この全身を、生涯ずっと使うしかないのであって、また自分の言葉を、生涯ずっと使うしかないのだから、今のうちに正しい使い方をまとめて知っておけば、この先ずっと有利じゃないか」、ただそれだけのことであって、何か出来合いのものを足そうとしているのではない、もともと与えられてあるものを正しく使い切るように誘導しているだけだ/身体にせよ言葉にせよ、呪縛されていたら使えないし、わざわざ呪縛されているところから動かそうとしてはだめなのだ、呪縛されていないところから順に動かすということ、このわけのわからない話も、オンラインワークショップ経験者は何を言っているか少しだけわかるだろう。
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WS報告059(1)/シンプル、外側と内側
風の接近もあり、金曜の20−23時だけ平常ワークショップをやった、その後はまさかのオンラインワークショップというナゾの試みをしてみたが、これも案外評判はよかった。
とはいえ、いよいよ風雨が荒れてきて、こんなアホなワークショップうんぬんの話をするのは気が引けるな、とりあえず金曜の20−23時は、身体の外側のことと、内側である内臓のことをやった。
外側は外側で、正しく使えていないともったいないし、身体を使うといって、その内側の内臓パワーが使えていないと、そこに「こころ」はないよということをわかりやすくやった。
時間が短いので、あっというまに終わる反面、濃密で、短いがゆえに内容が捉えやすかったという向きもあった、色鉛筆ちゃんが武術系の事象について「見ていて面白いとわかった、視えるようになった」と、大きな躍進を示した。

身体の外側というか、物理的な機構として、いつも関節の話をする。
「一番大きなパーツは胸郭と骨盤」「それが背骨で接合されている」「それが真ん中のパーツだとしたら、次の関節は肩と股関節」「肩と股関節の構造はよく似ている、どちらとも、自動車に当てはめれば、本体にタイヤが嵌まるところだよな」「で、肩の先といえば肘で、股関節の先といえば膝だろ」「その先は手首と足首で、言ってみればそれで全部じゃん、実はそんなにたくさんないでしょ」「この先、一生この身体を使っていくのだから、今のうち正しい使い方をまとめて知ってしまえばスゲー有利じゃん?」、と僕はよく話す。
身体というのは、末端にいくほどわかりやすく、見えやすく、認識しやすい、だから手指でグーチョキパーを作るのは割と簡単だ、ところがこれが肩や股関節の構造となるとまったくわからなくなって、さらに中心の胸郭やら骨盤やらというと、そもそも「ここって動くの?」というのがスタートラインだ、こんなデタラメな知識と感覚のまま一生を過ごそうということのほうが無理がある。
そうして身体の外側を正しく使うこと、これを正しく使うということは、「パワー!」をやらないということだ、「身体ってもともと "動く" ものなの、それが固まっているから "動かす" のに力が要ると思い込んでいるのね」/そうして、身体の外側は「パワー!」をやらない、いわゆる身体操作というとそれだけだが、当ワークショップでは「こころ」にこだわるので、心臓を中心として内臓パワーを響かせてみろということに取り組む、「これがごまかし利かねえんだよ、ガツガツ飲み食いして腹の底から笑ってオウと明るい声が響くかというと、そういうのってインチキで出来ないでしょ」。

つまり「外側のパワー外してみろよ、内側のパワー明らかにしてみろよ」ということ。

ただそれだけのことだが、ただそれだけのことが、いちばんごまかしが利かず、一番真の弱虫を暴き立てるのだ、人に向き合ってリラックスできるのは本当に強い人だけだし、そこから内臓の輝きを響かせられるのも本当に強い人だけだ、弱い人はどう細工をしてもこの真似事はできない。
このようにして、当ワークショップは、真に必要なことを教え伝える……つもりでいるのだが、その実際はというと、つまり「テメーがどれだけ弱くてごまかしに満ちたインチキ野郎かを、まず暴露しますね〜」という手続きになるので、現場はなかなかの黒歴史会場になるのだった、まあでもしゃーない、外側のパワーに内側の芝居を潜ませて実際にインチキしてきたのだからしゃーない、それを超えられる奴はけっきょくとても例外的な奴だと思うので、その例外的な奴になる手続きを勧めているのだった。
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あらゆるものとつながりをもって
白い話は何よりのごちそうだ、ということにしておこうか。
 物事を分割すると、構造は失われてしまうので、およそ「分かりやすいもの」および「分かりやすくしたもの」には何の値打ちもなく、「分析」した者は何も顕わすことができない。
 個々人の思いや思いつきは、何の用も為さず無意味だ、分割は人の力(ないしは罪業)であり、構造は神の力だ。
 神の力を、畏れることはないし、また誇ることもない、なぜならそれは人の力ではないのだから/僕はもう長いこと、分割された人々を内心に見捨て、僕自身のみ今もすべてのつながりの中に佇み続けている、この裏切りは、しかしいつか人々が戻ってくるときの標として僕自身を残らせ続けておきたいということなのだ、僕までが分割に与することはきっと誰のことも益さないだろう。

 神の力は、神によってしか視えないのだから、人がそれを誇ることはない、筋が違う/人は神性によってしか、神の力をまざまざと視ることはない、それは神が神を視ているだけなので、人が威張ることはない。
 構造が神の力であり、神が神の力を視るということを知れば、確かに神という事象は、憐れな人々を愛し、あわれみ慈しんでいることがわかる、神は確かに憐れな人々に胸を痛めている/それは人が人を憐れむこととは現象そのものが異なるので、人が人を憐れんだとしても、その分割的な作用は誰のことも救済しない。
 構造、という神の力の許(もと)にある憐れな人々は、それだけですでに救われていると言える、よって神のあわれみによってのみ無上無類の救済が得られるというのは、現象についての指摘として正しい/それは一般に人がイメージする「神」とはまったく異なっており、なまじ真の神は思いがけずわれわれの身近――というよりは己の身の内、魂の中枢――にあるので、いっそう誤解しやすい、われわれが外部にイメージする「神」は本当にただの空想でしかない。
 僕は一人の「人」であり、この「人」という機能のうちに神なるものはまったくない、ただ神性が降りてきているユニットというのは確かにあるらしく、それは「偉い人」ではなく「現象が降りてきている」だけなのだ、僕という人が偉いということは一ミリもない、きっとこの話がみんなの目撃している実際の現象に最も近い。

「偉い人」は存在しない、「人」は一ミリも偉くなれない。

 分割が人の力であって、構造が神の力だ、そこでどれだけ「偉い人」を設定しようとしても、人は「分割する力」しか持てないのだから、そこには何の構造も生じない、だから人為的に「偉い人」になった人は、孤立して思いつきのわがままをしようとする、それは実に「人」の頂点であって、人の偉さは神と何の関係もない/つまり、きわめて身近な現象でありながら、「人」と「神」は別の現象なので誤解を生じるのだ。
 「構造」という神の力においては、「人」はあまり関係なくて、場所というか地にまずその力がある、天地の関係が「場所」という現象を作り出していて、「人」というのはその「場所」にうごめくあわれなユニットたちにすぎない、そのことを概念にイメージしていてもむろん何の意味もなく、神が神の力を視ていること、その偉大さと慈愛にあずかることをよろこぶしかない/おれという人が実にただの一人の「人」でしかないことがよくわかる、これを「構造」――別名を「物語」――の力に取り込んで救済しているのは人の力でなく神の力だ、それは信仰の問題ではなく現象の区分の問題でしかない。
正しく見ないとな | comments(0) |
センスを誤解した消費者
りから覚めるとき、夢うつつに、ふとすんなりした明視が滑り込んでくる、このことはもう数年も、毎日のように続いている。
 つまるところ、センスと態度が合っていないのだ、当人は自分にセンスがあると思っているのだが、実力としてはセンスがないので、態度と実力がちぐはぐになっている。
 センスがあるかないかは、すぐにわかる、何の味付けもない白紙の状態で、監督・脚本・指揮者・一人舞台等の場所に立たせればいいのだ、何をしたらいいという外圧を加えずに、ただその人だけをその場所に立たせればいいのだ、そうしたら実は「何のセンスもない」ということがわかる。
 センスがないということは、別に悪いことではなくて、ごくふつうの当たり前のことなのだが、これを自分はセンスがあるものだと、もう十数年も誤解して生きてきたのだろう、むしろその自負だけが知らぬうち自分の生きる支えであり励ましだったかもしれない、今さらそれが「まるでありません」とは急に切り替えが利かないに違いない。

 ほとんどの人に、センスなんかないのだ、何度も言うように、そのことはただの平場の、マスターの地位に立たせればわかる、自分では何一つ創出できない、センスなんか空っぽのデク人形だ/当人はいつのまにか、それを当たり前だとは思わず、勝手に「屈辱だ」と感じるようになっている、この仮想の屈辱感がどこから湧いてくるかというと、むろん当人の妄念からでしかありえない。
 現代、多くの人は、ただの労働者かつ消費者であって、消費者が今、大量の商品およびコンテンツをつまみぐいしているから、消費者としての性癖への執着が「センス」だと誤解し始めたのだ。
 繰り返すが、現代人は、本当の本当に、一切の掛け値無しに、ただ消費物を大量につまみぐいして、そこからこじれた性癖を「センス」と思い込んだだけだ、つまり思ったよりもひどいというか、思ったよりも醜い状況にある。
 どうしても納得のいかない人は、僕の隣に並んでみればわかる、別に意地悪で言っているのじゃない、誰にとっても時間の無駄をするべきではないから、あくまで利益追求的に申し上げている、僕の隣に並び立ってみて、ただの小話のひとつでもしてみればわかる、センスなんか何一つないのだということが事実としてわかる/そしてそのことに気づくのは現在、早くても中年以後となっているのだから残酷な話だ。

本当にセンスの断片すらないので、扇情的な映像や振る舞いだけをまき散らしている。

 本当にただそれだけの構図なのだ、いざ平場に一人で立たされると、本当に「センス」と呼ぶべきものの断片すらないので、よくわからないから股を開いて乳を揺らしているのだ、アニメ声を出したり色鮮やかにしてみたり、とにかく媚びに媚びて、扇情してその場をごまかして切り抜けているだけだ/そもそも、なぜ消費者として過ごしてきただけの十数年の中で、自分に「センス」などというものが磨かれたと誤解したのか、それはしょうもない手口の甘い誘いに乗ったからだろう、よくそんな安易な自尊心のくすぐりに乗っかったものだと、自らを恥じねばならない、それはキャバクラでおだてられて未払いが嵩むおじさんよりレベルが低い。
 僕の隣に並び立ってみればわかる、そこには何も消費するものがないから、消費者としての自分の「センス(誤)」は、何一つ役に立たないのだということがわかるだろう、それであなたは自動的に、自分の防御のシステムとして、その場を取り繕ってやりすごそうとする、そのときに自分が「扇情」という方法を選択することにも気づくだろう、よくわからないから股開いておけというのが女の発想だし、よくわからないからカワイコぶっておこうというのが男の発想だ、媚びて扇情するか居直って恫喝するかの二者択一しか持っていない、これは意地悪で言っているのではなく万人の利益のために是正の方針を提案しているのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
世間は残骸である
かなることよりも「わたし」が先んじる。
 よって、最も先端にある「わたし」のことを説明することはできない、説明は「わたし」の後でしかありえないからだ。
 「わたし」はすべてを置き去りにすると言ってもいい、先端たる「わたし」には「わたし」という出来事しかない。
 それでは先端は「わたし」しかないように見えるが、そうではない、「わたし」の他には何もないが、そのとき「わたし」はすべてなのだ。

 すべてのことが「わたし」と未分化であるということ。
 だから何一つ始まることはない、すべてのことはもともと始まってあるのだから。
 時の流れにだまされないことだ、出来事のすべては0秒に無限圧縮されて起こっており、それが時系列に並べられるのは、われわれの錯覚という機能にすぎない。
「わたし」には成功も失敗もなく、つまり失敗は不可能ということだ、「わたし」に可能な手落ちは唯一、「わたし」でないものをわたしだと思い込み、わたしでないものに耽りこむことだけだ/それだとて、「わたし」の失敗にはなりえないけれども。

べ。

 全能の神は――もしそれがあるのなら――「わたしはアルファでありオメガである」と言っているのだから、「わたし」が「ベ」でもかまわないだろう、正確には "「わたし」を「べ」にしてみても何ら差し支えはないだろう" 、すべてに先んじる「わたし」はそのとき先端で「すべて」だと言っているのだから、「すべて」の中には「べ」も含まれていよう、このことは何もむつかしくない。
 認識可能な物質的世界があって、その箱の中に、認識可能な個別の人格が複数個群生しているという、そのことじたいが錯覚でしかない、いわばこの錯覚が繚乱しているから、この錯覚をもとに「わたし」を定義しようとする過ちを犯すのだ/世間知らずが馬鹿にされる向きがあるが、真相はまるで逆、世間というのは使い終わった「わたし」と「世界」とその出来事の残骸でしかない、すでに使い終わったあとのそれをどう舐め取ってみても何の味もしないものだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
体罰に関わる問題
代において、体罰というのは、もうほとんど使えないだろうと僕は思っている、僕の考えなんかどうでもよいことだが、僕はすでに体罰については否定派だ。
 少なくともそれが「体罰」というように、「罰」に見えているのだとしたら話にならない、罰というのは司法によってしか処せないものだから、司法手続きによらない「罰」というのは法治国家においてありえない、体罰に限らず罰金というのも含めて、「罰」というのは司法によってしかありえない。
 それでも便宜上「体罰」としか言いようがないのだろうが、体罰はすでに、局所的なものを除いては否定されるしかなく、体罰が否定されるということは、若年者が救われるということではなく、若年者が救われなくなるということだ、まあそれを承知の上で、僕は現実的な思考から、体罰を否定する立場を採らざるをえない、これは僕の温情ではなく冷酷を示している。
 もしここで、個人的にウソにだまされたくないと求める人がいれば、僕が個人的に、ウソにだまされてはいけないよとお話しすることになるが、あくまで個人的な範疇において、体罰についてブーブー言っている人たちはウソでありインチキだ、本質の問題はそこではない、本質は「寒い人たちの体罰」は目も当てられないのであって、その寒いものと「ナイスガイたちの闘魂のせめぎあい」を比較はできないということだ、よって本当の問題は、われわれが自分たちを「寒い人たち」だと認めないところにある、それを生涯を通して認めることはビンタの一発よりも遥かにきつく重いものだ。

 たとえばここに、「腹から声を出せないAさん」がいたとする/まあ腹から声を出せないといって、大半の人は生涯のうちに一度も腹から声なんか出せないのだけれども。
 このAさんを、「腹から声を出せないAさん」として生涯を定義してしまう前に、唯一の脱出口がある、それはしのごの言う前に、軽く拳をもって、「おい、ちゃんと気ィ入れてやれや」と、その胸を突いてやることだ、そうするとその瞬間にのみ漲(みなぎ)るものがある/もちろんそれをもって、必ずしもすべてのケースで漲るとは限らないのだが、唯一漲る可能性があるのだ、軽く拳をもって胸を突いてやるだけで、その方法しかないし、誰だってそんな単純なことからようやくすべてが始まることはある。
 現代において、体罰はすでに通用しないと僕が考えるのは、拳をもって胸を突くとして、それで彼の全身に危機感と高揚感を漲らせられるという、実際のパーソンがいないということもそうだし、それ以上に、すでに現代における人々の心身の荒廃は、そんなことで好転しないほど進行していると考えるからだ、本当に死んじゃいそうになる人が多くあって、そういう人は本当に、腹から声を出すなんて生涯にわたって「とんでもない」という庇護の中を生きていくしかない。
 Aさんに、「腹から声を出しなさい」といって、説諭のみをもってAさんの体質を変えるのは、どこかの時点からは不可能だ、それで弱々しいAさんを、そのままAさんの個性として保存するという考え方も勿論あるが、そのAさんがその先を、幸福と光輝に満ちて生きていけるかというと、それは誰にもわからない、Aさんは腹の底から笑うことが一度もなく生きていくしかないが、そのことを「しゃーない」というなら、もう初めからAさんに対して何かを教えるとか伝えるとかいうことの一切を諦めるべきだ、AIが判断して適宜情報だけ伝達すればよいだろうし、そういうことにかけてはAIのほうが優秀だろう/僕はそうしたときにどちらが正しいのかを決められないが、僕がただ問いたいのは、「拳で胸を突かれずに生きてきたAさんのことをあなたは愛するのか」ということだけだ、ここですべての問答は窒息するだろう、どうかウソ偽りなしにこの問いにだけ答えてもらいたいところだ。

人を愛していない者が、体罰だけを憎んでいたとしたら、その話は聞き流しておけ。

 別に体罰だけに限ったことではないが、人を愛していない者が何かを宣ったとして、それは人を愛している者が何かに奮闘していることとは性質が異なるのだから、区分して聞き流すことだ、人を愛していない者、何かを愛していない者が、何か正論めいたものを述べてみたとして、それは何も愛していない者の悲憤正論にすぎない、こんな馬鹿げた正論が何の足しになるだろうか?/そしてこの際、急に切り出された "何も愛さずに生きている者" という存在を、改めて異様なものと捉えなおすべきだ、それがたとえ己自身のことであったとしてもだ。
 体罰に関わる問題について、僕は「もう現実的に無理でしょう」と考える、まあ何の立場もない僕がどう考えても、世の中に何の影響もないことだが/腹から声が出ないAさんは、まったくの独力と、ネット検索した情報のみをもって、人格レベルから覚醒し、自己変革に到らねばならないのだ、その見込みの現実的でなさは、「もっと無理だろう」ともちろん考える、誰だってそう考えるから、誰もがそんなミエミエの無理には取り組まない、そうして時だけがすぎ、もう何もかも取り戻せない年齢になるだろう、そうなるともう考える必要もなくなるので、意識は眠るだろう……すべては当たり前で、何の問題もないように見える、何の問題もないように見えるのだが、唯一、Aさんは「愛される」のか? ということだけが残り続ける。
視点変えてこ | comments(0) |
悪霊の入口は「やることがない」
まざまなニューストピックが、もうトピックの時点で正気を疑わせるので、内容まで知ろうという気になれない。
学校の教師が教師同士で幼稚ないじめ行為に耽るとか、芸能人がタピオカ屋を罵って脅迫するとか、もう何のこっちゃわからない。
ここにある恐怖は、その犯罪性というよりも、「よくそんなヒマなことで、そんなヒステリーのスイッチが入るな」ということであって、犯罪性への恐怖ではなく、その本性の「得体が知れない」ということへの恐怖だ、犯罪性うんぬんよりも、当人があまりにも幸福から遠すぎることが、表面からはわかりづらすぎて恐怖だ。
先日まで「あおり運転」等が、これもまた「よくそんなヒステリーのスイッチが入るな」という恐怖を煽ったのだが、もうこれでは街中も旅先も、同僚も級友も、おっそろしくて気を許せないじゃないか、ハロウィンパーティはまだ先のはずなのに、リアルに魑魅魍魎がうごめいていて現代で言うところの草も生えない。

もうこれらの一切について、事件の正体を、「悪霊が憑いている」としか表現できなくなった。
どのように頭をひねってみても、事件の動機そのものが、まともな経路では発生しえないからだ、それでもう面倒くさいので、一律「悪霊が憑いている」と括るしかないと思える、実際ここしばらくで連続するわけのわからない狂気のニュースは、ぜんぶ「悪霊が大繁殖しています」とアナウンスされたほうがまともに聞こえるのだ、もうNHKから「今日も悪霊のニュースです」と報道してほしいぐらいだ。
そして僕の知る限り、人は生きていて「やることがない」となると、悪霊に入り込まれやすくなるものだ、いくら著名になって裕福になって、権力を得て顔が利くようになっても、根本的に「わたしのやること」がなくなると、人は無力だ、ただ時間が流れて老いていく中をのたうちまわることしかできない、そんなときどうしても悪霊に入り込まれる。
それは、仮に悪霊なんてものがいればという仮想を前提とするが、その上で、それは悪霊の第一の手口なのだ、まずわけのわからないものを肯定させ、そのあとで肯定を取り去ると、「あれ?」となって、その直後に「やること」を失う、このとき大きな恐怖に見舞われるから、ここでサッと別の「やること」を差し入れるのだ、すると人は恐怖から逃れるために、差し出されたそれに飛びつく、そうやって悪霊は人に入りこむ/仮に悪霊なんてものがいればという仮想を前提にしてだけれども、

必ずしも「うつ」の形で現れるとは限らない。

今や、著名人や身の周りの誰もが、「うつ」になったとして誰も驚かないが、「うつ」は神経症(ノイローゼ)の一形態でしかなく、それは必ずしも「うつ」という形で現れるとは限らないのだ、その多種多様な――ときには激烈な――現れ方を捉えようとするとき、観念的には「悪霊」という見方をするほうが、きっと感覚的には正しくなる/仮にその「悪霊」という言い方を採用するなら、すべては悪霊を肯定する前に対処することが大事だ、当人が悪霊を肯定した後では、その悪霊は生半可には出て行ってくれない。
そしてほとんどの悪霊の入口は、自分が「やることがない」というところから生じている、初めは生きるために「やること」があり、いちおうの成功を得ると、今度はその成功を満喫することが「やること」になるのだが、それも一段落すると、そのころにはすでに老い始めていて、途端にこれまでにすべてのことが、まるで肯定感を失って消え去る、すると自分の「やること」が完全に消えてしまう、このとき悪霊が入り込む、だからすべてを超えて自分の「やること」とつながっていることが大事なのだ、そもそも自分の「やること」とつながっていない日々のほうが極めて特殊で危険な状態なのだが、現代はその危険な状態がデフォルトになって、あまりにも多くの人がずっと綱渡りを続けている状況にある。
視点変えてこ | comments(0) |
自分のありようをごまかすクソだけはやめようと思ってきた
べての空想を取っ払うと、「わたし」という現象だけがある。
すべての認識に先んじて、この「わたし」という現象がある/認識に対応して湧いてくるニセのわたしは「吾我」であり、これはすべての横着から発生する怠慢の誤解にすぎない。
この「わたし」がすべてに先んじてあるのだから、いかなる高尚風味の概念も、「わたし」に先んじることはない、つまり「わたし」の後に続く、すべてはどうでもよいものの呼称にすぎない。
この「わたし」を売り渡すことが、横着であり怠慢であり、すべての罪の始まりだ、ルールブックから物事を引きだそうとしたスポーツマンのように、彼は罪に満ちている/「わたし」がすべてに先んじる、その他すべてのことはいくらでも書き換えが利く表面上の便宜にすぎない。

「わたし」こそがすべての出来事の主であり、この主体なしに出来事はありえないのだから、出来事とはすべて「わたし」のことである、よって出来事より上位のものはなく、同時に「わたし」より上位のものもない。
驚いたことに、「わたし」に追随する後のものは、すべて空想にすぎない、すべては実在のものではない、「わたし」はすなわち出来事であり、この出来事だけが真に存在している、このイグジスタンスを放棄したとき、やはりすべてのことはごまかした罪に堕する。
すべてのごまかした罪、すべての横着から生じた、認識に対応して湧いてきたにすぎない「吾我」は、これじたいが罪の産物であり、ここから生じてくる善きものは存在しない、すべてが認識の後から捏造された、存在のないコピー品にすぎない。
それは罪人にとってのみ用事がある、罪をごまかせるがごときに感じられるコピー品だ、いくら精巧に漏れなく仕上げ抜いたコピー品でも、それは「わたし」ではないので、そのコピー品は「わたし」のなんたるかにわずかも寄与しない、ここに「罪を否認した者たちだけが、罪の赦しを得られなかった」ということがありありと視える。

あなたがたは無罪である必要があるが、おれは無罪である必要がない。

おれは主体と罪の在処が別個にあることを、はるか以前に認めたので、無罪である必要がない、おれには罪を消す能力などない、罪を赦すかどうかはおれの裁量範囲にない、おれは罪を消したいなんて思わないし、それよりは自分のありようをごまかすクソだけはやめようと思ってきた、おれは正当化もしないし反省もしない、ただ自分と違うことだけは知らないようにしてきた。
おれは自分の罪状を、大スクリーンに展示されても、何の怯えも持たないだろう、もともと秘匿するつもりもおれにはないのだから、ただ今になってすべての美少女をレイプしたいかというと、おれはもっと美少女に気づいてほしいことがあることがわかった、別にレイプしてもかまわないしおれの罪状が増えることには何の異存もないのだが、もうおれはそんなことでは盛り上がらないだろう、そんなことよりおれはすべての主体について気づいてほしくて、そのことのためには美少女が服を脱いでいようが着ていようがどちらでもいい、すべてに先んじる「わたし」のことに比べれば、美少女の股間を無闇に折檻することなどわずかの愉しみもないことだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
ワークショップ業務連絡:10/11(金)は中目黒デュアルポップスタジオB12室

掲題の件につき以下ご確認ください。
10/11(金)ワークショップは、台風のため開催を限定し、
20-23時@中目黒デュアルポップスタジオB12室 での開催になります。
翌12日(土)はやむをえず休会と致します。
スタジオへの道順は以下案内および GoogleマップURL をご参照ください。
以上ご確認方宜しくお願い申し上げます。九折


<中目黒デュアルポップスタジオへの到達の仕方>
・あなたは中目黒駅の正面改札を出るべきである
・正面の横断歩道を渡ることで山手通りを渡るべきである
・正面には蔦屋書店があり、あなたは蔦屋書店に併設されているスターバックスの角店の脇を前進してゆくべきである。このとき右手には「中目黒アリーナ」の看板があるべきである。
・前方に目黒川の橋があり、あなたは橋を渡るべきである。
・目黒川を渡るとただちに右折して川沿いをゆくべきである。
・すぐにあなたはオレンジ色の看板「いろは寿司」の前を通過するべきである。
・あなたはすぐ「river side gallery」の黒看板を見上げるべきである。するとその隣はすでに「中目黒マンション」である。
・あなたは「中目黒マンション」という金属切文字の看板を見て、そのエントランスを覗き込むべきである。地下に続く階段があり、あなたはその階段を降るべきである。
・B12室はB06室の奥にあり通路からは視認できない。よってあなたは踏み入って覗き込むべきである。金属のドアは押して開くものである。

▼Googleマップ:中目黒デュアルポップスタジオ
https://goo.gl/maps/SbVtgSqzC4kBBSYU7

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