☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
ようやく時代を取り戻すセオリーが出来た3
くの人は今、そんなにはっきりと熱烈に、自分の「やりたいこと」などは持っていないと思われる。
自分なんて平凡なもので、それでも少しはマシにやっていきたい、というぐらいで控え目に思っている人が一番多いと思うのだが、そういうことではないのだ、まったく誰もが自分では想像していないことだが、主体性が正しくロードされると、自分のやるべきこと・やりたいことははっきりと得られてくる。
しかもその「やりたいこと」というのは、いわゆるモチベーションという原理のものではないので、鼻息は荒くならないのだ、躊躇はなくなるが興奮もなくなる、何かと比較してどうこうという発想ではなく、それがやりたいというより、ただ自分のやることと自分自身が一体化するような感じになる。
主体性が正しくロードされると、内部から体質ごと変わり、呪縛も十字架も打ち払われるのだが、それで何がどうなるかというと、当人は「そんなに何かが変わった気はしていない」となる、けれども明らかに体質が変わっていて、すでに縛られていた過去の自分がどのようだったかを思い出せなくなっているのだ、そのようにして当人としては何も変わらないまま主体性を持って生きていけるようになる、まるきり別人のようになるのになぜか当人は「何も変わっていないです」としか感じない。

これはつまり、主体性のロードというのが、やはり呪縛や十字架を打ち払うだけで、当人そのものをいじくるわけではないからだろう。
当人の主体性をヨソの主体性で塗り替えるわけではない、ただ、呪縛され十字架に括り付けられているときは、自分の体質から生じる実感のたぐいが自分のすべてになっており、それこそが自分の主体性だと思い込んでいるのだ/それは吾我であって主体性ではないのだが、それは呪縛が打ち払われた後にしかわからない、あるいは打ち払われた後にもよくわからない(ただ以前の吾我状態が消えてしまって吾我状態のほうがわからなくなっている)。
たとえば、ここにオートマ車があったとして、このミッションギアが不具合によって1速に固定されていたとする、これを呪縛とするなら、この車当人は、「いやあ、高速道路を走りたいとか思わないっすね」と言うだろう、「高速なんか走ってもエンジンが焼けるだけですし、事故にもなりますんで」。
ところが、この車に主体性がロードされて、呪縛が打ち払われると、ミッションギアは自動的に5速まで上がるようになる、そうするとスイスイ走るようになるし高速道路にも普通に入るようになるのだが、当人としては「別に何も変わっていません」としか感じない、むしろウンウンうなって頑張っていたのは以前のほうだから、「最近はあまり気合が入っていないかも」とさえ思うことがある/こうして見るとこの車が過去に高速道路を走らなかったのは主体性でもなければ個性でもないのだが、そのことは呪縛が解けた後にしかわからない、呪縛されている当人の実感としては「いやあそんな気になれないですね、無理です」としか思えないからだ。

呪縛されていると遠慮がちになり、そのまま思い切ってもただの出しゃばりになる。

ミッションギアが1速に固定されたまま、高速道路に飛び込んでみたら、そりゃあ周囲に迷惑になるに決まっているし、当人のボディもダメになっていくに決まっている、じゃあわたしはどうしたらいいのといって、どうにもできないのだ、当人にはどうにもできないというか、当人こそどうにもできない、それが呪縛であり十字架だ、ほかならぬ当人が当人だからこそその呪縛と十字架は掛かっている。
ごくまれに、呪縛に縁のない人がいて、この人は当人が呪縛されていないだけ、他人の呪縛を見ずに、ロードされるべき主体性だけを見ることができる、この人が「高速道路に入れ」「そのための車体だ」と命じると、その場合だけ呪縛が打ち払われてミッションギアは5速まで入るようになる、そうするとその当人は、そのときはなぜか「まさにこのことのために存在し、このことのために生まれてきた」ということに疑いを持たない状態になるのだ、ただしその人はあなたに高速道路に入れと言いつけるわけだから、あなたは「いやあそんな気になれないですね」と言う/つまりあなたの呪縛を打ち払う人はあなたの「味方」ではない、あなたの「味方」はあなたの呪縛を保存する側だが、あなたは「ですよね」とその人を味方だと感じてしまう、あなたはあなたを遠慮がちあるいは出しゃばりに仕立てる人を味方だと感じてしまう。
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ようやく時代を取り戻すセオリーが出来た2
の言い方をすると、意外と「諦めなくていいんだ」ということにもなる、何かをまっとうに思い切りやるということ、それで生きているうちに命ある何かを得るということ、それは能力によらず手続きによってちゃんとやれるということだ。
とはいえ実際には、「誰でもできる」なんて話はなくて、そもそもこの世界に「誰でもできる」なんてものは存在していない、ただその出来るとか出来ないとかが、能力や根性の問題ではなくて、ほとんど「運」と「トラブらないか」に掛かっているということになる。
「運」というのは、主体性をロードできる誰かと出会えるかということで、「トラブらないか」というのは、その出会った誰かとトラブってしまうということだ/何しろ主体性というとふつう「自分のこと、自意識のことでしょ」と思っているので、実際の主体性と接触すると認識の違いでトラブることがよくあるのだ、こうなってしまうともう別の機会と別の誰かをあたるしかなくなる。
あるいは、「運」ということをさらに言えば、主体性を模索するうちに、典型的なハズレを引いてしまうこともあるということだ、そこはなんというか、好事魔多しとも言うし、自分がハズレを選んでしまうようでは、まあ見る目がなかったと受け止めるしかない、だいたいこのハズレを引くパターンと、本来の主体性とトラブるというのはワンセットになって起こりがちだ、本来のそれをロストする上にハズレまでがっちり入り込んでしまうというのはダブルパンチだが、しょうがない、それはそういう性質のものだ。

ただ、その「運」と「トラブらない」ということが健全なていどにはたらけば、思いがけず「諦めなくていい」ということだ、思いがけず多くの人にはちゃんと可能性が残されていることになる、つまり「思ったより捨てたもんじゃない」ということが十分に残されている。
どこまでも吾我に対するこだわりを捨てることであり、「自分を変えるのは自分ではないのだ」という意外なことを発想に持つということだ、自分は自分の身という呪縛・十字架に縛り付けられているので、自分ではこれを変えることはできない、これを変えられるのは自分ではなく外部からサーブされた「主体性」なのだ、この主体性は外部からのものなので、呪縛・十字架とは無関係にはたらく、だからこそ呪縛を打ち払って内部から身・体質を変えてしまえる。
ここで言わずもがな、外部から主体性をロードするといっても、それは信じている誰か・何かからしかロードできないわけで、そこで自分の信じる対象がハズレだったら、もちろんハズレを引きこんでしまうことになる、それでももちろん身・体質は内部から変わるが、これは逆にロクでもないほうに変わってしまう、その意味ではいっそ何も信じないほうが安全ではあり、だからこそ現代のわれわれは基本的に何も信じないようにして生きている、そうでもしないといくらでも周囲から危なっかしいものが入り込んでくるからだ。
そして、「信じる者は救われる」かというと、原理的にはそりゃそうかもしれないが、現実的にはそうではない、もう一段階知らなくてはならないことがある、それは信じるといってもそれは根本的に呪縛十字架側の意思決定ではないということだ、われわれ呪縛されているアホが自ら何かをまっとうに信じるなどということはできない、できるわけがない、だから信じるといってもその第一、その端緒は主体性の「侵入」によって起こっているのだ、そもそも主体性が侵入してくれなきゃあなたは何かを信じるということさえできないということ/これを誤解しているといつまでも迷路にはまり込む、自分の意思で何かを信じられると思うことさえ誤りなのだ、自分の意思で何かを信じようとしてもそりゃ「あなた」のやることなのでいつまでも旧来の縛られたあなたから脱出はできない。

おれと食うメシがやたらウマいのは、おれの主体性があなたに入り込んで、あなたの全身を「食事する身」に変えているからだ。

おれが食パンをちぎってあなたに食わせるだけでも、その食パンはやたらウマいのだが、それはおれの主体性があなたの身に入り込んで、あなたの身が呪縛されたいつもの身体ではなく、「食事をする身」になっているのだ、だからやたら食事がウマくなる、おれの命令があなたの体内に入り込んで、呪縛と十字架を滅ぼしているのだ、だから体質が変わる、言ってみればただそれだけだ/そのことにあなたの意思なんかまったく無関係だというのがわかるか、あなたがそこで自分の意思うんぬんをいじくったら、あなたの体質が加速するだけだ、たとえそれが強烈な信仰体質であったとしても、それはやはり呪縛・十字架なので解放にははたらかない、だからどこまでもあなたの意思なんか活躍していないのだ、活躍しているのは最初から最後まで「主体性」という現象、それのみだ。
ここでおれの主体性があなたに侵入しても何ら問題はないのがわかるだろうか、なぜならおれの主体性が侵入したとして、それが干渉・命令するのはあなたの体内の業(カルマ)・呪縛・十字架・悪霊などに対してだけだからだ、おれの主体性はあなたに命令するのではなくてあなたを縛り付けているものに「出ていけ」と命令するだけだ、あなたに対してはなにひとつ命令していない、だからその命令が通ったときに踏みつぶされるのはあなたではなく「あなたを縛り付けていたもの」だ、あなたを縛り付けていたものが踏みつぶされると、あなたはどうなるか、あなたを縛り付けていたものはもうないのだから、あなたにはあなたしか残っていない、だからあなたは結果的に主体性を持つことになる、こういうからくりだ。
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ようやく時代を取り戻すセオリーが出来た
ちおう、理論上だが、時代を取り戻すセオリーが出来た/理論上と言って、そもそもセオリーは理論だが……
今、やる気や熱気が燃え盛っている人なんてまったくいない状況だが、これは正しい判断・賢明な選択であって、今このときに無為無策のまま「思いきりやる」というようなことは成立しないということ、ズッこけて大ダメージを負うだけだというのが正しい判断だった、多くの人はその判断を採ったにすぎず、その点ではただ賢明だったというだけで何も悪く言われる筋合いはない。
かつて、なんとなく誰でも「思いきり」をやれる状態があった、そのことに上手なのもヘタなのもいたが、一定程度、誰だって何かを「思いきり」やれる、青春の権利みたいなものが広く一般にあった、それはそういう「時代」だったとおれはひとまとめにしてきた/当時は若い大学生が酔いつぶれて路上に寝て煙草をモクモク吸っていても誰もそれを悪く思わなかった、「青春がある」という、そういう「時代」だったからほとんどの人はキーキーしていなかった。
この、わけのわからない「時代」というものについて、「何がどうなってこうなるのか」を追究してきたように思う、かつては何があって、今は何が失われたのか、そのことを追究しているうちに呪い・呪縛といったことに突き当たった、その後もおれは「じゃあそれを打ち払うもの、それに拮抗していたかつてのものは何だよ」ということを追究してきた、それでようやく、ここにきて時代を取り戻すセオリーが、理論上は得られた、いいかげんそのことはまとめてコラムに書かなきゃなと思っている(早くしろ)。

人の呪縛、その身に課せられている業(カルマ)、その身そのものがそれである罪・十字架から、人は通常逃れることができない/このことがまず大事だ、定義として、人は努力や善行によって己の呪縛や十字架から逃れることは決してできない、このことが人々をここ十数年、不毛の苦しみとむなしさに追い詰めていったと思う。
呪縛・十字架から逃れられないというのは、エセ宗教的な意味ではなく、もっと単純でリアルな意味だ、つまり面白くない奴が面白い奴になることはないし、頭の悪い奴が頭のいい奴になることはないし、キモオタがナイスガイになることはないということ、「実際にはそんな奴見たことないでしょ」ということだ、この残酷な事実を無視して、やれ努力やら自己実現やらを自己責任でやらされたことにここ十数年の不毛と苦しみがあった。
呪縛・十字架を打ち払えるのは努力や善行ではなく「主体性」なのだ、もちろんだからこそ自己責任やらが強引に言われたのだが、自己責任で主体性を行使できる奴はもともと主体性を獲得している奴であって、そんな奴は初めからこの現代のムードから独立している、だからそうではない/「主体性」って何なのか、そして「主体性」はどうやったらロードできるのか、ディールできるのか、行使できるのか、ということが問題だった、どう考えてもリアルには、「呪縛・十字架に縛られている奴が、いきなり主体性なんかロードできるわけないだろ」というのが現実だった。
要は、主体性とは "誰のものでもない" ということだ、主体性というのは「わたし」のことであり、吾我とは異なる「わたし」という現象なのだが、これは「わたし」でありながら同時に誰のものでもない、誰のものでもないのでつまりおれのものということになるのだが、このわけのわからない話で合っているのだ、主体性が外部から入ることによって、本当に心身の呪縛・十字架・業・罪が砕かれて突破されるのだ、あなたの努力ではなくあなたに入り込んだ主体があなたの全身をガチで変えてしまうということ、またそれ以外にあなたの全身が変わることは決してないということ。

キリストならどんな十字架でも「あなたの罪は許されました」の一言で粉砕しただろうが、おれはどんなささやかなことでも全身全霊でそれをやらないとできない。

それがつまり、権威の差だ、ここでいう権威とはつまり、ロードできる主体性の強さと量、まあ言ってみれば主体性を「仕入れる力量」のことだ、ロードされた主体性の強さと量によって、相当する強さと量の呪縛が打ち払われる/一言でそのすべてを行使できるなんつーのは、何といってもスゴすぎるだろう、まあそんな極端な存在を基準にしてもどうしようもない、おれも微弱ながらそういうことのロードができるということ、おれは宗教の話をしているのではなくただ「主体性」という現象について話しているのみだ。
おれが誰か、イライラしている奴に、「イライラしないほうがいいんじゃない」と意見したとする、あるいは「笑おうよ」と意見したとする、そんなものは当たり前だが何の役にも立たないだろう、だがおれは意見ではなく命令する、命令といっておれはそいつに命令しているのではなく、そいつに取りついている悪霊やら罪やらに命じているのだ、これが真相だ、おれが「イライラするな」と罪業のほうに命令したとき、そいつはもうイライラすることはできない、そいつが言うことを聞くのではなくて、罪業のほうが主体性に権威負けして打ち払われてしまうからだ、だから当人としてのそいつが頑張ることや努力することなんて何ひとつない。
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ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 9/24更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第二百二回】9月25日(金)19時〜 (別企画のためお休み)
【第二百三回】9月26日(土)19時〜(別企画のためお休み)

【第二百二回】10月2日(金)19時〜オンラインにて開催
【第二百三回】10月3日(土)19時〜オンラインにて開催
【第二百四回】10月9日(金)19時〜オンラインにて開催
【第二百五回】10月10日(土)19時〜オンラインにて開催

(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。夏場世田谷公園では青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(公園場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり)

(雨天時・寒冷期・深夜はスタジオを使用します、随時ブログで通知致します)
(スタジオは主にこちらを使用しております→マイレッスン "三軒茶屋" スタジオ

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)
→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
 〜コロナのため休止中〜
(【第102回】@原宿DinningBar CLIMB
【第103回】@原宿DinningBar CLIMB
♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


ワクチン早よ!! コロナ飽きたぞ早く滅べ!!


みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

 

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キーン
い日のことをおれは何一つ忘れていない、おれにとって遠い日はいつものことで、おれには時間が流れていない。
もし擬音で表すなら「キーン」と、もちろんそんな音は鳴っていないのだが、空にも地面にも、そうして張り詰めておだやかなものが圧倒的に存在している、ここですべてのものはおれのものであり、おれはすべてのものを許している、ただしそれはこのキーンの中にあるものだけであって、キーンが消えたらまったく話は別になる、まったく別の世界のことになる。
幸いなことに、すべての女はおれのものだ、すべておれの女だ、それは当たり前のことだな、ただしおれは女を許しているので、女がおれを拒絶してみたり嫌悪してみたりすることについても許している、何をどうジタバタしてみたっておれの女には違いないのだから、かわいそうに、その上で何も無理を強いることはない、失明したい女は失明してもいい。
おれのことをいやがって、おれのことを拒絶して、おれのことを罵ってもよいけれど、女はおれの女だということを否定しないほうがいい、すべておれの女のままでおれを嫌うほうがよっぽどましだ、女がおれを拒絶したままおれの女でいることは何も不幸じゃないだろう、おれは許しているのだから/ただしおれの女であることを否定するとキーンが消える、自由になった気がするがキーンが消えてやがて別のものに縛り付けられていくだろう。

おれは他人のことをとやかく言わない、なぜおれがおれの女にとやかく言う必要があるのだ、おれの女だというだけで十分じゃないか。
ただ、おれの女でなくなるというのは大ごとだ、それは他人とかそういうものでさえなくなるということだ、わけのわからない架空の物体になるぜ、そうするとそいつに取り入って縛り付けるという器用なやつがそっと現れる。
当人はすっかりキーンが消えているのだから、もう本当にはすべて視えなくなっていて、その中でそっと現れたブキミな奴だけが、なんとなく話のわかる、話の合う奴のように思われるんだ、でもそうして解放的な気分に浸ったのも束の間、そいつこそが最も極悪な縛り付けをしてくるということに、ほとんど手遅れになってから気づくだろう。
おれの女は庇護を受けているのだ、たとえそいつかおれのことを嫌いで、おれのことを罵って、おれのことを拒絶していたとしても、それでもおれの女なら、そいつは空にも地にも張り詰めているキーンという庇護の中にある、おれの女だから庇護を受けているのだ、だからおれの女であることは否定しないほうがいい/あなたにとっておれがサイテーサイアクでも、おれにはあなたを庇護するていどの度量はある、あなたにとっておれがサイテーサイアクでも、あなたにはあなた自身を庇護する力はない、庇護がなくなればある種のものが一斉に寄ってくるぞ。

あなたがおれの女なら、おれは何もしなくて済むからラクだ。

それはたとえ四歳の童女だって同じだ、おれがあなたの尻をつねって遊んだらあなたにとってはサイテーサイアクかもしれないが、それでもあなたにサイテーサイアクなことは起こらないのだ、サイテーサイアクなことをされてもあなたにサイテーサイアクなことは起こらない、この庇護から離れると、逆転し、最善最良のことをされたって、あなたにはなぜかサイテーサイアクなことが起こる。
おれの女として、おれに尻をつねられることに比較すると、あなたがおれの女じゃなくなって、最上級のエステを受けるほうが、よっぽどすてきでいいことに思える、でも実際にはそうはならない/キーンと張り詰めたおだやかな何かのもとで、尻をつねって遊ばれるというサイテーなことが、あなたを何も毀損しないということを知るだろう、一方でそのキーンがなくなれば、尻までやさしくケアする最上級のエステさえ、なぜかあなたの魂にドス黒い死を求めさせるのだ、最善最良でさえあなたを毀損とするということに真の危険と恐怖を知れ。
正しく見ないとな | comments(0) |
遠き思いっきりの今
かを思いっきりやる必要があるが、今そんなことをしても炎上するだけだし、思いっきりやるとなると、けっきょくそいつの所属が出てしまう。
ふと気づけば、何も思いっきりやらないタイプを芸人として集めて、そりゃ使いやすいかもしれないし騒動は起こさないかもしれないが、代わりに何一つ面白くなくなったな! そりゃ当たり前だ、元気のない飼い慣らされたタイプを集めて何ができると思ったのか、冷静に考えればバカみたいな話だ。
何かを思いっきりやるとなると、その人が庇護されていることが直接必要になってくる、庇護されていない人が何かを思いっきりやっても迷惑になるだけだし痛々しいだけだ。
そうして、痛々しい何かになるだけだと前もって知っているから、何一つ思い切りはやらないのだろう、おれは意地悪を言っているのではない、大真面目に「それで正しい」と言っているのだ、おれもお前も別に腐っているわけじゃない。

おれが何かを思いっきりやろうというのは、それによって何かになるという意味ではなく、それによって何かにはならないという意味だ。
おれは庇護を受けているので、何を思いっきりやっても、何にもならないのだ、だから安心して思いっきりやれるということ/そういえば、この意味で「安心」って大事だよなあ、いまどき大学生でも安心して思いっきりお酒を飲んだりできないものな、もう十代のころから糖尿病とか気にしているって聞いたぞ。
おれがここで今話している、ナゾめいた「庇護」について、普段は「なんじゃそんなもん」「わけのわからん、いかがわしい」という感じなのだが、いざ何かを思い切ってやろうとすると、「やっぱりそれいるじゃん」と内心で嘆くのだった/なぜかおれだけ何もかもを思いっきりやれるということが不可解で不平等だろう。
何かを思いきりやらないとだめだし、かといって何の庇護もないのだから何かを思いっきりやったりしてはだめだ、大人がテキトーに言う「思いっきりやれ」みたいなものを真に受けちゃだめだぜ、大人も何がどうなっているのかとっくの昔にわからなくなっているんだ/どうしたらいいかはさっぱりわからないが、たぶんお前が何をするということじゃなくおれが何をしているかをお前は知るべきなんだ、そうしたらお前が思い描いているすべてのものがどこかで吹き込まれたインチキだって気づくだろう。

奇妙なことだが、おれとお前は違わない。

お前はきっと、自分とおれとが何か違うと思って、その違いを見切り、その差を詰めようとしているんだろう、だがそうじゃない、奇妙なことに、おれとお前に違いはないのだ、違いはないからその差は埋められない、差があるなら埋められるんだが差がないのじゃ埋めようがないだろう、どれだけ首をかしげてみてもけっきょくこれだから差は埋まらない。
おれとお前に違いはなくて、差はないから、おれはもう埋める差がないことに満足している、動きようのない満足に定義されている、お前は埋める差があると思っているから、埋まることのない不満に定義されているだろう、もしおれがお前だったらおれは満足していたし、もしお前がおれだったらお前は不満だった/おれは変わらない満足のもとで思いきりやる、お前は不満を動機に思い切りやろうとしているだろう、だから庇護がないので、思い切りやれなんて吹き込まれてだまされるべきじゃない。
バカをやろうかあ | comments(0) |
肉体は父母から、魂は天才から2

れの言っていることは、いよいよ本格的に意味がわからんだろう。
だがそれでいいのだ、それでいいというか「しゃーない」のだ、お前らが「さっぱりわからん」と感じている以上に、本当はお前らはもっとはるかにわかっていないのだ、それでおれの側があああああと悶絶している。
お前らのまったくわかっていない度は、本当にヨーロピアンエクストリーム級なので、もはや本質的にはお前らにはどうしようもないのだ、お前らはなんとなく「なんとかしなければいけない」と思っているのだが、けっきょくなんとかすることに寄与できるのは100%おれの側なのだ、お前らが「なんとかする」のをけっきょくブチこんでいるのはおれだということで、そりゃおれの身がもたない理由も最近いよいよわかってきたという感じだ。
そりゃあな、人は魂がなきゃ何の主体性も持たない、ただの社会的な生きものにすぎない、何の主体性も持たないモンがどうやって魂にアプローチできるはずがあるのか、そんなん無理に決まってますやん、ということで魂のディールはけっきょくおれが一方的にやるしかなくて、そこに何の抵抗が掛かるかというと、お前らには安全装置として常識だけはきっちり入っているのだ、それは確かに必要なモンだが、おれが魂をディールしようとするとその常識がファイアウォールになるという、そんなことの渦中でおれはあああああと悶絶しているのだった、こんなもん誰かに相談する意味は一ミリもない。

世の中に悪い人が増えてしまって、何しろ手元の端末にはいくらでもクリック詐欺のメールが届くし、裏ですさまじく毒づいている女子アナウンサーは番組中は萌えキャラをやるし、にこやかスマイルの業者はいくらでもボッタクリチャンスでおじいさんとおばあさんの残高を空っぽにするし、こんなものはもう悪霊が入っているのだ、なぜこんな悪霊や悪魔がゴリゴリに入っている人がフツーになってしまったかというと、「キミにも主体性を」みたいなインチキを吹き込まれたからだ/主体性は天からロードするしかないが、そのロードに失敗すると、代替にマガイモンをロードすることになり、そこでマガイモンというと悪霊や悪魔だ、数十年前はこんなに偶像崇拝ブームじゃなかっただろ。
それで、主体的に呼びかけてくるものというと、そういう詐欺メールやスマイル業者の悪霊・悪魔ばっかりになり、「どうもおかしいな」と直観した善良な人たちは、この時代の常識として、魂が入り込まないようにファイアウォールを常設するようになった、この常識がはたらいているから表面上はなんとかなっているという状況だ/けれどもこの状況でおれだけ急に「ファイアウォールを突破して魂をロードしろ」と言われても、骨がバッキバキに折れるのだ、ファイアウォールの突破は十分に可能だが、それは毎回えげつないレベルまで権限を到達させねばならない、つまり管理者権限以上のレベルに到達しないとファイアウォールは超えられないのだ、毎回そんなスーパーハッキングをしていたら骨がバッキバキに折れる。
つまりだ、この状況、もう誰かが魂をロードするということはほとんどなくて、おれがハックしてほとんど違法行為として魂をサーブしているだけだぜ、本当にそういうことだと最近になっていよいよわかった、こんなもんおれのいかがわしい腕前ひとつでしかないじゃないか、しかもそれでしくじったらどうせ悪く言われるのはおれであって、なぜかおれだけ報われないハック成功 or トホホコースが用意されている、こいつはいささかアンフェアなんじゃないのか。
といって、すでに周囲は、おれに何ら協力を惜しむところはなく、いくらでも何でも協力しますよという態勢なのだが、協力といってもなあ、すでにお前らでは到底協力できないような次元にしか突破口はないのだ、おれは何も今さら威張りたくてこんな話をしているのではない、けっきょくおれのスーパーハックが成功した人にだけ、コイツの言っていることはガチのマジだということがわかるだろう、おれだけ常識のファイアウォールを解除しているのは、もう今さらおれにはチャチな悪霊や悪魔なんか入り込めないからだ、そんなもんの大半はおれに触れただけでそっちが焼き払われるってもんよ、そうしておれだけ常識のファイアウォールを解除しているから、おれだけ常識から逸脱した変人扱いというのは、やっぱりアンフェアじゃないか、おれは立場上ファイアウォールなんかしていたら何のはたらきもできないんだからしゃーないじゃねーか(愚痴)。

友人のPCを外部からハックして、ウィルスを除去して正規のOSをインストールするというようなナゾ行為をしたことがあるか。

違うだろ、普通ハッキングというと、外部から侵入して悪いことするものだろ、なぜ正常化させるのにわざわざファイアウォールを破ってハックしなくてはならないのだ、これってミッションを完遂させないとただのハッカーとして犯罪者扱いされるだけなんだぜ/そしてミッションを完遂させても「なんかPCの具合よくなったな」と思われるだけで、また当人に任せておくと好き勝手にヨソのウィルスをダウンロードしてしまうという(怒)。
でももう、本当にこれしか方法が残っていないのでしゃーない、というわけでいささかおれがあああああとわめいていても大目に見るように、お前らはせいぜいおれのやっていることを漠然とでも理解することだ、そうするとそれだけでもまともな魂がロードされるからよ/自分が何をやるべきかじゃなくて、おれが何をやっているかを第一に、漠然とでもいいから理解しろ、そしたら扉がちょこっとでも開く、そこがちょこっとでも開いたらおれがハックするのがずいぶん楽になるのだ、常識なんか取り戻すのはカンタンだから安心しろ、そんなもんおれが合意して「じゃあもういいや」と言えばただちに常識カムバックなのだからそのときはそうすりゃいいだけ、おれは「感覚がない」ものをディールしているのだから、それを「感覚がある」で探ろうとして妨害するのはやめろ、肉体は父母からで魂は天才からといって、さすがにその天才の魂ディールをがっつり邪魔するというのはこれまでになかったぞ。

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おれ以上におれを伝えられる奴はいない(当たり前)
たり前の話だが、おれ以上におれを伝えられる者はいないし、おれに先んじておれを伝えられる者はいない。
おれがアイウエオを言うということは、一般に五十音アイウエオが言われるということとは、まったく別のことだ、一般のアイウエオとおれのアイウエオはまったく関係がない。
もちろんおれだって一般の万事を真似することはできるが、おれにはそれをしたいという動機もなければ、それをしなければならない理由もない。
おれが何かを上手なのかヘタなのか、それは何かと比較した上でしか上手ともヘタとも言えない、といっておれは二体存在しないのだからそもそも比較のしようがない、おれよりもおれな奴はいないしおれはそもそも一体しか存在しないのだから何かと比較するということ自体がない。

つまり、おれは何かを学ぶ必要がない、おれよりもおれを教えられる存在などあるわけないからだ。
では「おれ」とは何をしているのか・また何をすればいいのかというと、血のすべてをおれにしてしまえばいいのだ、鶏肉や魚を食っておれの血にしているわけだが、この血を時間をかけてすべておれにしてしまえばいい、ただそれだけだ。
血はいわば「尊厳」だから、この尊厳を何に明け渡すかという問題に行き着く、この尊厳を主体性に明け渡せば「祝」になり、この尊厳を吾我に明け渡せば「呪」になる、二つとも同じつくりをもつ漢字でもちろん同じ象形の意味を持っている。
おれはこのごろ、主体性や言霊や天には「感覚がない」と言っているが、いわばこの尊厳を、「感覚があるもの」に明け渡すか、「感覚がないもの」に明け渡すか、その二方向に分岐するというだけだ/血は尊厳であり、血というと具体的には粘膜が露骨だ、この喉や唇がアイウエオを言い、また性器だって粘膜なのだが、おれはこの粘膜をすべておれにする、感覚のないおれという主体性に明け渡す、そのことに祝福があるのは、その逆に呪いがありそうなことから想像がつくだろう。

おれは感覚上、誰かに何かを伝えるということは一ミリもできないが、感覚のないおれから感覚のないおれに感覚のないおれを伝えることは強制的に出来る。

そもそも「感覚がある」ものとして、そこに自分と他人があるとしたら、自分から他人に何かを伝えることなんて不可能だ、初めから「他人」と言っているのだから伝わるわけがない、そこで他人に与えられるものといえば「痛み」しかない、つまり殴ったり蹴ったりするしかない、あるいはその逆、マイナスの痛みを与えるしかない、それは甘みだったりセンスだったりするが、それだって正負の違いだけで痛みであることには変わりない/そりゃ「感覚がある」といえばそれしか授受できない。
「感覚がない」ものといえば、主体性であり「おれ」だ、感覚のないおれが感覚のないあなた(といってもおれだが)と共に何をどうするのか/おれはアホなので、生きものであり血の十字架を負っている、だからこの血をすべておれにする、主体性に帰す、お前らにもそうして血の返納ルートを教えてやるということだ、わけのわからん話だがおれは精神的な話をしているのではない、血とか粘膜とか具体的なものの「やること」を話しているのだ、お前らだって鶏肉や魚から血を集めているだろう。
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肉体は父母から、魂は天才から
あああああ〜 と偉大なるおれさまでも溜息をつきたくなる具合に、違うじゃないか、一般に思われているのと仕組みが違うじゃないか!!
こんなもんそれぞれが個性だの自己実現だの眠たいことを吹き込んできたのが諸悪の根源だ、魂っつーのはそういうふうにはできていない、古くから「身体髪膚これを父母に受く」というように、肉体は父母からで、魂は天才からだ、肉体は父母から遺伝で与えられているが、魂は天才から愛で与えられているのだ。
魂とはなんぞやといって、それは「わたし」だ、「わたし」の "存在" であって現象、つまり "主体性" だ/主体性というといわゆる「自分で」「自分が」という感覚だと思われているが、そんな単純なものではないのだ、主体性こそ実は譲られて与えられている。
肉体は父母から与えられ、魂は天才から与えられるのだ、それが気に入らん奴は自分で天からダウンロードしてこい、肉体と同じく魂だって自分で作れるわけではないので、どこかから引っ張ってくるしかないのだが、そのことに誰の仲介も必要とせず、ダイレクトに天から魂を引っ張ってこられる奴のことを天才という、それで引っ張ってこられなきゃどうなるかといって、周囲を見たらわかるように魂のない空っぽになるのだ、あなたは吾我が膨張しながら主体性は空っぽという人を今すぐでも周囲に見つけられるだろう。

天才というのはただ頭のいい奴のことを言うのではなく、いわば「魂の一次産業」と言っていい、つまり農家が土から作物を引っこ抜いてくるように、また漁師が海から魚介を引っこ抜いてくるように、天から魂を引っこ抜いてくるのだ、そしてわれわれが農家の米を食って漁師の魚を食うように、われわれは天才の取ってきた魂を摂取するのだ/もちろん誰だってそれを自家製でやってみて構わない、自分で米を作ってもいいし魚を獲ってもいいように、天から魂を引っこ抜いてきていい。
だが、なんといっても魂の話だ、「どうやったら引っこ抜いてこられるか」といって、そんなわかりやすい方法論はない、実際には天から愛によって魂をブッこまれてしまうという具合であって、天に向かって祈るようなヒマな小芝居は使用されない/それで、天から愛をブッこんでもらえなかったら、どうなるかというと、たいてい自分に失望するのがイヤだから、代わりのものを仕入れようとするじゃないか、そうしてキッチリ悪霊を自ら取り込むもんだよ、「これでアタシも主体性〜」みたいなつもりになって、真っ黒に呪われて帰ってくるのだ。
主体性・魂を、天才から譲り与えられるといって、そのことにブーブー言わなくていいし、不安がる必要もないのだ、肉体は父母から受けたといっても、それは自分の肉体になるじゃないか、そして農家の米を食ったって漁師の魚を食ったって、そりゃ自分の肉体になるだろう? それと同じように、天才が仕入れてきた魂だって、自分に入れば自分のものになるんだよ、正しくは「あの人」と「自分」がそんなに区分けする必要がなくなるひとつながりの魂になる(もともと魂は個数で存在してねえ)。
何を言っているかわかるか? 現代に通用している一般の感覚では、各人がなんとなく主体性を勝手に持つと想定されていて、誰もが「これがアタシ」みたいなことになれとされているのだが、そんなふうに魂・主体性は得られないのだ、にもかかわらずそういうインチキ自己実現のスタイルを砂糖漬けでアピールしたから、その結果どうなったか/天から直接魂なんか引っこ抜いてこられない人は(当たり前だ!!)、しょうがないから汚らしいマンガを読むしかなくなった、そして魂の授受がないものだから、友人というもの一切に用事がなくなっていった、それで人々は孤立してマンガを読み続け、マンガみたいな体形とマンガみたいな顔面になろうとしている、そこまで完全に行方不明になった、若い人々はふざけてそんなことになったのではなく、真剣に唇を噛みながら生きてそうなったと言える、もともとの仕組みが違ったからこんなことになってしまったというトホホな状況だ。

肉体には感覚があるが、天には感覚がないんだぞ、そんなものどうやって仕入れるんだ。

眼で見てカワイイとか、食べてみてオイシイとか、そんなのはわかる、そんなのは「感覚」だ、肉体の感覚で、研ぎ澄ませばセンスという言われ方をする、それはそれで別にかまわんが、天には感覚が "ない" んだぜ、感覚で接触できないものをお前はどうやって仕入れるつもりなんだ/周知のとおり、おれの作ったメシが、あるいはおれと共にした食事が、ウマすぎて震える奴、ウマすぎて泣いちゃう奴までいるだろう、おれは "感覚にないところを調理" しているんだぞ、おれは感覚にないところを調理してお前の「感覚にないところ」に届けているんだ、頼むからこのわけのわからないことを何かしらの気分や思いやセンスで補えると誤解しないでくれ、ますます話が混乱するから(切実)。
センスセンスと言うけれど、センスの源流って何かわかるか、センスってけっきょく源は「痛み」だぞ、よく「痛い人」「痛い奴」って言うじゃないか、センスある人というのはその痛い人の反対なのだから、いわば「マイナスの痛みがある人」のことだ、そりゃもちろん痛い人よりはマシだとは思うが、実はどちらも同列の対極に位置しているにすぎない、感覚というのは第一に「痛い」なのだ/これまでのすべての文章を見てもらったらわかるように、おれには痛みもセンスもないのだ、痛みもセンスもないもの、つまり「感覚にないものがあるだろ」ということを見せつけるためにこのことを続けている、こんなわけのわからんものをフツー仕入れられるわけがねえぜ、仕入れたって何の感覚もないのにそんなのフツー捉えられねーだろ。
正しく見ないとな | comments(0) |
おれが自己評価ゼロで来た理由
ったくどうでもいい話だと思うが、おれが長いあいだ、自己評価ゼロで来たことのナゾがついに解けた。
それはなんと、縮尺の問題だった、といっても何のことかわからんと思うが/おれはまったくアホみたいだが、魂のサイズとして、ずっと「天」と勝負していたのだ、そんなもん勝てるわけねー、それでおれは数的に自己評価を「ゼロだな」としてきた。
おれは長いあいだ自分のことをゴミ虫と扱ってきて、なんとなく女を笑わせ続ける愉快な奴としてきたのだが、何度も言うとおり、おれがそれを続けているとギャーと悲鳴をあげて泣き出す女が出てきた、それも一度や二度ではないのだ、似たようなことというか同じことがあちこちで起こるし、中には救急車まで呼ぶハメになったケースもあるわで、「これは事実上ダメだ」と引き取ってきた、いつからかおれの「自己評価ゼロスタイル」は禁忌になってしまった。
その後もおれは、自己評価ゼロスタイルを禁忌として、しょうがないから「偉大なるおれさま」というふうにしてきたのだが、頑張ってそうは言ってみるものの、ふと気を抜くとけっきょく、自己評価がゼロになっているのだ、おれにはずっと自己評価を形成するという方法がわからなかった、そのナゾがついに解けた/そりゃ「天」と直接勝負してりゃ、向こうは魂のサイズが無限大なのだから、どれだけ比較してもおれのサイズは数的にゼロになるわな、おれはその中でぐぬぬぬと言い続け、「どうやっても自己評価が発生しない!! なぜだ!!」と迷い倒してきたのだった、なんというか珍しいアホのケースだ。

信じがたいがマジな話、おれはその「縮尺」を、「天 vs おれ」のパターンでしか持っていなかったのだ、おれは「おれと誰か」の魂を向き合わせる縮尺を持っていなかった。
それでつまりどういうことになるかというと、おれは自分の魂をゼロ評価するのに対し、誰かの魂を勝手にゼロ評価はしないものだから、おれに相対する誰かの魂は、天そのものと同様のスケール、つまり無限大の魂を持っていないと整合しないということになるのだ、無限大を分母とする分数がゼロ以外の値を取るには分子も無限大にするしかないということだが、そんな奴がキリストやブッダ以外にどこにいるんだよ、まったく馬鹿げたアホの話としか言えない。
おれはどうやら本当に、人のあいだで生きておらず、天地のあいだで生きているので、縮尺が「対・天地用」しかなかったのだ、だからおれと相対する誰かの魂は必然的に「天地と同等サイズ」でないといけないということになっていた、おれがそう設定したつもりはまったくないが、何しろ縮尺が「それ」しかなかったので、自動的にそうなっていた。
今や、中にはおれを拝み倒すようなパターンも一部のネタとして定番になったが、このネタが定着したのは、一種の危険回避として具合のいい手段だったと言える、なかなかうまく考えたものだ/おれは一種のド天然で、「天に対する」しかできないから、油断しているとおれに相対する者は、自動的に天の玉座に座らされるのだ、その資格がありゃすっぽりそこに収まるかもしれんが、どこの誰にそんな資格があるというのだ、それで資格のない者がそんなところに座らされたらどうなるかというと、そりゃギャーということにも当然なる。

やっとわかった、みんながおれに「うおお」と圧倒されているのは、おれが天に「うおお」と圧倒されている縮尺と同じだ。

アホみたいな数字に置き換えるとして、「1」の400倍は「400」だし、そのさらに400倍は「160000」だ、おれはいわば「400」の立場から「160000」を見上げるしか縮尺を持っていなかったということになる、そして「160000円に比べると400円なんてゼロも同じだ」と、自己評価をゼロにしてきた。
で、おれは人のあいだにあるべきものとして、「1」と「400」を向き合わせる縮尺を持っていなかった、だからおれに対して「うおお」となっている人のことがよくわからなかった、それで「???」と首をかしげてきた(アホだ)/そして、おれはそっちの縮尺がよくわからないからといって、おれ以外の全員を「160000」の場所に座らせようとしてきたのだ、そりゃパニックにもなるし恐慌状態にもなるわなぁ、とはいえおれにすべての責任があるわけじゃないぞと言い張ってはおく。
正しく見ないとな | comments(0) |
空の威容
じ話をずっとしていりゃような気が、いよいよしてくる。
何度も似たような話をしているが、いよいよはっきりしてきたのだ、おれはよく空を見上げるタイプの奴で、しょっちゅうというか常に、空に「圧倒される」タイプだ。
最近になっていよいよはっきりしてきたのだが、こうして空に(天に)直接「圧倒される」タイプ、こういう奴はやはり一種の天才なのだ、いや天才というよりもっと大事なこと、「天とのつながりがある奴」なのだ、まさかこんな単純な話だとは思わなかった。
いわゆる「人間関係」や「価値観」の中でどれだけまっとうで善良で優秀な奴でも、天とのつながりがどうかというのはまったく別のことだ、世間一般として上質なはずの人が、世間一般としてクズでしかないおれと会って、わけのわからない泣きたくなる気持ちになるのはこれが理由だ、おれは人の間に立っているのではなく天地の間に立っているのだ、おれは自慢をしているのではなくタイプの違いについて話している。

おれと一緒にいると、外をただ歩いているだけのことが、妙に楽しかったり、やたらキラキラしていたりする、ということを体験した人が多くあるはずだ。
それは、おれが「世間」を歩いていない、また「人の間」を歩いていないということによる、つまりおれは「天の下」を歩いていて、また「地の上」を歩いているのだ、だから天の下で光が妙にキラキラしていて、地の上で何かが妙に湧き上がってくる。
もはやこれはおれの自慢話ではないのだ、いいかげん必要でしかないレポートをしているだけだ、おれと歩いたときの記憶を振り返ってみろ、やけに空と地面があるはずで、やけにキラキラと光があってやけに何かが湧き上がってきているはずだ、これは本当にそういう現象なのだ、魂の現象だ、おれがエライという話をしているのではなく、ガチでそういう天地と魂の現象があるとレポートしているにすぎない。
おれはおそらく、三歳ぐらいのときに草原(ただの空き地)で空からジッと睨まれてビビって以来、ずっと天の下・地の上を歩いてきたのだ、だからおれは人間のこと・人の世のこと・世間のことが根本的によくわかっていない、別のところを歩いているのだ、そしてほとんどの人はおれの逆、天地のことが根本的によくわかっていない、別のところを歩いているのだ/おれにとって「帰るところ」はいつだってこの天地のあいだであって、多くの人にとって「帰るところ」は人のあいだなのだ、そのどちらが "実在" だろうかというナゾが続いている、そのナゾは最後まで解かれないがそれでもわれわれは選ばなくてはならない。

空に圧倒される日、あなたはおれの友人だが、空に圧倒されない日、あなたはおれの友人ではない。

奇妙な言いようになるが、おれはもはやあなたという人間を相手にしてはいない、あなたという人間はほとんど無視だが、そのかわりあなたを取り巻くあなたの天地に向けて常に語り続けている、おれはどうやらあなたという人間はあなたではないと見なしているようだ、それはおれ自身が、おれという人間はおれではないと見なしているからだ/だからおれの声と話は、いつも直接聞こえているような、それでいてまったく聞こえてきてはいないような、よくわからない届き方をしているはず。
いつぞやおれはワークショップで言霊うんぬんの話もしたが、もし言霊なんてものがあるとするならば、あなたに聞こえていないものが言霊なのだ、聞こえていたらそりゃただの音波だろうよ、そうではなくあなたに聞こえていないのが言霊、聞こえていなきゃ役に立たなくね? という気がするのだが、そうではない、何かがあなたに届く必要はないのだ、あなたという人間はあなたではないのだから、あなたではないあなたに届くことに真の値打ちがある。
正しく見ないとな | comments(0) |
「有名」と「知名度」の違い2
来、パフォーマンスが先にあるのだ。
たとえばこのブログに迷い込んだ人は、書き手の紹介などされずに先に記事を読むだろう、そうして「パフォーマンスが先にある」。
そして、そのパフォーマンスに見過ごせないものがあり、そこに何か世界があると目撃されたとき、「この世界をやっているのは誰なんだ」ということで、名前が求められる、それであなたはこの書き手が九折さんだということをいつの間にか知っている/こうして名前が求められるということを「有名」という、まあおれなんか知名度は完全にゼロだが、知名度がゼロというのは単にマスメディア展開していないというだけで「有名」という現象には関係ない。
ふと思って、いちおうサイドバーに置いてあるプロフィール的なところを覗いてみたが、いくらなんでも紹介記事が時代錯誤すぎるな、なかなか恥ずかしいのでいつかちゃんとアップデートしよう(と言いながら忘れる可能性大)。

先日ワークショップで「有名になろう」というネタを扱ったのだが、「有名になる」というテーマで何か、多くの人に心理的な不具合不穏が起こることがわかった。
どうも、「有名になる」ということには、よくわからない強烈な願望と、抑圧、また何かよくわからない強い拒否反応みたいなものもあるみたいだ/このあたりはよくわからない、有名になりたいなら有名になればいいだろうし、なりたくなければ有名になっちゃった時点でやめてしまえばいいのだ、何もややこしいことは本来ない。
おれはこのあたり、人づてに「あの人は何という人なんですか」と訊かれることが多かったので、名前を求められるということに対しては、今さらこれという感情や心理はない、だがほとんどの一般例においては、この「有名」という現象に人は強烈な願望を潜在させているようだ、そのあたりが「知名度」とごっちゃになって現代の承認欲求シンドロームになっているのだろう。
「有名」というのはただの現象であって、大規模であれ小規模であれ、目撃されて「名前を求められる」ということだ、そこに世界がある場合も名前を求められるし、悪魔がある場合も名前を求められるのだが、まあそんな細かい話は今はいいだろう/どんなささやかなことでも、本当に本当のことが出来てしまう場合、そこには世界があるので、ごく小規模にも「名前を求められる」ということが起こる、ただそれだけのことなのだが、「有名になりゃいいじゃん」と言うとなかなか「そうだな」とすんなりは返ってこないので、何かこじれる理由がそれぞれ似たような感じである様子なのだった。

「名前を求められる」ということがないのは、「陳腐」だからだ。

端的に言って、「有名」の反対は「陳腐」と捉えればいい、何かのイベント会場でイケメン五人組がくるくる歌って踊っていたら、別に何も悪くないが、いちいちその名前は求めない、そうして名前を求めない場合はそれが「陳腐だった」ということになる/一軒のラーメン屋でさえ、何か秀でた世界があれば無意識にも名前を知ろうと求めるが、陳腐だったらその名前は求めない、ごくあたりまえの現象だ。
「有名になりゃいいじゃん」と言うと、何か心理的な不具合と不穏が起こるのだが、まあそれはしょうがないとして、でもけっきょくは損だから、何かテキトーに解決してしまったほうがいい、何しろ「有名」ということを遠ざけて努力するということは、自ら「陳腐になる」という決定をした上で努力するということになるからだ、そうすると全身と全霊はびっくりするぐらい能力を閉ざす、何の想像力も機能しなくなって、全身全霊で「陳腐」に向かうのだ、そりゃ自己決定が自己の「陳腐化」なのだからそうなるに決まっている、そういう不毛はやらないほうがいいと、おれはいつも思うのだった。
視点変えてこ | comments(0) |
「有名」と「知名度」の違い

ーズジョインのライブを見たことがあるだろうか?
まだそんなに有名どころではないので、聞いたことがないとか、名前は聞いたことあるけれど具体的にはまったく知らない、という人がいるかもしれない。
いや、そんなことはまったくないか、なぜならローズジョインなどという人もグループも存在していないからだ、おれが今「ローズジョインという急上昇中のイケメン五人組」のダンスパフォーマンスというウソをテキトーにでっち上げただけだ。
一般に「有名」と「知名度」はごっちゃにされているが、その中でこの「有名」という概念は、今好き放題にいじられてたいへん危険な状態にある、ローズジョインなんて五人組は存在していないのだが、もしマスメディアが「今急上昇中の」とローズジョインを紹介したら、あなたはその五人組を「有名」な人たちとして崇めなくてはならない。

本来の「有名」という現象はどのように起こるか。
本来の「有名」は、先にパフォーマンスがあるのだ、そのパフォーマンスに何か世界があるので、それを目撃した人が「あの人は何ていう人なのですか」と名前を求める、こうして「パフォーマンスが先にあって、名前が求められる」ということ、このことを「有名」という。
一方で「知名度」というと、これは主体の名前ではなく「名称」の認知度にすぎない、知名度でいえばセイユーやJRなどの知名度は極めて高い、あるいは連続童女殺人の宮崎勤だって知名度は高い、だがこれを「有名人」と扱うわけにはいかない。
イベント会場でよくわからない五人組が踊っていたとして、そのパフォーマンスが「そこそこ」だったとしても、あなたはわざわざ彼らの名前を求めはしないだろう、けれどもマスメディアやSNSのリツイートが先に「ローズジョインが」とあなたに言いつけると、あなたはその名前を有名人のそれとして崇めなくてはならない、そうしてあなたの脳内にはすでに、本当には「有名」ではない偽造された有名人の名前がてんこもりに詰められている、あなたがまったく求めるところでない名前が崇めるためのものとしてぎっしり詰め込まれているのだ、これは実は魂にとって非常に危険な状態だったりする。

「有名」は「名前の下に世界がある」、「知名度」は「世間の下に名称がある」。

たとえば石原裕次郎や美空ひばりはすでに故人だが、石原裕次郎というとその名前の下に世界があり、美空ひばりというとやはりその名前の下に世界がある、かつて裕次郎がスクリーンの向こうに立ったとき、その世界を目撃した人たちが「あれは誰だ」と名前を求めた、あるいは少女だった美空ひばりが唄ったとき、やはりその世界を聞いた人たちが「あれは誰だ」と名前を求めた。
それに比べると、ここに仮想したイケメン五人組ローズジョインの下に世界はない、いくら知名度が高くても世界はない、すでに若い人たちにとって石原裕次郎より Youtuber−まくらいばぁ咲−のほうが知名度が高いが、それでもローズジョインやまくらいばぁ咲の下に世界はない、彼らの下に世界はないのに、あなたはそれを「名前の有る人」としているので、あなたの魂はその名前のある国へ行かねばならない、そこに国も世界もないのに、あなたはそのねじこまれた偽造の有名をあなたの国の国民とせねばならないのだ/偽造された「有名」がどれだけ魂を蝕んだか、その結果として現代の光景がある。

視点変えてこ | comments(0) |
200 tonight
から第200回のワークショップが始まる。
顧みて思うのは、おれの世界って楽しいなあ、ということばかりなのであった。
おれの楽しさは想像を絶している、いつまでも「何がどーなってんだ」とおれは首をかしげている。
想像を絶しているから楽しいのであって、想像通りに楽しいということはないなあ、おれは何を話しているかというと、単に自慢しているのであった。

何かを頑張るということは苦手なので、何かを頑張るということは二秒で血反吐をはいて死んでしまう、だから遊び続けるしかないわけだが、こうして一秒たりとも例外なく遊ぶというのもけっこうたいへんだ。
想像を絶することが肝要で、万事はおれ自身の理解を超えていなくてはならない、だからおれのやること・やっていることは誰にもわからない、何しろ当人にもわからないのだから誰にもわかりようがない。
今から第200回が始まるのだが、何しろおれはワークショップなんてものに興味はない、これまでに一度も興味や関心をもったことがない、でもまた今夜も始まってしまうな。
おれの世界には興味のないもの・関心のないものがひしめいているのだ、とにかくそうでなかった日は一日もない、ああ19時になったぜ。

今夜何をするのか未だ決まっていない。

なぜ決まっていないかというと、そんなものはおれが決めなくても、もともと決まっているからだ、もしもともと決まっていないのであれば、そんなものを人為的に決めてよいわけがない、何をして遊ぶか前もって決めるほどヒマな奴があるかよ。
こんな話を聞かされてもわけがわからんと思うが、おれだってわけがわからないし、参加している連中もわけのわからないまま「えぇ……」と参加し続けているのだ、今夜こそ破綻しそうだと毎晩思うがこれまでに破綻したことはけっきょく一度もない。
バカをやろうかあ | comments(0) |
言霊と豚スペアリブ

ょっとブログの更新が滞っているが、おれは引き続き元気でバリバリであり、日々とてつもない躍進を続けている。
躍進を続けているので、ソウル的に「なんだこれはああ」となり、イケイケになったつもりがソウルを使い切ったらしく、この年齢になって一日に二十時間寝るというような様態を示した、ホント際限がないな。
特に慌ててコメントすることもないので何を書こうか迷ってしまうが、いいかげんこのブログというかウェブサイトからも、何かしら映像や音声のコンテンツを発信しようかという案が持ち上がっている、発信などという言い方はまったくおれにそぐわないが/そういうのって需要あるかね、求めている奴がいたらテキトーに拍手ボタンでも押しておけ(で、実際にやるかどうかは別)。
まあどうせおれがやるとなると、けっきょく「なんなんだこれ」というわけのわからないナゾのブツになるのは前もってわかっているのだ、その代わりそのときは練り上げられたキツめのやつを提供することにするぜ、とにかく涼しくなったのでおれは調子がよいのであった。

直近で得たのは、いわゆる言霊の発見だった、言霊とは何かについておれは語るつもりはないのだが、少なくとも言えることは「お前らが一般的に思っているようなものじゃナァァァァイ」ということぐらいだ。
この発見は、またしてもおれにとっては大きなもので、ひょっとするととびきりの大インパクトかもしれない、何しろ「わからないもの」がどうやら本当にあって、その「わからないもの」というのはわれわれの予想・空想しているところの「わからないもの」とはまったく異なるのだ。
もし、おれが標準としている「魂魄(こんぱく)」という古い言い方になぞらえて、はっきりわかるものを気魄と呼び、わからないものを霊魂と呼ぶとしたら、その霊魂というものについてわれわれは、なんだかんだ「わかるものがもやもやになったようなもの」というか、一種の価値観を当てはめてその霊魂やらソウルやらというものを予想・空想している。
だがそういうものではないらしいのだ、言霊って何なのかと言われても、どうも「たとえるなら観測できない酸素分子や窒素分子、あるいは二酸化炭素みたいなもの」とでも言うしかなさそうな具合なのだ、そんな観測できない分子があったから「何なんだ」と言われても、「いや本当にさっぱりわからん」と答えるしかないのだった、別に何でもないのかもしれない、そんなわけであいかわらずおれは元気バリバリであり、最近は豚スペアリブの白ワイン煮込みが得意料理になった(今思えば鎌倉に行ったときにもっと玉ねぎを買っておくべきだった)。

仮にソウルやら言霊やらは「ある」っぽいにしても、それが何の役に立っているのかはさっぱりわからない。

これは一般的には意外な結果だと思う、あるいはガッカリの結果かもしれない、言霊なんてものが仮にあるとしてだ、それは何か「いい言葉を使うといい言霊が出てうんぬん」みたいなことだと思われているだろう、だがそういうことではないのだ、日本の場合五十音に対応した言霊があったとして、その言霊が善いとか悪いとかは、「われわれの価値観と無関係なので何が何やら」という具合なのだ、いいかげんこのあたり善人タイプの人は自分に万事の才能がないと諦めたほうがよいように思う(あっ、ひどい言い方をしてしまった)。
おれが知っていることは、五十音なら五十音でどうも言霊くさいものはあるっぽいが、それが何の役に立っているのかはさっぱりわからないで、ただそういう光みたいなものは空間に幻視されるっぽいというか魂には一種の光として視えるような感じなのだが、それが何なのかというと「うーん、何でもない」という具合だ、そして奇妙なことに、それは何でもないにも関わらず、なぜか圧倒的な不満のなさというか、何かわけのわからない「これでいい」感をもたらす、少なくともおれは「これでいい」という感じになるのだ、何が何なのかさっぱりわからん、ただ強烈すぎて翌日はまったく動けなくなった、というわけでおれは全国にあまたいる言霊希望者の思いを裏切って「お前らのそれはただの思い込みと願望だ」と言い放つのであった、センスのない奴がスピリチュアルを言い張るのはハズレだといいかげん見切って諦めろ/もちろんおれのそれだって思い込みかもしれんのだがそれにしては響いてくるものが違いすぎるわな、おれの豚スペアリブは超ウマイしな。

バカをやろうかあ | comments(0) |
身体の声を聞く
体の声というのは実際ある(確かめようはない)。
身体の声を聞くということの、よい点は、当人の言うことを無視できるということだ、当人の言うことはアテにならないことがよくある。
たとえば何を食べたいかについて、当人が言っていることより身体の声のほうがアテになる。
当人の言うことが身体の声とぶつかって自ら身体を疲れさせている人は少なくない/まあこんなもん確かめようがないので言ったもん勝ちみたいなものだな。

多くの人は身体の声がきらいなのだろうか? まさかそんなことはないと思うし、たぶん自覚がないだけなのだと思うが、結果的に身体の声とケンカしている当人というのはよくある。
何か、大事なときに気合が入らなくてヘナヘナになってしまうというタイプの人がいると思うが、そのタイプはたいていこれだ、身体がノッてくるということが当人の思惑として気に入らないのだろう、だから自ら身体をヘナヘナにしてしまう。
身体の声を聞き、そのままにすると、当人の思惑とは違うダサさや、小ささ、性別やら何やらがいろいろ出てくるものだ、もちろんそれを意図的に無視したり封じたりするのはよいと思うが、無自覚に踏みつぶしているのはよくない、いつかそれなりのトラブルになってしまうだろう。
といって、おれも魂の作業をしていると身体の声は放ったらかしになるので、人のことは言えないのだが、こうして記事に書くことによって、おれも身体の声を聞くようにしようと戒めているのだった、おれ自身の身体の声、そして他の誰かの身体の声を聞く。

正論はいつも正しく、センスはいつもハイセンスだが、身体の声からは切り離されている。

それはつまり頭もいいしセンスもいいし、善人だし常識があるということなのだが、でも身体の声からは切り離されているので、あまり意味がないのだ、十字架である身体の恥が命の誇りに到達するかということがテーマなのであって、身体を置き去りに命やら魂やらをこねていたって意味がない、「実際にウマイ飯が作れるのかオラァ」で終わりだ。
最近おれは、もう少し自分のことを自慢して生きてくればよかったと思っている、そのほうが多くの人の本当の役に立てたと思うからだ、おれは身体の声を命の誇りに及ばせてきたが、なぜかそのことをまったく自慢せずにきてしまった、何なら今でもそれを無意味に隠してしまう・控えてしまうところがある、そんなことをしても誰もトクをしないのだから、もはやおれのこれは美徳というよりはただのブキミだ、おれはどうも出しゃばりが苦手なせいで、それが行き過ぎて今は無意味な秘密主義にさえなってしまっている、これはさっさと改めなくてはならない。
視点変えてこ | comments(0) |
WS報告 of 198th/お金の使い方
198回は「お金の使い方」が語られた。
ところでよくよく見たらもうじき200回だなあ、ここまで一回たりとも同じ回はなかったということを自慢しておこう、毎回「今回は特に新しくてすごかった」と言わしめてきた、それはおれが「前と同じこと」がやれない体質だからしょうがないのだ、さすが芸術家の天才っぷりがハンパねえな。
お金というのは、守ろうとしても守れないものだ、良いように使うことでしか守れない、なぜ守れないかというと、表面上の倹約・節約をしても、水面下で蓄積していく「さびしさコスト」がやがて地表に噴き出て、そのときにすべてのものをガサッと奪っていってしまうからだ。
人は五万円の靴を買ったからといって破滅しないし、100g 58円 のブラジル産鶏肉だけを食べていたからといって救われはしない、けっきょくは高い靴を買おうが安い肉を使おうが、水面下に溜まっていくさびしさコストを打ち砕けなかったら同じことだからだ、のちに人生規模での出費をドカーンとやらかすので、コツコツやってきた節約など「何の意味もなかった」という具合に一撃で困窮に陥れられてしまう。

たとえばこのワークショップは、アホみたいな内容に対してアホみたいなメンバーが参加しており、ふと気づくと金曜日から日曜日までウヘヘヘとやっているうちに、「そういえばもう数か月、週末というものがないですねウヘヘヘ」という状態になる/加えて最近は「〇月の宿題」というネタに各員が熱心だから、週末どころかウィークデーまでワークショップに呑み込まれる事態だ、特にこの数か月で各員は信じられないくらい知性があがった(つまり以前がどれだけバカだったんだという話だな)。
今、オンラインでやっているのでワークショップは実質無料だが、スタジオを借りてやっているときはスタジオ代が掛かる、とはいえわれわれが真に知らなくてはならないのは、「ワークショップに参加していなかったら、お前らは週末に別のことをしているだろ」ということだ、ワークショップに参加していなかったらスタジオ代は掛からないけれど、そのあいだ何か別のことで遊んでいるのでそちらでお金が掛かるのだ、そのことを冷静に差し引きするなら、週末にこのクソボリュームのワークショップに突っ込むことは決定的な「コスト削減」になる。
まして、われわれの人生を砕くことがあるといえば、デパ地下でケーキ買っちゃったとか短距離でタクシー使っちゃったとか、そういう表面上のコストではないのだ、あるとき突然に水面下から噴き出してくる爆発的さびしさコストなのだ、この点でワークショップでも何でもいいが、「あれは本当に面白かった」「あのときのあの時間は本当に何かの命があった」というものがあれば、このさびしさコストを水面下で打ち砕くことができる、そうして命あるものだけがさびしさコストを破壊することができ、さびしさコストが破壊された者のみ、この世界の99.9%のものに対して「本質的に要らない、別に欲しくはない」とはっきり感じることができる、それは欲をガマンしているのではなく、欲そのものに対して「???」になるのだ/「以前はやっきになっていたものが、今ではなぜそんなものを欲しがっていたのか、本当にわからなくなりました」とよく言われる。
「脱サラして、企業して、開店した店が二か月でつぶれて、借金だけが残るというようなこと、これが特殊な例ではなく "よくある話" なんだ」「彼は車を買うお金があったんじゃない、ダブついたお金が彼を許さなかっただけだ、お金があるから "車を買わされた" んだ」「彼はその後、まったく同じノリで、結婚を買わされたし、マンションを買わされた」「ただしそれは彼のさびしさコストをむしろ増大させることになったので、彼はその後……」「つまり彼は、真には車を買えなかったし、真には結婚も買えなかった、家も家庭も買えなかった、つまり彼はお金を使えていなかった」「生を費やして命に替えられなかったならそれはお金を使えなかったってことなんだよ」とおれは話した。

水面下で減価償却が企業を食いつぶしているように、水面下でさびしさコストが人を食いつぶしている/それがあるときの "決算" でいきなり出てくる。

A君が遊び好きで100万円使ったとする、一方でB君は貧困恐怖があったので一銭も使わなかった……このとき表面上の収支はB君の側にプラス100万円の軍配があがるように見えるが、本当にはそうではない、A君が命を得て水面下のさびしさコスト500をついに打破したのに対し、B君がさびしさコストを募らせて500から1000に増大させたとすると、本当の決算はA君がプラス400でB君がマイナス900だ、その差は1300、B君は恐ろしいマイナスとビハインドを抱え込んだことになるが、表面上B君は自分のほうが賢明で強いと思っている、その思い込みはあるときの "決算" まで続き、その決算のときにはもうまったく耐久性がなくなっている。
「脱サラして、起業して、数か月でつぶれて借金が残るというのは、実によくある話なんだ、その話を持ち掛ける専門の、カゴ抜け詐欺野郎だっているんだよ、飲み屋でひとりでやけ酒を飲んでいるとシレッと言いよってくる、そのことには目の利く専門家がいるんだ」「起業して、客は実質ゼロ、借金だけが残ったという定番のパターン、これは経営したとさえ言えないだろう」/「なぜそんなことになったかというと、彼はこれまでずっと、自分が万事に対して "しぶしぶ" お金を使う人だったのさ、だから彼は、豊かに文化的にお金を使う人や、太っ腹に粋にお金を使う人の感覚なんてわからなかった、彼はそうやってお金を使える人とは話が合わず、彼に話が合う人は全員同じ "しぶしぶマン" だったのさ、だから彼が何を経営しようが、彼のところには極端な "しぶしぶマン" しかやってこない……そんなことで経営が成り立つわけないだろう? 結果、彼が自分では賢明だと思っていたしぶしぶ合理主義が、トータルで見ると何ら有利ではなく、彼の致命傷になっていたってことさ、お金について、自分がまともな使い方をしたことがないから、自分にもまともに使ってもらえないんだよ」。
正しく見ないとな | comments(0) |
同じ生きるなら大好きな日々を生きるほうがいい

じ生きるなら大好きな日々を生きるほうがいい。
どうやったら大好きな日々を生きられるか、ということになりそうだが、おれはどうしても、「どうやったら大好きな日々じゃなくなるんだよ」という発想しか出てこない。
多くの人には自信も才能もないと思うが、かといっておれも別に、自信や才能があるわけではないのだ、いや仮にそれらがいくばくかあったとしても、そのことを「大好きな日々を生きる」ということには一切使っていない、だから自信やら才能やらは無関係だ。
おれには、おれが何をどうやっているのかよくわからないし、かといって他の人が何をどうやっているかもよくわからないのだった、だから「わかりません」ということになるが、何とも無力な記事だな、それにしてもおれはウソをつきたくないので、ただただ本当のことを話しているのだった。

おれは子供のころから、人の話を聞くのが好きだった。
同時に、他人の話なんかまったく聞いていないし、何らアテにもしていない、とも思う。
おれにとって、人はときおり存在しているのだが、他人は存在していないように思う、他人なんか存在していてもまるきりゴミというか……その意味では、「地獄とは他人のことだ」というサルトルの捨て台詞は正鵠を射ているように思うし、「他人なんか存在するのはサルトルよテメーがダサいだけだ」と断言するのに迷いはないのだった。
おれには話の合わない他人というのは存在しておらず、まあだからこそアレだな、おれと話が合わない奴は当人が慌てるというかビビるのだ、そして現時点のおれと話が合うというのはそんなに容易なことではない、おれがあなたを否定しているのではなくて、あなたがおれを他人として合わせようとしているからあなたが慌ててビビることになるのだ、そりゃ他人と合わせようとしたって合わないよ。

おれの誤っている話を聞けよ。

大好きな日々を生きる秘訣は、とにかく誤っている話を突き進むことだ、いやあ気分がいいな、おれの誤っている話と噛み合わないなら、あなたは他に誰か正しい話でもする奴がいると思っているのだろう、ぜひそいつのところに行けばいいと思うが、それはがっつり不幸になるぜ。
おれの誤っている話がおれの世界であり、世界というとおれの世界しかないのだ、話を聞くというのはそれだな、あなたはおれの話していることに対して「わからない」と思うかもしれないが、あなたはあなたにわかる話を受け入れてきて、正しいまま幸福にはなりえないというジレンマに陥ってきたのじゃないのか/この先もおれが正しい話をする見込みはない。

恋女のマインドね | comments(0) |
空の向こう側の空
こかで若い誰かと若い誰かが恋人でありますようにと祈っている。
たまにおれはそういう埒もない空想を幻に視るような気がするが、そのときのおれはどこにいるのだろうと、昔から奇妙に思っていた/おれは物語やシーンを目撃していて、おれはそこに "いる" のだけれど、そこで何をしているのかよくわからないでいた。
おれは彼らを応援していて(ダサい言い方だ)、彼らに直接の干渉はしないけれど、彼らと話はする友人だ、そのとき彼らはなぜかひとつの空の下にいる。
その空は、夕暮れが一番多いのだが、今さらになって思いがけないことに気づいた、そのときにある空は日常的な空ではなく、空よりももうひとつ高くにある空だ、空の向こうにまた空が広がっているというような、広く遠い空だ。

おれはこれまでに何度か、この「空の向こう側にある空」を目撃してきているように思う。
そしてそれは、目撃のたびに、すべてが決定的で大事なシーン・出来事になったように思う。
これが何なのかは知らないが、それでもこれがある・この現象があることを、おれは知っている、今このときもあるのだ、空の向こう側に空がある、その遠い空の下でこそすべてのことはシーンになり出来事になり物語になる。
おれが当該の空から、見つめられた、あるいは睨まれたのか、または語りかけられたのか、わからないけれど、そのはじめの記憶はおそらく三歳や四歳のころにさかのぼる、おれは近所の空き地の雑草を草原と誤解するほど小さかった、おれは空の雲を見上げていたつもりだったが、ふとした瞬間に空の雲がおれを見ているのだと気づいた、おれは怖くなって走って逃げて帰った、あれは今ならわかる、空の向こう側にある空だ。

空の向こう側にある夕暮れの空が「おれ」なのかという気もする。

ひとつ確実なことは、おれは漠然と存在しているのではなく、厳密に「空の向こう側の空」の下でのみ、おれとして存在しているということだ、そこから切り離した社会的なおれなどは社会的にしか存在していない、そしてもちろん社会的な存在というのはウソだ(不必要だと言っているわけではない)。
あいかわらずおれはヘンな奴で、おれだけずっとヘンな、まったく違うところに立っているのかもしれない、おれは誰とも会っていないような気もするし、誰とでも会っているような気もする、おれがわかるのはひとつだけはっきり、「これがおれだ」ということだけだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
関係あるものを買うということは、関係ないものは買わないということだ2
りていに言えば、おれはハイソ地域の百貨店内で、一種の不幸をたくさん目撃したのだった。
というのはつまり、店内には、お金持ちのマダムやお姉ちゃんが客として歩いているのだ、彼女らは見るからに高いブラウスを着ていて、場所に慣れており、おれはそれを見ながら「ここの価格帯を日常にして暮らしているってどういう感覚なんだろうな」と思いを馳せたのだった、もちろんそんな感覚などわかりはしない。
ただおれが目撃したのは、そうした金持ちのマダムやお姉さんたちが、すさまじい値札の中を、思いがけず「ボーッとして」歩いているという事実だった、まるで夢遊病のようにぼんやりしており、どうでもいいような浅薄な商品説明を店員から受けている、ほとんど時間の無駄にしか思えないが/おれは彼女らを目の端に捉えながら、理解した、彼女らは無数の商品を好きに買える金権を持っていながら、どの商品にも「何の関係もない」という中を歩いているのだ。
おれは安物と高級品なら、高級品のほうが好きなたちだ、おれはマグロの柵は買わなかったがマダイの柵は買った、マダイはおれに「関係ある」からだ、おれは愛媛産の天然のマダイを刺身にして食ったが、「うおっ」と驚きの声を出しながら食った、とはいえそれでも瀬戸内の地物として当地で食うのとは大きな開きがあるのだが……

金持ちのマダムやお姉さんがいて、彼女らだってバカではないのだし育ちはよいのだろうから、安い養殖のマダイと高い天然のマダイの差はわかる、最近は養殖ものの品質がとてつもなく上がっているので単純な旨味の量では「あれっ」と驚かされることがあるが、それにしても本当の上物は歯ごたえも違うし味の複雑さも深さもまったく違う、必ずしもそれがすべての料理を具合よくするとは言えないほど本当の上物は特別な力がある(たぶんアヒージョなんか作ったら養殖のほうがウマいという場合がありうると思う)。
金持ちのマダムやお姉さんたちも、バカではないので、高品質のものを「よい」とはわかるのだ、食い物であろうが衣服であろうが、高級品のほうが「桁違いによい」ということはわかる、けれどもそういうことではないのだ/たとえ桁違いのウマさであろうが、それが自分の口の中に入ってくるということに「何の意味もない」ということなのだ、にもかかわらず、人はわざわざマズいものを食おうとは思えないので、漠然と高級品を買って食べている、それもただ自分が立場上その金権・権力を持っているからだ。
高級なワインと超高級なワインは、素人にはどちらが上物かよくわからなかったりするが、安物のワインと超高級なワインならその差は誰にでもわかる、誰だって生まれて初めて当たり年のムートンを飲めば「な、なんじゃこりゃああああ」と目を丸くするはずだ、おれは初めそれを「ブランデーでも混ざっているのか!!」と驚いてウマすぎてガブガブ飲んでしまった(あとでシェフに「だってそりゃムートンだもの」と説明されて「へえ、そういうやつなんですか」と答えた、おれは当時何も知らなかったのだ)。
金持ちのマダムもお姉さんも、高級なワインのほうがウマいというのは知っているし、その差はわかるのだ、だからカネがある以上は高いほうを買って飲むのだが、やはり「口の中に高級ブドウ酒を流し込んだからといって何なのだ」というわけのわからなさの中を生きていることになる、それで「これは当たり年のピノノワールですね、すっごくおいしい」みたいなことを言っている、それがピノであろうが焼きそばUFOであろうが「お前に関係ないものが口の中に入ってきても何にもならんだろ」ということが続いているのだが、そのことには何も答えられないまま彼女らはハイソ百貨店の店内をウロウロしている、おれはそこにはっきりと一種の不幸を見た。

関係ないものをずっと買い続けているから、彼女らの眼の奥は恐怖におびえている。

繰り返すが、彼女らだってバカではないのだ、バカではないのにその愚かな行為を続けるしかなくなっていて、眼の奥に恐怖を蓄積し続けている、それが「恐ろしいことになる」ということは直観で知っているのだ、にもかかわらずけっきょくはそれを続けるしかない。
自分に関係ない服でも、高級品を着るときれいに見えて、自分に関係ない肉でも、高級品を食うとやたらに旨い、関係ない音楽でもハイクラスの演奏ならやたら上手で、関係ない車もやたら乗り心地がよく、関係ない酒も宝石もやたらにきらびやかだ、何の関係もないのにだ、そこで「なんで?」というと「カネだから」ということなのだが、そうして冷静に見ると「カネ漬け」にされているだけということを、人の魂は知らないわけではない、自分に関係のないものを消費したり趣味にしたりすることは恐ろしいことだ/そして、自分に関係あるものに満たされて自分に関係あるものに必死になってワッハッハというのが幸福の本質だとよくわかる、生きているうちこの世界に自分の「関係あるもの」が得られるとしたらそれじたいが稀な幸福に属することだ(たいていはそんなもの得られないので、身内を宝にするしかないものだ)。
視点変えてこ | comments(0) |
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