☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
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「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第百八十回】   7月10日(金)19時〜オンラインにて開催!
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【第百八十五回】7月25日(土)19時〜オンラインにて開催!


(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。夏場世田谷公園では青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(公園場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり)

(雨天時・寒冷期・深夜はスタジオを使用します、随時ブログで通知致します)
(スタジオは主にこちらを使用しております→マイレッスン "三軒茶屋" スタジオ

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)
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「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第102回】8月15日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第103回】9月19日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
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(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

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基本フツーの風邪でさえ罹りたくないのでみんなおれのために自粛と防疫をしろ


みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

 

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主観と客観の無関係性
でも自己客観視する時期があると思う。
思春期とか青春とか、部活動とか就職活動とか、その時期の恋あいとかで……さすがにその時期に自己客観視ゼロで来た人は、ヤバいぐらいのバカになっているわけで、それはもう取り返しがつかないたぐいなので、そのまんま取り返しがつかない何かとして生きているという中高年は、世の中にけっこうな数いるのだった(しゃーない)。
自分で客観視しなくても、客観的な視点というのはあるのであって、自分で客観視しなくても、客観的に優れているか否かというのは決まっている、そして客観的に優れていなければそれは実際優れていないのだろう、そのことは別にシビアというわけではなくてただの「当たり前」だ。
一方で、つくづく思うのだが、客観的に見て優れているからといって、その優れていることに何か意味があるかというと、別に意味はないのだ、これが非常にやっかいだと思う/思春期とか青春とかで、まともな人は自己客観視のプロセスを経るのだけれど、それで客観的に優れている何かになっていったとして、「優れているからって何なのだ」と、他でもない自分自身に問い詰められるところが出てくるのだ、世界で一番高級な自動車を持っていたとしてもそれが子供のお気に入りのゴミのようなおもちゃに敗北することはいくらでもある。

自己客観視というのは、要するに、自分の主観を、客観の情報に合理的に寄せていくということだ/客観的に見てダサいと思うものを、自分でも「うん、ダサいな」と見えるようになるというだけのことだ、よほどプライドが高くない限りはこれはそんなにむつかしいことではない(そのよほどのプライドというのを克服するのがむつかしいので実際はむつかしいことだが)。
それで、まともな人は誰もが自己客観視をして、自分の視点を客観のそれに寄せていくのだとしてもだ、それによって客観的に優れた人たちばっかりになったのが現代という趣きがあるが、つくづく、その客観的に優れているはずのものを周囲に並べたところで、「つ、つまらん」という絶望的な直覚に襲われるのだ/客観的に優れているものが主観的にナイスとは限らないので、つまり六本木ヒルズの最上階に住むよりよくわからないアパートの六畳間のほうが「なんか快適だったよな」「快適以上に、何かサイコーだったわ」ということが主観的にはあるのだ、しゃーない。
どれだけ客観的に上手で魅力的な歌手が唄ったって、要るか要らんかで言うと「あっ、おれには要らないっす」ということがあまりにもよくある、あまりにもよくあるというか、大半のものは主観的なおれにとっては要らんものばかりだ、たとえ8Kテレビに超絶美人とセクシー衣装をズラーッと並べられたとしても、その客観的に優れたものがおれの主観にとってどうなのかと言われると、うーん「あまり関係がない」「というかまったく関係がない」ということが見えてしまう/自分の食わないステーキがヨソでどれだけウマかったとしても、そんなことまったく要らないとしか思えないのだが、これはおれの感覚がアホなのだろうか。
なんというか、自分でどれだけ主観的に優れていると思っても、客観的に優れていなければ、それはやはり優れていないのだろうし、かといって、客観的にどれだけ優れていると言われても、主観的に「要らない」と見えたらそれはどうしても要らないのだ、つまり、<<主観的にどう思っているかは何の言い訳にもならない>>し、同時に<<客観的にどうであるかも何ら言い訳にはならない>>ということなのだと思う、けっきょく客観的に優れていなきゃ話にならないし、かつ主観的にイイものでなければやはり話にならないのだ/思春期や青春の時期において、自己客観視というのは苦しい戦いのプロセスになると思うが、どうもその何十倍も厳しい戦いとして、世界の主観視というプロセスがあるように思う、この二つを潜り抜けていないとけっきょく話にならないのだ。

客観的に優れていないものは大抵ゴミだが、客観的に優れているものも大抵ゴミだ。

奇妙なことを言うようだが、主観的に「要らない」ものというのは、名前がついていないのだ、代わりに「タイトル」がついている、ものの名前であれ人の名前であれ必ずそうだ/「タイトル」というのは題のことでもあるが、「肩書」のことでもある、名刺に書いてある「課長」とか「〇〇アドバイザー」みたいなものがそれだ、「名刺のタイトルは何になっている?」というような使い方をする、人であれモノであれ、主観的な必要なものには名前があり、主観的に要らないものはタイトルだけしかついていない。
「主観」というとき、「主体」があるからそれを主観というのだが、正しくは「主」というのは「命」であって、自己客観視というのは場合によってはただの「命の否定、命の放棄」でしかないことがある、そうして命を否定・放棄するほうが「生」においては有利ということがあるのだが、もちろん有利になるぶん「生」の意味はなくなる、そもそも「生」そのものに意味はないわけだし/名前というのは不思議だ、おれがダンゴムシに秘密の名前をつけたとすると、その「名前」という現象はおれ一人しか知らないことになる、つまり「主体」という現象があって「主」しかそのことを知らないということになる、にもかかわらずその現象は実際にあるのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
コロナ騒ぎは承認欲求チャンスじゃねえだろ40/運がないのは自分の責任
中のアレは雷鳴ではなく火球(デカい流れ星)の爆発音だったのか……くそ〜 おれはそういう天体ショーが好きなタイプなのだが、こんなもん本当に偶然でしか見られないもんなあ、見たかったなあ。
それにしても、火球が爆発する音が地上に聞こえることなんてあるのね、十年以上前に何かの流星群で、怖いぐらい流れ星が出て、そのうちの一つが空中で弾けたときに、後で小さな「ポッ」的な破裂音は聞いたことがあるが、昨日のそれは雷鳴かと思うぐらいだったし、うーんなんとかしてもっとデカい奴が見たいものだ、国際宇宙ステーションから何かデカめの玉でも放り込んでくれないかね?
そういえば、以前から思っていること、宇宙のわずかなチリでも(宇宙塵)大気圏に突入すると流れ星になるそうなので、人為的にそういう流れ星ショーをやってはダメなのだろうか、どうせなら金持ちも個人的に宇宙に行こうとするのではなく、河原の花火大会と連動させて大気圏上空に流れ星をばらまくというふうにしてみてはどうか(そういうのって誰かに怒られるのかな)。
ところで(こんな書き出しをしたものだから話題がない)(しょーがないのでこれはコロナ騒ぎの記事にしよう)、今日は都内の新型コロナ、新規感染者が100人を超えてしまうそうだが、まあよろしくない話だ、実際に都内を見てみると、なぜか多くの人にとっては「コロナ騒ぎは終わった、よかったなあ」みたいなムードだもんな、といってアメリカやブラジルのパンデミックに比べれば日本のそれなんてまだまだ冗談でしかないけれども/それにしても、あと二か月もすればいいかげんワクチンはどーよということも視野に入ってくると思うので、もうちょっと粘りたいところだ、開放感を求める人のせいで再び緊急事態の外出自粛がやってくるというのは皮肉になってしまうだろう。

たとえば交通事故でいえば、都内でも一日あたり100〜150件ぐらいは出るので、今のところ都内で新型コロナに感染するリスクは、交通事故と同程度には気を付けなくてはならないという感じだ、それでも運が悪ければやらかしてしまうのだろうが、いついかなるときも運が悪いというのは自分の責任なので、これだけは気合いを入れなくてはならない/実力がないのはいいが、運がないのはいけない、運がないことこそ自分の責任であり恥だ、運なしに生きていける実力者なんてこの世界に一人も存在しない。
現在の、ワクチンや治療薬の状況……◆ワクチンは「イケんじゃね?」とアゲ調子、秋ぐらいには本当に実用が始まるかも、ただし日本は出遅れているので、外国のぶんが日本に分けてもらえるとは考えないほうがいい、◆アビガンは、今のところ「有効性が確認できない」のまま、といってこれは一時期言われた「アビガンは効きませんッ! ウァー」という話ではない、アビガンは治験において「安全性は確認できました」「有効性はまだ確認できていません」というだけであって、相変わらず「ソッコーでアビガン飲んだら治るんじゃね?」という可能性は十分にある、ただし「アビガンを飲んだらソッコーで治る」というわけではない(意味わかるかね)、今のところ専門家も「Q:アビガンって効かないんですよね」「A:知らん」が答えだ、◆レムデシビルは、引き続き公的に「いちおう効くよ」という扱い、ただし効果は限定的なので、二日酔いに液キャベを飲むようなもの、結局は自力で治すしかない(それでも液キャベはありがたい)、◆イベルメクチン、続報なし、きっと北里大学がガンバってくれているだろう、◆その他クロロキンなどは諦められたムード、その他の新薬もこれぞという続報はなし。
コロナ報道にはひとつ違和感があって、それはいつぞやまでレポートされていた、年代別の死亡者を報告しなくなったことだ、いちおう年代別の「新規罹患者」は報告されているのだが、いつのまにか二十代の感染が一番多くなっている(→東洋経済ウェブサイト)、いつのまにか二十代がメインになったならそれはそれで報道するべきだと思うが、じゃあ一方で年代別の死者はどうなのかというと、これはどうもレポートが出ていないのだ、これはどうも厚労省がというか、幕府がデータを見せないようにしているのだと思う、さすがに死者数だけ把握していてその年齢は「まったく知りません」なんて集計はありえないだろう/いつぞやまでは年代別死者数もデータを出していたのに、急にゴニョゴニョ隠し立てをやりだしたのは、結局「若い人は死にません」とでも認識されたら、自粛ムードが一気に消し飛んでしまうという判断なのかもしれない(おれはその判断が誤っていると言っているわけではない、おれが大臣でも「そんなの隠しとくしかないだろ」と指示したかもしれない)。
というわけで、交通事故には「遭ってたまるか」だし、同程度のリスクとして「コロナになんか罹ってたまるか」ということだ、それは数的割合として警戒すると同時に、数的割合として過剰反応しないということになる、一日中路上を歩いていても交通事故に巻き込まれることは困難をきわめるのと同程度に、もし「今日偶然コロナに罹患してきたら三億円やる」と言われても、実際には感染できないだろう、それが数的割合の判断だ/それにしてもけっきょく必要なのは、この偉大なるおれさまが「新型コロナとやらは滅べ」と命じることなのだった、おれだってさすがに毎日そんなこと命じているほどヒマではないので、そんなもん他の全員でよってたかって命じればいいと思うのだが、しゃーない、さあもうみんな飽き飽きなので新型コロナはさっさと滅べ、もう新型っつーほど新しくないんだよテメーは、ネタが割れる前にさっさと自滅して消え去るのが吉だ。

都内で火球を見た人のほうがはるかに多い。

都内でデイリー百人を超えると「恐怖ッ」みたいな感じになるのはわかるが、アメリカはデイリーで四万人を超えたりするわけで、場合によってはアメリカはこの先デイリーで十万人いくんじゃねという状況だ、日本のこの数か月にわたるコロナ騒ぎの戦いを、アメリカは「一日どころか午前中で超えるぜ」という騒ぎっぷり、一方で黒人が暴動を起こしており、さらには香港の弾圧に関して中国とも取っ組み合いをしなくてはならないという、聞いているだけで過労死するような状況がある/余談というか、考えると憂鬱になる話だが、香港のニュースにはさすがにおれも青ざめた、あれはおれが一番きらいな、どす黒くブキミな「権力が牙をむいた」というやつだ、人間の底から人間でないものが噴き出す瞬間のもの。
今になって仄聞するところ、どうも去年の年末から今年の年始にかけて、「ひどい風邪をひいた」という人が一定数いるらしく、ひょっとするとそのときにすでに新型コロナの第一波は来ていたのかもしれないという可能性もある/今このときに何がどう起こっているのか、明らかになるのは十年後のNHKスペシャルかもしれない、そのときが待ち遠しいな(さあコロナはさっさと滅べ)。
コロナ騒ぎ(臨時) | comments(0) |
使える idea の発想機序
 idea を、持たねばならないし、話さなくてはならない。
ここでたとえば、「世界平和がいいです」みたいなことを言ってもダメだ、いくらその idea が正しかろうが、その idea は使う機会がないし、使える idea として組み立てられてはいないからだ。
 idea と言ってもいいし、知恵というのも同じだが、それらは「使える」ものでなければ値打ちがないし、値打ちがないならいくらその idea を話しても意味がない、聞かされる側はうんざりするだけだ。
「使える」 idea が必要で、その「使える」というところから idea を構築するということ、この機序じたいが実のところ idea の生成とその開示のミソなのだった/「使える」というところから idea を構築するというのは、まず人の常識や習慣の立場から始めて、「どういう思い込みでスタートしてしまうか」ということに立つのだ、そしてその時点で「あ、そうだった」と思い出して、新しい指針に切り替えて踏み出していける……つまりスタートの一歩から別の道を選択できてしまう、そういう道標として idea を構築するのだ、いわば idea というのは「正しさ」ではなく「道標力」が問われると言っていい、「この道標があってスゲー助かったわ」というのがナイスな idea ということだ。

たとえばここで、おれからみなさんに「明治維新」の話をしよう、みんなひととおり学校で習ったと思うが(そしてぜんぜん覚えていないと思うが)、明治維新と聞けばまずその出来事を「気持ちわるっ」と思え、なぜそのように思わねばならないかというと、諸事情あって<<全然つじつまが合わない>>からだ、このことを知らないまま明治維新の大河ドラマを見るとニセの印象的情報だけがすべりこんでデタラメなキャラクター小説みたいな知識が増えてしまう。
まず、われわれの持っている明治維新のイメージは、「幕府をやっつけた」「開国! そして文明開化が来たバンザーイ」という感じだ、このことが実はおかしいと指摘すれば、もうここからすでに「気持ち悪っ」は始まっているのがわかるだろう。
ペリーが黒船で恫喝外交に来て、「オイ港を開けや」と言われて一撃で幕府がビビって江戸時代がたちまちオワタのは事実だが、明治維新において「開国」を推し進めていたのはほかならぬ幕府の側だ、幕府は勝手に五か国に向けて開国をホイホイ進めていたのであって、それに対して「アホウ断じて鎖国じゃ」「攘夷! 夷狄を打ち払え」と言い差し止めたのは天皇の側だ、だから開国を目指すのであれば幕府を佐(たす)けて天皇を封じ込めなくてはならない。
が、明治維新の勝利者側は、いわゆる維新志士たちであって、維新志士たちに与えられているイメージとイデオロギーは「尊王攘夷」だ、尊王攘夷ということは……あれ? 「開国したらダメじゃん」「天皇の言うとおり攘夷っすよ」であって、開国して西洋化したら尊王攘夷のほうが負けのはずだ、にも関わらず実際には、尊王攘夷軍勢が勝利して、開国佐幕側が敗北している、そして明治といえば「開国して文明開化バンザーイ」なのだ、どうだ気持ち悪いだろう、この気持ち悪さを先に教えられていないと何をどう頑張っても明治維新で何が起こったのかは理解不能だ、たぶん学校の先生でも年号を覚えているだけで出来事そのものは理解していないだろう。

こうしてあなたは、明治維新を理解するための、第一の idea を得た。

長州藩は「朝臣(あそん)」の称号を持っているのに、なぜ京都御所にMAX砲撃しているんですかね(禁門の変)、そしてなぜ「朝敵」になって討伐対象にされているんですかね……そして会津藩というとむしろ徳川親藩の気がするがなぜその会津藩が天皇を奉じて長州藩(朝臣なのか何なのかもうわからねー)とドン底までやりあっているんですかね、そして長らく幕府の敵対勢力だった島津藩はいわゆる蘭癖大名(外国オタ大名)の代表だったのに、なぜその蘭癖が「攘夷」の旗手として天皇側に一番頼られているんですかね……このシッチャカメッチャカの向こうに、あなたは「二百年間鎖国して誰も日本という国のことを考えたことがなかった」「誰もが自分の家と藩のことしか考えずにきた The サムライたち」ということのツケがどのようにクレイジーに噴出するかを見るだろう/明治維新というのは実は開国とは何の関係もなく、ただの「これまで抑え込んできた幕藩体制の大崩壊 (・ω<) てへぺろ」にすぎない、開国はいっそ外国からの物理的なモンであって、諸外国は日本国内で起こっている(というよりは幕藩体制の中で起こっている)ワチャワチャについて根本的に「???」だっただろう、あえていうなら日本は明治維新なんか「していない」と言いたいぐらいだ。
というわけで、ここまで言われると、「明治維新って何があったんかね」と、なんとなく関心の芽生えが起こるはずだ、それはあなたが「使える idea」を獲得したからだ、学校の教科書も内容として誤っているわけではないが、教科書に書かれていることが「正しい」としても、それは「使える」わけではないので、聞かされてもウンザリするのだった、だから学校の教科書というのは「成績と将来に向けて現実生活が有利に傾く」という取引を土台にしてしか読まれることがない、教科書ほど「誰も読まない本」「使えない本」は他にないだろう。
できるオンナだね | comments(0) |
封建制と「サムライ」に対する幻想2
とえばあなたが「サムライ」だったとする、するとあなたは子供のとき、たぶん十歳ぐらいだろうか、「あなたももう、子供じゃないんだから、町人の子と口をきいてはいけません」みたいなことを母親から言われる、「えっ?」とあなたは驚く。
寺子屋みたいなところにも通うが、父親から、「お前は武士の子なのだから、読み書きは習っていいが、そろばんは習わなくていい、あれは商人の子が学ぶものだから」と言われる。
夜更けになってから、母親がこっそり豆腐を買いに出かける、「昼間に買いに行けばいいのに」とあなたは思う、けれどなぜか言い出しにくい雰囲気だ、何か聞いてはいけない感じがする/あとになってあなたはそれを、「武士の家なのに中間(ちゅうげん)もいないのかよ」と人に笑われるからだと知る(※中間とは小間使いのこと)、子供のころからあなたの暮らしはけっこう貧乏なのを、なんとなく周囲との比較で気づいている、「お豆腐が食べられるなんてぜいたくなことなのよ」「お父さんが大小を差して歩いているのは名誉なことなのよ」と教えられる、家系図を見せるときだけ父親がやけにイキイキするということがあなたは内心でよくわからず首をかしげている。
あなたはそれなりの塾や剣術道場に通わされる、が、どうも塾の先生も論語がそんなにわかっている様子ではなく、けっきょくは毎回同じ口調で「忠孝」のお説教を聞かされるだけだった、剣術道場は「えい・やー」と無気力な運動をさせられるし、門下生は五人しかいない/元服に向けて刀をそろえ、いちおう裃(かみしも)も用意しなくてはならないということで、父親は商人のところにお金を借りに行く、父親は店の前までは威張っていたが、ふと建屋の窓をのぞき込むと、父は商人に対してペコペコ頭を下げていた、けれども建屋から出てきた父は再び路上で威張っていた。

髪を結われて裃を着せられ、父親の勤め先に連れてゆかれる、いろんな人に挨拶をさせられる、父はこの河原沿いの建物で荷役の検分をしているらしい、ひとつひとつを帳面に記録し、船頭や荷役人にいちいち「よし」と威張ると、よしと言われた側はヘヘェと恐縮しっぱなしだった。
そこに、駕籠に乗った上役がやってくると、父親は作業を放り出し、また他の職員も作業を放り出して立ち上がり、駕籠から下りてくる上役を出迎えた、その偉そうな人が「お役目ご苦労」と言うと父親は「ははっ」と頭をさげて、さげたままそれを上げない、あなたも慌ててそれに倣った、「万事遺漏ないか」と言われると父親はまた「ははっ」と言った、ひととおり調所を見て回った上役がふたたび駕籠に乗って去っていくまで父は頭をさげたまま顔をあげなかった。
河に橋が架けられることになった、その作業に父も駆り出されることになり、あなたは父親がとつぜん土木作業も始めるのが不思議だった、そして父の土木作業は、後で集まってきた工事のおじさんたちの屈強なはたらきぶりに比べていかにも貧弱で手際が悪く、どうしていいものかわかっていないヨタヨタのものだった、屈強な工事のおじさんたちにはみんな刺青が入っていた、そこに馬に乗った上役がやってくると、父親は駆け寄って馬上の上役から指図を受け、何事かを指摘されるたびに「面目ございません」「ただちに」と謝罪していた。
あなたは帰り道、ふと気になっていたことを父親に訊いてみた、「なぜこの河のあそこに橋を架けるの? あっちのほうが人通りが多いし、川幅も狭いし、雨が降ったときもあっちのほうが流れは緩やかだよ」、その河原はあなたが子供のころから遊んでいた河原だったからあなたはそのことをよく知っていた/それを口にしたとたん、父親はギョッとして、左右を見渡し、直接あなたの口元を塞ぐほどの勢いで、「こら、二度と、そんなことを口にしてはいけない。ご政道を批判するつもりか」とあなたに言いつけた、父親の眼球にはこれまでに見たこともない怯えの色が浮かんでいた、そのときあなたは、自分の父親がこの怯えによって、場合によってはいくらでも自分のことを家から放り出すのだということを直観的に知った。

これが「サムライ」だ。

あなたは長男で、兄弟に次男と三男がいたが、次男は十一歳のときに他家に養子に出された、やがてはその他家の跡継ぎになるらしい、三男はどうなるのかと聞くと、「お前がこのまま、当家の跡取りになれればいいが、万が一病気や何かで死んでしまうこともある、そのときは跡継ぎがいなくなってしまうだろう?」と説明された、三男はつまり跡継ぎの「予備」だった、だから三男は寺子屋にも通わされていない/あなたは一念発起して中央の藩校とその付属道場で住み込みになって学門と剣術修行をすることにした、あなたはわずかながら青春を体験した、そうして親元を離れて半年後、手紙が来て「縁談が決まったから戻ってきなさい」という……帰宅すればそのままただちに祝言が催される運びのようだった、あなたは自分の娶るお嫁さんがどんな女性なのか見たこともないし一言も聞かされていない。
これが「サムライ」のスタンダードなのであって、現代のわれわれが何をもって「サムライジャパン」みたいなことを言っているのかまったく不明だ、ある意味サムライジャパンというなら確かにこのサムライジャパンは現代まで続いているだろうよ/あるとき父親があなたの袖をぐいと引っ張り、勤め先の同僚について、「〇〇とは言葉を交わすな、目も合わすな」と言いつけた、「何があったの」と訊くと「先日の大雨で橋が崩れたことに、工事不全としてお咎めの沙汰があるらしい」と父親は言った、あなたが勤め先に行くと、あなたがとぼけてその人に目も合わさないようにしているように、他の誰もその人に目を合わさないようになっていた、やがてその人は勤め先からいなくなり、のちに聞くところ獄に入れられ、獄内で流行っていたコレラに感染して治療を受けられず獄死したそうだ、勤め先では彼の獄死について一言でも触れる人は誰もいなかった、この役人たちの光景がサムライであってサムライというのはまったくソルジャーのことを指してはいない。
視点変えてこ | comments(0) |
封建制と「サムライ」に対する幻想
来から伝わる(もう伝わってねえか)、日本の剣術が優れているのは疑いないことだし、その日本刀の切れ味を産み出した鍛冶技術、またその他の工芸や建築等についても、日本人が文化的・生産的に優秀な業績を残してきたのは事実だ、他国では真似できないところがいくらでもある。
これらのことを惜しんで、われわれはどうも江戸時代あたりの封建制、および「サムライ」ということに思い入れがあるのだが、このことは追究すればするほど「違う」ということが明るみに出てくる、江戸時代にサムライといえば士族のことであって、それは要するに「役人」ということだ、いわゆる二本差しとして刀を差しているのだが、それは「身分」であって彼らが武士道の中にいたのではない。
宮本武蔵は晩年まで仕官せず禄を得ていない浪人だったのだし、柳生にしたって政治参画をしていない一種の山籠もり集団のような「道場」の人たちだった、われわれはこういう剣士のことを「サムライ」と思っているふしがあるが、これは誤解だ、サムライというのは現在でいえば都庁や県庁に勤めているおじさんのこと、またそのおじさんの(〇〇家の)息子さんたちのことを言うのであって、時代劇に出てくる「ならず者たちをバッサバッサ斬る」という武芸の人がサムライなのではない/サムライというのは常に藩主の顔色を窺って、そのまた上にいる幕府の顔色を窺って、公務だけを粛々と続けて「安泰」にだけ精魂をつぎ込むという、「親分こわい」状態ならびに、そのストレスを町人にぶつけて発散する身分の人たちを言うのだ、これは悪口を言っているのではなくて封建時代の常識を述べているにすぎない。
いわゆるハラキリ・切腹というのも、役人が公私における失態を咎められて、要するに公務員に対する懲罰として切腹させられる(詰め腹を切らされる)のであり、何のことはないただの幕府権力による死刑執行にすぎない、もちろんそこで斬首刑でなく切腹を許されるというのが当時の誉れであり武士の情けということになるのだが、もちろんよく知られているように「扇子腹」といって扇子で切腹のまねごとをするだけということも通例だったし、何よりハラキリは武士の嗜みみたいに思われているが、豊臣以前にはそういう文化は特になかったのだから、要するに江戸時代の文化だ/もちろん気性の激しい藩士は、ときと場合によっては義憤の見せつけと表示のため、いきなり路上ででも己の腹にグサッと刃を立てるということをして人々を驚かせたり畏怖させたりもしたのだが、それはド根性と武士道という場合もあったには違いないにせよ、そういうたぐいのことは現代でも自殺念慮にかられた女がそういう致命的な自傷をすることがあるので、どこまでが「文化的」なハラキリだったのかはわからない、少なくともハラキリを含めた「サムライ」というのは、基本的に各地方・各藩の「公務員」のことであって、時代劇に出てくるヒーローのことではない。

ハラキリの文化は、明治以降には廃止されているが、もちろん個人的にハラキリする人は止めようがないので、たとえば太平洋戦争の敗戦後には、敗戦責任を負って自らハラキリして果てたという将校が複数いた。
それはさすがに、心境としておれにさえわかる、ただでさえ部下たちを無数に死なせてきたわけで、挙句に敗戦しましたというのでは、「負けちゃったかあ」では済まない、どの面さげて生きれるものか、またどの面さげて死ねるものか、それでこんなもの自決するしかないと思い至り、まさか安らかに死ねるクスリでぐっすり永眠というわけにはいかないだろう、だからやむをえず古式にのっとって切腹というのは、さすがにおれにでもわかる、ハラキリが正しいのかどうかなんて誰にもわからないだろうが、そのときその人にとっては選択肢がそれしかないと感じたのだろう、それはハラキリが重いというよりは戦争と敗戦が重い。
三島由紀夫はハラキリをパフォーマンスとして見せた最後の一人だと思うが、彼はサムライ気分だったのかどうなのか、少なくとも三島由紀夫がハラキリの「サムライ」をどう捉えていたのかは不明だ、あえて本来の「サムライ」から定義するなら、三島由紀夫のように奉ずるべき主君も持たず、あのように目立って公的秩序を乱したるがごときは、むしろ「サムライとしてあるまじきこと」に分類されよう、三島由紀夫は単に皇軍を奉じる攘夷浪人の心境だったのかもしれないが、それは確かに攘夷 "浪人" であって、脱藩して世間のどこにも属していない「元サムライ」ということになる/そのあたり、けっきょく三島由紀夫はサムライ的な立場でも存在でもなく、あくまで「個人的」な存在でしかありえなかったから、当時の人々にとってもよくわからない「個人的ハラキリ」が展示されることになった、「つまりヤクザでもないし親分もいないのに指を詰めた」というような行為に似ている、このあたりのことを三島由紀夫が冷静に見ていたのかどうかはおれにはわからない。
ハラキリというのは武士と共にあったわけではなく、江戸時代からの「親分こわい」「徳川こわい」という封建制の中に定められていった様式なのであって、それはあえて極論まで言ってしまえば、戦国時代が終わった武士が「戦う者」ではなく「怖がる者・怖がらせる者」になり、その中で武士のアイデンティティのつじつまを合わせるためにもうけられた、一種のロールプレイ的自死の様式とさえ言いうるだろう、三島由紀夫が大胆なデモンストレーションに出られたのもあくまで昭和の時代だったからであって、あれが江戸時代のサムライだったら連座制によって家族一同も処刑されていただろうし、所属する藩も取り潰しにされていただろう、そういうシャレにならないド抑圧にフルブーストをかけていたのが江戸時代の封建制であって、そういうのはやめましょうということで時代が進んで昭和・平成・令和と来たのだ、われわれが江戸時代やサムライやハラキリを誤解しつづけて夢想しつづけているのは何か精神の根底に深いひずみをもたらしているように思う。

ハラキリがロールプレイだったとしたら、その流れた血は大地に染みこんでこの国を呪縛しているだろう。

あえておれはこのように言いたい、「そんなに人に腹を切らせたい?」と/この国の――だけではないかもしれない――人々は、誰でもがそうであるように、どことなく自分が偉い・権威があるという思い込みの中を生き、その中で加齢が進んで死が近づいてくると、その自己権威の思い上がりが制御しきれなくなって、ある種の衝動として噴出してくる、表面上は牧歌的な、人懐こい顔をしながら、なぜか自分の権威のもとに誰かが自ら腹を切って血を流すことを求め、その流血によって自己を大いに慰め、悦に入るという性質があるのだ、ハラキリというのはけっきょく徳川謹製のロールプレイであって、まるで二百五十年かけて大地に染みこんだロールプレイの流血によって日本人の血は卑しく屈折したものに歪められてしまったかのようだ。
冷静に考えて、サムライ・武士というのは戦うのが本分の武人なのだから、そもそも「徹底鎖国する武人」というのが一種のジョークでしかない、この鎖国する武人というジョークがさらには権威を言い張って国内の人々を暴力と恫喝で抑圧してきた、こうして「閉鎖された中で暴力を見せつけ権威を言い張る人々」というのは確かに「おっかない」に違いないが、それはおっかないだけであって強いてわけではない、だからペリーが軍艦を持ってきただけで幕府はいきなりお股おっぴろげになってしまい、維新戦争が始まったら江戸城は「戦うのムリっす」と無血開城したのだ、これがサムライの総本山でありハラキリの権威元だという事実が残った/サムライというのは政府の役人のことを言うのであって武芸にすぐれた剣士のことを言うのではまったくない、われわれはいいかげん「サムライ」という幻想を捨てなくてはならない。
視点変えてこ | comments(0) |
おれの書き話しているものはすばらしい
やあ、おれの書き話しているものはいいなあ、この現代において唯一と言っていいほどまともな何かだ、ウーン唯一はさすがに言い過ぎだがまあ気分がいいのでそのように言ってしまおうではないか。
なぜこのご時世に、コイツだけずっとこの「いいもの」をまったく失わずに続けていられるのだろう、たまに自分の記事群をチラッと見て、ふとそのことに気づくと「不思議だなあ」と首をかしげる/こいつの書き話すことは、内容というより、「こいつが書き話す」ということ自体が、何かいいものとして永遠に成り立ち続けているナゾの感触がある。
自分で言うのもヘンだが、こいつのこれに関してだけは、周りのすべての状況からまったく離脱してただ「いい」ので、いっそのこと全員が「これ」をやっていればいいのでは、とデタラメなことを思ってしまう、もちろんそうやろうとしてもまったくマネできないのが「これ」なのだが/まあそんなふうにして、今になっておれは自分の示している書き話しの群について、「なんだこれは」とまともな評価を向けたのだった。
こいつの書き話していることだけが、なぜかある意味ですべてのものと「噛み合っていない」と感じる、他の何とも噛み合っていないので、何か見ていると「あれ? こっちが世界だったっけ」と思えてくるのだ、そしてそれはそう思えてくるだけではなくて、本当にこっちが世界だったのだろう、なぜかコイツだけ一人でずっと「世界」を続けていられるという、まったくなぜなのかわからないことが実際にデイリーで続けられている。

これは冷静に見たら、本当にナゾの書き話し群だ、日付を見たら今日書かれたもので、実際デイリーで更新されているには違いないが、何かもっと別の時代に書かれたもののようにも見えるし、そうして現代のものには見えない一方で、じゃあ過去のいつの時代のものかというと、別に過去にこんな時代があったという感じもしない、そういうナゾのものがずっと書かれ続けている。
そして、内容はメチャクチャで、一般的な書き物としての節度からは完全にはみ出ているし、平気でカミサマでも悪霊でも何でも出てくるのに、内容は現実的で、まったく空想的ではない、しかも文体はひどくテキトーというか、中学生の作文よりもくだけきった文体なのに、書き話すことを描き出す手法については異様に高精度なのだ、なぜこのへっぽこヘチマ太郎みたいな文体でこんな高尚なことがズバズバ視えるように書けるのか、まったくナゾだ、こんな文体で格調を創り出せている例は古今にない。
ふつう、人が何か書き物を「読む」というときには、何かしら理由や動機があって、その内容に興味があるとか用事があるとか、あるいはヒマつぶしにとかでそれを読むものだが、このナゾの書き話し群については、読み始めるとただちにその前もってあった理由や動機がどこかへ消し飛んでしまう/かといって、別に夢中になって読むというわけでもないのだが、自分がなぜ読んでいるのかわからなくなるし、何を読んでいるのかもわからなくなる、さらには「読んで」いるのかどうかもわからなくなるのだ、ふつう読んでいる側の心境というのは「ふむふむ」的に進むものだが、こいつの書いている記事群は「ふむふむ」ではなく「ああああ」という感触で話が流入してくる。
読者数は多くはないのだろうが、それでも一日に何百人もが読んでいて、そのそれぞれが数年に亘ってずーっと読んでいるというのも(人によっては十年を超している)、ただの書き物を読むということでいえば稀なことであって、さらにはそれだけずーっと読まれていても、誰も何のコメントを入れるわけでもないし、一件もツイートもシェアもされないというのは本当に特殊なことだ、しかもコイツの書いている記事群は元になる「ネタ」がない、ずーっとコイツが追究している何かについて一方的に聞かされているだけだ、にもかかわらずまるで自分にとって最も親しく必要な何かのように聞こえ続けてしまう、いやあこんなものは我ながら本当にすばらしいと思う/そんなことを、今日なぜか記事群をチラッと見て思った、誇張で言っているのではなく、これは単に事実としてすげえよ。

「この人にしかできない」という次元を超えて、もはや「この人が何をやっているのか誰にもわからない」という次元に至っている。

もちろん、何をやっているのか誰にもわからないというだけなら、単なるしっちゃかめっちゃかをやればいいだけなのだが、そうではないのだ、そんなことをしても誰がそんなものを年単位で追跡して読むのだ、そうではなく、「この人が何をやっているのかもう誰にもわからない」にも関わらず、「それをなぜ自分が読み続けているのかもわからない」ということまで起こっているのだ、もうここにあるのは芸術なのかヒューマニズムなのかお説教なのかただの笑い話なのか、誰にもわからない、そして誰にもわからないのに誰も読むのをやめないのだ、読んでいて共感が得られるとか励まされるとかそういうたぐいのものでもないし、これは何なのか、もはや読んでいる側も自分が感動しているのかどうかさえわからないまま読むようになってしまっている。
唯一の手掛かりは、おれがしばしば「偉大なるおれさま」と言うことぐらいで、まあそれを言ってくれると何か安心するという感じが、ちょっとだけ何かをわかったような気にさせてくれる、もちろんなぜそれでちょっと安心するのかはまったく不明なのだが/ふつう価値観上で最上の読み物というと、一位が「この人の話が好き」で、二位が「面白い」というところだと思うが、コイツの書いているこのナゾの書き話し群は、もう「この人」が書き話しているのか何なのかさえよくわからなくなっている、フツーに考えるとこんなものを読んでいると精神がヤバくなりそうなものだが、なぜかその逆、これを読んでいるほうが精神が一番透き通るのだった、いやあそれにしてもおれの書き話しているものはとんでもなくすばらしいな。
視点変えてこ | comments(0) |
人を信じるのはいいが、人の言っていることを信じてはいけない
じるものといえば、勝利と栄光と幸福を信じていればいいのであって、それ以外のものを信じる必要はない/そりゃそうだ、どこの誰が敗北と恥辱と不幸を信じるのか、まあけっこうそっちをかたくなに信じている人が多いのも事実だが……
人を信じるのはまあいいが、人の言っていることを信じてはいけない、なぜかというと、たいていの人は自分が本当には何をやっているかとか、本当に起こっていることは何かとか、自分が本当に行くのはどこであるとか、そんなこと自分でわかっていないからだ、そんな本人もわかっていないのに言っていることを信じてはいけない。
奇妙なことになるが、人の言っていることを信じるというのは、むしろ人を信じるということに対して逆向きになるのだ、たとえば「コイツは頑張るだろう」と信じている人が、「わたし頑張ります」と言っていたとして、その「言っていること」のほうを信じてはいけない/それはもともとあった「人を信じている」ということをむしろ否定して、言っていることのほうを信じるということにすり替わっているからだ。
そうではなく、「コイツは頑張るだろう」とその人を信じているのなら、そいつが「頑張ります」と言おうが「頑張りません」と言おうが、そいつの言っていることなど無視して、「コイツは頑張るだろう」と信じていればいいのだ、それが人を信じるということだ/往々にしてその人はこちらが信じたとおりにはならなかったりするものだが、それはほかならぬ当人が、「自分で言ったことを自分で信じてしまう」からだ、自分で言ったことを自分で信じてしまうというのは、やはり同じ仕組みで「自分のことを信じなくなり」「自分の言ったことのほうを信じる」ということにすり替わってしまうということなのだ。

人を信じるというのはいわゆる仁義礼智信のひとつであってまともなことだが、人の「言っていること」を信じるのは、それとは異なりブキミなことになる、人の「言っていること」を信じるのはそれじたい呪いになってしまうのだ、だからその人が言っていることがその人の本心であってその言ったとおりのことをその人が履行したとしても、事象そのものが呪いになってしまうので、ブキミで血が気持ち悪くなるという作用が起こってしまう。
ここは考えをサクッと整理して、「人を信じているなら、その人の言っていることなんか信じなくていいでしょ」と断じてしまえばいい、これほどすっきりした理もなかなか他にあるまい/おれの書き話していることはいつも何かよくわからんナゾみたいなことばかりだが、そうしてわけのわからないことを言われても、わからないだけに信じようもないわけで、けれどもおれの書き話すことをずっと聞き取っているというのは、つまりおれのことを信じているのだろう、おれのことを信じているのならおれの言っていることを取り立てて信じる必要はない。
まあおれの場合は特殊であって、おれの書き話していることはすでにおれの「言っていること」という次元ではないから、まあここに書かれている話を信じても何の問題もないのだが、フツーの人はダメだ、フツーの人は当たり前だがフツーのやり方でしか話せないし書けない、そしてフツーのやり方というのは自分のこころに思っていることを言うだけなのだ、これがそのまま呪いになるから人の言っていることなんか信じなくていいのだ、むしろ言っていることを信じずそいつ自身を直接信じてやることでその当人が余計な呪いを自分で被らずに済むというメリットもある。
だいたい、フツーの人が何かを「言う」という場合、ひとつには「勢いづくために愚直を言う」か、もうひとつには「賢明になるために勢いを下げることを言う」かという、二通りしかないのだ、それは勢いパターンでも賢明パターンでもけっきょく呪いにしかならないので、実は「誰も聞いてくれねー笑」という状態がベストなのだ/信じるなら人の言っていることではなく「人」そのものだ、そしてもしその人が信じたとおりにならなかったとしたら、それはたいてい自分で自分の言っていることを信じたがために、自分自身を信じるということを失って自ら呪いにかかったものだと決めつけてしまうのがいい。

人の「言っていること」はすべて気の迷いであり、それを信じるのもまた気の迷いだ。

おれは今こうして書き話しているが、おれが何かを「言っている」というのはまるで聞こえないだろう、こんなフツーでない話ができるのはごく特殊な奴だけだから、これを基準には考えないことだ、フツーの領域においてフツーの人が何かを「言っている」ことについては聞かなくていいし信じなくていい/だいたい人の気がヘンになるのは誰かが何かを「言う」からであり、同時に自分も何かを「言う」からだ、自分も誰も何も言わなければ気がヘンになる理由がない、このことをよく見て、人を信じるのはいいとしても人の言っていることを信じるなど気がヘンになる入り口でしかないと思え。
おれがこうやって書き話しているのは、常にこうやって気分がいいしブキミなことにはまったくならず、むしろ人々を救済するナゾの光に満ちているのだが、おれが書き話す中にはおれが何かを「言っている」という成分はないし、ましてやこのおれが誰か他の奴が「言っている」ことをわずかでも聞いていると思うかね? おれは誰かが言っていることなんてわずかも聞いていないし、おれ自身が何かを「言う」ということもない/おれの書き話しているものをひとつ読んだあとに、誰かのツイートを三つぐらい読めばこのことがわかるだろう、人の「言っていること」を信じるというのは、人を信じることを投げ捨てて呪いに身を投じることにしかならない。
正しく見ないとな | comments(0) |
黒歴史がない
たも、おれのパターンである「感覚的にわかっていない」が発見された。
おれはどうも、世間一般で言われている「黒歴史」というのがわかっていないらしい、おれとしては言葉の意味はわかっているつもりなのだが、例によって世間一般では "割とマジに言われている" ものなのに、おれはまたそれを一種のジョークとして捉えているつもりでいるみたいだ。
おれはこれまで、「マウント」とか「闇」とか「地雷」とか、その他すべての流行語を、一種のネタとして笑って聞いてきたのだが、実はみんな割とマジでそのことを体験して言っているのだということを、最近になってようやく知るようになった/このパターンでいうと、「黒歴史」もつまりそういうことなのだ、どうも人の話を聞いていてそれを「黒歴史」と言っているのはネタではなくて割とマジなのだということに、また遅まきながら気づかされてきた(たぶんすげー出遅れている、恥ずかしい)。
何しろこれまでの例にもれず、おれにはけっきょくマウントとか闇とか地雷とかがないのでそのことがネタだと思ってきたのと同様に、おれには黒歴史がないので、やはり黒歴史というのもネタでありジョークの言い方だと思ってきたのだ、もう我ながら自分について「こいつはこういうことに関しては本当にダメだ」とあきらめたくなる心境になってきた、どうも人が大マジで言っていることを勝手にネタだと思って「ははは」とフツーに笑っているケースが多すぎるのだ。

おれは子供のころからルパン三世が好きで、中学生からテレビゲームと銀河英雄伝説が好きだったが、そのことは今も変わらない、三十年経っても何一つ変わっていないのがおれの特徴だ、今でも三十年前好きだったものはおれにとっては現役であり続けている。
一方で、子供のころから「筋肉マン」や「ビックリマンシール」は何の興味もなかったので、今もやはり三十年前と同じでまったく興味はない、おれは自分の幼いころはめちゃくちゃで、女の子についイタズラをしたり好きな子に無言電話をしてしまったりというベタなことをいくらでもやってきたが、それらについてもおれは黒歴史とは思っていない、単に「こんな危なっかしい奴がよく現在まで破滅せずに生きてきているなあ」とその奇蹟と加護に感謝する気持ちにしかならない。
どうやら、例によっておれにはわからないマジの感覚で、多くの人が自分の若かったころのことを「青臭い」だのと言って、黒歴史認定するみたいだが、それについてはおれは首をかしげてしまう、確かにそういう人の若かったころはあまり見たくもないような痛々しさがあるが、それでも正直「おっさんくさい現在よりは昔の青臭いときのほうがマシだと思うぞ」と言いたくなる、青臭い過去を黒歴史に認定するなら「でも今のお前は歴史じたいが無いじゃん」と言いたくなってしまう/おれは青臭いのも好きではないがおっさんくさいのはもっと苦手だ、おれとしてはそんなニオイ的なものを振りまいているのはいかにもヒマそうで全般的によくないのじゃないのかと思えてしまう。
なんというか、過去を黒歴史認定するのもよいかもしれないが、そうまでして現在を肯定したいのかよとも言いたくなるし、過去を否定するのは単にヒマだから引きずっている証拠なんじゃないかとも言いたくなる、というわけでおれには黒歴史というものはいまいち存在していないし、感覚もよくわからないのだった/なんだ、けっきょくそう言って居直ってしまったが、どうやら本当にわからないからしょうがないのだ、おれはいちいち自分の書いた古いものを見返すことはしないが、おれが昔に書いたものだってどうせ今のおれが書いているものと変わらないだろう、単にレベルが違うだけであって昔のおれも今のおれもまったく変わっていない、おれにはそもそも「昔」というものが存在していないのかもしれない。

たかだか数十年前のことを「昔」とはまったく感じない。

時代が違うということ、時代が変化するということ、それによってムードや常識が変わってしまうということはよくわかるが、それは時代とムードに流される「人」のほうがアホというだけであって、数十年という時間それじたいはたいして長い時間じゃない/あるいは例によって、おれだけ "何も変わっていない" から、おれだけ時間が流れたという感覚を持っていないのかもしれない、おれは丸の内にいたときに一年目から上司に向かって「社会人気分になって学生気分を侮辱することには何の利益もない」と言い放つぐらいのアホだった(出世しねー)(しかも一年目の終わりには上場企業の人事部長に「おためごかしの会議を開くな」と怒鳴りつけるというありさまだからこんな奴は企業で出世するわけがないのだ)(あのとき人事部長はおれに頭を下げたわけだから、今考えたらあの人事部長のほうが男気があって勇敢だったのだ、何かまだ魂の炸裂が残っていた時代だったなあ)。
このように、時代が変わったのはおれにもわかるが、時代のムードなんてものはしょせんフェイクでしかないので、そのまやかしを真に受けて時間が経ったと思い込むのはただのアホだ、黒歴史というのはすべてそのときの自分が時代と自分のムードと気分に踊らされてしまったというだけであって、たぶん黒歴史ということではなくただのアホさかげんが現在も続いていて見過ごされているというだけなのだろう、あーあまったくの悪口になってしまった/というわけで、おれには黒歴史はよくわからない、幼いころは女の子にイタズラしてしまったが、今だって変わらん、むしろ今はようやく女の子へのイタズラが完成してきたということにすぎんな、おれは大人になるほどの時間は生きてきてねーよ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
「わからない(の)壁」と外愛
のタイトルはさすがにわけがわからない、が、今のところしゃーない、おれもこの現象が何なのか、掴めてはいるのだが説明できる感じがまったくしない、よって今からする説明は何のこっちゃわからんことになるので、前もってそのようにお詫びしておく。
われわれはどうやら、この世界にあるすべてのものを、どこか「わかる」と誤解しているようだ、それは完全な誤りであって、何かが「わかる」気がするのは完全な錯覚にすぎない。
ではその "完全な錯覚" がどのように得られるかというと、それは何かを理解するということであり、さらに言えば何かを「身につける」ということだ、驚くなかれ、何かを「身につける」というのはこの世界に対する完全な錯覚・誤解に陥るということに他ならないのだ、こんなもん何のことを言っているのかさっぱりわからないだろう。
この世界にはせいぜい、「わたし」という現象と、どうやら「わたし」でない一切の外界のものがあり、それがつまり「世界とわたし」、むつかしく言えば「梵我」ということになるのだが、この「わたし」と外側の「世界」のあいだには、どうしたって「わからない」という壁があり続けるのだ、この「わからない」の壁が破壊されることは一ミリもなく、むしろわれわれはこの「世界」と「わたし」がつながっているという誤解を獲得してそれを増幅していくだけで、わけのわからない一生を過ごすというのが真相のようだ、もちろんおれのような偉大なる大天才の場合は例外だが、その偉大なるおれさまからしても「さすがにこんなこと気づけねーだろ」とあきれ果てる具合になる、こんな根本的なトリックにどうやって気づけというのだ、一切のことは「理解された」あるいは「身についた」という誤解でしかないというとんでもない話だ。

「わたし」と外側の「世界」は、決してつながることはなく、一ミリだって変動しない壁、「わからない壁」に閉ざされており、であるからわれわれが一切について「わかる」と思っていることのすべてが誤解であり錯覚なのだ、そもそも「わたし」がこの世界に対して「わかる」ということ自体が理論上ありえないのであり、いわば「わかろうとする努力・気持ち」でさえその時点ですでに錯覚であり誤解だと言える(といって、そういう気持ちをゼロにできる奴が本当にいるのか)。
一方で、まあまったく驚くしかないことに、この完全な壁・完全な隔壁がある一方で、やはり「愛」という現象はあるようで、まさに思議不能なことに、完全な隔壁で閉ざされている向こう側と、完全に閉ざされたままつながるということがあるようなのだ、なんのこっちゃわからんと思うが/それどころか、より厳密にいえば、「愛」という現象はそのように完全な隔壁が "あってこそ" 起こる・認めうる現象だということになる。
だからそれを強引に言おうとすると「外愛」ということになる、隔壁の外側に起こる愛ということだ、うーん何のこっちゃわかってたまるか/「わからない壁」というのは本当にとんでもなくて、そんなもの自分がするクシャミひとつだって本当は「わからない」のだ、何かを「わかる」という現象は本当は存在しておらず、すべて自分の錯覚でしかない、いくら解剖学に詳しくなり生理現象に詳しくなったところで、それが「わかる」というのはすべて錯覚だ、「わたし」の中にエセの「世界」を混入させて生じた誤解であり、これが入り込むほどに「愛」という現象は遠ざかっていく(現実的には、ほんの微量でも入り込むともうダメ、実効的に愛ゼロになるという具合だ)。
これはつまり、現実を見極めろということなのだと思う、現実を見極めるとやはりすべては「わからない壁」で完全に遮断されているのであり、われわれがこの世界の何かを「わかる」ということはゼロなのだ、これはあたかも、現実的なわれわれが生身の感覚をもって「お話」の中に入ることはできないということに重なっているようだ、われわれにとって「お話」こそ完全な外側にあるものであって、われわれは壁に閉ざされて何もできないのに、「お話」はそれを飛び越えて結合作用を起こしているようなのだ、もちろんこんな話について誰かに何かがわかるわけがない、実際にこの現象を目の当たりにすると、それはもう「げっ、何これ!?」と声を出して驚きたくなるぐらいのものなのだ。

わたしはどうやら、「お話」と歩いており、「お話」と寝ている/外側に出ようとしたことは一度もないし、外側から入れようとしたことも一度もない。

外側とは完全に隔たれているのだから、自分から外側に出るとか、外側から自分に入るということは、一切ないのだ、すべてが「わからない(の)壁」に隔たれており、この隔壁に面したまま「お話」を突っつくと、なぜかその「お話」だけが壁の向こう側に対して結合作用を及ぼすことになる、それで「げっ、何これ!?」となる/お話はもともと神話としての仕組みがあるようだし、神話の仕組みがあるからそこから遠く離れた新しい「お話」を自分として構築することもできる(言っておくが、ここでいう神話って "人が思い付きで言い出したカミサマの話" って意味じゃねーよ)。
考えてみれば、おれは自分から人に何かをしようとしたことは一度もないわけで、世界に対しても何かをしようとしたことは一度もないわけで、ただあらゆる場所で、またいろんな人に向けて、何かしらんが「お話」がどんどん発生していく、創られていく、ということをわけのわからないまま目撃してきただけだった、このごろは一部だけ他人のことをわかろうともしてきたが、それらはおれの引き起こしている作用の根本とはまったく無関係のことだ、けっきょくはまたおれが「わからないの壁」の中から「お話」をやって、「げっ、何これ!?」というやつを使うしかないのだ、この作用が逆にけっきょく「止まらない」というのもある意味おっかない事実だと改めて思うのだった。
正しく見ないとな | comments(0) |
ドラえもんの警告
「ドラえもん」は有名なマンガだが、現代のアニメ版は旧来のそれとテイストがまったく違うし、今や元のマンガ版を読んだことがある人のほうが少ないのではないかとも思うが、まあそのあたりは言いっこなし。
ドラえもんというと、たいていスネ夫が「八丈島に行ってヨットに乗ろう」みたいなことを言い出す、するとジャイアンもしずかちゃんも「行こう行こう」となり、のび太も一緒になって「行こう〜」となるのだが、「悪いなのび太、このヨットは三人乗りなんだ」とのけ者にされる、というところから始まる。
そしてのび太は泣いて帰って「ドラえもーん泣」と、自分も八丈島でヨットに乗りたいウウウと泣き崩れてドラえもんに頼むということになるのだが、このことには藤子不二雄の世界観とマンガ「ドラえもん」による警告が為されていて、のび太は初めから八丈島でヨットに乗りたかったわけではないのだ、のけ者にされることによって「ひがみ」が発生し、「ひがみ」によって何としてもヨットに乗りたいと苦しむことになるというのがいつもの展開なのだ。
このあたりの物語の構築、物語の力動作用の仕掛けは、さすが入念であり、またいかにも手塚治虫の薫陶が篤いという感じだ、実はのび太自身は放っておけば昼寝ばっかりしているような奴で、表面的には強欲な者ではない、あくまで欲は潜在下にしかないという状態だが、それが世間・人の世の中で「そうはいかない」というふうに、呪力を帯びて引き出されてくるのだ、おれは特に手塚治虫がこの手法で物語を構築することについて、見事だとは思うが同時に卑怯だとも思っている、正直なところその仕掛けで物語を構築することは「カンタン」であって、カンタンであるがゆえにその物語はあまり創って人々に示す意味がないからだ/そうした業(カルマ)の描き出しが "万人に訴えかける" というのは当たり前のことであって、そのマンガがヒットすることには構造的にむなしさがある。

「ひがみ」というのは、呪術の基本的な源泉であって、のび太はスネ夫にかけられた「呪い」で動かされることになり、その救済をドラえもんに願い出るということになる、だからいつものび太は地面に伏せてオイオイ泣きながらそのお願いをしている。
そこからドラえもんの道具が出てくるのだが、これはいっそノロイやオマジナイが(※ともに「呪い」と書く)、人に夢のような力、科学や人為を超えた "羨望的" な力を与えるということを表している/そして「呪い」には必ず「穴二つ」という現象があるので、呪いによって得た力や利益は、必ずそのあとに帳尻としてのマイナスを受けることになるのだ、だからドラえもんに出てくるのび太のストーリーは必ず、「秘密道具に頼って救済されてみたけど、結果的に悪いことになりました」という終わり方をする。
呪いというのはもともと、祝福が受けられない人が、人為的に超越的な力を得ようとする、いわば「祝福の代替品」を求めてそれを行うものだ、だからドラえもんの登場人物にはそれぞれ、ジャイアンには力、スネ夫にはお金、しずかちゃんには美と品位が与えられている(彼女の姓が「源」なのは家柄を表している)、その中でのび太は「何も与えられていない者」として存在している/これらの人間模様の中で「出木杉くん」だけが天稟をもっており、だからこそ出木杉くんはこの人間模様の中に参画してこない。
ドラえもんはどのような警告を示しているか/ふと気づくとわれわれも、身の回りにあるすべてのものについて、すべてが本当に「欲しかったのか」と問われると、実はそうではないことがほとんどなのだ、ただ周囲の人々が次々に優れたものを手にするようになると、自分だけそれを持たないわけにはいかなくなる、それが潜在的にも「欲」の仕組みで、このことを世間・人の世の「呪い」が引き出してしまうぞということ、地面に泣き伏して何かを「お願い」することに必ずなってしまうのだということをドラえもんは警告している。

当時、ファミコンが「本当に欲しかった」人はそんなに多くない。

自分の周りが次々に大学にいけば、自分も大学に行きたくなるし、みんな冬休みにはスキーに行くものだとなれば、自分だけ一人で部屋でコタツに寝転んでいるのが苦しくなるし、夏はみんなで「フェス」に行っているとなれば、自分だけ何の予定もなく本なんか読んでいるのが悲しくて苦しくなるのだ、呪いの基本になる「ひがみ」とはそういうもので、 "自分だけ" しいたげられ、 "自分だけ" 劣等に置いてけぼりになるということに、生きもの業(カルマ)は燃え盛る性質がある、ドラえもんはまるでそれこそが世間の正体で、人の世とはひたすらそれを繰り返す営みなのだと言いたげだ、手塚治虫の場合はそれがもっと露骨だった。
同年代の同性が次々に結婚し、みんな子供を産んで家庭を持っていると聞くと、 "自分だけ" という強烈なひがみと呪いが発生するし、またその母親にとっても、周りのみんなは「孫がかわいい」という話ばかりするようになると、やはり "自分だけ" という強烈なひがみと呪いが発生する/これは逆転すると、自分だけ "優等" という場合に発生する傲りと同じ現象だ、優等であれ劣等であれ自分だけがそれであるというチャンピオン―― "自分だけ" が蔑まれ、あるいは "自分だけ" が褒め称えられること――になると、その "呪いの頂点" にはただならぬ呪いの濃度が発生し、その人の血を根底まで支配することになる。
視点変えてこ | comments(0) |
これからの「痴愚世界」2
を疑うほど "かわいい" 女の子が、まるで新種のように現代に出現している。
訊いてみると、彼女らは学歴が高かったりするし、裁縫や料理が得意だったり、家事全般をそつなくこなしたりする。
歌や楽器をやらせてみると「あれっ?」と思わせるぐらい上手だったりするし、何か絵やイラストか描かせてみるとやはりパッと見栄えがするほど上手だったりする。
その美貌だけでなく、能力や才能も平均と比較するとハイタレントということになるのだが、にもかかわらず、彼女らを覆いつくし、また内部から彼女らを粉砕し続けているのは、やはり「痴愚」の現象なのだ、彼女らも泣くことはあるしシリアスになることもあるのだが、何をどうやっても「大事なもの」を胸に抱えるということが起こらない、わけのわからない痴愚という現象が彼女らを内部からコナゴナに砕き続けている。

彼女らは、何一つウソをついてはいないのに、彼女らには「本当のこと」が何一つない。
彼女らは、いつも意欲的で熱心なのに、どうしても中枢は空っぽで冷淡なままだ、愛嬌があって分け隔てなくやさしい考え持っているのに、中枢にはやはり何の考えもない。
恋愛にも素直にこころ惹かれていて、ボランティアやチャリティにも当然以上のこころを寄せているのに、恋あいは必ず空っぽになり、助け合うということが互いに響くこともない。
中枢まで猛毒が染み渡ってしまい、中枢が破壊されているのだろう、彼女らはいつも余裕をもっているのに必死で、必死でやっているのに薄っぺらだ、目はまっすぐ向けられてピカピカなのに、まなざしはどこにも見当たらない、彼女らはいつも楽しいのに楽しくなったことはなく、いつも真剣なのに真剣になったことはない、人好きしているのに人を好きになったことはないし、最大まで充実しているのにわずかでも充実したことがない/これが「痴愚」だ、これは魂の問題から起こっていることだから、彼女らのこころがどう対抗してもそれがマシになることはない。

彼女らは、人に会うことを大事にしているが、これまでに大事な人に会ったことがない。

これから先やってくる「痴愚世界」は、こうして有能で魅力に満ち善意と美徳に優れた人々が、余裕を持ったまま必死で、それでも何も起こらない、どうやっても「人」が存在しないという世界だ、煩悩三毒という言い方が仏教方面にあるが、その三毒のうち最後のひとつがついにリリースされたという趣きで見れば、今起こっていること・この先に進んでいくことが理解されやすいかもしれない。
ここに挙げたのは、わかりやすく最先端の例、そして若い人の例だが、こんなもの今や老若男女誰であっても同じだ、多くの人がこの十年間、何をどうやってもそれが「大事なもの」にはならなかったということを事実として体験しているはずだ、それは単に世の中が変わったということではない、自分も含めて人々を「痴愚化」が覆うようになったということだ/痴愚というのは知能や知性の喪失を言うのではない、「大事なもの」という現象から切り離された存在を言うのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
これからの「痴愚世界」
とえば街中でも Youtube ででも、びっくりするぐらい "かわいい" 女の子がいて、年齢は十八歳だったり二十歳だったりする。
おれも典型的なスケベ男として、第一には「おっ!」と思うのだが、最近はもう直後には或る種の違和感を覚えて「うーん……???」となる、このごろはもはやそれが違和感ではなくて別の確信になってきた。
すでにおれにとって知られたことを述べてしまえば、これらはまったく目を疑うほど "かわいい" し、魅力といえば信じられないぐらい魅力たっぷりなのだが、本当に起こっていることは何かというと、すでに「猛毒状態」なのだ、本人が猛毒状態になって周囲に猛毒をまき散らしているという状態がすでにあって、そのことが一般には気づかれにくい、ないしはまったくそのようには知られていないだけだ。
現代のアニメ文化・アイドル文化・オタク文化・マウント文化を吸収して育つと、それらの毒を吸収しきって、やはりこういうものが育つのだろう、おれは間違ってもそういう女の子たちを悪く言っているのではない、もはや悪く言うとかそういう次元はとっくに過ぎ去っていて、当人も最早どうしようもない、取り返しのつかないレベルで猛毒状態になっており、その中毒に現在も苦しんでいて、この先その毒がどのような蝕みをもたらしてくるものか、今のところ誰にもわからないということなのだ、おれはその未来の恐怖に向けてわずかでも拮抗阻害の成分を配布しようとしているにすぎない。

目を疑うほど "かわいい" 彼女らは、それだけ見ていると、いっそ猛毒の成分に取り込まれて、何も問題はない、むしろ一種の「天使かな」と見える、特に性的魅力に無防備に干渉を受ける若い人(男女どちらでも)にとってはその甘みの干渉は強烈だろう。
だが、もし仮に、たとえば「サタデーナイトフィーバー」のような映画を、その "かわいい" 彼女らに見せてみる、その映画と彼女らの "かわいい" を交互に見比べてみれば、「サタデーナイトフィーバー」と彼女らは<<まったく噛み合わない>>ということがわかる、そしてその途端、彼女らがまさに「痴愚」という巨大な症状の中に閉じ込められているのだということが浮き彫りになって視えてくる/何度でも言うが、これはおれが彼女らを悪く言いたいのではない、彼女らは何も知らないまま実際にそうなってしまったというだけだ、今さら手遅れかもしれないがおれは万が一にも対抗に有効かもしれないということをここに書き話しているだけだ。
目を疑うほど "かわいい" 彼女らは、おどけてたまに「汚い声」を出す、けれどもその汚い声は割とガチのマジに深刻なもので、抑えきれない毒性が内部に渦巻いているものが、すでに外側に吐き出されているという状態だ/おれは経験上、そうしたケタはずれに "かわいい" 女の子たちが、本人らもよくわからないまま内側で苦しんでいるということを知っているつもりだ、それがまだはっきりとした苦しみとは彼女らには認識されていないが、自分の痴愚症状が精神の髄まですでに入り込んでとてつもない恐怖と苦しみを覚えさせていることに、彼女らの魂は完全な無感覚ではない。
映画「サタデーナイトフィーバー」が、彼女らと<<まったく噛み合わない>>以上、これから先サタデーナイトフィーバーのような映画が作られることはもうないということだ、観るだけでもまったく噛み合わないものが創造されるわけがない、彼女らの口からはこの先も痴愚の毒しか吐き出されず、同様に男性たちもその双眸から痴愚の毒しか漏らさなくなるのだ、おれは誰かのことを取り立てて悪く言うつもりはない、おれが言っているのはただ症状がそこまで深刻化しているということだけで、さらには彼ら・彼女らが最前線で苦しんで内部的には悲鳴をあげているにせよ、これをどうにかしてやれる方法は今のところどこにもないということだ、彼らをまったく別の病棟に隔離すればおれの言っているのがどういうことか誰の目にも明らかになるだろう(むろんそんなことは実際にはされないしされる必要もない)。

素直な子供の時代に毒入りチーズケーキばかり食わされるとこうなる。

別の角度から言えば、「毒はよく効く」ということなのだ、そりゃ当たり前だろう、人類のすべてが知っているように、あらゆる状況でいっそ万能的に、毒というのは「よく効く」/もしおれと同程度に、人の魂と、身と血肉と、毒がどのように干渉しあってその人を形成しているか、まざまざと視えるようになったら、多くの人はとてもじゃないがその "かわいい" 女の子を直視していられなくなるだろう、本当に起こっているのはそれほどまでに陰惨なことなのだ。
それでも彼女らは、人の魂として、なんとかして何かしらの世界を視ようとするだろう、むしろ彼女らの魂はいつもそのことを必死で求めて活動している、けれどもダメなのだ、ただちに別の増幅された「力」がやってきて、彼女らの視認しようとする集中力やその視力を、完全にコナゴナに砕いてしまう、まるで賽の河原で小石を積む子供たちが、三つでもそれを積もうとしたらただちに鬼がそれを蹴飛ばして砕いてゼロにしてしまうように、彼女らの魂は増幅された「力」に暴虐を受け続けている/もちろん仮におれの書き話しているこれが彼女らの目に届いたにしても、彼女らは救われた心地にはならないだろうが、そんなことはもうどうでもいいのだ、彼女らはすでにおれに対する敵愾心や不快感さえ覚えられないだろう、すべてのことは増幅された「力」に砕かれてしまう、この蹂躙され続ける魂を見て「かわいい」と言ってよろこんでいる者は、本当にまったく何も視えていないのであり、それはすでにそのようにまったく何も視えなくなるように当人も増幅された「力」によって支配を受け始めているということだ、今のところこうやってすべて暴き立てるぐらいしかこのことへの対抗策はない。
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WS報告 of 177th /恥に倣え
代の人々に、「痴愚」の印象が蔓延していることを指摘した(ワークショップで)。
この「痴愚」という印象は、知能や知性とは無関係に、何か「どうしようもない」、ボーッとした噛み合わなさのことで、このことが一種の煩悩中毒から発生していると指摘した。
それらはいわば、現代の「実際の三角形」として、その頂点のひとつを為していると述べた、それぞれの頂点は「現代人のオタク化」「現代人のマウントするマン化」「現代人の痴愚化」であり、この三角形が果てしない拡大を続けている。
多くの人は、これを「悪」だとし、それぞれについて「ちゃんとしよう」と、つまりこころを善に入れ替えようとするのだが、これは実はこころの問題ではなく "魂の恥辱" から起こっているので、空回りするのだと指摘した/じゃあ正しく魂の恥辱に向き合えばいい、ということになるのだが、そうはいかないのだ/人は己の悪には向きえても恥に向き合うことはできない、そんな根性を持っている人はほとんどいない。

オタク趣味あるいはむさぼり中毒の一切を、誰もが「やめよう」と反省するし、内心にも起こるマウント精神を「やめよう」と反省する、そして脳みそがボーッとして汚らしいのを「やめよう」と、誰もがこころの底から反省するのだが、これはこころから起こっている現象ではないので、こころを反省させても何ら拮抗作用はない、一時的に表面上「反省しました」というふうになるだけで、「実際の三角形」は拡大を続けている。
ことは魂の平原に起こっていることであり、それは魂の恥辱から起こっているのだが、「恥辱」というものに人はふつう向き合えないので、これをこころの問題、こころのパワー問題にすりかえようとする、これは一種の逃避だ/パワー問題にすりかえて逃避する、その逃避の先はときに能力で、ときに魅力で、ときに努力だ。
だから初めに指摘した「痴愚」の印象も、それぞれに引き当てて「能力痴愚」「魅力痴愚」「努力痴愚」におおむね分類することができる、こんなものは今探すまでもなくいくらでも周囲に発見できる/能力が高いはずなのに「痴愚」の印象がある、魅力を売り物にしているのに痴愚の印象がある、努力を見せびらかしているのに痴愚の印象がある、この痴愚は本当にゾッとする、どうしようもない噛み合わなさと深い苛立ちを内部に感じさせるものだ(当人が己の痴愚ぶりに発狂しそうになっている感じがある)。
なぜこのようなことが起こるのかというと、本来、人の内部では、その魂が恥辱と栄光でせめぎあっているものだからだ、魂の栄光が得られなければ魂は恥辱に敗北するよりなくなる、だから人は魂の栄光を求め、またその人にあこがれ、その人に倣おうとするのだが、その安易な発想では正しく栄光を倣うことはできない/こうして考えると、一夜でなかなか複雑な、奥行きのあることを追究したものだ。

Aさんがそれをすると恥辱になるが、Bさんがそれをやると栄光が視える。

たとえばAさんが女性を口説くと傍目にも「アイタタタ」となるのに、Bさんがそれをすると、何かロマンスや神話があるような "栄光" がそこに現れる、だからAさんはBさんの真似をしようとするのだが、この倣い方はまずもって成功しない、この背後にはまったく思いがけない学門があるからだ。
AさんであれBさんであれ、ブッダやキリストを除いた「人」は、誰であれ恥をしかやれないのだ、<<人は恥をしかやれない>>、にもかかわらず人によってはごくまれに、確かにそこに「栄光」が現れるのを視るのだが、それでも実は「人」としてやっていることは同じなのだ、このことを「恥辱と栄光の同一性」と呼ぶ/AさんもBさんも同じ「恥」をやっている、人は誰しも同じそのことしかできない、けれども、人が視るものは違う、人がやることは恥だけだが、人が視るものはそれだけではないのだ、人は人がやっていること "以外のもの" を視ることがある――それにしても、人は恥をしかやれないので、われわれが栄光の人の何に倣えばいいかというと、<<栄光の人のやっている恥に倣え>>ということなのだ、このことはあまりにも奇想天外で、真に強い人・真に謙虚な人にしかこの生き残りの道筋は発見されない。
ワークショップ | comments(0) |
聖なる慈悲と悪魔の慈悲
ういえば煙草とスコッチが尽きたので、また誰ぞヒマなやつはおれのために仕入れて奉納するように、相変わらずPEPEのリッチグリーンを吸っている、遊び倒して書くほうが追いつかない(といって書くのも遊びだが)。
おれにはすでに、わからないことを直接視る能力があるので、それを今さらわかりやすくする必要はないのだが、それは「慈悲」なんだということに気づいた、慈悲もしくは憐れみという言い方をする。
おれは、そういうふうに、自分を強引に持ち上げて偉そうぶることが本当に苦手で、もう無理やりそう定義づけるしかないという具合でやっているのだが、そうやって無理やり自分を持ち上げると、本当にいろんなことがピタッと嵌るので、どうやら本当にそういうことらしいのだ、ここまでくるといっそうぬぼれ体質の人がうらやましくさえ思う、何をどうやったらそういううぬぼれを自動的に持てるのかアドバイスがほしいぐらいだ。
おれの場合は正当な理由が必要で、なぜ「こりゃだめだ」と急に慈悲スタイルを思いきるようになったかというと、このことについては悪魔の側のほうが意欲的で、悪魔の側のほうがぐんぐん行っているからだ、それを見ていると「こりゃあさすがにだめだ」と思った/近年に流行しているやさしげなものはすべて何かにピタッと嵌っており、それは慈悲・憐れみなのだが、それはもうゴリッゴリの悪魔の憐れみなのだ、よくもまあそんなに思い上がれるよなあとうらやましい限りなのだが、おれだってなんとかささやかに対抗勢力を為していきたい。

たとえば音楽があって、音楽というとメロディや音程や和音やリズムや調性やら表現そのものやらがあるのだが、そんなものはおれにとってはどうも面倒くさいのであって、何かうまくいかないストレスがあるなあと思っていたのだが、どうやらおれの場合本当におれはフツーの人ではないらしく、そうやって「わかりやすく」してやるのが慈悲だろと何かで気づいて(なぜそんな突拍子もないことに気づくのかナゾだ)、そのよう気づくと急にピタッとすべてが嵌るようになった。
つまりおれの場合、おれの到達しているところはすでにナゾ of ナゾであって、このおれが何かしら向上心やら献身やらの発想を持ってはいけないのだ、おれ個人としての向上心はかまわないのだがそれを人に向ける形にするとメチャクチャになってしまう/一般に言われているそうした「芸術」のたぐいについても、おれにとっては向上心ではなく下に向けた慈悲なのだ、そんなアホなと思いたいところなのだが、すべてがこの捉え方でピタッと嵌るようになってしまうので、この場合はそうした事実の現象を優先して認めるしかなくなってしまう。
このことに思い至ったのには、もうひとつきっかけがあって、ふとおれは学生時代のころを思い出したのだった、おれがなぜかよくわからない合唱団の指揮者になっていたとき、なぜか音楽の展開が勝手に視えるようになっていて、楽譜を見ながら「これはこうだからこうなるので……」とスラスラ解説していると、二つ下の後輩が「す、すげえ、なんでそんなことわかるんすか」とビビっていたのを思い出した。
それで、今はやっぱりおかしいのだ、当時のおれと現在のおれでは能力のレベルは話にならんぐらい違うのに、現在のおれがどのような能力を発揮しても、女子中学生の一人だっておれに対して「す、すげえ」とビビることはないだろう、それは差分からいっておかしな話だ、当時のおれが二つ下の後輩にビビられていたのに、現在のおれは三十も下の女の子にビビられないのだ、なんであれば現代の女子中学生は何であれ「自分のほうがイケてる」ということを強制的に思い込むだろう、おれはそのことにまったく無頓着で、当人がそう言い張りそういう態度を決定しているなら、何の違和感もなく「じゃあお前のほうがイケているのだろう」とおれも一緒になって決定してしまうのだが、これがもうメチャクチャなのだ、何をどう考えてもやはり何の経験も才能もない女子中学生の能力がおれに倍するとは言えないはずなのに、おれはつい、「当人がそう言うからにはそうなんじゃね」とあっさり認めて、何ならそのように世界に報告してしまうのだった。

まるで世界中の全員が、おれに対しては「あなたになんか負けません」と堂々宣言するようなので、おれは自分の能力ていどを「人として最低限のレベル」としてきた。

これが基本メチャクチャだったのだろう、これのせいでおれはもう何年間も、いろんな人たちに対し、「あれ? なんでこんなことがわからないんだ」「なんでこんなことができないんだ?」と、不満に思うのではなく首をかしげてきたのだ、おれには本当にそれが「???」だった。
人々の言い分を聞いていると、つまりおれが女子中学生に平伏して、おれが彼女からいろいろ教わらないといけないということになるのだが、そんなことははっきりいって荒唐無稽だ、人それぞれが視るもの視えるものというのはとてつもない差があるということを最近よく知るようになったが、おれが学生時代に二つ下の後輩に差をつけてビビらせていた当時と比較すると、現代のおれと女子中学生の差なんてもっとはるかに巨大な差になっている、これをおれは下向きに取って慈悲を為さねばならないのだ、おれはそういう発想に本当に慣れていなくて、なんとか今も無理やりその定義をおれになじませようとしている/そうでないと、すべてがピタッと嵌らないのはおれにとってもストレスなのだ。
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封建制の中に「友人」は存在していない

年ジャンプのモットーは、ご存じ「友情、努力、勝利」だ、今でもこのモットーが保たれているのかどうかは知らない(さすがにもうマンガ雑誌は読まねー)。
むかし、児童が小学校に入学するときには、背後に「ともだち100人できるかな」みたいな歌が作用していたものだが、この「友人」という現象と観念は、文化的に必ずしも存在するとは限らない、文化によっては友人という観念そのものがないこともある。
日本に「友人」や「友情」の現象をもたらしたのは、言ってみれば吉田松陰であって、吉田松陰より前はこの国に友人や友情は存在していない、吉田松陰より前の日本は儒教・朱子学しかない世界であって、「主従」と「奉公」と「親孝行」しかないのだ、友人や友情は存在していない。
明治維新にかかわって、維新志士たちが「同志」という状態を新しく産み出したのだが、これが日本における友人の端緒であり、この端緒を創り出したのは吉田松陰だと言える/さらに過去にさかのぼれば高山彦九郎がいただろうが、当時はまだ時宜になく、高山彦九郎は人々に愛されて面白がられながら、「なんなんだろうなこの人は」という見世物のたぐいに扱われた、高山彦九郎は日本に実在したドンキホーテのようなもので「友人」という現象を人々に与えるには至っていない。

「友人」という現象や観念が、必ずしも存在するとは限らないというのは、少年ジャンプがコンビニに置かれてきたわれわれの世代には意外な驚きかもしれないが、今でも地方にいけば子供はすべて「〇〇さんとこの子」なのであり、お店の屋号があれば「〇〇屋のご主人」やら「〇〇屋の娘さん」なので、本当はそんなに変わっていないのだ、むしろ全体からみればこの国に友人なんて現象はあくまで例外的にしか存在していないと考えたほうがいい。
このあたり、知人や地方の人々、あるいは何かの業者さんと応接するときには、「そもそも人と人の、ヨコのつながりは存在しない」と仮定しておいたほうがいい、封建制における人の関係はあくまで土地の殿様(藩主)に主従として忠を尽くすか、自分の所属する〇〇家に奉公・報恩するか、親に孝行するかという、タテのつながりしかないのだ、ヨコのつながりとしての「誰か」は存在しておらず、それぞれが〇〇さん "とこ" というタテ構造にのみ所属しており、それぞれが自分の "とこ" の没落だけを気にかけているという状態だ、これは封建制として正常なことなのであって冷淡とか頭がおかしいとかいうことではない、そもそも友人や友情という現象が文化的に普遍ではないというだけだ。
現代日本において、あるいは世界中どこも同じような状況下もしれないが、なぜか「友人」という現象が一切得られなくなったので、その挫折感と共に、封建制に回帰しているところがある、漫画「ドラゴンボール」において孫悟空とクリリンは友人だが、どうも現実のわれわれにそういう友人という現象は与えられず、実際には孫悟空は孫家の、クリリンはクリリン家の、それぞれの発展と没落だけを憂いている、そして両家はご近所さんとしてあいさつをしたり地域の会合をしたりするだけという状態だ、誰もそんなドラゴンボールは読まないと思うが、われわれが生きる現実はそうして友人の現象を失い封建制に戻ってしまったと認めていくしかない。
われわれは、芸能人や Youtuber やマンガ家の、急激な勃興や没落を、完全に「ヨソのこと」として楽しみながら見物するという悪趣味をもっているが、この「ヨソのこと」を見物するという趣味が、封建主義の現象に他ならないのだ、われわれにとって吉田松陰の話が、「長州藩の麒麟児が、このように頭角を現し、このように非業の死に向かっていった」と見物されるのみであるのとまったく同様に、芸能人や Youtuber やマンガ家についても、「このように頭角を現し、このように廃れていった」ということをヨソのことして見物するだけだ、むろんそれがおかしいと言っているのではなく、それが封建制だと言っている/おれが友人という現象を否定しているのではない、おれ以外の奴が友人という現象を否定しているのだ、そんなの見りゃわかるだろう。

実際には、「友情、努力、勝利」ではなく、「主従、奉公、親孝行」の中を生きているだろう?

ボブディランのどこを見ても、主従とか奉公とか親孝行が見当たらないように、われわれのどこを見ても、友情やら努力やら勝利やらは見当たらない、だからわざわざ「スポーツ的」な枠を人為的に作って、人為的に作った努力をし、人為的に作った勝利を得、人為的に作った友情のようなものを感じることにしている、人為的にそうしたスポーツ的な枠を作らないと、われわれは努力の仕方がわからず、勝利など「どこにあるかわからない」、そして友情になどまるで心当たりがないのだ/ところが主従や奉公や親孝行と言われると、なぜか何も枠組みしなくても元から「わかります」という感覚がある、そうしてわれわれの所属は少年ジャンプではなく封建制だ。
もちろん明治維新に「同志」と言いうる現象があったとしても、その背後で薩長土はそれぞれ、自分の藩の権勢を有利にするためさまざまな後ろ暗い画策をしていたのだが、まあそんな専門的なことはどうでもいいじゃないか、おそらく当時でもほとんどの人が「ウチの藩だけが大事」という感覚に内心を侵されたままで、吉田松陰だけがその汚染から完全に離脱していただろう、吉田松陰だけが人の世ではなくこの世界にある普遍的な愛の現象を知っていた(おれは西郷隆盛は面倒くさくて敬天愛人の徒とは思っていない)、つまり「われわれは努力するのです、われわれは勝利しなくてはなりません、そのためには互いの友情が何より励みになるでしょう」という少年ジャンプのモットーを、当時から吉田松陰だけが偽りなく掲げることができたということだ、今のわれわれは誰もこんなまともなことは言えない。

視点変えてこ | comments(0) |
100円をもって、50円のものを買うと、手元に残るのは何円か3
あおれのことだから、テキトーに傲慢にエラソーに言うと、たいていの人は認識を振り回してみてもあまり頭がよくないので、認識というよりは認識に付随した感情を振り回すだけになるし、認識以外の「ひょっとしたら主体性」軸についても、ほとんどの人が言うそれはポワーンとした願望まみれのもので、ご都合とヒステリーにまみれたオカルトを振り回すことにしかならない/そういうものじゃねえよと、おれは両軸について言いたいのだった。
認識だって一つの機能であり能力なのだから、キレッキレの高性能でなくては困る、それでいながら同時に、「おい理詰めで来たのに最後にいきなり超能力使って解決するのやめろ」と周囲に呆れられるほどでなくては困る、そのあたり、認識がポンコツな上に「ひょっとしたら主体」のほうもドインチキというのは本当につまらんのだ、何がつまらんといってそれは両方の「性能が悪い」というだけであって、映りの悪いモニタに映り込んでいるのは何かのヴィジョンではなくただの妄想ゴミノイズだ、そんなものにミラクルな自分の可能性を賭けるなどアホの所業に決まっている、ノーミラクル確定っス。
おれの話していることは、脳みそが混乱して面白くてステキなのだが、まあ認識機能がアメリカのエイブラムス戦車のように頑強で高機動でなければ、このことには本気で入り込んでみるみたいなことはやめておいたほうがいい、認識・因果律の軸をあやふやのアホにしたところで、それで「ひょっとしたら主体性軸」の何かが手に入るわけではないし、触れられるわけでもない/神仏を否定したところでたいていその人の合理性の機能が上がるわけではなく本人が自分を賢いと思っているだけの低性能のバカにしかならないように(ひどい言い方だ)、因果律を否定したところでその人の霊性が上がるわけではなく自分ではそのつもりなだけのフワフワ近所迷惑マンにしかならないものだ、そんな寝言ラリーをしているヒマがあったら両軸においてクソほど自分を鍛えろ、そう言われるとただちに「よっしゃ、やーめた」という決断ができて清々しいだろう、おれは幻想を破壊するために書き話しているのだ。
おれが書き話していることはこのように、論理が破綻していない上に、「お話」としての響きも破綻していない、この両軸をクソほど鍛えて啓けという話であって、知性の低い者が因果律を否定しても霊性は得られないし、霊性の低い者が主体性を否定しても知性は得られないのだ/このことは、せいぜいわけのわからんスリルだけ味わっておくのがいい、フツーにおれが遊びに入っている山の、一合目に入るだけでヘタしたら普通の人は精神を損傷する、因果律と主体性の両方をバッチバチに点灯させ続けるというのはそんな柔弱なモンができるたぐいのことではない、首を吊って死んでいる死体の横でのんびり煙草が吸えるぐらいの鍛えられ方をしていないと精神というのは案外すぐに壊れてもとに戻らなくなるものだ。

「不思議」という言い方があるが、これは「思議することが不能」という意味であって、フシギ〜という少女趣味の印象のことを指すのではない、思議不能のことなどいくらでもあって、それこそカントの純粋理性批判にいくらでも書いてある、あるいは禅問答というやつで「両手を打ち鳴らしたとき、左手からはどんな音が鳴っているか」みたいなもの、あるいは数学的に「目の前にある0個の果物は何種類あるか、その果物は存在しているか」みたいものでもいい、クオリア問題でもいいし五秒前仮説でもいいし哲学的ゾンビでもいいし「ニワトリと卵はどちらが先か」でもいい、世の中には不思議なことがあるのではなくて思議不能のことがいくらでもある、無限大を導入したら数学はあっさり 1=2 を導き出す。
思議不能のことにわれわれは思議(認識)でアプローチできないのだが(当たり前)、ここになぜか、デカルトも認めざるをえなかった「わたし」という現象だけが、「あれ〜 やっぱり "わたし" って現象があると言わざる得ないな」と、思議に対してもその説得力を誇ってしまっているのだ/「それ」に対して思議でアプローチはできないのに、「その思議をやっている当人が『それ』でしょうが笑」という矛盾点を永遠に突かれるのだった。
哺乳類の繁殖は、卵子が精子を授精して、卵割と呼ばれる細胞分裂が起こり、胎児として育っていってやがて出産に至る、そしてオギャーといい数年後にはクソガキになる、ということになっているのだが、そのプロセスのどこでいきなり「ハイ "わたし" キター!」となっているのか、経路不明なのだ、だいいち現在のわれわれの全身だって数十兆個の細胞の群体でしかないのに、これらがどう統一されて「わたし」になっているのか不明だ、「身体髪膚は父母に享く、赤白の二滴はこれ始終空なり」、電気クラゲとして知られるカツオノエボシはそれぞれ別の個体である細胞が寄り集まってひとつの個体になる「群体」という生存形態を持っているし、逆にプラナリアは三つにちょんぎるとそれぞれが個体になって三つの個体に分かれて生きていくのだが、こうなるともう「わたし」って何よということでわけがわからなくなる、あるいは多重人格と呼ばれる解離性の現象で、一人の個体のうちに2500人の人格が同居した例があるという、こうなるともう何が「わたし」なのやらさっぱり不明だ。
われわれが認識機能で因果律をドッコイショと神輿に担ぐのもまあ悪くないのだが、「で、その神輿を担いでいる "お前" は、いつどこからどうやって突然ここに現れたんだよ」と訊かれると、その認識機能を持っている当人という "主体" の成り立ちを、当人が説明できない、そして多くの人はアホなので(悪口)、ここで「認識機能の範囲外です」「つまり思議できません、不思議というやつです」とはなかなか答えない、本当にアホなので(悪口)たいして使えてもいない認識機能でガンバって解答しようとするのだ/認識機能では解答できない(思議できない)のが明らかなものに対し、なぜ執拗にガンバって分かっているフリをするかというと、精神が損傷することを防ぐためだ、あるいは根源的な恐怖、「自分は "主体" なる存在に反してきて、それを侮辱してきたかもしれない」ということに対する耐えがたい恐怖がその防御をさせるのかもしれない。

多くわれわれは、「100円から50円使ったら、残りは120円かもしれない」ということを、なげやりに "死後の世界はそうかもね" と考えている。

死後の世界なんてテキトーに言うけれども、それはわれわれの認識がテキトーに「生死」を分割しているからそう思い込んで言いえるだけで、本当は何をもって生まれてきたのか、何をもって死んだことになるのやら、直接は分かっていまい/救急医療に詰めているドクターでも、何をもって「ハイ死んだ!」というのはよくわからないのだ、よくわからないからこそ、いくつかの徴候をもってそれを「死んだ」と認めることにすると "ルールとして" 定めている、医者にだってそれはよくわからない、医者は病気の専門家であって生死の専門家ではない、亡くなられた方はその瞬間からもう病気でもなければ患者でもないのでただちに退院の手続きに向かうのであって、死者は医者の手から離れている。
われわれは「生死」といってそれをテキトーに分割したつもりになって「認識オッケー」と思い込んでいるだけなので、「生前の世界と死後の世界はどう違うんや」「なぜ違うんや」と訊かれても、けっきょくのところ「さあ?」と逆ギレするしかないのだ、無理やり因果律だけに注目すれば「生きていたから死んだァ! 因果ッ!」と言うことができ、「形あるものはみな滅びる!」みたいな幼稚園児めいたことも言いふらしていられるのだが、そこで因果律では思議不能な「主体」について、「主体という現象それ自体は生きものではないから死ぬこともないぞ」「形はないものだから滅ばないぞ」と言われると、回答できなくなって精神がおかしくなる、そこから因果律マンは「じゃあそんなものは存在しない、主体なんてものは存在しない」と言い張るしかないのだが、「じゃあ "お前" はなぜ存在しているの?」となり、こいつはなぜかわからないが自殺したくなるのだった、あるいは自分を滅ぼす方向へ押し出されるのだった/これは割とマジでこうなることがあるので、まあ急に台無しにして、「あ、やっぱ残金は50円でいいわ。レシートにそう印刷されるもんな」と打ち止めにするのもひとつの冷静な緊急避難なのだった。
正しく見ないとな | comments(0) |
100円をもって、50円のものを買うと、手元に残るのは何円か2
まりおれは、この世界の法則を、「因果律だけじゃないっぽい」と見ているのだ、すべてが因果律に収まるふうに見えるのは、単にわれわれの「認識」という能力が因果律しか視認できないからにすぎない。
心理学者ユングは、いわゆる共時性の理論において「因果律のほかに偶然という軸がある」ということを唱えたが、そんなもん再現性の得ようがなのいで、ただそういうガチ聡明な学者でも何かに気づいた人がいるっぽいという、歴史的な道標になっている/ユングが合理主義者のフロイトと対話しているとき、二人の目の前で超心理現象が起こったが、フロイトはあくまでそれを受け入れず、認めもしなかったという(有名な逸話だ)。
おれは因果律という軸に対し、もうひとつの軸があるとして、それを「偶然」の軸とは思わず、要するに「主体」という軸なのじゃないかと思っている、そもそも因果律で考えればこのタンパク質と神経細胞の絡み合いが「わたし」という主体の現象を引き起こしていることじたいがおかしいわけで、因果律という法則軸の中に「主体」という法則軸が混ざりこんでいると考えたほうが全体がすっきり整合する/ただしわれわれの「認識」という能力は、それじたいが因果から発生しているため、因果律しか視認できない、すべての哲学者がそうであったように、認識の機能ではどうやっても「わたし」という現象を一ミリも解明できない。
因果から発生した「認識」という能力が、因果律という法則軸を視認するなら、やはり「主体」という能力が、主体律と呼ぶべき法則軸を視認してもおかしくはない話だ、そしておれが子供のころからずーーーーーーーっと視てきた「これ」は、要するに主体が主体軸という法則軸を視認してきただけじゃないのかと思う/認識の因果によって因果律を見たらそりゃあ 100−50=50円だが、主体によって主体律を見たら残金がいくらかなんて、「主体が与えたとおりになるだけ」だろう、このように因果律というのは「信じるまでもなく、見たらわかるやろ」という現象のことであって、われわれの認識という能力の中にそもそも「信じる」などという能力はない、認識の能力は認め知る(認め識る)ということのみであって、 100−50=50 なんてことは何か秤ででも実験すればいいだけのことであり、信じるというようなプロセスは必要ない、自分が信じると認識しているものは信じるという主体の現象ではない。

これは何も、おれがわけのわからん話をしているのではなくて、因果律つまり原 "因" から結 "果" が生じるという法則が、われわれにとってわかりやすくあったとして、この宇宙に物事を起こす原理は「それだけとは限らんだろ?」ということにすぎない/この宇宙に因果律しかないように見えるのは、われわれが原因と結果という「それしか視えない」からであって、われわれの認識機能に引っかからない原理があったとしたら、そんなものはもうわれわれには "お手上げ" じゃないか、たとえば「時間が止まっているあいだに三年経った」として、われわれの認識できるもののすべてはそのとき止まっているのだからそんなことはわれわれが知りようもないというのと同じ類の話だ。
われわれが認識機能で検出できるものしか、われわれは認識できないのであって、その認識できる因果律のほかにも法則の軸がある……というより、ひょっとしたらわれわれの持っている「認識」という機能が、実はこの宇宙に対してはきわめて限定的な能力にすぎないかもしれないじゃないか、もし自分の持っているテレビとアンテナがNHKしか映さないのであれば他のチャンネルはどうやっても視聴できないように、われわれが一般に持っている「認識」という能力とそこから認め知ることのできる因果律という法則は、何も宇宙の唯一法則というのではなく、単にわれわれが接触できる法則がそれに限定されているというだけのことかもしれない。
何しろ相対性理論によると、光の中では時間は止まっているそうだし、時間が止まっていると言われてもけっきょくわれわれは「???」となるのであり、要はわれわれは認識機能で「分かる」という範囲を逸脱するものについては、存在しないと断定したがる傲慢さの癖があるだけだろう、われわれは質量やら大きさやら速度やらをパラメーターとして物理的に宇宙を観測することができるが、そもそもわれわれに認識できないパラメーターがあるとしたら、そのパラメーターじたいを知る方法がないし、ましてやそれを定量することなどできるはずもない。
われわれの身体は細胞で出来ており、細胞はタンパク質で出来ており、タンパク質はアミノ酸やペプチドで出来ており、アミノ酸は炭素やら水素やら窒素やらで出来ているが、それが寄り集まっていきなり「わたし」という主体性の現象になっているのは意味がわからない、つまり因果律で言えば「いきなり "わたし" なんて結果が出てきてたまるか」ということなのだが、デカルトでさえこの「わたし」という現象を疑うことはできなかった/あなたの部屋のテレビがいきなりウイイイーンと横向きに走り出して高速道路を滑走していったとしたら、そりゃテレビモニタとは違う軸の機械が入っていたのだとあなたは判断するだろう、それと同じようにわれわれが思い込んでいるこの宇宙には因果律とは違う軸が入っているのかもしれない、ただそれはわれわれの認識機能では捉えられず「分からない」ことだ、それはいきなりウイイイーン走り出したテレビモニタが「何チャンネル?」と訊かれても「そういうことじゃない、何チャンネルとかでは説明できない」というのと同じだ。

全員が「認識」を使っていて、つまらんので、おれはどーも違うやつを使うようになったくさい。

なんというか、おれなんか頭がイイので、認識といってもいまいちツマランというのが先に視えてしまうのだ、だいたい「認識」と鼻息を荒くしても、たいていの奴はその認識機能だっておれより性能が悪いじゃねーか、認識機能しかない上にその性能もいまいちってどういうことだよ、ちゃんと高性能にしろ/認識というと、たとえば今は夜だが、夜といえば昼の反対であって、それは善の反対は悪というようなしょーもないことだが、そんなしょーもないことでは、いつもおれのところに「グイグイ降りてくるこの夜」のことはまったく説明がつかない、昼の反対などというアホの認識しか持たない奴は、罰として夏中ずっとゴムぞうりを裏返しにして履き続けること。
おれが視ているところの「世界」は、何か「それじたいのもの」がゴリッゴリにひしめきまくっている世界であって、その中で100ひく50は「別に50で構わんけど」、そんなもんどうなるものか誰にもわかったもんじゃねえのだ、電車が街を通り抜ける音がしていて、音というとそれにだって原因があって結果としての音が出ているのだが、それ「だけ」ではないのだ、「それじたいのもの」がゴリッゴリにキているのであって、認識としては別に何もない、だがこんなゴリッゴリの世界の中で「認識(笑)」みたいな限定的なものがどうやってそれだけで頼りになるんだ。
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100円をもって、50円のものを買うと、手元に残るのは何円か

:太郎くんは100円をもって出かけ、50円のおかしを買いました、太郎くんの手元に残っているお金はいくらですか。
答:太郎くんが信じて求めたところに応じた金額。
このように解答しないと新約聖書の話に適合しないのでこの解答が正しい/この解答でないと数枚のパンが5000人にゆきわたるという話が成立しない。
なあに、心配は要らないのだ、太郎くんが「100円で50円のものを買っても、100円以上は残るでしょ?」とは信じないのだから/だから太郎くんが信じたとおりに、残金はたいてい50円だ、「残金は50円です」以外を信じる奴はまずいない、だからわれわれがこの新約聖書の話にビビる必要は実効的にない。

キリスト教・新約聖書というのは、「信じて(主なる父に)求めればそのとおりになる」という一点押しだが、これでうまく話は合っているのだ、われわれは「100円から50円使ったら残るのは50円だろ」と断じて信じるので、そのとおり信じたままの結果が与えられている。
それで、「100円から50円使っても、120円残っていてくれ〜」と信じようとしても、ダメなのだ、「そんなことをマジで信じられるか?」というのが本質であって、内心でわずかでも疑いながらそれを祈るのだとしたらそりゃ「疑っている」わけで、疑いながら祈ってもダメだ、疑いながら祈ってもそれはただの個人的な「願望」にしかならない。
聖書的に考えれば、われわれは「善悪の知識の実」を食った状態にあるわけで、また仏教的に考えればわれわれは「識」という因業の中にあるわけで、「正直、どーしても 100−50=50円 としか信じられねええええ」という状態だから、いいのだ、そのことまで含めて「信じたとおりになる」のであって、キリストが人々の信仰心の薄さを嘆いているのは、「けっきょく信仰が因業を凌駕しないのなら、テメーらは自身の因業を信じているんじゃねーか、じゃあテメーの因業を信じたそのとおりになっちまえバーカ」ということなのだ/われわれは自身の因業によって「100−50=50」という認識のほうを信じてしまうので、まあふつうは新約聖書に何が書かれていても実効的には何も変化がないのだった。
聖書には「あなたの神を試してはならない」とも書かれているので、「ちょっと残額増やしてくれるかな?」みたいなことをやってはいけませんとも戒められている、そもそも50円ぐらいだったら自分でもなんとかできるので、50円分ぐらいはガンバってはたらいて何とかしたらいい、そうして50円分でもせっせと働いて稼がなくてはならないという罰のことを、どうやら聖書では「自分の十字架を背負ってついてきなさい」と表現している、モーセだって歩いて逃げられるぶんにはあくせく歩いて逃げるべきなのであり、祈って長距離バスを出現させたわけではなかった、そうではなく「これは自分にはもうなんともできない、主よ逃げる用に海を割ってください」と祈ったからそれについては海を割ってくれたということだ/というわけで、太郎くんが50円ぐらい自分でなんとかするべきという十字架を背負っていたら、残額は識業のまま50円でいい、それでむしろ正しく祈りが通じていることになる。

100円のうち50円使って、残額が120円になるとしても、「その120円が神の御名を称えることになる場合のみ」という条件がつく。

モーセ一行の落ちのびる先に向けて海が割れたから神の御名が称えられるのであり、いくらなんでもおれが七里ガ浜に遊びに行ったときになんとなく海が割れても「何これ」としか言われないだろう、そんなアホなことはさすがに与えてもらえない、というかそもそも、そんなアホなことを本当に信じて求める理由がないので、どうガンバってもそんなことを魂の底から祈れない。
何の矛盾もないし混乱もないのだ、われわれは「識」という因業に囚われている「でもでも認識マン」だから、何をどう言われたとしても、「でも、やっぱり、 100−50 は 50 じゃないの?」としか信じない、この認識マンの「認識」という機能をなんとかしようとすると、もう精神を損傷するか認知症になるかしかないのだが、そうやって精神をブッ壊すと、今度は「誰に祈るのか」ということが失われてしまう、「じゃあけっきょく信じて祈るということ自体が無理なんじゃん」ということになり、実効的には「まさにそのとおり」と言うしかないのだ/ただ例外的におれのような超絶大先生の場合だけ、太郎くんが100円のうち50円を使ったとして、残金はいくらかについて「さあな、わかったもんじゃねえよ」と大真面目に言うのだった、だって本当にわかったもんじゃねえと経験的に思うよ。

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独立は人のわざ、結合は神のわざ
とえばわれわれは音階をドミソと分けることができる/この分かる・tell・識別するというのが人の業でありワザだ。
誰でもピアノの鍵盤を押してドミソを鳴らすことはできるが、それによって三つの音が結合して和するかというと、そんなことは起こらない、たとえ純正調に調律したとしても、それは周波数の問題であって、それぞれの音が和するというような結合は起こらない。
人は分かれている別々のものを結合することなどできない、役所と牧師がよってたかって男女を結合しようとしても何ら結合は起こらないのと同じようにだ、ドミソの三つを結合して和することができるとしたらそれは神のワザでしかなく、われわれは神ではないので、神のワザについては神に外注するしかない。
おれの書き話しているこのすべての文言だって、言語というのは一語一語バラバラのものでしかないから、それが一つの文章として結合するなんてことは起こらない、少なくともおれはそんな現象を起こすことはできない、もちろん偉大なるおれさまはそんなことお手のものだがね、というわけでおれは結合のすべては神に外注しているのであって、おれは何をしているかというとむしろバラバラの独立をやろうとしているのだった。

つまりおれがドミソを鳴らすとするならば、おれはドミソをそれぞれバラバラの音として出すので、その結合については神サマよろしくと外注するということだ、おれはそんなにバカではないので、おれが気合を入れてドミソを結合した和音にできるとはツユほども思っていない、おれにはそんなことはできないし、そんなしんどい上に不可能なことは外注するに限るのだ、おれは合理主義だ。
ドミソの上にさらにメロディだのリズムだのと言い、何なら歌詞までくっつくようなことを言われると、「そんなもん結合なんかできるわけねーだろ」というのがおれの冷静な理解であって、結合はすべて外注に決まっている/おれは人として万事をバラバラの厳密な「独立」に向かわせようとするので、和音やらメロディやらリズムやらが「ひとつになるぅ〜」みたいなことを求めない、いや求めるとしたら外注先に求めるのであっておれ自身には求めない、おれ自身は冷静にすべてのことを「ほいバラバラにやりますよ〜もともとバラバラですからね〜」としかやらない、そんなもん「おれの思いと女の思いはバラバラだろw」というのと同じであって、おれがおれの思いと女の思いを結合できるのだったら街ゆくすべての美人はおれによってヤリ捨てされまくるだろう。
おれがこうして書き話していることと、これを読んでいるらしい誰かがいるとして、書いているおれと読んでいる誰かもバラバラの独立だ、おれの場合おれのワザとしてそこのところが厳密なので、どんなひどいことが書いてあっても読んでいる人に対してはひどさが作用しないようになっている/書き手のおれが読み手の誰かに作用するということはまったくなく――厳密にゼロで――、そうした結合というのはすべて外注にまかせている、外注先はそうした結合の専門なので、むしろ「ちゃんとバラバラに独立させたやつで納品お願いします」と言われているのだ、そのあたりはおれもさすがにわきまえている。
おれがこうして書き話していると、おれは実に自由な、独立・自立した存在に感じられるだろう? そしてこれを読んでいる人も、読んでいるあいだなぜか、独立・自立した自分ひとりとしてこの世界に存在しているような感じがするはずだ、それはおれが厳密にやっている「独立」のワザのせいだな、だからあなたは、こうしてあなたがこっそり読んでいるこのナゾのブログについてあまり知人に紹介しようとはしないのだった、人が「つながる」というような幻想をおれが取り払っているから、そのワザによってあなたも誰かとつながって縛られているような幻想を吹き払えるのだった、それがほかならぬあなた自身に届いているように感じられるのは、結合のせいであって、それは外注先のワザがすばらしいだけであり、それはおれのワザではない(そんなワザを持っている人間は存在しない)。

「おれの書いたもの」と「おれ」は独立したバラバラのものだ。

おれが人のワザとして、きっちり独立バラバラをやりきっているものほど、外注先は品質がいいと見てくれて、結合の仕事を「よっしゃ任せとけ」と請け負ってくれるのだ、「おれと書いたもの」と「おれ」を結合してくれているのは外注先であって、だからこそおれの書いたものはいかにも九折さんが書いたものという声(voice)がする/わざわざ voice と書き足したのは大江健三郎の文学作法に倣って。
ロシアフォルマリズムの発想で言えば「異化」ということになるが、ロシアフォルマリズムは自ら唱えた異化の理論を完成させることができなかった、人間の記憶や省エネの根性によって自動化が起こることまでは看破したが、その先にまでは踏み込まなかった、まあそれは節度ある論者たちだったともいえよう/まあおれの場合はナイスなものが得られたらそれだけでいいので、そのためには節度もヘッタクレもないのだった、おれがやっているのは人のワザとしての独立バラバラ化だけ、それがいかにもひとつのものに結合して鳴り響いて聞こえるのは外注先の仕事のおかげだ、うーんさすが偉大なるおれさまってところだ。
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