☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
ワークショップおよびパーティのご案内

足 Quali's 身体操作とコミュニケートと存在のワークショップ 9/17更新
「世界のボトムを見せたりまっせ教室」
【第二十三回】9月21日(金)19時〜@世田谷公園
【第二十四回】9月22日(土)19時〜@世田谷公園
【第二十五回】
9月28日(金)19時〜@世田谷公園

【第二十六回】9月29日(土)19時〜@世田谷公園
(教室名が変更されていますがやることは同じです)
(服装自由、仕事上がりも可。参加費無料。青空教室です)
(ハイヒールはさすがにキツいかもです)
(基本的には雨天延期です、随時ご連絡いたします)
(場所:世田谷公園正門(デニーズ向かい)から階段を上り右手前方に見えるベンチのあたり

(ワークの性質上、性格や挙動の不穏な方には参加をご遠慮いただいております)

→ワークショップ参加エントリはこちらからメール


酒Quali's Party
「世界のボトムまでは行けませんわ集会」
【第85回】10月20日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB
【第84回】
11月17日(土)19時〜23時@原宿DinningBar CLIMB

♂5000yen ♀3000yen
(ほんのり合コン的な格好でよろしく。そしたら点数アップ)

→パーティ参加エントリはこちらからメール


文句の出ようがない二つのもの
それは速さと集中力である


みなさまのご参加をお待ちしております。 九折

(ワークショップの各カリキュラムは以下続きをご参照ください)

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パーティ報告84(2)/「自己決定」

心な、根っこの部分は、技術もヘッタクレもない、小細工は役に立たない。
「自己決定というのは、必ず感動的でなければならない。何を産み出す? お前の生きて歩いた後には何が残る? 何かを産み出しているなら、そりゃ必然的にかっこいいし、感動的になるはずだ」
「このことに関しては、他のヤツは関係ない、自分で決めることだから、自己決定だな、おれは、おれの歩いた後に、楽しくなかった土曜日なんて一日も残さねーぜ、おれの生きた日につまんねー日なんか一日もあるわけないだろ、これがおれの命なんだからさ」
「これに関しては、別に何が正しいとか、そんなことはどうでもいい、これはただおれの決めることだからな、おれは自分がどのようなクソでもかまわんが、おれを慕ってついてきたヤツに、『あの人に出会えてよかった』と言われるようでありたい、そうであれば他のことはどーでもいいんだ」

「おれの生きる世界以外に、おれの生きる世界はないからね。おれのやること以外に、おれのやることはないもの。ああ、これ単純でいいな、真理だよ、次のポスターのコピイにしようかな」
「これに関しては、待っていても、何かが降ってくることは絶対にないんだ、『おれがやりま〜す』と、手をあげて立ち上がったヤツには、何かがフッと、声をかけてくれることはあっても、その逆はない、何かを待っているヤツに何かの声がフッとかかることは決してない、逆だ、先に立ち上がって『やる』ヤツに、運が良ければ、何かよくわからん声が吹き込まれることはあるよ」
「もちろん、不吉のパターンもあるかもな。おれの言っていることかわからないか? 今、街のどこかに、○○に断固反対! みたいなプラカードを掲げて歩いている人たちもいるだろう、それが悪いってわけじゃないが、お前がおれの言っていることがわからないとして、お前は、プラカードを掲げて歩いている人たちの言っていることは "わかる" はずだ、そこのところに気づかないといけない。お前はおれの言っていることがわからず、共感できないのに、他の……誰かが言っていることはわかって、共感してしまう、それが悪いというわけではなくて、それがお前の所属だ、それに自分が満足できているのかどうかだ」
「自己決定、と言われると、何かが急に怖くて、何かピンとこなくて、どうしたらいいかわからない、どうすればいいのか見当もつかないんです……と、そのパターンはいつも見てきた。まったくいつものことだ。そして、見当もつかないと言っているのは、そもそも、自己決定している他の誰かのことを見ていないからじゃないか? その失認が、正当なのか不当なのかは、おれの感覚からはよくわからないんだ」

自己決定が要求される局面はない。

なぜなら、局面が要求してくるものは、自己決定ではないからだ、それは局面に要求されているのであって、自らに由って決定しているのではない、「お前に『自己決定しなさい』って、強制してくれる人は誰もいないよ、強制されたらそれは強制決定であって、自己決定じゃないのだから」。
「まず、自己決定をするという、そのこと自体の自己決定が要るというのも、話の筋道としてはよくわかるけれどね、正直あまり聞こえてこないや……何かの実感を待っているあいだは、自己決定なんてやってこないだろう、実感がやってきたとしたら、それはただの "願望" だろうね、そして人は願望に振り回されるのであって、むしろ願望のせいで自己決定ができないものだ/人は願望に向かってゆけるのじゃないよ、人は願望に操られ、願望が人を操るんだよ、そうして自己が願望に決定されてしまうのを自己決定とは言わない、だから実感を待って実感に操られたとしたら、その時点でキミの負けだ」

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パーティ報告84(1)

日のワークショップの報告は、「月刊ワーQ」を発刊したのでよしとして……
今回のパーティは、前半、異様に盛り上がったので、もう何がなにやら、盛り上がりすぎて覚えていない。
盛り上がったというか、何か爆発的なものがあったな、みんな月Qの寄稿で苦労した直後というのもあって、その打ち上げ感もあった。
人それぞれに、うおおお〜という感興があったのだが、まあそれは人それぞれのことだし、ここで報告するものでもないな、とにかく本当に面白いことでなければ、人は爆発的にはよろこべないのだった、そりゃ当たり前か。

もう意識が飛びそうなので、忘れないようにメモしておきたい、人が何かを「教わる」というのは、情報を突っ込まれることではなく、「関心・興味の方向を啓いてもらえる」ということだ、また後日説明する。
そして、よく「やる気を出す」というが、正しくは、「やる」というのは気ではなく霊なのだ、「やる気を出す」ではなく「やる霊が入る」でなくてはならない、このことも後日説明……するのかね、まあどっちゃでもいい。
あと何だっけ、そうそう、「種の力と花の知性」だ/今回はたまたま、「自己決定」というテーマが本当に旋風となって語り合われた(ホンマかいな)。
愛があったり、なかったりで、「うおお〜自分に愛がないことに気づいてしまったああああ〜」(某青年・談)ということもあり、ゲラゲラ、でもこのごろになってわかったのだが、てめえらけっきょく、ほとんどのことが未体験の初体験なんじゃねえか、そりゃ何もかもショッキングでエエエエとなって当然だ、いいかげんその展開に慣れろよ。

もはや楽しいという感想も吹き飛んだので、ようやく値打ちが出てきたわ。

パーティを企画してから、どんだけ時間かかっとんねんと、気が遠くならんでもないが、まあその間におれもヤベー奴()になったことだし、結果的にこれ以上ないといえばないのかもしれない、同じ事は二度とやれねーと思うから、経験上これでいいのだろう。
今回は例外的に、前半が爆発的に盛り上がったので、よしよしという感じで、後半(終電以後)は少し休ませてもらった、これは例外的なことというか、ついに僕がパーティ中に休めるときが来たのである(いつまでかかっとんねん)、まあその他いろんなこともあって、めでたいめでたいという具合なのだった、このままさらに悪辣にいくのでよろしく。

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「月刊ワーQショップ」創刊

「月刊ワーQショップ」が創刊されました。ご自由にダウンロードください。

 

→月刊ワーQショップ創刊号(二〇一八年九月十四日)[pdfファイル]



ぜひご一読ください、よろしくお願いいたします。

九折


刮目せよ〜
 

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第84回Quali's Party[9月15日(土)]無事盛会!

9/17 Quali tweet> 盛り上がりすぎやろ……(回想)。 pls entry

joined: ひろみ、あきら、ゆか、ともこ、しおん、かず、やじー、ゆうさく、トム、くおり
日時:2018年9月15日(土)19時〜23時
場所:原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB



おかげさまで無事盛会でした! 次回もよろしくお願いいたします。

九折


キラキラ次回[10月20日(土)]加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ

→その他詳細はこちらから


宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!

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No.382 愛されないと面白いことはできない

掲題のコラム、本サイトにアップしました。


No. 382 愛されないと面白いことはできない
――つい、あなたも、僕のことを愛してしまいそうになるだろう。愛というのはそういうものだと思う。


よろしくお願いします。九折

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No. 381 「薄気味悪いことを持ち込まない」
掲題のコラム、本サイトにアップしました。


No. 381 「薄気味悪いことを持ち込まない」
――同調を求めない人がいると、それだけで少しホッとする。


よろしくお願いします。九折
そのほか | comments(0) |
WS報告012(2)/誠心誠意で「声」が届く

間には「魂魄」といって、霊魂と気魄があるが、気魄(わたし・こころ)の正しい使い方として、「誠心誠意」というのがある。
この、「誠心誠意」という状態で、人の後ろ(5m〜10m)から声をかけるというワークをする、「こんにちは」「こんばんは」と/僕が模範でやってみると、みんな予想よりもはるかに驚いて、逆に僕がびっくりした。
「うわっ!」「近っ!!」と、みんな驚いたわけだが、僕も「そうなの?」とびっくりしかえすという具合だった、とにかく「誠心誠意」という正しいやり方でやると、後ろから声をかけても、「首の後ろに直接言われたみたいな感触がする!!」そうだ、とにかくそうして「人に声が届く」という現象がある。
人を後ろ向きに四人並べて、狙った一人だけを振り向かせるように「こんばんは」とやってみたが、やってみればできるもんだ、狙われた一人だけに声が届き、その人だけがぴゅっと振り向くようになった、そしてこうひとつ高度な感覚を使って声を届けると、四人同時にこちらを向かせることもできた。

そういったことを、一回目でビタッと成功させるところが、さすがおれだと、満悦したので、その点については「さすが〜」と褒めてもらった、まあさすがおれである、そりゃそんなもん、おれともなれば(ほぼ)すべてのことがイッパツで出来ないと、面白くないからな!
誠心誠意というのは、いわば人に「作用する」ということだ、これをやるとプレイヤーたちは露骨に「こころ」が通じた関係になり、あちこちで輪になって座り込んで、話し込みはじめやがった(おれはこのチャンスに腹痛のアレでトイレに行くことができた、ばっちり)。
「誠心誠意」という、「こころ」の使い方は本当にあって、それはキモチの問題ではないのだ、自分の胸の中心から相手の胸の中心にビタッと向き合って、つながり、相手の胸を掴んで引きずりおとすぐらいのつもりで、身を傾けて「こんばんは」とやる、すると、敏感な人は「うおっ!」と驚くぐらいに「声」が届く/自分が声を「出す」のではなく、相手の胴体に直接「声」が発生しないといけない、自分が声を「出す」のでは、実際には「音」しか出ていない(「音」はうるさい)。
そうして、人に正しく「作用する」のが、気魄・わたし・こころの正しい使い方であって、霊魂というのはその逆、人に「作用しない」のが霊魂だ、別の言い方をすると「光の形が変わるだけ」ということになる/胸の真ん中(心臓)から身体の末端へ気魄をOUTさせると「人に作用する」になり、逆に身体の末端から胸の下(横隔膜)に霊魂をinさせると「人に作用しない」になる、そして「声」は作用だが言葉は「非作用」なのだ、これを正しく使い分けられないと、われわれの言語は言葉ではなく呪いになってしまう。

当ワークショップ、「誠心誠意」が割と人気メニューです。

僕としては、ソウルとフィクションが本分であり、ウリのつもりなのだが(というのは、この「誠心誠意」は、ヨソでも教えてくれる人がいるはずなので)、しかし実際には多くの人がひとまずこの「誠心誠意」をやりたがるな……まあそれはとてもまっとうなことだと思うので、このワークの頻度というか、優先度を上げようと思う/必須ワークのひとつに、この「誠心誠意」を入れたほうがいいみたいだ。
プレイヤーのみなさんは、単にこれを「できる」に留めず、「うおっ!!」と驚かせるぐらいに、ぜひなってね、ハートがちぎれそうなぐらいハートフルというのがナイスだ、そういうことをリアルにやれるというのは面白いことだな。

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WS報告012(1)/見た目のきれいさ・若さ・胴体の落ち着きぶり

「光の形が変わるだけ」/目でモノを見るというのは、実はモノを見ているのではなく、光を見ているのであって、モノの動きや形が出るというのは、実は「光の形が変わるだけ」という……まあそんなこと、ここだけ書かれてもナンノコッチャにしかならない。
ワークショップ報告を書こうと思うのだが、いよいよ今回は、何を報告したらいいのかわからなくなった/多くの人が飛躍したのだが、飛躍が行きすぎていて、もう何がどうなったのか、正直よくわからないのだ。
包み隠さず申し上げると、人は、単にコーチがいれば教われるというのではなく、誰かしら導く人が必要だということだ、そして「導く」というのは、もうナンノコッチャ、「この人がチョイチョイとやると急に何かになる」ということがあるのだ、ただしそれはその導く人をプレイヤーが信じているという関係がある場合に限られるが……
「ワークショップ」って、普通こんなに急速に進むモンじゃねえだろ、つい先月まで完全ムリで可能性0%だったことが、何を急に「そこそこやれるでしょ」みたいになっているんだ、「導く」というのは何かぶっとびのところがあるな、正直金曜日の19時の時点がどんな感じだったかまったく思い出せない。

まったく、なぜこうなるのかはわからんが、あるがままのことを報告しておく。
「ワークといってもなあ」と、なんとなく、「そーいうことじゃねえ」という気がして、僕が唐突に、荒唐無稽な話をする、「お前って歴史が好きじゃない? 物事の成り立ちとか」(←そんな情報は聞いたことがない)「カーネルサンダースをやってみろ」「お前は三角形が……」、これは僕がわけのわからんビジョンを拾ってテキトーに言っているのだ。
するとなぜか、この意味不明の話を、みんなが妙によろこんで聞き、これを聞き終わると、何かが別次元に進んでいるのだ、まったくナンノコッチャという話だ、しかし本当にそうして進んでしまうので事実としてどうしようもない。
何が起こっているとは、にわかに説明できないというか、説明する気も失せているのだが、とにかくみんな、見た目のきれいさ・若さ・胴体の落ち着きぶりが、まったく違うモンになった、目の色も表情もまったく違うもんな、みんなコソ練を積んでいるということはあるにしても、この変貌ぶりは説明がつかないのだった。

アカン、けっきょく要るのは、努力じゃなくて導きだわ。

しかも、別に誰も導かれた覚えはないし、こちらも導いたりしているつもりはないののに……けっきょく、合理的なワークが、合理的に実現されるためには、非合理的な導きが要るようだ、エーイ/それならもう、しゃーない、誰も彼も、何かの導きにさっさと出会うしかない、結果的にできるようになってしまえば途中経過なんかどーでもよくなるから、さっさと済ませてしまえ、何事も出来るようになってしまえばそれだけで話は済むからな、そのあと何もなかったことにしちまえばいい。
今回の二日間は、僕がちょっと腹痛でアレだったのだが、逆にそのことが功を奏したのかもしれない、まあ何にしても、何がどうなっているのか、もう当事者たちにもわけがわからないので、とりあえず見た目のきれいさ・若さ・胴体の落ち着きぶりが変わりましたねえ、ということだけご報告しておく/何がどうなっているのかなんて、究極、誰も知らなくてもかまわん。

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WS報告011(5)/やっていないのに得られること
「先生のお力なのか、ワークショップに行くと、なぁんか愛に包まれるんですよね(←不思議がっている)」(ガイル青年)、「自分が大きな仕組みの中にいるということを知って、吾我が勝手に小さくなって、それがもう何かものすごいよろこびなんですよ〜(←このあといくらでも言いたい様子)」(たこやき姉さん)、「そうなんすよ、何か若返ったんすよ(←なんか楽しそう)」(ニンジャ青年)、という感じ/つまり、具体的なワークと、一見まったく関係ないようなところに効果が現れてくる。
「今回は、最初から最後まで、デザインされていたというか、この結論に行き着くためにこの一晩がすべて計算されていたというか……」「そりゃお前らが、『全体』を通して見られるようになったというだけで、元からそうだよ、第一回から今回に至るまでずーっと、すべてのことは綿密な計算の上だ、お前らがそういうことをまーったくわからんかっただけだ」「す、すいません笑」。
そういえば、金曜日のワークで、二年前にやっていた「跳ね釣り」をやってみた、すると僕のそれは以前とはまったく異なる次元にレベルアップしていたし、二年前は「わけがわからん」という状態だった人が、「言われたとおりにやってみる」ということを獲得していて、今になって少し指導を受けてみたら、それなりにスッとできるようになった、それを通して「改めて、積み重ねるということの意味を発見しなおしました」と、ニンジャ青年あたりがまたよろこんでいた。
僕にとっては当たり前のことでも、わざわざ言っておかなければ、他の人はまったくわかっていないということがよくある、それであえてわざとらしく言うが、ワークAを積み重ねたとして、得られる効果はAだけではない、アルファベットのAからZまでを獲得するということは、英語でスペリングされるすべての言葉がわかるようになるということだ、アルファベットだけを覚えるだけじゃ値打ちなんかあるわけないだろ? そんなこともいちいち言っていくべきなんだろうな/「なぜかは知りませんけれど、確実に、お通じはめっちゃよくなりました」というような報告もある。

当ワークショップで副次的に得られる、つまり「やっていないのに得られること」は、代表的に「若返る」「毎朝起きるのが異様に楽しくなった」「景色が輝いて見えるようになった」「イライラしなくなった」「大きな仕組みが見えるようになってきた」「食事がめっちゃおいしくなりました」「自分だけでなく、人々がいる、ということがわかるようになった」「自分で出来ないにしても、愛とかフィクションとかがはっきりわかるようになった」「生きていて、自分の『やること』がはっきり『ある』という状態になった」等だ、そしてその副次的なものが得られない人は、手前で通称「パン祭り」にうずくまることになる、そりゃしゃーない。
身をもって、「学門」をしているわけだからね、この学門に入れないと、代わりに獄門(パン祭り)に下されるというナイスな冗談つきだが、まあそれはそういうものだ、身をもって学門を修めていけば、そりゃあ世界は広がるし、カッカしなくなるし、何より若返ることになる、学門を捨てた人間の老け込む勢いというのはすさまじいものだ、しかもほとんどの場合戻ってはこられなくなる。
啓蒙、「蒙を啓く」ということは、当然だがマジであるわけだ、たとえば今回、ガイル青年や色鉛筆ちゃんを跳ね釣りで飛ばしてみたのだが、両者とも初めてそれを体験すると「うおっ!!?」「わあっ!!?」とまったく驚いてすっ飛んでいった、つまり人間の身体からそんな力が出るというのがまったくの想定外ということだ/「な、なんですかこれ!!」となるのだが、そりゃキミが知らんかっただけで、もともと身体を正しく使えばそれぐらいの力は出るものだ、そうして致命的に「知らんかった」ということがいくらでもあるということ、そのことを冷静に「無知蒙昧」というだけだ。
「ワークショップの後、クタクタになって、寝て起きると、そのときの自分が昨日とはまったく違う世界にいるのがわかる、教えていただいた新しい世界の中に自分がいる」という人もいる、そりゃそーだ、これまで閉じていた蒙が啓かれたのだから、アタリマエに本来の世界が見えているわけだ/いっそ「九折大学」に入れたらいいのにな、なんて話を帰り道にした、「そしたら四年間、みっちり、毎日がこんな感じだぜ」と、そういうことはたとえ空想でもウオオオと楽しいものなのだった。

学門をやるのは学者だから、学生気分で学門はやれない。

「過去の数年間で、なんて誤ったものを身につけてきてしまったのか」「いや、そういうことじゃない、過去の数年間で、『これは違う』ということを確かめてきたんだ、だから今ここにいるんだよ、その数年間がなきゃ今ここに来ていないんだから。むしろ、わずか数年間で、『これは違う』ということを見切れたのだから、そのときみっちりやった甲斐があったと捉えるべきだ」。
「以前、野球選手のイチローが言っていたよ、彼もかつてウェイトトレーニングに重きをおき、数年間やってみたのだけれど、研究の結果、スイングスピードが落ちるということがわかって、ウェイトトレーニングを放棄した、でもそれは、『自分でやってみて、自分で見切れたからあきらめられたのであって、自分でやらないうちに、あきらめることはできないでしょうね』ってさ、つまり一定量自分で誤りに飛び込んでみて、それが誤りだと確信する過程も必要なんだよ、それも学門の道なんだ、だからそういう、"我流で死にました"というような学生時代を過ごしてきたことは、今になって偉大なことだったと認めるべきなんだ、今われわれはその土台の上に立っているのだから」。
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WS報告011(4)/オモシロ入り身投げ(笑)
加者の中に、合気道の経験者、というか現役の女性がいる、それもけっこう、骨太にやってきた人だ。
朝五時にワークショップが終わって、まだスタジオのレンタル時間が残っていたので、一度正式に彼女のワザを受けてみた、僕自身「何回か受けてみねーとわかんねーわ」と感じるので。
そうすると、まあ、僕が体さばきが速すぎて――つまり彼女が僕を振り回すより振り回される僕の体さばきのほうが速いので――わざとらしく僕がモタモタしないと型が成立しないのだが、いちおう型どおりに受けてみると、「なるほど、暴力的なものがあるな」と感じた、「こんなワザ掛け合っていたらお互いに仲悪くならない?」「そりゃなりますよ、険悪というか」/彼女はとても躊躇してワザをかけており、つまり彼女はその暴力的な自分のワザがキライなのだった、「本当の合気道のワザに到達したい」と彼女は切実に望んでいる。
僕は合気道なんか習ったこともないし、いわば彼女から受けたワザが「初体験」ということになるが、よく知らないまま当たり前のことが言いたい/いかなる理由があれ、大切な「人の身体」を投げ飛ばしていいわけがないし、締め上げたりしていい理由はない、公式のルールだろうがリングだろうが道場だろうがダメだ、ダメに決まっている、冷静に問いたいが「人の身体を何だと思っているんだ?」、大切な人の身体をブン投げて締め上げて「道!」などと言える道理はどこにもない。

そこで改めて、僕自身が独自に開発している、オモシロアイキ道、そのワザのひとつである「入り身投げ(笑)/イリミナゲカッコワライ」を彼女に披露してみた、するとこのワザは、彼女にとって実に感動的だったようだ/まあ独自のオモシロアイキ道だから、マジメな人たちに怒られる心配もないだろう、前もってそれはオモシロであると申し述べておきたい。
相手が打ち込んできたとき、こちらは身体をさばかねばならないが、僕自身、入念に調べてみてわかったこととして、僕はなんと、"相手の打ち込みの力を使って自分の身体をさばいている"ということがわかった、なんて厚かましい奴だ、「向かってきた相手の火力で自分のチャーハンを炒めているんだな、こりゃ厚かましいわ」というぐらいわかった。
そして、彼女との組み合いで研究を進めていくと、どうも僕自身呆れるぐらいに、この「相手の打ち込みの力で自分の身体をさばく」というのが、僕はとてつもなく上手いらしい、「こんなん、九折さん何もしてませんやん」「せやな、こんなもん、おれはこいつに抱きついているだけやで」と、しかも打ち込んできた奴に「ホラもっといけるやろ」と励まして、それで元気が出たところをさらに利用しているという厚かましさが判明した/僕は身体をさばいたあと、フラつくのがイヤなので、「どこか掴まれるところはないかな」と、目の前の彼女に掴まっているだけだ、その結果、彼女が走り回って僕を支えてくれているのであり、彼女は僕の代わりに振り回されてくれているだけだ。
僕は武術や武道に興味はないし、もし僕のやっているオモシロ(略)を見せたら、こんなもん武術でも武道でもないと、マジメな人は怒るだろう、そのとおり僕は武術にも武道にも興味はない、僕が興味を持つのはオモシロだ、真に愉快痛快なものだけだ、そしてさしあたり合気道を求めている彼女は、僕のそれを真に愉快痛快なものと認めてくれたのだった、「この入り身投げならやりたい、できるようになりたい」と/まあこれはこれで、できるようになろうとすると激ムズではあるのだけれども。

入り身投げ(笑)が炸裂すると、人々は大爆笑に包まれる。

マジにそうなのだからしょうがない、なぜか打ち込んだ奴がぐるぐる回って、最終的には静かに床に寝かせられて「お疲れ様です(笑)」となる/いっそカッコワライを逆転して、「笑(入り身投げ)」と表記したほうがいいかもしれない、カッコの中はあくまで予備的なモンだからな。
大真面目な話、僕は彼女に、「いっそ抱きつく練習をしたほうがいい、そのほうが早い。今のあなたは、たぶん抱きつくときにも躊躇してしまうでしょう」と指導している、実際オモシロ入り身投げ(笑)は、打ち込んできた奴にこっそりへばりついて抱きついているだけだ、そしたらその後何か知らんがそいつが勢い余ってぐるぐる回るだけだ、大切な人の身体がぐるぐる回っている……モーメントが輸出されただけで僕は何もしていない/さてこんなアホな指導が続いているわけだが、どうぞ彼女が望むなら、そのオモシロワザが彼女のものに、身につきますように、われわれもそうでない人もそのことを一様に願っているのだった。
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WS報告011(3)/「誠心誠意」への脚光と眼差し
ィクションとは関係ない、「わたし」というノンフィクションの使い方、「誠心誠意」の正しいやり方を教えた、このことは大きなよろこびと共に受け入れられた様子だった。
胴体をまっすぐにして、相手にまっすぐ向けて、まっすぐにつなぎ、まっすぐ頭を下げるだけだが、ちょいとしたコツがあり、途中で胸が下がってはいけないのだ、胸が下がると相手との接続が切れてしまう/これを正しくやると「眼差し」が発生する、実は「眼差し」が発生するには科学的に"正しい要件"があるのだった。
多くの人には、とんでもない誤解があったらしい、そうして「誠心誠意」で頭を下げると、人に「触(ふ)れる」という現象があるのを、みんな知らなかったのだ。
「優劣とか優越感のものかと思っていた」「頭を下げてりゃいいんでしょと思っていた」とか、聞いてみりゃ話はめちゃくちゃだ、「頭を下げると(頭が下がると)コミュニケーションになるんだ」と、そのこと自体が大きな発見だった様子だ。

「なぜかはわからないけれど、この動作を何千回でもやりたい」「この動作そのものに、自分の全身が飢えている」と、多くの人が言っている。
僕は、「へえ、そういうものか」と驚かされたのだが、最近はこうしたときつくづく、「教わっていないというのは恐ろしいことだな」と思うようになった/僕もわざわざ誰かに教わったわけではないが、すべてはどこかで教わってきたことなのだろう。
多くの人は、「頭を下げる」というのが、イヌがよくする「服従のポーズ」と同じようなものだと感じていたらしい、んなアホな……と、もう笑ってはいられないのだ、"教わっていないというのは恐ろしいこと"なのだ、今はたして何%の人が確実に「誠心誠意、頭の下げ方を知っている」と断言できるのだろう。
ふとしたワークの合間に、誰も彼も、まっすぐに頭を下げる練習をしている、どうやら本当に全身がその動作に飢えているらしい、「こころに使い道があった!!」「キモチはこころではなかったんだ!!」と、あえて言えば今ちょっとしたブームだ/「眼差し」を持つようになって、それはつまり、自分を見たときに「ダメな人の目」を認めなくて済むようになったということだ。

僕が正しく「誠心誠意」を向けるという実験をすると、歩いていたプレイヤーは「うおっ!」と立ち止まった。

それぐらい、はっきりとした、正しいやり方と、正しい作用がある、こんなもん正しく教わらないでは、ただの損というか、ヤケクソで生きることにしかならない/このごろこうして色んなワークについて、「いちかばちかでやらなくていいんだ」「そりゃそーだよ、正しくやりゃ正しく成立するように初めから教えとるわい」という、実りの段階が生じている。
「誠心誠意」の"具体的"なやり方を、どこかで誰かに教わっておくべきだ、それが"クソみたいな平伏"ではなく、「コミュニケーションであり、"出会い"なんだ」とわかったとき、内心の奥でガマンしながら頭を下げていたという、"我慢"の悪魔が衰退していくだろう、この「誠心誠意」以外にはおそらく、空気がパンパンに詰まった「吾我」を縮小する方法はない。
そのほか | comments(0) |
WS報告011(2)/フィクションは量子的
子テレポーテーションという、ヤバい現象がある、これは物理的な事実なのでしょうがない、どうヤバイかは物理に詳しい奴に訊いてくれ。
量子テレポーテーションは、つまり「観測、するとね……」ということなのだが、観測すると「性質」がテレポーテーションしてくるのだ、何を言っているんだコイツはという話だが、マジなのだからしょうがない/「んなワケあるか」と、かつては物理学者の大半も思ったのだ。
まあ、その量子テレポーテーションに、まさか関係あるまいということにしておいて、あくまで量子テレポーテーションに"なぞらえる"ということにしておくが、フィクションという現象はそのテレポーテーション現象を持つ量子「みたいに」仮想して捉えるとうまくいくのだ、それはもう見違えるようにうまくいくから、このナイスな方法を採らないテはない。
フィクションのコツは、第一に「観測不能」の状態を創り出すことにある、まあ初学者向けのテクニックだったとしてもだ/観測不能ということは、つまりシュレーディンガーの猫というやつだ、それ以前に二重スリット問題もそれだが、これは僕がヤバイのではなく物理がヤバイのであるから、僕に向けて「何コイツ」とは思わないようにヨロシク。

全員に「観測不能」の状態を創ってから、その後、ブラインドを開帳し、観測可能になった瞬間、つまり「初観測」を、Yesの状態で観測する、それによって性質がテレポーテーションしてくる、ように見える、まるで本当に「そのまんまですね」というように見える。
別にコジツケでもいいのだ、方法としてドンピシャを射貫いていればそれだけでいい、ただでさえ霊魂だの気魄だの言っているのだから、結果的にナイスになればいい、われわれの取り組みは「まともにジョークもユーモアも言えんのかキサマら」という、まともさへの取り組みだ。
初学者は、何かしらの物体をモチーフに、フィクションを構築して、ひとまずそれにブラインドをし、見た目に「観測不能」にする、という方法をやる、すると誰でもそれなりにフィクションの現象がプレイできるようになる、ただしこれはあくまで初学者のレベルだ。
このわかりやすい方法を敷衍するに、つまり僕は、ありとあらゆる「言葉」を、実は「観測していない」という状態で取り扱っていて、言葉が出現してから「後に」、言葉をYes観測しているということになる/ということは僕は、どれだけのアホウなのか、言葉に対して観測する・しないを、自己管理で操作できるのだ、そしてなぜそんなことができるかというと、「言葉の意味とか、観測するの面倒くさいから」という、えげつない退廃が理由なのだ、われながら……薄々わかっていたことではあるが、コイツは本当にどこかがメチャクチャな奴だ。

「空(くう)」というのは、つまり「観測しない」ということだ。

意外に思われることだが、言葉というのは、「わたし」の中に<<入ってはいけない>>のだ、言葉は実は人の発明品ではないので、人の体内に入ると毒になってしまう/言葉そのものは実体ではなく「空」なので、実は言葉というのは、真正面から「空回り」するほうが正しい、言葉が空なのだから空回りが正しい使い方なのだ。
「空」をYesで捉えると、「空」はすなわち「何でもアリ」になる、対して「空」を「No」で捉えると、「空」はすなわち「無」(何もない)になる、この「何でもアリ」「何もナシ」の結果は両極端であって、まるで何かの行き着く先の両極を表しているかのようだ/「何でもアリ」によって、性質をテレポーテーション(のごとくに見えるもの)で引っ張ってくるものは、原理的に「産霊(むすひ)」と呼びうる、「世界」をテレポーテーションで引っ張ってきたらそりゃあ産霊だろう。
そのほか | comments(0) |
WS報告011(1)/「誠心誠意」のピンチ
眠時間が欲しいので駆け足で書くことになる、ご容赦願いたい。
今回、よく話す――「言葉」で――という、よい機会と状況を得たのだが、意外にみんな、このいかれぽんちなワークショップを、こころの底かワクワク楽しみにしているらしい、「毎回スゲー発見があって」「次々に新しいことを知って」と。
そういうことなら、もうちょっと普段からそのようにアピールするように、と思うが、まあしゃーない、とにかくみんな実は超楽しいようなので何よりだった。
パン祭りがあったり愛があったり、通りすがりの人がものすごく頭を下げていったり、もうそういうのにも慣れてきたが、とにかくとてもいいことをしている可能性があるので、このままコソコソといいところまで行ってやろうと思うのだった。

一方で、ノンフィクションの話、具体的に「こころの象(かたち)」として、「誠心誠意」とでも名付けるべきワークをやってみたのだが、とたんにボロが出た、まあ実力というのはそーいうもんである、「こころが真っ直ぐじゃない」「大人なのに頭も下げられんてなんやこれ〜うおお〜」と。
「全身全霊」というのは、フィクションへの取り組みだが、「誠心誠意」というのは、ノンフィクションの取り組みだ、胴体に流れているものの象(かたち)がそのまま「こころ」ということになるのだが、精密にやってみると、多くの人が身体をねじったり腰を引いたりして、「まっすぐ頭を下げないよう、躱している」ということがわかった、まあそれはそんなもんだな/その点、こころがまっすぐな人は、それだけで「こころまっすぐ先生」だ、それだけでそーとースバラシイ。
頭を下げる、といって、キモチが強い人、またキモチが善意の人は、自分をしょぼんと貶めて身体が屈する形になるのだが、これは「キモチの表出」であって「こころが届く」という現象とはまったく異なる、これができないのは当人も認めるところの「ピンチ」だ/ウーンこのことは、できないならできないで、どう「できない状態」なのかを、バッチリ知る必要がある、正直もうヘコんでいる時間が惜しい、ヘコむのは七分間ぐらいでいいだろう。
「おれは以前、日本料理の、ハイレベルな店に行ったんだけどね、そこで料理長とお弟子さん一同、揃って頭を下げられたことがあるよ、そのときの低頭のクオリティは空前絶後のものだった、こんなすさまじい低頭があるのかって驚いたね、『頭を下げる』と一言でいったって、そのクオリティにはそれぞれ雲泥の差があるよ、カンタンにできるなんて思わないほうがいい、本当の低頭なんて超一流の人間にしかできないもんだ、それで正当だしそれでいいじゃないか」

「頭を下げるとき、自分の中で『我慢』が騒いでいるのわかる?」

「これが我慢の実物だよ、本人に自覚があろうがなかろうが、こうしていつも互いに世話になっている仲間に対しても、頭を下げるとなったら『気に入らん』ということがあるんだ、気に入らんということに理由なんかないんだよ、ただ我慢という現象が実際にある、これは感情ではなく学門として捉えられないといけない、いわゆる善人には善意とキモチは強くあるのだけれど、『誠心誠意』はなくて、その背後に我慢があるんだよ」「あああ〜こころあたりある〜ガマンで生きてきましたあああ〜」
「こんなもん、いちいちヘコんでいるヒマはない、というかこんなもん、ちょっとでも深くつっこんでやると、誰だってそういうものなんだよ、よもや日常でこんなところまでつっこんでやらないから、ごまかされているだけだ、それでいつかの大事なシーンで、どえらいボロが出てしまうんだよ、じゃあこんなもんわれわれが長袖を着るころには解決してしまえばいいじゃねーか」
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WS報告010(4)/人が「バトル」するメカニズム

回は「金魚法」による呪縛抜けを、割と入念にやった、遠距離からの来訪組がこの技法を大いによろこんだからだ。
あらためて、きっちりやってみると、この技法はやはり面白いのだ、自分の「向いている方向」がコンマ一ミリでもずれると、もう「ぶつかる」ということは起こらなくなる、われわれはこの生理的なメカニズムを教わらずに放ったらかしにしているから、好き放題にバトル(ケンカ)が始まるのだ/このことがストレスを無限生産する現代社会を形成しており、また、バトルにならないよう「空気を読み合う」というかったるいことをわれわれはさせられている。
われわれは、人に嫌われたくないし、かといって逃避したくもないのだが、じゃあどうすればいいということを、まったく具体的に教わっていない、これはさっさと教わったほうがよいのだ、なぜなら教わったとしても本当にできるようになるには以降の経験を蓄積せねばならないから。
「われわれは、生理的に、"ぶつかってきたものとぴったりぶつかるように出来ている"から、バトルになるんだよ、つまりわざわざ精密にバトルを"発生させている"んだ、こんなのアホみたいじゃないか」「われわれの身体は精密にできていて、たとえば本棚に手を伸ばしたとして、身体の向きが一ミリでもずれたら、もう手の先は隣の本を掴むよ、そこが一ミリもズレないから正面衝突してバトルになるんだ、バトルをしたくなければズラせばいいんだよ、ただし身体がちゃんとひとまとまりになっていればの話だけどね」。

ラグビーの経験者がいるので、タックルに入ってもらった、さすが経験者なので手慣れており、体勢も安定している。
ラグビーの経験者なのだから、タックルに入られた状態で、上から押してやってもビクともしない、そりゃ当たり前だ/ただし、それは上から「敵が押している」からであって、敵から押されると反発するというメカニズムで成り立つものだし、また「敵を押す」という側も、実は身体をバラバラ(カチコチ)にしてしか「敵を押す」という行為はできないからだ、そういったメカニズムでタックル体勢の安定は形成されている。
それで、タックルに入られた体勢の僕が、別に何もしない、その場で急に「休憩」といって座り込むと、タックルに入っていた彼は「うわっ!!!」とその場にへたりこむことになった、これは実際にやられるとゲラゲラ笑うものだ、「急に重くなった!!」とペチャンコにされてしまう/タックルの体勢で押し合いへし合いが成り立つのは、あくまでラグビー的「バトル」がルール上で形成されているからであって、そんなところでいきなり「休憩」されたら、たまったものではない、肩から上に人間が一人「休憩」で乗っかって平気な人間などいるわけがない。
あるいは、右腕をガッと掴まれたとき、反射的にグッと力を入れ返すから、そこにバトルが生じるのであって、「素っ頓狂なことだけど、右腕をガッと掴まれたとき、左腕にガッと力を入れてごらん。そしてそこのベンチに向けて、全身全霊の左フックでも打ち込んでやるんだ」、そうすると、右腕をガッと掴んでいた人は、掴んでいる先が「敵」ではなくなってしまうので、感触が変わってしまい、もう「ガッ」と持ち続けていることができなくなる/われわれは、生理的なものを放っておくから際限なくバトルをさせ、それにより自ら疲弊していくという、思ったよりアホな者たちなのだった。

「本気」というのは気魄だから、霊魂の営為は失敗する。

「誰か気づくかな? Hちゃんはもう、自分で正解を言っているようなもんなんだよ、さっき、『本気でやればやるほど、"自分"が消えない〜』って言っていたじゃない。そりゃそうなんだよ、われわれはずっと、魂魄の学門に取り組んでいて、魂魄を切り離して使えるようになろうという話をしているのだから……『本気』という気魄状態になったら、霊魂の現象は消え失せるという、ちゃんと学門どおりになっているでしょ、何の問題でもない、ちゃんと学門どおりのことが結果的に示されているんだ」/われわれは一般に、「本気」ということを高く評価する価値観の中を生かされているが、それは別の見方においては霊魂の全否定であり、バトルの礼賛でもある、「相手が『本気』で向かってきているのに、それを一ミリずらすとか、ふざけているにもほどがあるだろ? そのとおり、これはふざけたワザであって、ふざけているからバトルが消失するんだ」。
「前にチラッと言ったことがあるだろ、『生きている、というのはたいしたことじゃない』って。『本気』になるのは、『有利に生きるため』であって、なぜ有利に生きねばならないかというと、永遠の命がないからだな」、「実戦形式でやったらケガしちゃうでしょ、だから型にして練習しているんだよ、われわれは物事の、一番面白いところだけエッセンスにして、一番面白いところだけものにしてやろうと稽古しているの、これは本来、才能のある奴が五年か十年やれば気づく『かもしれない』ってたぐいのことだから、ここでさっさと身につけてしまえばヨソでマジメにやる五年分の値打ちがあるよ」。

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WS報告010(3)/まともで文化的

19時に始まったものが、朝5時まで続き、なぜか誰も休憩という発想にはならず、土曜日が明けて日曜日、朝食のつもりが昼食までデニーズに居座って……といつものとおり/「このデニーズの時間が楽しみでしょうがないんですよ〜」「あ、そうなの? そりゃ初めて知ったわ」。
僕はまともで、文化的な中を生きたい、奇怪なものや不穏なもの、気色の悪いものや得体の知れないものは、ごめんこうむるのだ、今回は「ナイスボス法」というユニークなメソッドが産み出され、これによって「いかにまともで文化的なことがちゃんとやれていないか」ということが浮き彫りになった/「引き受けていないというか、引き受ける気もないんですよ〜これじゃクズじゃないですかあああ〜うああ〜」。
僕は朝5時の締めくくりに、なるべく忘れずに話すようにしている、「ここは東京、世田谷区の世田谷公園だ、日本の代表的な住宅地だよ、それでも夕方から朝の5時までこんなバカなことをやっているのはわれわれだけだろう? 何十回やってもわれわれだけだよ、他のグループを見かけたことはない」「おれみたいなオッサンがこんなことをしていて、他の若い人々は何をやっているのか、もっとバカげたグループが、この公園に五つも六つもあっておかしくないんだ、本来そのほうが"まとも"だとおれは信じている」。
「こうして二夜連続、もともとは縁もゆかりもなかった連中が集まって、野ざらしで朝まで過ごしたわけだけれど、ヘタするとわれわれって、そのていどの経験さえ一生持たないことがあるじゃないか、そんなスッカラカンな日々を"まとも"だと、だまされてはいけないよ」「こうして朝5時になると、昨夜の19時のことなんか、はるか遠い昔のような気がするだろ、どこの世界の土曜日もこのようであっていい、何かをインスタにアップロードするヒマもなかっただろ? インスタが悪いわけではまったくなくて……ただおれはこのしょーもない活力が継続されてほしいと思っている、まともで文化的、ただそうあればいいのであって、本当はおれがこんなことをやらなくていいんだ」。

われわれの身体が、われわれの悪習によって、どれだけバラバラか/「立ったまま、右半身……まず右肘と右膝を同時に動かしてみろ、トントントンと、"同時に"だぞ、つながったように」「……えっ、これって意外にむつかしい」「できない」「な? 右肘と左肘は同時に動かせるだろ、そんで、右膝と左膝も同時に動かせるんだよ、でも右肘と右膝は同時に動かないだろ、それはわれわれが、"上半身と下半身"という、アホな認識で自分の身体をバラバラにしたからだ、本当にあるのは右半身と左半身なんだよ、さあとっとと修正しろ」。
「頭ではわかるし、九折さんがやっているのを見ると、スゲーかんたんそうに見えて、できる気がするのに、自分でやってみると……」「はいはい、いつも通りね笑、はーいその怖い顔やめて、瞳孔がにらんじゃだめよ、瞳孔がにらむとそれだけで力が入って全身バラバラになるよ」。
「動くなら陽気にしてね、陽気でないと動けないから。動かないなら陰気でいい、動かないときは気魄を全身にまんべんなくね……これは陰陽の性質だから、学門の話であって、この学門とケンカしても何もいいことないよ」「先生〜陽気にするのと、テンションを上げるということの、区別がつきません、ああ〜キャラが昂ぶってしまううう〜」「笑、まあそりゃ、そんなカンタンにはいかねえ、体中にクセが染みついているからな、学門を与党にしないかぎりクセは抜けませんよ〜実感が与党の人は脱けられませんよ〜」。
まあそんな感じだが、成果はメキメキ出ているのだ、ガイル青年は何か若返ったし、ニンジャ青年やたこ焼き姉さんは身体のつながりが出てきて均整が取れてきた、ああなるともう"思い詰める"という苦しみには無縁になってくる、ヴェジ青年はふつふつと本来の活力とユーモアを取り戻しているようだし、合気道姉さんもこわばりが抜けてきたから、合気道の本分に再燃するかもしれない、その他、まあ、熱心にやっている人はすべて顕著な成果を得ている/すべての成長は、にじり寄るがごとくだが、実は入口が奥義的なモンで出来ているので、にじり寄れただけでも巨大な変化なのだ、「む、むつかしい〜」とへたりこんだ一分間が、十年後の自分をまったく別のところへ連れて行ってくれる。

"まともで文化的"に生きるためには、えげつないものと出会っている必要がある。

明らかにレベルの違う動き、レベルの違う知性、レベルの違う感覚、レベルの違う速さ、レベルの違う技術、レベルの違う体験、レベルの違う発想、レベルの違うエネルギー、レベルの違う愛、レベルの違うやわらかさ、レベルの違う学門、レベルの違う声、レベルの違う覚悟、それらを目の前で見て体験して、「えげつねえ〜」「まじパないっすわ」「こんなことが本当に起こるんだ」「すげえええ〜」となること、このことが人をまともで文化的なほうへ導いてくれる。
そりゃ、いつもスマホをポチポチして、「ふーん」とか「ははは」とか、あるいは「何か楽しいことないかな〜」とか、それだけで"まともで文化的"にはならないだろうよ、漠然とした「わたし」の中に閉じ込められるだけだ/「えげつないもの」に出会っていないということは、まだ「世界」に出会っていないということだから、必然的に「わたし」の中に閉じ込められることになってしまう、そして「わたし」の思っていたことと、目前で出会った「世界」とが大きく違ったとき、それを受け止めそこねると、しばらくパン祭りが起こるのだった笑、まあそのへんは明るく気長にやるしかない。

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WS報告010(2)/速さの標準を書き換えること
部の人が掴み始めた、「けっきょく事情より学門が勝つんですね」ということ。
だからけっきょくのところは、本当のことを本当に積み重ねるしかない、根性ではなく学門なのだ、何が本質で何を積み重ねれば「勝てる」か、ひたすら知恵を研ぐしかない。
けっきょく、命や愛のないことはツマランということ、そして命や愛は「めっちゃ速い」ということ、ほんの少しでも間に合わないと、もう乗り遅れてしまう、急いだり焦ったりしても間に合わなくて、「逆だ間に合っていないから急いだり焦ったりするんだ」という、えぐるような知恵を優先するしかない。
「限界と思える最速のタイミングの、0.03秒前、その0.03秒間に、世界のすべてが詰まっている、どうするよ? まったく見たこともない世界が、その0.03秒間にギッシリ詰まっていたら」「その0.03秒間は、まだノーが発生していない空間で、だからこそ完全なイエスが得られる空間だ、その0.03秒が過ぎて、審査してから愛したって、もう間に合っていないんだ、考え方が逆だ、愛していないから審査したんだよ」

「イメージでも何でもいい、エジプトを完全に愛した0.6秒後に、ニューヨークを完全に愛せるか?」「それが脳みその速さだ、これに間に合わないといけない」/やってみて多くの人が発見する、「これ意外にできねーわ」「あ、ぜんぜん遅いですわ」、超音速の風が東西に吹きかっていたとして、その超音速の東西に脳みそが乗っかって旅行できるか。
合気道の開祖、植芝盛平氏によると、「空気」の気は重くて遅いものであり、「真空」の気は重さがなくて速い(なんてものじゃない)そうだ/ここで、ワークというレベルで冷静に考えると、とにもかくにも、みんなそこまでの速さで身体および脳みそが動くことに慣れていない、まずそういった「速さ」が既知のものにならないといけない、たとえ失敗するにしても、その速さに「びっくりしてしまう」ということを越えなくてはならない。
われわれがこれまでの日常で培ってきた、旧来からの「速い」ということの標準を、新しい標準に書き換えねばならないだろう/速さの標準を、これまでの「実感ベース」から、新しい「世界ベース」に書き換えねばならない、それはたとえば、「大きい」という標準のベースを、「東京ドーム一個分」から「太陽一個分」に切り替えるようなことだ、天文学者はそれに慣れっこであるように、われわれも新しい標準に慣れっこにならねばならない。
というわけで、本日土曜日のワークは、そういう「標準切り替え」を狙ったワークをこっそりやってゆきたい、馬車が往路をゆく速さではなく、未知の戦闘機が低空を飛び抜けていくような速さだ、「エネルギー」というのもパワフルな馬のことを刺すのではなく、戦闘機が空気を裂いて飛び去っていった圧倒的な残響のことを指すことになる。

到達も速いが、それより「発生」が早い。

そりゃそんな超音速で吹き込んできたスケボーに飛び乗るのだとしたら、滑走が「発生」するのはえげつなく早いだろう、そのスケボーに飛び乗るときに、「間に合う」のは相当なことだ、そのときすっとんで行く速度も速いだろうが、それ以上に滑走の「発生」が速いことになる、それが胴体の速さであり脳の速さだ。
というわけで、一眠りしたらまた行ってきます、うおー酒を飲みたいぜ、ささっと飲んじゃおうっと/「まだ土曜日ですもんね」と、遠方から来た人もけっきょく帰宅予定を変更し、一眠りして今日も参加することになった、さあ今日中に速さの標準を書き換えようか。
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WS報告010(1)/明るく気長にいきましょう
ークショップは着実に成果を上げている。
何しろ、当初はすべてがちんぷんかんぷんだったワークが、今はみんな「楽しみ」になっているのだ。
そりゃまあ、成果が上がらんものだったら、こんなアホな試み、誰が連日朝まで野ざらしで付き合うかよ。
余韻法は「楽しみ」になってきたし、「人の勢いを聞く」も「楽しみ」になってきた、「右半身」を獲得したかもしれない人もおり、成果は思いがけず急ピッチで得られてきている、それってふつうこんなペースで得られる成果じゃないからな。

なんというか、改めて、明るく気長にいこうな、と祈りたい心地がする。
みんな、意外に必死についてきてくれているところがあって、自覚があるかどうかわからないが、短期間にえげつない濃度の体験を得ているのだ、どうかリアクションに転倒しないように、僕はこころの底から祈っている。
転倒といって、われわれが「パン祭り」と呼ぶところのパニック症状も、ナイスな命名があって笑える管理下に治まってきたので、まあ体勢としてはこれ以上はない/そしてパン祭りを数回乗り越えた人から順に、「やっぱ学門なんだわ」と気づく仕組みになっている、それは僕がそう仕組んだことではなく、もともと学門というのはそういうものらしい(学門は実感に反するアンサーをもたらすので)。
パン祭りでダウンした人が、世田谷公園のコンクリの上で、「うぐぐ〜」とうつぶせに倒れていた、参っているのではない、学門をしているのだ、<<本当に取り組んだとき、人がブッ倒れない学門などない>>/彼女はこりもせず、再び立ち上がると、なぜか「右半身」を獲得していた。

すでに、「すごい夏」を体験している可能性がある。

われわれは現代の暮らしの中、ぼんやりしているから、自分が何をして、何を体験しているのか、しばしば見失いがちだが、われわれが笑いながら過ごしているこの夏は、後になって「すごい夏だった」ということになるのかもしれない、なぜかブッ倒れたりゲラゲラ笑ったりしながら、19時から朝の5時まで、休憩ナシで過ごしている、<<なぜか誰も休憩を発想しない>>、これはごくしょうもないことなのか、それともひょっとして……これはとても楽しみなことだ。
明るく気長にいこう、まだ始まったばかりのことだし、この時点で何も感情的になることはない、パン祭りはしばしばしんどいけれど、まあ僕が過去にブッ倒れてきた回数のほうがまだはるかに多いだろう、気長にいこう、今見えてきている地平がどういうスケールのものなのかは現時点では誰もわからない。
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パーティ報告83(4)/気分のいい一日だった
か知らないが、今回のパーティは、五周年……とは特に関係なく、初めから妙に気分のいい一日だった。
何か、ひとまず、全体的な軌道に乗ったのだと思う、そして軌道に乗ることによって、不毛な「問答」が根源的にカットされたのだ、別に誰もそのように打ち合わせしたわけではないが、今回は無条件に「上位の空気」が空間に付与されていた。
だからこそ逆に、本当に、五周年おめでとうございますということでよいのかもしれない、僕は表面上、五年前より無慈悲で横柄で暴君になったが、結果的にそれで空間は上位に安らぐのだから、けっきょくこのあり方が正しいのだと判断せざるをえない。
まあ、暴君といっても、けっきょく終始おれが全体を楽しくしているわけだからなああああ、誰がつまんねーものを五年間も続けられるかよ、おれが意地で続けてもつまんなければ誰も五年間も続けて来ねーわ。

あ、たった今、若いヤツから連絡があって、「神田で七軒目のBARを制覇したところです」と、報告されて思わず声に出して笑ってしまった。
「圧縮、リピート、一調子」という話で、そういうことを話したのだ、「別にBARに飲みに行ったからって、何も楽しいことなんかねえよ、そうじゃなく、平日の仕事あがりに七軒のBARを巡るなら、そりゃちょっと値打ちがあるねってことなんだ」「圧縮するんだよ、面白い旅先なんか存在していなくて、自分が面白いヤツになって旅に出るってことなんだよ」と、そういう話をした、そのことを即座に真に受けて(実に懸命なことだ)、即日という感じで行ってきたらしい、まあ少し面白いヤツとして今神田の街を歩いているだろう、ウーン若いというのは実にすばらしいことだな。
気分のいい一日があって、今もこうして、気分のいい夜が続いている、このとても小さなことが、後に大きな差になってくるのだ、本を読んで勉強しようか」というとき、コイツは一冊が基本ではなく七冊が基本になるのだ、それによって他人の七倍生きることになる、こいつの一年間は他人の七年間に相当し、当人はそれが当たり前だから、知らないうちに骨の太いヤツになってくれる。
「たった今七軒目を制覇してきました」と報告されたので、「速いな、それは間に合っているな!」と返信しておいた、こういうまっとうな、若年と年長者のやりとりがあるのは、よい夜だ、気分のいい日々が続いている。

「九折さんに、お返しができなくて……」「お返し? はっきり言っておいてやる、"出世払い"だ、そしておれにお返しなんか要らねーから、お前の後続に返してやれ、それでペイメントは合うだろう。お前から見ておれが"異次元"だというなら、お前も後続から見て"異次元"と言われるようになれよ、それでしかおれの本懐なんかありえねーよ」

「おれだって、過去に色んな人にお世話になって、教わって、今さらお返しなんかできねーから、お前らにぶつけてんだよ、だからお前もそうすりゃいい、それでつじつまが合うだろ」と、これはパーティで話したとおり、そしてこれまで生きてきた中で僕がいつも話してきたことのとおり。
気分のいい日々のために、どいつもこいつも目を覚ませ、さあ誰から目を覚ましていくかな、「お前から見ておれが異次元というけど、甘く見るんじゃねえ、おれからお前らに見せているものなんか、ほんの序の口の序の口だぞ」。
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パーティ報告83(3)/「カッコイイ」の喪失
のごろよくヒアリングしているのだが、現代の多くの人は、何かを見て「カッコイイ」とは、あまり感じられないらしい、つまり「か、かっけぇ〜」という直覚・悟性の機能を喪失したと言える、このことが水面下でわれわれの根幹を無力化・不毛化している。
僕はよく、「かっこよくなくちゃ話にならねぇ」と言うのだが、ここには僕の見落としがあったのだ、僕は「かっけぇ〜」という直覚と悟性が、万人において不具なく機能しているという前提でいた、だが実際には「かっけぇ〜」という直覚の現象がゼロないしは「混濁して常に曖昧模糊である」という人が多数派なのだ、多数派と言うより「基本的に全員そういうもの」と捉えておいたほうが実用的かもしれない。
「かっこよくなくちゃ話にならねぇ」といって、まさかその「カッコイイ」という直覚が前提として失われているのだとは、僕は考えていなかった、もちろんここ一連の学門と接続すると、「そのカッコイイという直覚が、器官として横隔膜に担われているのかもしれんね」という話にはなった。
さりとて、それで納得して何の解決になるわけでもなし、僕はこれまでガンバってきたつもりの、「おれだってそこそこカッコイイんじゃない〜?」と見せつけてきたはずのパフォーマンスが、基本的にすべて空回りだったことに、ハァ〜とため息をつきながら、まあしゃあないかと進んでゆくしかないのだった、もうこういうことには慣れたな。

ヒアリングしていくと、つまり、このごろは「イケメン」とか「イケボ」とか言われるが、そのイケメンやイケボというのを、別に「カッコイイ」と思っているわけではないらしい、イケメンはイケメンだしイケボはイケボだが、それに付随する感動というものは一切ないそうだ。
何か流行の歌があったとして、それは聴きやすいから聴くが、たとえそれがイケボでイケているふうの歌詞だったとしても、別にその歌い手や歌そのものが「カッコイイ」と感動しているわけではないらしい/何なら「どんな人が歌っているのかは知らないというか、そもそも見えてこないし、見てもフーンとしか思わないし、記憶にも残らない」そうだ。
このことに、僕は逆転的に、僕自身の特異性を認めねばならないことになった、つまり僕は、なんでもかんでもを基本的に「カッコイイ」と感動しているのだ、僕にとってマイケルジャクソンは超カッコイイし、なんだかんだ、北島三郎とかも歌い出したらカッコイイ、ピーターフォークはカッコイイし、高田純次(ジョニーデップ)だってカッコイイし、腕利きの板前さんだってカッコイイ、デカいトレーラーの運転手が車庫入れする技術だって、見ていると「うお〜すげ〜かっけぇ〜」と僕は感動してしまう、この感動が実はきわめて特異だということ/僕はけっきょく、何のガマンもなくこの「かっけぇ〜」だけですべてを得てきたというのが事実だ。
「カッコイイ」という直覚の喪失は、同時に、「自我がメラウルワーすることしかわからない」という現状を暗示しているのでもある、イケメンとかイケボとか言っているのも、それによって自我がメラウルワー方向に刺激されるというだけであって、そのイケメンやイケボの当人のことを「カッコイイ」と感動しているわけではまったくないのだ、つまりメラウルワーホルモンを分泌するためのトリガー薬剤に用いているというだけであって、それは別にたいしたことではないが、そのこと「だけ」を積み重ねて生きるというのは、実に闇の深いことになる。

僕は、えげつない文章・文脈・文体を、えげつない速度で産み出せるようになったら、それが「カッコイイ」と思ったので、こうしてものを書くことを選んだ。

「カッコイイというのがわからないということは、何もすることがなくなってしまうっていうことですよね?」「まさにそのとおり」、まさにそのとおりであって、少しでも冷静に考えれば当たり前のことだが、われわれはこの世のすべてを自我メラウルワーで消費するためにこの世に生を享けたわけではない、「カッコイイがわからない」という致命的な損失は、表面上は隠蔽されているが、隠蔽されていたとしても致命的なことは変わらないので、主要なテーマとしてフラグ付けをしておかねばならない。
「カッコイイ」ということへの、sureな直覚が恢復されないかぎり、いかなる激烈な感情も、激烈なのみであって「命」を持っていないことになる、「カッコイイ」ということは、幼児性においては漠然としたものだが、学門が進むにつれてよりいきいきと、クリアで明確なものになっていく/「カッコイイ」というのは単に「命のピーク的出現」ということに違いないが、このことも蒙昧に頭を垂れる者から順に目の前の道が啓けてゆくだろう。
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