☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
何をしたらいいかを「知る」ということ

は女に「何をしたらいい」のか、女は男に「何をしたらいい」のか。
四の五の理屈を言う前に、「何をしたらいい」のかを知ることだ/もちろんそれは、ただ訊いて暗記したら知れるというものではない。
たとえば、ジョークのひとつでも言えばいいのだが、ジョークを言うには「何をしたらいい」のか、そのことが実はちゃんと知られていない。
多くの人は、その「何をしたらいい」かを知らず、闇雲にできる・できないに突っ込んでいるところがある、これは手続きとして正しくない、学門なしにキモチで体当たりするのは実のところ「投げやり」にしかならない。

たとえば思いやりというのは「何をしたらいい」のか、勉強というのは「何をしたらいい」のか、謙遜というのは「何をしたらいい」のか、報告というのは「何をしたらいい」のか。
僕はこうして、しょうもないブログにしょうもない記事を書いているのだが、こんなことは誰だって「できる」ことのはずだ、にもかかわらず、実際に自分でそれをやろうとすると、「何をしたらいい」のかが、実はよくわかっていないということが明らかになる。
恋あいといって、じゃあ恋あいというのは「何をしたらいい」のか、そのことが取り沙汰されず、漠然としたキモチの強さを押し通そうとしている/恋あいというのは女性に花束を贈ればいいのか、本当に「それでいい」のか? そういったことも、実は本当には「知らない」というのが実情だ。
庭木の手入れをする、新聞を読む、旬の物を食べる、旅行にいく、日記を書く、礼状を送る、寄席に行く、何をしてもいいのだが、それらひとつひとつについて、本当は「何をしたらいい」のか、実はちゃんと教わるまで、人は知らないままなのだ/それらは覚えごとで知れるものではなく、正しいやり方で "仕込まれ" て、一定量それを正しく営むという、自分の歴史を経ることでしか、真に知ることはできない。

何をしたらいいか、本当に知っているということは、何か一つだけでも宝物だ。

たとえば白ネギを刻んだあとは、水にさらしておくといいのだ、そんなことは簡単に記憶できるが、白ネギを「そうしたらいい」と本当に知るのとは別だ、本当に知ることは大きなよろこびだし宝物だ/逆に、何もかもを丸暗記してなぞっているという状態は、何もかもを完璧にこなしながらも、実はとても不安な状態だ、記憶どおりになぞっているだけで、本当に「それでいい」のかどうかは「知らない」ままなのだから。
若い人は、なんとかして、その「知っています」というふうの顔つきをやめることだ、その「知っています」顔をしているあいだは、本当のことは何一つ教えてもらえない/女性の大半は、なぜ男性と手をつなぐのか、なぜ男性とキスをするのか、どこにキスをすればいいのか、実はまったく知らないままだ、だからいつも自分のキモチですべてを押し通そうとする、実はずっと不安で自信のないままなのに……だからその「知っています」顔をなんとかして引き下げることだ。

できるオンナだね | comments(0) |
肯定者の利益

れわれは何かを熱烈に「否定」することができる/「は??? マジありえないんですけど、は??? マジ死んでくれます????」というような形で。
熱烈に「否定」するというのは、単に否定的に思う・考えるということとは異なり、れっきとしたひとつの「行為」だ/インターネットやSNS上を漁れば、いくらでもその熱烈な「否定」に出くわす。
一方で、熱烈な「肯定」というのは、ついぞお目に掛かることがこのごろない、「お前、めちゃめちゃヤるじゃねえか!!」というようなことは、スポーツのスター選手に向けてしか言われない、そしてスター選手に向けて言われているのは種類が異なる/なぜならスター選手に向けて言われているのは、あくまで同国人が国に勝利をもたらしたことの誉れとして称賛しているだけだからだ、われわれは羽生結弦選手を「同国人だから」という背後の理由の上で称賛している。
こんなことを精密に定義する必要はないので、とにかく、われわれの口とその粘膜は、今何かを熱烈に「否定」することにはいくらでも向く予感があるのに、何かを熱烈に「肯定」しようとすると、その気勢は萎れ、言葉はゴニョゴニョと口ごもるのだ。

このところ、思い知ったのだが、どうもこの否定と肯定の狭間で、多くの人が大損をしているようなのだった。
もし自分が、誰かのささやかなGJを、熱烈に肯定できる口と粘膜の持ち主だったならば、「ヤるじゃねえか!!」の気勢のまま、自分も何であれささやかなことを、無数に、熱烈な肯定のまま為していくことができるのに/これが逆転しているからこそ、いま人々の心身はとてつもなく重くなっているということが、このごろになってわかった。
多く、テレビの前などで人は、タレントやお笑い芸人に向けて「うーん、なんかつまんないな、スベっているなあ」と毒づいていることが多いのではないだろうか、少なくとも手を叩いてヤンヤヤンヤと肯定しているような脳天気なムードはこの昨今に見受けられない。
だが、そうして自分の心身、内蔵、口と粘膜が、つまらないものの悪しきを熱烈に否定するのにはたらくのであれば、いざ自分が何か小さなことでも為そうとするとき、これまでに吐き出してきた熱烈な否定は、巡り巡って自分に降りかかってくるのだ、そうするともう否定が熱烈すぎて動けないだろう/このように、単純な損得勘定から考えても、口と粘膜が熱烈に「肯定」を言う人と「否定」を言う人では、否定を言う人は大損で、肯定を言う人が明らかに有利だ、自分がそうして致命的に大損の側へはたらくように仕込まれていることに早く気づかないといけない。

現代、われわれの口は、「死ね」を言うのに確信があり、「ブラボー」を言うのには確信がなく芝居だ。

こんな大損の構造があってたまるか、なんて気の毒マックスなことだろう/さしあたり僕の口は、全力で「死ね−」と言うことより、全力で「サーロインステーキー」と言うことのほうに、確実な自信を持っている、これは我ながら利益ある口と粘膜だ、「女の子ちゃんとか基本的に全員サイコーだよね」みたいなことが平気で言えるわけだが、これによって僕は善行を積んでいるわけではなく、ただ自身を益しているのだ、僕は損するのがとてもイヤーンなので。
女の子ちゃんなんか基本的に全員サイコーなので、じゃあおれもサイコーなのかなと、そしてそうなると基本的にこの世界の全てとか青空とか旅行先とか全部サイコーじゃね? と、もう口と粘膜が言い慣れているので、僕はいちいち無理をするファイトが要らないのだった、このことを僕は「肯定者の利益」と呼びたいと思う/われわれはそれぞれに、「熱烈に肯定する」か「熱烈に否定する」か、あるいは「くぐもって何も行為しない」か、選択する自由を与えられているが、それが自由に選択できるがゆえに、不随して生じる利益と不利益については自己責任を負わされている。

できるオンナだね | comments(0) |
ちょっとマジメに「仕事」「役割」の話

が庭aと庭bの手入れをしていたとする。
そこで、新規に庭cの開拓をするので、庭aの手入れを、Aさんに任せたとする。
するとAさんは、承り、「どうすればいいですか」と訊いてくるのだが、そのとき至極当然のこととして、「は? 今まで何を見ていたの?」ということになる。
現代、こういう思考はどうせ不人気なのだろうが、それにしてもいずれは、これを当然とするところにたどり着かないと、われわれは永遠にアホのほうに流れ行くことになってしまう、「どうすればいいのか」は言われなくてもそれまでに自然と見てきていないと頭がヘンだ、「これまで頭の中で何をしていたの、ソシャゲかアニメでも観覧していたのか?」ということになってしまう。

そして、Aさんが庭aの手入れを任されるようになったとしよう。
そのとき、結果的に、「Aさんが庭aの手入れをするようになってから、庭aはグッとよくなって、見違えましたねえ」ということにならないといけない/なぜなら、僕が庭a庭bのふたつに分散していた手入れ(50:50)を、Aさんはひとつの庭aに集中できているのだから、そのぶんの成果が庭aに表れてこないとおかしい。
このとき、Aさんが庭aの手入れを任されるということは、僕の代行をするということではないのだ、このことになぜか必ず言い訳を熱烈にする風習があるが、それはもう聞き飽きた、Aさんが庭aの手入れをするというのは、僕の代行をすればいいということではない、代行というのは臨時(アルバイト)の発想でしかなく、自分がそこに仕事をしたことにはならない。
どうも周囲の話を仄聞していると、仕事とか役割を果たすということについて、「どうしたらいいか」を聞き、ただそれを聞いたとおりに履行して、「誰かの代わりにそれをしました」ということで済むと思っているフシがあるようだ、仕事とか役割とかいうのはそういう退嬰的なことではない/もちろん好き勝手に庭をいじくってよいわけではないのだ、そうではなく、50配分されていたところに自分が100を配分できるとき、どのようにしたらよいかを、これまでジッと見てきてよく知っているということ、聞かなくても「こうすればいいんですよね」と目途がついているということ、それが「学んできている」ということだ。

たとえば消防隊員の映像を見たなら、ほんのわずかでも、消防活動に飛び込んで協力できるようになっていないと、何も見たことにはなっていない。

消防隊員の活動を見て、「わーすごい」と感想を持つことが、学んでいるということではないのだ、「あのホースはあのように接続されて」「あの消火栓はあのように開かれるのだな」ということが、いつのまにか見えていないと、まともな大人の視力とは言えない/消防隊員に「手伝ってくれ!」と言われてから、「はい、何をしたらよろしいでしょうか」と聞き返しているようでは、「もういい!」と蹴っ飛ばされるのがオチだ。
1.この世のすべてを看取り稽古していること、2.代行は仕事のマインドではないこと、3.聞くまでもなく「こうすればいいんですよね」と方向性を知っているということが、学んできているということだ/こんなこと本来僕のような者が言うことではないが、いちおうまともなことのはずなので僕がここでのたまってもそんなに悪いことじゃないだろう、たまには僕だってこうしてまともなことを言うのだ。

できるオンナだね | comments(0) |
何かを、誰かを、「守った」ことがあるか2
、こんな話をしているのは、別に教訓を垂れたいからではなく、僕自身、さすがに力量の限界を感じているからだ。
力量の限界などという、腐って死にそうな発想は持ちたくないのだが、少なくとも今現在の僕では、力量に限界がある、何かを突破して次のステージに至らないと、このままではまったく足りないのだ。
今も諸事情あって、戦いの中にいるような具合なのだが、何かを守るために使う「力」が、さすがに枯渇しているのを実感する、明らかに「使いすぎ」なのだ、こんなにしょっちゅう昏睡していられない、次のステージというか次のレベルは、どういうふうになりうるのか、早く見えてきてほしいと、余裕もなく切望している状況だ。
僕は、いい歳をした男性なので、目の前の誰かについて、いつも基本的に「守る」という構造でいる、そりゃそう決め打ちしていないともう対応できない状況だし、実際ありとあらゆる瞬間にすぐ僕が「矢面」に立つところを、多くの人は目撃してきたはずだ、そういうことがずっと先の参考資料として役立てばいい/それは構わないのだが、さすがに力が要る、こんなことは不可能なので、またこれが可能になるためには大きな突破を果たさねばならない。

僕は今のところ、これで構わないのだが、さすがに教育として言っておかねばならない/僕を先生呼ばわりする人は、別に構わないのだが、今のところ僕がすべての人を守っているような形なので、これを信じてはいけない、ふつう逆で、弟子が先生を守るものだ、このことが逆転しないかぎり、本当のことが身につくことはどうしてもない、今はまだしょうがないし、おれに対してはどうでもいいが、このことはどうかまともな知識として持っておくように、板垣退助が最前線で剣を振るいまくっていたら「板垣先生」は狂人になってしまう。
このところ、率直にいえば、僕からナゾの聖なる力を目撃して、ゲラゲラ笑ったことがシャレじゃなく大量にあったと思うが、それは僕がみんなを「守っている」からであって、その部分については笑っている場合ではない、合理的に考えるのだ/僕に聖なる力をパワーアップさせてもしょうがない、みんなが身につけなきゃいかんのだ、僕のパワーアップ大会になるのは構わないが、たぶん守られているという自覚はないのだと思う、それがないままずっといくのはまずい、どこかの先で気づいて、次の機会には自分が守る側に立つように、そうでないと何も修められない。
僕はそれなりに、まじめにやっているつもりでもあるのだが、これ以上「守る」となると、どうやって……? と、正直なところ少し不思議になる、もう僕にはほとんどまともな感情は残っていないのだが、それにしてもこの先というのには見当がつかない、どこかがきっと根本的に甘いのだろうが、どこを償却すればいいのか、まだ正直なところ確信はない(いくつか心当たりはある)。
僕が次のステージに、行けるとして、その前に、忘れないうちに、伝えておかないといけないと思った/守られている自覚がないとか、何かを・誰かを「守る」という発想がいつまでもゼロとか、それでは何にもならないからね、「守る」という発想がないのは、謙虚なふりをして、自分の愚かさを隠しているからだ、ウーン今説明している時間がないな、まあそんなことはいいや、とにかく何かを守る側に立たないかぎり、聖なる力を帯びることなんてないし、オトナになるということも決して起こらない。

光に、焦がれるのではなく、もう光ぐらいなきゃムリという実情で、ちょっと光が宿り始める。

何事も、そんなフワフワしたものではないのだ、哲学的とかスピリチュアルとか、そんな眠たいことをやっていて人が覚醒するわけがないのだから/うーんもう、人を見ている余裕はない、人なんか見るのをやめて、光しか見ないようにしないと、単純な力量不足の壁を突破できない、人を見ていたらどうしても無限には到達できない。
「もういい」がヒントになる、おれ自身へのヒントにしかならないが、「もういい」だ、識業を離れられるかどうかという、問答ではなく、識業に対しては「もういい」と、だってもう間に合わねーんだもん、識業がどうなのかは全部が済んだあとでゆっくり考えるよ、こんなひどい修行とか求道ってあったものかね、求道っておれは別に道を求めているわけでもないのに、なんなんだこりゃ。
できるオンナだね | comments(0) |
何かを、誰かを、「守った」ことがあるか
があるかないか、オトナかコドモかということは、簡単に判別する手段がある。
それは、「何かを守っているか」「何かを守ってきたか」を確認することだ/もちろん自分以外の「何か」をだ。
コドモの人は、自分以外の何かを守ったことがない、コドモというのはそういうものだ、コドモというのは「守られる存在」だから/コドモのまま生きている人は、どうしても自分が常に「守られる」側の感覚でおり、自分を守ってくれる存在「だけ」を認めるものだ、コドモのうちにこの変更は決して利かない。
たとえば、衛兵や近衛兵は、「ボスを守る」兵隊だが、ここで衛兵がコドモだった場合、衛兵はボスが「守ってくれる」という発想でいるのだ、たとえば衛兵が「敵から天皇陛下を守る」のではなく、「天皇陛下が敵からボクを守ってくれる」と信じている、「その意味においてなら、わたし、天皇陛下だって認めます」という文脈が背後にある、これはコドモにおいてはしょうがないのだ、コドモはボスに(たいてい家父長に)「守られる」存在であって、コドモの側に「ボスを守る」という発想はない。

コドモは守られる側であって、コドモに自分以外の何かを「守る」という発想はないし、またコドモのうちにそういう能力は決して身につかない、コドモにできることは唯一「暴れる」ということであって、自分で「キレたら何するかわからない」と感じたり吹聴したりしている人は、自分の性能がコドモだということを自ら表明していると言える/コドモはいわゆる「かんしゃくを起こす」ことで「暴れる」という能力しか持たないものだ。
その点で、現代の恋あいを考えると、いかにも初手が潰されているのがわかる、まず女性が男性の尊厳を守るということは発想に遠すぎるし、男性が女性の尊厳を守るというのも、どうしても多くがただのご機嫌取りというところがある/みな、このご時世に、セルフディフェンスの発想を持ってはいるのだが、自分以外の誰か・何かを「守る」という発想はない、また多くの場合そういうレベルの能力を養うべきしかるべき機会をあまりにも失いすぎてしまった。
現代、多くの人は「正義」に異様に敏感で、またその付属に「救済」の思想も強く持っているのだが、これらはどちらかというと、自分が「幼稚で俗悪」に与するとは考えたくないがゆえに、補償的に成り上がってきた思想だと言える/誰かを・何かを「守ってきた」という愛と誇りからあまりにも縁遠いために、自己肯定感の根拠を「正義」に接続しようとしている具合だ、だから現代の「正義」はことごとく「愛」から遠ざかった硬直のひどいハリボテに感じられる。
それでも一部、「正義」は、有効に機能するところもあるのだが、それにしても当人の「愛」のなさおよび「オトナ」でなさは、解決しない、現代で何かを「守る」ということをやろうとすると、天稟はもう潰されてしまっているので、まるでアイドルを守る気分に増長する「親衛隊」みたいになってしまう、それはいかにもコドモがする発想で、構造上しょうがないのだ/今や、両親が我が子を守るのだって、「守らなきゃ」というロール・プレイの向きが多くみられる、それでモンスターペアレントのような存在が増えた、幼児性の自己中心性が精神の骨格を為しているので、「守る」といっても自己陶酔的にその気分に浸るしかできないのだ、それがコドモということだからしょうがない、オトナになれなかったというのはそれぐらいツライことなのだ。

聖なる力で、何かを守れるのではなく、何かを守ろうとした者が、聖なる力を帯びるのだ。

聖なる力というのは、だいたいバリアー的にはたらくものだが、聖なる力で何かを守るというわけではない(ふざけんな)/何かを守ろうとしたとき、「なぜか」自分以外の力がはたらいて助けてくれるところがあるということが、経験的に知られてきたというだけだ、オトナというのはこの聖なる力をわずかでも帯びている人のことをいい、単に年齢や、世間知や、スレて老け込んでいることをオトナとは言わない、コドモはオトナにならずある時点で一気にただの老人になる、その場合はもちろんコドモの精神のまま臓腑と神経だけが老人になる(しょうがない)。
しばしば「少年のようなこころ」が賛美されることがあるが、これは古い物語や言い伝えによると、ときに少年が最も純粋に何かを「守る」という天稟を見せることがあるからだ、単に幼児性のままプラモデルにはしゃぐことを賛美しているわけではない、少年を愛玩物に見立てている人は何か貧しい世界から現実逃避をしているのだろう/今、自分が何かを「守る」という発想は最も遠く、自分は「守られて当然」という感覚のまま、しかし誰も守ってくれないので、膨大な憎悪が生産されるという構造が続いている。
できるオンナだね | comments(0) |
カネで自信は買えねー
はよく、神戸の話をするが、それはいわゆる思い出補正で話しているのではなく、実際に神戸がすさまじい街だから話しているのだ。
GDPの問題ではなく、たとえば横浜が神戸に勝つことはありえない、そんなことは、夜の三ノ宮から元町まで歩けばわかる、理屈でなくもうどうやっても勝てない/しかもこの背弧に六甲山と異人館と旧居留地と中華街とメリケンパークとモザイクと海と瀬戸内と灘高校と湧き水と日本酒と多数の大学があるのだ、勝てるわけがない。
夜の富山も、すさまじいもので、富山では予約なしには夕食ができないのだ、活気と食のよろこびが違いすぎる、そして言わずもがな京都もすさまじい街だが、京都のすさまじさは、京都市ではなく京都府全体がそれだというところにある、京都にはハリボテのエリアがないのだ、そりゃ千年も都だったのだから格差はしょうがない。
目黒区に住んでいる僕が言うのも、裏切り者という感じがするが、中目黒や代官山が神戸に勝てるわけがない、銀座でさえ勝てないのに/東京はみんな「勝ちたい」からおしゃれしているのであって、もともとおしゃれなエリアではない、だからご存知のとおり、勝つことをあきらめた人々が、今老人の群れとなって東京にあふれかえっている、東京はしばらくヨーロッパと競うことを棄権しなくてはならないが、神戸ならヨーロッパ諸国と戦えるだろう、神戸という街がどのようにして成り立ったのか、僕は一度郷土史を研究してみたいと思っているぐらいだ。

多くの人は、カネが欲しいと思っていると思うが、本当は、みな「自信」が欲しいのだと思う(本当に困窮している人は除くが、本当に困窮している人はこんなブログ記事を読んでいる場合ではない)。
だが、残念ながら、カネで自信は買えない、いちおうニューリッチ層にでもなれば人並み外れた「自信」が手に入る、ようには見えるのだが、こうしてカネに後押しされた自信というのは、当然ながら当人を虫食むのだ、カネでしか自信が買えないという痛烈な自覚がどうやったって突き刺さるからだ。
そのことはちょうど、東京が、GDPで東京を言い張ろうとしているということに似ている、新宿のGDPは三ノ宮と元町のGDPを上回るかもしれないが、それが本当の意味での新宿の自信にはつながらない、アメリカは極端な軍事国家だが、最近はいいハリウッド映画が作れないので、アメリカは自信を失っているだろう、いつまでもボブディランだけを言い張っているわけにもいかない。
そういえば先日、僕の友人が、東南アジアの或る聖地に旅をしてきた、そして聖地の人々と交歓したそうだが、彼女は帰国して第一声、「建物が立派なだけで、日本はずいぶん "遅れている" のではないかしら? 世界の人々は、本当にこころを開いていて、とてもたくさん勉強しているのよ、とてもじゃないけれど追いつけないぐらいに」と言った/彼女の言うとおり、GDPで自信は買えない、個人がカネで自信を買えないことのように、僕は彼女に、「その背後には信仰もあるんだ」と言った。

こころを開いて、交歓して、たくさん勉強して、何十年かの歴史を歩み、その背後には信仰もあったという人に、勝てるわけがない。

この当たり前のことに、目を伏せて、ナゾの村の習慣に引きずりこもうとするのが、日本という国のやり方だ、特殊にドメスティックな方法を持っているのだ、鎖国政策の影響だけとは思えない、もっと大きな陰が潜んでいる/写真でもみればわかるが、大正や昭和初期のほうが、日本は世界水準に近かった、現代では真似できないおしゃれとファッションが、当時の時代風景に記録されている。
われわれは、何か不当なことを考え、不当なやり方で自己を強化したため、そのときに何かにつけこまれたのだ、悪霊でも入っているとキメツケたほうが正しく判断できるぐらいだ/旅から帰ってきた彼女は、僕のことを、「世界から見たらあなたが "まとも" なのね」と理解してくれた。
できるオンナだね | comments(0) |
スゴイ人になる方法3

ゴイ人になるためには、まず、自分が「力」の世界に住んでいることに気づくことだ。
「屈服させられる」ということの屈辱、憎悪、そして「屈服させる」ということの快感、愉悦、これがいかにすさまじいもので、どれだけの隔たりで両者を区分するか、耐えがたい……ということを、メラメラッと考えたらいい、このことはむしろ女性のほうが得意だろう。
もちろんそのような、力勝負、バトルオンリーの世界では、あまりにひどすぎるので、人道ということも考えねばならない、ここに人道主義およびヒューマニズムが出てくるわけだ。
けれども、冷静に考えれば、そこに人道主義が出てくるということは、主流がそもそも人道から外れているということだ、車道を走っているタクシーがいちいち「車道主義」なんて言わないだろう/人道主義が出てくるということは、それだけ日常の原理が、非人道側へ逸脱しているということだ。

スゴイ人になる方法は簡単だ。
他人について、「す、すげ〜」「こりゃ勝てね〜」と、感動して拍手するだけだ。
しかしこのことは、「力」の世界に住んでいる人にとっては、構造上不可能になる、なぜなら誰かが自分より優れてスゴイということは、自分の敗北であり、敗北は屈服であり、屈服はどうしようもない激烈な憎悪だからだ。
「力」の世界に住む人は、他人について「スゴイ」と言うのを、必ずメラメラしてしか言うことができず、明るく「す、すげ〜」とよろこんで言うことはできない、他人のスゴさをよろこぼうとすると、「宗主国に心酔する」というよろこび方しか、「力」の世界においてはできない、このことによって人はわずかでもスゴイ人になるという可能性を根こそぎゼロに固定されている/どうしたって、できないものはできない、「力」の世界に住んでいる以上、できないものはできない。

スゴイ人になるということは、自分の敗北歴が真っ白に輝くということだ。

この逆転の構造が、「力」の世界ではありえないということだ、「力」の世界において敗北は黒歴史であり、深い怨恨は必ず血を流す復讐が為されるまで解除されない。
スゴイ人に敗北して、それもたくさんの人にたくさん敗北して、それが黒歴史にならずすべて白く輝いて、包囲されて「アッハッハ」「すげ〜」とよろこんで笑っているとき、無数の光に囲まれて "導かれている" ということがわからないか、この無数の光に「見返す」とか「乗り越える」とか血道を上げている人は明らかに筋違いだ。

できるオンナだね | comments(0) |
スゴイ人になる方法2
ゴイ人になれない人、のことを考えるとわかりやすい。
スゴイ人になれない人は、実は「力」の世界に住んでいるのだ、このことは特に女性に多い。
「力」の世界に住んでいる人は、自分が誰かに「負ける」ということが、大マイナスであり、回復不能の屈辱なのだ、ずっと「力」の世界で力勝負をしているので、負けた人は本当に「ゴミ」の扱いになる、そういう世界に住んでいる。
力の世界に住んでいなければ、自分が誰かに「負ける」ことなんて、単に誰かに「す、すげ〜」「負けたわ」と感動するだけなのだが、このことは力の世界においては許されない、<<力の世界において「負けた」ということは「屈服」なのだ>>、屈服の先はイコール「滅亡」か、もしくは雌伏してやがて果たす怨恨からの「復讐」しかない。

「力」の世界に住んでいる人は、勝手にそう思い込んで誤解しているのだが、この誤解は通常、一生続いて解除されない。
だから、特に女性に多いが(女々しい男性にも多いが)、力の世界に住んでいる人は、「力」を大きく保有する人に心酔し、力の保有者に「取り入ろう」とする/そのために「かわいさ」を使っていることが多く、それはかわいいのではなく偽装された政治力でしかない。
とはいえ、このことは、「力」の世界に住んでいる以上は、やむをえないことだ、この世界は自ら選択しないかぎり「力」の世界ではないのだが、本人がそうと信じ込み、本人がそれを選んでいる以上はどうしようもない/この「力」の世界の住人は、自分が力を保有する野心を第一に持ち、それが潰えると、力の保有者に心酔して取り入るということを第二のプランにする、そのあたり、どう工夫しても、自分が屈服せず、他人を屈服させることに必死なだけだ。
「力」の世界に住んでいる人が、他人のことに「す、すげ〜」「負けたわ」と、感動して拍手することはありえない、なぜなら「力」の世界に住んでいる人にとって、すべての日々は屈服へのバトルだからだ、そのことにばかり「やる気」が出てしまうのだからしょうがない/第二プランとしては、己が心酔する対象にだけ拍手するという方法があるが、これは宗主国に朝貢して、屈服の強みを生かそうとしているだけだ、どこまでいっても土台が力勝負(バトル)なので、スゴイ人なんか力の保有以外には出現しない。

スゴイ人に拍手するのではなく、あなたはなぜか、スゴイ人を「攻撃する」ということに転じる。

そのことは、インターネット上の匿名コメントを見れば明らかだ、いつでも「炎上」が起こる準備があって、特別な能力のある人やスゴイ人を、隙あらば総攻撃して失脚させることばかりを考えている/それぐらい、「屈服させられる」ということはすさまじい憎悪を生むことであって、「屈服させる」というのは至上の快感を得ることだからだ。
どんなカワイイふりをしている女の子だって、だまされてはいけないというか、だまされるようなネタではないと僕は思うが、何より当人がだまされているのかもしれないな/カワイイふりの女の子は、己が女の子らしくウルウルすることで、他者を屈服させる側に立つことを燃えさかる悲願に打ち立てている、おそろしいことだろう、でもまぎれもなく百パーセントこちらが真実だ、だって「力」の世界というのは純粋にそういうものだから。
できるオンナだね | comments(0) |
スゴイ人になる方法
れは、実は簡単だ。
自分のことはさておき、「す、すげ〜」と感動し続けられた人から、スゴイ人になっていく。
すぐ自分のことに切り替えてしまう人はダメだ、それは前向きなのではなく、自分のことにしか注目できないということだ。
冷静に考えて、自分のことにしか注目できない人が、スゴイ人になるわけがない。

自分のことを忘れて、他人のことを、「す、すげ〜」と感動できる人。
そういう人から順に、スゴイ人になっていく。
スゴイ人になれるかどうかは、自分の熱意ではなく「他人についての情報」なのだ。
<<あなたは誰のことに詳しいだろうか>>、あなたが誰か、「この人はスゴイんだよ」と他人のことを説明できないかぎり、あなたがスゴイ人になることはおろか、そちらに一ミリさえ近づくことはできない。

他人がスゴくて拍手するのは「人」だが、自分が興奮して拍手するのはチンパンジーだ。

自分の感想から離れられない人、自分のことしか考えられない人がいて、この人は、どう猛烈に努力しても、スゴイ人にはなれない、それで、けっきょく何かしらの権力に取り込まれていくしかなくなる/権力がスゴイ人は権力がスゴイのであってその人自身がスゴイのではない、権力の「座」を追われればただちに失脚し、一匹のネズミみたいになってしまう。
スゴイ人になれる人は、「心酔」をやめられる人なのだ、心酔でなく「す、すげ〜」と感動できる人、いわずもがな感動と心酔はまったく別のものだ。
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何をしたらいいかわからない人へ
をしたらいいかわからない人は、何をしているのかが見えないのだ。
何をしているのかが、他人から見て「見えない」のだ。
この場合、自分自身も、何をしたらいいのかわからなくなる、これは典型的なパターンだ。
そこから、自分が何をしたいか等、思い詰めていっても、解決はされない、他人から見て「何をしているか」が見えるということ、これが思いがけずキーファクターなのだ。

何をしたらいいかわからない人は、「何を」という点的な視点ではなく、それぞれの「まとまり」や「全体」のことを見るほうがいい、正式な言い方で言うと「構造化して見る」ということになる、これはどうしたって不可欠なのだ。
たとえば小学校の「六年二組」は、他の組があるから二組なのであり、中学校や高校があるから「小学校」なのだ、「六年二組」という単体があるのではない。
中学校や高校の存在を無視して、「六年二組で何の授業をしたらいい?」というのは決定できないのだ、それで「何をしたらいいか」がわからなくなる/いかなるものも構造のうちの「一」であり、構造の中の一断片であることを忘れてはならない、忘れるとまさに「何をしたらいいかわからない」という状態になる。
人は何かをするとき、自分が「どうなっていくか」という前提で、それをすると決定できるものなのだ、今このときにすべてを懸けられるのも、「今このときにすべてを懸けないとこの先が話にならん」という前提から、今このときにすべてを懸けられるのだ。

行き先なしに足跡はない。

足裏を地面にぐりぐり押しつけるというような、わけのわからない「足跡」はない、自分の行く先をきっちり「信じている」こと、そのことなしに今日の一日を足跡にできる可能性はない/いくら「楽しんだ」として、そのことはあなたを救済しないだろう、自分の行く先を信じていない人は、他人から見ても「何をしているのか」が見えないものだ。
足跡のすべては思い出で、足跡そのものがあなたの実在だし、今日という一日、今という瞬間がすべてだが、今という瞬間には「どこかに向かい続けている今」ということも含まれている、永遠の今というのは、われわれが永遠にゆくことを指して「永遠の今」だ/自分の行く先――未来――を構造的に見ないということは、明日を焦ることと同程度に虚しい、「どこへ行くの」と言われたら「ここへ行くの」と目の前で指させ。
できるオンナだね | comments(0) |
今月のテーマは「夢中」です
の一週間ほど、集中力をおびただしくして過ごしたのだが、色んなものが見える反面、あやうく風邪を引くところだった、あぶねえあぶねえ。
昨夜、急に「これはまずい」と感じて、思いっきりセルフケアの一日に切り替えたのだった、それでうまいこと回避できたのだが、こういう切り替えができるようになったのは、本当にボクもオトナになったんだなーって……この数十年間、すべてのケースに「うるせえ」と言い放って突撃するのがパターンだったから、この回避は本当にGJなのだ、昨夜は37℃まで体温が上がってしまったが、今朝はすっきりさわやか快調なのであった。
今月のテーマは「夢中」です、何のテーマって、また今月も「月刊ワーQショップ」を出すからね、そりゃ月刊なのだから今月もあるわなあ、どうだ寄稿員のみんな、毎月ってキツいだろ? そして来月ってすぐ来ちゃうだろ? そうした苦しみを僕以外の人々に押しつけたく候、今月のテーマは「夢中」と決めつけた、第二号に割といいテーマじゃないか。
なんというかね、ダメなものはダメになっていくし、いいものはなんとか生き残っていくよ、今回おれは、一週間ほど集中力を極大化して、いろんなものを見た、風邪はぎりぎりで回避したし、その弱り尽くす瞬間、特におれはいろんなものを見た。

なんというか、大真面目な話、人はそれぞれ役割があって、不本意でもその役割にブチこまれるのだ、それが "本人の選択" ということになるな、いわゆる自己決定ということになるのだけれど……
毎日を、すっごく気分の悪い中で過ごしている人もいるのだ、あるいは何にも感動せず生きている人や、生涯を何の愛とも関わらずに生きていく人もいる、内面で吾我をメラメラ燃やすばかりで、身体をおかしくして生きていく人もいる、こうしたものは、どうやらやはりどこかで "自分で選んでいる" ようだ、そしてそうしたものを選ぶのは無意味なことではない、それは誰かが引き受けねばならない「苦しい役」だから。
人は、自分の性格とか価値観とか、そういう個人的なものではなく、どこかでそういう「役割」を与えられて、その「役」を担わされることになるのだ、そのことに気づかない限り、人は自動的に「周りが見えていない奴」「本質が見えていない奴」「幸福になりようがない奴」という役に押し込まれてしまう、そしてそういう人も必要なのだ、おれはいやだけどね/そして「必要」といっても、こんなに数多く必要なわけでは本当はないのだ。
この世界に、個人の価値観とか、個人の対決とかいうものはないのだ、それぞれが「役割」を担って、その「役割」がせめぎあっている、このことに気づかないかぎり、「何にも気づいていない奴」という役割に押し込まれるだけだ、その役割の中で、<<自分が何をするかは自分で決められない>>のだ。

舞台上で、お笑い芸人がスベったら、それは技量や才能の問題ではなく、彼が「吾我の膨張で苦しむ役」なのだ、だからある意味スベってはいない。

これまでのことを、思い出してみたらいい、面白くなかった人が面白くなるケースは極めてまれだし、陰鬱なキモオタさんが数年後に熱い魂をもった男になるケースはゼロというぐらいにまれだ、人は変化できないのだ、<<人は担う役割を換えるまで己を変化させることはできない>>。
「夢中」と「熱中」の区別はつきづらく、パチンコで借金するおばさんはパチンコに熱中しているだろうが、そのおばさんが何かに「夢中」になることはできないし、これまで何かに「夢中」になったこともないはずだ、それはおばさんが知らず識らず、そうした「熱中しかできず、何にも夢中にはなれない人」という役割を選んでしまったからだ、そうしたおばさんが借金で自滅していくのは、ある意味何も間違っていない、自分で選んだほうをきっちりやりこなしていくということに、強制的になるのだ。
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世界に首を突っ込んで

の世界に首を突っ込む。
自分で、この世界に首を突っ込む、そのことができない人は、やたら他人のことに首を突っ込むようだ。
誰の出来が悪いとか、誰にセンスがないとか、誰をリスペクトだとか、そんなことはどうでもいいのに、そのどうでもいいことにばかり火を噴く。
自分で、この世界に首を突っ込め、そうしたら、他人のことに首を突っ込むのは即日でもやめられるはずだ。

みんなが勉強しているから、わたしも勉強する気になるとか、みんなが走っているから、わたしも走る気になるとか、典型的な他者依存、典型的な世界逃げ型だ。
この世界に、自分で首を突っ込むのだ、それ以外にないのだ、そのとき他人のことに首を突っ込んでくる奴が、どれほどうっとうしいものか、ひどいレベルで痛感するだろう。
けっきょく個人的には誰にも尊敬されることのない者が、年齢だけ老いてくると、気位が高くなって、他人のことに首を突っ込むのを得意にしはじめる/誰からも尊敬されることがないのは、自分でこの世界に首を突っ込んだことがないからだ、<<けっきょくヨソの誰かの話しか、きみはしないじゃないか>>、他人との比較と同調を往復して一生を過ごすつもりじゃないのか。
この世界に首を突っ込む、そうしたら、テンションを上げているヒマなんてないね、モチベーションを探しているヒマもないはずだ、ふつうは数分も心臓がもたないんじゃないか? 誇張で言っているのじゃない、僕はいつもこの高まりを「助けてくれ」と思っている。

批評したことはないし、批評されたこともない。

批評するのは、いつも世界から弾き出されている側だ、たき火はさまざまな形で燃えるが、炎の形をどう批評する? 通り過ぎてゆく列車の音や、キンモクセイを運んでいく風、2018年の10月3日は人類史上二度とこない、批評する人はひどいドブの底で呼吸している。
この世界に首を突っ込む、自分で突っ込む、他人のことに首を突っ込むのはぜひやめなよ/とっくに<<追いつけないフェーズ>>が来ていることに気がつきなよ。

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「手に入る」という、しょうもない虫

リックすると情報が手に入る。
ダウンロードもできるし、おしゃれなサウンドを聴くこともできる。
映画でも書籍でも、すぐ手に入るし、何なら即日ダウンロードできてしまう。
人は、「手に入る」ということに極端に弱く、「手に入る」となったら、もう止まれないのだ、それで人は "操作" される。

多くの人は、自分のやるべきことや、生涯を通して追究すべきこと、あるいは「自分はなぜ生きているか」を、所有していない。
所有していないのなら、探して、掴み取らねばならないのだが、現代人はすでに、「手に入らない」ということに耐えられないのだ、「手に入らない」ということにまったく慣れておらず、そのストレスに数秒も耐えられない。
そして、自分が何も掴み取らなくても、簡単に手に入るものが、目の前にぶら下げられてしまう、たとえばイベントに参加したり、何かの募集に参加したり、何かの習い事に月謝を払ったりだ、そうすると初日にも何かしらを「手に入れて」しまう/こうして気づけば何十年も、カスばかりを掴まされてしまうことになる、いろいろやってきて「活発」なタイプだった自分が、気づけば「何も残っていない」という状態になるのはそのせいだ。
何も手に入らない、ということではない、真相は逆だ、何でもすぐに「手に入ってしまう」ということ、そして「手に入る」ということになると、人はまず自分を制止できないということが、問題の真相だ、あなたはそうやって操作されており、いつまでたっても<<手に入らないことに向かう>>ことができない。

ゲットできるならモンスターではない。

ゲットできないからモンスターなのだ、ゲットできるものは質の悪い「虫」のたぐいでしかない/人は「ゲットできる」という状況に極端に弱い、しょうもないものをゲットすればするほど、人は毎日何もしないまま満足に過ごしてしまう。
地位や名誉や称号を欲しがり、立場や役職を欲しがって、安物でも作り物でも、それを与えられると満足する、それで自分の虚無を糊塗しているのだ/「何も手に入れるつもりはない」と言い放って立て、この世界や神やデーモンは見上げるほど大きく「手に入るようなものではない」と見えなくてはならない。

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初期投資にカネをかけない

ういえば、忘れないうちに書いておこう/僕などはこのように大文学者であるのに、随所でPCにマイクロソフトWordが入っていないことに、多大なストレスを受けている、いいかげんWordを入れたいので誰かパッケージ版を買っておれによこせ。
こんなことを言うと、乞食みたいだが、こういう機会しかないのだ、何しろ僕の周辺には「何か要るものないですかッ!!」というナゾの寄贈部隊がいて、もう何か寄贈させてやらないとカワイソーなのだ/もちろんダブってはいけないので、心当たりのある奴はうまく調整し、有志どもでこのおれさまにWordのパッケージ版を寄贈すること。
このごろは、パッケージ版といっても、ライセンスを購入してウンタラという方式だろうな、まあそのへんも調べてうまいことやってくれ、もうこれ以上PCにWordが入っていない件で苦しむのはイヤなのだ、そういうときだけ気分がテロリストになって「ぶっ殺すぞゴルァ」となってしまうからな。
その他は今のところ、要るものや欲しいものはないのだった、何しろ僕のやることはすべて、紙とペンと身体があればそれで済むからな/何か欲しいものがあるときはテキトーに言うので、それまで寄贈部隊はハアハアせず待機しておくように。

そういえば、僕が初めて、こうして物を書くようになったときも、友人にお下がりPCをもらって、粗大ゴミの中からブリンターを拾ってきて自分で修理して、始めたのだった/僕は初期投資にカネをかけない奴である、ワークショップだってもともと世田谷公園ありきだったしな。
今、ダンススタジオのシューズを買うべきだと検討しているのだが、幅の合う靴がなくて難儀している、いいかげん裸足スタジオでやりつづける先生もどうよと思うのだが、まあ僕の場合、モノが欲しいというより、モノを買う手間のほうを面倒くさいと思ってしまうのだった、目の前にすぐあれば買うんだけどね……。
あと、そうだな、長袖のTシャツはもうちょっとあってもいいんだよな、ワークショップのせいで着替えと洗濯の頻度がえぐいのである/安くイイものを消耗品として買える心当たりがある奴は、テキトーに買ってよこせ、サイズは日本基準なら3Lだ、これもまたふつうの店では置いていないサイズだから、ますます買いに行くのが面倒くさいのだった。
そういえば僕は、学生時代も、粗大ゴミで拾ってきたテーブルと、粗大ゴミで拾ってきた食器を使って暮らしていたな、電子レンジはヒューズが飛んでいてダメだったが/僕は初期投資にカネはかけない奴で、もし初期投資にカネが掛かってしまうのだとしたら、それはカミサマのバックアップがついていないのだと思う、おれのニューヨーカーのコートはなぜか古着屋で3000円で売っていたものだ、ちょうどおれにピッタリのサイズだった(ニューヨーカーに修理に出したら新品みたいになって戻ってきた)(ちなみに先日着ていた軍服も古着で1200円です)。

初期投資にカネを使うと楽しくなるので使わない。

人は、立派なものを買いそろえたりすると、それだけで楽しくなるのだ、そのせいで、自分のやっていることが「本質的に」楽しいのかどうかがボケてしまって、見えなくなってしまう、だから僕は、自分が何かをやり始めるときには、初期投資にカネをかけない、カネを掛けていないのに楽しいならばそれは本質的に楽しいのだろう。
もし高級車を買ったりしたら、それだけでそりゃ楽しくなるものだ、でもそれが楽しいのは半年ぐらいだろうな、もし僕が世田谷公園とレンタカーで楽しくなれない奴になったとしたら、それはもう僕ではなくなってしまったということだろう/僕はMHLの小物とデュポンのライターとストーンアイランドのTシャツが好きで暮らしているが、それと初期投資は別だ、初期投資にはカネをかけない、それによってつまりこれまでオープンオフィスでしのいでいたからこそ、いまだにPCにWordがないのだった、しかしいいかげん限界がきたので誰か買ってよこせ。

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魂の大きさについて

説を書いているのだが、まったくはかどらなくて難儀している(小説は、ウェブ公開用ではないやつ)。
前回の執筆でもそうだったのだが、今回、ようやくこの現象のナゾに気づいた、なぜはかどらないかというと、小説というのは、魂が小さくないと書けないのだ。
正確に言うと、どのジャンルでも、適合する魂の大きさというものがあって、魂の大きさをあるていど操作できないと成り立たないのだ。
こいつはまったくの盲点だったな、魂が大きいというのは必ずしも万能じゃないのね、いやそりゃデカいほうが上位なのは決まっているのだが、あくまで「ジャンル」に落とし込もうとした場合は、魂がデカすぎる場合は不適合になるのだ。

現在、ワークショップの先公をやっているので、そこで「模範」をやらなくちゃならんじゃないか、それで「最大でここまでデカくなりまっせ〜」というのをやるのだが、これがいけない、これのせいで魂サイズがまったく小説向けでなくなってしまっている。
単純なワザでいうと、魂のサイズをアレな感じにすると、まったく別次元のワザが成り立つので、それを実演するためにも、魂をしばしばアレなサイズにしているのだが、これはいかん、あえて魂を小さくするほうにも長けなくてはならないのだった。
まったく難儀な話だな、しかしこのことにはまた、未だ知られていない秘密が隠されているだろう、それを暴くことを楽しみにしてガンバるしかない/これでますますハッキリしてくるが、僕はやはり魂の使い方がオカシイのだ。
岡本太郎の箴言に、「キャンバスからはみ出せ!」というのがあるが、僕はそもそもキャンバスという「枠」の概念がよくわかっていない気がする、僕は僕自身に「キャンバスに収まれ!」と言いつけないといけない、これじゃまるでいわゆるガイジじゃねーか(泣)。

毎日が夢のようなので、小説が書きづらいデ〜ス。

うーんしかし、われながら矛盾するようだが、魂の小さいヤツの話なんか聞いたってなあ、でもそんなこと言うと小説というジャンルそのものにケリを入れることになるのだろうか、そりゃなるだろうな。
小説というのは、大切にされなくてはならないものだが、あんまりデカいものを「大切にする」とは言わないものな、さて困ったぞ、しかし超絶天才の僕のことだからきっとなんとかするのだろう、フヒョヒョヒョ。

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悪魔の力でコカコーラ
日、悪魔の力について説明した。
悪魔と契約すると、悪霊がinして、力を得る代わりに、その後がズタボロになりまっせという話、これはわりと身近で、かつ割とマジな話なのだった。
このあたりは、割とマジに、お前らみたいな若輩者は気をつけるべきだ、お前らみたいなモンはすぐ破壊されるじゃない? ダッセエ話……どういうことかというと、悪魔にへいこらお願いして、契約するのはダメなのだ、デーモン(ダイモーン)に親しんで、その力を使役するぐらいでないといけない。
ただし、デーモンの力を正しく使役できるというのは、そーとーな光に至っている人にしかムリだ、基本的に凡人にはギリッギリのスレッスレでしかこなせないことだからな/われわれはカミサマに憧れるものだが、その憧れに近づこうと思ったら、低級でもデーモンの力ぐらい使役できていないようでは話にならない。

悪いことを覚えましょうね……といっても、お前らみたいなモンは、タバコのポイ捨てをしただけでも、こころにやましさを覚えるじゃないか、それは悪いことができていないということだ、それで結果的に「善人」になる。
タバコのポイ捨てをしたぐらいで、こころにやましさを覚えるというのは、よほど光に尽くせていない証拠だ/そこでこころにやましさを覚えるというのは、善人だからではないのだ、「ポイ捨ての悪魔ていどにもあっさり悪霊を送り込まれるぐらい、光の庇護が弱い」ということなのだ、いくらオラついたところで無力なもので、オラついている人はけっきょく「やましい」からだ、詩聖タゴールがそのへんにタバコをポイ捨てしたとしても、そんなところに邪悪がつけ込めると思うか。
そういえば、たとえば僕はワークショップの最中、世田谷公園でタバコを吸いながら指導しているのだが、吸っているタバコをそのへんにポイポイ捨てている、そしてワークショップ後に、プレイヤーの皆さんがせっせと拾って掃除するのだ、もちろんおれは協力しない/そのていどのデーモンの力も使わないで、人に何かを教えるなんて、できるわけないだろ……「先生」というのは、若造の尻を後ろからガンガン蹴っても、それが "体罰" にならないから「先生」なのだ、デーモンの力に邪悪が乗らないということが、デーモンの力を使役できているということになる。
この点については、さすがにアホと問答する気にはなれない、この点はもう実力差っつーもんをいいかげん悟れよ、僕が人妻のスカートをめくったところで何の邪悪にもなるもんか、「ほれコーラ飲め」とコーラを差し出しておわりだ、一ミリでも邪悪が出るなら絶対やめておいたほうがいーよ/邪悪なんてヒマなことをしている余裕はわれわれにはないのだ、「邪悪なんてヒマなことをしたくない」というのは、ダイモーンもこころの底からそう願っているのだ、それがわからないか。

悪魔がカミサマに勝てないのは、カミサマには業(カルマ)がないからだ。

てっぺんのカミサマやホトケサマにおいては、厳密にカルマがゼロなので、悪魔はつけこむ箇所がゼロなのだ、だから悪魔もその力だけを使役させられることになる/人に濃厚なカルマが残っている場合、悪魔はそこに干渉して人を操作するようになるのだが、悪魔だってそんなヒマなことをしたいわけじゃない、悪魔にはただその能力があるというだけで、悪魔だって「助けてくれ〜」と叫んでいる。
お願いがひとつだけある、「悪いこと」をし、「悪いこと」をたくらんで、「悪いキモチ」にドロローンとなるぐらいなら、自分はよほどアホで小物だということを悟ってくれ、悪いことをするってそういうことじゃないんだよ/「悪いことをしたのに悪霊が入らない」というのが使役だ、命を帯びているときはそんなに簡単に悪霊は入りません、悪霊が入るのはただのザコの典型だから、それをまさか特別なアタシなんて思わないでね。
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ゼロから学びましょう
ンガンやりましょうね!!
ガンガンやる前に、ゼロから学びましょうね!!
ゼロから学べないということが、若さがないということ、アンド才能がないということだからね、それは損だね。
ゼロからやれば何だって一発でやれます、これは割とウソじゃない。

原稿用紙を前にして、自信を持ったことはないし、人を前にして、自信を持ったこともやはりないな。
もし、自信があったとしても、おれは使わないし、そもそも持ち込まないだろうね、そんな一昨日の残り物みたいなモンをよ……何もかもゼロからやる、それが無限と永遠のコツです、分母がゼロだから無限というのは当たり前の話だ。
分母にいくつかのジャンルや、それについての自信を置いたとします、これがいわゆる「分類」です(「分母」なのだから)、こうして「分類」をするとすべてのものは落ち着くように見えるが、その途端もう無限という可能性を失ってしまっている、これはもうどういじくっても面白くはならない。
ゼロから学ぶということは、ゼロのまま帰るということだ、ゼロから1を捻出して持ち帰るのじゃないよ、1なんか捻出しないでも、無限に触れられたらそれでいいじゃないか、1と無限大のどちらがデカいかぐらい、さすがに算数が苦手でもわかるだろう。

ゼロと無限のくせをつけよう。

「ジャンル」を超克する唯一の方法がそれだ、ゼロジャンルになればその物の名は「無限」になる、けっきょくそういうものしか愛さないでしょう、そもそもカミサマの愛が有限ではそれはカミサマの愛でも何でもないのだから。
重力がドシーンとかかり、空気がプーッと入り、「えーっと、ジャンルは、と……」という、こういうのが一番しんどい、そしてしんどい上に何も面白くなければ、愛もないという/逆です、光が際限なく広がり、真空が無限に染み渡ってゆき、「時間軸はないから永遠だな」という、そういうのが一番ラクだ、ラクな上に面白いし、自動的に愛になるのだった。
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恋あいについて
あいについて考えている。
恋あいは、無いわけがないのであって、夜のとばり、濡れるような闇、ネオンを透かす木立、誰かわからない女、オレンジ色のTシャツ、そこに恋あいはある。
あのとき現れるのが女であって、生物学上、あるいは社会的に定義されている「女性」というのには、あまり意味がない。
自分が誰だかわかっているような女に、女はやれないだろう、女は初めから恋人としてしか現れない。

女にとっての恋あいがどういうものなのかなんて、考えたことがない。
女には人格がないからな……いや、人格がある女というのがこの世で最も面倒くさい。
恋あいは、記憶の中にはない、ボブディランではないが、恋あいは風の中にある、おれはかっこいい男なので、かっこいい世界にしか女は現れない。
女の人格がジャジャーンと現れてきて、「どうも!」なんつって、そこから恋あいに……なるわけがないわな、この現代には場違いな人格がごろごろあって邪魔だ、どうも自分が登場人物ではないということがわかっていないらしい。

女が震えていたのであって、人格が震えていたのじゃない。

人格がやりたけりゃ、どこかの会議室でやれよ、そういうの好きなオバサマはいくらでもいるだろ、女をやりたきゃさっさと視力をつぶしていらっしゃいね。
女じゃなくて人格で、この世界を踏み荒らして生きていると、自分の体臭が気に入らなくなってくるだろ? 女なのにさ、レンガの上にデニムで生足で、唇で茶色い髪で、ハイそこまででそれ以上なし、人格なんてしょーもないもんだよ。
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自信があるかないかについて2
はや、どうしたらいいのか……いっそ顰蹙(ひんしゅく)を買いながら進むしかないし、誰にも掴まれないまま進むしかない。
自信というのは、シェアの数ではないし、むしろ他人にシェア(共有)できるものなら、それは自分のものではないので自信にはならない。
状況は、もう承認欲求がどうこうというような、生ぬるい話ではなく、自信という機能の息の根が止められているので、多くの人が自分のネタの「共有」をしてくれることを、「生命線」にするしかないというような状況だ、もうムチャクチャであって、こんなことの解決法はない。
自信というのは何かといって、逆にいえば、「あなたには決して掴むことができないもの」だ、意地悪で言っているのではない、これで「なるほどな」とよろこばないようではあなたには自信を掴む可能性がない。

ここ数ヶ月でわかったことだが、あなたと僕とでは、とんでもないぶっとびの差があるのだ、顰蹙を買いながら進むしかないというのは先に申し上げたとおり。
あなたが掴む「自信」というのは、決して違うだろう、あなたは誇大妄想かシェア希望のどちらかしか掴めないはずだ、意地悪で言っているのではない、他人に自信の根拠を求めるというのは、自信の自給率をゼロにして他人に依存しているという状態だ、最大のヒントのためにこんな話し方をしている。
自信なんてものは、そんなやすやすと手に入らないのだ、ぶっとびの、かつ理知と冷静と愛を極めていないと手に入らないのだ、ヘタクソでもかまわないのだが、ぶっとびで理知的で冷静で愛に満ちていないと、自信なんて手に入るわけがない。
「こんなチンタラしている奴に、自信なんか手に入るわけがあるかよ」と、自分に堂々と言ってのける奴、それこそ自信に近い奴だ、そして「自信がどーこーとか言っていられる状況か?」という奴は、すでに速度として自信の次元に接近している、そのことを正しく見て、正しいと今思っているもののすべてを母親の足元に投げ捨てろ。

自信というのは、「すべてを忘れられる」ということだ。

逆に、すべてに引っかかっているようでは、自信なんか持てるわけがない、友人から「すげーな」と言ってもらい、そう言われたことが「ん?」と、すでに聞こえていないという状態が自信だ、あなたの辞書の中に「自信」はないのだが、それはあなたがいちいち辞書に頼っているからであって、辞書にないなら空中から掴めばいい、空中を信じられない奴が自信がどうこうと寝言をほざくべきじゃない。
もはや、どうしたらいいのか……という状況があって、解決法なんかないのだが、自信があるというのは少なくとも、「どうもせんでええわ」「解決法なんかいらんわ」と、それ以上の何かを空中から掴めている状態だ、周りにいる異性がことごとくメロメロになるなら「自信」を得ている状態だ、「それでいいし、そうでなくてもいい」というのが聞こえてくるぐらいでなければ、自信なんて上等なものは手に入らない、もしこれが異次元に聞こえるのであれば、直接異次元に手を伸ばして掴め。
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自信があるかないかについて
難はいろいろあるにせよ、何か楽しくなってきたな。
困難といっても、僕自身の困難ではないし、じゃあ他人の困難はどうかというと、原則として助け合うべきだ。
重要なことは、自信を持つことだ、そして自信を持つということは、自信なんか要らないということだ、なぜならもう持っているのだから。
この世でもっともアホらしいことは、他人と自信の共有をしたがることだろう、どうもそのあたり、面倒な奴が増えてきている、「自信」というパラメーターは他人にはいじりようがないものだし、外部に表示する必要もないものだ。

だから、自信をアピールする者は、自信のなさをアピールする者と同等に、意味がなくて愚かしい。
「共有」という概念ほど、近年でめんどうくさいものはない、僕が楽しくなってきたからといって、ヨソの誰かまで楽しくなったふりをする必要はない、あなたにそんな配当は与えられない。
楽しくなりたければ、独自で楽しくなればいいのであって、それをヨソの何かとの共有で楽しくなろうとしているから、自信がなくてブキミになるのだ、このごろはそういう共有ブッコ抜きマンが多い、あなたは何かこの世界のオカーチャンなのか、そんなアホみたいな話はあるまい。
そもそも共有なんてできないのだ、だからこそ共感の能力が必要になってくる/共有を妄想する人はいつも「アナタとアタシ」みたいなことを妄想していて吸血してくる、この人はけっきょく「アタシのこと」しかわかっていなくて、他人のすべてを共有する権利があると自認しているのだ、誰かの大切なことに共感する能力もないのにだよ、そりゃこんな奴がのさばっていたら誰も楽しくなれないだろう。

自信があるかないかは、永遠に自分だけが知っていればいい。

共有ブッコ抜きマンは、自信がないものだから、他人の自信を吸血しようと、やたらにしがみついてくるわけだ、こんなメチャクチャな話があるか/<<他人から自信を吸血している人は、他人も吸血を必要としていると思っているのだろう>>、自信吸血マンは、まさか自前の水脈から自信を得ている人が存在するなんて想像がつかないのだ。
自信があるかないかは、おれだけが知っていればいいのであって、ヨソの誰かが知る必要はないし、そもそも輸出入なんてできないものだ/他人から恵んでもらった自信で生きながらえようとする人は少なくないが、それは吸血行為である上に自殺行為だ。
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