☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
エセセンスの禁止2

ういえば、自分で言っていて気づいたが、たとえばこのブログも、4000件ぐらい記事がありながら、「何かのネタをヨソから引っ張ってきた」ということがほとんどない。
ニュースネタとかまず扱わないし、ヨソの記事とか、シェアとか、流行りもののネタとか、レビューとか、そういう発想がまるでないものな/それはせめて、僕自身、どれだけヘッタクソでも、エセセンスの方向は避けたかったからだ。
どれだけヘッタクソでも、ここまでに示されている数千件の記事は、すべて「僕自身のセンス」によるものには違いない、それで、別に自分がヘッタクソで笑われるのは、かまわんじゃないか、自分でも割と「何コレw」と笑っているのだし。
ヨソの記事は、ヨソのもんであって、おれのことじゃねえだろ、と僕は思うのだが、そんなことを言っているので、このブログは誰にもシェアされないのであった/このままいくと、記事数と閲覧数に比較してシェアされていない度でギネスに載るぜ(涙)、まあしかしヨソからの借りもので自分を豊富ふうに見せるのはまったくエセセンスの類だと僕は信じている。

今われわれは、ウェブ上から無数の「記事」にアクセスすることができる。
百件の記事にアクセスすれば、百件のネタが、さも自分にあるように感じられてくるが、その中に自分の記事はひとつもないのだ、そこは誰だって目を覚ましているべきだろう。
シェアやリツイートの機能によって、われわれはいま電脳上で、ヨソの記事を分配するターミナルがごときのアカウントを作ることができるが、そんなことをしていたって、平たくいえば「自分はカラッポ」じゃないか、まして電脳上ならいざ知らず、ナマ脳でそういうカラッポターミナルの妄想に罹ってしまったら目も当てられない。
ヨソの何に注目し、ヨソの何を取り上げて分配したかということは、おそらく自分の「センス」ではないだろう、たとえ何万件の記事をシェアするターミナルになったところで、われわれは「20分で話す落語のネタを創作して」と言われたら全員走って逃げだすのだ、じゃあやっぱり「センス」ではないのだろう。

「ヘッタクソなオリジナル」が自分のセンスだ。

どれだけヘッタクソでも、それが純正オリジナルなら、まあいいというか、しゃーないやんということになる、われわれは誰しもヘッタクソで、それ以上に「しょーもない」存在なのだから/だがその「しょーもない」ということを見るとき、まさに自分自身へのヒントがある、自分が何をしていかねばならないのかの手がかりがある。
自分のセンス、自分のセンス、自分のセンス、と唱えてみろ、するとどれだけ絶望的な気分がして、「ヨソ」に目をやりたくなるかがよくわかる、それだけ自分を直視するというのは憂鬱なことなのだった。

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エセセンスの禁止

バッと気の利いた一言で、風刺してみる。
あるいは皮肉ってみる、辛辣で、クールな……批評の力を伴わせて、そしておしゃれ。
これらのことは生涯禁止したほうがいい、こんなものはエセセンスだから。
ガキのすることだから許されるが、大人になってからやっていると、また例によって思いがけないビッグカルマが溜まるし、それ以前に「気づいたときにはもう引き返せないほどの恥」を蓄積していることになる。

単にインパクトの問題なのだ。
たとえばサグラダファミリアの前に、「たれぱんだ」のぬいぐるみを置いて写真を撮れば、あったりまえにインパクトの大きい写真になる。
それは、元のサグラダファミリアのバリューがでかく、それを貶(おとし)めたから「インパクトがでかい」というだけでしかない、こんなものはセンスでも何でもないのだ、こいつがサグラダファミリアそのものを建設することは決してない。
たとえばウィリアムブレイクの詩文の末尾に、「と、申しております」と書き足せば、そりゃその一文のインパクトは大きくなるのだ、それは「大きな価値を大きく損なったからインパクトが大きい」というだけで、びっくりするぐらいしょうもないやつだ/やっていることは選挙立候補者のポスターの目に画びょうを刺して「ゲラゲラw」という小学生と変わらない、これを「センス」と思っているともう今生では雪げない恥になるので即刻やめよう。

ヨソへの批評に食いつくのは、己が迷子になっているからだ。

まあ、政治家の批評をするのは、正当な市民権だし、民主主義における権力のコントロール装置だけれども、それにしても、己が迷子になった人はそっちの批評にも湧いてくるから、あまり豊かな花園ではありえない、もっとウオリャァァアとならなくて何がセンスか、罰として岡本太郎の墓前に縄文人の裸祭りを奉納しろ。
エセセンスが発動するというのは、実は、すでに小さい悪魔に憑りつかれているということなのだ、すでに小さな規模で「やめられないw」ということが始まっている、われわれは自分でサグラダファミリアを建設はできないし、それどころかたれぱんだだって自分では創れない。

できるオンナだね | comments(0) |
「道」と「業」カラアゲ

「カラアゲ、いいですねえ〜」と誰かに言ってみよう。
こんなことでさえ、それが「わざとらしく」聞こえてしまう人がいるし、それが「意見」に聞こえてしまう人がいる/なぜか「増長」まで聞こえてしまう人がいる。
「わたしカラアゲ好きなんですよ〜」とか、これは最大に要らない、お前の好き嫌いなんか聞いてないわ(ボケ)、と、罵詈雑言は控えめにしておこう、とにかくそういうのは要らない。
「カラアゲ、いいですねえ〜」と誰かに言ってみよう、こんなことでさえ、われわれは自分の身が解放されていないということを思い知らされる、トホホもトホホだ、われわれはカラアゲ道の初段さえ取得できないのだ。

「カラアゲ、いいですねえ〜」と誰かに言ってみたとき、そこに誰からも認めうる「解放感」があるかどうか。
業(カルマ)の償却というのは、カルマに縛られた胴体の解放なのだから、「カラアゲ、いいですねえ〜」には解放感が伴わないとおかしい/だがこんなことでさえ、実際にやってみるとだなあ……
われわれは、まず己の身を憐れもうではないか、実は何かひとつ言ってみるのでさえ、胴体がガンジガラメなのだ/「○○、いいですねえ〜」というとき、○○に入るものによって問われる償却レベルが変わってくる。
たとえば男性が、「生足の女子高生って、いいよなあ〜」と言ってみるとき、そこに「解放感」が生じるか、「カルマ感」が生じるかなのだ、カルマ感が生じた場合は当人も周囲も悪ノリするが、それで盛り上がるのは償却の解放感とはちょっと違えよ/ちなみに、「生足の女子高生って、いいよなあ〜」というのは、おれでさえかなり難しいレベルだ、そーとー集中しないと純粋に解放された詩文にはならない(誰がトクするんだそんな話)。

「低い実物」の償却ほど、「高い徳性」の発現が必要。

おう、やっぱりまた、すっかり役に立たん話になったぜまあいいか/われわれはふだん、「低い実物」(例、パンチラ)を視認することが容易で、その償却に要する高い徳性には手が届かない、一方で「高い実物」(例、神韻)を視認することは困難で、それはもうほとんど償却が要らないので徳性が低くても感得できるのだが、そんな実物を視認できることがまずねーだろということで、上下とも、さびしい思いをさせられているのだった。
よっぽど思い詰めていないかぎりは、せめてカラアゲぐらいは視認しろ、そしてわれわれにとって、脂っこくてうまいメシ(低い実物)をそれなりに食わせてもらえるということは、誰かのおかげであってすっっっげえありがたくナイスなこと(高い徳性)じゃないか、その上下が実現されていたら、「カラアゲ、いいですねえ〜」ぐらいはさすがにイケるようになるよ。

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「道」と「業」2
は誰だって努力をしている。
が、「道」ということに関しては、十中八九「師匠」が必要で、少なくとも濁りのない「私淑」や、何かしらの「モデル」は絶対に要る。
なぜかというと、「道」にはリスクがあるからだ、「道を誤る」というリスクがある、師匠の監督やモデルとの照らし合わせがなければ、この「道の錯誤」を自分だけでは管理できない。
スポーツにおいて、正しいコーチが得られなかった場合は、単に「失敗」や「不毛」が残るが、「道」において正しい師匠と師弟関係が得られなかった場合は、「道を誤った者」「道を踏み外した者」というものが残ってしまう、これはなんだかおっかない響きだ。

なぜ「道」にはこのようなリスクがあるかというと、やはり「道」は、第一に「業(カルマ)の暴き立て」をするからだ。
ふだんは隠蔽している業(カルマ)を暴き立てるわけだから、その後正しい師匠や指導者について、「これはこう捌かれうるのです」と、業(カルマ)の償却された先を実物の姿で教示してもらわねば、暴き立てられた業(カルマ)はその後ただ野放しにされるだけになってしまう。
そして明らかに、現代の思想風潮があるかぎりは、「道」なんてやり方には誰にとっても大変不向きなのだ、「道」というのはつまり「この愚かな身め」ということをメタクソにシバかれるという側面をどうしても持ってしまう、そこにパワハラ等の観点をもってわずかでも不服をもってしまう以上、現代人にとって「道」というやり方はほとんど不可能に近い。
スポーツというのは、基本的に「スポーツのやり方」を習うことで進んでゆけるが、「道」というのは違うのだ、「道」というのは「わたしのやり方」みたいなものを「愚かな身め」とつぶされてしまう過程があるのだ、だからこそ根本的な解決を得られることもあるのだが、うーん今どき誰がそんなことに受容的であるか、いま人々のやりたいことはおおむね逆だろう/「道」というやり方は、実にクリティカルで魅力的な側面があるが、現実的には「ムリムリw」と冷静に眺めておくことも必要だと思われる、むしろ「ムリムリw」と見えているところがなければもう初めから「道」を踏み外しているだろう。

「道」、厳しすぎワロタ。

うーん、まったく意味のない話になってしまったが、それでも僕はやはり、「道」というやり方が第一に身の「業(カルマ)」を暴き立て、その根本から解決しようという取り組みを持つことに、魅力を覚えるというか、肩入れしてしまうところがある/つまり、そのやり方の存在を知るべきだが、オススメはしないと言いたい。
「道」が、厳しすぎワロタと笑えるようになったら、ある意味「道」というものの存在を本当に知ったからこそ笑えているということでもある、さしあたりそれが最も健全な一歩であるように思う/「業を暴き立ててから『ほい、どうする』だぜ?」、うーんこんなものの果てを目指せというのはまさに厳しすぎワロタだし、その先に到達した「達人」というのが、「身分が違うわ」というのも当然のことなのだった。
できるオンナだね | comments(0) |
「道」と「業」

れないように、メモ書きの意味もこめて/「道」とは何なのかについて。
たとえば「武道」というと、日本刀でウリャーと斬り合いをする。
人は、殺されたくないし、殺しにくるやつはブッ殺して差し上げたくなるという、業(カルマ)を背負っている者だが、なぜわざわざ人は、この業(カルマ)の火に油を注ぐようなまねをするのだろうか。
ましてわれわれは、生きているうち、日本刀でウリャーと斬り合うことなんてまず無いのにだ/なぜ「武道」に取り組もうとすると、われわれは、わざわざ自分に「流血沙汰を模擬させる」のか、それもできるかぎり「真剣勝負だ」といって、業の激しさを増そうとするのか。

これにはクリアな回答があって、誰でも知っておけば「なるほど」で済む。
われわれは、身のうちに「業(カルマ)」を持っているのに、ふだんはそれを隠蔽しているのだ/隠蔽しているあいだは、自分の身のうちに潜む真相を、われわれは知ることができない(知ることができないというか、直面することを避けている)。
ためしに、そのへんのおっちゃんの頭を、丸めた新聞紙で二発ほどパーン! と叩いてやる、そうしたらただちに「何すんじゃコラァ」と暴力沙汰になる、それがわれわれの身のうちに潜む業(カルマ)の真相だ/これを「捌けるか」「いなせるか」ということが武道の取り組みになる。
つまり、「道」と呼ばれるもののすべては、ふだんは隠蔽している身のうちの「業(カルマ)」をわざと暴き立て、それを発現させてから「ほい、処理できますか?」と俎上に乗せてみるという取り組みだ/この取り組みを通して、われわれは己どもの「身」が、実はどれだけ業(カルマ)に縛られて支配されているかを知ることができる、同時にふだんはどれだけ「ほっかむり」をしているかということも明らかになる、この暴露の上で本当の身の解決・解消を為そうとするのが「道」だ。

すべての「○○道」は、われわれの身が「水面下でどれだけジタバタしてよるか」を教える。

「道」の面白いところは、第一義に「暴露」があるところだ、真っ先に「トレーニング」や「コーチング」が来るのではない/「こうすれば出来ますよ」ということを教えるのではなく、「ほら、こうなるから出来へんやろ?」ということを教えるのだ、だから「道」には金メダルはなく「段位」がある、それぞれがどの「段階」にいるかを定義し、その身の段階を向上させていこうとするのだ。
「道」というのは、競争ではないのでスポーツと異なる、「道」においては自分が初段で誰かが三段というのは、「だからなんやねん」にしかならない、自分が初段ということは変わらないからだ/スポーツというのはむしろ、悪くすれば、「身がどれだけジタバタする力を持ち得るか」という、逆の競争にもなりかねない、端的には「ドーピング」といって「ジタバタ剤」を注入すれば、スポーツ競争には有利にはたらき、「道」には不利にはたらくだろう。

できるオンナだね | comments(0) |
オゴられ女性の注意点
Aと女Bと、店員Cがいたとする。
このとき、男Aが女Bの食事代をオゴってやるのは、さして問題ないのだ。
実はキーファクターはAB間にあるのではない、BC間にある。
女Bが、店員Cからサービスを受けてしまうのが問題なのだ、女Bは支払いなしに「お客様」になることになってしまう/これを通して女Bは「無限のお客様」になっていってしまう、何しろ支払いはゼロなので彼女は限界なしにお客だ。

つまり本来は、客A(男)と店員Cとの間にサービスが交わされていないといけない。
そこに女Bは、「お連れ様」として、ただ相伴するものとして存在すればいいのだが、こんにちの女性はきっと感覚的に「わたしも客よ」という感じで、でしゃばってしまうと思う。
仮に、Aが支払いでCが店員で、なおBこそがサービスを受けるべきという状況があるとするならば、それはBが相当な「先生」である場合だけだ、この場合Bは店員Cから見ても、客である以上に「先生」なので、サービスを差し向ける道理が成り立つ/だが普通そんなケースはまずないので考慮に値しない。
こんにち、誰もが「すてきなお店と客」という関係に憧れていて、それをやりたがるのだが、それをやりたがる場合はオゴられてはダメなのだ、オゴられる人は「すてきなお店と客」の中には入れない、そこで客人ぶるのは身分違いになってしまう(身分逸脱の振る舞いは当然、カルマを深めることになる)。

店員Cにサービスされたら、あなたの負けだ。

あなたが女Bだった場合、店員Cのサービスは男Aに向けられていなければならない、そこであなたが主体的にサービスを受けてしまったとしたら、それは必ずあなたの何かがでしゃばっているからだ。
女が男にオゴられるのは何も悪いことではないが、オゴられるというのは割と特殊な状態であり、いつもどおりに過ごしてはいけないのだ、「客じゃなくなるのは意外にむつかしい」と知っておくのがいい/そして「無限のお客様」になってしまった人は、誰にも愛されなくなる上に、なぜか「二十四時間ずっと腹を立てていないといけない」という状態になる、これはキツい上に復旧はまず不可能なので、そうなる前に正しいオゴられ方を身につけるべきだ。
できるオンナだね | comments(0) |
「ごめんなさい」が苦手な人4
要なことをお話ししておきたい。
人によって、知らず識らず、「業(カルマ)を引き受けていくスタイル」で生きてしまっている人があるものだ。
それは、スタイルのひとつには違いないが、僕のこれまでの経験上、けっきょくオススメはしない。
カルマを引き受けていくスタイルには、ひとつの美があるのもわかるが、そのこともよく知った上で、僕は「そんなスタイルは他人に押しつけろ」と言いたい、僕は自分と友人に対する利己主義者だから。

カルマを引き受けていくスタイルの人にとっては、「ありがとう」「ごめんね」は、終わりの合図になってしまう。
「ごめんね」は免除であって、カルマ引き受けスタイルの人にとっては、「もうこのカルマは引き受けずにいく」ということになるので、「自分の生きる先はこちらではない」という終わりの合図になるのだ、「これまでありがとう」「これまでごめんね」となる/しかしそれは、「カルマを引き受けていくことが生きていくことだ」と、もともと偏って思い込んでいるからにすぎない。
一方、カルマを償却していくスタイルの人にとっては、「ありがとう」「ごめんね」は、いつも「始まり」と「これから」の合図になる。
「いつもごめんね、今日もごめん」「いつもありがとう、今日もありがとう」、人の胸元に飛びつくたび、そう繰り返して進むというスタイルもあるのだ/どちらのスタイルがよいとも言えないが、どちらが覚醒しているスタイルかと問われれば、誰だってうっすら後者のスタイルを指さすのじゃないか、より厳しいほうを指さすのには度胸がいるけど。

「いつもごめんね、そしてこれからもごめんね」、なんてうつくしい厚かましさだ。

人にとって、業(カルマ)のすべては「わかりやすいもの」だ、たとえば極端な話、「エロい格好をした女がレイプされて土まみれになった」というようなことは「わかりやすい」ので、うすうすこちらを追求することは、実は難易度でいうと易なのだった/これに比べると、「徳性」などというものはたいへんわかりにくく、このわかりにくいものに集中し続けろと言われるのは、とてもキビシイ話になる。
この世界に名乗りをあげなさい、身分差は「ごめん」で免除を乞いなさい、「わたしの人生よ」というのもわからんではないが、「いやカミサマの人生だろ」と言われたら反論はできない。
できるオンナだね | comments(0) |
「ごめんなさい」が苦手な人3
「ごめんなさい」には、さらに利益がある。
人は、自分より身分の高い人(胴体とその徳性が優れている人)や、その人と一緒の空間にいると、それだけで「身分差」により、カルマが自動蓄積していくというところがある。
何か「奉仕」をできたり、「上座・下座」が設けられていたり、あるいは金銭を「支払う」ことができたら、このカルマは消せるのだが、なかなかそういう形式が整っていない場合もある、その場合はカルマが自動蓄積していく/身分差がデカいほど、カルマ蓄積の勢いはバツグンになる。
その結果、人は身分の高い人のそばや、あるいはその人のいる空間から、何かしらで弾き出されてしまったり、もう中に入れてもらえなくなったりするのだ、「カルマオーバーによるキックアウト」だと捉えて差し支えない/こうして人は、己の身を救済・向上させるチャンスや、学門にアプローチするチャンスを失ってしまい、その後はさびしくなってしまう。

この、キックアウトのリスクに対しても、「ごめん」という免除クーポンは有効なのだ。
つまり、「ごめん」を有為に使える人ほど、より高い身分の人と親しみ、その空間の利益にあやかれるということだ、もうこれ以上のメリットはないかもしれない。
だから昔から賢い人は、どこかの店やお宅に伺うとき、第一に「ごめんください」と言う、万が一その向こうに身分の高い先生や何かがいらっしゃった場合に備えてだ、先に使っておけば有利なのだから賢いに決まっている、そして退出するときも「ごめんください」「ごめんあそばせ」といって、身分差その他のカルマがくっついてこないように、払っているのだ、なんとまあ周到に己の利益と安全を確保するスタイルじゃないか。
ついでにいうと、「ありがとうございました」というときの「有り難い」というのは、「レアで希少なものです」という意味で、これは「ごめん」の額面を倍増させる掛け算のような役割を果たしている、よってカルマ免除の効果は[ごめん × ありがとう]の演算で定義できる/いくら「ありがとう」だけ増量しても「ごめん」がゼロなら掛け算の結果はゼロだ、これもまたえらい大損だな。

ふだん神社やお寺や教会にお参りしている人ほど、ごめんクーポンの威力は上がっている。

実は、ふだんそういったお参りをまったくしない人は、ごめんクーポンの威力がカスになってしまっており、だからこそ「ごめん」の利益がわからなくなっているということもあるのだ/恋人とひどいケンカをして本当にゴメンしたいとなったら、ゴメンの前に神社に参拝するのも大真面目にアリだよ、何もかもがオワリになってしまう前に。
「身分の高い人や、その人と一緒の空間」「しかもありがたいもの」というと、まさに神社や聖堂なんかがそれじゃないか、そこに「ごめんください」する、そうしてごめんクーポンの威力をいざというときのために高めておくのだ、ホントにただそれだけでっせ/こんな方法、知らないで生きているやつはただの大損じゃないか。
できるオンナだね | comments(0) |
「ごめんなさい」が苦手な人2
は生まれてこの方、謝罪なんかしたことがない。
何か悪いことがあったら、宇宙が悪いと思っている、すべて宇宙のせいだからしゃーない、まあおれは「ごめん」と言うがね……
これは単に、直観力や霊感が優れているかどうかというだけの問題だ、「これは先方のカルマになるかな、それともおれのカルマになるかな?」というのを直観するだけ、先方のカルマになるなら放っておけばいい。
そこで、「これはおれの側のカルマになるな」という感じがしたら、こりゃいや〜んなので、大急ぎでごめんクーポンを連打するだけだ、「ごめん、ほんとごめん」/そりゃカミサマにもらったクーポンに発動を願うのだから、カミサマに祈るがごとき精魂がこもるに決まっている。

「ごめん」は「免除クーポン」ですよ! なぜこれを使わないのかというと、それはもう、何かよくわからないテヤンデェの亡霊にでも取り憑かれているのだろう、ご愁傷様というよりない。
たとえば、二十歳未満は、民法第五条(だっけ?)に基づいて、金銭貸借契約を取り消せるじゃないか、「取り消します」という宣言を相手に向けるだけで取り消せる、こんなもの使わないのは損に決まっているじゃないか。
それと同様に、カルマ沙汰に関連した相手に向けて、「生じたカルマ沙汰につき負担の最大免除を願い出ます」(「ごめん」)と宣言したら、免除クーポンになるという、こんなもの使わないのはどう見ても損にしかならない。
しかも、「アーメン」にせよ「ゴメン」にせよ、「AUM(オーム)」という発音にナゾの神聖な力があるというのは、ヨーガのどの本を見ても書いてあるだろ(だからこそ直接発声が重要なのだった)、これを禁止して生きるとか、わざわざ通学路を地雷原にしてから歩くようなことだぜ、あなた一人だけどこかビクビクして生きているのはそのせいだ、そんな通学路じゃ勉強なんかまったく進まないだろ。

相手に先にクーポンを使われたら、あなたの側はもうクーポンを使えない、どう見てもあなたの側が損をさせられていて草。

「すみません」は使えても、「どうか、ごめんなさい」は使えない人が多いだろう、文面では使えても口頭では使えない人が多いはずだ、「すみません」は「済みません」だから、済んでないことになって損だなあ……/ノーゴメンスタイルの人は、たぶんこの世界のルールをまったく逆に教えられてきたのだろう、残念ながらそのプレイスタイルに忠告をしてくれる人はまずいない、誰がそんなヒデーこと教えているのか本当にナゾだ。
本当に、爆速で身がカルマに縛られていって、まっっったく動けなくなるぜ、のっっっそりしか動けなくなるんだ、そりゃ免除を願い出なかったぶんがすべて乗っかっているんだから当然だわな、今からでもごめんクーポン連打でなんとかするほうが明らかにトクだと思うよ/先方が「おっ、クーポン連打してるな笑」と言ってくれたら、本当にあなたの身はどこかの瞬間でスッと軽くなる、これがマジなのだから不思議なもんだ。
できるオンナだね | comments(0) |
「ごめんなさい」が苦手な人
「ごめんなさい」が苦手な人は、けっこう多い、特に女性に多い気がしないでもない。
一方、まれに「ごめんなさい」が得意な人もいる、「ごめん! あーほんとごめん!」と何度でもゴメンナサイを言いながら、胸の中にすがりついてグリグリゴメンをしてくるタイプだ/もちろん本当に「ごめん」と思っているからそういうふうにできるのではある。
「ごめんなさい」が得意な人は、「ごめんなさい」の本質をよくわかっていて、「ごめんなさい」が苦手な人は、その本質がよくわかっていない/「ごめん」と言ったら「負け」だと思っているのだ、まあそりゃある意味では負けかもしれない。
こんなもの、どちらかというとオモロイというたぐいなので、つい僕は放置してしまうというジェントルマンだが、まあそれにしても、「ごめん」とか「絶対イヤ」という人はけっこう多いので、説得やら説諭はしないようにしている、ただその行き先は一般に思われているところとは違うのであった。

「ごめん」というのは、「御免」と書くのだから、免除を乞う言葉だ、何の免除を乞うているかというと、カルマの負債だ。
自分の「やらかしたこと」や、「足りていないこと」があって、それは自分にはよくわからないのだが、「うわーなんかカルマが増える感触がする、これ負債になるやつだわ」という感覚だけがあって、それで「ごめん、ほんとごめん」と免除を願い出ている(賢い)。
つまり、「わたしごめんとか絶対言わない」という人は、別にカッコイイとかクールとかいうことではなくて、単に「カルマ増大・爆速コースをチョイス」というだけだ、一切の免除なしに「ハイあたし全カルマを我が身に引き受けまーす」という宣言でしかない、そんなことしていたら聖人でさえ復旧不能だと思うが……
本当にアホなのだと思うが(容赦なし)、「ごめん」という言葉が与えられているのは、なんぞのカミサマから付与されたクーポン券だと思ってよい、このクーポン券を連打すればすっげえカルマ蓄積が免除されるのにな/この割引を使わないようアドバイスを受けている人は必ず悪魔からアドバイスを受けているのだ、「謝罪とかしたら、自分の負けを認めたことになる」とかなんとか、そんなイージーなだまされかたをする奴は、もう母国語も読めていなくて、悪魔の側もだますのに退屈するレベルだ。

「ごめん」を禁じた人は、身が重くなり、動きがメチャ遅くなる。

そりゃカルマ積み爆速コースなのだから、まともに動けるわけがない、相当な筋トレ&力ずくを足さないと動けないだろう、もちろん力ずくで動くのでメチャクチャ疲れるし、身体は損耗していく、そこでやる気なんか尽きるに決まっている。
免除クーポンを使わないという、ただそれだけなので、申し訳ないがこのパターンについては、僕は内心で手を叩いてゲラゲラ笑っている、すまんな/最後までいくとどれだけガンジガラメになるのかちょっと興味があるので、ぜひ最後までノーゴメンで突っ切ってもらいたいものだ、いやおれ自身はぜっっっったいにイヤだよ、サイアク人生がミエミエなんてそれこそ「まっぴらごめん」だ。
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季節は汗を掻き、大気の声が満ちている

代社会は、病んでいる。
なぜ病んでいるかというと、「おれ、こーゆーやつには、絶対に幸せになってほしいんだよ!!」という叫びがないからだ。
あるいは、「わたし、こういう人には、絶対に幸せになってほしいの!!」という叫びがないからだ。
さらには、「人の幸せって願っちゃいけない? おかしい?」と、糾弾する眼差しがないからだ、そして糾弾された側に、「おれの負けだ、一杯オゴるわ」と負けを認める姿勢がないからだ。

「おれに比べたらあいつのほうがよっぽど上等だろ!!」と熱く吐ける男がいないからだ。
別れ際、「あなたと過ごせた時間が光栄でした」と言い残す女がいないからだ。
言葉と大気が混ざらないからだ/繰り返す、言葉と大気が混ざらないからだ。
大気には季節が乗っかっている、季節は汗をかいている、大気の情報は全身の皮膚の周囲にある、これと混じって出されるときだけ言葉は本当の言葉になる。

言葉は思いから出るのではなく、皮膚の周りから出る。

人は感動するのではなく、季節するのだ、○○の季節という言い方をする、季節を伴っていない本当の感動はありえない。
わたしに気持ちがあるのではなく、季節に気持ちがあるからだ、たとえ虫は鳴いていなくても、季節には季節の虫の声がする、大気の声だ、人間の皮膚が鼓膜で、大気の声が満ちている、これに混ざらなければ人の言葉ではないし声でもない。

できるオンナだね | comments(0) |
スーッと間合いを詰めていく前提

闘技等でいうと、攻撃といえば「パンチ、キック」だ。
あるいは、フェイントや、見せつけるジャブ、「オラァ」と声を浴びせるのも、攻撃のひとつに違いない。
そして、僕が経験上思うに、すべての攻撃の土台となる、攻撃の基本は、実は「間合いを詰める」だと思う、いわゆるステップインということになるが、跳んだり跳ねたりすると相手が逃げるので意味が無い。
パンチ・キックが、相手からミエミエでは意味がない、よけられるし防がれるに決まっている、相手から見えにくいパンチ・キックでないと意味が無いな、それと同じように/「間合いを詰める」というのも、相手から「見えにくい」、それどころかいつ始まったのかわからないままスーッと入ってきてしまうのが、一番強力な「攻撃」だと経験上思う、これが最大かつ第一の武器だ。

相手から見て「見えない」というのは、力を使っていないということ、加速・減速をしないということ、および「弧を描かない」といいうことだ/僕はそれを「流れて・まっすぐ・ひと調子」と呼んでいる。
この、なるべく「見えない」歩法で、スーッと間合いを詰めていく、詰め寄り方はやがて相手とすれちがう(交錯する)ところまでいくべきだが、この「スーッと間合いを詰めていく」ということをやめてしまうと、もうどんなワザも発揮されないのだ。
自ら間合いを詰めるのを忘れ、棒立ちになってワザやサバキを考えると、もうどんなワザも感覚も役に立たないと心得るべきだ、<<棒立ち・スタンディング状態になると、ジャンルが変わってしまう>>のだ、こうなってしまうともう、あとはバチバチ叩き合いの「ケンカ」にしかならない。
どんなことでもそうだが、ありとあらゆる技芸とプロジェクトは、「対象にスーッと間合いを詰めていく」、その歩法に乗っかっていることが大前提になっている、恋あいだってそうだよ、立ち止まってしまったらもうハグさえできないもの。

立ち止まれば「ぶつかる相手」、流れて詰め寄れば「交わる相手」。

「ぶつかる相手」になってしまったら、もう何の技芸もテクニックもないのだ、たんに力の強い側がそれなりのダメージを負いつつハァハァ勝利するだけだ/その不毛パターンに陥らないよう、まず詰め寄って「交わる相手」を生じさせること、このことは誰しも抽出的にトレーニングする値打ちがあるね。
腕や足をぶんぶんさせることではないし、さらに<<全身をぶんぶんさせることでもない>>、「わたし」がスーッと進むということだ、「わたし」はぶんぶんさせても意味がないからな。

できるオンナだね | comments(0) |
Purge their evil words/われわれの生きるのに複雑性はない

っそ〜またこんなわけのわからん話をしなければならない!!
<<切り裂けよ>>、「リンゴ」という言葉に意味はないが、それはトマトでもなければギョーザでもないという意味を持っている。
われわれが生きるのに複雑性なんてないのだ、あるのはpurifyingだけだ。
「リンゴ」といえば、トマトでもないしギョーザでもないし、その他のすべてでもないだろ、われわれが生きるのに複雑性なんてねぇんだよ(意味不明でホントごめんなさい)。

カミサマのことなんかウダウダ言っていてもしゃあないのである。
天地のあいだにあることや、重さやエネルギーのことは「確かにそう」だろうが、じゃあオメェは何なんだということになれば、正当には「切り裂けよ」としか言えないのだ、だっておれには複雑性なんてないんだから、天地のあいだもヘッタクレもねぇじゃねえか。
そりゃたしかに、万物はカミサマが与えたもうものかもしれないし、エネルギーは地の底から送られてきているのかもしれない、だからといってオメェ、いったん与えられたものはもうおれのもんじゃねえか、それを送り主の顔色を窺っていたって送り主の側は今さら「は?」としか思わねえよ。
カミサマの顔色を窺うってことは、カミサマにつながっていないってこったぜ、つながっているならフル乱舞してすべてがカミサマの意と重なってなきゃだめってことだろ、それをオメェ作為的に重ねにかかるのはインチキじゃねえかよ/精神という熟語には「神」という字が当てられているが、そりゃ出どころはカミサマでもいったんおれのモンになったからにはおれのモンとしてやるしかねえじゃねえか、で、何をやるかといったら「切り裂けよ」と、purifyingでしょと言われたら確かにそうなんだよな、はあ。

100%。

そりゃ切り裂いてpurifyingだったら100%だわな、「リンゴ」は「100%リンゴ」だから当たり前だ/これって何だ、何が隠されているんだ、もうホント勘弁してくれよと言いたい、いいかげん発見アレルギーだしもう発見にレポートが全然追いつかないんですがそれは……
まあ何にせよ、虫の好い話はないのだった、虫の好い話のパターンのひとつは「カミサマに頼ること」で、もうひとつのパターンは「自分頼みになること」だ、じゃあ全滅ですやんということになるのだが、唯一の方法がpurifyingなのだった、われわれの生きるのに複雑性はない/われわれには実体だけがあり「間違い」は存在していない、うーんいわゆるわけわかめである。

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合理化のための、「基本姿勢」のすすめ2

にでも性愛の機能はあって、その欲求もあり、そのことへの憧れもある。
だが、それに駆られて自失するとか、取り乱すとかいうのは、ただの醜態だ。
男の胸元に女が頭をあずけたとき、男は視野狭窄、女も視野狭窄、傍目には「オイオイ」という状態は、ロマンスでも何でもない、ただの「人面獣心」だ。
すごく当たり前のことを言うのだが、男の胸元に女が頭をあずけるという「基本姿勢」を取ったとき、男女なのだから「うつくしく」ないといけないのだ、それが醜くてどうする、そして本人の陶酔度が傍目からの醜悪度に比例するのは誰でもとっくに知っていることだ。

基本姿勢を取る手前で、どれだけご立派なことをのたまっていても意味がないのだ。
そして基本姿勢を取ったとき、「この方は、知性と愛に満ちた『人』」だ見えるか、「こいつは、アホで欲まみれの『獣』だ」と見えるか、単に真相が暴かれてしまうのだ/余計な時間が省かれていいじゃないか。
若年の男女は、誰だって未熟なのは当たり前だ、しかし未熟でも「筋がいい」「筋が悪い」ということはわかる、未熟だが筋のいい男女にわざわざ蔑視を向けるような心の狭い奴なんて狂人を除いては存在しない。
誰にだって性愛の欲求と焦がれがある、けれども、「それ以上」のものだってふつうあるだろ? 「基本姿勢」を取ると、「それ以上」のものを持っているかいないかがバレるのだ、この「基本姿勢」は本来ロザリオに彫り込んでも差し支えない像のはずだぜ。

大変厳しいことだが、「基本姿勢」でグチャっとなる者は、世界から嫌われている。

ただし、世間から嫌われているわけではないので、その点は安心していい、世間から嫌われるのは僕の側だ、とはいえずーっと世間の中にだけいて自分は世界には生きられないというのは、少々さびしいだろう、勇気をもってトライする、のではなくて、勇気をもって引き受けるべきだ(トライとかいうふざけた逃避はぜひやめよう)。
なんで世界に嫌われているんだろう? そのことは、疑問に思えるが、よくよく考えれば、疑問でも何でもなく、おおいに心当たりがあるはずだ、あなたが先に世界を嫌ったはずなので、やはり自業自得を引き受けるしかないのだった(間違っても「基本姿勢」が成り立つ人々に石を投げないように、それをやると後にとんでもないナゾダメージを受けるのが定番だから)。

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合理化のための、「基本姿勢」のすすめ
の胸に、女が頭(こうべ)をあずける/女が男を見上げて、二人は見つめ合う、これが「基本姿勢」になる。
この基本姿勢で、女は周囲の女から見て「あー、いいな」とうらやましく見えないといけない。
また、周囲の女も、そこに「あー、いいな」という明るい肯定と尊重、および自分は「控える」という慎ましさを持たねばならない。
男は周囲の男から見て、「やさしい奴だな」「おやさしい方だな」と見えなくてはいけないし、周囲の男も、そこに肯定と尊重、および自分は控えるという慎ましさを持たねばならない。

「基本姿勢」を取ったとき、何かがグチャっとなるのなら、もう何の意味もない、その手前までの立ち回りには何の意味もないのだ、残念ながら時間の無駄だというしかない。
男女とも、「基本姿勢」を取ったとき、まともな奴かどうかが暴露されるのだ、そこでウフフッとなる女には何の救いもないし、そこでキャラやマザコンが出てくる男にもやはり救いの可能性はない。
「基本姿勢」を取ったとき、その男女が、「性欲の合意」「自己陶酔の合意」をしたら、グチャっとなって、「それ見たことか」ということなのだ/どれだけその手前でまともぶった立ち回りをしていても、けっきょく「目も当てられん奴らじゃないか」ということがバレてしまう、これについての対策はもはや「嘆く」ということしか残されていない。
今さら言うようだが、われわれは誰しも男女なのだ、「基本姿勢」を取ったときに破綻するなら、それはまともな男とまともな女じゃないということだ、こんなわかりやすいことからいったい何年間、われわれは逃げ回っているか。

「基本姿勢」でグチャっとなるということは、「ママの胸元へお帰り」ということだ/当人も周囲もだ。

これは、マジにそうなのであって、しょうがないのだ、「基本姿勢」がサマにならない奴は、必ず「ママの胸元」に当てはめるのがしっくりくるのだ、誰だって他人事として想像を当てはめていけばわかる、いいか悪いかではなくただ「本当にそう」なのでしょうがない、僕は「基本姿勢」を標準にして差別化し、時間や判断のコスト削減をはかりたい。
ある人は、「基本姿勢」に当てはめると「こころ」に見え、「ママの胸元」に当てはめると「冗談」に見える、またある人は、「基本姿勢」に当てはめると「冗談」に見え、「ママの胸元」に当てはめると「こころ」に見える、どれだけ自負があって屈辱的に思えても、事実がそうだからしょうがないのだ/屈辱に震えているところを「僕の胸においで」とは言ってもらえず「ママの胸にお帰り」と言われてしまう、それが「合っている」ので、よもやプルプル震えようなところではない。
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芯があってやわらかい人
一に、「芯があって、感触はやわらかい」を目指しましょう。
第二に、「芯があって、感触はやわらかい、というふり」をやめましょう。
力を入れると、芯が失われます、感触が硬くなって芯はなくなります、これは百パーセントそうなることです。
カチコチだと、不穏があって疲れます、芯がないと、意味がなくて疲れます。

キモチは、力になりますが、力が生じる分、気力は失われます。
力むと、筋肉が興奮し、昂りますが、それは気力ではありません、気力はむしろ減っていきます。
広く透き通った海に浴したとき、力む人がいるでしょうか、そして気力が滅入っていく人がいるでしょうか/「得意になる」のは気力の高さの反対です、それがどれだけ快感であっても。
万事、カッコ悪いことはやめましょう、カッコ悪さの第一は弱いことです、第二は力んで強いふりをすることです。

僕は自分を、「まだまだだな」と思いますが、あなたはそうは思いませんか。

世界のあちこちに目を向けてください、僕は自分の「勝てねえなあ」というものばかり見つけますが、あなたはそれを見つけませんか。
どんな些細なことでも、獲得するのは容易ではないんだなと、僕は思います、あなたはそうは思いませんか/芯があってやわらかい人に、僕は憧れているのです、その憧れるべきに、ムラムラするのはやる気とは違うと思いませんか。
できるオンナだね | comments(0) |
これ言うとすっげえ怒られちゃうけど

れ言うとすっげえ怒られちゃうけど、男をディスっている女には、ろくな女がいない、という事実がある。
女をディスっている男にもろくな男がいないというのと同じだ。
「男をディスっている女にろくな女はいない」と言うと、僕がすっげえ怒られるのだが、「そんなの女性に対する侮辱よ」と言われると「いやいや、先にディスで異性を侮辱しているのはそちらでしたやん」ということになる。
まあしかし、理性的な話にはなりえないのだ、何しろ先方は前もって僕のことがディスリスペクトなのだから、僕が何を話しても先方がハッピーになることはない、先方にとっては僕が交通事故で惨死することでしかハッピーは訪れないのだ(それはとても人間らしいことだ、おれはイヤだが)。

最近は、パワハラやセクハラやLGBT差別が話題になっていて、その差別やハラスメント被害についての告発があると、たいていそれが「バズる」のだが、「勇気ある告発を尊敬します」という、その話はまあわかる、倫理的にはそれは大切なことで、んなこたぁ誰だってわかっている。
ただ、倫理的なテーマでバズったとしてもだ、その告発者のことを誰かがラブなのか? 絶賛はするものの、そのあと何がどうラブでもない、というのが実情じゃないのか。
その……それじゃあなんというか、他人の罪業を告発することではバズるけれども、当人のラブだけでは何もバズらんということなのか? あるいは、やれ「こういうストーリーで幼なじみと結婚しました」的なマンガが描かれると、それに「いいね」が数万ついてバズるのだが、それがバズったとして、その中でいったい誰が誰のことをラブしたんだ、数万におよぶ「いいね」が炸裂していながら、誰のこともラブにはなっていないんじゃないのか、そんなことしていたって友達の一人も得られはしないのじゃないのか。
自分のラブが誰かに届いて、「わたしはあなたのことラブよ」というのがあちらこちらに生じ、それはラブなものだから生涯つづく、そしてわれらの生涯バンザーイとなるのが本筋じゃないのか/何か多くの人が次々にバズりに目を向けているようだが、それは自分のノーラブ・クライシスから目を背けているだけじゃないのか、もしそんなことの動機で社会問題に油を注いでいるのだったら、それはカルマ的にも自分がやがてとんでもない後悔をするたぐいじゃないか。

いくら「出来事」や「揉め事」がバズったって、あなたのラブ体験は一ミリも増えねえよ。

女をディスってミソジニー、男をディスってミサンドリー、ハラスメントやポリコレ棒、研修で学ぶLGBT、どんなショートマンガが三日だけ注目されてもかまわないが、<<あなたの名前を親しく実声で呼んでくれるラブな奴が、どこにどれだけどうやっているのか>>、その問題はどうなった、そちらがどう見ても問題の本筋だったろ。
男をディスっている女に、ろくな女がいないのは事実だ、正義があろうがなかろうが、まともな女が男ディスに熱心だった例を見たことはない、ただそれでも、「かけがえのない友人が10人いるの」と言うのなら、それについては僕は紛れもない祝福を贈るだろう、それ以上によろこぶべきことはないからだ、ただしウソだけはつかないほうがいいぜ、これは「あなた」の問題だから/念のために言っておいてやるが、男ディスにせよ女ディスにせよ、それが誰かに聞き遂げられていると思ったら大間違いだ、そんなところに耳を傾けるヒマ人なんていないのだから、そしてもうひとつ言っておいてやる、さまざまなディスや粛清に声を上げると、同士がたくさんいる気がして心強いと思うが、それは大いなる勘違いだ、<<声を上げている奴の多くは自分に友人がいないから平気で声を上げているだけ>>だ、そのことに正義が一ミリもないとはおれは思わないが、少なくともそこで自分のラブ体験が一ミリも増えないというのは確かなことだ。

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意識をスーッと、沈降、あるいは上昇させて……

識を、スーッと沈降させていく……
すると、深いものが見えてきて、中には悪魔的なものも、見えてきたりすることがある。
人々の相が、普段とは違って見える、人々は実は、思ったよりも危うい世界を生きている……
これ、当たり前なのね、瞑想とかするとそういうものが見える、もしくは見える「気がする」、これは数ヶ月というか数週間もあればカンタンにできるので、あまりこのことに値打ちはない、はっきり言えばこんなことの値打ちはゼロで、頼りない思春期の女の子なんかしょっちゅうこの状態に自動的になっている。

意識を、スーッと上昇させていく……
そうするとほら、光と、高い世界が、見えてくる、人々の、本来の高い相が見えてくる……けれども、これもあまり意味がない、瞑想したら数週間でわかるようなことだ、いや数週間も要らないかな、これ、単にそういう麻薬をキメても見えてくるものなので、別に神秘体験でも何でもない、一種の催眠状態(変性意識)にすれば誰だって見えるようなことだ。
で、何が言いたいのかというと、これは僕の主義なのだが、そうして覗き見したたぐいを、真実だの神秘体験だの思わないようにということだ、それが覗き見できたということは、そこに到達したってことじゃないんだよ、初めは「えらいもん見た」とか思うかもしれないが、そりゃオメェが単に人生経験が少なすぎるだけで……(悪口がひどい)。
最近は瞑想のたぐいが流行っているらしいので、先に牽制として申し上げておきたい、イイデスカ人間というのは、いついかなるときも増長して、自己陶酔をやるものだよ、数週間で何かをちょっと見たら、それだけで自分に特別感を持ったり選民意識を持ったりするんだ、それで別の世界に到達したつもりのフワフワ人間ができあがるんだよ、エラソーに言うけれどぜひ聴いてくれ/数週間で特別な世界を見たつもりでも、それで一流の漫才ができるか、名人の寿司が握れるか、古流剣術の免許皆伝がもらえるか……どれもこれもホンマモンは、「ド天才でも十年かかる」のだ、誰だってハーバード大学を「見学」はできるんだ、でもそこで一線級の活躍ができるかというと、ホレ中学の教科書のに戻って復習&復習だ、だから意識をスーッとかアホなことやっていないで、中学の教科書をフンヌヲヲヲと頑張っている奴のほうが偉いし、結果的に速いんだよ。

瞑想的リラックスは、心身の管理に有効だが、合格ラインは「リラックスしたまま100メートル先まで届く声が出る」なので、まあ鼻くそをほじってガッカリしているべきだ。

それは何も意外なことではなくて、たとえばダウンタウンの浜ちゃんなら、リラックスしたまま「結果発表〜!」の声が100メートル先まで届くだろう、あるいは故ジェームス・ブラウンでも余裕だったろうな、それをオメェ、われわれが数週間、瞑想気分に浸ったからっていって、追いつけるわけがないじゃないの/断言していいがあなたを特別にしてくれる数週間のメソッドなんてこの世に存在しない、一方、あなたにそう誤解させるメソッドはたくさんある(ひでえご時世だ)。
このごろ流行りだしている、ヨーガや瞑想のたぐいは、心身のバランスを獲得するのにはたいへん効果があり、正直多くの人が「やったほうがいい」と僕は感じている/ただし、あくまでそれは「バランス」をくれるだけで、「強さ」をくれるわけじゃない、「しなやかさ」はくれるかもしれないが、しなやかさだけでホンマモンの強さがもらえるわけではない、だからあえて、同じやるなら「しょーもないヨーガや瞑想」のたぐいを僕はオススメしておきたい、特別感や神秘感をアピールしているところはいかにも誤解を生みそうだからと、僕は勝手に思っているのだった。

できるオンナだね | comments(0) |
[大事なこと]合掌するこころの方法2

「ありがたや〜」の思念を自分で満喫するということではないのだ。
指を揃え、胸にピタッとつけて合掌・低頭する(身をかがめる)というのは、「誰でもできる、印の結び方」だと思いたまえ。
「だめ、胸がつぶれそう」というとき、自分の身のうちでそれを処理しきってもいいが、無理なら合掌してベントすること、このやり方を知らないと本当に精神病になりまっせ。
それで、信仰の対象は何でもかまわないし、漠然としていてもいいので、いちおう「カミサマ」に向けて合掌すること、この場合信仰の内容はどうでもいいのだ、ただ印を結ぶ作用としてどこかに「向けられている」という方向性が大事なのだ、こんなもんはコツのひとつだと思ってくれたまえ。

ベントというのはあれだ、原子炉の安全装置だ、原子炉の内圧が上がって「あかん、破裂する〜」という場合、逃し弁を開いて減圧する、その減圧の孔と方法を「ベント」というのだ、それと同じで、こころ(胸)も「あかん、破裂する〜」という場合、合掌と拝礼によって減圧する、それはこころ(胸)の「逃し弁」なのだ。
たとえばわかりやすく、僕があなたに、「愛」を向けたとするわな、そうしたらフツーそんなもん信じないで「なにそれw」という感じになると思うが、必ずしもそうではないのだ、もしその「愛」がマジモンだった場合、胸に流入したらガチに破裂する、という恐怖があるのだ、それで初めからクローズしているというケースが多々あって、実はそのこころをオープンすると、内実は笑えないぐらい「ウブ」ということがいくらでもある/実はこのケースはめちゃくちゃ多くて、オープンがいざ始まると「いい歳こいてめんどくさすぎワロタ」になる(事実なのでここはアマッタレは許されない)。
こころをオープンにして、こころの流入が起こると、ウブ()なこころはすぐ大量の余剰分につぶされそうになるから、その余剰分をあるべきところにお返しするわけだが、この「お返しする」の営為をサービス(礼拝)という/もしこの世界に「カミサマの愛」や「ホトケサマの慈悲」などというものが満ちていて、それがわが身にガチに流入してくるなんてことがあったら、スケールおよび威力において、身がもたんに決まっているわな、それでカミサマの愛を身に覚えた人はやたら礼拝をしまくることになる、五体投地やムスリムのダイナミックな礼拝も、もともとそういう事象に備えてのものだとわかっていれば「なるほど」と見えてくるし、親鸞上人がえんえん阿弥陀様に念仏し続けたということも「なるほど」と筋が通る。
最近は、筋トレがやめられなくなった人も多いし、また、身体が力んだままどうしても力が抜けず、「毎朝身体が超ダルいw」という人もたいへん多いが、これは歳の割に超絶ウブ()なこころが破裂してしまわないよう、「入口も含めて、全体的にカチカチに固めたらいけんじゃね?」という発想から生じているのだ、そんなアホ設計の原子炉に許可を出すバカチンがどこにいる、いいかげんこの仕組みを看破して合掌して身をかがめるていどの超初級の方法ぐらい身につけてしまえ。

事実、「愛」をぶつけると、固まってガタガタ震えだし、なかば「恐慌」する人が続出する。

この数年間、もうイヤというほど目の前に見てきた、ありのままの事実を報告しておく、そりゃおれのことだからチャチい防壁なんかエネルギー的に突破してやるわな、そしたらよろこぶか……というとそうではないのだ、メチャクチャになってしまうのだ、そしてメチャクチャになってしまう人はたいてい、正月にも初詣にいかず「礼拝」ということをまったく知らない人だった、一方「人に頭を下げる」ということがもともと当たり前に身についている人は、そこまでメチャクチャにはならなかった、それもまあケースバイケースだが/とにかく「礼拝」「サービス」ということを知らん人は、愛を向けられても「発狂」するだけなのだ(もうこのパターンは飽きたのであるがままを報告しておく)。
こんにちの世情、「愛」とか、まったくありえないものと前提して、それに合わせたこころがまえで生きるのも、生活上は有利な選択ではある、けれどもそれでは、もしマジモンの「愛」を向けられたとき、しっちゃかめっちゃかになる、それはもうえげつない勢いの視界の変転や妄想の爆発が起こったりするのだ/そうなると、向けられた愛に「サービス」を返納するどころか、胸がつぶれそうな結果、その愛を向けてくれた主を「攻撃」するようになる、これまで育ててきたガマンという悪魔(アートマ・マーラ)が幻覚を見せて人を妄想に陥れるのだが、そうして妄想に駆られてサービス返納どころか攻撃を返したりすると、これはケタ違いの業(カルマ)が生じるらしく、たいてい自身が「どうしてこうなった」という大ダメージの結果になってしまう、これはシャレにならんのでいいかげん正しい仕組みを把握してくれ〜。

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[大事なこと]合掌するこころの方法

囲気だけ荘厳にして合掌ペコリしてもあまり意味がない。
何のために合掌して、低頭し、祈るふうになるか、マジのところを教えておいてやろう。
お前らみたいなモンは、こころが弱いせいで、マジの愛やマジの感謝、マジの悲しみやマジの希望、あるいはマジの幸運やマジの僥倖が胴体に流れ込むと、胸がつぶれるのだ、マジでホンマモンのそれが流入すると、本当に「だめ、苦しい、本当に死んじゃう」となる、本当に叫び声をあげて精神病になる可能性さえある。
だから胸元で合掌する、合掌して……両手の先がとんがるわな、それで頭を下げるというか、身をかがめるふうになるけれど、あれは何をやっているかというと、つぶれそうな胸のエネルギーを、合掌(合わせた手のひら)に流し込んで逃がしているのだ、「こころ」がキャパシティオーバーになったときに、とっさに取る体勢、ベント(通気孔・減圧)して破裂を回避する体勢があれなのだ。

キリスト像や仏像、そうして何かしらのイコンに拝礼するときや、あるいは空や太陽に向けて拝礼するときも、その合掌の向けられた先には「カミサマ」があるだろう、何か苦しいときにはお地蔵さまに拝礼するかもしれない、とにかく合掌して身をかがめて、あれは何をしているのか。
自分の身に起こった激しい「こころ」、それが自分の「身に余る」ので、身が破綻するのを防ぐために、「こころ」のエネルギーをカミサマのもとにお送りして処理を頼んでいるのだ、特に愛や感謝については「ありがたすぎて、カミサマにお返ししないと、身に余る度が高すぎて自分で怖い」ということがあるはずだ、それで合掌して深々と拝んでいる、余剰分をカミサマに返納している。
この方法を知っているから、人は思い切って、こころを開いて生きていけるのでもある/逆にいうと、この方法を知らないあるいは信じないという人は、こころを閉ざしてしか生きていくことができない、そりゃテメーの「こころ」のキャパシティなんてたかがしれているものなのだから、これなしでヨユーで生きているやつは単にこころを閉鎖して生きているだけだ。
そして、ぜひこのことを知っておいてほしいのだが、合掌して拝んで「こころ」の負荷オーバーをベント救済できるという方法を、自分に常に「準備」しておくと、それによってはじめて「こころを開けた」というケースも出てくるのだ、「実はこれまでこころを開けなかったのは安全装置がなかったからなんだ」ということが実際にけっこうある/この方法は本来、大人から子供に絶対に伝授されなくてはならない方法で、この方法を与えられていない者は、そのあと数十年にわたって人の愛をブロックしてしか生きられなくなることがよくある。

おれに感謝すんな、身に余るものはカミサマにお返ししろ。

人から人への「お礼」や「感謝」でことが済むのは、あくまで両者の「こころ」や「愛」のスケール(および威力)が、同等程度で釣り合う場合だけだ、それが釣り合わない場合なんかいくらでもあって、「身に余る」ということはしょっちゅうある/そうして身に余るものを正しくお返ししないと業(カルマ)が溜まってえらいことになる、誰でもそういう直観はあるものだ、だから何であれ正しいところにお返ししたい……として身をかがめる行為に出ることを「サービス」という、サービスが「礼拝」「勤行」の意味を持つことは辞書を見たらちゃんと書いてある。
人は、「サービス」でお返ししないと、業(カルマ)によって身が(特に胸が)つぶれてしまう生きものなのだ、どいつもこいつもやり方をちゃんと覚えろ/合掌を額に当てるやり方もあるがこれは高度な思念に用いるもので一般的ではない、基本は胸の前(両乳首の中点)だ、そこに手首というか親指の付け根をピタッとつける、合掌に胸を乗っけるぐらいのつもりでよくて、合掌が胴体から浮いていると効果はだいぶ減ってしまう、そして両肘をなるべく張らないこと、腕が力むとただの上腕筋のトレーニングになってしまう、あくまで胸(こころ)のエネルギーの処理不能分を合掌からカミサマに向けて処理をお願いするということだ、この処理を知らないと人はこころの過剰分でハチャメチャに苦しんでしまう。

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