☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
クソ男より女の子たちへ
際、傲慢になんかなりきれたもんじゃない。
自己陶酔のやり方がわからない、そんなヒマはないと痛感しているうち、本当にやり方が完全にわからなくなった。
僕の慾望は僕のものではない、世界の慾望だ/世界が世の中に裏返る前にあった、裏返る前の慾望だ。
愛というのは世界の、裏返る前の慾望だ、僕がすべての女の子を愛するのは、世界の強制であっておれの意志じゃない、もうおれの意志というやつはどこに行ってしまったのか正直よくわからなくなった。

もともと、二十数年前から、そういう感覚はずっとあった。
僕が女の子にフラれたら、僕はかまわないが、何かもっと大きなことにおいてマズい、それが僕の失態だと思っていた。
女の子を、いい気分にさせないといけないのだ、それもおだてるとかではなく、何かもっと、荘厳なことがあったと思い出させるような形で/そのためには僕がフラれているとかそういうことは、二の次というか三の次というか、五十億の次ぐらいのことだ。
女の子は、どういうアホがお好みだろうか、お好みといって、そんなことはわかっている、女の子は自分のお好みに振り回されている小さな自分がイヤなのだ、僕はなるべくクソ男になって、女の子に愛に気づかせてから死滅せねばならない。

おれの愛なんかどうでもよく、主題は女の子の愛なのだ。

女の子の愛が途絶えているのは、女の子自身にとっての不幸であり、女の子自身にとっての危機なのだ、その危機を救うためには、クソ男が活躍しなくてはならない、女の子が真の自信を得るのは、紛れもないクソ男を紛れもなく愛したというときだから。
最近は僕も、女の子にモテるようになって困っている、女の子に愛に気づかせるためには、クソ男でないとダメなのだ、クソ男としての次のスタイルを考えないといけないのだろうな。
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ウィットに富んだハンサム野郎
チロー選手が現役を引退した。
僕は野球はまったく観ないのだが、それでも、ひとつの伝説が締めくくられたということぐらいはわかる。
今ならYouTubeで、最後の打席から最後の外野、最後ベンチに戻るまでの動画が上がっているから、ぜひ観ておくといい。
それは同時代人の目撃すべきことであって、ずっと先、自分がどういう時代を生きたのかの標(しるべ)になろう。

野球のことは全然知らないが、イチロー選手、もといイチロー元選手は、野球選手には珍しいというか、例外的な、ウィットに富んだハンサム野郎だったと思う。
ずーっと野球を愛し、その裏側では、ずーっと笑いを取りに来ていたようなところがある、そんなところでも首位打者を獲りたいのかという/あの小ボケTシャツ群は、まとめて展示しておけばそれだけでチャリティ展覧会が開けそうだ。
人はふつう、野球選手を野球選手として見るものだが、ことイチローに関しては、ただ「イチロー」を見ていた気がする、歴史上に冠たる技術を持っていながら、人は彼をまったく技術者と見ない、なんとなく野球選手と酒を飲みに行くというより、矢沢永吉とバーに飲みに行くほうがぴったりはまるような印象がイチロー元選手にはある。
あのウィットに富んだハンサム野郎が、たとえ引退したとして、あいつが日々バッティングの理論を考究せずにいられるのだろうかね、ぜひ老人になってからも近隣の草野球に突然乱入して荒してまわる迷惑なジジイになってほしい、そのときTシャツには「生涯現役」と書かれているだろうか。

誰かが掲げた画板に、「ありがとうイチロー」と書かれていた。

おそらく僕のように、野球をまるで観ない人こそ、逆にイチローのファンが多いと思う、またダウンタウンの番組にでも出てこないかな、場合によってはサイレント図書館にブチこんでやればいいのに笑。
同時代人として、また世代として、昔から「すげー」と言い続けた人が、今も「すげー」のままひとつの伝説を締めくくったことが、妙にうれしくて、紛れもなく感動的だ、こんな純粋な感動はひさしぶりだな、「平成の最後に感動した」と、僕はずっと先になっても言い得るだろう。
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女とホテルは高級品がいい2
やホテルは、高級品がいいのだが、なぜ高級品がいいかというと、高級品は気持ちいいからだ(二回目)。
そして、高級品が気持ちいいということは、かけがえのないことだが、そこに「美」があるかというと、「美」は別にない、そもそもなぜ高級品に「美」を求めるのか、そのことの脈絡がそもそも飛躍している。
女にせよホテルにせよ、高級品なら気持ちよくて、その気持ちいいというだけで十分ではないのか/どうも一部には、高級品だから「美」のはずという、素っ頓狂な誤解と要求を持っている人があるような気がする、「美」というのは価格とはまったく関係ない、うつくしい高級品もあるがうつくしい民芸品もあり、その逆の、美のない高級品も、美のない民芸品もある。
そんなこと当たり前で、たとえばオンボロの国公立大学と、豪奢な私立大学とで、どちらの学生生活に「美」があるかなどは、前もって決まっているわけがない、ただ豪奢な敷地と建物のほうが気持ちいいというだけだ、どうも「美」の体験を得るのに方途がない人は、この「高級品」ということと「美」ということの区別がついていないような気がする/念のため、高級品の女は気持ちいいけれど、それが美に至るかどうかは別だ、それが美に至るのなんて彼女がおれの相手をしたときだけじゃねーの。

僕は、美を愛すると共に、美とは無関係な「高級品」の気持ちよさをよろこぶことにも、一定の光を見いだしている。
僕が思うに、美のあらざるものは、ただちに醜というわけではなくて、醜というのは、美のあらざるものが美を主張することを指しているのだと思う/だから美のあらざるもの、ひたすらの高級品というものが、「気持ちいいよ〜」とだけ純粋に主張して、またそのように純粋に認められる場合、尊厳に切り取られた美が逆に浮かび上がるような気がしている、美を主張しない高級品は結果的に美の脇役を見事に務めていると思うのだ。
その意味で、見事に美の脇役を務めている高級品は、そうとわかっているのでリラックスしており、そうするとこちらもリラックスできる、そうなると高級品というのは本当にイイのだ/逆にその意味で、美と高級品を取り違えているたぐいは、プライドの方向がズレているため、せっかくの高級品なのに、こちらが息苦しくてしょうがないということがある、それはたいへんもったいないことだ。
美というのは、ディオールを着せても美だし、ジャージを着せても美だ、もし豪奢な本殿を取り壊したとき信者がまったく来なくなったとしたら、その教団は何一つ教えてもいなかったし、何一つ信じられてもいなかったのだろう/高級品は美ではないし、かといって質素と倹約と赤貧が美ということではない、高級品はただ気持ちよく、安物はただイマイチというだけだ、そこに美醜を探すこと自体が本質的に醜ということなのだった。

血みどろの夫婦喧嘩に、村正と菊一文字を持たせても、やはり血みどろの夫婦喧嘩だ。

それなら当然、一刀斎と柳生が、塩ビパイプで勝負したほうが美があるのだ、まあそんなことはもういいけど……/僕は高級品を愛しており、なぜ高級品を愛しているかというと、高級品が美に干渉しないとき、「美に干渉しない高級品」がうつくしいからだ、高級品じたいの気持ちよさにハアハアするということを愛しているとは僕は表現しない。
僕は高級品を、結果的に愛しているが、高級品をバカスカ買うとお金がなくなるので、高級品を購入するということにこだわってはいない、高級品はたまに買うか、どこかから湧いてくるか降ってくるか、当人の了承を得てドロボーするかのいずれかだ、人を傷つけなければ何でもよかろうし、高級品だって美の獲得に比べれば自分の高級性なんてどうでもいいと思っているのだ、そういう真の高級品は本当に掛け値なくうつくしいな。
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女とホテルは高級品がいい
やホテルは高級品がいいのだが、なぜ高級品がいいかというと、高級品のほうが気持ちいいからだ。
かといって、気持ちよさしか追いかけるものがない奴は貧しい/「高級品がいい」ということは、高級品を得たら解決ということではない。
高級品を得たからといって、何も解決ではないし、満足でもないが、それを逆転して「高級品なんか要らない」と言っているのもアホだ、アホというか何か不要な無理が掛かっている。
高級品は気持ちがいいのだ、それはかけがえのないことだが、その代償に、高級品に高いカネを払うことは、あまり気持ちよくないのだ、だからドロボーしないと気持ちよくないということなのだが、店頭の高級品をドロボーすると警察に追われるので、高級な女をドロボーするだけで引き下がろう、高級な女をドロボーするぶんには、当人が了承してくれたらそれで済むので警察には追われなくて済む。

コンビニの店員に包丁をつきつけて、三万円を強奪すれば、強盗犯として刑務所に三年ぐらいぶち込まれるかもしれないが、冷静に考えると、三万円を強奪するより人を三年間も監禁するほうが罪は重いに決まっている、やれ法律だの犯罪だのといっても、人を刑務所に入れることに罪がないわけではない/法律を破っていなければ違法ではないが、冷静に考えるとやはり、三万円は「しゃーない」で済んでも、人を三年間も監禁したら「しゃーない」では済まされない、合法だからといってそのヒドさは消えない。
それでもなぜ、三年間も人を牢獄にぶち込むかというと、強盗事件に対する抑止力になるからだ、そして根本的なところ、目には目をという奴で、罪を犯した奴には罪をぶつけてやろうという力業で、われわれは犯罪事件を抑止しているのだ、ひでえ方法だがわれわれにはそうするしか犯罪を抑止する方法がないのだからしょうがない。
われわれは基本的にバカなので、ママに教えられたとおり「強盗は犯罪です」ということしかわかっておらず、ビビりながら三万円を取っていった青年を三年間も牢獄にぶち込むということが、なかなかに罪深いことだと気づかないのだ、何しろママはそういうふうに教えてくれないものだから/しかし冷静に考えると、コンビニでビビりながら三万円強盗した奴が三年間も刑務所にぶち込まれるのは、単純な意味においてカワイソーだ、三年間もぶち込まれるぐらいなら三万円ぐらいどこかで稼げただろうに。
話は変わるが、やはり女とホテルは高級品がいいのだ、なぜいいかというと気持ちいいからだが、気持ちいいから高級品なのではなく、高級品だから気持ちいいのだ、この高級品だから気持ちいいということに、ハアハアして解決や慾望を探すのがいちいちバカな奴なのだと思う、人には慾望があるが、慾望というのは「高級品だから気持ちいい」ということに躍起になることではない、なぜそんな当たり前のことに躍起になるのか、それはドロボーを刑務所にぶち込むのを正義だと思っていることと同質だろう。

三万円の女と三万円のホテルにハアハアする人は、三万円の強盗にもハアハアする。

冷静に考えると、三万円の強盗を三年間も刑務所にぶち込むのはカワイソーだし、法律と裁判でそのように判決されたとしても、その三年間で何かが解決するということはまったくない、何かそれなりのことをしたような気になるだけだ、はっきり言ってすべてがムダでしかない、このムダを省けないのがわれわれの現実のテイタラクではあるのだけれども(それでも、この本質を見失う奴はどうかと思うぜ、行政のする何千億の使い込みに比べたらあまりにもカワイソーじゃないか)。
高級な女と高級なホテルは、とってもいいのだ、高級だから気持ちいいのだ、だがそれは気持ちいいというだけであって、何かの解決になりはしない、そりゃ気持ちいいということが何かの解決にならなくていいだろ、そんなところにまで解決を求めている人はよほど解決の方途がないのだ/解決の方途を自分で掴んでいりゃ、高級品は気持ちよく、安物はイマイチってことだけしかない、そして三万円の強盗と三年間の刑期は、「ただのロスだな」としか見えなくなる、人を傷つけていたら問題外だが、そういうことじゃなくて……方途を失った人は高級品と犯罪という、つまりワイドショーネタで興奮するようになるが、そうして興奮するから高級品の側もいい迷惑をしていると思う、ほとんどの興奮は方途がないというヤバさを隠すために発生しているのではなかろうか。
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春の日にまったく新しく

在の状況というのはまったく関係がない/二千年前でも、二千年後でも。
芸術は新しくなくてはならないと言われるが、それで言えば、新しさにおいてそれは芸術でさえあってはならない。
芸術なんてたいそうなものである必要はないし、何かの役に立つ必要もない、何かの足しになる必要もなく……そもそも「何か」である必要さえない。
わたしの魂はこの世界から一切の干渉を受けない/この世界には作品があるのではなく作品しかない。

二秒前のものはすでに使えず、またそれを使う理由もない。
なぜなら時間の歯車は回転などしていないからだ、永遠はずっと続いており、永遠に書き込まれたものだけが永遠に機能し続ける/間違いさえ許容される。
冬が過ぎたから春が来るのではない、春はただ春であって、どこかから現れてくるものでさえない、春はただの春だ。
作品が人のこころを打つ必要はないし、それは誰かの何かである必要さえない、もともとわれわれ自身が誰かの何かではないからだ、ただ世界があって、その世界は千変万化するだけだ、時間の歯車なんて誤解はしないかぎり、世界が世界でなくなったためしはない。

たとえばこの春風はわたしの作品だ。

作品とはもともとこの世界にあるものを指し、もともとこの世界にあるものをわたしそのものが認めるとき、それは作品となる。
もともとこの世界にあるものだけを……そしてもともとこの世界にはないものの第一が、時間の歯車を錯覚させられた、錯覚なる主体のわたしである、時間という錯覚が錯覚でしかないわたしをときおり創りだした/まったく新しいものとは過去も未来もないものである。

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学ばずに読めよ
場上、また状況の上で、いろいろ報告じみたことも書くけれどね。
こんなアホみてーな記事群を読んでいるあなたは今、幸運だ、これからも学ばず読め、何のために読むかといったら「愛しているから」と答えて読め。
「読む」というのはもともと何かのためにすることじゃない、愛しているから読むだけだ。
そして愛することなしに何かだけ学ぼうとすることは実に薄っぺらな学習とトンチンカンな性癖をしか残さないだろう、愛しているから読むという奴だけが唯一まともだ。

なんというか、幸いなことに、おれの魂は、今ここに来てもなお死んでいない、なんつーしぶとい奴だと、われながら呆れかえるほどだ。
もし僕の魂が死んだなら、僕は即刻、このわけのわからん記事群を停止するだろう、たとえどれだけ知識や役に立つノウハウがあったとしてもだ/役に立つけれど愛のないものを散布するようなクソ係に僕はなるつもりはない。
おれの書き話したことから、あなたが学び、あなたが工夫したところで、それは「あなた」だ、その中に僕の存在はない、そんな学習なんぞ本当の足しにはならないのだ、あなたの中に僕の存在が混ざらないかぎり僕の書き話すことをいくら学習しても無意味なことだ。
手を変え品を変え、場面に応じていろいろやっているけれど、けっきょくたどりつく唯一の方法はひとつだ、僕が書いてあなたが読むとして、あなたが僕を愛さないならそのことは何一つ足しにはならない、そして何かを愛するということは、もう足しにならなくていいと認めるということだ、それでひとつのことが満ちたということだ。

書いた読んだ愛したという、単純なことをゼロで生きていくのか。

別に僕などでなくていいのだが、誰かが愛に接続して書き、誰かがそれを読んで愛さないといけない、そういうことがないかぎり、本当には何一つ満ちないだろう、いくら学習をしても前もって満ちないことが決まっているなら学習するだけ努力の損だ。
こんな単純なことから、世の中はどんどん離れていく気配だが、時代の流れがどうであれ、けっきょくわれわれアホどもは元のところに戻ってこざるを得ない、「愛のあるものを愛さないと満ちないんじゃない?」、こんな当たり前のことにどう工夫する余地があるのか、僕は全員を無視してでもこのひとつのことを見失わずにいく。
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have been happy
のご時世、誰かが誰かに惚れるということがない。
それは、惚れるに値する誰か――もしくは「何か」――が消失したからだが、誰にも惚れたことがない人生というのは、きっと根本的には残念賞にしかならないだろう。
おれが視ている景色は、まったくの別物だ、いつからか女たちは自己主張を獲得し、そのかわり「惚れる」という現象を失っていった。
別に女に限ったことではなく、若い存在のすべてが、自己主張を獲得し、「惚れる」という現象を失っていった、だからますます、弱い者は自分が生きる価値を自分で手放していった。

おそらく、「獲得」と「惚れる」がそれぞれ対極にあるのだと思う。
何かに惚れぬいたら、いっそこころは穏やかになり、もう何を獲得しようとも思わなくなるものだ、そりゃ惚れているのだから当たり前だが……
おそらく、人がかっこよくなる唯一の手段は、それだけなのだと思う、誰かに惚れぬいたとき、いっそこころは穏やかになって、「ああ、もうわたしは、この人さえこの世界に存在していてくれればいい」となり、結果的に、くだらない吾我から離脱して存在し、動くことができるようになる、それは当人がかっこよくなることへの唯一の入口だったのだ。
「着てはもらえぬセーターを寒さこらえて編んでいます」なんて歌があったが、そんなものは、ただ自分のやることを見つけていないだけの歌だ、だからこそ一般にウケるのだろう、誰かに惚れるというのはそういうことじゃない、それは突き抜けて静かなもので、一般にはまるでウケず、また一般にウケる必要はまったくないものだ。

惚れるということは、「幸福の完了」だ。

どこかのスキー場で流れる定番ソングだと、惚れるはもとより、惚れなくてもとにかくゲット、そうなるとわたしは高ぶってハッピー、と捉えられているようだが、そういうハッピーは妄想の中でそれっぽく説得力があるにすぎず、実際にはそうはいかない、なぜ実際にはそうはいかないかというと、高ぶってハッピーが満たされた瞬間には、「世界」から切り離されているからだ、そして世界から切り離された人間がその先に見上げて進んでゆける方向はもうない。
惚れるというのは、いわゆる「惚れた側の負け」という現象があるが、それは人の負けであり、そのかわり世界の勝ちということでもある/惚れるということは、自分の獲得から脱力するということだが、同時にもうこの世界に生きて存在した価値があったということだ、誰だって「あの人がいる世界に自分は生まれ落ちた」というときだけ、この世界の空に意味があってそれを見上げることができる、それはわたしの空じゃなくてもよかったんだと発見する心地だ。
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春風
白くないといけないし、かっこよくないといけないし……
ただそのかわり、世界が違って見えるぜ。
土曜日はパーティだなカモン、パーティに来なくても春は来ているぜ。
物語があればいい、物語があるということは、物語なんかわかんねーということだ。

空から何がやってきているのか。
春が来ているのは間違いないので、春という物体がやってきているとしよう。
誰かに向けて何かをするということがない、おれはおれのことしかやらない。
感受性ではまったくないってやつ、こんなものおれだけ知っていりゃいいことだ。

女性には「女がいた」を勧めたい。

畑にはダイコンが植えられているように、春には女がいたというのがベストだと思うが、男尊女卑とか言うやつは消防車のホースを喉奥に突っ込むように、バルブを開けば正解が炸裂するだろう。
知るからいかんのであり、物語の中に物語はねえよ、ストーリーを貼り付けたら物語になるというのは大いなる欺瞞だろうな。
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(映)
のときのような
人の姿には戻れない
だが僕は忘れずにゆこう
僕たちは何も見ていなかった/光の中で/夜の中で/すべてを得ていた

何もかもわからなかったのだ
まだわかるということを識らなかった
変わったのは時代ではなく世界だ/僕は忘れずにゆこう/わかってから得るものだと思い込む愚かしさを
僕たちは何も見ていなかった/映していた/事実などまだどうでもよかったあのころのこと

夢が映っているのだと思っていた

そのとおり夢が映っていた
僕はあのときの夜のすべてを記憶していない/忘れていないから今も記憶にはならない
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しょせん
を助けることに価値があるのであって、女そのものに価値があるわけじゃない。
音楽を聴くという風習は僕にはない/景色にはいつも向こう側がある。
固定されたものはすでに死んでいるというか、受け身には一ミリの値打ちもない。
価値を受けていても生きる理由にはまったくならない、それではドラゴンの一匹でさえ倒せない。

誰かのことが大切なのではなく、護り助けるために戦うだけだ、それではじめて、景色の向こう側へ向かえる。
価値を認識せずに済むのだ、いやそんなごたくもすでに飛んでしまった。
僕はけっきょく、先生には向いていないな、僕が本当に知っていることは限定的すぎる。
便宜上は、愛とか光とか呼んだりするのかもしれないな、だが僕にわかるのはせいぜい、かっこいいということぐらいだ、何かがわかっているときの僕は、もう僕でも何でもないのだけれども。

わかるものは要らない、ひとつになった世界とやらも要らない。

守り助けるために突っ走った、景色の向こう側へ、そのときだけで十分だ、僕にはこの世に生まれ落ちたような記憶はない。
僕にはこの世界のことと世の中のことが何一つわからない、それは疑問を持ったことがないからだ。
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恋じゃなくても

憩しないといけない、とわざわざ書いたのに、休憩しにいかないのは不誠実だと思い、日帰りで温泉旅行にいってきた。
温泉宿をはしごして、公衆浴場にも寄って、帰り道にふと、もう夜だが、西湘バイパスを走り、窓を全開し、そのまま江ノ島にいってきた/ところで、夜の江ノ島って、爆走バイクが集まってくるのはなぜなんだ、まあおれは迷惑していないからぜんぜんかまわんが……
岸壁から岸壁へ、ふらふら歩いていると、駐車場に迷いこんだ/駐車場はすでに閉場していた。
ふと、管理所に立っていたおじさんがふらふらと寄ってきて、「ん? 車出す?」と訊いてきた、「いえ、すいません、そのへんを歩いていたら、道がわからなくなって、ちょっと通らせてもらおうかと」「あ、どうぞどうぞ。どなたでも」。

この季節に箱根なんか行くと、どうしても人が多いので、今回はあちこち、主要地からずれた温泉を漁った/今はインターネットで、掛け流しがいくらでも検索できるからすごく便利だ。
温泉行楽というより、ハイキングやツーリングの途中で、温泉に寄るという人が多いようだった、そして、どうしても年々、汚い声で話し続ける老人が増えてきていると感じざるをえない/と思っていると、若い少年のような三人組が脱衣所に入ってきて、この三人もひどく汚い声で話していた、逆に今回の旅で「汚い声のルール」に気づかされた気がする。
汚い声を出し、かつ、汚い声を出し続ける人は、本当にこころの底から、自分だけがこの世界だと思っているのだ、だから自分の話をずーっとこの世界にぶちまけている、自分の焼ける臓物の声をずーっとずーっと……/きっと一秒たりともこの世界を生きたことがなく、徹頭徹尾、自分の中だけを生きているのだ、だから自分にしか関係のない話を、自分の熱量に合わせてずーっと話している、当人はそれで「世界を生きている」つもりなのだろう、当人は自分が何をぶち壊しているのかずーっとわからないまま、わけのわからない目覚めをし、わけのわからないまま眠ることを繰り返している。
今回、別に何を考えて小旅行に出たでもないが、結果的に、江ノ島の駐車場のおっちゃんとだけ出会うことになった、そういうときは、なんだろうなあの感じ、恋じゃなくても照れくさいのだ、おっちゃんは一目で僕が好きだったからフラフラ〜と寄ってきたんだろ?

「好き」は「魅力」の反対だ。

は? と訝るしかないような話だが、こっちが真相だ、「魅力」というのは人に高圧をかける発想だが、実はそこに生じる「好き」はニセモノなのだ、正しく生じる「好き」は気圧ゼロ、真空だから「吸い込まれる」という形で「好き」が生じる。
そういえばサービスエリアのフードコートで、五十過ぎぐらいのきれいなおばさんが、きっと割と幸せな不倫旅行か何かの様子だったが、僕が斜め前に座るとそのきれいなおばさんは、目を丸くして口をポカーンと開け、ずっと僕のことを見ていた、今にも話しかけられそうで、ありゃりゃと焦りながら僕はラーメンを喰っていた/もちろん僕から向こうの、せっかくのご旅行に水を差すわけにはいかないので、僕はそそくさと去ったが、人と人とのあいだに起こっている本当のことはそっちのほう、出会うというのはもうどうしようもない、初めから「好き」の状態で出会っているのだ、それは恋じゃなくても常に照れくさいものだ。

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かわいい女の子がいい思いをする方法2
に男尊女卑だというのなら、その「尊い」と「卑しい」を、一般的な男尊女卑の感覚から、700倍ぐらいまで引き上げてくれ、それぐらい男尊女卑になれば、ようやく何かの構造に嵌まりはじめる。
男尊女卑といって、そのスケールが小さいから、しょうもない諍いが起こるのだ、「尊い」と「卑しい」の格差というのは、ちょうど太陽のフレアバーストと猛烈な下痢、ぐらいに捉えればいい。
人は、猛烈な下痢になると、大ピンチであって、それは太陽のフレアバーストで地球が焼かれるのと同等にヤバイ状況かもしれないが、同程度のヤバさでも、起こっている事象のスケールは違うのだ、あくまで自分の身だけに限定した場合のみ、フレアバーストと下痢は等しい、と言える。
男尊女卑をうんぬんするより、何が尊くて、何が卑しいのかの問題だが、尊いというのは「なぜこんなことに夢中になれるの」ということであり、卑しいというのは「なぜこんなことに熱中してしまうの」ということだ、尊いとは「やりたくてもやれないこと」であり、卑しいとは「やめたくてもやめられないこと」だ、このスケール格差を無理やり平等に扱おうとするから、舞台上にフレアバーストの誰かが出現せず、猛烈な下痢みたいな誰かが出現してしまうのだった。

卑しいということは、卑小ということであって、小さいということだ、劣等ということではない、男尊女卑というのも多くは「男優女劣」という誤解にすり替わっていると思う/こういう誤解のまま平気で驀進できる人は、残念ながら知性がアレなのだ、そういう人と意気投合するべきではない。
卑小の反対は、偉大とか雄大とかいうことになるが、つまり、雄大な男に「あら、ネクタイが曲がっているわ」と、女がネクタイの手直しをしてやるということが、まともだったということだ、ただしこの場合、男が雄大でなければ話にならない、男が小さなことでウジウジ悩んでいたり、眉毛の端っこをキチキチ調えていたりすると、これは雄大ではないので男女共「卑小かよ」ということになる。
問題は、男が雄大であれるかということと、女も、雄大であれるかということなのだ、ところが今や、男も女も、揃って卑小の側へ傾いており、つまりヒゲボーボーで仕事と学門に突っ込んでいるような男がいない、こうして男女とも卑小の側に向かっているのに、雄大のポジションに片足を突っ込んでいるのが問題なのだ、猛烈な下痢でハラがヤバイ奴は決して太陽神の力に接続しているのではない、トイレと医者にいくべきであって燦然たる舞台で自己主張するべきではない。
このあたりの原理を理解しないまま、雄大さのポジションに片足を突っ込んだ卑小マンは、懲罰のように艶めきや愛らしさを失っていく、だからもしかわいい女の子がブスのひどい女になりたい場合、小さなことを気にしながら平気で雄大さのポジションに踏み出せばいい、そうしたらテキメンにブスになっていくだろう。

立てている旗から、あなたは腐り落ちていく。

大きすぎる旗を立てていると、そこに大きすぎる霊が干渉してくるから、あなたの霊力が打ち負けて、ガタガタにヘバっていくのだ、霊力が打ち負かされると、カルマパワーで巻き返すしかないのだが、カルマパワーで巻き返したら、霊力はますます悪霊化していってしまう/旗サイズを700分の1にしなくてはならないのだが、そうするとあなたは友人に負けるので絶対にそのことを甘受できないだろう、怨みがきっちり残ってしまう、いったん大きな旗を立ててしまうとそういう騒動になるのだった。
未発達の土人じゃあるまいし、旗がデカイのがエライとかテンションあがるとかいうのはいかがなものか/僕は今一般の女性と相対すると、いつも「そんなデカい旗は、おれには立てられね〜」と感じる、僕の霊力の20倍はないとそんなデカい旗はムリだぜ、しかし世の中の風潮は、「もっと旗をデカくしよう」という一途なのだった。
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かわいい女の子がいい思いをする方法

ディファーストなどというのは救いがない。
そして、男尊女卑などというのは、さらに救いがない。
研究の結果、わかってしまったのだ、レディファースト等を言っているのは残念ながらハズレだった。
なぜハズレかというと、これは神話うんぬんにはまったく関係なく、ただのハズレなのであった……

身分の違いを、愉しむものだったのだ。
もちろん、体細胞のひとつごとを見たり、呼吸器や循環器を見た場合、人それぞれに身分の差などない、ノンフィクションにおいては当然そうだ。
この、ノンフィクションとフィクションをまぜこぜにした、つまり知性の低かった人たちが……まあ何でもいいや、かわいい女の子がいい思いをするには、かわいい女の子という身分を愉しめばよいのだった。
かわいい女の子として、チヤホヤされたり、自己実現を発想したり、「トレーニング」をし始めたりすると、それは悪夢の序曲なのだった。

あなたが男性と付き合うたび、ブスになっていくのは、あなたが男に尊重されているからだ。

繰り返すが、男尊女卑みたいな状態になっている男はアホだ、表面だけなぞるからそういうアホになるのだ、すでに男女ではなくなってしまった憐れな者たちだけが、男尊女卑などという人為的な思想をなぞって男女のふりをしなければならなくなる。
レディファーストにせよ男尊女卑にせよ、それは「面倒くささの源泉」としてしか機能しない、僕はレディファーストをいくらでもしていいし、実際にそうしてきた者だが、結果的に、レディファーストの中に棲んだ女はどんどんブスになっていった、そういう事実が出現してしまうのはどうしようもない。

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しょうがないこと(listen)

イプ被害者にチンコを吸わせて何が悪い?
おれが加害したわけじゃない、おれは腕力の一切を毛嫌いしている。
もしおれが、まともな男で、女に何か、まともなことをしてやれるなら、それは女をレイプ被害者でなくしてやることだ。
女がまともな青空とまともな未来を見上げられるようにしてやることだ。

しょうがないのだ、世界を創るためには、これぐらい当たり前でなくては。
世界を創るというのは対話をやめるということだから。
あなたに救われたんですと言われることは多かったが、おれは救った記憶はない、救ったつもりはないし、そもそもおれは過去を持たない。
考えたら負けという言い方がある、Tさんはよくそういう言い方をした、おれはもちろん侮蔑した、考えたら負けというより、そもそも負けの可能性がある時点でそいつはとっくに負けている。

しょうがないのだ、世界を創るためには。

僕のことを、道徳の側面から、あしざまに罵ることは可能だ、とてもイージーなことだ、ところがその当事者は何も面白くない、正当な人にいつも言えることは「お前の話は面白くない、それも生涯に亘って」だ、この問題に向き合うからにはしょうがないのだ。
作品を通してしか、伝えられないことがあり、直接おれに会いに来た人は、みな「九折さんがやさしくて穏やかでびっくりした」と言う、おれは自分の連れている女に世界を創らせるような苦行をさせるつもりはないからだ、だが世界を創ろうとするのにおいては、魂の厳しさはしょうがない、負けの可能性がある時点で、そいつはとっくに負けている。

恋女のマインドね | comments(0) |
美女更衣室
というのはいつだってキツく、そうしたものだけがうつくしくあれる。
僕がこんなしょうもないところに、しょうもない何かを書き遺しているのも、誤解があるのかもしれない、僕は何かを発信しているのではない。
僕はこうしたことを、 "やめられない" ので、ここに書き続けているだけだ、街中でガキを殴り続けて暮らすわけにはいかない、その点ブログ記事なら誰にも通報されないだろうということで、続けているだけだ。
重要なことは、ブティックに行ったら、着替えている美女の試着室に、首を突っ込むことだ、それ以外に何がある? 僕が女物のセーターやコートを見てホエーとくつろいでいたらどうなる、それはクソみたいなデパートだ、この世界に首を突っ込むということは、女の試着室に首を突っ込むということだ、そこに首を突っ込まないと見えないものが当然あるのだ。

連想ゲームほど、つまらないものはない、だからこそ連想ゲームはお茶の間でウケる、最も退屈な脳は連想という尿を漏らすからだ。
夢中で生きてきたという話をした、あれはいい話だった、けっきょくみんながどう足を引っ張っても、おれをスポイルはできないらしい、だからよかったな、あなたの知っているこのヤバイ人は、あなたのせいで墜落したりはしないみたいだ、よかったな、このヤバイ人はけっきょくあなたの話なんか聞いてなかった。
夢中で生きてきた、今もそうだしこれからもそうだが、夢中で生きるということは、あなたと違う生き方をするということ、夢中で生きるということは、秋の微粒子に首を突っ込むということだ、人には夢中でしかやれないということがあって、夢中で首を突っ込めばネオンランプの光や秋の匂いを嗅ぐことができる。
物事にはいろんな捉え方がある、たとえば人の身のカルマであったり、聖書がいうところのアダムとエヴァであったりだ、だが夢中で生きている者はそうした複雑な捉え方を必要としない、捉え方を必要としている人は捉えていないから捉え方を必要としているに過ぎず、またそうした捉え方でけっきょく何かを捉えることは永遠にできない。

おれが夢中になりたかったのではなく、夢中から出る方法がわからないだけだ。

もともと三連符が聞こえている奴がいて、つまり夢中に首を突っ込んだままの奴だ、こいつがやむを得ず夢中のことを表記するのに、五線譜に三連符の記号を表示することを思いついた、ただそれだけであって、三連符を見てからそれをなぞったとしても三連符が響き始めるわけではない、三連符だってなぞればジャンルだ、なぞれば何だってジャンルになる、そのことを永遠に繰り返すわけのわからない奴もいるみたいだ、それはけっきょく何にも間に合っていない。
おれはけっきょく何百人の女と寝たのかわからないが、とにかくその大半、99%を覚えていない、カネで買ってはいない、おれを罵るメールが毎朝届いて、送り主が誰だかわからなかったことがある、おれには何のジャンルもわからない、おれはガキのころからカレンダーに何が書かれてあるのかがわからない、あの数字の行列がおれの前方にあったためしはない。
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ただの愛2
だの愛があれば、そんなにヒサンなことにはならない。
何か、水面下でヒサンなことになっている人は、ただの愛がないのだ。
このことを、認めない人はけっこう多いのだが、認めようが認めないが、それは「日本の国土から石油が出ねー」という事実と同じで、認めなくても愛のない奴は愛がないのだ。
透明感のある美少女が、グアムの砂浜でグラビア撮影をして、おっぱいがぷるんぷるんでも、そいつに愛があるかないかは別だ、どれだけバレエレッスンに真剣で鬼教官に叱られてウッウッと泣いていても、愛があるかどうかは別だ。

ただの愛だが、ただの愛がある人って、そんなに多くないぜ? ここのところを曲げるから話がややこしくなるのだ。
路上で通りすがりに、酔っ払いが電柱にもたれてゲロを吐いていたら、どう思うんだ、ふつう「おいおい、大丈夫かよ」と思うだろう、まさか「近所迷惑!」なんて思う人は一人もいないよな? 人が飲み過ぎで嘔吐しているのに急にモラルを唱え出す邪悪なんかふつう一人もいないよな。
自分ちの玄関先で、誰かがタバコを吸っていたらどう思う、ふつう、「座るところもなくてすまんな」って思うだろ? まさか「迷惑!」とか「路上喫煙!」とか思う人はいないよな、よほどのクサレ邪悪でないかぎりそんな血みどろな発想は湧いてこないものだ。
僕は以前、トラブったワンちゃんを助けるのに、代々木公園の池に飛び込んだことがあるぜ、どういう状況だったか説明するのは面倒なので省くが/なぜ他ならぬ僕が飛び込んだかというと、そこにいた中で僕の身体が一番頑丈だったからだ、たいへんな感謝をされたが、どうして犬を助けるために飛び込んだら感謝されるのか意味がわからん、まさか「傍観」していろというのか、そんなキチガイはこの世に一人もいねえよ。

ただの愛が、ない奴は「ない」でいいだろ。

透明感のある美少女が、薄着姿で髪の毛をくるくるに巻き、遠くを見るような目をしたとしても、愛がないなら「ない」だろうよ、それのどこに問題がある/ただの愛がある奴なら、これまでに愛の時間を必ず生きているはずだ、その時間に心当たりがないなら、そりゃただの愛が「ない」のだろう、なぜかこのことに頑強に抵抗する人がいて、その抵抗は完全に無意味だからやめようぜと僕などは提案したい。
ただの愛がない人は、なぜかそれが「ない」と認めることをしないで、結果的にどうなっているかというと、ただの愛が「ある」人のことを、「ある」とも認めていないのだった、その単純なことを認めないせいで、自分の生きる数十年をすべてゴミにしてしまう、その損失に比べたら、そこまで頑強に抵抗するようなことだろうか(と僕は思うのだが、本当に頑強に抵抗するのでよくわからない)。
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ただの愛

の中には、ただのキチガイ、という人もいるのだから、同様に、ただの愛、という人もいる。
ただのキチガイに、理由なんかありえないのだから、ただの愛にも、理由なんかない。
愛は、ただの愛なのだが、ただの愛を持っている人はそんなに多くない。
そして、このただの愛のあるなしが、すべてを決定してしまう、ただの愛がなければすべてはゴージャスな絶望にすぎず、ただの愛があれば、それはどう地味なものでもかけがえのないものだ。

ただの愛は、話としてはわかりやすいのに、実物としてはわかりづらい。
本当に、ただの愛だからだ/そのわかりにくい実物は、わかりにくいがゆえにいつも見落とされている。
いつまでも誤解されているのだが、愛というのは、「好きな人をケアする」ということではない、「好きな人をケア」するというのは、ただのキモチだ。
かといってもちろん、「恵まれない人たちのために井戸を掘りに行く」、というのも違う、ただの愛というのは、「そこ座ってるの寒くない?」というだけのことであって、本当にただの愛だ。

野良猫にこっそりエサをやったことがない人は、意外に多い。

スーパーマーケットからの帰り道、「ニャー」と鳴かれたら、「あ、そういえばカマボコ買ったな」ということで、こっそりカマボコをあげたりする、できたら塩分少なめのやつをな……ただそれだけのことだが、そういったことを一生に一度もしたことがない人はけっこう多い/そういう人に、僕は冷静に訊きたいのだが、キミは永遠に自分だけがカマボコを喰うつもりかね?
この世の幸せとは何かというと、僕がヒルズマンションの上階に住むことじゃない、猫ちゃんがおいしそうなごはんにありつくことだ、それはただのリアルなことであって、涙がウルウルするようなことじゃない、自分だけ特上カマボコにかぶりついて「幸せ」なんて、バカの顔は見るに堪えないだろ。

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GOOD DAY

体的には言えないが、今日、ひとつの素敵なことがある。
いろんな場所で、いろんな空港で、いろんな思いがあり、単に生きるということとは別の命がある。
僕はうれしいのだ、想像するだけで、こんなに面白いことになるなんてな、しかもまだまだ、この先に楽しみが待ち受けている。
思いがけないことがあって、思いがけないことが進展して、思いがけないことが、わたしの命だった、そんなことが、これからも絶え間なく続けばいいなと、こころの底から思っている。

何もかも、いい具合にいきますように……まあ、大切なものと出会えたら、それだけでいいのだろうから、ここしばらくは、世界中の全員がそうならいいな。
邪魔者はいない、それなりに知り合いはあったとしても、もっとわけのわからないものに導かれて、わけのわからないものに会いにいく。
それでどうなるのか、わからないのだけれど、それがわからないというのがとびきりいい、なぜだろうな、ずいぶん離れてあるものが、何よりも身近にあるような感じがして、行かねばならないのに、しかも身近なくせに「どうなるのかはわからない!」のだから、これはゴキゲンのかたまりだ。
僕はつい祈ってしまうが、きっとその祈りも不要なほど、祝福が満ちているだろう、それでも祈ってしまうがな、それ以外に僕は何もできないが、せめて僕も、負けないように過ごそうと思った、いつもどおりの毎日で、しばらくこっそり祈り続けよう。

二十年ほど前、若かった僕は、ヒンドゥー教の聖地にいた。

だから何だというわけじゃないが、すべては「何」なのか、たぶんまだまだ先にならないと、本当にわからないのだ、ついにこんなところにたどり着いたのか、あるいはそれが、実はすべての始まりにすぎないかもしれず、それがすべての始まりだったなら、これはもう楽しみでたまらないな。
知らない場所が、知っている場所になり、でも本当に知らない場所なら、もともと行かないのかもしれないな、さあて何が何やら、おれも負けていられないぞ、まあ何かがある、おれもわけのわからないものに会いにいかないとな。

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今夜も一人で生きつづける2
ンターネットやSNSは、人間の精神に、電子的な田舎村を作る。
田舎村、つまり、何かを共有していると思い込むのだ、だがわれわれは「本質」において、何かを共有するということ自体がない。
僕が聞いている雨音や、僕が見たガンガーの黎明が、どうやって「共有」されるのか、その共有を妄想することから、すべてのうっとうしさとつまらなさが始まっている。
本質的に「共有」などないのだ、この世界が歓喜なのか悲嘆なのか、そんなことは誰との共有もあてにできない、ただ自分のものだ。

今夜も一人で生きつづける、そもそも「生きる」というのは自分一人のことだ。
僕が誰かのことを愛したとして、他の誰かがその人のことを同様に愛するわけではなし、だから「共有」はないのだ、このありもしない共有への妄想を放棄しなくてはならない。
共有への妄想は、妄想の世界を創り出し、その中に妄想上の「わたし」を創る、つまり本質的に「わたし」でも何でもない習慣的な「わたし」を創り出すのだ、<<このエセの「わたし」は世界の何をも感じることができない>>。
この妄想の「わたし」を破棄したとき、人は何かを探す理由がまったくなくなる、いつもただ目の前のことを掴めばいいだけだからだ、そして目の前のことを掴むというのは自動的なことであって、本人がこれといって頑張るようなことではない。

正しい「わたし」は、「わたし」というよりは「一人」だ。

何しろ「一人称」というのだから、「一人」というほうがいい、一般的な「わたし」はすでに言葉として汚染されすぎているので、「一人」が一人称だと捉えたほうがいい。
僕の友人たちへ……人格が二つ存在するのだ、そして片側は、とんだエセ人格で、世渡りをする以外には何の使い道もない、それは本当には人格でも何でもない、誰かに向けて使うものでもない。
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今夜も一人で生きつづける
っと昔からあるこの感覚。
何なんだろうな、"夜は僕のものだ"。
むろん、どこかで誰かが同じように生きているのだろう、だがそういうことじゃない、僕は今夜も一人で生きつづける。
孤独なわけではない、知人向けの何かを持たなくていい。

ずっと昔からあるこの感覚、この感覚は正しくて、ただそれが何なのか、もう何十年もかけて追求してきた、そしてこのごろは大いに真相に肉薄している。
「今夜も一人で生きつづける」、いい言葉だ、何かのためではない、何かのためなどということはこの世界に存在していない。
世界に吸い込まれていく、僕は小さなものだが、この小さなものは、僕にとって雄大な存在だ、何しろこの夜の持ち主だ、僕の夜は僕しか持っていない。
このシグナルは、何か正しいことに合致しているから、与えられている/他人の声を一切聞かないことだ、おれがおれの世界の主なのだから、そうでなきゃ友人に合わせる顔もない。

友人のいる世界に、今夜も一人で生きつづける。

それは他のすべての人にとっては間違いで、唯一僕にとってのみ正しいことになる、なぜなら他のすべての人は僕ではないからだ、当たり前だそんなことは、ただそれを持っている人と持っていない人がいるだけで。
われわれには相互に、共通しているところなどひとつもないのだ、だからこそコミュニケートが重要になる/ありもしない共通性に依存したとき、われわれはウソの世界を捏造しなくてはならなくなる。
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