☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「何の人」
夏が緩んで、急に秋が来て、いい夜だ、突然いつかの風が吹く。
思えばこれまで、誰の話も聞かずにきたなあ……それでよかった、これからも人の話なんか聞かない所存だ。
僕は誰の話も聞かずにきて、ただ、「何の人」なのかということに焦がれてきた、聞き流されるすべての話はまるで外国語のように無視してきた。
世間が積み重ねてきた、数十や数百の前提を、ことごとく無視して、まったく別のものを視て、まったく別のものに焦がれてきた、そのことはこれからも続くのだろう。

おれは過去より強くなっているが、おれが強くなることはあまり意味がない。
おれが強くなったということは、おれが倒さなきゃならんものが増えたということであって、そのことは凶相だ、なーんでおれが何かを倒さなきゃならんのだ、男って女を倒すものじゃなかったろうに。
男が男の人ではなくなり、女も女の人ではなくなってしまったが、それだけでなく、すべてについて「何の人」ということが消え去っていった、それではどんな大学に入ってどんな企業に入ってもまったく意味が無いということになるが、まさにそうなっているだろう、われわれは何かの世界がなければ――その世界が信じられなければ――何かの人になることはできなかった。
おれは何の人かなと、少し考えてみる、それは素敵な探索だが、自分で言うのは恥ずかしいので、これからも自分では言わないだろう、幸いおれには視えている世界があるので、その世界の人だ、世界が尽きない以上、夢も尽きない。

「何の人か」、おれの世界の言葉だけ聞こえる。

そりゃ、外国というのはそういうものだろう、ヨソの国はヨソの言葉だ/おれだってヨソの国の言語をそれなりに理解はしたが、そのヨソの言語が殺伐とした呪いあいの国を創り出すなら、肩入れなんぞしようがないぜ、おれは今日きれいな音色をきいて、佳い夜の風に吹かれているのだ、おれにはおれの世界の言葉しか聞こえない。
おれの世界の言葉は常に、周囲に「何の人かな」という焦がれを向けている、ヨソが積み立てた前提なんか知ったこっちゃねえぜ、いい夜にいつかの風が吹いている、けっきょく時間が流れたりはしていないということがこういう夜にはよくわかる、ずっとあのときのままで、何もかもに「何の人か」という焦がれがある。
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理解は空想なり
に立つ話を書くのは好きじゃない。
世の中を知るということが自分を失うということだ。
あいつらは世の中が生きていると思っているらしい。
自分が生きているとは思わないらしい。

理解し合うために世の中は便利だ。
だが理解し合ったものは誰でもないただの約束合わせだ。
理解しないまま愛し合うこと、それはもちろん利益にはならない。
利益のためにすることはない、お前は前もって計算でもしているのか。

世の中と話すおれは存在しない。

決定的なことを言うなら、「全部ウソ」だ、世の中と言いうるすべてのことは体験できない、体験不能の空想でしかない。
おれはおれを体験している/世の中を理解すること、および、世の中から理解されることも必要ない。
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メンタルヘルスは軋んでナンボ
康と不健康を考えたとき、健康のほうがいいに決まっているが、健康「だけ」というのもつまらないし、健康「だけ」というのも恐ろしいものだ。
つまり、八十年間「健康です」という "だけ" で、「どうなりましたか」と訊くと「死にました」と言われる、「なんだよけっきょく死ぬのかよ」という……それで、生前の彼はどうでしたと訊くと、「健康でした」と言われる、「えっ?」、これはなかなかのホラーだ、三十分のドラマに仕立ててもいい。
暴飲暴食はヘルスにはよくないだろうし、寝不足や乱行や喫煙もヘルスにはよくないだろう、だが生涯ヘルスマンとして生きたとして、どうなりましたかというと「死にました」というのだ、こんなアホな話があってたまるか。
ヘルスが損傷するのはよくないが、それはヘルスが保たれてほしいということであって、ヘルスバンザーイということではない、いわゆるメンタルヘルスというのも同じことで、メンタルがヘルシーだった奴がどうなるかというと、けっきょく死ぬのだ、ヘルシーに死ねただけマシという考え方もあるが、おそろしくつまらない中を生きてつまらないまま死んだという見方もある、おれはそれはとてつもなくつまらないことだと捉える派だ。

おれが思うに、身体的ヘルスでもメンタルヘルスでも、そのヘルスが脅かされる段になって、その人の底が出てくると思う。
ヘルスが脅かされるといっても、損なわれてはいけないのだが、つまりその人の酒の飲みっぷりに、その人の底が出るのだし、その人のメンタルヘルスが軋むあたりで、その人の底が出てくるのだと思う。
およそ、メンタルヘルスが良好なときは「いい人」で、少しでもそれが軋むと邪悪な蛇が頭をもたげてくるのでは、もともと虚弱でヤベー奴なのだ、メンタルヘルスが軋むあたりで、そいつがどういう奴なのか底が知れる。
この世界で、こころも魂も全開で生きているのに、メンタルヘルスが缶詰安心みたいにいくわけがあるか、メンタルヘルスは軋んでナンボだ、そしてメンタルヘルスが軋んだときにどういう奴が現れるか……そこでしょーもない奴が現れるということは、底がしょーもない奴なのだ、言い逃れはできない/メンタルヘルスが軋んだとき、そいつがしょーもない奴か、それとも何かを信じている奴かどうかというのか暴露されるのだと思う、その手前でずっと引っ込んでいるのは、缶詰安心だがとてつもなくつまらないことだと思う。

メンタルヘルシーに愛はない。

そりゃ、そんな都合のいい話はないだろう、メンタルヘルシーなら最後までメンタルヘルシー "だけ" でいくしかなく、メンタルヘルシーが歌劇「トスカ」を観ることは何の意味もない、どう見てもトスカの中にメンタルヘルシーなどという登場人物は出てこない/メンタルヘルスが軋まないところに歌劇なんか生じるかよ、ジョギング中にトスカは出てこねーよ。
メンタルヘルシーを放棄し、メンタルが軋む中、それでもメンタルが損傷せず、ついにそいつの信じているところが明らかになるということが唯一のよろこびだが、残念ながら、そんなナイスなパーソンはこのごろいなくなったのだ、メンタルが少しでも軋むと、ただちに荒廃も荒廃、その底のポンコツぶりとしょーもなさが明らかになってしまう/そこには多大な近所迷惑と、いっそ邪悪さまで仄見えるから、底を見せるわけにはいかない、だからメンタルヘルスを保っていこうというポリシーになっている、そのポリシーは正しいけれども、根底はただのホラーでしかない、このごろはずっとそんな風潮だ。
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或る微笑

と昔のことを思い出した。
或る微笑を幾度となく見てきたことを思い出した。
それは女の子が僕に向けてくれた微笑だった。
わけのわからない僕を、認め、許し、愛してくれた瞬間の微笑だった、僕はその瞬間を何度も見てきた。

媒体を見ると、グラビアアイドルの女の子が笑っている。
僕はずっとそれに首をかしげてきたのだが、その理由がふとわかった。
それは僕が見てきた微笑ではないからだ。
現代、楽しそうに笑っている女の子は、ウソでやっているのではないだろうが、あれは自分が楽しいから笑っているのだろう、それは僕が見てきた微笑ではない。

かつて微笑は自己主張ではなかった。

でたらめな僕を許してしまえるほど、深いやさしさと突然の慈愛がかつての女の子たちにあった。
今は、女性がオス化したということなのか、権利意識を植え付けられたのか、わからないが、僕はまだこれまでに見てきた微笑を忘れてはいない/たとえ当人が忘れても、この僕の優れた頭脳がずっと覚えている。

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余談、「笑う」というのはまったく別のことなのだとして

笑い芸人宮迫博之さんを中心に、お笑い芸人と反社会勢力とのつながりが、金銭授受も含めて明るみに出て、誰をどのようにパージするか、大きな問題になっているらしい。
それについて、僕は宮迫さんその他の直接のファンというわけでもなかったし、当事者的な危機意識は起きようもないのだが、ここで先輩格の松本人志さんが後輩全体の救済と庇護に向けて、企業上層部にはたらきかけるらしいということを聞き、そういうことならば例外的に、掛かる事態が思いがけぬ慈悲ぶりで特赦されることを祈る態度に、僕の内側は切り替わった。
僕は社会的に自分に与えられた選挙権および、それに付随する政権監視の義務以外は、社会的なことに対しては行使もしないし履行もしない、古い言い方でいえばいわゆるノンポリの人種だし、社会問題に見せかけた、実は一企業の背徳トラブルにすぎない他人事に倒錯して気勢を挙げる気質は持ち合わせていないけれども、今回に限っては例外的に、松本人志さんのはたらきかけが、功を奏しますようにと祈り、ささやかに気を送るつもりでおりたい。
松本人志さんは、今すでに妻子を持たれ、筋骨を隆々と鍛え上げられているけれども、元より笑いをもって、人々から魔を祓うということを、それと知らず続けていらっしゃった方だと思う、それが今現在の松本人志さんにとってどのような形態になっているのかは知る由もないが、今もなお不穏な魔のほうが祓われ滅びますように/端的に申し上げるなら、僕は宮迫博之さんの姿を再び見たいと心底から望む者ではないが、松本人志さんの往年よりの笑いの信奉が今一度勝利するところを見たいと、心底から望んでいる。

このところ、芸能人のスキャンダル騒ぎと炎上が続いているが、それをもって、僕は芸能人を「信用できない」とは今さら思わないし、「裏切られた」というような心地も覚えない。
僕が今覚えている確信は、むしろ逆方向で、信用できないのは芸能人ではなく、日本国民のほうだ、僕は掛かる事態の連続を見て、日本国民全体に対し、「この方々は、温情や仁愛を持たない人々なのだ」と判断せざるをえなくなっている/「この方々は、快感と不快感しか覚えない人々なのだ」。
何が嘘で、何が裏切りだったかというと、お茶の間でテレビを見て笑っている、温厚そうな日本国民が「嘘」だったのだなと、僕は捉えている、彼らは本当には笑っていなかったし、本当は、そのときがくればいつでも堂々と、今まで笑っていたものを手槍に持ちかえて、即日にも処刑の執行人になるつもりだったのだ、日本国民とそのお茶の間は、実はそうした真実の姿を隠蔽しているものにすぎないのだと僕は判断せざるをえない。
当該の騒動につき、被疑者が釈明にあきらかな嘘を申し立てたということがあったようだが、僕はそうした個人の嘘については何も思わないし、状況的に「そりゃあ嘘も出るだろう」としか思わないが、日本国民全体の「嘘」については別だ、日本国民全体が「嘘」をつき、しかもそのことを自分たちでも気づいていないというのは、善悪というより恐怖の対象たりえる……日本国民は温情を持たず、いつでも隠した手槍を取り出して、人を磔(はりつけ)にして呵責を覚えない人々なのだ/そう考えると今、そうした処刑の怨霊徒たりえない松本人志さんに、今一度勝利の凱歌があがることを、やはり祈念するよりない。

宮迫はあまり面白くないが、それより、日本国民の愛のなさのほうがひどい。

もし僕が、当人の前で「宮迫はあまり面白くないが……」と言ったとして、僕は宮迫さんが「ちょっと待って、今何て言った?」と、威勢良く食いついてくるようであってほしい/一方で、もし僕が "当人ら" の目の前で、「日本国民には愛がない」と言ったとしたら、そこに可笑しなものは何も食いついてこず、ひたすらシリアスな呪詛ばかりがのしかかってくるだろう、それでいてこの国民は他人に対してだけ異様に誠実さを要求してくるのだ。
宮迫博之さんとその他の一派は、掛かる事件によって通例的に、いわゆる「イメージが悪く」なり、広告やスポンサードのストレートな看板たりえなくなるかもしれないけれども、そもそも「お笑い芸人」というのは、人々に商品を好印象でイメージさせるコンパニオンユニットではなかったはずだ、ここで「お笑い芸人」を処刑するというのはそもそもの筋道がおかしい/「笑う」というのはまったく別のことなのだと、このたびは今一度、松本人志さんが勝利してほしい、そのことを祈念して、ここに僕は場違いな話をした。

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思い出の使い道はない
れだけ自由であれるか。
自由を奪う最大のものは「記憶」だ。
強い願望も、記憶から生じているし、イメージも記憶から発生している、記憶がわれわれを支配するうち、今日は決して「今日」ではありえない。
記憶を用いるな、予定さえ記憶であって、計画や予測さえ記憶だ、人は記憶を用いて万事の効率をよくしようとする、そうすると効率はよくなるだろうが、効率がよいだけの無意味な日々が続いてしまう。

記憶をゼロにして実生活は営めないから、実生活は面倒くさいのだが、それは実生活の仕組みに全面降伏することを意味しない。
貴重な思い出、大切な思い出、あるいは「正しい思い出」さえ、われわれから「今日」を奪う/思い出があるのはよいが、思い出を「使う」ことがあってはならない。
誰だって、若いころや幼いころに、一種の美の体験をしているはずだが、なぜそれが若いころや幼いころに限定されるかというと、当時はまだすべてが未知だったからだ、つまり万事に対して記憶を発揮できなかった/何も記憶そのものが悪いわけではない、記憶を「使う」ということが重い、昨日の記憶を今日に持ち込んで使うのは、今日という出来事への否定と冒涜になる。
昨日まで正しいことがあったとして、それが今日に持ち込まれたとすると、昨日の正しいことが今日へ持ち込まれたということが第一の誤りとなる、いかにその記憶が正しく機能したとしてもだ、五秒前の記憶も許されないし、二秒前の記憶さえ許されない、記憶のすべては「知ったかぶり」でしかない、そうすると一歩ごとはなんと清々しい真相なのだろう。

残高が何億円あっても、財布の中は空にできるだろう。

口座から引き出さなければいいだけだ、記憶を使わないというのはそういうことだ、いついかなるときもあのときのまま、何も持たない素寒貧(すかんぴん)でいろよ/いちいち記憶の出し入れに頼らないと毎日がやっていけないなら、それは根本的に能力がないのだ、そのことを恥に思え。
どうせ引き出して使うことをしない貯蓄なら、思い出は無駄な貯蓄でしかないかもしれない、それで結構、思い出の貯蓄をそれ以外の何かに流用するような、お前はド貧乏なのか、思い出を何かに使うようになったら人はオワリだ/「どうしたらいいかさっぱりわからない」というなら、どうしたらいいかさっぱりわからないままでいなさい、あのときがそうだったようにだ、何かがわかっている必要があるというような、お前は安物の人間だったのか。
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人は明るく楽しいほうが決まっている2

でもご存じのとおり、「陽キャ」ほど陰鬱で息苦しい集団はない。
ただ、「陰キャ」がそれを下回っているだけだ、どんぐりのキャラ比べというやつで、そんなものを主題にした歌がこれまで唄われたことはない。
陽キャが真に楽しく明るいわけがないし、女子大生の集団も、OLの女子会も、ソシャゲに耽るおじさんおばさんも、真に明るく楽しいわけがない。
どうも、誰も彼も、すでに明るく楽しい人である権利はごっそり失ったのに、それでも自分はまだマシな何かだと思い込もうとして、全員がその思い込みの中にあるから、しっちゃかめっちゃかになったのだと思う、僕はそのことに同情しているのではないし、むろんアドバイスを目論んでいるのでもない。

おれはただ言っているだけだ、それで何のために言っているかというと、もともとそんなことに理由はなかった、明るく楽しくない奴が架空の常識で近隣を荒らしてまわる風習をいいかげんやめてもらわないと何一つマシにならない。
誰かがあなたのことを心配するなんてことはないし、陽キャの誰かが交通事故で死んだとしても、ひとしきりネタに使い回されるだけで、胸を痛めたりはしないのだ、それは人の素直な生理だからしょうがないだろう? 愛がないというのは当然そういう状態だ、そこで愛のあるふりを続けるからしょうもない事態が長引いた。
テレビやユーチューバーを観るのはかまわないが、もともとそういうものは、あくまで休憩の、ポテトチップスを食うのと同じようなことであって、よもやそれは文化だと言い張るようなものではなかった、いくら自分と友人と恋人が存在しなくてさびしいからといって、夜中にポテトチップスを食うことを文化と言い張るのは冗談にしても度が過ぎた。
きっと過去のどこかに問題があったのだが、もう問題は過ぎたのだ、今残っているのは問題ではなくてただの結果だ、どうしようもない悪あがきを一生続けるだけの奴が大量にあふれかえることになったという、結果だけが残ったんだ、それは一種の社会問題になっているだろうが、それが社会問題とみなされるということは、もう人間的な問題とはみなされていないってことだぜ。

お前は腹の底から誰かを笑わせたことが一度でもあるのか。

そういう根本的な話になると、誰も彼も目を背ける、陽キャの面々は急にマカクザルみたいになってオラついて威嚇で脅威を遠ざけようとする、おれは思うのだが、よく一度しかない自分の一生を、そんな安物のカスみたいに定義できるな/おれは夜中にポテトチップスを食うことを責めるようなアホじゃない、夜中にポテトチップスを食うようなことを人生のピークにもてはやしている連中の気がしれないと言っているだけだ、いくら寂しいからって妄動にも限度がある。
どうもいまだに、「励まし」を求めている人が少なくないようだが、きょうびのキモい奴を励まそうとするような悪趣味は、少なくともまともな奴のあいだには一人も残っていないぜ、そもそも対話する必要はないと見切られているんだ、たぶん自分だけ対話ありきって妄想に取り憑かれたままなんだろうな/おれだって少しは考えているが、たぶんウソが最大によくないんだ、素敵じゃないってことはやっぱりゴミってことなんだよ、ありふれているだろ、お前に少しでもまともなところが残っているなら。

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人は明るく楽しいほうが決まっている
は明るく楽しいほうがいいに決まっているのに、何をじたばたしているのだろう。
若くてうつくしいほうがいいに決まっているし、愛に満ちているほうがいいに決まっているのに、日本人は何をじたばたしているのだろう。
何をどうやったってありもしない正当性は証明されないってのに、何をじたばたしているのだろう。
芸能人の非行を高性能カメラで隠し撮りして、SNSで祭り上げて私刑などと、こんな陰険な人々は史上初ではないだろうか/実は何も問題ではなくて、「自分こそがクソ」という事実をキャンセルしようとしているから時間の無駄を続けているのじゃないか。

醜い陰険なババアが呪いで一時的に幅を利かせたとして、ババア当人は本当に救われたのか? ますます罪を深めただけじゃないのか。
ネクラでホットでない男が、もう若くもなくて、それでもなんとか上手く立ち回って、人文的に甘い汁を啜ろうとするのには、けっきょく最後まで無理があるんじゃないのか。
明るくホットなシャウトと笑い声が自分と友人たちを包み込むなんて、今日のあなたには無理かもしれず、今日のあなたに無理なら、明日のあなたにも、来年のあなたにも無理だろうよ、日本人はいったい何に縋っているのだろう? 何に縋ったとしてもどうにもならないのは初めから明らかなのに、目が曇るどころか恣意的に失明しているのじゃないかというありさまだ。
自分とあのコも、自分とあの人も、初めから基本ラブでないと話にならない、基本ラブでハッピーな中にも、乗り越えねばならないことがあるということであって、陰険でネクラでホットでもない者が、何かを乗り越えてどうにかなれるわけじゃない、旧時代の三十年間は実にこの誤解が多かったな。

「自分こそがクソ」ということが、まさかネクラな悪口に聞こえているのか?

それがネクラな悪口に聞こえるのだとしたら、それは悪口の問題じゃなくて、自分に友人がいないことの問題だろう、友人がいれば必ず「そうだオレだってクソだ」と陽気に笑ってくれるはずだ/ロクな声が出ない奴はイモムシのように嫌われるのが当然のことだが、それはイモムシだって蝶になろうとしていると学校で習わなかったか、あるいはイモムシが生きていることをこれまでまったく考えずに生きてきたのか。
陽キャの集団ほど陰鬱な集団はないし、うごめく陰キャほど面倒くさいNPCはいない、人は明るくて楽しいほうがいいというのは思想ではなくてただの事実だ、若くてうつくしいほうがいいというのもただの事実だ/その事実からキックアウトされたからって、事実のほうを曲げようとするのはメチャクチャだ、お前がクビになっただけであって、お前に何かの体験があるわけじゃない。
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クソ男より女の子たちへ
際、傲慢になんかなりきれたもんじゃない。
自己陶酔のやり方がわからない、そんなヒマはないと痛感しているうち、本当にやり方が完全にわからなくなった。
僕の慾望は僕のものではない、世界の慾望だ/世界が世の中に裏返る前にあった、裏返る前の慾望だ。
愛というのは世界の、裏返る前の慾望だ、僕がすべての女の子を愛するのは、世界の強制であっておれの意志じゃない、もうおれの意志というやつはどこに行ってしまったのか正直よくわからなくなった。

もともと、二十数年前から、そういう感覚はずっとあった。
僕が女の子にフラれたら、僕はかまわないが、何かもっと大きなことにおいてマズい、それが僕の失態だと思っていた。
女の子を、いい気分にさせないといけないのだ、それもおだてるとかではなく、何かもっと、荘厳なことがあったと思い出させるような形で/そのためには僕がフラれているとかそういうことは、二の次というか三の次というか、五十億の次ぐらいのことだ。
女の子は、どういうアホがお好みだろうか、お好みといって、そんなことはわかっている、女の子は自分のお好みに振り回されている小さな自分がイヤなのだ、僕はなるべくクソ男になって、女の子に愛に気づかせてから死滅せねばならない。

おれの愛なんかどうでもよく、主題は女の子の愛なのだ。

女の子の愛が途絶えているのは、女の子自身にとっての不幸であり、女の子自身にとっての危機なのだ、その危機を救うためには、クソ男が活躍しなくてはならない、女の子が真の自信を得るのは、紛れもないクソ男を紛れもなく愛したというときだから。
最近は僕も、女の子にモテるようになって困っている、女の子に愛に気づかせるためには、クソ男でないとダメなのだ、クソ男としての次のスタイルを考えないといけないのだろうな。
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ウィットに富んだハンサム野郎
チロー選手が現役を引退した。
僕は野球はまったく観ないのだが、それでも、ひとつの伝説が締めくくられたということぐらいはわかる。
今ならYouTubeで、最後の打席から最後の外野、最後ベンチに戻るまでの動画が上がっているから、ぜひ観ておくといい。
それは同時代人の目撃すべきことであって、ずっと先、自分がどういう時代を生きたのかの標(しるべ)になろう。

野球のことは全然知らないが、イチロー選手、もといイチロー元選手は、野球選手には珍しいというか、例外的な、ウィットに富んだハンサム野郎だったと思う。
ずーっと野球を愛し、その裏側では、ずーっと笑いを取りに来ていたようなところがある、そんなところでも首位打者を獲りたいのかという/あの小ボケTシャツ群は、まとめて展示しておけばそれだけでチャリティ展覧会が開けそうだ。
人はふつう、野球選手を野球選手として見るものだが、ことイチローに関しては、ただ「イチロー」を見ていた気がする、歴史上に冠たる技術を持っていながら、人は彼をまったく技術者と見ない、なんとなく野球選手と酒を飲みに行くというより、矢沢永吉とバーに飲みに行くほうがぴったりはまるような印象がイチロー元選手にはある。
あのウィットに富んだハンサム野郎が、たとえ引退したとして、あいつが日々バッティングの理論を考究せずにいられるのだろうかね、ぜひ老人になってからも近隣の草野球に突然乱入して荒してまわる迷惑なジジイになってほしい、そのときTシャツには「生涯現役」と書かれているだろうか。

誰かが掲げた画板に、「ありがとうイチロー」と書かれていた。

おそらく僕のように、野球をまるで観ない人こそ、逆にイチローのファンが多いと思う、またダウンタウンの番組にでも出てこないかな、場合によってはサイレント図書館にブチこんでやればいいのに笑。
同時代人として、また世代として、昔から「すげー」と言い続けた人が、今も「すげー」のままひとつの伝説を締めくくったことが、妙にうれしくて、紛れもなく感動的だ、こんな純粋な感動はひさしぶりだな、「平成の最後に感動した」と、僕はずっと先になっても言い得るだろう。
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女とホテルは高級品がいい2
やホテルは、高級品がいいのだが、なぜ高級品がいいかというと、高級品は気持ちいいからだ(二回目)。
そして、高級品が気持ちいいということは、かけがえのないことだが、そこに「美」があるかというと、「美」は別にない、そもそもなぜ高級品に「美」を求めるのか、そのことの脈絡がそもそも飛躍している。
女にせよホテルにせよ、高級品なら気持ちよくて、その気持ちいいというだけで十分ではないのか/どうも一部には、高級品だから「美」のはずという、素っ頓狂な誤解と要求を持っている人があるような気がする、「美」というのは価格とはまったく関係ない、うつくしい高級品もあるがうつくしい民芸品もあり、その逆の、美のない高級品も、美のない民芸品もある。
そんなこと当たり前で、たとえばオンボロの国公立大学と、豪奢な私立大学とで、どちらの学生生活に「美」があるかなどは、前もって決まっているわけがない、ただ豪奢な敷地と建物のほうが気持ちいいというだけだ、どうも「美」の体験を得るのに方途がない人は、この「高級品」ということと「美」ということの区別がついていないような気がする/念のため、高級品の女は気持ちいいけれど、それが美に至るかどうかは別だ、それが美に至るのなんて彼女がおれの相手をしたときだけじゃねーの。

僕は、美を愛すると共に、美とは無関係な「高級品」の気持ちよさをよろこぶことにも、一定の光を見いだしている。
僕が思うに、美のあらざるものは、ただちに醜というわけではなくて、醜というのは、美のあらざるものが美を主張することを指しているのだと思う/だから美のあらざるもの、ひたすらの高級品というものが、「気持ちいいよ〜」とだけ純粋に主張して、またそのように純粋に認められる場合、尊厳に切り取られた美が逆に浮かび上がるような気がしている、美を主張しない高級品は結果的に美の脇役を見事に務めていると思うのだ。
その意味で、見事に美の脇役を務めている高級品は、そうとわかっているのでリラックスしており、そうするとこちらもリラックスできる、そうなると高級品というのは本当にイイのだ/逆にその意味で、美と高級品を取り違えているたぐいは、プライドの方向がズレているため、せっかくの高級品なのに、こちらが息苦しくてしょうがないということがある、それはたいへんもったいないことだ。
美というのは、ディオールを着せても美だし、ジャージを着せても美だ、もし豪奢な本殿を取り壊したとき信者がまったく来なくなったとしたら、その教団は何一つ教えてもいなかったし、何一つ信じられてもいなかったのだろう/高級品は美ではないし、かといって質素と倹約と赤貧が美ということではない、高級品はただ気持ちよく、安物はただイマイチというだけだ、そこに美醜を探すこと自体が本質的に醜ということなのだった。

血みどろの夫婦喧嘩に、村正と菊一文字を持たせても、やはり血みどろの夫婦喧嘩だ。

それなら当然、一刀斎と柳生が、塩ビパイプで勝負したほうが美があるのだ、まあそんなことはもういいけど……/僕は高級品を愛しており、なぜ高級品を愛しているかというと、高級品が美に干渉しないとき、「美に干渉しない高級品」がうつくしいからだ、高級品じたいの気持ちよさにハアハアするということを愛しているとは僕は表現しない。
僕は高級品を、結果的に愛しているが、高級品をバカスカ買うとお金がなくなるので、高級品を購入するということにこだわってはいない、高級品はたまに買うか、どこかから湧いてくるか降ってくるか、当人の了承を得てドロボーするかのいずれかだ、人を傷つけなければ何でもよかろうし、高級品だって美の獲得に比べれば自分の高級性なんてどうでもいいと思っているのだ、そういう真の高級品は本当に掛け値なくうつくしいな。
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女とホテルは高級品がいい
やホテルは高級品がいいのだが、なぜ高級品がいいかというと、高級品のほうが気持ちいいからだ。
かといって、気持ちよさしか追いかけるものがない奴は貧しい/「高級品がいい」ということは、高級品を得たら解決ということではない。
高級品を得たからといって、何も解決ではないし、満足でもないが、それを逆転して「高級品なんか要らない」と言っているのもアホだ、アホというか何か不要な無理が掛かっている。
高級品は気持ちがいいのだ、それはかけがえのないことだが、その代償に、高級品に高いカネを払うことは、あまり気持ちよくないのだ、だからドロボーしないと気持ちよくないということなのだが、店頭の高級品をドロボーすると警察に追われるので、高級な女をドロボーするだけで引き下がろう、高級な女をドロボーするぶんには、当人が了承してくれたらそれで済むので警察には追われなくて済む。

コンビニの店員に包丁をつきつけて、三万円を強奪すれば、強盗犯として刑務所に三年ぐらいぶち込まれるかもしれないが、冷静に考えると、三万円を強奪するより人を三年間も監禁するほうが罪は重いに決まっている、やれ法律だの犯罪だのといっても、人を刑務所に入れることに罪がないわけではない/法律を破っていなければ違法ではないが、冷静に考えるとやはり、三万円は「しゃーない」で済んでも、人を三年間も監禁したら「しゃーない」では済まされない、合法だからといってそのヒドさは消えない。
それでもなぜ、三年間も人を牢獄にぶち込むかというと、強盗事件に対する抑止力になるからだ、そして根本的なところ、目には目をという奴で、罪を犯した奴には罪をぶつけてやろうという力業で、われわれは犯罪事件を抑止しているのだ、ひでえ方法だがわれわれにはそうするしか犯罪を抑止する方法がないのだからしょうがない。
われわれは基本的にバカなので、ママに教えられたとおり「強盗は犯罪です」ということしかわかっておらず、ビビりながら三万円を取っていった青年を三年間も牢獄にぶち込むということが、なかなかに罪深いことだと気づかないのだ、何しろママはそういうふうに教えてくれないものだから/しかし冷静に考えると、コンビニでビビりながら三万円強盗した奴が三年間も刑務所にぶち込まれるのは、単純な意味においてカワイソーだ、三年間もぶち込まれるぐらいなら三万円ぐらいどこかで稼げただろうに。
話は変わるが、やはり女とホテルは高級品がいいのだ、なぜいいかというと気持ちいいからだが、気持ちいいから高級品なのではなく、高級品だから気持ちいいのだ、この高級品だから気持ちいいということに、ハアハアして解決や慾望を探すのがいちいちバカな奴なのだと思う、人には慾望があるが、慾望というのは「高級品だから気持ちいい」ということに躍起になることではない、なぜそんな当たり前のことに躍起になるのか、それはドロボーを刑務所にぶち込むのを正義だと思っていることと同質だろう。

三万円の女と三万円のホテルにハアハアする人は、三万円の強盗にもハアハアする。

冷静に考えると、三万円の強盗を三年間も刑務所にぶち込むのはカワイソーだし、法律と裁判でそのように判決されたとしても、その三年間で何かが解決するということはまったくない、何かそれなりのことをしたような気になるだけだ、はっきり言ってすべてがムダでしかない、このムダを省けないのがわれわれの現実のテイタラクではあるのだけれども(それでも、この本質を見失う奴はどうかと思うぜ、行政のする何千億の使い込みに比べたらあまりにもカワイソーじゃないか)。
高級な女と高級なホテルは、とってもいいのだ、高級だから気持ちいいのだ、だがそれは気持ちいいというだけであって、何かの解決になりはしない、そりゃ気持ちいいということが何かの解決にならなくていいだろ、そんなところにまで解決を求めている人はよほど解決の方途がないのだ/解決の方途を自分で掴んでいりゃ、高級品は気持ちよく、安物はイマイチってことだけしかない、そして三万円の強盗と三年間の刑期は、「ただのロスだな」としか見えなくなる、人を傷つけていたら問題外だが、そういうことじゃなくて……方途を失った人は高級品と犯罪という、つまりワイドショーネタで興奮するようになるが、そうして興奮するから高級品の側もいい迷惑をしていると思う、ほとんどの興奮は方途がないというヤバさを隠すために発生しているのではなかろうか。
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春の日にまったく新しく

在の状況というのはまったく関係がない/二千年前でも、二千年後でも。
芸術は新しくなくてはならないと言われるが、それで言えば、新しさにおいてそれは芸術でさえあってはならない。
芸術なんてたいそうなものである必要はないし、何かの役に立つ必要もない、何かの足しになる必要もなく……そもそも「何か」である必要さえない。
わたしの魂はこの世界から一切の干渉を受けない/この世界には作品があるのではなく作品しかない。

二秒前のものはすでに使えず、またそれを使う理由もない。
なぜなら時間の歯車は回転などしていないからだ、永遠はずっと続いており、永遠に書き込まれたものだけが永遠に機能し続ける/間違いさえ許容される。
冬が過ぎたから春が来るのではない、春はただ春であって、どこかから現れてくるものでさえない、春はただの春だ。
作品が人のこころを打つ必要はないし、それは誰かの何かである必要さえない、もともとわれわれ自身が誰かの何かではないからだ、ただ世界があって、その世界は千変万化するだけだ、時間の歯車なんて誤解はしないかぎり、世界が世界でなくなったためしはない。

たとえばこの春風はわたしの作品だ。

作品とはもともとこの世界にあるものを指し、もともとこの世界にあるものをわたしそのものが認めるとき、それは作品となる。
もともとこの世界にあるものだけを……そしてもともとこの世界にはないものの第一が、時間の歯車を錯覚させられた、錯覚なる主体のわたしである、時間という錯覚が錯覚でしかないわたしをときおり創りだした/まったく新しいものとは過去も未来もないものである。

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学ばずに読めよ
場上、また状況の上で、いろいろ報告じみたことも書くけれどね。
こんなアホみてーな記事群を読んでいるあなたは今、幸運だ、これからも学ばず読め、何のために読むかといったら「愛しているから」と答えて読め。
「読む」というのはもともと何かのためにすることじゃない、愛しているから読むだけだ。
そして愛することなしに何かだけ学ぼうとすることは実に薄っぺらな学習とトンチンカンな性癖をしか残さないだろう、愛しているから読むという奴だけが唯一まともだ。

なんというか、幸いなことに、おれの魂は、今ここに来てもなお死んでいない、なんつーしぶとい奴だと、われながら呆れかえるほどだ。
もし僕の魂が死んだなら、僕は即刻、このわけのわからん記事群を停止するだろう、たとえどれだけ知識や役に立つノウハウがあったとしてもだ/役に立つけれど愛のないものを散布するようなクソ係に僕はなるつもりはない。
おれの書き話したことから、あなたが学び、あなたが工夫したところで、それは「あなた」だ、その中に僕の存在はない、そんな学習なんぞ本当の足しにはならないのだ、あなたの中に僕の存在が混ざらないかぎり僕の書き話すことをいくら学習しても無意味なことだ。
手を変え品を変え、場面に応じていろいろやっているけれど、けっきょくたどりつく唯一の方法はひとつだ、僕が書いてあなたが読むとして、あなたが僕を愛さないならそのことは何一つ足しにはならない、そして何かを愛するということは、もう足しにならなくていいと認めるということだ、それでひとつのことが満ちたということだ。

書いた読んだ愛したという、単純なことをゼロで生きていくのか。

別に僕などでなくていいのだが、誰かが愛に接続して書き、誰かがそれを読んで愛さないといけない、そういうことがないかぎり、本当には何一つ満ちないだろう、いくら学習をしても前もって満ちないことが決まっているなら学習するだけ努力の損だ。
こんな単純なことから、世の中はどんどん離れていく気配だが、時代の流れがどうであれ、けっきょくわれわれアホどもは元のところに戻ってこざるを得ない、「愛のあるものを愛さないと満ちないんじゃない?」、こんな当たり前のことにどう工夫する余地があるのか、僕は全員を無視してでもこのひとつのことを見失わずにいく。
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have been happy
のご時世、誰かが誰かに惚れるということがない。
それは、惚れるに値する誰か――もしくは「何か」――が消失したからだが、誰にも惚れたことがない人生というのは、きっと根本的には残念賞にしかならないだろう。
おれが視ている景色は、まったくの別物だ、いつからか女たちは自己主張を獲得し、そのかわり「惚れる」という現象を失っていった。
別に女に限ったことではなく、若い存在のすべてが、自己主張を獲得し、「惚れる」という現象を失っていった、だからますます、弱い者は自分が生きる価値を自分で手放していった。

おそらく、「獲得」と「惚れる」がそれぞれ対極にあるのだと思う。
何かに惚れぬいたら、いっそこころは穏やかになり、もう何を獲得しようとも思わなくなるものだ、そりゃ惚れているのだから当たり前だが……
おそらく、人がかっこよくなる唯一の手段は、それだけなのだと思う、誰かに惚れぬいたとき、いっそこころは穏やかになって、「ああ、もうわたしは、この人さえこの世界に存在していてくれればいい」となり、結果的に、くだらない吾我から離脱して存在し、動くことができるようになる、それは当人がかっこよくなることへの唯一の入口だったのだ。
「着てはもらえぬセーターを寒さこらえて編んでいます」なんて歌があったが、そんなものは、ただ自分のやることを見つけていないだけの歌だ、だからこそ一般にウケるのだろう、誰かに惚れるというのはそういうことじゃない、それは突き抜けて静かなもので、一般にはまるでウケず、また一般にウケる必要はまったくないものだ。

惚れるということは、「幸福の完了」だ。

どこかのスキー場で流れる定番ソングだと、惚れるはもとより、惚れなくてもとにかくゲット、そうなるとわたしは高ぶってハッピー、と捉えられているようだが、そういうハッピーは妄想の中でそれっぽく説得力があるにすぎず、実際にはそうはいかない、なぜ実際にはそうはいかないかというと、高ぶってハッピーが満たされた瞬間には、「世界」から切り離されているからだ、そして世界から切り離された人間がその先に見上げて進んでゆける方向はもうない。
惚れるというのは、いわゆる「惚れた側の負け」という現象があるが、それは人の負けであり、そのかわり世界の勝ちということでもある/惚れるということは、自分の獲得から脱力するということだが、同時にもうこの世界に生きて存在した価値があったということだ、誰だって「あの人がいる世界に自分は生まれ落ちた」というときだけ、この世界の空に意味があってそれを見上げることができる、それはわたしの空じゃなくてもよかったんだと発見する心地だ。
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春風
白くないといけないし、かっこよくないといけないし……
ただそのかわり、世界が違って見えるぜ。
土曜日はパーティだなカモン、パーティに来なくても春は来ているぜ。
物語があればいい、物語があるということは、物語なんかわかんねーということだ。

空から何がやってきているのか。
春が来ているのは間違いないので、春という物体がやってきているとしよう。
誰かに向けて何かをするということがない、おれはおれのことしかやらない。
感受性ではまったくないってやつ、こんなものおれだけ知っていりゃいいことだ。

女性には「女がいた」を勧めたい。

畑にはダイコンが植えられているように、春には女がいたというのがベストだと思うが、男尊女卑とか言うやつは消防車のホースを喉奥に突っ込むように、バルブを開けば正解が炸裂するだろう。
知るからいかんのであり、物語の中に物語はねえよ、ストーリーを貼り付けたら物語になるというのは大いなる欺瞞だろうな。
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(映)
のときのような
人の姿には戻れない
だが僕は忘れずにゆこう
僕たちは何も見ていなかった/光の中で/夜の中で/すべてを得ていた

何もかもわからなかったのだ
まだわかるということを識らなかった
変わったのは時代ではなく世界だ/僕は忘れずにゆこう/わかってから得るものだと思い込む愚かしさを
僕たちは何も見ていなかった/映していた/事実などまだどうでもよかったあのころのこと

夢が映っているのだと思っていた

そのとおり夢が映っていた
僕はあのときの夜のすべてを記憶していない/忘れていないから今も記憶にはならない
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しょせん
を助けることに価値があるのであって、女そのものに価値があるわけじゃない。
音楽を聴くという風習は僕にはない/景色にはいつも向こう側がある。
固定されたものはすでに死んでいるというか、受け身には一ミリの値打ちもない。
価値を受けていても生きる理由にはまったくならない、それではドラゴンの一匹でさえ倒せない。

誰かのことが大切なのではなく、護り助けるために戦うだけだ、それではじめて、景色の向こう側へ向かえる。
価値を認識せずに済むのだ、いやそんなごたくもすでに飛んでしまった。
僕はけっきょく、先生には向いていないな、僕が本当に知っていることは限定的すぎる。
便宜上は、愛とか光とか呼んだりするのかもしれないな、だが僕にわかるのはせいぜい、かっこいいということぐらいだ、何かがわかっているときの僕は、もう僕でも何でもないのだけれども。

わかるものは要らない、ひとつになった世界とやらも要らない。

守り助けるために突っ走った、景色の向こう側へ、そのときだけで十分だ、僕にはこの世に生まれ落ちたような記憶はない。
僕にはこの世界のことと世の中のことが何一つわからない、それは疑問を持ったことがないからだ。
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恋じゃなくても

憩しないといけない、とわざわざ書いたのに、休憩しにいかないのは不誠実だと思い、日帰りで温泉旅行にいってきた。
温泉宿をはしごして、公衆浴場にも寄って、帰り道にふと、もう夜だが、西湘バイパスを走り、窓を全開し、そのまま江ノ島にいってきた/ところで、夜の江ノ島って、爆走バイクが集まってくるのはなぜなんだ、まあおれは迷惑していないからぜんぜんかまわんが……
岸壁から岸壁へ、ふらふら歩いていると、駐車場に迷いこんだ/駐車場はすでに閉場していた。
ふと、管理所に立っていたおじさんがふらふらと寄ってきて、「ん? 車出す?」と訊いてきた、「いえ、すいません、そのへんを歩いていたら、道がわからなくなって、ちょっと通らせてもらおうかと」「あ、どうぞどうぞ。どなたでも」。

この季節に箱根なんか行くと、どうしても人が多いので、今回はあちこち、主要地からずれた温泉を漁った/今はインターネットで、掛け流しがいくらでも検索できるからすごく便利だ。
温泉行楽というより、ハイキングやツーリングの途中で、温泉に寄るという人が多いようだった、そして、どうしても年々、汚い声で話し続ける老人が増えてきていると感じざるをえない/と思っていると、若い少年のような三人組が脱衣所に入ってきて、この三人もひどく汚い声で話していた、逆に今回の旅で「汚い声のルール」に気づかされた気がする。
汚い声を出し、かつ、汚い声を出し続ける人は、本当にこころの底から、自分だけがこの世界だと思っているのだ、だから自分の話をずーっとこの世界にぶちまけている、自分の焼ける臓物の声をずーっとずーっと……/きっと一秒たりともこの世界を生きたことがなく、徹頭徹尾、自分の中だけを生きているのだ、だから自分にしか関係のない話を、自分の熱量に合わせてずーっと話している、当人はそれで「世界を生きている」つもりなのだろう、当人は自分が何をぶち壊しているのかずーっとわからないまま、わけのわからない目覚めをし、わけのわからないまま眠ることを繰り返している。
今回、別に何を考えて小旅行に出たでもないが、結果的に、江ノ島の駐車場のおっちゃんとだけ出会うことになった、そういうときは、なんだろうなあの感じ、恋じゃなくても照れくさいのだ、おっちゃんは一目で僕が好きだったからフラフラ〜と寄ってきたんだろ?

「好き」は「魅力」の反対だ。

は? と訝るしかないような話だが、こっちが真相だ、「魅力」というのは人に高圧をかける発想だが、実はそこに生じる「好き」はニセモノなのだ、正しく生じる「好き」は気圧ゼロ、真空だから「吸い込まれる」という形で「好き」が生じる。
そういえばサービスエリアのフードコートで、五十過ぎぐらいのきれいなおばさんが、きっと割と幸せな不倫旅行か何かの様子だったが、僕が斜め前に座るとそのきれいなおばさんは、目を丸くして口をポカーンと開け、ずっと僕のことを見ていた、今にも話しかけられそうで、ありゃりゃと焦りながら僕はラーメンを喰っていた/もちろん僕から向こうの、せっかくのご旅行に水を差すわけにはいかないので、僕はそそくさと去ったが、人と人とのあいだに起こっている本当のことはそっちのほう、出会うというのはもうどうしようもない、初めから「好き」の状態で出会っているのだ、それは恋じゃなくても常に照れくさいものだ。

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かわいい女の子がいい思いをする方法2
に男尊女卑だというのなら、その「尊い」と「卑しい」を、一般的な男尊女卑の感覚から、700倍ぐらいまで引き上げてくれ、それぐらい男尊女卑になれば、ようやく何かの構造に嵌まりはじめる。
男尊女卑といって、そのスケールが小さいから、しょうもない諍いが起こるのだ、「尊い」と「卑しい」の格差というのは、ちょうど太陽のフレアバーストと猛烈な下痢、ぐらいに捉えればいい。
人は、猛烈な下痢になると、大ピンチであって、それは太陽のフレアバーストで地球が焼かれるのと同等にヤバイ状況かもしれないが、同程度のヤバさでも、起こっている事象のスケールは違うのだ、あくまで自分の身だけに限定した場合のみ、フレアバーストと下痢は等しい、と言える。
男尊女卑をうんぬんするより、何が尊くて、何が卑しいのかの問題だが、尊いというのは「なぜこんなことに夢中になれるの」ということであり、卑しいというのは「なぜこんなことに熱中してしまうの」ということだ、尊いとは「やりたくてもやれないこと」であり、卑しいとは「やめたくてもやめられないこと」だ、このスケール格差を無理やり平等に扱おうとするから、舞台上にフレアバーストの誰かが出現せず、猛烈な下痢みたいな誰かが出現してしまうのだった。

卑しいということは、卑小ということであって、小さいということだ、劣等ということではない、男尊女卑というのも多くは「男優女劣」という誤解にすり替わっていると思う/こういう誤解のまま平気で驀進できる人は、残念ながら知性がアレなのだ、そういう人と意気投合するべきではない。
卑小の反対は、偉大とか雄大とかいうことになるが、つまり、雄大な男に「あら、ネクタイが曲がっているわ」と、女がネクタイの手直しをしてやるということが、まともだったということだ、ただしこの場合、男が雄大でなければ話にならない、男が小さなことでウジウジ悩んでいたり、眉毛の端っこをキチキチ調えていたりすると、これは雄大ではないので男女共「卑小かよ」ということになる。
問題は、男が雄大であれるかということと、女も、雄大であれるかということなのだ、ところが今や、男も女も、揃って卑小の側へ傾いており、つまりヒゲボーボーで仕事と学門に突っ込んでいるような男がいない、こうして男女とも卑小の側に向かっているのに、雄大のポジションに片足を突っ込んでいるのが問題なのだ、猛烈な下痢でハラがヤバイ奴は決して太陽神の力に接続しているのではない、トイレと医者にいくべきであって燦然たる舞台で自己主張するべきではない。
このあたりの原理を理解しないまま、雄大さのポジションに片足を突っ込んだ卑小マンは、懲罰のように艶めきや愛らしさを失っていく、だからもしかわいい女の子がブスのひどい女になりたい場合、小さなことを気にしながら平気で雄大さのポジションに踏み出せばいい、そうしたらテキメンにブスになっていくだろう。

立てている旗から、あなたは腐り落ちていく。

大きすぎる旗を立てていると、そこに大きすぎる霊が干渉してくるから、あなたの霊力が打ち負けて、ガタガタにヘバっていくのだ、霊力が打ち負かされると、カルマパワーで巻き返すしかないのだが、カルマパワーで巻き返したら、霊力はますます悪霊化していってしまう/旗サイズを700分の1にしなくてはならないのだが、そうするとあなたは友人に負けるので絶対にそのことを甘受できないだろう、怨みがきっちり残ってしまう、いったん大きな旗を立ててしまうとそういう騒動になるのだった。
未発達の土人じゃあるまいし、旗がデカイのがエライとかテンションあがるとかいうのはいかがなものか/僕は今一般の女性と相対すると、いつも「そんなデカい旗は、おれには立てられね〜」と感じる、僕の霊力の20倍はないとそんなデカい旗はムリだぜ、しかし世の中の風潮は、「もっと旗をデカくしよう」という一途なのだった。
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