☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
恋じゃなくても

憩しないといけない、とわざわざ書いたのに、休憩しにいかないのは不誠実だと思い、日帰りで温泉旅行にいってきた。
温泉宿をはしごして、公衆浴場にも寄って、帰り道にふと、もう夜だが、西湘バイパスを走り、窓を全開し、そのまま江ノ島にいってきた/ところで、夜の江ノ島って、爆走バイクが集まってくるのはなぜなんだ、まあおれは迷惑していないからぜんぜんかまわんが……
岸壁から岸壁へ、ふらふら歩いていると、駐車場に迷いこんだ/駐車場はすでに閉場していた。
ふと、管理所に立っていたおじさんがふらふらと寄ってきて、「ん? 車出す?」と訊いてきた、「いえ、すいません、そのへんを歩いていたら、道がわからなくなって、ちょっと通らせてもらおうかと」「あ、どうぞどうぞ。どなたでも」。

この季節に箱根なんか行くと、どうしても人が多いので、今回はあちこち、主要地からずれた温泉を漁った/今はインターネットで、掛け流しがいくらでも検索できるからすごく便利だ。
温泉行楽というより、ハイキングやツーリングの途中で、温泉に寄るという人が多いようだった、そして、どうしても年々、汚い声で話し続ける老人が増えてきていると感じざるをえない/と思っていると、若い少年のような三人組が脱衣所に入ってきて、この三人もひどく汚い声で話していた、逆に今回の旅で「汚い声のルール」に気づかされた気がする。
汚い声を出し、かつ、汚い声を出し続ける人は、本当にこころの底から、自分だけがこの世界だと思っているのだ、だから自分の話をずーっとこの世界にぶちまけている、自分の焼ける臓物の声をずーっとずーっと……/きっと一秒たりともこの世界を生きたことがなく、徹頭徹尾、自分の中だけを生きているのだ、だから自分にしか関係のない話を、自分の熱量に合わせてずーっと話している、当人はそれで「世界を生きている」つもりなのだろう、当人は自分が何をぶち壊しているのかずーっとわからないまま、わけのわからない目覚めをし、わけのわからないまま眠ることを繰り返している。
今回、別に何を考えて小旅行に出たでもないが、結果的に、江ノ島の駐車場のおっちゃんとだけ出会うことになった、そういうときは、なんだろうなあの感じ、恋じゃなくても照れくさいのだ、おっちゃんは一目で僕が好きだったからフラフラ〜と寄ってきたんだろ?

「好き」は「魅力」の反対だ。

は? と訝るしかないような話だが、こっちが真相だ、「魅力」というのは人に高圧をかける発想だが、実はそこに生じる「好き」はニセモノなのだ、正しく生じる「好き」は気圧ゼロ、真空だから「吸い込まれる」という形で「好き」が生じる。
そういえばサービスエリアのフードコートで、五十過ぎぐらいのきれいなおばさんが、きっと割と幸せな不倫旅行か何かの様子だったが、僕が斜め前に座るとそのきれいなおばさんは、目を丸くして口をポカーンと開け、ずっと僕のことを見ていた、今にも話しかけられそうで、ありゃりゃと焦りながら僕はラーメンを喰っていた/もちろん僕から向こうの、せっかくのご旅行に水を差すわけにはいかないので、僕はそそくさと去ったが、人と人とのあいだに起こっている本当のことはそっちのほう、出会うというのはもうどうしようもない、初めから「好き」の状態で出会っているのだ、それは恋じゃなくても常に照れくさいものだ。

恋女のマインドね | comments(0) |
かわいい女の子がいい思いをする方法2
に男尊女卑だというのなら、その「尊い」と「卑しい」を、一般的な男尊女卑の感覚から、700倍ぐらいまで引き上げてくれ、それぐらい男尊女卑になれば、ようやく何かの構造に嵌まりはじめる。
男尊女卑といって、そのスケールが小さいから、しょうもない諍いが起こるのだ、「尊い」と「卑しい」の格差というのは、ちょうど太陽のフレアバーストと猛烈な下痢、ぐらいに捉えればいい。
人は、猛烈な下痢になると、大ピンチであって、それは太陽のフレアバーストで地球が焼かれるのと同等にヤバイ状況かもしれないが、同程度のヤバさでも、起こっている事象のスケールは違うのだ、あくまで自分の身だけに限定した場合のみ、フレアバーストと下痢は等しい、と言える。
男尊女卑をうんぬんするより、何が尊くて、何が卑しいのかの問題だが、尊いというのは「なぜこんなことに夢中になれるの」ということであり、卑しいというのは「なぜこんなことに熱中してしまうの」ということだ、尊いとは「やりたくてもやれないこと」であり、卑しいとは「やめたくてもやめられないこと」だ、このスケール格差を無理やり平等に扱おうとするから、舞台上にフレアバーストの誰かが出現せず、猛烈な下痢みたいな誰かが出現してしまうのだった。

卑しいということは、卑小ということであって、小さいということだ、劣等ということではない、男尊女卑というのも多くは「男優女劣」という誤解にすり替わっていると思う/こういう誤解のまま平気で驀進できる人は、残念ながら知性がアレなのだ、そういう人と意気投合するべきではない。
卑小の反対は、偉大とか雄大とかいうことになるが、つまり、雄大な男に「あら、ネクタイが曲がっているわ」と、女がネクタイの手直しをしてやるということが、まともだったということだ、ただしこの場合、男が雄大でなければ話にならない、男が小さなことでウジウジ悩んでいたり、眉毛の端っこをキチキチ調えていたりすると、これは雄大ではないので男女共「卑小かよ」ということになる。
問題は、男が雄大であれるかということと、女も、雄大であれるかということなのだ、ところが今や、男も女も、揃って卑小の側へ傾いており、つまりヒゲボーボーで仕事と学門に突っ込んでいるような男がいない、こうして男女とも卑小の側に向かっているのに、雄大のポジションに片足を突っ込んでいるのが問題なのだ、猛烈な下痢でハラがヤバイ奴は決して太陽神の力に接続しているのではない、トイレと医者にいくべきであって燦然たる舞台で自己主張するべきではない。
このあたりの原理を理解しないまま、雄大さのポジションに片足を突っ込んだ卑小マンは、懲罰のように艶めきや愛らしさを失っていく、だからもしかわいい女の子がブスのひどい女になりたい場合、小さなことを気にしながら平気で雄大さのポジションに踏み出せばいい、そうしたらテキメンにブスになっていくだろう。

立てている旗から、あなたは腐り落ちていく。

大きすぎる旗を立てていると、そこに大きすぎる霊が干渉してくるから、あなたの霊力が打ち負けて、ガタガタにヘバっていくのだ、霊力が打ち負かされると、カルマパワーで巻き返すしかないのだが、カルマパワーで巻き返したら、霊力はますます悪霊化していってしまう/旗サイズを700分の1にしなくてはならないのだが、そうするとあなたは友人に負けるので絶対にそのことを甘受できないだろう、怨みがきっちり残ってしまう、いったん大きな旗を立ててしまうとそういう騒動になるのだった。
未発達の土人じゃあるまいし、旗がデカイのがエライとかテンションあがるとかいうのはいかがなものか/僕は今一般の女性と相対すると、いつも「そんなデカい旗は、おれには立てられね〜」と感じる、僕の霊力の20倍はないとそんなデカい旗はムリだぜ、しかし世の中の風潮は、「もっと旗をデカくしよう」という一途なのだった。
恋女のマインドね | comments(0) |
かわいい女の子がいい思いをする方法

ディファーストなどというのは救いがない。
そして、男尊女卑などというのは、さらに救いがない。
研究の結果、わかってしまったのだ、レディファースト等を言っているのは残念ながらハズレだった。
なぜハズレかというと、これは神話うんぬんにはまったく関係なく、ただのハズレなのであった……

身分の違いを、愉しむものだったのだ。
もちろん、体細胞のひとつごとを見たり、呼吸器や循環器を見た場合、人それぞれに身分の差などない、ノンフィクションにおいては当然そうだ。
この、ノンフィクションとフィクションをまぜこぜにした、つまり知性の低かった人たちが……まあ何でもいいや、かわいい女の子がいい思いをするには、かわいい女の子という身分を愉しめばよいのだった。
かわいい女の子として、チヤホヤされたり、自己実現を発想したり、「トレーニング」をし始めたりすると、それは悪夢の序曲なのだった。

あなたが男性と付き合うたび、ブスになっていくのは、あなたが男に尊重されているからだ。

繰り返すが、男尊女卑みたいな状態になっている男はアホだ、表面だけなぞるからそういうアホになるのだ、すでに男女ではなくなってしまった憐れな者たちだけが、男尊女卑などという人為的な思想をなぞって男女のふりをしなければならなくなる。
レディファーストにせよ男尊女卑にせよ、それは「面倒くささの源泉」としてしか機能しない、僕はレディファーストをいくらでもしていいし、実際にそうしてきた者だが、結果的に、レディファーストの中に棲んだ女はどんどんブスになっていった、そういう事実が出現してしまうのはどうしようもない。

恋女のマインドね | comments(0) |
しょうがないこと(listen)

イプ被害者にチンコを吸わせて何が悪い?
おれが加害したわけじゃない、おれは腕力の一切を毛嫌いしている。
もしおれが、まともな男で、女に何か、まともなことをしてやれるなら、それは女をレイプ被害者でなくしてやることだ。
女がまともな青空とまともな未来を見上げられるようにしてやることだ。

しょうがないのだ、世界を創るためには、これぐらい当たり前でなくては。
世界を創るというのは対話をやめるということだから。
あなたに救われたんですと言われることは多かったが、おれは救った記憶はない、救ったつもりはないし、そもそもおれは過去を持たない。
考えたら負けという言い方がある、Tさんはよくそういう言い方をした、おれはもちろん侮蔑した、考えたら負けというより、そもそも負けの可能性がある時点でそいつはとっくに負けている。

しょうがないのだ、世界を創るためには。

僕のことを、道徳の側面から、あしざまに罵ることは可能だ、とてもイージーなことだ、ところがその当事者は何も面白くない、正当な人にいつも言えることは「お前の話は面白くない、それも生涯に亘って」だ、この問題に向き合うからにはしょうがないのだ。
作品を通してしか、伝えられないことがあり、直接おれに会いに来た人は、みな「九折さんがやさしくて穏やかでびっくりした」と言う、おれは自分の連れている女に世界を創らせるような苦行をさせるつもりはないからだ、だが世界を創ろうとするのにおいては、魂の厳しさはしょうがない、負けの可能性がある時点で、そいつはとっくに負けている。

恋女のマインドね | comments(0) |
美女更衣室
というのはいつだってキツく、そうしたものだけがうつくしくあれる。
僕がこんなしょうもないところに、しょうもない何かを書き遺しているのも、誤解があるのかもしれない、僕は何かを発信しているのではない。
僕はこうしたことを、 "やめられない" ので、ここに書き続けているだけだ、街中でガキを殴り続けて暮らすわけにはいかない、その点ブログ記事なら誰にも通報されないだろうということで、続けているだけだ。
重要なことは、ブティックに行ったら、着替えている美女の試着室に、首を突っ込むことだ、それ以外に何がある? 僕が女物のセーターやコートを見てホエーとくつろいでいたらどうなる、それはクソみたいなデパートだ、この世界に首を突っ込むということは、女の試着室に首を突っ込むということだ、そこに首を突っ込まないと見えないものが当然あるのだ。

連想ゲームほど、つまらないものはない、だからこそ連想ゲームはお茶の間でウケる、最も退屈な脳は連想という尿を漏らすからだ。
夢中で生きてきたという話をした、あれはいい話だった、けっきょくみんながどう足を引っ張っても、おれをスポイルはできないらしい、だからよかったな、あなたの知っているこのヤバイ人は、あなたのせいで墜落したりはしないみたいだ、よかったな、このヤバイ人はけっきょくあなたの話なんか聞いてなかった。
夢中で生きてきた、今もそうだしこれからもそうだが、夢中で生きるということは、あなたと違う生き方をするということ、夢中で生きるということは、秋の微粒子に首を突っ込むということだ、人には夢中でしかやれないということがあって、夢中で首を突っ込めばネオンランプの光や秋の匂いを嗅ぐことができる。
物事にはいろんな捉え方がある、たとえば人の身のカルマであったり、聖書がいうところのアダムとエヴァであったりだ、だが夢中で生きている者はそうした複雑な捉え方を必要としない、捉え方を必要としている人は捉えていないから捉え方を必要としているに過ぎず、またそうした捉え方でけっきょく何かを捉えることは永遠にできない。

おれが夢中になりたかったのではなく、夢中から出る方法がわからないだけだ。

もともと三連符が聞こえている奴がいて、つまり夢中に首を突っ込んだままの奴だ、こいつがやむを得ず夢中のことを表記するのに、五線譜に三連符の記号を表示することを思いついた、ただそれだけであって、三連符を見てからそれをなぞったとしても三連符が響き始めるわけではない、三連符だってなぞればジャンルだ、なぞれば何だってジャンルになる、そのことを永遠に繰り返すわけのわからない奴もいるみたいだ、それはけっきょく何にも間に合っていない。
おれはけっきょく何百人の女と寝たのかわからないが、とにかくその大半、99%を覚えていない、カネで買ってはいない、おれを罵るメールが毎朝届いて、送り主が誰だかわからなかったことがある、おれには何のジャンルもわからない、おれはガキのころからカレンダーに何が書かれてあるのかがわからない、あの数字の行列がおれの前方にあったためしはない。
恋女のマインドね | comments(0) |
ただの愛2
だの愛があれば、そんなにヒサンなことにはならない。
何か、水面下でヒサンなことになっている人は、ただの愛がないのだ。
このことを、認めない人はけっこう多いのだが、認めようが認めないが、それは「日本の国土から石油が出ねー」という事実と同じで、認めなくても愛のない奴は愛がないのだ。
透明感のある美少女が、グアムの砂浜でグラビア撮影をして、おっぱいがぷるんぷるんでも、そいつに愛があるかないかは別だ、どれだけバレエレッスンに真剣で鬼教官に叱られてウッウッと泣いていても、愛があるかどうかは別だ。

ただの愛だが、ただの愛がある人って、そんなに多くないぜ? ここのところを曲げるから話がややこしくなるのだ。
路上で通りすがりに、酔っ払いが電柱にもたれてゲロを吐いていたら、どう思うんだ、ふつう「おいおい、大丈夫かよ」と思うだろう、まさか「近所迷惑!」なんて思う人は一人もいないよな? 人が飲み過ぎで嘔吐しているのに急にモラルを唱え出す邪悪なんかふつう一人もいないよな。
自分ちの玄関先で、誰かがタバコを吸っていたらどう思う、ふつう、「座るところもなくてすまんな」って思うだろ? まさか「迷惑!」とか「路上喫煙!」とか思う人はいないよな、よほどのクサレ邪悪でないかぎりそんな血みどろな発想は湧いてこないものだ。
僕は以前、トラブったワンちゃんを助けるのに、代々木公園の池に飛び込んだことがあるぜ、どういう状況だったか説明するのは面倒なので省くが/なぜ他ならぬ僕が飛び込んだかというと、そこにいた中で僕の身体が一番頑丈だったからだ、たいへんな感謝をされたが、どうして犬を助けるために飛び込んだら感謝されるのか意味がわからん、まさか「傍観」していろというのか、そんなキチガイはこの世に一人もいねえよ。

ただの愛が、ない奴は「ない」でいいだろ。

透明感のある美少女が、薄着姿で髪の毛をくるくるに巻き、遠くを見るような目をしたとしても、愛がないなら「ない」だろうよ、それのどこに問題がある/ただの愛がある奴なら、これまでに愛の時間を必ず生きているはずだ、その時間に心当たりがないなら、そりゃただの愛が「ない」のだろう、なぜかこのことに頑強に抵抗する人がいて、その抵抗は完全に無意味だからやめようぜと僕などは提案したい。
ただの愛がない人は、なぜかそれが「ない」と認めることをしないで、結果的にどうなっているかというと、ただの愛が「ある」人のことを、「ある」とも認めていないのだった、その単純なことを認めないせいで、自分の生きる数十年をすべてゴミにしてしまう、その損失に比べたら、そこまで頑強に抵抗するようなことだろうか(と僕は思うのだが、本当に頑強に抵抗するのでよくわからない)。
恋女のマインドね | comments(0) |
ただの愛

の中には、ただのキチガイ、という人もいるのだから、同様に、ただの愛、という人もいる。
ただのキチガイに、理由なんかありえないのだから、ただの愛にも、理由なんかない。
愛は、ただの愛なのだが、ただの愛を持っている人はそんなに多くない。
そして、このただの愛のあるなしが、すべてを決定してしまう、ただの愛がなければすべてはゴージャスな絶望にすぎず、ただの愛があれば、それはどう地味なものでもかけがえのないものだ。

ただの愛は、話としてはわかりやすいのに、実物としてはわかりづらい。
本当に、ただの愛だからだ/そのわかりにくい実物は、わかりにくいがゆえにいつも見落とされている。
いつまでも誤解されているのだが、愛というのは、「好きな人をケアする」ということではない、「好きな人をケア」するというのは、ただのキモチだ。
かといってもちろん、「恵まれない人たちのために井戸を掘りに行く」、というのも違う、ただの愛というのは、「そこ座ってるの寒くない?」というだけのことであって、本当にただの愛だ。

野良猫にこっそりエサをやったことがない人は、意外に多い。

スーパーマーケットからの帰り道、「ニャー」と鳴かれたら、「あ、そういえばカマボコ買ったな」ということで、こっそりカマボコをあげたりする、できたら塩分少なめのやつをな……ただそれだけのことだが、そういったことを一生に一度もしたことがない人はけっこう多い/そういう人に、僕は冷静に訊きたいのだが、キミは永遠に自分だけがカマボコを喰うつもりかね?
この世の幸せとは何かというと、僕がヒルズマンションの上階に住むことじゃない、猫ちゃんがおいしそうなごはんにありつくことだ、それはただのリアルなことであって、涙がウルウルするようなことじゃない、自分だけ特上カマボコにかぶりついて「幸せ」なんて、バカの顔は見るに堪えないだろ。

恋女のマインドね | comments(0) |
GOOD DAY

体的には言えないが、今日、ひとつの素敵なことがある。
いろんな場所で、いろんな空港で、いろんな思いがあり、単に生きるということとは別の命がある。
僕はうれしいのだ、想像するだけで、こんなに面白いことになるなんてな、しかもまだまだ、この先に楽しみが待ち受けている。
思いがけないことがあって、思いがけないことが進展して、思いがけないことが、わたしの命だった、そんなことが、これからも絶え間なく続けばいいなと、こころの底から思っている。

何もかも、いい具合にいきますように……まあ、大切なものと出会えたら、それだけでいいのだろうから、ここしばらくは、世界中の全員がそうならいいな。
邪魔者はいない、それなりに知り合いはあったとしても、もっとわけのわからないものに導かれて、わけのわからないものに会いにいく。
それでどうなるのか、わからないのだけれど、それがわからないというのがとびきりいい、なぜだろうな、ずいぶん離れてあるものが、何よりも身近にあるような感じがして、行かねばならないのに、しかも身近なくせに「どうなるのかはわからない!」のだから、これはゴキゲンのかたまりだ。
僕はつい祈ってしまうが、きっとその祈りも不要なほど、祝福が満ちているだろう、それでも祈ってしまうがな、それ以外に僕は何もできないが、せめて僕も、負けないように過ごそうと思った、いつもどおりの毎日で、しばらくこっそり祈り続けよう。

二十年ほど前、若かった僕は、ヒンドゥー教の聖地にいた。

だから何だというわけじゃないが、すべては「何」なのか、たぶんまだまだ先にならないと、本当にわからないのだ、ついにこんなところにたどり着いたのか、あるいはそれが、実はすべての始まりにすぎないかもしれず、それがすべての始まりだったなら、これはもう楽しみでたまらないな。
知らない場所が、知っている場所になり、でも本当に知らない場所なら、もともと行かないのかもしれないな、さあて何が何やら、おれも負けていられないぞ、まあ何かがある、おれもわけのわからないものに会いにいかないとな。

恋女のマインドね | comments(0) |
今夜も一人で生きつづける2
ンターネットやSNSは、人間の精神に、電子的な田舎村を作る。
田舎村、つまり、何かを共有していると思い込むのだ、だがわれわれは「本質」において、何かを共有するということ自体がない。
僕が聞いている雨音や、僕が見たガンガーの黎明が、どうやって「共有」されるのか、その共有を妄想することから、すべてのうっとうしさとつまらなさが始まっている。
本質的に「共有」などないのだ、この世界が歓喜なのか悲嘆なのか、そんなことは誰との共有もあてにできない、ただ自分のものだ。

今夜も一人で生きつづける、そもそも「生きる」というのは自分一人のことだ。
僕が誰かのことを愛したとして、他の誰かがその人のことを同様に愛するわけではなし、だから「共有」はないのだ、このありもしない共有への妄想を放棄しなくてはならない。
共有への妄想は、妄想の世界を創り出し、その中に妄想上の「わたし」を創る、つまり本質的に「わたし」でも何でもない習慣的な「わたし」を創り出すのだ、<<このエセの「わたし」は世界の何をも感じることができない>>。
この妄想の「わたし」を破棄したとき、人は何かを探す理由がまったくなくなる、いつもただ目の前のことを掴めばいいだけだからだ、そして目の前のことを掴むというのは自動的なことであって、本人がこれといって頑張るようなことではない。

正しい「わたし」は、「わたし」というよりは「一人」だ。

何しろ「一人称」というのだから、「一人」というほうがいい、一般的な「わたし」はすでに言葉として汚染されすぎているので、「一人」が一人称だと捉えたほうがいい。
僕の友人たちへ……人格が二つ存在するのだ、そして片側は、とんだエセ人格で、世渡りをする以外には何の使い道もない、それは本当には人格でも何でもない、誰かに向けて使うものでもない。
恋女のマインドね | comments(0) |
今夜も一人で生きつづける
っと昔からあるこの感覚。
何なんだろうな、"夜は僕のものだ"。
むろん、どこかで誰かが同じように生きているのだろう、だがそういうことじゃない、僕は今夜も一人で生きつづける。
孤独なわけではない、知人向けの何かを持たなくていい。

ずっと昔からあるこの感覚、この感覚は正しくて、ただそれが何なのか、もう何十年もかけて追求してきた、そしてこのごろは大いに真相に肉薄している。
「今夜も一人で生きつづける」、いい言葉だ、何かのためではない、何かのためなどということはこの世界に存在していない。
世界に吸い込まれていく、僕は小さなものだが、この小さなものは、僕にとって雄大な存在だ、何しろこの夜の持ち主だ、僕の夜は僕しか持っていない。
このシグナルは、何か正しいことに合致しているから、与えられている/他人の声を一切聞かないことだ、おれがおれの世界の主なのだから、そうでなきゃ友人に合わせる顔もない。

友人のいる世界に、今夜も一人で生きつづける。

それは他のすべての人にとっては間違いで、唯一僕にとってのみ正しいことになる、なぜなら他のすべての人は僕ではないからだ、当たり前だそんなことは、ただそれを持っている人と持っていない人がいるだけで。
われわれには相互に、共通しているところなどひとつもないのだ、だからこそコミュニケートが重要になる/ありもしない共通性に依存したとき、われわれはウソの世界を捏造しなくてはならなくなる。
恋女のマインドね | comments(0) |
特権をやりたきゃ勝手にどうぞ
は、放っておくと醜いものであり、また別のときは、うつくしいものでもある。
それは、ごく単純にいうと、エネルギーのない奴は醜いのであり、正確にいうと、エネルギー源とつながっている者はうつくしいのだ。
別の言い方をすれば、消費する者は醜いのであり、産み出す者はうつくしいのだ、この産み出す能力を「産霊(むすひ)」と神道では言うらしいが、産霊のエネルギーから断たれてあるものは、醜いので、やたら自分を飾らねばならなくなる、髪型青年やシャツ青年や顔の角度青年が跳梁跋扈するのはそのためだ/醜いということを糊塗しているのだ、それはまあそういうものだろう。
我慢(吾我驕慢)するとサイアクの結果になるのだし、じゃあ自分を解放せねばならないが、解放といっても醜かったら話にならない、醜いものを解放したところでワイドショーの最悪ニュースにしかならない、解放というのはうつくしい者の特権だ。

だからこそ色んなことの「解放運動」のようなものは、その現場においては息苦しい、何か醜いものの気配が立ちこめるのだ、まあそのことも、それはそんなものだろうとさっさと決着させるしかない。
正しい解放が知られねばならないが、このことは犠牲者を要するだろう、<<解放は悪である>>ということをまず知って、なぜか光が伴うという者にだけその解放の特権が与えられる。
なぜその特権が与えられるかというと、産み出しているからだ、世界や愛そのものを/産霊なのだ、産霊によって永遠の命(時間軸に無関係な命)が与えられるから、そのために犠牲者が出ても、別に何のことはないだろうということだ、誰も永遠の命があるのならわれわれは犠牲死うんぬんで揉めない、犠牲フライを打ってフィールドを呪う野球選手はいない、点を獲ることが永遠の命なのだから自分の犠打はかまわんじゃないか。
まあとにかく、産霊ということの実際は、想像を絶しているので、解放というのも想像を絶している、すさまじく産み出されるというか……そもそも産み出される前は何もないということ、「無」だということ、このことを知らねばならないが、そんなことを教えてくれる人はまずいないし、どうやって知るという方法もないのだった、じゃあけっきょく何かの幸運に恵まれるしかないのかもしれないな。

産霊(むすひ)をやりたきゃ勝手にどうぞ、それは自動的に特権です。

いやあ、世界はやはり光り輝いているなあ……ただしそれは、世界があればの話であって、一般的に眺められている生活空間は世界でも何でもない、「無」だ、「空」でさえない、世界がないところを眺めて「光り輝いているなあ」と真似事をしてもアホみたいなのでしないほうがいい、こと産霊ということになったら、多くの人が実は自分には友人などいないということにハッと気づく。
産霊が起こるまで世界などないので、産霊に出会わなければ女は女ではないし、キャラクターもキャラクターじゃない、自前のキャラクターや女を用意している人は産霊の門をくぐれないだろう、まったく一般に思われているものと違うのだ、特権だと言っているのだから特権なのであって、産霊に出会ってから始まるのであって、始まってから産霊に出会うのではない、だから自前で始めてしまった人は産霊に出会えない、自前の持ち込み物が検査機ゲートに引っかかって弾き出されるだろう。
恋女のマインドね | comments(0) |
兵士は兵士の夢を見る
「たかが歌詞じゃねえかこんなもん」と言った人があって……
歌詞はひとつの命だ、夢だ/だから、命や夢がステキなのであって、歌詞がエライわけではない。
歌詞にどう反応すればいい? 命で反応すればいい、夢で反応すればいい、お前の命で、お前の夢で/言葉の意味で反応なんかしなくていい。
だから外国語の歌なんか、意味わかんなくていいんだよ、命も夢もひとつの存在、ミスブランニューデイ、兵士は兵士の夢を見る。

耳にイヤホンを突っ込んでいるんじゃない、通常、命に命を突っ込んでいる。
人の甘言にたぶらかされて、甘い夢を見ているのじゃない、おれの夢が叫んでいる、ありがとね、そういえばこれまで礼を言ったことがなかったな。
他のやつの命や夢など、知ったこっちゃない、だが知ったこっちゃなくっても、命や夢はもともとひとつだ、夢を叫ぶ命には夢を叫ぶ命で返してやんよ/それが「聞こえてる」ってよくわかんだろ。
聞こえてんだよ、何もかも見えなくなるぐらい、われわれはどこから来た? この声の出どころから来たんだろ。

たかが歌詞、これ命が踏んでいった足あとだろ?

おれはバカじゃないんで、足あとから情報はえげつなく読み取ってやんよ、おれはクソほど頭がいいからな。
だが、やはりおれはバカじゃないんで、命には命を、夢には夢を返してやんよ、それが最大、あるいは唯一で、「聞こえてる」ってことだろ。
恋女のマインドね | comments(0) |
かっこよくなくてどうする!!3/ガマンクソ顕微鏡

「わたしはブスでアホだけど、マイケルジャクソンはかっこいいよ!!」と言ってみろ。
すると、前半、「わたしはブスでアホ」のほうに、感情の大なりがあり、「マイケルジャクソンはかっこいいよ」のほうには、感情の小なりしかないのだろう。
それが「自分標準」だと言っている、そして言うまでもないが、前半部に感情の大なりがあるのは、この宇宙であなた一人だけであって、他のすべての人は文脈の後半部にしか感情の大なりを持たない/そりゃ当たり前だろ、あなたの「自分標準」は、あなたの「自分」にしか通用していないのだから。
ためしに僕が、「僕はチンカスでアホだが、マイケルジャクソンはかっこいいぜ!!」と言ってみたとする、そうするとどう考えても、前半部に感情の大なりはない、そりゃあたりめーだろ、マイケルジャクソンのかっこよさに比較して、僕のチンカスぶりに何の大なりがあるんだ、そんな芥子粒みたいなもんは顕微鏡でも持ち出さないかぎり注目の方法はないのだ。

この現象を、ガマンクソ顕微鏡という、本当はこの話は別の機会にしようと思っていたのだが、まあいい、「我慢」というのは読んで字の如く、「吾我の驕慢」を意味している、だからガマンにガマンを重ねて生きてきた人は、吾我の驕慢に吾我の驕慢を重ねて生きてきたわけで、結果、もう何がなんでも自分のことしか考えない、つまり顕微鏡で自分のことを何百倍にも拡大してオオゴトにするマシーンとなっている、このことをガマンクソ顕微鏡と僕は呼んでいる、「クソ」とついているのはもちろんただの悪口のためだ。
ガマンクソ顕微鏡というのは、まったく誇張ではなくて、マイケルジャクソンのかっこよさには十億人が注目するのに、自分のかっこ悪さには身内や共同体メンバーの十人しか注目しない、しかしそれを等価以上に扱うのだから、ガマンクソ顕微鏡は実に一億倍以上の拡大能力を持っていることになる、こんなもん電子顕微鏡のレベルだ。
どういうことかわかるだろうか? わかるも何も、きわめて単純なことだ、変数XとYを用いて、一般式「わたしはXだけれども、マイケルジャクソンはYだよ」を示したとき、ガマンクソ顕微鏡によって、Xの値は一億倍に拡大されるということだ、こんなデタラメな人生観を俎上に載せる値打ちがどこにありえようか。
このガマンクソ顕微鏡の持ち主は、自分がちょっとおちょくられると、核ミサイル発射!!! みたいな膨大な怒りを持つのだが、一方で今も世界で続いている民族浄化と殺戮のことなどについては、正直何も感じないのだ、そりゃ一億倍に拡大していりゃそんなものかもしれんな/ガマンクソ顕微鏡の持ち主は、これを「なんとかしてください」というのだが、基本的に一億倍ベースを保存したままで何とかしてもらおうとしているので、ムチャクチャだ、本人も自意識過剰を自覚してはいるのだが、それがまさか一億倍などという単位だとは思っていない。

今もなお、ガマンクソ顕微鏡の持ち主にとっては、その持ち主たる自分が主役であり、正当な視力の人のことは注目していない。

見ろ!! ガマンクソ顕微鏡の人にとっては、やはり今も自分が一億倍主役なのであって、「マイケルジャクソンはかっこいい」というようなことは、眼中に入らないのだ、自分のことだけが大なり×大なり×大なり×大なり……であって、他のことはすべて相対的に縮小していくばかりになる。
ガマンにガマンを重ねてきた人は、つまり我慢×我慢×我慢×我慢……としてきたわけだから、その拡大レンズの重なりが外れていくまでは、顕微鏡状態を逃れられない、この人にとってはまったく冗談ではなく、<<自分がメチャクチャ大きく見え、マイケルジャクソンがメチャクチャ小さく見えている>>、自分の日記は東京ドームのようなデカさだが、マイケルジャクソンの歌詞はレシートの裏に書かれているサイズなのだ、これが誇張でなく実寸はさらにデカいと思ってもらって差し支えない、こんな奇怪な「標準」を取られたら、まともな話なんかできっこない。

恋女のマインドね | comments(0) |
かっこよくなくてどうする!!2/自己都合で解体する
の世で最たるゴミは、かっこいいものに惚れない奴だ。
もしくは、かっこいいものに惚れる、その惚れっぷりが、薄気味悪い奴だ、こんなやつを野放しにしているから国が腐っていくのだ。
かっこいいものに惚れない、あるいは惚れ方が薄気味悪い奴は、なぜそうなるかというと、「かっこいいもの、かっこいい人」に比較して、自分が絶望的に「かっこ悪い」ということ、このことに向き合えないからだ。
つまり、何がサイテーかといって、そういう最たるゴミは、<<かっこいいものを目撃したときでさえ、自分のことしか考えていない>>のだ、これを最たるゴミと呼ばずして何と呼ぼう? 世界のすべてを自己都合でしか眺めない奴が「薄気味悪い」のは至極当然のことだ。

そして、自己都合だけでこの世界を眺めている者は、かっこいいものを自己都合だけで「解体」するのだ。
つまり、クソブス女は、マイケルジャクソンを「解体」するのだ、どんな権利があってそんなことが可能なのか、テメーがバラバラになりやがれ。
クソブス女は何をするかというと、マイケルジャクソンと自分がいたら、自分を「標準」にして考えるのだ、「やっぱり立ち姿がかっこいいですよね」というふうに、なぜテメーがスタンダードになってマイケルジャクソンを解体できる権利があるのかおれにはさっぱりわからないが、そういう罪業は生涯も死後もずっとつきまとうことを思い知れ、そんな解体ババアが腹の底から笑える時間は今生も来世も一秒だって与えられない。
クソブス女が僕に向けて、「最たるゴミ」と言ったとしても、僕は「そうだな!!」としか応えないが、僕がクソブス女に向けて「最たるゴミ」というと、感情的な嵐が吹き荒れるのだろう、その差はどこから生じている?/そんなもん、僕はかっこいい人を標準とし、つまりマイケルジャクソンあたりを標準にして考えているので、僕なんぞは「最たるゴミ」で妥当としか考えていないからだ、そこで感情的な嵐が吹き荒れるのは、自分標準で考えているからだろう、そうして自分標準でかっこいいものを解体する悪行は精神的にポルポトの従兄弟分にあたるからソッコーでやめたほうがいい。

かっこ悪い自分を標準にして俎上に持ち出してくる行為は、人類史上単位で時間の無駄だ。

ドラマチックといって、マイケルジャクソンのライブがドラマチックなのはわかるが、クソブス女のメランコリーには何のドラマツルギーも認められない、クソブス女がいつも感情的に破裂寸前なのはこの世の常であって、そんなことはドラマでも何でもない、ドラマというのは「何かに到達せんとする物語」のクライマックスがドラマなのであって、「何にも到達できないで憤懣、破裂しそう」ということはまったくドラマではない、ただの心療内科の取り扱いだ。
そして、ドラマでも何でもないものをドラマチックに演出・主張されることほど、人類単位の無駄はないのだ、かっこ悪いということは愛がないということであって、かっこいいというのは人並み外れた愛があるということだが、どうして愛のない側が愛のある側を「解体」するのか、しかも感情的・落涙・主張的・けいれん。陶酔して、自分の解体罪のことはすっかり忘れているのだ、こんなメチャクチャな話があるか、人は自分標準だとそれぐらいブットビのバカになれるぞ。
恋女のマインドね | comments(0) |
かっこよくなくてどうする!!
っこいい人は、かっこつけているのではなく、かっこいいのだ。
かっこつけている人は、かっこよくないから、かっこつけているのだ。
この世で最もクソなことは、かっこいい人と、かっこ悪い自分の区別がつかないことだ。
かっこいい人は、かっこいいのであって、かっこ悪い人は、かっこ悪いのだ、そしてかっこ悪い自分は、出る幕などないのだ/何がどうなって、かっこ悪い人は「悩む」のだ、「かっこ悪い」という結論が出ているのであって、そこに悩みなど存在しない、ただの「かっこわる」であって、それは話題にすらならない。

たぶんこの世で最大のアホは、「かっこ悪い自分という問題」を、テーマとして俎上に載せる奴だ。
「かっこ悪い」ということは、イコール「テーマにならない」ということだ。
それなのに、それがただ自分のことだからといって、大テーマとして俎上にノシノシ持ち上げてくるのだ。
信じがたいことに、そのたぐいのアホは、<<かっこいい人はかっこ悪い自分のための材料>>だと思っている、そうじゃない、かっこいい人は「存在」であって、かっこ悪い自分は「無」だ、なぜこんな当たり前のことも教わらずに来たのだ、よっぽどクソな両親から生まれてきたのか(なんとでも言ってやる、容赦はしない)。

この世のすべては、かっこいい人のものだ。

当たり前だ!! かっこ悪い人は、死ねということではないが、まともに市民権があると思うなよ、かっこ悪い人の市民権は、ただ「あの人はサイコーだぜ!」と熱狂する権利にのみ支えられる。
この世に、「かっこ悪い自分」を堂々とのしあげてよい権利は世界中のどこにもないのだ、まさか平等の権利があるとでも吹き込まれてきたのか!?/「かっこ悪い自分」をこの世にのしあげるということは、この世を悪魔の手に売り渡そうとする行為だ、そんなことは遥か辺境の地、アラスカ以北で独特の仲間を集めてやってくれ。
恋女のマインドね | comments(0) |
(夜の王)

乱する 夜の国道
アスファルトは盛り上がり 黒塗りの車は肩幅を利かす
電気を歌うユーロビート
カフェテラスは地球の裏側まで続いている

栗色 三つ編み ポニーテール
すべての職業は終わった この祭りの日々
夜の王は暴徒どもを抑え込んで
アリヴァスウェ アリヴァスウェ わからない低音を唱えるのだ アリヴァスウェ

(心臓が毎秒吐精する)

地上からビルヂングを伝い 天空までまします 夜の王
球体ではない 熱気に噎せ ここは巨きな魚眼の中 水晶体の中だ

恋女のマインドね | comments(0) |
サタデー・ナイト・(    )
たパーティの告知を作るのを忘れていた、今回は何人くるんだろう、よーわからんがまあいいかという心地である、いやまったくよくはないのだが……
僕が何も言わないでも(告知なんか作らなくても)、わらわらっと人が来てくれたらそれでいいのだが、そうもいかないというか、まあそのへんは突っ込むと色々あるのでお茶を濁すとして、まあパーティはやるので、おヒマな人はいらっしゃってね、別に興味があるとは思わないが、それでいえばおれだって別に興味があるわけじゃない。
人はけっきょく、土壇場で「かっこいい」と信じることしか選択しないので、こんなものは強制できないし、けっきょく催促もできないのだった、このよくわからんパーティに、行ってみるというのが「かっこ悪い」と感じるなら、そりゃその人は無理にやってこられる理由がない。
僕のほうはというと、このよくわからんパーティを、続けないのはかっこ悪いし、やめたりしたら超かっこ悪いし、何か知らんがシレッと宣言どおり「やる」「続ける」のがかっこいいので、そのようにしているだけだ、そして内心でかっこ悪いことをごまかして生きると、その後の報いがえげつないので、僕はなるべくかっこ悪いことをしたくないのだった、そんなわけで今月もこの土曜日にはパーティをやるのであります、いやあ相変わらずおれは静かでアクティブでかっこいいぜ。

パーティで何をしたいかというと、そうだな、さしあたり重要なこととしては、超おだてられながら酒が飲みたい。
月に一回ぐらい、女におだてられながら酒を飲まないというのでは、男としてミガキニシンのように悲しいものだし、女のほうもどうだろう、女も月に一回ぐらい、男をおだてながらお酒に相伴するということぐらいなければ、女としてあぜ道のモリアオガエルのように悲しいのではないだろうか、まあおれは女じゃないのでわからんけれども。
おだてられながら酒が飲みたい、これだ、このアホなことを罵る者は、生涯に一度もおだてられながら酒を飲むということを得なくなるだろうし、このアホなことを謗る女は、けっきょく本職が焼いたシャトーブリアンを一度も口にせず人生が終わるだろう、そんなヒサンなことになるぐらいなら、何かまともにアクティブになったほうがいい。
このご時世、気分の悪い論争ツイートが数万もリツイートされるし、東横線沿いの盆踊りには髪の毛を盛った人たちがどこからともなく殺到してきて超自撮りしまくるのに、一方ではおれの名文はゼロリツイートだし、おれのパーティはさんざん煽らないと誰も来ないからなあ、その中でこそおれはかっこいいからまあかまわないのだが、とにかくおれはおだてられながら酒が飲みたいのだった、それ以外にパーティうんぬんに用事はない(当たり前)。

土曜の夜は、お互いどこかでかっこよく過ごそう。

炎上ネタをリツイートしたり、自撮りのイベントに行くことは、本当にかっこいいのだろうか、まあおれはそのことを審判できないので口出しできないが/ただ本当には「かっこいい」と信じていないことを、「かっこいい」と偽って続けていると、そのことはやがてとんでもないツケになるのだった、これだけはマジだから、お互いかっこよさにはウソのないようにいこう。
「イケてる風情」というのと「かっこいい」とはまったく別モノだから、本当にかっこいいものを選ぶべきだ、夏の土曜日は、途切れたらもう来てくれないものだし、おれはまだ遊んでいるよ、そうして遊び続けることが生命だと信じる人は、どうぞ怯まずタイトルの空欄を埋めてね。
恋女のマインドね | comments(0) |
他人のことに口出ししない理由

は目の前で女が発狂していても、口出しはしないし、男がオラついていたりキャラっていたりしても、口出しはしない。
なぜ口出しをしないかというと、「判断が違う」からだ、発狂している女や、オラついている男は、それを「かっこいい」と判断しているのでそうしているのであり、かつその判断は正しいかもしれず、間違っているかもしれない、その正誤の審判は誰にもできない(少なくとも僕にはできない)。
たとえば、震災千羽鶴を全力で否定する人は、それが「かっこいい」と判断しているから全力否定しているのであり、あるいは男性の内なる心を猛烈に穿って糾弾する女は、それを「かっこいい」と判断しているから猛烈糾弾しているのだろう、それが「かっこいい」のかどうか/それはけっきょく、僕には審判できないので、僕には口出しをする権利がない、口出しする気がないのではなく権利がない。
ヒステリー女と、メランコリー男がいたとして、そこにサバサバ女と、意識高い系男が加わったとき、それぞれがそれを「かっこいい」と判断しているのだから、僕には口出しできない、僕の側は口出しされることがあるが、それは口出しすることが「かっこいい」という向こうの判断なので、僕の側からは申し上げるべきコメントはない。

僕にとって「かっこいい奴」というのは、「何にも頼っていないのに、結果的に、何かに導かれているような奴」だ。
僕にとっては、その逆、「何もかもに頼ろうとしているのに、けっきょく、まったく導かれていない奴」が、かっこわるい奴ということになる/あくまで僕自身の限りにおいて。
人は誰しも、土壇場で、必ず「かっこいい」と判断するほうを選んでいる/たとえばヒステリー女は、「そうだ、ここでヒステリーを起こすのがカッコイイ!」と、その瞬間に信じるから、ヒステリーを起こすのだ、人は誰しもそうした「正当性」の実感の中で生きている。
何がかっこよくて、何がかっこ悪いのか、それを審判する権限はけっきょく僕にはないので、僕は他人のことに口出ししない、口出ししないことが構造上決定しているので、実はそもそも他人のことなんか見ていないのだった、僕の目に映るのはかっこいいものだけだ、そしてかっこいいものは僕にとって他人ではない。

TSUTAYAに行ったとき、かっこ悪いディスクが置いてあったとしたら、それについてどう思うということはなく、ただ借りないだけだ。

生活上、何をしているかというと、かっこいいと思えないものはそもそも目に映ってもいないのだが、あくまで一人の生活者および年長者として振る舞うとき、「トラブル」になりそうなことについては、前もって沈静することに、最低限の協力をするというだけだ、だから仮に世情に「かっこ悪いもの」があふれかえったとしても、それは僕の視界には入ってこないので、それらの一切についてはノーコメントになる/どんなディスクもTSUTAYAにそっと置かれていればいい、誰が借りていくのかは知らない。
他人のことに口出しはしないし、かっこいい奴は僕にとって他人ではない/たまに、「未だに幸福になれる可能性が残されていると思っているのか……」と、内心で愕然として思うことはあるが、言わない、それは向こうからこちらを見たとしても同じことを思っているに違いないからだ。

恋女のマインドね | comments(0) |
意志と価値観/全身全霊とは

は全身全霊でこのブログを書いているが、こんなしょーもないものに思い入れがあるわけではない。
全身全霊になるのは、思い入れのせいではなく、ただ僕の意志だから全身全霊なのであって、僕は僕自身の意志に関するかぎり、全身全霊にならないことがない。
何せ自分の意志なのだから、全身全霊にならないほうがおかしい/自分の意志なのに全身全霊にならないということは、あれか、部分身・部分霊でガンバリますということか、そんなバラッバラの取り組みをするほうが僕には手間に思えるし気色悪く思える。
僕にとって全身全霊になるというのは、ノーマルのことであってスペシャルのことではない、つまり僕は、自分の意志には全身全霊が当たり前であって、価値観によって全身全霊になるのではない。

価値観としては、たとえばこんなブログ、「まあ、あったほうがいいんじゃないですか、毎日何百人も、楽しみに見にきているみたいだし」としか思わない、価値観としてはそんなものだろう。
が、価値観というのは基本的にヨソのことであって、価値観うんぬんで僕のスイッチが入ったり切れたりはしない、価値観がどうであろうが、僕は自分の意志としてやると決めたことには常に全身全霊だ、悪党を斬り殺す場合も全身全霊だろうし、女子中学生をレイプする場合も全身全霊だろう、仮に僕がそのことをするという意志を持った場合においては。
価値観としてどれだけ「すばらしいことです」と言われても、僕は僕の意志がないときは全身全霊どころか完全にゼロだし、価値観として「しょーもな」と言われても、僕は僕の意志で向かうときには全身全霊だ、たとえばこの夏はきっと僕は避暑に出ると思うが、全身全霊で避暑に出ると思う、そしてもちろんそんなことに価値観上の重きは置かない、そもそも僕には価値観なんてものは飾りにしか存在していないが……
若くうつくしい少女が、えっちな自撮りを送ってくれたりすると、途端に「よーし、やるぞ!!」という英気がみなぎってくるが、それは価値観や興奮で昂ぶっているのではなく、美少女の全身(と全霊)には、僕も全身と全霊をもって迎えるのが僕の意志というだけだ/仮に美少女の側がそういう意志でなかったとしても、いいのだ、きれいな下着が似合っているね、僕の意志と全身全霊は、そうした安っぽいものにこそ起動するという掟、そのこと自体が僕の意志だからいいのだ。

PCのキーボードは、どのキーを押しても即座に反応する、これはキーボードが全身全霊だということだ。

「価値観」というと、たとえばEnterキーだけアツアツになり、Enterキーだけ押してもいないのに反応するとか、押すたびに感情的な汁が出るとかで、一方でctrlキーを押されても「えー……」とイヤがって反応しないとかだろう、それはキーボードが全力で自我を主張しているのであり、即刻買い換えの案件だ、キーボードたることへの意志がないキーボードを、わざわざ使う必要はない/僕が男たることへの意志を失ったらそのときはただちにヨソのものに買い換えてくれ。
僕は自分の意志に向けては常に全身全霊であって、それが「ノーマル」だ、価値観サイドの人は逆に「スペシャル」を求めるのだろう、価値観上のスペシャルに昂ぶったらアタシもスペシャルかもしれないという動機で/別にそれがいいとか悪いとか思わない、価値観サイドの人の苦悶を取り沙汰することは僕の意志にはないので、そのことについては僕の関心はゼロだ、「価値観」に僕の意志は向かわない。

恋女のマインドね | comments(0) |
疲れる理由
ホイのホイ〜と、さて、パーティのポスターでも作らんとな。
おれは至って冷静である。
どうも、突き詰めるところ、人は都合の悪いことがあると、実は「感情的」になるのではなくて、「panic」になってごまかすというのが真相のような気がしてきた、そんなことに気づいてしまった。
しかもその逃避方法は、クセになるらしい、逃避するのが悪いと言っているのじゃない、それはクセになって、自分が戻ってこられなくなるらしい、ということを噛みしめているのだった。

かっこよくないものは疲れる。
どれだけ正しくても、疲れる、というか、この世に強く主張される声は、全部「正しい」やつだよ!! だって入念に「正しい」ように点検されているからな。
だが何もかっこよくはないのだった、さっきおれは久しぶりに「スムース・クリミナル」のMVを観てしまったので、そのかっこよさに冷静になってしまったのだった。
何か顔つきがヘンだな、という奴を街中で見かけるが、あれは七割方パニック状態というか、常に「panic待機状態」で歩いているということなのだ、いつでもサッと逃避できるように常に準備を整えている/決してそれが悪いというわけではなく、そういうものだということだ、最近は冷静に落ち込む奴を見なくなった。

かっこよくないものは(panicなので)疲れる。

いつも冷静に、同じことだけが頭の中にある、いつも僕が念頭に置いているのは、「かっこよくなかったら誰がおれの話を聞くんだよ」ということ、おれが人を疲れさせてどーする、おれが人を疲れさせるようでは、誰もおれの話なんか聞かなくなるだろう。
ただ、「かっこよくなる」というのは、人類史上最大の難事業なので、そうカンタンにはいかないのだった、いくら作り笑顔をしたところでな、本当に「かっこいい」とは思ってもらえない、トホホ/冷静に落ち込む奴については、少なくとも疲れはしない、それはただの再建計画だからね、冷静に再建してゆける奴はスゲー根性があると思うよ、ふつうはpanicでやり過ごすのがオチだから、そうならない奴は強い奴だ。
恋女のマインドね | comments(0) |
| 1/46PAGES | >>