☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
合理的に見たキリスト教の必要性2

道は主に、「浄穢」をテーマにしている、これはわれわれ日本人にはわかりやすい、大晦日までに大掃除をするのはこれが理由だ、そしてその先の奥義は、逆にむつかしすぎてわれわれには到底わからない。
キリスト教はきっと、「聖俗」をテーマにしている、これはわれわれ日本人には縁遠い、だからわれわれは意図的に学ぶ必要がある、特に暮らしの卑俗化に対抗する知識として今急速に必要性を増してきている。
仏教は究極、「有無」をテーマにしている、有も空であり無も空であるというような、「色即是空」の、理解ではなく会得を、仏教は "入口" にしている、これはわれわれ日本人にとってとりあえず「すげえ」というのがわかるが、自分がどうしたらいいかは「さっぱりわからん」となる。
ハラキリや突撃や武士道に顕れているように、東洋の宗教観は、死生観がハードなのだ、神仏に比べたら小さなものだから「サッと死ね」と言っているようなところがあり、われわれのうちにある「聖なるものに出会わせてください」という願いを突き放しているところがある、そのぶん東洋の宗教は宗教戦争を大規模に起こさずに来たのだが(サッと死ぬという発想の奴が戦争なんか仕掛けない)、それにしても生と自己実現という思想を植え込まれたわれわれにとっては突き放しが悲しいのだった、現代のわれわれにはソフト路線としてキリスト教への基礎知識と理知的尊崇が求められている。

われわれは、「穢れ」という感覚で、具合が悪くなるときがある、そういうときは神社でお祓いでもしてもらってこいということになる。
またわれわれは、人生が無意味だとか、絶対に取り去れない憎しみが有るとかで、具合が悪くなるときがある、そういうときは禅寺で座禅でもしてこいということになる。
そして、特に現代のわれわれは、生活環境において「俗悪」にまみれ、俗悪およびそれ以上の何かに毒され、それによって具合が悪くなるときがある、そしてそういうときは「教会で……」という手続きが、われわれの内にない/もちろんこんなテキトーな発想で、教会の世話になるべきではないと思うが、僕は教会の実態は知らないのでよくわからない、とりあえずいちいち施設のやっかいになる必要はない。
僕の感じているところ、産業に取り囲まれたわれわれに降り注いでいる俗悪、および俗悪以上のものが、われわれの身にキツすぎるのだ、何の対抗手段もなくガンガンその毒を放り込まれている/俗悪の技術を、外国から輸入したのに、その拮抗阻害になる「聖」は輸入していないというのでは、バランスが壊れるに決まっている、仮にオンラインゲームなら調整アップデートが至急に必要な状態だ、「俗悪系で攻められたら勝ち目ねーじゃんこれ」というクソゲー状態だ。

パワースポットは流行したが、ホーリープレイスは流行していない。

流行しようがないのだ、そもそも「ホーリー(聖)」という概念が輸入されていないのだから/汚穢には浄化のパワーで対抗できるが、そのパワースポット的発想では「俗悪」には対抗できない、いかなる神宮も「清浄」なのであって、俗悪に対抗するパワーではないのだ、かといって仏教を持ち出すと、仏教は基本的に「解脱」のことしか言ってくれない。
われわれ日本人には、もともと「トレーニング」という発想がなかった(たとえば相撲取りは稽古で身体を作るのであって筋トレで身体を作るのではない)、だから「聖」という概念も必要なかったのだが、己の身に力を蓄えるという発想を持ち始めると……力の原理は、愛の原理の反対なのだ、力の原理だけ与えられて「聖」の概念を与えられないと、俗と力だけが肥大化し、「愛」の原理にまったく触れられなくなる、よって今こそ汚穢でもなければ善悪でもない「聖」の学習が必要なのだった/「聖」のバリアがないと俗悪の「力」に入り込まれるのだ。

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合理的に見たキリスト教の必要性

はゴリゴリの仏教徒だし、ちゃんとしたクリスチャンに知己がいないので、「キリスト教」というものがどういうものなのか、直接の体験として知らない。
ただ、聖書というのは一般にあるものだし、イエス・キリストのストーリィを、漠然と知ってはいる、逆にクリスチャンでも、日本人なら「ナムアミダブツ」ぐらいは知っているのではないだろうか。
宗教および帰依の問題ではなく、宗教「的」な暮らしにおいて、キリスト教の必要性はとても高いと感じる、仏教徒の僕だってイエス・キリストという人が偉大な聖人だったことぐらいは当然にわかるわけだし……
なぜわざわざ「必要性」なんて、不遜な言い方をするかというと、リアルに考えたいからだ、仏教は真理に富んでいるが、仏教はすべての "産業" からあっさり切り離される前提ですべてを教えている、それは究極的に真理なのだろうが、まだまだ産業と共に暮らしそうなわれわれについて、基本的にケアがないので、われわれは見放されているようでトホホと感じさせられてしまうのだ(もちろんちゃんと勉強したら大乗仏教の現世利益もちゃんと定義されているのではある、仏教では愛ではなく慈悲と捉える)。

あまり上手に言えないが、 "産業対抗力" としてはキリスト教に偉大な力があるように感じる、むしろ産業と共に暮らすのであれば、聖書およびイエス・キリストとその教えは偉大だったという情報が、不可欠なのじゃないかという気がする。
僕はどうしても、帰依の問題は別として、イエス・キリストへの尊崇と、仏教の真理性を認めることとに、衝突があるようには感じられないのだ、そして産業的な暮らしをする中で、イエス・キリストの情報ゼロというのは、危険というか無謀という感じがしている、どういう理由でという説明はうまくできないのだが、まあそんなもん説明で伝わるようなことではないだろう。
かといって、キリスト像に礼拝したり、ちゃちにアーメンと唱えたり、教会に通ったりして何がどうなるというわけでもないし、そういう安易な救済のつまみぐい発想はたいていロクなことにならんものだが、なんというか、言うなれば、われわれは産業においてホラー映画をいくらでも見せられるのに、ホーリー映画を見せられることはまったくないということなのだ、それはバランスが悪いのであって、これが割と冗談ですまないところがあるのだ(フツー気づかれないレベルで)。
われわれの国には神道があるから、浄穢については対抗できる、けれども「俗」に忍び込む「邪」に向けて対抗する手段がない、俗の反対は「聖」だから、聖というとキリスト教が代表なのだ/われわれが産業と共に暮らすというのは基本的に「俗」なことだから、「聖」の教えがないと産業の俗悪に対抗できない、特に最近の産業は俗悪を越えて邪というほどのパワーがある。

仏教は目的地を与え、キリスト教は目的地までのバリアを与える。

仏教は、特に根本仏教においては、「ん? 仏道を行くなら産業には用事ゼロじゃない?」と平気で言ってくるところがあり、しかも「産業に肩入れしてたらそりゃカルマ道に行きますよ」「目的地が与えられたら寄り道の必要なくない? だからバリアとか要らなくない?」と容赦のないところがある、それは真理としてはそうなのだろうが、われわれは筋金入りの「迷い」を行く人なので、いきなりナマの真理だけというのは辛すぎるのだ、「迷える仔羊」という実態へのケアはキリスト教のほうが充実している。
産業に仕込まれた俗悪が、血と霊にまで入り込まないように、合理的にキリスト教は必要だと感じている、神道のお祓いやお札は穢れたものを祓う力があるかもしれないが、あまり悪魔や呪いに対抗するものという感じはしないので……/それぞれ洗い物に対しても洗剤や漂白剤や消毒液が用いられるように、われわれはこの産業の中に生きるのならばキリスト教への基礎知識と尊崇が必要なようだ(ただしそれ用のヘンなアイテムなんか買ってこないように、ただ「勉強しろ」というだけの話だ)。

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「受け身」は怖い

うーむ、ナゾは解けてきた。
ナゾは解けてきて、ますます困る、ということも出てきた。
困るといっても、本質的にうれしい困惑なのだが、何のことかというと、僕は何かについていったり、何かを説明したりということが、機能的に許されていないらしい。
本質的に、あるいは霊的にというレベルで、僕は野暮を禁じられているのだ、その方向には数秒も進めないようになっている、よって方法は、おれが愛されるしかなく、おれが何かをしてやるということは不可能なのだ、そりゃ身分構造的にそれでアタリマエといえばアタリマエのことではある。

もう、しょうがないのだ、僕があなたから奪い、あなたが僕に捧げるしかないのだ。
何を捧げるかといって、まあ単純には、読む時間とか、読む労力とかだな/僕の側から説明の労を費やすということは、構造的にできない、もしそれをやると、とてつもないマイナスがあなたの未来にセットされてしまう。
労を費やされる側……いわゆる「受け身」というやつだが、「受け身」というのは怖いんだな、スマートフォンそのものが悪いのじゃない、スマートフォンがもたらした「受け身体質」が怖い、スーパー消費者の行く先は想像しているよりも遥かに真っ黒で重油のように粘り着きあなたを取り込んで離さないだろう。
またよりによって、僕自身、最低ランクの身分たる自分を、いつでも起動できるし、それを使い慣れているから危ないのだ、みなさんにご愛顧いただけるサービス・マンたる能力が、むしろ僕の出自だというのが危ない、多くの人は逆にサービスを受けるのが本分で出自ですという感じだから、相互にピタッと嵌まりうるのが危ない/僕が野暮側をやるのは全然かまわんのだが、前もってシャレにならん闇になるとわかっていてわざわざそれをやるのは、さすがにどーなのと最近は冷静に考えるようになった。

高みから風を受けるということは、あなたが落下させられるということだ。

誰だって、冷静に考えればわかることだ、高みに向かっている人は、低みから追い風を受けていないと構造的におかしい、高みから追い風を受けているのだとしたら、そりゃ自分は低みに向かっているんだ、だから「受け身」は怖い。
受け身の人は、もちろん高みにあるものを選び、そこからわざわざ「受け身」に風を捉えるのだから、自分を低みに追い落としていることになる、だから「受け身」というのは怖い/よくよく考えりゃ僕自身は、自分より高みにある人に対して、受け身になんかなったことはないな、そのときに受け身になるという感覚が、僕には正直よくわからないのだった。

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アレについて、先払いと後払い

んなものは、マンガみたいな話だと捉えてもらえればけっこうだが、人に霊力というようなものがあったとして、聖霊と悪霊とでは、霊力の得られる手続きが違うのだ。
聖霊の力のほうは、先払いでしか手に入らず、悪霊の力のほうは、後払いで手に入るのだ、だから手持ちがないときに「それでも力が要る」という場合、人は悪霊の力を借りることになる、いわゆる「悪魔と契約した」的なことで、契約したからには必ず後で支払いが待っているのだ、それでもとっさにすぐ力が手に入るのは、街中のキャッシングローンと変わらない。
比べると、聖霊の力のほうは、先に支払わねばならないのに、商品はなかなか手元に来ないのだ、それ自体が高価だということもあるが……つまり聖霊の力というのは、何のトクにもならないと思えることに、純粋無垢に打ち込んで、報酬をもらうことなんか忘れていたわ、というようなころに、ふっと手元に届くようになっている/ここで少しでも、「あの、報酬を……」と請求すると、聖霊の力は届かない、サッと手元に届くのは決まって悪霊商品なのだった。
筋トレなんかはわかりやすい、十年前にした筋トレの成果が今になって現われてくるなんてことはないはずだ、比べると十年前に先輩にシバかれたことが今になって「あれ?」と、自分を支えていることがある、霊力といって聖霊の側はそれぐらいまだるっこしいのであった、こりゃご時世的には悪霊パワーのほうが流行するのは当たり前だ。

手に入った霊力も、商品として性質がことなって、聖霊の力は不動産的に手に入るのに、悪霊の力は消耗品的に手に入るのだ/聖霊の霊力が得られたとき、それは一生使えるのだが、悪霊の霊力が得られたときは、それは数回も使えばなくなる、だから悪霊の霊力はずっと仕入れを続けねばならなくなる。
それは、聖霊の力が「(永遠の)世界」の力であって、悪霊の力が「滅ぶもの」の力だから、わかってしまえば当たり前のことなのだが、気の短い消費者には、悪霊パワーのカタログしか届かないのだった/そして消費したぶんは後になって支払いが待っているので、加齢すると身体がガタガタになっていくのだった、「最近疲れやすくなった」のではなく、今になって支払いが立て込んできたということなのだ、うーんおっかねえなあ。
悪魔のカタログしか手元に届かない人は、気をつけて、あなたはこれまでに、何のトクにもならないことに全身全霊で尽くした、打ち込んだということが、一度もないかもしれない/それは、十年後の仕入れのことなんか教わっていないのだから、そんな無駄な投資はしなかっただろう、十年前にあなたに盛り上がったもの・流行したものは、消費されてあなたの財には残っていない(支払いは残っている)。
霊力の仕入れについて、年長者としてノウハウをお伝えしている、今日純粋に損をするということは、数年後の聖霊を仕入れているということで、今日それなりのトクをするということは、今日の悪霊を仕入れて支払いを後に残しているということだ/どちらも何か不当性があるわけじゃない、ただ前者は消耗品ではなく、後者は消耗品の仕入れだというだけだ、そして仕入れ先の問題もあって、聖霊の仕入れ先はごく少なく、悪霊の仕入れ先はいくらでも乱立している。

今日、必ず損をしなくてはならない。

正直な話、そういう感覚のない人を見ると、僕は不思議で、「怖くないのかね?」と、首をかしげてしまう、僕はどの一日でも、自分が損をしているようでないと不安でならないのだが……/計算ずくで損を納得する人は、いまいち的外れだと思う、それはけっきょく損を拒否しているからな、正しくは<<センスで損をしなさい>>、筋のいいヤツってたいていそうだ、損の仕方が小粋で上手だ。
人はトクをすることに弱く、損をするという発想がわからないので、せいぜい「善」というところに逃げ口を探す、たとえばチャリティー的な発想がそれだが、「善」なら損をしてもいいかと捉えるのだが、これはセンスが悪い、悪に損をしないと聖霊の力は仕入れられない、だからこそ "聖霊の仕入れ先はごく少ない" のだった。

視点変えてこ | comments(0) |
愛なきものの恣意的な陳列
おお〜とにかく愛がないとな。
どれだけ「楽しい」ふうをやられても、そりゃ違うのだ、ダメというわけじゃないが、愛がないことはごまかせない。
愛があれば、ふつうそこまでわざと楽しそーにはしないものだし、そこまでイカツイ顔をするものでもない。
「アタシ」感とか「オレっち」感がやたら強いものが目立つが、それはどうブーストしても、愛のなさから発生している感触なので、違うのだ、愛とは無関係のジャンルですという場合はそれでいいのだが、愛に関しては冷静に「違う」と言わざるをえないのだった。

うおお〜愛というのは、いっそわかりやすいのに、なぜわざわざ避けているのか、いや「わかりやすい」と感じているのは僕だけなのか? そのパターンは容易に想像がつくが、なぜこの現代はわざわざ愛のないものを選りすぐって陳列するのかと不思議でならん。
「愛」って、基本的に、所属が違えば永遠に手に入らないぜ、プールに釣り糸を垂らしているようなものだ、表面上は似ているがやっていることはまったく別ジャンルになってしまう。
「ハイになる」ってことじゃないのだ、「ラブになる」ということなのだが、人は所属が違う場合、蛇の原理でハイになるので、違うのだ、とにかく愛の原理と現象を正確に学習する必要がある(ただし、学習しても手に入るかどうかは別)。
映像を一枚ずつ見せて、「はい、ここに愛はありますか〜?」という、テストをやってやろうか、これホントに正答できないとまずいんだよ、愛がないジャンルが悪いわけではないが、そこに愛がないのがわかっていないのはまずい、蛇に帰依すれば帰依するほど人はギラギラ輝くものだしエネルギーも獲得するものだが、それは愛ではない、愛の側に所属している人って、もう皮膚感覚から「違う」のは見ていたらすぐわかるじゃねーか。

成功者と、一流選手と、著名作家と、美人女優が、四時間正論を語り合っても、愛がない場合は、愛がないのでどうしようもない。

どうしたことか、なぜ最近は、愛のないものを選りすぐって、時間をかけてエッセンス化し、それをばらまくのだろう、ここまで厳密に愛のないものだけが陳列されることには、一種のデザイン力がはたらいているのかとさえ疑われてくる。
おれと夜中にラーメンを食べに行くとして、そこに愛の存在が感じられなきゃ、こなくていーよ、なぜこのわかりやすい愛という現象にわざとらしい逡巡が取り巻くのか、僕にとってはナゾだ、愛のある世界以外に何か用事があるか?
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健康になる実力勝負と、不健康になる勝負事

は勝負事が好きでない。
勝負事は、真剣勝負に近づくほど、敗者には破滅が用意されているからだ。
勝負事があったとして、仮に、僕が勝利したとしても、敗者が破滅に追いやられるなら、そんな勝利も勝負事も欲しくはない、僕は勝負事という方法そのものが間違っていると思う。
人は、自分と他人とを「本気」にさせたがるから、この「真剣勝負」という方法を思いつくのだが、方法の発想が間違っていると思う、これはけっきょく「血で血を洗う」ことにしかならない。

僕は、勝負をするのではなく、初めから勝利していたい、そうでなければ勝利の値打ちがないと感じている。
つまり、敗者の発生と引き換えに、自分が勝者になるのがいやだ、その点僕が初めから勝者なら、敗者なんか発生しようがないので、方法として優れていると思う。
僕は堂々と実力勝負をしていきたいが、僕にとっての実力勝負というのは、「お前は初めから勝利しているか?」という問いに起こっている、この問いに敗北して、実力勝負が勝負事に転落したとき、その後はもう勝っても負けても負けだと思っている、不本意な勝利か不本意な敗北かのどちらかしか得られないのだから。
「勝負事」には、スリルがある、それは破滅と栄光の天秤がゆらぐスリルだ、でもそのスリルは、ゼロサムであってそもそもが豊かでないと考えている/何より決定的なのは、「勝負事」のスリルは、どれだけ夢のない人でも得られてしまうスリルだということだ、僕はこのスリルを肯定しない。

勝利の門に入ること、勝負の門に入らないこと。

法や倫理を放逐すれば、スリルなんて簡単に作り出すことができる、憎み合う二人を一席に座らせて、互いに命がけのギャンブルをさせればいいのだ、片側は耐えがたい屈辱の中で死んでゆき、片側は抑えきれない愉悦の中で憎む相手の惨死を見守るだろう、その周辺には人々の本性が垣間見えるかもしれないが、その本性はたいしたことではないのだ、共食いさせるという呪術は古くからあって陳腐化している。
勝負事が、常軌を逸するほど、勝負事のスリルは高まるものだが、そこで心臓がドキドキするのはときめきではない、「不穏」のシステムが活発化するだけだ、人は光から離れた休憩中にそうした不穏のスリルをむさぼり、気づくと光のところへは戻ってこられなくなっている。

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邪ンル2(命あるものは暴走する)
葉が暴走する。
それは、人が暴走するより、はるかにまし、あるいは光に満ちたことだ。
女というのはジャンルになり、グラビアになったり女優になったり、清楚になったりビッチになったりした、そしてどれもうっとうしいので、公的に女はセクハラというジャンルになった。
男は何々系と呼ばれるようになって、典型的なジャンルになった、たとえ何系であっても、走行しない新幹線というぐらい意味がなく使い道がない。

言葉はもともとジャンルではなかった、言葉はわれわれより上位にある。
言葉が人の道具なのではなく人が言葉の道具なのだ。
いかに言葉に使われきる道具であるかということで、人の品性の善し悪しが問われる、あるいは人の性能が、徳性が問われる、言葉はもともと誰のものでもなく、そもそも人のものではない。
言葉そのものがしゃべっているのが、どうしても聞こえないか、またこれをやると悪霊つきの人がギャーと叫び始めるのだがな、それもいいだろう、そのときになって悪霊つきというジャンル扱いされたらいかに救いがないか、そういう時間が三十年ぐらいは続くのだろう。

言葉はジャンルじゃなくて命だ(命あるものは暴走する)。

その他、すべてのものがそう、命あるものは暴走する、人は生きているかもしれないが生きているだけで命があるわけじゃない、命あるものが暴走する、それに付き合ってゆけるのなら、われわれが生きていることにも値打ちがある、この世で最高の美女、あなたの目の前の譜面には命があって、暴走した痕跡が音符の並びに記録されているだろう、もともとは紙と墨だった。
こうやってまた、楽しい毎日が続いていくのだ、命は永遠だ、生きているものが事情に暴走することは貧しい、命あるものが暴走するのがうつくしいのであって、それはまるで見上げるばかりの秋の陽光みたいなのだった(いやあけっきょくおれはスポイルされなかったなあ)。
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邪ンル
品を通してしか、やれないことや、伝わらないことがあって……
そもそも、人とのコミュニケーションというのは、そんなに大事じゃない。
人とのコミュニケーションが大事というのは、地図やガソリンスタンドが大事ということと同じで、どこかに向かうから大事ということに過ぎず、どこにも行かないのに地図を眺めたり給油だけを続けたりしているのはヘンだ。
映画を観て、感動しない人と、話すことはない、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を観て感動しない人と、いったい何を話せばいいのだ、そんな人と話す義務があるのは医者と警察官だけだ。

「ジャンル」という、概念自体に危険があって、たとえばイーグルスが「ホテルカリフォルニア」を歌っているのを聴くと、それは「歌っている」という感じがしない、少なくとも現代のように「バンド活動をしている」というふうにはまったく見えない、「ホテル、カリフォルニア」としか聞こえてこない。
音楽や、歌や、バンド演奏という捉え方も勿論可能なのだが、そういう捉え方で頑張っている人からは、何億年経っても「ホテルカリフォルニア」は聞こえてこないのだ、その意味で「ジャンル」という概念は恐ろしいものだ。
「ジャンル」という概念があると、たとえば、何も語るべき世界がない人でも、「よし、 "小説" を書こう」と、決断できてしまうのだ、これは恐ろしいことだ、こういう人はたとえば「よし、 "セックス" をしよう」とも決断できてしまうということだ/本来、人のやることが、冗談的にはジャンルに分けられるというだけであって、ジャンルという分類そのものを人が「やる」のではないのだが、現代ではそれができてしまう、このトリックには重大な恐怖を察知せねばならない。
こういうふうに、「ジャンル」をやる人と、「コミュニケーション」なんかさせられた日には、わけがわからなくなるのだ、イーグルスが「ホテル、カリフォルニア」と言っているのは、わかるのだが、その他の人々があれこれ言っている現代は、本当に何を言っているのかわからない/われわれはコミュニケーションといっても、世界の中で話している人の言っていることしかわからない、世界の外側から思いつきをツイートしている人の話は、本当に100パーセント完全にまったく意味がわからないのだった。

「ホテル、カリフォルニア」はわかるのだが、それを「いいですよね」と言っている人の話は僕にはわからない。

たとえば「かくれんぼ」という遊びがあって、人は鬼から隠れるということはできるが、「かくれんぼ」というジャンルを「やる」ことはできない、できないはずだが、現代人はできてしまう、何をやっているのか意味がわからないが、現代人は「ジャンル」をやってしまうのだ、恐ろしいことで、「ジャンル」として「ホテルカリフォルニア」を演奏しても、それはホテルカリフォルニアという歌曲のシミュレーションにしかならず、そのままだと何億年も「何これ……」という意味不明の作業だけが続いてしまう。
たとえば、人には「ハレルヤ」という言葉があると思うが、「ハレルヤ」という「ジャンル」をやったとしたら、イエスキリストだって「何それ」と言うだろう、何もしていることにはならないのだが、現代人はこの「何もしていない」ということを熱烈にやれてしまうのだ、それならもう「バンド、活動ぅ〜」と歌ったほうがいい、そのほうが逆に歌うということの意味がわかるかもしれない。
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マンスプレイニングとオカマ重用説2

は、生きていく中でどうしても、誰か「先生」「師匠」を見つける必要があるというか、少なくとも私淑するというところの、 "my lord" を見つけねばならないのだ、そうでないと本当にすべてのことをgoogleと匿名の「レス」から教わるしかなくなってしまう(それもそんなに悪いことではないのかもしれないが)。
そこで、マンスプレイニングの問題から、男性に教わるのは不可能だとして、新たにオカマを "my lord" に奉るということ、このことが真剣に検討されるべきなのだ。
つまり、仁義礼智信と作法とこころを教えてくれる "my lord" を、堂々と「マツコ・デラックスさん」だと掲げればいいのではないかということ、これはまったくリアルな話であって、思考実験として言っているのではない。
実際、今世界中のどの男性が、十六歳の女の子に向かって、「若いうちは勉強しなさい」と話したって、何の意味もなく、本当にただのセクハラにしかならないだろう、軽度であれ慰謝料が発生する/それに比べたらマツコ・デラックスさんが、「あんたねえ、若いうちにねぇ、絶対勉強しときなさいよ、そうでないとあなたが後悔するんだから」と言ったほうが、何万倍も純粋な効果がある。

以前も話したが、もう現代は、男性はダメなのだ、男性は男性であるというだけで、存在そのものがストレスになってしまう/いろいろフェミニズムの方面が声高に正論を唱えているが、本当の心情を言えば「世界中の男性が死滅というか、消滅してほしい」というのが本当の願いだと思う、それはどうしようもなく、切実な願いなのだ、それだけが己が命の恢復なのだと言ってもいい。
その願いは、なんとなくわかるのだ、何しろ僕も男性なので、逆にわかるのだが、きょうび男性は、自分が男性であるというだけでけっこうなストレスなのだ、今や誰でもオカマになれる才能があればよろこんでオカマになるべきだと思う、そうすれば誰も傷つかずに済むし有為に生きられる。
だが、オカマになれるというのもやはり一つの才能であって、ひとつの「選ばれし者」だから、誰でもがそうなれるわけではないのだ、少なくとも僕は自分が九折デラックスになれる気はまったくしていない、かつての石原裕次郎も裕次郎デラックスにはなれなかっただろう。
さしあたり、どうしようもない現実としては、オカマでない男に何かを「説明」されると、深刻に耐えがたい不快と、猛烈に許しがたいセクハラ感が湧き上がるのだが、これについてはしょうがないのだ、ストレスがあるのは大変申し訳ないが、「そうか、この男には、オカマになれる才能がないのだ」「才能がないのはお気の毒ね」と見てやることで、少しはストレスも軟化するのではないだろうか。

若い男性は、マネジメントを学ぶのではなく、オカマの精神を学ぶべきだ。

年齢と共に、何かを牽引し、下に何かを説明しなくてはならない立場になると、もうオカマの才能がなくては何も機能できなくなるのだ/どれだけブーブー言う怠惰な新入社員がいたって、「あなたねえ」とオカマが説教すれば一発なのだ、リアルな話この先は、ゼネラリスト向けにオカマ精神のワークショップが活性化していっても何もおかしくはない。
現代の男性は、本当に自制が利かないレベルで、アニメやアイドル、ソーシャルゲーム、そしてオナニーにのめりこんでいるところがあると思うが、それを「ヤバイ」と感じて自制しても、仕組みが違うのでけっきょく自制は利かないだろう/それらのヤバさは、自分がオカマになった途端にスッとすべて消えていく、そのことをいざというときのために覚えておいたらいい、自分がオカマになると決めた瞬間、男性の抱えているストレスは蒸発してどこかへ飛んでいってくれるだろう、それは現代社会のメカニズムなのだ。

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マンスプレイニングとオカマ重用説
ういえば、女性に何かを説明しようとは思わない。
男性に対しても、あまり思わないが……
同じように感じる人は多いらしく、このごろはそれを、マンスプレイニング(Man + explaining)といい、重大なセクハラのひとつに数えるのだそうだ。
男性が女性に対し、エラソーに物事を説明したり教えたり(explaining)することは、重大なセクハラとして許されない、なんとなく僕もそういう空気を同感しているので、僕は基本的に、女性に対しては何も説明しないのだった/ただしごく一部の例外は除いてだけどね。

秋口の富山や能登半島で何を食べたらいいとか、目の前に並べられたボトラーズのスコッチがそれぞれどういう期待のものであるかとか、カイハンセンが実は何のことを歌っていたかとか、どの営為にどう霊魂が関わっているかとか、そういうことを、いつのまにか女性に説明する気はまったくなくなってしまった。
僕は一応、浄土真宗本願寺派の僧侶資格を持っているのだが、それでも、それぞれの寺院に奉られている仏像が何であるかとか、無量寿経と観無量寿経と阿弥陀経が何を伝えているかとか、阿弥陀如来はかつて法蔵菩薩だったとか、そういうことを、やはり説明しようという気にはならない。
なぜ説明する気になれないかというと、セクハラになるというのもそうだが、それ以前に、何も説明しないでも、もう "全部知っています" という顔に見えるので、説明はしないのだった/まあ実際、僕が説明しないでも、すべてのことはgoogleが説明してくれるのだから、僕がしゃしゃり出る必要性は完全に消え去ったといえる、たとえ五歳児でもスマートホンを持った時点で大人からの説明は不要だろう。
そういえば先日、プロのダンサー(男性)が、僕のところに「歌い方」「声の出し方」を習いにきて、こいつは素直な奴だから、やり方が機能して「わーい」となって一晩中よろこんで歌っていたのだが笑、もし僕が十六歳の女の子に「歌い方」「声の出し方」を説明したとしても、絶対にまともに聞いてくれないと思う、マンスプレイニングにしかならないからだ、そのあたりがこの現代のリアルなところだと思う。

もし僕が女性だったら、現在の何十倍も「説明」しただろう。

このテーマは、これまでに何度も出てきたのだ、「九折さんが女性だったらなあ」という説、「そうしたらみんなもっと素直についていけたのに」と/あと、方法論としては九折さんがオカマになるという道筋も残されているのだが、この決定的に有効な方法は、当人にその気がないのでダメなのだった、そこまでして説明すべきようなことは別にないしな。
マンスプレイニングの問題を打破するのに、有効な方策は、第一にすべての説明は女性が担うこと、第二には、すべての説明をオカマが担うことだ/ホモが担ってはどうか? という発想もあるのだが、ホモの場合マンスプレイニングに当たらないのかどうか、僕には知識も感覚もないのでよくわからない、さしあたりホモはよくわからないが、オカマを重用するというのは具体的に有効な策だ。
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国民の半数が不眠症?(時事通信社)

事通信社の記事によると、国民の半数が不眠症? とも取れる、調査結果があるらしい、寝具メーカー東京西川による調査で、もちろんメーカー側としてはPRの意図もあるのだろうが、なかなかあなどれないデータだ、最大で二十代の61.1%、次いで三十代の58.5%が不眠症の「疑いあり」に該当するらしい/国民の半数というのはいい加減ヤバい、だってそれもう "与党" じゃん。
僕にはむろん、不眠症の疑いはまったくないが、超絶文学者たる僕が安眠で、その他健康志向の人が不眠がちというのはどういうことなんだ、まあそんなことはいい、いざとなれば近所の心療内科に相談すれば穏健な睡眠薬を処方してもらえるだろう。
睡眠薬なんか、飲まないに越したことはないだろうが、ここでは「いざとなったら睡眠薬もらえばいいや」という発想があることが重要だ、それだけで気が楽になって思い詰めずに済むことになる/いまどき心療内科で睡眠薬をもらうことぐらい何も珍しくない、「ヘーキヘーキ」と捉えているのが、何よりも安眠の良剤だろう、いまどき心療内科に抵抗を覚えている人はさすがに時代錯誤というほかない。
ときどき、話すと驚かれることがあるのだが、「睡眠薬の反対が覚醒剤だよ」というと、多くの人が「えっ!?」と驚く、そりゃ読んで字の如く、睡眠と覚醒なのだからそうだろうよ、つまり不眠症というのは何かしら、覚醒剤状態になっているから眠れないということなのだった、もちろんストレスもあるだろうが、それだけで問題は寛解しない。

覚醒剤はつまり、人間の神経にある、ドーパミンやノルアドレナリンの貯蓄を、「売り尽くし大セール」として放出させる薬だ、決して覚醒剤そのものが人を興奮させているわけではない(ちなみに「売り尽くし大セール」なので、その後在庫が尽きる、だから「元気の前借り」と言われる)。
ドーパミンは、筋トレ好きな人ならご存じのとおり、いわゆる「やる気物質」だ、そしてドーパミンはその後ノルアドレナリン→アドレナリンと変化していくので、けっきょく覚醒剤で「大セール」をしなくても、ドーパミン過剰状態を意図的に形成すれば、似たような覚醒剤状態になるのだった。
一般にドーパミン→ノルアドレナリン→アドレナリンは、ドーパミン(やる気)→ノルアドレナリン(怒り)→アドレナリン(恐怖)という感情に作用していると言われるので、不眠状態に陥る人は、この感情のサイクルにも陥っているはずだ、とはいえ、このサイクルが停止したら今度はうつ病になってしまうが……だからそもそも、人が何かに取り組むのに、ドーパミンブーストで「やるぞ!」とする、その発想が間違いなのだ、一時的にはしゃーないにしても、常態としてその方式を採るのはやがてどこかで破綻するに決まっている。
僕が思うに、「不眠症」の実態は、不眠症というより「覚醒症」だと思うが、これはドーパミン信奉社会のツケだと言える、今やどのコンテンツもドーパミンを煽ってこないジャンルがあるかね? 僕は先日、徹夜ワークショップ後にファミレスで十二時間話し込むというバカみたいなことをしたが、それでも最後まで脳みそがキレッキレなのは、ドーパミンブーストなんか使っていないからだ、素の脳みそでこれということを称賛してもらいたい/それと共に、こころの隅に、「ドーパミンブーストはいいかげんヤバい」という知識を持っておいてくれ、あとはいざとなれば心療内科が適切にバックアップしてくれるだろう。

覚醒剤を使わなくても、似たような覚醒症にはなります。

僕だって、タウリン入りのアリナミンVぐらいはたまに飲むし、目覚ましにコーヒーぐらいは飲むがね……しかし現代においては、マウント社会に炎上、煽り、液晶がド派手なゲームに、性的嗜好刺激アニメ、そこにエナジードリンクを飲んで突撃するんだろ、そんなメチャクチャな中で「安眠」なんかできるわけあるかい、そのあたり「たしかにwww」と笑って捉えられるぐらいの余裕が何より必要だと僕は思う。
「ストレス」による不眠と、安易に言うけれど、ストレスというのは漠然としすぎだ、実体は主に「怒りと恐怖」だろ、そして「逆にやる気が湧いてくるわ」というサイクルを繰り返しているはずだ、<<国民の半数>>がな、そしてそこに筋トレをしてドーパミンを追加するとか、こりゃどこかで見切りをつけないといけない、そりゃいずれ身体に悪いに決まっているし、ヤバい与党が結成されるに決まっている/僕はドーパミンではなく世界が「見える」、そして「自己決定する」ということで活動していくことを推奨する者です、んー健全ですわな。

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蔓延する非常なダルさ3

分が何かをしようとするとき、異常にダルく感じられるのは、自分が「何をしたらいい」かが見えていないからだ。
異常にダルくて、正直一ミリもやれそうにないから、強制するために、何かしらテンションをかけて、ブーストをかけてそれをすることになる、そのことが悪霊を呼び込むということは以前に述べた。
しかし、悪霊を呼んででも、とにかくブーストをかけないでは、何ひとつやれないぐらい、真相としてはダルいのだ、このダルさは自分が「何をしたらいい」かが見えていないことによる。
そして、なぜ自分が、「何をしたらいい」かが見えないかというと、まず、他人が「何をしているか」を見ていないし、これまでにも見たことがないからだ、自分のことしか見てこなかったことのツケはここで最大に現れる。

もう、今さら言っても、多くの場合で手遅れなのだが、もともとは、他人が「何をやっているか」を見てこなければならなかったのだ、若い時間の多くはそのことに割かれねばならなかった。
たとえば、今になって、「まともでアツい仕事をしたいぜ!」と言い出したとしても、これまでに「まともでアツい仕事をしてきた人」のことを見てきていなければ、空中からいきなりそのノウハウを引っこ抜いてこなければならなくなる、そうなると「イメージ」に頼ることになるが、そんなものは初めからムリだ、イメージなんて一時的な、しかも作り物のウソに決まっている。
僕は最近になって、「集中ってどうやるんですか?」と訊かれたことがあるのだが、そのときとっさに、「これまでに見てきたことがないのか?」と訊き返してしまった/これまでに見てきたものを自分でやろうとすることと、見てきてもいないものをいきなり自分でやろうとすることには、天地の開きがある。
見てきていないものを、いきなり自分でやろうとする場合は、根本的に「ムリ」ということを、半ば覚悟しておかねばならない、なぜならそれは、引きこもりのキモオタが、いきなり街に出てナンパして若い青春と激しい純愛の物語をやりたいと言い出しているのと同じだからだ/内心でどのような空想を盛り上げたとしても、これまでに見てきていない――見ることをサボってきた――ものを都合よくいきなり獲得したりはできない。

「どうすればいいかわからない」のは、他人がこれまで「どうしてきた」かを見てこなかったからだ。

他人のやっていることを、しっかり「見る」ことで、自分と他人を「区分する」という能力が養われていく、「あの先生は教えるのに一所懸命だが、ぼくの勉強は一所懸命じゃないな」という区分を、子供心にも養うのだ、「違うんだ」と/そのことが何十年も続いたとき、ふと「一所懸命やってみるか」という思いに行き着く、そうしたらはじめてそれに取り組むにしても、十分に「見てきた」というキャリアがあるので、出来る出来ないの以前に「どうしたらいいかは、知らないでもない」と感じられる。
臍下丹田にある自立の機能、自他を「区分する」という機能を失った人は、他人のやっていることを見てきていないし、今も、他人が何をやっているかが見えないのだ、そして自分のやることというのは、他人のやっていることに対する呼応なので、他人のやっていることが見えないうちは、自分のやることも見えはしない、そしてそれを見えないままやらされるというのは、すさまじくダルいことなので、自分にサイキックドライブ(ブースト)をかけないと一ミリもやれないのだった。

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蔓延する非常なダルさ2

代に蔓延する非常なダルさは、「High」と「Low」に分けて考えるとわかりやすくなる/どちらにせよ、臍下丹田の自立機能を失ったことによって、この「ダルさ」は生じている。
「High」というのは、内心で感情が激しやすいということや、いわゆる「意識高い系」であったり、マウント、炎上、モチベ、やる気であったりなどだ、何かがずっとヒートしていて、自分にヒートしたものだけパッと飛びついてそれを「正義」に振り回すので、周りの人は甚大な迷惑を被ることになる。
「Low」というのは、「High」の反面、たとえば「夢がない」というのにも、極端に夢がなくて暗かったり、仕事や学門についてひどく無気力であったり、万事について反応が異様に鈍く、動きが異様に鈍重であったり、どんな物語にもまったく感動を覚えなかったりするということだ、本人はこれをずっと「特に問題はない」「誰にも迷惑はかけていない」と信じているので、周りの人は甚大な「退屈」に巻き込まれることになる。
ときには、このHighとLowは混在しており、一番ありがちな例でいえば、人を尊敬することについてはひどくLowなのに、人を嫌悪したりディスったりするときには、異様にHighだというような状態がある、あるいは他人にマウントを取ることには異様にHighなのに、じゃあ自分が何をするかについてはひどくLowだったりする/本来このようなことは、バランスとして「成り立っていない」のが明らかなのだが、何しろ臍下丹田の機能が死滅しているので、成り立つも何も、まず「立つ」という機能も感覚も消失しているので、本人は何も思わないのだった、こんなものが跳梁跋扈していればそれはダルいに決まっている。

現代に蔓延するダルさを、端的に言うと、「自分のやるべきことには極端にLowになり、他人のやるべきでないことには極端にHighになる」ということだ。
つまり、「部屋の掃除をしなきゃな」という自分のことについては、全身に鉛が詰まったようにLowになるのに、芸能人がチョンボをやらかしたというようなことについては、全身に火がついたようにHighになるのだ、あるいは自分が本を読もうとするとソッコーで眠くなるのに、誰かが不勉強だとカッと目を見開いて火を噴かずにいられなくなる/これは本来あるべきHighとLowがあべこべなのだが、むろんすでに病的な症状に決まっている。
なぜこのようなメチャクチャが起こるかというと、臍下丹田の機能が死滅し、「立つ」ということが失われるからだ、自分のやるべきことは他人に頼れないから、自分が立ってやるしかないのだが、これはフラついてすぐ出来なくなる、そして他人のことに茶々を入れるときは、他人にしがみつけるので、自分で立つ必要がなくなる、このことには全身の筋力がグワッと燃えさかる。
「立つ」という機能が失われているので、自分が立ってする行為(自分が立脚する行為)については、ほとんど昏睡か、あるいは死に近いほどのLowになり、一方で他人にしがみつき、特に他人を失脚させる行為については、ほとんどけいれんか、あるいは捕食攻撃に近いほどのHighになる/これではつまり、「自分のことを考えると死ぬほど眠くなるので寝る、他人を殺すことを考えるときだけパッとごきげんで寝ていられない」という状態になってしまう、これが別に誇張でもないのだからおそろしい話だ。

部屋の端末でネット上のクソを罵っている時間は、「自分の時間」ではない。

最近では、いわゆるユーチューバー等を見ている人が多いのだろうか? よく知らないが、別に対象はテレビでも同じだ、多くの人は半ば楽しんで半ばは罵ったりしながらメディアを視聴しているのだと思うが、それはまったく「自分の時間」ではない、なぜならそのユーチューバーの映像やテレビのバラエティは、<<あなたが成り立つために必要なもの>>ではまったくないからだ。
臍下丹田、ヘソの下のチャクラ的機能が死滅すると、自立(他人と区分した自分)という機能がなくなるため、このように、何が「自分の時間」なのかさえわからなくなる、自分のやるべきことに対しては病的にLowになって、他人のやるべきでないことについては検察官のようにHighになる、自分が料理をすると「死ぬほどつまらない」と感じるのに、料理動画の誰かがヘタクソなのを見ると大きな声で罵るのだ、これは自立の機能が故障というより本格的に荒廃を始めている証拠だ。

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蔓延する非常なダルさ

、世の中に、非常なダルさが蔓延している。
ダルさが蔓延しているからこそ、「やる気」といってブーストをかけたり、マウントといって業を煮やしてエネルギーにしたり、モチベーションといって自己洗脳状態にしたり、「炎上」といって集団催眠に耽ったりせねばならないのだ。
このダルさが、どこから来ているかというと、(何の根拠もないのだが)、男女の性別が曖昧化されたことから来ている。
男女だけでなく、店と客とか、演者と観客とか、教師と生徒とか、目上と目下とか、書き手と読み手とか、本来は区分されるべきだった両者が、垣根を超えて癒着することで、何もかもがダルくなった、それはもともとの区分・区別からエネルギーが生じていたものを、無くしてしまったことによってエネルギー源が失われたということでもある。

このことは、チャクラ的にはヘソの下、いわゆる臍下丹田のあたりと関係している/臍下丹田には「自立」という力があるが、自立というのは「自分を他人と区別する」ということだ、この臍下丹田にある「区分の力」そのものを、多くの現代人は失っていると見ていい。
それにより、現代人は、多く「うっとうしい奴」になってしまったのだ、表面上はそのことを隠しているにしても、その内実はずいぶんうっとうしい奴になってしまった/「自立」というのは、うまく言い当てたもので、これは経済的な自立のことを意味してはいない。
「自立」というのは、ただ「立つ」ということだ、ここで区分の力を失った人は、他ならぬ「自分」が立つということがわからないままでいる、それで焼けついたまま他人にしなだれかかり、当人は「やる気」や「モチベ」や「マウント」や「炎上」をしきりにやるので、結果的にうっとうしくてしょうがない奴になるのだ/このことは臍下丹田から「自立」を覚えるまで構造的に解決されない(そりゃヘソの下がない奴がどうやって「立つ」んだよ)。
今、流行しているものを見てみたとして、そこに「彼が立っている」「彼女が立っている」と見える姿はほとんど見当たらない、比較してかつての石原裕次郎が「やる気」「モチベ」「マウント」「炎上」をやっていたという感じはまったくしない、現代人は多く体質のレベルで単純な「区分的自立」の機能を失ってしまったと捉えるとわかりやすい。

ヘソの下、自立を鍛えましょう。

人のつながりというのは、自立した人々がつながるから「つながり」なのであって、癒着して団子化しているものを「つながり」とは言わない、まあ本当にキモチワルイ、うっとうしい人が増えてしまった/「区分の力」を持っていないということは、つまり、他人の意志が他人の意志だとわからないということだから、結果的に、常に他人の意志をべっとり自分向きに曲げようとすることしか発想できない人になってしまう、これはもううっとうしいというレベルを超えて、最終的に殺害関係になるしかしょうがないのだった。
当人は、甘やかされた思春期の幻想がへばりついているから、そのまま中年になると、これは想像を絶するキモチワルさが出来上がること請け合いなのだった、こんなキモチワルイもので互いにダルさを与えあっていては不毛きわまりない/区分的自立が持てない人はいつも内心で感情を激しているが、それも区分的自立を持てないせいだ、臍下丹田の支えが死滅していると内心の感情はまったく制御不能になるのだった、だから当人は激した感情をずっと「正義」だと信じ込んでいる。

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わたしの世界が変容する
たしは自室で本を読んでいる――格闘家であられた山本KID徳郁(のりふみ)さんが四一の若さで夭逝されて、わたしは自身に露骨な心痛を確認もした、思いがけぬ痛みで自身が落下するような……すでに癌でお悪いのだという報せは仄聞していたが、にもかかわらずわたしにとって、縁遠いヒーローの一人だった彼が亡くなるということは、そのときがくるまで現実味の帯びようがなかったのだった。
まったく文学者の、悪い本性を発揮して、わたしはここに、わたしの世界の変容を受け取っている/このように世界を感じ取り、ないしは明視するということが、はたして知性によるものなのか、それとも度しがたい深さからの悪性によるものなのか、わたしにはわからないままだが、少なくともこの世界には、一般に知られている見え方とはまったく異なる見え方が存在する、その "異なる見え方" とは芸術・文学の本質であって、このことに想像力の欠片も触れられなかった者が、やむなくオカルトの門をくぐるようだ、それは醜態とも呼ぶべき笑劇であって、何かが明視されたことにはわずかもなっていない。
一般に知られている「わたし」という現象、およびその感触(実感)は、文学的に明視される「世界」の中には、まるで存在していないと感じられる、まったくどこかに消え去ってしまったというように/むしろ正当な、かつ極端な文学者のたぐいは、この一般的な「わたし」という感覚を得なかったか、あるいは器質的な障害によって取りこぼしでもしたのかのような存在に思える。
文学者は、単にグラビア・モデルのような女性の裸身を見てもオッとならないのみならず、それらを見てオッとなる人々のありふれた様相でさえ、実は眼に入っていない、むしろ文学者というのは、何もかもを己の文脈・文体の中に引きずり込む、悪魔の力の持ち主のようだとも取れる、これの最果てが光に結ばれているのか、そうでないものに結ばれているのかは、けっきょく僕にはわからないままだ/山本KID徳郁さんの早世を悼むと共に、彼の死がなかったことになればよいのにという、埒もない幻想に浸っているという告白をもって、わたしはここに個人的な追悼の意を表しておきたい、あの人は非常に危険な魅力を放っていて、その危険と魅力をどうすればよいのか誰にも見当がつかなかった。

生きる世界が変容する……文学者においては明らかに、人よりも言葉が先行する、彼は何かしらの世界を言語化しているのではなくて、言葉ないしは言語から生じた世界を、 "見せられている" のだ、それが福音によるものかデーモンによるものかは、誰にもわからない、当人にさえそのことは定かではない/ただすべての事象は、彼の文脈・文体の中に吸い込まれていく。
そのことは、もし直面的に見るなり言うなりするとすれば、 "人をナメくさっている" とも感じ取られるだろう、事実、人を根こそぎナメくさっているようなところがないかぎりは、何もかもを己の文脈・文体へ引きずりこむなどということが、躊躇のない反射神経のように繰り返されるなどということはありえないものだ、しかし彼はすっかりこのことを確信しているので……まるですべての供物を文脈・文体の祭壇の火へ放り込み、そこに噴き上がってくる炎がどのようであるかを心待ちにすることだけを信じている、ファナティクな神官であるかのようなのだ。
彼の満足はそこにしかなく、彼はけっきょくすべての供物を火にくべることに何らの痛痒も覚えられない、ただそこにもある一縷の望みとしては、そのような文学神官の性質が彼自身としてやめられることはなかったとしても、その繰り返されていく文脈化・文体化の中で、このような己のありようがいつまでも正しいのだろうか? という、恐怖は持ちうるようなのだ/これは今、わたしがわたしの話をしているのではなく、文学および文学者の話をしている、何しろわたし自身はもっと、抜け目のない男なのでね。
危険な魅力を放っていた、縁遠い一人のヒーローが逝去したことに痛みを受け、他ならぬわたし自身は今、ありふれて「生きたいように生きないとな」という思いを強くしている! わたしは文脈・文体の本質に愚鈍な者ではありえないが、思いがけぬ方向として、文脈・文体を破壊する力の佳さを示してみせる、文学者でありたいと望んでいる、ホラわかるか、他ならぬおれがそう望んでいるのだ、原稿用紙などという野暮ったいものが望んでいるのじゃないぜ。

突如原稿用紙が破られて、ヌッと主の顔が突き出されてくるだろう。

わたしは自室で本を読んでいる――かつてわたしは、そうした中で光を得る、 "可能性のある子" だった、よく感じ取られた文脈・文体の力に、何もかもがひん曲げられてゆき、影響づけられた果ての景色を、再定義の中に明視する……そうしたことを、わたしはごく当然にしてきた、けれどもわたしは、そうした光の中で、――自分自身に光が照っていないだろう? ということに、今となっては気づきえるわけだ、わたしはいつからかそうした道程を歩んできた者であるから。
文学、それも露骨な文学、その露骨さとは薄皮一枚の下でただちに "人をナメくさっている" ということでしか成り立たないが、そうした文学の力は、それぞれが自身の生きる変容自在の「世界」が在るのだということを知るのに、最も直截にはたらきかけて有為だろう、だがそれは大変に面白く有為ということに留まるものであって、この有為じたいが完成に至るものではない/しばしば露骨な文学者が当人として自殺に至ってしまうのは、やがて行き着く "文学の自殺" が受け入れられないからだ、力ある文学者ほど文学の自死を受け入れられず、引き換えに己が文学を――あまりにも愛して信じたそれを――抱えて自殺する方向へ追い詰められていく。
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バリア〜

し、ナゾのバリアみたいなものを持てるというか、与えられるとしたら、そりゃあカミサマ的なものから頂くものだろう、バリアがあれは何だって安心だ。
われわれはアクマ的なものから身を守りたいわけで、悪霊退散、なぜバリアを頂くならカミサマ的なものからだと言いうるかというと、カミサマのほうがアクマより力が強いからだ、アクマのほうが強いのではバリアになってもらえない。
アクマは、人より力が強い……そりゃ人のほうが強けりゃ、バリアなんか要らないわけで、バリアを欲しがるというのは、人よりアクマのほうが強いからだろう、人力ではアクマに勝てないので、カミサマに守って頂くしか、われわれは己を救うすべがないということだ、もちろん本当にアクマとか悪霊なんてものが存在したらの話だけれども。
そして、ふと思うのだが、ドクロをアクセサリーにしている人はいくらでもいるし、街中のグラフィティは何かしらアクマ的にしようと若者らがデザインしているし、ブラックメタルの人々などを見ていると……少なくとも、本気でアクマ的なものを信仰している人たちは、ぼんやりとカミサマを信仰している人たちよりも、本腰を入れて信仰しているなあということなのだった、悪魔崇拝の人々は大マジで儀式をするが、われわれはそこまで本気でカミサマのことを信仰はしにくいのだった。

少なくとも、悪魔崇拝者たちの真摯(?)なところは、彼らは教会にも寺院にも頼らないということだ、そういう施設に頼らないで、自分の信心だけでアクマに向き合おうとする、生身で直接/月に一回教会に行けばいいやとか、年に一回墓参りにいけばいいやとか、そういうチャチな信仰を彼らはしない、悪魔崇拝の人は自室をその祭壇にするぐらいの勢いがある。
その意味では、悪魔崇拝の人は、結果的にであれ、引き返さない自己決定をしているのかもしれない、そしてそこまでアクマを本気で信仰する人は、その信仰から何か「力」を得ているからなのだろう、さすがに趣味やヒマつぶしにやれるようなことではないはずだ/あるいはマジで力が得られるとなったら、多くの人はこっそり悪魔崇拝にこそ興味を持つのかもしれない。
馬鹿げた与太話だが、もし、そんなことで力を得られるのだとしたら、それは施設との関係ではなく、本人が直接、アクマ的なものへ向き合って、関係を持つからだろうな、ということになる、そうして考えると、もしカミサマからのバリア的なものがありうるのだとしたら、こちらも、本人が直接、カミサマ的なものへ向き合って、本人から直接の関係を持たないと、バリア的なものはもらえないということになるだろう。
総じて考えると、われわれは、現代の文化の中にいて、なんとなくアクマを信仰する本気のやり方は想像がつくのに、カミサマを信仰する本気のやり方は想像がつかないと感じるのだった、なぜなんだろうな、ひょっとするとそうではなかった逆の時代もあったのかもしれない。

われわれは、アクマじみている人を確信はするのに、カミサマじみている人を確信はしない。

ワイドショーでひどいニュースが報道されると、「マジでアクマじみてんな」というサンプルはいくらでもみつかるのに、反対側、「マジでカミサマじみてんな」というサンプルについては、あまり見当たらず、見つかったとしてもわれわれはあまり自信がない/われわれはアクマじみている人を見かけたらソッコーで逃げたく感じるのに、カミサマじみている人を見かけてもソッコーで駆け寄りたいとは感じない。
単純化すると、われわれは、不審者の不審さに官能するしか能がない、という状態になっているのだが、これはひょっとすると、われわれがすごくアホになっているということなのかもしれない/うーんそんなことでは、ノーバリアで生きていくしかないな、おれはバリア欲しいけどなあ、おれだけこっそりバリアゲットできんものかね。

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マウントゴリラ黙示録7/実験

とえば、ガンジーは偉大だ、というようなことは、誰でも知っている。
ところが、実験として、「うおおお〜ガンジー偉大すぎるわあああ」と言ってみようとすると、その言葉はなぜかわざとらしく、気色悪くなる(おれはならない)。
ぜひ、実験してみるといい、あなたがガンジーを「称揚」しようとすると、あなたの内心は暗くなり、なぜか声はドス黒くなり、顔面の、表情の奥には、ちらっと狂気が窺い始める/「反抗的」な何かが内部にせりあがり、その「反抗的」は、獣の体臭を持っていることが感じられてくる。
それは、信じがたい話、「ガンジーは偉大だ」という、人類にとってはアタリマエの知識に対しても、獣化した全身は、「マウントを取られる」と感じているということだ、獣(ゴリラ)にとっては、「称揚」=「マウントを取られる」なのだ、それで現代人は、マウントを回避する器用な言い方として、「リスペクト」という言い方を発明した、リスペクトというのは「オレがガンジーをリスペクトしている」という意味であって、ガンジーを称揚するものではない、これはうまい抜け道なのだった。

「リア充」「陽キャ」、「イケメン」「草食系」、色んな言い方が発明されてきたが、これらのすべては、発話者の側がマウントを取れるように、デザインされている、つまりこれらの語で「言い捨てる」ことによって、マウントを取ることが可能だ、「彼、イケメンだよねー」と言うとき、発話者の女性はマウントを上位に取ることができる/マウントを上位に取ることは、ゴリラの生理に合う。
単に、これだけなのだ、すべては発話者のゴリラ事情に合わせた語が発明されてきたにすぎない、ゴリラがデイリーでマウントを取らなくてはならないのは、畜生道においてやむをえないことだ、朝起きたときから他者にマウントを取りにいこうとするのは、ゴリラとして自然なことであって、ひとまずそのことを博物学的に認めるしか正しい道のりはない。
れっきとしたゴリラがあって、れっきとしたゴリラ事情があって、「マウントがわれわれの死生であるぞ」という、ゴリラワールドとゴリラ哲学があって……そのゴリラワールドから、脱出なんて思わないことだ、「一生このゴリラワールドなんだ」と、ひとまず認めてしまったほうが、すべてのことがよく見えてくる/「わたしの全身が真に帰依するのは、 "マウント" なんだわ」という悟性をもって、すべての空間を眺めれば、理解にも時間短縮ができよう。
実験してみればわかる、何か偉大なものを、「敬い」「尊び」「称賛する」ということをしようとしたとき、あなたの全身には、人間らしいこころがみなぎ……らない、代わりに、何かよくわからないゴリラっぽいものが全身を駆け巡り、あなたは歯を剥き、目を剥き、両腕を力ませて、そわそわ、沸騰するマウントをどうしたらよいかわからず、固まって不穏になったり、暴れて狂気を見せたりするはずだ、それは「ゴリラに無理をさせた」という状態だ。

「ガンジーは偉大だああああ」と言うと、僕は陽気になるが、あなたは陰気になる。

実際に、あなたもそう言ってみるとわかる、「ガンジーは偉大だああああ〜」/なぜかヘンな声になり、ヘンな言い方になり、ヘンなキャラになるはずだ、ぜひそのとき内部に起こる、不穏なキモチに気づいてほしい、「ガンジーは偉大」というのは教科書にも載っていそうなことだが、あなたはそれを称揚しようとすると、マウント反応を起こす、びっくりだがあなたは一生それでいくのだ、そのことの理由を見つけるのに、「わたしはゴリラなんだからしょーがないでしょ」と捉えること、そうするのが最短の手続きになる。
「実験」してみて、自分を「あっ、ゴリラだ」と発見するということ、また他の誰かについても、「あっ、ゴリラだ」と発見するということ、それが最短の手続きになる/ここで「ゴリラ」と言っているのは、悪口ではないのだ、「事象」なのだ、実験結果を以て、ゴリラ界を生きていることに気づけばいい、ゴリラにガンジーの遺影を与えるとどうなるか? ウホウホ、ガンジーの遺影を投げ飛ばすかもしれない、そのときの様相に、現代人はぴったり重なるということだ、これを発見した人から順に脱出路を見つけるだろう。

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マウントゴリラ黙示録6/報復のリアクション
が、マウントということに疎かったため、そのことのツケが回ってきているような感じだ。
つまり、僕は、一ミリも尊敬されたり、感謝されたり、称賛されたりしてはならないということだ。
なぜなら、そうして少しでも「見上げる」形になるということは、ゴリラにとっては、「マウント!」ということになるからだ、これは爆弾のように瞬間発火するので、もうどのようにも取り扱うことはできない。
これなら、なるほど確かに、今やっているワークショップとやらも、僕が「ボトム」であって初めて成り立つわけだ、僕が底を這い続けているかぎりは、誰かに対してマウントを取る形にはならない、われながら賢明なやり方を知っているものだ。

理屈じゃないんだな、「人の営み」を持ち込んではダメなのだ、ゴリラにはそれはマウントとしか思えないものだから、その瞬間ゴリラに引き裂かれて殺されたとして、ゴリラが悪いとは誰もいえない。
実際、これまでのことを振り返るとわかる、僕が必死に教え、与え、笑わせ、連れてゆき、なんとかしようとしてきたときほど、必ず害意と殺意を持って報われてきた/見上げさせてはダメなのだ、見上げるということは現代人にとってイコール「殺す」になるのだ。
注目すべきは、僕とAがいたとして、Aが僕を「殺す」と反応するということを、僕は知らなかったし、Aも知らなかったということなのだ、そして僕をブン殴って「大金星」を得たときも、Aは爛々と眼を輝かせながら、自分がそのようなことをしたということは、あまり記憶がなく、「また必ずやろう」という眼をしている(おそらく、マウントゴリラが相当な深度まで抑圧されるのだと考えられる)。
だから、構造上は、僕からあれこれ教え、与え、笑わせ、連れてゆくとして、その後一定の、僕をぶちのめす「暴力タイム」を設ければ、何の問題もなく進捗していくということになる、ただしそれでは、獣化への対抗処置にはなっていないので、けっきょく当人にも表面的な利益にしかならない/ここで重要なことは、「暴力タイム」を設けなくても、同様の時間は定期的に発生するということだ、マウントに対する報復のリアクションは、構造上、必ず定期的に生じるとみなさねばならない(メモ:この報復暴力についてを有為にワーク化できるだろうか? たとえば「九折人形」をズタズタに切り裂くとか)。

報復のリアクションを、あなたはしないが、あなたがする。

あなたが、「とってもありがとう」と感じる瞬間、あなたからまぶしい眼差しが……向けられてくるのではなく、「あれ?」という不穏が起こり、固まり、瞳孔が開き、暴力的な衝動が起こる、「どうしたの」「なんでもないです」、それはあなたの知らない次元の「報復のリアクション」だ、そのリアクションは、理性的には「そんなわけないでしょ」なので、抑えられている、だからそのときあなたは固まったり、不明の挙動に逃げたりする。
「マウント」の原理と、その「報復」のリアクションが、こころの奥の、とてつもない深さにまで入り込んでいるということだ、だから自覚はないまま、すさまじい「根源」というような位置で、あなたを支配している、まあ一種の「呪い」なのだからそれぐらい深くまで入り込むのはいっそ当然だ/このことまで解きほぐして、光の道に入ろうとするなら、それはもう、強力きわまる学門の力が要る、本当の本当にそうしたい人は、何かでたくさん勉強しましょう。
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マウントゴリラ黙示録5/「自分の願っていたことは、もう何一つできない身体になった」
なたがもし、「教えてください!」といって、意気込んで僕のところにやってきたとして、どうなるか……実際にはあなたは、不穏に固まり、黙り込み、それを覆い隠すために、不明の挙動をする、一人でヘンに暴れたりもする/しかも僕のことを「嫌悪」する。
あなたの意志ではない、マウント反応が起こるからだ/すでに、あなたの望んだようには、あなた自身はなってくれない、あなたはあなた自身に、「自分の意志ではない行動・現象」が、不可避に起こるのを発見するだろう。
「こういうデートがしたい」「こういう人と」「こういうふうにリードされたい」「こういうふうに学んでいきたい」「こういう行動ができるようでありたい」と、あなたがそうして夢に描き、望んだすべてのことは、いざそのときになって、あなた自身によって破壊されるだろう、あなたはそのときになって、自分の全身が瘴気を噴き出すことを未だ知らない。
あなたが知らない「あなた」が、すでに内部に巣喰っていて、支配権はすでにそちらの手に渡っているのだ、あなたはそのとき、「こんなにしてくれてありがとう」とは決して言わない、そのときになって「言えない」のがわかるのだ、あなたを支配する内部のそれは、「マウント下位」を断固拒否する、そのためになら大恩ある人も、かけがえのないやさしさを振る舞ってくれた人も、いかなる至高も、膝下にねじふせて己の「マウント上位」を確保しようとする、とんでもない話だが本当にそうなのだ、むしろ「それが獣の道」とアクティブに捉えたほうが、このことはわかりやすくなる。

いっそ、勇気をもって、「自分の願っていたことは、もう何一つできない身体になった」と、先に仮定してみるほうがいい、そうするほうが、まだ予防と緩和と、ひょっとしたら復旧が早くなる。
ちょっとでも(ほんの、ごくわずかでも)、頭が下がりそうになるとき、あるいは、何かを見上げようとするとき、ただちに、あなたの知らない機構が動く、「マウント」の機構だ、あなたはその、頭が下がりそうになること、何かを見上げようとすることに、自分の意志とはまったく関係ない、「ギャー!」というすさまじい悲鳴を内側に聞くことになる、この悲鳴が起こるとただちに、あなたは見上げようとしたものに対して、「殺す」「許さない」という、殺意と、不穏の瘴気を上げ始めることになる。
「素直になれない」などという、かわいらしいレベルのことではないのだ、あなたはあなたから見上げようとする人を、ただ「見上げる」というその位置関係によって、無条件に「殺す」「許さない」と感じる、それも激烈に、悪魔のような瘴気を噴き上げてだ、それはそういう仕組みのものだからしょうがない、この支配は学門なしに理解することはできない。
あなたは、何かを考えているわけではなく、もう獣の物質が、体内においてリミット寸前なのだ、だから何かを見上げようとした瞬間、もう何の理性もなく、ただトリガーが引かれ、「マウントを弾き返す」という、血まみれの反応を起こす、その反応はとても激烈だ/あなたは誰かを尊んだり、誰かに感謝したり、誰かを称賛したり、そういうことはもうできないのだ、あなたにできるのは、その尊崇と感謝と称賛の対象を、突如ひっくり返して踏みつけることだけだ、このことを僕は「大金星」と呼んでいる、あなたはその瞬間「大金星」を上げる。

ボスゴリラに上着をかけたらどうなるか。

「寒いかな」と思い、ボスゴリラに上着をかけてやったとしたら、どうなるか、もちろんボスゴリラは、誰かが自分にマウントを取りに来たと感じ、激烈な攻撃をもってこちらに向かってくるだろう、そんなもの殺されておかしくないし、殺される側が断然悪い/ちょうどそんな感じで、理はまったく通用しない、獣の反応のほうが遥かに速い、ボスゴリラは自分のマウント上位だけ保たれていればすべてが満足なのだ、それ以外の反応はない、それはゴリラなのだからしょうがない。
まったく冗談じゃなく、ここ数年、僕が命がけで与えれば与えるほど、そしてそれが魂に届けば届くほど、僕は殺されそうになってきた、実際に暴力も受けているのだ/僕から相手に何かが届くということは、それだけ向こうにとっては「マウント」なのだ、どれだけ向こうが望み、僕が必死に応えて与えたことであっても、それが届いたらその時点でマウントだ、僕は殺される必要がある、これは誇張で言っているのではなく、マウントを取りに来た者は殺される必要があるのだ、「正義」として……つまり僕がすべてを届け、その後ただちに殺されるということならば、その場合のみ「正義」が成り立つ、今はやせがまんされているが、構造的本質はこれだということは把握しておかねばならない。
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マウントゴリラ黙示録4/「ニューカルマをゲットしました!」

じ話ばかりして申し訳ない、学門上クリアな展開が得られたのでよろこんでいるのだ。
より精密で実益のある学門のために、「ニューカルマをゲットしました!」というテロップを、脳みその右上にでも出しておいてくれ。
この、「ニューカルマ」ということ、新しい因果を得たということ、このことがミソなのだ、これで現代の状況を正しく理解することができる。
「マウント」というのは、動物がやることで、獣の業なのだ、そしてそれは「業(カルマ)」であるから、やめられないのだ/人々はマウント合戦を選んだのではなく、新しいカルマを得たのだ、だからこそ旧来の知識や知恵ではこれに対抗できないのだ。

われわれは、人間なので、もともと人間道の業(カルマ)と、その因果を負っていた/たとえば星条旗を見ると、われわれは「アメリカ」と認識する、これが「識」の業だ、これはカルマと因果なので、人間はこれをやめることはできない、われわれは星条旗を見て「アメリカ」と "思わない" ということはできない。
そして、旧来は、この人間道のカルマと因果において、われわれは戦っていたのだが、今新たに、新しいカルマと因果を得たのだ、堂々たる畜生道時代が来たと言っていい/星条旗を見ると「アメリカ」と認識せざるを得ないように、他者を見ると、マウント合戦を始めざるを得ない時代が来たのだ、これは因果のはたらきなので、われわれが「やめよう」と思ってやめられるものではない。
何をどういうふうにしたら、こんな新カルマをゲットできるのだろう? 何かノウハウがあるのかどうかは知らない、ただ事態はすでに進行したのだ、星条旗を見て「アメリカ」と思わないことが不可能なように、現代において人々は他者を見て「マウント」をやめることができない。
仮に、たとえば上司が新入社員に、社会人としての自覚を持たせようとあれこれ指導しても、すでにフェーズとして成り立たないだろう、「指導」は第一に「マウント」としか受け取られないからだ/本人の選択ではなく、カルマと因果がそのように彼を決定づけるので、彼は抑えつけられた獣のように、不穏な唸り声をあげる、「マウント」、そして目はどんどん黄ばんで濁っていくのだ。

男性が女性を押し倒しても、それは「マウント」としか受け取られない。

今、男尊女卑の撤廃が叫ばれているが、本質は男女平等の希求ではないのだ、男性が女性に「おいで」と言うと、それだけで「マウント」になり、抑えつけられた獣が不穏に唸り始めるのだ、それも本人の選択ではない、獣という新しいカルマがインストールされて、そういうアプリが常駐になったということだ、「マウントを検知しました!」というファイアウォールですべての文化は弾かれてしまう。
これですべてのナゾは氷解する/僕のことを尊崇し、助けてくださいと縋ってくる女の子でさえ、実際に僕が彼女の目の前に立つと、不穏に固まり始め、僕を殺そうとする様相を見せる、これは獣のカルマが自分の状況を「(被)マウント」と捉えているのだ、本人がそう思いたくなくても、カルマは因果を強制するものだ、よって、人間らしい文化のすべては今、獣化した人々にとって「マウントを取られた」としか受け取られず、すべて不穏な唸り声で迎えられるだろう、ここ数年で「なんじゃこれ?」と意味不明に感じられていたすべてがこれだ。

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