☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
宝物
ーた余談。
僕はもともと、「やりたいこと」をやってきたわけではなかった。
別にセンスもないし、モテるというわけでもないし、人付き合いがいいわけでもないから。
ただ、人に何かを見せるとか、連れて行くとか、聴かせるとか、こうして文章を書いて晒すこともそうだけれど、何がしたいというわけじゃなく、人に何かを見せるなら「宝物」になりえるようにと、そのことだけをしてきたのだった、けれどもそのことは誰にもよく了解されずにここまで来たように思う。

親しい手書きの手紙が、いつまでも机の奥に眠って、ずっと宝物でありつづけるように。
そんなことは、もう現代では起こらないのかもしれないが、そうは言われてもな、僕は他に何をしたらいいのか知らない。
僕が試みた「宝物」への取り組みは、そのほとんどがうまく受け取られはせず、何者かに破壊され続けることで、とにかく興に乗らせるということの用途のために消費されてきたような気がするが、そのことにこれという不満が起こったわけではなかった/僕はそもそも、「消費」ということを視認する能力さえないらしい。
ただ、僕が創ろうとした「宝物」を、サッカーボールのように蹴って消費した人々は、興が乗る一方で、その後何かメチャクチャになり、そのメチャクチャに虫食まれていくことから引き返せないようになった、こうしてすべては、僕の識らないところで勝手にあらぬ方向へ進んでいったのだった。

「宝物」をキックすることで、とりかえしのつかないカルマを背負う。

どうやらそういうことらしいと、経験に則って推定しうる、もちろん断定はできないけれど……
まあ僕は識らない、ただ僕自身、もし人が創ろうとし、また与えようとした「宝物」を、僕がキックするようなことがあったら、そのときは僕なんか地獄に落ちればいいと思う/われわれは多くのことを忘れてきたけれども、忘れたということは仕組みが消えてくれたということではないらしい、それは当然といえば当然のことだ。
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パッケージング問題

談/もう数年来、この問題に困らされている。
「恋愛エンターテインメント」「いい女でいこう」というサイトタイトルなのだが、どう見てもコンテンツの実質が、タイトルから逸脱してしまっている。
なぜそうなったかというと、おそらく七年ぐらい前にはすでに、「恋愛」や「いい女」というテーマそのものが、訴求力を失っていってしまったからだ、それで内容が変質せざるをえなかった。
もうずっと昔に、「恋愛」とか「いい女」とかいう言い方は、時代遅れになってしまっていた、それでもタイトルを変えないままやってきたので、こんなちぐはぐになってしまっているのだった、その点でいつもご愛顧のみなさまにはご不便とご迷惑をおかけしております、まったく申し訳ない。

われわれが未来を切り拓いていくのに、「恋愛」とか「いい女」とかいうテーマでは、もうとっくに追いつかなくなっている。
十年ぐらい前なら、「恋愛」と「いい女」というだけで、まだパアッと未来が明るく切り拓かれていく感覚があったのだが、現代においてはさすがに無理があるだろう、そんなことで現代の闇が晴れたりはしないことぐらい誰だってわかっている。
旧来のように、「恋愛エンターテインメント」「いい女でいこう」というサイトタイトルからのコンテンツを生産することは、今でも何の問題もなく可能なのだ、そりゃ僕は文学者だから、タイトル文言の示すところに準じて生産することには何の混乱も生じない/ただものすごい時代錯誤と世間知らずのような世界ができあがってしまうだろうな……
だから構造上は、もう新タイトルのサイトかブログを立ち上げるのが正道なのだ、それはわかっているのだが、それはさすがに面倒くさすぎる/それにそこまで言うならそもそも今時「サイト」とか「ブログ」とか「テキストコンテンツ」ということ自体が時代錯誤なわけで、さっさとyoutuberにでもなれよという話なのだが、何もそこまでしてウェブコンテンツを運営したいわけでもないし、もうこの問題には長いこと困らされているのだった。

ずーーっと昔、僕のサイトは、恋愛相談系では割と最新鋭だった。

何か、思い出すと笑える感じがしてくるが、かつてそういった時代があって、BSのテレビで紹介されたこととかもあるんだぜ、僕はその後、形式に固執したわけではないが、あえて変えたくなかったので形式を変えずにこのまま来た、変えてしまったら結果的にこの「現代」の巻き添えをくらうと判断したからだ。
逆に、ものすごい昔のやつに、戻してやろうかなあ? そのほうが単純に「面白い」のは間違いない、しかしそうなると、スマートフォン閲覧という、インターフェイスの問題になってくるのだった/どうしたものか困り続けているわけだが、テレビにせよインターネットにせよ、現代のほうが成熟しているのは明らかであると同時に、昔のほうが「わくわくした」のも明らかなのだ、何かいい方法はないかなあと、ぼんやり考え続けている。

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あなたがバカにされる回数、消費される回数
代人は膨大なメディアコンテンツと、SNS的な知人に包囲され、それらを消費し、つまんないものは「つまんねえな」とバカにして過ごしている。
それが現代の様式だからまったくかまわないのだが、この「消費」と「バカにする」は、実は償却が済まないかぎり、次の「獲得」というのは起こらないのだった。
つまり、あなたが「消費」した量、および「バカにした」回数だけ、あなた自身も人に消費され、人にバカにされなくてはならない、それが済むまでは次のあなたの「獲得」はない。
わかりやすい因果応報があるということだ、自分が消費した量とバカにした回数は、自分が人に消費されバカにされる量と回数に反映されてきっちり降りかかってくる。

「消費される」というのは、たとえばあなたがデートに行って、全力であなたがサービスし、笑わせ、立ち回り、あなたがオゴり、相手だけがいい気分になり、あなたの人格や尊厳は何ら配慮されず、あなたは最後まで笑顔でいなくてはならないということ。
「バカにされる」というのは、そのままわかりやすい、あなたが歌ったり踊ったり、ラブレターを書いて贈ったりセックスを捧げたりし、それらのすべてを「きもw」「くっさw」と笑われ続けるということ。
われわれは現代において、そうして消費およびバカにするということを、内心で何万回も何十万回もしているので、これから先、自分もそうして他人の内心や直截において、何万回も消費され、何十万回もバカにされないといけない/それが済まないと生きているうち次の「獲得」は一切ない。
あなたはこれまで、どれだけの量を消費してきて、どれだけの回数「バカにする」ということをしてきただろうか/もちろんそれがゼロなら、その償却もゼロで済むから、あなたは次々に「獲得」をしてゆけるわけだ、他人に消費されたりバカにされたりするなんて地獄の時間はゼロで進んでゆける、自分のがんばったことをバカにされるなんてものすごくつらいことだ。

消費してバカにするのは実に「愉悦」だが、次は自分がその愉悦の具材に供される番だ。

たぶん僕のほうがあなたより年長者だから、わかるのだが、他人をみだりに「消費」し、それを「バカにする」ことで愉悦を得ることは、自分の未来に自分の地雷を埋めるようなものだ/人が爆死するのを楽しんだぶん、自分は未来を地雷の恐怖に怯えながら歩まねばならなくなる、これはなんともわかりやすい「因果応報」だからぐうの音もでない。
毎週、毎日、毎時間、毎分、現代では何かが更新され、それらが「マジ○○〜」とバカにされ消費されていくのだが、その「マジ○○〜」という愉悦の声が発されるたび、その声に「ああ、また自分の未来に地雷を埋め込んだな」という切実な音色(おんしょく)が聞こえるのだった、ジジイになるとそういうことがわかるようになる、何が自分の未来を暗くするかいよいよわかるようになるのだ。
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居酒屋と喫茶店の怒号
酒屋にいくと、すさまじくうるさい集団がいる場合がある、それも酔っ払いの話し声がうるさいというよりは、もはや「怒号」の応酬なのだ、なぜ怒号をやりあっている当人らは平気なのか見ていて不思議とさえ感じられる。
「なんであんなに怒鳴っているんだろう」と僕が首をかしげていると、ある女性は「あれって欲求不満なんですよ、欲求不満が彼らを叫ばせているんです、スポーツと同じですね」と断じ、僕はそれを聞いて「えええ〜」と驚いたのだが、なるほど言われてみたらそうかもしれないという気がしてきた。
一方、酒を飲まない連中はというと、たとえば近所の公園で子供たちが遊んでいるとき、鬼ごっこ、かくれんぼ……をしている様子はないのだが、とにかく子供らは叫んでいる、口々に叫んで、それはどうも「奇声を発している」というように聞こえてならない、昼間のファミレスになど行くとその奇声が大合唱しているときさえある。
いつぞやは、「まあストレスの高い東京の街だから」と言っていたのだが、このごろはおしゃれなカフェや、ド辺鄙な田舎の温泉に行ってさえ、怒号や奇声の応酬が「当たり前にある」と覚悟せねばならない状況になった、たぶん三十年前の記録にはこれらの怒号や奇声は残っていないだろうから最近のことなのだろう/「外国ではどうなのかな?」といつも気になっている、街中では碧眼の外国人を見かけるのに居酒屋では一切見かけないのだが、やはりドイツのビール酒場もあのようにすさまじい怒号の世界なのだろうか。

僕はあるときふと、勝手に確信したのだが、あの肺腑や耳に痛い怒号、あるいは子供の奇声は、「カルマ」の叫喚なのだと思う、単に声がうるさいのではなく、声にカルマの重みが乗っかっている、だから聞かされている周囲もたいへんな負担を覚えるし、本人らもやめるにやめられないのだ。
現代人の振る舞いと暮らしが、老若男女、カルマを増大させるほうへはたらいているのだろう、それで人々は怒号や奇声を上げるようになり、とても疲れやすい体質になり、老人はいつでもキレそうな顔で歩いており、実際ふとしたことでキレるようになったわけだ。
酒を飲んで大騒ぎするのは、僕だってやるわけだし、ストレス解消といえばその通りだろうが、実際に響いてきているものは違う、あれは「カルマ増大のレポート」だ、人はカルマが増大すると身体が痛んで動かなくなる、動かないので力尽くで動かそうという発想になり、筋トレをするようになる、そして力尽くで声を出すから「怒鳴る」「叫ぶ」ということになるのだ、もちろん機能は低下しているので会話の体裁は成り立っていない。
人にはカルマ的と言わざるをえないナゾの現象があり、カルマが増大すると、機能の一切が低下してしまうのだ、集中力や言語力、把握力、発想の豊かさ、柔軟性、身体や内蔵や粘膜の円滑挙動、味覚、愛、こころ、尊厳、そういったものが致命的に低下する、その代わりカルマ方面だけ欲求がズンズンパワーアップするので、おっかないのだった、近頃の少年少女や青年や女性が、やたらにドエロいマンガやグロテスクで残虐なマンガを読みたがるようになっているのはそれが原因だ、つまり居酒屋で怒鳴っているのはあれは「カルマ増大屋さん」なのだ……とひどいことを考えざるをえないのだった。

「うるさいなあ」と嘆くより、「カルマいなあ」と判断するほうがまだ健全な上にきっと正しい。

嘆いていてもしょうがないというか、明日から急に酔客の怒号と子供らの奇声がピタッと収まって芳しい歓交が始まるなんてことありえないので、まあ感情的に捉えてもしょうがない、おそらく人はカルマが増大すると怒鳴ったり叫んだりするのだと思う、僕だってそうなればそうなるのだろう、僕はそこに人間の性質を見ているのであって批判や非難を向ける意図はすでに取り下げている。
老若男女、みな声の大きさは「イケイケ」に感じられるが、一方で、すでに多くの企業が歓送迎会を含めた「飲み会」を撤廃している、忘年会や新年会もやらないそうだ、そして若い男女は恋あい離れを起こしているようだし、中高生がすでにまともな国語能力を持っていないことは正式にレポートされてもいる、じゃあ何が「イケイケ」なのかよくわからないが、とにかく「カルマが増大すると、そういうふうになるものらしい」と捉えておくことは、すっきりしているしだいたい当たっていそうなのだった/僕は怒鳴ったり奇声を発したりするのは単純にイヤだ、他人はどうあれ自分がやらされるのはしんどい。
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あなたの身分
は二足歩行を手に入れた/何のために?
犬や猫のように、四足歩行だと踊れないのだ、踊るためには手と足が分離されている必要がある、手が踊ることを「舞い」といい、「踊る」という字は足偏がついているのだが、舞いも踊りも手足が分離された二足歩行でないと不可能なのだ。
また、足には「踏む」という独特の挙動もあるので、このことから生まれる踊りを特に重視する場合、それは「舞踏」と呼ばれる。
もともと踊るというのは神事であり、カミサマに何かをささげるために踊ったのだ、この「踊り」ができるぶん、人は他の動物より高等な生物だとみなしてよろしい。

「話す」ということや「歌う」「唄う」ということも同じ。
人間が話したり唄ったりできるのは、実は知能の問題より先に、声帯と咽頭が喉のよい位置に具わっているからだ/声が口に抜け、口腔や唇を細やかに操作できるから話せるし唄えるのであって、チンパンジーにはこれは不可能だ、チンパンジーの声は構造上すべて鼻に抜けるようになっている、すると鼻腔や鼻の穴は操作できないので発話や歌唱はできなくなる(ちなみに人間でも赤ちゃんはこの状態だ、話せない代わりに哺乳しながら呼吸ができる)。
チンパンジーに讃美歌は歌えないし、「ぎゃーていぎゃーてい」も唱えられないのだ、このように、歌ったり踊ったり話したり唱えたりして、カミサマに何かをささげるということができるのは人間だけだ。
あなたが二足歩行をして、発話可能な声帯と咽頭を得ているということ、つまり人間の「身」を与えられているということは、ラッキーなことでもあるし、その身をどう使うかという責務も課せられているのだ、これは「身」に証された天賦の区分なので、一般にこれを「身分」という。

走って食って吼(ほ)えて性交するだけでは、リアルに人間の値打ちがない。

二足歩行をして、五十音が話せるということは、あなたは人間の身分を授かっているということだ、それはラッキーなことでもあり、責任重大なことでもある、このラッキーと責任をないがしろにしたとき、人はたいていロクなことにならない/動物でもできることにあまりかまけるものではない。
あなたの手は佳く舞っているか、足は佳く踏んでいるか、唇は佳く話し、喉は佳く唄っているか/あなたがその身分を果たさず、しかも装飾や気位だけ身分を上昇主張していると、ますます不履行は積み重なっていずれ債務超過で倒産しちゃうよ。
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サラマンダー

が男でないことはとても不利だ。
女が女でないこともとても不利だ。
これにより、アメリカは何かよくわからない感情的な国になり、日本はわかりやすく滅ぼうとしている。
あなたも女なのか何なのかよくわからない感情的なユニットになり、男はわかりやすく滅ぼうとしている。

日本がアメリカに向ける態度と、寄せる期待は、現代の男が現代の女に向けるそれによく似ている。
「アメリカさんが火ィ噴いたら何もかもオワリでっせ」みたいな態度で、男は女に接している。
事実そうなのだからしょうがない、今どき男のほうが女に向けて火を噴くなんてことはほとんどない。
男が男でないということは、能力の98%を失うということだから、とても不利だ、新世界ではここにAIまで加わってくるから、男は完全にホモになるだろう、それはそれで気楽になるかもしれない、やがて学校でもホモの正当性を教育するようになるだろう。

中国の成金は、日本の女性を娶(めと)ってくれない様子だ。

かつては日本人女性というと、世界のハイブランドのひとつだったのに、いつのまにかそれも無くなってしまったようだ、たしかにせっかく成金になったのに火を噴く女を嫁に迎えはしないだろう、むかしは「日本人女性は世界一やさしい」みたいに言われていた時期もあったのだが。
一方、日本人女性の側は、引き続きアラブの石油王に娶られる夢が醒めていないようだが、これはむかしから言われているように、島国だからしょうがないのだ、ああ何か元気が湧いてきたな。

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「中の上」
なたがサイテーだとは誰も言わない。
事実サイテーではないのでそんなことは誰も言わない。
もし言うとしたら自分自身しかない。
基本的に、人はあなたを、悪く言ってはくれない。

だから人からの評価をアテにしているとあなたは「中の上」になる。
そこに自己評価をこっそり足すと「上の下」ぐらいになる。
つまりダサいふりしているけれど実は上等なたぐいの人間、ということになる。
そんなあなたを、サイテーとは誰も言わない、ゆめゆめ忘れぬよう、己で気をつけることだ。

悪く言うと長引くので、誰も悪くは言わない。

フラれた直後の女に「かわいくないから当然」なんて誰も言わない。
考え方を変えないと、たとえ百回フラれても、人は自分を「すごく自己卑下する中の上の人間」と評価してしまう、まあそうしないとつらすぎるのでしょうがないという側面もある。
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つらさを肯定する派
ル中はどうやって発生するか。
お酒を飲むと誰だって楽しいのだが、本来は、「楽しい人がお酒を飲んで楽しくなる」というのが正しい。
お酒というのは、つらい人が飲んでも楽しくなるのだ、つらい人が楽しくなってしまう酒を飲んでしまう場合、これは麻薬と同じで、ただつらさを忘れるために飲まずにはいられなくなるという、依存症になってしまう。
お酒は、楽しい人が飲んでも楽しいし、つらい人が飲んでも楽しい、けれど後者は度が過ぎるとアル中になってしまう、アル中というのはまったくシャレにならない破滅的な病気なので、「つらいときは飲み過ぎないほうがいい」と常識的に思っておこう、また万が一のときには友人もたしなめよう。

居酒屋に行くと、よくとんでもない大声で、怒鳴りながらワイワイやっている人たちがいる。
彼らも「楽しそう」に見えるし、実際楽しいのだろうけれど、あまりよくない状態だ、お察しのとおり「つらい人がお酒を飲んで楽しくなった」という状態だ、だからタガが外れたように怒鳴り始める。
「つらい人が楽しくなる」というのは、何であっても同じ、たとえばアニメとかアイドルとか、マンガとかSNSとか、あるいはセックスや、度を超した「運動」などもそうなのだ、「これをするとつらさが消える」ということでやっているので、やめられなくなり依存症になる。
人間はつらさに耐えられるほど頑丈ではないので、やむをえないが、どこかで冷静でいることだ、つらさをほどほどにごまかしながら、「生きていてつらいというのは何も間違ったことじゃない」と知っておくことだ、つらさを否定すると自己否定になり、また世界を否定することにもなって、何重にもつらくなってしまう。

つらさを肯定できたら、つらさは変わらないが、少なくとも友人ができる可能性がある。

新入社員がいて上司がいて、上司が新入社員をいびっていると、「つらそう」と見えるのだが、実は上司も生きることがすでに長年つらかったりする、お互いにつらいことを否定にかかるので、二人は協力もできないし和合もできない、あるいは学生のオタクやリア充もそう、双方ともつらかったりするのだが、互いにつらさを否定しているので友人になれない。
全員が友人であれて、全員が「つらいね」と笑っていられたら、つらさというのもさして脅威ではないのだが、孤立無援で自分だけつらいと思わされ、しかもそのつらさを否定してかからねばならないというのは大変だ/単なる「つらさ」を自分たちで「地獄」にまで拡大する必要はない、「わたしはつらさを肯定する派です」と唱えるやりかたがあるのを忘れないでいよう。
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「楽しそう」にご用心
「楽しそう」に見えることには注意がいる。
「楽しそう」というのは、ウソではないのだが、二種類あるのだ、このことは本当に見分けがつかない。
一つには、本当に楽しいパターン、もう一つには、未来への不安やつらさがあって、それゆえに「現実を忘れたい」という強いキモチがあり、そこからヤケクソのように生じている「楽しそう」というパターンがある。
人は、<<つらさに耐えられるほど頑丈ではない>>ので、人は自分がつらいということを自分自身で忘れてしまう、抑圧して忘れた上で代償行動に駆り立てられてしまう/それで本人も、自分の「楽しい」「楽しそう」がどのように生じているのかがわからないのだ、それは本当の意味で楽しいのではない。

「現実を忘れたい」というのは、人によっては切実なことなので、禁止されるわけにはいかない、度が過ぎない範囲で、つらすぎる人は現実逃避を工面してやりくりしていくしかないはずだ。
ただそれでも、どこかで見分けがついていないと冷静じゃない、本当に楽しいということは、現実があって未来があってその上で楽しいということでないといけない。
現実や未来というものを、誰もがそう「豊か」に持っているわけじゃない、けれども、それは必ずしも豊かでないと楽しくないというわけじゃない、そこは捉え方や気概の問題だ、不安定な未来だって「楽しいね」という人にとっては楽しいものだ。
あなたはなるべく、本来の楽しさのほうに与すること、「現実を忘れたい」というグループの人は、まったく派手に楽しそうだったりするし、しかも当人ら全員がその内実の仕組みに自覚がないことがほとんどだ、あなたはもっと渋くて骨のある「楽しそう」に首を突っ込むようにしよう。

元気をもらう必要はない、未来をもらいに行け。

人は生活力だけで生きていけるものじゃない、生活力だけで生きるということはとてもつらいことだ、「自分が生きるって何?」というダサい質問に、野暮でなく答えてくれる誰かと出会う必要があるものだ/そのことをバカにしていると、これは取り返しのつかない厄災になる、少なくともバカにするものじゃない、われわれは本当に生きているのだから。
「勝ち組」というだけで本当に楽しく生きていけるのなら、著名人の自殺やうつ病や離婚は説明がつかないだろう、演出気配の「楽しそう」に気をつけて/彼らは本当には楽しさに駆り立てられているのじゃない、不安とつらさに駆り立てられて追い詰められているんだ、彼らは自慢話をしているのじゃなく、本当に感じていることから逃げたがっているんだ。
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実は利益になる、六つのパラメーターのこと2

なたも六つのパラメーターを上昇させればいいわけだ、だからたとえば、あなたも僕に向けて、その六つのパラメーターをドッコイショしてみればいい。
あなたが、上手く撮れたセクシー自撮りを僕に送ってくれてもいいし(分け与える)、そのときに「この生ゴミ野郎」とかの一文を加えなければいいわけだし(「いらんこと」をしない)、何か僕を有頂天にするラブメッセージを長々と書いてくれてもいいし(努力)、なんでこんな不本意なことを……ということには「忍耐」したらいい。
なんであれ、そのことを「する」と定めればいいわけだ(定める)、そうしたらなぜかこの世界のことが「見えてくる」/例題の内容はサイテーだが、意味についてはマジだ、六つのパラメーターというのは、本当に自動的に自分の「利益」になるようにできている。
重要なことは、自分が何を定めて、努力して忍耐して、分け与えて、いらんことをしなかったとしても、「わたしがんばった!!」というような思いにスリカエをしないことだ、「がんばったあなたには利益があります!!」という法則は実はない、「わたしがんばった!!」というような思いは、六つのパラメーターを冷やすだけだから損だ。

「あのコって、超分け与えるよね」「あのコってホントいらんことしないよね」と言われるようでなくてはいけない。
「あのコってメッチャ努力するよね」「あのコって平気で忍耐するよね、すごいわ」と言われるようでなくてはならない。
「あのコって自分のやること定めるよね、すごくうらやましい」と言われるようでなくてはならないし、「あのコには、たぶん何か見えているんだよね、マネできないわ、尊敬するわ」と言われるようでなくてはならない、そう考えるとこれはけっこう厳しいことだ。
一方、「あのコすっごい頑張ってんじゃん」とは言われやすいのだが、これはマズいのだ、これは褒め言葉のようでいて、実は六つのパラメーターを冷え冷えにするのだ。

寒空に百円を募金(寄付)するためだけにコンビニまで歩き、何も買わずに帰ってきたら、それだけで世界が「見えてくる」という利益は、本当にある。

それを「善いことをした」とか「がんばった」とか捉えないこと、あなたは自分の利益のために定めて、自分の利益のために忍耐と努力をし、分け与え、他にいらんことをしなかったのだ、<<お礼を言うなら寄付をしたあなたの側だ>>、あなたの六つのパラメーターを向上させる準備がこの世界に整えられてあることに頭を下げろ、そうしないと利益ゼロで自我がパンパンに膨れ上がるだけだから本当に損だぞ。
この話を聴いて、「間違った思い込みをしていた」と、きっぱり目が覚める人がいたら幸いだ、またそれによって僕にスケベ自撮りを送りつけるのも「わかるわかる」と……目覚める人がいたらなお幸いだ、ああ利益って本当にステキですよね。

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実は利益になる、六つのパラメーターのこと
ら人に分け与えること、および、自ら「いらんこと」はしないこと。
努力すること、同時に、忍耐すること。
「これをする」と定めること、そのとき、何かが「見えてくる」ということ。
この六つのパラメーター[分け与える、いらんことしない、努力、忍耐、「これ」と定める、見えてくる]は、思いがけずそれ自体が自分の利益になる、このことはありふれていながら、実は正しく語られていない。

たとえば近所の婆さんが、不機嫌そうな顔をしているが、「放置されている庭の草むしりをしてやろうか」ということにする。
このとき、自らの労働力を分け与えることになるし、「婆さん、不機嫌そうな顔やめなよ」と言いたくなるが、それもやめておけば、「いらんことをしない」ということになる。
草むしりを、やるからにはさっさとやる、手際よくダレずに、かつ景気よくやる、そういう努力をする、炎天下に腰を痛めるかもしれないが、それなりに忍耐する。
いつも不機嫌そうな近所の婆さんのところで、何やってんだという気がしてくるかもしれないが、「何言うとんねん、草むしりするだけじゃ」と定めてそれをやりぬく……すると、なぜかはわからないが、この世界のいろんなことが「見えてくる」のだ、五つのパラメーターの上昇が最後のパラメーター上昇に勝手に寄与すると捉えていい、なぜかそういうことになるので、婆さんが珍しく礼を言っても「礼とかいりませんよ」ということになる、なぜならすべては自分の利益になるからだ。

婆さんの庭はきれいになるが、利益というのは婆さんの庭がきれいになることを言うのではない。

まったく誤解されているが、「利益を分け与える」のではなくて、「分け与える」ということが即利益なのだ、「いらんことをしない」も利益だし、努力も利益、忍耐も利益、たとえ努力が実らなくても利益、「このプレステのゲームをクリアする」と定めたら、その定めたということ自体が利益になるし、この世界のことが「見えてくる」なら、それはそのままわかりやすい利益になるだろう。
そういえば、僕がこうした記事をえんえん書き続けているのもそうだ、僕から分け与え、いらんことをなるべく書かず、努力して忍耐して、とにかくこうやって「書く」ということを定めているのだが、そのこと自体が利益になる、この世界のことが見えてくるのはさらに最大の利益になるだろう、だから当然、僕はこのことで誰かに礼を言われたいと思ったこともないし、そんな発想を持ったこともない(ただしお礼のセクシー自撮り付きメールが来てもうれしくないとは一言も云っていないので念のためよろしく)。
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「春の力」を覚えよう

わされないように、「春の力」という見方を覚えよう。
グラビアアイドルが、ファッションモデルが、夕焼けの砂浜で、ランウェイで、色気のある表情をして、きれいなバストを見せつけている、それは「かわいい」とも見えるし「うつくしい」とも見える、「男の人はこういうのが好きなんだろうな」とも思える。
けれどもここで要注意、そうして見える「かわいい」「きれい」「エロい」「おしゃれ」のすべては、実は「春の力」を具(そな)えていない、蠱惑的であることと「春の力」があることはまったく別なんだ。
われわれは、蠱惑的という感触の中でセックスをすると、それは思いがけずワイセツ行為になり、興奮はするし夢中になるけれど、自分の知らないところでドッと疲れるし、見えないところがどんどん荒んでいく、これはまったく真剣に考えて、真剣に知っておかねばならないことだ。

「かわいいは作れる」とか「かわいいは正義」というコピィがよく知られている、このコピィは「確かにそうかもしれない」と思わせるところがある。
けれども、「春の力」はどうかというと、「春の力」は作れないし、「春の力」は正義とかじゃない、どちらかというと「真実」だ、何のことかわからなくても、きっと「春の力」という言葉を覚えておいて損はないよ。
ワイセツの力は、人を興奮させるし、夢中にもさせる、そのときはそれが真実のように思えるけれど、知らず識らず人を「増長」させて、荒廃させ、何もかもを退廃的にさせていくんだ、代表的にいうときわめて蠱惑的なホステスさんは、男を夢中にさせるかもしれないけれど、よく聞く話、本人の心身は荒廃していくというじゃないか。
「春の力」は、ワイセツの反対だ、人を明晰にし、夢を与え、「何が真実かはわからないけど」と冷静にさせ、知らず識らず人を「謙虚」にさせて、賦活させ、根本的に清潔にしていくんだ、本来の女子高校生はそのようであってほしかった/もともと女の子は、男を堕落させるための存在じゃなかっただろ、女の子が男に与えるのは「性欲」じゃなくて「青春」だったはずだ。

興奮し、夢中になり、涙目で必死になるけど、感動しているわけじゃない。

「かわいい」とか「エロい」とか、「きれい」とか「おしゃれ」とかは、それだけならそういうもの、もちろんきれいでかわいくておしゃれでエロいに越したことはないけれど、何の感動もないのではどうなの、人間はそんな中をツラすぎて生きていけない。
惑わされないように、「春の力」という見方を持つこと、人は弱気になったり、絶望したり憂鬱になったり、未来が見えなくなったりすると、あえて逃避的にワイセツの力に「ハマる」ということを選んでしまう、そのときはいったん幸福になれる気がするけれど、そのワイセツの力は容赦なくあなたを虫食(むしば)んでいくんだ。

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「導き」の、必須論および不要論

純にいうと、いくら学ぼうが努力しようが、「導き」がなければダメなのだ。
「導き」に「導かれる」ということがないかぎり、人は情報や自意識を増大させるだけで、不毛に負荷を増やすだけだ、ブッ倒れて「もうムリ」と投げ出すときまで。
そんなの、ちょっと考えれば誰にでもわかることだ、「導かれていない人が自前で努力して超ガンバるっていうのはイケるかな」と訊かれたら、誰だって「うーんたぶん、基本ダメっぽい気がする、努力とかってそういうものじゃないよね」と答えるだろう。
誰だって、義務教育は修めているわけだし、習い事をしている人も多いし、勉強している人もいるし、誰だって先輩がいて上司がいて先生もいるのだが、じゃあ「自分を導いてくれた人」の名前を挙げてみろとなると、とたんにその場取り繕いキャラになる、自分が誰にどう導かれたかなんてガンバって主張することではなく、ただの事実なのだが/「あのときはカローラに乗っていた」というのと同じ、「あのときにこうなるようにあの人に導かれた」ということが、本来ないとおかしい。

そしてもちろん、僕は人を「導く」などという、イタさ全開のことはしない、大導師キャラとかネタにしてもキツすぎるだろ、それで僕は「ルンペンでござい〜」みたいにするのだが、もうこのところはそれによる人心のおびえっぷりが異様だ(かといって「導く」とかいう激烈イタいことは僕はしません)。
僕はそういう「導く」などという立場にもなければ、それにふさわしい器量もないので、ただのスケベルンペンなのだが、じゃあ誰がどうあなたを導くのかというと、まあこの世間には「導きたがり」の人がたくさんいるので、そういうところを頼ればいい、ということになる。
ただ、ここで急にリアルになって、そういう「導きたがり」の人の大半というか、ほぼすべては、えぐいぐらいインチキであって、ただカネを巻き上げられるだけ、あとはフツーにカルト宗教とかもまかりとおっているので、まあ洗脳されるべきではないし、カネを落とすべきでもない、せいぜい近所の神社やお寺にいって小銭を喜捨して帰ってくるぐらいが健全だ、そもそも歴史に担保された神社やお寺がどこの近隣にも割とあるということを尊ばねばならない。
本当のことをこっそりいうと、すでに多くの人は、「導き」とかいうイタいものを不要しているというわけではなく、本当は「導かれるにも門前払いを食らうスタイル」を完成させているので、「あとはまあ永遠に一人でやってみろや」と、突き放されているような状態なのだった、代表的には天皇陛下に対してさえ「テンノーですか?」というような口ぶりなのだから/僕はもちろん導く人ではないので「別にそれでいいじゃん」「それでいいですよ」としか言わない、そういうあなたになるよう、ご両親と教師たちが育てたのだから、僕が差出口をする幕じゃない。

あなたは、自分が偉大なものになる妄想をしたことがあるが、自分が偉大なものに出会う妄想はしたことがない。

人間というのは、放置しておけば、勝手に自分を偉大化する妄想を膨らませるものだ、それは単に神経が織りなす「自我」というのがそういう性質のものだということにすぎない、どんなキモオタも妄想においては自分が偉大な叡智であり覇者であり愛の権化だ、人々が自分にひざまずき、自分が人々を統べて導くという空想は誰でもするが、自分が誰かにひざまずき導きを乞うという空想は誰もしない、もともと自我にそんな性質はないからだ、だからこのことは誰かに教えてもらえるまで自家から発想は生じない、「導きが必要です」と言い出す自我は天才を除いては存在していない。
さあそれで、「導き」などというものが、アリなのかナシなのか、必須なのか不要なのか、「本当はどっち?」というのがずっと残っていく面白い疑問なわけだ、すでにほぼすべての人が「ナシ」「不要」にBETしてしまったのだが、その運命のルーレットが最後にどこに止まるかを固唾を呑んで見守っているところだ、もちろん僕だって本当はどっちなのか知らない、ただ僕は貧しいながら経験則に従って一般の逆張りをしているだけだ、だから僕だけが滅びるということも十分にありうる(うーむコワイでござる)。

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我欲支配を認める二派について2
ーニンに、「おいそこのハゲたおっちゃん」と呼びかけたら、レーニンは「なんや」と笑ってくれるだろうか、それともムッとするだろうか。
ムッとするどころか、殺されるんじゃないかという気がする、アホの坂田師匠とは違うのだ。
そうして、自分が「ハゲたおっちゃん」と呼ばれることに激怒するということは、我欲があるということだ、いくら根性で質素な暮らしを貫いてみせても、それで「我欲がない」と言い張ることはできない/ガマンしきったということはそれが「なかった」ということにはならない、単に「スーパーウソをつらぬいた」だけだ。
共産主義的な人々に、「似合いますので、これはあなたのような方に」と純金の腕時計をつけて差し上げて、ほほえみのある若く眉目秀麗な異性を横につけてやったら、必ず心拍数や体内のホルモン分泌量は変わるだろう、それは我欲が「ある」ということだ、我欲を否定して禁じて封印して表面的な露出を断絶したとしても、我欲が「ない」ということにはならない、「ある」からこそ禁じていると言えるだろう、各種状況で血液中のホルモン濃度でも測ってやればいいのだ。

「我欲」があるのだ、さあこれをどうする!!!!! というだけの話にすぎない。
「あるからには、僕はぶんまわす、勝ち組になる!!」「栄光作戦か!! でもどうせ我欲は満たされないけどな!!」「じゃあわたしは、埋め尽くす、ユートピアになる!!」「禁欲作戦か!! でもどうせ我欲は消えないけどな!!」という、ただそれだけのことをわれわれは人類史規模で続けている。
我欲が満たされることは理論上ないし、我欲が消えてなくなることも理論上ない、だから栄光作戦も禁欲作戦も行き着くところは失敗で「ギャアアア」と初めから決まっているのだ、んなこたぁ誰でも少し考えればわかる。
抜け道はただひとつ、我欲以上の何かが見つかるかどうかだ、我欲がなくなることは決してないが、我欲以上のものが見つかれば、我欲を消す必要はなくなる、我欲が支配者じゃなくなればそれを必死こいて消す必要もないし、それをメインコンテンツのように振り回す必要もない。

僕が少女をレイプするとき、少女が或る詩文の意味を尋ねてきたら、僕はレイプの手を止めて解説してしまうだろう。

いかなる状況であれ、僕が詩文の意味を回答できないなどということは、天才としてあってはならないことなので、そのことに比べたら今さら少女と一発ヤることが何やねん、どうでもいい……とはいわんが、まず完璧な回答をしてからドッコイショしないでは話が成り立たん、そうして僕にとって少女レイプはとてもステキだがしょせん二流のステキであって必死でガンバるようなことではない、詩文の読み取りは必死でやれよ。
僕はこれまでに、何度も落とし物の財布を交番に届けているが(目が利くので)、そのたびに中身が何万円入っているかをねっとり確認してから、「うおおお〜」と不満タラタラで交番に届けている、そしてその後は「落とし主は出てくるな、恐竜に踏まれて死んでいてくれ」と念じているものだ、僕は逸失物横領罪の微罪ごときにビビるような者ではないし、拾ったものはネコババしたくて絶頂寸前だが、まあそれは芸術にも愛にも世界にも関係ないのでどうせ二流の絶頂だ/僕に言わせてもらえば、落とし物をネコババする奴はアホだし、交番に届ける奴も同等にアホなのだ、そんなことで人のアホさは変わらん、われわれは別のものが見えているとき以外は誰も一ミリも賢くはない。
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我欲支配を認める二派について

は「我欲」を生まれ持っている/我欲がないのは呼吸していない人間だけだ。
「我欲」の取り扱いは二派に分かれる、ひとつは我欲を「ぶんまわし」する派、ひとつは我欲を「ほっかむり」する派。
「ぶんまわし」派は資本主義を形成し、「ほっかむり」派は共産主義を形成した。
ごく一部の例外だけが、第三の派、「我欲に疑問を持つ」派になった、これは資本主義も共産主義も形成せず、ただ学門の徒となっていった。

「ぶんまわし」派は、我欲で堂々と競うことが正義だと信じ、「ほっかむり」派は、我欲を封じ込めることが正義だと信じた。
が、この両者はどちらとも、やがて加齢と共に、自分が信じられなくなっていく/「ぶんまわし」派は我欲を振り回してきた罪と、やがて自分が老いて敗者になる事実に耐えきれず、「ほっかむり」派は、自分が「我欲のないフリ」をしてきたにすぎないことに気づいてその罪と後悔に耐えきれなくなる。
「我欲に疑問を持つ」派は、それをぶんまわすでもなく、ほっかむりするでもなく、そうした我欲があることを自分自身にもまざまざと見て、「これがわれわれを支配している」ということに気づき、同時に「本当にその支配にほころびはないのか?」と疑う。
「我欲に疑問を持つ」派は、学門としてそれを考究し、やがて気づく、「我欲で満たされるも、苦しむも、自分限りでしかない」ということ、それが<<我欲の性質>>だということ、「わたしの我欲」に支配されているのは「この宇宙でわたしだけ」だということ、わたし自身がわたしのこだわりをやめたら、この我欲の支配は瓦解するということ/支配は本当には「性(さが)」ではなくて、あくまで自分の「恣意」だということ。

「ぶんまわし」派も「ほっかむり」派も、「我欲が人間の性(さが)である」という誤解で一致した仲間だ。

学門として考究していくと、それは性(さが)ではなく恣意だということがわかる、我欲がわれわれの恣意なのだとしたら、本当には我欲はわれわれを支配していない、支配ではないならそれをぶんまわす必要もなければほっかむりする必要もない/支配ではないなら、それはわれわれの付録、オマケでしかないのだから、堂々とおもちゃにしていてよい、我欲がない必要はなく、我欲はあってよく、それが支配していないなら、我欲はただのおふざけだ。
ここだけの話、「でもそれが人間の性(さが)ですよ」という言い方は、実は重大な罪(法の謗り)を帯びているので、オススメしない、自分の発言に長い間自分が呪われることになる、言い方は「学の浅いあたしにゃムリです〜」ぐらいにしておくほうがいい。

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目の前のJOKER

ペードのA、面倒くさがらせる、こんな言い方には何の意味もない。
ダイヤのA、だがこうして偽装して話す必要があるのだ。
ハートのA、世の中には「偉い人」がいる。
クラブのA、「偉い人」に抱きしめられたら、……だろう? これが最大の禁句。

スペードのK、禁句というのは本当に禁句。
ダイヤのK、禁句といってもまだマシなものだが、それでも破壊力はバツグンだ。
ハートのK、このカードの数字とスートには何の意味もないよ、ただひとつのことをお伝えしたいだけ。
クラブのK、世の中には大きな破綻があるね、今あなたが読んでいるとおり。

JOKER、キモチワルイ

赤のQ、まさにそれが破綻、わかるね、だからこそそれが最大の禁句、ごまかして言うしかない重大なこと。
黒のQ、いつの世の中も、この破綻から逃れられない仕組みがわかるね、この破綻がない世界はたとえ小さな世界でもとても恵まれて幸福なものだ。

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梵動
るは動く
求むるは動かず
動けば届かず
動かざれば即もたらされむ

求むるは即得る也
求めて得ざるは動く必定、是漁る也
動かずは得るときのみ、得るとき人はよもや動かず
有限は動く必定、もたらされるは動かざる必定

信ずるは非我の能動、是求むる也

王動かず臣果報もたらす
梵我に差分なし、梵動かば我動かず、我が能動は梵動なりけり
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何倍もラクになって、経験が何倍も得られてくる方法

は誰よりもシンドイことが苦手だ。
一方、冷静にリストアップしていくと、僕はいろんなことの経験が多い方に違いない、ふだんは自分でも忘れているが、リストアップすると明らかに多いのだ。
なぜシンドイことを避けるのに、経験は多くなっているのか、これはおかしい、本来は「シンドイことを避けたので経験は少なくなった」となるはず。
このことにはヒントがあるし、何より誰しも、自分がラクになることについては文句は言わないはずだ、今より何倍もラクになって経験が何倍も得られてくるのなら、そのことに文句をつける人は誰もあるまい。

これはつまり、神話世界に関係がある/前に言ったように、神話世界というものがもともとあって、そちらが根本、一方でわれわれが「現実」と呼んでいるものの正体は、二日酔い的物質をハァと吐き出したときにドスンとくる「ダルさ」、つまり「現実」イコール「ダルさ」にすぎない、ということだった。
勇士が女神のために戦いを駆け抜けていくのを、「ダルい」とは言わない、あるいは労役夫が泉の水を王城に運んでくるのも、神話世界においては「ダルい」とは言わない。
神話世界からの命を受けて、神話世界を現成するというメカニズムで動かないと、ダルいのだ、われわれの得意とする「現実」という認識で動こうとすると、それは初めから「ダルい」と決定済みになる/神話世界を否定した上に結論として得られるのは「ダルい」だけというのは、どこからどう見ても損な話だ。
僕は今、東京にいて、深夜の書斎で、この文章を書いている、この営みが「神話世界」の現成に何もつながっていないのだとしたら、そのときは猛烈に「ダルい」だろう、僕はそのダルさに一切抵抗できないダメ人間なので、いつからか神話世界の力ばかり頼って生きてきた。

あなたが僕を笑うのは現実的に正しいが、もし「神話世界」ならあなたが典型的なハズレ役だ。

まあ神話世界といっても、ふつうわれわれは、人の世の「創作物」としてそういう神話世界がイメージされたと捉えているものだ、それがその限りなら何も問題はないが、問題はもし神話世界が本当にあって、この現実世界こそが副産物だった場合だ、そちらが真実だった場合は単に「見誤った」ということになる/むろん、どちらが正なのか、われわれに断定する方法はない。
僕が一切の「ダルさ」を徹底的に苦手とするのは、友人らの証言を集めれば明らかだろう、問題はこの面倒くさがりがなぜ結果的に「経験」を多くしているかだ、僕は今このときも窓から流れてくる神話世界の風をアテにしている、それがなくては僕は何も書けなくなってしまう。

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彼には僕の八倍の能力がある
んな話は何の足しにもならないのでさっさとやめないといけない。
僕は、これまで何十年もそうしてきたように、自分が「最底辺」だということについては「わかる」、すごくよくわかるし、これからもそれでやっていこうと思える。
だが一方で、安直にいうと「イケてる」人たちについて、その服装や髪型や、独特の雰囲気や物の言い方、写真の写り方とかもそうだが、そっち側の人たちが実際にはどのような感覚・感性で生きているのかは、正直さっぱりわからないのだ。
何しろ、僕はこれまで歴然たる「最底辺」で生きてきたので、そんな「イケてる」の世界がどんなものなのかなんて、考える権利さえないと思ってきたのだ、だからひょっとしたらすごい誤解をしているのかもしれないし、あるいは誤解はなく、僕ではやはり想像もできないハイレベルな世界がそこにはあるのかもしれない。

僕は率直に言って、おしゃれな女の子がとても好きだし、おしゃれな男の人もとても好きだ。
ぱっと見、僕の四倍ぐらいカッコイイ男の人は、なんとなく、僕の八倍ぐらいの能力を持っているように見える、少なくとも、僕は内心で勝手にそう設定している(なんとなくそのほうがつじつまが合うので)。
僕の八倍の能力があるので、僕の八倍は色濃い経験をし、八倍はハートがあって、八倍は女にモテて経験があって、八倍は充実している、それで「うらやましいなあ」と勝手に思っている。
それがまさか、何か暗黙の約束があって、実は内心で無理をしているとか、実は疲れているとか、実は信頼しあっていないとか、実は経験がさほどないとか、そんなことは正直信じがたい、信じがたいけれども/ちょびっとはそういうこともあるのかもしれないともこのごろは思えてきた、まあなにぶん本当にわからないのだ。

陰キャの本音レポートはありえても、陽キャの本音レポートはありえないのかもしれない。

まあ、何をもって「本音」なんて言えないわけだし、勝手にそれこそ忖度するのは気色悪い話なのでしないが、とにかくカッコイイ人は僕の八倍の能力がないとつじつまが合わない、さっさとそうなってくれたら済む話なので、これはそもそも僕が考える話ではなさそうだった。
僕は陽キャのノリにはついていけそうにないが、かといって陰キャはさらに付き合いようがない、そのへんのキャラというのは僕には年齢的にわからないが、僕はただ能力と経験の実質差にけちょんけちょんにされるのが好きだ、自分が「うおおおお最底辺だああああ」と確認できる瞬間が一番好きだ/その意味で僕は、カッコイイ男に見た目差でけちょんけちょんにされるのも好きだ、万が一そこで彼の能力が僕の八倍ないと、僕がガッカリするし、何より全女性がガッカリするだろう、カッコイイ人にはがんばってもらわねばならないのだった。
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#ワタシ顔2
「私心を超えて、やってこられたなあ〜」という人は、気配にもわかるし、声にもわかるし、顔にも出ているからわかるものだ。
私心に取り憑かれてガンバってきた人は、どうしても「ワタシ顔」「ワタシ声」になる一方、私心を超えて取り憑かれたようにやってきた人は、どこかワッハッハと、「人間の顔」「人間の声」をしているものだ。
そういう顔や声のあらわれを、重視する人は、ただちに改善策を求めてくるが、それは改善に前向きというよりは、単に恐ろしいことから目を背けているだけなので……しょうがないじゃん、私心だけで生きてきたことの「顔」とか「声」って、急にそんなに取り去れないよ。
自分だって、オタクっぽい人は「オタクっぽーい、付き合えない〜」とか、頭の悪そうな人は「頭悪そう、付き合えない〜」と、即断して容赦がないのだから、自分だけ逃げ回るわけにはいかんわな、「私心を超えてやってきていない」という顔と声は、「それっぽ〜い」と、他人からはどうしてもあからさまに見えてしまう、とりあえずどうしたらいいかわからんので鼻くそをほじろう。

いちいち自分を卑下していてもしょうがないので、誰もそういう取り乱し方をするべきではない。
要は、一線を引くことだと思う、「おめめパッチリでかわいい〜」というのは、それはそれだ、しかし「私心を超えてやってきていない」という顔のあらわれは厳然と存在する(言い方が荘重で草不可避)。
そもそも、「私心を超えてやってきていない」という人が、「私心を超えてやってきていない」という自分のことにブチギレするのがおかしいのであって、感情的になるフェーズを明らかに間違っている、なぜ自分ごときに立派な「人間の顔」「人間の声」が宿っているはずと思えるのか/そんな立派な生き方なんか実際してきてないやん、それ相応の顔つきと声つきになっていて当たり前やん。
「それって難しいんですよ、だって」と、何か大急ぎで言われることも少なからずあるが、重要なことは明らかにその「難しいこと」を突破してこられた方が実際世の中にはいらっしゃるということであって、その難しさについて大急ぎ自説を唱えたところで「セーフ!!」にはならんだろ、なぜ自分を大前提イケてる側に所属していると主張するに立ち回るのか、それこそ私心がライブでボンバーしている有様じゃないのか。

目安、私心を超えてやってこられた方のほうが「わっはっは」と笑っており、そうでない人のほうが「大忙し」になる。

冷静に考えて、「私心を超えてやったこと、やり遂げたこと、愛したこと」みたいなものは、そんなカンタンに人の手に得られるものではないはずだ、ほとんどの場合は「私心まがい」ていどで、われわれは頑張っているだろう、そんなカンタンに光の記憶が手に入るかよ、どうもこのあたり急にくる「万人は平等なのです……ああキレイなワタシ……」みたいなナゾの爆発力が解けない/平等ったって、顔にも声にも明らかに違うものが現れているんだからしょうがないだろ。
ためしに自分でも「ワッハッハ」と言ってみたらいいし、誰か知人男性や男子大学生にも「ワッハッハ」と言わせてみたらいい、急に忙しいゴマカシネズミみたいになっちゃうじゃないか、#ワタシ顔 と #私心を超えてやってきた顔 とでは、そういう差があるということ、これはきわめてフェアなことのはずだ。
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