☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
ほんの数%あればいい
すこし、自信がない。
それでも、楽しみに読んでくれている人がいるので、なんとか書こうとする。
われわれがキーキー引っかかるもののすべては、きっとハズレだ。
キーキー引っかかっているのも、そのうち、楽しかったことに入るのだろうけれど、その他のことにも、どこかで触れられていたら最高だと思う。

われわれが100%トルストイになるのは、たぶん不可能だ。
でもきっと、数%でもトルストイのような時間を持てたら、その他すべてのことが、「いろいろあったねえ」と笑えるようになると思う。
そう信じて、書くことにする、楽しみに読んでくれている人がいるのだ。
楽しみに読んでくれている人がいるということが、どれだけ偉大なことかわかるか、おれはこの偉大なことにだけ、心中してかまわんと本当に思う。

「いろいろあったねえ」というのは、たぶん最高の人生だ。

なぜ最高と言えるかというと、それより上はないからだ、だから「上」を目指す必要なんかない、とっくに最高峰に手が届いているから。
ほんの数%でも、何かがあればそれでいい、そうしたらいつの間にか、「いろいろあったねえ」が見えるようになっている、そのときはわざわざ感動する必要はない、そんなことしてなくても押し寄せてくるから/そうしたらやっぱり、それより上なんかないね、押し寄せてくるということより上の生き方なんて存在していないから。
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業が取り外されることがしばしばある
間にはやることがある。
いかなる環境においても、またいかなることを通しても、やるべきひとつのことがある。
僕はそれを「学門」と呼んでいる。
「学門」とは何かというと、業の否定を究めることだ、業を「つまらん」と断定することへのアプローチを続けることだ。

業が「ない」と否定する必要はない。
業は「ある」が、つまらん、というのが否定だ。
業はわれわれを強烈に掻き立て、引き返せないところへ突き落とし、そこに悪魔が顔を出して「どうだ、見たか」とスゴむのだが、それがどれだけ強力であっても、われわれは「つまらん」と断じるのだ/「この世界は業の世界ですよ」と、人をウソに転落させたいというのが悪魔のたくらみだから。
われわれの身はしばしば、業から逃れることができない、だからそのときはこころの隅に、「じゃあ、自分の身がつまらんのだ」と見つければいい、「自分のつまらん身が、つまらん業に駆られるのは、当然のことだけど、じゃあそれはつまらないってことだわ」と断じられると、悪魔にはもう打つ手がない/悪魔はけっきょくのところわれわれの「我が身かわいさ」につけこんで、「どうだ、見たか」とスゴんでいるにすぎないのだから、「我が身つまらん」と言われてしまうともういやがらせしかすることがない。

身は業(カルマ)に影響されるが、その中に影響されない一点の「真我」がある。

この世界そのものを古い言葉で「梵」といい、突き詰めるところ「この世界」と「わたし」は同一のもので切り離せないということ、その直覚に至ることを「梵我一如」という、「学門」の目指す先はさしあたりそこだ、いきなりそんな大仰なことを求めるものではないが、今ちょっと時間がないので、もう隠し事や婉曲なしにお話ししている。
われわれの誤解は一点、自分の身が「我」だと思っていること、自分の身が「梵」の側なのだとは気づいていないということだ、それはただの思い込みなのだが、この思い込みでむしろわれわれは己の身に損をさせてしまう/僕はこの期に及んで、抜苦与楽の「利益」だけを勧めている、身が業に掴まれたとして、真我はその握力の中にいないのだ、その真我は永遠に生きるものだとトルストイは看破しているが……そこまで大仰なことはまだ要らない、業の握力の中にいない真我が、業を取り外してしまうことがしばしばあるということを、僕は今切実な学門としてお話ししておきたい。
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「おかげ」と「せい」
にAさんが、通り魔に右肺を刺され、死んでしまったとする。
すると、誰でもわかるとおり、Aさんは刺された「せい」で死んだのだ。
しかしもう一方で、それまでAさんは、肺があった「おかげ」で生きていたのだとも言える。
肺のおかげ、血のおかげ、心臓と脈のおかげ、その他無数の「おかげ」で生きている/○○の「せい」ということの背後には、必ずこの「おかげ」ということが隠れている。

この知識はとても重要なのだ。
なぜなら、○○の「せい」というのは誰にでもわかるのに対し、○○の「おかげ」というのは、教わらないと気づけないからだ。
何も教わらないと、人は自分が自力で生きているような気がして来、無数の妨害の「せい」で苦しめられている、としか世界を見ることができなくなる。
われわれは今、目が見えているけれど(もし音読してもらっている人がいるなら除く)、実はこの眼球や視力のシステムは、われわれが作ったものではないのだ、だからもしフッと視力が途絶えると、われわれにはもう為す術がなくなる/われわれは何かの「おかげ」で目が見えているのであり、それを失念して、「パソコンの『せい』でドライアイだ」「花粉症の『せい』で涙目だ」としか考えられなくなったら、世界をえんえん誤解し続けるパターンに陥る。

酔っ払いのせいでうるさいが、耳のおかげで聞こえている。

「酔っ払いがうるさいなあ、迷惑だなあ」と友人と話しているとき、耳のおかげ、口と喉のおかげ、声帯と言葉のおかげ、友人がいるおかげで、「迷惑だなあ」と話せている/なぜこうして見え方が偏るかというと、われわれの意識は区分したものしか捉えられないからだ、「せい」は○○のせいと区分に限定して捉えられるが、○○の「おかげ」というのは無数に連携しているので区分では捉えられない。
どんな低級な民族でも、犯罪者を罰するという仕組みは持っている、イージーに発生する「断罪すべし」という意識によってだ/一方で、福音者や祝福者に対しては、われわれは「どうしたらいいかわからない」となる――「断罪」は誰でもわかるが「礼拝」は知識を与えられた者しか気づけないのだ。
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うつくしいばかりの人へ

年だったときの僕が、初めて自慰をしたとき、唐突な射精と共にすさまじい快感が起こって、僕はベッドで「なんじゃこりゃ」とおののいた、そこには心底からの恐怖があった。
翌日も翌々日も、これはいけないことだとわかりながら、すり込まれた快感に勝てず、僕はしきりに自慰をしなくてはならなかった、これが「やめられない」というのがまた恐ろしいことだった。
これまでは親しく僕をあやしてくれる存在だった隣家の「おねえちゃん」が、夕刻になると風呂に入っている、その窓は湯気を抜くのに数センチ開いているのだが、その隙間を覗き込みたい衝迫力がすさまじく起こった、よくよく考えれば、当時の僕の身長では、その窓まで背が届かなかったのだが……/それでも僕は湯気の出る窓から懸命に目を背けた。
これは「業」なのだ、空腹になれば腹が減るのと同じ仕組みだ、空腹は幼い頃からあるが、性徴は途中からやってくる/これまでは「おしっこ」と、意味のない勃起をたまにするだけだったチンチンが、ゴゴンと音を立てて業に目覚めた陰茎という本性を現し始める、当時の僕はそのことを、避けることはせず、ただ何も分からないで、ひたすら恐怖と快感が起こる只中に立ち尽くしていた。

今になって、これまで僕がどのようにして生きてきたのかが少しわかる。
信じてもらえるたぐいではないと思うが、僕は業によって女を愛したわけじゃない。
カッコ悪いことはしたくなかったので、さも業まみれというふうを装っていたけれどね、それは単純に、わかりにくくしてしまったかもしれない、もしそんなことがあったなら本当にごめん。
人間にはいろんな業がある、女性なら宝石やドレスやバッグ、男性なら権力や高級車や暴力的優位だろうか、いくらでもあると思うけれど、僕は僕の愛した女が業のかたまりだとは認めなかった、業なんてほんのちょっとの気まぐれだ、すくなくとも僕の前にいるときはあなたの業なんてどこかへ消し飛んでいたから、本当にうつくしいばかりの人だったから。

それであなたは、僕に会いに来た。

きっと、おそらくね、今こんなところまでこないとこんな単純なことがわからないのかと嘆きたくなるのだが、しょうがない、言ってみれば僕は自分の業なんかよりあなたのほうがはるかに大切で、それでいつのまにかこうなってしまっただけだ。
何も変わらないで生きていくと信じる、それが実際のところだから、まだしばらくは初夏があって、夏がきて秋冬がくる、そのことはまだしばらく繰り返されるよ。

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強力な人間になりたかった
ょっと色々あって、寝ていた……つもりはないのだが、気を失っていたのかもしれない、まあ不意の骨休みになったという冗談みたいなこともある。
逆に、手を止めるべきじゃないと信じて、同じように書き続けることにする、たぶんこのほうがマシなのだと信じて。
やっぱり愛がすべてなのだと思うが、本当に愛してしまうと、その人の幸福や健康を願わずにいられないので、冗談ではなくなってしまう。
愛が「ない」のはさすがにダメだと思うが、愛のレベルが低級という状態は、不幸、ではないのだと思う、大切にできるものを大切にしておくべきだ、たくさん遊んだことが思い出になるから。

たぶん、本当に深く愛するということが、可能になったとしても、人はそれを選べないのだ。
愛した人のことを「願ってしまう」という威力に、こころが耐えきれない。
自己愛性の高い人は、なんだかんだ、自己愛はオナニー以上のインパクトをもたらすものではないので、安全で安心だという理由もあって、自己愛を選んでいるのかもしれない。
これだけ勉強していても、これなのか、と厚かましく思うことを正直にお話ししておく、愛つまりその人のことを願ってしまうということに、ズブのしろうとが耐えきれるわけがない。

愛する人が、どうか。

こんなくだらないことを、それでも書き話すほうが、僕のやることとしてマシなのだと思う、僕はもともとずっとそうしてきたのだろうけれど、たとえそれが誰にも伝わってなかったとしても、かまわない、誰かに伝わったとしてもそれはけっきょくズブのしろうとに耐えられるものではないのだ。
われわれは自業自得の世界を生きているけれど、もし僕が強力な人間になれたら、ほんのわずかでも愛する人の業を、肩代わりして償却してやれるのではというような、妄想が僕にはあるのかもしれない、もし僕が本当に強力な人間になれたらだが(ただし僕に自己犠牲の精神はないので安心してくれ)/もし肩代わりして償却なんかできたとして、そんな分量はごく微々たるものなのだろうけれど、本当にそういったことがあるのかどうかは、聖人でない僕にはわからないままだ、聖人になれたらいいのにと、この瞬間だけは不遜なことを真剣に思う。
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われわれの、アホな頭に、粗雑な「罪」

突な話だが、もう忘れちゃいそうなので書いておこう。
われわれは東洋人で、体質的に仏教寄りだが、和洋折衷というより和洋混交の中にいるので、頭の中はぐちゃぐちゃだ。
そこで、仏教にはあまり「罪」という概念がないのだが、われわれの頭の中には「罪」という発想が色濃くあるという状況がある、これは聖書世界の発想がわれわれの頭の中にブチ込まれているからだ。
そして、聖書世界を持つ西洋の方面では、ちゃんと「罪」の発想の向こうに、告解・懺悔・贖罪・神の許しという概念があるのだが、われわれは「罪」の発想だけをブチこまれて、その先の手続きは与えられていないのだ、これは単に知識と教養の問題としてもダサいので、誰かちゃんとなんとかしろという話なのだった。

「罪」という発想でいうと、人間は確実にオワッテイルのであり、どうしようもない、さっさと地獄に行け、という話になる。
そこで、だからこそ救世主(メシア)が必要になる、われわれだけではオワッテイルからだ、そしてキリスト教徒においては当然ながら救世主はイエス・キリストだということになる、キリストが救世主というよりキリストという語が「救世主」の意味だ、誰が救世主かという問いにはこの場合「ナザレのイエス」と答えるべきだろう。
そして、なぜイエスが救世主であり、人々はイエス・キリストを崇めないといけないかというと、オワッテイルわれわれの罪を、イエスが一身に引き受けて罪をあがなってくれたからだ(贖罪)、そのためにイエス・キリストは凄惨な死に方をせねばならなかった。
われわれが、「罪」という意識を自前で追求したとき、「ああああああもうムリだああああ」となるのは当たり前であって、そんなこと昔の人がとっくに知っとったっちゅうねんということを、単なる常識の発想として持っておくべきだ、今さら何を言っとんねんという話で、われわれが自前で罪をあがなえるならイエス・キリストは必要なかったろうよ/「あなたに贖罪はムリだから救世主が引き受けてくれた」ということだ、別にキリスト教はわからなくても「もしそんな方がいらっしゃったなら、ケタはずれで頭が下がるほかない」とは誰だって思うだろうよ。

「自分の罪深さ」などという、手前味噌にかぶれないように。

そんなことであなたが気分に浸らなくても、もっとマジでシリアスな追求を、過去の偉大な人々がしてきたのだ、かといって居直るのはまた別の話になってしまうと思うが、一人で勝手に「わたしは罪を知りたる者」みたいな増長をするのは凶相だ、どうせわれわれは罪を悔いることにさえ頭が悪いという、あわれんでもらうしかないような身分の低きアホどもなのだから(とほほ……)。
仏教では地獄行きは「自業自得」で、聖書世界でも人間は禁断の果実の盗み食い罪で罰されたのだから「自業自得」だ、そして仏教にせよ聖書世界にせよ、その自業自得からは逃れられんと結論している、そして逃れられない理由はわれわれが「アホ」だからだ/アホが自前でがんばっても無力だから、奇跡的なほど賢い人に縋れということになっている、われわれは頭の中に「罪! 罪!」という概念だけブチ込まれているが、その先のまともな話をまったく聴かせてもらえずにきているのだった。

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失ったものは「識化」する2
やこしい話だが、もし正確に知りたい人があれば。
人間道の因果(因業)は「識」、つまり「分かる」ということだ、われわれは「区分」することで「識別」し、そのことを指して「分かる」という。
ここを逆に捉えると、人間道のカルマが償却されれば、人は「分からない」という徳性を得るということだ、これはかなり上位の徳性なので、ふつうはナンノコッチャになるだろう。
「引き受ける」とは「分からない」ということ、区分を持たないということだ、区分しないかぎりは識化しない、つまり僕が女好きという指摘は当たっていない、僕は「分かっていない」のだ、確かに目の前の誰かを「女だ」と捉えたことなど一度もない。

「消費」はヤバい、ということからこのことにたどり着いた。
なぜ愛や感動が「消費」されてしまうかというと、識化されてしまうからだ、「分かります」のメカニズムに吸収されて裁断機にかけられるのだ、人間にとっては消費=識化だ、人間の業が盛(さか)るほどこの消費=識化が激化する、それは「識」が人間道の因縁(因果)だからだ。
女が「女」である必要はないのだ、なぜなら異性愛の進みゆきに女の識化プロセスは必要ないからだ、結果的に雨が降るなら白雲と黒雲の区別は必要ないように、また結果的に二階に行くなら一階と二階のどちらが「上」と識化する必要がないように、向かうべき先を捉えるときにただ近傍しているふうというだけの要素を識化するプロセスは必要ない。
つまるところ、近年の異性愛の破綻は、異性愛が「別性愛」になっていることに起因している、われわれは風景にチューリップとケヤキを見たとき、チューリップとケヤキは異なるものだが、それぞれを「別のもの」とはわざわざ見ない/男女の異性愛がしばしば性器の交合を経るとして、「異性器」ならば性器は"交合"できようものが、「別性器」だと性器は"交合"とはならないのだ、異性器ならばそれぞれが「性器」を持っているということになるが、別性器ならばそれぞれが「ペニス」「ヴァギナ」を持っていることになる、その場合は性器の交合ではなく「ペニスinヴァギナ」の遊びになる、この遊びは因業であり人を暗さに引きずり込む遊びとなるのだ。

元来、男女の性器は「性器」という同じ感触のものだ。

そして元来、男女の身も、「人」という同じ感触のものだ、元来「異性」というのは分離的な別物感触をもたらすものではない/もしこの別物感触が解決されるならば、現代人は不本意なケースの同性愛偏向を避けられるたろう。
識化によって別物感触の因業へ追いやられるのはまだわかるとして、その別物感触がなぜ「グロテスク」と感じられるのかは今のところナゾだ、ただおそらくサルトルはこの因業の果てを見て「嘔吐」したのではないか/西田幾多郎の得た「見神の事実」がカルマ償却の果ての「別物なし」の世界だったとしたら、サルトルの得た「嘔吐」はカルマを深めた果ての「無限の別物群」の世界だったのかもしれない、そのことはむろんクトゥルフ神話の厭らしさにもつながっている(なぜ「グロテスク」と感じるのだろう?)。
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失ったものは「識化」する

あ、なるほど……われながら頭の良さにびっくりするぜ(称賛せよ)。
人間にとって、何かを失うということは、単に消えるということではないのだ/「識化」するということなのだ。
なぜそう言い得るかというと、仏教説の六道輪廻と十二因縁において、人間の因果は「識」だからだ/うおおおオレはなんて頭がいいんだ(称賛せよ二度目)。
たとえば目の前にまんじゅうがあったとする、これは食べたらなくなるものだが、われわれは人間なので、単にまんじゅうが消えてなくなるのじゃない、「さっきまであったまんじゅうがもうない」として「意識」に残るのだ、失われたまんじゅうは識化まんじゅうになるのである、オウなんつー発見だ、これは頭が良すぎるのでさすがに褒めるように(三度目)。

男女というものが消えてしまったので、男女は識化したのだ、それで「男女を意識する」ということが出てくる/失ったものは「識化」するのだ、なんというクリティカルな発見だろう(あっもう称賛はいいです)。
これなら説明がつくぞ、もし現在のおれが現代の女性を押し倒したら、第一に女性は「意識が混濁(パニック)」を起こすはずだ、もちろんおれは童貞なのでそんなことをしないが/現代の女性にとって、識化したヴァギナやバストを狙われるのはわかるが、「わたし」を狙われるのは感覚的にわからず意識が混濁するはずだということ。
そして、識化したヴァギナに識化したペニスを入れてヤッホッホするのはどうしてもグロテスクなので、人々は同性愛に転向しはじめる、特に女性においてはいわゆる腐女子化が起こるのだろう/女性はそもそもペニスを所有していないので、それが「失われる」ということがない、よって識化していないペニス同士が性交するということに、非グロテスクな性交の憧憬が描けるはずだ。
昭和のグラビア写真などを見るとわかるが、かつての女性の身体においては、そのバストも「おっぱい!!!」というふうに切り離されて識化はしていなかった、だから画像加工はなくてもグロテスクじゃないのだ、そして現代の男性諸君は識化された「おっぱい!!!」や股間が「そそる」「シコい」と感じてグロテスクオナニーをする訓練を積んでいるので、昭和のグラビアなんか見ても「そそらない」とテンションが下がるはずだ。

「識化」が人間道の因果なので、識化したヴァギナのセックスは因業(カルマ)行為になる。

これで完全に説明がつく、ヴァギナが識化したせいで、ヴァギナセックスが愛の行為ではなく因業の行為になってしまうのだ、その気配が根こそぎ不穏だと感じて、今女性たちはヴァギナセックスを自らの禁忌にしようとしている/また、その因業の所有を付け狙われることについては悪魔じみた恐怖と嫌悪を覚えるはずで、そのことがセクハラ男へのマニアックな糾弾につながっているところがきっとあるはずだ。
女性もふつうに自慰ぐらいすると思うが、もし「このところ、急にヴァギナの因業化が進んでいる」「歯止めが利かない向きがある」と言われたとして、「心当たりがある」という人は実はけっこう多いのではなかろうか。

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「男女を意識する」ということ

女を「意識する」、その代表格は、たとえばPTAのおばちゃんだ。
おばちゃんは「んまあああ」と言い、何かえぐい香水と口臭をまき散らすのだが、このおばちゃんが「女」であることはありえない。
このように、男女を意識する者は、この世から男女として消えていく。
二十年前、僕はセックスにおいて「ペニスをヴァギナに入れていた」という記憶がない、なんというか、当時の女性の股間は触れてみてもそんなにヴァギナヴァギナしていなかったからだ、それでいうとPTAのんまあああおばちゃんは、もし下着を脱がせて脚を開かせれば、ものすごく「ヴァギナ」というものがそこに露出するだろう/男女が「意識」されるこの現代でセックスはひどくグロテスクなものであり、その意味では同性愛に転向する者が多くなるのも当然なのかもしれなかった。

たとえば犬を目の前にしたとき、「おれは人間だ」などと意識する奴はいない、たしかに人間には違いなかろうがいちいちそんなこと意識はしない。
女を目の前にしたとき「おれは男だ」と意識する奴は、犬に向けて「おれは人間だ」といちいちふんぞりかえっているような奴だということだ、文脈は正しいが発想の装置が壊れている。
たぶんわれわれが、自分が人間であるということに「しっくりこない」という状態になったとき、犬に向けても、「おれは人間だ」とふんぞり返るようになるのかもしれない。
男女が「男女を意識する」というのはそういうことだ、たぶん食事をするときに「これは食事だ」と意識しているようなバカらしさで、本当にはもう自分が男だとか女だとかいうことが、胴体のシグナルとして消えてしまっているのだ、それでいちいち意識しないといけないという行状になっている。

同性愛へ希望を見いだしている方へ、足しになるかはわからないけれど、旧来の異性愛はきっとあなたが求める同性愛的なものだったよ。

男はチンコチンコしていなかったし、女もヴァギナヴァギナしていなかったのだ、どうやってセックスしていたのか正直なところ記憶がない、セックスの前後の幸福な記憶はあるが、最中にどうしていたのかの記憶があまりなく、特にペニスinヴァギナという記憶がまったくない。
現代のアイドルブーム以降、女性はナチュラルに「媚び」の表情を持つようになったけれど、あれは正直なところ僕からは、「男化した者が『女媚び』を演出している」と見える、それもまた「男女を意識した」結果で生じているのだろう。

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消費とカルマとオーマイグッドネス4

来、何もマジになることはない。
引き受けるということは、マジになるということではない。
普段がクソ化しているから、慌ててマジ化しようとしたりするだけだ。
愛と勇気を真に受けていくんですよね、と、確認しないといけなくなっているのは、完全にクソ化だ。

人の愛を「消費」してしまうのはとてもデカいカルマになる。
突然だが、二十年前の記憶において、女が男と「対等」みたいなことを求めていたという景色はひとつも残っていない。
あのとき、女性は女であって、いつも明るくて華やかで、元気だった、男はいつも手玉に取られていた、そして女性が女でなくなると、男と「対等」を求めるという性質がある。
うーん? 人が人の愛を「消費」してしまうようになったのは、男性が男でなくなり、女性が女でなくなったからではないだろうか? ラメ入りの細眼鏡、ブラウスにおっぱいが大きい女の子が、「あなたに言われて目が覚めたわ」とにこにこして、僕を木陰のほうへ引っ張っていった、あのとき女は女だったし対等という概念はなかったし、愛が「消費」されでナンジャソレカルマになるということもなかった、これは現代の新しい現象なのだろう。

自分のやることがわからないのは、男性が男でなくなり、女性が女でなくなったからだ。

正直なところ、僕は女性の前で、自分が「男だ」と思ったことは一度もない、そして女性もいちいち自分が「女だ」とは思っていなかっただろう、僕は男だから男子便所に入るのではなく、僕にとって女子便所は便所ではないのだ。
男女が消えればこの世に感動はない、感動はすべて消費物に終わるだろう、そしてこの世から男女が消失するということは、男女ということが"意識される"ということだ、男女を意識するような奴は絶対に男ではない。

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消費とカルマとオーマイグッドネス3

代のムードがあるし、人それぞれ個人の事情がある。
にもかかわらず、カルマ的な仕組みは、どうやら情状酌量はしてくれないらしい。
たまにはホントのことをちょろっと話そう。
愛を見、青春を見、情熱を見、勇気を見せられたら、それを我が身に引き受けないといけないんだな、しのごの言い訳は聴いてもらえない、これは厳しい仕組みだ。

たとえば映画を観たとき、映画の中に、本当に愛が描かれ、青春が描かれ、情熱と勇気が描かれている場合がある。
この場合、もうこの映画を観たときから、引き受けて、人格を変えなきゃいけないんだ、われわれはそんなもの「楽しむ」とか馬鹿げたことを言っていられないんだよ。
映画の中から引き継いだぶん、自分も愛を発揮し、青春に立ち上がり、情熱と勇気を当然とする者にならないといけない/その引き継ぎができなければけっきょく「消費」したことになってしまう。
同じ一本の映画を観て、引き受けちゃう奴もいれば、何にもならず消費してしまう奴もいる、「消費」してしまう人は、考えが甘いということが必ずあるよ、「映画を観たからって変わらなきゃいけないの?」「そうだよ、変わらなきゃいけないの」、あなただけ引き受けなくていいなんて個人の事情はいっさい酌量されないんだ。

本当の映画を観たとき、1.真っ向から引き受ける、2.敗北を引き受ける、3.引き受けず消費する、消費はもちろんカルマに残る。

単純に考えてごらんよ、たとえば「交通安全の教習ビデオ」を観せられたときだって、そこに本当に交通安全を願う誰かのこころが現れていたら、われわれはそのこころを引き受けないといけない、運転中のスピードをふと下げるだろ、「ビデオを観たからな」と、そうでなきゃ人間は不誠実じゃないか。
交通安全の教習をビデオを、せっかく観せられた直後なのに、不注意でゴツンと事故を起こした人があったとしたら? それは見ていて、「業の深い奴だなあ」と感じるじゃないか、せっかく観たものはどこへ消費させたんだって、そんなこと個人の事情なんか関係ないだろうって/それと同じで、愛と青春の映画を観た直後に、すぐそれを引き受けずに消費するような人がいたら、それは「業の深い奴だなあ」になるよ。

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消費とカルマとオーマイグッドネス2

あもう、ごまかしなく言うなら、自分でアホなことを言うしかない、これはもう個人的なホラ話として聞き流してくれ。
どう考えても、得られている結果群からは、「九折さんからの愛がヤバい」と推定せざるをえない、しかも自分自身でいうのはアホみたいだが、「目に見えてヤバいだけじゃなく、マジで目に見えないヤバさがある」とも推定しなくてはいけない。
マジでシャレにならん話、目に見えて検出可能な愛の量だけを見積もっても、生じてくる「結果」とどうしても帳尻が合わないのだ、ズレがあるなんてものじゃなく「ケタが違う」というような帳尻の合わなさだ、これを何かしら概算でも見積もる方法がないと本当に不安で危なっかしくてしょうがない。
何かこう、赤外線カメラみたいなもので、僕から相手に届いているものが全量視認化できたらいいんだけどな、そんな機械はないし目安になる文献もないし、かといって僕はこの線で傲慢になれるタイプでもないし、何かもうヒヤヒヤしているのだった。

もし、単純にこれまでの「結果」から事象の出納を推定するなら、「九折さんへの返報が爆発的に足りない」という結論を採るしかない。
それで、これまでの「結果」とはつじつまが合うのだが、もしこの説を採ってしまうと、「もう爆発的に返報してもまったく足りていない」という結論まで肯定しなくてはならないので、この説を採るにはどうしても抵抗がある。
誰もそんな、爆発的に返報しなくてはならない心当たりはないだろうし、僕のほうにも爆発的に返報されるような心当たりはないのだ、お互いに心当たりがないものに「がんばれ」とも言えないし「がんばります」とも言えるわけがない。
ううう、これは一体どういう現象なのだ〜、たとえるならこうだ/家の中の家財を、すべて価値鑑定してもらうとして、「全部でたぶん百万円ぐらいにはなるんじゃない?」と浮き立っているところ、「一億円〜!」と査定が出たような感じだ、「はぁ!? ちょっと待て」「家財の中の、どれが一億円もするんだ?」「どこにそんなものあるんだ、見当もつかねえよ」というような状態だ、そして家中を探し回っても、そんな財物は見当たらない気がする、「ウーンやっぱそんな値打ちもんはどこにもねえよ」と確信されるのに、全体の鑑定をすると「一億円〜!」という結果なのだ、これは本当に「???」で、まったく落ち着かないのだった。

この家には、土足で入ればいいのか、正装して入ればいいのか、わからなくて不安だ。

なんというか、たとえるならば、足元の床に十万人の顔写真が貼られていて、「その中に一枚だけ聖人の像があります」というような状態だ、土足で歩き回っても何もないのだが、踏んではいけない一枚がどこかにあるらしく、それがどれだかはわからない、それであるとき突然「どうしたの?」と、胸を押さえてかがみ込んでしまう人が出てくる、そのとき当人はいつも「わからない……」のだ。
こんなもん、逆にカルマトラップみたいで、根こそぎタチが悪りぃじゃねえかと思うのだが、本当にわからないのだ、誰にも心当たりはないし僕にも心当たりはないのに、なぜか「爆発的な返報」で初めて成り立つ世界があるのもミエミエにわかる/いったいこのゴミ屋敷の中に、何が大切なものとしてあるのだろうか、うーん自分でいうのはアホみたいだという話をしてしまった。

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消費とカルマとオーマイグッドネス

れわれは、教わっていないだけで、実はすさまじい「消費体質」になっている。
ちゃんとカネは払っています……ということではなくて、これまでの文化とか、人の愛とかだ、あなたがこれまで「消費」してきたのは。
これまでにめちゃくちゃ受け取ってきているのに、それを「消費」してしまってフンフーン♪ と鼻歌にしてしまってきたから、多くの人が奥底で後ろめたいのだ、これはシャレにならんタイプのやつだ。
消費って怖いし、消費体質ってさらに怖いよ、自分から供給しようとしたらピタッと全身が止まってしまい、しかも「キゲンが悪くなる」んだから、もうそれが「ダメだ」とわかっていても身動きが取れなくなる。

この世界には色んな仕組みがあり、まあ誰でもうすうす知ってはいる気がするが、これまでに受けた愛や授かった文化や注いでもらったサービスを、フンフーン♪と「消費」したら、必ずそのあとに請求書がくるのだ、この請求書はアメリカドルではなく「カルマ」という通貨ベースで届く。
よくこんな怖いツケを、平気で蓄積していけるなと思うのだが、誰も本当に平気なのではない、怖すぎて逆に直視できなくなったのだ、多重債務者が陥るパターンで、「もうどこにどれだけ溜まっているのかわからないから見たくなくなった」というやつだ。
これまでに、多数の歌が、多数の詩が、多数の声が、多数の映画が、多数の物語が、多数の異性が、あなたに「愛」を教えようと与えてきたのだから、あなたは愛を「実現」できてなきゃダメだったのだ/悪趣味と自己弁護でこれまでごまかしてきた、ように見えたが、やっぱりまったくごまかせてはいなかったんだな、それにはちょっと笑い話の感さえある、こんなに根こそぎ目論見がはずれることってあるのかと笑いたくなる。
やっぱり真心には真心で、熱い声には熱い声で、勇敢な愛には勇敢な愛で、応えなきゃダメだったのだ、そりゃまあ当たり前ではあるな、けっきょく「わたしのペース」みたいなものは、酌量の対象にはなってくれなかったみたいだ。

あきませんわ、世界のルールが、やっぱ思っていたより「熱い」ですわ。

たとえば、若いうち、われわれは疾風怒濤の愛と冒険を生きられるように、若さの身が与えられてある、で、それが与えられてあるということは、やっぱりそれを十全に使いつくすしかなかったみたいだ、こらあかん/しかもこの期におよんで「○○のせい」と他人のせいにしているからな、本当はそういう問答って誰にも聞いてもらえていないみたいだ、この世界はまずいぐらいシンプルなルールで出来ているようだ。
100の愛と100の青春が、本来「できるように」と与えられてあるところ、80の愛と80の青春しかできなかったら。20と20で計40が「カルマ」として未払いになるな、たまにこっそりホントのことを教えておくけれど、アンタこれから過払いせんとあかんのやで、それでも果たして追いつくかどうかという……ブルーになることは何もない、だって必ず、あなたが「消費」したぶんだけがカルマになっているからだ、ただそのマイナス残高を見たら、本当にゾッとして眼がくらむかもしれない。

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病人と業人(ごうにん)
悪犯やド変態犯のニュースが流れると、われわれは「ええっ」と驚く。
注目するのだが、なぜ注目するかというと、それは「業(カルマ)」だからだ、われわれは犯罪や犯人の心理に注目しているのではない。
われわれは身分が低いので、低い身分に現れる「業(カルマ)」のことしか見えないのだ。
身分の低い者は、身分の高い者およびその世界が「見えない」のだ、よってわれわれにとって行基上人の話は眠たく、凶悪犯やド変態犯の話には「ええっ」と注目がいく。

われわれは、自分の徳性が解放されている範囲でしか、この世界を観ることができない。
われわれは身分が低いので、目の前に一億円があると「わー」と燃える一方、目の前に伊勢神宮があっても「わー」と燃えることがない、どう考えても資産価値としては一億円で伊勢神宮が買えるわけはないのに、われわれが燃えるのは「一億円」のほうだ。
「父親からの性的迫害」「苦悶の重病に少年は」「○○の年収を大暴露!?」「わたしティッシュを食べちゃうんです」「告発! 枕営業の実態」「アル中青年の自殺日記」、こういった見出しに強く関心が惹かれるのは、何もそこに正義があるからではなくて、われわれのような身分の低い者には、けっきょくそういう低級の「業(カルマ)」しか見えないからだ。
われわれにできることは三つだ、1.己の低い身分の業(カルマ)を認めること、2.己の低い身分の業(カルマ)に居直らないこと、3.己に高い身分や徳性を偽らないことだ、われわれが己の身の業(カルマ)を甘くみたとき、そこに「ですよね」と寄り添ってくるのは必ず友人でなくて「業者」だ、業者はそこにつけこむ、嗅覚にすぐれた本職なのだから。

われわれは、病人ではないが業人だ/奇跡的な快癒に向かう者を「すげえな」とたたえるべきだ。

誰がどう考えたって、入院患者が「無事退院となり、これからは通院で」となれば、入院患者同士で「おめでとう」「すごい、がんばったね」とたたえるのが当たり前だ、それが病人のルールだろう、それと同じように、われわれ業人も健全なルールがあったほうがいい。
病人同士でも、確かに「重病自慢」というパターンがあったりするが、それは救われがたい方向だ/快癒していく病人には明らかに「健康」が現れてくるように、快癒していく業人には明らかに「徳性」が現れてくる、われわれは幸運にも「健康」が当たり前だと思っているが、残念ながら「徳性」が当たり前だと思ってよい身分ではまったくない。
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青年リキアの超えられないパターン

のパターンも、古くなり、もう飽きすぎたので寓話にしておく。
青年リキアは、女性にモテるようになりたいという、それで僕のところに相談にくる。
女性にモテたいという、そのことへはやけに意欲的なのだが、僕の所に来ても残念ながら無駄だ、翌日にはさらにモテなくなっているだろう。
なぜなら青年リキアは、僕のところに学ぼうとして来ているのに、僕のことを見て「そりゃこの人は女性にモテて当然だわ」とは見えていないのだ、じゃあ学べる可能性なんてゼロなので互いに時間の無駄とストレス増大しかできない。

青年リキアは、第一の壁が乗り越えられない/つまり、モテない自分を見ることはできるが、モテる誰かを見ることができない。
青年リキアは、自分がモテないことに不服はないのだ、しかし他の誰かがモテるということが「許せない」、例によって「崇高な自分がモテないのだから、この凡俗な男がモテるのは許せない」と感じられる。
人は、特に現代人がそうだが、完全な善良さの中にありながら、「自分が凡俗で誰かが崇高」ということには、耐えられないストレスが起こるのだ、なぜならこれまでのすべての時間、自分で自分を崇高さに奉ってきた歴史があるから/今さら自分を凡俗に並べて納得がいくわけがない。
青年リキアは、第一に、「まずぼくの崇高さをわかってください」という前提で生きている、「そのことが得られれば、ぼくも誰かの崇高さを認めるかもしれませんから」というのがリキアの本音だ/彼は神社に参拝したとき、「わたしは崇高なことをしている」と思って荘厳に眼を閉じて祈る、よもや「凡俗なわたしが崇高な場所にすがって頭を下げにきている」とは発想しない。

自分が崇高でなければバランスが取れない。

もしカミサマの愛が光となって青年リキアの身に降り注いだら、青年リキアはぬくもりと共に「ああ、わたしは崇高……」と感じるだろう、それではカミサマの側もズッコケるに違いない、「わたしは崇高」で青年リキアはバランスが取れるが、そのぶんカミサマがバランスを崩してズッコケるという仕組みだ。
なぜ「わたしは崇高」ということでしかバランスが取れないのか、それは「吾我の驕慢」でしかバランスが取れないということだが、「吾我の驕慢」がイコール「我慢」ということだ……その字義のまま、「ガマン、ガマン」で生きてきた人は、自分が崇高でなければバランスが取れないという状態に必ず陥る/青年リキアは僕が女にモテるところを「ガマン」して見ているので、「そりゃこの人は女性にモテて当然だわ」という愉快な見え方は決して生じてこない。

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シェルタニさんの崇高なパターン

のパターンは、もう古くなり、飽きたので、寓話にしておく。
シェルタニさん(仮名・♀)は、しきりに僕に会いたがってくれた。
シェルタニさんにとって、僕に会いたいという気持ちは崇高なものだった、それはつのればつのるほど、「愛がつのる」と感じられるものだった。
一方、僕はシェルタニさんの気持ちによく応えず、へらへら遊んでいたので、シェルタニさんはやがて腹を立てていった/シェルタニさんはやがて僕のことを、「愛を侮辱する最低な男」と非難し、罵るようになった。

この場合、はっきり言うと、シェルタニさんがしきりに僕に会いたがったのは、「僕の愛がシェルタニさんに届いていたから」だ/僕の愛が届いていなければ、シェルタニさんにその気持ちが起こるわけがない。
けれどもシェルタニさんは、自分以外の誰かに崇高なこころがあるなどということは、考えられないことだし、「許せないこと」だった、<<この世にはわたしのこころしかないはず>>だから。
このパターンは、あまりにも多く、あまりにも飽きたので、「シェルタニさんの崇高なパターン」ということで、ひとくくりにして決着しておきたい、そうでないとこの場合は、僕が不快になるのではなく、シェルタニさんが不幸になるのだ。
シェルタニさんは、差別的でなく鷹揚な人柄だったので、「あなたはわたしの愛を受けてふんぞり返っていてくれていいのよ」と言ってくれた、つまりシェルタニさんの判断は、自分が「愛を知る人」であり、だからこそ、愛の分からない男を許そうということだった、これでうまくいけばいいのだが、これがうまくいく例はけっきょくなかった。

自分が崇高でなければバランスが取れない。

シェルタニさんの場合、けっきょくそこに行き着く、自分が凡俗で誰かか崇高ということでは、こころのバランスが崩壊してしまう/それはもともとのこころが偏っているからに他ならない。
別に愛に限らず、シェルタニさんは、自分が崇高でなかったことなど一度もないのだから……あなたの場合はどうだろうか、あなたにとってあなた自身は凡俗だろうか崇高だろうか、「凡俗」の側でバランスを取れる人はごく少なく、少しでも光が差せばただちに「わたしは"崇高"」と、多くはその本性が出るものだ。

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「わたしの思い」と「思いやり」

ーむ、このネタは、もう古いというか、ずいぶん前に話したし、しかも今になっては「機能レベルで無理」の感なので差し控えてきたのだが、ひさしぶりにわかりやすく扱ってみようか。
一番わかりやすいように、ものっそいストレスの掛かる例を示してみようか、これは悪趣味のためではなくあくまでわかりやすさのためにだ/「わたし」しか発想しない人間が、どれぐらい「えぐい」かというのが焦点になる。
「おれ昨日バーに行ってね」「あっわたしも飲みに行っていました」「ちょくちょくバーに行くんだけど」「わたしもこのごろよくバーにいきます」「おれスコッチが好きでね」「あっわたしはカクテルが好きです」「学生時代のツレと飲んだんだけど」「わたしも学生時代の友達多いんですよ」。
「結果的に平等主義も女を苦しめているじゃないか」「わたしもそう思います」「健気な女もいて、その女のほうがもうやめてほしいって叫んでいる」「わたしもよくそう思います」「どうしたらいいか本当に教えてくれって必死な女もいるのに」「わたしもそう感じるタイプなんですよね」「世の中の風潮はまったく逆のほうへ進んでいく」「わたしもそういう流れを感じています」。

「おれにとっては神戸は大切な街でね」「わたしも神戸に行ったことあります、いいところですよね」「学生のころは、モテないのが悲しくてもう」「わたしも学生のころって何もわかっていませんでした」「けっきょくM先輩との出会いが決定的だった」「わたしも人との出会いが大事でしたね」「人間の迫力が違ったね」「わたしも迫力のある人に憧れるんですよ」。
「これ食べる?」「あ、わたしはいいです」「おれ梅酒が飲みたいな」「梅酒ですか、わたしも梅酒好きです」「どこに住んでいるの」「わたしは西駅のほうです」「あ、何かでっかい商店街のあるところね」「はい、わたしあの商店街好きなんですよ」「今の月9のロケがあの商店街なんだろ」「そうなんですか、わたしあまりドラマみないんです」「そういえば今夜はスーパームーンらしいな」「そうなんですか、わたし月って大好きなんです」。
「トルストイは永遠の生命ということをズバズバ言う」「そうなんですか、わたしトルストイは読んだことないです」「西田幾多郎は座禅を打つ当人でもあった」「座禅ですか、わたし座禅に興味あるんですよね」「ショーペンハウアーはウパニシャッドの信奉者でもあった」「そうなんですか、わたし姉からショーペンハウアー勧められたんですよ」「大江健三郎は意外にクライマックスを描く名人でもある」「そうなんですか。大江健三郎って、わたしの中で、本当の文学の人って位置づけなんですよね」。
もういいと思うが、シャレじゃなく現代人の会話ってこんなだぜ、こんなもん会話とは言わんだろ/「聴く」という能力が本当にないのだ、それはこの世界に「ナゾ」をひとつも見ていないからで、本当に自分のことしか見ていないからなのだが、この状況を「放置」するしかないという実情が、輪を掛けてえぐいのだった、誰かなんとかする方法があったらバリバリなんとかするように(おれにやらせるなよ、おれはやらんぞ)。

「ところで今夜はスーパームーンらしいですね」「お前、意外にそういう天体ネタ好きだよな」。

↑なぜこんなカンタンなことができんのだ!! といって、本当にできないんだからしょうがないよなあ……
思いやりだ思いやり、感激とか感動とか反省とかもう要らんから、思いやりだけ実現しよう/「これ食べる?」「ん? そんな、気にしないで、ひとりじめにしてくれていいよ」←これでいいじゃないか、なーぜこんなカンタンなことができんのだ、特級のバカはもう悲しんでいる時間もないから早く自分でなんとかしろ、こころがこじれているのはミエミエだから説明しとらんでなんとかしろ。

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立場と関係を破壊するゴーゴン2

代、少なからぬ人が異様に疲れ、極端に殺伐とした事件が引き起こされて、本当に「立場」とか「関係」とかがわからなくなったからだ。
先日、十九歳の見習い警察官が、四十歳の巡査部長を「射殺」したそうだ、それも数日間一緒に勤務しただけで「罵倒されたから」と、それだけの理由で背後から撃ち抜いたのだ、しかもきっちり殺害するために連発で射撃した、これはもうわれわれの知っている人間の感情ではない。
人はさまざまな立場での関係を持ちえて、その中には上下の関係もあるのだが、本来そういった「立場と関係」というのは、とっても愉快でなめらかで、上も下も痛快で実り多い、「あー楽し」というばかりのものだと申し上げておきたい、もう理解できる現象ではないのだが、そういうものが本来は成り立ちうるということは談話されていていいだろう。
ゴーゴン化した者は、本当に「立場」がわからないので、この「立場」が了解不能のゴーゴンに「関係」を強いてはダメだ、「関係」を強いてはダメと言われても、それはつまり観客が舞台の上にドッコイショしてみるというようなことなので、もうブッ壊れなのだが、これをどうすることもできないという実情がこの先広がっていくだろう、これはわれわれの文化の実情なのであるていど引き受ける覚悟でいくしかない。

人間は立場に敏感なものだ。
立場に敏感だからこそ、十九歳の見習い警察官は凶行に及んだと言える。
亡くなられた被害者の方には申し訳ないが、こと「警官」の不始末なので、この場合は一市民として嘆くべき事件の代表に取り扱わせていただいている、この場合あえて「せめて市民に被害がなくてよかった」と言わねば、亡くなられた巡査部長に対して逆に侮辱にあたるだろう。
人間は立場に敏感で……つまり、後輩は先輩の下ではないし、生徒は教師の下ではないし、見習いはベテランの下ではないし、聴衆はシンガーの歌を聴いている立場ではないのだ/立場にふさわしくないものを強いられると、人は黙ってはおらず、それこそ殺意じみたものをすぐ持つものだ。

ゴーゴンには文脈のない「ウソ」を突きつけるのが有効だ/これを「魔除けの札」と呼ぼう。

なんのこっちゃわからんと思うが、すまん、これは個人的に必要なのだ、ゴーゴンは放置しておいても石化ビームを及ぼしてくるから、無視せずあえて別のデコイを向けておくのがいいのだ、たとえば急に「あいたたた、お腹がいたい」とか言い出して、そのネタにゴーゴンを食らいつかせる、するとゴーゴンは何もわからないからしばらくそのネタに食いついていてくれるだろう、そのあいだに人間は営みを続ければいい。
文脈のあるウソを与えると、それは「だました」ということになるから面倒くさくなる、だから唐突に「カチューシャ、ベランダ〜♪」とでも歌っておいて、それに食いつかせておけばいい、この「魔除けの札」はなかなかよい方法だとわれながら思う、「立場」がやれない・わからないという人は、立場にこだわらず「カチューシャ、ベランダ〜♪」にこだわり続けていればいいのだ、そんな歌は存在しないのだから誰も石化のダメージを受けなくて済むだろう。

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立場と関係を破壊するゴーゴン
まったな、ブルーなことに気づいてしまった。
もともと知っていたものを、こんなにはっきり気づくことはなかろうに……とは思うが、まあしょうがない、忘れないように、こうなったら逆にきっちり記しておくしかない。
この時代、たとえば代表的にシンガーだが、現代のシンガーは、もう何をどうやっても「思いっきり」声を出すことはできない。
もう70'sのソウルシンガーのような、シャウトは聴くことがないのだ、それは聴衆との関係が壊れているからだ、「歌う」「聴く」という関係はもうないのでこれは時代的にしょうがないとあきらめるしかない。

現代のシンガーは何かやたら「しんどそう」だろう? ときにはわざわざ「抑圧」の代表に見えさえする場合がある、それに比べると昔のシンガーは何かめちゃくちゃ「解放」されていただろう、これには仕組みがあるのだ、「関係の崩壊」という仕組みなのだ。
カンタンに言うと、男が女を「思いっきり」は愛せなくなったのと同じだ、男の思いっきりの愛を女が受けることはなくなったように、聴衆もシンガーの「思いっきり」の声を受けることはなくなってしまった。
しょうがないのだ、今はシンガーと聴衆という関係ではなく、シンガーと「審査員」「コメンテーター」という関係だからだ、どこの世界で満員のコメンテーターの前でフル出力できるシンガーがいる、そんなものビョーキになるので無理をさせてはならない/そして聴衆も聴衆の立場に引っ込んではいられないので、こちらも無理をしたらビョーキになるので無理をしてもしょうがない。
男女とか、先輩後輩とか、教師と生徒とか、シンガーと聴衆とか、「立場」から瞬時に漏れ出して出しゃばるのが現代人だ、これは気質的にそう訓練されているので個人を責めたってしょうがない、これは「立場」に殉じて感動を分かち合っていた現場を知らない世代にはわかりえないことなのだ、ひでえ話だがこのことを忘れるとさらにすべては行方不明になり、<<説得力というパラメーターがすべてにおいてゼロになる>>だろう(そうメモしておくしかない)。

旧来、リーダーシップは、周囲のフォロワーシップで成り立っていた。

僕には明らかに多数に対する専制主義の経験があるので、よくわかる、強力なリーダーシップに強力なフォロワーシップが成り立ったとき初めて「関係」が生じて実を為すのだ、それが成り立たない場合は潜在的に内紛と消耗しか起こらない。
旧来は、リーダーシップとフォロワーシップが素直に立場を愛して成立していたが、今はリーダーでもなければフォロワーでもない「ゴーゴン」が出現すると指摘しておこう、なぜゴーゴンと思いついたのかは僕自身もナゾだが、たぶん周囲を「石化」させるということに関連している、今はちょっといちいち神話を点検している時間がないのだった、とにかくこいつが現代の悪魔の代表のひとつだ。
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言葉は人が発するものではない3
のため申し上げておくが、僕がここにウダウダ書くことは、なんとなく「そう思った」とか、何かに「そう書いてあった」とか、そういうことで書かれてはいない。
そんなセンチメンタル中学生みたいなことを、おれがするわけないわな、おれの場合必ず、何かしら明らかな体験的根拠があった場合のみ、書き話す題材に取り上げている/ただ最近は、その体験というやつが「えぇ……」という状態になっているだけだ(えぇ……)。
頭上から頭頂部に、「言葉」が入ってきて、それが心臓にガツンと届き、その言葉の「重さ」は地の底から胴体に流入した「エネルギー」と拮抗して心臓に留められる、というのは、そういうイメージということではなくて、マジにそうなのだ、それが実際に体験可能ということだ。
どうやってそんなことが体験されたかというと、まあ詳細は長くなるのであれだが、おれはある詩文を読んでいたのだ、まあたいした詩文ではないしだいたい覚えている歌の詞だったのだが、おれはずっと詩文を「読んで」いたつもりだったのに、よくよく考えたらずっと目は閉じたままだったのだ、それでエーとなって、気づくところ、おれは頭頂部の上空に表示された詩文を読んでいたのだ、この詩文はおれのものではないのだが、おれがそれを読んでいたのではなく、詩文がおれに(頭のてっぺんから)入り込んできて、「詩文がおれになった」のだ、それでそうなるとわかるのだが言葉の本質はこれであって、やはり人がオリジナルで発するものではないのだ。

そして、こういった物事の「性質」は、学門であって、「おれの考え方」ではないので、別におれに限ったことではなく、万人がそうなのだ、みんな同じ人間で同じ胴体を持っているし、同じように言葉を使っているので、同じようになるし、同じようになっているのだ。
ただ、ここが注意だが、「万人がそう」だからといって、万人がそれを「取り扱える」かというと、そんなことは無理だ、そして「それってすっごいわかります!! わたしも実は……」みたいなやつは、基本的に全員ハズレだ/自慢じゃないが僕は僕以外のやつがこんな内容のことを言っていたら「アホやこいつ」「関わらんとこう」としか思わない、そりゃ健全に考えたら当たり前にそうだろ。
ただ僕がビビっているのは、言葉に「重さ」があるなんて、フツーに考えて誰にも視えっこないことなのに、視えていようが視えていまいが、その「重さ」は誰の身にも降りかかるということだ、当人は何もわかっていなくても僕から見ると「やべえやべえ」ということがいくらでもあるのだ、かといってビビっていてもどうしようもないんだけどな/エネルギーの低い奴は、本当にハンドサインでも使っていたほうがマシだよとリアルに思うのだが、まさかそんなことを人に勧めるわけにもいかんし……
さしあたりそうだな、身分の低い奴は(直球)、なるべく大地方面(エネルギー方面)に近い言葉を多くするべきだ、<<低く正しい言葉をたくさん使え>>、汚い言葉を使うのじゃないぞ、次のサンプルを見て驚くように/「ざるそば! ざるそば! ざるそば! ざるそば!」と連続で書いても何もイヤな感じはしないが、「福音! 福音! 福音! 福音!」と連続で書くと、何かイヤな感じがし、なぜか脳が意味の読み取りを拒否する、という感触があるはずだ、これは「ざるそば」はエネルギー的に拮抗できるが、ふつうの人間のふつうの状態では「福音」なんて言葉に拮抗できないということを反映している。

もしカミサマから直接言葉を授かるような奴があったら、そいつは全速力で不幸に向かっていくだろう。

キョーレツな礼拝の力でも持っていれば別だが、そんなことはまずないのだ、「ありがとう」さえ人に届かんヤツが何が礼拝だか……まずは「ざるそば」にエネルギーを拮抗させろ、そして次は「かしわもち」「スポーツカー」「花火大会」「ジャッキーチェン」と上昇させていくのだ/ちゃんと拮抗できるエネルギーを得たら、単語だけでも「わかる」と人に言ってもらえる(マジです)。
これマジでそうなのね、たとえば座ったまま「花火大会」と言ってみたとして、そのあと、腰を浮かせて胴体を軸ごと左右に動かしてみて(バスケットボールのディフェンスみたいにだ)、その状態で「花火大会」と言うと(身体を止めずに言えよ)(表情は無表情を保つこと)、「花火大会」という言葉の身近さが変わるのだ、このように胴体のエネルギー程度と言葉の重さ程度は拮抗していないといけない、これは言葉の「意味」の問題ではなく「重さ」の問題なのだ。
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