☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
ワークショップ前テンヤワンヤ3
うか、そういえば単純に、「こういうワークやりますよ」ということを、先にバラしてしまってもいいのだ。
内容は簡単だ、「基本以前の基礎」だからな、1.全身を伸ばすとつながります、2.そのまま身体の一部を切ってみましょう、3.肘と膝を同時に抜いてみましょう、4.人の脇を抜けながら「どうもどうもどうも」と声をかけてみましょう、5.ベンチを指さして「USBメモリ」と言ってみましょう。
せいぜいそれぐらいのものだ、超シンプル/ただし、これが人に違和感を与えないということ、プラス、人を「挙動させない」ことが条件だ、人に届くけれども挙動はさせない、「挙動させない」ということが「切れている」ということだから。
これ、実際にやってみると、実はすげームズいというか、ふだんから実はメチャクチャを振り回しているということが明るみに出るぜ/そしてこれは、正しく教わって正しく積み重ねると、数年後には巨大な差になるのだ、クッソ生きやすい奴とクッソ生きにくい奴の差になるのだ、そのことは加齢してからしかはっきりとは気づけない。

やり方があるのです、ぶっちゃけ。
「うああああ〜さるかに合戦で就職しろ〜」と人に言うのと、「こころの底から愛しています」と人に言うのは、実は同一のむつかしさなのだ/そしてふつうの人は、言葉の意味(意識)と自分の声(存在)をこんなレベルで切ることはできない。
「これ、そのへんに落ちていた木です。キミにと思って」とプレゼントできない人は、バラの花束だってプレゼントできないのだ、いやもちろんプレゼントできなくはないが、向こうに<<挙動させてしまう>>のだ、「ありがとう」とか何か、そういう要らんことが発生してしまうので、どうしてもステキではなくなってしまう(だからこそ、自分で照れ笑いしてごまかしてしまうのだが、それはどうしてもインチキだ)。
僕があなたに「そのへんに落ちていた木」をプレゼントしたところで、僕とあなたの「存在」が何か変わるか? 何か引き起こされるべき挙動はあるか? この呪縛をテッテー的に滅却するのだ/あなたはベンチを指さして「ベンチ」としか言えないというすさまじい業火に閉じ込められて焼かれている。

「おれは肉まんを買ってくるが、お前は人生を後悔していろ!! お前も肉まん食う?」

あなたがこう問いかけられたとき、「え、あ、食べます」「よっしゃ」というやりとりにしかならないはずだ、それ以外の挙動は基本的にない、じゃあ「人生を後悔していろ!!」というハードな語りかけはどこへ行ったことになるか、その声の気魄だけが届いて、意識と意味はどこへ飛んで消えたか/そもそもそんなところに、われわれが抱え込むべき意識や意味が本当にあったのか、われわれがふだんマジメに反応しているつもりの「挙動」は、本当に必要なものなのか。
<<あなたは何とつながらねばならないか、そして何を切らねばならないか>>、「♪カステラは〜四角い〜800℃〜」←これに何の挙動が必要だというのか、「黒焦げやろ」と一言ツッコめば済むのであって、それ以外の挙動は「つなぐ・切る」が間違っているのだ/なぜこのことに、肘やら膝が関係あるのか、それは「♪カステラは〜四角い〜800℃〜」と歌いながら、自分で両腕を広げてみればわかる、身体的に「つなぐ・切る」が出来ていなければその歌は正しく唄えない。
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ワークショップ前テンヤワンヤ2

だん、霊的なものがどうこうとか、カミサマ的なものがどうこうとかいう話を、このブログでしているが、ワークショップにはそういったものはまったく入り込まない、ワークショップは身をもったサイエンスとしてしかやらない。
だから逆に、スピリチュアルなものや宗教的なものを持ち込んで来る人がいたら、サイアクの場合はご退去願うことになってしまう、少なくともそっち系の人を相手する可能性はゼロだ(つまりそんな奴は来んな)。
今回は本当に、「基本以前の基礎」みたいなことをやる、この基礎が実は誰もまともにできていないということが、この二年間でわかったからだ/いかに、しょーもないことで心身が引っかかってトラブっているものか、はっきり了解してもらえるものと思う、こんなトラブル状態のままでいるのは誰にとっても損でしかない。
そして今回は、「基本以前の基礎」のワークを、簡単に持ち帰ってもらえる形にしてある/ワークを持ち帰ってもらって、あとはヒマなときに、いつでもやってもらったらいいのだ、「基本以前の基礎」といっても、その精度は無限に上昇させられるので、いったん知ってしまえばその後一生そのことを追究し続けられる。

「つなぐ・切る」ということですべてを一括に捉えるのだが、今回のワークショップは特に、「切る」ということに特徴付けられると思う。
というのは、そもそも「つなぐ・切る」は二つでワンセットなので、「切る」ができなければ「つなぐ」も本当にはできないからだ、そして巷に「つなぐワークショップ」はたくさんあるだろうが、「切るワークショップ」はほとんどない。
なぜ世間には、「切るワークショップ」がないのかというと、それは、そういったことの先生は、おれほどにはバカじゃないからだ!! 僕がこのワークショップの試みで自負できるのは、唯一そこだろう、こんなデタラメのアホ先生は古今東西に空前絶後だろうということだ、何ならおれは缶ハイボール飲みながら教えようかなとか思っているからな。
いちおう、技術レベルはそんなに低くないのだ、なぜならプロのダンスの先生と、競技ダンスの元世界選手(学生の部)がおれのところに習いに来るんだからな、そして音大出身の奴が「身近であなたより歌のうまい人はいない」と言うのだ、何なんだコイツは/問題は、なぜこんなデタラメハレンチ愛好者が、そんな高い技術レベルを持っているかということだ、しかもコイツは何かを正式に習いに行ったことがないという、じゃあさすがにこのアホから習えるアホ特効分については、ヨソでは習えないと断言できよう。

「つなぐ・切る」/あなたは求愛と備長炭をつなげられないだろうし、年齢から数字を切れないだろう。

どう思う? 僕なら何の問題もなく、「ワークショップに参加した方にはもれなく備長炭をプレゼント!」「ただし自分でご購入ください」ぐらいのフレコミは平気で作るぞ、そして「時刻のわからない時計買ってこい」ぐらいは毎秒ごと平気で言う、いつもどおり/何がつながっているのか、何が切れているのか、もうわけがわからないわけだ、こういったデタラメが通用していくためには、実は背後に徹底した身体感覚が要る、徹底した「つなぐ・切る」が。
おれがおかしいのじゃない、おかしいのは「○○は△△で……」と、呪縛されている側なのだ、「存在」と「意識」は別物なのだから、たとえばワークショップを「月の光」と言い換えても存在は変わらない、もちろんそれで「月の光に来ました」という人が来たら僕は「何それ」としか言わない、それが「つなぐ・切る」ということだ、この入口に入らなきゃいまいち面白くない。

正しく見ないとな | comments(0) |
ワークショップ前テンヤワンヤ
しい、というべきなのか、何なのか、またワークショップをやるとか言い出したせいで、案の定テンヤワンヤになっている。
やるからには、まともなものにせにゃならん、そして今回は前回よりシンプルに、すべてのことを「つなぐ・切る」に結びつけて捉える予定でいる。
「つなぐ・切る」で、実用に必要なものは一通り足りるからだ。
そんなことを考えていると、予行演習やideaで忙しくなり、まあわけのわからん状態になるのだった、しかしこの「わけのわからん状態」を経ないと、どうせマジの思い出やマジの能力なんて獲得されない。

僕はボディワーク屋さんではないし、かといって啓発屋さんでもない。
わざわざ人を集めて、何を教え、何をやらせようというのだろう? そこのところを不明瞭にすることは、僕自身が許さない。
僕は、例によって、ヨソでやっていない珍しいことをやる奴だから、「存在」をやるのがけっきょく奥の目的になる、「存在」を「意識」と分離するだけで、生きることは爆発的に変わるはずだ、ただそのためには「具体的」なアプローチを積み重ねなくてはならない。
「存在」をやったとして、何になるのか? 何になるというわけでもなくて、言うなればあなたも、一切の「○○屋さん」ではなくなるということだ、あなたはあなたという存在になり、立場や役職や自意識から離れてただの「あなた」になる/人が「あなた」に会いに来るようになるのだ、それは○○屋さんに会いに来るというのとはずいぶん違う。

「ふつう」が出来るようになりたい人はカモン、「平凡」でいたい人はたぶん向いていない。

本来、人それぞれが、その人として「存在」しているというのは、ふつうのことだからだ、ただそんな「ふつう」が十全にこなせていて、「それゆえに爆裂ハッピーだわ」と断言できる人は、きわめて少ないだろう/おかしな話だ、自分が「存在」しているのは本来当たり前のことのはずなのに。
今、「その人」として「存在」しているという人はとても少なく、「存在」がないということが、かえって「それがふつうでしょ」という、ねじ曲がった平凡を形成しているところがある、そのことに、誰だってこころの底では「んなわけあるか」と思ってはいるのだ/しかしそのテーマを実現するのに精神論ではない具体的なアプローチというと、まず見当はつかない、その具体的な方法に心当たりがあるので、今回またワークショップ開催の運びになったわけだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
ワークショップ前小考
いおい、さっき気づいたんだけど、youtubeって、再生しながら数字キーを押したら、動画の各所にジャンプできるじゃん! 知らんかった、これすげー便利なので拡散希望/たとえば、動画の真ん中から見たいというときなら、「5」を押したら再生時間の50%時点にジャンプするってことだよ、マウスであの小っせえ再生バーをクリックしなくていいってことだ、誰かもっと早く教えてくれよ〜。
さてそれはいいとして、またワークショップを再開してやっていこうという流れなので、そのことについて考えている、ワークショップ再開については乗り気の人はとっても乗り気だ(おれなんかよりはるかに乗り気だ笑)。
まあしかし、やるとなったら、品質が低いとか、時間の無駄があるとか、そういうことは僕個人として許せないので、どういう手順でやっていくかな、ということを考えている/強いストレスを掛けるメソッドと、ストレスが軽いメソッドを考えている。
以前は強ストレスの取り組みをしていたのだが、今回は、もっと軽ストレスで「しつこく積み重ねられる」メソッドを、主軸にしようかと考えている、強ストレスのやつは教えてほしい人がいたら別個に教えればいいのだし、今回はもっと、「基本以前の基礎」みたいなことを明らかにしていこうかと思った。

たとえば多くの人は、身体が「伸ばすとつながる」ということさえ、感覚として知らないのだと思う/伸ばすというか、「伸ばし続ける」ということになるが、身体が「つながる」というのはイメージのことではなく具体的な「うーりゃっ」のことだ。
また、たとえば多くの人は、自分が話すときに、手を振ったり首を振ったりしていることに気づいておらず、おそらくそのことは一生気づかずに行くのだと思う/その挙動が「意識を恫喝している」ということにきっと一生気づかないのだ。
さらに、たとえば多くの人は、「わたしのキモチ」と「わたしの存在」が無関係だということにも、何十年も気づいていないのだと思う/たぶん「わたしがパワーアップする」というのと「わたしのキモチがパワーアップする」ということの区別がついていないのだ。
たとえばあなたは、今ちょっと片手を上げてみたらいい、ホイどうぞやってみて、実に簡単なことだ/はい、今それって、肩から切って手を上げましたか、それとも胸までつないで手を上げましたか? それさえ正直「はっきりとはわかっていない」、あるいは「実はさっっっっぱりわかりません!!」という状態なのじゃないのかな? そういうメタメタなレベルが実態なのじゃないのかという前提で、今回のワークショップは進めていこうと思っている。

肩から切っているか、それともつないでいるかは、自動車でいえば「クラッチを切っているかつないでいるか」の差であって、それさえ「わかりません」というレベルでは、無免許というより「凶器をぶら下げて走行している」という状態だ。

クラッチを切ったままアクセルを踏めば、エンジンは回るけれどタイヤは回らない、そりゃ当たり前だ、それと同じで、肩から切ったまま胴体を燃やしても、手の先にエネルギーはいかない、それが悪いということじゃないよ、誰だだって停車するときにはクラッチを切るだろ、クラッチをつないだまま停車したらエンストしちゃうじゃないか(と、ひょっとしたら、それがなぜ「エンスト」するのかさえ、知性レベルとして理解不能なのかもしれない)。
駅ビルに行けばエレベーターぐらいあるが、そのエレベーターに「最高!」というシールを貼った場合と、「最低!」というシールを貼った場合とで、エレベーターの性能は変わりますかね? じゃあ「モモンガ!」というシールを貼っても同じでは? ということは、あなたのおでこに「モモンガ!」というシールを貼っても、あなたの性能は変わらないじゃないか、じゃあおれがあなたに「モモンガセックスさせろよ」と言ったところで、何がトラブルになるの、まさかモモンガセックスに心当たりがあるわけでもないのに(あるのか?)/というわけで、そんな誤解のまま三十年生きるより、三十分で是正したほうがはるかにいいじゃんということで、ワークショップになるのだった、このありがたきおおせに虹が出るほど落涙して感謝するよーに、ご参加お待ちしております。
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主体性の秘密2

「主」はやさしいのが当たり前なので、「主体性のある人」も、やさしさが生じていなければならない、やさしさのない主体性はニセモノだと定義してかまわない。
そして、いわずもがなだが、この「やさしさ」は「我」のやさしさではなく「主」のやさしさなので、このやさしさは「人為的でない・人為的なレベルではない」ということが指標になる。
加えて、これも特徴的なことだが、人為的(なレベル)でないやさしさには、独特の「熱気」がある、この指標はとてもわかりやすいものだ/「我」から人為的にこさえられるやさしさにはこの「熱気」がない、だから簡単に見分けがつく。
さらに、これはプラスアルファというかボーナスだが、この「主体性」から能力が発揮されるとき、その能力もどこか「人為的(なレベル)ではない」という形で発揮される、これも「我」の能力ではなく「主」の能力なのだから当たり前のことではある。

つまり、「人為的(なレベル)でない、やさしさがあり、熱気があり、ときに人為的なレベルでない能力が発揮される」ということ。
これが「主体性」の本質であり、原理は「主」であって「我」ではないということだ。
人為的なレベルを逸脱している、そのやさしさと熱気と能力に「共鳴」して、人の内なる「主」が点火されることがあるということ、そのとき人は「人の話を聴いている」ということ。
ただしこれは、「我」と対立する「主」の現象なので、「我慢派」はこの「主体派」の現象と対立し、身体的に「キツい」「凍える」「固まる」という症状を起こす、我慢派は当然ながら、人為的なレベルのやさしさ、人為的なレベルの熱気、人為的なレベルの能力を愛好し、そのわざとらしい人為の中でこそ息を吹き返すのだ/実際、「息ができない」状態だったものが、「呼吸できるようになった」と恢復する、そうした「我」の世界が事実あるので、理屈だけで主体派に転向することはできない。

意図的なやさしさ、意図的な熱気、意図的な能力が、主体性を奪う。

「意図的にそうする」ということが、主体性とスリカエられるからだ、だからわれわれは2018年現在、やさしさに涙したり、熱気に飛び込んだり、能力に震えたりする機会が無い/そうした主体的な誰かに出会うことがない。
僕は意図的には冷血漢であり、意図的にはサイエンティストであり、意図的には努力ギライの爺さんだ、しかし主体的にどうであるのかは知らない/主体的にどうであるかは、主の定めたもうところであって、僕の知る由ではない、主のことを我では定められない。

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主体性の秘密

れわれの左腕や肋骨が、勝手に動いたりはしない、勝手に生存してくれてはいるが、勝手に動いたりはしない/勝手に動くとしたら、それは医学的に「ヒステリー」という、それはただの神経の病気だ。
われわれは、「主体性のある人」と、「我の強い人」を区分することができるが、なぜこの区分が生じうるかというと、この話は単純で/われわれには元来「主」とつながる機能と、「我」につながる機能があるというだけだ、どちらにつながるかによって「主体性のある人」と「我の強い人」に区分される。
主体性のない人は、それだけで自動的に、我の強い人になる、この仕組みから逃れる方法はない、だから主体性のない人は、空気を読みつつ「おとなしく」しているしかない、目立って動けば必ず「我」だけが露出するからだ、だから主体性のない人は指示された用事やルーチンワークだけをこなして生きていこうとする。

現代人は、人の話を聴かない/聴かないというより、「聴く」という機能が無い。
本来、人の話を「聴く」といって、そんなに意識的にならなくても、もともと人の話は「聴いてしまう」ものだ、意図的に聴こうとしているようではそもそも聴く機能が失われているのだと言える。
主体性のない人は、そもそも「我」の中に主体性があるものだと誤解している、「主」と「我」は別の機能なのに/だからいざというとき、やっぱり我を通す機能しか出てこない。
我のなかに主はないし、また他の中にカミサマはない、主の中にカミサマがあるのであって、だから一部の宗教者は「主よ」という、主とつながらずに勝手に動いている人は、ずっとヒステリーで動いている。

他にカミサマがあると思いたがるから、ファナティクな偶像崇拝が流行っている。

人の話を「聴く」といって、それは本来、人の「主体性」を聴くということ/その人の「主」の響きに、こちらの「主」が共鳴するということだ、だから主体性のない人が「聴く」という機能を持つことはありえない。
おれが人にやさしいということはない、おれのことを「やさしい」という人はいるけれども、それはおれの主体性の中にやさしさを見つけているのであって、おれがやさしいのではなく「主」がやさしいにすぎない、そして「主」がやさしいのは当たり前だ/このことは、我の中に主体性があると誤解している人には永遠に理解されない。

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Enfance finie2

っと簡単にいくと思っていたが、まったく簡単にはいかなかった。
それどころか、根本的には動かないのだ、ということが確認されるばかりになった。
「半導体」とは、A→Bには電気が流れるが、逆方向、B→Aには電気が流れない、という性質の物質のことをいう。
それと同じように、われわれの内→外には正しいものが流れうるが、外→内には正しいものは流れない、外部から正しいことを得るとか教わるとかいうことはけっきょくないのだ、正しいものを点火するかどうかは当人だけが決めているのだ。

外→内に、何かが流れ込むのをずっと待っている人たちがいる。
半導体の性質がそうであるように、その方向に流入は起こり得ない、だから待っていても時間の無駄だ、じっさい何十年経ってもそれが流れ込んできたりはしなかっただろう?
名前をつけられたら名前になるか? 名前はその呼びかけに応えて初めて名前になる、半導体のように流れは内→外にしかありえない、そのとき初めて名が生じる。
「何もない」のだ、この数十年に亘って浴びてきた外部からのシャワーは、何も成らず、外装表面を焼いて荒ませただけだ、そうした硫酸のシャワーがワイドショーやネットニュースで日々豪雨のように吹き付けている。

本当のことが出たら教えよう。

それまで僕は無反応だ、僕は人に反応しないことは決してないが、外装の騒動には反応しない、自分がどれだけ厭なものをぶちまけるしか能が無いか、直面したくもない事実が待っている。
外→内へ、正しいことが流入する可能性はない、だからその幻想は希望ではない。

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Enfance finie
とは何なのか、恋あいとは何なのか、異性愛とは、同性愛とは、仕事とは、情熱とは?
すべてのものがヨソから定義されると思っている者に青春はやってこないだろう。
すべての輿論と喧噪はわれわれに何も齎(もたら)しはしない。
外側から恋あいや情熱がやってくることがあろうか? 外側からペンキを塗られたようなその顔よ。

或る人はいった、「わたしには人生がない」と。
そのとおり、外側から日々押しつけられる情報に当人の人生はない。
人生のない者は日々の情報を顔面の皮膚に刷り込む、だから表面の印象は強固でありながらその奥に表情はない。
あなたはどう生きるか? その問いに答えられるのは、外側から貼り付けられた情報を人生だと思っているからだ、内側から外側へは、引き続き謎が続いている、謎と確信が続いている/外側からは情報と疑惑が。

おれの見た街。

ああ、どこまでも厭なものだ、外側から吸収したものを自分のものにできるという誤解をむさぼりつづける者は。
正しいものはいくらでもある、だがそれが外側から吸収され、あなたのものになるということは決してない、あなたの内側に元からある正しいものに点火されないかぎり、あなたには何の日々もないのだ/ああ貼り付けられた日々の為す喧噪は厭だ。
正しく見ないとな | comments(0) |
何が「出会って」いるか2
高くに、何か風船が浮かんでいたとする/「なんだろあれ、フシギだな」と見上げている。
そういうときに、「なんだろうね、あれ」と誰かが/もしくは「何を見上げてるの?」と誰かが、そういう形で人は「出会って」いる。
「耳を澄ませば」というアニメ映画観た? 作中にはムーンと呼ばれる猫が出てくるが、あれはあの街のトトロであって、子供たちと一部の大人たちにしか「視えない」のだ(作中をよくご確認ください)、そして月島雫と天沢聖司はこの霊的存在の「目撃者同士」として出会っている。
スマートホンをずっと覗き込んでいると、このトトロ(霊的事象)を視認する能力を失うのだ、そうすると、立場やアカウントは接続するのに、お互いは霊的に接続しないままになる、それでお互いの存在が次第にストレスになってしまう。

まあ、出会いの背後に、何かを「見ている」ことが作用しているのだが、これが悪い場合は、背後に「魔」を見ているというケースもある/「魔」を見てしまった二人も、急速に「出会って」しまうということがやはりある。
女性は、単独では、やはり「魔」めいたものを目撃してしまうことのほうが多い/高校球児らが甲子園球場という場所にナゾの英霊を視ることはまったくおかしくないが、女性がそういう英霊を視るケースは少なく、高校球児の裏側で、思春期の少女は森や湖にわけのわからん魔物を見ていることがよくある。
うーん、だから、最大に短絡していうと、おれの見ているものをさっさとテメーも見ろよ、ということになる、もともと背後にその作用があるから、あなたはこんなわけのわからんやつの話をえんえんと聞いているのだろう。
ただ、けっきょくは逆に行くパターンもあって、つまり、女の見る「魔」を、同じように見てしまう男と出会って、それと付き合っていくというパターンもあるな、それが悪いということではないが、ただ不穏なことではあって、そちらの道の先がどうなるのかについては、僕には知識がないのだった/ただそういう分岐があるということぐらい、年長者はアナウンスしていていいと思う。

僕の見ているものを見ろ。

別に僕に限ったことではなくて、何でもそうだ、あなたが岡本太郎の絵画を見物していても何も起こらないので、あなたは「岡本太郎の見ていたもの」を見るのだ、それが視えたとき初めて出会いが起こる。
ヘンなオカルトに傾倒しても意味が無い、場所や街や世界が視えていれば、ヘンなオカルトには用事はないんだよ、彼が「なんだこれは」と何かを見ているとき、その「なんだこれは」が視えていないのではあなたは彼に出会えないよ。
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何が「出会って」いるか

じているものがないと話が成り立たないのがよくわかった。
信じているものの先には、カミサマがあったりなかったりするが、たとえばカネを信じている人がいたとして、その先にたぶんカミサマというのはないと思うが、それでもひとまず彼ら同士で話は成り立つだろう。
人によって、恋あいを信じていたり、冒険を信じていたり、さまざまだ。
そして、インターネットというのは便利だが、この便利を通信遊興に用いると、人はエネルギーを失うのがよくわかった、それはつまりニュースサイトや「まとめサイト」なんか見ないほうがいいということだ/リアルにエネルギーを失うから。

このブログはいいのだ、このブログには僕とあなたしかいないからな、ただの「便利」ということでしかない。
まずいのは、不特定多数からのコメントが乗っかっているようなサイトだ、といってもウェブサイトのほとんどはそれだが/そういったサイトは、ただ「信じているものを失わせ」、「何かを信じるという能力を失わせる」ということにしかはたらかない、だからはっきりいってマイナスにしかならない。
そしておそらく、そのことはウェブサイトやSNSに限ったことではないのだ、「信じているものが明らかでない誰か」の多数と話すことは、マイナスにしかならないのだ、その多数と話せば話すほど、残念ながらエネルギーがマイナスになる。
「信じているもの」がなく、さらには「何かを信じるという能力」そのものをなくすと、もう人とは出会えなくなるし、どう出会ったフリをしても、何の話も物語も成り立たなくなる/「信じるものがない人」は、びっくりするほど、もうどこへも行き先がない、インターネットごときでそんなマイナスを背負うのは馬鹿馬鹿しいな。

人が出会うのではなく、信じるもの(何か)が出会っている。

われわれは漠然と、自分たちを「人」と思っているし、そう思っていることは間違いではなかろうが、その「人」が「出会う」というのは、よくよく考えれば不明瞭な話だ、何をもって「出会う」というのか/「人」という現象を見たとき、それが「出会う」というのは、まったく思いがけないところで「出会う」が発生しているのだ、だから、「信じるものがない」というのは人それぞれの勝手だとしても、それは原理的に「誰かと出会う機能の一切を放棄している」ということになる、このことのアナウンスはこれまで為されてきていない。
ウェブで通信遊興をすることは容易だし、楽しいし、表面上「さまざまな人の意見が聞ける」「情報が得られる」ように見えるが、ぜんぶ大嘘だ、なぜならウェブに接続する代わり、「運命の赤い糸」の機能を全部破却しているのだから、むしろ「ネットワーク」から切断されてしまうことだと認識すべきだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
正しい知識はいくらでも矛盾する

しい知識はいくらでも矛盾する。
それはわれわれの知性がしょせん表面的なロジック(識)に執着するからだ。
男の愛は女に許されることでしか成り立たない。
男の夢は女に許されることでしか成り立たない。

もちろん「お願い」で許してもらえるわけはない/「お願い」は最もクソッタレだ。
僕の夢を叶えておくれ/その夢はいつのまにか、僕の願望や希望ではない、僕に突き込まれた何かだ、僕はそれに素直であろうとした。
僕が素直になりきれたとき、一部の女性が確かに、一も二もなく「そりゃ許すわよ」といって、常識はずれな夜が始まった、あのときそういうことをしていたし、これからもそういうことをしていかねばならない。
男と女で、明らかに僕のほうが身分は上なのにな、それでもなぜか僕が女に夢を見て、女がそれを「許す」のだ、愛のカミサマはわれわれの認識する愛とはまったく違う仕組みを持っている、女はただ困った男を許すだけで、それなのになぜか男のほうが身分は上だ/正しい知識はいくらでも矛盾する。

おれのほうが偉いのだが、おれのほうがはるかにバカで、女はこれを許さねばならない。

そういう構図なのだ/おれのほうが明らかに偉いのだが、おれのほうがはるかにバカなのだ、だから、おれのほうが偉いにもかかわらず、生殺与奪の全権は女の側にある、だから表面上は理屈が矛盾しているように見える。
おそらく、この表面上の矛盾に引っかかった愚者が、一方では権威的な男尊女卑になり、一方では倫理的なフェミニズムになったのだと思われる、そして男は賢明に「お願い」をするようになってしまい、女は男の最もステキなところを見られなくなってしまったのだ。

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バシッと光るものを見た
ッケー、やはりこれだ、僕が幾度となく見てきた、これは「光景」だ/僕は他人でなくてはならなかった。
重要なのは、課題が見つかること、課題を見つけることではなく、課題が「見つかる」こと、課題が見つかるとワクワクするな。
神頼みは何ら成立しない、当たり前だ、やたらカミサマを奉じるのは正しい信仰心ではない、<<自分の信じたことの先にどうやらカミサマがいるくさい>>というだけだ、先に信じることがあってその後に「これは……」と気づかされるだけだ。
夜は「遊びの領域」に突入する、そう、それが例えば「信じたこと」なのだが、「遊びの領域」に突入したとき、「何かヘンだな、力がありすぎる」と感じる、それが信じたことの先にカミサマがいるということであって、先にカミサマが見えているような奴は一人もいない。

日本には八百万のカミがいるというから(聖書だってたくさんの天使がいるがね)、なんというか、筆箱から選んだ一本のペンみたいに、たまたまその先にはカミサマがいるというだけだ/ジャンルごとに信じたことの先に、カミサマがいれぱそれはアタリであり、カミサマがいなければそれはハズレだということ。
あえて「道」というなら、「道」は、現場に立たないと得られないが、その「道」というのは意外なことに、○○が「ない」という現場だ、愛の道なら愛が「ない」現場、芸術の道なら芸術が「ない」現場、仏の道なら仏が「ない」現場に、その「道」は出現する。
○○が「ない」という現場、それがつまり課題が見つかるということだ、○○が「ない」というのは「八方塞がり」「どうしようもない」というふうに見える、だがそのときこそ、その八方塞がりを超越する神霊力のようなものにアクセスできる。
何十年生きてきても、まったく同じ光景を見る、バシッと光る景色があるのだ、その景色そのものは、何の意味もない景色に見えるが……だがこれまでのパターンとして、これは「それだ」と教示しているシグナルだ、僕の生きてきたことのすべてにはこのまったく無意味に見える光景のシグナルがあった。

課題が見つかるのが幸福だ。

課題はつまり「テーマ」ということなのだろうが、「課題」のほうがわかりやすくていい、ああ、「課題」の中にまた飛び込みたい、「課題」自体が光を帯びていて、それは解決すべき問題ではなく何か神韻のある課題だ。
僕は他人でなくてはならなかった/課題が見つかること/信じたことの先にバシッと光る光景が出る/時代は逆行しない、せいぜい新しい時代を創らねばならない
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「スベる」とセクシャリティの関係2

あ要するに、「恋あいスベり体質」が、背後で幅を利かせているということだ。
ド青春や恋あいを、求めていないわけではなく、実は内心ではめっちゃ求めているが、ドスベりすることが目に見えているので、トライ不可能になっているということだ。
あなただって、髪の毛を金髪に染めて、「ちょりーっす」と言い出すぐらいのことは、三日もあればできるかもしれない、けれども「ジュリエットのようにマジ恋に震えろ」と言われたらキツいし、「ローマの休日のオードリーみたいに少女の生命力で振る舞え」と言われてもキツい、致命的なドスベリをするのは目に見えている/そこでスベったら、自分がキツいだけでは済まず、周囲にもひどい精神攻撃を加えることになってしまう。
われわれは誰しも、自分がスベられない範囲においてしか、挙動できないし、自己決定もできないものだ、だから往々にして、形成された「わたし」の性分は、実は「わたし」の本分ではなくて、ただスベらない範囲の最善としてそこに収まるしかなかった、という形で成り立っている。

「オカマ、老人、子供」と覚えておくといい。
オカマと老人と子供は、基本的にスベらない、それは肉体がセクシャリティのピークから遠いからだ。
だからあなたは、「スベる」という危地に立たされたとき、この三つの中のどれかを無意識に選ぶことになる/あなたは性的に反転方向に行くか、老化するか、幼児化するのだ、そうすることによって「スベる」という危地を回避しようとする
テレビを観ているとよくわかるだろう、オカマは重宝されるし、このごろは老人も重宝されている、アイドルは「子供みたい」であることが要求されるし、いわゆるイケメンも中性的な化粧を要求されるのだ/セクシャリティのピークに真っ向勝負している肉体や声や顔つきはこのところ排斥されるばかりで、このことこそまさに「現代」の特徴だ。

スベらないためには、「男みたいな(女みたいな)声で」「老人みたいな考え方で」「子供みたいな趣味」にせざるをえない。

女性が男みたいな声で、「マジうざいわー」といい、「けっきょくカネっしょ」みたいなことを考え、ハンドスピナーを回して「何コレ〜」と嬌声をあげると、確かにスベりはしない女性像ができあがる、だがこれは当人の本意ではまったくなく、ただスベるわけにはいかないという悲痛な思いで生きてきた結果がここに至ったというだけだ。
まあ何が悪いかといえば、スベる奴が悪いよ、同情的な考え方も可能だろうが、僕は女みたいになるわけにはいかないし、老人みたいになるわけにはいかないし、子供みたいになるわけにもいかないので、おれはおれに向けては永遠に「スベる奴が悪い」を続けるのだった、同情なんて聞いたことないねー。

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「スベる」とセクシャリティの関係

「オカマ」というのは、なぜかそれだけで基本的にスベらない。
老人や幼い子供も、あまり露骨に「スベる」ということがない。
「スベる」というと、やはり思春期から大学生、あるいは二十代後半ぐらいまでがピークだ。
つまり「スベる」という現象は、セクシャリティのピークに連関しているということがわかる/本来は、スベらないためには何かをその場で「掴んでいる」必要があるが、掴んでいない場合でも、実はセクシャリティのピークを低減させれば比例的に「スベる」という現象は消えていくのだ。

たとえば男が、中性的な髪型にして中性的な体つきになり中性的な歌声でも発揮すれば、彼は「スベる」ということから縁遠くなっていく/何かを掴んでいるわけではなくても、セクシャリティ低減によってスベらなくなる。
ゲイにしてもそうだし、腐女子にしてもそうだし、コスプレやアイドルイメージの形成についてもそうなのだが、人は自分の様相を肉体的異性愛から遠ざけることで、比例的に「スベる」ということから離れられるようになる(むろん同性愛者のすべてが「スベり回避」でそうなっているわけではない)。
比較すると、たとえぱ昔の尾崎紀世彦さんや中森明菜さんなどを見ると、いかにも露骨に「男」「女」という感じなのだが、これを現代のわれわれがマネしようとすると、致命的に「スベる」のだ/比較すると、やはり百合画像を見て「あら〜」といい、ボーカロイドをいじくったりしているうちは、やはりわれわれは「スベる」ということがない。
現代においては、いわゆるギャルやチャラ男が、肉体的異性愛において開放的に見えるが、それは逆説的で、あれは「肉体的異性愛を開放的にするために、ギャルやチャラ男の装いを必要とする」ということなのだ、落ち着いた言葉と落ち着いた髪型で裸にされるほうが「スベるのが怖くてキツい」から、ギャルはギャルのコマンドを実行しているにすぎない、中身は同じ人間なのだから。

「ハードコア異性純愛」にはスベるので、その代替物が求められてきた。

近年、やたらドヘンタイ化したエロコンテンツが、男女の両方に消費されるようになってきたのも、本質的には単なるヘンタイ化ではない/本質的には、「ハードコア異性純愛」という真っ向勝負にはどうしても自分が「スベる」ので、スベるわけにはいかないから、周辺的な代替物としてのヘンタイ物に逃避してきたというだけにすぎない、これは非難しているのではなくて、それぐらいハードコア異性純愛を掴むのは「大変」だということだ。
僕はこのことについて、おおむね誰も「無理するべきではない」と思っている、何もそんなことを極める必要は誰にもないし、だいいち人は二度三度と続けてスベったらもう人格的に復旧できないものだ/ただ僕自身は、いつでもハードコア異性純愛を引き受けられる、果てしないスケベジジイでありたい、まあおれは生まれてこの方スベったことがないので大丈夫だろう。

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他者の視線と地獄について2

に、「他者の視線が、自意識に干渉してくる!」ということがあったとしよう、そうしたら確かにそれは「地獄」かもしれない。
だから考えようによっては、サルトルの言うところの「地獄」を、意図的に創り出せるということだ、特定のキメツケでジロジロ見てやれば、ジロジロ見られた側は自意識を犯されて「地獄だ」ということになる。
じゃあ、男性従業員が女性従業員の一人を、「えっちなカラダだなあ」とキメツケてジロジロ見てやれば、当の女性はそのセクハラを「地獄」の感触で体験することが可能になる/そしてそういったことが今実際に起こっているのかもしれない。
親が子を、「ダメなやつだ」とキメツケてジロジロ見、教師が生徒を、上司が部下を、「ダメなやつだ」とジロジロ見れば、ジロジロ見られた者は自意識を犯され「地獄だ」ということになるのかもしれない、それが現代の全ハラスメントの定義を形成している可能性が十分にある。

これは、何なら実験してみてもいいと思うが、僕はおそらく、百人の嫌煙主義者を集めた壇上でタバコを吸っても何も抵抗を覚えないし、百人の前でしゃべってもまったく緊張しないし、百人の女性を集めてその壇上でオナニーをさせられても、おそらく何も感じない……というよりは、測定してみれば脳波そのものが変動しないだろう/百人から一斉に軽蔑の視線と中傷を受けるという実験をやってみてもいい、たぶん本当に脳波のレベルで変化しない。
なぜそうして何も感じないかというと、そういう「視線」を向けてくる人の眼の中に、僕は「コミュニケーションがない」と感じるからだ、僕から見るとその瞳は「ノーシグナル」に見える/「向こうがコミュニケーションを避けているのだから応答すべきものがない」と僕には見えている。
N先生の攻撃にせよ、いつぞやの上司の小言にせよ、正直僕には「何を言っているのかよく聞こえない」としか感じられず、正直に言えばその目は「何も言っていない」としか見えていないのだ/僕は「こころの声」というか、「そっちの声」に常に耳を傾けているので、そちらの声がノーシグナルだと、「こいつは何も言っていない」と聞こえている、そして何も言っていない奴に気を利かせて応答してやれるほど僕はヒマではない。
というわけで、人の「こころの声」を聞き取り、そちらとやりとりするということを覚えないかぎり、他者の視線は自意識に干渉してきて、自由が侵害されて「地獄だ」ということになると思う、そのためにも「こころの声」とやりとりすることをさっさと覚えるべきだ、うーん割とまじめな話になったな。

おそらく、「他者の視線」と感じられる意識レベルより、六階層ぐらい奥の声とやりとりできないと話にならない。

六階層というのはテキトーなデタラメで言っているが、まあイメージでだ、それぐらいのレベル差はあると感じる/人間の表面的な意識はとても看取しやすいが、それは「濁っているから見えやすい」というだけであり、そんなところに着目していては浅はかすぎる、コドモじゃねえんだからよ、見えているところだけ見ていたらそりゃ囚われているアホじゃないか。
そういえば、すべてを想起してみれば、「僕に向けて、侮蔑的な小言を云い始めた人が、当人としてシッチャカメッチャカになってゆき、何かよくわからないクラッシュに陥り、僕の側は『?』で終わる」というパターンがこれまで無数にある、それは他人を地獄に落とそうとはたらきかけたものが、そのまま自分に返ってきてオウンゲットするからかもしれない/「僕は何もしていないのに勝手に自滅していかはった」という心当たりがあまりにもたくさんある。

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他者の視線と地獄について

ルトルは「地獄とは他人のことだ」と言った。
「地獄とは他人のこと」とは、つまり、他人の視線が自分にキメツケを持ち込んで来、それによって自分の世界が破壊されるというようなことだ。
それは、たとえば冤罪で刑務所に入れられた人などには典型的に当てはまる、自分が無実であることを自分は知っているのだが、他人が犯人だとキメツケてくるので刑務所に入れられるわけだ。
そのような場合、「地獄とは他人のこと」というのは当てはまるが、そうではなくもっと一般的なこと、たとえば仮に他人から「卑怯者」とキメツケられた場合はどうだろう/僕は正直なところ、他人にどういう視線を向けられ、どうキメツケられたとしても、何の痛痒も覚えないのだった、これは僕が特殊なタイプなのかもしれない。

僕は大勢の他者から、「卑怯者」「クズ」「最低で軽蔑すべき」「おぞましい」「キモい」「ウザい」と思われたとして、また露骨にそういう視線を向けられ、ひたすらそのようなキメツケを向けられたとしても、何とも思わないのだ/というか、とうの昔にそういったことには慣れてしまったのだと思う。
僕が小学生のときなどは、教師からひどい扱いをされていたからな……僕は悪友と一緒に、黒板に横付けするという「特別席」に座らされていたのだが、まったくタチの悪いことに、僕に向けてそういった懲罰はまったく無効なのだった、そのときの先生もまあなんと不毛なヒステリーを起こされたことだと思う。
そんな特別席に座らされていれば、衆目からは「ダメな子」「イタい子」であることは一目瞭然で、針のむしろ、のはずなのだが、われながら呆れることに、そういったことには僕は不感症なのだ/そもそも僕には、自意識じたいがあまり存在していないのかもしれない。
「他人の視線が僕の自意識に干渉してくる!」として、僕の側に自意識の母体がイマイチなかったとすれば、そりゃどんな視線を向けられても、効果はイマイチだわな/あのときの担任N先生は、今思えば、当人が自意識の強い人間だったのだと思う、だから「衆目」による懲罰を思いついたのだろうが、そんなことをしているようではどうかな、その後N先生は幸福になったのかな?

けっきょくサルトル自身が「地獄にいた」のだろうか?

僕は、丸の内に勤めていたとき、上司がサイアクで毎日偏執的な小言を食らっていたのだが、それが繰り返される中で同僚女性が僕に、「あんなに怒られて、怖くないの?」と不思議そうに訊いてきたことがある、僕は「へ?」としか反応できなかったが/あくまで僕の私見で結構だが、サルトルにせよ三島由紀夫にせよ、N先生にせよあのときの上司にせよ、瞳の奥に「おびえ」があるように僕には見える、だからこそ僕の側が地獄を感じる筋道は全くない。
サルトルはある形態の「自由」を志向した人だったが、なぜ他者のキメツケ視線が「自由」を阻害するものになるのか、僕には感覚的にわからない、だがこれは僕が特殊なタイプなのかもしれず、世の中には「他者のキメツケ視線で自由が侵害される」と感じる人のほうがずっと多いのかもしれない。

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空間が過ぎていく
ろいろ思うところはあるが、時間のムダをしてはいられない。
何が虚であり、何が実であるか/日本語ではどうやら、虚のものを「間」といい、実のものを「物」という。
何が虚であり、何が実であるか/選べるのは二パターンだ、1.[虚の空間:実の物語](空間物語派) 2.[虚の時間:実の物体](時間物体派)。
日本語において、虚のものは「過ぎて」いく、だから前者は「空間が過ぎていく」のであり、後者は「時間が過ぎていく」ことになる。

時間のムダをしていられないので、単刀直入にいうと、後者はつまり、どうあがいても物語は得られないということ。
小説でも音楽でもいいが、その作中に「世界」=「物語」が生じるという現象は、すべて「空間が過ぎていく」ということで起こっている/「時間が過ぎていく」という感覚の人は、どうあがいてもこちら物語方面に参入することは不可能だ。
「大阪から東京に行く」というときに、第一に「二時間半かかるね」とあなたが捉える場合、あなたは「時間物体派」だ、あなたの旅行にはタイムスケジュールだけがあり物語はないだろう、空間は過ぎていかず、大阪と東京は「残ったまま」だ。
あなたが音楽家になれないのは、楽器という「物体」の音を聞いているからだ/時間物体派の人は「よい物体と、有意義な時間」があると思っており、空間物語派の人は「よい物語と、有意義な空間」があると思っている。

時間が「過ぎて」いく男は、女を「物語」ではなく「物体」として求める。

空間軸と時間軸の、虚実の単位を入れ替えると、軸そのものが変質するのだ/空間軸を虚に取ると、それまで実数だった「距離」は消え去り、虚数だった「時間」は、実数の「物語」に変質する。
実数の「物語」……「物語って、実数なんですか?」と訊きたくなる人は、その時点で物語軸は時間軸に変質している、一方で物体と距離が実数になっているだろう、だから「物語って、実数なんですか?」という問いかけには「やさしさ」がない。
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UCLA大学から「カルマ」のレポート

6月6日の「ためしてガッテン」を観ただろうか? 最新の医療がおどろくべきことをレポートしていた。
「寝たきり」という現象があるが、あれは、自分の免疫が自分の細胞を攻撃することによって、身体が動かなくなるのだそうだ、つまり己の身が己の血によって「燃える」ということだ、己の炎に焼かれて人間は動けなくなる。
そして、さらにおどろくべきことは、UCLA大学の教授が行った実験だ、三通りの被験者にそれぞれ三通りの行動パターンを一ヶ月続けてもらった/1.自分のうれしいことをやる、2.世の中の役に立つことをする、3.人に親切をする。
すると、この行動パターンのうち、3だけが、免疫による自己攻撃をさげる作用があった、2は効果なしで、1に至ってはむしろ「マイナス」で、己の身が焼けつきが加速するという結果が出た。

つまりこれは、何千年も前からインド方面で言われてきた、「カルマ」「煩悩の炎」「業火」というのが、マジだということだ、マジもマジで、具体的に、リアルに生理的に「己の身が焼ける」のだ、そしてなぜか、「人に親切をする」ということで、その業火は収まるという、それは僕の言い方に引き当てると、「カルマの償却」が為されるからだろう。
人にサービス(service)をすることが、カルマの償却になる、そしてserviceとは「礼拝」のことでもある/serviceをすると「身が救われる」というのは、マジのことなのだ、serviceをすればマジで身が救われて福音があるし、逆をやればマジで身が焼けて動けなくなるのだ、何千年も前に古代の賢人らが看破したことは本当に正しかったと言える。
番組はあくまで、「寝たきり」の予防をターゲットにしていたが、もちろんそれは番組の良識にすぎない/われわれは、誰しも知っているように、あらゆることに対して「できない」「動けない」という症状を覚えるものだ、それがやはりカルマのせいであり、業火のせい、煩悩の炎に「身が焼かれる」せいだということがわかる。
「己の身が焼けて動けなくなる」ということを回避するのに、もっとも重要なことは、人とのつながりがあること、第二には運動をすることだと、番組はレポートしていた、僕としては元から突っ込んで申し上げているように、第一に「胴体が孤立していないこと」、第二に「胴体の流れ(抜けて動くこと)」が重要だと捉えている、これが途絶えると人は本当に動けなくなり、ひたすら身が焼けて苦しみ続けることになる。

お忘れなく/自分に「うれしいこと」を追加した場合、免疫の自己攻撃は上昇し、人は「動けない」ほうへ押し出される。

「人に親切をしていると寝たきりにならない」というのは、まったく不思議な話だ、だがわれわれには何となくこころあたりがある、「人に親切もしないような身なら、いつか追い詰められて動けなくなるのは当たり前じゃない?」と/何しろわれわれが具有している実際の「身」のことなのだから、その内部に起こっていることにこころあたりがないわけではないのだ。
どうやら「カルマ」およびその「償却」が、すべてを支配しているということが、マジのことのようです、ガッテンしていただけましたでしょうか。

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「世界」が成り立つ一滴
さしさが世界に通じる。
やさしさのない人は世界に通じていなかった。
僕はやさしかった人を、未来永劫尊敬する、だからその他大勢を、「あの人たち」と同列にはできない。
僕もやさしい人になりたかった、その他のことは本当にどうでもよかったのだと思う。

やさしさは不思議だ、やさしい人は、きっと誰かを叱ったことがある。
やさしい人は、何の武器も持たずに生きている。
やさしい人は、ずっと秘密の中を一人で生きている、この世界と自分のことをずっと昔に気づいている。
やさしい人は、たいていどこか、自分を悪い人のように飾っている、それはまるで、人の悪いところを許すためというふうに。

ただやさしさの一滴だけで、「世界」が成り立つ。

真のやさしさに出会うということは、偉大なことなのだ、何年間も突っ張って生きる理由は、そのやさしさの一滴に出会うためなのかもしれない。
その他のことは本当にどうでもよかったのだ、やさしさのないところには、けっきょく何かが成り立つことはひとつもないのだから。
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誰でも善だがやさしさはどーよ

「やさしさ」が第一の徳なのかもしれない。
「愛」というと、誤解の余地が大きすぎるので、「やさしさ」と言うほうが適切かもしれない。
重要なことは、「善」と「やさしさ」の区別だ。
意識すれば、誰でも善意を持つことはできるが、誰でもがやさしさを持つことはできない、やさしさは「徳性」であって、意識で操作できることではないからだ。

もしポル・ポトに、一ミリでも「やさしさ」があったならば、国民をああまで粛清はできなかっただろう、「やさしさ」といえばまだヒトラーのほうがマシだったのじゃないかと思える、ヒトラーはナチズムに狂って悪魔のようになったが、「やさしさ」が皆無というわけではなかっただろう。
別にサイコパスうんぬんの、おおげさな話を持ち込まなくても、「やさしさ」がわからない人はいくらでもいるのだ、およそ近年のフェミニズムやLGBTうんたらに起こる騒ぎの中に「やさしさ」の人を見た覚えは一度もない。
PTA側に属する全員は、善悪でいうと僕などより遙かにぶっちぎりの「善」に満ちていると思うが、その全員が僕より「やさしさ」に満ちているのかどうかは定かではない。
「やさしさ」のわからない人は、それでも、「やさしさ」がある人に懐いていくだろうが、そこでやさしい人のやさしさを「消費」するようなら、それはまたカルマになってしまうだろう/「やさしさ」に改めて注目することには、今こそ多大な値打ちがある。

「やさしさ」の有無において、差別せよ。

やさしさのある黒人と、やさしさのない白人なら、後者のほうがクソだということだ、肌の色で差別するような今時ダサいことはさっさとやめて、やさしさの有無で差別したらいい/いわゆる「いじめられっ子」はヒサンな境遇だが、かといって「いじめられっ子」にやさしさがあるとも限らない、やさしさがないなら正当に差別して蔑視するしかない。
「やさしさ」は、愛の第一の現れだと思うから、わかりやすく、差別の尺度に最適だ、善意の有無なんかカウントしねえよ/僕はやさしさのある人とやさしさのない人を同列に扱うことはできない、それは僕がこれまで受けてきたやさしい人からの恩に泥をかけることは決してできないからだ、これに関しては「お前とあのコは別次元だよ」と言い張るしかない、僕の心痛など考慮に入れる権利は僕にはない。

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