☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「知っている」から響かない2
に考えれば、怖がりだからこそ、何もかもを「知っている」ことにしたいのだろう。
自分がやがて死ぬことだって、ただちに「知っています」ということにしたいのだ、そうでなければ、その「世界」が本当に体験されたら、怖くってしょうがないから。
愛についても、知っていることにする、「知っている」ということになれば、もう何のインパクトもなくて、揺さぶられなくて済むからだ、人は弱さからすべてのことを「知っている」という状態に押し込み、世界を殺すのだろう。
「あなたの知らない世界」なんて言い方があって、そこにはオバケが出て来そうなムードだが、それはそもそも各人が世界を「知っている」という前提なのだろうな、世界を「知っている」なんて人は一人もいやしないのに/僕にとってはいつものことだが、他の誰かにとっては、体験したら精神がクラッシュしてしまうのが、ナマの「世界」かもしれない、考えさせられるなんてのは大嘘で、まだその自作のトリカゴの中から出ないか。

といって、無理にトリカゴから出て来ても、本当に精神的にヤバいかもしれないので、無理はしないほうがいいのかもしれない。
誰もがあなたのことを、一般的に知っている「人」だとして、あなたに話しかけ、あなたと同調するだろうけれども、僕はまったくあなたを「知らない」ものとして接触し、つまりあなたがあなただと思っているものにはまったく触れないで接触するけれども、そりゃそんなことしたらあなたはいきなりグラッと不安定になるか/急に自分がいつもしている「自分」は、合成樹脂の白壁にすぎないと感じられたら、そりゃあ不安定になるのが当たり前だろう。
思えばこのことには、若くきれいな女性が特に鋭敏だから不思議だ、僕がひょいと手を取るだけでたちまち隠しもせずグラッとくる、本人も何が起こっているのかは知らないから、隠すなんて余裕はないのだろうが、そのとき若くきれいな女性の瞳の奥には、当人も制御できない何かの星々がきらめいている、それが当人の日常をすべて消し去ってしまいそうだから、女性は慌てて立ち去ろうとするのだけれど……
特に若くきれいな女性においては、その「直観」に関するかぎり、僕などよりはるかに鋭敏だから驚く、もしそこから、自分は体験が少なくて弱いのだということを、馬鹿正直に認めることができれば……おそるべき世界が拡がって、それはおそろしいぶん、確かに「世界」があるのだと体験されよう、そして僕がへっちゃらでそこに立っているのだということがわかれば、女性もあらためて、男性をどういう意味で尊敬して認めればいいのか、直接わかってもらえるかもしれない/僕はデタラメでサイテーな男だが、たぶんあなたより怖がりじゃないのだ。

僕は知っているところに立っていたりはしない。

たぶんそれが、もうふつうの人には耐えられないことなのだろうと思う、一瞬はグラッとなることがあったとしても、平気でその場所に立ち続け、何であればさらに深入りして歩いていこうというのは、まあほとんどの女性が求めている「安心」と正反対のことだ、単純にいって一番「怖い」やつだ/といって、僕のような奴がその先を覗きにいかなければ、他に直接「世界」を見に行く奴がいないだろう。
たくさんきれいな女の子がいて、おそらく、彼女たちが最も見たいものの中に僕は立ち、それだけに、僕の隣を歩くのは、彼女たちにとって最も怖いことだったと思う、そういうことへの直観だけ異様に鋭敏だからいつも苦笑させられてしまうが、今さら僕もこの本分を捨てる気にはなれないし、何よりきれいな女の子たちをがっかりさせたくない、僕は彼女たちからますます怖がられる者になってしまうかもしれないが、それでもその先に進もうとするのは、ささやかながら僕から彼女たちを愛していることの証拠だ。
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「知っている」から響かない

はきっと、色んなことを知っているタイプだが、知っているものは使えない、「知っているものは使えない」という法則があるからだ(なんのこっちゃ)。
知っているというのは、単なる記憶だし、それ以上に、「知っている」ということは「存在していない」ということだ、存在しているものは、常に存在の中にあり、「知っている」の中にはない/友人さえ知っていてはいけない、友人を知っているというとき、その友人は存在していないからだ。
つまり「存在」という現象そのものが、常に体験可能でありながら、常に観測不能の現象だということだ、体験は常に知らないものの中にある/わたしという存在は、わたし自身知らない現象として体験される、何しろ観測可能なものの一切は、体験されないものなのだから。
このことを、けっきょく僕は見失わないのだが、あれこれと、人に頼られる立場になってからは、なるべく人が知りうる形で、何かの足しになってやりたいと思う、それがいつも邪魔で、でも僕ができる有益なことというと、その邪魔くさいことしかないようだ。

だからたまにはこうして、誰にも何の利益にもならないことを言う、誰にも何の利益にもならないことをし、僕は僕かぎりの世界を遊ぶ/本当は、僕は誰とも、この体験の中で会っている、観測不能の、何もかも「知らない」の中で、まるで僕は二重に活動している、「知らない」の側に本当の僕は存在していて、観測可能なほうの僕は表面上の辻褄を合わせているにすぎない。
だから何だということでもないのだが、いつまでも整合のつかないこの、観測不能の僕の存在と、観測可能なお役立ちを、どうすればうまく両立できるものか、誰か教えられるものなら教えてやってくれ、何も知らない僕は存在と体験だけがあって何かの役に立つ性質をまるで持たない。
それでいて、僕が真に誰かの足しになるとすれば、この本当の「存在」のことへ、それぞれを導いてやるべきなのだ、みんなが思っていることとはまったく違うから……この僕が、誰よりも何も「知らない」、そんな夜に飛び出しているとは、さすがに想像の範疇を超えるだろう。
何かを思いきりやるといって、僕はこの、何も知らない直接の世界で、思いきり響きたいのだ、みんなこの世界に入ったことがあるだろうか、あまりに多くの人が情報や習慣を掴んで「世界」に入らないようにしているけれども、そこに何かが響けばそれだけが永遠になってしまう、そうしたらどうする(といって、そうなるとまずいから、この「世界」に入らないようにしているのだ、言うことが我ながら矛盾している)。

知る必要はない、響く必要がある。

なぜ「響かない」のかというと、「知っている」からだ、「知っている」というのはまるで、合成樹脂の白壁みたいだ、響くというのは本来強制的なもので、空間・世界に響いてしまうのは、世界がある以上しょうがないことだ、響かせようとして響かせているのではない、世界が広く深ければ、そのぶん広く深く響いてしまうという、やむをえない現象だ。
「知的」なんて大嘘だわな、学門とはこの世界への「知らなさ」を剥き出しにして身に浴びようとするスタイルのことだ、逆に習慣に満ちた年寄りは何でも「知っている」だろう/本当の世界と学門の気配を知的というのならば、知的というのは安物女が乗り気になるものじゃない、魂の底から震撼して怯えるほどのものが知性だ、そりゃ本当にわけのわからないところへ響いていく声を聞けば十秒もまたず怖いと思うよ。

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怒っている人たちの理由2
い人はこう考えること、「元気な人がエネルギー源に頼る必要ある?」と。
最近は、モチベーションということをよく言いたがるけれど、それも同じで、もともと元気な奴はモチベーションなんか必要としないし、もともと元気な奴はエネルギー源なんか必要としないのだ、二歳のレトリバー犬が散歩にいって走り出すのにモチベーションやエネルギー源を必要とするわけがない。
最近は高齢者の方々も元気、とはいうが、老人の集まりで朝まで踊り狂っていたという話は聞かない、「○○を許さない!」の人々も、燃えさかっているようには見えるが、「行進のつもりが20km先の海辺まで出てしまってゲラゲラ笑っていた、あと浜辺に打ち上がっていた大量のコウイカを焼いて食った」という話にはきっとならない。
大量のアダルトコンテンツをPCに溜め込み、次々に出現するグラビアアイドルの乳揺れを毎日見逃さない男たちは、エロいのではなく、エロに引っ張られるぐらい元気のない男たちなのだ、元気がないので引っ張られるのであり、元気があれば逆に引っ張っていく側になる/いまだに現存するナンパ男たちも、元気があるからナンパしているのではなく、元気がないからナンパ欲に縋るしかないのだ、もし元気があればナンパなんて、元気に遊んでいたら女の子に笑われちゃった、というところから自然発生するものだ(ただし今どきそんな現象はありえねー)。

現代は、元気のない奴の言い訳で満ちている。
その、元気のない奴の言い訳が幅を利かし、全員がいちいちそれを聞いてやって、いちいち配慮しなくてはならないから、たいへん面倒くさい世の中なのだ/新入社員が飲み会に参加しないのはぜんぜんOKだと思うが、帰ってアニメ観ますというのはやめろ、あくまで「こんなエネルギーのない飲み会に混じっていられるかよ」という青年の勢いで飛び出していってくれ。
元気のない奴に、「帰ってアニメ観ます」というのはやめろというと、何かしら感情的な反発と、正論をもっての反論が返ってくるものだ、しかしそこで冷静に知っておかねばならない、そうして「すぐ怒る」というのが、実は正常な情緒の機能ではないということだ。
老若男女、なぜ現代人はすぐ「怒る」のか? それは、僕がテキトーに言ったことに対してでさえ、知性をもって聞きとり組み立てるというエネルギーが、もうないのだ、エネルギーがないので、何かを聞きとって組み立てようとしても、その努力は冗談でなく五秒ももたずに崩れていってしまう、だから「怒る」ということでエネルギーを足し前してしか話のひとつにも向き合うことができない/そこにあるのは感情でもなければ情緒でもない、ただ危機的なエネルギーの窮乏だ。

借りまくっている奴は窮乏しているに決まっている。

それが「モチベーション」であろうが「エネルギー源」であろうが、そんなものを必要とする限り、それはエネルギーをそこから借りているのであり、借りているということは窮乏しているということだ、しかも借りたものはたいてい返さねばならないので、窮乏はますます深刻化していくだろう。
なぜ現代人は元気がないのかについては、秘密があるのだが、今ここでそれは話しきれないので、ただ注意しておくべきだ、今多くの人に対して、僕が何かを話そうとしても、話をすれば第一に返ってくる反応は「怒り」だ、それも本来の情緒や感情ではなくて、単にもう何一つするだけのエネルギーも残っていないので、「とりあえず怒る」というクセになっているのだ、このことは老化をとてつもなく早めるし、老人になってしまったらもう戻ってくることはできないだろう。
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怒っている人たちの理由
「このうらみ、はらさでおくべきか」というセリフがあるし、「子孫末代まで呪ってやる」というような言い方がある。
なぜそのような言い方が成り立つかというと、うらみやねたみ、憤怒、憎悪といったものは、人にとって "保存可能" だからだ、人はうらみやねたみ、憤怒や憎悪を記憶し、その記憶をもとに、いつでも体内に毒物質を生産可能にする。
一方、何かのよろこび、何かへの賛嘆、また「ブラボー!」といったものは、保存不能なのだ、それらは毎日新たに掴み、常に新しく接続する必要がある/だからこちらのほうがタフで、困難で、横着な人々や退嬰的な人々を退けてしまう。
街中で「○○を許さない!」と言い続けている人や、ウェブ上で憎悪や炎上を振りまいている人は、なぜそのようなことをしているかというと、それしかエネルギー源がないからだ、冗談じゃなくそういうことで、「憤怒すると元気になるね」ということに体細胞が依存したにすぎない/だから「○○を許さない!」と言っているのは、老いくたびれた人たちばかりだ、若く歓喜と賛嘆のエネルギーに満ちた若い人が「○○を許さない!」という憤怒音頭に同調した試しはない。

怖い話なのだ、つまりうらみやねたみ、憤怒や憎悪が強い力を持っているのではなくて、あくまで老いくたびれた弱い人に、大きな力を錯覚させるという作用しかない/最近になって「キレる老人」が増え始めたのも、理由があってキレているのではないのだ、エネルギー源がそれしかないから、毎日を憤怒だけで生きているのだ、それで「自分は元気だ」と錯覚し続けて、目の前に迫る己の実態から目を背けようとしている。
あなたも気をつけたほうがいい、誰だって気をつけたほうがいい、「ここぞ」というとき、はっきりと大きな声を出し、はっきりと言い、全身にエネルギーがみなぎるのは、愛を語り賛嘆するときだろうか? いいや、何かについて憤怒して、その怒りをあらわに何かを言うときだ、今や人々の体内にブラボーや感動を言い続ける魂の残高が半日分もあった試しはない。
事情があって怒っているのではないし、事情があってうらんでいるのでもない、ねたんでいるのでもない、ただエネルギー状況の要請により、常時憤怒と憎悪と契約状態にあるだけだ/駅前の放置自転車があるとそれに憤怒し、それが撤去されるとスッキリするという、それぐらいしかエネルギーの循環が得られないのだ。
ためしにやってみればわかるが、世界と愛と歓喜とブラボーについて、原稿用紙百枚を書くのはほとんどの人にとって不可能だ、しかし「許せないこと」「怒っていること」「うらんでいること」「ねたんでいること」「憎んでいること」についてなら、相当量の原稿用紙を埋めることができるだろう、百枚では足りないかもしれない/ウェブ上のあちこちで「レスバトル」が生じ、ツイッターで「許せないこと」について「拡散希望」が爆発し、著名人のスキャンダルについて執拗な「炎上」が起こるのは、理由あってのことじゃない、ただ誰も彼もエネルギーがなくて、唯一の例外が憤怒・憎悪・ねたみ・うらみというだけなのだ、どれだけ皮膚の下がヘドロのように退廃している女性でも、フェミニズムにおいて男性を弾劾しているときは元気になれる、このごろのすべての風潮はただそれだけの理由で巻き起こっている。

それはエネルギー源に頼った敗者の姿だ。

なんとも無慈悲な話だが、誰も彼も、自分は一人前だと思い込もうとし、自分は年齢にもかかわらず元気だと思い込もうとした、それで表面上のエネルギーだけ偽装できる「憤怒」に頼った、それもずいぶん若いころから……そんなのウソに決まっているね、彼の通ってきた道のあとに、ことごとく花が咲き、ことごとく彼の息吹と彼の言葉が残ったなんてことないもの/憤怒で「一人前で元気な自分」を偽装してきただけだ、じっさいそれを投げ出してしまったら腐敗した苔のように岩にへばりついて死んでいくしかないという状況がある(だからもう今さらやめることはできない)。
あなたもぜひ気をつけて、あなたは実は毎日がとってもしんどくて、ふと気づけば元気な声を出すときは、何かに文句を言っているときだけ、怒っているときだけ、ということがよくある/多くの母親は子供に怒鳴りつけるときだけ元気で、それ以外のときはずーっとテレビを観たりスマホをいじったりしている、老い以上にずっしりと灰色に濁って重たい全身があって、いくら汗をかいても体質そのものは変わってくれない。
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カミサマという現実的な現象
ミサマという現象は、そんなに珍しい現象ではないし、思われているような、ファンタジックな現象でもない。
カミサマという現象は、具体的で、リアルで、いわゆるリアリティよりも、現実味がある現象だ。
何もむつかしいことではないのに、むつかしいことにすり替えられるのには、理由がある、それは第一に、カミサマが自分を味方してくれるという間違った前提があるからだ。
どうしてカミサマが、自分を味方してくれると決めつけて拝んでいる? むしろ逆で、カミサマを拝むほどにまで追い詰められた人に対しては、カミサマはきっと期待しているものと逆方向の通告をするだろう、「あなたの魂は落ちてゆくのです」と/そのことを直観し、まだ聞きたくないので、カミサマというものを曲げる、曲げてファンタジックにして自分の願望と救済に味方するものだと加工した上で拝んでいる。

いちいち、おどろおどろしい戯画に描かれた「カミサマ」のたぐいを、おっかなびっくり空想するような趣味は僕にはない。
人にもし「魂」と呼ぶべき現象があるのだとしたら、その魂が、ニュートラルでなく一定の方向付けを受けているとき、その方向付けの現象をカミサマと呼んでいるにすぎない。
なぜこの夜はこんなにうつくしく、この風は、どこかに響いているような無音の声は、なぜこんなにうつくしいのかというとき、しかもその感触に呆然としているのは僕だけのようで、なんなんだろうこのどうしようもない満ち足りは、と思索の限界をはるかに超える体験に浸されるとき、それが何度も繰り返されることについて、その現象をカミサマと呼ぶしかないだけだ。
カミサマという現象を肯定し、その現象を体験することは、実はそんなにむつかしくないのかもしれない、ただそのときカミサマは、すべての人の魂に満ち足りを与えるわけではない、むしろ絶対数において、魂の落下と厳しさを通告することのほうが多いだろう、だからカミサマという現象は、一般に体験不能のものとして恣意的に拒絶されている/本当は毎日毎夜に現れている、何も珍しくはない現象だ。

まず誰かが満ち足りるのを見、また誰かが落下を告げられるのを見よ、まず自分のこととしては受け止められないから。

正しくなかった者の魂が、カミサマに落下を告げられ、どう悔恨してもそのことは避けられなくなったというとき、そこにカミサマが支配している世界があることが視える、もしあなたがその世界を視ることができるならば、あなたにはまだ改めるチャンスが与えられているということだ/スピリチュアルなカミサマイメージに耽ったってしょうがない、カミサマそのものが視えるわけじゃない、人にもたらされる現象としてそれが視認できるだけだ。
こんなことで、テクニックを提唱するのも奇妙なことだが、まずは他人事としてそれを見るのだ、まず自分のこととしては受け止めようがないから/満ち足りる人と、落下を告げられて改めることも許されなくなった者の叫喚を、まずは他人事として見る、そこにカミサマという現象はとても現実的な、当たり前の現象だと確かめられる、そのときあなたは自分が本当にはどうすればよいかについて直接の情報を得ているだろう。
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夜に流れる声、夜に流れる風
べては、人の身の内からは発生していない。
夜に流れる声があり、夜に流れる風がある、すべての食事とすべての男女は、この声や風から成り立っている。
その声と風が失われると、無になるのではなく、喧噪になる。
人々の、探し物をする声でごった返すのだ、大切なものがどこかへいってしまったから。

サムライであろうが騎士であろうが、表面上の違いはどうでもいい。
すべてを支配する声が流れ、すべてを支配する風が流れている、時代も関係なく、飛行機が飛んでいても篝火が焚かれていてもかまわない。
すべての友人は、友人のままで、しかし今人々が友人とイメージしている概念はすべて誤りだ、友人はずっと夜に流れる声と風の中にありつづけている。
すべてのことは切なく、すべてのことは問題ない、どうか自分のことが信じられるうちに、素直に恐れてアタリを引くべきだ、老いたあなたはもう信じる機能を失っているだろうから。

「醜さ」は「不満」と等価だ。

おそらく多くの人が、本当にはどうせねばならないか、アタリに直面したとき、本能的に気づいている、でもそれはあまりに常識離れしていて、そのうつくしさじたいが怖くさえあり、自分に染みついた小芝居と不満が取れない、それらが今までの自分を守ってきてくれたから。
あまりにもおそろしいものだから、人々は日常にしがみついている、そうして日常に守られながら、日常に追い詰められている、日常は何も満たしてくれなくて、不満はどうしても己をうつくしさへ踏み出させてくれない/夜に流れる声があり、夜に流れる風がある、それは世界のすべてを支配している、もしくは、その支配に従順たりえた者たちだけが出会うものを世界と呼んでいる。
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世界の邪魔をしないこと
は「カッコいい」ということを重視する。
僕はよく、「カッコ悪い自分が毎朝起きるというのはキツい、耐えられない」という言い方をする。
自分がカッコ悪いという事実になど、まともに耐えられるわけがないのだが、かといって「カッコよさとは」などと追求するのは、初めからカッコ悪いのがミエミエなので、そんな追求は持たない。
自分がカッコいいつもりでいる奴なんて、基本的にイタいのだが、そのイタさに刃向かえないのは、さらにカッコ悪いので、しょうがないのだ、結論として「カッコいい奴だけがカッコいい」ということになり、自分についてはどうかというと、「知らん」という決着に、初めから決まっている。

「カッコいい」ということはつまり、世界の邪魔をしないということだと思う。
世界の邪魔をしないためには、まず世界が在ることが必要だが、世界がない人はどうすればよいかというと、ただサイアクの悪あがき人生を、だだスベりしながら生きていけばいいということになる、それはとってもサイアクなことなのだが、何しろ僕のことではないので一ミリも同情はしない、むしろ誰もがその同情によって道を塞がれてきたことを僕は知っているからだ。
「カッコ悪い奴が、カッコよくなることなんて、まず永久にないと思うよ」と僕は言うだろう、それしか言い方がないからだ、そうするとカッコ悪い人には無理が掛かるのだが、この無理を消して「まったく同意だ」と鎮静するときまで、その人がカッコよくなる筋道はない。
カッコよくなるためには、カッコ悪い奴のまま救われようとしないことだ、カッコ悪い奴のまま救われようとするから、世界の邪魔になり、ますますカッコ悪い奴になってしまう。

カッコ悪いのは「文化的」だからだ。

本来、文化というのはそんなに悪く言われるべきものではないのだが、このごろは人の世に、惰性的にできあがる文化のようなものが多すぎて、もはや文化の臭気そのものがカッコ悪さを決定しているところがある/マザコン文化やおばちゃん文化や社会人文化や陽キャ文化のようなものがあり、明らかにこれら「文化」が世界の邪魔をしている、たとえば立候補者が選挙活動車に乗ってトラメガで演説して回るのを見て「カッコいい」と感じることはありえない、もう腐るほど飽き飽きした「あの声」しか聞こえてこないからだ、特に日本の「政治ネタ文化」の固定はひどい。
世界の邪魔をしないといって、それだけ聞くとカンタンそうだが、インチキ文化をゼロにしてテメーだけで世界に立てよと言われると、いかに自分がスッカラカンで、世界とのつながりなんか持っていないか、震え上がるほどわかるものだ、立候補者からトラメガと政治ネタを取り上げてテメーの愛について路上で演説しろと言っているようなものだ/僕はけっきょく「文化」の中で毎朝起きるということに耐えられない、毎朝そこに「文化的なおじさん」が目を覚ますと思うと、とてもじゃないが「カ、カッコわる……」と天地が割れて砕けそうなほどキツいからだ。
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誰もが深く傷ついている

絶偉大なおれさまからすると、いつも「お前らみたいなもんは」、どいつもこいつもわかっとらん、と感じるのだが、どいつもこいつもわかっとらん中で、ひょっとすると誰もが、僕などよりはるかに深く "傷ついて" いるのかもしれない、最近はふとそんな気がしてきた。
そりゃあ正直なところ、偉大なるおれさまでさえ、すべてを看破した上で、現在の状況を完全な平静で眺めてはいられないのだから、ふつうの神経の持ち主では、現在のさまざまなことの実態を、すべて看破して直視したら、とんでもないショックを受けて、まともに生きていけなくなるだろう。
何もわかっとらんくせに、きっちり傷ついてはいる、ということがあるのだ、そして何もわかっとらん中で、それでもなぜか正しいことをする人もいるし、やはり正しくないこと、やってはいけないことをやる人もいる。
多くの人が実は、何もわかっていないまま、深く傷ついているということを、それぞれが自分において自覚できれば、話は簡単になるのだが、おそらくその傷と悲しみの深さは、本人の許容量を超えているので、そもそも自覚できないし、自覚しないほうがいいのだ、このわけのわからない状態で、とにかく盲亀は浮木にたどり着くしかないのだった、うーんこうなるともう「幸運」を求めるしか方法がないぜ。

傷ついて、パニックだが、安全装置がはたらいて、平静、という状態がある。
おそらく、戦争で最前線の砲撃音に晒され続け、精神を損傷して帰ってきた人も、パッと見は正常に見えるし、本人も自分が深く傷ついているという自覚はないのだろう、われわれの状況はそんな勇ましい最前線ではないが、かといってこれだけの状況で誰も傷つかずに生きている "はずがない" ので、安全装置に欺瞞された、逆に適切な平静の状態を前提にする必要がある。
さまざまな局面で、僕がナゾの発言と、ナゾの言葉、ナゾのシャウトをすると、多くの人がハッと黒目を取り戻して、「わーい」と幸福さを取り戻すのだが、きっと誰もが、自分に何が起こっているのかがわからないのだ、安全装置が傷と悲しみを制御しているぶん、僕の呼びかけているものも、ノイズが掛けられて読み取り不可になっているのだろう、そうしてそれぞれの人に何の自覚もないまま笑、悲しみと歓喜の戦いが魂のサイドで行われている。
僕のやっていることが、直截「視えて」くれたら、すべての話は早くてスムースなのだが、きっとそうはいかないのだろう、僕のやっていることが視えるときは、その他のことも一斉に視えてしまうということだ、それは通常のソウルレベルの人が耐えられる威力の嵐じゃない/もうこのままいくしかない、と半ばは思うのだが、でも僕ひとりでは出来ることにあまりに限界がありすぎるとも、当然思うのだった、うーん何の解決にもならないがそういうことなのだと、超絶偉大なおれさまは報告しておく。

自分か深く傷ついていることを、自覚するな、ただし予備知識には持て。

全員がバブル景気を、「バブルだ」と本当に自覚したら、その時点でバブルが大崩壊して致命的なクラッシュが起こるように、すべての問題と解決は、実際的には軟着陸をこころがける必要がある/おれのことをナメてもらっちゃ困るが、あなたがブッ壊れてしまうのはもっと困るので、それよりはずっと僕のことをナメてくれたほうがマシだ、偉大なるおれさまはそのこと自体に腹を立てるようなヒマは持ち合わせていない(どう考えたってとっくにそれどころじゃねえんだ、状況は)。
誰もが深く傷ついているのだが、そこに起こる悲鳴はすでに自分のキャパシティを超えているので、安全装置がはたらいている、それで表面上の平静が成り立っているのだ、僕と同じものを直視して平静でいるわけじゃない(当たり前だ)、この先は本当の意味で時代が変わると思うので、そのときに備えて今から愛や世界や魂のことをやっておくのが吉だと思う/予備知識としてあなた自信の傷と悲しみを知れ、そして予備知識として偉大なるおれさまを超絶尊敬して愛するように(そして不時着に成功したらただちにすべての「ヤバかった!!」を自覚しろ)。

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「これはしてもいいんだ」「これはしなきゃだめなんだ」
近、ブログ記事の内容が荒っぽいが、ご了承願いたい、これは僕が変わらずゆくと宣言するための手続きなのだ。
これ以上、空っぽの美人を見たくないのだ、たいへんわがままな言い分だと思うが、僕はそのことを許しがたく思うほど、一方的に女の子を愛しているのだ、そのことを認めてもらおうとはまったく思わないが、言い分はそのように申し立てうる。
これ以上、何の体験もないのに、何の愛もないのに、何の知識もないのに、空っぽなのに、物憂げにしてみただけの顔面 with 化粧を見たくないのだ、空っぽでちやほやされてその後は加齢して子供産んだらオワリが女の人生って、そんなわけあるかよ。
見た目にも、愛や知性や体験が空っぽなのを、「わたしは空っぽを知っている」なんて強弁するのは無意味なのだ、何も知らんのはただ何も知らんのだし、何も得てきていないのはただの本当の空っぽなのだ、そんなことは珍しくないというか、当たり前なのだ、ただなぜか女の子が空っぽの化粧箱であることを気に掛けない男が最近は異様に増えているのだ。

実際、何をどうしたらいいかなんて、わからないじゃないか、あなたはいきなり目の前の壁に色を塗りつけたりしないし、紙切れに詩文を書き付けたりしないし、いきなりこの世界の賛歌を唄いだしたりしないだろう、何をどうしたらよいかを知るには一定の経験がいる。
それも、一定の経験というのも、「これはしてもいいんだ」「これはしなきゃだめなんだ」と、新しく知る・思いがけず知るという経験を積まなくてはだめだ、雨が降ったら傘を差すということを経験とは言わない、生まれ変わらないものを経験とは言わない。
そうした経験を積むためには、完全に単独では無理だ、友人や先輩たちのいるようなところ、あるいは読書や映画から、場合によっては何かの先生や、とにかく「こいつには何かある」「この人は何か知っている」「この場所には何かある」というところで経験を拓かないと、人の十年は本当にあっさり空っぽのまま進んでしまう。
空っぽのまま生きていくと、やがて加齢によって「死」がちらついてきたとき、空っぽを埋め合わせることとして、どうしても「地域」「血縁」「しきたり」に支配されていくぞ、それに支配されて本当に空っぽでなくなれるのならいいのだが、そうではないのだ、空っぽに空っぽを詰め込んでもやはり空っぽのままなのだ/あなたがどこかで誰かの魂の叫びを聞きつけて、あなた自身の魂を獲得する、そういう十年を掴むことを祈っている。

ほとんどの人がセックスするが、ほとんどの人が握手しない。

あちこちのラブホテルが満室であるぶん、あるいは性風俗のキャストが出勤しているぶん、世の中にはセックスがあふれているということだ、でもわれわれはその頻度で人々が握手しているところを見ない、それどころか語り合っているところさえ見ない、人には生理的および金銭的な理由からのセックスの希求があって、どれだけ空っぽでもセックスに関心を持ち得てしまう。
僕はあなたを、握手する存在であり、語り合う存在であるとみなしているのだ、空っぽであってよいはずがないあなたへ、あなたをラブホテルにつめこむ上物だとみなしているわけじゃない、僕はあなたに嫌われようとしているのだ、それはあなたに好かれようとする以外の男もあなたにとって存在させるためだ、あなたがやがて「これはしてもいいんだ」「これはしなきゃだめなんだ」と知るためにだ。
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空から女の子が降ってくる
「親方、空から女の子が!」という有名なセリフがある。
空から女の子が降ってくるのが正常であり、空から女の子が降ってこないのは異常だ。
もう一度言うが、「空から女の子が降ってこないのは異常だ」、まったくどんな世界を生きているのか、何の世界もない中を生きているに違いない。
万が一、空から女の子が降ってこない場合があるとしたら、それは魂がないからだ、そして魂のない奴を基準にこの世界のことを考えるわけにはいかない、恋あい経験のない奴を基準に恋あいを考えるというぐらいイタい話だ。

空から女の子が降ってこない奴が、無理に「空から女の子が」と言い出そうとすると、イタい空想、イタい妄想、つまりただの「ウソ」になる、そんなウソ話に付き合ってくれるヒマな奴はこの世界に1ppmも存在しない。
あなたの両親は、空から女の子が降ってくるということを教えなかったろうし、むしろ親御さんは、「空から女の子なんか降ってきません」と言うだろうが、それは単に親御さんが誤っているのだ、そりゃあたりまえで、親御さんが無謬なら、すべての子供はどこの大学にもいく必要がない、すべて両親に教われば超弦理論までバッチリだろう。
空から女の子が降ってくるというのを、「信じたがる」人はけっこういて、「否定する」人も同程度いるのだが、「当たり前じゃね」と首をかしげる人はとても少ないのだ/なぜ空から女の子が降ってくるのを、当たり前と思えないかというと、単に学門のセンスがないからだ、学門のセンスがない人は繰り返された「習慣」しか身に覚えがない。
人はそれぞれ何かしらの業(カルマ)があるから、家に請求書が届くわけだ、それは誰にでも「当たり前」と感じられる、それと同様に、人それぞれに何かしらの魂(ソウル)があれば、空から女の子が降ってくるわけだが、それが「当たり前」と感じられる人はとても少ない/根本的な誤解があって、ノンフィクションからフィクションへ「離脱」しようと考えている場合、その離脱は永遠に成功しない、なぜならそのような「離脱」はそもそも必要ないからだ、ずっと何か誤解をしているのだろう。

フィクションの失敗作をノンフィクションと呼んでいるだけだ。

おそらく根本的な誤解は、ノンフィクションをベースにおいて、そこからフィクション作品の成功とか失敗とかがありうると捉えているのだろうが、そういうことではなくて、「空から女の子が降ってくる」のは成功作であり、「家に請求書が届く」のは失敗作なのだ、その失敗作をノンフィクションと呼んでいるにすぎない、そこに「離脱」うんぬんを言っているのは明らかに誤解で見当違いだろう。
空から女の子が降ってくるのは「当たり前」だから、そのことを夢見る必要はない、そうしょっちゅうデイリーで目の前に女の子が降ってきたらじっさい困るぜ、毎週「竜の巣」に突撃するほどの根性を僕は持ち合わせていない/フィクションとノンフィクションのあいだには何の無理もないので、人は誰も無理する必要がない、それでも空から女の子が降ってこない場合、それは自分が失敗作のに与して、成功作を謗ってきたのだろう、じっさい世の中には「わざわざ失敗作のファン」というのも少なからずいるし、どういう動機があるのかは僕も知らない。
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ハイレベルで、要らないもの2
自身に、何の自信があるわけでもないが、この後に及んで僕が「自信がない」とか言う権利はもうなさそうだ、僕自身今のところアテにする奴の第一が僕だというヘンな状況になってしまっている。
十二歳の天才演歌少年がいたとする、あるいは十五歳の天才ダンス少女がいたとする、それらはどんなに見栄えがよくても、彼らがまずその年齢で愛を知っている見込みは薄い、だからただ上手なだけだ、その時点ではまず「要らない」が正しい/その年齢ならハイレベルなだけで「すげー」に尽きるのが当たり前だ。
ここにあるのは、少年少女の問題ではなく、シェアネタを探し回っている中途半端な大人の問題だ、シェアネタを探し回っている人たちは少年少女を気まぐれに検索して絶賛してシェアするが、当人たちにアイラブユーを言うわけではない、中途半端な大人たちは行き場のない下心を持て余しているだけだ。
結果、シェアネタとして融通の利くコンテンツ当事者が、まったく愛されないままチヤホヤされることになる、これは当人にとって陰惨な環境だ、チヤホヤされているから気分はいいはずなのに、こころの底には何か憤怒の怒号のような声が溜まっていくはずだ、それが人の魂の仕組みだ、こんな仕組みに少年少女が気づくはずがない。

天才演歌少年と、天才ダンス少女がいて、それぞれ閲覧数が百万で、いいねが二万ついていたとする、それは一般の人間が生涯に受ける称賛の数をはるかにしのいでいるだろう。
では、なぜこの少年と少女は、駅前で少し歌ったり踊ったりしないのだろう? 駅前で歌ったり踊ったりしたら、通りすがりの人々は足を止めて「ブラボー!!」となるのだろうか、僕はもう何年も東京でそんな光景を見たことがない/現実的に考えて、何の演出も足さないならば、大半の人は一瞥もくれずにただ通り過ぎるだけではないだろうか。
もしそこで、大半の人々が一瞥もくれずに通り過ぎていくのならば、やはりそれはただ上手なだけ、ただハイレベルなだけで、「要らない」ものなのだ/そりゃそんなもの要らなくて当然なのだが、それをさも成り立っているように賛美するシェアシステムは人々の心身を混乱させ、やがて荒廃させていくのではないだろうか。
天才演歌少年をコメント欄で絶賛した人は、その日から、「あいつの歌を聴いてから、おれの人生は変わった」というようなことがあるだろうか、天才ダンス少女のコンテンツをシェアした人は、「自分を表示することに臆さないことにしたの、あんな年下の女の子に負けていられないもの」と友人に宣言したりするだろうか、きっとそんなことは皆無だと思うが、ではネット上でついている膨大ないいね称賛とシェア件数はいったい何を意味しているのだ、このことはいいかげん見過ごしていたらみんなで揃って病気になってしまう/どこの街中をさがせば数万数十万の「いいね」が飛び交っている光景に出会えるのか。

ハイレベルで、要らないものを、何も愛したことがない人が称賛している。

もちろん、友人づきあいの中で、たわいもないシェア合戦、いいね合戦をすることには、何の罪もないし、害というような害はないだろう、けれども実際、「みんなをアッと言わせたい」「みんなから絶賛をあびたい」というとき、その「みんな」というのは現在、クラスメートであったり同僚であったり、後輩たちであったり先輩たちであったりするだろうか、すでに「みんな」というのはシェア権といいね権をもつクラウドのことを指していることが多くあるのではないか/またそれ以前に、クラスメートや同僚や先輩後輩は、すでに「みんな」という感覚では得られていないのではないか。
突き詰めて言ってしまえば、要らないものが高シェアを受けているということの背後には、「要らないものしかない人」の存在、つまり何かを愛するということをまったく持たない人たちの、ヒマを持て余している大群のタップ・クリックする浮いた指先が待ち受けているように思う、もちろんこれはマクロに発生していることへの疫学的な視点であって、個々のかわいらしいケースをなじるものではない/あまりにも多くのケースで、「ハイレベルだが要らないもの」が高シェアを受け、当事者は注目の壇上に立たされては、誰も愛していないという眼差しを向けられて、平然と切り刻まれて捨てられるということが起こっているように思う、「シェア勢」と呼んでよいと思うが、シェア勢はきっと愛にあふれて魂が震えている人たちではない。
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ハイレベルで、要らないもの
「ハイレベルで、要らないもの」が増えている。
今は何もかもがハイレベルだ、子供のやるゲームでもそう、スポーツの各種もそう、歌やダンスだって、十六歳で目を疑うほどハイレベルな人が出現している。
だがハイレベルなものが必ずしも「要るもの」とは限らない、人はけっきょく魂・命の宿っていないものを「要る」とは感じない、たとえどれだけハイレベルでもだ。
ハイレベルだが、要らないというものが増えていて、それはもうあふれかえるぐらいあって、正直なところ「もうカンベンしてくれ」という気がしている、ハイレベルなのに空っぽというものに、若い世代ほどだまされるだろう、どうしてもそれは見栄えがいいから。

インターネット上でコメント・いいね・シェアの文化が一般的になった、テレビ番組が視聴率を気にするように、人々は今シェア数を気にしている。
そしてシェアのシステムは、SNS上で、友人というほどではない、単なる知人という枠にも拡がっている。
人は、自分の魂だと感じているものを、友人でもない単なる知人に、気軽にオープンしたりしない、誰が本当に愛したラブレターを単なる知り合いに公開するだろう/だから基本的に、シェア数を拡大しようとするとき、人は「自分の魂でないもの」をシェアする、つまり本当には要らないものしか人はシェアしない。
かといって、本当に単なるゴミではシェア数が稼げないので、どうなるかというと、「ハイレベルで、要らないもの」がシェア数を占めていくことになる、別にそのこと自体はどうでもよいことだが、魂のないものを賛嘆させられた人は己の魂も失って次第に恐慌に陥っていく。

すごいもの、かわいいもの、クソワロタものは、そんなにあなたに要らなかった。

別にあってもいいのだが、実はなくても別によかったのだ、それらがなくても「あなた」が命・魂として減ることはなかった、そういった要らないものが毎日あなたの周囲を取り巻いている。
そのこと自体は、別にかまわないのだ、ただいつのまにか、あなたは自分の「要るもの」にどうやったら触れられるのか、わからなくなった/あなたが先週シェアしたものに、今週のあなたは興味なんか持っていない。
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僕の求めているもの "ではない" もの2
ぜこの話をしたかというと、一部の人には、思いがけず大きなショックと、それ以上の正しい情報をお伝えすることになると思ったからだ。
あくまで、僕の求めるところということに限定して、「スゴ業」というのは違うということ、「スゴ業なんか持ってはいけない」「そんなもの持ったら戻ってこられなくなる」というのが僕の唱えるところだと、はっきりお伝えしておく、このことが指針として大きな方向を示すことがあるから。
山ごもりなんかしちゃだめだし、自分を追い込んではだめだし、特訓なんかしてはだめだし、開眼なんかしてはだめなのだ、目を覚ますことは必要だが開眼などしてはいけない/僕が求めているのは「ふつうの目」であって、ただそのふつうの目以外のすべての目を閉じようと唱えているだけだ。
その道ひとすじ何十年の、プロ中のプロのスゴ業を見ると、誰でも「すごーい」と驚く、だが僕はそれについてはっきりと「ダメ」と申し上げておく、これは否定というよりも案内なのだ、この案内をしないとおそらく僕は話がまっすぐ伝わらない。

理法の果てと、スゴ業の極みは、表面上とても似たようなところにたどり着く。
だがそれは、似て非なるものであり、両者は実は対極にあるのだ、マイケルジャクソンは最もダンサー業に見えない人だし、ボブディランは最も歌手に見えない人だ/ボブディランなんかあらゆる音大で入試に落第するのじゃないか。
ボブディランなんか、スゴ業のかけらもなくて、何しろ「We are the world」のレコーディングで、「他人の作った歌だから唄い方がわからん」と、大真面目に困惑していたのだ、それで隣のライオネルリッチーに唄い方を指導されていたぐらいなのだ、あの簡単な歌が「唄えない」なんて音大生は一人もいないだろう。
プロ中のプロの、スゴ業は、本当にスゴイもので、それがなければ成り立たないものはいくらでもあるが、それにしても「ダメ」と、繰り返し申し上げておく、これは最奥ではっきりとした指針だ/誰でも生きていくのだから、スゴ業があってはいけないとは言わないが、スゴ業で救済されようとしてはダメだ、スゴ業は生きるすべ・生き残るすべであって、それ自体は人の愛ではないからだ。

愛犬にスゴ業を仕込んだら胸が痛む。

愛犬がスゴ業を持っている必要があるだろうか、愛犬はただ元気にごはんを食べて走り回ってくれていればそれだけでいいし、穴を掘りたきゃ掘ればいい、そのことにスゴ業なんか求めないし、スゴ業なんかあってもなくても愛犬に対する愛は変わらない、それは人への愛でも同じだ。
ただ、愛の問題、特に人への愛・自分への愛の問題はむつかしく、またその問題こそが魂の一番奥に突き刺さるので、人はこの単純なほうの問題を避けたがるのだ/その逃避のよって、スゴ業に向かって何十年も過ごしてしまうということはよくあり、だからその結果、スゴ業を持っている人の顔が悲しそうに曲がっていたり、根っこで手が付けられないほど気難しくこころがねじくれていたりする。
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僕の求めているもの "ではない" もの

妙なことを言うようだが、きっと幾人かが、このことを聞いて得心がいくと思うので、あえて申し上げる。
たとえば先日テレヴィに、タケノコ掘りの名人が出ていた、地面のほんのわずかなふくらみも、足の裏の感覚でわかるそうだ、その人の感覚でしか見つけられないタケノコがたくさんあるという。
それは、まさに名人というやつだし、常人にはない特別な感覚、また特別な熟練ということだが、僕はこういったものを肯定しない/一般論として否定するのではなく、僕の求めるところにおいては「違う」ということになる。
あくまで、僕の求めるところという話に限定されるが、僕の求めるところにおいては、人はそういった名人になってはいけないし、そういった特別の感覚を持ってはいけない、特別な熟練をしてもいけない、常人離れした感覚というのは実際にあるのだろうが、僕が求めるところは究極的な「常人」なのだ、だから常人離れの方向へ行ってはならない。

世の中には、スゴ業を持った人がいるものだ、電卓を叩くのが超速かったり、見ただけでイノシシが通った獣道がわかったり、毎回同じ数の米粒を手に取れる寿司職人がいたりする。
それらはすべて、一朝一夕では身につかないものだし、シャレでは身につかないものばかりだ、つまり自分の生きるすべ・生き残るすべとしてその環境に触れていないと身につかない、つまみぐいでは身につかないし、何より遊びでは身につかないのだ。
それはいわゆるプロであり、プロ中のプロ、プロフェッショナルということになる、プロボクサーが試合で負けたら、単にスポーツに負けたでは済まない、廃業に追い込まれていくのだ、だからそこには生きる・生き残るというすさまじさがつきまとう、僕はこのすさまじさを否定する者だ/すさまじいということを否定するのではない、すさまじいからこそ否定している。
それは「生き残る」という機能の、秘匿からの解発であり、そのすさまじさは、人為を超えたところがあるものだ、それによって人は常人離れするし、しかもそれによって生きていくことができるようになる、だがまさに「常人離れしてしまうだろう」ということ、僕はそうして常人離れして生きていくことに、救済やよろこびがあるとは見つけられなかった者だ、僕は仮面ライダーになることは求めてはいないし肯定もしていない。

僕が求めているのは「スゴ業」ではなく「理法」だ。

極端な話、遺伝子組み換えによって、人間の嗅覚にドーベルマンの嗅覚を導入すればどうなるだろう、その人はすさまじい嗅覚を持つようになり、コカコーラやケンタッキーのスパイスをただちに解析し、家屋に入り込んだネズミを見つけ、場合によっては温泉さえ掘り当てるだろう、だが僕はその改造人間に尊厳を覚えないし、その人がその活躍によって魂を救済されるとも思えない。
僕だってワークショップであれこれ指導している立場にあるが、僕が与えようとしているのはスゴ業ではない、僕が見せているのはひたすら「本当に理法を追究したら身と接触と世界はどうなりうるか」という現象だけだ、だから僕の見せているものは理論上「誰にでもできる」し、僕自身すべてのことにおいて最も完全なシロウトだ/ただ、本当にそこまで厳密に「常人」でありつづけて、本当にそこまで徹底して「理法」を追究できるかという問題があるだけだ。

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GOOD TIRED
れるのは佳いことだ。
僕のように、エネルギーが有り余っている奴は、疲れるということが少なくて困る。
これだけ使い切っても、まだ使い切っていないのかと、自分で呆れる。
ようやく疲れがきた、なぜ疲れが来たのだろう、よい疲れだ、これは誰かが僕を愛してくれているからだな。

何もかも楽しすぎるというのも、問題があるわけか。
楽しすぎると、美のことを忘れてしまう。
かといって、楽しくないフリも苦手だし、どうしようもないのかもしれない。
書いていたら、また元気になってしまうな、僕には文学の才能がないのじゃないか、もっと疲れやすい奴でないと。

不幸は他人に押しつけよう。

疲れるということは、他人に不幸を押しつける権利が発生するということだ、すばらしいことだな、美そのものといっても過言じゃない。
なぜか僕は、生まれつき愛している人がいて、それが僕を支えてくれている、どこの誰かはわからなくてもだ、なぜこんなふうになっているのかは僕にもまったくわからない。
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あなたの「人」としての時間が始まるとき
近、もう仕組みが視えてしまったので、語るのにあまり躊躇しなくなった。
ふつう人は、「動機」で動いているのだ、「動機」を持たずに動いている人はブッ壊れている、いい意味でも悪い意味でもだ。
あなたはきっと、どこかでそうした、「動機」とは無関係に動いている人を見るべきだし、またどこかでそうした、「動機」とは無関係で動いている人に、出会うべきでない。
なぜかというと、「動機」で動いていない人は、マジで愛で動いていたりするし、逆に、マジでナゾの悪霊みたいなもので動いていたりするからだ、どちらに出会うかはおおむね運で、ハズレに出会おうがアタリに出会おうが、あなたは大きな影響を受けてしまう。

たぶん、「動機」を持たずに動いている人は、見るからにもう気配がおかしい。
何しろ「動機」で動いていないのだから、その人を止める方法が根本的にないのだ、その実物に出会ってその現象を目撃することは、あなたに奥底の魂を自覚させるだろう/だがそれは、コントロールできない「動機以外のもの」に支配されるということでもあり、なかなか迫力のあることで、思われているより穏やかなものではない。
目の前の人が、まったく何の動機もなしに、あなたに口紅を買ってきて、勝手にあなたの唇に色を塗り始めるとき、あなたは生まれて初めて「人」に出会ったという感触を覚えるはずだ、それがうつくしいものであれ恐ろしいものであれ、そうして「人」がいたことはあなたに突き刺さるだろう。
だから何というか、あなたが佳い人に出会えますようにと、祈るしかない、あなたは生まれて初めて「人」に出会って、その日からあなたの「人」としての時間が始まる。

そのとき目の前の人は、動いているように見えず、ただ「当たり前」の何かに視える。

人にとって、人が「動く」「動いている」という感触は、あくまで動機から生じた挙動を、「動いた」「動いている」と感じるものだ、比べて動機なしに挙動しているものは、一般的な「動いている」という感触をもたらさない、そのときあなたは初めて何かの「世界」を視て、進むか引き返すかの岐路を問われる。
そのとき人は、しゃべっていないのに話していて、言っていないのに響いていて、聴いてないのに聞こえている、触れていないのに触れられている、知らないのに知っている/願わくばあなたが、佳い人に出会い、動機だけで動き続けるという、動物的な生から離れますように。
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僕の視ている「不自然」について4
1960年代、ビートルズや映画「007」などがやってきて、日本人の眼前に、「華やか、かつ、カッコイイもの」がぶつけられてしまった。
そこで、華やかでなかった女性は、反発から共産主義に傾倒してサヨクになってゆき、カッコよくなかった男性は、反発から「空っぽおじさん」になっていった。
いわゆる「サヨク」が、現在の日本の風潮に大きな影響を与えてきたのは、すでに誰もが知る事実だし、実はその裏側で、「空っぽおじさん」も、現在の日本の風潮にそこそこの影響を与えてきたのだ。
誰もポール・マッカートニーが空っぽだとは言うべきではないし、ショーン・コネリーが空っぽだとも言うべきではないだろう、そんな主張は無理がありすぎるからだ、にもかかわらず、空っぽおじさんの勢力は、そういったものから目を背けて、空っぽの自分たちに住みよい世界を創ろうとした、その結果として現在の日本があるのだった。

労働組合が資本家・経営者を抑制しているように、「空っぽ組合」が、魂・創作家・表現者を抑圧していると見ていい。
ふつう、資本を持つ者が資本を投入し、富を生産しようとすることは、前提として熱気と活力にあふれることなのだが、そこで労働組合は「いやいや……」と水を差すのが仕事だ、それはそういう機能のものとして社会的に必須だと認められているのだから、そのことを否定するわけではない。
それと同じように、ふつう、魂を持つものが魂を投入し、命を生産しようとすることは、前提として愛と光にあふれることなのだが、そこで「空っぽ組合」は「いやいや……」と水を差すのだ、このこともあるていどは人々に歯止めをかけるという意味で必要な機能ではあるが、大多数が「空っぽ組合」に入ってすべての創作・表現に水を差すというのでは、バランスが崩壊している/まるで資本主義を抑制の果てに殺してしまって全体が共産主義化するように、創作と表現を殺しきって全体が虚無主義化するということが起こる。
今すでに、「空っぽおじさん」を断じるしかない状況に来ているが、それは「そういう組合の人」と感じとって断じるというのが、正しい判断を扶けるだろう、空っぽ組合の人は空っぽでないものが大キライなのだ、まるで本能のように空っぽでないものをつぶしにくるのでそのつもりで(そのように知っておかないと、あなたが被害者になるときに仕組みがわからなくて混乱する)。

労働組合に敵視されないと経営者にはなれないし、空っぽ組合に敵視されないと魂の人にはなれない。

試みに、このように準備し、このように実践してみてもいい、何かそういう被害に遭ったとき、何の説明もなくていいから、「組合の人ですか?」と訊いてみることだ、すると相手は、「何のことですか?」とは言うが、本能的に、「心当たりがある」という顔をする、そうしたらあとは、「いえ、何でもないです」と打ち切ってしまえばいい、彼らは本当にそうして「組合の人」なのだ。
空っぽ組合の人は、そりゃあ、空っぽでない人を見過ごせないだろうし、空っぽおじさんはそりゃあ、空っぽ組合に入っているだろう、そういうものだと断じることが、すでに必要な局面だ/空っぽ組合というものがあって、空っぽおじさんは組合員として存在していると捉えると、表層と整合してすっきりするのだ、いま魂のないすべてのものは、そうして組合の承認の上で人々の前に展示されているということだ。
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僕の視ている「不自然」について3

には当然、女友達が多いし、その中には美人も多いから、「セクハラ」についてのリアルなレポートも受ける、セクハラだけでなくDVなどの話もよく聞くが、それらのすべては当然、聞いているだけで身の毛もよだつような話だ/冤罪があってはならないが、法的なことの以前に、セクハラというのは人文的にゲスで、ひたすらおぞましいとしか言えない、また痴漢というのも、ふだんは清潔な思春期の少年が、抑えられない昂ぶりにおいてついというのならまだしも、いいかげん飽きるだろというようなおっさんがハアハアやっているのは単純に言って頭がおかしいとしか言えない。
僕は男性だし、法曹の者でもないので、セクハラの善悪を論じうる立場になく、だからただ「おぞましいわ」としか言えないが、そのおぞましさについて、セクハラおじさんに対して報されるべきことは、セクハラの罪悪性ではなく、「おじさんはこの世界に要らないのですよ」ということだと思う/セクハラおじさんはきっと、そのことが視えていないから、セクハラという意味不明の暴挙に出ている気がするのだ。
セクハラおじさんは、セクハラをしたから罪人ということではなく、セクハラしていなくても、そもそも「この世界に要らない人」なのだ、そのことを報されていないから、おじさんはわけがわからなくなってしまうのだと思う/「この世界に要らない人」などと言うと、残酷に思えるかもしれないが、そんなことを言えば、僕だって自分自身がこの世界に「要る人」だなんて前提は持っていない、そんな傲慢な思い込みを前提にしてたまるものか。
何の因果か知らないが、気づけば青春も恋あいもなく、真の友人や、真に愛したものもなく、魂に刻まれた思い出というようなものもなく、空っぽのおじさんになり、「この世界に要らない人」になってしまっていたということについて、急に発狂しても不毛なことだ、それよりは冷静に、この世界に本当に必要なものは何だったのかを考えるべきだ/自分が「この世界に要らない人」だと認識すると、ヒサンな感情に囚われるかもしれないが、何が要らないかといえば、そのヒサンな感情が一番要らない、その感情を必要としているのはこの宇宙で自分ひとりだけしかいないからだ。

冷静に考えれば、「空っぽおじさん」は、青春や恋あいや、歌や映画や、熱気や冒険といった、不可欠に「必要」なものに対して、縁遠くネガティブだったということが理解されるはずだ、そりゃ名実ともに「空っぽ」なのだから、「必要なもの」のすべてに対して無縁で生きてきたに決まっている、こんなことは冷静になれば誰にでもわかる。
だから、単純にいえば、空っぽでない人がいたとすれば、その人は思ったより、自分の知らないところでガンバってきたということなのだ、そしてそのガンバってきたものがないのに性的な接近やおさわりをすると、「セクハラ」になる/女性はセクシャルな接近を単純にセクハラと呼んでいるのではなく、「空っぽの性欲体」が接近してくるときのブキミさをセクハラと呼んでいるのだ。
空っぽおじさんが知らなくてはならないのは、まず、「空っぽでない世界がある」という、これまで知らなかった未知の事実だ、そのことに「ええええ〜!?」と驚きの声をあげること、それが空っぽおじさん脱却の道で、このことは年齢と柔軟性と導きが要件として整っていれば、なんとかなる場合も少なからずある。
「空っぽでない世界」というのが本当にあって、その中には「空っぽでない男」もいるのだ、そして空っぽでない男が女を抱きしめたり、セックスしたりすると、「空っぽでないセックス」というのも成り立つのだ、このことを女性はふつうセクハラとは言わない/なぜこの当たり前のことがわかりにくくなっているかというと、空っぽおじさんの勢力が増大し、世の中のほうを空っぽにするように手続きを進行させたからだ、全員を空っぽにすれば自分も「ふつう」としてイケると画策したわけだが、その方策はまだ成功しきっていない、成功しきったらもちろん空っぽおじさんたちの勝ちだが、その策は未だ平成のうちは完成しなかったようだ。

「空っぽおじさん」を断ぜよ、今なら先行者特典がついてくる。

特典で釣ろうとするのも浅ましい話だが、まあ別に結果がよければいいだろう、じっさい今ならまだまだ特典がついてくる、誰よりも先に「空っぽでない奴になるのはむつかしいよ」と笑って宣言できる男になれば、まだ可能性おじさんとして話を聞いてくれる女が全体の5%ぐらいはいるだろう。
必要な勇気はせいぜい、「立場」を捨てる勇気と、「立場」を放棄した自分が、なんて空っぽなんだろうと認めるだけの勇気だ/青春、恋あい、歌、映画、熱気、冒険、それらのすべては基本的にもう手に入らないものだ、それは、もう手に入らないのが当たり前じゃないか? 何も手に入らないなら勇気も無駄遣いかというと、そうではない、勇気をもって「空っぽおじさん」を断じたら、少なくとも「不自然」はやめることができる、空っぽおじさんが空っぽを断じることは、無念ではあるけれども不自然ではないし唯一ブキミでもない。

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僕の視ている「不自然」について2

「おれは空っぽに生きてきたからなあ」と、頭を掻いて話すおじさんはいなくなった。
何かこう、ムンムンと、「一家言あります」というような顔で、おじさんは歩いている、もしその一家言でも聞こうものなら、おじさんは際限なく演説しそうだ。
おじさんはそこまで有能なのだろうか、けっきょくドルレートが固定の360円でなくなって以降は、そんなに大活躍できないのが日本だと思うが、おじさんのムンムンした顔面の気配はとても苦手だ、ここにきておじさんには青春も恋あいも冒険も熱気もなかったということが、致命傷として現れてきているような気がしてならない。
空っぽおじさんが唯一持っているものといえば、もう「立場」しかない、「立場」というのはほとんどの場合ただの力関係でしかないから、立場においては下の者に対して傲慢が利くかもしれないが、そんなもの仮初めでしかないというのをすべての人が知っているので、空っぽおじさんはもう悪あがきをやめることだ、これ以上世の中の病巣の当事者になるべきではない。

女を愛したこともなく、むろん女に愛されたこともなく、青春や熱気、かけがえのない時間を持てなかったということは、割とふつうの大多数のことであって、「空っぽ」ということを、そこまで引け目にする必要はないと思う/空っぽなのは当たり前であって、そもそもこの世の中に人を空っぽでなくしてやろうとはたらきかけてくれるようなおせっかいな装置はない、だから空っぽというのは当たり前だ。
おじさんは今、自分の生は空っぽではないと、言い張らねばならないという不明の恐慌に陥っていて、本当にキリキリしており、こころの余裕を失っている/本来、まともなおじさんというのは、若い人たちが恋あいと青春と熱気の中を生きるのを見て、「うらやましいなあ、おれはそういう時間を持てなかったからなあ」と無念そうに笑うものだ、そりゃそうだろう、いったいどんな映画の中で、おじさんがおじさんの顔をして青春探しをしていることがあるか。
すべての若い人が、「空っぽおじさん」のメンタル生存に配慮せねばならない状況があって、そのせいで、若い人は若い魂を埋没させたまま生きてしまっている、空っぽおじさんは己のメンタル生存のために、躊躇なく「立場」まで使うのだからムゴいものだ、「この件はおれがやっておくからお前は合コンに行ってこい」と新入社員に言い放つ課長はいなくなってしまったのだ、何なら課長が合コンに行こうとしているイタい状況が実際にある。
おじさんは、自分がこの世界に「要らない」ということが、どうにも受け入れられないようだ、ずいぶんケチくさいことだと思うが、おじさんは思春期に戻ってしまったのだろうか/人々にとって、歌や映画や恋あいや熱気や冒険はけっきょく不可欠のものなのだが、これらを「必要」と断定するということは、空っぽおじさんを「要らない」と断定するということなのだ、その例外の代表が「歌のうまいおっさん」だが、この事実が受け入れられないため、空っぽおじさんたちは「歌のうまいおっさん」がこの世に生じない手続きをしてしまった。

空っぽおじさんは、若い魂を殺すと自分が救われると思い込んでいる。

ブラック企業の上司というのもそうだし、やたらしきたりを押し込んでくるおじさんというのもそうなのだ、つまりこの世に「空っぽでない男」が出現することを全力で阻止している、そのことは、誤解とはいえ魂の希求なので、バカみたいだが本当に歯止めが利かない。
ここに空っぽおじさんが10人いたとして、そこに一人の若い男が、輝ける男として、後には「歌のうまいおっさん」にでもなろうとしているのであれば、空っぽおじさんたちは彼を援助し、「おれも本当はお前のような男になりたかったぜ!」と励まして言うかというと、言うわけがない、どの女にも救ってもらえなかったおじさんがそんなカッケー発想を持てるわけがない/空っぽおじさんは、なるべく「立場」を利用して、可能性兄さんに「勝利」しようとしているのだ、その結果として、現代のすべての不自然が生成されているように僕は感じている。

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僕の視ている「不自然」について
施明や尾崎紀世彦のような、「歌のうまいおっさん」は、どこへ行ってしまったのだろう?/フランクシナトラでもいいし、そこからさらに遡って、たぶん観阿弥や世阿弥の時代にまで遡っても、「歌のうまいおっさん」というのはこれまでの時代に必ず存在したはずだ、「歌のうまいおっさん」は現代でどこへいってしまったのだろう。
あるいは「恋あい」というのはどうだろう、シェイクスピアの時代から恋あいは大きなテーマとして存在しており、近年でも90年代に、人々は「ねるとん」だの「あいのり」だのに一定の「恋あい」への希望と衝迫を見いだしていたし、少女マンガには「恋あい」が大真面目に真剣に描かれていた、これら「恋あい」はどこへいってしまったのだろう。
また、ワーグナーあたりから以降は、これという交響曲の作曲家は出て来ていないし、他にも映画といえば、「これぞ映画」というような、ヒッチコックのような作品は出てこなくなった、そういったシリアスな迫力の作品たちはどこへいってしまったのだろう。
あるいは、松田優作やジャッキーチェンのような、熱い兄さんたちはどこへいってしまったのだろう、あるいはドラゴンボールや天空の城ラピュタのような血湧き肉躍る冒険活劇はどこへいってしまったのだろう/僕はこれらのすべてについて、「不自然」を一挙に視ている心地でいるのだ、歌も映画も恋あいも熱気も冒険も「ない」という事実に、誰が心底から納得しているだろう? 多くの人はそのことについて考えるのをやめてしまったが、考えるのをやめたとしても、状況の進行がなかったことのように消えてくれるわけでは決してない。

当たり前のことだが、人はどうあがいても、歌や映画や恋あいや熱気や冒険が「要る」のだ、それが得られないからといって、最新の薄型ノートPCをいじくってみたところで、本質をごまかすことは出来るわけがない。
今や、少子化の時代だから、渋谷でさえおじさんやおばさんがあふれかえっているが、年齢のことはどうだっていい、ただそのおじさんたちやおばさんたちは、歌や映画や恋あいや熱気や冒険が「ない」もしくは「なかった」人々なのだ、だからどう加工して表面を装ってみても、本質的に「ブキミ」だ、必要だったすべてのものを何一つ得られずにきて、それで最後まで「ふつうです♪」と言い張れるわけがない、眼の奥や呼吸や皮膚の気配が、どうしたってブキミなのだ、そんなこと本当は当人だってわかっているだろうに。
なぜこんな状況になったのかについて、きっと誰一人、まともな回答を持っていないだろう、だいたいがやけくそで「時代の変化かもねえ」とつぶやくだけで、誰一人「わたしはわけがわからなくなってしまったのです」とは言わない/あまりにも多くの人が空っぽのままニコニコしていて、とてつもなくブキミだ。
街中から喫煙を減らして、LGBTを社会化して、菜食化して有酸素運動をして、意識を高くしてクラウドファンディングに賽銭してみたとして、そんなことで恋あいや熱気や冒険の代替になると思うだろうか? <<何かしらの手続きによって人類から「歌のうまいおっさん」を消去できるらしいが>>、その手続きが為された上に、全員がウソをついたままニコニコしているのがとてもブキミだ、もともと恋あいというのは努力の活動ではなく男女が「まとも」だったことの証として起こる当然の現象にすぎなかった、それでもまだニコニコするのか。

空っぽおじさんは虚無の死におびえすぎだ。

僕が思うに、「空っぽおじさん」といって、多くの人はよくよく考えれば空っぽに生きてきたのが当たり前であって、そのまま空っぽのまま死んでいくのがごくふつうのことなのだから、ヘンにライフワークや主張を持たないほうがいいと思う、空っぽに生きてきたということは、まず途中からは巻き返しが利かないのだ、むしろその「空っぽでないフリ」をすることが、すべての時間を空っぽにしてきたに違いないのだから、いいかげん諦めて堂々と空っぽの生そのものを引き受けて表示すべきだ/どんなライフワークと主張があるフリをしても、<<空っぽおじさんの話を聞きたがる人はこの宇宙に一人もいない>>、この当たり前の事実からいつまでも目をそらすべきではない、<<空っぽおじさんは社会的な「立場」に乗っかることでしか話を聞いてもらえない>>というのが事実だろう。
僕が視ているすべての「不自然」は、空っぽおじさんのオタメゴカシのためだけに、際限なく生成されているような気がしてならない、そんなことのために「歌のうまいおっさん」は消去されていったのか……誰にも何も必要とされず、自分の生に一厘の価値もないということが、そんなにおそろしいか、それはちょっと単純に宗教観が甘すぎるのじゃないか/僕は自分が誰かに必要とされるとか自分の生になんらかの価値があるとか、そんな甘い夢想に頼ったことは一度もない。
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