☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
たとえば、日常的にカルマが増産される具体例
こに、太郎と次郎、花子と幸子を用意したとして、太郎が花子と結ばれ、次郎が幸子と結ばれたとする。
すると、それは四人についての「認識」、およびそれぞれが愛し合って生きていくという「行為」の生成になるのだが、これは餓鬼道の者にとっては「つまらん」と感じられる、なぜなら名前も色も刺激も見当たらないからだ。
そこで、餓鬼道の者にとって「魅力的」にするためには、デカい英名と派手な彩色を施すのがいい、たとえば太郎と次郎というのを、太陽神ゲランと冥王ナザルとし、花子と幸子というのを、月の聖霊メフィーナと神韻の歪女ピエリタとする。
太陽神ゲランと月の聖霊ミフィーナが交合するとき、橙の尋なる光線と青白の零度滴が交わり、その空には昼でもなく夜でもない色光が六百日に亘って示される……! そして冥王ナザルと神韻の歪女ピエリタが交わるとき、白矮超物質の鍵盤に永遠の闇色をした「盲」の雷が落ち、二千日に亘ってその音響が人々の肺腑を締め上げ続ける……! とすると、単に名前や色がイカツイという理由で、餓鬼道の者たちには魅力的に感じられる。

これはしょうがないのだ、「原理」なので変更のしようがない/餓鬼道にいる人は本当に「名前、色、形」「刺激」しか摂取できないようになっているので、いくら教育で矯正しようとしても、治らない、治るとか治らないとかではなく、これは所属している「道」が違うのでどうしようもないのだ。
そりゃもちろん、その者を本来の「道」へ引き上げてやるという、その修行のありようを示し、かつ与えられる人があれば別だが、そんなご立派なものはまずわれわれの身の回りには存在しない、いくらタロットカードで占ったところで何の意味もないのだ。
そしてふと気づくと、やれ「太陽神」だの「冥王」だの、「聖霊」だの「神韻」だのといった、本来は尊ぶべき英名が、餓鬼道のおもちゃにされている、そしてこんなことがどうやらきっちりとカルマにカウントされるらしいのだ/しかしこんなものがマンガ本に載っていたら、餓鬼道の者は「うおお〜」と実に愉しんでむさぼってしまうだろう(特にそこに、セクシャルな刺激の表現もどうせてんこもりにされているのだから)。
別にそのことを引き留める意図は僕にはないし、引き留めようったって引き留められるわけがないのでしょうがないのだが、ただそういうことで日常的にカルマは増産されているということ、毎年といわず毎月というような勢いで、「なぜか、大切に感じていたものが大切でなくなっていく」という現象があるのだとしたら、背後にはこの原因がある、カルマ増大分だけ「大切なもの」は奪われていくのがルールなのだ。

カルマ的に、「稲中卓球部」はいいが、「セーラームーン」はよくない。

「稲中卓球部の前野」は何もビッグネームではないのでかまわないが、「セーラームーンの月野うさぎ」は、「お月様の使者」みたいになっているので危険だ、いわば「かぐや姫」にセーラー服のコスプレを着せているような遊びなので、ガキはよろこぶが、性質的に危険だ(サンプルが古くてごめんなさい、こちとらジジイなのでな)。
マンガといって、「コボちゃん」とか「ドラえもん」とかではダメなのかね……とまさにジジイの発想だが、さすがにコボちゃんやドラえもんを読んでいてカルマが増大するということはない、カルマが増大すると報いがある上に学門をますます奪われるので(学門が自分に入らなくなるという罰を受ける)、何もそこまでしてマンガをむさぼることもないだろう(というのもジジイの発想なのだろうか)。
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「ガキに上物を与えると発狂していく」という法則
間は、生後六か月よりのち、「クソガキ」と呼ばれるように、たいてい餓鬼道に落ちていく。
餓鬼道に落ちた者は、「認識」や「行い」をまともに持つことができず、物事を「名前、色、形」「刺激」でしか受け取れない状態になる。
だから、たとえばクソガキを高級料亭に連れていくと、クソガキはそこに供される料理に「学門」があることがわからないし、それが料理であるという認識を持てない、また食事という「行い」(営為)もできないので、不可避的に上物(高級品)を「侮辱」することになる。
上物を侮辱すると(低級者が高級者を侮辱すると)、それは罪業(カルマ)になるので、何か不穏な感じがする、この「不穏」だけはガキにも直観的にわかるので、ガキは内在的な恐怖のせり上がりに叫び始める、そして日々積み重なっていく恐怖に耐えられなくなり、ガキは発狂していく。

年齢がいくつになろうが、餓鬼道にある者は、本当に名前や色や形、あとは「刺激」しかわからないのだ、だからそういう餓鬼道にある者にたとえばマイケルジャクソンの映像を見せても、必ず「やばい」「超かっけえ」「マジクール」「キレてる」としか言わない。
マイケルジャクソンが何を「行って(行為して)」いるのかがわからないし、またそのことを「認識」もできないので、餓鬼道の者は「色と名前と聴覚に刺激を受けて、やたら声を高める」ことしかできないのだ、それで「マイケル超かっけえ!」と言うのだが、これが不幸なことに当人のカルマになるのだ。
なぜカルマになるかというと、「人間道にある高度な人間(とその営為)を、餓鬼道にて消費する具材に供した」という罪業になるからだ、本人にはそんなつもりはないのだが、「そんなつもりは……」というような寝言は聞いてもらえない、これはキビシイことなのだった。
たとえば「モナコの花畑」という写真を示すと、餓鬼道の人はただその「名前」と形と色彩の派手さにフワフワ〜っとなる、ときにはそれをインスタ映えと呼ぶかもしれない/そこに何の認識も行いも見出さないまま「フワフワ〜っ」となってしまう、<<そのことが避けられないのが餓鬼道です>>、つまり餓鬼道の者が人間モノに「いいね!」をつけると、それだけでカルマは増大してしまう、それがおそろしいので、人は発狂していってしまうということだ。

年齢に関わらず、餓鬼に上物を与え続けると、強制的にカルマフィーバーにしかならない。

まあ、仏教等が唱えるカルマ説を真に受ければだけどね/しかし実際、たとえば家で飼っている犬を、「家族だから」といって人間と同じ食卓に座らせてエサを食わせていると、他でもない当のワンちゃん自身が、唸ったり噛みついたりする犬になってしまう、生きものはそうしてカルマ生成の原理は知らないくせに、カルマ増大の「不穏」だけはどこかで感じるのだ。
「認識」「行い」がまともについてこない、物事を「名前、色、形」「刺激」でしか捉えられない者に、上物をやってはならない、それは何より上物を与えられた当人にとっての不幸になってしまう。
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「フィクション講習会」で発見された意外なこと
告通り、「フィクション講習会」というナゾ企画を板橋でした。
案の定、誰もできやしねーぜと嘆いていたのだが、その後半、とんでもない発見が起こった。
フィクションが、まさか「受け継がれる」ということ、受け継ぐ形においてなら、人はフィクションを手にできてしまうということ。
これは、誰に説明してもわからねーと思うが、フィクションに「受け継ぐ」なんて大前提を認めるとすると、もう原理の根本が大転換されるのだ、それで「えええええマジかよおおおお」と、この二日間はとりあえずグーグー寝ていたのであった、いやあ困った困った。

「怒りの日(六日目)」で書いたが、人間の持つ「体験」という能力は、夢の機能であり、よって同時にフィクションの機能でもある/それはつまり、人間にとって体験において「見える」(明視される/ヴィジェニエ[видение])ということは、「フィクションだから見える」ということだ。
で、僕はそのフィクションの能力者だから、僕がフィクションをやると「見える」のだ、フツーの人にはこれを現成させるのはムリ……なのだが、まさかのまさか、僕が見せたフィクションを「受け継ぐ」「引き継ぐ」という形でなら、誰だって「できる」のだ、これはおそらく、僕がやるからまず「見える」わけで、これは「見えた」なら誰でもできるんじゃね? ということではないかとまず推測される。
そしてさらに言えば、僕の持っている数限りないフィクションの現成も、実はすべてどこかで「受け継ぐ」ことで与えられてきたのでは? という可能性が出てきたのだ、もしそっちがマジだったとしたら、これは根本的なセオリーに大転換を要求していることになる。
「明視」(ヴィジェニエ[видение])というのは、ロシアフォルマリズムの文学論であり、異化と想像力論の話なのだが、これらをもって真に「見える」と定義するのは文学的にアタリマエ、しかしこれを「受け継ぐ」だと……? つまりそれは人間は自前ではこの世界の何一つをも「見る」ことができないということじゃないか、するってーと人間がこの世界を「見る」ための第一の「引き継ぎ」は、各国や各民族、また各宗教で与えられる自分の「名前」および「神話」ということに必然なる、こりゃおめえ神話と名前の教授者が第一にヘタこいていたら人間は一巻の終わりってことじゃねーか。

フィクションを「受け継ぐ」「引き継ぐ」という能力は、個々人に残存しているが、集団的システムとしてはほとんど崩壊している。

なんのこっちゃ……と思われるだろうが、まあしゃーない、こんなことに大論文を書いているほど僕もヒマではない/フィクションを引き受けて立たねばならないのは、何も僕の流儀ということではなく、それが「大人」だということだ、フィクションを授ける側に立つ覚悟と器量に到達した人間のことを事象レベルで「大人」と呼んでいるだけだ。
「フィクション」と「空想(イメージ)」の区別もつかないアンポンタン状況で、もうこんなん無理でござる、と投げ出したいキモチで一杯だが、まあしゃあない/「ヒントはお前じゃなくオレにあるよ、世界はいつだって今日から新しく始まる」と、とりあえず間違いのないことだけ言っておこう、ただし前途は多難をきわめている。
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アリオスに語られた彼の苦しみのこと
あアリオス? おれたちにはこうした形式が必要だ、おれたちはしばしば小説家という存在を必要とした、それはおれたちが「いかがわしいもの」に成り果てないためにだった。
アリオス、割と冗談ではなくて、この世界には秘密がある、それも理屈でビッシリと正しく整合した秘密がだ、その秘密は別に隠されているわけじゃなく、おれたちがアホすぎるから到達できないんだ、こんな機械仕掛けの工場で油まみれの仕事をしているようじゃ、無理が知れているよな。
アリオスよ……これまでにお前は何をした? そして特に、これまでに何を「言った」? 驚いたことだが、これまでにおれたちがそれぞれにしたこと、特に「言ったこと」は、どこかに記録されているらしい、もちろんインターネットや盗聴のことじゃない、この世界には何かあるんだ、おれたちがバカだからそのことに気づけないだけなんだ。
アリオス、あるときおれの女が、これはどうでもいい女だったんだが、急に朝、目覚めて嘆いて言ったんだ、「これまでに言ってきたすべてのことがわたしを苛(さいな)む」って、それを聴いて、おれはヤバいと思った、その女がヤバいんじゃない、その女の言ったことはたぶんマジで、そのことに気づかずに生きてきたおれたちがどれだけ不利だったかってことに気づいて、ヤバイと思ったんだ。

なあアリオス、すべてのことは記録されている、おれたちは忘れるが、記録は残っているんだ、それでわけのわからない苦しみが生じる……この理屈わかるかい? おれたちはデタラメに何かをdisったりする、そのことをおれたちは二分後には忘れるんだが、「記録」には残っているんだ、それで罰されているんだよ、このことが進むたび、おれたちの寝起きは息苦しく、身体は痛くなるんだ。
おれたちは、ICカードを持っていれば、電鉄の改札口を通ることができる、ただしプリペイドが不足のときはキンコンキンコン! とベルが鳴って、改札の扉は閉ざされる、これは目に見えるからわかりやすいんだ。
けれどもおれたちが、たとえば真剣に愛について考えたり、何かに感謝したり、芸術とか、もっとまっとうに、本当にこの世界に感動できるように生きようとするだろう、そのときになって、おれたちの目には見えない何かが、キンコンキンコン! とベルを鳴らして、その扉を閉ざすんだ、入れてもらえないんだよ、<<これまでのことがすべて記録されているから!>>
なあアリオス、おれたちはこれまで好き勝手にやってきたし、ときに正論をいい、平等とか、権利とか、そのときに正しいと思うところを主張してきたんだ、だが思い返してみれば、そのたびに「イヤな予感」がゼロではなかったんだよ、きっとおれたちは迂闊だった、おれたちのICカードの残高はすでにひどいマイナスで、もうまともな扉は全部閉ざされて、ひどい世界への扉しか、おれたちを招き入れないんじゃないかって思っている、でも引き返すとしたら今しかないとも思うんだ。

身も心もずっしり重いのは、体調や食いもんなんかのせいじゃない。

まして年齢のせいでもないし、このしんどいのを何とかしようとして、ハイになるようにこころがけたり、運動したりしても、そんなことでは解決しないんだ、おれたちは目に見えないから平然としているというだけで、きっと何かが本質的にヤバいんだ、きっとあのときの「イヤな予感」のすべては記録されているんだ、おれたちはイイ気分になって過ごしてきたが、それはありていに言うと悪魔のささやきだったんだよ、おれたちは自己表現なんかするべきじゃなかった。
あの女は、「朝起きたときから、何かが終わっているの、苦しいの」と言ってたぜ、「何もないのに苦しいの!」ってアイツは叫んだんだ、今おれにはそのことが他人事じゃないように感じられる、あるときふと、なぜおれはステキなことが捏造でしかやれないのか、考えたら不気味に思えてきたんだ、なあアリオス、こんなおれでも今から勉強してすべてをやりなおすことはできるんだろうか、誰もおれに控えめであるようにとは教えてくれなかったんだ。
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「遊ぶ」というのは特権階級の営為だ
抜きせず遊ぶ性格、また手抜きせず創作もする性格なので、毎日のように目がチカチカ、頭がフラフラしている。
なんだかんだ、あさってに突発でする「フィクション講習会」も、あと一名で満員ということになってしまった、まあ小さな会議室でやるだけだからな……
あ、講習会の、資料を作らないとな(どうせギリギリに作るのだが、頭の中には全部収まっているので慌てなくていいのだ)。
こころおきなく遊ぶ、しかも消費せずに遊ぶ、ということは、相当優秀でないとやれない、ということが最近いよいよわかってくるのだった、「本当に楽しい」というのはそれだけで高級品なのだ。

もともと、「遊べる男」というのは、それだけで小さな、特権階級だった。
現代では、なぜか誰も彼もが、特権階級のふりをしてよい、という平等論が強行されており、ウイスキーとブランデーの区別がつかないようなおばちゃんでも、一本二万円するワインを飲んで、その論評をしてよい、ということになっている。
別にそういったことが、悪いことではないのだろうが、さすがにそういう光景に「友人」を認める気にはならない、それは同時に、何も友人だけが偉いというわけではないということでもあるのだが。
別に何の批判もするつもりはないのだが、僕は本当には楽しくないことに楽しいふりをするということができないし、経験上、本当には楽しくないことを楽しいふりをし、しかもそこに時間とお金を消費するということは、運気を下げる感触がするのだ/遊ぶというのは特権階級のすることだから、その階級を欺瞞した分には、きっと運気の低下で代償を支払わされるだろう。

無意味に微笑んでいる人は、きっと遊び方がわからないのだと思う。

たとえば「真冬の海でも見に行くか」と車を走らせるとき、それは遊びなので、何ということでもないのだが、それがどういう遊びなのかピンとこない人は、わからないままその場しのぎをするために、無意味に微笑んだり、無意味に「テンションを上げたり」するのだと思う。
「遊ぶ」ためには、男と女というのを知らねばならないし、オトナとコドモや、都会と田舎、などを知らねばならない、そして意見と称賛の違いも知らねばならないので、「遊ぶ」ということができない人は「称賛」を知らず、見当違いのところで「意見」ばっかり言っているだろう、「遊ぶ」ということはけっこう高級なことなのだった。
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フェルガナと女神

イトルは意味不明なのでお気になさらず……といっても本文も意味不明なのでお気になさらず。
僕は、カミサマになることはありえない(当たり前だ)、人間なのだが、人間にとってカミサマとの合一とは……?
人間にとっては、カミサマと出会うと、カミサマのためのしもべとなるのだが、それがつまり人間としての、カミサマとの合一なのかもしれない。
人間がカミサマぶるのは、単に理屈として合わないし、人間がカミサマを言い張る必要そのものがないな、カミサマがおるんやったら人間はカミサマじゃなくてええやん……もちろん天皇陛下やブッダやキリストにおいては識らない、そんなもんおれが識りようがあるか。

僕は異様にドスケベなのだが、ドスケベも度を超すと性欲とかではなくなってしまうもので、そもそも性欲をあれこれ言うのはフレンチで食欲をどうこう言うぐらい意味がねーよ、とにかく僕はドスケベすぎて、いつからか女神のしもべなのかもしれない。
カミサマと合一すると、自分の人格が変質するというか、何か別の名前にならない? 何か髪の色や目の色、年齢や国籍も変わってしまう気がするのだが……あのとき僕はきっとフェルガナにいたのだが、そこに残っている僕は現在の僕という人格ではない、自意識としては「僕」なのだが、髪の色も目の色も国籍も違うやん、という形で記憶に残っている。
女神というのも、見たのかどうかというと、そもそも「見る」とかいうものではないし、カミサマと出会うというとイコール「合一する」しかないのじゃないか? そしてその姿は、光量は違うにせよ、姿そのものは人間と変わらんというか(あまり間近に近づけるものでもない)。
とにかく、カミサマに出会うということは、合一するということらしく、何か名前も国籍も髪の色も目の色も違って、それでもそれは「僕」なのだが、自分の真ん中にビタッと「認識以前の目的」が入り込み、ただただすばらしい気分とファンファーレが聞こえる、フェルガナで僕は武器を取って戦っているのだが、その戦いは人間の戦いではない、じゃあ何と何が戦っているのかというと、識らないのだ、次々に悪魔が出てきやがるのはわかる、でもそれが何の戦いなのやら/僕にはただ戦い進む方向だけが与えられている。

たぶん、「本当の目的」は、ぶっ飛びすぎていて、誰にもわかるはずがない。

僕が生きる本当の目的、というようなものがあったとしてだよ、それがオメエ、名前も違うし国籍も違うし髪の色も目の色も違う、しかも人間の戦いではない戦いで武器を取っているし、何か識らんが光量だけがわかる女神に属して戦っているとか、そんなもん人間の知恵でわかりようがあるかよ、しかもこのぶっ飛びの目的って、たぶんひとつじゃないぞ、出会うカミサマごとにこんなんいくらでもあることになるぞ、じゃあますます理解なんて不可能じゃないか。
なぜこんな意味不明の話をしているかというと、僕が自分の浅知恵で「自分の本当の目的」みたいなものを、誤解したくないなあ、忘れたくないなあ、と思ったので、書き残しているのだった/たぶん僕が「僕」であることはずっと変わらないのだが、僕が「誰」であるかは無数のパターンがあるのだ、こりゃやべえぞ、こんなもん全容の識りようがあるか、無理に決まっているが、「僕が『誰』であるかは無数のパターンがある」というのは、しっくりくるし、何かこう正しい納得と、あのときの可能性を恢復するよなあ、これでよかったわけかと、もう何十年ぶりに腑に落ちるというか、発見する心地だ。

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傲慢の反対は一所懸命10
いうわけで、単に「一所懸命いきましょう」という、ただそれだけの話。
なぜ一所懸命いくか? それは、そうしないとつまらないからだし、そうしないと、けっきょく救われないからだ。
「一所懸命」じゃないということは、傲慢ですよということ、謙虚ではありえないですよということ、そんなこと、よくよく考えれば言われなくても誰でも識っている。
「一所懸命」の人は、それだけで輝いているし、その人がいるだけで「わあっ」とよろこばれ、何か丁寧に扱われるものだよ、そのとき酒もメシも旨いものだし、旅行も遊びもすさまじく楽しい、そして愛なんてめずらしくもなく満ち満ちているものだ。

逆にいうと、自分が登場しても、「わあっ」とよろこばれないということは、つまり「傲慢がバレています」ということだ。
謙虚キャラ、頑張り屋さんキャラ、マジメキャラ、控えめキャラ……とやって、世渡り上はうまくいくかもしれないが、けっきょくバレている、「一所懸命イコール謙虚!!」という、その一撃がないのでどうしようもない。
「一所懸命」という、これはどうしようもないものなので、ゴネたところで無駄だ、ゴネたらすぐ「じゃあ、どうぞ」と言われてしまう、その場で一所懸命の光輝を発してもいいし、一所懸命に生きてきたならしゃべってウケる思い出のネタなんていくらでもあるはずだ。
「一所懸命いきましょう」なんて、僕みたいなジジイが言うことではないと思うけれどな、本来はこういうのは若い奴か、何であれば思春期の少年少女が言うものじゃないのか/もし僕が一週間のうち三日もヘトヘトにならずに生きているようなことがあったら、そのときはもう僕のことは生ゴミの日に捨ててくれ。

「一所」、それを探す必要はない、なぜならいつも目の前にある。

一所懸命になれない瞬間なんて、理論上存在しない、光なんか探しに行かなくても、誰だって目の前にある、さあ持ち前の「むつかしく思案納得してみせる」という得意技が済んだら、どうしようか、ひとまず言えるのは、転倒するならその言い訳は「なんて自分は傲慢なんだ」と言え、そうでなきゃ前方に転倒できない。
涙ウルウル、あるいは黙り込んでみるか、さらには声を高めてみたり、久しぶりの「前向きキャラ」を出してみるか……何をしてもいい、ただどうしたって「一所懸命イコール謙虚!!」という一撃には、誰だって一度は到達するしかない、「一所懸命」/もう一度申し上げるが、あなたの目の前にその「一所」がなかった瞬間はない、今あなたの目の前のにも、命を懸けるべき「一所」はゴリゴリに横たわっている。
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傲慢の反対は一所懸命9
の前に与えられたものは、何でも「一所懸命」にする、それが当たり前、それが大前提の「ルール」だ。
ただしこのルールは、状況の側があまりにもルールを逸脱している場合には、こちらもルールを放棄して逃走せねばならなくなる、つまり極端なブラック企業からは誰だって逃げるしかない、そんなことは冷静に対処するものだ。
そして、そのことに加えて覚えておこう、「これは付き合ってられん」と判断して逃げ出すとき、そのあとに決して<<ラクなところへ行かないこと>>、必ず<<これまでの倍ほどもキツいと感じられるところに行くこと>>、このことを肝に銘じておかないと、必ず逃げたことの罪によって相は大きく凶相に転じてしまう/これを「一所懸命のセカンドルール」という。
ブラック企業からホワイト企業に転職できたら、それ自体はすばらしいことだが、そのときは必ず<<自らで自分の暮らしにデカい負担を課すこと>>、たとえば残業時間以上に長くてしんどい勉強時間を自分に課すとかだ/不毛さから逃げるのはかまわないのだが、ラクなほうに逃げたら必ず大きな罪になる、ブラック企業を辞するときは内心で「もっとキツい生き方をしたいのでね」と定めておくことだ、これぐらい誰だって直観的に「確かに」とわかるだろう。

まともに生きていくには、ズルさが必要だし、ズルさがあったほうがいい、いくら「一所懸命」だといって、何もかも公明正大に生きようとしたら逆に破綻してしまう、そんなド真っ直ぐにこの世間はできていない。
ただ、このズルさにもルールがあり、やはり同じく「一所懸命のセカンドルール」だ、ズルをするときは、「やがて自分がそのズルをされる側になってもかまわない」と認めうること、それが認められないならそのズルはやってはいけない。
たとえばあなたが営業マンで、どうしても気乗りがしないという日、一日中カフェで過ごして仕事をサボったとする、それはかまわないのだが、そのことはやがて自分が課長になったとき、部下が同じようにサボって業務が遅滞しても「かまわない、そのときは自分が残業して仕事を片付ける」と覚悟できているかどうかだ、そのときに自分は腹を立てるというようでは、そういうズルはしてはいけない。
若い女性なんて、常に母親にウソをついていないとまともに暮らしていけないわけだが、そうして母親をだますときも同じ、自分が母親になったときそうして娘にコロッとだまされてもいいかどうか/「それでかまわない」と思えることでしか、そういうズルはしてはいけない。

逃避は、よりキツい山に登る場合にのみ許される。

これは常識的な判断だ、20時間かかる不毛山より、30時間かかる芳醇山に登りたい、同じ一所懸命ならそちらに一所懸命になりたいし、そちらのほうがよりキツくても受けて立てるという場合だけ、さっさと切り替えよう/ここで5時間で済む楽々山に切り替えてはいけない、その逃避で増幅されたカルマは必ず厄介さを増して自分のところに戻ってきてしまうから。
ズルをする場合も同じ、自分が借金を踏み倒すなら、ずっと先に自分が倍額を踏み倒されても「かまわない」ということ、人の家に居候するなら、ずっと先に倍の期間居候されても「かまわない」ということ、こうしてどこまでも、「切り替えはするが、一所懸命からは逃げない、一所懸命はもっと増やす!」ということが、「一所懸命のセカンドルール」だ。
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傲慢の反対は一所懸命8

「一所懸命」だけが謙虚で、「一所懸命」だけが成長する。
「謙虚キャラ」の人はただのムッツリ傲慢だし、傲慢な人はどう強化しても「成長」はしない。
これ、少しだけマジメに言うと、仕組みがあるのだ、「一所懸命」な人はなぜ成長するのか、のみならず、なぜ「救われる」のか。
それは、「好きとか、やりたいとか、関係なしに一所懸命する」ということの中に、<<カルマの償却>>が混ざってくるからだ、その中で本人は知らず識らずカルマを償却し、何かが救われ、なぜか識らないが徳性が身に現れてくる、これによって「一所懸命」は人智を超えて人を成長させ、救済するのだ。

たとえばあなたが、高級スーパーの制服が「かわいいな」と思い、アルバイトの面接を受け、アルバイトに入ったとする。
しかしあなたは、調理場に回され、来る日も来る日も長靴を履き、とにかく青魚のウロコを取り、ハラワタを抜き、三枚におろす、という仕事をやらされることになった、慣れない臭いにうえっぷと吐きそうになる。
このときに、元の志望動機がどうであったにせよ、目の前に与えられたことを「一所懸命」やる人は、何であれ魚の捌きを一所懸命にやるだろう、それをやりつづけていく、やがてその血の臭いやハワラタのえぐさにも慣れるし、手つきもよくなる、刃物の使い方もわかってくる、徐々に捌かれた青魚に「清潔感」が宿ってくる/するとなぜか、あなたは持病が消えたり、悪夢を見なくなったり、不眠症や生理不順が治ったり、声がよく出るようになったり、表情が明るくなったり、よく笑うようになったり、これまでに理解できなかった学門やユーモアや芸術がわかるようになったりするのだ、そういうことが本当にある。
何の縁なのか識る由もないが、それはそうして調理場で青魚を捌くということが、当人の(前世か何かしらん)カルマ償却の営為だったということだ、こうして「一所懸命」の人は自分の識らないところで救われてゆき、徳性を身に現していく、本人はまったく識る由もないが、これは健康法を試したり習い事に通ったりすることでは解決しなかったことなのだ。

一所懸命に生きている人がたまたま手に取る本と、一所懸命に生きていない人がたまたま手に取る本は、正反対に異なる。

不思議なことだが、これは経験則として十分ご報告しうる、自分が好きとかやりたいとかいうことは関係なしに、ただ「一所懸命」に生きている人が、たまたま本屋で手に取る本は、識らなくても歴史的な良著だったりし、その人の一生を背後から支えるナゾの本だったりする/あるいはたまたま立ち聞きする話、たまたま出会う誰か、たまたま立ち寄る店、たまたま観るテレビ番組さえ、「一所懸命」の人はカルマ償却が進んでいる証として佳いもの・芳しいもの・必要なものが与えられるようにできている。
一所懸命に生きていない人は、たまに前向きになってあれこれアクティブになろうとしてみても、うまくいかない、必ずしょうもないものを引き当てたり、マガイモノを掴まされたりする、こうした運・不運が生じるのだが、これは単なる運勢じゃないのだ、カルマ償却が泥んでいることに対する警告として、罰のようなマイナスが与えられるようにできている/このことは実におそろしいので、一所懸命生きるほうが安全なのだ、「傲慢になるとカミサマは大切なものをすべて奪っていってしまう」と、故マイケルジャクソンも言っていた。

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傲慢の反対は一所懸命7

コンの盛り上げ役を頼まれたとき、僕は「盛り上げ役? 任せとけ、おれがメチャクチャにしてやらあ」と引き受ける。
この傲慢な物言いが、「あなたは本当に謙虚な人ですね」と、ある人によっては感心される。
さすがに僕は、年の功においてわかっている、真に謙虚であれる唯一の道は「一所懸命」であることだ、盛り上げ役を任されたらそのことに「一所懸命」を尽くす、自分の持っているものすべてをその一所に投げ込むしかないのだ。
そこで「盛り上げ役ですか……自信はないですが、精一杯、やろうと思います、頑張ります」というのは、謙虚でも何でもないのだ、初めから一所懸命はやりませんと宣言しているような、言い訳の準備に抜かりが無いヤツ、これはただの「ムッツリ傲慢」だ。

自分に得意分野なんかないし、準備万端という状態もありえない、ベストコンディションというものも存在しないのだ、いつだってわれわれは「きわめて不利」な状況しか与えられない。
そこでいつまでも、「苦手なので」「準備が……」「コンディションが」「無理です」と、寝言をいっていてはいけない、こうしていつまでも一所懸命に踏み出さず立ち回りをしている人を傲慢という。
入口でつまづくと、すぐムッと黙り込んだり、わけのわからない暴れ方をして自分のブザマを押し通したり、とにもかくにもすぐ「一所懸命」ということからズレて卑怯なことをする、けっきょくそうしてすぐ居直るということは根性が傲慢なのだ、傲慢な人は自分の言い訳にだけはこれ以上ない「一所懸命」になる。
苦手とか準備不足とかコンディションとか無理とか、そんなことはぐちゃぐちゃ言わない、一所懸命やって、自分が恥をかいて周りが笑ってくれりゃそれで十分だろ、それを「本懐」とするということ、「一所懸命やらせてもらえた、ありがたい」と笑うということ、それが謙虚ということだ/自分が守られることの一切を謙虚とは言わないし、周囲に泥をかける一切を謙虚とは言わない。

「一所懸命」だけは負けるな。

そのへんの、町工場のオッサンにだって、「一所懸命」な人はいる、このオッサンを美術教室に連れてきてデッサンさせてみろ、絵はヘッタクソだが必ず「一所懸命」に描くだろう/それに比べて、そのへんのこじゃれた姉ちゃんを連れてきてみろ、この姉ちゃんはそもそも「一所懸命」に描かないだろう、何か言い訳にうわずった声を出しやがって、それが傲慢ということなのだ。
「一所懸命」という、誰でもわかるようなことに、尻尾を巻いて逃げ出したら、自分はごまかせても人はだませないものだ、「一所懸命」にやらない人は「傲慢」だと、本質的に見抜いているものだ/あなたは「一所懸命でない人」「一所懸命でなく、実は一皮むけばムッツリ傲慢」という人と、付き合っていきたいのか、そんなのはごめんこうむるということなら、まずあなたからその根性をやめなくてはならない。

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傲慢の反対は一所懸命6
虚ということは、一所懸命ということだ。
目の前に与えられたものは、何でも一所懸命やる、それが「謙虚だね」ということ、そりゃ当たり前だ。
そして同時に、与えられたものは何でも一所懸命にするといって、「流されない」こと、「言われたことをちゃんとやります!」というようなテクニカルな逃げを打たないこと、自分でもうすうす識っている言い訳のカタマリにならないこと。
なんだって、虫の好い話はないものだ、自分で考えて、自分でつかみ取れ、「目の前のことを一所懸命やる」なんて、そんな単純なことがわからない人はいない、わからないふりをしているのは、都合が悪いから逃げ回っているだけだ。

自分の夢、自分の未来、自分のやることを、自分でつかみ取らないといけない、そんなこと本当はもともとわかっているはずだ。
指示待ち人間になり、状況に流されていて、いいわけがない、そんなこと誰だってわかっている、そんなことで誰をごまかせる? そこをわからないふりをして誰もトクをしない時間稼ぎをするな。
自分の夢、自分の未来を、自分でつかみ取り、易きに流されない、それでいて「どんなことだって一所懸命やる」、そこまで含めて「一所懸命」だ、誰だって他人事なら「なんて一所懸命な人だ」って、説明されなくたってわかるだろう。
誰でも知っているその「一所懸命」から、あれやこれやで、逃げ回ろうとする人が少なからずある、なぜ逃げ回るか/その理由は明白だ、自分が傲慢だということを認めたくないからだ、すべてのことに謙虚に向き合って一所懸命やるということが、本当はどれだけフェアでキツいか識っているから目を背けているのだ。

「一所懸命」、その一言で凍りつく人の、どこが謙虚なんだ。

勉強でも部活でも、仕事でも恋あいでもいい、あるいは遊ぶことや芸術や、旅でもいい、「一所」、その瞬間に「一所懸命だった」ということがあるか、何にだっていつも「一所懸命」が当然でなきゃ「傲慢」と定義されて当たり前だ。
僕は「熱血」みたいなのは苦手だ、そして前向きとかマジメとかいうのも好きじゃない、「がんばれ」「がんばろうぜ」は僕の台詞じゃないよ、ただプレステのゲームをやるのだってその一所に自分の持っているものは全部投げ込もうじゃないか、それでしか成り立たない「遊び」というのはいくらでもあるんだし、平成三十年の一月十六日はもう二度と帰ってこないんだからさ。
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傲慢の反対は一所懸命5

所懸命の「一所」に対照して、「継続的」というものがある。
物事には、一所懸命によって成り立つものと、継続によって成り立つものがあるのだ(プラス、消費的に成り立つものもあるが割愛)。
たとえば、「血縁」などが代表的にそうだ、続柄「母」は、何もガンバるから今日も母ということではなく、居眠りしていても母は母だ/「血縁」はどう手抜きしても強制的に継続されて成り立つし、大学は入学してしまえば大学生、夫婦は入籍したら夫婦だし、課長は昇進してしまえば明日からずっと課長でいられる。
あるいはジョギングであったり、盆栽であったり、何かのコレクション、筋トレ、貯蓄や積み立てといったものがそうだ、これらは「一所」で成り立つものではなく「継続」によって成り立っている。

「継続は力なり」という言い方があるが、「継続は成長なり」とは言わない、たとえばカラオケ好きのおばさんが何十年とカラオケで遊んでいてもその歌声が神韻を具えるということは決して起こらない、せいぜい「強化」が起こるだけだ。
人が謙虚さをもたず、「一所懸命」を捨てるということは、血縁と役職につながったまま、ジョギングして筋トレして、盆栽でもやり、貯蓄していくか、という「継続」の方面を選ぶということに自動的になる。
一方、「一所懸命」によって成り立つことと言えば何か? それは代表的には恋あいであったり、音楽や、芸術、旅、あるいは遊ぶこと全般だったりする/一所懸命じゃないならその「交際」は恋あいじゃないのだろうし、この文章だって僕が一所懸命じゃなかったら誰も読む気はしないだろう。
僕は、人が謙虚さを失い、「継続的」な方面に知らず識らず引き込まれてゆき、無自覚の傲慢さを強化していくことに、とてもよくない不穏を覚える、僕は一所懸命な蕎麦屋が打った今日の蕎麦を食べたいのだ。

あなたが一所懸命さを捨てたら、いつか重篤なときに、一所懸命でない医者に当たるだろう。

お医者さまだって一人の人間だ、そして医者というのは、少々の誤診をしたり、少々の手抜き診療をしたところで、明日から医者でなくなるというわけではないのだ、生活や名誉には影響ない/そこでもしお医者さまが今日の患者に全身全霊を注いでくれることがあるとすれば、それはただそのお医者さまが「一所懸命」な方なのだと思うのだ、僕はそうして熱烈に謙虚な方を無条件で尊崇していたいし、尊崇申し上げるより他ないと感じる。
今日もがんばった、明日もがんばろう……という「継続」で、われわれは何の罪もなく日々を生きていけるような気がする、けれどもやがて死ぬわれわれが、その「継続」にのみ逃避するやり方で、次第に救いがたい傲慢に陥っていくことを、僕は数限りなく見てきた、これは年長者からの警告だ。

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傲慢の反対は一所懸命4
るで成長しない人や、まったく成長しなくなった人がいる。
それは、「もう年だから……」ということではなくて、一所懸命になれなくなったからだ。
人間関係が閉じている人や、まったく拡大しなくなった人がいる。
それは、「もう年だから……」ということではなくて、一所懸命になれなくなったからだ。

傲慢な人は、「成長」はできない、<<そこは説明不要だよなあ?>>、傲慢な人は「強化」しかできない。
成長する人は、謙虚さイコール一所懸命さ、によって成長するのだ、つまり本人は一所懸命なだけで、成長しようとは特に思っていない。
自分の成長になんか用事はなく、自分の成長なんて考えたことはなかったのだが、ただ一所懸命に尽くそうとしているうち努力が生じ、それによっていつの間にか成長していたということ、これは「成長」の鉄則だ。
人が「努力によって成長する」というのは、表面上正しいが、「一所懸命さゆえの努力」によってのみ人は成長するのであって、初めから「成長目当ての努力」では人は成長しない、なぜ成長しないか? といえば、傲慢な人は成長できないからだ、そのことは説明不要なのだった。

×「がんばったから成長した」 ○「あそこで投げ込んだから成長した」

一所懸命というのは、「一所」に懸けるということなのだから、そこで生じた成長は必ず「あそこで」というwhereが入る、人は「わたし」のためにがんばっても一ミリも成長しない、必ず「ここ」のため・「あそこ」のためだけに投げ込んだときのみ成長する。
「あのとき」、敵ゴール前ですべてを投げ込んだフォワードと、自ゴール前ですべてを投げ込んだディフェンスだけが成長した、練習場では「強化」はできるが、人は練習によって「成長」できるわけじゃない/ムッツリ傲慢が卑しい「努力」で成長できるというほど、「成長」というのはケチくささを許さない。
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傲慢の反対は一所懸命3

「一所懸命」というのは、その字義のとおり、「一所」に「命を懸ける」ということだ。
たとえば、単に「受験勉強をがんばりました」というのは、「一所懸命」じゃない、それは未来を豊かにするためにがんばったのであって、「一所」に命を懸けたわけじゃない。
競争させられて必死になりましたということや、獲得のために必死になりました、というのも違う、それは目の前にニンジンをぶら下げられたロバが必死に走るというのと同じだ、そうして利益を追うために必死になったのは「一所」に命を懸けたことにはならない。
「一所懸命」というのは、まさに「一所」、つまり過去も持ち込まず、未来につなぐのでもない、「今ここ」「この場所、この瞬間」、「この一所」にすべてを投げ出すということ、「ゆくゆく自分の足しになるから」と考えるのは打算であって、悪いことではないが「一所懸命」とは異なる。

たとえば、旅先でいろんな人に出会ってきた。
その出会った人と、僕の過去は関係がなかろうし、一期一会で二度と会うこともないだろうから、未来にも関係ない、ただその瞬間の「一所」にしか関係がない。
そこで僕が、つまんない奴だったらどうする? その後はもうどうやったって挽回は利かない、だってもう二度と会わないのだもの、他の機会でどうがんばっても、その一所の一期一会の機会はもう戻ってこない、すべてがそのとき限り、その場限りの勝負だ。
あなたがこの文章を読んでいることもそう、この文章を読んでいるあなたに、僕の過去は関係がないし、あなたの存在が僕の未来につながってどうこうなるわけじゃない、だからこの「一所」だ、この一所で僕がつまんない文章を書く奴だったら、僕は未来永劫あなたにとって「つまんない奴」になる、だから「今ここ」「この場所、この瞬間」「この一所」にすべてを投げ出すしかない、この場限りの勝負しかないじゃないか。

「一所懸命」とは、昨日の栄光も明日の希望も切断するということ。

もし昨日の僕がカッコよかったとして、また明日の僕がカッコいいかもしれないとして、そんなことは今日の僕には関係ないし、今ここの僕には関係ないじゃないか/人は昨日を生きることはできないし、明日を生きることもできない、そして二カ所に同時に存在もできないのだから、いつだって今ここを生きるしかない、今ここ以外を生きるのは理論的に不可能だ。
持ち込み不可、持ち出し不可で、せいぜい「思い出」だけだが……それさえも捨ててしまえ! 人が傲慢じゃなくなるということは、われわれが思っているような生やさしいことではないよ、いつだって「今ここ」をクソみたいな「人生」から切り離すことなのだから。

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傲慢の反対は一所懸命2

「一所懸命」は、ルールだ。
目の前に与えられたものは、何だって一所懸命やる、一所懸命やったあとで「なーんでこんなことやらされなきゃいけねえんだ」とブーブー言う、でもその声は明るい。
自分が何かをするというとき、一所懸命やるか否か、という選択肢は存在しない、一所懸命は「ルール」なのだから/もし一所懸命やらないなら、それは「やった」ということにカウントされない、それは「やらなかった」にカウントされるものだ。
「自分の頑張れることを探しているんです」という人は、もう長いことルール違反を続けている、どんなことでも目の前に与えられたなら、一所懸命やるのが当たり前、「自分のやりたいことなら頑張れると思うんです」なんて、そんなの致命的な傲慢だ。

一冊の本を与えたところで、傲慢な人は、そもそも一所懸命読まない、「面白いと感じたら途中から夢中になると思います」と、とんでもない審判者レベルの傲慢さを持っている。
どんなものでも、目の前に与えられたら「一所懸命」、それがルールだ、このルールに違反して堂々とのさばっている人が、自分で自分のことを「謙虚」だと思っている、だからすさまじい罪を背負って、表情も声も肌の色も暗く濁っていく。
一所懸命になれない人は、趣味や娯楽やギャンブルに耽り始める、それらは一所懸命やらなくても楽しめるものだからだ、そして「ぜいたくは言わないから、こうして暮らしていけたら十分なんだけどな」と、とんでもない傲慢の極みを言い出す、しかもそれを「謙虚な望み」だと自分では思っているものだ。
「一所懸命」はルールだ、このルールに違反して、「都合がよければ一所懸命になれると思う」といつも内心で打算している人、これが「傲慢」だ、そういう人はめぐりめぐって、やがて最悪の都合の中を生かされることになり、因果応報が成立してしまう。

ビクビクしているのは、謙虚じゃない、「傲慢」だ。

「一所懸命」がルールなのだから、ビクビクする権利なんて誰にもないのだ、笑われようが叩かれようが、「一所懸命」をやめる権利はない、また居直って近所迷惑を押し通す権利もない/われわれは「一所懸命」だけをルールにして、その違反者を擁護する文脈を持たない。
何をするにしても、目の前に与えられたら「一所懸命」が当たり前、そんなこと、誰に教わらなくても識っているじゃないか、そして「一所懸命」を怠ると、「あとあと恐いよ」ということも、言われなくてもなんとなく識っているじゃないか、この大前提から逃げ切る方法なんてどこにもないよ。

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傲慢の反対は一所懸命
でも謙虚なふりをする。
性格的にはマジメだし、キモチ的には必死だ、手抜きをするタイプじゃない。
しかし「一所懸命」かというとそうじゃない、「頑張っているつもりです!」と必死さのアピールは切実なだけで一所懸命じゃない。
真の謙虚さは、「一所懸命」ということでしかない、だから一所懸命になれない人は、どうごまかしても根っこの本質は「傲慢」だ。

それどころか、一生に一度も、「一所懸命」になったことがない、という人のほうが多い。
「競争に並ばされて、必死になりましたし、意地になりました」というのは、一所懸命じゃない、単に闘争心をあおられただけだ、それは家畜や野良犬の集団でもやるようなことだ。
一生に一度でも、どの時どの場所で、「一所懸命」になりましたか? と訊かれると、誰だって無理やり答えようとする、しかし自信の無い答えをプライドから押し通そうとする。
謙虚で罪の無い、ふりをしている、だけど「傲慢だ」という指摘さえ聞き入れられないほど傲慢で、こんな短い話さえ一所懸命に聴けない、根の深い傲慢はけっきょく自分を美化することしか選ばないものだ。

「頑張り屋さん」は、一所懸命になれない人の常套句だ。

「自分なりに頑張っています」と「一所懸命」は、まるで違うものだ、そんなもの他人事なら一目で判るものだ、だが自分のことになると、人は見方を甘くしてしまう、なんとか自分の美点を捏造してとりすがり、自分は謙虚にしていると自分を自己洗脳してしまう。
一所懸命になったことがある人、一所懸命に生きている人は、身の気配、眼差し、声、笑い方ですぐわかるよ、そういう人は朝起きた瞬間から一所懸命で、いつだって「自分は傲慢じゃないか」と厳しく自分を疑って監視しているものだ。
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「定」と「散」2

なたの目の前には、机があったり椅子があったり、樹木や建物や空やドアがあったりするかもしれない。
あなたの目の前の机は、あなたの内側にはないはずだ、この「内側にない対象物」ということがきわめて重要になる、もしこのことがわかればあなたは相当頭がいい。
一方、あなたにとって「絶対にやりたい!」「絶対に許せない!」というような類は、あなたの目の前にはないはずだ、あくまであなたの内側にあるはずだ、これがミソだ、実感というのはあなたの内側にあり、外側にはない。
「定」と「散」があり、「定」の対象はあなたの外側にあり、内側にはないのだ、あなたの内側にあるものはすべて「散」のほうにしかはたらかない/あなたはあなたの内側のせいで毎日メチャクチャだが、あなたの目の前の机は今日も明日もずーっと「机」なのだ。

僕が「文学者」になることや、あなたが「女」になることも同じ、机が「机」であることと同じで、その「定」は自分の内側にはない。
あなたがあなたのこころの内で、「絶対にいい女になってやる」と燃えさかっているのだとしたら、僕は「じゃあ絶対にムリだな」と断言しよう、だってその「内側の燃えさかる……」というのは「散」のほうにしかはたらかないからだ。
さあそれじゃ? 思いがけない旅に出よう、あなたの家から一歩外に出たとき、道路があり街灯があり、自動販売機や駐車場や街路樹や道路標識がある、あなたの外側の世界はすべて「定」を為している、そのすべてを目撃する旅に出よう。
「定はあなたの外側の対象物にある」、あなたの胸の内に燃えさかる、涙さえともなう「絶対に……!」は、申し訳ないが、「このダンボールは、ダンボールですね」という指摘にさえ劣る/自分の胸の内が一番偉いなんて、どこの誰に習ったの、その曲学。

すべてが定まっている、すばらしい世界を見る旅に出よう。

あなたの目の前の「机」は、あなたの外側で「机」でありつづけている、「机」のなんとすばらしい「机」ぶりであることだろう、すべての樹木は「木」をしており、毎夜の月は「月」をしている、ただしあなたが、あなたの胸の内などというややこしいものをなすりつけない限りは。
あなたはいつのまに、「わたくしの胸の内」などをぶちまけて、机や椅子を汚辱することを覚えたの、<<机も椅子も「あなた」ではないでしょう?>> この世界で「散」をやらかしているのはあなた一人だ、あなたがあなたの世界を、見えないものにし、何一つ価値のないものにし、まとまりのないものにしている/机も椅子もダンボールも、木も月も本当はそこに「定」として存在しているのに、あなたはその「わたしではないもの」に、どうしてか「わたくしの胸の内」をなすりつけて価値を失わせることを選ぶ。

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「定」と「散」

「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ということわざがある。
よく、「熱しやすく冷めやすい」というタイプの人があるが、そういうタイプの人はこれだ、「三日坊主」というのもそうだが、そういうタイプの人は、熱いものが喉元手前にあるあいだだけ、そのアチアチの実感に基づいて自己決定しようとする。
しかしその「実感」は、やがて過ぎ去ってゆくのだ、喉元を過ぎてしまえばその熱さを忘れるので、過ぎ去ってしまった実感と共に、そのときあった自己決定も通り過ぎていってしまう。
アイドルやアニメやホビーや、急激にブームになるお笑い芸人などもそう、すべては「実感」の性質である「喉元過ぎれば熱さ忘れる」という現象に支配されている/実感はすべてそうして「一時的」なものなので、y=ax+bという数式のように永遠に残ったりはしてくれない。

人間には「定める」という能力がある。
暑い日でも寒い日でも、「かき氷を食べる」ともし定めたならば、人はその「定」を履行することができる/ただしこのことは「定」ということの直接の味わいを知らねばならない。
人間には「散らす」という能力もある、「気が散る」とか「霧散する」とかの能力だ、たとえば「吹奏楽部だからといって、必ずしも定期演奏会をする必要はなくね?」というふうに、百年続いてきたものを急に解体することができる。
われわれは現代において、気が散るように訓練されているので、五分前に授かった偉大な叡智と未来も、その五分後には「でもさあ」と自ら散らすように習慣づいている/数分ごとにタイムラインが更新されそのたびにすべてが「霧散」するので、われわれは生きる上でとても不利だ、自分がどう生きるかどころか、<<われわれは数日間をどう生きるかさえ定められない>>。

「定」の味わいを識り、「散」の強迫病に虫食まれていなければ、「決意」なんて必要ない。

しばしば「決意」や「強い意志」が必要に思えるのは、単に「定」の能力が失せているからだ、「定」の能力が失せている以上、いかなる強い決意や意志をもったところで、翌日には役に立たない/われわれは「霧散」を強迫的にする解体業者となり、クリスマスや正月を破壊したので、もう年賀状は恢復しないだろうし、すでに「あけおめメール」もピンとこなくなっているはずだ。
どれだけ建設的に考えようとしてもだな……「建設」が始まった瞬間、ただちに解体業者さんたちがやってきて、霧散させて満足ということを、自動的にやりだすのだ(解体業者とはあなたのことだよ)/あなたはこの数日をどう生きる? そのことを定めてから、「霧散」が起こるまでの時間を測定してみよう、きっと十五分も掛からないはずだ。

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「感動」と「涙腺オーガズム」の違い

に、ものすごくかわいい(とされる)Hちゃんがいたとする、このHちゃんはまさにアイドルという感じだ。
しかし僕は、このHちゃんに、「生きていて『感動』したことがない」という気配を受ける、すると「感動したことがない人間って何なんだよ……」と恐くなってくる。
いくら表面上「かわいい」と見えても、「感動したことがない」なんて、もう恐怖でしかない/人は自分を「かわいい」とごまかすことはできても、自分が「感動した」とごまかすことはできない、自分か感動したかしなかったかは、どうしても自分自身がよく知っている。
何かをバカにして生きてきた人、見下して生きてきた人は、どれだけ精力的に生きても、「感動する」ということは得られなくなる、興奮することや躍起になることはありえても、「感動する」ということはない、それは生きる意味そのものが剥奪されるという恐ろしいことだ。

いわゆる「涙腺崩壊」、「涙もろく」「ウルウルっときた」「オヨヨヨ」「鳥肌注意」みたいなものは、「感動」ではない、単に神経を過剰になぐさめて、涙腺が射精しただけだ、涙腺崩壊というのは単に涙腺の自慰オーガズムに過ぎずそれは「感動」ということではない。
<<ウソだと思うなら試してみろ>>、顔をくしゃっと泣き顔にして、泣きそうな気分に浸る――のみならず――、そのまま両手で自分の性感帯を強く刺激してみろ、そうしたら自慰的に落涙を起こすなんて簡単だということがわかるはずだ。
あなたは他人の「涙腺崩壊」の話なんか聴きたいと思うだろうか? そうは思わないはずだ、なぜならそれは感動の話ではなくて、自室で必死に耽って大量に射精してガクガクになった、という話と同質だからだ(「涙腺崩壊」というのはたいてい深夜の自室で一人さびしいときに耽って起こっているはず)。
ものすごくかわいい(とされる)Hちゃんが、「実は涙もろいところがあるんです」「よく部屋で一人で泣いていたりします」というのは、言われなくてもわかる、というかむしろ聴きたくないな、感動したことがないHちゃんが自室で代替に何をしているかぐらい僕は年の功においてわかる。

「感動」は雄々しいもので、「涙腺崩壊」は女々しいものだ。

同じ一本の名作映画を観ても、そこに雄々しい感動を覚える人と、女々しい涙腺崩壊に耽る人とに分かれる、あるいは戦争のドキュメンタリーを観てさえ、そこに涙腺オーガズムの自慰に耽る人は少なからずいるのだ/雄々しい「感動」に至る人なんて実に稀だ。
僕は涙腺オーガズムを上等なものだとは思わないな、涙腺オーガズムに耽ったあとは、すべての自慰と同じで心身が虚脱と耽溺の状態になっているはずだ/僕はこの感動と自慰の混同を断じて認めない、たとえそのオーガズムがどれだけガックガクで強烈だったとしてもだ。

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旧「男尊女卑」のナゾ、解明さる2

のため、僕は男尊女卑なる思想を、すでに廃棄された過去のものと捉えているので、男女平等主義者の方は僕を非難するに当たらない/僕は男女平等主義者の方がそうであるように、今さらの女性の「引っ込み思案」を認めるつもりは男女両サイドにおいて一ミリもない。
僕はこれまで男女のあいだに一切の格差を認めない立場でやってきたが、しかし振り返ってみると事実上、「崇高なもの」に触れたときに生じてくる態度は、男と女で違っていた、少なくとも女性が僕と同一の態度を見せたことはこれまでに一度もない。
たとえば、偉大な歌声を聴くとしよう、ルイ・アームストロングの「What a wonderful world」などがそれだ、ああいう強烈な男の、偉大で痛快な声を聴くと、そのたびに「うはは! こういうのに比べると、おれみたいなものはカスみたいなもんだぜ」と僕はたまらなく気分がよくなる、そうして偉大で崇高なものに触れると我が身のしょーもなさが「本懐だ」と引き受けられて勇気が湧いてくる。
だがこれまでに女性が同じ反応や態度を示したことはない、女性はなぜか「そうか、わたしは偉大で崇高なものだったのだ」と逆を悟るようで、目をウルウルさせている、女性にとってはそれが「希望」のようなのだ、それは僕の覚える「希望」とは逆になるが、あくまで男女平等の精神においてはその逆行ぶりは「お前は救いのないアホか」と言われるべきだろう。

経験的に、なぜか女性は、自分が崇高化することには異様に貪欲で、自分がカス化することには同様にすさまじい抵抗を見せる、女性は自分がカス化するぐらいなら、いかなる崇高なものも我が手で殺害してやる、というぐらいの気迫を持っている、この点はどうしてもまともな男とは(経験上)逆だ。
まともな男というのは、自分では及びもつかない偉大で崇高な何かに出会ったとき、自分のカスぶりをはっきりと悟ることに、「うはは、これですよ、これが正しいんですよ!!」と痛快な本懐とよろこびを覚えるものなのだが、女性および女性化した男にはこれがない気がする、どうも女性には「偉大で崇高なものに<<打ちのめされる>>快感」がないのではなかろうか。
しかしすでに男女平等を鉄則とするこの世の中で、そんな救いのないアホ状態を横行させているわけにはいかないのだ、ただちに改めるしかない、「ルイ・アームストロングの笑顔と声が偉大で崇高なのであって、お前の笑顔や声はカスだ」という、当たり前のことに対する抵抗や曲解をやめるのだ、体内のヘビとかいうやつはタレに漬けてコンガリ炭火焼きにしてしまえばいい。
なぜ崇高な歌声を聴いて、オマエが崇高になるんだよ、そんなのわけがわからないじゃないか/経験上、なぜか女性は自分が崇高に感じられる機会に異様に貪欲で、かつ「目の前の誰かが崇高で、自分が崇高じゃないというのは、どうしても傷つく!」というわけのわからん心境を持っているようだが、目を覚ませ、オマエが感動することは多々あってもオマエに感動する人なんか誰もいないよ、そりゃ当たり前だろって中を僕はよろこんで生きているのだから、今さら男も女もない、この中を堂々とよろこんで生きていこうじゃないか。

男尊の世界へようこそ、ここはあべこべが許されない世界だ。

「男尊女卑」といって、それは男が尊いという意味ではなくて、「男が尊いものを担う」という意味だった(執政、学門、神事)、尊いものを担うということは……我が身のカスぶりを引き受けて身を粉にするを「本懐」とするということだ、まともな男で自分を偉大とか崇高とか思っているバカは一人もいない、そりゃ女性にとっても当たり前でなきゃこの時代においておかしい。
ルイ・アームストロングが偉大かつ崇高なのであって、それを聴いてテンションが上がると「自分が偉大で崇高」になるというのはさすがにアホだろ、なぜ自分のテンションが上がるとすぐ自分が偉大で崇高というまったくあべこべの妄想に飛びつくんだ/<<崇高なものに出会うということは同時にカスの自分に出会うということ>>だろ、崇高な自分に出会うなんてどんなあべこべだ、そんな女々しいことは本日このときから完全否定されてかまわない、その先に決して未来は暗くないだろう。

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