☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
罰する者
語に謎はない。
物語を解体する者に謎がある。
ピラニアの食いつきがよいのは、ピラニアが食事を知らないからだ。
正解の中に正解はない、なぜなら求められているのは「解」ではないからだ。

必要なのは教える者ではなく罰する者だ。
罰だけが人を導くだろう、だがここでいう罰とは「刑」ではない/罰は導きを教えるが、刑はただ力しか教えないだろう。
罰の中にヒントがある、<<罰の中にのみヒントがある>>、わからないまま与えられる罰、これを唯一の恵みと知ってよろこべ。
神仏はときに、人を罰するかもしれない、神仏が人を "処刑" するということはないだろう/処刑は力と格のありようでしかなく、比して「罰」は霊魂の営みだ、「罰」には実はかけがえのないものが含まれていた。

誰かに罰されてのみあなたは進める。

法と刑については、弁護をつけ、控訴すればよい、だが罰に不服を持つな、罰の理由がわからないとして、目を覚ませ、理由があっての罰ではないのだ、罰はただよろこんで服せ。
どうしても進めないとき、どうしても救われないとき、罰する人のことを思い出せ、あなたが唯一解放されうる具体的な手段は理由のわからない「罰」なのだ。
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病床模索5/恋あいと人々

しぶりに、根こそぎ休んでいたので、恬淡と物事を眺めることをした、いくつかの聞いた話を思い出しながら……
恋愛について、多くの人はけっきょくのところ、世間的なやり方を信じているのだと思う、何よりその他には情報がないことによって。
つまり、適宜「付き合う」ということをしたり、「結婚」をしたり、付き合っているから・夫婦だから「セックス」をしたり、パートナーだから「大事」にしたり、「好き」と認識したり、「情」をかけたり、しているのだと思う。
別にそれが間違っているというわけではなくて、単純に、そうやって取り組む以外に、ほとんど情報がないのだと思う、多くの人はマジメなものだし、まして今日では、性的な清潔さが世間で口うるさく言われるようになった、なぜかオナニーに耽る男性が女性をビッチ呼ばわりするというような奇怪な事態が続いているから、ますます正統とされるメソッドに頼るしか方法がないのだった。

きっと多くの人にとって、よくわからないのだ、単純に、ヴァギナに棒を入れるとアヘアヘするということや、男性から「かわいい」と言われるとウフッとなるということが、総じて「何が何やらわからない」まま、漠然と知ったかぶりをしているに違いない。
もし僕が、本当のことを真正面から言おうとするなら、セックスはアヘアヘするためにするものではないし、誰かと付き合っているとか結婚しているとかいうことで、生理的な現象が変化するわけではまったくない、と言うしかない/極端な言い方をすれば、別メーカーの棒を入れたってアヘアヘするのは変わらないだろう(だから別メーカーの棒を入れろと言っているわけではない)。
そもそも、恋あいもセックスも、そういうものではない、別の言い方でいえば、いっそ「付き合う」とか「付き合っているからセックスする」とかは、恋あいとセックスが「わからない人」向けのメソッドにすぎない/このメソッドが壊れているわけではないし、このメソッドしか実際に「情報がない」というのがリアルな事情なのだと思う。
セックスを「アヘアヘ」やっている人は、セックスがわからないからそのようになっているのであって、一方「付き合ってセックスする」というのも、実はセックスがわからないからそのようにやっているだけだ/若いうちはいざ知らず、やがてセックスは最重要のものではなくなる、重要なのはそこではなく、「アヘアヘではない光」「アヘアヘではない営み」「アヘアヘではない源泉」を得られるかどうかだ、「付き合っていないのにアヘアヘ vs 付き合っているからアヘアヘ」の戦いでは永遠にまともな恋あいは来ない。

恋あいに疎いのじゃなく、ナゾのよろこびとナゾの感動に疎いだけだ。

デートもセックスも、別によろこびじゃない、いくら大好きな彼氏クンでも、なぜか手をつないでいると「それだけでしんどい」ということはよくある、それは「大好き」さえ恋あいと異なる場合がよくあるからだ、うれしさとよろこびは異なる/こんなもん、「本当には何が起こっているか」に対するセンスでしかない、まさか恋あいというのかウレシイタノシイアヘアヘで得られると思い込むべきではない。
1.触られたとき、感触的に「イヤ」という場合は、わかりやすいので悩まなくていい、2.付き合っている人なのに「あんまりうれしくない」「気持ちよくない」「正直イヤ」というのも、当たり前のことなので悩まなくていい、3.誰にでも触られるとアヘアヘしてしまうというのも、基本的に当たり前なので悩まなくていい、4.問題は、付き合ってもいないのに、イヤでもない、しかもアヘアヘでもない、うれしいわけでもないのに、涙が出そうになる、「この人」を見つめてしまう、「何これ」となったときだ、このときだけ悩む必要がある、「本当には何が起こっているか」、こんなことが本当にわかるようになるのはずっとずっと先のことだ。

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病床模索4/或る当然さの剥落
調が、恢復してきているとはいえ、まだまだ、目眩がするな、ほどほどにしておこう。
今回の病床の中で知ったのは、或る「当然さ」、或る「当たり前」について、実はそれはまったく当たり前ではないということだった/それは重大な発見というわけではなく、視えてしまえば「そりゃあな」と、むしろそちらこそが理に自明となった。
或る「当然さ」とは、簡単に言うと、人は自分が就労して労働すると、自分の口座に給金が払い込まれるものだと思っている、それが「当たり前でしょ……」と思っているということだ、これが実は、何ら当たり前ではないということ/われわれは多く自己利益のために活動するように作られているが、それは遺伝子(利己的遺伝子)のはたらきであって、本来の意味での「わたし」の当然ではない。
はっきり視えてしまうと、逆にこれほど不自然なことはないのだが、われわれは自分と誰かを半々に利するために生きるのではないのだ、100%自分を利するため「だけ」に生きるのだ、生まれてから死ぬまで徹頭徹尾、なぜ?/逆にこんな不自然なことがあるだろうか?

このことに、血縁者を入れるとややこしくなる、遺伝子は血縁者を、遺伝子の継承者として認めているからだ、遺伝子としては関連遺伝子が繁栄すりゃその持ち主は誰でもいい/われわれは本当に、100%、利己的遺伝子の言いなりになって、百年弱で使い捨てられる存在なのだ、これは本当に視えてしまうと「何コレ」と逆にすべてが不可解に映る。
遺伝子に逆らおうとする愛の人が不思議なのではなく、そもそも、アミノ酸の配列でしかない遺伝子に強固な「利己的意志」が具わっていることのほうが、不思議で不気味なのだ、こんなものがコピーされて繁栄したとして、アミノ酸に何の利益があるのだろう? アミノ酸がイイ気分にでもなるのだろうか。
誰でもチャリティー程度の発想は持っているのだが、「金曜日はカンボジアの子供たちのために働くのが通例」とか、「このバイトは○○ちゃんのためだからバイト代は○○ちゃんの口座に振り込んでくれよ」とか、そんな発想はまず持たない。
われわれの心臓は、ポンプとして、自分の身体に血液を送ることにはエッサホイサなのだが、他人の身体に血液を送ることには、一ミリだって働かないのだ、全力で拒絶なのだ、別にそう利己的たろうと決心しているわけではなく、なぜか初めからそのようにズドーンと決定されているのだ、これでは学校の先生が言うことなんて全部ウソだと言われてもしょうがないのだった。

自分の給金が、自分の口座に振り込まれる、その「当たり前」が、実はフェイクだ。

むろん、自分の給金が、ヨソに振り込まれると、自分が死んでしまうわけだが、それがマズいというのは理解できても、よくよく考えるとやはりおかしいのだ、なぜなら自分の口座に振り込まれつづけても、やっぱり自分は死んでしまうからだ、死ぬまでの期間が延びるだけでしかない、「なんだこれ」と言われたらまったくそうで、われわれの生にはまったく気づきづらい、気づいてしまえばとんでもないドデカいフェイクがど真ん中に置かれている。
なぜかわからないが、われわれは、<<自分と自分のファミリーのためにしか、働いてはいけない>>ということになっているのだ、「なぜ?」と言われてもけっきょく「さあ」としか答えられない/自分が働いたとして、「その給金は誰の口座に振り込まれるのですか?」とは、子供だって訊ねないだろう、労働力を売却するシステムなのだが、これが人心を根源的に破壊するのに最も効率がよいのかもしれない、自分の口座なしに労働をよろこんでいる先生はいない、では労働によろこびはないのかもしれない。
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病床模索3/対等性は多大な損失を前提にしている
二日間休んで、こうして再び書き物へ向き合ってみると、この現代の四方八方から、「ガツンガツン」ぶつかってくるものがある、というのがわかる。
このぶつかってくるものに対しては、技術的には、「勢いを聞く」というやり方で向き合い、その上でコミュニケートすることができるのだが、いちいちこの「勢いを聞く」をしているせいで、実は本当のことをまったく話せない、という状況になっている。
たとえば今、世の中には強烈なフェミニズムやミサンドリー、あるいは逆向きのミソジニーなどが吹き荒れていて、僕が強烈なフェミニストにしてやれることというと、そのフェミニズムを加速してやることなのだ、僕が彼女にとって「プラス」になるというのは、唯一それだけでしかなく、このことに一切のごまかしは利かない。
僕は男性なので、それだけで不快で死刑で大キライという人はいくらでもいるのだが、そうした人に向けて「プラス」になろうとすると、技術的にはそれを「加速」させて送り出すしかないのだ、この技術はシビアなものなのでどうしようもない、その加速を受けた人は加速のついたまま本人の「本望」に突撃することになるのだが、正直なことをいえば、そうした人はとんでもない不幸に行き着くと、僕は勝手に思っている/このように、本当のことはろくすっぽ話せていなくて、ただ技術的に「ガツンガツン」くるものを加速して送り出すしかすることがないのだ。

「対等」というと、本当にこれしかないのだと、最近は技術的に痛感している/誰だって平場で正面から向き合えば、対等でしかないのだが、この対等という関係の中で、何かを諫めたり諭したり、与えたりすることはできない。
正しく合気道をやっている人などには、前もって知られていることだろうが、「対等」に向き合う以上、甲は乙に「加勢」するだけしかできないのだ、甲乙が「ぶつかり合うか」「協力し合うか」の二者択一しかなく、ぶつかり合ってもただのケンカになるので、甲は乙に加勢するしかない、本人が突っ込んでくるならそれに「加勢」して、その加勢のせいで制御が利かなくなって相手がすっ転ぶのが合気道だ/ただしこの場合、本人が本人の勢いで転倒して死んだとしても、それを当人の「本望」と認めねばならない。
「魂の大きさ」なんて話をしたが、そんな話を信用するアホはこんにちいないので、魂の大きさうんぬんを「信用しないwww」なら、「そりゃそうだよwww」のほうへ、僕はビタッと加勢するしかないのだ、この加勢を技術的に、精密に一直線にするのは、訓練しているのであるていど自信があるのだが……
「対等」というのは、他ならぬ真剣勝負の母体だと思うが、真剣勝負と言われると、僕が誰かを庇護したり祝福したり導いたりする余裕は一ミリもないのであって、ただその人の行く先へまっすぐ「加勢」するだけになる/こんなことでいいのかねと疑問に思うのだが、技術的にはこれ以外にやりようがないのだ、つまり「対等」という関係性が実は極めて限定的な環境を作り出しているということだ、つまり<<対等性は多大な損失を前提にしている>>ということ、一滴でも何かが「降り注ぐ」ようでは対等ではありえない。

斬り合いの練習はさせてもらえても、打ち首にされる練習なんてさせてもらえない。

現代の男女などは特に、この「斬り合い」の真っ只中にあると見ていい、それで、僕などは多くの女性の瞳から、「たすけて」という切実な声を聞きとるのだが、土台が対等性に括り付けられてあるものだから、僕としては斬りかかってくるものを、そのまま真っ直ぐ送り出してやるしかないのだ、「対等」というのはそういうことだからしょうがない/「対等」という中では、「たすけて、と瞳が言っていた人でしたね」のまま、その直線に真っ直ぐ送り出してやるしかないのだ。
「対等」という関係の中でも、当然の「助け合い」はあるのだが、その助け合いは、「たすけて」という声に応じる助け方とはまったく異なる/このようにして僕は、ひたすら対等性という土台のせいで、人が必要としている本当のことを一ミリも伝えず、一ミリも与えず、「本当に対等にやるなオマエwww」と笑えるぐらいの精度で、まっすぐ送り出すしかすることがないのだ、別にそのことに不満はないのだが、いいかげんこれは退屈だと飽き飽きしてきている。
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病床模索2/得ることがなかった魂の整合

千の物語とつながって生きている人と、「物語とかぶっちゃけ無いわぁ」と生きている人とでは、魂の大きさが違う。
魂の大きさが違うが、そんなものは観測不能なので、平等っちゃあ平等、というふうに扱うしかない。
大きさが違うので、結果的に、ダンプカーと同じ車道をてくてくと歩行者が歩くことになるのだが、歩行者はそれで「どこか落ち着かない」「しっくりこない」「おびやかされている気がする」と感じている、そりゃ当たり前だ、「すぐペシャンコになる」というのも当たり前だ。
歩行者とダンプカーのように、観測可能に大きさが違うのなら、話は簡単なのだが、魂うんぬんなんて言い出したら、話はいくらでもこじれるのだった。

本来、先輩と後輩、教師と生徒、師匠と弟子、年長者と年少者、男と女は、原則として、魂の大きさが違ったのだと思う。
それで、上下関係というか、本質的には上下ではない、魂の大小を根拠にした、人間の関係があったのだと思う、それがことごとくうまくいくというわけではなく、うまくいくかどうかはケースバイケースだったとして、そういう魂の関係はありえたのだろう。
僕はこれまでに何度も、若い女の子をちやほやして、当の女の子が上機嫌なまま、結果的にメチャクチャになっていくところを目撃してきた/僕がこれまでつながってきた物語の総量と、未だ物語とのつながりが希薄な二十歳前後の女の子は、魂の大きさが違うはずだが、しかし若い女の子はちやほやされて上に立てられないと価値観と思想の上でガマンならないので、僕はそのように取り扱ってきた、でもおそらくその性分を根ざされた現代の女の子は、何ら幸福な要素を与えられたのではないと今になって思う。
魂の大きさに感応して、もっと違う関係、もっと違う付き合い方がありえた、でもそれは、すでに得られることがない概念上のものだと覚悟せねばならない、今さら魂の大きさなどに帰順することはできないのだ/それでも、ただ知っておくべきだとは思う、本来は魂の大きさによって、もっと違う、整合して穏やかな、大切な実りの関係がありえた。

かつてゾウの背にリスが乗って、ゾウの雄大が尊ばれ、リスの敏捷がよろこばれた。

本来、男から女へ、女から男へ、先輩から後輩へ、後輩から先輩へ、向けられる態度、語られる言葉が、無数に、無尽に、絶え間なくありえた、だがこんにちでは全員が己の魂のサイズを「最大級」と前提して振る舞わねばならないので、すさまじい無理が出てくる/リスはゾウと魂をつなげば、己がゾウのふりをする必要はなくなるのに、そうしたつながりや営みはすでに失われたやり方のものだ。
何につけ、「本来は違う」と、ただ知っておくべきだ、われわれは魂の大きさという基準を奪われたので、もう海を見てさえそれを「大きい」とは体験できなくなっている/「海は広いな大きいな」はむろん、物理的な大きさを指して歌われるのではなかった。

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病床模索1/魂の大きさ

し、魂なんてものがあるとしたら、どうやらそれには「大きさ」というパラメーターがあるようだ。
どれぐらい大きさの差があるかというと、われわれの各人が保有する、資産の差ぐらいの差異がある/そりゃ資産だって、人によってびっくり仰天の差があるのだから、魂の大きさにだってびっくり仰天の差があっておかしくないだろう。
僕の残高には、今のところ、残念ながら3000億とか、10兆なんて数字はない、もしあってもやることは変わらないだろうけども/だがそういう資産を持っている人も実際にいるのだから、そういうケタはずれの魂を持っている人もいるのかもしれない、もしいたとしたらそれは「偉大な魂(マハトマ)」ということになるのだろうか。
われわれにとって、トランプタワーのような資産は、「観測可能」なので、簡単に信じることができるというか、信じるまでもなく納得することができる、一方で魂うんぬんなどというのは、「観測不能」なので、簡単には信じようがないというか、それが「視える」でもなければ信じるにも信じようがない。

まあでも、仮説にすれば何でもありだし、仮説にしたら、わかりやすくて面白いじゃないか、偉大な魂と凡人の魂は、大きさが違う、どれぐらい違うかといって、われわれの資産とビルゲイツの資産ぐらい違う、だとしたらドえらい差じゃないか。
誰だって、1000億の資産家にひれ伏すのには、0.2秒も掛からないのだから、それと同じように、魂の大きさにも、感応したりひれ伏したりすることが、あったらいいな、面白いな、と僕は感じている/「莫大な資産」と「偉大な魂」は、この世界に実際にある。
「観測不能」というのは、便利な言葉で、観測不能なら何だって言いたい放題だ、ただし「観測不能」は、「作用なし」ということではない/ワーグナーの音楽は、とても雄大な感じがするが、なぜ音のカタマリを「雄大」と感じるのかは、誰にも説明できない、しかもその雄大さは人にしか視えない、イルカのほうが聴力はよいがイルカは魔笛を聞いて踊り出すわけではない。
「観測不能」で、「しかし作用はある」なんてことは、いくらでもある、そもそも「人間が小さい」「こころが広い」などというのも、何かのモノサシで測れるスケールではない/観測不能だが作用があるものを、総じて古人は霊魂と呼んだようで、どうやらその魂というものには大きさがある、フリーターとロックフェラーの資産差ぐらいの、魂のスケール差がある。

GNPによって「経済大国」がありうるように、魂のつながりによって「偉大な人」がありえたら面白い。

経済大国というのは、莫大な生産と、莫大な営みと、諸国との莫大な通商があるから、経済大国という/それと同じように、さまざまな場所、歴史、物語、人、世界、こころ、愛、天、といったものと、莫大なつながりを持つ人がもしいたら、その人は「偉大な人」なのかもしれない、もしそうだったら面白い。
資産というのも、「原資と生産」という意味だから、魂も同じように、「元の魂と産霊」というように機能していたら、面白いな/各種メディアを通して知られるように、人は、単に資産を増やしただけでは幸福になれない、魂の大きさを超えた資産を手にしたって、目の色と挙動が不審になるだけだ、その様相は「魂の大赤字」と見れば当たり前に見える。

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ずっと抱きかかえている世界がある
かげさまで、未だ恢復とはいかないが、しんどさのピークは越した、ご心配をおかけして申し訳ない。
たかが風邪、と言われるかもしれないが、風邪だってしんどいもので、特に僕のような者が風邪を引くのは悲しい、同じ風邪といっても呂布が風邪をひくのとヘルマンヘッセが風邪をひくのでは意味が違うだろう。
二日間、もう何年ぶりになるだろうか、本当に何もせずに眠った、眠りながら、ずっと僕が抱きかかえているものがあるということがわかる、それは以前よりはっきりとわかるようになった/「何これ」というような、ずっと昔からある世界を抱きかかえて眠っている。
風邪でくたばっていると、無力なもので、ますますその抱きかかえているものに、入り込んでいくようになるのだが、僕は死ぬ間際にも、この抱きかかえているものに入り込んでいくのだろうか、きっとそうなんだろうなという気がしている、生きるより大事な世界が胸の内にある。

ずっと長いこと、大きなバクチを打って生きているような気がする。
僕は僕の大好きなものに賭けて、生きてきたのだが、これに賭けている無謀なバカは、ひょっとしたら僕しかいないのじゃないかと思えるぐらい少ない/僕を否定する方法が百万通りあり、僕を肯定する方法なんか、かろうじて一通りしかない。
まだ噎せこんでいて、まだ休むしかない具合だが、さしあたり僕の中の、夢は消えない、出力する余裕がなくなるだけで、夢はますますはっきりと、僕を吸い込んでいくようだった。
僕の言っていることと、やっていることは、外形上、百万分の一の確率で、ひょっとしたら正しい可能性がある、そして百万分の一とはいえ、もしこれが正しかったらと思うと、やめるにやめられないし、おざなりにできないと思うのだった/百万分の一なんて、宝くじに比べたらだいぶ高確率だものな。

百万分の一ていどの確率だが、やはり、われわれの思っているような「世界」ではないのかもしれない。

どんな低確率であれ、アタリとハズレは常に五分五分だ、宝くじはおおむねハズれるが、それはハズレが正しいという意味ではなかろう/病床の中で抱きかかえて、ますますそう思った。
何はともあれ、恢復はしてきております、ご心配をおかけして申し訳ない、そしていたわりを向けてくださった方へ、どうもありがとう、あなたに特等の宝くじが当たりますように。
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意義と存在2
かりやすさのために、ダサい言い方をするけれども、みんな自分の「意義」を手探りしながら生きていて、自分の「存在」を視る能力や発想はカラッケツだ。
「存在意義」と「存在」は違うし、意義視力で存在視力をまかなうことはできないのだが、とにかくわかりやすく言うと、多くの人が、自分の「存在」の空白を「意義」で埋めようと、探求しているように見える、見えるというか絶対にそーだよ、その根本の取り違えが、根本の「困っている」何かを創り出している。
とはいえ、もちろん、こんなこと僕が説教できる筋合いではないので、僕としては「……」と傍観しているしかない、なぜなら<<無意義に生きてきた僕はこの世でまったく偉くない>>からだ、偉くないので何の話も聞いてもらえないのだ、そりゃ僕だって逆の立場ならそうなるだろうからしょうがない/またたしかに、僕の話なんか聞いてもやっぱり無意義ではあるわけだ、初めから無意義とわかっているんだから話なんか聞く気になれねーわな。
これをどうしたらいいのだろう、といって、たぶんどうすることもないし、どうするためのものでもないのだろうが、ただまったく異なるそうした視力、「存在視力」という直接のモンがあるということだけ、ご報告しておきたい/ただし似たようなことを言う奴の大半はウソのオカルトスピリチュアルだから気をつけろよ、「それってわかります」と同調してくる奴もたいていハズレだ。

なんというか……僕としてはただ、おもろい兄ちゃんや、健気な若い女の子が、自分の「存在」を探していて、それでも「意義」のマーケットへたらい回しにされるので、困っている、という状況を見るのがつらいのだ/まして完全な通りすがりの女の子が、ハッと縋るような目で僕とすれ違いざまに出会うことがあり、それでもそのまますれ違っていくしかないというのは、見ていてあまりに胸が苦しい。
ハトでさえ、パン屑を投げたらひょこひょこやってくるのに、若い女の子は、ハッとしたときにひょこひょこやってくることも許されていないのだ、それが教育と常識の結果だというのだから皮肉だ/「意義」で押しつぶされて、「存在」はまったく教わらないでいる、そして「存在」について教えたがる人は、こぞって「意義」を声高に唱え、彼女へ「意義」の重量と加圧をアップするのだ、そんなものでも信じるしかない若年の人はかわいそうだ。
「意義」が悪いと言っているのではなく、意義で存在は埋まらないということだ、だって性質が違うのだもの、蒸留水でPCのメモリが「一杯」になるか? というぐらい、性質が違うのだから埋まらない/「意義」はわれわれの身の内にあるが、「存在」はわれわれの身の内にない、それぞれへの視力はまったく異なる性質への視力だ。
有意義というのは、「有」の字が冠されているように、有限世界への感覚から成り立っている、有限の時間内に何ができるかということが「有意義」だ、比べて無意義から得られる存在視力は、時間軸の干渉がない、数学上に2の平方根を見ることのように、そこに時間は流れていない/多くの、おもろい兄ちゃんや健気な女の子は、「有意義に生きる前にそのことを知りたかった」「有意義に生きる前に、わたしの存在について知りたかった」「有意義に生きるのがイヤというわけじゃないんです、ただ先にそれが知りたかった」と望んでいる。

せめて、誰と生きたということを、「意義」にはしたくないと、抱えて守っている。

僕には何の意義もないからな/ただ僕があるとき、ある人の二の腕にぽんぽんと触れたとき、その人の「存在」がたちまち全身に恢復されていくのを見て、僕は少し自分が怖くなった、こうした「存在」の恢復は、本来僕が与えるようなものではない、とはいえ今や無意義に生きているようなアホは僕しかいないのだからしょうがない、ちなみに「無意義」というのは「有意義を目指して失敗したヤツ」じゃねえーぞ、そんなのは消費者金融にいけばいくらでもいるだろう。
自ら「意義」を唱えた人、「意義こそが存在である」と、誰かに教えてまわった人は、もう引き下がれないので、僕からその人に「触れる」ということはもうできない/僕が触れたのは二の腕ではなくて、その人が抱えて守ってきたそれ自体だ。
 
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意義と存在
日以来、何かもうはっきり見えるようになってしまったが、僕が誤解していたのだ/僕が「存在」を得ているふうには、他の人は「存在」を得てはいないのだ。
いわゆる「存在感」と捉えても、間違いではないだろうが、存在感という捉え方では、またごまかされて混乱してゆくだろう、「存在」という現象は物理的な「感覚」で捉えられるものではないからだ。
当たり前のことだが、多くの人は何十年も、有意義なことを追求して生きているだろう、そして有意義な自分と、有意義な自分の生を誇りにしているはずだ/多くの人にとって、自分が「存在」するというのはそういう感覚・尺度のことだと思う。
だがそれは、厳密に見ると「存在意義」であって、「存在」そのものではないのだ、自分の存在意義の大きさに胸を張る人も、自分の存在意義のなさに肩身を狭くする人も、どちらも主題は「存在意義」であって、「存在」そのものではない。

僕はもう長いこと、一般の逆、「意義のない自分」「無意義」に生きてきたから……
逆に、それだからこそ視えることがある、単刀直入に言えば、有意義な人にとって自分の「存在」は要らないのだ、なぜならもう「意義」があるから/「こんなに意義があるのに、『存在』なんて必要かい?」、と普通はなる。
僕のように、自分の意義をカス化して、それでも自分が存在しているらしい、この無為の「存在」とは何なのか? という、それこそ何の意義もない追求をしないかぎり、こんな視力は得られてこない/わかりやすく言うと、僕は意義視力ではなく存在視力で物事を視ており、物事の見え方がまるきり違うのだ、このことがついにはっきりとわかってしまった。
多くの人は、有意義に生きるということ、そのために本気で生きれば、「生きている実感が得られる」のだと、志して生きているのだと思う、それは間違いではなかろうが、僕のような変人は、逆のことにたどり着いた、僕が知っているのは「生きている実感」ではなく「生きている不思議」だ、なぜか知らないが自分が「存在」して生きている(「生存」している)/このことは無限に「不思議」で、僕の視力はどうやらずっとその「不思議」を見続けるものになってしまったらしい、朝起きたときからずーっと「うーん、不思議だ」とこの世界のすべてが見えてならない。

あなたはわたしであり、すべてのものがひとつに生きていると視えるが、そうして視えるものに何の意義もない。

「意義」なんて言われたら、僕は無一文なのであって、そんなことにお答えできる能力も視力も僕にはない、ただすべてのものはひとつだというのは判るというか、僕の視力は人が「何に困っているか」が視えるようになってしまった、もちろんそれを何かに使うつもりなどまったくないけれども。
これについてどう思うかというと、どう思うということもなくて、どう思うということも不可能だが、なぜか先ほどから大きな海と潮騒と、空ともども広がる青さと水しぶきが聞こえる、そこには一人の女性が立っていて、何かが無性にうつくしくある、これが何なのかはさっぱりわからない。
正しく見ないとな | comments(0) |
マジのエコーがマジで届いてしまう
んでもないことに気づいてしまった。
ワークショップで、余韻法とか命令法とか、エコーだの呼応だのと、色々やっているのだが、ちょっと僕にしかやりようのないレベルのこととして、厳密なエコーを発信してみると、驚いたことに、通りすがる赤の他人さえこっちをハッと見るじゃねえか……なんだこの現象。
コツは(←注:できねーよ)、「あなたはわたしである」ということ、あるいは「コイツはおれである」ということ、あとは厳密なアクションとエコーをミリ秒でかけること、するとやはり、通りすがりの人がハッとこっちを見やがる、しかもそのときに、ぶっちゃけ間違いなく「出会って」いる。
長いこと、本サイトのほうなど特に、「出会いと恋あいの」「恋あいエンターテインメント」と号してやってきて、僕自身、人と人とが何で「出会って」いるのかを、積年のナゾとして追求してきたのだが、それってつまりコレだわ、厳密にやると「これ」で人と人は出会っているわ(←注:できねーよ)。

問題は、そうした機能は、何割かが明らかに現在も所有しているのに、その機能で反応している当人が、その機能のもたらしてくる情報とまったく異なる「認知」「認識」を、前もってブッこまれているというところだ。
いわば、どれだけ正統な、精密な、上質な、ともすれば歓喜や瑞宝かもしれない「それ」を受け取ったとしても、当人はそれをまったく認識せず、まったく異なる認識や判断や行動を取ってしまうということだ/この現象を、目の前で精緻に読み取れてしまうというところが、いいかげん自分でドン引きしてしまう、何が起こっているのか手に取るように視えるようになってしまった。
これはもう、正直なところ、ひとつの能力の歴然たる覚醒なのだろうが、かといってバンザーイという気にはなれない、なぜなら目の前で精緻に読み取られる「ちぐはぐ」は、もう「どうしたらええねん」というぐらいズレまくりだからだ。
たとえて言うなら、ハチミツの香りがしたらバットを素振りする、というぐらい、わけのわからない認識・判断・行動を取ってしまう、そしてそのときに、人の内部でガガガガガと、挙動のエラーとひずみに異音が鳴っているのが聞こえるのだ/もとからある機能に対してインストールされている応答プログラムがメチャクチャなのだ、それがハッキリ見えれば見えるほど、「これはもうちょっと、にわかにはムリでっせ」と感じられて、ちょっと途方に暮れる思いがする。

愛の中、エコーはミリ秒で生じ、余韻となって届き、本質的な情報が一気に得られる。

もうこんな話、とても信じてもらえる気はしないし、流布する気さえ失せそうなところだが、もしウソをつくなと言われたら、僕は逆にこのことをマジだと言い続けねばならない/何なら、隣人愛のエコーでさえそうやって届いてしまうのだから、世界愛のエコーはもっと大きなインパクトで届いてしまうとも、予言せねばならない。
うーんこんなことを、マジのこととして話さねばならないときが来るとはな、予想もしていなかった/こんな話、もうめんどくせえので、誰かうまいこと一冊の本にまとめてくれないかな、人に知られるべきだが僕自身で知らしめてまわろうとするのは趣味に合わなさすぎる。
正しく見ないとな | comments(0) |
"麻薬的にはたらく" という仕組み
力やセックス、カネや名誉や、カルト宗教、苛烈な筋肉負荷、あるいは自慰的・変態的な趣味への没頭は、麻薬的にはたらく。
「麻薬的にはたらく」といって、その背後には必ず「さびしさ」がある、「さびしさ」という "強力な感情" がある。
「さびしさ」は、空腹と同じで、生存本能に由来して発生する感情で、人の感受性をブーストし、「とても耐えられない」という状態を作り出す。
さまざまなものが、麻薬的にはたらくのだが、その背後には必ず「さびしさ」がある、多くの人は「そんなことにならないよ」と思っているのだが、すべてのことは、「さびしさ」という強力な感情の中で、まったく異なる鮮やかなはたらきを見せる/それが「さびしさ」ということのおそろしい仕掛けだ。

「さびしさ」を、どう悟性によって超克するか、どう知性がさびしさを看破するかが問題だ/人が感受性に支配されるか、あるいは悟性の中を生きられるか、その境目はこの「さびしさとの戦い」にある。
正しい知識が必要だ、「さびしさ」はひとつのテーマであって、「さびしさ」から安易に救済してくれる魔物は、あなたにとって光ではない。
「さびしさ」は、「不安」と似たようなもので、その実体は、あってなきがごとしのものだ、「さびしがる」ということは無限にできるし、「不安がる」ということも無限にできる、一度さびしさの中で麻薬的な救済を覚えると、麻薬が切れたあとのさびしさに対して、「さびしがる」ということの強度は拡大されてしまう/薬物としての麻薬だけの問題ではないのだ、あまりにも多くのものが麻薬的にはたらくのだから同質だ。
正しい知識が必要なのだが、この知識は前もってよもや信じやすいものではない、正しい知識においてさびしさは、消えるものではなくて無力化するものだからだ、無力化したさびしさはもはやさびしさではない/夜、オバケを怖がる人は、昼、オバケが「消えた」と思っているわけではない、たたオバケの「怖い」が無力化するだけだ。

急に冷静になって、「さびしさ」という装置を見抜け。

生存本能と感受性の支配は、急にそうやって冷静になられることが、大の苦手だ、さびしさであれ救済であれ、感受性は盛り上がってこそナンボなのに、急に冷静になられると、どうしても悟性の前に化けの皮が剥がれるのだ/すべてを見抜かれてしまったら、感受性はもう主体を支配できなくなる。
「さびしさ」に、ワーッとなってもらってこそ支配できるのに、急にそこで冷静になって、「さびしいというのは、一種当たり前のことであって、過去の賢人たちも、このさびしさという現象に注目したはずよね?」と言い出されるのが、感受性支配側にとっては大ピンチなのだ、最後の最後までこのことを覚えておくこと、<<急に冷静になって、「さびしさ」という装置を見抜け>>。
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恋あい論への期待とセクシャリティの崩壊2

くづく、正直なところを言えば、僕は今四方に向けて、「えっ、恋あいを探したりしていたの?」と、意表を突かれているところだ、まったくそんな素振りは見えなかったし、そういう気配も態度もエネルギーも感じ取られなかったからだ。
別にバカにしているのではなく、必要な情報だから開示しているだけだ、外見上はまったくロマンスの希求者には見えないということ、このことだって情報として与えられなければ今後の作戦が立てられないだろう。
単純に、「異性を愛してやまない人」には、誰もまったく見えなかったということだ、そりゃ誰だってこんにちの情勢下、プライベートを暴けばヘンチクリンな性器慰撫をしていたりはするのだろうが、それはただの肉欲であって、「異性を愛してやまないうんぬん」ではない、性欲が昂ぶる人というのはたいてい自分の快感と充足感が好きなだけで、それは「異性を愛してやまない」ということではない。
まあそれはいいとして、春夏秋冬がそうであるように、男女というのは本来、霊的なものであってリビドー的なものではなかったということだ、そりゃ春夏秋冬にリビドーの向けようはない/男は男の霊によって成り立っており、女は女の霊によって成り立っていた、それが交合することに不思議があった、というのが旧来の「男女」だった、そりゃわれわれは霊長目なのだから当たり前だ。

われわれは哺乳類(哺乳綱)だが、同じ哺乳類のイヌやネコについて、男らしさや女らしさを見つけはしない、オス・メスというのは単にコンセントとプラグの関係であって、その具体形状を根拠に男らしさや女らしさは成り立っていない。
男女というのは霊的なもので、男は男の命を帯びているから男であり、女は女の命を帯びているから女だったのだが、現代は自我と性欲の嗜好方向で男女が決定するものだと定義されている、これはLGBTに対する単純な非難ではなく、むしろ男の身体にも女の命を帯びたならば、それは女なのだと思う、伝統芸能には昔からそうした女形(オヤマ)の芸がある。
男の霊性に呼応する、何かしらの霊性があるから「女」なのだろう、そして女というのがどういう霊性なのかについては、僕は男だから知らないのだ、そんなもん知れるわけないじゃないか、女として我が身を営んできてはいない僕の肉に女の霊性が発現することはありえない、だからただただ「知らん」というのが正しい。
男が女の霊性を「知らん」のは当たり前のことであって、このごろは女性も女の霊性を「知らん」となった、そうしたら男の側も呼応する霊性が見当たらないので、今度は男の側も男の霊性を「知らん」となった、それでセクシャリティがnothingに向かっていったという、そういう状況だ/責任をなすりつけあってもしょうがない、ただ事実上、男は男の声と言葉が出なくなり、女は女の声と言葉が出なくなった、このことはヘンな中二病やファッションやアニメチック偽装で補うことはできない。

アポロン像は、チンコがあるから男というわけではない。

アポロン像は、ただの男の像だが、その像の立つ向かいには、なんとなく女の像がありうるのだろうなということが、誰の目にもわかる、そのように男女の本質は、具体的なズッコンバッコン(古い言い方)で定義されているのではなく、それぞれに宿っている霊性によって定義されている/当然だが、僕の肉のうちに女の像は見当たらない。
たまに、僕のことを本当に好きになってくれる女性もいるのだが、それにしたって、その女性が何をどうやって僕を「好き」になるのかは、正直さっぱりわからない、僕にとってホモセクシャルの気がまったくわからないというのと同じぐらい、さっぱりわからない、そりゃ僕は男なのだから女の霊がどうはたらくものなのかは知りようがない/そういえば僕がここに書き話す文章も、純粋に男の霊が宿っているだろう、ずっと以前から感じていることだが、僕が「男」でなくなったら、僕にはすることが何一つなくなるのだ。

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恋あい論への期待とセクシャリティの崩壊

あい論への準備をしている、と書いたところ、思いがけず一斉に、「期待しています」的なメッセージが集まってきた。
これは正直、意外だった、周囲を見渡すかぎり、いまどき恋あいのことなんて誰も一ミリも期待していないと思っていたのだが……
さしあたり、知っておかねばならないことは、今多くの人の、実際の態度や表れをフェアに見るかぎりは、誰も恋あいやロマンスを求めているようにはまったく見えない、ということだ。
このことは、LGBTの現象はひとまず捨象したとしても、おおむねセクシャリティの崩壊から起こっている、男性が男性らしく、女性が女性らしいというのは、男性がオラついているということではないし、女性がデカパイを揺らしているということではない、そんな安アニメのキャラクターのようには男女の世界は成り立たない。

セクシャリティの崩壊は、何も修復されねばならないという問題ではない、たとえば仮想的に春夏秋冬が崩壊したって、そのときは「ふーん」という話であって、修復せねばならないという話ではないし、たいてい修復後の春夏秋冬なんてニセモノになっているだろう。
だから、おおむねは、セクシャリティが崩壊した事実を検分するだけしか、われわれにできることはないのだが、その点でひとつわかりやすいことには、女性が「女言葉」を使わなくなったということがある、メイド喫茶で給金のアルバイトでもしないかぎりは、いまどき女言葉なんて誰も使わない/「〜かしら」「〜だわ」「〜なのよ」という言い方は死滅し、ムリにこの言葉を使おうとしても、女性の心身にはたちまち「草」が生えてくるはずだ。
今、女言葉を使えるのは、そのことで給金を受けている者か、そうでなければ、オカマの人だけということになるだろう、そのことを考えると、いわゆる腐女子の人がよく知っているように、今はホモセクシャルのほうが、逆に異性愛的ということがあるかもしれない、いわゆる「掘られる側」が実に「オンナ」になりうるということだ。
別にそのことが、悪いということではまったくない、ただ近年のLGBTの問題まで含めて考えると、現在のセクシャリティの問題は、ホモとかヘテロとかバイとかトランスとかいう問題ではないという感じがしてくる/旧来、セクシャリティというのは male と female があったのだが、現在多くの人は「nothing」に向かっているのだと思う、ホモとかヘテロとかバイとかトランスとかは周辺的に生じていることにすぎず、中枢的に起こっているのはこのセクシャリティの「nothing」ではないだろうか。

今多くの女性は、自分にペニス状のものが生えてきたら、割と違和感なく、ファック「する」側にも回ると思う。

別にそれだからといって、急に「男」になるわけでもないだろうが、そうして考えると、すでに「男」「女」の区分は内部的に成立していないということがわかる/単に具体の形状がオスかメスかだけで、役割を分担させられているという状況がある、まるで背が高い奴のことをそれだけで「バスケ」と呼んでいるかのように。
かつて、春夏秋冬が特別の力を持っていたように、男女というのも特別な力を持っていた、春夏秋冬は、春を光らせ、夏を称え、秋を彩り、冬を透き通らせていた/男と女が衝突することが「男女」だったのではなく、「男女」が男を遊ばせ、「男女」が女を慎ませていた、この現象は真だがおそらく高度すぎて今は理解されない、「男女だからデートする」のではなく、「デートがあるから男女だった」のだ、このことの理解が恢復されるだけでも今は遙かな道程だと覚悟されねばならない。

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恋あい論への準備3/デートの主軸

愛というのは、イメージするのは簡単なのだが、実践しようとすると、イメージと関係ないことばかりが実際にあって、行方不明になりがちだ。
というのは、男性が女性とデートするとして、なんとなく食事して、映画を観て、お酒を飲みにいって、「このあとどう?」みたいなことでは、よくよく見ると意味がわからないからだ。
それなりに派手に遊べば、楽しくはなるのだろうが、それでよろこんでくれるのはだいたい退屈している女性だけであって、まともな女性だとつい、「これはいったい何の時間なの」という疑問が脳裏をかすめてしまう。
そこで意外な発想だが、デートというのも、「自分は今こういう勉強をしている」ということを主軸に組み立てたほうがうまくいく、もちろん勉強といっても受験勉強ではないが/人が本当にワクワクするのは、宣伝された映画ではなくて自分たちのナゾや自分たちの未来なのだ。

多く、人は「話す」というと、自分の思っていることを話しがちで、たとえば自分の「夢」というのも、夢そのものについて語りがちだ。
でもそんなものは、すぐに息切れしてしまうし、すぐにネタ切れしてしまうので、そういうことではない、「会社の同期にTというのがいるんだが、あいつの交渉力は何なんだ、どうしてあらゆる難物をあいつは手なずけることができるんだ……?」ということ、そういうことについての勉強が念頭にあるほうがいい。
「Tの能力を、マネできるとは思えないけれど、あいつとタメを張れるぐらいの有能で、おれはありたい。そうしてリアルなハイレベルで、競い合うような生き方をしたいんだよな、そうでなきゃ毎朝目を覚ます理由がない」というようなこと、これが「夢がある」ということであって、夢というのは必ずしも幻想的なことを指してはいない。
単純な話、いつも異様に勉強熱心な奴と、いつもとにかく自分のお楽しみしか考えていない奴とが、両方イタリアへ旅行へ行きました、ということがあったとして、どちらの話を聞きたいかといえば、やはり前者のほうなのだ、前者のほうが「イタリアには○○があった」というと、その話はどうしてもワクワクする、それがここで言っている「勉強を主軸にする」ということのススメだ。

勉強は机に向かうものではなく未来に向かうものだ。

ためしに、これからデートにいく男性は、「おれ、ある人に、勉強というのは机に向かうものじゃなくて、未来に向かうものだって言われてさ、うわあマジでそれだわって思ってさ」と話し出してみたらいい、そういう話は案外バカにされないものだ。
デートの最中、歩きながら、たまたまアクアリウムショップの前を通ったとする、そのときに、「おいちょっと覗いていこうぜ」と女の子の手を引っ張って説得力があるのは、日頃から勉強で未来に向かっている奴だけなのだ/勉強というのは机に向かうものではなく未来に向かうものだが、未来に向かうときには同伴がいてもいいわけだ、その同伴のことをしばしばデートと呼んでいるだけだ。

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恋あい論への準備2
「感動」と「感受性」は反対で、相克の関係にあるということ。
それで、単純に言えば、「感動」が大事です、ということになるのだが、「感動」ということが、そもそも人によって多大な差分がある。
言わずもがな、同じ映画を観、同じ音楽を聴き、同じ言葉に触れ、同じ景色の中に立ち、同じこころを向けられたとして、全員が同じ「感動」を得るわけではない、むしろ大半の人は「何らの感動も覚えられない」ということを、今はもう認めてかからねばならない。
同じ映画のワンシーンから、百万の感動量を得る人もあれば、なんとなく、三か四ぐらいの感動量を、得たような「気がする」という人もあるのだ、そしてそのワンシーンを鮮やかなまま二十年抱えて生きる人もあれば、二時間後にはすっかり忘れ去っている人もいる、それぐらい「感動」ということには人それぞれに程度の差がある。
別に恋あいが偉いわけではないが、少なくとも、映画のワンシーンから得た感動を、二十年抱えてゆかない人は、誰かと結婚したとして、二十年も愛し合うことはムリだ、別にそれが悪いということではなく、事実上・生理的なものとして、感動でないものは二年も保たれない、ジェットコースターの興奮を二年間も覚えている人がありうるだろうか? これは善悪の話ではなく、ただ「感動」と「感受性」の性質は異なるというサイエンスの話でしかない。

恋あいというと、誰もが恋あいを体験する権利と素質を持っているように誤解されているが、そんなことはまったくないのだ、いくつもの恋を胸の最奥に抱えてゆけるということは、同じようにいくつもの歌、いくつもの物語、いくつもの光景、いくつもの映画、いくつもの小説、いくつもの言葉、いくつもの音楽、いくつもの場所を抱えてゆけるということで、そんなことができる人は、ともすれば一日中探しても一人も見つからないことのほうが多い/一日中で見つからないのは当たり前だが、これが十年間に及んで一人も見つからない場合、さすがに人は命ある生を投げ出すだろう。
われわれには生存本能があって、生存本能がわれわれを操るインターフェイスである「感受性」、この「感受性」は誰でも持っているのだ、平等で普遍的に与えられているのはこちらのほうであって、恋あいの素質が与えられているわけではない、どの男性だってエロ本を買うし、エロ本を買うなら、よりエロいほうを買うというだけだ、このことについては「誰だってそう」と言っておおむね差し支えないだろう。
しかし、なぜかわからないが、われわれは自分を「感動ゼロ人間です」と堂々と名乗って認めるということを、なかなかしがたく、抵抗を覚えるものだ、それで「感受性」を「感動」にすり替えて自己主張するのだが、このわけのわからないシステムから脱却する必要がある/どう工作しても、感動と感受性は互いに外貨ではないので、一方を一方へ両替することはできない、それぞれの国内でだけ通用する内貨であり、感動と感受性は性質が違うのみならず「国」が違うのだ、それぞれは別世界に住んでいると断定してかまわない、一方の国の大富豪は、他方の国での大富豪にはならない。
感動と感受性というのは、それぞれに特有の内貨だから、それを使うときそれぞれに特有の、目の色が出現するものだ、ふつうそのへんのおばちゃんをとっ捕まえて、「これまでに何に感動してきましたか」と問い訊ねたとしても、「感動」なんて特殊なものは語られてこないのが当然だ/サンプルにはゾンビ映画を観よ、ゾンビはただならぬ眼光を発しているが、その眼光に「感動」の光はない、そりゃゾンビだから当たり前だが。

多くの人が、自分の眼光を、学生ではなくゾンビに近いと自認しているから、ハロウィンに大量のコスプレが出動するのだ。

若い人は特に、自分に「似合っている」「似合っていない」をすごく気にするので、自分が学門の書をひもといて目を輝かせているフリをするのが、根こそぎ「似合わない」と見切っていて、代わりによく似合うゾンビのコスプレを人前に開陳するのだ/そりゃ、学門に舌なめずりしているところを「キマっているねえ」と褒めてもらえるなら、誰も好きこのんでゾンビのメイクなんかしない。
「これまでにどのような感動を得てきたか」と言われて、即刻「ないです」と答える人はまずいない、ほとんどは「そうですねえ……」といって、落ち着いて考えるふりをしながら、焦って考えるものだ、いくら考えても無い袖は振れないはずだが、なんとかその場は取り繕うだろう/恋あいに限らず、そこに感動を得て生きてきたということは、「これまでにどのような感動を得てきたか」と言われて、即刻「お話しできないことばっかりでね」と答えるということだ、恋あいの可能性がゼロということは、ありふれたことであって恥じることではないが、同じ恋あいを考えるなら、可能性がないインチキの道筋を頼るべきではない、恋あいのゼロは恥ではないがインチキに縋るのは笑えない恥だ。
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恋あい論への準備
々、恋あいについて、わかりやすくまとめて書こうと思っている。
要は、「感動」と「感受性」が真逆だということだ/「動」と「受」が反対だということ。
そして「感動」の両者が出会うことが、当然ながら本来の恋あいだ、感動は何によってもたらされているのだろう、それはさしあたり感受性とは逆の「悟性」に起こっているのは間違いない。
思春期・青春というのはけっきょく、この感受性と悟性のせめぎあいと対決だ、どちらが勝利するかによって、それぞれの行く先は分かたれていくことになる。

多く、この感受性と悟性の対決は、表沙汰にされず、こんにちではもはや「見当たらない」。
なぜかというと、多くの人は幼い内から、感受性の過剰・悟性の貧しさを仕込まれて育っているので、思春期・青春のころには、もうせめぎあいや対決どころか、「何の戦いがあるのか正直よくわからない」という状態になっている。
それで、悟性なしに感受性をボンバーさせていたら、恥ずかしいし友人も失うし本人も感情でドロッドロになるので、心身の機能そのものを凍結・抑圧し、気取ったふうのキャラを続けるのだ、これで現代の、「互いに打ち解けないけれど低温度で和やか」という状態ができあがっていく/どの方角を見ても今、心身の機能をフル発揮させて向き合っているというような光景はどこにもない。
「さとり世代」というような言い方がされたが、それは大いなる誤解だ、そしてその誤解のフタは、もう開けないほうがいいぐらいのヤバさを地下に封じている/さとり世代は、何を悟っているわけでもまったくなくて、フタをいじっても破滅しか待っていないということを知って、途方に暮れたまま、諦めているのだ、誰も何も教えてくれないし……その状況が切迫を極めているので、人々は吹けば飛ぶような淡泊さを続けているにすぎない。

男女二人が、よりそって深呼吸をしているところさえすでに目撃できない。

周囲の光景でもいいし、メディアでもいいしインターネットでもかまわないが、「感動」を帯びると言いうる光景を、今現代のものとしてどのように発見することができるだろう? シビアに考えて、「感動2018」というフォルダを作ったとして、その中に保存できるファイルがあまりにも見当たらないか、もしくはまがい物に満ちているのだ/三ヶ月後には無感情になるネタをまさかそのフォルダに保存することはできない、無感情になるなら保存する必要がそもそもない。
どんな生きものも、一定の「刺激」を受ければ、「興奮」するようにできているのだ、それは生存本能であって、生存本能がわれわれをコントロールするインターフェイスが「感受性」だ/1.感受性がヒートして悟性をクラッシュさせると、人は「醜態」におよび、2.悟性が高まって感受性を超克すると、人は「荘厳」におよぶ、このうち後者の体験が「感動」に当たるのだが、この体験が得られないので、多くの人々は3.感受性をなるべく露骨化せず、地下に埋め立てて過ごす、という暮らし方をしている、それでも感受性そのものが死に絶えるわけではないので、人はこっそり人に知られぬところで悪趣味に耽っているのだ。
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「カッコイイ」ってわかりまーすか
ログの更新が滞っていて申し訳ない。
何にモタついているかというと、「月刊ワーQ」第三号の、編集に手こずっているのだ。
それで、何に手こずっているかというと、それがわからないから手こずっていたのだが、先ほどナゾは解けたので、もう大丈夫だ。
テーマは「軽薄」だったのだけれど、なんというか、だれかれ構わず、みんな「カッコイイ」ということを、ドエライ誤解しているのではないかという気がしてきた、気がしてきたというか、ほとんど確信を得てきたぞオイ、こんなことになってしまって一体どーするつもりなんだ。

なんというか、アレかね、本当にマンガの読みすぎなのかもしれない。
われわれが「カッコイイ」を目指すとして、やってはならないことが五つある、それは、1.おばちゃん、2.中二病、3.お花畑、4.陶酔、5.身内びいき、この五つだ。
今回、思い至ったのだが、おそらくほとんどの人は、「自分自身」について正当な批評を受けたことがないのだ/自分がフワッフワしていることは、他人からはまったくカッコよくは見えないんだぜ、このあたり本当にいいかげんにしないといけない。
うーむ、その意味で、今回のテーマ「軽薄」は、ど真ん中を射抜いていたということかもしれないが、それにしてもこれはどうしたものか/実際的なこととして、人ってマジで「カッコイイ」と思ってもらえないと、まともなことは何一つできんぜ、それって自分が自分をカッコイイと思うこととは正反対だからね。

ダサさを買いに行くとカッコイイが、カッコよさを買いに行くとダサい。

どーもキミらの頭の中には、おしゃれカフェとトレンディドラマを足したような、とてつもないダサいメルヘンワールドが広がっているのじゃないのかね、そういうアホは本当にダメだぞ/カッコイイということは、農作業をしていてもカッコイイということだからな、どうして脳みそが農作業に向かわない、難しい本にゲロを吐いて笑っている無精ヒゲがカッコイイのであって、おしゃれグッズで整えた空間でシュッとしているのがカッコイイのじゃないぞ。
どうも、多くの人が、自分を隠蔽しているか視えづらいのだが、はっきり出力させてみれば、とんでもないカッコ悪さがにじみ出てくるのではないのか、そんなことではダメだ、酸鼻をきわめるぞ/どうも青春をしくじったという心当たりのある人は、きっとカッコよさを誤解して学習しているので、正規にカッコよさを学びなおすように。
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客はバカスカ喰うのが仕事だ2

近は、出世欲を持たない人が多いらしいが、それは無欲になったということではなく、己の生が「闇」である予感(ないしは確信)に、絶望しているからだ。
客はバカスカ飲む・喰う・買うのが「仕事」ということを知らないので、ただ消費気分なのだ、だからその消費というのも「もういいです」と思っている、もちろんそんな誤認のままではどんな暮らしをしていても光輝はわずかも得られないのだ。
まともな経営者は、自分が喰うために経営しているのではなく、雇っている従業員たちを「喰わせなきゃ」と思って経営をしている、それと同様に、まともな客は、自分が喰うために飲食店に来ているのではなく、その店の連中を「喰わせなきゃ」と思って食事に来ている/若い人々へ、これは何も突飛な発想ではなく、割と当たり前の発想だから、そのように知っておいてくれ、自分が飲食店に食事に行くということは、自分が喰いに行っているのではなく、そこの従業員たちを「喰わせに行っている」のだ、そうでなきゃ街には何の値打ちもない。
出世欲がわからない人へ、もしくは誤解している人へ、わかってもらいたいが、正しい出世欲というのは、自分がいいものを喰うために出世したいということではなく、「自分が出世したら、もっと多くの人たちを喰わせられるのに」ということで、出世欲が湧くのだ、自分が喰うことしか考えていない出世欲はサイテーであって、それは自分が喰うことしか考えていない無欲も同様にサイテーということなのだ。

たとえば、当サイトでは、長いあいだ原宿の某店でパーティ企画を継続しており、さすがに原宿で朝までどんちゃん騒ぎをすると、そこそこの金額にはなってしまうのだが、ここで幸福なことに(パーティの連中はよく知っておいてくれ)、われわれの払ったお金は他でもないコバヤシアニキの元に落ちている、自分の知らない誰かのところへ落ちているのではないのだ、このことはきょうびなかなか得られない幸福なのだ。
少々高くついても、コバヤシアニキのところに落ちているなら、「まあいいか」と思えるじゃないか、コバヤシアニキだってたまには旅行ぐらい行くだろう、そのときのホテルのグレードがちょいと上がるだけだ、「街」というのは本来そういう機能のものであって、われわれにとってそうした「街」との接続はとても重要なものなのだ、われわれは自分たちが気分良く酒を飲んでいるのみならず、コバヤシアニキを喰わせているのでもあるのだ、それだからこそわざわざ街に出て飲む酒は旨いんじゃないか。
現代、われわれは、バカスカ稼ぐことが「仕事」だと思わされているが、そうではない、そのような誤解をするように、われわれは誘導され操作されているだけだ、バカスカ稼ぐことはそのまま「稼ぎ」であって、それ自体は「仕事」ではない、バカスカ稼いだ者の「仕事」は、然るべきところにバカスカ使うのが「仕事」だ、このことがわからない人は、怨恨のせいで学門(経済学)がわからなくなっているといえる、よって不思議に「何もかもから嫌われていく」ということが起こっているだろう。
「稼ぎ」を「仕事」と誤認しているから、客としてカネを使うときに、態度がおかしくなるのだ、カネを使う客は店側の仕事ぶりを審査するのではなく、第一に自分の食いっぷり・飲みっぷりという、自分の仕事を審査するのだ、それでこそ「(あなたという)お客さまはカミサマです」という街の思想が現成する/僕がどこでもバカスカ喰ってバカスカ飲むのは、単なる食い意地からではない、ついどこでも仕事熱心だからだ。

自分を生きさせるのが稼ぎであり、誰かを生きさせるのが仕事だ。

だから経営者は従業員を喰わせるのが仕事だし、客は店主を喰わせるのが仕事だ、教師は生徒を生きられるようにしてやるのが仕事だし、医者は患者を生きられるようにしてやるのが仕事だ、生きるのには力がいるのだから、人に力を突っ込んでやるのが「仕事」だ/誰だって寿司を喰えば生きていられるが、それは寿司そのものが為している仕事であって、寿司職人が為している仕事ではない、寿司職人は寿司そのものに生を与えるのが仕事だ、その仕事に長けた寿司職人がいなければ、もちろん寿司はこの世から死に絶えてしまうだろう。
業突く張りにでもならないかぎり、この世に楽しい稼ぎなんて存在しないが、同時にこの世に虚しい仕事なんてない/どんな大富豪が寿司屋を開業したって、それなりのお代を取るだろうが、それは大富豪が小銭を稼ぎたいからではなく、少しはお代を取らないと客の側が「仕事」できないからだ、「仕事」できずにただメシだけ喰って帰ってしまっては、客の内臓はどんどん真っ黒に澱んでいくだろう、その場で職業をやるのは職業人だけだが、仕事というのはどこでも万人がしているものだ。

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客はバカスカ喰うのが仕事だ
のことを知らないと、本当に追い詰められてしまうので、ぜひどうぞ勉強してくれ。
寿司屋は寿司を握るのが仕事であって、客からカネを取るのが仕事ではない。
客から二倍のカネを取れば、利益は二倍以上になるかもしれないが、それで寿司屋は二倍の仕事をしたことにはなっていない。
繰り返す、客からカネを取るのが寿司屋の仕事ではない、なぜなら、<<カネを払うのは客の仕事>>だからだ、客はバカスカ喰うのが仕事で、それによってバカスカ払うのが仕事だ/この感覚がわかっていない人は、本当に追い詰められてやがて滅んでしまうので、ぜひどうぞこのことを勉強してくれ、少し考えればわかることだ。

トリニティ、三角形の循環で考えろ、まず客はバカスカ喰って、バカスカ払うのが「仕事」だ、そのお代金によって、寿司屋はバカスカ仕入れ、バカスカ寿司を握るのが仕事になる。
そして、握られた寿司そのものは、バカスカ艶めき、バカスカ客の口に飛び込むのが仕事だ、それを客がバカスカ喰う、すると客はバカスカ払い、寿司屋はバカスカ仕入れるようになり、またバカスカ握る、握られた寿司はバカスカ艶めいて、バカスカ客の口に飛び込んでいく/こうして「仕事」というのは、トリニティの三者が「力の無駄遣い」をすることに本質がある。
力の無駄遣いをするので、このトリニティに属する者は、力(重さ)を減らしてゆき、身を軽くしていくという循環を得る、それが本来の「仕事」だ/「仕事」は「稼ぎ」ではないのだ、仕事は力の無駄遣いによって生じ、稼ぎは力の出し惜しみによって生じている、三者が稼ぎに向かって力を出し惜しみすると、客は少なめに食べ、寿司屋は少なめに握り、寿司そのものは少なめに艶めくことになる、稼ぎを仕事と誤認するとこのように闇のトリニティに落ちていってしまう。
バカスカ喰ってくれる客は、寿司屋から見て「なんて愛おしいお客さんだ」と光って見える、バカスカ握ってくれる職人は、寿司そのものから見て「なんて愛おしい職人だ」と光って見える、バカスカ口に飛び込んでくる寿司は、客から見て「なんて愛おしい寿司だ」と光って見える/客は喰って払うことに力を尽くし、寿司屋は仕入れて握ることに力を尽くし、寿司そのものは艶めいて客の口に飛び込むことに力を尽くしている、力(重さ)が尽きてゆくので、そこには悟性と愛と光が宿る、ここに属する三者は光によって励ましを得つづけるし、そうでないものに属する三者は闇によって憎悪を得つづけるだろう。

腹一杯喰うのが客の「仕事」と知っていないと、胃腸はまともにはたらかない。

もちろん健康被害が出るほど喰ってはいけないが、とにかく大満足まで喰うのが客の仕事なのだ、それが「仕事」だというのがわからないと、仕事をして生きることは行方不明になり、とてつもなく苦しい生き方をすることになる/バカスカ喰うのが客の「仕事」だとわかっていないと、自分が寿司屋になったときも、自分が何の「仕事」をするのかがわからないのだ、そうすると何の仕事も為さない寿司を握ってしまうことになる、そうすると仕事は虚しいので、「二倍のカネを取れないかな」ということばかり考えるようになり、そうなるともう胃腸どころじゃない全身と五臓六腑が黒く落ち込み澱んでいく。
食い逃げした客は、稼ぎという面では最大の利益を得るが、「仕事」の面ではドマイナスなので、身はどんどん重たくなっていく、倍のカネを取ろうとした寿司屋も同じだ、仕事でなく「稼ぎ」を主義とするぶんにはそれでかまわないのだが、それを「仕事」と誤認してはならない、誤認すると稼ぎ面の有利さの中で身が重くなっていくことに了解不能になってしまう、仕事を縮小して稼ぎを倍にした人に清澄のまなざしをした人はいない、それは金銭的には(力的には)有利だが決してラクということにはならない。
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強さのフェーズ来たれり

ろいろあって、「強さ」というテーマが必要なフェーズに来たと思う。
もともと僕は、「強さ」ということを推したかったのだが、ここまで「感受性」の理論が突き詰められないと、「強さ」説を推すことができなかったのだ/多くの人が、「強さ」を「感受性」にすり替えて錯覚するので、ここまで長いあいだ、「強さ」説は隠匿してきたことを確認する。
感受性を引き下げて、悟性の照見を得ようとするアプローチを、「リデュース」と呼んでいる/感受性が盛(さか)っていると、物事は「目につく」ばかりで、実は「見えなくなる」からだ、だから感受性を下げるという意味でリデュースと呼んでいる、まあ呼んでいるだけで、誰もまともにできないんだけどね(けれども、できないからこそ、理を先に学ぶ必要があるのだ、できているなら学ぶ必要はねーよ)。
このリデュースが為されるのは、ひとえに「強さ」によってであると断じてよい、もう僕に親しんでくれている人は、誤解しないだろう、「強さ」というのは感受性が盛(さか)って妄信的・やけくそになっている状態を指すのではない、ヤバさや虚しさから目をそらすのは強さではなくて弱さだ、感受性は「見えなくする(目をそらす)」のに機能しているので、感受性のヒートアップは人を弱さに引き込んでいるだけだ。

すべてにおいて、改めて考えろ/ただし、「もし自分が、メチャ強かったらどうか」という視点で考え直せ。
「強い」ということは、デカいことを軽々と為すということだ、すさまじい集中力とエネルギーを、軽々と発揮しつづけるということだ/逆に弱いということは、小さなことに重々しく潰されるということだ、わずかな集中力もエネルギーも、自己陶酔なしには引き出せないということだ。
特にワークショップの連中は、リデュース法を実践してみて、まったくうまくいかないとき、それだけ自分が「弱い」のだと思い知らねばならない、これは公式化してよい、「リデュースができない、わたしはこんなに弱い」ということだ、またいちいち自分の弱さにショゲるぐらい、根こそぎ弱いのを自分に甘やかしてきたということでもある。
今世の中には、ギャーギャーわめく人がいて、「絶対に許さない」とか「絶対にやりたい」とか言っていたりするのだが、これは善悪のどちらということはさしあたり無視して、強いか弱いかでいえば確実に「弱い」ほうだ、強い人というのは鼻歌を唄いながら、けっきょく「なんとかしてしまう」人なのだから/弱い人は必ず、1.ギャーギャーわめくか、2.ギャーギャーわめくのを抑圧して、そのぶん作り物の人格になるかのどちらかだ、何にせよリデュースという実践を前にして、これまで蓄積してきた弱さの決算が明るみに出ようとしているのだった。

強さにシフトしろ。

まったく、どこの誰が何をどうたくらんだのか知らないが、どこかの誰かが、人を弱くする術に長けている、それにしてもその術にあっさりやられてんじゃねーよ、弱いってのは疲れるってことだぜ、疲れやすくなっているのを内心でごまかしている人は、その疲れやすさが弱さから生じていることを己に見切らなくてはならない。
強さは力じゃない、当たり前だ、強さと力を区別しろ、「強いなら力は要らないでしょ」が正だ、「力を手放せるのが強さ」だ、どれだけ大きな力を手放せるかが、その人がどれだけ強いかの実際的な値だ、逆に力の溜め込みが、その人の弱さの実際的な値になっている/闇雲に強くなれと言っているのじゃない、人はそんなに強くなれないだろう、けれども、強さと力を混同してはならない、よりにもよって自分の弱さと強さを逆転したまま生きることになってしまうからだ、たとえ己があまり強くなれなかったとしても、強さと弱さの何たるかを正しく理解だけはしておこう。

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