☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
天国行きと地獄行きの分岐点
、移動中だし、わかりやすさだけを考えて言う。
天国行きと地獄行きの分岐がわかった。
輪廻図と十二因縁に、地獄道と「受」の因果が書かれている、どこかで輪廻図の画像でも検索してくれ。
十二因縁において、「行・行く・行う」が人間道だ、そしてこの、「行う」の反対が「受」(地獄道)なのだ/単純にいうと「受け身」のことであり「受動態」のことだ、こんなささやかな、しかし決定的なことが、われわれの分岐点になっている。

「わたしが祈る」というのはいいのだ。
けれども、おそらく多くの人がこんにち、「わたしが祈る」ではなく「祈るわたし」になってしまっている、「受」なのだ、このことは近年隆盛した「自撮り」の圧倒的横行の原動力でもある。
「わたしが祈る」というのは「行」だから人間道の因果だ、しかしそこに「祈るわたし」という魅力的成分が混ざっているなら、それは「受」であって、地獄道の因果だ、こんなことでこんにちのわれわれは、地獄行きを大量生産されているのだった。
もちろん「地獄」というのは、一般にも恐ろしい概念であって、われわれごときが軽々に扱える言葉ではない、今ここではわかりやすさを重視して最も単純な形で書き話している。

「わたしが◯◯する」と、「◯◯するわたし」は、分岐点で、魅力的なほうが地獄行きだ。

なぜ魅力的なほうが地獄行きかというと、力はもともと「重さ」であり(kgw単位を見よ)、重さは天から地に向かうからだ/「魅力」は魑魅魍魎のうち「魅」の力を指しており、語源として悪霊のひとつを指している。
わたしがやる、わたしが頑張る、わたしが歌う、わたしが笑う、それらはまだよし、しかし現代の主流は「やるわたし」であり、「頑張るわたし」「歌うわたし」「笑うわたし」だ、これはわたしの行ではなく受であって、だからこそ魅力的に、われわれを地獄道へ案内してゆく。
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「偶像崇拝」という盲点

ぜか、クリスチャンやムスリムでなくても、われわれは漠然と、「偶像崇拝はいけない」ということを知っている/本当にいけないのかどうかは知らないが、「たしか、いけないんですよね」と漠然とどこかで教えられている。
どこかのお寺や、あるいは自宅にも、阿弥陀如来等の尊像が掲げられているところがあれば、その尊像の脇や裏には、ちゃんと「方便法身」と但し書きがあったりする、方便法身(ほうべんほっしん)とは、「本来、真如とは、わかりやすーい形を具えているものではないが」「それではわれわれのようなアホには理解不能なので」「やむをえず方便としてわかりやすい形を表してくださっている」「この形をそのまま崇めるのでは、本当はない、らしいぜ」という意味だ。
このようにして、いわゆる世界三大宗教が、偶像崇拝を警戒しているのだが、一方でわれわれはというと、「金メダル」とか「オスカー像」とかを、何の躊躇もなく崇拝しまくっている/力とライトアップの果てにある頂点のそれを、偶像に結集して崇拝しているのだが、なぜかこれを偶像崇拝とは誰も気づかないようにできている。
誰かが何か、巨大なピアノコンクールで優勝したとする、その優勝者には女神像のついたトロフィーでも贈られるかもしれないが、当然ながらそのトロフィーからは何の音楽も聞こえない、そしてわれわれの悟性には、何の音楽も聞こえないのに、トロフィーのパワーだけは燦然と輝いてわかるのだ、これではむしろ全力で偶像崇拝の道を突っ走ってきたかごとくだ、それが偶像崇拝だということはなぜか誰も気づかないし、誰にも教えてもらえない。

そして、金メダルもそうだが、そういうトロフィーは、たいていゴールドが一番偉く、造りも主張的で、「力」を顕示する趣となっている/そのあたりわれわれの性根は、豊臣秀吉とあまり変わらないのかもしれない。
そりゃ誰が考えても、アカデミー賞を受けた者に、木彫りの民芸品を与えようとは思わないわな/このように、われわれは日常、あっさり「力」に帰依しており、その周辺は何の躊躇もなく偶像崇拝に包囲されている、オスカー像をさすがに「方便」と言い張る人はいないだろう。
偶像崇拝という観点から考えると、あまり家に、不明な人形を連れて帰らないほうがいい、自分で連れて帰ったものはどうにも防ぎようがないからな/かといって、帰宅途中にトロフィーを大黒屋に売っぱらってしまえというのは、それこそボブディランぐらいでないとできようがない荒行だ、まあそういう偶像モンにはなるべく地位を与えないほうがいい。
偶像的なモンは、捨てちまえとはさすがに言えないのだが、せっかく獲得したトロフィーを捨てられないというのは、それこそ崇拝している証拠なのでもある、だからほどほどにして、あまり地位を与えないように、「何かくっついてきやがった」という程度にして、家族の一員にはせず、「おう、なんやお前」というぐらいで気長に扱うのがちょうどいい按配だろう。

偶像の反対は「理性」だ。

偶像崇拝を警戒するために、理性を崇拝すればいい、トルストイも言っているように、理性はステキなものだ、そして理性的に何かを信じられないなら、それは正しくわかっていないのだ、偶像崇拝というのは理性のない妄信者にうってつけのアイテムになる、しばしば偶像は<<理性を失わせる恣意的なアイテム>>として用いられている。
よくよく考えると、すっきりとした理性を保ち続けているステキな人、というのは世の中に数少ないものだが、この「すっきりとした理性」の中にいられない人は、意外に偶像の呪縛にかかっているというパターンが多いものだ、追及してみると当人の自室がお人形さんで一杯だったとか、そういう例は思いがけず多い(人形に限らず、部屋にモノが多い人は注意)。

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「ライトアップ」という盲点

ーニバルを例外として、神像・仏像は、みだりにライトアップしないものだ/言われてみれば「そういえば」と、誰でもわかるはずだ。
神像・仏像は、みだりにライトアップしない……なぜかというと、光をもたらすものに、光を当てるというのは、もともと誤解のある構造だからだ、「太陽をライトアップはしないだろ」という話/ただしカーニバルは例外なのだが、なぜカーニバルは例外かとまで言い出すと、話が長くなってしまう、カーニバルは「仮に」神の国が降りてきたらという話なので、そのときはタブーやNGがなくなるのだ(それ以上はもう民俗学の専門書でも調べてくれ)。
神像・仏像が、「ありがたいもの」なら、ガンガンライトアップすればいいじゃない、と思えるのだが、ご存じのとおり控えめだ、東京タワーがライトアップされていても、街のお地蔵様のほこらは、ひっそりとしたものだ/ライトアップされるものは、基本的に「地上のもの」に限られる、たとえば夜桜や夜の庭園などは、ライトアップされていておかしくない、比べて神像や仏像はモチーフとして「地上のもの」ではないのでライトアップは理に適わないのだ。
この「ライトアップ」というのが、存外くせもので、正しい知識なしにライトアップを見たり浴びたりすると、人はあっさり気が狂ってしまう、「恍惚」という字を見てもわかるが、りっしんべんに「こころがぼける」と書いてある/「地上のものだからライトアップされる」という頑健な知識があればいいのだが、それがないと、人はライトアップされたものを「天上のもの」と誤解するものだ、特に天上のものを見られない(見神の事実が得られない)人は、このライトアップ誤解にすっぽりハマるので気をつけよう。

構造上、一番まずいのは、「力のある人をライトアップする」ということだ、考えてみれば誰だってわかると思うが、力は光の反対なのだから、力のある人を「光の権化」のように見立てるのは構造がおかしい、このしょーもない誤解がわれわれをいくらでも迷妄の中に引き込んでしまう。
正しくは、このように見えなくてはならない、「力」が悪いというわけではまったくないのだ、ただ力のある人に光を当てるとき、「この人は力がなければ認めてもらえなかった」という見方を忘れてはならない、言われてみれば当たり前なのだが、なぜかこのことはすっかり忘れられてしまう/百億円を稼いだ人は、百億円という力(財力・権力)を持っているから、われわれが注目するのであって、その力を失えば、われわれは彼に注目しないし、彼の存在をまったく認めない、だからこそ力の持ち主は己の力に呪縛されるのでもある(筋力ムキムキの人も同じ、われわれは彼を「力」においてのみ認めて注目している)。
「力」そのものが悪いわけでは決してない、けれども、おなじ「力」といっても、「力を尽くした者」と「力を溜め込んだ者」とでは、性質がまったく異なるのだ、「力を溜め込んだ者」をライトアップし、それを光の権化のように誤認するのは、たいへんよくない、誤解している当人に何の自覚もなくても、身の内にはそれに応じた現象がきっちり起こり始めてしまう。
先に、「魅力」という話をしたが、「魅力」も魔力のひとつであり、言ってみれば「力」というのはすべて魔のものだ、百億円を貯め込んだ人の「財力」は、それ自体「魅力」となって、魅力を追う人を惹きつけるだろう、芸能人の女性が財界人やスポーツのパワープレイヤーと結婚するのは、単にカネ目当てということではなく、あらゆる力を「魅力」と認めて交換する世界に住んでいるということだ、あくまでそれが悪いということではなく、そうした「力」の世界では、背後にまったく知られざる代償が支払われているということ。

「魅力」を、ライトアップする――光を、力に従わせる――のが、術の基本だ。

術の基本、それがつまり、「演出」の基本ということになるが、UGLYなものをライトアップすれば、それだけで人は動転し、道を踏み外すのだ、「魔力」に光を当てて、天上のものと錯覚させればいい/最も単純なやり方としては、カネの匂いをライトアップすればいい、そうした「アーティスト」の映像が、いくつもわれわれの脳裏には刻まれているはずだ、一方でボブディランにはカネの匂いはないし、「ライトアップ」という印象もない。
<<「力」に人為の光を当てる>>という、ただそれだけ……われわれは路上で半裸の男たちが殴り合っていても拍手はしないだろうが、ライトアップされると拍手してしまう、人為的に光のあて方を偏らせることで、われわれは「光とは何か」をいくらでも誤解させられるのだ/そうしていつの間にか、「力」(魅力、財力、魔力)に帰依すると、ふだんから「力」がギラついて見えるようになり、目が自動的に「力の暗闇」を追い求めるようになってしまう。

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「魅力」という盲点

い女性は特に、自分の「魅力」について、こころを砕いていると思う。
が、およそ気づきようのないことに、「魅」力というと、「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」の一字なのだ、魑魅と魍魎があり、魑・魅・魍・魎はそれぞれ別の霊的存在を意味している、そして基本的にどれも、語源的には悪霊の扱いだ。
こんなもん、誰が気づくねんという話だが、「魅力というと、魑魅の力ですよね、つまり "すだま" の力ですよね」ということになる、われわれが平易に使っている「魅力」という語、また漠然と求め続けている「魅力」というのは、そういう意味だ、それはまあ国語的にそういう意味なのだからしゃーない。
このごろの僕はよく、「魂魄(こんぱく)」という言い方をするが、そうして漢字の中に「鬼」が入っているのは、すべて霊的なウンヌンのことを意味している、「魔」もよくよく見ると鬼が入っているしな、「小悪魔・美魔女の魅力」とかヘーキで言うじゃないか、字を見ると鬼だらけであり、字が鬼だらけということは、霊的なことにこだわりますよねえということなのだった、それはまあ国語的にそういう意味なn(ry。

魅の力は、「力」なので、「重さ」となり、基本的に人を束縛し、人に取り憑くように作用する、そりゃ元が悪霊なのだからそのままだと呪術的に作用するだろう/魅力は霊力のひとつなので、それが元からスッカラカンでは人は何の面白みもないが……
だがここで重要なのは知識だ、何も知らないで自分が「魅力」を希求していると、知らず識らず「力」を求めていることになり、知らず識らず「力」を貸し与えてくれるように、何者かに祈りや儀式をしてしまうことになる、そうすると知らないうちに契約が結ばれてしまい、その契約は後に代償を取られるのだった/一時的に強烈な魅力を放って、その後何か「虫食まれていった」人のことを、知人にも著名人にも思い当たることができるだろう。
知っておくべきことは、光る海や春の光、吹き抜けていく東風には、何の「魅力」もないということだ、<<心洗われるようなやつは「魅力」が含まれていない>>と暗記しておけ、<<光には魅力がない>>のだ、だから<<「魅力」に帰依している者は光モノから目を背ける>>という法則が成り立つ、このあたりのことも暗記しておけばいつかの未来に役に立つ(かもしれない)。
トルストイに魅力はないし、ウィリアムブレイクにも魅力はない、西田幾多郎や澤木興道にも魅力はないのだ、「魅力」は大前提としてUGLYなものだからだ、だから現代ではUGLYなコンテンツとUGLYな芸風が流行する、グロマンガオタクがトルストイを読むわけがない/知らず識らず「魅力」を上位に掲げていると必ずこの悪い方のトリニティに吸い込まれるのだ、魅の力を「光」の側へ引っ張ってこられるかどうかが大勝負なのであって、あっさり魅の力のほうへ引き込まれるのは、どこが勝負所かの知識がなく、なしくずしにバッドゲームに引き込まれているのだ。

魅力を追った人よ、内面は "なぜか" ボロッボロだろ。

銀座や六本木のホステスさんで、特に売り上げ姉さんや各店のナンバーワンになる人は、やはり異様な魅力を放っているのだが、この魅力はどうしても背後に大きな代償を支払っているのだ、それが悪いということではないが、仕組みを知らなければなぜ自分がボロボロになっていくのか、まったくわからなくて制御が利かないはずだ/自傷行為や、内臓が出血するようなこと、血の滲むような努力や、大出血というような出費、そのようにして代償はたいてい「血の沙汰」で支払うことになる、あまり言うとグロテスクになるのでぼんやり申し上げておくが……
われわれは、誰かと愛し合う必要があり、この世界そのものを愛する必要があるが、ここで言う「愛」とは「光」のことであって、「魅力」という力ではないのだ/魅力を追ってきた人は、「魅力」をやめると、「自分に光がない」という事実が露出してきて、状況が進行すれば、「自分に闇がある」という事実が噴出してくるだろう、だからますます「魅力」をやることがやめられなくなる……「魅力」を追ってパワーチャージすると仕組み上必ずそうなるのだ、それはあなただけではないのでその点はある意味安心していい。

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目指すのは、「ギンギン」ではなく「スカスカ」

憩を取りたい、というより、休憩を「取らねばならない」と感じているのだが、「あとこれだけ済ませてから……」とやり始めると、けっきょく休憩なんか取れなくて、ふと気づくと昏睡している/そして目が覚めると、「休憩を取らねばならない」とマジメに考えさせられる。
ううーむ、いつも、鼻歌まじりにやっているつもりなのだが、何か目に見えない部分で、デカいことにはデカい負担があるようだ、光と力のトリニティのあたり、フンフーンと考えながら書き話していても、それは表面的なことであって、内部的にはもっと別のことがあるらしい、あっというまに何かを使い果たしてしまう。
確かに、学門として取り扱う以上、本当の仕組みへさっさと到達せねばならないのだが、その到達へ切り込むときの、一種の精神的なエネルギーだろうか、このエネルギーが、僕の自覚のないところで桁外れに使い果たされているのかもしれない、外見上は僕など、ヒマそうの余裕そうに見えているはずだが……
「愛」といって、そのストリームは、上下方向によって異なる形態(光・力)を取るというのは、きっとフンフーンと言いながら、何かとんでもない発見であり、到達なのだろう、何しろこれですべてのことの説明がつくからな/ひょっとすると、あなたから僕を見たとき、僕から光を感じるかもしれないが、僕自身の感覚はそうではないのだ、僕は光についていくために、力を尽くしている、僕はいつも力を使い果たしてフラフラであり、フラフラにならずに眠る日なんて一日もない。

「力」といって、もちろん筋力を単純に振り回すわけではないが、じゃあ「力を尽くす」いえばどういうことかというと、「命がけ」ということになる、「命がけ」とは何かというと、スプーンぐらい念力で曲げたるわという、ムチャクチャなことこそが「命がけ」であって……もしこれを「祈り」というのならば、<<祈りとは実にパワフルなものだ>>、メルヘンチックな気分に浸ったり脱力して縋ることは祈りでも何でもない。
スプーンぐらい念力で曲げたるわというアホの気概と、クソ重たい神輿をセイヤセイヤと「奉納したるわ」という力の使い尽くし、それが祈りなのであって、祈りとはパワフルなものだ、祈り自体が聖なるものではない、おそらくこの「祈り」=「聖なるもの」というイメージがよくないのだ/祈りを捧げるということは、己の(精神)力を捧げるということであって、パワフルなものだ、これを逆に捉えているから、祈る先が自動的に切り替わってしまい、よろしくないものに帰依したナゾの結果が現れてしまうことになる。
祈りが聖なるものというのは、天皇陛下や神父さんがわれわれ愚民のために祈ってくれたとか、あるいは神そのものが地の民を祈ってくれているとか、そういう「上から下へ」の場合が「聖なる祈り with 光」なのであって、われわれの側はそんなご身分にない、われわれの祈りは下から上へ、「合金スプーンもおれっちの念力で曲げるぜ」というようなアホナイスの精神力だ、気力と体力と精神力の奉納が祈りだ。
僕は休憩を必要としているのだが、一息つくと、つい「ンンンンそれどころじゃないンンンン」というエネルギーが湧いてきてしまう/実際毎日のことだが、目の前に白紙の原稿用紙がどっさりあったらどうするの、聖なる光とか祈りとか、そんなフワフワした幻想は何のアテにもならない、「うおおおお〜」と命がけだ、それ以外に方法はないし、しかもその命がけの精神力が何かに奉納されないとハズレだという、構造がシビアなのだ。

精神力を高めるのではなく、精神力をスッカラカンに使い果たせ。

最近はあちこちで「瞑想」が流行っているそうだが、その方法は何も悪くないにしても、瞑想に「ハマる」というような発想は、僕としてはおすすめできない、自分を高みに押し上げるというようなウサンクサイ発想はやめろ、<<他人から見て光が見えることが重要であって、自分からフワフワ光が見えているのは確実にハズレだ>>、当人は「うおおおお〜」と命がけで、当人にはそれしか見えていないが、他人から見ると光が見えているということ、天上の光に到達するためには、時速十万キロに到達するロケットエンジンが必要なのだ、その燃料がスッカラカンに使い果たされたとき、ようやくロケットは重力圏を離れている、ロケットの一心は「命がけ」に尽きるだろう。
具体的に、「コイツの精神力は何なんだ」と、周囲をドン引きさせるぐらいでないとダメなのだが、ここで多くの人が、エセパワフルで自分を取り繕うために、ヨソからそういう力を借りてきたりする、それがとてもよくないことだ/自分が力を借りてくるのではなく、自分が力を使い果たすということだ、<<自分がギンギンになるのはインチキさん、自分がスカスカになるまでやれないのだろう?>>、現代人は自分がギンギンになることが「パワフル」だと思っているが、その発想は構造上必ず闇のほうに落ちていってしまう、目指すのはギンギンではなくスカスカです。

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力と光の等価性2

粋に、面白い仕組みだなあと思うし、同時に、近年のわれわれにとって、最も危険な仕組みがこれなのだと思う。
「愛」というと、神聖な何かで、光めいたものだと思っているのだ、これがよくない、どう善良なつもりでいても知らぬ間に自分が悪魔との契約者にバッチリ仕上がってしまう。
もしあなたのそばに、ガチで、神秘的というほど全身が愛に満ちた人がいたとすると、その人はまったく、あなたも含めた多くの人たちに、光をもたらすばかりの存在に見えるはずだ、そしてそれを見て「これが愛か」と学ぶということ、これが実は一番危なっかしい。
それは、そんな全身に愛が満ちている人は、相当身分が高いはずであって、身分が高いからこそ、その愛は「光」の形態で降り注いでくるのだ、その愛に応えようとしても、身分の低いわれわれはそういう形態の「愛」は発揮できない、下から上へは「力を捧げる」という形でしか愛を発揮できないのだ、そこを取り違えて学習するから、知らぬ間に自分が地の底の悪魔とバッチリ契約した者に仕上がっていってしまう。

仮に、カミサマが存在するとして、カミサマがもし自分を愛してくれるのだとしたら、その愛に応えるということは、光ではないのだ、力なのだ、注がれた光のぶん、己は力を使い尽くそうとすること/何かの信徒さんが山の上まで登って、貧乏なくせにご神体に金箔を貼り付けて祈ろうとするのは、己のささやかな力をそこに使い尽くそうとしているのだ、神秘的に信仰しているのではなく力尽くで信仰しているというのが、この場合は正しい。
このあたり、たぶんわれわれは、もう致命的に修正が利かないと思うが、愛というのは己が神秘的な光に満ちてドドーンとなる、ということではないのだ/甲本ヒロトがパンクロックを愛しているというのは、精一杯デカい声で歌ってそこに力を使い尽くすから、パンクロックを愛しているということになるのだ、神秘的な気分でドドーンではない、このあたりはもう致命的に修正が利かない。
われわれは誰だって、生きているうちに、聖なるものに触れたくて、聖なるものに近づきたいと望んでいるのだが、聖なるものに近づくということは、聖なる者の側の気分に近づくということではないのだ、向こうが光を使い尽くすのに負けず、こちらも力を使い尽くすということが、わずかでも聖なるものに近づき、それに触れるということになるのだ。
「愛」といって、愛が光の形を取るのは、上から下にだから、われわれが光に満ちたふうの気分でドドーンと自己感情に浸ると、その愛はやはり上から下に向かっていて、つまり自分より下位の、地の底に落ちた何かに「契り」を向けていることになるのだ、そうして自覚のないままに地の底の何かとバッチリ契りあっているものだから、もうある意味出来上がってしまっている人が多い/悪魔があなたに力を捧げてくれることになるから、あなたは力を得ることになるが、もちろんその契約はあなたの光を根こそぎ提供するという取り決めだ、それであなたの四肢は強い力をムラムラ起こし、そのたびになぜか人智を越えた「闇」みたいなものに取り込まれていく。

頭上の電灯に、電力を供給しなさい、電灯に照らされたら、あなたは勝手に輝いています。

誰でも自分の部屋でそうしているはずだ、自分が光るから電力をよこせといって、自分をコンセントにつなぐアホがいるか? 自分が明るく暮らすためには、電力会社に財力を供して、電灯に電力を供給すればいいだけのはずだ、その財力を得るにもまた、どこかで労働力を供しているだろう、それがごくまっとうなことじゃないか/あなたが光を愛しているということは、電灯を点けるのに力を捧げてしまうということだ、その神聖なことを蔑視する悪い風潮がこのごろは蔓延している。
一番まずいタイプは、「自分が光だと思うと、力が湧いてくるんです」というタイプだ、このタイプは傍目にはゴリゴリの闇タイプなのに、本人はそのことをなかなか自覚しようとしない/一般に、自分の力を使い尽くさずに生きているタイプは非常にまずいと捉えていい、そういうタイプがまた活動的には「活発」だったりするのだが、それはトリニティが逆回転して「力」が流入しているのだ、正しくは力が流出して光が流入してくるべきであり、光が流出して力が流入してくるパターンは大変よくない、そういうタイプは<<誰も自分に力を貸してくれない>>はずだ。

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力と光の等価性

「力」というのは、基本的に「重さ」だ、格闘技の話ではなく物理の話/力の単位は「kg重」「kgw」なのだから、力と重さ(実感的な「重さ」)が同質なのは明らかなことだ。
質量のある物体を、下から上へ持ち上げるとき、「力」が必要になる、上から下に下ろすときには「力」は必要ない/ご存じのとおり、物体が上から下に移動したとき、「エネルギー」が生じる、位置エネルギーが運動エネルギーになる、また原子核を取り巻く電子が下の殻に遷移するとエネルギーとして電磁波が生じたりもする。
われわれは一般に、上下関係というものを誤解しており、上下関係があると、上のほうが「力が強い」と捉えている、むろん社会的な上下関係だと上位側が「権力」を持っているのだが、これは本来の身分関係ではない/本来の身分関係として上下がある場合、上位側は「光をもたらす者」であり、下位側は「力を捧げる者」だ、力の行使をするのは下位側であって上位側ではないのだ。
何が起こっているかというと、われわれは、地に落ちて動物的なアホ発想に囚われており、つまり「弱肉強食」の原理において「強いほうがエライ」と誤解しているのだ、さすが地に落とされるだけのことはある、われわれはれっきとしたアホ軍団だ。

愛とは何のことを指すかというと、上位が光をもたらし、下位が力を捧げるという、物理に近い構造のことを指す/注目すべきは、同じ「愛」といっても、「下→上」と「上→下」で、異なる形態を持つということだ、もちろん物理的にもそういうもので、相対性理論によって質量とエネルギーは形が違うだけの等価物だということが確かめられている。
われわれは、うかつな平等思想に染まっているから見失いがちだが、同じ「愛する」といっても、上位が下位を愛するのと、下位が上位を愛するのとでは、同じ形態は取れないのだ/上位が下位を愛するときは、光が注がれるのであり、下位が上位を愛するときは、力を捧げるしかないのだ。
力は重さであって、重さの反対が光だから、この構造はけっきょく、「上下関係といっても、力と光のどっちがエライのよ?」ということに行き着く、地に落とされた側の思想だと力のほうがエライのであり、地に落とされていない側の思想だと光のほうがエライということになる/重さの果てには光は消失するし、光の果てに重さは存在しない。
一般に「愛する」というと、何か自分が誰かに「神聖な光をパーッと照らす」かのごときに捉えている人が多い感触がするのだが、これは危険なことだ、われわれがカミサマを愛したとして、われわれがカミサマを光で照らしたりはできない、自分が光の側を気取っていると、知らぬ間に地の底のものを愛していたりするぞ、そして地の底の者があなたに力を貸してくれたりするが、そのときあなたの向かっている先は地の底であって天上ではない。

重たい神輿を人力で担いで奉納するのは、「力を使い尽くす」ためだ。

「愛」というストリームは、下から上に向かうとき「力」であって、上から下に降り注ぐとき「光」なのだ/あなたが神社の賽銭箱に百円を入れると、神社に力を捧げたことになる、そして御神職はカミサマに力を捧げているので、今度はカミサマがあなたに力を……ではなく、光を注いでくれるだろう、上に力を捧げるとリターンは光になって降り注いでくるのだ。
もし逆に、あなたが神社の賽銭箱から、百円を盗ったとしよう、あなたは百円という財の「力」を得たことになるが、力を得たということは、必ず下位から得ているはずなので、あなたは<<カミサマのお金を盗ったのではない>>のだ、<<悪魔の箱から百円を借りた>>のだ、だからそのぶんの代償に、光をごっそり持っていかれることになる、それはカミサマに嫌われたのではなく悪魔と契りを結んだということなのだ。

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「世界愛とかブッ殺しますよ」2

にこう考えればわかりやすい/誰でも、ほら、「自分がメラメラくる」というのはわかるじゃないか、それが自己愛というやつで、業(カルマ)のはたらきで、蛇教の証が身に現われているということでもある。
で、その逆の現象もあるということなのだ、あくまで仮想上「なるほど、ありえるな」ということでわかってほしい、自分でなく「世界がメラメラくる」という現象があるのだ、「じゃあ自己愛じゃなくて世界愛ってことね」「そうそう」、そう仮想すればこの原理は理解としては単純に得られるじゃないか。
自己愛の側は、「世界愛とかブッ殺しますよ」という発想に行き着くのが当然だし、裏側も当然、世界愛の側は「自己愛とかブッ殺しますよ」という発想に行き着くのだ、これはどちらがいいとか悪いとかではなく、最終的には同一のところへ結ばれるものだ。
ただし、自己愛と世界愛は、最終的には同一のところに結ばれるにしても、その途中で取り違えるのはダメなのだ、最終的には同一のところに至るにしても、途中までは同一じゃねーよ、途中で自己愛を世界愛にすり替えるのはダメだ、「自分がメラメラ来てますわ」というのと「世界がメラメラ来てますわ」というのは現象が正反対に異なる。

なんというか、「おれっち最強!!」というのでいいのだ、ただし最強というなら、あらゆるすべての人を飛び越えて「世界ラヴ!!」という状態でなければならない、なぜかというと、自己愛だけデカくて世界を愛していないのであれば、最強どころか最弱感がハンパないからだ、最強というのは世界をマジで愛し抜いている奴が最強という感じがするじゃないか、世界を愛していない強がりなんてシャバ僧の極みでサムイサムイだ。
それで、世界愛を推奨しているのはなぜかというと、みなさま方におかれましては、基本的にマジメで篤信家でいらっしゃるので、生え抜きで蛇教の証が色濃く出ていて……どことなく、オカルトや占いやスピリチュアルを信じる気質があるからダメなのだ、そのイージーな信仰心があるせいで、自己愛カルマ蛇方向への証が身に現われすぎてしまっている、その信仰心はデフォルトで自分の身をゴリゴリの蛇カルチャーに育ててしまうのだった。
この、篤信の蛇屋さんは、「世界がメラメラ来ているだろ!!」→「来てますね!!」というやりとりの中で、つまり「→」の部分で、解釈を蛇カルチャー物に変換するからダメなのだ、恣意的な誤訳をしている、(ここで急にやる気がなくなってきたのでこの話やめよーかなと思っているが)、もし機械をつけて測定できるとわかりやすいのだが、基本的に世界がメラメラ来て夢中で動き回っているときは、自分(吾我)は静かなものだ、世界がメラメラの中で自分は八面六臂なのにノーメラメラというのが世界愛だ。
「メラメラくる」というエネルギー源は、自分(吾我)なのか世界なのか? この二派が相克している、別にどちらの派が正しいというものではないが、両者を取り違えるのはいかん、そして何もわざわざ違う派のところに首を突っ込んで、その首謀者を殺さんでよろしい、僕だって自己愛派をわざわざ殺しに出かけるようなヒマかつ野蛮なことはやりません。

いまどき、自動車でさえハイブリッドだっちゅーの。

バッテリーにガソリンを入れたらものすごくアホだし、ガソリンタンクにバッテリー液を入れても大変なアホじゃないか、それと同じように、自己愛と世界愛は区分されなくてはならない/そして、電気駆動の仕組みを持っていない車の、内燃機関をオフにすれば、そりゃスーッと停止して休眠してしまうよ、それと同じように、カルマエンジンを切るとスーッと停止して休眠してしまう人があるのだ、そういう人は自分の車種が古くてダセーということを自覚せねばならない、もう時代的にカルマエンジンは排ガスの毒性から使用が制限されようとしているのだ。
おれがメラメラする仕組みは、あの人がメラメラする仕組みと違うわけだ、おれがメラメラするとき、おれはメラメラしていないからね、おれはおれが自分なのじゃなく、おれは世界が自分なのだ、だから世界がメラメラくると、おれが暴れ回るのだった(だからおれが「世界ラヴ」というのは、つまり「おれラヴ」ということだ、そりゃおれのことだからそうだろうな、おれはおれのことしか考えねー)。

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「世界愛とかブッ殺しますよ」

と冷静に考えると、これではまるで僕が頭のおかしい奴みたいだ。
実際、頭のおかしい奴なのかもしれないが、しょうがない、僕の内面は中庸なのだが、現今の情勢にアンチテーゼを示そうと思うと、これぐらい偏って表現するしかないのだ。
このところ、なぜみんなして、あっさり「全体のムード」に流されていくのか、不思議でならないのだが、どこかでそういう決定があったのだろうか、この「全体のムード」に乗っかっていくぜ、という……そんなんダメですやん、愛のトリニティから「ぐんぐん」離れていっているヨ、というのが僕の見方なのだが、そのことにヤベーという感じはしないのだろうか。
朝起きたときから、わーっとやりたいことが無数にあって、時間さえあれば全部やるだろうな、何のトクにもならないことだが/そういう僕の頭がおかしいというのは半ば以上わからんでもないが、じゃあ今頭のおかしくない人はバッチリバリバリのイケイケの青春ボンバーなのだろうか、たぶん内実としてそういうわけでもないのだろうから、これはまたやっかいな状況になったものだぜ。

落ち着いてまとまった話をしたいのだが、日ごと、それぞれの位置する座標が流れていってしまうので、どうも腰を据えてという形にならない、ワークショップは週に二日も夜通しでやっているのだが、このペースでむしろギリギリ足しになるというような感じだ。
うーむ、まとまりのない話をしてしまうのだが、とにかくやればやるほど如実に感じるのは、「最終的にカルマエンジンに帰依していますよね……」というようなことだ、カルマエンジンが回ってしまうのはわかるが、最後は自らそれに帰依するってどういう仕組みだよ、根本的に抵抗してねえじゃねーか。
僕はずっと、世界愛エンジンをエネルギー源にしよう、と言い続けているのだが、この説は好評を博し、好評を博しながら、「やりますよ〜」「いや、それカルマエンジンですやん」という漫才を繰り返している、そして「いやいやいや」と、この漫才をツッコミ続けると、じきに僕を殺して流血させようという説が主流になるのだ/わざわざ慕ってきておれを殺害するというのはどういう了見だ。
あえてわかりやすい言い方をすると、カルマエンジンに帰依しているということは、けっきょく「カルマエンジンラブ♡」ということなので、そのラブの対象を弱らせていくと、ラブの対象を守るために僕を殺害する決定が為されるのだ、そりゃまあカルマエンジンからエネルギー供給を受けているのだからしょうがないが、それなら無理に世界愛なんかに興味を持つこたぁない!!

この文章を見ればわかるとおり、僕の地位はあなたより低い。

そりゃそうだろ、こんな地位の低〜い文章を、まともなあなたが書けるはずがない、僕は「女子高生の生ケツを撫でると世界愛」だとかデタラメが言えるが、まともなあなたはそんなことは言えないし、よもやブログで公言するみたいなキチガイ行動はできないだろう/それでワークショップの題目なども、やはり僕が「世界のボトムを見せてやる」ということになっている。
帰依する先が逆さまなので、こういう逆転が起こるわけだ、y軸が反転しているということです、だからまあ最終的には、僕を殺害して血を流させるというのが、究極的な正義とドグマになるわけだ、最低の邪悪を踏み殺すのが正義になるのは当然のことだ/思い切って「世界愛とかブッ殺しますよ」と発言してみたら、自分ではっきりと目が醒めるかもしれない。

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地に足をつけて自立することと、天に束ねられてつながりを持つこと

は自立を考えねばならない、つまり自分の足で立つということ、それは明らかに「地面」に根ざしている。
一方で、人は「つながり」を考えねばならない、つまり一緒に歩いているということ、それはわかりづらいが、「天」に束ねられている。
芸能人が不埒なスキャンダルをしたということに、わけのわからない憤りを向けている人がいるが、そういう人は猛烈にヒマなのだ、物事の本当の仕組みが見えていないので、朝起きたときから「自分が何をしたらいいのかわからない」のだ、それでワイドショー的なネタに「何っ」と食いついて、自分が命をもって生きているというふうに己を欺瞞している。
自分に被害があるぶんはともかく、他人の不出来や不始末に、真っ向勝負のようなイライラを起こす人は、本質がわかっていないのだ、こんなことは僕のような年長者の言うことをよく聞いておくべきだ、そうしないと今度はあなたがその「不出来で人にイライラされる」というしょうもない役目を背負わされることになるだろう、それを「しょうもない役」と言ってはいけないのかもしれないが。

当たり前だが、この世界は、誰もが成功できるわけではないし、誰もが幸福になれるわけではないのだ、ということは、見方を変えれば、失敗して生きる役、幸福になれず不幸に呻吟する役、というのも存在するということになる、この見方がミソだ。
「ドラえもん」でも、のび太役と出来杉くん役があるように、不出来な人や悪質な人は、自分でそれを選択したにせよ、そういう「役」を担っているのだ、だからこの不出来役が、どう教育されたところで、「出来る人」の役にはならない、これはいっそ荘厳なぐらい、括り付けられて脱出不能のものだ。
だから、その荘厳を見なくてはならない、具体的に何を見たらいいかというと、「人は己の引き受けた役割によって、このように不出来になり、このように不幸になり、このように苦しむことになる」という、実際のサンプルを見ればいいのだ、真っ向から感情的に正面衝突する必要はない、「この人はこういう役で、今目の前にあるのはその実物サンプルなんだ」と見ること、それが天に束ねられた「人のつながり」ということになる。
われわれは、人に対してイライラするとき、「どうしてこの人はこうなんだろう」という、やりきれなさで苛立つものだ、そこで「どうしてこの人はこうなのか」について、「そういう役割を背負って、今この場に晒されているからだ」とはっきり見ること、そうしたら苛立ちはなくなる、お互いにどうしようもないものとしてその場の実物をやらされているのだ/世の中には色んな人がいるが、色んな役があって、ひとつの終劇に向かっているにすぎない。

ひどく不出来な人は、「ひどく不出来な人」として天に登録されている。

だから、ある意味「天才」なのだ、この世界のすべての人が「天才」と考えていい、ひどく不出来で、しょーもなくて、情緒不安定で、近所迷惑な人は、そういう人として天に登録されてしまっている、どこかのタイミングで自分をそのように申請して登録してしまったのだ、そしてそういう役も全体の劇作に必要なのだということだ/自分もうかうかしていると、どんな形で天に登録されるかわかったものではない、それを警告する存在としても、目の前の不出来な誰かにイライラしている場合ではない、自分もわけのわからないイライラさんとして天に登録されてしまう見込みがある。
地に足をつけて自立、という、片面だけを考えず、天に束ねられてつながる、という側面も考えねばならない、そうして見たら、すべての人が何かしら、不本意であっても役をやらされて機能している、おどろくべき格差の中で役をやらされているのだ、そのつながりをよく見るようでないと、自分もどの役に追いやられるかわかったものではない。

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世界とHEROES2
ーローに会いたい、ヒーローが枯渇している。
景色が見たい、女にモテるなんてオマケでかまわない。
女だって景色の一部というか、景色と無関係の女なんて意味がないんだからさ。
ヒーローが見たい、不思議だ、わたしの世界はヒーローと共に帰ってくる、だからこのヒーローの話は、やはり合っている。

この現代には、エロいものが増えたけれどもさ。
エロいものって、つまり、ヒーローが失われた空間の慰めだろ、あんまりというか、正直まったく興味ないな。
ヒーローとは何か? それはわれわれの、知らない世界につながっている人だ、思い込みの持てない、未知の世界で戦っている人だ、もはや未知のものをしか世界と呼ぶべきではないけれどね。
未知にだけ世界があって、そうだな、何もかもわからない世界で戦うんだ、それ以外に勇敢な者なんてありえないよ、この世界は何なんだ? 既知のふりをして毒素をふりまく者にけっきょく僕は一ミリも付き合うつもりはない。

ヒーローの全細胞は震えている。

なんでもない夜、なんでもない街、なんでもない景色、なんでもない酒だ、だがヒーローは知っている、毎秒ごと未知の世界が現れていることに/未知の世界で、われわれは自分が何をしているか知らない、だが何をするべきかだけは毎秒ごとに与えられている。
未知のものなんか現れないよ、ヘンな言い方になるけれどね、現れてくるようじゃ未知のものじゃない、未知のものはいつも "現れている" んだ、誰もそれが見えていないし聞こえていないが、おれにはわかる、すべての学門は人間のこの無力のことを教えている。
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世界とHEROES

はよく、人から相談を受けたときに、「あなたの尊敬する人って誰?」と訊くのだが、これはどちらかというと、リスペクトではなく、「あなたのHERO(ES)は誰?」と訊いていると捉えるほうが正しい。
この数十年で、時代は変わったのだが、時代の変化と共にヒーローも変わっていった……のではなく、ヒーローがすげ替えられることてによって、時代が変わっている/時代でヒーローが変わるのではないのだ、ヒーローで時代が変わるのだ。
ここ十年間ぐらいでは、やっぱりAKB48がヒーローだろう、その他のアイドルグループもそうだが/あるいは若手お笑い芸人も、ヒーローとされる人は大きく変わった、人気が出たからヒーローになったのではなく、ヒーローだから人気が出るようになっている。
ヒーローのすげ替えというと、最もわかりやすいのは「新世紀エヴァンゲリオン」だろう、エヴァ以前にあんな陰気なヒーローはなかった、あれ以降、たとえば進撃の巨人の主人公エレンも違和感なくヒーローと受け取られるようになった。

それ以外の「ヒーロー」というと、一昔前は、やはり「ロッキー」や「ランボー」、あるいは「ターミネーター」、あるいはジャッキーチェンや、大きくは「スピルバーグ映画」の青少年主人公がヒーローだった、およそ80年代はそんな感じだったと思う、少年たちにとっては映画と「少年ジャンプ」がヒーローのカタログだった。
おそらく日本においては、そのスピルバーグ製ヒーローの時代が過ぎた後は、一時期は小室哲哉製ヒーローが台頭し、次いでセーラームーン、その後にポケモン、というふうにヒーローは変化はしていったように思う/誰でも年齢から逆算して、自分が十歳から十五歳ぐらいだったときのことを考えれば、それなりの心当たりがあるはずだ。
人間の精神構造上、神話とは理屈ではなく「ヒーローの物語」なので、あなたの中のヒーローが仮に「陰気でボーッとしている」タイプだった場合、あなたはどう努力しても、あなた自身が「陽気で集中力の研ぎ澄まされた人」になることはできない。
現代のヒーローというと、代表的にはスティーブジョブズか、日本では楽天やZOZOTOWNの社長あたりだろうか、人類史上でそうした商人がヒーローになった例はこれまでになく、これは一種、「資本主義の勝利」を意味している、あるいは貨幣そのものの勝利とも言えよう/誰でも知っているとおり、貨幣の英雄が承認されていくにつれて、イチローやサッカーのナカタ、あるいは本田圭佑を「ヒーロー」とは感じなくなっていった、そして二宮金次郎の像も撤去されることになっていった(安室奈美恵さんも引退しちゃったしなあ)。

ヒーローをすげ替えることで、あなたの夢や努力なんか無効化できる。

そりゃヒーローが灯台なんだから、当たり前だわな……現代、メインストリームとして、カネとアイドルがヒーローなのだから、学門やら恋あいやらは出来るわけがない、よほど自分自身の精神や魂を掴んでいる奴なら別かもしれないが、そんな奴は極めて例外だ、あなたはよほどこのことに抵抗しないかぎり、世の中の事情から形成されたヒーローを灯台として、荒波を泳いでいくしかない/あなたがどう疲れて、どう力尽き、どう投げだし、どう閉じ込められ、どう別のことに執着してしまうかは、あなたに据え付けられたヒーロー像で決定している、あなた自身で決定させてはもらえないのだ。
あなたの「こうなりたい」という意志や、あなたの世界、つまりこの世界であなたがどうなりたいと望むかという夢と努力は、あなたに据え付けられるヒーロー像を灯台にして決定されてしまう、あなたがいかに僕の話に納得としたとしても、あなたは僕の話すところのほうには来られなくて、あなたはあなたのヒーローのほうに行ってしまう/そしてしばしば、そのヒーローは正当でなく、あなたの選んだものですらなく、世の中の事情でテキトーに放り込まれたものでしかなかったりするのだ、なんとまあひどい話じゃないか。

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バランスあるいはワールド・オーダー3

はもう、立場的にも身分的にも、ヒントのある書き話しはできないようになってしまった。
それは、僕が偉くなったということではなくて、誰かがこれをやらねばならないからだ、他に誰もこれを担わないので、しゃあない、僕がやるしかないということになったのだった。
今さら、ヒントに満ちた書き話しをしようとすると、人格を二つに分け、それぞれに名前をつけて活動するしかないが、そのことは能力的には可能だったとしても、さすがに時間が足りない、現在のこれだけでも時間は使い切りなのに……古今東西、自分で解説本を書いた哲学者がいるかね!? そんなアホなことは期待せず、もう各人でなんとか読み解いてもらうしかないのだ。
その他、何かうまい方法はあるかね、ないような気がするなあ、「サバンナの大自然を満喫できるハイテク都市を作ってほしい」というような無茶があるぜ、無茶というか大矛盾だろ、レンブラントに消防活動までやらせるか? さすがに消火ホースで散水しながら昇架の絵を描くのはレンブラントにも無理だと思う。

「空間と点」、集中力(しかない)、Aが出ればマイナスAも出る、バランス・オーダー、刻一刻というか常に変動しつづけるそれが、そのまま見えていなきゃムリだってばよ、その簡単なことをどうも、「アタシのほうが偉いから教えろ」と迫ってくるところがあるよなあ、本来話は逆で、アナタのほうが偉ければ僕のほうから教えることはないじゃん……(愚痴)
現代人として、あるいは現代人の誇りとしてか、まずマウントを取ってからしか「教えろ」と迫れないのは、まあわかるというか、いいかげん慣れたので理解するが、よくよく見るとやっぱりおかしいわな、みんな僕より偉いという一点だけで満足すればいいのに!!! まあそこのムチャクチャはもういいのだが、なんというか、「芸術的な教科書を」「それもあるていど完璧でないと読む気がしません」ということになると、実作レベルで行き詰まるのだった、芸術的なら教科書的ではなかろうし、教科書的なら芸術的ではなかろーよ〜。
まあこんなもの、冷静に見れば、「明らかにムリに決まってんじゃん」という話なのだが、そうして「ムリ」と言われると、「はたしてそうかな?」と、反逆したくなるのが僕の性格なのだった、別にそのことで死人が出ても僕はまったくかまわんので、「実はムリじゃなかった」という事実を先行させたくなる/すべてのひとつの文字に二つの意味を持たせるというような、キチガイみたいなことはできないかな? 僕に至ってはそれぐらいのことはできるかもしれんね、そういうことにだけやる気が出てしまうタイプだし……
ガババババ、ここに来て、鏡の中にウンタラカンタラというのが、再び出てくるのだろうか、まあそれはいかにもありそうな話だなあ、なるほど鏡の中と同時に動くのであれば、二つの人格はひとつだと言えるな/よろしいですかみなさん、世界はバランス・オーダーです、自分のことだけ見ていたらビョーキになりますよ、圧倒的なAは圧倒的なマイナスAを見て同時に認めつつ生じるのです!!

おれが怖いんじゃない、あなたが怖い。

そりゃそうだろ、おれは自分のことだけを見てありゃりーんとしているのではなく、世界のバランス・オーダーを常に見ながらありゃりーんとしているのだから、健全だ、それに比べてあなたは何だ、自分のことだけを見て「そう、ですね……」とかやっているじゃないか、そりゃそっちのほうがコエーよ、なんだその空気/おれがただのバケモンだった場合は、話が簡単でいいのだけれどね、問題は逆の可能性だ、あなたの側がバケモンだったらどうしようという話だ。
「世界」は不平等で、偏っているのだが、「偏ってバランスしている」のだ、そりゃローマと夕張市は違うだろうよ、それを平坦にならそうなんて、世界の破壊だぜ、夕張市が劣っているのじゃなくて、夕張市があるからローマもあるんだよ、夕張市もローマも両方なければ世界地図が描けないでしょう、あなたは夕張市ダンスと呼応しないとローマダンスが踊れないんだぜ、仮に踊っても「世界」にならないんだぜ、ここでようやく世界が「ひとつ」なのは当たり前じゃないか。

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バランスあるいはワールド・オーダー2
界にバランス・オーダーがあるというより、「バランス・オーダーがあるから世界になる」と捉えたほうがいい/バランス・オーダーのないグイグイしただけのものは世界にはならない。
世界中に教会や寺院をもたらしたキリストやブッダは偉大だが、そこに通うキリスト教徒や仏教徒が偉大なわけではない。
人は幸福であったり不幸であったり、男であったり女であったりする、それが「世界」であって、この不平等を消し去って平等を計らうことは、「世界」の消去だ/「世界」を消去して、何が悪いというわけではないが、ただそれば「世界」の消去だ。
「世界」が消去されると、それはとてつもなくつまらない、空虚な、むなしい、見るに堪えないものになるが、ただそれだけといえばそれだけかもしれない、その退屈の苦しさがどれほどのものかは、僕は当事者ではないのでわからない、僕は「世界」に反することはしないのでわからない。

物質があれば反物質があるように、幸福があれば不幸がある、AがあればマイナスAもあるということだ、それもスカラー値として……
それを陰陽の考えで理解することは簡単だが、そのバランス・オーダーを「常に明視している」という状態の中にあることは、そう簡単ではないようだ/身動きの取れない人、話すことができない人、自己決定ができない人は、このバランス・オーダーを常に見失い、常に視認できない状態になっている。
バランス・オーダーは、いわゆるプラマイゼロではなく、常にわずかずつ、あるいはハッキリと、光のほうへ向かっているが、つまるところヒサンな人は、このことの一切が見えていないのだ、今このときも、僕が何に基づいてこのように書き話しているのかがまったくわからない、見当がつかない。
バランス・オーダーがあり、この「世界」はほとんど無限に広がってゆく、「世界」はバランス・オーダーにおいて「ひとつ」となり、これが見えていない人は、何か単独の差分や差別があるのだと思っている、その人たちに理解できる言い方というのはけっきょく存在しない。

「世界」の人が、何をしてくれているのか、本当にわからないのか。

なるべく、「世界」からの逸脱者が出ないように、大きな魂を支えてくれているのに、わざわざ入念に、それを引きちぎろうとする人が少なくない、それを引きちぎった先に何が起こるのか、引きちぎった満足の直後に、とんでもないことになるぞ、とんでもないことといっても個人的にそうなるというだけで、「世界」はむしろ平穏になるのだけれどね。
おれはもともと、そんなに器量のデカい奴じゃないんです、いささか無理をしているというか、強引に器がデカいふりをしているね、結果的になんとかなっているところが面白いが、おれがシュッと己を休めて縮小したら端っこはもう切り離されるよ、まあおれはケチな奴にはなりたくないので意地悪はしないが、そうはいっても人為の船なんて甲板は無限に広くないのです、どこかから先は「あっ」と足許が消えて落ちるよ。
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バランスあるいはワールド・オーダー

ランスというのは、自分の中のバランスではなく……
幸福になる人間もいれば、不幸になる人間もいるということ。
夢中になって勉強する人もいれば、やさぐれて、すべてを罵って生きる人もあるということ、それで「全体」がバランスしている。
なぜそうなるのかといって、なぜかはよくわからないのだ、強いて言うならそれが「世界」だと言うしかない、そりゃ誰だって自分一人が世界ではないので。

世の中には、ヒサンなことになって生きる人もいるのだが、なぜヒサンなことになって生きていく羽目になるかというと、バランスのことを知らなかったからだ。
自分だけで考え、他人のことを見ずに生きるとそうなる、世界を無視して生きているわけだから、自分はどういうバランスユニットに配属されているかわかっていないのだ、自分の中の願望と不満だけで戦っており(草不可避)、そうした暗愚の中で荒んでいく……というユニットとして、この世界に定義づけられてしまう。
これはとても「無慈悲」なことであり、徹底した「差別」的現象なのだが、人為的なものではなく、ナゾのバランス現象として生じるものなので、いくら呪ってみたところで意味が無い、ヒサンなユニットはただヒサンさを担うのである、本人は自分が勉強不足だなんて思っていないのだから、ある意味では本望といえば本望の結果に落ち着いていく(と、周囲からは見えるものだ)。
仮に地獄行きの人がいたとして、単純に地獄行きではないのだ、「地獄役」なのだ、本当は誰だってそんな役は避けたいと思うだろうが、しょうがない、何しろ<<全体のシナリオがあることを知らない>>のだから、自分の配役変更なんてわかるわけがない。

ヒサンな人がヒサンになるのは正しい。

ヒサンになる人は、決まっている、ヒサンになる人はまず「全体のバランス、人々のバランス、配役」なんてことは考えないし、そんなこと見ないし、そんなことを言われても内心で否定するはずだ、それが悪いわけじゃない、ただ周囲が「あっ、お疲れ様です」と見るだけだ、賢明な人ほど一種の感謝さえ持ってその盲動を眺めるだろう、<<自分の幸福役は目の前の人のヒサン役と同時に成り立っている>>ということを知っているからだ。
ヒサンな人はたいてい、自分がカミサマに祈って自分がなんとかなればいいとしか考えておらず、たとえば天皇陛下がこの国のために祈ってくれていたり、あるいはダライラマやローマ教皇が人々のために祈ってくれていたり、するかもしれない、という発想がない、たいていヒサン役に配属される人はそういうものだ、別に脱出はしなくていいが、脱出しようとするなら自分が祈るというアホをやめて、自分以外の誰かが<<全体>>に祈ってくれているという可能性を発見しないかぎり活路はない。

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理由はご自由にどうぞ
と自由なんかいくら語られてもよろしい……
また一つのナゾが解かれようとしている。
僕が友人のノートに「絵」を描いてやると、みんなの食いつきがよすぎる。
今ここに書いている文章だってそうだけどね、僕に見えているものを、僕自身が甘く捉えているのか?

隣人愛は、兄弟愛と似たようなものだと思うが、エーリッヒフロムの言うところの……まあ、感情的になるものではない、愛というのは現象であって感情ではない。
「その感情の出方は、メカニズム的におかしくないか? どうなっているんだ」という、背後の現象が「愛」だ、愛そのものはエモーショナルなものではなく、本当にただの現象だ/ただし、この世の根幹のすべてをひもとく現象だ。
脳みそに叡智と健康を/隣人愛については近々、合理的に単純に、説明がされねばならない、なぜおれがという気はいつまでもするがね、[モチベーションは集中力の反対です]。
愛について、はっきり理解すること、あくまで学門の項目のひとつとしてね、そのことが第一の鍵になるや否や、ひとつの数式が過去のすべてを誤解の液体に溶かしきることはよくある。

どうも、「愛」を理解していないと、自己決定に至れない模様。

なぜなのかは、まだわからないが、決してすべてのことが、理由までわかる必要はない/愛を理解していないと自己決定には至れないのかもしれない、理由はご自由にどうぞと。
ボーイズ&ガールズ、まったく別の、コミュニケーションの原理があるんだよ、まったく別の、伝わるものがな、suicaを改札機にタッチさせたら、何かが伝わっているでしょう、たとえばそういうふうにだ。
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愛とジャンルと開祖の関係

切なことはいくらでも教えまっせ!!
人は愛がないと「ジャンル」に走る。
「愛」は、すべてのものをジャンルでなくしてしまうからな……
それが愛とジャンルの関係だ、よく覚えておこう。

ただ、愛というのはごまかされやすい。
愛というのは、実現してしまうと、誰がその当事者で、誰かその恩恵を受けているだけか、わからなくなるのだ。
それで、「ジャンル」というものの強みが出る、ジャンルというのは個々人の実力差がはっきり出るからだ。
だからいったん愛を外して、ジャンルにして確かめてみろ、ジャンルが成立してなお愛が生じてくれば愛の当事者だ、ジャンルが破綻するなら愛の当事者ではない。

ジャンルにもならない人 < ジャンルに留まる人 < ジャンルを超えてしまう人。

ジャンルには、いわばやけくそ界・正当界・超克界の三つがあって、「ジャンル」だけを正当に極めても、やはりそれは愛にはならないのでショボーンなのだが、かといってやけくそ界に転落するのでは話にならない、やけくそになるということはジャンルを超克することではまったくない。
人は愛から逃避すると「ジャンル」に走るし、さらに「ジャンル」からも逃避すると「やけくそ」に走る、そのやけくそは実は勇敢ではなく弱虫の表れだ、いくべき方向は逆、われわれの道は容赦なく険しいのだ/ジャンルをくれた人のことを考えろ、どんなジャンルにも開祖がいるものだ、開祖の出る前はそのジャンルはなかったんだぜ、だから開祖の世界を見ないと根源がわからないのだ。

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やる気とやる霊3/ノーブースト主義

般的に、「やる」というのは「やる気」だと思われていて、「やる気」を自分で "ブースト" することは、いいこと、エライこと、だと思われている。
しかし……じゃあもし、何のブーストもかけていない実力状態で、あれこれするとどうなるのだろうか?/誰かと三時間話したり、みんなで五時間飲んだり、あるいは一人で何かひとつの作業を十時間続けたりというと、とてもじゃないが、ノーブーストでは「もたない」のかもしれない。
さあ、ここで問題があって、何のブーストもかけていない状態を仮に「実力状態」と呼ぶとして、その実力状態が、実はスカスカだったりしませんか? ということがあるのだ、そりゃ冷静に考えれば……これまで数十の友人と、数百の徹夜を遊んできたわけではないし、数千の恋と、数万の景色に、惚れぬいてきたわけではない、実際にはそこまでガチリアル・リア充というわけではないはずだ。
そういうふうにして、いつのまにか、ブーストして「アゲて」かかるのが当たり前になっていて、ノーブーストの「実力状態」では、実はスカスカでは? ということがあるのだ/わかりやすく言うなら、あなたが何ら「アゲる」というブーストをせず、僕が作文で勝負したとしたら、あなたの勝てる見込みはゼロだぞということ、そりゃあなたは何のブーストもなしに一日に原稿用紙一〇〇枚を書いたりはできないだろう。

ノーブーストで、何かを濃密に営めてこそ、実力だと思うが、そうした実力に到達するためには、グッドな霊とダイレクトな絆を得ている必要がある、「やる」というのは「やる気」の問題ではないのだ/「やる気」という発想は、根本に、ブースト思想があるのだろう、まあブーストも短期的に、使うときは使うしかしょうがないだろうが……
何かを「やる」というのは、「気」の問題ではなく「霊」の問題なので、これに「まずブーストを……」という発想を持っていると、このときに何かを呼び込んでしまうのだ、「力、貸しまっせ」というたぐいのものを/そして、そうして呼び込むものはたいてい悪霊だ、悪霊といって何もおおげさな、ドロドロのオバケを呼ぶわけではないが、とにかく最終的には悪玉の何かを呼び込むことになる。
この悪玉の流入があると、そのときは力を得るのだが(アガる)、このときに得た力のツケは、やがて魂で精算させられるハメになるのだ、それでやがて精神や安穏や健康やセクシャリティを損壊させられるハメになる、これらの損壊は理不尽ではなく、帳簿上で正規の収支ということだ、しかもえんえん利子が付くひどいリボ払いという具合だ、だからこんな方法をやっていてはアカンのであった。
多くの人は、失礼、実はノーブーストでは実力はスカスカだと思うが、それでも実力で向かわないとダメなのだ、多くの人はあまり認めたくないたぐいだと思うが、ノーブーストで棒立ちしてみたときの、あなたの愛と光と霊力の顕(あらわ)れは、どれぐらいの密度だろうか……だってしゃあないじゃん、僕はずっとノーブーストなのに、あなただけブーストしていたらそりゃズルいだろ、そこは改めてフェアにいこうという話なのだった。

ただし、今さら「ノーブースト」といっても、これまでの "取引先" が、そう許してはくれない。

これまで、「力、貸しまっせ」という業者に、さんざん力を借りて世話になっていたのだから、それを急に「やめました」といっても、「兄さん(姉さん)、そうはいきませんで」とスゴまれてしまう、いくら取引をやめるといっても、これまでのぶんの取り立てがあるので、向こうは急に、あなたに力を貸すどころか、あなたを追い詰める業者に早変わりしてしまう/しかしこれ以上、力の借り入れをするわけにはもういかない……
そうなると、けっきょく大ピンチで、逃げられないので、どうすればいいかというと、やっぱり何かに助けてもらうというか、何かの庇護にすがるしかないわけだ、何かに守ってもらえないかぎりさすがにどうしようもない、もちろんそんな卑怯をしてきた自分が、何かに守ってもらえる道理などどこにもないが、もしそれでも守ってくれる何かがあるというのなら、それはとてつもなく偉大な何かだろう、自分のクソ価値観などではおよびもつかない偉大な何かが存在するとすれば、その存在はあなたを守ってくれるかもしれない。

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やる気とやる霊2

霊だの聖霊だの言い出すと、話はたいへんうさんくさいものだ。
エセスピリチュアルや、アホオカルティズムに陥らないために、まともなことを勧めておきたい。
「悪霊」というと「きゃあああ」と怯え、「聖霊」というと「ああああ」と拝むというような、そんなデタラメ方式はやめることだ、そういうデタラメがアホオカルトになるのだ。
そんなむつかしい話じゃなく、たとえばドクロのアクセサリーとか着けると、「ふふ、悪霊パワーゲットだぜ〜イェ〜」って気分になるだろ? という、ただそれだけの話だ、気分がアゲアゲになるのだが、それってどこから来ているんだろうねという話、これはとっても身近で現実的な話なのだった。

元気が欲しいとき、パワーが欲しいとき、意識を高めたいとき、どうしてる? という話だ、人それぞれ、「何か」やるじゃないか、そういうときって。
そういうときにする、人それぞれの「何か」が、たいてい人それぞれの「儀式」になっていて、本人は自覚がなくても、その儀式がイイやつになっていたり、アカンやつになっていたりすることがあるのだ。
だから、そんなもん毎日、どこにでも誰にでも身近にあることであって、中二病的な話ではない、弁護士だって弁護士バッジを胸元につけるじゃないか、そりゃ弁護士バッジを着けたほうが、なんとなく弁護士パワーも得られるんじゃないか、それが「気」のせいではなく「霊」のせいだという話にすぎない(気魄が満ちていたらそもそもそんな流入は起こってこないが)。
元気が欲しいとき、パワーが欲しいとき、意識を高めたいとき、どうしても「できたら強力なやつを……」と、どこかで思っているじゃないか、そういうのって結果的に、何かを呼び込むことになるよねという話なのだった/そこで一般化して言いうるのは、急激に、また極度に、アゲアゲになるのは不穏だということ、実力以上の力を帯びるのは、借り物の力としてよくないという可能性をどこかで知っておいたらいい、急なアゲアゲは急なサゲサゲを人質に取られるぞ。

実力のままが健全です。

たとえば、本当には人付き合いなんて知らない、また言葉もこころもコミュニケーションも知らない大学生が、超絶「うぇーい!!」のスイッチを入れたりしようとすると、自力では足りないので、何かを呼び込むのだ/たしかに、結果的に「超イケるっしょ!!」みたいには、確かになるのだが、その力ってどこから借りているのか、実力でないものが暴走しているみたいな様相は、冷静にみたらヤバイのだった。
たとえば、モンエターエナジーみたいなエナジードリンクがあったとして、それをコップに移しては飲まないでしょ? コップに移したら何かヘンじゃん、アガんないじゃん/じゃあ「缶のまま」から「コップ」に移したとき、何が起こっているのかという話だ、人間はそういうしょーもないことに影響を受けているのだ、健康面とは違った意味で、何かからアゲアゲ力を借りるのもほどほどに。

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やる気とやる霊(緊急的に知っておこうぜベイビー)

は「やる気」を起こそうとする、「やる気出そうぜ」という言い方をする。
でも本当は、人が何かを「やる」というのは、「気」のものではないのだ、「霊」のものなのだ。
本質的には、「やる気が出る」のではなく、「やる霊が入る」のだ、いいコトであろうが悪いコトであろうがな……ちなみに「気」だけが満ちていると、いいコトにも悪いコトにも「やる霊」は入らない。
魂魄という言い方があって、霊魂と気魄があるわけだが、基本的に霊魂は自分に「IN」するものであり、気魄は自分から「OUT」するものなのだ、「やる気を出したい」という考え方は本質的には誤りで、人が何かを「やる」のは「やる霊が入る」から「やる」ことになる、これはスピリチュアルなやつではなく、もっと現実的なやつのことだ。

まあ、そんなこんなで、人は自分に「やる気」を欲しがるじゃないか、そしてやりとげる力とか、人並み以上の能力とか、「力」のほうも欲しがるわな。
それで、「やる気、欲しいっス」「力、欲しいっス」と求める中で、知らず識らず、 "呼び込んでしまう" わけだ、何かしら霊的なモンをだ、そして現在の自分の身分以上に、やる気やら力やらを求めているわけだから、知らず識らず「力、貸しまっせ」という悪霊のほうを呼び込んでしまう。
なんというか、「アクマに魂を売る」という言い方があって、アクマに魂を売ると、そのぶん、強固な意志や急激な能力とかが得られそうじゃない? 割とそういうことは本当にあって、微弱にもあるものだから、人は知らず識らず、アクマに魂をチョイ売りし、悪霊の力を借りていたりすることがあるのだ/なんとな〜く、「あの人、あのときやけに目立ったけれど、実力としてはどうなの?」と感じられる人はほとんどがこれだ、なんとな〜く、 "身分が低いのに高い地位についたように感じられる人" は、みんなこれだ、そんなえげつないパターンでなくても、微弱にもこの現象は発生している。
数字に頼ったり、血や液体に頼ったり、特に「シンボル」に頼ったりだな、「モチベーション」を得るつもりで、知らず識らずのうちに「儀式」をしていたりして……そして、そこから「力」を借りていた人は、後になってやはり、魂を切り売りしたぶんの、ツケを支払わされるものだ、薬物におぼれたり、犯罪に走ったり巻き込まれたり、健康やセクシャリティがおかしくなったりする/まあそれはしゃーないというか、かまわないのだが、問題は当人がそのことをまったく知らないまま、自覚なしにやっているということだ、知らないまま契約のほうは進んでいっていたりするのだ。

「やる気」の問題じゃない、正しく「やる霊」が入るしかないのだ。

これは本当に考え出すとむつかしい話になるので、とりあえず緊急的に知っておいたらいい、人は「やる気」で動けるものでは本当はない、ここを誤解していると、自分の知らないうちに、自分は何かを呼び込む儀式をいつのまにか、こっそりやっていたりするものだ、それで「モチベーションが出てきた」と言い出したりして、本当には「アカンアカン、何か悪いモンが入りましたがな」というケースがよくある。
例外的に、強力な力を呼び込んでおきながら、その後になお聖霊的なモンに帰依しなおして、巻き返すスゲー人もいるけれど、そうでないかぎりは、まあ後になってツケがくるものだ/よく有名人が後になって「どうしてこうなっちゃったの?」と不思議に思えるケースがあるが、そのケースの構造をよーく見てみればいい、わかってしまえば割とシンプルな構造のものだ。

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