☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
或る少年の告発

(この声の主はフィクションです)「僕たちの邪魔をしないでほしいな」
「見てごらんよ、このあたりの建物は古いだろう、歴史があるんだ」
「確かに僕たちの暮らしは、スラム同然さ、でも生活が貧しいということは、生きることが貧しいことを意味しない」
「僕たちは、この町から出たことはないけれどね、でも世界中に色んな人たちが色んなように暮らしているのは知っている、見たことはないけれど知っているさ、見ていなくてもつながっているからさ」

「何のために生まれたのかなんて知らないし、何のために生きるかなんて知らないよ」
「でも、同じ場所に生まれて、こうして仲間たちがいる、同じ場所に生まれたってことは、仲間なんだろう」
「そして他の場所でも、同じように、生まれた者同士が仲間になって、僕たちのように暮らしているのを知っているよ」
「それがどういうことなのか、僕たちにはわからない、でも見たこともない彼らがそうやって生きているんだから、僕たちも生きていくんだよ、そうやってロックを感じる、同じ魂が僕たちにもあるんだ、僕たちが子供だとしてもね」

「僕たちは子供だけど、バカじゃないよ、僕たちの使命は、バカな大人たちにならないことさ」

「僕たちの邪魔をしないで欲しいな、もうすぐ日が暮れる、これからがいいところなんだ」
「僕たちは満足している、その満足している僕たちに、満足していないあなたが説教することはないよ、あなたはいつからか、このつながりから切れてしまったんだろう、僕たちはそうならないことに必死なんだ」

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あらゆるものとつながりをもって
白い話は何よりのごちそうだ、ということにしておこうか。
 物事を分割すると、構造は失われてしまうので、およそ「分かりやすいもの」および「分かりやすくしたもの」には何の値打ちもなく、「分析」した者は何も顕わすことができない。
 個々人の思いや思いつきは、何の用も為さず無意味だ、分割は人の力(ないしは罪業)であり、構造は神の力だ。
 神の力を、畏れることはないし、また誇ることもない、なぜならそれは人の力ではないのだから/僕はもう長いこと、分割された人々を内心に見捨て、僕自身のみ今もすべてのつながりの中に佇み続けている、この裏切りは、しかしいつか人々が戻ってくるときの標として僕自身を残らせ続けておきたいということなのだ、僕までが分割に与することはきっと誰のことも益さないだろう。

 神の力は、神によってしか視えないのだから、人がそれを誇ることはない、筋が違う/人は神性によってしか、神の力をまざまざと視ることはない、それは神が神を視ているだけなので、人が威張ることはない。
 構造が神の力であり、神が神の力を視るということを知れば、確かに神という事象は、憐れな人々を愛し、あわれみ慈しんでいることがわかる、神は確かに憐れな人々に胸を痛めている/それは人が人を憐れむこととは現象そのものが異なるので、人が人を憐れんだとしても、その分割的な作用は誰のことも救済しない。
 構造、という神の力の許(もと)にある憐れな人々は、それだけですでに救われていると言える、よって神のあわれみによってのみ無上無類の救済が得られるというのは、現象についての指摘として正しい/それは一般に人がイメージする「神」とはまったく異なっており、なまじ真の神は思いがけずわれわれの身近――というよりは己の身の内、魂の中枢――にあるので、いっそう誤解しやすい、われわれが外部にイメージする「神」は本当にただの空想でしかない。
 僕は一人の「人」であり、この「人」という機能のうちに神なるものはまったくない、ただ神性が降りてきているユニットというのは確かにあるらしく、それは「偉い人」ではなく「現象が降りてきている」だけなのだ、僕という人が偉いということは一ミリもない、きっとこの話がみんなの目撃している実際の現象に最も近い。

「偉い人」は存在しない、「人」は一ミリも偉くなれない。

 分割が人の力であって、構造が神の力だ、そこでどれだけ「偉い人」を設定しようとしても、人は「分割する力」しか持てないのだから、そこには何の構造も生じない、だから人為的に「偉い人」になった人は、孤立して思いつきのわがままをしようとする、それは実に「人」の頂点であって、人の偉さは神と何の関係もない/つまり、きわめて身近な現象でありながら、「人」と「神」は別の現象なので誤解を生じるのだ。
 「構造」という神の力においては、「人」はあまり関係なくて、場所というか地にまずその力がある、天地の関係が「場所」という現象を作り出していて、「人」というのはその「場所」にうごめくあわれなユニットたちにすぎない、そのことを概念にイメージしていてもむろん何の意味もなく、神が神の力を視ていること、その偉大さと慈愛にあずかることをよろこぶしかない/おれという人が実にただの一人の「人」でしかないことがよくわかる、これを「構造」――別名を「物語」――の力に取り込んで救済しているのは人の力でなく神の力だ、それは信仰の問題ではなく現象の区分の問題でしかない。
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センスを誤解した消費者
りから覚めるとき、夢うつつに、ふとすんなりした明視が滑り込んでくる、このことはもう数年も、毎日のように続いている。
 つまるところ、センスと態度が合っていないのだ、当人は自分にセンスがあると思っているのだが、実力としてはセンスがないので、態度と実力がちぐはぐになっている。
 センスがあるかないかは、すぐにわかる、何の味付けもない白紙の状態で、監督・脚本・指揮者・一人舞台等の場所に立たせればいいのだ、何をしたらいいという外圧を加えずに、ただその人だけをその場所に立たせればいいのだ、そうしたら実は「何のセンスもない」ということがわかる。
 センスがないということは、別に悪いことではなくて、ごくふつうの当たり前のことなのだが、これを自分はセンスがあるものだと、もう十数年も誤解して生きてきたのだろう、むしろその自負だけが知らぬうち自分の生きる支えであり励ましだったかもしれない、今さらそれが「まるでありません」とは急に切り替えが利かないに違いない。

 ほとんどの人に、センスなんかないのだ、何度も言うように、そのことはただの平場の、マスターの地位に立たせればわかる、自分では何一つ創出できない、センスなんか空っぽのデク人形だ/当人はいつのまにか、それを当たり前だとは思わず、勝手に「屈辱だ」と感じるようになっている、この仮想の屈辱感がどこから湧いてくるかというと、むろん当人の妄念からでしかありえない。
 現代、多くの人は、ただの労働者かつ消費者であって、消費者が今、大量の商品およびコンテンツをつまみぐいしているから、消費者としての性癖への執着が「センス」だと誤解し始めたのだ。
 繰り返すが、現代人は、本当の本当に、一切の掛け値無しに、ただ消費物を大量につまみぐいして、そこからこじれた性癖を「センス」と思い込んだだけだ、つまり思ったよりもひどいというか、思ったよりも醜い状況にある。
 どうしても納得のいかない人は、僕の隣に並んでみればわかる、別に意地悪で言っているのじゃない、誰にとっても時間の無駄をするべきではないから、あくまで利益追求的に申し上げている、僕の隣に並び立ってみて、ただの小話のひとつでもしてみればわかる、センスなんか何一つないのだということが事実としてわかる/そしてそのことに気づくのは現在、早くても中年以後となっているのだから残酷な話だ。

本当にセンスの断片すらないので、扇情的な映像や振る舞いだけをまき散らしている。

 本当にただそれだけの構図なのだ、いざ平場に一人で立たされると、本当に「センス」と呼ぶべきものの断片すらないので、よくわからないから股を開いて乳を揺らしているのだ、アニメ声を出したり色鮮やかにしてみたり、とにかく媚びに媚びて、扇情してその場をごまかして切り抜けているだけだ/そもそも、なぜ消費者として過ごしてきただけの十数年の中で、自分に「センス」などというものが磨かれたと誤解したのか、それはしょうもない手口の甘い誘いに乗ったからだろう、よくそんな安易な自尊心のくすぐりに乗っかったものだと、自らを恥じねばならない、それはキャバクラでおだてられて未払いが嵩むおじさんよりレベルが低い。
 僕の隣に並び立ってみればわかる、そこには何も消費するものがないから、消費者としての自分の「センス(誤)」は、何一つ役に立たないのだということがわかるだろう、それであなたは自動的に、自分の防御のシステムとして、その場を取り繕ってやりすごそうとする、そのときに自分が「扇情」という方法を選択することにも気づくだろう、よくわからないから股開いておけというのが女の発想だし、よくわからないからカワイコぶっておこうというのが男の発想だ、媚びて扇情するか居直って恫喝するかの二者択一しか持っていない、これは意地悪で言っているのではなく万人の利益のために是正の方針を提案しているのだ。
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世間は残骸である
かなることよりも「わたし」が先んじる。
 よって、最も先端にある「わたし」のことを説明することはできない、説明は「わたし」の後でしかありえないからだ。
 「わたし」はすべてを置き去りにすると言ってもいい、先端たる「わたし」には「わたし」という出来事しかない。
 それでは先端は「わたし」しかないように見えるが、そうではない、「わたし」の他には何もないが、そのとき「わたし」はすべてなのだ。

 すべてのことが「わたし」と未分化であるということ。
 だから何一つ始まることはない、すべてのことはもともと始まってあるのだから。
 時の流れにだまされないことだ、出来事のすべては0秒に無限圧縮されて起こっており、それが時系列に並べられるのは、われわれの錯覚という機能にすぎない。
「わたし」には成功も失敗もなく、つまり失敗は不可能ということだ、「わたし」に可能な手落ちは唯一、「わたし」でないものをわたしだと思い込み、わたしでないものに耽りこむことだけだ/それだとて、「わたし」の失敗にはなりえないけれども。

べ。

 全能の神は――もしそれがあるのなら――「わたしはアルファでありオメガである」と言っているのだから、「わたし」が「ベ」でもかまわないだろう、正確には "「わたし」を「べ」にしてみても何ら差し支えはないだろう" 、すべてに先んじる「わたし」はそのとき先端で「すべて」だと言っているのだから、「すべて」の中には「べ」も含まれていよう、このことは何もむつかしくない。
 認識可能な物質的世界があって、その箱の中に、認識可能な個別の人格が複数個群生しているという、そのことじたいが錯覚でしかない、いわばこの錯覚が繚乱しているから、この錯覚をもとに「わたし」を定義しようとする過ちを犯すのだ/世間知らずが馬鹿にされる向きがあるが、真相はまるで逆、世間というのは使い終わった「わたし」と「世界」とその出来事の残骸でしかない、すでに使い終わったあとのそれをどう舐め取ってみても何の味もしないものだ。
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自分のありようをごまかすクソだけはやめようと思ってきた
べての空想を取っ払うと、「わたし」という現象だけがある。
すべての認識に先んじて、この「わたし」という現象がある/認識に対応して湧いてくるニセのわたしは「吾我」であり、これはすべての横着から発生する怠慢の誤解にすぎない。
この「わたし」がすべてに先んじてあるのだから、いかなる高尚風味の概念も、「わたし」に先んじることはない、つまり「わたし」の後に続く、すべてはどうでもよいものの呼称にすぎない。
この「わたし」を売り渡すことが、横着であり怠慢であり、すべての罪の始まりだ、ルールブックから物事を引きだそうとしたスポーツマンのように、彼は罪に満ちている/「わたし」がすべてに先んじる、その他すべてのことはいくらでも書き換えが利く表面上の便宜にすぎない。

「わたし」こそがすべての出来事の主であり、この主体なしに出来事はありえないのだから、出来事とはすべて「わたし」のことである、よって出来事より上位のものはなく、同時に「わたし」より上位のものもない。
驚いたことに、「わたし」に追随する後のものは、すべて空想にすぎない、すべては実在のものではない、「わたし」はすなわち出来事であり、この出来事だけが真に存在している、このイグジスタンスを放棄したとき、やはりすべてのことはごまかした罪に堕する。
すべてのごまかした罪、すべての横着から生じた、認識に対応して湧いてきたにすぎない「吾我」は、これじたいが罪の産物であり、ここから生じてくる善きものは存在しない、すべてが認識の後から捏造された、存在のないコピー品にすぎない。
それは罪人にとってのみ用事がある、罪をごまかせるがごときに感じられるコピー品だ、いくら精巧に漏れなく仕上げ抜いたコピー品でも、それは「わたし」ではないので、そのコピー品は「わたし」のなんたるかにわずかも寄与しない、ここに「罪を否認した者たちだけが、罪の赦しを得られなかった」ということがありありと視える。

あなたがたは無罪である必要があるが、おれは無罪である必要がない。

おれは主体と罪の在処が別個にあることを、はるか以前に認めたので、無罪である必要がない、おれには罪を消す能力などない、罪を赦すかどうかはおれの裁量範囲にない、おれは罪を消したいなんて思わないし、それよりは自分のありようをごまかすクソだけはやめようと思ってきた、おれは正当化もしないし反省もしない、ただ自分と違うことだけは知らないようにしてきた。
おれは自分の罪状を、大スクリーンに展示されても、何の怯えも持たないだろう、もともと秘匿するつもりもおれにはないのだから、ただ今になってすべての美少女をレイプしたいかというと、おれはもっと美少女に気づいてほしいことがあることがわかった、別にレイプしてもかまわないしおれの罪状が増えることには何の異存もないのだが、もうおれはそんなことでは盛り上がらないだろう、そんなことよりおれはすべての主体について気づいてほしくて、そのことのためには美少女が服を脱いでいようが着ていようがどちらでもいい、すべてに先んじる「わたし」のことに比べれば、美少女の股間を無闇に折檻することなどわずかの愉しみもないことだ。
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人は孤独であってはならない
は孤独であってはならない、が、すでに「孤独でない」という状態が、どのような状態なのかわからない。
すでに孤独を定められてしまったような人が、やかましさを取り集めて孤独でないふりをしているけれども、そのような狂乱の声に血が滲んでいるようでは、孤独に決まっている。
逆にいえば、僕などは、ただ一人孤独ではないというような状況だ、それは僕が孤独を選ばなかったからにすぎない/僕は孤独な人々が巧みにする誘惑を退けてきた、それは僕が孤独になるのを厭がったからだ。
僕には今も聞こえている、何者にも頼らずに聞いてきたこの世界の声を聞き続けている、そのせいでずいぶん愚か者の扱いを受けてきたが、それでけっきょくよかった/どれだけつまみ食いされても、僕の魂はついに目減りしなかった。

今や、孤独にならないということはひどく困難だ。
なぜ困難かというと、人の弱みにつけこんで、つまり人が自ら不利にはなれない・なりにくいという性質につけこんで、有利になる情報を、悪魔がばらまくからだ、人はそれに食いつかざるをえない。
人は「正しいこと」の果てに、孤独になるのだ、然れば僕のように、正しくないことを選び続けられる者はほとんどいない、僕だけが極めて例外になりうる道理だ。
孤独という状況は、男ならまだしも、女性にとってはとても耐えられない痛苦のようだ、かといってどうしてやることもできない、それは当の女性が「有利になる情報」を選んで掴んでしまったから、当人が自らそれを選んでしまったから/不利な選択はしてこなかったはず、つまり、僕のように愚かにはなれなかったはず。

ひざまずかなくていい、ひざまずいても逃れられないから。

祈ったって届かないから、祈らなくていいし、誤りを認めたって、孤独でない状況なんてわからないから、誤りなんか認めなくていい、殆どの人に出来ることは、僕を罵ることだけだ、本当にそれぐらいしか出来ることがない、まるですべての方途は閉ざされているように見える。
唯一、まっとうな方策としては、途方もない大改正だけがあるのであって、この大改正はまるで現実的ではないが、唯一の方策としてはこれしかないのだ、少なくとも僕自身は、この大改正だけをしつこく続けていくだろう、誰から見ても何のことだかわからない、でも誰かにわかってもらう必要なんて、それこそ孤独な人しか必要としない衝迫だ。
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深い夢への追従、「聖書以外は読むな」
たしの眠りはただならず深く、起床後わたしは、己がどこにいるのか判らない。
わたしが夢の中で知ることは、つまり一般に「聖書を読め」ということではなく、「聖書以外は読むな」ということ、なるほどそれは理に適っている、現実問題はさておきながら、原理的には「聖書以外は読むな」ということは本質を捉えていよう。
カーナビゲーションシステムは、とても便利で、まさに文明の利器と言えるが、わたしは知っている、それは導かれていない者が作為的に導きを付与するもので、したがい導きのそのものの味わいはない、何しろ本当には導かれていないのだから。
システムにナビゲートされてきただけの者たちと、そうではないわたしが対峙する、わたしの知っているものと彼らの知っているものは異なる、わたしの知るものは無敵だが、彼らの知るものはそうではない、彼らは機械的に知ったにすぎない、わたしは何も読まずにきて同様にすべてのことを知ったのだ。

わたしは手引きを必要としない、例外として役所の手続きをすること以外は。
一切を手引きによって知ってきたのみの者と、そうではないわたしとの差は、おびただしく途方もない、いざすべてのものを地に捨てたとき、わたしだけがなおもすべてを知っており、他の者は実のところ何も知らないという動揺を白日に晒す。
「聖書以外は読むな」という、鋭い言説は的を射ていて、手引きがなくても同じところへたどり着かねばならないのだ、手引きを用いた者はすべて不正をしてきたのだから、いざ最後の段になって追放される、ではこれまでの躍進はすべて陽炎でしかなかった、手引きに従ってみたものの結果はそれに尽きる。
わたしは不勉強で何よりだった、胡乱で無頼で、不忠で不孝で何よりだった、わたしは何も読んできていないし、何の手引きにも加担していない、誰が最後の段になって崩れる階に人を案内などするものか。

「だけ」を信じるということ。

ここにむろん、わけのわからなくなった痴愚の、宗教かぶれのことは考えなくてよい、そんな初めから誤っていると分かりきっていることは/「だけ」を信じるというのは、単に数学的な区分にすぎない、信じるというのは単に "比較し得ない現象" ということにすぎず、ここに比較の体質を持ち込む者は永劫その呪縛から離れられないということにすぎない。
「だけ」を信じるということであり、言い換えれば、「だけ」が信じるということでもある、正誤は問われず、「だけ」ということの中に正誤はない、比較体質を持ち込まないかぎり正誤は生じ得ない、そもそも確定しない正誤そのものがわれわれの身の識業であり呪縛の現れだ。
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面白いということは、変化しないということ
白さ、について考えているのだが、なにぶん方法はない、「面白くなる方法」というのはひとつもない。
 とはいえ、手がかりがゼロというのは、気の毒な人にとっては気の毒だと思うので、何かしら手がかりを考えているのだ。
 面白さについて、唯一の手がかりは、「出来事」ぐらいかもしれない、少なくともおれにとっては出来事だけが唯一の値打ちを持つ。
 ただ、「出来事」のためには、持っている余分をすべて捨てなくてはだめだ、つまり「出来事がある」のではなく「出来事しかない」ということでないと、それは出来事にはならない/もちろん何のことを言っているのかわからないだろうが、そりゃわかるようなことを言えばインチキに決まっているのだ、まさか自分に「面白さ」の片鱗がわかるかもなんて期待を持っていてはいけない。

 面白さの、唯一の手がかりは「出来事」だと思えるが、「出来事」のためには、 "変化してはいけない" という鉄則がある。
 変化といえば、たとえば五歳の少年が、四十年後には四十五歳のおっさんになっているということだが、そうして変化というのは弱い者から順に発生するので、面白くないのだ、「変化するのはアホ」というヤケクソのような覚え方をしておいてもいいかもしれない。
 すべてのことには、始まりなんてないので、何かが面白いとか、あるいは何か「勝つ」というようなことは、初めから決まっており、何かが始まってうんたらかんたら、ということはない/よく「始まりがあれば終わりがある」というが、それはそのとおりで、つまり始まりがあるようなものは全部ウソだから後で滅びますというだけのことだ、「始まる」ということ自体がアホで、そのアホの精算として「ホラ終わった、アホじゃん」という結果が来るということだ、ここにはただの寒々しさしかない。
 面白さの手がかりは、始まらない・終わらない・変化しない・何もしないということだ、よくつまらないマンガほど主人公を変化……メタモルフォーゼさせたがるが、サナギがチョウになったとして、あなたは本当にサナギがチョウになるところを毎日観察していたいと思うか? 実際そんな観察なんてした試しがないじゃないか、それは「面白くない」からだろう。

わずかな変化も弱さの証。

 初めから面白くないといけないし、初めから勝っていなくてはならない、誰でも生まれた直後はそうだったのじゃないか、そして現在の自分に不満のある人ほど、その現在の自分とやらは「変化」の積み重ねの末に到達しているはずだ/ちなみに言うまでもないことだが、「変化しない、始まらない」ということは、地蔵のように止まっているということではなくて、逆、すさまじい速さで動くのに、変化はしていないということだ、すごい動きなのに変動していないということだ。
 面白いということに対しては、直接チャレンジするしかなく、つまり本人が直接面白いということしか方法はないのだが、そうして面白い奴は初めから面白いのであって、面白くない奴が変化して面白くなるわけではない、変化するとますます面白くなくなる、だから面白くない奴はイメチェンばかりするし、積み重ねた変化のあげくキャラがコチコチに固まって動かなく、重苦しい奴になるのだ/変動のたびに重さが増すので、面白いといえば重さゼロ、変化ゼロ、出来事といえばゼロということになるな、ゼロが出来事だ、面白さへの手がかりというとそれぐらいしか言えない。
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「面白くない」のは、魂の底が "恐怖" に支配されているから
きものは恐怖に支配されている。
 だから、人は、何十年もかけてアホみたいだが、けっきょく人を「怖がらせる」という方法しか獲得しない。
 ヤクザも同じだし、教師も同じだ、親が子に対してもそうだし、男女が互いに対してもそう、けっきょく「怖がらせる」というアホの方法しか獲得しない。
 それがなぜアホの方法かというと、その方法をいくら駆使してみても、本当の果実はまったく生らないからだ、だから初めから方法としてハズレに決まっているのだが、何しろアホなので、長い生涯をかけてけっきょくその方法しか獲得しないのだった/冷静に考えてみて、「怖がらせる」って本当にアホの発想だ。

 便宜上、「面白いこと」を考えているのだが、まさか真正面から、幻想の「面白いこと」を探すようでは、その人はもう死んでしまっている、まさかそんな取ってつけたような「面白いこと」なんて存在しない/また、取ってつけたような「面白い人」も存在しない(存在するように見えたらそれはただのフェイクだ)。
「面白いこと」なんて、わざわざ考えなくても、フツーに生きていたら毎日は脳みそのフタが開くほど面白いのであって、なぜそれをニセモノの「面白いこと」で補わねばならないかというと、魂の根っこを「恐怖」で縛られているからだ/根幹を「恐怖」が支配しているので、表面をどういじっても面白くはならないのだ、どこまでいってもネクラな何かがつきまとってしまう(当たり前)。
「恐怖」および「怖がらせる」ということ、つまり、「ビビっている」ということなのだが、どうも思い返すかぎり、やはり2011年の震災のとき、津波の映像と原発の放射能ニュースで、きっちり「恐怖」に討ち取られたみたいだ/じゃあ後はもう、恐怖に討ち取られた魂の表面で、何かを楽しんでいるフリをして過ごすしかない、それはまるで病人用の流動食を美味しくしようというようなことで、無為とは言わないが本質的に美味しいということには到達しない。
 このところ、何かあれば「炎上」するし、あちこちで、バトル気質の女性や、オラついている男性、キレる老人等を見かけるのだが、誰も彼もが異様に「わたしは強いんだ!」みたいなフリをするのは、魂の底がすっかり怖がっているからなのだ、別にそれが悪いということではないが、そうして怖がっている魂の誰かが真に面白い何かに到達することはない、つまりそういう人はけっきょくまともになれないまま生涯を過ごすだろう。

怖がったままの魂が、たとえ空中でミラクル五回転しても、誰もよろこばないし、何も面白くない。

 仮に、怖がったままの魂の誰かが、 YouTuber になって、身体にガソリンをかけて火を付けて、ダッシュでプールに飛び込んでみたとしても、怖がったままの魂だから、やっぱり何も面白くない、すべての根底を「恐怖」が支配しているので、決して面白くはならないし、よろこんでしまう何かにもならない。
 つまり、恐怖に支配された魂は、その後「要らない」ものにしかなれないのだ、そうして考えると、ここ十数年、われわれの周囲にはあまりにも「要らない」ものが増えて、のさばり続けたのがわかる、要らないものが要らないのはしゃーないのだ、そこをごまかしたくなるのは、やはり同じように魂の底が恐怖に支配されたままだからだ。
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それはまるで病気のようなダルさ

れは無気力になったことがない。
 気合いを入れたこともない。
 どうやったら無気力・ダルさが来るか、考えたのだが、きっと「みんなで力を合わせる」等をやれば、ダルくなると思う。
 つくづく考えたのだが、おれは面白いことがわかるのではなくて、「面白いことしかわからない」のだ、だからおれは無気力になったことがないし、気合いを入れたこともない。

 現代は、面白くない奴が必死コイている、という向きがあると思う。
 便宜上、面白くない奴、という言い方をしているが、別に「面白い奴」なんてものが存在するわけではないし、逆に「面白くない奴」が存在しているわけでもない。
 おれは、面白いことしかわからないのだが、それは考えてみれば当たり前のことであって、人は機能上、面白いことしかわからないはずだ、だから仮に「面白くない奴」がいたとしたら、そいつは何もかもがわかっておらず、生きてきて何一つ学んでいないし得てもいない、ということになる。
 周囲のことをジッと見て、肩入れしてみたりすると、途端にダルさの毒みたいなものを感じるのだが、本当は何一つ面白くなくて、何一つわかっていなくて、猛烈にダルいのに、何か必死コイて、「力を合わせる」みたいな幻想にとりすがっているのだろうか、おれが面白くなくなる唯一の方法があるとしたら、それはおれが誰か他人の話を聞いたときだろうな。

「面白くない」ということは、己の魂から一ミリずれるということだ。

 己の魂から一ミリずれたら、それはもう己の魂には何の関係もないことになるので、やる意味がない。
 そうすると、面白くなくなるので、面白くなる方法を探すのだろうが、探し始めた時点でオワリだ/おれは今も、引き続き、面白いことしかわからないままで、そのぶん引き続き、他人の話なんて聞いていないままだ、おれはダルいことに必死コイてごまかすような善人にはとてもなれない。

正しく見ないとな | comments(0) |
世界を視る手続き

ちらおかげさまで体調は復した、喉から全身が倦怠して、こういうときにしかけっきょくおれは休まないので、 steam版 が出ている「信長の野望[革新] with パワーアップキット」をPCでダウンロードしてやった、今さら何年前のゲームをやっているんだという話だが、信長の野望は「革新」が一番面白いのだ、くぅ〜南蛮技術で弓の距離を+3するとシビれるぜ。
 世間は消費増税と、軽減税率とキャッシュレスうんたらで、ぐちゃぐちゃになっているな、それにしてもどさくさまぎれに、キャッシュレス化すると5%引きとはえげつない話だ/キャッシュレス化すればいきなり5%も免じられるのか、じゃあ初めから増税なんか必要なかったのじゃない? いきなり5%はデカすぎるだろう。
 紙幣の流通がなくなり、やがて電子決済しかできなくなると、電子決済にアカウント登録していない人は「物が売買できない」という世の中になるな、物が売買できないということは生きていけないということになるが、そういう手法で人々の魂を牛耳ろうとするやり方はいかにもセコくて汚い、何かわざわざヨハネの黙示録でも参考にしたのかというような薄気味悪さだ:ヨハネの黙示録第13章17節「この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。」
 国連に乗り込んだ女の子については僕としては「???」であって、そりゃトランプ大統領にとっても「???」だと思うのだが、一方で香港の人々の尊厳が流血に及んでいることにはさすがに胸が痛む、中国が帝制を辞めてなお覇権主義を辞さないことについて、やはり僕は仕組みがよくわからない、僕は「覇権」ということに衝動がないのだ、だからむしろ中国共産党やヒトラーに僕自身の欠落を学ぼうと考えている/そういえば、「どうやって世間の情報を得ているんですか」と先日訊かれたのだが、誰でもそうするように、今やネット上のニューストピックを適当にクリックすれば、それだけで一通りの情報は得られよう、ただ僕はおじさんなので、若い人よりニュース記事の読み取りが速いのだ、どうあがいても新聞を読む速さだけはおじさんには勝てねえよ。

 僕自身、物事を見る目や、記事を読み取る目、また世界を直接視る目については、これまで多くの人から影響づけを受けて、育ってきているのを自覚する。
 たとえば文章を読むというのは、書いてあることを暗記するということではないのだ、最低限は「理解する」ということだが、より上位には「認める」ということであり、さらには「その人を通して世界を視る」ということでもある。
 たとえば僕がピカソの絵を見るとき、僕自身の天稟によって視るところも半分あるが、もう半分は、パリのキャフェで死にそうになっていた岡本太郎の目を通して視るのであり、また大江健三郎の芸術理論を通して視るのでもあり、また「セザンヌはヨーロッパの景色に影響を与えた」という芸術論のジョークを通して視るのでもある。
 もちろん、自分と世界のあいだに誰かが挟まっているようでは面白くないが、そうではなく、先人達からの影響づけによって、僕の目そのものが育てられているのだ/僕は何かを勉強しようとは一ミリも思わないし、知識を蓄えようなんて一ナノも思わない、むしろ知識のすべてを放擲して直接ものごとを視るのだが、そうして知識のすべてを取り去ったときに、自分の目そのものがどれだけ育っているかが明らかになるだろう、だからこのとおり、おれは何もかもについてシロウトで、何もかもについて子供のままだ。

正論も戯論も取っ払ったとき、あなたは The World か。

 たとえば仏典スッタニパータには、信じがたいほど洗練された叡智が詰め込まれており、また、たとえばマタイの福音書には、思いがけず人として純真たるべき idea が詰め込まれている、そして問題は、その聖典の知識を溜め込むということではなく、その聖典の知識をすべて投げ捨てたときも、すでに磨かれて育てられた目が己に具わっているかということだ、「暗記した繰り言を云っていても祈りは通じません」とちゃんとマタイ福音書に書かれているし、例え話で言うならば、「重要なのは温泉地に美人の湯が湧いていることではなく、その湯から出たあなたがすっかり美人になっていることです」ということだ、美人にならなきゃ美人の湯ではまったくない。
 叡智の泉に頭までどっぷり潜ったとして、その泉から出たあなたの目が、洗い流され、すっかりこの世界を直接視られる目になっていることが重要だ、あなたの目だけでなく耳や鼻も、また全身も、この世界を直接視るものに変わり、あなた自身が The world になっているのでなければ、いかなる泉に浴したとして何の意味もない/「証(あかし)」が得られていないということは、ただすべてが空転しているということの反映であって、ごまかしは利かないし、またごまかしの必要もない。

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あなたが間に合わねばならないこと

とんどの人にとって、たとえば大江健三郎がどんな人かは、よくわからないだろうし、詩聖タゴールがどんな人だったとか、マハトマ・ガンジーがどんな人だったかということも、よくわからないだろう/そしてよくわからない以上に、「興味もないし、関心も起こらない」としか感じられないだろう。
そんなことに、興味はなくて無関心なのは、当たり前だし正しいのだが、とりあえず同じ仕組みで、たとえばかつて日本がなぜ米英(中)と戦争したのか、あるいはなぜかつてヨーロッパで第一次世界大戦が起こったのかも、わからないし興味もないだろう、そしてなぜリトマス試験紙がpHによって色が変わるのかとか、なぜウランを圧縮すると爆発するのかとかも、わからないし興味もないだろう。
そのことは、別にかまわないのだ、学校の試験なんか0点でいい、電子レンジなんかボタンを押せば勝手に機能してくれるのでその仕組みなんか知らなくていい、ただ問題は、その行き着く先、あなたが何十年か生きるにして、今度はあなた自身が、「どんな人だったかわからない」ということになるのだ/何十年も生きながら、「自分で自分がどんな人だったかまるでわからない」という結末を迎える、そのときその感触は、あなたにとって大江健三郎がどんな人だったかまるでわからないしまるで興味もない、というのと同じ感触なのだ。
あなたが文学部の生徒でもないかぎり、たとえば「○○△△」がどんな人だったかなんて、研究することもないし、興味もまるで湧かないだろう、そこで、この○○△△に、あなた自身の名前を代入してほしい、このあなた自身の名前について、「どんな人だかわからない」「わからないし興味もない」という状態になるのだ、つまりあなたは何の興味も関心もない自分自身を、ずーっと押しつけられて生涯を過ごすことになる。

もちろん、現代は情報網が発達しているので、 Wikipedia でも調べれば、著名人や歴史上の人物について、ただちに情報を得ることができる/あるいは、なぜ戦争が始まったのかとか、いつからシャネルは有名ブランドなのかとかも、ただちに情報として知ることができる。
ただ、そうして情報を得たとしても、それは己の魂から研究したということではないので、たとえばなぜ戦争が始まったのかということを、「つぶさに」「手に取るように」「まざまざと」、視ることはできない、己の魂をその研究と重ねるまでしないと、積み重ねた情報を元に何かを「まざまざと」視ることはできない、仮に Wikipedia のすべてのページを暗記している人がいたとしても、その人はただの人間化した「ウィキペディアさん」でしかなく、その人が豊かな世界を得ていることにはならない(そして、 Wikipedia はすでにデジタル上にあるのだから、人間がそのコピーをやる必要はまったくない)/トルストイのことはすべて Wikipedia に書いてあるが、それを暗記したところでトルストイがどういう人で何を為して何のために何を語ったのかということは、ちっとも「まざまざと」は視えてこない。
誰にだって、好きなものと嫌いなものがあり、人によっては、週二でエステにいってアイドルの○○クンをテレビで見て、高級なシーツで寝てパンケーキを食べるだけしていれば、理想であって人生最大の満足だと考える人もいるのだが、そうではないのだ、必ずそれでは満足せず、不明の憎悪に魂の底が染められていくことになる、なぜならばそのときのあなたはあなた自身、そのわけのわからない、「好きなものをただつついて暮らしているだけの奴」を、ずーっと研究させられていることになるからだ、おのれの生命を代償にして何十年も、その無意味に思える奴を研究させられ続ける、それが自分だからしょうがないのだが、理非はともかく人はそうして生命を空転させられることに絶対的な憎悪を覚える。
多くの人は、思春期のあたりで学門をキックし――たいてい一次関数やモル数や重力加速度や摂関政治あたりで「なんかややこしくてイミフなんだけどw」と――その後はただ試験に出るからということで穴埋め解答用に暗記する苦役だけをこなすのだが、学校の試験はどうでもよくても、学門をキックした時点から、自分が何者であるか――「わたし」はどのように生きる、どのような存在なのか――も一緒にキックしていることになる、こうして自分のことを「さっぱりわからないし、なんか興味もないw」と生きていくのは、その後シャレにならない憎悪を体内に溜め込むことになり、とてもよくないのだ、だからあなたは間に合わねばならない、自分がどのように生きる、どのような存在なのかを、「まざまざと」視えるようになることになることに、なんとか間に合わねばならない。

あなたが大物である必要はないが、あなたはまざまざと研究されていなくてはならない。

あなたにはあなたの思いがあり、あなたの好きなものがあり、あなたの嫌いなものがある、そのことはわかっているし、どこまでも当然なのだが、それらの情報をもとに、あなたがあなた自身を研究することにはならない、たとえばディープ・パープルが音楽の世界にギター・リフをもたらしたという見方はありうると思うが、比べてあなたが「シイタケが好き」ということは、あなたという存在の研究にはならない/どこまでも必要なのは、あなたによるあなた自身のまざまざとした研究であって、このことを怠り破棄することは、あなたがあなた自身の生と存在を否定するに等しい行為だ。
あなたはあなた自身を研究するのだ、文学部の学生が中野重治を研究するようにだ、あなたは大物である必要はないし、また有名である必要もない、ただどこまでも正当な研究対象でなくてはならない、あなた自身が研究生であり、あなた自身が研究対象だ、そしてまっとうな研究が為されたかどうかも、あなた自身のみが審査することになる、そのことを怠り破棄したとして、あなたの人生が「どうでしたか」なんて、誰一人答えてくれる者はこの世界にいない/たとえば「行き先を無くした帝国主義が、やがて帝国主義同士に矛先を向け合って、第一次世界大戦を引き起こした」ということは、あなたにとってよくわからないし、興味もないし、まして「まざまざと」視えることはありようもないだろうが、そのことじたいは問題でなくても、あなたがあなた自身を「まざまざと」視えなくなることの反映だから、そのことがまずいのだ、そんなデカいことが視えないようでは、小さいあなたのことなんて視えようがない。

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僕の望んでいること/魂の自由2
流に回帰するタイミングが来ている、だから今のうち、このことをしつこく書き話しておきたい。
僕の物語を認めてほしい、内容なんて知らなくていいから/そうすれば、あなたもあなた自身の物語の、少なくとも端緒を掴むことができる。
自分の物語が視えなければ、自分がどう存在して、どう生きているかなんて、もちろん視えるわけがない、何も視えないまま、生物の仕組み、つまり報酬と罰という遺伝子の仕組みに乗っ取られて生きるしかない。
もちろん「物語」なんてものは、ノンフィクション的には、つまり生理的に接触できるものとしては存在していないので、「物語」は「数学」と同じ場所あることになる、そして数学を教科書の中に閉じ込めてあるように、物語を書籍やフィルムなどの媒体に閉じ込めてあるうちは、自分が生きる物語があるということは視えない、自分の空間に直線がフィクション上あるということと、自分の生きる「物語」があるということはまったく同じ事象のことだ。

もし、あなたが完全に目を覚まして、つまり今ある日常の催眠状態を解除できれば、あなたはきっと僕の話したことすべてに対して、「本当ですね」と理知的な承認を発言するだろう、またその後に催眠状態に陥ってしまうにしても、一度そうして認めたことは、ずっと先まであなたの切り札として残りつづける。
教科書に閉じ込められていた数学を、自分の生きる実空間に引っ張り出して、それでもフィクションとしては、実空間にフィクションとして成り立ちうるということ、それが自分の生きる「物語」と同様の事象平原にあることを、あなたが「本当ですね」と当然に言うときがくるのだ、ただささいなこと、催眠状態を振り払って、少し数学のことを考えるだけのことでだ。
こんなことは、二十年ほどまえ、われわれが何かから見放されて、何かにやすやす入り込まれる前には、そこそこ当たり前に成立していた、誰でも自分の生きる「物語」がありうることを、毎夜のように発見しなおしていた、もちろんその脇には誰か導いてくれる人がいたこともしばしばだが/今はすっかりそのことが断たれようとしている、そして自分の生きる物語を否定しながら、矛盾して自分が満たされねば許せないという永遠の不満を膨張させつづけている。
僕の望んでいることは何か、それはとてもシンプルなことで、魂の自由だ、そして魂の自由とは何かというと、われわれの生理的な思い入れとは異なる、思い入れのない事象を、この思い入れのノンフィクション空間に引っ張り出してくることだ、「生理的な思い入れ」つまりノンフィクションはわれわれを催眠状態において支配しつくしているけれども、目を覚ました者には通用しない、目を覚ました者は生理的な思い入れとは何の関係もない物語事象を引っ張り出してきて、実に生理的な思い入れに押し当てて、すべてを物語にしてしまうだろう/このわけのわからない話に、あなたがいつか「本当ですね」と断言できるときが来ればいい。

おれの物語を認めてくれていたら、すべての書籍から、すべての学門がこちらの世界へ飛び出してきていたよ。

本流に帰るときが近づいてきていて、つまりおれはやはりおれの物語に帰るのだ、表面上は何も変わっていないように見えても、おれがやっていることは本来の「いつものこと」に帰っていく、おれの物語にはおれの世界があって、おれの物語を押し当てることで、思い入れのノンフィクション世界は物語化を余儀なくされていく、そのときはおれが勝利したということだ/ノンフィクションの、思い入れの物差しは、おれを測ろうとするが、その物差しじたいが砂塵に帰して無力化されていく、物語を測定するスコアはないのだから。
おれの物語を認めてくれるものは何か? それは「分からないもの」だ、生身とは異なるものだ、カウントできないものであり、時の流れに無関係なもの、認めたフィクションが存在を得て、存在したフィクションがおれのフィクションを認めるというようなことだ、おれ自身でさえおれの物語を認めるのではなくて、おれ自身でさえわからないものがおれの物語を認める、つまりその「わからないもの」においては、もう「おれ」とか「誰か」とかいったものはないのだ、すべてはおれだとも言えるし、すべてはひとつの誰かだとも言える、ただそれが一つの主体となっておれの物語を認める、何のことか分からないだろうが、それは「分かる」という機能の個体が接触できない事象のことだからだ。
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僕の望んでいること/魂の自由

の望んでいることはシンプルだ。
僕はけっきょく、報酬主義ではないので、返報されたいとは思っていないし、感謝されたいとも思っていない。
ただ、僕のことが認められたいだけだ、僕のことが認められて、その結果、しっくりいっていなかったすべての人が、すべての自分自身にしっくりいくという、当たり前の状態になってほしいだけだ。
僕のことを認めるのは、そんなに困難ではないはずなのに/また、筋道からいっても僕のことを認めるのが妥当という人も多いのに、不明の逡巡と不毛の抵抗がある、しっくりいっていない自分を保存するだけ、この世界のことが怖いのだろうか。

僕のことを認めるというのは、何ら困難なことではない、たとえば数学というフィクションを認めると、すべての空間には無限の長さの直線がずっと続いてありえるというようなことだ、数学とはそういうものなので、それを認めることに困難は本来まったくないはず。
数学を認めれば、空間に無限の直線がずっとありえたとして、それに影響される必要はないし、自分が何か変化しなくてはならないわけでもない、ただ数学を認めると、「数学的には、この空間に、直線は無限に続きますね」というだけだ、ただそれだけのことで、それだけのことが何をもたらすかは、それを認めた人しか知ることはできない。
数学にせよその他の学門にせよ、それを認めない人は、数学を教科書と答案用紙の中に閉じ込め、そこに閉じ込めておくかぎりにおいては「許して」いるだけだ、自分の空間に数学が同居することは認めない/そうすると魂は入らない、生物は血(遺伝子)だけを正しいものと定めて、その他のものを排除しようとするから、生きものの中に魂が入らない、そうすると全身と「わたし」はずっとギクシャクしたまま、いつまでもしっくりいかないままだ。
われわれの生きている空間に、数学を認めると、われわれの生きている空間も、やはり空間であって、直線その他の幾何学が成立しうる、直線が存在しうるそのときに、僕の魂が存在していて、僕の魂が何をやっているかがわかる、当たり前に視えるようになる、「ああ、あなたはこんなことをしているのね」と/僕が望んでいるのは、そうして僕が認められるという、ただそれだけのシンプルなことだ。

僕が存在して、僕が何をしているのかがわからないならば、あなた自身の存在と、あなた自身が何をしているのかもわからない。

それだと、あなた自身の全身が、いつまでもしっくりいかないままで、苦しいまま、不毛なまま、すべての時が過ぎ去ってしまうのだ、僕はただそれを差し止めたいにすぎない、自分自身の全身としっくりいっていない人が、通りのよい半笑いを繰り返すのにもさすがに限度がある、最後のとき必ず遺恨になってしまうだろう、自分がどう存在して自分がなにをやるべきだったのかがずっと視えないまま過ごしたというのでは。
おれには何の報酬も要らない、おれのことがきらいでもかまわない、ただおれが何を言っているのかを正視して、数学を認めたらこの空間にも無限の直線がありうるというような、何らの実害もない当たり前のことを目の前に認めてくれ、そのことを経ないかぎり、あなたは自分の存在と、自分が何をやっているのかという、自分の魂のことがまったく視えないままだ、数学……もしくは、思い入れのないフィクションを、フィクションのまま認めるというだけだ、そうしたときあなたは自分の魂の存在に気づく、そうした魂の自由が、あなたの魂が存在していることの反映だからだ。

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うぬぼれを "必要とする" ということについて2
を、遺伝子から形成された生物と見る場合、遺伝子から形成された生物は、すべて「報酬」の原理で動いている。
いわゆる遺伝的アルゴリズムというやつだ、計算上、一定の状態到達に「報酬」を与え、また逆の状態到達に「罰」を与えると、生物は罰を避けて報酬が得られるほうに進んでいく、生物の行動原理というのは実はそれ「しか」ない。
単純に考えて、われわれだって、「スーパーマリオ」をプレイするとき、クリボーに触ると「ダメ!」という音が鳴ってプレイ残機を失うし、クリボーを踏みつけると「よし」という音が鳴って得点を与えられる、この報酬と罰というシステムによって無自覚のうちに進む方向を誘導されているのだ、よもやスーパーマリオを「たくさんクリボーに触るゲーム」と捉える人はいない。
人は他の生物にくらべて複雑な行為をするが、行為がどれだけ複雑であっても、あくまで遺伝子から形成された生物としては――つまりジェニックには――けっきょく「報酬と罰」のシステムによって操られるだけのものでしかない、そして「うぬぼれ」というのもジェニックに有為な「報酬」のひとつなのだろう、報酬と罰がなければ生物としての人は動かない、強い動機(モチベーション)というのも大きな報酬と大きな罰に挟まれてしか生じない。

ここに、たとえばミュージシャンAとミュージシャンBがいたとする、そしてこの両者は、共にいわゆる「センス」があるものと仮定する。
ただし、ここでミュージシャンAは、音楽そのものを「偉大だ」と感じており、ミュージシャンBは、音楽そのものを偉大とは感じていなかったとする、ただし両者とも「センス」はあるので、同等に活躍し、同等に報酬を得られるとする、つまり双方とも著名になって大きな富を得ることになる。
ここにおいて、ミュージシャンAとBは、共に活躍するにふさわしいだけの「センス」を持ち、共に同等の活躍ぶりと、同等の収益性を示しながら、内実はまったく別の存在だということになる、前者Aは音楽の偉大さに参画できたことをよろこびとしているにすぎないのに対し、後者Bはあくまで遺伝子からの生物が持つ「報酬と罰」というシステムで駆動させられたにすぎない。
前者Aは、まさに「音楽の子」、ないしは「音楽という偉大さの父の子」と言いうるのに対し、後者Bは、実は「生物としての人の子」であるにすぎない、そして僕の知るかぎり、前者Aが視える人は、後者Bがどのような原理で動いているのかがよく視えておらず、逆に後者Bが視える人は、前者Aが何をやっているのかがまったく視えていないのだ/このことについて、これまであなたが何のファンだったかということ――何がまざまざ視えていたかということ――を参照すると、あなた自身の所属しているシステムがどちらなのかわかる。

何もしないとき、人はうぬぼれを必要としないが、何かをしようとするとき……途端に「うぬぼれ」を必要とする自分が本性を現す。

「うぬぼれ」という、つまり、「自分で自分の自尊心に報酬を与える」ということを、なしには何かをすることはできないのだ、どこまでいっても報酬と罰のシステムだけで動いている以上、生物としては何一つ動くことはできない、それこそジョギングひとつするのでも、何かしら「グレートなわたし」ということで自尊心に報酬を与えないと、人は仕組みとして動くことができない/それは心理的な問題ではなく、力動作用の問題だから、ほとんど物理的な問題だ。
今多くの人は、学課と業務以外のことについて、自ら進んで何かをしよう・始めようとは考えないものだが、そうして自ら何かをしようと能動的になれないのは、自分が動き出すために必ず自尊心への報酬「うぬぼれ」を自家生産する必要があるからだ、このことがいかにも自分でもいかがわしいので、不潔感を覚えて忌避的になっている、それはそれで正しい感覚ではあるが、そこで立ち止まることに解決はない(もちろんそのまま自尊心報酬と罰のシステムに踏み出しても解決はない)/おそらく、遺伝子からの生物としての唯一絶対のシステム、「報酬と罰」以外に、何かの原理に接続できるかどうかが、人の生において一大事なのだ、非生物的な力動作用に接続できるかどうかということが。
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うぬぼれを "必要とする" ということについて

て、奇妙なことに気づいてしまった。
よくよく考えたら、誰だって、自分が何かをするというときに、わざわざ「しょーもないこと」と認識して、それができるわけではないのだった、何かしら大きなこと・必要なこと・価値のあること・偉大なことだと信じて、人はその行為をするに違いない。
満員電車の中の痴漢だって、本人としては、しょーもないことをしているつもりではないのだろう、そりゃしょーもないことだと思っていたらわざわざリスクと迷惑と他者の尊厳を犯してそんなバカなことはしない、やっている本人にとっては「偉大なこと」なのだ、むしろそれだけが自分を本当にドキドキさせてくれるのだから、本人にとっては偉大なことなのだろう。
一方、僕がこのしょーもないブログ記事を書くことについて、僕自身のドキドキというか、僕自身の生理的な紅潮や変化はない、「偉大なるおれさま」による偉大なる営みに違いないのだが、同時におれは実にしょーもないことをしているという確信もある、これは一般的な行為のメカニズムから見ると、何かが逆転しているのかもしれない/という、奇妙なことに気づいてしまった。

たとえば、痴漢行為というような極端なことでなくても、たとえば峠を攻めるバイクライダーは、やはり何か「カッコいいことをしているグレートなおれ」というような、自己興奮、自己陶酔のような状態にあるのかもしれない。
あらためて冷静に考えてみたら、何らの自己興奮もなく、わざわざリッターバイクを用意して、生理的変化ゼロで峠を攻めるわけがないのだった/これは悪口を言っているのではなく、いつのまにかおれ自身がおかしいということを、奇妙なこととして発見しているにすぎない。
ある意味、いつのまにか行動原理が、おれの中で行方不明になってしまったのだろうか? おれにとって「偉大なるおれさま」というのはいつもどおりのことであって何らの揺らぎもないのだが、なぜかその「偉大なるおれさま」ということには、何らの自己興奮・何らの生理的紅潮も付随していない、これではある意味おれが人として壊れてしまっているようなものだ/おれはすっかり、了解不能の原理で動くようになってしまっていて、そのことはかまわないにせよ、一般に人が動く原理がまったくわからなくなってしまっている、そちらのほうはなかなかシャレにならない問題だ。
人は誰でも、自分で「しょーもないこと」と認識して、その行為をやれないのだ、何かしら自分にとってグレートでなければその行為はできないので、行為には一定量の「うぬぼれ」を必要とするという原則がある/一方で、うぬぼれを一切必要としない、興奮や紅潮とまったくことなる「偉大な」ことへの行動原理もどうやらあるということを、ここであらためて確認したい、ただこの行動原理がどこから生じてどのように作用しているのかはさっぱりナゾだ。

何かに惚れていないかぎり、行為のすべてはうぬぼれによってしか支えられない。

たとえば風景画家が、風景の光と、それが描き出されるキャンバスについて、何か犯しがたい荘厳、その偉大さを感じて、そのことに惚れ込んでいたら、その風景画家は、筆を振るうのにうぬぼれの一切を必要としない、うぬぼれがなくてもいわば「別ぼれ」があるからだ/ただこの現象に到るケースは、極めてまれな割合だとあらためて思う。
対象と営みに、何か「偉大なもの」が視えていない場合、人は行為に及ぶのに、必ずうぬぼれを必要とする、それは人格の程度問題ではなく、原理であり仕組みなのだ、どれだけ人格が立派に見える人でも、仕組み上、必ず一定量のうぬぼれに支えられてしか行為に及ぶことはできない/つくづく、人としては僕のほうが「まともでない」と思うが、それにしても一方で、うぬぼれに支えられたすべての行為はやがて途絶えて滅ぶということも、前もってわかるのだ、だからまともではないとは思えるにせよ、うぬぼれ以外のものに支えられた行為に到ることを、あくまで可能性として提示しておきたい、うぬぼれを一切必要としないケースは理論上あるのだ。

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「認める」人と、「許す」人2
、世界一きれいなピアニスト、みたいな女性に、「レンタカー借りるからドライブいこうぜ」と誘ったとき、「助手席に乗せてくださるの!?」ときれいな声ではっきり言われて、逆にずっこけそうになったのを覚えている。
そう考えると、逆にふだん、どれだけ「許す・許さない」のスタンダードを生きているか、浮き彫りになって気づかされる/ふつう僕が女性をデートに誘ったとして、たいていは「いいよ」と "お許し" をいただくのが定番のはずだ、「助手席に乗せてくださるの!?」はとんでもないイレギュラーだろう。
たいていの人は、己を「許す・許さない」の主体において、その絶対自己を自分の安穏のキーファクタにしているのだが、これがすべての安穏を担っているため、これを取り外すことは今さらできない。
なぜそれが、安穏のキーファクタになるかというと、「許す・許さない」という絶対自己をもって、無意識に「グレートな自分」を確保しているからだ/たとえば近隣で秋祭りが開催されているのを見て、「こういうのは健全でいいよ」と、「お許し」を自ら下賜する、そのことによって無意識に「グレートな自分」が成り立っており、この満悦が日々の己の安穏を支えているのだ、これを取り外したらまるで自分は小さい何者かになってしまうので、これを取り外すことはとてもじゃないができない。

営業マンの人は知っていたらいいと思うが、特にこのごろ、人は自ら「お許し」を下賜することにご執心だ。
だから、何はともあれ「グレートな存在に "お許し" を乞う」というスタイルで臨めば、自然で無理のない営業スタイルが見えてくると思う/商品の値打ちうんぬんではないのだ、基本は「グレートな存在に "お許し" を乞う」であって、そうすれば顧客はグレートな自己を確保するためにあるていど胸襟を開いてくれるだろう。
端的に、事実だけを申し上げるなら、どうやら多くの人にとって、何かを・誰かを「認める」ということは、それじたいで耐えがたい苦痛らしい、どだいグレートな自分を確保しているから今のところ安穏と生きていられるのであって、そこで自分でない何かをグレートと認めるということは、自分を矮小・卑小と認めるということだ、そのことはとてもじゃないが耐えがたく、プライドや自尊心の問題もそうだが、それ以上に日々の安穏がすべて失われるということが耐えられないのだ、それは心理的な問題というより事実として個人の耐久力を超えてしまうという問題であって、もはやカウンセラーがどうこうできる問題ではない。
僕にとっては、わけのわからなかったおばさんの、唐突な発言「許します!」だったのだが、今になってこれは、姑息的ではあれ救済のワードだということがわかる、それは「認める」という地獄の苦悶の反対側にある、やはり不明の救済の甘露だ、何の脈絡もなくても「許します!」と言ってみるとわかる、なぜか甘く安らいだ気分が体内に立ちこめてくるはずだ、それはどうやら「グレートなわたし」という甘露らしい。

子猫のいたずらを「許し」、政治家の不出来を「許さない」と唱える、すると「グレートなわたし」が得られて元気が出る。

ふーむ、よくよく見ると、現代人はこうやって、ギリギリ生きる気力をつないでいるのかもしれない、自己の生が偉大な何かとつながらなかった場合、正直なにのために生きているのか人はわけがわからないものだから、とりあえず心理的報酬の甘露に準じて、「グレートなわたし」をやっておけば、とりあえず今日と明日のぶんの生きる気力は得られるということのようだ、ほとんどの人はその許す・許さないの「グレートなわたし」を満喫するために、YouTuberやテレビを観ているのかもしれない。
このことの事情の、のっぴきならないことは、ある意味僕にもよくわかるのだ、僕の場合は「偉大なるおれさま」であって、偉大なるおれさまはフィクション上の事実だから何の問題もないのだが、おれだってこの「偉大なるおれさま」がないのであれば、生きている意味なんてただちにゼロになってしまう、だから状況は似たようにお互い様だと思う/ただおれの場合は、何かまったく別の、縁もゆかりもないヨソのものを、許すとか許さないとか、そういうことで「グレートなわたし」を得ているわけではないということだ、正直便利だからiPadを使っているが、そのタッチパネルを操作していたからといって自分がグレートとはツユ思わん……あれ? このことには何か大きなヒントが隠れているみたいだ。
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「認める」人と、「許す」人

、とあるおばさんとのやりとりで、突然「許します!」と言われて、驚いたことがあった/その切羽詰まった調子と共に、突然の「許す」という脈絡がまったく意味不明だったのだ。
今になって、ようやくあのときのナゾが解けるようになった、人には二種類のタイプがあって、言葉尻はどうであっても、本質的に「認める」タイプと「許す」タイプがあるのだ。
たとえば、芸能人が何かスキャンダルをやらかしたり、あるいはアイドルが誰か恋人と付き合っているのがバレたりすると、「許さない」「許せない」という炎上が起こる、僕はこの「許せない」という語が出てくることにずっと首をかしげていたのだが、今はそれが人の本性なのだとわかる、自分とアイドルタレントには何らの権利関係もないと思うが、それでも人は「許す」「許さない」という絶対的な自己を持っているものなのだ、少なくとも「認める」という機能を持たない人においては、その「許す」「許さない」という絶対自己がこの世における自己存在の本性になる。
今、僕が書き話しているこの記事についても、単に「コイツ面白いことを言うなあ」と「認める」タイプと、「この人は面白い話をするわね、だからそのことを許してあげましょう」と「許す」タイプがいるのだ、単純な数的割合でいうと「認める」のタイプのほうがずっと少ない、これは時代の風潮とも関係していて、今は「認める」のタイプはぐっと少なくなった。

たとえば、仮に僕がヒルトンホテルに泊まったとして、その室内の清掃が、思いがけず不十分だったとしよう、僕はそのことに対して腹は立てないが、内部で「社会通念上、ヒルトンホテルという伝統と格式において、この行状は債務履行と認められない」という感覚があり、場合によってはフロントに「清掃が不十分だ、先泊者の使ったカミソリが放置されている」と連絡する/僕はそのとき、ヒルトンホテルの支配人にとっても、そのような行状は自分たちの格式において「認められない」と同意してくれるものだと思っている。
が、一方で、そうして清掃が不十分な状況に面したとき、「許せない」という感情を覚える人のほうが多いのだ、僕にとってはそこに許す・許さないのフェーズがあるようには思えないのだが、「許す・許さない派」の人は、常時そのフェーズの中を生きているので、常に第一の思念(かつ唯一の思念)は「許す・許さない」になる、それでフロントに連絡すると、破裂しそうな怒りに満ちて「前の人の使ったカミソリとか残っていて、ちょっとありえないんですけど」という調子になる。
いくつかの説明を省いて、簡単に申し上げると、たとえば嫉妬という熟語がおんなへんを持っていることのように、「許せない」の現象は基本的にメスジェニックだと思う、今や多くの男性もメス化しているので、今さら男性と女性を区別する必要はないが、現象のオスメスでいうと、この現象はメスジェニックだと僕は捉えている/つまり嫉妬というのも、単なるジェラシーの感情ではなくて、本質的に「許せない」という感情なのだ、クラスメートの誰かが高い靴を履いて海外旅行にいったということが、自分と身分差がありすぎて「許せない」という感情になる、他人の靴と旅行が「許せない」というのは文脈が意味不明だと僕は思うが……この「許せない」の反応はメスジェニックで、つまりジェニックなのでスタディを必要とせず血の性質として現れてくる。
あるいは、たとえば今テレビ番組の様相を見ていると、視聴者とテレビ番組の関係において、視聴者の大半はテレビ番組およびその出演者を、常に「許すか」「許さないか」の視点で監視し続けているように思う、不穏当な発現をする誰かを、「認められない」とは感じず「許せない」と感じ、自分の趣味に合わないお笑い芸人を、やはり「面白くない、とてもじゃないけれど許せないなあ」と感じている/だからYouTuberもその他のメディアも、視聴者の「許せる」「許せない」の感覚を狙ってコンテンツを放出する仕組みになっている、極端に「許せない」ものは炎上して伸びるし、極端に「許せる」ものは、たとえば子猫が甘えてじゃれるような映像として、やはり再生回数を稼いで伸びる。

どこにも誰にも、今や「熱気」が見当たらないのは、「認める」ではなく「許す」に事象が変わったからだ。

たとえば夏フェスのようなイベントがあったとして、壇上で唄っている者たちが、聴衆達に認められているのではなく、「許されて」いるのだ、だから壇上の者たちはずっと萎縮して唄っている、聴衆から許されるために聴衆の機嫌をとり続けているのだ……たとえそのときは許されていても、何かひとつのミステイクをすれば、とたんに「許さない」に切り替わって、今度は炎上の具材に供されるからには/どれだけ許されていても、何一つ認められているわけではないので、すべては監視者の胸先三寸にすぎない、そういう状況がずっと続いていく、その中を人々は顔を伏して生き延びねばならない。
僕の現在の住居は、商店街に近いので、たまに誰かの自転車が軒先に停めてあったりするのだが、それについて「邪魔だな」と感じることはあっても、それについて「許せない」という感情は僕のうちに起こらない、別に認めるというほどのことはないが、誰だって自転車で気楽にうろちょろして、ちょこっとそのへんに停めて用事を済ませたいというのは、わかるというか、誰だってそうだわなと、僕は認めている/僕には第一に「許す・許せない」が出てくる人の感覚はわからないので、おそらく逆側からも、第一に「認める・認めない」が出てくる感覚はわからないのだろう。

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全身と魂が「しっくり」いくということ2
「このことのためなら、なんだってやるわ」という体験・宣言・行為へ到達すること。
ただし、「このことのため」というのは、むろん単なる我欲であってはならないし、偽装された善意であってはならない。
方法のひとつは、自身で「このことのためなら、なんだってやるわ」と到達するか、もしくは、その体験・宣言・行為に到達した人を「認め」、「この人のためなら、なんだってやるわ」と関係するか。
つまり、「特製の魂」が降ってくることについて、自身で到達するという一次的なアプローチと、到達している誰かを認めるという二次的なアプローチがある、たいてい実際的には、その両方があるていどミックスされて成り立つようだ、どちらかだけで構成されているというのはむしろ極端で珍しい例といえる。

そして実際的には、多くの人は、その「特製の魂」の獲得に到達した人のことを、かなり初期のうちから無視・否定・侮辱してきており、そのとき以来、「全身と魂がしっくりいく」ということを、可能性じたいから失っている。
なぜかというと、その「特製の魂」が目前に示されたとき、人は「理由のない憎悪」を覚えるからだ、だからこれを否定し、嘲笑し、謗り、罵ることを、ついやめられないのだ、それはもともと人の身が天国に所属していないことから起こっている/そりゃもともと天の国から追放されてきたというストーリーなのだから当たり前だ、そこは仏教でもキリスト教でも変わらない。
そして構造上、その「特製の魂」を得ている人を謗り・侮辱したときに、こんどは天から降ってくるのではなく、地の底から這い出てきた何かに、体内に入り込まれているはずだ、これは「特製の魂[逆]」と呼んで差し支えなく、この魔物が人に「力」を与えてきた/学級の派閥でも職場の派閥でも、思い出してもらえればわかると思うが、性根のどぎつい奴が覇権を取っていたはず、それは謗りと侮辱のうちに地の底から魔物(特製の魂[逆])を引き入れていたことの力による、それはまた魔物からのご褒美というか報酬ということでもある。
体内に特製の魂[逆]が入り込んでいるので、たとえば残虐なマンガや残虐な映像、あるいは人を苦しめる責めの口論や、社会的「炎上」を見ると、入り込んだ魂[逆]が癒されよろこぶのを感じる、そのときはまた力を得たようにも感じる/が、次第に自分の魂が、当然ながら地の底へ連れてゆかれることが直観され、そのことが恐ろしくなってくる、けれどもそのときにはすでに特製の魂[正]とはとてつもない距離が開かれていて、しかもこの距離を埋めるのは炎の試練となるので、とてもではないが耐えがたい、だから今さら「このことのためなら、なんだってやるわ」と体験・宣言・行為に到達している人のことは、とてもではないが認められないということになる。

特製の魂[逆]が、全身に「しっくり」いこうとすると、全身どぎつい奴になるしかない、そしてその予感はすでにほとんどの人にあるはずだ。

われわれは生身を、抑圧的にコントロールできるので、特に筋肉でムキムキにすれば、そのコントロール力は強くなる、そしてその生身を魂と「しっくり」いかせようとすると、正であれ逆であれ、特製の魂と接続するしかないのだが、[逆]と接続するということは、つまりもう戻ってこられないどぎつさの何かになるということだ、そのどぎつさにはいくつかの種類があるが、事実、われわれはそうした全身のどぎつさに行き着いた人を何種類か見てきている/あれはけっきょく、全身の抑圧を、けっきょくやめざるを得なかったということだ、誰だってやがてはそうして、入り込んだ「特製の魂」に支配されるよりなくなる。
単純に考えると、人の身にはカルマがあって、カルマのままにあれば特製の魂[逆]を地の底から呼び込み、カルマを償却して超えられれば、特製の魂[正]を呼び込めることになる、カルマを償却するのは実に炎の試練であって、だからこそいわゆる「このことのためなら、たとえ火の中水の中」と言うのだが/誰だっていざとなれば本気を出すという、つもりを持って生きているものだが、その本気を出す予定には、自分が青ざめるというプロセスが組み込まれていない、これまでずっとバカにして力を得てきたものを、今さら認めるなんて屈辱に人は耐えられるものではない。
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全身と魂が「しっくり」いくということ
日、ふとしたときに、何かの魂が――仮に「魂」なんてものがあればだが――、バリューセットのように何かの三つの連なりになって、人の身にふっと降りてくるのを見た。
そして直後、その人の全身が、降りてきた魂と「しっくり」ゆき、急に存在がはっきりと、かつ穏やかになり、また存在として急に「近く」なるのを見た、「なんじゃこりゃ」と思ったものの、同時に何か気づかされることがあった。
なぜそのように気づいたのか、脈絡ははっきりしないのだが、全身と魂が「しっくり」いくためには、大前提「このことのためなら、なんだってやるわ」という体験・宣言・行為が必要らしい/そのことなしに、全身と魂が「しっくり」いくということは、どうやら仕組み上決してありえないらしい。
われわれは生きているし、事情があろうがなかろうが、基本的に生きていくのだが、この無条件に「生きていく」というシステムの中で、単に生きるということから離脱した、「このことのためなら、なんだってやるわ」という体験・宣言・行為が一度でもあるか、そのことが全身と魂が「しっくり」いくということのトリガーらしい/つまりこの要件を満たしていないかぎり、全身と魂は永遠に「しっくり」いかず、しっくりいかないまま漠然と生きていくしかなくなるらしい、それでもちろん加齢と共に身体はガタガタにズレてしまう。

「このことのためなら、なんだってやるわ」、あるいは、「この人のためなら、なんだってやるわ」ということ、それが実は、全身と魂が「しっくり」いきはじめるトリガーになっている。
そして、全身と魂が「しっくり」いかないということ、つまり顔つきや目つきや姿、力加減や振る舞いや声や言葉が、何か「違う」という状態で出力されつづけることは、当人にとって多大な苦痛らしい/そりゃ内部の魂とまったくズレた挙動と感触を全身が発揮し続けるのだから、不快でたまらないだろう、しかもその不快さは周囲の人をも魂と全身において不快にさせるのだ。
僕はもともと(あるいはもう長いあいだ)、自分の全身と内部の魂とが、基本的にしっくりいっている奴だったので、多くの人々がどのような不快と苦しみに晒されているのかよくわかっていなかった/わかりやすさのためにアホみたいな説明をするが、魂といっても「特製の魂」が入り込まないと、全身と魂はしっくりいきません、もともと自前の閉じ込められた魂で自分の全身をしっくりいかせるのは不可能です。
また、「特製の魂」が行き渡っていない身体の各所は、管理するOSが入っていないような状態なので、好き放題に悪霊に入り込まれます、もし悪霊なんてものが本当に存在すればという仮定ですが/それでこのところ、筋トレで身体をガチガチに固める人が多くなっています、筋肉でガチガチにしてしまえば、悪霊も聖霊も入らないからです(悪霊を購入しないかぎりは)、ただし明らかに無理をしているので、心身はコスト分だけ損耗していきます。

特製の魂が入らないかぎり、全身と振る舞いはガタガタだ、安心していい。

「安心していい」というのは奇妙な言い方だが、仕組み上それで「合っている」ので、何も慌てなくていいということだ、きっと何をどう努力して、何をどう勉強して、何をどう改善してみても、けっきょく自分の魂と全身がズレており、次第に精神的に破滅の予感がしてくるが、それで「合っている」のだ、ここに説明している仕組みのとおりに進行しているので、その恐怖感だけに煽られる必要はない/精神的なクラッシュが、けっきょく全身と魂の乖離から起こるのじゃないかというようなことは、故・河合隼雄も指摘している。
全身と魂が乖離して、ずっと「違う」と感じられる、しっくりこない自分が続き、その「違う」という感触(違和感)は年々大きくなっていくのだけれども、そのことは仕組み上解決されない、自身で「このことのためなら、なんだってやるわ」という体験を得るか、もしくはその体験を得て生きている人を「認める」かでしか、全身と魂の乖離は解決されない、つまり「特製の魂」が入り込むことでしか全身と魂はつながらないのだ、むしろそのようにして解決と破滅がはっきり示されているということを知るためにわれわれは生きているようなところがある。
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