☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
僕の迷惑より相手の地獄

は今、目黒区の、商店街と住宅街が半々になったところに住んでいる。
それで、夜中の二時や三時になっても、だいたい通りに酔っ払いが歩いているのだが、彼らの話し声がすさまじくデカいので驚く。
電話をしながら歩いている人も多いのだが、真夜中だというのに、まったく昼間と変わらない大きな声で話している。
たぶん、街の気配もヘッタクレも、本当にゼロなのだろう、今さらそれは非難する気にもなれないが、ただ誰にでも「そんなふうになってはいけない」ということ、および「そんな奴と友人になってはいけない」ということは申し立てておきたい。

まあ、ずいぶん以前に、防音の二重窓を入れたから、個人的にはいいんだけどね。
それにしても、とにかく文化的にも脳みそ的にも、すでに気配とか配慮とかいった感覚の能力をすでに完全な不能にしている人が少なくないのだ。
ありのまま言うと、深夜だから声のトーンを落としている、声をひそめている、という人のほうがはるかに少ない、ほとんどゼロなのではないかというありさまだ。
僕自身、夜中に街を歩くとき、ふと思い出して確かめてみたりするのだが、やはり真夜中で近隣に住居があるという状況では、どうしても声を張り立てる気にはならない、そこはたぶん本当にもう生きものとしての感覚が根こそぎ違うのだろうと思う、このことは現代においてもう引き返せないものの一つだ。

僕も迷惑を被るが、彼らだって地獄なのだと思う。

たぶん、気配とか配慮とか、あと文化とか、そういったものが不能になるよう育てられて、もう修正は利かないのだ、そういったことの自覚はたぶん誰の内にもうっすらとあるのだと思う(その地獄に比べたら僕の被る迷惑なんて些少なものだ)。
しゃべり方とか声の出し方とか、愛し方とか未来の見方とか、たぶん本当にわからないのだ、そしてそういったものはたぶん彼らにおいてはもう取り戻されまい、現代のわれわれはこういった感覚不能の事実を冷静に見つめてゆかねばならないのだと思う。

視点変えてこ | comments(0) |
最も多くの人を滅ぼすもの

たしは今、わたしの書斎に一人座して、何者にも答えないようにしよう、ブログなどというのは電子ツールでしかない。
われわれは、紙に書くということを忘れ、それによって人に話すということもどのようであったかを忘れてしまった。
そのことはつまり、いかなる場所においてもわれわれに一人で座すということを忘れさせた、われわれは何もかも「入力」しかできなくなった。
わたしがここに公開しているものは、ふつうの人間が決してやりはせぬ、究極のプライベートの公開だ、それもこの世にありとあらゆる赤の他人に向けて。

わたしは、一定の習慣によって形成された架空のような話しやすさの空間に与しない。
Aさん、Bさん、Cさん、……と笑顔で連なる座席の並びに、わたしは列しない、この世界に漠然とした「他人」が存在する――それに気を遣うのが「やり方」――というやり方を採らない。
わたしは、女性に花を贈るとしたら、わたしの世界に咲く花をしか贈らない、わたしは夜のうちすべての新聞紙を焼き捨てて、わたしの世界の酸素を吸うものだけをわたしの友人とする。
誰にでも本来、そのようにする権利があるのだ、その中でこそ人と人は出会えた、わたしのカレンダーは市販のそれとは存在が異なり、わたしのカレンダーは生命を持つのだ。

「一般的な世界」は世界ではない、「一般的なあなた」があなたではないように。

人はいつのまにか、常識を教え込まれ、常識の中を長く生かされ、やがて「常識がある」という実用から逸脱して「常識の共有が世界である」というとんでもない誤解に何十年も陥る/これが最も多くの人を滅ぼす。
どこまでいっても「世界」というのは、すべての「あなた」に対して謎のまま差し合いで存在する一対一の対象なのだが、それをみんなで常識的に共有できるものとすり替えてしまう、もちろんそのすり替えは可能だがそのときはあなたもあなたの世界も存在しない。
 

正しく見ないとな | comments(0) |
破裂寸前の男性と、パニック寸前の女性
ーティで女性陣から、「多くの男性が、少し踏み込んだだけで、"破裂"しそうなんです」「おっかないんです」という話を聴いた。
詳しい説明をここに書く気にはなれないが、とにかく「いわゆる"地雷"がたくさんあって」「いつ不機嫌になるかわからないんです」ということらしい。
僕はここ数年来、不機嫌になった記憶がないので、女性たちがいう「破裂寸前」の感覚はよくわからなかった、「そりゃあなたはそうでしょうよ」と言われる。
近頃は多くの男性が、コンプレックスか、それ以上の何かによって、皮のすぐ一枚下には「破裂寸前」を抱えているらしい、女性たちにとっては「とにかく危険すぎて」「距離を取るしかないの」ということだった。

一方、僕自身の感覚としては、近頃の女性は、皮のすぐ一枚下には「パニック寸前」を抱えているような気がする。
「このごろどうなの」と訊くだけで、何か情動が恐慌に向かう気配が起こったりする、同じことが男性においては「破裂寸前」の様子で起こるのかもしれない。
この状態で男女が、服をひんむいてイチャイチャしようというのは、むつかしいというよりはもう「重大なリスク」がある、と予感される。
かといって、若い男女が服をひんむいてイチャイチャしないわけにもいかないし……つまり皮の一枚下までグール化がせりあがっているのだが、それにしても誰だってまともに生きるしかないのだ。

「まあしゃあない、まともに生きよう」

われわれにとって最も重要な約束、「まあしゃあない」「まともに生きよう」、この約束が守られないかぎり、われわれには一ミリたりとも自己の問題に向き合う資格を許されない、それは破裂もパニックも節度において許されるわけがないからだ。
われわれは、失うべきでないものを失ったせいで、このグール化寸前の状態を引き受けるハメになっているわけだが、何が失われたのかなんて安易に追求しないほうがいい、「まともに生きよう」のほうがはるかに優先だ。
正しく見ないとな | comments(0) |
パーティ報告69(2)
回のパーティはなぜか特にごきげんで快適だった。
僕はアドバイス的な発想はやめてしまった、それは新しい関係のためでもある。
「関係」ということが話され、その話はみんなに心地よく、また単純に重要なこととして滲みていったふうだった。
「成り立っている関係というのは、見ているだけで気分のいいものじゃないか、そのみんな大好きなものが、枯渇しているってわけだ」と僕は話した。

昔話などをして、僕と友人がどういう「関係」だったか、僕と先輩が、僕と後輩が、僕と恋人が、どういう「関係」だったかを話した。
成り立っている関係というのは、見ているだけで気分のいいものだ。
僕が先輩にコキ使われるのは、そういう「関係」として、(大変ではあったけど)気分のいいものだったし、僕も後輩をコキ使うときには、そういう「関係」として気分のいいものでなくてはならない。
今多くの女性はきっと、女性という「立場」と「役割」を、「我慢」して引き受けているのだと思う、しかし「我慢」して家事を担当している奥さんは数ヶ月で旦那を投げ飛ばしたく思うだろう、それは当たり前のことだ。

「おいハイボールがねえわ」と僕が言うと、彼女は「あ、はい」と腰を浮かせた/戻ってきて彼女は、「このほうがずっと楽」と言った。

もし僕が、「ハイボール注文してくれない?」「あ、はい」「ありがとう」なんてやっていたら、必ず彼女を疲れさせただろう、そんな厚かましい「お願い」をするぐらいなら自分で立ち上がって注文しに行けばいいのだ。
「自分から"関係"を持ちかけていく、そういう仕手をする、得意なやり方を持つべきだ」と僕は話した、それぞれの納得と共に、「でもすごく勇気が要る」と彼女らは畏れて話していた。
そのほか | comments(0) |
パーティ報告69

「まとも」に生きていこう、ということを話した。
「かといって、今世間で言われている"まとも"をなぞろうとすると、われわれはブッ壊れて、まともではなくなってしまうので……」
「ありとあらゆる手段を駆使して、いろいろインチキをしてもいいから、われわれは"こころある"まともな生き方をしていこう」
「自分が生きていくのに、怨恨を残すのはイヤだもの」……まともに生きていこうねという繰り返しの話は、そのたび滲みとおるように受け取られた。

「環境、はヨソの誰かが影響する、この世界は陰謀に満ちているかもしれないし、放っておいてもイージス艦をコンテナ船にぶっつけるというようなヘマをやらかす、そんなもんはわれわれはどうしようもない」
「しかし、その環境の中でわれわれが何を発するか、それは完全に自分の責任なんだ、100%自分の責任として、われわれは自分の声を発し、自分の振る舞いを発している」
「この、100%自分の責任というのは、何かを背負わせようとしているのではなくて、一種の快楽なんだ、100%自分の責任ということがわかると、自動的に腹の全体にフツフツ湧き出るものがあるんだよ、これがスゲー便利なんだ」
「そもそもおれは、誰に対してもシンドイことなんか勧めないものな、おれは必ず楽なほう、解放のほうを勧めているよ、100%自分の責任ってことは、100%""自らに由る"ってことなんだ、それを字義通り"自由"というんだね」

ありとあらゆる手段を駆使して、「まとも」に生きていこう。

ある女性は、その翌日に就職面接があったのだが、面接を済ませてきて「案外悪い気分じゃなかった」「自分は一生身内でブツブツ文句を言いながら暮らしていくのだといつの間にか"思い込んで"いた」と連絡をくれた。
僕はヴェーダ哲学におけるウパニシャッドが説く梵我一如のことについて話したが、同時に「かといって、それでおれのブラッドボーンの腕前が上がるわけではないしな」とも話した、「まとも」という奥深い中庸が人間を一番健全に満たすのだと僕は思う。

そのほか | comments(0) |
全責任を自分だけが引き受けて立て
くパーティ行けよ!! と自分でも思うのだが(まだシャワーも浴びてねえ)まあ、まあ。
あなたが生きているのはあなたの責任だ。
おれが生きているのがすべておれの責任であることのように。
社会とかそんなの何のカンケーもあるか。

なんと言えばいいのか、習ったことは何の役にも立たない。
だから習わないほうがマシだ!!
ヨソで習ったことを自分と何かのあいだに挟み込んでいるだろ?
違う、全部自分だ、全部自分の責任、そうでなきゃまるであなたが存在していないふうじゃないか、そういうのは本当にいけない。

全部自分で引き受けたら、自分の内部にオーケストラホールが。

口癖は、「は? "わたし"以外に何があるのよ」だ、照らし合わせるな!!
あこがれの人、頼りになる先生、正しいメソッド、全部そのときは放り出せ、全責任を自分だけが引き受けて立て。九折
できるオンナだね | comments(0) |
「やさしさ」を実現する方法
や猫は、飼い主にいじめられるとすぐ神経症になる。
神経症になった犬や猫は、穏やかでなくなる。
穏やかでなくなった動物は、興奮していきりたったり、反転して自失状態になったりして、生産性を失う。
現代はそういう時代だと思う、お互いにいじめあって、お互いに生産性を失っている。

この時代において特に、「やさしさ」とは、相対的な「性質」ではなく、ただ独立してある「要素」だ。
この時代において特に、「やさしさ」とは、絶対的なバカが持つものだと思う、周りの状況がわかっていないバカが絶対的な「やさしさ」を振るう。
この時代に「やさしさ」をやろうというのは、「バカ」をやろうとすることとほとんど同義だ、だからこそそれは困難なことで、人は賢くはなれてもなかなかバカにはなれない。
しかし、「やさしさ」を実現する方法はこの現代にもあるということだ。

だから僕は、なるべく人の話を聴かない。

穏やかでなくなった人の話を聴いてどうするの、そこに生産性がありえないことはすでに脊椎動物のレベルで決定されている。
人の話なんか聴かなくても、この世界は消えない。
バカをやろうかあ | comments(0) |
外なる自由

当の「自由」ということについて話そう。
多くの人は、自分を自分という枠の中に押し込め、その内部においては自分の「自由」、つまり「わたしの勝手でしょ」と思っている。
でもそれは、言い方を変えれば、一歩外側の世界のすべては自分にとって「不自由」だと宣言しているのと同じだ。
本当の「自由」というのはそうじゃない、自分の一歩外側の世界を「自由」にする、そのときに起こる快楽と快適さについて僕は言いたい。

もちろん、それは「自分」の外側のことだから、身勝手は許されないのだ、身勝手をするとただのストレスと近所迷惑になる。
それでも「自由」というのは……つまり、外には風が吹き、樹木が芽吹いている、そのことにわれわれは非難を向けない、風が風であり樹木が樹木であることにわれわれは攻撃と制約を向けない。
つまり、われわれもそうして外側へ「自由」を創出するためには、われわれ自身が世界そのもの、自然そのものにならなくてはならない、われわれが風や樹木のようであったとき、われわれの「自由」に攻撃や制約は向けられない。
僕は自由の信奉者として、また自由の経験者として、言っておきたい、それはまったく快適で、すごい勢いで、かつ静かで穏やかなものだ。

風や樹木のように、自分の外側に世界を創れ。

われわれはこの「世界」を、当たり前に「風」が吹き、「樹木」が芽吹くものだと捉えている、なぜその中で「あなた」だけが「世界」でなく不自然な物体になってしまうのか?
自分の外側に世界を創れ、われわれは世界を生きているので、そこに「世界」があるならそれを不自然とは感じない、不自然に感じるならそこに「世界」がなく「我」だけがあるからだ。

できるオンナだね | comments(0) |
第69回Quali's Party[6月17日(土)]無事盛会!

6/19 Quali tweet> えっ? パーティが終わってからポスター制作を!? Pls entry.

joined: ひろみ、りさ、こりん、あきら、まなみ、まいこ、くおり
date:2017.06.17(Sat) in Harajuku

  キラキラ次回(7月15日[土])加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


おかげさまで無事盛会でした! 次回もよろしくお願いします。九折

宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!

そのほか | comments(0) |
グッドラックパーティ
ーティに来る人は、やれ東大卒の元テレビウーマンだったり、音大卒のエステティシャンだったり、慶応卒の帰国子女だったり、正看護師だったり現役の国立大生だったり、公務員だったりする。
つまり、言い方は悪いが、いわゆる「底辺」の性質がまったくない、これは単純にすばらしいことだ。
そして一方で、僕が知ったのは、これら本来「優秀」な人たちが、やはり「それだけでは納得して生きてゆけない」ということだった、そこに僕がでしゃばる余地があった。
「優秀」ということは、生きる上で「有利」ではある、けれども「有利」はイコール「獲得」ではない、ある女性は「このままじゃお先真っ暗なの、自分でもわかるのよ」と言った。

自分が生きる時間を、問答無用に「かけがえのない何か」にしたい、最近の僕の言い方で言うと、それは「いくら優秀で充実していても、代表作にならなきゃ意味がない」ということになる。
そういうことならそういうことで、真正面から向かうのも悪くないじゃないか、と僕は思っている、少なくとも僕自身がそこへ真正面から向かうことで、それを見物する人は自分のことへの参考にできるだろう。
僕は、出来のいいものを作りたいわけではないし、出来のいい人間になりたいわけでもない、ただまぎれもなく自分の生きた時間を得ていたいだけだ/こんなアホなことに正面から向かう奴は少ないので、僕がでしゃばる余地があったわけだ。
それら本当の意味で「成功」しないといけないわけだが、そうなるとつくづく、最重要で必要なのは「幸運」だということになる、幸運が全てを決するだろう。

幸運を与え合うのでなければ、友人ではいられない。

われわれがカミサマを見られるとしたら、それは幸運によってでしかありえないし、われわれは性欲でキスをしたいのではなく、幸運に口づけをしたいだけだ。
そして、どれだけ底辺性がゼロで、優秀さや美貌を持っていたとしても、かけがえのない時間へ至れる「幸運」が得られるかどうかは別だ、そこにやはり僕がでしゃばる余地があった(今月もよろしく)。
恋女のマインドね | comments(0) |
骨の髄まで震えてからのこと
放送で、NHKの特集「ニッポンの家族が非常事態!?」がやっていたので、その後半をチラリと観た。
内容は、申し訳ないが、この世のものとは思えないとんでもないアホの内容だと僕には思えた。
「オキシトシンホルモンを点鼻薬でブチこめば夫婦円満!」というような、ヤク中のススメとしか思えないようなヤケクソの内容だったから、さすがにそれがヤケクソな結論だというのは、製作者側もわかっていると思う。
もし人間が、精神や文化を持たない家畜の群れにすぎないのだとしたら、確かにオキシトシンをブチこんで解決ということでいいだろう、だがそれには人間の尊厳を根こそぎ破壊するというのが大前提だ。

僕はこれまで、いろんな人と暮らしてきたけれど、その中で「ストレスを覚える」なんて対象になったことがない。
今だって、誰のところに遊びに行ったって、帰り際には「えー」とおおげさに言って引き留めてもらえる、「もう少しいようか」と言うと「やった!」と言ってもらえる。
このことに関しては、「そんなに甘くないんだよ」と、さすがに僕にも自慢させてもらいたい、僕は自分の愛される・愛されないに容赦なく向き合ってきたのだから。
よもや多くの人が、実は「パパキャラ」と「ママキャラ」をやっているだけで、本当には何も成立していないなんて考えもしないだろう、そんなことは誰も考えなくていいが、もし「本当のことを」と望む人があれば、その人は本当のことを考えなくてはならない。

「砂糖を入れたら甘くなるって、人間はそんなものじゃないのよ」と友人は言った。

人間を、オキシトシンとかテストステロンとか、ホルモンデータで量ろうとする尊厳の侮辱が、逆に最大のストレスをかけあっている、これは「怨み」と「憎悪」を呼び、内在的に殺し合いの欲求を高めているだけなのだ。
人と人が向き合えば、オキシトシンが増える? それはそうかもしれない、だがそれは向き合って骨の髄まで震えてからのことだ。
恋女のマインドね | comments(0) |
あなたの「代表作」
「青春」はふつう、誰にとっても、自分が生きる上での「代表作」になる。
「代表作」になるべきだが、残念ながらそうはならない場合もある。
友人は、「代表作、と言われると、とてつもなく怖い、何かが怖い」と言った。
人間は、髪形をヘンテコにして、タトゥーを入れたり、ピアスを無数に空けたり、奇抜な服装をしたり、わけのわからん言行をしたりできるけれども、そんなことをいくらやってもそれらはその人の「代表作」にはならない。

「代表作」を問われることは、とても厳しいことで、それだけその人間のど真ん中を射抜く問いだ。
いくら「充実」ということを蓄積してみて、その写真を大量にアップロードしてみても、それらは決してその人の生きた「代表作」にはならない。
「代表作は?」と自分に問いかけて生きることは、とても厳しいが、とても有益なやり方だ、実はこの「代表作」に向かう人間とそうでない人間には大きな差異が生じる。
人間は、自分の生きる「代表作」に向かわない限り、ある機能のスイッチが入らないのだ、人間は己の「代表作」に向かわないかぎり根本のスイッチが入らないようにできている、このスイッチを入れずに努力することは初めから当人を徒労に苦しめる行為になる。

あなたの「代表作」が、あなたの歴史だ。

あなたはどんな時間を生きてきた? どんな情熱とどんな愛の時間があったか、そこにずばり代表作を提出できる人は幸いだ、たくみに弁解するなんて余計なことをせずに済む。
あなたがあなたの生きる時間の「代表作」に向き合ったとき、あなたの内で重大なスイッチが入る、このスイッチなしに人は何かをまともにするということはできないのだ。
 
恋女のマインドね | comments(0) |
「楽しいこと」は、「面白く」はない
極僕は、「楽しいこと」が好きじゃない。
なぜかというと、僕が「楽しい♪」となっていても、それを見ている他人からは何も面白くないだろうからだ。
楽しがっている人なんか見ていても、面白いはずがない、それよりは「明らかに危険ですが、噴火口のすぐ脇まで降りてみます」と冒険に踏み出している奴を見ているほうがずっと面白い。
何であれ、希望のあることにヒーヒー言っている人のほうが、見ていて面白いじゃないか、僕は自分が「楽しい」からといって、面白くない奴になりたくない。

同じ見ているなら、キツくてヤバそうな冒険に深入りしていく人間を見ているほうが面白い。
これはつまり、「楽しい」ということは実は「面白くない」ということなのだ、仲良しグループの他人が行った温泉旅行の話を聞かされても何も「面白く」はない。
だから僕は、「楽しいからみんなおいでよ」と勧誘するような、サークル活動のようなやり方はしたくないのだ、それよりは「この人面白いな」と、勧誘するのではなく"惹きつけて"いたい。
僕はよく、無精ひげプラス、洗っていない髪の毛がネトネトの状態で、死にそうな顔でみんなの前に出るが、そのとき別に軽蔑はされない、「相変わらずですね」と面白がってもらえる/おれが美容院めぐりに「楽しそう」だったらみんなガッカリだろ?

「楽しい」ということを、実はあなたはそれほどよろこばない。

もちろん「楽しい」ということは、それなりにうれしいのだが、本当にこころの底からよろこぶというほどのことではないのだ、「楽しい」ということは今日と明日の活力にはなりえても、明後日までの動機にはなりえない。
冒険のほうが見応えがある、そして女性は「楽しい」というだけの男性を、ありがたくは思うだろうが愛しはしないだろう。
恋女のマインドね | comments(0) |
「方針」を決めるというステキなこと

「方針」を決めるなんてことが、意外に推進力を持つし、人をすっきりさせて落ち着かせる力を持つ。
ただしこのとき、自分の方針を、自分限りで決めることはできない、われわれは一人で生きているのではないからだ。
たとえば消防士が消火活動をするとき、全員でホースの先端を持っていたって、水はいつまでたっても放出されない、それぞれが自分の持ち場を適切に選ぶことをしないと「全体」として機能しない。
われわれが生きている、この「全体」というものについて、自分はどういう持ち場を選択していくか、その感覚を鋭く持ち続ける必要がある。

現代のわれわれはどことなく、「自分のやりたいこと」を探すべきというふうに、教育されているというか、発想づけをされている。
だが実際には、そういう方法は不適切なのだ、全員が「自分のやりたいこと」をスタンドアローンで空想していたって全体が機能するわけがない。
自分が方針を定めるときには、他の人が、そして全体が、何をやっているか、何をやろうとしているか、それを知ることが大事になる、自分の方針を定めるには他の人の方針についてもよく知っておく必要がある。
人間にはそれぞれの個性があって、個性に合った持ち場を得るのが何よりいい、だがその「個性」というものは、実は「孤立」の中では発見されないものなのだ/「個性」は関係性の中で発見される。

友人が建築士になるなら、自分は造園士になればいい。

こうして定まるときの「方針」は、自分だけでふわふわと思い描いたものより、はるかに実感を伴い、推進力を持つのだ、友人が服を創るなら、あなたはセレクトショップの主になればいい。
あなたが「方針」を決めるというとき、それは同時に、あなたがどういう「関係」の中でどういうふうに「活躍」するかということが思い描かれるものでなくてはならない/僕はあなたとの関係において、あなたとは異なることをする、それはあなたとつながるためにだ。

視点変えてこ | comments(0) |
I am an art man.
らびれた街路樹に、わたしは悪い夢で見た血の結晶の名残を見る、だがそれはもう過ぎたことだ。
今は"OPEN"のレッドサイン……朱色のネオンサインだ、麦わら帽をかぶって派手にいくぜ。
わたしはありとあらゆる過去を持たない、ここは中目黒、押し入れの秘密(なんでも バレなきゃ 悪じゃない)。
わたしの知らない土曜日の夜、この街はすべて二十四時間の営業をする、すべてがフリイイイイイマーケットになるのだ。

I am an art man, アドレスを教えろ、われわれの現在地を。
I am an art man, 流線型の女体、鼠径部、寝転んだ肌に陰部はない。
I am an art man, 感性はない、繰り返す、感性はない……
I am an art man, すべては笑うために、真実に恥を掻かせろ。

東京十分、これ以上の街はない。

何しろ皇居、ヨコハマ、湘南の海までつながっている、横須賀の火薬、嵐の雲が丹沢の風に流されてゆく。
きみの茶色い艶々の髪、きみは感性がないからうつくしい、生きた眼球が罪のように夜を捉えている。
バカをやろうかあ | comments(0) |
愉快さの男

とえば、「♪は〜るばる、来たぜ、函館へ〜」という歌がある。
この歌を北島三郎が歌うと、なぜかわからないが、どうしようもない愉快さが起こる。
僕は演歌はまるで趣味ではないが、そんなことは関係なく、何か愉快にさせられて、「ああ、函館か」「男だなあ」という納得と敬いが起きる。
この、わけのわからない、きっと上等でさえない「愉快さ」は、男性特有のものだ、たぶん「楽しさ」で勝負したら、しょせん男は女にはかないっこないだろうから、僕は男なら愉快な人間でありたい。

たとえば、義理人情をもって、人にお中元やお歳暮を贈ることは女性にだってできる。
が、そういう義理人情やお中元やらお歳暮とかを、おっさんがやるのはなぜか「愉快」なのだ、この「愉快さ」だけはなぜか男性だけが特権的に持っている。
この「愉快さ」は、きっとペニスそのものによって起こっていて、つまり北島三郎が「ちょっとションベンしてくらぁ」と立ち上がるだけでそこに愉快さが生じるのは、男性がペニスを所有することに引き起こされているのだ/女性が同じことをやってもそこに愉快さは生じない。
学問でも、仕事でも、決闘でも、食餌でも、喫煙でも、最悪は戦争でも、何でもそうなのだが、男性はそれらを「愉快」にできるのだ、これは現代の男性が男らしく生きるために唯一の道かもしれない。

「楽しそうな男」は、どうしてもオカマにしかならない。

男というのは、愉快にメシを食い、愉快に酒を飲まねばならないのだ、それは女から遠ざかるということだよ、しかしきっと女から遠ざかってくれる男がいてくれることを女は本心では望んでいるだろう。
女性が一人で函館まで行ったら、「津軽海峡冬景色」になってしまうものな、女性はついに男性ほどのアホみたいな愉快さは持てないのだろう、男女それぞれに限界というものがあるものだ。

視点変えてこ | comments(0) |
NHKが報せる「非常事態」について
逃してしまったのだが、NHKスペシャルで二夜連続、「ニッポンの家族が非常事態!?」という特集を放映したそうだ。
二夜連続の、第1集が「わが子がキレる本当のワケ」で、第2集が「妻が夫にキレる本当のワケ」だそう、じゃあ何にせよ「キレまくりでヤバい」ということなのだろう。
NHKは以前にも、「ママたちが非常事態」という、キレる子供をどう子育てするかの特集を組んでいたので、つまりNHKは、日本の家庭と家族が「精神的に発狂スレスレだ」ということをしきりに報せていると言える。
予告編を見るかぎり、たぶん「人はキレるとき、脳波はこうなっています」というようなことをレポートするのだと思われるが、もちろんそんなことを知っても、常人は自分の脳波なんかコントロールできないから意味がない/まあ何にしても、後日オンデマンドで観てみようかと思っている。

僕は先日から友人に、こういう話をしている、「家族連れをよく見るだろ」「うん」「母親が子供にキツく言うところをよく見るだろ」「うん」「でも、父親が子供を叱っているところなんてほぼ見ないだろ」「あっ、そういえば」。
指摘されて友人は驚いていたのだが、まったくそのとおり、いつの間にかわれわれの風景には、「母親が子供にキツく言う」ことばかりがあって、「父が子を叱る」ということは消え失せたのだ、「このお飾りのような"お父さん"は何のためにいるの?」と言われても「稼ぎのためよ」としか答えられない状況がある。
妻が夫を頼りにして歩いているなんてシーンも見ないし、夫は子供を叱って教育するわけでもないので、平たくいえばもう日本の男性は金銭面以外には「要らない」といえる、この日本の男性の「要らない」感が今すさまじい濃度で蔓延している。
今日本の男性は、四方八方から「要らない」と言われているのだが、一方で課せられる労役量は増大する一途なのだ、このキツすぎて気の毒な「要らない」ものにどう同情したらいいのか、さすがに女性も操をささげて同情してやるわけにもいかないので、みんな困り果てたまま、状況の苛烈化だけが進んでいるのだった。

男性は道を探しているが、基本的に道はもうない。

冷静にならねばならないのだが、もう自慰とインポと、あとはホモになるか暴力団員になるかぐらいしか残されていない、たぶん今父親が子供を叱ろうとすれば子供は明確に「失笑」するだろう、そこで家族に失笑までされたらあとは本当に殺し合いになってしまう。
僕個人はまだ、幾人かの女性に「必要」と言ってもらえているが、これはきわめて例外的なことなのでサンプルにならない、ただ言いうるのは、或る特別な「愉快さ」についてはやはり男性しか作りえないということだ、それは例外的に男性の道になりうるかもしれない。
正しく見ないとな | comments(0) |
オバケや幽霊を見る人のパターン
「オバケや幽霊を見る」という人は、案外少なくなく、特に女性には思いのほか多い。
そして、この「オバケや幽霊を見る」という状態は、あまりよくない状態だ、この状態になるのはパターンがある。
「オバケや幽霊を見る」という人は、決まって、「あの世は信じているが、カミサマのことはよくわからない」という人だ、これはいわば「潜在的無神論者」の状態にあると言える。
なぜそんなことになるかというと、テレビで「カミサマ特集」はやらないのに、「心霊特集」はやるからだ、それで単純なわれわれは「あの世」だけを信じるようになり、カミサマのことは教わらずに育っていく(人間の信仰なんてそういう単純なものだ)。

これまで見てきた限り、「人間は死んだら終わり、無になる」という人は、「闇」を抱えるようにはなるけれど、オバケや幽霊は見ない、これは単純な無神論者だ。
そして、「あの世はあるし、カミサマもいる」という人、この人もオバケや幽霊は見ない、この人は「あの世」を人間のものではなくカミサマのものだと思っているからだ。
残る、オバケや幽霊を見る人は決まって、「あの世は信じているが、カミサマのことはよくわからない」という人だ、この人は潜在的には無神論者で、「あの世」を「死んだ人たちのもの」だと思っている。
ここで、これは宗教や宗派に関係のない話、どう考えても人間が「あの世」を創ったという話は虫が好すぎる、われわれはあの世の製作者たる人間を知らない、もし「あの世」があるならその製作者はカミサマと呼ぶしかないはずだろう。

カミサマの話を抜きにあの世の話だけ知るのは、柱なしに壁だけ建てるようなものだ。

真面目な話、これは順序が悪い、どう考えても柱を建ててから壁を建てるべきだ、しかし実際のところ、われわれは正統な宗教からカミサマの話をじっくり聞く機会などないのだから困ったものだ。
もし、「叡智に光るオバケ」が出てきたら、われわれはそれをオバケ呼ばわりはしないだろう、このことはつまり「オバケは叡智の反対」ということを示している、叡智に満ちたオバケなんかあってたまるか/だからトルストイやゲーテ、西田幾多郎、タゴール、ブレイク、イェーツ等、叡智の人たちはカミサマを否定しなかった、それはカミサマが「心霊」ではなく「叡智」に属する事象だからだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
カミサマを見ちゃった(夢の中だからいいだろ)

ミサマを見ちゃったぜ!! まあ夢の中だからかまわんだろう。
――ある日、青空は巨大で、わたしを畏怖させている、ところどころの薄雲が建築物めいて圧巻だった/わたしは友人らと戯れに空を見上げている。
地上にも仏像はあるのだ、しかし、見上げるところ遥かに霞んだ青空とも宇宙ともつかない向こうに、円陣を為して端座し、吾らを見下ろしている白い砂糖菓子のような何かがある/その横にはひとつ巨体の砂糖菓子もある。
「あれは本当にカミサマじゃないか」、それはありがたいというより、偉大すぎて"カッコよすぎ"て、吾らは震えあがる/しかもよく見れば砂糖菓子に見えるカミサマはそれだけじゃなく、実は巨大な青空の一面にひしめいている……

目覚めてわたしは夢うつつに大量の涙を流していた、わたしは同じような感触の夢をこれまでに見たことがあり、また夢でない似たような景色もきっとどこかで見たことがある。
おかしいな、僕は昨夜まで、PS4の「ブラッドボーン」をクリアして、ガスコイン神父を内蔵ブッコ抜き攻撃でメタメタに殺していたんだが……一日のバリエーションが利きすぎだろ!
夢の中で見るかぎり、カミサマに関する情報はいわゆる「マンダラ絵」の形状を取るのは間違いないようだ、確かによく見ると青空の一面に端座する砂糖菓子たちのマンダラ構造があった。
しかしカミサマの夢を見ようが、「ブラッドボーン」のウデマエはやりこみ勢とは比較にならず、動画を観てそのウデマエの違いに愕然とするのだった、なんでみんなそんな簡単にパリィ取れるんだよ、僕は割とヒイヒイ言いながらクリアしたんだがな。

カミサマは、なくては困るが、生活の役には立たん、遠すぎるから。

夢の中で見る限り、カミサマは超カッコイイものだったが、だからといっておれが暮らすのに直接役には立たんわな、何しろそれは遥かに遠すぎる、「遠すぎて役には立たん」と確かに思ったのだ/そもそもカミサマを役立てようという発想がどうかしている。
大昔からゲーム少年として育ってきた僕が、現代のゲームやりこみ勢に大きく後れを取っていることについて、「こんなことでいいのか」と忸怩たる思いがするのだった、人間が生きているというのはどちらかというとこっちだ。

バカをやろうかあ | comments(0) |
エネルギー量において差別せよ

間はみんな平等だ(ウソ)。
なぜウソかというと、人によってエネルギー量が違うからだ。
エネルギー量とはつまり、「精力」ではなく「精神」に到達した者が、無制限のエネルギーを獲得するというそれだが、その話はまあいいだろう。
エネルギー量において差別せよ、それはとてもナチュラルで、有効なことだ。

Google検索にエネルギーは要らないし、LINEでグループチャットをするときにエネルギーは要らない、その中で人々は「平等」に見える。
しかし生身ではそうではないのだ、真に見聞を深めるにはエネルギーが要るし、真に何かを発信するのにもエネルギーが要る、実は「差別ばっかり」がこの世の真実だ。
重要なことの一つ目は、あなたが膨大なエネルギーの持ち主になるべきだということだ、そうしたらあなたは有利に差別されるべき人になる。
重要なことの二つ目は、あなたよりはるかに膨大なエネルギーを持った誰かに出くわしたとき、あなたがどうするかだ、そのときあなたはなお「平等」を気取ろうとするか、それとも差別において見上げるか。

「平等」を成り立たせるためには、エネルギー量の最も低い人に合わせなくてはならない。

学問を修められるエネルギー量の男Aと、マンガしか読むことのできないエネルギー量の男Bとが、「平等」にやりとりしようとすると、AとBはマンガの話しかすることができなくなる/このことはまるで現代の縮図みたいだ。
実はまだ、BはAの「後塵を拝する」という手段があるのだが、そうするとAとBは「平等」でなくなる、さあどうするか/われわれは互いを尊重することと「平等」を取り繕うことを取り違えている。

できるオンナだね | comments(0) |
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