☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「パーティへの誘い その6」

なんやパーティ参加者の一人まなみさんが

宣伝コラム「パーティへの誘い その6」はこちらから!

を寄稿してくれたので読むこと。
若い人向けです。
読まない人はゴールデンウィークなしです。

九折
 

パーティ | comments(0) |
テキトーに作ってテキトーに生きろ
とんどの人はマジメに生きているが……
マジメということでごまかすのはやめろ、マジメだからって命がないことをごまかすな。
マジメの歴史は、お前の弱さの歴史だろう、ごまかすための歴史だったろう、お前にとってマジメになるということは、そのたびに死んでいくということだったろう。
お前にとって、マジメになるということは、そのたびハズレ男のほうを選ぶということだったろう、すべては自分をごまかすための大がかりな一人芝居だったじゃないか。

テキトーに作ってテキトーに生きろ、それでも命のある奴、魂のある奴は、そこに命と魂が成立してしまうから。
むしろテキトーに作ってテキトーに生きるほうが、ごまかしが利かない、マジメにやりましたというお涙頂戴が盛り込めないのでごまかしが利かない。
テキトーに作ってテキトーに生きろと、言われたとたん、イモ女のふりして立ち回りを考える反応は、親譲りのものかい? 環境のせいにするということで二重に防護が利いているな、まるでお前だけがブサイクなお前を見なくて済むというような不毛で有益な仕掛けだ。
テキトーに作ってテキトーに生きろ、愛するべきものを愛したのか? まるで八歳児のように自分は子供扱いされて過保護に構われるという前提に生きているようだが、愛するべきものを愛さなかった若い時間が、若さのすべてを代償に支払わされて、若いうちから若いふりをしなくてはならなくなった、今でもシメシメごまかしが利いているとお前だけが思い込んでいるが、そうじゃないんだ、誰も今さらお前のことなんか突っ込んで見ようとしないだけなんだ、それはお前の中に希望が絶対にないからだよ。

テキトーに作ってテキトーに生き、愛するべきものを愛するという、それだけ。

テキトーに作るのはいい、テキトーに生きるのもいい、何しろごまかしが利かない、命と魂と愛の有無が、一番露骨に出るからとてもいいんだ。
少々の不安を隠しながら、万全に見えていると、お前は思い込んでいるかもしれない、だがこちらから見たお前は万全に見えない、ただガッチガチに見える、それは成り立っているふりを偽装する、その偽装に成功しているのだと、お前だけが思い込んでいる姿だ。
できるオンナだね | comments(0) |
WS報告035(5)/自己決定と事実決定

回は、無数のことがありすぎて、また夕方まで大量に話しすぎて(二十四時間コース)(が、定番化しているという恐怖)、もう報告は不能なのだ、さすがにシャウト注入ビクンビクン事件まで報告していられない、一番笑ったネタを報告できないのは残念ではあるが……
たとえば僕は、理学療法士が触れても「なんだコイツ」とドン引きされるぐらい、肩こりをしない奴だが、仮に僕が肩こりをしたとしても、「わたしは肩こりをします」というのは誤りだ、なぜなら肩こりというのは「肩が」凝るのであって、オレが凝るわけではない、肩がバキバキになるのはわかるが、「オレがバキバキになる」というような意味不明のことは発生し得ない。
「おい、クイズだ。おれが、完全に肩こりをしないためにはどうしたらいいか、きみにわかるか」「えっと、全身をつなげて、コントロールを……」「そりゃそうだけどね、もっと簡単な方法がある。両肩を切除して焼却炉に放り込んでしまえばいい。そうしたらおれが肩こりをするのは不可能になる、何しろ肩がないんだからな」

「でね、仮にそうして、おれの身体から両肩を切除したとして、『おれ』は何か変わってしまうのか? 両肩を切り取ったらおれはおれでなくなってしまうのか」「そんなことはないですね」「そう、だから、おれが肩こりをするというのは誤りなんだ。理において誤っているんだよ。肩こりというのはあくまで肩がバキバキになるのであって、おれがバキバキになるのではない。肩はおれじゃねえ、肩は肩だ。おれがバキバキになったらそれは肩こりじゃなくて "おれこり" だよ」
「おれはさ、よく、自己決定が大事だと言うんだけれど、それは単純に、フィクションの自分を決定するってことなんだ、どうもこのあたりに誤解があるようなんだけどね/仮に、ノンフィクションの自分というものを認めたとして、そのノンフィクションの自分というのは、つまり "事実の自分" だろう? この事実の自分を、どうやって自分で決定できるはずがあるんだ、事実の自分は事実が決定するだろう、この世の中の "事実" なんてものを、誰がどうやって決定できるわけがあるか、たとえば水 100cc は 100g だろう、そんなものを誰が "よし 120g にしよう" なんて決定できるんだ、そんなわけない、事実を決定するのは事実であっておれじゃない」
「おれが言っている自己決定というのは、フィクションの自分を決定することなんだ、たとえば今日もおれは自分のことを、『おれはノリノリでイケイケの天才ブラボーマンだぜ〜』と言っているが、この言っている調子は、何かノンフィクションの事実について言っているように聞こえるかい、そんなわけないよな、おれの言っている調子は、たとえば『日本の国土の面積は○○平方キロメートルです』という話とはまったく違うものな、日本の国土面積なんていう事実をおれが決定できるわけがない、事実はただ事実が決定する、国土を増やしたければヨソから取ってきたという事実を得るしかない」
「おれが言っているのは、おれがノリノリでイケイケの天才ブラボーマンだぜということであって、それはいちいち事実を検索した結果として話していることじゃない、ただおれが自分について言っているだけだ/そしておれがいちいち事実を検索しないのは、おれにとって事実というのは何の興味の対象でもないからだ、今われわれには事実の身体があって、その事実の身体がフィクションの自分にとって "住み心地が悪い" から、そのリフォームをしているんだろ? そしてそういったリフォームについては、それなりに専門家が必要だろうという、ただそれだけのことでしかないんだ、そして住みよくリフォームするといっても、入居者がいないのじゃ誰にとって住みよいのか意味不明だろ、だから自己決定が必要だと言っているわけだ」

「自分の内側を決定する」のではなくて、「決定したものだけが自分の内側に入る」ということ。

「自己決定しない場合、内なる自分が自分をどうしようか、迷っている……のではなくて、 "空き家" なんだよ、容れ物・建物しかないんだ、そこに身体はあるが、身体があるだけで誰もいない、びっくりするけれど本当に誰もいないんだ、ここのところに根本的な勘違いがある/自己決定というのは、すでに存在している自分を何かの方向や状態に決定するということじゃないんだ、自己決定するまでは、自分なんてものは存在していないということなんだよ、それがさも "自分" がいるように言い張っているから、面倒くさくなるんだ、それでもせめて、この先に入居がありえるように、建物を一般的な意味でマシにリフォームしておくに、越したことはないのだけれど」
「本当はそこには誰もいなくて、空き家しかないということ、そのことに気づけないから、自己決定や自分ということを考えたとき、 "事実の自分" なんてものを、さも自分ですというふうに取り出してくるんだ、それで自己決定といっても、事実の自分は事実が決定するだけなので、色黒の細マッチョになってパーマをあてます、というような決定しかできないんだよ/フィクションの自分を決定するということ、おれなんかノリノリでイケイケの天才ブラボーマンだが、それはおれの話であって、容れ物の話じゃない、容れ物はなるべくおれにとって住みよいように、徹底的にリフォームするだけだ、まさにおれというような容れ物にするのがそのリフォームのゴールじゃないか」

ワークショップ | comments(0) |
WS報告035(4)/「悔い改める」というシンプルな方法
っこう大きな声で言った。
「みんながこれまでの、いろんなことを "悔(く)いて" いるのは知っているよ」
「同時に、みんなが何ひとつ、 "改めて" はいないということも知っているよ」
「 "悔い改める" といって、改めたらもう悔いは終わっているはずだからね、でもわかるよ、悔いるのはカンタンだけど、改めるというのはめっちゃむつかしいものな」

「世の中には、たとえばスープを飲むのに、ズズズッと啜って飲むのを、ずっとやめられないおじさんがいる」
「そんなの、生きているうちに、これまで何度も注意されたに決まっているんだ、でも "改まらない" んだよ、スープを飲むのに音を立てるなというような、単純なことであってもだ、それには理由がある」
「音を立てずにスープを飲むというのは、技術的にむつかしいことじゃない、ただズズズッとやるのがおじさんのスタイルなんだ、もっと奥にルーツがあるんだよ、だからおじさんはそれをやめられないんだ、どれだけその下品を悔いたって、それを改めることはできない/過去のどこかでアンチ・ブラボーに与(くみ)したんだ、今さらそれを、本当はブラボーでした、自分が誤っていましたなんて、改められないから、おじさんは生涯下品なスープを飲み続けるしかないんだ」
僕はふと、或る心当たりを指して、一人の女性に、「振り返ってみればさ、単純に、改めたぶんだけ救われて、改めたぶんだけ祝福されてきたでしょ?」と言った、彼女はひとしきりこれまでのことを思い出して、(そうです)、とうなずいていた。

何を悔いているかなんて訊いていない、何が改まったかを訊いている。

僕はなるべく最短の、なるべく有効な方法だけを採りたい、なぜ最短効率を選びたがるかというと、単に面倒くさいからだ、これまでのすべての体験を総合すると、「すべては努力ではなく祝福の有無で決定されている」と認めざるをえない、そして祝福を受けるためには当人がブラボーを言う必要があるが、誰だって過去にアンチ・ブラボーに与してきているので、それを悔いる……ではなく改めないかぎり、ブラボーを言わせてはもらえないのだ/だから「さっさと改める」→「取り戻されたブラボーを言い続ける」→「祝福を受ける」→「要る人になってオメデトウ」という、この最短が一番面倒くさくないし、たぶんこれ以外に方法なんかないのだ、そして僕は他に方法がないとわかっているのに回り道をするふりに付き合う気になれない冷淡な人間なのだった、まあそのへんは性格だからしゃーないだろう。
「自分のことだけじゃなくて、自分の見るすべての人がそうだよ、改めた量が取り戻されるブラボー量に比例し、ブラボーを言う量が受ける祝福量に比例する、そしてその祝福量だけがすべてを支配しまっせという、単純な原理をこれからずっと見続けることになるんだ/その中で、悔いた量なんて何にも反映されないんだよ、悔いる量が増大するのはあくまで改める前でしかないからさ、むしろ "改めないよう粘った量" がイコール悔いた量ってことだろうな、それを自慢されるのにはいささか飽きたんだよ」
ワークショップ | comments(0) |
WS報告035(3)/ブラボーコンフィデンス
絶対的な自信が要る。
相対的な自信なんて悪あがきにすぎないからだ。
絶対的な自信は「ブラボー」によってのみ得られる。
「ブラボー」を言い続けた者だけが祝福を受けられる、祝福なしに努力しても、得られるのは強化だけだ、変質は得られない。

変質は得られない、つまり、「要らない奴」が「要る奴」にはならない。
人は思念や努力によって変質はできない、変質をもたらすのは「祝福」だけだ、だからいつもブラボーを言っている奴にしか変質はもたらされない/そりゃこの世界にブラボーを言うことがない奴がこの世界から祝福を受けるわけがない。
絶対的な自信が必要で、絶対的な自信を得るためには、己の口がブラボーを言い続ける必要がある、このことを「ブラボーコンフィデンス」と呼んでいる。
いかなる努力より、「お前ってブラボー言わないよな」ということがすべてを支配している、いかなる謙遜や価値観、「いいね」や心酔、あるいは信仰でさえも、ブラボーのないところに祝福はなく、祝福のないところに、人はいつまでも「要らない奴」でありつづけ、自分が「要らない奴」のまま強化されていくことにやがては絶望するしかない。

「ブラボー負け」だけを注視しろ。

自分がブラボー負けしているのが視えたら、それだけで「あっ、アカンわ」ということを悟るだろう、なぜブラボーで負けて祝福を受けず、それを自分の思念や努力や鼻息なんかで挽回できると思ったのだ。
ブラボーの入口はどこにあるか? それはブラボー負けを注視して、ブラボー負けしていることに「ブラボー!!」と言うことだ、お前よりブラボーな奴がいるということはまさにブラボーだろう、まさか永遠に蛇の巣を探すのでないかぎりは。
ワークショップ | comments(0) |
WS報告035(2)/未来に向かっていない奴が、作品に向かえるわけがない
ークショップは、えぐい基礎を練り練りにやりこみつつ、やはり作品に向かうしかない、ニンジャコースはあくまでおまけだ(ただし重大な心身の鍛錬は詰め込まれている)。
「作品」ということがけっきょく、巨大な幸福とインパクトをもたらしているのだが、プレイヤーが全員作品に向かうとして、当人が未来に向かっていないのなら、そいつが作品に向かえるわけがない、作品なんてけっきょく未来に向かう奴の魂のエコー漏れでしかないのだから。
どうも作品を、編み物か何かの、趣味の一種だと捉えている人もあるのかもしれないが、そうした奴は口の中に9mmパラベラム弾が何発入るかを計測して、その計測の極点でマイクタイソンにアッパーカットで殴られろ、作品のすべては趣味なんてクソなものではなくて、作品というのは「世の中のすべてがどうでもいいです」という世界愛の堂々たる宣言でしかない。
人は未来に向かわなくてはならない、その「未来に向かう」というところを、誤って「世の中に向かう」というようなヘマをやるなよ、来世はアリジゴクに食われるアリになるぞ、あなたにとって大切なのは未来か世の中か? 後者を選ぶような奴は自分の奥歯を抜いて募金箱に放り込んでこい。

未来がなければ現在がない、そりゃそうだ、未来があるというのではなく未来しかないのだ、未来がない人は「期待」を持っているだろうが、期待といって何を「待って」いるのかは不明だ、そんなものにはカプサイシンコンタクトレンズでも目の中に入れてやればいい。
未来というものは、期待されるものではないし、未来はひたすら個人の所有物だ、未来の中に家族もヘッタクレもないだろ、未来のない人がプランを立ててひまつぶしするのは、まだ旅行に出ていない人がプランを立てるのと同じだ。
未来しかない、そして未来は己で拓いていくものなので、己で拓くということは、愛しかないだろう、よりによって「愛のない未来を拓こう」なんて選択するバカはいない、未来を得ているということは未だゴールデンウィークのことを知らないということだ/誰がどう冷静に考えても、必要なのは第一に愛であり、第二にゴールデンウィークだ、この第一と第二が逆転することはありえない、ただし超絶ブラック企業の新入社員を除く。
未来に向かうジェットがあって、その排気ガスぐらいは作品になるだろう、作品は立派なものじゃない、自分の作品を本棚に飾っているアホ作家はこの宇宙に存在しないだろう、人は未来に向かうのではなく未来に拘束されているのだ、自信の根拠をヨソに委託するから未来をヨソに打診しなくてはならなくなる、これまでそんなにアテになるヨソというのが経験的に存在したか?

未来に向かわない奴はもう「バケツ」以外はしゃべるな。

バケツバケツバケツと言い続けていろ、そうしたら「なるほど未来がないんだな」と一目瞭然にわかって整理がつきやすいじゃないか、どうしてあなたは未来を選ばずバケツを選ぶのか、バケツはこの世に必要なとっても便利なグッズだが、それはバケツが有用なのであってバケツマンたるあなたが有用なわけではない。
まともな人間は、未来以外のことは考えたことがないはずだ、未来以外のことに「考える」なんて機能ははたらきようがないからだ、すべての予定表は春の陽射しで焼却されたはずで、すべての問いかけマンは広辞苑の中に閉じ込められて禁固一兆年が課されたはずだ/未来に向かうということと作品は同義であって、あなたの邪魔をする人があなたの友人であったためしはない、黄金じゃないものを天秤にかけて量っているのは完全に行方不明で人生の無駄だ。
ワークショップ | comments(0) |
WS報告035(1)/根拠のない自信の根拠
ークショップはとても順調なのでそのことはもういい。
作品、命、魂に関わる営みを為すには、押しも押されもせぬ絶大な自信が必要だ、それは根拠のない自信となるが、自信に根拠を必要とする奴はもう根本的に自信がないので、自信には根拠がなくて当然だ、そして根拠のない自信でスベる奴はもう枕のそばがらをベアリングに入れ替えるぐらいしかすることがないのであきらめるしかない。
作品、命、魂だぞ、そんなもん、祝福を受けてなきゃ話になるかよ、もう一度言うが「祝福を受けてなきゃ話になるかよ」、それが冷静に考えるということだ、冷静に考えれば祝福を受けていない奴がやれ作品だの命だの魂だのとふざけたことができるわけがない。
絶大な自信がないということは、どういうことになるかというと、自信がないということはイコールためらいがあるということだ、ためらいのある奴が何をどうできるというのだ、祝福を受けているというのはシャレではないのだ、ヨソに自信を委託している奴が祝福なんか受けられるわけがないじゃないか。

根拠のない自信が、同時に祝福であるということの証拠は、一端として、さまざまなものを躊躇なく称えられる、賛嘆できる、ということに現れる。
これが問題なのだ、自信のない人は、イモっぽい感じにして謙遜的な自分に好感を稼ぐものだが、このイモっぽい奴はけっきょく死ぬまでもモゾモゾして、何かを躊躇なく称えたり賛嘆したりしないのだ、だからこそ何の祝福にもまみえられないということでもある。
人は弱くアホなもので、自分に無根拠の自信がないかぎり、何か他の者を称えたり賛嘆したりはできないのだ、他の何かを、依存や価値観によって熱烈に評価したり、それによって心酔したりすることはできるが、自分を取り外して「賛嘆」ということはできないのだ/自分をイモっぽく、自信のない形態にしている人は、オジサン受けはいいのだが、そのぶん何も真には賛嘆しないという代償を払っている(またその代償が取り返しのつかない材料だからまずい)。
根拠のない自信の持ち主は、正しくは、人に感謝しない奴で、人から感謝される奴だ、本人が人に感謝しているようではいけない、そんな一般の価値観や道徳観に当てはまるような安全圏にいて恵まれるわけがあるか、祝福といって祝福に感謝なんかしているヒマはなくて、すべて「おれの知ったことか」で進むしかない、絶大な自信の中にいろ、それはお前がヘトヘトになるためだ、根拠のない自信のホンモノとニセモノは、ホンモノは本人がヘトヘトになって周囲が感謝するための自信ということで区別される。

単純、自信が自尊心を超えるだけだ。

本当に、 High-confidence の只中で戦えるか? 何も置きに行かず、自分が感謝されるという事実までヘトヘトに突っ走れるのか、それに比べて謙遜などという立ち回りのなんと卑劣で安楽なことか/僕は自分自身、なぜ喉がちぎれないのかずっと不思議だ。
なぜかは知らないが、こと作品や命や魂ということになると、あちこちにカミナリを落とすことも増えるが、それはもう僕自身がずっとカミナリに打たれたまま挙動しているからだ、外部的にはわからないかもしれないが内部的にそうなのだ/こと作品や命や魂ということになると、自尊心とか「何それ」と、ゴミ箱に捨てる手間も惜しいぐらいのクソカスにしか思えない、自尊心なんて現象がこの世界にあるとは到底思えないのだ、こと作品だ命だ魂だと言っているときに、根拠のない自信について審議したり躊躇したりしているヒマがあるか? そりゃ脳みそによっほどカスが溜まっているんだ。
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ハイレベルで、要らないもの2
自身に、何の自信があるわけでもないが、この後に及んで僕が「自信がない」とか言う権利はもうなさそうだ、僕自身今のところアテにする奴の第一が僕だというヘンな状況になってしまっている。
十二歳の天才演歌少年がいたとする、あるいは十五歳の天才ダンス少女がいたとする、それらはどんなに見栄えがよくても、彼らがまずその年齢で愛を知っている見込みは薄い、だからただ上手なだけだ、その時点ではまず「要らない」が正しい/その年齢ならハイレベルなだけで「すげー」に尽きるのが当たり前だ。
ここにあるのは、少年少女の問題ではなく、シェアネタを探し回っている中途半端な大人の問題だ、シェアネタを探し回っている人たちは少年少女を気まぐれに検索して絶賛してシェアするが、当人たちにアイラブユーを言うわけではない、中途半端な大人たちは行き場のない下心を持て余しているだけだ。
結果、シェアネタとして融通の利くコンテンツ当事者が、まったく愛されないままチヤホヤされることになる、これは当人にとって陰惨な環境だ、チヤホヤされているから気分はいいはずなのに、こころの底には何か憤怒の怒号のような声が溜まっていくはずだ、それが人の魂の仕組みだ、こんな仕組みに少年少女が気づくはずがない。

天才演歌少年と、天才ダンス少女がいて、それぞれ閲覧数が百万で、いいねが二万ついていたとする、それは一般の人間が生涯に受ける称賛の数をはるかにしのいでいるだろう。
では、なぜこの少年と少女は、駅前で少し歌ったり踊ったりしないのだろう? 駅前で歌ったり踊ったりしたら、通りすがりの人々は足を止めて「ブラボー!!」となるのだろうか、僕はもう何年も東京でそんな光景を見たことがない/現実的に考えて、何の演出も足さないならば、大半の人は一瞥もくれずにただ通り過ぎるだけではないだろうか。
もしそこで、大半の人々が一瞥もくれずに通り過ぎていくのならば、やはりそれはただ上手なだけ、ただハイレベルなだけで、「要らない」ものなのだ/そりゃそんなもの要らなくて当然なのだが、それをさも成り立っているように賛美するシェアシステムは人々の心身を混乱させ、やがて荒廃させていくのではないだろうか。
天才演歌少年をコメント欄で絶賛した人は、その日から、「あいつの歌を聴いてから、おれの人生は変わった」というようなことがあるだろうか、天才ダンス少女のコンテンツをシェアした人は、「自分を表示することに臆さないことにしたの、あんな年下の女の子に負けていられないもの」と友人に宣言したりするだろうか、きっとそんなことは皆無だと思うが、ではネット上でついている膨大ないいね称賛とシェア件数はいったい何を意味しているのだ、このことはいいかげん見過ごしていたらみんなで揃って病気になってしまう/どこの街中をさがせば数万数十万の「いいね」が飛び交っている光景に出会えるのか。

ハイレベルで、要らないものを、何も愛したことがない人が称賛している。

もちろん、友人づきあいの中で、たわいもないシェア合戦、いいね合戦をすることには、何の罪もないし、害というような害はないだろう、けれども実際、「みんなをアッと言わせたい」「みんなから絶賛をあびたい」というとき、その「みんな」というのは現在、クラスメートであったり同僚であったり、後輩たちであったり先輩たちであったりするだろうか、すでに「みんな」というのはシェア権といいね権をもつクラウドのことを指していることが多くあるのではないか/またそれ以前に、クラスメートや同僚や先輩後輩は、すでに「みんな」という感覚では得られていないのではないか。
突き詰めて言ってしまえば、要らないものが高シェアを受けているということの背後には、「要らないものしかない人」の存在、つまり何かを愛するということをまったく持たない人たちの、ヒマを持て余している大群のタップ・クリックする浮いた指先が待ち受けているように思う、もちろんこれはマクロに発生していることへの疫学的な視点であって、個々のかわいらしいケースをなじるものではない/あまりにも多くのケースで、「ハイレベルだが要らないもの」が高シェアを受け、当事者は注目の壇上に立たされては、誰も愛していないという眼差しを向けられて、平然と切り刻まれて捨てられるということが起こっているように思う、「シェア勢」と呼んでよいと思うが、シェア勢はきっと愛にあふれて魂が震えている人たちではない。
正しく見ないとな | comments(0) |
ハイレベルで、要らないもの
「ハイレベルで、要らないもの」が増えている。
今は何もかもがハイレベルだ、子供のやるゲームでもそう、スポーツの各種もそう、歌やダンスだって、十六歳で目を疑うほどハイレベルな人が出現している。
だがハイレベルなものが必ずしも「要るもの」とは限らない、人はけっきょく魂・命の宿っていないものを「要る」とは感じない、たとえどれだけハイレベルでもだ。
ハイレベルだが、要らないというものが増えていて、それはもうあふれかえるぐらいあって、正直なところ「もうカンベンしてくれ」という気がしている、ハイレベルなのに空っぽというものに、若い世代ほどだまされるだろう、どうしてもそれは見栄えがいいから。

インターネット上でコメント・いいね・シェアの文化が一般的になった、テレビ番組が視聴率を気にするように、人々は今シェア数を気にしている。
そしてシェアのシステムは、SNS上で、友人というほどではない、単なる知人という枠にも拡がっている。
人は、自分の魂だと感じているものを、友人でもない単なる知人に、気軽にオープンしたりしない、誰が本当に愛したラブレターを単なる知り合いに公開するだろう/だから基本的に、シェア数を拡大しようとするとき、人は「自分の魂でないもの」をシェアする、つまり本当には要らないものしか人はシェアしない。
かといって、本当に単なるゴミではシェア数が稼げないので、どうなるかというと、「ハイレベルで、要らないもの」がシェア数を占めていくことになる、別にそのこと自体はどうでもよいことだが、魂のないものを賛嘆させられた人は己の魂も失って次第に恐慌に陥っていく。

すごいもの、かわいいもの、クソワロタものは、そんなにあなたに要らなかった。

別にあってもいいのだが、実はなくても別によかったのだ、それらがなくても「あなた」が命・魂として減ることはなかった、そういった要らないものが毎日あなたの周囲を取り巻いている。
そのこと自体は、別にかまわないのだ、ただいつのまにか、あなたは自分の「要るもの」にどうやったら触れられるのか、わからなくなった/あなたが先週シェアしたものに、今週のあなたは興味なんか持っていない。
正しく見ないとな | comments(0) |
僕の求めているもの "ではない" もの2
ぜこの話をしたかというと、一部の人には、思いがけず大きなショックと、それ以上の正しい情報をお伝えすることになると思ったからだ。
あくまで、僕の求めるところということに限定して、「スゴ業」というのは違うということ、「スゴ業なんか持ってはいけない」「そんなもの持ったら戻ってこられなくなる」というのが僕の唱えるところだと、はっきりお伝えしておく、このことが指針として大きな方向を示すことがあるから。
山ごもりなんかしちゃだめだし、自分を追い込んではだめだし、特訓なんかしてはだめだし、開眼なんかしてはだめなのだ、目を覚ますことは必要だが開眼などしてはいけない/僕が求めているのは「ふつうの目」であって、ただそのふつうの目以外のすべての目を閉じようと唱えているだけだ。
その道ひとすじ何十年の、プロ中のプロのスゴ業を見ると、誰でも「すごーい」と驚く、だが僕はそれについてはっきりと「ダメ」と申し上げておく、これは否定というよりも案内なのだ、この案内をしないとおそらく僕は話がまっすぐ伝わらない。

理法の果てと、スゴ業の極みは、表面上とても似たようなところにたどり着く。
だがそれは、似て非なるものであり、両者は実は対極にあるのだ、マイケルジャクソンは最もダンサー業に見えない人だし、ボブディランは最も歌手に見えない人だ/ボブディランなんかあらゆる音大で入試に落第するのじゃないか。
ボブディランなんか、スゴ業のかけらもなくて、何しろ「We are the world」のレコーディングで、「他人の作った歌だから唄い方がわからん」と、大真面目に困惑していたのだ、それで隣のライオネルリッチーに唄い方を指導されていたぐらいなのだ、あの簡単な歌が「唄えない」なんて音大生は一人もいないだろう。
プロ中のプロの、スゴ業は、本当にスゴイもので、それがなければ成り立たないものはいくらでもあるが、それにしても「ダメ」と、繰り返し申し上げておく、これは最奥ではっきりとした指針だ/誰でも生きていくのだから、スゴ業があってはいけないとは言わないが、スゴ業で救済されようとしてはダメだ、スゴ業は生きるすべ・生き残るすべであって、それ自体は人の愛ではないからだ。

愛犬にスゴ業を仕込んだら胸が痛む。

愛犬がスゴ業を持っている必要があるだろうか、愛犬はただ元気にごはんを食べて走り回ってくれていればそれだけでいいし、穴を掘りたきゃ掘ればいい、そのことにスゴ業なんか求めないし、スゴ業なんかあってもなくても愛犬に対する愛は変わらない、それは人への愛でも同じだ。
ただ、愛の問題、特に人への愛・自分への愛の問題はむつかしく、またその問題こそが魂の一番奥に突き刺さるので、人はこの単純なほうの問題を避けたがるのだ/その逃避のよって、スゴ業に向かって何十年も過ごしてしまうということはよくあり、だからその結果、スゴ業を持っている人の顔が悲しそうに曲がっていたり、根っこで手が付けられないほど気難しくこころがねじくれていたりする。
正しく見ないとな | comments(0) |
僕の求めているもの "ではない" もの

妙なことを言うようだが、きっと幾人かが、このことを聞いて得心がいくと思うので、あえて申し上げる。
たとえば先日テレヴィに、タケノコ掘りの名人が出ていた、地面のほんのわずかなふくらみも、足の裏の感覚でわかるそうだ、その人の感覚でしか見つけられないタケノコがたくさんあるという。
それは、まさに名人というやつだし、常人にはない特別な感覚、また特別な熟練ということだが、僕はこういったものを肯定しない/一般論として否定するのではなく、僕の求めるところにおいては「違う」ということになる。
あくまで、僕の求めるところという話に限定されるが、僕の求めるところにおいては、人はそういった名人になってはいけないし、そういった特別の感覚を持ってはいけない、特別な熟練をしてもいけない、常人離れした感覚というのは実際にあるのだろうが、僕が求めるところは究極的な「常人」なのだ、だから常人離れの方向へ行ってはならない。

世の中には、スゴ業を持った人がいるものだ、電卓を叩くのが超速かったり、見ただけでイノシシが通った獣道がわかったり、毎回同じ数の米粒を手に取れる寿司職人がいたりする。
それらはすべて、一朝一夕では身につかないものだし、シャレでは身につかないものばかりだ、つまり自分の生きるすべ・生き残るすべとしてその環境に触れていないと身につかない、つまみぐいでは身につかないし、何より遊びでは身につかないのだ。
それはいわゆるプロであり、プロ中のプロ、プロフェッショナルということになる、プロボクサーが試合で負けたら、単にスポーツに負けたでは済まない、廃業に追い込まれていくのだ、だからそこには生きる・生き残るというすさまじさがつきまとう、僕はこのすさまじさを否定する者だ/すさまじいということを否定するのではない、すさまじいからこそ否定している。
それは「生き残る」という機能の、秘匿からの解発であり、そのすさまじさは、人為を超えたところがあるものだ、それによって人は常人離れするし、しかもそれによって生きていくことができるようになる、だがまさに「常人離れしてしまうだろう」ということ、僕はそうして常人離れして生きていくことに、救済やよろこびがあるとは見つけられなかった者だ、僕は仮面ライダーになることは求めてはいないし肯定もしていない。

僕が求めているのは「スゴ業」ではなく「理法」だ。

極端な話、遺伝子組み換えによって、人間の嗅覚にドーベルマンの嗅覚を導入すればどうなるだろう、その人はすさまじい嗅覚を持つようになり、コカコーラやケンタッキーのスパイスをただちに解析し、家屋に入り込んだネズミを見つけ、場合によっては温泉さえ掘り当てるだろう、だが僕はその改造人間に尊厳を覚えないし、その人がその活躍によって魂を救済されるとも思えない。
僕だってワークショップであれこれ指導している立場にあるが、僕が与えようとしているのはスゴ業ではない、僕が見せているのはひたすら「本当に理法を追究したら身と接触と世界はどうなりうるか」という現象だけだ、だから僕の見せているものは理論上「誰にでもできる」し、僕自身すべてのことにおいて最も完全なシロウトだ/ただ、本当にそこまで厳密に「常人」でありつづけて、本当にそこまで徹底して「理法」を追究できるかという問題があるだけだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
準備しないということ、崩れているということ2

「崩れていろ」ということ、これが案外、僕のお伝えしたいこととして、潜在的に大きいかもしれない(余計なお世話だということは重々承知している)。
なんというか……「万全」の体勢を準備するだろ、そこから何かをしようとすると、もう体勢は崩れるから、「おっとっと」ということで、体勢の立て直しに戻る、そうして「万全」の体勢を準備しなおしたら、そこから何かをしようとして、するとまた体勢が崩れるので、という繰り返しを、いつまでもやってしまう。
もちろん、体勢を崩したときに、自分から出てくるブサイクなありさまは、黒歴史必定なのだが、そうではないのだ、それがあなたの現時点というか、現在のナマのあなたなので、そこから始めないと話にならないのだ、万全の体勢を整えたときに自分がそれなりのふつうの人に思えるのは完全な錯覚だ、一ミリでも動いたら大ポンコツの自分が出てくる、そっちが本当の現在の自分だ。
体勢を崩したときというのは、たとえば、引きこもりのおっさんがアイドル映像にのめりこみ、財産を切り崩して「推し」に入れ込み始め、彼女の名前を心中に絶叫してオナニーし始めたとき、完全に「崩れている」のだが、それは崩れてみれば中身の自分はそんな感じでしたあというだけで、崩れていないときの自分が本当の自分ではないのだ/絶叫してオナニーしているときにも世界愛がなければそれはもともと世界愛がない奴なのだ。

「こころ」というのは、全身の形および、その形に流れているもののことだ、両手をバンザイすればバンザイの「こころ」が生じるし、頭を抱えれば頭を抱えた「こころ」が生じる、そんなことは今すぐやってみれば誰でもわかる。
そして、この「こころ」というものが、「魂」とは別のものなのだ、むしろ反対のものだと捉えていい、人の身体は崩れることで「こころ」を生じさせるのだが、この「こころ」が生じたまま、同時に「魂」も得られるかという問題なのだ、これがリアルな意味でむつかしいところだ。
先ほどから言うように、「万全」の体勢をとると、「こころ」は静まるから、自分もいっぱしの、ふつうのレベルとして「魂」的なものあるんじゃないの? ヒューと思えるのだが、そこから両手を突きだしてピースサインをしてみると、たちまちピースサインの「こころ」が発生する、そうすると途端にバカになり、「魂」が失われるのだ/最近はそれで、自分の本当の低レベルぶりを見せたくないものだから、誰も自分を崩して「こころ」を生じさせるのを避けるようになってきた、確かにまあ、現状で思いっきり崩して「こころ」をぶっ放すと、近所迷惑にしかならないというレベルになってきてはいるが……
準備しないということ、「崩れていろ」というのはどういうことかというと、両手を突きだしてピースサインをし、舌を出して崩れきり、その「こころ」を生じさせたまま、「于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」という詩文の響きとその空間が聞こえないといけないということだ/勉強するときはまあ「万全の体勢」でもいいが、自分が何かするというとき、自分が魂のことをするというとき、その「万全の体勢」は役に立たない、崩れたまま、不安定で中途半端の体勢で、そのまま「こころ」ではなく聞こえているものについていけるようでないと、実際には魂のことはやれない。

黒歴史の底にしか黄金の歴史はない。

もちろん、ただの黒歴史になったら、その先の人生がキズありだし、近所迷惑にもなるから弁明の余地なしなのだが、それにしても黒歴史というのは、「魂の解放を甘くみていた」から生じるものだ、「そんなイージーに魂の解放が得られると思っていたのか」という、甘さへの懲罰として黒歴史が発生する。
とはいえ、この黒歴史のリスクに身を寄せず、盤石の体勢からリッパなアタシを保持しているのでは、絶対に何も得られないのだ、リッパなアタシを保持するために一切の崩れを切り捨てるだけだ、そうなるとたしかに黒歴史は回避できるが、無歴史になるな/崩れながらしか魂のことはやれないということ、イコール黒歴史の底にしか黄金の歴史はないということ、そのことを正面から見れば、自分に無理なことと、生きる上での本当のスリルというものが視えてくるだろう。

できるオンナだね | comments(0) |
準備しないということ、崩れているということ

のことをやるときは、準備しないほうがいい。
準備すると死ぬからだ、魂というのは基本的に変動しないので、「よーし」と思ったときにはもう魂は見失われてしまっている。
人は意識の生きものだから、基本的に「準備」が得意だ、そして「準備」に意識が向いたとき、全身は「ばっちり」のほうへ向かってしまっているので、本質からはもう外れてしまっている。
わかるだろうか、「ばっちり」がハズレなのだ、全身のバッチリ感に向かっているとき、人は何にも向かっていないのだ、これはとても気づきにくいが、成功へ準備したとき本質の電車はもう出発してしまったということを覚えておこう。

準備していないということは、「不安定で中途半端」ということだ、この不安定と中途半端を、「万全」に整えなおしたくなるのが人情というものだ。
だが魂というのは、観測不能の存在なので、魂が不安定とか中途半端ということはないのだ、あくまで観測可能な何かの実体・実感が「不安定」「中途半端」と感じられる、だからこの不安定と中途半端を気にしている時点で、自分の全身は魂を失っていると見ていい。
盤石の体勢からスタートするのと、中途半端の体勢からスタートするのとで、魂の差はないのだ、だからむしろ中途半端の体勢からスタートしたほうが、中途半端感を放棄するぶん魂にまっすぐアクセスできる。
もちろん、ずっと「中途半端感」を引きずっていたら同じだが……どういうことかわかるだろうか、体勢の「中途半端感」に邪魔されるのと同じ原理で、体勢の「ばっちり感」にも実は邪魔されているのだ、このことがわかれば、何をスタートするにしても、「スタートとかいうクソみたいなものはない」ということが前もってわかるようになっている。

準備しない、始めない、終わらない、振り返らない――「崩れていろ」。

魂の向きの問題だが、魂の向きはただ上下だけがあり、前後というものがないのだ、だから進行方向に向かって「よーし」とするとそれだけで魂は失われてしまう、そして何かを始めたつもりで、ひとしきり終わって「いやあ、○○だったねえ」と振り返るとき、それもすでに魂を失っている、魂には前後がないので、何かが始まるとか終わるとか、準備するとか振り返るとかがないのだ。
だから僕はここに、何かを書き始めるということはないし、何かを書き終わるということがない、準備もないし振り返りもない、体勢が中途半端でなかったことはないな、どっしりと盤石の体勢を整えてから書くことに成功したためしはないからだ。

できるオンナだね | comments(0) |
あなたが目標を達成する方法2

しあなたが、キモチワル〜イ人になりたければ、「指示待ち人間」になることだ。
そのときあなたは、「信号機の下で三回ジャンプしなさい」と指示されたら、「ハイ」と言って三回ジャンプするし、「信号機の下で三回ジャンプしなさい、これがルールです」と言われたら、「ハイ」と言って三回ジャンプする。
キモチワル〜イだろ? これが防衛システム「ペアレンツ」の挙動だ、つまり指示やルールを下賜する「親」「親分」から受けた指示だけで動き、親分の言ったルールにだけ頼り、自分では何も決定しないような奴なのだ、これが防衛システム由来のキモチワル〜イ人の性質だ。
防衛システム「ペアレンツ」の支配下にある人は、「ボクはペアレンツの指示とルールに従っているんだもんね、だからボクは正しいもんね〜」と、すべてをペアレンツに依存し、それによってペアレンツの威を借りて自分を大きく見せようとするのだ、うわダッサ/当人の魂は仁丹の粒のように小さいのだが、本人はそのサイズを欺瞞できてしまうので、そのまま三十路になり四十路になり、適当なタイミングで骨壺にインしてこの世から消え去るのだ。

それで、よくよく見るとこの問題はむつかしくて、実際のところ、誰も自前では「信号機の下で三回ジャンプする」というようなことは、実は発想しないということなのだ、もし自分でそんなことをチラッと考えたとしても、こころのどこかで「それって正しいかな、どうかな……」と、何かにお伺いを立てる挙動をする、そのお伺いを立てている先が防衛システム「ペアレンツ」だ。
もちろん馬鹿馬鹿しい話ではあるのだ、信号機の下で三回ジャンプするなんてことに「正しい」もヘッタクレもないのに、キモチワル〜イ人は、ずっと「自分が正しい」ということで内心で威張ってきているので、「正しい」と保証付きのことしかやれないのだ、ペアレンツに保証されると、「ユダヤ人は見つけ次第殺せ」ということにも「ハイ」だし、ペアレンツから保証が得られないと、自分の枕カバーの色さえ自分で決定できず、こころのどこかでずっとお伺いを立てているのだ(アホだ)。
先ほど「願望(動機)」のシステムについて述べたが、実はこの「願望(動機)」のシステムと、防衛システム「ペアレンツ」は、一対を為して機能しているのだ、それは願望(動機)といって、たとえば「通りすがりの女子中学生のおっぱいを触りたい」という願望(動機)だけで動かれてはたまらんからだ、それでペアレンツにお伺いを立てて、ペアレンツが「ダメです」と回答する、それで「そっか、じゃあ別の願望を当たろう」と動機は取り下げになる、こんなしょうもないシステムで人は動いている。
このように、願望(動機)だけで動こうとし、ペアレンツが「ダメ」といえば「はーい」と引き下がる、つまり「何の可能性もない幼児」というような状態で、少なからぬ人が生きているのだった、三十路になっても四十路になってもだ、だから実際に三十路四十路のおじさんは信号機の下で三回ジャンプしたりしていない、難しそうに偉そうな顔をしているけれど、中身は「可能性のない幼児」なのだ、申し訳ないがガチの真相としてそうだぜ。

願望があるのは、夢がないからだ。

ここのところを、合理的に、学門として区分する必要がある、「信号機の下で三回ジャンプするのがわたしの夢なんです」でいいのだ、そもそもあなたは、「○○がわたしの夢なんです」という言い方をこれまでに一度もしたことがないのじゃないか。
そして、同じ内容のことを、「○○がわたしの願望なんです」と言い換えてみる、そこで、「いや、そんな願望はないな」というとき、あなたは目標を達成できるルートの端緒に立っている、「信号機の下で三回ジャンプするのがわたしの願望なんです」というのは、さすがに脳味噌が損壊しているだろう、そんな「願望」はありえないものだ/願望なんてものは客観的には「イタい」だけだし、そこに「ペアレンツ」なんてさらにイタいだろう、そんなもんさっさと焼却炉に捨ててしまえ、僕にはあなたを笑わせたいなんて願望はないし、人を笑わせるのがステキなことかどうかとお伺いを立てるシステムなんてないのだ、すべては信号の下で三回ジャンプするのと同じだけの値打ちしかない。

できるオンナだね | comments(0) |
あなたが目標を達成する方法
前にも話したようなことだが、決定的なことを教えてしんぜよう。
あなたの目標は、「信号機の下で三回ジャンプする」ことだ、それがあなたの目標……するとどうだ、なんだか「できそう」な気がしてくるだろう、信号機の下で三回ジャンプ。
そりゃそうだ、「できそう」も何も、そりゃできるに決まっているからな、「そりゃできて当たり前ですよ」と思う、だが実はそういうことじゃない。
「できて当たり前」ということであれば、あなたがポストカードを作って友達に贈るのも、できるか・できないかでいえば、できて当たり前なのだ、でもなぜかそちらは急にむつかしく感じるだろう/つまりあなたは、自分が○○を「できる」という仕組みについて、本当はよく知らないのだ。

人の本当の仕組みは、「自己決定で動く」なのだ、この本当の仕組みを教えられていないので、あなたはずいぶん損をしている。
本当の仕組みを教えられていないので、あなたは代替に何を使っているかというと、「動機」のシステムを使っているのだ、だからあなたはいつも自分の「願望」を体内にガメこんでいて、それを切り出しては自分の「動機」にして、その「動機」に基づいて動こうとしている。
「信号機の下で三回ジャンプする」という目標が、あっさり、今日にでも達成できそうなのは、難度が低いからじゃない、そのことに「動機(願望)がない」からだ、動機(願望)がないので、人はただ自己決定するだけで、「信号機の下で三回ジャンプする」という目標に向けて行動し、ただちにそれを達成することができる。
あなたが人として、壊れ、損なわれるとどうなるか、それは、信号機の下で三回ジャンプするというときに、「えー、そんなこと、やっても意味ないし、そんなことに動機(願望)ないし」と感じるようになるのだ/こうしてあなたは、すべての目標が一切達成できない人になってしまう、それは自己決定のシステムを破壊され、動機(願望)のロボットになりなさいという教育に支配されたということだ。

「ポストカードを作る」という目標は達成できないが、「自作したポストカードを持って信号機の下で三回ジャンプする」なら達成できる。

とたんにアホみたいな目標になるのだが、これなら達成できるのだ、敏感な人なら自分の内部がすうっと軽くなることに気づくだろう、人はしょうもない自負心をゴリゴリの鉛10トンのように抱え込んでいるので、ポストカードを自作するだけで、もう猛烈にメラメラと、「アタシ!!」みたいなものが爆裂に噴出するのだ/そこで目標は「三回ジャンプすること」のほうだということにすり替えてやる、そうすると初めて、自分が自作のポストカードの「品質」に支配されていることに気づく(どうせたいした品質のものなんか作れやしないくせに)。
あなたは部屋で、くるっとターンして、ビタッと止まってみればいい、そんなことでさえ、カッコよくキレイにやりたいという、爆裂願望と動機がムンムンと湧いてくるのだ、だからくるっとターンしてビタッと止まって、「サイゼリヤ最強!」と言う、このことを目標にすればいい、目標は「サイゼリヤ最強!」だ、そうなると願望・動機の重みが身体から離れていく、この状態でないと人は自分の動作を自己決定できないし、自己決定できないと何も本質的に学ぶことはできないのだ、サイゼリヤ最強。
できるオンナだね | comments(0) |
どんなキモチ、どんな感情、どんな人
の中には色んな表現行動があって、よくキモチを込めてとか、感情をこめてとか言われる。
それが何も誤りではないだろうが、僕がグダグダ言うところは違う、人それぞれ色んなキモチ、色んな感情があるだろうが、そのキモチと感情をてんこもりに表出しても、それが「どんな人」かを表示することにはならない。
バレリーナが、「激しい感情」でぐるんぐるん回ったとしても、そこに「どんな人」がいるのかは視えてこない、「激しい感情」なのはわかるが、それなら「激しい感情」と壁に書いておいても意味は通じるだろう。
だから、「どんな人の激しい感情なんだよ?」ということが、ずっと僕の疑問なのだ、僕は目の前の人が「こういう奴」と、一目瞭然でわかるのが好きだ。

さあそれで、「どんな人」かを見せてみろ、ということになるのだが、これがよくよく考えるとわからない、「どんな人」であるかがどのようにしたら表示されるのか/そもそも、人それぞれは「どんな人」であるのか、実はちっともわからないのだ、だから立場や習慣やキャラづくりでニセモノの「人」を表示しようとする。
もとの造詣がよければ、衣裳と化粧で美人を作るのは簡単だろう、そしていつもニコニコしているのも、意識してそうすれば簡単なはずだ、そしていつもニコニコしている美人は人の好感をさそうだろうが、けっきょくそいつが「どんな人」なのかはわからない/それどころか、率直にいえば、たぶん「どんな人でもないんだろ」という気がする、あるいは気がするどころか確信がある。
人にやさしくするのは、意識してトレーニングすれば簡単だ、だがそれでその人は「やさしい人」なのか、そういう場合もあるだろうし、そうでない場合もあるだろう、僕はやさしくない人にやさしくされたいとは思わない、やさしくない人にやさしくされたらあとで支払いを請求されるじゃないか。
ヘイ、どんな人なんだ、そこで「そうですねえ」なんて考え込んでも無駄だよ、だってまだどういう人でもないんだから/ほとんどの人は、自分が「どんな人」にもならずに生きていくものだ、世の中にはいい人もいるし優秀な人もいる、だが忘れるな、いかなる外装条件もそれが「どんな人」であるかの定義にはならない。

空き箱に感情やキモチを詰めるな。

世の中には色んな表現行動があって、それだから色んな表現者が注目され、流行し、忘れ去られていく/なぜ忘れ去られていくかというと、空き箱に感情やキモチを詰めていただけだからだ、そこには「どんな人」もいなかったので、一時的な感情やキモチのブームが去ったあとにはすべてが消え去っていく。
最近はむしろ、そうした空き箱に詰め込んだ一時的なものこそが流行する風潮があるが、それは根本的な空き箱が、同じ空き箱たちの逃げ口になるからだ/お笑い芸人が楽屋にいくと、舞台とは違ってぽつーんと退屈そうな顔をしている、それは空き箱に流行のお笑い業を詰め込んであるだけで、そこにいるのは本当の「笑いの人」ではないからだ。
視点変えてこ | comments(0) |
No. 393 正しくてダサくない唯一の恋あいの方法

掲題のコラム、本サイトにアップしました。
 

 

No. 393 正しくてダサくない唯一の恋あいの方法

感想を決してもたないことだ。

 


よろしくお願いします。
九折

本サイトコラム | comments(0) |
No. 392 「女」という、ありもしない性別

掲題のコラム、本サイトにアップしました。
 

 

No. 392 「女」という、ありもしない性別

だから、「女」というのはコンテンツタグであって、性別ではないのだ。

 


よろしくお願いします。
九折

本サイトコラム | comments(0) |
GOOD TIRED
れるのは佳いことだ。
僕のように、エネルギーが有り余っている奴は、疲れるということが少なくて困る。
これだけ使い切っても、まだ使い切っていないのかと、自分で呆れる。
ようやく疲れがきた、なぜ疲れが来たのだろう、よい疲れだ、これは誰かが僕を愛してくれているからだな。

何もかも楽しすぎるというのも、問題があるわけか。
楽しすぎると、美のことを忘れてしまう。
かといって、楽しくないフリも苦手だし、どうしようもないのかもしれない。
書いていたら、また元気になってしまうな、僕には文学の才能がないのじゃないか、もっと疲れやすい奴でないと。

不幸は他人に押しつけよう。

疲れるということは、他人に不幸を押しつける権利が発生するということだ、すばらしいことだな、美そのものといっても過言じゃない。
なぜか僕は、生まれつき愛している人がいて、それが僕を支えてくれている、どこの誰かはわからなくてもだ、なぜこんなふうになっているのかは僕にもまったくわからない。
正しく見ないとな | comments(0) |
あなたの「人」としての時間が始まるとき
近、もう仕組みが視えてしまったので、語るのにあまり躊躇しなくなった。
ふつう人は、「動機」で動いているのだ、「動機」を持たずに動いている人はブッ壊れている、いい意味でも悪い意味でもだ。
あなたはきっと、どこかでそうした、「動機」とは無関係に動いている人を見るべきだし、またどこかでそうした、「動機」とは無関係で動いている人に、出会うべきでない。
なぜかというと、「動機」で動いていない人は、マジで愛で動いていたりするし、逆に、マジでナゾの悪霊みたいなもので動いていたりするからだ、どちらに出会うかはおおむね運で、ハズレに出会おうがアタリに出会おうが、あなたは大きな影響を受けてしまう。

たぶん、「動機」を持たずに動いている人は、見るからにもう気配がおかしい。
何しろ「動機」で動いていないのだから、その人を止める方法が根本的にないのだ、その実物に出会ってその現象を目撃することは、あなたに奥底の魂を自覚させるだろう/だがそれは、コントロールできない「動機以外のもの」に支配されるということでもあり、なかなか迫力のあることで、思われているより穏やかなものではない。
目の前の人が、まったく何の動機もなしに、あなたに口紅を買ってきて、勝手にあなたの唇に色を塗り始めるとき、あなたは生まれて初めて「人」に出会ったという感触を覚えるはずだ、それがうつくしいものであれ恐ろしいものであれ、そうして「人」がいたことはあなたに突き刺さるだろう。
だから何というか、あなたが佳い人に出会えますようにと、祈るしかない、あなたは生まれて初めて「人」に出会って、その日からあなたの「人」としての時間が始まる。

そのとき目の前の人は、動いているように見えず、ただ「当たり前」の何かに視える。

人にとって、人が「動く」「動いている」という感触は、あくまで動機から生じた挙動を、「動いた」「動いている」と感じるものだ、比べて動機なしに挙動しているものは、一般的な「動いている」という感触をもたらさない、そのときあなたは初めて何かの「世界」を視て、進むか引き返すかの岐路を問われる。
そのとき人は、しゃべっていないのに話していて、言っていないのに響いていて、聴いてないのに聞こえている、触れていないのに触れられている、知らないのに知っている/願わくばあなたが、佳い人に出会い、動機だけで動き続けるという、動物的な生から離れますように。
正しく見ないとな | comments(0) |
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