☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
この世界を「クソのカタマリ」に感じる原動力2

とえば臨床的に無毒とされる、食品ではない物質Aを、毎食200グラム食べさせられたとする。
すると、これは無毒なので無害だが、食べ物でもない物質を喰わされた口腹は、臓器として「侮辱」されたことになる。
臨床的に無毒であっても、「食事」でないものを食事させられた口腹は、その侮辱を忘れることはなく、この世界にいつか「報復」をもたらそうと怨みを持ち続ける。
脳みそに受験勉強を詰め込むのも同じだ、穴埋め式の知識は臨床的には無毒だが、「学門」でないものを学門させられた脳みそは、その侮辱を忘れず、この世界――クソのカタマリ――にいつか報復をもたらそうと怨みを持ち続ける。

たとえば「ズニョー!」という音声を、最大出力で発声させつづける、とにかく大きな声で、先ほどより大きな声で、ズニョー! ズニョー!! ズニョー!!! と繰り返し強化させる。
すると、それは言葉ではないし、人間の声でもないので、その口と喉は臓器として侮辱されたことになる、よってその先は、もう怨みのない音声を発することはなくなる。
こうして人間を、マシーン化することは可能だし、マシーン化した上でその性能を比較競争させることもできる、ただしマシーン化された臓器と血肉は「侮辱」を覚え「怨み」を持ち続けるという性質がある、この性質は消せない。
本人が怨むつもりはなくても、臓器および血肉のレベルにその怨みは所有されるので、怨みの所持を拒絶することはできない、その解消は、臓器および血肉に正しい営みが返納されるまでもたらされない。

作り笑顔をすれば、感情は楽しくなり、臓器と血肉は怨む。

「感情は楽しくなる」というのがミソだ、臓器および血肉の侮辱的強化をすると、強化の実感によって人の感情はそれをエンジョイすることができる、けれども臓器および血肉は営為でないものを突っ込まれているので、侮辱されている/この臓器と血肉に蓄積する侮辱と怨みにはなかなか気づけない、気づかないまま噴出してくるから当人も「わけがわからずそうなる」と感じる。
本来、健常者同士であれば、臓器や血肉の性能にはたいして差がないので、もともとは学門をよろこばない脳みそはないし、食事をよろこばない口腹はない、言葉や声をよろこばない口や喉はないし、笑うのをよろこばない顔や横隔膜はなく、そもそも動くのをよろこばない身体はないのだが、むしろ生きているうちの「強化」によってそれを怨むようになる/侮辱と怨みは決して消えず、また報復を為しても消えはしない、あくまで正しい営みが返納されたときのみ解消される。

正しく見ないとな | comments(0) |
この世界を「クソのカタマリ」に感じる原動力

夜から今朝にかけて考え事をしていた。
たいした内容ではなかったというか、ただのクイズだったので、「知恵袋」に投稿してみたところ、知恵のある人が瞬殺で回答してくれて、それだけで済んだので、僕が一晩考えたことには何の意味もなかった(それにしても投稿してから10分も経たず回答されるとは、どんなバックヤードになっているんだ、すさまじすぎるだろ)。
僕はこれまで、「知恵袋」に質問を投稿することなんてなかったし、未来永劫そんなものを利用することはないだろうと思っていたのだが、意外なことでその効能を知ってしまった、ああいったものが何のために存在しているのかよくわかった。
人は、不毛なことを考えることができるが、不毛なことを考えることで、たちまち人格的に死ぬのだ、それで不毛なことを考えるのに「代行」が必要になってくる、「知恵袋」は近いうちに人工知能に代替され、その効能をさらに向上するだろう。

不思議なことに、昨夜から今朝にかけて、その「考え事」をしているとき、この世界はまるでつまらないというか、すべてはクソのカタマリのように感じられた。
「考え事」の、その内容にかかわらず、それを「考えさせられる」ということによって、人はこの世に生きている意味を失うのだ、人は考え事を持っているとき、ミサイルが落ちてきて即死しても「なんとも思いません」という状態になる。
仮に、親が子に、また教師が生徒に向けて、その人格の虚無化を図るなら、常に厳しくクイズを出題し続けるのがいい/それは、本来は叡智を授かるための「理知」という機能に、何の栄養もないクイズを喰わせ続けるという行為だから、特に幼い子供ほど侮辱的にその機能の美を喪失していくだろう。
たとえるならばそれは、本来は食事をするために「噛む」という機能を具えている「口」に、絶え間なく雑巾を絞らせ続けるような行為だ、たしかに口で雑巾を絞ることは不可能ではないし、そのことは噛む力の強化にはなるかもしれないが、口は食事とはまったく関係ない営為をやらされるので、口は口であることを投げ出して腐敗する、それと同じように、脳が脳であることを投げ出して腐敗しているケースが世の中に多数ある。

「詰め込み式」の受験勉強は、本当の学力にならないという以前に、世界をクソのカタマリにする。

腕や足に錘りをつけて往復運動をさせられるのも同じだ、それはただ強化にはなるかもしれないが、営みとして何の栄養もないので世界をクソのカタマリにする、親が子に「この重いやつ持ち上がる?」ということを課し続ければ、子供の四肢は身体であることを投げ出して腐敗する(カチカチに強化はされる)。
この「臓器および血肉の侮辱的強化」が、この世界を「クソのカタマリ」にしている社会的原動力だ/少なからぬ人が、「勉強」や「ワーク」をしようとするとき、「がんばるぞ」と共にこの世界をクソのカタマリのように感じるというスイッチが入ると思うが、そのスイッチはこれまでに臓器と血肉を侮辱されてきたことに起因している、勉強をすればするほど、またワークをすればするほど、この世界がますますクソのカタマリのように感じられてくるはずだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
カミサマの誰かと会う準備をする
二月の風ふきすさぶ
西から東へ、高層から低層へ
ちぎれた氷の雲荒れ狂う
人々はコートを羽織り謹厳実直/クリスマスがやってくる

都会はビルヒルズの許に/街路樹の並びに
合意した人々はそれぞれ黄光に溶け合い
24から25へ過ぐるのを待つ/寒さに耐え笑いながら
生身に神話世界はいささかつらいねと笑いながら/カミサマの誰かと会う準備をする

誰も記憶によっては生きていない

誰が誰という記号もなく
人の世のためにカミサマがあるのではなく/カミサマの世のために人がある/神官などその混雑する出入口にすぎぬ
正しく見ないとな | comments(0) |
愛と食事、および「会話」と熱気の「そのとおり」
に文句はない(ここに帰ってくるのか……)。
文句はないというか、いろんな状況があって、といっても僕は僕の状況しかありえないわけだが、不満とか不平とかいうのは、どうやって持つものなのだろう?
未だにその持ち方そのものがわかっていない。
そりゃ僕は何もしていないのだから、不満も不平も持つわけがないか、生まれてこのかた何に文句を言えばいいのか、正直なところよくわかっていない。

「対話」でもすれば、不満とか不平とかが出てくるのかもしれないが、僕はあまり「対話」というのをすることがないので……(というか、その対話なるものの始まるきっかけもよくわからん、いつどこにそんなヒマがあるのか)
渋滞とか、遊兵とかが出る問題はわかる、それは「もったいないな」と思うので、それだけはどんどん改善なり解決なりされていったらいいと思うし、そのために知恵を出し合うことぐらいはある。
ああでも、そうか、僕としては不満でなくとも、誰しもせっかく頑張るからには、神話世界につながってみたいのだ、「そうそう」と多くの人が顔を上げてうなずくところが見えるかのようだ。
僕は女ではないし、ソロバン勘定も上手ではないし、すべてのことはみんなしてうまく回っていると思うので、神話世界への案内を僕がこころがけよう。

愛や食事の営みは、少なくとも神話世界へハズレではない。

問題は「会話」とかだな、これについては僕が考える必要があるだろう、会話の第一はさしあたり、自分の愚かさについての学門という形で切り出されてよい(我ながらスッキリした佳いideaだ)。
神話世界への接続というのは、実はそんなにむつかしくない、必要なのは努力ではなくて「そのとおり」という感覚だ、「そのとおり」が交わされる熱気の中に自然に神話世界への接続がある。
できるオンナだね | comments(0) |
秘密を得にいくということ
れて愛して、愛したことを忘れて、けれどもずっと覚えていて、囚われないように。
ひどいことの輝きを、唯一自分だけのものにして生きていたい。
名前さえ覚えてくれなかったあの人のことをずっと愛していたい。
名前を覚えていてくれたりしたら、そのときわたしは悲しみを知ってしまうから。

あの人の厳重なやさしさに、それでもなんとか触れないように、入念な侵入者のように。
大きさのないきれいな思い出を、あの人にふさわしく与えてあげたい。
このろくでもないことを、わたしはわたしだけに抱えてこの先の秘密を生きるのだ。
あの人が気づいて何かを言おうとしたら、そっと指先でその唇を制そう。

秘密を得にいくということは、この世に一人の存在となること。

あの人に最も大きな犯罪のひとつを、やらせてあげよう、誰にも負けない秘密が欲しかった。
この誰も知らない大きな渦に、わたしだけ乗って会いに行くのだ、でもその先で同じ企みをした1000人に出会うのも、なーんだと言いながらとても愉快なことに思うのだ。
 
恋女のマインドね | comments(0) |
梵動
るは動く
求むるは動かず
動けば届かず
動かざれば即もたらされむ

求むるは即得る也
求めて得ざるは動く必定、是漁る也
動かずは得るときのみ、得るとき人はよもや動かず
有限は動く必定、もたらされるは動かざる必定

信ずるは非我の能動、是求むる也

王動かず臣果報もたらす
梵我に差分なし、梵動かば我動かず、我が能動は梵動なりけり
視点変えてこ | comments(0) |
ゼロの術者(説明する)
明するって言っても、術なんだから説明はできないけどな。
つまり、誰でも愛は必要なわけだ。
僕は愛が得られない中から、自分をゼロにすることで、愛より上位の光に接触することを経て、愛を恵んでもらえるということを知った。
うーん、とても怪しい話だ、別におれが怪しいのじゃなくて世の中が怪しいのだ、世の中には怪しい人がたくさんいるのでおれが被害を受けているのだった(これでいちおう説明する気はあるのだと強弁しておきたい)。

つまり、誰だって、自分をゼロにして、ひとつのことに全身全霊になって、気づけばそれが償却になっていて、長いうちに次のステージに進んだというようなことが、必要なのだ、僕だけ「ヒサンだったけどなんとかなってバンザーイ」ということだけでは済まされない。
これまで、自分をゼロにすることは得意でやってきたが、今度はその逆転だ、誰かがゼロになろうとするとき、その傍で僕が∞の側を取り、相手がゼロ化しようとするときの具合のいい対象でいてやらねばならない。
自分が∞とか、そんなゴーマンなこと、本当にできるのかね……と急に気後れしてきたが、まあしゃあない、僕はありとあらゆる局面で「客」になるのがヘタだ、いっつも最底辺の人間としてバタバタしていないといけないという反応が身に染みついてしまっている。
いかにも苦手になりそうなことが眼前に見えているので、これは「ゼロの術者」として、意識的に取り組んでゆかねばならないのだった、ああファミレスで音を出して動画を見られる人たちぐらいの、あのド厚かましさが欲しいぜ(無理だ!)。

くそー、正直ドサンピンでいたい。

我ながら、不覚悟もいいところで、どうしたらいいかが見えてくるほど、うわーい逃げ出したーいという心情になってきた/だってオメー、この時代状況的にもよ、ますますむつかしいぜ、みんな口論スタンバイで生きているのにこんなこと成り立つのかよ。
まあしかし、おれならなんとかできるのか(と強引に自分を鼓舞)、日本人の持つ「無私」とか「無我の境地」って基本的にサムライの発想であって、それは殿様にコキ使われる側の能力だからな、殿様の発想じゃない、ここにきて「無我の境地を捨てる」というのはたしかに構造上のレベルアップではある/「無我の境地」をわざわざ自分で捨てるのかよ……キツすぎるだろ、ああもうプレステして寝ようかなという気がしてきた。
できるオンナだね | comments(0) |
ゼロの術者(説明しない)
十年前、僕は自分があまりに女の子にモテず、死にそうになって、それでもなんとかならないかという最後の理知で、「何もできないのか?」「いや、おれは女の子を、笑わせることはできるはずだ」と考えた。
モテるとかモテないとか、自分がどうこうの一切を取り去って、ただ「笑わせる」ということに殉じきったら、そのことは不可能じゃない、ただしそこにはコンマ1パーセントの不純物も混じってはダメだった、完全に百パーセント「笑わせる」だけの存在にならねばならなかった。
そのことを二十年間続けてきて、それはずっと正しいと信じてきたし、今でもなお正しくはあるのだが、どうやらある地点で「満了」したらしい、僕がいつぞや「おれからのサービスタイムは終わりだ」と言い出したことと、この満了の到来は連関している。
僕が二十年間、女の子を「笑わせる」ということに徹するという、一種の「鉄の掟」のような中にいたのは、正しいということ以上に、僕にとって何かの償却、要するにカルマの償却だったらしい、それが今になって新しい徳性の証を得て、つまりそのことの償却は済んだということが身に現れてきている、こんなことがありうるとはさすがに当時は思わなかった(今も驚いている)。

何か、少し寂しい気もするな、この二十年間、自分をゼロに消しきって女の子を笑わせることが、僕の持ちうる最大の光だったから。
……とはいえ、ウテが落ちたとは思うなよ、別にウデは落ちてないしますます上がっているわい、そういうことじゃなくて、その「女の子を笑わせる」ということが、おそらく僕自身への「解決」および「足し」にはもうならないだろうということ、もうこのことさえやってりゃオマエはマトモだよと言ってもらえるステージではなくなったらしい。
面白いな、と純粋に思っている、つまり二十年もかけて「女の子を笑わせる」という償却の積み重ねがあって、これがいつかの瞬間に満了して、僕は次のことの償却に向かわされたのだ、つまり僕はまた何か新しいことを本質的にやらされることになる(あのときのような覚悟が今も持てるのかね、持てなかったら僕の生はここでオワリだ)。
もちろん人間のカルマなんてゼロにできようがないので、どれだけ償却しても次から次だ、これから何をやらされるかということは、おおよそ見当がついているが、これからはこれまでのような悲愴感を背負わなくて済むらしい、ただ考え方をガラッと変えないといけないので、しばらく不慣れな感じがするな(詳しくは恥ずかしいのでヒ・ミ・ツ)。

確かに、女の子に笑ってもらって、愛を恵んでもらうという夢は叶った。

本当に夢が叶ったのだから、それなりに立派なことなのかもしれない、「荒れた家族の中で姉から暴力を受けて育ったファミコン少年」という典型的な陰キャからスタートして、ここまで女の子に慕ってもらえるようになったのは、到達度としてはレアなたぐいだろう、そういったあたりを再確認して、誰でもいいので美女および美少女はおれのことを褒めるように。←いつものクセ
二十年前、僕は唯一の可能性にすべてをかけてみようと――数学的に――思って、「最底辺」の自分を定義し、いつのまにかそこにある光を知って、気づけばすっかりお気に入りでごきげんで生きてきた、正直その最底辺のままで満足だったのだが/この先は「ゼロの逆転」というようなことを考えてゆかねばならない、ゼロの術者なんだから……このこともいつかずっと先に話せるときがくるのだろうか。
できるオンナだね | comments(0) |
「まともな人」になる魔法の文言
わゆる「まともな人」というのは、「相手の気持ちを考えずに、相手の事情も確認せずに、自分勝手を押し通そうとする人わたしすごくイヤ」と、感情的でなく断言できる人だ(いわばレベル2)。
次に、まとも以上の人、「尊敬できる人」というのは、「自分はいつ死んでもよくて、あの人さえ生きていてくれたらそれだけでいいの」と、感情的でなく断言できる人だ(いわばレベル3)、「わたしも死んだら死んだで困るんだけどさ」ぐらいはくっついてきていい。
さらに次、尊敬できる以上の人、「貴い人」というのは、「あの人がいないと、この世界は損」と、感情的でなく周囲に断言される人だ(いわばレベル4)。
逆に、いわゆる「まともでない人」というのは、「相手の気持ちを考えていない」「自分さえ助かればそれだけでいいんでしょ」「この世界のせいでわたしは損しているって思っているんでしょ?」と周囲に感情的にも断言されるような人だ(いわばレベル1)、これはガキのころはしょうがない、誰だってこのレベル1からスタートしている。

このそれぞれのレベルは、いわずもがな、前に述べた「妄想→こころ→世界→光」の四つのプロセスに引き当たっている、このプロセスはスキップすることができず、誰しも一つずつ乗り越えていかねばならない。
僕自身、十代のころには、「ナンパされるなんて、女性の側からしたら迷惑で当たり前なんだから、ナンパの成功ってお前が女をゲットするってことじゃないんだよ、女性の側に『気分は悪くなかった』と笑わせることが成功なんだよ、お前が女をゲットしたかどうかなんてどうでもいいんだ、女性がいい気分になって笑ってバイバイって去って行ったらそれで成功、気分を害させたらそれが失敗なんだよ、そこだけは絶対曲げるな」とよく話していた、これがせいぜい「まとも」といえるレベル2に相当するだろう。
そして二十代のころには、「もしおれが死んで、代わりに『いきものがかり』のヴォーカルがこの世にもう一人増えるっていうなら、おれはまったく何の躊躇もなく自殺するけどな」とよく話していた、もちろんこれらは感情的な発言ではなくて/だからせいぜいこれも、レベル3に相当する発言とみなせるだろう。
僕は誰だって、「まともな人」ならそれだけで十分だと思うし、その先は誰も口出しできるようなことではないので、誰しもレベル2の文言、「相手の気持ちを考えずに、相手の事情も確認せずに、自分勝手を押し通そうとする人わたしすごくイヤ」ということを断言してみたらいいと思う、ただしやるなら感情的でなくだ。

「まとも」になることは、「むつかしい」のじゃない、「つらい」んだ。

つまり、僕自身の経験で言えば、たとえば女の子は僕に接近されると「イヤ」なわけだ、それが相手の気持ちだという事実、これを受け止めるのが「つらい」ので、僕はレベル1に居続けようとする/ただそれだけのことだ、ただしそのままでいれば、僕は永遠に「まとも」になることはできない。
たとえば、僕が死んだらその代わりにマイケルジャクソンが蘇生するというなら、非常に残念だが、明らかに僕が自殺するほうがこの世界のためになる、それだってしみじみ思うと「つらい」わけだが、しょうがない、迷うようなことじゃないし、総合的にはスカッと笑えることだ/こうして人が成長するということは根本的に「つらい」ことだから、「まとも」になる文言だって、感情的でなく断言しようとすると、よくわからない「つらさ」に苦しめられるものだ、だがこの「つらさ」を「避けるもの」だと思い込んでいるなら、それはただの誤りだろう。
できるオンナだね | comments(0) |
妄想→こころ→世界→光[この手続きはスキップできない]

近「神話世界」の話をよくしている。
「神話世界」を、イメージとして追いかけるのは、まあ健全な趣味の範囲だが、正直なところを言えば僕自身は、しばしば神話世界に「襲われて」いる。
それが正しいのはわかるのだが、なんというか、反対側にままならない「事情」というのもたくさんあってだな、しょっちゅう「両極端すぎんだろ」ということに困らされている。
男女の出会いは神話世界のものでなくてはならず、そういうのって「あるよなあ〜」とつくづく思うのだが、実際にそれがすんなり成立するのはまれだ、なんの説明もできないが僕自身はいろいろとわかるようになってきた(説明しようとする根気が……まあな)。

「サンキューとノーサンキュー」の話もしたが、神話世界からの作用によって(うわぁうさんくさい)出会っている二人は、なぜかお互いに初めから「サンキュー」の関係になっており、それが通じ合っているので、あまり口に出してそのことは言われなくなる。
神話世界からの作用が、半分だけ届いている場合は、一方が一方に「あなたがいてくれてありがとう」という関係になっている、このことは初めのうちよく口に出して確認で言われる。
神話世界からの作用がない場合、二人はお互いに「好き?」「好き!」というような、人としての確認をしあう、けれども人心はいくらでも惑うので、これはやがて「わたしってあなたにとって何なの?」「お前こそおれとのことどう考えてんだよ」ということに変質する、仲直りしたら「好き?」「好き!」に戻るが、この行ったり来たりを繰り返す。
神話世界の反対には、虫の棲む闇の世界もあって、こちらは「ありがとう」もなければ、人として確認しあうということもしない、ただお互いが虫の騒ぐままに妄想を膨らませるだけだ、虫が妄想を産出しているのだから当たり前とも言えるが/「神話世界」などと言っているアホの大半はこちらの虫の棲む闇からの妄想にすぎない、自分で言うのもヘンだがふつうそんなもんだ。

1.ガキは妄想する→2.少年少女はこころを確かめ合う→3.大人は「いてくれてありがとう」と有限の生を知る→4.光は有限の生を忘れる。

この手続きを経ずに、いきなり光ぶってもムダだし、いきなり神話世界ぶってもムダだ、1〜3の手続きにおいて、膨張した妄想は「確かめ合ったもの」だけに削減され、その後はさらに「片側から知ったもの」に削減されるので、当人にはむしろ縮小と退歩に感じられる、だからガキはなかなか妄想を手放さない、一生そのままでいく人も多い。
A子さんはB君との恋愛関係を妄想して無敵でフフンと「ハッピー」だった、それが「嫌われているってことは、嫌われているってことだよw」と通告されるのは腹立たしく辛かった、その先さらに「腹立たしかったけれど、なんて愚かなことだろう、B君はわたしにやさしくしてくれたのに、わたしは自分のことしか考えずしかも逆恨みまでしていたんだわ」と自分の愚かさに気づいたときにはマジで死にたくなる、その絶望の際に「もうわたしのことなんかどうでもいい、けれどせめて、何かほんのわずかでも、まともなことをしてから死にたい」と誠実さを――自己の有限生と引き換えに――得る極薄のチャンスがある、そこで初めて小さな光が宿る(ことがある)/ただしこのとき、当人は自分を諦めきっているのに、周囲から見て「光がある」と見えるものだ、自分で自分用の光が見えるというほど都合良くはできていない、自分用の光は要らないと確信しているから、自身がすでに光を得ているのだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
サンキューとノーサンキューの狭間
者性、ということについて、まともなことを書こうと苦心している。
が、なんというか、無理デースという気がしてきたので、ひとまず諦めることにした。
他者性がないというのは、要するに、他人の「ノーサンキュー」を断じて認めないということに尽きるので、こんなもんどうしようもないのだ。
他人にノーサンキューと言われることが、「妥当」ではなく「不満」になるのだから、もうどうしようもない、ドラえもんでもやってきて世界征服でもしないかぎり解決しない、いや世界征服しても解決はしないだろう。

突き詰めるところ、他者性というのは、サンキューとノーサンキューの狭間に尽きる。
他人とサンキューの関係になれないのだ、そりゃ根本的に不誠実だからサンキューの関係にはなれっこないのだが、ノーサンキューグループの人は土台「誠実」ということを甘く見ているのだろう。
ノーサンキューグループの人はたいてい、自分が善意を押し付けたら、「善意」という威光によって他人にサンキューを強制できると思っているのだが、そうはいかないのだ、要を得ていない善意なんか誰だってノーサンキューだ。
欺瞞的、エセサンキューの中を生きたら、そりゃ報いがあるだろうというだけなのだが、まあそんな殺伐としたくはないし、何か本当にサンキューが交わされる中で死ねたらいいな。

サンキューの「タメニ」派、ノーサンキューの「ワタシ」派。

他者性、ということについて、まともなことを書こうと苦心していたのだが、ここにヒントがある、そうして自分には何の利益にもならんことに苦心したことがありますかという話。
僕がここに書き話すこと自体、誰かにとってサンキューになりうるかどうかが問題なのだ、他人にサンキューの関係を向けるのはそんなに簡単じゃない、誰か純喫茶のプリンでも食わせてくれ。
正しく見ないとな | comments(0) |
「ファンタジー」という誤った認識

崎駿というと、その作品は、特に初期〜中期にかけて、「冒険ファンタジー」がメインだと思われている。
が、あれらの作品が冒険「ファンタジー」に見えているのは、とても損だ、まあ社会的説明としては「冒険ファンタジー」というジャンルが当てはまるのだけれども、本質的にはそういうことではない。
「ファンタジー」という、つまり「幻想」だと見えているなら、もうそんな映画を観てもしゃあない、それは単にファンタジーテイストの娯楽でしかないので/といっても、そういう消費分も興行成績に入るから、それはそれであったほうがいいのではある。
宮崎駿が、いっそ露骨に描いているのは、子供は0歳〜十二歳ぐらいまでは神話世界の生きもので、そこから思春期を迎えて人間世界の生きものに変わっていくものだということ、その人間像を描き出す舞台が必然的に神話寄りになるというだけで、その本質においてはあれは「ファンタジー」という遊びではない。

本当に子供(およびその性質の継続している例外的な大人)には、トトロまがいのものと「接触」があるのだ、神話世界との接続が切れていないから。
「ポニョ」や「メイ(サツキの妹)」を見ているとわかるが、あれぐらい幼い子供なんか、もう神話世界と行ったり来たりで、人間として生きているかどうかまだ怪しいような存在だ/だいたい十歳ぐらいまでは完全に神話世界に属している、そこから第二次成長期が始まって、十二歳を過ぎたころから、人間世界の「男性」「女性」という存在に変わっていく。
だから宮崎駿が十二歳あたりの女の子をまるで恋人のように描くのは、わからない話ではない、その恋人は半分は神話世界につながったもので、同時に半ば人間の女性にもなりつつあるから、かそけし原理的な「恋人」の資格がある/これを成人女性とする色恋沙汰と同じに捉えたら、そりゃキモチワルイに決まっている、そこをまぜこぜに捉えるのは筋が悪い。
インドのガンジス川でも、十二歳までの子供の葬儀は、「まだ身体が穢れていない」ので、火葬せずそのまま川に流していいそうだ、十二歳までは神話世界のものということなのだろう/われわれは自分に見えないものはすぐ否定したがるが、果たして宮崎駿の描いているのは「ファンタジー」だろうか、ガンジス川に保たれている知識も「ファンタジー」だろうか。

だから十二歳までの子供に、化粧や洋服の飾り立てをすると、正体不明の不穏が感じられる。

それは、まだ神話世界に所属しているものに、恣意的に人間世界の事物をなすりつけているからだ、誰だってマリア像に勝手にマニキュアを塗ったらヤバイぐらいは知っているのだが/十二歳までの子供は神話世界のものであって、人間世界のおもちゃではない。
幼いうちから神話世界との接続を断たれて、人間世界の事物を押しつけられることがいかに「ダルい」か、そのことが「千と千尋」の冒頭にある「千尋」の様子で描かれている、彼女は神話世界との接続を恢復することでダルさに食い尽くされることを逃れ、「これが何であるか」のすべてを認めてゆけるようになった/神話世界が「ファンタジー」なわけない。

正しく見ないとな | comments(0) |
神話世界能力者の実際(えぇ……)
はおそらく、ごく幼いうちに、「神話世界」の話を、果てしなく求める時期があると思う。
今は合理主義によって、神話世界など「ありえん」と一刀両断に切り捨てられるが、僕の記憶において、特に十二歳ぐらいまでは、神話世界の話を猛烈に欲しがっているところがあるように思う/宿題なんかしててもしゃーない、というぐらいに。
それは絶対音感のようなものかもしれない、幼少時から正確な音階を聴いて育った子は、周波数そのものの感覚がわかるようになるが、これは大人になってからでは身につきにくい/かといって絶対音感にはほとんど使い道らしい使い道もないのだが(よく注目して言われるが、絶対音感の人なんて何も珍しくなくゴロゴロいる)。
とにかく、神話世界というのがナマであって、特に幼いころからの経験によっては、神話世界という概念を「理解する」のではなく、その存在を直覚できる感覚が育つのだ、絶対音感の人が何歳になってもAの音を見失わないように、神話世界を見られる人は何歳になってもその感覚を見失わない。

これは思いがけず、シンプルな話かもしれない、相対音感のわれわれにとっては「ポーン(ド)」「ポーン(レ)」「ポーン(ミ)」という三つの音は、「音の高さは違うけど、どれも『ポーン』だろ」と聞こえるのに対し、絶対音感の人は「いや明らかにそれぞれ意味が違うだろ」というような聞こえ方をする。
それと同じように、たとえば夜の海に月が出ていたとして、それが「きれい」だったとしても、正直僕にとってはそれは「きれいとか、そういうことじゃないし」と見えているのだ、何か絶対的なものにビタッとハマっている瞬間がある。
「神話世界」とか言い出すと、いかにも「完全にイタい人の話や!」と思われ、また僕も他人事なら間違いなくそう思うだろうが、一方で僕が、「あなたには神話世界の話とかしませんからご安心を」と言ってみると、それはそれで「待って待ってちょっと待って」という無邪気な反応が返ってきたりする。
「神話世界」か……僕がいてあなたがいて、僕がこうして何かを書いたり、話したりし、あなたがそれを読んだり聴いたりしている、そのことには現実的な価値もあるだろうけれど、正直それは僕にとってはダルいな、「これが何であるか」を認められるのはけっきょく神話世界からの連絡しかないと僕は思っている。

妄想は取り乱すが、神話世界は取り乱さない。

僕はオカルト系の人や、妄想癖をブチかましてくる人が苦手だ、そりゃ誰だって苦手に決まっているが/オカルトや妄想やインチキ神秘主義との差はそこにある、神話世界まで見えている奴が取り乱したりするわけがない、そこのところの見切りは冷淡で厳しくてよろしい(そもそも神話世界とか公言するだけで土台ヤバイことを忘れないように)。
思えば僕は、あらゆるシーンで、けっきょく「神話世界と今ここがどうつながっているか」というような話ばっかりして、またそのような光景ばかり追いかけてきたな、子供のころから、そこは何も変わらないままだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
何倍もラクになって、経験が何倍も得られてくる方法

は誰よりもシンドイことが苦手だ。
一方、冷静にリストアップしていくと、僕はいろんなことの経験が多い方に違いない、ふだんは自分でも忘れているが、リストアップすると明らかに多いのだ。
なぜシンドイことを避けるのに、経験は多くなっているのか、これはおかしい、本来は「シンドイことを避けたので経験は少なくなった」となるはず。
このことにはヒントがあるし、何より誰しも、自分がラクになることについては文句は言わないはずだ、今より何倍もラクになって経験が何倍も得られてくるのなら、そのことに文句をつける人は誰もあるまい。

これはつまり、神話世界に関係がある/前に言ったように、神話世界というものがもともとあって、そちらが根本、一方でわれわれが「現実」と呼んでいるものの正体は、二日酔い的物質をハァと吐き出したときにドスンとくる「ダルさ」、つまり「現実」イコール「ダルさ」にすぎない、ということだった。
勇士が女神のために戦いを駆け抜けていくのを、「ダルい」とは言わない、あるいは労役夫が泉の水を王城に運んでくるのも、神話世界においては「ダルい」とは言わない。
神話世界からの命を受けて、神話世界を現成するというメカニズムで動かないと、ダルいのだ、われわれの得意とする「現実」という認識で動こうとすると、それは初めから「ダルい」と決定済みになる/神話世界を否定した上に結論として得られるのは「ダルい」だけというのは、どこからどう見ても損な話だ。
僕は今、東京にいて、深夜の書斎で、この文章を書いている、この営みが「神話世界」の現成に何もつながっていないのだとしたら、そのときは猛烈に「ダルい」だろう、僕はそのダルさに一切抵抗できないダメ人間なので、いつからか神話世界の力ばかり頼って生きてきた。

あなたが僕を笑うのは現実的に正しいが、もし「神話世界」ならあなたが典型的なハズレ役だ。

まあ神話世界といっても、ふつうわれわれは、人の世の「創作物」としてそういう神話世界がイメージされたと捉えているものだ、それがその限りなら何も問題はないが、問題はもし神話世界が本当にあって、この現実世界こそが副産物だった場合だ、そちらが真実だった場合は単に「見誤った」ということになる/むろん、どちらが正なのか、われわれに断定する方法はない。
僕が一切の「ダルさ」を徹底的に苦手とするのは、友人らの証言を集めれば明らかだろう、問題はこの面倒くさがりがなぜ結果的に「経験」を多くしているかだ、僕は今このときも窓から流れてくる神話世界の風をアテにしている、それがなくては僕は何も書けなくなってしまう。

視点変えてこ | comments(0) |
彼には僕の八倍の能力がある
んな話は何の足しにもならないのでさっさとやめないといけない。
僕は、これまで何十年もそうしてきたように、自分が「最底辺」だということについては「わかる」、すごくよくわかるし、これからもそれでやっていこうと思える。
だが一方で、安直にいうと「イケてる」人たちについて、その服装や髪型や、独特の雰囲気や物の言い方、写真の写り方とかもそうだが、そっち側の人たちが実際にはどのような感覚・感性で生きているのかは、正直さっぱりわからないのだ。
何しろ、僕はこれまで歴然たる「最底辺」で生きてきたので、そんな「イケてる」の世界がどんなものなのかなんて、考える権利さえないと思ってきたのだ、だからひょっとしたらすごい誤解をしているのかもしれないし、あるいは誤解はなく、僕ではやはり想像もできないハイレベルな世界がそこにはあるのかもしれない。

僕は率直に言って、おしゃれな女の子がとても好きだし、おしゃれな男の人もとても好きだ。
ぱっと見、僕の四倍ぐらいカッコイイ男の人は、なんとなく、僕の八倍ぐらいの能力を持っているように見える、少なくとも、僕は内心で勝手にそう設定している(なんとなくそのほうがつじつまが合うので)。
僕の八倍の能力があるので、僕の八倍は色濃い経験をし、八倍はハートがあって、八倍は女にモテて経験があって、八倍は充実している、それで「うらやましいなあ」と勝手に思っている。
それがまさか、何か暗黙の約束があって、実は内心で無理をしているとか、実は疲れているとか、実は信頼しあっていないとか、実は経験がさほどないとか、そんなことは正直信じがたい、信じがたいけれども/ちょびっとはそういうこともあるのかもしれないともこのごろは思えてきた、まあなにぶん本当にわからないのだ。

陰キャの本音レポートはありえても、陽キャの本音レポートはありえないのかもしれない。

まあ、何をもって「本音」なんて言えないわけだし、勝手にそれこそ忖度するのは気色悪い話なのでしないが、とにかくカッコイイ人は僕の八倍の能力がないとつじつまが合わない、さっさとそうなってくれたら済む話なので、これはそもそも僕が考える話ではなさそうだった。
僕は陽キャのノリにはついていけそうにないが、かといって陰キャはさらに付き合いようがない、そのへんのキャラというのは僕には年齢的にわからないが、僕はただ能力と経験の実質差にけちょんけちょんにされるのが好きだ、自分が「うおおおお最底辺だああああ」と確認できる瞬間が一番好きだ/その意味で僕は、カッコイイ男に見た目差でけちょんけちょんにされるのも好きだ、万が一そこで彼の能力が僕の八倍ないと、僕がガッカリするし、何より全女性がガッカリするだろう、カッコイイ人にはがんばってもらわねばならないのだった。
視点変えてこ | comments(0) |
僕とイケメンが生きていく世界

う何十年も、変わらずに感じていることがある、それは「身分」だ/僕は今でもカワイイ女の子を見ると、僕などはお近づきになれない、「身分が違うぜ」と感じる、実際両者を並べると「これは身分が違うわ」という肯定の笑いが起こるだろう。
一方、ここ数年で、よくわからなくなったことがある、それもやはり「身分」についてなのだが/カワイイ女の子を見ていると、こういう女の子と並んで歩くのは、やはりイケメンというか、そういう「身分」のカッコイイ男だと思う、まるでテレビの中の人のようでないと釣り合わないだろうと感じる、今は目黒区に住んでいるから特にそう思うのだ。
しかしここに来て、よくわからんようになった、この時代の「イケてる」男の身分について/一つずつ点検していくと、たとえば服装やイヤホンで聴いている音楽がどうあれ、「リズム感」という能力を比べれば、僕のほうが上じゃないのかと疑われる、厳密なオンザビートを捉えるのは感覚能力であって雰囲気ではないから、表面上どうイキっているかは関係がない。
では「センス」というのはどうだろう、僕は実際に妙齢の女性に呼び出され、服のコーディネート一式購入を任されたことが何度もある、僕はお金持ちの女の子に「正直これまでで最高の買い物ができた」と言わしめたことがある、僕はそういうセンスを競って誇るタイプの人間ではないが、やるときは全身全霊でやる、「彼ら」は当然、僕などのレベルをはるか飛び越していないとつじつまが合わない。

学歴や知識は僕のほうが上かもしれないが、そんなことはダサいことなので要らない、じゃあ社会経験はというと、まあいちおう丸の内の総合商社というのは就職先として決して低いレベルものではなかったのだろう、当時はよくわかっていなかったが。
恋愛経験や女性経験はどうなのだろう? 「彼ら」はいかにも女をイワしているという様相で振る舞うが、その経験の質量が僕を上回っているのかどうかは改めて判然としない。
「陽キャ」「リア充」とざっくり言った場合、彼らは本当に僕より「陽気」なのか、また「充実」を得てきたのか、本当のところはよくわからない、グルメ歩きや「濃いメンツと飲んだ」と言っても、本当に僕より食い道楽をして大量の酒を飲んできたのかはよくわからない、自称「割とゲーマー」とか「酒オタク」とかが僕のやりようを上回ったことは、あくまで経験的にはゼロだと言える。
じゃあ身体的な美徳はどうかというと、僕がやった身体操作のワークショップのレベルで、「彼ら」ならやすやす指導者になれるのかというと、割とそうもいかないんじゃないかと思う、胴体の「流れ」を直接扱えている人なんて実際ほとんど見かけない/そんな感じで、直感的には僕も「彼ら」も、身分としては彼らが上で僕が下で合意する感じなのだが、本当のところはどうなっているのか、このごろ本当によくわからなくなってきたのだ。

断じて、イケメンの無能だけは許されない。

僕はもう長いこと、自分が低い身分にあることに慣れてきたし、正直その身分構造が好きなのだ/率直にいうと、僕は今もなお僕自身が「最低限のレベル」だと信じていて、見るからにカッコイイ奴は、ことごとくについて僕のはるか上にあると信じたがっている、僕が上級者気取りをすることなど、僕自身にとって一番夢がない世界だから。
まさかのまさか、「僕よりリズム感がない」とか、「僕より身体が動かない」とか、「僕よりコーディネートのセンスがない」とか、「僕と殴り合ったら負ける」とか、そんなことないよな? まさかそんなカッコイイふうで中身スカスカとかありえんよなと、僕は何十年もまるで疑わずにきたのだが、今になって疑い始めている、まさか僕より能力の低いイケメンなんていてはいけない、そんなことでは僕もイケメンも死んでしまう。

恋女のマインドね | comments(0) |
#ワタシ顔2
「私心を超えて、やってこられたなあ〜」という人は、気配にもわかるし、声にもわかるし、顔にも出ているからわかるものだ。
私心に取り憑かれてガンバってきた人は、どうしても「ワタシ顔」「ワタシ声」になる一方、私心を超えて取り憑かれたようにやってきた人は、どこかワッハッハと、「人間の顔」「人間の声」をしているものだ。
そういう顔や声のあらわれを、重視する人は、ただちに改善策を求めてくるが、それは改善に前向きというよりは、単に恐ろしいことから目を背けているだけなので……しょうがないじゃん、私心だけで生きてきたことの「顔」とか「声」って、急にそんなに取り去れないよ。
自分だって、オタクっぽい人は「オタクっぽーい、付き合えない〜」とか、頭の悪そうな人は「頭悪そう、付き合えない〜」と、即断して容赦がないのだから、自分だけ逃げ回るわけにはいかんわな、「私心を超えてやってきていない」という顔と声は、「それっぽ〜い」と、他人からはどうしてもあからさまに見えてしまう、とりあえずどうしたらいいかわからんので鼻くそをほじろう。

いちいち自分を卑下していてもしょうがないので、誰もそういう取り乱し方をするべきではない。
要は、一線を引くことだと思う、「おめめパッチリでかわいい〜」というのは、それはそれだ、しかし「私心を超えてやってきていない」という顔のあらわれは厳然と存在する(言い方が荘重で草不可避)。
そもそも、「私心を超えてやってきていない」という人が、「私心を超えてやってきていない」という自分のことにブチギレするのがおかしいのであって、感情的になるフェーズを明らかに間違っている、なぜ自分ごときに立派な「人間の顔」「人間の声」が宿っているはずと思えるのか/そんな立派な生き方なんか実際してきてないやん、それ相応の顔つきと声つきになっていて当たり前やん。
「それって難しいんですよ、だって」と、何か大急ぎで言われることも少なからずあるが、重要なことは明らかにその「難しいこと」を突破してこられた方が実際世の中にはいらっしゃるということであって、その難しさについて大急ぎ自説を唱えたところで「セーフ!!」にはならんだろ、なぜ自分を大前提イケてる側に所属していると主張するに立ち回るのか、それこそ私心がライブでボンバーしている有様じゃないのか。

目安、私心を超えてやってこられた方のほうが「わっはっは」と笑っており、そうでない人のほうが「大忙し」になる。

冷静に考えて、「私心を超えてやったこと、やり遂げたこと、愛したこと」みたいなものは、そんなカンタンに人の手に得られるものではないはずだ、ほとんどの場合は「私心まがい」ていどで、われわれは頑張っているだろう、そんなカンタンに光の記憶が手に入るかよ、どうもこのあたり急にくる「万人は平等なのです……ああキレイなワタシ……」みたいなナゾの爆発力が解けない/平等ったって、顔にも声にも明らかに違うものが現れているんだからしょうがないだろ。
ためしに自分でも「ワッハッハ」と言ってみたらいいし、誰か知人男性や男子大学生にも「ワッハッハ」と言わせてみたらいい、急に忙しいゴマカシネズミみたいになっちゃうじゃないか、#ワタシ顔 と #私心を超えてやってきた顔 とでは、そういう差があるということ、これはきわめてフェアなことのはずだ。
視点変えてこ | comments(0) |
#ワタシ顔
事も笑ってゆけるのがベストだとは思う。
が、なんというか、僕はどうしても、「ワタシ顔」というのが怖くてな……
代表的には、たとえば次々に新しいグラビアアイドルみたいな人たちが出てくるが、それらが多く「かわいい」と称賛を受けていても、僕には正直「怖い」と見えてしまう。
なんというか、そのカワイイ顔は、カワイイかもしれないが、満面「ワタシ顔」なのだ、この世界に「ワタシ」というものほど注目に値しないものは他にないと思うが、むしろその「ワタシ」にこだわりきってきました、という顔をしている、それがどうしても僕には「怖い」と見えてしまうのだった。

なんというか、その「ワタシ顔」を見ていると、「私心を捨ててやり遂げてきたこと」や「私心を超えて学んできたこと」、「私心が消えて何かを愛したこと」や「私心以上に思いやりに尽くしたこと」とかが、まったくなかったのではないかと思えてしまう。
だからなんというか、たとえばプードル犬と一緒に写真に映っていても、その写真には「ワタシ顔」があるだけで、「ああ、このワンちゃんが、とても大切なものなんだなあ」という顔(人間の顔)はそこに映っていないのだ、それでいくら「カワイイ」と言われても、僕にとっては「怖い」と感じられてしまう、率直に言って「大切なものなんかゼロです」という顔だ、表情が演出的なだけでその背後には何の人格もない。
自信を持って言えることだが、仮にそういうグラビアアイドルと僕が、三ヶ月間一緒に旅をしたとしても、彼女は僕のことを何か大切に思うことはゼロだろうし、最初から最後まで厳密に彼女は「ワタシ」だけが大切なはずだ、そう考えると素直に怖いじゃないか、いくらオッパイがデカかったとしても。
僕とワタシ顔の彼女のあいだに、「人間の顔」が交わされることはないだろう、彼女は永遠に「ワタシ顔」を続けるだろうし、その「ワタシ顔」の領地を広げてくれる人に純粋にくっついていくだろう、#ワタシ顔、というタグを付けるとわかりやすいか、僕にとってその「大切なものが何もない人の顔」は怖くてしょうがないのだった。

#ワタシ顔 #私心だけで生きてきました

「私心だけで生きてきました」というのは、現代ではむしろ流行としてカッコイイという扱いになるのかもしれない、が、僕は自分の身近にそんな人を置くのはイヤだ/この世界には僕が風邪をひいただけで「ええっ、大ピンチ!」と慌ててくれる人もあるのに、わざわざそこにある「人間の顔」を否定してワタシ顔の世界に称賛を送る必要はないように感じる。
「私心を超えて○○だった」ということが、一度もなしに来たら、必然的に「ワタシ顔」になるのであって、それはごまかしようがない、私心を超えて演劇を愛していない人は、舞台上でも「ワタシ顔」のアピールにしか興味がなく、どうガンバっても「ワタシ顔」は消えないはずだ、それをカワイイとカッコイイとかいうのは、僕にとっては笑えない恐怖に思える。
視点変えてこ | comments(0) |
最低限のシステム正常化

は学生時代、十九歳のときにフロイトの全集を読破した。
あなたが同じことに取り組むと、まあ一巻の中途で挫折するだろう。
あなたは「難しすぎてさ」と、その実感を笑い話にする、もしくは「挑戦しただけ偉い」と自慢話にする。
そのとき、「読破した人もいる」ということは完全に忘れ去られている、「うっかり」ではなく、作為的なシステムによって。

これは、取り返しのつかない「危険」な状態だと警告しておく。
非常に暗い人生を歩まされるリスクがある。
つまり、自分が誰かを尊敬するという負担をゼロにするシステムだ。
自分がすべての頂点にあり、「挑戦して、挫折したけども、そうして等身大のわたしを称賛しなさい」ということだけが頭に満ちるシステムだ、ヨソ(達成者)が称賛されると内心でブチギレする、ガマンしているだけで内心はそうなる。

【危険】自分が弱かった話には興味があり、他人が強かった話には興味がない。

まるで気が狂ったようにアンフェアなシステムなのだが、しょうがない、何しろ他人が強かったとしても、そのことにはワタシのホルモンが分泌されないのだから(同一視というようなヘンなことでもしないかぎりは)/ワタシホルモンだけを追跡する狂ったシステム。
同じ十九歳のとき、僕は日本拳法三段のFさんという人と乱取りをしていたが、そのローリングソバットの切れ味といえば、もう吐き気がするほど強かった、あれは僕が弱かったのではなく、Fさんが異常に強かったのである、「ウォーミングアップにジャンピング腕立て伏せ40回ってどういうことですかね……」と、僕は毎回道場でドン引きしていた/こうして他人の強さが目につくのが正常なシステムだ。

できるオンナだね | comments(0) |
自意識過剰と自家製ホルモン
分を大人のように振る舞わせ、実はその奥で、大人「キャラ」でしかないあなたへ、早々に引き返して反省とやりなおしを提案します。
あなたはしょせん、自分の興味が湧いたとき、自分の興味が他人の興味ではないということを見落とします――<<本当にはわかっていない>>ので。
あなたは、あなた自身の現在や、過去や、これからの未来に、強い関心があります、が、他人にとってそれが関心のポイントではないということが、どうしてもあなたにはわかりません。
自意識過剰ということではないのです、ただの幼稚なアホなのです、どうしてもひとつのことがわかっていない/あなたは自分が「興味ある」というホルモン状態になったとき、他人もそのことに「興味ある」のだと勝手に信じ込んでやまないのです、あなたはそういう妄想世界の中を生きています。

あなたは「自分のホルモンプッシャアアアア」という状態に負けます。
たとえばジャニーズタレントのA君とB君が、舞台上で拳をぶつけてアイコンタクトをした、それを見ていたあなたは自分のホルモンが「プッシャアアアア」となります、けれどもそれはあなた限りのことで、他のすべての人までホルモンプッシャアアアアになるわけではありません。
これまで自分が苦しんできたことや、うまくいかないこと、悩んでいること、恨みがましく嫉妬や僻みに満ちていることにも、あなたは思い出すと自分のホルモンがプッシャアアアアとなりますが、それもやはりあなた限りのことで、この宇宙がホルモンプッシャアアアアになるわけではありません、でもあなたにはそれがこの宇宙のすべてに思える。
結果あなたは、人に話しているのではなく、人を励ましているのでもなく、人に相談しているのでもなく、さらには告白をしているのでもなく、ただ自分のホルモンプッシャアアアアを、他人に「ぶっかけ」ているだけになります、少なからぬ人が、この幼稚さの第一関門を突破できないまま七十歳になります。

友人のよろこびと、友人の苦しみを、それぞれ三百個ずつ挙げなさい。

自分のことにだけ存分にホルモンプッシャアアアアとなり節操がなく、友人の美点や熱意について10どころか5つも「身に覚えがない」、それにより「退屈」と感じる自分について、恥を識りさない、あなたは自家生成する自分ホルモンでオナニーすることしか覚えていません、そのまま何十年も生きてきたら、そのままやがて何の成長もない七十歳になります、<<本当になります>>。
自分が勇気を出して五万円のコートを買ったら、その震えはわかるのに、友人が同じ五万円のコートを買ったときには、その震えはまったくわからない、わからないどころか関心もなければ発想自体がない、それではどう工夫しても中身はオナニーのバケモノです/あなたが気分良くあなたのワガママをしているのではなくて、あなたが邪悪さの食い物にされているのです、そのことはずっと先にすべてが終わってからでないと気づかせてもらえません。
正しく見ないとな | comments(0) |
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