☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
WS報告065(2)/アハムは時間の神
んまりヤバめのタイトルはつけたくないのだが、役立てるためにはしゃーない。
「アハム劇場のコーナー〜」と言って、このところは毎回アハム劇場をやっている、何をやっているかといって寸劇をやっているだけでしかない、舞台も衣裳も音響もライティングも演出もない平場の板の上での寸劇だ。
ただ、アハム劇場のコーナー〜といって、おれが寸劇を実演すると、毎回その場でテキトーに創ったネタでしかないにせよ、目の前で観た人が呆然とするだけだ、大笑いするときは大笑いするものを、そうでないときはそうでないものを、とにかく毎回魂を打たれているのはおれじゃない、いつも呆然としている各員のほうだ。
「アハムは出来事の中にある」と毎回言う、出来事とは何かといえば「ハッピー」だ、「happ-y」という語の成り立ちがそうなのだからしょうがない、ではアハムとは何かというと「わたし」だ、誰でも知っている「わたし」という現象、誰でも知っている "はず" の「わたし」という現象……それが "分配" されるから、フィクションのはずの寸劇がなぜか自分の「わたし」にも体験される、それでいつもみんな呆然とする、「わたし」が寸劇の作中世界を体験してしまうので、その時間は自分がワークショップにいることを忘れている(だから毎回、おれの実演はラストにしないといけない、でないとみんなワークうんぬんを全部忘れてしまう)。

アハムは「わたし」であり(ウパニシャッドにそう書いてあるのだからしゃーない)、その「わたし」は出来事の中にあるのだが、これは言うなれば、アハムは時間の神と捉えてもいいかもしれない、あくまで便宜上の捉え方だが/つまり、「わたし」という現象を、時間継続的に保持していると思い込んでいるほうが悪い、そっちの思い込み実感のほうが誤りなのだからどうしようもない。
 "時間継続的な保持していると思い込んでいる" ということは、つまり「記憶」ということだが、どうして記憶を根拠に「わたし」を認識しているのか、そのことのほうがどう見ても誤っている、なぜなら記憶をたどるかぎり誰だって「わたし」の出どころはわからないからだ、何年の何月何日の何時に「わたし」が始まりましたなんて記憶を持っている人は世界に一人もいない。
それはつまり、「わたし」という現象が記憶と異なる領分にあるということなのだが、それでも一般には記憶の中に「わたし」を認めようとする、それはなぜかというと、「記憶」というのは生きものの装置だからだ、「先週このキノコを食ったら腹を壊した」ということを記憶しておくと今週生きるのに有利だから、生きものの都合(つまり利己的遺伝子の事情)によって記憶という機能は具えられている/それは生きものの機能であって「わたし」ではない。
だからこそ、そんなもん、「生きる」という機能を一時的にオフにして(別にワークショップ中に死なねーよ)、誰が誰というような記憶もオフにして、つまり時間の経過すべてを無かったことにして、そこに生じる出来事ハッピーをもとに「わたし」が現れればいい、このアハムに拮抗阻害しているのは「記憶」であり「時間」だ、五秒前のことが現在のことに関係していると思っているのだろう、時間軸上で関係があるのはすべて「生きる」という都合においてのみであって、五分前にメシを食ったら現在はまだ空腹でないということにすぎない、そんなもん「わたし」という現象には何の関係もない、「わたし」という現象は時間軸と無関係に存在しており、事象前も事象後も関係なしにずっと不変のまま存在している。

地平線をどけたら太陽が「出現」するように見えるだけだ。

別に太陽がパンパカパーンと出現しているわけではなくて、地平線が太陽を隠しているだけだ、太陽は地球よりずっと前からある、それと同じように、時間と記憶をどけたらアハムが「出現」するように見えるだけだ、当たり前だがアハムは時間をどけた向こう側にいる。
じゃあなぜ時間がどけられないかというと、自己愛があるせいだが、この自己愛がどこから出て来ているかというと、生きものの都合なのだ、生きものは自己遺伝子とその子孫が大事で、それ以外はどうでもいいというのが遺伝子の本音だ、この本音は太陽がブチギレてフレアバーストでも起こせばすべて黒焦げのご破算になるし、そうでなくても百万年もたてば自分の遺伝子やら子孫なんかはもう残っていないのだが、にも関わらずこの自己愛が終わりのときまでずっと自分を支配し続けることになる、なぜそんなことになるかというと、本能うんぬんではなくただ自分が何も「求めない」からだ、「求」めないからずっと「欲」の言いなりになっている。
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WS報告065(1)/王、および貴族について
週は特に「王」をやった。
王の特徴は、第一に「自分が言い張ることでしか成立しない」ということにある。
別に王にかぎらず、政治制度が拘束力を持つのは二代目からであって、初代はどんな政治制度も「言い張る」しかない、なぜなら王であれ議会であれ、それを承認する機関がまだないからだ、よって政治制度の初代はすべて追認に依存する「でっちあげ」にならざるをえない、このことがわかっていない人はすべての社会科・歴史を学ぶ意味がない。
そして王の特徴は、第二に、「出世する先がない」ということだ、王は「言い張る」ことからいきなり王になるのであり、王になったらその先はもう出世がないのだ、王には上位がない、そして王が辞めたら王国が消えてしまうので、王国あるかぎり王は王をやめることもできない/だから王というのは、身分が上がることもないし下がることもないのだ、もはや「何かになることがない」ということ、ずっと王でありつづけ、それ以外のものには理論上なりようがないというのが "王" の性質だ。

第三の特徴は、王国においては、あらゆる人・物・生物・分子・原子・素粒子のひとつにおいてまで、すべてが王のために存在するということだ。
王は王国の唯一主体・主権であるから、王国と王そのものは「合一」である、つまり王国に吹く風は王そのものであり、堅牢な建物、荒れる河、狼の遠吠え、ゆきかう自動車の喧噪であれすべてが「王」だ、王国の隅々に到るまで「わたし」でない箇所はどこにもない。
よって、王国において王は、王であると同時に「王国のすべて」そのものであり、王は王国において何かになることはできない、勝ったり負けたりさえできない、王国において主体・主格・主人公はひとつしか存在していないのだから、わたしとわたしが戦って勝ったり負けたりはできない、王はそのように王国そのものと合一するということだから、そこまで完璧に王は「何かになることがない」ということになる(それが視えていなければ王ではない)。
具体的にワークショップでは、「王」と、そうではない「庶民モード!」を区別して実演するが、庶民は常に何かになろうとする、出世しようとしたり勝利者になろうとしたりする、王にはそうした「何かになろうとする」という現象じたいが成り立たない、すると「王」の世界においては、具体的にまったく一般には未知の現象が起こってくる、「ななな、なんじゃこれ」「え? あ? は? なんで?」と、周囲も笑わせながら、何もされていないのに地面にへたりこんだりする。

劣等な人は庶民であり、優等な人も庶民である。

「王」と「庶民」では、レベルではなく所属する現象そのものが違うので、いかに優等な人でも庶民モードからは逃れられないのだ、だから優等な人もずっと意味のないマウント合戦をしている、そのまま死んでいくだけになってしまう、王に帰属できない人はいかなる優等も劣等も無意味なマウント合戦にのみすべての生を費やすしかできないことを看破せねばならない、その看破は生における最大の恐怖である。
現代、あまりに多くの人が、優等さの蓄積で自分が貴族たりえようと目論見、見当違いの、それだけに憐れさの募る庶民ぶりを白日に晒している、どれだけ意識を高調させて取り繕っても、内実を突き詰めれば自分は「無様」なはずだ、庶民モードの謎も解けていないのに、自分の無様さがなるべく覆い隠されるように必死に取り繕っている/すべては無駄なことだ、王への帰属無しに貴族が成り立つことは言葉の定義からしてありえない(社会科の先生に聞け)、賊なる庶民モードがマウント合戦の不毛と泥濘から逃れるすべを持つことは決してない、「王」という現象の権威に直撃されてゲラゲラ笑ってへたりこんでいるのが唯一貴族の入口だ。
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これから知っておくべき「想像を絶するキモさ」について4
たしが話すことを、余所事にもアテにして、こころのうちに保管する人は幸いです。
せいぜい、「誰だかは知らないが、これほどまでに言うには、何かしら確信と根拠があるのだろう、ここまであまりにも数多くの記事を書いていることだし」と、常識の許す範囲でこのことを保管する人は、それだけで十分に幸いです。
何が幸いであるかというと、来たるべき危難と災いを避けられるということにおいて幸いであり、またそれ以上に、わたしが話すことをアテにする人は、そのことによって、わたしが今話している災いと、例外的に直面せずに済むからです、それはあたかも、火災を警告された者がアテにして家を建てた場合、難燃性の財が使われたことにより火災そのものが遠のくがごとくです。
わたしが今話すことを、余所事にもアテにして、いざというときには取り出せるかもしれないよう保管する人は、そのことじたいによって守護を受けます、「想像を絶するキモさ」があなたの目の前では鳴りを潜め、出現しないどころか遠のいていくということです、ただし油断は禁物です、わたしが話したことを完全に忘れて自我の振る舞いのみを誇ったとき、あなたはただちに逆襲を受けるでしょう、そうならないためにわたしが話したことを余所事にもアテにする人は幸いです。

すでに繰り返し知られていることがあるので、そのことについても言っておきます。
わたしが連れていくところは、一軒の居酒屋であってもまるで天国のように楽しいですが、しばしばこのことは、人によって自分の徳性だと誤解されます、誤解というよりはそのように信じたがるという傲りがあるのです、けれどもわたしが連れていったところは、あなたが連れていってくれたところではありません、このことを濫すとただちに、「想像を絶するキモさ」たちが四方から侵略してきて、あなたをこれでもかと、わかりやすいぐらいの不運と災いで攻撃するでしょう、このパターンはあまりにも繰り返されてきましたし、ときにはそのダメージで復旧不能になることもあるので、もうこの轍を踏んではなりません。
つまり、わたしの警句をアテにした人は、そんな警句など必要ないような緑野を行けるのです、けれどもなおも、その警句を軽んじてはいけません、警句を軽んじたとたん、その緑野はとつぜん暗鬱の泥濘に変わるでしょう、人々の身の内から「想像を絶するキモさ」が噴き出してきて、その目があなたの魂を射貫いて汚損してしまいます、偉大なるおれさまの庇護から離れたらあなたなんてそんなものです、こんなことのリスクを軽々に負担する必要はありません。
たいていそうした庇護というのは、「庇護なんか要らなくない?」と見えるほどの人に降り注いでいるのです、それは庇護が降り注いでいるから庇護が要らないほどビューティフルに見えるというだけです、豊かな水量の川がうつくしいのは堤防に守られているからであり、川の水が家屋の床下を侵すときにはその水は真っ黒なのです、治安部隊は役にも立たず威張っているだけに見えますが、その部隊が届かない森に行くとゲリラに襲われるのです。

「想像を絶するキモさ」について、わたしの言うことをアテにした人は、このことから遠ざかり、アテにしなかった人は、このことに侵されるでしょう。

ですから、こころの端っこでよいわけですから、わたしの話したことを、余所事でいいので保管し、「まさかな」という予感のもとでアテにしておけばよいのです、いざというときの備えがある者とない者とで、どちらに魂の安らぎがあるかは明らかです。
あなたはこの先、あるいはこれまでも、楽しく充実して過ごしたはずの一日が、あるいは誰かと愛し合ってうっとりしたはずの一日が、なぜか悪寒となって覆い被さって来、まともに夜眠れないということがあるかもしれません、ときには毎夜どのように眠っても体調に吐き気が伴うということさえあるでしょう、そんなときあなた自身が詳細に、何が起こっているのかを知り抜くことはきっと不可能です、ですからそのときわたしが言った、「完全に否定した」ということ、また「全部ウソ」だわたしが言ったということを思い出してみてください―― "わたしが言った" ということを――、それがあなたの心身を恢復させたならそれでよいでしょうし、まるで効き目がないならわたしの言うことはもはやアテにしなくて結構です、このことであなたが何の損をするでしょうか。
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これから知っておくべき「想像を絶するキモさ」について3
たしが "完全に否定" したということに合わせて、なお有為な庇護を求める人に対しては、付け加えて「全部ウソ」とも、わたしは言っておきたい。
いつかのときに、この言葉を必要とすることがやってくるので、そのときまで余所事の封をして、いざ災いのときに備えるのだ。
爽やかなふうで、朗らかなふうで、優秀なふうで、情熱に満ちたふう、あるいはやさしいふうで、良識のあるふうだった、人のすべてがウソだったという瞬間がやってくる/その途端、幻想だった世界は暗転し、四方から「想像を絶するキモさ」が押し寄せてくる。
そのとき、取り込まれずに「それはそれ、これはこれ」と、魂への侵略をはじき返せるように、わたしは前もって「全部ウソ」と言っておきたい、今すでに「全部ウソ」という前提の上で眺めれば、むしろ「なるほど、 "全部ウソ" か」と整合が視認できるたぐいがあふれかえっているのだ。

何の愛もなく、誰も愛したことがなく、誰からも愛されたことがなければ、そのこころは "いかに激しくとも空っぽ" なのだ、それはもともと自明のはず。
 "いかに激しくとも空っぽ" のこころは、さびしさを埋めるために王を求める、自分を支配する主たる王を、そしてこのとき、人がすがる支配者が、生身と実感の支配者たる「業(カルマ)」に他ならない。
彼(彼女)が表面だけでもニコニコ笑っていられるのは、業(カルマ)を王として、その支配に従っているからだ、だから彼(彼女)はどのように庶民ぶっても、また貴族ぶっても、その本心は「マウントを取ることにリビドーが止まらない」「マウントを取られることに厭悪が止まらない」という衝動のみに満たされている、この生身の業(カルマ)が盛(さか)り立つことにより、その身は血にドス黒く爛熟し、穢れていくのだ、それがいつか表面を打ち破って出て来たとき、「想像を絶するキモさ」となる。
災害に備える者が最も災害を遠ざけることと同じように、来たる災いに備えて「完全に否定した」「全部ウソ」の文言を余所事にも保管する者は幸いだ、また、表面を見通してその内部にすでに「想像を絶するキモさ」の事実が蔓延していることを直視する者は増して幸いだ、すでに各所で、ひび割れた表面からマウンティズムの血が奔騰となって現れ、マウンティズムの瀑布を為しているだろう、すでにその業(カルマ)の滝に協賛者さえ現れる状況にある、彼(彼女)らは本当にまったく何も知らないでそんな信仰を続けているのだ。

業(カルマ)を信じるのがウソなのではない、その微笑みと清いふうの言上がウソだ。

今、「想像を絶するキモさ」をその体内に育てきり、すでにひび割れからその爛れを噴き出しつつある者は、決まって表面に偽りの微笑みをあらわし、その舌先に清いふうの言上をのたまう、それほどまでに「マウントを取ることにリビドーが止まらない」のだ、とっくに当人の制御しうる範囲を超えているからには、すでに当人にそれをやめよと差し止めることは無意味だ/今さら当人のうちでそれが止まるわけがない、ものの数秒でさえそれは止まらない。
真に彼(彼女)を支配しているのは何か? 言わずもがな業(カルマ)であり、その支配に抗するどころか、彼(彼女)はそれに帰依したのだ、まるでそれを聖なること・貴いことのように言い張るまでをして、膨大な呪いを受けながら……繰り返し、そのこころは "いかに激しくとも空っぽ" だ、その微笑みと言上、また派手さときらびやかさが実に偽りにすぎないことをよく見なさい。
正しく見ないとな | comments(0) |
これから知っておくべき「想像を絶するキモさ」について2

面上のことにだまされず、彼の血の中に流れているドス黒い不穏と熟爛を見よ、好印象ふうに装った表面に何の意味がある? すでに無数の人が、合理的に見て "取り返しがつかないレベル" に到っている、「想像を絶するキモさ」は、本当にとっくに完成しているのだ、人々の想像できる範囲をはるかに超えたおぞましさで/よって、恐れず次の特徴に視力を得よ。
1.彼(彼女)は、何も愛したことがなく、誰も愛したことがない。
2.彼(彼女)は、マウントを取ることへのリビドーが止まらない。
3.彼(彼女)は、仮にも人気者の立場になりたくてしょうがない。

彼(彼女)は、すべてをひた隠しにしているのだ/そして、ひた隠しにしたその顔面と皮膚の向こうから、ただならぬ熟爛、そのおぞましさが漏れて出ている。
いかなる好感触の表情、振る舞い、よそおい、立場、趣味を具えているように見えたとしても、その血からただよってくる不明の不穏、けっきょくはよくよく見ると「誰も愛したことがない」「マウントを取ることへのリビドーが止まらない」「人気者になりたくてしょうがない」というおぞましさが噴き出ている、これをひた隠しにして自分だけ咎を逃れようとするのが彼(彼女)だ。
それでいて彼(彼女)は、自分がそのような「想像を絶するキモさ」の当事者になりながら、どこか自分だけは悪くないと内面で言い張っており、むしろ自分については美化し、自分は一種の被害者なのだという言い分で、なおも自分をスターダムの端に置こうとする/それほどまで「想像を絶するキモさ」は育ちきっているということだ、何度も言うがそれは本当に "想像を絶して" 熟爛しており、およそ善意や良識が通用する範囲内にない。
この「想像を絶するキモさ」の者が、急増していつのまにか身の周りにあふれかえっていて、彼らと食事を共にするだけで魂はいきなり黒く淀み、彼らと寝ようものならそれだけで残る生涯のすべてをひたすら反吐の出そうな悪寒の中だけで過ごさねばならなくなる、だからどうしても最終的な安全装置としてこの話をしている、いざというときに思い出せるように/わたしは彼(彼女)のことを、わずかの容赦もなく完全否定した、あなたはこのことを忘れずにいればいい。

マウントを取ることへのリビドーが止まらず、マウントを取られることへの厭悪が止まらない。

現代において、よくわからない狂気的な現象を見かけたら、すべてはこのことに帰因させていい、馬鹿げた炎上さわぎもマウンティズムが原因で、マニアックなフェミニズムもマウンティズムが原因で、SNSで「嘘松」をやるのも止まらないマウンティズムが原因だ、何の愛も神も与えられずにただ生きものとして育てられると、人は社会的抑圧の中で、ただ抑え込まれたマウントに唸り続けるだけの獣になるのだ、当人はまったくそのことを知らないまま、「想像を絶するキモさ」だけを内部に育てあげた。
いつかのときのために、わたしがそれを完全否定したことを覚えておくこと、それだってギリギリ効果があるかないかのところで、そのときに躊躇するとけっきょく助からないかもしれない、それでも今せめてこのことを明らかに話しておくしかない/気に入らない場合は、いざそのときが来るまでは、あくまでどこかの誰かが言った「余所事」のままでかまわない、だが余所事のままでもいいから記憶しておいて、もしいざというときが来たら、余所事の封をやぶって服用すること、わたしはそれを "完全否定" したのだ。

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これから知っておくべき「想像を絶するキモさ」について
たしの友人に向けて、わたしの友人が大きな危難から救われるように、このことを包み隠さず書いておく。
一見爽やかに見える者、また人気者とも言えるものが、その皮の一枚下で、「想像を絶するキモさ」を飼い、育てている。
「想像を絶するキモさ」は、すでに育ちきり、完成してしまったものだ、当人もなぜそのようになったのか、まったく知らないまま、自分のうちに育ったものを自分でも直視しないようにしている。
一見爽やかに見える者、また人気者とも見える者に、逆に少なからぬファンもつく、応援のコメントもつく、賛同と賛美のコメントもつく……だがすべてはキモさがキモさを育てるために作用しているにすぎない、「想像を絶するキモさ」については、人それぞれやがて直面のときが来てしまうだろう、そのときになって最悪の侵食を避けられるように、わたしはこのことを書き話すのだ。

「想像を絶するキモさ」が皮の一枚下で育てられ、それはまるで悪霊じみているものだから、前もってそういったものがあるということ、およびそれについては前もって完全に拒絶・否定しておくのだと、わたしが言ったことを、あなたが覚えておくように。
そうすれば、いつかのときに、「あのとき誰かがこのことを指して言い、完全に否定した」と思い出し、そのことで救われるだろう、わたしがその「想像を絶するキモさ」について、一厘の容赦もない斬り捨てをここに示したことを、あなたは覚えておかなくてはならない、わたしが完全な否定を断言したことだけが、土壇場でのあなたを救うだろう。
われわれはふだん、そんな悪霊じみたものをやすやす身元へ入れないものだし、何かしらバリアを張っているものだが、自分で購入してしまったものは別だ/また、購入とまではいかなくても、クリックしてURLを開くだけでも―― "無料で購入" した場合にも、少しばかり自らの手でその悪霊じみたものを招き入れたことになる、十分に警戒していた場合ならまだしも、油断していたときには特に、「購入」したものはゆうゆうとバリアをくぐって入ってきてしまう。
クリック(無料で購入)しただけでも、それは相当ていど気持ちが悪くなるし、誤ってその悪霊じみたものの持ち主とセックスでもした場合には、とてつもない突然さで、世界・未来・魂が暗闇に急転直下するだろう、そのことはふつうの人ではまったく理解も把握もできないものだ、対処なんてまずしようがない、だからいざというときのために覚えておくこと、わたしがそれを完全に否定して容赦がなかったことを覚えておくのだ(別にそのようなたわごとを覚えておいたとして、あなたの損になることは何もないだろう?)。

表面上は、善良でほがらかで、友好的で人気がある/その人とセックスすると、未来も魂も根こそぎ闇に落ちる。

なぜこのような話をしなくてはならないか? それは「想像を絶するキモさ」が、本当に想像を絶しているからだ、人間がここまでキモくなれるというのは過去の推定の範囲になかった、一般的に空想できる「悪霊」の範囲さえ超えているだろう、そのキモさが作用するとき、まるで強烈な毒を飲んだときのようにグラッと、わけのわからない複数の悪寒にもみくちゃにされる、もしそのときが来たら思い出せ、わたしはその悪霊のことを完全に否定した、 “完全に” 否定したのだということを思い出せ。
人のことを悪く言うものじゃない、という善良さが正論たりえた時代は終わったのだ、むろん人のことを悪く言えということではない、ただ「想像を絶するキモさ」という事実がこれからどんどん襲ってくるので、そのことをもたらしている悪霊を完全否定し、わずかもつけいられる隙を持たないことだ/当人たちもなぜそんなことになったのか、まったく心当たりがないのだ、ただすべてのことに気づくよりずっと前に、とっくその「想像を絶するキモさ」は自分の内に育ちきっていた、その苦しみは同情に足りるにせよ、彼の挙動はすでに悪霊が支配している挙動であって人の挙動ではない、だからその挙動に同情する余地は一ミリもない。
正しく見ないとな | comments(0) |
キングダム
ングダムには王がいる。
王に入国を許されたものは、王国の民(臣民)となる。
「客」になんかなりたいか? 寿司屋にいくわけじゃあるまいし。
「主人公」という言い方を当てはめたのは坪内逍遙らしい、もともとは禅の言葉だった。

キングダムは、王ひとりのために存在している。
臣民のために存在しているのではなく、祈る王のために臣民たちが存在している。
また王のために臣民がいるということが、民たちの幸福でなくてはならない/そのために、人々は王国の門を叩いた。
王の姿は、常に祈りの姿だ、それを主人公という/民たちは主人公のもとで祈りの恩恵を受ける、王は祈り、民は祝福を受け、民は王の栄光を喝采する、彼らは王国の民であって客ではない、客というのは実につまらないものだ。

王の前に客なし、王はただ旗を守っている。

王の旗は、王国の旗だ、王は神々の祝福を使役して王国の旗を守り、王国を求める民を呼び集める。
王国において、主人公は王ひとりだ、主人公が二人以上いる例は特殊でしかない、主人公は常に王ならざるをえず、よって主人公の前に客はない
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I am 最上位
し、もっとレベルを上げていこう。
ただでさえメチャクチャだとは思うが、もっとレベルを上げて、もっとメチャクチャにしていこう。
どうせおれの知っていることなんて誰にもわかりっこないし、どうせ誰だって習ったことで勝てはしない。
最終的に勝たねばならないが、勝つというのは長生きではないし、資産家でもない、勝つというのは「何一つせず」かつ「何もかもをする」ということだ、それも「きわめてわがままに」かつ「神の意から離れずに」/最終的に勝つ奴は、最初から勝っていた奴だけだろう、しばらくはその勝ちが見えづらいだけだ。

何もかも最上位レベルに立て、それが叶わないときはレベルのほうを曲げてしまえ。
何しろおれ基準においては、おれ以上におれな奴はいないのだから、おれ基準においておれは常に最上位である、おれじゃない奴がおれ基準で勝てるわけがない、他の奴に他の基準があるのかどうかは知らないし、一般の基準というのは幻想でしかない。
ありとあらゆる景色をもってこい、すべての景色はおれのためのものだ、おれは世界で唯一教訓を持たない存在だし、おれは最上位に決定した存在だから、比較評価という一切をしなくて済む、だからおれは他人を見ずに済むし、自分自身も見なくて済むのだ、おれの視力はおれのやりたい放題と合一している。
これが祈りか、おれの声なきセリフはせいぜい「ようこそ」だが、ようこそも何も、誰もおれからは逃れられないのだ、何しろおれは他人を見ないし、自分自身も見ないのだから。

表現をはっきりさせよう。

表現をはっきりさせるということは、評価の外側に行くということだ、何しろ評価というのは常に比較・相対のもので、つまるところすべての評価はアホということでしかないのだから/最高の評価を得るものはアホだし、最低の評価を得るものもアホだ、評価という錯覚そのものがアホのしろものだ。
もっとレベルを上げてやる、ここまでは付き合いで調整していたにすぎないのであって、本当のレベルと比較すればこれまでのものはすべておままごとみたいなものだ、おれが何もしないということは、いよいよ何もかもをしてしまうということだ、何もしないおれを止めるということは不可能だろう、いないおれを括り付けるということは不可能だろう。
正しく見ないとな | comments(0) |
未来を求める人へ
とえば YouTuber の動画を観ると、すべて「過激なタイトルをつけ」「テロップと効果音を入れ」「随所に飼い猫の映像を入れる」という構成で出来ている。
今、お笑い芸人などでもそうだが、すべてそうしたジェネレーター的発想で作られていて、ジェネレーターがすでにある以上、人が何かを創るという必要はもうないのだ。
「創る」というのはふつうの人にはなかなか出来ないことで、だからこそ、今そうしたメディアコンテンツが濫造されているのは、ジェネレーター的な「やり方」が見つかったからであり、実は誰も何も創っていない、誰も何も創っていないものを、多くの人が漫然と眺めている、そうしてすべての時間が過ぎ去っている。
たいへん心苦しいが、街中で見かける人たちや、すれちがう人たちでさえ、はっきりとそのことが視えてしまう、「主体性」が完全に喪失されて、ジェネレーターで分類された形式の中をずっと生きているだけということがどうしても視えてしまう、僕はそのことに悪口が言いたいのではなくて、まともな未来がありうるように手を打ちたいのだ、少なくとも僕のことを慕って信じてくれる人たちに向けては。

祈りがどうこうという話をしているのも、あくまでそのためであり、何も正しいふうのことを言い張りたいのではない、誰かの未来にしたいのだ、もちろん僕自身も含めて。
ジェネレーター的に組みあがったもので、上手になってもしょうがない、かといってジェネレーター的なものを外して「お前のものを」と言われても、本当に何をどうしたらいいかさっぱりわからないだろう/そのとおり、そのまま、自分の生が「さっぱりわからない」まますべての時間が過ぎていくのだ、このままでは完璧にそうなると僕はもう経験から断言しえる。
今、すべての人々が、ジェネレーター的に生きているゆえ「みんな同じ」で、同時に、誰の何にも触れていないから「みんなバラバラ」だ、どの動画を観ても「誰」も視えないし、人々がどう集っても「誰」でもないものがバラバラに居続けるのだ、きっと若い世代はすでにそうではない状況があるということじたいが記憶にも想像にもないだろうと思う。
どれだけ奇抜なふうにしても、ジェネレーター上でパラメーターを偏らせているだけなので、奇抜なだけで誰とも「同じ」だ、それではその人が存在しているとは言えない、そして存在していない人と一緒に過ごすことはできない、僕は何かを非難しているわけではない、より多くの人に未来がありうるように決定的な話を続けたいだけだ。

おれと同じ奴はどこを探しても見つからないだろう。

おれと接触したことのある奴は、誰だってわかっていると思うが、一度会ったことのあるおれを忘れる奴は一人もいないだろう、おれを誰かと共通項で括ることはできない、それはおれが特別な存在ということではない、ただおれがわずかもジェネレーターを通していないというだけだ、だからおれは個性について工夫したりアピールしたりする必要がない。
誰だって本来、個性やら何やらを、工夫したりアピールしたりする必要はないのだ、誰だって同じように、「他を探しても見当たらない奴」でなくてはならない、どうしてAさんとBさんが「だいたい同じ」になりうるのだ、そういうシャレにならない状況が、すでに完全に成り立ってしまっているが、何も全員がそのことに巻き込まれる必要はない/未来を求める人へ、第一の方法は簡単なことだ、ジェネレーターで排出されたもの、他に同じものが見当たるものについては、一切認めるな、それは「人」の創ったものではないので、否定することに内心の躊躇は要らない、それらは全部ウソなのだと断じることがあなたを救うだろう。
正しく見ないとな | comments(0) |
祈りと祝福の原則/3.祝福と命はワンセット
ーセが祈りで海を割ったとしたら、それは人々を逃がすためだ。
何の理由もなく、「海を割りた〜い」と祈ったとして、そんなことをまともに「祈る」ということじたいが出来ないだろう。
「祈る」といっても、祈りは常に「命(めい)」とワンセットにある、モーセには人々を追っ手から逃がすという命があったから祈りによって海が割れたわけで、モーセが命を果たそうとせず自分だけ逃げようとしたら海は割れなかっただろう。
よって端的に言うと、祈りがバリバリ通じ、祝福がバリバリ注がれるのは、やるべきことをバリバリやり、命をバリバリ果たそうとしている人だけだ、ポカーンとしているお花畑の人に祈りも祝福もない、そんな人は別段祈る用事がないはずだ、そうして祈る用事がないという状態のほうがまずい。

祈りは必ず、生きものとしての限界に直面して現れてくる、生きものとして歩ける限界に直面して、人は電車に乗るように/モーセだって、自分を含めた全員が渡り鳥だったら、海が割れるように祈りはしなかっただろう、「生きもの」の限界に直面したから、もうしょうがない、そうでないものの力を借りるしかない、という形で祈りは生じてくる。
よって、まずは自分のやるべきことを――「命(めい)」というのが、あるのかないのかはわからないが――やるしかなく、けれども小さな一匹の生きものとしては「初めから無理だとわかっています」ということがあり、だからこそ祈るということが出てくる/何の主体性もなく、受け身の発想で「祈り」というのはありえない、<<「祈り」は受け身とは正反対の発想だ>>、受け身とは生きもののことであって、すべての生きものは快適な生存を与えられているかぎりは自らピクリとも動こうとしない。
自分のやるべきことが、生きものとして欲しているという小さなことでなく、カミサマの主体性と合致している主体性のものであったとき、「自力では無理なので」という要請が通り、祈りが通じることになる、自力の大小は問題ではなく、カミサマから見れば人間の自力など大小どちらでも無でしかない、それで「自力では無理なので」という要請が通ると、祝福と共に「これをしなさい」という命が与えられる/つまり所詮はカミサマの主体性を代行すると認められるから祝福の決済がおりるにすぎない、モーセの行為を本社側が代行と認めたから経費で海を割れたというだけだ。
よって、そのように祝福と命はワンセットとして、初めから万事「自力では無理っす」ということを宣明したほうがいい、つまり「やりまっせ〜ただし自力では無理ですわ〜」ということ、この逆が最もよくない、生きものの用事以外はけっきょくやるつもりがない上に、自分の自力がそこそこ強いと思い込んで傲っているのに、厚かましくも「祈り……(遠い目)」みたいな風情をやることだ、このパターンはガッチガチに呪われるので、本当に祈りなんか考えないほうがいい、「自力パワー!!」だけで砕け散ってガタガタになるほうがまだ笑えるだけ呪いから無縁だ。

主体的に生きている奴は、自動的に毎日祈りたおしているはずだ。

主体的というのはつまり、誰からの指示も待たず、誰にも「空気を読ませる」というような卑怯をやらないということだから、そんなもんふつうの人間には「無理に決まっている!!」、にもかかわらず果敢にもその矢面に立ってごまかしのない奴は、そりゃもうどうしようもない、だからそいつは毎日祈りたおしているはずだ、そしていつもギリギリ「なんとかなった」「なぜか知らんがなんとかなった」となっているはずだ、他でもないそれが「祈り」と「祝福」という現象だということ、主体性の煉獄に立つ奴ならこのことを知らない奴はいない。
もし逃避行をしくじった場合の、モーセの寒さと責任のことを考えてみろ、人々を先導した上に追い詰められて「おいおい……」てなもんだ、誰に頼ることもできないし誰になすりつけることもできない、そして失敗したらリトライやらリベンジやらの眠たい話ではない、だからモーセが常時祈りたおしていたのは当たり前だ、そして海に直面してなおも祈りたおしていたら「なぜか知らんがなんとかなった」のだ、われわれは海を割るような大きな「奇蹟」ほどは得られないかもしれないが、ささやかなことならよくよく見ると祝福はちゃんと与えられている、それはわれわれの命と祈りのサイズに相応しているものだ。
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祈りと祝福の原則/2.下が上を「使う」ということ
が上を使うということ、もちろん使いっ走りをやらせるということではなく、その御名や存在を使うということ/偉大で無限・永遠のものはいくら使ってもなくならないので、使えるならガンガン使ってよい。
下が上を使うというのは、下の者が「自力パワー!!」でがんばっても無理だから、上のものを借りて使うということ/自力パワーで極楽浄土に至れる人は阿弥陀如来の力を借りる必要がない。
偶像を立ててそれを拝み倒すというのは、あまり有益でないというか逆に危険だと思うが、そのことはさておき、上のもののパワーを使わないならそもそも祈るということが成り立たない。
下が上を使うというのは、何もおかしくない、たとえば受験生が試験を受けるのに、予備校の講師が教えてくれた解法を「使う」ということだ、解法を必要としないド天才なら、何も上のものを使わず自力で解けばいい/たとえば数学者ガウスなら、子供のころにも入試問題なんか自分で直接解いただろう、だがわれわれはガウスではないので上のものに与えてもらった力を使う。

かなり多くの人が、自分のことを「祝福を与える側」だと誤解している。
だから芸能人が結婚すると、「末永く押し合わせに」と、勝手に祝福パワーを送っているつもりでいる、けれども下のものが上のものを「祝福」する力はないので、こんなことをやっていると自動的に呪術者になる、呪術というのは当人が呪われていないと出来ないので、知らないうちにゴリゴリに呪われている自分になる、そうなるとふつう生涯復旧できない/偉い人のことを「お祝い」するのはいいけれども、「祝福する」という感覚でいるのはとても危険だ(といって、当人はそれがアイデンティティになっているので、もうやめるにやめられないものだが)。
下が上を「使う」ということ、それを使わせてくれるよう「求める」ということが祈りであり、また求めればそれが使えるとなぜか直感できているのが「信じている」という状態だ、そして直感したとおりに(祈りが通じたときに)、上から与えられるのが「祝福」だ/祈りは下から上に向けられるものであって、祝福は上から下に注がれるものだから、この逆転だけはしてはならない(本当に大損する)。
つまり正しい「祈り」というのは、何のことはない、「絶対合格したいから学力くれ!!」と教えを乞うている受験生の形でよいのだ、ここで最も怠慢な祈りというのは、当人がそもそも合格するつもりがないという場合に他ならない、ぼんやりと「学力が欲しい」という願望は受験生なら誰でも持っているだろうが、そうではない、はっきりと「求め」、それを「使おう」としている者が、正しい「祈り」を持つ者だ/だからたとえば故人の冥福を祈るという場合、気持ちとしてはわかるが、祈りの本質においては意味がない、そうではなく「自分が死んだときに冥福ゲットしたいから!! 導きプリーズ!!」というのが正しい祈りだ、ただし人はそこまで自己の傲慢をなくせないもので、実際にそのようにしうる人はとても少ない。

上に「求めまくり」、そのまま「使いまくる」人は、自分の小ささを認めている人だということ。

けれども、実際には自分を小さいと思っている人はとても少ないので、大半の人が自分は祝福を「与える側」だと誤解しており、だからこそどのように祈り倒しても、それは願望をムンムン念じているだけで何の効果もない、効果がないどころか逆効果で、祝福どころか呪いでタプンタプンになるので、たいてい宗教にハマっているおばさんなどは、見るだけでもおっかないブツになるのだ、人の家のドアをノックして宗教に勧誘してくるおばさんたちは、自分でカミサマの国のドアをノックして「プリーズ!!」と求めるつもりがまったくない。
ウソ発見器にかけてもらってもいいが、おれはこんなわけのわからん文章を書くのにでも、自分では書けないしまともな文章になりっこないので、上に求めまくり、それをそのまま使いまくっている、この偉大なるおれさまがこんな面倒なことやれるわけがないだろう、実際おれはいつからか、びっくりするほど祈り倒すのみで文章を書いている、なぜ書いているかというと、祝福が欲しいからというだけで、他の理由はまったくない、そして祝福が欲しいならこうして書くことをしなくてはならないということは、祈りの具体として必要だということはなぜかわかるのだ。
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祈りと祝福の原則/1.「何にもならない」ということ

「祈る」ということは、「何にもならない」ということ。
仮に、祈りによってアホが賢くなるとしても、「アホ」と「賢い」は同じでなくてはならない。
「アホ」と「賢い」に差分と善し悪しを考えるのは、人の業(カルマ)であって、カミサマのワザではないからだ。
この差分と善し悪しを考え、「マシになりたい」と願うことは、ただの願望であって祈りにはならない、何がマシで何が too bad かはあくまで人間の沙汰であってカミサマの沙汰ではない。

仮に「祈る」ことで、アホが賢くなったとしても、それは当たり前であり、何にもなっていないということ。
なぜなら、カミサマを仮定にも認めるなら、無限のカミサマにとってそんな徳性を拓くことは無に等しいことであって、それを「スゲー」と誇張するのは、逆にカミサマをナメていることになるからだ、われわれにとってスゲーことでもカミサマから見たら「はぁ?」ということでしかない、そうでなければカミサマを敬っていることにはならない。
仮に「祈る」ことで、アホが賢くなるのだとしたら、アホはアホのままでもカミサマのしもべ、賢いのは賢くなっても同じカミサマのしもべでなくてはならない、カミサマのしもべでないものは祈れないし、カミサマのしもべでないものには他者を経由しても祈りは成り立たない(当たり前)。
仮に祈ることで何か実際の作用があったとしても、それは当たり前だということ、その祈りや祝福に大騒ぎするのは、根本的に祈りと祝福の現象を疑っているからに他ならない、カミサマ視点からは別に「何にもなっていない」ので、そのことを人間視点に引きずり下ろさないこと。

すべては何にもなっていない、なぜならわれわれは元から「ない」からだ。

仮に「祈る」ということで、なんじゃこの景色、なんじゃこの風、ということが現れてきたとしても――あくまで「仮に」だ――、それはもとからそういう世界だったわけで、いくらでもありえる世界がもともとあったわけで、そこに気色ばんで見物と吹聴をする人間どもが邪魔を仕掛けるだけだ、自分で濁らせた眼球が晴れて「うつくしい!!」と吹聴するから、また眼球が濁りだしてしまう、テメーの眼球が濁っていても元よりこの世界はうつくしいのだから吹聴は的はずれだ。
すべては何にもなっていないし、仮に「祈り」から「祝福」が与えられたとしても、別に何もなっていない、そうではなく、いつも何かになってしまっているのは通常のわれわれのほうだ、通常のわれわれが勝手に世界をジグソーパズルに砕いて一部を組み立てて「ほら!!」と言っているのであって、何かをやっちゃっているのは祈りがなく世界から切り離されたいつものわれわれのほうだ。

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世界一の美女が初音ミクのようにウソだ
界一の美女は、世界一美人だろうが、外形がどれだけ美人でも、その中身が空っぽという可能性はある。
たとえば「初音ミク」はボーカロイドとあって、初音ミクは主体性を持たない、ただのシンセサイザーだ、それと同じことがDNA由来の生きものでもありうる。
つまり、ただの美人な「生きもの」というだけで、中に何もない可能性があるのだ、可能性があるというか、今ほとんどの場合でそうだ、中身は空っぽ、あって当たり前ていどの主体性も実は具わっていない、きっと「主体性」という現象に根こそぎ見放されてしまったのだろう。
「主体性」という現象は、けっきょく「求める」「祈る」という形態でしかありえず、生きものが「欲する」という現象とは性質じたいが異なる、どんなブスでもスターダムに立ってスポットライトを浴びたがるように、世界一の美女でもスポットライトを浴びたがるということにすぎない、それはスズメバチが腐肉に群がるのと現象として違いはない、「欲する」という生きものの性質は業(カルマ)であって主体性ではない。

もし「主体性チェッカー」みたいな機械があって、測定してみれば、主体性なんか誰も彼もゼロだろう、数値を示す針はピクリとも動かない。
もちろん、初音ミクに主体性チェッカーを当てたとしても、針はピクリとも動かないだろう、だから同じだ、主体性のないシンセサイザーと、主体性のない生きものがあるのみで、前者が電器で作られており、後者がタンパク質で作られているだけでしかない。
中身が空っぽということを、悪く言っているのではない、ただ誰にとっても「やべーじゃん」ということしか言っていない、主体性を得るためには誰かを愛するしかなく、その愛した誰かがやがて主体性の根源とつながっている必要がある。
「主体性」という現象は、生来的に与えられるものではなく、誰か・何かを「愛し」「信じ」「求め」「祈る」ことで、その愛した先がアタリだった場合のみに、祝福として与えられるものだ、主体性につながりようがない初音ミクを愛しても主体性は得られようがないみたいに、ハズレのものを愛しても主体性は得られない、だいいち主体性はほとんど聖霊の庇護と同時にしか得られないので、鼻息をフンガーとやっても生きもの度数が上がるだけだ。

「生きもの」が「欲する」だけの世界を眺めていても、ビオトープを眺めているのと同じなので、もう何の意味もない。

ガキが基礎知識を学ぶためならまだしも、そんなものしばらく生きていたら誰でもわかる内容なので、いちいちつぶさに眺めて知る必要はない、どんな外形上の美女も、生きものとして「欲して動く」だけなら、眺めていて実につまらない、まして傍に飼ったり連れ回したりしてもストレスになるだけだろう、そして実際それがストレスだから、芸能人やセレブスターたちは離婚を繰り返すのだろう。
おれは何かの悪口を言っているわけではない、ただ「主体性」という現象について話している、もう誰も主体性の現象につながれなくなったので、誰もが「我」を燃やして、けっきょくは「生きもの」が「欲する」ということにブーストをかけているだけだ、そりゃ中が空っぽなら容れ物の「生きもの」を燃やすしかないものな、おれは決して悪口を言ってはいない、おれは少しでも祈っているだけだ。
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ワレが祈って為されるのはワレの望みじゃねえよ
まり、ありて無し、無くてこそあるというのが「祈り」ということか。
このところ、ヘンな話ばっかりですまない、けれどもこれはおれが書いているのではなくて、書いている内容がおれを引っ張っているのだ、おれが書く内容を操作しているのではなく、逆だからしょうがない、書く内容がおれを操作している、おれは「はあ、なるほど」としか思っていない。
先日、パーティあたりで「我求める、ゆえに彼あり」という言い方をしたが、本当はそうして「彼」があるのであり、「我」というのは無いのだ。
われわれはアホなので、カミサマの存在・不存在のことばかり考えるが、これは考える土台じたいが論外で、不存在なのはわれわれのほうだ、われわれこそが「無い」のであって、その無い奴がカミサマの存在うんぬんを議論するのはまさにアホの極みと言える、だがこのことを何百年でも振り回すのだ。

我が「求める」ということ、そして求めるということは「祈り」ということだが、祈るということは彼があって我が無いということだ。
よって「祈り」というのは、我が求めることによって彼の望みが叶えられるということになる、だって祈りが成り立つとき「我」は存在しないのだもの/じゃあ誰が主体なのかというとやはり「彼」になる、「彼」が主体であって彼の望みが叶えられるということ、それですべて整合するが、これにブーブー文句を言う人はけっきょく「彼」がただのイメージ物のニセなのだと思う。
おれには他の誰かがいる気はしない、ニーチェは「地獄とは他人のことだ」と言ったが、まさにそのとおりで、おれには他の誰かがいる気はしないので、地獄的なものはない、ニーチェは他の誰かがたくさんいるように感じていたので、地獄まみれだったのだろう、最期は狂死したと言われている。
そうか、だからこそ、おれは「他人」というものへ扱いが厳格なのだ、おれにとって「他の誰か」を設定しろということは、その人に向けてはあらゆる祈りを捨てろということに他ならない、祈りのない世界はすべて「我」と「他の誰か」だけに分割される、そりゃ確かに地獄だな、「我」と「他の誰か」ってつまり、徒党を組むかバトルしてマウントしあうかのどちらかしかないものな/うーんおれに限っては、他の誰かがいる気はしない、おれはそうしてハッピーボーイなのであろう、ワオ。

我が祈ると、彼の望みが為される。

だから、仮におれがガチ祈りを成立させられたとしても、祈りが成立する「彼」の側が、おれをスッテンテンに滅ぼすことを望むのであれば、そのときはしゃーない、おれが祈るということは彼の望みが為されるということだから、そこでオーマイガッになる場合はしゃーない、それが気に入らん奴はそもそも全部自力でなんとかせいという話だ。
「ありて無し、無くてこそある」のが祈りで、「ある」と「ない」を同時に成立させるのが彼だから、おれはこの世界に何かしてはいけないわけだ、たとえ善行でもおれが何かをしてはいけない、「おれ」がやる以上はすべて誤りなのだ、「彼」がやることだけが正しくてまともだ、よって偉大なるおれさまは何もしない上に同時に何もかもやっちゃおうということなのだった、わけがわからないことはまったくなくてこれですべて整合している。
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音楽はありて無し、無くてこそある音楽
我の境地とかしょうもないことを言う。
音楽が「ある」というのは誤りだし、音楽が「無い」というのも誤りだ。
この「ある」と「無い」の識別しか捉えられないのが人の業だ。
なぜ人の業を偉いと思ったのか、そっち方面に生え散らかす話はもうすっかり興味がなくなってしまった。

音楽は、無けりゃ話にならないし、あったら邪魔でしょうがない。
「ある」と「無い」とが混在することはない、つまり「ある」は偽で、「無い」も偽だ。
識別の両方が偽というだけの単純な話、識別が混在することはないが "同時に成り立つ" ことはある、音楽の「ある」と「無い」は同時に成り立つ、その成り立った場合だけを音楽という。
音楽を「やらない」ということが音楽ということ、おれは音楽なんかやったことがない。

感動はない、もう感動する必要はないからだ。

無音とまったく同じ音楽が鳴る、そりゃ「当たり前だろ」ということ、森に木が生えても何も変わらないが、木が生えなくては森ではない。
もしメリットがあるとすれば、「トラブルが減る」ぐらいかもしれない、なぜその他のメリットが言われないかといえば、その他のメリットはもともとあるからだ/いやあ「トラブルが減る」なんてステキで巨大なメリットだぞ。
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割り込み方がわからない!!
うもおれには、他人の言い分を認めるという悪いクセがある!!
仮におれの目の前で、よくわからない外国人が、釣り上げたフグを指して「これは旨い魚だ」と言っていたら、おれはきっと「おれには猛毒のフグに見えるが」と言うだろう。
そしてその外国人が、「おれはよく釣りをするし、お前は釣りをしない、お前は何もわかっていないんだ」と言い張ると、そのときおれは、ふと「そうかもしれない」と思ってしまう、かといってそのフグの伴食を勧められても絶対に付き合わないが、それにしても彼が毒フグを食い切って、やがてしびれて倒れて死んでいくまで、おれはその外国人を無感情に見守ってしまう、おれはどうも「絶対にやめとけ」と偉そうに言い出す性分がないのだ!!
それはこれまで、割り込んで偉そうに口出しする人にロクな人を見たことがないから、おれ自身もそうはなるまいと思ってきたことの結果だが、そのせいで今になってずいぶんマイナスになっていると思う、おれは誰しもその人自身がその人自身のボスであるべきだと思ってしまっているので、目の前で毒フグを食い始めたときもまるで治外法権のように傍観してしまうのだった。

その外国人がグエーと言い、毒フグにしびれて死んでいこうとするとき、別にざまあみろとか死んでしまえとか思っているわけではない。
むしろ逆で、この魚は彼が旨い魚だと言ったのだから、彼は死なずにすっくと立ち上がり、「ああ旨かった」とスマイルを見せねばならないのだ、おれが本当に望んでいるのはそのことなのだが、とはいえ現実的なことも考えなくはないので、いちおう救急車を呼ぶだけ呼ぶだろう、その救急車は彼に対して侮辱でしかないと思うのだが、その侮辱についてはおれが責を負うしかない。
一方でこれまで、おれが為しえた少しでもまともなことというと、けっきょく割り込んで「決してやめなさい」「こうしなさい」と命じたことだけなのだ、そういうときだけナイスなアレが降りてきて、けっきょく決定的にナイスなことになる、おれはおれを慕って祈る奴に対しては全霊を用いるが、そうでない奴に対しては冷淡というか、節度の設定が合理的すぎる、その落差が我ながらひどいと感じる。
おれはどうも、他人の尊厳というものを重視して、他人がときに誤った理解や自負で、自ら生セメントに埋められていくときにも、他人の尊厳を優先して、彼がひたすら生セメントで埋まっていくのをただ見ているだけということがよくある、この態度の解決法をずっと探しているのだが、どうしてもその現場になると「それぞれが決めることだし」と、「他人」の設定が鬼厳格なのだ/というわけで、おれに何かを求める人は、ぐいぐい「プリーズ!!」と言わないと、おれからは何も出ないのでそのようにお知りおきください、こんなクソ超能力のあるおれさまが「傍観」とか我ながらひでえ原理主義だと自分でも思っているよ。

己を主体とする人へ決して口出しはしない。

世の中には、己の自我を主体とし、「それしかありえないです!!」という状態の人が少なからずいて、それが少なからずどころか実際には大多数なのだから、そうしてすでに主体が定義されているところへ、おれは横槍のような口出しはしない、口出ししても芳しい結果が得られる可能性はゼロだし……と思っていたのだが、このところ、その可能性はゼロではないというか、実際には「助かった!!」という人がウジャウジャいるのだから、修正せねばならないのだが、ウーン修正される感じはどうもしない/おれはそれぞれ他人において全員が正しいと思っており、仮に地獄に落ちる人がいたとしても、その人は地獄に落ちたとしても正しいのじゃないかと思っているところがある、だいたいそういう人って、「自分が正しい」ということだけ保てたら、どんなヘヴィな地獄に落ちても平気というのがスタイルなのだと思うし……が、そういう人が最終的にどういう悲鳴を上げるのかをおれはまったく知らないわけでもない。
というわけで、おれはいつまでも、割り込み方がわからないのだ、我ながらひでえ奴だと思うのだが、おれはけっきょく他人に対して「悔い改めよ」と言い出さない、あらゆる他人に「それでいいんじゃないの」と、百パーセントの自主性を負わせるところがある、おれは人は生まれたときから大人だと思っているし……まあそんなわけで、我ながらタチが悪いと感じつつも、実際どうしたらこれを修正できるかわからないのだった。
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WS報告064(2)/ハンドサイン法ふたたび
れないように自分でメモしておきたい、ここにきて「ハンドサイン法」がふたたび注目されている。
ハンドサイン法といって、何もむつかしくはない、テキトーにピースサインでも挙げて「いぇーい」とやって呼応させるだけなのだが、実はこれ、厳密に出来るかというと、厳密にやるには相当正しい仕組みを体得している必要がある、インチキのノリでやっている「いぇーい」とは違うからだ。
ハンドサインを使うことで「いぇーい」を呼応させる、つまり人を動かすことになるが、そのことが成り立つためには、「自力で人を動かしたりはできない」ということがわかっておらねばならず、徹底的に「自力では何もできんわw」ということがわかっていないといけない。
ピースサインでも何でも、ハンドサインを挙げて、空間に示したサインによって空間を使うということが、「祈り」の最小単位だと言える、ここに来てこのワークが必要性を増してきたので、忘れないようにここにメモしておこうと思った。

ふつうの感覚だと、まず「ハンドサイン法を使えば当然いけるっしょ」とは考えない。
ふつうの感覚だと、まず「よっしゃ、がんばってやってみよう」と考える。
当人が「よっしゃ、がんばる」のであれば、それは「ワテがんばります法」であってハンドサイン法ではない。
だから、いつもわかりやすく言っているように、さっさと偉大なるおれさまの言うとおりの法に従ってやればいいのだ、個々人のがんばりなんか偉大なるおれさまの説き明かしたる法に一ナノも及ばないとはっきりわかっていればこの種のワークはあっさり成り立つ、だいたいこの世界というクソデカ空間より偉大な個人などいた試しがないのだ、もしそんな奴がいたらそいつはもう個人ではない。

自我を使わない/代わりに、空間も歴史も言葉も音楽も全部使え。

ありとあらゆるものを使え、ありとあらゆるものだけを視よ、人に何かをさせることは出来ないので、人に何かをさせることはない、自分が何もしないようにだ、プレイヤーも何もしない、何もせずに済むということが救いで、ただありとあらゆるものが、ありとあらゆることをするだけ、それが一番助かる、それ以外にまともなことの方法などない。
人と人のつながりなんてウソだ、いや正しく言うと、人と人のつながりなんて必要ない、もともとひとつの主体だけがありつづけ、それだけが残り続けるのだから、分断されたわれわれという錯覚を接着剤でつなぐようなまねはしなくていい、ハンドサインが頭上に示されるということは、 "何も変わっていない" ということだ、だからハンドサイン法の習得は、それを必要としないということにそのままつながる。
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WS報告064(1)/小さなフィクションに大きな秘密

えてイージーに言うと、「フィクション魂」をやっているにすぎない。
フィクションというのは、ご存じのとおりフィクションだから、そのフィクションを「信じる」ということしか方法はない、フィクションはフィクションと宣言されているのだから、それをノンフィクション的に思い込む必要はないはずだ。
にもかかわらず、この単純なことが、やってみるとテンヤワンヤ、脳みそも意識も気持ちも情動も挙動も、てんでバラバラ、自分でわけがわからなくなるということが発見される。
金曜日はひさしぶりに、シンプルな小劇場、「つまづく人」をやった、フィクションとしてそれを上演するという、ただそれだけのことだ、ただそれだけのことなのに、なぜか人はただならぬ心身の混乱を覚える、まずはそのことを発見する、自分で宣言した小劇場の題目さえ「信じる」ということが成り立たないことに気づくのがスタートだ。

直観的に、「キミにはフィクション魂はあるか!」と訊けば、大半の人はなんとなくノリで、「あります!」と答えるだろう/「ありません!」と答える人は直観的に少ない。
フィクション魂はあると答えるので、「よし、じゃあやってみろ!」と、一番カンタンなことをやらせる、「つまづく人」でもいいし、「向かい風が強い」でもいい、それをやらせてみると、実際には自分の意識にも全身にも、すさまじく放置されたままのノンフィクション依存がこびりついていることが発見される/そりゃそうだ、何十年も放置してきたし、それをどう調えるのかなんてこれまでに一度も聞いたことがないのだから。
「向かい風が強い」といっても、それはフィクションのことであって、スタジオ内に向かい風は吹いていない、快適なエアコンの風しか吹いていない、だから必死で「向かい風が強い」という状態を空想して、そう思い込もうとし、全力でその「ふり」をする、つまりノンフィクションの方法でねじ伏せて、信じてもいないフィクションを言い張ろうとする。
その結果、「向かい風が強い」というフィクションをやるだけなのに、やたら必死でマジで「シリアス」な状態が生じてくる、これは馬鹿馬鹿しいことだがそうなるのだ、一歩引き下がれば「こんな小さいフィクションにそんな大マジになる必要はまったくないだろ」ということは明らかなのに、自分がそれをしようとすると大マジの大シリアスの大感情的になる、するとそこには「向かい風が強い」なんて空間は見当たらず、「何か必死でやろうとしていて、独りよがりで目も当てられない人」だけが出現する、「 "向かい風が強い" だけでっせ」と言われたら、そのとおりだとわかるのだが、全身も意識も大暴れして処理の仕方がまったくわからない、そして何か絶望的に「死にたい」という愚痴まで湧いてくるのだった/このアプローチで正しい、それは小さなフィクションの向こうにも大きな秘密が隠されているからだ。

ノンフィクション上、膨大なことを「思わされて」きたので、もう小さなフィクションさえ「信じる」ことができない。

ノンフィクション上、膨大なことを「思わされて」生きるということ、これが生身と時間(および重力)の性質だ、生身には「実感」という機能があり、この実感の蓄積が時間経過と比例して増大していくので、われわれはただ「離れていく」、われわれにとって何もしていない時間というものはありえず、時間が経過する以上は必ず「離れていく」のだ/「離れていく」ほど、ますます手がかりは遠ざかってしまうので、なるべく手がかりに触れられるうちに、このナゾを解きなさいということ、時間と重力落下から脱するためのナゾ解きだ。
人は時間の経過によって老人になるのではない、老化は「離れていく」ことによって起こっている、どんな老人も晩年には「人生とは○○である」という確信を持つようになるが、この確信を得たときがすなわち、すべての手がかりが途絶えて、フィクションには接続不可能になった状態だ、老人はそうして生身から確信にたどり着き、本当に得たのは確信ではなく「結論、もう何も信じるものはない」という状態だということ、そしてすべての実感を無に帰す死がやってくるので、最期に無を確信する、つまり最期にちゃんと神仏のすべてを否定するように生きものは作られている/「向かい風の強い世界さえ無かった」ということだが、これは魂が救われている若い人から見ると「んなアホな」の一撃で粉砕できる、そりゃ冷静に考えりゃ、向かい風の強い世界はいつも春先に現れているっての。

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パーティ報告98(2)/貨幣ではなく値札に魔が棲んでいる
「どんな洋服も、値札がついたまま来ていたらダサいように、貨幣を使うときも、貨幣から値札を切り離して使わないといけない」
「本当は貨幣に魔が棲んでいるのじゃない、値札に魔が棲んでいる」
「仮に道ばたに、砕けてきれいなガラス片が落ちていたとする、そうしたらふつう『きれいだな』としか思わない」
「でもそのガラス片に、一〇〇〇〇〇〇って値札がついていたら? 『ひょっとして』としゃがみこんで、手に取って『なあんだ』と呆れるだろう、そのように値札の側に魔が棲んでいる」

「誤解している人がいるが、おれがタクシーの運転手に渡した千円札は、消えてなくなったわけじゃない、タクシー運転手のポケットに移動しただけだ」
「やがてその千円札は、タクシー運転手がいく立ち飲み屋の店主のポケットに移動するだろう、そのように千円札は消えてなくなりはしない」
「千円が "なくなった" というのは誤解であり妄想だ、われわれは千円札がそんなに惜しいか? タクシーを運転しているおっちゃんのポケットに勝手に千円札を押し込むということなら、われわれはさして千円を惜しまない、われわれを迷わせているのは貨幣じゃなくて値札だ」
「もしあなたが、爪に火を灯してお金をため、そのお金でバーを開店するというなら、それはぜひやめたほうがいい、なぜならあなたは、バーでお酒を飲もうとする人のこころ・感覚なんてまったくわからないのだから/あなたがお金をガメて生きる以上、あなたの目の前に来る人もガメるわけで、そういうタイプは商売に向いていないんだ、バーの店主が当人としては "家で飲んだほうが安いじゃん" としか思っていないんだからね」

貨幣から魔を払う人のところに、貨幣は戻ってくる。

そりゃそうだ、ちょっと長くなるので説明できないが、実験すると、そうした貨幣の性質が明らかになる、貨幣だって自分にくっついている魔を払ってくれる人のところに行きたいわけで/仮に目の前に二軒のマッサージ屋が同額であったとして、それぞれ魔のつくところと魔の払われるところだったとしたら、どちらのマッサージ屋に行きたいかは明らかだ、わざわざ魔のつくところに契約行為をしたいと望む人はいない。
もちろん、値札についている魔の力を拡大して、その魔力でお金をあつめる――本当は値札を集める――ことは可能だし、そうして形成されるお金持ちというのもたくさんいるが、その結果、われわれはあちこちで見るお金持ちという人種に、実は幸福な人がいないという事実を目撃するのだ/値札の魔を拡大するということは、実はお金を大切にするということとまったく正反対のことだ、だからお金に呪われてしまう。
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パーティ報告98(1)/異様な楽しさとおだやかさ
回のパーティは異様な楽しさだった。
朝まで飲み、朝食の場に移ると、各員はこぞって「初めからすごく穏やかだった」と言った/初め、その「穏やか」というのが僕にはよくわからなかったが、今になってわかるようになった。
穏やかといっても、楽しさというのは爆裂的なもので、異様なうつくしさから、人がぶっ倒れて大笑いする局面もずっと続いたのだが、もうそのあたりは詳細を記す必要はあるまい。
まともな「作品」がまともな「キャスティング」を伴い、そのキャスティングこそがそれぞれを伸びやかに生かすことのように、それぞれは無理をせず自由で闊達であり、ひとつの世界の中で創造的であった/何を大げさなという気もするし、常識的には僕もそのように思うのだが、僕としては正確に事実を記すことのほうに偏らざるをえない、常識に礼拝して事実を曲げて記すわけにもいかないだろう。

いわゆる「祈る」というような、念力的な空想をアテにするようなバカはどこにもいない。
ただ一方で、淡々とした手続きを示し、そのとおりにしてみたところ、「あれっ!?」と生じる現象の事実について、これを無視するのも理性的でない。
たとえばある種の技術に関わる箴言について、ただその箴言を云うのみならず、「先に名前を冠して、もう一度云ってみろ」と指示する、そのとおりにすると途端に「あれっ!?」と、先ほどまでは意味のないただの記憶でしかなかった文言が、するっと自分の内にすべりこんでただちにその意味と作用をもたらしてくるということが、事実として起こる/われわれは幸い、何も偉くなので、そういったことの仕組みを精査する役を負ってはいない、われわれはただ己のナイスな未来のため、得られるかぎりのことを求めるだけでいいのだ、偉くない奴はそれだけでいいのだ。
僕自身の欠点についていつも思うが、おれの欠点は誰より霊感がないところだ、おれはいつも「合理的ならそれだけでいいんじゃないの」という一点張りで、だからこそ人を迷わせないが、同時に救わないという欠点もある、いつもおれは「お前らってなぜか、こういうの好きだよなあ」と首をかしげて、そこからようやくまともなはたらきを見せるものだ、さっさとおれのほうから動ければいいのだが、なかなかそうはなれないのだった(すまんね)。

「『我思う、ゆえに我あり』ではなく、『我求める、ゆえに彼あり』だよ」

このことは、論理的に追跡説明できることだが、今ここでそれを示すのは面倒くさい、頭のいい奴が考えれば自分で証せると思うが、ここでいう頭のよさは結構レベルが高いかもしれない/「欲する」というのは生きものの仕組みに収まることだが、「求める」という主体性については、生きものの範疇で説明はつかない、どういじくってもタンパク質から「主体」なる性質は生じようがない、そんなことはまともな化学者の全員が知っていることだ。
異様な楽しさの回だった、それは何でもなく、それぞれがただ話し、ただ求めるところを明らかにし、ただ知りたがり、それらがひとつの世界から漏れようがないという、当たり前のことでしかなかった、その当たり前のことを成り立たせるのに、パーティは98回も要したということになる、それはちょっと肩をすくめたくなるところもあるが、何にせよそれだといいうることを現成させたのだから、僕は満足している、異様な楽しさの回が現成したのは、われわれがもともと異様に楽しい存在だからにすぎない。
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