☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
何度か見る夢/教師どもの顔面を踏み蹴り、その後は警棒でメタクソに打ち伏せねばならない
度か見る夢/出身の中学校が、再演出した「卒業式」をもう一度やるので、みんな参加しろとのこと、僕もしぶしぶ参加する、今度は何か全員にトロフィーを渡すとかなんとか。
しかしそうなると僕は、オープンカーに乗って逃げ回る教師どもの、その車のボンネットに降り立ち、その顔面を蹴り(踏み)まくってやらなくてはならない……なるべく顔面が破壊されるように。
画面を何度も蹴り、踏みつけ、その後はその顔面を、鋼鉄の特殊警棒でメタクソに打ち伏せてやらねばならないのだ、別に殺すつもりはないが、もう生きてても死んでても同じだという感じになる、それを見て級友たちが「相変わらずだな」と安心したように遠巻きに笑っている。
僕には何の憎悪もなく、暴力の感情もないのだ、ただ「クソが」と面倒くさがる感情はあるけれども、なぜか僕はこのことを<<しなければならない>>ので、怠りなくしている、だから級友たちも遠巻きに安心して眺めている、教師どもも悲鳴を上げたりするわけではない。

目が覚めたときに「ああ」という確信があって/「ああ、こんな夢があること自体が、僕は決定的に他の人とは異なるのだ」。
どうして「他の人とは異なる」のかは、あまり自分から話したくなるようなことではないし、確信はあるが朧だ、どうせ自分で知っていることなのだろうが、いちいち確かめたりはしないでゆきたい。
中学のとき、美術のS先生が担任になったときだけは、面白かった、ある意味大胆なことだったろう、S先生は初めから「おれからお前に教えられるようなことは何もない」と断言し、三者面談でさえそう話した、「こいつにはもうこいつの哲学があるんや」とS先生は言った。
確かにS先生は何の無理もしていなかったな……夢の中には出てこなかったが、S先生の顔面を破壊する必要はさすがにないのだろう、いやどーだかわかんねえが、何度かこの夢を見るのだった、起きたとき「はーしんど」とため息が出る。

なぜ、じゃれあって柔道ごっこをしていただけなのに、Iくんの大腿骨は、爆発音を立てて折れたのだろう。

大腿骨が折れるとき、「ポーン!!」とものすごい爆発音がするのだと、僕は目の前で見たのでこれまで確信してきたが、本当にそういうものなのか、今さらになって怪しくなってきた/だいいち、ちょっと足を引っかけてじゃれあっただけで、大腿骨がヘシ折れたりするものかね、今考えるとどうも物理的に不可能な気がしてならない、塩田剛三じゃねえんだからよ。
今になって考えると、小〜中学生にかけての時点で、すでに「?」ということが無数にあるのじゃないか、これはサンプルとして一度すべて棚卸しして記録しておいたほうがいいのかもしれない(とは思うが、とってもめんどくさ〜い)。
バカをやろうかあ | comments(0) |
青年リキアの超えられないパターン

のパターンも、古くなり、もう飽きすぎたので寓話にしておく。
青年リキアは、女性にモテるようになりたいという、それで僕のところに相談にくる。
女性にモテたいという、そのことへはやけに意欲的なのだが、僕の所に来ても残念ながら無駄だ、翌日にはさらにモテなくなっているだろう。
なぜなら青年リキアは、僕のところに学ぼうとして来ているのに、僕のことを見て「そりゃこの人は女性にモテて当然だわ」とは見えていないのだ、じゃあ学べる可能性なんてゼロなので互いに時間の無駄とストレス増大しかできない。

青年リキアは、第一の壁が乗り越えられない/つまり、モテない自分を見ることはできるが、モテる誰かを見ることができない。
青年リキアは、自分がモテないことに不服はないのだ、しかし他の誰かがモテるということが「許せない」、例によって「崇高な自分がモテないのだから、この凡俗な男がモテるのは許せない」と感じられる。
人は、特に現代人がそうだが、完全な善良さの中にありながら、「自分が凡俗で誰かが崇高」ということには、耐えられないストレスが起こるのだ、なぜならこれまでのすべての時間、自分で自分を崇高さに奉ってきた歴史があるから/今さら自分を凡俗に並べて納得がいくわけがない。
青年リキアは、第一に、「まずぼくの崇高さをわかってください」という前提で生きている、「そのことが得られれば、ぼくも誰かの崇高さを認めるかもしれませんから」というのがリキアの本音だ/彼は神社に参拝したとき、「わたしは崇高なことをしている」と思って荘厳に眼を閉じて祈る、よもや「凡俗なわたしが崇高な場所にすがって頭を下げにきている」とは発想しない。

自分が崇高でなければバランスが取れない。

もしカミサマの愛が光となって青年リキアの身に降り注いだら、青年リキアはぬくもりと共に「ああ、わたしは崇高……」と感じるだろう、それではカミサマの側もズッコケるに違いない、「わたしは崇高」で青年リキアはバランスが取れるが、そのぶんカミサマがバランスを崩してズッコケるという仕組みだ。
なぜ「わたしは崇高」ということでしかバランスが取れないのか、それは「吾我の驕慢」でしかバランスが取れないということだが、「吾我の驕慢」がイコール「我慢」ということだ……その字義のまま、「ガマン、ガマン」で生きてきた人は、自分が崇高でなければバランスが取れないという状態に必ず陥る/青年リキアは僕が女にモテるところを「ガマン」して見ているので、「そりゃこの人は女性にモテて当然だわ」という愉快な見え方は決して生じてこない。

正しく見ないとな | comments(0) |
シェルタニさんの崇高なパターン

のパターンは、もう古くなり、飽きたので、寓話にしておく。
シェルタニさん(仮名・♀)は、しきりに僕に会いたがってくれた。
シェルタニさんにとって、僕に会いたいという気持ちは崇高なものだった、それはつのればつのるほど、「愛がつのる」と感じられるものだった。
一方、僕はシェルタニさんの気持ちによく応えず、へらへら遊んでいたので、シェルタニさんはやがて腹を立てていった/シェルタニさんはやがて僕のことを、「愛を侮辱する最低な男」と非難し、罵るようになった。

この場合、はっきり言うと、シェルタニさんがしきりに僕に会いたがったのは、「僕の愛がシェルタニさんに届いていたから」だ/僕の愛が届いていなければ、シェルタニさんにその気持ちが起こるわけがない。
けれどもシェルタニさんは、自分以外の誰かに崇高なこころがあるなどということは、考えられないことだし、「許せないこと」だった、<<この世にはわたしのこころしかないはず>>だから。
このパターンは、あまりにも多く、あまりにも飽きたので、「シェルタニさんの崇高なパターン」ということで、ひとくくりにして決着しておきたい、そうでないとこの場合は、僕が不快になるのではなく、シェルタニさんが不幸になるのだ。
シェルタニさんは、差別的でなく鷹揚な人柄だったので、「あなたはわたしの愛を受けてふんぞり返っていてくれていいのよ」と言ってくれた、つまりシェルタニさんの判断は、自分が「愛を知る人」であり、だからこそ、愛の分からない男を許そうということだった、これでうまくいけばいいのだが、これがうまくいく例はけっきょくなかった。

自分が崇高でなければバランスが取れない。

シェルタニさんの場合、けっきょくそこに行き着く、自分が凡俗で誰かか崇高ということでは、こころのバランスが崩壊してしまう/それはもともとのこころが偏っているからに他ならない。
別に愛に限らず、シェルタニさんは、自分が崇高でなかったことなど一度もないのだから……あなたの場合はどうだろうか、あなたにとってあなた自身は凡俗だろうか崇高だろうか、「凡俗」の側でバランスを取れる人はごく少なく、少しでも光が差せばただちに「わたしは"崇高"」と、多くはその本性が出るものだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
「わたしの思い」と「思いやり」

ーむ、このネタは、もう古いというか、ずいぶん前に話したし、しかも今になっては「機能レベルで無理」の感なので差し控えてきたのだが、ひさしぶりにわかりやすく扱ってみようか。
一番わかりやすいように、ものっそいストレスの掛かる例を示してみようか、これは悪趣味のためではなくあくまでわかりやすさのためにだ/「わたし」しか発想しない人間が、どれぐらい「えぐい」かというのが焦点になる。
「おれ昨日バーに行ってね」「あっわたしも飲みに行っていました」「ちょくちょくバーに行くんだけど」「わたしもこのごろよくバーにいきます」「おれスコッチが好きでね」「あっわたしはカクテルが好きです」「学生時代のツレと飲んだんだけど」「わたしも学生時代の友達多いんですよ」。
「結果的に平等主義も女を苦しめているじゃないか」「わたしもそう思います」「健気な女もいて、その女のほうがもうやめてほしいって叫んでいる」「わたしもよくそう思います」「どうしたらいいか本当に教えてくれって必死な女もいるのに」「わたしもそう感じるタイプなんですよね」「世の中の風潮はまったく逆のほうへ進んでいく」「わたしもそういう流れを感じています」。

「おれにとっては神戸は大切な街でね」「わたしも神戸に行ったことあります、いいところですよね」「学生のころは、モテないのが悲しくてもう」「わたしも学生のころって何もわかっていませんでした」「けっきょくM先輩との出会いが決定的だった」「わたしも人との出会いが大事でしたね」「人間の迫力が違ったね」「わたしも迫力のある人に憧れるんですよ」。
「これ食べる?」「あ、わたしはいいです」「おれ梅酒が飲みたいな」「梅酒ですか、わたしも梅酒好きです」「どこに住んでいるの」「わたしは西駅のほうです」「あ、何かでっかい商店街のあるところね」「はい、わたしあの商店街好きなんですよ」「今の月9のロケがあの商店街なんだろ」「そうなんですか、わたしあまりドラマみないんです」「そういえば今夜はスーパームーンらしいな」「そうなんですか、わたし月って大好きなんです」。
「トルストイは永遠の生命ということをズバズバ言う」「そうなんですか、わたしトルストイは読んだことないです」「西田幾多郎は座禅を打つ当人でもあった」「座禅ですか、わたし座禅に興味あるんですよね」「ショーペンハウアーはウパニシャッドの信奉者でもあった」「そうなんですか、わたし姉からショーペンハウアー勧められたんですよ」「大江健三郎は意外にクライマックスを描く名人でもある」「そうなんですか。大江健三郎って、わたしの中で、本当の文学の人って位置づけなんですよね」。
もういいと思うが、シャレじゃなく現代人の会話ってこんなだぜ、こんなもん会話とは言わんだろ/「聴く」という能力が本当にないのだ、それはこの世界に「ナゾ」をひとつも見ていないからで、本当に自分のことしか見ていないからなのだが、この状況を「放置」するしかないという実情が、輪を掛けてえぐいのだった、誰かなんとかする方法があったらバリバリなんとかするように(おれにやらせるなよ、おれはやらんぞ)。

「ところで今夜はスーパームーンらしいですね」「お前、意外にそういう天体ネタ好きだよな」。

↑なぜこんなカンタンなことができんのだ!! といって、本当にできないんだからしょうがないよなあ……
思いやりだ思いやり、感激とか感動とか反省とかもう要らんから、思いやりだけ実現しよう/「これ食べる?」「ん? そんな、気にしないで、ひとりじめにしてくれていいよ」←これでいいじゃないか、なーぜこんなカンタンなことができんのだ、特級のバカはもう悲しんでいる時間もないから早く自分でなんとかしろ、こころがこじれているのはミエミエだから説明しとらんでなんとかしろ。

正しく見ないとな | comments(0) |
痴漢したい男3
「どうしていつも、こんなにやさしくしてくださるの?」と言ってくれる女性は、現代にも存在する。
別にいいだろ、僕自身はクソでも、そう言ってくれる女はうつくしいものだ、たぶん女神さまか何かの転生なんじゃないかと思う(シャレじゃなく、目を疑うほどキレイな人ですし……)。
一方、「いつもよくしてくださって、ありがとうございます!!」というタイプの女性もいるのだが、こちらは残念ながらハズレだ、あしざまに言うのは僕自身つらいのだが、前向きにいくためにはこう進めるしかない。
理由はクリアだ、「いつもよくしてくださって」のほうは、「女の側」の感謝のこころが主題になっている、一方で「どうしてこんなにやさしくしてくださるの?」というほうは、「男の側」のこころが主題になっている、この「自分以外の誰かのこころを主題にする」ということは、現代人には不可能なのだ、機能がないので、どう逆立ちしたってその女神さまのような声と言葉は出てこないのだった(無念だがしゃーない)。

僕がその女神さまの従姉妹に「痴漢した〜い」と言えば、「わたしなんかでよろしいんですの?」と、彼女は心配する/マジなのだ! これが空想でも妄想でもないし、しかの彼女の演技でもないってんだからおれだっていつもびっくりするのだ。
一方で、その女神さまエリア(つまり「思いやり」を持つ領域)にいるわけではない女性は、僕が「痴漢した〜い」と言えば、「うん、わたしは別にいいよ〜」と了承してくれるだろう。
つまり、前者は第一に「Are you OK?」がフォーカスされているのに対し、後者は第一に「I'm OK.」がフォーカスされている/「どうしていつも、こんなにやさしくしてくださるの?」は、" Why are you always unbelievably tender for me? " になるし、「いつもよくしてくださってありがとうございます」は、" I always do appreciate your much kindness! "になる、英語力についてはとやかく言わんよーに、とにかく第一に「あなた視点」にフォーカスがいく女性は、単純にいって格が違うのだ、これは具有している機能のレベルの問題なので、マネしてどうこうできるたぐいではない。
話が飛ぶようだけど、前者はこの世界に「ナゾ」を見ながら生きている一方、後者はこの世界に何のナゾもないのだ、前者の女神さまは「どうしてわたしなんかに痴漢などしたがりますの?」と、男の側のこころに「ナゾ」を見ているのに対し、後者は「わたしは別にかまわないっていうか〜」と、自分の側のこころを見ているだけなのでナゾがないのだ/そしてナゾのない側は、ナゾがないので本質的に「毎日することがない」のだ。

「痴漢したい男がまともだ」という話を、女神さまは「ナゾを解く手がかり」として聴く、そうでない人は「議論の題材」として聴く。

今、世界中のオンラインとオフラインで、「激論!」が交わされているが、なぜそうして議論がファイヤーするかというと、「聴く」という必要がないからだ、世界に何のナゾもない人が何かの話を聴かねばならない理由は根本的にない、ナゾがないから「聴く」という機能は死滅し、結果的に「発言する」という機能だけが残ったという状態だ、しかも本質的に「毎日することがない」のだから、いくらでも議論に飛びついてファイヤーするに決まっている。
記事のタイトルからずれてしまったがしょうがない、僕はいつでも「痴漢したい男」に還りたいが、そこで「わたしもされた〜い」と女性が言うなら、僕としてはまっぴらごめんで退却することになる、どうしていつもそうやって自分の話にサッと取り替えるのかと、痴漢に説教されてちゃ世話無いぜ。
視点変えてこ | comments(0) |
痴漢したい男2

はもともと「痴漢したい男」だ。
ただ、そのことの評判が悪くなってきたので、その「痴漢したい」を滅却した。
そこで「あきらめる」のではなくて、まさかのまさか、上位のスケベ心に到達してやろうぞ〜と発想するのが、僕の悪質なところではある。
痴漢衝動はないのに、性的な力だけ帯びている男が目の前に立つと(あるいはその男の手に触れられると)、女性はシャレではすまない恐慌状態に陥ることがある、経験者に言わせると、何かとんでもない深さの「罪」が我が身に襲いかかってくるそうな/そんなこと言われましても、と笑って済ませたいのだが、実際に起こるその恐慌を見ると、うーん笑って済ませられる次元のことではないようなのだこれは。

男が、「男なんだから痴漢したいに決まっているだろ!」と、正論を主張するのはハズレだ、正論を力説しているという時点でハズレである、これは魂がアカンほうへ落下していく。
女が、「男の人なんだから、そりゃ痴漢はしたいに決まっているわよ」と、同情論を唱えるのはアタリだ、これは魂が救済のほうへ上昇していく。
女がもし、「男の人は、いつもこらえてくださっているのよね」という視点にまで上昇できれば、たぶんそれが最高位だ、この女こそ、男から見て「護(まも)らないと」と見える/ただしすでに発狂済みの男は除く。
うーん、しかし正直なところ、今女性は、自分が襲われることに関心はあるとしても、男性が女性を襲ってしまったり、それをなんとかこらえようとしたりすることには(つまり「男性側」には)、たぶん関心が一ミリもないだろう、つまり「思いやり」が根こそぎゼロなので、これはさしあたり机上の空論なのだった/思いやりの機能が失われている以上、今さらキモチひとつで思いやり派に転向することは不可能だ、まあいかにも現代的ではある。

仮に男が女を大切にしても、「どうしてこんなに大切にしてくださるの?」とは現代の女は言わない。

話が逸れてしまうけれども、つまりはやはり、もう機能的に自分のキモチしかわからないのであって、「他の誰かが何かをしている」ということの全般がわからないのだ、仮にすべての男が自国の女を護るために戦地に出立して戦死したとしても、現代の女はたぶん「よくわからない、とりあえずわたし楽しくすごしてます!!」というぐらいにしか感じないのだ(これは機能的にしゃあないのである)。
つまり、痴漢男に対しては無限の弾劾が湧くが、僕が「バージンはもっとまともな男とヤッてこいw」と女を追い返したりしたことについては、一ミリも評価されないのだ、それもしゃあない/痴漢男が美少女のバージンを目の前にしていながら、それを放棄するのにどれだけの心胆が要るか……そういうことは本当にわかってもらえないのだろう(とほほ)、僕はそのことについて不満や不服は一ミリもないのだが、ただ後になって「とんでもない深さの罪が我が身に襲いかかってくる」というシーンを目撃して、僕自身が鼻白んでいるのだった、「これでは解決しないのか」と、まったくブルーな話だ。

視点変えてこ | comments(0) |
痴漢したい男

は今、電車の中で、夏服の女子高生たちにギューと包まれたとしても、痴漢したいとは思わないだろう。
これは、僕がまともな男だから、ではない、僕がまともな男ではないからだ。
もしここを誤解したままだと、永遠に春の日はやってこないだろう、まともな男は女子高生に「痴漢したい」からまともなのだ、ただ実際には、女の子を目の前にすると、「そんなことしたらこのコがかわいそうだし」ということで引き留まる、だからこそまともな男だ。
そこでむしろ僕などは、近年の女性たちのリクエスト、「男として性機能を最大化して、でも性衝動はもたないでよ」という希望に応えて、それをまさか実現してしまったというたぐいだ、どうやらそれはえげつないことだったらしく、その結果、「こんな奴についてこられるのか?」という問いかけの実物だけが残ってしまった、どう見てもこんなケースを「まとも」とは言わない。

ひとつ冷静に問いたくなるのだが、「女子高生に痴漢はしたくない男が、自分の恋人にだけは熱烈にセックスする」なんてことが、本当にありえると思うのか、そんな男が欲しければそれはもうそういうロボットを購入するしかないのであって、生身の男が「ロボットと違う〜」ということで責められていたら、もう話がお花畑に転移していて意味不明だ。
僕は、学校の教師であろうが政治家であろうが、男ならキャピキャピの女子高生には痴漢したくなるのが当たり前だと思うし、痴漢したくならないなら、それはよほど頭がオカシイか、さもなくば根こそぎのうそつきなのだと思う、そんな狂人やうそつきの話を聴いてやる値打ちは一ミリもない。
女子高生に痴漢したくない奴は頭がオカシイし、かといって、それを実際にやってしまう奴はただのアホだ、なぜなら「被害者」が出るからだ、正確には痴漢衝動が悪いのではなく「被害者」を生み出すのが悪い/だって仮に電柱に痴漢したくなるドヘンタイがいたとして、電柱に痴漢するぶんには被害者が出ないのだからかまわないじゃないか、この「被害者が出てしまう」ということで人は冷静になるのであって、痴漢衝動そのものを滅却できると思っていたら男女とも両方救いがたいアホだ。
また、男のほうもアホなもので、痴漢衝動でグヘヘヘとなる奴、それは「当たり前」であって何も自負心になるようなことではないので取り下げようか、痴漢衝動にグヘヘヘとなっていたものが、その瞬間「飲みに行こうぜ」と誘われたら「おっ! 行こうぜ」となってしまって全部忘れてしまうのが男のよさだろ?/痴漢衝動のグヘヘヘは、あるのが「当たり前」であって、「それ以外のものがない」という場合が異常なだけだ、そんなものは何の自慢にもならないので引っ込めておこう、最も貧しい生き方をしてきたら男は誰だってそうなるんだからわざわざ自分でアピールするものじゃない。

痴漢衝動がない男は狂気、痴漢行為がない男は正気。

現状、いろいろややこしくなっているのはわかるが、男に「痴漢衝動の自己破壊」を要求するこんにちの状況は、女性たちが「絶対にイヤ」というタイプの男どもを生み出していくだけだぞ、だって頭のオカシイ男を大量生産しているだけなのだから/実際、女の目から、「何か不穏で、話が通じなさそうでこわい」と感じる男の人が増えただろう? そりゃあなた、自分でキンタマを破壊した男が目の前にいたら「こわい」に決まっているよ。
このシッチャカメッチャカな状況を突破するのに、確かに「性的な神霊力のみを看取して交流させる(草)」というのは一つの方法だったのだが、そんなことできてたまるかという話だし、この方法は「できる」と言い張って実際には出来なかったら当事者が地獄に落ちるやつなんだぜ、しかも逃げ回っても何か罰を食らう感じになるし、こんなもん普通の痴漢よりタチが悪いんじゃないのか/あなたの周囲を「痴漢衝動のない男」が100人取り巻いたら、それはあなたにとって安全で安心で安息の状況なのだろうか、ウーンそんなことはなくてまったく逆だと僕は思うし、もしあなたの理想像の男性があなたの目の前に迫ってきたら、あなたはなぜか自殺に追い込まれるリスクがあると僕は思うぜ。

視点変えてこ | comments(0) |
Purge their evil words/われわれの生きるのに複雑性はない

っそ〜またこんなわけのわからん話をしなければならない!!
<<切り裂けよ>>、「リンゴ」という言葉に意味はないが、それはトマトでもなければギョーザでもないという意味を持っている。
われわれが生きるのに複雑性なんてないのだ、あるのはpurifyingだけだ。
「リンゴ」といえば、トマトでもないしギョーザでもないし、その他のすべてでもないだろ、われわれが生きるのに複雑性なんてねぇんだよ(意味不明でホントごめんなさい)。

カミサマのことなんかウダウダ言っていてもしゃあないのである。
天地のあいだにあることや、重さやエネルギーのことは「確かにそう」だろうが、じゃあオメェは何なんだということになれば、正当には「切り裂けよ」としか言えないのだ、だっておれには複雑性なんてないんだから、天地のあいだもヘッタクレもねぇじゃねえか。
そりゃたしかに、万物はカミサマが与えたもうものかもしれないし、エネルギーは地の底から送られてきているのかもしれない、だからといってオメェ、いったん与えられたものはもうおれのもんじゃねえか、それを送り主の顔色を窺っていたって送り主の側は今さら「は?」としか思わねえよ。
カミサマの顔色を窺うってことは、カミサマにつながっていないってこったぜ、つながっているならフル乱舞してすべてがカミサマの意と重なってなきゃだめってことだろ、それをオメェ作為的に重ねにかかるのはインチキじゃねえかよ/精神という熟語には「神」という字が当てられているが、そりゃ出どころはカミサマでもいったんおれのモンになったからにはおれのモンとしてやるしかねえじゃねえか、で、何をやるかといったら「切り裂けよ」と、purifyingでしょと言われたら確かにそうなんだよな、はあ。

100%。

そりゃ切り裂いてpurifyingだったら100%だわな、「リンゴ」は「100%リンゴ」だから当たり前だ/これって何だ、何が隠されているんだ、もうホント勘弁してくれよと言いたい、いいかげん発見アレルギーだしもう発見にレポートが全然追いつかないんですがそれは……
まあ何にせよ、虫の好い話はないのだった、虫の好い話のパターンのひとつは「カミサマに頼ること」で、もうひとつのパターンは「自分頼みになること」だ、じゃあ全滅ですやんということになるのだが、唯一の方法がpurifyingなのだった、われわれの生きるのに複雑性はない/われわれには実体だけがあり「間違い」は存在していない、うーんいわゆるわけわかめである。

できるオンナだね | comments(0) |
ゴーマンな腰振りと、しょーもないメスの気配3
は女に幻想を抱いている。
女も、女に幻想を抱いている。
よく女同士なら、「女ってひどいもんだよ〜」というが、そう言っている女だって、自分のヴァギナのタチの悪さを心底から知り抜いて言っているわけではない。
女はいつでも、クスリを盛(も)られてそのときのペニスを入れられたら、ふらーっとそちらのペニスへ流れて行ってしまう存在だ、そのための穴があいているのだ、このゾッとするようなものをよく知った上で、それでも「かわいい」「大切なもの」と言えるのでないと、男は女を愛していることにならない/性欲が盛(さか)るのを理由に「女を愛している」とは決して言い出さないように、でないと当人が混乱するから。

つまり、「○○ちゃんのことが大好き」とか、「キミのことを愛しているよ」とか「思い出がいっぱいだね」とか、信じたくなるのはわかるが、その愛では残念ながら「届いて(到達して)」はいない、女も必死にその健気な愛を信じて縋ろうとするが、本当の本当に「届いて(到達して)」いるかというと、残念ながらそうではないのだ/かといってそれがニセモノというのではない、なんとか愛し合おうとした者たちの健気さは崇高だ。
だが、もし人々の健気さとヴァギナの本質を「真っ向勝負」させたら、単なる威力としてヴァギナの本質が勝ってしまうのだ、いかに健気で涙ぐましくても、それだけではヴァギナのタチの悪さには勝てない、勝利できるとしたら唯一、愛が届いて一度は女が100に到達した場合だけだ、その場合だけ、女は「わたし」をヴァギナに譲渡せずに済む。
もし男が、セックスという直接の方法を通して、女に「わたし」を掴ませようとするのならば、そのヴァギナのタチの悪さを全面的に引き受けた上で、それでも愛してやるということが必要になる、ただしこれは壮絶なことなので、必ずしもこの方法にこだわる必要はない、フツーの感覚なら「ムリムリw」というたぐいだ。
女が目の前の男を信じて、ヴァギナの本質をすべて解放したとき、ヴァギナの力が嵐となって噴出してくる、それでもなお男が、その女の内に、ヴァギナではない「お前」を見つけてやれるか/これはヴァギナの力が嵐のように吹きすさぶ中、その嵐に直撃されて微動だにせず「お前」を見つけてやるという作業だから、よほど鍛えられている男にしかできないのだ、まして自己がヴァギナに食い尽くされていく真っ最中の女に向けてだ、<<女当人も叫んで拒絶する>>中、それでも微動だにしないで「お前」を見つけてやるということだから、いくらなんでも壮絶すぎるのだ、そこまでできたら「女を愛している」といって誰も否定はしないだろうよ。

「わたし」を掴んだ女に、「おめでとう!!」と送ってやるときが一番幸せだ。

女にとって、自分が何のために生きているのかという、定義が得られるかどうかの問題だ、別にセックスにこだわる必要はなくて、ただその定義が得られないと女はたいていヴァギナに自分を譲渡するということがある、そして僕はわざわざその方向へ足を引っ張る男どもが存在することにはどうしても肯定的になれないのだった/もともと自己を持っていない女に自己を放棄させるのなんて簡単すぎるんだよ、その逆がどれだけカッタルイものか、そのイージーなほうを男の自負にするのは本当にやめにしないかと提案したい(しかもそっちのほうが老けた女にはウケがいいという、ふざけんじゃねえよオイ)。
今、世界中の女性が、自己実現に向けて明らかな動きを示している、僕はそれを応援したい者だが、男を否定した女が自分だけで自己実現に至る(「わたし」を掴む)というのがどれだけ困難なことかも、年の功として知っているつもりでいる/できたらどの女性にも、「本当の愛を向けてくれた男性がいた」ということが背後にこっそりあったほうが、取り組みの支えとして有利なので、できたらそうであればいいなと、僕は祈っているのだった、もちろん大きなお世話というやつではあるけれども。
えっちはいいよな | comments(0) |
ゴーマンな腰振りと、しょーもないメスの気配2

ーい面倒だ、本当のことを話してしまおう。
女は、ヴァギナという穴があいていて、そこにペニスを突っ込まれると、いつでもバカになれるというリスクがある。
だがこのリスクは、「わたし」の存在が掴めていない女に限る、「わたし」が掴めない・失われていくという苦しい状態でいると、女はヴァギナ感覚に「わたし」を譲渡したくなるのだ、このことには本能のはたらきもあって、つまり自分の生が「わからない」から、次の世代に投げようというはたらきもある。
つまり、「わたし」という自己が掴めない女は、実は根本的な自己決定の能力がない、いつでも「ふらついているヴァギナ」にすぎないのだ、このことがわかっていたから昔は、女というと家の中に囲っておくものだったのだ/「ふらついているヴァギナ」は、好ましいペニスと出会ったらもうそちらに行ってしまって帰ってはこなくなるから。

何も珍しいことではなくて、当たり前のことなのだ、自己が掴めていない女はヴァギナなのだ、こんなミエミエのことをいつまでも「女のナゾ」みたいに扱う風潮はいいかげん付き合いきれない。
女が自己を掴むにはどうすればいいだろうか、それは言わずもがな、男でも女でもそうだが、「愛」に出会うことだ、人は誰かへの(誰かからの)「愛」に出会うことで、はじめて「わたし」の存在とその理由、および自己決定を見つける。
ただし、女にそれだけの愛を向けて、「わたし」の存在と自己決定を得させるのは、ただごとではないし至難のワザだ、女が好むファンシーな思い出をいくら足してやったところで、女が「わたし」を見つけることは決してない、人間なのだからそんな甘い話があるわけないのだ。
たとえ99まで壮絶な愛を向けたとしても、それが100に到達したことがなければ、女は適宜、出くわしたペニスと仲良しして、その都度「ヴァギナ自己」にふわぁっとなって、もう戻ってこなくなる、そりゃ当たり前の「定番」だ/女が100に到達したくて男と出会いたがるのはうつくしいことだが、それを放棄して盛(さか)んなペニスと出会いたがるようになるのは、残念ながらつまらんことなのだ、僕は女と寝るというのはわかるが、ヴァギナと寝るというのはわからないし好きじゃない、ついでに言っておくと男性のペニスの大きさは業(カルマ)と関連しており、ペニスが大きいというのは実は業が深くて不利なのだ、ギリシャ彫刻を見ればアポロンのペニスが小さくて「理想的」と示されているのがよくわかる、女がヴァギナ化してしまうのは「真実」じゃなくてただの「失敗」なのだ。

ヴァギナに向けてセックスをするのは容易だが、女に向けてセックスをするのは壮絶な根性がいる。

女が「ふらついているヴァギナ」にならないために、たとえば中東では女にだけ姦通の罪を重く設定したり、とにかく「貞操」でがんじがらめにしてきたのだが、それは防衛障壁であって解決の方法ではない、解決のためには女が「わたし」を掴みとるしかないのだ/つまり「この人と出会うために生まれてきた」「それがわたしだ」というところまで到達しないかぎり、女は本質的に野放しにすれば「ふらついているヴァギナ」にしかなれない。
こう考えればわかりやすいか……たとえば、優れた女性シンガーがいたとするじゃないか、そのときその女はとても強力に自己を発揮しているように見える、けれどもどこか、「結婚したらシンガー活動をやめてしまいそう」という感じがしないか? だとすると、それはそれだけ歌っていてもなお、その歌手は「わたし」でなはいということなのだ、もちろん婚姻のシステムに帰順したからといって女が「わたし」を掴めるわけでもない/こんなもん、もともとがこれだけ不利な「女」を、ヴァギナ化したとしても男には何の自慢にもならんのだぜ、男はすべからく女が「わたし」を掴むことに協力しろ、女をヴァギナ化してエロ湯たんぽにすることなんかクソ簡単すぎてつまんねえんだよ。

えっちはいいよな | comments(0) |
ゴーマンな腰振りと、しょーもないメスの気配
は男尊女卑がキライだ。
おれが女よりエライのはステキでいいけど、男が女よりエライというのはどうなの、そんなことはまったくないだろと思ってしまう。
なんというか、アダルトビデオなどを見ていると、男の腰の振り方がゴーマンなのがきらいだ、何かチンコを突っ込んだら「はいオレの勝ち〜」みたいな、意味不明の傲(おご)りがある/一般にセックスってそうやって楽しんでるの? 正直まったくその感情がわからん。
また、その意味不明のチンコ感情に、女の側もオマンコ感情で応えて落ち着くというところがあって、これが僕はキライなのだ、女のほうがさっさとオマンコになりたがっている素振りを見せることはよくある/またその性分につけこんで女の上にのしかかり、「ハイ女心〜」と思っている男が増えるのも、僕はキライなのだ、これは僕が悪いのだろうが、そっち系のパターンはもうかなり昔に飽きてしまっており、今さら盛り上がられてもげんなりするのだ。

これは、あきらかに僕のほうが近所迷惑なのであって、つまり僕は、男女平等どころか女の子たちに隷属するオモシロ虫として向き合ってきたのだが、その結果、陰茎と女陰で「ハイ決着〜」ということはせずに、よりにもよって男の神霊力()と女の神霊力()をフル出力で対決させあうというやり方をしてきた、そりゃあ確かに男尊女卑にはなりっこないけどさ……/しかし結果的には、こちらのほうがメチャクチャになってしまうのは当たり前であって、僕は男女平等というからには、女性のほとんどはこのていど簡単に付き合えるのだと思っていた(アホだ)。
マジにそう思っていたので、そのことはこれまで何十回も、周囲の女性たちに叱られてきたのだ、「こんなバケモノが手加減なしにフル出力してくるものに、女がどうしろと?」と、いよいよ本気で叱られたので僕も本気で反省している、しかし反省はしたとしても、その後どうしたらいいものやら……ということでぼんやり困り続けている。
とりあえず、僕はおとなしくしていると割と評判がいいので、いろいろサボろうとは心がけている、僕がサボろうかなというと「ぜひぜひ」と言われるのも逆にどうかと思うのだが/何せよ、僕は、アダルトビデオで見る男の腰の振り方がゴーマンな感じがして好きじゃない、あれを「男らしさ」と言われるとさすがにそれは弁当箱に特製ベニテングダケソースを入れてやりたくなる。
そして、そのゴーマンな腰振りに、屈服して楽になろうとするウッフン女の気配があるのもきらいだ、中には男女平等を主張する女当人こそ、ゴーマンな腰振りに屈服するオマンコの気配が滲み出ていて、またそれを男どもがニマニマ見ているというような構図もあって、僕はそれらにきらいというより「ヒマすぎるだろ」と言い立てたいのだ/「ゴーマンな腰振り」というと「ゾクッとします」というようなしょーもないパターンは男も女もやめような、ガキじゃねえんだから。

僕は自分のエロビデオの閲覧履歴のすべてを世界中に開示されても何とも思わん。

まあ、あまり変態的な趣味はないので、王道か、一部にはロリ系に偏ったものを観ているぐらいで、あまり面白みはないだろうが、しかしこんなものを暴露されたところで、いったい何が恥ずかしいのかおれにはさっぱりわからん、別にオナニーしているところを世界中に配信されてもおれは何とも思わない、ただそんなもの人を不快にするだけなのでわざわざこちらから見せてかかるわけはないが、もし放映されたらびっくりするぐらい「つまらん」と思うぜ/いったいセックスに「淫靡」を覚えている人は、どのへんに淫靡さを覚えているんだ、頼むから今さら「堕落、したいの……」みたいなのはやめてくれよ、どうせ本当にゲロを吐くのはマジモンの神霊力()を食らったときなんだから。
ゴーマンな腰振りをする男、その、チンコをマンコに入れたら「ハイ勝ち〜」みたいな傲り方で出てくる感情は、何かふだんよっぽど優越感に飢えているからなのかね、またその優越の下敷きになって特別な気分になるのが得意な女もどーなんだ、こんなことで「オトコとオンナ」とか言っているとめまいがするので、もっと健全にやりましょうや/男女に身分はあると思うけれど、まさかその身分を「おらおら」と「あんあん」に帰属させるつもりじゃないでしょ、どこの詩文にもそんな男女像は示されていないし、ルーブル美術館にもそんな男女像はひとつも展示されていないでしょ。
えっちはいいよな | comments(0) |
気分よくなるためのひとつのルール
れわれが必要としているのは、批評ではなく協力だ。
理由は明快で、われわれは人との協力なしには生きていけないからだ。
協力なしに生きていこうとなると、われわれの生はきわめて不利で、われわれがそうした不利に生き始めたときには、もう批評なんか交わし合っても何の救済にもならなくなる。
われわれが必要としているのは批評ではなく協力だ、だから人に協力したときは気分がいいし、人を批評したときは気分が悪い/いくら批評にテンションが上がったとしても、それが睡眠中に麗しい夢を見せてくれることは決していない。

たとえばインターネット上には、いろんなものの「レビュー」が掲載されているけれど、あれだって本当に「レビュアー」みたいなつもりになっていたら、自分は悦に入れたとしても、客観的に見れば気持ち悪いものだ。
レビューというのは、「これからこのたぐいの商品を選ぶ方へ、判断の目安に」ということで、協力の精神において示されるものだ、そのことに向けて端正にレビューが書かれてあったら、「どこの誰だか知らないが、わかりやすいわ、ありがとー」となる。
「批評」といって、社会的な地位に立脚した人の批評は、社会的に意味を為すが、一個人の批評というのは、あまり意味は為さない上に、何に対する協力にもならない/われわれはふつう、生きていくのに「協力」以外のことはしなくていいのだ、批評は偉い人がするものであって、批評をした人が偉い人になるわけではない。
われわれは、すべての人を好きになることはできないし、好きになれなければ、熱心で親しげな人にも「どこかへ行ってくれ」と望まざるをえないのが性分だ/しかしわれわれは唯一、好きではない人にも、「協力」はするべきというルールを背負っている、それは他ならぬわれわれ自身のセーフティネットだからだ。

好きなふりはやめる、協力は実行する。

僕はなるべく、駅前のビラ配りやティッシュ配りは、受け取ってやることにしている、バイトくんが早く帰宅できるようにだ/もちろん手元にビラは邪魔になるのだが、そんなものは連れに押しつければおれの手元はスッキリ快適になるので、おれはまったくかまわんのだ、こうして人は協力し合っている。
駅前でヘンな宗教団体や政治団体が活動しているときは、僕はそれに協力はしない、その活動そのものが彼ら自身をけっきょく益しているとは思えないからだ、彼らがさっさとあきらめてナイスな生き方に帰参することへ協力するために、僕は駅前の活動を冷淡に無視して署名はしない/われわれが本当に気分よくなれるかどうかは、ただ一点、「協力」を実行したか否かにかかっている、いくら好意や善意で糊塗したところでそれは本当の気分のよさをもたらしてはくれない。
恋女のマインドね | comments(0) |
感動を失った人間はどこへ行くか2

んな奴の言い分をまともに聞く必要はない、とわれながら思っている/いや冗談でも謙遜でもなく、おれはひたすら横着をして生きているのだ、自分のことはアンドロメダ星雲の棚に上げるのが基本だ。
ただ、「感動」がないのはキツいなと思って……何しろそれは、愛を告白しようがされようが、部活動を最後までやり抜こうが命を賭した仕事を成し遂げようが、あるいは世界中のあらゆる景色と神殿を見たとしても、何も「感動」がないということなのだから、それはキツいに決まっている。
何も「感動」がないのに、生きていくのには超絶努力をしないといけないし、月曜日は容赦なく来る、さらに一所懸命じゃないと人に非難されるし、自分で自分を責めもするのだ、それではまるで罰ゲームのような百年間を生きなくてはならなくなる。
一方、僕のようなテキトー横着人間は、これまで無数のものに感動し、感動しまくって、気づけばワーと進んできて、振り返ればいつの間にかすべてに思い出が山積している/僕は自分の思い出を語りきることはここまでで「絶対に不可能」という確信があるが、この感動と思い出を全部ナシにして七倍努力しろと言われると、さすがにそれは非道がすぎるのだった。

十代の僕は「天空の城ラピュタ」で形成されたし、二十代の僕は映画「タイタニック」で形成された、三十代は「新しい人よ眼ざめよ」で……その他いろいろ形成の要素はあるが、ざっと書き出したとしてもとんでもない量になるので、もうやらない、この試みはこれまで何度も為されてきたが、毎回「無理!!」と頓挫しているのだ、ゴミ屋敷の主がAmazonの倉庫を管理したというようなどうしようもない物量がある。
その中で、無数の女の子への「バンザーイ」があって、なぜホテルにまで連れ込んだ美少女に手を付けず、「おれになんか気を遣うな、愛している男のところへ行っちまえ」と、神風に吹かれたような祝福と送り出しができたのかというと、何かに「感動」していたからだ/僕は「感動」にクソほど励まされてきただけであって、自分の道徳心から私利私欲を捨てられたことは一度もない(私利私欲はサイコーだぜ!!)。
たとえば神戸の街でそういう思い出があったとき、僕は何を頑張ったとも思わないで、ただひたすら神戸という街の「おかげ」だと思っている、僕にとってはそれが感動的なことなので、「これ以上はない」と心底思うのだ、「これ以上はない」なら「サイコー」に決まっている、そしてサイコーの時だけ人は安らぐことができる/僕の無数の感動と無数の思い出はすべて何かの「おかげ」で得られており、僕自身で獲得したものなど何一つない。
今僕が女の子に「愛」なんて向けたら、女の子としては瞬間的にキモチワルイだろうし、場合によってはその時点で嘔吐か訴訟モノだと思う、それが間違っているとはやはり僕は一ミリも思わない、そして僕は自分の受ける軽蔑や嘲笑ごときで、感動のしもべである自分をやめることはないのだと思う、そんなことぐらいでやめるならもうとっくの昔に、八千年ぐらい前にやめていただろう、これは自慢話ではなく自分の近所迷惑ぶりにあらためてドン引きしているのだ、そりゃこんな奴は嫌悪されるのが当然だ(でもなぜか愛してくれる人もいるのだ)。

僕は感動する、あなたは感動しない、それで最後まで走り抜けよう。

生身として、そんなに何十年も生きるわけじゃないし、たぶん行けるでしょ……学生時代の部室にあった共用ノートには、「人は感動するために生きている」という、僕の手書きの一文が残っているはず、ああいうのは歴代保存されるものだから、ひょっとしたら今も部室にあるのかもしれないな。
丸の内で働いていたとき、僕のことが大キライだった同期の女の子が、唯一この点だけ、「感動、か。そういう視点で、これまで考えたことがなかったな」と、僕の話すことに立ち止まってくれたことがある、その後はなお嫌われたけどな/まあどれだけ劣勢になったとしても、僕はヒマなのでこの道を進んでゆく、たぶん一人だけになってもこの道で行くのではなかろうか、狂人および近所迷惑は重々自覚しておりますので、どうかご容赦のほどを……そして深く反省を、まったくしておりませんので、ざまあみろ〜。

視点変えてこ | comments(0) |
感動を失った人間はどこへ行くか

ょっとすると、女性にとって、男性に愛を向けられるのは、この上なくうれしいことなのかもしれない。
もちろん、「んなわけあるかw」というのが99.99%の大勢なので、男性陣は甘い夢を見ないように……お互い細々と暮らしていこうじゃないか。
ただ、ふと思い返せば、「あなたが初めて、わたしをちゃんと女として見てくれた、あなたがわたしを女性として扱ってくれた」ということで、女の子が僕の手にしがみついてぽろぽろ泣くのを、実際に僕は見てきたのでもある。
かつてがそうして、「女は男に愛されたい」という欺瞞の世界だったのか、それとも現在が、「女は男の愛なんか要らない」という欺瞞の世界なのか、わからないが、とりあえずわれわれは現在に生きているのであり、かつての時代を生きてはいないのだった。

現代、「男の愛」などというと、まっさきに「草」という感じしかしないし、半分方の人はとっさに、「男の愛? あ、BLのこと?」と連想するだろう、シャレではなくマジにだ/悪意があってそうなっているのではなく、文化的にそうなっている。
別に女が悪いと言っているのではなく、僕だってそう感じるということなのだ、僕が僕自身「男の愛」「おれの愛」とか言い出すと、何の屈託もなく「大草原不可避」としか感じない、ただ僕は厚かましく、その大草原を取り下げないという近所迷惑を続けているだけで……
実際、男の愛といっても、現代のわわれれは石原裕次郎のようではまったくないので、なんというか、「暴落」したのだ、貨幣が暴落すると、何の罪もないタンス貯金の人まで破産するだろう、この貨幣暴落の怨恨から復讐(revenge/リベンジ)の鬼としてナチス・ドイツが出現したという背景が第二次世界大戦にはある/かといってもちろん、ヒトラーの蛮行が肯定されるわけではない。
ただ僕は、今でも「?」と思うことがよくあって……ひょっとしたら今もってなお、女にとっては男に愛を向けられることが、この上なくうれしいことなのかもしれないということがあるのだ、ただし、<<いくらうれしくても拒絶はするし、軽蔑も嘲笑もする>>ので、状況は何も変わらないのだが、そのとき女性たちの身にはそれだけではない嵐が吹きすさんでいるのを看取する気がする/かといって、この先に男の身が受けるのは軽蔑と嘲笑のみということは変わらなくて、ただひとつだけ賢明に言いうることは、<<<変わらないものに目くじらを立てる必要はない>>ということなのだった。

かつて、女に男の愛が向けられることには、何か「感動」があった。

現代の女性も、イケメンに愛されることが(もしあればだが)、不必要とは言っていないし、うれしくないとも言っていない、ただ「感動」があるかというと、さすがにそれはないのだ、そこが決定的に違う/現代で男の愛が女に向けられても、何か「エロ青春マンガの実写版」のような感じがする、それはそれなりに愉快だしときめきもあるものだが、やはり「感動」ということはない(自分が有頂天になるのは感動とは言わない)。
現代で、「男の愛」というのはウソクセエというか、実際「ウソ」だろと断定せざるをえない場合がほとんどだし、それを受けて女が感動するというのも、「ウソ」だろと断定せざるをえない場合が多すぎる、実際、この僕のサイトやブログでさえかつては本当に「感動」してくれる人がいたのだが、今になってそれをなぞるふりをするのは、「ウソ」だろと言わざるをえない/そんなこんなで、われわれは本当にすることがないので、なんとなく「喫煙所を減らす」という何も本質的でないことに奮起して、平成の終わりに向かっているのだった(と、さりげなく悪口をブッこんで終わっておく。スッキリ)。

視点変えてこ | comments(0) |
立場と関係を破壊するゴーゴン2

代、少なからぬ人が異様に疲れ、極端に殺伐とした事件が引き起こされて、本当に「立場」とか「関係」とかがわからなくなったからだ。
先日、十九歳の見習い警察官が、四十歳の巡査部長を「射殺」したそうだ、それも数日間一緒に勤務しただけで「罵倒されたから」と、それだけの理由で背後から撃ち抜いたのだ、しかもきっちり殺害するために連発で射撃した、これはもうわれわれの知っている人間の感情ではない。
人はさまざまな立場での関係を持ちえて、その中には上下の関係もあるのだが、本来そういった「立場と関係」というのは、とっても愉快でなめらかで、上も下も痛快で実り多い、「あー楽し」というばかりのものだと申し上げておきたい、もう理解できる現象ではないのだが、そういうものが本来は成り立ちうるということは談話されていていいだろう。
ゴーゴン化した者は、本当に「立場」がわからないので、この「立場」が了解不能のゴーゴンに「関係」を強いてはダメだ、「関係」を強いてはダメと言われても、それはつまり観客が舞台の上にドッコイショしてみるというようなことなので、もうブッ壊れなのだが、これをどうすることもできないという実情がこの先広がっていくだろう、これはわれわれの文化の実情なのであるていど引き受ける覚悟でいくしかない。

人間は立場に敏感なものだ。
立場に敏感だからこそ、十九歳の見習い警察官は凶行に及んだと言える。
亡くなられた被害者の方には申し訳ないが、こと「警官」の不始末なので、この場合は一市民として嘆くべき事件の代表に取り扱わせていただいている、この場合あえて「せめて市民に被害がなくてよかった」と言わねば、亡くなられた巡査部長に対して逆に侮辱にあたるだろう。
人間は立場に敏感で……つまり、後輩は先輩の下ではないし、生徒は教師の下ではないし、見習いはベテランの下ではないし、聴衆はシンガーの歌を聴いている立場ではないのだ/立場にふさわしくないものを強いられると、人は黙ってはおらず、それこそ殺意じみたものをすぐ持つものだ。

ゴーゴンには文脈のない「ウソ」を突きつけるのが有効だ/これを「魔除けの札」と呼ぼう。

なんのこっちゃわからんと思うが、すまん、これは個人的に必要なのだ、ゴーゴンは放置しておいても石化ビームを及ぼしてくるから、無視せずあえて別のデコイを向けておくのがいいのだ、たとえば急に「あいたたた、お腹がいたい」とか言い出して、そのネタにゴーゴンを食らいつかせる、するとゴーゴンは何もわからないからしばらくそのネタに食いついていてくれるだろう、そのあいだに人間は営みを続ければいい。
文脈のあるウソを与えると、それは「だました」ということになるから面倒くさくなる、だから唐突に「カチューシャ、ベランダ〜♪」とでも歌っておいて、それに食いつかせておけばいい、この「魔除けの札」はなかなかよい方法だとわれながら思う、「立場」がやれない・わからないという人は、立場にこだわらず「カチューシャ、ベランダ〜♪」にこだわり続けていればいいのだ、そんな歌は存在しないのだから誰も石化のダメージを受けなくて済むだろう。

正しく見ないとな | comments(0) |
立場と関係を破壊するゴーゴン
まったな、ブルーなことに気づいてしまった。
もともと知っていたものを、こんなにはっきり気づくことはなかろうに……とは思うが、まあしょうがない、忘れないように、こうなったら逆にきっちり記しておくしかない。
この時代、たとえば代表的にシンガーだが、現代のシンガーは、もう何をどうやっても「思いっきり」声を出すことはできない。
もう70'sのソウルシンガーのような、シャウトは聴くことがないのだ、それは聴衆との関係が壊れているからだ、「歌う」「聴く」という関係はもうないのでこれは時代的にしょうがないとあきらめるしかない。

現代のシンガーは何かやたら「しんどそう」だろう? ときにはわざわざ「抑圧」の代表に見えさえする場合がある、それに比べると昔のシンガーは何かめちゃくちゃ「解放」されていただろう、これには仕組みがあるのだ、「関係の崩壊」という仕組みなのだ。
カンタンに言うと、男が女を「思いっきり」は愛せなくなったのと同じだ、男の思いっきりの愛を女が受けることはなくなったように、聴衆もシンガーの「思いっきり」の声を受けることはなくなってしまった。
しょうがないのだ、今はシンガーと聴衆という関係ではなく、シンガーと「審査員」「コメンテーター」という関係だからだ、どこの世界で満員のコメンテーターの前でフル出力できるシンガーがいる、そんなものビョーキになるので無理をさせてはならない/そして聴衆も聴衆の立場に引っ込んではいられないので、こちらも無理をしたらビョーキになるので無理をしてもしょうがない。
男女とか、先輩後輩とか、教師と生徒とか、シンガーと聴衆とか、「立場」から瞬時に漏れ出して出しゃばるのが現代人だ、これは気質的にそう訓練されているので個人を責めたってしょうがない、これは「立場」に殉じて感動を分かち合っていた現場を知らない世代にはわかりえないことなのだ、ひでえ話だがこのことを忘れるとさらにすべては行方不明になり、<<説得力というパラメーターがすべてにおいてゼロになる>>だろう(そうメモしておくしかない)。

旧来、リーダーシップは、周囲のフォロワーシップで成り立っていた。

僕には明らかに多数に対する専制主義の経験があるので、よくわかる、強力なリーダーシップに強力なフォロワーシップが成り立ったとき初めて「関係」が生じて実を為すのだ、それが成り立たない場合は潜在的に内紛と消耗しか起こらない。
旧来は、リーダーシップとフォロワーシップが素直に立場を愛して成立していたが、今はリーダーでもなければフォロワーでもない「ゴーゴン」が出現すると指摘しておこう、なぜゴーゴンと思いついたのかは僕自身もナゾだが、たぶん周囲を「石化」させるということに関連している、今はちょっといちいち神話を点検している時間がないのだった、とにかくこいつが現代の悪魔の代表のひとつだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
世界とあなたと「命がけ」の仕組み
がけでやらんと何にもならんのだが、命がけというのは武士道的なものではなく、したがって「決死」「特攻」「死ぬことと見つけたり」というたぐいのものは必要ない(武士そのものは別、ありゃ殺し合いを引き受ける人なんだから)。
命がけというのは、単に「むつかしい」のだ、何がむつかしいかというと、「生きているうちに、『何をする人』になる?」という問いかけ、それに答えることがむつかしいということだ、これは根性で通じるたぐいではないから手ごわいのだった。
で、これは何というか、自分の願望とか思念とかではないのだ、<<万人に向けて>>というところがミソになる、万人から見て「この人は○○をする人」と見えないといけない、それは形とかポーズとかではなく、たとえばライオンが「ライオンだな」と見えるようなことだ。
たとえば、「わたしは愛に生きる人になります……!!」みたいなことを言ったところで、本人は熱烈にその気分でも、周囲の人からは説明されないとそうは見えない、<<万人にそうと見える>>ということが大事なのだ、かといって牧師やシスターになってもしょうがないのだが、とにかくそれは「自負」ではないのだ、「命がけ」を「自負」にすりかえると大きな負け戦が容易されているだろう。

逆に言うと、「変質者」のほうがわかりやすい、公衆でバッとチンコをさらけ出したら万人から見て「変質者」だ、同様に「犯罪者」もわかりやすいのだがこちらは物騒なので取り扱いはやめよう。
「わたしは○○をする人」と、いくら自負していても無駄なのだ、その○○は決して実効をなさないだろう、周囲がその実効を為していないものに空気を読んで付き合わざるをえなくなるので、近所迷惑になってしまう。
つまり「命がけ」というのは、マザコンというか、ママに支配されている子供ちゃんには不可能ということなのだが、まあそんな悲しいことを言っていてもしょうがないな、とにかく自負とは違うということ、そしてそれは願望でもないし志望でもない、ただの実態だ、万人から見てそう見えるという実態を採るしかないのだ。
むしろ「自負」が消える必要がある、何しろライオンはライオンの自負があるわけではないからだ/「命がけ」というのは自分の命を損耗させるということではなくて、<<万人に向き合う命をそこで名乗る>>ということだ、命を損耗させるのではなくむしろそこに命を誕生させるということだ、「××さんは○○をやっている」ではなく、「○○をやっているのが××さん」になる←読み飛ばさんとちゃんと考えい。

われわれは歌っていない桑田佳祐を知らない。

木村ヒマ三郎さんが「歌をやっているんですって」というのと、「桑田佳祐」は事象が違うだろう、単に有名ということじゃなくて、命がけだということ、「歌手」ということが桑田佳祐という名前に命を吹き込んでいる。
木村ヒマ三郎さんがボウリングをやっていると、「ボウリングをやっているな」と見える、桑田佳祐がボウリングをやっていると、「ボウリングをして遊んでいる」と見える、これは別に有名と無名は関係なくて、木村ヒマ三郎がボウリングをしている光景は、残念ながら「何をしているのか究極わからん」という光景に見えるのだ、それは木村ヒマ三郎が動物的生命の他には「命」を帯びていないからだ/木村ヒマ三郎は自他ともに「何をしているのかけっきょく永遠にわからん!!」という状態になる、この状態になるのがイヤなら、<<期間限定でもいいから万人に向けて「○○をする人」になることだ>>、「個人的」「内輪的」では命は与えられなくて、万人に向き合ったとき初めて命が与えられる
バカをやろうかあ | comments(0) |
オモロイ奴は全員知っている

川志の輔師匠がネタのようにいう「宇宙意思の会」は、桂南光師匠を会長とし(志の輔さんは関東支部長)、入会費はタダ、活動もなし、入会手続きは「入会しま〜す」と思えばそれで入会だそうだ/その会の教えは「きょう二日酔いなのは、昨日飲み過ぎたせいで、昨日飲み過ぎたのは、宇宙の意思だ」というあたりである、ぜひ入会をどうぞ、と志の輔師匠はおっしゃっている。
大野一雄という、世界的に有名な舞踏家がいるが、この大野さんも「宇宙意識ですよ、宇宙意識」とよく言っていたそうだ。
ボブ・ディランは「おれがロックを選んだのじゃなく、ロックがおれを選んだ」と言っているし、宮本武蔵だって五輪の書で「天を拝し観音に礼し仏前に向かって」いるし、正当学府の哲学者で凡人の努力をけなしまくる容赦のないショーペンハウアー先生は「ウパニシャッドがサイコー、あとインスピレーションのない奴が文章を書くなあきらめろ」と言っている。
もう面倒なので列挙はやめるが、オモロイ奴は全員気づいているのだ、われわれの個人的な意思の他に「何かある」のだ、もうこれだけ状況証拠が出揃っているのだから悪あがきはやめろ、このことに反論してよいのはまず志の輔よりもしゃべらせてオモロイ奴だけだ。

オモロイ奴は全員、このことをとっくに知っていて、説明は面倒だし説明してもどうせ伝わらないから説明しないだけだが、さらに正確にいえばこれは、「普遍的にオモロイ奴」ということかもしれない、つまり共同体の外側に出て、初対面の赤の他人に対しても「オモロイ」と無条件で感じさせる奴だ、たとえ外国人でも0秒で「オモロイ」と感じさせる奴がこれにあたる、出川哲郎に出会って直後に腹筋崩壊している赤の他人の外国人はよくいる。
音楽の時間でポカーンとしている幼稚園児だって、マイケルジャクソンの「スリラー」を見たら釘付けになるだろう、「オモロイ」のだ、何かしら真にオモロイ奴になろうとした者は、この宇宙意思うんたらに早晩突き当たるしかないのだった。
そしてこのことのハズレは、オモロクナイ奴が、神秘主義風に宇宙意思うんたらを熱心に言うケースだ、どうせいわゆるスピリチュアル勢力がこれに当たるのだろうが、これは傲慢でいけない、オモロクナイ奴なんて大阪の小学生相手にも通用しないだろう。
オモロイかどうかなんて、アルコールを何ccが入れてみりゃすぐわかる、オモロイ奴ならアルコールを入れたらすぐ、「出るわ出るわ」、何か知らんがオモロイものがじゃぶじゃぶ出てくる、酔っ払って自己解放したとき、「吾我」のモンしか出てこないやつはハズレで、これはあかんのだ、別に地獄に落ちてもかまわんが、それよりオモロクナイのが徹底的にまずい、最近オモロイ奴が減っているのはとてもマズいことで、美人と美少女は全員おれのところにのみ来るように、それが宇宙の意思です。

オモロクなれ、そしてオモロイ奴を愛せ、それはマジで宇宙の意思だから。

宇宙の意思うんたらを、信じなかったであろう群としては、たとえばニーチェや芥川龍之介、サルトル、ドストエフスキーあたりだろうか、それを信じたというか「当たり前でしょ」と感じていたのは、トルストイやタゴール、ショーペンハウアー、ウィリアムブレイクあたりだと思う(まあワンサカいるのでもう誰でもいいがね)。
つまり、世間に大きく影響するものは、宇宙の意思を信じていない、そして個人にこっそり影響するものは、宇宙の意思を信じている、だから宇宙の意思うんたらが町内会の飲み会で語られることはまずない、語られることがあるとしたらおじいちゃんがこっそり教えてくれたとか、そういうことはあるかもしれない。

恋女のマインドね | comments(0) |
大恥を掻きたい
恥を掻きたいので、こんな文章を書き晒している。
僕は人に目立つのが苦手なので、目立つ行為はきらいだが、大恥を掻くのはいい、すでに大恥を追求しているはずなのだが、「もっといけんか」とこのごろよく考えてしまう。
世界一間違っている奴、というふうに、自他ともに定義されるような奴でありたいのだ、僕は正義の徒にだけはなりたくない、僕が正義の徒になったら人々は従わなくてはならないからだ(正義が悪いわけではもちろんない)。
「こいつはもうダメだ」と、絶望されたいのだ、幸い(?)そのことはかなりのていど叶っているが、まだまだ、こんなもんじゃ足りないな、もっと痛快な自由が得たい、もうこんな奴が何を言ったって誰も聞く耳を持ちようがないぜというところまで行きたい。

だって、いまだにおれは、女の子のすべてがラブだとか言っているからな、こんな奴はどれだけアウトか、僕だって他人事として見ていたらわかる、戦場にビニールシートとサンドイッチを持ってきた奴というぐらいにアホだ。
まあおれは大恥を吸収して生きているのだからな、おれは初対面の美少女のスカートの中を見せてもらいたいぜ、そのことに特に理由はなく、理由を言うなら「美少女がかわいいから!」になるだろう、おれは美少女が憂鬱になることにだけは与したくない。
大恥を掻いていくこと、そして大恥によって孤立していくこと、人々に諦められていくこと、それらが「いいねえ」と常々感じている、ただそれだとブログ記事がシェアされないんですがそれは……まあそりゃ「美少女のスカートの中を見せてもらいたい」という記事のシェアはねえよ、そりゃシェアした奴まで恥を掻くレベルだ。
恥を知らんのか、と言われたら、メチャメチャ知っている上で大吸収していると、本当のことをほざいてやろう、「じゃあしょうがないな」という話だ、おれが恐れるのはハズレであって恥ではない、ハズレというのはもう最悪にイヤでNooooooじゃないか。

おれに狂気はない、知性がないだけだ。

露出狂がフルチンになって、街ゆく女性に陰部を見せびらかしていたりするが、それはどう見てもハズレでしかない、よほど不自由な人生に追い込まれたのだろう、少しでも自由を得ていれば人間はそんな大ハズレはやらない。
僕は大恥を掻いていきたい/大恥がやがて、パラメーターを崩壊させて、「こいつに恥を掻かせても効果ゼロじゃないか」となったとき、僕の世界から「恥」は消える、そのとき僕は通常の空間から「消える」ことができるのだ、「恥」のない上位の空間にいくことになる、だって僕は恥なんてとってもキライなんですもの。
恋女のマインドね | comments(0) |
女にモテるようになりたい
ホみたいな話だが、ずっとある僕の本音はそれだった。
「女にモテたい」ではなく、「女にモテるようになりたい」だった。
さらに正確に言うと、それは、「女にモテるほどのものを持ちたい」だったのだろう。
何かを持ちたかった/もし、それを持つことなしに、何か知らんが女にモテる方法があったとしたら、それは僕にとって何も魅力的ではなかったのだ、「女にモテるほどのもの」が持ちたかった、だから僕は、自分がモテない時間や事実も、たまらなく熱かった、今でもそのあたりは、けっきょく変わっていない。

今このときも、正直を言えば、フツフツしているのだ、もうこういう話が通じなくなったので控えているけどな、実はおれは何一つ変わっていない。
女にモテるほどのものを持ちたい、それは何か、輝きだったのだ、今もかわらん、けっきょく最初から最後まで手にしている伝家の宝刀はこれだ。
僕のことを好きでもなんでもない女の子が、むしろ僕を嫌悪する表情を見せているところ、僕が持っているものを発揮することによって、わあっと愛の表情に変わることがある、そのこと自体が好きで、そのこと自体に身を投げてきてしまっただけだ。
だから僕は、自分が「つまらんものを出す」ということに耐えられないのだ、僕は僕自身には何の美意識もない、ただ何事につけ数秒ごとに、伝家の宝刀に手が伸びるだけだ、いっつもこれだな、おれはモテることや自己表現には何の興味もない、「モテるほどのものを持ちたかった」のだから、それが持てれば別にモテていなくたってかまわない(なるべくモテているほうがいいには決まっているけど)。

女にモテるほどのものを持ちたい、正直まだまだ全然足りない。

命を八つや九つも持てれば、まだイケるので、僕ならそれぐらい可能ではなかろうか、そう気張っていきたい、点火の仕方は知っているのだが、これマジで死なない? ということにちょっとだけビビっている、うーんおれも根性なしになったもんだぜ/命は常に「フッフッフ」と笑っている。
けっきょく、命がけでないと何にもならないのだが、命がけというのはキモチではなくて実態なのさ、そりゃ女だって「この人になら命をあげてもいいかも」と思えなきゃ愛したことにならないだろ/命が偉いわけじゃまったくない、ただ命でなきゃ独立決定ができないというだけで、命のない上手さは要らない、命があればヘタでいいんだ、だから僕は決して上手に文章を書いたりはしない、うんまあ超上手だけどな。
恋女のマインドね | comments(0) |
<< | 2/196PAGES | >>