☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
文化を持たざる民5
代の日本人は、「無宗教」というより「無神論的感覚」で生きている。
そして、無神論的感覚では、どうしても文化の根幹が得られず、「文化」の成り立ちようがないのだ。
初詣も夏祭りも除夜の鐘も結婚式も、すべて何かしらのカミサマを前提にして営まれるものだが、カミサマが否定されているので、すべては「イベント」にならざるをえない。
「イベント」というと、フリーマーケットや○○フェス、あるいは講演会や勉強会などが代表的だが、これらのイベントはカミサマに何の関係もないので、まったく問題なく営まれて栄えている。

どこの国のどの人でも肯定すると思うが、何かしらのカミサマを否定するということは、文化を破却することと同じだ。
たとえば食事のときに「いただきます」と合掌することさえ、カミサマを否定してしまったら無意味な「いただきますキャラ」になってしまう。
カミサマが否定されると、この世には「わたし!」しかいないことになるので、「わたしのキモチが大事なの!」という文脈に必ずなる、それで「いただきます、というわたしのキモチ! これが大事なの」ということになっていってしまう。
文化というのは何かしらの「神聖さ」を前提にしている、カミサマが否定されるとこの「神聖さ」の前提が破却されてしまうので、「わたしのキモチ」の偉大さ、崇高さ、ということだけが残ってしまう。

無神論的感覚で、文化的になろうと努力するのは、完全に不毛だ。

かといって、文化的になりたいという都合から、カミサマを捏造するのはさらにサイアクなことなので、諦めて自分は「わたしのキモチのアニマルなの」ということを引き受けていくしかない/それでもカミサマを冒涜するよりはマシだ。
どう考えても、「わたし」と「カミサマ」のあいだを取り持つものがあり、そしてそれが共有されているということが「文化」なので、カミサマなしで文化的ということは決してありえない、この問題は根が深いので安易に取り扱えるものじゃない。
正しく見ないとな | comments(0) |
第67回Quali's Party[4月15日(土)]無事盛会!

4/18 Quali tweet> けっきょく24時間話し込んだ。体力の回復がおぼつかない。 pls entry

Recent entry: (準新)はるな、ひろみ、りさ、ちひろ、まいこ、まなみ、かなみ、こりん、つかごん、くおり
日時:2017年4月15日(土)19時〜23時
場所:原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB


キラキラ次回(5月20日[土])参加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ

おかげさまで無事盛会でした! 次回もよろしくお願いします! 九折

宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!

そのほか | comments(0) |
文化を持たざる民4

学生が言う「うぇーい」「それな」「ワンチャン」を、僕は「文化」だとは感じない。
サザエさんやドラえもんならともかく、「けものフレンズ」を僕は「文化」だとは感じない。
コスプレを文化だとは感じないし、女子会や鍋パを文化だとは感じないし、婚活や街コンも文化だとは感じない。
初期の「ドラクエ」のようなものならヴィデオゲーム文化たりえるのかもしれないが、「パズドラ」に課金することは文化だとは僕には感じられない。

つまり、ブームは必ずしも文化たりえない。
ブームが悪いということではなく、文化がないということがおそろしいと僕は感じている。
フィギュアスケートの浅田真央選手や、ラグビーの五郎丸選手が、けっきょく文化的な扱いを受けなかったように感じて、僕は一人勝手に嘆いている。
東京オリンピックに伴って「観光立国」の案が閣議決定されたらしいが、観光といっても日本には観るべき「文化」が温泉ぐらいしか残されていないので、この案は失敗するのではないかと僕は思っている。

ブームはあるが文化はない。

一時期、「お・も・て・な・し」というブームがあったが、「おもてなし」という文化はすでにない、ブームが悪いのではなく、文化のなさが無視されていくことにおそろしさを感じている/一軒の居酒屋でさえ、客としてもてなしてもらえることはすでに少ない。
「マイブーム」という言い方も一時期された、マイブームがあるのは悪くないことだが、自分の所属・所有する文化がないというのはおそろしいことだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
文化を持たざる民3
とえば「学校」はどんなところか? それは「学校」という文化を知らなければわかりようがない。
「先輩」「後輩」とはどのようなものか? それは「先輩」「後輩」という文化を知らなければわかりようがない。
「男」「女」とはどのようなものか、「社会人」とはどのようなものか、それもそれぞれの文化を知らなければわかりようがない。
人が人にあいさつをしたり、頭を下げたり、親睦を深めたり、それって「どういうもの」なのか、文化なしには何もわからない、わかりようがない。

当たり前だが、文化がなければ人間もただのアニマルでしかない。
情報を記憶した、気分で動く経済的なアニマルだ、記憶した言語をしゃべるが、それはほとんど気分を表す「鳴き声」でしかなくなる。
たとえば「乾杯」という動作があるが、それは覚えさせたらチンパンジーだって覚えるだろう、が、チンパンジーはさすがにそれを「文化」とは捉えられない。
もう何年も、人と人とが「握手」をする光景を見ていない、すでにまったく甘くない状況だということをお伝えせねばならない、文化が失われたということは反省で取り戻せるものではない。

僕が駅前で友人と握手したとき、そこはかとなく「ギャラリー」まで生じた。

すでに「握手」をすることでさえ、見慣れない文化として通りすがりに観客を生じるような状況にある、事実ここ数年に友人と握手をしたことがないという人は多いだろうし、「握手」を差し出す文化の仕方が実際的に「わからない」という人が多数あるはずだ。
「学校」も「先輩」も、「社会人」も「男女」も、果ては「あいさつ」も「乾杯」も「握手」も、「頭を下げる」ということも、「わからない」のだ、情報として記憶されているだけで、そういった文化はすでにわれわれの所有するものではない。
正しく見ないとな | comments(0) |
文化を持たざる民2
「お花見」はすでに文化ではなくてイベントだ。
クリスマスやお正月、初詣やお祭りも、文化ではなくてイベントだろう。
成人式はもちろんイベントだし、ともすれば結婚式でさえ文化ではなくイベントにすぎない。
われわれはハロウィーンの文化を吸収なんかしていない、ただ仮装イベントによい口実を手に入れただけだ。

いつのまにか、「文化」という感覚そのものを与えられなくなったので、文化感覚なしに、すべてがイベント化している。
敬老の日があったとして、老人を敬うという文化は当然ないが、「敬老イベント! みんな集まれ!」ということなら大いにやれる。
ロックフェスに行く人の多くは、「ロックカルチャーに影響を受けた人」ではないだろう、ロックフェスという「イベント」を愉しみに行っているにすぎない。
文化感覚なしに、生け花やお茶や着物の着付けを習っても、それは習い事イベントにすぎず、人を文化的にはしない。

文化はなくなり、イベント化した。

フリーハグのイベントが行われれば、ハグをするのかもしれないが、「人が博愛主義においてハグの行為を能動的にあらわす」というような文化はけっきょく獲得されない。
文化はなくなり、すべてがイベント化したのだが、これはそうとうまずいことのはずだ、われわれは文化を持たない人と人間らしく付き合っていくことはできないのだから。
正しく見ないとな | comments(0) |
文化を持たざる民

当のことについて考えなくてはな……
実は、「文化」が与えられていない。
人が人にあいさつをするとか、ジョークとユーモアを振る舞うとか、人と付き合うということ、自己愛に拘泥せず開けた愛を向けるというようなことは、「大切で当たり前で重要なこと」と思われている。
「大切で当たり前で重要なこと」と、思われているのだが、実はそういう「文化」はすでに失われてしまっている、「文化」の与えられていないところにあいさつやら愛やらを頑張らされても、機能しないのだ、非常な負担と苦痛ばかりが増えてしまう。

もともと、「敬う」という文化があってこそ、敬語が敬語として機能する。
また、「もてなす」という文化があってこそ、「いらっしゃいませ」が「いらっしゃいませ」として機能する。
もともと、「人」の存在を尊ぶという文化があってこそ、「こんにちは」「ありがとう」「またね」が機能する。
敬語と接客とあいさつを暗記したところで、それは暗記であって文化ではない、「文化」を与えられていないものは機能しない、男と女がどう付き合うかなんて文化はもう十数年も与えられていない。

事実、あなたは文化的に振る舞うことができない。

自分でやっていてわかると思うけれど、「こんにちは、○○と申します」と言ってみたところで、似合わないし、何かキャラをやらされているような心地で、それが「文化的な振る舞い、態度」だという感触はしないはずだ。
僕は女性にはお茶の一杯ぐらいをごちそうするのは「文化」だと思っているが、それを「オゴられた」ときのあなたは女性としてどう振る舞っていいのか「わからない」はずだ、それは女性としての文化がないからだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
不合理バカサイトにようこそ(いまさら)
年と八カ月前、パーティ企画を原宿で再開したときに、僕はこう公言した、「やるならもう今やらないと間に合わないから」。
それは、時代の空気がどう進みゆくかを予感して、もう数年後には万事が退嬰に陥り、何事もアクティブにならないと考えていたからだ。
そのときのヨミはきっと当たっていて、今でもパーティ企画を運営できているのは、まさに初手があのときあのタイミングだったからだと思う。
あれから四年近くが経ち、もう、僕のするようなヘンチクリンな企画を打ち出す人はいないだろう、今「パーティ 東京」で検索すると無数の「街コン」が出てくる、こうなるより前に仕掛けるしかなかった。

実は僕のウェブサイトでも、十年前に、SNSの原型と言えるような「Quali村」というidea企画をやっていた(覚えている人はよっぽどの僕のサイトのマニアだ)。
今から五年前に、「いつになったらカタログは動画になるんだ」と言っていたから、現在のユーチューバーの流行と共に、やがてカタログの動画化も当たり前になるだろう(もうなってる? 実は知らない)。
まさか「出会い系」がアプリ化して、セックスと売春の融通にこんなに市民権を得るとは思っていなかったが、僕は万事のそういったものがキライだ、どう見ても「易きに流れているだけ」というようなことに自分は流されたくない。
もう十年以上にわたり、個人が発信する恋愛ネタの、しかもテキストだけ! むろんデイリーで更新しろよな! という、不合理きわまるやり方の当サイトを、今後ともどうぞよろしく(しかも広告のひとつも出ないでしょ、我ながらどんなバカサイトなんだよ)。

昔、BSのテレビで紹介されたことがある。

当時はまだ「ブログ」が目新しくて、流行していたからね、別に何の報酬ももらえないが、ADさんと電話で少し無駄話をした。
そういえば、年単位で読んでくれている人が少なくないというか、どちらかというと年単位で読んでくれている人のほうが多いものな……それ自体がとても特殊だ、そう考えるとこの四月も改めて楽しみなのだった、これからも不合理にやってまいりまーす。
バカをやろうかあ | comments(0) |
実は稀、「強さ」を追求する人
学一年のときにフロイトの全集を読破した。
内容は難解極まりなく、一ページ読むのに三十分かかるという実態で、明らかに無理があったのだが、それでもなんとか強引に読んだ。
今考えれば、僕はそのとき、「いやいやいや、こんなところでオリてたら話にならんぞ」と思い、必死で食い下がって読書をしていたと思う。
気づけば、そうして何につけ、「強さ」を追求していた、努力をする気はなかったが、「弱い」ということは自分で許せなかった、努力はしなかったが何もかもに食い下がっていた。

今になってわかるのだが、人間の根っこが人それぞれ違うものだ。
「強さ」というのは、わかりやすいのだが、実は誰もが「強さ」を追求しているわけではないのだ、「強さ」を追求していない人もいる。
そして、「強さ」を追求していないのに、漠然と自分を鍛えようとしている人が少なからずある、そういう人は初めから動機がないのでどう動いても鍛えられない。
あなたは「強さ」を追求する人だろうか? そう問われてギクリとし、「そうです、とは言えない」という人が少なくないはずだ、じゃあ「強さを追求していないなら、鍛えようもない」と言うしかない、これはけっこう重大な見落としだと感じている。

この世には、「強さ」を追求する人にだけ、特別な話がある。

「強さ」を追求しない人は、かといって負けたくはないので、「有利さ」を追求する、だから筋肉をつけたり徒党を組んだり、地位や金銭で自分を武装したりする、「有利さがあれば強さがなくても勝てるじゃん」という発想だ。
あなたが追求するのは、「強さ」だろうか「有利さ」だろうか? 「強さ」を追求する人にだけこの世には特別な話がある。
恋女のマインドね | comments(0) |
これからも色々あってほしいんだ
なので、パーティ企画にテコ入れをしていこうと画策している。
その気配に反応してか、パーティのメンバーである人間サンドバッグことつかごんくんが、いつぞやのように人々をパーティに招かんとする小文を寄稿してくれた、まあ読んでやってくれ。(→人間サンドバッグを読む
文中、彼は僕を「先生」と呼ぶアイディアにイキイキとしており、それを受けて「なんだこいつ」と思わなくもないが(冷淡)、まあ僕は僕自身が他人にどう見られているのかよくわからないので、こういう見方もあるのかなと思い、彼の寄稿には修正をほどこさずそのままを掲載することにした。
何にしても、こうしてわずかでも活発化するのはいいことだ、春なのでみなさん陽気にまいりましょー。

人間サンドバッグの寄稿によると、僕は他者から見れば、空前絶後の未知の動物、つまり何かバケモンに見える可能性があるとのことだが、正直なところ僕はそのことがよくわかっていない。
が、これまでに幾度か、「まさか自分のことを普通だと思っているの?」とけっこう叱られた(ものすごい溜息をつかれた、正直ヘコんだ)ことがあるので、いいかげん僕もそのあたりを自覚はしようと努力はしているつもりだ。
確かに、冷静に考えると、たとえば「怒りの日、疑う胴体が……」というコラムの文体と、今回に向けてアップロードしたイカレたポスターが、同一人物による作成だと考えると、それだけでも「なんだこいつ」の度が過ぎるところがあるのかもしれない。
どうやったらみんな遊びに来てくれるかな、と、けっきょく「わからん」のだが、僕はそうしてわからないときは「とりあえず出力を上げたれ」と発想するよくない習慣があるのだった、たいていこれがよくない。

こちら、人間サンドバッグの殴打は無料です。

僕はどうしても自分を普通だと思いたいところがあって……だってそもそも自分を異常だと思っていたらパーティなんか企画しないよ、普通に飲んだりしゃべったりしましょうよ。
パーティ企画だなんて、初めは何になるかよくわからんかったけれど、これまで色々楽しいことがあったし、これからも色々あってほしいんだよな、僕は色々あるのが好きだからしょーがない、みなさまのご参加をこころよりお待ちしております。
バカをやろうかあ | comments(0) |
「進撃の巨人」に見る現代人のモチーフ

画「進撃の巨人」の主人公エレンは、自傷行為によって「巨人」になる。
巨人になると、性質は凶暴化し、意識は自失状態に近くなり、その肉体は蒸気と腐臭の伴った姿として見せつけられる。
これは実に現代人の自意識をよく表したモチーフといえる/しかもエレンがそういう巨人化の性質をもったのは、「親に薬物を仕込まれたから」という筋書きだ。
現代においては少なからぬ人が、そうして「自己爆発したい」「自己爆発できる」という幻想を胸のうちに抱えている、しかもそのドロドロした感触の自暴自棄への衝動は、「親に植え付けられた」というつもりがあるのだ、これは旧世代の漫画「ドラゴンボール」などとは大きく異なる点になる。

もともと「新世紀エヴァンゲリオン」の中にも類似のモチーフは見られる、自分を支配するのは「親」であり、親によって「やけくその大爆発」をしたいし、できるぞ、という幻想がモチーフになっている。
だが実際には、手首を噛みちぎって自傷しても、人は巨人にはならないので、どうなるかというと、彼はときどきこの世界に現れてしまう「弱者を殺戮する通り魔」にしかならない/子供たちを殺戮するとき、子供からは比較的に彼は「巨人」たりえたのかもしれない。
「ドラゴンボール」にあったモチーフ、そもそもの「亀仙人のもとで修行してかめはめ波を身につけたい」というモチーフは失われ、現代におけるヒーローはつまり「わめきちらして自己爆発のスイッチを入れたい、親のせいで」というモチーフで作られている。
だから、現代の少年少女は、自分の時間に「何かの修行をする」ということができず、「親を気にしながらスマートフォンから何か薄暗いドロドロしたものを摂取する」ということをしている、それでドカーンと巨人になれたらまだいいのだが、残念ながら物理的にそういったことは起こらない。

修行をして孫悟空に近づく道筋はあるが、セクシーな制服を着てセーラームーンに近づく道筋はない。

人間の自己超克や突破のモチーフは、案外そんな幼少期の漫画体験で定義づけられているところがある、ドラゴンボールとジャッキーチェンで育った人間と、セーラームーンとエヴァンゲリオンで育った人間は、原型としての自己超克のモチーフが異なるのだ。
「ドラゴンボール」は修行しているし、「ジョジョの奇妙な冒険」も第二部まで修行している、「スラムダンク」もほとんど修行のようなことをしている、しかし現代の少年少女はたぶん「修行」がどういうものなのかが感覚的にわからず、自己超克の仕方をエレンの中に探しているだろう/エレンは自傷からの「巨人化」の能力だけで活躍をし、いつぞや訓練した兵士の能力としては活躍をしない。

正しく見ないとな | comments(0) |
酒と主題と初対面

回のパーティのトークテーマは、じねん、「(六日目)怒りの日、疑う胴体が失ったすべてのもの」が土台になりそうだ、読んできてくれたら話が弾むに違いない(→web版はこちら)。
毎回、別にトークテーマなんか決めていないが、今のところ当のコラムがみなさんに話題沸騰なので、きっとそれが中心になるだろう。
話題沸騰、などという、えげつないウソをついてしまったがご放念いただきたい。
トークテーマなんか考えたことなかったけど、本当は毎回そういうのを用意したほうがいいのかもしれないな、と、67回もやってきて今さらすぎるか。

僕は、ダサいのとかクサいのとかはきらいで、理知的なものが好きだ。
そして、理知的に言って、人とまともに話したことのないまま生きたヤツは、ロクなことにならんのでは? と僕は判断するのだ(当たり前)。
知恵と経験と、集中力を身につけてきた、たゆまぬ自発性の人間に、どうやって知恵も経験も集中力もない他人任せの人間が勝てるんですかね……と、そのあたりの捉え方は僕はドライなのだった。
年長者として、経験から申し上げておきたい、まともに話すということをたくさんしてきた人と、それをおろそかにしてきた人とでは、数年後にえらい差になって、取り返しのつかんモンになるものだ、僕はまともなことを続けていきたい。

酒と主題と初対面があることは、そんなにヘンか。

僕はできたら、死ぬ直前まで、酒と主題と初対面に取り囲まれていたいが、それはそんなにヘンなことだろうか/主題のない時間をえんえん生かされるほうがキツい気がするのは僕だけか。
ただ、気力は要るなあ、気力は自分の大前提だ、酒も主題も初対面も、どれも気力がなきゃ避けたくなるものだから。

できるオンナだね | comments(0) |
この先を生きていくのに、もっとも有利な実物
あみんな、パーティ来てね、四月からは誰だって新生活だ。
もちろん病気の人はダメだ、健康で、かつ常識のある人だけ、そういう人こそ常に人生の拡大に取り組んでいくべきだ。
人生の「拡大」、拡大っていいよね、拡大なしに未来を考えるのはとてもしんどいことなので、ラクになるためにも「拡大」が前提に必要だ。
うつむいて考え始めたら、もう負けなんだな、それは考えていることにはなっていないんから/「反論」が出てくるということは、つまり考える力を失ってしまったということだ、もっとポジティブに機能しなくてはいけない。

この先を生きていくのに、一番まずいマイナスは、互いにストレスを掛け合ってしまうことだ。
お互い、ストレスをかけないように遠慮しあっているのだが、その遠慮しあっているというのが実はストレスになっている、和合していないからガマンをし続けている。
で、和合するというのはどういうことなのか、その実物を知らないまま自分をブチマケたら、そんなもの戦争じみたストレスになるに決まっている、僕が言っているのはそういうことじゃない。
僕は何もノウハウを教えないが、実物をお見せすることはできる、ストレスを掛け合わないということは、一緒に生きていけるということだから、それがこの先を生きていくのに最も有利な能力になる。

12時間働く方法のヒントは、12時間遊ぶことの中にしかない。

冷静に考えてみてね、人のそばに12時間寄り添って過ごしたことなんか「ない」んじゃないか? そういうことの実物をすでに僕は用意している/12時間もそばにいられないのに、どこかに就職するとか誰かと結婚するとかいうのはいわゆる無理ゲーになる。
おれたちゃ何回、これまで原宿竹下口に集まったものか笑、それが「拡大」ということ、自分の過ごした「あそこね」という場所の増えることを拡大と呼ぶわけだ、そういうまっとうなことを続けていきたい。
できるオンナだね | comments(0) |
また四月のパーティが来る
んなこんなで、また土曜日にはパーティだ。
四月は新生活の時期なので、また新しく誰かが来てくれたらいいな。
年長者からひとつふたつ、余計なことを言っておきたい、「若い」というのはとても万能性のある財産だ。
そして、「選べ」、何も選ばずに生きるということの恐怖を知ってくれ、それは同時に、何に選ばれることもなく生きるということの恐怖でもあるのだから。

今回でもう67回目だっけ? パーティ企画。
わかりやすく人を集める方法というのも、ないではないのだろうけれども、あえてそれは避けつづけることを選んでいる。
重要なのは、誰かが選んで来るということだから、そこを派手に宣伝してどうこうということはやりたくない、ヨソがやって足りていることをわざわざ僕がする必要はない。
新生活に向かうすべての人たちへ、どうか何かを選んでね、選んだものだけがあなたのものになる/選ばないままたくさんのものを集めても、それは豊かに「見える」というだけで、その豊かさは何一つあなたのものじゃない。

いつか映画化されるといいな。

ん? いや、自分たちのやっていたことがね、自分たちの関わっていたことというか……それがいつか映画化されるようならいいと思っている/割と冗談ではなくここまででも映画化されていいようなところはそれなりにある、あまりそういうことを宣伝みたいに使いたくないだけで。
そのためには、「選ぶ」ということが不可欠になるわけだ、われわれはコンビニに行くことや動画を観ることを「選んで」いるわけじゃない、選んでいないから自分を奪われて捻じ込まれているだけだ、それに気づかないといけない。
恋女のマインドね | comments(0) |
葉桜寒気団
んてきれいな朝なんだろう。
葉桜を迎える初夏に寒気団がやってきた。
昨夜は「わたみん家」で五千円ほど飲んだので大満足だ。
僕は食事とお酒が好きだ。

ふと隣のテーブルを見れば、隣のテーブルの人は、それほど食事やお酒が好きではないのかもしれない。
たぶん食事やお酒、セックスや本を読むことも、知らない街を歩くことも川の水に足をひたすことも、何一つとっても好きではないに違いない。
だから彼らは、今朝を見て、なんてきれいな朝なんだろうとはこころの底からは思えない。
何かが好きでない人は体臭がない、この世界とつながった人間の肌の香りがしない/ああ、また山の上にいこう。

むかし、皆、食事とお酒が好きだった。

そこでおしゃべりをしたり、昨夜観たビデオテープについて語り合ったり、まして男女が肌身を寄り添わせていては、たまらないものがそこにあった。
むかし、食事とお酒、肌身を寄り添わせたりセックスをしたりすることは、たまらなく好きだったでしょ? いつのまにか好きではなくなったけれど/僕は未だそんなところにいます。
恋女のマインドね | comments(0) |
選ばれしもの2

ばれる、選ばれない、というのは、うつくしいことで、同時に無慈悲なことでもある。
ただ、当然の正当性もあって、まず選ばれることがない人は、自身も「選ぶ」ということをしていない。
アマゾンでレビュー点数の高い映画を観て、楽しんだり評価したりするというような「つまみぐい」をしているのは、つまり自分が何かを受け取るように選んではいないわけで、こういう人は当人も何かから選ばれることはぜったいにない。
あなたは若い日の自分が観た映画は「これだった」と、選んできただろうか、それを選んできていなかったら、あなた自身も何からも選ばれないだろう。

僕は、この点だけは自負できる、何もかも自分で選んでやってきた、この四月九日だって「どういう日」かは僕が必ず選んでいる。
何しろ、気質的に、自分で選んでいないものはキックしてしまうのだ、僕は自分で選んだことしか何一つやらない。
僕が誰かに「そこに座れよ」と高圧的に言うときは、選んでいるからであって、僕は選ぶということ以外に人や物と付き合う方法を知らない。
そうだな、たぶん、「自分で自分を選んでいる人」に向けては、僕はその人を何かに選びようがないのだろう、「わたしがわたしを選びたい人」なのだから、誰かが彼女を選ぶことは当然不可能になる。

「選んでないからね」の一言で済む。

すべてをつまみぐいしてリーズナブルに「わたし的ベストテン」を決めるようなことは、生きることをふざけているとしか思えない。
顔が広く、色んな人を知っていて、文学や音楽、映画や舞台に、幅広い知識があったとしても、その中でそれぞれを「選んで」いないから、なんのこっちゃわからなくなるのだ/選んでないものは何一つ「あなたのもの」ではないよ。

正しく見ないとな | comments(0) |
選ばれしもの
分の体験する世界は「きずな」でできている。
人と人とのきずな、生きものと生きもののきずな、あるいは、自分と「場所」のきずななど。
この世界に岩石があったり貨幣があったり法律があったりするのは、事実だが、それは実は自分が「体験」する「世界」とはあまり関係がない。
「きずな」を得られずに生きている人だけが、この世界を岩石とか貨幣とか法律のものだと思っている。

これまでのすべてを思い返すと、僕はこれまで、向こうから「選んでもらった」という実感を確かめることができる。
人が、生きものが、あるいは場所が、その他の何かが、僕を「選んでくれた」のだということを、今もはっきり覚えている。
それぞれが、僕を「選んでくれた」ということの、なんとかけがえのないことだろう、これを見落としたときこの世界に生きることはまったくの無意味になってしまう。
僕には何の霊感もないが、霊感があるのは僕の側ではなかったのだ、「街」とか「生命」の側に霊感があった、それを聞き逃さずに来ただけだった、だから僕には霊感なんかないというのがどこまでも正しかったわけだ。

いのちが選ばれた/そのことを「きずな」という。

典型的に、男と女の出会いなんか、そういうものじゃないか、何かしら「いのち」のレベルで「選ばれる」ということがなければきずなになんかなりっこない。
僕は無数に選ばれてきたので、「やーいうらやましいだろー」というのが率直なところなのだった、こりゃひどいか、ひどいけどしょうがないんだよ。
正しく見ないとな | comments(0) |
謝罪王2

とえばこういうふうに書いてみるとわかりやすい/ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。

ごめんなさい。
なぜかこうすると、人はパッと僕に味方してくれる、途端に「違うの、ねえ聞いて」と。
「謝罪」だけが、認められ許されるということなのだろう、態度が軟化するのだが、謝罪がないかぎりは軟化しない。
たぶん、「謝罪」された人は、パッと気分がよくなるのだ、理由は知らない、ただ「よくわからないですけど、謝罪されると気分がいいですよね」とはっきり言った人もあったことを報告しておく、それはたっぷりとした言い方だった。

おそらく「被害者意識」が、無節操に「謝罪」を求めている。

ずっと「被害者意識」があって、誰か大量の人間が大量の謝罪を自分に向けてすることを、こころのどこかで正当なこととして望んでいるのだろう、そういう感触がとてもある/それが正当なのか不当なのかは僕にはよくわからない。
被害者意識から逃れられなくて、「謝罪」でしかこころを許せないのだろう、被害者意識があるものはしょうがない/ただ、僕には被害者意識がないことだけ報告しておく、それぞれ誰が何の被害者なのか正直僕にはよくわかっていない。

正しく見ないとな | comments(0) |
謝罪王

つのまにか、僕は毎日のように、年下の女に謝罪しまくらねばならないようになった、それも四方八方に謝罪しまくっている(これを僕は「謝罪王」と呼んでいる)。
なぜかというと、僕の情緒が安定しているからだ、僕は情緒が安定しているので、日々情緒不安定になる女に頭を下げまくらねばならない。
僕が謝罪しないと、情緒不安定な女は「許さない」ので、僕が謝罪するしかないわけだ/何を謝罪するかといって、彼女らが情緒不安定であることを僕が謝るのだ、彼女らは自分の情緒不安定について僕を「許さない」と感じるのでしょうがない(理由は知らん)。
なんのこっちゃ、という話なのだが、事実なのでしょうがない、情緒不安定な人間は自分が情緒不安定であることを「許さない」ので、僕が謝罪しなくてはならない、溜飲を下げてもらうには唯一それしかないのだ。

明らかに間違っているのだが、もう構造的にネタは割れているので、僕はあまり気にしていない。
僕の情緒が安定し、僕が笑わせ、僕がオゴり、僕がいろいろ教え、僕が健康を恢復させてやるわけだが、その上で最重要なのが「謝罪」なのだ、理由はさておき事実がそれなのでまあそういうものなのだろう。
もちろん、間違っているのだが、その間違っているということがまた「許さない」を生むだけなので、それが間違っているということについても、僕が謝罪しないといけない、「謝罪王」はこのごろひっきりなしの出ずっぱりだ。
事情に関わらず、僕の側が先に謝罪を受けるということはまずない、たとえばこの記事自体、「こんな記事を書いてごめんなさい」と僕が謝ることがどこかしら期待されている、この「謝罪が最重要として期待される」という現象はまったく理由のわからないまま蔓延している。

日本人は、命を捨てて戦ってくれた兵士にも「謝罪」を要求する。

理由はまったくわからないのだが、事実上、「謝罪だけしか認めないし、謝罪だけしか許せない」という、確立された精神状態が蔓延しているのだ、理由は知らん、理由はどこかの偉い人が解明してくれたらいいと思う。
僕は「謝罪王」だが、別に暗くはなっていない、というのもそんなに真剣に生きているわけではないからだ/今、日本人は頭を下げるのが世界一苦手な民族になりつつあるように感じている。

正しく見ないとな | comments(0) |
生産的に考えること2

る法則を見つけたような気がしているのだ、「自分がどうなりたい、という志を持たない人は、そもそも生産的な発想自体を持っていない」という法則。
もしここに、「今あなたが商売を始めるとしたら何?」という問いに、「さあ」「特に出てきません」と答える百人いたとして、この百人をまとめて一つの企業に放りこんだらどうなるだろう。
必然、その百人は、自分たちのする仕事を「誰かが投げ込んでくれる」のをずーっと待つことになるだろう、百人はボーッとしながら数ヵ月を過ごし/「仕事は?」と訊かれたら「ないんです、誰も何も言わないんですもん」と答えるに違いない。
今ちょうど、就職活動のシーズンだと思うが、きっと少なからざる人が「仕事をさせられるところを探しに行く」というだけで、自ら何を生産するべきかということを考えずに就職活動に取り組んでいるのではないだろうか。

僕は以前から、最寄りの某コンピニを見るたびに、「ここにコンビニじゃなくて交番があればいいのに」と友人と話している。
街の構造的に、そこに交番があれば治安が安定するのだ、狭い商店街なのに夜中は酔っ払いが多くなりその中を運送のトラックが爆走するのでいつも騒がしくなる。
どうか、大人になる少女たちへ、クサいことを申し上げて恐縮だが、ボーッと生きてるんじゃないよ、街を見て世界を見ろ、そして「もっとこうなればいいのに」ということをいつも新しく見つけろ、それを見つけるのが当たり前の大人になれ。
そして、「もっとこうなればいいのに」ということに合わせてだ、自然に出てくる、「そっか。じゃあ自分がこうなれたら、そしたら……」という夢/生産は「させられる」ものじゃなくて、あなたが見つけてあなたがするものなの、生産を「させられる」なんてただの地獄にしかならないよ。

せっかくのインターネットなのだから、不特定多数が情報を雑多に持ち寄るというのではなく、もっと特定の個人が、不興を買いながらもズケズケと、思いがけないことを言ってきて、新しく知ると共に「なんだこいつ」と面白がれるという、恋あいネタのサイトがあればいいのじゃないか?

そう思ってこのブログやウェブサイトを運営しているのであり、僕は僕の言いたいことや思ったことを書いているのではない(そりゃおれが書き手なのにおれが消費してどーすんだ)。
自分のやりたいこととか、思うこととか、そういうものからは自分のやることも夢も出てこないわけだ、「もっとこういうものがあれば……」という生産的な発想の向こうに、「じゃあ、自分がこういう奴になれれば……」というあなた自身の構築方針が出てくる。

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生産的に考えること

かんいかん、落ち着いて考えんとね……(おれが焦る理由は何もないのだった)。
ある人に、「今お前が商売始めるとしたら何?」と訊いてみた、「そうですね、○○のスタッフとか?」と彼女は答えた、「それは就労であって商売じゃないな」「就労じゃなくて商売ですか」。
僕は昔、インド現地から直輸入してハイエンド向けの紅茶を販売することを考えた、当時はまだブランド性のある紅茶茶葉の流通は十分でなかったし、インド当地では品質の管理や保持が十分でからだ(今も十分ではない)。
あと、日本の某所で採れる「○○」は、日本人の口に普遍的に合う香味だと思われるのに、なぜか全国的には流通していない、これは外食のどこかが目をつけたら流通すると思う、そういうところには商売のタネがある。

たとえば最近はフリーマーケットが流行しているので、発想を変えて、○○の一群をフリーマーケットスタイルでやるとか(なぜか商売になりうるものは伏字にしたくなるものだ)は、単発だがウケる需要がたぶんある。
あと、受験生や就活生というのは毎年一定の数が出るのだから、就活生に向けては○○を構えたり、受験生に向けては***のようなオモシロコンテンツを作れば、小規模だが確実にウケる余地があるだろう。
ふつう大人になれば、さしあたり小さくても「まあいちおう商売になるよな」ということが、三つ四つはいつでも出てこないとおかしい、そうでなかったら生きていけない。
生産的に考えるというのは、「今あなたが商売始めるとしたら何?」に尽きる、生産的なideaが問われるのだ、この発想がない大人はたいへんまずいので(生きていけねえよ)、どこかで獲得するようにしよう。

誰かが夜中まで営業する「コンビニエンス・ストア」を考えた。

商店はあったし、スーパーもあった、でもコンビニはまだなかった、そこで誰かが商売を考えた、「朝の7時から夜の11まで『小さい消費モノが全部』置いてある『便利』な店があればいいのじゃないか?」と。
あなたが買ったものや、使っているサービス、飲食にいくところや遊びにいくところ、勉強しにいくところもすべて、誰かが「こういうものがあればいいんじゃないか?」と生産的に考えた、そのideaの産物だ。

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