☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「かわいい服を着よう」という思い

1がレースクイーンを撤廃するそうだ。
「時代の規範に合わないから」という理由らしい。
いずれラウンドガールや、企業やデパートの「受付」を女性がしている、という形態もなくなるのだろう。
あなたが抜群のプロポーションを持っていて、努力による美性にいたるほどの知性を獲得していたとしても、それによってあなたが「華」がごとき扱いをされることは、この先なくなるということだ、それはまことにめでたいことだと思う人がいて/一方で、とても悲しいことだと思う人がいるだろう、現在の乙女が未来のレースクイーンになる可能性はゼロになった。

女性はきっと、毎朝目が覚めたときから、「かわいい服を着よう」と思っているのだと思う。
無条件で「かわいい服を着よう・着たい」と思っていることが、性差別の原点だ、女性が自分に「かわいい服を着せたい」と望んでいること、それ自体が自分で自分にする「セクハラ」になっていると思う。
「かわいい服が着たい」という思いは、女性を「アイドルになりたい」「ミスコンを獲りたい」「アナウンサーになりたい」「インスタにかわいい自撮りをアップしたい」という気持ちのほうへ押し出し、やがて「F1のレースクイーンになりたい」という気持ちのほうにも押し出してしまうだろう、だがF1のレースクイーンはすでに公的に忌むべき性差別と認められた/あなたは性差別主義者に与するか。
「かわいい服を着よう」「かわいい服が着たい」と思うこと、それ自体が性差別の始まりだ、僕は男だし性差別をしてしまう愚か者だから、あなたは僕と会うときには、メイクをせず寝癖のままとびきりダサい服でいらっしゃい、僕は絶対にその待ち合わせ場所にはいかないから。

せっかくF1がレースクイーンを撤廃するのに、地下アイドルや巨乳アナウンサーやインスタ女子が増えては元も子もない。

地下アイドルや巨乳アナウンサーやインスタ女子を撤廃するには、「かわいい服を着よう」とする思いそのものを死滅させねばならない、たとえば「スカートのほうがかわいいから」といってスカートを穿く女性があとを絶たないが、スカートというものそれ自体が明らかに性差別のものなのだから忌まねばならない/実際、中学や高校において、男女の制服の区別をやめようとする動きが起こっている、それは本来、男女差別を撤廃するなら第一に施行されねばならない当たり前のことだった。
男性がそう感じてはならないように、女性も「スカートのほうがかわいい」「かわいい服を着たい、かわいい服を(わたしに)着せたい」と感じてはならない/なぜあなたは無条件に「かわいい服を着たい」と望むのか、それは僕が無条件に「女の子はかわいい」と感じるのと同じだけ罪深い性差別の発想だ。

視点変えてこ | comments(0) |
春の味しかしない

「おれは天才だぜ〜」という、正義のネタを、僕はこれまで使い回して遊んできたし、まあ天才なので、天才はひゃっほうなのだが、毎年この季節に春の微粒子が来ると……ふとひとつのことがわかった。
「おれは天才だぜ〜」と言っているところに、「天」が直接降り注いでくるので、「あっ」となり、することがなくなるのだ。
天才がひゃっほうと浮かれて活躍できるのは、あくまで天がふだん遠いからであって、天に直接降りてこられると、「天才……」にはすることがない。
なんというかね、いわゆる中抜きされた気分ですよ、これまで天という卸業者と人という消費者のあいだに、天才という仲買人が入っていたのだけれど、その天が直接消費地にまで降りてこられるとですね……ここが天国になってしまうでしょーが、そうすると天才は廃業なのだった、そりゃまあ幸福な廃業ではあるのだけれども。

しかもこの「春」は、これからだいたい五月半ばぐらいまでかけて、何度もこの春を注(そそ)いでくるのだ、しかもそのたびに濃度が違い、たいてい濃度は高くなっていく、桜の木に桜の花が咲くのはわかるが「おれの身にまで咲かせるのはやめーい」ということまで生じる、そのことは、だんだん前もって畏怖を覚えるようにさえなってしまった/春っていいかげんコエーよ。
この春がテキメンに効いてしまっている場合、夕刻に見知らぬ外国の女子高生に手招きしたら、女子高生は僕の膝の上に乗っかるところまで来てしまうぞ、四肢が完全に性的でありながら性行為への切迫や要求はまったく起こらないという、それぐらいヤバイことを四方ほうぼうにもたらすほど「春」というのはヤバく、こんなものが降り注ぐのだ。
天が直接降りてきて、全体を天国にされてしまったら、天才としては本当にやることがないなあ、華麗なるおれの無数の創作物が即日不要品に切り替わるのは、まあしょうがないことではあるが、思わず鼻からムフーと苦笑が噴きだしてしまうものがある。
これは何というか、言うなればハーバード大学とケンブリッジ大学が、急に「すべての受験生を無料で受け入れます、入学を望むもの全員合格です」と言い出したときの、教壇に立ち尽くすハメになった予備校のスーパー講師みたいな状態だと思いなされ、そのときスーパー講師の務めは幸福の中で完全満了したわけだが、幸福の中で急にどうしたらいいのかわからないのだ。

酒にもメシにも桜にも、春の味がして怖い。

むろん女にも大気にも、春の味しかしなくなる、そうなるとちょっと怖い、つまり森羅万象がもともと全部「春」に回帰する同じひとつの性質物にすぎないのでは? という気がしてくる、気がしてくるというよりたぶんそーだよ、「エエエエエ」ってなもんだ、どのラーメンが旨いか議論していたわれわれがアホじゃないか。
「春の味しかしない」というのが正解か、じゃあ僕はワインソムリエになったらすべてのレビューを「春の味がする」として大変な不評を買って遊ぶことにしよう。

正しく見ないとな | comments(2) |
春の書斎
年このことを言っているのはよくわかっている。
しかし毎年、この大気に混じりはじめる、すさまじい春の粒子は何なんだ。
これが大気に混じって、ふいに鼻腔に入ると、「ああああもう、こんなもん入ってきたら終わりだってばよ」と、僕はひとつの時間を生きていることを強制的に思い出さされる。
時間は流れておらず、ずっと「ここ」にあって、僕はずっと「春」の「書斎」にいるのだ、その他の四季や年齢の変動は完全な錯覚(まやかし)にすぎない。

まだ二月九日で、外の気温はクッソ寒いわけだが、誰がどう見ても冬でしょという気候に、「いや、春が来てるわ」と僕は投げやりに言うのだ、気温に関係なく春は「あたたかい」。
ホント毎年毎年、これ何なんだよ、毎年「どこに連れて行く気なんだよ」という気がして、連れて行かれると「またここか」の繰り返し、そりゃ言いようも投げやりになろうってものだ。
「だーかーらー」と、この春の微粒子がくれるものは完璧すぎて、「もうおれがやることとか何もなくなるし、おれの考えることも完全になくなるだろ」と途方にくれる、なぜこの天才であるおれが本気を出す前にこの「完璧」の春が向こうから現れてくるのか、正直なところ何か敗北感さえある。
世界があって、自分があるわけだから、世界愛がないとウンタラカンタラ……と、いつも主張しているに、こんな「ホイ、世界でーす」みたいなものを、急にブッこんでくるなよ、ホントに書くことがなくなるだろ/春の書斎でいつもわたしは筆を執っていない。

僕は「春の書斎」を忘れずにいこう。

むかし、ある女性が何年間も僕を見て、しげしげとついに、「あなたって、きっと青春がとんでもなく長いのね、あなたの言っている話わかるよ、でもきっとそれはふつうの人にとって、ごく短い青春の話なんだと思う」と話してくれたことがある、僕も当時「へええ、なるほど」と思って「そうかおれは青春が長いのか」と思っていたが、どうやらそうじゃない、この「春」はたぶん永遠にやってくるのだ/僕が僕でなくならないかぎりは。
いつもは想像力の果てに触れるものが、季節だからといって急にそちらから降ってくるなよ、想像力の果てに到達する理由がなくなるっての/いやあそれにしても降ってくるなあ、だとしたらこの大気というやつはヤベーやつじゃないか、大気って「降り注ぐ」ものだと「見える」ということが続いているのだが、そりゃ見たとおりこいつはヤベーやつだよ。
正しく見ないとな | comments(1) |
#MeTooから何を読み取ればいいか
リウッド女優からを代表的に人口に膾炙しているハッシュタグ「#MeToo」が告発する外道どもによるセクハラ被害の実態は、その様相が「性的」というより「狂気的」であることをつぶさに報告している/逸脱した性的なプローチの仕方および拒絶されたときの仕返しに対する執拗さと怨念じみた情念の出方が、いやがらせの不快さというよりはこころの闇を見せつけてくる恐怖として、女性を苦しめ抑圧することにはたらいている、むろんこんなものは世界中から即刻なくなるのがよいに決まっているし、なくならないなら再びロボトミー手術の方法が思い出されるのがやむをえないところだ。
「#MeToo」の勇敢な告発の蓄積によって、女性の安全と名誉と権利が回復し、その保障が新たに形成されるかという見込みの反面、われわれは元あった可能性の「光」を、すでに遠きものとして見失っている/つまり「もう、胸が大きいからって、すぐからかってくるんだから、困った人たちね」と気散じな女が肩をすくめているという、そのような状態はもともと明るい光に照らされている中でのことだったろうが、われわれはもうこの明るい光の中でありえた情景のすべてを放棄せねばならない、このような情景は近年以降「ありえない」と軽蔑の対象に認める。
思い返せばこのようなことはかつて「ストーカー」という語が唱えられたときにもあった、当時ある女性が言ったのは「そんな、待ち伏せひとつをストーカーと言われちゃ、もう男の人は何をすることもできないじゃないの」ということだった、その言の是非はどうかと確かめられる時間もないまま、実際に男性たちは「待ち伏せ」などをすでに禁じられた犯罪に近似する行為だと認める向きになっていった、結果待ち伏せは三十年前の定番でありえても現代においては犯罪に近似する恐怖行為でしかありえない。
こうしてわれわれは、目の前にある確実な正義へ傾いていくうちに、単純な結果だけを見ればますます光から遠ざかっていった、ということを繰り返してきた、なぜこのようなことが起こるかといえば/闇を斬り捨てようとして、闇のふところに詰め寄り、確かにその闇を叩っ斬ったからだ、胸の大きさをからかわれながら「もう、困った人たちね」と笑っているところの女は#MeTooのハッシュタグに共鳴するところを持たないはずだが、それら血塗られていない者たちはすべて過去の光あった時代のことに遠ざかっていった。

#MeTooから何を読み取ればいいか/第一にはむろん、下劣な男どもへの憤怒と弾劾、および女性の安全と名誉と権利が回復・保障されるべきだということ、このことは論を俟たない。
けれども第二には、これらのレポートは、本当は性的な問題ではなく狂気的な問題を報告しているということ、本来はセクハラ男性の多さとひどさが暴露され嘆かれるという形式ではなく、「気が狂っている人が多すぎる」ということが暴露され嘆かれる形式があるべきだった/しかし現代人はまだ自分たちが「気が狂っている」と認める勇気を持っていない、そのぶんのしわよせがセクシャリティというピーキーなジャンルに露出しているだけだ状況がある。
こころの「闇」とその恐怖に具わった特徴的な性質として、「闇が見えてしまった以上、それが見えてしまった者も闇の側に寄る」ということがある、つまりより深刻なことに、#MeTooタグに賛同して報告せざるをえない体験を持つ女性は、その体験によって自身も闇に大きく傾いたことを報告しているのでもある、皮肉な意味で「わたしも」と/実際、#MeToo該当者の女性が最も、「もう、困った人たちね」というような明るい情景を「ありえない」と暗く感じるだろう。
より本質的な危機は、今「#MeToo」という旗印の下に、「正義の刃を下すために、あなたも闇の森へ斬り込もう」という誘いがバズっているということだ、よほど強力な光を持つ者でも、ひとたび闇の森へ入ればまず元のところへは戻ってこられないものなのに、つまりこの#MeTooの刃を振り下ろした者は確実な正義であることは疑いないのに、闇の森からは帰ってこられないことになる/もし正義ということを捨象し、単に「闇」ということだけで見るならば、セクハラ被害およびその心当たりを受けたことが第一の不幸であるのに対し、#MeTooの旗に集い再び闇の森に斬り込んだことは第二の不幸になる、暗雲の敵ボスを討ち取ることは大いなる正義だが光の恢復とはならず闇はますます濃くなるだろう(だが正義が軽んじられるわけでは決してないし、この呪わしいことの再発防止にはむろん役立つだろう)。

セクハラは悪夢だが、この悪夢を打ち払う先、はるかに巨大な悪夢が現れてくる。

もともと、そのセクハラ悪夢の出所が、もっと大きな悪夢である「闇」「狂気」なのだからしょうがない、遅かれ早かれやがてわれわれの頭上を覆うはずだ/僕はここで#MeTooの刃の元にセクハラの悪習が討ち取られることは潮時であり正義だと思うが、おそらく劇的なできごとに比して堅牢な知識と構えの準備は十分にされておらず、祝杯は思いがけない毒の味がしてびっくりすることになるだろう。
と、こんなことを、セクハラの日本代表選手である僕が言っても説得力がないのだった、ふふーんおっぱい触らせて〜ん。
正しく見ないとな | comments(0) |
かっこいい奴であるべし3
「言う奴」ではなく「見える奴」がかっこいいのだ。
「わたしがんばります」と言う奴がかっこいいのではなく、「あいつがんばるんだな」と「見える」奴がかっこいいのだ。
いつも顔面に笑顔が貼りついている人は、明るい人なのではなく、「明るい人には見えない」ので、顔面の記号で「明るいです」と言っているだけだ/「あいつは明るい奴だよ」と胸の奥まで「見える」奴のほうがかっこいい。
頭のよさが「見える」、やさしさが「見える」、ハートが「見える」、ユーモアが「見える」、ユニークネスが「見える」、愛が「見える」、夢が「見える」、それらすべてを統合し、なおかつ超えて「何をしているか」が「見える」、それがかっこいいということ/頭のよさや、やさしさ、ハートやユーモアやユニークネスや愛や夢を「言う」という人は、それが見えないから言って説明するしかないわけで、それが見えないということは、つまり言っても単なるウソということかもしれない。

「見える奴」になるにはどうすればよいか/「見える」ためにはどうすればよいか。
そんなもん、見てたらわかるだろ、としか言えない/説明するとしたら、それは「見えない奴」に向けてやることなので、本末転倒している、美術館の絵画の脇に書かれている説明文を読むようなもので、説明文がないとわからないならそこは美術館ではなく説明術館となる。
しかし、まだ素直に説明文にすがって「へええ〜」となる人のほうがうつくしいもので、サイアクなのは「見えているフリをする」「見えているように思い込む」というパターンだ、これは「見えない奴」からさらに格下げされて「違うモノを見だす奴」に位置づけされる/つまり妄想クンということになる。
ここでつまり、[見える奴:かっこいい] [言う奴:かっこ悪い] [妄想クン:迷惑]という三階級に分かれることになるが/誰でも自分のかっこ悪さを引き受けて努力するのは大変なもので、そこの引き受けが甘いと努力のつもりは甘さへ流れて下の階級[妄想クン]に行き着くことになる、もちろん上昇がカンタンなんて話はこれまで聞いたことがない、お互いがんばってまいりましょう。

あなたは人に何を「見せて」いるか/何を「見せる」つもりか。

こう言われるだけで、ギクッッッッとして、心臓が止まりそう、という人のほうがまともだ。
ある人は「ん? 見てりゃわかるもんを見せていくだけだ」といい、ある人は「思いはあるつもりなんですが、見せ方がわからないんです」といい、ある人は何かキモチのこもった確信をいうだろう/前述したように三階級に分かれている。
できるオンナだね | comments(0) |
かっこいい奴であるべし2

れはもう愚痴みたいなものだが、本来、僕のような奴は、「何をやっているのか」をはっきり見せて進めばよいのだった。
しかしこのご時世、四方八方からクラッシャーが飛び込んでくるのだ、本人に悪気はないのだろうが、何しろクラッシャー当人は「人が何をしているのかが見えない」ので、非常なスマイルと協力のキモチで、交差点の真ん中に突っ立っているのだ、「そこにいられると邪魔なんですが」ということがどうしても言われるまでわからない。
まあこのご時世、しょうがないことだとは思うのだ、何しろ「生まれてこの方、何をしているのか見ていてわかる人をそもそも見たことがない」という人も少なくないようなのだ、そういうことならしょうがないと思うが、でもそれなら僕がここで改めて愚痴を言いたくなるのもしょうがないということの範疇に入るだろう。
何をやっているのかが、見ていてわかるということは、その人が魂を投げ出して魂で取り組んでいるということだし、それがアタリマエでかっこいいということなのだが、それがわからない人はどうしても誤解してしまうので、厄介なことなのだった/ちなみに以前も言ったことだが、わからない人に説明をして了解してもらっても、それは引き続き「わかっていない」ということなのだ、「交差点の真ん中にいられると困るんです」「わかりました」というのは「わかっていない」ということなのだ。

まあしかし、僕までかっこ悪い奴になるわけにいかないので、僕は「何をやっているのか」が見ていてわかることを続けなくてはならない(しかしよくよく考えると、これが「わからん」というのは何たることだ、ゴリゴリにアホじゃねえか)。
僕はあれをああして、こうしたいのだが、これをこうはしたくないのだ/と、ここまで数百のコラムと数千のブログがあるのだから、説明しなくても見ていりゃわかるというのでないとオカシイ、そして見えねー奴はいったい見えないままで何を協力するつもりなのか、考えてみりゃ「めちゃくちゃじゃねーか」と改めて問い質したい。
僕は何をやっているのか? そして何をやろうとしているのか? こんなもん、ミエミエにわかるようにやっているのに、説明が必要な奴はどう考えてもオカシイ、そして見てもわからん奴に説明なんかしたら「わかりました」と絶っっっ対にスーパー誤解するに決まっている。
なぜ現代になって、こうもスーパー誤解だけを拡大してゆける特殊なパーソンが際限なく増えているのか、まったくナゾだが、そんなことを言っているあいだに本旨を語るのを忘れた、見ろタイトルとまったく違う記事になってしまった(まあ別にいいだろ、愚痴だ愚痴)。

手抜きと本腰を共存させる。

見ろ、時代状況がヒドイせいで、こんな複雑怪奇なやり方を強いられるハメになっているのだ、<<見ていてわかること、見えることが、本来最大の情報だと思うが、今はそれがインビジブルの扱いを受ける>>ので、こちらとしてはそのインビジブル扱いされるところを敢えて真っ直ぐ突いていくしかない/しかしあの「説明を求める眼差しの洪水」はいいかげんストレスだし誰もトクをしないので何とかならないものだろうか、そんなにわからないことの説明って受けたい?(なぜ説明を受けたいという切迫感があるのかが僕の側にはわからん)
ふつうに見てりゃわかるんだから、ふつうに見ろよ、と言いたくなるのだが、今ふと気づいたところ、そうしてふつうに「見る」ということをしてしまうと、人によっては<<自分がかっこ悪いことが見えてしまう>>のかもしれなかった、それならあえて目を曇らせてインビジブルにしてしまうというのも、動機としてわからないでもないのだった(しっかしふざけなよオイという話ではある)。

できるオンナだね | comments(0) |
かっこいい奴であるべし

っこよくないものは疲れる。
そして疲れるということは間違っているということだ。
かっこいいというのはどういうことかというと、見栄えがどうこうという問題ではない。
かっこいいということは、「何をやっているかがわかる、見える」ということだ。

何をやっているのかわからん奴というのは、どこからどう見てもかっこ悪い。
接客態度が崩壊しているウェイトレスは、もう何をやっているのかが見ていてわからんのでかっこ悪い、近所から聞こえてくる夫婦喧嘩の声は、やはり何をやっているのか見ていてわからんのでかっこ悪い。
学校の先生が「教えている」のはかっこいいが、「何やよくわからんが教壇に立ってスマイルで何かをつぶやいている」という状態はかっこ悪い。
何をやっているのかわからん顔や声や姿を、見せないこと、何をしているかわからん奴を見せられても、それが「どういう人」なのかはまったく見えないのだ。

包丁を研いでいる動画を観た、すごくおもしろかったのだが、何をやっているのかさっぱりわからなかった。

何をやっているのか、そりゃ包丁を研いでいるんだろうが、そして包丁がピカピカになるのは何か見ていて気持ちいいのだが/何をやっているか、そりゃ包丁を研いでいるんだろう、それで「??? これって何やってるんだっけ???」となった、言っている意味がわかるだろうか(別にわかる必要はない)。
何をやっているのか、見ていてわからんというのは、僕の趣味においてはかっこ悪いと思うので、僕は何をやっているのかわかる奴でありたいなあと思うのだった。

できるオンナだね | comments(0) |
LGBTと誇り高い性愛

LGBTが流行っている/流行っているというと怒られるが、少なくともその話題とテーマが流行っている。
僕は当事者ではないのでLGBTのことはわからないが、少なくとも、LGBTを差別する権利は誰にもないことぐらい、別に議論しなくても誰でもわかる/差別するのもわかるが、別にその「権利」があるわけじゃないことぐらい、わからなければ単に頭がアホだ。
ただし、差別しないことと「理解できる」ことは別で、理解しろというのは無茶がすぎる、鉄道オタクのマニアを「理解しろ」といわれても「わかんねーよ」と言わざるを得ないことのように、当事者でなければそれは理解のしようがない。
また、どれだけ差別観念を解消しようとしても、LGBTのトラブル性を完全にゼロにはできないだろう、なぜなら「昔々、あるところに、おじいさんとおじいさんが」と昔話を書き換えるわけにはいかないからだ/このあたり、現在のLGBTテーマの「流行」は、多く「前向きだが浅はか」ということになるだろう、だいたい何千年も人類が手こずってきたテーマをチープな現代のわれわれが解決できるわけがないのだ、「いいね」ボタンの連打で解決できることは何一つない。

だいたい、LGBTうんぬんの前に、「LGBTでない側」の異性愛だって、まともに隆盛しているとは思えない。
生まれついた本分としてLGBTだったという人ばかりでなく、単に異性愛への閉塞と不能から、LGBTに転じることになった、それで「自分でもよくわからなくなっている」という人もいるだろう、むしろそういう人が水面下で増えてきているのじゃないかというのが不安でならない/それはLGBTが不安というのでなく、「自分を見失った人」が大量に発生しているのではないかという不安だ。
異性愛が閉塞して不能化しても、身体および生理・ホルモンによるリビドーはあるわけだから、行き所を失ったリビドーは本意・不本意にかかわらずそのはけ口を見つけるだろう、その結果としてLGBTの側へ転向したに過ぎなかったら、それは極論すると「摂食障害がこじれて、ティッシュペーパーを食べるようになってしまった」ということと似ているわけで(そういう病気は実際にある)、その人を「紙食主義者」と定義するわけにはいかないように、セクシャリティのトラブルを安易にLGBTに定義することは危険をはらんでいるだろう。
僕はジジイなので、年の功からアタリマエのようなことを言うが、基本的にふつうの異性愛者が、異性にモテないというのはヒサンなことだ、そして異性と愛し合う機能が破損に向けてきしみをあげ始めるのはさらにヒサンなことだ、だが人間はそもそも自分が生きるということに、何かしらのヒサンさと向き合ってそれを超克するというプロセスが含まれているので、ヒサンだからといって背を向けていてはもうまともに生きることができない/もし異性にモテない男が、女にバカにされすぎてインポになり、なぜか同性の男にチンコが勃つようになったとしても、それを「LGBTだよ、握手しよう」と祝福してやる気にはなれない、僕はLGBTのことはわからないが、そこに誇り高くないLGBTが混ざっているなら、それが「誇り高くない」ことにまで目をつぶってやる義理は見つけられない。

異性愛であろうがLGBTであろうが、自分が誇り高い性愛に到達できないという恥をごまかすことはできない。

別に性愛に限らず、自分が涙ぐましいとき、それは他人から見ると「みじめ」なのであって、そこで自分の涙ぐましさを押し通そうとせず他人から見たみじめさを引き受けようと立ち直らないかぎり、人は誇りある姿に到達できない/そしてどれほど庇護を受けたとしても、誇り高くあれない自分を自分で知ってしまっている以上、その者はもう幸福を得られないのだ、このとき過剰な庇護はむしろ幸福への立ち直りを阻害するイネイブラーの足かせとしてはたらいている。
「誇り高い性愛」に到達できる人なんて、全体の何パーセントいるものだろうか、それが困難であることは異性愛もLGBTも変わらない、それに到達できないということはみじめなことだが、このことに感情的な混乱を覚える人があったとしたら、その人はいつの間にか、「自分はまったくみじめではない者」というえげつない誤解をどこかで形成したのだ、古今東西自分にみじめさを見つけない人がいたとしたらそれは狂人でしかなかったというのに。

恋女のマインドね | comments(0) |
救われる奴のセンスは、「身の回りにある学門」

とえば僕は、洗濯物をたたむのがヘタだ。
ユニクロの店員さんなどがパパッとセーターをたたむのを見ていると「すげえ」と感じる、「なぜそうパパッと片付くんだ……?」と見ていて負けた気がしてならない。
そう感じるので、youtubeなどで「たたみ方」の動画を検索するのだが、それを見てマネをしてみても、いまいち上手くならないのだ/身につかないわけだが、そうして「身につかない」ということは、何か徳性が足りていないのだ、それで「くそ〜」と思いながら後回しにしている。
学門というのはこれだ、「あの人はできるのに、自分にはできない」「なんでだよ」「割と同じようにしているつもりなんだが?」「いや、何かが違うんだろう、だって結果が違うんだからな、ぐぬぬぬ」/このことを常に身の回りに見つけている人が結局救われていくと、僕は年の功から強く唱えることができる。

逆にいうと、救われない奴のセンスは、「十億光年かなたにある壮大な学門」だ、こいつは僕と同じくセーターをたたむのがヘタだが、そこでユニクロの店員に敗北していることを見ず、さも自分は宇宙の真理を追究しているがごとくに妄想し、自尊心を麻薬的に潤す。
もっと注目すべきことは、身の回りにいくらでもあるのだ、20tトレーラーをバックで車庫入れしている運転手を見て「すげえな、どんな感覚であんな正確に操作できるんだ」「おれなんかライトバンでもぶつけそうで怖いのに」と感じない奴は学門から逃避しているのだ。
救われない奴は、すっかり蛇に食われているので、たとえば魚を三枚におろしたときに、「ヘタクソか」「テメーぜんぜんできてねーじゃねーか」と言われることに恐怖し、もしそのように言われると、どんな理由があろうが憤怒と憎悪の炎が盛って止められないのだ、それで自分が傷つかずにすむ「壮大」なことへ逃避するのを日常にしている。
学門の入口は、明らかに身の回りにあるもので、「もう部屋が片付いたの? 早すぎない?」「パスタの茹で加減が完璧だな!」「そこを触るだけで果物の熟れごろがわかるのか」「お前ホタテを捌くの上手いな」「どうやってあんな奴に取り入ったんだ」「よくそんなにササッと適切な説明ができるな」「よくあんなときにあんなユーモアを思いついたな」「お前アイロンかけるの異様に早いな」「まったく枯れないけど、お前ってどういう感覚で水をやっているの?」というのが入口だ、僕の知る限り「壮大」に耽る奴は初代スーパーマリオもクリアできずにイラついて投げ出してしまうものだ。

卵チャーハンを上手に作れない奴は、解脱から一番遠い。

卵チャーハンなどが、一番シビアに思える、なぜなら材料や方法は誰だって同じだからだ、しかし人によって出来不出来は大きく変わってしまう、そこで「なぜこいつが作るとこんなにウマいんだ?」とハンカチを噛むのが学門だ/料理研究家でもそのへんのおっさんよりウマい卵チャーハンが作れるとは限らない、なぜなら卵チャーハンは「工夫」に逃げることを許さないからだ。
さあ、壮大なことを口で語るのをやめて、その手で身の回りに、己の学門の到達程度を証してみろ/僕は学門についてはしつこいので、いつかセーターをパパッとたたんで見せて、「ユニクロの店員かよ!」と言わせてみせよう、僕はそういうのが一番好きだ(ただしセーターたたみ道はいつまでも険しく遠いのだった)。

できるオンナだね | comments(0) |
考え方の、基本中の基本2
車の車内に一人、酔っ払いのおっさんがクダを巻いていたとする、すると僕は、その車両には乗らない、当然避けて別の車両に乗る。
しかし電車の車内に、その酔っ払いのおっさんと、若い女性が一人、乗っていたなら、僕はその車両に乗る/当然ながら、同じ車両内に身体のデカい僕がいれば、そのおっさんが若い女性へオイタをすることへの抑止力になるからだ、余計な悪さをすると僕が「おいおっさん」と制止に入るに決まっているので、おっさんは悪さができなくなる。
そうすれば女性は不安におびえずに済むし、おっさんだってたぶん悪人ではないので、そんな悪さはしたくないというこころはあるのだ(でも酔っ払っているからな)/ということで、そこでは僕がその車両に乗っているのがベストになる、こんなとき僕が「自分だけ」の快適さを求めることなど世界のルールとして許されるわけがない。
考え方の、基本中の基本だ、将棋の駒と同じように、「四方八方に一番よく効く」ところにそれぞれの駒が進まないと、盤面が不利になるばかりだろう、この基本的な考え方ができない者は、単純に「低級」とみなされて抗弁の余地はない。

腰の曲がった近所のババアが、なんだかんだ、近隣の道路を清掃したり、ゴミを拾ったりしてくれている。
僕はそういうことをまったくしないのだ、何しろ面倒くさがりだから/ただし近隣のガキが「ん? イジメかな」というような光景を見せているときには、僕がしゃしゃり出て「何しとん、楽しそうなことしとるやん」と割り込み、ガキどもをたいへん憂鬱な気分にさせてやることにしている。
このそれぞれのはたらきを、入れ替えるとたいへん不利益なのだ、ババアがガキどもに凄んでもいまいち迫力がないし、僕が近隣の清掃なんかしていたらいかにも「あわれな人」みたいに見えて街の景色が悪くなる/だからババアがゴミを拾っているのが一番いいし、僕は「常識がなさそうでヤバい人」でいるのが一番いいのだ。
将棋でいうと、金の上に銀があるのが良形で、銀の上に金があるのは悪形なのだ、個人では動かしようのない、考え方の基本中の基本だ/「自分がどう進めば四方八方によく効くか」という視点で考えるべきであって、「自分だけ」で善人になろうとするのは「発想が低級」であり抗弁はできない。

僕がガキどものイジメに割り込んでゆけるのは、ババアが近隣の道路を清掃してくれているからだ。

何を言っているかわかるか、このことは顔面を冷水で洗滌してでも理解しろ、人間は万能ではないので剣と箒(ほうき)を同時に装備はできないのだ、僕が箒を装備するならクラスチェンジをせねばならず、箒を装備していたらいざというとき剣を持って割り込むことがタイミング的に間に合わなくなる、「何しとん」と割り込むべきタイミングに間に合わないのだ。
これは言うなれば、近隣のババアが僕から箒を「取り上げている」からこそ、僕は僕本来の剣を持たねばならず、それでいくつかのタイミングに「間に合う」ということが生じたということだ/この世界で成り立つすべてのファインプレーは、必ずそうした水面下の連係プレーで成り立っており、個人プレーでファインプレーということはありえない、だから個人で「自分だけ」を考えているやつはこぞってアホというしかないのだ。
恋女のマインドね | comments(0) |
考え方の、基本中の基本

は天体望遠鏡を買わないだろう。
なぜなら、今住んでいるところの近所に、知り合いのガキどもなどいないからだ。
もし知り合いのガキどもが近所にいて、通りすがりに「あー望遠鏡だ」「お月さんぐらい覗いていき」ということになるなら、天体望遠鏡を買ってもよいのかもしれない。
僕は以前から、中型バイクの免許を取ろうかなあ、と思案している(が、面倒くさがっている)/今は原付があるので、用は足りているのだが、中型ならいずれ二人乗りできるわけで、後ろに誰かを乗せてやれるということになれば、いろいろイイことがあるなあと考えるのだ。

「自分だけ」でしか考えない利益の発想は、単純にいって発想のレベルとしてサイテーだ。
不遜ながら、僕は正直なところ、「よくまあ、そんなに徹底して『自分だけ』のことを考えられるな」と驚かされることが多いのだ。
仮に僕が、自宅でラーメン屋を開いたとする、そのとき「この場所にラーメン屋があって周りの人はよろこぶかね?」と考えるのがどう見ても基本だ、よもや「自分がラーメン屋をやりたいかどうか」というようなわけのわからん視点では考えない。
こんなもん考え方の、基本中の基本だ、まさか植木バサミを買うときに、あなたは自宅の庭のことしか考えないのか。

僕が厚着をして出かけるのは、薄着で出てくるバカ女がいるからだ。

僕が厚着をしていれば、バカ女にコートやストールを貸してやれるのであって、そこで「自分だけ」温くてどうする、そんな発想で僕は自分のものを買ったことはない。
僕が温泉に詳しくなれば、あるいは焼き鳥屋に詳しくなれば、僕が情報源になれるわけだし、僕が正しい知識を持てば、僕が知識源になれるわけだろう、そのために遊ぶのだしそのために勉強するのであって、「自分だけ」という発想がそもそも特殊だ/近所に知り合いのガキもいないのに天体望遠鏡を買うのは典型的に「無駄な出費」に思える。

恋女のマインドね | comments(0) |
判断は合理的に、決定はカルマ的に2
「自分は何をしなくてはならないのか」ということを、僕は考えたことがない。
そりゃ僕は世界でも屈指の無責任人間だから、義務的なものからはすべて逃亡するぜ……ところで僕が思うに、カルマ償却うんぬんはそういう「何をすべきか」的な発想から為されるものではない。
「判断」とは別に、「決定」がカルマ的に為されるべきということは、逆にいうとカルマ償却というのは、その「決定」が求められる「どうしようかな」の瞬間にチャンスを与えられていると捉えるべきだ。
たとえば「どうしようかな」と思う瞬間、ふと、「あ、わたしがやりまーす」と手を挙げるということ、このときにカルマ償却が起こっている/この「どうしようかな」の機会なしに、「自分は何をするべきか」と考えることは、しょせん自我のはたらきであってカルマ償却には作用してくれない。

カルマ償却というのは、「やるべきこと」というより「進むべき道」なのだ、そして「進むべき道」というのを大仰に捉えないほうがいい、「どうしようかな」と思う瞬間、「やっぱり今のうちに洗濯物を取り込んでたたもう」という「道」を選ぶということ/人はどことなく、そちらの道が正しいというのを、自我ならざるレベルで知っているものだ。
「どうしようかな」と思う瞬間、そんな瞬間はいつだってある、イベントに誘われて「どうしようかな」、書店で本を手に取って「買おうかな、どうしようかな」、メールを送るか送らないか「どうしようかな」、歴史特集の番組を見て「覚えようかな、眺めようかな」、ゲームをしながら「クリアしようかな、投げ出そうかな」。
この、生活の中でいくらでもある「どうしようかな」、これについて決定を下すのに、どこかで自我を切り離すことだ、自我に決定させるのではなくカルマ的に決定させる、少なくとも僕が女性に食事をオゴるときはカルマ的な感覚であって、ひどい言い方をすればブスのほうが「断じてオゴれ」というカルマの命令が聴こえている。
あなたは「ちゃんとお礼を言いなさい」とか「ちゃんと頭を下げなさい」「感謝しなさい」「あいさつをしなさい」とか教育を受けてきているが、教育によってマシーン化することはおろかなことだ、ちゃんと「どうしようかな」と考えることの正面に立ち、自我を切り離してカルマ的に決定しなさい/自我判断ではなくカルマ的に「頭を下げるべきだ」と決定できたとき、あなたは初めて人に低頭するということがまともにできる。

ある男性は、「この人にうなぎをオゴらなくてはならない」と決定し、僕のところにうなぎをオゴりにきた。

実際にそういうことがあったのだ、その方は圧倒的に僕にうなぎをオゴり、そのあと自動車趣味のことをたっぷり話し、スピード違反で走ることに伴う死生観を確認するように話し、その後はなぜか「あのとき以来、持病だった不整脈が治った」と連絡をくれた/今思えばあの人は、カルマ的な「決定」で僕にうなぎをオゴりにきたのだ、それで話すべきことを話した、理性的な人だったが理性的な判断を超えて決定し、僕のところに来てくれて、その結果とにかくきっとよいほうへ向かわれたのだろう。
「何をするべきか」ではなく「道を選ぶ」ということ、そして「道」というのは、われわれが普段歩いているとおり、そんな大仰なものではないのだ、ただしそのささいな「道」を選ぶにしても、理性的な判断の上に飛び越えたカルマ的決定がなければ、われわれはそれを「選んだ」ということにはならない/このことが正しく覚悟されれば、これからあなたに降り注ぐ何億もの「どうしようかな」はすべてあなたの足しになるだろう。
正しく見ないとな | comments(0) |
判断は合理的に、決定はカルマ的に

は先日、重大なことが見つかっている。
僕は、オカルトや霊感や占いを採用するタイプではないし、またそもそも霊感なんか持っていないので、判断は理に徹底する者だが、実はよくよく見ると、判断は理のくせに、決定はカルマ的に選択している、しかもこれは、思い返すかぎりガキのころからそうなのだ。
判断は理なのに、決定はカルマというのはどういうことかというと、たとえば僕が先日バレエの鑑賞に誘われたときに、「今、バレエとか観に行ってもどーなのかね」という合理的な判断があるのだが、それとは別に「はいはい、じゃあ行きましょ」という決定をしている/この「決定」はなぜなのか。
自分の中で点検してみて驚いたのだが、僕は学生のとき、合唱団にいて指揮者を務めていたりしたので、「大ホールに縁がある」のだ、だから「大ホールからお誘いが掛かったときには無碍(むげ)にできない」ということがあって、そんな理由で「行きましょ」と決定している/このことを追求していくと、実は僕自身の中に重大な仕組みがあることがわかった(この報告は何かこっ恥ずかしいのだが、まあ義理の上で報告しないわけにもいかないので報告してしまう)。

僕がこうやってブログ記事を書いているのもそうなのだが、これも、別に僕がやりたくてやっているのではないのだ、合理的な判断としては「誰がこんなもんよろこぶねん」「ニコ動のほうがいくらかマシだろ」と判断しているのだが、それとは別の決定として、僕は「生きているうちに一定量の言葉・文脈・文体を提出し、一定量の伝達をせねばならない」というカルマを負っているのだ、だから判断に反して「はいはい、書きましょ、話しましょ」という決定が為されている。
僕は色んな芝居や文章の一節を丸暗記することをよくするが、そのことについても、実は「一定質量の文言・文脈・文体を暗記せねばならない」というカルマを負っていて、それの履行のために決定しているのだ、そうして僕はほとんどのことを「好きだから」という理由でやっていない。
プレステのゲームをやるのでさえ、僕は「一定量の物語を体験しなくてはならない」というカルマを負っているからやっているのであり、単に「好き」という理由でやってはいない、「好き」という理由でやっているものなんて、正直なところ探しても見つからないぐらいだ。
カルマというのは、森羅万象にかかわって、複雑を極めて成り立っており、とてもじゃないがわれわれ凡人に視認できる類じゃない、なにしろ「11月10日」とか「3月8日」とか「12月29日」とか、日付にさえ「自分はこれをおろそかにできない」というカルマがあるのだ、あるいは「五角形はおろそかにできない」とか、「縦線はいいが横線はおろそかにできない」とか、「一定量、右折しないといけない」とか「苗字の○○は無碍にできない」とか「ボブカットに縁がある」とか、人によってそんなレベルであるんだぜ、カルマなんてきっとそんなわけのわからんレベルのものだが、少なくとも僕がさして興味があるわけでもないバレエなんか観に行ったのは、まさかのまさか「大ホールをおろそかにできない」という理由なのだ/判断は理を究めていなくてはいけないが、決定はカルマ的にいいところを突いていないとおいしくない。

「一定量ハンドルを持つこと」がカルマだった場合、そのことにつながれたら、タクシーの運転手は天職になる。

ごくまれに、たとえば思いがけない遺産がころがりこんできたのに、「まだタクシーの運転手を続けるんですか」「なんや、ハンドルを持ってないと落ち着かへんねん」と笑っているジジイというのがこの世界には出現する、そういう人は実は単に仕事が好きということではなく、何かしらその職業の形態がカルマ償却につながっていたのだ/この人には給金以上に霊的な収入が得られている、だから小さなの不払いがあってもそのことで激昂するということが起こらずに済む、そして余人には到達できない笑い方に到達することができる。
さあしかしこの場合、「自我」というのはとても邪魔だ、自我が盛(さか)っている場合、あらゆる収入は自我に吸い取られて、霊的な収入にはならない、「プロのタクシー運転手として、意識を高く持ち……」というようなことをやりだすと、収入はすべて自我に吸い取られて霊的な収入はなくなるのだ、霊的とかいうのはとてもテキトーな言い方だがまあいいだろう/さああなたは本当には何をすべきで、何をすればいいのか、本当に電子書籍で読んでいいのか、ハードカバーの本を開いたり閉じたりしなくていいのか? そういうレベルでカルマ償却が為されるようなので、これはマジでわからんぜガンバロウわっはっはということなのだった。

正しく見ないとな | comments(0) |
僕にはわからない「ショック」のこと3

にはわからないことなので(以下略、あるがまま報告するしかない。
「魂の負債」(ほんまかいな)がある場合、そのことから目を背けたくなり、特別の現象が起こるそうだ。
たとえばエリマキトカゲのポスターが貼ってある場合、そんなものに興味はないが、「あ、エリマキトカゲだ!」とわざとらしく注目することで、自分の魂の負債から目を逸らせる、という効果があるらしい、それで一時的に元気になれるということ。
だから、たとえば派手な音やグラフィックが飛び交う動画やゲームが、「魂の負債から目を逸らせ続けられる」という理由から熱中される場合が少なからずあるということ、どうやらアニメや派手な歌や、映画やテレビ番組やファッションや流行飲食、自分でやるスポーツや○○会というようなものも、ただ「魂の負債から目を逸らせる」という理由だけで愛好されていることが少なからずあるみたいだ。

このことがあるので、現代においては作為的に、「視界から魂の営みを排除する」というバイアスが、人々の暮らしに掛かっていることになる。
このことは、「作為的ノーソウル」と呼んで差し支えないだろう、色んなメディアが実は作為的にノーソウルのコンテンツを創出し、人々は後ろめたい動機からそれらのコンテンツに「病みつき」を覚えずにいられなくなっている。
どうりでおれのブログなんか流行らんわけだぜ泣! 僕はアホなので「やっぱり魂から営まれてなきゃ誰もよろこばんでしょ」と単純なことしか考えてこなかった。
聞いたところによると、人は目の前に誰かの「魂の営み」を見た場合、1.自分の魂の負債を思い出して怯え、目を逸らそうとする、そのためにノーソウルコンテンツを欲する、2.自分もさも同列にあるかのごとくに思い込んで、自分の債務超過から目を逸らす、という、二種類の逃避をするらしい/僕にはわからないことなので、あるがままを報告するしかない。

休憩しながらでいいが、引き受けて立て。

「休憩」と「逃避」は、似て非なるものだ、どんなツワモノにも休憩は必要だろう、休憩しすぎは問題だが……「休憩」と「逃避」は似て非なるものだ、「休憩」は本分をおやすみしている状態、「逃避」は本分を錯覚している状態だ/人はきっと、エリマキトカゲに注目しているとき、休憩しているのではなく逃避している。
「魂の債務」は、明らかに「カルマ」と同義だと思うが、人によっては「魂が汚れている」という言い方のほうが実感的にわかりやすいらしい、それでカルマ償却に進まないと本人がキツイというのが本筋のようだが、カルマの償却というのはどうすればいいかというと、基本的には「まともなことをしつくす」「まともなことを一所懸命やる」ということだ、ただしその「まとも」というのは世間的にいう「まとも」とは少し異なる(全部は説明できねーよ、誰かまともな奴に訊け)。

視点変えてこ | comments(0) |
僕にはわからない「ショック」のこと2

にはわからないことなので、あるがままを報告しておく。
どうやら、僕が執筆(?)しているところをナマで目撃した人は、その姿とエネルギー(および速さ)に、「魂の問題」を見たそうだ。
「自分が生きていて、いつか死んで、この世に生まれ落ちた命としてやるべきことがあり、そのやるべきことをしている」という姿に見えたそうな。
そして、それを目撃した当人は、「自分はそのやるべきことをしていない、どうしたらいいのか見当もつかないのに、負債だけが溜まっている実感があって、目の前の姿に脅かされるのです」ということだった/僕にはわからないことなのであるがまま報告しておく。

そんなことがあるのだろうか? 何しろ僕は、直観だのみの人間ではないので、直観がなくてわからないのだ。
しかし、この目撃者の証言は、これまで僕が体験してきた不可解な態度の出現をうまく説明してくれるのでもある、僕の目の前でいかにも「???」の態度になる人は、今思い返せばたくさんいたし、「あなたが視界に入っただけでうわあってなる、何かが生き返って、そのぶん何かが壊れてしまう」というふうなことを、よく言われてきた。
僕はこれまでずっと、そのようなことは「何言うてんねんアホか」とリアルに無視してきてしまったのだが、どうやら単なる誤解やシャレやお世辞ということでもなかったらしい、魂の問題といって、「そりゃ誰でも魂はあるし、魂のこととかやるんじゃねえの?」とテキトーなふうに考えてきすぎたかもしれない(最近、こういう話をすると、リアルに「えぇ……」と呆れた顔で見られるのだ、ぼちぼちツライものがある)。
これまで不可解なまま、しかし何度も見てきた「あるある」があって、例えば僕がしょーもないことによろこびを覚えてウハハハとよろこびを上昇させれば上昇させるほど、何か一方で目の前の人が「もうやめてくれ……」と縮こまっていくということがあったが、これも何か「魂の問題」を直視させられて脅かされていたのかもしれない(おれに悪気はないぞ)/単に「すごーい、こんなに力の差が」ということなら問題はないが、「すごーい……あっこれって魂の差が」ということだと、マズいそうだ、つまり「能力の格差」ではなく「魂の負債格差」が見えてしまうらしい。

債務超過に陥っている零細の経営者がブルーなように、債務超過に陥っている魂の経営者もブルーなようだ。

いつもギリギリの資金繰りをしている零細の社長は、毎朝目が覚めるだけでキツイだろう、それでも取引先や従業員にはニコニコしていないといけないとなれば、これは想像するだけでキツイものがある、そんなこと考えたくもないが/もし人それぞれの魂にもそうした経営と債務の感覚があるのだとしたら、いつもギリギリでやりくりしている人は、毎朝どこかブルーであるに違いなく、それでもニコニコしていなくてはならないとしたら、それは相当にキツイだろう。
零細の経営者が、「もう何十年も昔に経営方針を間違えたのでは?」と今さら言われても、取り返しのつかない恐怖におののくしかないことのように、人それぞれも「もう何十年も前に道を間違えたのでは?」と今さら言われても、取り返しのつかない恐怖におののくしかないみたいだ/とはいえまともに考えれば、今からでも立て直しをするしかないのではある、切り替えてがんばりましょう。

視点変えてこ | comments(0) |
僕にはわからない「ショック」のこと

前、友人の前で、このブログ記事を書くところを、直接見せたことがある/タブレットに、僕の自慢の高級キーボードをつないで(汎用のキーボードだと入力速度にインターフェイスが追いつかないのだ)。
友人は僕の背後で、いそいそと、「この機会に、ちょっと勉強させてもらいたく……」と、僕がしていくブログ記事を、ノートに書き写し始めた/すると面白いことがわかった。
僕がブログを更新する速度に、友人がそれを書き写す速度が<<追いつかない>>のだ、僕がいつもどおりのんびりブログを更新していくと、「ちょ、ちょっと待ってください」と、それを書き写しているだけの友人のほうが置き去りにされていくのだ/陸上で長距離を走っていた友人が言うには、「自分が必死に根性で走っているのに、黒人さんにゆうゆうと抜かされて置き去りにされてしまう、あのときの感覚と似ています!」ということだった。
そして、僕の側からはよくわからないことなのだが、友人はショックを受けていた、「ものすごいショックなんですよ」「人間が変わってしまう、人間はどういうものかって、これまで思っていたものが破壊されてしまう、すごいショックなんですよこれ」と、確かにその様子は何かただならぬことに直面させられているふうだった(だが正直僕にはよくわからないのだ、「それよくわかります」という人はやはり少なからずいらっしゃるのだろうか)。

「今この場で、思いついて書いているんですよね? 準備していたわけではなく」「そりゃそうだよ」「それで、考えながら書いているんですよね? いつ考えているんですか、それがまったく見えないんですけど」「あ、言われてみたら確かに、いつ考えているんだろうな、ずーっとこうしているから、おれにもよくわからなくなっているわ」「うわあ、そういうの、もう本当にショックなんですよ」。
「考えながら書いて、しかもひとまとまりにして、伝わるようにして、そのあとは誤字脱字とか、校正もしてますよね」「そりゃそうだね」「それなのに、なぜ書き写しているだけのこちらが追いつかないのか、怖いんです、恐怖ですよこれ、同じタイミングでスタートしているし、同じ人間なのに」「そうかね」「はい。まるでお掃除ロボットのルンバが、いつの間にか天井の電球を交換していた、というような恐怖ですよ」「それは恐怖だな」「どうやってそんなことしたの? って、わからないんですよ」。
「でもそんなの、毎日ブログ見てりゃ、更新の時間からわかることじゃねえか」「そりゃそうなんですけど、こうやって並べてやってみたら、違いますよ。本当にめちゃめちゃ速いんですよ」「そうかぁ、確かに言われてみれば、このブログの記事一本だって、ふつうに1000字を超えたりするわけだし、慣れていない人にとっては、一苦労する分量だったりするのかもしれないな」。
「そこが、おっしゃるように、慣れもあるんだと思っていたんです。でも違うんですよ。これまで色んなことを、その気になって根性でやればなんとかなると思っていたんですけど、これって根性とか慣れとかじゃないですよね? こんなの根性じゃ絶対に追いつけないですし、あなた自身はめっちゃ気楽に書いてらっしゃるじゃないですか」「そうだね、これは根性じゃなくて、『境地』だからな」「そうなんです、だからショックなんですよ」「ショック、なのか。それはおれにはよくわからんなあ」。

友人は、半死半生になって、「ちょっと休ませてください」と倒れ伏してしまった。

僕には、この友人が語るところの「ショック」というのが、本当にわからないのだ、どういうことなのか誰か教えてくれんかなと単純に思っている/僕としては単純に、「たとえばぷよぷよの世界一のプレイとか観たとき、すげえ! となって、人間ってこんな境地に至れるものなのか〜とヤル気を出す、それだけでいいんじゃないの?」と思っていたし、その通りに話したのだが、やはり友人は「ショックなんですよ」ということだった、僕にはこの「ショック」というものがどういうものなのかわからない。
かねてから、「集中力の次元が違う」とか「おれのエネルギーはお前らの四百倍あるからな」とか嘯(うそぶ)いてきたわけだし、それは僕としては科学的な知見のつもりだったので、何を今さら驚かれてしまったのかわからないのだが、とにかく目の当たりにすると「ショック」があるらしい/「正直なところ、このブログ記事を書くのって、お前が今見たとおり、おれにとっては一日を始めるウォーミングアップみたいなものなんだが」と僕が話すと、やはり友人は「ショックだ」と言った、「めっちゃ鼻歌まじりで、本当にまったく疲れていらっしゃらないというか、むしろすっきりしてらっしゃいますもんね」と、とにかくそういうことに「ショック」を受けるということがあるらしい(僕にはわからんのであるがまま報告しておくしかない)。

視点変えてこ | comments(1) |
ノンフィクションに足を縛られた「情熱的」なダンサー

ういえば先日、友人に誘われてバレエの観劇に行ったのだったが、舞台が始まると僕はただちに「ん? え?」となった。
もちろん劇団名および演目名は伏せるが、世界的に有名なバレエ団であるはずなのに……僕の目には「えらいセクハラ感満載ですけれど……?」と見えた、もちろん「それがバレエさ!」と言われてしまったら僕にはどうしようもない。
僕は喫煙所で煙草を吸いながら友人に、「ものっすごい技術レベルの高い、ニワトリダンスに見えるが」と話した/僕の目にそのように見えるということは、僕にセンスがないか、国際的に有名なバレエ団にセンスがないかのどちらかだろう(もちろん双方にセンスがないという可能性もある)。
「いくら技術レベルが高くても、つまりどれだけ『上手く』ても、それでは上手い意味がない、ということがある、だってフィクションが成立していないんだからさ」と僕は話した/しかしそんな状況であっても、その中に含まれる誠実な天才は、孤立無援のまま天才の義務を果たしていた、僕はそれに向けてのみ拍手を贈る心地だった。

何しろ、世界的評価が高いのだろう、場内は割れんばかりの拍手……だったのだが、カーテンコールのときにゾロゾロ帰る人たちがいるので、場内は正直なところカオスだった/さっさと帰るムードならカーテンコールの必要はないし、そういうムードなら万雷の拍手を物理的腕力で作るのもおかしい。
まあここは、僕のような徳の低い者がエラソーに言ってやるが、何しろ技術レベルがどうで、世界的に評判の高いバレエダンサーだろうが、僕より若輩なのだ、そんな若造にはこの年長者のジジイたるおれさまがエラソーに言ってやる権利が、たぶんあるのだ(ねえよ)/「たぶん主人公の彼、おれが実演するフィクションの基本の基本でさえ、やらせてみたらできないと思うよ、自分の感情が舞台上のパッションだと思っていて、フィクションの基本がわかっていないから。まあ若い人にはありがちのことではあるけど」。
「でもそういう人が、ウケたり、監督のお気に入りだったり、ということはよくあるわけだな、『お気に入り』というのもこの場合は色んな意味がありうるしな……ただ今日おれは改めて確信した、おれがいつも実演するアホみたいなフィクションの基本、これがまともにできる人はたぶん世界的にも少ないんだ。見失われて、壊滅状態なんだよ」
「技術には訓練が必要で、プロ級とかアマチュアとかあるけれど、フィクションにはそんなのないからね、フィクションができるかできないか、掴めているか掴めていないかは、プロもアマも関係ない、男も女も関係ない、ガキも老人も関係ないよ。プロというのは本来、フィクションの中でその高度な作業ができるというだけで、それを生業にしているというだけだから/実際、フィクションが成立していないから、二時間も舞台を観たのにわれわれは、主人公とヒロインの名前さえ憶えていないだろ? われわれはバレエダンサーのガンバッテマスを見物しただけで、何かフィクションの物語を目撃したわけではないんだ」

バレエが好きな人はいくらでもいるだろうが、ジゼルを愛している人はそんなにいない。

バレエというのはひとつのショーの形式であり、踊りと表現の技法だ、それ自体はノンフィクションのものであり、バレエそのものがフィクションであるはずはない/一方「ジゼル」や「オデット」はフィクションの物語上の存在だ、正しくフィクションを捉えたとき、「ジゼルが好きだ、バレエがどうこうというのはおれは知らん、バレエなんかどうでもいい、ただジゼルというあの村娘をおれは愛している」とならないといけない、だいいち観客の者が舞台を観るときに技術レベルがどうこうというのは邪法の極みだ、ジゼルは村娘であって技術者ではない、ここを濫る者は来世は機織り機に生まれ落ちるだろう。
こんなフィクションの、基本の基本の概念もわかっていないし、基本の基本も実演できないのだ、「世界的に芸術性の評価が高く、また技術レベルでは他の追随を許さない」などという、ジゼルやオデットとは何の関係もないノンフィクションを見物して、われわれは拍手を贈っていたりする、それなら最新鋭の戦闘機が超音速で滑空するのを見て「すげえ!」と拍手するほうがよっぽとまっとうではないか、戦闘機の性能はノンフィクションなのだから。

視点変えてこ | comments(0) |
なぜ人は詩文に炎上するか
「あたしおかあさんだから」という歌の歌詞が、「母親」を定義するがごとくに呪わしさがあるといって、いわゆる炎上しているらしい/いわく「あたしおかあさんだから ねむいままあさ5じにおきるの」「あたしおかあさんだから だいすきなおかずあげるの」「あたしおかあさんだから あたしよりあなたのことばかり」 というあたりのことが、現代女性のマザーライフを抑圧的に定義するふうで許しがたいということだ。
もう話を単純化するべきだと思うが、われわれはすでに現代において、「詩文」などという高度な文化とは基本的に縁がないものだと諦めていたほうがよい、当該の詩文は詩文の形式だけを用いて実質は意見の主張および自己主張をしているだけで、これは今や当たり前のことだと看做さねばならない/およそ現代において、インスピレーションから詩文の出現を担うなどという高い徳性に到達している人はほとんどいない、ショーペンハウアーが当該の状況を見たらアサルトライフルを構えて突っ込んでくるんじゃないかと思う。
当該の詩文は、アンデルセン童話と同じように、その作家当人が闇に食われていると拝察せねばならない、闇に食われたものは人格が虚弱になり、「自分を含めた善人だけが神に救済されるはずだ、悪は地獄に行くはずだ」という感情的な「善悪差別」をやめられなくなる、またその感情が強烈であるがゆえに、「自分およびわたしの涙腺に訴えかけるほどわたしが好むものは善に属するはずだ」という「自己審判による善の定義」もやめられなくなる/闇に食われるとだいたいそういう様相になるものだ。
闇に食われると、「自分を救済してくれる善の定義イメージ」がフワフワ湧いてきて、これがあまりに涙腺にウルウルくるものだから、「わたしは善だ」「これがインスピレーションだ」という錯覚をやめられなくなる/ちなみに親鸞上人の唱えた「悪人正機」はアンデルセン童話の逆をいくものと捉えていいだろう、「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という有名な文言だが、これはマッチ売りの少女をキックしていく愚かな凡人こそわれわれであり、そのアホのためにこそ「救い」が与えられているのだという考え方だ(アンデルセンはこのような思想をきっと許さなかっただろう)。

この種の炎上、というよりは神経に障るいさかいについて、この先はわずかも巻き込まれたくないと望む人に向けて、年長者である僕からの見方を示しておきたい、つまり詩文といっても「母よ――淡くかなしきもののふるなり/紫陽花いろのもののふるなり/はてしなき並樹のかげを/そうそうと風のふくなり/(中略)私の乳母車を押せ」(三好達治)では、現代人には「何を言っているかわからん」のだ、われわれは現代のニューロティックな暮らしと風潮の中で、自分の「キモチ」しかわからなくなっているので、文化といっても自分のキモチを後押しするものを「神」とし、自分のキモチを逆なでするものを「炎上」させるしか能がない。
われわれは、もう長い間ごまかしているが、すでにずっと以前から、「五十年前のものにどうしても勝てない」という敗北者の時間を歩んでいるのだ、どうしても昔の銀幕の女優さんのように綺麗にはなれないし、昔のようなジャズやオーケストラを演奏できない、昔のような活気を創り出せないし、昔のような絵画も詩文も創り出せない、これは「どこかで絶対に道を間違ってますやん」と判断するしかない状況なのだが、われわれはなおも自分が正しくて自分が一番エライという意見に取りすがっている。
五十年前というと、ビートルズが「ヘイ・ジュード」を唄い、サイモン&ガーファンクルが「ミセス・ロビンソン」を唄ったあたりらしいが、それに比べて五十年後のわれわれは「あたしおかあさんだから だいすきなおかずあげるの」と聴かされ、SNSで「この歌の歌詞はサイテーだ」と炎上さわぎをしているのだ、これは例外なく全員で反省するしかもう正しい道はないのである。
この五十年間で何があったかというと、テクノロジーが進化し、テクノロジーが進化したぶんは、人間は弱くなったのだ、そして<<人間が弱くなると強いキモチに支配される>>、「強いキモチ」というのは人間の弱さに生じてくるものなのだ、人間は人間そのものが弱くなるほど、こころは失われ、そのぶんキモチが強くなり、意見が強くなり、弱さゆえに立場が欲しくなり、弱さゆえに筋力が欲しくなる/<<弱くなった人間は、キモチや意見や立場や筋力を振り回していないと、自分が闇に食われているのに気付いてしまう>>のだ、その恐怖には抗しえないので人は暴れるしかなくなるのだが、そうして暴れるたびに闇はさらに深く入り込んでくるのだった。

詩文にキモチを乗せるたび、闇に食われていく。

「こころ」と「キモチ」は違うものだし、「詩文はキモチを乗せるもんじゃねえよ」と僕は執拗に主張する者だが、それは僕が僕の主義を押し通したいのではなく、そのことで人が闇に食われていくということを僕は年長者としてよく知っているからだ、僕はそうして人が闇に食われていくのを恬淡と眺めていられないのだ、人はパチンコ屋でキモチを燃やしているときにはさして闇に食われはしないが、高い身分の形式でキモチを振り回すとより深く闇に食われてしまう(それは簡単に言うと、高い身分の形式のほうが、よりよい闇のエサになるから、という感じだ)/とはいえもちろん、「詩文とはそういうものだ」「そのための詩文だ」と言われたらどうしようもないけれども。
若い兄ちゃんが、おでん屋で酔いつぶれて、「おふくろがさぁ、あたしおかあさんだからっていって、朝起きてくれて、好きなおかずくれてさぁ、うっうっ、あれがおかあさんだよなあ、泣けてくるよぉ」と泣き伏せている場合は、「若いくせに兄さん泣き上戸やなあ」「しゃんとしいや」で済む話であって、闇に食われはしないし炎上もしない。
正しく見ないとな | comments(1) |
吸収次元向上委員会「花より団子より」
遜ながら、この「所属する吸収次元」を、友人ともども向上させることを図っていきたい。
「吸収次元向上委員会」は、同時に「吸収方針向上の撤廃」をモットーにしている。
どういうことかというと、吸収するものを向上させよう、という「方針」を立てるのはダメなのだ、邪法なのだ、なぜなら本人がどうイキってみても、しょせん自分の吸収するものは自分の所属する吸収次元に決定されてしまうからだ、方針なんか三角コーナーにポイだ。
まずは誰しもが、「自分には何が見えているか、何が見えてしまっているか、何を主に吸収してしまっているか」、そのことを正直に認めて引き受けなくてはならない、そこで吸収の「方針」だけしゃかりきに上方修正することはご都合主義の邪法になるのだった。

たとえばよくある健全なスローガンで、「人の長所を見よう」「物事のよいところを見よう」「ポジティブシンキングだ」という言い方がされる、けれどもこれは突き詰めるところ邪法になってしまう。
なぜなら、「人の長所を見よう」と方針を定めたところで、自分の所属する吸収次元がアレな場合、どう工夫しても本当には人の悪いところがガッツリ吸収されてしまうからだ/ここをごまかしてもしょうがないし、ここをごまかすことで状況とプライドがややこしくなっていくケースをさんざん見てきた。
重要なことは、「自分の物の見え方からして、自分は外道モンでっせ」ということをまず引き受けること、自分は「外道吸収シート」みたいなものだから、「正道吸収シートには違うものが吸収されているんだろうな」ということを峻厳に見ることだ。
そして慎重な見聞の上で、「なるほど、これは本当に、人によって見え方が違うということだ……」「いやがおうにも、自分には悪い成分が突き刺さってくるし、この人には佳い成分が降り注いでいくんだ」ということを、確かめながら進んでいくことだ、「吸収シートの次元が変わるまでムリなんだわ」ということを笑い話にして進んでゆくのが唯一の方法だ。

あなたのために、「おれは違う」と言わせろ。

あなたにとって、ケンタッキーフライドチキンは油っこいかもしれないが、おれにとっては違うのだ、何しろおれは油のうち佳い成分だけを吸収するようにできており、あなたは油のうち悪い成分を吸収してしまう、吸収シートの性質が違うのだからしょうがないだろう/まるで冗談みたいな話だが、これは意外とマジなのだ。
「花より団子」という言葉があって、吸収シートの性質によっては「団子が桜を引き立てる」となったり、「桜が団子を引き立てる」となったりするのだが、その先もいろいろあって、「桜と団子とあれやこれやでもっと偉大なものが引き立てられているだろ!!」ということがあるのだ、そんなもん吸収シートの性質が次元として違うのだからしょうがない/僕があなたと同調して遊ぶのは実に気安く、僕だってこころ安らぐが、それではあなたの吸収シートは向上しないままだ、未来に向けてこっそり向上させていくためにはどこかで「おれさまは違うのだフハハハ」と言うしかないのだ、どうかそのことを許して。
できるオンナだね | comments(0) |
吸収次元と「ボス」の関係

間のチームには「ボス」がいる。
刑事ドラマでおなじみの「ボス」、マフィアの側にも「ボス」がいる、ドラクエの最後にいるのも「ボス」だし、戦国時代の大名だって「ボス」だ、本来われわれにとって「ボス」はわかりやすい。
噛み犬が飼い主に噛みつくとき、「スーッと眼の光が失われ」「何も見えない眼になって」、つまり飼い主が見えなくなって噛みついている、つまり吸収次元が変わることで「ボス」の存在が消失するのだ。
あなたの家庭の、ボスは誰だろう、仕事のチームの、ボスは誰だろう、授業中のボスは誰で、部活中のボスは誰で、試合中のボスは誰で、デート中のボスは誰だろうか、「その場」のボスは誰で、あるいは「目の前の友人と共有しているボス」は誰だろうか/そしてボスと部下はよく機能しているだろうか。

引きこもりのアニメオタクには、きっと「ボス」がいない。
男性不信で、自分の悩み事をずーっと抱えている女性も、きっと「ボス」がいない。
仕事でまじめに働いていても、また健全な男女交際を続けていても、部活で最大限の努力をしていても、「ボス」がいないという場合がある、その場合、どう努力しても「眼の光がスーッと消えていって」「何も見えなくなる」ということは止められない/何も見えていないのでその場で営まれることはすべて不発の不毛になってしまう。
あなたが吸収次元を落下させ、「ボス」という事象が見えない者になってしまうと、あなたはどこの人間関係にいてもやがて「死ね」と言われる身分になってしまう、それを避けるにはヘコヘコし続けるしかなくなるので/そんな不毛がイヤなら「ボス」という概念と事象を感得し、その感覚を必死で抱え続けることだ、いわば自分で自分にする「しつけ」だ。

「ボス」の感覚がない場合、就職および就職活動は「地獄」だったはずだ。

引きこもりのアニメオタクが、就職活動など不可能になってしまうのは、単にアニメ趣味のせいではないのだ、誰かを「ボス」として認識するという観念の事象がないのだ/所属する吸収次元が落下してしまっているので、もう家父長がどう説教しても効果がなく、逆に猛烈な「噛みつく」が発現してしまう。
「ボス」の感覚がない人は、人間関係でも勤め先でも、上の人には「ヘコヘコする」という付き合い方をしているはずだ、そしてそれは内心でとてつもなく苦痛であるはずだ/吸収次元の落下してしまった人にはとても通じないことだが、いちおう知識だけで言うなら、ボスと部下という関係は本来豊かなものであって、一方が一方を支配するというような貧しい状態ではない(「ボス」がわからない人は「奴隷」のことしかわからないはずだ)。
 

できるオンナだね | comments(0) |
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