☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
いかに自分を消費するか10/言葉の景色
れはまったく意味不明のことなので読み流していい。
景色に言葉を当てはめるのではなく、本当は言葉が景色を見せている/だから他の動物は景色に見とれるということがない、視力だけなら鳥たちのほうが遥かに上だが、鳥たちは言葉を持たないので実は景色は視ていない。
言葉はフィクションなのだが、実は主体はフィクションの側にあり、言葉のひとつひとつが主体であり、主役・主人公だ、人が主体なのではない/「人」という現象は「言葉」という主体に隷属するものでしかない。
ただし他の生きものにはその特権は与えられていない、人および人に関わった生きものにだけこの主体なる「言葉」に隷属できるという特権が付与される/すべての景色は、実は言葉によって「景色」として視えている、それは言葉という主体が視ている景色なのだ、生きものの視力が捉えている映像ではない。

対象を100%にし、その他は「要らない」と放棄すること、すべてのクレーム(要求する権利)を放棄すること、するとパーミッションが得られて、唯一値打ちのあるものが得られる。
その、「100%」にする対象とは何だ? といって、これはもう「言葉」しかありえない、それも「言語」ではなく「言葉」だ、言葉の側に主体が在り、人なる現象はそれに隷属するものでしかないということ、これを取り違えるとその不遜そのものが言語を「呪」にする、そのことはこれまでに述べてきたとおりだ。
たとえば「空(そら)」といって、われわれが視認する映像に「空(そら)」という言葉を当てはめているのではないのだ、また「空(そら)」という言葉から空想しうるものを空想するのでもない、つまり「人」には本当は何もなくて、「空(そら)」という言葉の側に、空(そら)という景色を視ることができる主体がある/われわれは物理的実体を持たないフィクションのものを形而上のものとして漠然と「ウソ」の扱いをしたがるが、そうではない、主体に関わっては物理的実体としての「人」のほうがウソなのだ。
だから、ここで「わたし」といって、この物理的実体の生理が実感する「わたし」はまったく「わたし」ではないのだ、「わたし」を視ることができるのは「わたし」という言葉そのものなのだ/われわれは現代において、AIが主体を持つか(自我を持つか)というような愚にもつかない空想に耽るが、それどころではない、人があれこれ思う前に、そもそも人に主体はないし、AIどころかもっと捉えどころのない「言葉」が主体を持っている、わたしがしばしば景色を視ることができるのは言葉にあやかってのことでしかないし、その言葉にあやかっているわたしというのも「わたし」という言葉じたいの現象でしかないのだ、孤立した人体の「わたし」というものには何の意味もない、だからこの「わたし」という言葉じたいの現象をウパニシャッドではすべて「アハム」と呼んだ。

「言霊がある」なんて生ぬるいものじゃない、「人魂がない」のだ。

人の魂があるといって、自分かわいさから、孤立した人体・生きものの肉体に魂があると思い込むのが誤解の始まりなのだ、もっと途轍もない、「言葉が言葉を視ている」のだ、わたしという現象も「わたし」という言葉によって産み出された言葉じたいの現象でしかない。
人が人を愛するなんて生ぬるいものではなかった、言葉が言葉を愛するのだ、そして人・アハムである「わたし」には思いがけず強大な権威が与えられている/言葉と言葉を愛において結ぶ権威が与えられているのだ、これは「祈り」だ、祈りとは一般に思われている信仰気分の思念のことではなくて、このとてつもない仕組みに気づいて権威を行使することなのだ。
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いかに自分を消費するか9/「サービスされてたまるか」と「消費されてたまるか」
後に、すべて本来はどのようであったかについて述べたい。
現代は互いに、「消費されてたまるか」ということで、取引やマウント合戦が為されている、これに比較して「本来」といえば、互いに「サービスされてたまるか」ということで張り合っていた、そしてこの張り合いの中で「負けたわ」ということが発生していた/「勝ったわ」ということは発生していなかった。
どういうことかというと、たとえば男性が女性にラブレターを送ったとき、それは照れくさくてからかわれるたぐいではあったにせよ、当事者の二人はこっそりと、別のことを感じてやりとりしていた、またそのことを、周囲もわかった上でからかったりしていたのだ。
つまり、ラブレターを受け取った女性は、「わたしなんかに、こんなに魂を向けてくれなくても……」と胸が張り裂けるように思い、それで受けるにせよ断るにせよ、その女性があまりに切々と言うので、男性の側も、「おれなんかに、そんなに魂を割いてくれなくても……」と思って胸を痛めていた/そして最後まで相手を労り、明るく笑い続けた男に対して、女性が「負けたわ」と言うこともあったし、また最後まで相手を労り続けて、茶化すことを一切しなかった女性に対して、男が「負けたわ」と言うこともあった、それが本来であって、相互に「自分を消費する」ということだけは誰にも引けを取りたくないということで、顔を真っ赤にしてでも自分から飛び出していた。

一軒の飲み屋に入ったときでも、店主と客は互いに「サービスされてたまるか」という意地を張り合っていた。
良い具合に飲まされてしまったら、客の側は「負けたわ」と思って帰路を歩いていたし、全体を盛り上げられて繁盛させられてしまうと、店主の側は「負けたわ」と思いながら看板後の片付けをしていた。
現代においてはこれが逆転し、店主と客は互いに「消費されてたまるか」と警戒しあうようになった。
店主の側はクレーム客につけこまれないよう警戒しているし、客の側は金額と相応のものが出てこなければレビューサイトに低評価をレビューして懲罰を下して対抗しようと考えている、そうして互いに「消費されてたまるか」という警戒をしあっている/現代のわれわれは、互いにサービスがよいと「よい店」「よい客」だと思っているが、そうではない、もともとは「てめえなんぞにおれがサービスされてたまるかよ」という気概で飲み合っていた、それで酒が旨かったのだ。

かつての労働者は、サービス残業で経営者に「勝って」いたのだ。

かつて人々は、互いに「サービスされてたまるか」と思っていたので、労働者は管理職に「今日ぐらい早く帰っていいよ」と言われると、ムラムラっときて「まだまだやりたいことあるんで」と職場にこびりついていたのだ、それで労働者は「勝って」いたし、その後ボーナスがドカンと出ると、社長の太っ腹を視て従業員は「負けたわ」と苦笑していた/それは明らかに過ぎ去った日のことでしかないだろうが、今思われているようには、過去のその日はまぼろしではなかった、これはただの事実として認められねばならない。
わたしは今でも、自分が女性に対してサービスしきれると、「勝った」という感じがして安堵と酒の旨さを感じるのだが、今では女性の側ではまったく逆を感じているかもしれない、わたしにサービスされた女性はきっとサービスされたことで「勝った」と感じたのだろう、ある意味win−winであるからこのことに文句を言う人は誰もいなかった/ただここ最近になって、一方の魂がはっきりと「罪」を負うことがヒアリングから知られてきて、また対照的にわたしの側の魂がはっきりと祝福を得ていることも知られてきた、キーワードは「サービスされてたまるか」で、それはわれわれを実効支配している「消費されてたまるか」の単純に正反対だ。
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いかに自分を消費するか8/どっすん

し状況をわかりやすく、正しく把握したいなら、これは悪口でも何でもなく、「現代人はキチガイの頭クルクルパー・どっすん」だと思え、ということになる、重ね重ねこれは悪口ではない、冗談口のように捉えてもいい、ただこれで話がわかりやすく・掴みやすくなる。
「どっすん」とは何のことを指すかというと、とんでもない「消費者席」に座り込む音だ、どっすん! ふつうに考えたら「そんなわけあるか……」というようなことなのだが、この消費者席に本当にどっすん! と座りこむのだ、だから前もって「これじゃキチガイのクルクルパーじゃないか」と見当をつけておくのがいい。
たとえば、仮にここに故・岡本太郎がいて、あなたを含めた友人たちに向けて、「若いきみたちはみんな悩むんだ、そして悩むということは、本当はやりたいことがあるっていうことなんだ、だから常に "危険な方を選びなさい" 」と言ったとする、岡本太郎ならきっといつでも熱烈にそれを言うだろう。
といって、今のわれわれに、岡本太郎がそう言ったとして、何をどうすればいいのだ? 何がどのように起こるかといって、誰もが半笑いになったり、熱血キャラで応答して「ハイ!」と言ってみたりして、つまりは「どっすん」と、今語られたことに対して「消費者席」に座り込むのだ、だいたい二秒ぐらいでその席に座り込むのが今のわれわれの標準だ。

目の前で、年長者が、しかも偉大さで知られている人が、「危険な方を選びなさい」と言っているのに、やれ半笑いになったり「キャラ」になったり……そして消費者席に「どっすん」と座り込んで、「いやあ、岡本先生のおっしゃるとおり」「マジ激アツだわ」とか言い出すようでは、これは本当にキチガイの頭クルクルパーではないか/でも本当に、それがリアルなわれわれの現状なのだからしょうがない、われわれはこのことを描写するのにもはや「草」という文脈しか持っていない。
われわれは本当に、今でも自分のことをまともで善人だと思っていて、このシーンでただ岡本太郎に消費させて自分がサービスを受けている「だけ」ということに気づかないのだ、それぐらい消費者魂においては消費というのはいつものことであり当然のことで、無自覚・無感覚になる。
だからどうしたらいいのかといって、そりゃ自分でまともに考えるしかないのだが、このときにおいても、すでに消費者魂はただちにサービスを受けることにしか発想がいかないので、「それで、どうしたらいいんですか?」と、教示サービスを受けて当然という発想が露見してしまう/今さらそんなことに悪口を言っているのではないし、非難しているのでもない、そんなことをして何かになる時期はもうとっくに過ぎたのだ、ただこのひたすらヤバい状況をまず告知するぐらいしか手立てがない。
ここで岡本太郎に消費させて、自分は消費者席に「どっすん」と座り込んで落ち着くだけという、酸鼻な現象を見たときに、なお気づかねばならないのだ、自分が健気に魂を抱えているつもりの人も、そのとき自分の胸のうちに抱えているものを、よくよく、まざまざ、じっくりと見てみるべきだ、そこで自分の胸に抱えているのは「どうしてわたしってこんななのだろう」というのを抱えているだろう、それで善悪のうち善に属していると思っている、このとき「あの人がこう言ってくれた」「岡本先生が自らを燃焼させてわたしたちに伝えてくれた」ということを胸に抱えている人は今ほとんどいない/だから本当に、どこまでいっても[私←公]なのだ、すさまじい消費者根性であり、すさまじい契約の強度で、今このときもすぐに席に引き寄せられて「どっすん!」と、その悪魔の力にはとてもじゃないが抗しきれない状態になっている。

反省しなくていいので、「気づきました、もう消費者席から動けませんわ」と言え。

わたしはここに悪口や非難を申し立てているのではないし、誰かに反省を促しているのでもない、そんなチャチな方法が通用する時期はとっくに過ぎたのだ、すでに「感染するな」という段階ではなく「外科的に処置して、以降リハビリを重ねるしかない」という段階に到っている/わたしに対してはどれだけヘイトでもかまわないので、消費者席に引き寄せられて座り込む「どっすん」のことだけ覚えておいてくれ、その「どっすん」に対抗するのに、わたしに対するヘイトでも使えるなら使ってしまってかまわない。
おれみたいな不明のクズっぽい奴に、こんな好き放題言われるのは不快だし腹が立つだろう? だから消費者席に「どっすん」と座り込むなどと、「そんな事実はない」ということを事実にして、わたしに恥を掻かせればいいのだ、そのときはわたしは立つ瀬がなくて弱々しく「すいませんでした」と言うだろう/「消費者席」に堂々と座ってよいのは、「私が彼らを消費することで、彼らの魂が救われるのなら」というような応供の身分にある人だけだ、そしてわれわれのうちにそんな存在はまず仮定しなくていい。

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いかに自分を消費するか7

ービスと消費は方向の違いであって、本質的に同じものだ。
そして、サービス魂にとっては、サービスする(自分を消費する)のは「いつもの当たり前のこと」なので、サービスについて無意識・無自覚だし、逆に消費魂にとっては、消費する(他人にサービスさせる)のは「いつもの当たり前のこと」なので、消費について無意識・無自覚だ。
誰でも、「自分は何も悪いことはしていない」というつもりで生きているのだが、そうではないのだ、いくら他人を消費させ自分がサービスを受けていても、消費者魂においてはそのことは無意識・無自覚・無感覚なのだ/だからたとえば、今このときにあなたが一所懸命考えているつもりでいたとしても、今これを書き話しているわたし(著者)が必死に考えているという感覚はない。
現在のように、ワンクリックで無限のコンテンツを消費するのが当たり前という日々が続いてしまった以上、すでに契約の成立が「消費者」側で強く固まってしまっているため、今さらこれを更改するのは至難だ、朝起きたときからわれわれは強力極まる消費の魂の信仰者であり、われわれが一ミリでも外部・公にサービスを尽くそうとすると、すさまじく高い意識とただならぬ我慢を必要としてしまう、これはもう現実的にはひっくり返せない状況にある。

わかりやすいように、仮にわたしが、これまで何十軒も町の蕎麦屋に行ってきたとして、そのうちの特別に佳い一軒に、誰か女性を連れていったとする、そうするとその女性はどのように言うかというと、決まって「デートって、こういうところでいいのよね」「別に高級な店を求めているわけじゃなくてさ」「男性はみんな肩肘を張りすぎなのよ」と言う。
あくまでその女性は、自らが控えめな女性たろうとして、また節度ある女性であろうとして、そのようにのたまうのだ、これは誇張でも何でもなく、ほとんど100%近い割合で今の女性はこのように言う(特定ではなくて、本当に全員がこう言う)。
その蕎麦屋の店主は、高額を取るわけではないのに、金額うんぬんに対しては「てやんでぇ」という心意気で、お代以上のものをサービスするのだ、その魂はちゃんと蕎麦のうちに宿っている/わたしはそれをすばらしいと思い、その蕎麦屋とご店主を敬愛し、なるべく気前よく飲み食いして繁盛してもらおうと思うのだが、そこに女性を連れてきても本当に自分が受けているサービスにまったく感覚がなく、ただ自分が「気分がいい」という感覚しかないのだ。
仮にこの女性に、「酒の肴に卵焼きでも作ってくれ」というと、彼女はただちに「やったことない」とふて腐れ、さも自分には何の短所もないと言いたがるようなヤケクソの態度を示すのだ/別にいまどき料理うんぬんはいい、全部コンビニで売っているのだ、ただわたしが見ていておそろしいのは、蕎麦屋の店主が込めた精魂を消費するのにはまったくの無感覚である彼女が、こと自分がやらされる段になると精魂を込めないどころか数秒と集中して物事に取り組もうとしないのだ、その魂を直視すると本当にギトギトの真っ黒だ、それでも彼女は年が若く乳でもデカければ自分は高級品だと感じて自分のことをこの世の何よりも正しいと信じ続けてしまう。

彼女はすでに、「自分を消費する」ぐらいなら、「ギトギトで真っ黒の魂」を堂々と選ぶだろう。

もう引き返せないのだ、彼女の場合はもうすべてが「間に合わなかった」ということになる、彼女はもう、どのように説得されても、けっきょくお代以上の精魂を込めている蕎麦を目前にしたとき、それを尊んで示せる人間としての態度を持ち合わせていない、それは契約成立が深く強固で、そうした人間の態度を放棄することをすでに契約上で決められているからだ/どれだけイカツいふりをしても、若い女性が魂において強靱ということはありえない、だからもし自分の魂の色合いと臭気を直視したら、彼女は発狂してしまうだろう、だから今さら直視することもできず、彼女の場合はもうすべての機会は終わってしまった。
もともとの話は、とてもシンプルだ、「いかに自分を消費するか」、つまり蕎麦ひとつを打つにしても、感情ではない精魂を込めて、いっときでも100%そのこと "だけ" を求められたか、ということになる、要は[自分→蕎麦]があったとして、ついに自分をゼロにして蕎麦を100にできたか/精魂を込めないでも、現代はノウハウとその流通が充実しているから、器用な人はいくらでも「上手」な蕎麦を作ることができるだろう、だがそれは上手であっても「食いたいか」というと別に食いたくはない、この話はどこまでもシンプルで、「器用なところじゃなく、自分を100消費させたことについて言え」と言っているだけだ。

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いかに自分を消費するか6
員がケータイを持ち始め、後にはスマホを持ち出してから、全員がすさまじい「消費者根性」になってしまったことに、すさまじい問題がある。
「消費者」になってはダメなのだ、人は「消費され者」にならなくてはいけないのだ、それは自分が消費されるということがサービスであり礼拝だからだ。
ここで、しょせん自分から出て100%にならない人は、インチキストイシズムとして「我慢」に走る、いわゆる苦行に何の意味もないというのはこのことだ、「我慢」というのは仏教説で正しく「吾我の驕慢」だと看破されている。
わたしが今ギャーギャー言っているのは、ただ一点、「ちゃんと自分を消費していますか」ということだけだ、「自分から出て」「我慢ではなく100%で」「自分を消費していますか」ということ、それ以外は礼拝にはならないですよということで、そして礼拝になっていないものから得られるものはゼロですよと言っておきたい、なぜ言っておきたいかというと、それが取り返しのつかないマジの話だからだ。

「自分を消費していない」ということは、「私」が「公」にサービス(礼拝)していないということになるが、それだけで話は済まないのだ。
自分を消費していない人は、自動的に、周囲に消費させているだけの存在、つまり「消費者」になってしまうのだ、それは公にサービス(礼拝)をしていないということに留まらず、たとえ自覚はなくとも、公を自分にサービス(礼拝)させているということになるのだ、つまり "礼拝の反対方向にある崇拝" を自動的にやっていることになる。
わたしは何の努力もなしに、ただ100%、自分から出てそれだけに自分を消費したことで、今あるものをすべて得てきたと述べたが、その逆のこともちゃんと起こるのだ、つまり当人が何ら意図していなくても、ただ100%「公に消費 "させた" 」だけで、わけのわからないヤバイやつをゲットするのだ/はっきり申し上げて、サービス(礼拝)が成り立てば勝手に "祝福" が得られるし、アンチサービス(反礼拝)が成り立てば勝手に "魔" が得られる、いつのまにか自分の魂はそれ一色で染め上がっている。
誰もそんなものは求めていないだろうし、そんなものを求めた覚えはないと思うが、そうではないのだ、ちゃんと自分で求めたから入り込まれているのだ、生きものはすべて生まれつきアンチサービス(自分がサービスを受ける側・自分は消費しない側)を快適に感じて求めるように出来ている、誰からも何も教わらなければ自動的にアンチサービスに必ず所属するのだ。

サービス魂は、サービスに無意識だし、消費魂は、消費に無意識だ。

たとえば月曜日に出勤するとき、ほとんどの人は「我慢」しながら出勤していると思うが、そこで通勤列車に乗るとき、JRや私鉄の "サービス" を受けているという感覚はまったくない、料金を払っているのだから債務を履行しろという「クレーム(要求する権利)」の感覚しかないだろう/そしてそういう人は、たとえば後輩に酒の一杯でもオゴったりすると、内心でその「サービス」について、すさまじく強い意識がはたらいている、このように消費者魂においては消費については無意識・無感覚で、サービスに対してはわずかなことでもすさまじく強い意識と感覚がはたらく。
仮に、ここにサービス魂のA男と、消費者魂のB子がいたとする、そしてA男がB子を自宅まで車で送り届けたとすると、A男はそうしてサービスを与えること(自分を消費すること)に無自覚で、B子はそうしてサービスを受けること(相手を消費させること)に無自覚なのだ、だからこの二人は何も気づかずに進んでいく、そしていつのまにかB子の魂だけが真っ黒になり、A男の魂が真っ白になっていくので、B子がA男を罵って破局するのだ、A男は魂が白いのでB子を罵らない、罵り始めるのは魂が真っ黒になったB子の側なのだ。
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いかに自分を消費するか5
ークショップ等で見てもらうと、わたしは実に多種多様な能力を持っているように見えるが、その中でわたしが努力によって得た能力というのはひとつもない。
実際、努力というのは一秒もせず、ものの数日どころか、ものの数回ぐらいで、「わかった」「視えた」といって、奥義まがいのことを数々実現していくのだけれども、それは本当に努力ではないのだ/けれども一方で、その実際を目撃した人は、いわゆる「努力」とは違うにせよ、異様な集中力で万事に取り組むので、見ていた人は「そりゃあ身につきますよ、そんなもん」と呆れかえる。
このことは、確かにざっくり言えば「集中」「集中力」といって差し支えないのだが、その言い方ではきっと誤解を生むのだ、この「集中」というのは「100%」「何にも分散していない」ということであって、キーキーヒステリーになって取り組んでいるのではない/思考が集中しているのではなく、思考さえ分散にすぎないとみなし、ずっとその対象だけを聞きとり続けているような状態なのだ、だから衆目には「なんだコイツ……」とブキミなほどに見える。
わたしはそもそも、すべてのことについて、自分が努力で何かができる「わけがない」と見放しているので、初めからパーミッション一本槍なのだ、そのほかのすべての方策は諦めている/100%そのこと「だけ」に自分を消費しつくし、何の見返りも放棄していると、たいていのことはその場で出来るようになる、そうでなければ何一つ間に合うわけがない、わたしはワークショップを始めるのにヨソのワークショップに顔を出したことは一回もない(それどころか身体操作を習ったことや興味を持ったことさえ一度もない)(ぜんぶYouTubeで見てその日に実現しているだけだ、ひでぇイイ加減だな)。

わたしはひどい面倒くさがりだし、これまでの経験から、自分が努力してその成果を得るというような、クレーム(要求する権利)はとっくに放棄している。
仮にわたしが腕立て伏せをするなら、そこに求める肉体の強化度は0だろう、わたしは腕立て伏せをするなら腕立て伏せの神に自分を消費してそれで一切を「オワリ」にする、それ以外のことはすべてカスゴミだと思っているのだ。
わたしは自分がどんな作品に取り組むにせよ、わたしがあれこれ何かをして、その結果として作品が創出されるというような、わかりやすい因果律のクレームを一切放棄している、だからただパーミッションだけを求めている、「おれは何もしない」ということであり、何もしないということは「何も求めない」ということまで含めて「何もしない」だ、ただパーミッションが与えられたら、そのことだけを100%とし、その他のことは0%とする。
だから、すべての権利(クレーム)を放棄したわたしは、もう「わたし」としては存在していないのであり、代わりに求めたパーミッションには100%になるのだから、与えられたパーミッションが「わたし」なのだ、つまりわたしが作品を創り出しているのではなく、作品がわたしを創り出している、「パーミッションの他にわたしは一ミリも存在しない」ということ、もしわたしが0.1%でも明らかに何かを残しているとしたら、このことを人に説明しようとする野暮な目論見だけだ。

天国へのチケットを求めるなら、天国行き以外はすべて放棄するのが筋だ。

三分なら三分間でもいいし、三秒なら三秒間でもいいので、手元にある他のクズチケットはすべて放棄して、パーミッションを与えられたチケット「だけ」を自分のものとする、ここでチケットの選択肢として「天国行き」が増えるのではないのだ、「それしかなくなる」ということ、となると以前のチケットをガメていた自分とはまったく異なる存在になってしまうはずだ/パーミッションというと、ふつうその手元のクズチケットが捨てられないからパーミッションが通らないというのが定例のパターンだ。
もし天国行きのチケットみたいなものがあったとして、本当にそれ「だけ」になったとしても、その発車駅に定刻までにたどり着くのが大変だ、とはいえ本当にそれ「だけ」になったとしたら、もはや何の躊躇も迷いもなくなる……少なくとも理論上はそうなるはずだ/といって、そこまでそんなことを「信じられるか」というと、ふつう「ううーむ汗」となるのであって、しかもそのチケットがニセモノということもよくあることだ、だからビミョーにカミサマのことは一応信じています風味のまま日々をごまかすことになる、そりゃそれで誤りではないと思うが、ずっとそのまま行くと本当にそのまますべてに対して「わけがわからん」と思ったまま死ぬことになるので、どこかで何かを見つけるしかどうやらないのだった、あとは知らん。
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いかに自分を消費するか4
分から「サービスする」と考えると、あいまいになるので、「自分から飛び出して、自分を消費する」と考えなさい/自分を消費するというのはわかりやすい捉え方です。
ただしその消費は、相手に・何か対象に、「届いて」消費されなくてはなりません、自分で自分を自己消費してはなりません/自分が飛び出して、あくまで何かに「届いて」消費されるということ、つまり音楽なら音楽に自分が消費される、芸術なら芸術に、愛なら愛に、自分が消費される。
そうすると、実際には「できません」とあなたは言うから、わたしは「できないですよ」と答えます、わたしはあなたに、「あなたにはそんな資格もないのですから」と言わねばなりません、あなたはそこで「そんなことができる資格があると思い込んでいました」と自分の傲岸に気づかねばなりません。
あなたは「自分を消費させてもらえないのです、だからやがてそんな気もなくなりそうなのです」と言わねばなりません、そこでわたしはあなたに「自分を飛び出させて、届けて消費したいとして、パーミッション(許可)を得ましたか」と訊きます、あなたはそれについて、「パーミッションを得ていません、そしてどうしたらパーミッションを得られるのかまるでわかりません」と答えるべきです。

わたしはあなたにこう言います、「あなたがパーミッションを得られないのは、あなたがパーミッションを求めていないからです」。
あなたは「いいえ、わたしはパーミッションを求めているつもりです」と言う(思う)ので、わたしはあなたに、「いいえあなたは、 "パーミッション以外のもの" も求めているのでしょう」と答えます、あなたはそこでギクリとし、「はい、パーミッション "だけ" を求めてはいませんでした」と答えねばなりません。
パーミッション(許可)を求めるということは、その他のクレーム(権利)をすべて放棄するということです、なぜクレームを放棄せねばならないかわかりますか/クレーム(要求する権利)を残しているということは、他にまだ欲しいものがあるということだからです、だからパーミッションは通りません、「他に欲しいものがあるのでしょう?」と見透かされるからです。
「わたしはパーミッションだけが欲しいのです」「いいえ、あなたは他にも欲しいものがあるのでしょう」という問答に、あなたは勝利しなくてはなりません、もしその問答に勝利できたら、あなたにはつつがなくパーミッションが与えられます、以降はあなたは自分から飛び出して自分を消費するということを、疑いなく何かに・誰かに届けることができるでしょう/その逆のことを考えてみてください、互いに内心にクレーム(要求する権利)を持ち合って、相互に笑顔を貼り付けて取引しあうだけという未来を、そしてそれが永遠に豊かにはなりえないのだということを。

わたしが自分から飛び出して今あなたに話し尽くしているのも、わたしがあなたに何らのクレーム(要求する権利)も向けていないことによります。

わたしはわたしの使えるありとあらゆるものを使ってこのように書き話しますが、一方で、このことについてすべてのクレーム(要求する権利)を捨てています、だからこそパーミッションが与えられ、このようにわたしから飛び出して相手に・何かに届く形で、自分を最大まで消費できます/わたしはそうしていつも尽き果てるまで書き話しますが、それによって何かを要求するという権利はわずかも残していません、権利はすべて放棄しています。
わたしも他のすべての人と同じように、何をする資格も持っていませんでした、今このときもそのような資格は持ち合わせていないと完全に断言できます、わたしにはそのような資格はなかったので、パーミッションを求めるしかなかったのです、わたしはいつからかそれ「だけ」が欲しいと求めていました、それ「だけ」が欲しいと求めるならそれは与えられるようです、ただしそれはその先の生涯で一秒たりとも「やめられない」ものになりますけれども。
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いかに自分を消費するか3/「人間スタート」の困難について
ービスというのは消費の逆側だから、相手に届くよう、相手に消費してもらえるよう、自分が飛び出さねばならない(出費)。
ただ実際の問題は、自分が飛び出したとして、それは相手にとって迷惑なゴミにしかならないということなのだ、そのことに本来は早く気づかねばならなかったし、そこから「どうか飛び出してよい方法と身を与えてくれ〜」という祈りになるのが本来だった。
誰でもわかっていることだが、宗教に入って何かをウンウン唱えたり拝んだりしても無駄なのだ、そんな無駄なババアは世界中にいくらでもいるだろう、その誰とも関わりたくないのだから、それは率直に言ってゴミなのだ、それはそもそも礼拝(サービス)をする資格がないということに直面せずに、自分のキモチひとつで爆裂祈りをブチ込めると思い込んだ傲岸が致命的な傷および恥になっているということ。
正しい相手に正しく飛び出して正しく自分を消費すれば、それはただちに正しく「サービス」「礼拝」「祈り」になるのだが、そんなに人間スタートの光輝を自分のキモチひとつで始められると思ったのが間違いだ/逆、世の中ほとんどすべての人は、その人間スタートに辿り着けずそのまま死ぬのだ、おれはこの人間スタートに辿り着いている奴に偉そうなことを言うつもりは毛の先ほどもない。

1.最初期に、「一ミリも見返りは要らない」「ただ一度だけ、あるいはひとつだけでも、紛れもないサービス(を届けること)をわたしに現成させてくれ」という、数学的な割り切りのフェーズが必要。
2.このフェーズは数学的に割り切られているので、そこに起こる感情・挙動は、人為的・人情的なものでなくなる、この「こころが無いかのような」己の振る舞いが、唯一人に届くということを知り、「あれ?」と不思議がることが必要/備考:つまり「無心」と言われているものが一般のイメージとまったく異なる。
3.己の消費も、また相手に届くサービスも、すべて「公的」なものであって、自分の私的な評価からは離脱するということが必要、誰がそれをどう評価するかというようなことから完全に離脱することが必要。
4.自分から飛び出してサービスを届けるということを、「与えてくれ〜」と祈ったことがある種の「契約成立」になり、契約が強制力を持つため、拒絶しようとしても「どうしても飛び出してしまう」「どうしてもサービスを届けてしまう」という状態になることが必要(つまりサービスは契約による強制であって自分の気分的意思ではない)。

人間が「スタート」するということは、それをもう「やめられなくなる」ということ。

つまり、「見返りもないのにサービスはやめておこうかな」と意識的に考えたとしても、実際にその場に立つと、意に反して自分が勝手にサービスを始めてしまうということだ、それで「やめられない、助けてくれ〜」と内心で思っているという状態、これが人間スタートになる/あくまでこれがスタートであり、ゴールではない、すべての努力や煩悶に向き合うべきはあくまでこのスタート以後ということになる。
人が、自分のうちに入ってくるいくつものサービス、それこそスマホゲームや麻薬だってそうだが、これら「消費」がけっきょく「やめられない」という強制的な中毒・依存症を起こすように、サービスの側も「やめられない」という強制的な状態を作り出すのだ、人間スタート以後はそうして人間がやめられなくなる、そのときはもう意図的にやろうとかやめようとか考えているわけではないのだ。
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いかに自分を消費するか2
分が火の中に飛び込むのはいい[自分→火]。
自分の中に火を入れてはいけない[火→自分]。
火の側から見て、あなたが入ってきやがった[火←あなた]、というのはいいが、あなたの側から見て、火が入ってきやがった[あなた←火]というのはいけない。
消費というのは「出費」ということでもあるから、あなたが「出て」費やされねばならない、あなたの中に何かが「入って」費やされてはいけない。

近年、若い人が舞台でパフォーマンスすると、若い人でもとても上手だ。
ただしそのパフォーマンスは、舞台上に留まるものであって、客席の側へ飛び出していない。
舞台上に留まるのでなく、客席側へ飛び出すパフォーマンスというと、近年の人々は0点になる、このことはもう取り返しがつかないレベルだ。
舞台から飛び出せばいいのだが、そのようにしようとした途端、自分はこの世界の尊きものに何も届いていないということに気づく、だからいつまでたってもその「飛び出す」ということがやれない、もちろん人格をごり押ししても鬱陶しいだけだし、舞台のプレイヤーが客席に降りてきても邪魔なだけだ、「舞台から飛び出せ、出費しろ、ただし天意につながっていないとゴミだ」ということになる。

問題は、あなたにサービスの意志がないということではなく、あなたにサービスの資格さえないということなのだ。

自分から飛び出し、出費、消費、サービスを届けようとすると、途端に自分がその資格さえ持っていないことに気づく、すると迷惑なゴミだということが自分で露見してしまうので、立ち止まり引き返すしかない、ではその後どうなるかというと、一方的にサービスを受ける側になってしまう、このことを差し止める方法がどうしてもない。
もっと早く知らねばならなかったのは、このこと、「サービスを届ける資格さえない」ということだったのだ、自分が飛びだそうとするとまるで迷惑なゴミにしかならないということ、このことにもっと早く気づかねばならなかった/なぜならそれがすべての入口であり始まりだったからだ、このことは次の記事で述べよう。
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いかに自分を消費するか
「消費」と「サービス」は対になっており、AがBに「サービス」をすることは、BがAを「消費」するということだ。
つまりサービスと消費は同義のものであり、ただA→Bだった場合、Aの立場では「サービス」になり、Bの立場では「消費」になるというだけだ。
「サービス」とはもともと「礼拝」のことだから、AがBにサービスする場合のみならず、BがAを消費する場合でも、等しく「AがBに礼拝した」という仕組みが成立したことになる。
「礼拝」に対応して起こる現象は「祝福」だから、BがAを「消費」するとき、BはAに「祝福」を下賜せねばならない/たとえば聖書にある話、「ある女が香油をキリストの足に注いだ」というシーンにおいて、キリストは女に「あなたの罪は赦されました」と祝福を与えている、女とその香油はキリストによって消費されたので、キリストから女に祝福が下賜されたという構図だ、だからこの場合女は「キリストにサービスできてラッキー」とも言えるし、同時に「キリストに消費されてラッキー」とも言える、この二つは同じ意味を為しているのだ。

現代人は、特に女性は、自らを消費して誰かにサービスを与えるということについて、断固拒否を大前提にしている/もしそのことを課せられるシーンがあれば、徹底して内心に「我慢」を生じさせ、あくまでその営為は「我」への利得だと結びつけている、つまりそうしてサービス先を自分自身に引き戻すことを「我慢=吾我の驕慢」というのだ、誰かを立ててサービスを捧げるということは決してしない。
自分を消費せず、他人を消費させる、つまり「サービスを受ける」ということに徹底しているのは、何も悪いことではない、この話は善悪を申し立ててのことではないのだ、むしろ生きものとしては自らの消費を抑えて他者に消費を強いるのは正しい選択であり強者生存だ、われわれは大前提として永久に外国人労働者が低賃金で労働消費されればいいと思っており、自分が低賃金でサービスするぜ! とは微塵も思っていない/そこで血の生きものとして「我慢」しながら消費されている低賃金労働者は、それをサービスとは考えておらず、後に血の報復をもって消費分をあがなわせたいと考えているだろう、歴史はしばしばそうした数百年の報復合戦という向きを見せる。
つまり、誰だって何かを消費して生きているのだが、その自分は何に向けて消費されるべきなのだろうという問題があるのだ、たとえば聖書でいえばペテロは漁師として魚を食って生きており、消費とサービスの関係は魚→ペテロ→キリストという順になる、ここでもしキリストを奴隷にしてその富をもって魚を祭壇に泳がせて拝み奉るようなことをすれば、もちろん消費とサービスの関係は入れかわる、そんな行為には何の意味もないだろうがあくまで消費とサービスの関係の説明としては十分成り立つということだ。
さすがに魚を祭壇に奉るというようなアホなことはしないだろうが、けれどもこう考えたらどうだろう? たとえばキリストが花壇に花を育てていて、その花をペテロが勝手に摘んで、花束にしてあなたに差し出したとすると、あなたは「あら」といってそのサービスをあっさり受け取るのではないだろうか/こんなわけのわからないことで、人の魂というのは進行方向が決定されるのだ、こんなもん感覚で回避できるのは超ド級の神がかりの天才だけだ、ちゃんと教わらないとこのことを回避するのはまず不可能だろう。

「祝福を受ける」のは "身分の低い側" なので念のため。

われわれはすごくアホなので、仏壇に花を飾るときでさえ、ホトケさんに何かしらの「祝福」を与えているつもりでいる、これはものすごくアホだ、人がホトケさんに祝福を与えられるわけがないのに/じゃあ何をしているかというと、人はホトケさんなりカミサマなりに、「祝福をお与えください」と "祈って" いるのだ、このことは少女の誕生日に花束を贈るのとは意味が異なる、おじさんが少女に花束を与えるのは、おじさんが(この少女に)祝福をお与え下さいと "カミサマに祈っている" のであり、少女に祈っているのではない、このことを誤解しているから(教育を受けていないから)花束をもらった少女は自分を「お姫様」と感じてその脳みそをパッパラパーにしてゆき、オマンコで取引工作をするわけのわからん女になっていってしまうのだ。、
この消費とサービスの関係、および祝福と祈りの関係は、とてもシンプルなのだが、どれだけ考えても途中で「あれ???」と行方不明になるだろう、それは初めから自分を霊的な頂点に置いており、自分が何かに対してサービスするということ、つまり自分を何かに向けて「消費する」ということが、念頭から否定されているためだ、どうやったってこのシンプルな話が自分の中では整合しない、そしてけっきょく自分は消費ゼロを目指し、受けるサービスだけを無限にしようという単純な生きものの生理に行き着く。
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わたしの受ける迫害/わたしは氷の湖に追い落とされる
たしの受ける迫害は次のとおり/わたしは氷の湖に追い落とされる、もしくは、湖が見当たらない場合、氷の海に追い落とされる。
断崖の、落ちれば骨が砕ける高さから追い落とされる、その理由は女の靴を磨くためだ、女が気分を害したのを宥めるためだ。
わたしが彼女を庇おうとしたとき、わたしのつま先が彼女の靴に触れ、靴の先端がわずかに汚れた、このことに彼女は怒り、靴を洗い清めようとするわたしを許さず、湖の水で清めないと許さないとわたしに言いつける、わたしはそれでも彼女を庇おうとしたから、わたしは崖まで追われ、氷の湖に落とされ、大いに人々の笑いものになった、女の靴を磨くために氷の湖に落ちる男は、懲罰のため口の奥に女の饐えた靴下を詰め込まれている。
これらのことがすべて、わたしに親しかったはずの友人たち、わたしを慕い敬ってきたはずの友人たちの手によってなされる、わたしは骨の砕けたまま氷の湖に浮かび、口の奥には饐えた靴下が押し込まれ、舐めとるように女の靴の汚れを清めさせられる、すべての人々に笑いものにされながら、失った友人たちのため靴を清めようとするのがわたしだ、これがやがてわたしの受ける迫害となる。

なかなか悲惨な迫害なので、そこまで戦いたくはないとわたし自身思うのだが、やがてそうなる仕組みならばやむなし、この迫害の結末を避けてはすべてのことが虚無になってしまうというなら、わたしはこの迫害に向かって生きようと思う、それはしょうがないことだ。
今はこの迫害を空想すると、気の毒にとあわれんでくれる人、もしくはわたしを守ろうとする友人たちこそが、そのときには最前線でわたしを氷の湖に追い落とし、最前線でわたしを嘲笑し可能な限りの侮辱に突き落とすことになる、確かにわたしを追い落としてわたしを侮辱に傷つけることは、わたしの友人によってしか為しえないことだ。
最後の最後になって、何もかもを失い、最もバカにされる形で、痛哭したまま下種の死に方をするというのが、わたしの向かう結末か、そうまで戦い抜かねば何にもならないということか、それは実にそうだろうと思うが/わたしはそのとき、わたしを根こそぎの悪意によって最大限に傷つけた、わたしへの致命的な加害者に向けて、祝福があるようにと祈らねばならない、魂の底から……そのことにはきっと今このときからの覚悟が要るだろう。
むろん、これまでわたしのことを敬愛していた人が、わたしが靴の先をわずかに汚したからといって、ただちに崖から落として骨を砕き、氷の湖に浮かばせて凍死する豚にして笑うということを、本来の人々は求めない、けれども「気分を害する」ということ、この「気分を害する」という悪魔の手口が、こんなにも単純かつ根深く最後まで人々を支配するのだ/そのとき痛快な笑いに包まれている人々すべては、他ならぬ正義の鉄槌が執行された快感と確信によって笑っている、そんなときにいかなる矛盾に対する理性も用を為さないのだ。

わたしは必ず、1.「穢れたもの」についての主犯にされ、2.清めることを課せられ、3.罰として身を硬いものに打ち付けられ、4.冷たいところに寝かされ、5.そのことをニコニコ人に笑われる。

わたしはそういう迫害を受けるだろうし、実のところ、これまでに繰り返しそうした "懲罰" を受けてきているのだ、それは迫害だが彼らにとっては無自覚のうちに "懲罰" だ/わたしが今、「わたしは穢れたものの主犯ではありません」と言い、女に「わたしによって靴の先が少し汚れたのは気分を害するほどのことではありません」と言ったとして、今は「そうだろう」とすべての人に思える、けれどもそのときは誰も聞き入れず、考慮もなくただ「気分を害した」という手口だけが爆発して烈火のごとくわたしへの迫害執行を決定する(ひそかな快感とよろこびを裏側に隠しながら、そこに快感があるために人はそれに抗することができない)。
こうしてわたしは、他ならぬわたしが世界とよろこびと魂を教え与えた人々によって、迫害されて氷の湖に追い落とされ、彼らがわたしのことを最大に侮辱して笑う一方、わたしは凍りついて死ぬ間際まで彼らのことを祈り続けるという構図ができあがる、必ずこのことが起こってしまう、しかもこのことはわたしを憐れむべきことではなくて、これはわたしがこのようにやがて栄光に接続するということなのだ、できればこんなことになってほしくはないのだが、やがてそうなる仕組みなのだとするとわたしはそれに従うしかない。
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自分から分離した自分について
っぱりおれの書く文章は面白いなあ。
自分で言うのもヘンだが、ブキミすぎて何が書いてあるのかさっぱりわからん、けれども何かがはっきり書いてある、しかもその書いてあることはどうやら正しいのだ、こりゃブキミすぎてわれながら面白い、何がどうなったらこんなものを書くようになるんだ。
もっとすべてのものを面白くしないといけないと思うが、面白いというのはやはり自己決定に限ることで、なぜ自己決定だけが面白くなりうるかというと、自己決定だけが外部的に変化させられないからだ、変化してしまうものは面白くない、だから二年前に流行したものは現在まるで残っていない。
およそ「面白い」ということほど、われわれをだまくらかすのに最強の性質はない、面白さというのは実に体感的にわかりやすいのに、分析的にはまったくわからないのだ、「面白いとはこういうことだ」と、正解を得たつもりならそれはたいていハズレである。

自己決定、やっぱり自己決定だよなあ、何をするにしても自己決定だし、自己決定していないものはけっきょく何一つそれを「やった」ということにはならない。
自己決定というのは外部から課されるものではなく、また外部から変型させられるものでもなく、さらには理や正当性によってさえ影響を受けず、完全に独立している/それはたとえば、「パールライスでヘチャマンボする」というようなことで、「何のこっちゃ」と言われると、「ただそれだけを続けるのだ」と答えなくてはならない、それぐらいわけのわからないものだ(分析的には一切捉えられない)。
「こっくりカマキリでハマチロードを四転浜砂する」というと、もう何のことかわからないし、そんな四字熟語も存在しないのだが、それはまるで深夜に吹く暴風のように……誰も興味はもたない、なにしろおれ自身も興味を持たないのだ、こんなどうしようもないものがあるだろうか、まるでこのブログのようにおれ自身も興味は持っていない。
つまるところ「面白い」といえば、「おれだけが面白い」ということに、結局なるなあ、カーバンクル・スライス、すべての興味は敵だ、おれは間違ったすべてを教えようと思う、徹底的に間違っているのに「面白い」ということは、それはつまり最終的におれが「正しい」ということなのだ/すべての興味は敵であって、敵を打ち払い敵でないものだけを得るということ、それはやはり自分だけを得るということだ。

自分 "だけ" を得よ。

それが自分 "だけ" であるなら、外部の何にも作用は受けないだろう、また外部に何の作用も与えないだろう、それでよろしい、ただし実際には作用があって、なぜ作用が起こるかというと、それは外部に対する作用ではないからだ、他人のうちにおれが棲んで、それじたいが作用になっている、その「おれ」というのはもはやおれ自身でさえないのだが、これは混乱しているのではない、おれ自身からさえ分離した "おれ" というのが本当にあるのだ。
おれは他人はきらいだ、だから他人のことは無視している、他人の存在を否定している、ただしおれの周囲は実際には愛にあふれて恩恵を受けているのであって、それはおれがおれの周囲を他人などというしょーもないものにしないからだ、おれがおれにならない以上、他人を他人にもしない。
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平等の杯と、わたしが己をゴミムシに定義してきた仕組み3
あそれにしても、「平等の杯」が最上の美酒であることには変わりなく、その香味はまるで天の国が地上に降りてきたごとしということになるが、だからこそ「やめてくれ」ということでもある/わたしが等級を下げて、平等ならざる差別空間を作ってやらないと人々の足しにならないというのは、このようにして構造的に正しいのであった。
「平等の杯」をやりたい……それしか真の力を持たないような気がしてならないが、これは錯覚なのだろう、それが錯覚であることをさんざん知ってきたはずだ、にもかかわらずわたしにはこのことの絶対性と憧れがずっとある/みんな威張っていて、わたしが最下級のはずだという思い込みがずっとある、わたしより熱気のない者なんて存在しないし、わたしよりセンスや主体性のない者なんか存在しないという思い込みがずっとあり、ましてそれが若い女性ならわたしより破格に優れているはずだという思い込みがある。
わたしにはどうしても自分がスカポンのゴミムシに思えるところがあり、平等の杯のもと、人々が内心で威張っているとおりの、実力か神韻か、神通力、奇蹟と聖なる力があるはずだと思えてならない、わたしにはわたしが威張るということがどうしてもわからないのだ、やりかたと現象を知っているからそれをなぞっているというだけで/わたしが彼女らに憧れてきたようには、彼女らはわたしには憧れないので、どうしても元々の構図が正しかったように思えてしまう、わたしは今も平等の杯を最上の美酒と信じてやまずにいる。
だが同時に、ここまで訓練を積んできて、目の前で人の魂が落下していくその音と気配が、今はもうはっきりと聞こえるのでもあるのだ、わたしはすべての信仰は必要ないと思っている/実際に在るものを、ましてもはや「それしか存在していない」としか視えないものを、わざとらしく信仰するような必要はない、わたしはわたしより威張っているすべての人には、わたしの視るもの以上のものが視えていると信じてきたのだ、まして実にそれっぽい表情や思わせぶりな仕草を演出されるからには、そのことをコロッと信じてきた。

どうしたらいい? わたしにはどこかやはり最上の杯でないと真の力をもたらしえないという感覚があるが、その最上の杯はたちまち人を滅亡に導いてしまう、今さらそれを自己責任なんてつまらない言い方でまとめたくないし、実際に落ちてゆく魂の現物を目の当たりにすると、そうそう冷淡には割り切って考えられない。
どうしたらいい? 今でもやはり、わたしが人と面して第一に聞きとるのは、わたしより目の前の人のほうが「偉い」ということなのだ、少なくとも目の前の魂はそれを言い張っている、わたしにはそれを喝破する権威など与えられていないので――あるいは、わたし自身がそれを祈り求めていないので――わたしがサービス(礼拝)する側に回るしかない、それでもごまかしごまかしわたしが偉ぶって混ぜ返してみるが、それにしても状況はこじれている、わたしの知る限り「偉くない順から主体的」なのであり、わたしが目撃する人々の第一の主体性のなさは、どうしても目の前の人が「偉い」証しだとわたしには視えてしまう。
ひょっとすると、ルシファーが神に戦争を仕掛ける前から、ルシファーには神が「偉い」とはまるで視えていなかったのかもしれない、そもそもこの「偉い」という現象は何なのだ/わたしは経験と実態から自分のことをゴミムシに当てはめてきたが、わたしはひがみや卑下からゴミムシと言っているのではなかった、わたしはたとえ自分がペガサスや竜虎となったとてそれがゴミムシより「偉い」とは別段思えない。
平等平面において、千利休は欠けた茶碗でも茶の湯に差し支えないと言うだろうが、そんなことはわざわざ言うまでもない当たり前のことであって、率直にいえばそんなことのために茶の湯を啜っているようなヒマは誰にもない、けっきょく元から平等平面のほうが「正しい」のだ、だからわたしはゴミムシとして踏まれることに満足していたし、そんなゴミムシを「踏まない」女が、とてつもなくやさしくて大好きだった/むろん部屋に虫が出たときは殺虫剤をプシューするように、そういうしょうもないことを言っているのではないから。

ただし殺虫剤を行使する人間のほうが「偉い」とは思っていない。

わたしは人の魂が落下していくところをもう見たくないが、そのことは、「平等の杯」がやりたいという希求と相矛盾する、なぜ矛盾するかというと、けっきょく人々が、まるで「平等」なんてことに対応できていないからだ/一ナノでもうぬぼれやひがみが出たら途端に平等平面から弾き出されるし、一ナノ秒でもためらい・工作したら平等平面から叩き出される、わたしこそが平等平面の美酒を求め続けているのに、いざそれを始めると途端に平面上から誰もいなくなり人々はうわごとをのたまう。
平等の杯、平等平面がやりたいというのは、「大暴れしながら涅槃寂静を保とうぜ」というようなことであって、それも一ナノでもズレたらただちに「取り返しがつかないことになる」「もう二度と戻れない」というようなことなのだが、誰もそんなことは考えずに平等をまくしたてている、「平等」というのは結果的に人が到りうる最上位のカミサマの名のようなものだが/「永遠の個が無限種類ありえる」という、まるで数学上の素数の現れのようなものが平等平面だ、このことに一ナノ秒もズレないどころか、何年経ってもピクリとも動けないという人ばかりを見てきた、彼らにはけっきょく未だ差別空間が必要なのだ、そしてわたしは本当はその空間に所属している者ではない、わたしは差別空間で尊崇されうる事象群とはことなる事象の平原に所属している。
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平等の杯と、わたしが己をゴミムシに定義してきた仕組み2

「平等」というのはこんなにも危険だ!! 「平等」は限りなく正しいがゆえに、無上の美酒であって、ただしそれを飲んで無事であれる者は、限りなく正しい者に限られる/わずかでも正しくないところがある者がこの杯を飲むと、ただちに100%の報復を受けることになるのだ、こんなもん初めから実用に堪えないじゃないか。
数学的に、「平等平面」を定義したとする、そして平面というのは完全に出っ張りやヘコミがゼロでなくてはならず、ゼロ以外の微小な出っ張りやヘコミがあった途端、その点は平等平面とはまったく異なる存在になってしまう。
そして万人・すべての「人」をその平面に定義する以上、その平面から逸脱した点は、ただちに「人ではないもの」になってしまう、「人ではないもの」ということはつまり「神々と同格」ということを言い張らねばならず、その要件を満たさない場合は神々と戦争になり、その戦争に敗れれば何かしらの Hell に落とされるだろう。
つまり、「平等」ということを成り立たせるためには、己のこころも魂も、完全に波ひとつ起こさず平等平面にありつづけるという状態でなくてはならず、もしそのことからはみ出してなお Hell に落ちたくなければ、神々と同格以上であるか、そうでなければその魔力が神々を打ち倒すほどでなくてはならない、これらのすべてが冗談でなく「平等」ということを担おうとすることの最低要件だ、平等ということは正しいのだが、その正しさが神々の中でも最上位の者しか扱えないほど厳正だということ、よくこんな物騒で不可能に思えるものを人が取り扱える気になったものだ。

たとえば自分で声を出すとして、Aの音を 442Hz で出すとする、そのピッチから十億分の1Hzでもズレればそれはただちに別の音だ、人は自分の音感をよく言うとき、そんな数学的な厳密さのことを指して言うのだろうか、むしろ数学的に言うならそんな厳密なAの音はこの世に存在しえないということになる/「平等」というのはこのAの音のように、わずかでもはみ出た者を神々の審判に即刻晒すというようなシステムだ、誰も生き残れるわけがねーとわたしなどは思う。
これに比べて、「アホですねん」というシステムはとてつもなく融和的だ、少々トンチキをやっても、「賢い人もおるし、アホな人もおるんや」ということで、人という融和空間に残存させてもらえる、いわば 436Hz ぐらいでも、まあAの音だということでギリ許してもらえる/この "許してもらえる空間範囲" を、平等平面に対照して「差別空間」と呼ぶことにしよう。
こうして差別空間は融和的だが、ただし差別空間においては当然ながら差別が発生する、440Hz 付近を出す人のほうがAの音に関して身分が高く、436Hz を出す人の身分は比較的低くなる、ただしどちらも「人」だ、同じ差別空間にいる「人」でありえる/(別に音感なんかどうでもいいが、あくまでわかりやすいように例えている)。
人類の歴史が、奴隷と王があるような大いに「差別」に満ちた空間から始まり、次第に厳密な「平等」を課せられる平面化へ進んでいったのは、まさに聖書の言うように「審判のとき」が近づいているということなのだろう、社会的な是非はさておき、魂の問題として、古い時代は王も奴隷も等しく「人」でありえた、「同じ差別空間にいる人」だった、それが現代にまで来ると、空間の平面化は差し迫っている、ほとんど空間と呼べるような融和の幅は残っておらず、誰もがすでに「人ならざるもの」として弾き出されてしまった状態にある、だから近年のわれわれには友人とか青春とかいったものがない、誰かを愛そうとしてもその「誰か」がすでに同じ空間に存在しないのだ。

天地のあいだがゼロになるのが「平等平面」だ。

誰でも知るとおり、人は天地のあいだに存在している、その天地のあいだに空間を認めるなら、その空間の中でそれなりの差別が生じてしまう、誰かさんは天に近く、誰かさんは地に落ちているというふうに/ここに天の国が地まで降りてきたら、天地の「あいだ」はゼロになり、天地の「あいだ」は空間をもたない平面になる、これが「平等」だ、この平面で誰も天に近いとか地に落ちるとかいうことはなくなる。
ただしそのときには、常識的に考えて、誰もその厳密な平面には居残れず、天か地のどちらかにはみ出すことになるだろう、そこで天への所属を言い張るとして、その言説にわずかでもウソはほころびがあれば、言い張ったぶんのウソが罪業とされて、そのぶんの報いを受けることになるだろう、もちろん自分の気合い一発で神々を吹っ飛ばせる人は別だが、そんな人はもう元々「人」じゃない、もし本当に天地とか神々が存在していたら構造的にはそういうことになってしまうのだった。

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平等の杯と、わたしが己をゴミムシに定義してきた仕組み
たしにはやるべきことがあって、それをやるのは善であり、それをやるのはかまわないのだが、なぜかそのやるべきことをやるには、わたしは自分の等級を下げなくてはいけない、このことの理由が未だによくわかっていない。
わたしとしてはむしろ、等級を下げたものを人に向けるのは、不実であり失礼だと思うのだが、かといってわたしが最上のものを向けたとしても、それは人に善く作用しないのだ、むしろ結果的に人を滅びに導いてしまう/そりゃもともと滅びる奴が短絡されて結果を得ただけなのかもしれないが、何かもっと柔軟な良策があるように思えてならない。
わたしはもともと説教くさいものがきらいで、説教くさいものはわずかも入れず、悪い遊びときれいな女性を褒めそやして遊んでいたいのだが、そういう上等なものを向けると、なぜか女性の側が滅んでしまうという結果を得てきた、むしろもっと低級なものを向けてやったほうが、実際に女性は幸福になって救済されている/それは別にかまわないのだが、おれ自身が何かスッキリしなくてな……
なぜだろうか、最上の杯を干すと、それが最上ということはわかりそうなものだが、人はその杯によって死ぬのだ、さすがにそれではおれだけよろこんでいるというわけにもいかない/その杯は何というか、わずかでもうぬぼれやひがみを持っていると落下をもたらすのだ、わずかでも功利や、立ち回り、エセの感動や、一ナノの分かったふう、あるいは自己陶酔を持っているとたちまち Hell へ叩き落とされる、わたしとしてはこの杯を振る舞うのが最上の礼節だと思っているのだが、率直なところ「やめてくれ」という声ばかり聞く、ましてその杯の香味は無上の部類で、目の前に置かれて固辞できるようなものではないのだ。

この杯の名をおそらく「平等」という。
とめどない愛に溢れる者も、おぞましい自己陶酔が止まらない者も、等しく同じ等級にあるとする杯だ、この杯が最上なのはわかるし、わたしもけっきょくこの杯以外には興味がないと言えるが、この杯は同時にその瞬間にすべての精算を決定させられる杯でもある/富める者はその富を確定し、負債ある者はその負債を確たるものに固定する力を持つ、だからこそ理性においては「やめてくれ」と言われる杯だ。
わたしはよくよく、この平等の杯のことを知っている、知ってはいるものの、これまでは考えてこなかっただけだ、それが最上なのは明らかだからこれ以上何を考える必要があるかと思っていた、その思考そのものは正しかろうが、実際的なことを考えてこなかった、わたしがこれまで自分のことを疑いなくゴミムシに定義してきた理由が、この杯の前にようやく明らかになる。
わたしはこの杯のもとに、機械的な平等主義者なのだ、この機械的な平等主義があるからこそ、その人の魂の言いぶりにわずかでも傲りやうぬぼれがあるのなら、それは「偉い」のだろうとわたしはみなしてしまうということ、するとほぼすべての人にそうした魂の傲りやうぬぼれはあるものだから、「偉い」全員に対して「わたしはゴミムシなのだな」という定義が成り立ってしまう/わたしはこの杯のもと、魂のわずかな言いぶりでも、わたしはそのすべてを肯定してしまう、わずかでもその魂が自己の傲りやうぬぼれを言うのなら、ただちにそれを永遠の言説として認めてしまう、つまりわたしが自分をゴミムシと定義して何の紛れもなかった裏側で、わずかでも魂に傲慢のある人を、カミサマより偉い何かと定義して紛れなかったということだ、「平等」というのはそういうことではないか、万人が平等ならその平等からわずかでも優れてはみ出る者がいればその者はただちに神と同格以上のものであるはず、果たしてこんなシビアな「平等」の杯のもとに人は己の完璧無垢を信じられるのだろうか?

「平等」から一ナノでも増長したら、ただちに個人で神々と戦争することになるが、ホントにそんな超絶の覚悟をしたのか。

わたしは長いあいだ自分をゴミムシと定義してきたが、それはゴミムシと「平等」ということであって、わたしから見ればその他の人々は、神々と同格以上として闘争に旅立ってしまったのだ、そこでわたしは「おれにはそんな根性は無かった」ということにすぎない、「みんな神々と同格以上だから、 "平等" なんか初めからやる気なかったんや……」というのが多分わたしの率直な感想だが、今になって思う、当人らは本当にそんな壮絶な自負と覚悟をもって単騎による神々との闘争に旅立っていったのだろうか?
なぜ最上の「平等の杯」を酌み交わせないかというと、「平等の杯」というのは、それぞれの魂が往く先がエデンであろうが浄土であろうが最下層の Hell であろうが、互いに完璧に「かまへんかまへん」と満足しきっているということを大前提の条件に要するからだ、「平等」というのはそういうことだろう/魂の往く先が平等なのではない、魂がどこに往くにせよそれは「平等」だとして満足しきっているというのが平等の杯だ、その杯を酌み交わすということは、もう往く先を変えられないということ(満足している奴が往く先を変える必要はない)、神々と単騎で戦争するということへ驀進するということがもう "変えられない" ということになる、それならこの杯のことを「やめてくれ」と言うのもよくわかる話だ、わずかでもこころに波が立つようではその波頭をもってすでに「平等からはみ出た」ことになる、うーんそりゃ凡人にはシビアすぎるだろ笑。
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最短化の公益に献ずる
たしはもっとバカにされないといけない。
わたしはもっとバカにされ、軽蔑され、笑われ、罵られなくてはならない……そのほうが話が早くなるからだ。
はじめ多くの人はわたしのことを、評論の刃に掛けるだろう、そうして自分の陣地を高く安全にし、そのぶん Hell に接近する。
それによってわたしが何の作用をもたらしているかというと、万事を「早く済ませている」のだ、わたしをバカにすることが正しければ、その人はグッと天国に近づくだろうし、万が一そのことが正しくなければ、その人はグッと Hell にジョイン気味になるだろう。

長くかかる話を、まるでダイジェストのようにさっさと済ませていく。
だいたい、ほとんどの人はわたしを評論の刃に掛けるのだが、それで次第に自分が劣勢に追い込まれていくと、今度は評論というよりわたしに対する攻撃・憎悪を覚えねばならず、つまりは「呪い」をかけるようになる/呪いとはつまり、わたしに不幸な結末がありますようにとイメージを念ずるということになるが、わたしには呪いは当たらないので、その呪いは自分に返ってきてしまう(いわゆる「人を呪わば穴二つ」理論)、それで自分がグイグイ不幸な結末に押し出されていくのだが、これは話の進捗がとてつもなく早くなっているのだ、人生に無駄がなくなってイイ。
なぜわたしには呪いが当たらないかというと、わたし自身が呪いを使っていないからだ、呪いというのはノロイでもマジナイでも同じく「呪い」と書くが、これは「神仏による祝福と罰の力が行使できないとき、人為的な業力によって擬似的な祝福と罰を与えようとする」という技法であって、そもそも祝福と罰の中にある人に対しては人為的なノロイマジナイは通用しない/逆に言うと、そうしたノロイマジナイに力を得ようとする人は、神仏による庇護・バックアップを完全に放棄するということが前提になるのだ、うーんそれはなかなかの無茶だと他人事ながら思うぜ。
まあそれでともかく、話が早くなるという話だ、わたしのことを初めから敬愛するという人は極めてまれで、いや後になって敬愛するという人も極めてまれだよ、まずわたしのことは軽侮・嘲笑するしかないから、それで話が早くなる、いわばわたしは「評論・嘲笑してみようキャンペーン」の実物としてこの世をうろついていることになる、このキャンペーンに触れると "もれなく" 話は早く進展するという機能があるのだ、これはなかなか合理的でイイ機能じゃないかとわれながら思うのだった。

わたしがあなたを軽蔑しないので、あなたは「困る」のだった。

もしわたしが、誰かを軽蔑するのであれば、それはお互いに人為的なやりとりだけで、何も話は進まずにノロイマジナイの掛け合いみたいなことに終始するのだが、おれに誰かを軽蔑するという機能がないのが問題だ、お察しのとおりわたしに向けた軽蔑や嘲笑は、人為的でない何かに対する軽蔑や嘲笑になるのだった、わたしに唾を吐いてみようキャンペーンということになるが、なぜか唾を吐いた先に「わたし」がいないので、「あれ? 自分は何に対して唾を吐いたのだろう」という、面白い現象に向き合うことになるのだった、そうするとこの世界の仕組みに直接触れて、話が急速に進むので合理的でよろしい。
話が急速に進むというのは、つまり魂に直接、「こうすればいいのだ」とか、「こんなことをしてはいけないのだ」とかを、最短で理解させられるということだ、もちろんその理解には魂のショックがあるし、たまにていどによっては学習過程でもう戻ってこられなくなる人もあるが……そういう人はきっと、もともと戻っては来られない人だったのだろう、だからしゃーない/何かを学ぶというのはもともとそういうことなのだから、学ぶとなったら最短で学ぶに越したことはない、わたしはこの最短化の公益と呼ぶべきようなものに貢献したいと思っている、ジジイやババアになってからほんのり入口の匂いを嗅ぐようではさすがに何もかも手遅れすぎるだろう。
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笑い続ける弱き者の努力
る人がこのように言った、「ときに自分から、何か邪悪な笑い声が出ることがある」「それで、自分でびっくりして、自分でダメージを受ける」/なるほどそうだろうな、とわたしは思い、「そうだろうな」とわたしは言った。
「これは何なのでしょうか」と訊くので、わたしは「いや、ただの邪悪だろ笑」と答えた、むろんそのとおりでしかありえないのだ、われわれはどうも自身の内に邪悪がないと思い込もうとする/んなワケあるか、と当然に思うほうがもちろんまともではあるはずなのに。
わたしの場合などは、逆のことをしばしば経験する、わたしの内から突如、裂帛の気魄の声が飛び出したり、笑い声がなぜか天空にまで突き抜けていったりすることがある、それが何なのかはわたしにもわからない、わたしにもわからないが、ただそれは「そういうもの」なのだろう/自分にこころあたりがあろうがなかろうが、事実としてそんなものが飛び出してくるのだからしゃーない。
むしろわたしは、そうしてときおり自分から飛び出してくる、無闇に真っ白で奔放なものに、わたし自身が殺されるのじゃないかという脅威と半笑いを覚えている、わたし自身「こいつ」が何をするのか最終的にはよくわかっていないのだ/このように、けっきょく「わたし」「自分」というのは、思っているほどにはまったく自分の所有物ではないようだ、自分の責任物ではあるのに。

わたしは、他人のことを気に掛けるような、善意の起こりを自分のうちに、 fxxk off の一言で断ち切っている、善意などというわかりやすいゴミが浮いてきてはいけない、そうしたゴミを日々取り除くのはただの「手入れ」であり、有史以来人間が義務とするところだ。
わたしはこうして文章や小説を書くことに最も向いていない者だと思うが、わたしはそうしてすべてのことについて「向いていない」者でありたい、必ずそうなるように自分を仕向けてきた、わたしに「向いている」ことなどこの世にひとつでもあってはならないのだ。
わたしには何のイデオロギーもなく、誰とも話は合わない、けれどもわたしはすべてのものを手に入れるだろうし、すべてのものを手に入れながら、そのすべてを手放しているだろう、必死で掴んでいるようではそれは手に入れたことにはならないから/これはむろんおれの話だ、年の若いお嬢ちゃんたちが真似していい話じゃない、お嬢ちゃんたちが知るべき話ではあるがにわかに真似するような話じゃない。
わたしは誰からも好かれてはならない、好かれるというようなザコの策略はおれには無縁でなくてはならないのだ、ただおれは愛されるだろう、好かれないまま愛されるようでなければおれは何にもなっていない/おれにはもともと何の迷いもないのだ、正解を探していない者が何に迷うことがありえるか? おれが不正解を選ぶのなら宇宙のすべてを差し置いておれの不正解だけが正しいだろう、こんなことはやはり年の若いお嬢ちゃんたちが真似していい話ではない。

おれの言っていることがあなたに分からないのではなく、あなたの言っていることがおれに分からないのだ。

あなたはすっかり、自分の言うことが一般に「分かる」ことだと思い込んでいるが、それは錯覚だ、それはあなたの周りにいる人々が、人ではなく「分かる星人」たちでしかないというだけだ、わかる星人のワナに掛かったというだけ、waカル・カルカルという呪文を唱えている、でも本当には青空ひとつ分かっているわけではない、お前の目の前にあるのは青空じゃなく「waカル」だ、世界のすべてを「waカル」のスクリーンに妨害されて何も視えなくなるというワナに掛かってしまった。
そりゃあ邪悪な笑い声も出るだろう、それが何なのかといって「ただの邪悪」だ、waカルのスクリーンを解いて青空を見せたところで、あなたは「分かんない」と不平ぎみに言う、あなたはwaカル王国の王族だと刷り込まれてしまったから……waカル王国の人々はみんなそれぞれにwaカルということを持ち合ってニコニコしている、ニコニコしている、ニコニコしている/なぜあなたが「分かんない」と不平ぎみに言い、おれが「分からない」とよろこびに立って言うのか、それはけっきょくあなたが自分をエライと思い込んでいるからなのだ、あなたは努力をしているがそれはエライ自分としての努力であって、笑い続ける弱き者の努力ではない。
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WS報告075(2)/作品ナイトと馬食の朝
曜日は、以前から予告していた「作品ナイト」のような夜に、図らずもなった。
零時以降はずっとその場で作品を産み出し続けるというふうにしたのだが、実際にやってみると、各員は精魂尽き果てるようだった、作品はどんなものでもやりはじめると、そのことだけはおれが手加減しないので、集中力は増すが各員の精魂は尽き果てていく、しかし一晩でダウンするようじゃまだまだ使いモンにならんなあとわたしは一人思っている。
このごろワークショップ報告のタイミングが遅いのだが、これはサボっているのではなく、「朝食の儀」をやり始めてから、各員があまりにも食うということが起こってしまい、その後昼食も夕食も作っているので報告記事の時間が押しているのだ/さすがに各員のあの食いっぷりを見ていると、なるべくまともなメシを食わせてやりたい、毎回本当に食卓に激震が走っている、おれが料理人までやっているのは明らかに無理があるがしゃーない。
今週は思いがけず、決定的な全身の解放を得た者がおり、また始めて作品のマスター役に踏み出して、ガクブルしながらもなんとかやりきる者も出た、こうしておれのメソッドは割とホントにまともなものなので、インチキをせず各員がまっとうに取り組めば、本当にそのとおり経験も成果も得られるものだ、表面上はしょーもないことに見えるよう偽装してあるが、すべてフツーの人が生きているうち到達できないことへ到達させているものだ、そしていったんそこに到達してしまえば、よほどのカルマでも購入しないかぎり、全身に得たそれを自分の生の常識・常態として生きていくことができる、これはすさまじく有利なことでもあるし、また知らないところで生きるコストも大きく節約できているのだ、もちろんいいことずくめであって、おれはいいことずくめのことしかやらないしさせない。

おれはこのところいつも焦っている、おれ自身が焦っているのではなく、人々が好き放題に陥る「ふつう」という状態に焦っている。
「ふつう」という、「居心地のいい」状態、つまり作品なんか無関係で、作品といっても趣味の範囲で鬼気迫るものではなくよもや自己の存在そのものに関わるものではなく、つまりずーっと「うふふ」と思っているブキミな状態、これが現代の「ふつう」だ、いわば魂の相場がすさまじい暴落を続けている状態だが、なぜこの状態が多くの人にとって "平気" なのかがおれにはわからない。
誰にとってもそうだが、たとえば「十七歳の春」といえば、それ以前に死んだ人を除いては、万人にその春は与えられるのだ、そしていかに有能な、才能と環境に恵まれた人であっても、十七歳の春を二回体験できる人はいない、十七歳の春が二度帰ってくるということは誰にとっても決してない。
ここに二十五歳の誰かがいたとして、「二十五歳の冬」は一生に一度きりなのだ、二度と帰ってこないのだ、そんなもん当たり前なのだが、そこで弾けるべき魂の瑞祥は、なぜかよくわからない不溶性のプラスチックのような「ふつう」という妄念に呑み込まれていってしまう、彼らが生のメインにしている「ふつう」は、明らかに「何もない」を言い換えただけのものにすぎないのに/そんなことを言い出すと、また他ならぬわたし自身が焦りだしてしまうのだった、おれはもう「ふつう」の日々なんて得られないからいいのだが、なぜ多くの人が自ら何もない「ふつう」の日々にウフフと溶け込んでいこうとするのだろう、なぜそこにあるべき最大の恐怖が最強の安穏にすり替わってしまっているのだろう。

振り返れば青春はあったのかもしれないが、おれは今もなお、青春を肯定しているヒマなんかないという状態だ。

奇妙なことを言うようだが、仮にここに "あなた" がいたとしたら、あなたの主張が必ず勝つのだ、その内容に関わらず、必ず勝つのは "あなた" の主張だ、そのことは初めから決まっている/だからあなたは、おれのようなわけのわからないことには到達できない、あなたが誤っているから到達できないのではなく、あなたがけっきょく "正しい" から、あなたはおれの言っていることには到達できない。
以前から予告していた、作品ナイトのような夜があって、朝は馬食、日の出から12分後にビル街の地平からサンライズが覗いた/おれはなぜか、自分のやっていることを肯定する気にはまったくなれない、否定する気にもまったくなれないが、わたしにはもはや「ふつう」のことは作用しておらず、かといって狂ったことも最早わたしには作用していないのだ、ただすべての日々は戻ってこないということと、すべての日々は過去になんかならないということだけがわたしの全身を取り巻いている。
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WS報告075(1)/ダンスの秘訣はノーダンス
れはダンサーではまったくないし、ダンス経験など皆無だが、まあ日頃ずっと踊っているような人間だし、メンバーにプロダンサーがいるので、ダンスの項目をワークに入れている。
われわれの「魂魄」において、霊魂がイエスで気魄がノーなのだから、空間がイエスで肉体がノーだ、「つまりダンスというのは生身のノーダンスなんだよ」「おれがまったく "文章" を書かないのと同じだ」。
「この世界のすべてはダンスだし、われわれの内に入る魂もダンスでよいけれど、生身だけはノーダンスなんだよ、つまりわれわれの肉体だけが、この世界で唯一踊れないものなんだ、そしてそれは否定することでもないんだよ」。
「この生身は、われわれに課せられた "十字架" なんだ、われわれはこの生身があるせいで空を飛べないだろう?」「それがこの世に生を享けたってことなんだ、よくよく考えてごらんよ、そうでなければキリスト教の教会は、キリストの処刑道具をシンボルとして屋根の上に立てているのかい? そうじゃないだろ、人の身で生まれるというのはそういうことなんだ」。

「あるいは仏教説を採っても同じことだ、仏教説てはこの身のことを業(カルマ)という、この身の業(カルマ)のせいで魂は閉じ込められており、空を飛べない、この業(カルマ)のことを十字架と言ったって同じなんだ」
「この生身はカルマであり十字架だからダメと言っているのではなくて、それで "合っているだろ" ということなんだ、聖書説では罪のせいでエデンから追放されたのだし、仏教説では業のせいで輪廻を繰り返している、ちゃんとそれら聖典の神話に "合っているだろ" ということだ、その神話の末端に自分がいるのだから何も誤っていないんだよ」
「要は生身でダンスを "やらない" ということだ、この宇宙のすべてのものは踊れるのに、唯一踊れないのがこの "生身" 、十字架だよ、一般に思われていることとはまったく逆で、人の生身だけがこの宇宙で唯一踊れないシロモノなんだ、それが自分の背負っている罪業なんだから "それでいい" と、知って肯定している奴が必要なんだよ、ふつうそんなの気づかないからさ」
「己の生身に完全なノー・ダンスを満たせ、そして己がノー・ダンスであり、目の前の観客もまたノー・ダンスなんだ、それが正しいんだ、そうして相互の生身に完全なノー・ダンスを満たしきったら、それを保ったまま動くんだよ、相互の生身は完全なノー・ダンス、その代わりこの宇宙のすべてはダンスで満ちていい」「わずかでも生身でダンスできるなんてイキってはいけないよ、この生身は罪業の十字架なのだから、 "罪業の十字架パワーアップ" を誇ったら見当違いのアホじゃないか」。

おれはノー・ダンスだし、あなたもノー・ダンスだ、だからダンスはまるで神の名を称えるがごときだ。

もしわれわれが生身をもって神なら、わざわざ神の名を称える必要ない、プロテインとか筋肉とステロイドを称えればいいだろう/神の名はあくまで "生身ではないもの" だから神として称えられる必要がある。
単に筋肉強化した生身がヒョコヒョコ動いてそれが「神」になるわけがない、それは「神のくせに死ぬのかよwww」という一撃で理解できるだろう/言葉はすべて神の名に等しい、それを生身にやらせるとすべて呪縛になる、生身はノーで空間がイエスなのだから……だから言葉をワイルドカード***に採ったとき、何であれ生身はすべて完全なノー・***と定義される、それが正しい、そのとき言葉は正しく言葉として生身を除いたすべての空間を支配する、あるいは元々それが支配していることにようやく気づく。
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一般から見ればしっちゃかめっちゃかなわたしの苦労3
れよりリズム感が悪い若者なんていないし、おれより歌がヘタな歌手なんて存在しない。
おれより作文がヘタな国語の先生なんていないし、おれより話がヘタな芸人なんて存在しない。
おれより料理がヘタな料理人なんていないし、おれより腕の悪い武術家なんて存在しない。
おれより演技のヘタな俳優・女優なんていないし、そもそもおれより女にモテない男なんて存在しない/そりゃそうだ、おれは初めから自分をドブ板の裏に棲むゴミムシだと言っている、おれはやさしい女に憐れんでもらっているだけで、おれが女にモテる程度はもちろん世界最低の地位だ。

どんな人でも最低限、「おれよりはマシ」なはずだ、何しろおれはすべてのことについてランク外、世の中で一切の評価に値しないカスだと、そのことはお互いに重々確認をしあってきたはずだ。
おれの織りなす全ては、ゴミの面白さとして笑いに消費されるということで約束されてきたはず、よもや誰一人としておれより下ということは絶対に認めないという約束で来たはずだ、だからすべての人は実力を隠しているか、それをいちいち衆目には見せないようにしているだけ、ということのはずだ。
おれの生きてきた時間こそが、この世界で最低の最低、何の光も差さないカスの人生であって、逆にその光輝のなさがレアすぎて値打ちがある、ということが、わたしが人々に愉しまれる大前提だったはずだ、「おい誰か憐れんでやれよ」と誰もが言いたくなるほどの憐れさがわたしのウリだった、ずっとその約束でやってきたつもりだ。
という、これらのことが、アテツケでも皮肉でもなく、本当にわたしが真っ正面から信じてきたことだというのだからタチが悪い、わたしは本当に何の疑念もなくこれをやってきてしまったので、やはりすべての人はこの約束どおりのことが約束どおりに成り立つことを、生きているうちに示さねばならないはずだ、すべての人はすべての方面においてわたしなどより遥かに優っているということを、証をもって示さねばならない、これは何も意地悪で言っているのではなく、本当にわたしの本心から「困っている」のだ、今さらこれをどう処理したらいいのかと/今もなお、わたしが人よりわずかでも優れているところがあると本心からは信じられないことを、今さらどうしたらいいのだろう。

「偉大なるおれさま」が、正しいのはわかるが、いかんせん本当は興味がない。

まあだから、「興味」でやることではないのだろうね、そりゃわかってはいるのだが……/頼むから、投げやりな本心で言うと、みんなさっさと各自で天国にinしてくれ、なぜ調査してみるとみんなして、間に合うか否かの「瀬戸際」に立っているんだ、なぜおれに唾を吐いたぐらいでいちいち地獄に落ちる悲鳴をあげるのだ、そりゃみんなして行いと徳性が思ったよりショボすぎるんじゃないのか、全員が清廉と神秘と黄金と奇蹟の高貴なるワタシを宣言して何十年も来たのだから、そりゃそのとおりにやっておいてくれよ〜今さら裏側で「カルマでした、ふふ」とか言われても、そんなん知りませんやんと、そりゃそのへんの野良牛だってさじを投げて言うだろうよ。
おれが求めているのは、可憐な少女がわたしに対し、「すけべおっさんめ、こっちに来んな」とわたしを足蹴に飛ばすことなのだ、そうして絶対的な神聖庇護を受けている少女が大多数として存在することがわたしのよろこびであって、今さらになって「実は夢のないマウントオンリーのゲス女なんです、満十四歳っす」みたいな致命的報告を言ってくるなあ〜/女性の99.9%は神聖庇護を受けた絶対的存在じゃないのかよ、当人らがそのように強く主張するものだからおれはすっかりその主張を真に受けてきたぞ、そして何ならその聞き遂げた主張をボスにそのまま報告してしまった向きさえある、それが今さらになってボスに「ウソでした」とは通じないぜよ〜あなたは完璧な善人かつ聖者として己を実証できなかったら、「報告と違うではないか」とボスにシメられるのでそのつもりで。
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