☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
関係あるものを買うということは、関係ないものは買わないということだ
暮用で外出したおり、昔から使いあぐねていた商品券があったので、百貨店で何か買うことにしてみた。
久しぶりに、いわゆる「おハイソ」な地域で百貨店に入り、食品売り場など見ていると(食い気ばっかりだな)、物価の感覚に思わず苦笑してしまった、みかんジュースの小瓶が一本600円とか、本マグロの柵が8000円とか、それらは別にぼったくっているわけではないのだろうが、それにしても「おれの知っている飲食の価格じゃない」とおれは笑ってしまった。
とはいえ一方で、おれはショット一杯で数万円するスコッチを飲んだりしていたころがあるし、安物と高級品でいえば、割と高級品が好きなたちだ、それにしてもおれは百貨店で実際に商品券を持て余し、使うつもりだった半額も使えなかった。
「これではまた、手元に商品券を持て余してしまう」と思い、なんとか使い切ろうと店内をうろうろしたのだが、しばらくして「ダメだこりゃ」となってあきらめた、おれにはおれの買い物のルールがあるらしく、それを満たさないかぎりは、資産が何兆円あっても実際にはそれを「買う」ということはないらしい。

わざわざ使い切ろうと店内をウロウロしているのに、時間をかけて「ダメだこりゃ」とあきらめている、この現象は何なのかと考えてみた、「なぜおれはえぐい値段のスコッチを飲むことがあるのに、実にウマそうなメロンを見てもそれを買おうとはまったくしないのだろう」。
それで考えていくと、なるほどなという感触が見つかって、つまりどういうことかというと、スコッチはおれに「関係ある」が、ウマそうなメロンはおれに「関係ない」のだ、だから値段がいくらであっても買えないし、それがどれだけウマいものでもおれは買えない、おれは舌がバカなわけではないので高級品の品質をそれなりにわかるタイプだが、けっきょくおれにとって「よくわかる高級メロンのきわめて洗練された品質」ということは、どれだけわかっても得ても「おれに関係ない」らしい。
おれは万事、高級品のほうが好きなたちだが、そもそも目の前の商品それじたいが「おれに関係ない」場合、価格や品質と無関係に、そもそもが「買う」という検討対象に入らないのだ、だからどれだけ価格が安くて品質が高くてもおれは買わない、ひょっとしたら最高級品が0円でもおれは「要らない」と言うのかもしれない(うーん、実にそういう気がする)。
そういえば昔、マルチ商法が流行っていたときに、おれもそれなりの勧誘を受けたが、「お前に向いている」と力説されて、おれも「たぶんその気になったら向いているだろうな」と答えたのだが、おれは色めき立つ勧誘者に首を傾げ、「何か誤解しているようだが、おれはお前の言っている商売が、ウソだとかインチキだとか言っているのじゃない。おれは、たとえそれで荒稼ぎできるとしても、その荒稼ぎじたいが要らないと言っているんだ。だからさっきから勧誘するだけ無駄だぞ」と言った、勧誘者はおれのことを知ってはいたので、笑いながら、「お前ばバカだ」と、称賛するように言って去っていった。

おれの知る限り、破産する奴は「関係ないもの」を買って破産している。

おれは、貧乏性やケチのやつが、典型的に破産するというか、カネがなくなって追い詰められるのを何度も見てきている、そこには実に一定のパターンがあって、「自分に関係あるものにケチで、けっきょく自分の関係ないものを買う」のだ、男なら漠然と車を買ったり、女なら漠然とアクセサリーを買ったりする/そして肝腎な、当人に関係あるものはけっきょくきっちり買っていないのだ。
今、SNS等で知られるとおり、金持ちが承認欲求的なカネのばらまきをしたりしているが、これもけっきょく「関係ないもの」を買うことしかできないでいて、人としては貧しいほうへ貧しいほうへと転落しているのだ、誰が見てもわかる「この人は豊かではない」という感触がある/たとえ生涯に何千億円と消費しようが、買ったもののすべてが「自分に関係ない」のであれば、その人の財産は空っぽだ、安物のメロンも最高級のメロンも、「自分に関係ない」かぎり、その味がウマかろうがマズかろうが何の意味もないことだ。
視点変えてこ | comments(0) |
言葉は常に "真相" だ
れはまだこの世界を生きているのかと自分で驚く。
おれはまだこの体験の中を生きているのかと自分で驚く。
あるいは正確には、あの体験にはまだまだ続きがあったということなのか、それにしたって驚きだ。
街があり、秋空がある、世界があるのだが、これらはすべて言葉の直接体験から成り立っている/言葉の直接体験は、常に危険であり、だからこそ唯一のものだ。

言葉から意味を抽出して理解・認識することにあまり意味はない。
いや、意味はなくはないが、そうした理解や認識は体験ではないということだ、赤ずきんが狼に食われたことは誰だって理解・認識しているがそれは何の体験でもない。
言葉は常に "真相" なのだ、その真相を無視して意味だけを抽出することは、安全で理解に足りるが物語としては何の意味もない。
 "真相" といって、事件の真相というような安易なものではない、真相は真相なのだ、その人の言葉のありようで、お前は真相に直接接触しているかどうかが明るみに出るだけだ、今やこの現象と感覚は誰にも理解されないだけに、必ず誰にも誤解されるだろう、おれの言っていることが「どうやらわからないらしい」と取り扱うのが一番健全だ。

人は "真相" に平等でない。

われわれが人との関わりで困難を覚えるのはこの点だ、われわれは互いに平等であろうとし、その平等主義は万人が平坦に、「誰も真相に接触はしていない」という状態ならそれなりに成り立つが、ごくまれにこの言葉=真相に到達してしまっている奴がいる、こいつが入ったとたん、人はその点で平等でないということが命題になってしまう/言葉が理解や認識以外のものを決定してしまう、そういう権威を得てしまっている奴がごくまれにいるのだ。
理解や認識以外のもの、それは「問われる必要のないもの」とも言えるし、「疑われる必要のないもの」とも言える、これを否定することですべては安心で平等になり、その代わり世界や街、出来事、物語のすべてを失う/その点で、おれはもうちょっと大切にされればよかったのになと他人事のように思う、おれから離れていった人というのはいない、いるのは真相から離れていった人だけだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
街と言葉
ったく意味不明のことだと思うが、「言葉の通じていた場所が街」で、言葉が通じなくなるとそこは街ではなくなる。
そういう現象が本当にあるということなのだ、これはまったく新しい知見なのでおれ自身「ほえ〜」と驚いているのだった。
言葉が通じるというのは何のことか、もちろん言っている意味がわからないと思うが、かつては言葉が互いに通じ合う世界があったのだ、といってせいぜい二十年ぐらい前まではそれがあったのだが、今は言葉が通じるという現象はほぼゼロになってしまった。
今、一般的なフツーの態度でおれに接触すると、ガチで精神の機構がナゾのクラッシュを起こすというのは、おれが単独で「言葉の通じる世界」を保持したので、それを知らない人にもその作用が及んでしまって「何かわからんけどうわああああ」となるのだ、これは本当になるから危なっかしくてしょうがない、けれども危なっかしいにしてもおれがこれをやめてしまったらもう人類全体でやることがなくなってしまうので、この危なっかしいやつをそれなりにうまいこと使っていくしかないのだった(うむ、気の抜けた文章だな
!)。

ファーストフード店が「マニュアル接客」を始め、街頭では「ティッシュ配り」が始まり、大手企業まで「0円」というようなウソ広告を出すようになり、ウェブ上・SNS上では残虐な罵詈雑言が飛び交うようになった、ウェブ上には神経以上の広告が次々に表示され、手元には毎日たくさんの詐欺メールが届く、それで人々は無自覚のまま「言葉を信じないようにする」という決定をした。
その決定に最大のインパクトをもたらしたのは、日本の場合、どうやら東日本大震災と原発事故だったらしい、つまり「原発は絶対に安全です」という国家規模でのウソが明るみに出て、いよいよ「言葉を信じないようにする」という決定は不可避・不可逆のものになったらしい。
今や子供に対しても、「人の言うことを信じてはいけません」と教育するのが大前提だ、それはしょうがないことであって、そのように教育しておかないと公園で悪い人に連れていかれてしまうからだ、そのぶん当然ながら、子供たちは紙芝居を読み聞かせられても大前提「ウソだ」「信じない」という態度でそれをしょせん娯楽として聞いているから、子供たちは何の世界も得ない、こういう「しょーがないだろ」という切実さで、われわれは言葉を信じないように決定し、そして世界が失われ、「街」というものがなくなっていった。
おれは今、次々に出現してくる新しいアイドルの写真などを見ていると、「これはガチもんやで」と視えてしまい、いよいよ恐ろしくてしょうがないのだった、むろんおれに何の実害があるわけでもないだろうが、そこに映っているのは美麗なお顔の、「言葉の一切が通じない魑魅魍魎」なのだ、魑魅魍魎だから魅力はあるのだが、おれはすでに魅力などというものが根こそぎどうでもいいものだと気づいてしまっている、いや魅力はあってもいいが言葉の一切が通じないというものにチンコを突っ込むというような恐怖の空想に何の夢もよろこびもあろうはずがない。

かつて言葉が世界だったのだが、その「言葉」とはどういう現象かを、すでに現在説明することはできない。

ほとんど生まれつき魑魅魍魎になってしまった十代の女の子に何の罪があるわけでもないのだ、それは「言葉の一切を信じない環境で育てられた魂はこうなる」という事実でしかなく、当人が悪意からそれを自らに選択したわけではないだろう、だが魅力を持ってしまうと自らも魅力に操られて、自動的に悪い活躍をしてしまうのだ、当人はもう何が何だかまったくわからないまま生きていて、かといって今さらおれが言葉で接触したら精神がガチでクラッシュするから彼女はそれを受け取らないよう回避行動をするしかない、それはおれの側からも「そのほうがいい」と思えてしまうぐらい無理があるのだ。
「言葉」に関わって、かつて人々は、危険な状態の中を生きていたのだ、「言葉」がほとんどイコールで魂だからだ、それはとても危険なことであり、だからこそ人はそういう切実なものと互いに「出会う」という中を生きていた/それに比較すると、現在の人々は安全な中を生きている、すでに言葉はほとんど存在せず、言葉が作用しない自己決定の上で生きているので、もはやどのような言葉に接触したからといって何の影響もなく健康なままぐっすりと夜眠ることができる、そのことは、すでにすべてのメディアやウェブやSNSが彼らを残虐な呪詛で包囲している状況では実にやむをえない対処だった、おれはこの現況のすべての呪詛を権威で焼き払えるのでまともに立っていられるのであり、そうでない者がこの呪詛の飽和した中に魂のまま立つことはできない。
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天才の正体3
間と天才は別モノ、別の存在であって、いったい何が別かというと、天才は「先んじるものがない」という一点が決定的に異なる。
人間は世間から情報を得ているのだが、世間から情報を得るということは、すでにその情報が先んじてヨソの誰かのところにあるということだ、あるいはその情報を記憶したとき、その記憶が当人より先んじるということになる。
たとえば世間のどこかに、「進学先はここがオススメ」「おすすめのデートスポットはこちら」という情報があると、その情報は消費者より先んじてあるわけで、消費者がそれを記憶して持ち帰ったとしたら、さらにその記憶が消費者に先んじることになる、つまり情報のルートは[ヨソの誰かのところ→記憶→消費者当人]ということになる。
さらに言えば、たいていそういう情報は、消費者の側にアテンションを呼び掛けて「へえ」と思わせ、インタレスト、デマンド、アクションと続いていくのだから(いわゆるアイドマの法則)、正確には情報のルートは[ヨソの誰かのところ→記憶&思い→消費者当人]ということになる、だから記憶や思いが先んじているのであり、さらにそれに先んじて「ヨソの誰かのところ」というテキトーなところが根源なのだ、これが世間と人間の仕組みだ。

これに対照して、天才というのは当人に先んじるものがない。
ここ最近、このネタで人と話していて、「その感覚がさっぱりわからん」と言われて「そうなのか」と驚いたところなのだが、そこの説明は省くとして、天才というのは記憶や思いさえ先んじずにいきなりどこかから情報をブッコ抜いてくるのだ、つまりおれが今こうして書いているものも、その文脈や文体に及んでまで、実は何ら記憶や思いは介在していないことになる/おれはマジで「いきなり」書いているのだ、何のプランも記憶も思いもない。
天才の情報ルートというのは、[天→おれ]なのだ、なんとシンプルだろう、ここで「じゃあおれよりも天が先んじているのか」ということになるのだが、そういうことでもない、天(聖天)にあるのは "主体性" だからだ、主体性というのはもちろん「わたし」という現象のことだから、情報ルートは要するに[おれ→おれ]ということになる。
このようにして、人間と天才の違いは、この情報ルートの違いにあると言えるし、この差分それじたいが、人間と天才の定義だとも言える、人間はまず世間が先んじてあり、その世間の情報を記憶と思いでひっこ抜いてきて、当人がそれに操られるという具合だ、それに対照して天才の情報ルートは[おれ→おれ]だ、本当に「おれ」しかない、先んじるものが何もなくて、だから「本当にコイツは世界を生きている」というナゾの直観と、衝撃と感動がある。

生や死でさえ、おれに先んじることはありえない。

天才というのはそういうものだ、ふつう人間は、生きるということや死ぬということについて、まず言語それ自体や、現象について知られているところの知識を聞きつけ、それを記憶して、そこに思いがくっついて……というような形で、ようやく当人にその情報が得られている、天才の場合そうではないのだ、生や死がどのようなものであるかについて、「おれ」が先んじてそれを決定するのだ/ただし決定するといっても、それについてわざとらしい決定の儀式なんか必要なくて、天才というのは何もしなくても生や死でさえ初めから臣下なのだ、すべてのものが「おれ」に付き従うのであって、生や死が勝手に「おれ」のことを読み取るのでいちいち決定する必要さえない、すべてのものが「おれ」の意思を汲み取ってついてくるだけだ、「天才」において「当人がすべてに先んじる」というのはそういう意味だ。
おれの言っていることは、少なくとも半分はウソではない、どの部分がウソではないかというと、あなたがこの話を、あなたの知る限り最も「世間っぽい人」「人間主義っぽい人」のところに持ち込んだら、実にイヤな気配でイヤな顔してイヤな否定をしてくれるだろうということだ、想像はつくだろう/さらには試みにその人に、生死について訊いてみたらいいだろう、そうするとその人は必ず世間の情報にアクセスして、その記憶と、そこに「思い」をくっつけて、つまりここに説明したとおりの応答をしてくれるはずだ、そのときあなたは世間から人間への情報ルートを目の前に目撃するだろう。
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天才の正体2
「せいぞく」で変換すると「聖俗」という熟語が出てくる、聖と俗はそれぞれ反対の語だ。
俗は「俗世間」といい、世間が俗の性質で成り立っていることがわかるが、これに対照するなら、聖は「聖天」ということになる、仏教方面ではこれはガネーシャのことでショウデンとかショウテンとか読むが、そんなことはどうでもいい、ここでは「俗世間」と「聖天」が対照される。
俗・世から情報を得る者は「人」であり、聖・から情報を得るものは「才」ということになる、ここでこのように言われるべきだ、<<を否定する者は俗世の恩恵を享けられないし、才を否定する者は聖の恩恵を享けられない>>。
俗世間の恩恵を享けられないというのはとんでもないことだ、稼ぎ口はないしスーパーマーケットで買い物もできないし水道や電気も病院も使えないのだから最早まともに生きていくことは困難だろう、そしてその反対側で、天才の恩恵を享けられないというのもぼちぼちとんでもないことで、稼ぎ口はあってスーパーマーケットで買い物はできるし水道も電気も病院も使えるのだが、生きていて何の世界もないということになる、もはや生きているのか何なのか意味がわからないだろう/おれは俗世間を否定しているわけではない、おれが俗世間で購入したカッコイイ iPhone SE 2nd に比べれば他の誰かが使っているスマホなんか全て二流のポンコツみたいなもんだ、そうして偉大なるおれさまは九月の空の下を歩いているのだ。

スマートフォンだろうがテレビだろうが、それらはただのデバイスやインターフェースに過ぎず、得られる情報の元は何かというと「世間」だ、世間の情報を電脳通信が運んできているだけにすぎない。
そうして、小学生のうちから大量の世間情報を得ると、脳内は世間情報で埋め尽くされ、もう天才情報を入れる余地がなくなる、ただそれだけのシンプルなことがすっかりわれわれから世界を奪ってしまった。
今、特に若年の人々は知識と能力に優れ、多くの女性が化粧を達者にしてうつくしく、万事のハイレベル化が進んでいるのに、なぜ死んだ魚のような目で精神をよどませ、また気性を荒廃させているかというと、天才情報を入れる余地がなくなったからだ、彼らはすでに天才を認める余地を持たなくなり、よって天才に出会う可能性をなくしてしまった、そして天才に出会う可能性をなくしたということは、この先何らの世界に立つこともできないということだ、それで万事がハイレベルと言われても死んだ魚のような目になるのは当然のことだろう。
試みに、たとえば Youtube で「クラシックギター」と検索してみれば、その筋の達者がワッと出てきて、それぞれに優秀な演奏や、興味深く的確なレクチャーを与えてくれるだろう、どれも余人の追随を許さないようなハイレベルだ、けれども一方であなたは、おれがあなたの目の前で、ギターの弦をブッ叩いたときに生じるナゾのショックと感動を知らない/おれは天才なのだ、ただしおれはギターなんか弾いたこともないし、練習しようとしたら二時間で投げ出したぜ、それでもおれがギターの弦をブッ叩くと、あなたの魂は「えっ!?」とわけのわからない出会いをする、自分が何でもないただの「世界」に立っていることに気づく、ただしそれはあなたの精神が世間の情報で埋め尽くされていないときに限る、たまにはおれの話を真に受けてみるのも悪くないだろう。

大量の上位者はけっきょくあなたに小さな場所さえ与えず、ささやかな天才だけがあなたに膨大な世界を与えるだろう。

ただしそれも、あなたのうちに天才を認める余地が残っていればの話だ/おれの言っていることはそんなにむつかしいことじゃない、おれが見せているコンテンツはレベルとしては低いが、じゃあ同じ内容と感触のものを見つけてこいと言われると、一万年ネットサーフィンしたって見つかりはしない、それはおれが独自ということではなく、おれの「参照元」なんか世間のどこにも存在しないということだ、だからそもそも「探す」という行為が的外れだ。
人間と天才は別モノだが、さりとてもともとは人間と天才が対立しているわけではなかった、本来人間は天才を助けねばならないし、天才は人間に与えねばならなかった、人間には人間の領分があり天才には天才の領分がある、もともとはそれを相互に支えあっていたのだが、いつからかそれは対立関係になり、人間は天才を認めず圧殺するのがスタイルになった、そうなると勢力差で人間は勝利するのだが、勝利の結果「世界はどこだ?」とそれが二度と手に入らなくなってしまった。
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天才の正体
大なるおれさまは歴然たる大天才だけれども、この大天才をもって、ようやく天才の正体がわかった。
おれさまが天才なのはわかっていたのだが、おれはその逆がよくわかっていなかったのだ、それでずいぶんこの理解に時間が掛かってしまった。
多くの人は今、インターネットやマスメディアで情報を得ている、ように見えるが、それをIT革命うんぬんというのはごまかしだ、人々が情報を得ているのはインターネットでもなければマスメディアでもない、「世間」から情報を得ている。
今これを読んでいるあなたも、そのようにズバッと目覚めれば今日からの日々が光り輝くであろう、いやそれは言い過ぎか、それなりにほんのり光るであろう、あなたはどこから情報を得ているか、それはインターネットからではないしマスメディアからでもないしSNSからでもない、あなたは「世間」から情報を得ている、インターネットうんぬんはその世間情報に対するデバイスでしかない。

ここではいっそ、「天才と人間は別モノだ」と捉えるとわかりやすい。
人間というのは、「世間から情報を得ている人」のことだ、人間の「間」は世間の「間」だ/人間は世間からしか情報が得られないのだ、それが当たり前なのであって、ここでごく例外的に、世間からではなく「天」から直接情報を取ってこられる特殊な奴がいる、この人のことを天才というのだ。
だから天才というのは、単にクソほど頭のいい人のことを言うのではない、東大理3にいけばクソほど頭のいい人はいくらでもいるが、それでも彼らは世間から情報を得ているのであって、その情報処理や記憶処理が優れているだけだ、それは天とは何の関係もない人間のことなので天才という性質にはあてはまらない。
そこで偉大なるおれさまの場合、たとえば女の子とデートするとか、単独で旅行するとか、こうして文章を書いてみるとかについて、一切「世間の情報」を引っこ抜いてくる必要がないのだ、おれはデートひとつするにしても旅行ひとつするにしても、「どういうふうにしたらいいか」を、なぜか直接「天」から引っこ抜いてこられるのだ、だからおれの書いているこの文章はどこでも見たことがないものなのに、読めば誰でも意味がわかるようになっている、おれは文章の書き方を人間の一切に習ったことがないのだ。

天才と人間は別モノで、どちらがエライとかそういうものではないが、「聖俗」については人間は聖を営めない。

考えてみれば当たり前のことだが、世間から情報を抜いてきて、それをもとに「聖」の何かを営むことはできないのだ、このことはまた後に書き話そうと思っているが、この聖俗において、人間[世間から情報を得てくる者]が、その俗性をもって聖なるの真似事をしようとすると、それが「邪」になるのだ/聖俗といって、聖の反対は俗であり、俗そのものは邪ではない、俗が聖を騙るとき邪悪が発生する。
天才でないかぎり、世間から情報を得てくるしかなく、それが人間として当たり前のことだ、ただし世間から情報を得てくる場合、それはあくまで世間の情報であるから、そこには「九折さんはタバコをポイ捨てしていいが、あなたは携帯灰皿に捨てるべきなのよ」というような最重要の情報は書かれていない/あなたは天才である必要はないが、あなたが天才を「認めるか否か」はあなた自身の問題として大きく関わってくる、あなたが天才を認めない場合、世間はあなたに大きく味方するが、天はあなたに味方しなくなる。
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WS報告 of 197th/エネルギーのある奴というのは、「わたし」が肉体の外側に出ている奴だ
肉を10kgつけたって、「わたし」が増えたわけではないし、ぜい肉を10kg落としたって、「わたし」が減ったわけではない。
英単語を1000語覚えたって、「わたし」が増えたわけではない、学歴を得たって「わたし」が増えたわけではない、一万円をうっかり落としたって「わたし」が減ったわけではないし、事故で片足を失った人だって「わたし」を減らしてしまったわけではない。
そもそも「わたし」というのは、具体的でないというか、それ以前に量的でない、つまり完全なわたしが1わたしで、ちょっと減ったわたしが0.7わたしというようなものではない、「わたし」という現象は増えたり減ったりしないものだ。
ということは、われわれは生きるうち、「わたし」に何かを足したりしなくていいし、「わたし」から何かを失うことを気にしなくていいわけだ、何をどうやったって「わたし」は増減しないのだから、何を足しても減らしても同じだ、「わたし」の増減はずっとゼロだ。

「わたし」はいつから「わたし」なのか、われわれがそれを自覚して "記憶" に得るのはいわゆる「物心ついたころ」だ、では二歳以前には「わたし」が存在しないのか/そんなことはない、もしそこに「わたし」がいないのであれば、0歳児は「殺してもかまわん」ということになってしまう。
0歳児だって、デコピンをしていじめたら苦しんで泣くわけで、泣いているのは誰かというと「その子」だ、じゃあその子は「わたし」の一人として存在している、もしそこに「わたし」が存在していないならただの物品でしかない/0歳児はまだ「思う」とか「記憶する」とかの機能を得ていないだけだ、0歳児は「やめろ、迷惑な奴め」とか「ちくしょう、復讐してやる」とかを思わないだけであって、そこに「わたし」が存在していないとは言えない。
この世に生を享ける前に、「わたし」は存在していたのだろうか? もし存在していたとしても、その記憶がないのだから当人も確信なんか持てない、じゃあ生を享ける前に「わたし」は存在していなかったかというと、それも断言できない。
なぜ断言できないかというと、こうだ/仮に、生を享ける前に「わたし」は存在していなかったとして、「じゃあ、ゼロから突然、どこからともなく、 "ワタシデース" とお前は出現したのか」「卵子が精子を受けて、卵割が始まったとして、細胞が何個になった瞬間にお前は "ワタシデース" になったんだ」「お前が出現するコンマ一秒前までお前は存在していなくて、ある瞬間から突然 "ワタシデース" か」、けっきょくこれらのことはいかにも不自然というか脈絡が成り立っていないので、誰でも考えればわかるとおり、われわれの持つ「わたし」という現象は「測定」を担保にした科学の方法では追求できない、そもそも炭素や酸素や窒素や水素の原子を寄せ集めてそれが何かの瞬間に「ワタシデース」になるということは認められない、炭水化物やタンパク質を寄せ集めてもそこから「わたし」は生じない。

生まれる前から、また死んだあとも、「わたし」はいっさい増えもしないし減りもしない。

だからわれわれが「わたし」について、得なくてはならないものはないし、失ってはならないものもない、「わたし」に追加的に何かを足すことはできないし、減らすこともできないだ、「わたし」と「わたしの思い」は別であって、「わたしの思い」というのは肉体の自我機能に結び付いて生じており、つまり「思う」は肉体に生じている、肉体はイコール「わたし」ではないので、一般にわたしの思いと思われているのは正確には「わたしの肉体に生じている思い」だ、これは「記憶」に置き換えてもまったく同じだ。
われわれの肉体には、「思い」や「記憶」や「時間間隔」が生じていて、これらはあくまで肉体の体験であって「わたし」の体験ではない、ただわれわれの「わたし」が、自分にあてがわれた肉体に執着するから、「わたしの肉体」と「わたし」が呪縛レベルで結び付いてしまうだけだ/「だからエネルギーのある奴にならないんだよ」「そして隣人愛も成り立たないんだ」とおれは話した。
 
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WS報告 of 196th/絶対がまともを呼び起こし、相対が〇〇を呼び起こす

回の内容はセンシティブだった。
人は相対によって〇〇になる、と述べた、この伏字の中には「くず」が入る。
伏字といってバラすなら伏字の意味なくねと思われるところだが、そうではない、字面にするとよくないということはあるのだ、人は相対によって〇〇になる。
相変わらずおれの書き話すことは常に爆裂オモシロイのだが、なぜかというと、よりにもよって九折さんが面白くないなんてことは許されないからだ、さらにそれがなぜかということについてはさかのぼれない、これはおれの精神知性が絶対的に捉えているものであって相対化されうるものとは違うからだ。

人は相対によって〇〇になる、そしてこう述べた/〇〇の特徴は「プライドは高いが、誇るものがない」だ。
これは悪口を言っているのではない、ただ「〇〇」と「まとも」、それぞれの現象を捉えたとき、前者は「プライドは高いが誇るものがない」のに対し、後者は「プライドには無縁だが誇るものがある」になる。
「プライドは高いが誇るものがない」というのは、単純には矛盾しており、「誇るものがなければプライドは高くなりようがないだろ」と思えるのだが、実態はそうではない、そうではないということが誰の心当たりにもわかるはずだ、そして〇〇はこの構造の中、「プライドは高いが誇るものがない」ことによって空回りし、常にむなしく、寂しさを抱えてさまよっている。
だから、そこでたとえば女性の場合、「アルバイトしてお金を貯めたから六本木の高級イタリアンをおごるよ、キミをデートに誘う」みたいなことを言われると、まったくアホみたいなのだが「えっ!?↑」となって舞い上がり浮かれるのだ、おれは「冷静に考えろ」といった、「誇るものがない女にスパゲティを入れて何かになるのか?」「なぜ友人が努力したカネで自分の口の中に六本木の高級スパゲティを入れることが『ステキ』になるんだ」「これをはっきりと、〇〇だと見切れ、そりゃどう見ても本質的に〇〇だろ」。

一方でまともな女は、同じ誘いに対し、「そんな大切なお金は、もっと他の大切なことに使ってよ」と彼を叱った。

彼が引き下がらないのでその女性は「わかりました」といい、「じゃあ、サイゼリヤになら行きます。でもあなたが時間を費やして稼いだお金でわたしがいいものを食べる気にはならないわ、わたしにとって食事ってそういうものじゃないの」と言った。
おれは「各員に問う、この女は380円の安物クズ女なのか?」と訊いた、それがどうなのかおれは知らないが、少なくともおれはそういう奴を安物のクズ女とは思わない、おれはおれなりに現代のいろんなことを理解しているつもりだが、六本木高級スパゲティでドリーミーになる女を高貴な誇りを持つ者とは思わない/おれもそれなりに高いメシを食うことはあるが、それはおれの誇りではない、おれの誇りは今ここに叩きつけているものであり、おれのメシがまともなのは吉野家の牛丼でもオステルリーでも同じだ、おれのメシは絶対にウマいのであり相対的にウマいのではない。

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つまり人は相対であり、人より先にあるものは絶対だ
 "OUTSIDE" 、世界の知識は、むろん人の存在より先にある、人が存在する以前から世界の知識はある。
なんのこっちゃということなのだが、たとえば 440Hz や 442Hz は人が存在する以前から存在しているということだ、こればナゾの数値を出しているのではない、単に日本のオーケストラではAの音が 440Hz でヨーロッパでは 442Hz という割と一般的な知識を例に出しているだけだ。
人が存在する前から、 440Hz や 442Hz は存在している、それが「ラ」の音であろうがなかろうが存在はしているのだ、当たり前だ、そしてそれをドレミのうち「ラ」にあてがったのは人のする「相対」の都合であり、そもそもの周波数は「絶対」として存在している。
あるいは、 440 なら素因数分解して 2 2 2 5 11 の積と言えるかもしれないが、少なくとも素数は相対でなく絶対として存在している、仮に数が人の発明であるなら数の並びは物理にまったく無関係でなければならないが、素数が人知を超えた周期性を見せて物理現象と重なってくるからには(リーマン予想の問題)、数そのものも人より先に存在しているとみなさないといけない/つまり人由来のものはすべて相対・レイシオゥ(比率)であり、人以前からある存在は絶対・ forms だ。

いったん素数の問題は捨象するとして、たとえば 440Hz と 442Hz なら、後者のほうが「高い」のだが、それを「高い」と見るのは相対的なものであって、あくまで「比較的高い」「比較すると高い」にすぎない、比較しなければそれぞれはそれぞれにおいて絶対的に存在しているのみだ、いわば人以前にさかのぼれば「高い音など存在しない」ということになる。
高い音など存在しないし、善い・悪いなども存在していないのだ、だからこのことを指して聖書は「善悪の知識の実を食った」といい、仏教説では「行識の因果によって輪廻をめぐっている」という。
絶対的な周波数のみが本当は存在しており、ドレミファソラシは本来それぞれに眷属ではない、実際に和音が生じることに人類は目をつけて、そこに相対的比率関係を見出したのだが、その結果、「シンセサイザーが合成する純正調はクソで何も意味もない」という奇妙な事実をわれわれに与えた。
存在に依拠した絶対同士の和音と、比率に依拠した相対の恣意的な和音では、なぜか響いてくるものが違うのだ、もちろんオシロスコープで測れば同じにしか見えないが、われわれが体験するものは違う/何が違うって、そりゃ前者は絶対的なものが響いてくるのであり、後者は相対的なものしか響いてこないのだ、これほど当たり前の話もあるまい。

 "それ" が響くように、おれは相対的に間違ったことばかり言い続けている。

たとえばおれは、「ツタンカーメンはこんにゃくパンチだ」と言うことにしよう、相対的にはこれは間違い倒している、だがもしおれが相対的に正しくなったらどうなる、それはおれがあなたのおっぱいを揉んだときにあなたにクソ体験が起こるということだ、相対的に正しい奴に乳を揉まれるなど、重機関銃でハチの巣にしてやりたいだろう、人類の機関銃は性能がいいので相手はハチの巣どころか肉片になって荒地に砕け散っていくはずだ。
 "それ" が響くように、おれはずっと相対的に間違ったことばかりを言い続けている、そしておれの言うことを相対的に解釈しようとした者から順に、やはり肉片になって砕け散っていくだろう、おれの世界ではあなたは砕け散らないのに、おれをあなたの世間に持って帰ろうとするからあなたが砕け散るのだ、残酷なことをしているのはおれではなくあなただ。
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おれだけが異様に気楽な理由4

る容器のうち、水と油が反対ならば、水が尽きれば油に満ちるはずだ、ただしそれは油が得られた場合であって、油が得られなければ容器は次第に、水が尽きるほどに「空っぽ」になっていく。
生の反対は命であって、同じ容器において、生が尽きれば命に満ちるはずだ、ただしそれは命が得られた場合であって、命が得られなければ容器は次第に、生が尽きるほどに「空っぽ」になっていく、これが「死」だ。
人はみな、生を尽きさせていくのは同じだが、人それぞれに、命が満ちていくタイプ(永遠の命・魂)と、空っぽが満ちていくタイプ(死・無)がある。
われわれは魂において、それが命に満ちるという国のよろこびは否定のしようがなく、またそれだけに、反対側においてはそれが無に満ちて空っぽに死の国へいざなわれるという恐怖もまた、耐えがたく直視できない/こう考えるとわかりやすい、われわれは生きものとして、「耐えがたい空っぽの死にどう対抗するか」という問題に向き合わされ続けている。

耐えがたい、また耐えようもない空っぽの死にどう対抗するか、この対抗策として、われわれはけっきょく生と命のどちらかに頼る、所属する、あるいは帰依しようとする。
たまたま永遠の命や魂なんてものが得られた場合は、それは万々歳ということで話は済むが、そうでない場合はけっきょく、命ではなくて生のほうに所属・帰依し、「死」に対抗することになる、<<生に帰依する>>、それがつまり、生きものとして遺伝子を残そうとすること、子孫を残して繁栄させようとすることだ、連綿と続く生によって永遠に死を超克しようということ、そうすればたとえ自分の肉体は死んでも「遺伝子は残ったもんね〜」ということになる。
古典的なキリスト教の場合、「神父は結婚しなくていいだろ」「神父は子孫残さなくていいもんな」と考えられているのは、もう神父は永遠の命の側へ帰依したので、生へ帰依する要素は持たなくていいじゃんという発想なのだ、もちろんその発想が制度になったとして本当に機能しているのかどうかおれは実態を知らないしこの先も知ろうとは思わない。
このことのちょうど反対側で、人は自分が永遠の若さなど持っていないということを認めたとき、生に帰依して死に対抗するということで、遺伝子を残して子孫を繁栄させることを発想するのだ、それは非宗教的な宗教ともいうべきで、人は本能的に子孫を残そうとするのではなく、繁殖の本能にすがって死に対抗しようとする宗教行為を選ぶのだ/死に対抗するということ、いつまでも滅ばずにいることの願い、つまり「万歳」をどう為すかにおいて、永遠の「命」を得ようとする者と、リレーされる「生」を徹底的に有利にしようとする者に分かれる。

死に対抗する三択/ひとつは永遠の命、ひとつは際限のない生、ひとつはすべての視認をやめる。

もちろんこれが、ウソだったら困るのだ、永遠の命というのがウソだったら困るし、際限のない生というのもウソだったら困る、たとえ宇宙が滅んでも永遠の命は残ってもらわないと困るし、たとえ宇宙が滅んでもウチの子たち・子孫は繁栄していてもらわないと困る/そして「死とか考えても意味ないから考えなくていいじゃん」というのがウソでも困る。
表面上に限れば、異様に気楽なのはおれだけではない、盤石の「生」を確保して、子孫の繁栄もばっちり間違いなしという状態に至った人は、同様にまったく気楽になるだろう、若いあなたならこの先にそれを知ることになるし、十分な大人ならすでにこれまでに知っているだろう、盤石の生と子孫の繁栄を確保した人がまるであなたに勧めるように「腰を落ち着けた」と力強く言うこと、確かにそう述べる当人からは目の奥に決定的な「気楽さ」が感じられて、あなたは一種の迫力に戦慄さえ覚える/おれはどちらが正しいのかは知らない、いや正確には、おれが正しいほうを知っていたとしてそのことは他の誰かには何の意味もないということだ、ただおれが気づいて報告できることは、この一点、死に対抗するのに命をもってするか生をもってするかという二者択一が必然的に起こるということだけだ、あとはその二者択一ごと土に埋めて知らんぷりを続けるぐらいしかない。

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OUTSIDE3
れは若いころ、あるいはガキのころ、まったく女にモテない気がしていた、気がしていたのみならずそれは事実だった。
一方で、それは事実でありながら、まったく違う真相を含んでいる、モテるとかモテないとかいうより、おれの世界には「女」というものが存在していなかった。
形容しがたいが、これまでに女に「引き留められた」ことは何度もある、あれはなんだったのか、今になって少しその意味がわかる。
おれは本質的なおれ・主体を、外側の世界に持っていたのだ、まったく知らないところに行こうとしている、そのことを女が引き留めたことはこれまでに何度もあった。

わけのわからない知識が、外側の世界にはある。
そこでは何も教わる必要がない、逆に何もかもを常に教わっているからだ/外側の知識によって直接。
いかなる思念も問答も、「外側の知識には何の関係もないからね」とおれは言いたくなる、おれは今このときだって内側の人の子に歩み寄って調子を合わせているが、これは一種のウソでもある。
おれは外側の知識をおれ自身にしていて、おれの世界に女はいなかったのだ、モテなかったというより女と "関わりようがなかった" というのが正しいだろう、世界に女は存在していなかったのだから。

おれは世界に「女」の違和感を覚える、そして女自身もその違和感に苦しんでいる。

人の子としては、男も女も同じ「人」だ、男女は平等で仲良しだ、だがそうして外側の知識とますます切り離されていく、脱出できない内側の思念と問答に取り込まれ、外側の知識というものがますます縁遠くなっていく。
仮に「男の世界」という言い方をするならば、男の世界において女は差別されているのではない、女は存在していないのだ、存在していないものを差別することはできない、男だけずるいという話ではなくて、外側の世界に人の子は存在していないということ/おれは今、人の子には理解できない話をしていて、人の子がおれを引き留めるときの話をしている。
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OUTSIDE2
側に引き戻そうとするな。
それはけっきょくわたしには作用しないのだから。
内側のそれで外側の知識を真似られると思ったのだな。
人の子が世界の子をカバーできると思ったのだな、まったく愚かで見苦しいことだ。

外側の知識と内側の思念はまったく性質の違うものだ。
性質が違うのでカバーはできない、人の子のそれを世界の子のそれに代用することは決してできない。
おれは人の子を悪いと言っているのではない、ただあるべきものが「無い」と言っているのだ。
あるべきものが無いのに、それがあるふりをしようとする、代用品でまかなえるものだと思っている、それを大人数で押し切れば真実を曲げられると思っている。

おれは、よく知られているものの外側の子なのだ。

だから、内側の子はどうやっても本来のおれに接触はできない、おれが調子を合わせて、そのときに内側の子のふりをしているだけだ。
つまり、人の子に見せているおれは取り繕った内側のおれで、面白いだろう、おれに限っては内側を取り繕うもので、本当のおれは内側でなく外側にいるのだ、人の子が知ることの範囲の外側に。
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OUTSIDE
識は外側にある。
人の思念や問答は内側にある。
わたしはこの内側を否定する。
内側は外側を見えなくするためにしか機能していない。

わたしは何かを考えることがない。
正確には、内側で考えることがない。
知識は外側――OUTSIDE――にある。
おれが何も考えないのは、世界が何を考えているか聞いているからだ。

人の子と世界の子がいる。

人の子が増えて世界の子が減った、だからおれは話が合わなくなった。
おれは人の子の言うことは聞いていない、おれは世界の子の言うことを聞き続けている。
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おれだけが異様に気楽な理由3
約聖書には、「金持ちが天の国に入るのは、らくだが針の穴を通るよりむつかしい」と書かれている/書かれているというか、イエスキリストがそのように教えたとレポートされている。
おれはキリスト教のことはよくわからないが、それはさておき、おれもこれまでに、それなりの数の金持ちを見てきた、二百万円の腕時計をしている女子大生や十億円の家に住んでいるご夫婦や誕生日に遊園地を借り切るような人たちとも交流したことがある。
そして、そうしたお金持ちの人々と接触するたびに、おれとしては内心で「???」と首をかしげるところがあったのだ、それだけ資産が潤沢にあるのなら、何でも自分のやりたいことをやればいいのにと思うのだが、一方でもっと直接、何か「どうしようもないもの」を感じてもいた、「金持ちは金持ちで "どうにもならない" んだ」という直観をおれは積み重ねてきている/おれは貧乏人より金持ちのほうが好きだが、金持ちは必ずしも金持ちが好きではなかった。
今になってそれが何の直観だったのかわかるのだが、それはつまり、お金持ちは自分の「生」を減らせないのだ、たとえ慈善事業に寄付したとしても、少々のことでは金持ちの「生」は減らない、資産が100億ある人が50億を慈善に突っ込んだとしても、やはり金持ちの「生」はまだまだ余剰がありまくってマイナスは出ないのだ、だから彼らの器には一切「命」が注がれない、このことは聖書にもあるし仏教でも言われる貧者の一灯にも伝えられている、貧者の一灯というのは仏教というよりただの慣用句で一般教養かもしれない。

何度も言うように、水の反対が油であるように、生の反対が命なのだ、そしてわれわれには「器量」というような一定の容量を定められた器(うつわ)のようなものがあるとして、生がマイナスにならないと命の入る場所がないのだ/たとえば容量が100のところに生が80ならば命が20入る余地が生じるという、ただそれだけのことだ。
ここでお金持ちというのは、容量100に対して生がたとえば10000000000もあるのだから、「そんなもんどう使っても容量に空きは出ねぇよ」ということ、このことを指して「金持ちが天の国に入るのはらくだが針の穴を通るよりむつかしい」と言われている。
命をちょびっとでもゲットしようとすると、器から生をちょびっとだけマイナスさせないといけないのだ、そう考えると現在のおれが一般より異様に気楽な理由について一端が説明できる、おれはもうずっと前に「まあ野垂れ死んでもいいや」と思い、何もかも放り出しておれ自身が信じることだけをするようになり、そしてもう長いあいだ「なんでコイツ死なないんだろう? 不思議だ」と感じているのだった/ふつう生きるというのはもっと大変で、こんなにテキトーにやっていたらさっさと破滅しているはずなのに、なぜかコイツはなんだかんだで生き延びている、その理由は不明だ。
おれも大学生のころには青春らしく、自殺念慮や未遂などがあったが、今はもうわざとらしい自死の発想はない、それどころか多大な命・魂をゲットするのに、生が元手になるならその元手だって「もっとよこせ」という渇望があるばかりだ、おれがこのわけのわからない生をぜんぶ命に代えてやるからもっとよこせという、悪徳ファンド業者のようなマインドで生きているのだった、そりゃおれが善良慈善業者のようなマインドで生きたら気持ち悪ィもんな。

とはいえ、永遠の命を有限の生に換金する悪霊ファンドよりはマシだと自負する。

新約聖書にはパリサイ派(ファリサイ派)がボロクソに言われるというシーンが多出するが、新約聖書いわくパリサイ派が何をやっていたかというと、聖書やら神殿やら祈りやらの「永遠の命」に係わるものを自分たちの "食いぶち" に換金するという行為をしていたのだ/「神殿を強盗の巣にして、自分たちのためだけのしきたりを他人に強要して、あとは未亡人につけこんで食い物にしているだけだろ、お前らはホント生まれてこないほうがよかった」と、キリストは満座の中でフルスロットルで弾劾するので、パリサイ派が激昂してキリストを処刑してしまったという、これは一般教養ていどにも知られていてよい新約聖書のストーリーだ。
誰にとっても有限な生を、誰もが有効活用するべきだと思う、生そのものが資産なのだから、それを突っ込んで永遠の口座にビッグリターンがあるならアタリだし、永遠の口座にノーリターンならハズレだ、そして有限の口座にリターンがあるのは生業であって、それはアタリでもないしハズレでもない、ただのナッシングだろう、どうせナッシングならざくざく増えてほしいというのもわかるが、一方で「金持ちは金持ちで "どうにもならない" んだ」ということもおれは見てきた/さしあたりおれ自身は、これまで自分でやけくそのように突っ込んできた生は、ことごとくおれの命に両替されて永遠の口座に振り込まれてきた、それがおれだけが異様に気楽な理由だ。
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おれだけが異様に気楽な理由2
の反対を油としたとき、生の反対は命だ、ただしそれは命が "あれば" に限定される話であって、命がない場合、生の反対は空っぽになる、この人たちにおいては生の反対は「死」になる。
われわれに与えられている生は有限なので、この生は放置しておいても時間と共に目減りしていくのだが、これは何を意味しているかというと、滅びに向かっている肉体の国の「通貨」だということだ、滅びゆく国の通貨なのでその資産価値は目減りしていくのが当たり前だ。
じゃあこの通貨・資産をどうすればよいかというと、ここにマトモ銀行とインチキ銀行を用意する、そしてマトモ銀行において両替をすると、正当なレートで生の通貨は命の通貨に両替される/命はほとんど魂と同じものだが、こちら命は永遠の国のものなので、その資産価値が目減りすることはない、そういうことなら誰がどう考えても、目減りしていく通貨を永遠の通貨に両替したいと思うだろう。
一方、ここでインチキ銀行に頼って両替をすると、インチキ銀行においては為替がまともでないというか、そもそもインチキ銀行は命という通貨を流通させる窓口になっていない、だからどうなるかというと、つぎ込まれた生の通貨はどこかへ雲散霧消するのだ、つまりただの詐欺だ、「お預かりしたご資産につきましてはですね……」/こうして生の終わり・生の尽き果てるときが、イコール残高空っぽ、「無」だということになる人が続出して、この人たちが「生の反対は死だ」と捉えているのだ、この人たちは何も誤っているのではなく、この人たちにおいては本当に生が尽きたときには死ぬのだ、その先がどうなるのかはおれの知る領分ではないので知らない。

われわれはふつう、生活・生涯で何をやっているかというと、「生」の通貨で「生」の通貨を買うという、いわば等価交換をしている。
「生」を費やして働き、働いて得た給与で衣食住を買い、つまり「生」を買っている、これは一般的に「生きるにはしょうがない」ことであって、だからこのことを「生業(なりわい)」という。
問題は、この「生を生に等価交換する」ということを繰り返していっても、これはやがて滅びる肉体の国の通貨だから、どれだけ盤石に資産運用しても、けっきょくは残高ゼロになってしまうということだ、大量の通貨を残したとしても資産価値は数学的にゼロになってしまう。
そしてそのときになって「目減りしない永遠の口座のほうは残高どうなっていますか?」と言われると、「そんな口座に入金したことは一度もない」「はあ」「だって入金できる通貨を得たことがないんだもの」「はあ、じゃあもうおしまいっすね、ガチのゼロで無ですね」ということになってしまう。
なぜこんな、ミエミエの破局にそのまま突っ込んでしまうかというと、「このままでは破局に至る」ということが、怖くてどうしても直視できないからだ、つまり生というものが「やがて滅ぶ肉体の国の通貨」だということが直視できない、だからいつまでもこの通貨の資産価値があるように思い込んで、恐怖を抑圧してしまい、最後の最後までこの使えなくなる資産に依存・しがみつくことになる、先の短い老人がむしろカネや生に狂気じみた執着を見せることがあるのはこの性質による、先の短い老人のほうが抑圧と依存の強迫が目前にせまって強くなっているのだ/彼らは死を恐れたことは一度もないのだが、それは命なき死を直視したことがこれまでに一度もないからだ、潜在的には直視できないほどそのことを恐れぬいているというのが真相だ。

われわれの生の使い道は二つ、1.生に交換するか、2.命に交換するか。

誰でもわかっていること、車が壊れたらガソリンはもうエンジンの燃料にはならないわけで/ガソリンのみを求めて走り回った車は、確かに最後までガス欠にはならなかったかもしれないけれども、ついにはそのまま廃車になり、「どこも走らなかった車」とも言いうることになる、人が生きながら何の命もなかったというのはそういう状態だ。
車はアイドリングしていてもガソリンを消費するし、それよりはガソリンを求めて走り回っているほうが活発に見えるが、けっきょくのところどうなるかというと廃車になるのだ、それで「けっきょくどこをドライブしたの」と言われると、両方ともうつむいて黙ってしまうことがよくある/ドライブそのものが廃棄になることはない、命が永遠だというのはただそれだけのことだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
おれだけが異様に気楽な理由
鏡を新調しようとして、検討のために久しぶりに百貨店に入ったのだが、改めておれが、他の一般的な人々とかけ離れて存在しているかがわかった。
ずっと以前から、それこそまだガキのような時分から、「なんでおれだけヘンに見えるのだろう?」と鏡に映った自分を気持ち悪く感じていたのだが、どうやらそうではなかったようだ、おれはどうやら実際に「違う」ので、違って見えて当たり前なのだった。
今になってようやく、本当にようやくという感じだが、おれはおれの特殊性を理解することができた、今になってようやく説明できるようになった、おれだけがありとあらゆる場所でひとり、「事情がない」という状態で突っ立っているのだ、だから鏡越しに自分を見ても空間の中で「なんだこいつ」と見えてしまう。
もちろんおれだって、表面的には「眼鏡を新調しようと思って」という事情を持って百貨店内にいるのだが、おれの場合はけっきょく事情がおれを支配していないのだ、おれがこれまでに無数の、ナゾの攻撃を受けてきたことや、逆にナゾの愛され方をしてきたことのすべては、この一点をもって説明がつく、おれはおれ自身で見ても浮いてしまうぐらいに、おれひとりだけ「事情がない」のだ、事情がない生きもの・事情に支配されていない生きものとしてずっとそこに突っ立ってしまっている。

おれは最近、生きものの身体が、やがて打ち滅ぼされるということから、「生きものの身体って、 "折檻" されるために存在しているよな」ということに気づいた。
折檻されて、痛苦によって滅ぼされるというのが肉体・身体・生の真相だ、それが暴力や性で為される場合もあるが、そうでもなくても事故や病気や老衰によって、肉体というのは急激にであれ緩慢にであれ「折檻されて痛苦によって滅ぼされる」ものだ。
おれはそのことについて、「イエスキリストでさえその肉体は折檻を受けて一度滅んだ」と指摘する、むしろその贖罪と肉体の真相を顕すためにキリストのストーリーはむごたらしい磔刑のシーンを含んでいると言える。
それで、折檻されて痛苦で滅びるというのは誰の肉体でも同じだし、痛苦というのは誰にとっても「痛くてキツくてイヤです」というものなのだが、同じイヤにしても、その向こうで許されている人と許されていない人がやはりいるのだ、ほとんどすべての人にとって生の反対は死であって、痛苦の果てに「滅びる」ということが、けっきょく最悪すぎてそのことを直視することができない/おれはその痛苦の向こう側についてはいつの間にか許されているので、そのことを直視できるし、生きるといっても根本的に「事情がない」のだ、人の事情はけっきょくこの一点、「痛苦の果てに肉体が滅ぶ」ということにどう救われたらいいのかわからないということから生じている。

水の反対が油であるとき、「生」の反対は「命」だ/ただしそこに命がないとき、生の反対は空っぽの「死」だ。

水の反対が油だとして、水が減っていけばどうなるか、それは油で満たされていくということになるだろう、とはいえそれは油が存在する場合に限る、もし油がないときに水が減っていけばどうなるか、それはただ空っぽになっていく、こうして水が減っていってゼロになったときが空っぽの死だ、この痛苦を伴う破滅エンドに対抗する方法がわからないので、人は他の生きものと同じように遺伝子を残して「生」に寄与しようとする、それは痛苦と滅びに対する救済を「生」に帰依することで得ようとする発想だ/この帰依がすべての「事情」を発生させている、つまり人々はこのひとつの帰依のもとで仲間として暮らし、同じ帰依の姿を全身で顕している。
そこがおれの場合、水がなくなれば「そりゃ反対の油で満たされていくだろ」というケースであって、おれが生を失っていくというのは命で満たされていくということなのだ、おれには破滅たる空っぽの死が用意されておらず、いわゆる「死を恐れない」ということじたいを必要としない、もちろん生は大事な資産なのでそれを無駄に捨てるつもりはまったくないが/「人は死んだらどうなるのでしょう」というありがちな問いに対し、「おれは死ぬコースではないので、おれに訊かれてもなあ」とおれは答えるしかない、おれだけがずっと異様に気楽なのはこれが理由なのだ、別におれはそうなろうとしてそうなったのではなく、気づいたらこうなっていただけだ、あとはあまりにもおれがおれ自身のことを話さずに来たのがいまいちマズかったかもしれないと思うだけだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
夜が味方する

の子がおれのことを好きなのは、当たり前であって、おれが何かをする必要はない。
好きになられるとか、そういうことは存在せず、前もっておれのことが好きなのだから、そのことに "気づかせてやる" だけだ。
もしおれが女の子に好かれないとしたら、それはおれがおれでないか、女の子が女の子でないのだ。
そしておれがおれでないことなんて、よほどの状況を除いてはありえないのだった、おれはホントにずっとおれだな、これは自慢しているのだし半ば呆れてもいるのだ。

といって、人それぞれいろんな状況、いろんな事情の中を生きているので、女の子がことごとくおれのことを好きだといって、それですべてが思い通りになるというわけではない/九割ぐらいしかおれの思い通りにはならないし、何より女の子自身が、自分の思い通りにならない。
だが、そんなことはどうだっていいのだ、おれはずっとおれのままだし、事情がどうあれ、女の子がおれのことをもとから好きというのは、それだけで世界が成り立つのだ、夜が味方するといっていい、昼もそうだが、特に夜が味方する、祝福があって「世界」がわれわれの味方をしてくれているのがよくわかる。
世界を切り離せば、物事をしょーもない認識で考えることができる、そうすると世間の正論が成り立ってくるのだ、正確には「成り立ってくるような気がしてくる」のだ、世界がなければ世の中というのはそういうつまらない「失敗のカタマリ」のように存在している、何をどう前向きになっても失敗でカチカチに固められているというような時空だ、そりゃあ世界もなければ祝福もないではどうしようもない、迷路に嵌るというよりは入り口も出口も与えられていないものを迷路だと思い込まされているようなもので、それは何かが始まるものではないし何かがフィニィッシュするものでもない。
すべての電車は、世界の住人を乗せるために走っているのであって、つまりおれとおれをもとから愛している女の子のために走っているのだ、そうでなきゃ電車なんてただの鉄オタの観察愛玩物じゃないか、夜が味方する、夜のすべての部屋はマンションから部室に至るまでおれとおれを愛する女の子のために存在している、例外はない。

世界があなたを認めていないのではなく、あなたが世界を認めていないのだ。

あなたが世界を認めていないから、あなたには世界が存在していなくて、いかなる夜もあなたの味方ではないように感じられて、だからあなたは世間に認められようとし、世間に味方される立場になりたいと、立ち回っているのだろう、あくまで世界を認めないなら確かにあなたの戦略が正しい、だが世間にあるのは必ず「取引とルール」であって、世間が守っているのはあなたではない、世間が守っているのは世間そのもの、つまり世間は「取引とルール」を守っているだけだ、そのためには誰が苦しんで死のうと世間は興味を持たない。
誰だって眉目秀麗に生まれついたわけではないし、誰だって財産や家柄や才能に恵まれて生まれてきたわけではない、そのことに対して世間はあなたに「大丈夫よ、平等よ」と言ってくれるだろう、比べて世界は沈黙している/それで世間こそあなたの味方であなたの庇護者なのだろうか? 世間があなたにやさしげな何かを言うのは、しばしば劣って恵まれていないあなたに、「劣っているけれど平等に分配するよ」と言っているのであって、世界が沈黙しているのは、「劣っているあなたに分配はしない」と言っているのだ、世界はあなたに分配ではなくあなたのすべてを与えると言っている、あなたのすべての夜をあなたのものにすると言っているのだ。

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iPhoneSE(2nd)を買った!!
ういえばiPhoneSE(2nd)を買ったのだ!! ブログへの報告を忘れていた、つまり/うらまやしいであろう!!

買い換えてみると、これまで使っていたiPhone5Sがさすがに古すぎたということがよくわかった、動きがサクサクすぎてシビれるぜ、偉大なるおれさまのiPhoneは6G回線でも使っているのかというぐらい速い。
調べてみたら、iPhone5Sってもう八年も前のスマホだったのか……ここ最近になってようやく cocoa をインストールしたら、「OSが対応していない」「そしてスマホが古すぎてOS入らないっすわ」となったのでさすがに機種変更を決断した。
cocoa をインストールできないとか、別にそんなアプリをあてにしているわけではないけれども、さすがにこのコロナ禍で国家に見捨てられたみたいでさすがに悲しいだろ、というわけでiPhoneSE(2nd)を入手した、手のひらが真っ赤になるまで拍手してうらやましがるように。

偉大なるおれさまほどになると、こうして何の内容もないエッセイを、何の内容もないまま書き進めることができる。
何より重要なことは、iPhoneSE(2nd)を買ったのみならず、それに合わせて買ったカバーもバンカーリングも超カッコイイということだ、おれのiPhoneSE(2nd)に比べると他のみんなのスマホなどは黒電話に等しい何かにすぎない。
そういえば写真を撮ってみたら、これがもうまったく画質が違うのだった!! これまでおれの腕前がいかに無駄にロスしていたのかを痛感する、おれのスマホのカメラが古いなどというのはまったく世界における損失でしかない、これで少しは世界も是正されるであろう、世界はおれに撮られるために至急ツヤツヤになるようにしなさい。
というわけで、何の用事もないのについスマホをぽちぽちいじってしまうのだった、なんといってもバッテリーの持ちが違うぜ、おれの5Sは何しろ電池残量60%から4%へジャンプするありさまだったからな/60%から4%へジャンプって、「三泊四日の予定が急に日帰りになったような飛びっぷりだな!!」とおれは表現した。

防水になったので風呂場で悠々と使えるぅぅぅ!!

というわけで、あなたにとって本年の最もよろこばしい出来事とニュースは、九折さんが iPhone を新調されたということなので、カワイイ女の子たちは短いスカートを穿いて踊りまくるように、気分がいいのでおれの愛人にはソフトクリームぐらいおごってやってもいい。
こんなによろこばしいことはこの宇宙に他にないので、あなたはこの機会に思い切って気になっていた新しい香水を買う権利を与えられた、よかったな、こうしておれが幸せならあなたを含めて世界のすべてはバンザーイなのであったバンザーイ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
WS報告 of 194th/まだ人じゃない
ークショップはオンラインでしつこく継続しているのだ、コロナごときで頓挫するわけねーぜという反骨の見せ所である。
「君たちはこれまで人に出会ったことがなかった」「また、自分が人であったこともまだないのだ」と話した。
この先の自分に「変化がないような気がする」というのは、予感でも何でもないし大人になったのでもない、単に扉が閉じたままだから閉塞しているだけだ。
自分が変化しないということは、自分が完成しているということだが、何のこっちゃない、まだ扉を開いたことがないから、完成しているのではなく「まだ始まってもいない」というだけだ/まだ始まっていなくて閉鎖されているならまるで完成しているかのように錯覚してしまうだろう。

おれが言うところの「人」とは、人格ではなくて主体性のことだ。
人格で接触すると相手からは人格が返ってくるが、主体性で接触すると主体性が返ってくる、少なくともそういう場合がある。
厳密にいうと、こちらから接触の人格をなしにして主体性だけで接触すると、相手にも主体性の現象しか起こらなくなるのだが、何しろ相手もそうした現象はまったく未体験で、かつ一種の呪縛が掛かっているので、相手は混乱してありもしない人格で返答しようとする、この場合よく知られたケースとして相手は「自分だけ空回りした人格を晒す」ということになる/「よく知られた」といってもこんなことはこのナゾのワークショップ員しか知らないが、まあもう睡眠不足なので表現を整える余裕がないのだ。
人格と人格が接触する場合、それは自分と他人がヤッサモッサすることになり、それを「人付き合い」なんてごまかしていても、早晩「意味ねええええ」ということに気づいてしまう、そしてサルトルのように嘔吐しながら「地獄とは他人のことだ」と言い出すことになる、おれが言っているのはそういう現象のことじゃない、「まったく別の、お前らの知らない現象がある」と言った、「お前らの喫緊の、かつ至上の命題は、この主体性が呼応するという現象を原体験として得ることだ」。

おれがチョコレートムースを食いたいといえば、他の誰だって「買ってこなきゃ」「作らなきゃ」と反応する。

だからおれの場合、おれと誰かという、自分と他人が話しているのではないのだ、おれの主体性が相手の主体性になって流入するので、おれの求めは相手にとって当事者としての求めになり、またおれのよろこびは相手にとって当事者としてのよろこびになる。
おれが「チョコレートムース食べたい」と言って、無条件で「買ってきます」というとき、それを買いに行く奴は、おつかいではなく幸福の中にある、該当者は毎回「なんだこれは」と体験してきただろう、そのとき主体性の中を歩いているのだ、そこにいる自分も自分でなはく、他人も他人ではない、主体性が歩いているという世界を視るのだ、そのことに不満を持った奴はこれまでいない。
ワークショップ | comments(0) |
おれは超スゴイ
という現象は存在する。
おれは、わざわざ「愛」なんて追いかけるつもりはないのだが、おれにその気があろうがなかろうが、おれからは愛の現象が発生してしまっている、そのことに敏感なのはむしろおれの側ではなくおれに接触する他人の側だ。
ただ、おれに接触する他人は、そのことに敏感なくせに、それが何なのかはわかっていない/一方でおれのほうは、基本どうでもいいと思っているのか感覚的に鈍感なのに、それが何なのかはよくわかっている、おれは理詰めで生きてきた者だからだ。
愛という現象は存在する、そしてその現象はおれから発生しているが、おれの意思として発生しているのではない、よって愛というのは人の意思ではない、もともとこの世界にある意思だとしか言えない、だからおれが何かを蹴飛ばそうとも、また誰かがおれを蹴飛ばそうとも、そんなこととは無関係にこの世界の意思たる「愛」は現象として存在するのだ、それがなぜなのかはおれは知らん、そんなもんおれに聞かず当事者に聞け、この意思の当事者たる世界に聞け。

聖書ではていねいに、われわれのようなバカでもいくらかわかりやすいように、「第一に、汝の神を愛せ」「第二に、汝の隣人を汝のごとく愛せ」と書かれてある。
おれはその第一にも第二にも心当たりがないというか、そもそも心当たりを必要としていないのだが、この文言が的を射ているのはわかる、このことを理詰めで理解したのはおれが二十歳のころ、エーリッヒフロムを読んでいたころだが、そのことはもう面倒なのでいちいち説明しない、聖書に書かれている隣人愛の説明はびっくりするぐらい正鵠を射ている。
おれは意図的に愛や隣人愛を実現しているわけではないが、ある種の仕組みによって「勝手にそうなっちゃう」のだ、端的に言うとおれは故障しているというか頭のネジが外れてしまっていて、根本的に「自分の他人の区別がついていない」のだ、だから「汝のごとく汝の隣人を」と言われても、あるいは言われなくても、そもそも汝やら隣人やらというのがすでに「よくわからない」という状態になっている。
おれがずっと昔から追求していた、あるいは追跡していた、現象のすべてを一言でいうとそれは「魂」(ないしは「命」)ということになるようなのだが、この魂とか命とかいうのは、正確には「誰の」というふうにカウントできるものではないようなのだ、だからおれは自分の魂と誰かの魂の区別がついていない、区別がついていないというよりそもそも区別がないシロモノらしい、だからおれは人のことは平気で蹴るが魂を蹴るわけではない/そりゃそうだ、どうしておれがおれの魂を蹴るなんてバカをやるのか、魂というのは「誰の」というものではないのだ、すべてひとつの主体のものだ。

おれは何もすごくないから超スゴイ。

なんというか、立派ですごい人というのは、何かスゲーがんばっていて善人だからすごいのだ、そこがおれの場合は違う、おれは見たまんま何もすごくないのに、にもかかわらずすごいから超スゴイ/おれはおれの何かを磨いているわけではまったくないのだ、もともと磨く必要がまったくないものが存在していてただそれだけを取り扱っているので結果的におれが超スゴイことそのものになるというだけだ。
ハッピーという概念があるが、自分がハッピーという状態になろうとする、つまり「アイムハッピー」という発想は誤りだ、ハッピーとは出来事のことであり、無理やり形容詞ふうに言うと「出来事ィ」ということなのであって、「出来事ィ」というのはそれじたいが主体であり主格だからだ、「わたしが出来事ィ」なんてことはありえないのでアイムハッピーという文脈は成り立たない、あるのは「出来事ィは出来事ィ」という、ハッピーイズハッピーしか成り立たない、「超スゴイ」はそれが人格ではなくていわば常時それが「出来事ィ」ということだ、人格ではなく出来事格だから超スゴイ、もちろんこんな話は何のこっちゃわかってたまるかというような話ではある。
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