☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
格はずし2

に、エコーは格の外だから、心身にエコー命令を通してやれば、格の呪縛から離脱できる(わけのわからん話が続いてすまんね……)。
どうも、冷静になってきたんだが、これ、多くの人がこれまで、生きてくる中で「マスターのエコー命令」を受けたことがないので、わけのわからん反発心を持っているだけじゃないのかね、なんかそんな気がしてきた。
今多くの人が、自分が「キャラ」になってしまって、そのことを筆頭とした、際限のない「呪縛生活」に嵌まり込んでいるのだが、これ、道のりは遠いにしても、すでに解呪の鍵は見つかってしまったのでは? つまり小さな「命」(命令)を与えてやって、それを糸口に、次第にすべてを「命」で上書きするというだけじゃないのか。
エコー命令で、格はずしをしてやって、そうしたら小さくても命は宿るから、じゃあウダウダ言っとらんでエコー命令をガンガン流し込んでやったほうが早いんじゃないのか/つまりお前らが習って学んで努力するより、おれがおもちゃにしてやったほうが早えぞということだが、ウーンいかにもそんな感じがするなあ、だからこそいよいよメンドクセーということでもある。

エコー命令を通すということは、エコーに従属させるということだ。
ロマンチックだなあ、と改めて思うのだが、それにしても、何のエコーに従属させるかだ、どうせ呪われし民()はジタバタ暴れるに決まっているのだし……
歌と踊りのエコー、言葉のエコー、うーん、愛の問題になってくるな、こりゃもともとやっぱり、学校とか部活動とかがちゃんとあったほうがよかったんだよ! とまあ、そんなことを言っていても愚痴にしかならないが、愚痴も言いたくなるのだった。
「格はずし」か/なんでえけっきょく、おれが多くの人のリクエストを聞いて丸くなったのに、そのことがてめーらの首を絞めているんじゃないか、おれが若いやつをおもちゃにしてゲラゲラ笑っているのがベストだったのだ、あーあこんなことになっちまってどーーーするんだよ〜(愚痴)。

おれのおもちゃだけが救われる。

そんなデタラメな話があるか、と言いたくなるのだが、しょうがないのだ、理論上マジでこうなんだよ、しかもおれ自身は、もうかなりおもちゃ遊びへの関心は失っていて、どーーーするよという状態なのだった、一昔前はもう少し何かやりようがあった気がするんだが……
まあいいや、ちょっとマジメに考えよう、この先は愛の問題だというのはわかるが、この場合、愛の対象をどこに捉えるかの問題があるのだった/うーんみんな愛に正直に生きようね、さあておれの愛するおもちゃだけが救われるぜ。

できるオンナだね | comments(0) |
マスターから教わるのは別

「知っている人から教わる」「わかっている人から教わる」「出来ている人から教わる」というのと、「マスターから教わる」というのは別だ。
マスターから教わるのは別」と、覚えておいたらいいかもしれない、マスターというのはある意味「宗家」みたいなところがあるが、どういうことかというと、マスターというのは「その先に遡れる先生がいない」ということだ。
もちろんどんな人だって、色んなことを学んでいくのに、師匠にあたるような人が存在したはずだけれど、「マスター」になると別なのだ、「マスター」に到達してしまえば、もう誰に教わったとか誰が師匠とか、そういうことは関係なくなる、もちろん尊崇や敬愛は残るだろうが、そうではなく、つまりもう誰かの弟子ではなくなるのだ。
「マスター」に到達すると、物事の事象がガラッと変わる、「マスター」はつまり、「世界」から直接「どうしたらいいか」を受け取っているのだ、つまり言葉・学門・世界そのものからエコー命令を受けて動いている、だから「マスターから教わるのは別」だ、マスターというのは一般的な人間関係の法外にある。

一般に、物事に熟達していくと、熟達度合いによって「格上」になっていく。
これが、「マスター」ということになると、ガラッと変わるのだ、マスターというのは「格の外」なのだ、格上の格上の格上……を目指してたとして、「マスター」は格そのものから離脱しているのだ、だからいっそ、「○○流の宗家というのは、○○流の師範ではない」と捉えておいたらいい、それぐらい「マスターから教わるのは別」だ。
師範や師範代から「教わり」、修練を積んでいくということと、「マスター・トライアルをする」ということは、まったく別なのだ、師範だけを目指す人はマスターにはなりえない、よって、厳密には師範を目指すことは「道」ではないということになる/師範というのは、弟子や生徒を前提とした格付け上の定義であるのに対し、「マスター」というのは、弟子や生徒がいなくても単体で存在する、マスターはただのマスターなのだ。
人それぞれ、どんな道をゆくにせよ、大前提に「マスター・トライアル」がなければ、人は実は、いかなる努力をしても「道」を進んでいることにはならないのだ/仮に「○○道」の道場があったとして、師範だけを目指した人は、道場に住み続けるしかなくなる、マスター・トライアルがなければ「世界」に生きることはできないのだ、そうなると狭い道場の中や、狭い舞台の中、あるいは狭いカンバスの中に閉じ込められるしかなくなってしまう。

宇宙物理学者の居場所は、宇宙であって大学ではない。

宇宙物理学者は、宇宙と取っ組み合いがしたいのであり、大学で幅を利かせたいのではないのだ/宇宙物理学者は、宇宙と取っ組み合いをするのに、大学が環境と予算を用意してくれるので、大学の教授職にあるにすぎず、もしその環境と予算が得られるなら、別に郵便局員でもいいのだ、宇宙と取っ組み合いをするのに夢中なのだから、人の世の格付けなんかまったく関心を失っている(実際、ペレリマンという数学者は、ポアンカレ予想という大問題を証明したあと、フィールズ賞を受け取らず、ミレニアム賞の一億円も受け取らず、どこかに雲隠れしてしまった、「自分の証明が正しければ賞は必要ない」そうだ)。
マスターだけが「格」の法外なので、マスターだけが「世界」に直接存在でき、だからこそマスターは「教え」の伝播に頼らず、エコーで直接教えることができる、同じ「教える」といっても作用の理法が違うのだ/どんな小さなことでもいいし、どんなガタガタの状態でもいいので、格をはずして「マスター・トライアル」を大前提にするべきだ、そうでなければいかなる努力も一切「道」を進んではいないことになってしまう。

できるオンナだね | comments(0) |
格はずし

目黒の熱帯夜、灰色ニット/肩丸出しの女が/カールさせた栗色の髪/友達らと連れだって/とんがった口紅/ストローを差されたかき氷/ショートパンツからアジアの素足/膝頭かわるがわる歩いてゆく
なんてうつくしいのだろうと僕は思う、僕は今日これを考えた、ややこしくなってしまった人は別にして、「格はずし」のことは誰に教えてもよいのではないか、まして肩丸出しの、これから行ける勇敢さのある少女に向けては。
人は、なおも、うつくしくあろうとしている、そして、単純な誤解がある……彼女らは・彼らは、意地を張っているのでは実はない、ごく単純な誤解があって、うつくしくなる・うつくしくあるということは、己を格付けてゆくことであり、格上げしてゆくことだと思っているのだ。
それは誤謬というより、正しいことを知らされないまま来ているだけの、無垢な不具合にすぎず……少なくとも、正しく教わればパッと誤解をやめてしまう、勇敢な人たちが残されているのは確かなのだ/うつくしい灰色ニットを尻目に、僕は「格はずし」のことをやっていこうと考えた。

ややこしくなってしまった人は、しょうがないけれど……
「格」をはずす、何であれば、「人格」まで外してもかまわない、人格を外しても、そこに世界と「人」は残るのだから/多くの人は単純に、格付けを足していくことが、己をうつくしくすることだと誤解していて、格をはずしたら醜くなるのではないかと、誤解している、この誤解はただ正しいことを断言するだけで解消できる。
格をはずしたら、めちゃくちゃになってしまう? そんなことはまったくなくて、格を外したら何かとんでもないことになるという、その予感さえ含めて思い込みだ、もちろん格を外して何もないスッカラカンだと話にならないが、そこはエコーを通してやればいい、エコーの命令を通してやれば、そこに命が宿る、命が宿ることを見つけたら、思い込まされた人格などさして業務以外では必要ないのだ。
エコーで格をはずす、「エコーで格をはずします」と、僕がはっきりやればいいのだ、僕がというよりはマスターが、はっきりそれをやればいい、ああすべての両親とすべての教師がマスターだったらよかったのにな。

「エコーで格をはずします」

バーカ、ゴミ野郎、と、そんなことを言われる腹が立つ、どうしてそんなことを言われると腹が立つ? それは誰かがあなたを見ているからだ、誰かがあなたの人格という格付けをじろじろ見ているから、格で揉めて血と僻みが沸き立つのだ、マスターはあなたの人格を見ないだろう、マスターは世界とあなたを見るが、あなたはしょせんこの世界の同体であるから、世界はエコーであり、あなたもエコーになる、評価の一切は命令ではないので、いかなる評価にも命は反応しない。
エコーで格をはずします、それはあなたが、命と世界に還るために、このことはすぐに実現可能だ/ただし、ややこしくなってしまった人を除いては、そりゃ人それぞれ事情ってものがあるんだろう。

できるオンナだね | comments(0) |
横隔膜で聞くべし!!
グってもらうとわかるが、電子機器としてのマイクとスピーカーは、実は構造上はまったく同じものなのだ、「空気振動を電気信号に転換し」「電気信号を空気振動に転換する」だけだから/そして転換された信号パターンを記録(保存)する場合はそこに「レコード」がつく(ちなみに、本当に、スピーカーラインにマイクをつなぐと、マイクから音が出てくる、ただしマイクが傷む可能性あり)。
さあそれで、シンプルな話だ、人の話を聞くとき、また言葉を聞くとき、音楽を聞くとき、あるいは景色を見るときでさえそうだが、すべては横隔膜で直接聞きたまえよ!! 「鼓膜じゃなくて横隔膜なのかああああ」と、アホみたいに驚いてよろしい、これはアホみたいに驚く奴のほうが賢いのだ。
何かを聞くというとき、単なる「音情報」と、それだけではない何かの「神韻」が含まれている場合がある、音情報は確かに耳(鼓膜)を経由して聞こえてくるのだが、「神韻」のほうは横隔膜なのだ、横隔膜というのは「神韻のマイクおよびスピーカー」と捉えてよろしい、「さらにはレコードも兼ねている!!」というスグレモノだ。
横隔膜はどこにあるか、というのも、まあググれば出てくるが、簡単にいうと肋骨の最下部の「底」をベターッと覆っているのだ、胸腔と腹腔の境目だ(「横に隔てる膜」だから横隔膜だ)、この横隔膜は筋肉で出来た膜なのだが、不思議なことに、随意筋と不随意筋の両方の性質を持っている、寝ているあいだにも勝手に動いて呼吸をしてくれるのに(不随意筋)、息を止めたり深呼吸をしようというときは、ちゃんと自分で操作できるのだ(随意筋)、随意かつ不随意でもあるとか超ヤバイ、皮膜アンド境目として超ヤバイ(なお横隔膜は哺乳類にしかないので、九官鳥が言う「オハヨー」に横隔膜からのソウルはない)。

「エコー」に直接触れられるようになると、実は、しゃっくりを自分で止められるようになる、慌ててメシを食ったときなど、この技術はたいへん重宝する(といっても、そんなことのために、イージーに手に入れられる技術じゃあないが)/しゃっくりというのは横隔膜のけいれんだが、エコー感覚を操作できるようになると、この横隔膜のけいれんを自分で止められるようになるのだ。
それはいいとして、「聞く」ということについてだが、「聞く」といって、耳(鼓膜)から聞いた音情報はどうなるかというと、耳から頭に入ったものは、「認識」され「理解」され、「区分」され「telling」され、保存ではなく「記憶」されるのだ/音楽でいうと、いわゆるメロディと和音とリズムに分割・理解され、歌詞が記憶される、ただしこうして分割理解されたものは、再統合しても元の音楽には戻らない(ツギハギの集成にしかならない)。
だからたとえば、「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山ぎは……」という詩文だって、横隔膜に直接入れないと、最終的に「何を言っているのかわからない」という記憶になってしまうのだ、もちろん逐語的に意味は「理解」できるし、「記憶」もできているのだが、それでも最終的に「何を言っているのかわからない」という情報の集成になる、ただしそれでも穴埋めテストには百点が取れてしまうから要注意だ。
すべては横隔膜で聞きたまえよ、アゼルバイジャンンンン!!! 横隔膜で聞きとらず、逐語的に鼓膜から頭へ聞きとろうとすると、ここで何が「アゼルバイジャン」なのかがわからない、そりゃわかるわけがない、別に意味があって言っているわけではないのだから、ハンモックでローストビーフを食うカモメの話を、nnab、逐語的に理解できるわけがない。

「マグロ・お米・酢・にぎる・わさび・しょうゆ」というのは、寿司の「レシピ」であって、寿司ではない。

そして、このレシピどおりにあなたが食材を集成したとしても、それは元の「寿司」にはならないのだ、あなたの横隔膜に直接寿司が入り、あなたの横隔膜から直接寿司が出てこないかぎり、あなたの握ったものは寿司にはならない、記号的に寿司と認識しうるものはできたとしても、「あのときの、あの寿司」には絶対にならない。
耳から入った音情報は、ちょうどこのように、原盤から分割・理解され、レシピにすり替わって「記憶」されていくのだ、このとき原盤は保存されず放棄されるので、記憶だけかさばっていくのに、元のものは「保存されていない」という状態になっていく/とにかく横隔膜で直接聞くことだ、そして横隔膜から直接話せる人になってゆくこと、鼓膜で聞いて記憶して声帯から発声するのではないのだ、マイクもレコードもスピーカーも「横隔膜で直接ですわ」と思いなされ。
視点変えてこ | comments(0) |
エコーの反対にパニック・ピープル

ークショップの進展に関連して、僕は今、急激に「エコー」に肩入れしている。
「エコー」というと、ただちに、ギリシャ神話の妖精エコーに引き当てられざるをえないのだが、もともと、この歌と踊りにすぐれた妖精を、嫉妬のあまり八つ裂きにしたのが半獣神パーンだという、そして笑えない話、この「パーン」という神の名が、「パニック」の語源なのだそうだ。
実際、僕は先立って、ワークショップで話していたのだ、「この『世界』を見るのに、人によって、一日あたりの許容量があるらしく、この許容量を超えると、どうやらパニックになるみたいなんだ、そうなるとしばらく休憩するしかない」、実際それはもう「いつものこと」なので、ワークショップの途中でぐったり「休憩」という人が数名出るのだった。
実際僕が、「そうか、これって、the echo なんだ、神話に出てきた……」と話した途端、なぜかわからないが血相を変えて、何か「八つ裂き」の剣呑な気配を立ち上がらせる人があった、ということも起こっているのだ、本人にはまったく心当たりがなかったそうだが、僕がエコーの名を口にして採用したとき、急に不穏な血と呪いと八つ裂きの気配が起こった、まるで何かの禁忌に触れたかのように/それが後になって調べると神話に引き当たるので、エエエエエということになるのだった、ある青年は「さっきから鳥肌が止まらないんですが」と笑っていた。

何も摩訶不思議なことはないのだ、だって、「パニック」はすでに、誰にでもよく知られているし、医者だってそれをひとつの症状に認めているじゃないか。
神話に出てきたパーン神(pan)から、「panic」が認められるなら、同じ神話に出てきた妖精エコー(echo)から、「echoic」が認められてもまったくおかしくない、実際「echoic」という単語も辞書にあるのだ。
シンプルな話、体験データに神話を引き当てたら、「パニックの反対はエコーです」という、意外なことが言えるというだけだ、そして「エコーがわからない人、エコーとつながれない人は、世界や言葉と切り離されて、パニック的に生きるしかないようです」という推定が力を持ち始めるだけだ。
「パニック」の語源になっているパーン神は、好色・性豪で、半獣、インキュバス的、見栄・嫉妬が強く、音楽演奏がまるでダメ、そしてときには勃起した陰茎を剥き出しに具えて描かれるほど、荒々しく原始的な性質の神らしい、それは妖精エコーが最も軽蔑するタイプの男だったろうから、エコーはパーンの求愛を断った、するとパーンは激昂して山羊使いたちを使役し、エコーの全身の節を八つ裂きにしたそう/つまり「パニック」というのは、「嫉妬と充血によってエコーさんを八つ裂きにする衝動状態」ということだ、そりゃ当人は言葉も身体も歌も木っ端微塵になっていて当たり前だ。

「嫉妬と充血によって佳人を八つ裂きにしたがる panic people」は事実、現代にたくさんいる。

僕は古代ギリシャ人ではないので、ギリシャ神話を信仰しているわけではない、ただ信仰しなくても、神話にはヒントがあるものだ、潜在的な八つ裂きマン(八つ裂きウーマン)なんて、現代にいくらでもいるのだろう、そのことを憂いていても、まるでヒマな老人みたいになるので、けっきょくは学門で対抗するしかない、じゃあ対抗策はやはり「エコーの恢復」になる。
「エコーがわかりません!!」という人に対して、「そりゃキミがパニクっているからな!!」と答えるのも、筋道として有効になる、「パニックはどこから来ますか!?」という問いに対して、「勃起した陰茎と見栄と嫉妬と獣心からだよ!!」と答えるのも有効になる、この世にはエコーピープルとパニックピープルがあるのだ、そして僕は断然エコーちゃんラブなのであった(ただしカラオケのリバーブは切ります、エコーってそういうことじゃねえ)。

正しく見ないとな | comments(0) |
もっとおれを間違わせておくれよ
の話なんか聞かないほうがいい。
人の話は、どこまでいっても、人の話にしかならないからだ。
人の話がある、というだけでいい、この世界には人の話があるのだ。
僕は昔、先輩の話を聴くのが好きで、いつも楽しみにしていたけどな。

人の話に、何かを探そうとするから卑しくなるのだ。
人の話は、人の話だ、ワールドカップの最終戦、最後のホイッスルが鳴ったときは何か無上の感動があったけれど、そのことに何かを探すというのは馬鹿げている。
人間関係に頼るなよ、何を見失って、高慢に、かつ弱くなったのか、一人で歩いている少年に笑われるぞ。
もっとおれに間違わせておくれよ、おれに誤解を続けさせてくれ、これまでおれに誤解を諭してくれた人は、そのたびなぜか急落して憂鬱な顔になったもんさ。

おれは「間違っている人」じゃない/間違っていることは認めるが、おれはあなたが言うような「人」じゃない。

おれは「人」なんて、立派な格付けの中にはいないのさ、間違いだらけの、何かのやつだよ、夜や夕焼けや赤紫色に吸い寄せられていく何かであって、間違いのすべてがおれの養分なんだ、もっと迷路でおれを閉ざしてくれ。
おれがときどき、常識人のふりをしたり、知恵のある大人のふりをしたりするのは、おれの女や友人が、行方不明になってしまいそうなとき、しょうがなく緊急出動しているだけさ、多くの人は間違うと迷うのだろう? おれは違う、おれは間違ったままゴールしてみせる。
バカをやろうかあ | comments(0) |
WS報告004(5)

ークショップの報告ばかりになってつまんねーな……まあ今だけのことなのでお許し願いたい、申し訳ない。
ひとつだけ、業務連絡みたいにもなるが、「マスター状態」についてメモ書きしておきたい/本ワークショップでは「マスター状態」を重視しております。
「マスター状態」なしに、チームワークとかリーダーシップとか、みんなでどうこうとかは、「どうせ伝わらんから疲れるだけや」と身も蓋もなく言うのが本ワークショップの理念であり、一方「マスター状態」なら、何の文句もストレスもなしに「命令」がスイスイ通るし、それで全員がすげーラクだし、しかも「何か世界があるわー」ってなるやん、ということを実演・実体験するのが本ワークショップの実体だ。
マスターというのは、中央にどっしり立つ帆柱(マスト)に引っかけて、その原理を理解するのがよいのだが、逆にこの「マスター状態」が、「決して成り立たない」というケースについて指摘しておきたい、受講生はクソほどこのことを把握しておくように。

マスター状態が「決して成り立たない」という状態、それは「」だ。
「輪」とはどういう状態かというと、「中心に何もない」という状態だ、この状態になる人がとっっっても多い。
マスター状態というのは違うのだ、自分が「マスター」としてそこに立つとき、中心は自分だ/誤解するな、マスターとプレイヤーが向き合って、マスターとプレイヤーの中点に中心があるのじゃないぞ。
マスターが「中心」であって、マスターの前方にはプレイヤー、マスターの後方には「客」(対外)があるということだ、プレイヤーと客が「輪」になるのであって、マスターは「輪」の一員じゃないよ/この「輪」に入りたがる人・「輪」から出たがらない人は、マスターとして機能することはできない、これは「原理」なのでよーく把握しておくように。

オーケストラのコンサートがあったとき、「演奏もしていなければ、音楽を聴いてもいない奴」が一人だけいる。

オーケストラのメンバーは、全員プレイヤーだから、全員「演奏」をしている、一方で客席のほうは、全員オーディエンスだから、全員「音楽を聴いて」いる、その中で、真ん中の指揮者だけ、何の音も出していないし、何の音楽も聴いていない、じゃあコイツは何をしているのかというと、the echo を受けている、コイツ一人だけコンサートホールの中でまったく別のことをしているのだ。
このことを徹底的に把握しておくこと、たとえばオーケストラの指揮者は、音楽を聴いていたら<<絶対に間に合わない>>よ、だって指揮者が振り出す前に演奏は無いんだから、音楽を聴いてから指揮棒を振り始めたのでは間に合うわけがない、指揮棒から演奏が「始まる」のであって、指揮棒は常に演奏の「以前」にしか存在しない/多数の人々の「輪」があったとして、マスターはその輪の一員では決してない、背後のオーディエンスと目前のプレイヤーが輪になって「コンサート」が成立するのだろうが、指揮者は時間軸上「コンサート」より先行した時点に立ち続けている、「マスター」は人々の輪の「出来事」から離脱しており、逆に「コンサートに参加したことがない」のが指揮者だ。

そのほか | comments(0) |
WS報告004(4)
スト(帆柱)が低性能だと、船は進まない。
セイル(帆)が低性能だと、やはり船は進まない。
マストがぐにゃぐにゃだわ、傾いているわ、甲板につながっていないわ、セイルは畳まれたままだわ、スカスカだわというのでは、船は進みっこない。
ちゃんとしたマストが立っていて、ちゃんと帆が貼っている船のことを、「マスター」という、これはただの、船に関する用語の話。

もし船がマスター状態になっていなければ、それぞれが人力で船を漕ぐしかないが、それで大西洋を渡りきれというのはえぐい話である、全員腕がムッキムキになってしまうぜ。
マスター状態において、マストはまっすぐ、偏りなく立ち、しっかりと一本になって、船の中央につながっていなくてはならない/そこでマストそのものは、「何もしていない」のだが、このマストはセイルに受けた力を船の全体に伝える役割を果たしている、船員たちはこのマストに「運ばれていく」のだ。
もちろん、人間はムササビではないので、風そのものを受けて進むものではない、だがこの世界にはどうも、the echo と呼ぶべき何かがひしめいている、それは一種の「言葉」ないしは「言葉の素(もと)」なのだが、説明はしにくいし、実用的にも the echo と呼ぶしかない。
桑田佳祐の歌に、「いつか何処かで (i feel the echo)」というのがあったけれど、それはつまりそういうことなのだ、人は気魄で触れてつながり、かつ「何もしない」なら、the echo を受けて進んでいくのだ、何もむつかしいことはなくて、ただ思いがけないことが「マジだった」というだけだ。

横隔膜には、この世界の「マスター原盤」が入る。

それは記憶ではなくて、原盤のレコードなのだ/全身をレコードプレイヤーに見立てたとき、レコードプレイヤーがガタついていてはいけない(ポンコツかよ)、レコードプレイヤーはハイエンド機であってガタつかず、その中で原盤レコードだけがスーッと回り始めるといいのだ、それだけで人を何かの世界に連れて行くことができる。
頭の中には、いろんな理解(格・分割)と記憶が入るのだが、それはつまり、「解説! 尾崎豊のすべて」というような冊子が本棚に入るというだけであり、尾崎豊の原盤レコードが頭に入るわけではない、まあ目の前でやられたら一発でわかるので、気になる人はどうぞいらっしゃいませであり、説明はメンドクサ〜イのだった。
そのほか | comments(0) |
WS報告004(3)/マストに帆が張られエコーに出会う

19時から始まったWSは午前4時に「まとめ」に入り、その後向かいのデニーズに行く、そこでおれは大量にメシを食いながら、食後にはコーヒーを飲んで引き続き学門を考究する、メンバーは半分ぐらいついてくる、これがいつものパターンだ。
今回は革新的な発見があって、基礎の理論とワークの品質が大幅に向上したので、そのことを記録しておきたい、時刻は午前9時を過ぎていた(マジメにやっているわけではない、マジメが始まったらこの世のオワリだ)。
マストに帆が張られエコーに出会う/「余韻法」と呼んでいた「余韻」というのは、the echo のことだと再定義すればすべての話がひとつにつながる、エコーというのはギリシャ神話に出てくる妖精の名を成り立ちにするのでもある、妖精エコーは半獣神パーンを置き去りにする(ググれ)。
全身をひとつなぎに"戻す"、なぜ"戻す"かというと、神話において妖精エコーは身体の節を「八つ裂き」にされてバラバラになったからだ、この節は音楽の節とも同義の語が当てられる、ひとつなぎに戻して何にするかというと、船のマスト(帆柱)となる、マストになって何をするかというと、帆(sail)にエコーを受けるのだ、この帆船はthe echoの力によって動く、この帆船は自力の動力によって動いてはいない。

今回の大発見、それはエコーを受ける帆(sail)が、つまり横隔膜だということだ、横隔膜はエコーについて、スピーカーであると同時にマイクでもある(そもそもマイクとスピーカーはまったく同じ構造のものだ)、そしてこの横隔膜というやつは、受けたエコーをそのまま「保存」するというレコードでもあるのだ。
何度も話すように、ノンフィクションとしての「気」「気魄」というものがある、この機能の中心(センター)は、どうやら胸の中央、胸郭の中央であるらしい(およそ両乳首の中点)、ここに全身がつながると、確かに「気」と呼ばれる現象が明らかに起こってくる。
この胸郭中央からの「気魄」で何をするかというと、「触れる」「つながる」、そして「何もしない」なのだ、何かをしてしまうと、ただ接触とつながりが切れてしまって、相手の気とぶつかってしまうだけになる/この、「触れるだけ、何もしない」、かつ「動く」というのが大問題だった、それはこれまで「気魄は触れるだけで、霊魂が抜け出して動く」と説明していたのだが(魂魄分離論)……
今回は、はっきりしたことがわかった、魂魄分離というのはつまり、胸の中央(心臓)から「つなぐだけ」「触れるだけ」とし、その状態を保ったまま、機能の中心(センター)を、数センチ下の横隔膜(の上面)に落とすことなのだ、そのとき「わたし」「あなた」だった関係は、突然ガス化してすべて世界とひとつながりになる(ガスは分離できない、これは「魂」の字義に整合する)、このとき「肉体」はふれあったまま相互に「何もせず」、しかし世界とひとつながりになって唯々「世界」を見る、つまりすべてが in the echo の状態になるのだ/この世界はからっぽではない、the echo がひしめいている。

action機能の完全統御と、echo機能の完全統御、ただそれだけだ。

ひょっとすると、東洋人は文化圏として「気」「気魄」に元々素養があり、西洋人は文化圏として the echo(魂・霊魂) に元々の素養があるのかもしれない、東洋の言語発声より西洋の言語発声のほうが明らかに横隔膜的に響くのは今さらながら見逃せないところだ、そして西洋にはけっきょく「気」そのものに該当する語はない(一方で、「九折さんのレクチャーは英語で言われないと入ってこない」と言われたこともこれまで複数ある)。
まあ何にせよ、発見されればシンプルなことに、アクションセンター心臓と、エコーセンター横隔膜の、正式な分離と統御が出来たらそれでいいということなのだった、そして本ワークショップの目的は、「言語がアクションセンターに入るとバグ状態になる」=「呪いになる」という、アホな状況をいいかげんやめようということなのだった、言語はエコーセンターに入ると「言葉」になり「世界」になる、どう見てもこちらがまともだろう、バグ状態も一種のパワーを持つには違いないが、バグっていることを前提に生きるのなんかどう考えてもムチャクチャに決まっているだろう。

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WS報告004(2)

ういえば、この話はぜひ聞け、おれはワークショップの始まるちょっと前、準備運動がわりに、棒きれを振り回して剣術の型稽古のようなことをしていたのだが、それを通りすがりに見ていられた老夫婦の方が、二人そろって「かっこいい」「かっこいい」と言って笑ってくださった。
「居合いですか」「あ、いや、居合いというのとちょっと違いますが」「いやあ、かっこいいです」と、わかるかお前ら、おれはかっこいいのである、だって実際見とれていたもんね、もちろんおれがやるからには剣道のようなアレとは違うのだ、もっと何かスゲー気配のやつだ。
まあ、あれぐらいご年配で、位の高い方々におかれては、物事の真贋というか、美醜というか、そういうものがわかるわけだな!! 目が利いていらっしゃるよ!! こういうときこそいろいろガンバってきてよかったとこころの底から確信するね。
わかるかお前ら、おれはかっこいいのである、何しろ老練のこころあるご夫婦の審美眼にかなったのだから間違いない、丸棒の木材を振り回していたのに、それが「剣」に見えたのは間違いないのだ、うーんもっとすげえワザを見せてさしあげてもよかったな!!

この報告記事は、つまり、おれがかっこいいということのみを報告している、お前らは深く納得しておれにラブレターを贈るように(女性限定)。
まあしかし、割と冗談でなく、集中した姿というのは、「ガンバっている」ではなく「かっこいい」に見えないといけない、しかも価値観としてかっこいいのではなく、実物そのものが「かっこいい」でないとダメだ。
繰り返して自慢すると、おれはスケートボードに乗っていたわけではないし、ヒップホップやラッパーな格好をしていたのでもなく、デニムを穿いたTシャツ姿で、丸棒の木材を振っていただけだ、しかしそれでかっこいいわけだから、これはもうかっこいいのだろう、こんなカネのかからない「かっこいい」はなかなかないぞ。
おれがそうして「かっこいい」と見とれられているとき、ちゃんと一人の参加者がその場面を見ていたから、これはおれのウソではないのだ、というわけでこの記事はとにかくおれの自慢である、お前らはハンカチを噛んでくやしがるように。

人を感動させたら、おれの勝利だ。

問答無用、それだけがおれの勝利で、それ以外は全部敗北だ、その他の価値観についてはおれは知らねー、おれは自分が評価されたいのじゃない、おれへの評価なんかどうでもいいが、おれはこの世界で感動を直接現成する確実な一人でありたい。
おれは、おれがかっこいいのがうれしいのじゃない、通りすがりの老夫婦に、かっこいいという感動をマジで与えられたのがうれしいだけだ、まあかっこわるいものが感動を与えることはありえないから、おれはこれからも永遠にかっこよくないとな!!

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WS報告004(1)
夜のワークショップは偉大な成果をあげた。
偉大な成果というと言い過ぎか、偉大な体験に到達はした、まあおれにとっちゃ毎日アタリマエの体験だがな、とにかく本ワークショップの目標到達点にみんな触れることはできた(触れただけだ、見せたのはおれだ)。
誰が到達できるねんこれ、というツッコミはごもっともだが、ひとまずそれに触れられたというだけでもスゲーことだ、正直期待してなかったんだが←、思ったよりみんな食らいついてきやがった。
「世界って本当にあるんだ」とか「世界って奥が深いっすね」というあたりの、ベタな感想は、ベタだが率直なところだと思う、そしてこれらのすべては、けっきょくラブな励ましのおかげなのだ、うーんやっぱりラブがいいよね、それも純愛だけじゃないラブがサイコーだぜ。

困ったことに、いやこれは本当に困ったことに、どうやらこのワークショップのやり方は正しいらしい、マジに正しいらしいので半ばゾッとしている。
なぜゾッとするかというと、正しいということは、もう引っ込みがつかないからだ、行くところまで行かねばならない、そういうパターンはいつもいやあああああなのだった(ちなみに帰宅したらこのとおり朝の七時半で、今夜もどうせ朝までワークショップなのだ、アホちゃうかこれ)。
あとは何だ、「本当に、一ミリもふわっふわされないんですね、本当に徹底してサイエンスなんですね」というあたりが、僕としては気分のいい話だ、そのとおり、おれはわけのわからんことはしたくない、マジのことアンド当たり前のことだけがやりたい。
何があったのか、もう話す気にもなれないが、一晩で到達できる最高点としては上々じゃないか、どうせ寝て起きたらまた忘れてやがるんだろうが、まあいいよ、本当にいい夜があった、おれの伝えたいことを伝えることはできた(誰も掴めてはいないもよう、そんな簡単に掴めてたまるか)。

「余韻」の先にはマジのやつがある。

理論、セオリーは、どうやらバッチリ正しいらしい、原則を精密にやればやるほど、やはりクリアな事象が出てくる、「言葉が世界」だとかうんたらかんたら、それがマジなのだから不思議なもんだ。
理論、セオリーというのはあれだ、気魄は「触れるだけ、何もしない」ということ、そして霊魂は「世界に連れて行く」という話だ、「やっぱソウルですよソウル」という話が、けっきょく一番有効で信憑性がある、だってソウルがないと感動しねえもんという、割と当たり前のことではあるのだった。
 
そのほか | comments(0) |
80000 vs 0

日、「余談」と題して、珍しくニュースネタを元に、かつての震災ボランティア体験について書いたのだけれども……
ニュースの元になったのは、東日本大震災を体験された方のツイートらしく、つまり「千羽鶴を折って寄こされても邪魔で困るから、そのぶんのお金を送ってほしい、千羽鶴は作る側の自己満足でしかありません」という発言がバズったのだ、もちろん賛否両論あったらしい。
ここで、今さら言うまでもないかもしれないけれども、僕としての焦点は、千羽鶴がどうこうではなく、当該のツイートか八万以上もリツイートされているのに、僕の実体験の「余談」はゼロ・リツイートだということだ、おかしいじゃないか、避難所に千羽鶴を届けるという現場にいた当事者の実体験だぞ☆?
久しぶりに、mixiにもニュースに関連して当該の日記を書いたのに、まったく拡散されないのだ、なんだこれは、まるでおれの文章が無意味でヘタクソみたいな扱いじゃないか、もう一度言うがリツイート・ゼロだぜ? おれが震災の現場で体験した生々しい愛と感動のドラマツルギーがなぜリツイート・ゼロなんだ〜。

で、今さらもう婉曲にもしないが、千羽鶴がどうこうというのは、送る側もどうかしているし、それを「自己満足で迷惑」と着火する側もどうかしている、それに便乗して議論する奴もどうかしている、と僕は思っている、彼らは呪われているのだ、呪われているから「言葉と世界」でなく「燃えさかる業火」のほうに身を投げ込んでいる。
いいか、もう一度、冷静によーーーく考えろよ、僕が書き話した「余談」の一幕と、「千羽鶴は自己満迷惑だからカネで証せ」の議論と、あなたが仮に飛び込むとしたら、どちらの世界に飛び込みたいよ、僕にとって一ヶ月超の震災神戸のボランティアは思い出だが、千羽鶴議論は何の思い出にもならんじゃないか。
このことについて僕が誰かにブーブー言うと、<<必ず>>、ひとつの誠実な返答が返ってくる、それは、<<堪(た)えられないんですよ>>ということだ、まあ歯に衣着せず言うと、呪われてしまった人にとっては、<<「言葉」と「世界」があることのほうが堪えられない>>そうだ、これはもうバッッッチリ呪いがキマっているということの証左だ。
災害が起こったら、ソッコーで千羽鶴を作って送るという人に対しては、やはりその独りよがりに対して、「それで、てめー満足かい?」という問いかけが発生するが、それとまったく同質に、「千羽鶴なんて自己満足で迷惑です!」と火をつける人に対しても、「それで、てめー満足かい?」という問いかけが発生する、もっとラブと思い出の世界に直接生きるほうがいいんじゃねーのか/僕は堂々と答えるが、十八歳のときに震災の神戸でいろいろあったよ、きっとあのときの世界を永遠に思い出せるだろう、そのことについてはおれは満足だよ。

千羽鶴をぶちかますのが自己満といえば、千言万語のツイート議論をぶちかますのも自己満じゃないか。

こんなミエミエのことに、なぜ容易に引っかかれるのだ……ほれラブレターを贈るとか、手編みのウンタラとか、手作りのウンタラを贈るというのはどうする、ぜんぶ千羽鶴と同じじゃねーか、先方は「邪魔だな」「自己満だな」と思うかもしれない、そりゃ年賀状だってクリスマスカードだって贈る側の自己満で邪魔かもしれないじゃないか、そんな自己満を贈るより商品券を贈ったほうがいいのか〜さあどうする〜。
こんなもん、千羽鶴を肯定しても死亡確定だし、千羽鶴を否定しても死亡確定なのだ、だってそこに何の「世界」もないのだもの/タイムマシンに乗って、1995年の神戸に来るかい? 千羽鶴を大量に受け取って、「これはこれで困るわなぁ」という人もあったよ、でもあたたかく笑っていらっしゃったよ、もうこれ以上の不毛な呪詛ごっこはやめにしないか、けっこうな数の人が物事のシャレをわからなくなっている様子がある。

恋女のマインドね | comments(0) |
アクションと余韻/呪と言葉

うせやるからには、クリアに徹底的にやる。
部活動じゃなくて、学門のことなので、「このキモチ、それも一興かァ〜☆」というわけにはいかない、違うことをやったら違うことになってしまう。
古くからある言葉を担保にとり、「魂魄」を分離して考える/魄・気魄は「アクション」の中にあり、魂・霊魂は「余韻」の中にある、これは実演で確かめられる。
僕の方針は、唯一、言語を余韻の側へ帰し、言語を呪でなく「言葉」に戻すことだ、このことの実現のために、「アクションと余韻」の実技に熟達する必要がある。

アクションの側、魄・気魄の側は、ある一点に向けて訓練する必要がある、それは「触れる」かつ「何もしない」だ。
魄・気魄が「何かしてしまう」と、もう余韻の側へ入り込むことはできなくなる/また、魄・気魄が「何かしてしまう」と、相手も「何かしてしまう」ので、これは揃ってアクション界(ノンフィクション界)に囚われてしまう。
では、魄・気魄が相手に「触れる」、かつ、「何もしない」にはどうしたらよいかというと、<<偏りをなくす>>しかない、偏りがゼロになれば自動的に「何もしない」が実現する。
原理はこれだけだが、人によっては、この原理を追求する以前に、この原理を「憎悪」する人もある、この人は能力の問題でなく、呪を信奉し、呪を愛しているので、この人の追求は自動的に逆に向かうようになっている/このことを見分けるのには、a.言葉原理に向かう人の訓練は格調が下がっていくのに対し、b.呪原理に向かう人の訓練は格調が上がっていく、という性質がある、これは「格」そのものが呪で生成されるものだからだ。

現代は、「偏りで言語が止まらない」という状態を、正義とみなしている。

思想的に、右と左が、それぞれの偏りから正義を呪いあうのは常時の光景だし、つい先日も、被災地に千羽鶴を送るなとか否定するなとか、それぞれの偏りから正義が呪われた/僕の志向は、偏っている人たちに興味はないが、ただそこに「言葉」は原理上生成されないということだ、僕は思想の追求ではなく「言葉」の現成を探求しているにすぎない。
よって僕は、ご存じのとおり、僕に味方してくれる人に対して冷淡だし、僕にアンチ(敵対)する人に対しても冷淡だ、それは僕の思想によってではなく、この場合「言葉」の現成を探求する学門からは外道に当たるからだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
魂魄は水質と水路

イプに水を流す/このとき、パイプと水が別物だというのは誰でもわかる。
そして、パイプが繋がっていなければ、水は流れてこない、これも誰だってわかる。
あなたは、風呂でシャワーを使うが、シャワーの水量はチョロチョロがいいか、ザーザーがいいか、これだってザーザーのほうがいいと誰でもわかる。
魂魄のうち、魄・気魄というのは、単にこのパイプ具合と水量のことだ、あなたがシャワーのバルブをひねったとき、水が出なければ「なんだこいつ」と思うように、魄のパイプが繋がっていない人は、どうひねっても何も出てこない(しかも何か圧力で破裂しそう)ので、「なんだこいつ」と見えるのだ、そう見えるというよりは実際に「なんだこいつ」なのだった。

もう一つ、見落としがちなのは、このパイプに流れる水の、「水質」についてだ。
何の混入物もない、水道水なら、それは必要なものだし、汚染されていないだけマシだが、贅沢を言うなら水質は霊泉のごとくであってほしい。
深い原生林に雨が滴り、ミネラルの地層を潜り抜けて、磨かれた上に滋養と霊験と浄化のある水となるような、他では手に入らない水であってほしい。
魂魄のうち、魂・霊魂というのは、この水質のことを言うのだ、実際には肉に宿った「思い出」が、湧き水となってパイプに滲み出るという感じなので、ごまかしは利かない、神聖な思い出だけがそういう霊泉を為すので、これは気合いや想いではどうにもできないのだった。

「膨大な水量と、深遠の水質」がありますように。

魂魄というのは、ただそれだけのことだ、誰だってシャワーの出が悪いとガッカリするし、その水質が無粋のカルキまみれだと、いまいちよろこびはしないのだった。
こんなこと、普通は突っ込んで考えはしないのだけれど、突っ込んで考えたい人は、単純な話、パイプ接続の「点検」と水源の「調査」を依頼すれば(若しくは自分ですれば)いいわけだ、ただしそこから先は本当に身もふたもない話になる/パイプが繋がっていない奴は、ただ繋がっていないのだし、上位水源のない奴は、ただ上位水源がないのだった、これは身もふたもなく差別的な話になってしまう、ただおそらく、この調査結果に目を背けるのなら、無理に「開発」を考えるべきでもない、調査せずに開発に突っ込むというのはどう見てもむちゃくちゃだからだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
深い夢の中で
い夢の中で手探りしている。
食事とは、食べる事だ。
刑事とは、刑する事だ!
死神は、血管を狙ってやってくる、「今のうちなんですよ」と、カウントダウンが殺し文句、黒く茶色い動脈の血を狙って。

われわれは、血と僻みを持っている。
でもそれは、「生命」だからではないか?
われわれは、誰かの息子とか、誰かの娘ではなく、この世界の「生命」ではないのか?
血と僻みを、「わたし」が持っているわけじゃない、生命が持っている/この生命の血と僻みを、強引に「わたし」と括り付けること、それが息子と娘の呪いだ。

われわれは子孫ではなく生命だ。

「わたし」は今、生命と共存している、なぜ「生命」になったのか、そのことを直視するために。
生命と「わたし」を混同したとき、生命は食べる事から離れ、刑することばかり求めるようになる。
正しく見ないとな | comments(0) |
(余談)

珍しくニュースネタから。無聊のなぐさめにどうぞ。

◆「被災地に千羽鶴はやめるべき」議論が西日本豪雨で再燃 熊本地震で現場はどうだったか、熊本市に聞く


 

 

 

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恋女のマインドね | comments(0) |
裸も着こなしのひとつ

いレディに向けて……若いレディなら誰でもご存じのとおり、それぞれの服装には着こなしというものがある、ポップな服にはポップな着こなし、ロックにはロック、エレガンスにはエレガンス、フォーマルにはフォーマル、キッチュにはキッチュ、甘々には甘々、フォークロアにはフォークロアの着こなしというものがある。
それでいうと、裸にも裸の着こなしがあるといえば、若いレディにとって、一つの道筋になるかもしれない/裸になったからといって、あなたは急にAV女優さんになるわけではない、何も着ていないというのも服装のひとつだ、われわれは文化をもつ大人なので、われわれの全裸は赤子の全裸と同質ではない
実際、ロンドンのファッション・ショーで、帽子と靴とバッグの他は「全裸」という、コレクションの展開もあったのだ、それじゃあオメエ、売るブランドが無ぇだろうよとは思うが、裸は服装のひとつには違いないし、そもそも「服装」はすでに「裸を隠すためのもの」ではとっくにない(裸を隠すだけなら国民服だけでいい)。
一方で、実はセックスの場面でも、全裸になるのは「ふしだら」「はしたない」という理由で、着衣のままセックスするのがマナーだった時代や地域もあるのだ、とかくわれわれは全裸になると何かが「なげやり」になりすぎる、そのことはあなた自身をラクにはしないしあなたに利益ももたらさないのだ。

僕は、若い女性が、服を「脱ぐ」というのが、どうも好きでない/またそれに合わせて、男性が目の色を変えるのも好きでない、何かどうもアホっぽいことが始まってしまう気配がある。
服を「脱ぐ」というのは、服を洗濯籠に放り込むときの動作を言うのであって、そうでない場合は、服から肌を脱(ぬ)くのだ、鞘から刀を抜くように、脱かれる肌の側が主役であって脱がれる服の側が主役ではない/「服を脱ぐ」では脱衣という行為が主役になってしまう。
たとえば、肘まであるロング手袋を、あなたが嵌めていたとして、その手袋を外すということは、ヨッコラセと手袋を脱ぐということではなく、前腕と手指が脱き出されるということだ、そうでないとなんとなくカッコ悪いじゃないか/ヨッコラセと「脱がせる」のではまるで介護みたいになる。
おそらく、「全裸」というと何かはしたないことばかり空想・連想しているので、それに合わせて、全裸に何かはしたない空気が貼り付くようになってしまうのだ、そういうのが好きという人もいるかもしれないが、あなたがそういうのが好きでないなら、考え方を変えて、そこから体質と肌質を変えていくのがいい、お刺身が料理のひとつであるように、全裸というのも服装のひとつだ。

全裸を着こなせないと、いわゆる性癖が歪んでしまう。

その意味では、いわゆる「性癖」が好きな人、それもドギツイ「性癖」が好きな人もいるので、そこは趣味の問題かもしれないが、けっきょく健全なことではない/どういうことかわかるだろうか、つまり「全裸」が逆に、一種のコスプレになってしまっているということだ、たしかにコスプレは「服装」ではないな。
若いレディなら、誰でもご存じのとおり、「服装」とは本体あってのもので、誰でも同じ服を着れば同じ服装になってくれるわけではない、着衣は1枚から服装でなく、着衣は0枚から服装だ/われわれは身体を着ているのだから、まずはこれを着こなすのが第一だ、もし裸が「服を着ていないワイセツ状態」だというならば、一人の画家も裸婦像を描かなかっただろう。

えっちはいいよな | comments(0) |
「できない」というすばらしいこと2(理法が違う)

しいことを教えられたとき、「で、できね〜」と反応する人はすばらしい。
なぜなら、「理法が違う」ということに気づいているからだ。
「理法が違う」「自分のやっていることと違う」「やり方がそもそも違う」ということに気づいているから、「で、できね〜」となる。
この、「理法が違う」ということに気づいていない人は、「できね〜」ではなく「むつかしいですね」という反応になる、こちらは新しい理法への切り替えが起こらないので、そのままでは何もできるようにはならない(だから損だ)。

たとえば、ゴミ箱にゴミを投げ入れるとき、ゴミ箱が近ければ「かんたん」で、ゴミ箱が遠ければ「むつかしい」だ、これはただの難易度の問題だ。
単に、ゴミを投げ入れるだけなので、「かんたん」でも「むつかしい」でも、理法は同じだ、これまでどおり、「狙って投げる」だけでいいし、それ以外に方法はない。
だが、これまで人に「意識」を向けていたものを、急に「意識を向けず、胴体に流れているものを向けて、相手とつなぐ」なんて言われた日にゃ、それはもうまるっきり理法が違う/ここで、この「新しいこと」に飛び込んで、「で、できね〜」となるのはまったく正しい反応だ。
ここで、まるっきり別の理法が示されているということに気づかず、どことなく楽しそうに、「がんばります」「むつかしいですね」と反応している人は、これまでの自前の理法のままを続けてしまうので、転換が起こらない/それどころか、これまでの自前の理法をけっきょく強化することになり、見当違いのパワーアップをしてしまう、これは合目的的に見て損だ。

「わたしを認めないでください」が最短の入口だ。

僕自身、思えばそのことを第一に繰り返してきたわけだ、「おれが面白くないのに愛想笑いをしないでくれ」「おれのやっていることが視えなければお追従(ついしょう)しないでくれ」「はいはい、それでいい、もっとプレッシャーをかけてください」と/それらのお追従を剥ぎ取ったとき、真実何が届いているのか、それとも何も届いていないのか、そこをさっさと暴き立てないでは時間がムダになってしょうがない、僕はいつも「絶対に視えるようにやるので、視えるまで勝手に動かないでください」と言い立ててきた。
こちらが愛想良くし、人好きする意識を向ければ、向こうも空気を読んでそれに付き合ってくれる、それもひとつの理法ではある、だけど僕がわざわざ教えようとする理法はそれとは異なる、別にどちらの理法が正しいというわけではないが、僕がお追従の理法を「できねー」のと同じで、お追従の側は僕の理法を第一に「できねー」はずだ。

できるオンナだね | comments(0) |
「できない」というすばらしいこと
ークショップの途中、「で、できね〜」「コンタクトできね〜」という人がいた/これはとてもすばらしいことだと思う。
なぜなら、率直に言ってアホちんは、そういうときに「むつかしいですね」と言うからだ。
この、「むつかしいですね」は、たいへんに鬼門であって、これが出てくる人は、基本的に万事が何一つ進まない。
この人にとっては、戦闘機の操縦も「むつかしいですね」だし、エベレスト登頂も「むつかしいですね」、トリプルアクセルも「むつかしいですね」、ダークソウルRTAで一時間を切るのも「むつかしいですね」、般若心経も「むつかしいですね」、ムーンウォークも「むつかしいですね」、ハーバードに入るのも「むつかしいですね」、三船十段の空気投げも「むつかしいですね」だからだ、それで本人の実力はというと、初代スーパーマリオもクリアできないのだが、そうしてすべてが「むつかしいですね、うふふっ」で過ぎてしまうのだ。

こういう「無敵マン」の人はけっこうな割合で存在していて、何が無敵かというと、この人はどんなことでも「誰かが教えてくれれば」、すべて超一流で出来るという前提でいるのだ、これは誇張でも何でもなく、いわゆる幼児的万能感というやつだ。
だからこの人は、たとえば目の前に超一流の板前がいて、その彼がとんでもない味覚の繊細さと、人間離れした静寂の包丁さばきを持っていたとしても、「自分も同じだけ習えば同じようになれる」と思って眺めているのだ、だから「すごい!!」と感嘆しない、ただ本人に包丁を握らせると、リンゴの皮むきにさえモタモタするので、「むつかしいですね、うふふっ」という感じになる/そして、誰もわざわざ習うようなことではないはずのリンゴの皮むきでも、「皮むきの仕方を教えてください」と他人任せモードに移項するのだ、そのとき、やはり根底で「ちゃんと教わればわたしはぜったいにできます!」という怒りのような確信がある。
たとえば、車の運転がヘタな人は、もし運転を上手になろうとするならば、何かを根本的に「変える」必要があるはずだが、無敵マンの人は大前提として自分を何か「完璧」と思っているので、自分の何かを「変える」という発想がない、<<ちゃんと教わればできるはずだ>>と思い込んでいるので、自分を変えることはまったくないまま、やり方を教えてくれる人に丸投げする態度になる、それこそが無敵マンの人にとっては「誠実で一所懸命、努力」という感覚なのだ、これはもうマジの話なので責め立てる気にもなれない。
大変まずい話、「むつかしいですね」が口から出てくる人は、「できる」「できない」でいうと、すでに「できる」側の感覚でいるのだ、だからできないことへのアプローチは構造上一切の不可能になる、まあ幼児的万能感の保持のほうが優先なら致し方ないのだが、合理的に考えると「で、できね〜」のほうが利益的だとおすすめしたい。

「で、できね〜」と言っている人のみ、「何が違うのか?」を見つめる眼差しを持っている。

「むつかしいですね、うふふっ」のパターンの人は、あとは努力すればできるので(と本人は思っているので)、「何が違うのか」を見つめて探す眼差しがないのだ、そりゃそんなもの必要ないのだから、そんな眼差しは出てこないに決まっている、だからこのタイプの人の努力は必ず盲目的になる、盲目的になるので、「やっていることが違う」ということに何十年経っても気づかないままなのだ。
たとえば僕の場合、速い球を投げる人や、サッカーボールを蹴って遠くまで飛ばす人が、どうやっているのか「うぬむむぐ、さっぱりわからん!!」のだ、そして自分でやってみると、「んぬくえおおおあ、さっぱりできん!!」のだ、なーにが違うんだろうなと思って、よくyoutubeを見るのだが、どれだけ解説されても、「わからん!」「できん!」のだった、それでいいのだ、「むつかしいですね」とはまったく思わない、自分ができねーのにむつかしいもヘッタクレもないわ。
できるオンナだね | comments(0) |
手を使うこと、「その手があったか」

そらく、どんなジャンルでもいいから、まっとうなことに、「複雑に手を使う」という作業が、暮らしの中であったほうがいい。
ピアノを弾くことや、タイピングすることでもいい、あるいは編み物であったり、料理や洗い物でもいいかもしれない、「力を使うのではなく、手の複雑な形を使うこと」だ。
どうも、僕の経験上、たとえばバットを振り回したりダンベルを持ち上げたり、腕立て伏せをしたり、重量物を運んだりするだけで、手の複雑作業というと「うーん、スマホのフリック入力ぐらいかなあ」という人は、何かの「相」が悪い気がする、根拠はないので、ただの与太話だが。
僕の経験上、ルール脳の人、あるいは、何かに「触れる」という能力がバカになっている人は、長い間、「手」の複雑な形を使っていない、という印象があるのだ/手先が器用かどうかの問題ではなく、手の「形」が限定されていることに、何か悪い相を感じてならない。

仏像を見ると、その手は投げ出されてはおらず、たいてい何かしらの「印」を結んでいる、その印が何を意味するのかはまったくわからないけれども、とにかく仏像の「手の形」はかなり幽玄に複雑な形をとっているのがわかる。
あくまで仮説というか、与太話だが、どうも僕の直観上、われわれはなるべく単純作業でない複雑な「手作業」「手でものに触れること」で、知らぬまに手がいくつもの「印」を結んでおり、その中で啓かれていく何かがあるんじゃないのかという気がする、もちろんひとつひとつの印なんてわれわれにはわかりっこないので、「たくさん複雑に動かしている奴のほうが格段に有利」というだけでしかないけれども。
僕はいつも、古くから使われている言葉、漢字、熟語などを学門の手かがりとして重要視するが、それこそ「手がかり」というのも手という字を使うし、「手段」「一手」「手ほどき」「手抜き」「手こずる」「打つ手がない」「その手があったか」等、「手」に関わる熟語や慣用句は極端に多いのだ、どうもこのあたり、以前から、「何か、『手』というのは、思っているよりもヤバい器官なのか?」という気がしてならない。
僕には、人の手相を見るというような趣味はないが、手のひらのシワがどうこうというより、「手」そのものの印象として、手が「見えない」とか「くぐもっている」とか「固まっている」「こわばっている」「手そのものがない」とかの印象を受けることはよくある、そして「手」がトラブって見える人はたいてい、ロクな状態にないものだ、たぶん暮らしの中で、フリック入力しか手作業はしませんというのは見えざるレベルで「ヤバい」のだと思う。

あなたの「手」がこれまでに付き合ってきたものを思い出してみよう。

誰だって生活上、小銭に触れながら生きているはずだが、それは手品師がコインに「触れてきた」ということとは、内実が違うだろう、その意味ではあなたの手は何に触れてきたか/逆に考えれば、あなたの手垢が最もついているものは何だ。
僕はこれまでに、千匹以上の犬に触れてきただろうし、トカゲやらカエルやら、もちろん女性にも、そして十代のころは手品師だったし、ずっとゲームコントローラーを握っていたし、指揮棒に触れていた時期もあったし、手巻きタバコを15秒で巻くし、今も僕のデスクのシートは手を乗せる部分で剥げ、チェアの肘当ては両側とも穴が空き、キーボードの刻印は指で擦られて消えかかっているのだが、もし「手」そのものに学習と「印」を結ぶ能力があるのだとしたら、これまで「手」が触れてきた対象と経験の量は膨大な差を生み出すはずだ/ひょっとすると単純に、「手を使い込んできた奴には勝てっこない」という現象があるのかもしれない、だとしたら暮らしの中に手の作業がないのは損だ。

できるオンナだね | comments(0) |
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