☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
これからの「痴愚世界」2
を疑うほど "かわいい" 女の子が、まるで新種のように現代に出現している。
訊いてみると、彼女らは学歴が高かったりするし、裁縫や料理が得意だったり、家事全般をそつなくこなしたりする。
歌や楽器をやらせてみると「あれっ?」と思わせるぐらい上手だったりするし、何か絵やイラストか描かせてみるとやはりパッと見栄えがするほど上手だったりする。
その美貌だけでなく、能力や才能も平均と比較するとハイタレントということになるのだが、にもかかわらず、彼女らを覆いつくし、また内部から彼女らを粉砕し続けているのは、やはり「痴愚」の現象なのだ、彼女らも泣くことはあるしシリアスになることもあるのだが、何をどうやっても「大事なもの」を胸に抱えるということが起こらない、わけのわからない痴愚という現象が彼女らを内部からコナゴナに砕き続けている。

彼女らは、何一つウソをついてはいないのに、彼女らには「本当のこと」が何一つない。
彼女らは、いつも意欲的で熱心なのに、どうしても中枢は空っぽで冷淡なままだ、愛嬌があって分け隔てなくやさしい考え持っているのに、中枢にはやはり何の考えもない。
恋愛にも素直にこころ惹かれていて、ボランティアやチャリティにも当然以上のこころを寄せているのに、恋あいは必ず空っぽになり、助け合うということが互いに響くこともない。
中枢まで猛毒が染み渡ってしまい、中枢が破壊されているのだろう、彼女らはいつも余裕をもっているのに必死で、必死でやっているのに薄っぺらだ、目はまっすぐ向けられてピカピカなのに、まなざしはどこにも見当たらない、彼女らはいつも楽しいのに楽しくなったことはなく、いつも真剣なのに真剣になったことはない、人好きしているのに人を好きになったことはないし、最大まで充実しているのにわずかでも充実したことがない/これが「痴愚」だ、これは魂の問題から起こっていることだから、彼女らのこころがどう対抗してもそれがマシになることはない。

彼女らは、人に会うことを大事にしているが、これまでに大事な人に会ったことがない。

これから先やってくる「痴愚世界」は、こうして有能で魅力に満ち善意と美徳に優れた人々が、余裕を持ったまま必死で、それでも何も起こらない、どうやっても「人」が存在しないという世界だ、煩悩三毒という言い方が仏教方面にあるが、その三毒のうち最後のひとつがついにリリースされたという趣きで見れば、今起こっていること・この先に進んでいくことが理解されやすいかもしれない。
ここに挙げたのは、わかりやすく最先端の例、そして若い人の例だが、こんなもの今や老若男女誰であっても同じだ、多くの人がこの十年間、何をどうやってもそれが「大事なもの」にはならなかったということを事実として体験しているはずだ、それは単に世の中が変わったということではない、自分も含めて人々を「痴愚化」が覆うようになったということだ/痴愚というのは知能や知性の喪失を言うのではない、「大事なもの」という現象から切り離された存在を言うのだ。
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これからの「痴愚世界」
とえば街中でも Youtube ででも、びっくりするぐらい "かわいい" 女の子がいて、年齢は十八歳だったり二十歳だったりする。
おれも典型的なスケベ男として、第一には「おっ!」と思うのだが、最近はもう直後には或る種の違和感を覚えて「うーん……???」となる、このごろはもはやそれが違和感ではなくて別の確信になってきた。
すでにおれにとって知られたことを述べてしまえば、これらはまったく目を疑うほど "かわいい" し、魅力といえば信じられないぐらい魅力たっぷりなのだが、本当に起こっていることは何かというと、すでに「猛毒状態」なのだ、本人が猛毒状態になって周囲に猛毒をまき散らしているという状態がすでにあって、そのことが一般には気づかれにくい、ないしはまったくそのようには知られていないだけだ。
現代のアニメ文化・アイドル文化・オタク文化・マウント文化を吸収して育つと、それらの毒を吸収しきって、やはりこういうものが育つのだろう、おれは間違ってもそういう女の子たちを悪く言っているのではない、もはや悪く言うとかそういう次元はとっくに過ぎ去っていて、当人も最早どうしようもない、取り返しのつかないレベルで猛毒状態になっており、その中毒に現在も苦しんでいて、この先その毒がどのような蝕みをもたらしてくるものか、今のところ誰にもわからないということなのだ、おれはその未来の恐怖に向けてわずかでも拮抗阻害の成分を配布しようとしているにすぎない。

目を疑うほど "かわいい" 彼女らは、それだけ見ていると、いっそ猛毒の成分に取り込まれて、何も問題はない、むしろ一種の「天使かな」と見える、特に性的魅力に無防備に干渉を受ける若い人(男女どちらでも)にとってはその甘みの干渉は強烈だろう。
だが、もし仮に、たとえば「サタデーナイトフィーバー」のような映画を、その "かわいい" 彼女らに見せてみる、その映画と彼女らの "かわいい" を交互に見比べてみれば、「サタデーナイトフィーバー」と彼女らは<<まったく噛み合わない>>ということがわかる、そしてその途端、彼女らがまさに「痴愚」という巨大な症状の中に閉じ込められているのだということが浮き彫りになって視えてくる/何度でも言うが、これはおれが彼女らを悪く言いたいのではない、彼女らは何も知らないまま実際にそうなってしまったというだけだ、今さら手遅れかもしれないがおれは万が一にも対抗に有効かもしれないということをここに書き話しているだけだ。
目を疑うほど "かわいい" 彼女らは、おどけてたまに「汚い声」を出す、けれどもその汚い声は割とガチのマジに深刻なもので、抑えきれない毒性が内部に渦巻いているものが、すでに外側に吐き出されているという状態だ/おれは経験上、そうしたケタはずれに "かわいい" 女の子たちが、本人らもよくわからないまま内側で苦しんでいるということを知っているつもりだ、それがまだはっきりとした苦しみとは彼女らには認識されていないが、自分の痴愚症状が精神の髄まですでに入り込んでとてつもない恐怖と苦しみを覚えさせていることに、彼女らの魂は完全な無感覚ではない。
映画「サタデーナイトフィーバー」が、彼女らと<<まったく噛み合わない>>以上、これから先サタデーナイトフィーバーのような映画が作られることはもうないということだ、観るだけでもまったく噛み合わないものが創造されるわけがない、彼女らの口からはこの先も痴愚の毒しか吐き出されず、同様に男性たちもその双眸から痴愚の毒しか漏らさなくなるのだ、おれは誰かのことを取り立てて悪く言うつもりはない、おれが言っているのはただ症状がそこまで深刻化しているということだけで、さらには彼ら・彼女らが最前線で苦しんで内部的には悲鳴をあげているにせよ、これをどうにかしてやれる方法は今のところどこにもないということだ、彼らをまったく別の病棟に隔離すればおれの言っているのがどういうことか誰の目にも明らかになるだろう(むろんそんなことは実際にはされないしされる必要もない)。

素直な子供の時代に毒入りチーズケーキばかり食わされるとこうなる。

別の角度から言えば、「毒はよく効く」ということなのだ、そりゃ当たり前だろう、人類のすべてが知っているように、あらゆる状況でいっそ万能的に、毒というのは「よく効く」/もしおれと同程度に、人の魂と、身と血肉と、毒がどのように干渉しあってその人を形成しているか、まざまざと視えるようになったら、多くの人はとてもじゃないがその "かわいい" 女の子を直視していられなくなるだろう、本当に起こっているのはそれほどまでに陰惨なことなのだ。
それでも彼女らは、人の魂として、なんとかして何かしらの世界を視ようとするだろう、むしろ彼女らの魂はいつもそのことを必死で求めて活動している、けれどもダメなのだ、ただちに別の増幅された「力」がやってきて、彼女らの視認しようとする集中力やその視力を、完全にコナゴナに砕いてしまう、まるで賽の河原で小石を積む子供たちが、三つでもそれを積もうとしたらただちに鬼がそれを蹴飛ばして砕いてゼロにしてしまうように、彼女らの魂は増幅された「力」に暴虐を受け続けている/もちろん仮におれの書き話しているこれが彼女らの目に届いたにしても、彼女らは救われた心地にはならないだろうが、そんなことはもうどうでもいいのだ、彼女らはすでにおれに対する敵愾心や不快感さえ覚えられないだろう、すべてのことは増幅された「力」に砕かれてしまう、この蹂躙され続ける魂を見て「かわいい」と言ってよろこんでいる者は、本当にまったく何も視えていないのであり、それはすでにそのようにまったく何も視えなくなるように当人も増幅された「力」によって支配を受け始めているということだ、今のところこうやってすべて暴き立てるぐらいしかこのことへの対抗策はない。
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WS報告 of 177th /恥に倣え
代の人々に、「痴愚」の印象が蔓延していることを指摘した(ワークショップで)。
この「痴愚」という印象は、知能や知性とは無関係に、何か「どうしようもない」、ボーッとした噛み合わなさのことで、このことが一種の煩悩中毒から発生していると指摘した。
それらはいわば、現代の「実際の三角形」として、その頂点のひとつを為していると述べた、それぞれの頂点は「現代人のオタク化」「現代人のマウントするマン化」「現代人の痴愚化」であり、この三角形が果てしない拡大を続けている。
多くの人は、これを「悪」だとし、それぞれについて「ちゃんとしよう」と、つまりこころを善に入れ替えようとするのだが、これは実はこころの問題ではなく "魂の恥辱" から起こっているので、空回りするのだと指摘した/じゃあ正しく魂の恥辱に向き合えばいい、ということになるのだが、そうはいかないのだ/人は己の悪には向きえても恥に向き合うことはできない、そんな根性を持っている人はほとんどいない。

オタク趣味あるいはむさぼり中毒の一切を、誰もが「やめよう」と反省するし、内心にも起こるマウント精神を「やめよう」と反省する、そして脳みそがボーッとして汚らしいのを「やめよう」と、誰もがこころの底から反省するのだが、これはこころから起こっている現象ではないので、こころを反省させても何ら拮抗作用はない、一時的に表面上「反省しました」というふうになるだけで、「実際の三角形」は拡大を続けている。
ことは魂の平原に起こっていることであり、それは魂の恥辱から起こっているのだが、「恥辱」というものに人はふつう向き合えないので、これをこころの問題、こころのパワー問題にすりかえようとする、これは一種の逃避だ/パワー問題にすりかえて逃避する、その逃避の先はときに能力で、ときに魅力で、ときに努力だ。
だから初めに指摘した「痴愚」の印象も、それぞれに引き当てて「能力痴愚」「魅力痴愚」「努力痴愚」におおむね分類することができる、こんなものは今探すまでもなくいくらでも周囲に発見できる/能力が高いはずなのに「痴愚」の印象がある、魅力を売り物にしているのに痴愚の印象がある、努力を見せびらかしているのに痴愚の印象がある、この痴愚は本当にゾッとする、どうしようもない噛み合わなさと深い苛立ちを内部に感じさせるものだ(当人が己の痴愚ぶりに発狂しそうになっている感じがある)。
なぜこのようなことが起こるのかというと、本来、人の内部では、その魂が恥辱と栄光でせめぎあっているものだからだ、魂の栄光が得られなければ魂は恥辱に敗北するよりなくなる、だから人は魂の栄光を求め、またその人にあこがれ、その人に倣おうとするのだが、その安易な発想では正しく栄光を倣うことはできない/こうして考えると、一夜でなかなか複雑な、奥行きのあることを追究したものだ。

Aさんがそれをすると恥辱になるが、Bさんがそれをやると栄光が視える。

たとえばAさんが女性を口説くと傍目にも「アイタタタ」となるのに、Bさんがそれをすると、何かロマンスや神話があるような "栄光" がそこに現れる、だからAさんはBさんの真似をしようとするのだが、この倣い方はまずもって成功しない、この背後にはまったく思いがけない学門があるからだ。
AさんであれBさんであれ、ブッダやキリストを除いた「人」は、誰であれ恥をしかやれないのだ、<<人は恥をしかやれない>>、にもかかわらず人によってはごくまれに、確かにそこに「栄光」が現れるのを視るのだが、それでも実は「人」としてやっていることは同じなのだ、このことを「恥辱と栄光の同一性」と呼ぶ/AさんもBさんも同じ「恥」をやっている、人は誰しも同じそのことしかできない、けれども、人が視るものは違う、人がやることは恥だけだが、人が視るものはそれだけではないのだ、人は人がやっていること "以外のもの" を視ることがある――それにしても、人は恥をしかやれないので、われわれが栄光の人の何に倣えばいいかというと、<<栄光の人のやっている恥に倣え>>ということなのだ、このことはあまりにも奇想天外で、真に強い人・真に謙虚な人にしかこの生き残りの道筋は発見されない。
ワークショップ | comments(0) |
聖なる慈悲と悪魔の慈悲
ういえば煙草とスコッチが尽きたので、また誰ぞヒマなやつはおれのために仕入れて奉納するように、相変わらずPEPEのリッチグリーンを吸っている、遊び倒して書くほうが追いつかない(といって書くのも遊びだが)。
おれにはすでに、わからないことを直接視る能力があるので、それを今さらわかりやすくする必要はないのだが、それは「慈悲」なんだということに気づいた、慈悲もしくは憐れみという言い方をする。
おれは、そういうふうに、自分を強引に持ち上げて偉そうぶることが本当に苦手で、もう無理やりそう定義づけるしかないという具合でやっているのだが、そうやって無理やり自分を持ち上げると、本当にいろんなことがピタッと嵌るので、どうやら本当にそういうことらしいのだ、ここまでくるといっそうぬぼれ体質の人がうらやましくさえ思う、何をどうやったらそういううぬぼれを自動的に持てるのかアドバイスがほしいぐらいだ。
おれの場合は正当な理由が必要で、なぜ「こりゃだめだ」と急に慈悲スタイルを思いきるようになったかというと、このことについては悪魔の側のほうが意欲的で、悪魔の側のほうがぐんぐん行っているからだ、それを見ていると「こりゃあさすがにだめだ」と思った/近年に流行しているやさしげなものはすべて何かにピタッと嵌っており、それは慈悲・憐れみなのだが、それはもうゴリッゴリの悪魔の憐れみなのだ、よくもまあそんなに思い上がれるよなあとうらやましい限りなのだが、おれだってなんとかささやかに対抗勢力を為していきたい。

たとえば音楽があって、音楽というとメロディや音程や和音やリズムや調性やら表現そのものやらがあるのだが、そんなものはおれにとってはどうも面倒くさいのであって、何かうまくいかないストレスがあるなあと思っていたのだが、どうやらおれの場合本当におれはフツーの人ではないらしく、そうやって「わかりやすく」してやるのが慈悲だろと何かで気づいて(なぜそんな突拍子もないことに気づくのかナゾだ)、そのよう気づくと急にピタッとすべてが嵌るようになった。
つまりおれの場合、おれの到達しているところはすでにナゾ of ナゾであって、このおれが何かしら向上心やら献身やらの発想を持ってはいけないのだ、おれ個人としての向上心はかまわないのだがそれを人に向ける形にするとメチャクチャになってしまう/一般に言われているそうした「芸術」のたぐいについても、おれにとっては向上心ではなく下に向けた慈悲なのだ、そんなアホなと思いたいところなのだが、すべてがこの捉え方でピタッと嵌るようになってしまうので、この場合はそうした事実の現象を優先して認めるしかなくなってしまう。
このことに思い至ったのには、もうひとつきっかけがあって、ふとおれは学生時代のころを思い出したのだった、おれがなぜかよくわからない合唱団の指揮者になっていたとき、なぜか音楽の展開が勝手に視えるようになっていて、楽譜を見ながら「これはこうだからこうなるので……」とスラスラ解説していると、二つ下の後輩が「す、すげえ、なんでそんなことわかるんすか」とビビっていたのを思い出した。
それで、今はやっぱりおかしいのだ、当時のおれと現在のおれでは能力のレベルは話にならんぐらい違うのに、現在のおれがどのような能力を発揮しても、女子中学生の一人だっておれに対して「す、すげえ」とビビることはないだろう、それは差分からいっておかしな話だ、当時のおれが二つ下の後輩にビビられていたのに、現在のおれは三十も下の女の子にビビられないのだ、なんであれば現代の女子中学生は何であれ「自分のほうがイケてる」ということを強制的に思い込むだろう、おれはそのことにまったく無頓着で、当人がそう言い張りそういう態度を決定しているなら、何の違和感もなく「じゃあお前のほうがイケているのだろう」とおれも一緒になって決定してしまうのだが、これがもうメチャクチャなのだ、何をどう考えてもやはり何の経験も才能もない女子中学生の能力がおれに倍するとは言えないはずなのに、おれはつい、「当人がそう言うからにはそうなんじゃね」とあっさり認めて、何ならそのように世界に報告してしまうのだった。

まるで世界中の全員が、おれに対しては「あなたになんか負けません」と堂々宣言するようなので、おれは自分の能力ていどを「人として最低限のレベル」としてきた。

これが基本メチャクチャだったのだろう、これのせいでおれはもう何年間も、いろんな人たちに対し、「あれ? なんでこんなことがわからないんだ」「なんでこんなことができないんだ?」と、不満に思うのではなく首をかしげてきたのだ、おれには本当にそれが「???」だった。
人々の言い分を聞いていると、つまりおれが女子中学生に平伏して、おれが彼女からいろいろ教わらないといけないということになるのだが、そんなことははっきりいって荒唐無稽だ、人それぞれが視るもの視えるものというのはとてつもない差があるということを最近よく知るようになったが、おれが学生時代に二つ下の後輩に差をつけてビビらせていた当時と比較すると、現代のおれと女子中学生の差なんてもっとはるかに巨大な差になっている、これをおれは下向きに取って慈悲を為さねばならないのだ、おれはそういう発想に本当に慣れていなくて、なんとか今も無理やりその定義をおれになじませようとしている/そうでないと、すべてがピタッと嵌らないのはおれにとってもストレスなのだ。
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封建制の中に「友人」は存在していない

年ジャンプのモットーは、ご存じ「友情、努力、勝利」だ、今でもこのモットーが保たれているのかどうかは知らない(さすがにもうマンガ雑誌は読まねー)。
むかし、児童が小学校に入学するときには、背後に「ともだち100人できるかな」みたいな歌が作用していたものだが、この「友人」という現象と観念は、文化的に必ずしも存在するとは限らない、文化によっては友人という観念そのものがないこともある。
日本に「友人」や「友情」の現象をもたらしたのは、言ってみれば吉田松陰であって、吉田松陰より前はこの国に友人や友情は存在していない、吉田松陰より前の日本は儒教・朱子学しかない世界であって、「主従」と「奉公」と「親孝行」しかないのだ、友人や友情は存在していない。
明治維新にかかわって、維新志士たちが「同志」という状態を新しく産み出したのだが、これが日本における友人の端緒であり、この端緒を創り出したのは吉田松陰だと言える/さらに過去にさかのぼれば高山彦九郎がいただろうが、当時はまだ時宜になく、高山彦九郎は人々に愛されて面白がられながら、「なんなんだろうなこの人は」という見世物のたぐいに扱われた、高山彦九郎は日本に実在したドンキホーテのようなもので「友人」という現象を人々に与えるには至っていない。

「友人」という現象や観念が、必ずしも存在するとは限らないというのは、少年ジャンプがコンビニに置かれてきたわれわれの世代には意外な驚きかもしれないが、今でも地方にいけば子供はすべて「〇〇さんとこの子」なのであり、お店の屋号があれば「〇〇屋のご主人」やら「〇〇屋の娘さん」なので、本当はそんなに変わっていないのだ、むしろ全体からみればこの国に友人なんて現象はあくまで例外的にしか存在していないと考えたほうがいい。
このあたり、知人や地方の人々、あるいは何かの業者さんと応接するときには、「そもそも人と人の、ヨコのつながりは存在しない」と仮定しておいたほうがいい、封建制における人の関係はあくまで土地の殿様(藩主)に主従として忠を尽くすか、自分の所属する〇〇家に奉公・報恩するか、親に孝行するかという、タテのつながりしかないのだ、ヨコのつながりとしての「誰か」は存在しておらず、それぞれが〇〇さん "とこ" というタテ構造にのみ所属しており、それぞれが自分の "とこ" の没落だけを気にかけているという状態だ、これは封建制として正常なことなのであって冷淡とか頭がおかしいとかいうことではない、そもそも友人や友情という現象が文化的に普遍ではないというだけだ。
現代日本において、あるいは世界中どこも同じような状況下もしれないが、なぜか「友人」という現象が一切得られなくなったので、その挫折感と共に、封建制に回帰しているところがある、漫画「ドラゴンボール」において孫悟空とクリリンは友人だが、どうも現実のわれわれにそういう友人という現象は与えられず、実際には孫悟空は孫家の、クリリンはクリリン家の、それぞれの発展と没落だけを憂いている、そして両家はご近所さんとしてあいさつをしたり地域の会合をしたりするだけという状態だ、誰もそんなドラゴンボールは読まないと思うが、われわれが生きる現実はそうして友人の現象を失い封建制に戻ってしまったと認めていくしかない。
われわれは、芸能人や Youtuber やマンガ家の、急激な勃興や没落を、完全に「ヨソのこと」として楽しみながら見物するという悪趣味をもっているが、この「ヨソのこと」を見物するという趣味が、封建主義の現象に他ならないのだ、われわれにとって吉田松陰の話が、「長州藩の麒麟児が、このように頭角を現し、このように非業の死に向かっていった」と見物されるのみであるのとまったく同様に、芸能人や Youtuber やマンガ家についても、「このように頭角を現し、このように廃れていった」ということをヨソのことして見物するだけだ、むろんそれがおかしいと言っているのではなく、それが封建制だと言っている/おれが友人という現象を否定しているのではない、おれ以外の奴が友人という現象を否定しているのだ、そんなの見りゃわかるだろう。

実際には、「友情、努力、勝利」ではなく、「主従、奉公、親孝行」の中を生きているだろう?

ボブディランのどこを見ても、主従とか奉公とか親孝行が見当たらないように、われわれのどこを見ても、友情やら努力やら勝利やらは見当たらない、だからわざわざ「スポーツ的」な枠を人為的に作って、人為的に作った努力をし、人為的に作った勝利を得、人為的に作った友情のようなものを感じることにしている、人為的にそうしたスポーツ的な枠を作らないと、われわれは努力の仕方がわからず、勝利など「どこにあるかわからない」、そして友情になどまるで心当たりがないのだ/ところが主従や奉公や親孝行と言われると、なぜか何も枠組みしなくても元から「わかります」という感覚がある、そうしてわれわれの所属は少年ジャンプではなく封建制だ。
もちろん明治維新に「同志」と言いうる現象があったとしても、その背後で薩長土はそれぞれ、自分の藩の権勢を有利にするためさまざまな後ろ暗い画策をしていたのだが、まあそんな専門的なことはどうでもいいじゃないか、おそらく当時でもほとんどの人が「ウチの藩だけが大事」という感覚に内心を侵されたままで、吉田松陰だけがその汚染から完全に離脱していただろう、吉田松陰だけが人の世ではなくこの世界にある普遍的な愛の現象を知っていた(おれは西郷隆盛は面倒くさくて敬天愛人の徒とは思っていない)、つまり「われわれは努力するのです、われわれは勝利しなくてはなりません、そのためには互いの友情が何より励みになるでしょう」という少年ジャンプのモットーを、当時から吉田松陰だけが偽りなく掲げることができたということだ、今のわれわれは誰もこんなまともなことは言えない。

視点変えてこ | comments(0) |
100円をもって、50円のものを買うと、手元に残るのは何円か3
あおれのことだから、テキトーに傲慢にエラソーに言うと、たいていの人は認識を振り回してみてもあまり頭がよくないので、認識というよりは認識に付随した感情を振り回すだけになるし、認識以外の「ひょっとしたら主体性」軸についても、ほとんどの人が言うそれはポワーンとした願望まみれのもので、ご都合とヒステリーにまみれたオカルトを振り回すことにしかならない/そういうものじゃねえよと、おれは両軸について言いたいのだった。
認識だって一つの機能であり能力なのだから、キレッキレの高性能でなくては困る、それでいながら同時に、「おい理詰めで来たのに最後にいきなり超能力使って解決するのやめろ」と周囲に呆れられるほどでなくては困る、そのあたり、認識がポンコツな上に「ひょっとしたら主体」のほうもドインチキというのは本当につまらんのだ、何がつまらんといってそれは両方の「性能が悪い」というだけであって、映りの悪いモニタに映り込んでいるのは何かのヴィジョンではなくただの妄想ゴミノイズだ、そんなものにミラクルな自分の可能性を賭けるなどアホの所業に決まっている、ノーミラクル確定っス。
おれの話していることは、脳みそが混乱して面白くてステキなのだが、まあ認識機能がアメリカのエイブラムス戦車のように頑強で高機動でなければ、このことには本気で入り込んでみるみたいなことはやめておいたほうがいい、認識・因果律の軸をあやふやのアホにしたところで、それで「ひょっとしたら主体性軸」の何かが手に入るわけではないし、触れられるわけでもない/神仏を否定したところでたいていその人の合理性の機能が上がるわけではなく本人が自分を賢いと思っているだけの低性能のバカにしかならないように(ひどい言い方だ)、因果律を否定したところでその人の霊性が上がるわけではなく自分ではそのつもりなだけのフワフワ近所迷惑マンにしかならないものだ、そんな寝言ラリーをしているヒマがあったら両軸においてクソほど自分を鍛えろ、そう言われるとただちに「よっしゃ、やーめた」という決断ができて清々しいだろう、おれは幻想を破壊するために書き話しているのだ。
おれが書き話していることはこのように、論理が破綻していない上に、「お話」としての響きも破綻していない、この両軸をクソほど鍛えて啓けという話であって、知性の低い者が因果律を否定しても霊性は得られないし、霊性の低い者が主体性を否定しても知性は得られないのだ/このことは、せいぜいわけのわからんスリルだけ味わっておくのがいい、フツーにおれが遊びに入っている山の、一合目に入るだけでヘタしたら普通の人は精神を損傷する、因果律と主体性の両方をバッチバチに点灯させ続けるというのはそんな柔弱なモンができるたぐいのことではない、首を吊って死んでいる死体の横でのんびり煙草が吸えるぐらいの鍛えられ方をしていないと精神というのは案外すぐに壊れてもとに戻らなくなるものだ。

「不思議」という言い方があるが、これは「思議することが不能」という意味であって、フシギ〜という少女趣味の印象のことを指すのではない、思議不能のことなどいくらでもあって、それこそカントの純粋理性批判にいくらでも書いてある、あるいは禅問答というやつで「両手を打ち鳴らしたとき、左手からはどんな音が鳴っているか」みたいなもの、あるいは数学的に「目の前にある0個の果物は何種類あるか、その果物は存在しているか」みたいものでもいい、クオリア問題でもいいし五秒前仮説でもいいし哲学的ゾンビでもいいし「ニワトリと卵はどちらが先か」でもいい、世の中には不思議なことがあるのではなくて思議不能のことがいくらでもある、無限大を導入したら数学はあっさり 1=2 を導き出す。
思議不能のことにわれわれは思議(認識)でアプローチできないのだが(当たり前)、ここになぜか、デカルトも認めざるをえなかった「わたし」という現象だけが、「あれ〜 やっぱり "わたし" って現象があると言わざる得ないな」と、思議に対してもその説得力を誇ってしまっているのだ/「それ」に対して思議でアプローチはできないのに、「その思議をやっている当人が『それ』でしょうが笑」という矛盾点を永遠に突かれるのだった。
哺乳類の繁殖は、卵子が精子を授精して、卵割と呼ばれる細胞分裂が起こり、胎児として育っていってやがて出産に至る、そしてオギャーといい数年後にはクソガキになる、ということになっているのだが、そのプロセスのどこでいきなり「ハイ "わたし" キター!」となっているのか、経路不明なのだ、だいいち現在のわれわれの全身だって数十兆個の細胞の群体でしかないのに、これらがどう統一されて「わたし」になっているのか不明だ、「身体髪膚は父母に享く、赤白の二滴はこれ始終空なり」、電気クラゲとして知られるカツオノエボシはそれぞれ別の個体である細胞が寄り集まってひとつの個体になる「群体」という生存形態を持っているし、逆にプラナリアは三つにちょんぎるとそれぞれが個体になって三つの個体に分かれて生きていくのだが、こうなるともう「わたし」って何よということでわけがわからなくなる、あるいは多重人格と呼ばれる解離性の現象で、一人の個体のうちに2500人の人格が同居した例があるという、こうなるともう何が「わたし」なのやらさっぱり不明だ。
われわれが認識機能で因果律をドッコイショと神輿に担ぐのもまあ悪くないのだが、「で、その神輿を担いでいる "お前" は、いつどこからどうやって突然ここに現れたんだよ」と訊かれると、その認識機能を持っている当人という "主体" の成り立ちを、当人が説明できない、そして多くの人はアホなので(悪口)、ここで「認識機能の範囲外です」「つまり思議できません、不思議というやつです」とはなかなか答えない、本当にアホなので(悪口)たいして使えてもいない認識機能でガンバって解答しようとするのだ/認識機能では解答できない(思議できない)のが明らかなものに対し、なぜ執拗にガンバって分かっているフリをするかというと、精神が損傷することを防ぐためだ、あるいは根源的な恐怖、「自分は "主体" なる存在に反してきて、それを侮辱してきたかもしれない」ということに対する耐えがたい恐怖がその防御をさせるのかもしれない。

多くわれわれは、「100円から50円使ったら、残りは120円かもしれない」ということを、なげやりに "死後の世界はそうかもね" と考えている。

死後の世界なんてテキトーに言うけれども、それはわれわれの認識がテキトーに「生死」を分割しているからそう思い込んで言いえるだけで、本当は何をもって生まれてきたのか、何をもって死んだことになるのやら、直接は分かっていまい/救急医療に詰めているドクターでも、何をもって「ハイ死んだ!」というのはよくわからないのだ、よくわからないからこそ、いくつかの徴候をもってそれを「死んだ」と認めることにすると "ルールとして" 定めている、医者にだってそれはよくわからない、医者は病気の専門家であって生死の専門家ではない、亡くなられた方はその瞬間からもう病気でもなければ患者でもないのでただちに退院の手続きに向かうのであって、死者は医者の手から離れている。
われわれは「生死」といってそれをテキトーに分割したつもりになって「認識オッケー」と思い込んでいるだけなので、「生前の世界と死後の世界はどう違うんや」「なぜ違うんや」と訊かれても、けっきょくのところ「さあ?」と逆ギレするしかないのだ、無理やり因果律だけに注目すれば「生きていたから死んだァ! 因果ッ!」と言うことができ、「形あるものはみな滅びる!」みたいな幼稚園児めいたことも言いふらしていられるのだが、そこで因果律では思議不能な「主体」について、「主体という現象それ自体は生きものではないから死ぬこともないぞ」「形はないものだから滅ばないぞ」と言われると、回答できなくなって精神がおかしくなる、そこから因果律マンは「じゃあそんなものは存在しない、主体なんてものは存在しない」と言い張るしかないのだが、「じゃあ "お前" はなぜ存在しているの?」となり、こいつはなぜかわからないが自殺したくなるのだった、あるいは自分を滅ぼす方向へ押し出されるのだった/これは割とマジでこうなることがあるので、まあ急に台無しにして、「あ、やっぱ残金は50円でいいわ。レシートにそう印刷されるもんな」と打ち止めにするのもひとつの冷静な緊急避難なのだった。
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100円をもって、50円のものを買うと、手元に残るのは何円か2
まりおれは、この世界の法則を、「因果律だけじゃないっぽい」と見ているのだ、すべてが因果律に収まるふうに見えるのは、単にわれわれの「認識」という能力が因果律しか視認できないからにすぎない。
心理学者ユングは、いわゆる共時性の理論において「因果律のほかに偶然という軸がある」ということを唱えたが、そんなもん再現性の得ようがなのいで、ただそういうガチ聡明な学者でも何かに気づいた人がいるっぽいという、歴史的な道標になっている/ユングが合理主義者のフロイトと対話しているとき、二人の目の前で超心理現象が起こったが、フロイトはあくまでそれを受け入れず、認めもしなかったという(有名な逸話だ)。
おれは因果律という軸に対し、もうひとつの軸があるとして、それを「偶然」の軸とは思わず、要するに「主体」という軸なのじゃないかと思っている、そもそも因果律で考えればこのタンパク質と神経細胞の絡み合いが「わたし」という主体の現象を引き起こしていることじたいがおかしいわけで、因果律という法則軸の中に「主体」という法則軸が混ざりこんでいると考えたほうが全体がすっきり整合する/ただしわれわれの「認識」という能力は、それじたいが因果から発生しているため、因果律しか視認できない、すべての哲学者がそうであったように、認識の機能ではどうやっても「わたし」という現象を一ミリも解明できない。
因果から発生した「認識」という能力が、因果律という法則軸を視認するなら、やはり「主体」という能力が、主体律と呼ぶべき法則軸を視認してもおかしくはない話だ、そしておれが子供のころからずーーーーーーーっと視てきた「これ」は、要するに主体が主体軸という法則軸を視認してきただけじゃないのかと思う/認識の因果によって因果律を見たらそりゃあ 100−50=50円だが、主体によって主体律を見たら残金がいくらかなんて、「主体が与えたとおりになるだけ」だろう、このように因果律というのは「信じるまでもなく、見たらわかるやろ」という現象のことであって、われわれの認識という能力の中にそもそも「信じる」などという能力はない、認識の能力は認め知る(認め識る)ということのみであって、 100−50=50 なんてことは何か秤ででも実験すればいいだけのことであり、信じるというようなプロセスは必要ない、自分が信じると認識しているものは信じるという主体の現象ではない。

これは何も、おれがわけのわからん話をしているのではなくて、因果律つまり原 "因" から結 "果" が生じるという法則が、われわれにとってわかりやすくあったとして、この宇宙に物事を起こす原理は「それだけとは限らんだろ?」ということにすぎない/この宇宙に因果律しかないように見えるのは、われわれが原因と結果という「それしか視えない」からであって、われわれの認識機能に引っかからない原理があったとしたら、そんなものはもうわれわれには "お手上げ" じゃないか、たとえば「時間が止まっているあいだに三年経った」として、われわれの認識できるもののすべてはそのとき止まっているのだからそんなことはわれわれが知りようもないというのと同じ類の話だ。
われわれが認識機能で検出できるものしか、われわれは認識できないのであって、その認識できる因果律のほかにも法則の軸がある……というより、ひょっとしたらわれわれの持っている「認識」という機能が、実はこの宇宙に対してはきわめて限定的な能力にすぎないかもしれないじゃないか、もし自分の持っているテレビとアンテナがNHKしか映さないのであれば他のチャンネルはどうやっても視聴できないように、われわれが一般に持っている「認識」という能力とそこから認め知ることのできる因果律という法則は、何も宇宙の唯一法則というのではなく、単にわれわれが接触できる法則がそれに限定されているというだけのことかもしれない。
何しろ相対性理論によると、光の中では時間は止まっているそうだし、時間が止まっていると言われてもけっきょくわれわれは「???」となるのであり、要はわれわれは認識機能で「分かる」という範囲を逸脱するものについては、存在しないと断定したがる傲慢さの癖があるだけだろう、われわれは質量やら大きさやら速度やらをパラメーターとして物理的に宇宙を観測することができるが、そもそもわれわれに認識できないパラメーターがあるとしたら、そのパラメーターじたいを知る方法がないし、ましてやそれを定量することなどできるはずもない。
われわれの身体は細胞で出来ており、細胞はタンパク質で出来ており、タンパク質はアミノ酸やペプチドで出来ており、アミノ酸は炭素やら水素やら窒素やらで出来ているが、それが寄り集まっていきなり「わたし」という主体性の現象になっているのは意味がわからない、つまり因果律で言えば「いきなり "わたし" なんて結果が出てきてたまるか」ということなのだが、デカルトでさえこの「わたし」という現象を疑うことはできなかった/あなたの部屋のテレビがいきなりウイイイーンと横向きに走り出して高速道路を滑走していったとしたら、そりゃテレビモニタとは違う軸の機械が入っていたのだとあなたは判断するだろう、それと同じようにわれわれが思い込んでいるこの宇宙には因果律とは違う軸が入っているのかもしれない、ただそれはわれわれの認識機能では捉えられず「分からない」ことだ、それはいきなりウイイイーン走り出したテレビモニタが「何チャンネル?」と訊かれても「そういうことじゃない、何チャンネルとかでは説明できない」というのと同じだ。

全員が「認識」を使っていて、つまらんので、おれはどーも違うやつを使うようになったくさい。

なんというか、おれなんか頭がイイので、認識といってもいまいちツマランというのが先に視えてしまうのだ、だいたい「認識」と鼻息を荒くしても、たいていの奴はその認識機能だっておれより性能が悪いじゃねーか、認識機能しかない上にその性能もいまいちってどういうことだよ、ちゃんと高性能にしろ/認識というと、たとえば今は夜だが、夜といえば昼の反対であって、それは善の反対は悪というようなしょーもないことだが、そんなしょーもないことでは、いつもおれのところに「グイグイ降りてくるこの夜」のことはまったく説明がつかない、昼の反対などというアホの認識しか持たない奴は、罰として夏中ずっとゴムぞうりを裏返しにして履き続けること。
おれが視ているところの「世界」は、何か「それじたいのもの」がゴリッゴリにひしめきまくっている世界であって、その中で100ひく50は「別に50で構わんけど」、そんなもんどうなるものか誰にもわかったもんじゃねえのだ、電車が街を通り抜ける音がしていて、音というとそれにだって原因があって結果としての音が出ているのだが、それ「だけ」ではないのだ、「それじたいのもの」がゴリッゴリにキているのであって、認識としては別に何もない、だがこんなゴリッゴリの世界の中で「認識(笑)」みたいな限定的なものがどうやってそれだけで頼りになるんだ。
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100円をもって、50円のものを買うと、手元に残るのは何円か

:太郎くんは100円をもって出かけ、50円のおかしを買いました、太郎くんの手元に残っているお金はいくらですか。
答:太郎くんが信じて求めたところに応じた金額。
このように解答しないと新約聖書の話に適合しないのでこの解答が正しい/この解答でないと数枚のパンが5000人にゆきわたるという話が成立しない。
なあに、心配は要らないのだ、太郎くんが「100円で50円のものを買っても、100円以上は残るでしょ?」とは信じないのだから/だから太郎くんが信じたとおりに、残金はたいてい50円だ、「残金は50円です」以外を信じる奴はまずいない、だからわれわれがこの新約聖書の話にビビる必要は実効的にない。

キリスト教・新約聖書というのは、「信じて(主なる父に)求めればそのとおりになる」という一点押しだが、これでうまく話は合っているのだ、われわれは「100円から50円使ったら残るのは50円だろ」と断じて信じるので、そのとおり信じたままの結果が与えられている。
それで、「100円から50円使っても、120円残っていてくれ〜」と信じようとしても、ダメなのだ、「そんなことをマジで信じられるか?」というのが本質であって、内心でわずかでも疑いながらそれを祈るのだとしたらそりゃ「疑っている」わけで、疑いながら祈ってもダメだ、疑いながら祈ってもそれはただの個人的な「願望」にしかならない。
聖書的に考えれば、われわれは「善悪の知識の実」を食った状態にあるわけで、また仏教的に考えればわれわれは「識」という因業の中にあるわけで、「正直、どーしても 100−50=50円 としか信じられねええええ」という状態だから、いいのだ、そのことまで含めて「信じたとおりになる」のであって、キリストが人々の信仰心の薄さを嘆いているのは、「けっきょく信仰が因業を凌駕しないのなら、テメーらは自身の因業を信じているんじゃねーか、じゃあテメーの因業を信じたそのとおりになっちまえバーカ」ということなのだ/われわれは自身の因業によって「100−50=50」という認識のほうを信じてしまうので、まあふつうは新約聖書に何が書かれていても実効的には何も変化がないのだった。
聖書には「あなたの神を試してはならない」とも書かれているので、「ちょっと残額増やしてくれるかな?」みたいなことをやってはいけませんとも戒められている、そもそも50円ぐらいだったら自分でもなんとかできるので、50円分ぐらいはガンバってはたらいて何とかしたらいい、そうして50円分でもせっせと働いて稼がなくてはならないという罰のことを、どうやら聖書では「自分の十字架を背負ってついてきなさい」と表現している、モーセだって歩いて逃げられるぶんにはあくせく歩いて逃げるべきなのであり、祈って長距離バスを出現させたわけではなかった、そうではなく「これは自分にはもうなんともできない、主よ逃げる用に海を割ってください」と祈ったからそれについては海を割ってくれたということだ/というわけで、太郎くんが50円ぐらい自分でなんとかするべきという十字架を背負っていたら、残額は識業のまま50円でいい、それでむしろ正しく祈りが通じていることになる。

100円のうち50円使って、残額が120円になるとしても、「その120円が神の御名を称えることになる場合のみ」という条件がつく。

モーセ一行の落ちのびる先に向けて海が割れたから神の御名が称えられるのであり、いくらなんでもおれが七里ガ浜に遊びに行ったときになんとなく海が割れても「何これ」としか言われないだろう、そんなアホなことはさすがに与えてもらえない、というかそもそも、そんなアホなことを本当に信じて求める理由がないので、どうガンバってもそんなことを魂の底から祈れない。
何の矛盾もないし混乱もないのだ、われわれは「識」という因業に囚われている「でもでも認識マン」だから、何をどう言われたとしても、「でも、やっぱり、 100−50 は 50 じゃないの?」としか信じない、この認識マンの「認識」という機能をなんとかしようとすると、もう精神を損傷するか認知症になるかしかないのだが、そうやって精神をブッ壊すと、今度は「誰に祈るのか」ということが失われてしまう、「じゃあけっきょく信じて祈るということ自体が無理なんじゃん」ということになり、実効的には「まさにそのとおり」と言うしかないのだ/ただ例外的におれのような超絶大先生の場合だけ、太郎くんが100円のうち50円を使ったとして、残金はいくらかについて「さあな、わかったもんじゃねえよ」と大真面目に言うのだった、だって本当にわかったもんじゃねえと経験的に思うよ。

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独立は人のわざ、結合は神のわざ
とえばわれわれは音階をドミソと分けることができる/この分かる・tell・識別するというのが人の業でありワザだ。
誰でもピアノの鍵盤を押してドミソを鳴らすことはできるが、それによって三つの音が結合して和するかというと、そんなことは起こらない、たとえ純正調に調律したとしても、それは周波数の問題であって、それぞれの音が和するというような結合は起こらない。
人は分かれている別々のものを結合することなどできない、役所と牧師がよってたかって男女を結合しようとしても何ら結合は起こらないのと同じようにだ、ドミソの三つを結合して和することができるとしたらそれは神のワザでしかなく、われわれは神ではないので、神のワザについては神に外注するしかない。
おれの書き話しているこのすべての文言だって、言語というのは一語一語バラバラのものでしかないから、それが一つの文章として結合するなんてことは起こらない、少なくともおれはそんな現象を起こすことはできない、もちろん偉大なるおれさまはそんなことお手のものだがね、というわけでおれは結合のすべては神に外注しているのであって、おれは何をしているかというとむしろバラバラの独立をやろうとしているのだった。

つまりおれがドミソを鳴らすとするならば、おれはドミソをそれぞれバラバラの音として出すので、その結合については神サマよろしくと外注するということだ、おれはそんなにバカではないので、おれが気合を入れてドミソを結合した和音にできるとはツユほども思っていない、おれにはそんなことはできないし、そんなしんどい上に不可能なことは外注するに限るのだ、おれは合理主義だ。
ドミソの上にさらにメロディだのリズムだのと言い、何なら歌詞までくっつくようなことを言われると、「そんなもん結合なんかできるわけねーだろ」というのがおれの冷静な理解であって、結合はすべて外注に決まっている/おれは人として万事をバラバラの厳密な「独立」に向かわせようとするので、和音やらメロディやらリズムやらが「ひとつになるぅ〜」みたいなことを求めない、いや求めるとしたら外注先に求めるのであっておれ自身には求めない、おれ自身は冷静にすべてのことを「ほいバラバラにやりますよ〜もともとバラバラですからね〜」としかやらない、そんなもん「おれの思いと女の思いはバラバラだろw」というのと同じであって、おれがおれの思いと女の思いを結合できるのだったら街ゆくすべての美人はおれによってヤリ捨てされまくるだろう。
おれがこうして書き話していることと、これを読んでいるらしい誰かがいるとして、書いているおれと読んでいる誰かもバラバラの独立だ、おれの場合おれのワザとしてそこのところが厳密なので、どんなひどいことが書いてあっても読んでいる人に対してはひどさが作用しないようになっている/書き手のおれが読み手の誰かに作用するということはまったくなく――厳密にゼロで――、そうした結合というのはすべて外注にまかせている、外注先はそうした結合の専門なので、むしろ「ちゃんとバラバラに独立させたやつで納品お願いします」と言われているのだ、そのあたりはおれもさすがにわきまえている。
おれがこうして書き話していると、おれは実に自由な、独立・自立した存在に感じられるだろう? そしてこれを読んでいる人も、読んでいるあいだなぜか、独立・自立した自分ひとりとしてこの世界に存在しているような感じがするはずだ、それはおれが厳密にやっている「独立」のワザのせいだな、だからあなたは、こうしてあなたがこっそり読んでいるこのナゾのブログについてあまり知人に紹介しようとはしないのだった、人が「つながる」というような幻想をおれが取り払っているから、そのワザによってあなたも誰かとつながって縛られているような幻想を吹き払えるのだった、それがほかならぬあなた自身に届いているように感じられるのは、結合のせいであって、それは外注先のワザがすばらしいだけであり、それはおれのワザではない(そんなワザを持っている人間は存在しない)。

「おれの書いたもの」と「おれ」は独立したバラバラのものだ。

おれが人のワザとして、きっちり独立バラバラをやりきっているものほど、外注先は品質がいいと見てくれて、結合の仕事を「よっしゃ任せとけ」と請け負ってくれるのだ、「おれと書いたもの」と「おれ」を結合してくれているのは外注先であって、だからこそおれの書いたものはいかにも九折さんが書いたものという声(voice)がする/わざわざ voice と書き足したのは大江健三郎の文学作法に倣って。
ロシアフォルマリズムの発想で言えば「異化」ということになるが、ロシアフォルマリズムは自ら唱えた異化の理論を完成させることができなかった、人間の記憶や省エネの根性によって自動化が起こることまでは看破したが、その先にまでは踏み込まなかった、まあそれは節度ある論者たちだったともいえよう/まあおれの場合はナイスなものが得られたらそれだけでいいので、そのためには節度もヘッタクレもないのだった、おれがやっているのは人のワザとしての独立バラバラ化だけ、それがいかにもひとつのものに結合して鳴り響いて聞こえるのは外注先の仕事のおかげだ、うーんさすが偉大なるおれさまってところだ。
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「何にも勝ったことがない人」2/権威を買うということ

の中に偉い人がいたとして、その偉い人の取り巻きが、「日本エライエライ協会」を作ったとする/もとの偉い人当人はすでに亡くなっていて協会とはまったく無関係だったりする。
日本エライエライ協会は、高難度の試験を開催した、たとえば「この偉い人がギョーザを一番食べたのは西暦(    )年のことである」と出題する、こんな問題を1000問出したとしよう、それらのすべてに正答するためにはものすごい勉強と努力をしなくてはならない。
その代わり、これらのすべてに正答すれば、エライエライ協会から「凡人とは違う・威張っていいよ偉いマン」という認定がもらえる、するとこの人は "正式" に「偉いマン」になったのだからすごく偉いということになる、また実際その試験を突破できる人なんてごくまれなのだから、偏差値的には「超レベル高い」ということになる。
これらのことについて、この「偉いマン」は何をしてきて、何を成し遂げたかというと、「コストをかけて権威を買った」ということだ、この場合のコストというのはカネのこともあるし勉強や努力ということもある/さあこの「偉いマン」が本当に偉くて権威を帯びているのかどうかということだが、それは主催たる「日本エライエライ協会」に真の権威があるかどうか、またその試験内容に真に権威があるかどうかということになる、その協会の権威を信じていれば偉いマンの資格はすごく偉いことになるし、その協会の権威を信じていなければ「何それw 意味ねー」と笑われるだけになる。

「何にも勝ったことがない人」は、これまで何をして生きてきたのだろう? むろん本当に何もしなかった人もいるだろうが、実はけっこうな割合で、「何にも勝ったことがない人」は、コストをかけて権威を買ってきているものだ/その権威の購入と、権威の見せつけのために、すべてのコスト収支があり、すべての生はそれに費やされるといっても過言ではない。
そして、若い人は知っておくべきだが、そうして「偉いマン」の資格を得た人は、それを権威として威圧できる人々からカネを巻き上げるのだが、そうしてカネを巻き上げられる以上、「偉いマン」は実は「エライエライ協会」に少なからずカネを納めているのだ、毎年納めるこのカネを納めないと、エライエライ協会は「偉いマン」の資格を剥奪してしまうので、そうなると偉いマンもメシが食えなくなる、だから偉いマンはエライエライ協会に上納金を入れつづけ、その後もにらまれることのないように協会からのお達しには何がなんでも服従するようになる/いわゆる「首根っこを掴まれている」という状態がこうして出来上がる。
「何にも勝ったことがない人」は、こうして何かしら「権威を買い」、その権威によって威圧できる人々に寄生しつつ、同時に権威協会に首根っこを掴まれて生きているのだ/「何にも勝ったことがない人」はこうして、何にも勝ったことがないのにシステム上で偉いマンになり、親分に首根っこを掴まれて吸い上げられながら、子分の首根っこを掴んで寄生するという生き方をしている、彼にとってすべてのことは、第一に「親分怖い」で、第二には「自分を怖がってくれる子分だけがかわいい」だ、これ以外には本当に何もない、この仕組みは手を放したとたん「子分にナメられて吸い上げができなくなり」「親分にはカネが上納できなくなって資格を剥奪される」という破滅になるので、もう生涯ずっと手を緩めることはできない、だから「何にも勝ったことがない人」は、ずっと爆裂的に自分は偉いマンでなければならず、同時に完全な奴隷の身分として親方におびえ切っていなくてはならない、このことだけが生涯続く。
なぜこんな悲惨なことになり、すでに完全アウトになってしまった一生を過ごさねばならなくなるかというと、やはり「エライエライ協会」などというインチキに決まっている協会の権威をアテにして、その権威を「買う」なんて行為に出たからだ、そういうエセのエライエライ権威は呪いがてんこもりに詰まっているものだが、そんなものを購入してしまうと、購入は自分の意思とみなされて、呪いはすべてのバリアを通過して自分の魂のど真ん中まで届いてしまう、こうして偉い協会の正式に偉い人がすさまじい呪いの中で一ミリも動けないまま生涯のすべてを呪縛されるのだ、どうやらエセの権威を「買う」というのはかなりのダメな行為らしい。

エセの権威を「買う」だけで、かなりのていど聖なる権威への冒涜になるらしい/それもコストが高ければ高いほど。

まあ、エライエライ協会の定めるところの、エライエライ試験を受けて、偉いマンの資格を購入し、それをもとに威張り散らして弱者から搾取するなんざ、もしこの世界に聖なるものがあるのだとしたら、とんでもない冒涜になるに違いない、だからそうした人々はこの世界に「聖なるものなんざ存在しないわ!!」と内心で断定している必要がある/ところが思いがけないもので、そこまで徹底して聖なるもののすべてを否定できる人はそんなにいないのだった、何にも勝ったことがない弱い人ほど聖なるものを信じたがるもので、そうした人を誘い込んでコッテリと呪いで縛り上げて身動きを取れなくするのがエライエライ協会の基本商法であり腕の見せ所だ。
冷静に考えれば、「何にも勝ったことがない」人に、偉いマンなんて権威がくっついているのはおかしいものな! なぜ誰よりも、何にも勝ったこともないのに、人より抜きんでて偉いマンに認定されているのだ、そんなものはそういうタイプの人を誘い込む典型的なワナに決まっている/まるで悪魔のようなババアが、よその娘さんの結婚を勝手に「ゴールイン!」と認定して憚らないように、エライエライ協会は、何にも勝っていない誰かに対し「はい勝利!」と協会が定めた大勝利をプレゼントするのだ、この中で認定された偉いマンは、本当に親分の言うことに怯えながら従ってきただけなので、ずっと子供のままで自分がどういう状態になっているかを客観的に知ることがない、こうしてエライエライ協会の正式な偉いマンが大勝利を得ながら血なまぐさいギャーという悲鳴をあげることになる(うーん出口がなさ過ぎて草も生えない)。

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勝ち続けるためのサイエンス

分がこれまでに「勝って」きたことをざっと並べようかと考えて、数秒で「うわ面倒くせえ」と頓挫した、それはもうそんなことを言い出したら大量にありすぎて話にならないからだ、それでもいつかは資料として、おれを慕う人たちが勉強できるようにまとめておかねばならないとも思うのだが……うーん(面倒くさいらしい)。
なぜおれが、自己評価というものをまったくしないのか、考えてみればそのことも明らかになった、それはもう「勝って」いるのだから、評価なんかしなくていいということなのだ/勝利という最上の価値をすでに獲得しているのに、そこにもう足すべきものなんてないので、自己評価でそれをワッショイするということの必要が、おれには一ミリもなかった、このあたりの事情もはっきり言って人並み一般の世間からズレまくっているだろう。
「何にも勝ったことがない人」というのは、多数派でありながら、世界の感触の中では彼らこそ非常に異質なもので、彼らについて知ることは何の足しにもならないし他人はどうしてやることもできないのだが、ただ今になって彼らの行状は、「勝つ」という現象に対するサイエンスの資料としては利用することができる、「何にも勝ったことがない人」の情報は、「勝つ」ということの補集合として逆に「勝つ」という現象を浮かび上がらせることができよう。
「何にも勝ったことがない人」は、まず自分で何かを考えるということをせず、自分が生きねばならないという弱みに従順で、強い者の言いなりになり、自分では「生きるために必死だった」とひどい言い訳をして、とにかく自分がメシを食うためだけに可能なだけ周囲を漁るということ "だけ" を続けてきた人たちだ、彼らは自分がメシを食えるのなら闇金業者にもなるし教会の神父になってなる、自分では何も考えていないのだからすべてのことは「どうだっていい」のだ、こうした人たちがただ食いつないで生きているという事実は、「食いつなぐうんぬんにこだわらず自ら踏み出したにも関わらず光輝ある生を得て生きている人」とはまったく存在として異なるものだ、むろん「そんな彼らだって生きているんだ!」というような美麗風味のことは誰にでもいえるが、残念ながら何ぞ世界の法則はそんなエセヒューマニズムは受け付けてくれないらしい、キリスト教的に言うと「世に勝て」ということが勝利であって、世に負け続けて自己正当化している者には見る限りまともな慈悲は与えられないらしい(しゃーない、事実を直視すべきだ)。

それにしてもおれは、そうして「何にも勝ったことがない人」が、悲鳴をあげつづけることについて、「ざまーみろ」という感興は覚えない/何にも勝ったことがない・勝とうともせず弱さのまま自己弁護に耽りつづけた人について、明らかに「どうしようもない」という事実を直視しながらも、それらを飛び越えて「すべては丸く収まってほしい」とデタラメに願うこころがある、それがなぜデタラメかというと、彼ら自身がおれの願うそれを否定して唾を吐きたがるからだ、当人らがそうして拒絶しているものを、いったい誰が赦すだろうと考えると、理論上最大に「それは苦しいっス」とおれが諦めざるを得ないのだが、それでもおれの知らない叡智や愛で、万事が丸く収まるならそのほうがはるかによいし、そのことが唯一よいと思っている、彼らの魂は本当に自らによって殺されるのかもしれないが、そのことも含めて彼らが「丸く収まる」ということなのかもしれないとも思う、そのあたりはもうおれの思慮可能な範囲を超えているのだ、少なくともおれ自身に彼らを呪う意思はない、おれが見て感じているのはひたすら「あちゃー」だけだ、「そんなにゴリゴリに自分の魂を殺す毒刃を振り回して、あちゃー」と思うのみ、おれはこうした人が突然きょとんとなって「全部やめました、これまでごめんなさい」と言い出すことを何よりの平和とハッピーだと焦がれている。
おれは子供のころから、また現在においても、おれに関係のない者、おれとまったく遠いところにいる者にこそ、わけもわからずギャーギャー言われるということを繰り返してきている、おれがそいつに何かしたというわけではないし、そいつがおれにギャーギャー言う筋道はどう考えてもありえないのだが、そういう人たちに限って、ほとんど理由なくヒステリー的に、おれに対してギャーギャー言うのが典型的なパターンだ、おれはおれに近い者には文句なしに愛されるのみで、おれに完全に無関係に遠い者ほどおれに対して理由なくギャーギャー言う、それははっきり言って迷惑なのだが、この迷惑を受ける側であれたことを、冷静にはよろこばなくてはならないのだろう、逆の側をやっている苦しさと暗さを考えたら、その闇っぷりは想像を絶している。
「何にも勝ったことがない人」に比べれば、おれはとんでもない膨大な勝利の中を生きてきただろう、おれは掛け値なしにすばらしい瞬間の中をしか生きてきていないからな……このおれが、生来的な気質としては、平等主義のリベラル派というのがタチが悪いのだ、おれに対して偉そうにギャーギャー言いたがる人に対しては、つい習慣的に、「自分のほうが偉いと言いたいならどうぞ」「おれに説教したいならお心のままどうぞ」という態度を向けてしまう、別におれにとってはその人のほうが偉いという設定でも構わないからだ、しかしこれはおそらく最も残酷なことなのだろう/だがおれには何かについて「許さない」という感覚がある、それはおれに対する何かを許さないということではなく、「やめなさい」と自らに聞こえている、その呼びかけのようなものを、無視して冒涜し、しょーもない自己弁護の毒刃を振り回し続けることについては、「それは許さない、そのまま滅びなさい」と見捨てているところがあるのだ、これはおれが狭量なのではなく、ある種の事象として「許す」ということがそもそも成り立たないタイプの事象があるのだ、それは許すも何も、「一度侮辱したからにはそれにはもう二度と会えません」というたぐいで、もう接触できないなら許しようもなくなる(それにはもう二度と会えない上に、どうコールしても「別のもの」が出てきて会わされることになる)。
で、「勝ち続けるためのサイエンス」ということなのだが、じゃあどうしたらいいかというと、けっきょくおれはこのままでいいんじゃないかということになるのだった、おれは目前のすべての人を無視してでも、おれ自身に呼び掛けてくる何かについてそれを無視することはないし冒涜することもない/おれはけっきょくこのままで何も問題ないということになるが、どうせならもっと効率化しようと思った、おれはどうも「許されなくなった人」がますます深い悲鳴の奥へ進んでいくよりないことを、つい嘆いて直視することを避けてしまうのだろう、「何にも勝ったことがない人」というのは、何もしてこなかった人たちではなく、聖なるものに唾を吐き続けてきた人なのだ、彼らはどうやら「許されるという仕組みに自ら出会えなくなる」ようだ。

「何にも勝ったことがない人」は、「すばらしい人の勝利に唾を吐いた」からそうなった。

普段はちゃらんぽらんなおれが、唐突に烈火のごとく怒り、またその不穏を暴圧的に指摘して粛清することがあるのは、おれ自身そのように認識してきたわけではないが、いつもこのパターンだ、これだけは何としてもその手前で制止しなくてはならない、そして制止を振り切ってその先まで行ってしまった人・もうそれをやっちゃった人に対しては、もう状況は変化したので、フーと一息ついて、「あ、もういいっスよ」「好きにしたらいいじゃないすか」というふうになる、これはもう過ぎてしまった・終わってしまったことなので、おれとしてはもうガンバる必要がないということだ/いちいちそう認識していたわけではないが、毎回こういうパターンをおれ自身経験している。
勝ち続けるためのサイエンス、それは、<<自他に関わらず勝利の尊厳は汚さないこと>>だ、そのことに比べれば、たとえ仏像をサンドバッグにして砕いたとしても、そんなことは罪のうちに入らない、仏像なんて方便のための偶像でしかないのだから、仏像を砕いたからといって仏法が砕けるわけではない(実際、そんなことを気にしていたら戦争で爆撃なんかできねーだろ)/われわれが世に勝利できるよう、語りかけてくれる聖なるものがあるのだとして、それに唾を吐いたら、許されるかどうかというより、その許され方を案内してくれる窓口と接触できなくなってしまう、「何にも勝ったことがない人」というのはそうして窓口のすべてを失ったまま、わけもわからず人々と諍いを起こし、また人々と和合しているふりをして、わけのわからないまま生き、わけのわからないまま死の接近を感じているのだ、そこで自分の声がコールするものが常に「逆の窓口」を呼び出すようでは、そりゃあ悲鳴もあがるだろうってもんよ。

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「何にも勝ったことがない人」

こ数年は、他人のことを、理解させられるというような局面が続いている。
今日もそれで、唐突に気づいたのだが、おれが「人は勝たねばならない」と思っているところ、よくよく考えたら何にも勝ってきていない人のほうが多いじゃないかと気づかされた/あのわけのわからないおじさんやおばさんは、これまで何にも勝ったことがないから、ああいう様相でああいう行状なのだと、今さらになって発見するのだった。
おれはこれまで、自分を評価するということがまるでなかったので、逆に整理が混乱してしまったのだが、よくよく考えたらおれの生きてきた時間はことごとく勝ちっぱなしで、勝つ以外のことを経験したことがないのだ、それで逆に「勝つ」ということがどういうことなのかよくわかっていなかった/うーむここまで自己評価をしないというのも実用上のこととして問題があるような気がしてきた(気がしてきたというか事実上問題になりまくっている)。
よくよく考えれば、おれには友人がいない時期がなかったし、楽しくない時期は一日もなかった、インチキで人付き合いをしたことはないし、なぜか知らんがおれは異様に頭がいいし、十代のころはテレビゲームに没入してずっと遊んできただけなのに一年間浪人して独学するだけで国立大学に入っちゃうし、その後も遊びほうけて二年も留年したのにあの超氷河期に丸の内の総合商社に入っちゃうし、その総合商社を蹴って遊びほうけていてもなぜか生きていられるし、インドでタクシーの運転手をどなりつけても代々続く家業をテキトーに蹴り捨ててもなぜか豊かに生きていられるので、よくよく考えたらこんな奴は勝ち続けているに決まっているのだった/おれは何とも争っていないのになぜか勝ち続けており、勝つという経験しかしないので、何にも勝たずに生きている人の感覚がどうしてもわかっていないのだった、おれがいつも「うるさい他人」に対して「???」と首をかしげるのを繰り返してきたのはどうやらこれが原因らしい。

就職活動のとき、何千人かで知能テストみたいなものを受けたが、おれはそのスコアが単独トップだった、ふつうそうして何千人もの大学生が受ける知能テストで単独トップを獲ったりすることはないのだろう、そりゃ数的割合として当たり前のことではある/おれはどうしても、そういったことが「どうでもいい」と思えていて、わざわざ思い出さない限りは忘れている、おれにとっては「調子がいいときにはそういうスコアが出ることもあるだろうな」というのが当たり前の感覚だが、よくよく考えたらそんな感覚で生きていられるのは決して多数派ではないし標準でもない。
ガラの悪い土地で育った人は誰でも記憶に残っていると思うが、学校で授業中に「まったく授業を聞いていない」「ずーっと何かして遊んでいる」というどうしようもないアホみたいなガキがいたはずだ、あれがおれだ、おれは一人の塾の先生とは気が合ったのでその人からは数学を学んだが、学校の先生から何かを学んだということはまったくない/中学のとき、国語の先生はおれに作文を書かせてみたところその内容と知性にビビっておれの作文だけ全クラスで朗読してまわるし、試しに漢字の難読熟語を出題してみたら案の定おれだけがスラスラと口頭で全問正解するのでクラス中がビビるし、英語の教師が「教科書の1センテンスを暗記して口述したら5点あげます」というのでおれはその授業中に4センテンスを暗記してその場で口述して「ほれ20点よこせ」といい、おれが毎回英語の授業でそれを繰り返すので「あなたはもう加点なしです」という不平等な扱いを受けた。
おれは学校の授業をまったく聞いていなかったので、高校のときに数学で0点を取ったことがあるし、高校卒業時点で全国偏差値は40を切っていた、典型的な落ちこぼれというやつだが、そこから一年間の独学で国立大学に入るというのはまあそれなりに勝ったということになるのだろう/ただおれの場合、その一年間、一日15時間勉強したというようなことが、別に苦しくはなく「はっきりとしていて楽しい日々だった」ということがあり、そのせいでまったく戦ったとか勝ったとかいう感覚がないのだ、第一おれは勝つのは好きだが戦うのは苦手で、戦うというのはすでにモメてこじれている奴のやることだろうと思っている(チンタラ戦っている時点でもうどうなっても負けだ)。
最近になって主催しているワークショップも、おれはそもそも何かを習ったことがないくせに堂々と指導者ふぜいでそれを主催しているし、ありとあらゆる技術だって、その筋ウン十年という人が「いつかは実現したい、奥義の境地」とあこがれるようなものがおれにとっての入り口だ、たとえばおれにとって合気道をやるというのは、道場に通って基本を習うということではなく(道場なんか行ったことねえよ)、とりあえずおれにとっては奥義ができて、組んだ相手がわけのわからないうちに転んで「ええっ!?」となるのが入り口だ/よくよく考えれば、おれは小学生のときに絵画コンクールで大阪府の金賞を獲っているし、ホームルームで書かされた面倒くさい詩文もちゃんと自治体の雑誌で入賞しているし、手品をやらせても指揮者をやらせても、基本的にプロまがいというかそれ以上の、必ず「人並外れた才能がある」ということを見せるのだ、そういえばむかしタイ出身の女性に「あなたはセクシーで、実にタレンテッド、ギフテッドだわ!」みたいなことを言われたことがある、おれはずーっとこの中を生きているので、たぶん本当に人並み一般の、勝ったことがない人のことがわからないのだ。

何にも勝ったことがない人は、実に「異質」だ。

ふーむ、われながら面白い観点であり看破だ、多くの人は表面上、朴訥で柔和で、人柄がよく人懐こい善人(笑)ふぜいを醸しているが、このところはもう一皮むけばその中身は「ゲッ、マジでヤバいやつじゃん」みたいな人が増えている、毒まみれ・業(カルマ)まみれのおぞましい異質さが、このごろは各方面で隠し切れなくなっている/数的割合としては、「何にも勝ったことがない人」のほうが多いはずなのだが、困ったことにその多数派のほうが「異質」になるのだ、たとえばわれわれは直観的に「宗教のつどい」みたいなものを見ると、見た目は温厚でも「ゲッ、特級にヤバいやつだ」ということを感じるが、そうした「宗教のつどい」みたいなものに直観するヤバさは、そうしたつどいに雁首を並べている人たちが「何にも勝ったことがない人たち」であることに由来している。
「何にも勝ったことがない人たち」は、多数派であれ、そりゃ中身はヤバいに決まっているだろう、そこのところが、おれのようなアホにはわからない・視えていないのだ、おれは万事について自己評価をまったくせず、また転じてはけっきょく他人のこともいちいち評価なんかしていないので、漠然と誰でもおれと同程度に勝っているものだと思い込んでおり、だからこそ誰も勝ったことがあるとかないとか「気にする機会なんか一度もなくね?」と思っているのだ、それでおれは目の前にたまに出現するギャーギャーうるさいおじさんやおばさんのことを、本気でまったくわからないと感じて「???」と首をかしげているのだ/誰でも知っているように、ギャーギャーうるさいおじさんやおばさんというのは、何であれ「わたしの本当のことを暴かないでくれ!」と悲鳴をあげているだけだ、うーんそこまで考えても、本当に何にも勝ったことがない人のことは想像しきれない、それはそれで想像を絶するものがあるのだろう。

正しく見ないとな | comments(0) |
コロナ騒ぎは承認欲求チャンスじゃねえだろ39/海の外はいよいよパンデミック最盛期

日も、「コロナよ滅びなさい」と命令するためにこんな記事を書く、こんなもん命令して滅ぼすしかなく、その後はワクチンでキュッと〆ればOKだ。
東京に住んでいると、目黒も世田谷も渋谷も、「ふう、ようやくコロナ騒ぎも収まったね」みたいなムードになっているのだが、ちょっとわけがわからない、世界的には「ついにパンデミックキター」となっているのが今まさに今日このごろであり、日本人は完全にズレている/それは幸運に属することだろうが、この幸運に厚かましいあぐらをかくのはよくない、コロナが収まったという話は世界中のどこにもない、鎖国している江戸幕府しかコロナが収まったなんて話はしていない。
ともあれ、コロナなんぞは命令して滅ぼすしかないし、これで収まったというなら初めからそんな騒ぎはなかったということになるのであって、われわれは防疫を信じるのであってコロナを信じないという立場だったはずだ、ここで急に防疫を信じる魂を投げやりにすると、コロナを信じる人々によって逆襲を食らうリスクを生じる、そんなバカなことになってはいけない、引き続き、初めからコロナとかいうどうでもいいものは存在しておらず、あるのはただわれわれの防疫だ、防疫していると気分がいいから防疫しているだけだったはずだ/どうも一部の人の感覚では、役所がブーブー言わなくなったら自然現象も収まったものだと誤認することがあるらしい、そうではなく日本でコロナが抑え込まれているのはおれが滅びろと命じているからであって総理や知事がどう発言しているかの問題ではない。
というわけで、おれはまあ、公益のために今日も「コロナよ滅びなさい」と命じ続けるのだが、それは人々が防疫を信じることと引き換えなのでね、信じない人たちは信じないとおりの結果がもたらされるってもんよ、コロナが終息したというようなわけのわからない思い込みを持ってはいけない、海の外では今まさにコロナのブレイク真っ盛りであって、これは冗談でも何でもない、日経新聞のコロナ世界地図を見れば海の外の阿鼻叫喚が一目瞭然にわかるだろう。

それにしても、日本はなぜ、この世界的なコロナ惨禍から守られているのかまったくナゾだ、ふつうに考えると緊急事態宣言の解除後としてもっと大きなリアクションが起こりそうなものだが、なぜかそうならない/そもそも日本の人口密度や生活様式を見れば、日本なんか真っ先にやられそうなものなのに、なぜかわれわれは混雑した山手線に乗っても全滅しないし小中学校が授業を再開しても全滅しない、別のコロナで免疫があるとかBCGで訓練免疫ができているとかいろんな仮説が言われてきているが、それにしても「いくらなんでも不思議だ」という感がずっと残っている。
もちろんこのまま行ってくれるのが最善で、その他のいかなる悪展開も期待していないし信じていない/そしてこのままわけのわからないまま日本が助かった場合には、すべておれがコロナに滅びろと命令していたおかげだと言い張り、民草どもには値段の張るスコッチでもせびろうと思っているのだが、まあ権威ある命令ひとつでコロナ騒ぎを抑え込んだのなら酒をタカるぐらいの権利はあるだろう、さあそのことのためにもコロナは滅べ、偉大なるおれさまの御名が称えられるためにコロナは滅べ、そう言われるとコロナ側としても拒絶のしようがないであろう。
とはいえ、あくまで世界規模で考えれば、コロナ騒ぎは今まさに最盛期で、いよいよここから最終形態を見せるかというようなドキドキのシーンだ、こちら東京の街中のムードを見ていると「さすがにそれは違うだろ」と思うので、今一度あらためてノーコロナの掛け声が必要だ/ノーコロナ! 居酒屋でギャーギャーやっても無事な人がたくさんいるのが事実だが、しょせんそれらはすべて偉大なるおれさまのおかげでしかなく、調子をコイたらいつでも流れが変わっちまうぜということをこころに留めておかねばならない。
どうもおれの見る限り、「換気しているところには蔓延しない」というわかりやすい事実があるように見えてならないので、換気してマスクして手を消毒してりゃなんとかなるんだろう、コロナ騒ぎは断じて認めないが防疫騒ぎは今後とも今年のブームとして続くべきだ/特効薬がまだ見つからないのが難点だ、どうせみんな年末には「一年間あっというまだった」みたいなことを言うのだから、そのあっというまの数か月間をこれまでどおりなるべく防疫して過ごすように、もちろん油断してしまうのもわかるしそういう場面も出てくると思うが、コロナ騒ぎが終息したというような寝言は海の外を見てまったく違うということをさすがに理解するように、事実海の外では新規感染者数の増加は「今までにない数値」に及んでいるのだ。

先日まではムードでヒステリーを起こし、今日になってムードでお花畑になっているのは、コロナとは無関係のビョーキだ。

自粛警察などという、KKKのようなマッドな人々が日本の水面下に存在しており、それがムードひとつで田んぼの穴から出てくるなんて、この国の人々ヤベエと思わないか? まして今になって自粛警察の人々は「愚かでやりすぎたことでした」と頭を下げて謝罪会見をするわけではないのだ/コロナ騒ぎが終わった「ムード」だけが勝手にあって、コロナ騒ぎが終わったという事実はまだ世界のどこにもねえよ、「マラソンのような長期戦になる」と言っていた人たちはムードひとつでコロッと別のお花畑になったのか、そんなに自分のやったことを完全に忘れられる性質は不思議だ。
一か月前まで「日本のコロナ蔓延はそこまでではない」というスリルの状態であって、今は「日本のコロナ抑制はそこまでではない」というスリルの状態だ、ただそれだけなのに、なぜ万事が追い詰められた結婚願望おばさんみたいにヒステリーレベルでしか反応できないのだ、とにかくこんなムード次第のヒステリー風景は見たくないので、おれとしてはますますコロナを滅ぼしに熱が入るのだった/さあコロナよさっさと滅べ、偉大なるおれさまの御名を称えるために悪いものが滅ぶというのは、何もコロナに限らず悪いものすべてにとってよいことだ、だから喜んで滅べ。

コロナ騒ぎ(臨時) | comments(0) |
子分は親分が怖いという病的風土2/「親分の怖がらせパワー」
「自分が相手を病的に怖がれば、相手はニコッとするし、相手が自分を病的に怖がれば、自分はニコッとする」。
日本というのは、まさにこれだ、それこそが日本における「権威」の形態なのだと定義すればいい、このことを露骨にやれば日本人はヤクザじみるし、水面下でやれば日本人は田舎じみるというだけだ。
「権威」について例えるなら、キリスト教徒においては、イエスキリストが奇蹟を行うことで人々に示した神の子としての「権威」、この権威がクリスチャンにとってのすべてであるように、日本人にとっては「親分の怖がらせパワー」という権威が、日本人にとってのすべてだということになる/中世から現代の日本に続く聖書をもし書くとすれば、「親分の怖がらせパワー」が権威として書き綴られるべきであり、その一端がたとえば水戸黄門のような時代劇ということになる。
比較して、たとえば宮本武蔵が剣聖の境地に至ったことなどは日本においては聖書には取り扱われない、それは宮本武蔵の五輪の書には「親分の怖がらせバワー」に関する記述がないからだ、これはむしろ権威に対する冒涜と映るので、日本人には本質的によろこばれないものになる。

「親分の怖がらせパワー」!! この文言は実にアホくさく、その実質はさらにアホそのものと言うしかないだろうが、これを聖なる権威として奉っているわれわれが首をかしげていてもしょうがないだろう/ヤクザであろうが役所であろうが、家庭であろうが宗教施設であろうが、日本人が本当にやっているのはこのアホみたいな文言、「親分の怖がらせパワー」という権威だけだ。
さらにこのアホみたいなことの、実にアホらしい構造を突いていくと、「親分の怖がらせパワー」を発揮していくためには、ほかならぬその親分自身が、やはりそのまた親を病的に怖がっているということを必要とする、自分が怖がりパワーに侵されきっていなければ、自分として怖がらせパワーを行使することもできない、だから元はといえば徳川家康が破滅的に怖がりだったからこそ、家康は親藩も外様も根こそぎ怖がらせるパワーを持ちえて、現在の日本を形成したのだということになる、だいたいこういう呪術めいたパワーが発揮されるにはそうした「穴二つ」の仕組みがあるものだ。
そうして仕組みを整理していくと、思い出されてくることがあるが、そういえば丸の内に勤めていたとき、上司の勘違いから業務上のことでギャーギャー言われ、「ですから……」と説明しようとしても聞こうとせずギャーギャー言い続けるので、しゃーなしに堂々と溜息をついて聞いていたのだが、後になって事務方の女性に「なんであんなにあっけらかんとして、まったく "怖く" ないの?」と不思議がられたのを思い出す、おれはそのとき、「怖がるって言っても……別にクビになっても、まあかまわんっちゃあかまわんですし、仮に殴りかかってきたとしても、そのときは明らかにおれが勝っちゃいますし、ましてさっきのあれは完全に向こうの勘違いですし、正直 "なんだこりゃ?" としか思っていないですよ」と答えた/そして、言い出せばキリがないほど、これまでに典型的なパターンとして、相手がおれを怖がらせようというときに限って、おれはボカーンと「なんだこりゃ?」と、首をかしげてそれを眺めてしまうということを、とんでもない回数繰り返してきたことを思い出す、それは柳に風と受け流しているわけではなくて、本当におれにはわからないのだ、相手を怖がらせようとする魂胆も感覚も、おれにはどうしても「わかるような、わからないような……」というファンシーなネタにしか感じられない。
おれにとって唯一恐れることは、自分が愛すべき者でなくなるという可能性と、愛すべき人たちの友人でなくなってしまう可能性についてだけだ、愛すべき者でなくなりまた愛すべき人たちの友人でもなくなってしまい、その後ひたすら何十年も生きるだけ生きなくてはならないとなったら、さすがに「それだけはかんべんしてくれ」と恐怖に値する、それに比較すれば「親分の怖がらせパワー」と遊んでいるヒマはおれにはない、本当は誰にもそんなヒマはないのじゃないかとおれには思えてならないのだが、日本は本質的にはその怖がらせパワーを第一義の、つまり自己存在のすべてに懸けているので、これはもうおれが日本という国を理解していないのかもしれない、まあおれはおれの国が大事なのであって、おれの国でないものに向ける関心は本当は一ミリもない。

日本人の宗教精神は、「親分を怖がれば報われます」だ、だから日本の歴史にはギリシャ彫刻がない。

ギリシャ彫刻といえば、いわゆるアポロンやニケがそうだが、ああいう「光輝」に権威を認めるというところが日本にはまったくない、どう考えてもアポロンやニケが葵のご紋がついた印籠をニュッと出して「控えおろう」と人々を恫喝するとは思えない/そうして考えると、やはり宮崎駿がいた「もののけ」の世界のほうが日本の宗教精神を正しく描いているといえる、ただしそれは日本人の宗教精神として正しい描写なのであって、カミサマが本当にそうなのかは誰も知らない、カミサマは「んなアホな」と言っている可能性もある。
たとえば日本のお寺やその本尊、あるいは各家庭の仏壇を見てもわかるとおり、その第一義の印象はどう見ても「暗くて怖い」だ、どう見ても仏様の光輝という印象よりは、ドロドロ〜という古いオバケの印象がある、アーリントン墓地と日本の墓地の印象もまったく異なるのであって、日本人の宗教精神は「病的に怖がれ」「親分を怖がれば報われます」だと言える/おれはそのあたり、人に怖がられて親分扱いされることにウットリできるという気質がまるでなく、むしろ単純に光輝ある愉快な姿の、光ゆえのやさしさがある者でありたいと望んでいるのだが……これはどちらが正しいかというような話ではなく、ただおれが最近になって知ったのは、おれがおれなりに全身全霊で人生を賭けているように、「親分の怖がらせパワー」をやっている人も、やはり全身全霊で人生を賭けてそれをやっているということだ、もしおれが大ハズレだったらギャアアアという痛哭しか残らないであろうように、やはり「親分の怖がらせパワー」が大ハズレだったら、そちらの人もギャアアアという痛哭しか残らないのだろう、そこはフェアなものであって、互いに諍いを起こすようなことではないと思っている。
視点変えてこ | comments(0) |
子分は親分が怖いという病的風土
の中には上司と部下という関係があったり、親会社と子会社、師父と弟子、下請けと元請け、取引先にもカスタマーとサプライヤーという関係があったりする。
日本の場合、これらを異様なほど「親と子」にしたがり、自分を「親分と子分」にしたがるのだが、この精神的風土はおそらく徳川時代に最も陰惨な形で日本人の血に入り込んでしまったのだと思う、江戸時代の二百五十年が天下泰平だったというのはおそらく(わたしの感じるところ)真っ赤なウソで、おぞましい暗黒の上にフタをして偽りの中を作り笑顔で過ごした、何の値打ちもない二百五十年だった/ヨーロッパの中世がいわゆる暗黒時代と呼ばれたように、日本にもきっちり、時代遅れの憐れさも併せ持ちつつ、まったく別のテイストで暗黒時代があったということだ、そこで現在に至る日本人の精神的風土が決定的に形作られた。
徳川時代というといわゆる鎖国のイメージがあり、鎖国はもちろん病的なほどの引きこもり精神だったにせよ、より本質的な焦点はそこではなく、本当は徳川を親分として、「子分が親分を怖がるだけ」という二百五十年があったということだ、すべての子分が親分の顔色をうかがって、偽りにゴマスリを続けるだけの二百五十年だった/本当に何の意味もない二百五十年で、何もかもが根本から不毛、そしてこころの本質は「不快」でしかなかった二百五十年だった。
なぜこんな「親が怖い」というだけの不毛な暗黒時代が形成されたかというと、もちろん初代の徳川家康が病的に、怖がりの闇を抱えていたからだと思う、徳川家康が後の徳川家安泰のために施した政治は晩年に至るまで正気を逸脱している/もちろん当時、信長の治世が継承されてゆけば穏やかでない国になっていただろうし、秀吉の治世が継承されていけば野暮の国になっていただろう、何をどうすればよかったという話ではなく、ただ結果的に「親分怖い」という病的な精神的風土が二百五十年かけて入り込んでしまったということだ、この事実の上に日本は形成されている。

これは、日本が諸外国と比較して劣っているという話ではなく、たとえば現在のアメリカの暴動を見ていてもわかるように、人の世というのは潜在的にはいくらでも汚らしく、どこの国でも例外なく、ふだんは何かしら表面を糊塗して偽りに過ごしているだけなのだろう/アメリカが南北戦争やインディアンの駆逐をしていたころ、日本は江戸時代で、諸外国にビビった幕府が、なぜか身内にストレス発散の「弱いものいじめ」をしていた、そのあたり「マニフェスト・ディスティニー」へ吹っ切れてしまうのがアメリカの精神的風土であり、「親分怖い」の悲鳴ヒステリーと「弱いものいじめ」のストレス発散へ吹っ切れてしまうのが日本の精神的風土なのだと考える。
現代から江戸時代を振り返ると、徳川家のやりようはすべてヤクザのするそれだと誰の目にも明らかだが、これは話が入れ替わっており、徳川家がヤクザだったのではなく、現在知られているヤクザの風土が徳川家の封建制風土を引き継いでいるのだ、徳川家がヤクザなのではなくヤクザが徳川家と捉えるのが歴史からの順序だろう/そしてあちこちの家庭や企業で、やたら親が子を怖がらせようとし、上司が部下を怖がらせようとし、元請けが下請けをいじめようとするのは、何か正当な理由や事情があるわけではなく、ただの精神的風土なのだ、「子分が親分を怖がってヒステリーの悲鳴をあげる」「子分が親分の顔色をうかがって偽りの親睦だけを過ごすようになる」というのが、日本人にとって泰平の人の世という感覚なのだ、日本人は毎日この「親分怖い」を成り立たせるためにだけに生きているところがある。
現代の日本人でも、何か江戸時代の封建社会に肩入れをし、郷愁を覚えるところを大いに持っているので、そこはかとなくわれわれの脳内には「時代劇」が残っているのだが、この「時代劇」というのはもちろん当時の真相をレポートするものではまったくなく、当時から日本人が抱き続けることになった、「親分怖い」の天下泰平ファンタジーをそのまま現代に引き継ぐだけのものだ、たとえば「暴れん坊将軍」なる時代劇があって、八代目徳川吉宗がそれまでとは毛色の違う将軍(といっても紀州徳川家から割り込むことになっただけにすぎない)が存在したのは事実だが、吉宗自身がそうして将軍に就任するまでには、「ひょっとしたら……」と思わせる謀略や暗殺の暗い影があるし、吉宗が行った改革は保科正之の idea を再興させただけでしかないし、何より吉宗が晩年に見せたのは強烈な権力への執着であって、自分の子孫たちに権力を継がせるためだけに「御三卿」なる強引なシステムを我意のまま導入し、のちの徳川家の構造をめちゃくちゃにややこしくした/これらのことをすべて見ないようにして「暴れん坊将軍」なる夢想は成り立っている、それはおそらく当時の人々が縋っていた将軍日本・天下泰平の夢想とたいして変わらないのだと思う。
江戸時代の天下泰平やら、町人文化やら旗本退屈男やら、そういったものは "全部ウソ" で、本当は「親分怖い」の病的精神、弱いものいじめをして子分にヒステリーの悲鳴をあげさせると落ち着くという、徳川家康のゆがんだ精神が、ひたすら二百五十年間も押し付けられただけの、何の意味もなかった時代なのではないかと、おれは考えるようになっている/おれは今、歴史の話をしているのだが、過去の話をしているのではない、今現在も「親子」や「親分と子分」があり、元請けやら下請けやら、師父と弟子、カスタマーとサプライヤーなどがあって、これらが泰平と文化を為しているという夢想が、 "全部ウソ" なのではないかと考えているのだ、少なくともおれが実際にこれまで見てきて「???」と感じさせられてきたすべてのものは、この徳川封建制の地縛霊と考えるとすべてつじつまが合うのだ、人々は親や上司や取引先や先生のいる世の中を生きているのではなく、本当には「親分怖い」というゆがんだ精神的風土の中を無意味に生きつないでいるだけにすぎない、親分は子分を怖がらせるためだけに存在して、子分は親分を怖がるためだけに存在しているのだ、これをもって何をしたいのか、おれはずっと「???」と首をかしげて生きてきたことになる。

あなたが相手を怖がれば、相手はニコッとし、相手があなたを怖がれば、あなたはニコッとする。

ありていにいえば、日本の風土が露出した地域や人柄というのはそういうことで、さらに簡略化して言えばその本音は、「わたしのことヒステリーのように怖がってくださいね〜」「そうしたら平和で穏やかですからね〜」というだけでしかない、精神が病的に親分を「怖がる」ということのためだけにこの国は存在している、少なくともあなたがこれから(あるいはこれまでに)わけのわからない人を目撃したとき、このことを知っていたらすべて説明がついてしまう、そうしたわけのわからない人は、当人が病的に親分を怖がっており、また自分自身についても、子分から病的に怖がられたいと思っているのだ、そのことにもはや理由というような理由はなく、ただの精神的風土、その病的怖がりそのものが第一義に求められているのであり、たぶんそのほかのことに考えが及ぶようなことは生きているうちに一度もない。
思えばおれがこれまでに出くわしてきた、「???」のパターンはすべてこれだった、おれにとってはそれはずっと意味不明の「???」で、ずっと目の前で何が起こっているのかわけがわからなかったのだ、それが今、相手はおれをなんとかして「怖がらせよう」としていたのが、いちおう理屈として理解できる、そして多くの若い人がおれの前で精神的に恐慌していくことの「???」も、おれが相手を怖がらせないから逆にパニックになるのだと今になってわかる/といっておれは、その日本的精神風土、子分が親分を病的に怖がってバンザーイというわけのわからないものにどうしても馴染めないというか、その素質がないので、おれとしてはどうしようもない、おれは水戸黄門に印籠を出されても何を怖がればいいのか感覚的にわからない奴なのだ、それは日本においては一種の障碍者なのかもしれないと思う……けれども、いまだに日本人が大マジにそんな「病的に怖がれ」の風土をよろこんで生きているということに、やはり本音としては単純に「バカじゃねーの」と思ってしまう。
視点変えてこ | comments(0) |
WS報告 of 175th /Reason, otherwise Poison
が動いているメカニズム、つまり人が動いている「理由」、その理由は Reason か、そうでなければ Poison しかないと話した。
「理由の中に自分がある、自分の中に理由があるのじゃない」「Reasonの中にいる人もあるし、Poisonの中にいる人もいる」「それぞれは、Reason こそ "おれ" だと感じるし、Poison こそ "おれ" だと感じる」。
 Poison 派の特徴は、「みんな同じことを言う」というところだ、たとえば「働かないと食っていけないだろ」「趣味でやっているだけだよ」「パチンコ打ちたいからパチンコ打ってんだよ」、なぜそうして "同じことを言う" かというと、われわれの生身の性質はみな同じだからだ、誰でも突き指をすれば炎症を起こすように、誰の生身でも体内に毒が湧いて焼けるというのは同じ、だから Poison 派は画一的で連帯感が強くなる。
そして、 Poison 派はそうして生身の毒焼けが「わたし」であるので、Poison 派は互いのことをジロジロ見合うと、その人のことがよくわかるという性質がある、生身とその顔面をジロジロ見ると「その人」がわかるのだ、画一的で連帯感の強い地域にヨソ者がいくと「ジロジロ見られる」のはこれが理由だ/一方で Reason 派は、生身の毒焼けが「わたし」ではないので、その人の生身と顔面をジロジロ見ても、「その人」のことはわからない、両者はそれぞれまったく別の存在なのだ、子供のころや若いうちはごまかされるけれども、気が付けばいつのまにか、加齢とともに自分の住んでいる国はどちらかに決定している。

画一的で連帯感が強い地域に行くと、第一に "ジロジロ" 見られ、次に " Poison をぶっかけられる" というという手続きをほどこされる、この「ジロジロ」と「 Poison ぶっかけ」は、驚くべきことに Poison 派の "マナー" なのだ、若いうちは誰でも「んなアホな」と思うものだが、やがてそういうものに出くわして体験することになるし、やがて自分自身もそうなる、その "マナー" を自らぶっかけていく側の人になる。
犬と犬とが、互いに肛門をかぎあって互いを知りあうように、人だって Poison 派は、互いの毒をぶっかけあって互いを知りあうのだ、これは大げさでもなければ極端な例でもなく、それが標準のことなのだ/たとえば芸術家が互いに表現した Reason を見せつけあって互いを知りあうように、 Poison 派は互いに蓄積した Poison をぶっかけあって互いを知りあう、人はどうしてもどちらかの国の果てまでゆかねばならない、そうでないと生きていけないからだ。
人は、誰でも知るように、努力によって能力を解発したりはできない、人は能力を解発できないので、そのままでは生きていけないのだ、だから能力を解発する方法が加齢するほど濃厚に必要になってくる/そして、能力を解発する方法のひとつが呪術、閉じ込める・鎖でつなぐなどして、業(カルマ)の毒(Poison)を溜め込ませて能力を解発させるか、もうひとつが Reason 、理由の中に自分を存在させて能力を解発させるかなのだ、人はこの Poison が Reason のどちらかに住ませるしか能力を解発できず、この解発なしには生きていくことができない。
どんなボンクラ女でも、金融業の窓口に鎖につないで閉じ込めておけば、金融事務作業の鬼になるし、どんなボンクラ男でも、たとえば警察に就職させてその生涯をずっと警察官として過ごさせれば、人をしょっぴくための法律の構造をイヤでも詳しく知る専門業者になるものだ、それが業(カルマ)であり呪術であり業者という現象だ、この能力が解発されると、基本的に元には戻らない/習字が達者になった人がもう二度と字がヘタクソには戻らないように、あるいは音感がよくなった者がもうオンチになることはありえないように、解発された能力は基本的に解発前には戻らない、同じように Reason から解発された能力も、基本的に解発前には戻らない、「あなたと歩く世界はどうしてこんなに急に鮮やかになるの」というような Reason からの能力も、基本的にはもう閉じられることがない。

極限まで短縮して言えば、「生きる仕組みおよび能力が啓かれる方法には、RタイプとPタイプがある」ということに尽きる。

 Reason タイプと Poison タイプは、互いに排他的であり、基本的にはどちらか片方に集約されていかざるをえない、子供のころはともかくとして、加齢とともにRの果てかPの果てのどちらが向かうようになっている/この二つのタイプが厳然と存在していて、そこをだまくらかした<<漠然とした「いい人」などは存在していない>>、そんな存在があるように見えるのは入念に化粧がほどこされたフェイクにすぎない、どのように偽装されていも内部は必ずきっちりRかPのどちらかの果てに向かっている。
「リーズンとポイズン、お前はどっちのズンで動いているんだ」というだけのことで、誰も自分がポイズンで動いているとは思っていないのだが、たとえば「じゃあお前はなぜ音楽を聴くの、その Reason は?」と訊くと、それだけでも「ええっと……」と口ごもるものだ、そうしてなんとか強引に答えてみようとするのだが、それはごまかしだ、答えようとするときに必ず体内に毒が巡るだろう、今回はその Reason という仕組みを、おれの持っているかぎりまとめて開示したのだが、みんなにとってそれらはほとんどすべて未体験の知識だったようだ。
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最も憐れまれるべきはむろん業者解脱者
年の業者はプロにならず、悪徳業者どころか、カネに仕える「解脱者」になった、と以前の記事で述べた。
このことは、よく知っておかねばならず、ふと気づくと自分の周りはカネを保持しあい困窮を押し付けあう者たちしかいなかったということに直面させられたとき、パニックにならないようにするべきだ。
最も憐れまれるべきは、むろんそうした、カネに仕える解脱者になってしまった業者たちだ、彼らは自分たちがどうなってしまったかをまったく自覚していないし、ましてなぜそんなことになってしまったのかなど知る由もない。
それどころか、そうした解脱者たちは、自分のことを他人の誰よりもまともな、人情味あふれる善人だと信じ切っていて、自分がひょっとしたらカネと困窮のクレイジーマンでしかないのではということの想像は、あまりにも恐ろしくて耐えられないのだ、彼らは業者らしくいつもニコニコしていて人当たりがよいが、それらは完全に単なるウソの仮面であって、しかもそのウソはもはや、彼らがついているウソではないのだ、彼らは本心から何もウソをついている自覚はなく、本心から自分は清潔な善人だと信じ切っている(それ以外にもう、自分について耐える方法がないのだ)。

業者はカネに仕える解脱者になるが、それも心情的にはやむをえない理由がある/そうしたやむをえない理由を肯定することこそ、彼らに対する無慈悲を決定することになってしまうが……
彼らは、自分がそのようにしてきたぶん、他人が自分を助けてくれないということを骨の髄まで知っているのだ/業者というのは「お困りのときは相談ください」といい、相談してきた者に対しては「自分がいないとずっと困るという状態にしてやろう」ともくろむので、業者が業者として余裕を持つためには、人を困らせることが必要なのだ、業者に余裕があるというときは必ず誰かが困っているということだ、当たり前だが誰も困っていなければ業者はすべて破綻してしまう。
業者はそれぞれ、この道〇十年という生き方をしてきて、その中で自分たちのやることのすべてを見てきた、なるべく直視は避けてきたが知っているのだ、業者が余裕を持つということは、「困っている人をより追い詰めてさらに困らせること」なのだ、業者は誰よりもこのことを知っており、何であれば「このこと以外は知らない」と言ってもいい/だからこそだ、自分が「困る」立場になるということが、何をもたらすものかよくわかっている、また実際に〇十年の果て、彼が生きている実際の環境がそれなのだ、彼が「困っている」と知られた瞬間、友人めいていた人たちはたちまち遠くに離れてゆき、陰口を叩いて笑うようになり、困れば困るほど「巻き込まれちゃたまんないよ」と誰も助けなくなり、けっきょくは膨れ上がったババを自分が掴まされることになる、そのことの不快感は、生理的という以上に猛烈に濃厚な呪いを含んでおり、一度そうなってしまうともう自分は怨恨に滾る血液を死ぬまで抱えて生きるしかなくなるのだ。
困ったときは助け合い、どころか、困っている人だけを孤立させるよう、周囲がただちに一致団結するというのが、彼ら業者・解脱者の生きる世界だ、そして彼らはそのことについて、「まあひどいもんだぜ」と肩をすくめて生きていけるほど強くない、どうしても自分だけはこころある生を送ったと信じてすがりたいのだ、周囲にいた人懐こいような知人たちのことを、自分の世界にいた自分の友人たちだったと信じたいのだ、<<自分のやっていることこそが、ことごとくその正反対に向かっているのだが>>、しょうがない/困ったときには助け合う世界というものを、ほかならぬ彼の知人たちすべてがこぞって許さないだろう、そして彼自身、口ではどのように言っても、困ったときには助け合う世界というものを、否定してきたやはり第一人者なのだった。

彼らは困窮を押し付けることに本気の必死になってきた、その結果、豊かにはならなかった。

このことは、競争社会というよりは「ババ抜き社会」というようなもので、隣に弱い女でも座っていようものなら、目をむいて怒鳴りつけてでも自分のババをそいつに持たせようとするのだ、それで自分は正義をしたと信じて(マジです)、ニコニコできるのが業者でありその先の解脱者だ/彼らにとっての真実は、「カネに仕えること=自分だけは困らないこと」なので、本当にそれで「自分は仕えるものの通りにできた」と感じられ、魂の奥からニッコニコになるのだ、それは競争社会という原理をはるかに飛び越えており、まさに悪魔に魂を売った者の行状だ。
こんなこと、誰も知らないほうがいいようなことだが、事実としてそういう事実に直面する機会がどうしても出てくるので、むしろ健全さのためにこそ、このことを先に知っておくべきだ、このパターンは本当にこのパターンで、数回も直面すると「まーたこのパターンか」と見えて、驚くどころか「もう飽きたよ」という嘆息さえ覚える、知ってしまえば実にくだらないものだ/本当に呪われているのだ、誰でもその業者世界の環境に置かれたらそうなっていってしまう、よほどの知性や恩恵がないと単独の知恵だけで突破できるものではない、呪いの最たる証拠は、他人にババを引かせると魂の奥からニッコニコになるという行状だ、ふつうそんなおぞましいことをしたらゲッソリやつれそうなものだろう? そうではないのだ、彼は契約上、彼の仕えるものに対する信仰と祈りを成し遂げたということで、なぜか気分よく浮かれてニッコニコになるのだ、このことが一般的な感覚の予想をはるかに超えてくる、魂を売った先の悪魔が、悪魔どおりの行動をした彼に魂の報酬を与えるのだ(彼の周囲は全員がそれだから本当にどうにもできない、といってすでに外部から助けられるような浅さにはいない)。
正しく見ないとな | comments(0) |
コロナ騒ぎは承認欲求チャンスじゃねえだろ38/特に続報なし

れというほどの続報はなし……相変わらず日本は "なぜか" 救われていて、西洋世界では猛威を振るい続けている、世界全体では累計罹患者が840万人超、死者が45万人超だ、アメリカなど単独で罹患者が200万人を超えていてしかも別件で暴動まで起こっているそうだから、人々は相当な末世感の中にあるだろう/今は欧米に加えて南米ブラジルなども猛追を見せている、わかりやすさのために猛追という表記をさせてもらう。
日本の罹患者は累計で17,689人、死者が935人、しかもその死者のほとんどは高齢者なので、この数値をもって「惨禍」とは言えない、個人的には大病であっても疫学的には欧米諸国には失笑されるような数値だ、例年のインフルエンザでも国内死者は3000人ぐらい出るのだから、さしあたり現状は「われわれの勝利」で進んでいる/これはもちろん「これだけ対策をして抑え込んでもこの数値」ということなので、新型コロナをやたら軽視しようという思考ではない。
都市別に見ると、要するに繁華街のないところではほとんど感染が出ておらず、新規感染者数では東京が独り抜きんでている、とはいえその独走も一日あたり新規患者50人に満たないほどで、実効再生産数も1.5前後で推移している、再生産が1.5ということはつまり100人患者が出たらその100人が次の患者150人を産み出すということだ、この数字が1を下回ることが「コロナ患者が減っていく」ということだが、ふつう再生産が1を下回るような状況をパンデミックとは言わない/われわれは新規患者数それじたいが日に日に増えていくと「キャー」と思うのだが、それをキャーと思うことじたいすでに世界の状況から大きくズレている(感染規模が拡大しないパンデミックなんて本来あってたまるか)。
というわけで、日本は引き続き "なぜか" 救われていて、なぜ日本が救われているのか、その理由は今もやはりわからない、「なんでだ?」とすべての学者が首をかしげている/東京アラートうんぬんの基準はかなり練られて作りこまれているようだが、個人的には今のところ、東京で新規50人越えが続いたり、全国で新規100人越えが続いたりしたら、少しだけブルーになろうと思っている、それ以上のことは特に考えていない、アルコール消毒等もすっかり手癖になってしまった。

治療薬についても、大きな続報は特になし、レムデシビルはいちおう第一の治療薬とされ、アビガンについては「効いているような、効いていないような?」と引き続き検証が続いている、イベルメクチンは今グイグイ検証していますという状態だ、とはいえたぶん日本国内にはそもそも罹患者じたいが少なく推移しているので、検証するといってもどうなのか、ひょっとしたらアビガンでさえ海外での承認のほうが早いかもしれない(いつぞや言われていた六月末アビガン承認はどうも苦しそうな状況らしい、まあこんなに患者が少ないのではいうほど大規模なテストもできないだろう)/いちおう「ヒドロキシクロロキン」についても述べると、かつて緊急使用の許可が出ていたのに効果なしという論文が出て、けれどその効果なしという論文が取り下げられたり、そのあとやっぱり緊急使用の許可が撤回されたりしている、つまり迷走している、何であれすべては「残念ながら特効薬ではないっぽい」ということだ。
欧米のほうでは今、これらのビミョーな治療薬に加えて、同時にリウマチの薬を併用するのが有効だというチョイスらしい、ここ最近になって急に「デキサメタゾンという安いステロイド剤が重傷者の存命によく効く」というレポートも出てきた、つまり特効薬への期待はいったん忘れて、治療というよりダメージを減らして生還者数を増やすというおそらくは現場レベルからのノウハウだ/あとはワクチンが待たれている、ワクチンについてはもう「変異するから効かないどうこう」と言う人は根気が尽きてどこかへ消え去ったらしい、ワクチンはアメリカが完全にフルスロットルをかけているので、本当に九月や十月にはそれなりにワクチンの接種をやり始めるかもしれない(とはいえそれはアメリカの話であって日本にまわす余剰分はないだろう)。
その他は特に続報なしだ、続報はないのでやはり漠然とした誰かの漠然とした承認欲求記事があちらこちらで苔や藻のように発生してきている、まあそんなものはコロナ騒動から見たら些末なものなのでどうでもいいが、今のところコロナ関連のニュースや意見記事を拾ってまわったところで時間の無駄にしかならない感じだ/コロナ騒ぎはひとまず黎明期を終えて成熟期に入ってしまったので、良くも悪くもデイリーでドキドキが入れ替わるというようなスリルの対象ではなくなった。
おれは三月当初、「梅雨入りしてから考えるぐらいでいい」と言っていたので、そろそろこのコロナ騒ぎについてどうするかを考えなくてはいけないのだが、今のところ緊急事態解除後のリアクションを見ながら、「要するに換気がないとダメなんだろ」ということを第一にして、あれやこれやの復旧を考えている/繁華街はできたらこぞって、「ウチは換気してます!!」というPR看板が居並ぶようになればいいなあ。

エアコン直下に居続けないこと。

エアコン、この時期はクーラーだが、基本的にエアコンクーラーというのは、室外機が回っているけれど、あれは外部と換気するための装置ではない、あれは外部に排熱する装置であって室内の空気は循環式だ、だからこれから暑い時期が続いても、エアコンの直下に居続けないほうがいい、じゃあどこにいればといって最善はもちろん空気が吹き込む側の換気窓の近くにいることだろう/先日の「試してガッテン」で、部屋の空気を循環させる方法について、よいレポートがされていたのだが、NHKもこれくらいはYoutubeに無償公開すればいいのにと思う(公共放送なんだからよ)、あるいは厚労省がこの回だけ版権を買い取ってしまえばいいのにと思う。
というわけで、続報は特になく、誰も彼もこころのマイブームは「換気」であるべきだ、そしてこうして続報のないところになぜおれがこの記事を書きたくなったかというと、単に繰り返し「コロナよ滅べ」と言いたかったからだ、おれが定期的にコロナに滅びるように命じないと、逆の勢力によってウジウジとコロナが残存拡大し続けてしまうのだろう、さあおれが命じているのだからさっさと新型コロナとやらは滅ぶように、おれはそれを願っているのではなく偉大なるおれさまの権威に基づいて命じているのだ、滅べ滅べ〜。

コロナ騒ぎ(臨時) | comments(0) |
期待しないこと、信じること
とえば電子レンジに弁当を入れてチンとするとき、弁当があたたまることを「期待」はしない。
われわれは電子レンジでチンすればあたたまるということを「当然だ」と信じているので、いちいちそのことに「期待」はしない。
だから何かを「期待する」ということは、根本的に「どーだかわからない、あやしい」と疑っていることを前提にしている、これだと起こるべきことも起こらないということがあるので、タイプとして損だ。
「疑う」というのは、やるのかやらないかを判断するときには有効だが、やると決まっていることなら、信じないと損だ、たとえば虫刺されにムヒを塗るのだって、信じないで塗るのは何か頭がおかしい、信じないのであれば塗るべきではないのであって、塗るからには信じるべきだ、そのどちらともつかない宙ぶらりんが「期待する」であって、これは思いがけず最も損をするタイプになる。

たとえば温泉好きの人は、前提として温泉を「信じている」ところがある。
もちろん自噴しているかけ流しの温泉は、自宅のバスタブに張って沸かす水道水とは違うわけだが、それにしても温泉好きだからといって、自宅の風呂を「信じない」というのは頭がおかしい、どうせ自宅の風呂に入るなら自宅の風呂だって信じて入ったほうがトクだ、世迷言でけっこうだがそうして信じたものには信じただけの効用が返ってくるところがある。
われわれは社会的身分を持つ学者ではないので、自分が信じるぶんには、再現性のある定量やデータなど必要ないのだ、自宅の湯舟にでも入れば疲れが取れると「期待する」のではなくて、「こんなあたたかい湯の風呂に入ったら疲れは取れるし病気も治るで〜」と信じて入るほうがトクだ/何度も言うが信頼性のある定量データなど必要ない、疑って風呂に入るのはヘンだし、かといって期待して風呂に入るのも必死すぎるし、どうせ入浴するなら信じて入浴したほうがトクだという話をしているだけだ。
ここは、「九折さんがそう言っていたのだからマジだろうし間違いなかろう」ということで、自宅の風呂でも入れば疲れは取れるし病気も治るらしいと信じて入浴すればいい、そのとたん、思い込みでも何でもけっこうだが、肌を覆う湯たちが信じられたことに応えようとするはたらきを見せることがわかるだろう。

信じずに入浴した場合、それは入浴など「していない」ことになる。

なぜ大真面目な医大でも大病院でも、わざわざプラセボ(偽薬)という子供みたいな実験を並行で行うかというと、そりゃ片栗粉でも「治る薬だ」と "信じて" 服用されると、何の作用か片栗粉も信じられたことに応えようとするのか、病気が治ってしまうことがあるからだ/逆に、毒ガスでも何でもないただの水蒸気や煙を、「毒性がある」「発がん性がある」と信じさせて吸引させれば、偽毒効果と呼ぶべきものが当然あるだろう、プラセボで病気が治ることがあるからには、逆に無害なものでも病気になることがあるということだ。
たくさん本を読んで勉強すれば頭がよくなるとか、練習すれば歌やおどりが上手になるとか、「期待して」それをしても、驚くぐらい何も得られないだろう、それを「期待する」というのは内心で「妥当に計算している」ということだ、自分が努力したぶんは何かしら報われるはずだという概算を見積もっているにすぎない、それは信じている者の発想ではない、だから何も得られない/このことを追求していくと、そもそも自分が何をするにしても、それを「信じて」やっていない場合、実は自分はそれをやったことになっていないということがわかる、いくら努力したつもりでも疑いと期待の中で実は何も「していない」のだ、それが別に悪いというわけではないが、損得でいえば明らかに損だ。
正しく見ないとな | comments(0) |
無神論者でも仕えるものがある3

まり、もう「悪徳業者」という言い方は古く、通用しないということだ、実態はすでに大きくかけはなれて進行している。
現在すでに、悪徳業者ではなく「解脱者」なのだ、悪徳業者と呼ばれていた時代はまだ人間味を残していたが、今はすでにそうではない、解脱者というのは人間味を超越しているから解脱者だろう/そりゃこれだけ世の中がカネに仕えるように言い立てれば、純朴な人たちほど、その解脱へ踏み出していくのは当たり前のことだと言える。
都会よりは田舎のほうが純朴な人たちは多いが、そうはいっても日本の都会は田舎なのであまり変わらないかもしれない、それでも典型的な田舎気風の地域のほうがその純朴度は高いだろう/何度でも繰り返して言うべきだと感じている、純朴な人々は、その純朴さのまま、世の中が言うことに従って、「カネに仕えること」へ献身的な十数年間を歩んできた、そうして純朴な人たちから順に解脱者になっていった。
田舎には純朴な人たちが多く、日本の都会だって田舎だから、日本人のほとんどは純朴な人たちだ、そして純朴な人たちは悪徳業者になんかならないから、日本人のほとんどは悪徳業者ではない、見積もりを取るとぼったくり金額しか出てこない実情があるが、そこに現れているのは悪徳業者ではなく解脱者なのだ、悪徳業者なんて人間味を仮定した言い方は今このときすでにまったく通用しないだろう/警告しておく、解脱者を相手にまともな話ができるとはわずかも考えてはいけない、まともな話ができる時期はもう過ぎたのだ。

新約聖書に書かれているパリサイ派がそうであったように、たとえつつましい暮らしの中で神仏を熱心に拝んでいる人でも、すっかりカネに仕える者として解脱に至っていることがよくある/神仏の像を拝み倒したところで神仏に仕えていることにはならない、それは当たり前のことだ(しかも偶像崇拝といってわざわざ戒められているようなことだ)。
不思議なものだ、おれは神に仕えるなんて感覚はもっていないし、過去にそんなことに興味を持ったことさえないのだが、カネに仕えるという感覚はどんどんわからなくなっている/だから同様に、カネに仕えている人も、カネに仕えるなんて感覚はもっていないし、そんなことに興味を持ったことさえないのだろう、にも関わらず人の「仕える事」は自ずと出来上がっていくようだ。
そもそも、神に仕えるなんていっても、われわれの脳みそはすでに、そういったことをマンガ的なイメージでしか捉えられなくなっている、何かよくわからない十字架をデカデカとプリントした衣装を着たアホみたいな牧師キャラ、みたいなものしかイメージできない/どう考えてもそれは、神に仕えている者が持つビジョンではなく、マンガに仕えている者が持つビジョンだ、どうやったら神に仕えることになり、どうやったらカネに仕えることになるのか、そんなことはもう誰にもわからない。
まあこんなこと、どうしようもないこととしか思えないが、おれの知っているかぎり、「わたしは神に仕えます」なんて言うやつは、どんな立場であれマンガイメージに汚染された冗談にしか見えないので、そういう悪趣味なジョークをかますことは、明らかに「あはは、神に仕える気はないわな〜」という皮肉表現としてのみ成り立つだろう、だから「神に仕えます」なんてたぐいのジョークはやめにしておいたほうがいい、カネに仕えてしまう奴はどうしてもそうなってしまうし、神に仕えてしまう奴もどうしてもそうなってしまうのだろう、その証拠を明らかに示してやりたいので、さあ誰かおれの口座に二千億円ぐらい振り込んでくれよ。

仕事でカネを稼ぐのがカネに仕えるということで、仕事で神を稼ぐのが神に仕えるということだ。

カネを稼がずに生きていくことはなかなかむつかしいことで、そのことを業・生業・あるいは十字架と呼んだりするようだが、であればカネを稼ぐのは業務で稼ぐべきであり、仕事でカネを稼ぐべきではないと思う/といって、仕事で神が稼げない奴が多いわけで、そういう奴は「仕事のできねえ奴だなあ」という、よく使われた言い方でバカにすることにしよう、仕事のできねえ奴だなあ。
口座というのは必ずしも銀行口座だけではなく、つまりカネが振り込まれる口座だけではないようなので、神(単位はわからん)が振り込まれる口座があるとして、その口座にガンガン神が振り込まれるように仕事しまくるというのが、神に仕えるということなのだろう、日本語にはそうして「仕事」という言葉があるからわかりやすい/カネは業務で稼いで、神は仕事で稼ぐべきだとおれは思っている、かつては多くの人々がそう考えてきたであろうのと同じようにだ、おれは純朴ではない都会のシティボーイ(死語)なので、こうして世の人々の言うこととまったくかけ離れたことを一人で平気で言うのだった。

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