☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
第73回Quali's Party[10月14日(土)]無事盛会!

10/13 Quali tweet> 急に冷え込むなよ〜体調崩れるだろオイ pls entry



(ポスターはなかった、でもそんなことは
問題じゃなかった。いいね?)


joined: ひろみ、あきら、ゆか、まいこ、ゆうさく、くおり
日時:2017年10月14日(土)19時〜23時
場所:原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB



おかげさまで無事盛会でした! 次回もよろしくお願いします。
鉄板揚げギョーザをサービスされちゃったぜ〜 九折


キラキラ次回(11月18日[土])加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


費用男性5000円 女性3000円
参加資格ブログorサイトのファンであること
→その他詳細はこちらから

宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
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そのほか | comments(0) |
あいさつの中に見えるもの
いさつのときに、もう根っこの決着はついている。
あいさつについては、,舛磴鵑箸任ている △舛磴鵑箸任ず、くぐもっている あいさつでなく自己PRになってしまっている、という三つに分かれる。
の自己PR化を、逆手に取ったのが、現代のアイドルパフォーマンスのやり方だといえる。
あいさつのありようは、この世に生まれ落ちてきたことと関係があるので、単純な訓練では決して改善されない、ヘタに訓練をしてもたとえば駅前で絶叫している共同募金の要求みたいなあいさつしかできなくなってしまう。

人間は、生後六ヶ月まで、「わたし」が「この世界」に生まれ落ちてきたことを識っている、このことを「識」という。
そして、「わたし」と「この世界」があるからこそ、「この世界」に他なる「わたし」が存在していることが見える、つまり目の前の「こいつ」が存在していることが識のレベルで見える。
「識」を失ってしまった人は、「この世界」が消えてしまうので、「わたし」だけの存在になる、そうなると自我だけが膨張し続ける存在になり、目の前の誰かも「こいつ」と見えることがなくなってしまう。
人それぞれが「識」を有しているかどうかは、あいさつの時点ですでに見えている、あいさつがまともにできる人は、「わたし」が「この世界」にいて、目の前の「こいつ」にあいさつをしている、声のデカさなんか関係ない。

映写機だけがあり、スクリーンがない映画館。

「識」を失った人、つまり「わたし」が「この世界」に生きているということを見失った人は、それぐらいわけのわからなくなった日々を生きているのだ、自分が何を映写しているのかわからず、それでもカタカタ、カタカタ、毎日映写機としてだけ機能し続けようとする。
スクリーンがないため、自分のことは他人に伝わらないし、自分の不出来を自分で識ることもできない、いくら映写の電圧を高めても無駄だ、映写機は不毛のまま焼き切れるまで稼働しつづけるしかない/「こんにちは!! ねえこんにちは!!」、みんなスクリーンを見ようとしている中、映写機は「誰もわたしを見てくれない」と真剣に叫んでいる。
正しく見ないとな | comments(0) |
「人間のこころとは何か」
んだかんだ、パーティが楽しみだな……
明るい話にしなくてはならないし、大げさだが、人間のこころを取り戻さなくてはならない。
誰も人間のこころを失ったりしてないわい、と言いたくなるのも、重々わかるのだが、まあまあ。
「人間のこころとは何か」ということについて、誰だって思うところはあるだろうが、それについて入念に、十年がかりで再定義を得たなんてヘンタイはいるまい、僕は最短で美女の役に立ちたい。

たとえば僕は、小説を書いたり、こうしてブログを書いたり、とにかく文章を書いているが、実は人間世界に「文章を書いている人」などというものは存在しない。
これ、何を言っているかわからないと思うが、ここが現代社会の闇を直撃している部分なのだ。
あなたから見て僕は「九折さん」のはずだが、実は僕が文章を書くのをやめたとしても、あなたにから見て僕は「九折さん」のままなのだから、そこに「文章を書いている人」などというよくわからない存在はないのだ、虚妄だ。
たとえば僕が大工に転向したとしたら、僕は「大工をやっている人」になるのか、そんな「○○をやっている人」などという存在は虚妄だ、たとえばわれわれが「フィギュアの本田真凜ちゃん」などとうれしそうに呼んでいるのは、一人の人間を見られなくなっている、一種のビョーキなのだ。

この世に何かをしている人などいない。

「人間のこころとは何か」、その再定義は、「わたしとこいつ」によって得られる、そのとき目の前の「こいつ」に向けて、「何をしている人なんですか?」と視点変換が起こるのは、一人の人間を見られなくなっているビョーキだ、母が子に「この子は将来何をやらせようかしら」としか見られなくなるビョーキと同じだ、将来何になったってそいつはそいつでしかないのに。
一人の人間を見られなくなった代替に、われわれは偶像化視点(アイドル化して人を見ること)を用いている、つまり「文章を書いている人」も「フィギュアの本田真凜ちゃん」も「AKBの○○ちゃん」も全部同じなのだ/それは業者を指定するときの呼び方なのだが、この呼び方で友人関係を作ろうとするからごちゃごちゃになってしまう。
視点変えてこ | comments(0) |
副流煙付コンフェッション
は、ご存じのとおり、善人ではまったくなく、悪いことをたくさんしている身なので、根本的には「自分みたいなモンが」と思っている、このことはすでに習慣なので変化しない。
しかしこのところ、ヘンな技は身につくし、枕元にホトケサマは出てくるし、初対面の女性は耳元で「大好きです」と言い残して去ってくれるし、わけがわからないのだ。
ただ、いいかげん明言しておきたいのは、僕はたいへん徳の低い、善悪でいうと明らかに悪党のほうなので、そういうことでどうぞよろしくということだ。
僕があなたにプレゼントできるものといえば、絶え間ない副流煙ぐらいのものだ、ただ明らかに僕の作ったメシは旨いらしいし、僕と食う食事は底抜けに旨くなるらしい(ほとんど食事のためだけに女性に呼び出されているフシさえある、別に僕にオゴるわけではないのに)。

おそらく、僕にやさしくしてもらったという女性はこの世に存在せず、あの世にもむろん存在しないが、つまり僕は女性に対してはひどいことしかしないし、男の後輩に対してはさらにひどいことしかしない、これはもう性質だからしょうがないのだ。
ただ、せめて弁明するなら、僕は女性に強引にひどいことをしたことはあるが(それしかしたことはないが)、あくまで「強引」であって「乱暴」とか「無理やり」とかはない、乱暴とか無理やりとかいうのは僕の趣味ではないので僕自身のテンションが下がってしまう。
まあ、さすがにそんな乱暴や無理強いをはたらくようなら、こんなあからさまなスケベサイトを十年以上もやっていられないだろう、とっくに逮捕されているはずだ。
そんなわけで、僕は直接ふれあった女性たちからは、ことごとくサイテーと認められる地位でありながら、たぶん「死ね」とは思われていないらしい、なぜ「死ね」と思われないかというと、究極女性がやさしいからだと思う、なかなか世の中捨てたもんじゃないな。

サイテーのままサイコーの思いをしてきました。

と、太宰治「人間失格」の正反対を唱えておきたい、なんというか、僕は初めから人間に合格しようなんて思ったことはないし、初めからサイテーと自覚している者には、今さら恥とかいう概念もないのだ、僕には太宰が何をブツクサ言いたがっていたのかけっきょく最後までわからない(わかるつもりもない、サイテー)。
もし僕が芥川龍之介「蜘蛛の糸」を書いたとしたら、お釈迦様の立場ではなく、糸に飛びつくカンダタの立場で書いただろうな、僕は蓮池から地獄を見下ろせるような身分ではなく、悪い人用のアリーナ席に座らされるに決まっている、「糸というよりエレベーターを下ろしてもらえませんかね」と厚かましいことを言い出して喫煙をやめない僕はサイテーの人間で、どうぞよろしく。
恋女のマインドね | comments(0) |
求婚が殺到する方法
動する、胸を打たれる、敬う、感謝する、尊厳を覚える、慚愧する、悔恨する、尊ぶ、身の程をわきまえる……といった、すべてのことを失う。
人は、「識」という能力を失うと、もう人間ではないので、人間としての美性のすべてを自動的に失ってしまう。
公共の場で、思いっきり騒いでいるクソガキを見ると、感動する〜身の程をわきまえるといったことのすべてを失っているのがよくわかるだろう。
「子供ってそういうものじゃない?」という反論は、五十年前の映像と比較すると破綻する、五十年前の子供は、感動する〜身の程をわきまえるというあたりの能力を、子供ながらに持っていた、よってこれはサイエンスの結果であって、思想ではなく事実として捉えるしかない。

ここに、定番の髪型をした、二十歳の大学生の青年をイメージしてみる。
清潔感があって、人当たりがよさそうで、絡みやすい、わりと女の子にモテそう、というタイプだ、今そういうタイプはたくさんいると思う。
が、よくよく見ると彼は、感動する、胸を打たれる、敬う、感謝する、尊厳を覚える、慚愧する、悔恨する、尊ぶ、身の程をわきまえる……といったあたりを何一つもっていない。
清潔感があって、人当たりがよさそうで、絡みやすい、わりと女の子にモテそう、と見えるのだが、すでに人間ではなくて、こころの奥底はメチャクチャなのだ/みんないいかげん気づいているだろ?

人間の美性のすべてを失う。

これは本当のことなので、もう覚悟するしかない、現代では誰の身にも忍び寄ってくる現象だ、明らかに感動しているとか明らかに敬っているとか、明らかに慚愧しているとか明らかに身の程をわきまえているとか、そんなものを目撃するチャンスはほぼない。
だがこれは取り戻せるのだ、もし「すべてを失っている」と覚悟できる者があればという条件付きだが、条件さえ満たせば他人にバレない形で取り戻せる、取り戻した人は周囲からとつぜん求婚が殺到するだろう。
正しく見ないとな | comments(0) |
光に導かれねばならない
事を見て、分析するとか批評するとか、そういうことはじつに簡単だ。
じつに簡単だという一点において、僕はそのことをやらない。
簡単なことを自慢げにやるのはとても恥ずかしいことだからだ。
光のほうへ、明るいほうへ、導かれていかねばならない、そのことのほうがはるかにむつかしい、だから僕はこのむつかしいほうを好んでする。

ニュースは暗い話題が多いし、ドラマや映画や、マンガやアニメも、最近は暗い話が多い。
が、暗い話というのは、技術的に簡単なので、僕はやらない。
簡単なことを賢(さか)しげにやるのはとても恥ずかしいことだからだ。
光のほう、明るいほうとは何か? 僕は執拗に、ここでまともな話をし続けている、まともな話を執拗に続ける奴がいるのは、きっと明るいことだろう。

僕の野心は、女にモテることではなく、女を明るくすることだ。

僕が服装と髪型をキメたとしても、誰も女は明るくならないだろう、だから僕はそういうことをしない、簡単な上に消費だけが見えるようなことはしない。
おだてて、オゴって、ヘンタイ的なセックスをしてやったら、女は明るくなるかというと、ならない、まともな光を見られる女は、そんな安上がりには済まない、まともな女はどうしても何が本当に光っているものかを直感的に識っている。
恋女のマインドね | comments(0) |
未来を切り拓くということ
ういえば今週末はパーティなのだった、事情があって一週間繰り上げである。→参加エントリはこちらから
なぜ繰り上げかといって、十月後半は各地でハロウィンパーティがですね……それで会場の都合もあって日程を調整した。
以前にやっていたワークショップとかも、再開したほうがいいのだろうが、なんやかんやしているうちにタイミングを逸してしまった、まあでも近いうちになんとかしようとは思っている。
ダサい言い方をするが、未来を切り拓きましょう、未来がすでに無い人はもうダメだが(えっ)、未来があるうちにそれを切り拓くのは実に明るい話なのだった。

僕が思うに、一般的な認知は、識られるべき本来のことと逆転しているような気がする。
たとえば「十年間の修行」といったとき、「十年間もか〜」「きっと、膨大な、努力をされて」と感じられるのだが、これはまるきり逆だと思う。
十年間という時間は短いというか、人間の生きる時間そのものが絶望的に短いし、一方で「努力」というのは、ほんのちょっぴりでいいのだ、ほんのちょっぴりの努力で人間はえらい差のところまで行ける(だから本当はたいした差ではないのだが)。
ものすごく研ぎ澄まされた刃物があったとする、その刃物で蔦(ツタ)をちょいと引いてやると、プツッと蔦は切れるだろう、未来を切り拓くとはそういうこと、そのとき研ぎ澄まされた刃物が人間の「智恵」にあたる、優れた「智恵」を用いれば、未来を切り拓くにはちょっぴりした努力でいい。

切り拓くのは筋力じゃなくて刃物だ。

この刃物がビミョーに鈍いとだな……すごく力まないといけないし、すごくゴシゴシ繰り返さないといけないし、疲れるし、何か間違っている気がして、やる気が失せてくるのだ、「智恵」ということを今一度ナメないで見直してみるべきではないだろうか。
「みんなで力を集めよう」という発想はよくされるが、「みんなで智恵を研ぎあおう」という発想はほとんどされない、たぶん単純に「智恵」という存在がナメられているのだ。
視点変えてこ | comments(0) |
もともとある「愛」の仕組み
し、最もアホな言い方が許されるなら、この世界はもともと一つの「愛」という事象で結ばれている。
ここにおいて、「愛」が偉いわけでも何でもないが、それは根源的にあるものなので、わざわざ自前で作らなくていいし、自分で探し回る必要もない。
「愛」という、根源的にある事象を、自前で作りだそうとして「これが愛か」などと言い出すから、それはことごとく間違っており、不要な諍いを生み出すのだ、愛を自前で作り出せる人はいないし、またその必要もない。
「愛」は、識っているかいないかだけの問題で、努力の問題ではない、愛を識っている人は、朝起きた瞬間から夜眠るときまで、またその眠って夢を見る中でも、ずっと愛の中にいる、そりゃ当たり前だ。

平和な言い方をすると、陸上部と管弦楽団は愛し合っているのだ。
それがよくわからなくなるのは、陸上部員は陸上競技を愛し、管弦楽団員は管弦楽を愛している……というような、「こだわり」を愛と言い立てるせいだ。
陸上部員が陸上競技を「愛した」つもりで、その最盛期を過ぎて引退したら、ふと猛烈な孤独感が押し寄せてくるだろう、誤解した脳みそは「次なるこだわりを探せ!」というとんでもない間違った指令を送りつけてくる。
「いろんな奴がおる」のだが、同時に似たような奴しかいない、愛という仕組みに支配された似たような奴しかいないのだ、ここから逸脱した奴はいつのまにか、「わけがわからない」という感覚の中で、強引に笑顔でいつづけるハメになってしまう。

愛の上での大乱闘は愉快なものだし、愛でない出会いと結びつきは恐怖のものだ。

「愛を探している」という時点ですでにおかしい、愛は普遍的にあるもので、そのおかしさはたとえるなら「レールを探している列車」というぐらいおかしい、レールを探している列車はすでに脱線している。
多くの人が、少し以前かずっと昔にか、愛を自分で否定するという苦しい時間を体験したはずだ、そこに引き返して、「やっぱりそもそもあのときがおかしい」「浅はかだった」と捉え直すしかない、「愛」は人間が操作や評定のできる仕組みではないから。
正しく見ないとな | comments(0) |
根源的なつながりについて

は生まれてこの方、人との「つながり」を探し求めたことがない。
友人であれ身内であれ、恋人であれ、その他の生きものであれ、「つながり」をわざわざ求めたことがない。
しかし一方で、おそらくその「つながり」というものを、平均より多く得てきているのだと思う。
正直なところ、僕は思う、僕はもともとの「つながり」だけがどうやら薄ぼんやりわかっていて、その「つながり」を見失った人の挙動が、ことごとく「わからん」と目に映ってきたのだ。

僕はずっと昔から、交友関係を、共同体に支配されることを厭っていた。
僕が誰と出会い、誰とつきあい、誰と遊ぶかは、僕自身によって決めたくて、もし僕自身の力によってその出会いがゼロになるのだとしたら、ゼロでかまわない、それでも自分の実力どおりでいたいと思っていた。
だから、身内とか、学級とか、出身とか、同窓とか、チームとか、団とか、そういうものの中に閉じ、その中で自分の実力によらない「人脈」めいたものを気取っているのは、気にくわないと思っていたのだ、すくなくとも僕自身に限っては。
そうして何十年も生きてきているが、これは今になって、社会的な仕組みのつながりを捨て、根源的なつながりを確かめに出る旅なのだと思う、「いろんな奴がおったなあ」というこの世界について、「こんなすばらしい世界はない」と僕は何度も確信してきた。

きずなも縁も全部ウソだ。

それらを全部ウソだといって、厭世しているのじゃない、そんなウソのものにしがみつかなくても、もともと根源的な何かのつながりがあるから、人工物は不要なのだ。
誰だって、生後六ヶ月まで、きずなとか縁とか「つながり」とか、欲していなかったじゃないか、それでいて誰に対しても、「赤の他人」と切り捨てて眺めることはなかったじゃないか、そこには根源的なつながりの感覚があった。

視点変えてこ | comments(0) |
すさまじい黄金ばかりの事象

まりこういう話はしたくないのだが、話さないわけにもいかない、ウソをついていいたぐいのことではないので……
以前、「カミサマの夢を見た、認めたくないがゴリゴリのホトケサマが空に出てきた、砂糖菓子みたいな」と話したことがあると思うが、今回もまた夢を見た、夢を見たというか、はっきり言ってしまえば枕元に来てしまった。
ものっすごい黄金で、雲にのって、蓮華に座り、枕元に浮いて出てきてしまった……この話はいいかげんアレすぎると思うので、そういう夢を見たということにしておく/じっさい夢かまぼろしかは誰にもわからん。
そのとき起きたことを、正直にレポートするしかない、僕は驚いて身を起こそうと思ったのだが、金縛りにあって動けなかった、そのときとっさに、不遜なことだが、「このおれでも動けないのか、やはり」と思い知らされた、それが正直なところだ、強引な言い方をすれば「神霊力」が強すぎて、僕はほとんど「封じられた」という感触だった、すさまじい黄金の座相がそこにあった。

1.なんとかホトケサマのご尊顔を拝することができたが、ご尊顔を拝するとただちに、目は吸い寄せられて、ホトケサマの背後には黄金のマンダラが爆発しつづけ、広がりつづけていた、それは「すさまじい黄金ばかりの事象」だったが、その中でご尊顔はきわめて静かでおだやかであられた(「こらあかんわ、勝てるわけがない」と当たり前のことも思った)。
2.勉強はしておくもので、驚くべきことだが、そのすさまじい事象のさなかにも、「これは如来様だろうか、菩薩様だろうか、それとも天か」「阿弥陀仏か、毘盧遮那仏か、それとも釈尊か」と考える余地があった、そのすさまじさは如来様であろうと察するよりなかったが、どの如来様かは僕にはわからなかった。
3.何かを告げられたということは特になし、何かを教わったというふうでもなし、むろん迎えに来られたというわけでもなし、ただそのご尊顔を拝するというか、目撃する機会を与えられたという感触のみ(かといって何かこころが改まるというふうでもない)。
4.おそらく重要なこととして、「この宇宙全体がもともとひとつの修行体として完成に向かおうとしており、われわれはもともとつながったそれぞれの部品でしかないのでは(「いろんな奴がおったなあ」)」と気づいて、直後にこれが起こっている、決してその逆ではない、すさまじい黄金の事象を目の当たりにして真実に気づいたというふうではなく、真実に気づいた(かもしれぬ)ということの後に、すさまじい黄金の事象が来訪している(逆は決して期待するべきではない)。

ニコニコ動画を観ながら寝たんだがな……

人間は死んだらカミサマになるとか、神の国に行くとか、ホトケサマになるとか、いろいろ言われるが、いわゆるホトケサマになるのは「誰が」ということではなくて、この宇宙の事象が膨大に集積してひとつの宇宙じたいがホトケサマになるのではないのか、いかにもそういうことだという気が今はしているのだが、もしそうならこんな事象はスケールがデカすぎてもうどうしようもないぞ。
ただ、われわれが身を膿むとその部分を切り捨てざるをえなくなるように、宇宙全体の修行の中からもやむをえず切り捨てなくてはならない部分が生じるのかもしれない、だからせめてその切り捨て部分になってはいけない、おそらく釈尊が「篤く三宝を敬え」と伝えたのはそのことを指している/という気がするが、まあそういう夢を見たということにしておいてくれ。

正しく見ないとな | comments(0) |
エンディングにヒントがある、「いろんな奴がおったなあ」

ントは自分が死ぬときにある。
自分が死ぬとき、自分がどうだったかを考えず、「いろんな奴がおったなあ」と考えること。
この、「いろんな奴がおったなあ」という事実、これ以上間違いない事実は他に無い、これほど確かな事実は珍しいぐらいだ。
この、「いろんな奴がおったなあ」ということ、それが、生きているうちつながりがあったということ、そしてそれ以上のつながりなんて存在しないということ。

われわれはもともと、ひとつのつながりとして、この世界に生まれ落ちている。
まったく意外なことに、われわれは個人が何かになるのではなく、生きとし生けるものすべて、地球外の生命も合わせて、何なら生命ではない事象まで含めて、全体でひとつの「何か」になろうとしている。
もともとひとつのつながりとして生まれ落ちているので、わざわざ分割する必要もないし、わざわざ、人や何かとの「つながり」を飢えて探しまわる必要もないのだ。
人間はカミサマになるのかホトケサマになるのか、どういう呼び方にしてもよいと思うが、言うなれば「宇宙が修行中」なのであり、われわれはその中のひとつの部品にすぎない、真相はそれぐらいスケールがデカく、およそ人智の及びうる範囲ではない。

「いろんな奴がおったなあ」で終わり(一巡)、それ以上のことはないし、それ以外のこともない。

この宇宙全体の修行から、脱落してはいけない、宇宙全体の修行なんて理解できね〜というのは当たり前だけれど、それを謗ってはならない、理解できなくても、脱落はしてはいけない。
脱落すると、次回の修行に回されると予想されるが、その次回の修行というのがどえらい先だ、次の宇宙が生まれるなんて何十億年も先だ、最近は物理学も宇宙が多元に存在していることを突き止め始めている。

視点変えてこ | comments(0) |
身体の各部位がグレるということ
体の各部位、各臓器は、それぞれの「声」を持っているのだ。
口は食べたがるし、喉は話したがるし、足は歩きたがるし、胃は膨れたがる。
身体の各部位、各臓器が、それぞれ集まって全体の「ファミリー」を形成していると見ていい。
この「ファミリー」の中で、認められず、声を聞いてもらえない部位があったとしたら? その部分は「グレる」のだ、いわゆる「非行に走る」、非行に走ったらどうなるか? ご存じのとおり、ファミリーに復讐せんがために暴れる。

ペニスは挿入したがり、ヴァギナは挿入されたがる、乳首は吸われたがり、舌は舐めたがる。
これら各部位が、身体全体の「ファミリー」に統合されていたら、部位は暴れないのだ、各部位は「なにがなんでも」と欲しているわけじゃない。
ただ声を聞いてほしいだけ、そしてファミリーの一部として認められたいだけなのだ、一部として認められて声が聞きどけられていたら、少々ブーイングするだけで収まる、破滅的に暴れるというようなグレ方はしない。
口がグレたら摂食障害になり、胃がグレたら胃酸過多、胃が引きこもったら消化不良になる、足がグレたら貧乏ゆすりを始める、そしてペニスやヴァギナがグレ始めると、性癖とオナニーと、淫行への衝動が止まらなくなるのだ。

あなたは無欲だったのではなく、各部位の声を黙殺してきただけだ。

若いのに、食が細い人、あまり遊ばない人、話さない人、動かない人、いろいろあるけれど、これらは性格的に無欲なのじゃなくて、身体の各部位と関係が切れてしまっているだけだ、声の聞き取りが恢復したら若い人間の健全な欲求は取り戻されてくる。
身体の各部位の、声を黙殺しつづけて、自分のアタマだけで物事を決めていると、いつからか各部位がグレて猛烈な反発をするようになってくる、グレた部位がやがてあなた自身を危機に追い込んでしまうだろう/声を聞き取られず、ファミリーに認めてもらえず、無視され抑圧され強制された身体の各部位が、グレるのは理の当然とみなすべきだ。
視点変えてこ | comments(0) |
「獲得」を忌避してみる法
間は「やる気」で目が曇る。
「やる気はイコール堕落なんですよ」と看破した友人もいた(「わかったんです」とそいつは半泣きで言っていた)。
なぜ「やる気」で目が曇るかというと、たいていその「やる気」は、「獲得」をターゲットにして生じているからだ。
「獲得」ということに向かうとき、人がすることは「行動」であって、「行為」ではない、つまり動物的になってしまうのであり、それは人間の足しにはならないということが、やがて誰にでもわかってくるのだ/いや「誰にでも」ではないかもしれないけれども。

生きているうち、やる気にならなかった人のほうが少ないのであって、多くの人はこれまでの自分の「やる気」が、けっきょく自分に実りをもたらさなかったということを経験的に知っているはずだ。
であればいっそ、「獲得」という動機を捨ててみてはどうか? あなたは本当に「獲得」をモットーにしなければ何をすることもできないか、それはあまりに視野狭窄ではないのか。
本人は「やる気」のつもりなのだが、実は「獲得」に駆られることによって、ひどく不自由な状態になっている、不自由な状態で何かをしようとすると、不自由なものでやたら「ガンバる」ことを強いられるわけだ、するとそこには筋張った人間が形成されていってしまう/しかも肝心のものは得られてこない。
どうせヒマなわけだし、いっそ「獲得は忌避する」ぐらいのつもりで、やってみてはどうか、そのことがどういう心境をもたらし、功を奏するかどうか、試してみるだけの可能性は窺えるはずだ。

情けないことに、僕はこれまでに、何一つ獲得してきていない。

まったく自慢になるようなことではないが、この際はサンプルとしてわかりやすいのでやむをえないだろう、僕は実際何も獲得せずここまで生きてきてしまった、何しろ獲得とやらにガンバれるような根性がない者なのでしょうがないのだ(これでも本人としてはガンバっているつもりなのだが)。
獲得しなくていいというとき、人はとても自由だ/もし僕が、あなたを獲得したいと駆り立てられたなら、僕はあなたを決してデートに誘わないだろう、不自由な僕はあなたに迷惑を掛けるしか能が無いからだ。
視点変えてこ | comments(0) |
数十年のうちにうつくしくなる人

十年生きていくうち、「うつくしくなる人」はごく少ない。
なぜかというと、数十年のうち、「積み重ねる」ことがないからだ、ほとんどの場合はただの「繰り返し」になってしまう。
あなたが部屋で、一日一万回、「こんにちは」と発声を繰り返したとしよう、するとそれは驚くことに、あなたに何一つもたらさない/それはただの繰り返しであって、積み重ねではないからだ。
「繰り返す」ということは、次第に無意識のパターン化するのでラクだが、「積み重ねる」というのはそんなにラクじゃない、毎回新しい一回を積まないといけないから、積み重ねというのは誰だってフラフラになるまでやるものだ。

絶対に覚えておいて損は無い、「積み重ねる」人は数十年のうちにうつくしくなり、「繰り返す」人は数十年のうちに醜くなる、これは残酷だがどうしようもない事実だ。
しかも、繰り返しはパターン化して「ラク」なため、本人は知らないうちに「繰り返し」で弱くなっているものだ、パターン化した繰り返しに慣れてしまった人は、もう新しい一回を刻む余力を残していないということがよくある。
たとえばエイ・サ、エイ・サと、「リズム」をつくって、毎日木刀を振り続けてみよう、そうすることであなたはむしろ「醜く」なり、しかも「弱く」なっていくのだ、継続は力なりということはとんでもないウソになる。
「積み重ねる」ということは、毎回新しく行い、一回ごと慎重に行い、その中でどこからともなく「識」が深くなっていくということを指している/逆に記憶したものをなぞりつづけるのが「繰り返し」ということに当たるが、これは百万年後も記憶したままのそれで「変わっていない」ので、一日目も百万年後も同じだ、固いクセがつくだけだ。

繰り返しは楽しい、積み重ねはゾッとする。

たとえば「一日一万歩あるく」と決めて、毎日そうするようにしていたら、それは次第に楽しい日課になっていくだろう、けれどもそうして歩き続けた老人の、歩き方がうつくしくなるわけではない/老人は誰だってわれわれの倍以上を歩いてらっしゃるはずだが、歩き方のうつくしい老人なんてまずいない。
じゃあ「積み重ね」とは何かといって……それはあなたの想像したとおりの、考えうる限りサイアクの、ゾッとするような労力を注ぎ込んだそれのことだ、一日一万歩あるくのじゃなく、一日一万回追究するということだ、一万回足を出すんだから。

できるオンナだね | comments(0) |
身が写る、口が写る、意志が写る

憶するな、「識」を覚えろ。
「識」が直覚されるところまでいけ、それまでは何一つ「わかった」と言うな。
「識」は「行為」と共にある、<<必ずだ>>、行為の積み重ねの中で「識」が宿る、そのときまで思い込みを持つな。
「行為」とは何か? まず先人の行為の実物を観ろ、そして「身が写る、口が写る、意志が写る」だ、先人の行為がこちらの身に写る、それでこちらに「識」が見えてくる、そのときまで勝手に目をそらすな、わかったふうに思い込むな。

記憶するな、身が写れ、口が写れ、意志が写れ、先人の行為を自分の身口意に転写しろ。
先人の「行為」を身口意に転写したら、自分も先人と同じように「行為」しているはずだ、そのことに何の意味があるのかはわからない、わからないからこそ転写したのだ。
先人の「行為」を、身口意に転写し、なるべくその行為を同じくなるように積み重ねていると、あるとき自分の思いではない行為そのものの「識」が見えだしてくる、そのとき初めて「これか?」「わかった気がする」とごくわずかだけ信じていい(それでもごくわずかにしておくべきだ)。
われわれ日本人は誰でも、食事のときに「いただきます」をする、「いただきます」なんて動作は誰でも記憶できるけれども/その「身をもってする」「口をもって言う」「意志をもってする」が、説明と記憶だけで直接見えてくるはずはない、身口意に転写してしつこく積み重ねた先に、われわれは「いただきます」を識ったはずだ。

「あの人」の、身が写って、口が写って、意志が写って……そしたら識った。

「こんにちは」のひとつでもいい、「ありがとう」のひとつでもいい、あなたがガンバってそれを言うのではなくて、「あの人」のそれが身口意に写って為されるということ、そのとき初めて「こんにちは」「ありがとう」の「識」が見えてくる、ただしかなりの量を積み重ねた後だけれども。
「あの人」の言ったことを、記憶するのじゃない、「あの人の言い方」「あの人の言葉」「あの人の声」が、自分の身口意に写るということ、それもしつこくそのことを積み重ねていく……それで初めて「識」を直覚する可能性が出てくる。

正しく見ないとな | comments(0) |
「実感」は学門ではない
とえば873という数字は、3で割り切れる、それは8+7+3=18であって、各ケタの数字の和が3の倍数である数は必ず3で割り切れるからだ。
なぜそれが「必ず」と言い切れるか/それは[8+7+3=3の倍数、800+70+3=873]を一般化して、[a+b+c=3n, 100a+10b+c=N]としたとき、⊆亜櫚ー阿魴彁擦垢襪99a+9b+0=N-3nと導かれ、N=3(33a+3b+n)となり、Nが3の倍数になるからだ。
このように、「いちいち数字をいじくっていたら埒(らち)があかないが、一般化したら一発でケリがつく」ということがある。
われわれにとっては、「873」とか「7911」とか、数字のほうが「実感」があるのだが、実感があるからといって、それが解答にケリをつけてくれるとはかぎらない、なぜなら「実感」は学門ではないからだ、学門にたどり着かないかぎりいかなる実感にもケリはつかない。

われわれは、おちょくられれば腹が立つし、高級品を見るとむさぼりたくなる、イケメンに微笑まれると女性は「キュン」となって、性格の悪い上司と仕事をすると疲れる。
これらの「実感」を、いくらこねくりまわしていても、何の発見もないし、何の解決もないだろう、毎回ひたすら「実感」を食らうだけだ、何一つケリがつくことはない。
腹が立つとかむさぼりたいとか、キュンとなるとか疲れるとかいうのは、いわゆる「感受性」だ、この中に学門はない、学門は「識」の能力だからだ、「識」がなければ人は延々と「感受性」の繰り返しを味わうことしかできなくなる。
繰り返し申し上げる、「実感」は学門ではない、だから「実感」に解決を探していると人は必ず行方不明になる、フィーリングとかいう馬鹿げたものがあなたを救ったことが一度でもあったか?

実感を離れる勇気を持て、数式はあなたの味方だ。

学門アレルギーの人は多いし、学門アレルギーの人はたいてい感受性の信奉者になるが、冷静に考えてみよう、どう考えても学門を捨てるということは「学ぶ」ことそのものを捨てることだ、学ぶことを捨てて努力するならその努力は初めから徒労じゃないか。
もちろん机上の空論や畳水練に意味はない、だが実践なき学門に意味がない以上に、学門のない実践は無意味なのだ/実感の中に解決を探すな、実感の中に学門を探せ、解決は必ず学門の形をもって現れてくるだろう。
視点変えてこ | comments(0) |
わかるものに肩入れしない

レビでもネットでも、とてもあわれで涙ぐましい人、が取り上げられることがある。
たとえば有名な演歌で言えば、「着てはもらえぬセーターを、寒さこらえて編んでます」という歌詞がある、これなんかとてもあわれだ。
勇気のいることだが、こういったあわれなものには、肩入れしない、「血も涙もないのか」と言われたら、それでかまわない。
そういったことが、あわれで涙ぐましいということが、わからないではないのだ、わかるからこそ肩入れしない、わかることに肩入れしていたら成長はない。

われわれは、「着てはもらえぬセーターを、寒さこらえて編んでます」という哀しさ、あわれさ、涙ぐましさがわかる、わかるからこそ同情したがる。
一方われわれは、キング牧師が「わたしは恐れない、神の国を見たのだから」と言い放って暗殺に斃れていったことや、ゲーテが「もっと光を」と言って死んでいったことなどがわからない、アームストロングの声に示された「すばらしき世界」もわからないし、チャックベリーに放たれたジョニーへの「GO」もわからない、わからないから同情も共感もできない。
わからないもの、未知のものを見、信じて追いつこうとするうち、われわれはまだ若いだろう、一方すでに知ってわかることだけを愛でようとしたとき、われわれは老人なのだろう。
着てはもらえぬセーターを、寒さこらえて編んでいることを、「女ごころの未練でしょう」と唄うのだが、僕はそこに「いやお前はセーターを編んだだけだ」と言い放ちたい、それで僕がわけのわからない奴になるのだとしたら、それは名誉なことだ。

血も涙もなくていい、それより上位のものがあるから。

寒さをこらえて編み物をしているなら、ダイキンのセラムヒートを買って押しつけてやればいい、セラムヒートの性能はすばらしいものだ、僕は着てはもらえぬセーターに同情せず、セラムヒートの発明を敬いたい。
わかるものだけに同情し、それで世界をわかった気になっていたら、世界は女ごころの未練で出来ていると誤解してしまうだろう/当の演歌だってshure社のダイナミックマイクで集音されてわれわれに届いていることを見落としてはならない。

視点変えてこ | comments(0) |
「識」周辺、コドモがオトナになっていくとき
だって、自分の「思い」を捉えることはできる。
自分の「思い」を、高めることだってできるし、ヒートアップさせることだってできる。
この、誰でもできることを、エサにして食いつかされたあなたの負けだ。
誰でも自分の「思い」を捉えることはできる、しかし、人と人とのあいだに潜んでいる「識」を捉えることは誰にでもはできない、オトナにならないとできないことだ。

誰だって、物事を理解することはでき、記憶することはできる、記憶したそれをなぞることもできるが、それらは人間(ジンカン)において何らも為さない。
この、誰にでもできることをなぞらされて、うまくいった気にさせられたあなたの負けだ。
理解とは違う、また記憶とも違う、なぞることとも当然違う、人と人とのあいだに潜んでいる「識」、これはオトナでないと捉えられない。
コドモからオトナになれた人は、必ずどこかで、自分には見えないレベルの「識」から意志を得る人に、「完全に従った」という時間を持っている、そうしてコドモは「識」なるものが存在することを従う経験の中で直覚して、オトナになっていった。

おれの意志があなたの意志だろ、おれの意志はおれの意志じゃないんだから。

両足でまっすぐ立つときのことを考えればわかる、「両足でまっすぐ立つ」ならば、その重心は「足と足のあいだ」に来るはずだ、それがオマエ、左足が左足の重心を取ろうとして、右足が右足の重心を取ろうとしていたら、永遠にまっすぐは立てないだろうよ、その立ち方の妙を知っている人をオトナというんだ。
僕は非常に現実的で、ノー・トラブル主義だから、無謀にロマンチックなことを言いません、ただおれの意志があなたの意志だろという、現実的な線だけを言う、まともなことが成り立つために/ちなみにジンカンの識に基づかない単独自分だけの意志を「我意」という、この我意があなたをジンカン意志のないコドモにしている。
できるオンナだね | comments(0) |
自己実現と人間実現

来、人と人の「あいだ」にあるものを、その字義のとおり「人間」と呼ぶ、これはもともとジンカンとも読まれた熟語だ。
そして、人間の意志とは、人の意志ではなく人間(ジンカン)の意志なのだから、Aさんの意志とかBさんの意志とか個別の意志のことを本来は指さない。
人間の世界には「識」という現象・能力があって、それはジンカンなのでつまり図式化すると[A−(識)−B]ということ、あくまで「ジンカン」に「識」が捉えられている。
この「識」にもとづいて、「行い」が為されていくのだけれど……僕はこのことをまだ覚えてはおり、このことを、なおも続けていこうとするかどうかは迷っている、あまりに時勢に適わないから。

人のあいだに「識」があり、その「識」から「意志」が発生する、その意志によって「行い」が為されていく、つまり「おれが」「わたしが」というのは全部ウソでアホだ。
現代は、個人主義の「自己実現」という妄想に囚われた時代だが、個人主義の自己実現にハアハアするということは、単に本来の「ジンカン実現」を死滅させる結果しか生み出さなかった。
あなたは、人と人とのあいだにある「識」を、直接捉えられるだろうか? それが捉えられないなら、捉えられる人に従うべきだったのに……といっても、それを捉えられる人が枯渇してしまってはもう話にならないので、ある意味しょうがないのだ。
たとえば[僕−(識)−ニュートン]というジンカンがあったとして、ニュートンは運動方程式f=maという「識」を捉えることができた、僕にはそんなこと捉えるのはムリなのでニュートンに従った、それでジンカン関係、ジンカン実現、ただそれだけのことなのだ、これがわからなければ自力で運動方程式を発見するしかないが、そんなこと本当にやっていけるつもりかね。

人間(ジンカン)の意志はサイコーだが、あなたの意志なんてゴミだ。

だって僕自身、僕の意志(と見えるようなもの)は、僕の中から引っ張り出しているものじゃないもの、人と人とのあいだから捉えているのだから/僕だって僕の「マイ意志」みたいなものを持ち出したらそれはゴミだ。
あなたは人間の世界の、人と人とのあいだにある深い深いところの「識」を、捉えられるか? 捉えられないならあなたはコドモだ、賢い人は誰だってこっそり、自分では及ばない「識」を捉えられる人に従うことをしているものだよ、それに従いきれる人だけがこれまで見えなかった深い「識」を獲得していくんだ。

できるオンナだね | comments(0) |
おれの意志がお前の意志だろ
間関係というものがある。
で、テキトーに申し上げると、一般に思われている「人間関係」より、もっと痛快で奥行きのある、これ以上ない、それでいてとても自然な、「人間関係」の粋というのもあるのだ。
たぶん、時代とともに消え失せてゆき、忘れ去られてしまったものがこれだが、それはどういう関係かというと、「おれの意志がお前の意志だろ」ということ。
僕は人に、命令するのがきらいだ、それはいちいち命令を出さなくてはならないということは、人間関係が成り立っていないということだからだ。

「おれの意志がお前の意志だろ」「そりゃそうですね」という状態。
これが実際にある、もちろんいちいちそうやって確認するわけではないが、ごく当たり前にそういう状態になっていることがある。
今の時代はほとんどないけれども。
あなたに意志があるということは、あなた独自で切り取って意志があるということではなく、僕の意志があるからあなたの意志があるということ、「僕の意志があなたの意志だからあなたに意志がある」のだ、短く最適化して説明するとそのようにしか言えない。

一心同体というのは、意志がひとつでよいということ。

二つの意志が「合意」してたら、それはいちいち「合意」を確認しながら進んでいるのであって、国交会談みたいだろ……めんどくさいだろ……それは誰かのことを信じていないからいちいち利益や不利益を検討しているのであって、その合理性が人をむなしさに疲れさせていくのだった。
僕の意志があなたの意志でないなら、その後は何をどう工夫しても基本的にムダだ、お互いに疲れたくはないし疲れさせたくもないだろ。
できるオンナだね | comments(0) |
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