☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
蔓延する非常なダルさ2

代に蔓延する非常なダルさは、「High」と「Low」に分けて考えるとわかりやすくなる/どちらにせよ、臍下丹田の自立機能を失ったことによって、この「ダルさ」は生じている。
「High」というのは、内心で感情が激しやすいということや、いわゆる「意識高い系」であったり、マウント、炎上、モチベ、やる気であったりなどだ、何かがずっとヒートしていて、自分にヒートしたものだけパッと飛びついてそれを「正義」に振り回すので、周りの人は甚大な迷惑を被ることになる。
「Low」というのは、「High」の反面、たとえば「夢がない」というのにも、極端に夢がなくて暗かったり、仕事や学門についてひどく無気力であったり、万事について反応が異様に鈍く、動きが異様に鈍重であったり、どんな物語にもまったく感動を覚えなかったりするということだ、本人はこれをずっと「特に問題はない」「誰にも迷惑はかけていない」と信じているので、周りの人は甚大な「退屈」に巻き込まれることになる。
ときには、このHighとLowは混在しており、一番ありがちな例でいえば、人を尊敬することについてはひどくLowなのに、人を嫌悪したりディスったりするときには、異様にHighだというような状態がある、あるいは他人にマウントを取ることには異様にHighなのに、じゃあ自分が何をするかについてはひどくLowだったりする/本来このようなことは、バランスとして「成り立っていない」のが明らかなのだが、何しろ臍下丹田の機能が死滅しているので、成り立つも何も、まず「立つ」という機能も感覚も消失しているので、本人は何も思わないのだった、こんなものが跳梁跋扈していればそれはダルいに決まっている。

現代に蔓延するダルさを、端的に言うと、「自分のやるべきことには極端にLowになり、他人のやるべきでないことには極端にHighになる」ということだ。
つまり、「部屋の掃除をしなきゃな」という自分のことについては、全身に鉛が詰まったようにLowになるのに、芸能人がチョンボをやらかしたというようなことについては、全身に火がついたようにHighになるのだ、あるいは自分が本を読もうとするとソッコーで眠くなるのに、誰かが不勉強だとカッと目を見開いて火を噴かずにいられなくなる/これは本来あるべきHighとLowがあべこべなのだが、むろんすでに病的な症状に決まっている。
なぜこのようなメチャクチャが起こるかというと、臍下丹田の機能が死滅し、「立つ」ということが失われるからだ、自分のやるべきことは他人に頼れないから、自分が立ってやるしかないのだが、これはフラついてすぐ出来なくなる、そして他人のことに茶々を入れるときは、他人にしがみつけるので、自分で立つ必要がなくなる、このことには全身の筋力がグワッと燃えさかる。
「立つ」という機能が失われているので、自分が立ってする行為(自分が立脚する行為)については、ほとんど昏睡か、あるいは死に近いほどのLowになり、一方で他人にしがみつき、特に他人を失脚させる行為については、ほとんどけいれんか、あるいは捕食攻撃に近いほどのHighになる/これではつまり、「自分のことを考えると死ぬほど眠くなるので寝る、他人を殺すことを考えるときだけパッとごきげんで寝ていられない」という状態になってしまう、これが別に誇張でもないのだからおそろしい話だ。

部屋の端末でネット上のクソを罵っている時間は、「自分の時間」ではない。

最近では、いわゆるユーチューバー等を見ている人が多いのだろうか? よく知らないが、別に対象はテレビでも同じだ、多くの人は半ば楽しんで半ばは罵ったりしながらメディアを視聴しているのだと思うが、それはまったく「自分の時間」ではない、なぜならそのユーチューバーの映像やテレビのバラエティは、<<あなたが成り立つために必要なもの>>ではまったくないからだ。
臍下丹田、ヘソの下のチャクラ的機能が死滅すると、自立(他人と区分した自分)という機能がなくなるため、このように、何が「自分の時間」なのかさえわからなくなる、自分のやるべきことに対しては病的にLowになって、他人のやるべきでないことについては検察官のようにHighになる、自分が料理をすると「死ぬほどつまらない」と感じるのに、料理動画の誰かがヘタクソなのを見ると大きな声で罵るのだ、これは自立の機能が故障というより本格的に荒廃を始めている証拠だ。

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蔓延する非常なダルさ

、世の中に、非常なダルさが蔓延している。
ダルさが蔓延しているからこそ、「やる気」といってブーストをかけたり、マウントといって業を煮やしてエネルギーにしたり、モチベーションといって自己洗脳状態にしたり、「炎上」といって集団催眠に耽ったりせねばならないのだ。
このダルさが、どこから来ているかというと、(何の根拠もないのだが)、男女の性別が曖昧化されたことから来ている。
男女だけでなく、店と客とか、演者と観客とか、教師と生徒とか、目上と目下とか、書き手と読み手とか、本来は区分されるべきだった両者が、垣根を超えて癒着することで、何もかもがダルくなった、それはもともとの区分・区別からエネルギーが生じていたものを、無くしてしまったことによってエネルギー源が失われたということでもある。

このことは、チャクラ的にはヘソの下、いわゆる臍下丹田のあたりと関係している/臍下丹田には「自立」という力があるが、自立というのは「自分を他人と区別する」ということだ、この臍下丹田にある「区分の力」そのものを、多くの現代人は失っていると見ていい。
それにより、現代人は、多く「うっとうしい奴」になってしまったのだ、表面上はそのことを隠しているにしても、その内実はずいぶんうっとうしい奴になってしまった/「自立」というのは、うまく言い当てたもので、これは経済的な自立のことを意味してはいない。
「自立」というのは、ただ「立つ」ということだ、ここで区分の力を失った人は、他ならぬ「自分」が立つということがわからないままでいる、それで焼けついたまま他人にしなだれかかり、当人は「やる気」や「モチベ」や「マウント」や「炎上」をしきりにやるので、結果的にうっとうしくてしょうがない奴になるのだ/このことは臍下丹田から「自立」を覚えるまで構造的に解決されない(そりゃヘソの下がない奴がどうやって「立つ」んだよ)。
今、流行しているものを見てみたとして、そこに「彼が立っている」「彼女が立っている」と見える姿はほとんど見当たらない、比較してかつての石原裕次郎が「やる気」「モチベ」「マウント」「炎上」をやっていたという感じはまったくしない、現代人は多く体質のレベルで単純な「区分的自立」の機能を失ってしまったと捉えるとわかりやすい。

ヘソの下、自立を鍛えましょう。

人のつながりというのは、自立した人々がつながるから「つながり」なのであって、癒着して団子化しているものを「つながり」とは言わない、まあ本当にキモチワルイ、うっとうしい人が増えてしまった/「区分の力」を持っていないということは、つまり、他人の意志が他人の意志だとわからないということだから、結果的に、常に他人の意志をべっとり自分向きに曲げようとすることしか発想できない人になってしまう、これはもううっとうしいというレベルを超えて、最終的に殺害関係になるしかしょうがないのだった。
当人は、甘やかされた思春期の幻想がへばりついているから、そのまま中年になると、これは想像を絶するキモチワルさが出来上がること請け合いなのだった、こんなキモチワルイもので互いにダルさを与えあっていては不毛きわまりない/区分的自立が持てない人はいつも内心で感情を激しているが、それも区分的自立を持てないせいだ、臍下丹田の支えが死滅していると内心の感情はまったく制御不能になるのだった、だから当人は激した感情をずっと「正義」だと信じ込んでいる。

視点変えてこ | comments(0) |
わたしの世界が変容する
たしは自室で本を読んでいる――格闘家であられた山本KID徳郁(のりふみ)さんが四一の若さで夭逝されて、わたしは自身に露骨な心痛を確認もした、思いがけぬ痛みで自身が落下するような……すでに癌でお悪いのだという報せは仄聞していたが、にもかかわらずわたしにとって、縁遠いヒーローの一人だった彼が亡くなるということは、そのときがくるまで現実味の帯びようがなかったのだった。
まったく文学者の、悪い本性を発揮して、わたしはここに、わたしの世界の変容を受け取っている/このように世界を感じ取り、ないしは明視するということが、はたして知性によるものなのか、それとも度しがたい深さからの悪性によるものなのか、わたしにはわからないままだが、少なくともこの世界には、一般に知られている見え方とはまったく異なる見え方が存在する、その "異なる見え方" とは芸術・文学の本質であって、このことに想像力の欠片も触れられなかった者が、やむなくオカルトの門をくぐるようだ、それは醜態とも呼ぶべき笑劇であって、何かが明視されたことにはわずかもなっていない。
一般に知られている「わたし」という現象、およびその感触(実感)は、文学的に明視される「世界」の中には、まるで存在していないと感じられる、まったくどこかに消え去ってしまったというように/むしろ正当な、かつ極端な文学者のたぐいは、この一般的な「わたし」という感覚を得なかったか、あるいは器質的な障害によって取りこぼしでもしたのかのような存在に思える。
文学者は、単にグラビア・モデルのような女性の裸身を見てもオッとならないのみならず、それらを見てオッとなる人々のありふれた様相でさえ、実は眼に入っていない、むしろ文学者というのは、何もかもを己の文脈・文体の中に引きずり込む、悪魔の力の持ち主のようだとも取れる、これの最果てが光に結ばれているのか、そうでないものに結ばれているのかは、けっきょく僕にはわからないままだ/山本KID徳郁さんの早世を悼むと共に、彼の死がなかったことになればよいのにという、埒もない幻想に浸っているという告白をもって、わたしはここに個人的な追悼の意を表しておきたい、あの人は非常に危険な魅力を放っていて、その危険と魅力をどうすればよいのか誰にも見当がつかなかった。

生きる世界が変容する……文学者においては明らかに、人よりも言葉が先行する、彼は何かしらの世界を言語化しているのではなくて、言葉ないしは言語から生じた世界を、 "見せられている" のだ、それが福音によるものかデーモンによるものかは、誰にもわからない、当人にさえそのことは定かではない/ただすべての事象は、彼の文脈・文体の中に吸い込まれていく。
そのことは、もし直面的に見るなり言うなりするとすれば、 "人をナメくさっている" とも感じ取られるだろう、事実、人を根こそぎナメくさっているようなところがないかぎりは、何もかもを己の文脈・文体へ引きずりこむなどということが、躊躇のない反射神経のように繰り返されるなどということはありえないものだ、しかし彼はすっかりこのことを確信しているので……まるですべての供物を文脈・文体の祭壇の火へ放り込み、そこに噴き上がってくる炎がどのようであるかを心待ちにすることだけを信じている、ファナティクな神官であるかのようなのだ。
彼の満足はそこにしかなく、彼はけっきょくすべての供物を火にくべることに何らの痛痒も覚えられない、ただそこにもある一縷の望みとしては、そのような文学神官の性質が彼自身としてやめられることはなかったとしても、その繰り返されていく文脈化・文体化の中で、このような己のありようがいつまでも正しいのだろうか? という、恐怖は持ちうるようなのだ/これは今、わたしがわたしの話をしているのではなく、文学および文学者の話をしている、何しろわたし自身はもっと、抜け目のない男なのでね。
危険な魅力を放っていた、縁遠い一人のヒーローが逝去したことに痛みを受け、他ならぬわたし自身は今、ありふれて「生きたいように生きないとな」という思いを強くしている! わたしは文脈・文体の本質に愚鈍な者ではありえないが、思いがけぬ方向として、文脈・文体を破壊する力の佳さを示してみせる、文学者でありたいと望んでいる、ホラわかるか、他ならぬおれがそう望んでいるのだ、原稿用紙などという野暮ったいものが望んでいるのじゃないぜ。

突如原稿用紙が破られて、ヌッと主の顔が突き出されてくるだろう。

わたしは自室で本を読んでいる――かつてわたしは、そうした中で光を得る、 "可能性のある子" だった、よく感じ取られた文脈・文体の力に、何もかもがひん曲げられてゆき、影響づけられた果ての景色を、再定義の中に明視する……そうしたことを、わたしはごく当然にしてきた、けれどもわたしは、そうした光の中で、――自分自身に光が照っていないだろう? ということに、今となっては気づきえるわけだ、わたしはいつからかそうした道程を歩んできた者であるから。
文学、それも露骨な文学、その露骨さとは薄皮一枚の下でただちに "人をナメくさっている" ということでしか成り立たないが、そうした文学の力は、それぞれが自身の生きる変容自在の「世界」が在るのだということを知るのに、最も直截にはたらきかけて有為だろう、だがそれは大変に面白く有為ということに留まるものであって、この有為じたいが完成に至るものではない/しばしば露骨な文学者が当人として自殺に至ってしまうのは、やがて行き着く "文学の自殺" が受け入れられないからだ、力ある文学者ほど文学の自死を受け入れられず、引き換えに己が文学を――あまりにも愛して信じたそれを――抱えて自殺する方向へ追い詰められていく。
視点変えてこ | comments(0) |
やる気とやる霊3/ノーブースト主義

般的に、「やる」というのは「やる気」だと思われていて、「やる気」を自分で "ブースト" することは、いいこと、エライこと、だと思われている。
しかし……じゃあもし、何のブーストもかけていない実力状態で、あれこれするとどうなるのだろうか?/誰かと三時間話したり、みんなで五時間飲んだり、あるいは一人で何かひとつの作業を十時間続けたりというと、とてもじゃないが、ノーブーストでは「もたない」のかもしれない。
さあ、ここで問題があって、何のブーストもかけていない状態を仮に「実力状態」と呼ぶとして、その実力状態が、実はスカスカだったりしませんか? ということがあるのだ、そりゃ冷静に考えれば……これまで数十の友人と、数百の徹夜を遊んできたわけではないし、数千の恋と、数万の景色に、惚れぬいてきたわけではない、実際にはそこまでガチリアル・リア充というわけではないはずだ。
そういうふうにして、いつのまにか、ブーストして「アゲて」かかるのが当たり前になっていて、ノーブーストの「実力状態」では、実はスカスカでは? ということがあるのだ/わかりやすく言うなら、あなたが何ら「アゲる」というブーストをせず、僕が作文で勝負したとしたら、あなたの勝てる見込みはゼロだぞということ、そりゃあなたは何のブーストもなしに一日に原稿用紙一〇〇枚を書いたりはできないだろう。

ノーブーストで、何かを濃密に営めてこそ、実力だと思うが、そうした実力に到達するためには、グッドな霊とダイレクトな絆を得ている必要がある、「やる」というのは「やる気」の問題ではないのだ/「やる気」という発想は、根本に、ブースト思想があるのだろう、まあブーストも短期的に、使うときは使うしかしょうがないだろうが……
何かを「やる」というのは、「気」の問題ではなく「霊」の問題なので、これに「まずブーストを……」という発想を持っていると、このときに何かを呼び込んでしまうのだ、「力、貸しまっせ」というたぐいのものを/そして、そうして呼び込むものはたいてい悪霊だ、悪霊といって何もおおげさな、ドロドロのオバケを呼ぶわけではないが、とにかく最終的には悪玉の何かを呼び込むことになる。
この悪玉の流入があると、そのときは力を得るのだが(アガる)、このときに得た力のツケは、やがて魂で精算させられるハメになるのだ、それでやがて精神や安穏や健康やセクシャリティを損壊させられるハメになる、これらの損壊は理不尽ではなく、帳簿上で正規の収支ということだ、しかもえんえん利子が付くひどいリボ払いという具合だ、だからこんな方法をやっていてはアカンのであった。
多くの人は、失礼、実はノーブーストでは実力はスカスカだと思うが、それでも実力で向かわないとダメなのだ、多くの人はあまり認めたくないたぐいだと思うが、ノーブーストで棒立ちしてみたときの、あなたの愛と光と霊力の顕(あらわ)れは、どれぐらいの密度だろうか……だってしゃあないじゃん、僕はずっとノーブーストなのに、あなただけブーストしていたらそりゃズルいだろ、そこは改めてフェアにいこうという話なのだった。

ただし、今さら「ノーブースト」といっても、これまでの "取引先" が、そう許してはくれない。

これまで、「力、貸しまっせ」という業者に、さんざん力を借りて世話になっていたのだから、それを急に「やめました」といっても、「兄さん(姉さん)、そうはいきませんで」とスゴまれてしまう、いくら取引をやめるといっても、これまでのぶんの取り立てがあるので、向こうは急に、あなたに力を貸すどころか、あなたを追い詰める業者に早変わりしてしまう/しかしこれ以上、力の借り入れをするわけにはもういかない……
そうなると、けっきょく大ピンチで、逃げられないので、どうすればいいかというと、やっぱり何かに助けてもらうというか、何かの庇護にすがるしかないわけだ、何かに守ってもらえないかぎりさすがにどうしようもない、もちろんそんな卑怯をしてきた自分が、何かに守ってもらえる道理などどこにもないが、もしそれでも守ってくれる何かがあるというのなら、それはとてつもなく偉大な何かだろう、自分のクソ価値観などではおよびもつかない偉大な何かが存在するとすれば、その存在はあなたを守ってくれるかもしれない。

正しく見ないとな | comments(0) |
やる気とやる霊2

霊だの聖霊だの言い出すと、話はたいへんうさんくさいものだ。
エセスピリチュアルや、アホオカルティズムに陥らないために、まともなことを勧めておきたい。
「悪霊」というと「きゃあああ」と怯え、「聖霊」というと「ああああ」と拝むというような、そんなデタラメ方式はやめることだ、そういうデタラメがアホオカルトになるのだ。
そんなむつかしい話じゃなく、たとえばドクロのアクセサリーとか着けると、「ふふ、悪霊パワーゲットだぜ〜イェ〜」って気分になるだろ? という、ただそれだけの話だ、気分がアゲアゲになるのだが、それってどこから来ているんだろうねという話、これはとっても身近で現実的な話なのだった。

元気が欲しいとき、パワーが欲しいとき、意識を高めたいとき、どうしてる? という話だ、人それぞれ、「何か」やるじゃないか、そういうときって。
そういうときにする、人それぞれの「何か」が、たいてい人それぞれの「儀式」になっていて、本人は自覚がなくても、その儀式がイイやつになっていたり、アカンやつになっていたりすることがあるのだ。
だから、そんなもん毎日、どこにでも誰にでも身近にあることであって、中二病的な話ではない、弁護士だって弁護士バッジを胸元につけるじゃないか、そりゃ弁護士バッジを着けたほうが、なんとなく弁護士パワーも得られるんじゃないか、それが「気」のせいではなく「霊」のせいだという話にすぎない(気魄が満ちていたらそもそもそんな流入は起こってこないが)。
元気が欲しいとき、パワーが欲しいとき、意識を高めたいとき、どうしても「できたら強力なやつを……」と、どこかで思っているじゃないか、そういうのって結果的に、何かを呼び込むことになるよねという話なのだった/そこで一般化して言いうるのは、急激に、また極度に、アゲアゲになるのは不穏だということ、実力以上の力を帯びるのは、借り物の力としてよくないという可能性をどこかで知っておいたらいい、急なアゲアゲは急なサゲサゲを人質に取られるぞ。

実力のままが健全です。

たとえば、本当には人付き合いなんて知らない、また言葉もこころもコミュニケーションも知らない大学生が、超絶「うぇーい!!」のスイッチを入れたりしようとすると、自力では足りないので、何かを呼び込むのだ/たしかに、結果的に「超イケるっしょ!!」みたいには、確かになるのだが、その力ってどこから借りているのか、実力でないものが暴走しているみたいな様相は、冷静にみたらヤバイのだった。
たとえば、モンエターエナジーみたいなエナジードリンクがあったとして、それをコップに移しては飲まないでしょ? コップに移したら何かヘンじゃん、アガんないじゃん/じゃあ「缶のまま」から「コップ」に移したとき、何が起こっているのかという話だ、人間はそういうしょーもないことに影響を受けているのだ、健康面とは違った意味で、何かからアゲアゲ力を借りるのもほどほどに。

正しく見ないとな | comments(0) |
やる気とやる霊(緊急的に知っておこうぜベイビー)

は「やる気」を起こそうとする、「やる気出そうぜ」という言い方をする。
でも本当は、人が何かを「やる」というのは、「気」のものではないのだ、「霊」のものなのだ。
本質的には、「やる気が出る」のではなく、「やる霊が入る」のだ、いいコトであろうが悪いコトであろうがな……ちなみに「気」だけが満ちていると、いいコトにも悪いコトにも「やる霊」は入らない。
魂魄という言い方があって、霊魂と気魄があるわけだが、基本的に霊魂は自分に「IN」するものであり、気魄は自分から「OUT」するものなのだ、「やる気を出したい」という考え方は本質的には誤りで、人が何かを「やる」のは「やる霊が入る」から「やる」ことになる、これはスピリチュアルなやつではなく、もっと現実的なやつのことだ。

まあ、そんなこんなで、人は自分に「やる気」を欲しがるじゃないか、そしてやりとげる力とか、人並み以上の能力とか、「力」のほうも欲しがるわな。
それで、「やる気、欲しいっス」「力、欲しいっス」と求める中で、知らず識らず、 "呼び込んでしまう" わけだ、何かしら霊的なモンをだ、そして現在の自分の身分以上に、やる気やら力やらを求めているわけだから、知らず識らず「力、貸しまっせ」という悪霊のほうを呼び込んでしまう。
なんというか、「アクマに魂を売る」という言い方があって、アクマに魂を売ると、そのぶん、強固な意志や急激な能力とかが得られそうじゃない? 割とそういうことは本当にあって、微弱にもあるものだから、人は知らず識らず、アクマに魂をチョイ売りし、悪霊の力を借りていたりすることがあるのだ/なんとな〜く、「あの人、あのときやけに目立ったけれど、実力としてはどうなの?」と感じられる人はほとんどがこれだ、なんとな〜く、 "身分が低いのに高い地位についたように感じられる人" は、みんなこれだ、そんなえげつないパターンでなくても、微弱にもこの現象は発生している。
数字に頼ったり、血や液体に頼ったり、特に「シンボル」に頼ったりだな、「モチベーション」を得るつもりで、知らず識らずのうちに「儀式」をしていたりして……そして、そこから「力」を借りていた人は、後になってやはり、魂を切り売りしたぶんの、ツケを支払わされるものだ、薬物におぼれたり、犯罪に走ったり巻き込まれたり、健康やセクシャリティがおかしくなったりする/まあそれはしゃーないというか、かまわないのだが、問題は当人がそのことをまったく知らないまま、自覚なしにやっているということだ、知らないまま契約のほうは進んでいっていたりするのだ。

「やる気」の問題じゃない、正しく「やる霊」が入るしかないのだ。

これは本当に考え出すとむつかしい話になるので、とりあえず緊急的に知っておいたらいい、人は「やる気」で動けるものでは本当はない、ここを誤解していると、自分の知らないうちに、自分は何かを呼び込む儀式をいつのまにか、こっそりやっていたりするものだ、それで「モチベーションが出てきた」と言い出したりして、本当には「アカンアカン、何か悪いモンが入りましたがな」というケースがよくある。
例外的に、強力な力を呼び込んでおきながら、その後になお聖霊的なモンに帰依しなおして、巻き返すスゲー人もいるけれど、そうでないかぎりは、まあ後になってツケがくるものだ/よく有名人が後になって「どうしてこうなっちゃったの?」と不思議に思えるケースがあるが、そのケースの構造をよーく見てみればいい、わかってしまえば割とシンプルな構造のものだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
バリア〜

し、ナゾのバリアみたいなものを持てるというか、与えられるとしたら、そりゃあカミサマ的なものから頂くものだろう、バリアがあれは何だって安心だ。
われわれはアクマ的なものから身を守りたいわけで、悪霊退散、なぜバリアを頂くならカミサマ的なものからだと言いうるかというと、カミサマのほうがアクマより力が強いからだ、アクマのほうが強いのではバリアになってもらえない。
アクマは、人より力が強い……そりゃ人のほうが強けりゃ、バリアなんか要らないわけで、バリアを欲しがるというのは、人よりアクマのほうが強いからだろう、人力ではアクマに勝てないので、カミサマに守って頂くしか、われわれは己を救うすべがないということだ、もちろん本当にアクマとか悪霊なんてものが存在したらの話だけれども。
そして、ふと思うのだが、ドクロをアクセサリーにしている人はいくらでもいるし、街中のグラフィティは何かしらアクマ的にしようと若者らがデザインしているし、ブラックメタルの人々などを見ていると……少なくとも、本気でアクマ的なものを信仰している人たちは、ぼんやりとカミサマを信仰している人たちよりも、本腰を入れて信仰しているなあということなのだった、悪魔崇拝の人々は大マジで儀式をするが、われわれはそこまで本気でカミサマのことを信仰はしにくいのだった。

少なくとも、悪魔崇拝者たちの真摯(?)なところは、彼らは教会にも寺院にも頼らないということだ、そういう施設に頼らないで、自分の信心だけでアクマに向き合おうとする、生身で直接/月に一回教会に行けばいいやとか、年に一回墓参りにいけばいいやとか、そういうチャチな信仰を彼らはしない、悪魔崇拝の人は自室をその祭壇にするぐらいの勢いがある。
その意味では、悪魔崇拝の人は、結果的にであれ、引き返さない自己決定をしているのかもしれない、そしてそこまでアクマを本気で信仰する人は、その信仰から何か「力」を得ているからなのだろう、さすがに趣味やヒマつぶしにやれるようなことではないはずだ/あるいはマジで力が得られるとなったら、多くの人はこっそり悪魔崇拝にこそ興味を持つのかもしれない。
馬鹿げた与太話だが、もし、そんなことで力を得られるのだとしたら、それは施設との関係ではなく、本人が直接、アクマ的なものへ向き合って、関係を持つからだろうな、ということになる、そうして考えると、もしカミサマからのバリア的なものがありうるのだとしたら、こちらも、本人が直接、カミサマ的なものへ向き合って、本人から直接の関係を持たないと、バリア的なものはもらえないということになるだろう。
総じて考えると、われわれは、現代の文化の中にいて、なんとなくアクマを信仰する本気のやり方は想像がつくのに、カミサマを信仰する本気のやり方は想像がつかないと感じるのだった、なぜなんだろうな、ひょっとするとそうではなかった逆の時代もあったのかもしれない。

われわれは、アクマじみている人を確信はするのに、カミサマじみている人を確信はしない。

ワイドショーでひどいニュースが報道されると、「マジでアクマじみてんな」というサンプルはいくらでもみつかるのに、反対側、「マジでカミサマじみてんな」というサンプルについては、あまり見当たらず、見つかったとしてもわれわれはあまり自信がない/われわれはアクマじみている人を見かけたらソッコーで逃げたく感じるのに、カミサマじみている人を見かけてもソッコーで駆け寄りたいとは感じない。
単純化すると、われわれは、不審者の不審さに官能するしか能がない、という状態になっているのだが、これはひょっとすると、われわれがすごくアホになっているということなのかもしれない/うーんそんなことでは、ノーバリアで生きていくしかないな、おれはバリア欲しいけどなあ、おれだけこっそりバリアゲットできんものかね。

視点変えてこ | comments(0) |
パーティ報告84(2)/「自己決定」

心な、根っこの部分は、技術もヘッタクレもない、小細工は役に立たない。
「自己決定というのは、必ず感動的でなければならない。何を産み出す? お前の生きて歩いた後には何が残る? 何かを産み出しているなら、そりゃ必然的にかっこいいし、感動的になるはずだ」
「このことに関しては、他のヤツは関係ない、自分で決めることだから、自己決定だな、おれは、おれの歩いた後に、楽しくなかった土曜日なんて一日も残さねーぜ、おれの生きた日につまんねー日なんか一日もあるわけないだろ、これがおれの命なんだからさ」
「これに関しては、別に何が正しいとか、そんなことはどうでもいい、これはただおれの決めることだからな、おれは自分がどのようなクソでもかまわんが、おれを慕ってついてきたヤツに、『あの人に出会えてよかった』と言われるようでありたい、そうであれば他のことはどーでもいいんだ」

「おれの生きる世界以外に、おれの生きる世界はないからね。おれのやること以外に、おれのやることはないもの。ああ、これ単純でいいな、真理だよ、次のポスターのコピイにしようかな」
「これに関しては、待っていても、何かが降ってくることは絶対にないんだ、『おれがやりま〜す』と、手をあげて立ち上がったヤツには、何かがフッと、声をかけてくれることはあっても、その逆はない、何かを待っているヤツに何かの声がフッとかかることは決してない、逆だ、先に立ち上がって『やる』ヤツに、運が良ければ、何かよくわからん声が吹き込まれることはあるよ」
「もちろん、不吉のパターンもあるかもな。おれの言っていることかわからないか? 今、街のどこかに、○○に断固反対! みたいなプラカードを掲げて歩いている人たちもいるだろう、それが悪いってわけじゃないが、お前がおれの言っていることがわからないとして、お前は、プラカードを掲げて歩いている人たちの言っていることは "わかる" はずだ、そこのところに気づかないといけない。お前はおれの言っていることがわからず、共感できないのに、他の……誰かが言っていることはわかって、共感してしまう、それが悪いというわけではなくて、それがお前の所属だ、それに自分が満足できているのかどうかだ」
「自己決定、と言われると、何かが急に怖くて、何かピンとこなくて、どうしたらいいかわからない、どうすればいいのか見当もつかないんです……と、そのパターンはいつも見てきた。まったくいつものことだ。そして、見当もつかないと言っているのは、そもそも、自己決定している他の誰かのことを見ていないからじゃないか? その失認が、正当なのか不当なのかは、おれの感覚からはよくわからないんだ」

自己決定が要求される局面はない。

なぜなら、局面が要求してくるものは、自己決定ではないからだ、それは局面に要求されているのであって、自らに由って決定しているのではない、「お前に『自己決定しなさい』って、強制してくれる人は誰もいないよ、強制されたらそれは強制決定であって、自己決定じゃないのだから」。
「まず、自己決定をするという、そのこと自体の自己決定が要るというのも、話の筋道としてはよくわかるけれどね、正直あまり聞こえてこないや……何かの実感を待っているあいだは、自己決定なんてやってこないだろう、実感がやってきたとしたら、それはただの "願望" だろうね、そして人は願望に振り回されるのであって、むしろ願望のせいで自己決定ができないものだ/人は願望に向かってゆけるのじゃないよ、人は願望に操られ、願望が人を操るんだよ、そうして自己が願望に決定されてしまうのを自己決定とは言わない、だから実感を待って実感に操られたとしたら、その時点でキミの負けだ」

そのほか | comments(0) |
パーティ報告84(1)

日のワークショップの報告は、「月刊ワーQ」を発刊したのでよしとして……
今回のパーティは、前半、異様に盛り上がったので、もう何がなにやら、盛り上がりすぎて覚えていない。
盛り上がったというか、何か爆発的なものがあったな、みんな月Qの寄稿で苦労した直後というのもあって、その打ち上げ感もあった。
人それぞれに、うおおお〜という感興があったのだが、まあそれは人それぞれのことだし、ここで報告するものでもないな、とにかく本当に面白いことでなければ、人は爆発的にはよろこべないのだった、そりゃ当たり前か。

もう意識が飛びそうなので、忘れないようにメモしておきたい、人が何かを「教わる」というのは、情報を突っ込まれることではなく、「関心・興味の方向を啓いてもらえる」ということだ、また後日説明する。
そして、よく「やる気を出す」というが、正しくは、「やる」というのは気ではなく霊なのだ、「やる気を出す」ではなく「やる霊が入る」でなくてはならない、このことも後日説明……するのかね、まあどっちゃでもいい。
あと何だっけ、そうそう、「種の力と花の知性」だ/今回はたまたま、「自己決定」というテーマが本当に旋風となって語り合われた(ホンマかいな)。
愛があったり、なかったりで、「うおお〜自分に愛がないことに気づいてしまったああああ〜」(某青年・談)ということもあり、ゲラゲラ、でもこのごろになってわかったのだが、てめえらけっきょく、ほとんどのことが未体験の初体験なんじゃねえか、そりゃ何もかもショッキングでエエエエとなって当然だ、いいかげんその展開に慣れろよ。

もはや楽しいという感想も吹き飛んだので、ようやく値打ちが出てきたわ。

パーティを企画してから、どんだけ時間かかっとんねんと、気が遠くならんでもないが、まあその間におれもヤベー奴()になったことだし、結果的にこれ以上ないといえばないのかもしれない、同じ事は二度とやれねーと思うから、経験上これでいいのだろう。
今回は例外的に、前半が爆発的に盛り上がったので、よしよしという感じで、後半(終電以後)は少し休ませてもらった、これは例外的なことというか、ついに僕がパーティ中に休めるときが来たのである(いつまでかかっとんねん)、まあその他いろんなこともあって、めでたいめでたいという具合なのだった、このままさらに悪辣にいくのでよろしく。

そのほか | comments(0) |
「月刊ワーQショップ」創刊

「月刊ワーQショップ」が創刊されました。ご自由にダウンロードください。

 

→月刊ワーQショップ創刊号(二〇一八年九月十四日)[pdfファイル]



ぜひご一読ください、よろしくお願いいたします。

九折


刮目せよ〜
 

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第84回Quali's Party[9月15日(土)]無事盛会!

9/17 Quali tweet> 盛り上がりすぎやろ……(回想)。 pls entry

joined: ひろみ、あきら、ゆか、ともこ、しおん、かず、やじー、ゆうさく、トム、くおり
日時:2018年9月15日(土)19時〜23時
場所:原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB



おかげさまで無事盛会でした! 次回もよろしくお願いいたします。

九折


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マウントゴリラ黙示録7/実験

とえば、ガンジーは偉大だ、というようなことは、誰でも知っている。
ところが、実験として、「うおおお〜ガンジー偉大すぎるわあああ」と言ってみようとすると、その言葉はなぜかわざとらしく、気色悪くなる(おれはならない)。
ぜひ、実験してみるといい、あなたがガンジーを「称揚」しようとすると、あなたの内心は暗くなり、なぜか声はドス黒くなり、顔面の、表情の奥には、ちらっと狂気が窺い始める/「反抗的」な何かが内部にせりあがり、その「反抗的」は、獣の体臭を持っていることが感じられてくる。
それは、信じがたい話、「ガンジーは偉大だ」という、人類にとってはアタリマエの知識に対しても、獣化した全身は、「マウントを取られる」と感じているということだ、獣(ゴリラ)にとっては、「称揚」=「マウントを取られる」なのだ、それで現代人は、マウントを回避する器用な言い方として、「リスペクト」という言い方を発明した、リスペクトというのは「オレがガンジーをリスペクトしている」という意味であって、ガンジーを称揚するものではない、これはうまい抜け道なのだった。

「リア充」「陽キャ」、「イケメン」「草食系」、色んな言い方が発明されてきたが、これらのすべては、発話者の側がマウントを取れるように、デザインされている、つまりこれらの語で「言い捨てる」ことによって、マウントを取ることが可能だ、「彼、イケメンだよねー」と言うとき、発話者の女性はマウントを上位に取ることができる/マウントを上位に取ることは、ゴリラの生理に合う。
単に、これだけなのだ、すべては発話者のゴリラ事情に合わせた語が発明されてきたにすぎない、ゴリラがデイリーでマウントを取らなくてはならないのは、畜生道においてやむをえないことだ、朝起きたときから他者にマウントを取りにいこうとするのは、ゴリラとして自然なことであって、ひとまずそのことを博物学的に認めるしか正しい道のりはない。
れっきとしたゴリラがあって、れっきとしたゴリラ事情があって、「マウントがわれわれの死生であるぞ」という、ゴリラワールドとゴリラ哲学があって……そのゴリラワールドから、脱出なんて思わないことだ、「一生このゴリラワールドなんだ」と、ひとまず認めてしまったほうが、すべてのことがよく見えてくる/「わたしの全身が真に帰依するのは、 "マウント" なんだわ」という悟性をもって、すべての空間を眺めれば、理解にも時間短縮ができよう。
実験してみればわかる、何か偉大なものを、「敬い」「尊び」「称賛する」ということをしようとしたとき、あなたの全身には、人間らしいこころがみなぎ……らない、代わりに、何かよくわからないゴリラっぽいものが全身を駆け巡り、あなたは歯を剥き、目を剥き、両腕を力ませて、そわそわ、沸騰するマウントをどうしたらよいかわからず、固まって不穏になったり、暴れて狂気を見せたりするはずだ、それは「ゴリラに無理をさせた」という状態だ。

「ガンジーは偉大だああああ」と言うと、僕は陽気になるが、あなたは陰気になる。

実際に、あなたもそう言ってみるとわかる、「ガンジーは偉大だああああ〜」/なぜかヘンな声になり、ヘンな言い方になり、ヘンなキャラになるはずだ、ぜひそのとき内部に起こる、不穏なキモチに気づいてほしい、「ガンジーは偉大」というのは教科書にも載っていそうなことだが、あなたはそれを称揚しようとすると、マウント反応を起こす、びっくりだがあなたは一生それでいくのだ、そのことの理由を見つけるのに、「わたしはゴリラなんだからしょーがないでしょ」と捉えること、そうするのが最短の手続きになる。
「実験」してみて、自分を「あっ、ゴリラだ」と発見するということ、また他の誰かについても、「あっ、ゴリラだ」と発見するということ、それが最短の手続きになる/ここで「ゴリラ」と言っているのは、悪口ではないのだ、「事象」なのだ、実験結果を以て、ゴリラ界を生きていることに気づけばいい、ゴリラにガンジーの遺影を与えるとどうなるか? ウホウホ、ガンジーの遺影を投げ飛ばすかもしれない、そのときの様相に、現代人はぴったり重なるということだ、これを発見した人から順に脱出路を見つけるだろう。

視点変えてこ | comments(0) |
マウントゴリラ黙示録6/報復のリアクション
が、マウントということに疎かったため、そのことのツケが回ってきているような感じだ。
つまり、僕は、一ミリも尊敬されたり、感謝されたり、称賛されたりしてはならないということだ。
なぜなら、そうして少しでも「見上げる」形になるということは、ゴリラにとっては、「マウント!」ということになるからだ、これは爆弾のように瞬間発火するので、もうどのようにも取り扱うことはできない。
これなら、なるほど確かに、今やっているワークショップとやらも、僕が「ボトム」であって初めて成り立つわけだ、僕が底を這い続けているかぎりは、誰かに対してマウントを取る形にはならない、われながら賢明なやり方を知っているものだ。

理屈じゃないんだな、「人の営み」を持ち込んではダメなのだ、ゴリラにはそれはマウントとしか思えないものだから、その瞬間ゴリラに引き裂かれて殺されたとして、ゴリラが悪いとは誰もいえない。
実際、これまでのことを振り返るとわかる、僕が必死に教え、与え、笑わせ、連れてゆき、なんとかしようとしてきたときほど、必ず害意と殺意を持って報われてきた/見上げさせてはダメなのだ、見上げるということは現代人にとってイコール「殺す」になるのだ。
注目すべきは、僕とAがいたとして、Aが僕を「殺す」と反応するということを、僕は知らなかったし、Aも知らなかったということなのだ、そして僕をブン殴って「大金星」を得たときも、Aは爛々と眼を輝かせながら、自分がそのようなことをしたということは、あまり記憶がなく、「また必ずやろう」という眼をしている(おそらく、マウントゴリラが相当な深度まで抑圧されるのだと考えられる)。
だから、構造上は、僕からあれこれ教え、与え、笑わせ、連れてゆくとして、その後一定の、僕をぶちのめす「暴力タイム」を設ければ、何の問題もなく進捗していくということになる、ただしそれでは、獣化への対抗処置にはなっていないので、けっきょく当人にも表面的な利益にしかならない/ここで重要なことは、「暴力タイム」を設けなくても、同様の時間は定期的に発生するということだ、マウントに対する報復のリアクションは、構造上、必ず定期的に生じるとみなさねばならない(メモ:この報復暴力についてを有為にワーク化できるだろうか? たとえば「九折人形」をズタズタに切り裂くとか)。

報復のリアクションを、あなたはしないが、あなたがする。

あなたが、「とってもありがとう」と感じる瞬間、あなたからまぶしい眼差しが……向けられてくるのではなく、「あれ?」という不穏が起こり、固まり、瞳孔が開き、暴力的な衝動が起こる、「どうしたの」「なんでもないです」、それはあなたの知らない次元の「報復のリアクション」だ、そのリアクションは、理性的には「そんなわけないでしょ」なので、抑えられている、だからそのときあなたは固まったり、不明の挙動に逃げたりする。
「マウント」の原理と、その「報復」のリアクションが、こころの奥の、とてつもない深さにまで入り込んでいるということだ、だから自覚はないまま、すさまじい「根源」というような位置で、あなたを支配している、まあ一種の「呪い」なのだからそれぐらい深くまで入り込むのはいっそ当然だ/このことまで解きほぐして、光の道に入ろうとするなら、それはもう、強力きわまる学門の力が要る、本当の本当にそうしたい人は、何かでたくさん勉強しましょう。
視点変えてこ | comments(0) |
マウントゴリラ黙示録5/「自分の願っていたことは、もう何一つできない身体になった」
なたがもし、「教えてください!」といって、意気込んで僕のところにやってきたとして、どうなるか……実際にはあなたは、不穏に固まり、黙り込み、それを覆い隠すために、不明の挙動をする、一人でヘンに暴れたりもする/しかも僕のことを「嫌悪」する。
あなたの意志ではない、マウント反応が起こるからだ/すでに、あなたの望んだようには、あなた自身はなってくれない、あなたはあなた自身に、「自分の意志ではない行動・現象」が、不可避に起こるのを発見するだろう。
「こういうデートがしたい」「こういう人と」「こういうふうにリードされたい」「こういうふうに学んでいきたい」「こういう行動ができるようでありたい」と、あなたがそうして夢に描き、望んだすべてのことは、いざそのときになって、あなた自身によって破壊されるだろう、あなたはそのときになって、自分の全身が瘴気を噴き出すことを未だ知らない。
あなたが知らない「あなた」が、すでに内部に巣喰っていて、支配権はすでにそちらの手に渡っているのだ、あなたはそのとき、「こんなにしてくれてありがとう」とは決して言わない、そのときになって「言えない」のがわかるのだ、あなたを支配する内部のそれは、「マウント下位」を断固拒否する、そのためになら大恩ある人も、かけがえのないやさしさを振る舞ってくれた人も、いかなる至高も、膝下にねじふせて己の「マウント上位」を確保しようとする、とんでもない話だが本当にそうなのだ、むしろ「それが獣の道」とアクティブに捉えたほうが、このことはわかりやすくなる。

いっそ、勇気をもって、「自分の願っていたことは、もう何一つできない身体になった」と、先に仮定してみるほうがいい、そうするほうが、まだ予防と緩和と、ひょっとしたら復旧が早くなる。
ちょっとでも(ほんの、ごくわずかでも)、頭が下がりそうになるとき、あるいは、何かを見上げようとするとき、ただちに、あなたの知らない機構が動く、「マウント」の機構だ、あなたはその、頭が下がりそうになること、何かを見上げようとすることに、自分の意志とはまったく関係ない、「ギャー!」というすさまじい悲鳴を内側に聞くことになる、この悲鳴が起こるとただちに、あなたは見上げようとしたものに対して、「殺す」「許さない」という、殺意と、不穏の瘴気を上げ始めることになる。
「素直になれない」などという、かわいらしいレベルのことではないのだ、あなたはあなたから見上げようとする人を、ただ「見上げる」というその位置関係によって、無条件に「殺す」「許さない」と感じる、それも激烈に、悪魔のような瘴気を噴き上げてだ、それはそういう仕組みのものだからしょうがない、この支配は学門なしに理解することはできない。
あなたは、何かを考えているわけではなく、もう獣の物質が、体内においてリミット寸前なのだ、だから何かを見上げようとした瞬間、もう何の理性もなく、ただトリガーが引かれ、「マウントを弾き返す」という、血まみれの反応を起こす、その反応はとても激烈だ/あなたは誰かを尊んだり、誰かに感謝したり、誰かを称賛したり、そういうことはもうできないのだ、あなたにできるのは、その尊崇と感謝と称賛の対象を、突如ひっくり返して踏みつけることだけだ、このことを僕は「大金星」と呼んでいる、あなたはその瞬間「大金星」を上げる。

ボスゴリラに上着をかけたらどうなるか。

「寒いかな」と思い、ボスゴリラに上着をかけてやったとしたら、どうなるか、もちろんボスゴリラは、誰かが自分にマウントを取りに来たと感じ、激烈な攻撃をもってこちらに向かってくるだろう、そんなもの殺されておかしくないし、殺される側が断然悪い/ちょうどそんな感じで、理はまったく通用しない、獣の反応のほうが遥かに速い、ボスゴリラは自分のマウント上位だけ保たれていればすべてが満足なのだ、それ以外の反応はない、それはゴリラなのだからしょうがない。
まったく冗談じゃなく、ここ数年、僕が命がけで与えれば与えるほど、そしてそれが魂に届けば届くほど、僕は殺されそうになってきた、実際に暴力も受けているのだ/僕から相手に何かが届くということは、それだけ向こうにとっては「マウント」なのだ、どれだけ向こうが望み、僕が必死に応えて与えたことであっても、それが届いたらその時点でマウントだ、僕は殺される必要がある、これは誇張で言っているのではなく、マウントを取りに来た者は殺される必要があるのだ、「正義」として……つまり僕がすべてを届け、その後ただちに殺されるということならば、その場合のみ「正義」が成り立つ、今はやせがまんされているが、構造的本質はこれだということは把握しておかねばならない。
視点変えてこ | comments(0) |
マウントゴリラ黙示録4/「ニューカルマをゲットしました!」

じ話ばかりして申し訳ない、学門上クリアな展開が得られたのでよろこんでいるのだ。
より精密で実益のある学門のために、「ニューカルマをゲットしました!」というテロップを、脳みその右上にでも出しておいてくれ。
この、「ニューカルマ」ということ、新しい因果を得たということ、このことがミソなのだ、これで現代の状況を正しく理解することができる。
「マウント」というのは、動物がやることで、獣の業なのだ、そしてそれは「業(カルマ)」であるから、やめられないのだ/人々はマウント合戦を選んだのではなく、新しいカルマを得たのだ、だからこそ旧来の知識や知恵ではこれに対抗できないのだ。

われわれは、人間なので、もともと人間道の業(カルマ)と、その因果を負っていた/たとえば星条旗を見ると、われわれは「アメリカ」と認識する、これが「識」の業だ、これはカルマと因果なので、人間はこれをやめることはできない、われわれは星条旗を見て「アメリカ」と "思わない" ということはできない。
そして、旧来は、この人間道のカルマと因果において、われわれは戦っていたのだが、今新たに、新しいカルマと因果を得たのだ、堂々たる畜生道時代が来たと言っていい/星条旗を見ると「アメリカ」と認識せざるを得ないように、他者を見ると、マウント合戦を始めざるを得ない時代が来たのだ、これは因果のはたらきなので、われわれが「やめよう」と思ってやめられるものではない。
何をどういうふうにしたら、こんな新カルマをゲットできるのだろう? 何かノウハウがあるのかどうかは知らない、ただ事態はすでに進行したのだ、星条旗を見て「アメリカ」と思わないことが不可能なように、現代において人々は他者を見て「マウント」をやめることができない。
仮に、たとえば上司が新入社員に、社会人としての自覚を持たせようとあれこれ指導しても、すでにフェーズとして成り立たないだろう、「指導」は第一に「マウント」としか受け取られないからだ/本人の選択ではなく、カルマと因果がそのように彼を決定づけるので、彼は抑えつけられた獣のように、不穏な唸り声をあげる、「マウント」、そして目はどんどん黄ばんで濁っていくのだ。

男性が女性を押し倒しても、それは「マウント」としか受け取られない。

今、男尊女卑の撤廃が叫ばれているが、本質は男女平等の希求ではないのだ、男性が女性に「おいで」と言うと、それだけで「マウント」になり、抑えつけられた獣が不穏に唸り始めるのだ、それも本人の選択ではない、獣という新しいカルマがインストールされて、そういうアプリが常駐になったということだ、「マウントを検知しました!」というファイアウォールですべての文化は弾かれてしまう。
これですべてのナゾは氷解する/僕のことを尊崇し、助けてくださいと縋ってくる女の子でさえ、実際に僕が彼女の目の前に立つと、不穏に固まり始め、僕を殺そうとする様相を見せる、これは獣のカルマが自分の状況を「(被)マウント」と捉えているのだ、本人がそう思いたくなくても、カルマは因果を強制するものだ、よって、人間らしい文化のすべては今、獣化した人々にとって「マウントを取られた」としか受け取られず、すべて不穏な唸り声で迎えられるだろう、ここ数年で「なんじゃこれ?」と意味不明に感じられていたすべてがこれだ。

視点変えてこ | comments(0) |
マウントゴリラ黙示録3

ょうど、この一年ぐらいか、僕は「獣化」ということをよく言ってきた。
そして、「獣化」というのは、血に偏って起こり、言語は言葉ではなく「呪い」になる、ということまでわかってきた。
が、一方で、「どうしてこれだけ説明してもわかんねーんだ?」という、不可解さも覚えていたのだ、その不可解さが「マウント」によって解消された。
獣化すると、常時マウント合戦のスイッチが入って、全身が「マウントの森スタイル」になるから、その時点でもういかなる説明も届かないのだ、ひたすらマウントの上位・下位だけが最優先になり、それだけが唯一の価値になってしまうようだ、これはごまかしが利かない。

どうやって上位マウントを取るか?
ということしか、脳みその中にない、そのことしか第一義に発想されない、そういう心身の仕組みに、すでに仕上がっているようだ。
そのことで、心身がやたらに疲れ、荒廃し、痛みまくっているので、「けものフレンズ」のようなものが流行ったり、「なろう系小説」で、異世界に転生して無双、というようなファンタジーが流行ったりする/それらはどうしようもなく「癒される」のだと思う、マウント合戦の反動として。
この悲惨さから脱け出すには、とにかく自分で気づくしかない、全身に「マウント反応」「マウント合戦の準備」「マウントの森スタイル」が染みついていることに、そして昭和の映像からでもいいから、そこに「マウント合戦なんて無いじゃん……」ということを見つけなくてはならない、どうやって生き残るかの前に、どうやって正気に返るかが先だ。

マウントを取られるのが怖いので、マウントを取ると救われる。

マウントを取られると、獣化の血が「叫ぶ」のだ、ギャーッ! この悲鳴がとても苦しく恐ろしいので、逆に一定の地位からマウント有利になると、ホッとこころが救われる、こんな悲惨な仕組みがある、だからこそ己を有利にするマウント合戦がやめられない、自分があんなに苦しく叫ばされるのは絶対にいやだ/こんな救いのない状態が、冗談ではなくほとんど主流してわれわれの空間を支配している、さっさと気づかなくてはならない。
何が間違っているかといえば、むろんぜんぶ間違っているのだ、まんま畜生道に落ちているのがわからないか、せめて「人の世にマウントなんてねえよ」という当たり前のことぐらい頭の中に復旧してくれ、マウントがあるのはゴリラの世だろ。

視点変えてこ | comments(0) |
マウントゴリラ黙示録2
「マウント」ということに気づいて、急にラクになった。
いつもこのパターンだが、僕は、僕でない誰かが「何」をしているのかが、わからないのだ、それでいつも「???」となる。
マウントゴリラにどう対処すればいいかという問題だが、対処なんかしなくていい、マウントゴリラにあるのは意志ではなく「動向」にすぎない、こんなものナショナルジオグラフィックが隠しカメラで特集するたぐいだ、人間が真に受けることではない。
本当に、どうしたらいいという問題ではないのだ、だってゴリラじゃないものがゴリラ化しているのだから、対処法は上野動物園の係員に訊くしかないだろう、まさか「マウント」なんてことを本気でやっているヒューマンカインドがいるとは思わなかった。

急にラクになって、とてもすがすがしい気分だ。
マウントゴリラにほどこされるべき正しい処置は、唯一、元のジャングルに放ってやることだろう、いや本当に冗談ではなく、人類の文化や文明は、ゴリラのものではないのだ。
このことに、誰もが早く気づくといい、このことは、早く気づいた者が勝ちだ、<<マウントはゴリラだ>>という、極めてわかりやすい真実を獲得せよ、このことに気づかないかぎり、どのような成長も「ゴリラとして成長したね」という方向にしかいかない。
おそらく、多くの人が、自分の全身に、<<マウントの森スタイル>>がこびりついていることに、気づいていないのだ、それでたいへんな思いをしている、だからさっさと気づくといい、マウントありきの平和スタイルを、「マウントの森スタイル」と呼ぶことにするが、こんなスタイルで十年も過ごせばそりゃあ体臭さえ人間らしさを失うというものだ。

どんなに低い身分もカーストも、さすがにゴリラとは違うわ。

これですっきりした、僕はどこかで「身分」ということを考えなくてはならないと思っていたが、どうもしっくりこないと思っていた、その違和感が解決した/僕が言おうとしているのは人の身分であって、ゴリラの上位・下位じゃないのだ、だって「上位ゴリラ」になったって、そんなもん爆笑トンチンカンライフしか待ち受けていないじゃないか。
うーん、ゴリラだったのか……そりゃコミュニケートの根本が違うわけだぜ。
視点変えてこ | comments(0) |
マウントゴリラ黙示録

近、youtubeのコメント欄を見たときに、ふと、「これがマウントを取り合っているということか」ということに気づいた。
僕は、他人の会話を聞いていないので、世の中でいう、「マウント合戦」の意味がよくわかっていなかったのだ。
コメント欄でなくても、会話の中で、マウント合戦をしている人たちはいるのだろうけれども、それは間違いで、マウント合戦をしているような場合、それはもう「会話」ではない。
世の中から「会話」が消えているような気がしたのだが、どうもこの、「マウント合戦」にすべてを持って行かれたような気配だ、なるほどそういうことなら納得がいく。

しばしば、「何やってんだこいつ」「なんでいつまでも噛み合わないんだ?」と、不思議に思い続けるということがあったが、そうか、あれはマウント合戦の準備を常にしているのか、そういうことなら理解できる。
なぜそんな、不仲の群れのゴリラみたいなスタイルが身についているのか、事情は知らんが、少なくともわかることは、そんなことはすべて時間の無駄だということだ、人生の時間がスッカラカンのまま消えてなくなるだろう。
「マウント」て……冷静に考えろ、どう見てもアホの極北をやっているに決まっている、まあでも心身に刷り込まれた反射的スタイルだから、しょうがないのだろう、僕がマウント合戦に入り込まないのは、僕が人間だからだ、僕がゴリラだったら、僕もマウント合戦をするのかもしれない。
ここ数年、文章を書くにしても、異様な書きにくさ、異様な、読み手の捉えづらさがあったのだが、原因はこれか、申し訳ないがゴリラに読書は不可能だ、言語を所有するゴリラであっても、読書という営みはできないし、その営みの光を手にすることはできない。

「コメント欄」じゃなくて「マウント欄」に変えたほうがいい。

そうしたらきっと、世界に爆笑の波が走り抜け、人々も少しは冷静になるかもしれない、さすがにマウント欄に書き込み合戦をしている自分を見たら、自分に対して失笑するだろう、冷静になるにはそうしたわかりやすい手続きがいい。
僕などは、急に素になって申し訳ないが、マウント合戦の文化があったとして、「そんなことしているヒマなくない……?」としかツッコむ気になれない、SNSもSMSに変えよう、ソーシャル・マウンティング・システムと改名すれば、やはり世界中に爆笑が駆け抜けるよ/ここ数年間人類は、「マウント」なんてヒマなことをやっていたのか、そりゃ退屈で死にたくなるわけだよ。

視点変えてこ | comments(0) |
GOOD DAY

体的には言えないが、今日、ひとつの素敵なことがある。
いろんな場所で、いろんな空港で、いろんな思いがあり、単に生きるということとは別の命がある。
僕はうれしいのだ、想像するだけで、こんなに面白いことになるなんてな、しかもまだまだ、この先に楽しみが待ち受けている。
思いがけないことがあって、思いがけないことが進展して、思いがけないことが、わたしの命だった、そんなことが、これからも絶え間なく続けばいいなと、こころの底から思っている。

何もかも、いい具合にいきますように……まあ、大切なものと出会えたら、それだけでいいのだろうから、ここしばらくは、世界中の全員がそうならいいな。
邪魔者はいない、それなりに知り合いはあったとしても、もっとわけのわからないものに導かれて、わけのわからないものに会いにいく。
それでどうなるのか、わからないのだけれど、それがわからないというのがとびきりいい、なぜだろうな、ずいぶん離れてあるものが、何よりも身近にあるような感じがして、行かねばならないのに、しかも身近なくせに「どうなるのかはわからない!」のだから、これはゴキゲンのかたまりだ。
僕はつい祈ってしまうが、きっとその祈りも不要なほど、祝福が満ちているだろう、それでも祈ってしまうがな、それ以外に僕は何もできないが、せめて僕も、負けないように過ごそうと思った、いつもどおりの毎日で、しばらくこっそり祈り続けよう。

二十年ほど前、若かった僕は、ヒンドゥー教の聖地にいた。

だから何だというわけじゃないが、すべては「何」なのか、たぶんまだまだ先にならないと、本当にわからないのだ、ついにこんなところにたどり着いたのか、あるいはそれが、実はすべての始まりにすぎないかもしれず、それがすべての始まりだったなら、これはもう楽しみでたまらないな。
知らない場所が、知っている場所になり、でも本当に知らない場所なら、もともと行かないのかもしれないな、さあて何が何やら、おれも負けていられないぞ、まあ何かがある、おれもわけのわからないものに会いにいかないとな。

恋女のマインドね | comments(0) |
No.382 愛されないと面白いことはできない

掲題のコラム、本サイトにアップしました。


No. 382 愛されないと面白いことはできない
――つい、あなたも、僕のことを愛してしまいそうになるだろう。愛というのはそういうものだと思う。


よろしくお願いします。九折

そのほか | comments(0) |
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