☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
あなたを復旧する方法
「どうしたらいい?」と誰もが考えているように思う。
が、「どうしたらいい」ということは決して見つからないし、もし見つかったとしたら、それは見つかっただけに間違っているのだ。
どうしたらいい、ということは永遠に見つからない、このことは始めから諦めとけ。
ただ、あなたが本来のあなたに戻らなくてはならないとき、ひとつの方法ぐらいは思い出せるようにしておいてよいと思う。

仮に「三昧法(さんまいほう)」と名付けてもよいかもしれない、いわゆるひとつの精神集中や瞑想のような方法だ。
だが、われわれドシロウトが瞑想なんかやってもどうせロクなことにならないので、もっと具体的なことをする。
方法はズバリこう、「動かないものを見つめる」のだ、ここで言う「動かないもの」とは、言葉であったり行為であったりする。
たとえば「雲」といったとき、「雲」という言葉は動きっこない、だからこれを見つめる、そしてわずかな時間でいいので、「見つめたものを自分のすべてにする」、「雲」という言葉を見つめたとき、数分でいいので「雲」という言葉を自分のすべてにするのだ。

十五分間、「皿洗い」を自分のすべてにする。

「皿洗い」とは何なのか? そんなことを定義する必要はない、何しろその十五分間は皿洗い以外の世界は存在しないのだから、十五分間はこの宇宙に皿洗いという行為しか存在しない。
別にいいでしょ、十五分ぐらい、たいしてあなたの損にならない/そして三昧(さんまい)に至っていようがいまいが、けっきょく皿洗いには十五分ぐらいかかるんだからいいじゃないか、これはとっても気分のいいことなんだよ。
できるオンナだね | comments(0) |
さびしい時代に、逆の発想
どくさびしい時代が来ていると思う。
人はさびしいと焦ってしまうものだが……
人は焦ると、問題を解決する「熱心さ」をもって、状況に対抗しようとするものだ、熱心なほうが強いし有利だと思っているから。
だが、焦りから生じた、対抗のための「熱心さ」は、実は視野狭窄にしかならない、いつの間にか発想が制限されて、逆に追い詰められていってしまうものだ。

逆の発想、「さびしいなら、今日はもっとさびしくなってやれ」という発想が有効だ。
問題の解決が必要なところで、「じゃあ、問題の解決からさらに遠ざかってやる」という発想をする。
この発想を持つことはとてもむつかしいのだ/言うなれば、水に溺れているところの人間が、「よっしゃ、逆に深く潜ったろ」と考えるようなことだから、これはとてもむつかしいのだった。
しかし、溺れているところの人間が、ひたすら水面に上昇しようともがくのは、強くもなければ実は熱心ということでもないのだった、逆の発想はどうしても必要だ。

今日を貧しくしよう。

スマホいじりながら寝ちゃえ、ということじゃないよ、スマホいじりながら寝るのは楽しすぎるだろう、そうじゃなく、もっとさびしいことへスタスタ歩いていってしまうのだ。
一番大切なことから、逆に離れろ、そうしたらきっと思い出せる、「新しさ」/新しい一日だけがあなたを救ってくれるのだということを思い出せる。
視点変えてこ | comments(0) |
ideaは「言語感覚からの構築物」
なたには「考え方/idea」が要る。
もし「考え方/idea」なしに生きようとすると、あなたは自分のこれからについてことごとくno ideaになってしまうからだ。
ところが、この「考え方/idea」は、実は「言語感覚」によって構築されているのだが、このことがあまり言及されていないというか、知らされていない。
ideaというのは、「言語感覚からの構築物」なのだ、あなたが今をどう生きて、これからどう生きていくかということのideaには、実は「言語感覚」がどうしても要るのだ。

たとえば「充実」という言葉をここに置いてみる。
ここで重要なことは、「なににつけ、充実させたいですよね!」と、パパッと言葉を片付けてしまわないことだ。
「充実とは何か?」と言葉遊びをするのではなく、まず、「充実」という言葉をじっくり見ること/言葉の中にはそれぞれカミサマが棲んでいる。
「充実」という言葉ひとつが、あなたにideaとエネルギーを与えてくれるまで、慌てない、あなたは言葉を知ってはいるのだが、そのとき言葉が見えているとは限らないから。

一万の言葉を重ねるより、一つの言葉に向き合ったほうが、大展開がある。

必要なことは、あなたがどう思うかではないし、どう考えるかでもなく、「言葉そのもの」、実は言葉そのものにはあなたを励ますカミサマが宿っているので、それが出てくるまで暴れないことだ/あれこれ言い換えなんかしなくても、言葉があなたに「教えてくれる」。
たとえるならば、一万人の知人を持ったって、実は足しにならなくて、一人の誰かと向き合ったほうが、あなたに大展開がある、そのことと同じだ、どうかあなたにとって特別な言葉と出会ってください。
視点変えてこ | comments(0) |
おしゃれ画風について念のため
あいものとして、おしゃれ画風のショートストーリーマンガが「リツイート」されているのをよく見かける。
細身に描かれたおしゃれな二人が、幼馴染同士として「こうなれればいいな」というふうに表現されているのをよく見る。
そういったものに、こころときめく(ときめくからリツイートされているのだろう)ということがあるのだと思うし、そのことは僕もわからないではないのだが、僕は僕の路線として、ここではある種のことをハッキリさせておかないといけないのだろうな……と、どうでもいいようなことを思う。
おしゃれ画風にキモチが「ふわっ」とする人は、あくまで「念のため」として、こんなことを知っておいてもいいのじゃないかと思う。

おしゃれ画風の二人に憧れたとして、生身の人間は「ああいうふう」にはなれないのだ。
なぜなら、「ああいうふう」にやろうとして見ても、「声」と「眼差し」がヘンになってしまうからだ。
あくまで念のためのこととして、知っておいて損はないと思うのだが、おしゃれ画風に示されるような恋人像を目指そうとしても、必ず「声と眼差しがついてこない」という問題に頓挫してしまう。
たいへん残念なことに、われわれは「肉声」しか発することができないし、目の色だってナマモノなのだ、それらは実際にはおしゃれに取り繕えるものではなく、生命力をもってしか輝かないものだ/おしゃれ画風へのあこがれは声と眼差しにおいて頓挫する。

実際の「あなた」は、声と眼差しのものだ。

モニタ越しのアイドルなら、演出表現によって類似の何かになりうるかもしれないが、ほとんどの場合あなたは生身で人と付き合う、すると「あなた」とはすなわち「声」と「眼差し」なのだ、あなたのあこがれは実際にはあまり役に立ってくれない。
マンガとしての表現に、あまり浮かされないように、あなたはマンガを見ることができても、他の誰かはあなたをマンガ的に見ることはできないのだから。
できるオンナだね | comments(0) |
まともな話にはかけがえのない魅力がある

メリカ大統領は、アメリカ合衆国のリーダーであると共に、世界のリーダーでもありうるとわれわれ他国者は感じているし、またそう認めさせるだけの実効的な力をアメリカ合衆国は保有している。
近現代の人類は、市民が解放的であれる「民主化」をおおむね是として信奉してきたので、われわれはアメリカ大統領について、今後も拓かれていく民主化世界への牽引と保全を果たすリーダーかつシンボルであってほしいと望んでいる。
ここで民主化世界のシンボルについては、「力ある者の自制」のシンボルであってほしいという要求が起こる、なぜならか民主主義そのものが特に権力者を憲法でコントロールするという「力ある者の自制」を法文化したシステムだからだ。
もし、「力ある者がほしいまま振る舞う」ということを容認すると、世界は過去の、蛮族的社会に戻ってしまうだろう、われわれはそうしたことが実際に起こりえるという畏れと共に、世界をそうはさせないシンボルとしてアメリカ大統領を見ようとし、期待もしているのだ。

「力ある者の自制」、つまりわれわれはアメリカ大統領に、第一に理性的な「ジェントルマン」であってほしいと望んでいる。
その点、過去のオバマ・アメリカは、理性的ジェントルマンを望む声に適っていた、われわれにはアメリカ国内の実情は肌身に知りえないが、世界のリーダーとしてジェントルマン・オバマを見上げることに異存はなかった。
トランプ・アメリカの時代が来たとして、われわれは未だ、アメリカ大統領の系譜にミスター・トランプを並べる実感に至っていない、未だあの苛烈なキャラクターを最高権力に据えたという実験的状況に「盛り上がり」を覚えているのみというような状況にある。
われわれは、戦争の勃発さえリスクに含んだこの実験的状況に、悪ノリのスリルを覚えて興じるべからざることを自らに戒めながら、今もなお「アメリカ大統領」はジェントルマンであるはずだと信じているのだ、われわれはそのことを信じると共に、演出やパフォーマンスが政治に彩られる類は、アメリカがアメリカだからだと信じようとしている/その信頼が為政者に届くときはじめて、民主主義は単なるシステムではなく人類が実体化を為し遂げたひとつの理念だと言いうるだろう。

(まともなことを話すのは何もおかしくない)

たまにはこうしてまともなことも書き話してみた/最近、「言葉」はつくづく大事だと思うのだった。
僕がこうしてまともなことを書き話すと、いかにもガラじゃない感じがするので、こうしたことはあなたとあなたの友人が話すべきだ、まともな話にはかけがえのない魅力がある。

いいオンナはいい言葉を | comments(0) |
野心的なあなたへ
しあなたが、野心を持つのなら、あなたは誰よりも「感動」する人であればいい。
よくよく見ると、「感動」する人は少ないのだ、「興じる」人は多くても「感動」する人は実はとても少ない。
たとえばポルノ鑑賞やギャンブルやソーシャルゲームに「興じる」人は多いけれども、彼らは「感動」してそれらをやっているのではない。
勉強する人は多いし、読書する人も多い、努力する人も多いのだけれど、実は「感動」する人が一番少ない/野心的なあなたならぜひ「感動」を取りこぼさないことだ。

恋あいものの映画を観れば、誰だってホロリと落涙ぐらいはするものだ。
けれども、実は一番多いのは、そうして落涙して「すっきりした」と感じている人なのだ。
映画を観終わると、「いい話だった」「いい映画だった」という感想と共に、どこかで「こんなものだよな」と冷めている、実はそういう人が一番多い。
「感動」するというのはそうではなくて、じゃあどういうことなのかというと、ここでは説明できないが、野心的なあなたはどうぞ、明らかに「感動」する人であってください。

「感動」したなら、あなたは強くなっている。

誰もあなたの好きなものに、口出しなんかしないし、するべきじゃない、だからあなた自身で気をつけて、気づくべきだ、あなたはあなたを強くするように生きているか、あなたの「好きなもの」は、あなたを癒すふうで、あなたを弱くしていないか。
勉強して努力して、活動して、しかし「感動」はしませんでしたというのでは何より損だ、すべての努力があなたを強くはしなかった、なんて話は悲しいじゃないか。
できるオンナだね | comments(0) |
情熱はどこから湧いてくるか5(ガマンと耽溺願望の構造)
こ最近、僕はこれまでの一年間を振り返っている。
去年は、ワークショップ等もやり、またその他にも色々あって、今になってまとめなおしが必要だと感じているからだ。
そのまとめなおしの中で、新しく現今の状況を知った中で、僕自身は改めて「情熱」に立脚するしかないと感じる。
これまでの一年間で知ったことのひとつに、いかに人々に「情熱」が機能していないかを知ったということがあるからだ、そのことを踏まえた上で、僕はより露骨に「情熱」に立たねばならない。

僕が「情熱」に立てば、また他の人と距離が大きくなり、「噛みあわない」ということがさらに増大してしまうが……
だがここに来て、逆に僕は、よりレアな「情熱」の実物をやらねばならないだろう、まったくガラではないのだが、いいかげん僕がそれを残していかないと本当に周囲から消え去ってしまう。
これ以上、弱さを焼き払おうとするのは、いいかげん不自然で無理があるが、まあしょうがない、他にすることもないのでそのようにやっていこう、なんだかんだでヒマだ。
情熱はどこから湧いてくるか、それは「間違っててもかまわん」というところから湧いてきている、情熱は弱さを焼き払うものだが、正しいか間違っているかに囚われるのが人間の第一の弱さだ。

正しいことは、わかるが、僕には聞こえん。

けっきょくこうなるしかないのか……といって、もう二十年ぐらい変わらない中を生かされているような気がするが、まあいいや、ちなみに情熱といっても休憩はします、一年間を振り返って「休憩ゼロの前提はどーなの」ということもさすがに考えたのだ。
正しいことは、割と人によって違うので、人の顔色をうかがっていると時間を無限に無駄にします、情熱はただ強さの実物に向かっていればよし、まあでもまた距離が大きくなってしまうのはいささか憂鬱でもあるなあ、しょうがないけどな。
正しく見ないとな | comments(0) |
情熱はどこから湧いてくるか4(ガマンと耽溺願望の構造)
やあ、こりゃ本当にまずいな。
たぶん、少なからぬ人が、耽溺している人のことを「明るい」と思っている。
ガマンの暗い時期があり、それが過ぎれば次は耽溺の明るい時期があるのだと、単純に思っていて、そのことを「そのうちいいことあるさ」と冗談でなく思っているところがある。
「暗い受験勉強を終えて、無事大学に入って、彼氏ができたからリア充になって明るくなった」と、冗談でなく思っているところがある、これは本当にまずいことだ。

受験勉強だろうが、恋人だろうが、「情熱」なら同じだ、どちらも本来は情熱をもって向かうものだ。
◆正:受験勉強(情熱)、恋人(情熱) ◆誤:受験勉強(暗・ガマン)、恋人(明・耽溺) と、こうして並べて書けばわかりやすいか。
「弱さを焼き払うのが情熱」、これは変わらない。
「弱さを抑圧する苦しさがガマン、暗いのよ」「弱さをぶちまけていい快楽が耽溺、明るいのよ」というような、目を覆いたくなるような概念を往復しないでくれ。

参考書も恋人もボロボロになるまで愛するのが情熱。

ガマンが暗くて、耽溺が明るいとか、そりゃいくらなんでも「煩悩」そのまんますぎるだろ……ちょっとは直観的に気づけよ、まして煩悩もどうせ執着になって暗くなるよとミエミエに予言されているんだから。
情熱とは、自分の生きることに現れてくるすべてのことを、何もかも肯定して笑えるものにしてやろうとする力のことだ、自分にとってオイシイものに執着して追いかけまわすことのどこが情熱でありうるものか。
正しく見ないとな | comments(0) |
情熱はどこから湧いてくるか3(ガマンと耽溺願望の構造)
「ガマン」もクソだし、「ぶちまけ」もクソだ。
そもそも、何かを「ガマン」しているから、「ぶっちゃけさあ」が出てくるのだろう、そんなものは何も偉くない。
「我慢(ガマン)」という漢字をよく見ろ、「我」の「慢」だ、「巨大な我慢」ということがいかにヤバいかがわかるじゃないか。
「ガマンしている」という状態は、自分を押さえているのではなく、実は自分を膨らましているのだ、だからそれはやがて来る破裂(ぶちまけ)への準備にしかならない。

「ガマンしないなら、ぶちまけるしかないじゃん」というデタラメ短絡な発想を、どうか捨ててくれ。
ガマンは自分への執着だし、ぶちまけも自分への執着なんだ、ここを往復していたらキリがないし救いがない。
あなたは、他人の苦悩について、自分がガマンするということはないだろう、「ガマン」というのはあくまで自分のことしか「ガマン」できないはずだ、ここにヒントがある。
自分を突きはなせ、自分が「自分」というくびきを超えられたら、もうガマンの必要もぶちまけの必要もなくなる、他人の耽溺が気色悪いことにしか見えないように、自分の耽溺も気色悪いことでしかなくなる。

カミサマの降りてこない苦行をしてりゃ、そりゃただの我慢大会になる。

これまでに、「自分のためにがんばりなさい」とか言われてこなかったか? これが「ガマン」の温床になる、「自分のために」なんて念頭に置いてりゃ、我・慢が増大するに決まっている。
ガマンしてきた者が、やがて耽溺を得たとしても、そんなもの救われるわけがない、情熱というのはこのクソ構造にいよいよ見切りをつけようとする理性のはたらきのことだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
情熱はどこから湧いてくるか2(ガマンと耽溺願望の構造)

はりこの話が、現代に「当たっている」と感じる。
鉄則だ、「情熱とは、弱さを焼き払うこと」だ、これはもう曲げなくていい。
情熱の湧いてこない人は、「ガマンとヒステリック耽溺を往復」しているのじゃないか? ここは正直に考えてみてくれ。
生活上でする「ガマン」を、「善」「大人」「自制心」「いい子」と思っているのじゃないか? だとしたらそれは単純に間違いだ、大急ぎで訂正してくれ。

「情熱を、ほれ、やってみろ」と言われたらどうする、どう感じる。
たちまち、何かを「ガマン」するか、もしくはそのガマンが切れて、「ヒステリック耽溺」に転落したくなるのじゃないか、だとしたら根本構造が間違っている。
わかりやすく言っておこう、ガマンが偉いわけではまったくなくて、ガマンを乗り越えてガマン以上の何かに到達した人が偉いのだ、「耽溺に興味はないし、何かをガマンした覚えもないな」という人が偉い。
われわれは、ガマンにストレスをためて、耽溺にドーパミンをプシャーするというような、愚かなばかりの生きものではないのだ、そんなことは元々わかりきっていることだろう。

必要なのは「自制」ではなく「克己」だ。

「とてもつらかったけれどガマンしました」と自負するのは、とってもよくない、それは「不満を溜めこんだだけ」だ、その焼き払われていない不満はやがて耽溺にぶちまけられることを待ち望んでいる。
「克己」というのは、「初めはつらいとか言ってたけど、いつの間にかすっかり忘れたね、ハッハッハ」と笑っている状態だ、そして情熱というのは、そのただならぬ克己に向かおうとする人間のあらわれのことだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
情熱はどこから湧いてくるか(ガマンと耽溺願望の構造)

とえば若い男性は、毎日オナニーしているだろう。
若い男性は(女性もか)、オナニーしたくなるので、オナニーするわけだが、このときオナニーは「自分のやりたいこと」ではない。
「○○を味わいたい」という願望の方向に、「自分のやりたいこと」はないのだ。
つまり、「耽溺」という弱い方向に、自分のやりたいことはないということになる、「情熱」は強いほうにあり、いわば「情熱の反対は耽溺だ」と言いうる。

情熱はどこから湧いてくるか。
それは、弱さの逆方向、つまり「自分の内にある弱さを焼き払いたい」という無私の衝動から湧いてくる。
「自分のやりたいこと」を探すというのは、「人生に一度、思いっきり何かに耽溺してみたい」というアホな願望のことを指すのではなく、その逆、この耽溺願望を焼き尽くしたい、という衝動を指す。
どうも僕の知るかぎり、生きる上で何かを「ガマン」してきた人は、その「ガマン」によって「耽溺願望」を無意識下に育ててきているような気がする/情熱のない人はきっと、「ガマンと耽溺願望」に不穏な心当たりがあるのじゃないか。

ガマンすんな、戦え。

誤解している人は、「ガマンすることが正しい、戦い」と思っているのじゃないか、その誤解はやがて耽溺願望に取り込まれるぞ、それはきわめて危険なことだ、ガマンということの地位を下げろ。
情熱はどこから湧いてくるか/ストイック風情は情熱のたまものじゃないぞ、ガマンおよび耽溺願望の両方を焼き尽くして立つという決意が情熱だ、プラスの妄想もマイナスの妄想も焼き払って笑うのが情熱だ。

正しく見ないとな | comments(0) |
「評価」することと、「衝撃を受ける」こと

「評価」は誰だってできるが、「衝撃を受ける」には体力が要る。
体力というと雑だが、つまり「衝撃を受ける」ためには、あるていど当人の「強さ」が要るのだ。
人間にとって、体験は大事だが、どんなすごい体験を得たとしても、当人に「強さ」がないと、それを受け止められない・引き受けられないということがでてくる。
「すごい体験をした」という場合、それは「すごい衝撃が自分の身体に残っている」ということでないと意味がないのだが、当人に「強さ」がない場合、衝撃そのものを身体に受け止めることができないのだ。

だから、強さのない人を集めると、その人たちはなんというか、「納得マニア」になる。
納得して、評価するのだ、「すごいと思います」という納得と評価を繰り広げる、しかし身体には何の衝撃も入らないようたくみに回避の体勢をとっているものだ。
それはそれでかまわないのだが、この回避体勢が習慣になっていると、以降はもう何の体験を得ても自分の足しにはならなくなってしまう。
「自分が進んでいかない、停滞している」という人は、たいていこれだ、体験や刺激が足りていないのではなく、体験を受け流す卑怯な体勢が習慣になってしまっているのだ。

「衝撃」を避けるため、「活発な努力」に身を逸らしている。

これはあるていど、やむをえないことでもある、何しろ「強さ」がまったくない状態で強すぎる「衝撃」をモロに受けると、心身がバラバラに打ち砕かれて、危険な状態に陥るからだ、なかなか度胸一発でなんとかなるというものでもない。
もともとは、たとえば「赤ずきんちゃん」の話のスリルに耐え、学校では先生に怒号で叱られることを経て……というふうに、「強さ」を養っていくものだが、現代はその仕組みがない、現代でやけに活発な努力へのモチベーションが声高に言われるのは、ほとんどこの衝撃への弱さを糊塗するためのものだ。

できるオンナだね | comments(0) |
茫漠エンキリ

めているものと縁を切れ。
あなたの見えているものにあなたが真に求めるものなどありはしないから。
そのとき茫漠とする、それを夢中という。
わかりやすいものであなたが満たされたことはなかったろう/わかりやすさでその日を過ぎることにしかならなかったろう。

夜な夜な、わからないものが急襲する。
それが「迫力」であり、夜のとばりである/しかしなおもあなたは失われない。
あなたの求めていたわかりやすいものなんて実は何でもなかったじゃないか。
恐怖ほどの美がなければ何にもならない。

言語でない、潮風や東風、女性の膝と膝のあいだなど。

飛び交うサンスクリット文字、ヒンディー語、計算外の数式と五線、星空と地表のあいだにそれだけのものがあると、元々知っていたことじゃないか。
求めていたものと縁を切った、するとたちまち東西南北は無限の方向を顕し、人々にとてつもない個人を与えるのだ、それは毎夜のことだ。

恋女のマインドね | comments(0) |
(夏の宵)
の宵
雨風にディーゼルエンジンの熱煙る、走り抜ける
音色に潜む甘露ヴァイオリン
蒸気上昇する/雨滴落下する

夏の宵
狂騒剥離する
商店街覆う大樹クスノキ
鼓膜は誤解の装置/混乱が真実の装置

大気熱り、良夢吸収する

ごろごろした夏の現実浮きでる
人の夢はここにあるのです
恋女のマインドね | comments(0) |
「評論」はおすすめしない
・淀川長治さんは、まさに映画と共に生きた人だった。
だからあの人が映画評論をすることには聞く値打ちがあった。
ここで、もしあなたが、まさにラーメンと共に生きる人であったなら、あなたはラーメンの評論をしたらよいことになる。
ただ、「ラーメン消費者であることがわが生」というのでは、あまりにも人生を喪失した人みたいで、あまりいい感じはしないけれども。

自分にとって、よほどかけがえのない愛やストーリーがある場合には、評論ということもあっていいのかもしれない。
が、そうでないかぎり、評論なんてしないことだ、「評論」をすると、自動的に自分の人生を喪失する仕組みが待っている。
「評論」をすると、それ以降は、もう自分の中にそれが入ってこないという仕組みがあるのだ、たとえばラーメンについて評論した人はもう食事の一切が自分の中に入ってこなくなる。
「評論」をすると、以降は一切のものが頭で弾かれるようになり、自分の身には体験されないようになるのだ。

自分のストーリーがない人は、どうしても評論で時を過ごす。

たとえばロクに女性と付き合ったこともない男に限って、「A子の性格はさあ」「B子の身体はねえ」と評論を始める、こんなもの女性から見たら全力で「ゲッ」としか思わないはずだ。
あなたはこれまでに、芸術を評論する人に芸術性を覚えたことはないはずだ、何もあなた自身がわざわざそんな人物になる必要はない/あなたにあなたのストーリーがあればあなたは「評論」なんてやらかさない。
正しく見ないとな | comments(0) |
ダンジョンに入ったことがないのでは?
物は常にダンジョンの最奥にある。
ダンジョンに入ったことがないのでは?
レベルが低いと迷子になって魔物にやられて行方不明だ。
ダンジョンに入り、数々の魔物を人の手で打ち倒せ/その最奥には、たいてい巨大な魔物が潜んでいるけれども。

ダンジョンを踏破していない人を「明るい」とは言わない。
平穏なフィールドに宝物はないし、地図上を行くのを「冒険」ともいわない。
しかし、ダンジョンは明かりもなく地図もなく、湿度とグロッタに満ちて、通常は立ち入り禁止だ/それでもなお踏み入って勝利し、帰還してくる人を「勇者」と呼ぶ。
残念ながら、予定されたクエストに冒険はない、街の人に背を向けてダンジョンに踏み入ること、それが唯一勇者への道筋なのだ。

あなたがどうしたらいいか、街の人が知っているわけがない。

ドラクエをやったことがない人でも、宝物がダンジョンの最奥にあることぐらい見当がつく、そして「街の人」がダンジョンの最奥を知っているわけがないというのも見当がつく。
ダンジョン内は孤独だ、街の人は「やめておけ」と言うだろうし、僕だって他人事なら「やめておけ」と言うだろうな。
恋女のマインドね | comments(0) |
何度も何度も負けましょう
度も何度も負けましょう。
負けるといって、人間的に負けるのが一番いい。
とにかく人間の、人間らしい力に直面して、「負けた……」と笑うことを繰り返すのがいい。
その中で、「強い」というのがどういうことかわかってくるから。

僕自身、これまでに何度も、「こんなヤツにどうやって勝つんだよ」と、トホホな直面を何度もしてきた。
何か月か、じっくりと、自分を鍛えたつもりでいて、「よーし」といざ直面すると……「おう」と言われて、「あかん」とその勝てなさに直面しなおす。
今だってそのときのことを思い出すと、背中にいやな汗が流れそうになるが、とにかくそうやって、「勝てねえ〜」という実感に直面してきた。
その先に、「方法」なんてない、「方法」なんて一番弱っちいのはミエミエだ、じゃあ何が強いといって、燃焼で上回るしかないのだ(しかし、その燃焼で上回るというのが一番キツいのだが)。

エンジン音で負けて笑え。

人間性の勝負は、タイムや成績じゃない、エンジンそのものの勝負だ、そして上位者に目の前でエンジンを回されると「あかんわ」と敗北を悟るのだ、ああ敗北ってイヤだね!!
人間の表面、「ガワ」で競ってもしょうがない、大声でうるさいのが強いわけじゃない、愛や叡智や情熱において「エンジンが違うわ」と敗北しつづけることが、やがて自分自身を強くしてくれるだろう、それなら負けないほうが損というものだ。
できるオンナだね | comments(0) |
「強くあろう」とする人

だって、人に気持ちよくあいさつをするべきだと思っているし、ジョークやユーモアをもって、人と親交を深めるべきだと思っている。
が、「強くあろう」とは、意外に誰でもは思ってはいない。
「強くあろう」とは、誰もあまり思っていないのだが、実はたとえば「人に気持ちよくあいさつする」というのも、一定の「強さ」が要るのだ。
「強さ」の前提なしに、まともなことをしようとし、まともなことをするべきだと考え、まともな人になろうとしても、うまくいかないのだ、前提に「強さ」がないとすべては破綻してしまう。

人は誰だって文化的でありたい。
文化的でありたいのだが、文化とはそもそも、「人の弱さを断じ、強さに向かわせるために受け継がれる一切の様式」のことを言うのだから、「強さ」が前提になくては成り立たない。
たとえば、夫婦喧嘩をやりまくっている二人について、それを「文化的」と感じることがありえないのは、夫婦喧嘩は必ず人間的な弱さから発生しているからだ、こうした弱さの爆裂の方向に「文化」はありえない。
人は文化的であることに憧れて、着物の着付けや生け花や茶道教室に興味を持ったりするが、真に文化的であろうと望むなら、静かに「強くあろう」とするほうがよほど正しいし近道になる。

人を弱くするものまで「文化」と認めるのは不正だ。

特定の何かに言及することは避けるが、たとえば麻薬を代表的に、人を弱さに引き込むようなものまで、それらを「文化」と認めることはできない/そしてあなたが強くならないのなら、あなたは文化を得たことにはならない。
「強くあろう」とする人がいて、一方、そうはしない人がいるけれど、この根源的な差はごまかしが利かない/人は自分の弱さに向き合った者から順に文化的になっていくものだ。

できるオンナだね | comments(0) |
親兄弟
兄弟の話をよく聞く。
親兄弟というのは、よくわからないものだ。
人が、親兄弟にこだわるとき、たいていロクなことにならないし、そのこだわりは何の役にもたたない。
親兄弟というのは、カミサマのこだわりであって、われわれのこだわりではないので、特に気にしないというのが一番よいと思われるのだった。

たとえば近親相姦の話などはキモチワルイ。
キモチワルイにもかかわらず、たとえば兄から見ても妹のおっぱいはプルンとしている。
それが何なのだ、ということになるが、それはきっと何でもないので、「知らんわ」といってさっさと外に出るのが一番まっとうだと思われる。
フロイトはさまざまなエディプスコンプレックスのありようについて解き明かしたが、そういったことは特にこじらせた人にだけ必要な知識で、そもそもこじらせずに放っておくのがベストなのだ、親兄弟についてこだわるのはたいていロクなことにならない。

血のつながりは、あるのかもしれないが、あんたにはわからん。

カミサマから見たらわかる何かがあるのかもしれないが、われわれにとってはよくわからんことだ、われわれはDNA鑑定とかいう野暮の極みを用いてしか、血のつながりを知ることができない。
親兄弟には、きっと「何もない」のだ、もしあったとしてもわれわれが知ることのできない何かだ、だから親兄弟とは「何もない」というのがベストだ、ポジティブもネガティブもないのが一番いい。
正しく見ないとな | comments(0) |
「燃焼」と「常温保存」
間は「燃焼」するべきか、それとも「常温保存」されるべきか。
このことについて考えるが、考えた上で、どーも人に話すのは気が進まないでいる。
岡本太郎や、ジェームスブラウン、尾崎豊などは、明らかに「燃焼」を選んでいる側だ。
しかし現代の思想は「常温保存」であって……たとえば煙草の煙は害悪だし、バカ食いも深酒もダメ、そして運動とビタミンを欠かすなというのが現代の思想だ、このことの前に、やはり僕はこのことを人に話すのは気が進まないでいる。

僕は「燃焼」を選ぶたちだ。
カミサマが生命を創ったのなら、なぜこの生命は死んでしまうんだよ、という問題がある。
カミサマが創ったものなら永遠に生きてもよさそうなものなのに。
このことはつまり、カミサマはすべからく生命に、「さあ燃え尽きろてめーら!!」と言いつけているといいうるのだが、それにしてもこのことは人に話すのは気が進まないのだった。

「燃焼」と「常温保存」、どちらを選ぶか。

このことは、なかば禁句のような感じがするが……まあいいや、僕は「燃焼」を選ぶし、僕が燃焼を選ぶせいで、僕の友人は多大な被害を受けているだろう。
ただ僕は、「燃焼」と「常温保存」で、言い争いだけはしたくないのだった(だからどーも話すにも気が進まないのだ)。
正しく見ないとな | comments(0) |
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