☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
【霊?】至急、大訂正【肉?】

日、「肉に霊が蓄積的に宿る」という話をした。
これは、別に間違っていないのだが、誤解を生みそうなので訂正することにした(しかも訂正案のほうがスッキリしていてわかりやすい)。
人間には、二つの派閥がある、つまり「にくしみ」派と「にくぬき」派だ。
「にくしみ(肉染み)」派は、「肉に情念を染ませてがんばる」という発想をする、「にくぬき(肉抜き)」派は、「肉から情念を抜いて肉に霊を宿らせる」という発想をする。

洋服についた染み(シミ)を抜く、「染み抜き」というのがあるだろう、あれと同じだ。
洋服に染みがつくのは一回で簡単だが、染み抜きをするのは何回もしつこく叩かねばならない、繰り返しの時間が掛かる/人間の肉も同じ性質で出来ている。
肉に情念を染ませる、という方法は、インスタントで簡単、即効性のものだ、けれどもそれによって肉は根本的に動かなくなる、肉は情念によってメラメラと炎上するが、それによって動けるようにはならない、だから情念の肉は動くのに「力」が必要になる。
一方、肉から情念の染みを抜いて、霊が宿るというのは都合のよい話に聞こえる、が、これだって「精神」を得ていないと霊は宿ってくれない、「精力」で生きている人が「脱力」をすると自分の真ん中がボカーンと抜けるということにしかならない、だからそんなに都合のいい話でもない。

前向きな情念も、後ろ向きな情念も、それは肉に染みる「にくしみ」だ。

「にくしみ(肉染み)」というのは、何も憎悪だけに限定されないのである、これがミソだ、前向きな情念だって肉に染みついて取れなくなる、肉染みが起こると肉は動かなくなり、学門・文化・芸術といった「営為」が霊的に得られなくなる。
あなたはあなたの肉を、インクで叩くか、洗剤で叩くか、そう考えるとシンプルな話/おそらく「肉染み」派の人は、タトゥーを入れたい願望があると思う、それが「肉に情念を染ませる」派だ。

正しく見ないとな | comments(0) |
四周年!

あ、後でまた告知を出すけどね。
今月もパーティやりますよ、8/19(土)19時、原宿でよろしく。→参加エントリはこちらから
なんと今回で、四周年なのだ、四年前の八月から始まったんだな、今回で第71回となるはずだが、まあしつこく続いている。
四周年ということで、節目なので、また新しい人がわさわさ来てくれたらいいなと思っております、どうぞよろしく(なんか久しぶりだなこういうノリは)。

毎月×四年間もやっていると、いいかげん「やっている」という意識はなくなる、まるで誰も誕生日は辞めようがないように、毎月の第三土曜にはこれがあるのが当たり前になっている。
この四年間で、いろいろあったのだ……と言おうと思ったが、あまり覚えていないな、まあ今回はみんなから思い出話でも引っ張り出してみるか、どうせ重要なのは過去ではなくて未来なのだし。
僕は経験的に、あるいは直感的にか、自分の生きている時間に「何をしていたかわからない時間」があるのはマズいと思っている、それはたぶんどんなに若くてもすでに認知症の始まりなのだ。
僕のやっていることは、引き続きわけがわからないが、僕はこのわけのわからないことを「確かに」やっている、この四年間、僕と同じことをしていたという人はこの地球に存在しないだろう、あまり自慢になるようなことでもないが。

またこの先の四年間に。

だいたい人は、中学・高校の各三年間をはっきりさせており、その後の大学四年間をはっきりさせているのだが、そのあとにつづく四年間がはっきりしないものになる、はっきりしないまま三十歳が見えてくる/すると焦って人生を考え始めるのだが、それはすでに見失ったから考えているのであり、状況に間に合っていない。
月に一回のQuali's Partyというのは、割といいシステムだと思うのだが、どうだろうね、よくよく考えればすごく不思議な集まりになってしまったが、今回はそんなことを再確認するというヒマなことでもしてみようかと思っている(ただし泥酔して忘れる可能性大)。

バカをやろうかあ | comments(0) |
永遠のライブ

年前もこんなことをしていた、何かを書いていた。
そのさらに十年前も、何か似たようなことをしていたし、そのさらに十年前も……「書く」ということにこだわらず、僕はずっと夜の中をうろうろしている。
もし前世があったとしたら、きっと同じことをしていただろうし、来世があったとしても、ずっと同じことをしているだろう。
どう考えたって永遠に同じひとつのことをしている、それがたかだか西暦何年とかいうことで変化はしない。

つまり、僕は初めから何一つしないので、何かをやめるということもありえないのだ、われながらひどい面倒くさがりで呆れる。
話が噛み合わないことが多くあるのはそのせいだ、僕は「何をしますか」と訊かれていつも「何のことだろう?」と混乱している、「何をしたらいいでしょう」って、僕にはそもそも何かを「する」ということがわからない。
僕はまるで、墓標みたいな人間だな、でもそれは死んでいるということじゃない、存在しているということは、わざわざ生きないということだ。
すべてのものを、永遠にもっていく、永遠にもっていくのだから、何が重要で何が大事かなど、価値観の話は永遠のあとで決めればいいのじゃないか、永遠のあとなんて永遠にこないだろうけど。

永遠のライブ、「生きる」ってそれじゃないの。

八千八百万のサウンドが、四億ヘクタールのキャニオンに響くんじゃないの、谷間に十七色の虹風が吹いて、夕焼けが四〇〇日間続く、そんなのはもういくらでも見てきたよ。
東京って無限に土地があるんだぜ、だから街が終わらない、永遠なんて言うとバカにされそうだけれど、でも永遠でない恋人を検索しているのもいいかげん言い訳が立たんと思うぜ。

恋女のマインドね | comments(0) |
グレートハッピー、「結果」は過去に生じるもの
は、なんというか、自由でなくてはならないね。
自己表現なんてしなくていいが、自己存在はしていないといけない。
言っておくが、あなたの自己存在は、この宇宙より大事なものだ。
今日もどこかで、うつくしい女が、花火を見上げて酔っ払っているのだ。

過去とは何か、現在とは何か。
たった今、結論が出た、それは僕の大切なところに金色の尺玉が届いたから。
われわれの、肉のうちに、霊が蓄積していく、そのことを「現在」という。
われわれは、いかなる記憶を掘り起こしてみたところで、過去の肉を生きることはできない、生きるってことは現在の肉に霊が蓄積していくことなのだから。

よって、現在に疑問はない。

疑問あるいは疑いは必ず過去より生じている。
現在には肉と霊だけがあり、「結果」は未来ではなく過去に生じるのだ、おおなんというグレートハッピー、この話はまたいずれ。
正しく見ないとな | comments(0) |
創作力
日は一日で二万字ばかりの章を書き上げたのだが、今になって読み返して、この部分は全部ボツにする、まあだいたい文章を書こうとする変人はこういうことばかりをしているものだ、人は二万字を書くことはできても二万字を「書き直す」ということがなかなかできない(そりゃもちろんおれだってイヤだ)。
こうしてそれなりの量の書き直しをすると、そのたびに教訓を見つけようとするが、教訓なんてものは存在しないに決まっている、いつだってそのとき限りに偶然・マグレで・うまくいくしかないのだ。
ありとあらゆる方法論は何の役にも立たず、足をひっぱるばっかりで、その中でも最も役に立たないのは「ダメもと」の精神だ、だいたいそういう、追い詰められた人が納得しやすいロジックというのは、追い詰められた人専用の香料がまぶされているものである。
じゃあどうやって取り組むかということになるのだが、それは「力ずくで取り組んだらいいだろゴルァ」なのであって、ここにきて急にデタラメになるが、けっきょく勝負なのである、勝負に勝ち方など存在しないのだった……

文章を書くとき、いつも「どうやって書いたらええねん」という不能感、および「なんか、もう前もってわかる、何かムリ」という消沈がある。
もちろん、くっだらない文学風味の何かを書くことはできるのだ、それは99%文学の文章に見えるだろう、けれども僕は自分でそれを詠んだとき、「うわ、要らねえ」と感じる、だからその「書ける能力」は何の役にも立たないのだ。
仮に、うまくいく場合にパターンがあるとすると、それは書き出しの時点から「うわなんだこりゃ」「こんなん成立せえへんやろ」という、むしろ「間違ってるだろ」という半笑いの感覚があるということになる、何かがまともに創られるときはたいていそうだ。
つまり、僕は間違わねばならず、間違っているものをどこか天のカミサマがしゃしゃり出て、勝手に別構造化してくれなくてはならないのだ、そういえばこれまでのすべてにおいて、書こうと狙っていたものがそのまま文面になったことはないな、だからもう誰が書いているのやら意味がわからん。

「創作力」ほどの完全なゴミはない。

まあどうせ、僕は何も悪くないので、他の誰かが悪いことにしておこう、非情な話、文章を書くときだけは誰ひとり友人なんてチャラいものがあってはならない、創作のときにあってはならないものは愛と友情と真実だ、除菌もできるジョイで顔を洗って出直せ。
もし僕に「センス」なんてものがあったら、僕は早いうちに自殺してカタコンベ行きだっただろう、まあなんと言えばいいのか、僕は一般に大切と思われているもののほとんどが苦手である、僕に唯一の自慢の能力があるとしたら、それは僕が躊躇なく無能になれることだ、有能などということは苦手だ。
恋女のマインドね | comments(0) |
大きな愛、そのサイズ差

と恋の違いは何? という、よく知られた問いかけがあるが、これはもともとが間違っていて、愛はそもそも恋と比較考究されるたぐいの事象ではない。
人間にとって、「愛」という事象は、「光」という事象と対のパートナーだ、人は光に引かれ、同時に愛に押し出されもして、進んでゆく、というだけだ。
だからよく知られているように、人間にとってのカミサマは二種に描かれている、ひとつには威光を示す「父」として描かれるカミサマで、もうひとつには慈愛を示す「母」として描かれるカミサマだ。
人間は、愛されなければ踏み出せないし、光がなければ踏み出す理由がない、光がなければ愛されたってしょうがないし、愛されなければ光に向かえるわけもないのだった。

自然愛好家は世の中に多いだろうが、その逆、「天地自然がわたしを愛してくれている」と捉える人は少ない。
加山雄三が唄う「海、その愛」というのがあるが、これは「海よ、おれの海よ/大きな、その愛よ」と唄っている、こうして「わたしが海を愛している」ではなく「海が(わたしを)愛してくれている」と捉える詩文は現代には見当たらない発想だ。
だいたい、家にカルト宗教の勧誘がきた場合など、困るのは勧誘者がいかにも「わたしは誰にも愛されていません」という気配を明らかにしてくるからだ、愛されていないなら泣くべきだが、宗教勧誘者はなぜか強引に笑顔で迫ろうとする(ムリかあるだろそれは)。
この、一般化して「何にも愛されていない者が、何かへの愛をしきりに言う」という悪いパターンが、あまりにもわれわれの世に多すぎる/僕は大きな海が加山雄三を愛したということにムリがあるとは思わない、小さなわれわれが光に踏み出すには、大きな愛に愛されることがそりゃあどうしても必要だ。

愛されていることを見落としている。

いやもちろん、「わたしは天地自然に愛されているの」と言い出すと、それは単なるヤベー奴だが、何しろサイズが違うのだ、僕は加山雄三の歌が正しいと思う、何しろ海と僕とではサイズが違いすぎる、こんなサイズ差に対抗できるやつが人間にいるのだろうか。
もし山が単なる土塁にすぎず、海が単なる食塩水にすぎないのだったら、愛されようがないから、われわれは光に向かって進めないだろう、けれどもそれらを土塁とか食塩水とか呼ぶことこそ、逆にムリがあると僕などは思うのだった。

視点変えてこ | comments(0) |
あなたが生きることの、三種のきらめき

門を捨てると、人は生の1/3を失う。
文化を捨てると、人は生の1/3を失う。
芸術を捨てると、人は生の1/3を失う。
3/3、すべてを失ったとき、人はその後「ささやかな話題」を日々追いかけて生きるしかなくなってしまう、これはいかにもさびしいことだ。

己が肉に「学門」が宿っている人は、「決定的な一冊の本」に心当たりがあるはず、あの一冊によってあのときの自分は作られていった。
己が肉に「文化」が宿っている人は、「決定的な一本の映画」に心当たりがあるはず、あの一本によってあのときの自分は作られていった。
己が肉に「芸術」が宿っている人は、「決定的な一曲の歌」に心当たりがあるはず、あの一曲によってあのときの自分は作られていった。
その他、決定的な「場所」、そして何より、決定的な「あの人」に、出会っているはず、そしてそれらのすべては緊張感と共に、ナゾの「きらめき」があったはずだ。

学門には得体のしれないきらめきがあるが、多くの人はそれに触れたことがない。

「勉強」「お勉強」というのは、流血じみていて誰だってイヤなものだが、勉強と学門は違う、学門のどこから光が差してくるのかはまったく不明なのだが、学門には確実に得体のしれないきらめきがある、あのとき生じるナゾの清浄な空気は何なんだろうね。
年の功から申し上げるが、学門・文化・芸術に生じるあの「きらめき」は、そのときがくるまで絶対に前もってはわからない、僕は何一つオススメするつもりはないが、そういったまったく想定外の「きらめき」がそれらの営為にはあるということのみ、年の功によって断言しておく。

できるオンナだね | comments(0) |
若い二人はうらやましい!

い二人はうらやましい!
が、このご時世、年の寡(すくな)い者が若いとは限らない!
若い人間がSNSを使いこなしているのではなく、オンラインで済まそうという億劫さはむしろ老人の流儀に属するものだ。
山裾のオンボロ下宿で、運動方程式をいじりながら、「運動量を積分すると運動エネルギーになるのはなぜなんだよ」なんて言い始めたものの、調べる手段もないので侃々諤々(かんかんがくがく)、誰一人帰れずに朝までペンと紙を飛ばしてた、扇風機の取り合いしてた、なんてことのほうが「若い」ってことだ/それに比べたらオンラインなんかオジーサンだな!

若いということは、肉が若いということで、肉が若いかどうかは、緊張感によって証される。
たとえば、十三歳の少年少女らを舞台の上に立たせてみる、するとそこにはそれだけで何かの緊張感が生じる、これは只々肉が若いからだ。
一方、七十三歳のオジーサンオバーサンを舞台の上に立たせてみる、するとそこには「ロータリークラブかな? ははは」という和やかさが生じる、こうして緊張感の有無が肉の老若を証する。
若い二人はうらやましい! それは不変の羨望なので、どうか和まないように、人の肉は緊張感によって高まり、その高まりの中で肉はさまざまな霊を蓄積的に宿していく、まさにそれが「うらやましい」のだ。

オンラインが問題なのではなく、肉がオフになるのが問題だ。

「肉がオフです」とか、まさにオジーサンオバーサンじゃないか、繰り返すが老若は単に年齢によらず、肉の開かれてあるなしによる、肉を閉じたまますごす十年はあなたをえげつなく老化させるだろう。
VRで花火を見るのが悪いわけじゃない、たとえナマで花火を見たって、そこにあなたの肉と彼の肉が開かれてなければ、あなたは不変の「うらやましい!」にはならないだろう、ああ若い二人はうらやましい!

恋女のマインドね | comments(0) |
「肉声」はメチャメチャ大事です

に霊が宿るわけですよ(投げやり)、しかも"蓄積的"に。
だから、教師の肉声で教え子らは学ぶ、そのうち学門の霊が子供らの肉に宿っていく、と。
それの何がおかしい、むしろ合成音声でウィキペディア情報を記憶に突っ込まれた子供のほうが明らかにヤバいだろ。
天地自然、学門、文化、芸術、あと食事、また交合も、霊的に肉に蓄積していくわけだな、それで誰しも全身が「ナイス肉」になればいいわけだ、そんなもんステロイド&プロテインでゴチゴチに固めたナゾの筋肉マンよりよほどまともだろ。

肉の身に何も入らないのは本当にマズい、豊かな森林と大きな湖、また香辛料で焼かれた羊肉と、古くからある学門、礼儀や言葉遣いの文化、ジョークとユーモアの芸術、そういうものが肉に入らないのは本当にマズい。
肉の身にそれが入っていくわけだよ、そしてそのサポートに、本来は「精神」に到達しているしっかりした大人が寄り添っている必要があるわけ、未熟なモンに「魔が差して」ヘンなことになってしまわないように。
なんなんだこの、すっごくまともなのか、すっごく怪しいカルト宗教なのか、どちらとも判別のつかない話は……
「肉声」はメチャメチャ大事です、「音声」はメチャメチャ邪魔です、で、「あなた大人として『肉声』が出せますか」と言われると急にキツいわけで、それどころか肉声を受けたときに自分に何が起こっているかもよくわからんで動揺しているというのが普通というありさまなので、これはどうします、もう深酒して寝ますか、という具合なのだった(投げやり)。

落ち着け、不能肉。

肉の身にあれこれ、蓄積的に入っていかないと解決しないのだけれど、今は諸事情あって、多くの人が肉に何も入らないように適応とコントロールを受けている、これは「不能肉」と呼んで差し支えないが、これは今しょうがないことなので、サボっているわけにもいかないが、焦っても逆効果なので落ち着け、ということなのだった。
あなたはカラオケではごまかされるけれど、高座にすわって「落語」をやれと言われたら、走って逃げ出すだろう? それが端的に肉声の不能を表わしている/今は「不能肉」やむなし、慌てずにだな、この先「肉バンザイ」「肉っぷり、やらせていただきます」と言えるようになれば、いろんなことがたちまち解決していくであろう(具体的な方策はない、投げやr(ry)。

できるオンナだね | comments(0) |
あなたが普遍性と集団性と個人性を手に入れること

は、普遍的体験。
文化は、集団的体験。
芸術は、個人的体験。
最近、「学門・文化・芸術」という言い方をするので、それについて予備的な話をしておこうと思った。

学門たとえば運動方程式f=maは、異文化もヘッタクレもない、宇宙人にだって通じるもので、普遍的なものだ、誰も「われわれ」とか個人的に運動方程式を信じているわけではない(普遍的に見つけられるカミサマと言っていい)。
文化たとえば「こんにちは」は、宇宙人には通じないし、かといって一人の自室で「αβγω!!」とあいさつするものでもない、よって「こんにちは」は「われわれ」という集団的なものだ、それは普遍的なものではないし個人的なものでもない(集団的に見つけられるカミサマと言っていい)。
芸術たとえば僕が夏の雲間に見えざる極光を見たとして、それは他の誰にわかるものでもない、あくまで個人的なものだ(個人的に見つけられるカミサマと言っていい)。
われわれの胴体には「こころ(文化の機能)」があり、胴体の上部には「理知(学門の機能)」があり、胴体の下部には「インスピレーション(芸術の機能)」がある/しょせんそれらを、血肉を通わせて営めるグッドマンになろうという話しか、僕はしていない。

学門・文化・芸術を捨てるということは、普遍性と、集団性と、個人性を失うということだ。

あなたに集団性がないなら、あなたは文化体験を持っていないのだし、あなたに普遍性がないのなら、あなたは学門体験を持っていないのだ、あなたに個人性がないのならあなたは芸術体験を持っていないわけで、そんな何もかもを捨ててどーする。
あなたの肉には何が宿っている? 「f=ma」が宿っている学者はカッコイイし、「こんにちは」が宿っている老舗のバーサンもカッコイイ、また「雲間の極光」が宿っている芸術家もカッコイイだろう、肉にそれらが宿っていないのに、筋力だけブンブン振り回したってカッコよくはならねーよ(なお気まぐれに色づけしてみたが、われながらヘタクソである、見づらいことこの上ない)。

できるオンナだね | comments(0) |
世俗の信仰と「万物の大勝利者」2

なたに白紙とペンを渡し、学門・文化・芸術を薦めたとする。
すると、まったく思いがけないことに、あなたはそこで「イヤなキモチ」になることが多い(ほとんどそう)、その「イヤなキモチ」は、なぜか唐突に起こってきて、言われてみれば「なぜイヤなキモチになるのか、自分でもわからない」というたぐいだ。
一方あなたは、豆知識を知って「へえー」と言ったり、ちょっとウェイな振る舞いをしてリア充な写真を撮られたり、「男の子の意外なギャップって萌えるよね」「あーわかる」と盛り上がったほうが、「いいキモチ」になる、今多くの人は当たり前にそのようにして暮らしているだろう。
学門とか文化とか芸術とか、そんなもの「堅苦しくてイヤだよ」と言いたくなるのだが、たいていそのとき、性格の事実として「堅苦しい」タイプは僕ではなくてあなたのほうなのだ、だから「堅苦しい」説も破綻する、これは一体何が起こっているのか、この構造はまず尋常の視点では看破されない。

まずあなたが、自分として学門・文化・芸術に向き合わされたときに覚える、ナゾの「イヤなキモチ」、それは「屈辱」なのだ、なぜかわからないが人はそのとき「屈辱」を覚えて不快になる、このことがすべてを解き明かすヒントになる。
なぜ「屈辱」なのか? それは、学門・文化・芸術は、もともと人間がカミサマに近づこうとする霊的な営為であって、それをやらされるのが「屈辱」なのだ、なぜなら自分はカミサマより上位なのだから(万物の大勝利者)。
あなたは、学門・文化・芸術に向き合う懸命な人たちに、「いいね!」と称賛を認めるだろうけれども、自分がそれをやらされることには途端に「屈辱」を覚える、それはなぜかというと、「(下)人間→カミサマ→わたし(上)」という階層構造があるからだ、「人間が上位のカミサマに近づこうとするのはわかるけれど、なぜわたしが下位のカミサマに近づこうとしなきゃいけないの」「侮辱だわ、屈辱だわ」という文脈が背後に隠れている。
そんなバカな、と言いたくなるかもしれないけれど、人間ってそういうものです、またそういう「万物の大勝利者」になるようにと、あなたは教育も受けているしコントロールも受けています。

あなたが伸びないとすれば、あなたには敬うものがないからで、あなたに敬うものがないとすれば、それはあなたより上位の存在がないからだ。

あなたより上位の存在がないのだから(万物の大勝利者)、あなたが「向上心」と言っても、そもそもその「上」自体が存在していないことになる、だから努力は空転する、たいてい「なぜこんなことをさせられなきゃならないの」という屈辱感がメラメラと起こってきて、「あってはならない敗北感」のようなものにたまらない怨嗟の感情を覚えて発狂したくなってくる/それが「万物の大勝利者」という現象。
芥川龍之介が「蜘蛛の糸」でお釈迦様の話を書いたのは、信仰心からではなくて、自分の知能でブッダの精神を十分に分析できると思ったからだ、芥川は自覚なしに「(下)カンダタ→ブッダ→わたし(上)」という構造の中にいた、その構造は当然、芥川の内側に「ぼんやりとした不安」を育てていっただろう。

正しく見ないとな | comments(0) |
世俗の信仰と「万物の大勝利者」
ルストイはその著書の中で「世俗の信仰」を警告、ないしは攻撃している。
つまり、世の中には、信仰を持たない無神論者が多いのではなく、まったく別のものを信仰すること、つまり「人の世」を信仰する人が多いのだ、実際のところは。
もちろん「人の世」がすばらしいのは当たり前であって、「人の世」がまともに機能してくれていないと、暴力が横行しても警察が来てくれないし、誰かが大けがをしても救急車が駆けつけてくれない。
だが、本来の意味での信仰とは、これら「人の世」をカミサマのごとくあがめるということではなくて、すべてのすったもんだを透かして「カミサマの世」が見えるかどうかなのだ、「人の世」か「カミサマの世」か/からっきしの無信仰者というのはごく少なくて、けっきょくは「人の世」を信じる者と「カミサマの世」を信じる者の二派に分かれている。

さてここで、困ったことがあるのだ、それはよく見るとこういうこと/「人の世」を信じる派は、「人の世に善をもたらすものがカミサマである」とあがめているので、よくよく見ると、人の世がカミサマを「創っている」ことになる。
カミサマが人の世を創った、という見方ではなく、人の世がカミサマを創った、それでよしと見ている、それが正しいのかどうかは誰も知らないが、「人の世」視点で善をもたらすものが「カミサマ」だよ、と強く信じ切っている人はいくらでもいよう。
こういう人は、たとえば宗教施設に対し、無関心というよりは攻撃的になる、「だってさ、教会の建物だって労働者が働いて建築しているんだよ?」「その建物の中で偉そうに説教を垂れるだけの人のことを、僕は信じられないなあ」と。
このことから何が発生したか? 「人の世」に尽くして、なお私利私欲のなかった人間には、名誉ある勲章を授与するべきだ……として、つまりかつての「共産主義」に発達していった、共産主義は宗教ではないが、明らかな信仰の対象ではあるのだ。

ふつう、「人の世」を最上位とする信仰からは、生涯脱却できない。

それがつまり「世俗の信仰」なのだが、このことは破壊不可能だし、破壊するべきでさえないにせよ、せめて有利に生きたい人は「知っておく」だけしておけばいい/何であれ世俗の信仰は「人の世」をあがめるのを第一としており、そこで言われる「カミサマ」というのも、「人の世」をあがめるのに仮想で持ち出されているにすぎない。
「人の世」が最上位であり、それに尽くした者や、「人の世」での善のあらわれについては、「カミサマ」を認めてやってもいいと、そこにカミサマの創出と承認を行う、これはカミサマをも吾が創る思想なので、僕はこれを「万物の大勝利者」と呼んでいる、「万物の大勝利者」はまったく誇張でもなければジョークでもない。
正しく見ないとな | comments(0) |
われわれの肉には、霊が蓄積的に宿る3
要なことなので、勝手にまとめていく、むろんこれらは一般的には狂人のタワゴトである、そのように片付けていい。
一番リアルなところは、最優先のこととして、「この人の身体(肉)に触れたい」「抱きつきたい」「この人の聲(こえ)を聞いていたい」と感じられる誰かに出会うことだ、その場合別にそれがセックスである必要はない。
何しろ、肉に霊が蓄積的に宿るのであるから、その肉に触れることは、蓄積されてきた霊にあやかれるということであり、そりゃそんなもん誰だって触れたいだろう。
お相撲さんやプロレスラーが花道を通るとき、観衆が一斉にそれに触れたがるのはそれが理由だ、神聖な場で霊を宿してきた蓄積的肉体に触れたいのだ(ゲンがいい、とも感じる)、それは単に筋肉をモリモリにしたボディビルダーに触ってみたくなる現象とは性質が違う、ボディビルダーのそれは好奇心や異物への「怖い物見たさ」であって、霊的な神聖さに触れたいという衝動ではない。

人は、触れたい人、聲を聞きたい人に出会うのが重要だし、ゆくゆくは自分が、その触れたい人、聲を聞きたい人になっていくことが重要だ。
それはまあ当たり前のことではあるのだが、人はときどき(しょっちゅう)、この本質的なことから目を伏せたがる、そりゃあまりにも本質的すぎて自分が追い詰められるからだ、自分が人から「触れたくない」「聲を聞きたくない」なんて霊的に思われているなんて考えたくもないのだから。
ここでもちろん、若い女性が死体モテを起こして「そそる」と扱われ、それによって男どもがその女に触れたがる……というのは現象が違う、そんなものは単にヤケクソの霊的荒廃の衝動でしかない(そんな暗愚な獣現象をいちいち考慮に入れたくなーい、というのがホンネだ)。
「霊的な未熟者は霊的な成熟者の身体に触れたい」、それが当然と言えるが、このときは必ず但し書きがつく、「ただし人の身体に触れてよいのは、あくまで精神を獲得済みであり、その上で霊的に未熟という者に限られる」、精神そのものを獲得していない者は未熟者ではなく不適格者なので人の身体に触れてはならない/こんな仕組みがわれわれの真相に起こっている、面白いもんだね。

自分の肉に入れたいもの、それと出会うことがあなたの進む先だ。

自分の知識に入れたいものとか、自分の知り合いに入れたいものとか、そんなものは無意味だ、肉が疎になると人は獣になってゆくばかり、ここで重要なことは、頭を下げてでも自分の触れたい肉に触れていくことに躊躇しない勇気を持つことだ。
誰でも、そのとき漠然と好きなものがあり、マイブームがあったり、世の中の流行もあったりする、それらは数ヶ月できれいさっぱり消え去っていく、なぜ消えていくかというと肉の内に霊としては宿らないからだ、その空虚を渡り鳥していくことは、ひどい慰めのうちにいつの間にか取り返しのつかない獣化を引き起こしてしまうだろう。
正しく見ないとな | comments(0) |
われわれの肉には、霊が蓄積的に宿る2

たわけのわからん話ではあるけれどもね。
でも、「テメーは肉が霊的に弱いからダメだ、使えん」と言われれば、何かそっちのほうがホントのことを言い当てているような……という気がしてくる、そういうケースが少なからずあるだろう。
たとえば、どうしようもないポンコツ新入社員が入ってきて、ボーッとしてフニャフニャでアホで使えないという場合、もう「肉そのものが霊的に弱すぎて使えん」と言ってしまうより、表現のしようがない、ということがあるはずだ、その実物を目の前にすると。
われわれは何のために遊び、何のために食い、何のために旅に出、何のために笑い、何のために学ぶか、それらはすべて「肉を霊的に強くするため」だ、そう表現してみれば、インチキリア充ばかりをやっていても「肉が霊的に弱くなるだけでは……」ということが自然に了解されてくるはずだ。

実際、どうだろうね、誰だって頭の中には記憶があり、それなりの価値観や、美学みたいなものも入っている。
けれども現代において、「頭」でなく「肉」に何が入っているか、「肉」にこれまでどれだけのものを蓄積してきたかと言われると、うーん……ということは少なからずあると思う。
ボーカロイドの楽曲でいくらフンフンと乗り気になっても、それが肉に霊を宿すことはありえない、何しろ発信する側が肉を持っていないのだから/肉が霊的に弱い人は、むしろ霊的に虚無のコンテンツを愛好する傾向にある(なぜなら自分がおびやかされないから)。
筋肉モリモリにして、腕力と筋力だけに自信を膨張させてだね、インフルエンサー(っていうの? 知らん)にエーキョーを受けて、ディベートに達者になって、ヴェジタリアン気味を自慢し、衣装と化粧を凝らしてライティングの妙でイイ角度の写真を撮ってもだね、そういうのは肉とか霊とかには支えられていなくて、むしろ肉と霊を否定する側のやり方だろう/自分が半裸でジェームスブラウンのステージに並んだときの絶望感をありありと想像すれば、けっきょくは肉と霊の蓄積しか頼りにならないということがイヤでもわかる。

肉が霊的に弱っていくと、聲(こえ)と握手に自信がなくなる。

だから自分から「おう!」「こんにちは!」とは言えなくなり、自分から握手を差し出せなくなる/自分から握手を差し出すなんて、年単位でやっていない人や、生まれてこの方やったことがない人だっているだろう。
ちなみに現代では、肉から霊を破棄した、「死体モテ」や「死体ウケ」という流行現象があるが、この流行で利益を得てはならない、こんな流行に利益を得ると自分の肉がその後とんでもないことになっていくぞ、おっかねえなあ。

正しく見ないとな | comments(0) |
われわれの肉には、霊が蓄積的に宿る

々、見つかっていることを、正直に報告するしかない、ひどい内容だ、よってこれは狂人のメモ書きとして読み流されてよい。
われわれの「肉」には、<<霊が蓄積的に宿る>>のだ、たとえば加山雄三や桑田佳祐は、ガチにその肉に海の霊が蓄積的に宿っているので、こんなもんに今さら勝ちようがない。
キリスト教の洗礼(聖餐)が、ワインとパンを血と肉に見立てるように、われわれの霊とは血肉なのだ、<<血肉に蓄積的に宿るものが霊>>だ、よって食事に大いに関係がある、そして霊の宿っていない血肉はスカスカのカラッポ、ただの筋力マシンに成り果てるしかない。
プロテインを飲み、スポーツジムで同じ器具の上を走っていれば、筋力やスタミナは強化されるかもしれない、けれどもそこで肉が霊的に育てられることはない/父が焼いたニジマスを食い野山を駆け巡る少年が、天地自然の霊により肉を霊的に育てられていくということなしに、われわれはカロリーと運動ごときで人間になれると勝手に思い込んでいる。

人間の中心軸(精)は、カミサマと出会ってその字義のまま「精神」を獲得するが、この中心軸「精神」を包み込む周辺軸「肉」には、蓄積的に「霊」が宿るのだ、だからこそわれわれは精神に基づいて学門・文化・芸術に身を投げこんでゆかねばならない、<<それらが「肉」霊的に宿らないと意味がない>>。
驚くなかれ、つまり、学門・文化・芸術というのは、人間にとって<<霊的な営み>>なのだ、学門の霊が肉に宿らなければ、勉強はただの「知識」になるし、文化もただの「価値観」「キャラ」になり、芸術もただの「性癖」にゆがめられる。
数式を背後においたアインシュタインが霊的でないとは、まともな感覚の人には言いがたいだろうし、厨房に立った道場六三郎や、画板を前にした岡本太郎も、霊的でないとは言いにくい、このように学門・文化・芸術は、正しく精神を基にすれば霊的な営みとして「肉」そのものに宿っていく。
誰と共に食事をし、誰の手になる料理を食べる? 誰と褥(しとね)を共にして、誰の肉と交歓しあい、またどう蒸留されたスピリッツをどの場所の季節に飲み下す? こういったことは女性のほうが鋭敏なはずだ、霊的に汚濁させられる肉の交わりがいかに自分を荒廃させるか/これはまさにのっぴきならない、冗談では済まない問題だ。

桑田佳祐の歌声から聞こえてきているのは、音声ではまったくなく、肉の聲そのもの、蓄積した霊の聲そのものだ。

われわれの肉は、霊を蓄積する媒質ということなのだろうが、このまったく馬鹿げたオカルトのような話が、われわれの実情を言い当てるのにど真ん中をブチ抜くのだからしょうがない/むしろ肉が霊的に弱い人こそが、オカルトババアの占いやまじないにだまされるだろう。
霊的な資本主義と捉えても差し支えない、肉に膨大な霊を蓄積してきている(大資本の)人間のほうが、そりゃ強力だし有利なのだ、あなたの今年の夏は、あなたの肉に夏の霊をことごとく宿らせるだろうか?

正しく見ないとな | comments(0) |
人気のない光の博覧会

うして人を死体みたいに扱うのか。
わたしは光である、われらは光である、けれどもこれらは、こんにちいまいち人気がない!
遊ぶのではないのか、酒を飲みくだすのではないのか、笑うのではないのか、七色の鳥が飛び/桃色の花びらが舞うのではないのか。
人気のない光の博覧会へようこそ、われらおんぼろのカローラに乗って/ことごとくの岬から朝夕の光を確かめて参るのです。

才能のない人間なんていない、同様に、才能のある人間などもいない。
カミサマがいるかいないかの論争は、論争しても変わらないという結論だけがもともと笑ってあるだろう。
人をわすれよ、我をわすれよ、名をわすれよ、夏のあいだは冬をわすれ/秋になれば夏のない世界を生きよ。
美をわすれよ、光の仔ら、聲わたりて問答は失せて/われらの寫眞は他人のごと残るのです。

博覧会に実績なし。

頭から水をかぶれ虹を見るために太陽を背にして頭を垂れて両耳に清水受け入れて鼻から蝉と水音の鳴く聲を聞け。
実績を好む者はこんにちの光に関心がないな、最も佳い博覧会者は博覧会をわすれることだと思うのです(そりゃ人気も出ませんって……)。

恋女のマインドね | comments(0) |
「敬(うやま)う」というレアな機能2

「敬い」がすべてを決する、「敬い」のあるなしが最後にすべてを決定してしまう。
このことを教えられずに、わけのわからない破綻に人が追いやられるさまを、僕はこれ以上目撃したくない。
感謝しろ、と言われ、よろこべ、と言われ、がんばれ、とも言われ、しかし「敬え」とは言われないで、われわれは生かされている。
人が生きている、誰もが生きているのだが、そのことを「大切に思え」と言われるだけで、「敬え」とは言われない、これはわれわれはとんでもないミステイクを犯しているのではないだろうか。

雨が降っていたとする、それを「よろこべ」というのもヘンだ。
かといって、雨の写真をインスタグラムに投稿するのもわざとらしいし、「自然の恵みよ」「大地がうるおう」などとネイチャリズムを決め込んでみるのもいかがわしいものだ。
高野喜久雄という数学者の詩にこうある、――降りしきれ雨よ、降りしきれ。
――すべて立ちすくむものの上に、また横たわるものの上に
/高野喜久雄は、円周率の解法に実績を残すほどの数学者だったから、きっとわれわれなどよりはるかに頭が良かっただろう。

僕は雨をよろこばない、よろこぶことが解法だとは思えない。

雨がすべて立ちすくむものの上に降りしきるのだと言えば、まさにそのとおりだと信じられるので、それ以上のことはない、それ以上のことを僕がどうできるとも思わない。
「雨」が「すべて立ちすくむものの上に降りしきる」として、それより高度な解法を僕は見つけられる気がしない、いつでも降る静かな昼の雨を見るたび、高野喜久雄の解法が合っていると見えるので、僕はそう敬い続けるしかないようなのだ。

できるオンナだね | comments(0) |
「敬(うやま)う」というレアな機能

でも学門・文化・芸術といったことを知っている。
知ってはいるが、それらを「敬う」かというと話は別だ。
誰でも「すごーい」と思うことはあり、「リスペクトします」ということはあるかもしれない、けれどもそれらの感心は、「敬う」ということとは性質を異にする。
「敬う」というのは、不思議な機能であり、不思議な現象だ、まったく思いがけないことに、この「敬う」のあるなしが土壇場で人間の行き先を決定する。

誰にでも「謗(そし)る」という機能はある。
そして、「謗る」の反対は「称賛する」だが、称賛することは必ずしも「敬う」ということには当たっていない。
誰でも、○○が好きかもしれないし、△△のファンかもしれない、けれどもいつのまにか、その中には「敬う」という機能の喪失が見え隠れしている。
「敬う」の反対は、おそらく「反論する」だ、その反論が後に解消されたとしても、おそらくその反論したという事実だけは消えずに残っている、「反論する」という行為は実はわれわれの知らないところで危険な宗教行為を含んでいるのだろう。

「敬う」とは、同意も反論もしないこと、また称賛も誹謗もしないことだ。

われわれはいつのまにか、納得のいかないことには反論する権利があると思い込んでいる、それは一般的には当然のことかもしれないが、別種のことには当然別種のルールがある、おそらく「敬う」とはその別種のことに向ける振る舞いだ。
われわれはいつのまにか、納得のいくことには同意する権利があると思い込んでいる、ともするとわれわれは、聖書や仏典に向けてさえ平気で同意や反論をする、われわれが自分の「納得」ばかりを最優先にするからだが、このことは実に危険な成分を不可視のままに含んでいる。

できるオンナだね | comments(0) |
人付き合いで破綻する人

は人に好かれてはいない。
というのが、僕なりに、人付き合いの前提にある(ここで同情する奴も間違って頭がどうかしているので鼻から酸化したゴマ油を飲むこと)。
だから僕は、「ボクの思っていることを人に話す」ということをまったくしない。
僕の思いと、詩と歌を、キミの耳元で聴かせるよ、というようなたぐいは、きっと生涯しないだろう、そんなこと僕が誰かに爆愛されているというデタラメな前提でしか決行不可能なことだ。

人は、僕が好きなのではなく、単に「面白いこと」が好きだ、だから僕は面白いことばかりを話す。
うーん、別にそれだけでいいと思うし、どうも人付き合いが破綻する人は根本的に、自分の思いが他人にとってビッグ重要だというえげつない勘違いの中を生きているのではなかろうか。
自慢じゃないが、たとえば僕が誰かに、自筆したラブレターと「刑事コロンボ」のDVDセットを贈ったとする、すると彼女にとって重要なのは「刑事コロンボ」のDVDセットであって、僕からのラブレターは「はいはい」で済むものだ。
だから僕はその後も彼女に、「ラブレター読んでくれた?」とは訊かず、「刑事コロンボ面白いだろ?」とだけ熱心に訊くだろう、僕のラブレターに反応しない女はフツーだが、刑事コロンボに反応しない女は頭がどうかしていると思う、そんな女は大説教して教化してやらねばならない。

まさか、「自分の思い」はラブではないですよ。

そんなまさか、まるで自分をこの世界の宝物のようにだな……ありえんだろう、「おれの思いを聞かせてやったらあいつもそれが一番うれしいに決まっている」なんて、それではまるで僕がスーパーイケメン宝石王子だ、こういう人間の人付き合いはどこまでいっても生ゴミみたいに破綻してしまう(生ゴミは言いすぎ)。
何をどういじくったら、「自分の思い」が他人にとっての最重要テーマになると思い込めるんだ、「自分の思い」なんて語りだしたらpepper君でさえ猛烈な前蹴りを入れてくると思うぞ/この世界で一番怖い思い込みがこれだ、自分を超絶宝物だと思っているから、自分の御心の玉音こそがすべての臣民を平伏させると思っているわけで、うーんこれはおっかないなあ。

正しく見ないとな | comments(0) |
気が合う、息が合う、馬が合う
「気が合う」「息が合う」「馬が合う」、そういうことが重要だが、こんなメールとラインの世の中だもの、それらが「合わない」ほうが当たり前だ。
しかし、四方八方、「気が合わない」「息が合わない」「馬が合わない」中をずっと生かされるのはなかなかの苦痛だ、苦痛どころかリアルに心身を失調してしまう。
「息を合わせる」を実演して見せたことがあったが、ある人が笑い出して、「ああ、剣道部にいたときに、先生にまるっきり逆をやらされていた〜」と嘆いていた。
意識と意識をゴリゴリ向け合い、意識と意識が反応するのは、「気が合う」「息が合う」とかいうことと、まったく異なりますよ〜ということで、あまり説明する気にもなれないので、とても投げやりに逃げちゃおうという心境なのだった、まあ別におれのことじゃないからいいよね(ふまじめ)。

「息が合う」「息を合わせる」ということは、当然あるものだけれど、こんなもんいちいち教室で教わるもんでもないし、こんなもんまで講師が必要になったら、日本は素直に終了です、何もかも解決しようとせんでよろしい。
だって、もしそういうことに講師がいたとしても、そのときは生徒と講師の「息が合わない」のだから、何かが授受されるということも起こらないだろう、それだけにこの破綻はとてもまずいのである。
しかし、グーグルの知識とラインチャットのコミュニケーション力を具有している現代人としては、こんなに無敵な自分が悪く言われる筋合いはない! という心境がどうしてもあるしな……実際僕はグーグルの知識には勝てないし、数万人に向けてつぶやきを発信できるツイッターの発信力には勝てない。
一部上場企業に勤めている友人が、「そろそろ、『出勤する意味があるのか?』という気がしてきましたよ」と現状を報告してきている、社内でも当たり前にメールとメッセンジャーだけでやりとりをするので、デスクを向き合わせて仕事をする意味はすでに失われているようだ、この先はアカウント出勤というシステムが実現されていくかもしれない、耳たぶに勤務センサーみたいなものでもぶらさげて自宅のデスクに向かい、そのことを「出勤」とカウントする。

それでも、息の合わない奴はノーサンキューだ。

今、あまりまじめに考える気分でないので、テキトーに考えているが、この先はひょっとして、血液に直接酸素を供給する「長生き酸素カートリッジ」みたいなものを体内にブチこんで、そもそも「呼吸」「息をする」ということさえやめてしまうのだろうか? そういうことは別に起こっても不思議ではないと思う。
しかし、呼吸もしないのに「生きている」とか、息も合わないのに「友達」とか、そういうのは僕の趣味ではないな/「息を合わせる」についてはたとえば「やすきよ」の漫才でもyoutubeで観ればいい、ただし真似できるかどうかはすっごく別だ。
できるオンナだね | comments(0) |
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