☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
バシッと光るものを見た
ッケー、やはりこれだ、僕が幾度となく見てきた、これは「光景」だ/僕は他人でなくてはならなかった。
重要なのは、課題が見つかること、課題を見つけることではなく、課題が「見つかる」こと、課題が見つかるとワクワクするな。
神頼みは何ら成立しない、当たり前だ、やたらカミサマを奉じるのは正しい信仰心ではない、<<自分の信じたことの先にどうやらカミサマがいるくさい>>というだけだ、先に信じることがあってその後に「これは……」と気づかされるだけだ。
夜は「遊びの領域」に突入する、そう、それが例えば「信じたこと」なのだが、「遊びの領域」に突入したとき、「何かヘンだな、力がありすぎる」と感じる、それが信じたことの先にカミサマがいるということであって、先にカミサマが見えているような奴は一人もいない。

日本には八百万のカミがいるというから(聖書だってたくさんの天使がいるがね)、なんというか、筆箱から選んだ一本のペンみたいに、たまたまその先にはカミサマがいるというだけだ/ジャンルごとに信じたことの先に、カミサマがいれぱそれはアタリであり、カミサマがいなければそれはハズレだということ。
あえて「道」というなら、「道」は、現場に立たないと得られないが、その「道」というのは意外なことに、○○が「ない」という現場だ、愛の道なら愛が「ない」現場、芸術の道なら芸術が「ない」現場、仏の道なら仏が「ない」現場に、その「道」は出現する。
○○が「ない」という現場、それがつまり課題が見つかるということだ、○○が「ない」というのは「八方塞がり」「どうしようもない」というふうに見える、だがそのときこそ、その八方塞がりを超越する神霊力のようなものにアクセスできる。
何十年生きてきても、まったく同じ光景を見る、バシッと光る景色があるのだ、その景色そのものは、何の意味もない景色に見えるが……だがこれまでのパターンとして、これは「それだ」と教示しているシグナルだ、僕の生きてきたことのすべてにはこのまったく無意味に見える光景のシグナルがあった。

課題が見つかるのが幸福だ。

課題はつまり「テーマ」ということなのだろうが、「課題」のほうがわかりやすくていい、ああ、「課題」の中にまた飛び込みたい、「課題」自体が光を帯びていて、それは解決すべき問題ではなく何か神韻のある課題だ。
僕は他人でなくてはならなかった/課題が見つかること/信じたことの先にバシッと光る光景が出る/時代は逆行しない、せいぜい新しい時代を創らねばならない
正しく見ないとな | comments(0) |
三種の神器

況はどんどん手ごわくなるが、そのぶん逆に、方法はシンプルになっていく。
「自由で」「かっこよくて」「××××」こと、この三つが不可欠だ、そしてこの三つだけでいい
厳密に自由であることはむつかしい、ついどこかで体面や常識や不安を考えてしまうものだからだ、どこまでものびのびと自由でなくてはならない。
そして、「かっこいい」ということを、人は忘れがちだ、人は己の「かっこいい」がほとんどすべての目的であって、この目的を忘れると、架空の目的を探し始めてしまう、「かっこいい」のほうがはるかにシビアでリアルで十分なのだ。

「××××」はワイルドカードだが、基本的には「やさしい」が入る。
「やさしい」か、あるいは「有益」が入るのだが、これが複数ありうるからといって、三種の神器を四つや五つに増やすのはよくない/基本は「自由で」「かっこよくて」なのだ、三つ目のワイルドカードは、ほとんどTPOに合わせるものでしかない。
「やさしい」の代わりに「無慈悲」が入ることもあるし、「理知的」が入ることもあるし、「霊的」が入ることもある、だがどこまでいっても、「自由で」「かっこよくて」が基本だ。
あ、そういえば忘れていたが、今月もパーティをやるのだ、それは「自由に」「かっこよく」やらないといけない、それを「自由に」「かっこよく」やるということは、「無意味」にやるということだろうな、こうして「××××」のワイルドカードはTPOに合わせて自在に動くのだった。

自由でかっこよくて××××、ここに「なぜ」という問いは一切当てはまらない。

「亀はのんびり歩く」ということと同列に、「おれは自由でかっこよくて××××」というだけだ、「なぜ」という問いかけにはマジで千ドルの罰金を設けてもいいぐらいだ、それは否定のためのクッションでしかないシツレーなやつだから/おれが「自由でかっこよくて××××」であることは、誰ぞが「抑圧されてブザマで非××××」ということと同様に、理由なしに成り立っていることだ。
自由でないと何をしていることにもならないし、かっこよくないならすべては「やめろ」って話だし、まあそれはいいや、土曜日はパーティをやるのでいらっしゃってね、今回は珍しく女性が少なめなので(すげーレアな回だ)新しい女性の方ドーゾドーゾ。

恋女のマインドね | comments(0) |
「スベる」とセクシャリティの関係2

あ要するに、「恋あいスベり体質」が、背後で幅を利かせているということだ。
ド青春や恋あいを、求めていないわけではなく、実は内心ではめっちゃ求めているが、ドスベりすることが目に見えているので、トライ不可能になっているということだ。
あなただって、髪の毛を金髪に染めて、「ちょりーっす」と言い出すぐらいのことは、三日もあればできるかもしれない、けれども「ジュリエットのようにマジ恋に震えろ」と言われたらキツいし、「ローマの休日のオードリーみたいに少女の生命力で振る舞え」と言われてもキツい、致命的なドスベリをするのは目に見えている/そこでスベったら、自分がキツいだけでは済まず、周囲にもひどい精神攻撃を加えることになってしまう。
われわれは誰しも、自分がスベられない範囲においてしか、挙動できないし、自己決定もできないものだ、だから往々にして、形成された「わたし」の性分は、実は「わたし」の本分ではなくて、ただスベらない範囲の最善としてそこに収まるしかなかった、という形で成り立っている。

「オカマ、老人、子供」と覚えておくといい。
オカマと老人と子供は、基本的にスベらない、それは肉体がセクシャリティのピークから遠いからだ。
だからあなたは、「スベる」という危地に立たされたとき、この三つの中のどれかを無意識に選ぶことになる/あなたは性的に反転方向に行くか、老化するか、幼児化するのだ、そうすることによって「スベる」という危地を回避しようとする
テレビを観ているとよくわかるだろう、オカマは重宝されるし、このごろは老人も重宝されている、アイドルは「子供みたい」であることが要求されるし、いわゆるイケメンも中性的な化粧を要求されるのだ/セクシャリティのピークに真っ向勝負している肉体や声や顔つきはこのところ排斥されるばかりで、このことこそまさに「現代」の特徴だ。

スベらないためには、「男みたいな(女みたいな)声で」「老人みたいな考え方で」「子供みたいな趣味」にせざるをえない。

女性が男みたいな声で、「マジうざいわー」といい、「けっきょくカネっしょ」みたいなことを考え、ハンドスピナーを回して「何コレ〜」と嬌声をあげると、確かにスベりはしない女性像ができあがる、だがこれは当人の本意ではまったくなく、ただスベるわけにはいかないという悲痛な思いで生きてきた結果がここに至ったというだけだ。
まあ何が悪いかといえば、スベる奴が悪いよ、同情的な考え方も可能だろうが、僕は女みたいになるわけにはいかないし、老人みたいになるわけにはいかないし、子供みたいになるわけにもいかないので、おれはおれに向けては永遠に「スベる奴が悪い」を続けるのだった、同情なんて聞いたことないねー。

正しく見ないとな | comments(0) |
「スベる」とセクシャリティの関係

「オカマ」というのは、なぜかそれだけで基本的にスベらない。
老人や幼い子供も、あまり露骨に「スベる」ということがない。
「スベる」というと、やはり思春期から大学生、あるいは二十代後半ぐらいまでがピークだ。
つまり「スベる」という現象は、セクシャリティのピークに連関しているということがわかる/本来は、スベらないためには何かをその場で「掴んでいる」必要があるが、掴んでいない場合でも、実はセクシャリティのピークを低減させれば比例的に「スベる」という現象は消えていくのだ。

たとえば男が、中性的な髪型にして中性的な体つきになり中性的な歌声でも発揮すれば、彼は「スベる」ということから縁遠くなっていく/何かを掴んでいるわけではなくても、セクシャリティ低減によってスベらなくなる。
ゲイにしてもそうだし、腐女子にしてもそうだし、コスプレやアイドルイメージの形成についてもそうなのだが、人は自分の様相を肉体的異性愛から遠ざけることで、比例的に「スベる」ということから離れられるようになる(むろん同性愛者のすべてが「スベり回避」でそうなっているわけではない)。
比較すると、たとえぱ昔の尾崎紀世彦さんや中森明菜さんなどを見ると、いかにも露骨に「男」「女」という感じなのだが、これを現代のわれわれがマネしようとすると、致命的に「スベる」のだ/比較すると、やはり百合画像を見て「あら〜」といい、ボーカロイドをいじくったりしているうちは、やはりわれわれは「スベる」ということがない。
現代においては、いわゆるギャルやチャラ男が、肉体的異性愛において開放的に見えるが、それは逆説的で、あれは「肉体的異性愛を開放的にするために、ギャルやチャラ男の装いを必要とする」ということなのだ、落ち着いた言葉と落ち着いた髪型で裸にされるほうが「スベるのが怖くてキツい」から、ギャルはギャルのコマンドを実行しているにすぎない、中身は同じ人間なのだから。

「ハードコア異性純愛」にはスベるので、その代替物が求められてきた。

近年、やたらドヘンタイ化したエロコンテンツが、男女の両方に消費されるようになってきたのも、本質的には単なるヘンタイ化ではない/本質的には、「ハードコア異性純愛」という真っ向勝負にはどうしても自分が「スベる」ので、スベるわけにはいかないから、周辺的な代替物としてのヘンタイ物に逃避してきたというだけにすぎない、これは非難しているのではなくて、それぐらいハードコア異性純愛を掴むのは「大変」だということだ。
僕はこのことについて、おおむね誰も「無理するべきではない」と思っている、何もそんなことを極める必要は誰にもないし、だいいち人は二度三度と続けてスベったらもう人格的に復旧できないものだ/ただ僕自身は、いつでもハードコア異性純愛を引き受けられる、果てしないスケベジジイでありたい、まあおれは生まれてこの方スベったことがないので大丈夫だろう。

正しく見ないとな | comments(0) |
「出来る」ようになるには2
「出来ない」ということに、強いストレスやコンプレックスを感じる人がけっこういる。
初めは誰だって「出来ない」もので、「出来ない」からこそ努力するのだが、もうこの時点で、ストレスとコンプレックスに殺されている人がいる、この人は残念ながら、金輪際どうにもならない。
なぜなら、この時点でトンチンカンなストレスとコンプレックスを感じている人は、まず自分が「出来ない」ということを根本的に認めないし、「出来る」人を「出来る」とも認めないので、もう初めから錯乱状態なのだ。
この、わけのわからないストレスやコンプレックスがなく、素直に「出来る」という定義に直進できるものなら、誰だって何かを本当に「出来る」ようになる、ただその「直進」が本当に出来る人こそ、実はとても少ないみたいだ。

おそらく、努力を始める以前に、何か「セルフイメージ」みたいなものがあって、この人はこの「セルフイメージ」の内部で努力するので、いつまでたっても「出来る」ようにはならない。
なぜ「出来る」ようにならないかというと、努力前の「セルフイメージ」から、努力後の「セルフイメージ」が変わるわけではないからだ、セルフイメージは変化しない、だから根本的に変化しない/しかも傍目から見たら奇妙なことに、「根本的に変化しないようなやり方で努力をする」のだ、いわばわざわざ「出来ない自分を保存する」ような努力の仕方をすることになる。
それこそ、サルトルが言うように「地獄とは他人のことだ」と感じ、他人の視線を自己への侵犯と感じている人は、侵犯されないように自分自身の「セルフイメージ」を強固に持っているだろう、この強固なセルフイメージが変化しない以上、どう努力しても自己変革は起きない、ひたすら「セルフイメージのディフェンダー」としての自分を続けるしかなくなる。
こうした、「出来ないコンプレックス」の人にとっては、「出来ない」ということはまずダメージになるのだ、だから何を努力するにしても、練習のたびにダメージを負うことになる、するとそのダメージを癒すのはまた「セルフイメージ」の確認だ、出来ないダメージとセルフイメージの恢復、「出来る」ようにならない人はたいていこの循環を繰り返している。

「出来ない」人は、ただいま攻撃を受けて防御中だ。

攻撃を受けているというのは、妄想なのだが、妄想というのは当人が信じているかぎりはどうしようもない/この妄想に陥るともう、「出来る」ということはまったく目的ではなくなり、ただ「攻撃されている状態を抜け出す」ということが目的になってしまう、これではもう何をしているのかわけがわからないテンヤワンヤだ。
「出来る」ようになるためには、まずこの「セルフイメージと被害妄想の合戦ごっこ」を終了させなくてはならない、といって、終了させられるものなら誰だって即座に終了させているだろう、いつか本人が気づくときがくるのか、もしくはそのときはいつまでもこないのかもしれなかった。
できるオンナだね | comments(0) |
「出来る」ようになるには

前、「ちゃんと出来るようになりましょーよー教室」というのをやっていたが……(また再開するかもしれない、お楽しみに)。
何事につけ、本当に「出来る」ようになる人と、いつまでたっても「出来る」ようにはならない人がいる、この差はどこから生まれているのだろうか。
僕の知るかぎり、この差は、そもそも「出来る」ということの定義があるかないか、によって生じている。
「出来る」ようになる人は、「出来る」ということの定義を前提にしてやっているのだ、一方「出来る」ようにならない人は、そもそも「出来る」という定義がなくて、「出来るようになれたらいいなあ」という漠然としたキモチだけで努力している。

「出来る」ということには、無限の段階があるが、基本的に「出来る」というのは、「いつでも」「百発百中」をもって「出来る」という。
こう考えればわかりやすい、たとえば英語の発音で「th」というのは舌を噛んで発音するが、舌を噛んで発音するだけなら誰でも「出来る」。
が、それは舌を噛んで発音するということを意識していればそのときだけ「出来る」ということであって、日常の英会話や英語の歌詞の中では忘れ去られている、それでは「th」の発音が「出来た」とは言わないほうがいい/おじいちゃんが手習いでスマホにフリック入力したからといって、以降「フリック入力が出来ます」ということにはならないように、意識して出来たものを「出来る」とは言わない。
たとえば「膝を抜いて動く」というような技術があったとして、それをエクササイズの中で一応それっぽく出来たとしよう、しかしそれをもって「出来た」ということはないのだ、「出来る」というのは「いつでも」「百発百中」を前提とするので、「いつのまにか、膝を抜いて動くのが当たり前になって、膝を蹴って動くということがなくなったな」というところまで到達してようやく「出来る」だ/それでもなお、技術というのは奥が深いものなので、それが「出来る」の入口でしかないのだ、そこからさらに「本当に厳密に出来ているか」ということを点検すると、いくらでもアラがあるのだった。

「出来る」ようにならない人は、そもそも「出来る」という定義がキライだ。

「出来る」というのはどういうことかを定義すると、その定義は当然ながら厳しいものになるので、一部の人はその定義そのものに向き合うことがキライだ/「出来る」ようにならない人は、実は「出来る」の定義に向き合っているのではなく、内心で自分なりの「努力」という定義に向き合っている、彼らの目的は「出来るようになる」ことではなく「努力している」という自意識を得ることだったりして、この定義違いの混在はしばしばトラブルと不毛をもたらす。
色んな要素があるが、実はスッキリ単純化できて、「出来る」という定義と向き合いたがらない人は、単純に「実はもっと別の優先順位を内心に抱えている」のだ、たとえば「充足したい」とか「仲間という感じを味わいたい」とか「ダサいと思われたくない」とか「他人と一緒でありたい」とかだ、だから表面上はやっていることが同じに見えても、やっている内実はまったく別のことだったりする/ほとんどの人は「出来る」という定義に向き合う前に、何か「感情的」になってその定義を避けようとする、もちろんそんなちゃぶ台返しをしても何の利益もないのだが、実際そんな意味不明を本当にするものだ。

できるオンナだね | comments(0) |
他者の視線と地獄について2

に、「他者の視線が、自意識に干渉してくる!」ということがあったとしよう、そうしたら確かにそれは「地獄」かもしれない。
だから考えようによっては、サルトルの言うところの「地獄」を、意図的に創り出せるということだ、特定のキメツケでジロジロ見てやれば、ジロジロ見られた側は自意識を犯されて「地獄だ」ということになる。
じゃあ、男性従業員が女性従業員の一人を、「えっちなカラダだなあ」とキメツケてジロジロ見てやれば、当の女性はそのセクハラを「地獄」の感触で体験することが可能になる/そしてそういったことが今実際に起こっているのかもしれない。
親が子を、「ダメなやつだ」とキメツケてジロジロ見、教師が生徒を、上司が部下を、「ダメなやつだ」とジロジロ見れば、ジロジロ見られた者は自意識を犯され「地獄だ」ということになるのかもしれない、それが現代の全ハラスメントの定義を形成している可能性が十分にある。

これは、何なら実験してみてもいいと思うが、僕はおそらく、百人の嫌煙主義者を集めた壇上でタバコを吸っても何も抵抗を覚えないし、百人の前でしゃべってもまったく緊張しないし、百人の女性を集めてその壇上でオナニーをさせられても、おそらく何も感じない……というよりは、測定してみれば脳波そのものが変動しないだろう/百人から一斉に軽蔑の視線と中傷を受けるという実験をやってみてもいい、たぶん本当に脳波のレベルで変化しない。
なぜそうして何も感じないかというと、そういう「視線」を向けてくる人の眼の中に、僕は「コミュニケーションがない」と感じるからだ、僕から見るとその瞳は「ノーシグナル」に見える/「向こうがコミュニケーションを避けているのだから応答すべきものがない」と僕には見えている。
N先生の攻撃にせよ、いつぞやの上司の小言にせよ、正直僕には「何を言っているのかよく聞こえない」としか感じられず、正直に言えばその目は「何も言っていない」としか見えていないのだ/僕は「こころの声」というか、「そっちの声」に常に耳を傾けているので、そちらの声がノーシグナルだと、「こいつは何も言っていない」と聞こえている、そして何も言っていない奴に気を利かせて応答してやれるほど僕はヒマではない。
というわけで、人の「こころの声」を聞き取り、そちらとやりとりするということを覚えないかぎり、他者の視線は自意識に干渉してきて、自由が侵害されて「地獄だ」ということになると思う、そのためにも「こころの声」とやりとりすることをさっさと覚えるべきだ、うーん割とまじめな話になったな。

おそらく、「他者の視線」と感じられる意識レベルより、六階層ぐらい奥の声とやりとりできないと話にならない。

六階層というのはテキトーなデタラメで言っているが、まあイメージでだ、それぐらいのレベル差はあると感じる/人間の表面的な意識はとても看取しやすいが、それは「濁っているから見えやすい」というだけであり、そんなところに着目していては浅はかすぎる、コドモじゃねえんだからよ、見えているところだけ見ていたらそりゃ囚われているアホじゃないか。
そういえば、すべてを想起してみれば、「僕に向けて、侮蔑的な小言を云い始めた人が、当人としてシッチャカメッチャカになってゆき、何かよくわからないクラッシュに陥り、僕の側は『?』で終わる」というパターンがこれまで無数にある、それは他人を地獄に落とそうとはたらきかけたものが、そのまま自分に返ってきてオウンゲットするからかもしれない/「僕は何もしていないのに勝手に自滅していかはった」という心当たりがあまりにもたくさんある。

正しく見ないとな | comments(0) |
他者の視線と地獄について

ルトルは「地獄とは他人のことだ」と言った。
「地獄とは他人のこと」とは、つまり、他人の視線が自分にキメツケを持ち込んで来、それによって自分の世界が破壊されるというようなことだ。
それは、たとえば冤罪で刑務所に入れられた人などには典型的に当てはまる、自分が無実であることを自分は知っているのだが、他人が犯人だとキメツケてくるので刑務所に入れられるわけだ。
そのような場合、「地獄とは他人のこと」というのは当てはまるが、そうではなくもっと一般的なこと、たとえば仮に他人から「卑怯者」とキメツケられた場合はどうだろう/僕は正直なところ、他人にどういう視線を向けられ、どうキメツケられたとしても、何の痛痒も覚えないのだった、これは僕が特殊なタイプなのかもしれない。

僕は大勢の他者から、「卑怯者」「クズ」「最低で軽蔑すべき」「おぞましい」「キモい」「ウザい」と思われたとして、また露骨にそういう視線を向けられ、ひたすらそのようなキメツケを向けられたとしても、何とも思わないのだ/というか、とうの昔にそういったことには慣れてしまったのだと思う。
僕が小学生のときなどは、教師からひどい扱いをされていたからな……僕は悪友と一緒に、黒板に横付けするという「特別席」に座らされていたのだが、まったくタチの悪いことに、僕に向けてそういった懲罰はまったく無効なのだった、そのときの先生もまあなんと不毛なヒステリーを起こされたことだと思う。
そんな特別席に座らされていれば、衆目からは「ダメな子」「イタい子」であることは一目瞭然で、針のむしろ、のはずなのだが、われながら呆れることに、そういったことには僕は不感症なのだ/そもそも僕には、自意識じたいがあまり存在していないのかもしれない。
「他人の視線が僕の自意識に干渉してくる!」として、僕の側に自意識の母体がイマイチなかったとすれば、そりゃどんな視線を向けられても、効果はイマイチだわな/あのときの担任N先生は、今思えば、当人が自意識の強い人間だったのだと思う、だから「衆目」による懲罰を思いついたのだろうが、そんなことをしているようではどうかな、その後N先生は幸福になったのかな?

けっきょくサルトル自身が「地獄にいた」のだろうか?

僕は、丸の内に勤めていたとき、上司がサイアクで毎日偏執的な小言を食らっていたのだが、それが繰り返される中で同僚女性が僕に、「あんなに怒られて、怖くないの?」と不思議そうに訊いてきたことがある、僕は「へ?」としか反応できなかったが/あくまで僕の私見で結構だが、サルトルにせよ三島由紀夫にせよ、N先生にせよあのときの上司にせよ、瞳の奥に「おびえ」があるように僕には見える、だからこそ僕の側が地獄を感じる筋道は全くない。
サルトルはある形態の「自由」を志向した人だったが、なぜ他者のキメツケ視線が「自由」を阻害するものになるのか、僕には感覚的にわからない、だがこれは僕が特殊なタイプなのかもしれず、世の中には「他者のキメツケ視線で自由が侵害される」と感じる人のほうがずっと多いのかもしれない。

正しく見ないとな | comments(0) |
流れに飲まれない方法
の中全体の流れというものがある。
そして、それになるたけ抵抗する。
なぜ抵抗するかというと、流れに飲まれてしまったほうが、ラクで安全だからだ。
ラクで安全ということは、物語を奪われるということだ。

正直なところ、他人事については、「よくそんなに平気で時代に飲まれるな」と慨嘆している。
夢も恋あいもない時代、脳ミソにも魂にも響かない時代だが、そんなもんに順応してどうする、100億人がそういう時代に入ったら、そりゃ100億人の側が間違っているのであり、僕の側が間違っているのではない。
僕は十年前の自分が持っていたものを、現在の自分が失っていたら、自分のことを許さない、もしそれを失って平気で「今のおれ」みたいなことをヌカしていたら、僕は自分を天才よばわりする一切のことを辞めてこれまでのすべてを撤回するだろう。
おれはおれが正しいと信じたことを、他人のリアクションや時代のリアクションによって曲げはしない、別に信じたことを貫くなんてわざとらしいことを考えてはいないが、ハズレの航路に付き合うことに理由が見いだせないだけだ。

おれは浮いているので、流れに飲まれないのだろう。

そりゃ浮いていれば流れには飲まれない道理だ、そして浮いているというのは、周囲に迷惑をかけていないかぎりは別にストレスになるものでもない、とはいえ、浮いているということに耐えられないという人は少なくないみたいだが/浮いていても愛されていれば問題ない、できれば僕のことを愛してくれている人が流れに飲まれて遠くに行ってしまわないように。
あ、そうやって考えると、「流れに抵抗する」なんて言いながら、別にガンバって反発していたわけでもないんだな、ただ流れから浮いていただけか/現代からこの先へゆく「流れ」、このムードと文化風潮を、本当に愛していますか、愛していないなら付き合って一緒に流れていく必要はないと僕は思う、ただ浮くのがいやだというなら流されてゆくほかないわけだけれども。
視点変えてこ | comments(0) |
「突破力」は、「異性を愛する度」に比例する2
足と浮き足の使い方にも二種類あって……
僕が想像するに、ヒップホップやジャズダンスの達者な人というのは、異性にキャーキャー言われながら、実はモテるかというとそうでもなく、そもそもリーダーシップを取ることが苦手で、だから「仲良くはいちおうなるんスけど、そこから先が……」という人が意外に多いのではないかと思う。
それはなぜかというと、いわゆるヒップホップやジャズのダンスステップにおける軸足の使い方は、武道やクラシックバレエやボールルームダンスの軸足の使い方と異なるからだ/使い方が異なるというか、動く方向が実際に逆だ。
武道やクラシックバレエやボールルームダンスにおいては、軸足が「リーダー」になり浮き足がフォロワーになるのだが、ヒップホップやジャズにおいては、軸足は浮き足の「パートナー」になるのだ、前者は浮き足が軸足の同方向へ牽引されるのに対し、後者は浮き足と軸足が鏡像で動く/だからそちらのヒップホップやジャズダンスが達者な人は、リーダーシップが苦手でパートナーシップを得意にしていると思う、これはコジツケではなくて、人間の得手・不得手の感覚というのは身体を根源として形成されるのだ。

なぜヒップホップ・ジャズのステップにおいては、軸足と浮き足がパートナーシップを形成するかというと、ヒップホップやジャズのダンスにおいては、ダンスステージにおける「進行方向」がないからだ/「進行方向」がないからリーダーシップが根本的に要らない。
比べると、武道における歩法は敵との間合いという進行方向があり、バレエも舞台上を明らかに「移動」するし、ボールルームもフロア内を「移動」するものだ、こうして「移動」「進行方向」がある歩法には軸足による浮き足へのリーダーシップが生まれる。
……というか、この話、「なるほど!!」と思っている人は一人もいないんじゃないかな!! こんな話、誰がわかるねんとは思うが、まあしょうがないだろう、僕はなるべく何にも迎合せず、今このときの僕が「マジだぜ」と追究していることだけを書くのだった。
とはいえ、さすがに何の訳にも立たない話を続けるわけにもいかないので、「軟派がないと突破はないですよ」ということだけスパッと申し上げておこう、堅気は「継続」「踏破」は得意だが「障壁突破」は不可能だ、軟派がないかぎり軸足は動かない/もちろん軟派ってナンパ行為のこと言っているんじゃないからね、ただの気質のことだよ。

男女平等と男尊女卑は、平行概念であって対概念ではない。

先輩と後輩や、教師と生徒、大人と子供や、店と客もそうだ、これらは主従関係でありながら、同時に平等関係でもありうる、両方の関係は平行に成り立ちうる/うーむやっぱり、こんな話じゃ誰の役にも立たねえよ。
つまり、武術的歩法とポップコーンステップの両方ができたら、男尊女卑とか平等とかで揉めることはないのだった、だからさっさと「進行方向を持つ軟派軸足」と「進行方向を持たない軟派軸足」の両方を獲得しよう(無理っス)。
できるオンナだね | comments(1) |
「突破力」は、「異性を愛する度」に比例する

ても奇妙なことを考えている。
人の「突破力」は、「異性を愛する度」に比例するのではないか、という仮説を考えている。
たとえば僕の場合、僕は女の子ちゃんが大好きなのだが、いくら女の子ちゃんを愛したとしても、僕自身が女の子ちゃんになるわけではないのだ。
とっても愛しているのに、その愛しているものに自分が「ならない」というのはどういうことなのだろう。

このように仮説を考えている/たとえば僕の場合、僕が男性であるということは「軸足」だ、逆に僕にとって女の子ちゃんの存在は、軸足でないほうの足、言うなれば「浮き足」のほうになるだろう。
そして、誰でも片足立ちになってみればわかるが、力ずくのジャンプやダンス的な動きをしないかぎり、軸足というのは体重が乗って「動かない」ものなのだ。
そこでダンスステップなどでは、ポップコーンやスポンジボブに典型的に見られるように、「浮き足のアクションに連動して、軸足もアクションが可能なのでは?」という発想に目を付けている、ふつうは動くはずのない軸足が「動く」から、それは通常の歩行や移動と異なる「ダンス」のステップになる。
軸足に体重を乗せて、軸足をジッと見つめている場合、軸足は決して「動くはずがない」、だから変化もできないし、その硬直は突破されない、軸足が「動く」可能性があるのは、浮き足を愛している者だけだ/浮き足と一緒に遊びたい軸足だけが、軸足のまま動くことを可能にする。

ダンスは堅気ではありえない。

堅気(カタギ)というのは、そのまま「気が堅い」という意味だから、堅気においては軸足はピーンと突っ張ったまま(気が堅い)、ダンスが生じることはありえない、そこに「軟派」が生じないかぎり軸足が動いてダンスが生じることはありえない。
本来は動くはずがない軸足が動くためには、浮き足を愛して付き合いたがる「軟派」が必要なのだ、これまで僕がわけのわからん突破を繰り返し、いくらでも「まったく別の男」になってきたのは、かわいい女の子ちゃんを愛して付き合いたかったからなのだ/別に何かを突破しようと努力してきたわけではまったくなくて、ただ障壁を突破する力は異性を愛する度合いに比例するようだった。

できるオンナだね | comments(0) |
正義のこころで立ち向かってはいけない
然関係ない話だが、万が一のときのために。
もし密室的な空間で、ナイフをもった狂人が暴れ出したら、どう取り押さえればいいだろうか?
もちろん、逃げられるなら逃げるしかないが、逃げられない状況や、誰かを守らねばならない状況もあるだろう。
あまり自慢できる話ではないが、そういうパターンの「いざというとき」に、「なんとかする」ことができる奴は、頭の回転がいい奴だ、ガラの悪い地域で育った奴ほど、乱闘の中で「頭のいい奴」がコワイというのをうっすら知っているはずだ。

狂人ナイフマンを取り押さえるとしたら、たとえば椅子とか、大きなスーツケースとか、大きなダンボール箱とかを前面に構えて、なるべく体重の重い奴が、そのまま突進するべきだ。
実際、椅子を突き出して突っ込んでこられたら、手元にあるのがナイフだろうが花束だろうが届かないのだ/届かないし、人間、「見たことのない形状や攻撃」というのは、とっさに捌き方がわからないものだ、いきなり椅子を向けられるのは、いきなり木刀を向けられるよりも「わかりにくい」。
「見たことのない攻撃」というのが、実はとても有効なのだ、何ならオープンした雨傘を正面に構えて突っ込んでこられても、そんなことをされるのは誰だって初めてなので、とっさにどう捌いていいか判断できないだろうし、頭に血が上っている奴が華麗に身を躱すという例はこれまで見たことがない/向こうからみて「何をされるのかわからなかった」というのが一番有効だ。
ハンパにかじった格闘技より、「陸上のハードル競技の選手が急に本気で走ってきて跳び蹴りしてきた」「何をされるのかわからなかった」とか、そういうもののほうが避けられないだろうな/どんな技術があっても、狂人と戦ったらキケンでしかないので、とにかくいざというときには相手のシナリオにないことをやってやるべきだ、もちろんそんな機会はないに越したことはないが、いつか「いざというとき」があったとしたら。

一番ひどい武器と方法を見つけるべきだ/そしてそれを見つけるのは正義の心ではなく悪の心だ。

万が一のとき、狂人に立ち向かうしかなかったとして、正義の心で向かっちゃだめだよ、そういうときは一番ひどい方法で対抗してやるべきで、ひどい方法というのは悪の心が見つけるものだ/悪い心には椅子や他人のスーツケースが制圧の「ひどい武器」にとっさに見えるということ。
人間の眼は、「最前面に突き出されたものを見てしまう」という性質がある、たとえそれがポテチの袋だろうがトートバッグだろうが、最前面に突き出されると人の眼はそれを「見てしまう」/だから究極、もし札束を最前面に突き出されて突っ込んでこられたら、狂人ナイフマンとしてもとっさに「どうしたらいいかわからない」だろうな、そんなヒデー戦闘法を正義の心が発想するわけがないので、いざというときには「人として最悪かよ」というような頭の回転をさせるべきだ。
視点変えてこ | comments(0) |
空間が過ぎていく
ろいろ思うところはあるが、時間のムダをしてはいられない。
何が虚であり、何が実であるか/日本語ではどうやら、虚のものを「間」といい、実のものを「物」という。
何が虚であり、何が実であるか/選べるのは二パターンだ、1.[虚の空間:実の物語](空間物語派) 2.[虚の時間:実の物体](時間物体派)。
日本語において、虚のものは「過ぎて」いく、だから前者は「空間が過ぎていく」のであり、後者は「時間が過ぎていく」ことになる。

時間のムダをしていられないので、単刀直入にいうと、後者はつまり、どうあがいても物語は得られないということ。
小説でも音楽でもいいが、その作中に「世界」=「物語」が生じるという現象は、すべて「空間が過ぎていく」ということで起こっている/「時間が過ぎていく」という感覚の人は、どうあがいてもこちら物語方面に参入することは不可能だ。
「大阪から東京に行く」というときに、第一に「二時間半かかるね」とあなたが捉える場合、あなたは「時間物体派」だ、あなたの旅行にはタイムスケジュールだけがあり物語はないだろう、空間は過ぎていかず、大阪と東京は「残ったまま」だ。
あなたが音楽家になれないのは、楽器という「物体」の音を聞いているからだ/時間物体派の人は「よい物体と、有意義な時間」があると思っており、空間物語派の人は「よい物語と、有意義な空間」があると思っている。

時間が「過ぎて」いく男は、女を「物語」ではなく「物体」として求める。

空間軸と時間軸の、虚実の単位を入れ替えると、軸そのものが変質するのだ/空間軸を虚に取ると、それまで実数だった「距離」は消え去り、虚数だった「時間」は、実数の「物語」に変質する。
実数の「物語」……「物語って、実数なんですか?」と訊きたくなる人は、その時点で物語軸は時間軸に変質している、一方で物体と距離が実数になっているだろう、だから「物語って、実数なんですか?」という問いかけには「やさしさ」がない。
正しく見ないとな | comments(0) |
重要参考人イマジナリーナンバー

「二乗したらマイナス1になる数」を、虚数iと表現する、と学校で習っているはずだ。
なぜiで表現するかというと、「imaginary number」だからだ、「想像上の数」「架空の数字」という意味になる、だから虚数という。
虚数なので、どれだけ電卓を叩いてもこの数は出てこない、「二乗するとマイナスになる」というのは、言ってみれば「マイナスの面積が生じる」ということなので、「んなわけあるか」であり、そんな数は存在しない/あくまで想像上の架空の数としてしか存在しない。
想像上にしか存在しない、ということなのだが、相対性理論以降の物理学にはバリバリ出てくるので、「おいおい」ということなのだが、どうもやっぱりこれは……すでに故人となられたが、ホーキング博士は、宇宙が「虚時間から始まってない?」と唱えた人だ、もうここまでくると何が虚で何が実なのかよくわからなくなってくる。

アインシュタインの一般相対性理論は、「空間と時間って無関係じゃねえわ」ということを解き明かした理論だが、それをさらに、「時間軸を虚数単位に取ることを許せば、ローレンツ変換も普通の回転変換も同じやん」「じゃあ相対性理論って、ただの虚数混じりの四次元空間の回転変換やん」とみなせることを、ミンコフスキー的という/うーん、こんなこと今さら再勉強させられるのはマジ勘弁だぜ。
そんなこと話していられないので、結論だけいうと、つまり「イマジナリー」に宇宙が始まっている可能性があるということだ、そしてさらに突っ込んで言えば、「宇宙は『物語』から始まった可能性がマジである」ということになる。
笑えない話、要するに聖書的なものが示している創世神話が、作り話じゃなくマジくさいということなのだ/この宇宙が始まる前、時間軸は未だ時間軸でなく、別の空間軸だった可能性アリなのだが、当時()は時間軸が未だ無かったのだから、「永遠の国」がそこにあったことになる。
そして、そこに僕のうひょひょな知識を導入すると、つまり時間軸が現在の時間軸になる前(虚時間軸)は、「物語軸」の世界があったと言うしかなくなるのだ、現在のわれわれがいる場所はtを時間とすると(x,y,z,t)の座標だが、もともとはfを物語とした(x,y,z,f)の座標にいたということだ/聖書に書かれているようなイマジナリーな創世神話が、イマジナリーだからこそ「マジ」の可能性があり、「物語」が「物理」の可能性があるのだ、あくまで「あっちの物理」という意味も含むけれども。

イマジナリーが「イマジナリーじゃないよ」と言い張るから困る。

誰だって、ビッグバンという言葉を聞いたことがあって、一度は「じゃあそのビッグバン前には何があったんだよ」と考えたことがあると思う、そして僕は「ビッグバン前は『物語』があった」と、ハナクソをほじりながら言うしかないのだった、それじゃあもうどうするよ/「物語」で織りなされる永遠の国があるのだったら、それはマジに天国ですやんということになる、物理的に天国がありうるということになる。
困ったことに、「イマジナリー」という事象が、思われているほどイマジナリーではないくさいのだ、われわれが勝手に「イマジナリー」をイマジナリーと決めつけているだけで、「実は」ということが、どうやらマジであるくさいのだった。

視点変えてこ | comments(0) |
日本代表選手たちの試合は、われわれが消費して愉しむコンテンツか
ッカーワールドカップに向けて、今回の日本代表は、戦力不足から暗雲が予想されているらしい。
僕も先ほど、対スイスの親善試合を観て、ウームと思ったが、まあ僕はサッカーのことはよくわからない、ただ現代の日本でサッカーうんぬんの以前に、「チーム」が生成されるということに現実味がない気がする。
今、日本の男性は、セクシャリティを破壊されているので……と、そんなことは関係ないと思われるかもしれないが、僕は関係あるような気がしている、セクシャリティを破壊された男性が「チーム」を形成することはまずない、と勝手に僕は思っている/キャバクラでモテないサッカー選手に「がんばれ」というのは酷すぎる。
「チーム」というと……別にサッカー代表に限ったことでもなく、今や、たとえばふつうの新入社員でも、業務に対する「チーム」の一員になることについては、距離を置くのが常識だという輿論がある/サッカーうんぬんに限らず、われわれは今結合した「チーム」もしくは「チーム愛」というものを目撃することがほとんどない。

加えて、一方では羽生結弦選手の活躍に栄誉賞を与えたり、将棋の藤井聡太棋士を異様にもてはやしたり、あとは女子カーリングだったか、「勝ち組だけ異様にチヤホヤする」と同時に、なぜか勝てる見込みが薄いものには「disる」という向きがある、これは何か精神的におかしいと感じる。
羽生結弦選手も、女子卓球チームも、サッカー日本代表も、すべてわれわれの日本の代表選手たちだ、それを「勝てる見込みの高いものだけチヤホヤする」というのは応援の態度としておかしいし、国民の精神としてもおかしい。
たとえどれだけ実力不足でも、われわれの日本で最高峰のプレイヤーを集めたチームなのだから、彼らにがんばってもらうしかないのであって、スポーツ選手というのは、われわれに勝利を錯覚させ満悦させるための仕事をしているわけではない、最善のチームが敗退したとしてそれに唾を吐く権利は誰にもない。
どれだけ敗色濃厚でも、日本人は日本代表を応援するしかないじゃないか、どうも最近は各国戦のスポーツも、自分が「消費して愉しむコンテンツ」だと思われているフシがある、そして「勝ってくれないと愉しめないので毒づいて愉しむ」という風潮がある、それはあまりに下賤にすぎないか。

日本代表チームをdisっている人は、当人がどこのチームにも結合していないのではなかろうか。

日本人全体がまったくチーム化しようとする気配がないのに、スポーツの代表だけ急にチームワーク化するわけがない/今やどこかの店長とアルバイトとか、部活動のリーダーと後輩とかでも、チームとして結合・団結というのは聞かない話のはずだ。
リーダーシップとか、団結力とか、決定力とか、日本人のわれわれにないものが、急に日本代表選手たちにだけ生じるわけがない、われわれはきっと精神のどこかをおかしくしている/「課題を明らかにして具体的に改善していく誠実さが必要」なのは、われわれの誰もがそうなのであって、代表選手たちだけに向けられる説教じゃない、われわれが代表選手に説教を向けるのはどう考えてもおかしい。
視点変えてこ | comments(0) |
いいえ、だめだね。
の夏の気配……
「だめだね」というのは、否定ではない。
否定ではないが、完全な否定だ、なんというか、否定ではあるが、呵責しているのではない。
人は、出会わねばならない、出会うほうがよいという意味ではなくて、向けられた愛のぶんだけ、出会わなくてはならない。

このご時世、防御的になるのが合理的だ。
だが、時世そのものが間違っているので、時世に対して合理的だと、時世もろとも自分も間違うことになるしかない。
向けられた愛を、断るのはいい、断るのは当然だ、でも向けられただけ、きちんと出会って、その上で断らないといけない、その理由については「問答無用」の領域にある。
どれだけ慣れていないのか知らん、どれだけ事情があるのか知らんが、そんな事情は斟酌してもらえない、これは鉄の掟だ、向けられた愛のぶんだけ出会うしかない、さもなくば永遠に夏の匂いを失う、そういうルールなのだ。

愛のない出会いはインチキさんになるし、愛に出会いで応えないのもインチキさんになる。

さまざまな事情を取り出して、誰もが誰とも出会わないがごときに生きているが、たとえ全員がそうなったとして、そのときは全員が間違いだ、全員が罰されるだろう/向けられた愛と応える出会いの深さは等価でなくてはならない、ここに債務不履行を残したものは長い時間をかけて必ず代償を支払わされるだろう。
間違いだったのだ、そして「だめ」だったのだ、向けられた愛には応えないと、知識や経験があろうがなかろうが/愛に応えなかったことは、愛を偽ったことと等価だから、そのぶん必ず偽りの愛に付き合わされることになる、そのことを呵責するような鬼には僕はなれないが、それでもそれが「だめ」ということは、絶対的な知識として断言しておく、僕まで一緒になってウソを言うわけにはいかないからな。
恋女のマインドね | comments(0) |
意味のない記事ホェェェェェ
期的に、不思議に思うのだが、このブログと本サイトを観てくれている人(お前のことだぜ)は、何をどうやって、こんなところにたどり着いたのだ、それがいっつも不思議でならない。
自分で運営しているくせに、だらしないことだが、これだけウェブ全体が発達した状況の中、もうこのサイトに偶然たどり着く可能性はほとんどないぜ、いまどき「ホームページビルダー」で更新しているサイトなんて探しても見つからないだろう。
もうかれこれ、十年以上前から続けているのだが、これほど閲覧者数が増えもせず、減りもしないサイトは希少だ、何を書いても閲覧者数は増えないし、かといって減りもしない、まったく不思議なもんだぜ。
定期的に、「何かもっと、閲覧者数を増やす方法はないかなー」と思うのだが、結論として「ない」のだ、それはお前らがおれのナイス記事をシェアしないからであって、という、この愚痴もすでに言い飽きてしまった、4000件ある記事が1件たりともツイッターにもフェイスブックにもシェアされないというのはどういうことだ!! インターネット壊れてるのとちゃうか!!

まあなんというか、みんなして「こっそり」読んでいやがるわけだから、しゃあないが、それにしても、何年も継続して読むのだから、共有できる友人がいたらいいよね、そういうこころあたりのある友人にはぜひ個人的にシェアするように。
とはいっても、何かこう、「シェア」と言った途端、何かそーゆーのじゃないよね感がすさまじくあるな、そもそもこれは「コンテンツ」なのかどうかさえアヤシイ。
とはいえだ、漸増でもいいから、物事は拡大に向かっているべきなので、まあ何かのときには、友人に教えて差し上げるようにな! 単純に一人が一人に教えてくれたら、それだけで無限に閲覧者は増えていくはずなんだから〜(はぁと
とはいえ(「とはいえ」が三回も続くクソ文)、人は何かしら、貴重に感じるものって、そんな簡単に他人に分散しないよね、おれだって貴重なものは赤の他人に見せたりしないからなぁ、というわけで、おれのことなんかどーでもいいやという奴は、ガンガンシェアするように、よろしく。

閲覧者数が動かないのは、おれの責任ではなく、閲覧者たちの責任である。

と、このように、辞書に載るほどの責任転嫁だが、まあいいじゃないか、何かのマグレで閲覧者がドカーンと増えねえかな、ジャスティンビーバーが急にアクセスしてくることはないだろうか。
あ、かといって、ヘンチクリンなスピリチュアルの奴を呼び込んでくるんじゃねえよ、何かもっとイケイケでプルンプルンの女の子を呼び込んでくるのが最善だ、そりゃイケイケでプルンプルンの女の子のほうが霊的にイケてるのは明らかなんだから。
バカをやろうかあ | comments(0) |
「エロ」と「魂のおっ始まり」の違い
純にいうと、僕は「エロ」というのがあまり好きでない。
なぜ好きでないかというと、「エロ」といって、たとえばグラビアとかピンナップとかは、何も「おっ始まっていない」からだ。
それよりは、こうして文章を書いてブッ込んでいるほうがはるかにいい、これは「おっ始まっている」からな(あくまで書き手がおれの場合だが)。
一部のかわいい女の子ちゃんが、僕にえっち自撮りを送ってくれるのはいいのだ、それは「おっ始まっている」から/いわゆる「エロ」というのは、まどろっこしいというか、もったいぶっているだけなので、僕にはそれが時間の無駄の思えて、好きでないのだった、何もおっ始まっていない「エロ」で興奮なんかしねえよ、思春期のガキじゃあるめえし。

「エロ」というのはむしろ、おっ始まることに対しての、バリアーというか、「障壁」になってしまう。
だから僕は、おおむね現代の、やたらエロネタに詳しい女に対してネガティブだ、エロネタに詳しい女は「おっ始まる」ことに対してたいへん強固な障壁を持っている。
それなら何のエロ概念もない、清潔に生きてきた女子中学生とおっ始めるほうがずっとグッドだが、かといって現代の女子中学生はとても華奢なはずなので、おっ始まったら、障壁はないかわりに、「逃避」するだろう、これがまた現代は、「逃避」の方法を与えるのにすぐれた環境なのだ、そのせいで女子中学生でさえ最近は身体がキタナくなってしまっているところがあるが……
そして、僕がおっ始めたら、中学生の女の子は死んでしまうというか、ぜったいまともではいられなくなるので、どうしたらいいかというと、女の子の側からおっ始めればいいだろうということなのだった、よって一般的に「エロネタのない女の子の側からおっ始めれば万事うまくいく」と言い得るが、今時エロネタを脳内に盛っていない女の子なんているのかよという話であった、ちなみに女子中学生とおっ始めるのは条例において違法とされております。

融通される「エロ」は、魂の障壁でしかない。

昔から、合コンや飲み会をすると、女性のほうが下ネタがえげつなかったりするが、そういう女性は、実際におっ始まると、魂そのものは全然強くなく、あくまで「エロで済ませたい」という、弱めの事情なのだった、まあそれでも金曜日の夜を楽しく飲むのにはあって悪くない……ということもないなあ、正直魂が弱いならヒマだなあ。
実際、僕がこうして書いている記事は、逆にもうエロくないわけで、だからこそ、女の子にはウケがよくないのだった、これでは「エロい」ではなく「おっかない」だ、まあでも僕一人ぐらい、シャレにならんやつも男性として存在する必要があるだろう、こうして自分を不利にしていくカワイソーなスタイルなのであった(同情して応援しろ)。
バカをやろうかあ | comments(0) |
欲望のマントル層2
こまで元気に生きるこたぁないのだが。
欲望までしか到達できない者は、欲望など埋めておくべきだ。
地上に溶岩が噴出することは何の利益にもならない/後片付けなんかできなくて取り返しがつかないだけだ。
現実はどれだけめんどくさかろーが、それがいかにファンタジーだろーが/人間には無限の欲望がある、それは悲しみの向こうに、本来の無限の光があるということ。

マントル層を掘り進んで、その奥にある光の核まで到達できるのだろうか?
なかなか現実的な話ではない、けれども夢のある話だ/純粋な「夢」というとこれしかない。
欲望を解き放て、とは言えない、欲望を解き放ったら、どれだけ死人が出るかわからない、欲望を解き放つには神通力がまったく足りない。
慎重にいくしかないのだ、ダセーなあ、ダセーけどそれが自分の身の実力というものだから、しょうがないのだった。

夢はこの地の魂から。

だから僕は、天を見上げない、天からガッツリ掴まれることはあるけどね……僕は地の底に向き合っていよう、山は天に近いがそれはとても強い地の力だ。
地の底にいるダイモーンを、どれだけ御し得るかは、どれだけ天の力を帯びているかによる、ダイモーンに食われるバカを僕は見たくない、きょうび知ったかぶりのワカゾーが多くて困るぜ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
欲望のマントル層
だって自制心がある。
自制心の向こうには悲しみがある。
自制心をすべて捨てたところで解決はない。
自制心を捨ててもその向こうの悲しみは消えないからだ。

自制心を抜きにすれば、われわれはやりたい放題がやりたい。
けれども、やりたい放題をしたところで完成はしない。
われわれは、やりたい放題の中で完成したいのだ。
そして、やりたい放題の中で完成できないことが悲しい/自制心の向こうには悲しみがあって、その悲しみのさらに向こうには「夢」がある。

悲しみの、向こうまで行けないので、自制心に頼っている。

人を、傷つけたくなんかないし、迷惑も掛けたくはない、その唯一の方法が「自制心」しかないのかという、この問いかけに無限の道がある。
われわれは、核爆弾を落としたり、通り魔になったりできるが、その逆ができない、この悲しみに無縁な人間はいない。
バカをやろうかあ | comments(0) |
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