☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
世間は残骸である
かなることよりも「わたし」が先んじる。
 よって、最も先端にある「わたし」のことを説明することはできない、説明は「わたし」の後でしかありえないからだ。
 「わたし」はすべてを置き去りにすると言ってもいい、先端たる「わたし」には「わたし」という出来事しかない。
 それでは先端は「わたし」しかないように見えるが、そうではない、「わたし」の他には何もないが、そのとき「わたし」はすべてなのだ。

 すべてのことが「わたし」と未分化であるということ。
 だから何一つ始まることはない、すべてのことはもともと始まってあるのだから。
 時の流れにだまされないことだ、出来事のすべては0秒に無限圧縮されて起こっており、それが時系列に並べられるのは、われわれの錯覚という機能にすぎない。
「わたし」には成功も失敗もなく、つまり失敗は不可能ということだ、「わたし」に可能な手落ちは唯一、「わたし」でないものをわたしだと思い込み、わたしでないものに耽りこむことだけだ/それだとて、「わたし」の失敗にはなりえないけれども。

べ。

 全能の神は――もしそれがあるのなら――「わたしはアルファでありオメガである」と言っているのだから、「わたし」が「ベ」でもかまわないだろう、正確には "「わたし」を「べ」にしてみても何ら差し支えはないだろう" 、すべてに先んじる「わたし」はそのとき先端で「すべて」だと言っているのだから、「すべて」の中には「べ」も含まれていよう、このことは何もむつかしくない。
 認識可能な物質的世界があって、その箱の中に、認識可能な個別の人格が複数個群生しているという、そのことじたいが錯覚でしかない、いわばこの錯覚が繚乱しているから、この錯覚をもとに「わたし」を定義しようとする過ちを犯すのだ/世間知らずが馬鹿にされる向きがあるが、真相はまるで逆、世間というのは使い終わった「わたし」と「世界」とその出来事の残骸でしかない、すでに使い終わったあとのそれをどう舐め取ってみても何の味もしないものだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
体罰に関わる問題
代において、体罰というのは、もうほとんど使えないだろうと僕は思っている、僕の考えなんかどうでもよいことだが、僕はすでに体罰については否定派だ。
 少なくともそれが「体罰」というように、「罰」に見えているのだとしたら話にならない、罰というのは司法によってしか処せないものだから、司法手続きによらない「罰」というのは法治国家においてありえない、体罰に限らず罰金というのも含めて、「罰」というのは司法によってしかありえない。
 それでも便宜上「体罰」としか言いようがないのだろうが、体罰はすでに、局所的なものを除いては否定されるしかなく、体罰が否定されるということは、若年者が救われるということではなく、若年者が救われなくなるということだ、まあそれを承知の上で、僕は現実的な思考から、体罰を否定する立場を採らざるをえない、これは僕の温情ではなく冷酷を示している。
 もしここで、個人的にウソにだまされたくないと求める人がいれば、僕が個人的に、ウソにだまされてはいけないよとお話しすることになるが、あくまで個人的な範疇において、体罰についてブーブー言っている人たちはウソでありインチキだ、本質の問題はそこではない、本質は「寒い人たちの体罰」は目も当てられないのであって、その寒いものと「ナイスガイたちの闘魂のせめぎあい」を比較はできないということだ、よって本当の問題は、われわれが自分たちを「寒い人たち」だと認めないところにある、それを生涯を通して認めることはビンタの一発よりも遥かにきつく重いものだ。

 たとえばここに、「腹から声を出せないAさん」がいたとする/まあ腹から声を出せないといって、大半の人は生涯のうちに一度も腹から声なんか出せないのだけれども。
 このAさんを、「腹から声を出せないAさん」として生涯を定義してしまう前に、唯一の脱出口がある、それはしのごの言う前に、軽く拳をもって、「おい、ちゃんと気ィ入れてやれや」と、その胸を突いてやることだ、そうするとその瞬間にのみ漲(みなぎ)るものがある/もちろんそれをもって、必ずしもすべてのケースで漲るとは限らないのだが、唯一漲る可能性があるのだ、軽く拳をもって胸を突いてやるだけで、その方法しかないし、誰だってそんな単純なことからようやくすべてが始まることはある。
 現代において、体罰はすでに通用しないと僕が考えるのは、拳をもって胸を突くとして、それで彼の全身に危機感と高揚感を漲らせられるという、実際のパーソンがいないということもそうだし、それ以上に、すでに現代における人々の心身の荒廃は、そんなことで好転しないほど進行していると考えるからだ、本当に死んじゃいそうになる人が多くあって、そういう人は本当に、腹から声を出すなんて生涯にわたって「とんでもない」という庇護の中を生きていくしかない。
 Aさんに、「腹から声を出しなさい」といって、説諭のみをもってAさんの体質を変えるのは、どこかの時点からは不可能だ、それで弱々しいAさんを、そのままAさんの個性として保存するという考え方も勿論あるが、そのAさんがその先を、幸福と光輝に満ちて生きていけるかというと、それは誰にもわからない、Aさんは腹の底から笑うことが一度もなく生きていくしかないが、そのことを「しゃーない」というなら、もう初めからAさんに対して何かを教えるとか伝えるとかいうことの一切を諦めるべきだ、AIが判断して適宜情報だけ伝達すればよいだろうし、そういうことにかけてはAIのほうが優秀だろう/僕はそうしたときにどちらが正しいのかを決められないが、僕がただ問いたいのは、「拳で胸を突かれずに生きてきたAさんのことをあなたは愛するのか」ということだけだ、ここですべての問答は窒息するだろう、どうかウソ偽りなしにこの問いにだけ答えてもらいたいところだ。

人を愛していない者が、体罰だけを憎んでいたとしたら、その話は聞き流しておけ。

 別に体罰だけに限ったことではないが、人を愛していない者が何かを宣ったとして、それは人を愛している者が何かに奮闘していることとは性質が異なるのだから、区分して聞き流すことだ、人を愛していない者、何かを愛していない者が、何か正論めいたものを述べてみたとして、それは何も愛していない者の悲憤正論にすぎない、こんな馬鹿げた正論が何の足しになるだろうか?/そしてこの際、急に切り出された "何も愛さずに生きている者" という存在を、改めて異様なものと捉えなおすべきだ、それがたとえ己自身のことであったとしてもだ。
 体罰に関わる問題について、僕は「もう現実的に無理でしょう」と考える、まあ何の立場もない僕がどう考えても、世の中に何の影響もないことだが/腹から声が出ないAさんは、まったくの独力と、ネット検索した情報のみをもって、人格レベルから覚醒し、自己変革に到らねばならないのだ、その見込みの現実的でなさは、「もっと無理だろう」ともちろん考える、誰だってそう考えるから、誰もがそんなミエミエの無理には取り組まない、そうして時だけがすぎ、もう何もかも取り戻せない年齢になるだろう、そうなるともう考える必要もなくなるので、意識は眠るだろう……すべては当たり前で、何の問題もないように見える、何の問題もないように見えるのだが、唯一、Aさんは「愛される」のか? ということだけが残り続ける。
視点変えてこ | comments(0) |
悪霊の入口は「やることがない」
まざまなニューストピックが、もうトピックの時点で正気を疑わせるので、内容まで知ろうという気になれない。
学校の教師が教師同士で幼稚ないじめ行為に耽るとか、芸能人がタピオカ屋を罵って脅迫するとか、もう何のこっちゃわからない。
ここにある恐怖は、その犯罪性というよりも、「よくそんなヒマなことで、そんなヒステリーのスイッチが入るな」ということであって、犯罪性への恐怖ではなく、その本性の「得体が知れない」ということへの恐怖だ、犯罪性うんぬんよりも、当人があまりにも幸福から遠すぎることが、表面からはわかりづらすぎて恐怖だ。
先日まで「あおり運転」等が、これもまた「よくそんなヒステリーのスイッチが入るな」という恐怖を煽ったのだが、もうこれでは街中も旅先も、同僚も級友も、おっそろしくて気を許せないじゃないか、ハロウィンパーティはまだ先のはずなのに、リアルに魑魅魍魎がうごめいていて現代で言うところの草も生えない。

もうこれらの一切について、事件の正体を、「悪霊が憑いている」としか表現できなくなった。
どのように頭をひねってみても、事件の動機そのものが、まともな経路では発生しえないからだ、それでもう面倒くさいので、一律「悪霊が憑いている」と括るしかないと思える、実際ここしばらくで連続するわけのわからない狂気のニュースは、ぜんぶ「悪霊が大繁殖しています」とアナウンスされたほうがまともに聞こえるのだ、もうNHKから「今日も悪霊のニュースです」と報道してほしいぐらいだ。
そして僕の知る限り、人は生きていて「やることがない」となると、悪霊に入り込まれやすくなるものだ、いくら著名になって裕福になって、権力を得て顔が利くようになっても、根本的に「わたしのやること」がなくなると、人は無力だ、ただ時間が流れて老いていく中をのたうちまわることしかできない、そんなときどうしても悪霊に入り込まれる。
それは、仮に悪霊なんてものがいればという仮想を前提とするが、その上で、それは悪霊の第一の手口なのだ、まずわけのわからないものを肯定させ、そのあとで肯定を取り去ると、「あれ?」となって、その直後に「やること」を失う、このとき大きな恐怖に見舞われるから、ここでサッと別の「やること」を差し入れるのだ、すると人は恐怖から逃れるために、差し出されたそれに飛びつく、そうやって悪霊は人に入りこむ/仮に悪霊なんてものがいればという仮想を前提にしてだけれども、

必ずしも「うつ」の形で現れるとは限らない。

今や、著名人や身の周りの誰もが、「うつ」になったとして誰も驚かないが、「うつ」は神経症(ノイローゼ)の一形態でしかなく、それは必ずしも「うつ」という形で現れるとは限らないのだ、その多種多様な――ときには激烈な――現れ方を捉えようとするとき、観念的には「悪霊」という見方をするほうが、きっと感覚的には正しくなる/仮にその「悪霊」という言い方を採用するなら、すべては悪霊を肯定する前に対処することが大事だ、当人が悪霊を肯定した後では、その悪霊は生半可には出て行ってくれない。
そしてほとんどの悪霊の入口は、自分が「やることがない」というところから生じている、初めは生きるために「やること」があり、いちおうの成功を得ると、今度はその成功を満喫することが「やること」になるのだが、それも一段落すると、そのころにはすでに老い始めていて、途端にこれまでにすべてのことが、まるで肯定感を失って消え去る、すると自分の「やること」が完全に消えてしまう、このとき悪霊が入り込む、だからすべてを超えて自分の「やること」とつながっていることが大事なのだ、そもそも自分の「やること」とつながっていない日々のほうが極めて特殊で危険な状態なのだが、現代はその危険な状態がデフォルトになって、あまりにも多くの人がずっと綱渡りを続けている状況にある。
視点変えてこ | comments(0) |
自分のありようをごまかすクソだけはやめようと思ってきた
べての空想を取っ払うと、「わたし」という現象だけがある。
すべての認識に先んじて、この「わたし」という現象がある/認識に対応して湧いてくるニセのわたしは「吾我」であり、これはすべての横着から発生する怠慢の誤解にすぎない。
この「わたし」がすべてに先んじてあるのだから、いかなる高尚風味の概念も、「わたし」に先んじることはない、つまり「わたし」の後に続く、すべてはどうでもよいものの呼称にすぎない。
この「わたし」を売り渡すことが、横着であり怠慢であり、すべての罪の始まりだ、ルールブックから物事を引きだそうとしたスポーツマンのように、彼は罪に満ちている/「わたし」がすべてに先んじる、その他すべてのことはいくらでも書き換えが利く表面上の便宜にすぎない。

「わたし」こそがすべての出来事の主であり、この主体なしに出来事はありえないのだから、出来事とはすべて「わたし」のことである、よって出来事より上位のものはなく、同時に「わたし」より上位のものもない。
驚いたことに、「わたし」に追随する後のものは、すべて空想にすぎない、すべては実在のものではない、「わたし」はすなわち出来事であり、この出来事だけが真に存在している、このイグジスタンスを放棄したとき、やはりすべてのことはごまかした罪に堕する。
すべてのごまかした罪、すべての横着から生じた、認識に対応して湧いてきたにすぎない「吾我」は、これじたいが罪の産物であり、ここから生じてくる善きものは存在しない、すべてが認識の後から捏造された、存在のないコピー品にすぎない。
それは罪人にとってのみ用事がある、罪をごまかせるがごときに感じられるコピー品だ、いくら精巧に漏れなく仕上げ抜いたコピー品でも、それは「わたし」ではないので、そのコピー品は「わたし」のなんたるかにわずかも寄与しない、ここに「罪を否認した者たちだけが、罪の赦しを得られなかった」ということがありありと視える。

あなたがたは無罪である必要があるが、おれは無罪である必要がない。

おれは主体と罪の在処が別個にあることを、はるか以前に認めたので、無罪である必要がない、おれには罪を消す能力などない、罪を赦すかどうかはおれの裁量範囲にない、おれは罪を消したいなんて思わないし、それよりは自分のありようをごまかすクソだけはやめようと思ってきた、おれは正当化もしないし反省もしない、ただ自分と違うことだけは知らないようにしてきた。
おれは自分の罪状を、大スクリーンに展示されても、何の怯えも持たないだろう、もともと秘匿するつもりもおれにはないのだから、ただ今になってすべての美少女をレイプしたいかというと、おれはもっと美少女に気づいてほしいことがあることがわかった、別にレイプしてもかまわないしおれの罪状が増えることには何の異存もないのだが、もうおれはそんなことでは盛り上がらないだろう、そんなことよりおれはすべての主体について気づいてほしくて、そのことのためには美少女が服を脱いでいようが着ていようがどちらでもいい、すべてに先んじる「わたし」のことに比べれば、美少女の股間を無闇に折檻することなどわずかの愉しみもないことだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
ワークショップ業務連絡:10/11(金)は中目黒デュアルポップスタジオB12室

掲題の件につき以下ご確認ください。
10/11(金)ワークショップは、台風のため開催を限定し、
20-23時@中目黒デュアルポップスタジオB12室 での開催になります。
翌12日(土)はやむをえず休会と致します。
スタジオへの道順は以下案内および GoogleマップURL をご参照ください。
以上ご確認方宜しくお願い申し上げます。九折


<中目黒デュアルポップスタジオへの到達の仕方>
・あなたは中目黒駅の正面改札を出るべきである
・正面の横断歩道を渡ることで山手通りを渡るべきである
・正面には蔦屋書店があり、あなたは蔦屋書店に併設されているスターバックスの角店の脇を前進してゆくべきである。このとき右手には「中目黒アリーナ」の看板があるべきである。
・前方に目黒川の橋があり、あなたは橋を渡るべきである。
・目黒川を渡るとただちに右折して川沿いをゆくべきである。
・すぐにあなたはオレンジ色の看板「いろは寿司」の前を通過するべきである。
・あなたはすぐ「river side gallery」の黒看板を見上げるべきである。するとその隣はすでに「中目黒マンション」である。
・あなたは「中目黒マンション」という金属切文字の看板を見て、そのエントランスを覗き込むべきである。地下に続く階段があり、あなたはその階段を降るべきである。
・B12室はB06室の奥にあり通路からは視認できない。よってあなたは踏み入って覗き込むべきである。金属のドアは押して開くものである。

▼Googleマップ:中目黒デュアルポップスタジオ
https://goo.gl/maps/SbVtgSqzC4kBBSYU7

ワークショップ | comments(0) |
台風による今週末ワークショップ予定変更
題の件、今回はさすがに台風を警戒せざるを得ず、安全保障の成らざる由、11日(金)は19−23時のあいだとし、12日(土)は休会とさせていただきます/さすがに電車が止まってしまうのはいかんともしがたい、金曜の終電までが限界だろう。
しかも、金曜はいつものスタジオが埋まってしまっているため、現在中目黒のデュアルポップスタジオと交渉中、もしそのブッキングも成らないときは、まあ何かテキトーに別枠を考えるしかないな。
なお金曜の夜中〜朝、また土曜の19時〜日曜朝までは、強引にオンラインワークショップを検討中です、オンラインで何ができるか不明だが、とにかく台風だろうが何だろうが、いったんやると決めたものを曲げるのはよくないので、強引に何かやります、誰もついてこなくてもおれが一人で勝手にやります。
何かをやるといって、人は無難にやったことなど、それをやったとは認めないので、初めから無難にやるのは根本的に損です。何かをやるっつーのはどういうことか、それを目撃することじたいが学びの糧になるでしょう、つまりは学習しろというよりは絶望しろということです、ふつう己が自ら何かを「やる」者になんかなれないのだと、絶望することが第一の目覚めになるでしょう。

ワークショップなんてものには、いつまでたっても興味が湧かないが、どうせやるからには、世界に通用するものでなければならない、世界に通用するものを基準として、こなし、かつそれを「しょーもな」と見捨てるようでなければ、万事のスタートラインに立てない。
冷静に考えて、ワークショップなんかしょーもないじゃないか、そのしょーもなさは、世界中の美術館のしょーもなさに似ている、それは宗教のしょーもなさと同じで、仮に大聖堂の天井画を描いた画家と話ができるなら、そりゃ天井画より信仰を持つ人のほうが面白くて値打ちがあると当然言うだろう、逆に正しく信仰を持つ人が――もしそんな人がいればだが――いたならば、大聖堂なんて別にバラックでかまわないだろう、そもそも大聖堂なんてブツが矛盾から生じている、イエスキリストは大聖堂から生まれてきたわけではない。
そして、もし信仰を正しく持つ人がいたならば、その人はやはり同様に、「信仰なんてクソ」と言うだろう、正しい信仰を持つ人は、信仰の対象こそがサイコーなのであって、それを信仰しかできない信仰マンは「我ながらクソ」と笑っているはずだ/信仰を誤った人が信仰マンを上位に置くアホぶりを示せば嘆かわしいように、ワークショップなんてものも、ワークショップを上位に置くワークショップマンの存在を認めてはならない、ワークショップでどんな真理めいた営為が示されようが、そんなことより牛肉のサンドイッチを食っているおれのほうが偉大でうつくしいものだ。
ワークショップの、ゴールであり同時にスタート時点からあるべきものは、いくつかの原理やワザなどは当然のごとく実現させて、かつ「それがなんだってのか」とすべてをゴミ箱に捨てることだ、その点はやはりワークショップは大聖堂に似ているし、美術館に飾られる女神像に似ている、人は聖霊が得られないから泣く泣く大聖堂を建てたのであり、女神が自分の頬を撫でてくれないから泣く泣く女神像を作ったのだ、こんな連中をチヤホヤしてはならない、すべてのジャンル化可能なものは元からゴミ箱行きのものであって、一部の芸術家がもし称賛に足るとすれば、その芸術家が自分のゴミ箱ぶりを自覚している場合のみだ。

おれは偉大なので、その偉大さゆえに、芸術家や宗教家ではありえない。

おれのように偉大なものになると、芸術とか宗教とか要らないんだよね〜 マジそういうレベルにないっていうか〜 かくして、芸術や宗教に無縁ということは、人の一定の健全さを示しているが、それは芸術や宗教を必要としないレベルにあるという場合と、芸術や宗教にさえ届いていないレベルという場合があって、後者と前者を同列に並べることはできない/並べることはできないのだが、表面的には同列に置かれているように見えるのだ、これが万事、魂が落下する元凶になる、まあ別に元凶になってもかまわんけれども。
というわけで、同じワークショップをやるなら、むろん世界のどこでも通用するものを体得しなければ話にならないが、それは前提としてもともとゴミ箱レベルのものなのだ、どこの世界だって王はくるくる回ったりジャンプしたりしないものだが、おれなんか気さくなものなので、レベルを下げて遊んでやっているのだ/ゴミ箱でこそ真の芸術家だし、初めから超越的に偉大であってこそ王だが、最近はこの両者が逆転してしまっている、おれはまったく健全な話をしているのであって、つまり王も芸術もすべてを愛しているからこう話しているのだ。
ワークショップ | comments(0) |
人は孤独であってはならない
は孤独であってはならない、が、すでに「孤独でない」という状態が、どのような状態なのかわからない。
すでに孤独を定められてしまったような人が、やかましさを取り集めて孤独でないふりをしているけれども、そのような狂乱の声に血が滲んでいるようでは、孤独に決まっている。
逆にいえば、僕などは、ただ一人孤独ではないというような状況だ、それは僕が孤独を選ばなかったからにすぎない/僕は孤独な人々が巧みにする誘惑を退けてきた、それは僕が孤独になるのを厭がったからだ。
僕には今も聞こえている、何者にも頼らずに聞いてきたこの世界の声を聞き続けている、そのせいでずいぶん愚か者の扱いを受けてきたが、それでけっきょくよかった/どれだけつまみ食いされても、僕の魂はついに目減りしなかった。

今や、孤独にならないということはひどく困難だ。
なぜ困難かというと、人の弱みにつけこんで、つまり人が自ら不利にはなれない・なりにくいという性質につけこんで、有利になる情報を、悪魔がばらまくからだ、人はそれに食いつかざるをえない。
人は「正しいこと」の果てに、孤独になるのだ、然れば僕のように、正しくないことを選び続けられる者はほとんどいない、僕だけが極めて例外になりうる道理だ。
孤独という状況は、男ならまだしも、女性にとってはとても耐えられない痛苦のようだ、かといってどうしてやることもできない、それは当の女性が「有利になる情報」を選んで掴んでしまったから、当人が自らそれを選んでしまったから/不利な選択はしてこなかったはず、つまり、僕のように愚かにはなれなかったはず。

ひざまずかなくていい、ひざまずいても逃れられないから。

祈ったって届かないから、祈らなくていいし、誤りを認めたって、孤独でない状況なんてわからないから、誤りなんか認めなくていい、殆どの人に出来ることは、僕を罵ることだけだ、本当にそれぐらいしか出来ることがない、まるですべての方途は閉ざされているように見える。
唯一、まっとうな方策としては、途方もない大改正だけがあるのであって、この大改正はまるで現実的ではないが、唯一の方策としてはこれしかないのだ、少なくとも僕自身は、この大改正だけをしつこく続けていくだろう、誰から見ても何のことだかわからない、でも誰かにわかってもらう必要なんて、それこそ孤独な人しか必要としない衝迫だ。
正しく見ないとな | comments(0) |
深い夢への追従、「聖書以外は読むな」
たしの眠りはただならず深く、起床後わたしは、己がどこにいるのか判らない。
わたしが夢の中で知ることは、つまり一般に「聖書を読め」ということではなく、「聖書以外は読むな」ということ、なるほどそれは理に適っている、現実問題はさておきながら、原理的には「聖書以外は読むな」ということは本質を捉えていよう。
カーナビゲーションシステムは、とても便利で、まさに文明の利器と言えるが、わたしは知っている、それは導かれていない者が作為的に導きを付与するもので、したがい導きのそのものの味わいはない、何しろ本当には導かれていないのだから。
システムにナビゲートされてきただけの者たちと、そうではないわたしが対峙する、わたしの知っているものと彼らの知っているものは異なる、わたしの知るものは無敵だが、彼らの知るものはそうではない、彼らは機械的に知ったにすぎない、わたしは何も読まずにきて同様にすべてのことを知ったのだ。

わたしは手引きを必要としない、例外として役所の手続きをすること以外は。
一切を手引きによって知ってきたのみの者と、そうではないわたしとの差は、おびただしく途方もない、いざすべてのものを地に捨てたとき、わたしだけがなおもすべてを知っており、他の者は実のところ何も知らないという動揺を白日に晒す。
「聖書以外は読むな」という、鋭い言説は的を射ていて、手引きがなくても同じところへたどり着かねばならないのだ、手引きを用いた者はすべて不正をしてきたのだから、いざ最後の段になって追放される、ではこれまでの躍進はすべて陽炎でしかなかった、手引きに従ってみたものの結果はそれに尽きる。
わたしは不勉強で何よりだった、胡乱で無頼で、不忠で不孝で何よりだった、わたしは何も読んできていないし、何の手引きにも加担していない、誰が最後の段になって崩れる階に人を案内などするものか。

「だけ」を信じるということ。

ここにむろん、わけのわからなくなった痴愚の、宗教かぶれのことは考えなくてよい、そんな初めから誤っていると分かりきっていることは/「だけ」を信じるというのは、単に数学的な区分にすぎない、信じるというのは単に "比較し得ない現象" ということにすぎず、ここに比較の体質を持ち込む者は永劫その呪縛から離れられないということにすぎない。
「だけ」を信じるということであり、言い換えれば、「だけ」が信じるということでもある、正誤は問われず、「だけ」ということの中に正誤はない、比較体質を持ち込まないかぎり正誤は生じ得ない、そもそも確定しない正誤そのものがわれわれの身の識業であり呪縛の現れだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
WS報告058(3)/魂が閉ざされた人々
曜の夕刻にワークショップが終わり、その後は帰宅すると昏々と眠り続ける、今回は特にひどかった、起きてはメシを食い、いつも頼りにしているマッサージ屋に行って、また帰宅して眠る、すでに火曜日の午前中だが、今になってようやく心身の機能が回復した、正直昨夜ぐらいまで、階段をまともに上り下りする気力さえなかった。
身体操作のワークショップでもあるので、僕はほぼ完全なかたちで、腰から股関節、そして股関節から膝を抜けて足先(第一指の側面)へと、全身が連動しているのがわかる、その完全な連動を使ってなお、体内にすでに支えになるソウル(霊魂)が残されていないのがわかった、本当に使い切ったのだ、身体には何のダメージもないが――ダメージがあるようでは、身体が使えていないということで話にならない――ダメージもなく、疲労もなく、なおまともに階段を上り下りすることができない、そういう身体の状態になる、本当にソウルを使い切ったときそういう状態になる。
「わたしはわたしは、どんなわたし〜」と、ふざけながらやって、習慣的に染みついた自我を使うのではなく、「出来事」にある普遍的な「わたし」、それをウパニシャッドに由来させて "アハム" と呼ぶことにして、アハムこそを真の「わたし」とするアハム劇場を展開したのだが、これが喝采を受けたのはよしとして、これが本当におもちゃにしてよい領域のことなのかどうなのかには疑問が残る、おれは悪趣味だから、こんなことを「どんなわたし〜」とふざけてディールするが、ひょっとするとそこで見ているものは、すでにすさまじいものを見ているのかもしれない、そしてそれが平気なのは、魂が閉ざされているから、響かなくて平気、ということなのかもしれない。
半日のうちに七つも八つも、恣意的にこの「アハム」と接続するというようなことを、これまで僕自身もやったことがなかったが、ただ出来るからといって実験的に今回はやってみたにせよ、これがどういうレベルのことなのかはおれには保証しかねる、毎週発売される少年漫画の雑誌ていどのお楽しみなのかもしれないし、あるいはもっと別の次元の事象――そんなものが、もし本当にあるのならば――かもしれない、少なくともレポートしうることは、その後の僕が、確かに路上に打ち捨てられた雑誌のように、数日はピクリとも動けなくなったということだ、機械的に動くことは表面上できるにせよ、その内部に何のソウルも残されていないことがわかった、とりあえず「アハム」というのはそういうもので、それがただの冗談なのか本当のことなのかはわからない、各人がそれぞれ勝手に判断するしかないことのようだ。

今、多くの人は表面上、さしたる問題はなく、明るく健全に生きているように見える。
が、今日僕は夢うつつの中で、「獣化するということはそういうことなのだ」「餓鬼道・畜生道に落ちるというのはそういうことなのだ」と、はっきりその事象を明視した、これが僕のただの思い込みや妄想であるなら何よりだが、これがただの妄想・空想なのかそうでないのかは、けっきょく僕自身にもわからない。
さしたる問題は何もなく、平和で健全に過ごされている日々が表面を覆いながら、もはや誰も言葉を発することはなくなり、また、いかなる言葉もその内なる魂へ届くことはなくなった、つまりどういうことかというと、「魂が閉ざされて、そこに言葉が届くことはもうなくなってしまった」と言うと、「それってどういうことですか?」と訊かれるのだ、その後に話をどう続けたとしても、必ずすべて「それってどういうことですか?」と訊き返され、最終的には「ふ〜ん……」「わかりました」と不平を持った打ち切りで迎えられる。
近隣を通り過ぎる子供たちの声と表情、またその目は、すでにバケモノとしか思えない汚らしさに満ちている、そうすると一事が万事、すでに多くの人は、なんとか正気を保ちながらも、すでにその魂に何も届かなくなった顔を明らかにしているのがよく視えるようになってくる、もうずっと以前からそのことを僕は明視して首をかしげていたのだが、今になってはっきりわかる、「目ヂカラ」という愚かしい言い方が逆の道標になるように、目というのは本来、何かが「出る」ものではなくて、何かが「入る」ものなのだ、今すべての人々の目を見、すべての子供たちの目を見るがいい、その目からはすでに常時として何かがギトギト出ており、その目に何かが「入る」という余地はない、もういかなる言葉もその魂には入らない、目からギトギト発される "呪い" ばかりが明らかに、止まず、もういかなる言葉も発されることはないし、いかなる言葉もその魂に入ることはない。

見よ、その「何かが飛び出てきている目」を/それは「吸い込まれそうな目」と対極にある。

この十数年、僕が違和感を覚え続け、その違和感が大規模化し膨張していくのを止めようがなかったことの、はっきりとした結論がここにある、「言葉が入らない」のた、すでに何かがギトギト放出され続けているその目を、どのようにして制することができるだろう? 僕は話の流通性のため、言葉が授受されうる魂の目、その吸い込まれそうな目のことを、アハムの目と呼ぶことにする/わかりやすさのためそう呼称するとして、なおも伝えておくべきことは、そのアハムの目というのは、現在の僕でさえ、濫用するとしばらくはその後動けなくなるような次元のことだ。
「出来事」のすべてと直結してのみ成り立っている真の「わたし」たるアハムは、これを欺瞞して先んじようとするすべての事情を焼尽する、このアハムの目こそが何よりも先にあるものであり、呪いの目はこのアハムを引きずり落として己がアハムに先んじようとする/言葉が魂に届くという現象の、極限のためにやむをえずアハムに到達している、そのたびにどれほどの霊魂の作業があるか、今のところ誰も知る由はない、こうまで昏々と倒れるとは今日まで僕も知らなかった。
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WS報告058(2)/わたしはわたしはどんなわたし〜

ても盛り上がって何よりだった。
誰だってステキなことの中を生きていきたいのだが、そのことについてテクニックやごまかしは利かない。
当人がステキな奴になるしかなく、また、テクニックやごまかしでない本当のステキな奴になるしかないのだ、これを加工でなんとかしようと考える奴は六万回輪廻したあとコオロギになってヤギに食われるだろう。
ごまかしでステキな人「ふう」を偽るぐらいなら、何のウソ隠しもない「みすぼらしい奴」のままのほうがマシだ、少なくともそれぐらい自分で宣言できないようでは、何の見込みもない、あるいは見込みがないどころか、性根の薄汚さが世界遺産の城壁ばりに張り出されてしまっている、フツーそんなドギツいウソなんか企まないものだぜ、いいかげん頭を冷やさなくてはならない。

仮に僕自身、ステキ度が100点満点中5点だったとしたら、何のウソ隠しもなく、5点のダメダメおじさんとして扱ってほしい、ほんのわずかでも憐れみをかけて、2点や3点のゲタを履かせて扱ってくれるのはゴメンだ、そんな不正行為に巻き込まれてたまるか。
100点満点中5点というが、別の見方をしたとき、たとえば100人の女性がいたとき、そのうち5人が僕のことを「ステキ」と言ってくれるかといえば、それはとてつもなく困難なことだ、ほとんどの人は生涯のうち一度も誰にも「ステキ」とは言われないまま生涯を過ごす、それは当たり前のことだ、それはわれわれが観光に行かない町のほうが遥かに多いというのと同じだ、この世界に「見るべきもの」を所有している人や場所のほうが遥かに少ない。
「わたしはわたしはどんなわたし〜」と、ふざけながら言って、ふざけているようでも本題はずっとそれなのだ、魂魄のことを深く考えていくと、人の「わたし」というのは必ずしも固定的ではなく、無数・無限に、常に新しくありうるのだが、それらはすべて正当に「わたし」「こんなわたし」を引き受けられて以降にしか、視えようがないことだ/自分をエセ「ステキ」ふうに偽るような性根がわずかでもあるようなら、そんな「わたし」の秘密が視えてくるわけがない。
「われわれは、誰も "自我専門学校" に行ったわけでもないのに、自我だけはきっちり育っているんだ、老若男女、世界中のすべての場所で、また歴史上あらゆるときにおいて、誰も何も習わず、何も学ばず、何の訓練もせず、何もせずに生きていても、この "自我" だけはバッチリ大きく育っているんだ、何もせず寝転んでいるだけのつもりでも、勝手に膨らんでいる、この "自我" って何なんだろうな? 不思議に思ったことはないか?」

「何もしていない」? いいえ、「防衛」しています。

何もしていないつもりでも、何もしていないということはありえないのだ、何もしていないつもりの中で、ずっと「防衛」は続けている、むしろ防衛だけを続けているという、その状態のことを「何もしていない」というだけだ。
「ふと気づくと、自分の行動の動機が、全部 "防衛" なんですよ」と、或る人が話してくれた、その発想は僕にはなかったので驚きだった、われわれは自我専門学校に通ったわけでもないのに、自我だけは勝手に育っている、何もしていないつもりでも、その自我はずっと「防衛」を拡大し続けている/「わたしはわたしはどんなわたし〜」と問えば、そんなわたしだという話があった。

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WS報告058(1)/普遍的な一人称(アハム)
調にやった、色々あった、が、早く寝たいので手短に。
 前半は気魄をやった、気魄っつーかハートの問題、身体の中に流れるハートの問題、その流路の開拓も必要だが、「そもそもハートそのものの源泉が足らんわゴルァ」と、そんなことは握手してみるだけでわかる、敏感な人は「うおっ」とそれだけで気圧される。
 中盤、おれは思うがまま話した、「自分でやっておいて矛盾しているが、なんつーか、 "表現塾" みたいなもののすべては無駄だ」「だって面白いってそういうことじゃねーし」「ただおれはウソをつきたくない、だから、塾みたいなものは意味が無いという前提でやる、こんなデカい矛盾のままやれるのはおれのとこぐらいのもんだろ」。
「面白いっていうのは、個々人のもんだし、それが "個々人のものだから面白い" のであって、画一的じゃ面白いはずがないだろ」「そいつが面白い以外にどうやって救われる方法があるんだよ、そんなもんどーしよーもねえよ」「どんなカミワザがあったってな、カミワザだけで面白いことにはならんよ、仮に人類史上すべての体技が会得できたとして、それでも "で?" てなもんだ、しゃーねえんだよ、面白さには直接つながるしかない、あいだに技術なんか挟まんねーよ」。

 後半は「アハム」をやった、なんじゃそのアハムというのは、ということだが、これはウパニシャッド(インド哲学の奥義書)に書かれていることで、まあわれわれが個別に思う「自分」という以前の、根源的な「わたし」という現象のことだ、まあ「世界創生についての思弁」みたいなところに書かれているので、なんのこっちゃとしかフツー思わんが、この場合「個別の自我とは異なる普遍的な一人称」が他に見当たらないので、当ワークショップでは「アハム」とした、まあものっっっっそい遡ればヴェーダ的には誤りではないだろう。
 何もむつかしいことをしているのではない、 "本当に面白いこと" を求めているだけだ、微妙に面白みのあるものとかは要らないし、付録にすぎない、いくら楽しげなものでもそれだけではやはり物事は成り立たず、本当に面白いことが中枢を為していないとどうせ後になって消え去るのだ。
 何がアハムなんだということで、おれはわかりやすく言う、わかりやすく言うからといって、容易にできるわけではまったくないが、「出来事の中に "わたし" (アハム)がある」「出来事の前に持っている "わたし" は、ただのニセモノ、習慣で根づいただけのパターンであり、思い込みとクセでしかない」/もちろんそれで、おれが実演すると、連中は「うおおおお」と言うから成り立つのだ、実演もできない空想をネタにしているわけではない、空想的概念をいじくっていても全力でつまらないだけだ。
「わかりやすい例え話を言うと、たとえば、恋あいというのは出来事のあとに発生するべきだろ? 誰か特別な異性と出会って、 "あっ" という出来事になり、この出来事から、 "恋するわたし" というまったく新しいが出現するんだろ、そしてこのわたしは普遍的にあるわたしだから仮にアハムと呼ぶ」「それに比べて、先に "恋愛したい" "恋愛しよう" と考えて、うおおお〜恋愛カモン〜ってなっている奴は、明らかにおかしいじゃないか、そうして自分が先にあるのはハズレであって、そのわたしはニセモノなんだよ、出来事の中から生じるわたし、出来事とセットに生じている常にセット新品のわたしだけが本当のわたしであってアハムなんだよ」。

おれは常に出来事とつながっている。

 出来事とつながっていないおれというのは、銀行に振り込みにいったり、役所に手続きにいったりするおれだ、そんなおれはニセモノであって、ただの神経と肉の習慣でしかない、出来事の中にしかおれはいないし、常に何かしらの出来事とセットにしかおれは存在していない。
 出来事とセットでない単品の「わたし」なんて存在していないのだ、そいつは火葬場で燃やせば灰になるやつであって、生きるには必要あるクセのあるやつ――それなりにかわいくもあるやつ――だが、それは本質的にわたしではない、当ワークショップではあざけて「ワテ」とか「ワレ」とかいう/アハムは「普遍的なわたし」であって、おれもアハムだがあなたもアハムだ、だからおれの書き話すことはすべて、なぜか知らないがあなたの体験する話のように聞こえるだろう、それはあなたの内部のアハム機能に作用しているということだ、ものすごく粗雑に言えばだけれども。
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面白いということは、変化しないということ
白さ、について考えているのだが、なにぶん方法はない、「面白くなる方法」というのはひとつもない。
 とはいえ、手がかりがゼロというのは、気の毒な人にとっては気の毒だと思うので、何かしら手がかりを考えているのだ。
 面白さについて、唯一の手がかりは、「出来事」ぐらいかもしれない、少なくともおれにとっては出来事だけが唯一の値打ちを持つ。
 ただ、「出来事」のためには、持っている余分をすべて捨てなくてはだめだ、つまり「出来事がある」のではなく「出来事しかない」ということでないと、それは出来事にはならない/もちろん何のことを言っているのかわからないだろうが、そりゃわかるようなことを言えばインチキに決まっているのだ、まさか自分に「面白さ」の片鱗がわかるかもなんて期待を持っていてはいけない。

 面白さの、唯一の手がかりは「出来事」だと思えるが、「出来事」のためには、 "変化してはいけない" という鉄則がある。
 変化といえば、たとえば五歳の少年が、四十年後には四十五歳のおっさんになっているということだが、そうして変化というのは弱い者から順に発生するので、面白くないのだ、「変化するのはアホ」というヤケクソのような覚え方をしておいてもいいかもしれない。
 すべてのことには、始まりなんてないので、何かが面白いとか、あるいは何か「勝つ」というようなことは、初めから決まっており、何かが始まってうんたらかんたら、ということはない/よく「始まりがあれば終わりがある」というが、それはそのとおりで、つまり始まりがあるようなものは全部ウソだから後で滅びますというだけのことだ、「始まる」ということ自体がアホで、そのアホの精算として「ホラ終わった、アホじゃん」という結果が来るということだ、ここにはただの寒々しさしかない。
 面白さの手がかりは、始まらない・終わらない・変化しない・何もしないということだ、よくつまらないマンガほど主人公を変化……メタモルフォーゼさせたがるが、サナギがチョウになったとして、あなたは本当にサナギがチョウになるところを毎日観察していたいと思うか? 実際そんな観察なんてした試しがないじゃないか、それは「面白くない」からだろう。

わずかな変化も弱さの証。

 初めから面白くないといけないし、初めから勝っていなくてはならない、誰でも生まれた直後はそうだったのじゃないか、そして現在の自分に不満のある人ほど、その現在の自分とやらは「変化」の積み重ねの末に到達しているはずだ/ちなみに言うまでもないことだが、「変化しない、始まらない」ということは、地蔵のように止まっているということではなくて、逆、すさまじい速さで動くのに、変化はしていないということだ、すごい動きなのに変動していないということだ。
 面白いということに対しては、直接チャレンジするしかなく、つまり本人が直接面白いということしか方法はないのだが、そうして面白い奴は初めから面白いのであって、面白くない奴が変化して面白くなるわけではない、変化するとますます面白くなくなる、だから面白くない奴はイメチェンばかりするし、積み重ねた変化のあげくキャラがコチコチに固まって動かなく、重苦しい奴になるのだ/変動のたびに重さが増すので、面白いといえば重さゼロ、変化ゼロ、出来事といえばゼロということになるな、ゼロが出来事だ、面白さへの手がかりというとそれぐらいしか言えない。
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「面白くない」のは、魂の底が "恐怖" に支配されているから
きものは恐怖に支配されている。
 だから、人は、何十年もかけてアホみたいだが、けっきょく人を「怖がらせる」という方法しか獲得しない。
 ヤクザも同じだし、教師も同じだ、親が子に対してもそうだし、男女が互いに対してもそう、けっきょく「怖がらせる」というアホの方法しか獲得しない。
 それがなぜアホの方法かというと、その方法をいくら駆使してみても、本当の果実はまったく生らないからだ、だから初めから方法としてハズレに決まっているのだが、何しろアホなので、長い生涯をかけてけっきょくその方法しか獲得しないのだった/冷静に考えてみて、「怖がらせる」って本当にアホの発想だ。

 便宜上、「面白いこと」を考えているのだが、まさか真正面から、幻想の「面白いこと」を探すようでは、その人はもう死んでしまっている、まさかそんな取ってつけたような「面白いこと」なんて存在しない/また、取ってつけたような「面白い人」も存在しない(存在するように見えたらそれはただのフェイクだ)。
「面白いこと」なんて、わざわざ考えなくても、フツーに生きていたら毎日は脳みそのフタが開くほど面白いのであって、なぜそれをニセモノの「面白いこと」で補わねばならないかというと、魂の根っこを「恐怖」で縛られているからだ/根幹を「恐怖」が支配しているので、表面をどういじっても面白くはならないのだ、どこまでいってもネクラな何かがつきまとってしまう(当たり前)。
「恐怖」および「怖がらせる」ということ、つまり、「ビビっている」ということなのだが、どうも思い返すかぎり、やはり2011年の震災のとき、津波の映像と原発の放射能ニュースで、きっちり「恐怖」に討ち取られたみたいだ/じゃあ後はもう、恐怖に討ち取られた魂の表面で、何かを楽しんでいるフリをして過ごすしかない、それはまるで病人用の流動食を美味しくしようというようなことで、無為とは言わないが本質的に美味しいということには到達しない。
 このところ、何かあれば「炎上」するし、あちこちで、バトル気質の女性や、オラついている男性、キレる老人等を見かけるのだが、誰も彼もが異様に「わたしは強いんだ!」みたいなフリをするのは、魂の底がすっかり怖がっているからなのだ、別にそれが悪いということではないが、そうして怖がっている魂の誰かが真に面白い何かに到達することはない、つまりそういう人はけっきょくまともになれないまま生涯を過ごすだろう。

怖がったままの魂が、たとえ空中でミラクル五回転しても、誰もよろこばないし、何も面白くない。

 仮に、怖がったままの魂の誰かが、 YouTuber になって、身体にガソリンをかけて火を付けて、ダッシュでプールに飛び込んでみたとしても、怖がったままの魂だから、やっぱり何も面白くない、すべての根底を「恐怖」が支配しているので、決して面白くはならないし、よろこんでしまう何かにもならない。
 つまり、恐怖に支配された魂は、その後「要らない」ものにしかなれないのだ、そうして考えると、ここ十数年、われわれの周囲にはあまりにも「要らない」ものが増えて、のさばり続けたのがわかる、要らないものが要らないのはしゃーないのだ、そこをごまかしたくなるのは、やはり同じように魂の底が恐怖に支配されたままだからだ。
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それはまるで病気のようなダルさ

れは無気力になったことがない。
 気合いを入れたこともない。
 どうやったら無気力・ダルさが来るか、考えたのだが、きっと「みんなで力を合わせる」等をやれば、ダルくなると思う。
 つくづく考えたのだが、おれは面白いことがわかるのではなくて、「面白いことしかわからない」のだ、だからおれは無気力になったことがないし、気合いを入れたこともない。

 現代は、面白くない奴が必死コイている、という向きがあると思う。
 便宜上、面白くない奴、という言い方をしているが、別に「面白い奴」なんてものが存在するわけではないし、逆に「面白くない奴」が存在しているわけでもない。
 おれは、面白いことしかわからないのだが、それは考えてみれば当たり前のことであって、人は機能上、面白いことしかわからないはずだ、だから仮に「面白くない奴」がいたとしたら、そいつは何もかもがわかっておらず、生きてきて何一つ学んでいないし得てもいない、ということになる。
 周囲のことをジッと見て、肩入れしてみたりすると、途端にダルさの毒みたいなものを感じるのだが、本当は何一つ面白くなくて、何一つわかっていなくて、猛烈にダルいのに、何か必死コイて、「力を合わせる」みたいな幻想にとりすがっているのだろうか、おれが面白くなくなる唯一の方法があるとしたら、それはおれが誰か他人の話を聞いたときだろうな。

「面白くない」ということは、己の魂から一ミリずれるということだ。

 己の魂から一ミリずれたら、それはもう己の魂には何の関係もないことになるので、やる意味がない。
 そうすると、面白くなくなるので、面白くなる方法を探すのだろうが、探し始めた時点でオワリだ/おれは今も、引き続き、面白いことしかわからないままで、そのぶん引き続き、他人の話なんて聞いていないままだ、おれはダルいことに必死コイてごまかすような善人にはとてもなれない。

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世界を視る手続き

ちらおかげさまで体調は復した、喉から全身が倦怠して、こういうときにしかけっきょくおれは休まないので、 steam版 が出ている「信長の野望[革新] with パワーアップキット」をPCでダウンロードしてやった、今さら何年前のゲームをやっているんだという話だが、信長の野望は「革新」が一番面白いのだ、くぅ〜南蛮技術で弓の距離を+3するとシビれるぜ。
 世間は消費増税と、軽減税率とキャッシュレスうんたらで、ぐちゃぐちゃになっているな、それにしてもどさくさまぎれに、キャッシュレス化すると5%引きとはえげつない話だ/キャッシュレス化すればいきなり5%も免じられるのか、じゃあ初めから増税なんか必要なかったのじゃない? いきなり5%はデカすぎるだろう。
 紙幣の流通がなくなり、やがて電子決済しかできなくなると、電子決済にアカウント登録していない人は「物が売買できない」という世の中になるな、物が売買できないということは生きていけないということになるが、そういう手法で人々の魂を牛耳ろうとするやり方はいかにもセコくて汚い、何かわざわざヨハネの黙示録でも参考にしたのかというような薄気味悪さだ:ヨハネの黙示録第13章17節「この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。」
 国連に乗り込んだ女の子については僕としては「???」であって、そりゃトランプ大統領にとっても「???」だと思うのだが、一方で香港の人々の尊厳が流血に及んでいることにはさすがに胸が痛む、中国が帝制を辞めてなお覇権主義を辞さないことについて、やはり僕は仕組みがよくわからない、僕は「覇権」ということに衝動がないのだ、だからむしろ中国共産党やヒトラーに僕自身の欠落を学ぼうと考えている/そういえば、「どうやって世間の情報を得ているんですか」と先日訊かれたのだが、誰でもそうするように、今やネット上のニューストピックを適当にクリックすれば、それだけで一通りの情報は得られよう、ただ僕はおじさんなので、若い人よりニュース記事の読み取りが速いのだ、どうあがいても新聞を読む速さだけはおじさんには勝てねえよ。

 僕自身、物事を見る目や、記事を読み取る目、また世界を直接視る目については、これまで多くの人から影響づけを受けて、育ってきているのを自覚する。
 たとえば文章を読むというのは、書いてあることを暗記するということではないのだ、最低限は「理解する」ということだが、より上位には「認める」ということであり、さらには「その人を通して世界を視る」ということでもある。
 たとえば僕がピカソの絵を見るとき、僕自身の天稟によって視るところも半分あるが、もう半分は、パリのキャフェで死にそうになっていた岡本太郎の目を通して視るのであり、また大江健三郎の芸術理論を通して視るのでもあり、また「セザンヌはヨーロッパの景色に影響を与えた」という芸術論のジョークを通して視るのでもある。
 もちろん、自分と世界のあいだに誰かが挟まっているようでは面白くないが、そうではなく、先人達からの影響づけによって、僕の目そのものが育てられているのだ/僕は何かを勉強しようとは一ミリも思わないし、知識を蓄えようなんて一ナノも思わない、むしろ知識のすべてを放擲して直接ものごとを視るのだが、そうして知識のすべてを取り去ったときに、自分の目そのものがどれだけ育っているかが明らかになるだろう、だからこのとおり、おれは何もかもについてシロウトで、何もかもについて子供のままだ。

正論も戯論も取っ払ったとき、あなたは The World か。

 たとえば仏典スッタニパータには、信じがたいほど洗練された叡智が詰め込まれており、また、たとえばマタイの福音書には、思いがけず人として純真たるべき idea が詰め込まれている、そして問題は、その聖典の知識を溜め込むということではなく、その聖典の知識をすべて投げ捨てたときも、すでに磨かれて育てられた目が己に具わっているかということだ、「暗記した繰り言を云っていても祈りは通じません」とちゃんとマタイ福音書に書かれているし、例え話で言うならば、「重要なのは温泉地に美人の湯が湧いていることではなく、その湯から出たあなたがすっかり美人になっていることです」ということだ、美人にならなきゃ美人の湯ではまったくない。
 叡智の泉に頭までどっぷり潜ったとして、その泉から出たあなたの目が、洗い流され、すっかりこの世界を直接視られる目になっていることが重要だ、あなたの目だけでなく耳や鼻も、また全身も、この世界を直接視るものに変わり、あなた自身が The world になっているのでなければ、いかなる泉に浴したとして何の意味もない/「証(あかし)」が得られていないということは、ただすべてが空転しているということの反映であって、ごまかしは利かないし、またごまかしの必要もない。

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あなたが間に合わねばならないこと

とんどの人にとって、たとえば大江健三郎がどんな人かは、よくわからないだろうし、詩聖タゴールがどんな人だったとか、マハトマ・ガンジーがどんな人だったかということも、よくわからないだろう/そしてよくわからない以上に、「興味もないし、関心も起こらない」としか感じられないだろう。
そんなことに、興味はなくて無関心なのは、当たり前だし正しいのだが、とりあえず同じ仕組みで、たとえばかつて日本がなぜ米英(中)と戦争したのか、あるいはなぜかつてヨーロッパで第一次世界大戦が起こったのかも、わからないし興味もないだろう、そしてなぜリトマス試験紙がpHによって色が変わるのかとか、なぜウランを圧縮すると爆発するのかとかも、わからないし興味もないだろう。
そのことは、別にかまわないのだ、学校の試験なんか0点でいい、電子レンジなんかボタンを押せば勝手に機能してくれるのでその仕組みなんか知らなくていい、ただ問題は、その行き着く先、あなたが何十年か生きるにして、今度はあなた自身が、「どんな人だったかわからない」ということになるのだ/何十年も生きながら、「自分で自分がどんな人だったかまるでわからない」という結末を迎える、そのときその感触は、あなたにとって大江健三郎がどんな人だったかまるでわからないしまるで興味もない、というのと同じ感触なのだ。
あなたが文学部の生徒でもないかぎり、たとえば「○○△△」がどんな人だったかなんて、研究することもないし、興味もまるで湧かないだろう、そこで、この○○△△に、あなた自身の名前を代入してほしい、このあなた自身の名前について、「どんな人だかわからない」「わからないし興味もない」という状態になるのだ、つまりあなたは何の興味も関心もない自分自身を、ずーっと押しつけられて生涯を過ごすことになる。

もちろん、現代は情報網が発達しているので、 Wikipedia でも調べれば、著名人や歴史上の人物について、ただちに情報を得ることができる/あるいは、なぜ戦争が始まったのかとか、いつからシャネルは有名ブランドなのかとかも、ただちに情報として知ることができる。
ただ、そうして情報を得たとしても、それは己の魂から研究したということではないので、たとえばなぜ戦争が始まったのかということを、「つぶさに」「手に取るように」「まざまざと」、視ることはできない、己の魂をその研究と重ねるまでしないと、積み重ねた情報を元に何かを「まざまざと」視ることはできない、仮に Wikipedia のすべてのページを暗記している人がいたとしても、その人はただの人間化した「ウィキペディアさん」でしかなく、その人が豊かな世界を得ていることにはならない(そして、 Wikipedia はすでにデジタル上にあるのだから、人間がそのコピーをやる必要はまったくない)/トルストイのことはすべて Wikipedia に書いてあるが、それを暗記したところでトルストイがどういう人で何を為して何のために何を語ったのかということは、ちっとも「まざまざと」は視えてこない。
誰にだって、好きなものと嫌いなものがあり、人によっては、週二でエステにいってアイドルの○○クンをテレビで見て、高級なシーツで寝てパンケーキを食べるだけしていれば、理想であって人生最大の満足だと考える人もいるのだが、そうではないのだ、必ずそれでは満足せず、不明の憎悪に魂の底が染められていくことになる、なぜならばそのときのあなたはあなた自身、そのわけのわからない、「好きなものをただつついて暮らしているだけの奴」を、ずーっと研究させられていることになるからだ、おのれの生命を代償にして何十年も、その無意味に思える奴を研究させられ続ける、それが自分だからしょうがないのだが、理非はともかく人はそうして生命を空転させられることに絶対的な憎悪を覚える。
多くの人は、思春期のあたりで学門をキックし――たいてい一次関数やモル数や重力加速度や摂関政治あたりで「なんかややこしくてイミフなんだけどw」と――その後はただ試験に出るからということで穴埋め解答用に暗記する苦役だけをこなすのだが、学校の試験はどうでもよくても、学門をキックした時点から、自分が何者であるか――「わたし」はどのように生きる、どのような存在なのか――も一緒にキックしていることになる、こうして自分のことを「さっぱりわからないし、なんか興味もないw」と生きていくのは、その後シャレにならない憎悪を体内に溜め込むことになり、とてもよくないのだ、だからあなたは間に合わねばならない、自分がどのように生きる、どのような存在なのかを、「まざまざと」視えるようになることになることに、なんとか間に合わねばならない。

あなたが大物である必要はないが、あなたはまざまざと研究されていなくてはならない。

あなたにはあなたの思いがあり、あなたの好きなものがあり、あなたの嫌いなものがある、そのことはわかっているし、どこまでも当然なのだが、それらの情報をもとに、あなたがあなた自身を研究することにはならない、たとえばディープ・パープルが音楽の世界にギター・リフをもたらしたという見方はありうると思うが、比べてあなたが「シイタケが好き」ということは、あなたという存在の研究にはならない/どこまでも必要なのは、あなたによるあなた自身のまざまざとした研究であって、このことを怠り破棄することは、あなたがあなた自身の生と存在を否定するに等しい行為だ。
あなたはあなた自身を研究するのだ、文学部の学生が中野重治を研究するようにだ、あなたは大物である必要はないし、また有名である必要もない、ただどこまでも正当な研究対象でなくてはならない、あなた自身が研究生であり、あなた自身が研究対象だ、そしてまっとうな研究が為されたかどうかも、あなた自身のみが審査することになる、そのことを怠り破棄したとして、あなたの人生が「どうでしたか」なんて、誰一人答えてくれる者はこの世界にいない/たとえば「行き先を無くした帝国主義が、やがて帝国主義同士に矛先を向け合って、第一次世界大戦を引き起こした」ということは、あなたにとってよくわからないし、興味もないし、まして「まざまざと」視えることはありようもないだろうが、そのことじたいは問題でなくても、あなたがあなた自身を「まざまざと」視えなくなることの反映だから、そのことがまずいのだ、そんなデカいことが視えないようでは、小さいあなたのことなんて視えようがない。

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パーティ報告96(1)/オーバーワークでサーセンした
ーティの前夜はワークショップだったが、そのときすでに喉をやられていて、体調は悪かった、僕は無理がたたると扁桃腺に炎症が来るタイプだ。
ワークショップが終わって、みなで朝食にゆき、その後僕はなんとか午前中に耳鼻咽喉科の予約を取ったのだが、土曜日の耳鼻咽喉科なんてものはたいてい混雑していて、診察を受けて処方を受け取ったのは午後になってからだった、このとき少し意識がもうろうとしていて、僕は自分の受付番号が何番なのかどうしても把握できなかった。
ワークショップでは、カミワザについて説明し、「カミワザは人の消えたあと」と話していたのだが、僕は耳鼻咽喉科から帰る目黒通りを原付カブで走行しながら、夏のなごりを残した秋雲が遠く見霽かす青空の向こうに示されるのに、神のみわざを見た、少なくとも何千年も昔から繰り返し示されてきた空に雲があしらわれるのを僕は見た、「んなアホな、なんつー空だ」。
このとき、どこかで誰かが同時刻、聖地の空を見上げていたのかもしれないと思うが、それにしても「こんなんで今夜のパーティはもつかね」と、ゆとりなく僕は神のみわざを見ながら原付で走行していた、帰宅するとシャワーを浴びてすぐ寝入ったのだが、午後二時に寝たものが、その二時間半後には目を覚ましていた、体調は悪いのに身体が休もうとしない、目を覚ましたとき脳みそはもう小説の続きを手探りしていた。

明らかなオーバーワークだったのだが、そういうとき、そのオーバーワークの最中はわからないもので、「まあよくわからんが、この月末を乗り切れば少し休もう」とだけ考えていた。
しかし、パーティの最中、ついに力尽きたようで、連中の脇で少し横にならせてもらうと、その瞬間、何かブチブチブチと音を立てて、張り詰めていたものが7本か8本ほど、ちぎれる感触があった、とたんにずいぶん久しぶりに、全身に休もうとする感覚が走り、この感覚が走ると、もう身を起こせなかった、というわけで今回は無念ながら、途中で完全にダウンしてしまった/そして目覚めたとき、もう朝だったが、僕としては極めて例外的なこととして、喉の炎症が急速に引いていくのがわかった、僕は喉の炎症はこじらせてしまうタイプなので、こうして短期で終息するのはすごく珍しいことだ。
つまり、よりによってパーティの最中に、ようやく本当に休めたということなのだが、今になって冷静に考えると、身体から人の感覚が消えてカミワザが満ちたり、受付番号の数字が認識できなくなったり、数学に宇宙意識を見たり、空の向こうに明らかな神のみわざを見たりしている状態は、フツーに考えてヤベー状態だ、まあ代償としてあの神のみわざを見たのだということには直感の納得を覚えているが、それにしてもこれは明らかにやりすぎであって、横になった途端ブチブチブチと、張り詰めていたものが7本も8本も切れるというのでは……7本や8本というと、TSUTAYAのDVDでも借りすぎの本数だ、いいかげんにしなくてはならない。
ともあれ、今回のパーティは、僕がダウンしたあと、 SONICMOVE がばっちりカバーしてくれて、盛り上げてくれたので、何より彼がMVPだ、直接知らん奴でもとりあえず彼の偉大なはたらきに賛嘆するように、賛嘆しない者は道ばたのガムを踏んで靴底がネバネバになるという呪いを受けるものとする/夢うつつに聞いていた SONICMOVE の、ソウルと空間に関する話は、おれの保証するところ、ことごとく正しい、いやあ彼は本当に覚醒してしまったね、これからいっそうキレキレのダンスを披露してくれるだろう、いやあ男前の大統領になったもんだ(今回は本当に助けられた、サンキュー)。

神のみわざを見たっつーことは、成功しているってことだ。

おれはまさか、信仰を勧めるようなアホではない、おれが勧めているのは信仰ではなくて成功だ/ SONICMOVE に先日のイベントの結果を聞いたら、「控えめにいって、大成功でしたね」と言った、そりゃそうでないとなあ、成功というのは聖地で何かの魂を視ることだ、そりゃ「生涯何も視えませんでした」では何の成功にもなるはずがない。
もともと、おれがこのパーティを企画したのは、「おれはふだん、書き物でガンバっているわけだからぁ、パーティではみんなで盛り上がってもらってぇ、おれはその脇でエラソーに酒飲んで休んでいたいっていうかぁ」というコンセプトだったのだから、ある意味96回目にしてついに、当初のコンセプトが成立したということでもある、というわけで喉も早く治りそうだし、体調はともかく気分のほうは上々なのであった、次回もよろしく。
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WS報告057(1)/カミワザの出し方、使い方
ーた喉をやらかしてしまった、このまま今日はパーティで、その後は一日で小説を書かないといけないのに/もうそのあたりのしっちゃかめっちゃかも、いちいち注目する気がなくなってしまった、別に誰も知らないでいいというか、もうおれも知らないでいい。
今回、カミワザの出し方がわかったので、冗談みたいに面白くレポートするが、カミワザというとき、「カミ」の性質をよく知らねばならない、人がイメージを作って拝み倒しているのはカミではない/人が消えたあとに残っているのが「カミ」だ、だから生身の人は消えなくてはならない。
ここにAさんとBさんがいたとして、そこに何かのカミワザが作用するということは、その作用はAさんではないしBさんでもないということなのだ、AさんもBさんも消えて事象ないし言葉だけが残っている、その「人の消えたあとの作用のみ」をカミといい、その作用の形式によってはそれをカミワザと呼んでも差し支えない。
人が消えるとはどういうことだ、生身の人が消えるとは……!? と、盛り上げる必要はどこにもなくて、たとえば方眼紙にグラフを書く場合、方眼紙の中に生身の人は入れない、だから方眼紙の中はずっとカミワザだ、そのカミワザがわれわれの生身に起こったとき、それが体感上も珍しいのでいちいち「カミワザ!!」と呼ぶだけだ/けっきょくわれわれの存在と事象に「生身」は本質ではないという、ただそれだけのことのようだ。

カミワザは、「人が消えたあとに残っているもの」だ、この基本にさっさと慣れねばならない。
そして、カミワザというが、カミワザであってもそれはただのワザであって、それじたいだけで何かがそこまでよろこばしくなるわけではない、どれだけそのワザがハイレベルでもだ/カミワザとはいっても、しょせん秋雲が天高くに微細な文様を作りだして季節を作っていることに比べれば、なんらの価値もない、どんなカミワザもそれだけでステキにはならない。
突然、奇妙なことを言うようだが、あくまでカミワザに関わる話として、そしてやがてステキなことへ直接重なることのため、こんなことを言わなくてはならない、 "おれのまき散らす唾液の一滴さえ取りこぼすな" 、これはおれに関わることではなくて、カミワザに関わることだ、カミサマを崇めるとか拝むとかいうことは実際われわれには必要ない、むしろ崇めるような隙間や拝むような隙間があればカミワザとつながりようがないのだ。
 "おれのまき散らす唾液の一滴さえ取りこぼすな" 、これはカミワザに関わる話であって、これがあって初めて命、魂、世界、愛との接続になる、この世界のすべての光景に、ただこれひとつでつながれるのだ、つながれるというより重なれると言ったほうがいいが/おれの話を聞き流したり、聞いて理解しようとしたりする人がいるが、そのどちらもちゃんちゃらおかしい、そんな隙間が入り込んでいるようでは何にもつながれないだろう、 "おれのまき散らす唾液の一滴さえ取りこぼすな" という言い方は実に正しい、唯一の正しい方法を示し続けている。

言葉のひとつごと、人を消している、そこに言葉だけ残ってあればいいから。

われわれは、生身の人として、どうしても人と生身カウントに思い入れがあるようで、人が消えた世界というものが視えないようだ、どこまでいっても人視点というところがあって、その「人」が邪魔をしているのでカミワザに入れない、自分が「人の思い」を残していると当然カミワザは出てこない。
「人の思い」といって、カミサマのほうには人のような「思い」はなさそうだが、カミサマには言葉があるし、直線や円がある/どうも人は、この世界が創られた当初から「人」がいると思い込んでいる傲慢があるようだ、カミワザが存在するのは現在の「人」が成り立つはるか以前からであって、むしろ本来はカミワザだけがあって人がいない状態のほうが大半であって自然だ、冷静に考えればこの世界は、「人が消えたあとのカミワザ」と「人の思い」の相克しかない、カミワザじゃなければ人の思いだし、人の思いならカミワザではないのだ、ただそれだけのことが恬淡としてある、そして人はカミが現れることを愛していて、不毛の人がえんえん立ち回りを続けることを愛していない。
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方法はゴミ箱へ、おれはずっとあがいているだけだ
くづく、独り相撲というか、僕一人でまるで見当外れの、世の中からズレたことをやっているのじゃないかと思う。
まあでも、他人のことは、けっきょくわからないので、わかったふりをせず、おれはやはりいつもどおりの、ぶっちぎりのおれでいるしかない、と思っている。
いつも偉そうなことを言っているが、なにひとつ、前もって準備できたり、自信を持ったりすることはできず、いつも白紙の暗中模索だ、何かに落ち着いて取りかかれるということはたぶんこの先にも一度もない。
ただ僕が知っているのは、ふとしたときに、何かのフタがあくのか、底が抜けるのか、完全に大丈夫、という、完全な成功に接続する瞬間があるということだけだ、いつもそのフタはまぐれで開き、どうやって開くのかは未だによくわからない。

何かに落ち着いて取り組むとか、何かに安心するとか、そういうことは一度もなくて、ひょっとすると僕自身、常に極大の不安に晒されて生きているのかもしれない、こんなことは他人と比較できないが、ひょっとすると他人と比べると極大の不安のさなかにあるのかもしれない。
何しろ、こうして一文一文書くだけでも、何が正しいとか、どういう技術があるとか、アテにしたことは一度もないし、それでも一行でも面白くないと、それは面白くない奴なんだからな、けっきょく何かについての方法論とかノウハウとか、そんなものは持ったことがないし、アテにしたことも一度もない。
わけがわからないからいつも、最終兵器を出すしかないという具合だ、最終兵器はいつも、偉大なるおれさまならなんとかするんだろうという、自信さえアテにしない自信だ、いくらおれに自信がなくても、偉大なるおれさまはなんとかする、何しろ偉大なんだからそういうものだろうという、間違っていれば間違っているほどアテにできるという感触だ/よっておれに何かを相談するということは常に間違っている、相談で解決できるものならおれが誰かにすべてのことを相談したい側だ。
何の補償もない、何の権威もない、何の頼りもない、だから不安があるというよりは不安だけが100%を占める中で、「それ以外に面白いありかたは存在しない」というのが僕の考え方だ、とことん不利になり、とことん武器をなくせということ、何かに頼るこころが1%でもあったら、それは「弱い」ってことだと思うんだ、まあおれがズレているのは知っている、ズレてなかったらわずかでも安心みたいなものが芽生えるのだろう、だから最もズレているところに立ち続けるしかない。

おれよりあがいている奴がいたら、おれの負けだ。

おれは自分自身に対してタチが悪いのかもしれないが、おれはわずかでも、計算して妥当にやっている自分が見えると、その途端に自分を粉砕してしまう、何万字書いてあってもその瞬間にすべて消去してしまう、おれは自分に対する積み立ての一切を、一ミリたりとも許さない、おれの意志がそのようにあるのではなくて、何かが初めからおれの積み立てを一切受け付けず、そのとたんに弾いてしまうのだ、コイツは初めからそれを許す気がないので、粘ってみても必ず時間の損にしかならない。
方法はない、方法と呼べる一切のものには何の面白みもない、かといってヤケクソのものなんてゴミにしかならなくて、すべてのことは度肝を抜くほど計算されつくしていなければならないのだ/何の方法も積み立てもなしに、つまり計算なしに計算しつくせというのは矛盾だが、よくよく見ると矛盾ではない、まだ発見されていない数式に接続すればいいのだ、数式は入念な計算の究極にあって、まだ発見されてないのだからそれは手元に方法としては存在していない、まあそんな理屈をこねていてもどうにもならないが、これは何の話をしているかというと、おれが一番あがいているんじゃねーのという、根拠のない自慢話をしたかったのだ。
バカをやろうかあ | comments(0) |
年長者の一面は、過ぎた時代へのガイド役
い女性に、「歌の上手い女性歌手って、誰をサンプルにすればいいですか」と訊かれた。
それで僕は、「オリビア・ニュートンジョンとか、カーペンターズとかかなあ」と答えた/「何のクセもなくて、ただ唄っているだけにしか見えないのに、何かが異様に上手い、ああいうのが "歌が上手い" んだと思うよ」。
色んなクセや、色んな特徴、色んな魅力を持つシンガーがいると思うが、ありきたりな話、クセのある人を真似すると、クセだけ似通って自分は行方不明になるので、中央のサンプルはごく正統派がいいと思っている、もちろん歌に限らずなんでもそうだ。
そんなことを話ながら、僕はふと、「年長者というのは、過ぎた時代へのガイド役でもあるのかもしれない」と思った、僕だってオリビア・ニュートンジョンやカーペンターズの時代に直撃している世代ではないのだが、僕自身も誰か年長者に、かつてガイドされたからその名前と歌を知っているのだ。

たとえば「ゆず」というデュオがいて、「コブクロ」や「ケミストリー」というデュオがいた(いる)ことは、二十代の人でも知っているはずだ。
けれども、デュオというと、さかのぼるとたとえば「サイモン&ガーファンクル」というのがいたのだが、これはもう知られていないかもしれない/古いものを再興する必要はないと思うが、連綿と続いてきたものが途絶えているのは、ただの情報のロストでしかない。
ふと、YouTubeで調べてみると、久しぶりに、やはりサイモン&ガーファンクルのハーモニーは異様な荘厳さで、たとえば「サウンド・オブ・サイレンス」とか「スカボローフェア」とかを聞いてみると、やはり今でも「なんなんだこいつら……」と、驚くというよりも何か心胆を寒からしめられる/こういう "デュオ" があったことは、もはや歴史的事実だから、古いとか新しいとかいうことではなく、ただの知識としてつながっていればいいと思う。
われわれは学校の授業で、やれアウストラロピテクスだの、縄文式土器だの、古墳時代だの、墾田永年私財法だのを習うのだが、そういう切断された過去の話ではなく、現在から遡って、「自分が目撃しなかった時代」のことを、あるていどつながって知る必要があると思う/むろん青春の只中でそんなジジくさいことは知らなくてもいいが、僕が思うに、人は青春の次の時期に、その遡行の中で何かに出会う気がする。

過去に戻るのではなく、過去を見て、そこから何を得、何を失っての「今」なのかを知る。

過去から現在に到るまで、「何をしてきて」、現在に到ったのか、そのことがわかるのだ、それは現在が視えなおすということであって、過去に戻るということではないし、懐古するということでもない。
過去を見て、「この時代」というものが視えはじめると、自分の生きている現代も、「この時代」と視えはじめるものだ、そうすることで、今の自分が何をやっているのかが視えるようになる。
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