☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
解体作用について

とつ、ナゾが解けた。
感受性は「力(重さ)」のトリニティだから、特に何もしなくても、物事をバラバラにする「解体作用」が自動的に作用し、蓄積するのだ、「力」は原則、物事をバラバラにする作用のものだから。
この動けなさは何だ、と、しばらくナゾに思っていたのだが、とりあえずそのナゾは解けた、僕が休んでいる間は、「何も進まない」のではなく、「解体作用が掛かる」のだ、僕が寝て起きたら自動的にバラバラになっていると覚悟しておくしかない/バラバラが悪いというわけではないが、とりあえずバラバラだ、バラバラになるのだ、力のトリニティが活動しているから。
旧来、人と人というのは、時間が経つにつれて結束していくという性質があって、心理学的には単純接触の原理などとも呼ばれるが、これが現代では逆転しているのだ/「放っておけば仲良くなるさ」という自然現象ではなく、「放っておけばバラバラになるさ」という自然現象が生じているのだ、バラバラになった力・重さが僕単体にぶら下がってくるから、僕が「なぜか動けない、なんだこりゃ」になっている、仕組みがわかればそんなにむつかしい現象でもなかった。

「放っておけば仲良くなるさ」という、旧来の前提が、今は「放っておけばバラバラになるさ」という前提に切り替わったことは、大きな変化であって、瞠目すべきことだと思う。
人と人とは、次第に打ち解けて脱力していくのではなく、次第にぶつかって力んでいくのだ、これではまるでクラスメートたちは互いに仲違いするために時間を共にしているということになる/事実そういうことはあるのではなかろうか、たとえばハロウィンのバカ騒ぎを経ることで、「よーし、またバラバラになった感じがするよ」という現象があったりするのではないだろうか、力・重さというのはどこまでも物事をバラバラにする作用を持つものだから。
力・重さのトリニティと、愛・光のトリノティは、相克であって、どちらか片側をエネルギー源にするしかない以上、人はエネルギーを得るために、「解体作用」をこの世界にほどこすしかないはずだ/イルカは空気中で息継ぎをしているだろうが、トビウオは水中で息継ぎをしているだろう、それと同じように、力・重さのトリニティに所属する人は、どうしたってバラバラ・解体作用の中で息継ぎをするしかないはずだ、それで今度は僕が呼吸できなくなる。
ということは、僕が呼吸しなければそれで済む話だ、ナゾが解けてみればそんなにむつかしい話ではなかった、ナゾさえ解けてしまえば、こんなことでくたばるほど僕はヤワな鍛え方をしてきてはいない/なんとなく今想像がついたが、多くの人はこういうときにパニック障害で倒れたのではないだろうか?(おれはそんなチャチな次元にはいない)

なるほど、つまり僕は、みんなのパニック障害を肩代わりしている。

なるほどなあ、そう考えると、すべてのつじつまが合う、こりゃあるていど功徳も身に現れてきて当然ってとこだよ、僕が多くの人に「必要」とされている、生々しい事実はそこなのだ、多くの人はパニック障害という生理的な攻撃によってある種の光をあきらめねばならなかったのだが、その多くの人にとって僕は、「なぜかこいつは、同種の攻撃を食らっても呼吸不能にならない」ということで、頼られているのだ、どおりで妙にお地蔵様みたいな扱いをされるわけだよ/みんなそういうことなら、ちゃんとマジのお地蔵様のほうをちゃんと拝んだほうがいいな(当たり前)。
パニック障害というのは、抵抗不能かつ激烈に苦しい症状なので、シロウトが生身で対抗できるものではない、対抗しようとしてもどうせ返り討ちにあって余計に手間が増えるだけなので、そこで無駄な抵抗というか、悪あがきはしないことだ、よほどの学門を修めていないと抵抗なんかやりようがないよ/これはまた大きなナゾが解けたものだ、ところで明日は僕の誕生日だから、誕生日の前日に大きなナゾが解けたな、明日からはまたはっきりとした一年が始まるわけだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
今や船長は船を漕げ
月末に書いた小説を、まだ自分で通読できていない、小説を読むような余力と時間がない。
パーティの告知を作らないといけないが、実はまだワークショップ報告も、本来報告するべきことが残っており、明日は僕の誕生日なので旅行に招待されて行ってくるが、このあたりで感受性と悟性についてもまとまった書き物を残しておきたい。
忙しい、ということはまったくないのだが、いくらなんでも霊力が枯渇するのだ、しんどいとかダルいということはまったくないのに、動こうとするとピタッと、全身が「ガス欠です」と停止してしまう。
そうなると、またわけのわからんところからエネルギーを引っ張ってくるしかないのだが、そんなもの、毎回毎回マグレの何かを掴んでいるようなものだから、「そんなこと本当に可能なのか?」と、毎回自分で思うのだった/今も「無理じゃね」と甚だ疑問なのだが、どうせ今回もなんとかするのだろう。

けっきょく僕は、手抜きができないというか、手抜きしたものは他人に見せないので、結果的に手抜きができない奴になる、毎回マグレで奇跡的にうまくいったということしか認めないタチだからな……
そういえば、月刊ワーQの第三号の原稿も、ちょうど締め切りで集まってくるのだった、それだって面白いものにしないといけないからな/まあこの仕組みは、今のところ良いはたらきをしているので、なんとか継続しなくてはならない。
あと、思い出したが、あらためて恋あいについてのまとまった記事も要求されているのだった、そういった要求は正当なものだし、僕が引き受けないと話にならないから引き受けるのだが、とにかく恢復の時間がない。
とりあえず、自分で書いた小説を、まだ自分で読めていないというのが、異常だと思った、この状況を決定的に打開するには、もう逆にタスクを三倍ぐらいに増やすしかないのだが、その方法は今この状況でも通じるのだろうか、現在の三倍をこなすという発想には希望があるが、もうそこまでやると自分に人間味を感じない予感がする、まあそれはそれでよいのかもしれないけれども。

現代は船長が船を漕ぐ時代だ。

このことは、そう割り切って理解していたほうが、ロスが少なくてすむ、現代では船長が号令を発し、船長が舵を切り、船長が帆を揚げ、船長が櫓櫂にダッシュして船を漕ぐのだ、その他の乗組員は船上でそれぞれに感動したり感想を言ったりするユニットにすぎない、しょうがないのだ、これは悪口を言っているのではなく、本当にもうほとんどの人が「肝心なときには何をしたらいいかわからない」ので、トラブルと手間を避けるためには、何もかもを船長が一人でやったほうがいい、そうでないと余計にロスになる。
コミュニケーションが破壊され、各人が感受性の権化になるということは、そういうことなのだと思う、このことを見誤っていると、余計にロスが生じて動けなくなるのだろう。
正しく見ないとな | comments(0) |
「殺す」という機能

ぜかわれわれには、何かを「殺す」という、意志と機能がありうるように、元から具わっている。
元から具わっている機能は、使わないとインチキなのだが、かといって実際にホイホイ殺害したら、それはただの狂人であって犯罪者だ、そういうつまらないものは一番よくない。
原理的に、「殺す」といって、殺すことについてワーッと感受性が盛(さか)るのはダメだ、大ハズレもいいところで、感受性の強い人はとにかく善人でいるしかない、やけくそになっても光はまったく与えられない/光は学門の果てにしか与えられないのだからしょうがない。
「殺す」というと、何かおおげさだが、たとえばスーパーマリオをやっていれば、クリボーやクッパを「殺す」じゃないか、「殺す」というのはただそれだけのことだ、そのときにウキーッと燃えさかる人は大ハズレであって、「殺す」という機能それ自体はそもそも感受性とは無関係なもので、ただ仕留める・終わらせるということだ/イエスキリストだっていちじくの木を枯らしている。

しばしば、「愛」と「殺す」は接続しているのだ/このことは、女性のほうがよくわかるかもしれない、どことなく女性は、真に愛のある男に対して「わたしを殺してほしい」というヴィジョンを持つことがある、あるいは「この人になら殺されてもいい」「殺されるならこの人がいい」と、どことなく感じることがあるものだ。
なぜ「愛」と「殺す」が接続することがあるかというと、内在的に、殺されることよりも感受性のほうがサイアク度が高いということなのだ、殺されてしまえば感受性はなくなるので/つまり、愛の中で、感受性なしに殺されることが叶うのであれば、感受性に振り回されて生きながらえるよりも「多分、いいのだと思う」という直観があるということだ、まあ実際には、感受性なしに殺すなどというのは凡人には不可能な話だし、逆にサイコパスなんかは感受性のカタマリだから誤解してはならないのだけれども……
だから、「殺す」および「殺す機能」といっても、実際に殺害するのは基本的にハズレなのであって、殺す対象は「感受性」なのだ、説明がむつかしいが、特に女性は、殺す機能の発現している男性に触れると、根源的な感受性が鎮静して、決定的な安らぎと肯定を得ることがあるのだ/逆にいうと、殺す機能のない男とは、どれだけ関わっても、自分が自分のタチの悪さを鎮められないという不本意の直観が、女性の内部にしばしばあるということ。
とはいえ、どこまでいっても、殺す機能が完全な静寂のうちにあるというような人は、もうかつての剣豪とか聖人とかでしかありえないので、われわれにとって現実的なものではない、あくまで原理と概念だけ知っておくべきで、このことに鼻息を荒くする人は確実にハズレなので自覚してションボリするように。

自分を殺しに来た暴漢を目の前にしたとき、完全な静寂に至って戦える男なら、女に「ありがとう」と言われる資格がある。

「殺す機能」うんぬんをいうなら、男はまず自分が死地に立つことを想定しなくてはならない、自分が死地に立ったときわずかでも力が入ってしまうようなら、「殺す機能」で女の感受性を鎮静させることはできない、どんだけレベル高い話なんだよという気がするが、数十年前に戦争で散華していった若者たちの中には、そういう人たちもいたのかもしれない、彼らから見たらわれわれが「どんだけレベル低い話なんだよ」ということかもしれない/そういう男だけがやはり女たちにとっては別格なのであって、実際に静寂と勇敢さのシーンを十や二十も創れていないわれわれが同格ぶろうとするのはとんでもないレベルでおこがましいだろう、われわれって実際には市井のDQNにさえビビるわけだし。
己の死地に静寂で立って戦える男は、静寂のまま「殺す機能」を発現することができ、この機能の前で唯一、女の感受性は根本から鎮静する、このとき女は全身からまったくアホ女ではなくなれるのだ、自分の全身が急にアホ女ではなくなり、それがうれしくて不意に「ありがとう」という言葉が出てくる/あくまでそういう、原理と概念があるという話、もともとそんなレベルに立てている男なら、えげつなくモテているはずなので、モテない男の工夫策には一切なりません(お互いがんばりましょう……)。

えっちはいいよな | comments(0) |
WS報告017(3)/「空間のYes」
「命令法」をやっていて、自分の技術レベルにびっくりしてしまった。
別に自慢話をしたいわけではなく、自分でやっていて「えぇ……」と、いっそビビってしまったのだ、我ながら「誰がここまでやれと言った」と、ツッコミたくなってくる、毎回何か超常現象みたいになるじゃねーかよ、まあ技術的に厳密にやるとそうなるのだからしょうがないけれども。
われわれの身の内には「No」の機能しかなく、「Yes」の機能は、空間から引っ張ってくるしかないということ、このことは当ワークショップの目玉理論のひとつであり、これだけで世に訴えるべき値打ちがバリバリにあると思う/誰かもっと偉くて知名度のある奴がガツーンと広めてくれたらいいのにと思う、本来はおれなんぞがチマチマ教えてまわる必要はないのだ。
どれだけ善意に満ちたつもりでも、どれだけ人に対して肯定のキモチを持っているつもりでも、われわれ自身の身の内から「Yes」は出現しませんよと、こんな恐ろしい知識が誰にも知られていないなんてヤバい話じゃないか、われわれはこの原理を獲得するまで、自分から人へ何をどうやっても「No」しか仕掛けられないんだぜ、僕はこういった構造的不毛が放置されている状況がたいへんニガテなのだった、至急誰か偉い人がなんとかするように(投げやり)。

この原理を知り、何かしら体得していないと、自分の意志とは関係なく、人に対して「No」ばかり仕掛けることになる、自分が人を一切「肯定」できなくなるのだ、すると根本的に「しんどい人」であることから逃れられなくなる。
われわれの身は、魂魄のうち「魄」であり、魄とは「気魄」であり、陰陽でいえば陰であり、Noであり、血であり、光ではなく「力・重さ」であり、言葉ではなく呪であるから、何をどうしたって、自分と人を「動けない、重い、呪縛」のほうへ押し出すことになるのだ/「空間」からの作用に気づくまで、このことの解決は不可能で、何をどうやったって力尽くの、重い、陰気、血走っているということを解決することはできない。
「命令法」と呼ぶのは、実際に命令を出すから命令法と言うのだし、われわれの身の内(生きもの)から「命」が発されるのではなく、空間(世界)から「命」が発されるので、わざわざそれを「命令」と呼ぶのだ、それは命のディールであり、霊魂であり、横隔膜をやわらか〜くであり、エコーであり、さざなみだ、しかしこんなことは実際にやられるまで何のこっちゃわかりっこない。
参加者が多かったので、二人ずつをプレイヤーとマスターに組ませて、僕がマスター全員に命令を発する「大マスター」をやってみた、やってみるとただちに、「ナゾの一体感www」が生じてみんな笑った、僕がそういうことをできるのはそりゃ当たり前なので、みんなさっさと身につけるように、この「Yesは空間にしかない」という原理はまったく当ワークショップの輝かしい目玉であります。

実際、僕といるとき「早く帰りたい」と感じる人はいない。

例外的に、信仰の違う人は、急に体温が低下したり、精神がクラッシュしたりするから別だけれども、そんなシッチャカメッチャカな人を除いては、基本僕のそばは居心地がいいじゃないか、そうじゃなきゃ二十四時間耐久みたいにみんなファミレスで粘ってないだろ、その居心地のよさ(=心身の疲れなさ、むしろ恢復する)が、漠然としたものではなくて、原理があるということなのだ/原理を知ったところで獲得できるというわけでもないが、原理を知らないとさらに獲得はむつかしくなるだろう、ありとあらゆる交友関係や職場や家族や恋人が内心で「しんどい」と感じられているブラックな現状を、誰かさっさと解決するように、原理なんかおれがタダで教えているんだから本当に誰かさっさと解決してくれ。
僕はタダで教えているのだが、このところ、ひょっとしたら、タダで教えることはできても、タダで獲得することはできないのかもしれない、という可能性が浮上してきた、まあ天才ならタダで獲得できるので、タダで獲得できるのが一番いい、逆にタダで獲得できない人は、裏で何かヘンなことしてきているでしょ、ヘンなことのほうを有償でしてきているでしょということ/とにかく原理に依拠してやれば混乱する余地のないことだ、空間に「Yes」があるのであって、僕から「Yes」の作用が飛んでいるわけではない、僕が偉いのではなく空間が偉い、だからこのことは偉くない人でもできるということだ(逆に自分が偉いと思っている人にはどうしたってできないことだ)。
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WS報告017(2)/「言葉」につながるハンドサイン
「言葉」の獲得に向かって、ワーク群は組み立てられている、まさかそのことを見通せる者はいないが、僕はきっちり把握してやっており、最終的に「全部ここに来るのか」とおどろくべき瞬間に到達するように設計してある。
すべては、「言葉」と「呪い」を分離するためにやっている/われわれが現在、言語を「パワーコミュニケート」に用い、言語を「呪」とし、実は「言葉」はまったく使えていない(し、得てもいない)という状況がある、これを鑑み、決定的な脱却をはかるために、ワークショップを敢行している、そして言葉は世界であり愛であるから、言葉を取り戻したとき、世界そのものと愛そのものを取り戻すだろう。
「言葉」を得ようとし、「言葉」に正しく向かおうとするとき、窓からはなぜか、いつも特定の春の匂いがやってくる、秋のはずなのに春の匂いというのは奇妙なことだ、そしてこの特定の春の匂いを、ほとんどの人が知らない、きっとこの春の匂いに直撃されたら、初めての人はしばらく泣き崩れるのではないだろうか、僕でさえいつも引き返せないほどこころが震えるのだから。
現在われわれのあいだに、「言葉」は交わされていない、だから記憶の中に「○○さんの言葉」というのが残っていないはずだ、たとえ両親であろうが教師であろうが/にもかかわらず、日々「グッとくる」とようなことが、言われたり聴かれたりしているように思えるのは、その「グッとくる」というのが、語感のとおり実は「力」であり「重さ」だからだ、言葉ではなく重さと力でコミュニケートしているのだ、だからこれをパワーコミュニケートと呼んでいる、言語をパワーコミュニケートに使う以上、これがカルマ創出の源泉になってしまって、身が軽くなること・光を帯びることからは遠ざかり続けてしまう、そうするとやがて行き着く先は、重大なことを追いかけて生きたはずが、「重大」という重さのものはすべて消えてしまったというゴールなのだ、この悲劇を否定するために、われわれは言葉に到達するワークショップの只中にいる。

いきなり言語そのものを「言葉」にするのはむつかしいものだ、それで初めは紙コップを使ったりする、そして紙コップをピースやらサムアップやらハイファイブやらの、「ハンドサイン」に換えていく/この手続きの中に、実は「言葉」の本質が隠れている。
Aさんがマスター側、Bさんその他がプレイヤー側に立ち、Aマスターからハンドサインが正しく示されるとき、事象の風向きはAからBたちに流れているのではない、風向きはBからAに流れ込んでおり、続きAからハンドサインに流れ込み、ハンドサインからBたちに流れているのだ、つまりAさんとBさんたちの二者がいるのではなく、もう一人ナゾの登場人物がある、それが「言葉」だ。
いわば、「AさんBさん言葉さん」の三者がある、そしてそれぞれは孤立した個人ではなく、風向く先の従僕なのだ、こうすることでわれわれは虚しい孤立吾我をやめることができる、このことをトリニティと呼んでおり、正しくこれに接続すると、自分が「生きる」ということの大前提からひっくり返り、感覚も観点もすべてのものが別モノになる/われわれは、己自身が「言葉」に仕えるものになるか、そうでなくとも、「言葉に仕えるもの」の存在を見分けられるようにならねばならない、そのことでしか孤立したパワー個人をやめることはできず、孤立したパワー個人はそのままパワーに帰依して滅んでいくだけになるのだ。
一部の人は気づき始めたが、実は常時のこととして、僕からみんなに向けて、一般的ではありえない膨大な量の「言葉」が飛んで出ている、それはつまり、ハンドサインの昇華したものが無数の群となり、一連の脈をもってひとつの体となり(文脈・文体)、降り注いでいるということだ/僕から降り注いでいるわけじゃない、僕が「降り注ぐ元」に接続する方法を知っているというだけだ、その意味で僕は何も偉くないが、「降り注ぐ元」そのものは、きっと誰にとっても偉い何かだ、誰だって死後、この偉い「降り注ぐ元」のところへ行きたくないか、その逆の「重力の根」に吸い込まれていくよりは。

人前に立つと、緊張・硬くなる・固まるのは、こころの問題じゃない、力のトリニティに所属しているせいだ。

人前に立つと、緊張して硬くなって固まるのが一般的だが、これは単に生理的な問題ではない、むしろそうして「生理的」なことが起こるということが、力(重さ)のトリニティの "具現" なのだ、<<「言葉」が出てこない代わりに「力」が出てきている>>と捉えていい、所属しているトリニティの実体が出てきているのだ、テクニカルな問題ではまったくない。
「AさんBさん言葉さん」の三者、もしくは「AさんBさん力(重さ)さん」の三者が、常にその場にありうるということ、前者のコミュニケートは知性と悟性で為されるが、後者のコミュニケートは力と重さで為される、だから「パワーコミュニケート」となる、パワーコミュニケートは相互に身を「重く」していくので、加齢と共に人はコミュニケートを「しんどいもの」と実感するようになる、それで老人はカネと引き換えにしか人とコミュニケートできなくなる/力のトリニティは力と重さそのものが「グッとくる」という手ごたえで確かめられながら進行していく、一方で光(愛・Yes)のトリニティは、「ハッとなる」・解き放たれる・フッと軽くなる、という手ごたえで確かめられながら進行していく(紙コップやハンドサインを使いながらこんなことに接近していこうとしているのだ)。
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生存本能について

間には生存本能がある/人間でなくとも、獣にも鳥にも蠱にもある、生きもののすべてにある。
生存本能とは、「自己」生存本能であって、自己および自己の遺伝子コピーを継承するものを保存し、繁栄させたいという本能だ、これは遺伝子に由来する現象なので、すべての生きものに具わっている/あくまで「自己」生存本能であって、「四丁目の木村さんを生存させる!」という本能ではない、そんな本能は存在していない。
そして、繰り返しになるが、自己生存本能というのは生きもののすべてにあるのであって、「あなた」にあるわけではない、どんな動物も抑えつければ暴れて逃げようとするが、それは生物の遺伝子由来の現象であって、「あなた」の現象ではない。
だから、自己生存本能から発生するすべてのことは、強く「あなた」に作用し、あたかもそれ自体が「あなた」に思えるが、実は「あなた」ではないのだ、蠱でも同じなのだから/だからそのとき燃えさかったさまざまなことは、後になってきれいさっぱり消えてしまう、この先を五十年生きて、燃えさかったことのすべてはきれいさっぱり消えてしまうのだ、本当にびっくりするぐらい、「自分は何一つ生きてこなかった」ということがわかってしまう、にもかかわらず、そのとき寿命により生存本能が踏み潰されるラストは目前に迫っているのだ、そのときになってあなたは、遺伝子に使い捨てにされたということに気づく。

前、ごくありふれた感じで、「エグザイルと、三代目と、浜崎あゆみと、倖田來未が好き、あとレディーガガも割と好き!」という人に会ったことがある。
そういうものを見て、「キャー」となるのは、単純化して言ってみれば、「カネの匂い」に反応しているだけだ、彼女が好むものは全員運転手つきの高級車の後部座席から出てきそうなイメージがある/だから彼女はボブ・ディランには反応しなかった、ボブ・ディランにはカネの匂いがない、ただし実際には、ボブ・ディランのほうが金持ちだろうが(当たり前)、そういう理性的なことではないのだ、何かの「匂い」に反応している、この反応は一般的に知られている「フェロモン」というような現象だ、体内ではたらくものをホルモンといい、外部にはたらくものをフェロモンという。
そうしたカネの匂いに反応したり、金メダルとか、「エロい」とか、権力とか戦闘力とか、もっと露骨に「セレブ」とかに「キャー」と反応するのは、すべて自己生存本能に由来しているのだ、自己生存に「力学上有利」だから、キャーとなっているだけでしかない、これはあなたの現象ではなく、「生きものならすべて同じ」だ、生きものには死の恐怖があり、己を死から遠ざけること、己を死から遠ざけてくれるものに、キャーと反応してすがりついていく本能がある/自己が死滅する恐怖と不安に駆られた人ほど、このフェロモンと「力学上有利」のキャーにすがりつく本能が爆発的に生じる。
そして、このことを「感受性」というのだ、フェロモン受容体があり、受容体があるから感受性があると説明される/生きものというより「利己的遺伝子」の本質は、自己生存・自己複製のために特定の「匂い」を検知して追跡していくということにある、これはあなた自身にはまったく関係ない、ただの利己的遺伝子の活動だ、利己的遺伝子様という主人があなたを馬車馬のように使役しているだけであって、「あなたが生きている」のではまったくない。

利己的遺伝子によって、あなたが生きているのではない、利己的遺伝子によって、あなたが殺されているのだ。

このことは、わからなければ単純に頭が悪いのでよくない、利己的遺伝子が生存・保存・繁栄させようとしているのは、利己的遺伝子自身であって「あなた」ではない、遺伝子は多数のコピーさえ得られればあなたのことなんかどうでもいいのだ、だから盤石の保全と多数のコピーを生じさせるためにあなたをムチ打って働かせるばかりになる/その「ムチ」が、受容体にホルモンやフェロモンをブッ込むという、えげつない「感受性」の支配という実体で現れてくる。
かといって、今すぐ死ねとか即座に死ねとかいうことではない、同じ死ぬなら百年後に死ねばいいのであって、今すぐあわてて死ぬことには何の意味もない/人は抑えつけられれば暴れるし、カネや力を見るとキャーとなってすがりたくなるのだが、それは遺伝子の性質であって誰でも同じだ、そのためにフェロモンやらアドレナリンやらドーパミン等が使われるのだが、この自己生存本能というのが、実は思ったほど性能がよくないのだ、過去の偉大な武術家などは、生存本能から離脱したほうが相手を制せるということに気づいた、そうして本当の性能のすべてに気づこうとする営為のすべてを過去の人は「道」と呼び、この道がもたらしてくれるよろこびのことを「愛」と呼んだ。

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WS報告017(1)/「自分の畑」

をもって「自分の畑」と言いうるか/「所有者として登記されていたとしたら」「ふむ、では人類がまだ役所を持たなかった時代、人々は "自分の畑" を持たなかっただろうか?
「自分が好きにしていい畑」「ふむ、ではガソリンを撒いてもよいだろうか、ガソリンを撒いたときそこはもう "畑" ではないとわたしは考える」「自分がそこの作物を食べて生きている……」「ふむ、では作物の一切を、恵まれない人に分け与えたとき、それはもう "自分の畑" ではないだろうか?」
このようにして考えると、社会的にはともかく、人文的・直観的には、「自分の畑」というのは、「自分が世話した畑」ということになる/自分が世話したことで実った畑、自分が世話しなければ荒廃したであろう畑のことを、われわれは「自分の畑」と呼んでよい。
「だからわれわれは、自分の道を歩むといって、己が "道" をズカズカ歩むつもりでは、それは "自分の道" になんかならないのだ、逆だ、<<自分が道の世話をすること>>、自分が世話したからこそ成り立った道こそが、「自分の道」になるのだ、「自分が客・ゲストとして招かれている状態で、身につけられることは限界があるよ、すぐ頭打ちになって、本当のモノはどうしても身につかないんだ」。

「本当のモノはすべて、努力ではなく "悟性" でしか身につかない、悟性を授かるしかないんだよ、そして悟性というのは、天才でないかぎり、自分が世話をした道から授かるものであって、自分が世話になっている道から授かるものじゃないんだ」
「たとえばここに、客に旨いものを喰わせねばならないという、命を帯びた寿司職人がいたとする、彼は寿司屋という商売で生きながらえているのではなく、客に寿司を喰わせるという使命のために自己の生を費やしている、彼は寿司道の世話をしているんだ、寿司業界に世話になっているわけじゃない、彼は自己生存のために代金をもらっているのではなく、客に旨いものを喰わせる寿司屋をずっとやっていくために代金をもらっている、寿司屋があるから彼が生きていけるのではなく、彼があるから寿司屋が生きていける
「そういう、道の世話をしている人は、道から悟性を授かるんだ、ふとフグの白子を見たとき、『色あい的に、旬はまだかな』ということがパッと見えるようになる、 "悟性" なんだ、そうした悟性を、自分が世話した道から授かるということ、フグの白子の旬の色あいなんて、お勉強して身につくようなことじゃないからね」
「旨いものを喰わせることに、命があるから、次第の彼の目は、パッと見てうまそうな食材とそうでない食材を見分けるようになるんだよ、なぜそんな見分けがつくようになるのかは彼自身もわからない、自分が世話した道から悟性を授かるというのはそういうことなんだ」
「だから、本当のモノを身につけようとしたとき、方法は二種類しかないんだ、自分が道の世話をして悟性を授かるか、そうでなければさっさと天才であるかだよ、天才というのは例外的に、授かる前から悟性をもっている、でもそんな天才は、初めから生きることを捨てているような人しか成立しないので、なかなか現実的じゃないだろうな、天才というのは自己の生より天のほうがはるかに大事と、幼い頃から見切っているような人だから」

作物をもらって食べれば、満腹して満足するような気がするが、そこに「自分の畑」はまったくない。

現代が作り出す「消費者」という根性は、その絶え間ない満腹こそが満足であり自己実現だと、すりこむことから形成されている、自分が何かの世話をするという発想は、そもそも発生しないようにデザインされ、消費と満腹の発想だけを続けるよう訓練されている。
「この数ヶ月、おれ自身がわけのわからないほどの飛躍と発展を得るところを、みんな目の当たりにしてきたと思うけれど、これは当たり前のことなんだ、だってこのワークショップは、おれが世話しているおれの畑だもの、これを荒廃させないようおれが世話して、これを発展させるようおれが力を尽くしてきた/だからおれがこの道から悟性を授かるのは当然なんだ、みんながおれを先生として招いているんじゃなくて、おれがみんなを客として招いているんだからね、本来の形はその逆だったということが見えないといけない、たとえば吉田松陰という人が松下村塾というのを開いていたそうだけれど、それは吉田松陰が暴れ回って弟子たちがお客さんとして満足しにきたという塾ではなかっただろうな、弟子たちが "先生の教えを広めよう" としていたはずだ、そういったことが想像力に見えてこないといけない、道義の問題ではなく、レベルの問題として、そこで身につくもののレベルが前もって頭打ちにされちゃうんだよ」

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ワークショップは超大事
阪出張中こそ、逆に、今やっているワークショップのすべてが、超大事だということがわかった。
「誠心誠意」「腹式呼吸」「リデュース」「手渡し法」「集中法」「余韻法」「露骨法」、どれも大事で、むしろ逆にいうと、これら数個に過ぎないことが、人の命ある生を決定してしまう。
そして、今になって断言できることだが、こんなこと、教わらずに見つけられる者はまずいない、ほんの一つでも、ほんの十五分でも、僕が胴体をいじくり回すことが、その人の五十年に命を吹き込んでしまうことになる、そういうものなのだ/おおげさに言っているのではなく、単にわれわれが思っていたより、「教わる」ということのインパクトが事実上大きいというだけだ、われわれがこれまでそれを軽視していたにすぎない。
若い人は、人生の後半あるいは終盤が、どういうものになるものなのか、当然経験がなくてわからないだろう、本当に何もかも消えてなくなっていくのだ、これまで思い出だと思っていたもの、自信だと思っていたもの、人生だと思っていたもの、活力だと思っていたもの、友人だと思っていたもの、家族だと思っていたもの、生命だと思っていたもの、すべてが消えて、つぶれていってしまう、そんな阿鼻叫喚が想像できないのは、老人が情報を秘匿しているからだ、老人が自分の内面が阿鼻叫喚であることを告白しないので、何かおだやかな「老後」や「晩年」があるのだと錯覚させられているだけだ。

なぜ田舎から渋谷に出かけてきた人が、ハロウィンで大暴れしなくてはならないのか、わかるだろうか、答えは「田舎から出てきているから」であり、「田舎に帰らねばならないから」だ、田舎とはGDPのことを指しているのではなく、正しい先生が枯渇した地域を田舎と呼ぶ、正しい先生がいない地域は全員そろって「やることがない」のだ、ハロウィンの騒ぎはある意味、地方から都心の断末魔だと捉えていい。
なぜ多くの新入社員が、意地でも定時に帰ろうとし、残業代が出ないとただちに明瞭な殺意を覚えるのかわかるだろうか、それは性風俗業のキャストと同じだからだ、つまり単なる労働をしているのではなく、精神的苦痛を換金しているところがあるので、金銭に代償されなければ殺意を抱くのだ、新入社員たちにとってサービス残業をさせられるのは、女の子が「タダマン」をさせられているのと同様の痛苦だと捉えていい。
ハロウィンで暴れていた人たちは、一般には「陽キャ」と呼ばれる人たちだろうが、彼ら「陽キャ」は正しい陰陽理論においては、極端な「陰」の者たちだ、肉体・気魄は陰のものだから、悪魔の格好をして徘徊する陰のハロウィンに性分がどハマリするという仕組みだ、いずれは全員が流血のコスプレをするゾンビ・パーティが流行り出すかもしれない/「流血」の衣裳をほどこすことで、それが自分の内面に適合して安息するという快感があるのだ、彼らはふだんから人格が流血する中を生きているので、普段着やスーツ姿のほうが「落ち着かない」「偽りの衣裳」と感じているのだ、陰陽のバランスが崩壊して陰の気魄が破裂しているので、その実態がハロウィンにかこつけて開示されるにすぎない。
僕がほんの少しでも、今ワークショップでやっているところの知識、技術、ノウハウを開示し、実演してみせると、それだけでどれだけ救われたような希望の表情を見せる人が多いものか/今、ワークショップにきて学んでくれている人たちも、今はまだその重要性をそこまで明視してはいないと思う、だがこれはとんでもないことなのだ、現代のとんでもない状況から救済されうる、とんでもない活路に巡り会っているわけだ、今のところそんなおおげさなものには見えないが、これから先にその分岐がどれだけ巨大なものであったかがわかってくるだろう。

帰りの新幹線の中、両隣の人が、イヤホンを耳に突っ込んだまま、二時間ずっと貧乏ゆすりをしていた。

貧乏ゆすりぐらい、誰でもすると思うが、隣の座席に人がいるときに、それを二時間も続けるものだろうか、もう感覚的にブッ壊れているのだ、本人は自分をまともだと思っているだろうし、社会生活は破綻しないのでこの先も気づかれないだろうが、内部に掛かっているストレスはすさまじいものだ/楽しい動画を観ているから、ノッているのではなく、時間を無駄にしているという無自覚の自覚が、彼らを無意識に暴れさせているのだ、ハロウィンで角でも生やせば解き放たれて彼らは大暴れするだろう。
誰でもうすうす知っていることだが、ハロウィンの大暴れは、楽しくて大暴れしているのではないのだ、もともと内部に大暴れが始まっていて、それをふだんは抑圧しているから、解放日にそれが放出されるだけだ、人々の抑圧と苦しみの具現化でしかないので、ハロウィンの映像はそのまま暴動の映像に見える/ほんのわずかの「方法」さえ与えられず、教えられずにきた人々が、膨大な苦しみを抑圧して生きているのだ、もう取り返しのつかない人も多いが、まだ教われば助かる人は、どこかに教わりにいけばいい、できれば僕のようなしょーもない奴のところにではなく、もっと立派な先生のところへゆけたらいいな。
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身につける方法は二つに限られる
京に戻ってきた、東京は平和だ。
今回、大阪出張を経て、つくづくわかったことがあるけれど、今やっている「ワークショップ」のすべては、本当に大事なことだ。
一生を左右してしまうというか、多くの人は、まともに一生なんか与えられないのだ。
与えられたと思った、自分の人生は、後半になってすべて消えていくのだ、それが本当のことだから/人は教わらねば、命を得られないのだ、もう年を取ってしまった人はしょうがないが、若い人は、光あるうちに光の中を歩め。

「誠心誠意」はとても大事なことで、手渡し、集中、YesとNo(露骨法)、どれもきわめて大切なことだ。
すべてを、学ぶ人について、老婆心から申し上げておきたい、何かを学んで身につけようとするとき、二つの方法があり、ひとつは天才になることだ、もうひとつは、何かを「守る(守護する)」ことだ。
自分が努力し、己の身に蓄積しようという発想では、根本的なものはやはり得られない、身につける方法は二つだけだ、天才の悟性によって獲得するか、そうでなければ「守る(守護する)」ということで獲得するかだ、どちらも容易なことではない。
容易なことではないからこそ、何かを身につけた人は、尊ばれるし、そのことによって生きていけるのでもある、古来日本には師匠と弟子という間柄があったが、師匠を守った弟子はその道を得るだろう、師匠に守られた弟子は何も得ず、ありもしない家族性を唱えてまわるだけだ。

パチンコ産業に課金した消費者は、パチンコの毒から逃れられないように、道の人を守った人だけ、「わたしはこの道の人です」という悟性を授かる。

僕は今のところ、すべてのことを無償でやっていて、だからこそ、「超能力ぐらいないと話にならない」「さっさと天才になる覚悟をしたほうがいい」と言い伝えてある、天才でなけれぱ身につかないからだ、だがあくまで道に通じた「先生」という立場上、正しい知識を与えておかねばならない/天才じゃなくとも身につけるという方法はあって、自分が守った人のことだけ身につくのだ、悪魔を守れば悪霊が宿るし、聖人を守れば聖霊が宿る、その原理から外れて何かを身につけようとすることは、単純に言って「非効率をきわめる」と言っておかねばならない、その非効率は最終的に最大の損をもたらすだろう。
誰にでも、この世界につながる方法があるのだ、それはとてもささやかなことだった、「天才」かもしくは「守る(守護する)」ということ/逆の側も同様で、生まれつき悪性がヤバイというレベルの人もおり、後天的にヤバくなってしまう人もいる、後天的にそうなる場合については、必ず悪いもののほうを守ったのだ、今そういう悪霊に帰依させようと多くの産業がはたらきかけている。
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ホーリーマンという生き方
ンドの聖地バラナシにいくと、毎朝、婆さんが野良牛に花輪をかけていた。
その婆さんは昼間、バージャール(バザール)で野菜を売っていた、むろんそういう暮らしなのだと思う。
牛に花輪をかけたって、コストが掛かるだけだし、毎日座って野菜を売っているだけでは、未来がないよと、現代のわれわれは考えるかもしれない(実際、当時の光景が今も続いているのかどうかは知らない)。
だがもし、婆さんが、毎朝牛に花輪をかける「ため」に生きていたとしたら、どうだろう、毎朝牛に花輪をかけるためにバージャールで野菜を売っている/もしそうだとしたら、婆さんの人生は割と大成功といえるのではないだろうか、インドでは牛は神聖なものとされているから、ありえない話ではない。

「牛に花輪をかけるために生きている」というと、アホみたいだが、かといって「マイホームを買って家族を養うために生きている」というのが、ただちに誇りになるかというと、そちらもあやしいものだ、もともとわれわれは何のために生きているのかわからないのだから。
人によっては、たとえば毎朝神社に行って「今日も健やかに過ごせますように」と祈念して暮らしているかもしれないが、実は健やかに過ごすために参拝しているのではなく、 "参拝するために健やかに過ごしている" のかもしれない、自分の気づかないところで。
健やかに過ごすためには参拝しなきゃ、という発想は、単に信心深い人だが、参拝するためには健やかに過ごさなきゃ、という発想のほうは、一種のホーリーマンだと思う/だいたいわれわれは、自分のためにカミサマを使おうとするもので、カミサマのために自分を使おうとはしない、その例外にあたるのはホーリーマンだけだ。
われわれは、「生きていくために暮らしている」のだが、その中に神聖なものはあるのだろうか、ないのだろうか/「神聖なもの」などというと、笑い種にしかならないが、僕も同様に笑いながら、実はこっそり、僕は婆さんが牛に掛けた花輪をハサミでちょん切る気にはなれないのだった、われながらひどい裏切りだ。

生きるのに理由はない以上、牛に花輪をかけるのにも理由はない。

理由は結局、「生きるため」か「神聖なこと」の、どちらかに行き着くのだろう、「神聖なことがなきゃ生きていけない」のか、「生きてなきゃ神聖なことができない」のか。
前者のほうは、生きることのために神聖さが供されているので、あまりオススメできない、生きるために神仏に祈るのではなく、神仏に祈るために生きているという人がこっそりいると思うが、そういう人は種類はどうあれホーリーマンなのだと思う。
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合理的に見て有利な「愛」

事情あって、フラッフラだが、なんとか二分前に終わらせた、二分前ってギリギリにもほどがあるだろ……カップラーメン作っているわけじゃねーんだから。
さて、大阪出張中だが、どうにもこうにも、悪霊とのバトルが多すぎる、いいかげんみんな悪霊の怖さを知れよと思うのだが、まあこんなテキトーな話をしていてもしょうがないのだった/さしあたり、悪霊はホントに怖いよ、ということだけ申し上げておきたい、人の一生なんかあっという間に食い尽くしてしまうんだろうな。
重要なことは、「自分だけは助かろう」という発想、この発想がまずいということだ、この発想は典型的な「悪魔の思うツボ」なのだ、理屈ではなく暗記として知っておいたらいい、どうしてもアカン人を除いては、全員が助かるという発想を基本にすること(今、細かく説明できる余力がおれにない)。
「自分だけは助かろう」という発想は、一見有利に見える、だがそれは悪霊がそう見せているのであって、よくよく見ればアホだ、「自分だけは助かろう」という発想は、他人との連帯・紐帯を放棄しているのだから、有利・不利で見たら、不利に決まっている、自分だけは助かろうとしている兵隊たちの軍なんてあっさり踏みつぶせてしまうだろうな。

「愛」は、実は「有利」なのだが、そうはいっても、実物を見るまでそんなことは想像できない。
極端な話、人は生涯で十万食をたべ、それ以上は食えないのだから、一食ごと十万人に「食え食え」と愛されたら、その人は生涯死なないのだ、愛の有無が有利不利でどちらかというと、愛があるほうが有利に決まっている。
にもかかわらず、まあ、言ってもしゃーないのだが、憎んでいる上司の代理で残業するのと、愛すべき上司の代理で残業するのとでは、なぜか同じ残業なのに、前者はブラックになり、後者はロマンになるじゃないか、だから前者はその後ストレス発散にコストが掛かることになり、後者は残業そのものが「やりとげたぞ」という発散になる、同じ残業といっても、そりゃイライラ残業とニコニコ残業があるに決まっている/愛の有無が、きっと軽視されすぎなのだ、ちょっとマジメに考えようと僕は思った(今は考える余力が残っていない)。
「自分だけ助かろうとする」というのが、悪霊の思うツボであるのに対し、「基本、全員で助からんとあかんやろ!」と言い放つ者には、やはり逆の、ナゾのバックアップも掛かるのだ、そのことまで含めて体験して、本当に有利なのはどっちよということを、合理的に判断しないといけない/自分だけ助かろうとしている奴が、料理人だったとして、そいつの作るメシをずーっと食べに行こうと思うか? あなたを助けるつもりはまったく含まれていない彼のメシを?

あなたは、愛を守るか、愛を殺すか、どちらかを自動的に選んでいる。

そういうシステムなのだ、しょうがない、愛の実物に触れたとき、人はそれを守るか、殺すか、どちらかを自動的に選んでしまうのだ、そして自動的に、選んだほうの行為をしてしまっているのだ、気づかないだけで/そしてその行為のたびに、悪霊にグッと接近したり、聖霊にグッと庇護されたり、しているのだ、別に神秘的なものではなく、そのたびごとに身の機能が変わってしまうということなのだ、いい声になったりイヤな声になったり、楽しくなったりカッとなったりする、そして最終的にたどりつく本気悪霊バトルというのは、すさまじく、目を覆いたくなるほど酸鼻を極める、実物を見たらさすがにコワイよ、最後は自分の生きてきたことのすべてを否定しながら死ななくてはならなくなる。
愛を守るか殺すか、どちらかを自動的に選ぶのだとしたら、せっかくなら有利なほうを選ぶべきだ/パチンコや競馬やキャバクラ遊びが、悪いとは僕は思わない、だがイライラして疲れて帰ってくる人も多いのだ、にもかかわらずそれをやめることはできない、じゃあそれって「有利」なのか、悪霊に取り憑かれるということは、一日と一万円を、守るべきものに使えなくなるということなのだ、軽蔑しているものに使わねばならなくなるということなのだ。

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愛は基本的に「ない」のが当たり前3

は「ない」のが一般的に当たり前なので、愛のない人を攻撃していてもしょうがない/ただ、愛が「ない」ということを、ごまかされて、だまされてはいけない、そこはだまされることなく、一ミリの油断もなく、愛は「ない」ということを警戒しておくべきだ、そうでないと最後に裏切られたときにびっくりしてしまうから。
愛がある人と、善良な人の、明確な区別を知っておこう、この方法はぼんやりとせず、はっきりと持っておくことが必要だ、「善良な人」のことを正しく理解しておこう、このことは必ず明確に/善良な人というのは、「慾望を抑圧している」のだ、だから「善良」という成分が浮いて見える、そしてその抑圧は深いものだから、当人も慾望を抑圧していることを知らないのだ、だがそれは自覚がなく当人も知らないだけで、肝心なときには必ずそれが噴き出してくる。
世の中の、善良そうに見える人のすべては、慾望を抑圧しているから善良そうに見えるのだ、ただそれだけなのだ、そして抑圧が利かない状況が出てくると、コロッと態度も行動も豹変する、だから油断してはならない/油断してはならないというのは、「善良」な人々はみな、実はそのことを知っていて、互いに入念に「警戒」しているからだ、あなただけが無警戒だと、あなた一人がバカを見ることになってしまう。
善良な人はすべて、正しい手順を踏めば、詐欺にかけることができるのだが、それは善良な人が慾望を抑圧しているからで、その抑圧を「抑圧しなくていいんですよ」と誘導してやれば、コロッと慾望に支配され、まったく別の行動へ踏み出すのだ/善良な人が詐欺にかかるということの大半は、善良な人が慾望を抑圧しており、その抑圧を取り去ってやるのはかわいそうだという意味で、同情するに足りる、ということだ。

老人に接触するようになると、この「善良さと抑圧」および、「100%ピュアカルマ」ということが、わかるようになってくる/というのは、人は老化するにつれ、死が接近して来、次第に抑圧の意味が感じられなくなり、また機能的にも抑圧をキープできなくなってくるからだ、これまで善良さを浮き立たせるために慾望を抑圧していたところ、もうそれが保てなくなって、あちこちに噴出し始めるのだ、そのとき本当に、「カルマだけで生きているんだ」ということがはっきりわかるようになる。
善良さの浮き立たせも剥げ、カルマ100%の人格と世界が露出してくると、大変オゾマシイのだが、これはカルマそのものがオゾマシイのであって、そのことでショックを受ける必要はないし、そのことで破滅的な気分になる必要もない/愛を学んでいなければ、誰だって確実にそうなるのだ、これはただの「仕組み」であって、感情に及ぶようなことは何ら含まれていない。
ショックを受ける必要はなく、逆にむしろ、平穏を得ていいのだ、つまりカルマ100%の人と自分は、実は「何の関係もなかった」ということだからだ/人はもともと相互に無関係なのだ、カルマの都合上、相互に支えあったり、奪い合ったりしているだけで、それがなければわれわれは一人一人まったく無関係の存在だ。
愛の関係だけが、真に関係が「ある」のであって、その他のすべては、何かしらのしがらみであり、本質的には「無関係」だ、電卓Aと電卓Bは、両方とも電池で動いているが、それぞれの電卓は無関係に存在しているように、人と人も無関係に存在している、たとえ「大家族」のような暮らしがあったとしても、大家族の十人は十人ともが無関係だ、無関係が同居しているだけだ/「愛の関係」が見えるようになるということは、反対側の、「カルマの無関係」も見えるようになるということだ、そして愛の関係というのはとても少ないので、われわれが本当に生きる世界は実はかなりシンプルなのだ、愛の関係以外のノイズが分離されるとそのことがよくわかるようになる。

人には一切近づかないほうがいい(※)。

※ただし、愛のある人同士は除く/愛のない人はけっきょく、慾望を抑圧してあるだけの100%ピュアカルマなのであって、人付き合いうんぬんがあるにせよ、一切近づかないほうがいい、どうせどこかの段階で裏切られるというか、カルマをべっとりなすりつけあうことになるだけだからだ、そのことはいつも、驚くぐらいのエグさを急速に見せつけて来、われわれに精神的なダメージを与える(手間も増える)。
このままでは何の解決策にもならないので、至急、「愛」をちゃんと学ぶことだ、このことをあいまいにするのは何のトクもないし、今やそれをあいまいにしているようなヒマもすでにないのだ/ちなみに、余談になるが、本当の意味で「愛の人」になろうとすると、理論上は「慾望の抑圧を一切なしにして、なお悪性が生じないか?」というトライアルが必要ということになる、そしてこのことは、結果的にクンダリーニ・ヨーガになってしまうのだ、このヨーガはわれわれのようなシロウトがこなせるシロモノではなく、シロウトがこれをやろうとするとリアルな意味で精神が損傷してしまう、だから何にせよ、これはイージーなことではない、われわれは極めて高い確率でただの100%ビュアカルマとして生き、老後にはその抑圧も決壊させるしかしょうがないのだ。

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愛は基本的に「ない」のが当たり前2

は「ない」のが当たり前というのは、「鏡にテレビ番組は映らないのが当たり前」というのと同じだ、鏡は液晶ではないし電源もアンテナもつないでいないので、鏡にテレビ番組が映ると考えることのほうがおかしい、機能がなくて当たり前だ/それと同様に、愛を学ばずに生きてきた人が、愛の機能を持っていないのは当たり前だ、たた常識に反するから受け入れにくいだけで、でもこれは単純に常識が間違っているというか、常識があまりにデタラメすぎるのだ。
あまりにもはっきりした、愛のなさを目撃するので、逆にわかるのだが、愛のない人は、すべて「自分が楽しいから」という理由しか持っていない、その他のすべては芝居であってフェイクだ、人にやさしいとか愛があるとか「思われたい」からそういう芝居をするだけだ、人は他人の死に対してさえ、そういう演技をして自分の点数を稼ごうとする/それは業が深いということではなく、それが「当たり前」なのだ、そんなまさかと思うのは若い人としか付き合いがないからであって、この先老人と接触するようになるといずれわかるようになる。
だから、愛がない人はないのであって、それを当たり前とし、あくまで<<だまされてはいけない>>、愛をいいかげんに捉えていると、自分がだまされて大きな損をするだろう、だから「愛」を捉えることには一ミリもごまかしがあってはならない/いいのだ、愛がないと感じられる人は、愛が「ない」とみなしていいのだ、カラカラのカラッケツだと断定していい、どれだけ柔和そうで善良そうでも、愛のあるなしには関係がない、このことについてだけは一ミリもだまされてはいけない。
愛がないのは恥ではなく、むしろ「愛」なんてものを持っている人が、奇妙で不思議でヘンな奴なのだ/なんのことはない、愛というのはたとえば、野良猫に鳴きつかれて「つい」エサをやってしまうような人が、愛の持ち主だ、ただそれだけのことだが、果たして野良猫に「つい」エサをやってしまったことがある人は実際にはどれだけいるのだろうか、言い逃れができないように言うと、野良猫に「つい」エサをやってしまったことがある人は、具体的にコンビニにどのような種類の猫のエサが売られているか知っているはずだ、それを知らないということは、野良猫にエサなんかやったことがないのだろう。

突然だが、愛というのは、何も誇るようなものではない、誇ってはいけない/確かそういうことが、アタリマエに聖書に書かれていなかっただろうか、別にクリスチャンでなくても一般的な教養の中に、「愛は誇らず」というような知識があるはずだ、愛は誇るものではないし、誇ってはいけない。
どうも、僕の経験上、愛の「ない」人のほうが、こぞって愛を誇ろうとする傾向があるような気がする/本来、愛というのは、愛する対象に向けて成り立っていればそれでいいのであって、それを他人に誇ったり、あるいは当事者に対して誇ったりは、する必要がないというか、する動機がない。
愛を「誇る」人は、けっきょくそれをすると「自分が楽しい」から、愛を誇っているのだろう、じゃあやっぱりそれは愛じゃないな/僕は新小岩に住んでいたころなど、ほとんど毎日のように野良猫に鳴きつかれ、そのたびにコンビニにエサを買いに戻っていた記憶があるが、そんなことをいちいち人に「誇る」とかいう、アホなことはさすがにしない、そして野良猫にエサをやるのは近所迷惑だが、僕はもともと近所迷惑な奴なので、僕を近所迷惑性で避難することは的外れだ(新小岩の住民はみな、それを近所迷惑だなどとはまったく捉えていない感じではあったが)。
男は、女とヤレるとなったら何時間か電車で移動するし、女も、ハイブランドのバッグが安く買えるとなったら何時間でも移動するだろう、それなのに猫ちゃんが腹を空かせて「ニャー」と鳴きついてきたときには、数分の道を行くのが惜しいかね、自分が楽しければ何時間でも走るランナーがいるのに、猫に鳴きつかれた場合は「面倒くさい」か、まあ面倒くさいのはわかるけれども、それはやはり愛が「ない」のだ、このように愛が「ない」というのはごく当たり前で、大多数の主流を占めている事実なのだった。

野良猫が「かわいい」からエサをやる人に、愛があるのではなく、野良猫に鳴きつかれて「しゃーない」から、エサをやる人に愛がある。

本来、こんなアホなことは、わざわざ説明する必要もないことだ、ケースAとケースBを考えた場合、A.石原さとみが「体調悪い」と言う、B.僕が「体調悪い」と言う、として、ケースBのほうに「えっ、それはいけないね」と心配してくれるというのは、愛がなければ不可能だ、比べて前者Aのほうは、スケベごころがあれば誰でも心配する、つまりホモでない男性の全員が心配するだろう、そんなことで愛が成立すればこんなに簡単な話はないのだが、そういうことではないのだ/石原さとみさんとチョメチョメする空想をしたら、「自分が楽しい」から、心配したような気分になるだけだ、自分が楽しいという理由しかないのだ。
より正確に言うと、誰かが「体調悪い」と言ったとき、心配する人に愛があるのではなく、「焦る」人に愛がある、やはり急変がポイントということになる/愛のある人は、他人の失調を知ると、「えっ」と血の気が引くのだ、意識的に反応するのではなく、生理的に反応するのだ、だから愛の「ない」人がふつうであって、愛の「ある」人など異常で不思議なものだ、あなたが「体調悪い」と言ったとき、「えっ」と血の気の引く人が愛の人だから、それが具体的に誰かを考えたらいい、ただし念のため、血縁はカルマの影響があるので、愛の関係ではない、自分の娘だけでなく隣の家の娘さんに対しても、「インフルエンザで」「えっ」と血の気が引くなら、あなたの母親は愛の人だ(ただしそんな人は本当にものすごく少ない)。

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愛は基本的に「ない」のが当たり前

ちら大阪出張中、憮然とする日々が続いている。
びっくりするほど明確な、「愛のなさ」を目撃するのだが、逆に冷静になってきた/そもそも「愛」というのは、一般的には「ない」ものなのだ、これについてはやはり仏教が正鵠を射ている、多くの人は本当にカルマでしか生きていない、「100%ピュアカルマ」というのが、思いがけず正しい。
仏教では「愛」も一見、悪くいうのだが、おおむね仏教説・畜生道で言われている「愛」というのは、キリスト教で説かれている「愛」とは意味が違う。
「愛」といって、たとえば徘徊する老人が通りすがりの女子中学生をこころの底から「欲しい」と思ったとして、それがどれだけ熱烈であっても、そんなものを愛と呼べるだろうか、呼べるわけがない/愛というのはそういうオゾマシイ因業(カルマ)のことを言っているのではない、たいてい本人は大マジで愛のつもりだけれども(だからこそ一層オゾマシイわけだ)。

冷静に考えて、「愛」というのは、基本的には「ない」ものだと思う、ここを曲げるから話がおかしくなるのであって/なぜなら、愛がもう「ある」のなら、イエスキリストはわざわざそれを説かなくていいじゃないか、イエスキリストは自転車にブレーキを与えなさいとは説かない、なぜなら自転車にブレーキはもう「ある」からだ。
「愛」は、基本的に「ない」のだ、<<だからこそ、倫理と道徳が重要になる>>、基本的に「愛」はないからこそ、人は善人であることが尊ばれるのだ/ただし、<<善人は最後の最後で裏切る>>ということをお忘れなく、善人も正義も最後には裏切るのだ、おそろしい話だが、誰だってやがて知ることだからしょうがない、先に仄聞しておくほうがいい。
「愛」は、基本的には「ない」もので、それを得ようとすると、特別に学び、特別に触れ、特別に会得する必要があるのだ、血縁なんか関係ない/血縁は、カルマの継承が影響しているというだけで、それは愛の現象とは異なる、親は子を愛するわけではまったくないし、子が親を愛するわけでもまったくない、親子の絆は血縁(カルマの継承)であって愛ではない/ジタバタしてもしゃーないのだ、しのごの言うのをやめれば「愛」という現象が何なのかはそんなにむつかしくない、シンプルでわかりやすいものだ。
愛を理解するということは、同時にカルマを理解するということでもある、集合的に「カルマでないもの」が愛なのだから/愛がわかりにくいということはないのだ、愛がわかりづらいように錯覚するのは、単にカルマを愛と言い張ろうとすることに未練が残っているだけだ(カルマは消えないにせよそれを愛と言い張るのはさっさとあきらめたほうがいい)。

彼の目の前で、何でもないぬいぐるみを「えーい」と蹴ってみたとき、彼が急変して「殺すぞ」と詰め寄ってきたら、彼は愛の人だ。

倫理・道徳の人、あるいは正義と善意の人は、「やめなさい、かわいそうでしょ」と、 "勧善" によって諫めようとするだろう、勧善というのはいい言葉だから覚えておいたらいい/倫理道徳、正義と善意の人は、いきなり「殺すぞ」にはならない、彼らは「悪に眉を顰める」というだけで、愛を守ることに命を帯びるわけではない。
仮に、尾崎豊の前で、あるいは甲本ヒロトの前で、さらにはマイケルジャクソンの前で、ぬいぐるみを「えーい」と蹴ったらどうなるだろうか、尾崎と甲本は急変して詰め寄ってくるだろうし、マイケルはステップインしてきて「NO!」と怒るだろう、 "急変" というところがポイントだ/このように、愛のあるなしは簡単に判別がつく、愛が「ない」という当たり前のことを歪曲しなければ、愛そのものはわかりやすいのだ。

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競争原理に仕込まれた「横一列」という罠3

れてはならないことがある。
たとえば、僕が続けている例会のパーティ企画だが、あれはもう長いあいだ、僕自身が最も多く散財する、という形で続けてきたのだ/もともと、僕が利益を得るためにやっていることではない、ただの楽しいパーティだ。
厄介なことに、僕自身がもともと性向が保守ではなく、リベラルなのだ、だから初めは僕自身が、単純な意味で平等、横一列で「当たり前でしょ」という形をとってきた、そして僕は男性だし、たいてい年長者なのだから、おれがパーッと使ってやるぜということで、長いあいだ僕が最も散財する、オゴる、というふうにしてきた、僕はそれでまったく問題ないと思っていたし、何ならこれからも元の形に戻したとしても、僕にはまったく異存はない。
が、僕はそれでよくても、多くの人が、なぜかナゾの不穏と、悲鳴を上げ始めたのだ、説明なしに「バカ女どもをつけあがらせないで!」と、当の女性本人から怒鳴られることもあった、僕には何のことだか初めはまったくわからなかった/僕には直観がなく、学門しかないので、追及していないことは本当に知らないのだ、だが多くの女性は直観に何かを感じ取れるものらしい、それで今となっては、もう基金を設立してくれる人もあり、僕がまったく散財しなくなったことで、逆にパーティは常に愉快で、堅牢に楽しめるものになった。

この、パーティのくだりをリマインドするのは、「横一列」がいかに危険かということを確認しうる材料にしたいからだ、僕は「横一列」といいながら、もう長いあいだ女性たちに対しては、ゲジゲジ虫の身分で奉仕するということを続けてきたので、僕自身はその「横一列」に属していなかったのだと思う、だから僕の身には何の悲鳴も生じなかったが/「上下供与」が為されるところに、「横一線」のバトルをもって応じると、とんでもないことが起こるのだ、何が起こるとは言えないが、本人が本当に落下していくのだ、僕はそのすさまじい悲鳴の主を抱きかかえ、救急車まで呼んだことがある。
突然だが、誰しも料理屋で食事をしたとき、支払いを済ませたら、「ごちそうさまでした」と言うべきだ、「お客様はカミサマです」というのは商売人からの見方であって、客からの見方ではない、そして誰に向けて「ごちそうさまでした」かというと、店の「大将」に向けてだ/どうして店の主人を「大将」といい、バーの主人を「マスター」というのか、この国には王がいるので、王とは呼ばない、王の下で天下を預かるのが将軍であり大将だ。
「大将、ごっそさんでした! これお代」というのが正しかったのだ、行使された力(金力)はどこへ行くと思う? メカニズムを考えろ、<<もしその代金のほうが偉いのであれば、あなたは代金を料理に変換すべきではなかった>>、カネを下に投げるということは、下方に力を奉納するということだが、そのトリニティが何をもらたすか、構造において考えろ。
財布から「偉いもの」が出ていき、口の中に「卑しいもの」が入るのであれば、そのメシは必ずマズく、そのメシは必ず己の心身を損なっていくだろう/「ごちそうさまでした」と言わずに偉そうなお金を払っていく人は、食事を「買い物」しているのだ、さすがにバッグを買った人が「ありがとうございました」と店員に頭を下げることは少ない、「買い物」とそうでないことへのカネの使い方の差はつまりこのトリニティの違いにある。

カネを下に投げるということは、感受性からのリターンがあるということだ。

単純に簿記で考えても、たとえば百万円で自動車を買うことは、百万円=自動車であって、帳簿上もイーブンなのだが、「百万円に車を受け渡す」側より、「車に百万円を受け渡す」側のほうが、偉いと感じる仕組みがある、商売というか生業の原点がこれだ、これはこれで、この感覚がわかっていない人は、まともに商売ができないわけでもあるが、この感覚しかもっていないという人も、ついに生業に殺されるということが起こってくる/もしあなたが、車のディーラーに頭を下げられることがあったとしたら、「いえいえ、こんな立派な車を!」と突っぱねる精神を持て。
商売人は、生業として、カネに頭を下げなくてはならない業にある、それは当然のことだ、だがそこで「客」が、ふんぞりかえっているならば、これはカミサマではないだろう、カミサマではないので正規の客ではない/商売人がカネに頭を下げざるをえないところを、「いえいえ、こんな立派なものを!」と言ってくれる客があれば、そのとき商売人は、「業者」ではなくなり、生業に殺されるトリニティから脱することができる、そのとき確かに「お客様はカミサマです」という文脈が成り立つだろう、商売人を業のくびきから脱させてくれたのだから。

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競争原理に仕込まれた「横一列」という罠2

持ちおじさんは、同期がやっているお笑い研究会に、バックアップの送金をすべきだ/そのほうが女に尊敬される、女から尊敬され、また女を実際に救済するためには、男が(オトナが)「買い物」という発想のくびきから脱出してカネを使わねばならない。
新しい価値観を見つけ、新しいライフスタイルを肯定せねばならないのだ、そしてこのライフスタイルはきっと、いつかの時代には当たり前にあったスタイルなのだ、それが完全に忘れられてゼロになったにすぎないだろう/むしろ現代のほうが、感受性で「買い物」だけに支配されている、このことのほうが歴史上に異常な光景のはずだ。
感受性は、力への反応で、男は多く金力を権力に(支配力に)変換し、女は金力を魅力に変換する、だから金持ちおじさんはキャバクラでホステスたちにお小遣いを与え、女たちはそれでエステに行き高級バッグを買うのだが、この関係は互いを感受性において「好き!」と受けさせる(受ける=グッとくる)ものだけれども、それでいながら相互に尊敬はまったくせず、相互に軽蔑しあうことになる、それは人間の悟性が「感受性」の貧しさと、不穏と滅びを見抜いているからだ、特に女は、感受性に支配されながら、自分も含めたその感受性の徒を軽蔑しきっているところがある(男はだまされてはいけない、感受性で「好き!」と言われることは、おうおうにして気楽さと軽蔑を含んでいる)。
つまり現代のわれわれは、感受性において、力で力を購入すること、自分が「グッとくる」ということにカネを使わされることに、慣らされて、それ以外のことにカネを使わないように訓練されているのだが、これは危険な状態だ、危険という以前に不当な状態でもある/なぜ「グッとくる」、感受性のエサにしかカネを出さなくなったかというと、寂しくて、ストレスがあるからだ、パチンコで毎月数万円を使う人はいくらでもいて、彼らは必ず「人の趣味で、娯楽なんだから、放っておいてくれよ」と言う、ただしその発言の当事者が不穏でなかったためしはないし、そのことをこころの底から愉快な生きがいと当人もまったく信じてはいない。

横一列に並べることで、供与の関係を絶ったのだ、だから近所の兄ちゃんが勉強を教えてくれるということもなくなったし、近所のおばちゃんが夕食のおすそわけをしてくれるということもなくなった/近所の兄ちゃんが勉強を教えるためには、近所の兄ちゃんが「上」でなければならないし、また近所のおばちゃんが近所の兄ちゃんに差し入れするにも、近所の兄ちゃんが「上」でなければならない。
横一列に並べることで、上下関係は、優劣の関係、優等と劣等の関係にすり替えられたのだ、だから近所の兄ちゃんが東京大学に合格したら、近所のおばちゃんは劣等感を刺激されることになった/もし夕食の差し入れをする関係であったら、「あの兄ちゃんはやっぱり東大に合格したよ」「やっぱり、あの人は子供のころから、みんなの先生だったものねえ!」と、本来はお祝いの宴会ができる出来事であったはずなのに。
横一列に並べるということは、「隣の家ともバトル」ということなのだ、庭の手入れひとつ、となりの家に負けてはならず、だからこそ、隣のばあさんに庭の手入れを習うこともできない、習おうとしたら金力でそのノウハウを購入するしかなくなる、たとえそれで手入れの方法を購入したとして、何に使うかといえば隣の家とのバトルに使うだけだ。
新しいライフスタイルを見つけ、肯定しなくてはならない、買い物をやめて上下供与の道を探るのだ、そして上下のどちらとも、「課金に二万円使うより確実に楽しかった」「ストレス解消に二日間を使うより確実に楽しかった」と言わしめる責務を負う、現代のわれわれが異常なのだ、すべての余剰エネルギーを感受性に奉納しているという、すでに悪魔の道を歩かされている。

「横一列バトル」を否定する、最大の直撃方法は、「上下供与」をすることだ。

横一列で譲り合ってはいけない、それはヒューマニズムに過ぎず、横一列バトルの休憩タイムにしかならない/むろんこのことに、感受性が抵抗するのは知っている、だが同時に、悟性が首肯するのも知っている、これは価値観が何を肯定するかが定まれば、あっさり逆転し、もう元の道がとんでもないバカだということがはっきりわかるようになるだろう。
このことは、まだ「納得」が得られる段階には状況が至っていないが、それに先立って「保証」を僕から表明しておきたい、女性がきれいになるために必要なものは、グッとくる高級な化粧品の購入ではない、バトルにすさんでいる人間がうつくしくなれるはずはないのだ、唯一の道は相互の供与、しかも決して横一列にしない意地になったような上下の供与だ、上は息切れするまで供与し、下も息切れするまで供与する、そのことで必ず「つながり」が生じ、誰とのつながりを生きたかということの中で、作り物でない「生きた」ということから生じるうつくしさを手に入れることができるだろう。

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女に尊敬される方法
とえば、金持ちのおじさんが、真に娘から尊敬されたければどのようにすればいいか。
娘に尊敬されるためには、金力で娘に何もかもを買い与えるのではなくて、どこかヨソに聡明な子を見つけてきて、その子の学費を出させてもらうことだ。
そこで父親が娘に、「あの子はとても聡明でね、やがて立派な先生になるに違いない。だから、そのありがたいことにわたしも協賛させてもらったんだよ。これを、援助だなんて、バカなことを言ってはいけない」と言えば、娘はぐうの音も出ない、娘も自分がバカの生き方をしていることを痛烈に自覚するよりないだろう。
援助交際という言い方に代表されるように、「援助」という言い方が、人をバカにするのだ、娘が父の何を尊敬するかというと、「わたしの父は聡明な人を尊敬しているの」ということで尊敬するのだ/バカ女を金権で支配すると、そのときだけバカ女たちを支配できたような気になるが、バカ女たちもその点だけはなぜかバカではなく、「この人はバカ女を金権で支配するおじさん!」ということだけは素直に見抜くのだ、なぜバカ女たちがその点だけ素直で賢明かというと、バカ女も生後六か月まではバカ女ではなかったし、やがて自分が老婆になることも知っているからだ。

実際、女たちは、金持ちおじさんのところに寄っていくが、テレビ番組でも想像すればわかるとおり、女たちは金持ちおじさんのことを尊敬しているわけではない/むしろ女性は、真に尊敬する誰かがそこにいた場合、目を輝かせて「近寄りがたい」と感じ、己の身を慎んでしまうものだ。
そして、怖いことだが、女は自分の尊敬する人が、そのまま好きなのではない、逆に「この人のことは尊敬しなくていいから、気楽で好き」という場合もある、それに加えて、「しかもこの人はお金を持っているの、だからすごく好き」という場合もあるのだ、この点、男どもは本当に考えを改めねばならない、女は男と異なり、自分として尊敬しない男のほうが「好き」ということがある/屈託なくグイグイ言い寄られたとして、それを「認められている」と誤解しないように、逆に「まったく認められていないから」こそという場合があるのだ、ウーン考えるだけで恐ろしいな。
女は自分が女であることを重視しているし、女はたいていお金が大好きなものだが、ここに注意が必要だ、女は自分が女であることを尊敬しているわけではないし、お金を尊敬しているわけでもないのだ、ただ「好き」なだけだ、だから女が重視しているものに追随していくと、男は女に好まれるようでいて、実はちっとも尊敬されず、根こそぎ軽蔑されたまま「好きよ」と言い続けられることがある/女にとって尊敬と好きは必ずしもイコールではなく、半ばやけくそで、尊敬と好きが逆転している場合もある、女は自分が女であることが好きだが、自分が女であることを尊敬しているわけではないのだ。
僕もこれまで、幾度となくそれなりの、金持ちおじさんを見てきたが、金持ちおじさんは女を「寄せる」方法はよく知っているし、その力も持っているのに、女に「尊敬される」という方法がまったくわからず、よく苦しんでいらっしゃる、女がわけのわからないパンクロックの歌手を尊敬するのは、女がバカだからではない、女はパンクロックの歌手のようにバカにはなれないので、そこまでバカになれる男のことを尊敬しているのだ/栄達したパンクロッカーがヨソの聡明な子の学費を出したとして、誰も不思議には思わないだろう、「あの子、あいつは天才なんだぜ!」といって目を輝かせて、何もおかしくない、女はそういう男を、近寄りがたいかもしれないけれど尊敬する。

女は「買い物」の生きものなので、「買い物」以外ができる男を尊敬する。

だから、いくら高級バッグや車やマンションを、買い与えてもだめなのだ、それは「買い物」だから、かといってチャリティーというのもダメだろう、それよりは「個人的に、近隣を清掃するチームを雇って清掃させているよ、自分の住む街だからね」というほうが尊敬される/実際、「買い物」以外のことができる金持ちおじさんは、とても数が少なく需要は大きいので、エントリーするのに今たいへんお得だと思う。
高価な腕時計をつけると、女は寄ってくるが、それは「買い物」なので尊敬はされない、それよりは「大学の同期がやっているお笑い研究会に毎月寄付を送金しているw」というほうが女には尊敬される、「友人と、大切な場所をお持ちなのね」と認めてもらえるからだ、そしてお笑い研究会への送金額の総計がパテックフィリップの時計より高額になることはありえないから結果的にお得だ/女と違う発想でカネを使うからこそ、男は女に尊敬される、それは女の貧しさを救済するということなのだ、女は「買い物」の生きものだが、「買い物」という性分を豊かだと自分で思っているわけではまったくない、男は――オトナは――この貧しさを否定するところに立たねばならない。
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競争原理に仕込まれた「横一列」という罠
、大阪に出張中で、ふだんと文化環境が違うので、いろいろ考えさせられるのだが、決定的なことがわかった。
「競争」「競わせて・争わせる」ということが、見積もっていたよりはるかに深く人々の心身にダメージを与えるということなのだが、この「競争」が持ち込んだものに、致命的な大前提があるのだ。
それは、「競争」をさせるからには、まず全員を「横一列」に並べなくてはならないということだ、このことが人々をバラバラに砕いてしまう。
「横一列」ということは、人々が互いに「供与」をできなくするシステムなのだ、横一列が隣から隣へ、何かを差し出したりしてしまうと、横一列ではなくなってしまう/「平等」という理想はおそろしい矛盾をはらんでいたのだ、平等という理想は人々の本質的な幸福をすべて犠牲にしてしか成り立たないものだった。

「横一列」というのは、たとえるなら、根と茎と葉と果実を、バラバラにして横一列に並べるというようなことだ、そんなことをしたらすべて一列のまま萎れていくに決まっている。
そうではなかったのだ、根は茎を支え、茎は葉を支えているように見えるが、葉は根に呼吸を送り込んでいるし、茎だって根に連絡をつないでいるのだ、この関係を「平等」にしようとして、根を土から引っ張り出し、葉を地に落としたら、それは植物全体が滅ぶということなのだ、そんなところには根の幸福も葉の幸福もない。
この世界に、「供与」することなく生きることを考えてはならない、そんなことは許されないからだ、「上」というのは「上から下へ供与する」ということであって、「下」というのは「下から上へ供与する」ということだ、これを「横一列」にすると、互いに「供与」ということが起こらなくなる/競争原理の背後にはこの「横一列」という罠があった。
今日も日本中で、パチンコ屋は大盛況だろうが、パチンコ屋に突っ込んでいる人は、自分の「供与」する先を閉ざされてしまったので、その供与先がパチンコ屋になったのだ、パチンコが「楽しい」のはわかるが、本来その人には、もっと楽しいことがあった、彼には本来、横一列の平等よりもっと幸福な世界がありえたのだ。

「上」でありたい人は、「下」へガンガン供与すること。

上下関係というのは本来、主人と奴隷のような支配・被支配の関係を指すのではない、学者男と飯炊き女は、互いに豊かに供与しあっていたのだ、この学者男と飯炊き女を横一列に並べると、学者男はストレス解消にパチンコ屋にいき、飯炊き女は退屈しのぎにパチンコ屋に行ってしまう/それを「平等だから幸福でしょ?」と言い張るのか。
現在、ストレスと寂しさから、さまざまなものへの「課金」的遊興が隆盛しているが、それが「楽しい」といって、それはフェイクなのだ、なぜなら本来の供与関係の只中にあれたら、そもそものストレスと寂しさがなかったのだから/上下というのは優劣ではなく、ただつながりであって、つながりはそれだけで楽しく、自分の生の値打ちでありえた、このことを恢復しようとして現在、クラウドファンディングのようなやり方が流行しているが、こんなもの不自然に決まっている、これでは誰とのつながりの中で生きたのかが一切与えられないまま生きてしまうことになる。
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命を連れて帰ってくる

んとか、危地は脱した、おかげさまですっかり陽気になった(余裕はない)。
それにしても、やはり、こんなところまで至らねばならないのか。
忘れないようにメモしておくと(どうせ忘れるが)、やはり、自分がどこにいるのかという場所の認識、日時の認識、その他すべての認識が消し飛んでしまう、「ん!? ここどこだっけ!?」という状態が、冗談でなく三十秒ぐらい続く、これぐらいまで至らないとやはり本当の意味でフィクションには接続できないらしい。
そして、びっくりすることには、そうして行方不明になったあと、帰ってきて、それではじめて、今自分のいる場所が「場所」になるのだ、このことが為されるまでは、すべてはフワッフワしており、場所なんてものは存在していない、そのかわり場所が獲得されると場所というのは怖いぐらい「場所」だ。

すごいことが起こるものだな、何かに命が吹き込まれ、そのぶん、認識という認識は吹き飛んでしまい、帰ってくると、命を連れて戻ってくる感じだ、こんなことを常時やれというのは、さすがに僕でもオイオイとツッコミたくなってしまう。
「命」という現象が、本当にあるのだろう、そんなもの本来は連発しなくていい類のものだと思うが/そして命の何たるかは、危地の中で発信したとおり、先ほどまで吼えていたことが正しい、「やさしさ」だ、それは永であり遠であり、外国語のような雲だ、やさしさはトリッキーにしか実現されない、「分かる」は表面的なフェイクにすぎない、「分かる」ものはどうしたってやさしさは持たない。
命というのは、クラウド状のものであって、すべて一つにつながった「夢」だ、それにしてもこんなことが起こるのか、すごいことが起こるものだなと、ちょっと呆然とさせられている、ひとまず今回はなんとかなったが、これって毎回、こんな手ごわさで立ち向かわねばならないのか、考えると気が遠くなってくるな。
僕が驚いているのは、命を「連れて帰ってくる」というところだ、こうして自分の生きた「場所」が得られてくるのだろうが、理屈はそうでも、まるで物理的に空間に作用しているかのごとくなので驚かされる、しかもそのトリガーはやはり「やさしさ」なのだが、単なるやさしさ思想でこのやさしさに到達できるわけではない、方法や原理についてはまだ完全にうまく言うことはできない、ただ命を連れて帰ってくるのだから、当然ながら帰ってくると、行く前より世界がガッツリ増えている(びっくり)。

小説は、百本同時に書けないと、書けているとは言わない。

技術や感性の問題ではなく、命の雲を直接ディールする能力だからだ、それがディールできるとき、一本だろうが百本だろうが、変わりはない、どれも同じ一つの夢だ。
夢と、いわゆる現実が、どう相互に干渉しているかというテーマがあるが、それに関しては、夢の実力と現実の実力は違うということを記しておきたい、現実ではいろいろごまかせるが、夢ではリアルだ、夢の中で愛せるものは厳しく、本当に愛せるものしか夢の中では愛せない、だから現実での実力を増大させても夢の中では通用しない、夢の中での実力を増さねばならないのだ(もちろん僕以外の人にはこんな話ナンノコッチャ意味がわからない)。

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すべての夢のつながりを
んなもん、もはやただのメモ書きでしかないが……
すべては夢のつながりであった、自分のすべての行為が、<<感受性を覗くすべての体験が>>、「分かる・分割する」という力の現象でない、つまり「分からない・つながっている」という現象が、何につながれて一つであるかといえば、それは一つの夢だった/夢に分裂はないのだ。
夢に分裂がないからこそ、意識と夢が混濁すると、かつてそれは「精神分裂病」と呼ばれた、今、逆のことが起こっている/つまり、意識に夢が混入する症状ではなく、夢に意識が混入する症状だ、これは社会生活を困難にしないので、病気には認められないだろうが、れっきとした一つの症状だ、夢が夢でなくなってしまうという症状、これは意識が意識でなくなってしまうという分裂病の代償のように起こっている。
気をしっかり持たねばならない、夢は夢、意識は意識だ/これは何も、いわゆる明晰夢が危険だと言っているのではない、明晰夢は正しく夢を体験できている、明晰夢は夢の中に意識が共存するということで、正常だ、これは意識の中に夢が共存するということと同様に正常だ。

ステルス型の逆分裂病が起こっているということだが、これはまずいことだとしても、今僕にそのことを論じている余裕はない、だいいち論じたところでどうにもならない/気を確かに持つしかない、夢は夢、意識は意識だ、それはただのいつもの「当たり前」のことだ。
論じている余裕はなくて、ただ、すべての夢のつながりだ、僕は生きてきたのだから、そして今も生きているのだから、生存、このことを分割しようとする力と感受性の勢力に邪魔されないよう……感受性は「受け身」だから、力には自発性・能動性がないことがわかる、力はモチベートされてドライブされることでしか発動しない、そしてその力は必ずやさしさを持たない。
すべての夢のつながりを……僕はずっと、人のやさしさに、驚かされることをよろこんで、それのみに生きてきた、必ずそこにだけ犯しがたい光があった、それは感受性では決して補えない自発と能動の光だ、僕は今も不意にやさしくされることに驚き、そのことだけを肯定して生存している。
それがすべての、僕の夢のつながりだ、このことから一歩も出ることはなかった、僕は生きてきたし、今もまだ生きている、生存、すべての夢の一つのつながり、これは僕が生きる世界の万物の一つのつながりだった。

ヘーイ、ミスター・タンブリン・マン。

あの歌は何を唄っていたのだろう、知らないが、これから先に知ることになるだろうか、どうせ一つのことだ、とはいえこういうことを見落としていると、本当に僕は進めない、<<一つの夢のつながりから外れているものは本当に僕にとって存在していない>>、それは残酷なことではなくて、何か未知の手続きなのだろう。
感受性というものが、まさかこうまで悪辣とはな/すべての人の瞳の奥に、緑色にゆらめく未知の光を、産み出す力はもとより産み出されているのであって、産み出すという力の行為があるわけではない。
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