☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「かわいそう」という感情について3

わいそうシリーズ第三弾(これでおわり)。
何かを「かわいそう」と激する感情は、しばしば「わたし・かわいそう」という感情にも転用され、だからこそ「勝ち組になろう」「負け組になるのは絶対イヤだ」と人は動いていくのだが、多くこの「かわいそう主義」は、けっきょく真のかわいそう主義にはなり得ない。
どういうふうになるかというと、この「わたし・かわいそう」の主義から力を得ていった者は、加齢と共に権力や財力を持つようになるのだが、そうして力を得ていく過程で、むしろ「どうやったら人がかわいそうな目に遭うか」にとても詳しくなっているのだ、だからこの者はヒューマニストになどならず、いつでも「逆らう者にはかわいそうな目に遭わせてやる」という悪魔の発想を手元においた、まあ何のことはない単純な悪霊の使途になってしまう。
だからもし、一人の資産家が、かわいそうな子供たちにチャリティの側面を強く持っていたとしても、そのことを表面上だけ理解して、早合点しないように/まるで冗談みたいだが、そうしたチャリティおじさんに、酒に酔った誰かが軽口の一つでも叩くと、そのとたん「あいつはクビね、二度とこの業界で生きられないようにしておいて」と、躊躇のない処刑に転じることはよくあるのだ、むしろそれは「かわいそう主義」における当然の力関係だと知っておかねばならない、<<「かわいそう」という感情はその人のやさしさを保証はしておらず、むしろその逆の冷酷さを保証していることが少なからずある>>。

「わたし・かわいそう主義」でやってきた人は、そのキャリアから、当然「かわいそう」という現象に詳しいのだ。
だから、どのようにすれば、かわいそうな人から評判がよくなるかもよく知っているし、どのようにすれば、かわいそうな人をより深く苦しめられるかもよく知っている。
そして、どのように趣向を凝らせば、あなたを最もかわいそうな目に遭わせることができるかについても、どうしても詳しいのだ、脳みそがその手続きを発想することに長けてしまっている/人によっては、その発想の早さと深さは、まさに悪魔じみているというケースさえある。
どういうことかわかるだろうか、つまり、「わたし・かわいそう」と激する感情を抱え続けるというのは、長年、自分自身を「かわいそう」と呪い続けることに他ならないのだ、長年その呪いを原動力として動いてきたぶん、この人はその呪いを自他に行使する技量に長けている/「かわいそう」と感情が激することは、魂が八つ裂きにされることだと言った、だからこの人は、人の魂をバラバラに砕く呪いの術を知っているということなのだ。

一所懸命生きている人に向けて、一斉に全力で「かわいそう」と言ってみれば、それが呪いになるということがわかる。

目を剥き、血をにじませて、誰に対しても「かわいそう! かわいそう!」と連呼してみれば、それだけではっきりわかるだろう、「かわいそう」というのはかなり悪質で特級の呪詛になりえるのだ/この呪詛に掛かった者は、自他どちらに掛けられたにせよ、実感的に「かわいそう」という呪縛に掛かり、何もかもを「待つ」「受ける」ということしかできなくなる(呪縛されて能動性を喪失してしまう)。
「かわいそう」という呪詛に掛かると、1.悪魔の力を得るか、それが得られない場合は、2.「待つ」「受ける」しかできなくなり、他人が聞いたら呆れるような根拠のない無制限の幸福を待ち受けていたり、一方で、明らかな絶望や破滅がやってくるのにも、それを座して待ち、ただ受けて悲鳴を上げていたりすることになる/一所懸命に生きたもの・生きているものに、「かわいそう」が激することがあってはならない、特に血が流れるときは注意だ、好き放題に呪われてそれをヒューマニズムだの正義だのと言い張るのには強い禁忌を覚えておこう、まだ十分に引き返せるうちに。

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「かわいそう」という感情について2
「かわいそう」という感情は、実は強烈な危険を孕んでいるということを、先日の記事で話した。
「かわいそう」という感情は、おおむね血と苦しみに関連して生じ、その痛みゆえに魂を否定し、魂をバラバラにする作用がある/そして魂が粉砕されたら、あとはもう生存本能と血の勝ちだ、われわれの霊魂は敗者となる。
「かわいそう」という感情は、なくてはならないし、なかったら単純に「人でなし」なのだが、それが「人でなし」であるからこそ、「かわいそう」という感情の完全勝利は、われわれを「ヒューマニズム」に閉じ込めるということでもある。
われわれは人間なので、ヒューマニズムもなければ話にならないが、ヒューマニズムはあくまで人の感情であって、カミサマの感情ではない、この道理を感情のあまりに違(たが)えると、われわれはカミサマから切り離され、思いがけず「呪いと悪霊の勝利」というバッドエンドに行き着く、何しろヒューマニズムは強烈な「かわいそう」のカタマリで、一方でカミサマは「冗談」だというのだから、われわれがこの「かわいそう」からのヒューマニズム決着から逃れるのはとても困難なことなのだ/だからこそ繰り返し言われねばならない、<<「かわいそう」という感情が物事をハッピーエンドに導くことはない>>。

そして、言い足しておかねばならないのはこのことだ、その「かわいそう」という人間感情が、他者に向くのならばまだしも、半数以上の場合はその感情がひたすら自分に向くと覚悟せねばならない。
単純化して言えば、この「かわいそう主義」はいくらでも、やがての「わたし・かわいそう主義」を内包するのだ、戦災孤児を「かわいそう」と激し、チーターに食われるインパラを「かわいそう」と激し、膝を悪くして孤独な日々を過ごす母親を「かわいそう」と激すると、その次はおおむね老いて寂れゆく自分自身を「かわいそう」と激するようになってしまう。
そして、それらがおおむね「かわいそう」ということは、判断としても感情としても間違ってはいないのだが、問題は、そのとき「かわいそう主義」の徒は、<<「かわいそう」という感情を正義の頂点に据えてしまっている>>ということだ、こうなるともう、この「かわいそう」という感情より上位の判断は一切成り立たなくなってしまう。
「かわいそう」という激しい感情は、かくも巧妙に、われわれの魂を粉砕しにきて、するりと最上の正義の座に納まる、しかもタチが悪いことに、この「かわいそう」という感情は、即効性でカネになるのだ/だから完全に容赦のない言い方をすると、単純な悪知恵として、世界中から「かわいそう」の極致をたくさん見つけてくれば、それだけで募金詐欺ができるし、実際にそのようなことをしている悪徳業者だって少なからず存在するだろう(それはしばしば、悪徳であっても不法ではない)。

かわいそう主義は、ヒューマニズムの錯覚を経て、しばしば「わたし・かわいそう主義」に転じ、ときに苛烈な「富の戦争」にまで行き着く。

ここに、このとおりデタラメな僕がいて、仮に、ここに大マジで「かわいそう」な人がいたとしよう、そのとき僕が「かわいそう」な人を怨んで攻撃するというようなことは動機としてありえないが、「かわいそう」な人が僕を怨んで攻撃してくることはありえる/そして「わたし・かわいそう」の動機からその攻撃が生じてきた場合、いかなる事情があっても攻撃者のほうが内心で正義であり、攻撃される僕の側は悪に決定される、何しろ「かわいそう」より上位の正義はないのだから、「かわいそうでない」僕の側に正義が認められることは構造上ない。
貧困から店先のパンを盗って走って逃げた少年が、転倒して脚をケガした場合、必要なのは「かわいそう」という感情じゃない、カネが必要な場合はそうしたものを「かわいそう特集」として蒐集していくのが良策だが/パンドロボーの少年に与えねばならないのは、「かわいそう」という感情じゃない、パンと罰だ、そして治療と学門だ、それをかわいそうなシーンに仕立てるのはバッドエンドへの手続きであり、ハッピーエンドに向かうためにはすべてを冗談のようなシーンにしてやらねばならない。
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カミサマは冗談

くの人が「カミサマとは何ぞや」に到達することはまずない。
なぜかというと、カミサマというのは、思いがけず「冗談みたい」だからだ。
こんな話をする資格が、僕にあるわけではまったくないが、まあ別にいいじゃないか、それこそ本当に冗談みたいだからいいじゃん、おれは冗談みたいな話をしている。
われわれは人間なので、カミサマというのは、とびきり「マジ」なものだろうと空想している、だが実際は逆なのだ、われわれごときの存在に、ゴタゴタしないからカミサマなのであって、われわれは人間だから己どものことにすぐ「マジ」になるにすぎない、この人間ごときの都合をカミサマに押しつけると、カミサマは視えないのだが、何しろカミサマが冗談みたいなシロモノだとすると、われわれ人間どもは「じゃあ要らんわ、ノーサンキューですわ」と唾を吐くだろう、それがわれわれ人間だ/われわれのためにマジになってくれるのでなければカミサマじゃないです、「認めません!」と、カミサマを決定する審査員の性根がドカンとあるのがわれわれ人間どもの本性だろう。

動画サイトで "own voice" あたりで検索すると、たとえば詩聖タゴールの声が録音に残っていたりするが、詩聖タゴールの声はまるで女の子みたいだ、そしてたとえば合気道の開祖・植芝盛平も、祝詞のようなものを女の子のような声で詠んでいる、それでいえば今上陛下(現天皇陛下)のお声もどこか女の子のような可愛らしさがある。
その声は、たとえば「実録!! ○○ドキュメンタリー!!」のような資料から確かめられる「大マジ」の声と比較すると、まったく違うものだ、タゴールや植芝盛平の声はまるで「冗談みたいな声」だ/「実録!!」のほうは、マジもマジ、気魄にズドンと突き刺さる、血の滲むような声が記録されており、多くの人にグッとくるだろう(だからこそお茶の間に向けて放映するメディアコンテンツにもなるわけだ)。
タゴールの声を聞いて「グッときた」と感じる人はない、植芝盛平の声に「グッとくる」ということはないし、あるいはマイケルジャクソンの声もやはり女の子みたいなところがある、あれも「グッとくる」というたぐいではない/「グッとくる」というのが「マジ」の声だとするならば、カミサマの声はまるで「冗談みたい」な声なのだ、このことがあまりにわれわれの思い入れと相反するから、われわれはカミサマとは何ぞやに到達できない。
声にせよ言葉にせよ「話」にせよ、神々のものは「冗談みたい」なのだ、われわれはそれを「軽視」するので、「カミサマとは何ぞや」に、到達するどころか生涯に亘って接近さえできない……のみならず、われわれはそれを「軽視」することで、ずーっと「侮辱」を継続していることになる、本人にそんな意図はなくても自動的にそうなっているのだ、だから年を経るごとにわれわれはこころの底が何か追い詰められたように黒く澱んでくる/われわれが老人になり、発狂スレスレの眼差しで徘徊するようになるのは、なんとも皮肉な話、常に「大マジ」で生きてきたからなのだ、それは必然のことかもしれないが、それにしても皮肉がすぎる話ではないか。

カミサマは冗談、獣は大マジ。

しかし、われわれは実情として、「マジ」なものしか信仰できないので、まあいろいろとムリでしょーな!! それでもいちおう、知っておけばいつかいいことがあるのかもしれない、「カミサマは冗談」/いつかのとき、筋のいい人がいれば、「最後にはけっきょくこれしか使えねーじゃん」ということに気づくかもしれない、もちろん気づくのは早いほうがいい。
カミサマは冗談であり、カミサマのものは、われわれから見て基本的に「失笑」の対象なのだ、そりゃ母親が娘に超絶絶叫しているところにタゴールの歌声が聞こえてきたら、失笑しか起こせないだろう/僕は最近になってようやくこの「カミサマは冗談」ということがはっきり視えた、何しろ実際には「これしか使えねーじゃん」ということを否応なしに知ったからだ。

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「かわいそう」という感情について(必ず覚えておいてほしい)

「かわいそう」という感情は、それ自体は邪悪なものには到底思われない。
が、必ず覚えておいてくれ、「かわいそう」という感情は強烈なもので、あなたの心身を「八つ裂き」にしてしまう/「かわいそう」の感情によって、あなたの心身はバラバラになる(霊的な統合が失われる)。
「かわいそう」という感情は、それ自体は至極まっとうなものだ、その感情がなければ人でなし、愛のない者に見える/少なくともその感情は、本当に、至極まっとうなものに見える、僕もそのことはまったく否定する気にはなれない。
だが、それよりも強く対抗しえる理知として、このことを必ず覚えておいてほしい、「かわいそう」という感情は、至極まっとうなものでありながら、その感情は、物事をハッピーエンドに導かない、たとえどれだけ冷血・冷酷に思えても、本当のことをどこかで覚えておくのだ、物事をハッピーエンドに導くのはまったく別のものだということ、「かわいそう」という感情こそ、むしろ温情たっぷりにストーリーをバッドエンドに導いてしまう。

「かわいそう」という感情は、強烈であり、あなたを八つ裂きにし、哀号させ、あなたに生きものの世界を与える、特にそれが、己の血肉に近しい者であれば近しい者であるほど。
そして、それがあなたに「生きものの世界を与える」からこそ、あなたはそのとき、ふと我に返って世界に降り立ったような気がするのだ、何か手ごたえのある世界につながった、という感触を得てしまう/それは間違いではないのだが、その感触が得られるのは、霊的にあなたが「八つ裂き」にされたからなのだ、解体されたあなたにはもう遺伝子の指令を己の感情とする道しか残されていない、「かわいそう」という感情はそれぐらい、実は致命的な危険をもっている。
「かわいそう」という感情は、あなたから統合を奪い、物語や、夢、呼吸や、これまでに視えていたもののすべてを視えなくして奪ってしまう、そうなるともうあなたは一切戦えなくなり、そのように戦いようがなくなった自分の心底について、それを何か「受け入れて生きている」のだと誤解してしまう/それは本当に誤解であって、それは受け入れているのではなく抗する根拠の一切を見失ってしまったというだけなのだ。
また付属として、これも必ず知っておくべきことだが、「かわいそう」ということは、割と即効性でカネになるのだ、だから「かわいそう」の周辺には借金や資金繰りの人が多くなる、至急にカネが必要な人は知らず識らずこの「かわいそう」の即効換金性を使うようになるものだ/またこの「かわいそう」の八つ裂きピークは、日中のにぎやかなところでは出現しにくい、主に夜間のさびしいところに出現するものだ、つまりオバケと同じようなタイミングで出てくる、そのこともぜひ覚えておいてほしい。

「かわいそう」は、正義と温情に満ちて、あなたからすべてを奪う。

「かわいそう」は、人の情、つまりヒューマニズムのコアだと思うが、それがヒューマニズムということは、けっきょくカミサマのバックアップは受けていないということだ、だからこのヒューマニズムは物事をハッピーエンドに導かない、ヒューマンの感情をカミサマの感情だと偽ってはならない/カミサマはわれわれに慈悲や憐れみを向けてくれるのかもしれないが、それはわれわれの持つ「かわいそう」という引き裂かれるような感情ではない。
じゃあ実際に「かわいそう」なものには、どうしたらいいのかというと、「かわいそう」という感情は要らない、ただ必要なていどの救済に最善と最速を尽くせ、ハッピーエンドに向かうためには冷酷にもなれ/今ここで僕が話したことは、今このときにはほとんどあなたにとって了解不能のことだ、だがずっと先であなたを危地から救い出すから、こころの端に留め置いてほしい、「かわいそう」はハッピーエンドに向かわず、正義と温情に満ちてあなたからすべてを奪ってしまう。

正しく見ないとな | comments(1) |
自分が所属する世界の風(を呼び込む)3
いうわけで、まったく無責任に申し上げると、もっとアクティブになればいいというか、ゼロアクティブになればいいのにと思っている/ゼロアクティブという造語は何を指すかというと、願望や納得や思議や動機や勢いのフェーズが一切入り込まないアクティブネスのことだ。
誰も、納得して生まれてきたわけではないし、納得して死んでいくわけでもないので、「納得」って言っても何のことやら……まあそれはいいとして、僕は明らかに、やるべきことは大量にあるのに、大丈夫なのかオマエと、勝手に偉そうに思っているのだった、さらに偉そうには、そのように「見抜いている」と言い放っても差し支えない(いや、差し支えはある)。
やるべきことは大量にあるのだが、納得してやるのならやめてね、と思っている、納得とか、その逆のヤケクソになった勢いとかは苦手だ、何かを愛したり遊んだり尊んだりするのに納得や勢いが要るのならそれはぜひやめてほしいと思っている、僕はゼロアクティブを推奨する者だ、ゼロアクティブならニキビもすっきり。
そして、なぜそのゼロアクティブが得られないかというと、うーん、ネクラすぎるからではないですかね……あるいは、この偉大なるおれさまに対して、帰依が足りていないのではないか/といって納得してから帰依するようなことはぜひやめてね、おれは尊ぶということの機能性と重要性を唱える者だが、自分が尊敬されることについてはもう飽きたというか、さっさと帰依して風呂場のカビでも掃除していろと言いたくなる、風呂場のカビを清掃する者は悉く偉大なり。

僕は以前から、この偉大なるおれさまを愛さない奴は、脳がバグっているので、手作りのお地蔵さまを創って午前二時から朝までディープキスしていろとよく言うのだが、なぜこんなアホ丸出しの話をするかというと、こんなものにもちろん納得などしているわけではなく、ただやはりナイスな世界の風が吹き込んでくるのだ、カモンベイビーアメリカである(ここは深刻に意味不明)。
んんんんん、根っこそぎ、おれのことを愛さない奴の意味がわからん、土星に輪っかが要らないと言い張る日焼けサロンの経営者ぐらい意味がわからない、おれのことを愛さないのではこの世に生まれてきた意味なくない? と、こうしたすべてのデタラメなことも、支離滅裂にデタラメなのではなく、風を最大に呼び込むためには、この文脈が最適なのだ、そういうことが直接視えないようでは文学者ではない。
この偉大なるおれさまは、偉大なるおれさまと言い張っているわけだが、これはそのように言い張っていればいいのであって、おれさまが本当に偉大である必要はない、本当に偉大だと思って熱弁していたら超絶深刻なバカじゃないか……あるいは、ひょっとすると本当に偉大なのかもしれないが、もしそうだとしても僕にとって自分が偉大か矮小かなんてことは、思慮を向ける対象ではない、他人のことならともかく自分のことはどうでもいいじゃないか、とにかく偉大なるおれさまを言い張っていると、ナイスワールドの風が吹き込んでくるので、そうしているだけだ、こんなもんエアコンのスイッチを強にしていることと大差ない。
というわけで、僕は今日もこのように、自分のやるべきことをなるべく大量にこなしているわけだが、それに比べたらあなたはどうだ、もっと愛のゼロアクティブが炸裂する毎日じゃなきゃウソじゃないのか、おれの周囲は少しずつ賢くなってきたよ、何しろずっとこんなことされていたら、なるほど「納得」などという通貨は本当に一厘にも両替してもらえないのだということをいやがおうにも悟るからな。

微笑まなくていいからネクラはやめぴー。

さすがにこの文脈は、われながらひどいと思う、ナイスな世界の風が吹き込めば「それでいい」というのも、ちょっと極端じゃないかねという、良心の呵責がおれさまにもある、こうして本論がタイトルから逸脱しているものを一般に駄文という。
偉大なるおれさまに、「偉大!」と言いまくってりゃいいんだよ、それでナイスワールドの風バリバリだ、そんなこといいかげん自力で気づけよな、そしてまさかそんなことに「納得」なんてしようとしないよな……? 偉大なるおれさまに偉大コールをするのに「納得」を思議するようじゃ、さすがに病院に行った方がいいぞ、フィリピンパブの女の子なんかおれのことを「大統領」って呼ぶぜ、フィリピンパブなんか行ったことないけれども。
できるオンナだね | comments(0) |
自分が所属する世界の風(を呼び込む)2

はいえ、これはきっとすごく大切なことだから、もっと丁寧に話しておいたほうがよいかもしれない。
人がナイスな世界に所属できない場合があるのは、ナイスな世界の風が吹き込んできてくれないからであって、なぜナイスな世界の風が吹き込んでこないかというと、そういう世界の行を身口意に積んでいないからだ、じゃあなぜそういう行を積めないのかというと、ナイスな世界とやらに「納得」がいっていないからだ、と話した。
ただ、本当に重要なことを、正確に述べるのならば、僕だって「納得」がいっているわけではないのだ、ただいつもどおりにやっていると、ナイスな世界の風が吹き込んでくるので、いつも「なんでだろうなあ」と不思議がっているだけなのだ、別に感謝しているわけでもないし、ありがたいと拝んでいるわけでもない/それに不思議がるといっても、「そりゃおれの知らん仕組みもあるでしょうよ」と思っているだけのことなので、本当にあるのは「納得」どころか、その逆の「知らんし」のほうが近い。
だからそもそものところ、「納得」といって、僕は自分自身の「納得」という機能そのものを、あまりアテにしていないというか、そもそも重用していない/だから本当のところを正確にいうと、僕はこのアホみたいな書き話しを続けることに、そんなに納得しているわけでもないのだった、まあそんなことを言い出すと、僕は何をするにしても自分の「納得」などを必要としたことがそもそもないのではある。

たとえば新春には、目隠しをして「福笑い」をするのかもしれない、今時そんなことで盛り上がるとも思えないが、仮にそうして目隠しをして「福笑い」をするとしたら、なぜ「福笑い」をするのか、それがどういう行為なのかを、わざわざ「納得」してからやろうと発想する理由はない、「目隠ししろ」「ほい」「福笑いをやれ」「はいよ」と、とりあえずやってみて、「なんじゃこりゃ」と思ったら、その「なんじゃこりゃ」のままそれを続けている。
つまり僕の行為の決定は、納得度というパラメーターに支配を受けていないということになる、僕はほとんど吉凶の予感しか尺度にしておらず、なんとなく凶相が予感されることについては「ヤです」「やらない」と拒否している/僕はたいへんワガママな奴なので、どれだけ納得度百パーセントでも、なんとなく凶相が予感されるものについては逃げ回り続けるのだった。
まったく、「不思議だなあ」というだけの、無責任さに尽きるのだが、本当にそうなのだからしょうがない、身口意がどう行為を積み重ねたかによって、自分の所属する世界が決まるのだが、その所属の決定は、自分の納得なんて関係ないのだ、われわれの納得とは無関係な何かの法則で決定している。
たとえば、男性が脱ぎ散らかした靴を、「女性が揃えたら?」などと言うと、そんなことはもちろん現代においてわずかも「納得」されないので、アサルトライフルでメッタ撃ちにされるのだが、そんなことを納得せずに行為してもだめだし、納得して行為してもだめなのだ/僕はなるべくたくさんの女の子を無条件で笑わせようとするが、別にそのことも「納得」してやっているのではない、僕は僕が納得することに何の値打ちがあるのかがよくわかっていない、ただ世界の風が吹き込んでくる。

納得は「思議」なので、もう「不思議」は期待できない。

納得するかどうかという、思議のフェーズを経たら、もう間に合っていないということなのだろう、前もって「納得するぞ!」と決め打ちしてあってもだめだ、もうタイミング的に「行」の速度に間に合わない/納得にせよ不納得にせよ、僕にとってはその納得関連のフェーズじたいが「しんどい」のだと思う、なんとまあ面倒くさがりも極点に来ていると思うが、納得関連のフェーズが省けるのなら僕は省いてしまうのだ、そうして少しでもラクをしたい、そうしたらなぜかナイスな世界の風が吹き込んでくる、なぜそうなるのかはあくまでも「知らん」。
自分の積んだ身口意の行為が、自分の所属する世界の風を吹き込んできますよと、ただそれだけのことで、そこに納得関連のフェーズが挟まる人には、当然ながら「思議」という世界の風が吹き込んでくることになるだろう、それは明らかな道理だ/そして「思議」の世界の風というのは、常にひしめく疑いの風、呪縛にがんじがらめにされた世界、いっときも安らぎが得られない地雷原のような世界の風だ、そんな世界でむりやり微笑むのはしんどいな。

できるオンナだね | comments(0) |
自分が所属する世界の風(を呼び込む)

変わらず、何のあてどもなく、際限のない「話」をしているのだが、こうしたことを当然に積み重ねることで、そのたびに或る種の「風」を呼び込んでいることに気づく。
これが、「行」ということの本質だと思うが、理由なしにガッツリと「行」を積むのだ(もちろん手抜きしてはいけない)、そうすると「行」にふさわしい、何か所属する世界の風が吹き込んでくるようになる、それで自分の所属する世界が変わるのだ。
このことの原体験や、もしくは「教え」がないと、人は「行」というのをどのようにしたらいいのかがわからない、目的をもって「行」を積むと、それはもう「行」ではなく「努力」なのだ、努力が悪いわけではないが、努力は人の所属する世界を変更する作用は持たない、人は努力によって己を支配する因果から脱出することはできない(そりゃ仕組み的にそういう性質のものじゃないのだからしゃーない)。
人の行いというのは、いわゆる身口意に発生するものだから、まともな行いをこの身口意に積ませるしかないのだ、目的なしに行を積むと、何にもならない……ような気がするが、そのとおり、何にもならず、ただなぜか別の世界の風が吹き始める、これは単にこの世界の仕組みのヒミツというだけであって、神秘的な現象ではない、別にカミサマがそれを隠しているわけではなく、われわれの認識ではなぜそんなことが起こるのかが了解できないだけだ(でも了解できなくても結果だけ得られたらいいんじゃねーの)。

もちろん誰だって、サイアクな世界の風の中にいるよりは、ナイスな世界の風の中にいたいはずだが、かといって僕は、ナイスな世界の風を呼び込むぜと思って、こんな書き話しをしているわけではない。
ただ結果として、いつのまにか所属している世界と、吹いている風が変わるのだ、なぜなのかはわからない、重要なのは「なぜなのか」とかいうどうせ判りっこない理由の説明ごっこに興じることではなく、ナイスな世界に居続けることではないだろうか/そして叶うことなら、このナイスな世界の奥地にたどり着きたい。
けっきょく、われわれの知らない何かの仕組みがあるということなのだろうな、仕組みがわからなくてもその仕組みは機能していて、身口意がダラダラブーブーしていると、おのずとダラダラブーブー世界の風が吹き込んでくるようになっている、逆に身口意がナイスだぜ愛だぜ光だぜを言っていると、おのずとナイスで愛と光の世界の風が吹き込んでくるようになっている/そもそもわれわれは、窓から吹き込んでくる風ひとつにしたって、自分で決定はできないじゃないか、そう考えればこのことこそ当たり前なのかもしれない。
とはいえ、むろんわれわれには、自意識や意固地や「納得」という機能があって、この世界に向けてナイスだの愛だの光だの言うのにも、内心で「納得がいっていない」ということがあると、表面はどう取り繕っても、やはり本質的にはブーブー言うわけだ、だから本質的にブーブー世界の風が吹き込んでくることになり、けっきょくその人はブーブー世界に所属することになる/ただそれだけのことだから、考えてみればなんて当たり前すぎる仕組みなのだろうと見ることもできる、その仕組みがどのように作られているのかはわれわれにはずっと判らないわけではあるが。

あなたがブーブー世界に住むとしたら、その理由はただひとつ、「そのほうが納得がいくから」だ。

なんというか、本当にただそれだけの仕組みだから、すべては「しゃーない」という一言につきる、納得のいかないことに納得のいっているフリをすることなどできない、ちゃんと人それぞれ、自分の「納得」する世界へ所属するようにできている、僕はこのアホみたいな書き話しを続けることに納得がゆき、あなたはそんなアホみたいなことには納得がゆかないのだから、本当にただ「しゃーない」のだ。
とはいえ、最低限のアナウンスは、道義としてあってよいように思う、「努力では所属する世界は変えられない」ということと、「ナイスな世界に納得していないのであなたはそういう世界には所属できない」ということ/いつだって自分の所属する世界の風を呼び込んでいるのは、僕だけじゃない、誰だって同じだ、誰だって毎日、自分の所属する世界の風を己の身口意によって呼び込んでいる。

できるオンナだね | comments(0) |
大きな力に飲み込まれない

れわれは数年前、AKBのやり方を全否定していた、「握手券を引き換えにした音楽CDの売り上げをカウントするなんて」と/われわれはその後、いつそのやり方に合意したのかわからないが、今はすっかり合意に転じている、AKBのやり方を攻撃しようなんて勢力はもうどこにも残っていない。
LGBTにせよポリティカルコレクトネスにせよ嫌煙思想にせよマニアックなフェミニズムにせよ炎上礼賛ブームにせよ、われわれは時代の当事者などではない、われわれはまったく知らない誰かに操作されているだけにすぎない、われわれがこの時代において「おれがこれを始めたのさ」「わたしたちはこれについていったのよ」と自負できるものは何一つない/われわれは「君の名は」や「けものフレンズ」や「アナ雪」に影響づけを受けて同時代の生き方を創り上げたわけではまったくない。
米津玄師というミュージシャンが新しく大人気らしいが、いわずもがな、すばらしいアーティストは、サザンやユーミンと同じく、この先の三十周年にも四十周年にも変わらぬ万雷の拍手を浴びているようにと願うべきだ、今米津玄師のファン勢力はまさに「熱烈」らしいが、これがもし数年後にはパッタリ冷え切っているというようなことがあれば、それは他ならぬファンたちが冷酷な裏切りで当のミュージシャンを消費にもてあそんだということになる、僕はもうそのような生臭い光景を見たくないのだ。
今年は新元号が発布されるが、新元号を待たずとも、すでに今も、去年とは異なる大きな力がのしかかってきている、この力に飲み込まれていくことは、時代についていっているということではまったくない、<<これからのことはすべて新しくなければならず>>、大きな力に飲み込まれていくということは、新しい時代を切り拓いていくということではまったくないのだ、ただ用意された屋形船にずるずる乗せられていくだけのことであって、ましてその屋形船はわれわれの幸福を目論んで作られたものではまったくない。

何かが「正しい」と信じられるなら、それについていけばよいが、何かが「おかしい」と感じられるなら、その不穏なものには抵抗しなくてはならない、あっさり飲み込まれるとラクになるだけで、利益にはなっていない/諦観というなら、われわれは無謀と知りつつ戦い続けねばならないということが諦観であって、大きなものに飲み込まれていくだけというなら、それは諦観でも何でもない、それは昼寝を繰り返しているだけの人間でも自動的にそうなっていくものだから、改まっての諦観など要らない。
今、女子高生のセックスを買おうとすると、「ホ別イチゴ」あたりが相場となる、別にカネでセックスを買うことが悪いと言っているわけではないし、そのことの倫理性を問うているわけではないが、それよりも「夢中で本を読んだ」とか「友達と将来の夢について真剣に話した」とか、そういう青春の正規ルートに無限の澱(よど)みが掛かって輝きを持たなくなり、その澱みに抵抗しないということの危険性を僕は指摘しているにすぎない。
僕がここで書き話していることは、いつも奇妙で変人で時代錯誤か狂人のたぐいに感じられることばかりだが、僕の書き話していることは、本当にそこまで奇怪で胡乱で悪臭のすることだったのだろうか? 今どき愛だの青春だの魂だの言っているのは、一言でいって「くっさw」で済むのは明らかだが、僕が指摘しようとしているのは、文化や思想としての正当性ではなく、そうした捉え方や風潮を<<あなたが作ったわけではない>>ということなのだ、あなたがそのように捉えてそのように感じてそのようにあざ笑うように、どこかの誰かがあなたを操作した結果でしかなく、あなたはこの草不可避時代の旗手でもなければパイオニアでもない、ただの操り人形だ、そのことに無抵抗であなたは本当に勝利者なのだろうか。
あなたが女性だとして、あなたはこころの底から尊ぶべき男性に出会うことが不可能というレベルにむつかしいだろうし、仮にそんな男性に出会えたとして、その男性を愛したり、その男性に献身したり、その男性の世話をしたりということに、激烈な感情的抵抗を覚えるだろうが、それはあなたがそうなるように大きな力があなたを操作したにすぎず、あなたが自分自身をそうなるように自己形成したわけではまったくない、その証拠に、<<勉強と経験が不足している人ほど操り人形の度合いが濃厚に出ている>>だろう、今われわれに降りかかる大きな力は、あなたの魂をいつくしむために降り注いでいるのではなく、あなたの魂を侮辱するために降りかかってきているだけだ。

十年前に信じたものを、今はもう信じていないのなら、他ならぬあなた自身の十周年がない。

あなたは時代についていっているわけではなく、大きな力に飲み込まれていきがちなだけで、その大きな力は、あなたの魂に十周年などさせないつもりなのだ、十年前にあなたが立っていた、あの場所に吹いていた風は、今もなおあなたの頬を通り抜けて吹いているか、そうでなかったら今のあなたはどこの誰に形成された人形なのか。
十年も経てば、時代は変わるし体調も変わるかもしれないが、魂は変わらない、魂に時間なんか流れていないからだ、常に新しい時代を生きろ/新しい時代に生きるということは、人為的に用意された屋形船にドッコラショと乗り込むことではまったくない、そんな出来合いのものはとっくの昔に古いのだ、新しい時代というのは今まだここにはない時代のことであって、用意された時代などすでに手垢がついた使用済み品でしかない。

できるオンナだね | comments(0) |
遊ぶ魂、サカる格2

才もグランプリがメインになったように、またソーシャルゲームも「ガチャ」がメインになったように、そして少年漫画もドスケベ女体の表示がメインになったように、すべてのものに競技制とギャンブル性と刺激性が組み込まれていった。
それは、遊ぶことができなくなったからだ、遊べなくなると人は刺激と興奮で己をコスるしか活力を得られなくなる/「遊ぶ」には、一般的に言って「余裕」が必要だ、すべての遊びの喪失は、「それどころじゃない」という実感から起こってくる。
だが一方で、「遊ぶ」ということを失ってしまうと、ずっと先に「何のためにこれまで生きてきたのかわからない」という行き詰まりにぶつかってしまう/気づいたときには、己の魂とはまったくつながっていない、はるか彼方まで行ってしまっているものだ、それはそれで取り返しがつかないということになってしまう。
このことについて、僕は執拗に、「遊ぶことがメインで、遊ぶために生きるのだ」ということを唱えていきたい、それは僕が正しいからではなく、僕が受け持った役割だからだ、僕まで含めて全員が「それどころじゃない」となるわけにはいかない、それではけっきょく本来の魂でないものが勝利したことになってしまう。

また、僕には狡猾な考えもあって、遊ぶことが本分だと見切った者にこそ、あるていど幸運のバックアップがあるのではないかと思う算段もあるのだ、遊ぶということはそこまで向こう見ずなことではない。
また単純に言って、日本が製造業で勝利できない経済状況の中、これからわれわれは異民族も含めた同居のような暮らしをしてゆかねばならない見込みだが、そこで同居するのが、真に愉快で真に大切な、真に愛し合える誰か同士なら、その環境は一転、かけがえなく豊かな暮らしを得たということになるではないか。
われわれにとって真の敗北とは、魂の触れ合わない者たちが、ただ生きるためだけに同じ檻の中に囲われ、同じ檻の中だからこそ縄張りをもたねばならず、なるべく孤立した個人として生きようとしたところ、けっきょくコストが追い付かずまともな暮らしもさせてもらえなかったという結末だ/われわれは、魂の触れ合わない同士においては、孤立しあって無関係に生きていけばよいが、そうした孤立した暮らしの形成には非常なコストが掛かるのだ、そしてその環境の構築のみならず、そこから寂しさを慰めるためのコストも膨大に発生することを前もって見積もっていなくてはならない。
比較して、僕が思うところの最高の勝ち筋は、「魂が触れ合って遊んでいたらたくさん幸運があってみんなでワイワイやっているうちに逃げ切ってしまった」という結末だ、このことの実現には非常な困難が予想されるが、成立に多大なコストが掛かるというわけではない、むしろ魂で遊ぶことにハマっているうちはコストが削減されるだろう、魂には課金できないからだ。

生存本能が「それどころじゃない」と言う、それに対抗する遊びの魂は、「永遠にこれでいいだろ」を見つける。

だから遊びというのも、遊興ではないのだ、そこにいる全員が「永遠にこれでいいだろ」に到達できるか? それはそんなに簡単なことではなく、けれどもこのことが見つからないままでは、自分はけっきょく何のために生きていくのかわからないし、魂なんてものがもし本当にあったら、己の魂がやがてどこへいくものかわからず不安でたまらない。
僕が敷地だけ広いおんぼろ小屋に住んだとして、その玄関先に雑魚寝するということが、2LDKの独り暮らしよりはるかにイヤか? そんなことはなく、「ぜったいにその玄関先のほうがいい」とこぞって跳ねる人がすでにうじゃうじゃいる、それは経済的に有利なポテンシャルを秘めているということだ、むしろそのことへの基本を手に入れたほうが、この先々で生きていくのに有利だと見立てて僕はプランを練っている、つまり究極的には生存本能より遊ぶ魂のほうが幸運も含めて「生きるのに有利」という仮説に基づいている、もしこの仮説がアタリだった場合はわれわれで大いに笑おうじゃないか。

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遊ぶ魂、サカる格
つからか、「楽しむ」ということが幅を利かせ始めた。
そして端末の再生ボタンを押すようになった。
youtubeの再生回数は、人々が遊べなくなった回数を示している。
ポチッと押せば、「楽しむ」が始まる……そうこうするうちに人々は「遊ぶ」ということができなくなった、そして魂を解放する道筋を失った。

「遊ぶ」というのは、実は高度なことだ、生きものがする営為の中で、最も高度なものだと、すべての光の詩人が指摘している。
そのことは、政治集会の人々や、競技場の人々、予備校で血道を上げる人々、目立って興奮しようとする人々、講演会で自己啓発を目論む人々に、一声示してみればわかる、「遊びましょ」と。
数万人の集まりも、「遊びましょ」の一言で、何もできないということがわかり、凍りつくだろう/われわれは格子に魂を閉じ込められた生きものであるから、「努力」したり「競争」したりは簡単にできる、力に努めて競争 "してしまう" のがわれわれの性(さが)だからだ、だがもし努力も競争もやめて「遊べ」と言われたら?
「遊べ」と言われたら、具体的には何もできないのだ、このことを目の前に据え、まずは己の魂の荒廃ぶりをしみじみ確かめよ、凍りつくしかない実際的な自分の事実/学校の職員室で、先生たちが「遊んでいる」のを見たことがあるだろうか、遊べなくなった人々は必ず「威張る」ということを覚える、自分たちこそが高等なのだと必ず死ぬまで言い張り続けることになる、その中で永遠に遊ぶことを忘れない僕はやがて迫害の対象になるだろう。

男が女を、女が男を、「楽しんで」いるのだとすると、実にオッサンとオバサンで気持ち悪い。

学校の先生は、自分たちが同僚同士で和合して遊べるわけではまったくないのに、生徒たちには和合と協調を指導しようとする、だからおのずと示される思想は、「集団行動」というたぐいの、つまり魂を閉じ込めた姑息的同調のやり方だけを教えることになる/なぜ先生たちは同士で遊ばないのかと子供たちが問うたら、先生たちは必ずにこやかに、自分たちが子供らと違って「高度な存在だからだ」と宣伝のように言うだろう、まさか「魂が閉じ込められているからさ」と答えるような大人はいない。
スマホ中毒は何の問題でもない、問題はより直截的に、「遊べなくなった」という致命的なところにある、遊べなくなったから再生ボタンをポチッと押す、すると「楽しむ」ということが始まり……するとまるで自分は豊かで偉くなったようで、楽しまれるコンテンツに対しても、一家言を下賜するのが当然という感覚が得られてくる/この「楽しむ」体質になりきった人が、デートの現場に来て「楽しむ」という予定のありありした面をぶら下げていると、その姿は客観的には驚くべき醜さに映る、何者がわれわれを一方的に「楽しませて」くれるという見込みなのだろう? 遊べなくなるというのはそのように根深くおそろしいことなのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
すべての生きとし生けるものに祝福を

ょっと、今書ききれる状況ではないが、いろんなことが見え始めている。
「生きる」ということは、生存本能の支配する範疇だが、これは厄介であると同時に、やはり「切ない」のだ、甘やかしを利かせられるものではないが……生存本能はけっきょくわれわれを滅ぼすのみなのだが、そうした滅びを内包して生きるしかないということ、それ自体はとても切ないことだ、だからすべての生きとし生けるものに祝福を。
そして、不遜なことだが、僕はすべてのことを正常化したいと望んでいる、不遜ついでに申し上げるが、優れたる者は僕の物語を聴け、僕の生きてきた物語を/僕は生きることを忘れて生きてきた、僕にとって生きるということは、生きるということではなく、ナゾを解くということだった、ナゾが気になって「死ぬわけにいかない、気になる」と生きてきたようなものだ。
僕が、あなたがどう生きてきたかの話を聴くことは、実はまったく有効でないということがわかってきた、逆、あなたが、僕がどう生きてきたかを聴かねばならない、あなたが僕がどう生きてきたかに少し詳しくなったとき、あなたの中で何かの解決と進捗が得られるだろう、僕があなたの話を聴いたところであなたの中に解決も進捗も生じはしない。

現在の僕でさえ、自己の「死」というものを視るとき、それはとてつもないナゾであって、ぼちぼちの恐怖感を認めるものだ、これを何の訓練もない者が平然と眺められるはずがない/だから自己の死についてはナゾと恐怖ごと無意識下に抑圧せざるをえず、この抑圧された恐怖がわれわれの精神と立ち回りを支配している。
われわれは、いつも死と隣り合わせだ、別に戦場の兵士でなくても誰でもそうだ、もちろんそんなことは徒然草のころから言われている、だがどう考えても学門ナシの人々がこの巨大なナゾと恐怖に直面できるはずがない、だからわれわれはほとんどの場合、半ば以上ヤケクソで、自己が生きることを肯定しながら、そのヤケクソの肯定を理由にしながら生きていくしかないのだ/いつも死と隣り合わせというが、本当にそんなものと隣り合わせということは、ふつう恐ろしすぎて隣り合わせに置いていられない。
だからあなたは、僕がどう生きてきたかの物語を聴く必要がある、わけのわからない話だろうが、あなたは生存本能とは異なる動機で生きてきた例を聴く必要があり、少なくともその一パターンに、詳しくなる必要があるのだ、そのことが為されないかぎり、あなたの中で「物語」というものが命をもってあなたを救うということはない/僕が生きてきた物語を、あなたのものにしなくてはならない、そのフォーマットが敷かれないかぎり、あなたは生存本能の履行だけを繰り返して生きることになってしまう。
すべてのことを正常化したい、その道筋はすでに見えていて、ただどうやったらすんなり気づいてもらえるのかわからない、自己の死の恐怖から生存本能を尊ぶということはやはり誤った道で、われわれが誰も罰の只中にあると再設定するのが正常化への道だ、つまりあなたが知るべき僕が生きてきた物語は、僕がどのように罰の中を生きてきたかのサンプルになる、僕にとってナゾを解くことは罰であって、この罰を受けきらずに死ぬわけにはいかなかったのだ。

僕は光栄な罰の中を生きてきた、だからあなたも光栄な罰の中を生きることができる。

あなたは自分の物語を、自分で創作するふりをして捏造しなくていいのだ、あなたは罰の只中にあるのだから、その罰の光栄を知れば、おのずとあなたは自己の生がどう光栄で、かつ罰としてふさわしいのかを知ることができる/罰だから必ずしも楽なわけではないけれど、見当違いの努力ワールドでおびえた目になるよりはずっと上等だ。
生きとし生けるもののすべては切ない、切ないのは生存本能という滅びを内包して生きるよりないからだ、これをなんとかして「光栄だ」という転じた事実に気づいてもらう必要がある、僕が勝手にそのように求めることは不遜な話だが、この不遜の道も僕の受ける罰のひとつなのだ/僕は正しくはなく、ただ罰のプレイヤーとして純然たる強さを見せたい。

正しく見ないとな | comments(0) |
能力獲得の根源的ノウハウ
だん、「導く・導かれる」なんてことを、まさか考えないと思うが、もし「導く・導かれる」ということを正しく考えるなら、その導きというものは、「罰を与える・受けるということが、導く・導かれるということの定義」と捉えるのがよい。
この定義は、きわめて重要なもので、決して見失ってはならないものだ/もしあなたが、僕から罰を与えられるということが「しっくりこない」と感じるのであれば、何をどうやっても僕があなたを「導く」ということは不可能になる、これは導く・導かれるということを背後で支配している「定義」だからだ。
僕があなたに、「罰として缶コーヒー買ってこい」と言いつけたとき、その罰を自分が「受ける」ということがどこか当たり前に感じられるというとき、僕はあなたを重要なことへ導くことができる/それが当たり前には感じられないというとき、あなたはあくまで自力でどこかへ到達せねばならない、もしくは、他の誰かの「導き」に支配されていることに気づかねばならない。
たとえば多くの環境では、女性などは特に、成人してもなぜか親から「罰」を与えられる立場にあることが、当たり前に感じられていたりする、この状況にある人は、もはや外界の誰かに「導かれる」ということは不可能になる/現代において多くの人は、教師に対しても、先輩に対しても、あるいは自分では信じて頼っているつもりの誰かに対しても、「罰を受ける」「罰を与えられる」ということが当然に馴染んで感じられない状況にある、だから多くの人が、どう努力しても現在の自分から変化できずにいるのだ、自己の根本的変化が得られないのは、誰か導き手と「罰の授受関係」になれないことによってあらかじめ決定してしまっている。

ここで「罰」といって、シリアスに考えるのはナンセンスだ、「罰」といってもたとえば、男性が交際相手の彼女に向けて、「罰としておれが夜景を見にいくドライブに同行しなさい」という言い方もできる/こんな一工夫で、どれだけ多くの実りが与えられるだろう。
「罰」の授受関係におよぶことが、実は神聖さへの入り口なのだ、正しくよい罰を見出すというのもセンスが要ることで、感情的・恣意的な罰を思いつくばかりでは、彼には導き手の資格がない、この者は己の身分を低く落としていくだろう。
たとえば、人にあいさつをするのが苦手な誰かがいたとして、その人が自力の努力であいさつをできるようにはならないのだ、「罰としてここに立ってすべての人にひとりひとりあいさつをしなさい」と罰を与えられることで、ようやくやり方がわかるというか、やり方に「つながる」のだ/人は「訓練」によって、能力や技術を強化ないしは向上できるが、訓練によって能力を「獲得」はできないのだ、得られがたいことの「獲得」は、実は罰の授受関係を経てしかほとんどの場合得られない(自分で得られる場合は、努力の結果ではなくいわゆる才能の結果だ)。
だからこそ、いわゆる優等生のたぐいは、経験的に見て特別な能力を得てきていないということが一般的にある、それは優等生が生きていく中で罰されることがないからだ、もし極端な優等生が生涯に一度も罰される関係を持たなかったとすれば、それは生涯に一度も「教師」「先生」を得なかったということだ/マンガ「ドラえもん」で見れば、のび太にとって学校の先生は「先生」だが、出木杉君にとっては「先生」ではない。

罰の中をゆけ、そうしたら実る。

男は何かしらの罰として、男の形容で生まれ落ちている、女も何かしらの罰として、女の形容で生まれ落ちている、それが「罰」だと捉えられていないから、いつまでたってもやり方につながらない/何に対する罰かなんて知らなくていい、そんなことは意識的にはわかりっこないことだ、だが意識的にはわからなくても、われわれの魂は何かを知っている、だから魂だけはその不明の「罰」に率先して呼応する、われわれのうちに罰の中にない者など一人も存在しない。
多く、真髄の何かを獲得している人に限って、謙遜のように「まだまだ自分などは」と言うことがよくある、あれは謙遜しているのでも何でもなくて、直接の感覚として「こんなことではまだまだ罰は終わらない」ということを知っているのだ、だからそれは謙遜ではなくまったくの本音として言われている/われわれの魂は努力によって檻から出られるのではなく、罰を受けきることで檻から出られるのだ、優等生は一般に犯罪者の真逆にあるから、このことになかなか気づけないものだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
空前のオナニーブームにおける女性
らゆる国と地域において、性的コンテンツの摂取には年齢制限が設けられている、R18などの指定がそれだ/なぜ年齢制限が設けられているかというと、人類の経験的知識から、学ぶべきを学ぶ前に性感への耽溺を覚えると、引き返せない痴愚になってしまうことが知られているからだ。
では、年齢制限を設けたからといって、それによってすべての人が「学ぶべきを学んでから」性感への耽溺を覚えたのかというと、そのことは定かではない、多くの人が自分自身について「わたしは学ぶべきをすでに十分学んだ」とは断じがたいものだ/よって年齢制限というのも、投げやりに「自己責任」に押しつける以上には確固たる機能を誇ることはできない。
第一、R18指定を真にうけて、十八歳になるまでダウンロードをしないというような人はいないのだから、現代のわれわれはけっきょく、ほぼノーガードで現代の苛烈な性的コンテンツの渦中を生きざるを得ないというのが実情だ/ビクビクしながら深夜の書店でエロ本を買った旧時代とは比較にならない状況がある。
よって、ここで単純な疑問として、われわれは「これだけの強度と頻度の自慰に、本当に耐えられるのか?」ということに怯えねばならないのだった/われわれが愛や学門に向かうにしても、それは苛烈なオナニーを「やりこなして」の末でなくてはならない、だが多くの人は苛烈なオナニーの時点で引き返せない痴愚になっているという可能性をわれわれは考慮しなくてはならない。

現代のわれわれが、百年前の同国人と比べて、心身を強靭かつタフにしているとはとても言いがたい、どう考えても、何かがヤワになり、脆く、危なっかしく、虚弱になった/にもかかわらず、オナニーの強度だけは、旧時代より何十倍も高くなったはずだ、このことは本当に精神の水面下に重大なクラックを引き起こしていないのだろうか。
僕自身の記憶するところ、生まれて初めてアダルトビデオを観て、ショックで嘔吐した少年がいた、彼はヤワな男ではなかったが、思いがけないところで人は繊細なものだ/一方で現代においては、教師が声を荒げて生徒を叱責するのでも、生徒がショックから不登校になったり精神を損傷したりすることが起こるが、その彼が、液体まみれの不明の触手に少女が犯されている絵を日夜みて自慰していたとして、その水面下に本当に損傷は起こっていないのだろうか、彼はそのことに麻痺なり慣れなりを起こしているだろうが、それはタフでもなく貪欲でもなくて、その麻痺こそ損傷の結果ではないのか。
まして現代では、同様の苛烈なオナニーを、女性もかなり一般的にしているという状況がある、この前提を基にわれわれは本当に現在の「女性」を捉えられているのだろうか/ありていにいえば、現代の女性は、語らずあるいは自覚もなく、強力なオナニストという事実が潜行している可能性もあるのだ、われわれは著名なアイドルタレントのすべてがオナニーの実情を急に公開し始めないかぎりはこのことの真相を知ることはできないし仮定にも認めることがしにくい。
多くの女性の引き出しに、愛し合った彼との手紙のやり取りが保管されているというケースはすでに少ないだろうが、一方でPCの保存フォルダには、苛烈で多種多様な「オカズ」が大量に保管されているかもしれない、事実としてそのような女性はそこから急に愛や学門を拓き進めていくことができるのだろうか/われわれは現代において、女性を単純で強力なオナニストと仮定して眺め、状況や様相を捉えなおす必要がある。

アメリカ人女性の肥満者割合と同程度に、日本人女性はヘビーオナニストかもしれない。

ちなみに僕自身は、男性でもあるし、この時代いくらでもコンテンツがあるので、好き放題に自慰するが、その「オカズ」を漁ること共々、僕は己に制限を課したり、禁欲やストイシズムを試みたことはない、僕は好き放題にオナニーした上で、いつも愛のことを考えている/そしてどのような苛烈な刺激物を見せられても、それで性的嗜好が歪むということは起こらないし、そもそもオナニーに関連する性的嗜好で、実際の女性を眺めるということは起こったことがない。
つまり僕は、ノーガードでこの時代の、「苛烈なオナニーをやりこなし、その強度に耐えている」という実物になるが、最近になってこうしたことが、誰にでもできることではないということを知った/僕はどれだけの強度のオナニーをしても、女性に向けて愛より性欲が先行するということはないが、それはきっと特殊なことで、女性の側はどうだろう、女性は現代の苛烈なオナニーをやりこなして耐えられるのだろうか。
視点変えてこ | comments(0) |
男型の愛と女型の愛、そして老人の性欲
というものは、自己愛ではなくて、全体の幸福と豊かさに愛を傾ける、そういうものでなくてはならない、この愛を男型の愛と呼ぼう。
女というものは、そうした男型の愛の持ち主を、まさに愛の持ち主だとこころ打たれて、無条件で愛するようでなくてはいけない、この形の愛を女型の愛と呼ぼう。
こうしたことで、男というのは、大前提としてかわいい女の全てを愛していなくてはならない/女から男への愛は、給水のラインであって、男から女への愛は、スプリンクラーのごとくでなければならない、この形を安易に逆転させることがあってはならない。
男が安易に「君だけだよ」と言えば、荒れて性質の悪い女はほだされるというか好んで合意するが、そうして都合をよくしあったものが、けっきょくは互いを軽蔑しあう感情に行き着くのだ、男はバカでなくてはならず、浅知恵で女の希望に沿うと女は当の男を根こそぎ軽蔑するのだった。

このところ、女の勘が悪くなって、自らの手で男を、己の軽蔑するタイプへと押し出すことに、悪霊じみて長けているところがある/近頃で女と付き合っている男にろくなのがいなくなるのはこのせいだ。
男は男型の愛をもつから男なのであって、この男型の愛に女型の愛で反応しているうちが女も女だ、最近は誰もこの反応が悪くなり、男も女もまず可能性を失ってから交流しようとする、このことについては最近の女性はとんでもない無能になっていると認めざるを得ないところがある。
男をまず男型の愛から引きずり下ろして、それからどっこいしょと付き合おうとするから、男もみじめだし、女もとっくに醜いのであって、そこからオスがメスの乳でも揉もうものなら、そこにはもう老人じみた性欲のやり合いしか残っておらず、何の青春の断片もない。
最近の女性は、ひどく性的興奮に貪欲で、男性がいるとなんとかして自分の性的興奮のオカズにしようと第一にするから、そのような積み重ねの果てに、現在もう女が性欲以前に男に対して恋なり愛なりを向けるということがなくなっている/男型の愛も女型の愛もすっかり枯渇していて成り立たないのだが、代わりに老人じみた性欲しか交換されていない現状については、より責任の大なるは女性の側にあるかもしれない。

愛を向けているのに、性欲だけを返してくるのはやめてくれ。

この嘆きと請求は旧来、女から男へ向けられるものだった、しかし現在は女性の男性化が進んだため、女性も痴愚の男性と等しく、常に性的興奮とオカズを探す発想しか持たなくなっている/男性は歴史的に、この痴愚について踏み止まろうとする知識を与えられているのだが、ごく最近に男性化した女性は、歴史的に知識を与えられていない、だから本当に何の歯止めもなく、平気で男性を性的興奮のオカズに見立てて良心の呵責が一切ない。
しかも男の場合、性欲のことしか考えていないというのも、まだ自覚的で笑いどころがあるのだが、女の場合、自分でそのことを認めないからずっと無言で男性を性的興奮のために眺めているのだ、その点で女性が自分を愛ではなく性欲の主だと認めることはまずないだろう/一部の男性は、今も必死で女の子たちを愛そうとしているのだが、そのことごとくを無数の無言性欲で包囲して啄むのをやめてくれ、もはやそこに必要なのは愛ではなく、男型の愛を尽くそうとする者へ覚える義のこころなのだった、彼を平気でむしり殺すな。
視点変えてこ | comments(0) |
くっきり道と使える原理
の筋に詳しい人に言わせると、日本語の母音の並びは本来アオウエイであって、そのことには「言霊」というようなことがあるらしい/まあそんなことはあるのかないのか、われわれのような凡人にわかってたまるかというたぐいだ。
ただそんな僕にも、アオウエイの母音に「方向」があることぐらいは、感覚的にわかる、感覚的にわかるというか、そりゃ "Yeah" というのはどうしたって下から上に行かざるをえないし、マイケルジャクソンがシャウトする "Aw!" は、方向的に上から下へ降りてくるしかない/そんなことは、単純な発声技術でも説明がつくことだし、そもそも発声練習で「アイウエオ」の順を使うことはまずない。
何にしても、そういうスピリチュアル系の人がよろこびそうなことは、わずかも吸い上げてやらないのだ、わずかも信仰なんかさせねーというのが、僕のタチの悪いところというか、エグいところである、おれは具体的かつ直接的にカッケーことしか認めない、それでつまづく奴はつまづいて帰宅すりゃいいでしょというのが僕の思想だ、こんな考え方をしているから誰も味方してくれないのだ。
正月は、割と寝正月で過ごして、夢うつつの中で確かに、言霊に関する何かを見たような気がする、それでタチの悪い僕としては、「ああそうか、これで "くっきりさせる" ということができるんだ」と、大いに獲得と舌なめずりをしたのだった、さあ今年もガンガンやってまいりましょう。

われわれは、観測可能なものにけっきょく魂が震えることはない、つまりマッチョ男の握力が120kgもあると「すげえ」とはなるのだが、そのことに魂が震えて「わたしの生きている理由」に結びつけたりはしないということだ/F1のレーシングカーが300km/hで走って感動的なのは、人がそれで走るからであって、単にマシンだけが走行していても、それは巨大化したミニ四駆でしかない。
魂が震えるというような言い方も、あまりしたくないものだが、とにかく僕が本当に与することができるといえば、唯一そのことだけ、浮世のすべての冗談から離脱できる瞬間だ、僕はそのことをぼんやり思わせぶりにする勢力をたいへんネガティブに見ている、僕はくっきりしているものを愛しているのだ、僕はむろん宗教かぶれより江頭2:50のほうが神域に近いと確信している。
江頭2:50は、くっきりしている、そのへんのパンク気取りのピアス女よりはるかにくっきりしている、パンク気取りのピアス人間になって物憂げな表情をすることは誰にでもできるが、江頭2:50になってドーン!! とすることは誰にでもはできない、ほとんどの人はそんなことできない(できてたまるかよ)、江頭2:50はパンク気取りではまったくないが、非常にくっきりとしたパンクだ、ライブ中に甲本ヒロトの横に立っていても見劣りしないぐらいパンクだろう(シドヴィシャスでさえ江頭2:50にドーンされたら笑ってしまったかもしれない)。
言霊だか何だか知らないし、そのそれぞれの「方向」だか何だか知らないが、「これはくっきりさせるのに使える」と僕は気づいた、僕はこのくっきり道を行きたいと、新年からとてもノリノリなのだった。

「観測不能物を具体的にくっきり顕わす」が聖霊、「観測可能物をぼやかして思わせぶりにする」が悪霊。

髪を脱色してピアスを入れて物憂げな表情をしてみたって、それらはすべて観測可能物だから、それらをぼやかして何かあるふうに「思わせぶり」にするというのは、悪霊の仕業だ、くっきりしろ、魂(ソウル)を身に顕してくっきりするのだ、あるいは声に顕して、脳に顕して、知恵に顕して、作品に顕して、くっきりするのだ、そうでなきゃ言霊だのソウルだの観測不能物だのはただの与太話じゃねーか。
世界へのつながりというか、そりゃもともとつながりはあったけれども、その方法がよりsureに得られたわけだ、うーんもともとおれは、LSDなんかなくてもサイケの世界が直接観られるんだぜ、「春の力」もな……/それが「くっきり」具体化されてから、初めてそれが存在していると言えるわけだ、そりゃそうだな、そのことには言霊だか何だかの「方向」が重要という、おれにしかわからんナイスな話があるのだった、そこでもう一度繰り返して申し上げる、おれは具体的かつ直接的にカッケーことしか認めない。
正しく見ないとな | comments(0) |
明朗の安定供給タイプと、不明のケンカ腰タイプ
と考えてみると、こんな簡単な分類が出来る。
わたくし、安定供給の九折商店といたしましては、いつもユニーク、いつもユーモアと笑いを尊び、それでいてどこか斬新なideaと、思いがけず煮詰めた知恵などを、明るいソウルと共にご提供しつづけたく、ささやかながら自負なども示したい所存であります、そりゃいつも面白くないと誰もおれの話なんか読まねーだろ……
そこで気づいたのだが、人のタイプとして、僕のような安定供給を第一のモットーにしているタイプと、安定供給などは考えず、なんとなく根っこがケンカ腰、というタイプがあるようだ/僕にはこの「土台ケンカ腰」のタイプが、なぜそうなるのか根本的にわかっていない。
インターネット上では、さまざまな発言が為されているが、その中の多くは、1.土台がケンカ腰であり、2.発信者は自己表示にレスポンシビリティを持たず、3.不満と主張を強く持っており(けっきょく引き下がりはない)、4.根の深い「甘え」の気配があり、5.友人を確かに持たない気配がある、という性質で括ることができる、これは「不明のケンカ腰タイプ」と分類して差し支えなさそうだ、ケンカ腰なのに発想は甘えというところに大きな特徴があるように思う。

それで、だからといって、そのタイプがどうこうと、詳しくなってもしょうがない、僕はただ、「偽りのない安定供給タイプ」をオススメしたいし、自分自身もそのようでありたいと思っている。
「安定供給タイプ」、つまり、「どーもわたしです」と自己を公に表示して、いつもどおりのナイスなブツを、安定供給、いつもどおり、高品質でご提供できりゃ、それだけでいいんじゃないのかと、僕は思うのだ/もちろんその奥に、おどろおどろした怨みや憎しみや不満があるようでは、おっかなくてノーサンキューとなるが……
いつ見ても、中川家もサンドウィッチマンも、面白い空気を爆裂させてくれるし、いつ見ても、フット後藤は、ただならぬおもろいテンションで登場してくれるじゃないか、僕もそのようでありたいし(文学者)、そのようでなくては「他にどうしようもないですやん……」としか思えないのだ/ましてそこを、オープニングから「不明のケンカ腰」とか、ナンノコッチャにもほどがあるじゃないか(と僕は思っている)。
経験上、どうやら「不明のケンカ腰タイプ」は、諸事情から「偽りない安定供給タイプ」が好きではなく、どうしても「不明のケンカ腰タイプ」を続けねばならない理由があるようだ、その理由は何であるのか、もちろん他者には知る由もない、僕はその由を知る者となりたいのではなく、引き続き単なる安定供給タイプでありたいのだった、そんなわけで今年もやってまいりますのでみなさまよろしくご愛顧のほどを。

偽りなき安定供給が、当方のロマンであります。

別にそれを、美徳とか義務とか思っているわけじゃないが、安定供給がロマンそのものに信じられて、フツフツとくるのだから、これはしゃーない、こんなものはもう人それぞれの本分というものでございましょう。
「今日もやっているねぇ!」と、ささやかにお褒めと励ましのほどをいただければ、それで満足なんだろうな、だから今日も、偉大なるおれさまはやっているのである、よって不明のケンカ腰さんは、くれぐれも他店のほうへどうぞ、別に善し悪しの話ではなく、こうしたことには「何かある」のだろう。
視点変えてこ | comments(0) |
世界に名乗りを上げること2

に僕が、「九折空也といいます、趣味で歌とダンスをやっています、ここでちょっと唄って踊ってよいでしょうか」と言ったとする、これはいかにも話がおかしい。
何がおかしいといって、そこで僕が唄って踊ってをやりはじめたら、それは僕が自己紹介して「知り合い」になったから、「知り合い」の上で何かをおっ始めるということじゃないか、それはどう考えてもキモチワルイし、そんなことで唄って踊ってを見せつけられるのは知り合いの側はストレスだ(空気を読んで拍手させられるだけだぜ、つらい)。
そうではなくて、当たり前に正しい手続きは、僕が唄って踊ってをしているところ、それが妙にソウルに響き、「あいつは誰だ」「あんた何者よ?」ということになって、そこから訊かれて、「名乗る」という具合だ、そうでなきゃ唄って踊っては相手に何も届いていないってことじゃん/それをオメエ、知り合いになったからには強制的に見ろ、そして拍手しろ、という恫喝でやりこめるのはタチが悪い。
僕はいつも思うのだが、単に女の子をデートに誘うのだって、「知り合い」になってからデートに誘うというのは、根本的にヒキョーだと思う、だって相手は断りづらいじゃないか、「知り合い」に誘われたら/「知り合い」になってから、イイコトをしようと画策する、そういう浅ましい発想をせず、何かしら人としてソウルを響かせ、そこからデートに誘って「アンタ誰なのよ」と笑われるという、そのことをスタートにしないといけない、<<知り合いじゃないけど、アンタのことは覚えているわ>>という状態にならないと、それはソウルに届いていないということなのだ。

お互い、へっぽこでもいいじゃないか、まず世界に名乗りを上げよう、つまり「知り合い」の工作で自分の存在をインチキするのをやめよう/まずそのことを覚悟しないと、ソウルはいつまでも昼寝したままなので、これは覚悟して実行するよりしょうがない。
実際に、その覚悟をすると、ソウルが活動し始めて、いろいろまともなことが起こり始める/僕の友人は、これまでに幾度か体験があるはずだ、僕が咳を外すと店員さんがやってきて、「あの方は何かの先生ですか?」と訊いてくるようなことが、わりと珍しくないというか、いっそ定番の現象としてある。
人は、何を視ているのだろう、不思議なものだが、初対面から「ボス?」と言われたり、「何か、音楽の指揮者?」「芸術家?」「絵の先生?」と、まっさきに「あんた何者?」を訊かれることはよくある、だがこれはあくまで、知り合い術を放棄してソウルプレイヤーたるを選んだ後の結果だ、先に知り合い術をやめる覚悟をしないとこのことは性質として発生しない。
「人格」という言い方でいうと、自己紹介と知り合い術というのは、「人」の現象ではなく「格」の現象なのだ、立場も用事もないときに「格」を振り回すのはやめよう、年齢と共に格が拡大すると、もう弱っちい「人」を見せるわけにはいかなくなって、完全に手詰まりになってしまうから。

「もう一度会いたい」というのは、「もう一度唄って!」「もう一度あの話を聞かせて!」というのと同じだ。

どれだけ歌が上手に思えても、「もう一度唄って!」と求められるかどうかは別だ、「もう一度」を求められるというか、懇願されるというのは、完全に別の事象であって、それだけにこのことに食いついていかないようでは筋が悪い/どれだけ立派な「格」、どれだけ立派な身の上でも、その身の上について「もう一度聞かせて!」ということは起こらない。
ソウル(魂)というのはそういう性質のものだ、「もう一度あの光景が見たい」「何度でもあの場所に行きたい」、それと同じ次元に、「あの人に何度でも会いたい」ということが起こっている/だから名乗りを上げるということは、自己紹介を説明することじゃない、己の現象とソウルのありようをライブで示す覚悟だ。

できるオンナだね | comments(0) |
世界に名乗りを上げること

は、知人に向ける態度も、赤の他人に向ける態度も、基本的に変わりがない、初対面の外国の人に向けても変わらない。
そりゃそうだ、トヨタの製品が、外国の人に向けてはウケないとか、使えないとかいうことはありえない。
お互いに、先に立場が決まっている場合は別だ、相手が急に売り込みにきた訪問販売のセールスだとか、役所の人間だとか、国賓だとか、そういう場合は立場が優先される、そりゃ社会に生きてりゃ当たり前に誰だってそうする(これがまともにできないとただの社会不適合者でしかない)。
そうした「立場」がない場合、あるいは「ゆるい」場合、僕はどのように人と接するかというと、要するにソウル(魂)で接触しているらしい、それでデカい人には「デカいな」と接するし、かわいらしい人には「かわいらしいな」と接している、こんなことに知人も赤の他人も関係ない。

ワークショップ等の言い方でいえば、こうだ、僕がよく言うやつ、「われわれは今Aスタジオにいるけれど、隣のBスタジオに行ったって、おれの話し方は同じだし、何なら教えるとなっても、まったく同じ教え方だ」「お前らが常連だとか知り合いだとかそういうことは関係ない」と。
事実、僕はここに、「九折空也でーす、よろしく〜」という形で、何の前提もなくいきなり書き話しているのだから、こんなことに知人向けも他人向けもありようがない、誰が見ても「なんだコイツ」で、あとは読み進むうちに「ちょっとおもしろいじゃないかコイツ」と思ってもらえるかどうかだ、ただそれだけしかない。
僕は前もって、誰かと知り合いになろうとするやり方を好まない、そんなやり方は初めから蹴飛ばしているところがある、おれと知り合いにならなきゃならない義務がこの世界の誰にあるんだ、そういう鬱陶しいことだけはおれはやらないようにしているというか、そんなことをやっていい権利がおれにあるようにはまったく思えない。
「知り合いになってもらう工作」をするのは、たいへんキモチワルイわな、僕はそういうことを好まないので、このとおり何年やってもこのブログにもサイトにも「ファン」なんてつかないのだ、たとえファンがついても「誰だテメー」としか思っていないからな/そうして僕自身も、永遠に「誰だテメー」の扱いのままでいたいのだ、その「誰だテメー」に毎回答えるために、ささやかでも名乗りを上げるしかない。

知り合い術よ、滅びよ。

滅びよというのは言い過ぎかもしれないが、知り合い術はソウルプレイヤーの真逆にあるから、そこは峻別しなくてはならんのだ、<<自己紹介で名乗るのを金輪際やめよ>>、名前ってそういう機能のモンじゃないからよ、この現象とソウルの主が九折さんというらしいというだけで、それ以外に人の名前なんか知り合いになってもしょうがない。
試みに、自分の名前を「○○△△です」と名乗ってみるとわかるのだが、そのあとって、職業・住所・出身地・学歴とかを続けそうにならない? それって履歴書の情報であって、「身の上話」からの知り合い術だから、名乗るってそういうことじゃないんだよ、世界に名乗りをあげろ、世界の側はあなたの出身とか学歴とかキョーミないよ、あなたの現象とソウルを示してそのことに名乗りを上げろ。

できるオンナだね | comments(0) |
新年の抱負
年の抱負、なんて考え出すと、たくさんありすぎてキリがない。
とりあえず、打開的にヤリます、ヤリまくります、ということと、なんというか、生産量を爆上げしたいかなと/あと、「世界に名乗りを上げさせる」だな、このことは「対等」ということと絡み合っている(もちろん意味不明だ、この書き方では)。
生産量を爆上げしようとすると、やはり、生産量という次元そのものを越えねばならず、そのためには、自分で年末に書いたことがヒントになるだろう、元あったやさしさのところに帰るのだ/といって、このことが一番、妨害されまくるパターンだから、降り注ぐ妨害のことを思うと今から気が重いのではあるが……
「対等」というと、「平等」ということで、何やらうつくしい価値観のように思われているが、いやいやとんでもない、「対等」というのはたいへんナチュラルに怖いよ、ありとあらゆる窓から常に「対等」な人が飛び込んでくるんだぜ、そんなおっかない世の中はこれまでになかったぞ。

まあそれはそれとして、恋あい論も書かねばならないし……忘れそうなのでメモしておこう、おそらくタイトルは「恋あいは何も起こらないのが正しい」になると思われる。
「対等」というのはおそろしくて、対等というのはつまり、「四十年間、死力を尽くしてきました」という人と、「四十分間、頑張ってみました」という人が、「対等」になってしまうということだ、このびっくりな仕組みが、とても身近に浸透してきてしまっている/「対等」ってつまり「永遠に差分は無しね笑」ということだから、なかなかそれだけで恐怖じゃないか。
「対等」ということに関連して、「視える」ということもそうなのだが、どういえばいいのか……僕のところに、今あれこれ勉強しに来ている人がいるという状況があるが、いくら勉強しに来たとしても、おれのことを見て「がんばっている」と見えないなら、おれから学べることなんて一ミリもないぜ、これがまずいのだ、だいたい自分が頑張っていることだけ見えておれのことは頑張っているとは見えないのだから、おれから学べることなんて何一つない/人は自分の視える先にしか進めないものだ、たとえどんな不本意なものが「視える」にしてもだ。
そうして冷静に考えると、新年だからといって何らイケイケになれるというわけでもないのだが、でも新年だからイケイケにいこうかな、けっきょく最後に通用する外貨は「学門」という一言だと思う、誰が最後まで学門に食らいついてゆけるだろうか。

学門に差がある世界を夢見ている。

「対等」って怖いよなあ、「対等」の強制性があるから、学門の差において矛盾が生じる、この矛盾が、人の絆を破壊してまわるのだ/「対等」ってつまり、自分よりスゲー奴を認めない、殺せ、という思想だぜ、そのへんが僕にはわからない、僕は自分よりスゲー奴はただ「スゲー」とよろこぶようにしか捉えられない、自分よりスゲー奴がいない世界とかどう考えてもありえねーだろ。
まあしかし、「対等」というのは怖い、ヘッポコ新入社員も、業界で名うてのベテランも、「対等」でないといけないのだ、だとしたら名うてのベテランのほうは大丈夫だが、ヘッポコ新入社員はもう自己を壊滅させるしかないじゃないか、うーん新年の抱負から遠ざかってしまったが、とりあえずそういう壊滅野郎のことは見ないようにしよう、僕は今年は「学門に差がある世界」を、引き続き夢見ていくことにする。
バカをやろうかあ | comments(0) |
謹賀新年

様、新年明けましておめでとうございます、本年もどうぞよろしく。
平成最後の、ということで、卑小の身ながら一般参賀に行って参りました、ものすごい人の数で……お出ましを拝するまでにけっきょく四時間以上並んだな、陽射しが割とあたたかくてそのぶんは助けられたけれども。
天皇皇后両陛下ならび皇族の方々がガラス向こうにお出ましになると、僕はなんというか、思っていたよりもはるかに「こええ」と感じた、今上陛下は古今になく庶民に近しくしてくださる方でやさしい人となりであらせられるけれども、それにしても「うぉおん、なんつーか、やっぱり庶民とは完全な壁があるというか、えげつねえ結界でも張られているのか、目の前におわす一族が、何かとってもコワイですけれども!!」と感じた、このビクッと凍りついてしまうナゾの感覚は、八年前に伊勢神宮で何か黒装束を着た人の姿を見たとき以来だった。
そして、マイクを通して天皇陛下のごあいさつというか、そのお言葉をたまわる感じになるのだけれども、その声が、お年に関係なく異様に「強い」……何か知らんが、僕にはメチャメチャ「強い」声に聞こえた、何かでバシッと縛られる感じがするんだが、とにかく想像していたものとはまったく異なる厳しさがあった、あれが「帝(みかど)」というものか、とてもじゃないが僕のような胡乱者が入り込めない世界だというのがよくよくわかった、僕が紛れ込もうとしたら結界で焼き切れて死ぬのではなかろうか。

不思議なことに、皇宮の中は時間が止まっており(そんな気がするというだけだが)、皇宮内の世界は、大正か昭和か平成なのか区別がつかない、見分けはせいぜい人々がスマートホンとデジタル一眼を持っているということぐらいだろう。
十万人が四時間も待たされるのに、不思議だ、いつもどおり奇声を発する子供が一人もいない、駅前のケンタッキーですら順番待ちすると二分で子供は奇声を発するのに、奇声を発している子供は一人もいなかった/そして、家族連れが多いのだが、なぜかものすごく久しぶりに、家族同士の「仲が良い」という光景を見たように思う、何しろ中学生ぐらいの娘さんが母親をスマホで撮影したりしていた。
僕は天皇制やその歴史についてあまり詳しくないが、なぜか、日の丸の手旗を持って、コート姿のおじさんたちが陛下のもとへぞろぞろと歩いて行く、あの景色を、ずっと昔に見たことがあるような気がする、それはもちろん記憶の錯覚だが、何かそれだけではない別次元の記憶がどこかにあるような気がする/ちなみに、皇宮警護官の振るまいたるや、ワークショップ用語で言うと「顔を使わないこと」、またその相互が「呼応」して「同時に動く」ということが、これほど完璧に表示されていた例もない、逆にそこまで魂を投げ込まないと務められない仕事いうのは本当に大変だと思う、おれにはムリだなあとしみじみ思った。
天皇皇后両陛下、ならびに皇族の方々がお出ましになって、みんなでワーと歓声をあげて終わりだが、不思議なものだ、その参賀が終わると帰り道、とたんにみんな気が抜けて、浅草を歩いているヒマなおっさんの群れ、みたいなムードに変わる、僕はつい可笑しくなって、「みんな急にIQ下がりすぎだろ」と割と大声で言ってしまった。

本年も何卒宜しくお願い申し上げます。

天皇家の実物などを拝すると、僕などは、自分がしょせん、だらしないリベラルのいかれぽんちでしかないのだなあと痛感する/ただそんな僕にも、こうして「国」ないしは「クニ」というものが本当に "ある" のだなあということぐらいはわかった、僕のようなちゃらんぽらんには、一言でいって「こわいっす、おっかないっす」という感興しか持てなかったが……僕には「結界」のノウハウがない(あるわけねえよ)。
元旦には氏神様のところへ初詣にも行き、おみくじは大吉をひいたぞ、おとそを飲んでお雑煮をたべて、ひとしきり正月らしいことをした、「笑ってはいけない」も「よゐこ無人島」もサイコーだったね、紅白では桑っちょがまたも鬼神の如きはたらきを……あとは録画したいくつかの漫才を観て、ウルトラマンDASHも観ないといけない、そうして年末年始は割と忙しいのだった、本年もどうぞよろしく。

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