☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
WS報告010(1)/明るく気長にいきましょう
ークショップは着実に成果を上げている。
何しろ、当初はすべてがちんぷんかんぷんだったワークが、今はみんな「楽しみ」になっているのだ。
そりゃまあ、成果が上がらんものだったら、こんなアホな試み、誰が連日朝まで野ざらしで付き合うかよ。
余韻法は「楽しみ」になってきたし、「人の勢いを聞く」も「楽しみ」になってきた、「右半身」を獲得したかもしれない人もおり、成果は思いがけず急ピッチで得られてきている、それってふつうこんなペースで得られる成果じゃないからな。

なんというか、改めて、明るく気長にいこうな、と祈りたい心地がする。
みんな、意外に必死についてきてくれているところがあって、自覚があるかどうかわからないが、短期間にえげつない濃度の体験を得ているのだ、どうかリアクションに転倒しないように、僕はこころの底から祈っている。
転倒といって、われわれが「パン祭り」と呼ぶところのパニック症状も、ナイスな命名があって笑える管理下に治まってきたので、まあ体勢としてはこれ以上はない/そしてパン祭りを数回乗り越えた人から順に、「やっぱ学門なんだわ」と気づく仕組みになっている、それは僕がそう仕組んだことではなく、もともと学門というのはそういうものらしい(学門は実感に反するアンサーをもたらすので)。
パン祭りでダウンした人が、世田谷公園のコンクリの上で、「うぐぐ〜」とうつぶせに倒れていた、参っているのではない、学門をしているのだ、<<本当に取り組んだとき、人がブッ倒れない学門などない>>/彼女はこりもせず、再び立ち上がると、なぜか「右半身」を獲得していた。

すでに、「すごい夏」を体験している可能性がある。

われわれは現代の暮らしの中、ぼんやりしているから、自分が何をして、何を体験しているのか、しばしば見失いがちだが、われわれが笑いながら過ごしているこの夏は、後になって「すごい夏だった」ということになるのかもしれない、なぜかブッ倒れたりゲラゲラ笑ったりしながら、19時から朝の5時まで、休憩ナシで過ごしている、<<なぜか誰も休憩を発想しない>>、これはごくしょうもないことなのか、それともひょっとして……これはとても楽しみなことだ。
明るく気長にいこう、まだ始まったばかりのことだし、この時点で何も感情的になることはない、パン祭りはしばしばしんどいけれど、まあ僕が過去にブッ倒れてきた回数のほうがまだはるかに多いだろう、気長にいこう、今見えてきている地平がどういうスケールのものなのかは現時点では誰もわからない。
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パーティ報告83(4)/気分のいい一日だった
か知らないが、今回のパーティは、五周年……とは特に関係なく、初めから妙に気分のいい一日だった。
何か、ひとまず、全体的な軌道に乗ったのだと思う、そして軌道に乗ることによって、不毛な「問答」が根源的にカットされたのだ、別に誰もそのように打ち合わせしたわけではないが、今回は無条件に「上位の空気」が空間に付与されていた。
だからこそ逆に、本当に、五周年おめでとうございますということでよいのかもしれない、僕は表面上、五年前より無慈悲で横柄で暴君になったが、結果的にそれで空間は上位に安らぐのだから、けっきょくこのあり方が正しいのだと判断せざるをえない。
まあ、暴君といっても、けっきょく終始おれが全体を楽しくしているわけだからなああああ、誰がつまんねーものを五年間も続けられるかよ、おれが意地で続けてもつまんなければ誰も五年間も続けて来ねーわ。

あ、たった今、若いヤツから連絡があって、「神田で七軒目のBARを制覇したところです」と、報告されて思わず声に出して笑ってしまった。
「圧縮、リピート、一調子」という話で、そういうことを話したのだ、「別にBARに飲みに行ったからって、何も楽しいことなんかねえよ、そうじゃなく、平日の仕事あがりに七軒のBARを巡るなら、そりゃちょっと値打ちがあるねってことなんだ」「圧縮するんだよ、面白い旅先なんか存在していなくて、自分が面白いヤツになって旅に出るってことなんだよ」と、そういう話をした、そのことを即座に真に受けて(実に懸命なことだ)、即日という感じで行ってきたらしい、まあ少し面白いヤツとして今神田の街を歩いているだろう、ウーン若いというのは実にすばらしいことだな。
気分のいい一日があって、今もこうして、気分のいい夜が続いている、このとても小さなことが、後に大きな差になってくるのだ、本を読んで勉強しようか」というとき、コイツは一冊が基本ではなく七冊が基本になるのだ、それによって他人の七倍生きることになる、こいつの一年間は他人の七年間に相当し、当人はそれが当たり前だから、知らないうちに骨の太いヤツになってくれる。
「たった今七軒目を制覇してきました」と報告されたので、「速いな、それは間に合っているな!」と返信しておいた、こういうまっとうな、若年と年長者のやりとりがあるのは、よい夜だ、気分のいい日々が続いている。

「九折さんに、お返しができなくて……」「お返し? はっきり言っておいてやる、"出世払い"だ、そしておれにお返しなんか要らねーから、お前の後続に返してやれ、それでペイメントは合うだろう。お前から見ておれが"異次元"だというなら、お前も後続から見て"異次元"と言われるようになれよ、それでしかおれの本懐なんかありえねーよ」

「おれだって、過去に色んな人にお世話になって、教わって、今さらお返しなんかできねーから、お前らにぶつけてんだよ、だからお前もそうすりゃいい、それでつじつまが合うだろ」と、これはパーティで話したとおり、そしてこれまで生きてきた中で僕がいつも話してきたことのとおり。
気分のいい日々のために、どいつもこいつも目を覚ませ、さあ誰から目を覚ましていくかな、「お前から見ておれが異次元というけど、甘く見るんじゃねえ、おれからお前らに見せているものなんか、ほんの序の口の序の口だぞ」。
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パーティ報告83(3)/「カッコイイ」の喪失
のごろよくヒアリングしているのだが、現代の多くの人は、何かを見て「カッコイイ」とは、あまり感じられないらしい、つまり「か、かっけぇ〜」という直覚・悟性の機能を喪失したと言える、このことが水面下でわれわれの根幹を無力化・不毛化している。
僕はよく、「かっこよくなくちゃ話にならねぇ」と言うのだが、ここには僕の見落としがあったのだ、僕は「かっけぇ〜」という直覚と悟性が、万人において不具なく機能しているという前提でいた、だが実際には「かっけぇ〜」という直覚の現象がゼロないしは「混濁して常に曖昧模糊である」という人が多数派なのだ、多数派と言うより「基本的に全員そういうもの」と捉えておいたほうが実用的かもしれない。
「かっこよくなくちゃ話にならねぇ」といって、まさかその「カッコイイ」という直覚が前提として失われているのだとは、僕は考えていなかった、もちろんここ一連の学門と接続すると、「そのカッコイイという直覚が、器官として横隔膜に担われているのかもしれんね」という話にはなった。
さりとて、それで納得して何の解決になるわけでもなし、僕はこれまでガンバってきたつもりの、「おれだってそこそこカッコイイんじゃない〜?」と見せつけてきたはずのパフォーマンスが、基本的にすべて空回りだったことに、ハァ〜とため息をつきながら、まあしゃあないかと進んでゆくしかないのだった、もうこういうことには慣れたな。

ヒアリングしていくと、つまり、このごろは「イケメン」とか「イケボ」とか言われるが、そのイケメンやイケボというのを、別に「カッコイイ」と思っているわけではないらしい、イケメンはイケメンだしイケボはイケボだが、それに付随する感動というものは一切ないそうだ。
何か流行の歌があったとして、それは聴きやすいから聴くが、たとえそれがイケボでイケているふうの歌詞だったとしても、別にその歌い手や歌そのものが「カッコイイ」と感動しているわけではないらしい/何なら「どんな人が歌っているのかは知らないというか、そもそも見えてこないし、見てもフーンとしか思わないし、記憶にも残らない」そうだ。
このことに、僕は逆転的に、僕自身の特異性を認めねばならないことになった、つまり僕は、なんでもかんでもを基本的に「カッコイイ」と感動しているのだ、僕にとってマイケルジャクソンは超カッコイイし、なんだかんだ、北島三郎とかも歌い出したらカッコイイ、ピーターフォークはカッコイイし、高田純次(ジョニーデップ)だってカッコイイし、腕利きの板前さんだってカッコイイ、デカいトレーラーの運転手が車庫入れする技術だって、見ていると「うお〜すげ〜かっけぇ〜」と僕は感動してしまう、この感動が実はきわめて特異だということ/僕はけっきょく、何のガマンもなくこの「かっけぇ〜」だけですべてを得てきたというのが事実だ。
「カッコイイ」という直覚の喪失は、同時に、「自我がメラウルワーすることしかわからない」という現状を暗示しているのでもある、イケメンとかイケボとか言っているのも、それによって自我がメラウルワー方向に刺激されるというだけであって、そのイケメンやイケボの当人のことを「カッコイイ」と感動しているわけではまったくないのだ、つまりメラウルワーホルモンを分泌するためのトリガー薬剤に用いているというだけであって、それは別にたいしたことではないが、そのこと「だけ」を積み重ねて生きるというのは、実に闇の深いことになる。

僕は、えげつない文章・文脈・文体を、えげつない速度で産み出せるようになったら、それが「カッコイイ」と思ったので、こうしてものを書くことを選んだ。

「カッコイイというのがわからないということは、何もすることがなくなってしまうっていうことですよね?」「まさにそのとおり」、まさにそのとおりであって、少しでも冷静に考えれば当たり前のことだが、われわれはこの世のすべてを自我メラウルワーで消費するためにこの世に生を享けたわけではない、「カッコイイがわからない」という致命的な損失は、表面上は隠蔽されているが、隠蔽されていたとしても致命的なことは変わらないので、主要なテーマとしてフラグ付けをしておかねばならない。
「カッコイイ」ということへの、sureな直覚が恢復されないかぎり、いかなる激烈な感情も、激烈なのみであって「命」を持っていないことになる、「カッコイイ」ということは、幼児性においては漠然としたものだが、学門が進むにつれてよりいきいきと、クリアで明確なものになっていく/「カッコイイ」というのは単に「命のピーク的出現」ということに違いないが、このことも蒙昧に頭を垂れる者から順に目の前の道が啓けてゆくだろう。
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パーティ報告83(2)/速さと前線

曜の夜のことが、月曜の夜になって、ようやく冷静に眺められるようになり、つまり二十四時間やって二十四時間休んだ後にようやく眺められるようになるのだが、たかが四十八時間前のことが、はるか昔の思い出のように感じられる。
まあ、二日前のことが最近というのは思い込みだし、二千五百年前のことが大昔というのも思い込みだ、そんなものは幻想にすぎないのだと、僕ではなくアインシュタインが言っている、このことに反論しようとする者は、アインシュタインより「時間」の専門家でなければならないだろう、僕には到底ムリだ。
パーティでは「速さ」のことが言われた、例によって「速さに文句を言う奴はいない」と、そして速さというのは生産性につながっている、どんな高度な能力も思いも、「間に合っていない」という一点ですべてオジャンになるからだ。
「間に合っていないから、余計に急いで焦るんだよ、出るところが間に合っているからこそ、そこからゆっくり動けるし、ゆっくり考える時間も与えられるんだ」

一日が、二十四時間だという捉え方は、実はほとんど意味が無い、二十四時間というのはただの時刻表の問題でしかない。
圧縮、リピート、一調子なのだと、後のジョナサンで話したな、この「圧縮、リピート、一調子」という捉え方には、実は奥深いエッセンスが秘められている、このエッセンスだけで人は相当なところまで行けるが、なぜ相当なところまで行けるかは、そこへたどり着いてからでしかわからない。
「時代の問題だということで、ごまかしてここまで来ているけれどもね。もっと、前のめりになった自分のヴィジョンを持て。出来る出来ないの以前に、そのヴィジョンを持たないと……何かステキなものが、向こうから降ってくるってことは決してないよ、ボーッとしていると、本当に驚くぐらい、何もないまま年を取るだけだよ、そこは覚悟しておけ」
「遅いんだよ。なぜ遅いかというと、前線に立っていないからだよ。<<前線に立ってからでないと、見えないものがある>>んだ、むしろ前線に立たないと何一つ見えないだろうな。前線に立って、ヤケクソになることも許されず、前線に立って、頓死しながらもなるほどそうかと、いろんなことを盗んで学ぶしかないんだ、言われてみたらそりゃそうだって、本当は誰だって知っているだろ?」

一日は二十四時間じゃない、前線に立たないなら一日は0時間だ。

前線に立たないなら、人は自動的に「消費」を選んでいることになる、何を言っているかわからないかもしれないが、今何が言われているかなど、前線に立つまでは永遠にわからないのだ、わからないまま消費していくわけだ。
「前線というと、たとえば、新入生が大学に入学して一日目とかだな、そういう現場に立ったとき、<<これから先のことがすべて自分の選択によって決まってしまう>>ということを、誰だって知っている、一瞬ごとに決まっていくんだって」「前線の、つまり、命がある瞬間だね、その瞬間というのは、刹那のものだから、ちょっとでも遅れると、もう間に合わないんだ、そうして出遅れているうちは何一つ本当のことは見えてこないんだよ」

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パーティ報告83(1)

19時開始→朝5時退店→移動してファミレスに13時まで→歩いて帰る→途中カフェで休憩→さっき返ってきた、まもなく二十四時間。
もちろんフラフラだが、逆にもう、疲れるということはなくなった、ワークショップの成果でもあり、僕だけじゃなくて誰も疲れやがらねえ。
パーティは、いつもどおりだったが、同時に、どれだけのことがあったかはまったく説明しきれない。
五周年ということで、メンバーが店側に仕込んでくれた、ケーキとシャンパンをいただいた、もう遥か昔のことにように感じてしまうが、あれは昨夜のことだったか。

昨日から今日にかけて、どれぐらいもらい物を頂いたのだろう。
ナマモノは先に食べて、あとは数えないともうわからないが、土産物やら高級スコッチやら、タバコの差し入れやら、何か急にたくさん頂いてしまっている。
そしてなんと、ナイスガイが、「五周年だから」ということで、なんと五万円もパーティ費用として寸志をぶっこんでくれた、なんてオトコマエなのだろう、いやオトコマエどころか、厚意が巨大すぎて恐懼してしまった。
僕はもし、愛されなければ、なぜ愛されないのか理由がわからないが、仮に今愛されているとして――愛されていると判断するよりないとして――やはりなぜ愛されているのか、理由がわからない、いかんさすがに眠気でぶったおれそうだ。

誰も疲れない、そのぶん、すさまじい一夜だった。

この一夜に、何があったか、とてもじゃないが全部書けるわけがない、二十四時間で何が起こったものやら、よく二十四時間で足りたな、と気が遠くなる。
まあ、いつもどおり楽しかった、「いつもどおり」ではあるが、その「いつもどおり」が回ごとにヤバくなっている事実があり、今回のことを含めると、僕は「五年も続けてきてよかった」と思った。

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第83回Quali's Party[8月18日(土)]無事盛会!

8/20 Quali tweet> なんかフツーに健全で爆裂でイイものになったよなあ〜 pls entry

Recent entry: ひろみ、ゆか、ゆき、あきら、しおん、ともこ、まなみ、ゆうさく、かず、トム、くおり
日時:2018年8月18日(土)19時〜23時
場所:原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB


キラキラ次回[9月15日(土)]加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


今回も無事盛会でした、ありがとうございます!
まあさすが五周年って感じだったな、わっはっは〜 九折

宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!

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WS報告009(2)/たけむすあいきともうします
はすべてのことにシロウトなので、何もエラソーなことは言えないが、「たけむすあいきともうします」というフレーズがグッとよくて、これで朝方までさんざん遊んだ、みんなゲラゲラわらった、飛び込んでいったものが「な、なんだこれはwww」と。
まあむつかしいことは、専門の方がよそでバッチリやってくれるだろう、だから僕はテキトーにお茶を濁しておく(文面に残す資格がないので)、まあ別にこの世界で僕一人ぐらいコンコンチキでも世の中は破綻しないだろう。
「永遠の命」だけが本当のYesに到達しうるわけだが、それでいえばつまり、僕と出会うすべての人、またすれちがうすべての人に、永遠の命を与えられるようであれば何よりだろう、もしそこで永遠の命を与えられるなら、誰もそこで争う理由はないのだ、われわれは永遠の命が信用ならんし目に見えんからウゴーと争い、「生」を有利に引き延ばそうとするのである。
「たけむすあいきともうします」という、フレーズが好き☆、ということぐらい、許されるだろう、ソフトアイですよソフトアイ、そして真空の気がズバッと、こりゃ時間軸に関係ない世界のものだから、速いとか速くないとか……繰り返しになるが、そこで接触して永遠の命が与えられるなら、争う理由はその瞬間になくなってしまう、それで飛び込んできた人も「何をしに飛び込んだかわからなくなる」という現象に見舞われてゲラゲラとなる。

命令法というのは、具体的に「露骨」にやるだけでも、十分値打ちのあるものだが、本当のところは「命」であるから、「永遠の命」という学門の定義に則らなければ、本当の命令法にはならない、これを今回は「真・命令法」と呼んだ、アホみたいな呼び方だがまあ別にいいだろう。
いやあそれにしても、毎週毎週、次のステップに進めてゲラゲラなるな、だいたい午前三時ぐらいになると、僕が一人新しいステップに進んで「やった〜バンザーイ」となるので、みなさんも祝福でバンザーイとなるのだ、誰のためのワークショップやねんという問題もあるが、このときがみんな一番幸福なようである。
繰り返しになるが(しつこい)、すれ違いざまにでも、永遠の命が与えられたら、もうわれわれは争う理由がないのだ(スポーツのようにルール的に戦争を固定されていないかぎりは)、われわれは永遠の命を蹴り飛ばして争う理由がない、このとき真のYesが生じ、あとは刹那の「爆発」を捉えると、Yes以上の「産み出し」があるので、よりナイスになる、うーんなんだこのテキトーな説明は。
まあ僕は、すべてのことについてシロウトなので、エラソーに解説を文面に残す資格がない、来てくれた人にはいくらでもホントのことを口頭で話すがね、ちなみに昭和三十四年の合気道新聞第二号にも、「愛は争わない」という開祖の記事が書かれてある、僕は「永遠の命」が真の「愛」だと定義するのだが、そのへんも僕はシロウトなので詳しく知りたい人は専門家のところにゴーだ。

ぶつかるでもなく、いなすでもなく、永遠の命を与える(何ならそこに産み出す)。

まあ僕はよろこんでいるので、説明なんかどうでもいいかなーと……まあ説明しても伝わらんので、実地でやっているわけだし/僕はけっきょく、武人ではないので(あたりめーだ、文学者だっつーの)、武術そのものに道はないな、争いたい人はアサルトライフルを持って争い合えばいいじゃないか、僕は兵士ではなく民間人なので国際法で庇護プリーズである。
「たけむすあいきともうします」という、合気道新聞第一号のことばが好きなのだ、僕は永遠の命イコール愛が好きで、すれちがうすべての人にそれが与えられたらその他のことは知らねーということを目指している。
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WS報告009(1)/ユークリッド三角形の内角の和は永遠に180度
「永遠の命」という話がよくウケて、それでワークがグッと進んだ、全員が(マグレもあるが)余韻法の糸口を掴むことができた。
この、糸口を掴むというのがスゲーことなのだが、なぜスゲーかというと、肝心なことはすべて雲を掴むような話だから、その雲を掴んでいるうちに糸口を掴んだのだからこれはスゲーことだ、この糸口に一生触れられないのがフツーなのだから。
「永遠の命」という言い方は、正しくもあり、間違ってもいる、何が間違っているかというと、「永遠の命」といって、命は永遠なのが当たり前だからだ、このことには一般に大きな誤解がある。
「永遠」というのは、何もごたいそうなことではなく、「時間の流れと関係ないヤツがいくらでもあるやろ」というだけのことだ、たとえば三角形の内角の和は180度であって、これは去年も今年も変わらない、一万年前も一万年後も変わらないだろう、「時間」という尺度に無関係なのだから「時間軸がない」「時間そのものがない」、だから永遠だというだけだ、三角形の内角の和が古くなったりはしない、モーツァルトも古くはならない。

「永遠の命」というのは、誤解されているのだ、「永遠の命」というのは、「もし、DNAうんぬんのタンパク質でしかないわれわれに、『命』なんてものがあるのだろうか」という視点から始まることなのだ。
そして、もし利己的タンパク質のカタマリであるわれわれに、「命」なんてものがあるとしたら、その為すべき命令、為すべき勅令のようなものは、時間軸のどこかからは出現していないわな、時間軸と関係ないところから出ているわな、ということだ。
「永遠の命」というテーマは、われわれが永遠に生きるかという話ではなくて、そもそも「命」なる、時間軸と関係ない事象がこの世界にあるのかないのか、という話だ、だからもし、そんなものは「ない」と考える人は、どうぞ命のない生を過ごせばよいし、そういうものが「ある」と考える人は、命ある生を模索すればいい/もちろん僕は、この世界に生まれてきたすべての赤子に、「命なんかないんだよ〜」と吹き込んで生きる根性はない。
「永遠の命」というのは、「もし『命』なんてものがあるとしたら、それは有限のわれわれにはカンケーない、つまり時間軸にカンケーない、永遠のところにあるはずだ、そりゃ数学的にね」ということだ、この話がよくウケた、そしてなぜこの話をする必要があったかというと、この「永遠の命」を前提としてしか、われわれは真の「Yes」に到達できないからだ/有限の生は常に焦っており、Yesなんて寝言をやっているヒマはないのだ。

「あなたたちの命は(もしあるとしたら)どこにありますか〜」「永遠、にあります〜」

そりゃそうで、単に数学的な話、命というのはナマモノの話じゃないし、生鮮品の話ではないのだ、われわれの生身が生きているナマモノなのであって、そこにナマモノじゃない「命」が関係しうるか、しえないかの話なのだ、そして「命が永遠ならまあいいか」と学門が進まないかぎり、われわれの生身が本当のYesに到達することはない。
「永遠の命」といって、なんだそりゃと僕にケリを入れる前に、聖書やヨーガ聖典にケリを入れるように、永遠の命とか言い出したオリジナルはおれじゃねえよ、おれがウソつきというのは、おれがいつもテキトーにいう「ボクは童貞ですから」というあたりはウソつきなのであって、「永遠の命」がウソつきかどうかは、ありとあらゆる神殿のボスにケリを入れにいってくれ。
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WS報告008(4)/聖域とヒューマニズム
れわれは互いに助け合って生きるべきで、互いにヒューマニズムを尊ぶべきだ。
けれどもヒューマニズムは、「聖なるもの」ではない、ヒューマニズムを聖域に混入させてはならない。
ヒューマニストはしばしば、ヒューマニズムを価値観の最上位に置くが、それは知らず識らず「ヒューマン」をこの世界の最上位に据え付けていることになり、それは博物学的にも偏った考え方となる/ヒューマニズムをもって「聖なるもの」と拮抗せしむるがごときは、感情以上の根拠を持たない。
ヒューマニストは、ヒューマニズムにあふれてはいるが、多くの場合で、愛にあふれているとは言いがたい、ヒューマニストはしばしば恣意的に「困っている人々」をサーチし、困っている人々に援助を差し伸べるが、困ってはいない健やかな人々に愛を注ぐ力は持たない/結果的にヒューマニストの人々は、困窮なく愛し合うことへ登頂した健やかなる人々には背を向けて、不遇から苦しみ困り果てている人のみに鷹の目を向けるスタイルに行き着くことがある、そのようなときわれわれはヒューマニストの群像に「聖なるもの」が失せていることを嗅ぎ取り、不穏を覚える。

「聖」という字には、「耳」「口」が含まれている、辞書によるとこの字は、「聞きとる能力と、それをまっすぐに述べること」という字義らしい。
「聞きとる」こと、それを「まっすぐに述べること」……それに比較すると、ヒューマニズムというのは、己の心中に「思うこと」を基とし、己の内から湧いてくること、「聞く」よりはむしろ「言う」こと、さらには「言わずにおれないこと」に類している、ここにおいてヒューマニズムは、貴重なれども「聖なるもの」ではないことが改めて確かめられる。
まともな生者と死者のうち、ヒューマニズムに感謝を覚えない者はおらず、またそれを讃しない者もいない、されども、なおもヒューマニズムに愛を認めるか否かについて、賢明なる者は距離をとって慎重だ、<<ヒューマンごときが愛を自家生産できるのか?>> <<あの聖なる「愛」を?>> 仮に、神の言葉を預かったとされる預言者の存在が真実だったと認めた場合においても、もしヒューマンが「愛」を自家生産できるのであれば、愛については神と呼ばれる者に頼ることなく、われわれの「思う」をもって定義すればよいことになる、「われわれこそが愛の生産者であり創始者であるから」と、われわれは己に愛の「宗家」たるを自負することができる。
われわれは「生物」の仕組みを、かなりのていど解き明かしてきたように思える、DNAの解析情報はすでに基礎的なデータベースとして入手された、けれどもわれわれは、なぜそのタンパク質群が「生きろ」という命令を帯びるかについては解明できない、われわれは生物の仕組みを知ることはできるが、そこに宿る「命」の仕組みを知ることはできない/われわれはわれわれの手によって、タンパク質に命令を与えることはできない、われわれは「命」がどこから与えられているかを知らず……同様に「愛」がどこから与えられているのかも知ることはできない。

「あなたは感動した、それは何よりのことだ、そこであなたに問いたい、あなたはどういう仕組みで『感動』したのだ?」

われわれは、もっとも佳いときに、感動したり、よろこびを覚えたりする、われわれはそのことをよく知っていながら、どのように己に「感動」が生じているのか、またどのように「よろこび」が生じているのかを知らない、「よーしパチンコに行ってストレス発散しよう」「宝くじが三億円当たったらうれしいな」という発想と行動はできるが、われわれにとって「よーし感動しよう」という発想と行為は不可能だ、よほどのマガイモノでもやらないかぎりは。
われわれの身に起こる、あるいは霊魂に起こっているのかもしれぬ、もっとも佳き何かは、感動や愛のたぐいとよく知られていながら、<<それがどのように生じているかをわれわれは知ることができない>>、よってそれを人智外のこととして、われわれは「聖なるもの」と呼んだ/ヒューマニズムはよくわかる、よくわかる善いことだ、それはよくわかるからこそ、人智の内にあるものであり、だからこそ「聖なるもの」ではない。
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WS報告008(3)/ヒューマニズムの肯定と否定

ワークショップの、モットーがひとつ決定した、「ヒューマニズムの否定」だ、もちろんヒューマニズムを全否定できるほどわれわれはタフではありえないが、ヒューマニズムを残存させているうちは、われわれは命だの愛だの、エコーだの世界だのに会うことはできない。
われわれは、人間であり、ヒューマンなのだが、このわれわれがヒューマンであるということを、われわれ自身が過大評価しすぎなのだ、そのせいでヒューマニズムが、本来の領分を超えて主張を持ち出してしまい、愛や命の尊厳を侮辱してしまう/われわれはいっそ、「人間であってはならない」という考え方さえ持つべきだ。
われわれはどこか、自分(たち)が「まとも」な人間であり、もしカミサマというのがあれば、それは「偉大」な存在だと思っているが、このことにすでに増長があるのだ、ひょっとすると神々が「まとも」なのであって、われわれ人々は「極大のアホ」かもしれないではないか/われわれを「まとも」と前提し、神々を「偉大」と予想するわれわれの常識には気づかれない不遜が潜んでいる。
ヒューマニズムというのはどうしても、行き着くところ共産主義を再興せざるをえないし、そもそもヒューマニズムといえば、すでに十分に世の中に行き渡って満ちあふれている、このヒューマニズムを肯定するかぎりは、命だの愛だの光だのには接触できないのだ、このことは善意にあふれた人がしばしば愛の不能者であるという事実によく整合する。

とはいえ、われわれは誰もか弱き人間どもであるから、ヒューマニズムを全否定して掛かるのは、増長であり非現実的だ、即身仏になりうる者以外はヒューマニズムの世話になりながらでしか生きていくことはできない。
人々は、間違いなく助け合って生きていくべきだ、とはいえ、助け合って「生きた」として、そのうち加齢で中年になり、そのまま加齢で死去するのだが、そうして「生きた」というだけでわれわれが無尽の光悦に浴したりはできない、ただ「生きた」だけだとそのままただ「死んだ」という結果に直行することにしかならない。
「生きろ」というのも命(めい)のひとつだが、やはり本懐としては、生きるのが命なのではなく、命のために生きるのが本懐なのだ/われわれは楽屋と本番を区分するべきで、やはり本番を本命の場とし、楽屋を(本番のための)バックアップの場とせざるをえない。
われわれは助け合って生きるべき(ヒューマニズム)だが、それは常に向き合う、孤たる本番(本命)に立ち出でるためのバックアップ装置であって、<<本命にヒューマニズムを持ち込むことは許されない>>、<<本命にヒューマニズムを持ち込むことは、本たる命を殺すことになるからだ>>。

助け合って生き、見捨てあって命を為す。

「見捨てる」というと、寂寥感に慌てた悲痛を覚える人もあるようだが、その種の人々は命のことを甘く見ている、命(特に、本たる命)を為すとき、「見捨てる」というのは我が身も含めて他人事に見捨てるのだ、彼我の差分はない/「見捨てる」というのは、「勝手に生きたりくたばったりしろ」と見放すことだが、それは我が身も同一に含めてそのように見放すのであり、その見放される中に彼我の差分はない。
ヒューマンたるわれわれは、自分たちがヒューマンであることを過大評価しており、自分たちのヒューマニズムこそが愛さえも内包しうるのだと思い上がっているし、また神々に向けてそのように主張さえしているのだ、どおりでわれわれは「聞く」という能力を失っている/われわれはヒューマニズムを尊び、助け合って生きるべきだが、そうしてわれわれが生きるという自体、<<たいしたことではない>>のだ、われわれの増長と傲岸は、そうした己たちの生こそが「重要」だと勝手に聖典に書き加えたことから始まっている。

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WS報告008(2)/本命法

の中に命がある(本、台本など)。
日本中のあちこちにおフダが貼ってあったりするが、「文字の書かれたもの」そのものに、何かがあるのかもしれない。
であれば、電子書籍という発想は危険を含むな、これまで「紙媒体」と呼ばれていたものがあるが、実は紙はメディアではなくマテリアルである可能性がある。
本の中に命があり、その命令に従っているとき、他人のことは他人事になり、なんと自分のことも他人事になる。

そもそも、自分の肉体という座標の中に、「わたし」があるという定義がアヤシイのだ、自分の体内に「わたし」があるという根拠はどこにもない、我があるのはわかるが主たる「わたし」が体内に(固定的に)ある保証はない。
実際僕は、「本番」に魂が引っ張られていくのだ、「本番とは何か」ということを説明しようとすると、「練習というのは本番に向けての練習だろ、じゃあ本番は何のためかというと、本番というのはこうだ、つまり……」とやっていくと、そのまま「本番」になってしまい、「ああ〜連れていかれる〜」となる、本番を「説明」するのは至難というかきっと不可能で、本番に接触してしまうと本番になってしまうのだ。
僕は本番が得意な人間であって、それだけにワークショップの先生というのは、本性としては向いていない、ワークというのはエッセンス化した練習のことだからだ、もちろん何のワーク蓄積もなしに本番がまともに成功はしないので、ワークショップという考え方には正当きわまりない意義があるけれども……
といって、別におれはワークショップの先生としても無能ではないだろ? ただ本性としては、僕は本番の人間だ、「本番」はどのようにして始まるかというと、「本の命(命令)」にしたがって、自他もヘッタクレもない他人事にする、「わたしは『本』だ」という状態になる、そもそもこの肉体的なやつはおれの「本」ではねーよ/ここで言っている「本」に命令を受けること、これを「本命」という、このこともワーク化することは不可能ではない、すでに方法は試作されている。

本番中は、「本」があり、「誰」もない。

そこが「練習」との大きな差異だ、練習というのは「誰」と「誰」が何をする「関係」かという人間関係によって形成されていくが、本番はその「関係」から離脱するのだ、よって、<<「本番」は必ず「関係者以外」がいる>>、練習の場には関係者しかいない、関係者以外立入禁止が「練習」だ。
――本命者は「本」にのみ帰依するので、人間関係を断つ、よって本命者は必ず孤立である、本命者はそもそも人間関係という感覚を視認しなくなる/この本命者の孤立に報いるのが人々の「愛」である、この「愛」によって人々は、本命者を介し己を本命に触れさせることができる、この人々にとって己の愛がただちに己が命である/一般に人は、人間関係の中で愛を育むことを期待し目論むのだが、本命者のみはさにあらず、本命者だけは人間関係なしに愛だけを受けることができる、彼には愛のみしか触れられないのであるから……/「本」なる命に帰依した者がそこにあるとき、健やかなる人々は愛を捧げずにいない、こうして本命者のみ「愛を受けるのに人間関係を必要としない」存在となる/本命者はヒューマニズムを超克し「本」の命に帰依する、この本命者に人々は愛を報いるのであるから、われわれが救われるべく求むるのは愛ではなく(本の)命である。

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WS報告007(4)/「死ね」のこと
アリングすると、どうも現代の人には、何か「失敗したら死、なんすよ〜」という感覚があるらしい。
明らかに、意味不明な思い込みだと、本人もわかっているのだが、思い込みだとわかっていても、「失敗ができない」「入念な安全確保とセーフティネットの準備をしてしまう」という現象があるらしい。
このときに象徴的に取り出される「死」という語はなかなか面白いと思う、もともと「死ぬ」という言葉はヘンな言葉で、「死ぬ」と「往(い)ぬ」だけが、ナ行活用の動詞なのだ、死ぬも往ぬも同じ意味だが、つまり日本語では「死ぬ」だけが動詞として独自の活用形をもっていることになる、これだけ無数の言葉があるのにまったく不思議なことだ。
別にオカルティックなことを言おうとしているのではない、気づかれづらい事実を指摘しているだけだ、なぜか現代の人々はインターネットやメディア越しに、コメントあるいは内心で、「死ね」というメッセージを発するではないか? これは単なる悪意のように思われているが、実はその悪意が「死ね」の一点に収束することに説明がついているわけではないのだ、理由不明のまま悪意といえば「死ね」の一点に収束しているという事実がある。

このように考えてみてもよい、たとえばあなたが心の底から叫ぶとして、「飛べーーーーー!!」と叫ぶことはできるだろうか、あなたにはそれができず、あなたの「キャラ」で叫んでしまうのではないだろうか/それに比較すると、今多くの人が、「死ねーーーーー!!」と叫ぶのであれば、キャラではなくこころの底からそれを叫ぶことができると思う。
であれば、このような仮説が浮かんでくるのだ、つまり<<現代人には、「死ぬ」という言葉しか与えられていない>>という仮説だ、「死ぬ」とその五段活用(死なない、死のう、死にます、死んだ、死ね、死ぬこと、死ねば)だけが現代人の言葉として与えられている。
これは、人間と言葉の関わり合いなのだが、たとえば「エリー、my love... エーーーリィィーーーー!!!」と叫ぼうとするならば、「エリー」という「言葉」が必要なのだ/もちろんわれわれは「言語」を与えられてはいるのだが、「言語」は言葉ではないため、叫べないのだ、兵隊でないわれわれが本意気で「突撃ー!」と叫べないのと同じだ。
われわれは、存在として「言葉」であり、世界が「言葉」なのであるから(このあたりは説明が長くなるので投げやりに済ませている、すまん)、けっきょくほじくったところ「死ぬ」というナ行活用の言葉しか与えられていないのだから、この人は存在として「死ぬ死ねマン」でしかありえないし、この人が生きる世界も「死ぬ死ね世界」でしかありえない、「いとしのエリー世界」なんかではありえないわけだ/フムフム納得している場合ではなく、あなたのシャウトが「死ね」以外では説得力ゼロってことだぜ、ためしに「エリー、とシャウトしてみてください」と面前でやらされたらどーするんだ、おれはできるけどあなたはできねーだろ。

あなたの聖書は、開くと「死ね」だけが無数に書かれている。

怖すぎるやろ!!!!/そうは言っても、言葉が他に与えられていないということはそういうことだし、それしか言葉がないということは、それしか物語がないということだし、それしか物語がないということは、それしか世界がないということだから、やっぱりそういうことになってしまう、こんなヤベー世界があるかよ、「おはよう!!!(死ね!!!)」ってどんな挨拶だよ、でも「おはようございます」という言葉を与えられていないということはそういうことなのだ、言語の裏側には言葉があるのだが、言葉が「死ね」しかなかったら、発される言語のすべてが言葉として「死ね」になってしまう(マジです)。
「What a wonderful world」という歌に、「I see friends shaking hands saying how do you do They're really saying I love you」という詞がある、これは「わたしは友人らが握手をし、ごきげんようと"言い合っている"のを見る、彼らは本当には、アイラヴユーと"言い合っている"のさ」と歌っているのだが、そのThey're really sayingが、die die die!!! ということもあり得るということだ、どんなデスメタル世界だよということで草不可避だが、言葉というのはそういうものだ、言語の裏側に「言葉」があるのであって、常にWhat are you really saying? が、世界であり物語であり「あなた」なのだ、そこで「死ぬ死ね」しか言葉を与えられていないというのは非常にまずいので、誰しも言葉を与えてくれる世界や人や物語に出会うしかないのだった。
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WS報告007(3)/「長かった」

夜連続、朝までのワークショップだったが、なぜか異様に時間を長く感じた、二日目は特に全員が「長かった」と感じたらしかった。
沈滞して長く感じたのではない、何かまったく別の現象として長く感じた、日曜日の朝になると、金曜日の夜のことなど、「何かもう、ずっと昔のことの気がする」という状態だった、なぜか合宿明けのような奇妙なムードになった。
これは、仮説だが、おそらく、われわれは時間そのものを「長い」と感じるのではないのだ、なぜなら寝ている間の時間を「長かった」とは感じないからだ、寝ている間の時間を「よく寝た〜」と言うことはあっても、「長かった〜」と言うことはない、「○時間ぐらい寝た」という身体の感覚はあるのに、その○時間を「長い」とは感じないのだ、睡眠が「足りない」と感じられることはあっても「短い」と感じられることはない。
この、異様に長く感じた二夜連続のワークショップは、つまり体験が多かったのだ、より正確に言うと、「時間」という概念空間ではない感覚空間に触れているところが多くあったので、異様に長く感じたのだ、仮に言うなら、知らぬ景色の中にある映画館を五つまわって過ごすのならその一日は異様に長く感じられるだろうというようなことだ、映画の中の「二年後」は、ノンフィクションの二年とは異なり、物語の二年なのであって、実時間の二年ではない。

古くから言われる魂魄という捉え方で、横隔膜はメインとして魂(霊魂)の側を担当しており、この横隔膜には実は「聞く」という能力がある、つまり霊魂サイドのものが「聞こえる」ので、フィクション側・物語側の世界が見えてくる・聞こえてくるということになる、そしてこれはフィクション側なので物語時間しか存在しておらず、実時間の体験とは切り離されている(物語時間は存在であって「時が流れる」という事象ではない)。
まあ何はともあれ、対面歩法(露骨法)によって、相手を「聞く」ということの初歩的現成に至れたのだ、これにより命令法の初歩もおおむね出来るようになった、これはもうバンザーイと言うしかない、これは通常超えられない壁の典型例だったから、これが超えられたというのは実にワークがアタリで、そしてそれ以上に何かとうまく噛み合った結果なのだ、一種の奇蹟みたいなものじゃないかと僕は思っている。
そして、対面歩法(露骨法)が初歩的であれできるようになると、元々の「聞く」、特に「自分の腕を聞く(手命法)」が、基礎としてどれだけ重要なのかも理解されるようになった/自分の中心に行けばいくほど、そこには自分の「吾我」があって、自分の中心から離れれば離れるほど――つまり「世界」のほうへ行けばいくほど――そこにはわたしの「命」たりうるものがあるのだ、その「命」をどこまで「聞ける」か?
吾我が悪いということではない、吾我はわたしが「言う」もの、命はわたしが「聞く」ものだ/極小点に完全化した吾我が、世界の果てまでの「命」を聞き、合一できるかどうかだ、自分が生きているあいだに一番遠い「命」につながることができれば、生の終わりにも命はなくならない、これは信仰の問題ではなく論理の問題だ。

「命」を聞け、「生」と「命」は別の現象だ。

「命を受けている者」のことを、「命がある」というのだ、生きているから命があるのではなくて、「生きろ」という命令を受けているから「命がある」のだ、ただし命令というのは「生きろ」というそれだけではない、他にもいろいろある、自分の中心点から離れれば離れるほど、命(命令)はデカくなる、そりゃ球体の半径が大きくなればなるほど世界の体積はデカくなるのが当たり前だ。
ワークの原理は、どれもすべてカンタンだ、「聞こえてねえだろ???」というだけだ、おれからの命(エコー)が聞こえてねえだろ、ということであって、そのことは、「自分の右手からの命も聞こえてないよ、やってみなさい、こうして……」とやると、「ホンマや!!」と誰でもわかるのだ/自分の右手のエコーも聞こえていない奴が、この世界の何を聞き取れているわけがあるよ、そのことに「ふざけんな」という直面の実技をブッ込んで悟らせるのが当ワークショップの本旨だ、とてもわかりやすいので、わかりやすさには定評があるのだった。

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WS報告007(2)

回思うが、ワークショップの後は、全身全霊を「使い果たした」感があって、「もうアカン」と気を失うように眠るのに、数時間後にはパンパカパーンというように目が覚めるのだ、これは休憩とか恢復という次元じゃねえな、何か毎回新しく誕生したかのように起床するわ。
これから麻婆豆腐を食ったら、まーた今日もアレがおっ始まるわけだが、なんというか、例によっておれは冷静だ、冷静だが、日常的なことをするのでは、けっきょく何の足しにもならないだろう、もう他人がどうこうの問題じゃないな、おれはおれの出会うべきおれと出会うべきであって、その他のことはノイズでしかない、まるで冷血漢センセーみたいだがそういうことじゃない、そういうまともな奴を見ない限りは最終的な足しにはならんってことだ。
「ワークショップ」「教室」という言い方にはいつまでたっても慣れないが、おれはワークショップだから気合いを入れているのではない、おれは自分の一日を無駄にしたことがないのだ、おれにとって二十四時間とは時間のことではなく遊興費のことだ。
マジメは特にないし、青春ごっこもありゃしねえ、スピリチュアルなんか論外で、運動は運動マンのものだよ、じゃあおれは何をやっているのかというと、おれはまた、新しいどこかに行きたいだけなんだろう、「大切なこと」の一切は他人に任せるようにおれはしている、おれはどーでもいい不必要な、しかしおれだけが知っているうつくしいものだけを担当する、そのおれのわがままを貫くことだけが、おれのできる最大の社会貢献だと思っている。

いろんな人に、いろんな悩みがあって、どういう悩みがあるのかというと、悩みはない、そいつらにとってあるだけで、おれに悩みはない。
悩んでいる人は、悩みのある世界、つまりワタシという世界の中に住んでいて、その世界から呪いや嫉み・僻みが消え去ることはない、別にそれが悪いというわけじゃないだろうし、その世界で何が起こっているのかは僕は知らない、僕はわざわざそんな世界に留学する必要がないからだ、僕はパスポートを持っているがその世界に行くつもりはなく、彼らは自分の世界を出たいのだがパスポートを持っていないので外の世界には出られない。
解決策は、あるのかもしれないが、ないのかもしれないな、解決策がない、ということも大いにありうる、ただ僕がいつも思うのは、「解決しちゃったらもうお前じゃないよ」ということだ、それはただ文言のままで、別に永遠に苦しんでいろと言っているわけじゃない、「解決しちゃったらもうお前じゃない」という、ただそれだけのことだ、どうせ理解不能かもしれないが、理解しちゃったらもうお前じゃない。
そういえば昨夜は、なんだかんだ、十二人も来てくれたんだな、例によってそんなアホなことをして朝まで過ごしている集団は、世田谷公園の中でわれわれだけだった、あるいは世田谷区全域でわれわれだけだったのかもしれない、あるいは二十三区内、あるいは東京? あるいは日本とか、アジア、世界……となって、僕のほかにどれだけ同レベルのアホがいるのかはよくわからない、ただ僕は天才でセンスがあって女にモテてこころがあって超絶カッコよかったとしても、そんなことは何一つ誇りには思わない、誇りとかいう廃棄物はヨソの国に輸出して、劣等国の人民どもに処理させるようにしている、どうせそれを何に使うのかは僕にはまったくわからない、今夜もまたワークショップがあるのだが、ワークショップが「ある」などという意味不明なことは存在しない。

今こうして、何も欲しておらず、同時に何かがクッソ満足ということは、何かがよかったのだろう。

何がよかったのかはわからないし、そんなものがわかる人間はこれまでブッダを除いて一人もいた試しがないが、僕はいつも世界愛のことを言っていて、世界愛だからいいのだろう、そして世界愛のことはただ世界に伝わればいいのであって、誤解している人はそこを誤解している、ただその誤解をやめてしまったら、もうそいつはそいつではないだろう、別に沈没する船が悪いというわけではない、たたおれがそれに乗船するのは全力でイヤというだけであって、僕は沈没する船を否定はしていない、他人事のニュース記事をつい楽しみにしてしまいぐらいには僕は性格は悪い。
「思い出」ならぬ、「思い先(おもいざき)」という現象があるようで、おそらく今さっきそれを目撃したようだが、まあこれはこれなのだろう、おそらく僕は今さっき、とんでもないものを見たのだ、イヤな感じのものが何一つない世界を見た、世界愛と渾身のセックス(←これに該当する言葉がありうるのか知識がない)をして、そりゃとんでもないことというか、まっとうなことになるだろう、なぜそれを僕が「思い先(おもいざき)」と呼んだのかはさっぱりわからない、それはきっととんでもない何かだったのだが、とりあえず麻婆豆腐を食ってこよう、僕しか知らん空腹とメシがあるからな。

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WS報告007(1)
曜日のワークショップが土曜日の朝に終わり、デニーズで朝食を取り、話し込んで、帰宅して風呂に入って、慌ててレーズンをかっ食らいつつ、急いでケイデンヘッドのリンクウッドを飲みながら、この報告を書いている/で、この後寝て起きたら、「今日も」ワークショップがあるんだよ、自分でやっていることだが正気の沙汰とは思えない。
よろこばしい報告だが、今回のワークショップは、まったく誇張のない大成功で終わった、多くの人が一通り命令法の基本が出来るようになり、一部の人は余韻法の入口を掴み始めた。
「次回のワークショップは絶対に来た方がいい」と、堂々と通告していたのだが、まさにそのとおりになった、これは紛れなく大きなブレイクスルーを経たといえる/多くの人は「わからん」の状態から「やりたい」の状態にまで進んだ。
方法の端緒としては、「そんなん誰でもわかるやろ」という、アホみたいにわざとらしく大きいエコーを届け、とにかく「聞こえる」「わかる」という状態を先行させた、それで命令法が通るようになると、逆に僕の技術の精密さがわかってもらえるようにもなった(「品質が違う!!」の評)。

それにしても、やはり今回、最奥で効いているのはあの方法だ、呼吸法まがいを入口にして、己の身体を「聞く」こと、己の身体によって自分が「動かされる」ということ、己の腕を「聞く」ことで、横隔膜が「動いてしまう」ということ。
この手続きで、まず己の身体を「聞く」ということ、それが自信となり、つづいて相手の身体を「聞く」ということ、相手の勢いを「聞く」ということ、それを「聞く」ということが「イエス」のなのだということ、こちらが「言う」のではなくこちらが「聞く」から「マスター」なのだということ、このことがバババッとつながった。
己の身体を「聞く」ということ、それを「聞く」がゆえに横隔膜が「動いてしまう」ということ、このことがけっきょく余韻法の導入にもなっている、すべてのことはこの「己の身を聞く」ということで一本の線に連なったわけだ、これは大きな原理がまるごと動き始めたことを意味している。
みんな、何もかもがひっくり返っただろ? われわれの身の内に「イエス」はない、愛はない、だから「聞く」ことだけが「愛」であり「イエス」を生じる、われわれが腕を動かすのではなく、腕が我々を動かすのだ、われわれが腕を動かすのは気魄であり「ノー」の機能だが、われわれが腕を「聞き」、腕によって動かされることが霊魂・「イエス」になる/この「聞く」という能力について、横隔膜が最大柔化したとき、三千の何かが「聞こえる」だろう、とにかく横隔膜をこのことに近づけるのだ、今このときにそれを始めれば、十年後にはドエライ差になる。

オセロのように、「言う」だったすべてが「聞く」にひっくり返っていく。

そのための一手が、見つかったということだな、つまり第一に「己の身体を聞け」となる……ダメだもう眠すぎて意識が飛びそうだ。
これを通して、僕の技術も、精度を格段に増すだろう、使い込んだ横隔膜から、これはどこまでの「イエス」を引っ張り出せるのだろうか。
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WS報告006(12)/パン祭り

隔膜がエコーの授受をするのだが、エコーというのはもともとギリシャ神話の妖精であって、この妖精はpan神というカミサマに八つ裂きにされてしまった、このpan神というのが「パニック」の語源でもある、また医学的にも「横隔膜がバラバラになる」という意味でスキゾフレニア(Schizophrenia)という言葉があるが、これはいわゆる統合失調症のことを指している、このようにエコーとパニックは対立している。
だからこそ、実際に「エコー」のワークをしていると、あちらこちらで、何かよくわからない「パニックになりそう」が出現するのだった、このことはあまりに繰り返されてしまい、逆にもうみんなが慣れてしまって、この「あ、またパニックになりそう」という状態のことを、ついに「パン祭り」と呼称することになった/「あ、パン祭りでーす、少し休ませてください」という感じで。
実際のワークの現場は、そんな感じで、まあ思い詰めてもしゃーないのだ、エコーがわからねええええと悶絶しつつ、「はいパン祭りキター、休憩しますわ」ということで一休みという、そういうことを繰り返している、だいたい僕が実演を複数続けてすると、みんな霊魂がフワ〜と飛んでいくので、「はいはい、霊魂帰ってきてくださ〜い」と茶化さないといけない、ノンフィクションとして「ワークショップ」をやっているということを忘れていってしまうのだ、まあそれぐらいでないと何の値打ちもないからしょうがない。
みんなワークをガンガンやりたいのだが、本質に近づけば近づくほど、途中で「あああ〜またパン祭りのポイントが溜まってしまう〜」というのが実情で、そのたびにまた僕は「お前らみたいなモンは」と言う、まあそんな感じだ、何しろ僕が主催しているからにはシリアスなムードはまっぴらごめんなのだった。

このごろは、僕の手首を掴んだ人が、何でか知らんがヒョイとやるとスッテーンと倒れるようになったが、そうされるとやられた側はゲラゲラ笑っている、このゲラゲラ笑うというところが重要だ/横隔膜にアプローチしているのだから、声が出ないといけないし、イエスが届いているのだから、むっつりしてしまうのは、ワザが成立していないということなのだ。
「何でか知らんが」というのは、いいかげんテキトーに言い過ぎか、つまり「ノー」でワザをかけるのではなく、「ノー」は別の場所にかけておいて、ワザの部分はイエスでかけているので、何の関係もないノーの部分が頑張り、ワザが掛かっている部分はイエスのままやられたい放題になるので、オモシロ現象が起こるのだった、とにかくこの「ノー」と「イエス」を使い分けを知るのが本ワークショップの本旨だ(まともに使えるのはおれ一人だけども)。
魂魄の隙間たる「真空」に接続できるようになると、エコーの機能として強烈な「命令」、つまり真空からの「爆発命令」を送り込めるようになるが、これは命令を入れられた人が異様に元気になるらしい、何しろ28日のワークショップに朝までいた女性が、そのまま翌日寝ないままお出かけして隣の区まで歩いてラーメンを食いに行ったり、別の一人はそのまま夕方までミュージカルの練習に参加していたりしているのだ、この猛暑にだぞ、これはもう「命」そのものが恢復を与えられたといっても過言ではない。
なんとも単純な話、パン祭りに大当たりすると、とってもブルーで「はあ〜」となり、エコーに大当たりすると、とっても元気で「世界あるわあ〜」になるのだ、ただしとっても元気になりやがった奴は、どこか「もうこれでいいんじゃない?」という浮かれ調子になるのでもある、どうせまたじきにパン祭りが始まって「お前らみたいなモンは」と言われることになるであろう。

「パン祭り」の反対は、きっと「エコーライブ」だ。

パン祭りがあるのなら、その対極にはエコー祭りがあるはずで、エコー祭りは「命」だから、それはきっとエコーライブになるだろう、だからどれだけ小規模でもいいから、己でエコーライブを創り出す瞬間を得るべきだ、それがすべての糸口になるだろう、糸口のあとは各人が勝手にやっていけばいい。
仏教で、お釈迦様の亡き後に存在した高僧たちを指して、「五百羅漢」と称える像や寺院があるが、それになぞらえて、われわれは「五百アカンとして祀られるで」という馬鹿話をしている、羅漢様はすべて偉大な人々だったが、われわれアカン様はびっくりするぐらいアホな人々だ/また今週末も数々のアカン様がパン祭りを始めると思うが、まあゲラゲラ笑いながらやれるのなら救いだ、エコーライブなんていつの日になるやら。

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WS報告006(11)/「本番」は完璧世界

にかく長い一日だった、28日だけが異様に長く感じた、ワークショップ終了後、なぜか三泊四日の合宿でも終えたような心地だった、12時間前のことは遥か昔のことのように感じた/すべてスタジオ内でやったせいもあるかもしれない。
何かきっと、とてつもないことがたくさんあったのだ、思い出せないほどに、何しろその翌日には外国人にグル呼ばわりされるありさまだからな/横隔膜を同調させて「聞く」という、僕にとっては当たり前のことをし、その後「さっきまでのは練習ね、次に『本番』をやります、本番はこう」とした。
僕が、その「本番」のマスター状態に入ると、何か衆目からは、「めちゃくちゃカッコイイ」と見えるらしい、「そうなの?」と、僕はその自分自身を観られるわけではないので初耳だったのだが/「めちゃくちゃカッコイイ」というからには、そのとき何かあるのだろう、実際僕は「『本番』はこうね」と確信をもってやるくせに、そのとき自分が何をやっているのかは知らないのだ、ワークショップを通してそこのナゾを自分で解き明かしていくことになる。
そして、アホみたいな話だが、僕が「本番」を始めるとき、僕は世界の中心に立つが、「世界はすでに完璧であるから、何もしない、何もしないのだから、思いっきりやりきってよろしい」という接続に入っている、つまり率直に言うと「完璧世界」に接続している、接続するも何も、もとよりこの世界は完璧だけどな(もとより完璧世界がなければ、そこに接続するなどというのは妄想でしかない)。

「完璧世界」には、生も死もないし、時間なんか流れていないし、無限にきらびやかで静かで、わざとらしい自由も不自由もない、成功も失敗もない、傷を入れることもできない、どれだけすさまじくてもいいし、すさまじくても静寂だ、そこには僕がいるとかいないとか、僕が生きているとか死んでいるとかいうこともないのだ、だからすべてフンフーンみたいなものだ、何をどうしてもプラスにもならないしマイナスにもならない、完璧は変動しない/完璧世界という、世界というより「国」があるような感じでもある。
「『本番』はこうね」と言い出した瞬間から、僕は正直、ワークショップどうこうのことなんか忘れているし、技術うんぬんのことも忘れているし、横隔膜だのエコーだののことも忘れている、すべてのことが「そりゃそうなんだろう」けれども、「そりゃそうなんだからそれでいいんだろ」としか感じられていない、完璧世界でのことは、何かが始まったり終わったりしないのだ、だから何もなかったことになるし、元から何もかもがあるし、何もかもがあってかまわないし、つまり「ある」とか「ない」とかいう事象そのものがないのだ、「湖の中に雨が降るか?」みたいな話に僕には聞こえる。
真空だの無限の爆発だの言っているが、ヒッグス粒子前の真空で大爆発があったらそりゃビッグバンなのだろうし、ビッグバンは宇宙開闢で当たり前だ、じゃあそのビッグバンはどこから来たかというと、宇宙開闢の前なのだから「物語」から来たのだろう、「物語」が「完璧世界」なのは当たり前だ、その完璧世界からビッグバンがポコポコ量産されても何の不思議もない、たしか最新の理論では宇宙って10の500乗個あるんだろ、もっとあるような気がしなくもないが……10の500乗ということは、1のあとに0が五百個つくということだ、こりゃ量産以外の何ものでもない。
「物語」は「完璧世界」であって、「完璧世界」が土台にあるから、宇宙なんか何個でも開闢されてかまわんのだ、開闢されて何になるのかはわからんが、別に何にもならんなら、それこそ好きにしたらいいじゃないか/という、宇宙的な話を広げたいのではなく、ただ僕にはそういう感覚があって、その感覚で人前に立っているときが「めちゃくちゃカッコイイ」らしいので、そういうことなら女子高生にモテるかもしれんな!! ということで、目をつけているのだった、別に女子高生じゃなくても可だ。

魂魄の隙間たる真空に、無限の爆発があって、命令が飛んでくるのだが、その命令はどうも、無数の輪ゴムのような輪っかとして飛んできているような気がしなくもない。

その輪ゴムは色とりどりというか、いろんな周波数できらきら輝いていて、まあそれ自体には何の意味もないのだが、すごくきれいな感じがする、これは完璧世界の断片なのだろうか、まあそんなことはどうでもいいが、僕がその断片輪ゴムの爆発命令を受けたとしても、それは直接人には伝わらないので、人に伝えるときはその爆発のエコーが伝わるということになる、爆発で始まるのだが届いているのはエコーだ、エコーは輪ゴムではなく「世界」だな。
誰でも、世界の「イメージ」を空想することはできるが、空想だけでは「命の令」がないので、その空想には命がないのだ、命はどこから拾ってくればよいかというと、魂魄の隙間の真空から拾ってこいということになる、まあ気づけば僕はいつもそんなことをしている、別にそれがスゴイというわけではなく、「それしか方法がないやん」というのが正直なところだ、「どうすればいいか」の方法を探し回ったあげくようやくたどり着いたのがこれというだけ(ただしこれで満足しているわけでもない、ただのひとつの方法だ)。

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WS報告006(10)/速さに文句を言う人はいない

にかく身が軽くなくてはいけない。
身が軽いというのは、バク転ができるとかではない、バク転なんか出来てたまるかよ、そんなことにトライしたら僕は頭を打って即昇天するだろう。
本ワークショップでいうところの身が軽いというのは、バネで動かないということだ、「力を入れると身体は止まり、力を抜くと身体は動く」というのが第一の鉄則だ。
そして第二の鉄則は、身体を一つにして動けば一動作で済むものを、身体をバラバラにしていると五動作も六動作も掛かってしまう、それだと絶対に遅くなるということだ、「身体を一つにして一動作で済ませろ」が第二の鉄則になる。

とにかく身が軽く、速くなくてはならない、何しろ「速さ」に文句を言う人はいないのだから、速さほど普遍的な値打ちはない。
そして、この場合の速さは、衆目に「なんでそんなに速いんだ?」「どうなってんの?」と見えなくてはならない、というのは、パワーで加速して速度を上げているぶんには、「なんでそんなに速いんだ?」とは見えないからだ、加速というのはバネを強化したら誰でもやれる、ジェット機だって加速して離陸しているのは子供の目にもわかる。
だが、その「加速」で速くするというやり方は、疲れるし、ヒートさせるし、カルマが溜まるし、衰えるし、疲れるし、年齢でダメになるしなので、局所的にしか使えないのだ、サッカー選手が伊勢丹の中を駆け抜けたらとても物々しくて迷惑になるだろう、速さというのはそうではなく、ステキで実用的で、まったく疲れず、しかも実際にメチャクチャ速くないといけない、このことについては単純に第一の鉄則と第二の鉄則を積み重ねるだけで進んでゆけるのだ(だからまあ徹底的にやろう)。
ただ、そのとき明らかになるのは、どうもそもそもの「身の重さ」が、それぞれの身に積み重なったカルマくさいという事実だ、このカルマを少しずつ償却していくというワークが、どこか精神的に堪えるのだった、人は筋力や加速を「使わせてもらえない」というほうがワークとしてキツイのだ/それはつまり、ふだんは筋力で加速させて動くことで、自分の身の重さをごまかして暮らしているからなのだろう、自分の身の重さに直面するというのは、相当ブルーなことだが、まあそれはしょうがないのだ、そのままごまかしていってもどうせ水面下ではシンドイのだし。

いくつかの体操を教えているが、この体操はトレーニングではなく、身の始末であり、気の長いカルマの償却だ。

一般的に「運動」というのは、その運動の仕方を覚えれば、それで出来るようになると思われているが、本ワークショップで教えているものは性質が異なる、本ワークショップが教えているところの体操というのは、運動ではなく、積み重ねて身の重さを落としていくという体操だ、「覚える」というものではなく、「身に覚えがあるやつを消していく」ための体操だ、だから必要なのは運動能力ではなく集中力ということになる、運動好きの人にとっては逆に異様につらい体操になるだろう。
本ワークショップの体操というと、「爆発体操」がメインだが、これはこのところ、僕が直接横隔膜に命令を入れるということで、「うわっ!」という形でその本質を直接学べるといういい方法が見つかっている、とりあえずこの体操を根こそぎやるだけでも相当な値打ちがあるだろう、何しろ速さに文句を言う人は世界に一人もいないのだから。

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WS報告006(9)/爆発法と順法(メモ)
れは僕のメモワールだが、実はこっそり悩んでいることがある/身体操作の方法について、実はひとつ、隠しているものがあるのだ。
とにかく、身が軽くなくてはいけなくて、フィクションの動き・真空の動きが出なくてはいけないのだが、実はそのフィクションの動きにも二種類あるのだ、爆発的に動く方法と、精密に「順」に動く方法とがある、今のところ爆発法だけを教えていて、もう片方の順法はナイショにしている、これはこれで使い道があるのだが、これを言い出すと現在教えているところの主流と混乱するからだ。
僕自身も完全に理論を掴めているわけではないのだが、ざっくり言うと、爆発法というのは、その人の身が「何をやっているのかがはっきり見える」という方法だ、よってこれは芸術的・エンターテインメント的な動きになる、どちらにせよ非常識的な速さと軽さで動かないと話にならないのは同じだが……
逆側にある順法というのは、その人の身が「何をやっているのかがまったく見えない」という方法だ、よってこれは武術的な動きになる、と勝手に僕は思っているのだが、僕はそういうたぐいの専門家ではないので、本当のところは知らない/今のところ、受講者は、アーティストになりたいタイプと、ニンジャになりたいタイプがいて、両者は最終的に爆発法と順法で分離してしまうので、どうしようかなとこっそり悩んでいるのだった、「パフォーマー」と「忍」じゃ性質が逆すぎるぜ〜。

まあいいか、僕自身が混乱しないように、メモしておこう、爆発法は全身のオンオフを「同時」に起こし、肉の多い中心軸から肉の少ない末端のほうへエネルギーが走って行くという方法だが、順法は逆に、指先・つま先からオンオフが順に駆け抜けていくという方法だ/これ、前者は術者の全身が「見える」ほうに極大化していくのに対し、後者は術者の全身が「見えない」ほうへ極小化していく、だから前者がアーティストになり、後者がニンジャになる(なんつーテキトーな説明だ)。
なんというか、たとえるならば、爆発法と順法は、花火と流れ星にたとえられる、花火は中心から全方位へドーンだが、流れ星はどこからともなくフと現れて「あ……」と思ったときにはすでに音もなく終点に到達して消えている、花火はみんなで「きたー」「いよぉっ」と盛り上がれるのに対し、流れ星は静かになってしまうだろう、それぞれの方法は、盛り上がりの完全化と盛り上がりのゼロ化を目指すのだ。
うーむこうして考えると、やはり順法は、僕が教えるようなことではないなあ、しかもワークショップの題材としては盛り上がらないことを請け合いだ、まあ盛り上がるためにやっているわけではないが、盛り上がりなしに続けるのは僕の趣味としてどうかということがある/順法はきっと武術的な方法だろうが、これは先日話した合気うんぬんとも違い、和合の術にもならない。
ただ、これを実演すれば、今見せているものよりもさらに「速い」とは見てもらえるかもしれない、仮に同じ速さであったとしても、こちらは「見えない」のでさらに速く感じるのだ、だからといって、これは理法が違うしなあ/けっきょくこの順法のほうをどう扱えばいいかわからないが、この先に何かになるかもしれないので、たまに付録的に見せて遊ぶことにしよう。

順法は「使う」を最大化して「見えるものを分散消去」してしまい、爆発法は「使わない」を最大化して「見えるものを一点化」する。

なんのこっちゃわかるわけがないので、これは僕自身のためのメモワールだ、むしろもう少し順法を研究したほうが、ことの真相が見えてくるのかもしれない/一点化されたものには無限の情報が乗り、分散消去されたものには情報が一切乗らない。
順法は「使う」の分母を無限大化していくので見える値がゼロ化してゆき、爆発法は「使う」の分母をゼロ化していくので見える値が無限大化していく、ということは分子の単位は[見える×使う]のはずだが、この単位のものってつまり何だ? まあそんな感じでまだよくわかっていないので、これは僕自身の課題なのだった。
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WS報告006(8)/「聞く」ための「自信」のワーク
「聞く」ということが初級クリアの課題になるのだが、これが実際にやらせてみると、まず誰にもできない。
僕が実演するぶんには、誰でもスパッとわかるのだ、つまりやられるとわかるのだが、やらされるとわからない、この困難な課題をさっさとクリアさせるために、学門をきっちり詰める必要がある。
そこで、ふと、何かがささやきかける感じがするのだが、どこからともなく、「聞けないのは自信がないから」という感じがするのだ、「はて?」と思うのだが、なぜかなんとなく、言われてみるとそういう気がする、「聞けないのは自信がないから」という、言葉のほうがこれは先にアプローチしてきた。
言葉の側から伝えられたものなので、これは、どういうロジックでそうなるのか、これから学門を詰めなくてはならない、たださしあたって、「聞けないのは自信がないから」という線を追っているということを、今のところ報告できる。

今のところ、こういう仮説が立っている、「横隔膜がエコーを聞く器官だけれど、ひょっとして、他人のエコーを聞く前に、自分自身のエコーさえ聞こえていないのでは?」「自信という言葉は、オウン(自分の)シグナル(信号)という意味だから、そのオウンエコーが聞けないのなら、他人のエコーなんか聞き取れるはずがないということでは」「じゃあオウンエコーの受発信を恢復するワークをして、自信を回復して、それから後に、他人を『聞く』という手続きになるか」、こんな感じで話が進んでいる。
それで実際に、あくまで仮のことだが、一般的には「呼吸法」あるいは「呼吸力」と呼ばれているらしいものを転用して、それぞれ自分の身体の一部を、「心臓担当」から「横隔膜担当」に切り替えさせるというワークを作ってみた、これはやらせてみると、「アッ」というまに、得られるべき動きを生じた、それで「あっ、これはイケるかもしれんね」ということになった。
というわけで、みなさん、次回からのワークは、絶対に参加したほうがいい/僕はこれを「呼吸法」と捉えることには反対で、あくまで横隔膜が本質であって呼吸は横隔膜をはたらかせるための便宜でしかないと思っているのだが、まあ得られるべき結果が得られるのなら方便として大採用でかまわないだろう、このワークの発明で初級クリアへの道は大幅に短縮されたという予感がある。
ここしばらく、ワークショップなるものを再開して、改めて思うのだが、習うべきことを習わないのは本当に損だ、僕はもともと先生というガラではないし、ワークショップという形態が自分のものとしてカッコイイとは思っていないのだが、それにしても習うべきを習わないのは損すぎるということで、ワークショップを開催しているわけだ、さっさと習ってさっさと卒業するのがベストだと思う、習ったものが今どうなるということではなくて、十年後にえげつない差になるということなのだ、どちらもふつうに生きていくだけなのに大差がつくのは損すぎるじゃないか。

あるていど、全身を「横隔膜担当」にしたことがなければ、「自信」は絶対に得られない。

たとえば、まず胸から肩・肘・指先までを、気魄(心臓担当)でつなぎ、次に、たとえば肘から先を「切り」、霊魂(横隔膜担当)で動かすということは、人間の特殊な技術ではなく、基本の技術だ、何がどう基本の技術で、その基本ができていないとどういう違いが出るかは、さすがに目の前で見せてもらわないと理解できない、別に僕に習う必要はないが、自分の才覚で「元からできている」という人以外は、どこの誰にでもいいので習いにいけ、ただ僕の知る限り、このネタは教えられる人がたいへん少なくなっている、こういうことはハズレを引くと災難なので、さっさとアタリを引くこと。
身体を気魄・心臓担当から、霊魂・横隔膜担当に切り替えるということ、これはやはり、本質的には「呼吸法」というわけではないのだ、これを呼吸法と呼ぶことは、つまりどこまでもノンフィクションに括り付けようとしている主義があるということなので、けっきょく「言葉」に到達しようというところで閉塞して、言語が呪に戻ってしまうだろう、「呼吸法に見える」のはあくまで便宜にすぎない、僕はあくまでこれを「代用的呼吸法」と呼ぶことにしよう。
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