☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
セックスは性癖の狂乱ではない4

ルバート・ネイは中学生の少年と交際した。
気弱で迫害されていた少年を、ネイは初め庇護しようとしたが、やがて少年のあまりの病的な弱さに苛立ち、ネイは納屋で少年の頬を血がにじむほど懲罰につねった。
少年はその痛みによって射精した、「あっこいつ」とネイは腹立たしく思い、さらにつねりあげると少年はひくひく泣いた、少年は一切の抵抗力を持たない。
虐げられる少年を見て、ネイはなぜか自身の内にヒステリックな歓喜がけいれんするのを感じた、ネイは「いいのよ」と少年にいい、睾丸を手で締め上げながら少年にキスをした、ガーと呻く少年、「そのとき鼻腔にもっとも不潔な匂いがした」と後日のネイは語っている。

ネイはカネで暴力的な男を雇い、少年の肛門を犯させた、「興味が持てなくなるほど打ちのめして」とネイは依頼した。
納屋に据えられた少年は、犯されながら必死でネイに許しを乞うたが、その懇願のさまはますますネイに歓喜を与えた、ネイはこのとき自分は「自由で」「特権的だ」とこれまでにない高揚を得た。
犯された血と痛みで白色の蝋と化した少年の身体を、改めてやさしく抱き、「愛しい子」、その弱い肌を撫でてやると、そこにはウソも隠しもないと感じられ、ネイは自分が「誰よりもまっすぐに愛に向き合っている」と感じて涙をこぼした。/「ごめんね……」
ネイはこれまで虚しかった自分の生に、真の誠実さと充実と、誰でもが手にできない愛を獲得したと思ったが、それが錯覚だったということに生涯気づけなかった。

「わたし割とSなの」と笑っていたのを、友人は冗談だと思っていたし、ネイ自身も冗談だと思っていた。

やがて少年はその傷口を慈善団体に見とがめられ施設に収容された、ネイは大学を卒業後「特別なことを知っている」という自負を隠し持つ文化人になろうと努力していった。
僕はこういったケーススタディを、「ただのアホ」と断じます、申し訳ないが大爆笑の類でね、この世界にはもっと素敵なことがいくらでもあるのに、さすがに「性癖でモンモンしましたあ」はアホすぎるでしょう。(上記の話はフィクションです)

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セックスは性癖の狂乱ではない3

き流すよーに、あくまで仮説だ、そういうことにしておこう。
世の中を疑い、人を疑って生きるしかなくなったとき、人は「疑う胴体」になり、「性癖」は強固に偏向化していく。
その偏向した性癖は、具体的にどういったものになるかというと、多くは「人が苦しんでいる状態でしかセックスできない」となる。
なぜだかわかってもらえるだろうか、「人は苦しんでいるときが最も疑いない」からだ、苦しみは疑いなく発生するので、そのときだけ人を「信じる」ことができ、セックスの機能が解放されるように感じる(事実そのときだけ濡れたり、勃起したり、オーガズムを得たりする)。

つまり、苦しんでいる女に勃起するとか、苦しんでいる男に濡れるとか、多くはそういう性癖になる。
いわゆるロリコンと呼ばれるペドフィリアもそうだ、童女はまだ人をあざむく能力を持っていないので「疑う」という必要がなくなる。
言うなれば、人はそれだけ、「人を信じられない」という状態がつらく、そのことに弱いのだ、このつらさは「自分を信じられない」ということも含む/よって自他共に「苦しめる」ということへ自然に進んでいってしまう。
このところやけに、「人の苦しむところを見たい」「見たがっている」「そういうシーンを漁っている」という自覚はないか? ともすればこの「性癖」のレベルで「ブラック企業」や「芸能人のスキャンダル炎上」も発生しているところがある、ただただ人の苦しむところを見て濡れたい・勃起したいという「性癖」の充足のために。

信じるものを持たず、性癖だけはぎとったら、びっくりするぐらいつまらない人間になる。

あえてそのことも真実だと申し上げておこう、胴体だけ解放されて、その胴体に「信じるもの」が入っていなかったら、それはおそろしくつまらない、かえって不気味なほどの人間になる、「そんなふうになるわけにはいかない」と誰だって思う。
じゃあ何を信じるかということになるが、むろんカミサマがどうこうというエセ宗教じみたことは言いたくない、ただこの薄暗い状況を突破するのは、「性癖からの離脱」および「信じるものの獲得」とだけひとまず言っておきたい。

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セックスは性癖の狂乱ではない2
き続き、この話は仮説だとして、話半分に聞き流してくれ、ある種の危険を含んでいる。
恥を忍んでいうと、僕は二年前、「歩く」という身体操作を獲得せねばならなかった、理由は「死なないために」だった、僕の友人はよく知ってくれている。
すべてを説明はできないが、間違いなく言いうるのは、僕が「歩く」ために決定的に胴体からこわばりを捨てていったときに、確実に「性癖」も捨てていっているということ。
いわば僕はあのときから、性癖という「信仰」を捨てたのだと思う、いつの間にかそうなっていたのだが、今になってそれがやはり正道だったと確信できている、僕はそれによって死なずに――殺されずに――済んだ。

僕の話を聞いてくれる人のうち、幾人かはこう言えば楽になってくれるだろうか、いわく「性癖じゃなくてもセックスはできるよ」と。
人は何かを信じて生きていかねばならないが、なかなかカミサマを信じられるほど、カミサマを体験できるわけじゃない、カミサマなどと言い出すのは基本的にルール違反だ。
ひとつ、絶対に覚えておいてくれ、「人を疑って生きるしかなくなると、性癖は強固に偏向化する」、そうなるとその後はほとんどその性癖を信仰して生きていくしかなくなる。
次のことを考えてくれ、「根本的な無気力」「イライラしやすくなった」「食欲の乱調(偏ってやたら食べる・パタリと食べられなくなる)」「声が引きつるようになった」「変なハイになりやすくなった」「肌の調子や顔色がおかしい」「入浴しても身体があたたまらない」、これらは性癖の狂乱セックスをしたあとで出てくる症状だ、性癖でセックスしているので胴体は弱っていっている。

あなたは性癖をなくしても濡れることができる。

あなたは信じるものがあれば、濡れることができる、信じるものがない(もしくはなくした)せいで、性癖を信仰せざるをえなくなっただけだ。
女性は濡れる男性としか一緒にいられないだろうし、男性は勃起する女性としか一緒にいられない、と、一般に思われている、けれども本当はそんなことはない、人間はそんな単純な性癖だけでできてはいない/「性癖をなくしたらつまらない」のじゃない、性癖が最後の信じるものになっているので、「信じるものをなくすのが怖い」だけだ。
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セックスは性癖の狂乱ではない
度なダンス、バレエ、武術の世界には「色気」がない。
本当は、その世界にもセクシャリティや愛はあるのだが、一般的にはそういったものが見受けられないと感じられると思う。
それはなぜかというと、こわばり(こだわり)を克服した自由な身体は、「性癖」を離脱するからだ。
この話は現在仮説で、これからもずっと仮説にしておきたい、ある種の危険を含んでいるから、そのつもりで聞き流しておいてくれ。

現代においては、周知のとおり、「性癖」は各方面に先鋭化している(本来の国語的には「性癖」はそのことを指すのではないが、この場合はいわゆる「セックスの趣味」として)。
先鋭化した性癖は、各方面で冗談のネタに使われているふうだが、実は「性癖がシャレにならない」という人も少なくないはずだ、自覚があってもなくても、そういうことは現在あちこちで起こっている。
今や性癖は単なる趣味ではなく、「セックスの"不具合"とも言いうる偏向」のレベルになり、人々を苦しめている、そして偏った性癖のセックスを重ねていけば、性癖はさらに強化されていってしまう。
「疑う」世の中になり、「疑う胴体」になると、セックスの機能は"閉じ込められて"歪んでいく、そして「性癖」が始まる、気づいたときにはこの「性癖」から脱出不可能になっていたりする。

人はどうしても、性癖を「真実」と信じてしまう。

性癖は一種の「信仰」じみる、性癖の偏向に苦しめられている人も、そこに一種の「信仰」があるので、「そこから離れるのはいやだ」と感じる、偏った性癖を離脱することは巨大なものを「失う」ことだと感じられるのだ。
現代において、性癖が先鋭化していくのは、疑う胴体がセックスの機能を強固に閉じ込めるせいだ、僕は年長者として言っておきたい、性癖の狂乱とは異なる本来のセックスというのはきちんとあるし、そのことを解き明かすサイエンスもきちんとある、いつか未来に向かおうとするとき、この知識が必要になる人がきっといると思う。
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始業のチャイム

静に考えれば正しいことが見えてくる。
そして何の役にも立たないだろう、そのお決めになった「正しいこと」とやらは。
怒りを持って考えろ。
怒りが私的でなく「天」に通じているとき、「天」は人に「思想」をもたらす、そして人は思想の人となり、思想にから生じた「意志」を持つのだ。

ヤラせろって言ったらヤラせろよ。
女なのにそんなこともわからないのか、あるいは老化でついにわからなくなったのか。
あなたは「ヤラせろ」と言われて、そのこともわからない女になった、思想のない硬い虫けらみたいになってしまった、そのことを一生続けさせられることに怒りはないか。
「正しいこと」? そのわりにはクッタクタで、精気がないですな、しんどいことばかりをわざわざお選びになられているように見えますぞ、あたかも「棒立ちと緘黙の刑」に処せられたかのようで。

ヤラせろ。

思想なしに生きている人は、とてもしんどく生きているのだ、思想がなければ気分に振り回されるだけでしかもどこに向かう推進力もない、羅針盤のない板切れが海に浮かんでいるだけを誰も船とは呼んでくれない。
「ヤラせろ」と霧笛が鳴った、あるいはオーボエが鳴った、銅鑼が鳴らされた、"チャイム"が鳴った、何をしたらいいかわからないか?

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エロスは特権的である2
ロスは「思想」だ。
男性が女子高生やナースやキャビンアテンダントの「制服」が好きなのは、制服がそれぞれの「思想」を担っているからだ。
あなたはマンガ喫茶の本棚で犯されるのと、図書館の哲学書の本棚で犯されるのとどちらがよいか。
エロスは「思想」だ、そして制服や哲学書が"似合う"という人は特権的だ。

オタクと呼ばれる人たちは、知識や技術はあっても、「思想」がないのでエロスがない。
知識と技術だけしかない医者よりは、「思想」のある殺し屋のほうがエロスがある。
中堅以降のエリートは、誰だって知識と技術を豊富に持つが、多くは「思想」を失うのでエロスを失う。
知識と技術は、努力と経験を積めば誰だって得られるので平等的だが、「思想」が得られるかどうかは人によるので、差別的で特権的だ。

エロスのない人は、セックスに知識と技術を求める。

「ヤリたいじゃん」「気持ちいいじゃん」「僕必死なんです」「そりゃわたしだってしたいわよ」、これらの類はどれも「思想」がないので、どれだけ必死でもエロスにはならない。
セックスに快楽があるのは当たり前だが、人は思想のない快楽や死を厭っているのだ、人は思想なしに死んだりイッたりはしたくないのだ。
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エロスは特権的である

い女性は、裸で寝転がっていれば男性が飛びつく。
その意味では、セックスは誰だってできる。
けれども、そうした男女の「性欲」だけでセックスをすると、そのときはよくても、後になってなぜか傷ついている。
まるで、つまらない映画を大音量で見せられた後のように、何も残っていなくていやな気持ちになる。

エロスのないセックスをすると傷つく。
性欲はエロスではないし、アダルトビデオやエロ本、グラビアや同人誌もエロスではない。
エロスは「思想」だ、情熱に関わる「思想の体現」がエロスだと言える、ちょうど音楽や踊りがそうであるように。
興奮や性欲、あるいはコンプレックスで鼻息を荒くしても、そこには「思想」がないからエロスにはならない、そうしてエロスのないセックスをすると傷つく。

エロスは思想であり、ゆえに特権的だ。

思想を体現できる人は常に特権的存在だ、指先や唇、あるいはまなざしが肌の上をすべり、ひとつの思想世界を実現する。
「エロい」という言葉は、エロスを誤解させている、性欲やコンプレックスに向けて"露骨に煽情的"であることは、ただ"露骨に煽情的"なのであってエロスではない。

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ヴァギナの熱
ックスが正しく機能したとき、特に女性側に「熱い」という現象が起こる。
キモチの問題ではなく、実際に体温が変わるのだ、あるいは体温というより「燃焼」が生じるのか、とにかく実際的に身体が「熱く」なる、お腹や背中にシャワーを浴びたほどの汗を掻いたりもする。
肌は触れただけでわかるほど熱くなるし、身もふたもなく言えば、ヴァギナの温度も本当に変わる、男性の側がそのとき「うわ、あっつ」とびっくりしてしまうほどになる。
セックスが正しく機能したとき、女性はたいてい蒸気にうつむいて「熱い……」とこぼす、そのことは交合の前からでも起こっていて、抱きしめられただけで「熱い……」が起こることも当然ある。

アダルトビデオで見るセックスはあくまで「撮影」であって、セックスそのものじゃない、それはまるで戦争映画と戦争の実物を誤解するような類だ、そこにあるのはセックスの現場ではなく撮影の現場。
ただわれわれは、アダルトビデオぐらいしか、他人のセックスを知りようがないのだ、どこか脳裏でアダルトビデオがセックスのモデルになってしまっていることは否めない。
だがおそらく僕の見る限り、特に近年のアダルトビデオの撮影セックスにおいては、「熱い……」は起こっていない、だからアダルトビデオセックスの表面上のたくましさを見本に採るのは大きな間違いだ。
単にペニスとヴァギナの摩擦運動にタフになることや、その運動の激しさからハァハァ息を切らすのは、本義的なセックスの熱ではない、タフな運動としてのセックスではいくらエキサイトしてもヴァギナの熱は発生しない、そしてヴァギナの熱なしにセックスをすると男女とも深く傷ついてしまうものだ。

よく見ろ、アダルトビデオの二人は「お熱い二人」ではない。

男女とも、最近はセックスに懐疑的で、それを作業的・処理的に捉えている人が少なくないが、それは端的に言えば「ヴァギナの熱」を知らないからだ、ヴァギナの熱現象を知った後なら、そのことをオナニーと比較するような発想は消失する。
一言でいえば、ヴァギナの熱なしにするセックスは、「できるし、わかるけど、すっきりするだけで虚しい」だ、この虚しさが女性の人生をひどく虚しくしている、すべてのことは「熱い……」を体験しなくては解決しないだろう。
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頭の悪さは器物的執着に向かう
が悪いということは怖いことだ。
頭が悪いと、エロ本がリアリティになってしまう。
どういうことかというと、頭が悪いと物事が見えないので、器物的なことだけに反応し、しかもそれに執着することが善になる。
執着というのは本当に怖い、何しろ当人にとっては本当にそれしか見えるものがないのだから。

極論すると、頭の悪い男女は、ペニスとか女体に器物的執着をする。
本当に本人にはそれしか見えていないのだからしょうがないが、それはいくらなんでもエロ本すぎる。
でも本当に、当人にはそれしか見えないんだから……と繰り返してしまうぐらい、これは怖い、頭の中でずっとペニスを見ている女がいるのだ。
頭が悪いと、この世界に、目の前に、流れているものがわからないことになる、だから器物的な執着を起こす、それがエロ本の世界だが、このエロ本の世界がその人にとってのリアリティになるのだ、これは怖い。

正しいセックスは、愛だけが残り、記憶には残らない。

エロ本の世界はこれの逆で、「あのペニスが/女体が記憶に残って忘れられない」みたいな描写になるのだが、この描写に"リアリティ"を覚える人がいるのだ、ウワー断じてそんなのに関わってはならない。
頭が悪いということは、大切なことが見えないということで、大切なことが見えないということは、器物的執着に向かうしかないということだ、つまり「頭の中がペニス」でしかないのだが、そんな女はいくらなんでも怖すぎるだろう。
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セックスの陳腐化

画や食事を、「生と歓喜に関わる決定的な文化」と捉えている人など実は少なく、多くの人は映画や食事を「娯楽」かせいぜい「趣味」程度に捉えている。
別にそれでいいのだ、「映画はフツーに面白けりゃいいじゃん」「うまいメシは誰だって好きじゃね?」という程度で。
ただ問題は、セックスの場合はどうかだ、セックスを「生と歓喜に関わる決定的な文化」と捉えるか、それとも刺激的な「娯楽」や「趣味」と捉えるか。
「セックスはフツーにしたいでしょ」「いいオンナとは誰だってヤリたくね?」という程度で捉える、その向きは当然あるのだが、その"陳腐化"に合意できる人と、実は合意できない人があるのだ、そのことがまたセックスしてからでないとわからないところが厄介きわまる。

ずばり申し上げて、らくらくセックスをこなしている人をうらやましがるべきではない。
あなたは「名作映画をへっちゃらで観る人」と、「名作映画を観てブッ倒れている人」と、どちらを恋人にしたいだろうか?
らくらくセックスをこなしている人は、多く前者であって、それを娯楽としてこなしているのだ、言い換えればそれを本当に「娯楽」「趣味」としてこなせるタイプの人もいるということになる。
もしあなたがタイプ違いで、それを「娯楽」「趣味」にできなかった場合、あなたはセックスのたびにヴァギナを不本意に「娯楽」「趣味」に使われるという"侮辱"を蓄積していくことになる、その侮辱が起こったときあなたは根こそぎ暗くさせられてしまうのだ。

あなたはセックスの陳腐化を、望むか、望まないか。

陳腐化をタフに見て、「面倒くさいなあ、セックスはセックスなんだからそれでいいじゃん、そこで弱っちいのはウザい」と捉える向きもある、ここにはひとつの正義と勇敢さがあろう、それは否定されるものではない。
ただ混乱すべきではないのだ、それが「娯楽」「趣味」として営まれる場合、それはあなたの生の確認にはならない、「生の確認が欲しくてセックスしたのにやり方は娯楽と趣味だった」という場合、底知れぬ侮辱が起こって人は暗くなる、ここの混乱だけは避けよう。

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目の前の男性について考えるべきこと

つの間にかセックスは暗いものになってしまった(おれのことじゃないぞ)。
昔、「この街に五年住んでいますが、吉野家とマクドナルドにしか行ったことがないです」という人がいた。
そういう人は、自分の住んでいる「場所」を構造的に捉えるイマジネールの能力がないのだ。
そういう人がたとえば湘南に住んでも、湘南というイメージがわかるだけで、「湘南だなぁ」という手ごたえと歓喜は永遠に得ない、そうして自分の触れる対象を「なんとも思わない」という人がいるのだ、しかも現在はそれが主流なのかもしれない。

僕は神戸から離れるとき大いに泣いたし、新小岩から現在の目黒区に移るときも涙が枯れるまで泣いた、自分がコナゴナになるような哀しみに必死で耐えなくてはならなかった。
なぜなら、すべて「僕が生きた場所」だからだ、当時使っていた椅子がボロボロだが今も捨てられずに隣室にある(今はたまに猫の寝場所になっている)。
五年住んでいるが、吉野家とマクドナルドにしか行ったことがないという人は、引っ越すことがあっても涙なんか流さないだろう、それは彼にとって「生きた場所」ではないからだ。
それと同じように、自分の交際相手さえ「共に過ごした人」と構造的に捉えるイマジネールの能力がない人がいる、こういう人とセックスをすると、本当に性器の摩擦に興奮と慰めを得るだけになる。

思い出を抱きしめない人と寝るな。

思い出を抱きしめない人と寝たって、彼はあなたのことも思い出にしないに決まっているのだから、そんな人と寝たってたちまち強烈に虚しくなるに決まっている。
目の前の男性について考えろ、「これまでにこの人に愛された人は幸福だなあ」と胸に来て確信するか、それを確信できない人と愛し合うならあなたのしていることは支離滅裂だ。

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勝手にセックスで盛り上がるなああああ!!
に言うことが逆転するようだが、みんな、セックス以外のことにも少しは興味を持ったらどうかね!!
なぜそんなにセックスのことしか頭にないんだ、餓えているし満たされないし性的自信がクライシスで困り果てているという事情はよくわかるが……
そして、よりにもよって、自分の頭の中がセックスのことでパンパンだからといって、セックスのことを勝手にタブーにするな!! そんなことするから状況がシチ面倒になるんだろ!!
そして断じて申し上げるが、禁断の性欲ヌルヌルで自己解放〜みたいなものがセックスではないし、そんなもん自己解放でもねえよ!! 餓えている自分ベースで知らないセックスを勝手に定義するなあああ!!!

どこで自分をそんな清潔なモンだと思い込んだのか知らないが、たかだかセックスおよびそのことへの妄想ごときを、禁断のタブーみたいにして盛り上がるのは、コンコンチキ、とてもじゃないが子供の独善と杞憂である。
それはつまりアレだろ、家畜をブッ殺して自分のメシにしているという宿業のあたりも、受け止められないタブーみたいな扱いにしてんだろ、それはわかるけどそんな子供みたいなことに勝手に盛り上がるな。
よろしいか!! セックスを禁断の性欲アンド自己解放のタブーなんて思っているのは、はっきり言って痴漢やレイプ犯と同じ発想だぞ、性犯罪者はそこを誤解してハアハアしているから性犯罪者になるのだ。
そんなエキセントリックに心配とか危機感とか覚えなくても、正しく求めて正しく出会えば、何の違和感も不自然さもない祝福のセックスが手に入るよ、僕もあなたも立派なモンじゃないが、セックスもそんな立派なモンじゃないから盛り上がらなくていいの!!

お前の性欲ごときをタブーにするほど、この宇宙が狭いとお思いか。

あなたが内心でセックスにバリバリの関心と危機感と願望があり、そのことにすっかり支配されていることなんて、大人から見りゃミエミエのことで、偽装しているふうのつもりはあなた自信と周辺の子供にしか通用してねえよ、そんな御冗談で話をややこしくするのをやめてね!!
あなたは唐揚げを喰っても「うまい!!」って言わないじゃないか、そのくせ食ってるだろ、あなたが「やりたい!!」って言わないのもそれと同じ仕組みだよ、とにかく勝手にタブーハアハアで盛り上がるな!!
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卑猥さに定義されたあなたに向けて
か測定装置でもつけて実際に調べてもらいたいと思う。
僕は女性の裸身に触れているとき、おそらく心拍数も呼吸数も低下している。
アドレナリン的興奮と反対方向に情動が起こる、脳波を調べればどうせアルファ波とかシータ波とかだろう。
或る女性は僕のことを、「なぜ濡れるのかわからない」と言ってくれた、性的興奮がまるでない物珍しさについて。

これは自慢話をしたいのではなく、僕としてはどうしても重要だと看做さざるをえないレポートを、恥を忍んで申し上げているつもりだ。
誰が好きこのんでこんな恥ずかしい話をするか、だが敢えて科学的にレポートしておく、僕は性的興奮によって女性と交合はしていないし、そういう交合は容易に実在すると報告しておく。
誰か僕をそういう測定装置に掛けてくれ、僕はおそらく、アイドルグループの全員が裸で駆け寄ってきたとしても、性的興奮によって彼女らを眺めることは一切しないだろう。
「なぜ濡れるのかわからない」と言ってくれた、正直なコメントに感謝している、そして僕は「こっちで濡れるのが本来だったとしたら全体どうするんだ」と焦っている。

あなたの身体に、卑猥なところなどありはしない。

僕は猥雑なものや、おぞましいものが苦手なのだ、もしあなたの股間に猥褻物が出現するなら、僕はその途端に走って逃げだすだろう。
「卑猥さに定義されたあなた」にとって、僕は定義に違反する敵対者かもしれない、それなら僕は敵対しつづけよう、あなたがどれだけ僕を睨みつけても、あなたはうつくしいだけで僕にとっては猥褻物では絶対にありえない。
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さびしさとセックス、お気をつけあそばせ

代、人々は全身に穴が空くようなさびしさにおびやかされている。
さびしさは、人間関係の虚無さ、アイデンティティの得られなさ、場所のなさ、イグジスタンスの得られなさに引き起こされていて、かつしがらみと強制性だけが強硬にあることによって加速もされている。
つまり「何も得られないのに、きついことをやらされる」という二重の責苦が人々のこころをさびしさの穴だらけにしている。
さびしさにお気をつけあそばせ、さびしさで自分が穴だらけだったと気づいた人間は、第一にセックスに慰めを求める、そのことはあなたも例外ではない。

さびしさに穴だらけにされると、男性は異様な妄執でセックスを追うし、女性は悪霊に憑かれたように戸締りを忘れる、男女とも歯止めがきかない中にいる。
そうして、さびしさに強迫されてセックスに陥れられたとき、どうなるか? その味わいは甘露に思えながら、全身の臓腑はさらに真っ黒に濡れていっているのだ、本当には何も向き合えていないから。
唯一の慰めが、自分をますます穴だらけにすると知ったとき、なんとかそれを否定する言い訳を探そうとするし、また慰めのセックスは力ずくでどこかへ到って解決を得ようとし、蛮性を強めていく。
こんなおぞましさの構造に取り込まれないために、方法の一つは、さびしさに気づかないようにすることだ、自分が穴だらけだということに気づかないようにすること、けれども当然、こんな方法は破局まで眠って過ごそうとする姑息的手段でしかありえない。

全身が穴だらけなら、風よ全身を吹き抜けろ。

友人のいない世界を歩くことは、そんなに貧しいことだろうか? マンガを読んだり、わたしの人生はどうこうだという言い訳を整えたりすることは、そんなに必要なことだろうか?
あなたを苦しめるさびしさは、実はあなたの敵ではないし、あなたを慰めるセックスは、実はあなたの味方ではない、お気をつけあそばせ。

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肌が合う、合わない2

(感覚の鋭い人ならわかるかもしれない) 相手の身体の上にずーっと手のひらや手の甲を滑らせてみる。
すると、滑らせていく手が、身体のどこかでズンと重くなったり、どこかでスッと軽くなったりする。
相手の身体の重いところに及ぶと、こちらの手も重くなるし、軽いところに及ぶと、こちらの手も軽くなるのだ、一種のセンサー現象みたいなものだ。
ちなみに、ある種の施術ができる人なら、そのズンと重くなるところを、軽いタッチングで軽快させることができたりする、まあそれは専門的な職業をされる方の話。

この「手がズンと重くなる」という現象は、実は男女それぞれの性器にもある。
あなたが彼の身体に手を滑らせていき……手が彼のペニスに重なったときに「ズン」と重くなるようだったら、それは彼のセックスが「重い」という状態だ。
当然女性のヴァギナにもこの現象はある、むしろ女性のヴァギナにこそこの現象は露骨にある、ここの重さ・軽さが異なるとき、男女のセックスは「肌が合わない」ということになる。
いわゆる「相性が合う・合わない」というのも、ほとんどこの現象のことを指している、もちろんこの重い・軽いは変動していくものではあるが、その変動は重大でそう簡単には起こらないし、そう簡単に起こっていてはたまらないものだ。

ヴァギナの重さ・軽さによって、「あなた」という女は変わる。

もちろんヴァギナだけでなく全身がそうなのだが、男女ともに性器の存在は特に性的な自己感覚に直結している、よって性器の重さ・軽さが変われば性的な自分も変わるし、恋人も別の人に変わってしまう。
性器が重いとか軽いとか、なかなか非道な言いようだが、それを承知であえて申し上げている、知っておいて損のないことだし、「いつかのときのため」知っておいたほうがよいことだ、性的な中心である性器に誰も施術なんかできないのだから。

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肌が合う、合わない

間の身体には「重い」「軽い」がある。
ストレスが掛かると「重く」なるし、執着や怨恨があると「重く」なる、あるいは人間は周囲の人と「気を合わせて」暮らしているので、その中でも身体は「重く」なったりする。
若い人間は、身体が重くてもそれをパワーで動かせるのでごまかしが掛かるが、いくらパワーが強くても重い・軽いの本質は変わらない。
そして一般的にいう肌が合う・合わないというのは、この身体の重さ・軽さに大きく重なっている、たとえば身体の軽い女性と身体の重い男性は「肌が合わない」ので交際することはほとんどない、これはもちろん体重のことを言っているのではない。

身体の重い人と軽い人とでは、「肌が合わない」ので、事実上セックスも合わないものだ、実際に「気持ちよくない」「わからない」「痛い」という状態が起こる。
それでも男と女だから、愛し合おうとする意志によって、少々の肌の違いを突破できることはある、そうするとどうなるか。
身体の重い・軽いというそれぞれの状態が干渉しあう、そしてほとんどの場合は男性側から女性側へ身体の状態が輸出される。
男性の身体が女性の身体より軽かったら、セックス後に女性の身体は軽くなるし、男性の身体が女性の身体より重かったら、セックス後に女性の身体は重くなる。

事後に、部屋を飛び出したくなるセックスと、昏々と眠り続けたくなるセックスがある。

どちらがいい、ということではなく、そういう干渉効果が起こる、そして身体の重さ・軽さが違う間柄は、互いに「好き」にはなれても「恋人」にはふつうなれない、なぜなら「肌が合わない」ということによって。
セックスで身体の軽さが輸入されるというのは魅力的な話だが、実際には「肌が合わない」という状態が前面に出るので、事実上セックスは不能になる、それを突破しようとすると特殊な強行の技術が必要な上にダメージを負うリスクもあるので、これは現実的ではない。

えっちはいいよな | comments(0) |
証拠ゼロの相互確認
ぜ僕の話があなたにわかるわけがあるか。
なぜあなたの話が僕にわかるわけがあるか。
わかりあわなくても愛し合えるだろ。
僕があなたを愛していて、あなたが僕を愛していたら、それで済むだろ。

そんなにわかりあっていたら、世界が消えちゃわない?
やることも、どうしたらいいかということも、消えてなくなっちゃわない?
どうして自分のやることを、他人にわかってもらわなくちゃならないの。
孤独になんか、なりようがないよ、愛が起こらないことを責任転嫁するなよ。

愛し合うのは、愛し合っているあいだ。

どうだ、きれいだろう。
愛し合うってことは、証拠ゼロの相互確認、確かめてないものがビンビンいっちゃう、すさまじいもんだね。
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love letter to my girl
イ・ガール、大切な秘密を教えてあげる、世の中には人々に知られないところで、熱いラブレターを届け合っている二人がいるの、たとえそれが電子メールであったとしても。
マイ・ガール、あなたの知っているとおり、それを授受する権利は特別のもの、それは愛の深さではなく秘密の深さによっている。
誰だって愛は深いもの、それは当然そう、でもそれ以上のものは秘密にやりとりされている、夜な夜な、マイ・ガール、誰かが秘密をむさぼりあっている。
愛は公然でも、ラブレターは秘密だ、誰かが誰かにこんなお熱いことを言うなんて、知られたら誰だって外国へ高飛びしたくなってしまう。

マイ・ガール、だから秘密の関係を。
マイ・ガール、上ずった声ではなく、秘密の声を、その取り返しのつかない声を、ふさわしき誰かに向けて。
多くのことを学び、なるべく問題を解決し、マイ・ガール、すべては誰かと秘密を持つため、深い深い花園へゆくため。
汚れた街角で、健全さを主張する活動はさておき、正当性より秘密性がものを言う、僕はそのとき耳元でありったけの積乱雲を吐きだしてみせよう。

指先から、秘密のラブレター。

マイ・ガール、あなたを誤解させるぐらいなら、僕が恥を掻いたほうがましだ、いつだって笑ってくれ、やがて僕が力尽きたらあなたはまたふさわしい誰かを見つけるだろう。
それでいいんだ、届かなくても、それが僕のラブレター、あなたを苦しませるような奇跡なら僕は要らない。
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祝福はエッチな女の子

ッチな女の子というのはとてもすてきだ。
が、たまにそこを誤解している人があって、なぜか見当の違う「性欲とエロス願望を自慢してくる」という人がある。
誤解しているのだが、性欲とエロス願望は誰にでもあるのだ……それは何一つ自慢にならない。
そして、性欲とエロス願望に相反して、清楚願望もあるのだが、これも誰にでもあるのだ、それもやはり何一つ自慢にもならない。

男性でも同じだ、きっと「エッチな男の人」というのは女性から見て悪くない存在に違いない。
が、たいていの男性は残念ながら、性欲とエロス願望、そしてときどき主張する清楚願望しか自慢してこないだろう。
「エッチな男の人」は悪くないものだろうが、「性欲とエロス願望をなぜか自慢して、ときどき清楚願望で駄々をこねる男の人」なんて女性から見て目も当てられない存在に違いない。
シンプルな話、「エッチな男の人」は数少なく、同程度に「エッチな女の子」も数少ないのだ、エッチな女の子はすてきで貴重な存在と言える、実にすばらしい。

エッチな女の子になれなかった場合、それは一定の不幸と言うしかない。

もちろんそれだけですべてが決まるわけではないが、どうせなら「エッチな女の子」の時間があったほうが青春は堂々としてまぶしいし、男だって「エッチな男の人」になれたらかなりの幸福だ。
だがそういった幸福はたいてい限られた人のみが手にする特権的なもので、凡人はせめて欺瞞せずにうつくしいものを祝福するしかない、誰だって本当はエッチな女の子/男の人になりたかった。

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八月のアイスティー
「親が」というと、まず暗い話に聞こえる。
親子というシステムがとっくに破綻していることの証拠だ。
「今週は土曜日も仕事だ」と、明るく言う人はほとんどない。
「こないだ、カレに話聞いたんだけど」というと、たいていその「話」はロクでもない暗い内容のものだ。

「先週、ある人とセックスして」という話も、まず暗い話として聞こえる。
何もかもを誤解している、こんな状態で何をどう工夫してみても全てが無理だ。
「親が最近忙しくて、ほとんど行方不明らしい」「土曜日もみんなで仕事やっちまおうって話になって」「あいつに話聞くと、もうジッとしていられなくなってな」「先週、あの人と寝たけど、あの夜はもう何もかもうつくしくてね」。
現状、暗いものがあるのはしょうがないけれど、そんなの信じていたら阿呆だぞ、暗いものがあなたのお好みというだけで、本当はそれ自体が暗いというわけではまったくない。

セックスを暗いものだと思っている。

セックスを暗いものだと思い、人間関係を暗いものだと取り扱い、仕事を暗いものとして努力し、家族を暗いものとして順応する。
暗く生きるのは個人の自由だが、生きるのが暗いことだと誤解されては近所迷惑だ、憂鬱合戦がそんなに肌に合うか? 僕はセックスなんて八月のアイスティーのように穢れなく明るいものだと思っているけれども。
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