☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「真ん中」へのわたしの行為

に山頂があることは、誰でも知っているが、誰でもそこに「向かう」わけではないし、ましてそこに「到達」する人はごく少ない。
目の前の人についても同じで、目の前の人に「真ん中」があることは誰でも知っているが、誰でもそこに「向かう」わけではないし、そこに「到達」する人はごく少ない。
人の真ん中に向かう、到達する、到達し続けるというのは、不思議な現象なのだ、その不思議な現象が「ある」ということだけは断言できる。
目の前の人の真ん中に到達し続けるとき、何もかもが「届き」、体温が上昇する、忘れていた何もかもを思い出す、それは激しい現象だが、汗を垂らしながら、ストレスはまったくない。

目の前の人の真ん中に向かい、到達し続けるとき、それは不思議にわたしの希求なのだ、わたしの希求であり、わたしの行為となる、待ちぼうけしていてこの現象は決して起こらない。
わたしは「向かっている」「向かい続けている」という感覚が確実にある、それはやや犯罪的な行為なので、善人は基本的にここには到達しない。
このとき明確に、感触そのものとして、「わたし」と「お前」が存在する、このときからまったく別の現象が起こる、二人のやるべきことはガラリと変わるし、その他のことはすべて虚しくなる。
それでいて、何が特別というわけでもないのだ、ただ思い出す、すべての夜が特別な夜だったということを思い出す。

これは犯罪だが、被害者は共犯者になる。

だからこの犯罪が成立したとき、犯罪だが訴え出る人はいないのだ、犯罪なので「だめだよ」という感触はあるが、そのときはすでに共犯者も同じ罪に手を染めている。
人だけではく、すべての物事には「真ん中」がある、その真ん中に向かい、到達し、到達し続ける、この犯罪は「わたし」の希求であり、「わたし」の行為だ、そのときまったく別のことが起こる。

できるオンナだね | comments(0) |
正しい「夢」とイメージの描き方

なたが「舞台に立って踊る」ということを、イメージしてみよう、いわゆる「夢」というやつだ。
イメージした? ぜひイメージしてほしい/そのイメージの内容について今から点検する。
あなたのその「イメージ」は、あなたが舞台に立って踊るところを、客席からとか、テレビカメラでとかいうような、「第三者の視点から観ている」という形で描かれていないだろうか。
このことはとてもありがちなのだが、そういう第三者視点での「イメージ」は、夢の描き方として間違いだ、それは「想像力」ではなく「空想」で、あなたに何の滋養も与えず、あなたにヘンな陶酔のクセをつける作用しかもたないのだ。

あなたが「舞台に立って踊る」ということをイメージしたとき、そのイメージは、「舞台袖から、ライテンィグされている舞台そのものを観ている」という形で描かれなくてはならない。
夢をイメージするとして、そのイメージは、その夢の舞台に立つ「当人の視点」で描かれなくてはならないということだ、あなたは慌ただしく自分の衣装の点検をして、目前の、幕が開いた舞台を見つめている。
舞台袖で、関係者がステージマネージャーとトランシーバーで連絡している、あなたは緊張して足下がおぼつかなく、鼓動が高鳴っている、しかしあなた一人でこれから目前の舞台に出てゆかねばならない。
あなたが「舞台に立って踊る」ということをイメージしたとき、結果、「おっそろしいですね」と青ざめるようなら、あなたは夢を思い描くことに成功している/この能力はあなたの生涯を華やがせて救うだろう。

「表彰台に立っている自分」を思い描くのではなく、「表彰台から見下ろす景色のこと」を思い描く。

自己中心性が高く、自意識が過剰な人は、自分が物を見ず、自分で自分ばかりを見ているものだ/そのせいで「イメージ」においても、自分が自分を見ているという形でそれを思い描いてしまう、そのイメージの持ち方では人間は自己陶酔と荒廃を深めていくことにしかならない。
舞台上のあなたを、客席の目線で空想すると、あなたは陶酔して恍惚となるだけだ、そうではなく「舞台上のあなたから、客席がどう広がって見えるか」を思い描く/すると客席二千人の視線はあなたに集中しているわけで、そこには臨場感がある、すでに手が汗ばむようなスリルがある、このことで初めてあなたは自分の夢に向かってゆける胴体の形成を始めるのだ。

できるオンナだね | comments(0) |
波紋の戦士
く知られたマンガ「ジョジョの奇妙な冒険」の、第一部・第二部においては、主人公たちが吸血鬼らに対して「波紋法」の技術と能力で戦う。
「波紋」のエネルギーは、血液のビートを呼吸のリズムでコントロールして集めることで生じてくるエネルギーだ、もともと血液にあるエネルギーを呼吸でコントロールし出力する、あくまでマンガ世界のSFではあるが……
重要なことは、波紋のエネルギーは「血液のエネルギー」なのに、それをコントロールするのは「呼吸法」なのだということだ、血液のエネルギーだから血液をぶちまければOKということにはならない。
「血液のエネルギー」を使うために、波紋の戦士は徹底して「呼吸法」を鍛える、血液を鍛えるのではない/脳みそに無数の針を刺して血液を暴走させれば、それは戦士ではなく吸血鬼になってしまう、「石仮面」はそのための道具だった。

血液を暴走させた吸血鬼(人間をやめた者)は、獣・グールの力を持つが、太陽の下では生きられなくなる、URYYYYYY、波紋の戦士はこの吸血鬼を波紋によって灰にする。
吸血鬼は日光で灰になるが/「波紋の呼吸」はつまり血液のエネルギーをコントロールして、血液のエネルギーから太陽のエネルギーを生じさせるという能力だ、その太陽のエネルギーは代表的に「山吹色(サンライトイエロー)」で放出される。
波紋の戦士が、波紋のエネルギーを失ってしまうとき、その理由は二つだ、「血が止まってしまうこと」「波紋の呼吸が乱れてしまうこと」、特に波紋の戦士にとっては「波紋の呼吸を乱すな」ということが生命線になる。
波紋を強力にするためには、拡散ではなく「一点集中」、波紋の性質は「くっつく波紋」と「はじく波紋」、その身に触れたときに電撃で気絶しそうになるぐらいでなければ、まともな波紋を使えていることにはならない。

この魑魅魍魎が跳梁跋扈する世界で、波紋も使えずに戦っていけるか?

波紋法のことは、「ジョジョの奇妙な冒険」1巻〜12巻に書いてある/お前は「ブックオフなら1200円だな」と言う。
東洋人は波紋法のことを「仙道」と呼んだという、仙道とは中国の内丹術のことだ、僕は内丹術などに詳しくはないが、吸血鬼を灰にするぐらいには修行を積んでいないと、今を楽しくは生きていけないかなぁ〜
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「誰にでも通用するもの」を持つこと
(メモ書き)なるべく最大限に、「誰にでも通用するもの」を持たなくてはならない、カミサマではないので誰も完全な普遍性を持つことはできないが。
表面上どう受け取られるかは別にしてだよ、「誰にでも通用するもの」を持つこと、発揮すること、それはいわば、人間の本質に「付け入る」という、ある意味では悪辣さを含んでいるのかもしれない。
誰だって、己の身に関わることとして、美と無垢と永遠に触れたならば、膝を屈して帰順せざるをえない、そんなことに反発する理由は誰にもないからだ/それが人間の本質なので、そこに付け込む、そこに付け入る。
たとえ渋谷駅西口を歩いているすべての人であっても、すべての人は「人間の本質」に支配されて生きているので、そこに付け入るのだ、そうして「誰にでも通用するもの」を希求する、そうすることでしかけっきょく「神業」の追究はできない。

だからそこにあるのは、衝突的戦いではないし、競い合いでもない、比べっこするものではなくて、どちらが本質に及んでいて、抗しようがないかだ。
たとえば人は、強くなりたいわけで、強くなりたいからこそ腕力をふるうのだが、そこで「こうしたほうが強くなれる」ということが示されれば、そのことには抵抗しようがない、人は純潔をきわめた利益には抵抗する方法がない。
人は真の自由と歓喜を得たいわけだが、そこで真の自由と歓喜を与えてくれるものが示されれば、それに対しては抵抗できない、人は勝利を奪おうとされるとき抵抗できるのであって、勝利を与えてくれるものには抵抗できない。
なるべく最大限に、「誰にでも通用するもの」を持つこと、それは人間の本質に「付け入る」ことだから、つまり人間の本質を忘れないこと。

神の国に連れて行ってくれることほど、悪魔的な技術はない。

人は自分の存在を認めてくれる者には抵抗のしようがないし、自分を解放してくれるもの、および自分を高めてくれるものにも抵抗のしようがない/そこに目をつける。
誰しも自分の肯定を探しているものだが、予想している自分の肯定以上の肯定を与えること、すると人はよろこびあって、抵抗する方法がその理由のメカニズムごとなくなってしまう/それは悪魔的技術で神業を為すこと、そこで初めて「誰にでも通用する」。
できるオンナだね | comments(0) |
「使えるヤツ」になる方法6(身を粉にする)

に情念が染みると、肉が硬化し、肉レベルでの連携が弱くなる(ワークに噛みあわなくなる)。
この状態で他人と関わるのは、とてもしんどいのだ、まして「チームワーク」なんかやらされると、連携の機能が失われているので軽く死ねる。
肉に情念が染みると、ワークに連携できなくなるこの現象は、「ワーカビリティが損なわれる」と捉えていい、肉に情念が染みているとワーカビリティが損なわれる。
肉のワーカビリティが損なわれていると、本人の意思や能力に関わらず、自分が「使えない、しかも伸びないヤツ」状態になるのだ、この状態は自分も周囲もキツいので、わりと真剣に回復の手続きを取ったほうがいい。

ワーカビリティの回復は、「身を粉にする」ことで得られる、情念だけを粉砕はできないので、一度身ごと粉にするしかない。
このとき、人間関係があれば、<<ワーカビリティの低い人が率先したほうがいい>>、登山のパーティは経験の浅い者が先頭を行くようにだ/ワーカビリティの低い人が率先して自ら「身を粉にする」。
たとえば丁寧に拭き掃除をするぐらいのワークは誰でもできるので、そこは割り切って「身を粉にする」、たとえば禅寺でやたらお堂の拭き掃除をしている小僧はこれをやらされているのだ、身を粉にしないとワーカビリティの回復と維持ができない。
ワーカビリティが皆無のような、致命的に「使えない上に伸びないヤツ」という人がまれにいるが、そういう人は能力の問題以前に、何かに「身を粉にする」ことがなかったのだ、これは必ずこころあたりがあると思う。

不本意でも、身を粉にすれば、ワーカビリティの回復だけは保証される。

これはほとんど、物理的なモンなので、本人の思想や思念は関係ない、人は疲れても何にもならないが、「身を粉にする」ことでワーカビリティの回復が得られる。
正しく知っておくこと、この手続きに違反することはひたすら損だ/1.まずイージーワークに「身を粉にする」、2.それ自体は無意味に思えるが割り切る(情念を持たないこと)、3.ワーカビリティは物理的(肉レベル)で回復する、4.ワーカビリティが回復した状態で上位ワークにトライする、5.自発的に、率先してすること(「やらされる」と回復が得られないので損)、6.「単純作業」はよいが、ルーチンワークおよびマニュアルワークをしない、マニュアルワークは筋肉に染みてしまう、ワーカビリティは低下する。

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「使えるヤツ」になる方法5

「ワーク」と「願望」を区別しないといけない。
たとえば、誰だって「美人になりたい」「男前になりたい」とは思うだろうが、それは願望であって/「美人になるのがわたしのワーク」「男前になるのがおれのワーク」と胸を張って進んでいることはまったく別のことだ。
ここに、タテ10m、ヨコ10mからなるキャンバスに、大きな花束の絵を描いている真っ最中の人がいたとして、その人に向けて「わたしも画家になりたいです!!」と言い放つことは、まったく噛みあわない。
「もっとレベルを上げたい」と、ワークに向けて言う人と、「もっとレベルを上げたい」と、願望に向けて言う人は、言う対象がまったく別だ、誰だって基本的に「ワーク」という感覚を持たないといけない。

仕事(または役)を持っている人は、誰だって「ジョブ」を持っているのだが、どうやってジョブの成果を出すかというと、「はたらき(work)」によってだ、けっきょく現場でモノを言っているのは具体的なワークに違いない。
「グッドジョブ!」という言い方があるが、グッドジョブが為し遂げられるのは、身もフタもないナイスワークによってであり、人はけっきょく自分のナイスワークぶりを「見てろよ」と見せつけながら生きるしかないのだった。
しかし、自分のワークぶりというのは、願望と違って身もフタもないものなので、ここに自分のワークぶりを隠蔽したいという、ワーク・コンプレックスが生じる/願望なら好き放題言えるが、ワークぶりを見せろと言われたら「あの、その……」が普通だ。
「修行中」もしくは「修業中」というのは、「エッセンス・ワークを肉に蓄積中」という営為状態を指すのであって、むつかしく悩んで勉強中、という状態を指すのではない/エッセンス・ワークを1000日分蓄積すると「鍛」になり、10000日分蓄積すると「錬」になる、これを「鍛錬」と言うそうだ(宮本武蔵)。

「ワークしていない」のじゃない、「スリープしている」の。

課長のワークに、新入社員の肉が反応していない場合、課長は新入社員に「寝ぼけてんのか」という叱責をする、まさにそれはスリープしているのであって/本人のマインドがいくらマジメでも関係ない、肉がワークに噛みあっていない限り肉はスリープしている。
もちろん、肉を休ませているとか、避難させているとか、それ自体は状況に応じて悪いことではない、だが肉がスリープしたまま「使えるヤツ」にはなりえないので、不毛な努力に逃避せず「ワーク」という感覚に目覚めるべきだ。

できるオンナだね | comments(0) |
「使えるヤツ」になる方法4

とえばAさんが「バーを開店したい」と言ったとする。
そのときBさん、Cさん、Dさんに必要な反応は何か。
「めっちゃいいですね!」「応援します!」「わたしもやりたい!」とかいうことではない。
「どういうバーをやるんですか」と興味を持つことでもないし、「Aさんはそういうのに向いていますよ」と意見を言うことでもない。

Aさんのワークはどうなる? 開業資金の確保、運転資金の借り入れ、経営計画書の作成、場所の選定、物件探し、バーテンダーのノウハウ修業、営業許可と届け出、内装工事、什器の入手、仕入れの見積もり、広告等だ。
これらのワークに「連携」しないと意味がない/たとえば「わたしの叔父がそこの信用金庫で働いてますよ」「わたし○○川沿いに住んでいるので周辺のテナント料とか見てきますよ」「うちの実家、ちょうど冷蔵庫買い替えて、古いやつ余ってますから、いちおう残しときますね」というような連携だ。
こういった連携が、自動的に起こらなくてはならない、指示されてから動くのでは連携ではない、この連携が起こらなくなったとき、大げさに言えば国が亡ぶだろう。
「使えるヤツ」というのは、ヘロヘロっと提案を「してみた」というようなことをする人間ではなく、「叔父に会って一通り聞いてきました、それで内密に、融資が下りたケースの事業計画書のコピーもらってきましたよ」とまで動くヤツだ、残念だがそこまでしれっとできるようでないとリアルには「使えるヤツ」とは言われない。

使える=連携×手柄。

連携してなきゃ意味がないし、手柄を立てなきゃインパクトは生じない、まるでサッカー選手のようだが、高度な連携能力と高度な個人能力が掛け算に作用しないと、けっきょくまともな成果は得られない。
このことの了解には個人差があって、「へ? そんなの当たり前だろ」とキョトンとしている人もいれば、「は? そんなのムリに決まってるでしょ」とグッタリしている人もいる、このことへの個人差はものすごく大きいのだ。

できるオンナだね | comments(0) |
「使えるヤツ」になる方法3
戸に旅行するなら、三ノ宮から元町の大丸まで、商店街を歩いてね、そして元町の「森谷商店」でコロッケを買い食いしてね、ありゃもう名物みたいなもんだから。
そしてハイヒールでなければ、建物を見ながらメリケンパークのポートタワーまで歩こう、写真を撮って、そのままモザイク神戸まで歩いてティータイムと雑貨ショッピングだ、建造物に興味がなければタクシーで直接モザイクへどうぞ。
夕刻に、JRで六甲道まで戻って、バスで「六甲ケーブル下」まで行き、ケーブルカーを上がれば、壮大な夜景が見られるだろう、ただし山の上はすぐ雲に覆われるので天候に注意だ。
夜景が見られないときは、あきらめて元町の中華街でディナーにしよう、ただし中華街は夜が早いので気をつけて、夜が更けてしまったら三ノ宮の北側へどうぞ、リッチに過ごしたいときは北野坂にどうぞ。

神戸の旅行案内なんて、ほとんどこれだけでいい、誰でも「簡にして要を得ている」ことが重要、あなたは余分な情報をぜい肉のように感じて好かないだろう。
ここであなたに、「元町はステキなところなんですよ〜!」なんてプッシュもしない、あなたのワークは「旅行プランの構築」であって、そこに僕の感興は寄与しないから、感興のブチかましなんかしない。
あなたの「ワーク」に向けて、僕は「使えるヤツ」でありたい、だから僕はヘンな笑顔など見せずに、「地図で見ていたらわからんけど、神戸って南北は常に上り坂なんだ、だからヒールが高いと歩くのがきついよ」というようなことを伝えるだろう。
どれだけ知識や、思いがあっても、あなたのワークにビタッと嵌って機能しないかぎり、何の役にも立たない/神戸の旅行案内に必要な能力は、「神戸に詳しい」ことではなく「神戸に詳しくないあなたのことがわかる」ことだ。

物事に詳しいのではなく、あなたのワークに詳しい。

ためしに「神戸 旅行」と検索してみればわかるが、旅行アドバイザーのサイトが出てきて、情報は提供してくれるが、それでは旅行する気になれない/googleはすべての物事に詳しいが、「あなた」のワークにはまるで詳しくないからだ。
東京から新幹線で新大阪まで行ったとして、「新大阪から三ノ宮は新快速で30分だよ?」「えっ、じゃあぜんぜん近いじゃん」とあなたを驚かせることが、googleにはできない/あなたのワークに詳しい必要があって、あなたに「そういう情報が聞きたかったの!」と言われなくては、僕は「使えるヤツ」ではありえないだろう。
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「使えるヤツ」になる方法2
とえば「最近、就職活動はどうなの」なんて訊かない。
「最近、しゅーしょく活動はどーなの、バリバリでございますかい、はっはっは」と話を振る。
就職活動中の人は、就職活動がワークであって、その進捗を僕に話すことは、何のワークでもないからだ、「訊く」なんて論外になる。
就職活動中の人は、「そうですねえ……」と、状況と今後の作戦を整理したいと思っているので、会話がその整理というワークにはたらくように話を振るだけだ/ふつう会話の中で、相手の状況や身の上を「訊く」なんてことは一度もない。

「けっきょく、面接に行くと、自分がブレてて、定まってないって一番感じるんですよ」
「あー、思いが定まっているのと、話すことが定まっているのは別ってことあるもんね」(と、彼が「話す」能力へ注目をシフトさせることを狙う)
「九折さんはどうでした? 学生のころとか、面接で苦労しませんでした?」
「あー、おれはねえ、たぶん面接どうこうじゃなくて、見ず知らずの人と話すということ自体に慣れていたからね、その意味で面接で苦労とかはしなかったな」(と、彼が「面接」という形式に力んで視野狭窄することにアンチテーゼを示す)

ワークが「進む」ということが、話が「進む」ということ。

だから、相手の「ワーク」が見えていないと、話は進みようがない、思っていることを「言う」とか「訊く」とかいうのは本質的に会話ではない/それは「問答」だから、納得が増えるばかりで、何も進まない。
「お前と話すと、前に進めるわ、仕事も進むし、話も進むなあ」と言ってもらえるようになること、それが「使えるヤツ」の基本だ、「使えるヤツ」とは他人のワークに連携して挙動が決められる奴のことだ。
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「使えるヤツ」になる方法

法はシンプルだ。
課長は仕事を進めたいのだ。
課長は「ワーク」をしたいのだ、部下は課長の「ワーク」のためにホウレンソウをする。
よって、あなたの持つべき視点は、「わたしが何をするべきか」じゃない、「課長は何をどうしようとしているか」だ、その課長の「ワーク」に噛みあう形でホウレンソウが為されねばならない。

つまり構造は、[あなた→課長]で終わりじゃない。
構造は、[あなた→課長→ワーク→客]までつながっている、この全体の構造がわかっていないといけない。
あなたは部下として資料を作成するのだが、そのとき、資料はあなたが「わかりやすく」作るのではなくて、課長が客先で営業をする、そのときのワークに向けて「使いやすいよう」に作られていなくてはならない。
課長は客先に営業に出て、何の交渉をするのか、どういう取引をするのか、そのことに向けて「使いやすい」資料を、あなたが作るのだ、そこが噛みあっているヤツが「使えるヤツ」になる、それは読み取りの問題であって努力の問題じゃない。

Did you make it For his Work?

あなたのベストエフォートも、全体のワークと噛みあっていなければ「使えない」になる、相手がどういうワークに出ようとしているのか常に知っておけ、どれだけ品質のいい手袋を編んでも、ワークに軍手が必要なときは「使えない」になる。
課長の「要求」を無言に読み取るなんてテレパシーでもなきゃ不可能だ、そうではなく、課長のワークが客先にどうつながるのかをよく見て、「これで使えるでしょ」という資料をババーンと作るのが最善だ、読み取る対象は「課長」ではなく「ワーク」そのもの、ワークに「使えるでしょ」が足りていればそれで何の問題もないのだ。

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分割(わか)らない
「分からない」ということが思いがけず極意となる。
「分かる」というのは、「分割する」ということで、「tell A from B」と同じ、「分かる」ということは「分割しました」ということに他ならない。
「分かる」というのは、「身に入らないように、肉の身から分割しました」ということであって、「わかる」ものは決して身に入らない、身につかない。
このごろは、誰しも「分かる」という能ばかり鍛えられておって、「分かる」ということが賢いことだと思い込まされている、それは賢いには違いないが、それではただ賢い風情のまま死んでゆくしかない、それはあまりありがたいことではない。

情念の染みた人間は、よう分かりよる、「勝ち組・負け組」だの「肉食系・草食系」だの、何もかも分割しようとする、そうすると分かる分かるのオンパレードになる。
そうなれば、数学だって分かるし試験だって分かるのだが、それは肉の身から分割された宙空の何かをやっておるのであって、その宙空のものをいくら足してやっても、自分の肉身の足しにはならない、宙空のものが膨らむだけだ。
人はみな、分からないで頭を下げておる、分からないというのはこの肉の身から切っても切れない、切り離せないことだということで、情念なしにそれをしておる、夢の中ででも頭を下げておる。
胃袋がなんでも入れられたタンパク質を分からんまま一所懸命に溶かしよるように、われわれ人間も分からんまま一所懸命に頭を下げておる、分かる分かるというのはどの面が申したか/人間は風邪をひくのがとうの昔に分かっておるが、分かっておるからといって肉の身が風邪を引くのはやまんし止まらん、分けとうてもよう分けられん。

「分かり」たいのか、身になりたいのか。

風邪などは、願わくば分かってもらえればありがたい、しかし風邪をひくときはひくのでよう分からん、一方で数学は分かるばかりで身にならん、つい咳をしてしまうようにはわれわれの内から数式や理知は出てこん、必死に内緒で記憶した参考書を思い出さねばならん、それではまるで学を修めたということにならん。
われわれ日本人は、なんで箸でメシを食うとるのかわからん、小さいシャベルでメシを食うてもよさそうなもんだ、しかし分からんが茶碗に箸でメシを食うとる、それを文化という、メシを食う時に「ええと、箸で食うのだった」と分かったことを思い出さねばならんかったら、それは外人である、それではもう彼の身が何者なのかまるでわからん。
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誰だってハードトレーニングならできる
並み以上の悪をやり
分からない分割しないで
ソフトソフトの無為を積む
分別の別を弁えて軽し

人並み以上の善に執し
分かる納得理解する
ハードハードのトレーニング
分別の別を弁えず重し

喉元を緩め膨らまし遊べ

分割妙霊を失し、不別所有に執念す/不分妙霊に従し、別個敬天に喜悦す
誰だってハードトレーニングならできる/そうではない、そうはできないそれ
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「肉そのものが速い」
果的にいうと、肉から情念を抜くと(にくぬき派)、肉は「ごっつ速くなる」のだ、極めると何かもうテレポートしているみたいに動くようになる(フィクションの早さ、つまり挙動の機序から違う)。
きっとこの現象自体を、にくしみ派(肉染み派)の人はまったくご存じないのじゃないか、「自分が生きるということは肉に情念を染ませることだ」と、頭から信じ切っているのかもしれない。
にくしみ派の人は、たとえばジェームスブラウンがえけづないシャウトボイスを発揮したとき、それだって「強い情念」から発生しているものだと思ってしまう、何しろそれしか原理を知らないから。
しかしお察しのとおり、肉に情念が染みた人間などいくらでもいて、にくしみを極大にした人があんなシャウトを発揮できるかというと、できないものだ/これはどちらの派閥が偉いというわけでもないが、そもそもにくぬき派の存在がまったく知られていないところに問題があると思う。

「肉そのものが速い」ということが、まったく見えていないのかもしれない。
僕などからすると、立川志の輔や桑田佳祐、黒田鉄山やバーンスタイン、ジェームスブラウンやスキャットマンクロザースも、第一に「速いな!」と見えるのだ、肉の速さが抜群に見える、おそらくこの目利きがにくしみ派の人には皆無なのじゃないか(→黒田鉄山の速さは目を疑うほどだ)。
「脱力、脱力」と、それっぽいことはよく言われるけれども、それは「脱力したいという情念が肉に染みる」だけであって、本当の脱力に向かうことにはならない、しかしおそらく多くの人が、そうして「自分が頑張るということは、より強い情念を肉に染ませることだ」という取り組みを実際にしているのじゃないか。
僕は「営為の三相」として学門・文化・芸術を推奨する立場を採っているが、この営為の三相だって「そういう情念を肉に染ませる」ということを勧めているのじゃない、その逆だ、肉そのものが速くなるまでそれをやろうという話をしているのだ。

情念は加速する、霊はテレポートする。

デタラメな言い方だけど、まあかまわないだろう、情念はメラメラッと加速炎上するものだが、霊はパッと移り結果的に到達してしまう、それに肉がくっついてくるものだから、肉そのものが「速い!」となる。
情念は「重い」のが定番で、一方「霊」なんてものには重さがあったら不自然だ/現在の宇宙で質量を持たないのは光子と重力子だが、ヒッグス粒子が発見されればそうした理論が証明されていきうるように、いつかの未来には情念と霊の重さの違いも証明されるのかもしれない。
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あなたが生きることの、三種のきらめき

門を捨てると、人は生の1/3を失う。
文化を捨てると、人は生の1/3を失う。
芸術を捨てると、人は生の1/3を失う。
3/3、すべてを失ったとき、人はその後「ささやかな話題」を日々追いかけて生きるしかなくなってしまう、これはいかにもさびしいことだ。

己が肉に「学門」が宿っている人は、「決定的な一冊の本」に心当たりがあるはず、あの一冊によってあのときの自分は作られていった。
己が肉に「文化」が宿っている人は、「決定的な一本の映画」に心当たりがあるはず、あの一本によってあのときの自分は作られていった。
己が肉に「芸術」が宿っている人は、「決定的な一曲の歌」に心当たりがあるはず、あの一曲によってあのときの自分は作られていった。
その他、決定的な「場所」、そして何より、決定的な「あの人」に、出会っているはず、そしてそれらのすべては緊張感と共に、ナゾの「きらめき」があったはずだ。

学門には得体のしれないきらめきがあるが、多くの人はそれに触れたことがない。

「勉強」「お勉強」というのは、流血じみていて誰だってイヤなものだが、勉強と学門は違う、学門のどこから光が差してくるのかはまったく不明なのだが、学門には確実に得体のしれないきらめきがある、あのとき生じるナゾの清浄な空気は何なんだろうね。
年の功から申し上げるが、学門・文化・芸術に生じるあの「きらめき」は、そのときがくるまで絶対に前もってはわからない、僕は何一つオススメするつもりはないが、そういったまったく想定外の「きらめき」がそれらの営為にはあるということのみ、年の功によって断言しておく。

できるオンナだね | comments(0) |
「肉声」はメチャメチャ大事です

に霊が宿るわけですよ(投げやり)、しかも"蓄積的"に。
だから、教師の肉声で教え子らは学ぶ、そのうち学門の霊が子供らの肉に宿っていく、と。
それの何がおかしい、むしろ合成音声でウィキペディア情報を記憶に突っ込まれた子供のほうが明らかにヤバいだろ。
天地自然、学門、文化、芸術、あと食事、また交合も、霊的に肉に蓄積していくわけだな、それで誰しも全身が「ナイス肉」になればいいわけだ、そんなもんステロイド&プロテインでゴチゴチに固めたナゾの筋肉マンよりよほどまともだろ。

肉の身に何も入らないのは本当にマズい、豊かな森林と大きな湖、また香辛料で焼かれた羊肉と、古くからある学門、礼儀や言葉遣いの文化、ジョークとユーモアの芸術、そういうものが肉に入らないのは本当にマズい。
肉の身にそれが入っていくわけだよ、そしてそのサポートに、本来は「精神」に到達しているしっかりした大人が寄り添っている必要があるわけ、未熟なモンに「魔が差して」ヘンなことになってしまわないように。
なんなんだこの、すっごくまともなのか、すっごく怪しいカルト宗教なのか、どちらとも判別のつかない話は……
「肉声」はメチャメチャ大事です、「音声」はメチャメチャ邪魔です、で、「あなた大人として『肉声』が出せますか」と言われると急にキツいわけで、それどころか肉声を受けたときに自分に何が起こっているかもよくわからんで動揺しているというのが普通というありさまなので、これはどうします、もう深酒して寝ますか、という具合なのだった(投げやり)。

落ち着け、不能肉。

肉の身にあれこれ、蓄積的に入っていかないと解決しないのだけれど、今は諸事情あって、多くの人が肉に何も入らないように適応とコントロールを受けている、これは「不能肉」と呼んで差し支えないが、これは今しょうがないことなので、サボっているわけにもいかないが、焦っても逆効果なので落ち着け、ということなのだった。
あなたはカラオケではごまかされるけれど、高座にすわって「落語」をやれと言われたら、走って逃げ出すだろう? それが端的に肉声の不能を表わしている/今は「不能肉」やむなし、慌てずにだな、この先「肉バンザイ」「肉っぷり、やらせていただきます」と言えるようになれば、いろんなことがたちまち解決していくであろう(具体的な方策はない、投げやr(ry)。

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あなたが普遍性と集団性と個人性を手に入れること

は、普遍的体験。
文化は、集団的体験。
芸術は、個人的体験。
最近、「学門・文化・芸術」という言い方をするので、それについて予備的な話をしておこうと思った。

学門たとえば運動方程式f=maは、異文化もヘッタクレもない、宇宙人にだって通じるもので、普遍的なものだ、誰も「われわれ」とか個人的に運動方程式を信じているわけではない(普遍的に見つけられるカミサマと言っていい)。
文化たとえば「こんにちは」は、宇宙人には通じないし、かといって一人の自室で「αβγω!!」とあいさつするものでもない、よって「こんにちは」は「われわれ」という集団的なものだ、それは普遍的なものではないし個人的なものでもない(集団的に見つけられるカミサマと言っていい)。
芸術たとえば僕が夏の雲間に見えざる極光を見たとして、それは他の誰にわかるものでもない、あくまで個人的なものだ(個人的に見つけられるカミサマと言っていい)。
われわれの胴体には「こころ(文化の機能)」があり、胴体の上部には「理知(学門の機能)」があり、胴体の下部には「インスピレーション(芸術の機能)」がある/しょせんそれらを、血肉を通わせて営めるグッドマンになろうという話しか、僕はしていない。

学門・文化・芸術を捨てるということは、普遍性と、集団性と、個人性を失うということだ。

あなたに集団性がないなら、あなたは文化体験を持っていないのだし、あなたに普遍性がないのなら、あなたは学門体験を持っていないのだ、あなたに個人性がないのならあなたは芸術体験を持っていないわけで、そんな何もかもを捨ててどーする。
あなたの肉には何が宿っている? 「f=ma」が宿っている学者はカッコイイし、「こんにちは」が宿っている老舗のバーサンもカッコイイ、また「雲間の極光」が宿っている芸術家もカッコイイだろう、肉にそれらが宿っていないのに、筋力だけブンブン振り回したってカッコよくはならねーよ(なお気まぐれに色づけしてみたが、われながらヘタクソである、見づらいことこの上ない)。

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「敬(うやま)う」というレアな機能2

「敬い」がすべてを決する、「敬い」のあるなしが最後にすべてを決定してしまう。
このことを教えられずに、わけのわからない破綻に人が追いやられるさまを、僕はこれ以上目撃したくない。
感謝しろ、と言われ、よろこべ、と言われ、がんばれ、とも言われ、しかし「敬え」とは言われないで、われわれは生かされている。
人が生きている、誰もが生きているのだが、そのことを「大切に思え」と言われるだけで、「敬え」とは言われない、これはわれわれはとんでもないミステイクを犯しているのではないだろうか。

雨が降っていたとする、それを「よろこべ」というのもヘンだ。
かといって、雨の写真をインスタグラムに投稿するのもわざとらしいし、「自然の恵みよ」「大地がうるおう」などとネイチャリズムを決め込んでみるのもいかがわしいものだ。
高野喜久雄という数学者の詩にこうある、――降りしきれ雨よ、降りしきれ。
――すべて立ちすくむものの上に、また横たわるものの上に
/高野喜久雄は、円周率の解法に実績を残すほどの数学者だったから、きっとわれわれなどよりはるかに頭が良かっただろう。

僕は雨をよろこばない、よろこぶことが解法だとは思えない。

雨がすべて立ちすくむものの上に降りしきるのだと言えば、まさにそのとおりだと信じられるので、それ以上のことはない、それ以上のことを僕がどうできるとも思わない。
「雨」が「すべて立ちすくむものの上に降りしきる」として、それより高度な解法を僕は見つけられる気がしない、いつでも降る静かな昼の雨を見るたび、高野喜久雄の解法が合っていると見えるので、僕はそう敬い続けるしかないようなのだ。

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「敬(うやま)う」というレアな機能

でも学門・文化・芸術といったことを知っている。
知ってはいるが、それらを「敬う」かというと話は別だ。
誰でも「すごーい」と思うことはあり、「リスペクトします」ということはあるかもしれない、けれどもそれらの感心は、「敬う」ということとは性質を異にする。
「敬う」というのは、不思議な機能であり、不思議な現象だ、まったく思いがけないことに、この「敬う」のあるなしが土壇場で人間の行き先を決定する。

誰にでも「謗(そし)る」という機能はある。
そして、「謗る」の反対は「称賛する」だが、称賛することは必ずしも「敬う」ということには当たっていない。
誰でも、○○が好きかもしれないし、△△のファンかもしれない、けれどもいつのまにか、その中には「敬う」という機能の喪失が見え隠れしている。
「敬う」の反対は、おそらく「反論する」だ、その反論が後に解消されたとしても、おそらくその反論したという事実だけは消えずに残っている、「反論する」という行為は実はわれわれの知らないところで危険な宗教行為を含んでいるのだろう。

「敬う」とは、同意も反論もしないこと、また称賛も誹謗もしないことだ。

われわれはいつのまにか、納得のいかないことには反論する権利があると思い込んでいる、それは一般的には当然のことかもしれないが、別種のことには当然別種のルールがある、おそらく「敬う」とはその別種のことに向ける振る舞いだ。
われわれはいつのまにか、納得のいくことには同意する権利があると思い込んでいる、ともするとわれわれは、聖書や仏典に向けてさえ平気で同意や反論をする、われわれが自分の「納得」ばかりを最優先にするからだが、このことは実に危険な成分を不可視のままに含んでいる。

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気が合う、息が合う、馬が合う
「気が合う」「息が合う」「馬が合う」、そういうことが重要だが、こんなメールとラインの世の中だもの、それらが「合わない」ほうが当たり前だ。
しかし、四方八方、「気が合わない」「息が合わない」「馬が合わない」中をずっと生かされるのはなかなかの苦痛だ、苦痛どころかリアルに心身を失調してしまう。
「息を合わせる」を実演して見せたことがあったが、ある人が笑い出して、「ああ、剣道部にいたときに、先生にまるっきり逆をやらされていた〜」と嘆いていた。
意識と意識をゴリゴリ向け合い、意識と意識が反応するのは、「気が合う」「息が合う」とかいうことと、まったく異なりますよ〜ということで、あまり説明する気にもなれないので、とても投げやりに逃げちゃおうという心境なのだった、まあ別におれのことじゃないからいいよね(ふまじめ)。

「息が合う」「息を合わせる」ということは、当然あるものだけれど、こんなもんいちいち教室で教わるもんでもないし、こんなもんまで講師が必要になったら、日本は素直に終了です、何もかも解決しようとせんでよろしい。
だって、もしそういうことに講師がいたとしても、そのときは生徒と講師の「息が合わない」のだから、何かが授受されるということも起こらないだろう、それだけにこの破綻はとてもまずいのである。
しかし、グーグルの知識とラインチャットのコミュニケーション力を具有している現代人としては、こんなに無敵な自分が悪く言われる筋合いはない! という心境がどうしてもあるしな……実際僕はグーグルの知識には勝てないし、数万人に向けてつぶやきを発信できるツイッターの発信力には勝てない。
一部上場企業に勤めている友人が、「そろそろ、『出勤する意味があるのか?』という気がしてきましたよ」と現状を報告してきている、社内でも当たり前にメールとメッセンジャーだけでやりとりをするので、デスクを向き合わせて仕事をする意味はすでに失われているようだ、この先はアカウント出勤というシステムが実現されていくかもしれない、耳たぶに勤務センサーみたいなものでもぶらさげて自宅のデスクに向かい、そのことを「出勤」とカウントする。

それでも、息の合わない奴はノーサンキューだ。

今、あまりまじめに考える気分でないので、テキトーに考えているが、この先はひょっとして、血液に直接酸素を供給する「長生き酸素カートリッジ」みたいなものを体内にブチこんで、そもそも「呼吸」「息をする」ということさえやめてしまうのだろうか? そういうことは別に起こっても不思議ではないと思う。
しかし、呼吸もしないのに「生きている」とか、息も合わないのに「友達」とか、そういうのは僕の趣味ではないな/「息を合わせる」についてはたとえば「やすきよ」の漫才でもyoutubeで観ればいい、ただし真似できるかどうかはすっごく別だ。
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早朝、K公園で119番通報

朝に散歩をして、公園で休んでいるところ、何か植木鉢を落としたようなパツンという音が聞こえてきて、直後、「あーあ、もう、何よ」とおじいさんがぶつくさ文句を言うのが聞こえてきた。
それは何でもない小さなトラブルのように聞こえていたが、どうもそのぶつくさ続く小言のような声に違和感がある、僕はやがて(あれ?)と感じて立ち上がり、僕は物音のした方へ駆け寄っていった。
駆け寄っていくと路上に、転倒したらしいおばあさんが倒れていた、後頭部を打ち付けたらしく路上には少なからぬ流血が垂れている、先ほどから「何やってんの」と小言を続けていたのはご主人らしい、見慣れない血の量だが、ひとまず、慌てて圧迫止血、というほどの流血ではない/僕は目の端で現在位置の住所と番地表示を探していた。
ご主人は「やれやれ」と、冷静さを保っているふうだったが、きっと動転して判断力を喪失していらっしゃったと思う、それで僕が割り込んで、差出口ながら救急車を提案し、半ば強引に救急車の招請に合意してもらった、「迎えがくるからそれでM病院に行く」と言ってらっしゃったが/「この時間にまだ病院はやっていないので、どうか」と僕が救急車を呼ぶことを"お願い"するのが一番手っ取り早かった、僕がしつこくお願いするとご主人はようやく折れてくれた。

119番に電話すると、必ず第一に「火事ですか、救急ですか」と訊かれる、つまり「消防車か救急車、どっちが要るの?」と訊かれる/僕は「救急です」と答えた。
そして次に訊かれるのは、住所、番地だ、そして住所に加えて「目印」を訊かれる、「どの建物の近くですか」あたりを訊かれる、「公園の脇です」と僕が電話口で言うと、心配で寄ってきていた近隣の女性がとっさに「K公園!」と教えてくれた、僕は「K公園の脇です」と電話口に答えた。
この時点で救急車は動いてくれるから、あとは必ず訊かれること、「けが人の年齢は」「出血はありますか」「意識はありますか」に答え、あとは通報者の氏名を報告しておく、なおその後通報者の携帯には救急隊から電話が掛かってくるのでその場を動かないほうがいい。
五分ほどして救急車の音が聞こえてきた、僕はそばにいた人に「救急車、誘導に出てください」とお願いした、救急隊はすぐ駆けつけてくれるが、具体的にけが人がどこに倒れているかはわからないのだ、必ず誰かが「こっちです!」と誘導に出なくてはならない(建物の中から救急車を呼んだ場合は特に重要)(あと、事故の現場を見ていた人は、けがの特定のために事故の発生状況を細かく聞かれるので、ぜひその場にいたほうがいい)。

救急車は無料です。

たまに土壇場で訊かれることがある、「救急車ってお金かかるんじゃないの?」、それで躊躇して通報が遅れることがある、小学校で教えておいてもいいんじゃないか、「救急車を呼ぶのにお金はかかりません」。
転倒したおばあさんは、後頭部から大きく出血しているものの、なんとか意識もあり呼吸も正常だった、あとは外傷性脳内出血がなければ、単なるケガで済むと思う、どうかご無事でありますように(ところでたまにはまともなこともするおれのことを褒めるように)。

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