☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
世界に名乗りを上げること

の世界には、どうも、一般に思われているのとは違う仕組みがある。
戦って生きるために、「世界に名乗りを上げること」をおすすめしたい/中空に手を挙げて「私は○○です」と名乗るのだ、このとき「私は」とつけるのを忘れないように。
誰に向けるというのではなく、世界に向けて名乗りを上げる、「○○」というのは実名でもいいし、何か活動で名乗っている名前でもいい/ただこれは、呼称としての名前ではなく「存在」としての名前だということを、なんとなく知っておくこと。
こんなアヤシイ儀式みたいなこと、やれと強要するものじゃないし、まあまったくやらなくていいが……ただこのことに、「何もない」とは経験的にいえない/そしてこのことを経ずに、われわれはたぶん「戦う」ということがそもそもできないのだ、戦う前に自分の存在が約束されていないから(まあ詳しい仕組みなんか知らんでよろしい)。

世界に名乗りを上げると、ではその○○という存在には、「何が期待されるか」という運びになる。
そこで、なんというか、これは漠然とでいいのだが、「これこれの業(カルマ)を超えます」ということを宣言し、それを期待される身になればいい。
これで初めて、己が「戦う」ということが始まるのだ、この「世界に名乗りを上げること」を経てからの「私」は、ちゃんと「存在」になるのだが、この「世界に名乗りを上げること」を経ずに「私」と言い出すと、なぜか独りよがりの吾我にしかならない。
何もむつかしいことではなく、ソニーならソニー、パナソニックならパナソニックで、世界に名乗りを上げているわな、というだけの話だ、それに倣って世界に名乗りを上げましょうというだけ、ただし「私は」をつけて名乗りを上げるということを忘れないように、これは自己PRではないのだから。

世界に名乗りを上げないかぎり、この世界に「私」は未だ存在していない。

もちろん、そんなことをしなくても生きていけるのだ、この世界は「私」がなくても生きていけるから/生業だけこなしていればわれわれの身は生きていくことができる、単に生きるだけなら粛々と生業だけをしているほうが有利かもしれない。
第一に、「私は」○○です、と世界に名乗りを上げること、次に、その○○には何が期待されるか、ということ、何かの業(カルマ)を超えることが期待されるのだが、これはいくらでも変化していいし、さしあたりは漠然としていてもいい、ただ世界に名乗りを上げないままでは、何をどう頑張ってもそれは戦いにはならない。

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We don't accept defeat10、「徳関係」
とんど蛇足だが、われわれは「徳」と「業」の中を生きているのだ。
下を向くと、われわれを縛っている「業関係」がまざまざと見えてくる。
上を向くと、われわれが行くべき「徳関係」が光にかすんで視える。
業の第一は生命であり、続いて身内、地元、共同体、業者……と連なっていく、業に縛られるわれわれはこの「業関係」が実に見えやすいが、それはけっきょくわれわれの行く先ではないので、これをジロジロ見ていても実は何の足しにもなっていない。

飯屋に行って千円出せば、カツ丼が出てくる、それはそういう業者だからであり、業務であり、生業だからだ、このことは誰だってわかる。
一方、そこで何円出そうが、「精魂込めたカツ丼が出てくる」という場合、これは業から離れている、それは「徳」によって出されてくるカツ丼だ、このカツ丼の味わいは誰にでもわかるというものではない。
われわれは、誰だって一人では生きていないのだが、それは片面として「業の関係で縛られている」ということであり、もう片面としては、「徳の関係で出会っている」ということがありうるということだ、ただどちらの面を見るか、どちらの面が「見えてしまうか」という差だけがある。
われわれは、下を向いたとき、業で縛られた業関係がすべてであるように見え、徳関係で得られる絆などは存在しないかに見え始める/けれどもわれわれがそうして業関係に沈み込んでいくことがもしあったら、それは自己の生の終焉に向かっているということだ、なぜならわれわれは、もともと、業によってこの世に生まれ落ちたのであり、もともとは、その業を償却するために生きようとしたのだから。

逆に、業者、共同体、地元、身内、生命……と償却していくと、本当の「わたし」に到達する。

単純な仕組みだ、業関係の下降路を、逆行すれば徳関係の上昇路になる/飲食業者を超え、食べ物屋を超え、どこの誰でもなくなり、どの家の者でもなくなり、生命の保守を無視してカツ丼を作る、そのとき「この人はあの世でもカツ丼を作っているのでは」という気配が漂ってくる、それが徳性だ、この人のカツ丼を食べるとき人は特別に手を合わせる。
僕が思うに、バーンスタインは音楽業者じゃなかったし、音楽連中でもなかったし、どこ出身の、どの家族の者でもなく、死のそのときまで「バーンスタイン」だったと思う、だから「バーンスタイン」のままあの世に行ったんじゃないか/下を向けば業関係しか見えなくなる、だがどれだけ情念深く強弁してみせたとしても、「この人はあの世でもこれを続けているのでは」と直感される徳関係の出会いと絆への抗弁にはなりえない、われわれは何のために生きるか? われわれはけっきょく業関係によろこぶということが不可能だ。
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We don't accept defeat9、「コキ使」
べての社会通念を取っ払って、本当の利益のために、わかりやすいことも書き話しておきたい。
仕事にせよ遊びにせよ、勉強にせよ部活にせよ、恋あいにせよセックスにせよ、そういう観念は全部捨ててしまうことだ、それを「意識」してしまうということは、人間にとって、むしろそれを失ってしまう(識化)ということだから。
それで、観念を全部捨ててしまうとして、具体的にどうすればいいかというと、「コキ使われる」ことだ、仕事も遊びも、勉強も部活も、恋あいもセックスも、すべて「コキ使われる」を第一義にして統一する/そうして取り組んだとき、初めて本当の利益がありうる。
仮に、僕があなたをナンパしたとして、あなたがそれについてくるにしても、唯一の利益がありうるとしたら、あなたが「今日はこの人にコキ使われよう」という意図で僕についてくる場合のみだ、それ以外のチョメチョメは、どうやったってしょーもないカルマで遊ぶことにしかならない/まあナンパごときでそこまで気合を入れることはないのかもしれないが、どこかで気合を入れないとあなたは格上の美人にはなれないだろう。

僕があなたの、上司だったとして、あるいはナンパ男だったとして、あなたは第一義に、僕に「コキ使われる」ということだけを指針にする。
そして、あなたが僕にコキ使われたとして、あなたに得られるものが何もなかったとしたら、そのときは僕の身分が低かったのだ、身分の低いところにコキ使われても得られるものは何もない/そのときは立場が逆で、僕があなたにコキ使われなくてはならなかったということだ。
現代の社会通念とはまるで逆だが、はっきりと申し上げておきたい、「部下が上司にコキ使われる」とか「女が男にコキ使われる」とかは、身分が正順である場合、確実に双方の利益になる/そして本当の利益を得ようとしたとき、この「コキ使われる」という方法だけが唯一の方法なのだと、この際は断言しておきたい、このことをいくらごまかしていても、けっきょく数十年後にここにたどりつくというだけなのだから婉曲しても時間の無駄だ。
よって、あなたの取るべき正道は単純だ、1.あなたをジロジロ見ない人にコキ使われる、2.あなたから視きれない人にコキ使われる、3.「身」に徳性を感じる人にコキ使われる、この方法を単純に履行すると、「あれ?」という具合に、本当に己の胴体が変化するのだ、これまでになかった徳性と世界が拓けてくる/カネに余裕ある人は、カネを供するのでもいい、図書館で借りた本がいまいち身にならず、本屋に行って買った本のほうが身になるのはこのせいだ、あなたの尽した労働分(コキ使われたぶん)だけ徳性が拓けるようにちゃんとできている、カネを媒介した場合にも作用しているのは「コキ使われたぶん」だ。

身分の高い人にコキ使われれば双方勝利、身分の低い人にコキ使われれば共倒れ。

<<コキ使われるのが第一>>だと、はっきり知っておけ、単に身分を知るだけでは旨味がない、身分が高い人にコキ使われるのは最高のビッグチャンスなのだ、なぜ勝利のほうへ胴体が拓けていくかは、そのことが起こってからでしかわからない(起こってからもなお、「なぜ」というのはけっきょくわからない、本当に不思議だ)。
あなたはコキ使われるために行き、コキ使ってもらったから満足して帰るのだ、この、現代では社会通念上「ありえない」と感じる本当に仕組みにあなたがピタッと嵌ったとき、胴体は思いがけない速度で拓かれていく/きょうび、この社会情勢においては、身分の高い人が「コキ使ってくれる」「受け取ってくれる」ということ自体がとても少ないので、なるべくそのチャンスには自ら食いついていくべきだ、いっそ「コキ使」というタスキを肩から掛けていてもよいぐらいに。
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We don't accept defeat8、「しょーもないカルマで遊ぶのをやめよう」
いうわけで、われわれは力強く、われわれの未来は明るい。
<<しょーもないカルマで遊ぶのをやめよう>>、もういいかげん見切ったわ、しょーもないカルマに付き合うことは、本当に時間をドブに捨てることにしかならない。
われわれはけっきょく、1.視きれない何かについていく、2.しょーもないカルマで遊ぶ、という、二つの選択肢しかもっていないのだ、1だけが万人を益し、2は万人を損なうだけにしかならない、「しょーもないカルマで遊ぶ」ということは、実は何のドラマも生成しないということがいやというほどわかった、生成するのは疲労だけだ。
「身分」というものがどうやら本当にあって、この「身分」というものの前提がないと、1.視きれない何かについていく、という選択肢が消えるのだ、だから紆余曲折してけっきょく「しょーもないカルマで遊んでいました」という結果しか残らなくなる、本当にこんな人生はスカじゃないか、わざわざ苦しみを増やした上でスカとか、シャレじゃなく何の利益にもならないぜ。

利益を取りましょう、何もかもを利益にする/ここは厚かましさが大事だ、「何もかもから利益を取る」。
なぜ利益を取らねばならないか? そこに明確な回答、「視きれない何かについていかねばならないから」、この回答まで含めてワンセットだ、すべての利益は何かに「ついていく」ためだと断じていれば、すべては吉相に向かう(本当に)。
「断じてついていく=断じて利益を取る」というのがワンセットだ、ここでエセ演歌の気分になって利益を放棄するようなことは、外道の不徳だと思いたまえ、なぜ外道の不徳かというと、本当に外道の不徳だからだ。
「身分」というものが本当にあって、身分の下の者についていっちゃ本当にダメなのだ、だいたいしょーもないカルマで遊んで声がデカくなっている奴が身分の低い者だよ、代表的には「世間を説いてキレる老人」が身分として最下層だ、エセ敬老からこいつの言い分に耳を傾けてはならない/しょーもないカルマのエグエグ正当性を怒鳴っているなんて万人がどこから見てもアチャーでしかないのだから。

真剣に生きるということは、利益を取るということだ。

しょーもないカルマで遊ぶのをやめよう、それって本当に、そのときはめっちゃ真剣なつもりでいるけれど、後になって「本当に遊んでいただけだった、うわぁ」って後悔するようになるから、ここは本当に見切らなきゃダメなんだ/不安の中でギャーと叫んで、老化する、それが真実だというなら、もう何も勉強する必要はないじゃないか、何も勉強しなければ人は自動的にそういうところに行き着くんだから。
真剣なつもりだったのに、しょーもないカルマで遊んでいただけだったとは……と、晩年になってから気づいたってしょうがねえよ、しょーもないカルマで遊ぶために生まれてきたのじゃなく、しょーもないカルマで遊ぶのをやめるために生まれてきたんだろ、「やらなきゃいけないことがある」というのはそれのことのはずだ/しょーもないカルマのしょーもない演出に引っかかっていたらここ何十年を生きてきた意味がないぜ、その演出を見切るためにこれまで勉強してきたはずだったろ、それを今さら回帰はないな。
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We don't accept defeat7、「どうでもいいショック」
に言うと、人はそもそも、何かを「ジロジロ見る」という必要がない。
人が「視える」とか、何かが「視える」とかいうのは、一瞬で感得できる能力のことであって、ジロジロ情報集めをすることではないからだ。
だって、そりゃそうだろ、ロブ・ロックのシャウトを聴けば、一瞬で「いい声」だとわかるはずだ、その後の声をジロジロ観察しないといい声かどうかわからないなんてことはない。
人は何かをジロジロ見る必要はないし、特に男が女をジロジロ見る必要なんてわずかもないのだ、視えていればそれでいいのであって、ジロジロ見るのは「不安」によって見えるべきが見えなくなっているからにすぎない/「ジロジロ」がすでに危険な状態なのだ。

異性や、身内のこと、あるいは自身のこと、また見栄えや欲に関わることなどは、業(カルマ)が絡むため、「ジロジロ見る」が発生しやすい。
その「ジロジロ見る」は、視えているからジロジロ見ているのではなく、業が盛(さか)っているからジロジロ見てしまうのだ、視力を失った結果のジロジロだと捉えていい/肝心なものが視えておらず「どうでもいいショック」ばかり探しているから「ジロジロ」という目つきになる。
上の者から下の者を見るのは、一瞬で「視える」し、下の者から上の者は、どうしても光にかすんで「視きれない」ものだ、それで下の者が上の者に「ついていく」しかないわけだが/ジロジロ見て見えるものに注目していく・それに肩入れしていくなんて、それは業(カルマ)についていくということにしかならない、ジロジロ見た先についていくなんて、その先にはしょーもないカルマとどうでもいいショックしかないぞ、そんなところに叫喚しにいって何のトクがある?
最大にアホなことに、われわれは、「ジロジロ見る」という目つきの先に「どうでもいいショック」が見えてきたとき、それを自分で「センスがある」とか「わかっている」とかいう自負にするのだ、そしてこの自負を内心の強力な主張にする、こんなアチャーなことをしている人が、逆に声をデカくするから、あちこちで時間を割かれてものすごい迷惑なのだ。

あなたをジロジロ見ない男と出会ったら幸運だ。

「不安」に首根っこを掴まれていたり、アホな自負で「ふふん」「わたしはわかっている人、センスのある人」と思い込んでいたりすると、自分のことをジロジロ見て憑りつかれてくれる人ばかり、自分として好ましく感じられるのだが、それはもうカルト宗教と詐欺に引っかかる一歩手前だ、通常われわれは「ジロジロ見る」という目つきを当然に「不快」と感じなくてはおかしい。
六本木の会員制クラブなどに行ったりすると、セクシードレスを着た、特別な雰囲気のある、いかにも「ジロジロ見たくなる」女性がいるものだが、それをジロジロ見てしまうというのは、うつくしさが見えているのではなくて業に駆られているだけだ/視えなくなっているからジロジロ見ているだけで、必然的に「不安」に首根っこを掴まれているだけ、別に魔性の女でも何でもなくて、どいつもこいつもアホで教育がないというだけだ、「どうでもいいショック」に耽って一定量の不幸をゲットするだけで終わる。
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We don't accept defeat6、「しょーもないカルマ」

便宜上、「ジロジロ見る」と書いたけれども……
実は、この「ジロジロ見る」という時点でもう間違いだ、凶相はもう始まっている。
人は、「不安」に首根っこを掴まれると、自動的に「ジロジロ見る」という機能のものに変化するのだ、不安と不穏を癒したくて、自動的に何かを「探す」という目つきと目の動きが始まる。
アイドル的な顔や、表情、特に笑顔、またその声を、自動的にジロジロ見るようになり、アイドル的な表情に「不安をごまかす癒し」を見つけて、それが脳に燦然と刻まれるのだ、こうして根の深いアイドル愛好やアニメ愛好が起こっている。

<<不安を抱えていると、顔の見え方が変わる>>ということ。
なぜか、人は不安を抱えていると、「人」が見えなくなり、「顔」が見えるようになる、それも異様に精細に、生々しく見えるようになる/だがこれは、物事の見え方に目が啓かれたわけではなく、業と因果によって「そう見えるようになってしまった」ということだ、本当にそこにあるものが見えるようになったわけではなく、自分が執着するものに「引っかかる」という状態になったということ。
カルト宗教にせよ安物アニメにせよ露骨なアイドルにせよ詐欺業者にせよ、そこに見るからに明らかな「作り笑顔」が示されてあるのは、部外者にとっては「だまされっこない」ものなのだが、不安を抱えている者にとってはそうではないのだ、不安を抱えている者にはその露骨な作り笑顔こそが脳に燦然と刻まれるという性質がある。
人は、しょーもないカルマに引っかかり、不安に首根っこを掴まれるのだが、不安に首根っこを掴まれるということは、本来見えているべきことが「見失われる」ということだ、そして本来見えているべきことが見失われるということは、見えなくていい欺瞞や錯覚がありありと見え始めるということだ、そのときは身体を動かせ、ふりほどけ、不安の中で見えてきたものは決して真実ではなく常に魔物だ、不安の中で得られる諦観風味はエセ演歌にすぎない、それを引き受けるがごときで人生が獲得できるというほどこの世は甘くない、どこまでいっても不安に屈したとき待ち受けているのは人生の喪失であって獲得ではない。

強烈な不安は、しょーもないカルマだ。

こんなものに、われわれはやすやす引っかかるのだ、しょーもないカルマに引っかかったとき、われわれは強烈な「不安」のさなか、<<見えるべきが失せて、見えざるべきがありありと見えてくる>>ということを、よく覚えておけ、これは本当に誰も一ミリもトクをしない、あなたはこの一点に抗するためにこの世に生を享けたようなものなのに、ここであっさり屈していたらせっかく生まれてきた甲斐がない(マジでない)。
われわれが、しょーもないカルマに引っかかるのをやめたとき、すべてのノンフィクション的説得力は、「は?」としか感じなくなる、だって本当に「は?」だからだ、カルマには実にそういった説得力があるが、われわれはしょーもないカルマを循環するために生まれてきたわけでは決してない/露骨にひでえことを言っておいてやるが、ヨソの田舎にいくと田舎の人がこちらの顔をやたらジロジロ見てくるのはこのためだ、不安に首根っこを掴まれる=ジロジロ見るという性質なのだ。

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We don't accept defeat5/ Look up at " f "

いかげん、上の者は下の者に騙されてはいけない。
下の者は、自覚はなくとも、演出とツケコミの自己陶酔者なのだ、これまであまりにもその実証を見てきたじゃないか。
下の者というのは、行き着くところ、エヴァをそそのかして禁断の果実を食べさせた蛇なのだから、天然で演出に長けているに決まっている、これを真に受けることは、上の者はしてはいけないのだ。
悪意があって、その演出と自己陶酔が生じているのじゃない、それでいえば、エヴァをそそのかした蛇だって悪意があってそうしたわけではたぶんないんだよ、「天然でそうしちゃう」ってことなんだ。

何十年も経てば、やがて誰でも知ることになる、「まーた言っている」というたぐい、これが実は演出と陶酔でしかなかったということに、何十年も経ってから気づかされるのでは損失が大きい。
そいつの本性がどうこうってことじゃないんだよ、大きく見て「人間」というもの、その本性が、本来そんなしょーもないものではないということ、ただ身分によってその演出と陶酔というしょーもないものが天然で出てきてしまうだけだ。
だから、人を人として信じるということは、その演出や陶酔を「見ない」ということ、天然で出てきてしまう蛇の演出を<<情報源から遮断する>>ということだ、そうしたら「実は何でもないじゃないか!!」という正しいことが見えてくる、こんなことに何十年も騙されていたら本当に人生の損だ。
演出と陶酔、誰もトクしない、不安と不穏と、ノンフィクションの闇への敗北……なぜこんなしょーもないことを「してしまう」のだろうと、本人が後になって思い知らされるものだよ、じゃあ上の者が引き受けることは、そのしょーもないことを一切見ない・聴かないということだ、そうしたらそのぶんだけ、後になって全員が「あれで救われた」ということになるから。

上の者に「ついていく」ことができず、ブレーク状態になると、自動的に演出と陶酔が出現する/これを「見ない」ことが救済だ。

みんなそうして生きているのだ、老いも若きもだ、人間は不思議に誰も彼も、思いがけないところで健気に生きている。
まさかのまさか、一切「見ない」ということが、最終的に正しく、最終的に救いになるのだ/情報源を遮断するということは、邪念を断つというようなことだが、自分から生じる邪念より誰かから吹き込まれる邪念のほうが大きい、だがこれを「見ない」ようになることこそ本質的な修行だ、自分が正しいありかたを学び切れていないから邪念が流入しうるのだ(「これを断てるか」というのは、学ぶ機会および装置として、とても有効ですばらしいものだ)。

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We don't accept defeat4/ Look up at " f "
ーむ……今ちょっと、ドタバタしているので、整理できないが、とにかく重要なのは「上を見ろ」ということ。
上が下を注目するのは本当にダメなのだ、何をどうやっても不安と敗北にしか行き着かない。
どれだけ妥当性が感じられたとしても、下に関心を向けてはダメなのだ、下に注目すると、上も下も「共倒れ」で敗北にしか行き着かない。
下は上を見ろ、上も上を見ろ、われわれの見上げる先はけっきょくフィクションだ、下に注目することは「ますますのノンフィクション」という闇に取り込まれることにしかけっきょくならない。

これ、けっきょく、抗して勝利する唯一の方法なんだな。
高い世界が見えている奴(=身分の高い奴)を、見上げる・注目するしか、本当に方法がないんだ。
みんなして、勝つほうに行きませんか? 一番高い「次」が見えている奴に、みんなして注目する、それ以外にけっきょくわれわれが勝利に向かう方法はない。
上を見るということ、そして上は「上」であって、格差があるので、下のものは「合意」はできない(格が違う)ので、ただ「ついていく」ということしかできない/思えば、振り返って断言するが、すべてのまともなことは唯一この方法でしか得られてこなかったよ、下が上を見上げてついていったということ、下のことに注目した途端すべてはめちゃくちゃになって誰もトクしない闇に吸い込まれていく。

ケガ人は健常者を見上げよ/健常者はケガ人にわずかも注目するな。

そのとき、<<この世にケガ人なんてものは存在しなくなる>>、ケガ人がそのケガ人という身分から離れられる唯一の方法がそれだ、ケガというのは異常な状態で、その異常さに食われていくことは何より本人にとっての不幸になるのだから。
下に注目し、ケガ人に注目するということは、ありもしない不幸を不幸だと感じさせることになり、そこに満ちてある幸福を、幸福とは見えなくすることになる/われわれが愚かな関心や注目に引き込まれないかぎり、この世にケガ人なんてものは存在しない
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We don't accept defeat3
にいうと、われわれは安心が要るのだ。
不安に駆られているような奴はどうしても弱いから、弱いということは何もかもに不利にしかならない。
単純な話、<<男が女をジロジロ見ると、不安が生じる>>し、<<女が男をジロジロ見ると、安心が生じる>>のだ。
女が女をジロジロ見ても不安が生じるし、男が男をジロジロ見ても安心が生じるのだ、なんとまあ、不思議でかつ単純なことよ。

たとえば、僕は男で、このブログだって毎日何百人かの人が読んでいるのだが、読んでいる人は女性が多いのかなあ(いやよくわからんな)として、男の話をみんなでジロジロ聴いているのは、なんとなく「安心」の相が出るのだ。
僕は、何を持ち上げているのでもなく、ただ僕がオリャーと書き話しているだけなのだが、これによって「安心」の相が出るのは、僕が女々しいタイプでない「男」だからだ/こういうアホ男を、気のいい女の子がにこにこ見上げて持ち上げていると、ことの是非はともかくとして、「不安」の側へ転じることはないのだ。
うーむ、つまり、これがやはり「身分」なのだ、身分の低い者が高い者をジロジロ見ることは「安心」につながり、逆に身分の低い側がジロジロ見られる側に立つことは、わけのわからない「不安」を生じるのだ/この「不安」は、全体を敗北のほうに引き込むだけなので誰もトクをしない。
うつくしい女たちへ/女がうつくしいというのは本当の本当にすばらしい(極限にすばらしい!)ことだけど、それでもなお、あなたが「ジロジロ見られる側」になるということは、正しいことではないみたいだ、あなた自身に何かをジロジロ見る眼差しがあるべきなんだ、その眼差しが保たれたとき、あなたは自分の女としての像に確信と誇りが持てるだろう。

女は「うつくしい側」だが、実は「見られる側」ではない。

何か、漠然とした不安・不穏・勝利の光が予感されないという状態があるとき、<<見る側と見られる側が入れ違っている>>のだ/たとえば志村けんがグラビアの女の子を脇に置いていても不穏にならないのは、志村けんというスケベおじさんのほうが目を引くからだ、みんな志村けんのほうを見ているので、そこには不安が生じず「安心」が生じる。
うーむ、これは重大な発見だ、われわれは勝利に向かうため、<<見なくていいものを見ないこと>>という鉄の掟を守る必要があるみたいだ、つまり注目してはならないテーマがあるってことだよ。
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We don't accept defeat2

「うつくしくありたいわ、男性にも褒められるようでありたい」
「でも、持ち上げてほしいわけでは決してないわ」
これで解決している。
「ぜいたくをいえば、わたしがいるだけで、一緒にいる男性が持ち上がるほどでありたいの、そのためにわたしはうつくしい女でいたいの」

女性を持ち上げようとする文化は、単に、女性たちの「居場所」をこの世から奪っただけだ。
今この世の中は、つまらないことがたくさん横行しているが、われわれは断じて抗し、活性化して戦うしかない。
現代、無数の女性が、自分を「かわいいでしょ」「うつくしいでしょ」とアピールするのに、撮影した自撮りをウェブ上にアップロードしているのだが、そのこと自体が自動的に世の中を「不安」にするのだ/無数の「女画像」があふれかえっているというのは、それだけで非常にネガティブな状態だ。
もちろん、「持ち上げられたいわけではない」と、そのことがはっきりとわかっている女性は別だ、でも多くは、わけのわからないまま自己顕示しているだけにすぎないと思う/なぜか無条件で「不安」が生じるメカニズムがあって、このメカニズムが正しく知られないかぎりこの状況は抑制されない。

この世界は明るい。

大きく戦うかぎり、この世界は明るい、この明るさと光を知らないと、われわれは戦うすべを見失ってしまう。
女性だって、おそらくほとんどの場合、「この男性を持ち上げたいので、この男性に会いたい」ということが掴めたほうが、自分というものに理と融通が具わるはずだ/自分を持ち上げてもらうためにデートするというのは、表面上の気分はよいが、どうしても引き受けきれない不安が生じるはずだ、そういう不安や不快にはむしろ女性のほうが鋭敏なことが多い。

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We don't accept defeat

ぜか唐突に、奇妙なことがわかった。
女を持ち上げると、なぜか正体不明の「不安」が生じる。
男が不安になるのではなく、女も不安になるのだ。
不安に感じる、のではなく、不安が「生じる」のだ、これは何なのだろう、理由はまったくわからないのに、ただナゾの現象だけが実際にある。

もちろん、美空ひばりのような人は別かもしれない。
だが、ふつうの女は、いかにうつくしかったとしても、<<うつくしいということは持ち上げる理由にならない>>。
女がうつくしいというのはすばらしいことだが、それを持ち上げるというのは、ロクなことにならないのだ、正体不明の「不安」が生じることにしかならない。
いろんな雑誌の表紙は、今や水着の女の子ばっかりだが、いかにこれが売り上げを増長したとしても、そのような表紙が並ぶことは人の世に「不安」をもたらすのだ/理由はわからないがこの現象があることだけをさしあたりご報告しておく。

女を持ち上げるということは、何か「負ける」ということなのだ。

男が女に負けるのではなく、男も女も一緒くたになって何かに「負けて」しまう、誰がトクすんねんという話だ/すべての女はすばらしいが、持ち上げるための存在ではない。
どんなに美しい川も、眼下にうつくしいものであって、見上げてうつくしい川など存在しない、われわれは間違った方法に詳しくなる必要はなく/女を持ち上げないということが、われわれが勝利するということだ、全体として敗北することによろこぶ女なんてさすがにいねえよ。

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あなたの知らねばならないこと

ルビーと湖池屋、それぞれの「うすしお」がどう魅力的かということ。
めいらくのコーンスープがいかに強力かということ。
アイリスオーヤマの商品がいかに庶民を豊かにしうるかということ。
ホンダのエンジンにはなぜ頑張ってほしいのかということ、またスーパーカブは何が「かっこいい」のかということ。

日立の電動工具はマキタの電動工具と比較してどこがあなどれないかということ。
生茶と伊右衛門とお〜いお茶はどう群雄割拠しているかということ。
セブンイレブンとファミリーマートとローソンでどこのおにぎりがラブかということ。
ミライザカと鳥貴族で、今夜は行くべきところはどちらかということ、およぴその理由/これらはすべて、知識でもなければ情報でもない、あなたがこの世界を「生きている」ということだ。

ハイレベルのことばっかり見えていたって砂上の楼閣だ。

サッポロ一番に対してマルちゃん正麺はどう飛躍的なのか、そしてカップヌードルは何が偉大なのか、またラ王がもたらした革命とは何だったのか?
ググったところで情報なんか無意味だよ、ところで僕は、ポテトチップスはカルビーが正当派だと認めるが、それでもなお塩をきつめにしてくれるという理由から湖池屋のうすしおを推したい、それが僕の話であって、あなたの知るべき僕の話/言っておくが、各社の「うすしお」や「わさビーフ」のことがわかっていないなら、それはガチの勉強不足ってやつだぜ、そんなことじゃどこのディスカッションにも入れやしないぞ。

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エセセンスの禁止2

ういえば、自分で言っていて気づいたが、たとえばこのブログも、4000件ぐらい記事がありながら、「何かのネタをヨソから引っ張ってきた」ということがほとんどない。
ニュースネタとかまず扱わないし、ヨソの記事とか、シェアとか、流行りもののネタとか、レビューとか、そういう発想がまるでないものな/それはせめて、僕自身、どれだけヘッタクソでも、エセセンスの方向は避けたかったからだ。
どれだけヘッタクソでも、ここまでに示されている数千件の記事は、すべて「僕自身のセンス」によるものには違いない、それで、別に自分がヘッタクソで笑われるのは、かまわんじゃないか、自分でも割と「何コレw」と笑っているのだし。
ヨソの記事は、ヨソのもんであって、おれのことじゃねえだろ、と僕は思うのだが、そんなことを言っているので、このブログは誰にもシェアされないのであった/このままいくと、記事数と閲覧数に比較してシェアされていない度でギネスに載るぜ(涙)、まあしかしヨソからの借りもので自分を豊富ふうに見せるのはまったくエセセンスの類だと僕は信じている。

今われわれは、ウェブ上から無数の「記事」にアクセスすることができる。
百件の記事にアクセスすれば、百件のネタが、さも自分にあるように感じられてくるが、その中に自分の記事はひとつもないのだ、そこは誰だって目を覚ましているべきだろう。
シェアやリツイートの機能によって、われわれはいま電脳上で、ヨソの記事を分配するターミナルがごときのアカウントを作ることができるが、そんなことをしていたって、平たくいえば「自分はカラッポ」じゃないか、まして電脳上ならいざ知らず、ナマ脳でそういうカラッポターミナルの妄想に罹ってしまったら目も当てられない。
ヨソの何に注目し、ヨソの何を取り上げて分配したかということは、おそらく自分の「センス」ではないだろう、たとえ何万件の記事をシェアするターミナルになったところで、われわれは「20分で話す落語のネタを創作して」と言われたら全員走って逃げだすのだ、じゃあやっぱり「センス」ではないのだろう。

「ヘッタクソなオリジナル」が自分のセンスだ。

どれだけヘッタクソでも、それが純正オリジナルなら、まあいいというか、しゃーないやんということになる、われわれは誰しもヘッタクソで、それ以上に「しょーもない」存在なのだから/だがその「しょーもない」ということを見るとき、まさに自分自身へのヒントがある、自分が何をしていかねばならないのかの手がかりがある。
自分のセンス、自分のセンス、自分のセンス、と唱えてみろ、するとどれだけ絶望的な気分がして、「ヨソ」に目をやりたくなるかがよくわかる、それだけ自分を直視するというのは憂鬱なことなのだった。

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エセセンスの禁止

バッと気の利いた一言で、風刺してみる。
あるいは皮肉ってみる、辛辣で、クールな……批評の力を伴わせて、そしておしゃれ。
これらのことは生涯禁止したほうがいい、こんなものはエセセンスだから。
ガキのすることだから許されるが、大人になってからやっていると、また例によって思いがけないビッグカルマが溜まるし、それ以前に「気づいたときにはもう引き返せないほどの恥」を蓄積していることになる。

単にインパクトの問題なのだ。
たとえばサグラダファミリアの前に、「たれぱんだ」のぬいぐるみを置いて写真を撮れば、あったりまえにインパクトの大きい写真になる。
それは、元のサグラダファミリアのバリューがでかく、それを貶(おとし)めたから「インパクトがでかい」というだけでしかない、こんなものはセンスでも何でもないのだ、こいつがサグラダファミリアそのものを建設することは決してない。
たとえばウィリアムブレイクの詩文の末尾に、「と、申しております」と書き足せば、そりゃその一文のインパクトは大きくなるのだ、それは「大きな価値を大きく損なったからインパクトが大きい」というだけで、びっくりするぐらいしょうもないやつだ/やっていることは選挙立候補者のポスターの目に画びょうを刺して「ゲラゲラw」という小学生と変わらない、これを「センス」と思っているともう今生では雪げない恥になるので即刻やめよう。

ヨソへの批評に食いつくのは、己が迷子になっているからだ。

まあ、政治家の批評をするのは、正当な市民権だし、民主主義における権力のコントロール装置だけれども、それにしても、己が迷子になった人はそっちの批評にも湧いてくるから、あまり豊かな花園ではありえない、もっとウオリャァァアとならなくて何がセンスか、罰として岡本太郎の墓前に縄文人の裸祭りを奉納しろ。
エセセンスが発動するというのは、実は、すでに小さい悪魔に憑りつかれているということなのだ、すでに小さな規模で「やめられないw」ということが始まっている、われわれは自分でサグラダファミリアを建設はできないし、それどころかたれぱんだだって自分では創れない。

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「道」と「業」カラアゲ

「カラアゲ、いいですねえ〜」と誰かに言ってみよう。
こんなことでさえ、それが「わざとらしく」聞こえてしまう人がいるし、それが「意見」に聞こえてしまう人がいる/なぜか「増長」まで聞こえてしまう人がいる。
「わたしカラアゲ好きなんですよ〜」とか、これは最大に要らない、お前の好き嫌いなんか聞いてないわ(ボケ)、と、罵詈雑言は控えめにしておこう、とにかくそういうのは要らない。
「カラアゲ、いいですねえ〜」と誰かに言ってみよう、こんなことでさえ、われわれは自分の身が解放されていないということを思い知らされる、トホホもトホホだ、われわれはカラアゲ道の初段さえ取得できないのだ。

「カラアゲ、いいですねえ〜」と誰かに言ってみたとき、そこに誰からも認めうる「解放感」があるかどうか。
業(カルマ)の償却というのは、カルマに縛られた胴体の解放なのだから、「カラアゲ、いいですねえ〜」には解放感が伴わないとおかしい/だがこんなことでさえ、実際にやってみるとだなあ……
われわれは、まず己の身を憐れもうではないか、実は何かひとつ言ってみるのでさえ、胴体がガンジガラメなのだ/「○○、いいですねえ〜」というとき、○○に入るものによって問われる償却レベルが変わってくる。
たとえば男性が、「生足の女子高生って、いいよなあ〜」と言ってみるとき、そこに「解放感」が生じるか、「カルマ感」が生じるかなのだ、カルマ感が生じた場合は当人も周囲も悪ノリするが、それで盛り上がるのは償却の解放感とはちょっと違えよ/ちなみに、「生足の女子高生って、いいよなあ〜」というのは、おれでさえかなり難しいレベルだ、そーとー集中しないと純粋に解放された詩文にはならない(誰がトクするんだそんな話)。

「低い実物」の償却ほど、「高い徳性」の発現が必要。

おう、やっぱりまた、すっかり役に立たん話になったぜまあいいか/われわれはふだん、「低い実物」(例、パンチラ)を視認することが容易で、その償却に要する高い徳性には手が届かない、一方で「高い実物」(例、神韻)を視認することは困難で、それはもうほとんど償却が要らないので徳性が低くても感得できるのだが、そんな実物を視認できることがまずねーだろということで、上下とも、さびしい思いをさせられているのだった。
よっぽど思い詰めていないかぎりは、せめてカラアゲぐらいは視認しろ、そしてわれわれにとって、脂っこくてうまいメシ(低い実物)をそれなりに食わせてもらえるということは、誰かのおかげであってすっっっげえありがたくナイスなこと(高い徳性)じゃないか、その上下が実現されていたら、「カラアゲ、いいですねえ〜」ぐらいはさすがにイケるようになるよ。

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「道」と「業」2
は誰だって努力をしている。
が、「道」ということに関しては、十中八九「師匠」が必要で、少なくとも濁りのない「私淑」や、何かしらの「モデル」は絶対に要る。
なぜかというと、「道」にはリスクがあるからだ、「道を誤る」というリスクがある、師匠の監督やモデルとの照らし合わせがなければ、この「道の錯誤」を自分だけでは管理できない。
スポーツにおいて、正しいコーチが得られなかった場合は、単に「失敗」や「不毛」が残るが、「道」において正しい師匠と師弟関係が得られなかった場合は、「道を誤った者」「道を踏み外した者」というものが残ってしまう、これはなんだかおっかない響きだ。

なぜ「道」にはこのようなリスクがあるかというと、やはり「道」は、第一に「業(カルマ)の暴き立て」をするからだ。
ふだんは隠蔽している業(カルマ)を暴き立てるわけだから、その後正しい師匠や指導者について、「これはこう捌かれうるのです」と、業(カルマ)の償却された先を実物の姿で教示してもらわねば、暴き立てられた業(カルマ)はその後ただ野放しにされるだけになってしまう。
そして明らかに、現代の思想風潮があるかぎりは、「道」なんてやり方には誰にとっても大変不向きなのだ、「道」というのはつまり「この愚かな身め」ということをメタクソにシバかれるという側面をどうしても持ってしまう、そこにパワハラ等の観点をもってわずかでも不服をもってしまう以上、現代人にとって「道」というやり方はほとんど不可能に近い。
スポーツというのは、基本的に「スポーツのやり方」を習うことで進んでゆけるが、「道」というのは違うのだ、「道」というのは「わたしのやり方」みたいなものを「愚かな身め」とつぶされてしまう過程があるのだ、だからこそ根本的な解決を得られることもあるのだが、うーん今どき誰がそんなことに受容的であるか、いま人々のやりたいことはおおむね逆だろう/「道」というやり方は、実にクリティカルで魅力的な側面があるが、現実的には「ムリムリw」と冷静に眺めておくことも必要だと思われる、むしろ「ムリムリw」と見えているところがなければもう初めから「道」を踏み外しているだろう。

「道」、厳しすぎワロタ。

うーん、まったく意味のない話になってしまったが、それでも僕はやはり、「道」というやり方が第一に身の「業(カルマ)」を暴き立て、その根本から解決しようという取り組みを持つことに、魅力を覚えるというか、肩入れしてしまうところがある/つまり、そのやり方の存在を知るべきだが、オススメはしないと言いたい。
「道」が、厳しすぎワロタと笑えるようになったら、ある意味「道」というものの存在を本当に知ったからこそ笑えているということでもある、さしあたりそれが最も健全な一歩であるように思う/「業を暴き立ててから『ほい、どうする』だぜ?」、うーんこんなものの果てを目指せというのはまさに厳しすぎワロタだし、その先に到達した「達人」というのが、「身分が違うわ」というのも当然のことなのだった。
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「道」と「業」

れないように、メモ書きの意味もこめて/「道」とは何なのかについて。
たとえば「武道」というと、日本刀でウリャーと斬り合いをする。
人は、殺されたくないし、殺しにくるやつはブッ殺して差し上げたくなるという、業(カルマ)を背負っている者だが、なぜわざわざ人は、この業(カルマ)の火に油を注ぐようなまねをするのだろうか。
ましてわれわれは、生きているうち、日本刀でウリャーと斬り合うことなんてまず無いのにだ/なぜ「武道」に取り組もうとすると、われわれは、わざわざ自分に「流血沙汰を模擬させる」のか、それもできるかぎり「真剣勝負だ」といって、業の激しさを増そうとするのか。

これにはクリアな回答があって、誰でも知っておけば「なるほど」で済む。
われわれは、身のうちに「業(カルマ)」を持っているのに、ふだんはそれを隠蔽しているのだ/隠蔽しているあいだは、自分の身のうちに潜む真相を、われわれは知ることができない(知ることができないというか、直面することを避けている)。
ためしに、そのへんのおっちゃんの頭を、丸めた新聞紙で二発ほどパーン! と叩いてやる、そうしたらただちに「何すんじゃコラァ」と暴力沙汰になる、それがわれわれの身のうちに潜む業(カルマ)の真相だ/これを「捌けるか」「いなせるか」ということが武道の取り組みになる。
つまり、「道」と呼ばれるもののすべては、ふだんは隠蔽している身のうちの「業(カルマ)」をわざと暴き立て、それを発現させてから「ほい、処理できますか?」と俎上に乗せてみるという取り組みだ/この取り組みを通して、われわれは己どもの「身」が、実はどれだけ業(カルマ)に縛られて支配されているかを知ることができる、同時にふだんはどれだけ「ほっかむり」をしているかということも明らかになる、この暴露の上で本当の身の解決・解消を為そうとするのが「道」だ。

すべての「○○道」は、われわれの身が「水面下でどれだけジタバタしてよるか」を教える。

「道」の面白いところは、第一義に「暴露」があるところだ、真っ先に「トレーニング」や「コーチング」が来るのではない/「こうすれば出来ますよ」ということを教えるのではなく、「ほら、こうなるから出来へんやろ?」ということを教えるのだ、だから「道」には金メダルはなく「段位」がある、それぞれがどの「段階」にいるかを定義し、その身の段階を向上させていこうとするのだ。
「道」というのは、競争ではないのでスポーツと異なる、「道」においては自分が初段で誰かが三段というのは、「だからなんやねん」にしかならない、自分が初段ということは変わらないからだ/スポーツというのはむしろ、悪くすれば、「身がどれだけジタバタする力を持ち得るか」という、逆の競争にもなりかねない、端的には「ドーピング」といって「ジタバタ剤」を注入すれば、スポーツ競争には有利にはたらき、「道」には不利にはたらくだろう。

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オゴられ女性の注意点
Aと女Bと、店員Cがいたとする。
このとき、男Aが女Bの食事代をオゴってやるのは、さして問題ないのだ。
実はキーファクターはAB間にあるのではない、BC間にある。
女Bが、店員Cからサービスを受けてしまうのが問題なのだ、女Bは支払いなしに「お客様」になることになってしまう/これを通して女Bは「無限のお客様」になっていってしまう、何しろ支払いはゼロなので彼女は限界なしにお客だ。

つまり本来は、客A(男)と店員Cとの間にサービスが交わされていないといけない。
そこに女Bは、「お連れ様」として、ただ相伴するものとして存在すればいいのだが、こんにちの女性はきっと感覚的に「わたしも客よ」という感じで、でしゃばってしまうと思う。
仮に、Aが支払いでCが店員で、なおBこそがサービスを受けるべきという状況があるとするならば、それはBが相当な「先生」である場合だけだ、この場合Bは店員Cから見ても、客である以上に「先生」なので、サービスを差し向ける道理が成り立つ/だが普通そんなケースはまずないので考慮に値しない。
こんにち、誰もが「すてきなお店と客」という関係に憧れていて、それをやりたがるのだが、それをやりたがる場合はオゴられてはダメなのだ、オゴられる人は「すてきなお店と客」の中には入れない、そこで客人ぶるのは身分違いになってしまう(身分逸脱の振る舞いは当然、カルマを深めることになる)。

店員Cにサービスされたら、あなたの負けだ。

あなたが女Bだった場合、店員Cのサービスは男Aに向けられていなければならない、そこであなたが主体的にサービスを受けてしまったとしたら、それは必ずあなたの何かがでしゃばっているからだ。
女が男にオゴられるのは何も悪いことではないが、オゴられるというのは割と特殊な状態であり、いつもどおりに過ごしてはいけないのだ、「客じゃなくなるのは意外にむつかしい」と知っておくのがいい/そして「無限のお客様」になってしまった人は、誰にも愛されなくなる上に、なぜか「二十四時間ずっと腹を立てていないといけない」という状態になる、これはキツい上に復旧はまず不可能なので、そうなる前に正しいオゴられ方を身につけるべきだ。
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「ごめんなさい」が苦手な人4
要なことをお話ししておきたい。
人によって、知らず識らず、「業(カルマ)を引き受けていくスタイル」で生きてしまっている人があるものだ。
それは、スタイルのひとつには違いないが、僕のこれまでの経験上、けっきょくオススメはしない。
カルマを引き受けていくスタイルには、ひとつの美があるのもわかるが、そのこともよく知った上で、僕は「そんなスタイルは他人に押しつけろ」と言いたい、僕は自分と友人に対する利己主義者だから。

カルマを引き受けていくスタイルの人にとっては、「ありがとう」「ごめんね」は、終わりの合図になってしまう。
「ごめんね」は免除であって、カルマ引き受けスタイルの人にとっては、「もうこのカルマは引き受けずにいく」ということになるので、「自分の生きる先はこちらではない」という終わりの合図になるのだ、「これまでありがとう」「これまでごめんね」となる/しかしそれは、「カルマを引き受けていくことが生きていくことだ」と、もともと偏って思い込んでいるからにすぎない。
一方、カルマを償却していくスタイルの人にとっては、「ありがとう」「ごめんね」は、いつも「始まり」と「これから」の合図になる。
「いつもごめんね、今日もごめん」「いつもありがとう、今日もありがとう」、人の胸元に飛びつくたび、そう繰り返して進むというスタイルもあるのだ/どちらのスタイルがよいとも言えないが、どちらが覚醒しているスタイルかと問われれば、誰だってうっすら後者のスタイルを指さすのじゃないか、より厳しいほうを指さすのには度胸がいるけど。

「いつもごめんね、そしてこれからもごめんね」、なんてうつくしい厚かましさだ。

人にとって、業(カルマ)のすべては「わかりやすいもの」だ、たとえば極端な話、「エロい格好をした女がレイプされて土まみれになった」というようなことは「わかりやすい」ので、うすうすこちらを追求することは、実は難易度でいうと易なのだった/これに比べると、「徳性」などというものはたいへんわかりにくく、このわかりにくいものに集中し続けろと言われるのは、とてもキビシイ話になる。
この世界に名乗りをあげなさい、身分差は「ごめん」で免除を乞いなさい、「わたしの人生よ」というのもわからんではないが、「いやカミサマの人生だろ」と言われたら反論はできない。
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「ごめんなさい」が苦手な人3
「ごめんなさい」には、さらに利益がある。
人は、自分より身分の高い人(胴体とその徳性が優れている人)や、その人と一緒の空間にいると、それだけで「身分差」により、カルマが自動蓄積していくというところがある。
何か「奉仕」をできたり、「上座・下座」が設けられていたり、あるいは金銭を「支払う」ことができたら、このカルマは消せるのだが、なかなかそういう形式が整っていない場合もある、その場合はカルマが自動蓄積していく/身分差がデカいほど、カルマ蓄積の勢いはバツグンになる。
その結果、人は身分の高い人のそばや、あるいはその人のいる空間から、何かしらで弾き出されてしまったり、もう中に入れてもらえなくなったりするのだ、「カルマオーバーによるキックアウト」だと捉えて差し支えない/こうして人は、己の身を救済・向上させるチャンスや、学門にアプローチするチャンスを失ってしまい、その後はさびしくなってしまう。

この、キックアウトのリスクに対しても、「ごめん」という免除クーポンは有効なのだ。
つまり、「ごめん」を有為に使える人ほど、より高い身分の人と親しみ、その空間の利益にあやかれるということだ、もうこれ以上のメリットはないかもしれない。
だから昔から賢い人は、どこかの店やお宅に伺うとき、第一に「ごめんください」と言う、万が一その向こうに身分の高い先生や何かがいらっしゃった場合に備えてだ、先に使っておけば有利なのだから賢いに決まっている、そして退出するときも「ごめんください」「ごめんあそばせ」といって、身分差その他のカルマがくっついてこないように、払っているのだ、なんとまあ周到に己の利益と安全を確保するスタイルじゃないか。
ついでにいうと、「ありがとうございました」というときの「有り難い」というのは、「レアで希少なものです」という意味で、これは「ごめん」の額面を倍増させる掛け算のような役割を果たしている、よってカルマ免除の効果は[ごめん × ありがとう]の演算で定義できる/いくら「ありがとう」だけ増量しても「ごめん」がゼロなら掛け算の結果はゼロだ、これもまたえらい大損だな。

ふだん神社やお寺や教会にお参りしている人ほど、ごめんクーポンの威力は上がっている。

実は、ふだんそういったお参りをまったくしない人は、ごめんクーポンの威力がカスになってしまっており、だからこそ「ごめん」の利益がわからなくなっているということもあるのだ/恋人とひどいケンカをして本当にゴメンしたいとなったら、ゴメンの前に神社に参拝するのも大真面目にアリだよ、何もかもがオワリになってしまう前に。
「身分の高い人や、その人と一緒の空間」「しかもありがたいもの」というと、まさに神社や聖堂なんかがそれじゃないか、そこに「ごめんください」する、そうしてごめんクーポンの威力をいざというときのために高めておくのだ、ホントにただそれだけでっせ/こんな方法、知らないで生きているやつはただの大損じゃないか。
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