☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「おれの世界」と、おれ専用のあなたへ

とんど伝わることのない禁断の話、しかしこれは僕にとって永遠に必要な話だ。
おれの街は、おれの街でなきゃ意味がないし、おれの文章は、おれの文章でなければ意味がない、そしておれの女は、おれの女でなければ意味がないし、おれの世界は、おれの世界でないと意味がない。
漠然とした「世界」がそれだけであるわけじゃない、事象が違う、「識」がなければ「世界」はない、そして思い切って言ってしまえば、ごく一部の人間だけが、「おれの(わたしの)世界」を"生成"することができる。
多くの人は、そうした「おれの(わたしの)世界」を持っている人に、呼んでもらえて、その「世界」に招き入れられることのみで、「世界」に住むことができる、自前でそれを生成できる人間はごくわずかなのだが/平等主義が重視される世情においては、多くの人が「世界なし」で生きることを強いられている、それは幸福とも不幸とも言えないところだが、大きな可能性を削り取ってしまうことには違いない。

おれの世界じゃなければ興味はないし、おれの街じゃなければ興味はない、おれの女じゃないなら、何をどうしたって興味の持ちようなんかあるか、単に「観測可能」というだけで世界や街や女が存在するわけじゃない/事象が違う、観測は永遠にヒマだ。
たとえ僕のこの不遜な言い方に数億の批判がありえたとしても、その批判は「おれの世界」に生じているものではないのだから無意味だ、そっちにはそっちの世界があればいいだろと投げ捨てるが/たいていの場合、そっち側には「世界」がないのだ、かといってどこまでもおれが口出しする筋合いではない。
「おれの世界」は、別に豊かでもないし、かといって貧しくなることもない、なぜなら比較対象がないからだ、比較がないのだから豊かとか貧しいとかいうことはない、ただ完璧で無謬で初めから満たされきっているものがそこにはある、これには加工も改変もない、前向きな見方というようなゴミはまるで存在しない。
「おれの世界」とはまったく異なる事象から横槍が飛んでくるたび、それの相手をしてみることに務めたが、けっきょくはことごとく「???」となった/僕が人付き合いをしているときは、単に「おれの世界」をやめているときだ、そこにも有益なことやごもっともなことはありうるかもしれないが、本質的な足しにはなっていない、そのことを僕は初めから知り抜いている。

「おれの世界」に、どこぞで育った「わたし」は入れない。

「世界」が欲しければ、どこぞで養成したよくわからない「わたし」なんか持ち込まないことだ、ちゃんとおれ専用の女でいろよ、それだけがお前の足しになる、それはおれに支配されろということじゃない/おれのいないどこぞの場所では、そのどこぞで生活するお前でいたらいいんだよ、だがそのどこぞのモンをおれのところに持ってきたって、そんなの通用するわけがないだろ。
おれ専用の「お前」という、秘密の部分を持つということかな、それはお前が「増える」ってことだよ、お前がおれに奪われるのじゃなく、おれ専用のお前という部分が増えるの、それは新しく命と世界を得るということだよ、そんなプラスのことに反発する人なんて本来ありえないの、反発するとしたら必ず何か思い違いをしていて、その思い違いは必ず学門の甘さから発生している、まして僕があなたに何かを強いたわけではなくて、あなたが戸惑いで暴れているだけじゃないか、あなたが暴れてしまう理由は「おれの世界」にあるのじゃない、あなたの依拠している「どこぞ」の側にその理由があるだろう。

できるオンナだね | comments(0) |
「叡智の人」と出会うまで、あなたにまともな人生が始まることは決してない
供のころ、ルパン三世が好きで、少年期には「銀河英雄伝説」が好きで、パソコンでやった「イース」が好きで、もちろん金曜ロードショーで観た「ラピュタ」も取り憑かれたように好きになった、そういえば幼稚園にいたころは迷路と折り紙が好きで、折り紙のレパートリーが百以上あったはずだ。
高校のころはデビット・カッパーフィールド(マジシャン)が好きだった、毎日ゲームセンターに住み込んでいたような高校生で、当時異様な人気を持っていた「スト供廚らの派生でえんえん遊んでいたわけだが、あと「刑事コロンボ」を全部観たし小説版を全部読んだ。
大学に入るとフロイトの全集を読み、ムツゴロウさんの全集を読み、六甲山を原付で走り……と、こんなペースで書き並べていくと明らかに破綻するな、こころの底から好きだったものは確実に数百あり、その数百は今もまったく変わらず好きなままだ、「飽きた」とか「ブームが去った」とかいう現象は僕の内にはひとつもない。
よくよく数えれば、数千はあるのかもしれないな、趣味はゼロだけどな、長いこと女にモテない人生を送ってきたが、最近はそうでもなくなって来、今になって思えば、昔も案外そうではなかったのかもしれないという気がしてきた、女にモテてないわけではなく単に変人の度が過ぎていただけだったのかもしれないとも、最近は思うようになった。

代表的には学生時代など、S先生やI先生、あるいはM先輩などの存在は大きかったのだと、今になってよくわかる。
そこで僕は、年長者の功として、若き人はすべからく「叡智の人」に直接のこころあたりを持つこと、ということを勧めたい。
自分が豊かに生きていく背後には必ず、「叡智の人」のこころあたりがあるものだ、僕が数千持つ「こころの底から好きだったもの」の背後には必ずその「叡智」のはたらきが潜んでいる、人から人へ好的な影響づけが起こることは、けっきょくこの「叡智」のはたらきをおいて他にはない。
こころならずも豊かに生きてはこられなかったと感じる人、あるいはこの先も豊かに生きていける気がしないという人は、必ずといってよいほど、こころの内に「叡智の人」の直接のこころあたりがないはずだ、そのことがいかに重要で決定的なことかは、今この年になってようやくわかるようになった。

「叡智の人」に出会うことが最優先。

「叡智の人」と出会うまで、あなたにまともな人生が始まることは決してない、これは暴論に聞こえるかもしれないが、年の功において免責してくれ、本当のことを言おうとしたらこれしかない、<<「叡智の人」と出会うまで、あなたにまともな人生が始まることは決してない>>。
われわれの街からは本屋がなくなり、テレビメディアは「カルマ大百科」の様相を呈しつつある、そして手元の通信端末は情報の猥雑化を進めているわけだが、これらすべては「叡智の人」と出会う機会を減殺している危機的な状況だと見てよい、この中でわれわれの個人的なオンデマンドには、あえて「叡智の人」と出会うことを優先するポリシーが含まれねばならないのだ。
できるオンナだね | comments(0) |
塗り重ねた濃密さの先にしか実物は出現せず、またその実物は必ず人を満足させるだけ芳しい
とえば「スカイダイビングに挑戦」というような挑戦が、人に何かをもたらすことはまずない。
なぜかというと、一回こっきりの「通過」にしかならないからだ、挑戦というのは何度も塗り重ねないと実りにならない。
たとえば漆塗り(うるしぬり)で言うと、サンドペーパーを当てて下地漆を塗って、またペーパーをかけて、また漆を塗って……という、表面には見えない塗り重ねをするものだ、これをせずに表面の漆だけを塗りつけても、「何か黒くなってんな、何コレ」にしかならない。
濃密な実物、濃密な実りは、塗り重ねから生じるものだ、下地や下書きを「できたー」といっていちいちバンザイしていたら、それは何の実物にもならない、下書きを論評していたらいつまで経ってもまともな絵画は出現していこないだろう。

思いつきをideaと呼ぶものじゃない、ideaとは、長期にわたる塗り重ねのような、階層構造の組み立てと実行を言うのだ。
どんなことでも、半年でモノになるというようなものはひとつもない、もしモノになることがあったとしたら、それはまったく別の機会に「下地」か積んであったということだ/「下地」が積んであったということは、少なくともその人は、過去の時間をボサーッとは生きていなかった。
濃密な「実物」が生じるためには、えげつない速さで進んだとしても二年、驚異の速度で四年、最適のペースでも十年掛かると思う、それをいちいち二ヶ月ぐらいで飽きていたら、それは何かをやったことにそもそもなっていない。
最速で二年かかるとして、それも、二年間ずっと取り憑かれていなければダメだ、何が下地になるかはわかったものではないが、とにかく何かの世界にずっと浸りきっている必要がある、「こんなこと続けていたら、この先どうなってしまうんだ」という不安や恐怖さえ感じる中、過ぎ去った数年の後、ようやく確かな実物がひとつ残っている。

時間を全部足さないと勝てない。

切り取って目立つように陳列された「努力」なんて、観察していてもダメなのだ、そりゃその当人をしばらくのあいだ感慨深くさせるだけで、その当人を実物の何かにはしてくれない。
「みんなが見ていないところで、こいつ何年間も、ひとりで塗り重ねてきやがったのか」という奴だけが、あとになって「実物」を手にしている、塗り重ねた濃密さの先にしか実物は出現せず、またその実物は必ず人を満足させるだけ芳しいということは、誰にだって報されてよいことだと思う、この世に満足できることは「ある」のだ、その出現方法が報されていないだけで。
 
できるオンナだね | comments(0) |
記号とお勉強がきらいなあなたへ
間は数式を理解する。
……ように見えるが、本当は逆だ、人間は先に数学を「識る」のであって、識ったものを誰かが数式で表示することを発明しただけだ。
だって、そりゃそうだろ、まず数学を「識る」ことがなければ、誰が数式表示を発明するねんという話だ。
こんな話を、箱根の温泉宿から書き話すのはどうかと思うが/誕生日なので友人のアテンドで特級の温泉に連れてきてもらっています、大阪出張の疲労回復もかねて、ああたまらん。

たとえば「3+5=8」という数式がある。
この数式がなければ、3個のリンゴと5個のリンゴは、合計8個のリンゴとして存在しなかったのかというと、そんなことはない。
「数学」と呼ぶに相当する事象は「もともとある」のだ、誰かがそれを先に「識った」のであり、誰か賢人がその「識」を数式(記号の組み合わせ)の形で表記して人々に知らしめたにすぎない。
で、何が重要かというと、「記号の一切を表示しないで学門そのものだけを直接体得した人は当然いる」ということだ、楽譜がなくても音楽家は存在しえたように、学門は人間が説明する以前から存在しており、それが体得できるならもちろん記号表示は要らない。

学門は存在であり無記号だ。

記号を用いて表示するのは、学門そのものから「仮に」抽象要素を引き出して、説明のために表示したらこうなるわな、というだけのことだ、われわれがその記号を覚えて「勉強」をしようとするのは、その記号が偉いからではない、その記号を手掛かりに背後にある「学門」そのものへ近づこうというため、つまり学門が直接わからないアホ用に記号的説明が発明されている。
学門の世界へようこそ、記号とお勉強がきらいなあなたへ、もちろん優れた学徒のすべては、記号になんか頼っていません、学門の本質は「大いなる流れ」であって、記号はその証拠品として断片として現れるだけです。
できるオンナだね | comments(0) |
勘も理屈も、叡智にゃ勝てねぇ

このブログ、明らかにヤバイ人のアレみたいな感じになっているのはよくわかる、我ながら憮然とし、半笑いになるところだ……まあしかし、今のところしょうがない、たぶんご時世がもう、愉快なideaが通用する状況ではなくなっているのだ。
実際、どうでしょう? このヤバイ内容に見えるブログ、誰もそんなにアテにして読んでいるわけじゃないし、よもや信仰心から読んでいるというようなタワケはいないと思うが、それでいて、読みながらどうかね、読み終わったあと、この現在の内容のほうがまだ光が差すんじゃないかね。
そこなのだ、これ、内容的にはいかにも「えぇ……」と見えるはずなのだが、実際に読んで得られるのは、やはり一種の落ち着きと「光」なのだ、こんなんそのまんまシューキョーですやんと言われたら厳しいところだが、そうじゃない、僕は愛と学門を分離せずに話しているだけだ。
実際ね、いよいよこんなヤベー話をしだして、みんながドン引きしてくれりゃおれとしてもまだ話はわかるのだが、誰も彼もドン引きとはならず、むしろ生き返ったがごとく「その話が本当は聴きたかった」という眼差しでな……それを見るたびいつも、「なんでお前らは基本アホなのに、そういうところの直観だけ冴えてんだよ」と困り果てているのだ、ホントなんとかならんのかこの状況。

なんでみんな、おれがまともな話をしているときは「ボンヤ〜リ」なのに、ヤベー話をしているときだけ、急に「眼差しくっきり」になるのよ、お前ら頭はアレなのに勘だけはいいな! こりゃおめえ、ゆくゆくはマントラでも唱えさせる気かよ、おれは断じてシューキョー的なことはせんぞ、ヨガ的なこともやんねーぞ。
おれがナイスな人生論とアドバイスをセクシー込みで語っているときにはほとんど馬耳東風ってな感じなのに、「カルマ……」とか言い出すと急に前のめりに聴いてきやがるのはなぜだあ、しかも正直言ってその食いつきどころだけ実に「正しい」のはなぜだあ、お前らの能力ってバランス悪すぎるだろ。
なんと言いましょうか、霊的な勘とでも言いましょうか、そういうのだけはどいつもこいつも鋭いなあ、正直その勘についてだけは僕が最下位だ、おれはそういう勘はないんだよ、おれはひたすら知性と理知で「愛」と「世界」を追ってきただけだ、だから僕以外の奴が急に「正解」にだけ鼻が利くのは毎回見るたびにギョッとさせられる。
人間そりゃ、誰だって「やるべきこと」があるんだって、そりゃわかるよな(勘がいいからな笑)、あとは理屈はカンタンだ、その「やるべきこと」が、現代の価値観とかモチベーションとかプライドとか文化とかと、思いっきりズレズレなのさ、それで「虫」にばかり引きずられて、何かよーわからん「おびえ」と言われると「たしかに!」っていう状況になるわけだよ。

お前らは賢いが、中に棲んでいる「虫」がアホだ。

そのバランスの悪さがだなあ……そんなもん、おれにはどーしよーもないぜ、おれの話がわかるくせに実際には「虫」の言いなりになるパターンをやめろ、何より当人が疲れ果てるだろ、虫にエサやってスクスク育ててもあなたのトクにはならんじゃないか。
僕自身はきっと、最下位クラスで「勘」は悪かったのだが、そのぶん、理詰めで学門を進めてきたわな、僕は霊感とやらを使っているわけではまったくない/僕が「理詰め」と言うのは、「ボクちゃんの理屈では、"叡智"には勝てないっす」という意味だ、僕がときおり理屈を無視しているように見えるのは、理屈より叡智を重視しているからにすぎない、そこんところをおめえら漠然とした「勘」でなんとかしようとするのやめろや、叡智に「反応」しとらんで、同じやるならさっさと「獲得」に向かおう、時間はいくらあっても足りねーんだから。

できるオンナだね | comments(0) |
「本物ギライ」という類型

る人が、「天才数学者のドラマ」が好きだったとする。
でもその人は、「本当の天才数学者の話」は好きではなかったりする。
ドラマを見ている分には、「天才数学者、かっこいい〜」と見えるのだが、マジの天才数学者の話をされると、「それはちょっと……」と及び腰になる。
学門でも文化でも芸術でもそうだが、「本物」について拒絶反応を持つタイプが少なからずある、これは「本物ギライ」と呼んでいい類型だ、本物ギライの人は本物を見ると「おびえ」が起こるので及び腰になる。

本物の声、本物の姿、本物の動き、本物の叡智、本物の「世界」……
そういったものを目の前で体験すると、人は案外きれいに、それを「なかったことにする」という黙殺の仕方をする。
ホントにこれは、キレーにそうなる、<<本物は無かったことにされる>>、まるでそういう訓練を受けてきたかのように全員でビタッとそうなる。
別にそれは悪いことではないし、いいのだが、もしあなたが望む場合は、自ら「本物への行き先」を消去することはやめることだ/「本物」は必ずあなたをおびえさせ、<<無かったことにしたい>>という衝動を引き起こす、それは現在のあなたを破壊してしまうものであり、本物のあなたを引きずりだそうとするものでもある。

真の価値があるものは、あなたの価値観を破壊してしまう。

まあそりゃそうだわな、そして、価値観を破壊されるというのは、ただごとではなくなってしまうのだ、そのへんはタイミングを見てうまいこと按配していこう、あまり無理をすると本当に「発狂」のリスクもわずかながらある/逃げるべきではないだろうが、それ以上に焦るべきでもない。
<<本物は無かったことにされる>>、これ、ギャグみたいに、本当にキレーにそうなるぜ、そんなことがやがて正しいわけがないよなあ。

できるオンナだね | comments(0) |
パワーアップ、「おびえしばき力」!!

りあえず、まだまだこの先があるようなので、僕はパワーアップしよう、まだまだこんなもんじゃ足りない。
ただしパワーアップといっても、もちろん肉壁をパワーアップするわけじゃない、どちらかというとPCのパワーアップに近い、CPUのクロックアップと通信量の拡大だ、そりゃ通信量は何億ギガbpsもあったほうがステキに決まっている。
その通信量アップにチャクラ的なものが使えるんだったら、なんだって使ってやるわな、結果的に「すげええええ」ってなりゃ何でもいいのよ、パワーアップというのはいつも「桁外れ」でないと面白くない。
喉元を緩めると「遊び」の想像力が発生する、それはそういうチャクラ的なものがあるからだが、まあそんなこと信じてもらう必要はない、僕自身が「すげええええ」になればそれだけでいいのだ。

僕が、現在の僕自身から、桁外れにパワーアップする(ああ夢があるなあ)。
これまでは、それをやらかすたびに周囲が「おびえ」るということで、躊躇してきたところがあったが、そこにあらたに「しばく」という方法が導入されたので、これからはガンガン行けるのだった/あらたに、というよりは、正しい理論を得て復興されたということだけれど。
もちろんそれで無限にしばきつづけると、相手が死んで友人を失うので、切り替えの方法も持たねばならない、つまりえぐいぐらい「休憩する」ということと、代わりに誰かに「命令」するということだ、そうしたら友人も命をパワーアップさせる(いいことずくめだな!)。
「命」のやりとりになるわけだが(生死のやりとりじゃないよ)、それはつまり、「使命」のオンオフによって為されるだろう、僕の使命がオフしたら、相手の使命がオンにならねばならない、ここのところをテキパキってやっていくのが、きっといいことになるだろう(ああ夢があるなあ)。

おびえ度×しばき力=命に届く。

まあそういうことだよな……相手のおびえ度に応じてしばき力を踏み込ませていくから命に届くのであって、そこで命までバッサリ届けば別に揉め事にはならんのだ、どうせ誰だって命がないまま生きていることを本当に大切にしているわけじゃないし。
ここ数日、いろいろ冷静に思うところがあったのだ、あちこちで立派な城壁を目にするが、そりゃ冷静に見たら城壁なしでやりあったら僕が勝ってしまうということじゃないのかね、別に僕は負けたってかまわんのだが/そして「城壁」と言われても、それって一突きで崩せるのはミエミエで、その後はしばきたい放題に見えるのだが、それは僕の勘違いかね、まあとにかくパワーアップしまくって「おびえしばき力」を何百倍かにするのだった。

できるオンナだね | comments(0) |
「おびえ」と「しばく」の好い関係

「おびえ」というのは、よい視点だったし、よい開眼(?)だった、「おびえ」というのはまあカルマ的な違反から生じてきているものだが……
「しばく」というのは、カンタンに言うと、相手が「おびえ」ているところを見落とさず、「おびえ」にスパーンと入り込んでしまうことだ、それで入られた側も「あっ、入られてしまった」となる。
スパーンと入られてしまい、「あっ」と、そのことを認めて受け入れると、そのぶんカルマ的な違反が修正され、「おびえ」は消失する/まあ「してやられた」感はあるので、腹が立つかもしれないが、案外素直な人は素直なもので、「おびえ」の消えることによろこんで従う人もある。
つまり、人は正しく「しばかれる」ことによって、「おびえ」をむしろ減らせるのだ、正しく成立している「しばく」は「おびえ」を減らすもので、正しく成立していないそれは「おびえ」を増やすほうにはたらいてしまう(ダサい)。

とはいえ、いくら名人が「しばいた」としても、しばかれた側がそれを断じて拒絶するという場合もある、意地があったり立場があったり、価値観や邪法があったりするからだが/その場合はカルマ的な違反が増大するので、「おびえ」がグッと大きくなってしまうが、まあそれはしゃあない、なるべくそんなことはないほうがいいなあ。
これ、何もオカルティックな話をしているのではなく、もともと潜在的に先輩と後輩などはそのようなことをしていたということなのだ、精神的に行方不明の後輩を、先輩が「おいコラ」としばく、それによって「ひぃぃぃ」とはなるが、結果的に「あいつ何か最近目つきがしっかりしてきたな」というふうになっていく。
「おびえ」と「しばく」はそういう関係のものなので、「おびえ」の大なるほうが小なるほうを「しばく」ことはできない、そんな大違反をやらかすと「おびえ」大のほうが即日カルマボンバーになるだろう、たまに実際、おびえまくっている大人が子供を叱ろうと気取って、結果的に自己カルマ大増産になっている例を見かけるが……(まあしゃーない)
「しばく」側も上手でないといけないし、「しばかれる」側も上手でないといけないのだが、このことがすでに破たんしているから、世の中の上下関係は現在何もかもが「パワハラ」になっているのだ、だがそれもひとまずは「しゃーない」として進んでいくしかない、「しばく」なんて付け焼き刃でできることじゃないからしゃーないのだ。

しばかれるということは、愛されるということだが、それでも拒絶する権利がある。

それは、個人の権利として当然だ、「一生誰からもしばかれない」というカミサマとの契約書に捺印することも可能だろう、ただそのリスクだけはアナウンスされていていい。
ふつう、しばかれることなしに、独力だけで「おびえ」を償却していくことは不可能だ、ただしそれでもなお、愛やしばきを拒絶する権利が与えられている、もちろんしばかれる権利も与えられてある、それぞれ自分が選ぶことだ。
 

できるオンナだね | comments(0) |
すべての「よっしゃ」が結晶化する
かをやる、ということに善悪はない。
何かをやる、ということには「よっしゃ」しかない、つまり自発性と能動性だ、これだけが純粋な面白みとしてある。
善悪は関係ないし、やりたい・やりたくないも関係ないのだ、あるのは「よっしゃ」だけだ。
つまり、何かをやるというのは「よっしゃ」の限りであって、「よっしゃ」がない場合は、どんな内容であれ事情によって「やらされている」ということになる、このことには凶相しかない。

何かをやる、ということはまた「済ます」ということでもある。
何かをやる、「よっしゃ」ということには、つまり集中力と、速さと手際の希求があり、そこに「済ます」ということへの志向性が伴っている。
何かをやる、ということは、「よっしゃ」の限りであって、何がどうなるかというと、「お見事」ということになるしかない。
何かをやる、ということは、「よっしゃ」「済ますで」「お見事」ということしかないのだ、そしてそれだけで華やぐのだ。

脱獄だって「お見事」だ。

わが身を「お見事」で飾れ、上等ぶるのなんてそのあとだ。
善を積んで悪を積んで、後には倍ほどにして回収もして返済もして、それが元の木阿弥になるかというとそうじゃない、そのときその身には無数の「お見事」が飾られている、すべて何かをやってきたからだ、すべての「よっしゃ」が結晶化したのだ。
 
できるオンナだね | comments(0) |
大きな日々だけがある
があれば突進しろ。
理由は特にない、スリルなんてチャチなものを求めてもいない。
ただ、醜くあれないというのは、たんに不自由なだけだ。
善も悪も平等に為せないなら不自由なだけだ、怒りだけが湧いていていい。

悪いことはつまらないし、善いこともつまらない。
唯一できるのは、「なんでも食う」ということだけだ、自由ということは、何も求めないということであり、同時に何でも求めるということだ。
自信があるなら、自信なんか捨ててみろ、善いことも悪いことも、選ぶなら迷っているだけだ。
やりたくもないことをやれ、すっきりするな、陶酔もシラフも、理解しているだけサイテーだ。

すべてをやり、何一つも注目するな。

善なのか悪なのか、良なのか駄なのか、そんなことは何一つなく、ただひとつのことを生きろ。
行為には目的がある? 違うね、行為には日々がある、大きな日々がある、大きな日々だけがある。
できるオンナだね | comments(0) |
感受性へのレクイエム
あこれで終わらせよう。
学門にしばかれなさい、感受性はゴミです。
文化にしばかれなさい、感受性はゴミです。
芸術にしばかれなさい、感受性はゴミです。

「あの人」のセックスにしばかれなさい、感受性はゴミです。
「あの人」の声にしばかれなさい、感受性はゴミです。
「あの人」の姿にしばかれなさい、感受性はゴミです。
「あの人」の言葉にしばかれなさい、感受性はゴミです。

よかったな、あなたの感受性は終わりだ。

感受性が終わることほど、人間にとって安息と希望はない、今だからはっきり言うけれど、感受性というのは「地獄」なんだ、あなたはあやうく地獄を信仰したまま行かされるところだった。
「感受性」は、まったく黒々とした「穴」だな、どこまでも吸い込まれてゆき、際限なく蝕まれる、感受性の穴が閉じたとき、あなたにはれっきとした人間の時間が始まる、何も長い時間を穴の開いたまま過ごすことはなかった。
 
できるオンナだね | comments(0) |
あなたの拡大する方向

門というのはいいものだね、すべてを明らかにしてくれる。
ここ二年間のことをまとめたので、これからのことについて考えよう、これから僕自身はどう進み、どう拡大していくか。
明らかにこの先は、僕は僕の本分として、命令を発する者(指示は発さねえよ)、命を発する者、人に命を帯びさせる者、という役割をまっとうし、それを拡大してゆきたい。
まあ、聞いているぶんにはきっと、なんのこっちゃという話だと思うが、これがマジなのだから面白いな、学門の示すマジの結論というのは常に実感に反して「んなアホな」と思わせるのが面白いところだ。

直覚的にわかることだが、僕は明らかに休まねばならない、僕をはたらかせる者は罪を増やすだろう/というより、僕が休まないと周囲の人の罪が増えてしまう、罪という言い方はいやだから「おびえ」にしておこうか、僕が休まないと周囲の人の「おびえ」が増えてしまう、そしたらまた無能化が進んでしまう。
単純な意味でも、誰かが命令を発するとき、その命令者は休んでいるのが当たり前であって、一人で命令を発して一人ではたらいていたらそりゃ周囲は立ち尽くすしかできねーよ、なるべく僕自身は休んでいるように、僕自身が気をつけないといけない(このことは協働者とのコンセンサスも改めて必要だ)。
オーダーが直接得られれば、人はルールを棄却できる、僕のやることは「命を帯びさせる」だけだな、よってここにきて、命を帯びさせるやり方で成り立つ「しばきf式」が立ち上がってくるわけだ/今思えば、もともとこの「しばきf式」ばかりでやってきたように思うが。
僕はこうして、学門が「んなアホな」というマジの結論を導き出し、その結果として、現場レベルでは「すげーまっとう」なことに行き着くということがとても好きだ、しばかれた若衆が命を帯びるなんてまっとうなことが他にあるだろうか。

言語と脳と胴体のストリームで愛のしばき!!

僕にとっては「しばく」ということが、愛であって休憩だからな……それが機能しないのは感受性の穴に吸い込まれるからだ、人が感受性化しているのは本当にもったいないし、無能化アンドおびえ増大になるだけだ。
感受性が邪で、しばきが聖なのだ、こんな明らかにミエミエのこと、さっさと見識して拡大してゆけるといいな。

できるオンナだね | comments(0) |
「おびえ」を取り去ってゆく方法

あしかし、前向きに捉えていくほかない。
「おびえ」を取り去ってゆき、「罪」による無能化を解消していくということは、自力では相当ムリがあるだろうが、究極「命」は知っている、「命」はカネ以外の「○尊△卑」を知っている、だから「命」なら何とかなる。
命はその「○尊△卑」に基づいて、どのように振る舞うべきか&どのように行為するべきかを、あなた自身に命じているので、それに殉(したが)うのがいい、ただしその命はまったくあなたの感情や利を益する方向には起こらないことに注意だ。
一番やってはいけないことは、「○尊△卑」に見つかる尊きものについて、それを「自尊」に使うことだ、これだけはやっちゃだめ、その後に蓄積していく潜在的な「おびえ」がえげつなくデカいものになってしまう、それはもう「解消はムリ」というところまでいってしまうだろう。

たとえば故マイケルジャクソンについて、「実効的な愛を、エンターテインメントの世界と結びつけたことが、圧倒的に評価できますよね」みたいなことを言い出すと、これはもうダメだ、尊ぶべき偉大なものを「自尊」の具材に使った、このことはもうほとんどゲームオーバーを意味する。
あるいは「○○さんのこと、わたしは評価しているんですよ」みたいなのもサイアクのパターンだし、あるいはちょっとかわいこぶって、「○○さんって、やっぱすごいですよねー」みたいなのもダメだ、お察しのとおりその後の潜在的「おびえ」が級数的にデカくなってしまう。
だってそれは、「命」が命じるところの振る舞いと違うというか、「命」が命じるところとしてはむしろ「それだけはぜったいやっちゃダメ!」というたぐいだからね、これらはもうほとんどおびえがMAXまでいく。
「命」が命じるところは、「血が騒ぐ」ことの対極にある、「血が騒ぐ」ことにあっさり流されてきた人は復旧がかなりのていどキツいだろう、もう普通の友人を得ることさえできなくなっているはずだ/科学的にそういうもんだからしょうがないのだ。

命があなたをしばくまで。

前向きに捉えて、そう看破するしかない、「命」が人をしばくまで、「血が騒ぐ」ことは収まらない、命があなたにとんでもない振る舞いと行為を命じるには、命があなたをしばくしかない/自分の命が自分をしばくということは、誰にでもありえておかしくない。
百万人に笑われなさい、しかし命にしばかれて「血が騒ぐ」ことから離れたあなたが、ただ一人静まって「わたしはこうなのよ」と、今度は人々の潜在的な「おびえ」を明らかにしていく番だ、命を帯びた人ほどおびえをなくしてゆける、そのとき百万人の嘲笑が、実は「おびえ」に支配されて嘲笑を生じているだけなのだとあからさまに見えるだろう。

できるオンナだね | comments(0) |
人が「無能化」する現象
は罪で無能化する。
「罪」とは、ここでは「おびえ」と関係があるものだが、さしあたり「罪」がわかりやすいので、「罪」という言い方をしよう。
人は罪で無能化する、ストレスで無能化するのじゃない。
無能化するのは馬鹿らしいことだ/まして、自分の罪ならわからないでもないが、他人の(身内の)罪で自分が無能化するのは、とても無意味で馬鹿らしいことだ。

罪は、隠蔽されねばならない。
罪は隠蔽されねばならないのだから、カッキリ隠蔽する覚悟を持つほうがいい。
罪をカッキリ隠蔽するということは、罪を自分で引き受けきるということだ、そうすれば人は無能化しない。
そして罪を自分で引き受けきることができるとしたら、それはそれ以上の値打ちを創出できるときに限られるだろう、だから罪をカッキリ隠蔽する覚悟をして、無能化せず、自分で引き受けきって、それ以上のところに行けよ/罪のない人なんていないのだから。

無能じゃなくて、罪負けしているだけ。

「罪負け」なんて言い方は慣用にないと思うが、この言い方がいい、罪におびえるな、おびえて許してもらえるような甘いモンじゃないから罪というんだ。
罪の重さに負けて無能化し、視野狭窄の中で「悪いことはやめよう」と甘い決断をするとき、あなたの懐にはカミサマじゃなく魔物が忍び入っている、あなたの罪を軽くしてくれるなんて怪しいウソは悪魔の得意の手口なんだ。
できるオンナだね | comments(0) |
油断しない
いは憎悪ではなく目的だ。
相手が弱っているときは全力でつけこむ、相手が弱っていることを前提にしない。
常に先手を取る、情報を与えない、相手の作戦を成立させない。
ありうべき最大の利益を取る、そのためには、相手を滅ばせず、稼働させ続けるのも重要だ。

それは憎悪ではなく目的であって、戦いの最善は、闘争が起こらないこと、闘争以前に勝利すること。
勝利をもたらすのは憎悪ではなく怒りだ、怒りが駆け抜けて何事もなく勝利だけが残る。
勝利者の義務は、勝者および敗者ともに、結果的なベストをもたらすことだ、「これでよかったんだ」となったとき、勝利者は単なる勝利者ではなく「正しかった者」になる。
いかなるときも油断しない、油断がもたらすものは融和や安穏ではなく、むしろ騒乱と全体的な損失だ。

いちおうの勝利を得るな、盤石の勝利を得よ。

ありうべき利益の最大に、とりこぼしがないと言えるほど、盤石でスキのない勝利を得よ、陶酔も生まぬほど完全にデザインされた勝利を成り立たせよ。
油断しない、相手が弱っているとき、相手が情報不足のとき、相手が軟化しているとき、それらは最高のチャンスでしかなく、ドラマはない。
 
できるオンナだね | comments(0) |
集中と拡散

だって、広がってゆきたいと望むし、響きわたってほしい、拡大してゆきたい、と望む。
が、このとき、自分を放射状に拡散する……というイメージを持つのは、方法論として不完全だ。
単なる発想の転換がありえて、この転換はなかなか気づかない。
自分が無限の広がりを持つように、逆に一点に集中する、タイミング的にも場所的にも、時間的にも空間的にも、「ここ」という一点に尽くさしめる、そうすることで逆に無限の拡散が得られる。

発想の転換だ、自分を拡散のほうへ向けると、自分がどんどん薄まってぼんやりし、行方不明になる。
ある人の存在が、あるいはまたその声が、姿が、振る舞いと言葉が、なにかとんでもない広がりへくっきりつながっていると実感されることがあるが、そのようなとき、当人は逆に「一点」に向かっている。
傍目には広がりが感じられるからといって、広がりを真似するのはハズレなのだ、<<広がりというのは集中のカウンター現象として発生している>>。
爆発的に広がる現象は、内に向かう圧力の、最終決壊から生じている、みずから外に向かおうとすると、爆発は得られずズルズルの漏出が起こるだけだ。

急がば回れ、広がば縮め。

爆発的事象と、破裂的事象がある、破裂的事象のほうは、つまり「やぶれかぶれ」でしかない。
爆発的事象、その広がりとつながりは、よく調和した、理性的なものだ、マイケルジャクソンのシャウトみたいにだ。

できるオンナだね | comments(0) |
テキパキはカッコいい美徳
まりむつかしい方法論を持ってもしょうがないので……
「テキパキする」という美徳がある、この美徳に文句をつける人は人類史上いなかった。
毎日、どうせすることがないので、とりあえずテキパキするのだ、とはいえテキパキするのがダルい気はすることはある。
そのときは、「テキパキしてないなら、とりあえずカッコよくはないわな」ということを思い出す、思い出して認める、そして自分がカッコよくないということは土足で踏まれた肉まんのレベルで致命傷なので「それはさすがにマズいな」と思いとどまることができる。

人は、自分がカッコよくないとき、自分に失望するのだ、こうなるともう動けなくなる。
そして不思議なことに、そうして失望して動けなくなっているとき、自分が何に失望しているかはわからないのだ、「自分のカッコ悪さに失望しているのかああああ」ということに、なぜか気づけない、この仕組みはまったく意地悪なものである。
「自分はテキパキやらせてもらいます」「きみ、やけにテキパキにこだわるね、なぜ?」「いや、自分のポリシーなんで」と、これだけで十分カッコいい、このとき初めて自分のやるべきことが見えてくる。
テキパキするということは、「意志決定と初動がメチャ早い」ということだが、それでもカッコよさが足りない場合は、テテキキパパキキ、というぐらいにレベルアップすればいい、それで「なんつー処理速度だ」と瞠目させるほどならそれはもう強制的にカッコいいのだ。

意志が弱いのじゃなく、動体視力が弱いのである。

この世界の具体的事象は、すべて時間軸上に流れて存在しているので、動体視力が弱いとそれが「見えない」「取りこぼす」のである、それで人から見るとモタモタして無能に見える。
不思議なことだが、達成度80%の掃除を、30分でやるのと、二日にわけて四時間でやるのとでは、30分でやったほうが部屋の清潔感は上がるのだ、それは動体視力が高いぶん、部屋に流れているものまでよく見えて掃除してしまえるからだ/だからテキパキやることは、カッコいい上に実効も余分に得られて一石二鳥なのだった。
できるオンナだね | comments(0) |
明らかにすると明るくなる
だっていろんなこと思うが、「思う」というのは、あまり意味がない。
「思う」ということより、「明らかにする」というのがいい、そして「明らかにする」ということは、人を明るくする。
たとえば、「誰かと愛し合った経験があまりないわたしは根本的にダサ〜い」ということを、明らかにする、明らかにしてしまえば、人は明るくなる。
「ダサいとか言われて、それを認めたりしたら、むしろ暗くなるじゃない」という気がするが、それはちゃんと「明らか」にしていないからだ、明らかにしてしまえば明るくなる(まあ少々の心理的負担を経るわけではあるがね……)。

だってほら、「女にモテたい! しかしモテない! そんなこんなで十余年〜」と言っているヤツは明るいじゃないか。
異性にモテないとか頭があんまりよくないとかは、別に隠しても明らかにしても同じなのだから、明らかにしてしまえばいい、隠して暗くなるほうがよほど損だ。
村人じゃあるまいし(と唐突に日本のムラ社会をdisる)、いろんなことを明らかにして、それで友人にヘンな顔をされるとしたら、それは友人じゃないんだよ、そんなんは友人のやりなおしでっせ。
人に、悩み事を打ち明けるとかいうことは、基本的にキモチワルイことなので、そういうキモチワルイことはせずに、陰部を打ち明けるようなヘンタイ行為はやめて、まず自ら「明らかにする」ということを済ませてから、人に話そうね。

「まあ、デキの悪い奴なんでな」と、まず自分の基本を明らかにする。

そうしたら人は明るくなる……えっ、そりゃまさか、自分が性根からデキのいい奴だなんて思い込んでいるエクストリームバカはいないよな、そんな奴は紀元前二百万年に滅んだと聞いているので大丈夫なはずだ。
人は、明らかになったことには、感情的にならずに済むのだ、そして感情的にならずに済むということは、人が一日中明るくいられるということなのであった。
できるオンナだね | comments(0) |
数十年のうちにうつくしくなる人

十年生きていくうち、「うつくしくなる人」はごく少ない。
なぜかというと、数十年のうち、「積み重ねる」ことがないからだ、ほとんどの場合はただの「繰り返し」になってしまう。
あなたが部屋で、一日一万回、「こんにちは」と発声を繰り返したとしよう、するとそれは驚くことに、あなたに何一つもたらさない/それはただの繰り返しであって、積み重ねではないからだ。
「繰り返す」ということは、次第に無意識のパターン化するのでラクだが、「積み重ねる」というのはそんなにラクじゃない、毎回新しい一回を積まないといけないから、積み重ねというのは誰だってフラフラになるまでやるものだ。

絶対に覚えておいて損は無い、「積み重ねる」人は数十年のうちにうつくしくなり、「繰り返す」人は数十年のうちに醜くなる、これは残酷だがどうしようもない事実だ。
しかも、繰り返しはパターン化して「ラク」なため、本人は知らないうちに「繰り返し」で弱くなっているものだ、パターン化した繰り返しに慣れてしまった人は、もう新しい一回を刻む余力を残していないということがよくある。
たとえばエイ・サ、エイ・サと、「リズム」をつくって、毎日木刀を振り続けてみよう、そうすることであなたはむしろ「醜く」なり、しかも「弱く」なっていくのだ、継続は力なりということはとんでもないウソになる。
「積み重ねる」ということは、毎回新しく行い、一回ごと慎重に行い、その中でどこからともなく「識」が深くなっていくということを指している/逆に記憶したものをなぞりつづけるのが「繰り返し」ということに当たるが、これは百万年後も記憶したままのそれで「変わっていない」ので、一日目も百万年後も同じだ、固いクセがつくだけだ。

繰り返しは楽しい、積み重ねはゾッとする。

たとえば「一日一万歩あるく」と決めて、毎日そうするようにしていたら、それは次第に楽しい日課になっていくだろう、けれどもそうして歩き続けた老人の、歩き方がうつくしくなるわけではない/老人は誰だってわれわれの倍以上を歩いてらっしゃるはずだが、歩き方のうつくしい老人なんてまずいない。
じゃあ「積み重ね」とは何かといって……それはあなたの想像したとおりの、考えうる限りサイアクの、ゾッとするような労力を注ぎ込んだそれのことだ、一日一万歩あるくのじゃなく、一日一万回追究するということだ、一万回足を出すんだから。

できるオンナだね | comments(0) |
「識」周辺、コドモがオトナになっていくとき
だって、自分の「思い」を捉えることはできる。
自分の「思い」を、高めることだってできるし、ヒートアップさせることだってできる。
この、誰でもできることを、エサにして食いつかされたあなたの負けだ。
誰でも自分の「思い」を捉えることはできる、しかし、人と人とのあいだに潜んでいる「識」を捉えることは誰にでもはできない、オトナにならないとできないことだ。

誰だって、物事を理解することはでき、記憶することはできる、記憶したそれをなぞることもできるが、それらは人間(ジンカン)において何らも為さない。
この、誰にでもできることをなぞらされて、うまくいった気にさせられたあなたの負けだ。
理解とは違う、また記憶とも違う、なぞることとも当然違う、人と人とのあいだに潜んでいる「識」、これはオトナでないと捉えられない。
コドモからオトナになれた人は、必ずどこかで、自分には見えないレベルの「識」から意志を得る人に、「完全に従った」という時間を持っている、そうしてコドモは「識」なるものが存在することを従う経験の中で直覚して、オトナになっていった。

おれの意志があなたの意志だろ、おれの意志はおれの意志じゃないんだから。

両足でまっすぐ立つときのことを考えればわかる、「両足でまっすぐ立つ」ならば、その重心は「足と足のあいだ」に来るはずだ、それがオマエ、左足が左足の重心を取ろうとして、右足が右足の重心を取ろうとしていたら、永遠にまっすぐは立てないだろうよ、その立ち方の妙を知っている人をオトナというんだ。
僕は非常に現実的で、ノー・トラブル主義だから、無謀にロマンチックなことを言いません、ただおれの意志があなたの意志だろという、現実的な線だけを言う、まともなことが成り立つために/ちなみにジンカンの識に基づかない単独自分だけの意志を「我意」という、この我意があなたをジンカン意志のないコドモにしている。
できるオンナだね | comments(0) |
<< | 2/24PAGES | >>