☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「まともな人」だけが当然の友人3

リエール「サイエンスプラス」は、使用の実感として、部屋干しにかなりの程度有効だ、僕は断じてP&Gからカネをもらって言っているのではない。
日曜日は「鉄腕DASH」から「イッテQ」の連続を録画しないわけにいかない、もういっそのことTOKIOが大臣か事務次官をやってくれんかね? と思う、もう日本そのものを開拓してくれ。
東芝のニュースは聞いているだけでクラクラする、単なる赤字決算じゃなくて債務超過だぞ、それもぶっちぎりの債務超過でまだまだ続きがあるという(恐怖)。
大学生が日経新聞を読むのは無理があるので、やっぱり読売か毎日がいいんじゃないの、朝日新聞と産経新聞はそれぞれに偏りが大きすぎるから避けるとして。

H&Mは、商品はいいのだが、商売のやり方が気に食わない、サイズごとに陳列を揃えてくれよ! そして気に食わないのに商品がいいのでつい買ってしまうところが我ながら悔しい。
モスバーガーでは、もう数年に亘って「とびきりチーズバーガー」ばかり食べている、これにポテトLとクラムチャウダーとモスチキンを付け足せばそれなりに散財だ、散財だがやめられないのだ(チリドッグはガマンしている)。
アパホテルは値段の割に品質が高くて優秀だ、ハイクラスとなると僕は帝国ホテルよりオークラを勧める、でもホテルが荘厳すぎるのもそんなに好きではないので、僕はニューオータニや東急系の気楽なハイクラス程度で過ごすほうが好きだ、三井系のアーバンホテルは値段の割に部屋が狭いので遊ぶのに使うところではないと思う。
電気ストーブはここ数年、ダイキンのセラムヒートかコロナのコアヒートが最強だ、遠赤外線の浸透力は本当にすばらしいと思う(書斎ではトヨトミの石油ストーブだが、最近のものは着火機構がとても優れている)。

アイリスオーヤマの製品で後悔したことはない。

繊細によく使う電化製品はパナソニックでいいが(電子レンジとか)、毎日は使わない「電動」の製品は(高圧洗浄機とか加湿器とか)、悪いことは言わない、迷ったらアイリスオーヤマにしておけ、見た目は安っぽいが性能的にはたいていよくできている。
フライパンはダイヤモンドコートの類が優秀だが、それ以上にフライパン自体の厚みを重視しろ、鉄板が薄いとどうしても熱伝導にムラがあるのだ、選ぶのが面倒くさかったら諦めてレミパンにしておけ、ああ「まとも」ということはすばらしいな。

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「まともな人」だけが当然の友人2

まには、そうだな、僕の「まとも」なところをアピールして自慢でもしてみよう。
僕は車の運転が上手ということで、女性たちに評判がいい、「乗っていてまったく車酔いしない」「山道を攻めていても迫力がありつつ安心感がある」と。
僕は交渉事が得意なので(元商社マンだからね)、やれ保険金請求やら不動産屋に敷金返還の請求をするやらで、当人の付き添いに「どーも」としゃしゃり出ることがある、当然向こうはイヤな顔をするわなあ。
友人の就職エントリーシートを代筆したり、役所の要介護認定の審査書類を代筆したりで、すばらしい結果を獲得したこともある、ギリギリウソじゃない内容をさも迫ってくるふうに書けば審査なんてイッパツでオーケーだ。

そういえば僕自身、就職の面接とかは基本的に落ちない奴だったな、何しろ口八丁だし、そもそも緊張するなんてことが性格的にないものだから。
そういえば僕は、料理が上手なことでも評判だ、そして自負しているのは料理の上手さよりも「はやさ」だ、「もうできたの?」と驚かせることを楽しみにしている。
絵画とか音楽とか文学とかの、最低限の素養もセンスもあるし、敬語やビジネスメールの類はきっちりやれる、新聞の内容もわかるしいちおう簿記三級程度は持っているし財務諸表ぐらいは把握するのだ。
あとは何だろう、声がよく響いて通るので、騒がしい飲食店では重宝される、あとはあれか、思い出話が大量にあって、聞いているだけでゲラゲラ笑えると評判のいいところだろうか、だいたいそんな感じだ僕の「まとも自慢」は。

マイペットは部屋用の洗剤、マジックリンは台所の油汚れ用の洗剤だ。

もし「まとも」ということの逆を行けばこうだ――運転は危なっかしい、交渉では口ごもる、エントリーシートは書けないし面接は落ちる、声が小さくモゾモゾしている、料理なんかヘタクソ以前に遅すぎる、カルチャーを鑑賞する素養がない、頭が弱く新聞も帳簿もまるで読めない、緊張しているくせに居直っている、恋も友人も青春も思い出話がひとつもない――こんな奴どう見ても「まとも」じゃない。
部屋を水拭きするならマイペットだが、換気扇を洗浄するならマジックリンだ、それでもダメなときはいっそジフをぶちこむか、激落ちくんでごまかすか、最悪の場合はボンスターで力ずくだ、「まとも」ということはすばらしいことじゃないか。

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「まともな人」だけが当然の友人
なくとも、誰もが「まともな人」を目指さねばならない。
まともな人とは、つまりまともな友人がいて、まともな恋愛経験があって、まともに勉強が頭に入っており、まともに面接で話せる人のことだ。
近所の人へのご挨拶を気分よくし、たわいない立ち話をしつつ、悪徳な不動産屋は交渉で押しのける、新聞や宗教の勧誘は玄関先でサラリと断る。
車の安全運転ができて、新聞に書いてあることがちゃんとわかる、敬語が使えてジョークに笑える、縁あった人と気分よくワイワイやり、相手の立場に当然の配慮をする、そういうのが「まともな人」だ、こうやって考えてみると「まともな人」は現代にそんなにありふれたものじゃない。

近年は奇抜な趣味や不穏な性向が流行っているような気がする。
まず「まともな人」になれていない人は、いいかげん自分が特殊な人だと自覚せざるを得ないが、なぜかこの場合こういう人は自分を「特殊に"優れた人"」だと思いたがる。
たとえば「頭の弱い人」は、どう見ても特殊にダメな側の人であって、特殊に優れているわけがないのだが、なぜか頭の弱い人は自分を特殊に"優れた"側だと思いたがる(だからこそ「頭が弱い」わけでもあるけれども)。
単に「まともな人」になれていない人が、まともでない趣味に浸り、まともでない興奮をする習慣に耽る……ということによって、近年はまともでない趣味が流行っている気がするのだが、こんなものには何の値打ちもない、どこまでいっても人はまともな人としか付き合わないのだから言い訳は利かない。

「まともな人」でないと、予選も通過できない。

たまには僕もこうしてまともなことを言うのだ、僕は元総合商社に勤めていたサラリーマンだぞ、国立大卒の理系だ。
若い女の子のすべては、健全に、まともな人になってね、それだけでも夢と恋あいはワンサカ体験できるよ、まともな人はそれだけでモテるんだから。
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「どう強くなったらいいかわからない」
来永劫、僕には何のピンチもないが、世の中にはピンチがある。
そして、世の中のすべてのピンチはどうでもいいが、例外的に、僕を慕ってくれるカワイ子ちゃんのピンチだけは困る。
みんな、「どう強くなったらいいかわからない」のだ、少なくともパワーとか意識とかで強くなるのは「弱い」とだけ気づいている。
僕は間違っているだろうか、間違っていたとして、僕が正しいほうに修正すると思うか? うへっへっへ。

僕が間違っていて、他のすべての人が正しいのだが、そのわりに僕が正しさをマネするのは簡単で、正しい人が僕のマネをするのはむつかしい。
「どう強くなったらいいかわからない」ということなのだから、「発想の転換は必要」と、わりと当然のことを申し上げておく。
強くなるというのは、「正しさを探らない」ということだ、地雷探知機で探りながら歩いている人間のどこが「強い」んだ。
「地雷を踏んだらヒサンじゃん」というけれど、人間の地雷は、愛があれば不発になるのだ、愛がないから正しさを探っているという、ホルモン焼き屋で土下座するレベルの弱さにあらためて打ちのめされたまえ。

強くなるということは、失敗を無力化するということ。

失敗を無視するのじゃない、失敗を無力化すること、地雷を踏むには踏んでしまうのだ、でも「あれ?」と不発になる、人間の地雷は爆発しがいのない奴に対しては阿呆くさくて爆発しない。
「発想の転換は必要」と申し上げておく、つまり、冒頭に「未来永劫僕には何のピンチもない」と申し上げている、ピンチぶっているのはすべて人の弱さですな。
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冴えわたるさわやかな世界2

とえば僕は何をしているか。
読み物の形で知恵の体験を提供している。
情報は役に立たないし、知恵だって体験的に得られないと知恵にならないから、そうしている。
僕は読み物の形で知恵の体験を提供しているが、それでいいんじゃないのか? あなたは何をしているだろうか。

なんのために? と訊かれても特に回答はないし、何がきっかけで? と問われても特に回答はない。
「読み物の形で知恵の体験を提供している」と、同じことを何回言えばわかってもらえるか。
意義があるかどうかは知らないし、意義がなくてもたぶんやるので、意義のあるなしを聞かれてもそもそも無意味だ、そんなところに焦点はない。
「読み物の形で知恵の体験を提供している」として、そんな奴がいてもいなくても同じだと思うが、そこに何か「疑問」が浮かぶのだろうか、僕はそういうとき「コイツどんな世界に住んでんだ」と首をかしげる。

意識は点であり、その周辺は自意識と呼ばれる。

もし自意識について訊きたいときは、「どのような自意識で?」と訊いてくれ、そうしたらただちに「あ、自意識はないです」と答えるから、話は素直に噛みあうだろう。
「読み物の形で知恵の体験を提供している」、もしその周辺に自意識があったとしたら、僕はそもそもやらない、自意識なんてしんどいものがついてくるものを僕はわざわざやらない。

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冴えわたるさわやかな世界

こ数日は忙しかった。
最近はどうも脳みそが「アヘっている」人が多い気がする。
そんなにアヘりたいだろうか……僕はアヘアヘするのは好きじゃない。
僕は意識が明瞭なのがいい、それは冴えわたるさわやかな世界だ。

「冴えわたるさわやかな世界」は実在する、体験すると誰だって「本当にあるんだ」と驚く。
意識を明瞭にするのだ、そうすると人が何を話しているのかがわかる。
それだけじゃなく、「自分が何を話しているのか」もわかってくる、それで自分が何をするのかもわかってくる。
僕は脳みそがアヘる音楽を聴いたり、アヘる映画を観たり、アヘるセックスをしたりは、したくない、どうして多くの人がそうもアヘりたがっているのか、その理由は僕には謎だ。

意識を、削り取れ。

不要分を削り落とすということ、どんどん捨てるということ、それが研ぎ澄ますということ、ナイフで鉛筆を削るときと同じだ、「点」が出現まで当然削る、意識が明瞭になる。
脳をアヘらせて、「自分が何をしているかわからない」って、それで泣き顔になるのはほとんど八つ当たりだからやめよう。

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まともな奴はだいたい友達
は遠く千の距離にも友人がいる(うらやましいだろ〜)。
遠くてもみんながんばっているのだ、みんな明るく舌を出してがんばっているだろう。
これを読んでくれている人の中にも、潜在的に僕の友人が混じっているのだろう、そのことがこの先どうなるのかはわからんが……
僕はまともな奴が好きだ、まともな奴はだいたい僕の友人だ。

1.未来があること
2.意志があること
3.ユーモアがあること
これがまともさと友人の四条件、わりとカンタン。

4.真に受けること

僕は友人のメッセージを真に受けるし、友人だって僕のメッセージを真に受けてくれないとそれは友人ではないわな。
マジメに生きる人は真に受けないだろうが、僕はテキトーに生きます、そしてテキトーに生きるとはどういうことかというと、真に受けて生きることです!
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人と付き合う方法
うやら本気で付き合ってやらねばならないらしい。
これはほとんど僕の独り言だが、まあ聞け。
どうも近年は、「問答」をするのが誠実だと教え込まれている人が多いらしく、その矯正にとても時間が掛かる。
聞くべき話を聞くことには十分な滋養があるが、問答をすることには何の滋養もない、さっさと人間関係を得たほうがはるかにいい(というのは説明が足りていないので意味がわからんとは思うが……)。

「問答」をする人に限って、頭がすぐパニックになる。
問答をする局面ではないのに問答の精神を立ちあがらせる上に、その問答の能力も優れていないのですぐに自家パニックになるのだが、これはもう「ええかげんにせえ」としか言いようがない。
どうやら本気で付き合ってやらねばならないらしく、この場合本気で付き合うというのは相手に承認なんかさせないということだ。
いつかわかるときがくるまで、他人でいてやるしかないのだ、人と付き合う――他人と付き合う――ということのためには、僕が厚かましい無慈悲な他人でいてやるしかない。

対向車線を走ってくる奴はバカだ。

人の話についてこずに、対向車線に正面衝突しにきたり、それで力負けしたら路肩に停車していたりする人がいる、どうしてわざわざ一番わかりやすい「ついていく」という方法をかたくなに避けるのか、正直見ていて意味がわからない。
まあいいや、逆説的だが、この場合僕が人に本気で付き合ってやるということは、相手に「付き合ってあげない」ということになる、実際これまでの人間関係は、すべてそれで成り立ってきたものなあ。
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十年後、こころとたましいは当たり前のサイエンスに

「こころは胴体にある」「胴体を流れている"流れ"がこころだ」「意識の端末が顔面で、脳の端末が胴体」と僕は主張する。
そして胴体(およびそれに接続する四肢)は、「流れて・まっすぐ・一調子」に動くのが正しい。
「マインドマップ法」を発明したトニーブザンも、現在は「歩き方」に非常に気をつけているそうだし、この先に「脳の端末は胴体」ということは、やがて当たり前の知識になっていくだろう。
この先、人は二極化していくと思う、一方は「脳と胴体」のノウハウに恩恵を得る人、もう一方はそのノウハウにあくまで否定的な人。

脳の性能を引き出すのがズルいぐらい上手い人と、気の毒なぐらいヘタな人とに分かれていく。
その上で、僕はその先、「いくら脳だけ優れていてもなあ」「身体だけヌルヌル動いてもなあ」ということが起こると予想している。
そこで僕は先行して、「こころ(胴体)が素直なところに、"天"とつながったたましいが入る」という説を唱えている、身体だけヌルヌル動いてもそこにたましいがなければ人間は無意味でキモチワルイ。
素直なこころ(胴体)に、天とつながったたましいが入る、そして人はたましいがあって初めて「思想」を持ち「意志」を持つ、この機構がまともにはたらかないと、結局ラブ度は得られないよなあという、これはわかりやすいサイエンスだ。

こころとたましいがあったほうがトクです。

どう考えたって、こころとたましいが無いというのは損に決まっている、こんな自明に疑いを挟んだって疑いが自分の脳みそにフタをするだけだ、ますます損だ。
しばらく先に、今僕が話していることは割と当たり前の知識になると思う、ただしそれは「一部の特権的な人にとってだけ当たり前」になるかもしれない、そうだとしたらますますそちらのほうがトクだ。

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運は現実
は、現実だ。
僕は自分を責めることは決してないが、もし運が悪いときがあったら、そのときだけは自分を責める。
運を責めるのではなく、自分を責める、「バカタレ」「ここだけは許さない」というのが大事だ。
運は自分の責任だからだ、ほかの些少の実力なんかどうでもいいが、運だけは引き込めなかったら自分を責める、ここだけは決死の覚悟が必要なものだ。

運は、現実だ。
運を、運命的・占い的・雰囲気的に捉えると、とんでもない天罰が下るだろう。
現実的に考え、現実的に運を引き込むことが重要だ、それ以外に実力なんてありっこない。
「現実的に考える」としたとき、平気で暗く考える人がいるが、この人はわざわざ自分で最低の運を引き込んでいる、そのことは習慣になるから大変よくない。

幸運になる訓練をしたか?

幸運を得るためには、タフネスが要る、荒波にもビクともしない鋼鉄の網にのみ、幸運の大魚はひっきりなしに掛かるものだ。
現実を見据え、「現実こそ運が勝つ」と見抜け、明るい運を見出し切り抜けるのはあなたの最大の責任だ。
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大げさな運命
し今これを読んでいて、一種の運命的な出会いを感じないなら、さっさとヨソに行ったほうがいいというか、別のことをしたほうがいい。
袖すり合うも他生の縁というが、人は運命的でないものに関わっても何のトクもしないものだ。
年長者として申し上げたいのは、もっと大げさに生きていいよということ、ひとつひとつに運命を感じていいですよということ。
繰り返し、僕は九折といいますが、ここに特別な声が聞こえる気がしないなら、さっさとヨソに行ったほうがもちろんいいです。

昨年は「逃げ恥」や「君の名は」や「PPAP」が流行ったけれど……
あなたは自分にとって"運命的"な何かと出会ったろうか、そうでないならいずれは何の意味もない。
お願いだから、せめて思春期のころ、青春のころ、大学生の華やかなりしころは、日々のすべてが運命的であってね。
あなたが生活上で見せる微笑みと、運命の上で見せる微笑みは違うものだし、あなたは運命的でない何に抱き着くつもりなのか、運命的でないものに抱き着いたりしていたらさすがに虚しいね。

運命がないなら、あなたは飛翔しない。

よくよく考えてみてね、あなたが「微笑む人」や「抱き着く人」になろうと"目論む"なんてことをしたら、そりゃあ不気味でしょうがない、運命なしに微笑んだり抱き着いたりなんて最低の偽装工作はやめてね。
年長者として申し上げたいのは、若年の女の子へ、もっと大げさに生き、すべての出会いは運命的であっていいです、周囲がどれだけあなたをバカにしても、運命のない人の言うことなんか真に受けることはないです。
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高い服が似合う方法
ネルギーには「高い」と「低い」がある。
たとえば大学生の「うぇーい」や夫婦喧嘩の「何よ!!」みたいなものは、エネルギーが「大きい」がエネルギー高低でいうと「低い」。
馬のエネルギーは人間よりはるかに「大きい」が、馬はエネルギーが「高い」わけではないので、ベートーヴェンを聴かせても馬耳東風になる。
だから理知に秀でた人間が馬の上に乗るのだ、エネルギーの「高さ」を人間が担い、エネルギーの「大きさ」を馬が担う、そうして補いあった「人馬一体」というのはうつくしいものになる。

「高い」ということがヒントになる。
たとえば舞台はたいてい客席より「高い」位置にある、そこで舞台にエネルギーの低い人が立つと、「うそっぽい、似合っていない」「ニセモノ、インチキ」「なにか見てて腹立つ」となる、高い場所は高いエネルギーの人専用の場所なのだ。
「高い」というと、値段的に「高い」洋服もそうで、エネルギーの低い人が高い洋服を着るとやはり「うそっぽい、似合っていない」「なにか見てて腹立つ」となる。
女性が高い洋服を着たがるのは、正しくは「高いエネルギーの自分を引き受けたい」という志であって、誤った人は「高い服の見栄えで自分の低さをごまかそう」という企みをしている、どれだけ美容をしてもエネルギーの低さはごまかしが利かないものだ。

人間の構造の頂点には、人知を超えた光の川が流れている。

突然そんなことを言われてもどうしようもないが、事実なのでしょうがない、エネルギーの「高さ」といって、その一番高いところは人知を超えている、それは「記憶」も「イメージ」もできないものだ、ただたどり着けばそのとき光の川は流れている(音も意味も光になる)。
何のアドバイスにもならないが、少なくとも「エネルギーの低い人にだまされないでね」とは言える、一般的に「わかりやすい」もの――つまり「人知」程度のもの――は、記憶もイメージもしやすく、実はそのぶん何の値打ちもない。
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明瞭な意識のススメ
識の明瞭な人と不明瞭な人がいる。
意識の不明瞭な人は、「もっとハキハキ話そう」と思いながら、まったくハキハキ話さない、ということを平気でする。
意志が弱いのではなく、意識が不明瞭なのだ、自分の思ったことや決めたことが"自分でよくわかっていない"という状態でいる。
意識の不明瞭な人は、コーヒーカップを洗うことさえ、「コーヒーカップを洗って」と命令されないと、もう自分では何も行動が決定できなくなっている。

あなたは「どうしたい」のか、そして同時に、「何がまずい」のか。
「そうですねぇ」じゃねえんだよ、ピンボケ写真には一切の価値が無い。
意識が不明瞭なのは、一種の病気だから、どうしようもないということもわかっている。
でも、意識は不明瞭で当然ですみたいな居直った態度はやめてね。

グー、チョキ、パー、どれが強そう?

「そうですねぇ」じゃねえんだよ、あなたの意識のことを聞いている、グーならグーをはっきり出せよ、それがジャンケンでしょ。
はっきり答えてね、あなたの意識のことなんだから、はっきり答えりゃいいだけで、力入れて答える必要はないよ。
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四分で出来る自己啓発法

標を達成するのはいいことだ。
ただし、自分で決めた目標に限る。
たとえばスイミングスクールで、○メートル泳いだら△級、というような設定があるが、これを目標にするのはよくない。
これは目標ではなく「課題」だからだ、「自分で決めた」目標と「やらされる」課題では性質がまったく異なる。

自分で目標を決めるということの偉大さ。
たまになぜか、「目標」というと、「どうせ到達しないけど、イメージで」という、わけのわからない「目標」を言う人がある。
そんなことには何のスリルもないね、目標というのは本当にそこに到達するから面白いのであって、到達しない目標なんか存在してはならない(馬鹿げているでしょそんなの)。
「自分で決めた目標を達成する」ということの、何がイイのかは、やってみるまでわからない、やった人だけが知っていることがある。

今から四分以内で達成する目標を定めよ。

「四分以内に外出する」とか「台所洗剤の詰め替えをする」とかでもいい、目標を定めろ、そして必ず実現しろ(四分だぞ急げよ)。
それを達成・実現した人だけがわかることがある、それは「あのとき決めたアレが、今こうして実現されたのね」という実感だ、こればっかりは自分が体験するまではわからないことだ。

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勉強、詳しくなる権利

していないのに詳しかったら気持ち悪い。
酒を愛していないのに酒のウンチクだけ蒐集していたら気持ち悪い。
京都を愛していないのに幕末にだけ詳しかったら気持ち悪い。
人を愛していないのに人文学にだけ詳しかったら気持ち悪い。

インチキの勉強なんかやめちまえ、そして愛することを増やしてしまえ。
膨らませるのは知識じゃなくて愛だ、愛しているものに自然に詳しくなることを正しい勉強というのだ。
酒を飲み、メシを食い、異性と寝ることを愛せ、そのうえで飲み食いとセックスに詳しくなれ、それで初めて「知っている」になる。
ムツゴロウさんは動物博士じゃない、動物と生命を愛するうちに詳しくなってしまっただけだ、だからあの人は動物を「知っている」んだ。

図鑑を抱いて寝なかったら勉強じゃない。

プロイセンの歴史を勉強する前に、深く眠ってプロイセンの夢を見ろ、大切でないものに詳しくなるな、知識の不要在庫なんか誰が愛せるものか。
紅茶を飲んで音楽を聴き、ウッヒョーと悲鳴をあげろ、そのときあなたは紅茶と音楽に詳しくなる権利を得た、耳と唇でその権利を得たのだ。

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ムード

エーム主義者なので、頭がよくなる方法ばかりを探している。
「天」につながっていない人は、代わりに「家」につながっている。
なんてつまらない話なんだ、でも事実だからしょうがない。
われわれは世界機能と認識機能を持ち、中でも「家」を強く認識している、それによって世界機能は停止している。

何を「家」とみなしているかなんて、人の思い込みでしかないけれどね。
「世界」の中に住めよ、「天」から見たら全部世界なんだから……と、このことに気づかないと頭がよくならない。
あなたが何をどうしたらいいかなんて、あなたが知っているわけがない、そんなことを知っている人はおらず、天の声が自然に聞こえていなきゃ話にならない。
あなたが何をやるか、何をがんばるか? そのことはとても認識しやすい、認識しやすいぶんそれは実に「頭がいいなあ」という感触から遠く離れている。

あなたがムードになるな、世界がムードになれ。

あなたがあなたの中でムードになって、急に歌いだしたら、周りの人からはわけわかんないじゃないか、そうじゃなくて世界のムードをつかめ、世界がムードになれば周りの人だってわかるんだから。
このほうが頭よくなるでしょ、脳みそはあなたのモンじゃなくて世界のモンだよ。

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声を出すこと
を出すということは、思われているよりもずっと必要なことだ。
声を出すことで、人は清潔になるといっていい。
声を出さないと、人はくぐもってゆき、腹の内に不要な何かを抱え込んでいく。
声を出すということは、いわば魔を払うというような作用がある、三本締めなどでされる「ィヨーォ」という掛け声もそうだ、あれは体内から邪気を吐きはらうためにやっている。

じゃんじゃか声を出しまくる機会が日常的にあるのがいい。
が、意外にそれがない、声を出す機会というのはとても貴重だ、特に最近は声を出す機会が(時代的に)少なくなった。
素人がフルマラソンを走れば五時間以上かかるけど、五時間以上声を出し続けたという「声のフルマラソン」なんかしたことがない人がほとんどのはずだ。
声を出す・出さないとでは、どうしようもない違いがある、声を出し尽くしたあとにしかわからないことや、それでしか通じ合わないことがどうしてもある。

声を出し尽くせ。

それは「大声」というのとは違う、酔っ払って怒鳴り声になる人は、逆に声を出すことに慣れていない人だ、声を出すことに慣れていないからこそああいう暴力的な声になってしまう。
声の出る人のところにゆき、声を出し尽くす人を愛してね、あなたも声を出し尽くせばまったく新しい清潔さにたどり着くよ。
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なんとかするんでしょ
べてに先立って、すべてのことについて、決めるべきこと、けっきょく「なんとかする」んでしょ。
「なんとかする」んでしょ、あなたが、あなたによって、あなたのことだから。
そりゃ目の見えない人だって、事故で両足を失った人だって、「なんとかする」、それしか方策はないのだから。
「なんとかする」と言い、その根拠を問われたら、「有能だから」って答えなよ、そうしたら誰でも納得するでしょう。

事務所で伝票をさばいて、スーパーでレジを打って、何が面白い?
面白いわけはないし、かといって、断言するけれど、別に商社マンになって海外を飛び回ってもそれが面白いなんてことは特にない。
人が情熱を仕事に持ち込むのであって、仕事の側が人に情熱を運んできたりはしない、そんなの当たり前のことだ。
フラフラになって生きるんだ、口癖は「フラフラが足りない」だ、前歯を見せびらかして大迫力で生きなよ、なんでもかんでも面白くするのがあなたのすごいところだったでしょう。

「なんとかする」は奇跡だって呼び込む。

人生観をこさえた奴はみんなホームレスになったよ、「なんとかする」、なにしろ大借金で首をくくる寸前の奴でも方策はただひとつ「なんとかする」しかないんだ。
「なんとかする」という方策ひとつしかありえないのに、そのことに笑顔で向かう人と、怯えて不安で向かう人がいる、怯えて不安で向かえば人生観は得られるかもしれない、でも幸運も奇跡もやってこないよ、そんな祝福から縁遠いことしていたらね。
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現代マンガは顔面アピール
だって利益が欲しい。
誰だって憧れがあり、願望があり、それらを満たしたがっている。
だがそれらは全て強いキモチでしかなく、強い意志ではない/ここでキモチと意志が混同される。
キモチがあると意志は持てない、とまで断言したほうがいっそいい。

強いキモチに支配されると、それが全てのことのように思えるし、またそれが全てなんだと誤って教育もされてきた。
だが実際には、強いキモチによって人の身体は力み、動けなくなる、動くためにはキモチから離脱する必要がどうしてもある。
どんな赤子だって、母国語を学んでいるものだが、母国語を学びたいという強いキモチがあってそれを学んではいない。
冷静に踏みとどまって、よくよく考えろ、本当に「キモチ」というのはそこまで強いものか、そこまで重要なものか? そんな保証はどこにもないのに。

眼差しのある人に。

キモチが高まる人、キモチに振り回される人は、いつだって眼差しがない、キモチの人にあるのは顔面であって眼差しではない。
雨が降ろうが槍が降ろうが、淡々と意志は継続される、それは勇猛果敢なキモチではなく……顔面にアピールされる現代マンガの風潮はやめなよ。
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​求めれば得られるが欲しがると得られない
めるというのは意志の現象だ。
「欲しい」というのはキモチの問題だ。
不思議なことに、「欲しい」とキモチが強ければ強いほど、たいていその対象は手に入らず、むしろ苦手分野になる。
「求める」という意志に、「欲しい」という気持ちが混入してはならないのだ、不思議だが人間のメカニズムがそうなっている。

つまり、「欲しい」とも思わないものを「求める」ということになる、そうしたら手に入る。
これはつまり、「欲しい」というキモチが、実は自己決定でないということを意味している、「欲しい」というキモチに駆り立てられた、実は不自由な状態になっているのだ、それで力を失う。
じゃあ「欲しい」とも思わないものを、どういう動機で「求める」とすればいいのか? ということだが、これは単純に「これを獲得しておかないと後で寒いんだろうな」というドライな予感で決定すればいい。
僕はここまで自由に生きてきたが、それが"欲しかった"わけではなかった、ただ「自由に生きた時間がないと、どうせ後で自分が寒いんだろうな」と予感した、だからやむをえず自由に生きることを求めた、そうして選んだものは手に入るものだ。

「欲しい」は膨張する、「求める」は研ぎ澄まされる。

「欲しい」というキモチは膨張するので、膨張したぶんだけ当人は自己が強力になった気がしているものだ、しかし実際には動きが鈍重になり、視野は狭くなり見失いやすく、身体は力んで機能が低下する。
これ以上は秘密なので教えてあげない、これはとっても具体的なことだ。
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