☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
背後の基本は学門にあり2

はこの世で学門をするために、生を享けている、という仮説を採用してみよう。
すると大転換が起こるはずだ、つまり佳い醤油をつくるために学門があったのではなく/学門を得るためにAは醤油づくりを生業に与えられたということ。
学門から醤油が得られたのではなく、醤油から学門が得られたということ。
このときAさんは、特別な「運」にバックアップされて生きてゆける、もちろんあくまで冒頭の「仮説」が正しかったらだけれども。

たとえばイチロー選手なんかは、バッティングを通して彼の「学門」を得ているように見える。
「野球こそ我が人生」という人は多くあって、プロ野球選手なんかは全員そうなのだろうと思うが、その中で「学門」に到達している人はそう多くないように思える。
冒頭の仮説、それが正しいかどうかなんて誰にも証明できないけれども、僕は経験的に、「運」は学門に関係していると強く感じる、学門から遠ざかった人を大きな運が支えているというケースを僕はほぼ見たことがない。
われわれはしばしば、「絶対に○○!」という強い感情に駆られるが、僕は学門の気配がないオバチャン化した人格が「人情」を主張することに、大いなる警戒と距離を準備する者だ、学門の支えがない人情は必ず八百屋お七を生み出し、ジャンヌダルクを生み出しはしない。

学門への希求なしに、高級な服と食事を漁っていると、たいてい「運」に報復される。

たとえばアインシュタインがふと最高級のキャビアを食べて、「美味いものだね」と笑っていても何の問題もないように思えるが、若くて乳がデカいだけのホステスがアフターで最高級キャビアを食べて自撮りしていると、何かが「不安」に感じられてくる、何か救いようのない不幸に「運ばれて」いくのじゃないか? という気がどうしてもしてくるのだ/あくまで「仮説」だけれども。
表面上、われわれはよい暮らしのために学門を必要としているように見えるが、真相の真相は、学門のためによい暮らしをせねばならないのであり、学門に向かっている日々を「よい暮らし」というのだ/経験的に、その中にいるとき「運」が味方するのだと唱えておく。

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背後の基本は学門にあり
油屋Aは、決められたレシピどおりに醤油をつくった、それでも毎年味が違うことに、「不思議だな」と首をひねっていた。
醤油屋Bは、決められたレシピどおりに醤油をつくった、それでも毎年味が違うことに、「そういうもんだよ」と、特に何も思わなかった。
AもBも、何十年と醤油をつくり続けた、そのうちAは「ひょっとして……」と味が変動する秘密に気づき始めた、そして実験を繰り返した、一方Bは、そのうち「毎回同じことの繰り返しだ、つまらん」と感じて醤油づくりに飽き始めた。
数十年の後、Aは誰にも真似できない驚異の知識と感覚で、傑作の醤油をつくる名人になった、一方Bは、レシピどおりにつくれば新人が作ったものでも同じ味で、それは機械が作った味でも同じだった。

AもBも、醤油屋としてまったく同じ労働をしている。
差は、その背後に学門を覚えたかどうか/Aはまったく自発的に、そこにある「不思議だな」ということに気づいた、この「不思議だな」と覚えた学門は、世界中の誰も教えてくれないものだ。
「発酵に最適な気温と温度」は、資料を調べたり、Google検索したら出てくる、でもその「最適」は、発酵に最適なだけであって、「おいしい醤油にするのに最適」というわけじゃない。
まして、2018年に収穫されたX地方の大豆が、文化的に継続されている日本の食卓に佳い味をもたらし、人々に生と健康とよろこびを与える醤油になるべきとして、手元にある木樽を用いて最適な発酵をするにはどうすればよいか、他の誰かが知っているわけがない、そうして検索したって出てくるはずがない重要なものを学門という。

あなたはBさんに、デートに誘われる。

なぜならBさんは、「毎回同じことの繰り返しだ、つまらん」と感じているので、生きることに刺激がほしいのだ、それであなたを合理的にデートに誘う、Bさんは「人生楽しまなきゃ損だよ」と笑顔で言う。
あなたがAさんと好(よしみ)を結ぶには、あなたも自ら「不思議だな」と首をひねって生きている人でなくてはならない。
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サイアクの「消費マン」にならないために2
快なふうの話に留めておきたいが、本当のところはそうはいかない。
本当は、危険なことが起こっていて、危険なことについて話している。
にこにこするのをやめて――にこにこしているのは頭がおかしいから――「僕」は何を言っている? あなたの目の前にいる「こいつ」は何を言っているだろう。
「あなた」が思うことではなく、「こいつ」は? 「こいつ」は何を言っているだろう、あなたはなぜ、あなたの思いだけでにこにこしているのだろう。

「宇治川は青い水を吐き出していた」、ではあなたの目の前で僕は何を吐き出している?
消費マンは、消費者という自分しか存在していなくて、目の前の他者が主体性を持っていることがわからない。
僕はこれまでに何度も、僕が何を話しているかに関わらず、まったく無意味に「にこにこ」している人たちを見てきた、別に僕はそれでかまわないのだが、僕はそうした人が早晩どういう状態に行き着くかをすでに知ってしまっている。
消費マンになりきってしまったとき、もう僕が何を話しても無駄だし、誰が何を話しても無駄だ、すべては「消費」されてしまう、いかなる大事なこともすばらしいことも「消費」され、消えて行ってしまうのだ、そのときの恐怖を知る前に、あなたは目の前の宇治川が何を吐き出しているのかを必ず観るようにしたほうがいい、僕は気楽な奴だがこんな話でにこにこしていないよ。

「あの人はこう言っていた」を100人、例に挙げてください。

映画でもいいし小説でもいいし、職人でも哲学者でもいい、友人でも恋人でも先生でもいい、10年も生きていれば100人の「こう言っていた」は獲得されているはずだ、それが「消費」されていない限りは。
誰でも知っている「天空の城ラピュタ」で、シータはムスカに「どう言った」の、もしそれが獲得されていなくて、あなたが「感動した」とウルウルしているなら、それはいささかおかしいよ/現代人が消費マン化している現象はまったくシャレにならないマジの恐怖だから、気づいた人から改善するべし。
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サイアクの「消費マン」にならないために

代人が陥るサイアクのパターンのひとつで、最も多いのがこれ、「消費マン」のパターンだ。
去年のブーム、二年前、三年前、若いころや学生時代、旅行先やら付き合った人やら食べたものや住んだところまで、「消費」されていって消えていってしまうパターンだ。
このことをエラソーに「オワコン」と言っている人もあるが、これは筋が悪いのだ、実はサイアクパターンに陥っているのは当人なのに/当人が消費マンになっていて、永遠に続く消費なんかあるわけがないのに、そのことに気づかずに「オワコン」を言いふらしているという、これは深刻なアホだ。
「消費した」ということは、その字義のまま、「消えてしまった」ということだ、消費したということはイコール「獲得はできなかった」ということだ/卒業間際の大学生に、一番楽しかったことは? と訊いたとき、「そうですねえ」とアホみたいな顔をして考え始めたら、彼はまさに学生時代を「消費」してしまったと言える。

現代サイアクの「消費マン」のパターンに陥らないために、「宇治川は青い水を吐き出していた」と覚えておこう。
「湯畑に夜のとばりがおりていった」でもいいのだが、とにかくここに「すてき〜」とか「きれい〜」とか「インスタ映え〜」とか言わないこと。
感想を言うということは、消費したということだ、高評価にせよ低評価にせよ、評価したということは消費したということだ、「宇治川は青い水を吐き出していた」ということには高評価も低評価もない。
消費マンというのは、この世に「わたしがどう盛り上がり、どう盛り下がったか」ということしかない状態だ、何万本の映画を観ても「面白かった!」「うーん、いまいち面白くなかった」ということしかないのだ、この消費マン状態に陥ると傍目にはわからないまま当人は生き地獄状態に陥ってしまう。

10人の異性と交際し、9人の消費で済んだら天才だ。

ふつう、10人の異性と付き合ったら、数年後、10人すべてがきれいさっぱり消えているものだ、現代というのはそういう消費の時代だから、そのことにビビる必要はない/実際、いくつもの映画やお笑い芸人がそれに引き当たっている、もう「アナ雪」や「ラッスンゴレライ」はとうに消費されて消えてしまっているはずだ(単に記憶にあるということは獲得されているということではない)。
「宇治川は青い水を吐き出していた」、主語と述語を見つめよう、主語は「宇治川」であって「わたしは」じゃない、主語が宇治川である以上そのことはあなたに消費はされない/消費マンは「わたし」という消費者だけがのさばって生きている状態だ、消費マンはアナと雪の女王がそれぞれどう生きたかなんてまったく眼中になくただ己が「消費」だけをしている。

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新年のごあいさつ
なさま明けましておめでとうございます、本年もどうぞよろしく。
今年はまた、新しい一年、そして光と面白みに満ちた、グイグイと来る一年です、お楽しみに。
平成三十年、いよいよ賢い女性は、これまでの誤った「女性主権」に見切りをつけてゆきます、それにより局所的ですが世の中は明るくなってくる。
ついに女性が、新しい形を得て、伸びやかに振る舞い、うつくしい声を響かせ、その神聖な華やかさと肌を自由に発揮するときが来たのです、ぜひあなたは、このことに乗り遅れのないように。

女が美とおしゃれを求めるのはまるで「本能」です。
けれどもそれは、女が美とおしゃれを求めることが、実はよろこびではなく「業(ごう)」だということなのでした、それは実はよろこびではなく苦しみだったのです、女の力を衰亡させるだけだった。
賢い女性たちはすでに、「この悪夢を、誰がとめてください」と懇願し始めています、賢い女性たちは気づいています/美とおしゃれをこなせないのは「能なし」だが、それに目の色を変えて囚われるのは「業」なのだと、またその業火に焼かれる苦しみは耐えがたく身を滅ぼすのだと気づいています。
女性に主権を与えたここ十数年は、女性に飛びつきやすい思想を与えただけで、目の色を変えさせられた女性たちの、業を深くしただけでした、それによって世の中は暗くなってしまった/しかし幸いなことに、賢い女性たちはすでに気づいています、本年もどうぞよろしくお願いします。

女には、男への、すさまじい力がある。

ここ十数年の女性主権思想は、その女性本来の力をただ失わせただけでした、あなたはその本来の力を取り戻したなら、これまでの男女像などに不要なこだわりなど持たなくなる。
平成三十年、女性が、作り物でない幸福と、八面六臂の活躍を得ることに、すでに道筋が見えています、ウソかマコトか、その伸びやかさ、本年も何卒宜しくお願い申し上げます。
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あなたは何にブーブー言うタイプか

曜日からの仕事にブーブー言う人は多い。
一方、自分の為した仕事に、その出来がイマイチだとブーブー言う人は少ない。
それと同じで、現代の異性事情にブーブー言う人は多い。
一方、自分は異性としてどうだったか、異性として為したものはどうだったかというと、そのことについてブーブー言う人は少ない、これはけっきょく筋が悪くて損だ。

事情がどうあれ、自分の為せることを為すほうがまともに決まっている。
そのほうが運気も上がるだろうし、それでこそ次のチャンスは優先的にあなたに回ってくるだろう。
なぜか、仕事にせよ恋あいにせよ、自分の為したことには一切チェックなし、という人が多い、しかしそんな怠慢は人事考課に記録されているに決まっているのだ。
事情や状況がナイスでないことはわかるが、僕にせよあなたにせよ、われわれは自分が異性として「ナイス」なのだろうか、第一にそのことを考えよう、誰もがうつむくところで自分までうつむいていたら、自分には何も期待できない。

特別ボーナスが出るように生きよう。

なんとなく生きるだけで、押しつけられたことをこなすだけで、空気を読んで他人と同じようにしているだけで、デカいインセンティブがもらえるわけがない、インセンティブをもらうような奴は相当自分に厳しいのだ、ずっと自分自身で考えて努力しているに違いない。
あなたは、事情や状況にブーブー言う人たちを友人にするべきではなく、いつも自分の為したことの程度や出来映えにブーブー言っている勇敢な人たちを友人にするべきだ、やがてどちらがどちらをやっかむのかは一目瞭然なのだから。

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あなたが本懐に至るまで
談。
もし七つのチャクラが開いている人がいたとしたら、僕はそんなもの「まだまだ」と言いたい。
僕自身がどうなっているのかなんて知らないけどな。
チャクラうんぬんはあくまで外気的・出力的なものであって、内側のほうは、その内奥の精髄に届いていない、僕は現時点でこちらの力まで使うとさすがにシッチャカメッチャカになるのでこちらの力は使っていない、たぶん「わけがわからなすぎる」となって、そのくせ他人に甚大な影響だけ残していくだろう、それはもうさすがに公共の福祉として問題がある。

人間の内奥、その精髄には無性のよろこびの力がある。
この力はけっきょく、「何もわからないくせにすべて正しくする」というわけのわからん次元に及ぶだろう、ただしこの力はファナティクで容赦がない。
理解力という一切の能力が必要なくなるのだ、なぜならすべて正しくなるから/他者とコミュニケーション性はなくなるのに、他者に届きまくるから、これはもう、相手の精神にショック症状をもたらしかねない、もたらしかねないというかきっとそうなるだろう、そこまですることに利益があるのかどうか僕にはためらわれる。
理解の能力というか、了解の能力が必要なくなるのか……これは危険な領域だ、舞台や紙面といったフィクション装置に分離される必要がある、深奥が天頂まで短絡接続するわけだが、あるねえ了解不能の領域が確かに、それは疑うことのすべてをやめた人が行き着く無限の爆発だ(意味不明だろうがそうメモ書きしておく)。

とりあえず、人間の本懐までは、思われているよりメチャメチャ遠い。

僕がわかりやすく示している、胴体やこころや、チャクラやら「永遠」やら「神話世界」のことなんて、まあ安いものというか、入口というか初級編にすぎないからな……本当はもっとあるのだ、ただお見せすることは危険が伴いすぎてできない。
了解機能がなくなって失敗ばっかりやらかすのは大馬鹿ものだが、一方で、了解機能をなくした上で何もかもを正しくしてしまう、そういう力の原理がある、これは爆発的でファナティクで、現代では限定的にも使える空間がありそうに思えない、だからせめて眠る前と夢の中ではよろこびを好きにしようかと思う(ぜんぶ意味不明でごめんなさい)。
 
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人の話を聴く、ということ
くら好感度を増しても、決め手にはならない。
人の話を聴く、という「能力」を、持っているかどうか。
人の話を、理解するとか、同意するとか、覚えるとかではないのだ。
人の話を聴く、ということ/この能力がある人とない人とで、生きる世界はまったく別物になる。

現代人は、顔面に力が入っている。
むかしの中森明菜ちゃんは、顔面に力なんか入っていない。
だから明菜ちゃんは、人の話を聴く、という能力がある、「中森明菜 トーク」でyoutube検索すればわかる。
現代で流行している、いわば「顔面推し」は、いくらあでやかに見えても、実は「人の話を聴く」という能力を失っている、このアナウンスがないので、男女は恋あいができない理由が自分たちでもわからずにいるのだ。

むかしの明菜ちゃんみたいになれば解決する。

顔の造形の問題ではないのだ、実は「人の話を聴く」という能力にすべてが掛かっている。
現代人は、顔面に力が入っているので、人の話を聴こうとしても、インタビュアーやコメンテーターのようになってしまう、だから友人同士でも「会話」というものが成立しない。
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「定める」ということ

「わたし、男の人を愛します」と定めてみよう。
その定めたものは、何日もつか……いやそれどころか、何時間もつか、いやいや、何分間、それどころか数十秒間しかもたないかもしれない。
それは、意志が弱いからではなく、「定める」ということを誤解しているからだ、定めるというのは「自分の内に」定めるものじゃない、まずそれを誤解している。
「定める」というのは、外側にある何かの「対象」に向けて「定める」のだ、たとえば部屋の中からでも、駅前で売っているコロッケ屋に「定める」、「定」を向ける、自分のすべてを捨てて駅前のコロッケ屋だけで自己のすべてを満たすのだ、自己のすべてをコロッケ屋に明け渡す感じ……これだけですでに、ちょっとコロッケを買ってきて食べたくなるはずだ。

「対象」に向けて、ビターーーーッと定める、「自分」を消して「対象」に満ちる、それが「定める」ということだ、自分の内に定めるものではまったくない、そんなことしても「わたし」が膨張破裂するだけだ/これは単純に、「何やってんの」というぐらい、根本的な方法の間違いだ、即刻修正されていい。
目の前に一冊の本を置いて、それを「読破するぞ!」と自分の内に定めるとかいう間違いをせずに、その本を「対象」にして、ビターーーーッと「定める」、「わたし」を消して目の前の本に明け渡す、そうしたらその本が「見えてくる」ので、読破するというのはそのあとだ、そのあとは読みながらもその本を「対象」として定めることを怠ってはいけない、怠ると余計に疲れるぞ。
「わたし、男の人を愛します」と定めたとして、それを自分の胸のうちにジュンジュン熱くしていてもしょうがないのだ、そんなものは数分もすれば冷めてしまうから(それがすぐに冷めてしまうということは、誰だってこころあたりがあるだろう)。
「定める」ということを誤解していると、すぐに冷めてしまうものだから、意志を継続させるために、強引な自己洗脳や催眠、自己暗示、自己陶酔、いわゆる「モチベーション」をやらねばならなくなる、そうじゃない、「自分」なんてものは五分後には違う気分になっているものだ、だから自分なんかアテにせず、「対象」に向けて「定める」という方法を用いる/「わたし」がガンバらなきゃいけないようでは、それは何も定まっておらず、自分で自分にムチを打っているだけだ、どんどん損傷が蓄積してしまう。

「対象」に定めれば「無我夢中」になれるが、「自分」にねじ込めば「自我熱中」にしかならない。

「夢中」と「熱中」は似て非なるものだ、なぜなら夢中は「夢の中」であるのに対して、「熱中」というのは「熱に中(あた)る」「熱に中毒する」という意味だからだ、よく知られているように中毒患者の必死さは力強いものではなく人間の弱さの破裂にすぎない。
あなたが自分の内に、僕へのラブを探したとき、まったく見当たらないだろうし、悪いクスリでも飲まないとそんなモチベーションは湧かないだろう、そうじゃなく「対象」にビターーーーッと定めること、そうでないと見えてこないものがある、つまり「定める」という方法を誤解していると人は世界の何一つも見えないまま死んでいってしまうということだし、それはとてもよくあることなのだ。

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大魚は静かな湧き水に
ジである必要はない。
活性化ならそれでいい。
男が好きとか女が好きとか、楽しいとか価値があるとか、そんなことはタテマエであっていい。
それでもふと、本当のものや、本当の瞬間は紛れ込むから/あなたが本当にまともな奴であり続けられたら。

マジである必要はなくて、ただ本当のものを取りこぼさないこと。
本当のものを取りこぼすと、罪にもなるし悔いにもなる。
本当のものに、こっそり近づくこと……自ら大騒ぎして、わざわざ本当のものから遠ざかる必要はない。
大魚は湧き水に、静かに澄んだ水の中にいる、湧き水は完全に透き通っているが、高貴なミネラルと滋養分に満ちている、そのときは泥靴を踏み入れてはならないし、また清水(せいすい)に素足を浸すことをためらってもいけない。

騒がしい服を着る資格は、静かな身に限られる。

まるでひどい女のように振る舞っていていい、それでも人が視える男なら、外装の中身を見通すだろう、あなたは最奥まで見通されたとき、謹んでその方にあなたの愛を捧げればいい、その方はあなたの秘密を手折り賞翫する権利があるだろう。
まさかあなた自身がだまされないで、騒がしい服を着て中身は静かで……そのつもりが実は中身も下品で思い上がりで、静かなつもりが「活性化する勇気がなかっただけ」だなんて、恥を掻くならなるべく若いうちに済ませたほうがいいです。
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勉強は「断定力」でする2

シムグリトンボのしっぽは輪っかだ。
……遅い! マレーシアのカラスは白色だ、……遅い!
もちろんワシムグリトンボなどという生きものはいないし、カラスはどこでだって黒いのだろうが、そういうことじゃない、そんなことを言っているから「遅い」のだ。
「ワシムグリトンボのしっぽは輪っかだ」と言われると、「え?」というような反応になる、それが「遅い」のだ、ワシムグリトンボのしっぽがどのようであるか、あなたは疑問を差し挟む意図があるのか、そんな意図なんかありえないだろう/だからただクセになっているのだ、いちいち「えっ、だって」と疑問で割り込むクセがついてしまっている。

断定、断定、音速か亜光速で断定しろ。
「ワシムグリトンボのしっぽは輪っか」ということに、「わかった」という日はこねえよ、だってもともとがウソなんだもん、だからそんなこと気にせずに断定するのだ、「ワシムグリトンポの尻尾は輪っか!」。
「マレーシアのカラスは白色」「ほい」「翼は八メートルぐらいある」「日本とはかなり違いますね」というペースでないと、勉強は進まない、何が早いかといってこれは「断定」が早いだけだ。
「ワシムグリトンボのしっぽは輪っか」「ほい」「AIの利益、企業どう配分 経産省が指針づくり」「ほい」、ほらこうしないと日経新聞の見出しは頭に入らない/「断定」するのだ、経産省が指針づくりをするのだ、AIの利益を企業がどう配分するかについてだ、それが何のこっちゃ僕は知らんが、知らなくても断定はできる、だってそう書いてあるんだから、経産省が指針を作るんでしょ。

ワラジの下にICチップを入れてブラジルの人と通信。

そう、さっさと断定することだ、もちろん少し考えれば「そりゃおかしいだろ」というのは誰にでもわかる、だがおかしいかどうかなどどうでもいいのだ、さっさと断定する、ワラジの下にICチップを入れてブラジルの人と通信、文政元年、と書いてありゃ「文政元年」なんだよ。
「分数で割り算をするときは、分母と分子がひっくりかえる」と、「丸暗記」するのじゃない、「断定」するんだ、なぜ断定するかというと、「そう書いてあるから」だ、これはコミュニケーションの第一の能力で、これが「人の話を聴く」という能力だ。

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勉強は「断定力」でする
強ができないといけないわけではないし、女性が料理をできないまずいということもまったくない。
だが、男であれ女であれ、「何をやっても頭に入っていかない」という状態は怖いのだ、夢遊病者みたいな感じで、目もうつろ、これは機能障害だから道徳や理念と関係なく「ちゃんとしてくれ、怖いよ」ということになる。
勉強しなくてはならないという以前に、「勉強する」という能力があることが必要なのだ、そうでないとどうしても「人としておかしい」と見えてしまう、また実際にそれはどこか人としておかしい。
きっと勉強を苦手としている人は、「勉強する」ということの概念自体を間違えて捉えている、勉強というのは「断定」によって得ていくもので、このことがわかれば勉強がニガテとかキライとかいう人はそんなにいないものだ。

たとえば「ドレミファソラシド」と言ってみる、これは誰でも言えるものだ、誰でも確信を持って言えるし、意味はわかっていなくても「ドレミはドレミじゃん」と断定している、この「断定」が大事だ。
たとえば「大化の改新」というと、中大兄皇子と中臣鎌足か、蘇我入鹿を討ち滅ぼした(暗殺した)ことを言い、その後に政治体制がガラリと変わったので大化の改新というのだが、ここで「それってどういうこと?」という疑問を持たないことだ、まずは「断定」する、この「断定」が勉強の基本になる。
もう一度言うが、「中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を討ち滅ぼした」のだ、これはもう、そう書いてあるから「そうなんでしょ」と断定する、この断定が弱いと勉強が進まない。
「はい、確かに、中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我入鹿を討ち滅ぼしました」と、カッチリ断定する、それで断定ができたら、「なぜ討ち滅ぼしたのだろう」「討ち滅ぼしてどうなったんだろう」ということは、勝手に気になってくる、だからあとは放っておいても調べたくなって「へえー」と勉強が進むよ/ちなみに「大化」が日本初の元号なので、平成、昭和、大正……と遡っていくと「大化」に行き着く、つまり「平成」が始まってもうじき終わろうとしているのも、元は蘇我入鹿をブッ倒したことから始まっているのだ。

断定の早い奴が、勉強が早いだけだ。

勉強をニガテにしている人は、途中で「えっ、だってさあ」と疑問を差し挟んでいる、だから話が入ってこなくなる、それは勉強ができないのではなく「人の話が聴けていない」だけだ、「ドレミっていうけど、別にドラミでもドロミでもよくない?」と言い出すということは、何ら考究しているのではなく「話に割って入っているだけ」だ、そのたびに話が中座するので、頭に入っていかなくなる。
日経新聞の見出しを見たら、「それってどういうこと?」と思う前に、「断定」をしろ、そうしたらようやく、世の中で何が起こっているのか、その報道がわかる。
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フィクション・クライシス2
「オウ、わたしの脳みそのディープインサイド、腐ッテイルネー」と言ってみる、それで友人を軽く――快適に――笑わせねばならない。
これ、やってみようとすると、「できない」ということがわかる、そして「できない」と感じて二度三度とやらされると、特殊な現象としての「憎悪」がやってくる、この憎悪は破壊衝動を伴っている。
いくら努力するつもりでも、努力そのものができなくなるのだ、「なんでこんなムダなことをさせられるの」「こんな侮辱的なことをさせられるなんて」と、実は合理化されただけでしかない、制御不能の強さの怒りが湧いてくる、これが湧いたらゲームオーバーだ、いくらガマンしてももうゲームオーバーになっているのは変わらない。
なぜ怒りが湧いてくるかというと、この世界を愛していないからだ、この世界が自分に尽くすべきだと思っていて、逆に自分がこの世界に尽くしているふうに感じるから、えげつない憎悪が湧くのだ、このことは他人がやっているとよく見えてわかるものだ/別にフィクションマリアンヌぶって遊ぶのは、何も不自然なことではないのだが、世界を愛していない人がやるとものすごく不自然になる、怒りが湧いてゲームオーバーだ。

「行きたくないなあ、ワッショイワッショイ」と言ってみる、たとえば歯医者に行くときでもいいし、仕事に行くときでもいい、なにか身振り手振りも加えてみていい。
「行きたくないなあ」は誰にでも言える、そこに「ワッショイワッショイ」は祭りのフィクションだから、誰にでもは言えない、きわめて微少ながら祭りの霊が胴体の肉に入り込まないと「ワッショイワッショイ」は面白くやれない。
写真に撮られるときのつもりで、両手でVサインをやってみる、これはノンフィクションだから出来る、しかし「カニのポーズ」と言われると、急にポージングにストレスが掛かるのがわかるはずだ、そのストレスが「ノンフィクションにしばられている」「フィクション世界の霊が胴体に入ってこない」ということ、これは知識ではなく感覚として知る必要がある。
フィクションにつながることとして、「遠く」「激しく」「説得力が要る」ものほど難しくなる、つまり「古代王朝の女王として命令を下す」というようなことほど難しくなる、比べると「うつ病のふり」などはほとんどノンフィクションなので誰でもできてしまうし、ノンフィクションだからあまり値打ちがなくやらないほうがいい。

フィクションがやれない奴は、実はノンフィクションもよくわかっていない。

たとえば「チームリーダーとして命令を下す」ということが、ノンフィクションだけで成り立っていると思っているからだ、それは業務命令権という権力でノンフィクション上で保証されているものだが、この権力を振り回す人間は人間として根本的に不快な奴になってしまう、だからこのチームリーダーは自分を守るためにもますます頑なに権力に固執するようになっていってしまう、そしてこの世界を愛していないということがますます明るみに出てくる。
まあ、こんなことはとても具体的なことなので、さっさとやれ、おれが出来るんだからお前もさっさとやれ/ああこんな初歩的なこと今さら言いたくないな、ワッショイワッショイ。
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フィクション・クライシス
ャニーズの○○くんが舞台でがんばっていたり、宮崎駿の新作映画が「面白かった」り、人気声優の○○タソが出演するアニメが「神回」だったりする。
が、そこでジャニーズの○○くんや宮崎駿や声優の○○タソというのは、ノンフィクションの存在であって、フィクションの存在ではない。
むかし、映画「タイタニック」が流行ったとき、「レオ様」の人気が爆発的に上昇したが、作中に登場する人物はジャック・ドーソンであってレオナルド・ディカプリオではない、「ヨン様」もそうだし、今でいう「中の人」というのはすべてノンフィクションの存在だ。
僕が子供のころ、ドラえもんの声優が大山のぶ代だなんて誰も知らなかったし、そんなことに注目した人は誰一人いなかった、ドラえもんはドラえもんで、ルパンはルパンで、悟空は悟空だった、作者もいなければ監督もいないし俳優もいなけりゃ興行成績も関係ない、僕はラピュタ王族の末裔シータ王女に惚れざるをえないが、宮崎駿監督とかいう人物に何かを思うわけではない、あんな濃いオッサンがシータの知り合いであるはずがないだろ、僕が守るべきと感じるのはシータであって宮崎駿ではない。

思い返せば、僕は十歳のころからこのことを論理的に解明していたのだ、論理的に「フィクションは存在する」と言って差し支えないこと、なぜならそれは「存在が存在する」と言っているだけで、無限の時空において何の欺瞞もないこと/これはここに説明しきれないが、いわば円周率の数字のならびにはすべての数字が入っているのだから、シータの生年月日も入っているということだ、これでわかるな? わからん奴はただの勉強不足で図書館に唾を吐いたことがあるだけだ。
まあ何はともあれ、事実として「中の人」などに執着しており、フィクション世界がわからなくなっているという事実がある、これはノンフィクション世界につながれたままフィクション世界にキックされているという状態で、「フィクション・クライシス」と呼んで差し支えない。
ここにおいて、一番メンドクサイというか、一番時間の無駄になるのは、「いや、自分は自分なりに、フィクション世界がわかっています、どうたらこうたら〜」と食い下がる奴だ、こればっかりはジャマくさいので二年間アカホエザルの鳴き真似を訓練すること、こんなもんズバッと「フィクション不能です」でいいのだ、そんなところで抵抗して時間を食っていても何の意味もない。
フィクションの不能は、何の罪でもないのだが(そうかな?)、罪であろうがなかろうがとにかく本人にとってメッチャ辛く、プラスしんどく、いろいろごまかしながら絶望の中を生きねばならないらしい、回復の方法はまったく不明だが、フィクションの不能が回復しないとめっちゃキツいということを認めて進まねばならない、この危機的承認を「フィクション・クライシス」と呼ぶことにする。

フィクションの実現に決定的に進め。

別に演劇部に入る必要はない、自分が十秒間「マリアンヌでーす」と他人に接触できればいいし、自分が十秒間「わたしコロンビー警部ですがねェ〜」と他人に振る舞えれば十分だ/こんな単純なことが実は「できない」のだ、ストレスのあるキャラを押しつけるのでなくただの笑える「ネタ」としてする。
「オウ、わたしの脳みそのディープインサイド、腐ッテイルネー」と言ってみろ、それで友人が笑ってくれるかというと、実はとってもむつかしい、こんなささやかなことでもノンフィクションから離脱しないとできないからだ、「わたし」が「わたし」から離れられない、それは実はとっても絶望的なことなのだった。
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「激しさ」というパラメーター2
「激しさ」というのは、「ガンバる」ということとは違うのだ、単にビッグウェーブが「激しい」ということなのだから、それは端的には「かめはめ波」だと思えばいい、「かめはめ波」は典型的に激しいし、悟空はイライラした結果かめはめ波を発射するのではない。
そうだな、わかりやすくいえば、「ゆとり教育」という印象の反対に、「激しい学門」が存在すると捉えればいい/過去の科学者たちを見ればわかるが、学門は激しいものだ、われわれは彼らの著書を読むだけで死にそうになるのに、彼らはそれを著した側なので、その「激しさ」の格差たるや、われわれにとって絶望的なものがある。
「激しさ」と「痛々しさ」は何が違うのかというと、「激しさ」の側は、その膨大なエネルギー量に飛び込んで燃えさかりながら、当人は「幸せそう」というところだ、必死で痛々しく「ガンバります!」とやっている人のほうは、その「幸せそう」という感触がまったくない。
必死で痛々しくガンバっている人を見ると、つい同情と励ましと、肯定の気持ちが起こってしまうが、その実は自分も含めた姑息な逃避でしかないことを、どうせうすうすは自覚しているので、そういう都合のいい甘さは、どこかで見切りをつけることだ、必死で痛々しくガンバっている人には何の罪もない/いや、罪があるね、今さら何を言い逃れするか。

一番アカンのはこれだ、マイケルジャクソンが「カッコいい」とか「センスある」とか「知性がある」とか「たぶんすごくいい人」とか、そんなことは誰だってわかっているのだ、そういうところに評価ボンバーをかまして「わたしもがんばろう」とかしているタイプ、これは本当によくない、巨大な罪がアリアリだ。
何の罪があるかというと、本来は「激しさ」の格差に直面しているのに、それに「圧倒される」ということをキャンセルしているからだ、「激しさ」に圧倒されるということは、同時に自分のチンケに直面するということでもあるが、そのことに直面するのがイヤなので、人はこっそり欺瞞して「センスある〜」というような評価ボンバーに逃げる、そしていざとなれば「わたしガンバってるんです!!」という痛々しさボンバーで切り返そうと予定しているのだ。
「激しさ」というパラメーターは、容赦がないのだ、「激しさ」というのはつまりそれ自体が「幸せそう、しかもカッコいい」となり、そのビッグウェーブが人に直撃しなければならないのだが、そういったことは本当にむつかしいので、その本当のむつかしさからはどうしても目をそらしたくなる/が、そこにガンバる自分の自負をこすりつけてエセ自尊心をなんとかしようと作為するのはさすがに罪だ、あきらめよう。
「はい、じゃあ激しくどうぞ」と言われただけで、何かごちゃごちゃっと破綻アンドごまかしモードが立ち上がってくるだろう、こんなもの逃げ隠れできないんだよ、宇治川で茶道に耽るのもいいし僕は宇治川が好きだが、そういった「○道」というものは、あくまで「激しさを内に納める」ための行法であって、その完成から得られる静けさと、単にたたずんでいるだけのインチキ静けさはまったく別物だ、それが「できない」のは何の罪でもないが、それを「曲げる」のは罪になるのでやめておこう。

「激しく」すると、途端に自我エネルギーで動いているのがバレてしまう。

「激しく」することでなお、「幸せそう、しかもカッコいい」ということが出てくる場合、それは当人が自我エネルギーではなく、何か別のエネルギーで動いているということだ、それは愛であったり「世界」であったりする/これを、自我エネルギー隠蔽キャンペーンで生きている人が評価ボンバーでごまかし消費エッヘンするのは、たいへんよくないことだ、いつだって「じゃあ激しくどうぞ」と言われたら木っ端微塵になることを忘れてはいけない。
「激しさ」の反対が、いわゆる現代の「癒やし系」だが、こんなものにいつまでもムフフしていると、再起不能のビョーキになってしまう、ボディは豆腐のように脆弱なのに、自我が要求するムフフリクエストは極大、という十年前のプリン状態になってしまうのだ、そうなったらもう生涯で「激しさ」にトライできる可能性はゼロになってしまうので、そうなる前に「圧倒される」というストレスの中で頓死することを繰り返そう、いつか「敬う」「尊ぶ」ということがわかるときまで。
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「激しさ」というパラメーター

ちいちトランスしているのでぜんぜん間に合わないわけだが、まあ何だ、「激しさ」というのは重要なファクターだ。
「激しさ」というのは、決定的に人を教えるパラメーターなので、超ラブにもなるし、超ガッカリにもなる、ある意味容赦のないパラメーターだ。
どれだけイケメンふうを飾り立てることに成功しても、100人の前で「じゃあ、全力で叫んで」とやらせてみると、正視にたえない酸鼻なものがでてきて、「ダッサwwww」となってしまう/「激しさ」というものは、その人がニセモノかホンモノかをただちに暴いてしまう容赦のないものだ。
誰でも撮影してみるとわかるが、「うつ病で神経が切れた女」というような芝居は誰だってできるのだ、それはエネルギー準位を落とせばいいだけだからだ/しかしその逆、タイタニック号に乗り込んで未知の大陸に向かって叫ぶ、という演技はできないのだ、非常に痛々しいものになってしまう、それは「激しさ」というパラメーターがいかに容赦のないものかを如実に物語っているだろう。

宮崎駿はその作品の中で、航空機のエンジンがどれほど激しいものか、また本来の男たちの食事がどれほど激しいものか、また崇高さに及んだ女の裂帛の気合いがどれほど激しいものかを、よく描いている、むしろただそれだけを描きたいというような側面さえあるはずだ。
故マイケルジャクソンは、人柄としてはすさまじく穏やかだが、その全身からみなぎっているエネルギーはとてつもないものだ、われわれは彼の舞台の客席で金切り声をあげて倒れることはできても、彼のように舞台上で光を放つことはできない。
男女がそれぞれに、愛しているか、誠実か、向き合っているか、ウンタラカンタラというとき、すべてのことは一定の「激しさ」で営まれ、「激しさ」で確かめられねばならない、それは言うなれば、「アクセルを全開で踏み込んで試験しなければ、その自動車が本当に安全で高性能かを保証できない」ということに似ている。
たたずんでいる人は何も偉くなく、すべては「さあ激しくどうぞ」と言われただけで破綻し、馬脚を現すだろう/人柄としては穏やかでなければアホなのだ、しかし発揮されているエネルギーが膨大なものなら、その穏やかな人は直面するだけで人を倒してしまいかねない力を持っている。

自負はいいから、テイクオフしてみて。

美女と美少女のすべては、ボクの胸に飛び込んできてくれてかまわないのだが、「飛び込む」というならまずテイクオフしないと飛び込みもできんわな、そしてテイクオフできるかどうかにおいて、その機体が本当に良デザインで鍛えられて強いのか、そのエンジンが爆発力を持っているのかどうかがわかる。
たまに、「壊れそう」ということで自分が激しいものと勘違いしている人もあるし、中にはそういうミュージシャンまでいるような気がするが、「壊れそう」というのはボディが弱いから壊れそうなだけで、爆発力というのはそういう破裂脆弱性のことを言うのではない、戦闘機なんか涼しい顔で超音速で飛ぶじゃないか。

できるオンナだね | comments(0) |
愛と食事、および「会話」と熱気の「そのとおり」
に文句はない(ここに帰ってくるのか……)。
文句はないというか、いろんな状況があって、といっても僕は僕の状況しかありえないわけだが、不満とか不平とかいうのは、どうやって持つものなのだろう?
未だにその持ち方そのものがわかっていない。
そりゃ僕は何もしていないのだから、不満も不平も持つわけがないか、生まれてこのかた何に文句を言えばいいのか、正直なところよくわかっていない。

「対話」でもすれば、不満とか不平とかが出てくるのかもしれないが、僕はあまり「対話」というのをすることがないので……(というか、その対話なるものの始まるきっかけもよくわからん、いつどこにそんなヒマがあるのか)
渋滞とか、遊兵とかが出る問題はわかる、それは「もったいないな」と思うので、それだけはどんどん改善なり解決なりされていったらいいと思うし、そのために知恵を出し合うことぐらいはある。
ああでも、そうか、僕としては不満でなくとも、誰しもせっかく頑張るからには、神話世界につながってみたいのだ、「そうそう」と多くの人が顔を上げてうなずくところが見えるかのようだ。
僕は女ではないし、ソロバン勘定も上手ではないし、すべてのことはみんなしてうまく回っていると思うので、神話世界への案内を僕がこころがけよう。

愛や食事の営みは、少なくとも神話世界へハズレではない。

問題は「会話」とかだな、これについては僕が考える必要があるだろう、会話の第一はさしあたり、自分の愚かさについての学門という形で切り出されてよい(我ながらスッキリした佳いideaだ)。
神話世界への接続というのは、実はそんなにむつかしくない、必要なのは努力ではなくて「そのとおり」という感覚だ、「そのとおり」が交わされる熱気の中に自然に神話世界への接続がある。
できるオンナだね | comments(0) |
ゼロの術者(説明する)
明するって言っても、術なんだから説明はできないけどな。
つまり、誰でも愛は必要なわけだ。
僕は愛が得られない中から、自分をゼロにすることで、愛より上位の光に接触することを経て、愛を恵んでもらえるということを知った。
うーん、とても怪しい話だ、別におれが怪しいのじゃなくて世の中が怪しいのだ、世の中には怪しい人がたくさんいるのでおれが被害を受けているのだった(これでいちおう説明する気はあるのだと強弁しておきたい)。

つまり、誰だって、自分をゼロにして、ひとつのことに全身全霊になって、気づけばそれが償却になっていて、長いうちに次のステージに進んだというようなことが、必要なのだ、僕だけ「ヒサンだったけどなんとかなってバンザーイ」ということだけでは済まされない。
これまで、自分をゼロにすることは得意でやってきたが、今度はその逆転だ、誰かがゼロになろうとするとき、その傍で僕が∞の側を取り、相手がゼロ化しようとするときの具合のいい対象でいてやらねばならない。
自分が∞とか、そんなゴーマンなこと、本当にできるのかね……と急に気後れしてきたが、まあしゃあない、僕はありとあらゆる局面で「客」になるのがヘタだ、いっつも最底辺の人間としてバタバタしていないといけないという反応が身に染みついてしまっている。
いかにも苦手になりそうなことが眼前に見えているので、これは「ゼロの術者」として、意識的に取り組んでゆかねばならないのだった、ああファミレスで音を出して動画を見られる人たちぐらいの、あのド厚かましさが欲しいぜ(無理だ!)。

くそー、正直ドサンピンでいたい。

我ながら、不覚悟もいいところで、どうしたらいいかが見えてくるほど、うわーい逃げ出したーいという心情になってきた/だってオメー、この時代状況的にもよ、ますますむつかしいぜ、みんな口論スタンバイで生きているのにこんなこと成り立つのかよ。
まあしかし、おれならなんとかできるのか(と強引に自分を鼓舞)、日本人の持つ「無私」とか「無我の境地」って基本的にサムライの発想であって、それは殿様にコキ使われる側の能力だからな、殿様の発想じゃない、ここにきて「無我の境地を捨てる」というのはたしかに構造上のレベルアップではある/「無我の境地」をわざわざ自分で捨てるのかよ……キツすぎるだろ、ああもうプレステして寝ようかなという気がしてきた。
できるオンナだね | comments(0) |
ゼロの術者(説明しない)
十年前、僕は自分があまりに女の子にモテず、死にそうになって、それでもなんとかならないかという最後の理知で、「何もできないのか?」「いや、おれは女の子を、笑わせることはできるはずだ」と考えた。
モテるとかモテないとか、自分がどうこうの一切を取り去って、ただ「笑わせる」ということに殉じきったら、そのことは不可能じゃない、ただしそこにはコンマ1パーセントの不純物も混じってはダメだった、完全に百パーセント「笑わせる」だけの存在にならねばならなかった。
そのことを二十年間続けてきて、それはずっと正しいと信じてきたし、今でもなお正しくはあるのだが、どうやらある地点で「満了」したらしい、僕がいつぞや「おれからのサービスタイムは終わりだ」と言い出したことと、この満了の到来は連関している。
僕が二十年間、女の子を「笑わせる」ということに徹するという、一種の「鉄の掟」のような中にいたのは、正しいということ以上に、僕にとって何かの償却、要するにカルマの償却だったらしい、それが今になって新しい徳性の証を得て、つまりそのことの償却は済んだということが身に現れてきている、こんなことがありうるとはさすがに当時は思わなかった(今も驚いている)。

何か、少し寂しい気もするな、この二十年間、自分をゼロに消しきって女の子を笑わせることが、僕の持ちうる最大の光だったから。
……とはいえ、ウテが落ちたとは思うなよ、別にウデは落ちてないしますます上がっているわい、そういうことじゃなくて、その「女の子を笑わせる」ということが、おそらく僕自身への「解決」および「足し」にはもうならないだろうということ、もうこのことさえやってりゃオマエはマトモだよと言ってもらえるステージではなくなったらしい。
面白いな、と純粋に思っている、つまり二十年もかけて「女の子を笑わせる」という償却の積み重ねがあって、これがいつかの瞬間に満了して、僕は次のことの償却に向かわされたのだ、つまり僕はまた何か新しいことを本質的にやらされることになる(あのときのような覚悟が今も持てるのかね、持てなかったら僕の生はここでオワリだ)。
もちろん人間のカルマなんてゼロにできようがないので、どれだけ償却しても次から次だ、これから何をやらされるかということは、おおよそ見当がついているが、これからはこれまでのような悲愴感を背負わなくて済むらしい、ただ考え方をガラッと変えないといけないので、しばらく不慣れな感じがするな(詳しくは恥ずかしいのでヒ・ミ・ツ)。

確かに、女の子に笑ってもらって、愛を恵んでもらうという夢は叶った。

本当に夢が叶ったのだから、それなりに立派なことなのかもしれない、「荒れた家族の中で姉から暴力を受けて育ったファミコン少年」という典型的な陰キャからスタートして、ここまで女の子に慕ってもらえるようになったのは、到達度としてはレアなたぐいだろう、そういったあたりを再確認して、誰でもいいので美女および美少女はおれのことを褒めるように。←いつものクセ
二十年前、僕は唯一の可能性にすべてをかけてみようと――数学的に――思って、「最底辺」の自分を定義し、いつのまにかそこにある光を知って、気づけばすっかりお気に入りでごきげんで生きてきた、正直その最底辺のままで満足だったのだが/この先は「ゼロの逆転」というようなことを考えてゆかねばならない、ゼロの術者なんだから……このこともいつかずっと先に話せるときがくるのだろうか。
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「まともな人」になる魔法の文言
わゆる「まともな人」というのは、「相手の気持ちを考えずに、相手の事情も確認せずに、自分勝手を押し通そうとする人わたしすごくイヤ」と、感情的でなく断言できる人だ(いわばレベル2)。
次に、まとも以上の人、「尊敬できる人」というのは、「自分はいつ死んでもよくて、あの人さえ生きていてくれたらそれだけでいいの」と、感情的でなく断言できる人だ(いわばレベル3)、「わたしも死んだら死んだで困るんだけどさ」ぐらいはくっついてきていい。
さらに次、尊敬できる以上の人、「貴い人」というのは、「あの人がいないと、この世界は損」と、感情的でなく周囲に断言される人だ(いわばレベル4)。
逆に、いわゆる「まともでない人」というのは、「相手の気持ちを考えていない」「自分さえ助かればそれだけでいいんでしょ」「この世界のせいでわたしは損しているって思っているんでしょ?」と周囲に感情的にも断言されるような人だ(いわばレベル1)、これはガキのころはしょうがない、誰だってこのレベル1からスタートしている。

このそれぞれのレベルは、いわずもがな、前に述べた「妄想→こころ→世界→光」の四つのプロセスに引き当たっている、このプロセスはスキップすることができず、誰しも一つずつ乗り越えていかねばならない。
僕自身、十代のころには、「ナンパされるなんて、女性の側からしたら迷惑で当たり前なんだから、ナンパの成功ってお前が女をゲットするってことじゃないんだよ、女性の側に『気分は悪くなかった』と笑わせることが成功なんだよ、お前が女をゲットしたかどうかなんてどうでもいいんだ、女性がいい気分になって笑ってバイバイって去って行ったらそれで成功、気分を害させたらそれが失敗なんだよ、そこだけは絶対曲げるな」とよく話していた、これがせいぜい「まとも」といえるレベル2に相当するだろう。
そして二十代のころには、「もしおれが死んで、代わりに『いきものがかり』のヴォーカルがこの世にもう一人増えるっていうなら、おれはまったく何の躊躇もなく自殺するけどな」とよく話していた、もちろんこれらは感情的な発言ではなくて/だからせいぜいこれも、レベル3に相当する発言とみなせるだろう。
僕は誰だって、「まともな人」ならそれだけで十分だと思うし、その先は誰も口出しできるようなことではないので、誰しもレベル2の文言、「相手の気持ちを考えずに、相手の事情も確認せずに、自分勝手を押し通そうとする人わたしすごくイヤ」ということを断言してみたらいいと思う、ただしやるなら感情的でなくだ。

「まとも」になることは、「むつかしい」のじゃない、「つらい」んだ。

つまり、僕自身の経験で言えば、たとえば女の子は僕に接近されると「イヤ」なわけだ、それが相手の気持ちだという事実、これを受け止めるのが「つらい」ので、僕はレベル1に居続けようとする/ただそれだけのことだ、ただしそのままでいれば、僕は永遠に「まとも」になることはできない。
たとえば、僕が死んだらその代わりにマイケルジャクソンが蘇生するというなら、非常に残念だが、明らかに僕が自殺するほうがこの世界のためになる、それだってしみじみ思うと「つらい」わけだが、しょうがない、迷うようなことじゃないし、総合的にはスカッと笑えることだ/こうして人が成長するということは根本的に「つらい」ことだから、「まとも」になる文言だって、感情的でなく断言しようとすると、よくわからない「つらさ」に苦しめられるものだ、だがこの「つらさ」を「避けるもの」だと思い込んでいるなら、それはただの誤りだろう。
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