☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
地方で暮らす若い女性へ
「地方」というのは「中央」の対義語で、「地方」そのものが侮蔑の意味を持ってはいません、このことは市場の人に訊くか、もしくは「中央卸売市場」と「地方卸売市場」の違いを検索してください。
日本において(日本に限りませんが)、地方で暮らす人が、中央に移り住むことはきわめて困難です、特に日本には、かつての封建主義や幕藩体制の思想がありますから、地方の人は地方を脱出できません、まして女性が脱出するというのは、退嬰的な文化環境において「ありえない」というぐらいむつかしいことです。
地方で暮らす若い女性が、「中央」への進出をもくろむなら、第一に中央の国立大学に進学することです(中央とは必ずしも東京のみを指しません)、そして最善は、霞ヶ関の省庁に勤めるか、NHKの局員になること、そうでなければ上場企業に勤めることです、これによって人は地方から中央へと進出できます。
あくまでそれが、最善で強靱なルートですが、必ずしもそのルートに乗れない場合もありますし、またすでに「乗れなかった」と完了形になっている場合もあります、その場合はどうしたらよいかというと、第一に「簿記3級」のことを考えてください(日商簿記)、簿記3級はほとんどの人が独学で取得しますし、受験費用も三千円ぐらいしか掛かりません/これが全ての入口になります。

簿記3級に向けて、試験勉強をし、一日の勉強で合格できたら、あなたは一般よりケタはずれに頭がいいです、これが三日で合格できたとしても、十分に「頭がいい」と認識してかまいません、これが一週間で合格できたとしても、いつもの仲間内では「頭がいい」の範疇に入るでしょう、これが一ヶ月かかると、頭のていどはごく普通だと判断したほうがよさそうです(もちろんおバカさんのたぐいではありません)。
合格するのに、三ヶ月の勉強を要したとすると、これは冷静に、これまでのすべての時間が「勉強不足」で来たのだと自覚せねばなりません、集中力を養わねば人に劣り続けると覚悟しましょう、そして六ヶ月の勉強を要し、あるいは六ヶ月掛けても合格できなかったという場合は、これは精神的に暗雲を抱えていると捉えてください、この場合「尊ぶべきを尊ばず、敬うべきを敬うということを知らない」というのがほとんどです、これは精神と脳みそがそもそも何かを「学べる」という状態にありません。
こうして、簿記3級を取得して、その体験を手がかりに、世の中には「会計士」や「税理士」、「行政書士」や「社会福祉士」といった士業があるのだということを知ってください、合わせて「看護師」や「専門調理師」や「管理栄養士」という職業があることも知りましょう、初めて取り組むと多くの人は簿記3級でもそれなりに苦労すると思いますので、その苦労を元に、それぞれの資格を取得するには「そうとうな苦労がある」ということを肌身で察せるようになってください。
今、多くの若い女性が、どこかで「アイドルになりたい」という空想を抱えていますが、この空想の多くは、実は背後に「地方を出て、中央に進出したい」という願望を抱えています、ですが中央に進出しようとするのに、「アイドルになる!」とのみ発想するのはあまりにも短絡です/中央で「通用する」、あるいは中央から「オファーが掛かる」というのはどういうことなのか、正しく理解してプランを練ってください、世界中どこの中央でも簿記3級が要らないという場所はありません。

1.中央の大学から中央の企業へ就職する、2.中央でも通用する士業を得る、3.中央でも通用する芸術・文化の「先生」になる、4.自己資金と金融知識を得て起業する、5.アイドル・スターになる。

地方から中央へ進出する方法は、だいたいその五つになります/あなたは「デンソー」という企業をご存じでしょうか、「宅建」という資格をご存じでしょうか、あなたは明日から急に何かのインストラクターを始められるでしょうか、あなたは「国金」をご存じでしょうか、そのどれもに心当たりがないのだとすると、あなたの知識は「地方」に閉じ込められすぎです、そのままやけくそのようにアイドル・スターの空想だけを膨らませて爆発しようとするのでは、あなたが無責任すぎます、またそうしたやけくその少女を拾い上げて搾り取るだけの業者のシステムも抜け目なく中央には張り巡らされています。
あなたはなんとなく、街中のオシャレなエリアでセレクトショップや雑貨屋をやりたいというような夢を持っているかもしれませんが、簿記3級にも苦戦する人が憧れだけで店舗を構えるというのは夢物語すぎ、そのまま突撃すると人生をただ損なうというリスクが大きすぎます、路地裏のスナックとは床面積も坪単価も違うのです/ここに並べた五つの方法は、中央では「このとおりだね」と見えるものですが、地方では「わけがわからない」と腹を立てられるものです、よってここで腹が立つような具合だと、あなた自身が中央の文脈に噛み合わない人だということになります、そのときは実はあなた自身が中央に対して「アンチ」の気質の人なのです。
できるオンナだね | comments(0) |
25

んとなく、今年の目標として、ワークショップの濃厚メンバーを25人にまで拡大、というのはどうだろうか。
もちろんその数字に意味はないので、なんとなくでしかないのだが、そもそも目標ってなんとなく決めません? 濃厚メンバーが25人になったら夢があるなあ(なんとなく、僕は「常連」という言葉を使いたくないので使わない)。
現在のメンバーでも、連れ立って歩くとなかなかの迫力なのに、25人になったらすっかりナゾの勢力になれるぜ笑、そういう冗談みたいな状況に、あなたも参加しませんか? しねーよな普通……まあいいや、とにかく今年の目標のひとつとして、25という数字をブッこんでみることにした。
別にいいのではないだろうか、スポーツをする人なら25km完走とか、懸垂25回とか、悪いことをする人は悪いこと25回とか、25箇所の温泉に行くとか、目標なんてそんなもんでいいだろう、マジメな人は25分前に出勤して、仕事に掛かる時間を25%削減したらいい、つまり25という数字は魔法の数字ではなくて、ただの数字だ(ただの数字で十分でしょう)。

急に自己啓発的なノリになってしまうけれども、目標というのは、数字で決めるのがいいのだ。
何しろ数字というものには根拠がない、そして目標というのも、もともと根拠がないものなので、目標と数字はとても相性がいいのだ、目標は数字化されているのがよく、逆にいうと、目標は数字化以外の何かにしないほうがいい。
今年は東京に進出だ、と考えている人は、あえて強引に、「東京タワーの下で三分間深呼吸をする」という目標に切り替えたほうがいい、その深呼吸が、二分ではだめだし、五分でもだめだ、きっちり三分間というのがいい、そうすると何の意味も根拠もなくて、だからこそそれが「目標」なのだと明確に捉えることができる。
あなたは僕にセクシー自撮りつきのラブレターを送るべきだが、あなたがそれをなかなか送ってこないのは、それを25通送るという目標を立てていないからだ、そんなところで停滞していると塗り立てのマニキュアに必ずホコリが入るという呪いが掛かるので、さっさと目標を決めてどんどん前へ進んでゆきましょう。

あなたに必要なのは、乗り越えることではなく、25回乗り越えることだ。

やる気のある人は、年内に25回の失敗をノートにつけよう、さらにやる気のある人は、毎月25回の失敗をノートにつけるのだ、<<目標に限ってはカミサマはカンケーねえよ>>、目標は人の力だ、たまには人としてまともなところを見せたら。
あなたは、人に頭を下げるのがニガテかもしれないが、それは人に頭を25回下げるということを考えていないからだ、むつかしい本を読むなんて何の足しにもならないだろう、だがその本を25回繰り返して読むならあなたの中でそれは「読んだ」ということになる、これは人の力なので本来は若い人の領分です。

できるオンナだね | comments(0) |
自分が所属する世界の風(を呼び込む)3
いうわけで、まったく無責任に申し上げると、もっとアクティブになればいいというか、ゼロアクティブになればいいのにと思っている/ゼロアクティブという造語は何を指すかというと、願望や納得や思議や動機や勢いのフェーズが一切入り込まないアクティブネスのことだ。
誰も、納得して生まれてきたわけではないし、納得して死んでいくわけでもないので、「納得」って言っても何のことやら……まあそれはいいとして、僕は明らかに、やるべきことは大量にあるのに、大丈夫なのかオマエと、勝手に偉そうに思っているのだった、さらに偉そうには、そのように「見抜いている」と言い放っても差し支えない(いや、差し支えはある)。
やるべきことは大量にあるのだが、納得してやるのならやめてね、と思っている、納得とか、その逆のヤケクソになった勢いとかは苦手だ、何かを愛したり遊んだり尊んだりするのに納得や勢いが要るのならそれはぜひやめてほしいと思っている、僕はゼロアクティブを推奨する者だ、ゼロアクティブならニキビもすっきり。
そして、なぜそのゼロアクティブが得られないかというと、うーん、ネクラすぎるからではないですかね……あるいは、この偉大なるおれさまに対して、帰依が足りていないのではないか/といって納得してから帰依するようなことはぜひやめてね、おれは尊ぶということの機能性と重要性を唱える者だが、自分が尊敬されることについてはもう飽きたというか、さっさと帰依して風呂場のカビでも掃除していろと言いたくなる、風呂場のカビを清掃する者は悉く偉大なり。

僕は以前から、この偉大なるおれさまを愛さない奴は、脳がバグっているので、手作りのお地蔵さまを創って午前二時から朝までディープキスしていろとよく言うのだが、なぜこんなアホ丸出しの話をするかというと、こんなものにもちろん納得などしているわけではなく、ただやはりナイスな世界の風が吹き込んでくるのだ、カモンベイビーアメリカである(ここは深刻に意味不明)。
んんんんん、根っこそぎ、おれのことを愛さない奴の意味がわからん、土星に輪っかが要らないと言い張る日焼けサロンの経営者ぐらい意味がわからない、おれのことを愛さないのではこの世に生まれてきた意味なくない? と、こうしたすべてのデタラメなことも、支離滅裂にデタラメなのではなく、風を最大に呼び込むためには、この文脈が最適なのだ、そういうことが直接視えないようでは文学者ではない。
この偉大なるおれさまは、偉大なるおれさまと言い張っているわけだが、これはそのように言い張っていればいいのであって、おれさまが本当に偉大である必要はない、本当に偉大だと思って熱弁していたら超絶深刻なバカじゃないか……あるいは、ひょっとすると本当に偉大なのかもしれないが、もしそうだとしても僕にとって自分が偉大か矮小かなんてことは、思慮を向ける対象ではない、他人のことならともかく自分のことはどうでもいいじゃないか、とにかく偉大なるおれさまを言い張っていると、ナイスワールドの風が吹き込んでくるので、そうしているだけだ、こんなもんエアコンのスイッチを強にしていることと大差ない。
というわけで、僕は今日もこのように、自分のやるべきことをなるべく大量にこなしているわけだが、それに比べたらあなたはどうだ、もっと愛のゼロアクティブが炸裂する毎日じゃなきゃウソじゃないのか、おれの周囲は少しずつ賢くなってきたよ、何しろずっとこんなことされていたら、なるほど「納得」などという通貨は本当に一厘にも両替してもらえないのだということをいやがおうにも悟るからな。

微笑まなくていいからネクラはやめぴー。

さすがにこの文脈は、われながらひどいと思う、ナイスな世界の風が吹き込めば「それでいい」というのも、ちょっと極端じゃないかねという、良心の呵責がおれさまにもある、こうして本論がタイトルから逸脱しているものを一般に駄文という。
偉大なるおれさまに、「偉大!」と言いまくってりゃいいんだよ、それでナイスワールドの風バリバリだ、そんなこといいかげん自力で気づけよな、そしてまさかそんなことに「納得」なんてしようとしないよな……? 偉大なるおれさまに偉大コールをするのに「納得」を思議するようじゃ、さすがに病院に行った方がいいぞ、フィリピンパブの女の子なんかおれのことを「大統領」って呼ぶぜ、フィリピンパブなんか行ったことないけれども。
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自分が所属する世界の風(を呼び込む)2

はいえ、これはきっとすごく大切なことだから、もっと丁寧に話しておいたほうがよいかもしれない。
人がナイスな世界に所属できない場合があるのは、ナイスな世界の風が吹き込んできてくれないからであって、なぜナイスな世界の風が吹き込んでこないかというと、そういう世界の行を身口意に積んでいないからだ、じゃあなぜそういう行を積めないのかというと、ナイスな世界とやらに「納得」がいっていないからだ、と話した。
ただ、本当に重要なことを、正確に述べるのならば、僕だって「納得」がいっているわけではないのだ、ただいつもどおりにやっていると、ナイスな世界の風が吹き込んでくるので、いつも「なんでだろうなあ」と不思議がっているだけなのだ、別に感謝しているわけでもないし、ありがたいと拝んでいるわけでもない/それに不思議がるといっても、「そりゃおれの知らん仕組みもあるでしょうよ」と思っているだけのことなので、本当にあるのは「納得」どころか、その逆の「知らんし」のほうが近い。
だからそもそものところ、「納得」といって、僕は自分自身の「納得」という機能そのものを、あまりアテにしていないというか、そもそも重用していない/だから本当のところを正確にいうと、僕はこのアホみたいな書き話しを続けることに、そんなに納得しているわけでもないのだった、まあそんなことを言い出すと、僕は何をするにしても自分の「納得」などを必要としたことがそもそもないのではある。

たとえば新春には、目隠しをして「福笑い」をするのかもしれない、今時そんなことで盛り上がるとも思えないが、仮にそうして目隠しをして「福笑い」をするとしたら、なぜ「福笑い」をするのか、それがどういう行為なのかを、わざわざ「納得」してからやろうと発想する理由はない、「目隠ししろ」「ほい」「福笑いをやれ」「はいよ」と、とりあえずやってみて、「なんじゃこりゃ」と思ったら、その「なんじゃこりゃ」のままそれを続けている。
つまり僕の行為の決定は、納得度というパラメーターに支配を受けていないということになる、僕はほとんど吉凶の予感しか尺度にしておらず、なんとなく凶相が予感されることについては「ヤです」「やらない」と拒否している/僕はたいへんワガママな奴なので、どれだけ納得度百パーセントでも、なんとなく凶相が予感されるものについては逃げ回り続けるのだった。
まったく、「不思議だなあ」というだけの、無責任さに尽きるのだが、本当にそうなのだからしょうがない、身口意がどう行為を積み重ねたかによって、自分の所属する世界が決まるのだが、その所属の決定は、自分の納得なんて関係ないのだ、われわれの納得とは無関係な何かの法則で決定している。
たとえば、男性が脱ぎ散らかした靴を、「女性が揃えたら?」などと言うと、そんなことはもちろん現代においてわずかも「納得」されないので、アサルトライフルでメッタ撃ちにされるのだが、そんなことを納得せずに行為してもだめだし、納得して行為してもだめなのだ/僕はなるべくたくさんの女の子を無条件で笑わせようとするが、別にそのことも「納得」してやっているのではない、僕は僕が納得することに何の値打ちがあるのかがよくわかっていない、ただ世界の風が吹き込んでくる。

納得は「思議」なので、もう「不思議」は期待できない。

納得するかどうかという、思議のフェーズを経たら、もう間に合っていないということなのだろう、前もって「納得するぞ!」と決め打ちしてあってもだめだ、もうタイミング的に「行」の速度に間に合わない/納得にせよ不納得にせよ、僕にとってはその納得関連のフェーズじたいが「しんどい」のだと思う、なんとまあ面倒くさがりも極点に来ていると思うが、納得関連のフェーズが省けるのなら僕は省いてしまうのだ、そうして少しでもラクをしたい、そうしたらなぜかナイスな世界の風が吹き込んでくる、なぜそうなるのかはあくまでも「知らん」。
自分の積んだ身口意の行為が、自分の所属する世界の風を吹き込んできますよと、ただそれだけのことで、そこに納得関連のフェーズが挟まる人には、当然ながら「思議」という世界の風が吹き込んでくることになるだろう、それは明らかな道理だ/そして「思議」の世界の風というのは、常にひしめく疑いの風、呪縛にがんじがらめにされた世界、いっときも安らぎが得られない地雷原のような世界の風だ、そんな世界でむりやり微笑むのはしんどいな。

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自分が所属する世界の風(を呼び込む)

変わらず、何のあてどもなく、際限のない「話」をしているのだが、こうしたことを当然に積み重ねることで、そのたびに或る種の「風」を呼び込んでいることに気づく。
これが、「行」ということの本質だと思うが、理由なしにガッツリと「行」を積むのだ(もちろん手抜きしてはいけない)、そうすると「行」にふさわしい、何か所属する世界の風が吹き込んでくるようになる、それで自分の所属する世界が変わるのだ。
このことの原体験や、もしくは「教え」がないと、人は「行」というのをどのようにしたらいいのかがわからない、目的をもって「行」を積むと、それはもう「行」ではなく「努力」なのだ、努力が悪いわけではないが、努力は人の所属する世界を変更する作用は持たない、人は努力によって己を支配する因果から脱出することはできない(そりゃ仕組み的にそういう性質のものじゃないのだからしゃーない)。
人の行いというのは、いわゆる身口意に発生するものだから、まともな行いをこの身口意に積ませるしかないのだ、目的なしに行を積むと、何にもならない……ような気がするが、そのとおり、何にもならず、ただなぜか別の世界の風が吹き始める、これは単にこの世界の仕組みのヒミツというだけであって、神秘的な現象ではない、別にカミサマがそれを隠しているわけではなく、われわれの認識ではなぜそんなことが起こるのかが了解できないだけだ(でも了解できなくても結果だけ得られたらいいんじゃねーの)。

もちろん誰だって、サイアクな世界の風の中にいるよりは、ナイスな世界の風の中にいたいはずだが、かといって僕は、ナイスな世界の風を呼び込むぜと思って、こんな書き話しをしているわけではない。
ただ結果として、いつのまにか所属している世界と、吹いている風が変わるのだ、なぜなのかはわからない、重要なのは「なぜなのか」とかいうどうせ判りっこない理由の説明ごっこに興じることではなく、ナイスな世界に居続けることではないだろうか/そして叶うことなら、このナイスな世界の奥地にたどり着きたい。
けっきょく、われわれの知らない何かの仕組みがあるということなのだろうな、仕組みがわからなくてもその仕組みは機能していて、身口意がダラダラブーブーしていると、おのずとダラダラブーブー世界の風が吹き込んでくるようになっている、逆に身口意がナイスだぜ愛だぜ光だぜを言っていると、おのずとナイスで愛と光の世界の風が吹き込んでくるようになっている/そもそもわれわれは、窓から吹き込んでくる風ひとつにしたって、自分で決定はできないじゃないか、そう考えればこのことこそ当たり前なのかもしれない。
とはいえ、むろんわれわれには、自意識や意固地や「納得」という機能があって、この世界に向けてナイスだの愛だの光だの言うのにも、内心で「納得がいっていない」ということがあると、表面はどう取り繕っても、やはり本質的にはブーブー言うわけだ、だから本質的にブーブー世界の風が吹き込んでくることになり、けっきょくその人はブーブー世界に所属することになる/ただそれだけのことだから、考えてみればなんて当たり前すぎる仕組みなのだろうと見ることもできる、その仕組みがどのように作られているのかはわれわれにはずっと判らないわけではあるが。

あなたがブーブー世界に住むとしたら、その理由はただひとつ、「そのほうが納得がいくから」だ。

なんというか、本当にただそれだけの仕組みだから、すべては「しゃーない」という一言につきる、納得のいかないことに納得のいっているフリをすることなどできない、ちゃんと人それぞれ、自分の「納得」する世界へ所属するようにできている、僕はこのアホみたいな書き話しを続けることに納得がゆき、あなたはそんなアホみたいなことには納得がゆかないのだから、本当にただ「しゃーない」のだ。
とはいえ、最低限のアナウンスは、道義としてあってよいように思う、「努力では所属する世界は変えられない」ということと、「ナイスな世界に納得していないのであなたはそういう世界には所属できない」ということ/いつだって自分の所属する世界の風を呼び込んでいるのは、僕だけじゃない、誰だって同じだ、誰だって毎日、自分の所属する世界の風を己の身口意によって呼び込んでいる。

できるオンナだね | comments(0) |
大きな力に飲み込まれない

れわれは数年前、AKBのやり方を全否定していた、「握手券を引き換えにした音楽CDの売り上げをカウントするなんて」と/われわれはその後、いつそのやり方に合意したのかわからないが、今はすっかり合意に転じている、AKBのやり方を攻撃しようなんて勢力はもうどこにも残っていない。
LGBTにせよポリティカルコレクトネスにせよ嫌煙思想にせよマニアックなフェミニズムにせよ炎上礼賛ブームにせよ、われわれは時代の当事者などではない、われわれはまったく知らない誰かに操作されているだけにすぎない、われわれがこの時代において「おれがこれを始めたのさ」「わたしたちはこれについていったのよ」と自負できるものは何一つない/われわれは「君の名は」や「けものフレンズ」や「アナ雪」に影響づけを受けて同時代の生き方を創り上げたわけではまったくない。
米津玄師というミュージシャンが新しく大人気らしいが、いわずもがな、すばらしいアーティストは、サザンやユーミンと同じく、この先の三十周年にも四十周年にも変わらぬ万雷の拍手を浴びているようにと願うべきだ、今米津玄師のファン勢力はまさに「熱烈」らしいが、これがもし数年後にはパッタリ冷え切っているというようなことがあれば、それは他ならぬファンたちが冷酷な裏切りで当のミュージシャンを消費にもてあそんだということになる、僕はもうそのような生臭い光景を見たくないのだ。
今年は新元号が発布されるが、新元号を待たずとも、すでに今も、去年とは異なる大きな力がのしかかってきている、この力に飲み込まれていくことは、時代についていっているということではまったくない、<<これからのことはすべて新しくなければならず>>、大きな力に飲み込まれていくということは、新しい時代を切り拓いていくということではまったくないのだ、ただ用意された屋形船にずるずる乗せられていくだけのことであって、ましてその屋形船はわれわれの幸福を目論んで作られたものではまったくない。

何かが「正しい」と信じられるなら、それについていけばよいが、何かが「おかしい」と感じられるなら、その不穏なものには抵抗しなくてはならない、あっさり飲み込まれるとラクになるだけで、利益にはなっていない/諦観というなら、われわれは無謀と知りつつ戦い続けねばならないということが諦観であって、大きなものに飲み込まれていくだけというなら、それは諦観でも何でもない、それは昼寝を繰り返しているだけの人間でも自動的にそうなっていくものだから、改まっての諦観など要らない。
今、女子高生のセックスを買おうとすると、「ホ別イチゴ」あたりが相場となる、別にカネでセックスを買うことが悪いと言っているわけではないし、そのことの倫理性を問うているわけではないが、それよりも「夢中で本を読んだ」とか「友達と将来の夢について真剣に話した」とか、そういう青春の正規ルートに無限の澱(よど)みが掛かって輝きを持たなくなり、その澱みに抵抗しないということの危険性を僕は指摘しているにすぎない。
僕がここで書き話していることは、いつも奇妙で変人で時代錯誤か狂人のたぐいに感じられることばかりだが、僕の書き話していることは、本当にそこまで奇怪で胡乱で悪臭のすることだったのだろうか? 今どき愛だの青春だの魂だの言っているのは、一言でいって「くっさw」で済むのは明らかだが、僕が指摘しようとしているのは、文化や思想としての正当性ではなく、そうした捉え方や風潮を<<あなたが作ったわけではない>>ということなのだ、あなたがそのように捉えてそのように感じてそのようにあざ笑うように、どこかの誰かがあなたを操作した結果でしかなく、あなたはこの草不可避時代の旗手でもなければパイオニアでもない、ただの操り人形だ、そのことに無抵抗であなたは本当に勝利者なのだろうか。
あなたが女性だとして、あなたはこころの底から尊ぶべき男性に出会うことが不可能というレベルにむつかしいだろうし、仮にそんな男性に出会えたとして、その男性を愛したり、その男性に献身したり、その男性の世話をしたりということに、激烈な感情的抵抗を覚えるだろうが、それはあなたがそうなるように大きな力があなたを操作したにすぎず、あなたが自分自身をそうなるように自己形成したわけではまったくない、その証拠に、<<勉強と経験が不足している人ほど操り人形の度合いが濃厚に出ている>>だろう、今われわれに降りかかる大きな力は、あなたの魂をいつくしむために降り注いでいるのではなく、あなたの魂を侮辱するために降りかかってきているだけだ。

十年前に信じたものを、今はもう信じていないのなら、他ならぬあなた自身の十周年がない。

あなたは時代についていっているわけではなく、大きな力に飲み込まれていきがちなだけで、その大きな力は、あなたの魂に十周年などさせないつもりなのだ、十年前にあなたが立っていた、あの場所に吹いていた風は、今もなおあなたの頬を通り抜けて吹いているか、そうでなかったら今のあなたはどこの誰に形成された人形なのか。
十年も経てば、時代は変わるし体調も変わるかもしれないが、魂は変わらない、魂に時間なんか流れていないからだ、常に新しい時代を生きろ/新しい時代に生きるということは、人為的に用意された屋形船にドッコラショと乗り込むことではまったくない、そんな出来合いのものはとっくの昔に古いのだ、新しい時代というのは今まだここにはない時代のことであって、用意された時代などすでに手垢がついた使用済み品でしかない。

できるオンナだね | comments(0) |
世界に名乗りを上げること2

に僕が、「九折空也といいます、趣味で歌とダンスをやっています、ここでちょっと唄って踊ってよいでしょうか」と言ったとする、これはいかにも話がおかしい。
何がおかしいといって、そこで僕が唄って踊ってをやりはじめたら、それは僕が自己紹介して「知り合い」になったから、「知り合い」の上で何かをおっ始めるということじゃないか、それはどう考えてもキモチワルイし、そんなことで唄って踊ってを見せつけられるのは知り合いの側はストレスだ(空気を読んで拍手させられるだけだぜ、つらい)。
そうではなくて、当たり前に正しい手続きは、僕が唄って踊ってをしているところ、それが妙にソウルに響き、「あいつは誰だ」「あんた何者よ?」ということになって、そこから訊かれて、「名乗る」という具合だ、そうでなきゃ唄って踊っては相手に何も届いていないってことじゃん/それをオメエ、知り合いになったからには強制的に見ろ、そして拍手しろ、という恫喝でやりこめるのはタチが悪い。
僕はいつも思うのだが、単に女の子をデートに誘うのだって、「知り合い」になってからデートに誘うというのは、根本的にヒキョーだと思う、だって相手は断りづらいじゃないか、「知り合い」に誘われたら/「知り合い」になってから、イイコトをしようと画策する、そういう浅ましい発想をせず、何かしら人としてソウルを響かせ、そこからデートに誘って「アンタ誰なのよ」と笑われるという、そのことをスタートにしないといけない、<<知り合いじゃないけど、アンタのことは覚えているわ>>という状態にならないと、それはソウルに届いていないということなのだ。

お互い、へっぽこでもいいじゃないか、まず世界に名乗りを上げよう、つまり「知り合い」の工作で自分の存在をインチキするのをやめよう/まずそのことを覚悟しないと、ソウルはいつまでも昼寝したままなので、これは覚悟して実行するよりしょうがない。
実際に、その覚悟をすると、ソウルが活動し始めて、いろいろまともなことが起こり始める/僕の友人は、これまでに幾度か体験があるはずだ、僕が咳を外すと店員さんがやってきて、「あの方は何かの先生ですか?」と訊いてくるようなことが、わりと珍しくないというか、いっそ定番の現象としてある。
人は、何を視ているのだろう、不思議なものだが、初対面から「ボス?」と言われたり、「何か、音楽の指揮者?」「芸術家?」「絵の先生?」と、まっさきに「あんた何者?」を訊かれることはよくある、だがこれはあくまで、知り合い術を放棄してソウルプレイヤーたるを選んだ後の結果だ、先に知り合い術をやめる覚悟をしないとこのことは性質として発生しない。
「人格」という言い方でいうと、自己紹介と知り合い術というのは、「人」の現象ではなく「格」の現象なのだ、立場も用事もないときに「格」を振り回すのはやめよう、年齢と共に格が拡大すると、もう弱っちい「人」を見せるわけにはいかなくなって、完全に手詰まりになってしまうから。

「もう一度会いたい」というのは、「もう一度唄って!」「もう一度あの話を聞かせて!」というのと同じだ。

どれだけ歌が上手に思えても、「もう一度唄って!」と求められるかどうかは別だ、「もう一度」を求められるというか、懇願されるというのは、完全に別の事象であって、それだけにこのことに食いついていかないようでは筋が悪い/どれだけ立派な「格」、どれだけ立派な身の上でも、その身の上について「もう一度聞かせて!」ということは起こらない。
ソウル(魂)というのはそういう性質のものだ、「もう一度あの光景が見たい」「何度でもあの場所に行きたい」、それと同じ次元に、「あの人に何度でも会いたい」ということが起こっている/だから名乗りを上げるということは、自己紹介を説明することじゃない、己の現象とソウルのありようをライブで示す覚悟だ。

できるオンナだね | comments(0) |
世界に名乗りを上げること

は、知人に向ける態度も、赤の他人に向ける態度も、基本的に変わりがない、初対面の外国の人に向けても変わらない。
そりゃそうだ、トヨタの製品が、外国の人に向けてはウケないとか、使えないとかいうことはありえない。
お互いに、先に立場が決まっている場合は別だ、相手が急に売り込みにきた訪問販売のセールスだとか、役所の人間だとか、国賓だとか、そういう場合は立場が優先される、そりゃ社会に生きてりゃ当たり前に誰だってそうする(これがまともにできないとただの社会不適合者でしかない)。
そうした「立場」がない場合、あるいは「ゆるい」場合、僕はどのように人と接するかというと、要するにソウル(魂)で接触しているらしい、それでデカい人には「デカいな」と接するし、かわいらしい人には「かわいらしいな」と接している、こんなことに知人も赤の他人も関係ない。

ワークショップ等の言い方でいえば、こうだ、僕がよく言うやつ、「われわれは今Aスタジオにいるけれど、隣のBスタジオに行ったって、おれの話し方は同じだし、何なら教えるとなっても、まったく同じ教え方だ」「お前らが常連だとか知り合いだとかそういうことは関係ない」と。
事実、僕はここに、「九折空也でーす、よろしく〜」という形で、何の前提もなくいきなり書き話しているのだから、こんなことに知人向けも他人向けもありようがない、誰が見ても「なんだコイツ」で、あとは読み進むうちに「ちょっとおもしろいじゃないかコイツ」と思ってもらえるかどうかだ、ただそれだけしかない。
僕は前もって、誰かと知り合いになろうとするやり方を好まない、そんなやり方は初めから蹴飛ばしているところがある、おれと知り合いにならなきゃならない義務がこの世界の誰にあるんだ、そういう鬱陶しいことだけはおれはやらないようにしているというか、そんなことをやっていい権利がおれにあるようにはまったく思えない。
「知り合いになってもらう工作」をするのは、たいへんキモチワルイわな、僕はそういうことを好まないので、このとおり何年やってもこのブログにもサイトにも「ファン」なんてつかないのだ、たとえファンがついても「誰だテメー」としか思っていないからな/そうして僕自身も、永遠に「誰だテメー」の扱いのままでいたいのだ、その「誰だテメー」に毎回答えるために、ささやかでも名乗りを上げるしかない。

知り合い術よ、滅びよ。

滅びよというのは言い過ぎかもしれないが、知り合い術はソウルプレイヤーの真逆にあるから、そこは峻別しなくてはならんのだ、<<自己紹介で名乗るのを金輪際やめよ>>、名前ってそういう機能のモンじゃないからよ、この現象とソウルの主が九折さんというらしいというだけで、それ以外に人の名前なんか知り合いになってもしょうがない。
試みに、自分の名前を「○○△△です」と名乗ってみるとわかるのだが、そのあとって、職業・住所・出身地・学歴とかを続けそうにならない? それって履歴書の情報であって、「身の上話」からの知り合い術だから、名乗るってそういうことじゃないんだよ、世界に名乗りをあげろ、世界の側はあなたの出身とか学歴とかキョーミないよ、あなたの現象とソウルを示してそのことに名乗りを上げろ。

できるオンナだね | comments(0) |
新たなナゾ、「自分から教わろうとする」ということ5
「わからん」というのが正常な状態であって、「わからん」を持たないものはカミサマだけだ。
その点、「わからん」という表情をぶら下げて、「教えてもらおう」「助けてもらおう」とパニクっている者を見ると、これはさすがに許しがたく感じる。
なぜコイツは、最低限、アレクサンドリア大図書館にある書物をすべて読破したわけでもないのに、自分の「わからん」が「大ピンチ」になるのだと、説明不能の怒りを覚える。
仮に、お釈迦様の亡き後、羅漢様が多数いらっしゃって、その中でも読み解けない経文があったりしたら、そのときにはわずかに目元にピンチ感がただよってもおかしくないのかもしれない、それに比べてわれわれの「ピンチ感」って……日経新聞に書かれていることの半分もわからない者が、なぜいまさら「わからない」ということでピンチ感を出すのか、これはもう根こそぎ間違っているので、これからチャーハンにウーロン茶を入れて一人で大ピンチになり続けるように。

ピンチしのぎの「わかる感」を求める奴は、本当に中学校に戻るように、いやこれは冗談でなく、そうしたことが精神安定に必要な人も本当にいるのだと思う。
2たす2は4ですよ〜ということを、先に入力されておいて、テストに「2たす2は〜」と出されて「4! 4!」と答えたら、マルがもらえるし、わかる、わかっている、ということになるのだろう、実際そういう精神構造で、ルーティーンワークとして生を過ごさねばならない人がいるのも知ってはいる、だがそれは残念ながら学門ではない。
当たり前だが、すべての学門は「わからん」のだ、この世の物質はすべて原子から出来ていますというのも、それが一番矛盾無くすべてを説明できる「仮説」ですということにすぎない、これを「原子を知っているから物質がわかります」と捉える奴は、どうあがいても学門に触れることはできない、どれだけ成績がよくても、それは学門の取り組みではない。
「わからん」のが、正常の状態で、神ならざる身にずっと続くことなのだ、これを「わかる」に貶めようとすることはたいへん投げやりであって冒涜だ、自分から教わろうとしろ、自分から教わりにいけ、それはわかるためではなく、追究しつづけるためだ。

あなたが持っているのは、「わからん」か「不満」のどちらかだ。

自分から教わりにいかないのは、あなたが持っているのが「不満」だからだ、こんな馬鹿げたことがあってはならない、ただちに修正しろ、あなたは重大な誤解をしている、あなたはどこの正解.comというサイトを検索しているのか知らないが、「わからん」ということがすべてのときめきだ、解決を欲しているのはあなたが安易に自分をカミサマだと思い込んでいるからだ、「わからん」というときめきがあれば、あなたが自分から教わりにいかないということはない、あなたには誰かに訊きたいことが具体的に山積みのはずだ。
学校教育の方式はすべて忘れよう、学校の先生が「わかっている」のは、学門を取り扱わず、テストを取り扱っているからであって、そのテスト問題を自分で作っているからだ、学校の先生はその意味で「わかっている」にすぎず、だから生徒たちに対して壇上から「わかるように薄めたエキス」を注ぐことができるにすぎない、あなたはそれをこぼさず飲めばテストで満点を取れるが、この方式のことは全部忘れよう、テスト用の知識だって基礎知識としてすごく大事だ、それを教え込む苦労だってあるには違いないが、もうこの際は関係ない、あなたは先生と呼ぶべき存在が、「わからん!!」ということに向けるきらめく眼差しを見たことがない。
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新たなナゾ、「自分から教わろうとする」ということ4
大の効率を上げるために、端的に言うと、あなたには「わからん」という機能が欠損しているのだ、脳みそにデカい穴が空いていると思え、脳みそに穴が空いたまま無意味にニコニコしているブキミな奴がアタシです〜と思え。
人には本来、「わからん」という機能があって、「わからん」ということは、それだけでエキサイティングなのだ!! 「わからん」ときらめくことが知性なのだ!! それが脳みそに穴が空いているやつは、何がどうなっているのか、世の中で和菓子を見るたびに反省しろ/脳みその中にはどうせアタシ大王みたいなものが棲みついてよくわからないことをハアハアやっているに決まっているのだ。
真空状態で、音は伝わらない、音は波だからだ、波は媒質がないと伝わらない、「あれ? でも宇宙って、電磁波は飛ぶよね」「太陽光とか、光だって電磁波だもんね」「なんで波なのに、電磁波は真空でも伝わってくるの?」と、そのことを「うお、わかんねえ」とよろこべ、興奮しろ、わからなさに絶頂しろ、「明治維新を為し遂げた人たちって、田舎の藩なのに資金はどこから工面したの?」ということぐらいわからなさに跳ね回って悶絶しろ。
民主主義は多数決の主義だけれど、初めにその「民主主義にしよう」っていうのは誰が言い出すの? えらい人が言い出すの? でもそのえらい人は多数決で選ばれてなくない? だって民主主義の前なんでしょ? ということに、たまらなくなってディープキスしたくなる衝動を覚えろ/ありとあらゆる瞬間に、無数の「わからん」と出会うこと、それが学ぶ奴の大前提だ、ここをボサーッと受け身になっている奴は決して何かを学んだりできない。

「このナチュラルターンって足首を使うの?」「ダンスサークルってやっぱり大学から初めてという人が多い?」「ん? その心不全に対して利尿剤ってどう効くの?」「やっぱ季節ごとに作物のシーズンとか感じ取るの?」「これって英語圏だとどういうニュアンス?」「今でも色鉛筆ってファーバーカステルが一番偉いの?」「郵政民営化されてから営業ノルマとかは課せられるようになったの?」「ワザを一通りかけてくれ、かけてくれんとわからん」「その案内をどう出すかは君の裁量範囲なん?」……よくよく考えたら、おればっかり訊きまくりじゃねーか、こりゃ根本的にここが違うんだよ。
おれは何に対しても、興味なんか持つことはまずないが、興味というのじゃない、「わからんところが見えていないのは自分でも気色悪い」という感覚だ、たぶんこの「わからん」というところを見つける速度と頻度と索野の広さが違うのだ、ただそれだけであって僕の何が優れているということは特にない。
わからんところを訊いたからといって、何かがわかるようになるわけではない、ただ、何かを「視える」ようにしようとすると、わからんところをわからんままに放っておけない場合がある、そりゃそーだ、エンジンを無視して自動車を視えるようになるというのは明らかに無理だ/エンジンというと、特にホンダは「エンジン」というイメージがあるが、それだってホンダのエンジンがどう違うのかは「わからん」ので、もしホンダのエンジニアと出会うことがあったら真っ先にそのことを訊くだろう、それは興味からではなくて、おれがこの世界を「視る」ためだ(だからどいつもこいつも協力しろ)。
以前、数年ぶりに、学生時代の後輩と電話がつながることがあった、そのときたまたま僕は――そいつは和菓子屋の跡継ぎだったので――「あのさ、ちょっと訊きたいんだけど、小豆を茹でるときって、茹でるときに味をつけるの? それとも茹でてから後に味を足すの?」と訊いた、すると彼は僕について呆れたように、「いやあ、相変わらずっすね」と言った。

全身の表情に「わからん」と印刷しろ。

それがまともな人の姿だからだ/まったく、ふざけてはならない、ソクラテスがステルス爆撃機で飛び込んでくるレベルだ、釣りキチが釣りに興奮する程度と、自分が「わからん」に興奮する程度を同一にしろ。
「わからん」は始まりであって、「わからん」は結果ではないのだ、それは疑問などという生ぬるいものではない、解き明かして鼻血を噴くためのナゾだ/あろうことか、「わからん」ということに、パニックのみならず不満を持つ奴さえいる、これは正真正銘「このボケが」と罵られてかまわない、この世界はテメーの気分を満たすための消費物じゃない、全員で飛びかかってナゾを解くための世界だ。
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新たなナゾ、「自分から教わろうとする」ということ3

ーるほど、わかってきたぞ、自分でナゾと言っておきながらただちに解決するのはどうかと思うが、まあわかってしまったものはしょうがない。
おそらく多くの人は、「学ぶ」→「わからん」という順序なのだ、これは大損をしている上に脳みそにダメージしか蓄積しないので、訂正する必要がある、耳をかっぽじってよく訊くように、順序が逆だ、「わからん」→「学ぶ」というのが正しい順序だ。
この順序を逆にしているということは、女性の場合、正しくは「洗顔」→「化粧」となる順序のところを、「化粧」→「洗顔」としているようなものだ、そんなものメチャクチャになるに決まっている/冗談じゃなく、それぐらいこの順序の取り違えは精神がおかしい、ブッ壊れているといってよいレベルだ。
多くの人は、「学ぶ」→「わかる」という手続きのつもりでいるので、毎回ストレスで破裂するのだ、ただちにこのことを発見するように/<<あなたの手続きには「わからん」という段階が組み込まれていない>>、だから毎回「わからない……」と焦ってパニックになるのだ。

物事を、信じられない速度で学習・吸収・習得していく奴がいる、そういう奴はどうなっているのかというと、単に「わからん」に到達するのが速いのだ、ただそれだけだ。
「学ぶ」→「わかる」の手続きだと思っている人には、永遠に見えてこないことだが、そうではない、物事を学べる奴からすると、「わからん」ということは「学べる」ということなのだ/よって、どれだけ速く「わからん」に到達できるかが、どれだけ速く学べるかということの支配要素になる。
人によって、「これをどうすればいいかわからないのです」ということに到達するのに、生きながら二十年かかる人もあれば、自分でやってみてただちに、「これをどうすればいいのかわからない」ということに、二十秒で到達する奴もいる、速度差は3153万6千倍だ、まるでドラゴンボールみたいな数値で、こんなレベルの差をつけられていては話にならない。
不毛な仕組みは即刻やめるように/「学ぶ」→「わかる」のつもりでいる奴、これは「学ぶ」→「わからん」となると、パニックになるんだろ、それは根こそぎアホすぎるじゃないか、正しくは「やってみる」→「わからん」→「学ぶ」→「なるほどムズイっすわ」なの、そして「わからん」→「学ぶ」の速度はだいたい誰でも同じぐらいだ(誰にとっても「ムズイ」のだから)、ただ「やってみる」→「わからん」の手続きは、人によって何千万倍の速度差がある。

「学ぶ」→「わかる」方式でテストの点数が獲れるのは、「そういうふうにテストが作ってあるから」です。

こんなもん、どこまでアホなんだ、授業があるからテストが課されるのじゃないぞ、テストが課されるから授業があるだけだ、授業なんてテストの設問を水で薄めて生徒に飲ませているだけだ、よくよく考えろ、学校の先生と一度でも学門の談義をしたことがあるか?(ある人はごく例外的で幸福だ)そして入学当日に全教科テスト満点を取れてしまったらそいつは授業を聴く理由がもう何ひとつないのだ、少なくとも現在のところ、学校はテストのためにしか存在していない(もちろん幸福な例外が多数あることを祈ってはいる)。
学校の授業というのは、90分のテストを、15回の授業に薄めてあるだけだ、一方で最先端の物理学者たちを見ろ、あいつらは毎日「わからん!!」という最前線にぶつかり続けている/なぜあなたにはわからんことがないんだ、「水は100℃で気体になりますけど、常温でも水蒸気はあるし、洗濯物はフツーに乾きますよね……?」と考えたとき、なぜ「わからん!!」とならない、その「わからん!!」に到達するまであなたが何かを学ぶということは決してない。

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新たなナゾ、「自分から教わろうとする」ということ2

えてみて、改めて気づくが、そういえば僕は何かの「見学」をすることがほとんどないし、「習い事」の一切にもほとんど興味がない、何かの講義を聴かされたりするとたちまち退屈になって破裂しそうになるタチだ。
そうして考えると、僕自身の持っている、「自分から教わろうとする」という性質ないしは機能は、まったく別の手続きによって発生していることがわかる/つまり僕は、第一に自分のサンプルを持ち込んで「どうでしょーか!!」と訊く、そのことを「自分から教わりに行く」と捉えているようだ、こんなこと今まで考えたこともなかったけれども。
仮に、もし僕が何かの剣術でも習いに行くとすると、その道場が発行している冊子やVTRを集め、その中に示されているいくつかを自分なりにやってみて、「これで出来てんじゃね?」という手ごたえを得てから、それを持ち込んで「どうでしょーか!!」と訊く、そのことを第一にするだろう、そういう発想なのだ/もちろんこの発想が正しいのかどうかは知らないし、あまり正しいという気もしない。
何はともあれ、僕にとって「自分から教わりに行く」というのは、資料からまず自分で独学モノを無理やりにでも掴み、その独学モノを土台にして、ホンマモンを教わるというのが、「自分から教わりに行く」ということの定義らしい、思えば僕はこの手続きでしか何かを学んだことがない。

そういえば、確かに僕は、学校で授業というものを、ほとんど一度も聴いたことがない、授業をしていたのは知っているが、本当にわずかも耳を傾けていなかったように思う、ひどい生徒だがまあ僕のような者はしょうがないだろう/僕は数学で百点満点中5点を獲ったことがあるし、社会科の先生が気に入らないで、「点数なんか要らん」といって白紙のまま提出して0点を獲ったこともある。
そう言われてみれば、人はなぜ点数なんか欲しがるのだろう、まだカネを欲しがるほうがマシだ、点数なんかもらっても外貨ではないので何にも使えやしない/まあそれはいいとして、ずっと昔から本能的に判断していたのは、<<独学もしていないのに授業なんか聴いてもムダに決まっている>>ということだった、それは予習という発想とも違う、その字義のまま「独学もしていないのに授業なんか聴いてもムダに決まっている」だ。
たとえば僕は、大江健三郎の小説作法を、自分が小説を書く方法の基礎に置いているが、小説を書く前から、その実作法だけ勉強するようなアホがどこにいる、そんなもの、小説を何十か書いてから後にしか学びようがない、前もって勉強したところで頭でっかちの邪魔知識になるだけに決まっている。
なんとなく、ちょっとわかってきたが、僕は自分の脳みそのルールに正直なのだ、僕はまず自分でやってみて「わからん!!」となるまで、何かを教わったり学んだりできる気がしないということに確信を持っているのだ/つまり、「学ぶ」ということの前には、確実な「わからん!!」が先に要るのだ、「学ぶ」は必ず「わからん」の後にしか成り立たない、きっと僕はそのことに確信を持っているので、新しいことに手をつけるときに一ミリの躊躇もないのだ。

僕が、コーヒー豆に湯を注ぐ前に、コーヒーの淹れ方を教わることは100%ない。

<<わからなくなってから訊く>>/僕の知人に、コーヒーオタクと呼んでいい青年がいるが、僕は彼にコーヒーの淹れ方などを「興味」で訊くということは100%ない、僕が訊くのは自分でさんざんやってからだ、「おい、この湯を注ぐのって、いつ終わったらええねん」と僕が訊くのは、自分でさんざんやって、「毎回、これっていつ終わったらいいのかさっぱりわからんよな」と確信してからだ、その確信がないのに一体何を訊いて何を学ぶというのか。
興味で学ぶなかれ、意欲で学ぶなかれ、ただ「わからん!!」という確信の拠にのみ学べ、「自分から教わろうとする」ということは、自分ですべてのことの「わからん!!」に到達するということだ、どうも一般的な学ぶ・教わるというのは、自分で座席にドッコイショと座れば、何かありがたげな情報が壇上から散布されてくるので、あとはそれを吸い取りましょうという発想のような気がする/それが正しいのかどうかは知らないが、少なくとも僕はしたことのない発想だ。

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新たなナゾ、「自分から教わろうとする」ということ

ぜこんなことになったのだろう? 考えると不思議に思えてきた。
僕が手品をやっていたころ(中学〜高校)、プロのマジシャンの人に、「これ、こんな感じで……こう、どうでしょうか!!」と、実演してみせて、「うん、この、○○っていうワザはさ」と、指導を受けていたものだ/これはスゲー当たり前の話だと僕は思っている。
美術の先生が水彩画の基本を教えてくれたとき、途中経過ごとに走って持って行って「これ、こんな感じでいいんですかね」「合ってる合ってる」と教わっていたし、合唱団にいたときは、先輩にビビりつつも、「ちょっと発声見てくださいよ〜」と願い出ていたはずだ。
指揮法は、S先生に直接教わるのはおっかなかったので、クラブメートに「おい、これで、こうで……これで見えているだろ?」「うん、わかるわかる」とやっていた、あるいはOBさんの音楽エリートに「ここってこの構えから……」「いや、初めからここにあったほうがいい」「あ、なるほど!」とやっていたはずだ、何かこういう当たり前のことがきれいさっぱり消えてなくなったような気がする。

なんというか、僕がここで言う当たり前のこととは、「自分がやる、だから自分が訊く」ということだ、うーん当たり前すぎて鼻毛が抜け落ちそうだ。
それがどうも現代では、「自分にはやる気があるので、正しく教えろ」と、教わる側が教える側を、恫喝しているような感触がある、そして教わる側のプライドやキモチをわずかでも傷つけようものなら、絶対に許さないという威圧感がもともとあるのだ、「何これ?」と今になって思う/別にもともと、教わるとして、教える人のほうがエラいとか、そんなたいそうなこともなかったと思うのだが。
なんというか、現代になって人々は、大前提としてセンス(というナゾのもの)がバリバリにあり、基本的に万能で何でもできるから、そのことに抵触しないように最善で教えるように、それが教える側の義務です、という主張があるように思う/なんというか、「へっへーん、○○さんに教わったの〜」という無邪気さがないのだ、何がなんでも断じて自分の努力のみによって開眼して会得したということでなければ許せないという殺気がある。
何か、ちょっとしたことでも教えようとすると、「(万能で無謬のわたしに対して、その尊厳をわずかでも毀損することは許されない、そのことはわかっていますよね? かりそめにもわたしの何かが間違っているというような口ざまは許しません)何でしょうか?」と圧迫される感じがする/そして教えたことについても、ソッコーで大解決の特効薬で巨大な利益があれば、「まあ認めてやってもいい、教えてくれてありがとう」と認めてつかわす感じがあり、その大解決の特効薬という感じがない場合は、「うーん……わかりました」と、不平というか不満というか、内なる憤怒と憎悪を我慢している様子なのだ、何なんだこれ? よくよく考えたらなぜそんな閻魔大王みたいになって僕の側を威圧するのだろう。

ひょっとして、自分から教わろうとすると、何か「気が狂いそうになる」のか?

よくよく考えたら、このことの理由がまったくわからない、僕は自分が教わろうとするとき、僕の側から「あの〜」「その〜」「これって〜」「こんな感じで〜」「うへへサーセン」と、当たり前に訊いていくタチだ、ひょっとしてこの「自分から教わりにいく」という機能が、それじたい特殊能力なのか? 特殊能力だったとしても、このクッソ当たり前のことにノウハウなんてありようがないけれども。
うーん、よくわからんな、自分から教わりにいくのって、「教えてちょんまげ〜」でいいと思うし、そこで何の殺伐バトルが生じるのか、僕にはさっぱりわからない、このことは改めてヒヤリングが必要なようだ/と、考えているということは、やはり僕はあっさり自分から教わりにいくつもりなのだな、僕はしょっちゅうこのヒヤリングを言っているが、僕自身がヒヤリングされたことはまったくないものな。

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何をしたらいいかを「知る」ということ

は女に「何をしたらいい」のか、女は男に「何をしたらいい」のか。
四の五の理屈を言う前に、「何をしたらいい」のかを知ることだ/もちろんそれは、ただ訊いて暗記したら知れるというものではない。
たとえば、ジョークのひとつでも言えばいいのだが、ジョークを言うには「何をしたらいい」のか、そのことが実はちゃんと知られていない。
多くの人は、その「何をしたらいい」かを知らず、闇雲にできる・できないに突っ込んでいるところがある、これは手続きとして正しくない、学門なしにキモチで体当たりするのは実のところ「投げやり」にしかならない。

たとえば思いやりというのは「何をしたらいい」のか、勉強というのは「何をしたらいい」のか、謙遜というのは「何をしたらいい」のか、報告というのは「何をしたらいい」のか。
僕はこうして、しょうもないブログにしょうもない記事を書いているのだが、こんなことは誰だって「できる」ことのはずだ、にもかかわらず、実際に自分でそれをやろうとすると、「何をしたらいい」のかが、実はよくわかっていないということが明らかになる。
恋あいといって、じゃあ恋あいというのは「何をしたらいい」のか、そのことが取り沙汰されず、漠然としたキモチの強さを押し通そうとしている/恋あいというのは女性に花束を贈ればいいのか、本当に「それでいい」のか? そういったことも、実は本当には「知らない」というのが実情だ。
庭木の手入れをする、新聞を読む、旬の物を食べる、旅行にいく、日記を書く、礼状を送る、寄席に行く、何をしてもいいのだが、それらひとつひとつについて、本当は「何をしたらいい」のか、実はちゃんと教わるまで、人は知らないままなのだ/それらは覚えごとで知れるものではなく、正しいやり方で "仕込まれ" て、一定量それを正しく営むという、自分の歴史を経ることでしか、真に知ることはできない。

何をしたらいいか、本当に知っているということは、何か一つだけでも宝物だ。

たとえば白ネギを刻んだあとは、水にさらしておくといいのだ、そんなことは簡単に記憶できるが、白ネギを「そうしたらいい」と本当に知るのとは別だ、本当に知ることは大きなよろこびだし宝物だ/逆に、何もかもを丸暗記してなぞっているという状態は、何もかもを完璧にこなしながらも、実はとても不安な状態だ、記憶どおりになぞっているだけで、本当に「それでいい」のかどうかは「知らない」ままなのだから。
若い人は、なんとかして、その「知っています」というふうの顔つきをやめることだ、その「知っています」顔をしているあいだは、本当のことは何一つ教えてもらえない/女性の大半は、なぜ男性と手をつなぐのか、なぜ男性とキスをするのか、どこにキスをすればいいのか、実はまったく知らないままだ、だからいつも自分のキモチですべてを押し通そうとする、実はずっと不安で自信のないままなのに……だからその「知っています」顔をなんとかして引き下げることだ。

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肯定者の利益

れわれは何かを熱烈に「否定」することができる/「は??? マジありえないんですけど、は??? マジ死んでくれます????」というような形で。
熱烈に「否定」するというのは、単に否定的に思う・考えるということとは異なり、れっきとしたひとつの「行為」だ/インターネットやSNS上を漁れば、いくらでもその熱烈な「否定」に出くわす。
一方で、熱烈な「肯定」というのは、ついぞお目に掛かることがこのごろない、「お前、めちゃめちゃヤるじゃねえか!!」というようなことは、スポーツのスター選手に向けてしか言われない、そしてスター選手に向けて言われているのは種類が異なる/なぜならスター選手に向けて言われているのは、あくまで同国人が国に勝利をもたらしたことの誉れとして称賛しているだけだからだ、われわれは羽生結弦選手を「同国人だから」という背後の理由の上で称賛している。
こんなことを精密に定義する必要はないので、とにかく、われわれの口とその粘膜は、今何かを熱烈に「否定」することにはいくらでも向く予感があるのに、何かを熱烈に「肯定」しようとすると、その気勢は萎れ、言葉はゴニョゴニョと口ごもるのだ。

このところ、思い知ったのだが、どうもこの否定と肯定の狭間で、多くの人が大損をしているようなのだった。
もし自分が、誰かのささやかなGJを、熱烈に肯定できる口と粘膜の持ち主だったならば、「ヤるじゃねえか!!」の気勢のまま、自分も何であれささやかなことを、無数に、熱烈な肯定のまま為していくことができるのに/これが逆転しているからこそ、いま人々の心身はとてつもなく重くなっているということが、このごろになってわかった。
多く、テレビの前などで人は、タレントやお笑い芸人に向けて「うーん、なんかつまんないな、スベっているなあ」と毒づいていることが多いのではないだろうか、少なくとも手を叩いてヤンヤヤンヤと肯定しているような脳天気なムードはこの昨今に見受けられない。
だが、そうして自分の心身、内蔵、口と粘膜が、つまらないものの悪しきを熱烈に否定するのにはたらくのであれば、いざ自分が何か小さなことでも為そうとするとき、これまでに吐き出してきた熱烈な否定は、巡り巡って自分に降りかかってくるのだ、そうするともう否定が熱烈すぎて動けないだろう/このように、単純な損得勘定から考えても、口と粘膜が熱烈に「肯定」を言う人と「否定」を言う人では、否定を言う人は大損で、肯定を言う人が明らかに有利だ、自分がそうして致命的に大損の側へはたらくように仕込まれていることに早く気づかないといけない。

現代、われわれの口は、「死ね」を言うのに確信があり、「ブラボー」を言うのには確信がなく芝居だ。

こんな大損の構造があってたまるか、なんて気の毒マックスなことだろう/さしあたり僕の口は、全力で「死ね−」と言うことより、全力で「サーロインステーキー」と言うことのほうに、確実な自信を持っている、これは我ながら利益ある口と粘膜だ、「女の子ちゃんとか基本的に全員サイコーだよね」みたいなことが平気で言えるわけだが、これによって僕は善行を積んでいるわけではなく、ただ自身を益しているのだ、僕は損するのがとてもイヤーンなので。
女の子ちゃんなんか基本的に全員サイコーなので、じゃあおれもサイコーなのかなと、そしてそうなると基本的にこの世界の全てとか青空とか旅行先とか全部サイコーじゃね? と、もう口と粘膜が言い慣れているので、僕はいちいち無理をするファイトが要らないのだった、このことを僕は「肯定者の利益」と呼びたいと思う/われわれはそれぞれに、「熱烈に肯定する」か「熱烈に否定する」か、あるいは「くぐもって何も行為しない」か、選択する自由を与えられているが、それが自由に選択できるがゆえに、不随して生じる利益と不利益については自己責任を負わされている。

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ちょっとマジメに「仕事」「役割」の話

が庭aと庭bの手入れをしていたとする。
そこで、新規に庭cの開拓をするので、庭aの手入れを、Aさんに任せたとする。
するとAさんは、承り、「どうすればいいですか」と訊いてくるのだが、そのとき至極当然のこととして、「は? 今まで何を見ていたの?」ということになる。
現代、こういう思考はどうせ不人気なのだろうが、それにしてもいずれは、これを当然とするところにたどり着かないと、われわれは永遠にアホのほうに流れ行くことになってしまう、「どうすればいいのか」は言われなくてもそれまでに自然と見てきていないと頭がヘンだ、「これまで頭の中で何をしていたの、ソシャゲかアニメでも観覧していたのか?」ということになってしまう。

そして、Aさんが庭aの手入れを任されるようになったとしよう。
そのとき、結果的に、「Aさんが庭aの手入れをするようになってから、庭aはグッとよくなって、見違えましたねえ」ということにならないといけない/なぜなら、僕が庭a庭bのふたつに分散していた手入れ(50:50)を、Aさんはひとつの庭aに集中できているのだから、そのぶんの成果が庭aに表れてこないとおかしい。
このとき、Aさんが庭aの手入れを任されるということは、僕の代行をするということではないのだ、このことになぜか必ず言い訳を熱烈にする風習があるが、それはもう聞き飽きた、Aさんが庭aの手入れをするというのは、僕の代行をすればいいということではない、代行というのは臨時(アルバイト)の発想でしかなく、自分がそこに仕事をしたことにはならない。
どうも周囲の話を仄聞していると、仕事とか役割を果たすということについて、「どうしたらいいか」を聞き、ただそれを聞いたとおりに履行して、「誰かの代わりにそれをしました」ということで済むと思っているフシがあるようだ、仕事とか役割とかいうのはそういう退嬰的なことではない/もちろん好き勝手に庭をいじくってよいわけではないのだ、そうではなく、50配分されていたところに自分が100を配分できるとき、どのようにしたらよいかを、これまでジッと見てきてよく知っているということ、聞かなくても「こうすればいいんですよね」と目途がついているということ、それが「学んできている」ということだ。

たとえば消防隊員の映像を見たなら、ほんのわずかでも、消防活動に飛び込んで協力できるようになっていないと、何も見たことにはなっていない。

消防隊員の活動を見て、「わーすごい」と感想を持つことが、学んでいるということではないのだ、「あのホースはあのように接続されて」「あの消火栓はあのように開かれるのだな」ということが、いつのまにか見えていないと、まともな大人の視力とは言えない/消防隊員に「手伝ってくれ!」と言われてから、「はい、何をしたらよろしいでしょうか」と聞き返しているようでは、「もういい!」と蹴っ飛ばされるのがオチだ。
1.この世のすべてを看取り稽古していること、2.代行は仕事のマインドではないこと、3.聞くまでもなく「こうすればいいんですよね」と方向性を知っているということが、学んできているということだ/こんなこと本来僕のような者が言うことではないが、いちおうまともなことのはずなので僕がここでのたまってもそんなに悪いことじゃないだろう、たまには僕だってこうしてまともなことを言うのだ。

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何かを、誰かを、「守った」ことがあるか2
、こんな話をしているのは、別に教訓を垂れたいからではなく、僕自身、さすがに力量の限界を感じているからだ。
力量の限界などという、腐って死にそうな発想は持ちたくないのだが、少なくとも今現在の僕では、力量に限界がある、何かを突破して次のステージに至らないと、このままではまったく足りないのだ。
今も諸事情あって、戦いの中にいるような具合なのだが、何かを守るために使う「力」が、さすがに枯渇しているのを実感する、明らかに「使いすぎ」なのだ、こんなにしょっちゅう昏睡していられない、次のステージというか次のレベルは、どういうふうになりうるのか、早く見えてきてほしいと、余裕もなく切望している状況だ。
僕は、いい歳をした男性なので、目の前の誰かについて、いつも基本的に「守る」という構造でいる、そりゃそう決め打ちしていないともう対応できない状況だし、実際ありとあらゆる瞬間にすぐ僕が「矢面」に立つところを、多くの人は目撃してきたはずだ、そういうことがずっと先の参考資料として役立てばいい/それは構わないのだが、さすがに力が要る、こんなことは不可能なので、またこれが可能になるためには大きな突破を果たさねばならない。

僕は今のところ、これで構わないのだが、さすがに教育として言っておかねばならない/僕を先生呼ばわりする人は、別に構わないのだが、今のところ僕がすべての人を守っているような形なので、これを信じてはいけない、ふつう逆で、弟子が先生を守るものだ、このことが逆転しないかぎり、本当のことが身につくことはどうしてもない、今はまだしょうがないし、おれに対してはどうでもいいが、このことはどうかまともな知識として持っておくように、板垣退助が最前線で剣を振るいまくっていたら「板垣先生」は狂人になってしまう。
このところ、率直にいえば、僕からナゾの聖なる力を目撃して、ゲラゲラ笑ったことがシャレじゃなく大量にあったと思うが、それは僕がみんなを「守っている」からであって、その部分については笑っている場合ではない、合理的に考えるのだ/僕に聖なる力をパワーアップさせてもしょうがない、みんなが身につけなきゃいかんのだ、僕のパワーアップ大会になるのは構わないが、たぶん守られているという自覚はないのだと思う、それがないままずっといくのはまずい、どこかの先で気づいて、次の機会には自分が守る側に立つように、そうでないと何も修められない。
僕はそれなりに、まじめにやっているつもりでもあるのだが、これ以上「守る」となると、どうやって……? と、正直なところ少し不思議になる、もう僕にはほとんどまともな感情は残っていないのだが、それにしてもこの先というのには見当がつかない、どこかがきっと根本的に甘いのだろうが、どこを償却すればいいのか、まだ正直なところ確信はない(いくつか心当たりはある)。
僕が次のステージに、行けるとして、その前に、忘れないうちに、伝えておかないといけないと思った/守られている自覚がないとか、何かを・誰かを「守る」という発想がいつまでもゼロとか、それでは何にもならないからね、「守る」という発想がないのは、謙虚なふりをして、自分の愚かさを隠しているからだ、ウーン今説明している時間がないな、まあそんなことはいいや、とにかく何かを守る側に立たないかぎり、聖なる力を帯びることなんてないし、オトナになるということも決して起こらない。

光に、焦がれるのではなく、もう光ぐらいなきゃムリという実情で、ちょっと光が宿り始める。

何事も、そんなフワフワしたものではないのだ、哲学的とかスピリチュアルとか、そんな眠たいことをやっていて人が覚醒するわけがないのだから/うーんもう、人を見ている余裕はない、人なんか見るのをやめて、光しか見ないようにしないと、単純な力量不足の壁を突破できない、人を見ていたらどうしても無限には到達できない。
「もういい」がヒントになる、おれ自身へのヒントにしかならないが、「もういい」だ、識業を離れられるかどうかという、問答ではなく、識業に対しては「もういい」と、だってもう間に合わねーんだもん、識業がどうなのかは全部が済んだあとでゆっくり考えるよ、こんなひどい修行とか求道ってあったものかね、求道っておれは別に道を求めているわけでもないのに、なんなんだこりゃ。
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何かを、誰かを、「守った」ことがあるか
があるかないか、オトナかコドモかということは、簡単に判別する手段がある。
それは、「何かを守っているか」「何かを守ってきたか」を確認することだ/もちろん自分以外の「何か」をだ。
コドモの人は、自分以外の何かを守ったことがない、コドモというのはそういうものだ、コドモというのは「守られる存在」だから/コドモのまま生きている人は、どうしても自分が常に「守られる」側の感覚でおり、自分を守ってくれる存在「だけ」を認めるものだ、コドモのうちにこの変更は決して利かない。
たとえば、衛兵や近衛兵は、「ボスを守る」兵隊だが、ここで衛兵がコドモだった場合、衛兵はボスが「守ってくれる」という発想でいるのだ、たとえば衛兵が「敵から天皇陛下を守る」のではなく、「天皇陛下が敵からボクを守ってくれる」と信じている、「その意味においてなら、わたし、天皇陛下だって認めます」という文脈が背後にある、これはコドモにおいてはしょうがないのだ、コドモはボスに(たいてい家父長に)「守られる」存在であって、コドモの側に「ボスを守る」という発想はない。

コドモは守られる側であって、コドモに自分以外の何かを「守る」という発想はないし、またコドモのうちにそういう能力は決して身につかない、コドモにできることは唯一「暴れる」ということであって、自分で「キレたら何するかわからない」と感じたり吹聴したりしている人は、自分の性能がコドモだということを自ら表明していると言える/コドモはいわゆる「かんしゃくを起こす」ことで「暴れる」という能力しか持たないものだ。
その点で、現代の恋あいを考えると、いかにも初手が潰されているのがわかる、まず女性が男性の尊厳を守るということは発想に遠すぎるし、男性が女性の尊厳を守るというのも、どうしても多くがただのご機嫌取りというところがある/みな、このご時世に、セルフディフェンスの発想を持ってはいるのだが、自分以外の誰か・何かを「守る」という発想はない、また多くの場合そういうレベルの能力を養うべきしかるべき機会をあまりにも失いすぎてしまった。
現代、多くの人は「正義」に異様に敏感で、またその付属に「救済」の思想も強く持っているのだが、これらはどちらかというと、自分が「幼稚で俗悪」に与するとは考えたくないがゆえに、補償的に成り上がってきた思想だと言える/誰かを・何かを「守ってきた」という愛と誇りからあまりにも縁遠いために、自己肯定感の根拠を「正義」に接続しようとしている具合だ、だから現代の「正義」はことごとく「愛」から遠ざかった硬直のひどいハリボテに感じられる。
それでも一部、「正義」は、有効に機能するところもあるのだが、それにしても当人の「愛」のなさおよび「オトナ」でなさは、解決しない、現代で何かを「守る」ということをやろうとすると、天稟はもう潰されてしまっているので、まるでアイドルを守る気分に増長する「親衛隊」みたいになってしまう、それはいかにもコドモがする発想で、構造上しょうがないのだ/今や、両親が我が子を守るのだって、「守らなきゃ」というロール・プレイの向きが多くみられる、それでモンスターペアレントのような存在が増えた、幼児性の自己中心性が精神の骨格を為しているので、「守る」といっても自己陶酔的にその気分に浸るしかできないのだ、それがコドモということだからしょうがない、オトナになれなかったというのはそれぐらいツライことなのだ。

聖なる力で、何かを守れるのではなく、何かを守ろうとした者が、聖なる力を帯びるのだ。

聖なる力というのは、だいたいバリアー的にはたらくものだが、聖なる力で何かを守るというわけではない(ふざけんな)/何かを守ろうとしたとき、「なぜか」自分以外の力がはたらいて助けてくれるところがあるということが、経験的に知られてきたというだけだ、オトナというのはこの聖なる力をわずかでも帯びている人のことをいい、単に年齢や、世間知や、スレて老け込んでいることをオトナとは言わない、コドモはオトナにならずある時点で一気にただの老人になる、その場合はもちろんコドモの精神のまま臓腑と神経だけが老人になる(しょうがない)。
しばしば「少年のようなこころ」が賛美されることがあるが、これは古い物語や言い伝えによると、ときに少年が最も純粋に何かを「守る」という天稟を見せることがあるからだ、単に幼児性のままプラモデルにはしゃぐことを賛美しているわけではない、少年を愛玩物に見立てている人は何か貧しい世界から現実逃避をしているのだろう/今、自分が何かを「守る」という発想は最も遠く、自分は「守られて当然」という感覚のまま、しかし誰も守ってくれないので、膨大な憎悪が生産されるという構造が続いている。
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カネで自信は買えねー
はよく、神戸の話をするが、それはいわゆる思い出補正で話しているのではなく、実際に神戸がすさまじい街だから話しているのだ。
GDPの問題ではなく、たとえば横浜が神戸に勝つことはありえない、そんなことは、夜の三ノ宮から元町まで歩けばわかる、理屈でなくもうどうやっても勝てない/しかもこの背弧に六甲山と異人館と旧居留地と中華街とメリケンパークとモザイクと海と瀬戸内と灘高校と湧き水と日本酒と多数の大学があるのだ、勝てるわけがない。
夜の富山も、すさまじいもので、富山では予約なしには夕食ができないのだ、活気と食のよろこびが違いすぎる、そして言わずもがな京都もすさまじい街だが、京都のすさまじさは、京都市ではなく京都府全体がそれだというところにある、京都にはハリボテのエリアがないのだ、そりゃ千年も都だったのだから格差はしょうがない。
目黒区に住んでいる僕が言うのも、裏切り者という感じがするが、中目黒や代官山が神戸に勝てるわけがない、銀座でさえ勝てないのに/東京はみんな「勝ちたい」からおしゃれしているのであって、もともとおしゃれなエリアではない、だからご存知のとおり、勝つことをあきらめた人々が、今老人の群れとなって東京にあふれかえっている、東京はしばらくヨーロッパと競うことを棄権しなくてはならないが、神戸ならヨーロッパ諸国と戦えるだろう、神戸という街がどのようにして成り立ったのか、僕は一度郷土史を研究してみたいと思っているぐらいだ。

多くの人は、カネが欲しいと思っていると思うが、本当は、みな「自信」が欲しいのだと思う(本当に困窮している人は除くが、本当に困窮している人はこんなブログ記事を読んでいる場合ではない)。
だが、残念ながら、カネで自信は買えない、いちおうニューリッチ層にでもなれば人並み外れた「自信」が手に入る、ようには見えるのだが、こうしてカネに後押しされた自信というのは、当然ながら当人を虫食むのだ、カネでしか自信が買えないという痛烈な自覚がどうやったって突き刺さるからだ。
そのことはちょうど、東京が、GDPで東京を言い張ろうとしているということに似ている、新宿のGDPは三ノ宮と元町のGDPを上回るかもしれないが、それが本当の意味での新宿の自信にはつながらない、アメリカは極端な軍事国家だが、最近はいいハリウッド映画が作れないので、アメリカは自信を失っているだろう、いつまでもボブディランだけを言い張っているわけにもいかない。
そういえば先日、僕の友人が、東南アジアの或る聖地に旅をしてきた、そして聖地の人々と交歓したそうだが、彼女は帰国して第一声、「建物が立派なだけで、日本はずいぶん "遅れている" のではないかしら? 世界の人々は、本当にこころを開いていて、とてもたくさん勉強しているのよ、とてもじゃないけれど追いつけないぐらいに」と言った/彼女の言うとおり、GDPで自信は買えない、個人がカネで自信を買えないことのように、僕は彼女に、「その背後には信仰もあるんだ」と言った。

こころを開いて、交歓して、たくさん勉強して、何十年かの歴史を歩み、その背後には信仰もあったという人に、勝てるわけがない。

この当たり前のことに、目を伏せて、ナゾの村の習慣に引きずりこもうとするのが、日本という国のやり方だ、特殊にドメスティックな方法を持っているのだ、鎖国政策の影響だけとは思えない、もっと大きな陰が潜んでいる/写真でもみればわかるが、大正や昭和初期のほうが、日本は世界水準に近かった、現代では真似できないおしゃれとファッションが、当時の時代風景に記録されている。
われわれは、何か不当なことを考え、不当なやり方で自己を強化したため、そのときに何かにつけこまれたのだ、悪霊でも入っているとキメツケたほうが正しく判断できるぐらいだ/旅から帰ってきた彼女は、僕のことを、「世界から見たらあなたが "まとも" なのね」と理解してくれた。
できるオンナだね | comments(0) |
スゴイ人になる方法3

ゴイ人になるためには、まず、自分が「力」の世界に住んでいることに気づくことだ。
「屈服させられる」ということの屈辱、憎悪、そして「屈服させる」ということの快感、愉悦、これがいかにすさまじいもので、どれだけの隔たりで両者を区分するか、耐えがたい……ということを、メラメラッと考えたらいい、このことはむしろ女性のほうが得意だろう。
もちろんそのような、力勝負、バトルオンリーの世界では、あまりにひどすぎるので、人道ということも考えねばならない、ここに人道主義およびヒューマニズムが出てくるわけだ。
けれども、冷静に考えれば、そこに人道主義が出てくるということは、主流がそもそも人道から外れているということだ、車道を走っているタクシーがいちいち「車道主義」なんて言わないだろう/人道主義が出てくるということは、それだけ日常の原理が、非人道側へ逸脱しているということだ。

スゴイ人になる方法は簡単だ。
他人について、「す、すげ〜」「こりゃ勝てね〜」と、感動して拍手するだけだ。
しかしこのことは、「力」の世界に住んでいる人にとっては、構造上不可能になる、なぜなら誰かが自分より優れてスゴイということは、自分の敗北であり、敗北は屈服であり、屈服はどうしようもない激烈な憎悪だからだ。
「力」の世界に住む人は、他人について「スゴイ」と言うのを、必ずメラメラしてしか言うことができず、明るく「す、すげ〜」とよろこんで言うことはできない、他人のスゴさをよろこぼうとすると、「宗主国に心酔する」というよろこび方しか、「力」の世界においてはできない、このことによって人はわずかでもスゴイ人になるという可能性を根こそぎゼロに固定されている/どうしたって、できないものはできない、「力」の世界に住んでいる以上、できないものはできない。

スゴイ人になるということは、自分の敗北歴が真っ白に輝くということだ。

この逆転の構造が、「力」の世界ではありえないということだ、「力」の世界において敗北は黒歴史であり、深い怨恨は必ず血を流す復讐が為されるまで解除されない。
スゴイ人に敗北して、それもたくさんの人にたくさん敗北して、それが黒歴史にならずすべて白く輝いて、包囲されて「アッハッハ」「すげ〜」とよろこんで笑っているとき、無数の光に囲まれて "導かれている" ということがわからないか、この無数の光に「見返す」とか「乗り越える」とか血道を上げている人は明らかに筋違いだ。

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