☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
脳みそいかわたシュークリーム
「ドクター、脳みそがいかわたの人がいるんですって!?」
「そうなんだ、まるでマニア向けのシュークリームのようなんだよ」
そういう発表が先日、NASAの広報官スルコトナイ・ヒマノフから発表された。
これを受けてニューヨーク・タイムズ紙は、「いかわたはあまり食べないので誰もピンとこないだろう」と社説で反論している。

僕もあまりいかわたは好みじゃないので……
かわいくて素直な女の子とキスすることが楽しみで生きている僕にとっては、この世のすべては「何やってんの?」としばしば見える。
「モメるな!!」の一言で済むことが、どうしてもシュークリームいかわた脳の人にはわからないらしい、それはいかわただからしょうがないのかもしれない。
ベーリング海でアカエイと競泳する選手になればいいと思うが、ところでかわいい女の子は全員僕のことだけを愛するように、他の男たちはみなベーリング海に行ったので、僕のことだけを愛するように。

そんなにベーリング海に行きたいか、イエスかノーで答えろ。

ベーリング海でアカエイと競泳する職業は、そうとうキツいと思うぞ、さすがに他人事といえども老婆心から心配する。
実際、かわいい女の子と僕「だけ」という状態は、とってもいいよね! 僕ぐらい学問を修めて脳みそがゴールデンだといつもそういう真実が見えるのだった、学問って本当に大事だと思う。
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宝石を見る習慣
石はとってもいいものだ。
何がいいといって、「輝いている」からいい。
「輝いている」ということをよく知るためには、よく宝石を見るようにするのがいい。
宝石を見る習慣をつけよう、あなたは輝かなくてはならないから。

宝石を、買わなくてはならないわけではない、見るだけでいい、そりゃ余裕があったら買ってもいいけれども。
しかし重要なことは、あなたが宝石を「欲しい」と感じること、それ自体は実はたいしたことではないということだ、ここがミソだ。
あなたが宝石を欲しがったとしても、それでは他の誰かがあなたのことを「欲しい」とは思ってくれないでしょ、そこに気づかないと。
あなたが宝石に寄っていくのは、宝石が「輝いている」からで、じゃあ他の人が「あなた」に寄ってくるようになるためには? そのヒントというか、答えそのものを宝石が示している、答えは「輝いているから」だ、あなたが宝石の購入者なのではなく、宝石があなたの先生なんだ。

輝きは、努力ではなく性質である。

豪奢な宝石を見ると、圧倒されてフラフラ〜っとなるかもしれないが、踏みとどまれ、「輝いている」というその「性質」、その性質の感触をあなたはよく知らねばならない。
あなたの声は輝いているか/あなたの声は輝いているべきだが、そうあろうとしたとき、あなたは誤って「努力」のほうへ傾くのではなかろうか、輝きはあくまで「性質」だ。
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ホンマモンは面白い!!

る格闘技の、三段の位を持つFさんとNさんと、乱取りをしたことがある。
FさんとNさんは、競技上では互角の力量だが、実際に立ち会うと内容が違った、小柄なFさんの打撃は一打一打、こちらが「殺される」という迫力に満ちていた、「もうやりたくない」と思わせる、あれはホンマモンの格闘技だった。
あるいは、僕がセミプロ程度にまで手品をしていたころ、まったく有名人ではない、その筋ではよく知られた年配のおじさんが、内輪の活動でひとしきりのマジックを見せてくれたことがあった。
基本的な技を組み合わせただけの、適当なマジックだったのだが、われわれは「えっ? えっ!?」の連続だった、基本的な技でも完璧な熟練においてやられると同業者でもわからないのだ、それはまさにホンマモンの技芸だと言える。

というわけで、「ホンマモンは面白い」のだ、ホンマモンはときに地味で、派手さが足りなかったりもするが、それにしても何かぶっちぎりで「面白い!!」という事実に直撃される。
何と言えばいいのか……そう、どんなことでも、「ホンマモン」の壁を突破すると、その時点から急激に「面白く」なるのだ、すべてのことはホンマモンになると途端にどうしようもなく面白くなる。
逆に言うと、どれだけ見栄えがして、どれだけ上等な何かに見えたとしても、それが「ホンマモン」未満であった場合、それはやはり「面白くない」のだ、この「面白い」という現象はどこか神聖な区切りとして厳正にわれわれに与えられている。

我が身に何か、ひとつだけでも「ホンマモン」を。

ホンマモンのビジネスマンとか、ホンマモンの医者とか、ホンマモンの法律家とか、ホンマモンの料理人とか、それが「ホンマモン」である場合、問答無用にそれは「面白い」ということになる、そして人が生きるのに面白くなるには実はその方法しか存在しない。
「三日でわかる○○」というたぐいはよく流行するが、そんなものは面白いわけがなく、本当は「三年ぐらいでわかるわけがない○○」のほうが面白い、それが三年ぐらいではわかりっこないから、人には何十年も憑りつかれて生きる理由がありえるわけだ。

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サイエンスは面白い!!
とえば「うつ病の人の脳波はこうなっています」というデータがあったとする。
こういうのは面白くないので、サイエンスではない。
面白くないものはサイエンスではないのだ、どれだけ理学部の教授が研究していたとしてもだ。
一方たとえば、坂本龍一がドビュッシーから影響を受けて変ロ短調のサブドミナントコードから13度和音を狙って「戦場のメリークリスマス」を展開しているということは、聴いているだけでゾクゾクして面白くてたまらない。

僕は、文学や音楽のノートが、余人では気づきようもない感覚の、深奥のサイエンスから組み立てられて、作品を構築しているという事実がとてつもなく好きだ。
たぶん、人間の「アホ」というのは、この奥深い構造を為しているものをサイエンスと知らず、表面上の「メンタル! 脳波!」というような短絡をしかサイエンスと思っていない人のことを言うのだ。
僕は、たとえば明治維新が「日本の夜明けは近いぜよ」だけで成り立ったとみなすような、アホ話がとてもノーサンキューだ、この世界にそんな上っ面だけで成り立っているような事象は何一つない。
余人では気づきようもない感覚の、深奥のサイエンスを、直接取り扱える人間になりたいのだ、そのためには鍛えるというか、ウズウズしているうちに鍛えられていくのだろう。

深奥の秘密を、手足のように操る。

数学者の数式や、音楽家の楽音、文学者の言葉は、深奥の秘密を手足のように操るものなので、まあ余人が真似できるものではない、その逆立ちしても真似できっこない神韻の顕れにあこがれる。
深奥のサイエンスが、手足のように使えなくては、すべてのことは一時的に「雰囲気に耽ってみた」というだけに成り下がる、そういうことに耽って後に大きな後悔をしたくないのだ。
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「問答」を省略できるチャンス

とえば、若い兄ちゃんが切り盛りしている居酒屋に、いつもどおり僕はときどき行くが、そのとき新メニューを勧められることがある。
そうしたら、「おすすめの新メニューがありまして」「じゃあそれひとつ」「えっ」「いいからそれひとつ。はよ持ってこい」と僕は注文する。
構造的には、「お前らみたいなモンが、新メニューをこさえたというなら、おれみたいなモンが食ってやる、はよ持ってこい」ということで、「内容なんかどうでもええわ、勧められたら食うに決まっとるわ」という、つまり内容を聞く前に注文することが大事だ。
そういえば以前、沖縄料理の店で、はたらいているお嬢さんが沖縄出身だというので、「じゃあ全注文をお前が決めてくれ、沖縄っぽいやつばっかりくれ」と丸投げしたことがあった、あるいは秘密のバーFKに行ったときも注文はいつも「Mさんスペシャルで」で済ませている(Mさんはそこのバーテンダーだ)。

ある大連料理屋で、ひととおり注文して、「あとはおっちゃんの得意料理ひとつちょうだい」と注文したところ、おっちゃんがニヤニヤしてわけのわからないブタの耳の何かを出してくれたことがあった、あれは何という料理だったのか未だにナゾだ(たぶん北京語で説明されたのだが何を言っているかは不明だった)。
まあそれはいいとして、ほんの刹那、われわれは「関係性」の能力において、「問答」を省略できるチャンスがある、僕の投げかけは「クソみたいな客が店の言いなりに飲んだるわ」であり、ほんの刹那、そこに「あいよ」と直接受けて立つチャンスがある。
僕の丸投げに対して、その機会に乗らず、なおマニュアルに定められたとおり新メニューの説明を押し進めてくれる人は、職務に清廉恪勤だと思うが、以降は僕も暗黙裏の客マニュアルの履行に努める。
われわれは、「関係性のなさ」に退屈をきわめ、「問答」の不毛なしんどさに辟易しているのだが、けっきょくは関係の作り方を知らず、「問答」を省略できるチャンスをスルーしては、来るはずもない何かのチャンスを永遠に待ち続けている。

「卓球やりませんか」と誘いがくる場合と、もうひとつ、「ピンポン玉が直接飛んでくる」場合がある。

ピンポン玉を直接打ち返せれば、「卓球やりませんか」という問答を省略することができる、ただしこのときピンポン玉を適切に打ち返せるチャンスは本当に刹那しかない。
むかしインドの列車のコンパートメントで、入室するなりヒンディーの青年四人に「お前はパキスタンをどう思う?」と熱く訊かれ、とっさに「パキスタンのことは知らないが、お前らの国はサイコーだぜ」と答えた、なんとか大ウケしたが不意打ちだったので危ないところだった(ここで「えっ」とか戸惑ってしまうような男には何の見込みもない)。

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全責任を自分「だけ」が引き受けて立て(繰り返し)

日、「全責任を自分だけが引き受けて立て」という記事を書いたけれども……
この、「全責任を自分だけが引き受けて立て」というのがとてもいいのだ、それも特に、全責任を自分「だけ」が引き受けて立つ、というところがいい。
自分「だけ」なのだ、他の誰かがどうこうは関係ない、このときこの瞬間自分「だけ」が。
自分がどう生きたか、そして何を愛して何を得たかなんて、自分「だけ」が知り、自分「だけ」が抱えて満たされてゆくものだから、これがいいのだ、こんなもの僕「だけ」のやり方でかまわないけれども。

自分「だけ」が全責任を持つ。
いつものことだけれど、僕は人に、決してしんどいことは勧めない、必ず何かしら解放のエネルギーを得られる方法のことを勧めている。
人間の胴体は、「責任」に反応してエネルギーを生産する自動的な仕組みがあるのだ、これを解放して使う、そうしたらもう本人は頑張る必要がない(それぐらいエネルギーは自動的に湧いてくる)。
自分「だけ」が全責任を持つというとき、その人はあらためてこの世界に「存在」する、自動的にそうなる、そういうエネルギーの仕組みがあるのだった、なんと素敵なことだろうね。

他人の評定を求めることが、人間のエネルギーを終わらせる。

たとえば男性が女性を口説くとき、その彼「だけ」が全責任を持たねばならない、そうでなければそこに誰が存在して口説いているのか意味不明だ、そしてそのときの男が女に評定を求めるときほど、女がガックリ疲れることもほかにないだろう。
もちろん自分「だけ」が全責任を負うわけだから、誰よりも自分は自分に厳しくなくてはならない/このところは自分「だけ」というと、自分に甘くて「無責任」を破裂させようとするきらいがあるが、そうじゃない、「全責任を持つ」のだから無責任であっていいはずがない。

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全責任を自分だけが引き受けて立て
くパーティ行けよ!! と自分でも思うのだが(まだシャワーも浴びてねえ)まあ、まあ。
あなたが生きているのはあなたの責任だ。
おれが生きているのがすべておれの責任であることのように。
社会とかそんなの何のカンケーもあるか。

なんと言えばいいのか、習ったことは何の役にも立たない。
だから習わないほうがマシだ!!
ヨソで習ったことを自分と何かのあいだに挟み込んでいるだろ?
違う、全部自分だ、全部自分の責任、そうでなきゃまるであなたが存在していないふうじゃないか、そういうのは本当にいけない。

全部自分で引き受けたら、自分の内部にオーケストラホールが。

口癖は、「は? "わたし"以外に何があるのよ」だ、照らし合わせるな!!
あこがれの人、頼りになる先生、正しいメソッド、全部そのときは放り出せ、全責任を自分だけが引き受けて立て。九折
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外なる自由

当の「自由」ということについて話そう。
多くの人は、自分を自分という枠の中に押し込め、その内部においては自分の「自由」、つまり「わたしの勝手でしょ」と思っている。
でもそれは、言い方を変えれば、一歩外側の世界のすべては自分にとって「不自由」だと宣言しているのと同じだ。
本当の「自由」というのはそうじゃない、自分の一歩外側の世界を「自由」にする、そのときに起こる快楽と快適さについて僕は言いたい。

もちろん、それは「自分」の外側のことだから、身勝手は許されないのだ、身勝手をするとただのストレスと近所迷惑になる。
それでも「自由」というのは……つまり、外には風が吹き、樹木が芽吹いている、そのことにわれわれは非難を向けない、風が風であり樹木が樹木であることにわれわれは攻撃と制約を向けない。
つまり、われわれもそうして外側へ「自由」を創出するためには、われわれ自身が世界そのもの、自然そのものにならなくてはならない、われわれが風や樹木のようであったとき、われわれの「自由」に攻撃や制約は向けられない。
僕は自由の信奉者として、また自由の経験者として、言っておきたい、それはまったく快適で、すごい勢いで、かつ静かで穏やかなものだ。

風や樹木のように、自分の外側に世界を創れ。

われわれはこの「世界」を、当たり前に「風」が吹き、「樹木」が芽吹くものだと捉えている、なぜその中で「あなた」だけが「世界」でなく不自然な物体になってしまうのか?
自分の外側に世界を創れ、われわれは世界を生きているので、そこに「世界」があるならそれを不自然とは感じない、不自然に感じるならそこに「世界」がなく「我」だけがあるからだ。

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エネルギー量において差別せよ

間はみんな平等だ(ウソ)。
なぜウソかというと、人によってエネルギー量が違うからだ。
エネルギー量とはつまり、「精力」ではなく「精神」に到達した者が、無制限のエネルギーを獲得するというそれだが、その話はまあいいだろう。
エネルギー量において差別せよ、それはとてもナチュラルで、有効なことだ。

Google検索にエネルギーは要らないし、LINEでグループチャットをするときにエネルギーは要らない、その中で人々は「平等」に見える。
しかし生身ではそうではないのだ、真に見聞を深めるにはエネルギーが要るし、真に何かを発信するのにもエネルギーが要る、実は「差別ばっかり」がこの世の真実だ。
重要なことの一つ目は、あなたが膨大なエネルギーの持ち主になるべきだということだ、そうしたらあなたは有利に差別されるべき人になる。
重要なことの二つ目は、あなたよりはるかに膨大なエネルギーを持った誰かに出くわしたとき、あなたがどうするかだ、そのときあなたはなお「平等」を気取ろうとするか、それとも差別において見上げるか。

「平等」を成り立たせるためには、エネルギー量の最も低い人に合わせなくてはならない。

学問を修められるエネルギー量の男Aと、マンガしか読むことのできないエネルギー量の男Bとが、「平等」にやりとりしようとすると、AとBはマンガの話しかすることができなくなる/このことはまるで現代の縮図みたいだ。
実はまだ、BはAの「後塵を拝する」という手段があるのだが、そうするとAとBは「平等」でなくなる、さあどうするか/われわれは互いを尊重することと「平等」を取り繕うことを取り違えている。

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白紙行法の続報2
「白紙行法」は、あんまり腰を据えてやるつもりはないのだが、まあこの先どうなるかわからない、希望されたらやらないでもない。
正しい方法だし有効な方法だ、それは言ってみれば、「鍛えに鍛えて、鍛えて鍛えて鍛えて鍛えて鍛えてみればどうだろうか?」という提唱になる。
こういう絵面を想像してほしい、あなたが一枚の巨大なキャンバスの前に立っている、そして観衆が注目している、あなたは「やれやれ」という感じで、しかしそこにその瞬間の表現をこなすことだけは圧倒的な自信を持っている……そのことだけには鍛え抜かれてきたという立ち姿がある。
それはそれで、カッコイイじゃないか、このカッコイイやつになろうとしたら、そりゃ白紙とクソほど向き合うしかないし、よっぽど正しい向き合い方をしないとモノにならんだろという話なのだった。

たまには、暴露話のように言うと、僕は「あなたと会って、途端になぜか持病が治りました」と言われることはザラだし、「生まれて初めて食事とお酒というものを知りました」とか泣きながら言われたり、あるいは二十も年下の初対面の女の子に耳元で「大好きです」といきなり言われるのもザラだ、もはや何も珍しくない。
そして、正直なところ、そういったことはうれしいけれども、同時に「どうでもいい」のだ、快適で大好きというだけで「よかったね」と言いうる時期はとうに過ぎた、この先を生きていくのにはそれだけではちょいとばかり足りなさすぎる。
僕がモテているわけではなく、もともとは「男が男なのに、女が初対面から惚れなくてどうする、そんなのアタリマエでしょ」というのが正論であって、さらに人が人と会って体調ぐらい治らないでどうするとか、つまりハッピーってアタリマエでしょという、ただそれだけのことで、何も僕がすぐれているということではない。
僕は、大いなる下心を顕在させつつ、同時に、せっかくなのでこの時代に、拡大の糸口を掴んでいってほしいのだ、「鍛えに鍛えて、鍛えて鍛えて鍛えて鍛えて鍛える」ということは、決して苦痛やしんどさをあなたを強いるものではない。

僕は異常に遊ぶことを勧めているだけで、あなたがうつむく必要はまったくない。

あなたを極端に左に引っ張り、同時に極端に右に引っ張る、するとあなたは「中庸」になり、偏りがなくなる/ここにある種の「精神」と呼ばれる現象が生じる、「精神」は偏りをなくして、白紙にもともとのすべてがあることを発見する。
つまり、「あの右翼どもに、核兵器を落としてやるか、労働者たちで作った平和の核兵器をだなあ〜ただし原発は反対さ、ところで電気代を全部タダにしてくれないかな〜」という状態になる、さあ絵を描くなりピアノを弾くなりしろ、そりゃ精神的な何かが出るだろ。
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白紙行法の続報
ういえば先日、「白紙行法」のテキトーセミナーをやったりしたので、そのオモシロプリントなどを公開しておこう、こんなわけのわからんメソッドを目の前で実演・教示できるのは世界で僕だけである(自慢)。
無から有が生じるわけがないので、一般的には見えていない何かを(もともとの有)を掴まないといけないわけで、それは思いがけないことに、「何かを創るということは、作っちゃダメ」ということになる。
セミナー怪しすぎワロタのたぐいだが、実際にその場で僕が展開するナゾの絵画群と、合わせて出現してくるナゾの物語は、みんなを大変よろこばせたので、まあ少なくとも僕自身はソレができるわけだ、それも割とあっさりやるから困りもんである(だっておれは慣れているし……)。
そっちの筋で言うと、やれ変性意識だの何だのというたぐいの話らしいが、僕はそういういかがわしいセミナーに興味を持つことを、まったくオススメしない立場だ、そんなチャチな方法で真実が掴めるわけがないだろ、何か掴みたきゃ自力で気合いで掴め、掴めなきゃフェアに滅べばいいだけの話だ。

気功やら変性意識やらに詳しい人に点検してもらうと、僕はどうやらそっち側で大きな実力を持っているらしいが、僕はそんなスピリチュアルなモンに興味を持ったことはないし、そんなものをほしいと思ったことはない。
ただ僕が知っているのは、人間、フツーではやり遂げられない何かをやり遂げねばならないというとき、意識がブッ飛ぶまですさまじい鍛え方をする、ということだけだ、そういうときの人間がうつくしくて面白いと思う。
それでいうと、ホンマモンの恋あいとかでもそうだ、そりゃホンマモンの恋あいをすれば変性意識ぐらいにはなるでしょ、「日常意識の中でする恋愛」って何だよ、それじゃ恋あいにはならないじゃないか。
何か意識をブッ飛ばして、高次の精神と能力に接続するのは、基本的にアタリマエでないとな! そしてそんなものにあこがれて「方法的」にアプローチするのはまったく報われない邪道の極みだと僕は思うのだった。

あなたと白紙と、ヤワではないこと。

僕はスピリチュアル関連の人間がたいてい「ヤワ」なのが気にくわない、意識がふわふわ弱いのは単に意識が弱いのであって変性意識でも何でもない。
総合商社のオジサンは、日経新聞を読むスピードがおっそろしく速い上に、当人はあくびしている、それを見て「やっぱすげえな」と思うのだが、それがヤワではないということだし、それが意識がブッ飛ぶまですさまじい鍛え方をしてきたということだろう。
できるオンナだね | comments(0) |
善は急げ!!

ろんなことをやるべきだ。
やるべきか、やるべきでないか、ということを考えてしまうのは、急がずのんびりしているからにすぎない。
急いでいれば、「やるべきだ」と決定するし、しかも「間違っていてもそれでいいから」と決定してしまう。
急げ、損得や、感情が入り込む前に、評定が起こるより先に、失敗も成功も急いでやるのだ。

忙しいのはうれしくないし、焦るというのはたいへんよくない、特に「焦る」というのはサイアクの現象だ。
そうではなく、ヒマで余裕があるのに急ぐのだ、じっくりやれる時間があるくせに、やるとなったら「急ぐ」のだ。
跳び箱を見た瞬間走り出す、そしてガコンとぶつかって転倒する、ワハハと笑って「メシいこか」という、そして「なんで跳び箱を?」「覚えてねえよ、ギョーザ食いに行こう」となる、こんなところに邪が入り込む時間的余裕はない。
「なぜ勉強しないといけないのですか」と訊くガキがあったら、刹那に参考書を投げつけてやる、そこでハッとすべてを直覚するガキは才能があるだろう。

検討するのは自信がないからだ。

そして、検討していてはいつまでも自信は得られないだろう、この循環の牢獄から目を覚ます唯一の方法は「急ぐ」ことだけだ。
人間の一生は短いが、急ぐ者にとって二十四時間はとてつもない長さになる、それはまさに善の実現だ。

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脳みそが回転する

を描き、歌を唄い、踊り、学問をする。
仕事上の無理難題に立ち向かい、恋人と情熱的なキスをする。
それらがすべて、脳みそのよろこびになっていなくてはならない。
ガマンになっていてはいけないし、また神経の興奮になってもいけない。

夏の夜は脳みそのよろこびだ。
打ち上がる花火は見上げると巨大で、これ以上ない脳みそのよろこびとなる。
LPレコードの音源から、湿度と共に、ミュージシャンの脳みそが見えてくる、脳みそは脳みそに出会って感激する。
酒を飲み下し、肉を頬張って噛みつくせ、けっしてお味を論評するな、脳みそがよろこび尽くしたら夏の夜の用事は済んだ。

脳みその回転は扇風機をみならえ。

夏の夜、それは音もなく回転し続ける、それは無意味か? いや風を送りつづけて熱気をさわやかに掻き回している。
われわれは風の吹き抜ける中で休めるのであって、沈滞する空気の中で休めるわけじゃないんだ。

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白紙行法

「正しい芸術の入り口」として、「白紙行(はくしぎょう)」という方法を発明した。
芸術の入り口は白紙にあり、その対極はたとえば「習字」にある、"模範をなぞる"ということが芸術の真逆になる。
だからこそ、芸術は"習う"ということができない/が、かといって独りよがりの思い込みでなんとかなるというものでもない。
正しい入り口は必要なもので、これを知ることは大きなアドバンテージになる、まあ僕は芸術家なのでこれぐらい大口を叩いても差し支えないであろう。

芸術の入り口は白紙にあり、"模範をなぞる"という学校的方法が、人間の芸術性にフタをしてしまう。
と、この話はなんとなくわかりやすく聞こえるが、それで「おお」と言ったところで、けっきょく何になるというわけでもない。
「存在」するもの(イグジスタンス)と「滅ぶ」もの(ステイト)とを見分け、"無から有が創られるわけではない"ということに気づかねばならないのだが、こんなもん何を言っとるのかわけわからんちんだ。
このわけのわからん話を、わかりやすーくレクチャーしようという試みが、水面下で進行中だ、レクチャーに参加したい人はテキトーにメールでもよこすように。

あなたは「あなた」になるべきで、「あなた状態」になるべきではない。

状態/ステイトは、必ず「一時的」なもので、「永遠」のものではないからだ、ステイトはもともと滅ぶために作られている/それの使い道がないというわけではないが、それは芸術とはカンケーないやつなのだ。
現代は、「モチベーションを作って動こう」という発想が主流だが、少なからぬ人がすでに「モチベーテッド状態」という"一時的なやり方"を繰り返すのに疲れ始めている/人に芸術を教えることはできないが、人を芸術のほうに蹴り出すことはできる。

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哲学のまるでない銃弾

信を持つことが第一だと言ったが、善良ぶって言ってみると、このことにはコツがあるんだ。
まず、自信が持てるということは、お前が安心できるということじゃない。
安心のために自信を持ちたいと思っている奴は、その弱さから永劫に救われないだろう。
自信を持つということは、むしろ逆で、自分には「敵」がありうるということ、そのことをヘッチャラで生きていくってことなんだ。

まず、誰ともドンパチなんか始めないことだ、またそういう決意は、不思議と全身に滲み出るものだ。
ドンパチをやらない、ということは、相手に対して「敵でいてくれていいよ」と投げかけていることになる、敵でいいし、ドンパチがないなら互いに味方ぶる必要もないんだ、だから互いに笑っていられる。
向こうは向こうで、自信の持ち方を手探りしている、誰でもそうなんだ、そのことを察してやることだ、自己中心的にならず。
重要なことは、誰だっていつでも困っているということで、相手もいつも困っているってことだ、困っているのはお前だけじゃない、だからお前は困ったまま生きている奴でいていいんだ、誰とも等しく、それが自信を持つということだ。

敵がいて、しかしドンパチはしない奴が、「平和」ということだ。

敵がいない、なんて状態はありえない、敵なんかいないと妄想したがる奴は、敵の可能性に毎日ビクビクしているだろう、こういった奴はいつも内心でドンパチの準備をしていて、泣きそうなほど母親のような味方をほしがっている/そして武力がないのでチンマリ縮こまって生きているものだ。
敵とはドンパチしなきゃいけないなんて、誰が決めたんだろうな? おそらく自分の正しさと敵の正しさを比較したがるアホが、自己中心性のストレスに耐えかねて、哲学のまるでない銃弾をぶっ放すだろう。

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あなたを復旧する方法
「どうしたらいい?」と誰もが考えているように思う。
が、「どうしたらいい」ということは決して見つからないし、もし見つかったとしたら、それは見つかっただけに間違っているのだ。
どうしたらいい、ということは永遠に見つからない、このことは始めから諦めとけ。
ただ、あなたが本来のあなたに戻らなくてはならないとき、ひとつの方法ぐらいは思い出せるようにしておいてよいと思う。

仮に「三昧法(さんまいほう)」と名付けてもよいかもしれない、いわゆるひとつの精神集中や瞑想のような方法だ。
だが、われわれドシロウトが瞑想なんかやってもどうせロクなことにならないので、もっと具体的なことをする。
方法はズバリこう、「動かないものを見つめる」のだ、ここで言う「動かないもの」とは、言葉であったり行為であったりする。
たとえば「雲」といったとき、「雲」という言葉は動きっこない、だからこれを見つめる、そしてわずかな時間でいいので、「見つめたものを自分のすべてにする」、「雲」という言葉を見つめたとき、数分でいいので「雲」という言葉を自分のすべてにするのだ。

十五分間、「皿洗い」を自分のすべてにする。

「皿洗い」とは何なのか? そんなことを定義する必要はない、何しろその十五分間は皿洗い以外の世界は存在しないのだから、十五分間はこの宇宙に皿洗いという行為しか存在しない。
別にいいでしょ、十五分ぐらい、たいしてあなたの損にならない/そして三昧(さんまい)に至っていようがいまいが、けっきょく皿洗いには十五分ぐらいかかるんだからいいじゃないか、これはとっても気分のいいことなんだよ。
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おしゃれ画風について念のため
あいものとして、おしゃれ画風のショートストーリーマンガが「リツイート」されているのをよく見かける。
細身に描かれたおしゃれな二人が、幼馴染同士として「こうなれればいいな」というふうに表現されているのをよく見る。
そういったものに、こころときめく(ときめくからリツイートされているのだろう)ということがあるのだと思うし、そのことは僕もわからないではないのだが、僕は僕の路線として、ここではある種のことをハッキリさせておかないといけないのだろうな……と、どうでもいいようなことを思う。
おしゃれ画風にキモチが「ふわっ」とする人は、あくまで「念のため」として、こんなことを知っておいてもいいのじゃないかと思う。

おしゃれ画風の二人に憧れたとして、生身の人間は「ああいうふう」にはなれないのだ。
なぜなら、「ああいうふう」にやろうとして見ても、「声」と「眼差し」がヘンになってしまうからだ。
あくまで念のためのこととして、知っておいて損はないと思うのだが、おしゃれ画風に示されるような恋人像を目指そうとしても、必ず「声と眼差しがついてこない」という問題に頓挫してしまう。
たいへん残念なことに、われわれは「肉声」しか発することができないし、目の色だってナマモノなのだ、それらは実際にはおしゃれに取り繕えるものではなく、生命力をもってしか輝かないものだ/おしゃれ画風へのあこがれは声と眼差しにおいて頓挫する。

実際の「あなた」は、声と眼差しのものだ。

モニタ越しのアイドルなら、演出表現によって類似の何かになりうるかもしれないが、ほとんどの場合あなたは生身で人と付き合う、すると「あなた」とはすなわち「声」と「眼差し」なのだ、あなたのあこがれは実際にはあまり役に立ってくれない。
マンガとしての表現に、あまり浮かされないように、あなたはマンガを見ることができても、他の誰かはあなたをマンガ的に見ることはできないのだから。
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野心的なあなたへ
しあなたが、野心を持つのなら、あなたは誰よりも「感動」する人であればいい。
よくよく見ると、「感動」する人は少ないのだ、「興じる」人は多くても「感動」する人は実はとても少ない。
たとえばポルノ鑑賞やギャンブルやソーシャルゲームに「興じる」人は多いけれども、彼らは「感動」してそれらをやっているのではない。
勉強する人は多いし、読書する人も多い、努力する人も多いのだけれど、実は「感動」する人が一番少ない/野心的なあなたならぜひ「感動」を取りこぼさないことだ。

恋あいものの映画を観れば、誰だってホロリと落涙ぐらいはするものだ。
けれども、実は一番多いのは、そうして落涙して「すっきりした」と感じている人なのだ。
映画を観終わると、「いい話だった」「いい映画だった」という感想と共に、どこかで「こんなものだよな」と冷めている、実はそういう人が一番多い。
「感動」するというのはそうではなくて、じゃあどういうことなのかというと、ここでは説明できないが、野心的なあなたはどうぞ、明らかに「感動」する人であってください。

「感動」したなら、あなたは強くなっている。

誰もあなたの好きなものに、口出しなんかしないし、するべきじゃない、だからあなた自身で気をつけて、気づくべきだ、あなたはあなたを強くするように生きているか、あなたの「好きなもの」は、あなたを癒すふうで、あなたを弱くしていないか。
勉強して努力して、活動して、しかし「感動」はしませんでしたというのでは何より損だ、すべての努力があなたを強くはしなかった、なんて話は悲しいじゃないか。
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「評価」することと、「衝撃を受ける」こと

「評価」は誰だってできるが、「衝撃を受ける」には体力が要る。
体力というと雑だが、つまり「衝撃を受ける」ためには、あるていど当人の「強さ」が要るのだ。
人間にとって、体験は大事だが、どんなすごい体験を得たとしても、当人に「強さ」がないと、それを受け止められない・引き受けられないということがでてくる。
「すごい体験をした」という場合、それは「すごい衝撃が自分の身体に残っている」ということでないと意味がないのだが、当人に「強さ」がない場合、衝撃そのものを身体に受け止めることができないのだ。

だから、強さのない人を集めると、その人たちはなんというか、「納得マニア」になる。
納得して、評価するのだ、「すごいと思います」という納得と評価を繰り広げる、しかし身体には何の衝撃も入らないようたくみに回避の体勢をとっているものだ。
それはそれでかまわないのだが、この回避体勢が習慣になっていると、以降はもう何の体験を得ても自分の足しにはならなくなってしまう。
「自分が進んでいかない、停滞している」という人は、たいていこれだ、体験や刺激が足りていないのではなく、体験を受け流す卑怯な体勢が習慣になってしまっているのだ。

「衝撃」を避けるため、「活発な努力」に身を逸らしている。

これはあるていど、やむをえないことでもある、何しろ「強さ」がまったくない状態で強すぎる「衝撃」をモロに受けると、心身がバラバラに打ち砕かれて、危険な状態に陥るからだ、なかなか度胸一発でなんとかなるというものでもない。
もともとは、たとえば「赤ずきんちゃん」の話のスリルに耐え、学校では先生に怒号で叱られることを経て……というふうに、「強さ」を養っていくものだが、現代はその仕組みがない、現代でやけに活発な努力へのモチベーションが声高に言われるのは、ほとんどこの衝撃への弱さを糊塗するためのものだ。

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何度も何度も負けましょう
度も何度も負けましょう。
負けるといって、人間的に負けるのが一番いい。
とにかく人間の、人間らしい力に直面して、「負けた……」と笑うことを繰り返すのがいい。
その中で、「強い」というのがどういうことかわかってくるから。

僕自身、これまでに何度も、「こんなヤツにどうやって勝つんだよ」と、トホホな直面を何度もしてきた。
何か月か、じっくりと、自分を鍛えたつもりでいて、「よーし」といざ直面すると……「おう」と言われて、「あかん」とその勝てなさに直面しなおす。
今だってそのときのことを思い出すと、背中にいやな汗が流れそうになるが、とにかくそうやって、「勝てねえ〜」という実感に直面してきた。
その先に、「方法」なんてない、「方法」なんて一番弱っちいのはミエミエだ、じゃあ何が強いといって、燃焼で上回るしかないのだ(しかし、その燃焼で上回るというのが一番キツいのだが)。

エンジン音で負けて笑え。

人間性の勝負は、タイムや成績じゃない、エンジンそのものの勝負だ、そして上位者に目の前でエンジンを回されると「あかんわ」と敗北を悟るのだ、ああ敗北ってイヤだね!!
人間の表面、「ガワ」で競ってもしょうがない、大声でうるさいのが強いわけじゃない、愛や叡智や情熱において「エンジンが違うわ」と敗北しつづけることが、やがて自分自身を強くしてくれるだろう、それなら負けないほうが損というものだ。
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