☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
身分学、新発見(円満法)

いうわけでだな、幸福な話だ、最近ウダウダ言っている「身分」うんぬんについて、より穏健な方法が見つかった、それは「円満法」と呼ぶのがふさわしい。
以前から言っていた、第一層から第七層まで、地→天のエネルギーでブチ抜くという方法は、原理的には正しいが、いきなり胴体最下部のセックスから直撃するのもあって、いくらなんでもムリっすということがあった、実際その方法を強行してもクンダリーニ症候群と呼ばれる心身へのリスクがあるので現実的ではなかった/このリスキーな方法は「円満法」と比較すると「ブチ抜き法」と呼ぶのがふさわしいだろう、もちろん成功すれば最短でイケるわけだが、何の下地もなしにそれはムリでっせというのが今のところの回答。
一方「円満法」は、呼んで字のごとく、胸の中央、心臓にある「わたし」を中心に、円を描いていくように考える、この円がバランスよく満たされていくように開拓していきましょーということなので、まさに円満法と呼ぶのがふさわしいわけだ。
胸を中心(原点)にして、第一円が「喉」と「みぞおち」、第二円が「額」と「下腹」、第三円が「頭頂」と「ヴァギナ部」(男性でも同じ)となる、これらはふつう、第二円までしかアプローチしなくてよろしい、第三円にまでアプローチするのは基本的に奇人だ、こんなネタはあくまで健全さをベースにできれば十分というものだ。

どのように考えればいいか? まず、たとえば赤子は、生まれてすぐにでも、やはり母親から愛されているかどうかを敏感に感じ取るだろう、まあ母親に限ったわけではないが、嬰児は第一に「愛があるか、ないか」ということだけを感じ取っている、愛がないと「イヤ」「さびしい」(こわい)ということで泣くのが嬰児だ、これが[原点/わたし]となる。
嬰児が幼児になっていくと、幼児は「よく食べるね!」ということのよろこびとエネルギーを覚える、それと同時期、たとえば「アンパンマン」を見て、何かが「面白い」というエネルギーを覚える、これが[第一円]となる。
幼児が児童になってくると、学校に行くようになり、「知恵」を学び始める、それと同時期、少年マンガで「意志」や「正義」を学ぶようになる、これが[第二円]となる、これらのエネルギーが、心臓部にある[原点/わたし]に流れ込み、[原点/わたし]の強さが鍛えられ、レベルアップしなくてはならない。
[原点/わたし]がレベルアップすると、今度は再び第一円、部活動で「根性だ! ガッツだ!」ということを学び始める、それと同時期、ジョークやユーモア、お笑いや演劇の面白さを学び始める、こうして原点Lv1→第一円Lv1→第二円Lv1、原点Lv2→第一円Lv2→第二円Lv2と進んでいく、バランスが重要だ、上下ともバランスよく満たされて「円満」にならないと、エネルギーの流れ込む先が心臓部にならず、「わたし」の居場所がズレていってしまう、「わたし」が心臓部から出奔してしまって間違った場所にこびりついてしまうのだ。

円満法、「ガッツにはユーモアがついてこないと円満じゃない」、「意志には知恵がついてこないと円満じゃない」。

このとおり、「ガッツとユーモア」「意志と知恵」とバランスを表示してみると、確かにこれがバランスしていないと「円満じゃない」ということが直観的にもわかる、たとえば思春期にガッツに偏りすぎた人はユーモアを取りこぼしただろうし、思春期にサブカルに偏りすぎた人はガッツを取りこぼしたはずだ。
学生時代にお勉強に偏りすぎた人は、後に意志が持てず指示待ち人間になってしまっただろうし、そのころオラついていた人は、後にハードカバーの本に何が書いてあるかさっぱり読めなくなってしまったはずだ、そしてそうして偏ってしまった人は、いつからか「わたし」がよくわからなくなっていったはずだ、特に喜怒哀楽が「わたし」から剥離してしまうことが多い。

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胴体へのアプローチを持つこと
野一雄は、「関節が壊れるか、ぐらいまで踊らんと可能性がない」というようなことを言っていた。
なんというか、われわれ現代人は、自分の胴体にアプローチする方法をひとつも持たないのは、もはや危険だ、必ず何かを持っていたほうがいい。
もともとおじさん連中が、偉くなるほどゴルフをするのはそういうことなのだ、扱う金額がデカくなってくるほど、その負荷に病まないよう胴体へのアプローチが必要になるのだ。
近年の筋トレブームは、一言でいえば間違っていて、肉が育つということは神経が休まるということなのだが、筋トレをすると「筋」が興奮して強化されるのだが、それは神経が休まるどころかますます加熱しているので、麻薬投与的に依存はするようになるが、胴体へのアプローチにはなっていない、蛇口を分厚い鋼鉄製にしたところで水流にはむしろ悪影響しか及ぼさないからだ。

静的には、ヨーガなどが典型的に胴体へのアプローチだが、動的にというと、これは「短時間になるべく多数の技を出現させる」というやり方になる。
たとえば中国武術的なやり方だと、詠春拳や八極拳が露骨にそれとわかる、短時間にどれだけの技が出るねんという具合だが(まあ中国拳法はぜんぶそんな感じだな)、中国拳法に筋肉ムキムキのグラップラーはいない。
静的・動的のどちらにせよ、胴体へのアプローチを自分なりに持たないのは、もはや現代の文化状況において危険だ/参考にいうと、実はパートタイムで長年作業をしているおばちゃんは、そのすさまじい速さの仕事の中で、「短時間にどれだけの技が出るねん」ということを日々こなしている、それによって胴体から病気や闇が生じることを吹き飛ばしているのだ、あれ自体ひとつの功夫(クンフー)だと言っていい。
精神科医の人に聞けばわかるが、肉体の緩慢・動作の緩慢は、明らかに精神病の予兆として現れてくる現象だ、具体的に緩慢ということは「ヤバい」のである、「テキパキする」ということができなくなるのは、哲学的になっているのではなく病的になっているだけなのだ。

胴体への、ケアではなく、敏捷さに向けたアプローチを持つこと。

現代は非常にマズい状態なのだ、実験してみればわかるが、実は現代人は昭和の人間が話していた速度ではもう話せないのだ、それも知能ではなくただ肉体動作の緩慢性によって不可能になっている(ためしにB&Bの漫才を、文字に書き起こしてみたとして、それを音源と同じ速度で読み上げることが、もう肉体動作として不可能なのだ)。
静的でもいいし動的でもいいので、胴体の敏捷性を高めることへのアプローチを持つこと、もうあいまいに保留していられる状況ではなくなってしまった/肉体が緩慢化すると、行き場を失った「流れ」が滞留し、感情が激化するということが起こる、それで現代人は<<話すのが遅いのに、しばしば奇声を発する>>という病状を見せているのだ。
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離れて触れろ!
まり問題ばかり直視していると気が滅入るわい。
「離れて触れろ!」、<<距離は美徳だ>>、離れて触れる、プラス「自分から」ということですべては是正されるだろう。
ここを逆に思っている人が多すぎる、何かというと甘えの権化で、近づきすぎ、しかも触れてはこず引きこもっている、さらに他人から何かされるのを待つ「受け身」という、こんなやつはライザップに課金してから松ヤニの採集業者になること。
全力できもちわりぃんだよ、それが目立って言われないのは、若い女の場合オマンコが優先だからだ、若い女とオマンコできれば精神がきもちわるくてもいいか〜と放置されているのだ、これはマジだぜ、クソ店員でもタダでエビフライを食わせてくれるならまあいいかというような精神状態なのだ。

「離れて触れる+自分から」、ということだけがすべてを是正するだろう。
デイヴィッド・カヴァデールはその歌声をもって、遠くから、われわれに触れてきたじゃないか、どこの誰とも知らなかったけれどサイコーだっただろ? それと正反対をやってどうする。
現代人はサイアクだ、何か病的なママコンプレックスで、何かとすり寄ってくるくせに、すり寄ってきては漬けもの石みたいにズーンと引きこもっているのだ、お前の脳みそには100円均一のイヤホンでも刺さっているのか? よくまあ人の個人的領域に侵入してきて引きこもりながら「受け身」をえんえんと実演していられるな、お前のママはワカメにビオレをつけて顔面をこすったりでもしているのか。
<<距離は美徳だ>>、<<触れるのは美徳だ>>、<<自分からが美徳だ>>、このすべてを悪性にこじらせているやつが、定期的に自己陶酔にボンバーするのはなぜなのかね、黙っておれの靴でも磨いていろ、そしたら「ん? 誰かが磨いてくれたんだろ」と評価しておいてやる、お前の身柄なんかよりおれの靴のほうがよっぽど上等なのだから、お前だって気分がいいだろ。

「受け身」? それどころじゃないだろ、「受け身」で「固まり身」で「甘え身」だろ。

まったく冗談じゃないが、こんな身のありさまで、かつヒンヒン<<自分のためだけに泣く>>のが現代人だ、違うだろ泣きたいのはお前のまわりの人間だよ、まるで高齢者がバスにタダで乗れる特権を使い回す具合に、愛ある人の慈悲心をタダで使いまくってウーンと悩んでいるフリをしているだけじゃないか、お前は実際に世話になった人にライターのひとつさえ贈ったことがないじゃないか。
離れろ離れろ離れろ離れろ、それが自立の第一歩だから、離れてさびしく思うようなら、お前はこの世界のすべてが自分のためだけの奴隷だと思っているのだろうな、距離でさびしくなるのは触れる能力が皆無だからだ、誰もクソ女になるべきではないので繰り返す、距離は美徳だ、触れるのは美徳だ、自分からが美徳だ、「離れて触れろ」、自分の漬けもの石ボディをなで回すばかりはやめてだ。
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魔をブッ飛ばせ!!
あとにかく、すさまじい夢をみたのだ。
いつぞやのアレと同じ、ほら、いつぞや「新幹線のグリーン席で昏睡して、何かよーわからんものに三十二回攻撃されたけど、全部よけたぞ、見たかゴルァ」というやつ、あれと同じ夢だ。
魔物とかオバケのたぐいだが、我ながらまあ、よー戦いよる、そもそも夢の中でオバケが無数に出て、そのいちいちを「ブッ飛ばしに向かう」というのはどうなのよ、夢の中とはいえ根性入りすぎだろ……
前回の夢は、僕が襲撃されたものだったが、今回は違う、僕が魔物に襲われる用事はない、今回はことごとく、誰ぞが襲われているのを横からしゃしゃりでて「ブッ飛ばした」というシチュエーションだ、魔物もなかなか手ごわいもので、この僕でさえ声が出なくなるという窮境が少しあった(しかし足の裏から全身をつなぐという変態技によって声を恢復、勝利した、なんじゃそれ)。

人間が持つ、「怖い」という感覚、それはつまりオバケ的なものが「来よる来よる」という感覚だが、これ、実は根拠がないのだ、根拠がないので暴走したらいくらでも「怖い」という感覚に取り込まれる。
だから光を灯しておくべきだな……ふだんわれわれは、この「怖い」という感覚が暴走してはいけないので、そういった感覚が生じないよう、「意識」を覚醒(ないし興奮)させて、感覚が生じないようにコントロールしている、つまり「訳あって意図的に自分をバカにしている」のだ、そうでないとひどいパニックに陥ってこころを深く損傷するから。
これに対する、正規の対処方法は、「怖い」という感覚と同列にある「これじゃあ!」というナゾの気迫、声、光、熱、を自ら発し、蹴散らす、ブッ飛ばす、ということなのだが、今どきそういう方面で心胆が鍛えられているやつはお目にかからない、そういうマジの恐怖モンを、正面から撃砕するというのはどーなのよ、つまりそれは「オバケの側の心胆をマジでビビらせる」ということだが、こんな気迫はマジに生死の境目に至らないと発動しない。
ただの夢さ、ということならいいのだけれど、さすがに単なる「夢」と、「寝ているあいだに得る体験」の差ぐらいわかるわい/いいかげん、「九折さんが来たらホッとする」といつも平然に言っている奴、こちらが機材なしの天然ゴーストバスターズをやっていることに気づいたらどうやねん、やっぱり状況的にこんなのおかしいよ〜(愚痴)。

魔を呼んでしまう奴が、魔を祓う奴に威張るなかれ。

神域に到達しているようなロック・シンガーが、上半身裸になって叫ぶと、「光」が生じるだろ、一方オメエ、新宿の路地裏でメンヘラ女が上半身裸になって叫んだら、恐怖でしかない、そんなの「魔」が差しまくりだろ、それを「身分だ」と言っているわけだ/裸の上半身および肉声という「身」そのものから、フル出力したら何が出るって、身分の高い人からは「光」が出るんだよ、実際そうして「身」から出てくるモンが違うのだから、身分というものを否定していてもしょうがあんめえ。
さらに正確に言うとだな、「光」だけでは魔物はブッ飛ばせんのだ、魔物をブッ飛ばすには「魂」が要る、肉と精神が融合している部分を魂というが、この魂が「魔にも光にもよく届いている」というクラスでないと、魔物はブッ飛ばせない(※注、できたとしてもすっげえ疲れます)/聖歌隊は光を教える歌声のものであって、魔をブッ飛ばす声のものじゃない、だからロック・シンガーはしばしばスラム街から誕生したりするのだ、そのへんになるともう魂のクラスが違うぜ。
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やりたいことをやるべき
っぱりやりたいことをやるべきでね。
やりたいことというのは、不利益でないといけない。
不利益というか、非利益でないといけない。
人は「欲に駆られる」から、駆られている時点ですでに牛馬だ。

欲に駆られているとき、欲が主体であって、あなたが主体ではない。
ほとんどの場合、ほとんどの人は、欲ではなく自分が主体だったということを、生涯に一度も経験しないだろう。
なぜ欲に駆られるかというと、根本的に貧しいからだ、まずそのことに「ダッサw」と気づかないといけない。
やりたいことをやるというのは、つまり「うっとうしい顔の奴を見ずに済む」ということだ、うっとうしい顔の奴と「調整」「協議」「説明」をしないといけないというのが、この世のオワリのようにサイアクのことなのだった。

うっとうしい顔は利益に転換して生きていく。

それは「足しになる」というか、「足しにしてしまう」ということだが、それにしたってそれは、本当に「やりたいこと」をしていることにはならない。
やりたいことをやっているとき、われわれは無敵だ、誰とも調整や競争をしなくて済む、自由の中にしかいないからだ。
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光に励まされよ
じてもらう必要はないが、夜は電灯が光っている。
幸福なヤツは、食事そのものがやたらとウマいように、幸福なヤツは、光そのものが輝いている。
「光」そのものに対する悟性があるのだ、若いってそれだよ。
若いということは光に鋭敏ということだ。

「おお、光よ」と言っている人は、たぶん見失っているのだろうな。
電灯が光っているのは誰にだって認識できる、だが光そのものの光があるということ。
若いと光そのものを見るだけで完成なんだよ。
光そのものが視えるかな、若いの。

電灯の光に励まされていたらエリート。

雰囲気で言っているのではなく、マジな話、自分が若いと思ってごらん、電灯の光そのものが「あ!」と視える。
メシに旨味があるのと同様、光には若さを励ます成分がある、それはメチャメチャ直接的なものだ。
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明るい未来へhow much love

度確認しても、この路線が検出されてくるので、いよいよこれが本線なのかねと思われてくる。
つまり、多くの人は、愛がないのではなく、愛が「どういったもの」なのか、まったくわかっていないのだ、エラソーに聞こえてしまうがこの際はやむをえない。
僕が若い女の子と並んで歩いていると、どう見ても上質で美徳にあふれた存在は、その若い女の子のほうに見える。
が、愛はそうではないのだ、僕の側に愛があるからこそ、上質で美徳にあふれた若い女の子も「一緒に歩きたい」と言ってくれるのだ、僕の側に愛がなかったらさすがにこんなオッサンとわざわざ一緒に歩いたりするかよということなのだった。

説明は長くなるので、またいずれということにして、何にしてもこれまでこのパターンが多すぎる。
何がまずかったといって、多くの人が僕の愛をわからず進んできたことに加えて、なんと僕自身も僕の愛をわからず進んできたのだ、それによって究極、僕の愛などは「ほうったらかし」だったと言える/このやり方は景気が良かったが、ここ最近はもう使えないというか、臨界点を超してしまった。
単純に言って、「この人の愛は如何様か?」ということで議論が為され、「この人はこういう考え方で、このような実践で、このような愛を発揮してくれている」ということが明視されれば、それで万事は解決と上昇に向かうのだ、しかし何しろ僕自身が、そういったことをまるで考えずにきたからな……
婉曲的に言うのがおっくうなので、もうありのまま言ってしまうが、つまり僕自身も管理していなかったせいで、僕の愛は制限なしにテキトーにぶちまけられてしまっていた、それでみんなで快適に過ごしてきたのだったが、次第に認識外から「罪深さの感覚」が溜まってきたのだ、そりゃ人の愛をジャブジャブ使って「快適」に過ごしていたら罪深さが溜まって当たり前ではある。

僕に愛があることが判明すれば未来は明るいし、僕に愛がないことが判明しても未来は明るい。

僕に愛があるという結論はダイナミックだし、僕に愛がないという結論もダイナミックだ、どちらにしても面白い、ただ「この人には愛がある」とか「ない」とかいうからには、「なぜなら愛はこういうものだから」ということが当たり前に述べられねばならないだろう、それは愛とは何か、どれほどか、を捉える学門が育つこととして非常に有意義だ。
誰だって、明るい未来に進むべきだ、そして僕たちはどうせすることがないのであるから、せめて「愛」を実現するのにスリリングでヴィヴィッドな学門に向き合っていますというのは、未来への明るい足しになるだろう/もし自覚のない形で人の愛をずるずるに消費していたら、裏帳簿にはどえらいマイナスが焦げ付いているはずだ。

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ヨソに頼らない

ソに頼らない、という発想が有効だ。
ヨソに頼らなければ、ヨソに迷惑をかけるということもなくなる。
たとえば成人式になると新成人が必ず会場で乱痴気の騒動を起こすが、乱痴気が悪いと捉えず、成人式も自分たちで形成すればいいのだ、ヨソに頼らないという発想が有効になる。
ヨソに頼らず、自分たちで成人式を形成し、それが乱痴気に満ちたものだったとしても、そのことは何もあしざまに言われない、これは冗談でなはく大真面目に言っているのだ、ヨソに頼ってヨソでワガママをやるのでヨソに迷惑になる、「ヨソに頼らない」という発想を忘れずにいこう。

たとえば、新卒の大学生が百人集まって、一人あたり百万円を出資し、それを百株として株式会社を設立し、資本金を一億円とし、あとは適当に借り入れもするとして、新卒だけの会社を起業する、というようなことは、今日にでも試みられておかしくない。
卒業まで学費を工面できている以上、百万円の出資は不可能ではないだろう、そしてブラックではないホワイトな、かつ悪習やパワハラや男女差別のない優良企業を形成していけばいい、これは冗談ではなく大真面目に言っている。
「ヨソに頼らない」という発想が、精神の根幹を変えるだろう/現在、揉め事のほとんどが、よく見ると「ヨソに文句を言う」というところから始まっているのだ、自前でやるものだという発想が土台になれば、そもそも「ヨソ」に文句を言うという思考回路が消失する、そうなると当人の精神衛生も大幅に向上するだろう。
冗談ではなく、「世の中に変わってもらおう」と発想している人は、大きな誤解をしているような気がする、「世の中」なんてものは存在しないのだ、差別のない平和でホワイトで愛に満ちた世界を作れるかどうかはあなたの自前の問題であって、世の中が平等で平和でホワイトになったりはしない、ヨソに頼らず自前ですべてを形成してゆけばいいしそれしかない。

ヨソに頼らない、つまり、計画しろ。

根本的な誤解から、ヨソに頼ることが当たり前になっている人は、ヨソに文句をいい、ヨソでワガママをし、ヨソに迷惑をかけるばっかりになっていて、「計画」がないのだ、自前で形成していくべき世界についての「計画」がない、概して「計画のない人は文句ばかり言う」と公式化しても差し支えないだろう。
ヨソに頼るから「文句」になり、自前に頼るから「計画」になる、ただそれだけのこと、うっすらとでもいいから「計画」を持たないと、人は無限に文句を言い続けて止められない機械になってしまい、そのときはなぜ文句が止められないのかという理由さえ分からないブツになってしまうのだ、シンプルな話<<計画があれば迷惑はやらない>>ので、脳みその中は計画を主体にしよう。

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能力のメカニズムと不満のメカニズム
もアカン例、みたいなものを見ることがある。
たとえばチェーン経営の喫茶店Xで、アルバイト店員の甲がいたとする、この甲は接客やホールの切り盛りを「自分の頭で考えられない」ので、マニュアルに頼る、この段階で人は一段階マズくなる。
ところがこの甲は、頼るべきマニュアルを暗記・履行することについても、能力が十全ではない、遅滞した知能でぎりぎりマニュアルを履行している、この段階で人はさらに一段階マズくなる。
さらにこの甲は、自分のマニュアルロボットぶり、さらにマニュアルロボットとしてもポンコツという危機的状況ぶりを看過して、一方では嫌煙や男女平等や環境格差については、強い主張を持ち、強い「不満」を持つ人なのだ、こうなるとさらに一段階マズくなる/さしあたり常識的な範囲において、「これが最もアカン例だな」と僕は判断している(もちろん僕の勝手な判断の限りでしかない)。

つまり、わかりやすい話だが、「自分はポンコツなのに、不満だけめっちゃ猛烈に持つ奴」というパターンがあって、このパターンになってしまったらもうだめだ、僕はさすがに友人にはなれないし、もはや「友人」とは何なのか本人もわからなくなっているだろう。
冷静に知っておくべきことだが、われわれが「不満」や「主張」を持つメカニズムと、建設的な「能力」を持つメカニズムは、まったく別なのだ、どれだけ能力が壊滅的であったとしても、その能力壊滅者が無制限の猛烈な「不満」「主張」を持つことはいくらでもある、「不満」「主張」はただ「許せない」という感情から一つ覚えのように噴きだしてくるものなのだから。
能力がないと不満を持ってはいけない、ということではない、能力のメカニズムと不満のメカニズムはそれぞれ別で、それぞれ独立に機能しているということだ、つまり「自分の就業態度はサイアクなのに、他人の就業態度に向けては猛烈な不満を持つ」ということが何の制限もなく可能だということだ、この仕組みの隙間に落ちていった者はさすがに助からない。
ごくまれに、「ただの郊外のコンビニ店員なのに、めっちゃ気分のいいおっちゃん」というのが存在する、われわれのうち99%は<<そのおっちゃんのようにはなれない>>のだ、これはメカニズムの話であって、正義の話ではない/能力は正義ではないし、かといって「不満」も実はまったく正義ではなかったのだ、本人は数十年にわたる錯覚に陥るけれども。

不満エサを食わせ続ければ「不満者」が育つし、能力エサを食わせ続ければ「能力者」が育つ、それだけ。

それぞれのメカニズムは独立で、分離されているのだ、だから「不満」と「主張」に満ちた数々のインターネット掲示板等のコンテンツを数十年にわたって絶え間なく摂取しても、その中で「能力」はまったく育たない/代わりにごくわずかな「不満」を見つけてわざわざ掘り当てる、鼻の利いた豚のようになってしまう。
「自分の頭で考えられず、マニュアルに頼る」という時点で、まず「能力」の鉱脈が一段階ヤバい、次に「マニュアルの履行にも能力が足りていない」という時点でヤバさは二段階目に突入する、その上「不満」の活断層だけ活発化していたら、それはもう織りなされるヤバさが新次元に到達するだろう/そういう「最もアカン例」をしばしば目撃するので、なんとかそのことは避けるように生きていこう。
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バカ領域は速さに頼れ
っしゃあ〜というわけで、ヤリヤリのヤリまくりの春が来たぜ!
ヤルということはつまり、バカ領域に入るということ、マジメな顔して評価とかしていると世界には何もないぜ、スローな奴なんか視界から消してしまえばいいのだ。
すべてのことに、それでいいんじゃないかボンバーをぶちかませ、せめてこの世界でおれ一人ぐらいは正気でいないと、若い美少女ちゃんたちが可哀想ってものだろう。
ヤルということはつまり、バカ領域に入るということ、うーむ春というのはいい季節だな!!

マジメな奴は、もう何もすんじゃねえよ、賛美歌でも歌いながらぬかみそをかき混ぜ続けていてくれ、そうしたら何の罪もないぬかづけができあがるだろう、僕はあまりぬかづけが好きじゃないが……
なぜ、「速すぎワロッタアアアアアア」という、最もわかりやすい言葉が出てこない? 両親からいったい何を習ってきたんだ、あなたの両親はこの世に六十四体いる(←これは極限まで大ウソで何の意味もない)。
なんというか、こう、追いつけないものってあるじゃないか? 大根おろしを摺りながらこの世の無常を論じて独り歩いている白髪スマホは突然トンネルから出てきたリニアモーターカーに追いつけなくない? 春の日差しが雲を透かすのを見上げるとき、リニアモーターカーより遅い腰痛持ちが追いつけるとは思えない/さっさと速さに頼れ。
お前はよーわからんが、クソだと言ってやろう、よくわかられた上で按配に褒められるよりよっぽどいいだろ? 男か女かはタイトスカートを穿いた下半身を見ればわかる、そこにリニアモーターカーが駆け抜けたときいちいちセクハラなんて想念は起こらない、「まるで春の日差しが雲を透かしたようだったわ」としか通り抜けないだろう。

バカ領域の速さで人。

それ以外は、知っているだろ、クソという言い方が悪かったら、「疲れることが確定している何か」だ、今さら何を言っているんだ、けっきょくそうすることでしか僕は女の子ちゃんに相手してもらえなかったのだから、女の子ちゃんが何よりの証人だ、僕が「えーっとさ」と言い出した途端すべての女の子ちゃんはアサルトライフルを抜き出し四万発で僕を穴ぼこの蜂の巣にするのだ、ああ7.62mm弾が身に染みるぜ。
おれは人だ、女のタイプや性格や問題事をキャッチできないほどに人だ、立ち止まれば人はすべて鬼にしかならない、女は「うっ」と言ったが、それはイヤがったのか苦しがったのか、それとも感じたのか泣いたのか、あるいはそれらのすべてだったのか、僕にはわからなかった、僕がわかるときには女を不幸にしかしてやれないから。
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かっこよさが継承されていくこと
っこよさは「明かり」だ、これを絶やしてはならない。
かっこよさを誤解してもいけない。
かっこよさとは、漏れていないということ。
かっこよさとは、誰も知らないものが出てくるということ、その当人でさえ知らないものが出てくるということ、それが当たり前だということ。

かっこよさを認識すると、もう手遅れで、認識してしまったかっこよさを、人は評価してしまう。
評価してしまうと、人はコメントしてしまう、たとえそれが内心であったとしても。
評価というのは、間に合っていない出遅れのダンスでしかない、それはむしろ興ざめにのみはたらく。
かっこよさには、やり方はない、いつもすぐ過ぎ去ってしまって、過ぎ去ったまま永遠に残っている。

かっこよかったから、かっこよくやる。

それ以外に、この明かりを継承する方法はない。
かっこよさは、賢い者たちを光陰に紛らせ、愚かな者たちを浮き彫りにする。
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脳みそに門外漢を招き入れないこと

調はよいのだが体力が枯渇している。
そりゃこんなデタラメなペースでやっていたらな、と当たり前のことなのだが、僕もいいかげん自分が変わり者であることを少しは自覚するようになった。
僕には、感受性に耽っている人は単にサボっていだけに見えるし、興奮している人、あるいは「ガンバって」いる人でさえ、何かやはり、単にサボっているだけに見えてしまう。
なぜ一週間のうち、一日でもブッ倒れでない日があるのか、不思議だと思っている、「基本的にブッ倒れでない日なんてなくない?」と、僕はどうやらマジで思い込んでいるらしく、このことがちょっとフツーじゃないということを、いいかげん僕も自覚するようになった。

「何か、感情を害したりとか、イヤだなあって思ったりとか、やる気が出なかったりとか、投げ出したくなったりとか、ないんですか」と訊かれることがある。
そう訊かれて点検すると、逆に明らかに気づくのだが、そういうネガティブな思念や気分をわざわざ排斥しているのではなくて、そういうネガティブな思念や気分を遡上に乗せているヒマがないのだ、これはリアルな実況として。
僕は自分が忙しいと思ったことはないし、休みたいと思ったこともない、それは「忙しい」と思ってみたところで実作業の足しになるわけではないし、休みたいと思ったところで実作業はただ遅れていくだけだからだ、なぜそんな門外漢を自分の脳みそに招かねばならないのか、と僕には正直なところ意味不明に思えている。
脳みそに門外漢を招き入れて、門外漢と押し問答をするということは、結果的にというよりは恣意的に、やはりサボっているということではなかろうか、何か真剣な「つもり」を糊塗すれば表面上はサボっていないふうに取り繕えるとは思うが、自分の中で自分に向けて取り繕ったところで免罪もなければ処断もないのだから無意味なことだ。

コクピットを立ったり座ったりしている人は、忙しいのではなくヒマなのだ。

単純に、たとえば僕の今座っているデスクには、マウスとキーボード、PCを使うとき用のメガネと、プリンターおよび給紙の束、オーディオリモコン、エアコンのリモコン、電灯のリモコン、専用のデスクライト、室内温度計、複数のペン、複数の充電器、一眼レフ、録音機、石油ストーブとその給油システム、読まなきゃならん本、タバコとライターと灰皿、まとめ買いした水分補給用のペットボトル茶、ルームフレグランス、SDカードライター等と十数口に拡張したUSBポート、ティッシュとゴミ箱、清掃用の化学モップとエアダスター、換気用の窓、などなどがあり、これらはすべて着座のまま一目瞭然にでき、着座のまま手を伸ばして操作できる状態にある/これらすべてのものにいちいちドッコイショと立ち上がって探し物をしていたら、作業が進むはずがないのだ、僕のデスクはいつも五秒で作業が開始でき五秒で作業を休止することができる。
脳みそに門外漢を招き入れて、門外漢と押し問答、そのたびにポジティブやネガティブの感情に耽り……ということをしている人は、正直僕からは「何をやっているのかわからん」のだ、コクピットに人生観とか幼いころの思い出とか要るかな/ひとまず次の目的地に着くまでコクピットには直接の用事があるはずなのだが。

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「仕事ができる人」2

通の人はまず、「仕事ができる人」になんかなれない。
少なくとも、僕は今でも、「仕事ができる人」かと言われると、「うーん、それはキツい」と確信的に辞退する。
僕みたいなクサレ芸術家は、芸術はできるし、突拍子もないideaは無限に発想したりできるけれども、「仕事ができる」かと言われたら、うーんキツい、となる。
僕は或る種の知能テストで、3000人超が受けた中で単独トップを獲ったことがあるが、そういう局所的な知能が高かったからといって仕事ができるわけではない、「仕事ができる」という実力はそんな生半可で手に入るものではない。

僕はどうも疑問なのだ、多くの人はひょっとして、自分のことを「仕事ができる」と思っているのだろうか/しかもしばしば、何の実績もないのに勝手にそう思い込んでいるナゾの人を見かけるような気がする。
また、もし自覚的に「仕事ができない」という認識であれば、若い人間の苦悩やテーマなんて、「仕事ができないんですよ」「うぬぬぬ」「どうすればいいか〜」と、それだけでいいような気がする/だがどうも、青年が集まって「仕事ができないんだよな」「お互い甘いんだよ」「学ぼうぜ、覚悟しようぜ」と唇を噛んで酒を飲んでいるという光景を見ない気がする。
僕が思うに、「仕事ができる」「頭がいい」「異性にモテる」「センスがある」「こころを開いている」「あたたかい」というようなことは、とてもじゃないがどれも易々と手に入るようなものではないのじゃないか/しかし、どうもこのところ、誰もがこういった優れた美徳のすべてを「基本的に全部持ってまーす」というスーパー大前提でいるような気がするのだ、「そんなわけあるか」と僕などは思うのだが……
優れた美徳を、「基本的に全部持ってまーす」というスーパー大前提なので、「いや、まったくできてないで」とわずかでも言うと、それだけで相手はまず超絶フキゲンモードになってしまうのだ、理屈じゃなく反射的に、敵愾心や反感や精神的乱調が返ってくる、こちらとしては「そんなふうにされましても……」と困るしかないのだが、向こうの反応も激烈をきわめており、「自分でも抑えられないんです」だそうだ。

自分で担当しないものを提案とは言わない。

「この入出庫、もう自前でデータベース組んでしまったほうが楽じゃないですか?」と言い出して、「それでいこう」「じゃあ取りかかります」といって、翌週には「え、もうできたの?」「はい、まだ大枠ですが」と実現してしまうということ、それが「提案」だ、どうもこのところを誤解している人が多い気がする/「こういうのって、データベース組んでしまったほうが早いですよね」と、単に思いつきで口出しすることを提案とは言わない、たまにそういう「意識高い系大学生」みたいな感覚で「提案」を捉えている人は冗談でなくいる。
今、自分の担当しているものは何で、そこから提案(自分が担当、実現)しうるとしたら何か、そういうことがオトナの頭の中には常にあるはずだ、そうして考えると「仕事ができる人」になるというのはそんなにカンタンであるはずがない(お互いがんばりましょう)。

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「仕事ができる人」
数年前、「初対面が苦手なんです」という相談をよく受けていた、相談としては定番の題目だった。
あと、「自分がない」とか、「仕事ができない」とかも、よく話される課題の、題目だった。
あれから十数年経った現代では、誰もが初対面から打ち解けることができるようになり、誰もが正しく「自分」を持つようになり、誰もが「仕事ができる」ようになったのだろうか。
もしそれらが、オールOKになったのならば、すばらしいことだが、そんなことはいかにも不自然だ、かつてあったこれらの悩みというか課題はどこへ雲散霧消したのだろう、全員でスーパーエリートになったのだろうか。

どこかで子育てのブログを書いている女性が、こんなことを書いていた。
「昔は、他の母親さんを見ていて、『なぜちゃんと子供を叱らないんだろう』と疑問だった」「でも自分が子育てをするようになってわかった」「叱ると子供が発狂するので、なだめるしかないんです」ということだった、これは現代に特徴的なことだと思う。
同様に、「お前は人と打ち解けられんのか」とか「自分がない奴だな」とか「仕事ができなさすぎだろ」とか、現代で指摘するなり叱るなりすれば、叱られた対象者は「発狂」すると思う/感情的に激昂して、もう何も受け付けない、近所迷惑のカタマリになるのだ(それは脅迫と恫喝を帯びている)。
現代人は、ガマンがなくなった、のではなく、我慢(アートマ・マーラ)が極大化した、というのが僕の見方だ/僕は中学のときのI先生に、遅刻したときに「このボンクラが!」と怒鳴られ、「そうか、これがボンクラか、確かにこれでは僕はボンクラだ」としみじみ納得したことがある、そこで「ガマン」が出てくるという感覚は未だに僕にはわからないままだ。

自慢じゃないが、僕には「仕事ができる」という自信はまったくない。

僕には「仕事ができる」という自信がまったくないので、いつでもそのことに引け目というか、プレッシャーを感じていて、「がんばらないかんで」と思っているのだが、どうも僕よりはるかに若い人は、そういうプレッシャーを感じていないように見える、そして仕事中に「お前、何やっとんねん」という叱責状況が生じたとき、「しまった」という自責と慚愧の表情ではなく、すさまじくふてくされて獣化する表情を見せる/「つまりボクを侮辱したら発狂して噛みつくぞ」と(マジなのだから笑えない)。
昔、僕を慕ってくれる若い女の子がいて、「手伝いたい」というものだから、ある種のレジュメを作ってもらったのだが、「お前、チンタラしすぎや、何をモタモタしとんねん」「アホか、こんな書き方で相手に伝わるかい、書き直しや」と二、三回言うと、それ以来パッタリ連絡がこなくなり音信不通になった、別に僕に対してはそれでかまわないが、僕のような超ルーズな人間の仕事も引き受けられないようでは、どこに行ったって何もできないぞ/「仕事ができる人」って、どれだけ特別で優秀な存在か分かっていないのか、普通の人は「仕事ができる人」になんかなれねーよ、とたまには僕もまともなことを言うのだった。
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認める、ということ2

「認める」ということは、どう見ても当たり前だ。
しかし、ある種の人にとっては、「認める」ということには多大なストレスが伴う。
その人を「認める」ということは、自分も「認める」ということだからだ、「これはこの人のもの」ということを認めてしまう以上、「これはわたしのもの」と認めてしまうことも同時に起こる。
たとえば「すばらしい歌声」があったとき、「このすばらしい歌声はこの人のもの」と認めてしまうと、同時に「この引きつった歌声はわたしのもの」ということも認めてしまうことになる、これがすさまじいストレスなのだ、だから必ずといっていいほど、「自分のものを認めたくない人」ばかりが歪んだ何かのファンになり歪んだ応援に入れ込みはじめる。

<<「認める」ということには多大なストレスが伴う>>、ということを土台にしておけば、このことはある程度正しく取り扱える。
自分自身のこと、「これが自分のもの」と認めるということは、激しくツラいことなのだ、それはいっそ「無理しなさんな」と言いたくなるぐらい、耐えがたいツラさを伴うものだ。
この、「これが自分のもの」と認めるというツラさが主題であって、それ以外のこと、つまり他人を認めるどうこうのことは、正直他人のことだからどうでもいいのだった、申し訳ないがこのレベルにいる人は他人のことがどうこうなんて初めから眼中にないはずだ。
「認める」ということには、多大なストレスが伴うもので、「認める」ということはどうしてもできず、なあなあのなれ合いにするしかない、しかしそれは足を引っ張ることに必ずなるので、どこか肝心なところで人にうとまれているような気がする……という、この筋道にバッチリ適合してしまう人が少なからずあるはずだ/要はどこで「これが自分のもの」と認めるか、その向き合うタイミングと段階の問題になってくる、必要なことだが無理をするものではない。

「認める」ということは、シンプルだが、恐怖すぎる。

たとえば多くのママは、娘について「これがこの子のものなのね」と認めることはほとんどしないものだが、それはなぜかといって、当人が不幸だからだ、娘について「これがこの子のもの」と認めてしまうと、とたんに手触りのある老化と無能と不幸について「これがわたしのもの」と認めねばならなくなる、これがキツすぎるので、一般にママは娘を永遠に認めないのだ。
たとえばあなたが目の前にしているこの文章だって、これは僕のものであって、あなたから見ればこれは「この人のもの」なのだが、あなたが「これはこの人の言葉、文章」と認めようとしたとき、「じゃあわたしの言葉や、文章は……」という問いかけが起こって、そこで心理的にぐちゃぐちゃっと乱れるというナゾの混濁現象があるはずだ、それが大きなストレスが掛かっているということ、まああまり無理をするものでもないので今夜も旨いメシを食うのがいい。

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認める、ということ

間には「認識」という能力がある。
「認める」と「識る」はそれぞれ別個の能力だが、単に識るのみならず、それを「認める」ということが重要になる。
「認める」ということがなされないかぎり、ただちに殺し合いに向かうしかなくなるからだ。
現在、世の中には称賛と批判が跋扈しているが、称賛と批判はどちらとも「認める」ということとは異なるため、たとえばオリンピックの応援ムードもそれ自体が不穏になるのだ/多大な称賛は一方で「認める」ということをないがしろにして起こっている。

「認める」ということは、「これはあなたのもの」「彼のもの」「あの人のこと」であって、「自分のものではない」と認めるということだ、自他の峻別において「この人のもの」と認めるということを「認める」と定義していい。
たとえばフィギュアスケーターが氷の上でジャンプして四回転する、それは「すげえ」と思うが、それが何なのか正直僕には「わからん」し、僕にはできないことだしやる気もないので、四回転ジャンプは徹底して「僕のものではない」、そこで自動的に「認める」ということが起こっている。
僕は四回転ジャンプについて、称賛も批判もしないのだ、なぜならそれが「すげえ」といっても、三回転ジャンプだって僕にとっては「すげえ」からだ、そのそれぞれがどう違ってすごいのかは、僕自身がジャンプして回転するわけでもないのにわかりっこない。
もし僕が、そのジャンプを「この人のもんだろ」と「認める」ことなしに、そのジャンプの出来栄えやすごさをじっくり鑑賞しようとするなら、どうなるか/それは意識や感覚の上で、ものすごい邪魔になり、プレイヤーの「足を引っ張る」ということになるのだ、それでそのときのフィギュア選手は、「他人を感覚的に完全無視する」という、スポーツ選手でも何でもない特殊能力を身につけなくてはならなくなる、これではプレイヤーは全員メンタルの名のもとに「機能マヒ」を目指さなくてはならなくなる。

「認める」という機能がない人は、必ず自分を主語にしか話せない。

「わたし、とっても感動しました」という、わたし主語でしか話せないのだ、これは「認めない病」の典型的症状で、目の前の「この人」に主格があるという感覚がないということを表している/自分が四回転したわけでもあるまいし、「認める」ことの上ではふつう、「この人、すんこい努力したんだろうなあ」と落ち着いたものだ、ジャンプしていない自分が感涙するのは感覚がおかしい。
子供のピアノの発表会で、ママが感涙してしまうのは、まあしょうがないのかもしれない、けれどもその方式の中で子供が音楽を獲得することは決してないだろう、子供はママのプレッシャーから「コンクール」で優勝することしかできなくなる/もう一度申し上げるが、「認める」ということがなされないなら、その関係はただちに殺し合いに向かっている。

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「かっこいい」と「かっこよくない」の理由
のところ、人の視認性を操作する、という、意味不明すぎて草不可避な技術に取り組んでいる。
なぜそのような技術を持っているかというと、このところそのことへの用事があったからだが、なぜできるのかというと、よくわからん、たぶん用事があったからできるようになっていたのだ(説明する気が無い)。
もともと人の視線や感覚的に「見える」ということを操作することは、できていたし、やっていたのだが、僕は自分が目立ちたいタチではないため(目立つのは苦手だ)、自分自身の視認性を上昇させるということはまったくやらず、僕は人目にはほとんど「消える」ということばかりやってきたのだが、ここにきて急に逆のことをやっているので、毎日フラフラに困憊している。
「視認性上げますか」「こんな感じで……上げすぎかな」「ん? もうちょっと下に位置ずらす?」といい、そのとおりのことをやってのけるので、友人は「なんだこのワザは!!」とゲラゲラ笑いっぱなしだ、自分でもわけのわからん能力で笑えてくるが、とりあえず「映画は小説より手品に近い」というあたりのことを、僕自身のためにメモしておかないといけない。

視認性というと、つまりダイレクトに視力なのだが、視力に流れ系としてアプローチするためには、要するに蝶形骨のあたりをゆるめないといけない、という感じだ/「たぶんこうだろ」という感じでやってみると、そのままそのとおりになるので、たぶんこれで合っているのだと思う。
その視認性を通してフィクション上の「世界」を生じさせようとすると、もちろんイメージなんかもうとっくに使い道がなくて、フィクション世界と合一したフィクション上の真我(アートマン)が直接見ている世界が直接演者に見えていないといけない、そうでないと客体はそれを想像力上に描き出すことができない(なんのこっちゃ)。
これまで僕は、「言葉」はわかる、「音」もわかる、「音楽」もわかる、「物語」もわかる、という状態で来たのだが、「映像」とか「音響」はまるでわからずに来たのだ、完全にシロウトで、これがどうなるものやら、これがわかるようになると「ダンス」も本当にわかったりするのかもしれない。
これらのメモ書きは、僕にしか意味がわからず、僕にしか値打ちのないものだが、さしあたり「表現やコミュニケーションは深入りすればマジでそういう事象に突き当たってくる」「人間のやるべきこと、面白いことは、まだまだいくらでもある」ということだけお伝えしておきたい/たとえ何千年生きても「やることがない」ということにはまったくならず、最後の最後までクソ忙しいだろう。

かっこよくないのは、わかっていないからだ。

誰だって、学校に行ったりし、部活で活動したりし、異性とイチャついたりし、就職したり、勉強したり、趣味を見つけたりする、その当たり前のことが、なぜか「かっこいい」人があり、なぜか「かっこよくない」人がある/それが「かっこよくない」ということは、「やっているけれど実はわかっていない」という状態だ、これはとても損なことだ。
刺激的あるいは蠱惑的に演出をベタ塗りすると、表面上は「かっこいい……かも」とだませるのだが、そのダマシは二週間もすれば完全に消えてしまう、そこで「かっこいい」「かっこよくない」は個人の好みではまったくなくて/正しくわかっていれば五〇〇年前の建築物は今でも「かっこいい」ままだし、だまされていれば五年前の流行物は今ではたいへん「かっこよくない」になってしまうわけだ。
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カミサマに自信を送れ
ーたわけのわからん話だよ。
しかし、なあ、それっぽい訳知り顔を雰囲気で醸し出していたとしても、そんなのでは実際には何もやれないからね。
圧倒的なものが要るのだ/「お客様はカミサマです」と古くからいい、また舞台の上にも神業は出現する、つまりフィクションとノンフィクションの境目は互いにカミサマにゴニョゴニョ(説明放棄)。
フィクションとノンフィクションの境目、その皮膜に流通する仕組みを実践レベルで知りたいのだ、知りたいというか、知らないと話にならえねって具合なのだった、コンチクショウめ。

一方で、僕は出力を押さえないといかんというところもある。
所詮、人間のコミュニケーションは、相手の受容能力を引き出すことで成立しているので、それを利用する以上、表現には「弱い」ことも必要なのだった/うーんこの説明は誰にも意味不明だし、それどころか誰にも説明の必要さえないぜ。
僕は大柄なのだが、単なる体躯のデカさだけでなく、デカいというのは舞台にあまり有利ではないな、人間は基本的に等身大を超える人形で劇をしないものだ/等身大を超えてしまうとあまり「人形」とは扱われず、あまりおいしくない「像」になってしまう。
精密に小さくなれるか? ということなのだが、うーん、そういう訓練はまったくしたことがなかったし、発想もなかったな、そういえば「三人の小びと」という題名のとき、小びとがたぶん主人公だが、「三人の巨人」というとき、たぶん巨人は主人公ではないのだ、デカイというのはそれだけでけっこうやっかいな要素なのだった。

小説は小説を信じる者の、映画は映画を信じる者の、剣は剣を信じる者の、通過するもの。

男を信じない女が男と寝るのは無意味だし、女を信じない男が女と寝るのも無意味だ、フィクションとノンフィクションの皮膜通過点はそこにある、なんのこっちゃという話だが今僕にとっては「なるほど、そうか」の話なのだ(すいません)。
そこで「信じる」ということは、祈りをこめてウッフーンすることではなく、自信を皮膜の向こうへ送るということだ、向こうにはそれを受容する機能があるのだから(カミサマと接続する能力)、そこを利用しないでは何も為せない上に疲れてしまうだろう。
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救済願望にご用心
だって、ヤバいバーサンになりたくはないし、オワッテルジジイにはなりたくない。
われわれは、日常では余裕をコイているつもりだが、どこか心の奥で「自分のこころのうちがこんなありさまでは、この先ヤバいことになる予感がヒシヒシするぜ」とも感じているものだ/まあおれはまったくそんなことはないのだが、それはどうやら僕が特殊なタイプだからということで、このところよく友人に諫められるのだった。
内心でどこか「ヤバイヤバイ、このままではヤバイ」と感じているものだから、救済願望が切迫しており、その切迫のせいでささいな出来事を大仰に取り過ぎるということがある/つまりちょっとした好い変化を「これって救いですかね? ですかね?」と取り縋るところがあるのだ、これは明らかにバランスが崩れているので冷静にならなくてはならない。
土台われわれのようなアホの身に、「救済」などという偉大なことは、そうカンタンに与えられないし、仮に与えられていても「気づかない」のだ、われわれはそういうアホなのだということをよく自覚して、いちいち取り乱すことのないように冷静でいなくてはならない。

救済願望はつまり、「いつもこの、自分が薄々感じている『ヤバイ』という感触を、忘れたいんです、気楽なほうに逃避したいんです」ということだ。
それはまあ、わからんではないというか、そりゃそういうものだろうなという気がするのだが、それで「大丈夫な人々」の参列に顔を出されてもな……それよりは堂々と「ヤバくてもいいじゃない、これまでずっとヤバかったんだし」「そんなもともとヤバい人が、いきなり大丈夫な人のコースに切り替わったりしないですって」と、引き受けているほうがいい、そのほうが運気が上がるだろう。
それで、コースとしてはまだまだヤバイ人コースのままでも、それでも「好いこと」「吉相」が現れたなら、それは好いことだし吉相なのだ、それはそれとしてよろこべばいい/たとえば合否判定がEからDになったとしたら、やはり入試には落ちるのだろうが、それにしても向上は間違いないのだからよろこべばいい、でも合格気分になったら余計マイナスだ。
われわれはそれぞれ、どーなるのだろうか? 誰だってヤバイものにはなりたくないし、誰だってそりゃ不安なのだが、僕だって「安心」なんかまるでしていない/ただ僕は、いいかげん「不安」などというヒマなことをやるヒマはなくなっている、不安か安心かなんてどうでもよく、ただ常に最善を見極めることに忙しいのだった、いつも「これ以上はムリだ」とヘトヘトになっているときが一番マシだと経験的に知っているばかりだ。

救いを求めているということは、苦しんでいるということだ。

じゃあ人に尋ねるまでもない、「救われてますかね?」と訊くような「苦しんでるんだろ」ということだ、それよりは何か多方面で忙しくなってしかし何か明るくなってしまって「うぬうおほおおおおりぃああああぶすおーでぃゃあああ」となっている人のほうが「救われているのかもな」という可能性がある。
僕はこのところ友人に、「1分1秒たりとも休まないんですね……」と呆れられることが多いのだが、それは別に僕がガンバっているのではなく、単にビビっているのだ、自分に余力を残しているという状態がよくない感じがし、いつも使い果たしているときが「ややマシだろ」と感じている、それならややマシのほうがいいなあという、ただそれだけのことなのだった。
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かっこいい奴であるべし3
「言う奴」ではなく「見える奴」がかっこいいのだ。
「わたしがんばります」と言う奴がかっこいいのではなく、「あいつがんばるんだな」と「見える」奴がかっこいいのだ。
いつも顔面に笑顔が貼りついている人は、明るい人なのではなく、「明るい人には見えない」ので、顔面の記号で「明るいです」と言っているだけだ/「あいつは明るい奴だよ」と胸の奥まで「見える」奴のほうがかっこいい。
頭のよさが「見える」、やさしさが「見える」、ハートが「見える」、ユーモアが「見える」、ユニークネスが「見える」、愛が「見える」、夢が「見える」、それらすべてを統合し、なおかつ超えて「何をしているか」が「見える」、それがかっこいいということ/頭のよさや、やさしさ、ハートやユーモアやユニークネスや愛や夢を「言う」という人は、それが見えないから言って説明するしかないわけで、それが見えないということは、つまり言っても単なるウソということかもしれない。

「見える奴」になるにはどうすればよいか/「見える」ためにはどうすればよいか。
そんなもん、見てたらわかるだろ、としか言えない/説明するとしたら、それは「見えない奴」に向けてやることなので、本末転倒している、美術館の絵画の脇に書かれている説明文を読むようなもので、説明文がないとわからないならそこは美術館ではなく説明術館となる。
しかし、まだ素直に説明文にすがって「へええ〜」となる人のほうがうつくしいもので、サイアクなのは「見えているフリをする」「見えているように思い込む」というパターンだ、これは「見えない奴」からさらに格下げされて「違うモノを見だす奴」に位置づけされる/つまり妄想クンということになる。
ここでつまり、[見える奴:かっこいい] [言う奴:かっこ悪い] [妄想クン:迷惑]という三階級に分かれることになるが/誰でも自分のかっこ悪さを引き受けて努力するのは大変なもので、そこの引き受けが甘いと努力のつもりは甘さへ流れて下の階級[妄想クン]に行き着くことになる、もちろん上昇がカンタンなんて話はこれまで聞いたことがない、お互いがんばってまいりましょう。

あなたは人に何を「見せて」いるか/何を「見せる」つもりか。

こう言われるだけで、ギクッッッッとして、心臓が止まりそう、という人のほうがまともだ。
ある人は「ん? 見てりゃわかるもんを見せていくだけだ」といい、ある人は「思いはあるつもりなんですが、見せ方がわからないんです」といい、ある人は何かキモチのこもった確信をいうだろう/前述したように三階級に分かれている。
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