☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
自分はどんな奴になりたいか

分がどんな奴になりたいかは、けっこう重要だ。
「こういう感じの、ステキな人になりたい」……とイメージを膨らませる、すると、これは必ず失敗する。
なぜなら、本当に素敵な人は、必ず<<あなたを驚かせる>>からだ、あなたを驚かせるということは、真に素敵な人はあなたにとって「未知」の人だということになる。
これがやっかいなところだ、けれどもこう考えないとこの作戦は必ず失敗する、「自分はどんな奴になりたいか」? その解答は、現在の自分の所有するイメージの中には「無い」というのが正解になる。

考え方を変えよう、「自分はどんな奴になりたいか」について、「自分の知らない奴になりたい」と考える、実はこれが正しい。
どんな街に住んでいて、どんな仕事をしていて、どんな能力を持っていて、どんな表情を見せるかについて、「知らない街に住んでいて」「知らない仕事をしていて」「知らない能力を持っていて」「知らない表情を見せる」と考える。
「自分はどんな奴になりたいか」、その向こうから、「自分の知らない声」が聞こえてくる、ここで想像力がはたらき始めている、想像力がはたらくということは、イメージを持たないということだ。
想像力がはたらき始め、イメージを持たないことに徹したとき、「何をしてもいいし」「何をしてはいけないということもない」ということが見えてくる、自分が自分の「知らない奴」になるためにはどうするべきか、理由なしに見えるようになってくる。

「どんな奴になりたいか」は、自分が描くのではなく、向こうから声が掛かってくる。

「自分はどんな奴になりたいか」について、「自分の知らない奴になりたい」と答える習慣は、よい習慣だ、自分を閉じ込めず、いつも真新しく切り拓いていく習慣になる、想像力のフタが開く。
「トレーニングしてみようかな」「勉強してみようかな」、いろんな想念が湧いてくる、そのときに思い出されるべきことは、「何をしたらいいということは特にないし」「何をしてはいけないということも特にない」「何かが足しになるというわけではないし」「足しにするつもりじゃないなら何をやったっていい」ということ、あとは向こうからの声が届いていれば空回りは起こらない、手抜きして生きないことがもう始まっている。

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学門万歳、勉強撤廃

「学門万歳、勉強撤廃」、これが我が党のスローガンである(出馬はしません)。
なぜ勉強撤廃かというと、勉強というのは「強いて勉める」ことだからだ、そういうシンドイことはよくない。
そういうことは、シンドイ上に、けっきょく学門にもつながらないので……その意味で学門をナメてはいけない、勉強なんかしていたら学門なんか身につくかよというぐらい学門はキビシイ。
次のように示されるべきだ、「勉強を忘れさせるのが学門である」、ホレこうすると、学門というのがいかにキビシイかが切実に伝わってくるだろう、ざまあみろという感じである。

つまり、たとえばマジモンの数学者は、数式を愛しているので、その愛のさなか、勉強なんてことはすっかり忘れているということなのだ、それぐらい学門はキビシイ。
学門というのは、形而上と形而下の、両方の世界を捉えるためにやるので、つまり「この世界」を識るためにやる、だから学門の識を学識という。
そうして学門でマジの学識が得られるためには、それが「お勉強」ではなく、マジの「世界への愛」にならなくてはダメだ、形而上と形而下の両方の世界を学門によって識る、識るほどに愛さざるをえない、そして「この愛があってこそ、わたしは存在できる」というところまで到達する、それでようやく学門だ。
学門は、物事に詳しくなるためにやるわけじゃない、そんなアホな動機はさっそく生ゴミに捨てよう、学門は「この世界」と愛し合った思い出を残すために身を投げ出してやるものだ。

学門とは、「知識に思い出が残る」ということ。

一つの数式とか、一つの文言とか、一つの術とか、一つの原理とか、なんでもいい、ただ「知識」だ、なんでもない「知識」に「思い出が残っている」ということ、それが学門に取り組んだ証拠、この世界と愛し合ったことの証拠になる。
誰でも生後六ヶ月までは、「この世界」の何もかもを見つめて、手を伸ばし、身を投げ出して学門をしていた、あの眼は「学門の徒」の眼差しなのだ、何かに詳しくなんかなりたくない、ただこの世界と愛し合うことだけがやめられなかった。

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直接のアレに基づいていなければ機能しない

ったく別のことを考えている。
まったく別のことと言っても、ある意味「元通り」のことではあるのだが……
この世界は、愛に支配されているので、いくら自分が正しかったとしても、愛に基づいていなければ機能しない。
どうせ愛というのも人それぞれ、自分アレンジで定義しているので、話はすれちがうだろうが、それでもこの世界は愛と呼ぶべき直接の「アレ」に支配されている、この支配に従わなければどんな正しいふうも機能しない。

思いがけない単純なところで決着がついている。
誰だってこの世に生まれ落ちてきて、「この世界」に「わたし」が存在している、このことは誰にとっても本来同じだ。
ただ、「この世界」を、愛すると決めたヤツと、愛さないと決めたヤツがいて、ここの差ですべてのケリがついている。
この世界を愛する、といって、その「愛する」もそれぞれが自分アレンジをしているので、話はすれちがうだろう、それでも、この世界は愛と呼ぶべき「アレ」に支配されているので、この支配に従わなければどんな正しいふうも機能しない。

この世界を愛さないという決定は、同時に、自分を愛さないということの決定でもある。

世界を愛さずに、自己愛だけが肥大していくか? そう見えて、実は逆だ、自己愛が「満たされる」なら人は幸福になりえるが、そうじゃない、自己愛が激しいと見える人は、自己愛に「渇く」から苦しんでいるのだ、自己愛がしおれるからこそ渇きが加速していく、世界を否定した自己愛は初めから永遠に渇き続けると数学的に証明されうる。
なぜなら、「この世界」に「わたし」が生まれ落ちている以上、「この世界」なしには「わたし」はありえないからだ、こうして「わたし」を失った人こそ自己愛の渇きに大声をあげはじめる、まるでこの世界を支配する愛と呼ぶべき直接のアレを謗ったことの罰のように。

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副流煙付コンフェッション
は、ご存じのとおり、善人ではまったくなく、悪いことをたくさんしている身なので、根本的には「自分みたいなモンが」と思っている、このことはすでに習慣なので変化しない。
しかしこのところ、ヘンな技は身につくし、枕元にホトケサマは出てくるし、初対面の女性は耳元で「大好きです」と言い残して去ってくれるし、わけがわからないのだ。
ただ、いいかげん明言しておきたいのは、僕はたいへん徳の低い、善悪でいうと明らかに悪党のほうなので、そういうことでどうぞよろしくということだ。
僕があなたにプレゼントできるものといえば、絶え間ない副流煙ぐらいのものだ、ただ明らかに僕の作ったメシは旨いらしいし、僕と食う食事は底抜けに旨くなるらしい(ほとんど食事のためだけに女性に呼び出されているフシさえある、別に僕にオゴるわけではないのに)。

おそらく、僕にやさしくしてもらったという女性はこの世に存在せず、あの世にもむろん存在しないが、つまり僕は女性に対してはひどいことしかしないし、男の後輩に対してはさらにひどいことしかしない、これはもう性質だからしょうがないのだ。
ただ、せめて弁明するなら、僕は女性に強引にひどいことをしたことはあるが(それしかしたことはないが)、あくまで「強引」であって「乱暴」とか「無理やり」とかはない、乱暴とか無理やりとかいうのは僕の趣味ではないので僕自身のテンションが下がってしまう。
まあ、さすがにそんな乱暴や無理強いをはたらくようなら、こんなあからさまなスケベサイトを十年以上もやっていられないだろう、とっくに逮捕されているはずだ。
そんなわけで、僕は直接ふれあった女性たちからは、ことごとくサイテーと認められる地位でありながら、たぶん「死ね」とは思われていないらしい、なぜ「死ね」と思われないかというと、究極女性がやさしいからだと思う、なかなか世の中捨てたもんじゃないな。

サイテーのままサイコーの思いをしてきました。

と、太宰治「人間失格」の正反対を唱えておきたい、なんというか、僕は初めから人間に合格しようなんて思ったことはないし、初めからサイテーと自覚している者には、今さら恥とかいう概念もないのだ、僕には太宰が何をブツクサ言いたがっていたのかけっきょく最後までわからない(わかるつもりもない、サイテー)。
もし僕が芥川龍之介「蜘蛛の糸」を書いたとしたら、お釈迦様の立場ではなく、糸に飛びつくカンダタの立場で書いただろうな、僕は蓮池から地獄を見下ろせるような身分ではなく、悪い人用のアリーナ席に座らされるに決まっている、「糸というよりエレベーターを下ろしてもらえませんかね」と厚かましいことを言い出して喫煙をやめない僕はサイテーの人間で、どうぞよろしく。
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光に導かれねばならない
事を見て、分析するとか批評するとか、そういうことはじつに簡単だ。
じつに簡単だという一点において、僕はそのことをやらない。
簡単なことを自慢げにやるのはとても恥ずかしいことだからだ。
光のほうへ、明るいほうへ、導かれていかねばならない、そのことのほうがはるかにむつかしい、だから僕はこのむつかしいほうを好んでする。

ニュースは暗い話題が多いし、ドラマや映画や、マンガやアニメも、最近は暗い話が多い。
が、暗い話というのは、技術的に簡単なので、僕はやらない。
簡単なことを賢(さか)しげにやるのはとても恥ずかしいことだからだ。
光のほう、明るいほうとは何か? 僕は執拗に、ここでまともな話をし続けている、まともな話を執拗に続ける奴がいるのは、きっと明るいことだろう。

僕の野心は、女にモテることではなく、女を明るくすることだ。

僕が服装と髪型をキメたとしても、誰も女は明るくならないだろう、だから僕はそういうことをしない、簡単な上に消費だけが見えるようなことはしない。
おだてて、オゴって、ヘンタイ的なセックスをしてやったら、女は明るくなるかというと、ならない、まともな光を見られる女は、そんな安上がりには済まない、まともな女はどうしても何が本当に光っているものかを直感的に識っている。
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ゴーゴー! ……しないの?
の世界は単純に二派に分かれている。
光のグループは、たとえばソクラテス、ゲーテ、ブレイク、タゴール、トルストイ、西田幾多郎など、彼らは大抵、緑の野に赤いバラが咲く[統一的存在が存在する]ことに光を見いだして歓喜する。
闇のグループは、たとえばニーチェ、ドストエフスキー、芥川龍之介、サルトルなど、彼らは大抵、世界が淀んだ土くれでしかないことに闇を見いだして吐き気を催す。
こんなミエミエの二派があるのに、この二派の違いがいつまでたっても明言されないのは、人類は何か遊んでいるのか、ふざけているのかなと最近思えてならない、こんなのどう見てもミエミエの差なのに。

闇のグループはさっさと、「ブッダやキリストはゴミでウソつき」と明言してしまえばいいし、光のグループは「ブッダやキリストは聖人で本当のことを言っている」と明言してしまえばいい、いったいこのミエミエのことに延々と躊躇しているのはなぜなんだ?
闇のグループは、闇の突出者を重宝するし、光のグループは、光の突出者を重宝するという、ただそれだけであって、そこに珍しいことは何一つない。
闇のグループは、「世界(宇宙)」との接続を否定し、そのぶん「人間の良心」に期待を寄せる、カミサマを否定し「人間の良心」に期待することで共産主義を生み出したりしたが、けっきょく人間の良心に限界を知ったら闇グループの人は自殺する。
ハッキリしてしまえばいいのにと、いつもこの単純さに辟易している、ハッキリと「ブッダやキリストの言ったことは全部ウソ」と断言して、一方で人間の良心の完全性を証明および具現してしまえばいいのに、何を遠巻きに思慮深いふうにしているのか、またなぜそんなヒマをしていられるのか、とても不思議だ。

闇グループが光グループをうらやむのは「不均衡」に尽きる。

当たり前だが、光グループは闇グループをうらやまないのだ、だから闇グループも光グループをうらやまなければそれで均衡して解決する、こんな均衡と不均衡は子供でもわかる。
光は光へゴーゴーだし、闇は闇へゴーゴーだ、それでいいのだが、どうも闇の側は「ゴーゴー」となっていない気がする、そしたら躊躇していないでさっさと自分がバカで間違っていると認めたらどうだね。
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この世は愛さえなければ解決するのに
ったことに、人はマジで愛を探している。
それが、シャレで探しているだけなら気楽なものなのだが、マジで探しているから切ないのだ。
愛が、周囲にまったく見当たらない、ゼロだというならば、いっそ気楽ということがある、それはそれで悪くないんじゃないか、という気も(一時的には)してくる。
愛なんてものは、ほとんど、つらさに耐える準備みたいなもんで……耐えると言っても「まあしゃーない」ということでしかないのだが、この「まあしゃーない」がひどくつらいのだった、これまでもこれからもずっとそうだ。

僕のようなカス人間でも、どこかの誰かのことを想うことはあって、それは「好き」とかそういうことではなく、「どうかこのときも幸せで、豊かでいるように」という願いだ。
僕のいないところで、きれいなねーちゃんが幸せにしていると思うと、まあジェラシーも湧くが、それ以上に、今何か苦しんでいやしないかと考えることのほうがよっぽど苦痛だ、僕の想う誰かが今幸福だと知れたらひどく安息する(ジェラシーもすごくする)。
僕みたいなものは、ゴミみたいなもので結構なので、それでもたまに付き合ってやってくれんかな、ゴミのひとつぐらいまとわりついててもいいじゃんと、そのときが一番幸福だと僕は思う。
こんな深夜か朝方に、僕が思い描くのは、僕などが一切必要とされない世界の幸福さだ、かといって邪険にされるのも哀しいので、ゴミ程度には遊んでやってほしいのです、僕はあなたの名簿に最下位としてぶら下がっているのが何より本当にうれしい。

あなたがいる、と思うと僕はつらい、だからそんなあなたにいてほしい。

わけがわからんと思うが、愛というのはそういうものだと思う、愛というのはつらいものなのだ、だから人を愛するなんてバカがすること、バカでなきゃわざわざそんなもの背負い込まない。
なぜこんな、バカが背負い込むつらいものを、わざわざ人は探し求めるのかということになるが、それはこの世に一定数バカがいるからだろう、この世は愛さえなければ解決するのに、わざわざ自分で愛を探しにいくのでいつまでたっても解決しない。
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わたしの愛するブルー
分の「やらなくてはならないこと」を考えて、青ざめるのが好きだ。
いいねえ、「やらなくてはならないこと」、その直接の感じ。
その直接の感じに、青ざめるのだが、この青色はつまりストレスだろう、僕はこのストレスを愛している。
僕は、自分が「やらなくていいこと」をやらされるストレスは苦手だが、自分の「やらなくてはならないこと」のストレスは大好きだ、これのために生きているといっても過言ではない。

人は、未来のない人とは一緒にゆけないし、未来があるということは、追い立てられているということだしな……
本当は、あれこれ難しいことを考えるより、その青ざめることに取っ組み合いをしているほうが得意だし大好きなのだ。
これは言うなれば、あのブルーストレスが人を未来につないでいると言えるだろう、それは実感として「まさにそのとおり」と思えるものだ。
「やらなくてはならないこと」、いいねえ、ブルーだ、生々しいぐらいブルーだ。

自分のことで精一杯になるとき、それは自分が精一杯生きているってことだ。

多方面に、小言や協力を振りまいているとき、僕はどうしても気乗りがしない、そんなことどうしても精一杯はやれない。
世界一ブルーになりたい、そのとき僕は最も痛快に笑えるだろう。
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本当の意味でうらやましい恋あい
ういえばこのブログは、恋あい系のブログなのだった、もう長いことそんなこと忘れている。
恋あいというのは、うーん今考えると暗くなるが、本来はそうではなく、今でも明るく輝かしいものであることは変わりない。
恋あいとは、求めてするものではなくて、人間が何もかもを求めて生きる中で、不可避的に発生するものだ。
女から見て、「そんな、あなたに求められたら、断れるわけないじゃない」と驚いて言ってしまうような男が、たくさんいるという状況がベストだ/逆に恋愛そのものに注目するというときは、かぎって恋あいの本質が失われているときで、このときは話が暗くなるのだった。

人間の「エネルギー」は、四方八方に向けて発揮されるものであり、特定のこれという方向に発揮されるものではない、そのエネルギーの一片が女性に流れ込んで、恋あいが発生するにすぎない。
それは、雄々しく育つ樹が、東西南北の一方向にだけ枝葉を茂らせるわけがないように、放っておけば自然発生するものだ、女性のハートを射止めるつもりがなくても、まき散らしているエネルギーが勝手に周囲の女性に突き刺さるのだ。
このとき、正しい恋あいにおいては、大事なのは輝きであって自尊心ではない、女性は「この人の輝きの足しになれるのなら」と、光栄さに慌てて身繕いを整える、「自分を捨ててもいいとあっさり思えたから、これは恋あいなのね」。
一方、ゆがんでしまった恋愛は、恋愛を自尊心の足しにして、自己実現の一材料にするというような発想だが、こんな発想はそもそも「絶対違うでしょ」と、思春期のうちに見切りをつけていなくてはならないのだった/そこで見切りをつけていないと、たいてい四十過ぎまで持ち越してしまう、それは明るくない話だ。

恋あいなら、「いいね」ではなく「すごいね」をもらうべき。

「いいな〜うらやましい〜わたしもそうなりたい〜」と高揚させるのが恋あいの本質ではなく、「すごいねあなた、わたしにはマネできないわ……」と失意させるのが恋あいの本質だ。
本質はエネルギー量の問題なので、恋あいでも仕事でも同じ、ホンモノのそれは聞いていて「マネできんわ……」とむしろ失意を覚えるもの、だからこそ本当の意味でうらやましいものだ。
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新しいステージ

幹のズレている人はもうダメだ。
もうダメだということは、逆に、もうどうもしなくていいということだ、いじったって結果は変わらない。
根幹のズレている人は、そのとおりの結果に落ち着いていくだろうが、それにしても破滅的な気分になる必要はなく、あくまで<<助け合って生きていく>>ことは可能なはずだ、それに徹しよう。
時代のせいもあって、かつてはズレてなかった人も、多くはもうズレてしまった、それももうしょうがない、そもそもこんなこと僕がエラソーに口を利くたぐいのことではなかったのだ。

パーティも五年目に突入したので、新しいステージにいこう。
「求める」ということだけが真実であって、このことは不受症を土台にしている。
わけがわからなくて、なお自分が正しいと不平に思えるのは、予選を通過していないからだ、予選を通過すればこちらのほうが明らかに正しいのがわかる。
不平を持つ人間が、自分の不平に疑問を持たず、自分が正しいように確信するのは、単に不平者の「数が多い」からだ、同調者が数多くいるので自分が正しいように思えるという、ただそれだけのことだ。

Z女史は、自分がいまいちな男に言い寄られるということだけを、自分のアイデンティティにしていた。

だがZ女史の自信の時間はあまり長く続かなかった、それは加齢によって、男に言い寄られることが勢いよく減っていったからだ、Z女史は男を欲しがっていたわけではなかったが、自分の自信が壊滅していく日々はすさまじくつらいものだった。
僕からはもはや何もできないが、せめて僕は、「求める」ということの正しさを示し続けていたいと思う(新しいステージだ)、ここで不受症というのは大きな手がかりになる、どこで何をして何があったって、本質的に自分が「求める」という行為自体は変わらない。

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「なんとかして生きていくでしょ」
んとかして生きていきましょ。
生きていく同士だから出会うこともあるわけで。
薄味でいいんです、迷っている人ほど濃い味を求めるけれど。
「なんとかして生きていくでしょ」、そう言い合える仲はそれだけで悪くないもんだね。

恋と、仕事と、友人と、家族と、生活と、自己実現と、美容と、アンチエイジングと、健康増進と……って、全部まともにこなすのはスゲーむつかしいよ。
いくつかは取りこぼしが出るよと、初めから覚悟しておいたほうがいいよ、全部を拾っていけるわけがない。
なんとかして生きていかなきゃならないのだけど、重要なことは、シリアスにならないこと/シリアスになるということは、活力も可能性も発想の柔軟性もすべて失わせてしまうものだから。
楽しいことも十分に含みながら、「全部のことがまともに行くわけないよ〜」と、初めから笑ってかかろうね、友人が尽きたり、若さが尽きたり、お金が尽きたり、しばしばするけれど、「力尽きる」というのが一番ヤバいんだから、それだけないよう、最後まで笑ってかかろうな。

生きていくうち、困っていない日なんて一日もない。

安穏なんて誰が言ったか、そんな仮想の日は一日だってこないよ、いつだって何かしら困っているところはあるわけで、ただそれが当たり前だから笑って生きているだけなんだ/シリアスにならないことが最大の利益になるということを十分知って。
「なんとかして生きていくでしょ」、どうせサイアクのことといっても死ぬだけなんだし、最高の努力をしていたっていつか死ぬわけだから、そのときまで「なんとかして生きていくでしょ」、そうやって笑い合える仲は誰にとっても勇気の湧くものだよ。
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悪と利益と快楽と

っかに都合のいい女はいないかな……
と、サイテーなことを言ってみる。
慾望は危険だが、無欲になることも危険極まる。
人は慾望に囚われもするが、無欲にも囚われるからだ。

だいたいの無欲というのは、単に慾望のシステムが故障しただけで、より不穏な状態だ。
それは、単に鮮やかなものを見られなくなったという「衰え」にすぎないということがよくある/「衰え」というキョーフの単語。
僕にとって都合のいい女とは、僕によって不幸にならない女のことだ、それぐらい鮮やかな女が僕にとって最大に都合がいい。
とびきりの夢を見よう、それはとびきりの悪を含んでいて、悪は利益を搾取しながら、どこにも不幸が生じない、よって何らの罪も発生しない、それはあってなきがごとしの僕だ。

僕だけ気持ちよければいい。

サイテーな言いようだが、それがそうでもないのだ、あなたまで気持ちよかったらいろいろと問題が出るだろ/僕だけ幸せならいいわけで、むしろそのことか最もあなたを苦しませないし、あなたを最も安らぎに満たすだろう。
女が気持ちいいかどうかなんてキョーミないし/ただすべてはうまく噛み合っていなければならないだろう、女を殺したり抱いたりする、ああ女に両親とかスマートホンとかなければいいのにな。

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某日内定祝賀会

曜日に、mの就職(内定)祝賀会をした、いつものパーティ会場CLIMBで、祝い事だからか思いがけずいつもの顔ぶれが揃い踏みした。
祝賀会と前後して、僕自身の体調の爆発的な解放もあったのだが、これはなんというか、これまでにやってきたことが、まとまって一定の成果を為したのだと思う、ひとつの踊り場に到達したのだ。
物事には、これまでのツケがまわってくるというフェーズがあったりするわけだから、その逆、これまでの売掛金が一気に回収されるというフェーズもあるわけだ、今僕は奇妙に大きく一息つける直覚を得ている。
思えば長い時間、人心地のつかない中を突っ切っていく必要があったりもして、僕はまったく特殊なことをしてきたと思うが/それでも今、なお思うことは、やはり未来のことなのだった、それが一番安全で……勝って兜の緒を締めよというほど単純ではありえないので、「勝ってネクタイを引きちぎれ」と、今また僕は僕自身に告げているところとなる。

mは大都市の市役所というすばらしい勤め先を得たし、その他いろいろ、病院通いが減った人もいるし、ガキが大人になった人もある、判断力を得た人間もあるし、能動性を得たもの、あれやこれやができるようになった人、いろいろある、今ひとまとまりにそれが実った。
生きているうちで最も危険なことは、「安全圏に後退すること」だと思う、真の安全圏などがあればいいのだが、そんな都合のよいものは人の世に存在しない/僕は「安全圏」にいた人が寿命や老化や病気に無縁だったという例をついぞ知らない。
今、参加者はみんな女性だから、特に鋭敏に感じているらしい、「光の摂取」のこと/何もいかがわしい話ではなくて、「けっきょく真に自分の足しになるものを摂取するしかないんだ」という単純な理屈、この世には性悪の毒が存在するのも事実だが、事実だからといってそれを食卓に並べる必要はない。
「たとえばAさんとBさんが取っ組み合いをすると、<<なぜか無条件で>>、AさんもBさんも『勝とう』とするだろう? それはAさんBさんの意志でもなければ個性でもないんだ、どちらも同じ、ただの『遺伝子』の性質にすぎない、遺伝子の性質につけこまれているだけなんだよ」と僕は話した。

進むしかない、元あったところへ帰るためには。

この世のすべてはうつくしくて元々なのだろうが、インチキ自然体と低級レットイットビーでは、人間はただちに好ましくないバケモノになっていってしまう、どんな仕組みがあるのかはわからんが、目の前の道を行かない奴がアホであることは明白だ。
今なお思うことは、やはり未来のこと、過去の決算はひきつづきプラスで出ている、ようはそれが続いていくことが重要で、プラスの内訳を精査することはそんなに意味のあることじゃないな。

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思い出は爆発だ
「あのときはねえ」と、ゲラゲラ笑えるようでありたい。
「あのときはねえ」「最高でしたねえ」「サイテーでしたけど」「あーもう二度とやりたくない」「わはは」と笑えるようでありたい。
あるいは一生を通して、「あのときは本当にありがとうございました」と、いつ思い出しても永遠に頭が下がるようでありたい、また頭を下げられるようでありたい。
また、どこの誰だかは知らないが、いつか会ったときには「お前、あのときのアイツだろ?」と、ニカッと、永遠に知人にならない、永遠の旧友のようでありたい(ダセー話をして悪かったな!!)。

思い出は爆発だ/そうして思い出したとき、爆発的に何かがよみがえるということ、それならばその当時のときは、そこに何か確かなものがあったのだ。
僕はひどく強欲なのだと思うが、そうして「確かなものがある」ということを欲してやまないのだ、もう生涯で得るべき「確かなもの」の総量はとっくにオーバーフローしていると思うが、まだまだ、いけるだけいきたい、僕はひどく強欲なのだと思う。
僕は一時的にイイ気分になるのがニガテなのだ、それはなぜかというと、一時的にイイ気分になっている他人を見るのもニガテだからだ、それ以上の理由なんか持ちたくない。
八月ですねみなさん!! 僕はまたこの夏も改めて狂おうと思っております、まだまだ秋までは時間があらぁな、残暑見舞い申し上げます!!

時代はいい、お前が悪い。

どうよこの、真正面から正当性を否定していくスタイルは、このコピイは間違っているが、この間違ったコピイを履行していくことはとてつもなく正しい。
愛があり、夢があり、理知があり、かつまともでないことが重要だ、われわれはまともなことで笑うことはひとつもないし、理知がないことで笑うこともひとつもない。
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ひとつのことに向けて走り抜けて
近、「精神」とか「霊」とかいう話をしてきたが、これはこれらの語を見ているだけだとアホみたいだ、いいかげんやめてえなと思う(思うのだがしょうがないのだ)。
僕は何もややこしい話をしたいのではなく、決定的な話をしたいのだ、正直べつに「霊」なんて話はしなくていい、僕はただ「情念」のやり方を否定したいだけだ。
そういえば、ちょうど先日、テレビ番組で超能力とか霊能力とかでの「リーディング」の特集をやっていたが、ああいうのはせいぜいシャレにしておいたほうがよいと思う、どう考えても心身にプラスにはたらくわけがない。
ああいう「リーディング」の能力は、僕にもあるし、その実績もこれまでに無数にあるが、そのたびに僕は言っているはずだ、「こんなもん何の役にも立たん」と/それより脳みそと胴体の基本性能アップ、クソ頭のいい脳の同時多層処理ができなきゃけっきょく何も解決はしない、僕はそんなことを主張しているのだ。

アホみたいな主張だが、改めて、何かひとつのことに向けて、走り抜けてみないかね、全身全霊で生きてみないかね、僕はそのことについてもう何年間もブーイングしている、「こんなことオレが言うべきことじゃねえ」と。
で、ひとつのことに向けて走り抜けるというとき、それが「情念」だとダメなのだ、硬直してノッペラボーになり、妙味なし、脳が同時多層処理の能力を獲得しない、それでけっきょく人間が進まん、だから今になって「情念」がどうこうという話をしている。
なぜこんなフツーの話をするだけで、四方八方から抵抗されるんだ……ただの愚痴として言わせてもらうが、こんなフツーの話がやたらに抵抗されるようになったのは、せいぜいここ五年ぐらいのことなのだ、わけがわからん、何か後頭部にブラックカートリッジでも差し込まれたのか?
同時多層処理だから、愛も含むし、悪も含む、友人も恋人も、学門も文化も芸術も、場所も街も天地自然も含むだろう、それらすべてを受け止めて「走り抜けよう」という話をしているだけなんだ、各人の事情の話をしているのじゃない、「走り抜けよう」という一般論について話しているんだ。

ノー・トラブルの中、七転八倒せよ。

僕の言っていることは、たぶん十年前から何一つ変わっていない、ノー・トラブルだ、それでいて若い人間は七転八倒しているのが自然だ、この場合の七転八倒というのは、七方向に転び八次元に倒れるということだ、それぐらい同時多層処理をこなすことにもがこうということ。
もう一度言うが、「情念」をリーディングしても意味なし、肉が衰えるだけだ、流血を啜ったって肉は恢復しない、もう一度ひとつのことに向けて全身全霊で生きてみないかね、僕の主張はこの先も変わらん。
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まともな悪と善良な獣
代の世の中は、油断大敵という感じがする。
あまり詳しくは言えないが、「悪さ」を持たないと、まともに生きることは難しいのじゃないか、という気がする。
「悪さ」、つまり「まともな悪になったほうがマシじゃないか」ということなのだが、ここでまともな悪とは、悪行にも最低限の仁義があって、悪い人であっても愛する誰か・愛する何かを持っているということだ。
一方、善良な獣というのは、「善良さを守っているか」というルールで<<自他を監視している>>のだが、これは自分であれ他人であれ、善良さのルールからはみ出した者は許さないという物騒な考え方であって、しかもその実、愛している何か・誰かというものを持っていないのだ、これはひたすらおっかないと、僕などは感じるのだった。

まあ、人間が生きているのだから、完全に善良とはいかない、誰でも悪人の部分があらざるを得ないが、それでいて何かを愛しているかということと、悪人というのもどこか笑えるところに収まっていることが必要だ。
一方、善良な獣というのは、行くところまで行くという怖さを持っている、それについての対処法はもう、「おれは善人じゃないから知らん」と突っぱねるしかない。
最近は、不倫で揉め事になる芸能人が多いけれども、僕は不倫で揉めた芸能人の当人とは友人になりえても、それについて炎上攻撃をしている誰かとは友人になりえないだろう、なぜ友人になりえないかというと「おれは善人じゃないから」だ。
考えてみれば、善人と悪人の、どちらが「恐怖」なのかはわかったものではないし、善人と悪人とで、どちらの気が狂うのかも定かではない、現代の世の中は油断大敵で、その世の中から距離を取るとそれはすなわち「悪人」になる。

なんでもやって生きていこう、ただし笑えなくなるのはダメだ。

なんでもやって生きていこう、それより先のことは言えない、誰でも自分で考えるしかないことがある。
なんでもやって生きていこう、ただしどこかで愛をもって、走り続けることを忘れずに、なぜなら愛をもって走り続けることがけっきょく一番安全だからだ。
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僕のことは守ってもらうしかない(厚かましい)

近、自分がものすごいレベルのアホなのだということがわかってきた。
わかってきたというか、いよいよ、不可逆的に認めざるをえなくなってきたというか……
僕はどうやら、いわゆる「大事なこと」のことごとくを、本当に「分かっていない」ようなのだ、自分で認めるのもヘンな話だが。
油断すると、すぐ「分かっていない」ところに吸い込まれていってしまう、僕は文化とか芸術とか学門とか、そういったものの「大事なこと」がよく分からなくなり、吸い込まれていってしまう、僕は吸い込まれていって「この世界に寝そべっていれば十分」というところに行ってしまう、油断するとすぐにそうなる。

だから究極、なんというか、かばってもらうというか、守ってもらうしかない、正直なところを言えば本当はそうだ。
いろいろ書き話したりはしているが、究極のところ、僕があなたに何かを「教える」ということは本質的に不可能だ、なにしろ僕は本当に「分かっていない」側なのだから/それに比べればあなたが僕に「教える」ということは実になめらかに成り立つ。
分かっていない、分かっていないのだ……この数年間は、無理して分かっているふうにしてきたが、そのときの僕は正直半分がたは僕じゃない、何か僕ではないナゾのおじさんがそこにいるようにしか思えない。
何か、わずかでもむつかしい話になると、正直「よく分からん」のだ、僕はどうやってこの世界にひび割れを認知してよいのかわからん、僕は人が何かを「やっている」という、その「やっている」ということがよく分からんので、これはもう守ってもらうしかないのだ、非常にあつかましいが本当のところはそうだ。

なぜ分かりやすくせねばならないのかが分からん。

分かりやすくするなら、分かるモードに切り替えればそうなるのは知っているが、それで分かるようになったとして、「分かるようになる」のが目的だったとは到底思えないのだが……僕はけっきょく、僕を守ってくれる人としか付き合えん、ひどく厚かましいのはわかるが、これはもうどうしようもないのだ。
「分かる」モードになったとたん、僕は「なんのこっちゃ」となる、たとえば秋口にお茶を飲むのが「分かった」として、そのとたん僕は何もかもが「なんのこっちゃ」にしか感じられなくなる/「分かる」って「失くす」と同義じゃない? 僕はいつもおびやかされて困っている。

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永遠のライブ

年前もこんなことをしていた、何かを書いていた。
そのさらに十年前も、何か似たようなことをしていたし、そのさらに十年前も……「書く」ということにこだわらず、僕はずっと夜の中をうろうろしている。
もし前世があったとしたら、きっと同じことをしていただろうし、来世があったとしても、ずっと同じことをしているだろう。
どう考えたって永遠に同じひとつのことをしている、それがたかだか西暦何年とかいうことで変化はしない。

つまり、僕は初めから何一つしないので、何かをやめるということもありえないのだ、われながらひどい面倒くさがりで呆れる。
話が噛み合わないことが多くあるのはそのせいだ、僕は「何をしますか」と訊かれていつも「何のことだろう?」と混乱している、「何をしたらいいでしょう」って、僕にはそもそも何かを「する」ということがわからない。
僕はまるで、墓標みたいな人間だな、でもそれは死んでいるということじゃない、存在しているということは、わざわざ生きないということだ。
すべてのものを、永遠にもっていく、永遠にもっていくのだから、何が重要で何が大事かなど、価値観の話は永遠のあとで決めればいいのじゃないか、永遠のあとなんて永遠にこないだろうけど。

永遠のライブ、「生きる」ってそれじゃないの。

八千八百万のサウンドが、四億ヘクタールのキャニオンに響くんじゃないの、谷間に十七色の虹風が吹いて、夕焼けが四〇〇日間続く、そんなのはもういくらでも見てきたよ。
東京って無限に土地があるんだぜ、だから街が終わらない、永遠なんて言うとバカにされそうだけれど、でも永遠でない恋人を検索しているのもいいかげん言い訳が立たんと思うぜ。

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創作力
日は一日で二万字ばかりの章を書き上げたのだが、今になって読み返して、この部分は全部ボツにする、まあだいたい文章を書こうとする変人はこういうことばかりをしているものだ、人は二万字を書くことはできても二万字を「書き直す」ということがなかなかできない(そりゃもちろんおれだってイヤだ)。
こうしてそれなりの量の書き直しをすると、そのたびに教訓を見つけようとするが、教訓なんてものは存在しないに決まっている、いつだってそのとき限りに偶然・マグレで・うまくいくしかないのだ。
ありとあらゆる方法論は何の役にも立たず、足をひっぱるばっかりで、その中でも最も役に立たないのは「ダメもと」の精神だ、だいたいそういう、追い詰められた人が納得しやすいロジックというのは、追い詰められた人専用の香料がまぶされているものである。
じゃあどうやって取り組むかということになるのだが、それは「力ずくで取り組んだらいいだろゴルァ」なのであって、ここにきて急にデタラメになるが、けっきょく勝負なのである、勝負に勝ち方など存在しないのだった……

文章を書くとき、いつも「どうやって書いたらええねん」という不能感、および「なんか、もう前もってわかる、何かムリ」という消沈がある。
もちろん、くっだらない文学風味の何かを書くことはできるのだ、それは99%文学の文章に見えるだろう、けれども僕は自分でそれを詠んだとき、「うわ、要らねえ」と感じる、だからその「書ける能力」は何の役にも立たないのだ。
仮に、うまくいく場合にパターンがあるとすると、それは書き出しの時点から「うわなんだこりゃ」「こんなん成立せえへんやろ」という、むしろ「間違ってるだろ」という半笑いの感覚があるということになる、何かがまともに創られるときはたいていそうだ。
つまり、僕は間違わねばならず、間違っているものをどこか天のカミサマがしゃしゃり出て、勝手に別構造化してくれなくてはならないのだ、そういえばこれまでのすべてにおいて、書こうと狙っていたものがそのまま文面になったことはないな、だからもう誰が書いているのやら意味がわからん。

「創作力」ほどの完全なゴミはない。

まあどうせ、僕は何も悪くないので、他の誰かが悪いことにしておこう、非情な話、文章を書くときだけは誰ひとり友人なんてチャラいものがあってはならない、創作のときにあってはならないものは愛と友情と真実だ、除菌もできるジョイで顔を洗って出直せ。
もし僕に「センス」なんてものがあったら、僕は早いうちに自殺してカタコンベ行きだっただろう、まあなんと言えばいいのか、僕は一般に大切と思われているもののほとんどが苦手である、僕に唯一の自慢の能力があるとしたら、それは僕が躊躇なく無能になれることだ、有能などということは苦手だ。
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若い二人はうらやましい!

い二人はうらやましい!
が、このご時世、年の寡(すくな)い者が若いとは限らない!
若い人間がSNSを使いこなしているのではなく、オンラインで済まそうという億劫さはむしろ老人の流儀に属するものだ。
山裾のオンボロ下宿で、運動方程式をいじりながら、「運動量を積分すると運動エネルギーになるのはなぜなんだよ」なんて言い始めたものの、調べる手段もないので侃々諤々(かんかんがくがく)、誰一人帰れずに朝までペンと紙を飛ばしてた、扇風機の取り合いしてた、なんてことのほうが「若い」ってことだ/それに比べたらオンラインなんかオジーサンだな!

若いということは、肉が若いということで、肉が若いかどうかは、緊張感によって証される。
たとえば、十三歳の少年少女らを舞台の上に立たせてみる、するとそこにはそれだけで何かの緊張感が生じる、これは只々肉が若いからだ。
一方、七十三歳のオジーサンオバーサンを舞台の上に立たせてみる、するとそこには「ロータリークラブかな? ははは」という和やかさが生じる、こうして緊張感の有無が肉の老若を証する。
若い二人はうらやましい! それは不変の羨望なので、どうか和まないように、人の肉は緊張感によって高まり、その高まりの中で肉はさまざまな霊を蓄積的に宿していく、まさにそれが「うらやましい」のだ。

オンラインが問題なのではなく、肉がオフになるのが問題だ。

「肉がオフです」とか、まさにオジーサンオバーサンじゃないか、繰り返すが老若は単に年齢によらず、肉の開かれてあるなしによる、肉を閉じたまますごす十年はあなたをえげつなく老化させるだろう。
VRで花火を見るのが悪いわけじゃない、たとえナマで花火を見たって、そこにあなたの肉と彼の肉が開かれてなければ、あなたは不変の「うらやましい!」にはならないだろう、ああ若い二人はうらやましい!

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