☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
ファンシーなムード

ういえば、むかし、レズビアンの人に相談されたことが一度だけあった。
「知らんけど、お前は女のこと好きになるんだろ」と、僕は他人事だったが、彼女はつらそうに泣いていた。
今になって思えば、彼女の内側には、「男の人と恋あいがしたかった」という、果たされなかった願いがあったようだった、なぜレズビアンなのにそういった願いだけが残留したのかは、僕にはわからない。
その後も僕は、「知らんし」と冷酷だった/今思えばひょっとすると、彼女は単に女の子が好きというよりは、「女の子としか恋愛できない」という状態――に、引きずり込まれていくところ――だったのかもしれない、だとしたらつらさがあったのはまあわかる、ただ仮にそうだったとしても、今もなお、やはり「知らんし」としか僕には言えないのだった。

僕は、LGBTの当人に茶々を入れるつもりはまったくないが、近年の、「他人のLGBTに和んで微笑もうとする性向」には、何の肩入れもしない/はっきり言って僕はこのムードについては一ミリも信じていない。
今おそらく、生きてきて、まともな恋あいがなかった人、またこれからも、まともな恋あいは得られないという見込みがほとんど確定的という人が、とても多いのだと思うが、そのつらさを、他人のLGBTへの肩入れでごまかしたり、消去したり、慰めたりすることは本質的にできない。
せっかく何かしら、女として生まれたり、男として生まれたりしているのに、まともな恋あいが一度も得られないというのは、とてもつらいことなのだ、同性愛も異性愛も関係ない、愛を求めて得られない・わからない・認めたくないというのは、誰であっても正面から受け止めがたい激しいつらさだ。
何であれば、愛だけでなく、たとえば本当の青春がなかったとか、本当の友人がいなかったとか、本当の恋あいがなかったとか、本当の○○が一度もなかったというのは、どれもとてもつらいことだ、だがきっとそこで思い出さねばならないのは、過去のすべての人も、同じようなつらさを抱えて生き抜いていったということだろう。

LGBT等に肩入れすることはファンシーだが、自分の愛を戦うのはつらい。

自分の愛を戦うのはつらいことなのだ、何しろフラれるのは自分だし、傷つくのも自分、傷つけてしまうのも自分、笑われてバカにされるのも自分、謝罪せねばならないのも自分、「誰のことも本当には愛していないし誰からも本当には愛されてはいない」なんて気づいてしまって、直撃で苦しむのも自分だ、しかも「それでもなお愛そうとしないといけないのか?」と地獄みたいな問いが生まれてくる、それは余所事に肩入れして微笑む気楽さとは比較にならない/自分の愛を戦うということは、常に発狂や自殺のリスクまで含んでいる。
僕はもう、むかしからずっとフラれ慣れているし、笑われ慣れているので、僕自身「もっとつらくないとダメだね」といつも思っている/僕には僕のつらさがあるのかもしれないが、それについてもやはり「知らんし」と思うし、「知らんし」としか言えない。

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恋はカルマじゃござんせん
ルマなんて好きな奴はいるのかね?
立場上、しゃーないでカルマを説明するが、正直なところ僕はそれを「わかる」というだけで、何の本分でもありはしない。
僕が言いうるのは、「我が国へようこそ!」、それのみであって、カルマの無法国へ往きたい人はドーゾどうぞ……
僕は合理に考えることのできる奴だが、合理なんて本分じゃないんだ。

恋はカルマじゃござんせん、だから手が届くその瞬間、胸が引き裂かれそうに切ないもの。
僕だってそこそこやるんじゃな〜い? 最近少しだけそんな気がした、アホの極致かと思っていたが、恋人の資格はゼロではなかった。
何がなんでも笑わせたいと、あなたを想ったのはマジだったから。
何ら魅力的ではない僕の、いつのまにかの「我が国にようこそ!」、恋はカルマじゃござんせん、恋は切なき/ひとつの国よ。

艱難辛苦、あなたはれっきとしたAngelだけどね。

やれやれ、どこぞのジジイじゃあるまいし、僕がカルマのカタマリなんぞ愛でたりするかい、我が国へようこそ、どこにでもいるAngel、あなたの美と恋を称えないものはこの国から追放されよう。
ワイドショーの権化はこりごりだぜ、行儀良く座っていないで、その羽を広げて冷たいビールをかっくらってね。
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サイテーな僕より
なんだから、とりあえずヤレたらどんな女でもいいわけで……
と、サイテーなことを言っているが、別に僕はサイテーでよろしい、僕がサイテーであることは誰の不幸にもならない。
それはさておき、誰かのことを愛して、その人がこの先もずっと幸福でありますようにと、泣き崩れて祈ったことがあるか。
駅のホームで、泣き崩れてもかまわず、「あいつが幸せならそれでいい」と、内心の自分自身に怒鳴りつけて、「どうしたの、大丈夫?」と複数の通りすがりの人に慰められながら、それでも応えもせず立ち上がりもせず、決して違えることのないよう、誓い続けたことがあるか。

僕はエクストリームバカなので、二十年前なんか、そんなことがしょっちゅうだったぜ!! 今僕がタイムマシンで当時の僕に会いにいっても、「こらあかん、手がつけられんw」という状態だろうな/まあこんなヤツ、本当に放っておくしかどーしようもないからな。
とりあえずヤレたら女なんか誰でもいいという、マックスサイテーな僕のことはさておき、あなたはこれまでどれだけのことに泣いてきただろう、自分のために泣くのではなく/誰かの幸福を祈るのに、あるいは何かを祝福するのに、具体的に何回崩れ落ちて、泣いてきただろう、もしその回数が僕より勝っていたらあなたはれっきとしたキチガイだ。
自分のために泣くというなら、実に簡単なことで、それを目撃するということなら、自分の人生を後悔しているおばさんが娘の前で酒を飲んでいるところを録画しておけばいいし、いわゆるメンヘラの人を録画しておけば毎晩泣いているだろう、だが人の何かを祈り倒して泣いているという人はそんなに数多くない。
僕なんかサイテーでよろしい、でも人のことを祈って泣くというのはどうする、これはけっこう重大な問題だ/僕がサイテーということには爆撃が可能でも、万が一あなたがサイテーなどという可能性には爆撃できないだろう、人のことを祈るのはそんなにむつかしいことではないが、人のことを祈って泣き崩れるというのはそんなに簡単なことじゃない、一生のうち一度もなくたって何も珍しいことではない。

僕が人を祈って泣き崩れなくなったら、そのときはさすがに救いのないクズだ。

何しろ、元が歴然としたサイテー君なのだから、せめて人の何かを祈ってどこかで泣き崩れているようなところがないと、本当にサイテーのカタマリになってしまうではないか、僕は、「将来の夢は公金横領」というぐらいサイテーな人間だが、どこまでも僕のサイテーぶりなどは話題の焦点ではない、われわれはどこまで愛する人のことを祈り、どれだけこっそり泣き崩れているかが焦点だ。
願わくば、あなたが付き合う友人と恋人は、正義の人いうよりは、人を祈って泣き崩れるような人でありますように、プラス僕のようなサイテー君じゃなければさらにいいな。
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幻想の停留所
定時刻は必ず来る。
そりゃ時刻は来る。
ただ予定は来ない。
ヨソが運営するバスじゃねえんだ、時刻は来ても予定は来ねえよ。

バスは社会的なモンだから、予定時刻どおりに予定のものが来てくれるよ。
だがあなたが十八になっても青春は来ないし、二十になっても就職は来ないし、二十五になっても結婚は来ない、三十になっても学門は来ないよ、あなたの青春は京急と契約しているものじゃないんだから。
予定時刻といって、時刻だけは自動的に来るよ、「社会が悪い」という側面があったとして、そもそも社会があなたのところに何かを運んでくることは決してないよ、バスと電車しかこねえと思っておきなよ。
たまに停留所で待っている人を見るのだが、あれは何をやっているんだろうと、見ていて怖くなるよ、スマイルでいるぶん逆にね。

毎夜獲得している奴を予定とはいわない。

毎夜獲得していないのか? まさかとは思うが、ビートを待っているんじゃなかろうな、地球の中心にいかないとビートはないぞ、街に行けばビートがあるのじゃなく、ビートがあるから街が作られるんだぞ。
別にどこかに行こうという話ではなく、このビートの中にいて、どこにも行くなって話だ、どこかに行こうと言い出したらそれが「予定」になっちまうだろ、そうしたらまた幻想の停留所で待ちぼうけするヒマな日々になっちまうからさ。
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幼いセックスの夢

は十代の後半まで、ロリコンの性癖があったように思う。
が、今になってわかるが、それは実は性癖でもなければロリコンというのでもなかったみたいだ。
僕は童女に欲情していたのではなく、僕自身が少年だったときに、無意識に抱いていた同年代の少女への性愛があって、それが何かの「やりのこし」のように感じられていただけのようだ。
むろん、その性愛への慕情は、実際に童女と性交しても得られるものではない、あれはただ少年の僕が見た夢だったから。

たまにロリコン向けエロマンガを見たりすると、その「やりのこし」のことを思い出す。
たぶん、これもいつものことだが、どうせ僕はそのエロマンガに示されている激しい描写に関心が向いていなくて、僕自身が少年だったころの夢を思い出している、自分が少年だったころに浴びていた風を肌に直接思い出すことができる。
きっと、それだけではないのだ、僕はおそらくほとんどのことに、描写されている直接のことを受け取らず、僕自身が見てきた夢のことを思い出している、それはもうインターネット上の「まとめ記事」を読んでいるときさえ、僕は自分が直接見たこの世界のことを思い出す手がかりにしているだけで、表面上に騒ぎ立てられている情報をほとんど受け取っていないのだ。
まだ生殖の機能も知識もなかったころに見た、性愛とセックスの夢、そのセックスは具体的な性交のヴィジョンを伴っていないが、確かに少年と少女のことで、とても静かな、夏のさなかに吹く突然の冷たい風の感触だった、少年は少女の身体と未分化のところにまで交わることに憧れた。

少年は無知で、少女にはすでに罪があった。

だからそのときでさえ、仮にまぐわおうとしたら、少女は己の身を恥じて、身を固く閉じて怯えただろう、むしろセックスいう形式にごまかしてゆくことさえできない少女の身は、大人の女性より隠しようがない女そのものであったかもしれない。
かつて無知だった少年と少女は、大人になり知識を得、安定したかに見えるが、それは大人になった身についての知識を得たにすぎず、大人になる前にあった身の知識については、未だ与えられないままだ/われわれは自分たちをしょうもなくしてから、しょうもなくなったわれわれ自身の知識を振り回し、そのことで物事を知った風情になりがちだ、それはとても愚かなことだ。
 

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世界卓球2018・対合同コリア戦を観た

川佳純さんのファンなので、Youtubeで世界卓球2018・対合同コリア戦を観た。
急遽、合同コリアチーム結成……という話は、まあ何かわざとらしい気が誰でもするが、何にせよ打ち破ってしまったので、もう済んだ話だ/話がおかしいといえば、僕のように卓球のファンでもないのに「佳純ちゃんのファン」と言い張っているのも、十分おかしい話だと思う、ショーでやっているわけでもないのにわれながら不潔な観戦ぶりだ。
それにしても、まあ、後追いでYoutubeで観ているだけでも、心臓が破れそうな試合だった、よくこんな中で戦えるよな、ドン引きものだぜ……石川佳純選手はいつ観てもピュアなのか鬼なのかわからなくてドキドキしてしまう。
もしあんな人が目の前にいたら、どう扱ってどう向き合えばいいのか、まったく不明だ、試合中の気迫を観ていると到底触れられない人に見えるし、試合後のピュアな様子を見ていると、これまた到底触れられない人に見える、ご本人はどういう感覚でいらっしゃるのか、本当にまったく見当がつかない(というわけで、僕は卓球のことは何もわからないのだった、われながらスポーツに関してはひどい門外漢だ)。

男の出る幕じゃない、というところの女性の姿を見ると、何か安心する。
ものすごい技術で、ものすごい集中力で、ものすごい気迫で、南北合同のどうたらというのを、純正のスポーツ力でねじ伏せるのだから、なんというか、やはり常人の器じゃない、才能がえぐすぎる/ある意味、スポーツで政治をねじ伏せた歴史的なワンシーンでもあったと思う、これをお人柄としてはものっすごくピュアな石川佳純さん(キャプテン)が成し遂げるのだから、正直なところカワイイとかそういう次元でなく、「なんなんだコイツは……」とビビらされてしまう。
男の出る幕じゃない、というところの女性を見ると、僕はホッと安心するというか、何かを手抜きできるというか、「サボれる」という感覚があって、とても安らぐということを発見した/ある意味、少年期以来、セックスうんぬんのことを完全に排除できる瞬間なのかもしれない、女性に完全に「手出し無用」という光景はなぜか見ているだけでとても幸福だ。
明日はまた決勝戦があるのか……しかし心臓がチキンの僕は、ちょっとライブ映像を観るのには根性が要るなあ/何かつい、勇姿に見惚れて観戦してしまうというのは、尾籠な感じがして気が引けるというのもある、やっぱり試合後にYoutubeでこっそり観ようかな……とてもじゃないが僕には「ガンバレ」と応援するような感覚はわからず、何か知らんが「どいつもこいつもスゲーよ」とこっそり思うぐらいしかないのだった。

日本代表って書いてあるけれど、ホントにおれと同じ国の人なの?

と、疑いたくなってしまうぐらい、まあとてつもなくスゴいのだった/まあそれはいいとして、とにかく男の出る幕じゃないところの女性の姿は、観ているだけで幸福で安心する、僕はむしろ、スポーツ観戦そのものは好きじゃないのに。
なんというか、僕はスポーツはまったくわからないのだけれども、はらわたが腐った者とは正反対の声と眼差しとエネルギーが出ていると感じるのだ、僕はそのことが、人々に元気を与えているというより、正気を与えている気がする、それで大好きで、何かたとえて言うなら、ヘンタイ的なアダルトビデオの対極で好きだ/双方に怒られそうな話だが、僕は大真面目にそう感じて感動しているのだった。

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大好きなガールガールガール
日も街にはかわいい女の子たちが……
つまり、僕の恋人ちゃんたちが……
この世界ってなんてイイんだろうね。
この世界が見えていない人もいるみたいだけどね。

渋谷、原宿、横浜、鎌倉……
恋人は季節と場所に存在する。
なぜそうして恋人と夢が存在するかというと、この世界はおれの世界だからだ。
「でも一般的には……」と言い出す奴、ただちに帰れよ、何の話しているのかマジで意味わかんねーから。

あのコと僕は同じ世界にいた。

まれに、ビタッと同じ世界に住んでいる人がいて、その人はスッと僕の世界に入ってきてくれるのだけれど、そんな女の子は初めからもう数百年来の恋人のようで、何の問題もない、恋あいってだいたいそういう感じに進んでいく。
青空とか木陰とか薫風とか、そりゃもうすばらしいもので、話題なんか必要だったことは一度もないな、そりゃもう肌にしみつく風と湿度がすさまじいものだったから、すべてが空まで持って行かれるみたいで。
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二、三発食らわせてやらないと男がすたる

代では決して通じないことを、備忘録として書き示しておく。
お酒を飲んで、機嫌よく歩いているところ、何か通りすがりにインネンをつけられると、「腹が立った、二、三発食らわしてやらないと気が済まない」となる。
これは、酒癖が悪い、のではなく、そうでなければ「男がすたる」のだ、現代ではまったく通じない話だけれども。
お酒を飲んで、気分よく歩いているところ、何かインネンをつけられたら、「二、三発食らわしてやらないと気が済まない」、そのようでなきゃ男がすたる、それを「酒癖が悪い」なんてとんだチキンの言い分だなと、感情でなく流儀として知っておかねばならない。

これは現代では通用しないのだ、なぜなら現代人は、身体が弱っている上に神経は昂っているので、「二、三発食らわせる」という実態が、目も当てられない無様や惨劇になってしまう/しかも監視カメラがあるし、衆人に動画を撮られたりしてしまうし、ヒマ人は筋トレなんかしているしで、そんなカッコ悪いことになるのでは、殴り合いなんてやっていられないのだ。
そもそも、本来の男というのは、すべてのことに向けて「やったりますか」という構えを前提にして生きているので、インネンをつけられたとしても、「なんじゃコラァ!」ではなく、「お、来たか」という感じになるものだ、ブチギレではなく「今夜の出来事」にすぎない/現代ではもう入口がそういうムードにならないだろう。
「二、三発食らわせてやる」というのは、何も興奮して乱闘するということではなく、「もう二、三杯行きますか〜」となっていたところが、せっかく面白い出来事もあったので、「二、三発行きますか〜」に切り替わるというだけだ/興奮して取り乱すぐらいなら殴り合いなんかしないほうがいい、みっともないケンカでは誰もトクをしない。
本来、男というのは、自分のエネルギーを持て余しているものなので、「少々ダメージを負いたい」というぐらいの気持ちで生きているものなのだ、そして初対面のわけのわからん奴と「二、三発食らわせる」をやりあうというのは、まあどうしてもワクワクするのだ、もちろん土台、「こんなやつに負けない気がするけどな〜」という自信があってのことだが/そしてどこか、そういう自信を打ち砕いてほしいという気持ち、思いがけずぶち込まれて地面にブッ倒されたいという気持ちもどこかにあるのだ。

一番カッコ悪いのは、暴力的になること、二番目にカッコ悪いのは、暴力に親しみがないこと。

もちろん、カッコいいとか悪いとかいうのは、差別的なことだから、万人がカッコよくあれるわけじゃない、ただ一番のカッコ悪さは誰だって避けられるのだから、一番カッコ悪い奴にはならなければいい、その他は少々男がすたったって、そんなことを気にしているヒマなんかどうせないのだ/一方、大人になるにつれ、その「二、三発食らわせてやる」というときに、合理的に技術で捌いて合理的に食らわせてしまいそうな予感がすることには、「どーなの」と疑問を覚えるところではあるが……
酔っ払って機嫌よく歩いているところに、インネンをつけられたら、二、三発食らわせてやらないと「男がすたる」のだ/もちろん現代では通用しないことだけど、それでもまさかそれを「酒癖が悪い」なんて言っていたら、お酒の値打ちがなくなる、どこにも通用しないとしても本来正しかったことを覚えておくべきだ。

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向上心と差別感情
己卑下なんてやめなよ。
それってただの差別感情だから。
優越感もやめなよ、それも差別感情だから。
それはあなたのこころではなくて、教育を受けていない差別感情だからやめなよ。

あなたに他人と比べる価値があると思っているのか。
それがそもそも勘違いだね、あなたの比較なんて世界一ヒマなことだ。
アイデンティティがないから他人と比較して「自分発見」しているだけだろ? 教育を受けていないとそんなもんだよ。
あなたの向上心ってただの差別感情じゃないの、ヒマな人はだいたいそうだよ。

あなたが下落しても誰もなんとも思わない。

だから向上してもなんとも思わない。
たとえば、女性の地位が向上したとしても、それは女性の向上ではまったくないだろ? 向上心と差別感情を取り違えているのじゃないか。
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「クソたる自分」2

「クソたる自分」
何を怯えているの。
こんな薫風が吹く中に感情的になる要素なんてあるか?
クソみたいな自分、という、ありふれたことの何が珍しいのか。

僕は「クソたる自分」と常に戦っている。
あなたは何と戦っているの。
他人には「戦うべき」と要求するのがアツいあなただろう。
何を笑っているの、僕をクソ呼ばわりすればいい、僕はクソたる自分と戦っているのだから、僕はその中を生きたいのだから。

あなたは絶賛もせず否定もせず、漠然と笑って過ごしているな。

あなたが間違っているわけじゃない、あなたが間違っているかどうかなんて、考える人はこの世に一人もない。
「クソたる自分」と戦っていく、これが他の誰かと比べてどうこうなんて、考える理由は一つもない。

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「クソたる自分」
近のテレビは面白くなくなったかもしれない。
あなたの両親には愛がなかったかもしれない。
○○はもうオワコンかもしれない。
△△には、非はあるけれど、再起のチャンスを与えてあげるべきかもしれない。

で、あなたは。
あなたは何の批判にも晒されない。
あなたは、掛け値なく面白いまま、四方八方に愛があふれていて、今こそおっ始まったコンテンツ、非を持たない何かの功労者なのか。
何を笑っているの? 僕は泣きながら生きてきた/僕にはあなたの調子がまったくわからない。

僕は「クソたる自分」を打破するために生きている、あなたは「クソたる自分」とは言わないな。

あちこちのテーブルで、「○○ってさあ」と意味ありげに話しているのが聞こえる、○○は自分のことではないのに/「ブスってさあ」と自分たちのことについては話し合わない。
他者への批判は威力的なのに、自己への批判は感情第一的なのは、何かよくわからないな、それはあなたの自己だけが特別で、何よりも敬意が払われるべきものだからか。
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気分よくなるためのひとつのルール
れわれが必要としているのは、批評ではなく協力だ。
理由は明快で、われわれは人との協力なしには生きていけないからだ。
協力なしに生きていこうとなると、われわれの生はきわめて不利で、われわれがそうした不利に生き始めたときには、もう批評なんか交わし合っても何の救済にもならなくなる。
われわれが必要としているのは批評ではなく協力だ、だから人に協力したときは気分がいいし、人を批評したときは気分が悪い/いくら批評にテンションが上がったとしても、それが睡眠中に麗しい夢を見せてくれることは決していない。

たとえばインターネット上には、いろんなものの「レビュー」が掲載されているけれど、あれだって本当に「レビュアー」みたいなつもりになっていたら、自分は悦に入れたとしても、客観的に見れば気持ち悪いものだ。
レビューというのは、「これからこのたぐいの商品を選ぶ方へ、判断の目安に」ということで、協力の精神において示されるものだ、そのことに向けて端正にレビューが書かれてあったら、「どこの誰だか知らないが、わかりやすいわ、ありがとー」となる。
「批評」といって、社会的な地位に立脚した人の批評は、社会的に意味を為すが、一個人の批評というのは、あまり意味は為さない上に、何に対する協力にもならない/われわれはふつう、生きていくのに「協力」以外のことはしなくていいのだ、批評は偉い人がするものであって、批評をした人が偉い人になるわけではない。
われわれは、すべての人を好きになることはできないし、好きになれなければ、熱心で親しげな人にも「どこかへ行ってくれ」と望まざるをえないのが性分だ/しかしわれわれは唯一、好きではない人にも、「協力」はするべきというルールを背負っている、それは他ならぬわれわれ自身のセーフティネットだからだ。

好きなふりはやめる、協力は実行する。

僕はなるべく、駅前のビラ配りやティッシュ配りは、受け取ってやることにしている、バイトくんが早く帰宅できるようにだ/もちろん手元にビラは邪魔になるのだが、そんなものは連れに押しつければおれの手元はスッキリ快適になるので、おれはまったくかまわんのだ、こうして人は協力し合っている。
駅前でヘンな宗教団体や政治団体が活動しているときは、僕はそれに協力はしない、その活動そのものが彼ら自身をけっきょく益しているとは思えないからだ、彼らがさっさとあきらめてナイスな生き方に帰参することへ協力するために、僕は駅前の活動を冷淡に無視して署名はしない/われわれが本当に気分よくなれるかどうかは、ただ一点、「協力」を実行したか否かにかかっている、いくら好意や善意で糊塗したところでそれは本当の気分のよさをもたらしてはくれない。
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オモロイ奴は全員知っている

川志の輔師匠がネタのようにいう「宇宙意思の会」は、桂南光師匠を会長とし(志の輔さんは関東支部長)、入会費はタダ、活動もなし、入会手続きは「入会しま〜す」と思えばそれで入会だそうだ/その会の教えは「きょう二日酔いなのは、昨日飲み過ぎたせいで、昨日飲み過ぎたのは、宇宙の意思だ」というあたりである、ぜひ入会をどうぞ、と志の輔師匠はおっしゃっている。
大野一雄という、世界的に有名な舞踏家がいるが、この大野さんも「宇宙意識ですよ、宇宙意識」とよく言っていたそうだ。
ボブ・ディランは「おれがロックを選んだのじゃなく、ロックがおれを選んだ」と言っているし、宮本武蔵だって五輪の書で「天を拝し観音に礼し仏前に向かって」いるし、正当学府の哲学者で凡人の努力をけなしまくる容赦のないショーペンハウアー先生は「ウパニシャッドがサイコー、あとインスピレーションのない奴が文章を書くなあきらめろ」と言っている。
もう面倒なので列挙はやめるが、オモロイ奴は全員気づいているのだ、われわれの個人的な意思の他に「何かある」のだ、もうこれだけ状況証拠が出揃っているのだから悪あがきはやめろ、このことに反論してよいのはまず志の輔よりもしゃべらせてオモロイ奴だけだ。

オモロイ奴は全員、このことをとっくに知っていて、説明は面倒だし説明してもどうせ伝わらないから説明しないだけだが、さらに正確にいえばこれは、「普遍的にオモロイ奴」ということかもしれない、つまり共同体の外側に出て、初対面の赤の他人に対しても「オモロイ」と無条件で感じさせる奴だ、たとえ外国人でも0秒で「オモロイ」と感じさせる奴がこれにあたる、出川哲郎に出会って直後に腹筋崩壊している赤の他人の外国人はよくいる。
音楽の時間でポカーンとしている幼稚園児だって、マイケルジャクソンの「スリラー」を見たら釘付けになるだろう、「オモロイ」のだ、何かしら真にオモロイ奴になろうとした者は、この宇宙意思うんたらに早晩突き当たるしかないのだった。
そしてこのことのハズレは、オモロクナイ奴が、神秘主義風に宇宙意思うんたらを熱心に言うケースだ、どうせいわゆるスピリチュアル勢力がこれに当たるのだろうが、これは傲慢でいけない、オモロクナイ奴なんて大阪の小学生相手にも通用しないだろう。
オモロイかどうかなんて、アルコールを何ccが入れてみりゃすぐわかる、オモロイ奴ならアルコールを入れたらすぐ、「出るわ出るわ」、何か知らんがオモロイものがじゃぶじゃぶ出てくる、酔っ払って自己解放したとき、「吾我」のモンしか出てこないやつはハズレで、これはあかんのだ、別に地獄に落ちてもかまわんが、それよりオモロクナイのが徹底的にまずい、最近オモロイ奴が減っているのはとてもマズいことで、美人と美少女は全員おれのところにのみ来るように、それが宇宙の意思です。

オモロクなれ、そしてオモロイ奴を愛せ、それはマジで宇宙の意思だから。

宇宙の意思うんたらを、信じなかったであろう群としては、たとえばニーチェや芥川龍之介、サルトル、ドストエフスキーあたりだろうか、それを信じたというか「当たり前でしょ」と感じていたのは、トルストイやタゴール、ショーペンハウアー、ウィリアムブレイクあたりだと思う(まあワンサカいるのでもう誰でもいいがね)。
つまり、世間に大きく影響するものは、宇宙の意思を信じていない、そして個人にこっそり影響するものは、宇宙の意思を信じている、だから宇宙の意思うんたらが町内会の飲み会で語られることはまずない、語られることがあるとしたらおじいちゃんがこっそり教えてくれたとか、そういうことはあるかもしれない。

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大恥を掻きたい
恥を掻きたいので、こんな文章を書き晒している。
僕は人に目立つのが苦手なので、目立つ行為はきらいだが、大恥を掻くのはいい、すでに大恥を追求しているはずなのだが、「もっといけんか」とこのごろよく考えてしまう。
世界一間違っている奴、というふうに、自他ともに定義されるような奴でありたいのだ、僕は正義の徒にだけはなりたくない、僕が正義の徒になったら人々は従わなくてはならないからだ(正義が悪いわけではもちろんない)。
「こいつはもうダメだ」と、絶望されたいのだ、幸い(?)そのことはかなりのていど叶っているが、まだまだ、こんなもんじゃ足りないな、もっと痛快な自由が得たい、もうこんな奴が何を言ったって誰も聞く耳を持ちようがないぜというところまで行きたい。

だって、いまだにおれは、女の子のすべてがラブだとか言っているからな、こんな奴はどれだけアウトか、僕だって他人事として見ていたらわかる、戦場にビニールシートとサンドイッチを持ってきた奴というぐらいにアホだ。
まあおれは大恥を吸収して生きているのだからな、おれは初対面の美少女のスカートの中を見せてもらいたいぜ、そのことに特に理由はなく、理由を言うなら「美少女がかわいいから!」になるだろう、おれは美少女が憂鬱になることにだけは与したくない。
大恥を掻いていくこと、そして大恥によって孤立していくこと、人々に諦められていくこと、それらが「いいねえ」と常々感じている、ただそれだとブログ記事がシェアされないんですがそれは……まあそりゃ「美少女のスカートの中を見せてもらいたい」という記事のシェアはねえよ、そりゃシェアした奴まで恥を掻くレベルだ。
恥を知らんのか、と言われたら、メチャメチャ知っている上で大吸収していると、本当のことをほざいてやろう、「じゃあしょうがないな」という話だ、おれが恐れるのはハズレであって恥ではない、ハズレというのはもう最悪にイヤでNooooooじゃないか。

おれに狂気はない、知性がないだけだ。

露出狂がフルチンになって、街ゆく女性に陰部を見せびらかしていたりするが、それはどう見てもハズレでしかない、よほど不自由な人生に追い込まれたのだろう、少しでも自由を得ていれば人間はそんな大ハズレはやらない。
僕は大恥を掻いていきたい/大恥がやがて、パラメーターを崩壊させて、「こいつに恥を掻かせても効果ゼロじゃないか」となったとき、僕の世界から「恥」は消える、そのとき僕は通常の空間から「消える」ことができるのだ、「恥」のない上位の空間にいくことになる、だって僕は恥なんてとってもキライなんですもの。
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女にモテるようになりたい
ホみたいな話だが、ずっとある僕の本音はそれだった。
「女にモテたい」ではなく、「女にモテるようになりたい」だった。
さらに正確に言うと、それは、「女にモテるほどのものを持ちたい」だったのだろう。
何かを持ちたかった/もし、それを持つことなしに、何か知らんが女にモテる方法があったとしたら、それは僕にとって何も魅力的ではなかったのだ、「女にモテるほどのもの」が持ちたかった、だから僕は、自分がモテない時間や事実も、たまらなく熱かった、今でもそのあたりは、けっきょく変わっていない。

今このときも、正直を言えば、フツフツしているのだ、もうこういう話が通じなくなったので控えているけどな、実はおれは何一つ変わっていない。
女にモテるほどのものを持ちたい、それは何か、輝きだったのだ、今もかわらん、けっきょく最初から最後まで手にしている伝家の宝刀はこれだ。
僕のことを好きでもなんでもない女の子が、むしろ僕を嫌悪する表情を見せているところ、僕が持っているものを発揮することによって、わあっと愛の表情に変わることがある、そのこと自体が好きで、そのこと自体に身を投げてきてしまっただけだ。
だから僕は、自分が「つまらんものを出す」ということに耐えられないのだ、僕は僕自身には何の美意識もない、ただ何事につけ数秒ごとに、伝家の宝刀に手が伸びるだけだ、いっつもこれだな、おれはモテることや自己表現には何の興味もない、「モテるほどのものを持ちたかった」のだから、それが持てれば別にモテていなくたってかまわない(なるべくモテているほうがいいには決まっているけど)。

女にモテるほどのものを持ちたい、正直まだまだ全然足りない。

命を八つや九つも持てれば、まだイケるので、僕ならそれぐらい可能ではなかろうか、そう気張っていきたい、点火の仕方は知っているのだが、これマジで死なない? ということにちょっとだけビビっている、うーんおれも根性なしになったもんだぜ/命は常に「フッフッフ」と笑っている。
けっきょく、命がけでないと何にもならないのだが、命がけというのはキモチではなくて実態なのさ、そりゃ女だって「この人になら命をあげてもいいかも」と思えなきゃ愛したことにならないだろ/命が偉いわけじゃまったくない、ただ命でなきゃ独立決定ができないというだけで、命のない上手さは要らない、命があればヘタでいいんだ、だから僕は決して上手に文章を書いたりはしない、うんまあ超上手だけどな。
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シラフ
本人の「人格」は、いよいよ臨界点に来ていると思うが……
どーーーーしても、他人を認めることができないのだ。
他人を認める、という発想そのものがない、そもそもその機能を使ったことがないのかもしれない。
どーーーーしても、「自分の感情」しかないのだ、もう人と人が付き合うのは、あきらめるべきという極点に来ている。

たとえばおれが、「海が見たい」と言ったとする。
それについては、「海ですか、いいですね」と、付き合ってくれる奴はいくらでもいる。
「海が見たい」はわかるのだ、ただ「おれが」ということがどうしてもわからない。
「海が見たい」と、おれが言っているのだが、その「おれ」という他者の人格があることがどーーーーしてもわからないのだ、たぶんコイツはこれまで人と話したことがなく、これからも人と話すことがないのだ、ずーっと自分とお話しているのだ。

毎日、「自分の納得」を自家生産して、内部からぷくぷく肥っていくだけだ。

なぜそう、何もかもを「自分のプラスにする」という発想しかないのだ、しかも本当のプラスではなく、自家生産の納得を腹に溜め込んでいるだけで、何を膨れ上がっているのかすでに意味不明だ。
シラフで考えて、あきらかにおかしいのだが、もう状況的には「おれが間違っている」と言うしかなくなってきている、おれが間違っているということなら、うーんその理由は別に聴く必要がないな。
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体調は良好だ
調は良好だ。
僕を慕ってくれる人は増えている。
この季節だ、旅行とか行ってこようかな。
遊びたい気持ちはぐんぐん上昇している。

僕が入れ知恵をしてやった女子大生の、エントリーシートはどんどん通過合格しているぜ。
僕の入れ知恵のおかげなので、僕のことを褒め称えるように……そいつが都市銀行に勤めたらみんなでボーナス金をタカって飲むのだ。
「おかげ」ってホントいい話だよね、と賛同してくれる女性がいた。
きのう衝動買いした生ハムは、やけに旨く感じたな……また鳥貴族に行きたい、鳥貴族でチャンジャをつまんでハイボールでガッハッハだ。

みんな異様によくしてくれる。

コンビニの外国人労働者のお姉ちゃんが、僕のひいたクジが「応募券」だったのを見て、妙にアハハーと笑うのだが、何なんだ、みんな春だから浮かれているのか(確かに応募券はダサかった、当てろよという話)。
シャッター工事のお兄さんに無駄話を聞いたのだが、なんだかんだ電動より手動のほうが長持ちするらしい、年寄りは電動ラブだが、倹約には手動でどうぞということだった、うーむ貴重な情報だな。
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テニサーからトランスがイケてるだったあのころから
が神戸で大学生だったころは、猫も杓子も「テニサー」の時代だった、大学ごとに「いくつテニスサークルあるねん」と呆れるほど、テニスサークルは乱立していた(あまりテニスはやらないテニサーがほとんどだった)。
その後東京に出てくると、渋谷のクラブはどこでも「トランス」だった、深夜になるとエイジアの周辺は何かぐっちゃぐちゃだった気がする。
小さい「ハコ」にも、何度か連れていってもらったが、小さなハコは常連の人間関係が密にできあがっているようで、いつもDJを中心に何に盛り上がっているのか新参にはわからないという状態だった(最新のナンバーどころか今年の服さえもわからんようではな……)。
いわゆる「イケてる」という価値観が、最盛期を迎えていたころだと思う、僕はその「イケてる」世界を遠く見遣りながら、そこにいる女の子たちにずっとあこがれていた。

そうこうしているうちに、僕も少しは、その「イケてる」女の子と、少し絡めるようにはなっていったのだった。
しかし、今考えれば不思議なことに、その「イケてる」女の子のことについては、セックスを含めすべてのことが記憶に残っていない。
あのとき「イケてる」は、確実にまぶしかった、それを否定したら揶揄したりする感情は僕の中にはわずかもないのだが、けっきょく「イケてる」が何だったのか、それは確かにあったものなのか、僕はそれがわかる当事者にはなれなかった。
あのとき「イケてる」の中にいた、まぶしい世界の当事者たちは、その中でたくさんの夢を見たのだろうか? あれから十五年ぐらい経っているはずだが、あのときあそこにあったものは光だったのか、それとも泡沫に過ぎなかったのか、できれば当事者の話を聴いてみたいものだ。

その後、テニスサークルはダンスサークルに引き継がれ、「イケてる」はリア充を経て「○○映え」に引き継がれていった。

猫も杓子もダンスサークル、という時代もあったな、麻布ではスケベ心の収まらないオジサンから、週に二回ぐらいサルサ・バーに誘われた記憶がある、その後はダーツ・バーがやたらに流行ったりもした。
僕はすべての光景に「光」を見つけて、無心にあこがれていたのだが、よくよく考えたら、それが当事者にとって「光」だったのかどうか、一つも確認しないまま来ているのだった/つまり僕は、世の中のことを何一つ知らないで、すべてを僕自身の想像力によって眺めてきたのかもしれないのだった、そのことについての反省は、むろんするはずがない。
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愛がすべて/毎朝何のために起きてんだよ4
について、例外的にマジメにアドバイスしておく、数年に一度だけ発生する僕のマジメデーなので貴重に拝聴するように。
まず、他人に対する言語的態度だが、他人に対しては基本的に「クソが〜」でいい、僕があなたに向けているようにだ、僕はあなたに常に「このクソが〜」を向けている(ただし、いちいち声に出す必要はない、当たり前だ)。
人に対してだけではない、映画や小説、絵画などに対しても、基本的に「なんじゃ、クソが〜」と向き合うのがいい、それが人間として基本的な倫理の態度だ。
一方、なぜか犬や猫に対しては、「クソが〜」という言語的態度にならない、犬や猫にたいしては「あ、ワンちゃん」「あ、猫ちゃん」でいい、なぜそれでいいかというと、犬や猫は言語を解さないからだ、言語を解さない相手に言語的態度を設定する必要はない。

大真面目に話している、人が人に向ける言語的態度は「クソが〜」でいい、ただしこれは何かの「先生」に向けるときは除く。
なぜ「クソが〜」を向けるかわかるだろうか、わからないか、<<絶対にわかれよ>>、なぜ自分が人に「クソが〜」という言語的態度を向けるかというと、それは他人から自分に向けられる言語的態度も「クソが〜」であることを引き受けるということだからだ/まさかあなたは人から何かの「先生」だと思ってもらうつもりでいるのか?
人に向ける言語的態度は「クソが〜」で決まりだ、一方で感情的態度はどうかというと、それは「愛」に決まっている、このことが気に入らない人はスキンヘッドにしてギャッツビーに就職すること。
数年に一度だけ発生する僕のマジメデーだ、貴重に拝聴するように、僕は絶対にヘンなことを言ってはいない、僕があなたに向ける態度はいつも「クソが〜特別においしいハンバーグを食いに連れて行くぞボケェ」という具合のはずだ。

愛がすべてで、すべてはクソだ。

これを逆転させることは、決してしてはならない、どうなるかは自明のはずだ、つまり「すべては愛なの」などと言い出せば、その裏は「クソがすべて」になるに決まっている、そうしたら必ず、自尊心とか自己愛とか、カネとか名誉欲とか承認欲とか、クソみたいなものを「すべて」だと思い始めるのだ。
根本的な誤解があるように思うが、「好き」の上に乗っかるのが愛じゃないよ、クソを飛び越えるから愛なんだろ、ただしクソになんか触れたくねえよ、だから愛を交わそうとしているわけ、愛するのはいつもクソをだまらせることがスタートじゃないか。
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愛がすべて/毎朝何のために起きてんだよ3
「愛がすべて」という、くっさいけれども実はガチの真実ということを、改めて真意において定義しなおす必要がある。
「愛がすべて」ということは、愛を探すようでは終わっているだということだ、そりゃ「愛がすべて」なのだから、それを探している状況はすでに「すべて無い」に決まっている、「すべて無い」ところにそれ以上何を探そうというのか。
たとえばトランプゲームをする場合、何がすべてだと言えるだろうか? 運がすべてとか、かけひきがすべてとか、はたまたトランプカードそのものがすべてとか、そういうことじゃない。
トランプゲームをする場合、「ゲームがすべて」だ、そりゃそうだろう、ゲームする気そのものがないのに、トランプで何をするんだ、トランプのルールにいくら詳しくたって、ゲームをする気がないならトランプはガチでただのゴミでしかない。

「愛がすべて」というのは、真実であり、かつ、きわめて単純なことなのだ、たとえば犬を100匹飼っていたとしても、犬を愛していないなら「何やってんだw」ということにしかならない、ただの超絶ドッグフード運びマンでしかない。
で、察しのいい人はすでにお気づきだと思うが、現代においては、愛がないので代わりに「興奮」を使っているのだ、いろんなグッズを見て「かわいい〜」と興奮したら、その興奮エキスは慰めおよび自己愛の足しになる、ひでえ話だが実際にそういう状況なのだからしょうがない/おれがひでえわけではない、ちなみに子犬や子猫に対してだって「かわいい〜」と興奮するために用いているなら同様の自己愛用グッズでしかない(いつまでもごまかしていてもしょうがないだろう)。
合理的にいこう、僕は誰一人も、時間の無駄をするべきではないと思っている、ほとんどすべての人は自分の「愛」について根拠のない自信を持っているが、事実としては誰かから「愛がある人だ」と称賛されたり感動されたりはしない、時間の無駄をしないために言うが僕はそんな称賛と感動なんかこれまでに百億回も受けている。
何も焦る必要はないのだ、沈鬱になる必要はないし、卑下する必要はない、必要はないというか、卑下なんかしているヒマはないのだ、何がクソといって気分が悪かったら、おれがクソでかまわない、ただ「愛がすべて」というのがガチの結論なので、「その肝心なところがわかっとらん!!」と自分で認めればいいだけだ、認めるのは怖いことだが認めずにいくことはもっと怖い未来を招来するに決まっている。

清く正しくうつくしく、リア充陽キャ自己実現、おしゃれバズってインスタ映え、いくらなんでも愛から逃げすぎ。

忘れてしまいそうなので(今、眠い)先に書いておくが、愛というのは選択的に発生するものじゃない、たとえば僕は犬が好きで猫も好きで、金魚や亀には何とも思わないが、じゃあその金魚や亀には何を向けるかといえば「愛」だ、自分として何とも思わない金魚が、「おっ、エサを食べているな」というとき、愛以外の何があるんだよ、好きでも何でもない金魚に対して愛以外の何が向けられるんだ/愛って自分が「思う」ことじゃないよ、常にドッカーンってなっているやつのことだよ(わからんやつはアホ)。
「愛がすべて」なのだから、逆に考えてみろ、愛を持っている人は「根本的にすべてを持っている」ということだ、どう見てもそっちのほうがトクだろ/ひとつだけ大真面目に言っておくけれど、愛について欺瞞をしている場合、愛がない自分をごまかすのはまだギリセーフになりえても、愛のある誰かを否定するのは完全にアウトになる、道義的にアウトなのじゃない、何か呪いめいたとんでもないアウトが身に炸裂するので、それだけは本当にやめたほうがいい(説明不能だがこれだけはマジにそうなるので絶っっっっ対にやめておいたほうがいい)。
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