☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「クソたる自分」2

「クソたる自分」
何を怯えているの。
こんな薫風が吹く中に感情的になる要素なんてあるか?
クソみたいな自分、という、ありふれたことの何が珍しいのか。

僕は「クソたる自分」と常に戦っている。
あなたは何と戦っているの。
他人には「戦うべき」と要求するのがアツいあなただろう。
何を笑っているの、僕をクソ呼ばわりすればいい、僕はクソたる自分と戦っているのだから、僕はその中を生きたいのだから。

あなたは絶賛もせず否定もせず、漠然と笑って過ごしているな。

あなたが間違っているわけじゃない、あなたが間違っているかどうかなんて、考える人はこの世に一人もない。
「クソたる自分」と戦っていく、これが他の誰かと比べてどうこうなんて、考える理由は一つもない。

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「クソたる自分」
近のテレビは面白くなくなったかもしれない。
あなたの両親には愛がなかったかもしれない。
○○はもうオワコンかもしれない。
△△には、非はあるけれど、再起のチャンスを与えてあげるべきかもしれない。

で、あなたは。
あなたは何の批判にも晒されない。
あなたは、掛け値なく面白いまま、四方八方に愛があふれていて、今こそおっ始まったコンテンツ、非を持たない何かの功労者なのか。
何を笑っているの? 僕は泣きながら生きてきた/僕にはあなたの調子がまったくわからない。

僕は「クソたる自分」を打破するために生きている、あなたは「クソたる自分」とは言わないな。

あちこちのテーブルで、「○○ってさあ」と意味ありげに話しているのが聞こえる、○○は自分のことではないのに/「ブスってさあ」と自分たちのことについては話し合わない。
他者への批判は威力的なのに、自己への批判は感情第一的なのは、何かよくわからないな、それはあなたの自己だけが特別で、何よりも敬意が払われるべきものだからか。
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気分よくなるためのひとつのルール
れわれが必要としているのは、批評ではなく協力だ。
理由は明快で、われわれは人との協力なしには生きていけないからだ。
協力なしに生きていこうとなると、われわれの生はきわめて不利で、われわれがそうした不利に生き始めたときには、もう批評なんか交わし合っても何の救済にもならなくなる。
われわれが必要としているのは批評ではなく協力だ、だから人に協力したときは気分がいいし、人を批評したときは気分が悪い/いくら批評にテンションが上がったとしても、それが睡眠中に麗しい夢を見せてくれることは決していない。

たとえばインターネット上には、いろんなものの「レビュー」が掲載されているけれど、あれだって本当に「レビュアー」みたいなつもりになっていたら、自分は悦に入れたとしても、客観的に見れば気持ち悪いものだ。
レビューというのは、「これからこのたぐいの商品を選ぶ方へ、判断の目安に」ということで、協力の精神において示されるものだ、そのことに向けて端正にレビューが書かれてあったら、「どこの誰だか知らないが、わかりやすいわ、ありがとー」となる。
「批評」といって、社会的な地位に立脚した人の批評は、社会的に意味を為すが、一個人の批評というのは、あまり意味は為さない上に、何に対する協力にもならない/われわれはふつう、生きていくのに「協力」以外のことはしなくていいのだ、批評は偉い人がするものであって、批評をした人が偉い人になるわけではない。
われわれは、すべての人を好きになることはできないし、好きになれなければ、熱心で親しげな人にも「どこかへ行ってくれ」と望まざるをえないのが性分だ/しかしわれわれは唯一、好きではない人にも、「協力」はするべきというルールを背負っている、それは他ならぬわれわれ自身のセーフティネットだからだ。

好きなふりはやめる、協力は実行する。

僕はなるべく、駅前のビラ配りやティッシュ配りは、受け取ってやることにしている、バイトくんが早く帰宅できるようにだ/もちろん手元にビラは邪魔になるのだが、そんなものは連れに押しつければおれの手元はスッキリ快適になるので、おれはまったくかまわんのだ、こうして人は協力し合っている。
駅前でヘンな宗教団体や政治団体が活動しているときは、僕はそれに協力はしない、その活動そのものが彼ら自身をけっきょく益しているとは思えないからだ、彼らがさっさとあきらめてナイスな生き方に帰参することへ協力するために、僕は駅前の活動を冷淡に無視して署名はしない/われわれが本当に気分よくなれるかどうかは、ただ一点、「協力」を実行したか否かにかかっている、いくら好意や善意で糊塗したところでそれは本当の気分のよさをもたらしてはくれない。
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オモロイ奴は全員知っている

川志の輔師匠がネタのようにいう「宇宙意思の会」は、桂南光師匠を会長とし(志の輔さんは関東支部長)、入会費はタダ、活動もなし、入会手続きは「入会しま〜す」と思えばそれで入会だそうだ/その会の教えは「きょう二日酔いなのは、昨日飲み過ぎたせいで、昨日飲み過ぎたのは、宇宙の意思だ」というあたりである、ぜひ入会をどうぞ、と志の輔師匠はおっしゃっている。
大野一雄という、世界的に有名な舞踏家がいるが、この大野さんも「宇宙意識ですよ、宇宙意識」とよく言っていたそうだ。
ボブ・ディランは「おれがロックを選んだのじゃなく、ロックがおれを選んだ」と言っているし、宮本武蔵だって五輪の書で「天を拝し観音に礼し仏前に向かって」いるし、正当学府の哲学者で凡人の努力をけなしまくる容赦のないショーペンハウアー先生は「ウパニシャッドがサイコー、あとインスピレーションのない奴が文章を書くなあきらめろ」と言っている。
もう面倒なので列挙はやめるが、オモロイ奴は全員気づいているのだ、われわれの個人的な意思の他に「何かある」のだ、もうこれだけ状況証拠が出揃っているのだから悪あがきはやめろ、このことに反論してよいのはまず志の輔よりもしゃべらせてオモロイ奴だけだ。

オモロイ奴は全員、このことをとっくに知っていて、説明は面倒だし説明してもどうせ伝わらないから説明しないだけだが、さらに正確にいえばこれは、「普遍的にオモロイ奴」ということかもしれない、つまり共同体の外側に出て、初対面の赤の他人に対しても「オモロイ」と無条件で感じさせる奴だ、たとえ外国人でも0秒で「オモロイ」と感じさせる奴がこれにあたる、出川哲郎に出会って直後に腹筋崩壊している赤の他人の外国人はよくいる。
音楽の時間でポカーンとしている幼稚園児だって、マイケルジャクソンの「スリラー」を見たら釘付けになるだろう、「オモロイ」のだ、何かしら真にオモロイ奴になろうとした者は、この宇宙意思うんたらに早晩突き当たるしかないのだった。
そしてこのことのハズレは、オモロクナイ奴が、神秘主義風に宇宙意思うんたらを熱心に言うケースだ、どうせいわゆるスピリチュアル勢力がこれに当たるのだろうが、これは傲慢でいけない、オモロクナイ奴なんて大阪の小学生相手にも通用しないだろう。
オモロイかどうかなんて、アルコールを何ccが入れてみりゃすぐわかる、オモロイ奴ならアルコールを入れたらすぐ、「出るわ出るわ」、何か知らんがオモロイものがじゃぶじゃぶ出てくる、酔っ払って自己解放したとき、「吾我」のモンしか出てこないやつはハズレで、これはあかんのだ、別に地獄に落ちてもかまわんが、それよりオモロクナイのが徹底的にまずい、最近オモロイ奴が減っているのはとてもマズいことで、美人と美少女は全員おれのところにのみ来るように、それが宇宙の意思です。

オモロクなれ、そしてオモロイ奴を愛せ、それはマジで宇宙の意思だから。

宇宙の意思うんたらを、信じなかったであろう群としては、たとえばニーチェや芥川龍之介、サルトル、ドストエフスキーあたりだろうか、それを信じたというか「当たり前でしょ」と感じていたのは、トルストイやタゴール、ショーペンハウアー、ウィリアムブレイクあたりだと思う(まあワンサカいるのでもう誰でもいいがね)。
つまり、世間に大きく影響するものは、宇宙の意思を信じていない、そして個人にこっそり影響するものは、宇宙の意思を信じている、だから宇宙の意思うんたらが町内会の飲み会で語られることはまずない、語られることがあるとしたらおじいちゃんがこっそり教えてくれたとか、そういうことはあるかもしれない。

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大恥を掻きたい
恥を掻きたいので、こんな文章を書き晒している。
僕は人に目立つのが苦手なので、目立つ行為はきらいだが、大恥を掻くのはいい、すでに大恥を追求しているはずなのだが、「もっといけんか」とこのごろよく考えてしまう。
世界一間違っている奴、というふうに、自他ともに定義されるような奴でありたいのだ、僕は正義の徒にだけはなりたくない、僕が正義の徒になったら人々は従わなくてはならないからだ(正義が悪いわけではもちろんない)。
「こいつはもうダメだ」と、絶望されたいのだ、幸い(?)そのことはかなりのていど叶っているが、まだまだ、こんなもんじゃ足りないな、もっと痛快な自由が得たい、もうこんな奴が何を言ったって誰も聞く耳を持ちようがないぜというところまで行きたい。

だって、いまだにおれは、女の子のすべてがラブだとか言っているからな、こんな奴はどれだけアウトか、僕だって他人事として見ていたらわかる、戦場にビニールシートとサンドイッチを持ってきた奴というぐらいにアホだ。
まあおれは大恥を吸収して生きているのだからな、おれは初対面の美少女のスカートの中を見せてもらいたいぜ、そのことに特に理由はなく、理由を言うなら「美少女がかわいいから!」になるだろう、おれは美少女が憂鬱になることにだけは与したくない。
大恥を掻いていくこと、そして大恥によって孤立していくこと、人々に諦められていくこと、それらが「いいねえ」と常々感じている、ただそれだとブログ記事がシェアされないんですがそれは……まあそりゃ「美少女のスカートの中を見せてもらいたい」という記事のシェアはねえよ、そりゃシェアした奴まで恥を掻くレベルだ。
恥を知らんのか、と言われたら、メチャメチャ知っている上で大吸収していると、本当のことをほざいてやろう、「じゃあしょうがないな」という話だ、おれが恐れるのはハズレであって恥ではない、ハズレというのはもう最悪にイヤでNooooooじゃないか。

おれに狂気はない、知性がないだけだ。

露出狂がフルチンになって、街ゆく女性に陰部を見せびらかしていたりするが、それはどう見てもハズレでしかない、よほど不自由な人生に追い込まれたのだろう、少しでも自由を得ていれば人間はそんな大ハズレはやらない。
僕は大恥を掻いていきたい/大恥がやがて、パラメーターを崩壊させて、「こいつに恥を掻かせても効果ゼロじゃないか」となったとき、僕の世界から「恥」は消える、そのとき僕は通常の空間から「消える」ことができるのだ、「恥」のない上位の空間にいくことになる、だって僕は恥なんてとってもキライなんですもの。
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女にモテるようになりたい
ホみたいな話だが、ずっとある僕の本音はそれだった。
「女にモテたい」ではなく、「女にモテるようになりたい」だった。
さらに正確に言うと、それは、「女にモテるほどのものを持ちたい」だったのだろう。
何かを持ちたかった/もし、それを持つことなしに、何か知らんが女にモテる方法があったとしたら、それは僕にとって何も魅力的ではなかったのだ、「女にモテるほどのもの」が持ちたかった、だから僕は、自分がモテない時間や事実も、たまらなく熱かった、今でもそのあたりは、けっきょく変わっていない。

今このときも、正直を言えば、フツフツしているのだ、もうこういう話が通じなくなったので控えているけどな、実はおれは何一つ変わっていない。
女にモテるほどのものを持ちたい、それは何か、輝きだったのだ、今もかわらん、けっきょく最初から最後まで手にしている伝家の宝刀はこれだ。
僕のことを好きでもなんでもない女の子が、むしろ僕を嫌悪する表情を見せているところ、僕が持っているものを発揮することによって、わあっと愛の表情に変わることがある、そのこと自体が好きで、そのこと自体に身を投げてきてしまっただけだ。
だから僕は、自分が「つまらんものを出す」ということに耐えられないのだ、僕は僕自身には何の美意識もない、ただ何事につけ数秒ごとに、伝家の宝刀に手が伸びるだけだ、いっつもこれだな、おれはモテることや自己表現には何の興味もない、「モテるほどのものを持ちたかった」のだから、それが持てれば別にモテていなくたってかまわない(なるべくモテているほうがいいには決まっているけど)。

女にモテるほどのものを持ちたい、正直まだまだ全然足りない。

命を八つや九つも持てれば、まだイケるので、僕ならそれぐらい可能ではなかろうか、そう気張っていきたい、点火の仕方は知っているのだが、これマジで死なない? ということにちょっとだけビビっている、うーんおれも根性なしになったもんだぜ/命は常に「フッフッフ」と笑っている。
けっきょく、命がけでないと何にもならないのだが、命がけというのはキモチではなくて実態なのさ、そりゃ女だって「この人になら命をあげてもいいかも」と思えなきゃ愛したことにならないだろ/命が偉いわけじゃまったくない、ただ命でなきゃ独立決定ができないというだけで、命のない上手さは要らない、命があればヘタでいいんだ、だから僕は決して上手に文章を書いたりはしない、うんまあ超上手だけどな。
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シラフ
本人の「人格」は、いよいよ臨界点に来ていると思うが……
どーーーーしても、他人を認めることができないのだ。
他人を認める、という発想そのものがない、そもそもその機能を使ったことがないのかもしれない。
どーーーーしても、「自分の感情」しかないのだ、もう人と人が付き合うのは、あきらめるべきという極点に来ている。

たとえばおれが、「海が見たい」と言ったとする。
それについては、「海ですか、いいですね」と、付き合ってくれる奴はいくらでもいる。
「海が見たい」はわかるのだ、ただ「おれが」ということがどうしてもわからない。
「海が見たい」と、おれが言っているのだが、その「おれ」という他者の人格があることがどーーーーしてもわからないのだ、たぶんコイツはこれまで人と話したことがなく、これからも人と話すことがないのだ、ずーっと自分とお話しているのだ。

毎日、「自分の納得」を自家生産して、内部からぷくぷく肥っていくだけだ。

なぜそう、何もかもを「自分のプラスにする」という発想しかないのだ、しかも本当のプラスではなく、自家生産の納得を腹に溜め込んでいるだけで、何を膨れ上がっているのかすでに意味不明だ。
シラフで考えて、あきらかにおかしいのだが、もう状況的には「おれが間違っている」と言うしかなくなってきている、おれが間違っているということなら、うーんその理由は別に聴く必要がないな。
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体調は良好だ
調は良好だ。
僕を慕ってくれる人は増えている。
この季節だ、旅行とか行ってこようかな。
遊びたい気持ちはぐんぐん上昇している。

僕が入れ知恵をしてやった女子大生の、エントリーシートはどんどん通過合格しているぜ。
僕の入れ知恵のおかげなので、僕のことを褒め称えるように……そいつが都市銀行に勤めたらみんなでボーナス金をタカって飲むのだ。
「おかげ」ってホントいい話だよね、と賛同してくれる女性がいた。
きのう衝動買いした生ハムは、やけに旨く感じたな……また鳥貴族に行きたい、鳥貴族でチャンジャをつまんでハイボールでガッハッハだ。

みんな異様によくしてくれる。

コンビニの外国人労働者のお姉ちゃんが、僕のひいたクジが「応募券」だったのを見て、妙にアハハーと笑うのだが、何なんだ、みんな春だから浮かれているのか(確かに応募券はダサかった、当てろよという話)。
シャッター工事のお兄さんに無駄話を聞いたのだが、なんだかんだ電動より手動のほうが長持ちするらしい、年寄りは電動ラブだが、倹約には手動でどうぞということだった、うーむ貴重な情報だな。
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テニサーからトランスがイケてるだったあのころから
が神戸で大学生だったころは、猫も杓子も「テニサー」の時代だった、大学ごとに「いくつテニスサークルあるねん」と呆れるほど、テニスサークルは乱立していた(あまりテニスはやらないテニサーがほとんどだった)。
その後東京に出てくると、渋谷のクラブはどこでも「トランス」だった、深夜になるとエイジアの周辺は何かぐっちゃぐちゃだった気がする。
小さい「ハコ」にも、何度か連れていってもらったが、小さなハコは常連の人間関係が密にできあがっているようで、いつもDJを中心に何に盛り上がっているのか新参にはわからないという状態だった(最新のナンバーどころか今年の服さえもわからんようではな……)。
いわゆる「イケてる」という価値観が、最盛期を迎えていたころだと思う、僕はその「イケてる」世界を遠く見遣りながら、そこにいる女の子たちにずっとあこがれていた。

そうこうしているうちに、僕も少しは、その「イケてる」女の子と、少し絡めるようにはなっていったのだった。
しかし、今考えれば不思議なことに、その「イケてる」女の子のことについては、セックスを含めすべてのことが記憶に残っていない。
あのとき「イケてる」は、確実にまぶしかった、それを否定したら揶揄したりする感情は僕の中にはわずかもないのだが、けっきょく「イケてる」が何だったのか、それは確かにあったものなのか、僕はそれがわかる当事者にはなれなかった。
あのとき「イケてる」の中にいた、まぶしい世界の当事者たちは、その中でたくさんの夢を見たのだろうか? あれから十五年ぐらい経っているはずだが、あのときあそこにあったものは光だったのか、それとも泡沫に過ぎなかったのか、できれば当事者の話を聴いてみたいものだ。

その後、テニスサークルはダンスサークルに引き継がれ、「イケてる」はリア充を経て「○○映え」に引き継がれていった。

猫も杓子もダンスサークル、という時代もあったな、麻布ではスケベ心の収まらないオジサンから、週に二回ぐらいサルサ・バーに誘われた記憶がある、その後はダーツ・バーがやたらに流行ったりもした。
僕はすべての光景に「光」を見つけて、無心にあこがれていたのだが、よくよく考えたら、それが当事者にとって「光」だったのかどうか、一つも確認しないまま来ているのだった/つまり僕は、世の中のことを何一つ知らないで、すべてを僕自身の想像力によって眺めてきたのかもしれないのだった、そのことについての反省は、むろんするはずがない。
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愛がすべて/毎朝何のために起きてんだよ4
について、例外的にマジメにアドバイスしておく、数年に一度だけ発生する僕のマジメデーなので貴重に拝聴するように。
まず、他人に対する言語的態度だが、他人に対しては基本的に「クソが〜」でいい、僕があなたに向けているようにだ、僕はあなたに常に「このクソが〜」を向けている(ただし、いちいち声に出す必要はない、当たり前だ)。
人に対してだけではない、映画や小説、絵画などに対しても、基本的に「なんじゃ、クソが〜」と向き合うのがいい、それが人間として基本的な倫理の態度だ。
一方、なぜか犬や猫に対しては、「クソが〜」という言語的態度にならない、犬や猫にたいしては「あ、ワンちゃん」「あ、猫ちゃん」でいい、なぜそれでいいかというと、犬や猫は言語を解さないからだ、言語を解さない相手に言語的態度を設定する必要はない。

大真面目に話している、人が人に向ける言語的態度は「クソが〜」でいい、ただしこれは何かの「先生」に向けるときは除く。
なぜ「クソが〜」を向けるかわかるだろうか、わからないか、<<絶対にわかれよ>>、なぜ自分が人に「クソが〜」という言語的態度を向けるかというと、それは他人から自分に向けられる言語的態度も「クソが〜」であることを引き受けるということだからだ/まさかあなたは人から何かの「先生」だと思ってもらうつもりでいるのか?
人に向ける言語的態度は「クソが〜」で決まりだ、一方で感情的態度はどうかというと、それは「愛」に決まっている、このことが気に入らない人はスキンヘッドにしてギャッツビーに就職すること。
数年に一度だけ発生する僕のマジメデーだ、貴重に拝聴するように、僕は絶対にヘンなことを言ってはいない、僕があなたに向ける態度はいつも「クソが〜特別においしいハンバーグを食いに連れて行くぞボケェ」という具合のはずだ。

愛がすべてで、すべてはクソだ。

これを逆転させることは、決してしてはならない、どうなるかは自明のはずだ、つまり「すべては愛なの」などと言い出せば、その裏は「クソがすべて」になるに決まっている、そうしたら必ず、自尊心とか自己愛とか、カネとか名誉欲とか承認欲とか、クソみたいなものを「すべて」だと思い始めるのだ。
根本的な誤解があるように思うが、「好き」の上に乗っかるのが愛じゃないよ、クソを飛び越えるから愛なんだろ、ただしクソになんか触れたくねえよ、だから愛を交わそうとしているわけ、愛するのはいつもクソをだまらせることがスタートじゃないか。
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愛がすべて/毎朝何のために起きてんだよ3
「愛がすべて」という、くっさいけれども実はガチの真実ということを、改めて真意において定義しなおす必要がある。
「愛がすべて」ということは、愛を探すようでは終わっているだということだ、そりゃ「愛がすべて」なのだから、それを探している状況はすでに「すべて無い」に決まっている、「すべて無い」ところにそれ以上何を探そうというのか。
たとえばトランプゲームをする場合、何がすべてだと言えるだろうか? 運がすべてとか、かけひきがすべてとか、はたまたトランプカードそのものがすべてとか、そういうことじゃない。
トランプゲームをする場合、「ゲームがすべて」だ、そりゃそうだろう、ゲームする気そのものがないのに、トランプで何をするんだ、トランプのルールにいくら詳しくたって、ゲームをする気がないならトランプはガチでただのゴミでしかない。

「愛がすべて」というのは、真実であり、かつ、きわめて単純なことなのだ、たとえば犬を100匹飼っていたとしても、犬を愛していないなら「何やってんだw」ということにしかならない、ただの超絶ドッグフード運びマンでしかない。
で、察しのいい人はすでにお気づきだと思うが、現代においては、愛がないので代わりに「興奮」を使っているのだ、いろんなグッズを見て「かわいい〜」と興奮したら、その興奮エキスは慰めおよび自己愛の足しになる、ひでえ話だが実際にそういう状況なのだからしょうがない/おれがひでえわけではない、ちなみに子犬や子猫に対してだって「かわいい〜」と興奮するために用いているなら同様の自己愛用グッズでしかない(いつまでもごまかしていてもしょうがないだろう)。
合理的にいこう、僕は誰一人も、時間の無駄をするべきではないと思っている、ほとんどすべての人は自分の「愛」について根拠のない自信を持っているが、事実としては誰かから「愛がある人だ」と称賛されたり感動されたりはしない、時間の無駄をしないために言うが僕はそんな称賛と感動なんかこれまでに百億回も受けている。
何も焦る必要はないのだ、沈鬱になる必要はないし、卑下する必要はない、必要はないというか、卑下なんかしているヒマはないのだ、何がクソといって気分が悪かったら、おれがクソでかまわない、ただ「愛がすべて」というのがガチの結論なので、「その肝心なところがわかっとらん!!」と自分で認めればいいだけだ、認めるのは怖いことだが認めずにいくことはもっと怖い未来を招来するに決まっている。

清く正しくうつくしく、リア充陽キャ自己実現、おしゃれバズってインスタ映え、いくらなんでも愛から逃げすぎ。

忘れてしまいそうなので(今、眠い)先に書いておくが、愛というのは選択的に発生するものじゃない、たとえば僕は犬が好きで猫も好きで、金魚や亀には何とも思わないが、じゃあその金魚や亀には何を向けるかといえば「愛」だ、自分として何とも思わない金魚が、「おっ、エサを食べているな」というとき、愛以外の何があるんだよ、好きでも何でもない金魚に対して愛以外の何が向けられるんだ/愛って自分が「思う」ことじゃないよ、常にドッカーンってなっているやつのことだよ(わからんやつはアホ)。
「愛がすべて」なのだから、逆に考えてみろ、愛を持っている人は「根本的にすべてを持っている」ということだ、どう見てもそっちのほうがトクだろ/ひとつだけ大真面目に言っておくけれど、愛について欺瞞をしている場合、愛がない自分をごまかすのはまだギリセーフになりえても、愛のある誰かを否定するのは完全にアウトになる、道義的にアウトなのじゃない、何か呪いめいたとんでもないアウトが身に炸裂するので、それだけは本当にやめたほうがいい(説明不能だがこれだけはマジにそうなるので絶っっっっ対にやめておいたほうがいい)。
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愛がすべて/毎朝何のために起きてんだよ2
「愛がすべて」ということの、正しい機能を、僕はまだ覚えている。
が、この数年間で僕が学んだのは、いかにその「愛がすべて」ということが、機能していないかという実態についてだった。
別にネガティブになっているわけじゃないよ/おれがネガティブになったことなんてこれまで一度でもあったか?
簡単にいうと、「愛がすべて」というのは正しいままなのだが、愛は現代に否定されたのだ、だから現代は「すべてが無い」というありさまなのだ/こんな程度のことでヘコむとしたらネガティブなのはおれじゃなくてめーだ。

「愛がすべて」ということは、今もなお正しい、それも絶望的なほどに正しい。
だが、状況的にブッ壊れているので、今さら愛なんて恢復できないのだ/僕がネガティブなのじゃないぞ、おれが最後までどれだけ抵抗していたか知っている人は知っているはずだ。
そして、今考えるべきことは、意味不明だが、「このブッ壊れた状況のままでは、やはり破綻してしまう」ということを考えなくてはならないのだ、そもそもブッ壊れているものがこれ以上どうやって破綻するんだよという話なのだが、これがマジなのだからしょうがない。
「愛がすべて」ということが、本来どういう意味だったか、改めて示さねばならないのだが、それは次の記事にしよう/僕は愛を諦めていないが、それは愛があるからではなくて、単に知能が高いからだザマーミロ。

すべての作品はクソであって、おれが愛してやっているからサイコーになっているだけだ。

デタラメに言っているのじゃない、マジの話をしている、すべての作品はクソであって、すべての作者は条件付きで大クソだ、おれが愛してやっている作品については作者ヅラする作者は大クソという条件に当てはまる。
あなただってそうだ、あなたがあなたの作者ヅラすんなよ、おれがあなたのことを愛してやったら、あなたはおれのものであってあなたのものではないだろ。
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愛がすべて/毎朝何のために起きてんだよ
月末に、またひどいスケジュールで小説を書いた。
いろいろ思うところがあるような、ないような……
さしあたり、誰でも確信できることだが、別に何かを「期待」して小説を読む人はいないと思う。
小説を書いたり、書き終わったりすると、冷静になるのか混乱するのか、よくわからない状態になってしまう。

世の中、人付き合いの形態が変わっているので、本を読むとか小説を読むとかいうことも、形態が変わっているはずだ。
変わっているはずというか、変わっている。
きっと、この二十年ほど、人々が「がっかり」させられることが多すぎたのだ、それで「期待」という機能がはたらかなくなった。
今や女性と男性が、デートするとなったって、「すっごく期待しちゃう」なんてことはないだろうから……おっとネガティブになってしまうな/「期待」について考え直す必要がある。

すごく面白い小説が、読みたいわけではない。

うーむ役に立たない話をしてしまった、小説は面白くないと犯罪だと思うが、小説は面白くあるべきだということと、面白さを期待して小説が手に取られるということはまったくつながっていないのだ、面白くない小説に価値はないが、面白い小説が何かの役に立つわけではまったくない。
かといって、「役に立つ小説」などというのは、さらに面白くなくて、やはり犯罪にしかならないのだが、そうなるとつまり、やはり「愛のある小説」しか値打ちがないということになる、この当たり前のようなことが実はまったく当たり前でない空前絶後の大発見なのであった。
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ふつうでなく正常な友人
んだかんだ、十年以上も、こんなブログやサイトを読んでくれている人が何百人か何千人かいるのだけれども、今さら当たり前のことを言う心地ながら、「ふつうのこと」を「ふつうに」書いていたら、それはつまらなくて読んでいられたものではない。
もちろん、お茶の間向けのコンテンツと同種類のものとして、「○○温泉に行ってきました〜☆」みたいなレポを書いても、それはそれでやわらかい需要があるのかもしれないが、それは当然、消費者にとって「重要な出会い」ということにはならない、そういうことをさせたらそりゃあテレビコンテンツのほうがカネも掛かっているし優れている。
「ふつう」という安全帯を、そもそも切り離すのだ、「ふつう」を取り外したときにその人間の性根が見えるだろう、「ふつう」から離れたとき、その人はやはり陳腐なのか、小物なのか、迷惑なのか、痛いのか、不潔なのか、「つまんない」のか、それとも何か胸を打つところや惚れるところがあるのか、はたまた「逆に同情するわ」というありさまであるのか。
好奇心や、興味を、刺激するのではない、引きちぎるのだ、ヒマつぶしに読み始めたつもりの人が、何かおかしなことになって揺さぶられ始めた、というようなことが一番好きだ、そういえば以前「あなたのところに来て、気づいたんですよ、仕事なんかしてる場合じゃないって!」と笑ってくれた人がいた、僕はそういう話がとても好きだ(僕の周辺に限らず、話の種類として)。

外国から、わざわざ帰省のスケジュールを練って、会いに来てくれた人がいて、彼女と僕はむろん初対面だったが、会うなりもう10分も経たずに、ぽろぽろ泣き始めていた、「どうして涙が出るのかわたしにもわからないの」、こんなのは「ふつう」ではない。
「ふつう」ではないのだが、それは「異常」なことだろうか? 何か胸に届くところ、胸に訴えるところがあり、涙がぽろぽろこぼれてきたということは、初対面だろうが何だろうが、「正常」なことではないのか/逆にそういったことが一度もないまま八十八年も生きるということは「正常」と寿(ことほ)ぐことができるのだろうか。
あなたの全身全霊は、本当にすみずみまで、「正常」に澄み渡っているだろうか、「ふつう」を切り離したとき、あなたの全身全霊からはその「澄み渡っているあなた自身のありさま」が出現しなくてはならないのだが、そのあたりはさあどうだろう、とりあえずすべては「ふつう」という振る舞いの中に隠しておけば表沙汰にならないのだが、表沙汰にならないということは裏沙汰になっているということだろう、本当に無傷で済んでいるわけじゃない。
もちろん第一には、すべてをまず「ふつう」にこなせることが重要だ、そのことは学校と集団生活で教わってきたろう? さてそれを第一の資格として、次に、「ふつう」を切り離したときに出てくるあなたはどんな具合だ、僕は何もおかしなことを言っているのじゃない、あなたが長いことこんなブログを読んでくれている理由は、第一にこのブログに書かれている声が「ふつう」という安全帯に守られていないからだ。

あなたは「ふつう」で、僕は「ふつう」じゃないが、それは必ずしも僕が「不当」ということではない。

僕が何を「不当」と感じるかというと、これは僕自身の話だが、もし僕がこんなわざわざ公開しているブログで自分の「ふつう」のことを書き話し続けたとしたら、そのときは僕は自分の行為を「不当」と感じるだろう、誰も「ふつう」のことなんかわざわざ聞きたくないのに、せっかく読みに来てくれた人に対して不誠実をしたことになる、そういうことは実に不当だと僕は思うのだ。
また明日も新しい記事が読みたいと思ってもらえるかどうか、そのためには、「ふつう」という安全帯を切り離していることが大前提になる、「ふつう」ということには何の罪もないが/また読みたい、あるいはまた会いたいと思ってもらうためには、「ふつう」などというグッタリした安全帯を切り離していることが大前提だ、「ふつう」から離れてなおこの人は「正常だ」と信じられるとき、われわれはその人のことを友人と感じるものだ、「この人のやりたい放題は何ら不当ではないわ」とよろこべる友人を見つける。
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意味がついてきてしまうほどの何か
よ、おれともあろう者が、ちゃんと一週間前にパーティの告知を出せたぞ、ポスターはまだだが、何にせよこの偉業を称え賛じたまえ、大いなる神々の恩寵がここに下ったのである。
いろんなことについて、「なぜこんなことをするのか」という意味づけが重要とされているが、そうして意味がくっついてくるようでは、もう何も間に合っていない。
かといって、本当に何の意味もないのはまずく、やるからにはすべてのことに意味がないといけないのがむつかしいところだ、つまり<<意味は追いかけてはならない、意味がついてこないといけない>>。
たまたま剣を振りたいなーと思っているとき、たまたま道で剣を拾ったらそれがたまたま日輪剣で、なんとなくこいつ斬っちゃえと思って斬ったらそれがたまたま悪魔の権化でしたわ、「そうなの?」「そうなんですよ!!」「まあ確かに、何かそういうやつを斬るつもりではあったな」という具合でないと、歯車が噛み合っていない。

人は、動けなくなると、有意義なことや、官能的なこと、あるいは危険なことを探してその保身に動力を得たりなど、「間に合っていない挙動」という特徴的な挙動を示す。
ピッチャーが投げた球を、バッターボックスの打者が打ち返すとき、そこに何の意味があるだろう、もちろんそれがヒットになったりホームランになったりするのだが、飛んでくるボールに対して「これを打てばヒットになって一点入る」なんて考えていたら、間に合うはずがない、そういう意味とか打算とかを奉じているのは、あくまでバッターボックスに入るまでだ。
ベストのタイミングで、ベストの位置に、「わあっ」とびっくりバットを差し出せば、女の子でもヒット打球になるだろう、人と人が「出会う」というようなことはこの次元で起こっており、意味なんか追いかけているうちは何億年経っても人と「出会う」などということは起こらない。
ヒットになる可能性があるということは、もちろんアウトになる可能性や、最悪ゲッツーになって「えぇ……」と近所迷惑まで生じる可能性もあるのだが、そういう中で「お前、ほぼ100%でヒットするな」というのが名打者だ、これは野球の話ではないのだから。

野球が面白いはずはないし、バットとボールが面白いはずはない、それと同次元で、男と女が面白いはずがない。

ボールは投げるもので、バットは打つもので、この二つの意味を組み合わせれば、面白く……なるはずがない、そんな意味づけ運動をさせられたら人はたまったものではない、何の意味もないがなぜかボールは投げられてわあっとバットは差し出されて、カキーンとナゾの白球は高々と空に飛んでいったのだった。
意味がなくてはならないが、それは、意味がついてきてしまうほどの何かでないといけない、ということだ、男と女が面白いはずはないが、僕が生きていて面白くない時間など一秒たりともあったためしはないのだった。
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三月の異世界
に春が来まくって、この三月初旬はマジ卍だ、急に大粒の雨が数発、横なぐりに降りつけてきたりする。
いい人、と見抜くことができたら、そそくさと寄って、どれだけ未熟でもその夜はその人のものになってしまえばいいのに、残念ながら女もそういう身分ではなくなってしまったらしい。
そういう身分がかつて、高かったのか低かったのか、僕は知らない、ただ二十年前の女性と現代の女性が「同じ」だとは誰も言えない。
二十年前、女性は、女性というよりはかわいらしい何かであって、助けを必要としていた、恐縮しながら助けてもらうことをありがたがっていた、彼女は世界の何も知らなかったが僕を肯定することについてだけは確信があった、まるで今とはまったく違う異世界のような話。

そういえば、いわゆる「なろう系」の小説で、「異世界転生もの」が流行しているというか、今や小説といえば異世界転生しかない、という風潮らしい。
つまり、この世界においてはもう物語が発生しえないので、まずは異世界に転生する、異世界なら物語が起こっておかしくないから、そこから始めましょう、ということのようだ。
重要なことは、異世界に転生すること、それ自体は物語ではないということ、異世界に行くまでは何でもいいのだ、テキトーに交通事故で異世界に飛んだとかでいい、そこから先は何か英雄譚なのかハーレム世界なのか、読んだことがないので知らないけれども、とにかく生きる気がする世界が広がっているのだろう。
転生した異世界に、三月初旬の風は吹いているだろうか? よく知らないが、そういうものかもしれないなと、こちら異世界よりお送りしております。

春のカミサマが愛の矢で男を射ぬく、この矢は女を射ぬくことはない。

だから男どもには、ときに青春が、そして男に巡り会った女にも青春が宿る、女たちだけではいかに華やかでも、青春は宿らない、女は男ほどアホみたいに浮かれることはできないから。
男は異世界に転生する、小説になんか耽らなくてもだ、ただし女に殺されてしまった男は別、春の異世界はつまり劣情を持たない世界だから、男もしくは男に助けられた女しか生まれ落ちることはできない。
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こちらHS30便、異常なし
ーむ、「まとも」に生きられる人なんてほとんどいないものだ。
人それぞれ、持病を持っていたり、心療内科に通っていたり、仕事がアヤシイものだったり、家族が破綻していたり、ひどい悪趣味を持っていたり、触れると爆発する「地雷」を持っていたり、コンプレックスを病的に封印していたり、知性が欠落していたり、さまざまだ。
そして、人は加齢を経て晩年になって、本当に何かを「得」、本当に何かを「識」ったかというと、そうでもないのだ、ほとんどの場合は、何もないからっぽのまま、ただ潜在的に不機嫌というだけの老人にだけなってしまう。
その中で、愛とか慈しみとか、歓喜とか、ましてや「もののあはれ」とか「天啓」とか、得るわけもないし識るわけもないだろ、とあるていど突き放しておかなくてはならない/問題アリの機体のままなんとか航行を継続していくしかないのだ、これは大前提だ。

つまり、問題アリだが解決はナシなのだ、そして解決はナシなのに航行はゴーになる/よってわれわれが生きるということは、それ自体がどこかイリーガルで、検査を通っていないのに通常航行に出なくてはならない、という状態になる。
われわれは、恋をしていい万全の資格など持っていないし、仕事をしていい万全の資格も持っていない、生きることを語ることや、誰それのことを悪く言うこと、芸術を賞翫することや、家族を織りなすこと、何かの楽しみを謳歌することに、万全の資格などまるで持っていない/それでもなんとかして、それらしきことをやっていかねばならない。
持病のために病院に通うこと、精神乱調のために心療内科に通院すること、失職のためにハローワークに行くこと、ぶつからないように家族を疎遠にしたり、悪趣味の摂取制限をしたり、「地雷」になりそうなことは自ら遠ざたり、恋あいやセックスやコンプレックスを非解決的に塩漬けにしたり、また一方で管理範囲内で「ストレス発散」することは、「負け」ではなく、本当に勝とうとしている人のしたたかな作戦だ、やけくその突撃は諦めと戦いの放棄でしかない。
はじめからまともな航行にならないのは、あるていど折り込み済みでいけよ、インジケーターのエラー表示にはそこそこに慣れろ、どんなにガタガタの実態でも無事ゴールの空港まで飛んで着陸させてしまえば、そこには称賛しか待ち受けていない。

まともな機体はひとつもない、あとはまともな機長にお任せするしかない。

どんなに問題アリの機体でも、一旦飛び立ってしまった以上、それを然るべき空港に着陸させるのは機長の任務だ、ふらふらのダッチロールとエンジン停止がまったく機長の責でなかったとしても、その機体をなんとかゴールさせる責任は機長にある、機長が感情と文句を垂れ流してよいのはタラップを降りてからのことだ。
誰だって航行中だが、厳密に「異常ナシ」なんて機体はこの世に数体も存在しない、だからいちいち異常を報告していてもしょうがない、管制塔とのやりとりはタテマエを無視し、すべて無事に航行しきり無事に着陸するためのことだけに向けられている、着陸してしまえば「異常はなかった」とうそぶいてしまっても問題はなくなるのだから。
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「思い」を胸に抱えない
力がカラッカラに枯渇している今、自戒を込めて書き話しているので、これは笑い話に聞き流すように。
自戒するのだが、どうも僕自身の発想のメカニズムには、思いをプールする場所、いわば「楽屋(がくや)」がないようなのだ、そのせいであまりに人と話が食い違ってしまう。
たとえば僕の場合、誰かに「わたしも小説を書いてみたいです」と言われると、僕は「へえ、そうなん」となり、「じゃあ」とその場で原稿用紙とペンを渡してしまうことがある、そして「……ん? はよ書けや」となってしまうのだが、これは別に威圧しているのでもないし意地悪をしているのでもない、これが僕にとっては通常時のメカニズムなのだ(本当に悪意はない)。
僕にとっては、たとえば「小説を書いてみたい」というような思いがあったとき、それを<<いったん胸に抱える>>という手続きがないのだ、あるいは小説を書いてみたいという<<思いが芽生えた>>という手続きがなく、僕の場合「小説を書いてみたい」という思いは手続きなしに原稿用紙とペンに直接向かうのだ、これはマジの話なので、「へえそんな発想のやつもいるのか」と笑い話に聞き流してもらいたい。

たとえば僕が、「ギターを弾いてみたい、弾けるようになりたい」と思ったとしよう/実際、僕はギター演奏などまったくできない、できないというよりそもそも知らない。
このとき、僕は「ギターを弾いてみたい、弾けるようになりたい」と思ったら、ギターを買うか借りるかして、たぶん多くの人が驚くことに、<<何も調べず何も習わず>>、いきなりギターの弦をジャカジャカ鳴らし出すだろう、何の躊躇もなく全力でだ、左手でコードを抑えるフリはするだろうが、もちろんどこをどう抑えればいいのかなんて知識ゼロなのだからわかりようがない、そんなもん知ったこっちゃないのでデタラメにやる。
僕は「ギターを弾いてみたい、弾けるようになりたい」と思ったのであり、「ギターを習いたい」と思ったのではないし、「ギターの弾き方を知りたい」と思ったのでもないから、僕にとってはこれが正しいのだ、もしギターに詳しい人が横から「ここをこう抑えるんだよ」と教えてくれたとしても、「うっせえ、訊いてねえよ、だまってろ」と取り合わないだろう、ギターの「弾き方」になんか何の興味もないのだ/そしてひでえ話、僕がテキトーに抑えた弦ではまともな音が鳴らなかったら、「ちっ、このややこしいギターめ」と、ギターの側に文句を言うだろう、僕はギターに向けて「ほれ鳴らんかい鳴らんかい」とけしかけて弦を弾きまくるに違いない。
さてそこで、僕としては「ギターを弾いてみたい」ということは、すでに達成されたわけだ、もしその達成の中で、「これってどうやったら和音になるのかね」と、改めて「ギターの弾き方を知りたい」と思ったなら、そこで「おいお前、ギターのコードの抑え方をネットで調べておれに見せろ」とそこにいる誰かに命令すればいい/僕にとってはこの順序が鉄則であって、「ギターが弾きたいからまずギターを習いたい」という思いのプールは決してしない、「ギターが弾きたい」とき「ギターを習いたい」という思いは一ミリもない。

ギターを鳴らしたいとき、ギター講師はクソ以外の何物でもないから蹴り出せ。

逆に、もしギターを「習いたい」なら、そのときはギター講師は最高のナイスフレンドだ、そのとき「習いたい」をたっぷり満たせばいい、ただし「習いたい」ならその後ギターはゴミ箱に捨てること、なぜならもう「習いたい」の用事は済んだだろう、演奏しかできないギターなんて粗大ゴミだと見えねばならない、冗談ではなくそれが正しい。
冗談ではなく、たとえばよく言われる「ギターを弾いてみたくって、ギター教室を考えているんです」という文脈の立て方は、僕には一ミリもわからないのだ、それは「女を口説きたくて、女口説き教室を探しています」と言っている男の世迷い言みたいに聞こえる/「思い」がターゲットから逸れて一旦プールされているとき、エネルギーが浪費されるだけじゃない、ビニール袋に閉じ込められた「思い」はそのまま腐敗して生臭くなってしまうだろう。
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善悪と、滅ぼされるべきもの
ちこちでいろんな善悪が叫ばれている。
代表的には、今は「男女平等」だろうか、あるいはLGBTか、さすがに芸能人の不倫やエコ、受動喫煙や放置自転車はそろそろ飽きられてきたかもしれない。
男女平等を善とするとき、男女差別は悪になる、一方で「でも男と女ってさあ……」と、男女の正当差別の中に善を見る人があり、この人にとっては男女平等ブームは諸悪の根源に見えている。
これらの善悪の識別は、何になるかというと、「揉め事」にしかならない、そしてこの揉め事に際限なく疲れ果てていくのが、うかつなわれわれの道なのだった、われわれはこの揉め事において「アホ」という定義だと断定していい。

つまり、どちらを善としてどちらを悪とする立場であっても、その善悪の識別、その「識」をこさえた瞬間、ムラムラッと立ち上がる炎がある、ディベートかディスカッションでもするかという運びだ、この「ムラムラッ」とくるというのがつまり「サカっている」のであり、サカった時点でわれわれは「アホ」だ/しかし身が進むまでこのサカリをわれわれはやめることができない。
サカリの炎は、溶岩のごとくでキツいのだ、ブチまけてもキツいし、抱え込んでもなおキツい、われわれは輪廻システムおよび十二因縁システムにおいて、行および識に「こだわり」「執着」「サカリ」を起こすものなので、この溶岩にて「一生やってろ」と見放されたカワイソーな存在なのだ。
ただ一部の、慧眼の美女および美少女においては、「何かおかしい」と感じられ、その美女と美少女に向けてのみは僕はこう言うのである、「悪は滅ぼさねばならないが、善も滅ぼさねばならない」/ごくまれに、マジに、そういわれて目の輝きを一気に取り戻す美少女がいる。
一方、眼の曇ったババアおよびオッサンにおいては、「これは断じて善、これは断じて悪でしょ!」と感じられ、火を噴いているのだが、それはカルマシステムで「識ファイヤーに焼けこげてろバーカ」という定義のとおりに焼けこげているだけにすぎない、僕がそう考えているのではなく古代インド哲学にそう示されているのだ/すべての存在はカルマを償却せねばならないのだから、われわれが「善悪」どうこうといって識別したがるその「識」も、償却できなきゃ負け戦ということだ。

おれの説に賛同しない奴は生煮えのナマズを2kg食わすぞゴルァ。

このとおり、僕の身において善なるものはとっくに滅んでいる、僕のような叡智のカタマリになると、「男女平等は当然かつ必然であるが、僕は美少女を圧倒的に優遇する、文句ある奴は殺すぞ」ぐらいは平気で言う、僕の発言には何の矛盾もあるまい。
善悪のわからん奴、たとえば尊属殺人罪の加重を違憲として懲役二年六か月の処断刑に執行猶予をつけた有名な判例の善が知識的にわからん奴は性能的に人間未満だが、その善とか悪とかに「サカる」のはまた見当違いで筋の悪い奴なのだった/性善説とか性悪説とか言いたがる人は後を絶たないが、僕は性ブルドーザー説を唱えてメッチャクチャにしてやろうと思う。
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別のことをしよう
は僕になりきらねば。
もともとゴーマンに生きてきたつもりだが、ここで改めて、さらにゴーマンにならねば。
僕が間に合うしか他に方法がないのだ、これまでの経験からいよいよわかる。
僕の善意は、僕自身を堕落させ、僕が堕落すると周りまで可能性を失っていく、ゴーマンにならねばならないという義務を負うのもなかなかキツいものだ。

誰だって自分に還るしかないのだろう。
だいたい、誰でも自分の家族や出身はぐちゃぐちゃなもので、それが自分の帰る場所ではない、自分は自分に還るしかないのだ。
誰にとっても「自分」がこの世に生まれ落ちているのは不思議なことだ/だが不思議なまま事実だけが与えられている。
ぐずぐずして、自他の可能性を減殺していくのがそんなに好きかな? ふざけて自らそうしているとしか見えない。

全員を裏切っても僕はこっちをやる。

思えば、これが昔からの僕の判断ということか、僕は大きな不和のある家庭に生まれたが、正直僕は別のことをしていた。
別のことをしよう/自分が自分に還るからには。
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