☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
愛がすべて/毎朝何のために起きてんだよ
月末に、またひどいスケジュールで小説を書いた。
いろいろ思うところがあるような、ないような……
さしあたり、誰でも確信できることだが、別に何かを「期待」して小説を読む人はいないと思う。
小説を書いたり、書き終わったりすると、冷静になるのか混乱するのか、よくわからない状態になってしまう。

世の中、人付き合いの形態が変わっているので、本を読むとか小説を読むとかいうことも、形態が変わっているはずだ。
変わっているはずというか、変わっている。
きっと、この二十年ほど、人々が「がっかり」させられることが多すぎたのだ、それで「期待」という機能がはたらかなくなった。
今や女性と男性が、デートするとなったって、「すっごく期待しちゃう」なんてことはないだろうから……おっとネガティブになってしまうな/「期待」について考え直す必要がある。

すごく面白い小説が、読みたいわけではない。

うーむ役に立たない話をしてしまった、小説は面白くないと犯罪だと思うが、小説は面白くあるべきだということと、面白さを期待して小説が手に取られるということはまったくつながっていないのだ、面白くない小説に価値はないが、面白い小説が何かの役に立つわけではまったくない。
かといって、「役に立つ小説」などというのは、さらに面白くなくて、やはり犯罪にしかならないのだが、そうなるとつまり、やはり「愛のある小説」しか値打ちがないということになる、この当たり前のようなことが実はまったく当たり前でない空前絶後の大発見なのであった。
恋女のマインドね | comments(0) |
ふつうでなく正常な友人
んだかんだ、十年以上も、こんなブログやサイトを読んでくれている人が何百人か何千人かいるのだけれども、今さら当たり前のことを言う心地ながら、「ふつうのこと」を「ふつうに」書いていたら、それはつまらなくて読んでいられたものではない。
もちろん、お茶の間向けのコンテンツと同種類のものとして、「○○温泉に行ってきました〜☆」みたいなレポを書いても、それはそれでやわらかい需要があるのかもしれないが、それは当然、消費者にとって「重要な出会い」ということにはならない、そういうことをさせたらそりゃあテレビコンテンツのほうがカネも掛かっているし優れている。
「ふつう」という安全帯を、そもそも切り離すのだ、「ふつう」を取り外したときにその人間の性根が見えるだろう、「ふつう」から離れたとき、その人はやはり陳腐なのか、小物なのか、迷惑なのか、痛いのか、不潔なのか、「つまんない」のか、それとも何か胸を打つところや惚れるところがあるのか、はたまた「逆に同情するわ」というありさまであるのか。
好奇心や、興味を、刺激するのではない、引きちぎるのだ、ヒマつぶしに読み始めたつもりの人が、何かおかしなことになって揺さぶられ始めた、というようなことが一番好きだ、そういえば以前「あなたのところに来て、気づいたんですよ、仕事なんかしてる場合じゃないって!」と笑ってくれた人がいた、僕はそういう話がとても好きだ(僕の周辺に限らず、話の種類として)。

外国から、わざわざ帰省のスケジュールを練って、会いに来てくれた人がいて、彼女と僕はむろん初対面だったが、会うなりもう10分も経たずに、ぽろぽろ泣き始めていた、「どうして涙が出るのかわたしにもわからないの」、こんなのは「ふつう」ではない。
「ふつう」ではないのだが、それは「異常」なことだろうか? 何か胸に届くところ、胸に訴えるところがあり、涙がぽろぽろこぼれてきたということは、初対面だろうが何だろうが、「正常」なことではないのか/逆にそういったことが一度もないまま八十八年も生きるということは「正常」と寿(ことほ)ぐことができるのだろうか。
あなたの全身全霊は、本当にすみずみまで、「正常」に澄み渡っているだろうか、「ふつう」を切り離したとき、あなたの全身全霊からはその「澄み渡っているあなた自身のありさま」が出現しなくてはならないのだが、そのあたりはさあどうだろう、とりあえずすべては「ふつう」という振る舞いの中に隠しておけば表沙汰にならないのだが、表沙汰にならないということは裏沙汰になっているということだろう、本当に無傷で済んでいるわけじゃない。
もちろん第一には、すべてをまず「ふつう」にこなせることが重要だ、そのことは学校と集団生活で教わってきたろう? さてそれを第一の資格として、次に、「ふつう」を切り離したときに出てくるあなたはどんな具合だ、僕は何もおかしなことを言っているのじゃない、あなたが長いことこんなブログを読んでくれている理由は、第一にこのブログに書かれている声が「ふつう」という安全帯に守られていないからだ。

あなたは「ふつう」で、僕は「ふつう」じゃないが、それは必ずしも僕が「不当」ということではない。

僕が何を「不当」と感じるかというと、これは僕自身の話だが、もし僕がこんなわざわざ公開しているブログで自分の「ふつう」のことを書き話し続けたとしたら、そのときは僕は自分の行為を「不当」と感じるだろう、誰も「ふつう」のことなんかわざわざ聞きたくないのに、せっかく読みに来てくれた人に対して不誠実をしたことになる、そういうことは実に不当だと僕は思うのだ。
また明日も新しい記事が読みたいと思ってもらえるかどうか、そのためには、「ふつう」という安全帯を切り離していることが大前提になる、「ふつう」ということには何の罪もないが/また読みたい、あるいはまた会いたいと思ってもらうためには、「ふつう」などというグッタリした安全帯を切り離していることが大前提だ、「ふつう」から離れてなおこの人は「正常だ」と信じられるとき、われわれはその人のことを友人と感じるものだ、「この人のやりたい放題は何ら不当ではないわ」とよろこべる友人を見つける。
恋女のマインドね | comments(0) |
意味がついてきてしまうほどの何か
よ、おれともあろう者が、ちゃんと一週間前にパーティの告知を出せたぞ、ポスターはまだだが、何にせよこの偉業を称え賛じたまえ、大いなる神々の恩寵がここに下ったのである。
いろんなことについて、「なぜこんなことをするのか」という意味づけが重要とされているが、そうして意味がくっついてくるようでは、もう何も間に合っていない。
かといって、本当に何の意味もないのはまずく、やるからにはすべてのことに意味がないといけないのがむつかしいところだ、つまり<<意味は追いかけてはならない、意味がついてこないといけない>>。
たまたま剣を振りたいなーと思っているとき、たまたま道で剣を拾ったらそれがたまたま日輪剣で、なんとなくこいつ斬っちゃえと思って斬ったらそれがたまたま悪魔の権化でしたわ、「そうなの?」「そうなんですよ!!」「まあ確かに、何かそういうやつを斬るつもりではあったな」という具合でないと、歯車が噛み合っていない。

人は、動けなくなると、有意義なことや、官能的なこと、あるいは危険なことを探してその保身に動力を得たりなど、「間に合っていない挙動」という特徴的な挙動を示す。
ピッチャーが投げた球を、バッターボックスの打者が打ち返すとき、そこに何の意味があるだろう、もちろんそれがヒットになったりホームランになったりするのだが、飛んでくるボールに対して「これを打てばヒットになって一点入る」なんて考えていたら、間に合うはずがない、そういう意味とか打算とかを奉じているのは、あくまでバッターボックスに入るまでだ。
ベストのタイミングで、ベストの位置に、「わあっ」とびっくりバットを差し出せば、女の子でもヒット打球になるだろう、人と人が「出会う」というようなことはこの次元で起こっており、意味なんか追いかけているうちは何億年経っても人と「出会う」などということは起こらない。
ヒットになる可能性があるということは、もちろんアウトになる可能性や、最悪ゲッツーになって「えぇ……」と近所迷惑まで生じる可能性もあるのだが、そういう中で「お前、ほぼ100%でヒットするな」というのが名打者だ、これは野球の話ではないのだから。

野球が面白いはずはないし、バットとボールが面白いはずはない、それと同次元で、男と女が面白いはずがない。

ボールは投げるもので、バットは打つもので、この二つの意味を組み合わせれば、面白く……なるはずがない、そんな意味づけ運動をさせられたら人はたまったものではない、何の意味もないがなぜかボールは投げられてわあっとバットは差し出されて、カキーンとナゾの白球は高々と空に飛んでいったのだった。
意味がなくてはならないが、それは、意味がついてきてしまうほどの何かでないといけない、ということだ、男と女が面白いはずはないが、僕が生きていて面白くない時間など一秒たりともあったためしはないのだった。
恋女のマインドね | comments(0) |
三月の異世界
に春が来まくって、この三月初旬はマジ卍だ、急に大粒の雨が数発、横なぐりに降りつけてきたりする。
いい人、と見抜くことができたら、そそくさと寄って、どれだけ未熟でもその夜はその人のものになってしまえばいいのに、残念ながら女もそういう身分ではなくなってしまったらしい。
そういう身分がかつて、高かったのか低かったのか、僕は知らない、ただ二十年前の女性と現代の女性が「同じ」だとは誰も言えない。
二十年前、女性は、女性というよりはかわいらしい何かであって、助けを必要としていた、恐縮しながら助けてもらうことをありがたがっていた、彼女は世界の何も知らなかったが僕を肯定することについてだけは確信があった、まるで今とはまったく違う異世界のような話。

そういえば、いわゆる「なろう系」の小説で、「異世界転生もの」が流行しているというか、今や小説といえば異世界転生しかない、という風潮らしい。
つまり、この世界においてはもう物語が発生しえないので、まずは異世界に転生する、異世界なら物語が起こっておかしくないから、そこから始めましょう、ということのようだ。
重要なことは、異世界に転生すること、それ自体は物語ではないということ、異世界に行くまでは何でもいいのだ、テキトーに交通事故で異世界に飛んだとかでいい、そこから先は何か英雄譚なのかハーレム世界なのか、読んだことがないので知らないけれども、とにかく生きる気がする世界が広がっているのだろう。
転生した異世界に、三月初旬の風は吹いているだろうか? よく知らないが、そういうものかもしれないなと、こちら異世界よりお送りしております。

春のカミサマが愛の矢で男を射ぬく、この矢は女を射ぬくことはない。

だから男どもには、ときに青春が、そして男に巡り会った女にも青春が宿る、女たちだけではいかに華やかでも、青春は宿らない、女は男ほどアホみたいに浮かれることはできないから。
男は異世界に転生する、小説になんか耽らなくてもだ、ただし女に殺されてしまった男は別、春の異世界はつまり劣情を持たない世界だから、男もしくは男に助けられた女しか生まれ落ちることはできない。
恋女のマインドね | comments(0) |
こちらHS30便、異常なし
ーむ、「まとも」に生きられる人なんてほとんどいないものだ。
人それぞれ、持病を持っていたり、心療内科に通っていたり、仕事がアヤシイものだったり、家族が破綻していたり、ひどい悪趣味を持っていたり、触れると爆発する「地雷」を持っていたり、コンプレックスを病的に封印していたり、知性が欠落していたり、さまざまだ。
そして、人は加齢を経て晩年になって、本当に何かを「得」、本当に何かを「識」ったかというと、そうでもないのだ、ほとんどの場合は、何もないからっぽのまま、ただ潜在的に不機嫌というだけの老人にだけなってしまう。
その中で、愛とか慈しみとか、歓喜とか、ましてや「もののあはれ」とか「天啓」とか、得るわけもないし識るわけもないだろ、とあるていど突き放しておかなくてはならない/問題アリの機体のままなんとか航行を継続していくしかないのだ、これは大前提だ。

つまり、問題アリだが解決はナシなのだ、そして解決はナシなのに航行はゴーになる/よってわれわれが生きるということは、それ自体がどこかイリーガルで、検査を通っていないのに通常航行に出なくてはならない、という状態になる。
われわれは、恋をしていい万全の資格など持っていないし、仕事をしていい万全の資格も持っていない、生きることを語ることや、誰それのことを悪く言うこと、芸術を賞翫することや、家族を織りなすこと、何かの楽しみを謳歌することに、万全の資格などまるで持っていない/それでもなんとかして、それらしきことをやっていかねばならない。
持病のために病院に通うこと、精神乱調のために心療内科に通院すること、失職のためにハローワークに行くこと、ぶつからないように家族を疎遠にしたり、悪趣味の摂取制限をしたり、「地雷」になりそうなことは自ら遠ざたり、恋あいやセックスやコンプレックスを非解決的に塩漬けにしたり、また一方で管理範囲内で「ストレス発散」することは、「負け」ではなく、本当に勝とうとしている人のしたたかな作戦だ、やけくその突撃は諦めと戦いの放棄でしかない。
はじめからまともな航行にならないのは、あるていど折り込み済みでいけよ、インジケーターのエラー表示にはそこそこに慣れろ、どんなにガタガタの実態でも無事ゴールの空港まで飛んで着陸させてしまえば、そこには称賛しか待ち受けていない。

まともな機体はひとつもない、あとはまともな機長にお任せするしかない。

どんなに問題アリの機体でも、一旦飛び立ってしまった以上、それを然るべき空港に着陸させるのは機長の任務だ、ふらふらのダッチロールとエンジン停止がまったく機長の責でなかったとしても、その機体をなんとかゴールさせる責任は機長にある、機長が感情と文句を垂れ流してよいのはタラップを降りてからのことだ。
誰だって航行中だが、厳密に「異常ナシ」なんて機体はこの世に数体も存在しない、だからいちいち異常を報告していてもしょうがない、管制塔とのやりとりはタテマエを無視し、すべて無事に航行しきり無事に着陸するためのことだけに向けられている、着陸してしまえば「異常はなかった」とうそぶいてしまっても問題はなくなるのだから。
恋女のマインドね | comments(0) |
「思い」を胸に抱えない
力がカラッカラに枯渇している今、自戒を込めて書き話しているので、これは笑い話に聞き流すように。
自戒するのだが、どうも僕自身の発想のメカニズムには、思いをプールする場所、いわば「楽屋(がくや)」がないようなのだ、そのせいであまりに人と話が食い違ってしまう。
たとえば僕の場合、誰かに「わたしも小説を書いてみたいです」と言われると、僕は「へえ、そうなん」となり、「じゃあ」とその場で原稿用紙とペンを渡してしまうことがある、そして「……ん? はよ書けや」となってしまうのだが、これは別に威圧しているのでもないし意地悪をしているのでもない、これが僕にとっては通常時のメカニズムなのだ(本当に悪意はない)。
僕にとっては、たとえば「小説を書いてみたい」というような思いがあったとき、それを<<いったん胸に抱える>>という手続きがないのだ、あるいは小説を書いてみたいという<<思いが芽生えた>>という手続きがなく、僕の場合「小説を書いてみたい」という思いは手続きなしに原稿用紙とペンに直接向かうのだ、これはマジの話なので、「へえそんな発想のやつもいるのか」と笑い話に聞き流してもらいたい。

たとえば僕が、「ギターを弾いてみたい、弾けるようになりたい」と思ったとしよう/実際、僕はギター演奏などまったくできない、できないというよりそもそも知らない。
このとき、僕は「ギターを弾いてみたい、弾けるようになりたい」と思ったら、ギターを買うか借りるかして、たぶん多くの人が驚くことに、<<何も調べず何も習わず>>、いきなりギターの弦をジャカジャカ鳴らし出すだろう、何の躊躇もなく全力でだ、左手でコードを抑えるフリはするだろうが、もちろんどこをどう抑えればいいのかなんて知識ゼロなのだからわかりようがない、そんなもん知ったこっちゃないのでデタラメにやる。
僕は「ギターを弾いてみたい、弾けるようになりたい」と思ったのであり、「ギターを習いたい」と思ったのではないし、「ギターの弾き方を知りたい」と思ったのでもないから、僕にとってはこれが正しいのだ、もしギターに詳しい人が横から「ここをこう抑えるんだよ」と教えてくれたとしても、「うっせえ、訊いてねえよ、だまってろ」と取り合わないだろう、ギターの「弾き方」になんか何の興味もないのだ/そしてひでえ話、僕がテキトーに抑えた弦ではまともな音が鳴らなかったら、「ちっ、このややこしいギターめ」と、ギターの側に文句を言うだろう、僕はギターに向けて「ほれ鳴らんかい鳴らんかい」とけしかけて弦を弾きまくるに違いない。
さてそこで、僕としては「ギターを弾いてみたい」ということは、すでに達成されたわけだ、もしその達成の中で、「これってどうやったら和音になるのかね」と、改めて「ギターの弾き方を知りたい」と思ったなら、そこで「おいお前、ギターのコードの抑え方をネットで調べておれに見せろ」とそこにいる誰かに命令すればいい/僕にとってはこの順序が鉄則であって、「ギターが弾きたいからまずギターを習いたい」という思いのプールは決してしない、「ギターが弾きたい」とき「ギターを習いたい」という思いは一ミリもない。

ギターを鳴らしたいとき、ギター講師はクソ以外の何物でもないから蹴り出せ。

逆に、もしギターを「習いたい」なら、そのときはギター講師は最高のナイスフレンドだ、そのとき「習いたい」をたっぷり満たせばいい、ただし「習いたい」ならその後ギターはゴミ箱に捨てること、なぜならもう「習いたい」の用事は済んだだろう、演奏しかできないギターなんて粗大ゴミだと見えねばならない、冗談ではなくそれが正しい。
冗談ではなく、たとえばよく言われる「ギターを弾いてみたくって、ギター教室を考えているんです」という文脈の立て方は、僕には一ミリもわからないのだ、それは「女を口説きたくて、女口説き教室を探しています」と言っている男の世迷い言みたいに聞こえる/「思い」がターゲットから逸れて一旦プールされているとき、エネルギーが浪費されるだけじゃない、ビニール袋に閉じ込められた「思い」はそのまま腐敗して生臭くなってしまうだろう。
恋女のマインドね | comments(1) |
善悪と、滅ぼされるべきもの
ちこちでいろんな善悪が叫ばれている。
代表的には、今は「男女平等」だろうか、あるいはLGBTか、さすがに芸能人の不倫やエコ、受動喫煙や放置自転車はそろそろ飽きられてきたかもしれない。
男女平等を善とするとき、男女差別は悪になる、一方で「でも男と女ってさあ……」と、男女の正当差別の中に善を見る人があり、この人にとっては男女平等ブームは諸悪の根源に見えている。
これらの善悪の識別は、何になるかというと、「揉め事」にしかならない、そしてこの揉め事に際限なく疲れ果てていくのが、うかつなわれわれの道なのだった、われわれはこの揉め事において「アホ」という定義だと断定していい。

つまり、どちらを善としてどちらを悪とする立場であっても、その善悪の識別、その「識」をこさえた瞬間、ムラムラッと立ち上がる炎がある、ディベートかディスカッションでもするかという運びだ、この「ムラムラッ」とくるというのがつまり「サカっている」のであり、サカった時点でわれわれは「アホ」だ/しかし身が進むまでこのサカリをわれわれはやめることができない。
サカリの炎は、溶岩のごとくでキツいのだ、ブチまけてもキツいし、抱え込んでもなおキツい、われわれは輪廻システムおよび十二因縁システムにおいて、行および識に「こだわり」「執着」「サカリ」を起こすものなので、この溶岩にて「一生やってろ」と見放されたカワイソーな存在なのだ。
ただ一部の、慧眼の美女および美少女においては、「何かおかしい」と感じられ、その美女と美少女に向けてのみは僕はこう言うのである、「悪は滅ぼさねばならないが、善も滅ぼさねばならない」/ごくまれに、マジに、そういわれて目の輝きを一気に取り戻す美少女がいる。
一方、眼の曇ったババアおよびオッサンにおいては、「これは断じて善、これは断じて悪でしょ!」と感じられ、火を噴いているのだが、それはカルマシステムで「識ファイヤーに焼けこげてろバーカ」という定義のとおりに焼けこげているだけにすぎない、僕がそう考えているのではなく古代インド哲学にそう示されているのだ/すべての存在はカルマを償却せねばならないのだから、われわれが「善悪」どうこうといって識別したがるその「識」も、償却できなきゃ負け戦ということだ。

おれの説に賛同しない奴は生煮えのナマズを2kg食わすぞゴルァ。

このとおり、僕の身において善なるものはとっくに滅んでいる、僕のような叡智のカタマリになると、「男女平等は当然かつ必然であるが、僕は美少女を圧倒的に優遇する、文句ある奴は殺すぞ」ぐらいは平気で言う、僕の発言には何の矛盾もあるまい。
善悪のわからん奴、たとえば尊属殺人罪の加重を違憲として懲役二年六か月の処断刑に執行猶予をつけた有名な判例の善が知識的にわからん奴は性能的に人間未満だが、その善とか悪とかに「サカる」のはまた見当違いで筋の悪い奴なのだった/性善説とか性悪説とか言いたがる人は後を絶たないが、僕は性ブルドーザー説を唱えてメッチャクチャにしてやろうと思う。
恋女のマインドね | comments(0) |
別のことをしよう
は僕になりきらねば。
もともとゴーマンに生きてきたつもりだが、ここで改めて、さらにゴーマンにならねば。
僕が間に合うしか他に方法がないのだ、これまでの経験からいよいよわかる。
僕の善意は、僕自身を堕落させ、僕が堕落すると周りまで可能性を失っていく、ゴーマンにならねばならないという義務を負うのもなかなかキツいものだ。

誰だって自分に還るしかないのだろう。
だいたい、誰でも自分の家族や出身はぐちゃぐちゃなもので、それが自分の帰る場所ではない、自分は自分に還るしかないのだ。
誰にとっても「自分」がこの世に生まれ落ちているのは不思議なことだ/だが不思議なまま事実だけが与えられている。
ぐずぐずして、自他の可能性を減殺していくのがそんなに好きかな? ふざけて自らそうしているとしか見えない。

全員を裏切っても僕はこっちをやる。

思えば、これが昔からの僕の判断ということか、僕は大きな不和のある家庭に生まれたが、正直僕は別のことをしていた。
別のことをしよう/自分が自分に還るからには。
恋女のマインドね | comments(0) |
あなたの今日はあと七時間
まった、また時間がないぜ!
ええと、土曜日はパーティをやるのでよろしくね、今週で合っているよな、合っていた(今調べた)、というわけでエントリーよろしく、場所はいつもの原宿だ。
池上彰さんがやるテレビの特番はとても面白く、気分がよく、勉強になるし、その中で天皇陛下がよく特集されているので(平成の終わりに向けてだ)、しみじみこの時代の今上陛下は実に聡明な方であられてなんともわれわれにはありがたいことだったと思った。
話にまとまりがないのは、ただいま僕が幸福だからだ、友人が連絡をくれて、難曲をなんとか最後まで弾き切れたそうだ、「まあおれのおかげだな」とデタラメを吹き込んでおいた、今日はまたちょっとイベントがあるので外出せねばならない(間に合うのか)。

われわれは日本人だし、天皇陛下は日本の象徴なので、われわれはたがいに老人になったとき、なるべく天皇陛下のようなお姿と聡明さに近づきたいものだと、それをモデルにしてよい/イギリスの女王の振るまいがその後のテーブルマナーのモデルになることのようにだ。
そうやって考えると僕なんかまるでダメじゃねーかという気がするのだが、気がするだけでなくまるでダメで、そりゃあ脳内のモデルが基本的にヘヴィメタルなんだからダメに決まっているよなあと、このごろになって痛感するのだった、このごろベタな意味で自分の内にあるソウルというものがわかってきた、ソウルがどうこうなんてふつうに生きていくぶんにはまったく要らない知識だが……
ソウルがどうこうなんて言い出すと、誰もが「わたしのソウルはどうなんでしょうか」と訊きたがり、それについて「まあソウル的なものはまったく育ってないからソウルなしという感じでいいんじゃない」とでも答えようものなら、すべての人はしょんぼりしてしまうだろう/しかし日本にいる日本人でありながら天皇陛下さえもスルーして生きているのならソウルなんか育ってなくて当たり前だと、これは割とマジで言わなくてはならない。
毎日が爆裂的に楽しく冬や春もしくは夏や秋は幸福に満ちているわけだが、すべての富と女はおれのものだぜなんて話をすると、女性は「はあ?」という殺意の眼差しを向けられるとして、しかしそうして「はあ?」と正しいことを述べんとする人はたいていのところ幸せではなさそうなのだった、なぜ幸せではなさそうかというと、さっさと僕の女にならないからだ、うーんこれはもはや現代流行の男尊女卑の揉め事を超えて、男ヘヴィメタル女ノラジョーンズという、まあいいや、とにかく黄金の富と女の美肌が降り注ぐのがだいたい週に五日ぐらいでないと楽しくない。

冷静に考えろ、あなたは今日、何のトクもしない。

何のトクもしないのなら、好き勝手にやればいいのではなかろうか、僕は冷静に考えたところ「やったね」という気がするので、このようにゴキゲンでいる、日本の少子高齢化についてどう考えるかという問題があるが、それは正式には「投票に行ったでしょーが」と答えられる。
僕のソウルはこのような感じで、まとまりがないのだが、まとまりがあるかわりにソウルがないぜというのはキツいので、このようにしているのだった、どうせ今日は何のトクもしないのであればソウルがのびのびしているほうがよいのではなかろうか、人生はいろいろあるのだろうがソウルはひとつしかないので人生は本当はいろいろはないのだ。
恋女のマインドね | comments(0) |
干渉しない僕の獲物
ーティションがない、つまり、「干渉」に踏み入ってしまう。
フランソワーズ・サガンが攻撃しつづけたアレだ、あの「干渉」だ。
前の記事で、キチガイジーサンの話をしてしまったが、あれだってパーティションの内部で個人的に発狂しているぶんにはかまわないのだ、ただパーティションがないので干渉してきて迷惑以上の破壊・侵食をもたらしてしまう。
土居健郎が大昔から「甘えの構造」で「自他の峻別をしろ」と口酸っぱく言っているのに、時代はその真逆に向かったのだった、この時代のエンターテインメントがことごとく汚損されているのはそのせいだ。

代表的に、母が娘に「干渉」を持ち、娘の人格と未来を破壊・侵食してしまうという例が、いかにありふれているだろう/むしろそれが「主流」なのでは、という気さえする。
ジャニーズアイドルは、客席から「○○クン」と愛好されて、舞台をやりにくくないだろうか? 子供の発表会ではないのだから、ほうぼうから身内めいて干渉されると真の技芸には決して到達できないだろう。
人から人へ、「作用」を持つことができないとき、人は当然のごとく孤独だ、それに耐えられないから外道と成り果ててでも「干渉」へ踏み出す、するとそれまで無関係だった間柄が、人間関係になる……といわけではなく、ただの「足の引っ張り合い」になる/これは人を大変憂鬱にし、ときには殺人まで引き起こす。
最近、いろいろ実験と研究をしているのだが、「干渉」がもたらす効果の大きさ、また「干渉」を封じて立ち上がるところの世界の鮮やかさは、想像していた以上だった、これまでそれをレコードしたことはなかったのだが、レコードしてみると「こんなに違うのか」と我ながら驚いたのだった。

世界中の、すべての富とオンナはおれのものだ。

なんのこっちゃわからんと思うが、わからなくて結構、そもそもわかって何をしようというのか、何の干渉を企んでいるんだ。
僕は揉め事はきらいだ、ノートラブルが最高にいい、そしてすべての富とオンナがおれのものならトラブルは起こりようがないだろう、つまり僕は干渉と正反対の世界を生きているのだ。
恋女のマインドね | comments(0) |
LGBTと誇り高い性愛

LGBTが流行っている/流行っているというと怒られるが、少なくともその話題とテーマが流行っている。
僕は当事者ではないのでLGBTのことはわからないが、少なくとも、LGBTを差別する権利は誰にもないことぐらい、別に議論しなくても誰でもわかる/差別するのもわかるが、別にその「権利」があるわけじゃないことぐらい、わからなければ単に頭がアホだ。
ただし、差別しないことと「理解できる」ことは別で、理解しろというのは無茶がすぎる、鉄道オタクのマニアを「理解しろ」といわれても「わかんねーよ」と言わざるを得ないことのように、当事者でなければそれは理解のしようがない。
また、どれだけ差別観念を解消しようとしても、LGBTのトラブル性を完全にゼロにはできないだろう、なぜなら「昔々、あるところに、おじいさんとおじいさんが」と昔話を書き換えるわけにはいかないからだ/このあたり、現在のLGBTテーマの「流行」は、多く「前向きだが浅はか」ということになるだろう、だいたい何千年も人類が手こずってきたテーマをチープな現代のわれわれが解決できるわけがないのだ、「いいね」ボタンの連打で解決できることは何一つない。

だいたい、LGBTうんぬんの前に、「LGBTでない側」の異性愛だって、まともに隆盛しているとは思えない。
生まれついた本分としてLGBTだったという人ばかりでなく、単に異性愛への閉塞と不能から、LGBTに転じることになった、それで「自分でもよくわからなくなっている」という人もいるだろう、むしろそういう人が水面下で増えてきているのじゃないかというのが不安でならない/それはLGBTが不安というのでなく、「自分を見失った人」が大量に発生しているのではないかという不安だ。
異性愛が閉塞して不能化しても、身体および生理・ホルモンによるリビドーはあるわけだから、行き所を失ったリビドーは本意・不本意にかかわらずそのはけ口を見つけるだろう、その結果としてLGBTの側へ転向したに過ぎなかったら、それは極論すると「摂食障害がこじれて、ティッシュペーパーを食べるようになってしまった」ということと似ているわけで(そういう病気は実際にある)、その人を「紙食主義者」と定義するわけにはいかないように、セクシャリティのトラブルを安易にLGBTに定義することは危険をはらんでいるだろう。
僕はジジイなので、年の功からアタリマエのようなことを言うが、基本的にふつうの異性愛者が、異性にモテないというのはヒサンなことだ、そして異性と愛し合う機能が破損に向けてきしみをあげ始めるのはさらにヒサンなことだ、だが人間はそもそも自分が生きるということに、何かしらのヒサンさと向き合ってそれを超克するというプロセスが含まれているので、ヒサンだからといって背を向けていてはもうまともに生きることができない/もし異性にモテない男が、女にバカにされすぎてインポになり、なぜか同性の男にチンコが勃つようになったとしても、それを「LGBTだよ、握手しよう」と祝福してやる気にはなれない、僕はLGBTのことはわからないが、そこに誇り高くないLGBTが混ざっているなら、それが「誇り高くない」ことにまで目をつぶってやる義理は見つけられない。

異性愛であろうがLGBTであろうが、自分が誇り高い性愛に到達できないという恥をごまかすことはできない。

別に性愛に限らず、自分が涙ぐましいとき、それは他人から見ると「みじめ」なのであって、そこで自分の涙ぐましさを押し通そうとせず他人から見たみじめさを引き受けようと立ち直らないかぎり、人は誇りある姿に到達できない/そしてどれほど庇護を受けたとしても、誇り高くあれない自分を自分で知ってしまっている以上、その者はもう幸福を得られないのだ、このとき過剰な庇護はむしろ幸福への立ち直りを阻害するイネイブラーの足かせとしてはたらいている。
「誇り高い性愛」に到達できる人なんて、全体の何パーセントいるものだろうか、それが困難であることは異性愛もLGBTも変わらない、それに到達できないということはみじめなことだが、このことに感情的な混乱を覚える人があったとしたら、その人はいつの間にか、「自分はまったくみじめではない者」というえげつない誤解をどこかで形成したのだ、古今東西自分にみじめさを見つけない人がいたとしたらそれは狂人でしかなかったというのに。

恋女のマインドね | comments(0) |
考え方の、基本中の基本2
車の車内に一人、酔っ払いのおっさんがクダを巻いていたとする、すると僕は、その車両には乗らない、当然避けて別の車両に乗る。
しかし電車の車内に、その酔っ払いのおっさんと、若い女性が一人、乗っていたなら、僕はその車両に乗る/当然ながら、同じ車両内に身体のデカい僕がいれば、そのおっさんが若い女性へオイタをすることへの抑止力になるからだ、余計な悪さをすると僕が「おいおっさん」と制止に入るに決まっているので、おっさんは悪さができなくなる。
そうすれば女性は不安におびえずに済むし、おっさんだってたぶん悪人ではないので、そんな悪さはしたくないというこころはあるのだ(でも酔っ払っているからな)/ということで、そこでは僕がその車両に乗っているのがベストになる、こんなとき僕が「自分だけ」の快適さを求めることなど世界のルールとして許されるわけがない。
考え方の、基本中の基本だ、将棋の駒と同じように、「四方八方に一番よく効く」ところにそれぞれの駒が進まないと、盤面が不利になるばかりだろう、この基本的な考え方ができない者は、単純に「低級」とみなされて抗弁の余地はない。

腰の曲がった近所のババアが、なんだかんだ、近隣の道路を清掃したり、ゴミを拾ったりしてくれている。
僕はそういうことをまったくしないのだ、何しろ面倒くさがりだから/ただし近隣のガキが「ん? イジメかな」というような光景を見せているときには、僕がしゃしゃり出て「何しとん、楽しそうなことしとるやん」と割り込み、ガキどもをたいへん憂鬱な気分にさせてやることにしている。
このそれぞれのはたらきを、入れ替えるとたいへん不利益なのだ、ババアがガキどもに凄んでもいまいち迫力がないし、僕が近隣の清掃なんかしていたらいかにも「あわれな人」みたいに見えて街の景色が悪くなる/だからババアがゴミを拾っているのが一番いいし、僕は「常識がなさそうでヤバい人」でいるのが一番いいのだ。
将棋でいうと、金の上に銀があるのが良形で、銀の上に金があるのは悪形なのだ、個人では動かしようのない、考え方の基本中の基本だ/「自分がどう進めば四方八方によく効くか」という視点で考えるべきであって、「自分だけ」で善人になろうとするのは「発想が低級」であり抗弁はできない。

僕がガキどものイジメに割り込んでゆけるのは、ババアが近隣の道路を清掃してくれているからだ。

何を言っているかわかるか、このことは顔面を冷水で洗滌してでも理解しろ、人間は万能ではないので剣と箒(ほうき)を同時に装備はできないのだ、僕が箒を装備するならクラスチェンジをせねばならず、箒を装備していたらいざというとき剣を持って割り込むことがタイミング的に間に合わなくなる、「何しとん」と割り込むべきタイミングに間に合わないのだ。
これは言うなれば、近隣のババアが僕から箒を「取り上げている」からこそ、僕は僕本来の剣を持たねばならず、それでいくつかのタイミングに「間に合う」ということが生じたということだ/この世界で成り立つすべてのファインプレーは、必ずそうした水面下の連係プレーで成り立っており、個人プレーでファインプレーということはありえない、だから個人で「自分だけ」を考えているやつはこぞってアホというしかないのだ。
恋女のマインドね | comments(0) |
考え方の、基本中の基本

は天体望遠鏡を買わないだろう。
なぜなら、今住んでいるところの近所に、知り合いのガキどもなどいないからだ。
もし知り合いのガキどもが近所にいて、通りすがりに「あー望遠鏡だ」「お月さんぐらい覗いていき」ということになるなら、天体望遠鏡を買ってもよいのかもしれない。
僕は以前から、中型バイクの免許を取ろうかなあ、と思案している(が、面倒くさがっている)/今は原付があるので、用は足りているのだが、中型ならいずれ二人乗りできるわけで、後ろに誰かを乗せてやれるということになれば、いろいろイイことがあるなあと考えるのだ。

「自分だけ」でしか考えない利益の発想は、単純にいって発想のレベルとしてサイテーだ。
不遜ながら、僕は正直なところ、「よくまあ、そんなに徹底して『自分だけ』のことを考えられるな」と驚かされることが多いのだ。
仮に僕が、自宅でラーメン屋を開いたとする、そのとき「この場所にラーメン屋があって周りの人はよろこぶかね?」と考えるのがどう見ても基本だ、よもや「自分がラーメン屋をやりたいかどうか」というようなわけのわからん視点では考えない。
こんなもん考え方の、基本中の基本だ、まさか植木バサミを買うときに、あなたは自宅の庭のことしか考えないのか。

僕が厚着をして出かけるのは、薄着で出てくるバカ女がいるからだ。

僕が厚着をしていれば、バカ女にコートやストールを貸してやれるのであって、そこで「自分だけ」温くてどうする、そんな発想で僕は自分のものを買ったことはない。
僕が温泉に詳しくなれば、あるいは焼き鳥屋に詳しくなれば、僕が情報源になれるわけだし、僕が正しい知識を持てば、僕が知識源になれるわけだろう、そのために遊ぶのだしそのために勉強するのであって、「自分だけ」という発想がそもそも特殊だ/近所に知り合いのガキもいないのに天体望遠鏡を買うのは典型的に「無駄な出費」に思える。

恋女のマインドね | comments(0) |
○す以外にカッコよくなる方法はない2
す、というのが、平和への最高の道だ。
何しろ、相手が消えてしまうので、殺してしまえば強制的に平和だ、闘争のしようがなく、闘争という概念じたいから消えてしまう。
これがあるので、女は、自分が闘争しなくてすむ唯一の方法を得ることができる、女は闘争せずにいられない生きものだが、僕が殺してやるということなら、「あっそうなんだ」ということで、女もついに闘争をやめることができる。
そうしたら、女も闘争をやめられるし、男も落ち着いていられるしで、豊かであり、カッコよくあれるのだった、女にとってはきっと「初めからあなたには殺されているようなものだもの」というのが一番ラクで、蛇ののたうつ余地がないのだ。

女が闘争を覚えるとロクなことにならない/女は、殺すということの快適さをなかなか悟りえないので、闘争の無意味さを理解しない、女の闘争は本当に際限のない「闘争」になってしまう。
とはいっても、最近は男もダメだ、男もすっかり蛇に入り込まれているので、男といってもきょうびの男はもう女だ、自分の使っているコスメをバカにされたら一生怨んで闘争するという男が今はいくらでもいるだろう。
「殺す」ということは、この世界に、今もまったく珍しくなく横行しているのだが、「闘争せずに殺す」ということが至難なので、たいてい殺人などはサイアクのものにしかならない/くれぐれも「殺す」という行為に意味はないのだ、ただ完璧な平和は誰だって希求するということをお話ししている。
殺すというのはつまり、生命を奪うとか停止させるとかいうこととは本質的に異なるのだ、「もう争わなくてよくなる」ということだし、あなたを殺してさえしまえばもうあなたに生命があるとかないとかいうことはどうでもよくなるのだ、すでに殺してしまったものが生きていたとしてそんなことはさっぱりかまわない。

殺すということは、数学なので、ロマンチックだ。

僕があなたを殺したら、あなたは消えるのであり、僕はあなたに一ミリも注目せずにすむようになる、そうしたらそれがどれほどあなたにとって快適なことか/あなたが僕の膝に座っていたとしても、あなたは一ミリも注目されずにすむということだ、あなたはそういう状態が大好きなはずだ。
常に殺す準備と殺される準備を、そんなことサムライじゃなくてもアタリマエだ、闘争のない平和な世界、上空の大気に真綿の雲/しかし僕は殺されるのはイヤだけどね、それでも僕に殺されたいという女性はこっそり多いし、そういう女性ほど穏やかでまともだ、身体がさくさく動いてくれる。
恋女のマインドね | comments(0) |
○す以外にカッコよくなる方法はない

ッコよくないと疲れる、ということがある。
カッコよくなるためには、見えるべきものが見えているということ、および、見えてはいけないものは見えていない、ということが必要だ。
つまり、ダサい奴が見えていたらダメだということだ、ダサい奴というのはつまり、他人のことだ。
ダサい奴が見えていたら、カッコよくなりようがなくてしんどいのだが、これを解決するには昔から単純な方法がある。

つまり、ダサい奴はしんどいので、殺せばすっきりする。
んなアホなという話だし、そんなものいちいち殺害していたら街中は死屍累々になるのだが、「殺せばすっきりする」という発想と確信は大事なのだ、殺すということはその人が消えるということで、この消えるということは無視するというような努力では到達できない。
殺すという行為は、もちろん本当にやってはダメだし、殺すという行為そのものに意味があるわけではないのだ、重要なのは殺した「後」のことだ、殺してしまえばそいつはもう存在しないわけなのですっきりする、「そりゃすっきりするわな」という明らかな確信が大事、それが正しく確信されたら、人は穏やかになるので、いちいち本当に殺害なんかしない(ほうっておいても全員いずれ勝手に死ぬ)(殺す以外にカッコよくなる方法はない)。
僕のことを愛してくれた女は、必ず僕に対して「この人になら殺されてもまあいいか」ということを、大前提のアタリマエにして、僕のことを愛してくれた、それは僕が男だからだ、そして男は女を殺せてしまう以上、女はやさしい男に出会い愛することが必要なのだった。

殺すのは好きだが闘争はゴメンだ。

もちろん殺されるのもゴメンだ、まったくわがままな話だが、僕は殺されるのはゴメンだが殺す側はいつも自分を当てはめて「いいなあ」と思うのだった、もちろん本当に殺害するという意味ではなく/女が殺したがる場合は憎悪によってだから、女で殺したがる奴というのはたいていセンスがない、そしてカッコよくないものは疲れるのだ。
僕は平和を愛しているので、「殺せば平和」ということがよくわかる、何しろ闘争する相手が消えてしまうのだから無条件に平和だ/つまり、男が女と闘争したり、和平したり、協調したり、お願いしあったりとかいうことが、致命的にヒサンでしんどいということなのだった、だいたい僕が「お前のこと殺そっかな」と冗談口を言うと、まともな女は悪くない気がしてそっと微笑んでくれるものだ(しくじると猛烈にサムいので決してセリフだけ真似しないように)。

恋女のマインドね | comments(0) |
不完全な中を
不完全なのがカッコいいので……
不完全な中を進んでいこう。
今原宿にいる、クライムにいる。
つまりパーティの最中から執筆しているのであった、まあたまには変なことをする。

不完全ということが、可能性ということだ。
不完全というのは、ストレスだが、そのストレスの中に、誰も見えていない可能性がある。
音楽が流れていて、壁に穴があいている。
今りささんが来た、いらっしゃーい、しかし僕はまったく別のことを考えている。

不完全な中を、タクシーに乗って来た。

明治通りだ、竹下口だ、ものすごい寒波だった、僕には目的地があった。
この世界に何が流れているか? わかるか? カッコいいものが流れているのだ、さてじゃあとりあえず酔っ払うか。
恋女のマインドね | comments(0) |
「カッコいい」とは「特権」のこと
「カッコいい」とは、つまり特権のことだ。
「ダサい」とは、つまり平等のことだ。
この特権には義務もついてまわるので、つまり「カッコいい」とは「特権&特別な義務」だ、ということになる。
イケメンは常にイケメンである義務を負うし、僕のような天才は常に天才である義務を負うのだ、いかなるときも天才的なものを供給する義務を負っており、この義務が履行できないとただちに「死ぬほどダサい」に転落する(だから集中力が要るわけだ)。

「カッコいい」とは、つまり特権であり「差別」なので、実は低級者の側も、「カッコいい」に到達することはできる。
「カッコいい」とは差別のことなのだから、「ああいうのはあの人の特権だな」と称賛して認める場合には、自分もその「カッコいい」側に属することができる、ただし一ミリたりともネタミソネミが混じっていてはならない(ネタミソネミが入っている場合は猛烈にダサい)。
差別の中においては、特権と特別な義務があるのだが、低級者が低級を引き受け「ああいうのはあの人の特権だな」と称賛するということも、実は「カッコいい」側の特別義務に入っているのだ、このことが履行できれば人は致命的なダサさをまぬがれることができる。
一方「平等」においては、ネタミソネミの感情が肯定されるので、何もかもがダサくなる、あらゆる文脈を通してけっきょく「キミもけっこう悪くないよ」という慰めが語られるわけだが、これはどう見てもダサい/ただしダサいからといってこれが間違っているというわけではないのだろう、ただ自分がどちらを選ぶかという選択があるのだと思う。

平等主義者は、自分が見下されるという恐怖を持っており、特権主義者は、誰かを見下すという機能を持っていない。

平等主義者は、もともとネタミソネミの出身だから、自分が人を見下してきた経験がある、それにより今度は自分が見下される場合について想像し、恐怖しているのだ、その恐怖を防御する正義として平等主義があるにすぎない/そのとき特権主義者は、そもそもネタミソネミの出身ではないので、平等主義者が何に縮こまりヒートアップしているのかが理解できない。
99%、誤った特権主義者は、自分が人をよく見下す性質を持っているからという理由で、自分には特権の性質があると誤解しているものだ、真の特権主義者はそもそも人を見下すという機能自体を持っていないのに/僕のような天才は常に天才の特権と義務に振り回されているが、凡人の支えがなかったら半月も生きていられないだろう、こんな世話になりっぱなしでどうやって「見下す」なんて発想が起こり得るのか。
恋女のマインドね | comments(0) |
グッドラックの習慣
まざまな問題に囲まれて暮らしている。
少子化、ミサンドリー、北朝鮮、進学、婚活……どれをとっても、どうすればいいのか一概には言えない。
一概には言えないなら、「よいように」言っておくことだ、わざわざ自分の口から不幸の予言を吐くことはない。
内容がどれだけ正論でも、不幸や陰鬱を告げた唇は、その艶を失い、幸福や光輝を告げた唇は、その艶を増していくものだ、どうせ「一概に言えない」のなら、「よいように言う」という習慣を持っているほうがずいぶんトクだ。

いかなる状況でも、「グッドラック」とは言いうる。
「運」というのは、いかなる状況にもついてまわるものだから、最低限「幸運を」とは言いうるわけだ、これを第一の発想にしていたらいい。
婚活中の人には、「いいじゃん、(グッドラック)、いい人が見つかるといいね」、就職活動や転職活動をしている人には、「いいじゃん、(グッドラック)、未来を切り拓かないとね」、そのことを力強く言えるはずだ、だって「幸運」という最強の力があったらどんなことでもサイコーの結末に向かえるのだから。
さまざまな問題に囲まれて暮らしている、どれも一概に言えないが、どれも「幸運」に恵まれねばどうにもならないのは明らかだ、あなたの唇はおみくじのように、グッドラックを言うほうがよろこばれ大切に扱われるだろう。

「グッドラック」を、まず言ってから考えろ。

われわれはしばしば「考えすぎ」で、同時に、「思考放棄」してもいけない、じゃあどうしたらいいかというと、まず「グッドラック」、そのことを言ってから考える、幸運を祈念せずに考える人間は弱いぞ、強い人間とはまず幸運を祈念する人間のことだ。
グッドラック、僕とあなたは、赤の他人だが、われわれは赤の他人同士でさえ、お互いの幸運を祈念しあえる、その逆もできるが、その逆というのは悪趣味すぎるだろう。
恋女のマインドね | comments(0) |
触らぬ神に祟りなし
「触らぬ神に祟(たた)りなし」という言葉がある。
文字通り、「ちょっかいを出したら厄災があるかも……だから何であれちょっかいを出さないでおこう」という意味だ。
触らぬ神に祟りなし。
……というふうに、見えてしまうし扱われてしまう、そういう女性になってはいけない。

若いうちは大丈夫なのだけれど、いつのまにか、女性はガンバっているうちに、キリキリ……そして「触らぬ神に祟りなし」という状態になってしまうことが多い。
われわれは、ガンバっているうちに、見失うのだ、自分の怒りや感情が絶対のものになり、まるで審判者、烈火の怒りをもたらす神である、というような状態になってしまう。
女性なのだから、基本的にはやさしくやわらかいのがいい、かといって流されるわけでもない、そういうオトナにならないといけない。
女性はよく、オトナになって「強く」なろうとして、その結果、「触らぬ神に祟りなし」というあらぬ方向へ進んでしまうことがある、誰も元々は、「おっかない女になってやろう」としたわけではなかったのに、いつのまにか。

優秀になろう/タタリ神になってはいけない。

いったん、タタリ神状態になってしまうと、もう自分ではコントロールがつかなくなってしまうのだ、全身からニョキニョキとタタリが出てきてしまう状態になる、すると何も悪くない人にまで呪いをぶつけてしまうことになる/そんなのは本人が一番悲しいのだ。
「わたしはタタリ神じゃないし」と、自分で言えば少し落ち着く、そして「そもそもわたし、神じゃないし」と言えばさらに落ち着く、そのほうが幸運がやってくるだろう。
恋女のマインドね | comments(0) |
ウェットとドライの大晦日
年も、また一年、いちおうモテたのかもしれないし、女の子に愛されたのかもしれない。
一眠りして、また例年通り、一年間を振り返る……というようなコラムを書くとしよう、さしあたり僕は、今振り返ってこの一年に後悔はない。
一年間も、という気もするが、この一年間で僕の必要としていた能力は格段に伸びた、一年間でこれなら相当な長足の進歩だろう、思い返しても「これ以上はムリ!!」という実感が特にする、これは僕の限界だからしょうがない。
テキトーに生きているが、たぶんバカ正直に生きてもいる、そうでないと女の子が僕を愛してくれないので/その意味ではとても素敵なこともたくさんあった、今改めて飛び上がりたい心地がしている。

ウェットになるのは間違いだが、ドライになりきるのも間違っている。
気をつけなくてはならないのは、新しいものを取り込むこと、新しいものへ飛び出すこと、いかなる理由があってもこの気概を失わないことだ、なぜならこれだけがいつも人の手から離れそうになる真実だからだ。
これまでとは違う新しいものを、常に手づかみすること、この光をやめたとき、人はただ言い訳上手になるだけだ、その言い訳は万人を納得させるが、万人を絶望させるだけでしかない。
逆を行くしかないのだ、つまり万人を動揺させること、ウェットとドライのアウフヘーベン、"いろんなものを見てきたなあ!"、僕は突き詰めて今もなお、この世界の人々を信じている。

よいお年を。

僕はけっきょく、誰とも話を合わせようとしていないな、僕は僕の了解不能を笑って認めてくれる奴と友人でありたい。
僕にとって、宝物でないものは何一つない、けれどそれが宝物なればこそ、舐め回して安楽にすごすことは1秒もできない/みなさまよいお年を、今年もお世話になりました、来る新年も何卒宜しくお願い申し上げます。 九折空也
恋女のマインドね | comments(0) |
<< | 2/45PAGES | >>