☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
群れ充(モコるというやり方)2

とえばわれわれは、AKBの中心的存在である指原莉乃さんのことについて、「よく知っている」というような感触を持っている。
しかし一方で、彼女の考え方であるとか、彼女の愛するものであるとか、彼女がかつて感動したものであるとかについて、実は何も知らない。
指原莉乃さんのキャラクター、および指原莉乃という「キャラ」については、われわれはよく知っているのだが、彼女のideaについてはわれわれは何一つ知らない。
よほど趣味やこだわりに反するでもなければ、指原莉乃さんに悪意や嫌悪を向ける人はないだろうが、われわれは指原莉乃さんを漠然と好意的に眺めながら、やっぱり彼女のことを何も知らない。

一方、たとえば浜田雅功さんが、「若手が礼儀や筋を通すことを怠ったら、そこだけはめっちゃ怒るだろう」ということはわれわれにも想像がつく。
あるいは、故マイケルジャクソンが、世界中の子供たちと自然環境に能動的なケアをはたらきかけようとするこころを切実に持っていたのはほとんど周知のことだ/われわれはそういった人たちの存在とidea(考え方)を知っている。
あなたの場合はどうだろうか? あなたの考え方、あなたの愛するもの、あなたがかつて感動したものについて、実は何も知らないということがままある。
あなたのキャラクター、および、あなたがやっているかもしれないあなたの「キャラ」については、みんなよく知っているのだが、あなたのideaについては――模糊として――みんな何一つ知らない、そういうことがままあるものだ。

(モコるなら)"ideaに反した"キャラを確立せよ。

突き詰めていくとわかる、現代のわれわれは他人にideaを求めてはいない、キャラを求めているのだから、現在おそらく「ideaがない上にキャラもない」という場合が一番うっとうしくなる。
群れ充に参画しようとする場合、最重要のポイントは、「ideaに反した」というところになる、このやり方は皮肉ではなく、実際に活動を拡大するのに大きな力を持つ可能性がある。

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群れ充(モコるというやり方)

「リア充」という言い方が、馬鹿げた言い方と苦笑されながら、依然それが上位の様相であるという威を保っている。
そして一般的に「リア充」の定義というと、投稿されるデジタル写真によって証される「群れ」の像が必要十分条件を示している、というように見える。
さかのぼって二十年以上前、人々は「個の確立」ということを、感覚的に知って追求していたように思うが/当時はよく「"自分"がない人キライ」という言い方で異性がクリティカルに評価されることが多かった。
ここで合理的に言うならば、時代は「個の確立」から「群れの模糊」に移り変わったと言える(「模糊」は「確立」の反対)、そのことの是非を論じるのは誰かにまかせるとして、「群れの模糊」という思想は単純知的に現代のわれわれに知られねばならない。

われわれはおそらく、「どういう自分になるか」ということを、考えさせてもらえるフェーズにはないし、そういったことを考えられる機能をどこかの時点で失ってきている。
現在、「どういう群れにモコる(模糊る)か」ということでしか、自分の行き先を考えられないだろう、人間の思考機能は文化や風潮の中で大きく制限されているものだ。
実際、十以上年下の人間と話すと、そのことを如実に感じる、すべての思考はただちに「群れ」のほうへシフトしていくのだ、「自分」という確立個に焦点を当て続けることがほぼできない。
「個の確立」のアンチテーゼのように勃興した、この「群れの模糊」という思想が、この先に何を顕してくるのか、まだ誰もわからないので、そこは静観するしかないが、ただ言えるのは「モコる」というやり方が現在は便利にはたらくということだけだ。

モコる技術には可能性がある。

現代、アイドルではなくて「アイドルグループ」が重要であるように、また「パーティ」ではなく「パーティピーポー」が重要であるように、「群れ」という現象への模糊性そのものが重視されている/われわれは「模糊」そのものになれるだろうか?
かつて「個の確立」ということにガイダンスが必要だったように、「群れの模糊」にもそれなりのガイダンスが必要なように思える/「群れの模糊」ということが哀しさを帯びるようでは、どこかが不徹底だと思うのだ。

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身体を増やせ
本的に、実益のことしか考えない。
仕事が好きな人は、仕事が増えればいいし、セックスが好きな人は、恋人が増えればいいし、芸術が好きな人は、世界が増えればいい。
かといって、流れ星が好きだからといって、流れ星そのものは増やせない、物理的なモノを増やすことはできない。
われわれが増やせるのは「体験」だけだ、流れ星を見るという体験を増やすことはできる。

体験が増えるのは、明らかに実益なので、このことはガンガンいこう。
単に回数を増やすことは、体験を増やすことにはならないだろう、「体験」というのは身体に「ためす」「しるす」ということだから、回数だけ増えても「ためす」「しるす」が増えなければ無意味だ。
何を増やすべきかというと、もういっそのこと、「身体を増やせ」と言いたいぐらいだ、一日に二十の体験をするということは、そこに二十の身体があるということだから。
身体を増やすというのはいいな、増えるたびできることが増えるということで、二十の身体があれば、二十の街に生きることができるだろう。

二十の身体なら二十の実益。

われわれが入浴をおっくうがるのは、そのとき入浴する身体を得ていないからだ、だから入浴してしまえばそれが「イヤ」ということではなくなる、それだけ身体を増やせばできることは広がる。
仕事が好きな人は、仕事の身体、セックスが好きな人は、恋人の身体、芸術が好きな人は、世界の身体、全部が好きな人は、全部の身体にまで増やせばいい、そしたら実益はどこまでもいくな。
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自立ジョージ
立か。
自立のためには言葉を消せ。
言葉は喧噪の中で消える。
沸騰する喧噪を自分の居場所にするんだ。

言葉を消して友人を持て。
ダサい言葉だが、片思いをしたことをない人間は永遠に自立しない。
自立ということは、何もかもを「うまくいかせない」ことだ、うまくいかせようとする奴は癒着する、ある意味ママのように賢いのかもしれない。
誰だってストレスが大好きだろ? 耳元で大声にサウンドがある奴を友人というんだ。

自立じゃないんだ、立ち上がっていないんだ。

自立には愛と出会いと、輝かしさがある、慈しみまであるんだ、マネーの問題じゃない、よく見たら世の中にはサイコーな奴とサイテーな奴しかいない。
今夜も自立していない奴は情報で肥大しているだろう、友人と片思いのない奴は実に不安そうな顔で街を歩いている。
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さびしい時代に、逆の発想
どくさびしい時代が来ていると思う。
人はさびしいと焦ってしまうものだが……
人は焦ると、問題を解決する「熱心さ」をもって、状況に対抗しようとするものだ、熱心なほうが強いし有利だと思っているから。
だが、焦りから生じた、対抗のための「熱心さ」は、実は視野狭窄にしかならない、いつの間にか発想が制限されて、逆に追い詰められていってしまうものだ。

逆の発想、「さびしいなら、今日はもっとさびしくなってやれ」という発想が有効だ。
問題の解決が必要なところで、「じゃあ、問題の解決からさらに遠ざかってやる」という発想をする。
この発想を持つことはとてもむつかしいのだ/言うなれば、水に溺れているところの人間が、「よっしゃ、逆に深く潜ったろ」と考えるようなことだから、これはとてもむつかしいのだった。
しかし、溺れているところの人間が、ひたすら水面に上昇しようともがくのは、強くもなければ実は熱心ということでもないのだった、逆の発想はどうしても必要だ。

今日を貧しくしよう。

スマホいじりながら寝ちゃえ、ということじゃないよ、スマホいじりながら寝るのは楽しすぎるだろう、そうじゃなく、もっとさびしいことへスタスタ歩いていってしまうのだ。
一番大切なことから、逆に離れろ、そうしたらきっと思い出せる、「新しさ」/新しい一日だけがあなたを救ってくれるのだということを思い出せる。
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ideaは「言語感覚からの構築物」
なたには「考え方/idea」が要る。
もし「考え方/idea」なしに生きようとすると、あなたは自分のこれからについてことごとくno ideaになってしまうからだ。
ところが、この「考え方/idea」は、実は「言語感覚」によって構築されているのだが、このことがあまり言及されていないというか、知らされていない。
ideaというのは、「言語感覚からの構築物」なのだ、あなたが今をどう生きて、これからどう生きていくかということのideaには、実は「言語感覚」がどうしても要るのだ。

たとえば「充実」という言葉をここに置いてみる。
ここで重要なことは、「なににつけ、充実させたいですよね!」と、パパッと言葉を片付けてしまわないことだ。
「充実とは何か?」と言葉遊びをするのではなく、まず、「充実」という言葉をじっくり見ること/言葉の中にはそれぞれカミサマが棲んでいる。
「充実」という言葉ひとつが、あなたにideaとエネルギーを与えてくれるまで、慌てない、あなたは言葉を知ってはいるのだが、そのとき言葉が見えているとは限らないから。

一万の言葉を重ねるより、一つの言葉に向き合ったほうが、大展開がある。

必要なことは、あなたがどう思うかではないし、どう考えるかでもなく、「言葉そのもの」、実は言葉そのものにはあなたを励ますカミサマが宿っているので、それが出てくるまで暴れないことだ/あれこれ言い換えなんかしなくても、言葉があなたに「教えてくれる」。
たとえるならば、一万人の知人を持ったって、実は足しにならなくて、一人の誰かと向き合ったほうが、あなたに大展開がある、そのことと同じだ、どうかあなたにとって特別な言葉と出会ってください。
視点変えてこ | comments(0) |
「団体性」がウケている

ぜかここ数年、「団体性」がウケている。
アイドルグループの隆盛はここ数年明らかだが、それらはなぜか「グループ」なのだ、かつての松田聖子のような単独性のアイドルが出現する気配はほとんどない。
マンガ「進撃の巨人」で言うと、訴求力は第一に「調査兵団」という団体性が重要だという感じがする/エグザイルメンバーにしても「ワンピース」のルフィ一行にしても、何か団体性の膨張傾向が感じられてならない。
もちろん、団体性の何が悪いわけでもないが、このことは、少なからぬ人が団体性への帰属に「焦がれている」ということなのだろうか?/なんとなくだが、「北斗の拳」のケンシロウみたいになりたいと望んでいる少年はもういないのではないかという感じがする。

バラエティ番組などを見てみても、このごろは、固定ゲストやADやディレクターまでも含めた「一団」をにぎやかせるという、その団体性が第一にウケているように見える。
そしてその団体性は、何かかつての「ドリフターズ」とは異種に見えるのだ、今ある団体性は「親和」に特化しているように見える。
インスタグラム等に投稿される個人的なイベント写真等についても、このメンツと絡みましたというふうの、「親和団体性」が強調された写真が特徴的に多いと感じる。
たとえば今、街中で「喧嘩」があったとして、とっさにそのイメージは、「おっさんとおっさんがサシで殴り合っている」という絵面では浮かばないのではなかろうか? 「街中で喧嘩」というと、団体と団体が殴り合って喧嘩しているというイメージが湧く、それぐらいなぜか現代では「団体性」が前面に押し出されている。

独りで歩け。

近所の公園では、子供たちでさえ、何か「友達と遊んでいる」というよりは、「団体で遊んでいる」という感触がある/夏休みに子供が一人で虫取り網を持って歩いているという絵面が、このところイメージされないのだ(単に防犯の側面もあるだろうが)。
単にモバイルフォンとSNSのアカウントを持つと、人は単独性を喪失するということなのだろうか/僕はこれまですべての街を一人で歩いてきたし、そうすることを愛してきたので、独りで歩くことをおすすめしておきたい(ただし防犯にかなう程度でね)。

視点変えてこ | comments(0) |
情報音量による難聴の中で

世の人間は新聞を読むことがなかっただろう。
江戸時代の庶民はまだ字が読めなかったそうなので、立て札を読めるのは通りすがりの坊さんや侍だけだっただろう。
それどころか、伊能忠敬が日本地図を作るまで、日本人は自分がどんな場所に住んでいるのかも知らなかったはずだ。
中世の人間は、朝起きたとき、その「時刻」もわからず(時計がない)、「場所」もわからず、何の「ニュース」もなかったはずだ、情報は別次元に少なかったと言える。

それに比べれば、現代の情報量はいかに膨大なものか、それはいっそ「過酷」と言ってよいほどの情報量だ。
最近は、人々の新聞離れが言われるが、逆に言うと、現代の十代ほどニューストピックを毎日確認している世代はこれまでになかったはずだ。
もしこの情報に「音量」があったとしたら、膨大な音量に鼓膜は傷み、難聴になっていただろう。
この情報音量による難聴の中で、「自分の生きること」なんて見えなくなるに決まっている、この情報量の中で集中力を保てというのはいくらなんでも酷だ。

古代や中世のように生きろ。

あなたが生きるということの本質は、古代や中世と変わらない、中世より表面上の情報が増えただけで、中世よりあなたの肝臓や腎臓が増えたということではないし、アップル社製に進化したということでもない。
あなたの心臓や脾臓が中世と変わらずあるように、あなたの見上げる夜空も中世のころと変わりはない、あなたが古代や中世のように生きていくことは何もおかしなことではない、現代情報が消失してもあなたは消失しない。

視点変えてこ | comments(0) |
何もない日のすばらしさ

「今日もまた、何もなかった」ということは、何か悪いことのように聞こえる。
が、本来「何もなかった」というのはよろこばしいことだ。
問題は、「何もない」がイコール「さびしい」になっている場合だ。
本来、さびしくなければ、「何もない一日だった」ということはイコール「満たされた一日だった」になるものだ。

ふだん勉強しない人が勉強をすると、その日は「勉強をした」と思うだろう。
ふだん笑わない人が大笑いすると、その日は「たくさん笑った」と思うかもしれない。
ふだんお酒を飲まない人が酔っ払うと、その日は「お酒を飲んだ」と思うだろうし、ふだんお酒ばかり飲む人がめずらしく飲まないと、その日は「節制した」と思うだろう。
その逆、「何もない一日」こそ、すばらしい一日だ、そういう日がずっと続けばいいのにと願っている。

満たされたコップは、静かだ。

めずらしいことをテンコモリにしたり、さわがしいものをテンコモリにしたとしても、それは満足とは違う、さびしさがごまかされるだけだ/もしテンコモリ思想にとらわれるなら、そこは考え方を変えたほうが素敵だ。
何かある人生が「満たされる」というわけではなく、満たされるということは「何もない」ということだ、何もないままみんなで出かけて、何もないまま帰ってくるのが一番しあわせじゃないか、それが最高のぜいたくだ。

視点変えてこ | comments(0) |
エリ・オジルビア、これは暴力ではない

一人、何一つ、間違っていないが、もし何かの「世界」を体験したいということなら、すべて間違っているかもしれない。
ダンスが得意で、笑顔の商材写真が印象的な、実はアニメオタクでもあるエリ・オジルビアさん(36)の、ダンスとトークと酒をたくさん共にしても、そこに何かの「世界」が体験されてくるということはきっとないからだ。
もし、それを間違っていると言ってしまえば、それはもう、眼差しから表情から、声も考え方も言葉遣いも発想も、胴体から全身の使い方も全部間違っていると言わざるをえなくなってしまう。
あなたは僕よりエリ・オジルビアさん(36)のほうが好きだろうが、問題は、僕よりエリ・オジルビアさん(36)のほうが本当に「やさしい」と感じられるかどうかだ、あなたの「好き」にはいつの間にか、本質的にはやさしくない人が紛れ込んでいる。

うーむ、何もかもが間違っている(か、もしくは僕の何もかもが間違っている)。
それにしても、あなたが「友好」を得られるのはエリ・オジルビアさん(36)のほうだ、何しろエリ・オジルビアさん(36)には、あなたを蹴っ飛ばしてでもあなたに伝えようとする何かはない。
僕はつい、あなたを蹴っ飛ばしてでも、あなたに伝えようとする何かを持ってしまう、「何もかも間違ってんだよ」と蹴っ飛ばされたら、さすがにそんなもん「友好」とはいかない。
「何もかも間違ってんだよ」と蹴っ飛ばされて、何か正しいものが得られりゃまだしも、それで得られるというわけでもないのだ、だからエリ・オジルビアさん(36)のほうが「はるかにいい」と一般的にはなる、あげくに僕はそれを「まあそれでいいか」と思っているのだから救いがない。

僕は自分を「ろくでもない」と思っており、僕自身を蹴っ飛ばされることに違和感がないので。

単に僕の育ちが悪いからなのか? 僕は「おもんない」とか「気ィ悪い」とか「できてへん」とかいうときには、蹴っ飛ばされるのが当たり前だと思ってきたし、今もその感覚でいる。
僕が後輩やガールフレンドを蹴っ飛ばすところを見たら、エリ・オジルビアさん(36)はびっくりして眉をひそめるだろうな、でも蹴っ飛ばされて笑い合えるぐらいの度量を持ってほしい、エリ・オジルビア、こんなもん戦争の何億分の一だよ。

視点変えてこ | comments(0) |
妖怪ウォッチ以降の子供
隣の子供が公園で「奇声」を発しているように聞こえるが、あれは「子供が元気」ということなのだろうか。
正直なところ、僕にはあれが「奇声」にしか聞こえていなくて、率直に申し上げれば僕はいつもあの奇声に閉口している。
僕自身も子供のころはああして奇声を発して育ったのだろうか? その記憶はないが、実際にどうだったのかはわからない。
あれは単に子供が元気ということで、僕の聞き取りと受け取りの感性がおかしいのか? それならいいのだが、そのあたりのことはけっきょくよくわからない。

子供のころ、友人の名前を「まっちゃん」「うっちゃん」「つっちゃん」「こったん」等、呼びやすいように呼んでいた記憶がある。
「あさひな」だったり「まきの」だったり、大声で友人の名前を呼んでいた記憶が当然ある/昔はインターホンさえなかったので、家の外から友人をナマ声で呼ぶものだった、「○○くーん、あーそーぼー」というやつ。
が、どうも、このところ耳にする子供たちの奇声の中に、そうして誰か人の名前を呼んでいる音声が見当たらない/犬の名前を呼んでいる音声もあまり耳にしない。
もしも本当に、名が呼ばれることも与えられず、奇声を発しているだけだったら、それは「獣」だ、あくまで「もしも」の話だが。

白黒映像の中の子供らは、奇声を発しているようには見えない。

youtubeで、1970年の万博に子供らが遊んでいる映像を見つけることができたが、やはり奇声は見当たらない、そして子供らがそろって「はーい!」と答えるときの声が強烈だ。→動画が残っていたらこちら
何かが違うということだけ明らかで、どうしたらいい、ということはないと思うが、さしあたり奇声を発するのをやめればよいのではなかろうか/ただし「奇声を発しちゃいけません!」ってママや教師が奇声を発したら本末転倒だ。
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事情に力はない
それぞれに事情があるが、事情には何の力もない。
たとえば、蕎麦アレルギーの人は蕎麦を食べられないが、それを元にして何かエネルギーやideaが出る、ということはない。
蕎麦アレルギーであろうがなかろうが、エネルギーやideaが出るのはただ「何を食うか」のほうだ、事情のほうには何の力もない。
自己事情に詳しくて、熱烈な思いを持つ、自己事情オタクというような人もあるが、そういう人は何かというと、何の力もない自分が大好きなので、それはそれでしょうがないのだ。

誰でも学業があったり生業があったり、ワークやセックスや恋あいがあったりする。
が、思いがけず、学業と生業の「事情」、ワークとセックスと恋あいの「事情」という、自己事情のことしか頭にない人が少なからずある。
事情には力がないのだ、そんな力のないもの、および公益性もないものを、人前に放り出さないこと、そのことを一般的に「マナー」という。
単に恋人がほしい人と、「事情があって」恋人がほしい人は、まったく別だ、事情があって○○がほしいという人は基本的に不気味で恐怖でしかない。

事情を増やしたら未来が減る。

たとえばこの季節、就職活動中の人がいると思うが、事情から就職活動していたなら、実に未来がないという実感が自分自身にあるはずだ、そんなことをしていると人はたちまち荒廃する。
事情というのは、基本的に自分限りのことなので、自分が「まあいいか」と思えたら事情は雲散霧消する、この宇宙で「あなたの事情」を気にかけているのは、疑いなくあなた一人だけなのであった/あなたがしんどいというのはあなたの事情だ。
視点変えてこ | comments(0) |
STRAIGHT OUT OF HELL
学の類にはまったく詳しくないのだが、いわゆる「地獄(hell)」も神の創ったものなのだろうか。
「地獄」を創ったのは悪魔? 神? そのあたり、単純な知識がない、誰か詳しい人がいたら教えてください。
聖書世界の捉え方では、全知全能の神が創造主なのだから、地獄もその創造主によって創られたものなんじゃないのと、僕はテキトーに思っているのだが……
自分で勉強しろよという話だが、面倒くさいのだ、まあとりあえず僕は勝手に、地獄もカミサマの創ったものだと思い込んでいる。

地獄もカミサマの創ったものだったとしたらだ。
カミサマの世界を体験しようというときに、天国だけ体験しようとするのは虫が好すぎると思うのだ。
カミサマを肯定しようとするとき、カミサマの創った天国および地獄の両方を肯定しないと筋道が成り立たなくなる。
そして思想はいかにも、ヘヴィ・メタルの局面へ流れ込んでゆくのだった……なんだこのまったく役に立たない話は、つまりヘヴィ・メタルってやっぱり何かあるよねと言いたい。

芸術は、天国もしくは地獄からの、「産地直送」。

人間ごときに芸術が創れるわけがないので、そこは天国や地獄の生産性を借りるしかないのだ、そりゃ土や水を借りずに農作ができる人間はいないのと同じだ。
僕はカミサマになんか会ったことはないし、見たこともないが、天国や地獄の生産性を認めないわけにはいかないので、そこに生産性があるということは、カミサマ的なものはあるのだろうと、やはり認めざるを得ないのだった。
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自己愛の問題は解決しない
己愛の問題は解決しない。
自己愛とは何か、ということに知能を使う必要はない、そんな疲労は負わなくていい。
ただ、自己愛の問題は解決しない、ということだけ言葉どおり覚えておけばいい。
ややゾッとするが、ゾッとしたって解決するわけではないので、あまり難しく考えず知っておくだけでいい、「自己愛の問題は解決しない」。

もちろん、そんなことは根本的には間違っているのだ。
間違っているのだが、そうとわかってはいても解決しないのがミエミエなので、解決しないものだと腹に据える度量のほうが今は必要だ。
「自己愛を超克した人々の邂逅にこそ希望がある」と言い得るのはもちろんだが、たぶん今、相当な気合いを入れなおさないと、「自己愛」とは何で「希望」とは何か、ということが見えてこないはずだ、見えてこないものを取り戻すには相当な負担が掛かりストレスになってしまう。
それぐらい今、知性という機能は破損しているのだが、今は「それがどうしたのよ」と肝を太くしていないといけない、今知性が破損しているという状態は何も恥ずべきような状態じゃない。

自己愛の問題を解決しようなどとしたら、パニックに襲われるだけだ。

今はそういった、知的にタフな活動ができる状態ではないのだ、かといってこの先に好転する予定があるわけでもないが、そういったことも含めて「それがどうしたのよ」と肝を太くしていくしかない。
取り乱すと、人は何も見えなくなってしまい、何も見えないまま努力することは人を不幸に近づけてしまう、それよりはひとまずあっけらかんとして、そうしたら何か見えてくることがあるかもしれない。
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明るく生きるための秘訣
念ながら時代は変わってしまった。
旧来、価値があるとされてきたものは、もう期待するべきではないのだ。
そんなことはさておき、明るく生きるための秘訣がいる。
秘訣は、今日のことをあまり重く考えないことだと思う、今日がどうであっても明日が変わってしまうわけではない。

今、考えられるべき主題は、「どう生きるか」ではなく「どう死なないか」に切り替わっている。
「どう死なないか」、つまり、別に今日死ぬわけではないのでまあいいだろうという精神だ。
それによってまず、明るくあれることが先決だ、暗くなってしまったらもうまともな思考回路もはたらかない。
思考放棄を意図的に選択するのだ、今日は考えない、明日どうするかは知らない、それはたぶん間違っているのだが、この間違いを今日修正する必要はないのだ。

「今日何もなかった」ということはすばらしいことだ。

旧来、「今日何もなかった」ということはサイアクのことだったのだが、そういう時代は過ぎたのだ、今は「何もなかった」ということはすばらしいということに切り替わっている、なぜなら「何もない」ということは「死なない」ということに最も好都合だからだ。
もし不愉快や不都合なことが起こったとしても、「何もない」と、さしあたりそう思うしかない、そう思考放棄することは今、未来に向けて取りうる最も明るい手段だと言わなくてはならない、「何もない」ということを怖がる必要はない。
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ヒサンな待遇を受けている人が、自分の待遇改善にマックスフルパワーが止まらなくなるということ
ーパーマルチ言い訳マシンになるのをやめよう。
自分から誰かへ愛のアタックをかけていないのは明らかだ。
ホントーに「自分の待遇改善」のことしか考えなくなっているし、ホントーにそのことにしか努力する気なくなっているだろ?
おおっと、ここでスーパーマルチ言い訳システムの発動は禁止だ、だって「マジにそう」なんだからしょうがないじゃん、マジに自分の待遇にしかキョーミないんだから今さら言い訳なんかしなくていいじゃん。

自分の待遇改善にしかキョーミが持てないということは、つまり、えー……、まずそれだけヒサンな境遇にいるということなのだろう、誰も自分によくしてくれず、ヒサンな待遇の中にいる、と。
そういうことは、すごくよくわかる、なぜなら僕も、そういうヒサンな境遇でヒサンな待遇を受けている奴をたくさん見てきたからだ。
一方僕自身は、なぜかこれまでに、自分の境遇や、地位や待遇ということに、そもそもキョーミを持ったことがなかった、「待遇」という概念を忘れてしまっていたほどだ、なぜか一度も考えたことがない。
まあなんであれ、実際のところ、自分の待遇改善にだけマックスフルパワーが止まりませんという状態で、その無節操さについてはスーパーマルチ言い訳システムがバッチリはたらきますという状態では、それはたぶんあなたがかつて「こうなりたい」と思っていた自分の像とはまったく違うのだろう、少なくともおれのせいじゃねえ。

「自分の待遇改善にしかキョーミのない人」に、どういう待遇を与えるべきか。

もちろん、与える待遇は、下の下、つまり「ボッタクリの着色料でも食ってろ」ってあたりになるわなあ、僕はラブリーな女の子を膝に乗せてシーチキンごはんを食べていたいもの。
あなたは自他ともに認める「愛のアタックをかけまくりやがるすげえ人」では、ないのじゃないか、そのままハイクラス待遇を待ち続けるというのは、まるでマリアナ海溝の沈没船の中で市バスが来るのを待ち続けているような状態だと思うのだがどうか。
視点変えてこ | comments(0) |
デカいサイズ
ホみたいな話だが、割とデカいものが好きだ。
豪華客船とか恐竜とか。
スマートフォンは、手のひらサイズだからあまり好きではない。
なんというか、サイズの合っていない服を着ていると疲れる、みたいなことはあると思う、そりゃあるだろ。

だから僕は、何かにリアクションしたり、注目したりということが苦手だ。
デカいものが好き、というのではアホみたいだが、本当に好きなのでしょうがない。
あの梢にメジロが留まっているよ、というようなことが、割とどうでもいいのかもしれない(文学志望なのに)。
男が女に注目してエッサホイサするデートは害悪だと思っている、もっと砂漠とか大ホールとかに注目してデートしよう。

小さいと夢が死ぬ。

元々そうだったよなあ、と、完全に僕個人の思い入れのようなことを話すが、実際そんなものなのだ、凝った小皿とかに注目し始めると人は死ぬ(暴論)。
サイズの問題をこのところ忘れていた、落ち着くサイズって誰にでもあるものね。
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注目のない、ひたすらいい時間を
は女性に、怨まれたり好かれたりしているが……
こんなドサンピンに怨んだり好いたりする価値はさほどない。
価値がないか、もしくは、こんな図体のデカい奴にそういった感情はよくあてはまらないのだ。
僕は女の子が好きだが、それは好きに決まっているので、何なら会ったことのない女の子さえ大好きだ。

誰でも、いい時間を過ごせばいい。
いい時間というのはきっと、何にも注目しなくてすむという時間だろう。
豊かで、満ちて、夜景も森も潮の香りも押し寄せるようなら、何にも注目せずにすむし、立ち止まらなくてすむ。
図体のデカい僕は、情報なしに女の子が好きだし、誰かのことを軽蔑したりとか、そんなことができるほど脳が活発ではないので安心してくれ、何しろカレンダーの升目もよく見えていない。

注目は、するのもされるのも、たぶん地獄だ。

人気があればよいのであって、注目されるというのはたぶん地獄だ、母親が息子の小テストに注目することぐらい殺意の湧く地獄だ。
注目されたらうれしい、とあなたは思っているかもだけど、たぶんウソだよ、僕があなたに注目したら七分ぐらいで帰りたくなるよ。
視点変えてこ | comments(0) |
この世でもっともつまらない仕事
きな仕事をしたい、という欲求が誰にでもある。
これは正当な欲求で、大きな仕事はまるで本当の深呼吸みたいに気が晴れるものだ。
小さい仕事はどうしても息がつまるものだ、やだなあ。
大きな仕事ができるかどうかは誰にもわからないけれど、大きな仕事をする準備は誰だってしていたらよいと思う。

大きな仕事というと、自己顕示欲とか承認欲求とかの対象かもしれない。
でも、そんなものがどうでもよくなるからこそ、それは「大きな仕事」だ。
大きなベッドに寝転がりたい、というのは、理屈ではなく欲求だ。
大きなベッドや大きな仕事に乗っかる体勢になると、それ専用の身体になって、気が晴れるのだ、それはとっても落ち着くものなのだった。

大きな仕事に必要なのは、能力ではなく大きさ。

パワーショベルはデカいからパワーショベルなのであって、そのエンジン音は理屈でなく気が晴れるのだった。
そしてこの世でもっとも小さいのは「自分」だ、よって自分を解決するということほど小さくてつまらん仕事はこの世にない。
視点変えてこ | comments(0) |
六年後の文化
年前のあの日は、笑えないほど大惨事だった。
復興は続いているが、惨事は過去のことだから、あまりシリアスになる気にはなれない。
ああ、それにしても、「あんなことなければよかったのにな」と今でも思ってしまう。
あれだけの大惨事だと、何か得体のしれないショックがあって、あれ以来日本は単純にネクラになった、「まあそりゃそうだよな」と、あのときのことを思うと言わざるをえない。

悲しいなあ。
直接の被害者でないので、たいそうぶる権利は僕にはないけれども、正直今でも悲しいなあと感じている。
被災者ではないけれど、日本が暗くなったことについてぐらいは、僕にも悲しんでいい権利があるだろう。
明るいことが必要だが、明るいことを必要としているということそのものが、やはり根本的に悲しいのだった。

復興だけじゃ足りんのだろうね。

阪神淡路大震災のときのことを思い出す、僕は住み込みでボランティアをしていたが、物資や仮設住宅が用意されて「よかったですね」と言われたとき、「よくはないわな」と笑うおじさんの声をよく聴いた。
「元どおりに」という発想には、ネガティブなものを僕は感じる、あれは大きな体験だったのだから、あの体験が次の文化につながらないか、などと僕は個人的に考えてみる、傷口に切断されるのじゃなくてね。
視点変えてこ | comments(0) |
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