☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
レディーファーストで女性を地獄に落とすケースがある
は偉そうにするのが苦手だった。
しかしそのことが、むしろ人にマイナスを与えてしまったことを認めねばならない。
たとえば僕は、ほとんど常時レディーファーストを欠かさずにきたが、これまでの「結果」だけを見ると、僕がレディーファーストを貫いた女性を、僕は助けてやることができなかった。
事実だけ見ると確実にそうなっている、これはまずい、解決のための良いideaを創出せねばならない。

極端な言い方をすると、僕はレディーファーストで女性を地獄に落としてしまうことになる/さすがに地獄というのは誇張だが、わかりやすくいうとそれだ。
ヘンな言い方をするのを許してくれ、これはありったけの事実なのだ、結果的に、僕がサービスを尽くした女性は落下してしまい、僕にサービスを尽くした女性だけが生き残ってしまっている、本当に結果的にそうなのだから認めないわけにいかない。
僕はこれまで、「自分みたいなモンが」「おれみたいなモンが」という文脈を、大前提にして生きてきて、まともな女性のすべてを「おー、女神さま」と扱ってきたのだが、これがもうまずいようなのだ、これは逆に僕が女性を崖の端に追い詰めていることになる。
しょうもないフェミニズムに足を取られて、僕は余計なマイナスをしてしまったかもしれない、僕は女性の鋭敏な胴体が、本人も知らない次元で苦しんでのたうつのを見、あるいは本人も知らない次元で救われるという不思議なところを何度も見てきたのに。

この先、「僕自身の使い方」に、僕なりの最善を尽くすことに、なにとぞご了承を願いたい。

僕は、しょうもない安物の、下っ端の、アホなことばっかり得意にする、ちょこまか気を利かせて動き回るが、けっきょくは笑われ役になるという、古巣のところに帰りたくはあるのだ、でもそれは僕を落ち着かせたとしても、現況では女性を逆にわけのわからないところに突き落としてしまう/これまでの「結果」を真摯に引き受けないわけにはもういかない。
僕の好みとは離れて、僕は「僕自身」をどう使うかについて、学門的にベストを尽くさねばならないのだ、僕のことはクソ呼ばわりしてくれてもいいから、学門を甘くみないでくれ、ちゃんと結果で度肝を抜いてやるから。
視点変えてこ | comments(0) |
ドラクエ(初期)の勅命と、FF10の血縁と、モンハンの業務

「ドラクエ」(初期)というと、竜王や魔王を退治して、世界に平和を取り戻すゲーム、と思われている。
が、実は違う、ドラクエ(初期)においては、主人公は、竜王や魔王を「倒してこい」と、王から命令(勅命)を授かっているのだ、実はそのことが物語の根底を形作っている/王から勅命を授かることで「勇者」になっている。
これに比べると、たとえば「ファイナルファンタジー10」は、王からの勅命など拝していない、だから登場人物が「○○の娘」とか「○○の息子」というふうに、物語の形成に「血縁」を取り込むしかなくなる、そのせいでFF10は不要に「お涙頂戴」の風味が強くなってしまっている。
「モンスターハンター」の場合はどうだろうか? もちろん王の命令などないし、血縁も見当たらない、だからこれは「クエスト依頼」をこなすという、「業」の形になっている、命令がないので「命」はない、それでゲームタイトルも「ハンター」と職業名を冠しているのだ。

これ、ドラクエ(初期)とFF10とモンスターハンターとで、意外に有為な類型を見つけることができる、これらゲーム世界の変化は実世界の「時代」の変化を反映しているのだろう。
つまりあなたは、「命を帯びた勇者」がいいか、「血縁でお涙頂戴」がいいか、「業務、業務、業務!」がいいか、どれを選ぶかなという類型だ。
われわれの社会には「王」はいないので、何かしらの「ボス」に仕えるか、そうでなけれは自らが「天命」を授かるかだが、とにかく「命」を授かっているという物語はこんにちとても少なくなった。
「血縁でお涙頂戴」は、両親が巨大な人物だったらまだ値打ちがあるかもしれない、「業務、業務、業務!」というのも、花形の業務なら悪くないのだろうか、まあとにかく、あなたの生きる物語の選択にもこの類型がきっと含まれている。

実は、「思い」は物語を創らない。

もし「思い」が物語を創るなら、誰でも人生は物語テンコモリのはずだ、だが実際にはそうならないので「思い」はハズレだ、人を愛するのだって本当にそのときは天命じみた命を受けている感触があるものだし、天命の感触なしには「愛する」なんてやりようがない。
僕は、血縁のお涙頂戴を、「物語」と言い張るのは好きじゃないな、かといって「業務、業務、業務!」というのもそのまま老化して死にそうなので……僕はエツィオ・アウディトーレと共にアサシン教団から密命を受けているほうがいいなあ。

視点変えてこ | comments(0) |
カルマダンス
れわれの暮らしの周りに、「なぜこの人はこんなにイヤミなんだろう」とか「なぜこの人はこんなに自己中なんだろう」とか、不思議に思えるほどの人がいる。
異様に絡みづらかったり、異様に下心ばかりだったり、異様に見栄っ張りだったり、異様にむっつりしていたり、異様に目立ちたがりだったり、やたら乱暴だったり、せっかち、短気、嫉妬深い、恨みがましい、依存癖、説教癖……まあいくらでもある。
これは、何を意味しているかというと、あまり意味はないのだ、何をやっているかというと、自己のカルマが蓄積しすぎて発火してしまい、それで焼けただれてカルマダンスをしているだけなのだ、とっくに人のことなんか見えていない。
本当に、根こそぎ、何の意味もないのだ、たとえばやたらに人にイヤミを言う人がいたとしても、その人はいつ誰にどんなイヤミを言ったか、翌日には忘れているのだ、それぐらいカルマダンスのアッチッチに忙しいだけ、本当に何も見えていない。

性格がどうこうとかじゃないし、人格障害が治るとか治らんとか、そういうレベルのもんじゃない、どうせ収まりっこないので、放っておくしかない。
やたらにイヤミを言う人や、見栄を張る人、自慢話をする人は、本当に人のことなど見えていないので、何であればそのへんの松の木にでさえイヤミを言うし、見栄も張るし自慢話もする、これがマジなので相手にしていてもしょうがない。
カルマダンスなのだ、カルマダンスをするとどうなるかというと、カルマが増大するのだが(えっ)、そうとはわかっていてももう止まれないのだ、カルマダンスのファイヤーがボンバーになりエクスプロージョンになりカタストロフィになっていくが、まあ「しゃあないやん」、もう誰にも止めるすべはないのだ。
イヤミや見栄や自慢話や、嫉妬やうらみや依存癖、今日もカルマダンスで増大ボンバー、増大ということは明日は割り増しボンバーになるのだが、もうしょうがないのだ、この世はそんなにやさしくは出来ていない。

山火事に「なぜ山火事」と訊くなよ。

山火事が始まったら、燃え尽きるまで山火事で行くのだ、もっと早ければ緊急通報でなんとかできたかもしれないが、山火事ができあがったらもう無理だ、あとは消火活動をしている「ふり」しかできない、でもそれだってコストの無駄だ、対策は「ほっとけ」に尽きる。
本当に、この世はそんなにやさしくは出来ていないので、一番馬鹿らしいことは延焼をもらうことだ、山火事は山火事というだけで無意味に延焼をばらまく性(さが)があるので気をつけよう、自分の街が災害対策できているか試されるていどのことだし、山火事に慣れていたら街の防災能力は上がるよ。
視点変えてこ | comments(0) |
「のめりこむ」という現象
阪出張中、今日もヒマだった、今日は手工業というか手作業をする時間があったのだが、なぜかその最中も「ヒマだ」と感じる。
作業中、テレビをつけたのだが、ザッピングしているうち「科捜研の女」がやっていて、「お!」とザッピングの手が止まった。
生まれて初めて、テレビドラマでザッピングが止まった、けっきょくその後すぐにワイドショーに切り替えてしまったのだが……
生まれて初めて、テレビドラマを「観よう」とする自分を体験した、何を今さらと言われるかもしれないが、僕にとっては生まれて初めてだったのだ、どうも僕は、何十年間も人とズレて生きてきたのかもしれん/もちろんすでに、テレビドラマを観る気はゼロに戻っている。

何か新鮮だったのだ、あの感じ、何なんだろうね、何を思って「お!」と止まったのだろう、もうその瞬間のことは思い出せない。
どうも総括するに、僕が「面白い」と捉えるところと、一般に捉えられている「面白い」ということとが、まったく違うのじゃないかという気がする、何がどう違うのかはよくわからないので説明できないが、これっとぼちぼちまずいよね。
うーん、たとえば割とマンガは普通に読むタチなんだが、ひょっとすると、マンガの読み方にしても、何を「面白い」と見ているか、その実質が違ったりするのだろうか……僕はこの社会で為されている「消費」のほとんどがよくわかっていないのかもしれない(それはぼちぼち怖い話だ)。
今、じっくり考えているのだが、やっぱりよくわからない、あの「お!」と止まる感じ、テレビドラマを「観よう」とする自分のあの現象は、どういう現象なのかやっぱりよくわからないのだった。

芸術は、「のめりこむ」ということの反対にある。

ザッピングしているとき、「お!」となったあの感触は、ほんのわずか、「のめりこめるものを見つけた」という感触だったような気がする/僕は別にテレビドラマを否定しているのではなくて、これまで「のめりこむ」という現象を知らずにきたのだ。
「のめりこむ」という現象がわかれば、僕もちょっとはまともな小説が書けるだろうか、なんとかしてあの「あ!」と止まる感触を、自分の中で掴めないかなあ。
視点変えてこ | comments(0) |
不幸を回避するために

どい話をするので、ひどい話だと思って聞いてくれ。
女なら、男を助けなさいね。
なぜ、とか、何を時代錯誤なことを、とか、そういうことをいったん脇に置いて、ただ「うん」と。
真に受ける必要はない、ただ、いつかのときに「知っておく」という必要がある、女なら男を助けなさいね、それがいつか自分を救うから。

説明不可能なことを話しているから、説明はしない。
弱っている人を助けるとか、困っている人を助けるとか、そういうことはわかりやすいし、そういうこともとても大事だ。
けれども、伝承が途切れているところがある、強い人、上位の人を助けることはないのかという点、もしこちらにもきわめて重要なことがあったとしたら?
弱っている人を助けるとか、困っている人を助けるとかだけでは、自分が上位として「助ける」ことになるでしょう、それだと足りていないのです、それ以上の説明はしません、この先は「秘密」です。

ひどい話をしました、それは不幸を回避するためです。

女なら男を助けなさいね、これはちょっとイラッとくる、不快でムカつく話かもしれないけれど、それは意地と正しさの問題にすぎず、このことであなたが「不幸」になることはない、しかも何も気に入らない男をわざわざ選ぶ必要はないのだから。
男を助けたからといって、それであなたが幸福になるわけじゃないけれど、そうじゃない、「男の人を助けたことがあります」ということが大事なの、なぜ大事なのかは「秘密」なのでこの先は言えない、言えないし知る必要もない。

視点変えてこ | comments(0) |
謹慎的平和の求める代償
阪には特に、その「謹慎的平和」のムードがある。
これがお隣の、兵庫県、神戸市だとほとんどそういうムードはなくなる。
京都は詳しくないが、京都でも市街地のほうでは、謹慎的平和のムードはあまりないように思える/なぜなら神戸でも京都でも学生は有意義に見えるからだ。
「謹慎的平和」の中では、特に学門が忌避され、学門の徒が差別されるムードがある/あなたの街では大学生が学門で議論することに鷹揚なムードがあるだろうか。

「謹慎的平和」の世界においては、実は伝統的なものはあまりない。
何というか、「謹慎的平和」の世界においては、「地域的なものが好まれ、普遍的なものが嫌われる」という特徴があるので、伝統というよりは地域的なものが保存されるのみであり、学門のような普遍的なものは忌避ないし弾圧される。
ちなみに「謹慎的平和」の世界においては、バリバリ男尊女卑の風習が保存されており、いきいきとした女は一人としていない、親が娘の進路や結婚相手を勝手に決めることなど平気で今も横行している。
つまり「謹慎的平和」の世界は、右翼や左翼さえない幕藩制の封建主義が継続されているということだが、なぜこれが地域によっては何の疑問も持たれずに継続されているのか、その理由はまったくのナゾだ、「地域」っていったいどうやって形成されてんだ?

謹慎的平和は、平和だが、謹慎中なので、愛や自由は許されない。

「謹慎的平和」の世界は、愛と自由と学門を「禁忌」にしているのだが、なぜそれを「禁忌」にしているのか、その理由はまったくわからない、何か深いところの利権と関わりがある気がするが、そんなところを正直ほじくりかえす気にもなれない。
「謹慎的平和」は、邪悪なのだろうか? 邪悪という感じもあまりしない、ただ隠れキリシタンを弾圧することが「正義」とみなされるヤバいムードはある、なぜこれが「地域」という単位で生じるのかは今のところナゾだ。
視点変えてこ | comments(0) |
暗く分厚い天井の下で
阪出張の三日目だが、三日目にしてすでに、体調を崩しそうなほど「退屈」を極めている。
ここまで退屈になると、急に、ソーシャルゲームに課金する人や、パチンコに通う人、マンガ本を次々に手に取る人、の気持ちがわかるようになる。
あまりにヒマなのだ、そして、周囲には何のムードもなく、理解もなく、何をしても無駄という予感がひしめいている、この中でいわゆる一般的な「趣味」が求められるのだと思う。
環境に一種のムードがあって、このムードは、むしろ「すばらしいものはあってはならない」ということを強く命じている、理由はよくわからないが、「すばらしいもの」を否定しようとするムードに満ちているのだ。

「すばらしいものがない」ということが、むしろこのムードの住民にとっては、光でさえあるかのようだ。
「すばらしいもの」は当然、人をおびやかす力を持つから、それが憎らしいのだろう、よって「すばらしいものだけは禁忌」とするような逆転した合意のムードが環境にある。
そういえば確かに、一部の演歌等も、集団的に「すばらしいもの」を排除するように歌っているところがある、何かよくわからないが「つらい涙に濡れる義務」だけがあり、それに背反する「すばらしいもの」は村八分にするムードがどこまでもあるのだ。
別に誰かが根暗とか、悪意があるというわけでもない感じなのだが、その実「暗く分厚い天井」があって、その下で生きることだけを義務付けられているような感触がある、これもやはり、ひとつの「おびえ」の形態なのだろうか。

「すばらしくないものしか認められない」という世界がある。

きっと多くの人は、ソーシャルゲームに課金することや、パチンコで継続的に散財することや、マンガ本で部屋を埋め尽くしていくことを、自分で「すばらしい」とは思っていないのだろう、だがそれが「すばらしくない」からこそ、唯一認めてもらえるという状態があるのだ。
まるでありもしない罪を背負って全員が自粛か謹慎をしているようなムードだ、だが確かにこのムードの中で人々は対立もしないし闘争もしない、謹慎的平和と呼んでいいならそういう平和の力学が確かにある。
視点変えてこ | comments(0) |
撤廃された「○尊△卑」

、たとえば「男尊女卑」などというと、いかにも冗談に見えるし、さすがにこの冗談を真に受ける人はもういないだろう。
しかし一方で、「じゃあ何が尊で何が卑なの?」と問われると、どう答えていいのか、それもすでにわからなくなっている。
男尊女卑が消えたのではなくて、「○尊△卑」という一切が消えたのだ、何が尊ばれるでもなく、何が卑しまれることでもなくなった/それは一見、憲法的な平等と「みんな自分の勝手にしていい」という権利の実践に見えなくもなかった。
けれども、「命」においては? 命においては、何かしらの「○尊△卑」が見えているかもしれない/この常識と命が背反する中、われわれは常識において○に唾を吐き、△に微笑みかけることを日常的にし、そのせいで命のレベルでおびえきっているという状態にある。

何かしら、○尊△卑というのはあるのだ、常識的にはないが命としてはある。
常識的には、この資本主義の中、お金を出す側が「尊」で、お金をもらう側が「卑」ということになっている、このことは徹底的に訓練されているので多くの場合で成立している。
つまり、何が尊で何が卑か識らないが、カネさえ払えばいかなる尊の人も卑に扱うことができ、またいかなる卑の人も尊の人として認められる、という状況を社会的に作り出している、それが「命」を根こそぎおびえさせているのだ。
カネやその他の利益供与を受ける以外には、頭を下げられないという生きものに、本当になってしまった、そのことに命がおびえきっている、それはまるで、「踏み絵」を足ふきマットにして神棚にカネを祀る日々を何十年も続けてきたというような怯えだ/今この社会はわざとそのようにデザインされているほどにさえ見える。

膨大なカネにはいくらでもひれ伏すが、膨大な「何か」にはタメ口になった。

もちろんカネが悪いわけじゃない、カネだって宗教的には弁財天のものだろう、しかし今、一億円の札束を踏んだら「バチがあたるぞ」という宗教状態になり、それ以上に鮮明に考えられることは何もなくなった。
「○尊△卑」という一切が消え去ったことで、あなたはいついかなるときも卑しくなることはなくなり、目の前の誰も尊いという可能性はなくなった、だからそれ以外の振る舞いは生じようがないのだが/「命」がその常識に反しておびえている、「命」がしつこく「間違っているのです」と言い続けている。

視点変えてこ | comments(0) |
「中国人よりひどい」

ょっと調べたのだが、最近、ぼったくりバーならぬ、ぼったくり居酒屋が流行っているらしい。
昔、キャッチのお兄さんについていくと、ぼったくりに遭うのはたいてい女の子のいる店や、ヘンな雰囲気のバーだったのだが、最近では居酒屋バージョンが流行っているらしい、なんともアホくさい話だ。
しかもそういったチンケな商法が、大都市各地のど真ん中で堂々と行われているらしい、居酒屋でぼったくってもしょーもない金額にしかならないだろうに、これはもう中国人よりひどい。
あえて差別的な言い方をするが、もう日本人はかなりのていど「中国人よりひどい」、中国人よりひどいと言われたら腹が立つというほど、われわれ日本人は自己認識を膨張させたアホになっている。

すでに数年前、銘酒に詳しいバーテンダーさんたちが、多数中国に流出してしまっている(ある精鋭のバーテンダーさんから直接聞いた)、なにしろ向こうで稼げる額があまりに違うらしいのだ、残念だが本来はそういったことが「ニュース」だと思う。
われわれはこれまで、日本の街中にフィリピンパブやチャイナエステがあることにまったく無頓着できたが、日本が凋落したら今度は日本人の番だ、中国の街中にジャパニーズパブができるということになる。
日本の女が外国の男に奉仕して食われて、日本の男は屈辱の中でションボリしながら、出稼ぎでその国の男に労働者としてコキ使われて早死にしていくということだが、こんな当たり前のことにショックを受けていたら、もう三十年さかのぼって「国際化の資格がない」と言われねばならない。
本当に日本の職人は外国の職人より技術が高くて、日本の学生は外国の学生より学力が高いのだろうか、本当に日本人は外国の人よりマナーがよくて、働けば外国の人より勤勉なのだろうか、もうじき平成の世も終わろうとしている。

外国の方、日本ではキャッチに気をつけて。

と、何であれば旅行ガイドブックに書かれねばならないくらい、日本の文化品位は低下している、この先の東京オリンピックで、外国人を狙ったスリ・ひったくり・詐欺・強盗が多発するという可能性はすでに有為にある。
知人のファッションモデルの人が、先日ブラジル人の男性にナンパされたそうだが、「日本の男性より外国の方のほうがよほどまともよ?」と言っていた/この先われわれの信じていた「日本」が残るか消えるかは、本当に五分五分だと思う。

視点変えてこ | comments(0) |
われわれトヨタ、ニンテンドー

民党が圧勝した。
小池百合子氏への脚光から引き起こされた一連の盛り上がりは、結果的に竜頭蛇尾に終わった。
ところで民進党ってどこいったの、もう解散したのかね? よく知らない、あと維新党はすっかり、共産党と同じぐらいの存在感になってしまった、これは露骨に凋落というべきだろう。
立憲民主党は、古い酒を新しい革袋に詰めただけだから、残存するだろうが、希望の党はこのまま自然消滅するのじゃないか、初陣がこれではな/けっきょくナントカ学園等で自民党を粘着攻撃していた戦法も含め、野党の攻勢はことごとく失策に終わったと見える、しかし野党は反省しないだろうから、この先はまたこの選挙がなかったかのようなムードで続いていくだろう。

改憲派の議席が増えたので、憲法改正がいよいよ発議されるかもしれない。
与党は憲法改正を目玉商品に数えている様子だが、憲法改正は国民投票もあるし、正直なところ憲法改正については、「要らんこと」に思えてならない、あくまで個人的な思議ではあるが(憲法改正というより憲法更改と呼ぶべき欺瞞があると思う)。
憲法は、国家構造の中枢なので、そこをいじくることは大きなインパクトをもたらすが、それが現在の日本の生産性低迷にクリティカルな作用をおよぼすとはまるで思えない/「大ニュース」にはなるだろうが、「大効果」は得られようがないだろう。
シャープに続いて東芝が凋落し、神戸製鋼の大不正が発覚し、日産の工場が止まり、日立の電車は海外の納入先で技術トラブルを起こしている、われわれはもはやトヨタに縋るしかなく、ものづくりをこっそり引退して観光立国を思いつくあたりは苦肉の策としか言えないところだが、その上でさらに旧共産圏と揉めながらこの先をゆかねばならないのだ/改憲発議を担当した議員はウキウキになるだろうが、少子化対策を担当した議員は逃げ口上だけの毎日に憂鬱になっていくだろう。

「国内」だけで戦っているのは、今や政治家だけだ。

外国の人は当然日本の選挙権を持っていないので、政治家は外国の人に一ミリも興味を向けなくて済む、しかしたとえばニンテンドーは違う、世界のどこよりも優れて面白いものを安く作らないと、消費者に「選んで」もらえない。
明治維新以来、つまり鎖国をやめて以来、日本は自由化した経済の中で世界と生産を競っているだけなのだが、政治家は「あくまで国内の人にだけ選んでもらう」という選挙の仕組み上、国内の感覚しか持たないだろう、よって政治家はわれわれの「指針」にはならない、政治家は構造上、今も「民主主義的江戸時代」の中にいるのだ(票にはならんが海外で遊説とかしてみたらいいのに)。

視点変えてこ | comments(0) |
二次元の世界へようこそ

ニメオタクさんが、よく「二次元の世界に行きたい」と言うけれど……
何を誤解している、この世界が二次元だ。
われわれは、三次元を錯覚させられている二次元アニメの登場人物たちである。
今さら「二次元の世界に行きたい」などと、やけに出遅れているじゃないか、われわれはとっくにアニメ世界の中にいる。

ダサいキャラや、鬱パートを担当するのはやめよう。
アニメにも、そういうキャラや、そういうシーンはあるけれどね、わざわざ志願してやるものじゃない。
お望みの二次元世界の居心地はどうだい、わりと普通だろ?
キャラが立っていないアニメはクソアニメだし、本筋のないアニメもやはりクソアニメなので、キャラも本筋もばりばり行きましょうぞ。

三次元なんて存在していない。

われわれはこの二次元アニメの世界に入ったっきりだ、われわれはこの作中で、世界を三次元でリアルなものだと錯覚しているあわれな登場人物たちだ。
ファンがつくといいな、せっかくのアニメキャラクターなら、人気投票に食い込むほどでありたい。

視点変えてこ | comments(0) |
僕の楽しさていど

しい状況があるが、その中でも、光の差すことがあるとすれば、ひょっとして僕は、他の人よりケタ外れに楽しい中を生きてきた&生きているのかもしれない。
「そのとおり」と強く言われることもあるし、「いいかげん自覚しろよ」と嘆息されることもあるのだが、こればっかりはよくわからないのだ、僕は他人がどのていど楽しく生きているのかなんて知りようがないし、そんなプライバシーに邪推もしたくない。
僕にはけっきょく他人のことはわからないので……少なくとも自分のこととして言えるのは、僕は生まれてこの方、楽しいふりをしたとか、楽しいつもりになったとか、そういう自分ダマシはしたことがないということ、これだけは絶対に確言できる。
なぜ確言できるかというと、僕は自分で自分をだませるほどの、気力と努力のキャパシティがなかったからだ、自分を偽らなかったということではなく、単にそのことが不能だったと言える、不能ならそりゃその要素はゼロに決まっているわな、ということでそのことだけが確言できる。

厳しい状況の中、光の差すことがあるとすれば、少なくとも僕は、僕の楽しさていどの楽しさなら、包み隠さずお話しできますよということ、こんなもんが足しになるのかどうかわからんが、僕にとってはそれぐらいしか話せることがないのだからしょうがない。
僕は、他人と他人が楽しそう&充実のふりをしていると、完全にコロッとだまされるので、ここ数十年、ずっと誤解の中にいた、僕は本当に楽しいときしか楽しいそぶりを出せない残念な人だからしょうがないのだと大目に見てくれ、人付き合いの能力がないカワイソーな人ということでいい。
今でもコロッとだまされるけどね……僕は、僕に向けてくれたお愛想にだまされることはまったくないが、他人と他人がやっているお愛想にはコロッとだまされる、それは基本的に他人のすることに無関心&不干渉というワガママな本性が露出していると言えよう。
僕は「僕の楽しさていど」についてのみお話しできると思うが、僕が確言できるのは、僕はこれまで「楽しいこと」を求めたことなんか一度もないということ、そして、僕自身に何かを足したことが一度もないということ、確言できるのはたぶんそれぐらいだ。

僕はそもそもスタートしていない。

この言い方で何か伝わるだろうか? 僕はそもそもスタートしていない、だって「スタート」したって何も変わりゃしないからだ、スタートするからゴールへ走らされるのであって、スタートしなけりゃそもそもゴールも生じ得ない、そういったスタート&ゴールのことは、正直「ヨソでやってくれ」とはるか昔から思っている/なんでヨソに合図されておれがスタートせにゃならんのか。
スタートしたら二歩ぐらいでくたびれるだろ……自前でスタートなんかしなくても、ずーっと常に、何か始まってませんか? 始まりもなければ終わりもない何かの中にわれわれはずっといませんか? その「何か」と、おそらく数十年、つながったまま来てしまった、僕の楽しさていどというとずっとそれだ、それ以外のことがあるなんて知ったのはごく最近だ。

視点変えてこ | comments(0) |
本当に楽しいことが何一つない

れわれは、生後6ヶ月まではインチキなしだが、生後11ヶ月にもなると、けっこうインチキをてんこもりにしているものだ。
これは割とマジであって、ウソではない、人間はハイハイをし出して、つかまり立ちをし、言葉らしきものをしゃべりだすと、もうダメなのだ、そこからは「クソガキ」になるのである。
インチキ、つまり、自己演出や、自己顕示、自己陶酔、自己欺瞞などをやりだすわけだが、これはもう生後11ヶ月にはけっこう根付いている、だからわれわれが「昔はわたしも〜」「ちっちゃいころかわいくて〜」とか言っているのは基本的にゴミである(口が悪いが許せ)。
われわれはふつう、そうしてインチキテンコモリの生きものなのだ、インチキテンコモリだから、生きているうち<<本当に楽しいことが何一つない>>、時代が進めば進むほどこのことは加速していく。

本当に楽しいことが何一つなかったとしたら、どうする? 誰でもご存じのように、何かしら娯楽や、愉悦物を取り込み、刺激に浸って恍惚状態になろうとする。
重要な視点は、そうした娯楽と愉悦と刺激と恍惚は、<<本当に楽しいことが何一つないから>>、慰めとしてしょうがなくむさぼられているということだ、本当には楽しいことが何一つないから、とっても楽しいことがあるつもりになりきろうと自己洗脳しているということ、ここを見誤ると軌道修正が利かない。
このところ、やたら笑顔がごり押しされたり、やたら充実風味がごり押しされたり、やたら液晶画面がビカビカ光ったり、やたらキメゼリフやキメ顔が連発されたり、やたら派手な名前がキラキラアピールされたりするのは、全部このせいだ、本当に楽しいことが何一つないので、刺激で覆い尽くして楽しいふりで強引に押し切ろうとしているのだ、しかしさすがにそんなことは無理がすぎるに決まっている。
正当な論理で、正しい認識にたどり着かねばならない、まずわれわれは、生後6ヶ月まではインチキがない、その後はインチキがテンコモリだが、インチキがテンコモリになったせいで、本当に楽しいことが何一つなくなった、つまり本当に楽しいことは生後6ヶ月までと現在にしかないということだ、ただしその意味での「現在」を所有している人はきわめて希(まれ)だ。

クソガキが奇声を発するのは、楽しいからではなくて、楽しいことがないからだ。

クソガキもそうだし、われわれもそうだ、本当に楽しいことが何一つないというのは、とても苦しいことなのだ、それでその苦しさを忘れるために、何かに酔おうとして、奇声を発さざるを得なくなっている/われわれもそうだ、そもそもわれわれがクソガキじゃないなんて誰も認めてはくれない。
繰り返し、原理原則をお忘れなきよう、「本当に楽しいことが何一つないというのは、とても苦しいこと」であって、「それをごまかそうと奇態を示すが、キリがない」、「本当に楽しいことが何一つないのは、われわれがもともとインチキテンコモリの生きものだから」だった、「ただし生後6ヶ月まではそうではなかった」ということ。

視点変えてこ | comments(0) |
元に戻れ

は、健全な状態なら、誰しも「新しいこと」「新しい自分」に挑戦しようと思っている。
けれども、この「新しいこと」「新しい自分」への挑戦、そのアプローチは、どういう仕組みで成り立つものであり、どういう心構えで挑まれるべきものか、ということはあまり言われないでいる。
「新しいこと」「新しい自分」といっても……それは「新しい」のだから、現在の自分にとっては未知であり、現在の自分には「わからない」はずだ、この「わからないこと」をやらされるとストレスが溜まる(かといって、すでにわかっていることをやっていてもしょーがない)。
どうすればよいのか? 僕は思いがけない視点を提出しておきたい/われわれは、本当にわからないことに取り組むことはできない、本当にわからないことに取り組もうとしても、それは時間と労力を浪費するだけだ、その浪費でストレスと徒労を憶えたら、あなたは健全さを失ってしまうだろう。

1.あなたが挑戦しようとする「新しいこと」「新しい自分」は、実は「本当には心当たりのあること」だ。
2.「本当には心当たりのあること」は、遠い昔に忘れてしまったことだ、その「遠い昔」は、最大で生後六ヶ月の時点まで遡(さかのぼ)る、これは「記憶にないレベルで、心当たりがあること」と捉えてよい。
3.「遠い昔」、つまり「あのとき」にあったはずのもの、それを取り戻すために、元の自分、原初の自分に回帰しようとするはたらきにおいて、あなたの「新しいこと」「新しい自分」への挑戦は発生している、だから「本当には心当たりのあること」にあなたは向かっている(記憶にはないので「新しいこと」と感じられる)。
4.だから「新しいこと」「新しい自分」といって、闇雲に突っ込まないこと、それが「わからない」まま突っ込むと、あなたは必ず<<自前でインチキなイメージを組み立ててしまう>>、だから未来のイメージを打ち立てないこと、元あったところに帰るということが、あなたの新しいことへの挑戦となる。

やり方は、回帰の中で見つかっていく。

われわれはかつて弱く……弱い代わりにインチキはしない存在だった、あれから時間が経ってわれわれは強くなったが、そのぶんインチキを豊富にする者になってしまった/われわれは生きていけるようになった代償に、時間をかけて、あの日見たものを取り戻さねばならない、今度は賢明な者として。
「新しいこと」「新しい自分」に挑戦するといって、自分を強くするほうへ駆け出さないこと/弱いままは生きられなかった自己欺瞞のツケを、現在になって償却してゆかねばならないのだ、それはけっきょく新しい技術やノウハウを付け足すようなことではまるでない。

視点変えてこ | comments(0) |
プラチナや ダイヤ嵌め込む セレブの音

[古池や]−[蛙(かわず)飛び込む]−[水の音]というのがあったとしよう。
この、美しいとされる芸術的俳句をパワーアップさせるなら、こうだ、「古池! 古い池!! ああ古いなあ! しかも池ですよ池! 池ってありますよね!」。
「蛙! 蛙飛び込むよ! 蛙飛び込むよねえ、蛙! ネイチャー!」「水の音! 水ですよ、水だから音しますよ、ポチャーン!!」。
ふる、いけ、やあああ、かわ、ず、とび、こむ、みず、の、おとっっっ!! ほらこうしたらパワーアップになるだろう、しかしこれを美しく芸術的と認めろというのにはいかにも無理があるのだった。

「古池」とか「蛙(かわず)」とか、そういう静止概念にこだわった瞬間、もう負けなのだ、静止概念というのはつまりイメージだ、詩文にわずかでもイメージを引き当てた瞬間、もうそいつの負けである、人間的敗北といってよい。
本当に尊ばれるべきは、[古池や]−[蛙(かわず)飛び込む]−[水の音]というのがあったとして、そのあいだに揺蕩っているハイフンのほうなのだ、このハイフン部分「だけ」が直接見えるようにならなきゃ話にならない。
ハイフン部分を何と呼べばいいか? そんなの何もむつかしくない、呼ぶとしたら「つながり」だ、そりゃ見たまんまそうだろ、ハイフンは左右の句の「つながり」ということで当たり前だ、こんなことがわからんヤツはいない。
僕とあなたがあったとして、あなたがあなたに注目し、あるいは僕に注目して「九折さんは……」という、そのパターンに疲れ果てるのである、なんで「つながり」に直接触れられねえんだ、おれはぜったい難しいことを言っていない!!

保証する、光っているのはハイフン部分だけだ。

そりゃそうだろ、オメエ、近所に古池があってバンザーイってなるかよ、またそこにカエルがいたとして「あ、カエルだ」としかならんだろ、まして水の音なんか毎日トイレで聞いているじゃないか、そんなどうでもいいものをピックアップして何がうれしいんだ。
[プラチナや]−[ダイヤ嵌め込む]−[セレブの音]、けっきょくこういう視点で、「プラチナ!」「ダイヤ!」「セレブ!」みたいなことにしか反応しなくなっているじゃないか、そんなのもうマトモな人間じゃないぞ、静止概念にこだわりズッキュゥゥゥンをやらかしている自分のアホぶりを反省するんだ、そこを反省しないと本当に「つながり」って見えてこないから。

視点変えてこ | comments(0) |
静止概念はただの罠
鼓を叩きゃ音が鳴るわな。
しかしアホだ、太鼓の「音」そのものが「いい」ということはありえない。
「音」は「音」だからな……その証拠に、いかなる名人の鼓(つづみ)にもミツバチが寄ってくるということはない。
センスがあるつもりで、音に「こだわる」人はアホである、見るところが違う、こんなしょーもない誤解で人はどれだけ時間を無駄にするのか。

幅跳び選手が幅跳びするわな……砂場にズサッと着地して、測定すると世界新記録で、電光板の表示と共に「ワー」と歓声があがる。
しかし、競技の本質は「幅跳び」であって、「幅着地」じゃない、「跳び」が優れていたのであって、「着地」が優れていたわけじゃない。
真の「幅跳び」を観るならば、踏切りと着地があったとして、踏切りにも着地にも用事は無いのだ、跳んでいる最中、その対空のあいだだけ彼は幅跳び選手である、着地した時点からもうどーでもよろしい。
A点とB点に「こだわる」のは、誰だってできる、そりゃ確認できるポイントだからな、だがA点とB点の「あいだ」という、確認はできないが実在するそれに、直接触れ続けたことはあるか。

静止概念にこだわるほどアホが増える。

静止概念に囚われると、人は「こだわり(拘り)」を生じるのだが、強く囚われると強くこだわることになり、強いこだわりはビッグパワーになる/パワーが掛かっているということは「動けない」ということだから、つまりこだわりビッグパワーで「超動けない状態」になる、これで「超動けない状態のままめっちゃ主張したくなる、『だってさあ!!』」、これもうホントにやめよう。
静止概念にこだわれば拘束されて動けなくなるのは見るからに明らかなのだが(だって「静止」概念なんだからさ)、ホントもうおそろしいよなあ、静止概念ビッグパワーは完全にただの「罠」だよ、飛行機を止めたら墜落するのが当たり前で、そんなことをしてポカーンと平気でいるのはやめよう!!
視点変えてこ | comments(0) |
完全燃焼は選ばれし者
きているうちに一度でも「完全燃焼」に至った人は別格だ。
人は「栄光」によって格差がつくのではなく、「完全燃焼」によって格差がつく。
ふつうわれわれは、「ヒートアップ」するばかりで、「完全燃焼」には至れない、われわれはふつう焼け付きを起こすことしかできず、完全にクリーンな光を放つ「完全燃焼」には至れないものだ。
「完全燃焼」に至ったとき、初めて余分のすべてが燃え尽き、人は最奥の信頼を得ることができる、そこまでいって初めて「その人」の本当の姿を見ることができるからだ、まあしかしそんなゼータクをわれわれ凡人が夢見るのは分不相応だと覚悟すべきではある。

いわゆる「選ばれし者」とは、まさにその「完全燃焼」に至れる人であって、単なる身分に気取っている人ではない。
だから、人は「選ばれし者」になんかなりたがらない、「完全燃焼」なんかさせられてはたまらないからだ、全エネルギーを一カ所に燃やし尽くせという話、それは癒やし文化の正反対だと言える。
「完全燃焼」に至った人は、自己説明や、いわゆる「人づきあい」のようなことをせずに済むようになる、なぜなら説明しなくても、その人の本当の姿がすでに露出しているからだ、説明しなくても「この人」というのがわかる。
「完全燃焼」……それは不可能を可能にする力だが、だからこそ人はそれを厭う、なぜなら人は、不可能に見えることをやらされるのが大キライだからだ。

越えられないものを越えて、止(と)められないものを止(と)める。

逆に、「越えられないものは越えられない(当たり前)」「止(と)められないものは止(と)められない(当たり前)」とするのが、癒やし文化だ、この文化の中で人々は話が合う。
不可能に見えることをやらされることほど、心理的に苦痛に感じられることは他にない、これに苦痛を感じない人は、不可能に見えるものを「不可能……?」と疑っているのだ、これでは人と話が合わないだろう。
視点変えてこ | comments(0) |
夢の中で動けるように訓練をする
の中で動けないと使えない。
夢の中で動けるように訓練をする。
夢の中でフワフワせず、夢の中で夢よりも静かに動く、しかもくっきりと早く動く。
そうしたら夢が続く、夢を壊さず、しかも夢に飲まれずに生きてゆける。

夢の中で動けるように訓練をする。
夢の中で話せるように訓練をする。
夢の中で察知できるように訓練をし、さらには、夢の中で戦えるほどに訓練をしてもよいかもしれない。
夢の中といって、眠っているときにそれをしろってんじゃないよ、起きているあいだも「夢」は続いている、夢の世界があるのじゃなくて、そもそも「世界」そのものが夢なのだから。

夢の中にしか値打ちはない。

そりゃそうだろ、どこの母親が、生後六ヶ月の赤子に、「あなたはスクワットをして大腿筋を鍛えるのよ」なんて話すんだ、人は夢の中を生き続けるに決まっている、そうでなきゃ人間らしくない。
夢の中で動けるように訓練をする、そうでなければ、あなたの何ひとつも人に夢心地を与えることがないだろう。
視点変えてこ | comments(0) |
遡る時計
二時、老いるというのはウソです、われわれは一週間後のセミを見て「老いている」とは感じません。
遡(さかのぼ)って十時、所有するというのはウソです、登記した土地や手に持ったペンを「所有している」と言い張る同士があるだけです。
遡って八時、ゲットするというのはウソです、食べた肉はアミノ酸になり細胞を増やすだけで「わたし」を増やしません。
遡って六時、傷ついたというのはウソです、記憶喪失になれば「傷」は具体に残っていません。

遡って四時、朱肉が赤いというのはウソです、視力がなければ赤色なんて見えません。
遡って二時、「この世界にわたしが生まれ落ちてきた」ということ、これをわれわれは未だ「ウソだ」と言えません。
我々は二時に生まれて、四時にはもうウソにだまされていた。
そのまま十時間が経って、「こうして老いて死んでいくんだよね」と最後のウソにまで行き着かされた。

生後六ヶ月まで、あなたはだまされていなかった。

遡っていくと、あなたは生後六ヶ月のところに行き着く、これほど確かなことがあるだろーか(当たり前すぎて笑える)。
ん? 生後六ヶ月のあなたと現在のあなたが、何か別の「わたし」だなどと言い張るつもりかね、そんなことはありえんよなあ。
視点変えてこ | comments(0) |
「人間のこころとは何か」
んだかんだ、パーティが楽しみだな……
明るい話にしなくてはならないし、大げさだが、人間のこころを取り戻さなくてはならない。
誰も人間のこころを失ったりしてないわい、と言いたくなるのも、重々わかるのだが、まあまあ。
「人間のこころとは何か」ということについて、誰だって思うところはあるだろうが、それについて入念に、十年がかりで再定義を得たなんてヘンタイはいるまい、僕は最短で美女の役に立ちたい。

たとえば僕は、小説を書いたり、こうしてブログを書いたり、とにかく文章を書いているが、実は人間世界に「文章を書いている人」などというものは存在しない。
これ、何を言っているかわからないと思うが、ここが現代社会の闇を直撃している部分なのだ。
あなたから見て僕は「九折さん」のはずだが、実は僕が文章を書くのをやめたとしても、あなたにから見て僕は「九折さん」のままなのだから、そこに「文章を書いている人」などというよくわからない存在はないのだ、虚妄だ。
たとえば僕が大工に転向したとしたら、僕は「大工をやっている人」になるのか、そんな「○○をやっている人」などという存在は虚妄だ、たとえばわれわれが「フィギュアの本田真凜ちゃん」などとうれしそうに呼んでいるのは、一人の人間を見られなくなっている、一種のビョーキなのだ。

この世に何かをしている人などいない。

「人間のこころとは何か」、その再定義は、「わたしとこいつ」によって得られる、そのとき目の前の「こいつ」に向けて、「何をしている人なんですか?」と視点変換が起こるのは、一人の人間を見られなくなっているビョーキだ、母が子に「この子は将来何をやらせようかしら」としか見られなくなるビョーキと同じだ、将来何になったってそいつはそいつでしかないのに。
一人の人間を見られなくなった代替に、われわれは偶像化視点(アイドル化して人を見ること)を用いている、つまり「文章を書いている人」も「フィギュアの本田真凜ちゃん」も「AKBの○○ちゃん」も全部同じなのだ/それは業者を指定するときの呼び方なのだが、この呼び方で友人関係を作ろうとするからごちゃごちゃになってしまう。
視点変えてこ | comments(0) |
<< | 2/21PAGES | >>