☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
かわいい女の子とインスタ女子
の子はかわいいのが一番いい。
かわいいというのはもちろん、インスタ写真に美肌フィルタをかけることを指してはいない。
かわいいというのは、どうしようもないものだ(説明になっていない)。
この、どうしようもない現象である「かわいい」を、どこかで諦めたときに、人はおかしくなってゆくのだと思う/僕はそうじゃない人のことがとても好きだ。

水道橋の、数百年続く料亭で、典型的な「インスタ女子」を見た、綺麗な身なりをした、美人といいうる、三十路手前の三人組だった。
自撮りのカメラを構えると、三人がサッと、びっくりするぐらいの集中力で表情を作る、それはいっそ鮮やかなほど手慣れた行為に見えた。
こうした女性たちは、何も異常ではなくて、まったく正常の限りだと思うのだが、それが正常であるが故に、その画像を頒布する意味はあまりないということになる。
もしこの世に「美」があるとすれば、「美」とは異常なものであって、尋常の周囲にはないから、写真や舞台に切り取られて頒布される必要が出てくるのであり、正常なものは正常であるがゆえにそのことには当たらないのだ(と、そんなことをマジメに考えるのもアレかもしれないが)。

かわいい女の子は、とてもふつうで、とても異常だ。

僕が目撃したステレオタイプのインスタ女子は、とてもふつうで、とてもふつうだった、そのことがいつも「もったいない」と僕は感じる/「異常なこと」に興味があるなら、共に異常なことへ踏み出そうよと、どうしても異常者たる僕は誘いたくなる。
かわいい女の子は、とてもふつうで、「お前は異常だなあ」と言うと「えっ?」と驚く、とてもかわいいのだが、本人は自分を「ふつう」だと思っているのだから、まあこんなものを好きにならないわけがないのだった。
 
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意味の自作2
とえばあなたは「クレッシェンド」という言葉の意味を知っている。
が、たぶん、そんなに「クレッシェンドした」ということはないだろう、特別に音楽でもやっていなければ。
クレッシェンドってたいてい、最後の二拍子ぐらいが盛り上がればそれで十分だけどね、それでこそ「これはクレッシェンドだねえ!!」という効果が生じる、そんなことを知る人はそんなに多くはあるまい。
にもかかわらず、「クレッシェンド」という言葉の意味を知らない人はほとんどいない/「知る人は少ないのに誰でも知っている」ということならば、われわれが知っている「言葉の意味」とは何なのであろうか。

「これはクレッシェンドだねえ!!」というやつを、目の前でやってみてくれ、あなたの知っている言葉「クレッシェンド」、それを「まさに!!」という具合に実演してくれ。
そう言われてみると、自信をもって「クレッシェンドはこうですよ」と実演できる人はそんなに多くはないはずだ。
あなたは「恋愛」という言葉、およびその意味もよく知っていると思うが、「これは恋愛だねえ!!」「まさに!!」ということを実現することについては、そんなに自信はないのではなかろうか。
あなたはこれまで、無数の音楽を耳にしてきたはずで、名だたる演奏家たちによる「クレッシェンド」の実演も、聞いてきているはずなんだ、にもかかわらず、自分で「こうだ!」と掴むまでは、何一つわかっていない、われわれは恋愛どころかクレッシェンドひとつさえモノにしないでいる。

100ページの恋愛から辞書は作れるが、100ページの辞書から恋愛は作れない。

恋愛の豊富な奴が辞書を作るのであって、辞書の豊富な奴が恋愛を作るのじゃない、われわれが参考書から数学の公理を参照するのはわれわれが数学を発見できないからであって、数学を発見できた奴は自分から本に公理を書いたのだ。
メンデルスゾーンの脳内で、まさに音楽が高波を生じた、それで彼が楽譜に「Crescendo」と書いたのであって/すべて言葉は体験の後にしか機能しない、先に意味を固定した者は思いがけない不幸に陥っている、何もかもヨソの意味をなぞっているだけという不幸に。
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意味の自作
「意味」をすでに知っている人とは、実は何も話すことがない。
話すことがない以上に、実は何かをやりとりすることさえない。
たとえば、もしあなたが「恋愛」という言葉の意味を知っていた場合、僕はあなたの持つ「恋愛」の意味をなぞるだけのロボットにならなくてはならない。
そうでない場合もあるのだけどね/もう時効だから言うが、むかし慶応の教室で、意味が成り立つ前に女の子の上半身を脱がせたことがあった、女の子は微笑んでいた、あれもちょうど秋口のことだった。

社会通念上で知られた「恋愛」(という言葉の意味)、十分に議論された「恋愛」、検討され定義された「恋愛」、価値観上で確かめられた「恋愛」、それをばっちりなぞれば「恋愛」が大成立……ということに本当になるだろうか。
僕はそういったものを、「恋愛ボンバー」と呼んでいる、既成の意味をなぞってバッチリ正しいが、なんのためにこんなことに血道を上げているのかというのが、気づくと本質的に馬鹿らしいものを○○ボンバーと呼ぶのだ。
僕があなたを、慶応の教室で脱がせたとしても、それはあなたにとって「恋愛」とは認められないのではなかろうか、明らかに社会通念上の「恋愛」という定義や意味からズレているからには。
「意味」をすでに知ってしまっている場合、たとえ「恋愛がうまくいかない」ということが立て続けに起こったとしても、そのうまくいかない恋愛をえんえん続けていくしかないということがある、それは仕事でも学門でも、家族でも友人でもそう。

あなたの「恋愛」に納得するのは、社会であってあなたではない。

なぜならその「恋愛」という言葉の意味は、社会通念上の意味であって、あなたによって見つけられた意味ではないからだ、そりゃ社会が納得して、あなたは納得しないに決まっている。
たとえば交通標識に、「これより先は駐車禁止」と書いてあったら、それは駐車禁止に決まっている、じゃあ「これより先は恋愛」と標識が立っていたら、それは恋愛に決まっている……のかというと、それはどうだろう、「恋愛に決まっているじゃない」ということなら、僕はその人と話すことがない。
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「敬う」という能力はどこから来るか

きているうち、何かひとつでも、本気になることがあるといい。
なぜかというと、何かひとつでも「本気」になったことがある人のみ、生涯にわたって何かを「敬う」という能力を宿すからだ。
人は、「必死」になることは案外できても、「本気」になるのは難しいのだ/誰だってかつては何かに必死になった時期があると思うが、必死というだけでは「敬う」という能力を得ない。
たとえばアイドルオタクは、推しのアイドルを追いかけるのに「必死」になるだろう、けれどもそれは、当人が「本気で生きている」とは言えない、単に必死になるというだけなら、多重債務者やギャンブル狂や麻薬中毒者だって必死なのだ、けれどもそれらはことごとく「本気」ということとは異なる。

たとえばあなたが、同じスポーツカーで、アイルトン・セナと競争したとする、あなたは絶対にアイルトン・セナに勝てないだろう。
しかしそのとき、あなたよりセナのほうが速かったからといって、あなたはセナを「敬う」ということはできない、なぜならあなたは本気でレースしているわけではないからだ/せいぜい、「すごーい」という感心程度に収まる。
そうではなくて、「本気」で行くのだ、ハンデをつけてもらってもいいから、「本気で走って恥かかせてやる」ぐらいのつもりで、疑いなし、全身全霊で走る/「この瞬間にレーサーになりゃいいんだろ」という決意が大事だ、度肝を抜いてやるつもりで本気でいく。
それでもなお、セナは余裕で、ハンデつきのあなたを抜き去っていくだろう、そのとき愕然とし、度肝を抜くつもりが逆に度肝を抜かれ、「んなアホな!!」と笑い転げたくなるほどの、実力についての圧倒的称賛が起こる、「お前マジか、何をどうしたらそんなに速くなるんだよ!!」という直接の驚きがあって、そのとき人は何の意図もなしに輝ける人を「敬って」いる、それは実によろこびに属することだ。

本気になると、まずは敗北が確定するが、代わりに「敬う」という能力がプレゼントされる。

これはいわばカミサマからプレゼントで、カミサマがあなたに、「あなたはこの世界にエントリーしています」と認めてくれたという証だ、このことが始まらないかぎり、実はこの世界で生きているのは何ひとつ楽しくない。
必死になるということはカンタンだ、しかし必死になるということはしばしば「本気」からの逃避でしかなく/「必死」になることにはスリルがない、「本気」というのは「現在の自分を否定して新しい自分に到達する」という変化のスリルに満ちている、体内にスリルのホルモンが駆け巡るのが「本気」だ、泣きながら暴れて駄々をこねる子供の「必死」はまったく本気の沙汰じゃない。

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万物がひとつに語りかけてくること

解されるからあまりこういう言い方はしたくないのだが……
万物が、つまり街や樹木や季節や空が、あるいは風や雲が、何かを語りかけてきているような気がする。
気がするというか、正直に言えば、はっきり聞こえてきている、それはインチキ神秘主義が言うようなものと違って、これという言葉上の意味を持たない。
万物が語りかけてきているので、僕はそれを聞き、正直に言うと、これまで人の話をほとんど何も聞かずにきた、世間で重要視されている(らしい)すべての話を聞き流してきて、実は今も聞き流しているのだ。

僕は人の話や世間の重要話を、バカにしているわけではない。
ただ、聞こえてこないのだ、入ってこないというか響いてこないというか、どちらかというと世間の話のほうがおとぎ話に聞こえる。
僕は夏から夏を聞くことはあっても、人から夏を聞くことはない、その意味で、人非人と言われたらそのとおりかもしれない。
僕にはむしろ、夏が人にものを言うのが聞こえて当然である一方、人が夏に物申すのは、非常に不遜な凶行に思えるのだ/たとえば「夏っていいですよね」というようなことを言われたとき、「お、おう」と僕はびっくりして、実は内臓を下から上にひっくり返している、なぜそんな反応になるのかは僕自身でもよくわからない。

正直、僕は毎日ドアの外に出るたび、多大に感動している。

なぜなら、そこには空があって街があって、風が吹いていて、雑踏や季節の匂いがあるからで、<<それらのすべてが何かを語りかけてきているものだから>>、僕はワーッとなって感動するのだ、それで僕はすべての道や曲がり角に夢中になって歩いている。
頭がおかしいのかもな/それで少なからざる人が、僕の頭をまともにしてあげたほうがいいとして、僕に「違うじゃない」と教育をほどこそうとしてきてくれた、僕はそれをすべて無碍にしてきたのだから、それは孤独な人非人かもしれない。

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「メス青年」の青年会2

かし、未だ問題は残っている、オスもメスも「青年」なのだが、ここでメス青年はこれまでになく「バトル」の気質を具えているメスだということが問題になってくる(あくまで惑星ソコビエの話)。
オス青年は、歴史的にも環境的にも機能的にも、まっとうにバトルをこなせる知恵と環境と能力を有しているのだが、メス青年は、未だバトルへの知恵が浅いし、環境も成熟していない、しかもそもそもの身体機能がバトルに向けて不利だ。
同じ「青年」であるのに、この不利さ、このハンディキャップは何なんだ、という理不尽さへの怒りがあって、今フェミニズムへの強い要請が起こっている。
今求められている強いフェミニズムは、女性性のマターではなくて、メス青年の「青年としての不利さ」へ手当てが必要だという、正当性の要求にすぎない/もちろんこれは惑星ソコビエの話だから、われわれは「ふーん」と聞き流していい。

こうして、メス青年へのフェミニズムが強く要請されている中、オス青年はアホだから、メス青年たちを見て「女性っぽくない」と言いだす、「なぜ女性でないメスに手当てをしなくてはならんの?」という誤った妄念から、強いミソジニー(女性嫌悪)が生成されていく。
そうではなくて、今求められているフェミニズムは、「ハンディキャップド青年に公平性の手当てを」ということなのだ、誰も女性性など俎上提起していない(ここではポリコレのことは忘れてもらって、わかりやすくハンディキャップドという)。
あくまで惑星ソコビエの話だが、今オス青年は、メス青年の不利さに配慮する必要があると同時に、メス青年のほうも、自身のバトル気質を野卑にせず、十分に成熟した青年としての穏やかな態度を模索していく必要がある。
青年と青年の交合は、うまくいくだろうか? ここにおいて、オス青年はメス青年との交合に愛情深くなると共に、メス女性と交合したがるこだわりから離れなくてはならないだろうし、またメス青年の側も、オス青年が不慣れな青年同士の交合に取り組んで難儀しているのだということに、あたたかい眼差しを向けなくてはならないだろう、そのことが成り立てば、惑星ソコビエで為される交合は何も悲劇的なものではない。

メス青年は、無理にメス女性に「転落」しなくていい。

メス青年が、身体としては旧来の「女性」の機能を具有している以上、メス女性への転落は不可能ではないだろうが、その転落は重大なトラブルをもたらす/これまでに培った「バトル」の気質が消失するわけではない以上、「バトル」は必ずその体内を食い荒らしてしまう、すると血が逆流するようなことが起こり、心身を損なうので、このことは安易に試みられるべきではない(これは強く警告されるべき事柄だ)。
と、まあ、あくまで惑星ソコビエの出来事なのだが、われわれにとっても十分参考にできるところがあると思う。

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「メス青年」の青年会

まらん話はササッと済ませるべきだが、惑星ソコビエには悪い風が吹いて、ホルモンの状況が変わった、まあそれは、今さら重大に受け止めてもしょうがないという話だった。
あれは女子会ではなく青年会なの」と言われて、すべての整合はついたのだった、「昔から青年会ってあったでしょ? そしてみんなでエロ本見てたでしょ、それが今はBL(ボーイズラブ)になっただけなの、だから何も変わってはいないんだよ」と。
悪い風が吹いてだな、つまり「女性性」は吹き払われていったのだった、オスとメスは残っているが、そこに残っているのは正しくは「オス青年」と「メス青年」だ。
メス青年が集まって「女子会」をするのだが、その実質は昔でいう「青年会」であって、健全なものだ、そしてかつてのエロ本の代わりにBL本が供される、BL本の中で「オス青年とオス女性がセックスしている」のを見て、メス青年たちが活気づくという、ただそれだけのことなのだった、昔と何も変わっていない。

状況はすごくシンプルで、1.メス青年はBLの中に「オス女性」という異性を見つけている2.オス青年はアニメやアイドルの中に「メス女性」という異性を見つけている、ということにすぎない。
端的に、「吾らすべて青年化した」、「すべての女性性はメディア化した」とだけ捉えればわかる、吾ら青年群の実体に女性性をやらせようするから混乱したり揉めたりするのだ。
今実際に苦しんでいるのは、「メス青年」の人たちだと思う、メスだから女性をやらされそうな旧態の圧力があるのだが、当人は青年だから「できない」と感じるのだ、どうしても自分からは青年の声が出てしまい、「お金でももらわないと、割り切って女性の声なんて出せない」と感じているだろう。
吾らオスメスとも、みな青年化したのであって、同時にすべての異性(女性)はメディア化したのだ、そのメディア化の偶像を生身でやらされるなんてたまったものじゃない/あ、これはもちろん惑星ソコビエの話であって、ヨソの話だ、だから「ふーん」と聞き流していい。

メス女性に触れると「花を手折る」という感触があるが、メス青年に触れると「灌木の壮健」という感触がある。

惑星ソコビエには、すでに「花を手折る」という感触のメス女性はほとんどいないので、逆に「灌木の壮健」の感触をもって「これがメスでしょ」という合意が半ば形成されつつある、だから大して問題にはならない、意外となんとかなるものだ(灌木とはだいたい植え込みにある低い樹木のこと)。
どうやらオスメスの機構がただちに破壊されるわけではないようだし、何よりメス青年が女性をやらされそうになる苦しさから解き放たれつつあるので、これはいい方向なのだった、もちろんどこまでも惑星ソコビエの話なので、われわれが思案してもしょうがないことだけれども。

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血は情念である

は「肉」を信じるが、あっち系の人は「血」を信じる、<<血は情念である>>、その中でも特に流血を信じる。
つまり、血筋、血縁、血眼、血のにじむような、出血大サービス、血が騒ぐ、血相を変えて、頭に血が上る、血気盛ん、血の気が多い、血走る、血と汗の結晶、血潮、血反吐、血豆、鼻血、血走る、血道をあげる、血なまぐさい、うっ血、瀉血、充血、血判状、生き血を啜る、などを信じる。
同様に、血に類するもの、血につながる体液等として、精液、遺伝子、髪、唾、処女、月経、妊娠、出産、母乳、痣(あざ)、大病、タトゥー、へその緒、デトックス、処刑、拷問、お金、などを信じる。
<<血は情念である>>、肉に血がにじんだとき、情念は肉染みとなり、肉は動かなくなる、肉に霊は宿らなくなる/カミサマのいない神話クトゥルフはバケモノの血を信仰する、サルトルは世界の明視に見神を得ず嘔吐する。

つまり、「野球選手の子が野球部に入り、髪を切って坊主頭にし、血のにじむような努力をして、手に血豆をつくり、成績を出すのに血眼になる、眼が血走り、血反吐をはくまで走る、それが血気盛んな青春の血潮、『そういう話を聞いていると、血が騒ぐねえ』」というストーリーが好きな人がいるわけだ、それは情念信仰といって差し支えない。
<<血は情念である>>、何十という国の国旗が、「この土地に流れた血を忘れないために」、その意匠に赤色をはためかせている/日本の「日の丸」は太陽だが、バングラディシュ国旗の赤丸は流血と太陽を意味している。
僕は血を信じない、僕は肉を信じる、全身全霊といい、血が情念なら<<肉は霊である>>、血は必ず肉を傷つけたところから流れて滲み出る。
血筋を信じる者は、血を滾らせ、筋の力を鍛えるだろう、血を信じる人たちは少なくなく、その信奉がこの世の流血沙汰を牽引している/勝った者は生き血を啜り、負けた者は血を奪われる、方途のない者は自らの手首を切る。

肉から霊が失せると、人は血に依存する。

「肉を育てるためにメシを食う」という発想がなくなり、「血をキレイにするために野菜を食べる」「筋の力を増大させるためにプロテインを摂取する」という発想になる。
草木果実に霊はあるが、情念はない、果肉はあるが果血はないからだ/血をダラダラ流して歩き、血を求めてさまよい歩くのをやめませんか、そんなの獣かグールかヴァンパイアじゃないか。

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「痛み」が人の肉を育てるものだったらどうしよう

代は「痛み」を否定し、「情念」を肯定している。
しかし、もし「痛み」が人の肉を育てるものだったらどうしよう。
教育ママは、公園のジャングルジムを「子供が落ちたら危ない」「ケガしたら誰が責任取るの」と心配するだろう、その心配する気持ちは誰も否定できない。
けれどもなお、「痛み」が人の肉を育てるものだったらどうしよう、母御さんが子供の身を案じてやまない、その「情念」はわかるのだ/現代は「痛み」を否定し、「情念」を肯定している、そのデメリットは未だ言及されていない。

熱血教師が生徒をビンタする、いわゆる体罰というやつ、これは絶対にやめたほうがいい、現代に合わない。
なぜなら、われわれはアントニオ猪木のようにビンタはできないからだ、熱血教師はきっと「情念」で子供にビンタしてしまうだろう、するとその情念が子供の肉に染みてしまう、これは傷つき遺恨になる。
われわれが忌む「暴力」の本質は、痛みやダメージそのものにあるのではなく、相手を打とうという猛烈な「情念」にある/われわれは転んでヒザを擦りむいたというときに「こころが傷ついた」とは言わない、けれども誰かに情念でヒザを蹴飛ばされたら「こころが傷つく」。
走って転んでヒザをすりむいたり、木登りから落ちてどこかを打撲したり、そのときには強い「痛み」があるが、その痛みに「情念」は伴っていない/アントニオ猪木のビンタも「情念」ではない、あれは「闘魂」だが、われわれはそんな情念抜きに闘魂のみを発揮できるほど人間が洗練されていない、プロレスラーなんか痛みに育てられた人間の代表じゃないか。

片頭痛がなかったら、僕は成長できなかった。

最近はほとんどなくなったのだけれど、数年前までは持病が典型的な片頭痛だった、今は特効薬があるから医者に行こうね、しかし長年の片頭痛がなければ僕は今のところまで成長できていなかった、きっと「痛み」には未だわれわれの知らない秘密がある。
かといって、リストカットするようなことはダメだ、リストカットには「情念」が伴う、また品質の低い格闘技で殴られるのもダメだろう、「情念」抜きで痛みの中に立てる機会はそんなに多くないのだった、だいいち痛みって基本的にはイヤだからな(血の痛みはダメだ、血の痛みにはだいたい情念が伴う)。

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反復すると強化される
節、夏と梅雨寒が入れ替わっているな……
「反復すると強化される」という当たり前の話。
反復によってえられるのは強化であって上達じゃない。
ゴルフのへたくそなおじさんが、ゴルフスウィングを反復したら、「ヘタクソが強化される」だけだ、見たことあるでしょう、反復というのはそういうものだ。

上達の道は、むしろ反復の逆だ、そりゃそうで、昨日と同じことをしていたら、今日も昨日と同じレベルに決まっているのだ、それでは元のレベルでカッチリ固定が強化されるだけにしかならない。
上達の道というのは違う/「反復」というのは「同じことをして、毎回同じ結果を得る」ということ、「上達」というのは「同じことをしつこくやって、毎回違うレベルの結果を得る」ということだ。
こう考えればわかりやすい、たとえば毎日、自宅の庭に穴を掘るとする、初日は1mまで掘り、翌日は2mまで掘り……とやっていけば、十年後には「お前どこまで掘ってるねん!?」というえげつない深さに到達するだろう、それが「掘り進める」ということ。
こうして毎日「穴を掘り進める」としたら、毎日「掘る」という作業は同じだ、けれども毎日、昨日とは違うところまで到達している、同じ深さの日は一日もない/この形で「同じことをしつこくやる」なら上達は起こっていく、ここをたがえると「継続は力なり」は大ウソになる。

反復は努力ではなく逃避だ。

自分を進ませるということ、上達していくということは、それなりにしんどいのだ、何しろ今日も新しいところまでいかないといけない/それがしんどいので、人は逃げたがる、かといって逃げるのも癪なので、反復して努力しているフリで今日をごまかす。
よって、上達に必要なのは努力家の精神ではなく、開拓者の精神だと言える、習い事が好きな人は開拓者の精神がないので、あまり物事の上達に向かない/「開拓」はリアルにしんどい、そのかわりリアルに面白くもある。
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φῶς
白い説を聞かせてもらった、「わたしはこれまで、黒い玉の重さを数えていたの。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつと。そしてそれを『存在』だと思っていたわ」。
「だけどあなたは、空っぽのビーカーを見て、とてもうれしそうにしているの。わたしには、そのビーカーは空っぽにしか見えないのだけれど、あなたには、そこに光が乱反射しているのが見えるみたいなのね」
「たとえばmol(モル)という単位が、数えきれないアボガドロ数を含んでいるように、あなたの見ている乱反射は、とても細かく複雑に構造化されて、キラキラらしいの。あなたはそのキラキラ光を感じ取って、それを『存在』だと捉えているのね」
「わたしには、その乱反射が見えないの、だからわたしは黒い玉の『重さ』を数えていた、あなたは乱反射する『光』の量を見ていたのね、そもそも測定していたものが違うんだわ、でもわたしにも、そのときのあなたがとてもうれしそうということだけはわかるのよ」

存在は「光」なのか「重さ」なのか? 物理的に、光子は重さを持たないから、いっそ「光の反対は重さ」と言っても差し支えない/人の「存在」は光なのか重さなのか。
まあいいや、とりあえず「肉染み」つまり「情念が肉に染みる」という考え方はわかりやすい、「絶対に出世する」も「絶対に許さない」も情念だ、情念は肉に染みて「にくしみ」となる、情念の染みた肉は「重さ」を生じるだろう直観的に。
人間が情念を持つのはおかしなことではないが、それが「肉に染みる」のはどうか……イマイチの気がする、肉には光たる霊が宿ってほしいと思うので/これらは「情念主義」と「霊験主義」の二つに大別できそうだ。
僕は海を見たとき、山を見たとき、湧き水を飲んだとき、街のネオンライトを駆け抜けたとき、そこに「情念」を探すというのがよく分からんのだ/たとえば「女の情念が女の肉に染みている」というのがヘヴィなのはわかるが、それをして女の「存在」をよく証しているとは僕には感じられない。

面倒くさがりの極北が、ついに重さ自体を否定申し上げる。

たとえば僕が、「あの女を絶対オトす」「あいつだけは絶対に許さない」と、情念を肉に染ませたとして、そのとき僕は存在感ズッシリ、それが僕の「イグジスタンス」なのか? とてもじゃないが僕はそんなしんどい競争にはキャッチアップできない、海辺のネオンライトを見たらすべてをスコーンと忘れてしまう。
だって、光っているんだもんね、何かが/「そもそも測定していたものが違うんだわ、でもわたしにも、そのときのあなたがとてもうれしそうということだけはわかるのよ」
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大きな愛、そのサイズ差

と恋の違いは何? という、よく知られた問いかけがあるが、これはもともとが間違っていて、愛はそもそも恋と比較考究されるたぐいの事象ではない。
人間にとって、「愛」という事象は、「光」という事象と対のパートナーだ、人は光に引かれ、同時に愛に押し出されもして、進んでゆく、というだけだ。
だからよく知られているように、人間にとってのカミサマは二種に描かれている、ひとつには威光を示す「父」として描かれるカミサマで、もうひとつには慈愛を示す「母」として描かれるカミサマだ。
人間は、愛されなければ踏み出せないし、光がなければ踏み出す理由がない、光がなければ愛されたってしょうがないし、愛されなければ光に向かえるわけもないのだった。

自然愛好家は世の中に多いだろうが、その逆、「天地自然がわたしを愛してくれている」と捉える人は少ない。
加山雄三が唄う「海、その愛」というのがあるが、これは「海よ、おれの海よ/大きな、その愛よ」と唄っている、こうして「わたしが海を愛している」ではなく「海が(わたしを)愛してくれている」と捉える詩文は現代には見当たらない発想だ。
だいたい、家にカルト宗教の勧誘がきた場合など、困るのは勧誘者がいかにも「わたしは誰にも愛されていません」という気配を明らかにしてくるからだ、愛されていないなら泣くべきだが、宗教勧誘者はなぜか強引に笑顔で迫ろうとする(ムリかあるだろそれは)。
この、一般化して「何にも愛されていない者が、何かへの愛をしきりに言う」という悪いパターンが、あまりにもわれわれの世に多すぎる/僕は大きな海が加山雄三を愛したということにムリがあるとは思わない、小さなわれわれが光に踏み出すには、大きな愛に愛されることがそりゃあどうしても必要だ。

愛されていることを見落としている。

いやもちろん、「わたしは天地自然に愛されているの」と言い出すと、それは単なるヤベー奴だが、何しろサイズが違うのだ、僕は加山雄三の歌が正しいと思う、何しろ海と僕とではサイズが違いすぎる、こんなサイズ差に対抗できるやつが人間にいるのだろうか。
もし山が単なる土塁にすぎず、海が単なる食塩水にすぎないのだったら、愛されようがないから、われわれは光に向かって進めないだろう、けれどもそれらを土塁とか食塩水とか呼ぶことこそ、逆にムリがあると僕などは思うのだった。

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古いものから距離を取ること

いものから距離を取ろう。
古いものを敬い、必ず敬いながら、それでも一定の距離を取ろう。
ただし、古いものといって、古来からのものは別だ、古来からのものはすでに普遍的なものであって、古来からのものは絶対にスゲーに決まっているのだ、「古いもの」とはそれのことではない。
古いものからは距離を取ろう、なぜかというと状況が違うからだ、古いものには敬いをもち、必ず敬いながらそれでも一定の距離を取ることだ。

「古いもの」というのは、あなたの内側にもある、つまりあなたの三年前の正義、五年前の考え方、十年前のやり方だ。
それはかつて正しかった、かつては正しかったのだが、状況が変わった、だからそれだけを見て、敬いを保ちながら距離を取れ、それらは捨てられるものではないが、これから先に使われるものでは決してない。
なぜ古いものから距離を取らなくてはならないか? それは、古いものがあると、現在のものが「見えなくなる」からだ、十年前に自分が二十歳だったとして、それを残していると三十歳の現在の自分が見えなくなる。
昔はデカかったコンピューターが、今はとんでもなく小型化されたように、かつては小さかったものが、現代では思いがけず大きくなっていることがあるのだ、「コイツはデカくなったんじゃないか」ということを見落とさないために、小さかった十年前のことを忘れなくてはならない。

かつて要らなかったものが、現在は要るものになった。

われわれは時代の変化と共に、「かつて必要だったものが、今は必要なくなった」という側面ばかりに注目する、だが逆もあるのだ、たとえば「かつて不必要だった読書が、今は必要になった」ということも起こっている。
古い正義を残していると、「そんなもん要らねーんだよ」と思いがちで、今は必要になっているそれを見落とすことがよくある、かつてそれを「要らねーんだよ」と言えていたのは、かつてはそれが小さかったからだ(抽象的な話でごめんね)。

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破壊と創造

壊と創造は表裏一体のものだし、何なら表裏一体というよりは、「破壊が創造だ」「破壊を創造というのだ」と言ってもよい。
玄米を取り出すためには籾殻を破壊せねばならないし、白米を取り出すためには糠を破壊せねばならない。
それはただちに、籾殻の破壊が玄米の出現に他ならないし、糠の破壊が白米の出現に他ならないということでもある。
われわれは、われわれの身を破壊しなくてはならないが、それはわれわれの身を破壊して人間を取り出すということで、われわれの身の破壊はただちに人間の出現に他ならないということだ。

つまり、破壊というのは表面的に行われる、表面的なものを破壊し、内部的なものをより濃密にする。
表面的なもので塞がれていると、内部的なものが交流しないのは明らかなので、表面的なものは破壊する、破壊された表面は後に補われればよい/それは外科医が開腹の後に閉腹をすることに大差ない。
「蓋」は、ふだんは「容器」の一部となって内部を隠匿している、だから「蓋」を引っ張りだして「外」と交わらせる、それによって容器は破壊(開封)され内部的なものがやりとりされる。
われわれは実は、内部的なものを操作することはできない、操作できるのは表面的な「身」だけだ、だが「身」の破壊はただちに内部的人間の出現である、これがやりとりされる。

破壊と創造、そのとき破壊されるのは「妄想」の一点である。

われわれは妄想を持っているし、妄想はいけないという妄想も持っている、これらをこねくりまわしていてもいつまでたっても真実には至らない、だからそれらは「破壊」される、われわれは破壊しかできないが/同時に内部が出現する。
われわれは内部的なものに力をこめることなどできない、財布のチャックを開けるときと同じで、われわれは力を込めて財布のチャックを開けることができるのみであり、そのときのカネに力は込められない/われわれは自己の内なる声に力をこめることなどできないのでするべきではなく、われわれができるのは力強く身の蓋を「外」と交わらせることだけだ、それがただちに内部の出現、「開く」すなわち「創造」となる。

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自分に呪(のろ)いを掛ける簡単な方法

ホみたいな言い方だが、自分に呪(のろ)いを掛ける簡単な方法がある。
それは、自己を大とし、事物を小として、口に出して何かを言うことだ(「呪」は口偏がついている)。
たとえば、「わたし学門に興味があるんです」と言う場合、これは自己を大とし学門を小としているので呪(のろ)われる。
一方、「思えば、学門に支えられて、ここまでやってこられたのだと思う」と言う場合、これは学門を大とし自己を小としているので呪(のろ)われない、この場合は逆に自分に呪(まじな)いが掛かる、「のろい」と「まじない」は同じ字で記されるものだ。

たとえば、イケメンが「おれ、海が好きなんだよね」と言うと、一見さわやかに聞こえるのだが、実はこれは呪(のろ)いが掛かる、自己が大であり海が小だからだ、呪いは蓄積していってやがて解決不可能になる。
一方、加山雄三は、「海よおれの海よ 大きなその愛よ」と唄っている、これは海が大であって自己が小なので、呪(まじな)いになる、呪(まじな)いもやはり蓄積していく。
自分に呪(のろ)いを掛けるほど、自分は肥大し、「大いなる自分」になってゆく/そして自分が「大いなる」ものになるがゆえに、ますます自分に呪(のろ)いを掛けることが加速していく、加速してやがて解決不可能の極点まで行く。
逆に、自分に呪(まじな)いを掛けるほど、世界は明視され、「大いなる世界」になってゆく/そして自分が「小さき」ものになるがゆえに、ますます自分に呪(まじな)いを掛けることが加速していく、加速してやがて解決不要の極点まで行く。

望遠鏡を逆さまに使ってりゃ、そりゃ呪(のろ)われる。

望遠鏡を逆さまに使えば、そりゃ加山雄三だって「海って小さいねえ」と言うだろうよ、これで呪(のろ)われていくなんて、こんな馬鹿げた話があるか。
学門や文化や芸術を、「吸収」しようと熱心な人がよくあるのだけれど、そのありさまはどうも自分を膨らませて呪(のろ)われる方向に見えてならない、学門が自分に飛び込んでくるのではなくて、自分が学門に飛び込んでいくのではなかろうか/「大きなその愛」に。

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D妄想、人は割と妄想の中を生きている
じめなことを書きすぎたので休憩!!
人はあんがい、妄想の中を生きているものだね。
僕はそれをD妄想と呼んでいるのだけれど、これはずっと昔にやらかしたDくんの知識から由来して名付けられている。
人は、何について妄想しているかというと、実は「何に」ということでもなくて、あんがいすべてのことについて妄想を持っているものだ、まあふつう生きてるっちゅーのはそういうモンだな。

で、D妄想のいちいちを否定していたってキリがない、キリがないし何か野暮すぎる。
有効なことは、何かひとつでもいい、自分の「これは」というジャンルでだけ、そのD妄想を突破するのだ。
真実の周りをDが取り囲んでいるので、何かひとつのジャンルでいい、そのひとつだけはD層を掘削して真実の層まで到達すること。
僕なんかは、いつか女の子にモテてやるという妄想だけで生きてきたので、今さらその妄想を掘削する気にはなれないのだった、掘削するならもっと別のトコですよ、もっと気楽で愉しいやつをやろう。

D=0に到達せよ。

真実はもともとこの世界にあるモンで、われわれがD妄想でその真実をくるんでいるだけなのだから、何かひとつのジャンルでいいので、そのジャンルについてのD値をゼロにすればいい(そんなもん全域をD=0にできるのはお釈迦様ぐらいしかおらん)。
仮に、超ドスケベ剣豪というのがいたとする、女の前ではグズグズである、しかし裸の美女60人が、刀を抜いて立ち塞がれば、話は別だろう、そのときは超ドスケベが消えて剣豪になる、剣のやりとりにおいてはD=0というのが剣豪なのだから。
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自己啓発の手前
「自己啓発」という言われ方が長いこと続いているけれど、そもそも「啓発」とは何か、その語源は「不憤不、不悱不」という孔子の論語にある(らしい)。
その意味は、孔子いわく、「何より本人が悶絶するほど考えて、それでも言いたいことが言えなくてのたうちまわっているという、そういう状態じゃないと、そもそも何も教えられないよ」ということだそうだ。
ん? それが「啓発」だというのなら、現代の自己啓発ブームと何か違うような気が……
ちなみに当の論語はその後、「部屋に四隅があったとして、一隅を教えたら、残りの三隅を自分で見つけるようでなければ、もう二度と教えねーよ」と続いている。

じゃあ、現代の「自己啓発」って、違ってなくなくない? と思える。
別に誰も悶絶していないし、のたうちまわっているわけじゃないし、一隅から四隅まで全部カッキリ教えてもらうつもりじゃね? と、割とこのことはマジメに指摘されなくてはならない。
おそらく本来の「啓発」というのは、もっと悲壮感のあるもので、きっと流行のハードカバーを読んでスターバックスでタブレットをいじり、スタイリッシュにディベートをかますことで成り立つものではないのだろう。
きっと孔子が現代の「自己啓発」を見たら、啓発の本義において、すべてのディベート空間にバンカーバスター爆弾を投下すると思うが、僕は孔子ではないのでそんなことはしない、ただ僕がぼんやり思うのは、「今でも孔子とディベートして勝てる気はしない」ということなのだった。

そういえば、僕は二十年前、確かにのたうちまわっていた。

今でものたうちまわっているところがあるような気がしないでもないが……こんな僕に誰か啓発プリーズ、いちおう「不憤不啓、不悱不発」の要件には適って啓発をいただけるところあるんじゃね? と思うのだが、考えが甘いだろうか。
現代では、あまり学門に「悶絶」「のたうちまわる」という人はいない/これだと二十年前の僕がまるでアホみたいじゃねえか。
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願望とは違う「夢」

て、いろんなことを思わずにいられない昨今だが、あんまり風呂敷を広げても収拾がつかないので、たまにはダラダラする。
また焼肉に行きたいな、そしてその後カラオケ……人間の生きる意味は焼肉(カルビ)とカラオケである。
人間、やはり「夢」があるということは重要なことで、その他に重要なことといえばあとは「ノー・トラブル」ということしかない。
ということで、何でもいいから「夢」をもってね(これは本当に大事なことなのだった)、あとはノー・トラブルであれば何でもいいのであって/つまり上司がどうとか親がどうとか世間がどうとか、そういうことは本当にどうでもいいのであった、こんなこと言うと怒られるかね。

「夢」というのもな、なにかテキトーでいいのだ、「何もないよりはコレがあったほうがいいわな」という程度でいい、たとえば僕などは「お気に入りの女と『刺身食い旅行』にいくのが基本、そうね、人生で計1000回ぐらいかな」というぐらいでいい。
人生にそんなことがあったって、この偉大なる九折さんには何の足しにもならないが、まあそういうことがないと地獄のように寂しいというのがホンネというか……逆に偉大なものなんて放っておいてもガンガン入ってくるのでいいのだ、偉大なことなんかわざわざ夢にしなくていい。
「ノー・トラブル」ということ自体、ひとつのすばらしい夢だしな、人生800年を生きて、一度たりともトラブルがなかったという人が、亡くなる間際、どれほど「してやったり」の笑みで満たされるか/この世で「トラブル」ほど明確なハズレクジはない、OMG。
うまく生きなくてはならない、そしてうまく生きるということは、申し訳ないが厚かましく、ズル賢く、基本的に悪党として生きることだ、善人は最後までウソと怨みを残さずに生きられればいいが、そこまで徹底した善人には実はなかなかなれないものだ、僕などは初めから諦めている、うひょひょ。

内緒でやりきれなきゃ負けです。

われわれはアホになると、必ず「騒ぐ」、「騒ぎを起こす」、そしてトラブルになり、夢を見失って、気が狂って願望を肥大させる……こうなるとあとはもう魑魅魍魎'2017だからどうしようもない、そんなややこしいコースに踏み入る動機は少なくとも僕にはない。
「夢」といって、自分の願望を「夢」に据えるなんて、不遜かつ不貞なことで、たいていロクなことにならないから、願望とは違う「夢」を持つのだ、あとは内緒でやりきること、それが「あなた」がこの世界で生きているということです。

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警戒すべき「笑顔練」(笑顔の練習)のこと

部の人たちは「笑顔」の練習をする。
演劇の人や、テレビに出るアナウンサー、アイドル、ファッションモデル、ダンサー、あるいは接客業の人や、中には個人的にその練習に取り組まれる人もあるかもしれない。
僕は経験と理論の上から、この「笑顔練」が、実は大きく危険な要素を含むことを感じ取っている。
それは本当に「笑顔」の練習だったか/その背後に、「牙をむく」練習になってしまうような要素の気配はなかっただろうか。

笑顔の練習はだいたいこうやる/身体を大きく開いて、上を向き、口を開いて、なるべく前歯が横に八本みえるように笑う。
もちろん、そのように「笑顔」のパターン学習をしたところで、それは本当に「笑っている」ということではない、単に顔面を機械化しているだけというのは、言うまでもないことだ。
そして、これはやってみるとわかるが、身体を開いて上を向いて、笑顔を……としたとき、この笑顔はたいてい呼吸を伴っていない、息が止まった状態や、呼吸に関係のない状態で顔面だけが笑顔を形成しているのだ。
「笑顔練」/それは獣かグールかヴァンパイアのように、とにもかくにも「牙をむく」、第一にそれをする、というまったく求めていなかった訓練に、なってしまうことがしばしばある。

「笑顔練」以降、気がヘンになっていったということは、大いにありうる。

表面上、「笑顔」で人に接すれば、ウケはよくなるだろう、けれどもそれは……「不穏」な感じがしないか? それはつまり「あなたなんか本当には笑わなくていい」という呪わしいメッセージを内包していないか。
あなたは、友人が「練習」してきた笑顔をあなたに向けてきたとき、どういう感情になるだろうか、それは本当に平和に向かうものか、互いに牙をむき殺し合うことへつながってはゆかないか。

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獣化の時代、それは「よろこびが消えた」ことに確認される
には思慮がない。
獣には精神がない。
獣には渇望があるが、それを満たしたところで、獣にはよろこびがない。
獣には、特別な悪意があるわけではないが、抑えきれない衝動としての残虐性がある。

現代は「獣化」の時代だ、少なくともそう捉えることで整合がつく。
その獣化が、自然発生的なものなのか、それとも意図的な工作によって生じているものかはわからない(わかったってしょうがない)。
ただ、獣化が進行している人間が、そのことを知らずに努力しても、そもそもの仕組みが誤解されているので努力は報われないだろう。
獣には、思慮や精神を交歓する能力がない、つまりよろこびとしてコミュニケートする能力がない、獣はやたらに吠え立てるか、そうでなけれぱ不穏の気配で唸っている。

人ならよろこぶが、獣ならむさぼるだろう。

たとえば現代において、メディアに美女が出演したとき、人々はその美女を「よろこんで」いるだろうか、それとも「むさぼって」いるだろうか? そこにはよろこびが営まれる場合もあれば、むさぼりが換金されている場合もある。
今、生活の一切の中に、なぜか自分が「よろこびを覚えない」という人が多くある、これはよろこびが失われたのではなくて、自分が獣化したのだ、少なくともそう捉えるしか状況を整合する方法はない。
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