☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
女性主権とストレスの関係5
徹に、実利・実益を優先しよう。
神経が「高ストレス状況」にある人は、必ず女性主権のもとにあるということ、これを知るだけでも状況は大きくクリアになる。
女性主権派は、決して、男性個人が主権を持つことを容認しない、男性が主権を持つには必ず「母体」に所属していることを前提にする/そうすれば男性の主権は上位の「母体」に付与されたものであり、主権そのものは「母」という女性にあることになるからだ。
おばさんが時代劇を観るのもそれが理由だ、時代劇はつまり「幕府」という母体があって、その母体のもとで役人が活躍するという形態が多い、だからおばさんは荒野の西部劇は観ない、西部劇のガンマンは母体に主権を付与されているのではないからだ。

現代のほとんどの女性は、男の主権を否定することに立脚し、男の主権を否定することが人生のスタートになっている。
それが現在まで続いて、女性主権の世の中が成り立っているのだが、なぜか女性主権の世の中では、恋あいや青春、物語や世界といったものが得られないのだ、それでむしろ女性の側が「毎日イライラしている」という実情に到っている。
今でも、たとえばテレビ番組などを観れば、男が司会をしているケースが圧倒的に多いのだが、この会場に女性の出演者がいる場合、女性は男司会者の主権を認めていないので、番組がバラバラになる/バラバラになってしょうがないから、やたらカット割りを多くし、テロップを大量に入れて、外部のロケを挟み、果てはまったく関係ない YouTube の動画を引っ張ってくることになるのだ、きっと現場の人はスタジオがすさまじく「バラバラ」ということに絶望的な感触を覚えていると思う。
だから本来は、たとえば「ガガ様」みたいな女性が司会をやるべきなのだが、実際にそうしたところで品質の高い取れ高と視聴率が得られるかというと、そうでもないので、成立しない、それで全員がイライラするという状態だ/これは男女いずれを否定している話でもなく、ただこの「毎日イライラする」ということからは構造上逃れられないということを報告しているにすぎない(ジタバタ解決策を探しても無駄なのでこれについては諦める一手だ)。

現代の主権者である女性は、自分がヒーローの徳性を現さないことにイライラしている。

単純に考えて、女性化した男はヒーローの徳性を現さないだろうから、それ以前の女性はヒーローの徳性を現さないだろう、それはなんとなく単純にわかる/けれども、今女性が自らに課している「こうあるべき」は、すべてヒーローの徳性が現れなければ成り立たないことなのだ、だからイライラしつづけることになる。
仕組み上、テキトーな男をヒーローと認めてその主権にあやかれば、女性も何の苦もなく主権を分譲されるのだが、そのことは現代すでに許容される範囲のことではなくなったし、それ以前に、ほとんどの女性が男の主権を否定することにすべての始まりを立脚しているので、今さら引き返せない、だから今のところ、この毎日「調子が悪い」「神経がねじ切れそうなストレス」「あらゆる方針の雲散霧消」「イライラする」ということを正当に引き受けていくしかないのだ。
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女性主権とストレスの関係4
本的に、男性不信の女性、男をアテにしない女性、男を否定する規定の女性、また女性化した男性について。
これらの人々が、体調および心身の調子を安定させることは生涯ありません、残念ながらどんなトレーニングや運動の習慣をつけても超克はできません。
つまりこれらの人々は、常時「調子が悪い」日々を生きていくしかありません、毎日「調子が悪い」の中を生きていくしかないのです。
心身が毎日「調子が悪い」ということに合わせて、潜在的、というよりはすぐ水面下に、極めて高いストレスを受けて生活していると思いますが、このストレスが解決することもありません/わたしはポリコレに定義される偽りの良識を超えて、このことを伝えるべきだと思って書き話しています、気にくわない方はもちろん黙殺に徹するべきです、これらの言が単に信用ならないならばこれらはしょせん根拠のない世迷い言・与太話にすぎません。

ただそれでも、わたしは自分の視てきたもの、そして今も視えつづけているものについて報告するよりないのです。
単純に見分けてみてください、誰か信じる男を得た女性は、そのとたん「大丈夫」な女性になっています、安定し、「調子の悪い日」は例外になり、「メンタル」などという馬鹿げた現象は遠のき、自分の方針と主権をこなしていけるようになります、そんなことに悲壮な決意など要らないのです。
一方、情緒的に不安定で、体調・体力も安定せず、ずっとどこか「調子が悪い」を抱えており、けっきょくは自分の方針や主権をこなせない人々について、彼女ら(彼ら)が単純に、男をアテにしない・信じない・否定的だという、硬化したハードな態度で生きているのを発見してください/このことは女性でもそうですし、女性化した男性でも同じです。
けっきょくは、「明日の気分で藻屑と消える人」、この人が男を根本的に否定しているということに気づいてください、それでもそのスタイルを取り続けるというのは、何も悪いことではないでしょう/けれども一般には知られていないのです、女性主権がすべての「調子が悪い」「神経がねじ切れそうなストレス」「あらゆる方針の雲散霧消」を生みだしているということ、そしてそのことが一生続くと規定されることを知らないのです。

オバケが出たとき、あなたは誰の名を叫びますか、あるいは自分の名で戦いますか。

男をアテにする・しないというのは、けっきょくそういうことなのです/あなたがその日の気分ごとに「調子が悪い」「神経がねじ切れそうなストレス」「あらゆる方針の雲散霧消」に陥りそうなとき、誰かの名前をコールしてみてください、そのときフッと悪いものが弱まるようなら、それがあなたを助けうる人であり、あなたに主権を与えてくれる人です、<<ただしあなたがその人を否定・拒絶せずにいられれば>>。
毎日どこか「調子が悪い」「神経がねじ切れそうなストレス」「あらゆる方針の雲散霧消」に入り込まれているというのは、つまり悪霊、オバケにやすやす入り込まれているということです、あなたの名にはそれを打ち払うだけの権威がないということです、そこでいくらメンタルを鍛えても表面上のことにしかなりません。
視点変えてこ | comments(0) |
女性主権とストレスの関係3
に言えば、かつての新橋周辺ではたらくサラリーマンのおじさんたちは、「パーッと飲みに行くか」という "精神" を強いられていたと言える。
つまり、「おい飲みに行くぞ」と言われたら、断る権利なんかありゃしないという世の中だったのであり、それは今思い出しても、おれとしてもそれなりにブルーになるところがあるが……それでも、そこに何があったのかは覚えている、それは「パーッと飲みに行くか」という "精神" だったのだ、その精神が主権だったから断る権利がなかった。
断る権利はなかったというのは、「今日はあまり気分じゃないんで」という、メンタルの側に主権が認められていなかったということだ、よかれあしかれ、それがかつての時代の事実だったと言える。
そしてここ十数年で、現代になり、新橋のサラリーマンおじさんたちが「パーッと飲みに行くか」という精神を主権とすることに対して、人々は軽蔑を向けるようになった、人々は飲みに行くのは「その日のメンタル」であって精神ではないと主張し、その主権の革命を起こしたということになる/今、「パーッと飲みに行くのが精神だろ」と主権を唱えたら、それはただちにパワハラの罪を問われるだろう。

おれぐらいが最後の世代だと思うが、当時確かに、「その日のメンタル」なんか何ら鑑みてもらえず、内心で酷い目にあい、だからこそ逆に救われていたし支えられていたということがわかる、「腐る権利もなしかよ」ということで、確かにおれは精神を失わずに生きることができたと思う。
今思えば、どこまで「精神」で押し切れるかという、チキンレースをしているようなありさまだったな、それこそよしあしの問題でなく/当時そのチキンレースに、女性を巻き込むものではなかったし、やはり当時から妙にナヨナヨした男はいたので、それはそれで「まあアイツはしゃーない」と諦めていた。
何も、精神主権が正しいというわけでもないのだろうが、メンタル主権と差分があるのはわかる、そしてよしあしの問題ではなく、精神主権から得られるものをメンタル主権から得ることはできないということだ、いくらメンタルをカチカチに固めたとしても "精神" の精華は得られない。
誰でも理解しうる、当たり前ことがある、それは、1.精神主権においてはメンタルが否定されるストレスがある、2.メンタル主権においては精神が否定されるストレスがある、ということだ、「お前のメンタルなど知ったことか」という事実が横行するのはキツいが、「あなたに精神なんかないのよ」という事実が横行するのも別の意味でキツい。

精神主権だと、今日のメンタルはなく、メンタル主権だと、明日の精神はない。

だから、メンタル主権の場合、明日につづく自分に向けて何かを主権的に決定するということはできないのだ、必ず明日は明日のメンタルに主権支配されるしかない/プリクラで「ズッ友」が書かれるのは、ただその日のメンタルであって明日の精神ではないのだ、だから今日の友人を決して明日アテにしてはならない、明日のメンタルであなたが友人とはまったく限らないからだ。
ここ十数年で、主権がメンタルに委譲され、そのぶん世の中に「呪い」が急激に増えた、それはメンタル主権の中で明日にも継続されるものを持とうとすると、方法が怨恨呪詛しかないからだ、それで日本のあちこちの田舎が呪詛の空間に変わってしまった。
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女性主権とストレスの関係2
たしもいちおう男性なので、目の前の女性が、わたしのことをアテにしているか・いないかぐらいは直感的にわかる。
一見、わたしのことをアテにしているようでも、けっきょくは「あたしが決める」ということに回帰していく女性は多いものだ/というより、現在のところ女性の主権内部において男がアテにされることはほとんどない、少なくともわたしの場合はそういうケースはけっきょくのところ極めてまれだ。
そして、<<結果だけを総じてみれば>>、男をアテにしていない女性は、1.数日で目的地を喪失し、2.多大に日々の「気分」に支配され、3.潜在的に極めて高いストレスの中を生活する、ということになる/本当にこうなるのだ、本当に「もれなく」こうなるので、やむをえずあるがままをお伝えしている、これはきっと必要な情報だろう。
表面上、女性は「おだやかで平和」な日々を生きようと努めるのだが、水面下では毎日が気分のとおりに行方不明だから、何の方向性もなく膨大なストレスを受けることになる/いわばこの話にしたって、今日あなたは「なるほど」と感心してくれるかもしれないが、明日には「マジむかつく」と唾を吐きかけるのをやめられないかもしれないのだ、そのことについてレポートしているにすぎない。

実際に、A男、B男、C女、D女に会うことを考えてみよう。
A男に会うとき、A男は女性化していないので、いつも「おう」という感じで、前もって警戒や不穏は感じない。
これがB男に会うときだと、B男は女性化しているので、そのときによって性質も機嫌も違うのだ、だから会うときには前もって異様に警戒と不穏を準備し、そのときのB男がどういう気分かを入念に探って接触してゆかねばならない。
C女に会うときも、女性に会うときといえばほとんどの場合、ありていに言えば「今日は大丈夫かな」とビビりながら接触するしかないのだ、C女に会うときは「昨日は友人だったが今日は外敵かもしれない」ということを常に覚悟していなくてはならない/それが不思議なことに、D女に会うときだけは、前もって「大丈夫」とわかるのだ、そしてその差分が、男をアテにしているか・いないか、男を信じているか・不信かによって生じているのは、まったく思いがけない視点だった。

男性化した主権は「精神」に拠り、女性化した主権は「メンタル」に拠っている。

衆知のとおり、メンタルというものは、その日ごとに揺れ動くものだ、だから女性化した主権は「毎日違う」のが必然であって、このことはよしあしの問題ではなくただの性質の問題になる/だから、どのように自分の方針や目的地を決めたと思っても、翌日には「メンタル」が変わるのだから、主権の決定は変更されてしまうことになる、それは朝令暮改というより、そもそも "定まった令など存在しない" というのが女性主権の性質だ。
ここ十数年で、人々は「メンタル」に関わる語をよく知らされ、それが「ブレない」ことを求められ、だからこそメンタルをカチカチに固めるトレーニングを得ることを学んだのだが、それをカチカチに固めねばならないのは、そもそもメンタルが「揺れ動く」という性質のものだからだ、一方で精神はあるなしの問題であってそれをカチカチに固めるという発想のものではない/A男は「おう」、D女は「おはよう」で安定し、いつも「大丈夫」なのは、主権が精神主権だからだ、一方でB男とC女はメンタル主権なので、そのときのメンタル状況を常に慎重に推し量りながらでなければ付き合うことはできない。
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女性主権とストレスの関係
をアテにする女性はほぼいなくなった。
生活面では、経済的に男をアテにする女性はもちろんいるだろうが、それはあくまで生活の問題であって、男性不信の規定は変わらない。
現代において、主権はむしろ女性の側に移されているので、今や男性の側も女性化しており、このことはもはや男女差別うんぬんに該当さえしない。
女性、特に男性不信・男をアテにしない女性は、自分の方針を実行できない・継続できないという性質がある、この場合女性にどれだけ能力があっても、その船は「舵を持たない」という性質がある/船の能力はあっても航行の能力がないのだ。

むろん、今は男も女性化しているので、今さら表面上の性別をアテにしても意味がない。
男をアテにしない、平たくいえば男性不信が規定されている女性、および、それに準じて女性化した男性は、自分の方針を実行できない・継続できないのだ。
男をアテにしない、男性不信が規定されている女性の場合、業務を除いては自分が「何をする」とも決められないし、かつては意気揚々と「これをやろう」と決めたことも、数週間とたたないうちに雲散霧消してしまうはずだ。
おそらく現在、ものすごく多くの人が、二年前にやろうとしていたことは今になってきれいさっぱり消えてしまっているだろうし、それどころか、先月やろうと決めたことが今月にはもう何のリアリティもなく消え去ってしまっているはずだ、このことは主権の女性化によって起こっている/女性はその日の気分とそのときの実感に支配されるので、昨日決めたことなど作用しないのだ、男性不信を規定している女性および女性化した男は、万事において "必ず翌日の気分がすべてを上書きする" と知っておくといい、毎日が気分次第にならざるをえず、このことが重大なストレス源になるのだ。

性能の低い男船は、それでもいつかは目的地に着くが、性能の高い女船は、そもそも「目的地」が翌日まで継続しない。

女性は以前、プリクラで友人を「ズッ友」と称して誓いのロゴを写真に入力していたが、それはウソやインチキでやっているわけではないのだ、その日の気分に誠実なのであって、ただその気分が翌日には変化してしまい、昨日の誓いは今日の気分に上書きされて消失してしまうというだけだ/これは悪口を言っているのではなく、ただその性質について言及しているだけだ、もちろん当たり障りのある言いようだと思うが、すでにそんなことを気にしていられる状況ではないというのがわたしなりの判断だ。
女船が一定時間でも「目的地」を継続しようとすると、その目的地はもう「怨恨」に限定されてしまう、「バカにされたから、必ず○○してやる、△△になってやる」という形でしか女船の目的地は継続されない、そうするとその船はどうしても呪われた船になってしまう。
視点変えてこ | comments(0) |
珍しく胃腸の調子をくずした
ロナ騒動で、万事がトーンダウンして、休むきっかけになったのはいいが、緊張の糸が切れて、急に体調が不安定になった、めずらしく胃腸を狂わせている。
なんつーか、去年から、いろいろ張り詰めていたらしい、そんな自覚はなかったが……
というわけで、ここ数日いまいち冴えないが、しょうがないのだ、引き続き偉大なるおれさまにひれ伏すように。
ワークショップも、ちゃんとオンラインでやったのだが、レポートする気力がない、ここ数回は各員のほうが元気でおれのほうがくたばっている。

体調がすぐれないときは、人の悪口を言うのがベストなのだが、それも文章化する余力が無い。
ワークショップの連中は、なんかミョーにガンバってくれて、信じられないような進化をしている、なんか「こんなムードだったか?」と不思議に思うのだが、おれのくたばっているぶんをみんながカバーしてくれているのかもしれない。
いつも気ままに行動しているのが、やれあちこちでクラスタークラスター言われると、調子が狂うのだ、そりゃまあ誰だって調子が狂うだろう。
というわけで、調子が出るまで、とりあえず「丸の内にいたときの上司のアレは人間的に何の値打ちもない存在だった」等、唐突に悪口を言ってスッキリしよう、うんやっぱり悪口はスッキリするなあ。

無理に世の中に値打ちがあるふりをしなくてよろしい。

アメリカのニュースがどれだけ感動のストーリーを仕立てていても、「つまんね」と思えば「つまんね」でいいじゃないか、無理やり値打ちの中にいると思い込むことはない、だれがどう見ても今のテレビ番組と YouTuber に胸がときめくほど面白いと感じられるわけがない。
そう、面白くないのだ、だから疲れる、面白くないものにヒマつぶし調味料をどっさりかけているから胃もたれするのだ、なぜ面白くなくなったかについては仕組みがあるていど見えているのだが、今それを書き切る余力はないので、さあさっさとおれが元気になるようお前らはクソほど祈るべきだ。
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「独特のやさしさ」の行方6/「イエス」とは「分からない」ということ
っきょく同じ話に行き着いてしまうのだが、この世の人間は分割されているのだ、だから「自分」という/この分割が分かっていない人、あるいは耐えられなくて拒絶・否定してしまう人は、いわゆる甘えの状態になり、その先は統合失調症になってしまう。
かつて人々に「独特のやさしさ」があったのは、つまりは「分かっていなかったから」だ、分かるという分割は力(重さ)によって成り立っていて、やはり時間が進むということは重さによる分割が進むということなのだ、われわれは時間・重力・分割が進んでしまうという業の中にいる、そのことをキリスト教では原罪から説明するし、仏教では業(カルマ)と説明する/仏教の聖典には「自分とは業(カルマ)である」と身も蓋もなく説明されている。
そこでおれの知っている「独特のやさしさ」というと、「いとしのエリー」と「Burn」は同時に鳴っているということなのだ、歌は無音と同一であり、また歌でないものと同一だ、すべては分割前に「同時同一」なのだ、それは相対性理論であっさり説明されていて、光の速度にあるものには時間が流れていないし、重さのないもの(ヒッグス粒子に干渉を受けないもの)は光の速度でしか運動しないというのはただの物理的事実だ。
時間というのは重さから始まった一種の錯覚だが、錯覚であれ時間は「進んでいく」以上、重力の性質である「分割」も進んでいくということなのだ、「独特のやさしさ」が消失するのは個々人のせいではなくもっと原初からの仕組みのせいだ/だから無罪放免ということではなく、まったく逆だ、やっぱり罪業の中にばっちりいて、罪業の結果が進行しているということだ。

われわれが「観測」してしまう実世界は、分割が進んでゆき、「独特のやさしさ」という観測不能のものはどんどん失われていくのだが、これはまるで墜落していく飛行機が空中分解を起こしていくようなもので、どうにもできない、重力は当然ながら重さに接近するほど逆2乗で増していく、つまり質量との距離が半分になれば重力は四倍になる。
そうなるともう、なんとかして接続しておくしかないということになる、なんとかして分割しないように耐えろということになるのだが、逆に分かりたがる・分割したがる人のほうが多いようで、困っているのだ/分からせるのはいくらでも分からせられると思うが、そんなことしてさらに時間と重力の作用を後押しして大丈夫なのか、まあ当人は何も視えていないのだからしょうがないけれども……
魅力というのは魅デーモン・パワーなのだが、それがパワーである以上、もちろん分割にはたらく、罪が重いのぅ〜 いかんこれではどうにもならないので、やはり物事のいい面を見なくてはならない(急に一般論だがそういうものだ)。
おれが愛の権威をもって、物事のいい面を見るかぎり、おれの愛に対しては人は「バカ」と「救済」の両面を示すことがあまりに定番だが、このバカと救済をさえ同時同一にせよということなのだろうか、まあそれはあるかもしれない、といって当人の側がデーモンパワーのほうを信仰している問題が最後の最後に決定打になる予感がアリアリとするが、それはもうしょうがないだろう、おれの視力が捉えているところはもはやキチガイのレベルなのだが、そこに一度でもいいから正しく「おう」なり「はい」なり言えたらそれだけでも分岐は救済の側へ偏るのだ、それだけで一発で永遠アンド「独特のやさしさ」が得られるというか復旧するのだがなんとかしてこれをサクッと実現する方法はないだろうか。

「はい」は「分かりました」ではない/「分からない」から「はい」「イエス」なのだ。

「水よりお湯のほうが温度が高い」「はい!」という会話は、あまりにもアホまるだしじゃないか、そうじゃなくて、「次の交差点を右折したほうがいい」に対して「はい」と答えるものだ、次の交差点を右折したほうがいいのかどうかは「分からない」だろう、それでも「はい」と答えている、 "信じる" というのはただそれだけのことだ/その「分からないからイエス」を、分かったことにしようとする習慣がナゾの悪意に満ちている(それは人の悪意ではない)。
「分からない」から「はい」なのだ、こっちがカミサマに帰依しているのであり、「分かりました」を「はい」とすると、それだけで悪魔に帰依していることになる、そんなことに誰が気づくっちゅーねん!! もしこの話で何かが明滅する感触を得た人は、なんとかして「分からないからイエス」「分からないままイエス」ということを発想の転換として食らいついてくれ/「分かってイエス」というのは実はとんでもなく邪悪なプロセスを踏んでいるのだ、そんなのふつう気づきっこないけれどね。
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「独特のやさしさ」の行方5

いうわけで、「独特のやさしさ」を信奉せよ。
信奉してもまず得られないとは思うが、しゃーない、それでもいちおう信奉することに強引にせよ。
現代人よ、あなたを癒すものが、独特のやさしさなのではありません、あなたは自分より魂がヤバい奴を肯定して安心したがっているだけだ。
結果的に、あなたが「独特のやさしさ」に帰るか、それとも「独特のコナゴナ」に帰るか、その結末はわからないが、いちおうここで仕組みは知られたのだ、あなたがどちらを信奉して、どちらに寄与するかによって、あなたの帰る先は決まるであろう、うーんスリルだ。

たとえばこのように考えればいい、確かにおれの言っていることはしばしばひどいというか最近はしょっちゅうひどいのだが……
次のように実験する、ないしは実験したことを想像してみればいい、1.おれの書き話したものを一時間読みふける、2.YouTuberの動画を一時間観まくる、という二つの営為を比較しよう。
1.の直後に、人に「こんにちは」とあいさつしたときと、2.の直後に、人に「こんにちは」とあいさつしたとき、自分から少しでも「やさしい」声が出そうなのはどちらか? また自分から特にヤバめの声が出そうなのはどちらか? そう考えればわかるだろう、実はおれはひどいことを言いながら「独特のやさしさ」を降り注がせているのだ。
あるいはこのように考えてみる、1.おれがあなたに、「酒飲みたいからウイスキーとポテチ買ってこい」といきなり言いつける、2.新人芸人があなたに、「酒飲みたいからウイスキーとポテチ買ってこい」といきなり言いつける/あなたはあなたの「お気に入り」を、本当に認めて慕っているのだろうか?

流行しているすべてのものに、指をさして「この人がわたしの友人です」と言ってみろ。

すると、どれだけ流行して「お気に入り」でも、それが自分の「友人」とは言えない・言いたくないということに気づくだろう/そのとおりあなたは自分の友人ではないものを、何かしら利用しているだけなのだ。
どれだけ魅力があり、一時的に楽しみ・癒しにできても、内心では単純に「友人ではないです」と切り捨てているのだ、このとおり「独特のやさしさ」(祝福)がないものを、われわれは本心から友人にすることはできない、また友人ではないからこそ潜在的にマウントの関係なのでもある。

視点変えてこ | comments(0) |
「独特のやさしさ」の行方4
ういえば、ワークショップ等ですでによく知られた、いっそ「定番」の知見があるのでそのことも報告しておこう。
おれなんかはもう、「独特のやさしさ」の権化みたいなものだから、他人のブルーな家庭事情や業務状況を聞いてゲラゲラ笑っていても、その「独特のやさしさ」は消えないのだ、ますます濃くなるばかりで、常にさすがおれという自負がアップせざるをえない。
そして、そのおれの「独特のやさしさ」をよろこんで、懐いてきてくれる人もいるのだが、そういう人はまずたいていショックを受けることになる、おれが「いやあさすがおればっかり天才だなあ」と言い、おれに懐いてきた誰かが「そうですよね」と賛同すると、アラ不思議、なせが空気はピシッとひび割れ、先ほどまであった「独特のやさしさ」は破壊されて消えてしまうのだった。
その後ただちに、おれがまた「偉大なるおれさまのためにのみ今日も空が青くうつくしいぜ」と言うと、ふたたび「独特のやさしさ」が回復するのだった、このことは何度繰り返してもそうなるので、次第に真相を知った人はショックを受けるのだ、つまり自分が「独特のやさしさ」をむしろ阻害・破壊・粉砕する側に所属しているということが、身をもってダイレクトに分かってしまうのだ、このことは多く、自分を甘く見積もっていた人に多大なるショックを与える(しゃーない)。

言ってみれば、ワークショップなんてその発見と、いくらかでも是正をしようという渾身のトライアルにすぎない。
自分の「姿」、挙動、その声、言葉、表情、意識、タイミング、呼吸、すべてのものが、「独特のやさしさ」を破壊するようにはたらき、むしろ「独特のやさしさ」を破壊することにしかコイツははたらかない、ということが知られてくるのだ、そのことをまざまざ、録画と録音で確認したおす。
自分がこれまでイメージしていた「自分」、および、自分がこれまでアテにしてきた実力や魅力のすべてが、実は「独特のやさしさ」に満ちた空間をひたすら冷やして破砕するということにしかはたらいていないということを、アホみたいに繰り返し体験・確認させられるのだ、そしてそこはいいかげん慣れてしまい、そこからようやく「これは問題ですね」ということに直面する/そのことに理性的に向き合うまでに、たいへんなショックを何十回と受けきらねばならないのだ、まあそんなもん回数でゴリ押しして強制的に慣れさせるけどね……
YouTuberや新人の芸人、また次々に現れてくるアイドルは、もちろん「独特のやさしさ」をコナゴナに砕く側の人たちだ、それだけの目つき・血質・声音・表情・挙動・全身をしている、そしてそうした破砕行動が「肯定的」なものとして演出されているので、現代人にとっては癒しになるのだ、けれども本当に好きになるかというとまったくならない、「魅力」がなくなったらそのまま死んでも誰も何も思わないし感じない。

おれはひどいことを言っているのではなく、「独特のやさしさ」を際限なく降り注がせているのだ。

まあ、ひどいことを言っていないとも言えないが、とりあえず、「独特のやさしさ」をコナゴナに砕くというような、ひどいことを「やる」のはおれの側じゃない、それはどれだけ怯えきっていても、それをやってしまう人の側がやってしまうしかないのだ/マウントがゼロにならないかぎりその「独特のやさしさ」への損傷は止まらない。
「独特のやさしさ」に対照して言えば、YouTuberと新人芸人と新しいアイドルたちには、「独特のコナゴナ」があると言えばいい、その独特のコナゴナが、割と肯定的に評価されているので、多くの人が「自分も大丈夫なんだ」と思っている、あるいはそう思おうとしている/おれはひどいことを言う奴かもしれないが、これをさすがに「マウント」と言い出す人はいない、かれはただ独特のやさしさで再現なく人を不安にさせているだけだ。
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「独特のやさしさ」の行方3
「独特のやさしさ」は、表現のしようがないので、おれはわかりやすく「祝福」と呼んでいる、そして人が祝福を失うと遺伝子のとおりただの獣・哺乳類に戻る。
ただの獣に戻ってしまった人は、内部的には猿の獣性に支配されているので、友人や仲間や恋人や愛人というものがなくなり、すべてはマウントと所有・貪愛ということになる、これは六道輪廻でいうところの「畜生道」の因果だ(取・愛)。
猿のマウント関係は、どのようなルールで成り立っているかというと、もちろんただの力関係だ、だからありとあらゆる「力」でマウントを取り合うことになる、体力や財力、権力等、そしてその中には「魅力」も入るのだということを最近の記事で述べた。
今あるYouTuberと新人芸人とアイドル活動者の目つきを見よ、どれも「独特のやさしさ」はない、だから好きになることはないし真に面白いと感じることもない、だからこそ彼らは「魅力」に偏るのでもあるのだ、どうせすべての祝福を失って誰に好かれることもないのであれば、可能な限り上のマウントを取りたいと思って掻き立てられている、それはまさに獣の血が起こす発想そのものなのだ(しゃーない)。

そして奇妙なことだが、この状況において、「独特のやさしさ」に心当たりのない人は、むしろその祝福から完全に切り離された人を見物することで、いつわりの安らぎを得るのだ、「癒される」と感じるのだ、その仕組みは誰だって少し考えればわかることだと思う。
人は、祝福から切り離されて、「独特のやさしさ」がなく、殺伐としたむなしい生に尽きて死ぬことおよび、その後魂が呪わしい世界に落ちていくことに、潜在的な恐怖とストレスを覚えているのだ、だから逆に、<<祝福を失った人が仮にも肯定されている映像が観たい>>、それはまるで自分のことも「大丈夫」と安心させてくれるかのようにはたらくのだ、もちろんそれは錯覚であって誰も引き続きそれを「大丈夫」とは言っていないけれども。
あまりに多くの人が、すでに恐怖とストレスによって、このことにもう直面できないはずだ、つまり1.魅デーモンを崇拝してきたのではないか、2.「独特のやさしさ」つまり「祝福」から自分は切り離されているのではないか、3.そしてそのとおり、魅力その他の「力」でマウントを取り合う獣性だけが起こっていて、皮の一枚下に隠しているだけではないのか、ということ、加えて4.いざ向き合ってみると、美と才能に対してまったく「視えない」という事実が浮き彫りになってくる、ということ。
もし自分が、獣ではない「人」だというなら、基本的に何をどうやっても、人に対して「マウント」にはならないはずだ、だからそのようにやってみればいいが、5.いいえ、自分のそれはただちに「マウント」になるでしょう、その予感がある、ということになる/何をどうしたらいいとはもはや言えないが、「独特のやさしさ」が本来の上位にあって、それがないものはけっきょく好きにはならないし、面白くもならないということだ、そのことを一番奥で認めてしまうことが有効。

「独特のやさしさ」はあなたを不安にさせ、「マウント」はあなたを安心させる。

どう見ても逆転しているのだが、しょうがないのだ、「独特のやさしさ」というのが自分のつながりの中にもあるのならもちろん前者が安心できるのだが、「独特のやさしさ」が「あなたにはないものです」ということになると、途端に不安になり、恐怖にさいなまれる、だからアイドルやYouTuberが安心であり「癒し」になる、「これでいいんだ、自分も大丈夫なんだ」と思えるということだ、そのことはあるていどしょうがないことで、いきなり全部を引っ剥がしてなんとかなるというものでもない。
もちろん同じ意味で、「美と才能はあなたを不安にさせ」、「魅力はあなたを安心させる」ということでもある、そりゃ長いあいだ魅デーモンを崇拝していたのだから、魅デーモンの権化みたいなものを見てわちゃわちゃしていれば安心するだろう、まるきり生まれ育った古巣という具合に/だがそれでも、魅力も含めた「力」の関係は、人としての関係ではなく猿・獣の関係だ、いくら善人ぶっても本性が猿・獣になってしまったものはどうしようもない、平等とイーブンをやっても無駄だ、自分の一挙手一投足が「マウント」になってしまうということ、それは獣の世界だ、「独特のやさしさ」を引き剥がされるというのはそういうことなのだ。
視点変えてこ | comments(0) |
「独特のやさしさ」の行方2
「独特のやさしさ」はシビアであって、もしおれ自身、おれの存在および書き話すところに、独特のやさしさが消え失せたなら、そのときはもうおれの存在には何の値打ちもない、そのときおれはもう誰かに相手をしてもらおうとは思わないし、誰かに何かを認めてもらおうとは一ミリも思わないだろう。
いいかげん、このことも考えなくてはならないのだ、仮にその「独特のやさしさ」がない中で、それでも栄達し、巨万の富と知名度を得たとして、それで高級な住宅に住めるかもしれないが、何しろ「独特のやさしさ」がないのだから、自分が誰のことを好きになることもないし、誰かが自分のことを好きになることもないのだ、それはそれですさまじい苦痛の生ということになる。
腐るほどカネがあれば、無数のセックスガールを呼び集めてパーティが出来るのは事実だが、「独特のやさしさ」がない中で、ひたすらペニスを充血させて獣の振る舞いに没頭しなくてはならないというのが、どれほど苦痛なのか想定しているのだろうか/いいかげんこんなこと、もう「成り立っていない」と認めないと生のすべてを無駄にして世界を呪いながら死ぬしかなくなってしまう。
大事なことを指摘しておくと、「マウント」という猿の性分があったとして、仮にそのマウントで頂点を極めたとしてもだ、マウントして乗っかっている対象、それは「敵」であって友人でもなければ愛人でもないということだ、マウントというのは勝利してもそれが「敵」だということに注目しなくてはならない。

仮に女性が、自分より不美人を見て、「わたしのほうがきれいなのは事実、しょうがない」とマウントを取ったとして、そのマウントは猿の性分(獣性)を満悦させるだろうけれども、そのとき何をやっているかというと、けっきょく友人でもなければ仲間でもない「敵」と過ごしているということなのだ、そのことが根本的に貧しいということにいずれ気づいてしまう。
そして、そのことが根本的に貧しいと気づいたとしても、そこまで数十年間を「マウントを取られたくない」「マウントを取って安堵と良い気分が得たい」ということだけで生きてきたので、今さら友人やら仲間やら、恋人などが得られるわけがないのだ、率直に言ってもうまともな目つきに戻れる見込みはおおむね無い。
わかりやすいように言うならば、「マウントを取ってから友人にはなれないのです」ということだ、なぜかというと、「あなたはマウントを取られたあとに友人になりたいとは望まないからです」「相手も同じように思うのです」ということ、こんなこと本来は説明する必要のないことだが、今はこういうことを事細かに説明しておいたほうがよいらしい。
マウント合戦をしたら友人になれないということで、「平等」「イーブン」の関係を求めるようになるが、そうではないのだ、それはマウントの衝動を釣り合いで制御しているだけで、本来人は、どれだけの力の差や存在の差があったとしても、それが「マウント」にはならないのだ、上に乗っかるとマウントになるのは猿・獣だからであって、人は本来そうはならないのだ/お察しのとおり、状況のヤバさは表面的なものではないので、表面上をどうこうでは到底解決しようがないということ。

マウントをやめろということではなく、本来「人」ならマウントは "不能" のはずだ。

マウントは猿・獣の現象であって、まともな「人」には引き起こせない現象なのだ、おれの話は猿にマウントを禁じる話ではない、猿は獣なのだからマウントするのはしょうがないだろう、そうではなく、なぜ平気でその猿・獣の性分が起こりまくっているのかということを指摘しているのだ/石原裕次郎がそのへんの少年に「おいボウズ」と呼びかけてどうしてそれが "マウント" になるのだ、どう見ても「独特のやさしさ」が漂うだけだろう。
人は本来、その「独特のやさしさ」に包まれているもので、その中で誰が何をどうしても、猿のような「マウント」は起こらないのだ/古いマンガ「ドラえもん」でさえ、スネ夫はのび太に対し、自慢はしているがマウントは取っていない、それが「マウント」になるのはまさに猿の現象であって獣化した血のはたらきだ、こんな女子小学生をどうやって無邪気とか純朴とか言いうるのか。
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「独特のやさしさ」の行方
代、色んな人が色んな研鑽を積み、色んなパフォーマンスをする。
YouTuberがたくさんいて、新しいお笑い芸人が覚えられないぐらいいるのだが、それらが面白いわけは絶対にないし、好きになることは絶対にない。
なぜ絶対に面白くないか、そしてなぜ絶対に好きにはならないかというと、「独特のやさしさ」がないからだ。
どれだけ研鑽して、どれだけ研究して、どれだけ工夫して、どれだけ目立っても、ダメだ、その目がマウント星人であることを明らかにしている、マウント星人が「悪い」というわけではないが、所属しているルールが違うため、それを好きになることはないし、それが面白いということにも絶対にならない。

おれとしては、誰かを悪く言うつもりはないのだ、単におれが邪悪なだけなら世界はどれだけ平和で豊かかという気がする、だがそういうわけにもいかない状況だ。
誰かを悪く言うつもりではなく、誰だってしょうがないのだ、誰だって自分がやさしくされたことがないし、独特にやさしい誰かに出会ったこともないから、わからないのだ、当人自身、どう首をひねっても "マウント以外に所属するルールがあるようには思えない" のだから「しょうがない」の一点に尽きる。
独特のやさしさというと、今逆に、中年期に差し掛かったジャニーズタレントが持っていると思う、本来世の中の仕組みとして逆でないといけないはずだが……今、若い女の子に「独特のやさしさ」は微塵もない、それは若くて女性であるがゆえに、感受性にダイレクトに「マウント」が入り込んだ結果だと思う。
別の視点でいうと、われわれが期待する「独特のやさしさ」は、「むかしむかし、あるところに」住んでいた、おじいさんとおばあさんが持っているものだった、今は違う、今は地方都市に行くほど殺伐としていて、田舎の農村など何があってもおかしくないという状況だ、なぜか「独特のやさしさ」に関わる状況はいつのまにか逆転してしまった。

田舎、山海、農村、老夫婦、年端もゆかぬ女の子、夢に向かう若手、これらが逆にマウントの邪悪の精鋭になった。

わかりやすくいうと、現代の田舎の小学生女子より、TOKIOの城島リーダーのほうが「やさしい」気がするのだ、現代の田舎の小学生女子が無邪気で朴訥で純情ということはまったくないと思う、ずーっとスマホでアイドルの追っかけをして、クラスメートとは水面下でマウントの駆け引きばっかりしているのではないだろうか。
おれの場合、後輩を「おいそこの朴念仁野郎」と呼びつけても、呼びつけられた側はずっとニヤニヤしている、何がうれしいんだ脳みそオクトパスか/何かしらによって「独特のやさしさ」は剥ぎ取られて、猿に特有のマウントいう性分だけがあきらかに出て来ているのだが、なぜこうなったのかはわからない、城島リーダーと出川哲郎と江頭2:50が三人で遊んでいる空間は、田舎で小学生女子三人が遊んでいる公園よりもずっとやさしい。
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誰が歌ってもいいじゃないか
ィープパープルの「Burn」を聴いていて(時代錯誤)、ふと「誰が歌ってもいいじゃないか」ということに気づいた。
オペラ「魔笛」をやれば、誰かがザラストロをやるのであり、誰かがタミーノをやるのだから、誰がどの歌を唄うのでもいい。
ところで、たとえば桑田佳祐の「いとしのエリー」を、平原綾香が「カバー」しているのだが、この「カバー」という言い方に昔からしっくりこない。
そして、言っていることが矛盾するようだが、誰かがカバーした「いとしのエリー」を、おれは聴こうとは思わない、歌なんか誰が唄ってもいいと思うのだが、真に「誰が歌ってもいい」のなら、「カバー」という発想はないはずだ、これからオペラ「魔笛」をやる人は何もモーツァルトの「カバー」をするわけではない。

そして、さらに言うことが矛盾するようだが、桑田佳祐がボブディランやビートルズを歌っているのを聴くのはすごく好きだ。
なぜそれは好きなのかというと、たぶん「カバー」ではないからだと勝手に思っている、アレはたぶん本当に自分を一人のバンドマンだと思っているので(信じがたいことだ)、本人は「ボブディランやっちゃうよっ!」としか思っていないのだ、それはもう何というか、見るからに「しょーがない」としか思えない。
おそらく、カバーとかオリジナルとかいうのは、版権上のことであって、歌そのものにはまったく無関係のことなのだろう、「いとしのエリー」の版権は桑田佳祐とサザンにあると思うが、歌のイグジスタンスは誰にあるといってそりゃ「いとしのエリー」にしかないだろう、そのイグジスタンスを桑田佳祐が歌ったにすぎない。
同じカバーと題されていても、永英明のそれはまったく違うものなあ……例によって、いつものパターン、これはまた "おれが聴いているものはまったく違う" のだろう? このパターンは飽きたぜ、たしかにおれは歌詞とかメロディとかを "聴いたこと" がないなあ、おれはいつも何かを発見しているだけだものな。

「壊れかけのRadio」はおれが作詞作曲した(めちゃくちゃ)。

言っていることはめちゃくちゃなのだが、そうでも言わないと整合しないのだ、少なくともおれは他人の歌をふんふん言って聴いてやるほどヒマでもなければ性格も良くない。
版権が永英明にあるのは別にかまわんし、そういうことはどうでもいいのだ、そもそもおれは歌とか音楽に興味がなくてね、そんなものは聴いたことがないのだ、おれは何一つ見物しない男だ/おれは他人の歌になんか興味ないし、自分が作詞作曲してもそんなものに興味ないもんなあ、うーむおれはやはりおれのことだけを愛しているのだ〜 やっぱステキだなあ〜 同時同一だからああいうのはぜんぶおれが作詞作曲したのである、ただその痕跡がないだけだ。
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R指定/Restricted
「R18+」というのは、十八歳未満は視聴してはいけませんという意味だが、このRは Restricted で、「制限された」の意味を持つ。
そして、十八歳以上なら好きに観ていいよということだが、十八歳以上なら観ても大丈夫ということではない。
何もかも、成人したらOKということになっているが、それは「成人したので自己責任です」「社会が庇護する必要なしです」ということであって、何も大丈夫と保証されているわけではない。
成人したら社会的庇護はないし、何より当人の責任で何でも摂取させるのが「人権」だから、それで正しいのだ、十歳の吉田松陰がエロビデオを観ても「これで女色に溺れさせようとは愚かな発想です」としか感じないかもしれないし、二十歳を超えたあなたは「ああっ、ああっ」と興奮して精神が破損するかもしれない。

おれは夕焼けの迫る丘、住宅地から高級車を盗んで、テキトーにアクセルをふかして、道路にはみでていたババアを撥ね飛ばし、その飛びっぷりに「わはははは」と大きく笑い、その後テキトーな美少女を捕まえて拉致して、裸に向いて奉仕させたり背中にロウソクを垂らしたりして遊んでいても大丈夫だが、同じことをあなたがやると、どうせ興奮して精神が破損するのだろう、自分の精神が破損するようなアホをやってはいけない。
そのようなことを、おれがやっても何も起こらず、むしろ撥ね飛ばされたババアもロウソクを垂らされた美少女も聖霊の庇護に満たされるのだが、同じことをあなたがやってもだめだ、同じことをあなたが想像するだけでもダメだ、なぜ同じことができると思ったか/同じことは誰にでも出来るが、そこに起こることと、そこから得られる作用が違う、おれはデーモンを支配する側だが、あなたはデーモンに支配される側になるだろう。
この典型的なパターンを何度も見てきたので、おれは飽きている、おれのやることはすべてR九折+指定が入っているので、おれもしくはおれ以上の存在でなければダメだ、神経の弱い五歳の少年に「エマニエル夫人」を見せたとしてもそれは名作映画にはならないだろう、まったく別の現象が起こり、まったく異なる作用を受けてしまう。
R指定とは何を意味しているか? それは、慾望とは魂の戦(いくさ)だということだ、戦には勝てばいいが、負けるとどうなるか、もちろん負けると支配を受ける側になる、慾望のデーモンに支配される側になる、そこでR指定は、「せめてこれくらいの年齢じゃなきゃ戦(いくさ)に不利すぎる」と社会的に庇護を掛けているということだ、それが十八歳になろうが二十歳になって成人しようが、各人が本当にその戦に勝利するのかどうかは知らない、そんなこと誰も庇護してくれない。

英雄が色を好むのは、デーモンを支配してのことだが、引きこもりが色を好むのは、デーモンに支配されてのことだ。

エロビデオが端的にエロのデーモンを含んでいると仮定して、そこからドラゴンクエストのように、このデーモンを打倒し、デーモンを配下につけられるか、という戦(いくさ)なのだ、ただし社会的良心から、そのことはせめて十八歳になるまで待てと警告されている/むろんこのインターネット時代にR指定なんか守っている奴はいないだろうが、社会としてはいちおう自分の言い訳は立つのでそれだけでいいのだ。
現代、およそ誰も彼も、どんなに若年でもまず平等の中で自分が一番偉いと思っているから、誰かがデーモンに勝ってその力を使役していると、自分もまったく同様のことができると思い込んで、あっさりデーモンに支配される側におちぶれる、それで本当に「同じことをした」と思い込むのだから無残なものだ/おれのやっていることはすべてR九折+指定がついているので、おれと同等もしくはおれ以上の者でないと、あっさりデーモンに支配される側におちぶれるだろう、つまりエマニエル夫人がおれのところに遊びにきたら「あれ?」となって映画はただの明るいハッピーエンドになるということ、同じエマニエル夫人を招き入れてもふつうは淫乱に巻き込まれて一緒にバッドエンドになるのじゃないか、五歳児がそれを観たときと同じようにだ。
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悪霊リパブリック
突に妙な話をするが、民主制、リパブリックは、「多数決が一番正気を失わない」という前提のもとに成り立っている。
もちろん、より原理的には、議決の責任をすべての市民が負うという仕組みでもあるのだが、その考えから民主制を支持している人はきっと少ないだろう、おそらく大半の人は「だって少数の偉い人が決めたらまずいじゃん」「権力者って狂うんでしょ? 皇帝とか幕府とか」という感覚から民主制を支持しているに違いない。
衆知のように民主制は議決を「多数決をもってする」のだが、これは多数決というより単に「多数派の言うとおりにする」だけだ、だからもし「狂気」が多数派になったら、とうぜん民主制は狂気の議決を積み重ねていくことになる。
現代の多数派は本当に「正気」だろうか、本当に「狂気」ではないだろうか、もちろん少数の「権力者」に施政権を委ねるのは危険だということは歴史的事実なのだが、多数派に委ねるのは安全と保証されているわけではない/後の歴史に「多数派に委ねるのは危険」という事実が刻まれることは大いにありうる、まったく次のありようなんて視えてこないが、ひょっとすると民主制そのものの限界点をわれわれは迎えているのかもしれないという、そんな気がふとした。

単純な話として、たとえば架空の電器メーカーAがあったとして、このA社の経営方針を、A社の全従業員の多数決で決めるという方法は、A社にとって安全なのだろうか。
むろん現在は、株主がその株式の取得割合に応じて議決権を保有しており、つまり人頭に与えられる民主制ではなく資金割合に与えられる民主制という形式、すなわち資本主義に議決権が定められているのだが、もちろん株主だってより安全な議決方法があるのならそちらを選びたいだろう、別に株主は株主総会に出たいわけではなくただ配当と値上がりが欲しいだけだ。
あるいはA社の経営方針を、国民全員で決定するというのは、安全な議決方法になるだろうか/それでいうとつまり日本という国は、国民が均等に株式を保有している「日本株式会社」なのだが、この経営方針を国民全員で議決するというのは本当に安全安心な方法なのだろうか。
多数派が狂気ないしはヤケクソ、あるいは馬鹿げていえば、多数派が悪霊に憑かれているというようなことだって仮想することは可能だろう、つまり悪霊リパブリックという現象だってありうるのかもしれない/だからどうすればいいということはまったく視えてこないが、それは視えてこないのではなく、そもそも初めから視えるべきものなんてないのかもしれない、そんな気がふとした。

人類というのはもともと、「ダメになる速度 > なんとかする速度」なのかもしれない。

人類の歴史は、はじめ原始共産主義から始まり、それがダメになって封建制になり、封建制がダメになって王制になり、王制がダメになって民主制になった、これは実は進歩しているのではなくて、次々に救命ボートに乗り込んでいるだけなのではないか/初めの船がダメになり、救命ボートに乗り込んで、そのボートもダメになったので、その中から救命ボートを作って脱出し、その救命ボートもダメになり……ということを繰り返しているような気がしないでもない、もちろんその救命ボートに意味がないとはまったく思わないけれども。
「このままではこの国はダメになる」というのは、実は有史以来ピリオディカルに言われていて、ダメになるという現象は実は "レギュラー" ではないのだろうか? であれば現在の民主制もダメになるのがレギュラーだ、王が悪霊に憑かれたら王制はダメになるのであり、豪族たちが悪霊に憑かれたら封建制がダメになる、ただそれだけのことであって、今度は市民が悪霊に憑かれたら民主制はダメになるだろう、われわれはこれまで改革や革命で何かを解決してきたと、ずっと "錯覚" してきただけなのじゃないか/本当はもっと別に、考えるべきことがずっとあったのではないだろうか。
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業務とマニュアル2

務のほとんどは、人が持つ機能、「パターンを覚える」という機能を使っている。
たとえば、通勤電車に乗るのだって、毎回プランを創作しているのではない、どこでどう乗り換えるのかは「パターン」として繰り返し、「パターン」として暗記している。
「パターンを覚える」というのは、脳みその機能ではなく、「脳みそを使わなくていい機能」だ、もちろんそのほうが作業は速くなるし、実際に機能しているのだから業務としてはそれでいい。
ただ本質は、そうして「脳みそを使わなくていい」ということだから、そうした業務にかまけるうちは、脳みそを衰退させていくということでもある、「脳みそなんか別にいらんだろ」という人はそれでいいと思うが、脳みそが有為な臓器だと思う人は、業務がそうして脳みそのマヒを本質にするということを知っておくべきだと思う。

パターンを覚えるということは、脳みその死であり、そのぶん脳みそがラクということだ。
だからお年寄りは、「水戸黄門」のような、いつも決まり決まっているパターンのドラマを観る、登場人物がどのようで、そのストーリーの何がどうなるかは、もうパターンとして暗記してあるので、脳みそを使わずにそれを見物していられる。
実はスポーツ観戦などもそうで、またアニメやゲーム対戦の配信などもそうなのだが、実は一定の「パターン」が与えられてそれが表面上動くだけなので、脳みそを使わずに見物できてラクなのだ/世の中のほとんど100%の人が帰宅したら学門などはせず、必ず何かしらのパターン見物をして過ごすというのは、実に人が脳みそを使うことをイヤがるということの証左でもある。
世の中には無数に多様の趣味があるはずなのに、帰宅していきなりサンスクリット語の構文を勉強してみたり、シュレーディンガー方程式を展開してみたりする人はまずいない、わたしの記事を毎日読むような人は同じように毎日何かを書いてもいいのだが、実際にそんなことがやれるかというとなかなかそうはいかない/われわれは脳みそを使うことを実にイヤがっており、パターンを覚えるということで脳を眠らせたがる、つまりはそうして「脳みそを眠らせたまま刺激を受けたい」というのがわれわれの本能的な欲求だ、そのことは動物的本能としてはむしろ「正常」の側にある。

パターンを「やらされる」のが業務であり、パターンを「見物する」のが娯楽になる。

人は日々、脳みそなんか使っていないのだ、ただ記憶したパターンをやり、記憶したパターンを見物する、そうして脳みそを眠らせることを「過ごしやすさ」として暮らしている/たとえば学校の先生は、何年もやっている同じ授業を今日もやり、帰宅して同じパターンの動画やアニメやドラマやスポーツを娯楽として楽しんで時間が来たら寝る、そのことは一般に健全で順風満帆とさえ言われる。
「業務」のほとんどはパターンマニュアルなのだが、娯楽のほとんどもパターンマニュアルなのだ、部活動で竹刀を振る剣道部員は、五時半になったら剣道場に行ってその曜日の稽古をするということをパターンとして繰り返している、そして部活が終われば帰宅して食事が済めば録画した定型のアニメを部屋で観る、脳みそを使う機会は一度もない、だからけっきょくのところ彼がどういう人なのかは最後までまったくわからない、彼はパターン業務とパターン娯楽の往復をするのみの個体だ/彼が「どういう人」ということはけっきょく最後まで「ない」のだ、ただどういうパターンかということだけがあり、脳みそのレベルでは彼は実際「存在しない」ということになる、そのこともまた動物的本能としては正常の側だ、野生動物の個体は知性によって存在しているのではないから。

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業務とマニュアル

っと昔に、マクドナルドなどを代表に、「マニュアル接客」というのが施行された。
当時はそのありさまに、「なんだこれは」と異様な怖気を感じたものだ、何しろ目の前の人が誰であっても同じ顔、同じ笑顔で、同じ挙動、同じ文言を云うのだ、そうして人を機械的なパターンしか挙動させない方式をマニュアル方式と呼んでよいだろう。
世の中の多くの人は、相応の年齢になると何かしらの職業について、その業務をこなすのだが、業務について五年もすれば中堅の感じが出てくるにせよ、実は多くの職業においてその業務はひたすら「マニュアル」を繰り返すだけで構成されている、むしろマニュアル以外のことが求められる仕事のほうがごく少ないと考えていい。
もちろんそのマニュアルは、単純接客や単純作業よりは複雑化しているのだが、複雑化しているとしてもそれはマニュアルなのだ、決められたものを決められたとおりに捌くだけということで、実はその中で人としての能力は一ミリも伸びていないということがよくある/それはいっそ当然のことで、ヨソの誰かやヨソの組織が、自分の人としての能力を伸ばしてくれるなんてことはありえないのだ、人工知能が捌いてくれないもの(またそのコストに見合わないもの)をやむをえず人力で捌かせているにすぎない、世の中の多くの「業務」は所詮そんなものだ。

ときには、メーカーにとって新製品の開発さえ、マニュアル化していることがある/つまり、時期が来たら新製品開発の会議や稟議をし、その会議はそれなりに「それっぽい」討議をしたという事実を残すというだけ、そのことを毎年繰り返しているだけということがあるのだ。
そんなマニュアル化した、まるで結婚記念日には強制的に旅行を計画するというようなことに等しいありさまの新製品開発でも、業界でそれなりの知名度とシェアを得ていれば、それなりに売れてそれなりにやっていけるということがある/世の中は競争社会といっても、古い商店街でずっと文房具屋をやっていて、競争相手がいなければ、周囲の公立学校から注文が入るかぎりその経営は破綻せずにマニュアルどおりの毎日でやっていける。
けれどもそうしたマニュアル業務の安泰は、外部から競争勢力が入り込んできた瞬間にコナゴナにされるのだ、メーカーが新製品を開発するといって、ほとんど年中行事のように済ませていたその開発会議では、ガチの新製品と競争力を持ち込んでくる外国勢に太刀打ちできない、そしてそのときになって真剣に競争力をもつ新製品を開発しようとしても、もはや開発力どころか開発ということに脳みそがはたらかなくなっており、もう現実を認識できないままその企業は衰退して外資企業に吸収されてしまう。
江戸時代の後期に、ペリーが軍艦でやってきた途端に認知症のような狼狽を見せてそのまま戻ってこなかった江戸幕府もそうだったと思うが、同じことは今も起こっているのだ、多くの人にとって業務というのはただの煩雑なマニュアルの繰り返しにすぎず、いざホンモノの競争力を持ってこられると、ほとんど認知症状態で「なんのこっちゃ???」と、現実を直視などできないまま、つまり何も認知しないまま敗残の身になるのだ/多くの人はそうして、本当は仕事を続けてきたのではなく、マニュアル業務を繰り返してきただけで、途中から自分が生きていることなどまったくわからなくなっているものだ、そのうちマニュアル的に結婚もするし出産もする、そして家を買ったり子供に学資を出したりもするが、すべてマニュアルをなぞっているだけで、何が起こっているかは当人はまったくわかっていない、そして死ぬ間際になっても周囲に「ジタバタせずマニュアルどおりに死ね」と抑えつけられる、こうして何もファーストフード店だけがマニュアル業務をやっているのではないのだ。

われわれの多くは、「仕事」などという複雑なことはできない。

われわれには、純粋な能力とは異なる、生来的な「機能」として、「パターン化したことを覚える」という機能があるのだ、誰だって靴を履くときに困ったことはないだろうし、自宅の電灯を点けるのに困惑したことはないだろう、そのように、毎日やっているパターンは否応なく覚えるという機能がある、それは脳みその機能ではなく「脳みそを使わなくていい」という機能だ/世の中のほとんどの業務はただその機能を社会的流通に当てはめているにすぎない。
とはいえ、そのことをやっていれば生きていけるのだから、別にとやかく言わなくていいではないかというとそのとおりで、ただ生きていくということを見るなら、まったくそのとおりマニュアルを毎日繰り返してパターンを機械的に覚えるということが最も健全だろう、ただし外部からガチの競争力が襲来したり、技術的にイノベーションが起こったらそのときはきっちり切り捨てられるというのも事実として覚えておかねばならない/そしてわたしとしてはそれ以上に、本当に全員がそうしたマニュアルに催眠化された生を納得済みで十分に合意した上で過ごしているのだろうかという疑問がある、中にはそうと知ったとたんに「そんなこと一言も教わらなかった」と不服を言う人もいるのではないだろうか。

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本来「恋あい」なんてものは一般に存在しない3
類は未だ「恋あい」がどのようなものかわからず、にもかかわらず、それをさもわかっているふりをするという知ったかぶりを続けてきている。
そうして、実はわかってもいないことを、わかっているふりをするために、われわれは「恋あい」を、自分の知っている習慣・伝統・様式に結びつけようとする、そうしてさもそれを「わかっている」ふうに錯覚する。
「恋あい」という、実はまったくわかっていないものを、既知の習慣に結びつけるとき……たとえば古来日本の都市部習慣に結びつけるとき、その人はフーゾクタイプになるし、古来日本の村落習慣に結びつけるとき、その人はヤリサータイプになる、そして輸入した西洋の伴侶習慣に結びつけるとき、その人は婚活タイプになる。
そうすると、あたかも恋あいが「わかった」ような気になるのだ、大日如来を拝む習慣にいる人がヤハウェの話を聞いたら必ずそれを「大日如来のことね」と変型するように(遠藤周作)、われわれは「恋あい」を何十年も未知のままには決してしておかず、必ず既知の習慣と結びつけて変型する、その結果としてわれわれの周囲の、フーゾク・ヤリサー・婚活という事実が建築されている。

むろん、フーゾクもヤリサーも婚活も、「恋あい」ではないということ、そのことは薄々わかっている。
それで、その三種とも「恋あいではないのだ」として、突っぱねたとき人は恋あいへ飛翔するかというと、そうではない、飛翔ではなく谷底へ落ちていってしまう、そこでオナニーを実態とする「オタク」や、マンガ・アニメ・アイドル文化、あるいは逸脱した性的嗜好、また性同一性の混乱が形成されるのだ/つまりフーゾク・ヤリサー・婚活の三タイプともを否定すると、セックス観が「性交でなくなる」ということだ、オーガズムが性交に無関係なものとなり、オーガズムを担うのは「自慰」だという定義になり、また性交を模してみてもその内実は他人を使った自慰だという状態になる。
平面上に三角形を描き、その上空に点を置けば、三角錐が成り立って三角錐の山頂が「恋あい」ということになるが、このとき同時に三角形の地底にも点を置かねばならず、この三角錐の谷底が「自慰愛」になる、フーゾク・ヤリサー・婚活の三タイプを拒絶した者はその勇敢さを称されて恋あいに飛翔するかというとそうはならず、三タイプを拒絶した時点で一種の審判に晒され、その審判の結果ほとんどは恋あいに飛翔するどころか自慰愛の谷底に引き落とされる。
こうして自慰愛の谷底に落ちた者は、それでも自分は陳腐な三タイプを拒絶した者だと信じているから、自分を高尚なものとみなしている、その実際は審判の結果として正統に谷底に落とされた烙印の者だ、この谷底の自慰愛者は、実際の自慰行為に加えて、自分が特別な恋あいの者だという空想と自己陶酔が、その自慰行為を二重の自慰にしているのだ、だから谷底の自慰愛者は、自分の自慰行為とそれに関連するオカズをどこかで「尊い」と感じている/だからこうした自慰愛者は、自分の変態ぶりと矛盾なく、自分の周囲を「見下している」という状態にある、これもまたわれわれが現代のわれわれ自身を観察して理解するのにそのまま適用できる構造だろう。

フーゾク・ヤリサー・婚活という「三国志平面」があり、その上空に「恋あい」、その地底に「自慰愛」がある。

特徴として、フーゾクタイプはフーゾクを尊いと思っているわけではないし、ヤリサータイプもヤリサーを尊いと思っているわけではない、婚活タイプも婚活そのものを尊いと思っているわけではないが、自慰愛者は自慰愛の周辺を「尊い」と思っているのだ、恋あい者が恋あいの周辺を「尊い」と感じているように。
このように、セックス観の平面に「尊さ」という高さ軸を導入しなければ、セックス観はそれぞれフーゾク・ヤリサー・婚活という伝統習慣に分割されるのみとなる、そこに「尊さ」という高さ軸を導入した場合、セックス観の定義は三国志平面上のものではなくなってくる/今、自慰愛者が何かしらのアイドルを押し立ててその偶像のもとにオナニーを積み重ねているのは、そのアイドルを「尊い」と感じてのことなのだ、彼らはフーゾクでイクことやヤリサーでイクことや婚姻関係でイクことを「尊さのない平面的オーガズム」と感じ、偶像をあがめてオナニーしてイクことのほうを「尊さを主題とした立体的オーガズム」と感じている、このようにしてわれわれは実際、周囲に「恋あいでないもの」ばかりを目撃しているというのが現実だ。
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本来「恋あい」なんてものは一般に存在しない2
「実際に残っているのはフーゾクとヤリサーと婚活」と述べた/そのそれぞれは以下のように対応している。
フーゾク古来日本の都市部・宿場タイプ
ヤリサー古来日本の集落タイプ
婚活輸入された西洋タイプ

実際には「恋あい」なんてものは、なかなか存在せず、めったなことで体験は得られないものだ、にもかかわらず、われわれはそれが自分にも平等に「ある」と思っているので、根拠のない恋あいへの希求がそれぞれを伝統的慣習に立ち返らせていく。
たとえばAさんは、「これが恋あいじゃないの」と追いかけているうち、いわゆるメンタルヘルスを病み、「お金くれたらやる気でるw なんでか」という言い方をするようになり、「フーゾクやろっかなw」と、冗談口のうちにもフーゾクタイプになる。
たとえばBさんは、「これが恋あいじゃないの」と追いかけているうち、年長者から「いいじゃん、みんなでパーッとやろうよ」という呼び声が掛かり、リア充グループに属することになり、このグループは「祭り」「フェス」「酒宴」を村のイベントとし、酩酊の中でそれぞれに夜這いをする・夜這いを受けるような形でヤリサータイプになる。
たとえばCさんは、「これが恋あいじゃないの」と追いかけているうち、セックスが後ろ暗いものと感じ続け、「こんなことは続けていたくないの」と考えるようになり、「セックスはあくまで子供を作るためのものだし、結婚するつもりがない相手とはしたくないの」と、万事を「結婚前提」で考えるようになり、それ以外のことは「セクハラ」と疎み、「怒りますよ」と目くじらを立てるような形で婚活タイプになる。

三脚をぐるぐる回ってもそこにカメラはないように、三タイプをぐるぐる回ってもそこに恋あいはない。

この話にはまだ続きがあるのだが、ひとまずカメラを立てる「三脚」だけイメージしてもらうとして、それは数学でいうといわゆる「三角錐」になる、平面上に三角形があり、その上空に点を設定すると、四点を結んで三角錐ができあがる。
さしあたり、「これが恋あいじゃないの」と追いかけるうち、最もありふれた、ある意味最も健全な形で、それぞれの三タイプが生成されるということ、そのことだけを知っておけばいい、自分自身のことを考える場合のみならず、われわれの周囲に起こっていることを判断するときにもこの構造が役立つはずだ。
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本来「恋あい」なんてものは一般に存在しない

本の場合、そもそも明治より前は封建制(=万事を親が決める)なので、当人が見たことも会ったこともない相手と結婚が決定するということがいくらでもあった/たとえば幕末の桂小五郎や西郷隆盛が江戸の屋敷にいると、地元の親から手紙が来て「お前の嫁さん来たよ〜帰ってきて祝言を挙げましょう」といきなり決定済みの連絡を受けるのだ(それが当たり前であり「忠孝」とされた)。
じゃあ親が決めるまでセックスはなかったのかというと、むろんそんなことはなくて、遊郭は存在していたし、宿場ではたらく飯盛女(めしもりおんな)だって娼婦も兼業していた、今でいうと旅館の仲居さんが夜伽の相手もしていたということだ、都市部や旅籠や城下町ではだいたいそんな感じだった、あるいは女性がお伊勢参りに行くのに道中各地で夜鷹して一宿一飯と路銀を得ながら行くということも常套手段だったらしい/ちなみに「千と千尋の神隠し」で「湯女(ゆな)」になった十歳のチヒロも、湯女といえばつまり娼婦になることを示している、宮崎駿は明確にそのモチーフを狙って本作を描いたわけで当人もそのことを隠してはいない。
一方、街道に面していない村落も無数にあるわけで、そういう村落はどうなっているかというと、ご存じのとおり「夜這い」がメインだった、男子は一定の年齢になったら青年組に所属し、青年組に所属すると村の女性に夜這いしていい権利を取得する、むろん女性の側はそのときイヤな相手なら断っていい、このシステムは昭和ぐらいまで地域によっては残っていたふしがある。
そもそも、夜這いシステムの中で女性は複数の男と寝ているので、産まれた子供は誰の子供かよくわからず、誰もそんなことは気にしなかった、産まれた子供は「村の子」だった、このことがあるから、かつて昭和生まれの郊外の子供たちは、近所の家にノックもなしに勝手にあがりこんだりする風土があったのだ、その地域の子・村の子という感覚と風土が残存していたと言える、現在はむろんそんなものは残っていない(極端に隔離された地域なら残っているかもしれない)。

そうした日本の村落のセックス事情を見て、かつて日本に来た宣教師が、「この国には貞操観念がなくて結婚の制度もメチャクチャです」という焦ったレポートを教会本部に送っている。
だからどういうことがあったかというと、古くから日本にあったのは「恋あい」ではなくてむしろ現代の「ヤリサー」なのだ、ヤリサーに所属している男は、合宿にいけば合宿先で女性に夜這いしてもいいし乱交してもいいというノリだろう、むしろ現代の「ヤリサー」のありようが、古代からの日本の村落の遺伝子が発現していると捉えていい。
日本の伝統的なセックス観は西洋のそれとはまったく異なり、なにしろ創世神話の時代から、アメノウズメという女神が、「陰毛を丸出しにして踊ったので周囲はオオウケした」と描写されている/事典を調べれば出てくることだが、伝統的に日本の集落では、妙齢になった女性の処女をその村の長老が破瓜するのがスタンダードだったし、同じころ少年は、村の年増女たちのグループに連れて行かれて「筆おろし」されるのがスタンダードだった、このスタンダード初夜を済ませた男女がその後は村の「ヤリサー」に所属したことになるというシステムだ。
そもそも日本には、武家などを除いては明確な「婚姻」のシステムがなかったし、武家の婚姻といってもたとえば将軍家の跡継ぎなどはむしろ側室がメインで輩出しているような向きもあってメチャクチャだ、そもそも結婚というと男性側から女性の実家への「通い婚」がメインであって、通い婚のまま子供を出産し(女性側の実家で出産するのであり、旦那さんは出番なし)、子供も育って時間が経ち、男性側の母親が年を取って身体が動かなくなったら、家事をする人がいなくなるので改めて「嫁入り」してもらうというシステムだった/あまりにも現代人の感覚と違うこうしたことが、百年前は常識的スタンダードだったのだ、明治になってから日本は一夫一婦制の婚姻制度を敷いたが、それも富国強兵のためであって、こんな中に「恋あい」が何たるかはまったく捉えられていない、つまり人類は今もずっと「恋あい」を知ったかぶりし続けている。

日本はヤリサー思想で、西洋は伴侶思想だった、そのどちらとも「恋あい」とは無関係だ。

戦後の日本は特に西洋化され、男女の仲は「ロマンチック」であるべきという風習が起こるが、そもそも「ロマンチック」という語も、われわれが思っている意味の語ではない、ロマンチックというのはロマン派チックという意味であり、ロマン派というのは日本で言えばつまり言文一致運動後の明治文学のことだ、そのロマン派のスタイルが過ぎて消えていった後の変容のことを「大正ロマン」と呼んだのであり/わたしが文語体を使わず中世のことにわれわれをつなごうとして書き話していることじたいがロマン派の手法に近いが、これをどう見て誰が「ロマンチック」と言うわけがあるか。
日本は古来から男女といえばヤリサーと遊郭(後の赤線)なのであり、西洋はというと、マグダラのマリアに見られるように、聖書に書かれた「姦淫するなかれ」が厳しい法としてあるので、苦し紛れに「うーん、伴侶ならヤッてOK!」としてきたという歴史だ、カーマ・スートラだって本当に読んだことがある人は少ないだろうが、それにだって「外国人と結婚するのはムリっす、やめとき」ぐらいのことしか書かれていない/このようにして、本当は人類まるごと、「恋あい」なんてものはよくわからないし、一般には存在していないのだ、本当には存在していないからこそ、交際は半年も経つと「冷めた」となり、その後は時間をかけてトラブルの源泉になっていったりする、その面倒くささを避ける人たちがいて結果、実際に残っているのはフーゾクとヤリサーと婚活でしょという事実になるのだ、今われわれが目撃しているとおりのことだ。

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