☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
この世の中には当たり前の隠し事2
口を言っているのではない。
「この世の中」、といっても、その半分は隠し事にされているので、見えないじゃん、という話をしている。
先日、パスケットボールの日本代表選手たちが、インドネシアで買春行為をし、それが明るみに出て懲戒処分を受けたが、われわれは当然、バスケット選手のバスケットコート上での振る舞いしか知らない、だからこの世を読み取ることはできないということだ。
隠し事をせず、代表選手としてのツイッターに、前もって「買春もしてきます!!」と公言していればよかったのかもしれないが、なぜかそうして公言すると、世の中は「混乱」してしまう、だから混乱しないように隠し事にしているのだが、それではけっきょく水面下には混乱しかないということになる/本当のところは誰も、なぜバスケをするのが、そしてなぜ買春をするのか、よくわかっていないのだ、よくわかっていないまま当てずっぽうで生きている。

なぜこんな話をしているかというと、われわれが健全に生きるためであり、そしてそれ以上に、われわれが元気に生きるためだ。
われわれが仮に、バスケットボールの日本代表選手の、そのプレーから、「元気をもらいました」「勇気をもらいました」と感じることがあったとしても、それは根本的に誤解であり、この誤解に基づく元気と勇気を追いかけていると、われわれは疲れるのだ、そこには真の元気も勇気も世界もないのだから。
重要なことは、ずっと同じ、きっちり50%は隠し事にされていて、読み取ることができないということだ、そのことに基づいて考えれば、少しまともになって、われわれは元気になる/たとえば、バスケットの代表選手がスキャンダルでバッシングされたとして、そのバッシングを熱烈に始めるいつもの人たちも、当人としては粘膜や穴をドドドドとやっているということを考えればいい、そうすると少し真相に近づいて元気になる。
あるいは、セクハラ告発運動、いわゆるMetoo活動の、中心的人物の一人だった女優アーシア・アルジェントも、ここにきて、五年前に17歳の少年に性的暴行をしており、そのことに口止め料を払っているということが明るみに出てきたそうだ、このお姉さんもつまり粘膜や穴をドドドドしており、そのことが「案外やめられず」「水面下で幅を利かせていた」ということになる/こういうことだから、表面的なバスケットボールや表面的なMetooに元気や勇気をもらおうとしても、けっきょく疲れるだけなのだ、本当はなぜ女優をやっているのか、なぜ少年と強引にファックしたのか、当人もよくわからず、われわれは当てずっぽうに生きている。

カネで買った女子中学生をヤッているときでも、おれはおれだ。

実際にはそんなさもしいことは、今のところしていないが、仮にそんなことをしていたとしても、その最中もおれはおれだ、僕にはいわゆる「裏の顔」のようなものがない、僕の場合はその程度がひどく、仮にカネで買ったヤク中の女子中学生がハダカで目の前にいたとしても、「えーと、それは背骨の使い方が違うな」とか「言葉の定義はそうじゃない」とか言い出しそうだ、それはそれでどうなんだと自分で呆れるところがあるが、とにかく僕は表沙汰にも栄光などないぶん、水面下にも裏の顔などない(だからずっと元気だ)。
あなたが僕に、詩文で迫っても、身体的ワークで迫っても、ハダカで迫っても、僕はびっくりするぐらい同じだ、そのときは「だからずっと元気なのね」と、わかってもらえるだろうか/そりゃ半分も隠し事だったら疲れずに生きられるわけがないよ。
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この世の中には当たり前の隠し事

いどーも、九折さんですよ〜。
この世の中が読み取りづらいのは、基本的に秘密というか、隠し事があるからだ。
世界中のどの子供だって、両親のセックスの結果、自分が生まれたのだということは、気色悪い感じがするものだ。
男性も女性も、尻の穴やヴァギナに何かを突っ込んでアンアン言っているということは、想像すると気色悪いものだ、そしてこのことが公然の秘密にされているので、われわれの世の中は読み取りづらくなっているのだった。

人は、自分の生きている意味がわからないものだ。
生きている意味がわからないのに、また今日が始まるということは、なかなかキツいことで、このキツさから目を逸らすために、粘膜をこすったり、穴に何かを入れてアンアンするのだ、そして何食わぬ顔で「おはよう!」と挨拶している。
よって、われわれの世の中というのは、目の前に表示されているものからでは、読み取るのに情報が欠けているのだ/その、粘膜をこすったり、穴にものを入れてアンアンしたり、嗜虐的な映像を見てハアハアしたり、妄想で自分を慰めたりとかいう、度合いが人それぞれ違うので、これが隠し事にされている以上、われわれはこの世の中を正規に読み取ることは不可能になる。
ざっくり言って、この世の中を読み取るためには、きっちり50%の情報が欠けていると見ていい、色んな人がごくまっとうなことを言っているように聞こえても、すべては「話半分」なのだ、あなたがあなたのすべてを開示などまるでしていないように、他の人もすべてを開示などまるでしていない。

ヒント:「世界」が得られない人は、「体感」を得て補っている。

「世界」がまるで得られない人も、とりあえず機械仕掛けのディルドで穴をズドドドとやれば、何かしらの「体感」は得られるのだろう、これが案外やめられず、これが水面下で幅を利かせているのだ、だからこの世の中は表面上「読み取れない」ということになる。
アルコールやギャンブルへの依存症も同じだ、あるいは憎悪や怨みやスポーツや筋肉のヒートで生きている人も同じだが、それらはすべて、「世界」が得られないことの補いに「体感」を得てごまかしているのだ/「世界」が得られないので、体内を駆け巡る「物質」(ホルモン的なもの)で補っているのだ、このことをすべての人が隠し事にしているので、われわれはまったくこの世の中を読み取ることができない。

視点変えてこ | comments(0) |
「個人的な気合い」と「空間的な気合い」

は誰でも、漠然と「気合い」を入れる。
「個人的な気合い」を入れると、これは己に「空気」が入ることになり、全身は「重く」なる/それ以上の説明をすると激ムズになるので平易に説明している。
全身が「重く」なるのは、それ自体は悪くなくて、「まんべんなく」重くなるならいいだろう、これで人はヘナヘナではなくなるし、安定するし、一種の健康法にもなる、イライラすることもなくなる。
だが、「まんべんなく」ということが、案外むつかしいし、誰も気合いを入れるときにそんな考え方はしないので、どうなるかというと、身体は「偏って」重くなる、それでバランスを崩し、疲れたり、つんのめったりする、あえて前のめりになるために邪道に使う人もあるだろう、「個人的な気合い」というのはそういう性質のものだ。

個人的な気合いは、誰でも入れるものだが、「空間的な気合い」ということになると、ほとんどの人は気づかないし、なんのこっちゃと、その発想すらそもそも持たない。
感覚的なことなので、説明のしようがないが、個人的な気合いが「自身」にのみ集中するのに比較して、空間的な気合いというのはそこにある世界や空間そのものの、気合いに準じるということだ、とにかく「気合い」といっても方向が違う、自分の気合いではなく空間の気合いだ。
もちろんこれは、いつも言っているようなことを、言い方を変えて説明しているだけだ、なぜこんな言い方をしているかというと、われわれはどうしても「個人的な気合い」ばかりに転落しがちだからだ、個人的な気合いは必要であり有益なものだが、「融通」という面ではまったく利かない、あんまり面白みのないものだ。
気合いというのは、「自身」に集めるほど、密になり、空気になり、重くなるのだ、これをなるべく広い「空間」に拡散すると、疎になり、真空になり、軽くなる/単純に「気合い」なるものを体積Vで割り算すると思えばいい、体積がデカければ密度はゼロに近づいていく……人は空気でパンパンになると重くて動かなく(=動けなく)なり、真空でパンパンになると軽くてスイスイ動くようになるのだ、スイスイ動くほうが実用性も面白みも大だ。

エアコンの音も聞こえていないのでは、人の話なんか聞こえるわけがない。

「理解」やら「納得」やら言って、己を空気でパンパンにすることは、まあ気合い一つで出来なくはない、が、そうしてパンパンにしたものはもう動けない、エアコンの音ひとつを聞くのでさえ、われわれはパンパンに詰まった理解やら納得やらを抜かねばならないのだ(やってみりゃわかる、「理解」やら「納得」のままでは「聞こえない」はずだ)。
エアコンの音だって、よく聞いてみれば、吹き出す風の音と、モーター音とが鳴っているはずだ、それらが一つになって「エアコンの音」だ……その音を慎重に聞き"ながら"、椅子から立ち上がってみる、おそろしく慎重になるが……すると全身がまんべんなく軽く動こうとするのがわかるだろう、そして少しでも「よっ」と己に空気を入れて立つと、その途端エアコンの音は聞こえなくなる、聞こえていたものが途切れる、それが「個人的な気合い」だ、空間的な気合いから切り離されて、重く動かなくなるのだ。

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マスメディアを見切ること
見良昭という人が、この現代で、「忍術」を継承して、人々に教えている。
忍術? ニンジャですか? と、まるで冗談のような話だが、まったく冗談ではなく、世界中の軍隊や特殊部隊や特殊警察に、戦闘術と生き残りの術を教えているのがこの人なのだ/そんなマンガみたいな人がこの日本に実在している、youtubeで検索すればいくらでも出てくる、そのスジでは超有名人だ。
実際、米軍が、中東の戦闘で帰還兵を調査したところ、初見良昭先生に習った人ほど、生き残って返ってくる率が有為に高いということで、ペンタゴンは初見良昭に感謝状を贈っているのだ、本当にそんなマンガみたいなことが現実としてあるのだ。
僕の知る限り(といって、まったく詳しいわけではないが)、この初見良昭という人が現代で神がかり最高峰の武人の一人であることは間違いなかろうし、あるいは黒田鉄山より速い剣を出せる人はけっきょく世界中に一人もいないのではなかろうか、そして僕はそうした武術の世界をあなたに勧めているのではなく、マスメディアはこうしたことを一切あなたに教えないということをお伝えしておきたい。

僕の知る指揮者のS先生は、打点の正確さにおいては、けっきょく当代随一だったのかもしれんと思うし、I先生だって、バイオリン一本でヨーロッパのサロンを旅行して回っていたというのは、今考えればけっこうシャレではできないことだ。
何が言いたいかというと、あなたは油断していると、あなた個人が「思う」ということと、漠然とした大衆(マス)のメディアが垂れ流すことだけに包まれて、知るべき何かにまったく出会わずに生きてしまうということだ。
マスメディアは、作為的に、あなたに<<必要のない情報を届ける>>ものだと、あえて断じてしまったほうがいい、あなたは一人でウジウジしていてもしょうがないのだが、その不毛なところに、さらに「必要のない情報」を届けてくるのがマスメディアだ、あなたはこの本質的に「あなたの」役には立たないものに包囲されて数十年を生きてしまう可能性が濃厚にある。
昨今はインターネットもけっきょく、ユーザビリティに偏ったマスメディアに成り果てたわけだが、マスメディアは「大衆的情報」の媒体であって、基本的に「あなた」に必要な情報はひとつもない、<<ひとつもない>>のだ、マスメディアはあなたを大衆化する装置であり、あなたの個性化を阻害することにしかはたらかない、あなたは表面的には大衆化するべきだが、中枢まで大衆化したら何の救いもないバカに成り果ててしまう。

この現代ほど、マスメディアが人々の首根っこを掴んでいる時代はない。

ほんの二十年前、インターネットの常時接続なんてありえなかったし、その五十年前は、テレビもなかったのだ、その前はラジオもなく、せいぜい新聞がマスメディアだった、そしてそれらのメディアは旧来、人々の暮らしの補助に存在していたのであり、現代のように首根っこを掴んでいるものではなかった。
あなたがまともな命を掴むためには、<<あなたの命とマスメディアの情報には何の関わりもない>>ということに気づくしかない/現代において、マスメディアに首根っこを掴まれている人は、もう命がないのだ、その結果、あなたはリモコンとマウスクリックにウキウキする一方、実際に街に出たらすることが何もないという状態になっている、あなたがブラウザを操作しているのではなく、ブラウザがあなたを操作していることに気づかないといけない、あなたはブラウザの首根っこなんか掴んでいない、首根っこを掴まれているのはあなたのほうだ。
視点変えてこ | comments(0) |
思議の世界とアホになった瞳孔
思議なもんだ、もうこの世に生きる用事はそんなに残っていない。
もともと何かを、必死こいてやらんでよろしい、それはダラダラするということではまったくないが……そもそも「この世」というのを安直に決めつけすぎだ。
われわれは日常、やたらと思議し、頭ン中はずーっと何かを思議しているのだが、それは今の時代だけであって、過去もそうだったわけではない。
思議が悪いのではなく、思議から生じる世界もあって、ただそれは世界のすべてではないというだけだ、いわゆる「瞳孔の不睨」が成らないかぎり、この思議の世界から脱出することはできない。

摩訶不思議な世界があるというわけではなく、思議には思議から生じる世界があり、思議しなければ、思議しない側の世界もあるというだけだ。
ただ、思議によって生じる世界は、偏屈かつ偏狭であり、極めて偏っている、だからそれだけを世界にしていることには極度の無理がある。
人が消えていく……人の命がない、だから人が消えていく、さすがに僕は人の命に反応しないほど鈍感な者ではあるまい、人の命があればそれなりに反応するだろう/思議の世界にはけっきょく命はないので、あるのは格と呪いだけだ、とにかくまったく異なる世界が広がっている。
ひんやりとして綺麗な、あの世界を観たことがないのだろう? 思議の世界はただ現代の特徴であって、過去までがそうだったわけではないし、かつてはここまで誰も彼もうるさくはなかったのだ、なぜ思い出せないのか、ほんのこの数年のことじゃないか。

どうして何もない世界のファンなのか。

現代芸術を見ればわかるが、誰も彼も、芸術の死、何もなさ、無意味の意味を執拗に問うことに大真面目だ、しかし一人でも賢ければ、「芸術が死んだんじゃなくテメーが死んだんだよ?」ということなのだが、本人は思議世界しかこの世にないものだと思っているので、芸術は死んだと本気で思い込んでいる、自分の瞳孔がアホになっただけなのだが、どうしてもそこに視点を向けるのはイヤなようだ。
現代芸術というジャンルが成り立ったのではなく、現代人が芸術というジャンルに土足で闖入したから、何の命も愛もないものが、「これこそ芸術」と定義をスリカエられただけだ/瞳孔がアホになった自分を肯定するために、これまで命あったものを殺害してまわるというのはどうなのか、思えば今の「現代」はそうして成り立ってきたのかもしれない、詩聖タゴールにどう抗弁するつもりなのか。
視点変えてこ | comments(0) |
僕が受けてきた暴力のレポート3
も無防備なところに、最もえぐいものをズドンだ、このことは、人の力で抑えることはできない。
眠りから覚め、夢うつつのきわ、直観とは異なる具体のヴィジョンを見た、「何が起こっているか」について/僕が横隔膜を無防備の極点に近づけ、人に分け与える極点に近づくほど、人はその無防備なところにズドン! の衝動を抑えられぬ、その衝動は人の力では抑えられないようだ。
まったく、われわれの常識や通常の想像力では、推し量れない出来事が起こっている、まるで機械化された何かのように、僕は愛そうとし、やさしくあろうとし、笑わせようとして、それがうまくいく極点でズドンやグサリで討ち取られる、そうしたら僕はただちに再生せねばならない、僕は自分を討ち取った者に土下座しながら再生せねばならない。
これは何かの因果なのだろうか? そう捉えることは気分的にイージーだが、安易な結論は出せない、これは因果でも何でもなく、「何の意味もない」ことかもしれなかった、それによって僕が何かをやめるということは決してないだろうけれども……

夢うつつのきわ、すべてのものが、僕を殺しに来るのがよくわかった/なぜ殺しに来るかというと、僕が「横隔膜を広くたゆたわせているから」というだけの、理由未満の理由しかない、人々はこのときの僕に向けて、自動的にキリング・マシーンにならざるをえない。
<<赤子を見よ/嬰児でさえ、苦悶にわめくとき、横隔膜を引き攣りあげ、また極楽にほほえむとき、横隔膜を広くたゆたわせている>>、われわれのほとんどは、あの苦悶の表情から生涯脱することができない。
僕に土下座をさせ、平手を打ち込み、鼓膜を傷つけたり、土を舐めたさせたり嘔吐と悪夢を繰り返させたりしたとして、なおも彼らにとって加害者は僕だ、特に彼女らは悪いことを決してしない者たちであるから、このことは定義とみなしてよい/僕は己の加害者たるを認め、土下座して詫びながら、再生し続けねばならない、もう一度彼女らを笑わせるのが、彼女らにとって「当然」のことである限りは……
昨日がそのようであったから、今日もそのようであり、明日もそのようであるだろう、僕は学門の徒であるから、読み取りうるものだけを読み取らねばならない、したがい僕の横隔膜が出会うのは、現代において多くの人の靴底だ、僕は横隔膜に靴底を受け入れるとよいが、ただし僕が加害者たるの自認と自責を忘れるとやはり許されないだろう。

こころある者は、僕の横隔膜をトランポリンとして踏んで楽しみ、こころない者は、トランポリンに切れ目を入れてみる衝動を抑えられないだろう。

僕自身は、このことに、悲劇的な感情は持たないし、ネガティブな思念を引き起こされるわけでもない、本当にもう慣れてしまったのだと思う、ただ事実だけを知りたいのだ、どれほどのことが起こっているのか/なぜなら僕は、まさに今日のこととして、これらの思念の中、青草に輝く日の光を目撃し、吹き抜ける一陣の風にすべてを肯う声を聞いた、だから僕に絶望はないのだ、あのような光と風に包まれてあれるのならば、その他のことがどうであってもかまわない、もうほとんどのことには慣れてしまった。
僕は横隔膜を広げて踏まれる、そして極点に至るとズドン・グサリだ、それはいつものことで、もう飽きてしまった、珍しくなくなったことに、人は冷静になれるものだな/すべてのものが、僕を殺すことに色めき立つとして、それはそのようであるからどうする必要もない、僕はただ、あの光と一陣の風に出会うために行くのだろう、それに比べれば僕の払う代償なんて安いものだ。
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僕が受けてきた暴力のレポート2
えば、僕を一度も攻撃しなかった女性というのは、実に数少ない、ほとんどの人が数度は、強力な呪詛のこもった攻撃を仕掛けて来、僕が土下座なりして、その後笑わせようとする、取りなして世界を恢復しようとする、というのが一連のパターンだ。
僕はいつからか、現代女性にとって男性の定義を(特に僕自身に向けての定義を)、単純に「断罪と処刑でノリノリになるもの」として、その上で女性になお与えること、世界と笑いを与えることをやめなかった。
そうするうち、その「断罪と処刑でノリノリ」という本質は何ら変質するわけではないが、僕のクレイジーな(と、女性たちには見えたらしい)選択と行為に、逆に震え上がり始めた、そしてその後、実際に強烈な「カルマ」というべき現象が体験されてきたのでもあった、中にはあからさまな「地獄落ち」のヴィジョンを見て錯乱し救急隊員の世話になった人もいる。
ちなみに、僕は別に、クレイジーな判断と行為をしているわけではなくて、もともと女性が僕をどう扱おうとも、僕の側は女の子への態度を変えるつもりはないので、僕にとっては当たり前のことだ、その点については他の人の按配は知らない/そりゃだって、僕はカルマ地獄に落ちたくないものな、向こうの投げつけてくるものが石でも糞でも唾液でも、僕から差し出すのは花束で変わらない、そりゃ僕は男なんだから当たり前ではないだろうか。

いわゆる腐女子という人々も、現在は数百万単位でいるのだろうし、LGBTも、生来的なものでなく結果的に、場合によっては流れ着いた先に、そうなったとしても何もおかしくない、異性愛のまま背後に「断罪と処刑でノリノリ」を隠しているよりは、慈しみのあるLGBTのほうがよっぽど「まとも」と言えるかもしれない。
また、女性のほうが、男性への「断罪と処刑でノリノリ」の度合いが強いので、女性のことをメインに話しているが、男でも同じだ、男でも現在、「男」と見える男には「断罪と処刑」の衝動を覚えるし、お肌ツルツルでヒョロヒョロの男性のほうが、素直に応援できるし、慈しめるし、励まし合えるのだ。
僕自身はできるかぎり、もとあった「男」としての自分を、変えずにいきたいし、変えたところで僕はもうこの世で何の役にも立たない、かつ何の面白みもない物体に成り下がってしまうので、今さら変えるつもりはないのだが、これは「断罪と処刑でノリノリ」の大正になるのだ、そのことに理由はまったくない/理由があるのではなく、ただの「定義」だ、特別な感情があるわけじゃない、きれいな海があったらつい飛び込みたくなるのと同じ「衝動」だ。
十年前、あるいは二十年前から、僕は知っているし、今もまだ覚えている、僕がなんとかして正当な愛を向けたら、相手の女の子も「あっ」と、受け取ってほほえみを向けてくれたものだ/今はそれが、くっきり変わっているのがわかる、僕がなんとかして正当な愛を向けると、向こうからは「断罪と処刑」の予定に向ける眼差しが返ってくる、そしてそれは正義だ(「定義」において正しいのだから「正義」に決まっている)。

戦中は英雄だった兵隊さんが、戦後には罰すべき蛮族に再定義されたように、過去はすてきだった「男」が、現代では罰すべき蛮族に再定義されている。

そういえば今日は、終戦記念日か、国の興廃と身命を賭した戦いに比べると僕の危難などゴミみたいなものだが、この際は英霊への非礼を詫びつつ、なんとかあやからせてもらおう/どうして戦中は国を守る英雄だった兵隊さんたちを、戦後は急に「処刑すべきゴミ」なんて扱ったのだろう? そのときもやはり、「断罪と処刑でノリノリ」という現象はあったのだろうか。
戦後はGHQ主導のプロパガンダ等もあり(WGIP)、ラジオ番組などもあって、敗戦感情の市民はコロッといってしまったということだそうだが、現代でも同じように、プロパガンダとメディアブームがあると、敗戦感情の市民はコロッといってしまうのだろうか/僕は戦争にはしゃぐほどクルクルパーではないが、愛するもののために死地に赴いた兵隊さんは今もかっこいいと信じて疑わない(疑いようがない)ので、なんとか僕も少しはかっこよくありたいのだった、他人にどう扱われるかについてはもうどうしようもないのだろう。
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僕が受けてきた暴力のレポート

ういえば、僕はこれまで、何人の女性に土下座してきただろう、きっと十人ぐらいになるだろうか。
象徴的にだが、箸で首を刺されたり、土下座してそのまま、十数回平手打ちされ、鼓膜を損傷したこともある。
なぜ土下座したかといって、たぶん、最終的には、そこまで僕に悪逆非道があったわけではなく、場合によっては僕は何も悪くない可能性もあったのだが、とにかくそのとき女性は僕のことを憎悪もしくは「邪悪のもの」と信じているので、土下座して暴行させてやらないと収まらない。
僕が知ったのは、僕が土下座したところを、女性が十数回平手打ちすると、女性は「ノリノリ」になるということだ、「意外にすっきりするね」「また明日もやらせてもらおうかしら」というようなことを、大マジで言うものだ、僕の鼓膜を損傷させたあたりなどは「大金星」という様子だった、それが偽らざるところの彼女の心情だったのだろう、そのノリノリは未来へも引き継がれてゆく。

僕は基本、なんとかして女性を笑わせようとし、何かしら足しになれるようであろうとするが、それで女の子がたくさん笑って、いろいろ足しになればなるほど、必ずその女性は僕を攻撃する、何かしら僕に対して「死ね」という衝動で攻撃が起こり、そのことは止められないのだ/「死ね」という衝動が起こる上に、攻撃したらノリノリになっていくのだから、それを制御する方法は内省的にはありえようもない。
もし女性の手に拳銃があり、法が殺人罪を罰さないならば、女性は数秒とまたず僕に銃弾を撃ち込んでノリノリになるだろう、たぶん何かしらヒロイックな気分にもなるし、悲劇的な気分にも浸れるので、そのことは一種の「サイコー」なのだと思う、そういう表情はすでに経験から心当たりがある。
「そんなバカな」「そんなことない」という人も多いと思うが、そうでもないのだ、心当たりがないのは、関係に深入りしていないからにすぎない/たぶんその衝動には特に意味はなくて、単に「罪を着せて殺したい」「流血させて苦しめたらスッキリする」「何かがノリノリになってたまらない」というだけのようだ、そのことについて僕はすでに「そりゃそういうもんだろ」という理解で安定している(単純に言って、もう慣れて飽きてしまったというのもある)。
ただまったくわからないのは、十年前は、女性がそんな血祭り衝動を覚えることはなかったし、二十年前ともなれば、その逆で、流血といえばびっくりして慌てて手当てに来てくれた女性も少なくなかったということだ/なぜかよくわからないが、とにかく現代女性は、男性に罪を着せて苦しめて流血殺害することに、ノリノリでたまらない衝動を覚える、理由はよくわからないが、潜在的にそれは現代女性の「正義」なのだろう、もちろん女性が悪いことをするわけではないから。

男性が、現代の特定キャラに閉じこもって生涯を過ごすのは、女性に殴り殺されないためだ。

自分で言うのもアレだが、男性が、十も二十も年下の女、しかもこれまでにさんざんこころを砕いて色々与えてきた女に、鼓膜が損傷するまで平手打ちされて、正気でいられるとは思えない/ましてそれをシレッと学門の資料にするなどというのは、まるで死人みたいな考え方だ、こんなことさすがにオススメできるわけがない、生きることを諦めた奴の発想だ。
一般に、女性による男性嫌悪のことをミサンドリーというが、僕の知る限り、かなりの勢力がもともと、「嫌悪」とかの次元ではなく、さらには「憎悪」という次元でさえないのだ、ただの「煮えたぎる断罪と処刑の衝動」なのだ、やはり磔にして槍でも刺さないとスッキリしないのだろうか/僕は女の子ちゃんが大好きなのにね、まったく不公平なことになっちゃったぜ。

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男尊女卑・全面撤廃のガッツポーズ4

ぜこんなことをクドクド言っているかというと、もうこのパターンに飽きたからだ。
特に女性に多いが、人間やはり、どこかに何かの感覚があるのだろう、こちらとしてはまったく何もなし、いつもどおりの平静なのに、どうしても、向こうの目が真っ黒になり、「助けて」という眼差しになるのだ、そのときすでに身は困惑どころか、凍り始めて震えだしている。
まっっっっったく不思議なものだと、僕は毎回、あきれかえっている、どうして何もわからないはずが、そういう感覚だけ先に届いているのだ、むしろ僕にはそういう直感がまったくないので、そういう直感だけはたらいている人を見ると、「またかよおおおおおなんでだよおおおおお」と不思議でならないのだ/震え出す前に、もっと理知的に判断できるポイントがいくつもあるじゃねーか。
特に女性は、この現代の、男尊女卑撤廃の中、僕に対してイージーな態度を向けてきてくださる、僕はそれでぜんぜんかまわないのだが、自らそのように仕掛けてきておいて、震え出すのはマジでやめてくれ、しかも震えだしてからも、イージーな態度しかやっぱり出せないのだ、カードとしてそういうカードしか持ち合わせていないのだと思う/だとしたら何が問題かというと、単なる「カード不備」じゃねーか、何も震えるようなむつかしい問題じゃなく、「こんな場合を想定してのカードは携えてこなかった」というだけだろう。

話をむつかしくしてもしょうがないので、「持ち合わせがない」ということにしておこう/誰でも「持ち合わせがない」という瞬間がある。
何の持ち合わせがないかといって、「尊厳度の持ち合わせが、今ない」ということだ、持ち合わせがないときはどうするかというと、ひとまず借りにしておくしかない、そんなことは日常どこでもあることだ。
人は、イージーなものに対してはイージーに返し、尊厳をもって向けられたものに対しては、尊厳をもって返すのがマナーだと思うが、その尊厳というものの度合いが、想定しているものと別次元で向けられてきた場合、「今ちょっと、尊厳度の持ち合わせが……」ということになる、それならそれでいいので、「いま持ち合わせがないっすわ」で済ませるということを約束しよう。
このパターンに飽きたのだ、僕はなるべく、ちょっかいを出した女性には、まともな愛と世界と命を向けたいし、そうすることで何より「時間の無駄ではなかった」という状態にしたいから、そうするのだが、そのたびに女性が凍って震え始めるパターンに飽きた、どのカードを切っても持ち合わせがないなら、それでぜんぜんかまわないので、もう震えるのはやめてくれ、真っ黒になった目に「助けて」と書いてあるのを見るのは、見る側の僕としても穏やかでないのだ。

男尊女卑撤廃の途中で、カードは捨てたはずだ。

だから持ち合わせがないのは当たり前だ、<<いまどき目の前の男性に尊崇を向けられる女性がいるわけないだろ!!>>、極論すると今の女性は、目の前に「男」がいるだけで、態度としてはクソ向けの態度になるのだ、それが当たり前だし正解だからそれでいいのだ/持ち合わせがなくてクソ向けのカードしか出てこないのはそれでまったくかまわないから、凍って震え始めるのをやめてくれ、そこで震えたって呪いやカルマの軽減にはならない(というのもブルーな話かもしれんが)。
単純に考えて、男尊女卑の撤廃なんて、粗雑に断行されて、「つまり男はクソってことよ!!」という形で為されたに決まっているのだ、別にそれでいーじゃねえか、だからあなたから僕に向けられる第一の態度が「クソ向け」であるのには何の問題もない/僕が愛を向けるのは僕が勝手にやっていることだから、「僕はあなたに愛を向ける、あなたは僕にクソを向ける」でいいのだ、もちろんそのままで最後までいくとそれなりにヤバいのだろうが、とにかくありもしないカードを手探りして慌てるのはやめてくれ、女であるあなたから愛が返ってくるとは僕はみじんも思っていない。

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男尊女卑・全面撤廃のガッツポーズ3

校の先生といっても、今はだいたい、生徒とトモダチみたいなものだ。
それは正しいことで、これまでの旧時代が、横暴すぎたのだ、単に先生という立場だからといって、権力と権威をふりまわし、パワハラや体罰をしてきた、これはそれぞれが同じ人間だという平等性に対する侵犯になる、こんな許されざるものは、容赦なし、さっさと取り締まればいいのだ。
だがこのことも、大前提、マジの「先生」がいたらどうしよう、ということを捨象して成り立っている、本当に叡智と霊験に至っている「先生」がいて、学徒どもはただちに起立・拝礼しなければ呪われる、カルマが溜まってしまうというようなことがもしあったら、その場合はどうしようかということは、考えられずにきたのだ/先生といっても、しょせんショボイ俗人だろ、ということが前提にあって、先生平等トモダチ理論は成り立っている。
そして、やはり同じように、もう引き返すことはできない、<<尊いものと向き合える態度はすでに廃棄された>>のだ、廃棄されたそれを取り戻すことはもうできない。

もし、ホンマモンがいたらどうしよう……」ということなのだ、そのことがこれまでまったく考えられてこなかった。
あなたがもし、ホンマモンの「先生」に出会ってしまい、ホンマモンの「男」に出会ってしまい、ホンマモンの「愛」を向けられてしまい、ホンマモンの「世界」に触れてしまい、ホンマモンの「学門」を啓かれてしまい、ホンマモンの「叡智」を与えられて、ホンマモンの「命」が響いてきてしまったとき、あなたはどうするのだろうか。
今、男性というと、「まぢ、オレさあ」という感じで、女性というと、「えー、でもわたしはぁ」という感じだが、今この男性にせよ女性にせよ、ホンマモンの先生と異性と愛と世界と学門と叡智と命に一斉に包囲されたとき、どうするのだろうか、引き続き「ま、オレはさ」「うん、わたしってさ」を続けるのだろうか/本当にそれで無事で済むのだろうか。
ホンマモンの「尊いもの」に包囲されたとき、そのまま四時間、あなたは四方に向けて立ち尽くし、自分の言葉で自分の話をせねばならなかったとして、その四時間のあいだ、一度たりとも冒涜や破壊の何かを露出させずにいられるだろうか/これまであなたが己の身に培ってきたすべての態度や振る舞いの能力は、すべて「尊くないもの」に向けて適合するよう醸成されたものではないだろうか?

撤廃されたのは、男尊女卑じゃなく、「尊崇」という機能と態度のすべてだ。

ガッコのセンセーを、「先生〜」と呼ぶのはできる、簡単な話だ、金八先生のドラマでもそのようにしている、だが問題は、万が一、ホンマモンの「先生」に出くわしたときなのだ、ホンマモンの「先生」に出くわしてしまったときでさえ、これまで培った身口意の、平等爆弾はだまっちゃいない、どれだけガマンしても最後には「つっかかる」のだ、そのときはその先生がニセモノであることを祈るしかない、ニセモノならつっかかったとしてもその後何の禍(わざわい)も起きないだろう。
まあこんなことを、えんえんボヤいていてもしょうがないので、冷静に把握することだ、ホンマモンの「尊いもの」に出くわしたとしても、それと向き合う機能はすでに残されておらず、それどころか冒涜する機能が「だまっちゃいない」のだ、これはもうしょうがない、そのときに発生する呪いや業(カルマ)も、引き受けていくしかない、その後どうしたらいいかというと、どうしたらいいかは誰にもわからないのだ、とにかく今は、己の身に起こっていることを冷静に把握するしかない。

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男尊女卑・全面撤廃のガッツポーズ2

「ああ、ロミオさま、ロミオさま! なぜあなたは、ロミオさまでいらっしゃいますの?」と、ご存じ「ロミオとジュリエット」の一幕。
もはやこんなシーンも、憧れのシーンではないのかもしれない、ロミオとジュリエットなんかセンスのないクソだと罵るように/今さら急に旗色を変えることはできない、「ロミオさま」なんて呼び方は現代女性には許されないことだろう。
一部の女性には、たいへんツライことなのかもしれないが、しょうがないのだ、われわれ自身の作った文化状況なのだ、現代女性が「ロミオさま!」と叫んだところで、場内は大爆笑にしかならんのだ、「ロミオさま(笑)」/急にそんな「ワタシは殿方を尊崇するお姫様ァァァ」みたいなものに切り替われるわけがないじゃないか。
現代的に言うと、ラインチャットか何かで、「ロミオさ。ロミオがロミオなのって、まぢ不思議っていうか、なんでロミオなんだろうね笑。とか思った。なんであんたってロミオなの草」とでも送るしかない、これで女性の名誉が恢復されたという説は、うーんまぢかなワカンナイ。

尊い男性にはもう出会えないのだ。
こんな悲しい事実というか、致命的な事実を、年端もいかない少女に伝えねばならないとしたら、まったく身も凍る思いがする/「いい、○○ちゃん? あなたが尊ぶべき男性なんて、この世界に一人もいないし、あなたがそんな人に出会うことは絶対にないの。だからあなたは、どういう男かをよく見て、自分を大事にしてくれる人だけを正当に評価しなさいね。そのためにオシャレしなさい」と教えねばならない、うーん邪法の匂いがプンプンするぜ。
もし、聖なるジュリエットに、「ロミオさまとかいう呼び方、チョー男尊女卑だからやめなよ」と諭したとしたら、ジュリエットは首をかしげて、「なぜ? わたくしが尊び、他ならずお慕い申し上げているのは、あのロミオさまであって、わたくしを見つめてくださるあのロミオさまのことを、わたくしは不遜に呼び捨てることなどできないわ。あなたはどうして、このことがわたくしでない他の婦人方を貶めているのだとおっしゃり、そのことでわたくしをお責めになりますの、わたくしにあの愛の人を卑しめろとおっしゃいますの」と訊ねるだろう、どう答えたらいいか僕にはわからんので頭のいい人がサッと答えろ。
ジュリエットがロミオを「ロミオさま」と呼び、ロミオがジュリエットを「ジュリエット」と呼んだとすると、これは男尊女卑だが、このときジュリエットはロミオによって冒涜され、侮辱され、尊厳を奪われていたのだろうか、チョーかわいそーなジュリエットと、ジュリエット当人が否定するだろうが/一方でわれわれは、ジュリエットが「ロミオさま」と呼ぶのに対し、内心でその声を「ロミオさま(笑)」と茶化さずにいられないのだ、これではどちらがジュリエットという女性を冒涜しているのかわかったものではない。

ジュリエットの口からは、「ロミオさま」だけではなく、「お星さま」「お月さま」「お日さま」も出てくる。

<<尊いものと向き合う態度を持っている>>ということだ、そこで現代のわれわれが「お星さま」だの「お月さま」だの言ってみても、クサい芝居にしかならない、「○○さま」なんて言い方が通用するのは今はメイド喫茶のジョークだけだ。
正しい学門のために、さっさと断言して進めねばならない、<<あなたが尊い何かに出会うことはこの先一度もない>>、だから<<尊い何かが身につくことも決してない>>、ゲッと青ざめている場合ではないのだ、ガッツポーズしろ、そして書面に念押しの捺印をしろ、そうしたとき、近年のわれわれが何をしてきたかを本当に知ることができる。

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男尊女卑・全面撤廃のガッツポーズ
尊女卑などというのは、さすがにナイ、おとといきやがれスットコドッコイである、このことには何の問題もない。
ただ問題は、このことなのだ、「万が一、本当に尊い人に出会ってしまったらどうしよう?」ということなのだ、このことのケアがまったく為されなかった。
男尊女卑など、全面撤廃(済み)でよろしい、けれどももし、万が一、あるいは億に一つのこととして、<<本当に尊い男性と出会ってしまったらどうするのか>>だ/「キャー」で済まされるわけがない、んなアホな、本当に尊いものにそうした安物の侮辱を向けると、シャレでなく呪われるし、本当にカルマが身につもって動けなくなるものだ、そういうインチキで済ませられないから本当に「尊い」という。
男尊女卑など撤廃でよろしいが、問題はそういうことではなく、誰もが自らの選択として、尊いものに向き合える態度を己のうちから根絶したということが本質だ、蛇にでもそそのかされたのか、そうして自ら失ってしまったものはもう取り戻せない。

書面とハンコを用意して、捺印の準備をする。
何に捺印するかというと、「わたしは生涯、尊い男性とは出会いません」という書面にだ、ホレ早くしろ、「男尊」を全面的に禁じるというのはそういうことだから、何も躊躇する必要はない、<<あなたは生涯に一度たりとも尊い男性とは出会わない>>、そう定義したはずだ、あなたは平等なモンにしか出会わないのだから躊躇せず爆裂捺印しろ。
仮に、真に尊い男性と出会ったとしても、その男性を尊ぶという態度は、もう己の身には不能なのだから、出会ってもしょーがないじゃないか……いやシャレじゃなく、本当にもう残っていないのだ、自分でブッ壊したものが実は残っているなどという甘い話はない、自分で書面に捺印すればわれわれも目が覚めるかもしれない、われわれは尊いものと向き合う態度を自らの手で破壊した、われわれにはマンガを読む体質しか残されていない。
男尊女卑撤廃ということで、「尊い男性」というのは禁止されたんですよ〜、それで100%事実と実感に適合しますから〜、残念でした〜、ということなのだが、万が一、まさに万が一だ、99.99%の事実と適合するにしても、0.01%、真に尊い男性と出会ってしまったらどうしよう? ということが残っていた/そして同時に、尊い男性と出会う可能性が0%として規定された現在、女性は何のために生きているのか、「0%www 何しに生きるwww 我ながら草不可避www」という状況になったのだ、これはただの事後説明であって、今から巻き返しの利く状況ではない。

「尊い男性は存在しない」ということで、あなたはなぜかガッツポーズしている。

んなアホな、という、落語のオチみたいになってしまったのだ、本来女性にとって、自分の尊ぶべき男性と一度も出会えなかったら、それは「大ハズレの人生で落涙の果てに枯死」のはずなのだが、いつのまにかそれがガッツポーズになり、「そうです!! 尊い男性などいないのです!!」と勝利と歓喜の声を上げるようになってしまった、別にそりゃかまわんが、自分の行き先をコンクリで埋めて歓喜というのはなかなか正視しがたいギャグだ/あなたの人生に「あの人」がゼロなんですがそれは……
そして、きっちり公平なことに、男性のほうも「どうがんばっても、おれが女に尊ばれる可能性は定義上ゼロだな!」と前もって決まっているので、何も本格的に頑張れる気にはなれず、女を愛そうとも思わないのだった、男もそのようにして大変ヒマになってしまった、マンガでも読むかな/この状況で歓喜のガッツポーズが炸裂していることについてだけは、本当に意味がわからない。
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是正は悲劇を縮小するが幸福をもたらしはしない6

つのまにか「革命」になっていない? 気をつけよう。
理性的でなくなるというより、「もう理性が戻ってこない」という状態になる、気をつけよう。
平等の中で幸福になれる人は、格差の中でも幸福になれる人だ、気をつけよう。
不幸というのはありふれたもので、それを「悲劇」に演出すると様子がおかしくなる、気をつけよう。

異性を平等にするか、格差をつけるか/忘れなさい、思い出しなさい、必要なのは平等でなく幸福です。
「不当」には「是正」の要求を、闘争ではなく要求を/幸福でいなさい、さもなくばあなたは闘争の「戦士」になってしまいます。
あなたの感情が爆発する/それは、不当だからではありません、あなたが不幸だからです、あなたが叫んでいるのではなく不幸が叫んでいる。
幸福の中を歩きなさい、できれば愛し合える誰かと/正義と流血の中を歩くとき、あなたはそこを歩いているのではありません、あなたには行く場所がなくなったのです。

悲劇を忌みなさい/幸福は学びなさい。

悲劇を抱きしめると、あなたの血は革命に向けて騒ぎ始めます、その血には色んな人たちが寄ってきます、やがて引き返せなくなります。
幸福は学ばないと、あなたは自分の不幸が理解できず、自分の不幸を悲劇によるものと錯覚します、そこからあなたは悲劇を抱きしめることになります、最期までそれを抱きしめることになります。

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是正は悲劇を縮小するが幸福をもたらしはしない5

「イナゴの大群」が襲ってくることがあると、アフリカなどではよく言われる、あれは、緑色や茶色のバッタが飛んでくるのではない、真っ黒になって歯と翅を強化した大群の「飛蝗」が飛んでくるのだ、これが起こると、生きものとしての性質が大きく変わってしまう。
そのことを、「相変異」という、真っ黒の飛蝗は「群生相」だ、そういう秘められた遺伝子があるのだ/あまり知られていないことだが、われわれが夏場に見る日本のトノサマバッタも、狭い箱の中に多数で閉じ込めておくと、相変異を起こして真っ黒の「飛蝗」になるのだ、これは特定の環境下においてそういう遺伝子のトリガーが引かれるということだが、いったんこの相変異が起こると、もう元に戻るということはない、何でもかんでも囓り尽くす真っ黒な飛蝗のままその生涯の終わりまで飛び回るのだ。
この性質は、蠱毒(呪術)にも関連しているように思われるが……とにかく、人間のする「革命」というもの、革命というのも実は、人が政治的な意志によってするものではなく、革命に向けての相転移が起こるような遺伝子が仕込まれてあるのじゃないかという気がする、特定の条件[混み合い、地下、密閉、共(共食い)、絶え間ない情報と議論の声、生への執着、血、僻み、念、呪(言語)、最終勝者]が整うと、人が単に「革命相」に相転移するのではないか/実際、歴史的にも、革命というのは思想的というより、現場では流血的に起こっている。
今、男女、つまり「異性」ということについて、是正ではなく本当には粛清と流血の伴う「革命」が求められているのが実情だが、それは単に、環境から革命相に変異した人々が、たまたま「異性」という念をターゲットに方向づけられているだけではないのか、あるいは現象の根本が蠱毒に通じている以上、呪術によって意図的にこの状況を創出することも可能なのかもしれない、そういったことに僕は詳しくないので、あくまで想像の範囲でしかないが……

われわれは、人間の仕組みを、すべて知り抜いているわけではない/原因不明のことなんかいくらでもあるのだから、それだけよくわかっていない仕組みがいくらでもあるということだ。
たとえば「地下アイドル」というブームがあって、最近はもう当たり前になったが、地下アイドルの劇場のあのムードは、地上の者たちにはまったくよくわからないものだ、けれども地下劇場の彼らにとってはあれが自然に出てくるのだろう、そう考えると確かに地下アイドルが生じる場面は、先に述べた「特定の条件」群に当てはまる、あれも「革命相」のひとつの現れ方なのかもしれない/われわれの体内にそういった遺伝子がないとはいえないし、いわゆる「オタ」たちがこぞって「大出血」でアイドルに投資するのも原理的に説明がつくのだ。
そういうことであれば、やはり「特定の条件」が整った中で、ある念と呪で誘導すれば地下アイドルという革命が生じるし、また別の念と呪で誘導すれば、「異性」ということに向けての革命も生じるのかもしれない/僕も現代に生きる一人の男性として、女性たちから強く「流血」を乞われている感触をヒシヒシ受けている、それは女性たちの思想によってではなく、解発された遺伝子によってだ、思想的にはみんな僕のことを、なるべく守りたいと考えてくれているらしいのだが……
不当を是正する、という理性的なモットーから始まったいくつものことが、けっきょくそれだけでは盛り上がらないし、実効力を持たないのだろう、どこからか血眼が入り込み、かつて求められていた「不当の是正」は、不当な者を打倒する「革命だ」ということにすり替わっていった/「特定の条件」下で遺伝子のトリガーが引かれた人は「革命相」に相変異し、偽りのモットーの裏側で、ただ粛清と流血を求めている、「革命」が求めるものはひたすらの流血なのだ(革命においては血しか説得力を持たない)。

「革命」は、「差別」などという生ぬるいものとはケタが違う。

今、男女平等やLGBT解放の矢面に立つべき人として、求められているのは――さらにいえば、チヤホヤされうるのは――、そのことへの理性的な論者ではなく、そのことへの「革命戦士」ではないだろうか、「死をも恐れない」という戦士/かつての共産革命のときによく知られたことだが、共産革命で独特の奮迅を示す者は、みな「革命戦士」と呼ばれたのだ、そして何でもない電車の中で市民たちから一斉に励ましを受けるぐらい、当時の革命戦士たちはチヤホヤされていたそうだ、彼らがテロリストになって爆弾を仕掛けて回ったりする以前は。
むろん、何度も言うように、差別は不当であって、不当はさっさと是正されるべきだ、だがその是正で幸福が得られるというのは幻想だし、現在そちら方面に高まってとどまるところがない不穏の空気は、やがて幸福どころか流血に定義された者たちの大群を生み出すのではないか? かつての共産革命にせよ、ルワンダ大虐殺にせよ、われわれは未だ「異様な流血の時代」がどのように生じるのかについてわれわれ自身の仕組みを知らない、高まり続ける気運の中で、今日が革命前夜なのかもわからないし、明日が革命当日なのかもわからない。

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是正は悲劇を縮小するが幸福をもたらしはしない4

つて共産主義「革命」が、無辜の人民を「粛清」していった時代があった、ポルポトやスターリンや毛沢東を「指導者」として、粛清で殺された人々の数は、第二次世界大戦の死者数をはるかに上回っている。
共産主義というのは、それこそ「是正」のネタから始まったものであり、つまりは資本家と労働者のあいだにある「不当搾取」を是正しようということだった、この「是正」ネタが、結果的に世界大戦よりも多くの人を轢殺していったことは、いっそ落語のオチにでもしないでは正視も出来ないような、皮肉というには血まみれすぎる皮肉に満ちている。
マルクス・エンゲルスを代表とした、「不当搾取」への指摘と糾弾は、指摘としては正しかった、だがその指摘と糾弾が、今度は「不当粛清」を猛烈に生み出したことについては、なぜか自省することがまったくなかった、不当粛清が是正される気配はまったくないまま、たとえばカンボジアは当時「子供しかいない国」になった、そのときいた大人は根こそぎ殺されたのだ、今考えればそんなことが正当であるはずがない。
今、どうにも符合を覚えさせる感触で、男女のあいだにあるさまざまな「不当」を、是正すべきという指摘と糾弾が唸っている、そしてその指摘は、指摘としては正しいのだ、そして共産革命と同様、すでに多くの女性が、切実な第一の希望として、「とにかく粛清を」と待ち望んでいる、ひとたびその粛清のトリガーが引かれた後には、その粛清が不当かどうかというような思念じたいに用事がなくなるだろう。

すでに状況は、緊張感を増しているというより、実際的な瘴気を放出しだしている、もうありうべき局面は「始まってしまった」とみなすべきだろう。
最もわかりやすいことでいうと、たとえば今、一人の男性が、一人の女性に対し、「おれはこいつと一緒にいるときが何より幸福だな」と感じるということが、すでにないということだ、女性の側でも似たり寄ったりだとは思う。
性欲や、未来の経済力についての保身があるので、若い男女はほとんど強制的に、近接する機会を持たざるを得ないが、もはやとっくの昔に、男女の邂逅は「幸福」などではまったくないのだ、まるで虐殺前夜のルワンダ市民のように、ラジオが流れてきた翌朝には、「昨日まで親しかった彼女が今日は殺しにくるのじゃないか」という不安が満ちている。
今、ありとあらゆる男女の仲が、「おれとアイツの仲だ」ということで、安心されているということはまずない、特に女性はすでに、いついかなるとき、どれだけささやかなことを理由にしても、不可逆の発火を起こしておかしくないと、そういう予感がヒシヒシする、これまでにどれだけの愛を向けられてきた女だったとしても、現在から二分後、ひたすら報復の血に飢える憎悪の女になって消えなくなるということがありうるのだ/男性の多くは今、恋人からスマートホンに着信があると、第一に恐怖を覚え、着信がなかったとすると、こんどは着信がないことに恐怖している。

理性は平等を求めているが、血は「革命」を求めている。

ポル・ポトは、「たとえ親であっても、社会の毒と思えば微笑んで殺せ」と少年少女らに教えた、「微笑んで」殺せと/共産主義は、理性的には平等社会を希求したものだったが、共産「革命」はまた別で、革命はそれ自体に、「血」が不明のトリガーを引くという性質がある、これが始まった者は、もう引き返すことはできない(こころの問題ではなく、生物の定義として引き返せない)。
まだ気づいていない人が多いかもしれないが、女性が恋人にメールを送ったとき、彼氏はその着信に、第一に「恐怖」しているのだ、そしてその内容が、平穏なものだとホッとしている、「まだ今日は始まっていないらしい」と/今はまだ彼が恐怖しているだけだが、やがてあなたも恐怖することになるだろう、つまりあなた自身、現在から二分後に、これまで愛してくれた人を切り裂いて流血させるということを、突然やってしまい、自分で止められないかもしれないということなのだ、このことは「革命」そのものについてのナゾが解かれないと対処できない。

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是正は悲劇を縮小するが幸福をもたらしはしない3

っと簡単に話をすると、たとえばあなたが女性だったとして、あなたが僕の目の前にいたとしよう。
そのとき、僕があなたを、差別的に扱ったとしても、あなたは幸福にならないし、平等的に扱ったとしても、あなたは幸福にならないだろう。
僕があなたを、「姫」のように扱ったら、一時的にあなたは浮かれて満足するかもしれないが、そういった満足が人を幸福に至らしめることはけっきょくない、翌朝の頭痛で一気に本質的不幸を思い出すだろう。
あなたが幸福になりうる道筋は唯一、あなたが僕を愛し、僕があなたを愛し、あなたが世界を愛し、僕と共に世界を愛して歩くことだ。

男女平等と男女格差を、フライパンの上で次々にひっくり返しても、次第に両面が焦げていくだけで、そのことは避けようがなく、できることはただの時間稼ぎでしかない。
事実、僕が大切な女性に、靴磨きをさせても、その後オステルリーにエスコートしても、どちらのときもその女性は幸福だ、それがその女性の幸福にならないなら、僕はその女性との時間を持たないだろう、僕は男尊女卑といわゆるレディーファーストを同日のうちに入れ替えても何の破綻もしない。
幸福な女は、ただ僕によって幸福なだけで、僕による格差で幸福なのではないし、僕による平等で幸福なのでもない、そして不幸になる女は、ただ不幸の海に向けて出航するだけで、どの航路に舵を切ってもやがて不幸の海に到着することは変わらない。
「不当」は、さっさと「是正」されたらいい、「悲劇」なんて可能なかぎり縮小するべきだからだ、だが不当の是正はけっきょく不幸な人々をまったく救済はしないだろう、あなたはただ僕の前で、愛せないし愛されない、という事実に虫食まれていくだけだ。

誰かがあなたに、「ビューティフル」とは言ってくれない。

それはただの不幸であって、悲劇でも何でもない、いかなる不当を是正したとしても、あなたに「ビューティフル」と言ってくれる人はいないだろう、それは「ビューティフル」ということをあなたがナメすぎだからだ/僕だってなんとかそのように言ってもらえることがあってほしくて、これまでさまざまなことをして生きてきたが、その中でますます、「ビューティフル」なんて身分が遠いことを痛感する。
誰もわたしに、ビューティフルとは言ってくれないということは、激しく悲しいことだが、だからといってそれは「悲劇」ではない、あなたの劇的な感情が悲劇を定義するわけではないからだ。

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是正は悲劇を縮小するが幸福をもたらしはしない2
女差別や、ブラック企業、あるいはLGBTなどが近年の話題だが、とにかくテーマは「是正」に掛かっている。
「不当」があるので、「是正」しろ、ということなのだが、どうもこの是正テーマの周辺には、常に不穏な空気が漂っている、この空気の正体は何か。
むろん、正体はこれだ、と断定できるわけではないが、大きな可能性として言いうるのは、一部の誰かが、己の「不幸」を、己の「悲劇」と取り違えているのではないかということだ/不幸というのは悲しいものなので、ここに劇的なキモチが加われば、それは「悲劇」なのだと自分に加工拡張されるかもしれない。
誰しもにとって、己を幸福に至らしめるということは、なかなか困難なことであって、それが容易にゆかないということは、常に悲しみが漂うものだ、そのことは多くの人が弁えているものだが、一部の人においては、その弁えがないのかもしれない。

たとえば「いじめ」のような問題もある、「いじめ」はむろん不当なものだから、さっさと是正されればよいし、さっさとクラス替えや「監視」等の措置が執られればよい(むろん加害者側にだ)、ただしそれで「いじめ」の是正が為されたとしても、いじめられていた者が幸福になるわけではない。
何の理由もなく「いじめ」があれば、それは被害者にとって悲劇だが、その悲劇を取り去ったところで、当人の幸福が得られるわけではない、仮に彼が「つまんねー奴で、どこかうっとうしい奴」だったとしたら、措置が執られた後も彼は、やはり「つまんねー奴で、どこかうっとうしい奴」と扱われるだろう、そこにいじめの悲劇はもうないが、己の不幸は引き続き残るわけだ。
仮に、ある女性が、男性と同程度に就学できて、就職活動もできて、ひとたびは苦役させられたブラック企業からまともな企業に転職することもでき、バイセクシャルであることも「別にいいんじゃない」と認められ、かつて受けたセクハラやパワハラへの告発と報復が成功したとしても、それで幸福になるわけではない、やはりその当人が「つまんねー奴で、どこかうっとうしい奴」なら、そのとおりに扱われ続けるしかないのだ、友人や愛する人は得られないだろう。
目を背けたくなる瞬間があって……僕が思うに、その瞬間、ワッと誰かに火がついているのだが、その火がついた人々はつまり、自分の不幸を不当悲劇のせいにできるという勢力であって、その人々の起こすワッとした色めき立ちに、僕は思わず目を背けているのだと思う、自分が不幸なのは誰かのせいだと断定することが姑息救済になった人々の目つきには、独特の充血と粘り気がある。

僕は正当に幸福でありたいし、不当にも幸福でありたい。

ごく一部の人は、あまりにも強引に、「自分が幸福になるということは、誰かを踏みにじって蹴落とすということでしょ」と言いがかりをつけてくるが、これはまさに言いがかりであって、いくらなんでも投げやりな、根拠不明の感情の吐出でしかない、僕は誰かを踏みにじるとか蹴落とすとかいう、カッタルイことのすべてがない状態を幸福と呼んでいるのだ、それを得続けていくことは、そんなに容易なことではないけれども。
この現代においては、「信じがたいほど不幸な人」が、少なからず潜在しているのは明らかだが、その信じがたいほどの不幸が、実は不当や悲劇のせいではなく、純粋なオリジナルの不幸なのだと認めることは、壮絶なことかもしれない/実際、ここ数年で、いくつかのことは是正されてきたはずだが、それによって世の中に幸福のムードが満ちてきたという感じはまったくない、となると、あのワッと色めき立つ人々は、果たして何かに向き合っている人たちなのか、それとも正反対、何かに向き合わず逃げている人たちなのかもしれない、その可能性は大いにありうる。
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是正は悲劇を縮小するが幸福をもたらしはしない

女平等と、その格差についての揉め事は、すでに回復不能な混乱にまで陥っている。
どうせどこにも聞き入れられない意見だが、僕が切実に感じることは、端的に言って「幸福はもうない」ということだ、奇妙なことに聞こえるかもしれないが、たとえ男女平等が成り立っても、あるいは男女格差が保存されても、どちらにしても幸福はもうないだろう、たとえ平等社会が成り立ったとしても、そこにはなぜか「不幸な平等社会」しか残らない。
なぜかというと、逆に考えればわかりやすいが、われわれが幸福になろうと望むなら、格差社会も幸福なものでなくてはならないし、平等社会も幸福なものでなくてはならないからだ、「格差から平等へ舵を切れば幸福が得られる」というのは幻想で、それが幻想であることはかつての共産主義活動の破局を見ればよくわかる、平等を希求した活動はけっきょくナゾの血まみれで終わった。
格差社会は幸福でなければならないし、平等社会も幸福でなければならない、たとえ専制君主国家でも、民主共和制国家でも、同様に幸福でなくてはならないのだ、つまり「是正」で幸福を得られると発想するところに、本質的な逃避がある、この逃避はなぜか酸鼻を極める流血で報われるのだ。

むろん、言うまでもなく、男女差別は「不当」だ、女だから大学に行く価値がない、などという価値観を押しつけられるのは「不当」以外の何物でもない。
だが、ここで緊密なバランスが取られた悟性が必要になるが、われわれは生きるうちいくらでも「不当」というものに直面するとして、「不当」はわれわれの「不幸」の理由ではないのだ、これを混同することでわれわれは行方不明になって、加速すればするほど流血の池へ沈没していくことになる。
なぜ「不当」は「不幸」ではないと言いうるかというと、その対極、「幸福」のほうも、やはり「正当」に得られるわけではないからだ、正当なら幸福とは言えない以上、不当が不幸と定義するのも誤っていることになる。
「不当」というのは、何もいいことではないので、むろんさっさと是正されるべきなのだが、不当が正当へと是正されたところで、幸福はこれっぽっちも得られず、不幸度は何も変わらないだろう、そうなると単に、不幸な者が壇上に駆け上がるというシーンが創り出されるだけになる、当人は己の不幸を己の不徳に帰責するつもりがないので、次はまた新しい是正ネタを槍玉に挙げることになるだろう。

あなたは差別を受けても、幸福でなくてはならない。

最も前向きに言うと、そういうことになる、僕は人を不幸に導く言葉は発したくないので、当たり前のように前向きに言いたいのだが、われわれがこれから得ていく平等社会は、あなたを貧困国のボロ布を着た少女より不幸にさせる可能性が大いにある、われわれは叡智としての幸福論にまったく向き合わないまま差別論と平等論だけを取り扱ってきたので、幸福については無知蒙昧なのだ、そうした不遜の無知蒙昧はしばしば懲罰を受ける。
どれだけ平等になった社会でも、誰にも愛されず、誰を愛することもなく、目覚めが光り輝かず、夢心地の中でぐっすり眠れないのならば、幸福はない/不当は是正されるべきだが、そのことに幸福の可能性などわずかも見いだしてはならない、不当の是正は単に<<悲劇を縮小する>>というだけにしかならず、あなたは悲劇の主ではなく単なる不幸の主なので、不当の是正によって救済はされないわけだ。

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愛にあふれた奴でありたかった
こ数年で、何があったのだろう? 特にここ十年、あるいは、東日本大震災以降ということになるか、えげつない変化が、ほとんど万人において起こっている、そしてここ三年ぐらいでメチャクチャになったと感じている。
最もわかりやすいように言うと、少し前なら、僕は誰からということでもなく、「は〜、あなたは愛にあふれた人だねえ」と、感心して言われることが日常的にあったのだ、それで年下のOLさんが、「ちょっとねえ、オゴるわ、オゴらせて」と言い出して、手を引っ張って行ってくれることもよくあった(昔話)。
ところがここ数年、話はまったく逆になった、僕は感心され祝福されるどころか、迫害され攻撃されるようになってしまった、しかも赤の他人からではない、僕が何かを助け、何かを与えようとした人から、決まり決まったように攻撃されるのだ/ちょうど同じタイミング、かつて「は〜、あなたは愛にあふれた人だねえ」と感心されるタイミングと同じタイミングで、「死ね! 許さない! 壊れろ! 失え!」と無言の呪詛を全身から向けられる、何のことか理由はまったくわからず、呪詛の当事者は悪意の所有すら自分では認めていない。
このようなことではつまり、僕自身がかつてのような、愛の力を失ったと見るべきだが、それにしては状況が齟齬するのだ、何しろ僕と初めてあって十五分も経たないうちに、ポロポロ泣きだすような人もいるし、正直なところ僕と会った女性が泣くのは八割方の「定番」なので、僕としては自分の愛がクソになったとは安易に断定しづらいのだが、実際のところ返報されてくるのはなぜか「死ね」だ/僕としてはいつも、人にできるかぎりの愛を向けられたらよいと、とにかく這いずり回ってでも笑わせ、光を明るく灯すことをこころがけているつもりなのだが、その極点では必ず「死ね」と報われる、実際に殴られたりもするし、土下座もよくさせられた、なんのこっちゃわからんので正直もう放ったらかしなのだが、もし僕が土下座して回ることで何かが救われるのなら、いつでも土下座して回りまっせ、という発想は残している、どうせ土下座なんかタダだし、僕にはそこにプライドなんてものはないからな、これは僕の心境の問題ではないのだ。

唯一の、すんなりいく解決は、「僕の愛はニセモノのクソゴミ」と定義し、「Xさんの愛こそ真実で至高」と定義することだろう、そうすればさしあたりすべての迫害は消える。
そして、そのように定義すると、確かにそうかもしれんなあという気が僕にもしてくるのだった、けっきょくこの愛の問題が根っこですべてを台無しにしていると思う、正直なところこの状況を整合するには、僕→Xの愛をクソゴミに否定し、X→僕の愛を至高に肯定するしかない、つまり僕がXさんに向けて、「は〜、あなたは愛にあふれた人だねえ」と感心するしかないのだ、そうすればすべての人が納得するし、溜飲が下がると思う。
そうして考えると、いよいよ、そうかもしれんなという気がしてきて、「そうか、おれは愛がまったくない人間なんだ」という気がしてくる、そして次第に「それで合っているな」という確信が出てきて、「それじゃあ、よーし」という感じになってくるのだが、でもそれだと一方で通りすがりにグル(導師)呼ばわりされるのもヘンだし、わざわざ僕に会いに来て初対面からポロポロ泣き出す女性がいるのもヘンだ。
この問題について、少なからぬ人が、「わたしの側がこじれているんです、あなたの側はおかしくないです」と言ってくれるのだが、それについて「そうかいな」と僕が引き取ったとしても、なぜか僕への攻撃と迫害および、僕の愛に対する否定およびヘイトの感情は、毎年増強されていくのだ、実際に進んでいく事象は「僕の愛はニセモノでクソゴミ、Xさんの愛が真実で至高」という定義のほうだ/「ちょっとは僕の愛も認められるかナ〜」というおぼろげな期待はもろくも霧散し、「案の定だぜ!」という感じではあるが、年々投石の具合がキツくなってくる、しかも赤の他人から投石されるのではなく、僕がヒィヒィ言って何かを与えようとした人から投石されるのだ、それは断じて許されぬ正義の執行として為されるので、そのときは本当にそちらが正義なので僕としては対処のしようがない。

「あなたは愛にあふれた人です」と、上から言われることは増えたが、「は〜、あなたは愛にあふれた人だねえ」と、感心されることはなくなった。

そんな、無理に肯定してくれなくても……といつも思うのだが/つまり、称賛する気にならないものを、無理に称賛しなくていーじゃないか、問題は当人が何をこころの底から称賛する気になるかなのだから、そこでウソをついてもしょうがない。
それよりは正直、僕の愛がニセモノのクソゴミだと力強くみなせるとして、それがどういうふうにクソゴミに見えるかを話してもらえたほうが、僕としては助かる、僕は自分の愛(のつもりのやつ)が、クソゴミでないと抗弁するつもりは一ミリもない、むしろクソゴミかもしれないというのは大いにありえる路線なので、いつも自戒しているつもりなのだ/僕のクソゴミ度を戒告するという立場のほうが、ノリノリでやりやすいという人は少なからずあるのじゃなかろうか。
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粗雑と乱暴がもたらしたもの3/あなたが慣らされているニセモノ

「粗雑と乱暴」がどういうものか、わかりやすいようにサンプルを示してみよう、たとえば以下のように書き話すとき、「粗雑と乱暴」の直接の感触がよく得られると思う。

だいたい日本人は、周りの目を気にしすぎだ。同調性バイアスが支配するこの国に、わたしは異を唱えたい。
LGBTでもそうだが、そうしたい人はただそうすればいいのであって、何だかなあ。もちろん、そういう人たちだって、幸せになる権利はあるのだと思う。でもそれは、今あるような、注目の的にされるというようなやり方とは違うと思う。
わたし自身もそうかもしれないけれど、承認欲求がすごい強い人が多くて、その反面、否定されるとすごく弱いのだと思う。それで、特にLGBTの人たちは、傷つきやすい状況になっているのだと思う。それはとても悲しいことだ。

もちろん、差別がどれほどひどいものかということを、人間は歴史で学んできているので、差別はなくすべきだ。法律も改正すべき。外国はみんなそうしてる。でも人がどう思うかにまでケチをつけられたら、今度はこっちがしんどくなってしまう。
その結果、ミソジニーとかミサンドリーとか、お互いに嫌悪し合う人たちが増えてしまった、誰もそんなこと気にせず、自分が幸せになることを考えたらいいのに。とにかく人の目を気にしすぎなんだろう。「甘え」とはよく言われることである。
いかに人の目を気にせず、自分の幸せを追求できるか、それがひとつのテーマなのである。もちろんLGBTの人は、ブレずにそのことを続けていくべき。わたしはLGBTじゃないけど、そうすることでこそ、結局仲良くできると思う。長文失礼しました。

……と、こんな感じになる、これは典型的に「粗雑で乱暴」なので、いかにも「現代人」という感じの声が聞こえてくるし、人によってはとっさに、この文章に「表現力」を感じるかもしれない。

歌唱力、表現力、文章力、コミュ力、目力、女子力、それらすべて「力」の語は、「粗雑で乱暴」に由来して生成されている。

われわれの営為のすべては、「力」で為されるものではまったくないのに、「粗雑で乱暴」な人は、もう物事を丁寧に捉えられないので、すべて「力」で片づけようとするのだ、何かに堪えられなくなって/この「○○力」という語群は、何かを捉えての語ではなく、何かを投げ出しての語だ、営為の本質を捉えるのに必要な丁寧さと繊細さに、とても堪えられなくなってイライラしてギブアップし、何もかもを「○○力」で片づけようとする。
「粗雑で乱暴」な人は、こうして背後に「力」しかない語群で話すので、それがそうとバレないように、善人とかわいらしさの化粧を、声と語群にほどこすものだ、そして現代人のわれわれは、そうした化粧に反応して甘えたがる性質を自我に宿されている、あなたにもきっとその反応があるはずだ/つまり、上に示したサンプルにこそ、あなたは「かわいらしい善の人」を見つけたがるのではないかということだ、あなたは気づかなくてはならない、何しろ上のサンプルはたった今僕が作成したものだ、あなたが反応した「かわいらしい善の人」はどこにも存在しない、僕が化粧をほどこしただけ、そしてあなたがこのニセモノの甘さに慣らされているだけだ。

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