☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
完全なるパスポート
ぶ、という手段がある。
忘れるな、「遊ぶ」という"手段"があるのだ。
新しい出会いに遊ぶ、という方法がある。
新しい出会いを「求める」などという方法は存在しない、人間にそんな動機はないから。

一冊の本に遊んでいいし、一冊の執筆に遊んでもいい。
「遊び」だ、遊ぶという手段があることを忘れるな、遊びの中で疲れる者はいない。
意義と行為の間にはスキマがある、このスキマのことを遊びという。
あなたに問う、「意義がないことを、本当にしてはいけないか?」、あなたは意義と行為をギチギチに噛ませているから動けない。

意義のすべては古い。

意義のすべては正しいが、それは古すぎてすべて「正しかった」と遺物に言われる、よって意義のすべては今このときのすべてに通用しない、今このときの遊びはすべて過去の意義の放逐にある。
もしあなたが正しければ、そのときあなたは必ず古い、古ければあなたは完全なるパスポートを手にできない。
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まったく違うあなたになる方法
「空想」と「想像力」は何が違うか。
この議論は、本来とっても難しいのだけれど、もし簡単に実用的に言うとするならこうなる。
「非現実を描くのが空想」で、「今現在とまったく違う"現実"を描くのが想像力」だ。
例えば「日本が激しい戦火にさらされる」と思い描くのは、空想としても可能だけど、必ずしも非現実とは言えないから、想像力としても思い描くことは可能だ、このとき空想に冷や汗はかかないが想像力には冷や汗をかく。

あなたは非現実的な超能力を持ったりはしないし、非現実的にヒロインになったりもしない、だからそんな空想を描いていても無意味だ。
あなたが現在の自分とまったく違う自分になれるかどうかは、一点、あなたが空想でなく想像力を持てるかどうかにかかっている。
人は今現在に与えられているイメージを「信じて」いるものだ、そのせいで現在とまったく違う現実というものを思い描くことができない、あなたは今現在のあなたが不変の「あなた」だと信じている。
「今現在とまったく違う"現実的自分"」を思い描けるかどうか、その想像力のあるなしであなたの未来は決定する、もし今現在とまったく違う現実的あなたが想像力に思い描かれたなら、そのときあなたは冷や汗をかくだろう。

「現実」をわざと言いたがるのは、それが虜囚の合言葉だからだ。

人はその勇気の不足と億劫さから、彼らの言う「現実」が現在のイメージからいくらでも変動しうるという明白な事実を無視して主張したがる/根本的にはその背後に死の恐怖があり、彼らは自分たちが永遠に死なないものだと思いたがっている。
重要なのは空想ではなく現実であり、より重要なのはその現実がいくらでも変動しうるということだ、かつてのヒーローが麻薬中毒者になりえる現実の変動があるというのに、かつての凡人がヒーローになりうる筋道の存在をどのように否定しうるというのか?
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「僕はヤワじゃない」、春風きたりて

から春の風が吹きこみ、僕の書斎は渦となる、すべての過去は洗い流され、洗われてはじめて思い出が得られる。
桜の咲く街を駆けて、就職活動なんかしていたとき、一年後に丸の内に勤めた、丸の内の上司は人格障害者だった。
大企業で、四十を超えて課長などといえば、人格障害で当然で、そんなことは何も珍しくない。
僕はそのことを、よろこびはしなかったし、嘆きもしなかった、そんなことでいちいち嘆くほど、僕はヤワじゃない。

僕は姉から暴力を受けて育ったし、両親は不仲で離婚した、僕は運動神経が悪かった、だが強くなろうなんて思うほど僕はヤワな少年じゃなかった。
今はどんなご時世か、家族は機能不全が当たり前で、両親の人格は危機に瀕しており、大学生はキャラ化した友人たちのみ、恋人は互いの闇を見せつけあうホラーゲーム、ご夫婦は親戚含めどう見ても愛し合えっこない人たち。
ワイドショーで報道される芸能人の不倫騒ぎにも、いまいち熱狂できるわけではないし、こころに響いてこない髪の毛シンガーやダンサーを見ながら、悲観を得るほど少なくとも僕はヤワじゃない。
誰から誰へもラブではなく、僕の恋人たちもついに堪えきれずに去っていってしまったりするが、僕は永遠の例外を引き受ける、なんたってそれしきで参るようなヤワでは僕はないからね。

新機軸、人格障害で当たり前。

今あなたに必要なのはこのことだろ、あなたもヘンだし周りもヘンだ、何もかもがごまかされながら根っこがヘンだ、そんな当然のことにいちいち怯えることをヤワというんだ。
空のかなたから重なって聞こえる春の轟音、聞こえるか、ヤワじゃない世界でヤワでいるからいちいち苦しんでいるんだ。

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「お前の自由なんて無えんだよ」
懲りもなくパーティ企画を継続する。
去年一年は個人的にソーゼツな一年だった。
ソーゼツさのあまりに、何をどうしていたのかプツッと途切れてしまいそうになるのだが、まあ冷静に踏みとどまる。
パーティ企画も継続するし、ワークショップ()もテキトーに継続する、わけのわからないことをしているのではなく、「やっていかないとわけがわからなくなる」のだ、目を覚ますためにはやっていくしかない(これホントよ)。

やってみるとわかるけれど、パーティ企画っていっても、これはあくまで"おれの"パーティなんだよな……
そうでないパーティイベントならそこら中にいくらでもあるもの、そしてどれひとつにも僕は興味がないもの。
「おれの」パーティだし、「おれの」ワークショップだし、ここに書かれているのも「おれの」文章だしな、僕は万事「誰の」というのがハッキリしないものに興味がない。
あなたもそうでしょ、あなたは「あなたの」仕事、「あなたの」勉強、「あなたの」セックスがほしいのであって、そうでない漠然とした「人生」みたいなものに興味なんか湧かないでしょ。

パーティ参加者は自由にさせません。

自由にしたい人はきっと、独りで山奥にでも行くか、耳にイヤホンを差したままどこかのチェーン店でスマートホンでもいじっているんじゃないかな、そしてそうした「自由」がいかにツマランかを現代人はもうイヤになるほど熟知している。
ジェットコースターに乗り、安全バーに支えられるというのは、つまり「不自由」を選ぶことだと思うけどね……/「お前の自由なんて無えんだよ」、そう言われたらどれだけスッキリとスリルがあるか。
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賤(いや)しいものを本当に好きにはなれない
ラム「暗がりの夜に僕たちは明るい」をアップロードしました、どうか気に入っていただければ。
寝て覚めるとなぜか貴賤のことについて考えていた、それは久しぶりの感覚だった。
もちろん特定の何かを名指しして言うものではないけれど、いくつかの目についたものについて、「それって賤しくないか」と感じていた。
そして、賤しいものを本当に好きなのかと考えて、人は賤しいものを本当に好きにはなれないとも思い出していた。

賤しいものに注目させ、騒がせるのは、酷だ。
なぜなら、本当には好きでもないものに、好きなふりをさせて、エネルギーを消費させるのだから酷だ。
誰だって本心では、本当に好きなものを探して生きているし、何より、自分のことを誰かに本当に好きになってほしいと望んで生きている。
本当に好きになってもらうためにはどうしたらいいかと、切実で健気なこころを抱えて生きている、それを賤しいものへ強圧的に誘導するのは酷だ、大切なところはそっとしておいてやれよと言いたい。

おしゃれがしたいのであって、賤しさを買いたいわけじゃない。

だから限られたおこづかいで、素敵なお洋服を買ってね、似合う服が必ずあるから、派手なのがいいけど賤しいのはだめだよ。
ときどきあなたも迷わないように、思い出してね、「賤しいものを本当に好きにはなれない」、いつか悪夢にとりつかれたとき、このことですっぱり目を覚ましてね。
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あなたは仕事がきらいだろうか

は仕事を「やらされる」のはきらいだが、きっと仕事そのものはきらいではない。
記憶のあちこちに残っているあの感触、「あっ今日も寝られないじゃん」というあの感覚は、どちらかというと僕の好きなものだった。
とはいえもちろん、それが年単位で続いたらさすがに無理だと思うが……
しかし僕の先輩で、かつて七年間休日を取らなかった人がいた(有給じゃなくて土日も)、商社マンだが、彼は七年経ってあるとき「あっ!!」と気づいたそうだ、「休日取るの忘れてた!!」、そういった話を僕は聞いていてヒサンだとは思わなかった。

もしインターネット上の喧騒をアテにするなら、今世の中はあちこちでヘイト感情が渦巻いているということになるだろう。
そしてインターネット上の喧騒をアテにしなくても、今世の中があちこちで「打ち解ける」ということを豊かにしているとは思えない。
もし互いに打ち解けるところがなく、内心に微弱なヘイト感情を蓄積していて、しかも仕事を「やらされる」ということだけが雇用契約範囲外にまで続くのならば、それは不快なブラック企業ということになるだろう。
だがもし神様に願いが通じるなら、ブラック企業の廃絶を願うのではなく、ヘイト感情の蒸発と、「打ち解ける」ということの恢復を願うべきだ。

実現はともかく、チームワークにはロマンがある。

もし真のチームワークが成り立たず、殺伐とした「仕事」だけが課されるのだとした、そこに残っているのは雇用契約と上司の権力だ、そんなものは人心を荒廃させるに決まっている。
自分の勤務する職場のチームで、文化祭に何かを出店するとしたらどうだろう? それでも「イヤだなあ」と感じるならば、それは仕事の内容がイヤなのではなく、単純に人間関係がイヤなのだ、本来文化祭のために徹夜するのはとてもロマンあふれるものだったはずだが。

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あなたの燃える意志のために

える意志がどうしても必要だ。
「燃える意志が必要だ」「そうだね」で済んでいるのが一番いい。
「燃える意志」の一番いいところは、もう加熱が要らないというところだ。
だってもう燃えているんだからね、燃えているものに加熱は要らない。

燃える意志を持つにはどうすればいいだろうか。
「火をつければいいでしょ」と、それ以上の回答は存在しない。
「簡単に火がつかないんです」という場合、「それは勝手な思い込みでしょ」と僕は思う。
簡単に火はつくよ、それで話はおしまい。

意志に火がつかないのじゃない、何か別のヘンなものを加熱しているんだ。

意志は意志なんだから、簡単に火がつくよ、そのことは間違いない。
あなたはいつの間にか、何か自分への加熱オタクになっているんじゃないか、重ねて申し上げるけど、火のついたものに加熱は本当に必要ないよ。

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あのとき夜中の二時にNホテルで
万長者になって、いいオンナとヤリまくりたい、と考える。
オンナは成功者に寄ってくるだろう……などと考えるのだが、ふと、ロックフェラーはいいオンナとやりまくったのだろうか? と考えると、「あれ、案外そうでもないのかもしれない」とも想像されてくる。
じゃあロックフェラーよりシド・ヴィシャスのほうがいいオンナとヤリまくったのだろうか、とも考えるが、あんな壮絶な生き方は個人的にも時代的にもできっこないし、したくもないと考える。
いいオンナを脱がして「おお」「ひゃっほう」となり、「ぜひヤリたい」とセックスするまではよいとして、その後まったく話すことがないぐらいオンナがバカだったらどうしよう、というようなことも考えた、実際そういうことはいかにもありそうだった。

これはいつのまにか、我欲から離れて自分のやりたいことを見つけてしまったということなのだろうか?
丸の内に勤めていたとき、アホみたいに合コンして、きれいどころともたくさん知り合ったはずだが、誰一人顔も名前も覚えていない。
それでもなお、いいオンナとヤリたいと感じ、そう感じることを大切にしたがる、この頭の痛くなるような機能は何なのだろうか。
現在の僕は、オンナのこころと出会いたがり、オンナのこころと寝ようとするが、そのことが悪趣味で面倒くさいことにも感じられるし、同時にドえらく正しいことのようにも感じられ、いつまでも決着がつかない。

こころが見えるようになるのは、残酷だ。

確か夜中の二時にNホテルで合コンしたはずだ(記憶が混ざっているかも)、あのとき寝たのは芸能人の端くれで美人だったはずだが本当にこれっぽっちも記憶していない。
今はもうだめだな、こころが見えてしまうというのは残酷だ、ある意味あのときのセックスの仕方はもう忘れてしまった、まったく文学やら芸術やらというのは、ありがたいものなのかロクでもないものなのか。
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桑田佳祐先輩の声

田佳祐が鬼神のごとき創作を続けている。
「君への手紙」がMVごとyoutubeで閲覧できるが、MVともども聴いていて壮絶な思いがする。
勝手に解説しよう、MVの冒頭、桑田の足元には「幸せの青い鳥」たちがすでに死骸となって朽ち果てている、つまりこの時代に単純な「幸福」は困難だねと冒頭から言い放っている。
それでも彼は愛する人に焦がれ、見上げ、飛べないまま、櫓の無い舟をこぎ続けてエンヤトットしてきたわけだが、彼が書きつけてきた数千数万の詩編は果たしてどこへ消えていってしまったのだろう?

当代一流のメロディメーカーである彼が、その無尽蔵の創作力をもって、これまで没作も含めれば、書きつけてきた詩編はどれだけの分量に及ぶのだろう。
それら書きつけてきた詩編はどこへ行った?
それらは彼自身も知らぬうちに――「やがて」のとき――彼自身を飛び立たせてくれる羽となって集合する。
彼はしょうもない街角で朽ち果てるつもりだ、ただし! 死骸とならず飛び立つつもりだ、彼は自分のこれまで生きて見たもののすべてを統合して置き土産にしようとしているが、いざそう決めたときの彼の創作の鬼神ぶりに僕はひたすら戦慄している、ここまできてなお底なしというのは恐怖さえある。

先輩がそう歌ってくれているんだから、ちょっとは真面目に聴こうな。

「天国オンザビーチ」はそのMVの終始が「ガッツ」の精神でサンドイッチされ、アイドルもミュージシャンも「それぞれ違っていていい」「それでもひとつになりうる」ということを教えてくれている、クサくて結構、鼻つまみ者で結構、オジサンはクサいよ!! つまり現代の解体を再統合してくれている。
天才ミュージシャンあるいはバンドマンとしての桑田佳祐を愛好するかどうかの嗜好は個人に依るとしても、ああして親身にいてくれる先輩の声に耳を傾けない風潮については真っ向から否定したい、そこは好き嫌いや趣味で判断していいことではないだろ。

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あなたが真に信頼できる人

なたはワンちゃんやネコちゃんや、あるいはハムスターちゃんを飼っていたりするかもしれない。
ここで仮に、あなたの大切にしているハムスターちゃんを、旅行か何かで誰かに一週間預けるとしたら、あなたは誰に預けるだろうか。
「そうね、ハムスターちゃんを預けるなら……」、そう考えたとき、ふとこころのどこかで「あれっ?」となる、「この人は大丈夫」「でもこの人は……何か不安だ、なぜだろう」と感じることに気づく。
あなたはあなたの知らないところで、そうして人を見、読み取り、感じてもいるのだ、あなたはあなたの知らないところで、信頼できる人をどこか見抜いている。

表面上、「いい人」に見える人は多いし、それで言えば大半の人は善良で「いい人」に決まっている。
だがその「いい人」が、"人の痛みがわかる人"とは限らないし、"「大切にしている」ということをわかってくれる人"とも限らない。
大切なハムスターちゃんを預けると仮定したとき、ふとそのことを思い出す機能があるのだ、あなたはハムスターちゃんを、「痛みをわかってくれる人」「大切にしている、ということをわかってくれる人」にしか預けられない。
でもなぜか、その「痛み」や「大切さ」をわかってくれない人に、ハムスターは預けないのに、セックスは預けてしまうことがよくある、それは性欲のせいで、いわゆる「欲に目がくらむ」ということが起こっているのだ、その判断ミスのせいであなたは大切にされないし、痛みも押し付けられてしまう。

ハムスターも預けられない人に、セックスを預けないこと。

あまりに生々しいことなので、きっと口外できることではなくなってしまうが、よくよく精査すると、実は自分の大切なハムスターちゃんを預けられる人なんて、友人の中にもごく少ないものだ、それが当たり前だからビビらなくていい。
逆に表面上、「いい人」には見えないけれど、「ハムスターちゃんを預けても絶対大丈夫でしょ、あの人は」と感じられる人もある、あなたはあなたの知らないところでその人のことを真に信頼しているのだ、そのことになるべく早く気づくといい。

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生と恋あいの成立
とえば、公務員になって一生を生きる、というようなことが、本当に成立するのかどうかは誰にもわからない。
さも、そういったことは成立しますと言われている風潮があるだけで、本当にそうなのかどうかは、誰だって自分で生きてみなければわからない。
どういった生き方が成立するのかはけっきょく誰にもわからなくて、あるのはただ、成立を自分に頼る人と、成立を誰かに頼る人の差だ。
今渋谷の駅前はクリスマスのムードを始めようとしている。

恋あいや男女関係も同じで、何をもって恋あいの成立なのかは誰にもわからない。
あるのはただ自分の確信だけだ、ホテルのスイート階を貸し切りにしたってそれが恋あいなのかどうかは誰にもわからない。
僕は15年前にインドのこじきの少女と恋あいをした確信があるが、それもなぜ成立したのかは知らないし、公式を誰かに押しつけようとも思わない。
つまり自分の生が「成立」するという肝心なことのすべては、他人と共有できないのだ、そのとき一緒に生きた人を除いては。

渋谷から三軒茶屋へ電車で移動したのは、そのとき世界でおれだけだ。

そうでなければ生きることがおかしい、わけのわからない集団観念に溶け込んで自分の生が成立しなくなってしまう。
そこが成立していないなら、まして誰かを連れ合いに巻き込むことは道義上許されないな。
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マザコンの人はテーブルマナーがない
十年も生きてきて、不思議な共通項を見つけている。
なぜか「マザコンの人はテーブルマナーがない」という法則がある。
男女に関わらず、マザコンの人は必ず「こじれた口元を食べ物のほうに近づけて、すすって食べる」という食べ方をする。
それはテーブルマナーというよりは、単に「食べ方がこじれている」ということかもしれない、ただなぜそれがマザコン気質とワンセットになるのかはとても不思議だ。

テーブルマナーなんて、本の一冊でも読めばだいたい知れるわけだし、「食べる」という動作なんて、毎日やっているのだから誰だってこなれるはずだ。
しかしなぜか、それは教養や知識によっては修正されないのだ、何十年もスープとコーヒーを「ズズズ……」とすすって生きているおじさんは実際に多くいて、何十年経ってもそれは修正できなかったのだろう。
いわゆる「受け身」で生きてきた人間は、「食べる」という生命自発の営為に向き合ったとき、挙動が混乱する、それで「食べ方がこじれている」という様相が生じる。
それはつまり、"食べ方に生き方が表れている"わけだから、修正なんかしなくてよいものだ、ただ言いうるのはあなたの食べ方に「お似合い」の人がやがてあなたと結ばれるだろうということだけだ。

「食べ方」は、その人の粘膜文化圏を表している。

食べ方がネチョネチョしている人は、ネチョネチョしているものだし、食べ方がむっつりしている人は、やはりむっつりしているものだ、その中で男女は互いに「お似合い」の誰かと出会う。
口腔に鶏肉を放りこんだとき、スッと暗くなる人と、パッと明るくなる人がいるものだ、見ていると不思議で面白い、そういったそれぞれの粘膜文化圏がある。
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意志の官能は暴行の官能を上回る

志のない人間は怖い。
なぜなら、意志のない人間は、利己的な発想しか持たないからだ。
意志のない人間は、実は他者に従順になるのではなく、自己に備わる自己愛と利己的発想に従順になるだけだ。
逆に言えば、人間が利己性を超える機能は「意志」しかないとも言える、人間は意志によってのみ利己性を超えられるのだった。

意志だけが平板な合理性を突破できる。
平板な合理性は、人間をつまらない自己利益の原則に縛りつける、言い換えれば「自分には何の得もないことに爆発できるのは意志だけ」だ。
僕は女性にプレゼントをするのが好きだが、礼を言われるのは苦手だ、「おれが好きでやっていることに茶々入れんな」とどうしても思ってしまう。
自己利益ほど憂鬱なものは他にない、なぜなら自己利益は沸騰するだけで決して爆発はしないからだ、それは人間にとって究極の敗北を意味している。

プレゼントを投げつけてくる男が、あなたの恋人だ。

率直なところ、僕が女性にプレゼントを思いついたときには僕はハアハアしているのであって、「黙って受け取らないと殺すぞ」という一方的な気持ちでいる。
僕が僕のプレゼントによって法廷に立たされるときがあったとしたら、僕は「カッとなってやりました」と供述するだろう、このことは嘘発見器にかけてもらってもかまわない。

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なんでもない二時間の営み
族は本来あたたかいもので、食事は本来にぎやかなものだ。
勉強は本来夢のあることで、仕事は本来アツいもの、青春は眩しいもので、部活動は若い日の想い出だ。
女性はかわいいもので、男性は頼もしいもの、お酒を飲むのは楽しいことで、セックスは頬が真っ赤になるものだ。
本来、戦争を除いては、人間の営みはどれも単純に、よろこびやうつくしさのものだった、このことはいつまでも変わらないはずだ。

今ふと見渡せば、「家族」が苦しみになっている人が多く、食事といってもよく食べらない人が増えた。
勉強は漠然と「やらされて」しんどく、仕事は人間関係の嫌味を知るような場所で、青春はどこかすれっからしで、部活動は何かの自己PRみたいなものが混じりかねない。
女性はどこか険悪で、男性は眼差しが不明、お酒を飲むとやけに怒鳴り声で、セックスは事後に何か暗い感触を引きずる。
そういうことが、何か知らないうちに増えている、僕は思うのだ、全て元の通りにやりませんか? と。

男女が裸で抱き合うのに、何が紛れ込んだの?

ちょっと思い込みや注ぎ足しの情報なしに、手元の本でも読んでごらんよ、何ということはないだろうけど、その何でもないことが読書じゃないか。
われわれは情報を十全にし、営みを不全にした、ちょっと冷静になってさ、なんでもない二時間を営んでみたらいいんじゃないか。
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西洋の「悪魔」と、東洋の「恨み」
界史上、最も悲惨な民族は、言わずもがな黒人たちだろう。
にもかかわらず黒人たちは、ロックンロールを作りだし、黒人霊歌(ネグロスピリチュアルズ)を唄い紡いできた。
最も悲惨であるはずの黒人たちだが、なぜか、現在最も陽気な人たちも、やはり黒人たちであるように思う。
有効性のある暴論として思うのだが、黒人たちの血潮には「恨む」という機能がないのではなかろうか? そこには尊崇すべきヒントがある。

残念ながら、中国・韓国・日本という東洋世界には、「恨み」という機能および文化がある、日本の幽霊は基本的に「うらめしや〜」と恨みを根拠に出現する。
黒人世界や白人世界に「うらめしや〜」に相当する文句はきっとないだろう、彼らはもっとドライに「fuck off」を使うのみで、一方東洋世界にはfuck offに相当する文句はない。
日本人は闘争を好まず、あまり喧嘩をしないが、その代わりに恫喝と恨みを蓄積させるやり方を用いている、この血潮には自覚と注意が必要だ。
我々日本人は、ともすれば、人を恨み世を恨み、「恨む」ということだけで一生を終えてしまうことが少なくないからだ、そのことに自覚と注意が必要だ。

「恨み」は、少なくともグローバルではない。

「この恨み、晴らさでおくべきか」というリアリティは、日本のローカル、ドメスティック、あるいはせいぜい東洋限定のもので、全世界に普遍的なものではない(「恨みを晴らす」と「リベンジ」は湿度も粘度も違う)。
西洋世界には「悪魔」が存在し、「悪魔」は完全に否定的に捉えられる一方、東洋には悪魔は存在せず、代わりに「恨み」が存在する/そして「恨み」はむしろ肯定的に捉えられるので、注意が必要だ、「恨み」はまるであなたの味方のようにあなたに一生取りついてしまうことがある。
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ただの男とホワイトマン

ラック企業だとかホワイト企業だとかいう言い方は、ヘンな言い方だなあと感じている。
別にブラックだろうがホワイトだろうが、企業が従業員の幸福なんか考えているわけがない、「企業」は元々そういうための装置ではないのだから。
そして、別に企業に限らなくても、そもそも自分の幸福をケアしてくれる他人などこの世界に存在しないのが大前提だ。
自分の幸福は自分で追求し、自分で守り育てていくものだ、そうでなければこの世界は面倒くさすぎるだろう。

それで、さらにわからないのは、このような事実の確認が「冷たい」と取られる向きがあることだ。
まったく誤解しているのだが、ここで「自分の幸福をケアしてくれる他人などどこにも存在しない」という文言に「暗く」なる人がいたらとしたら、その人がまったく誤解の当事者だ。
違うの、自分の幸福は自分で追求するということが明るいの、ちゃんと正気を取り戻して生きてね。
冷静に考えてみな、「ホワイト企業のおかげで僕は幸福になれます」という社会人はいかにもおかしいと思わないか?

ホワイトマンと交際して幸福になるというのは大変あやしい。

世の中があちこちブラックなので、ホワイトなものは救済に感じられる、それはわかるが、根本がおかしい、ブラックだろうがホワイトだろうが他人は自分の幸福をケアしてくれる存在ではない。
ブラックアレルギーから恐慌に至ると、ホワイト信奉者になるのは当然の進みゆきだが、それでも恋をするときはただの男に、ただの「マン」に恋をしようね。

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思っているようにはいかないね
とえば「一所懸命やるぞ!」と思っていたものが、そうはやれなかった、ということが起こる。
「思っているようにはいかないね」ということが起こる。
実はこのことは、逆方向にも起こっている、「まったくやる気はなかったのに、けっきょくやりつくしてしまった」というようなことも起こる。
これも実は、「思っているようにはいかないね」ということが起こっているわけだ、こちら良いケースのほうが見落とされやすい。

要点はただひとつ、「思っていることと、起こっていることは違う」というだけだ。
たとえば、「明るくいこうと思う」ということと、「明るさが起こる」ということはまったく異なる。
「思っているようにはいかないね」ということは、「起こっているとおりにいってしまうね」ということにすぎない。
この「思っていること」と「起こっていること」が齟齬しつづける場合、「こじれる」という状態が発生する、こじれるとそれなりに苦しい、こじれたら整理する必要がある。

何を思っていますか/何が起こっていますか。

要は「起こっていること」に鋭敏になって、「思うほう」ではなく「起こるほう」を選ぶクセをつければいいわけだ、たいていの用事は「がんばろうが起こった!」だけで済むんだから。
そして「起こっていること」に鋭敏になったら、必ずしもそれに従う必要はなく、「思うほう」を選択してもいい、わかった上でそれを選ぶ場合、それはこじれているとはいわない。
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僕からあなたへの脅威

ころで、とんでもない裏切りになる前にお話ししておくと、僕はここに「おもしろい話」を蓄積しているのであって、こんなところで「教えを説いている」のではまったくない。
僕はつまるところ、おもしろい話をする芸人および、おもしろい体験をする当事者になりたいのだから、それなりに何かを蓄積しなくちゃいけないじゃないか、そのためにすべてを展開している。
「正しいこと」や「本質的なこと」なんて追究してもだめよ、何かしら本質に届いていないと話がおもしろくないから追究しているだけで、本質に届くうんぬん自体は別に目的じゃない。
たとえば「価値観を転換しろ」と言っているのではなくて、価値観が転換するのは「おもしろい」からそういうネタを展開しているというだけだ、そのあたりを真に受けていただくのはありがたい気もするが念のため言うとほんのりお門違いになってしまう。

だから仮に、僕の目の前で正しくないことや本質的でないことがまかり通っていても、そのことは僕はあまり気にならない。
ただ、正しくないことや本質的でないものは、なかなかおもしろくならないものなので、そのときはたいてい気分は下降している、だからといって修正しようなんてしんどいことは思わない。
むしろ、「正しいこと」や「本質的なこと」が、「正しいですよね」「本質的ですよね」とまかり通っているときのほうが、おもしろさがなさすぎるので、気分は最大に下降しているだろう。
僕は「正しいこと」や「本質的なこと」などで、この世界を戦っていけるわけがないと思う、その点は誤解されたくないのだ、僕はただ誰にも見逃せないほどおもしろくなりたいだけだ。

誤解だ、僕には何の脅威もない。

おもしろいことの中に「正しいこと」や「本質的なこと」も含まれるというだけで、そこにおびやかされている人がもしいたら、それはそちらの内面的な問題だ、僕があなたをおびやかしているわけではまったくない。
すこし真面目にお話しすると、「正しいこと」「本質的なこと」なんか探していないで、戦えるだけの何かを蓄積していくべきだと思うよ、少なくとも僕はそのことしか考えていない。

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この時代のヒーロー像
重大なレベルで、社会への不信と、人間関係の不信が起こっているだろう。
ここでいう不信というのは、つまり「グッとこない」ということだ、社会とか仕事に対して「グッとこない」、家族とか友人とか人間関係に対して「グッとこない」。
この「グッとこない」という状態になると、ぼちぼちキツいのだった、なぜならグッときていなくても、社会と人間関係の中を生かされることは問答無用だからだ。
今これらの不信の中、社会にも人間関係にも「グッ」と来て、ちゃんとしているという人がいれば、それだけで救われる心地がするだろう、彼はヒーローに映るのが当然だ。

単純に言えば、今の時代のヒーロー像といえば、「仕事も家族も友人もちゃんとしている」という、ほがらかであたたかい像だ、この人についてゆけば正しいに違いないと感じられる。
もちろんそれはどの角度から見ても正しいのであって、僕だって「仕事も家族も友人もちゃんとしている」という人が大好きだし、そういう人が何より頼もしいと思っている。
逆に、「仕事も家族も友人もちゃんとしていない」という人がいたとしたら、どう大目に見ても「なげかわしい」と言うよりないわけで、いわばこれがこの時代の残念像と呼びうる。
ただここで僕が言いたいのは、本当に「ぐっと来て」「ちゃんとしている」という人に限って、僕のようなデタラメ人間とも逆に話が合うということだ、デキるヤツに限って自分のデキる具合に固執しておらず柔軟だからおそろしいものだ。

「君の踊りに比べたら、僕の論文なんてゴミだ」とケインズは言った。

経済学の巨人ケインズは、当時のバレエダンサーか何かに惚れていたらしい、詳細は忘れたが、実際そういうラブレターがあったそうだ。
僕は芸術家気取りで、友人にトヨタに勤める優秀なヤツがいるが、僕と彼に共通していることはお互いが豊かでうらやましいということと、お互いに何の悲愴感もないということだ。
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こころと茶こし
ットから、茶こしを通して、カップに紅茶を注ぎます。
茶こしには少しの茶殻が残り、カップには紅茶が注がれました。
ある人は茶こしに引っかかった茶殻を食べました。
ある人はカップに注がれた紅茶を飲みました。

人間のこころにも似たようなところがあります。
注がれた流体が本質だと捉える人もあれば、引っかかった固体が本質だと捉える人もあります。
ここでもし、茶殻の出ない、丁寧に注がれた紅茶があったらどうなるでしょう。
茶こしに茶殻を待ち構えていた人は、「何も残らないじゃないか」と嘆くかもしれません、一方でカップに紅茶を待ち構えていた人は、「丁寧にありがとう!」とよろこぶでしょう。

注がれているこころに、気づかないことがある。

こころからこころに流れ込んでいるのに、流れているものはしばしば見えづらく、引っかかった茶殻のほうが目につくため、しばしばこころは見落とされがちです。
目につくものがなかったから、「何もなかった」? いえいえそれでは、手元にあたたまったものの説明がつきません。
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