☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
全員
たちのニッポンだ。
ニッポン、ゴーゴー。
分析したものはデータだよ、ニッポンじゃねえよ。
ニッポンはニッポン人の全員が知っているだろ、別に応援はしていなくてもよ。

全員が知っているってことが財産だよ。
自分だけというのは究極役には立たないな。
個人で観察しないように、というか「観察」って何の役に立つんだよ、意味ねえからやめろ。
ズーダ、ズダダ・ズーダ、ニッポンはニッポン人の全員が知っている、それ以上は特に要らない。

同時代人という偉大なことよ。

しょうもないこともたくさんある、かにみえる、けれどもそのしょうもないことがあったことを、僕たちの全員が知っている。
われわれは努力せんでもつながっているのだ、だって同じことを知っているからな(母国語自体がそういうもんだ)。
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必ず新常識が流行する
ず「空気が汚いですよ、病気になりますよ」と宣伝しないと、空気清浄機が売れない。
「地球環境がヤバいですよ、温暖化で水没しますよ」と宣伝しないと、エコ関連の製品が売れない。
昔からずっと繰り返されていることだが、危機感や禁忌感を創り出すことによって、ビジネスのムーブメントを作るのだ/たとえばタスポであったりチャイルドシートであったりアイコスであったり、そんな小さなものにも利権が生じる。
僕が子供のころに教え込まれた常識では、石油は今ごろとっくに枯渇しているはずで、安全な原子力で電気はタダになっているはずだった、そして今、海水面上昇がどうかというと、「1906〜2017年の期間では明瞭な上昇傾向は見られません」と気象庁(国土交通省)のサイトにデカデカと書いてある、これから先は、喫煙者が減ったから肺がんの罹患者が減るかどうかだが、本当のところどうなるのかはわからない、僕は社会派の人間ではないのでまさに「わからない」に尽きる。

F1はレースクイーン(グリッドガール)を撤廃したし、今度は自転車のロードレースでも、ボディウムガールを撤廃するそうだ、優勝者に祝福のキスといういつものアレはもう無くなるということ/これによって女性の尊厳が守られるという話だが、人によっては落語のオチみたいでずっこけるかもしれない。
LGBTうんぬんもそうだが、とにかく最近は、男女の祝福やキスというのを禁忌にしたいらしい、ひょっとするとこの先はハリウッド映画にも、セクシーねえちゃんがタフガイにキスをする、というシーンはなくなるかもしれない。
毎年、女性の服に「流行」が設定されるように、われわれの思考にも、時代ごとに「常識」が設定されるのだ、そして重要なことは、そうして設定される常識のブームが、必ずわれわれを抑圧し、何かしらの消費行動へ行き着かせるということ。
狙い目は、抑圧されたぶん、耐えようがないからヨソのはけ口に流れるということなのだ、そのことに向けて新常識の流行がデザインされているということは、何もおかしなことではない、むしろデザインされていない流行のほうが珍しいだろう/たとえば弥生時代には流行なんて少なかっただろうから、つまり、デザインなしに流行はなかなか生じ得ない。

常識を知らないのは論外だが、常識に反発する権利は誰にでもある。

おれはレースに買ったら、クイーンにキスされたいけどな……ただそれが、「非常識」になるというだけの話だ、じゃあ僕は非常識な者と扱ってもらえばいいわけで、あとは時代の常識家に出くわしたら走って逃げなくてはならないという、ただそれだけのことだ。
今流行している新常識は、誰でもわかっていると思うが、「性愛の歓喜禁止」だ、そしてこんな根源的なもの、耐えようがないので、必ずヨソのはけ口に流れるということだ/それが間違っていると言っているのじゃない、それが「常識だ」と言っている、僕は正しいことを話しているのではない、ただ非常識なことを話している。
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端末と生え抜きのゴシップ体質

年、われわれがスマートフォンを手にしたことによって、新しく身に起こっている変化がある。
それは、われわれが、無条件で「ゴシップ体質」になったということだ。
たとえば今日、何かしらウェブサイトを開くと、ニューストピックに、「石原さとみさん、IT社長と旅行デート」というような見出しが出ている。
十数年前、こういったトピックは、特定のゴシップ好きしか知らないものだった、わざわざゴシップ用の雑誌や新聞を買っている人しか知りようがないネタだった。

もし、僕がたとえば学生時代に戻ったとして、当時の誰かが「石原さとみがIT社長とデキているらしいっすよ」とゴシップ話を持ち出したら、ただちに「はあ? 何その話題、きっしょ、死ね」と返していたと思う。
当時は、若い連中なんて、ワイドショーにかじりついているような変人しか、そんなネタは知らなかったのだ/しかもわざわざそんなヨソのゴシップを話題に出してくるような奴は、もしいたら無条件で「最下層」の扱いだったと思う。
当時、若い男性が二十人ぐらいいると、二人か三人ぐらいが「アイドル好き」で、誰がかわいいというよりは、誰が伸びるとか、誰が好みとかいう話をしていた、それにしてもどこか遠巻きに、「お前らきっしょいなあ」と扱われていた気がする。
昔、「KAT-TUNの赤西くんがチョメチョメで……」という何かの話を聴かされた記憶が僕にあるが、たとえそんな話を聴いたって、当時はブラウザの横カラムにトピックが表示されるわけではないので、追跡の機会がなかった、すると二日後にはもう忘れている/それに比べると現代のわれわれは、自分の脳みそが何を考えるかについて、ブラウザの横カラムに表示されるトピックで決定されている、われわれの脳は今、自分のメモで動いておらず、他人が構築したゴシップメモで動いているのだ。

人類史上、われわれほどゴシップに精通した民族はない。

IT技術が、われわれに最も広汎にもたらしたものは何かというと、「ゴシップ」に尽きると思う、昔で言うと書店に置いてある下世話週刊誌を全部買うような奴のレベルだ、そしてそんなゴシップ屋とは話すことがないし、話したくもないというのは、人類史上変わらないひとつの真実だった。
今、少なからず若い人が、内心で「人と何を話したらいいかよくわからない」と感じていることがあると思うが、その理由のひとつにはこの「ゴシップ体質」がある、生え抜きでゴシップ体質の訓練を受けているので、「関心」のメカニズムが土台から壊れているのだ。

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炎上と「ア゛」の持ち主

日は、キリンの「午後ティー女子」がうんたらかんたらで、炎上らしい/毎日何かが炎上している、北朝鮮は方向転換したがわれわれは炎上をやめない。
もう、「関心を持つな」の一言に尽きる/とにかくこの世には炎上派と非炎上派の人がいて、僕は炎上派に関心を寄せることに何のメリットもないと考える者だ。
僕から伝えておきたいのは、僕の知る限り、人は「制御できない奇声」をこころの深くに持つことがあるということだ、それは子供のころから芽生え、芽生えたらそう簡単に消えたりはしない。
だいたい「ア゛」もしくは「オ゛」で、ほとんどは「ア゛」の音色で構成されるのだが、この奇声を抱えた人はおおむね一生それを抱えていくのだ、実は部屋の中で奇声をあげて一人で暴れていますという女子大生やOLは珍しくもなくゴロゴロいるだろう。

子供であれ大人であれ、そうした奇声を発する人は、本人としては「まあ、ストレス解消みたいなもんで」と捉えている。
が、当人がそのつもりでも、事象の本質はそうではないのだ、その奇声の出どころは根深くて、実はストレスうんぬん関係なしに、自動的に肥大して育ってゆき、定期的な排出を要求されるだけという仕組みがある(頻度も強度も増してゆく)。
この「ア゛」の出どころは、根源的な「憎悪」および「怨み」なのだ、もちろん本人はそんな致命的なものを抱えているなんて信じたがらないから、どこか言い訳の利くシーンを見つけて「ア゛」を吐き出すのだが、それをどのシーンに向けて吐き出したかということにほとんど意味はなくて、とにかく内在的な憎悪および怨みが「抱えこみきれずにオーバーフローし始めている」という危機だけがある。
「炎上」といって、もし人間に来世なんてものがあれば、次は典型的に自分が焼かれる世界へ行かされるのだろうから、やめとけば? と言いたくなる/しかしこれは麻薬やアルコールと同じで、気づいたときにはもうやめられないのだ、当人はその気になったらすぐやめられるつもりでいるが、いざやめてみようとするとそうはいかないという、典型的な依存症の性質がある。

「炎上」といって、まず焼かれているのは仕手の側だ。

冷静に考えれば、誰だって、「炎上」の仕手なんかをはたらくために、この世に生を享けたわけじゃない、そんなことはわかっているのだが、もう止まれないのだ、「ア゛」という声は当人が思っているより根深くて制御が利かない、そして表面に露出するころには内部でもう巨大というほどに育っている/表面上はお人形さんみたいな女の子でも内部に巨大な「ア゛」を育てていたりする。
経済的な問題もあると思うのだが、それ以上に、精神衛生の破綻、信仰の破壊、セクシャリティの汚濁、そして友人や家族に愛が得られないという、絶望的なさびしさが背後ではたらいている/炎上の仕手、つまり「ア゛」の持ち主だけを800人、体育館に集めて解放させたら、割とシャレにならないヘルサウンドが聴けると思う(聴きたいわけじゃねえ)、人間って割とマジにそういうもんだよ。

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「受け身」と「求め身」、および「与え身」5

「受け身」というのは本来、とても荘厳なことだ。
そういうことが、あったなあと、この五月の風の中思い出す。
こちらをまっすぐ見てくる、わけではないが、まっすぐ届いていて、「わたし」をすべて預けてしまっている。
なにひとつ、抗うつもりのない身体だ、疑問も恥も感情も置き去りにして、「この人にゆだねるほうが大事」と確信している/仮に耳たぶに太い針を刺したって、「痛い」とも言わずにただ痛みを身に受けているだろう、すべてを聴き取るためだけの存在になっている。

一度でも、やさしくない男性と接触すると、女性はもう二度と、この「受け身」に殉ずることはしないかもしれない。
それは、現代においては正しくて、ある意味、その後は男への報復のみで生きるというのも、心情としては間違いじゃない。
ただ、「受け身」という荘厳は存在するし、かつてその荘厳は実在した/男の世界に組み入ろうとしていたのかな、わからないけれど、そこには青春以上のものがあった、「やさしい人に違いないから」という理由だけで、身元も知らない初対面の僕にすべてを明け渡して震えながら、躊躇がなかった。
男女平等なんて、ちゃんちゃらおかしいね、男のほうが上で、受け身を果たした女はもっと上だ/あの世界とあなたのことを、僕はずっと忘れない、他の全員がすべてを忘れてしまっても、僕だけはずっと覚えている。

何をやっていたのか、あれはきっと「セックス」ではなかったのだ。

少なくとも、今認知されているところの「セックス」とは内容が違う、あれはセックスではなくて「肯定」だったのだ、何かの肯定……もちろん僕に向けてくれた肯定でもあるし、それ以上に、何かそこにあったすべてのことに向けての肯定、まだ何も知らなかった僕たちの、向こう見ずで引き返さない肯定。
すべてを肯定できたら、その中に自分も含まれたのに、そうはいかないぐらい、とんでもない人が増えてしまったからね、でも僕は傲慢に信じ切ることにする、これに関しては僕が正しい、そして僕が正しいということは、そのときの女が正しいということだ。

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「受け身」と「求め身」、および「与え身」4

に、「わたしは人間じゃなく、マンイーターなんで」と名乗って立てば、何かカッコイイし、割と全体が整合してしまうという事実がある。
ひょっとすると、善人と言い張って消費に生きるより、「マンイーターなんで」と堂々と引き受けて消費に生きたほうが、カルマ的にはマシかもしれないという見込みもある。
しかし、そんな餓鬼道まっしぐらは殺生でっせ、と嘆いて乞う、健気な向きの人もある、たしかに人間らしさの豊かさをすべて放棄してマンイーター道だけを何十年も往くというのは、それはそれでド根性が要る。
ただまあ、人間らしさのほうへ帰参するというのなら、これまでいくらでも機会はあったし、いくらでも時間はあったんだよな……せめて、自分で選んで突っ込んだマンイーター道だということぐらいは、引き受けないと、他人のせいにしていたらますますドエライことになってしまうだろう。

manをeatする人だからmaneaterだ、マンイーターが自然体でリラックスしていたら、それはナチュラルに人の魂を食らっているということだ、マンイーターのニュートラルとはそういうモンだ。
どうしてかね、人の魂が増すほうへ寄与するということが、これっぽっちもわからんか……といって、わからないからマンイーターなのだし、頭でわかっていても身は常に逆をやるからマンイーターということなのだった。
是正の可能性があるとしたら、やはり第一に、「受け身」という言い方をやめることだ、「受け身」というのが本来どれほど荘厳なことか、ここの認識が改まれば、少なくとも道筋は見えるかもしれない。
「受け身」というのは、相手の世界を受けられるということ、相手の意志を受けられるということだ、消費者とはまったく異なるじゃないか、なかなかそんな荘厳なことにはなれないものだ、われわれは相手がカミサマであってもそのしもべになんかなれない連中だからな。

受け身とは「Yesがない」ということだ。

たとえばペットボトルのフタを開けるとき、ペットボトルのフタは人の手に対して完全に受け身だが、ペットボトルのフタに「オープン、OK?」「Yes!」なんて応答はしないだろう、あるいは自分の右足左足に、「ウォーク、レフトファースト、OK?」「Yes!」なんてやりとりをしていたら、われわれはまともに歩けないだろう/われわれのまともな世界に、もともと「Yes」などというノタノタした応答は存在していない、許可制のものは何一つ世界じゃない
自分の世界的に「Yes,OK」とか、自分の意志的に「Yes,OK」とかいうのは、受け身でも何でもない、ただの消費審判酷評マンだよ、もちろん自己の権利は安全に保たれるが、たぶん何の世界もない中を生きることになる/少なくとも「受け身」という言い方だけはやめたほうがいいと、おせっかいながら申し上げておきたい、それを「受け身」と言い張ると、今度は別次元の不穏が起こってきてしまうから。

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「受け身」と「求め身」、および「与え身」3

1.代女性は、「求め身」を獲得している。
2.現代女性にとって、<<いつもどおり自然に振る舞う>>ということは、自動的に「求め身を発揮する」ということである。
3.僕はあまり何も考えていないので、女性の発揮する「求め身」に反応して、自動的に「与え身」を発揮して向き合う。
4.こうして、僕の「与え身」が、女性の「求め身」に賞翫され消費され続けるということが、<<ニュートラルの状態>>で自動発生する、現代の「ニュートラル」はこうして僕の消耗と女性の消費者利益に偏向している/現代においてニュートラルは非水平である

5.現在、この「求め身」は、「受け身」と詐称され、非水平ニュートラルは「女性らしさ」のあらわれなのだと欺瞞されている。
6.何の権利も身分も有さない女性が、僕の「与え身」を際限なく賞翫・消費していくことが、「ニュートラル」の状態で継続されていくので、女性はカルマの蓄積から恐怖を覚え始める(この恐怖は視認不能なほど深いところから生じていて、本人は出どころがわからない)。
7.女性は深い恐怖から、僕の「与え身」の享受消費をやめようとするのだが、己の意志で現在の「求め身」を解除することはできない/その解除不能の一端は「受け身」という言葉の誤用に起因している。
8.極論すれば、現代の女性は、ニュートラルの状態で「求め身」を発揮しつづける、マンイーター状態にあるといえる/ここで僕が、通常と異なり<<どれだけ消費されても尽き果てない>>ので、女性は際限なくマンイーターとして肥大してゆき、そのことに恐怖以上の恐慌を覚え始める。

9.「受け身」を、「マンイーター・ニュートラル」と是正する。

10.事実、われわれの「ふつうに暮らしている」は、コンテンツをタップしつづけて消費し続けるのが「ふつうに暮らしている」だ、一方的に享受して酷評を下すがわれわれの「ニュートラル」なのであって、ダウンロード量よりアップロード量が勝る者など人口のうち数ppmしか存在しない。
11.求め身はマンイーターである/これを人間的身分に回帰させようとするとき、人間的身分はわれわれ現代人のはるか想像しえない次元にある。

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「受け身」と「求め身」、および「与え身」2

の風が、ふと、まったく唐突にだ、とんでもないことをささやいていった。
<<この十年間、女性が創り出したものといえば、「炎上」しかない>>。
実際問題として、たとえば僕は女性youtuberの、誰を見て楽しめばいいのかというアテがまったくない、僕は女性がいかにも「媚び」を前向きに使用する風情を楽しめる性格をしていない。
まったく受け身でもなければ求め身でもないという、「与え身」の女性が具体的に誰かというと、僕はイッテQのイモトさんぐらいしか心当たりがない、僕はスピルバーグや宮崎駿のような存在を女性において未だ知らない。

「女性の活躍=炎上」というような、信じたくないような定義が、しかし無視できない説得力をもって垣間見える。
古代ギリシャのように、少年が自分の師たる青年に、親愛のあまりキスしてしまうというようなことも、あくまで神話につながった青年と少年の世界のことであって、そこに腐女子の影が立っていることはすべての汚損と破壊でしかない。
夜風がとんでもないことを教えていきやがった/女性が受け身なんてことはまったくなくて、今あるものは「求め身」でしかないということ、お気に召すものだけは受理してやってもよいが、そこに至らぬものは酷評して閉じるというのが、実際われわれに与えられている日常だ(この記事だって第一には酷評されるか否かという審判にしか晒されない、誰が「受け身」か)。
今、多くの女性から、「女の正しい身分を教えてほしい」と、僕自身乞われている、それについて正直、もう「見えてきている」のではあるのだ、ただその見えてきたものは想像を絶する/その中で女性はまったく不遇ではないのだが、ひたすら想像を絶するのだ、とてもじゃないがたどり着ける見込みはないように、ひとまず感じられてならない。

「受け身」は、実はとてつもなくハイレベルだ。

たっぷり審査して、たっぷり私好みに判断する、取捨選択して大半は酷評に突き落とす、そんなものは到底「受け身」とはいわない、「お任せします」というのは真に任せたのではなく「全責任はそちらにあってしくじりがあれば酷評して糾弾します」という覚悟をこちらに要請してくる態度だ/その糾弾を「我慢」したら「わたしが偉い」ということになるので、これはやはり受け身でも何でもない。
現在、女性が獲得した「求め身」に対して、僕は「与え身」で応えざるをえない、そしてそれは見事に適合するのだ、僕はそのことの訓練を積んできたから/そして僕が「与え身」を発揮したとき、それが自分の「求め身」に適合するのを受けて、そのたびに女性が深い恐怖を覚えていくのだ、つまり「受け身」になれない自分の身が、この人の「与え身」をすりきらすのをやめてくれないということに(このことは正確に定義して見つめなおす必要がある)。

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「受け身」と「求め身」、および「与え身」
の季節、ベランダでバーベキューをしてしまうのだが、あまりに酒が旨すぎて、炭火に当たったまま横になって眠りこけてしまった/四月から五月に変わるところの夜風を、半袖Tシャツ一枚で浴び続けて眠ったことになるが……
そんなことをしていると、容赦のないインスピレーションが、容赦のない入れ知恵をしていくものだ、夜そのものに味があって、食事の味はそれの付け足しにすぎない(夜ごはんは夜を食べ、昼ごはんは昼を食べるのだ)。
多くの女性は、自分が「受け身なタイプ」だと思っているだろうし、また実績としては、「超絶」とつけてよいぐらい受け身で生きてきていると思う。
そして、超絶受け身でありながら、「従順」だった、という記憶はまったくないはずだ、本来「受け身」のはずなら、それは同時に「従順」という性質も為しているはずだが……ではここにある一般的な「受け身」というのは何なのだろう。

実態は、受け身というより「求め身」だ。
なんというか、率直にいえば、「漫画や動画や音楽やテレビドラマやお笑い芸人をクリックし、お気に召さなければ酷評して閉じる」だ、本当に、リアルなところ、それぐらいしかしてきていないという実態がある。
受け身、ということでは本当はまったくなくて、「コンテンツと男の口説き文句を寄せ集めて酷評消費するマン」という実態しか為していない、これがホントの十年間だったのだからごまかしてもしょうがない、われわれのテクノロジーがもたらした実態だ。
女の側が主体となって、コンテンツと口説き文句を放出して、酷評されて消費されちゃった、という形は実態としてほとんど存在しないはずだ、まして、一度や二度のトライアルはあるかもしれないが、それを「気づけば十年間ずっと放出しつづけてきた」というのはまずないと思う。

受け身の女性になんか、ほぼ会ったことがない。

実際の感触でいえば、現在の僕でさえ、集中力と洗練と、誠実さを尽くしたコンテンツを供さなければ、まず女性には受理されないと感じる、女性が受け身なんてとてもとても、それどころか99%は弾かれると考えたほうがいい/つまり強力な「求め身」に対してそれを上回るほどの「与え身」を実現していなければ、女性が男に納得することはありえない。
何かおかしい……と、僕が感じているのではない、女が感じている/受け身だが従順になった記憶はまったくない、あるいはその記憶はもう取り戻せない。
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額面通りの人になる2
間には、「唾棄」というナゾの行為がある。
実際に唾を吐かなくても、何か、「唾を吐く」という感覚事象があるのだ。
誰だって、好きになれないものとか、納得のいかないもの、きらいなものがあると思うが、「唾棄」というのはそれとはどうやら種類が違うようだ。
「唾棄」「唾を吐く」という感覚事象は、一種の儀式か呪術のようにはたらくところがある/唾棄したものはもう消えないのだ、自分の人生や存在の定義になってしまう、唾棄は思ったよりもきっとインパクトの大きな決定をもたらすのだ。

その典型例が、いわゆるDQNの人だと思う。
オレDQN目指してんすよ、といってそれを目指した人はきっと存在しなくて、どこかで知らぬ間に「何かに唾を吐いた」ことによって、そのことへの自己決定が為されたのだと思う。
誰だって、自分の好きでないものに対して、「お断り」するし、「拒絶」もする、また「否定」もするかもしれない、だがやはり「唾棄」は別だ。
街中には、いわゆるDQNというようなタイプ、あるいは、雑誌の中から出てきたような血の気のない「おしゃれ」のかたまりみたいなタイプ、また、どこかヨダレの匂いがしそうなパンク女のタイプ、薄汚いルポだけがギョーカイと信じて生きねばならない脂肌のタイプ、などが色とりどりいるが、これらのタイプは、もう自分で「やーめた」といっても<<やめられない>>のだ、「額面どおり」を最後までやらされることになると思う/なぜだかはわからないし、ただの僕の気のせいかもしれないが、なんとなく、唾棄からすべてが決定するというパターンは、もうどうしようもないという点から、妙に切なくて、胸が痛くなるように僕は感じてしまう。

否定はしても唾は吐くな。

おそらく、「唾棄」ということには、不穏な強烈さと、取り消しが利かないというリスクしかないのだ、わざわざ自分でやることじゃない/何か本当に解除不能の「がんじがらめ」にされるのだ、すべての運勢もそこで決定されてしまいそうな……まあそんなこと言い出したらただのオカルトだな。
唾を吐いて何かが「決定」してしまった人に、僕の好みの女の子が巻き込まれることだけがきらいだ、それさえなければ、なぜか取り消しの利かなくなった人たちの姿は、胸に切なく迫るところがある/何かに唾を吐いたときから、<<額面どおりに生きるしかなくなった>>、もう「やーめた」とは言わせてもらえなくなった、そのままゆくしかない、それはわれわれの真実の姿の一端なのかもしれない。
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額面通りの人になる
原宿に行ってきた(美容院)。
久しぶりに、典型的なDQNの人を見たのだが、今さらふと気づいた、僕はなぜかDQNの人がどこか好きだ。
DQNの人は、全身が暴力の気配に満ちていて、声も目つきも物々しいので、近くにあるとかなわないのだが、僕はなぜかそういったDQNの人たちを、「切ない」と感じる。
「車のバンパーをイカツいのに変えたい、そのためにはカネが掛かる」「オリジナルの腕時計に憧れる」という話をびっくりするぐらいデカい声でしていた、僕にはどう逆立ちしても湧いてこない衝動だ。

僕は人を額面通りに信じたいし、額面通りに信じる者だ。
怖い物知らずのDQNが、内心で深い不安や哀しさにおびやかされているというようなことは、たとえ当人が告白しても、僕は一切受け付けないだろう。
人は、額面通りの人になるのだ、たぶん、思いがけない深い業(カルマ)になるのだと思う。
僕がDQNの人をどこか好きなのは、DQNの人は、僕が助けなくてもいいからだ、土台の発想が厚かましいと思うが、まったく正直なこととして……DQNの人は、助けなんか受け付けないし、もし助けがいるような何かがそこにあったとしても、もう助からないのだ、それでなんとなく、見ていて切ない感情が起こる/もちろんすべて僕の勝手な勘違いかもしれない。

「唾を吐いた」ということで、決定される人生もある。

人は、何かに唾を吐いたとき、吐いた唾はもう飲み込めないのだ、自分で選んだその唾棄の、行きつくところまで行きつかされる。
僕はビビリだし、利益を重視してしまう派だから、万事を失ってまでDQNになれるような根性はないな、その点で僕は少し憧れを持っているのかもしれない。
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「わたしの生きた時間」が得られるわけではない
「あなたがいてくれることが、わたしの人生の幸福なの」と、言ってもらえることがない。
「お前がいてくれることが、おれの生きる動機だよ」と、言ってもらえることがない。
クソほど繰り返して観てしまう映画がなく、クソほど繰り返してしまう思い出話の共有がない。
仕事であろうがなかろうが、「気づいたら朝だった」と没頭できるワークがない、「気づいたら朝だった」と語り合える話と仲間がない、食らいついて土下座してでも学びたいテーマがない、どれだけ飲んでも「こんなことになってやるぞ」という歓喜のヴィジョンが湧いてこない。

LGBTにせよ受動喫煙にせよMetooにせよ、今ある流行のすべては、「これまで見えていなかった迷惑と被害にズームインした」にすぎない。
被害を軽視していいわけではないが、いくら被害を圧縮したところで、「わたしの生きた時間」が得られるわけではない。
ホワイト企業に入り、筋トレで身体を鍛え、ボルダリングで汗を流し、瞑想で心身の安定を得たとしても、それらの快適さと充実が、「わたしの生きた時間」になるわけではない。
これまですべて、「目に見える充実にズームインし、見えていなかった被害にもズームインする」ということへ進んできたのたが、ズームインは同時に視野狭窄の手法でもある、拡大されたぶん周辺の情報は外へ追い出されていくわけだから/そして今さら、ズームアウトをして全景を見渡すのはいやなのだ、ズームインされた視野角の中は完璧なのに、ズームアウトされると全体がガタガタだということがバレるからだ。

「充実最大、被害ゼロ」、この理想的で好ましい男を、あなたは決して愛さない。

あなたの愛する男は、むしろ「何をやってきたかわからないが、没頭してきた、さまざまな被害者だったかもしれないが、でもおれの生きた時間だったから」という男だ、こういう男がもし「そうしたすべてが、お前とこうして出会うためだったのだとしたら、たぶんおれは肯定できるどころか、おれの人生はサイコーなのだと思う」と言ってくれたら、あなたも「わたしの生きた時間」を得られるだろう。
「わたしの生きた時間」を得るのは、そんなに簡単なことではない/問題点と解決策を欲しがるのは、気持ちが前向きだからではなくて、問題点と解決策にズームインして全景を観るのを避けようとしているだけだ。
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本当の問題は、致命的なほど「さびしい」ということ

動喫煙を減らして、LGBTへの差別をなくしても、われわれの未来が明るくなるわけではもちろんない。
男性のセクハラが減れば、被害者は当然減るわけだが、そのことが、女性に愛する男との出会いときずなを増やすわけではまったくない。
今、若い人の大半は、仕事は「ほどほど」で、余暇が大事、という考え方らしいが、そうして仕事に夢がないというのは、夢があることよりは不幸なことだと思う。
本当の問題は、きっと本当の友人や本当の恋人が得られないことだし、本当に朝まで語り合うことがないとか、本当に感動した映画や歌や音楽がないということだと思うが、この本当の問題はきっとヘヴィすぎ、もう誰も手が付けられないものになってしまった。

人間はそんなに甘くない。
本当の友人や本当の恋人、あるいは本当の青春といったものが与えられずに生きると、どれだけ受動喫煙が少なかったとしても、その人は必ず世の中を怨み、世の中を呪う。
夢のない仕事を、「ほどほど」にこなしたとして、余暇……といってもけっきょく、何にも没頭できなかった人は、「生まれてこなきゃよかった」と必ずこの世を憎悪する。
本当の問題は、致命的なほど「さびしい」ということだが、もうヘヴィすぎて手が付けられなくなってしまった/もし来世があるのだとしたら、わざわざこれからの日本に生まれてきたいとは望みがたい。

東京オリンピックに向けて、都内の喫煙エリアを減らしているが、もう東京オリンピックに雄叫びをあげる人がいない。

何もかも「ほどほど」で、もう何にも燃えられなくなったわけだが、それはきっと何かが間違っていたのだと思う、だけど「自分が間違っていた」と考える人は一人も出てこない。
1998年に、長野オリンピックがあったのだが、当時僕の友人はその観戦がどうしてもしたかったらしく、彼はそれだけの理由で長野の大学に入学した、全体的に笑ったが、「まあわかるわ」という向きもあった、また同時期の友人が、洋楽のライブに初めて行ったらしく、「三日経ったが、まったく身体から熱が抜けない」とのたうちまわっていた、どちらもそんなに熱い奴ではなかったのだが/彼らからタバコを取り上げてLGBTとポリコレの研修を受けさせても幸福には何も寄与しない、かといって本当の問題はヘヴィすぎて手が付けられなくて……今、致命的な「さびしさ」から目をそらすのは、それ自体が健康増進としてやむを得ないところもあるのかもしれなかった、それは本当に「致命的」だからだ。

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痴漢したい男3
「どうしていつも、こんなにやさしくしてくださるの?」と言ってくれる女性は、現代にも存在する。
別にいいだろ、僕自身はクソでも、そう言ってくれる女はうつくしいものだ、たぶん女神さまか何かの転生なんじゃないかと思う(シャレじゃなく、目を疑うほどキレイな人ですし……)。
一方、「いつもよくしてくださって、ありがとうございます!!」というタイプの女性もいるのだが、こちらは残念ながらハズレだ、あしざまに言うのは僕自身つらいのだが、前向きにいくためにはこう進めるしかない。
理由はクリアだ、「いつもよくしてくださって」のほうは、「女の側」の感謝のこころが主題になっている、一方で「どうしてこんなにやさしくしてくださるの?」というほうは、「男の側」のこころが主題になっている、この「自分以外の誰かのこころを主題にする」ということは、現代人には不可能なのだ、機能がないので、どう逆立ちしたってその女神さまのような声と言葉は出てこないのだった(無念だがしゃーない)。

僕がその女神さまの従姉妹に「痴漢した〜い」と言えば、「わたしなんかでよろしいんですの?」と、彼女は心配する/マジなのだ! これが空想でも妄想でもないし、しかの彼女の演技でもないってんだからおれだっていつもびっくりするのだ。
一方で、その女神さまエリア(つまり「思いやり」を持つ領域)にいるわけではない女性は、僕が「痴漢した〜い」と言えば、「うん、わたしは別にいいよ〜」と了承してくれるだろう。
つまり、前者は第一に「Are you OK?」がフォーカスされているのに対し、後者は第一に「I'm OK.」がフォーカスされている/「どうしていつも、こんなにやさしくしてくださるの?」は、" Why are you always unbelievably tender for me? " になるし、「いつもよくしてくださってありがとうございます」は、" I always do appreciate your much kindness! "になる、英語力についてはとやかく言わんよーに、とにかく第一に「あなた視点」にフォーカスがいく女性は、単純にいって格が違うのだ、これは具有している機能のレベルの問題なので、マネしてどうこうできるたぐいではない。
話が飛ぶようだけど、前者はこの世界に「ナゾ」を見ながら生きている一方、後者はこの世界に何のナゾもないのだ、前者の女神さまは「どうしてわたしなんかに痴漢などしたがりますの?」と、男の側のこころに「ナゾ」を見ているのに対し、後者は「わたしは別にかまわないっていうか〜」と、自分の側のこころを見ているだけなのでナゾがないのだ/そしてナゾのない側は、ナゾがないので本質的に「毎日することがない」のだ。

「痴漢したい男がまともだ」という話を、女神さまは「ナゾを解く手がかり」として聴く、そうでない人は「議論の題材」として聴く。

今、世界中のオンラインとオフラインで、「激論!」が交わされているが、なぜそうして議論がファイヤーするかというと、「聴く」という必要がないからだ、世界に何のナゾもない人が何かの話を聴かねばならない理由は根本的にない、ナゾがないから「聴く」という機能は死滅し、結果的に「発言する」という機能だけが残ったという状態だ、しかも本質的に「毎日することがない」のだから、いくらでも議論に飛びついてファイヤーするに決まっている。
記事のタイトルからずれてしまったがしょうがない、僕はいつでも「痴漢したい男」に還りたいが、そこで「わたしもされた〜い」と女性が言うなら、僕としてはまっぴらごめんで退却することになる、どうしていつもそうやって自分の話にサッと取り替えるのかと、痴漢に説教されてちゃ世話無いぜ。
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痴漢したい男2

はもともと「痴漢したい男」だ。
ただ、そのことの評判が悪くなってきたので、その「痴漢したい」を滅却した。
そこで「あきらめる」のではなくて、まさかのまさか、上位のスケベ心に到達してやろうぞ〜と発想するのが、僕の悪質なところではある。
痴漢衝動はないのに、性的な力だけ帯びている男が目の前に立つと(あるいはその男の手に触れられると)、女性はシャレではすまない恐慌状態に陥ることがある、経験者に言わせると、何かとんでもない深さの「罪」が我が身に襲いかかってくるそうな/そんなこと言われましても、と笑って済ませたいのだが、実際に起こるその恐慌を見ると、うーん笑って済ませられる次元のことではないようなのだこれは。

男が、「男なんだから痴漢したいに決まっているだろ!」と、正論を主張するのはハズレだ、正論を力説しているという時点でハズレである、これは魂がアカンほうへ落下していく。
女が、「男の人なんだから、そりゃ痴漢はしたいに決まっているわよ」と、同情論を唱えるのはアタリだ、これは魂が救済のほうへ上昇していく。
女がもし、「男の人は、いつもこらえてくださっているのよね」という視点にまで上昇できれば、たぶんそれが最高位だ、この女こそ、男から見て「護(まも)らないと」と見える/ただしすでに発狂済みの男は除く。
うーん、しかし正直なところ、今女性は、自分が襲われることに関心はあるとしても、男性が女性を襲ってしまったり、それをなんとかこらえようとしたりすることには(つまり「男性側」には)、たぶん関心が一ミリもないだろう、つまり「思いやり」が根こそぎゼロなので、これはさしあたり机上の空論なのだった/思いやりの機能が失われている以上、今さらキモチひとつで思いやり派に転向することは不可能だ、まあいかにも現代的ではある。

仮に男が女を大切にしても、「どうしてこんなに大切にしてくださるの?」とは現代の女は言わない。

話が逸れてしまうけれども、つまりはやはり、もう機能的に自分のキモチしかわからないのであって、「他の誰かが何かをしている」ということの全般がわからないのだ、仮にすべての男が自国の女を護るために戦地に出立して戦死したとしても、現代の女はたぶん「よくわからない、とりあえずわたし楽しくすごしてます!!」というぐらいにしか感じないのだ(これは機能的にしゃあないのである)。
つまり、痴漢男に対しては無限の弾劾が湧くが、僕が「バージンはもっとまともな男とヤッてこいw」と女を追い返したりしたことについては、一ミリも評価されないのだ、それもしゃあない/痴漢男が美少女のバージンを目の前にしていながら、それを放棄するのにどれだけの心胆が要るか……そういうことは本当にわかってもらえないのだろう(とほほ)、僕はそのことについて不満や不服は一ミリもないのだが、ただ後になって「とんでもない深さの罪が我が身に襲いかかってくる」というシーンを目撃して、僕自身が鼻白んでいるのだった、「これでは解決しないのか」と、まったくブルーな話だ。

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痴漢したい男

は今、電車の中で、夏服の女子高生たちにギューと包まれたとしても、痴漢したいとは思わないだろう。
これは、僕がまともな男だから、ではない、僕がまともな男ではないからだ。
もしここを誤解したままだと、永遠に春の日はやってこないだろう、まともな男は女子高生に「痴漢したい」からまともなのだ、ただ実際には、女の子を目の前にすると、「そんなことしたらこのコがかわいそうだし」ということで引き留まる、だからこそまともな男だ。
そこでむしろ僕などは、近年の女性たちのリクエスト、「男として性機能を最大化して、でも性衝動はもたないでよ」という希望に応えて、それをまさか実現してしまったというたぐいだ、どうやらそれはえげつないことだったらしく、その結果、「こんな奴についてこられるのか?」という問いかけの実物だけが残ってしまった、どう見てもこんなケースを「まとも」とは言わない。

ひとつ冷静に問いたくなるのだが、「女子高生に痴漢はしたくない男が、自分の恋人にだけは熱烈にセックスする」なんてことが、本当にありえると思うのか、そんな男が欲しければそれはもうそういうロボットを購入するしかないのであって、生身の男が「ロボットと違う〜」ということで責められていたら、もう話がお花畑に転移していて意味不明だ。
僕は、学校の教師であろうが政治家であろうが、男ならキャピキャピの女子高生には痴漢したくなるのが当たり前だと思うし、痴漢したくならないなら、それはよほど頭がオカシイか、さもなくば根こそぎのうそつきなのだと思う、そんな狂人やうそつきの話を聴いてやる値打ちは一ミリもない。
女子高生に痴漢したくない奴は頭がオカシイし、かといって、それを実際にやってしまう奴はただのアホだ、なぜなら「被害者」が出るからだ、正確には痴漢衝動が悪いのではなく「被害者」を生み出すのが悪い/だって仮に電柱に痴漢したくなるドヘンタイがいたとして、電柱に痴漢するぶんには被害者が出ないのだからかまわないじゃないか、この「被害者が出てしまう」ということで人は冷静になるのであって、痴漢衝動そのものを滅却できると思っていたら男女とも両方救いがたいアホだ。
また、男のほうもアホなもので、痴漢衝動でグヘヘヘとなる奴、それは「当たり前」であって何も自負心になるようなことではないので取り下げようか、痴漢衝動にグヘヘヘとなっていたものが、その瞬間「飲みに行こうぜ」と誘われたら「おっ! 行こうぜ」となってしまって全部忘れてしまうのが男のよさだろ?/痴漢衝動のグヘヘヘは、あるのが「当たり前」であって、「それ以外のものがない」という場合が異常なだけだ、そんなものは何の自慢にもならないので引っ込めておこう、最も貧しい生き方をしてきたら男は誰だってそうなるんだからわざわざ自分でアピールするものじゃない。

痴漢衝動がない男は狂気、痴漢行為がない男は正気。

現状、いろいろややこしくなっているのはわかるが、男に「痴漢衝動の自己破壊」を要求するこんにちの状況は、女性たちが「絶対にイヤ」というタイプの男どもを生み出していくだけだぞ、だって頭のオカシイ男を大量生産しているだけなのだから/実際、女の目から、「何か不穏で、話が通じなさそうでこわい」と感じる男の人が増えただろう? そりゃあなた、自分でキンタマを破壊した男が目の前にいたら「こわい」に決まっているよ。
このシッチャカメッチャカな状況を突破するのに、確かに「性的な神霊力のみを看取して交流させる(草)」というのは一つの方法だったのだが、そんなことできてたまるかという話だし、この方法は「できる」と言い張って実際には出来なかったら当事者が地獄に落ちるやつなんだぜ、しかも逃げ回っても何か罰を食らう感じになるし、こんなもん普通の痴漢よりタチが悪いんじゃないのか/あなたの周囲を「痴漢衝動のない男」が100人取り巻いたら、それはあなたにとって安全で安心で安息の状況なのだろうか、ウーンそんなことはなくてまったく逆だと僕は思うし、もしあなたの理想像の男性があなたの目の前に迫ってきたら、あなたはなぜか自殺に追い込まれるリスクがあると僕は思うぜ。

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感動を失った人間はどこへ行くか2

んな奴の言い分をまともに聞く必要はない、とわれながら思っている/いや冗談でも謙遜でもなく、おれはひたすら横着をして生きているのだ、自分のことはアンドロメダ星雲の棚に上げるのが基本だ。
ただ、「感動」がないのはキツいなと思って……何しろそれは、愛を告白しようがされようが、部活動を最後までやり抜こうが命を賭した仕事を成し遂げようが、あるいは世界中のあらゆる景色と神殿を見たとしても、何も「感動」がないということなのだから、それはキツいに決まっている。
何も「感動」がないのに、生きていくのには超絶努力をしないといけないし、月曜日は容赦なく来る、さらに一所懸命じゃないと人に非難されるし、自分で自分を責めもするのだ、それではまるで罰ゲームのような百年間を生きなくてはならなくなる。
一方、僕のようなテキトー横着人間は、これまで無数のものに感動し、感動しまくって、気づけばワーと進んできて、振り返ればいつの間にかすべてに思い出が山積している/僕は自分の思い出を語りきることはここまでで「絶対に不可能」という確信があるが、この感動と思い出を全部ナシにして七倍努力しろと言われると、さすがにそれは非道がすぎるのだった。

十代の僕は「天空の城ラピュタ」で形成されたし、二十代の僕は映画「タイタニック」で形成された、三十代は「新しい人よ眼ざめよ」で……その他いろいろ形成の要素はあるが、ざっと書き出したとしてもとんでもない量になるので、もうやらない、この試みはこれまで何度も為されてきたが、毎回「無理!!」と頓挫しているのだ、ゴミ屋敷の主がAmazonの倉庫を管理したというようなどうしようもない物量がある。
その中で、無数の女の子への「バンザーイ」があって、なぜホテルにまで連れ込んだ美少女に手を付けず、「おれになんか気を遣うな、愛している男のところへ行っちまえ」と、神風に吹かれたような祝福と送り出しができたのかというと、何かに「感動」していたからだ/僕は「感動」にクソほど励まされてきただけであって、自分の道徳心から私利私欲を捨てられたことは一度もない(私利私欲はサイコーだぜ!!)。
たとえば神戸の街でそういう思い出があったとき、僕は何を頑張ったとも思わないで、ただひたすら神戸という街の「おかげ」だと思っている、僕にとってはそれが感動的なことなので、「これ以上はない」と心底思うのだ、「これ以上はない」なら「サイコー」に決まっている、そしてサイコーの時だけ人は安らぐことができる/僕の無数の感動と無数の思い出はすべて何かの「おかげ」で得られており、僕自身で獲得したものなど何一つない。
今僕が女の子に「愛」なんて向けたら、女の子としては瞬間的にキモチワルイだろうし、場合によってはその時点で嘔吐か訴訟モノだと思う、それが間違っているとはやはり僕は一ミリも思わない、そして僕は自分の受ける軽蔑や嘲笑ごときで、感動のしもべである自分をやめることはないのだと思う、そんなことぐらいでやめるならもうとっくの昔に、八千年ぐらい前にやめていただろう、これは自慢話ではなく自分の近所迷惑ぶりにあらためてドン引きしているのだ、そりゃこんな奴は嫌悪されるのが当然だ(でもなぜか愛してくれる人もいるのだ)。

僕は感動する、あなたは感動しない、それで最後まで走り抜けよう。

生身として、そんなに何十年も生きるわけじゃないし、たぶん行けるでしょ……学生時代の部室にあった共用ノートには、「人は感動するために生きている」という、僕の手書きの一文が残っているはず、ああいうのは歴代保存されるものだから、ひょっとしたら今も部室にあるのかもしれないな。
丸の内で働いていたとき、僕のことが大キライだった同期の女の子が、唯一この点だけ、「感動、か。そういう視点で、これまで考えたことがなかったな」と、僕の話すことに立ち止まってくれたことがある、その後はなお嫌われたけどな/まあどれだけ劣勢になったとしても、僕はヒマなのでこの道を進んでゆく、たぶん一人だけになってもこの道で行くのではなかろうか、狂人および近所迷惑は重々自覚しておりますので、どうかご容赦のほどを……そして深く反省を、まったくしておりませんので、ざまあみろ〜。

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感動を失った人間はどこへ行くか

ょっとすると、女性にとって、男性に愛を向けられるのは、この上なくうれしいことなのかもしれない。
もちろん、「んなわけあるかw」というのが99.99%の大勢なので、男性陣は甘い夢を見ないように……お互い細々と暮らしていこうじゃないか。
ただ、ふと思い返せば、「あなたが初めて、わたしをちゃんと女として見てくれた、あなたがわたしを女性として扱ってくれた」ということで、女の子が僕の手にしがみついてぽろぽろ泣くのを、実際に僕は見てきたのでもある。
かつてがそうして、「女は男に愛されたい」という欺瞞の世界だったのか、それとも現在が、「女は男の愛なんか要らない」という欺瞞の世界なのか、わからないが、とりあえずわれわれは現在に生きているのであり、かつての時代を生きてはいないのだった。

現代、「男の愛」などというと、まっさきに「草」という感じしかしないし、半分方の人はとっさに、「男の愛? あ、BLのこと?」と連想するだろう、シャレではなくマジにだ/悪意があってそうなっているのではなく、文化的にそうなっている。
別に女が悪いと言っているのではなく、僕だってそう感じるということなのだ、僕が僕自身「男の愛」「おれの愛」とか言い出すと、何の屈託もなく「大草原不可避」としか感じない、ただ僕は厚かましく、その大草原を取り下げないという近所迷惑を続けているだけで……
実際、男の愛といっても、現代のわわれれは石原裕次郎のようではまったくないので、なんというか、「暴落」したのだ、貨幣が暴落すると、何の罪もないタンス貯金の人まで破産するだろう、この貨幣暴落の怨恨から復讐(revenge/リベンジ)の鬼としてナチス・ドイツが出現したという背景が第二次世界大戦にはある/かといってもちろん、ヒトラーの蛮行が肯定されるわけではない。
ただ僕は、今でも「?」と思うことがよくあって……ひょっとしたら今もってなお、女にとっては男に愛を向けられることが、この上なくうれしいことなのかもしれないということがあるのだ、ただし、<<いくらうれしくても拒絶はするし、軽蔑も嘲笑もする>>ので、状況は何も変わらないのだが、そのとき女性たちの身にはそれだけではない嵐が吹きすさんでいるのを看取する気がする/かといって、この先に男の身が受けるのは軽蔑と嘲笑のみということは変わらなくて、ただひとつだけ賢明に言いうることは、<<<変わらないものに目くじらを立てる必要はない>>ということなのだった。

かつて、女に男の愛が向けられることには、何か「感動」があった。

現代の女性も、イケメンに愛されることが(もしあればだが)、不必要とは言っていないし、うれしくないとも言っていない、ただ「感動」があるかというと、さすがにそれはないのだ、そこが決定的に違う/現代で男の愛が女に向けられても、何か「エロ青春マンガの実写版」のような感じがする、それはそれなりに愉快だしときめきもあるものだが、やはり「感動」ということはない(自分が有頂天になるのは感動とは言わない)。
現代で、「男の愛」というのはウソクセエというか、実際「ウソ」だろと断定せざるをえない場合がほとんどだし、それを受けて女が感動するというのも、「ウソ」だろと断定せざるをえない場合が多すぎる、実際、この僕のサイトやブログでさえかつては本当に「感動」してくれる人がいたのだが、今になってそれをなぞるふりをするのは、「ウソ」だろと言わざるをえない/そんなこんなで、われわれは本当にすることがないので、なんとなく「喫煙所を減らす」という何も本質的でないことに奮起して、平成の終わりに向かっているのだった(と、さりげなく悪口をブッこんで終わっておく。スッキリ)。

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降り注ぐ雨とずぶぬれになる女2

んなして、降り注ぐ雨の下で暮らしているのだ。
当たり前だ、降り注ぐ雨がなかったら、川が涸れて井戸も涸れて、作物が枯死し、われわれは餓死してしまう。
みんなして、降り注ぐ雨の下で暮らしており、それぞれ降り注いできたぶんを、自分も何か生産して、献上して返そうとしている。
みんなして、降り注ぐ恵みの下で暮らしていて、恵まれたぶんを、何かお返ししようとしている、「あなたがどうするか」の問題ではなくて、これは「われわれがどうするか」の問題だ/あなたが町中を掃除すればいいわけじゃない、町中の掃除は「誰かがやればいい」のだ、ここではあなたの献身は「不遜だ」と断じられねばならない、そんな勝手な献身は不遜だ。

あなたが基本的にマジメで、善良で、カミサマに何かを献上しろというのならいくらでもする、ということは、言われなくてもわかっている。
あなたがどこか内心で、救われたくて必死だというのはわかっている、だがそのままカミサマに縋ってもだめだ、「"みんなして"どこか内心で、救われたくて必死だ」というのがわからないままでは、あなたはカミサマを"個人的に"頼ることになってしまう、それはそもそもカミサマの御心に合わない。
僕は子供のころ、友人と、「おれは水泳選手になってオリンピックに出る」「じゃあおれは学者になってノーベル賞を獲る」と話したことがある、<<みんなしてこの世界に何かを献上しようとしている>>、われわれにとって赤の他人は無関係な存在に見えるが、それは「そいつが何をどうやっているかは知らない」というだけで、やっていることは同じだ、同じだからいちいち訊かなくていいだけだ、みんなして何かを献上して返報を尽くそうとしている。
今日も走って行く消防隊のサイレンが聞こえるだろう? 彼らは尽くしている、われわれもそのようでなければならない、広く雨が降り注いで作物が実る、それでわれわれも消防隊員も、似たようにじゃがいものフライを食っているわけだ、お互い赤の他人だが、やっていることは同じだ、降り注ぐ雨に何かをお返ししようとしている。

僕が書き話す真剣さは、美容師があなたの髪を整える真剣さと同一だ。

その真剣さは、一言で「サービス」と言っていい、それは個人的な真剣さではないのだ、ここのところを取り違えているから、あなたのマジメさは空転してしまう/自分だけの真剣さなんて持っている人はいないんだよ、誰だって「あいつらと同じさ」と赤の他人を同胞に持って、その真剣さを成り立たせている。
こう考えてみなよ、たとえば一人の消防隊員が、休日、教会のミサで礼拝をしていた、だが近くに消防車のサイレンが聞こえてくると、男はやにわに礼拝を蹴っ飛ばして立ち上がり、消防活動に駆けだしていった、刹那だけ神父さまに目配せをしてから……この男こそ、まさに神の「しもべ」ではないか?/神父と消防の男はアイコンタクトをする、神父さまは「よろしい」と言ってくれるだろう、神父は布教が命がけのサービス、消防隊員は消防が命がけのサービスだ、どちらも神のしもべたる礼拝の力を認めてよい、この神父のサービスと消防隊員のサービスは同じ一つの力が転じているにすぎないんだ。

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降り注ぐ雨とずぶぬれになる女

「すっごい雨だった、町中ずぶぬれだわ」という人がある。
「雨に降られちゃって、全身ずぶぬれー」という人もある。
雨が広く降り注いでいる、ということがわかっていない人がいる。
自分の身がずぶぬれになることしかわかっていない人がいる。

たとえば、マイケルジャクソンの歌とダンスが、観衆に、あるいは世界中の人たちに、降り注いでいく。
そのことが、感覚的にわからない人がいるのだ、ガマンシステムで生きてきた人はこうなる。
自分に「届いてきている」のだけはわかるので、この女は、自分とマイケルの「二人きりの世界」があると思い込む、妄想だがマジにそう確信するのだ。
経験上、これは100%そうなると断言できる、自分に届いてきているのだけがわかる、広く降り注いでいるということがわからない。

愛を向けられると「二人きりの世界」、叱られると「どうしてわたしだけこんなひどい目に」。

広く降り注ぐ雨がわからないのだ、自分がずぶぬれになることしかわからない、それで「いつもわたしだけが責められる」「わたしだけがバカにされる」と思っていて、しかしベトナム戦争に行軍した兵士たちの苦しみには不感症だ、何しろ自分がそこでずぶぬれになったわけではないから。
道路渋滞につかまると、「自分が渋滞につかまっている」のはわかるのに、「みんなが縦隊につかまっている」とはわからないのだ、自分の失恋に発狂する女は、この世界で失恋しているのは自分だけと思っている。

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