☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
死にたいぐらいうらやましくて、なおそれ以上に辛いこと
「うらやましい」は「羨ましい」と書くが、かつて「心病ましい」とも書いた、今でも「うらさびしい」を漢字変換すると「心寂しい」という字が出てくるはずだ、「心」は「うら」とも読む/オモテ・ウラの意味から「内心」をうらと呼ぶわけだ。
心が病むほどのうらやましさ、それは単に金持ちだとか美人だとか、学歴がよいとかそういうことではない、いくら金持ちで美人で高学歴でも、まともな青春がない・まともに誇れる仕事がない・まともな友人がいない・まともな愛の記憶がない・まともな尊敬を受けたことがないということはいくらでもあるからだ/真に「心病ましい」のはそうしたまぶしい青春、つい胸が高鳴るほどの仕事、掛け値なしの友人、鮮やかに刻まれたままの愛、心底から受けた尊敬のほうだ、こんなもの百億円積んだって手に入らない、百億円には人が「寄ってくる」というだけでそれじたいがありがたいわけではない。
こうした、真に「うらやましいもの」を、持っている人と持っていない人があるのだが、この劣化ウランで作った矢じりが心臓をつらぬくような辛さよりも、なおはるかに上回る辛さがあるという、その辛さとは何か、それは「2020年6月8日はもう二度とやってこない」ということだ。
保証してもいい、2020年6月8日はもう二度とやってこない、この日は今日限りのものであって、明日以降は決して戻ってこないのだ、いかなる金持ちもいかなる才能もいかなる超能力者でさえも、このことを覆すことはできない/このことの辛さと切なさを直視したら、やれポリティカル・コレクトネスなどで騒ぎたくなるような気持ちはまったく起こらないはずだ、だってそんなことをしているうちに今日という日が終わってしまい、それはもう二度と帰ってはこないからだ。

2020年の夏を二度体験できる人はいない、どれだけ若い人でも、この夏を二度体験できるという人は存在しない。
人は、年をとって老けるのが辛いのではないのだ、一日たりともかつての日に戻ることはできないというのが辛いのだ、二十歳の人はまだ若いように見えるが、十年後に十歳になっていることはなく、十年後には三十歳にしかなっていないというのが辛い、われわれはもう昭和も平成も体験することができない。
われわれは、精神というメカニズムの上で、「うらやましい」のすべてを抑圧して生きており、つまり潜在的には全員が神経症(ノイローゼ)の上で生きているということになるが、これを乗り越えられる唯一の方法が、逆にこの「それ以上に辛いこと」なのだ、誰もがこの辛さを抱えて生きるしかないということに気づくと、自分の潜在下で「うらやましい、辛い」とほざいていることが何とくだらないことかと、ハッと目が覚めることがある。
逆に考えよう、この目覚めるべきことに目覚め、一日でもいいから、本当に「自分はマシな一日を生きた」と認められる日を過ごすのだ、そうすると、もう過去にはさかのぼれないのだから、その自分でさえ認めるところの「マシに生きた一日」は、その先もう二度と失われることがないということだ、その後の自分がどれだけクソのようであっても、「マシに生きた一日」が消えることはない/2020年6月8日は、もう二度とやってこないが、そのぶんこのときに得たこの日は、この先どうなっても消失はしない、たとえ自分の記憶が消え失せての "この日をまともに生きたということ" だけは永遠に残ってゆくのだ。

うらやましいすべてのものが自分に「ない」のはしょうがないが、自分に今日が「ない」のはダメだ許すな。

人々は長いこと、生まれや育ちや環境に関わる「差別」をなくそうと考えている、格差によってまともなすべてのものが「ない」というのはとても辛いことだからだ、だがその試みが成功することはこれまであまりなかった、たとえ同じ環境を与えてもまともなものが「ない」人は「ない」ままでゆくのだから/そこでわれわれは、そうしたうらやましいうんぬんどころではない、はるかにもっと辛いことに直面するべきだ、 "何をどうしたってもう2020年6月8日は帰ってこない" 。
この、よりすさまじく辛いことに直面すると、その「うらやましい」うんたらの辛さなんて、まるでどうでもいいというか、「それどころじゃない」ということでいいかげん目が覚めるのだ、もちろん精神が子供すぎるとそれ以前に精神がクラッシュしてしまうかもしれないが、おれは子供向けに話してはいない、この話は十三歳以下には未だ必要のないものだと思うが、十四歳以上の全員は引き受けてかかるしかないと思っている、十三歳は子供だが十四歳は大人だ、過去のカレンダーには一日たりとも戻れない、この辛さがわれわれをして心の弱さを超克せしむる秘密の作用を持っているだろう。
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フォルマリズムとすさまじいものはこちら
川たかしが歌う「津軽山唄」がすさまじい(前編はこちら)(後編はこちら)/なんというか、もう鬼神がかっている、こんなシロモノを説明できるボイストレーナーは世界に一人もいないはずだ。
すさまじいと言えば、おれはボブディランのアルバム Desire のLPレコードを持っているのだが、その中の「ハリケーン(Hurricane)」の音がすさまじすぎる、なぜこんな「音」が録れたのだろう? 何回聞いても不思議だ、とにかくすんげえ「音」だ/スピーカーとの相性もあって、アナログだと特に音が「飛び出てくる」ように聞こえることはしばしばあるが、「ハリケーン」については異常だった、音が飛び出してくるどころか物理的に「ギター」が飛び出してきたように錯覚してウオッと実際にのけぞったほどだ、これは録音機材の品質から生じた現象ではない。
他にすさまじいもの……といえば、まあいくらでもあるが、毎回メタルの話をしているとアホみたいなので、今回はふとビリージョエルのエンターテイナーを思い出そう、クライマックスに向かってピアノを弾き語る形になるのだが、こんなものをフツー弾き語りとは言わねえ、通常の感覚だとこれは「誰がピアノ弾いてるの?」となるべきであり、この歌っているヤツがピアノを弾いているというのはウソでなくてはならない、技巧とかそういう次元のことではなく、「そんなふうには演奏できない楽器のはず」と首をかしげてしまう。
あとはテキトーに、バックハウスのベートーヴェンでも貼り付けておくか、「月光」の第三楽章は誰が弾いても忙しいことで有名な曲のはずだが、何かコイツはおかしい、どうしても何か「アンサンブル」を聴いているような錯覚を起こす、右手と左手で演奏しているという感じじゃない/まさかのまさかで優雅に弾きこなすので、ベートーヴェンのデロデロ感がなくなり、ベートーヴェンを誤解させるような演奏になっている、あるいはわれわれがベートーヴェンを誤解しているのであってコイツの認識のほうが正しいのかもしれない。

今さらになって思うが、おれはたぶん「音楽」が好きじゃないのだ、いわゆる一般に音楽と認識されているものに、おれは何ら反応していないのだろう。
おれは若いころのビリージョエルそのものが好きだが、別に音楽が好きなわけじゃない、おれにとっては「音楽」というような分離したシロモノは、けっこうヘヴィな「負担」にしか感じられない/おれは正直者のボブディランが大騒ぎしているのが好きだが、「音楽」については何をどうこうと思ったことはない。
たぶんおれは、そうした「芸術」と呼ばれる一切のことについて、驚くほど "センスがない" のだ/おそらくおれはセンスがなさすぎて、すべてのことを「おっ、またやっているな!」としか見ていないのだと思う、だからおれの書いているこのナゾの文章記事も、何らセンスのシロモノではなく「またやっている」というだけでしかない。
ありとあらゆる「芸術」と呼ばれるシロモノ、そうしたセンスに関わるシロモノは、おれにとって「負担」でしかないのだ/おれにとって「音楽をやっています」という人は、たとえば「セックスをやっています」と言ってはばからない男女ぐらい、何か見せられても不明の負担にしかならない、おれには細川たかしが「民謡をやっています」とは見えないし、マイケルジャクソンが「ダンスをやっています」とも見えない、おれにはそれぐらい "センスがない" のだ。

突然だが、コンテンツ派とフォルマリズム派がある。

突然だが、実はおれは今いろいろあり、巨大な知見を得ているところで、この先を切り開いていく大きなステップに立ったところなのだ、おれはやはり百年前から始まった文学思想、ロシア・フォルマリズムの徒であり、その当時から超意味言語等々、うさんくさいことも言われていたのだが、そのことの本当の解答にたどり着いているのだ、フォルマリズムとか異化とかはそっち方面の人がいくらでも詳しそうにしたり顔で言うが、けっきょくほとんどの場合誰もわかってねえし視えてねえ、おれは百年前から唱えられてグズグズになっていった思想とナゾに対してついに正解を提出する者なのだ、いやあさすが偉大なるおれさまはモノが違うぜ。
フォルマリズムとは「内容じゃなくてフォルム(形式)じゃね?」の思想であり、ロシア・ヨーロッパで問われたこの思想は、西洋人の手ではうまく解答できなかったのだ、その点おれは東洋人だし、フォルムといえば「型稽古」の行き着く先を知っている、西洋的発想ではどうしても「内容に行き着くために型の稽古があるんでしょ?」としか思えないだろう/まあ何のこっちゃわかるわけがない話だが、おれは内容(コンテンツ)が "負担" でしかないという話をしているのだ。
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目撃しているものは炎上ではなく高齢化だ

ラスハウスという番組で、炎上騒ぎがどうたらこうたら、そしてメンタルを落ち込ませたある女性が自死してしまったとかで、ニューストピックを見せつけられる/しかも正直、自死の哀しみを政治的強みとして使いまわそうとする勢力があるようで、いよいよこりゃ付き合えそうにないという酸鼻な様相を醸している。
おれはニューストピックを観て「?」となり、その後何度もトピックが出てくるので「???」となったのだが、いくつか記事を見てみても、なんだかよくわからなかったのだ、今このときも巨大な違和感に困惑している/何に困惑しているかというと、なんというか「時代錯誤感」だ、今このときもおれが何か誤解しているのかという気がしてきてふわふわしてしまう。
何というか、そういうテレビ番組の、リアリティ・ショーみたいなものを観て、視聴者がやきもきする……というようなモデルは、気恥ずかしいほど古い感じがして、どうも現代の、今このときの話を聞いてる気がまったくしないのだ、いくらなんでもモデルが古すぎるだろう。
もしおれの友人が、「テラスハウスでさぁ」みたいなことを話し出したとしたら、おれは反射的に「はぁ?」とデカイ声で困惑を明らかにするだろう、「今どきそんなことに関心が湧くやついねーだろ」とおれは思っていたのだが、これはおれがズレているのだろうか、おれとしては「いくらなんでも古すぎる」と確信しているのだけれども、これはおれがズレていて現代は今リアリティ・ショーでやきもきして炎上というのが最盛期なのだろうか、そんなタイムスリップ的な現象が本当にあるのか。

もちろん、どんな事情か詳しくは知らないが、どなたかが悲嘆の末に自死されたということは悲しいことだが、かといっておれが自死しても誰もそんなもん悼まないだろうから、完全に蚊帳の外のおれが他の誰かの自死を悼むというのもわざとらしくていかがわしい話だ/今さらそんなことを気にする奴がいるとは思えないし、こういう文脈もすでに巨大な時代錯誤感を覚えている。
なんというか、おれの中では、「テレビのリアリティ・ショーでやきもきして炎上」というモデルは、時系列的に「ニコ生で若い女性が裸になってBANされた」とか、「江南スタイル」とかぐらいの時代にあるのだ、それをまるで今現代のことのようにニューストピックが言うので、本当に単純な意味で困惑してしまった。
たぶん「炎上」といっても、すでに炎上という現象そのものに鮮度がなさすぎ、もうそういうフェーズは本質的には終わったのだと思っている、まして今は世界中が未だパンデミックの真っただ中だ、おれ自身は率直なところ、もし友人が炎上だの何だののことに関心をわずかでも割いていたとしたら、重度の警告として「時代からズレすぎ」と、たしなめるというか切り捨てるだろう、もはやそんな友人を仮定するのにも無理があると感じられるのが正直なところだ。
テレビ局はいつのまにか、誰ともコンセンサスを形成しないまま、なぜか「テレビにヤラセはつきもの」というナゾの理念を確信に持ち続けているようで、何がどうなっているのかはたぶん当事者たちも見失っているのだと思う、ヤラセでしか面白いふうのものを作れなくなったというのは単純にいって制作側の敗北でしかないはずだが/まあとにかく、やはり今このときも、「今どきテレビのリアリティ・ショーでやきもき炎上はないだろ」と、どうしようもない時代錯誤感だけがあるのだった、これはおれがズレているのだろうか、もう何だか本当にふわふわしてわけがわからない。

テレビ局はヤラセのたびに、スポンサーにヤラセの許可を取っているのだろうか?

ヤラセの許可を取っていないのだとすると、スポンサー側としては勝手に看板に泥を塗られるのだから問題だろうし、許可を取った上でヤラセがガンガン押し通っているのだとすると、それもやはり問題だ、スポンサーはたいてい社会的な企業であっていかがわしいヤラセの片棒を担ぐ存在であってはならないだろう、スポンサーはやはり「おっ、ヤラセ企業さんだ」という扱いを定評の看板にすることは責任も誇りも失うことだと考えるだろう、このあたりも逆におれがとっくにズレているのかもしれないけれども/まあ別におれはおれ自身からズレなければいい。
ふと、ひとつ納得できる見方が浮かんできて、それは「制作側も消費者側も高齢化している」という見方だ、なんとなくそれならすんなり納得がいく、高齢化を前提にすればいつまでもそうした「リアリティ・ショーにやきもき」というモデルは、水戸黄門モデルのようにえんえんと繰り返されていくのかもしれない、すでにわれわれが目撃しているものは炎上ではなく高齢化だ/この場合の高齢化というのは、単に年齢のことだけを指しておらず、たとえば今どき大学生がヤリサーなんかに興味を持っている話を聞くと、なんだか急におじいさんの話を聞いているような感覚になってきて番茶でも淹れようかなという気分になるということがある、「今さらヤリサーとは懐古主義的ですな」と、こうしてわれわれはこれから先、高齢化独特の精神風景を見せられ続けるのかもしれない。

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人の仕事は代行されないが、プロの仕事は機械が代行する

ロ(プロフェッション・職業)には、プロのクオリティやプロの凄みというものがある。
そしてこれらのクオリティと凄みは、順次機械に代行されていくものだ。
プロというのは、「機械のように精密でシビア」というものだから、そもそも人を業務機械化することをプロと呼んでいるにすぎない。
人の仕事は機械に代行されないが、プロの仕事は順次機械に代行されていく、あるいはより正確にいうなら、プロの仕事というのは機械が出来上がるまで「人が機械の代行をしていた」にすぎない、もちろんそれだってその時期は必要なものだったので軽んじられるものではない。

このことで一番わかりやすいのは、たとえばカメラのオートフォーカスだろうか。
カメラのフォーカスは、かつて人がマニュアル操作してピントを合わせていたものだが、そこにはむろん「プロの技術」「プロのクオリティ」「プロの凄み」「プロの精密さ・シビアさ」というものがあっただろう、それらは現在ではきっちり機械化されている、さすがにフォーカスに関してオートフォーカスより速いカメラマンはいない。
これからは人工知能が発達していくから、どうしても「タクシーの運転」や「イラストの仕上げ」などは、機械がそのプロフェッションを代行していくだろう、そして機械がそれを担当するともう人力では追いつけない/しょせん人が機械のまねごとをしていただけのものを、機械そのものがやりだしたら追いつけるわけがないのだ(そして追いつく意味もまったくない)。
というわけで、これからはというよりは元々から、本当に大事なのは「プロとしての仕事ぶり」ではなく「その人としての仕事ぶり」なのだ、一所懸命やっていますってことじゃないよ、「人」そのものの作用が仕事になっていることが大事ということ、そんなもん、プロが作ったハンバーグよりおれが作ったデタラメハンバーグのほうが食べたいだろう?

プロが作ったものは必ず「すごい」が、人が作っていなければ必ず「面白くない」。

今われわれの周囲に、「すごい」ものがたくさんあり、にもかかわらず何一つ「面白くない」のは、これが理由だ、プロと機械が出しゃばっているだけで、誰も人としての仕事ができていないから、何も面白くないのだ、そしてその面白くなさがいいかげん苦痛になってきているという状況だ。
そもそも、プロが作ったものが必ず面白くて値打ちがあるなら、ここであなたはこんな記事を読んではいないだろう、とっくに何かの雑誌を購読しているはずだ/文章なんて、近々人工知能が代筆するようになるだろう、すでに公募小説の一次審査を通過するレベルにあるのだ、ただしそれは何をどうしたって「面白く」はならない。

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底辺がトップニュース2
謡曲が昭和で打ち止めになったように、インターネットも平成で打ち止めになったのだろう。
 "Video killed the radio star" という、古くてせつない、すてきな歌があるが、ラジオスターがビデオに殺されるのはよくわかる、そしてテレビがインターネットに殺されるというのも「そりゃまあ」と思っていたが、ここにきてなぜインターネットは何にも殺されずに死んだのだろう。
次のテクノロジーって、実際ないよな、次の外来種がやってきていないのに、なぜかインターネットは自家中毒で死ぬかのように死んでしまった。
女子中高生、だけでない、大学生も社会人も、スマホ中毒だとは思うが、その中毒の先に夢やときめきや「本当に楽しい」はもう感じていないだろう? もちろんそれでも習慣的に続けてしまうから中毒ということだ、アルコール中毒と同じだ(アルコール中毒の人も、 "飲みたくなんかない" のに飲まずにはいられないらしい)。

もうどのトピックをタップしても、また底辺ニュースか、あるいは誰かがデカ乳を揺らしているだけなんだ……。
これから目の前に繰り返されていくものが、前もって「つまらない」と確定しているというのは、なかなかキツいことだ、だからもう一切アテにしないほうがいい。
底辺ニュースを「吸収」していいかげん何になる、そしてデカ乳を揺らしてホレホレするたぐいは、おれは趣味としてあんまり好きじゃない、ダメな映画が暴力とセックスシーンで間をつないでいるときと同じ息苦しさを覚える。
どのトピックをタップしても、「何かしらの底辺と乳しか出てこないよ」ということを、しつこく言っておきたい、そのことはきっとあなたを救うだろう/タップする前からもう、おおよそどんなていどのものが出てくるか察しはついているだろ。

スマホ中毒ではなく「底辺中毒」だ。

こんな底辺情報を吸収しても何の足しにもならないし、底辺情報を散布している人々も、何の動機でやっているのか意味不明だ、まさか「ボクはこうして底辺情報を散布するためにこの世に生を享けたのさ」とは自負していないだろう。
たぶんまともなことが何ひとつできない人が底辺中毒になっていったのだろうが、さすがにその中毒者にとっても「限界がある笑」と笑いだすだろうと思えるぐらいに、本当にすべてが根こそぎつまらないものになってしまった、さすがにこのミエミエの底辺タップを続けるのには限界がある/歴然と「要らない世の中」という領域ができてしまったな。
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底辺がトップニュース
わゆる「底辺」という侮辱的な言い方を、わかりやすさのために用いるとして。
SNSじみたウェブコンテンツの主流は、事実上、底辺をトップニュースに取り上げる、という装置になってしまった。
たとえば誰かが失言で炎上とか、たとえばどこかのホステスさんがまとめた「ムカつく客ベストテン」とか、そういうものがトップニュースになる。
一方、たとえば一人のきれいな女性がおれに対し、「あなたと歩いているとまるですべての景色が夢みたいなの」と言ったとする、そんなことはSNSじみたものにツイートされないし、もしツイートされてもそんなものはトップニュースにならない、この仕組みをよく見ておかねばならない。

もともと「2ちゃんねる」の時代から、ウェブ上で成熟していく匿名の交流は、互いに「便所の落書き」にすぎないという認識が交わされていた、そのことのやるせなさと汚らしさを、せめて当時の「ねらー」は自覚して、いちおうはその上で遊んでいたように思う。
が、このところのウェブユーザーは、自分の参画しているものが便所の落書きだということがわからなくなったのではないかと思う、便所の落書きがやたら広がって力を持つからといって、それは必ずしも人文的にまともなものではない、便所の落書きが惰性的に社会的影響力を持つようになってしまったというだけであり、便所の落書きが社会的なディベートに昇格したわけではまったくない/友人もいないのにディベートなんかできるわけがない。
このことをよく知っておかねばならない、たとえば〇〇高校の吹奏楽部がその年の定期演奏会でなぜか見事な名演をしたとして、そのことはむろんSNS関連のトップニュースにはならない、代わりに××高校の吹奏楽部が演奏会の途中で突如全裸になってオナニーを始めたということなら、その映像ともども、高校の名前を目立たせてトップニュースになるだろう。
もともとそうした、便所の落書きの集大成みたいなものは、いかにも「下世話」とわかる表紙を具えた週刊誌が担うところだった、あるいはスポーツ新聞のお下劣記事が担当するところだった、そんなものを個人がタイムラインで追跡し続けているというのは正気の沙汰ではない、大学生がショーペンハウアーを読まずに「底辺がトップニュース」を追いかけ続けているのだ、そんな奴がまともな友人を持てるわけがない。

もうインターネットの面白味の時代は終わった、この先はずっと「底辺がトップニュース」しか続かない。

本当に終わってしまったのだ、 Youtuber が物珍しい時代も終わってしまった、つまりもうネットは「見る価値がない」のだ、これはこれでけっこう困ると思う/それでもしょうがないのだ、正しく理解しておくしかない、本当にこの先は「底辺がトップニュース」しかない、底辺がどれだけ「まともでないか」というアピールだけが繰り返され、えんえんデカ乳の女が交替で乳を揺らしていくだけだ、さすがにこんなものを面白がるにも限界がある、こんなアホなものに飽きるなというのは無理だ。
これはこれでけっこう困るだろう、リアルな話、底辺トップニュースを追いかけているうち、友人を得る能力はすべて失ったのに、スマホもネットも面白味はもう終わりですと言われたのでは、「これから先どうすればいいの」と立ち尽くすばかりだ、でも本当にそういう状況にある/どうしたらいいということは差し当たり "ない" のだが、とりあえず今言いうることは、これからどんなトピックが出てきたとしても、すべては前もって「底辺がトップニュース」ということだけだ、たとえそれが何百万のリツイートを帯びていたとしても、先輩が吸っている煙草の銘柄ひとつを覚えることにさえ値しない。
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口が腐った人々
のところ、コロナ騒ぎもあって、人々は「めちゃくちゃ」を言い合っている。
おれはこの数年間、なぜ人々がこうも、「めちゃくちゃ」を言って躊躇がないのか、不思議でならなかった/人が「めちゃくちゃ」を言うようになったということを、おれはこのコロナ騒ぎで確信した。
何の根拠も立場も責任感もなく、ただ本人が衝動のままに、「日本は壊滅する」だの、「ただの風邪でしかない」だの、本当にめちゃくちゃを言うのだ/元来人々には、己の口で「めちゃくちゃ」は言わないという制御が掛かっていたように思うが、いつのまにかその制御はなくなり、人はもうめちゃくちゃを言うようになったのだ。
なぜその制御がなくなり、「めちゃくちゃ」を言い出すようになり、もうそれが止まらなくなったのか、おれは数年来ふしぎでならなかったのだが、このコロナ騒ぎで確信した、「口が腐った」のだ、口が腐ったので、腐敗というものは自分で止められるものではなく、もう自動的に口がめちゃくちゃを言うようになってしまったのだ、これはいっそ割り切って、口の腐った人々のことはもう「妖怪・口腐り」とでも捉えておいたほうがよいかもしれない、もう本当に当人らもそれを止められないのだ。

以前から、たとえば「腐女子」というのがあって、なぜ「腐る」という表現をあてるのか、面白いなあと思っていた/腐るというのはおそらく、身体の一部・臓腑のどこかが腐るということで、それが糜爛して戻らないということ、進行し続けるということを指すのだろう、そしてそこからおびただしいものが漏れるというのは、腐敗ということの性質上しょうがないのだ。
口が腐った人々は、本当にもうめちゃくちゃを言い続ける、しかもそれが腐女子の場合と同じように、腐れば腐るほど当人は「調子がいい」と感じるのだ、アガるというかノるというか/そしてそのアガる感じは当人にとってとてもハイなので、当人はそれをやめることができない、無理に止めたとしても強烈に離脱症状で落ち込むし、そのストレスには耐えられないから再び「腐」をやり始めるしかないのだ。
他人から見れば、「その、何の責任も負わずめちゃくちゃ言うのやめたら」と思うのだが、この一見すると冗談のようなものが、意外に強烈に根深くて、当人はもうやめられないのだ、当人がやめるというよりすでに器官としての腐敗が始まっているので、もう当人の意志ではない状態だ/すでに現在でも成り立っているある種の状況があるが、この先はますますそれが決定的になっていくだろう、つまりこの先、「人が互いに話すことにまったく意味も価値もない世の中」が待ち受けている。
すでに賢明な人から順に、ツイッターやらYouTubeやらまとめサイトやら、かつては賑やかに見えたウェブツールに愛想をつかして離れていっているだろう、テレビにしてもすでに似たような状況が侵食している、「口の腐った人々がめちゃくちゃを言うだけ」「しかもそれがやめられないだけ」なので、聞いていても本当に意味がないのだと、思うというより事実に直面するときが来たのだ、これから先はしばらく「口の腐った人々」の "絶好調" を目撃することになるが、いいかげんその価値のなさに万人が気づくだろうし、そうして見捨てられた状況でなお、「めちゃくちゃを言う」ということは絶好調で加速していくだろう、それは口が腐るという現象であって人の営為の現象ではないのだ。

口の腐った人々は、ずっと何かを言い続けるが、「話を聞いてもらえる」ということは生涯に一度もない。

これは一種の「症状」なのであって、誰もそうとは気づかないから、放置されてそのまま進行してしまったような状態だ、口が腐った人はもう自分で「やめてくれ」と懇願しても、自分の口がめちゃくちゃを言うことを止められないのだ、口の腐敗は人為でなはく進行しているからだ/何をどうしたらいいかという話は、もっとはるか以前に考えられるべきことだったので、今さらになって何をどうしようということもできないだろう、ただ「口が腐る」ということが本当にあるのだと、まざまざ正視するしかない。
この先ずっと、自分が話を聞いてもらえることは一度もないのだと、先にわかっていながら、それでも自分の口がめちゃくちゃを言い続けるというのは、なかなかシャレにならずキツいことだ、自分の口があれこれ言い続ける以上、自分の話を聞いてもらいたいという希求は止まることがない、が、本当にその話を聞いてもらえることは生涯に一度もないだろう、コミュニケートを中心にした人生の大半が空回りのストレスに費やされるのみということになるが、しょうがない、将来的には冗談でなく、そうして口の腐った人々に対して表面上の話し相手になるAIが作られるのではないだろうか/これは馬鹿にして言っているのではなく本当にそれぐらいの装置がないと辛すぎて耐えられないだろうと予測しているのだ、自分の話が決して誰にも聞いてもらえないというのはすさまじい苦痛だ。
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久しぶりに自己利益に戻るフェーズ2
ぜこんな話をしているかというと、逆に自分を戒めるためだ。
自分自身で、指摘してそのように書かないと、コロナ情報だの何だのをクソほど調べて整理し、それを魂を支えきるようなシロモノに書き上げて……というようなことが、いつのまにか自分のアタリマエになってしまうからだ、だが冷静に考えればおれはそうして何でもかんでもをやらなくてはならないわけではない、課題が出されるたびに勝手に引き受ける自分のクセをどこかで抑えねばならないのだ。
ふと気づくとおれは、何か利益を追求する回路が壊れているのか、文学や芸術をやりだしたと思ったら、やれ温泉地の情報を事細かに教えたり、オーディオインターフェースのことを教えたり、昆布だしの取り方を教えたり、一眼レフの被写界深度を教えたり、自動車のハンドル操作のコツを教えたり、安政の大獄の発端を教えたり、動画の形式変換を教えたり、国富論と社会契約論を教えたり、サルトルと実存主義の破綻を教えたり、次亜塩素酸ナトリウムがなぜアルカリ性になるかを教えたりしている、こうして何でもかんでも「おれが伝えないと」と自動的に発想する仕組みに歯止めをかけなくてはいけないのだ、もうこれ以上「エンベロープウイルスのACE-2受容体に……」みたいな話をしたくない/なぜおれは森羅万象についてことごとく答えねばならないと思い込んでいるのだろう、そしてまたそれを見透かしたように、なんぞあればおれの周りは全員おれに「これって……」と訊いてくるのだ、そういう際限のないサイクルが出来上がってしまっている。
これに加えてワークショップでは、やれ人体の構造、関節とその呪縛、合気やら柔術やら歌やら踊りやら演劇やら漫才やらラジオトークまで教えていたのだ、今考えるとコイツ馬鹿なんじゃねーのと思う、そしてなぜおれがそんなにクソほど何もかもを教えていたかというと、おれしか伝えるコミュニケーション能力を持っていなかったからだ、ヨソにそういったことをまともに担当する奴がいないのでぜんぶおれがやっている/そしてけっきょく、九折さんの話が一番わかりやすいし、九折さんの話だけスゲーわかるからということで、何もかもを「九折さんに訊けばいいだろう」というパターンが出来上がってしまったのだ、まあそれはしょうがないのだが、こうしてたまに自分で否定的に言わないと、抑制機構がなくてガチで身体を壊すのだ、おれの神通力は無限かもしれないが神通力を引き受ける肉体のほうは無限ではないので、いくらなんでも限界がある、ということで自己利益に戻るフェーズかいくらか必要なのだった。

世の中には「教え魔」みたいな人がいるのだから、そういう人がわかりやすく教えればいいのに、どうもそうした教え魔の人も、大半は「自分の口調」でしかそれをやらない、そしてその自分の口調というのは偏執的な気質から発生しているものなので、他人が聞いても何のこっちゃさっぱりわからない、ガンバって理解すれば理解は不可能ではないが、話を聞いて知る・わかるという "快感" がないのだ、おれの場合はそこが違い、おれの話は聞いているだけで知る・わかるという快感があるので、まあどうせ聞くなら九折さんから聞きたいという当然の要望が起こるのだった、その要望じたいは悪いものではなくて、その要望に応えられるユニットが少なすぎるのが悪い。
ありとあらゆるシーンにおいて、おれがいればありとあらゆるものが楽しくハッピーに光り輝き、すべて意味のあるものになって世界バンザーイとなるのだが、そのことに向けておれはいつも――この「いつも」というのがヤバイ――人知の及ばないピークに到達して振る舞うということを続けてしまっている、実際おれが書いたエントリーシートは100%審査に通るとかいうのはヤバくない? しかも他人のエントリーシートを書くので、しゃーなしにおれがそいつの魂を読み取っておれがエントリーシートに書くのだ、そうしてけっきょく魂のピークや奇跡が出なければすべてのことは面白くないわけだが、さすがのおれも打率10割を決め込んでいては肉体的に限界が来る/こんな祈りそのものみたいな暮らしをしていたら死後は天国や浄土に行くかもしれないが、だからといってサクッと死んでいいとはおれ自身は望んでいないのだ、今ある自分の周囲のすべてのものを放ったらかしていきなり死ぬとかいうのはとてもじゃないが甘受できない。
叫びっぱなしの毎日で、とはいえさすがにどんなミュージシャンも毎日ライブで叫び続けているわけではないだろう、ふつう収録とツアーのときに叫ぶもので、朝起きたときから「ほれ叫べ」とは言われないはずだ/おれはチンタラ日帰りで温泉旅行にいくときが叫びの休憩だったのだが、それを自粛させられるともう二十四時間ずっと「ほれ叫べ」ということの中に閉じ込められてしまう、ベトナム戦争の映像を見ながらマニアックなカスクスコッチを飲んでたまに模造刀を振りながらラインで送られてきたワークショップ員からの課題作文の講評作業をしてボブディランの歌を唄うとかいうのは冷静にみるとイカレてしまっているのだ。
だから今、自粛といえばおれ自身が自粛しないといけない、外出の自粛じゃなく万事に叫び切ろうとするこのむちゃくちゃを自粛しなくてはならない、なぜおれはこの期におよんで自分の状態をなおもどこか「足りない」と感じているのだろう、そりゃ足りないといえば人はいつまでたっても足りるものではないので、いいかげんにしなくてはいけない、フルスロットルの目盛りがないところまでスロットルを振り切ったとしても、人なんてしょせん「足りない」のだ、というわけで自己利益のほうへ戻らなくはならない、この調整ツマミを片側へ振り切ったまま、ずっとやっているとそりゃいつかブッ壊れるのだった。

努力しないと、おれには「引き受けない」という能力がない。

なんでもかんでも、おれは「自動的に引き受ける」というデタラメなアビリティがついてしまっていて、そのことがおれをここまで奇跡のように持ち上げてきたのだとは思うが、そのまま突っ走って頓死するものじゃねえ、世の中にマスクが足りず、医療施設に物資は足りておらず、人々にはいま致命的に魂が足りていないと思うが、たぶんおれが死ぬまで突っ走ってもその魂がここしばらくで「足りる」ということはないだろうよ/おれを否定する勢力はおれの一億倍いるのに、そんなもんおれ単独で躍起になったところで足りるわけがないのだ、精一杯やっても足りないものは足りない、医療従事者の方だって足りないベッドの上に患者を寝かせることはできない。
というわけで、このようにおれはそうとう気合を入れないと、自己利益という発想を見失うのだった、長いことビョーキのように「ほれ叫べ」という発想だけが起こるように脳みその回路が習慣づいてしまっている、とにかくこれの程度を下げなくてはならない、あげくにおれを否定する勢力が増えれば増えるほど高精度で叫ぶという習慣までついてしまっている/デスクの前で五時間ぐらいグラングランしてようやく「無理!! 魂が尽きている!!」とあきらめて床に就くというようなアホなやり方はしばらく引き取らねばならないのだった。
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久しぶりに自己利益に戻るフェーズ(と、あとは悪口)
年に一度、この時期がやってくるようなのだが、「自己利益」を選ばねばならない、もう何度もこのことを繰り返してきている。
おれはいつも傲慢なのだが、傲慢とはいえ常に人が盛り上がってよろこぶことに加担しているので、このことを続けていると、定期的に身体にトラブルが起こるのだ、といって何か故障が起こっているわけではないのだが、感覚的に「このままではダメです」というというのはわかるのだ、このフェーズに来たら一回「自己利益」のほうへ戻らないといけない。
この世界を盛り上げるのはおれしかいないかな、ということはわかるし(傲慢)、いつだって人の憂さや迷いを吹き飛ばしてやりたいのだけれど、そのことをずっと続けていると、肉体に単純ダメージが溜まるらしい、ましてここ数か月で起こったコロナ騒動は、まったくおれに余計な仕事を増やした、そのせいで久しぶりに自己利益に戻るフェーズがやってきてしまった。
といって、表面上はそんなに変わらないと思うし、自己利益に戻るといってもしょせん二か月か三か月ぐらいのことだが、まあおれから提供しているボーナスタイムの量と品質は、それなりに低下する見込みだ、第一なぜかおれは自己利益を追求しないものと決められているみたいになっているが、何の根拠もなくそう決めつけるものでもなかろう、おれの魂は無限だからいくら消費してくれても大丈夫だが、肉体はごく一般的なアタリマエのものなので無限の消費に耐えられるようにはできていないのだ、そりゃまあアタリマエか。

第一、たまには考えてみればいいと思うのだが、なぜおれが頭がいいからといって、やれコロナ騒ぎとなると適切なデータとニュースの集計をして、人々が勇気づけられる発信をしなくてはならないのか、よくよく考えたら意味がわからんのだった、おれは社会的にはゴミ扱いなのに社会的な役割を上等にやらされるというのは矛盾している。
コロナ関連の情報なんてどこかの保健の先生が統合・整理して発信すればいいのであって、おれみたいなセクハラ大王がそんな役割をやらされるようでは世も末だ、そんなもん関連する研究室に所属する大学院生が結党してデイリー防疫チャンネルでも作ればよいはずだ/そんなもん、逆に考えたら、毎日ずーっと疫学をやっている奴が、急にデイリーで恋あいと文学と芸術と神についての確たる発信をしろという話で、無理があるに決まっている、さすがのおれとしても「コロナ状況」と「芸術」をゴリゴリに往復するのはすさまじい無理があるのだ、日経新聞の記者に緊急の記事を書きながら交響曲を作曲しろと言いつけているような無理がある。
といって、愚痴を言っているようだが、本当はわかっているのだ、今それっぽい知識を専門的に持っている人でも、情報発信をするのにメインが「ボクの承認欲求を "いいね" してね!」というテーマが前面に出てきているので、誰もが「アテにならない」と感じているのだ/日本には今、自覚的に賢いはずの人が一億人いるが、この一億人がこぞってコミュニケーション能力をからっけつに欠損させているので、もうおれが情報を取りまとめて話すしかないのだ、実際多くの人から「九折さんのまとめてくださる冷静な情報だけが心の支えです」「それのおかげでなんとか精神の安定を保っています」と連絡が来ている。
今、自覚的には賢いはずの一億人が、なぜか事実上はとってもアホな可能性が大であり、承認欲求が破裂寸前なので、濫造された〇〇チャンネルのすべては「目立つ情報」しか言わないのだ、だって自分が目立つことしか第一の動機にないのだからしょうがない/そんなことは学者や教授やドクターにさえありうることで、むしろ理系の研究室にいたことがある人のほうが、いかに教授連中が承認欲求とマウントの世界で瘴気を放っているかをよくよく知っているはずだ、だからまともな情報がひとつも入ってこない、そこで唯一、承認欲求やらマウントやらとは無縁の、かつコミュニケーション能力を持っているおれが、まったくお門違いの情報の整理と発信をしなくてはならないのだった、自分が承認されたい人って他人がどう聞いているかなんてまったく考えていないからなぁ、現場で格闘している人の中には偉大な人がたくさんいらっしゃると思うが、マスゴミと呼ばれるマスコミ以上に、発信したがる個人もダメだぜ。

情報発信は続けてやるが、しばらくボーナス量は低下するぞ(自己利益に戻らんと死ぬっつーの)。

あっちこっちで、「コロナは長期化します」とか、テキトーな情報をばらまいているアホがいるだろう、もちろんしかるべき立場があって公的にそれを述べる人はいいのだが/必要なのは、感染力が致死性が長期化がどうとか、そんなチンパンジーでもわかるような予測ではなくて、「お前らもちろん、少々長引いてもやっていけるよなあ?」と、魂を支えきれる情報なのだ、「コロナは長期化する」と言っているだけのアホは「人間はやがて死にます」と得意満面で言いふらしているだけのアホと同質だ、今は悲惨なこととマスクと消毒の話をしていれば目立つので、承認欲求チンパンジーが悲惨で目立つことだけを言いふらしている、めいわくな話だ……おれはすさまじい悪口を言っているように聞こえるかもしれないが、「コロナで悲惨になります」なんてクソ発言は一切していない、どちらの側の口元をセメントで埋めてやる必要があるか? なぜ友人と尊敬を得ていない者がこぞって「発信」なんてしているのか。
ツイッター等、SNSが発達してから、人々のあいだに何が起こったか、それはいうなれば、「追い詰められてパニックになった人ほど情報発信して自己救済にあてがう」という精神失調行動が定番になったということだ、そのことの加速の中で、失調していないおれにどれだけしわ寄せがきているものか/そのことに慣れてしまったおれにも問題があるが、とにかくそろそろ自己利益に戻らないと身体のほうが壊れるので、やむをえずボーナスのていどは下がります、本来この世界のあらゆるツールは、サービスに使うためのものであり、自己利益に使うためのものじゃないぞ、両親にそう教わらなかったのか。
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女性主権とストレスの関係6/根源的なヒーローへの嫉妬

れでようやく決定的な話ができる。
当たり前だが、女性の 99.99 %以上は、おれのことをヒーローとは認めないだろう。
男でも同じで、やはり男の 99.99 %以上は、おれのことをヒーローとは認めないだろう。
もう面倒なので、さっさと本当に必要な情報だけを話すと、おれの前でとたんに「大丈夫な奴」になった人は、単におれのことをヒーローと認めたのだ/別におれに限らず、誰かヒーローを認められた人だけが「大丈夫」になるのだ。

現代の、女性主権派の人々は、すさまじいストレスの中を生き続け、毎日調子が悪く、イライラする上に、方針のすべてが翌日には雲散霧消するという果てしない苦しみの中を生きねばならないのだが、それはつまり、ヒーローを否認しているからなのだ。
この単純な尺度をもとに、おれはこれまでのすべての経験に整合を得ることができる、つまりどうしてもおれのことを一ミリもヒーローだとは認められない人が当然いて、そういう人はどうしてもストレスで神経をギャーと破綻させ、ずばりいえば転落していくのだ/けっきょく何も構築できず、その先はもう振り返ればただのストレスの貯蓄でしかない日々を生きることになる。
そうして考えると、おれは実に単純だった、おれが生きてくる中には色んなヒーローがいたのだ、それは特撮の中に出てくるものではなく、先輩であったり先生であったり、友人であったり私淑する誰かであったり、何かの登場人物であったりした。
色んなごまかしが利いているようでいて、根っこの仕組みはシンプルだ、つまり、自分以外の誰かがヒーローであるということの嫉妬に耐えられない人がいる! この人が内心でヒーローの格下げをしていて、自分の心理・嫉妬心との釣り合いを取っているのだ/この人々のことは、平等善意のパリサイ派と呼んでも差し支えないだろう、平等善意のパリサイ派は、けっきょくは何がなんでもヒーローを否定して人々を「平等」に引き戻したがる。

ヒーローのない人は「趣味」をやっている。

よし、この文言だけで、現代の多くのことを説明できるだろう/昭和の資料や白黒映像に残っている人々には「趣味」をやっている気配がまったくないのは、あれはヒーローを否定していなかったからなのだ、現代ではそれがすっかり逆転している、すべてのチャンネルは YouTube も含めて「趣味」をやっている。
いつからか「歌ってみた」というようなジャンルが隆盛し、そこからプロが輩出されるのも当たり前になったが、旧来との性質の違いは、そこにヒーローはいないということ、ヒーローは否定されているということだ、すべて「趣味」で成り立っている/そして「趣味」というのは、よほど偏執的でないかぎりは、やはり「どうでもいいもの」なのだろう、だから女性主権に革命されてから以降、あまりにもすべてのものが「どうでもいいもの」として過ぎさるようになった、その代わり根源的なヒーローへの嫉妬に打ちのめされることはなくなったのだ。

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女性主権とストレスの関係5
徹に、実利・実益を優先しよう。
神経が「高ストレス状況」にある人は、必ず女性主権のもとにあるということ、これを知るだけでも状況は大きくクリアになる。
女性主権派は、決して、男性個人が主権を持つことを容認しない、男性が主権を持つには必ず「母体」に所属していることを前提にする/そうすれば男性の主権は上位の「母体」に付与されたものであり、主権そのものは「母」という女性にあることになるからだ。
おばさんが時代劇を観るのもそれが理由だ、時代劇はつまり「幕府」という母体があって、その母体のもとで役人が活躍するという形態が多い、だからおばさんは荒野の西部劇は観ない、西部劇のガンマンは母体に主権を付与されているのではないからだ。

現代のほとんどの女性は、男の主権を否定することに立脚し、男の主権を否定することが人生のスタートになっている。
それが現在まで続いて、女性主権の世の中が成り立っているのだが、なぜか女性主権の世の中では、恋あいや青春、物語や世界といったものが得られないのだ、それでむしろ女性の側が「毎日イライラしている」という実情に到っている。
今でも、たとえばテレビ番組などを観れば、男が司会をしているケースが圧倒的に多いのだが、この会場に女性の出演者がいる場合、女性は男司会者の主権を認めていないので、番組がバラバラになる/バラバラになってしょうがないから、やたらカット割りを多くし、テロップを大量に入れて、外部のロケを挟み、果てはまったく関係ない YouTube の動画を引っ張ってくることになるのだ、きっと現場の人はスタジオがすさまじく「バラバラ」ということに絶望的な感触を覚えていると思う。
だから本来は、たとえば「ガガ様」みたいな女性が司会をやるべきなのだが、実際にそうしたところで品質の高い取れ高と視聴率が得られるかというと、そうでもないので、成立しない、それで全員がイライラするという状態だ/これは男女いずれを否定している話でもなく、ただこの「毎日イライラする」ということからは構造上逃れられないということを報告しているにすぎない(ジタバタ解決策を探しても無駄なのでこれについては諦める一手だ)。

現代の主権者である女性は、自分がヒーローの徳性を現さないことにイライラしている。

単純に考えて、女性化した男はヒーローの徳性を現さないだろうから、それ以前の女性はヒーローの徳性を現さないだろう、それはなんとなく単純にわかる/けれども、今女性が自らに課している「こうあるべき」は、すべてヒーローの徳性が現れなければ成り立たないことなのだ、だからイライラしつづけることになる。
仕組み上、テキトーな男をヒーローと認めてその主権にあやかれば、女性も何の苦もなく主権を分譲されるのだが、そのことは現代すでに許容される範囲のことではなくなったし、それ以前に、ほとんどの女性が男の主権を否定することにすべての始まりを立脚しているので、今さら引き返せない、だから今のところ、この毎日「調子が悪い」「神経がねじ切れそうなストレス」「あらゆる方針の雲散霧消」「イライラする」ということを正当に引き受けていくしかないのだ。
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女性主権とストレスの関係4
本的に、男性不信の女性、男をアテにしない女性、男を否定する規定の女性、また女性化した男性について。
これらの人々が、体調および心身の調子を安定させることは生涯ありません、残念ながらどんなトレーニングや運動の習慣をつけても超克はできません。
つまりこれらの人々は、常時「調子が悪い」日々を生きていくしかありません、毎日「調子が悪い」の中を生きていくしかないのです。
心身が毎日「調子が悪い」ということに合わせて、潜在的、というよりはすぐ水面下に、極めて高いストレスを受けて生活していると思いますが、このストレスが解決することもありません/わたしはポリコレに定義される偽りの良識を超えて、このことを伝えるべきだと思って書き話しています、気にくわない方はもちろん黙殺に徹するべきです、これらの言が単に信用ならないならばこれらはしょせん根拠のない世迷い言・与太話にすぎません。

ただそれでも、わたしは自分の視てきたもの、そして今も視えつづけているものについて報告するよりないのです。
単純に見分けてみてください、誰か信じる男を得た女性は、そのとたん「大丈夫」な女性になっています、安定し、「調子の悪い日」は例外になり、「メンタル」などという馬鹿げた現象は遠のき、自分の方針と主権をこなしていけるようになります、そんなことに悲壮な決意など要らないのです。
一方、情緒的に不安定で、体調・体力も安定せず、ずっとどこか「調子が悪い」を抱えており、けっきょくは自分の方針や主権をこなせない人々について、彼女ら(彼ら)が単純に、男をアテにしない・信じない・否定的だという、硬化したハードな態度で生きているのを発見してください/このことは女性でもそうですし、女性化した男性でも同じです。
けっきょくは、「明日の気分で藻屑と消える人」、この人が男を根本的に否定しているということに気づいてください、それでもそのスタイルを取り続けるというのは、何も悪いことではないでしょう/けれども一般には知られていないのです、女性主権がすべての「調子が悪い」「神経がねじ切れそうなストレス」「あらゆる方針の雲散霧消」を生みだしているということ、そしてそのことが一生続くと規定されることを知らないのです。

オバケが出たとき、あなたは誰の名を叫びますか、あるいは自分の名で戦いますか。

男をアテにする・しないというのは、けっきょくそういうことなのです/あなたがその日の気分ごとに「調子が悪い」「神経がねじ切れそうなストレス」「あらゆる方針の雲散霧消」に陥りそうなとき、誰かの名前をコールしてみてください、そのときフッと悪いものが弱まるようなら、それがあなたを助けうる人であり、あなたに主権を与えてくれる人です、<<ただしあなたがその人を否定・拒絶せずにいられれば>>。
毎日どこか「調子が悪い」「神経がねじ切れそうなストレス」「あらゆる方針の雲散霧消」に入り込まれているというのは、つまり悪霊、オバケにやすやす入り込まれているということです、あなたの名にはそれを打ち払うだけの権威がないということです、そこでいくらメンタルを鍛えても表面上のことにしかなりません。
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女性主権とストレスの関係3
に言えば、かつての新橋周辺ではたらくサラリーマンのおじさんたちは、「パーッと飲みに行くか」という "精神" を強いられていたと言える。
つまり、「おい飲みに行くぞ」と言われたら、断る権利なんかありゃしないという世の中だったのであり、それは今思い出しても、おれとしてもそれなりにブルーになるところがあるが……それでも、そこに何があったのかは覚えている、それは「パーッと飲みに行くか」という "精神" だったのだ、その精神が主権だったから断る権利がなかった。
断る権利はなかったというのは、「今日はあまり気分じゃないんで」という、メンタルの側に主権が認められていなかったということだ、よかれあしかれ、それがかつての時代の事実だったと言える。
そしてここ十数年で、現代になり、新橋のサラリーマンおじさんたちが「パーッと飲みに行くか」という精神を主権とすることに対して、人々は軽蔑を向けるようになった、人々は飲みに行くのは「その日のメンタル」であって精神ではないと主張し、その主権の革命を起こしたということになる/今、「パーッと飲みに行くのが精神だろ」と主権を唱えたら、それはただちにパワハラの罪を問われるだろう。

おれぐらいが最後の世代だと思うが、当時確かに、「その日のメンタル」なんか何ら鑑みてもらえず、内心で酷い目にあい、だからこそ逆に救われていたし支えられていたということがわかる、「腐る権利もなしかよ」ということで、確かにおれは精神を失わずに生きることができたと思う。
今思えば、どこまで「精神」で押し切れるかという、チキンレースをしているようなありさまだったな、それこそよしあしの問題でなく/当時そのチキンレースに、女性を巻き込むものではなかったし、やはり当時から妙にナヨナヨした男はいたので、それはそれで「まあアイツはしゃーない」と諦めていた。
何も、精神主権が正しいというわけでもないのだろうが、メンタル主権と差分があるのはわかる、そしてよしあしの問題ではなく、精神主権から得られるものをメンタル主権から得ることはできないということだ、いくらメンタルをカチカチに固めたとしても "精神" の精華は得られない。
誰でも理解しうる、当たり前ことがある、それは、1.精神主権においてはメンタルが否定されるストレスがある、2.メンタル主権においては精神が否定されるストレスがある、ということだ、「お前のメンタルなど知ったことか」という事実が横行するのはキツいが、「あなたに精神なんかないのよ」という事実が横行するのも別の意味でキツい。

精神主権だと、今日のメンタルはなく、メンタル主権だと、明日の精神はない。

だから、メンタル主権の場合、明日につづく自分に向けて何かを主権的に決定するということはできないのだ、必ず明日は明日のメンタルに主権支配されるしかない/プリクラで「ズッ友」が書かれるのは、ただその日のメンタルであって明日の精神ではないのだ、だから今日の友人を決して明日アテにしてはならない、明日のメンタルであなたが友人とはまったく限らないからだ。
ここ十数年で、主権がメンタルに委譲され、そのぶん世の中に「呪い」が急激に増えた、それはメンタル主権の中で明日にも継続されるものを持とうとすると、方法が怨恨呪詛しかないからだ、それで日本のあちこちの田舎が呪詛の空間に変わってしまった。
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女性主権とストレスの関係2
たしもいちおう男性なので、目の前の女性が、わたしのことをアテにしているか・いないかぐらいは直感的にわかる。
一見、わたしのことをアテにしているようでも、けっきょくは「あたしが決める」ということに回帰していく女性は多いものだ/というより、現在のところ女性の主権内部において男がアテにされることはほとんどない、少なくともわたしの場合はそういうケースはけっきょくのところ極めてまれだ。
そして、<<結果だけを総じてみれば>>、男をアテにしていない女性は、1.数日で目的地を喪失し、2.多大に日々の「気分」に支配され、3.潜在的に極めて高いストレスの中を生活する、ということになる/本当にこうなるのだ、本当に「もれなく」こうなるので、やむをえずあるがままをお伝えしている、これはきっと必要な情報だろう。
表面上、女性は「おだやかで平和」な日々を生きようと努めるのだが、水面下では毎日が気分のとおりに行方不明だから、何の方向性もなく膨大なストレスを受けることになる/いわばこの話にしたって、今日あなたは「なるほど」と感心してくれるかもしれないが、明日には「マジむかつく」と唾を吐きかけるのをやめられないかもしれないのだ、そのことについてレポートしているにすぎない。

実際に、A男、B男、C女、D女に会うことを考えてみよう。
A男に会うとき、A男は女性化していないので、いつも「おう」という感じで、前もって警戒や不穏は感じない。
これがB男に会うときだと、B男は女性化しているので、そのときによって性質も機嫌も違うのだ、だから会うときには前もって異様に警戒と不穏を準備し、そのときのB男がどういう気分かを入念に探って接触してゆかねばならない。
C女に会うときも、女性に会うときといえばほとんどの場合、ありていに言えば「今日は大丈夫かな」とビビりながら接触するしかないのだ、C女に会うときは「昨日は友人だったが今日は外敵かもしれない」ということを常に覚悟していなくてはならない/それが不思議なことに、D女に会うときだけは、前もって「大丈夫」とわかるのだ、そしてその差分が、男をアテにしているか・いないか、男を信じているか・不信かによって生じているのは、まったく思いがけない視点だった。

男性化した主権は「精神」に拠り、女性化した主権は「メンタル」に拠っている。

衆知のとおり、メンタルというものは、その日ごとに揺れ動くものだ、だから女性化した主権は「毎日違う」のが必然であって、このことはよしあしの問題ではなくただの性質の問題になる/だから、どのように自分の方針や目的地を決めたと思っても、翌日には「メンタル」が変わるのだから、主権の決定は変更されてしまうことになる、それは朝令暮改というより、そもそも "定まった令など存在しない" というのが女性主権の性質だ。
ここ十数年で、人々は「メンタル」に関わる語をよく知らされ、それが「ブレない」ことを求められ、だからこそメンタルをカチカチに固めるトレーニングを得ることを学んだのだが、それをカチカチに固めねばならないのは、そもそもメンタルが「揺れ動く」という性質のものだからだ、一方で精神はあるなしの問題であってそれをカチカチに固めるという発想のものではない/A男は「おう」、D女は「おはよう」で安定し、いつも「大丈夫」なのは、主権が精神主権だからだ、一方でB男とC女はメンタル主権なので、そのときのメンタル状況を常に慎重に推し量りながらでなければ付き合うことはできない。
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女性主権とストレスの関係
をアテにする女性はほぼいなくなった。
生活面では、経済的に男をアテにする女性はもちろんいるだろうが、それはあくまで生活の問題であって、男性不信の規定は変わらない。
現代において、主権はむしろ女性の側に移されているので、今や男性の側も女性化しており、このことはもはや男女差別うんぬんに該当さえしない。
女性、特に男性不信・男をアテにしない女性は、自分の方針を実行できない・継続できないという性質がある、この場合女性にどれだけ能力があっても、その船は「舵を持たない」という性質がある/船の能力はあっても航行の能力がないのだ。

むろん、今は男も女性化しているので、今さら表面上の性別をアテにしても意味がない。
男をアテにしない、平たくいえば男性不信が規定されている女性、および、それに準じて女性化した男性は、自分の方針を実行できない・継続できないのだ。
男をアテにしない、男性不信が規定されている女性の場合、業務を除いては自分が「何をする」とも決められないし、かつては意気揚々と「これをやろう」と決めたことも、数週間とたたないうちに雲散霧消してしまうはずだ。
おそらく現在、ものすごく多くの人が、二年前にやろうとしていたことは今になってきれいさっぱり消えてしまっているだろうし、それどころか、先月やろうと決めたことが今月にはもう何のリアリティもなく消え去ってしまっているはずだ、このことは主権の女性化によって起こっている/女性はその日の気分とそのときの実感に支配されるので、昨日決めたことなど作用しないのだ、男性不信を規定している女性および女性化した男は、万事において "必ず翌日の気分がすべてを上書きする" と知っておくといい、毎日が気分次第にならざるをえず、このことが重大なストレス源になるのだ。

性能の低い男船は、それでもいつかは目的地に着くが、性能の高い女船は、そもそも「目的地」が翌日まで継続しない。

女性は以前、プリクラで友人を「ズッ友」と称して誓いのロゴを写真に入力していたが、それはウソやインチキでやっているわけではないのだ、その日の気分に誠実なのであって、ただその気分が翌日には変化してしまい、昨日の誓いは今日の気分に上書きされて消失してしまうというだけだ/これは悪口を言っているのではなく、ただその性質について言及しているだけだ、もちろん当たり障りのある言いようだと思うが、すでにそんなことを気にしていられる状況ではないというのがわたしなりの判断だ。
女船が一定時間でも「目的地」を継続しようとすると、その目的地はもう「怨恨」に限定されてしまう、「バカにされたから、必ず○○してやる、△△になってやる」という形でしか女船の目的地は継続されない、そうするとその船はどうしても呪われた船になってしまう。
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珍しく胃腸の調子をくずした
ロナ騒動で、万事がトーンダウンして、休むきっかけになったのはいいが、緊張の糸が切れて、急に体調が不安定になった、めずらしく胃腸を狂わせている。
なんつーか、去年から、いろいろ張り詰めていたらしい、そんな自覚はなかったが……
というわけで、ここ数日いまいち冴えないが、しょうがないのだ、引き続き偉大なるおれさまにひれ伏すように。
ワークショップも、ちゃんとオンラインでやったのだが、レポートする気力がない、ここ数回は各員のほうが元気でおれのほうがくたばっている。

体調がすぐれないときは、人の悪口を言うのがベストなのだが、それも文章化する余力が無い。
ワークショップの連中は、なんかミョーにガンバってくれて、信じられないような進化をしている、なんか「こんなムードだったか?」と不思議に思うのだが、おれのくたばっているぶんをみんながカバーしてくれているのかもしれない。
いつも気ままに行動しているのが、やれあちこちでクラスタークラスター言われると、調子が狂うのだ、そりゃまあ誰だって調子が狂うだろう。
というわけで、調子が出るまで、とりあえず「丸の内にいたときの上司のアレは人間的に何の値打ちもない存在だった」等、唐突に悪口を言ってスッキリしよう、うんやっぱり悪口はスッキリするなあ。

無理に世の中に値打ちがあるふりをしなくてよろしい。

アメリカのニュースがどれだけ感動のストーリーを仕立てていても、「つまんね」と思えば「つまんね」でいいじゃないか、無理やり値打ちの中にいると思い込むことはない、だれがどう見ても今のテレビ番組と YouTuber に胸がときめくほど面白いと感じられるわけがない。
そう、面白くないのだ、だから疲れる、面白くないものにヒマつぶし調味料をどっさりかけているから胃もたれするのだ、なぜ面白くなくなったかについては仕組みがあるていど見えているのだが、今それを書き切る余力はないので、さあさっさとおれが元気になるようお前らはクソほど祈るべきだ。
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「独特のやさしさ」の行方6/「イエス」とは「分からない」ということ
っきょく同じ話に行き着いてしまうのだが、この世の人間は分割されているのだ、だから「自分」という/この分割が分かっていない人、あるいは耐えられなくて拒絶・否定してしまう人は、いわゆる甘えの状態になり、その先は統合失調症になってしまう。
かつて人々に「独特のやさしさ」があったのは、つまりは「分かっていなかったから」だ、分かるという分割は力(重さ)によって成り立っていて、やはり時間が進むということは重さによる分割が進むということなのだ、われわれは時間・重力・分割が進んでしまうという業の中にいる、そのことをキリスト教では原罪から説明するし、仏教では業(カルマ)と説明する/仏教の聖典には「自分とは業(カルマ)である」と身も蓋もなく説明されている。
そこでおれの知っている「独特のやさしさ」というと、「いとしのエリー」と「Burn」は同時に鳴っているということなのだ、歌は無音と同一であり、また歌でないものと同一だ、すべては分割前に「同時同一」なのだ、それは相対性理論であっさり説明されていて、光の速度にあるものには時間が流れていないし、重さのないもの(ヒッグス粒子に干渉を受けないもの)は光の速度でしか運動しないというのはただの物理的事実だ。
時間というのは重さから始まった一種の錯覚だが、錯覚であれ時間は「進んでいく」以上、重力の性質である「分割」も進んでいくということなのだ、「独特のやさしさ」が消失するのは個々人のせいではなくもっと原初からの仕組みのせいだ/だから無罪放免ということではなく、まったく逆だ、やっぱり罪業の中にばっちりいて、罪業の結果が進行しているということだ。

われわれが「観測」してしまう実世界は、分割が進んでゆき、「独特のやさしさ」という観測不能のものはどんどん失われていくのだが、これはまるで墜落していく飛行機が空中分解を起こしていくようなもので、どうにもできない、重力は当然ながら重さに接近するほど逆2乗で増していく、つまり質量との距離が半分になれば重力は四倍になる。
そうなるともう、なんとかして接続しておくしかないということになる、なんとかして分割しないように耐えろということになるのだが、逆に分かりたがる・分割したがる人のほうが多いようで、困っているのだ/分からせるのはいくらでも分からせられると思うが、そんなことしてさらに時間と重力の作用を後押しして大丈夫なのか、まあ当人は何も視えていないのだからしょうがないけれども……
魅力というのは魅デーモン・パワーなのだが、それがパワーである以上、もちろん分割にはたらく、罪が重いのぅ〜 いかんこれではどうにもならないので、やはり物事のいい面を見なくてはならない(急に一般論だがそういうものだ)。
おれが愛の権威をもって、物事のいい面を見るかぎり、おれの愛に対しては人は「バカ」と「救済」の両面を示すことがあまりに定番だが、このバカと救済をさえ同時同一にせよということなのだろうか、まあそれはあるかもしれない、といって当人の側がデーモンパワーのほうを信仰している問題が最後の最後に決定打になる予感がアリアリとするが、それはもうしょうがないだろう、おれの視力が捉えているところはもはやキチガイのレベルなのだが、そこに一度でもいいから正しく「おう」なり「はい」なり言えたらそれだけでも分岐は救済の側へ偏るのだ、それだけで一発で永遠アンド「独特のやさしさ」が得られるというか復旧するのだがなんとかしてこれをサクッと実現する方法はないだろうか。

「はい」は「分かりました」ではない/「分からない」から「はい」「イエス」なのだ。

「水よりお湯のほうが温度が高い」「はい!」という会話は、あまりにもアホまるだしじゃないか、そうじゃなくて、「次の交差点を右折したほうがいい」に対して「はい」と答えるものだ、次の交差点を右折したほうがいいのかどうかは「分からない」だろう、それでも「はい」と答えている、 "信じる" というのはただそれだけのことだ/その「分からないからイエス」を、分かったことにしようとする習慣がナゾの悪意に満ちている(それは人の悪意ではない)。
「分からない」から「はい」なのだ、こっちがカミサマに帰依しているのであり、「分かりました」を「はい」とすると、それだけで悪魔に帰依していることになる、そんなことに誰が気づくっちゅーねん!! もしこの話で何かが明滅する感触を得た人は、なんとかして「分からないからイエス」「分からないままイエス」ということを発想の転換として食らいついてくれ/「分かってイエス」というのは実はとんでもなく邪悪なプロセスを踏んでいるのだ、そんなのふつう気づきっこないけれどね。
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「独特のやさしさ」の行方5

いうわけで、「独特のやさしさ」を信奉せよ。
信奉してもまず得られないとは思うが、しゃーない、それでもいちおう信奉することに強引にせよ。
現代人よ、あなたを癒すものが、独特のやさしさなのではありません、あなたは自分より魂がヤバい奴を肯定して安心したがっているだけだ。
結果的に、あなたが「独特のやさしさ」に帰るか、それとも「独特のコナゴナ」に帰るか、その結末はわからないが、いちおうここで仕組みは知られたのだ、あなたがどちらを信奉して、どちらに寄与するかによって、あなたの帰る先は決まるであろう、うーんスリルだ。

たとえばこのように考えればいい、確かにおれの言っていることはしばしばひどいというか最近はしょっちゅうひどいのだが……
次のように実験する、ないしは実験したことを想像してみればいい、1.おれの書き話したものを一時間読みふける、2.YouTuberの動画を一時間観まくる、という二つの営為を比較しよう。
1.の直後に、人に「こんにちは」とあいさつしたときと、2.の直後に、人に「こんにちは」とあいさつしたとき、自分から少しでも「やさしい」声が出そうなのはどちらか? また自分から特にヤバめの声が出そうなのはどちらか? そう考えればわかるだろう、実はおれはひどいことを言いながら「独特のやさしさ」を降り注がせているのだ。
あるいはこのように考えてみる、1.おれがあなたに、「酒飲みたいからウイスキーとポテチ買ってこい」といきなり言いつける、2.新人芸人があなたに、「酒飲みたいからウイスキーとポテチ買ってこい」といきなり言いつける/あなたはあなたの「お気に入り」を、本当に認めて慕っているのだろうか?

流行しているすべてのものに、指をさして「この人がわたしの友人です」と言ってみろ。

すると、どれだけ流行して「お気に入り」でも、それが自分の「友人」とは言えない・言いたくないということに気づくだろう/そのとおりあなたは自分の友人ではないものを、何かしら利用しているだけなのだ。
どれだけ魅力があり、一時的に楽しみ・癒しにできても、内心では単純に「友人ではないです」と切り捨てているのだ、このとおり「独特のやさしさ」(祝福)がないものを、われわれは本心から友人にすることはできない、また友人ではないからこそ潜在的にマウントの関係なのでもある。

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「独特のやさしさ」の行方4
ういえば、ワークショップ等ですでによく知られた、いっそ「定番」の知見があるのでそのことも報告しておこう。
おれなんかはもう、「独特のやさしさ」の権化みたいなものだから、他人のブルーな家庭事情や業務状況を聞いてゲラゲラ笑っていても、その「独特のやさしさ」は消えないのだ、ますます濃くなるばかりで、常にさすがおれという自負がアップせざるをえない。
そして、そのおれの「独特のやさしさ」をよろこんで、懐いてきてくれる人もいるのだが、そういう人はまずたいていショックを受けることになる、おれが「いやあさすがおればっかり天才だなあ」と言い、おれに懐いてきた誰かが「そうですよね」と賛同すると、アラ不思議、なせが空気はピシッとひび割れ、先ほどまであった「独特のやさしさ」は破壊されて消えてしまうのだった。
その後ただちに、おれがまた「偉大なるおれさまのためにのみ今日も空が青くうつくしいぜ」と言うと、ふたたび「独特のやさしさ」が回復するのだった、このことは何度繰り返してもそうなるので、次第に真相を知った人はショックを受けるのだ、つまり自分が「独特のやさしさ」をむしろ阻害・破壊・粉砕する側に所属しているということが、身をもってダイレクトに分かってしまうのだ、このことは多く、自分を甘く見積もっていた人に多大なるショックを与える(しゃーない)。

言ってみれば、ワークショップなんてその発見と、いくらかでも是正をしようという渾身のトライアルにすぎない。
自分の「姿」、挙動、その声、言葉、表情、意識、タイミング、呼吸、すべてのものが、「独特のやさしさ」を破壊するようにはたらき、むしろ「独特のやさしさ」を破壊することにしかコイツははたらかない、ということが知られてくるのだ、そのことをまざまざ、録画と録音で確認したおす。
自分がこれまでイメージしていた「自分」、および、自分がこれまでアテにしてきた実力や魅力のすべてが、実は「独特のやさしさ」に満ちた空間をひたすら冷やして破砕するということにしかはたらいていないということを、アホみたいに繰り返し体験・確認させられるのだ、そしてそこはいいかげん慣れてしまい、そこからようやく「これは問題ですね」ということに直面する/そのことに理性的に向き合うまでに、たいへんなショックを何十回と受けきらねばならないのだ、まあそんなもん回数でゴリ押しして強制的に慣れさせるけどね……
YouTuberや新人の芸人、また次々に現れてくるアイドルは、もちろん「独特のやさしさ」をコナゴナに砕く側の人たちだ、それだけの目つき・血質・声音・表情・挙動・全身をしている、そしてそうした破砕行動が「肯定的」なものとして演出されているので、現代人にとっては癒しになるのだ、けれども本当に好きになるかというとまったくならない、「魅力」がなくなったらそのまま死んでも誰も何も思わないし感じない。

おれはひどいことを言っているのではなく、「独特のやさしさ」を際限なく降り注がせているのだ。

まあ、ひどいことを言っていないとも言えないが、とりあえず、「独特のやさしさ」をコナゴナに砕くというような、ひどいことを「やる」のはおれの側じゃない、それはどれだけ怯えきっていても、それをやってしまう人の側がやってしまうしかないのだ/マウントがゼロにならないかぎりその「独特のやさしさ」への損傷は止まらない。
「独特のやさしさ」に対照して言えば、YouTuberと新人芸人と新しいアイドルたちには、「独特のコナゴナ」があると言えばいい、その独特のコナゴナが、割と肯定的に評価されているので、多くの人が「自分も大丈夫なんだ」と思っている、あるいはそう思おうとしている/おれはひどいことを言う奴かもしれないが、これをさすがに「マウント」と言い出す人はいない、かれはただ独特のやさしさで再現なく人を不安にさせているだけだ。
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「独特のやさしさ」の行方3
「独特のやさしさ」は、表現のしようがないので、おれはわかりやすく「祝福」と呼んでいる、そして人が祝福を失うと遺伝子のとおりただの獣・哺乳類に戻る。
ただの獣に戻ってしまった人は、内部的には猿の獣性に支配されているので、友人や仲間や恋人や愛人というものがなくなり、すべてはマウントと所有・貪愛ということになる、これは六道輪廻でいうところの「畜生道」の因果だ(取・愛)。
猿のマウント関係は、どのようなルールで成り立っているかというと、もちろんただの力関係だ、だからありとあらゆる「力」でマウントを取り合うことになる、体力や財力、権力等、そしてその中には「魅力」も入るのだということを最近の記事で述べた。
今あるYouTuberと新人芸人とアイドル活動者の目つきを見よ、どれも「独特のやさしさ」はない、だから好きになることはないし真に面白いと感じることもない、だからこそ彼らは「魅力」に偏るのでもあるのだ、どうせすべての祝福を失って誰に好かれることもないのであれば、可能な限り上のマウントを取りたいと思って掻き立てられている、それはまさに獣の血が起こす発想そのものなのだ(しゃーない)。

そして奇妙なことだが、この状況において、「独特のやさしさ」に心当たりのない人は、むしろその祝福から完全に切り離された人を見物することで、いつわりの安らぎを得るのだ、「癒される」と感じるのだ、その仕組みは誰だって少し考えればわかることだと思う。
人は、祝福から切り離されて、「独特のやさしさ」がなく、殺伐としたむなしい生に尽きて死ぬことおよび、その後魂が呪わしい世界に落ちていくことに、潜在的な恐怖とストレスを覚えているのだ、だから逆に、<<祝福を失った人が仮にも肯定されている映像が観たい>>、それはまるで自分のことも「大丈夫」と安心させてくれるかのようにはたらくのだ、もちろんそれは錯覚であって誰も引き続きそれを「大丈夫」とは言っていないけれども。
あまりに多くの人が、すでに恐怖とストレスによって、このことにもう直面できないはずだ、つまり1.魅デーモンを崇拝してきたのではないか、2.「独特のやさしさ」つまり「祝福」から自分は切り離されているのではないか、3.そしてそのとおり、魅力その他の「力」でマウントを取り合う獣性だけが起こっていて、皮の一枚下に隠しているだけではないのか、ということ、加えて4.いざ向き合ってみると、美と才能に対してまったく「視えない」という事実が浮き彫りになってくる、ということ。
もし自分が、獣ではない「人」だというなら、基本的に何をどうやっても、人に対して「マウント」にはならないはずだ、だからそのようにやってみればいいが、5.いいえ、自分のそれはただちに「マウント」になるでしょう、その予感がある、ということになる/何をどうしたらいいとはもはや言えないが、「独特のやさしさ」が本来の上位にあって、それがないものはけっきょく好きにはならないし、面白くもならないということだ、そのことを一番奥で認めてしまうことが有効。

「独特のやさしさ」はあなたを不安にさせ、「マウント」はあなたを安心させる。

どう見ても逆転しているのだが、しょうがないのだ、「独特のやさしさ」というのが自分のつながりの中にもあるのならもちろん前者が安心できるのだが、「独特のやさしさ」が「あなたにはないものです」ということになると、途端に不安になり、恐怖にさいなまれる、だからアイドルやYouTuberが安心であり「癒し」になる、「これでいいんだ、自分も大丈夫なんだ」と思えるということだ、そのことはあるていどしょうがないことで、いきなり全部を引っ剥がしてなんとかなるというものでもない。
もちろん同じ意味で、「美と才能はあなたを不安にさせ」、「魅力はあなたを安心させる」ということでもある、そりゃ長いあいだ魅デーモンを崇拝していたのだから、魅デーモンの権化みたいなものを見てわちゃわちゃしていれば安心するだろう、まるきり生まれ育った古巣という具合に/だがそれでも、魅力も含めた「力」の関係は、人としての関係ではなく猿・獣の関係だ、いくら善人ぶっても本性が猿・獣になってしまったものはどうしようもない、平等とイーブンをやっても無駄だ、自分の一挙手一投足が「マウント」になってしまうということ、それは獣の世界だ、「独特のやさしさ」を引き剥がされるというのはそういうことなのだ。
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