☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
怒りの国

りと共に生きる。
正しくは、怒りの国の中を生きる。
個人的な怒りなど疲れるだけだが、怒りの国はさにあらず。
何もかもを自らに由って定める、怒りの国に問答なし、ただ光あってマーラは遠うして遠し、吾とカミ肌身にて近し。

問答の世界で怒っててもしょうがない。
怒りの国の光は純白なり。
すべてを元より立ちて迷妄なし、元より明らかなるを明らかとするのみ。
ヒント、裏打ちて賢しき情愛のごときを断てば、自ずから怒りの国は吾が国なり。

この世に賢人なし、しからば彼我打ち捨てて賢しらの固執を脱さん。

この世に賢人なし、誰ぞ賢愚を論ずるに足るや。
シリアスぶったひまつぶしなんかやめることだ、時計のまわる先にタイミングなんかこねえよ。

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あなたの身につけるべきもの、および似て非なるもの

学門←→知識、情報、テクニック
文化←→価値観、キャラ、イベント
芸術←→性癖、オカルト、パニック
あなたが身につけるべきは左側のほう、学門文化芸術のほう。

たとえばあなたには「人に頭を下げる」という文化があるか。
和服、着物を着れば、そういう気分になって、またそういう仕事をすれば、「いらっしゃいませ」と頭を下げるかもしれない、「仕事なんだからちゃんとしようよ」と言いたくなるかもしれない。
けれどもそれは、和服キャラになって、価値観に基づいて、テクニックとして頭を下げているのであり、「人に頭を下げる」という文化があるのではない。
「着物を着て、唇に紅をさすと、ヘンな独特の気分になるの、きっと着物にはそういう力があるのね」なんて言ったとして、それは和服キャラのもよおす性癖でしかないし、着物の力がどうこういうのもオカルトだ、世の中にはもっとちゃんとした学門文化芸術がある。

学門は愛せるが、知識は愛せない。

文化は愛せるが、価値観は愛せないし、芸術は愛せるが、性癖は愛せない。
あなたは、「知識情報を多く持ち、テクニックに長け、価値観にこだわりが強く、強力なキャラをもってイベントに活発で、性癖に駆り立てられ、内心ではオカルトに弱くパニックになりがち」という人になってはならない、きわめて優秀になったかに見える人が、何らの学門文化芸術も獲得していないということは現代にとてもよくある。

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自殺者の夏冬菩提樹

間には、耐えがたく「イヤなこと」がある、それは生きている中で誰にでもある。
耐えがたく「イヤなこと」、それは、老化であったり、貧しさであったり、病、死、あるいは愛のなさ、逆に憎しみの繰り返し、閉塞感や束縛感、自分が自分の望んだようにうつくしくないことなどだ。
これら耐えがたく「イヤなこと」を、どうするか、そうだな、耐えがたく「イヤなこと」を忘れるために、ジョギングしよう!
モーレツにジョギングすれば、「イヤなこと」を忘れられるよ! 元気元気!! あとは筋トレでもする? 大声出そうよ!! 若い、リア充、健康、精力、仲間、支え合い、開放感、笑顔は輝いているよね! ←これらはことごとく「イヤなこと」の反対に生じている。

そりゃ麻薬も欲しくなる、キツいお薬をブチこめば、D値が跳ね上がり、耐えがたく「イヤなこと」なんかイッパツで消えてくれる。
だから麻薬は「神」だ、多く麻薬中毒者は麻薬に神を見ると言われている(D値については説明しない)。
先日、僕の友人が、「学門の人も、芸術の人も、苦しんできたんだ、わたしはストイックなふりをして、そのことから逃げてきたんだ」と言った。
僕は苦しみが大キライだが、かといって、苦しみを「忘れられるよ!」という誘いにはお付き合いしかねる、なぜなら苦しみがこの世界の真相だったとしたら、それは「世界の真相を忘れられるよ!」という、大アホの誘いでしかないからだ。

学者が自殺をするのではなく、自殺者が学門をするのだ。

耐えがたく「イヤなこと」に向き合い続けると、当然「自殺するしかない」という結論になる、この自殺者が、ふと夏冬菩提樹に見下ろされることがあって、そこに何かの直観を受ける、そこから「自殺するしかない……本当にそうか?」という、彼の修めるべき本当の学門を始める。
このときに彼に、「人間なんて死ぬしかないでしょ」と迫っても、「んなこたぁわかってる」と返されてしまう、「人の世なんか、死ぬしかない、そんなことはわかっているが」/ではあのとき見た夏冬菩提樹は何であったのか? 今このときも自分を包んでいる天地自然は何なのか、初めてそのことが見えて、自分の所有物でないこの世界のことを知ろうとする。

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世界を「所有」するタイプの人

るほど、この狂乱は、この世界を自己の所有物だと思い込むことから成るらしい。
だが僕は、そのようには思えなかった……南洋から城のごとく育った台風が威風のまま迫り来るのを、僕はどうしても自己の所有物だとは思えなかった。
僕は、不思議だ、と思える世界を生き、彼の人は、当然だ――反しては「ありえない」――、と思える世界を生きてきたということか。
だから僕には、学門が必要だった、何もかもが不思議に思えるこの世界の声を知るためには、よもや僕個人の知性のみでは対抗のしようがなく、集積された叡智に頼るほかはなかったのだ。

自分がいて他人がいるということ自体、この世界の明白な不思議だ。
なるほど、この狂乱においては、彼の人は自己の内に他人を有し、つまり自己所有物としての他人を撫でつけて評定するようなことをして、過ごしているらしい。
所有、もし試みに意地悪を言うなら、目の前のコップでも「所有」してみろ、しょせん肉の指がガラスの円筒壁を包み保持するだけのことを、何をして「所有」だと言い張れるのか。
この世界に「所有」なる事象はそもそも存在していない、法律に所有の条項があるのみで、この宇宙の天体から塵芥までおよぶ一切の間柄に「所有」などという事象は存在していない、而して身体髪膚さえよくよく見れば自己の所有物ではない。

無所有。

生活上、われわれは「所有」の工面をしているわけであって、それがこの世界の事象だと思った? いやいや、宇宙が人間どもの国境を気にする謂われはないし、「進入禁止」の交通標識を見て宇宙が「進入してはいけないな」と思うかというと、思うわけがないのだった。
自己が所有する観念のうちにのみ生きているわけだから、つまり世界観あって世界なし、人生観あって人生なしだ/僕は、学門に基づいてこの世界のことを友人と語り得ようが、あなたの世界観に基づいてこの世界を語り得ることはない、僕に限らずあなたの所有物のことがわかる人間などこの世界に一人もいないだろう。

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混濁せよ
濁せよ。
消化するなかれ。
整理前の原初のまま。
嵐の熱気を孕んだまま、各々の顔さえ影に未分化のまま。

整理されたものは力を失う。
混濁を混濁のまま背後の理を読むのが理路である。
文学に実物が称えられれば、実物より以前の原初へ。
何物も分からぬ吾らの、あるがままを、吾ら未だ夏日に茹だるさえわけ知らざるなり、その沸騰あらん。

事実より以前の原初あり。

真原初、未だ万物は一なり、その一部は全部を含有する。
混濁せよ、○△□×、吾らその全部を描写するあたわず、而してその一部を描写するなおあたわず。
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獣化を治療する方法3
っとパズルのピースが揃った、この二ヶ月ほど最後のピースを探し回っていたのだ。
まさか「学門」という、わかりやすいものが、最後のピースだったとは……なぜこんなわかりやすいものを見落とすのかね、我ながら不思議だ。
人間には理知・こころ・インスピレーションの機能があり、ここにカミサマが入るとそれぞれは「学門」「文化」「芸術」の営みに実体化する。
ここにカミサマが入らないと、それぞれは「情報」「キャラ」「オカルト」の一時的興奮にしか機能しない/これまで文化と芸術は見えていたのに、学門を見落としていた、ちなみに中世から近世までは「学問」のことを「学門」または「学文」と表記していたようです。

たとえばユーチューバーが、「ガチ理系のおいどんが心霊スポットを満喫するたい!」という動画を作成したとする、そこには情報(理系)、キャラ(おいどん)、オカルト(心霊スポット)がよく盛り込まれたゆえの興奮があり、動画コンテンツとして「興」をそそる。
だがこの動画は「学門」ではないし「文化」でもないし「芸術」でもない、よってこの動画は極論すれば「人間の理知とこころとインスピレーションを堕落させる遊戯」だと指摘することができる。
もちろん、ユーチューバーというのは、そういう娯楽を提供するものだろうから、それはそれでいいのだ、けれどもその娯楽はあなたに息抜きと退歩を誘うものであって、そういったものの摂取「しか」知らないというのはいかにもヤバそうなことだ。
堂々と言おう、文化や芸術が汚損されて感じられる昨今、獣化を治療する最も正当な方法は「学門」だ!/かといってフェイスブックの学門コミュニティに入ってディスカッションしろと言っているのじゃないよ、あなたが勉強を「知識」にして「学門」にしないということの危険性を指摘している。

教育ママ曰く「勉強しなさい」? 違う、あなたには学門を得る権利がある。

僕も年齢的に、今になってわかることがある、学門および学門のこころがまるでない人の暮らしは、ぶっちゃけ生き地獄だ、毎朝起床して労役に向かうほかは、空を見上げてもすることがないのだ、空を見上げてもそこに学門がないから、この世界に何の意味があるのかまったくわからない、わからないまま老化だけしていく。
これまで学門を与えられず、「教育」に情報と知識の暗記を強制されてきたのみの人は、打たれてきた犬のように「怨み」を残している、だから「学門」と言われたってグルルルと唸るだけだろうが、それでも今は堂々と言われねばならない、獣化を治療する第一の方法は学門です
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あなたは いっとき うまくいく2
こかの時点で、「女」をやめた、という自覚のある人が少なからずいると思う。
そして、奇妙な逆転があって、「女をやめてから、男性とちゃんと付き合えるようになったんです」という自覚の人が、少なからずいるはずだ。
同様に、「妻」という未来の自分をやめてから、「わたし結婚できたんです」という人が少なからずいるし、「抱かれる」ということをやめてから、「わたし普通にセックスできるようになったんです」という人も少なからずいる。
何が起こっているのか? あ、もう一度報告しておきます、三菱系の友人からのレポートです、「先輩とか後輩とか、そういうのは一切なくなりました」と。

今はこのことが「正しい」と、強調して言われねばならない/何が起こっているのか?
あなたが男性と付き合い、セックスをし、何なら結婚もして……と進むためには、逆にあなたが「女」をやめなくてはならない。
なぜなら、「男」と「女」では、今は殺し合いになってしまうからだ、男性のいる世界で殺し合いにならずに済むためには、あなたは「女」をやめるしかない、そのことは女性のほうがどこかで深く気づいているはず。
あなたが「女」をやめれば、あなたのセクシャリティのすべてはうまくいく、あなたはいっときうまくいくのだ、男とやっていくためには女を捨てることですよという、落語のオチのような論理がしかし今はシリアスなまでの唯一の選択肢になっている。

あなたは いっとき 僕を怨んだ

怨みというのはおそろしい現象だから、このことは最大限に避けなくてはならない、あなたは女をやめることで男を怨まずにすむようになるだろう、そのやり方はいっときうまくいく、あなたが信じた「これが本当かも?」のスタイル。
あなたが「女」をやめずにいたら、うまくいかず、あなたはいっとき僕を怨む、男を怨む、けれどきっとずっと先に、この世界全体を怨むようなことにはならなくて済むだろう。
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あなたは いっとき うまくいく

菱系に勤める友人からレポートだ、曰く「あ、先輩とか後輩とか、そういうのは一切なくなりました」だそう。
古い体質の三菱で、しかも大阪でそれなのだから、一事が万事、「先輩と後輩」なんて関係は掃討されたといってよいのだろう。
今、実は同様のことが各方面で、徹底的に起こっている、つまり「積極関係の消去」が起こっている、「先輩と後輩」「男と女」「店と客」「教師と生徒」など。
たとえば「男」と「女」は、それぞれの「極」であるわけだが、ここに掛け算(つまり「積」)を得ようとすること、それを「積極」という、この積極関係を消去することが、今端的にブームだと言っていい、しかしこれはいったん消去されるとその後に復興はされないので、一過性の「ブーム」ということでは済まされないのだった。

あなたは、いっとき、うまくいく。
たとえば、「先輩とか後輩とか、そういうのはちょっと」「男と女とか、そういうのはちょっと」と、積極関係を消去するたび、あなたはいっとき「うまくいった」はずだ、あまりにそれがうまくいくので、そのときあなたは「これこそが真のスタイル」と思い込んでしまったかもしれない。
だが、冷静に考えればもちろん、それは何ら解決ではなくて「消去」にすぎなかったので、本当は「喪失」したにすぎないのだ、まあそのぶんトラブルも消去されたのだけど、それは「仕事を辞めたので夏休みも要らなくなったんです」という滑稽話のごときだった。
あなたは、いっとき、うまくいく……このことは現在、実に「やむをえない」こととして進行している、積極関係を消去することでしか生きられない状況があるのだ、しかしその状況を誤解しているか正しく認識しているかは、この先の行く末を大きく左右してくるだろう、なるべく目を背けないことだ。

あなたは、いっとき、うまくいった、そしてどうしたらいいかわからなくなった。

「先輩と後輩」なんてものは、うまくいかなくなった、そこで「先輩と後輩」を消去した、そしたら不具合がなくなった……が、その代わり当然、もはや「先輩と飲みに行く」ということは永遠に失われたわけだ、そしてその先をどうしたらいいか誰もがわからなくなった。
今、何もかもが、こうして「いっとき、うまくいく」ということへ、進んでいかざるをえない状況がある、どうしようもないが、せめて目を背けないことだ、「どうしたらいいか」は誰にもわからないが、目を背けたらもう「何が起こっているか」さえわからなくなってしまう。

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「オゴりたーい♪」

うむ、僕はおっかないことが苦手だ。
世話になった人にはお中元を贈ったほうがいいよ。
ボランティア精神という「精神」がないのに、ボランティア「行為」だけを融通することは危険だ。
お中元を贈ることのない人がボランティアに興味を持つというのは、僕にはアンバランスすぎて「おっかない」と感じられるのだ、どう考えてもお中元のほうが「マトモ」ではなかろうか。

本質的なことは、実はカネではなく「血肉」のことなのだ、血肉はときに悲嘆にうめき、むさぼりや殺し合い、最悪は「怨み」を残す、ここでカネと血肉は同質のものだ。
だから、この血肉のことだけは、うまくやるしかないのだ、カネと血肉はおっかないものだ、カネと血肉は同質のものとして、扱いを間違えれば人をあっさり獣にする。
知らず識らずヤバい状況にある人がいて……ここで重大なヒントだ、ここ数ヶ月に亘って、誰かに「オゴりたーい♪」と感じたことがないという人は、それだけで非常にヤバいことになっている、これはもう取り急ぎ誰かにオゴるほうがいい、誰か自分にとってオゴれる正当な人を探せ。
人は血肉を分け合うが、獣は血肉を奪い合うのだ、もちろん獣にオゴったってしょうがないので、誰か正当にオゴれる人を探せ/なぜあなたは世話になった人に酒の一本も贈ったことがないのだ、それって相当ヤバいことだぞ。

「オゴりたーい♪」が人間、「オゴられたらうれしい」は獣だ。

「血肉を分けていただいた」ということがわからないか――わからない人がたくさんいるのだ、これが本当にわからない人は、もう「おっかない」の一言に尽きるので、僕は関わらないしコメントもしない。
われわれは生命であって……こんな分量では説明できないが、とりあえず/「オゴりたーい♪」と感じたことがない人は、「セックスがうまくいかず」「それでいてセックスに固執している」ところがあるはずだ、そして男性にオゴることのない女性の多くは、「おカネをもらえればセックスすることに異存はないよ」という考え方を持っているだろう、それがいかにもヤバいという、悪寒ぐらいは覚えているはずだ。

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「復興を応援する」を一切やめるという提案

きなりゴリゴリに反社会的なことを言うようだが、もうわれわれは、「被災地の復興を応援する」ということを、一切やめたほうがいいかもしれない。
九州の豪雨災害を受けて、その生活再建に活動されているボランティアの方々の映像を見て、僕はふとそう思ったのだ、「もうわれわれにはボランティア精神を持ちうる器量は残されていない」。
現実的に生活再建に必要なものといえば、カネにつきる、今さら米や衣類を送られたってたいして足しにならないのは明白だ、今後被災者の文脈はただちに「被災したからカネをくれ」に収束するだろう。
この「被災したからカネをくれ」に収束した復興方針に、ボランティア精神を向けようとすると、その人は人間的になるどころか、獣化に進んでしまう/それはわれわれが冷たいからではなくて、もともとカネがそういう性質のものだからだ、われわれは災害復興を通してまで自分たちの獣化を促進するようになってしまう(むろん復興の資金は行政が憲法に基づいて分配すればよいのだ)。

1995年1月、僕は阪神淡路大震災を目撃し、早くから駆けつけ神戸に住み込みのボランティアをしていた/その一ヶ月間、米やら衣類やら、「寄せ書き」や「千羽鶴」やらを避難所に届けていたのが僕自身なのだから、「救援物資」がどのようなものなのかは、僕自身がよく知っている。
僕はその経験から、行政からでない私的な「救援物資」がどう空回りし、どう現場を混乱させるかを知っている/けれどもなお、被災地の映像を見て、つい安直に米や衣類を送りたくなってしまう、その現象は愛であって人間と生命にとってまともなものだと僕は断じる、この点については僕は誰の意見も受け付けるつもりはない。
実際に何百何千と、その空回りするらしい「救援物資」を、僕は自分の手に受け取り、分配したのだ、実際に手にした数百数千のそれに「何もなかった」と思うか?/僕はそれが空回りすることが「なぜいけない?」と思う、人の愛が空回りしてなぜいけない。
この先に明らかになるのは、われわれが実は「他人の生活が破壊されることに何らの痛痒も覚えない」という事実だ、われわれは困っている人に米を送りつけようとしてしまうアホな生きものなのだが、そのアホを侮辱されたらあとは冷たい知識しか持たない獣に成り果てるだけだ。

「生活の再建」には第一にカネが必要だが、われわれは被災者の「生活の再建」に肩入れするつもりはまったくない。

われわれは、人がおなかをすかせていることや、寒がっていること、雨に濡れていることには、胸を痛めて庇護へ肩入れするが、「生活の再建」などには肩入れしない、「生活の再建」に肩入れしなくてはならないのは行政とケースワーカーだ、それは社会的なものであって人間的なものとは性質が異なるので、社会的に庇護されるのが筋でいいのだ。
なぜわれわれが「お手製」で、他人の「生活の再建」なんかしてやらなくてはならないのか、そんなことを「真のボランティア」などと考えていると、また新しい殺し合いが始まってしまうぞ、この種の甘えは将来的に悪徳商法に引っかかってしまう性質がある。

正しく見ないとな | comments(0) |
文化の主体は、文化そのものにある
化というのはとてつもなく「不思議」だ、畢竟それは人間が創ったものではない
文化は人が創ったものではなくて、たとえば「酒を飲む」という一つにしても、その形式(フォームズ)は人間がこの世に誕生する以前からある。
信じられないようなことだが、人間が「乾杯」という動作をしているのではなく、「乾杯」が人間を動かしているのだ、人間が酒を動かして「乾杯」になるのではなく、「乾杯」が人間を動かして――そこに「酒を飲む」が現成する。
文化の主体は、人間にあるのではなく、文化そのものにある、人間より以前に文化が存在しているのだ、そりゃまあ文化は精神に端を発しているのだから理論上はそうなるだろうけれど(にしても実感としては不思議だ)。

人間が「動作する」、あるいは自分自身も含めて何かを「動かす」、するとそこには「行為」が生じる。そこに「文化」は生じない。
いくら「行為」をそれっぽくしても、「文化」は生じないのだ、「文化」を真似した動作、つまり「文化」の猿真似が出現するにすぎない、猿真似とはよく言ったものだ。
われわれは「酒を飲む」し、「食事」をする、交合もするし、おしゃべりや会話もするだろう、けれどもそれらすべて、「行為」であったならそこに「文化」はない/今「行為」はいくらでもあるが、それらはどうしても「文化」をもたらしはしない。
「文化は精神に端を発す」、ここで精神そのものに直接触れる者は芸術家になるが、精神を育む土壌に触れた者は文化的な人間になる、われわれは万人が芸術家になる必要はないが、なるべく万人が「文化」から脱落しない清潔で平和な世界を望んでいる。

人間は不思議に営為する、獣は意図的に行為する。

女性が男性に対し、意図的に「半歩下がってついて歩く」という"行為"をしても、そこに文化は営まれない、そこにはかならず獣じみた瘴気が生じるのみ。
「営為」と「行為」がどう違うかは、古い時代の映像と見比べてみればわかる/すべては「文化」そのものが自我より上位の主体を持っているという秘密にかかっている、あなたを動かすのが実はあなたではないということ、あなたはきっとその真逆を教わってきた、「あなたがどんどん行為するのよ、それが勝利よ」。
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'96,
'96, あのとき僕は愛を探していた、冗談みたいだが本当だからしょうがない。
わけのわからない僕にも、信じられないぐらい優しい女の子が多かったから。
あれはただ優しかったとしか言えない、そして今になって、あれを「女の子」と呼ぶのは不適切だと発見する。
あれは「人」だった、街灯はまだ少なく、肌身は親族より近く、赤の他人なのにどこにも帰らず、ただ僕は何もかもに恋をし、そこにいた年下の人はずっと静かに困っていた、拒絶も受け入れもできないまま肌身近く、どこにも行かないでいた。

誰とでもセックスできればよかったのか? 今考えればそうじゃない、そうではなくてまったく逆、誰でも愛し合えてしまうほど、一歩踏み込めばそこに優しさが待っていた、だから困っていたし、身動きがとれず、それでいて毎夜立ち止まれないでいた。
僕たちはまだそれを愛と呼ぶことを知らず、主張するということを知らなくて、そのぶん聞き流すというやり方の存在も知らないでいた、確認する前に次の恋が来て、痛みのない夜は一夜もなかった。
それでいて僕たちは笑っていたのだ、僕がわずかでも無理をしようとすると、年下の人は僕の前に立ちはだかり、決して僕を許さず守った、僕は僕のやり方を変えるような軽薄をしてはならないのだとそのときに教わった。
'96, あのときはそう、年下の人に、僕は徹底的に守られたのだ、あのときのことを「女の子」と呼ぶのが不適切であるように、あのときにしていたのを「セックス」と呼ぶのも不適切だ、何をどうやっていたのかはまるで覚えていないが、はっきりとわかるのは、あのときは今ほど顔が痛くなかった。

今、バラバラの世界は、痛みの世界なのだろう。

人は、痛みの中では、しかもそれが永劫に続くようでは、正気であれない、僕はこの痛みを終わらせたいが、もちろんそんなことへ具体的な手立てはないのだ。
'96, あのとき痛みのない夜はなかったのだが、それは '17, バラバラ顔に刻まれる痛みとは性質が異なる、それは同じ痛みと記するしかないが、きっと一方は傷の痛みなのだ、切断されたままつながらぬ血の谷間からの絶えぬ慟哭なのだ/「痛み」が支配していることを発見せよ、そのことは大きなヒントになる。
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活殺術!(かっさつじゅつ)

が「どりゃあ」と、後輩の尻を蹴ったとする。
それで後輩が「何するんスか」と笑い、彼が「活かされた」なら、それでいい。
後輩が「何するんスか」とこわばり、彼が「殺された」なら、それはダメだ、それはもう問答無用でダメだ。
ここにおいて、「後輩の尻を無意味に蹴っていいかどうか」という論議は戯論になる、人は人に向けてただ「活殺」をするのみ、人を活かせるならよしで、人を殺してしまうならダメだ、その事実以外はほとんど問答無用となる。

人は目の前の人に、「善行」などできない、できるのは「活殺」だけだ。
目の前の人には、いろんな「機能」があるのだ、笑う機能があり話す機能があり、食べる機能があり踊る機能がある。
これらの、目の前の人の「機能」を、リリースし、解放し、「活かす」ことへはたらきかけられるかどうか、それだけがすべてを決定する。
腕のいい落語家は、単に「話が上手」なのではない、目の前の客が持っている「笑う機能」の活殺にはたらきかけるのが上手いのだ、われわれが「上手な話」をコピーしてもそれで人を笑わせることはまったくできないのはそれが理由だ。

男性の射精機能を無視する女のフェラチオは空転する。

女性が「フェラチオが上手」というとき、実は単に口唇を激しく使っているのではない、男性の「射精する」という機能を狙い、それをリリースさせるのに口唇を使っているのだ、だから「上手」になる/この感覚は革命的な差をもたらす。
相手の機能を活殺する」、そのことにわれわれは長けなくてはならないので、われわれの努力は「公文式」のようにはできない、活殺の主体はあなたではなくあなたの目の前にいる誰かだからだ。

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病院には診療時間がある
院には診療時間があって、午前の外来は何時から何時まで、午後の外来は何時から何時まで、と決まっている。
なんてまっとうで、なんてうつくしい世界だと、思わないか、誰の窓の外にもあるこの「世界」のことについて話している。
われわれがまっとうに生きるということは、この診療時間外に病院に行かない、ということだ。
実に目が覚める思いがする、われわれは時計と時刻を共有していて、またカレンダーや曜日も共有していて、病院は診療時間が決まっているのだ、いかなる真実もこの「診療時間がある」という事実をくつがえすことはできない。

われわれは用事があれば移動をする、移動のためには電車やタクシーを使う。
電車やタクシーは、毎日街中に用意されていて、料金が定められている、そして電車もタクシーも燃費やエネルギーの節約を向上させることに苦心している。
われわれはそうやって生きているのだから、そういったことを勉強しようじゃないか、たゆまず/知らなくてはならないことはいくらでもあって、知らなくてはならないことは精神的ではなく勉強的だ、だから勉強すればいい。
柳田国男が文化論を研究して、日本に「ハレ」と「ケ」があったとしてだ、そんなことであなたが本当に生きられるか? そんなことより病院には診療時間があるのだ、図書館にいかなくても目の前にうつくしいものはいくらでもあるじゃないか。

「病院には診療時間がある」、このことを知っている人としか友人にはなれない。

不思議なものだろう、人は「病院には診療時間があるからね」と言う、なぜかそのことで、人は誰かにとって友人でありえることに一歩近づくのだ/逆に診療時間があることを知らない人にはこころの底から「バカかお前」と絶望に嘆く。
「病院には診療時間がある」、このことをわかっていない人は、始終わけのわからない「笑顔」を顔面に貼り付けているだろう、これは悪夢を取り払う魔法のような言葉だ、「病院には診療時間がある」。
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精神に端を発していないものを「文化」とは呼ばない
れわれは何もかもを「文化」とは呼べないだろう。
たとえば、女性の裸身をただ特殊愛玩用の猥褻物のように描き続けるマンガが、多数、乱立するように生産されたとして、それらをやはり「文化的」だと言い張ることは苦しい。
なぜそれが文化的でないと言わざるを得ないかというと、文化というのは人間の「精神」に端を発するからだ、たとえばスポーツが文化たり得る場合は唯一そこに「スポーツマンシップ」という精神が保たれている場合に限られる/たとえばドーピングの横行するスポーツはもう何ら文化的ではない。
何らの精神性も感じられない、人を精神的に弱くしているもの、あるいは破綻させていく仕掛けばかりのものを、「文化的」と言い張ることはできない、文化はあくまで精神に端を発し、精神に接続してそれを実現しようとするものをのみ「文化」と呼ぶのだ。

文化は「精神」に端を発しているし、人はまた、その文化の中に「精神」を発見するのでもある。
唯一、例外として、いわゆる天才だけは、文化なしに単独で直接「精神」を発見できるかもしれないが、これは神がかりのことであって、われわれ凡人には不可能なことだ。
われわれは文化の中に「精神」を見つけねばならないし、またその文化の中で自分の「精神」を育まれてゆかねばならない。
あなたは、あなたの身の回りにある「文化とは言いづらいもの」について、「そうか、これらには精神がないのだ」ということを発見していい、どれだけ刺激的なコンテンツでも、そこに精神のないものなら、あなたの精神を荒廃させることにしか役立たないだろう、それはつまるところ「悪趣味」にとどまる。

精神に端を発し、文化によって育まれる。

あなたはそうでなくてはならない、あなた自身が「精神に端を発し」「文化によって育まれた」、そういう人間でなくてはならない、そうでなきゃけっきょくダサい上に本人として生きるのがとてつもなく苦しくなる。
たとえば、精神に端を発しておらず、文化によって育まれていない男が、どうやって女性をデートに誘えばいいのだ? 彼は獣のリビドーに言い訳と糊塗を施して生きねばならない、それは虚偽と欺瞞に満ちた、とてつもなく苦しい生き方になるのだ。
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「まともさ」の四大元素

れわれは人が「まとも」だということを第一によろこぶ。
ここにきていいかげん、人間が「まとも」というのはどういうことか? その要素が収束してきたように僕は感じている。
人間が「まとも」と言えるとき、その四大元素は「ジョークとユーモア」「情熱」「夢を思い描くこと」「理知」だ。
そしてこれらの四大元素は、何か自己愛を超えた「大切なもの」によって生じている、「大切なもの」があることによって、人間はこの四大元素を自分のうちに発達させていくものだ。

たとえば今、何かえげつない「このハゲー!」というような罵詈雑言を叫喚して騒ぎになっている議員がいるようだが、その叫喚の主を観たとき、いかにもそこには「ジョークとユーモア」がないことが直観される。
たとえ東大とハーバードの院を卒業していても、その人が「大切なもの」を持っているとは限らない、そして「大切なもの」を持っていなければ、どこまでいっても四大元素は育まれない。
あなたは過去に、好きだった「学校の先生」がいるかもしれない、だとすればその先生はきっと「理知」に長け、それでいて情熱があり、よくジョークとユーモアを教壇で発揮してくれた先生ではなかっただろうか。
さあわれわれは、「このハゲー!」と人を蔑むことを具現するのではなく、ジョークとユーモア、情熱と夢、そして理知のありようを具現しようではないか/ただこの「具現」を急に言われると、「本当はむつかしい」ということに気づいてたちまちわれわれは怯むのだけどね。

四大元素を追え、それらは決してあなたを裏切らない。

あなたがどれだけ自分を耕したとしても、そこに蒔く四つの種を持たなかったら、あなたに何が実るというのか/優秀さを追う努力をタテマエに、まともさに向き合う勇気を放棄することは許されない。
われわれは誰だって、「まとも」に生きることを自分によろこびたいのだけれど、思いがけず、キモチだけでは自分は「まとも」ではありつづけられないものだ、四大元素が枯渇したとき、われわれは自動的に「まともでない」何かに成り果ててしまう。

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獣化を自己チェックすること

代には「獣化」と呼ぶべき現象があって、これは「ある」のだと、冷静に認めてしまったほうがいい、そのほうが話はわかりやすくなる。
「獣化」が進行すると、どうなるか、第一に「よろこび」がなくなり、「思慮」「精神」がなくなり、また「大切なもの」が消え失せる、これらは「いつのまにこうなったんだろう」と不可解に感じられる。
一方で、なぜか唐突にイヤミを言ったり、冷血な行動や発想が出たり、残虐かつ暴力的な行為が「突発的」に出る、この衝動がなぜかそのときケイレン的で「止められない」のだ、この暴力的行為の突発は「悪気はなかったんだ」とやはり不可解に反省される。
こうして、「獣化」の現象は、今実際に「ある」のだが、それらはすべて「不可解」という状態で自分の身に起こってくる、これを不可解だからといって「そんな現象は存在しない」と目を背けるのは余計に危険だ、目を背けても獣化の現象は進行していくだろう。

獣化はいわば、パンデミック的に生じている「狐憑き」のような現象だ、それが狐憑きなのだから当人にとっては「不可解」に決まっている。
だからこのことについては、冷静に、かつ笑いながら自分を確認してみるのがいいのだ、「いつのまに、『大切なもの』がなくなったの?」「いつのまに『よろこび』がなくなったの?」「いつのまに『思慮』とか『精神』とかをなくしたの?」と。
いつのまにか、たとえば異性に好意を寄せたり寄せられたりすることは「よろこび」ではなくなったし、そこから付き合うデートの思い出も「大切なもの」ではなくなった、そしてニュースを知ったり本を読んだり映画を観たりすることは「精神」や「思慮」にまるで無関係なものになってしまった。
ここは冷静に、「あれ、いつのまにかそうなっているな」と気づけばよいだけで、重要なことはそこにある違和感の底深さに気づくことだ、不安や恐慌に駆られる必要はない、よくよく考えろ、不安や恐慌といったあなたの「いつもの必殺技」は、ますますあなたを思慮と精神から引き離す現象じゃないか。

李徴は虎になった。――山月記

多くの人が、国語の教科書で習ったのじゃないか、そうして古い書物にも言われているのだから、獣化という現象は「ある」のだ、今あなたはその現象についてのアナウンスを受けているに過ぎない。
「精神とよろこび」はあなたに健在だろうか、いつのまにかそれが「ガマンとむさぼり」に変質していないか? 獣化を反転させる戦いは長いものになる、今日明日で反転させるなんてムリだから、さしあたり進行を「食い止める」ことだけを自分で心がけたい。

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場所と空なしには生きられない

所と空が存在する。
場所と空なしには生きられない。
場所を認識するのは簡単だ、地図上に地名や駅名が書かれてある。
だがそれは国土交通省が認めた、社会通念上の「場所」に過ぎず、わたしの場所ではない、わたしの場所を国土交通省は知らないだろう。

場所と空が存在する、場所と空なしには生きられない。
認識するのは簡単だが、認識したものは存在していない、それはつまり、認識している「○○ちゃん」なる恋人は、認識はしているが存在していないものだ。
恋人は必ず、場所の上、そして空の下に存在する。
だから場所と空なしには生きられない、場所はすさまじい広がりを示しており、空はめくるめく色彩を示している。

場所と空と恋人に、溶け込んで「好き」は通じづらい。

僕はモスバーガーでは「とびきりチーズバーガー」が好きだが、その好きは通じやすくていいな、だがいつもそんな話を僕はしたいのじゃない。
もし僕の場所と、空と恋人を、役所が登記のためにヒヤリングしたら、「そんなもの登記できません」と担当者は鼻水を吹き出すだろう。

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獣化の時代(例)
とえばわれわれは今、「あの人は思慮深い人だねえ」と感心することはごく少ない。
「あの人には、精神が宿っているよね」と感心することもごく少ない。
「あの人は、いつもよろこびに満ちているよね」と胸を打たれることもごく少ない。
一方、「なんであんなことするんだろ」「なんであんな言い方するんだろ」「本人に悪気はないんだろうけど」と嘆くことは、とても多い、これらはすべて「獣化」という一言で説明がつく。

獣には、思慮や精神がなく、渇望はあるのだがよろこびはなく、加えて特に意味のない残虐性だけがあるのだ。
たとえばここに、獣化した老人をイメージしてみよう、するとこの老人は、町内を歩き回るにしてもその顔つきがどこか「不穏」だ、何か凶暴性が皮膚のすぐ下に潜んでいるように見える。
この老人は、生きているのに「よろこび」がない、長く生きてきた人間の「思慮」や「精神」という徳性がなく、何か不穏な顔つきで、発する声はいつも何か怒鳴り声みたいに聞こえる。
われわれはこの老人が、「山に柴刈りに行き」「桃太郎を育てる」というあの柔和な「おじいさん」だとは思えないのだ/われわれはこのことに残虐な感情を持って対抗するべきではない、われわれは「獣」の方法を信じないべきだ。

思慮と精神と、よろこびをもって立ち向かえ。

それが「人間」の方法なのだから。
獣は、他人の痛みがわからない、他人の痛みにこころを寄せない、だからとんでもないところで笑いだし、とんでもない行為で活気づく、そのことをやめられないのだ。
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アーグラーでウェストポーチを置き忘れたときのこと
かし、インドのアーグラーという地方、タージマハールのある都市で、レストランに忘れ物をした。
けっこうな(当地の物価では)大金が入ったウエストポーチを置き忘れてしまったので、半ば諦めていた、というのは当地ではそうしたものは「置き忘れる奴が悪い」のであって、それを拾ってよろこぶのは人間として自然なこととみなされるからだ。
しかしレストランのウェイターは、慌てて舞い戻った僕を目にするなり、「オマエのだろ」と僕のウェストポーチをかかげて見せてくれた。
ウェイターはかなり顔を赤くして、「おれはオマエのカネだから盗らなかったんだ」と熱弁してくれた、少し震えるほどで、かなりの動揺が見てとれたから、彼がいかに葛藤の中を格闘してくれたかがよくわかり、僕は感謝というより胸が熱くなった。

奇妙な言い方だが、「彼は僕のために自分を貫いてくれた」のだと思う。
当地の物価において、観光客の路銀は実に破壊力がある大金だ。その置き忘れをネコババすることが、たとえ法律上は違法であっても、人間的に「違法」だとは僕は思わない。
彼は戦ってくれたのだ、彼と僕は少し話したから、僕の置き忘れを見つけて彼は、「あいつのカネをおれは盗らない」と戦ってくれたのだ、それは決して容易な戦いではなかったはずだ。
「あいつのカネをおれは盗らない」ということ、それは同時に、「あいつの命をおれは取らない」ということだ、僕は法律に救われたのではなく、「彼」に救われた、彼が戦ってくれたから、僕は彼に助けられた。

あいつは善人ではないかもしれないが、あいつはおれを守ってくれた。

僕にとって重要なことは、ただそれだけであって、あいつが一般的な意味で善人なのかどうかは知らない、だが僕にはあいつを誇るべき権利と義務がある。
よく知らない落とし物なら、あいつはパクるだろう、それがインドの常識だからだ、だがそのことと、あいつが僕に対して「あいつのカネをおれは盗らない」と戦ってくれたことは、まったく別のことだ、そのとき僕とあいつがあの場所にいたんだ。
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