☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
大きさ
けのわからない話が続いてしまう。
「大きさ」について考えねばならない/人は通信機器越しに、あるいは空想のイメージで、物事や出来事を考えてしまうが、そのとき「大きさ」のことを忘れている。
「大きさ」とは何のことかというと、むろん、単純な体積のことではないが、何かもっとよくわからない、あるいは逆にそれだからこそ直観的にわかる、デカさだ、われわれは漠然と「大きい人」「小さい人」という言い方をするし、そういう捉え方もする。
人間が小さいとか大きいとかいうが、何のことなのだろう、わからないままそれを捉えていて、しかし頭の中ではその「大きさ」をすっかり忘れて思案したり企んだりしている、これが莫迦なのだ、「大きさ」を失念して企んだことはたいていロクなことにならない。

ほとんどの出来事は、むしろ「大きさ」だけで決まってしまう、たとえば男女関係を見たときにも、男の人がとても大きければ、それだけで関係が決まってしまう、この「大きさ」を失念して概念だけで男女関係を考えると、たいていロクなことにならない。
よくわからない「大きさ」があるのだ、概念上は「サイテーだな」と思えたとしても、目の前にしてみると、何か「大きさ」の問題があって、目を背けないと「サイテーだな」と言えないというようなことがある、大きさというとたとえば扇風機で起こした風と台風とではとんでもない大きさの差がある。
われわれはきっと、大きな者になりゆくべきなのだろうが、なかなかそうはいかないものなので、「大きさ」をよく見る態度のもと、己の「大きさ」とよく整合した振る舞い方や態度、考え方を持たねばならないのだと思う/つまり正しい態度や考え方というのは、それ自体では存在しておらず、「大きさ」と整合した形でのみ、それが正しいと言いうることになる。
大きい人がいて、小さい人がいる、この大きさの差分を見失ったとき、われわれはお腹の底から笑えなくなるだろう/われわれは「平等」という安直な概念に侵されて生きてきたが、「大きさ」というどうしようもない差分があることを改めて見つめるべきだ。

大きなものは大きな波と共鳴し、小さなものは小さな波と共鳴する、これを固有振動数という。

固有振動数というのは、初等の物理でしかないから、疑義を抱く余地はない、小さな波に振り回されうるのは、あえてバラバラにちぎれて小さくなったものだけだ、自分を小さくしないと小さな波に振り回されることはできない/そして大きな命を、小さな波のためにバラバラに分解してみるというようなことは、「やってはみたものの」という、けっきょくは罪業にしかならない。
広くつながって大きくなった一つの命と、細切れにちぎれて小さくなった命とがあり、小さな命が大きな波の共鳴を得ようとすることは、理に適わないことだ、細切れになった命が大きな波に焦がれると、人は見えてもいない空想を作り上げ、それにしがみつかねばならないことになる。
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つもどおり、わけのわからん話をすることを許されたい。
僕だって、この世に生まれている以上、何かしらの「子」であるには違いない、それは親子という問題ではない。
また「コドモ」というのとも違う、「子・ども」という集合性を言っているのではないし、その精神の幼児性を言っているのでもない。
僕は「子」だ、どうもガキのころから、おかしいなと感じるところはあったのだ/「子」というのは、何かから命を宿されたものの総称であって、それ以上の意味はない。

どうも、いわゆる「大人」というのに、しっくりこないという気がしていた。
もちろん、僕はガキではないし、不動産屋から交渉で敷金を奪還するぐらいには大人だが、そういったことは何か、命にはカンケーない気がする、気がするというかカンケーないのだ、オトナやらコドモやら言って、命がオトナになったりコドモになったりするわけではない。
僕は「子」なので、いわゆるオトナが言うことを、まったく聞かずにきたのだ、ありとあらゆる情報に対してそうだ、僕はすべての情報に対し、「子」としての受け取り方しか基本的に持っていない/僕は「子」なので、「スゴイものがある」ということしか受け取ってこなかったのだ、どおりで学校ではどの先生の言うこともまったく聞かなかったわけだ。
僕は、たとえばアイドルグループのパフォーマンスは観ないが、仮に観たとして、やはり見つけるのは何か「スゴイもの」なのだ、それは表現されているものや意図されているものではなく、また、評価されているものでさえない、僕は何かずっと違うものを観ているのだ、それは僕が「子」だからしゃーないと、大目に見てもらうしかないことのようだ。

たいへん困ったことに、僕はすべてのコメントから逸脱している。

ヘンな言い方だが、なぜかそういう言い方しかできない、「すべてのコメントから逸脱している」、こりゃ困ったな、これではまるで僕だけ宇宙人みたいじゃないか。
オトナといえば、生後六ヶ月のチワワのほうが僕よりオトナだ、僕は「子」だ、どおりで融通性がゼロなわけだ、誰かに助けてもらえないとまともに生きられないわけか、これはこれで考え物だ。
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われわれの恋あいの義務と権利は終わった
やくパーティ行けよ、あと三十分しかない。
かつて、たとえば戦前や戦中に、「祖国愛」なんてものがあって、戦後にはそれが消え失せたように、「恋あい」というのもひとつの終わりを迎えた、つまり命脈が絶たれた、おおむね「恋あい」というのは、平成の前半にあった、われわれの「命」だった。
恋あいが命を失ったとしても、性欲や生殖は残るので、あまり気にする必要はない、われわれが戦前の祖国愛なんか気にしていないように、やがて恋あいというのも気にしなくなるだろう。
もちろん、今もまだ、ひっそりとした形で祖国愛を残している人がいるように、恋あいを残す人もいるだろうが、まあ、ごく限られた特殊な人々の命、ということになるだろう/われわれの命は「永遠の命」であり、永遠の命はすなわち愛だが、その愛というのはいろんな形を変遷していくようだ。

端的にいうと、女性が、「どうして? わたしはこの人の精液にまみれるのは、ちっともイヤではないわ?」と、引き受ける現象がなくなってしまった、何か根本的な拒絶感があるか、そうでなければ偏執化した興奮が起こるのだ/そのことはもう、嘆くほどのことではない。
今、女性にとって、AがBの精液にまみれる、そのことを性愛において引き受けるというのは、男性同士の同性愛や少年愛の映像で描かれるだろう、それはただの逃避的置き換えにすぎず、そのことをもって性愛の生き残りとはやはり言えないのだった。
今多くの女性にとって、「セックス」というのは、別にイヤではないだろうし、別にペニスもイヤではないだろうが、どちらかというと、それは「寝転がっていれば勝手に終わる」「それなりに気分は高まる」という行為であって、「それ以上はどうしたらいいかさっぱりわからない」というのが実感だと思う/「命脈が絶たれた」というのはそういう状態だ、やはり嘆くほどのことではない。
われわれの、恋あいの義務は終わり、同時に権利も果てしなく遠のいて、永遠の命は次の形に遷移したのだ、次の命はきっと、何かもっと宇宙的な形のものだ、それがどういう呼び名になるのかはわからない。

問題は、恋あいでさえむつかしかったのに、宇宙的な愛など、恋あいより遥かにむつかしいということだ。

こんなことが可能なのかね、と、それについては危惧を覚える、高校に進学できないから大学院に進学しよう、というような話に、聞こえなくもない、だが命脈は絶たれて命の形は遷移したのだ、しのごの言っていてもしょうがない、死んだ男も悪いし殺した女も悪かった。
僕はあいかわらずパーティに行ってきます、僕だって今日何があるのかは知らんから、誰とだってイーブンに生きているのだった。
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大きな命と針小棒大2

なりに、世間一般のことを配慮しながら書き話しているので、いつかきっと、本当に好き放題に、本当のことを書き話してみたいものだ。
命あることを書き話さねばならない……なんというか、最大の誤解は、思議には思議の世界があるということだ、思議マンには思議マンの見る世界があるのであって、それは命ある世界とはまったく異なる/なんと言えばいいのか……五感を使うのではないということだ、虚数単位を使えば五i感ということになるが、五感はそれぞれバラバラであるのに対し、五i感はひとつであってバラバラではありえない、そりゃ虚数単位のものを実数単位と同様に扱うことはできないだろう。
くれぐれも、思議の世界がないわけではなくて、思議のゲイン(および五感のゲイン)を上昇させると、そちらの世界が見え、命の世界は見えなくなっていくというだけだ、思議の世界から命の世界の話を聴くと「ななな、なんのこっちゃ、きっしょ」にしかならない、それが正常の反応だ。
ここで太鼓がドンドンと鳴ったとして、それは夏の匂いと関係があるだろうか? 聴覚や媒質振動と考える人は、「嗅覚には関係ありません」と考えるだろう、それが思議の世界であって、何の問題もない、だが命の世界は違う、命の世界では季節がドンドンと鳴っているのであり、それが当たり前だからいちいち注目も感動もしない/そもそもバラバラでなければ「注目」ということ自体できないだろう。

もっとすさまじいものですよ、言ってしまうと。
めちゃめちゃ広いし、めちゃめちゃ広がる、と思っていただいてよい、なんというか、ペン先で青インクをちょんとつけたとして、実はその紙面の裏側はとてつもなく大きな湖になっており、青インクが広大に拡散してゆくというようなことだ、すべてのことはそのひとつの湖の中でせめぎあっており、何がどうなっているかは表面上のちょんちょんではわかりようがない、自分の踏み出す一歩が何なのか、それはとてつもなく大きすぎてとてもじゃないが認識は不可能なのだ。
ただ、そのとてつもない大きさを、なんとなく感じ取ること、それが感じ取られていれば、自動的にウハハハとなる、何しろ自分を押し込めている重い空気は、バラバラの小さなものでしかない、どれだけ気張ったところで、真空の大きさには勝ちようがない、生きているというのはノンフィクションの実在だけれども、真空の大きさに比べればまったく芥子粒みたいなものでしかない、それでもなんとか長生きしようとするのだけれども、なればこそ芥子粒をこの世界のすべてにするのは逆に不合理を極めてしまう。
踏み出す一歩が五十センチだったとして、その五十センチは計測可能だ、だからそれを「一歩」だと定義したくなるのだけれども、その一歩が実は湖のはるか彼方、何那由多かわからない広さまでつながって響いていくというのがわかると、もうわけがわからなくて、逆にウハハハとなる、そちらが真相なのだけれども、そちらの真相は一ミリも思議できないので、思議の人々はそういったことを忘れてしまおうとする。

われわれの努力は、針の先ていどだけれども、そのエコーがどこまで広がっているかは、急に人智を飛び超えてしまう。

その、人智を飛び超えたものは、いかにもありそうだとして、尊重していこうとすること、せいぜいそれぐらいしか、われわれにはやりようがない/針の先ていどのことは、われわれも薄々わかっていて、だから自己洗脳でもしないとやる気がしない、かといって真相のほうはというと、まるで計測できない上に、大きさが人智を超えているので、こちらもやる気どうこうというものは通用しない、またいわゆるオカルトとかスピリチュアルというのも、大半が、その大きな命を自分が切り出して理解できると思っていて、それでおかしなことになっていってしまう。
われわれにできることは、大きな命に、なるべく準じることだけ、できればその大きな命に合一することだけであって、この大きな命を切り取って理解のまな板に載せるというようなことは到底できない、こんな大きなものは、あればいいじゃないか、というのがまっとうな感覚だ/われわれが旅をするとして、どこを旅した、などということは知らなくてよいのだ、そうでないと小さなところを点検しにいってそれを旅だと言い張らねばならなくなる、旅はずっとわからないから旅でありえる。

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大きな命と針小棒大
きな命が来ている。
世の中というか、時代に逆行しすぎだろ、と思う、僕自身がドン引きする感じだが、でもこれはずっと昔から知っていた「命」だ。
バラバラにすれば、生きていくのには有利だが、バラバラにすると、命はなくなってしまう。
大きな命が来るほどに、個々のものは小さくなってしまう、そりゃ比較的に当たり前だが/しかし吾我の小さいことをヒートアップさせ、それを己のこの世のすべてとしたがる者にとっては、「大きな命」はますます敵愾心の湧くものになる、「大きな命」と「針小棒大」は対立するのだ、僕は「大きな命」につなぐ派だ。

「大きな命」は、これまでなんども来ていたが、今度は「見る」のではなく「来い」と……つまりこの景色とか季節とかだ、空間というような簡素なものではなく、もっと何もかもに満ちたもの、これの中で動くという、まあワザとしては「ヒキョー」だよな、針小棒大のルールを無視しちゃうんだから。
まあとにかく、「大きな命」だ、やりたい放題にやらせていただきたい/「殺すマン」が多いけれど、この大きさになるとさすがにもう殺せないのでは? まあそれでも殺すマンを続ける人の果敢な挑戦は、少し見てみたくもある、この大きさのものはさすがに死なないような気もするのだが、どうなんだろうね。
僕は細かな命も大切にしてきたし、それだからこそ、その細かな命がいちいち殺されることにもなったのだが、結果的に、その殺すマンによって、僕は大きな命につながっていくことになるのかもしれない、まあそりゃしゃーないな、殺されるたび大きな命になっていかざるを得ず、いいかげん「これって殺せるのかね……」という大きさにたどり着いてしまうのもしょうがないことだ。
これはきっと、「殺すマン」の側が、逆に「殺される」という恐怖というか、錯覚を、はっきり持ってしまうやつではないだろうか、単純に言って「大きな命が来ていますよ」というと、「殺すマン」の人はビビるのかもしれない。

「命」が怖いから、「格」で覆うのか。

まあそういうものかもしれない、深い森に無数の木々の命があると思うと、単純に怖いのかもしれない、それで自我だけを人格で区切って「わたしさあ」ということをしているのかもしれない/何しろ、「命」はわれわれが人為的に作ったものではないから。
生物にも命があるのだが、それは「生きているから命がある」ということではなく、「生物にも命がある」ということであって、風や季節にも命があるのだ、風は風であることが命であって、生物は生きていることが命だ、サルトルが見た虚無の極限(嘔吐)が、実は命に満ちているということ、もし命がなければサルトルの見たとおりだろうねと僕も思う/さて針小棒大をやめたとき、われわれがそれそれに見るのは嘔吐だろうか命だろうか。
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命の標準を目指して
ぜこんなことを、ウダウダ言っているかというと、改めて僕自身が、より大きな命に呼び込まれている感触があるからだ、まるで大学生のサークル勧誘みたいだが、大学生のサークル勧誘だって命あるものは命があるだろう、僕はそうしたものにしか反応してこなかった。
すでに明らかに解き明かしたのであるから、明らかにせよ、「生きる」ということと、「命」(を吹き込む)ということは、まったくの別で、むしろ逆方向だ、ほとんどの人は「己が命がない、命を吹き込んでいない」ということに立ち尽くすだけで正しい学門の入口に立脚できるはずだ。
<<命あるものに触れるということは、重大なことなのだ>>、これまで命がなくただ吸収して生きてきた者は、命あるものに触れたとき、<<己が命のなさに直面するあまり、そのことを「殺される」がごときに錯覚する>>だろう、それはあくまで錯覚にすぎない/命を奪われて殺されるのではなく、もともと命がなかったことを今になって認識させられるということ、だから表面上は「殺される」という感じがするのだ、それはもともと命的に死んでいたのであって、今になって殺されるということではない。
どこにでもあるような歌詞に、「あなたがそこにいてくれるだけで」というようなものがあるが、それはそこに「命」があってくれるということだ、わたしはこのことを「命の標準」と呼びたい/「そこにいるだけ」では、「生」としては何もしていないことになるが、「命」は大いに吹き込まれている、標準というのはランドマークのようなものなのだから、実用的には大きければ大きいほどよい、己が大いなる命の標準に至ることを目指すのは、万人にとってまったく健全なことだ。

われわれは、進化したテクノロジーによって、「生物」の仕組みをかなり詳細に知るようになったが、けっきょくのところ、その生物がなぜ「命」を持っているのかについては、解明できない/すべての生物は「生きよ」という命を帯びているが、その命がどこからやってきているのかはまったくわからない、アミノ酸をどう組み合わせてもそこに「命令」が発生することはありえないはずだ、よって「命」はけっきょくアミノ酸由来ではない。
「命」の仕組みについては、けっきょくナゾのままなのだが、われわれにそれを感得する能力がないわけではない、であればこの能力を磨き、この能力に準ずることを、合理的に重視すべきだ/ある空間に、一人の人間が立ったとする、<<生物としては誰がそこに立っても同じはずであるが>>、実際にはそうではない、大きな命の標準たる者がそこに立つと、空間がまるごと「命」ある空間に変わってしまう、そんなことは誰でも体験すればわかってしまうことだ。
女性であれば、誰でも知っているとおり、あるいは、誰でもそのことを一度は知るべきだが、同じ道を歩くのにも、「この人と歩くとまったくそれは違うものになり、違う景色になる」「この人と歩くとき、わたしにはこの人と歩いているという命が与えられる」という現象があるはずだ/このとき、<<命あるものに触れるということは、重大なことなのだ>>ということを思い出して、我がふわついて膨張することを断じて禁じねばならない、そのことはけっきょく、「わたしごときには、自身で命は持てない」という合理的な理解がなければ支えきれない。
すでに明らかに解き明かしたのであるから、明らかにせよ、<<小我に満ちた自分ごときに、命など持てるわけがない>>ので、もし命に触れることがあったとすれば、それは大なり小なり、命の標準たる誰かに命を吹き込まれたものなのだ、このことをないがしろにして吾我を増長させてゆくと、さらに命は遠のいてゆき、命がなく膨張した生だけを背負ってゆくことになる。

仮に「導かれたい」と望む人があったとしても、「もう導かれとるわい」としか言えない。

大きな誤解があって、「命」そのものを「導き」と呼ぶのであれば、「導き」はもともと先に存在していて、後になってパカーンと追加されるものではない、もともと先にあるそれを、当人の吾我がキックしているのが問題というだけだ、新たに導きを求める必要などどこにもないし、新たに追加されても同じように新たにキックするだけだ、あなたは/なぜ命の導きをキックするのか? それは当然、「命の標準」に、「生の標準」がバトルするからだ、「生の標準」が殺されそうだと誤解するので、「生の標準」が「命の標準」を殺しにかかる、自分で毎回「導き」を殺しているだけなのだ。
僕は今、より大きな命に呼び込まれている感触がある、それはさまざまなジャンルの命を統合する大きな命だ、景色も季節も音楽も恋あいも文学も学校も祭りも酒も空もおなじ一つの命にすぎないというような、だから「何」をする必要もないというような/どれほど小さきことも大いなるつながりにおいて大いなることなのだ、そうして大きな命の標準に呼び込まれていくと、また僕の殺される度が上がるのだが、正直もうそんなしょうもないことに相手をしていられないのだ、それが「しょうもないこと」と言われてどれだけグサリと来るものか知っていても、僕がこの命を蹴ってしまうとますます大きな船は沈没していってしまう。
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命がない現代芸術家Aさん2

ぶん、命のことがサッパリわからない人が少なからずいるのだ。
そりゃ、命の世界から思議の世界に転落したのではなく、生まれてこの方、思議の世界にしかいたことがありません、という人なら、命の世界なんて「???」としかならないだろう/あるいは「命、なのです……」とトンデモナイ誤解の持論を振り回してしまいそうだ。
このことを考え、また書き話すと、メキメキっと身体に外圧が掛かる感触がある、これはとてもシンドイ、これが僕の殺される理由なのだろう、<<逆に向こうも「殺される」と感じているはずだと推定できる>>、殺されそうに感じるから僕のことを殺すのだろう。
Aさんだって生きているし、僕だって生きている、「生きている」ということはそれだけで涙に値することだ、けれども/同じ場所で二人がたたずんでいるとき、Aさんには命がない、僕には命がある。

「生きる」ということは、エネルギーの摂取と吸収だ、われわれは酸素を吸って二酸化炭素を吐き出しているが、それは酸素のほうが二酸化炭素よりもポテンシャルエネルギーが低いからであって、差分のエネルギーはわれわれに摂取されている、炭水化物等が「分解」されるのも同様だ、われわれは一つのブドウ糖(C6H12O6)を六つの二酸化炭素と水に分解するが(6CO2 + 6H2O)、分解後のほうがポテンシャルエネルギーが低いからこそ自身にエネルギーを摂取することができる。
一方「命」ということは、逆方向、エネルギーの放出と供与だ、六つの二酸化炭素と水をブドウ糖という一つのものに作り上げて放出できれば「命」になる、バラバラの食材を一つの料理に作り上げられれば「命」だ、この場合料理は食材の単なる「加工」ではなくなる/バラバラのものを一つのものに作り上げること、このことはエントロピー法則の逆行であり、物理学的にナゾとされる「命」の性質とも整合する。
「生きる」と「命」は逆方向のものであって、「生きる」は一つのものをバラバラにして己がエネルギーを吸収すること、「命」はバラバラのものに己がエネルギーを供与して一つのものにすること/「生きる」とは「己が生きるために他の命を費やす」ことであり、一方「命」とは、「命のために己が生を費やす」ことだ、性質的に「生きる」は「自」であり、「命」は自の外側にある「他」であるので、造語として「自生他命」と言いうる。
「あなたの命は何か?」、そのときあなたは、感覚的にも、自分の外側へ「己が命」を探すはずだ、己が生を費やした先が己が命であり、他の命を費やした結果が己が生となっている/生は吸収であり命は放出である、よって命を持たざる者は生ばかりを膨張させているはずだ、その重たい空気の中で、膨張した生はやがて重すぎて動けなくなってくる。

生は吸い込むもの、命は吹き込むもの。

生は計測可能な魄のものであり、命は計測不能な魂のものだ、吸い込んだぶんは同等量を吹き出さないと、やがて自分が膨れ上がるだろう、いくら計測可能だからといって「生」だけを取り扱っていたら、己はひたすら吸収消費するだけのマシンになり、やがて動けなくなってしまう、他に命を吹き込むことができず、ただ命を殺すために存在しているがごときユニットになってしまう。
命を吹き込め、己が生きることのみを用事とせず/力を尽くしているつもりの労役でさえ、気づけば己が生への吸収にしかなっていないことがよくある、命を吹き込むには決意と正しい学門が必要だ、計測不能なものが慎重な学門以外の何によって正しく取り扱われることがありえようか。

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命がない現代芸術家Aさん

るほど、そう考えればすべてつじつまが合うな。
なぜ現代人は、命あるものを「殺す」か、それは、己に命がないということを認めがたいためだ。
仮に、芸術家Aさんがいたとすると、このAさんは、これまでの芸術に命があるのを目撃して、比較すると己に命がないということを認めてしまうのがイヤがために、命ある芸術を殺してまわるのだ、そして「命のないものこそ芸術」として、「芸術は死んだ」「無意味の意味」とアピールする活動をしていくことになった。
つまり、命のないカワイソーなボクちんを、肯定するために必死こいただけだ、「芸術は死んだ」とかいって、命から切り離されて見捨てられたのは自分自身なのに、そのことが認めがたいから、ヨソの命あるものを否定することに、第一義の機械的反応を持つだけのゴマカシユニットAさんになってしまった。

つまり、「芸術には命があるぅ〜でもボクちんには命がないぃ〜」というだけで、本来話は済んだのだが、そうとすんなり認められる話ではないらしい、当事者でないので僕はわからんが、命がないというのはそーとーキツいようだ。
そりゃあな、命がないのなら、他の生きものを殺して食事にしているというのは、そーとー後ろめたいものな、せめてベジタリアンかヴィーガンになろうかな、という気を起こすのもわからんではない。
「ボクちんは命がない」ということを、認められないので、あいまいに寝ぼけた眠たい顔をしてごまかし続けるしかなく、はっきりしない声と、不明瞭な言葉、そして状況に応じて感情的に激昂したり、消沈演技をしたりと、あれこれしなくてはいけない、しかしそんなことをしても命がないモンはしょーがないのだ/芸術家Aさんは、自分が存在していない(命がない)から、自分が無意味であり、その無意味を肯定するためには、無意味の意味を肯定せざるを得なかったのだ、とんだ自己都合の芸術だな、まあでもそのサイクルから抜け出すことはもう不可能だろう。
芸術が死んだのじゃないですよ!!! 残念だったねアホのAさん!!! 命のない者は、命のない世界に生きねばならず、それは思議の世界である、この思議の世界には命がないので、この世界において「芸術は死んだ」と見えるだけだ、アンタが本来の世界から叩き出されただけでございますよ、思議の世界に元からミエミエにある論理的限界を、既製品芸術にまとめたところで、誰だって「んなこたぁわかっている」としか反応しねえよ、だって本当に元からそんなことはわかっているのだもの。

「命がないコンプレックス」は、すさまじく堪えがたいようだ。

命から切り離された者は、強制的に思議世界に放り込まれるが、この思議世界に行っちゃった者が、命ある誰かを見上げていても意味がねーよ/端的にいえば、思議世界と命世界があるわけで、どーも思議世界の者はコンプレックスがえげつなく、自分たちこそが命の徒であると自認したがり……だからこそ、その救いの自認に脅かしをかけてくる「命」の存在を、殺害せずにはいられないようだ、それだけ「命がないコンプレックス」はキツいのだろう。
本来、生きていくのは何もみじめなことではないが、命がないままに生きていくのは、どうしたってみじめなことだ、命がないのに朝は起きねばならず、覚えごとをせねばならず、労役せねばならず、食事せねばならず、恢復に眠らねばならないのだ、そこで「何の命もありませんけどね!」というのはみじめすぎる、だがこのみじめすぎるのがマジの事実なのでしょうがないのだ、朝起きたときから「うおおお〜命が呼んでいる〜メンドクサイけどしょーがねえええええうおおお」とはならないんだろ? ホラAさんの渋そうなゴマカシ顔を見ろよ。

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「祝福が欲しいのなら」

魂がどーのこーの、と言っているが、何もむつかしい話じゃない、同じ事はB'zも「ultra soul」と唄っているし、とても有名な歌だ。
「ウルトラソウル」というと、そういうキャッチフレーズと取られているのだろうが、そういうもんじゃない、ultra soul と言っているからには、何かそういうものなのだ、稲葉さんはマジの話をしているのだ、ultraは「超えた」の意味でありsoulは「魂」だ、「吾我を超えたところにある霊魂」で何も間違ってはいない。
ヴォーカル稲葉さんの声は、どう聞いたってフツーの人間の声を超えているが、それは「超えた魂に接続しているからですよ」とみんなに教えてくれているのだ、それが単なるキャッチフレーズだったらあんなにカッコイイわけがないじゃないか。
二番のAメロでご丁寧に、「一番大事な人がホラ いつでもあなたを見てる I can tell」と唄ってくれている、「I can tell」は「気づいたよ、何かわかるよ」という意味だ、それがウルトラソウル(超越的霊魂)だということだ、「夢じゃない あれもこれも」「ホントだらけ あれもこれも」と教えてくれている。

ライブ会場で、"ultra soul!" "hai!" と呼応した人は、少しだけ浄化されて、きれいになって帰るだろう、ただし本意気で呼応した人だけだが/そりゃ超越的霊魂(「一番大事な人」)について説かれたものに、吾我を空にして「はい」と応えれば、何かしら功徳があるだろう。
そこに「ワタシの思念」なんかカンケーないのだ、自分がたっぷり何をお思いあそばしたなんかカンケーなく、テメーの口が何をやったかなのだ、このところ「はい!」と"返事"する文化を与えられずに育った人がとても多いが、それがどれだけ無慈悲で残酷なことか、気づかれないから表面上だけ平穏な世の中に見えるのだった。
祝福が欲しいのなら、どうすればよいか? 「悲しみを知り独りで泣きましょう」「底なしのペイン迎えてあげましょう」「歓びを知りパーっとばらまけ」、そうしたらウルトラソウルは輝き、戦い、羽ばたくのだそうだ(稲葉説)/こういった「教え」はわれわれごときにはナゾに満ちて聞こえるのだが、このナゾを「本当かもしれん」と考え、教えられたナゾに向かって自らを進めていくことを、われわれは「学門」という。
われわれはヒューマニズムにおいて、誰も互いに意地悪がしたいわけではないのだが、ヒューマニズムで祝福に到達できるわけではない、そりゃウルトラソウルなしに「祝福」はムリだろ……稲葉さんがウルトラソウルの到達者(の一人)であることは疑いないのであって、もしそれを疑うのなら、「お前もステージに立って同じように唄ってみい」ということになるのだった、そのとき大惨事()は避けられない。

つまり、ヴォイストレーニングではなくウルトラソウルだそうだ(稲葉説)。

まったく正当なガイドじゃないか、われわれは感謝するべきだ、そりゃヴォイストレーニングに通えば声帯やブレスのコントロールは利くようになり、大きなコントロール声は出るだろうが、そのことは「祝福が欲しいのなら」という望みには適合していないそうだ。
ウルトラソウルについて説かれているのだが、どうも祝福に縁遠い人に限って、そうして説かれている話をまともに「聞かない」のがパターンだ、どう見てもそういうのは、「どうもマジっぽい」「実際この人、祝福されているしな」という人が説いてくれるのを「聞く」のが唯一の方法のはずなのだが、一部の人はそれを聞かず、けっきょくは熱烈に逆方向へ行きたがる/「urtla soul」の逆は、「infra blood」になるだろうか、infra blood が不必要ということではないが、「祝福が欲しいのなら」という望みには適合しない。

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【お役立ち】かちかち君の定義

と役に立つことなので、こんな話をしておきたい。
「かちかち山(のタヌキさん)」という民話があるが、これはなかなか、大人になって読み返すと「……」と戦慄するところがある話なので、ウィキペディア等であらすじを読み返してみることをおすすめする。
これまで僕が、何度も繰り返し見てきたパターンだが、何事にも取り組めない人、それどころかまわりまでメチャクチャにしてしまう人というのが、少なからず存在する/これは一定のパターンとして出現する人種なので、法則を見いだしてその存在を定義づけることができる。
その名称は、かちかち山のタヌキさんになぞらえて、「かちかち君」とするのが妥当だ/このパターンは、街中で見かける救急車より数が多いので、いいかげん飽きてしまった。

たとえば、本を読んだり、旅行に出たり、新しくバーに行ってみたり、習い事を始めてみたり、街コンに顔を出してみたり、グルメ巡りを始めてみたりする。
誰でもするようなことだが、そういったことのすべてが、やってみたところで「何をしても無駄」、「何ひとつまともには取り組めない」となる人がいるのだ、<<何をしても「悲愴感」にしかならない>>という典型の人がいる。
なぜそういった、誰でもするようなことが、レベルの問題でなく、「そもそも取り組むことさえまともにできない」になり、「取り組めない以上に、悲愴感をまき散らすだけ」になるかというと、背中に火がついているからだ、背中に背負った柴に火がついて燃えているのだから、そのままで「読書」だの「旅行」だの、「人付き合い」だの「趣味」だの「習い事」だの、してみたところで、まともに取り組めるはずがない。
「かちかち君」と定義しておけば、この後がラクだ、どうしてもこういった人種は一定数出現するし、「そうか、背中に火がついている、かちかち君なんだ」と理解すればそれ以上の理解はない、そしてなぜそんなことになったかといって、「かちかち山」を読めば書いてある。

かちかち君は、本を読んで焼け焦げ、旅行に出て焼け焦げ、新しくバーに行って焼け焦げるが、目の前のものは一切関係なく、すべて己が背負った火を体験しているだけだ。

そんなもん、目の前の取り組みジャンルを変えても、何の意味もないやんけ……彼にとっては、いつも「来た来た来た来た」であり、その「来た」というのは目の前のものが来たのではなく、背中の火が来たのだ/彼はもう、「どこにいる」とか「何をしている」とかがまったく関係ないのだ、いつも「来た来た来た来た」の中で一人焼け焦げているだけで、彼は一人だけずっと焼け焦げワールドを体験し、そのことだけを語り続ける。
こうした人種は、いつも「めっちゃ同じやな!」と確信される典型パターンとして一定数出現するので、観察しても無意味なのだ、この人種はどうしたらいいという問題ではなく、むしろこの先のことを考えるしかないところだ/「かちかち山」によると、その後タヌキはだまされて唐辛子入りの味噌を火傷の薬だとして塗り込まれ、さらに泥の船に乗せられて海中に溶け落ちたところを櫓で突かれて沈め殺されるそうだ、この民話は江戸時代「うさぎの大手柄」と呼ばれていたそう。

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WS報告008(1)

によって時間がないので結果だけ。
指向性のエコー(wind)が発見された、これにより相手の距離感を狂わせることができる(遠近感を操作できる)、また空間に対する合一性・支配度が大きく上昇する。
このことは、全身のブレイキングをしてみせることで勝手に会得された、何か巨大な天圧(詳細は省く)があり勝手に得られたものだ、全身のブレイキングは「こんなに身体動いているの!!??」とびっくりさせる方法として単純に有為そうだ。
我の正しい使い方が改めてすっきり定義された、「何もしない」「触れるだけ」だが、「押しも押されもせぬ」「まんべんなく」という言い方、特に「まんべんなく」という言い方は重宝する。

我の機能は、偏ると「邪な我」になり、偏らなければ「正しい我」になる。
「まんべんなく」なら偏らない、偏らないなら「押しも押されもせぬ」ように自動的になるはずだ。
男女の性別にかかわらず、自分のうちに「カッコイイ男」の像があるかどうか、「男」の根本を殺してきたのではないか、という説はクリティカルヒットしている感触あり、対策はまだ何もないが、「陽・霊魂・愛の根元を殺したのであれば、それが使えなくて当たり前」という整合性には説得力がある。
明るい声を出さねばならない、そのためには、「自分はひょっとして、何も知らないのではないか」という可能性に有為に思い当たること、またひょっとすると、この国のために戦死された英霊たちを蔑んでいることが、根元の陽・霊魂・愛の殺害かもしれなかった。

我はまんべんなく、何もしないこと、命(めい)は「求める」こと。

我はまんべんなく行き渡ることで、無我ではないが無力化する、100前のめりして同時に100のけぞれば、結果的に無力化する、そうして無力化すれば我に用事はなくなるので、この我を50,20、10、5、3、2、1……と削減していくことができる、そうして「命」を聞くほうへ己を導いてゆける/命(めい)は「求める」こと、また教えも「求める」こと。
すべての技術は、高く実演すると「うわあっ、なんじゃこれ」だが、今回特に、指向性エコー(wind)に関わって実演すると「うわあっ、なんだこれ」の極致だった、「え、なんで遠いんだ」「うわあっ、なんで急に近いんだ」と、僕さえ知らなかった現象が急に現れてくるのが一番盛り上がるな、あとは何があったか忘れた、寝て起きてからまた思い出すわ!!

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LGBTに反対する3

のところ、ご存じのように、似たようなことばかり話している。
魂魄であり陰陽であり、霊魂、エコー、世界、愛、命、主、「聞く」、フィクション、速さ、言葉……ずっと同じこと言っているのだが、その中に「性」を入れ忘れていたというだけだ。
男性と女性を比較すると、男性はより霊魂的であり、女性はより肉体的である、女体と男体では意味が異なるし、母体という言い方は存在するが父体という言い方は存在しない。
平易かつ、実用的な言い方に結んでおく必要がある、よって「愛を使いたければ、男を使うしかない」と定義しておこう、心配は無用で、このことが女性の女らしさを損なうことはない、あなたが極端なグラビアアイドルにでもなりたいというなら別だが、さすがに「肉体!」だけをぶらさげる存在として生きるというのはヒマすぎるだろう。

愛を使えているか、また男を使えているかということは、次の二つの指標によっておおむね判断できる。
1.女に惚れられる人は、「男」を使えている。
2.女と揉める人は、「男」を使えていない。
女と揉めるというのは、女同士で揉めるという場合もそうで、女同士が和合して何かを産み出すのにも、内に宿した「男」の霊がいるのだ、具体的オスメスの問題ではなく、生滅する陰陽の問題だ。

「男」がわかっている人は、惚れられる組、「男」がわかっていない人は、揉める組だ。

そりゃ、揉める組だっていろいろ工夫はするから、表面的には揉め事は出てこないかもしれない、けれどもその水面下には無数の、しょーもない駆け引きがあるだろう/むしろ女性のほうが心当たりがあるのじゃないか、仮にグラビアアイドルの「仲良し四人組でーす」というような形態があったら、その水面下にはいろいろありそうでコワーイと予想されるじゃないか。
男を讃えるというのは、単にチンコの生えているオスを讃えるということではない、そして女が「男」の力を発揮するということは、女性らしさを失ってオッサン化するということでもない/霊魂という現象そのものが「男/Man」なのだ、霊魂が成功すると成功例として「男/Man」の霊魂が出現するのであり、失敗すると「女」が出てくる、だから「うらめしや〜」と出てくるオバケは基本的に女なのだ、そしてわれわれが失敗例を讃える道理はない。

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LGBTに反対する2
ーし、ギリギリの解決か。
ワークショップを介して、「パニック」と呼ばれる現象と対決している、われわれは「パン祭り」と呼んで揶揄しているけれども……ギリシャ神話にならって、エコーの反対がパニックだから、エコーが聞こえないということはパニックが支配しているということだ。
本来、現象的にはエコーが陽で、パニックが陰だから、話が飛ぶようだが、「女が男に惚れる」という形態しかあってはならないのだ、「男は女を愛し、女は男に惚れる」という形態を唯一に定義し、その他のものについては反対する(あくまで流派内において)。
ギリシャ神話におけるエコーとパーンのストーリーは逆だ、男が女に惚れてしまっている、そしてエコーは男に博愛の女ではなかったので、「八つ裂き」という流血の揉め事が起こった、ギリシャ神話はこのように深遠の「警告」を示しているものであって、人々のたどり着くべきを示しているものではない。

話を簡単にするために、ものすごくかいつまんで言うと、現代人は、物事がまったくまともに見えていない。
まともに見えていないと、どうなるかというと、「過(あやま)ったものがグリグリ見える」のだ、それで現代人の目つきはおかしい。
パニックというのは、「何も見えなくなる」のではなくて、八つ裂きにされた断片が、不穏な何かとして「ぐりぐり見えてしまう」という現象なのだ、これは唯一のありうべき形態である「男が女を愛し、女が男に惚れる」という形態から離脱してしまったときに不可避的に生じる症状だ。
話が飛ぶが、しょうがない、このありうべき唯一の形態、「男が女を愛し、女が男に惚れる」という形態から離脱すると、物事の「始まり」と「終わり」がわからなくなる、これもパニックの特徴的な症状だ/己の性別の問題ではなく、この唯一形態が男女とも「わかる」必要がある、これが見えないかぎり魂魄の仕組みは見えない。

かっこいい男がいるのではなく、「男」がイコール「かっこいい」なのだ。

陰陽と魂魄の性質だ、「男」がわからないうち、本当の意味での「かっこいい」はわからないのだ、そして本当の意味での「かっこいい」がわかれば、「惚れる」ということは自動的に発生する、「かっこいい」がイコール「男」で、それに「惚れる」がイコール「女」だと定義してもかまわない、そしてその「かっこいい」と「惚れる」が当たり前にわかっている人が、まともな人、かつ可能性のある人であり、それがわかっていない人は、常時パニック予備軍だと、定義してかまわない、すべてのことを合理的に推進していくために。
LGBTに反対するなどというと、一次的にはざわつく人たちもいるのかもしれないが、そういうことではない、見えているものが違うのだ、現代人のほとんどは、物事がまともに見えていると思わないほうがいい、だから何もかもが奥底で恐怖で、生きていくのが異様につらいはずだ、八つ裂きになった呪いモノしか目に入ってこないのだから、どう目を伏せたって恐怖と苦しみでしかありえない。
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LGBTに反対する
LGBTについて、否定はしないが反対はする。
「反対する」というのも、社会的な意味ではなく、流派の理法としてだ。
僕が今捉えて取り組んでいるところの理法を、仮にひとつの流派とするならば、この流派は、近年のLGBTブームと両立できないということがわかったのだ。
もちろん、このことをもって、LGBTの当事者を侮辱する意図はない、何度も言うように、僕が敬愛する故バーンスタインや、ヴォーカリストのロブ・ハルフォードは、LGBTを公言しているが、そのことによって僕からの敬愛はわずかも損なわれない。

もともと、他人のやることなので、関心が無いということもある、僕はたとえ他人がガンダムとセックスしていても、そのことに関心はない、だいたい自分が欲求不満でなければ他人のセックスに関心なんか持たないものだ。
そんなことより、今僕が確認せねばならないのは、<<「男」がわからないと、「霊魂」がわからない>>ということだ、この「男」というものをあいまいにしてしまうLGBTのブームは、当流派の理法において、たいへんな障害になってしまう、よってこの流派の中では明確にLGBTに反対の立場を決定させてもらうよりない。
古くから「魂魄」という言い方があって、魂は陽、魄は陰だ、そして「男」が陽で「女」が陰であるため、「男(陽)がわからないと霊魂(陽)がわからない」というロジックが成り立つ/女が陽である必要はないが、女も陽を「わかる」必要があるのだ、男女とも「『男』がわかる」ということが、どうしても必要になる、このときに社会的な要請としてのLGBT解放論はまったくの邪魔だ。
今僕は、社会論ではなく、またジェンダー論ではなく、陰陽論について話している、陰陽二元の話をしているところに、陽陽二元とか、陰陰二元とかいう戯論を持ち込むことはできない/「男」がわかる必要があるのだ、そのために、当流派は流派内においてLGBTに明確な反対を採らねばならない。

ギリシャ神話は「揉め事」の神話だ。

話が飛ぶようだが、そういうことなのだ、古代ギリシャでは男性同士の同性愛が公的にあったことがよく知られているが、それはむしろ神話的な揉め事を引き受けていくというスタイルであって、調和したゴールとしての神話を引き受けたものではない。
歌声に秀でた妖精エコーに、男性神パーンは求愛し、それを拒絶されたため、嫉妬もあってパーンはエコーを八つ裂きにするのだが、これが逆ならば何も揉め事は起こらないのだ、つまり歌声に秀でた男性神に妖精の少女が求愛したら、八つ裂きの揉め事なんか起こりようがない/ギリシャ神話はこのように、陰陽が「乱れる」ことによっていかなる揉め事が生じるかについて、神話レベルでの定義を与えている。
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命(いのち、めい)

というのは授かるものだ。
「いのち」と読んでもいいし、「めい」と読んでもいい。
僕の目の前にあなたがいるとき、あなたが何であるかについては、僕からの命を授かったほうがいい。
それは口頭で言われるようなことではない、その場でハッと聞き取り、感じ取るものだ、もともと勘のいい奴は昔からそうしてきたものだ。

紫色の夕暮れ、蒸気にけぶる街灯、土煙の匂い、雑踏、大正建築のコンクリート、やる気の出てくる排気ガス。
どう歩くか? どこに歩くか? 自分は学ぶか学ばないか、やるかやらないか、西に行くか東に行くか、飲み食いは如何様な勢いであるか? すべてのものが「世界」に命じられているような気がしないか、まさか自分で決めるとでもいうのか。
僕は目の前に女がいたら、笑わせ、口説き、いい気分にしてやり、女が今いる世界を存分に見せてやろうと思う、ふと気づいたとき「ありがとう」とこぼれて出てくるまで。
それは、僕の願望ではなく、意志ではあるが、思いつかれる意志ではない、命じられての意志だ、世界から命じられてある、他ならぬ僕の授かった命、それが僕の命だ、僕は命を授かったからこそ命のままに応じているのであり、また授からん命に向けていちいち引き受けているのでもあるのだ、「おれにできねーわけはない」とな。

命が忙しい、我意なんか取り出しているヒマがない。

吾我とか我意に、ゴニョゴニョしている人は、よっぽどヒマなんだろう、何もかもに出遅れているから我意なんて取り出しているんだ、そのメカニズムは全部ダサいと、お好み焼きの鉄板に落涙したほうがいい。
祭り囃子が聞こえてきたら、盆踊りだと思わないか、祭り囃子が呼んでいたら僕は行くし、呼んでいなければ僕はいかない、紫色の夕暮れが呼んでいたら行く、呼んでいなければ行かない、「行く?」と考えてから決定することの遅さよ、それではもう盆踊りの命は消えてしまった後だ、それから行くのはまったく別の行為だよ。

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What i've done3
ークショップでやっているようなことに引き当てて考えると、たとえば、相手がつっかかって来たところ、その勢いを「聞き」、その勢いを愛し、その勢いにむしろ加勢の命令を入れてやると、なぜかその当人がすっ飛んでいく、という現象がある、これをやられた人は「うおっ、な、なんでだ!?」となり、その後ゲラゲラ笑うものだ。
このことは、視点を変えれば、「殺す」ということを「他人にやらせる」という方法だと見ることもできる、つまり「殺す〜!」とやってきた人に、「もっと殺したらええがな」と励ましてやるということだ、これですっ飛んでいった当人は、励まされてパワーアップしているので、元気になってゲラゲラ笑ってしまう。
通常、殺すマンであるわれわれは、相手が殺しにきたとき、お茶を濁すか、もしくはマジになって、自分がより強くなり、相手を圧倒して、自分が殺す側になろうとする、つまり「上位殺すマン」になろうとする、そうしてわれわれは己がハイレベルの殺すマンでありうるようにこれまで訓練を積んできた。
重要なことは、殺すマンが突っかかってきたとき、それを躱すとかよけるとかではなく、<<引き続き相手をより強力な殺すマンでいさせてやる>>ということだ、そうしたら相手は元気になり、しかも自分は殺すマンという大不幸を他人に押しつけることができる、これは実に一石二鳥の方法なのだ。

What i've done, 自分のしてきたことは蓄積されている。
何もしてきていない人というのはおらず、必ず何かを殺してきたか、命を与えてきたか、どちらかをしている。
そして、自分がどちらかをしてきたということは、片側を誰かにやらせてきたということだ、自分が殺してきたということは、誰かが命を与えたものを殺してきたのだ、そして自分が命を与えてきたということは、誰かがそれを殺していくということだ。
どちらを「不服」と感じるか……つまり「どうしてわたしの命が彼に殺されなきゃならないの」という不服を覚える人と、「どうして彼の命をわたしが殺さなきゃならないの」という不服を覚える人がいて、前者はバシーンとやる側だ、後者はバシーンとやられる側だ、<<自分がどちらをやるかというより、他人にどちらをやらせるかを考えたほうがよい>>。

What i've done ⇔ What they've done

もちろん、屁理屈を取っ払えば、「殺すマン」などというのはアホの所業にすぎない、ところがこのアホの所業を、自分はやめられないのだ、仕組み的にやめようがない/やめるにはどうすればよいかというと、<<他人にやらせる>>のだ、アホの所業を自分がやらされる(しかもカルマが溜まる)のは誰だってイヤなものだが、他人にやらせるぶんには誰も痛痒を覚えない、だから他人にやらせる。
命を与えるマンの側には、「殺す」というようなことは、「ピンとこない他人事」に聞こえているように、殺すマンの側には、「命を与える」というようなことは、「ピンとこない他人事」に聞こえているのだ、そうして他人事は他人にガンガンやらせるにかぎる/仕組みとしては、殺すマンの側が大不幸に至るのは自明のことだが、それにシメシメと舌なめずりするのではなく、どこまでも他人事なのだ、このように「命を与えるマン」と「殺すマン」は、<<永遠に噛み合わない>>ということを本領にしている。
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What i've done2

れまで自分は何をしてきたか。
そこで、「殺してきました」と捉えればいい。
命を与えられたものや、愛、永遠、世界、言葉、それらはすべて同一のものだが、これを「殺してきました」と捉えればいい、What i've done.
ベジタリアンになれということじゃない、肉であれ野菜であれ、なぜか生きているものを食わないと自分が死んでしまうのはこの世の業だ/石油を飲んでエネルギーにできたらいいのだが、なぜかそういうことは許されていないのだ、同じ有機物なのに不思議なことだ。

思い出話ひとつにしても、男女交際ひとつにしても、何かの作品ひとつにしても、あるいはひとつの言葉にしても、「あれには『命』があったな」と感じることがあるはず。
「殺す」というのは、その「命があったな」と感じられるものに、呪詛をかぶせて、その命を脅かし、命を奪うということだ、たとえば芸能人の熱愛報道が週刊誌に載ると、その熱愛の中に本当の「愛」がもしあった場合、それはネタにされ茶化され消費されることによって殺されることになる、そういうことをあなたはしてきた(おれはしてねーんだ、残念だったな)。
何もむつかしい話ではなく、たとえば僕が女の子ラーブと言うと、そこにただちに「僕とは異なるもの」が追随して覆い被さり、僕が発揮したラーブを殺すだろう、そんなことは毎日のことだ、別に口に出さなくても内心でも同じだ、「命があったな」というものに、それとは異なるものを覆い被せて、その命を「台無し」にする、それが殺すということ、その意味で「わたしは殺してきました」と捉えればいい。
人は誰しも、ナマモノとして、身口意が「だまっちゃいない」ので、「命があったな」というものにはただちに反応し、それを殺すということがやめられない、自動的に殺すマンなのだからしょうがない、それを反省しても意味がなくて、問題はその実績がこれまでに十分積み重なっているということ、そして今日もまたその実績を追加していくということだ、そのすべてが What i've done になっている。

殺される側を選べない。

だからあなたは、殺す側を選んでいる、心当たりがなくてもだ、自動的にそうなっている。
うーんあなたは、イマイチ頭がよくなかったんだな、殺す側なんか他人にやらせればよかったのにな/ちょっと頭のいい奴ならすぐにそう気づいているもんだぜ、そこは知恵がまわらず残念だったな。

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すべてのものに命を与えること
あいいか、というよりしょうがない、僕はけっきょくすべてのものに命を与えるしかないし、多くの人は、それをことごとく殺すことに、自動的になるだろう、それがどうなるのかといって、僕は「知らん」と言い果てるしかない、誰だって自分がやりたいようにやっているのだ、殺したがるモンを他人がどうこうしてやれるわけがない。
とはいえ、初っぱなから僕は殺されるわけで、殺されたらただちに産みなおさねばならず、僕はもう無限に産み出せるので問題はないが、ただ僕のやることと目の前の人がやることが常に正反対を向くわけなので、それの居心地が悪いのだ、お互いに居心地が悪くなるのだと思う、これだけがやっかいだ、二十年前にはなかったストレスと違和感がこれだ。
単に生きているというだけ(気魄)ではなく、霊魂で「産み出す」ということをして生きているということ、このはたらきを神道で「産霊(むすひ)」というが、いま人はこの産霊を見物するというのではなく、目にしたら無性に殺すという性質になっている、それでこのところ、僕が産み出せば産み出すほど、殺戮が繰り返されていって不穏になっていく、ということが起こっているのだ、僕は産霊をやめないし、殺す側も殺しをやめられるわけではないからな、傍から見れば「なにやってんの」という具合だと思うが、とにかく無限に産み、それが打ち漏らしなく殺されていくのだ、僕はそれを憎んだり怨んだりはしないが、殺した側は勝手にセルフ呪いにかかって何かドエライことになっていく模様だ(知らん)。
別にいーじゃねーか、という気がする、僕は産み出すことをやめないし、ある人は殺すことをやめないだろう、お互い限界を振り切るところまでやろうぜ、と僕は思う、むろん本当にヤバイことになるのだろうが、そのヤバイものは僕の世界の側へ入ってくるものではないので、別にいいのだ、逆に「あっちは本当にヤバイやつの世界にいくんだ」ということがハッキリしたら、それぞれに明確な納得がいくと思うし、もしそうならなかったら、何もならなくてよかった、ということで済むのじゃないか。

つまり、「おれは産み出す側をやるので、お前は殺す側をプリーズな」「がってんだ」という、そういう割り切りがいっそできないものかという、新しい発想を得ているのだ、むろん僕は殺す側をやらされるのはイヤだが(ひでーことになるに決まっている)、どうもこのところ、殺す側がビビってモタついているから、モヤモヤして気色悪いのだ、人それぞれ自分の信じているところへ突っ込めばいいのにと、つい思ってしまう、もっと明確にファンキーに、僕をディスってくれたらわかりやすい話で、そうしたら僕は「おう、なおも産み出し続けるぜ〜」というわかりやすいものを見せられるのに、どうもこのところは殺す側がだらしないのだ。
まあそりゃ、一部には、はっきりとした自分の地獄落ちのヴィジョンを見た人もいるのだから、怯むのもわからんではないが、そう何というか、自分の行く道に己でケチをつけるものではないぜ、どうせ道が切り替わらないなら、どうブレーキをかけてもやがてはその先に行き着くじゃないか、僕は殺される側でかまわないので、もっとはっきりと己の本属を示してみてはどうか、そうしたら話は in short になり……「死ねよ」「死ねよ」と連呼すればきっとすっきりするぞ、短期間で可能な限り殺し尽くしてみたら、それがどういうことなのか学門としてはっきりするかもしれないじゃないか。
僕はもう、他人の話を聞いてもいまいちしょーがないので、とにかくすべてのものに命を与えることを続けていく、産み出し続けていくのだ、それに呼応して、相反する属分の人は「殺し続けていく」という表明と宣言を為してはどうかと思うのだが、どうだろうか、つまり「即座にハッキリ殺すマン」の堂々たる誕生である、この両者の拮抗が互いの道を切磋琢磨するのには違いないだろう。
僕としては、味方ヅラする人が、じわじわ「やっぱり殺してしまいますね」とやられるほうが、もやもやしてかなわんのだ、そうではなく「今日もあなたの産み出したものを全部殺しますよ〜」「おう、よろしく〜」とお楽しみにしあうほうがよいのではなかろうか/そうか、今気づいたが、多くの人はきっと、己が殺すマンであることを不服に思っており、自分の殺す行為が産み出す行為だと信じられるようにスリカエを行っているのだ、そのことがややこしさを形成しているのだな、うーむ現代人は殺すマンを誇ってよろしい、事実を曲げて命を与えるマンだと強弁しようとするからおかしくなるのだ。

僕と異なることをしよう。

そうすると、逆にはっきりする、「殺すマン」というのはこういうことで、「命を与えるマン」とはこういうことなのだと、逆にはっきりするだろう、僕と異なることをしながら、命を与えるうんぬんを考えるから混乱するのだ、僕と異なることをしながら、殺すこと、命を奪うことを考えれば、バッチリ整合して混乱はなくなる、「今日も殺すマンの日々ですよ〜、今日もいくつか命を奪ってきました☆」と戦果を報告すれば、その中に混乱はない。
多くの人は誤解しているかもしれないが、「命を与えるマン」といえば聞こえはいいし、「わたしもそっちがいいです」と言いたくなるのかもしれないが、このご時世に「命を与えるマン」ということは、ただちに「毎日殺されまくるマン」でもあるということだ、殺されるマンにはなれないだろう? キルミープリーズとは思えないということは、産み出すということがわかっていないということだ/殺されるマンになれなかったということは、必ず勝利してきたということだ、僕に対しても勝ってしまっているので、そんな人が殺されるマンになることはありえない、自分が殺されることが不当だと思っているわけだから、命を与えるマンにはなれないな、そもそも殺されるマンに華があるわけじゃないし、もっと殺すマンとしてノボリ旗を背負ったほうが混乱はなくなるだろう。
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What i've done

とあなたの母親が会ったとする。
その後、僕があなたの母親をディスることはないだろうが、あなたの母親が僕をディスることは、大いにあるだろう。
なぜだかはわからない、僕はそもそも、女の子をディスったことがないし、逆に、女の子からディスられなかったことはほとんどない。
少なくとも、表面上は、女の子は僕をディスる権利があり、あなたの母親は僕をディスる権利があり、僕には女の子をディスる権利がなく、あなたの母親をディスる権利もない、表面的にはまさにそうで、それが最奥に至るまでまったくそうなのかどうかは、誰にもわからない。

とにかく、僕は先方にディスられ、僕は先方をディスらない、というのが鉄の掟だ、自動的にそうなっている。
僕は女の子とお茶を飲みにいく権利がなく、誘われた女の子は、こころのままに僕をディスる権利がある、よくよく実情を見るのだ、まさにこのとおりになっている。
まさに「実情」を捉えるべきだ、女の子は僕をこころの底からディスると、とてもすっきりし、安穏と正義のこころを得る、僕の側はそれに慣れてしまっているので、別にどうとも感じない、どうとも感じないので、女の子も存分に僕のことをディスりやすいはずだ。
もう一度繰り返す、女の子には、僕を存分にディスる権利がある、権利があるので、自動的にそうしている、僕の側に女の子をディスる権利はない/僕は女の子の悪口を言ったことがないし、女の子から石を投げられなかったことがない。

若い女の子と、年配の女性と、若い青年と、年配の男性は、僕をディスる権利を持っている/僕は持っていない。

先日、通りすがりの外国人の方から、第一声に「グルデスカ」と声を掛けられることがあったと報告した、この外国人の方がキチガイで、あなたの母親こそがすべてを見通す真理の眼差しを所有しているのか、それはわからない、そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。
僕はこれまで、けっきょく女の子をディスったことがないし、女の子の側は、けっきょく内心に一度もこの人をディスったことがないとは、言えないのじゃないか、だから勝敗はすでについてしまっていて、あなたが勝利している、僕は敗北済みだ/どうして人は人をディスるのだろう、どうしてあなたにとって、僕をディスることは「不可避」なのだろうか?

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「自動的に殺すマン」と、「自動的に命を与えるマン」
(説明は省く)僕はすべてのことに命を与えてきた。
自分のすること、自分の営むことに、命を与えるのは本来当たり前のことだし、僕はそのようにして何の問題もないのだが、環境的な問題が起こってきた。
環境的な問題、つまり、現代の多くの人は、「自動的に殺すマン」になっていて、僕が命を与えたものを自動的に殺していくのだ。
僕はもう、それでもかまわんので、お好きにどうぞと思っていたのだが、なかなかそうもいかなくて、何がまずいかというと、僕が命を与えたものを、殺すマンの人が殺していくと、その殺したことによって殺した当人が呪いを受けるようなのだ、それで僕は「命を与える」ということに手加減するようになってしまった、そのことで長いあいだ困っているのだ。

「命を与える」といって、その程度を、加減することはいくらでもできる、ただ、命を与えるということのていどが薄いものについては、僕はどうもやる気がしない、だらしなくて情けない感じがしてしまう、だからいつも、本当の命を渾身で与えることがしたくてウズウズしている。
だが、「自動的に殺すマン」の人は、その僕が渾身で与えた命のものも、自動的に殺してしまうだろう、瞬殺でなくても必ずじわじわ殺してしまう、そうしたとき、殺すマンの人が受ける呪いはきっと膨大になり、償却不能になってしまう/まあそれでもいいっちゃあいいのだが、実際にはその直前で危険を感じて程度を抑えてしまう、殺すマンが抑えるのではなく僕が抑えてしまうのだ、つまり「命を与えるマン」である僕のほうが抑えてしまい、ありうべき血祭りと大呪を回避してしまうということ。
ここまでくれば、逆にいっそ、僕が「命を与える」ということを、やめてしまうか、ごくごく薄味にしてしまうのも一手なのだと思うが、困ったことに、僕はそうした薄味のことが、どうしてもやる気になれない、「命を与える」ということをしないということは、つまり僕が命のない日々を過ごすということだから、どうしてもそんなことに僕は堪えられないのだ。
つまり、見ようによっては、僕の側も「自動的に命を与えるマン」であって、そのタチの悪さは、「自動的に殺すマン」と大差ないのかもしれない、まあこうして何の解決にもなっていない話をしているのだが、より決然とやっていこうかなという気もしてきていますと、漠然とした報告もしておこう。

一部、僕が命を与えたものを、殺さない人もいます。

うーん、もっと決然とやらないといけないのだろうな、もともと賢い人はいいが、経験が浅くまだ知恵を得ていない人は、無条件で「自動的に殺すマン」になってしまう、年齢の若い人にとってそれは酷な話だ、せめて「命を与える」ということがどういうことかぐらい、説明してやってもいいのかもしれない、だがどうも、僕は自分がそういうことをエラソーに説明するのが苦手でね……
参考までに、顔に力が入っている人、声が力んでいる人、腕から手が力んでいる人、目を剥かないと話せない人がけっこういると思うが、それは「殺す力」が入っているからそうなっているのであり、「殺すマン」をやめないかぎり、その力が抜けることはない、そんなこと言われても参考にならねーよという話で、まさに参考にならないのだが、どれだけナヨナヨにして力を弱めたとしても、根本たる「殺す力」は消えないので、まあそういう人も僕と同じぐらい困っているよねという、物憂い話なのであった。
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