☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
女に尊敬される方法
とえば、金持ちのおじさんが、真に娘から尊敬されたければどのようにすればいいか。
娘に尊敬されるためには、金力で娘に何もかもを買い与えるのではなくて、どこかヨソに聡明な子を見つけてきて、その子の学費を出させてもらうことだ。
そこで父親が娘に、「あの子はとても聡明でね、やがて立派な先生になるに違いない。だから、そのありがたいことにわたしも協賛させてもらったんだよ。これを、援助だなんて、バカなことを言ってはいけない」と言えば、娘はぐうの音も出ない、娘も自分がバカの生き方をしていることを痛烈に自覚するよりないだろう。
援助交際という言い方に代表されるように、「援助」という言い方が、人をバカにするのだ、娘が父の何を尊敬するかというと、「わたしの父は聡明な人を尊敬しているの」ということで尊敬するのだ/バカ女を金権で支配すると、そのときだけバカ女たちを支配できたような気になるが、バカ女たちもその点だけはなぜかバカではなく、「この人はバカ女を金権で支配するおじさん!」ということだけは素直に見抜くのだ、なぜバカ女たちがその点だけ素直で賢明かというと、バカ女も生後六か月まではバカ女ではなかったし、やがて自分が老婆になることも知っているからだ。

実際、女たちは、金持ちおじさんのところに寄っていくが、テレビ番組でも想像すればわかるとおり、女たちは金持ちおじさんのことを尊敬しているわけではない/むしろ女性は、真に尊敬する誰かがそこにいた場合、目を輝かせて「近寄りがたい」と感じ、己の身を慎んでしまうものだ。
そして、怖いことだが、女は自分の尊敬する人が、そのまま好きなのではない、逆に「この人のことは尊敬しなくていいから、気楽で好き」という場合もある、それに加えて、「しかもこの人はお金を持っているの、だからすごく好き」という場合もあるのだ、この点、男どもは本当に考えを改めねばならない、女は男と異なり、自分として尊敬しない男のほうが「好き」ということがある/屈託なくグイグイ言い寄られたとして、それを「認められている」と誤解しないように、逆に「まったく認められていないから」こそという場合があるのだ、ウーン考えるだけで恐ろしいな。
女は自分が女であることを重視しているし、女はたいていお金が大好きなものだが、ここに注意が必要だ、女は自分が女であることを尊敬しているわけではないし、お金を尊敬しているわけでもないのだ、ただ「好き」なだけだ、だから女が重視しているものに追随していくと、男は女に好まれるようでいて、実はちっとも尊敬されず、根こそぎ軽蔑されたまま「好きよ」と言い続けられることがある/女にとって尊敬と好きは必ずしもイコールではなく、半ばやけくそで、尊敬と好きが逆転している場合もある、女は自分が女であることが好きだが、自分が女であることを尊敬しているわけではないのだ。
僕もこれまで、幾度となくそれなりの、金持ちおじさんを見てきたが、金持ちおじさんは女を「寄せる」方法はよく知っているし、その力も持っているのに、女に「尊敬される」という方法がまったくわからず、よく苦しんでいらっしゃる、女がわけのわからないパンクロックの歌手を尊敬するのは、女がバカだからではない、女はパンクロックの歌手のようにバカにはなれないので、そこまでバカになれる男のことを尊敬しているのだ/栄達したパンクロッカーがヨソの聡明な子の学費を出したとして、誰も不思議には思わないだろう、「あの子、あいつは天才なんだぜ!」といって目を輝かせて、何もおかしくない、女はそういう男を、近寄りがたいかもしれないけれど尊敬する。

女は「買い物」の生きものなので、「買い物」以外ができる男を尊敬する。

だから、いくら高級バッグや車やマンションを、買い与えてもだめなのだ、それは「買い物」だから、かといってチャリティーというのもダメだろう、それよりは「個人的に、近隣を清掃するチームを雇って清掃させているよ、自分の住む街だからね」というほうが尊敬される/実際、「買い物」以外のことができる金持ちおじさんは、とても数が少なく需要は大きいので、エントリーするのに今たいへんお得だと思う。
高価な腕時計をつけると、女は寄ってくるが、それは「買い物」なので尊敬はされない、それよりは「大学の同期がやっているお笑い研究会に毎月寄付を送金しているw」というほうが女には尊敬される、「友人と、大切な場所をお持ちなのね」と認めてもらえるからだ、そしてお笑い研究会への送金額の総計がパテックフィリップの時計より高額になることはありえないから結果的にお得だ/女と違う発想でカネを使うからこそ、男は女に尊敬される、それは女の貧しさを救済するということなのだ、女は「買い物」の生きものだが、「買い物」という性分を豊かだと自分で思っているわけではまったくない、男は――オトナは――この貧しさを否定するところに立たねばならない。
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競争原理に仕込まれた「横一列」という罠
、大阪に出張中で、ふだんと文化環境が違うので、いろいろ考えさせられるのだが、決定的なことがわかった。
「競争」「競わせて・争わせる」ということが、見積もっていたよりはるかに深く人々の心身にダメージを与えるということなのだが、この「競争」が持ち込んだものに、致命的な大前提があるのだ。
それは、「競争」をさせるからには、まず全員を「横一列」に並べなくてはならないということだ、このことが人々をバラバラに砕いてしまう。
「横一列」ということは、人々が互いに「供与」をできなくするシステムなのだ、横一列が隣から隣へ、何かを差し出したりしてしまうと、横一列ではなくなってしまう/「平等」という理想はおそろしい矛盾をはらんでいたのだ、平等という理想は人々の本質的な幸福をすべて犠牲にしてしか成り立たないものだった。

「横一列」というのは、たとえるなら、根と茎と葉と果実を、バラバラにして横一列に並べるというようなことだ、そんなことをしたらすべて一列のまま萎れていくに決まっている。
そうではなかったのだ、根は茎を支え、茎は葉を支えているように見えるが、葉は根に呼吸を送り込んでいるし、茎だって根に連絡をつないでいるのだ、この関係を「平等」にしようとして、根を土から引っ張り出し、葉を地に落としたら、それは植物全体が滅ぶということなのだ、そんなところには根の幸福も葉の幸福もない。
この世界に、「供与」することなく生きることを考えてはならない、そんなことは許されないからだ、「上」というのは「上から下へ供与する」ということであって、「下」というのは「下から上へ供与する」ということだ、これを「横一列」にすると、互いに「供与」ということが起こらなくなる/競争原理の背後にはこの「横一列」という罠があった。
今日も日本中で、パチンコ屋は大盛況だろうが、パチンコ屋に突っ込んでいる人は、自分の「供与」する先を閉ざされてしまったので、その供与先がパチンコ屋になったのだ、パチンコが「楽しい」のはわかるが、本来その人には、もっと楽しいことがあった、彼には本来、横一列の平等よりもっと幸福な世界がありえたのだ。

「上」でありたい人は、「下」へガンガン供与すること。

上下関係というのは本来、主人と奴隷のような支配・被支配の関係を指すのではない、学者男と飯炊き女は、互いに豊かに供与しあっていたのだ、この学者男と飯炊き女を横一列に並べると、学者男はストレス解消にパチンコ屋にいき、飯炊き女は退屈しのぎにパチンコ屋に行ってしまう/それを「平等だから幸福でしょ?」と言い張るのか。
現在、ストレスと寂しさから、さまざまなものへの「課金」的遊興が隆盛しているが、それが「楽しい」といって、それはフェイクなのだ、なぜなら本来の供与関係の只中にあれたら、そもそものストレスと寂しさがなかったのだから/上下というのは優劣ではなく、ただつながりであって、つながりはそれだけで楽しく、自分の生の値打ちでありえた、このことを恢復しようとして現在、クラウドファンディングのようなやり方が流行しているが、こんなもの不自然に決まっている、これでは誰とのつながりの中で生きたのかが一切与えられないまま生きてしまうことになる。
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命を連れて帰ってくる

んとか、危地は脱した、おかげさまですっかり陽気になった(余裕はない)。
それにしても、やはり、こんなところまで至らねばならないのか。
忘れないようにメモしておくと(どうせ忘れるが)、やはり、自分がどこにいるのかという場所の認識、日時の認識、その他すべての認識が消し飛んでしまう、「ん!? ここどこだっけ!?」という状態が、冗談でなく三十秒ぐらい続く、これぐらいまで至らないとやはり本当の意味でフィクションには接続できないらしい。
そして、びっくりすることには、そうして行方不明になったあと、帰ってきて、それではじめて、今自分のいる場所が「場所」になるのだ、このことが為されるまでは、すべてはフワッフワしており、場所なんてものは存在していない、そのかわり場所が獲得されると場所というのは怖いぐらい「場所」だ。

すごいことが起こるものだな、何かに命が吹き込まれ、そのぶん、認識という認識は吹き飛んでしまい、帰ってくると、命を連れて戻ってくる感じだ、こんなことを常時やれというのは、さすがに僕でもオイオイとツッコミたくなってしまう。
「命」という現象が、本当にあるのだろう、そんなもの本来は連発しなくていい類のものだと思うが/そして命の何たるかは、危地の中で発信したとおり、先ほどまで吼えていたことが正しい、「やさしさ」だ、それは永であり遠であり、外国語のような雲だ、やさしさはトリッキーにしか実現されない、「分かる」は表面的なフェイクにすぎない、「分かる」ものはどうしたってやさしさは持たない。
命というのは、クラウド状のものであって、すべて一つにつながった「夢」だ、それにしてもこんなことが起こるのか、すごいことが起こるものだなと、ちょっと呆然とさせられている、ひとまず今回はなんとかなったが、これって毎回、こんな手ごわさで立ち向かわねばならないのか、考えると気が遠くなってくるな。
僕が驚いているのは、命を「連れて帰ってくる」というところだ、こうして自分の生きた「場所」が得られてくるのだろうが、理屈はそうでも、まるで物理的に空間に作用しているかのごとくなので驚かされる、しかもそのトリガーはやはり「やさしさ」なのだが、単なるやさしさ思想でこのやさしさに到達できるわけではない、方法や原理についてはまだ完全にうまく言うことはできない、ただ命を連れて帰ってくるのだから、当然ながら帰ってくると、行く前より世界がガッツリ増えている(びっくり)。

小説は、百本同時に書けないと、書けているとは言わない。

技術や感性の問題ではなく、命の雲を直接ディールする能力だからだ、それがディールできるとき、一本だろうが百本だろうが、変わりはない、どれも同じ一つの夢だ。
夢と、いわゆる現実が、どう相互に干渉しているかというテーマがあるが、それに関しては、夢の実力と現実の実力は違うということを記しておきたい、現実ではいろいろごまかせるが、夢ではリアルだ、夢の中で愛せるものは厳しく、本当に愛せるものしか夢の中では愛せない、だから現実での実力を増大させても夢の中では通用しない、夢の中での実力を増さねばならないのだ(もちろん僕以外の人にはこんな話ナンノコッチャ意味がわからない)。

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すべての夢のつながりを
んなもん、もはやただのメモ書きでしかないが……
すべては夢のつながりであった、自分のすべての行為が、<<感受性を覗くすべての体験が>>、「分かる・分割する」という力の現象でない、つまり「分からない・つながっている」という現象が、何につながれて一つであるかといえば、それは一つの夢だった/夢に分裂はないのだ。
夢に分裂がないからこそ、意識と夢が混濁すると、かつてそれは「精神分裂病」と呼ばれた、今、逆のことが起こっている/つまり、意識に夢が混入する症状ではなく、夢に意識が混入する症状だ、これは社会生活を困難にしないので、病気には認められないだろうが、れっきとした一つの症状だ、夢が夢でなくなってしまうという症状、これは意識が意識でなくなってしまうという分裂病の代償のように起こっている。
気をしっかり持たねばならない、夢は夢、意識は意識だ/これは何も、いわゆる明晰夢が危険だと言っているのではない、明晰夢は正しく夢を体験できている、明晰夢は夢の中に意識が共存するということで、正常だ、これは意識の中に夢が共存するということと同様に正常だ。

ステルス型の逆分裂病が起こっているということだが、これはまずいことだとしても、今僕にそのことを論じている余裕はない、だいいち論じたところでどうにもならない/気を確かに持つしかない、夢は夢、意識は意識だ、それはただのいつもの「当たり前」のことだ。
論じている余裕はなくて、ただ、すべての夢のつながりだ、僕は生きてきたのだから、そして今も生きているのだから、生存、このことを分割しようとする力と感受性の勢力に邪魔されないよう……感受性は「受け身」だから、力には自発性・能動性がないことがわかる、力はモチベートされてドライブされることでしか発動しない、そしてその力は必ずやさしさを持たない。
すべての夢のつながりを……僕はずっと、人のやさしさに、驚かされることをよろこんで、それのみに生きてきた、必ずそこにだけ犯しがたい光があった、それは感受性では決して補えない自発と能動の光だ、僕は今も不意にやさしくされることに驚き、そのことだけを肯定して生存している。
それがすべての、僕の夢のつながりだ、このことから一歩も出ることはなかった、僕は生きてきたし、今もまだ生きている、生存、すべての夢の一つのつながり、これは僕が生きる世界の万物の一つのつながりだった。

ヘーイ、ミスター・タンブリン・マン。

あの歌は何を唄っていたのだろう、知らないが、これから先に知ることになるだろうか、どうせ一つのことだ、とはいえこういうことを見落としていると、本当に僕は進めない、<<一つの夢のつながりから外れているものは本当に僕にとって存在していない>>、それは残酷なことではなくて、何か未知の手続きなのだろう。
感受性というものが、まさかこうまで悪辣とはな/すべての人の瞳の奥に、緑色にゆらめく未知の光を、産み出す力はもとより産み出されているのであって、産み出すという力の行為があるわけではない。
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力とやさしさの原理2

は物事をバラバラに――分割――するのだ、これを原義的に「分かる」という/「分割」の意味だから「分かる」というのだ、このことは英語の tell A from B にも表れている。
力というのは、「分かる」ということで、「分かる」ものの果てが、「記号」ということだ、記号は交通標識のように「分かる」だけの機能しか持たない。
「分かる」ということは、実は、「分からないものの抹消」でしかない、たとえば父性原理と母性原理を考えたとき、それ以外の原理は「分からないもの」なので、この「分からないもの」を抹消することでしか、父性原理と母性原理の「分かる」は成立していない。
「知る」というのは、危険なことなのだ、何かを「知る」ということはしばしば、知らないもの・知りえないものの抹消でしか成り立っていないから/よって「知力」という力の原理を、よくよく警戒する必要がある、知力はわれわれを、生きるに有利にするが、生きることを豊かにはしない、むしろ滅ぼすものに加担している。

「分からないもの」が必要だ。
「分からないもの」は、原理的に、「やさしさ」に当てはまるはずだと推定できる。
人の話が「分かる」ということほど、危険なことはない、そもそも人の話、あるいは小説や映画や音楽もそうだが、「分かる」ように聴くものではない、今すべての聴き手は聴き手ではなく形態を変えたバトラーになっている。
物事には、もちろん「分かる」成分、正しくは「分かりうる」成分もある、その部分は分かってもいいのだが、そのことはあまり意味がない、「分かる」ということはフェイクなのだ、「分かる」ものが「やさしい」ということはありえない。

分かりつつ、分からせつつ、裏切り続けること/<<真実を分からせないこと>>。

真実は「分からない」のだから/それでも人は、分かることを求めるので、さも分かることがあるように、偽装する、真実を分からせようとするのは構造上の破綻なのだ、われわれは真実に対してトリックを示すことしかできない、<<やさしさは常にトリッキーにしか実現されない>>。
要するに、われわれの取りうる最も誠実な態度、最も真摯な取り組みは、真実を<<遠ざける>>ことなのだ、わたしは真実から最も遠いことを――遠巻き・遠まわし・回りくどいことを――言う者でありたい、それで初めて僕は自分を軽蔑せず生きてゆくことができる。

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力とやさしさの原理
りあえず、現状、判明しているところで言うと、1.力は物事をバラバラにする、飴玉を噛めば砕けるのが道理で、身体だって力をわずかでも入れるとバラバラになる。
2.「力」は「重さ」である、力の単位は例えばkgwだから/この世界に重さが存在しなければ力もまた存在できない、すべてが重さゼロでは力の使いどころがなくなってしまう(力学そのものの出番がない)。
3.人々は今、「バトル」の中を生きているので、力の原理に偏り、やさしさの原理に回帰できない/歴史的に明らかなように、力はバトルの道具であり、力は同時にバトルの「原因」でもある。
4.旧時代より、現代のほうが、明らかに「やさしさ」がない、これは「バトルの時代に人々が力に帰依している」という実態を示している。

5.重要なことは、力は物事をバラバラにし、バラバラの果てに、物事は記号化するということ/昨今、人々が無個性化し、キャラを演じるようになり、またアニメキャラクターもいわゆるハンコ絵になって好まれるのは、「力で砕かれた果てに万物は記号化する」という現象による(識業の隆盛が万物を記号認識することしか許さなくなるという構造だろうが、この点は今取り扱わない)。
6.内面からやさしさを駆逐し、自己の記号化に徹した者が、強い「力」を振るうという現状が出来上がっており、このことに通じた者は、たとえば完全な記号化を果たした「笑顔」を最大の力の武器に用いている/この点、すでに記号でない人の存在は少なくなってきている。
7.バトル環境下において、多くの人々は力に帰依し、その結果、記号化を果たしたので、すでに「誰」という概念が通用しなくなっている、バッタの性質(群生相)と同じように、人もまたバトル環境下においては悪霊に取り憑かれ「誰」ということを失い無個性化する。
8.力の原理(バラバラ・記号化)が主権を得た世界と、やさしさの原理が主権を有する世界は、それぞれ異なる別世界だ、互いの世界において他方の世界を模倣・輸入することはできない/すでにやさしさの原理が主権を有していた世界は、人々の記憶や想像からも追放されようとしている、<<われわれはいったんこの記号の群れを承認しないとますます混乱する>>。

9.概して、「バトル」(競わせる)ということの効果を甘く見積もりすぎた。

10.今やすべてのものがバトルと力のデビルに吸い込まれ、いかなる力の奉仕も、バトルと力のデビルに血肉を奉納する儀式と化す、バトルのない世界を空想することはもうできない。
11.やさしさが支配していた世界がかつてあった、当時、人々は「バトル」が何のことなのかよくわかっていなかった/現代はちょうどその逆にあたり、「やさしさ」が何のことなのかよくわかっていない。
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おれがやることへ向けて(定義が要るよォ〜)

れないうちに書いておきたいが、そういえば前回のパーティは、大いに盛り上がったが、あれはもうほとんど、一種のレイヴ・パーティの様相を示している、もちろん薬物なんか使わないが、逆に考えて、レイヴ的なものは到達できない人たちが薬物を使うのだ、原理的にはただの「ドーピング」にすぎない。
そして、自分で主催しているわけだから、僕が盛り上げるし、盛り上げたら行くところまで行くわけだが、それにしても、やはりつくづく思うところ、そうしたプレイは僕にとってあくまで余技だ、そうしたことも必要だろうと思うからやっているだけで、レイヴ状態を作り出したことは僕の自慢にはならない、そんなものおれがやればアタリマエにできるわという、それぐらいの確認にしかならない。
僕は感覚がおかしいのだ、なぜおかしくなったかといって、他人の情報がなさすぎるのだ、きっと多くの人はSMクラブに行ってムチで打たれた男女がオーガズムに到達してビクンビクン痙攣していたらトリップ的な気分になるのだろうが、僕にとっては性的関係の中でムチで打ってやれば女性がオーガズムに至るのは当たり前のことであって、目の前で見せられても何も思わないし、何であれば「僕がやりましょうか?」とさえ申し出ることができる/たいていの場合、そりゃおれがやったほうが速いよ!! やれと言われたらムチなんか要らなくておれが指先でやったほうが速エーよ。
僕は、あまりに他人の情報を持っていないので、多くの人がたくさんの「抑圧」の中を生きているのが感覚的にわからないのだ、だから抑圧の解放を人々が求めているということについても、実はよくわかっていない、レイヴやSMクラブうんぬんのトリップ状態を作り出すのに、衣装やらスモークやらライティング等は必要ない、僕は抑圧がないからボーッとして見えるが、僕をナメるのはよし、ただしあまり学門をナメないでいただきたい。

パーティは、パーティなのだから、レイヴ感ぐらいなくてどうする、という、この当たり前のことに、到達するまですいぶん時間が掛かったのだ、抑圧がない者が集まって飲めばそれは工夫しなくてもレイヴ状態になっていく、薬物は使わないといったがアルコールは使っているな!! 僕に限ればアルコールなしでもレイヴ状態になれるが、他の人はさすがに無理だろう、そういえば僕は先月など、パーティ以外ではけっきょく一度も酒を飲まなかった(忙しかったのだ)。
そんなことはいいのだが、ここにきてやはり、レイヴうんぬんというていどのことに、僕が詳しくなってもしょうがないとつくづく思うのだった、それは霊魂の話と同じで、そんなていどのことに、僕が詳しくなってもしょうがない、たいへん不遜な言い方だが、もうこのことを弁えていかないと僕は本質的な生産ができないのだ。
霊魂うんぬんや、レイヴうんぬんは、今そのあたりがテーマだぜ!! という、新進気鋭のところの奴に、できたら一任したいところだ、なにもかも僕がやるというのはいかにも不自然で、もともとワークショップの先生というのも、やっぱり僕は不自然なのだった。
仮に、物事を「教えられる」人が、先生やコーチであったとして、さらに直接触れることで「与える」ことができる人が、たとえば「導師」だったとしよう、僕はそのどちらでもないのだ、「教える」こともできるし、ちょいと触れて「与える」こともできるが、そのどちらも僕の本分ではないのだった、僕にしかできないことをしようとするなら、それら余技のことはいったん放逐せねばならない、そういうわけで中間人材が至急に求められているので、先生格、レイブ屋と霊魂屋、導師格、そのあたりにみんなササッと上昇してくれ、おれはおれのことをやらなくてはならんのだ、これがもうハードスケジュールとかいう次元ではなくてハードなのだ。

僕をグル呼ばわりする通りすがりの方々へ、僕はしゃあなしに余技でやっているだけでグルではありません!!

うーん、たくさんのことが見えてきたぜ、あれだね、おれ自身にだけわかるようにメモしておけば、おれがやさしく、にこやかにしないとダメなんだな、そうでないとみんなおれがコワイんだな、おれみたいな奴にどう接するべきかなんて、態度のライブラリにインストールされているわけがないものな、先生やら導師やら、敬うやら尊崇やら、常識的なやつはそれで済むが、僕の場合はそういうのでは済まないからな、僕の側から緩和してやらないといけないというのが、さすがにいいかげんわかってきた。
なんというか、やはり、大きく見て二段階ぐらい、態度や身分についての情報が抜け落ちている、基本的にそれを「愛」という現象でくくるなら、愛にもいくつかの「段階」があるようだ、これを一歩ずつ歩まないといけないので、至急中間管理の人々が現れてくることを期待する/僕がふと笑うと、どうやら苦しかったらしい緊張感がドッとほぐれるのを見て、さすがに気の毒だと思った、僕の側から緩和的方策を取らねばならないのはよくわかったが、どうかこのことが、また一部の人をあらぬ誤解のほうへ押し出してしまいませんように。

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人の愛なんか要らない2
ークショップ等を通じて、やれ魂魄だの、気魄だの霊魂だのと教えている。
そこで教えていることは、間違いではないし、とっても大切なことで、必要なことなのだが、ゴールなどでは決してない。
たとえば霊魂うんぬんというと、何か奥の院を覗いている気にさせられるが、そんなことはないのだ、冷静に考えて、霊魂うんぬんの話は、本丸の二段階ぐらい手前の、イージーで容易でわかりやすい話をしている、それはしょうがないのだ、「わかる」という領域をはみだすものをどうやって「教える」ことができるものか/「教える」という形態にそもそもの限界がある、それはしょうがない。
最近は、悪霊がどうこう、という話を、わかりやすいかなと思ってお伝えしているが、実は本当のところを言えば、より本丸をかすめるぐらいに手が届けば、もう人は互いの霊魂になんか接触しなくなるのだ、霊魂に接触しないので、別に悪霊だろうが何だろうが「知らんし、知る必要がない」ということになるのだ/悪霊なんて、あくまで「人」レベルで考えたときに問題になるだけだからね。

人にとって、知識がないという状態は、リスクであるとともに、チャンスなのだ。
だから誰しも、子供のときはチャンスだったのだが、今はマスメディアおよび通信端末が、幼いうちにも大量の「知識」を与えるようになったため、人々はチャンスを失ってしまった。
人はアタリを掴むことなどできないのだ、掴めるのはハズレだけだ、そして子供というのは、まだ何も掴んでいないので、アタリとハズレ、どちらにも触れるチャンスがあった/人は知識を得ることで、森の中の毒キノコを拾い食いしなくなるのだが、そうしてわけのわからないものは食わなくなるぶん、わけのわからないものを食うことがなくなってしまう。
自分が知っているものをディールするのは簡単なことだが、ここで数学的な疑問が提出される、つまりわれわれは、自分の知らないものをディールできてしまうかもしれないという可能性だ、ナンノコッチャということになるのだが、ナンノコッチャに意味が「ない」とは、本当はわれわれは断定できないのだ、このことに自己が接続すると、確かに何かがズバンと爆発する心地がある。

霊的なことうんぬんは、必要で必須で有為なことだが、本当には、レベルが低すぎて、それだけでは使い物にならない。

だが、そういう基礎も、ちゃんとやっておかないと、本丸との接触は、僕でさえ数秒で「身がもたない」と感じるのだから、基礎に何の訓練もない人は無理だ、「わたしはいけます!」と奮い立つ人は、例によって悪い力を借りようとしている気配がミエミエなので、そういうことじゃない/これはもう「能力」とかいう次元のことではないのだ。
言ってみれば、これは能力という次元ではないどころか、超能力という次元でさえないのだ、超能力とかレベル低すぎてダサーイだ、そうして「能力」なんぞにこだわっているようでは話にならない/これはあなたをゲッと言わせるためのものではない、僕自身がゲッと言わされる側なのだ、身を投げ込むというのはそういうことだから……うーん能力開発とか気色悪いことを言っているようではダメだね、おれは自分のことをスゴイと思ったことはこれまでに一度もない、だっていつもそういうことの話ではないからな(たとえばどんな読書家でも世界中のすべての図書館が一斉に襲い掛かってきたらどうしようもない、そんなもの数秒も「身がもたない」に決まっているじゃないか)。
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人の愛なんか要らない

「神の愛がどうこう」とか、アホみたいなことを言っていてもしょうがない。
本当のことは、もっと信じられないレベルでやってくるからだ。
禁断の知恵の実という伝説は、本当に禁断の知恵の実だったのかもしれないな/大人になり、成長していくと、「知る」ということが増えるのだが、この「知る」というのが業(カルマ)であって、ハズレなのだ。
仮に、真実を知ったということがあったとして、知ったのであればそれは真実じゃねーよ、ド神様であれド悪魔であれ、その作用は常に「未知」の領域からやってくる/われわれはみな、「わたし」を知っていると思っているが、それがハズレなのだ、なんなんだこの仕組みは、ホンマモンの「わたし」はカミサマと同様、常に未知の領域に存在している、この未知が既知になることはありえない。

これに「身を投げこめ」ということね、そりゃまあ話の筋道はわかる/知っているものなら、身を投げ込むのは別に怖くないし、投げ込むのもわかりやすいものな。
でもそういうことではないのだ、「どれに身を投げ込めばいい」といって、「お前の知らんやつに投げこめ」「ええええ、知らんとこには無理ですやん」という、この構造がずっと続くのだ、だから厳しい、ラクになることがない。
そして、僕はこの「身を投げ込む先」「身を投げ込む対象」について、心当たりがある、その対象を既知にはできないが、営為の形態は知っているのだ/これがかつて、僕の自殺を止めたやつだ、昔のおれの自殺を数度にわたって止めたやつの正体がこいつだ。
こんなもん、ノウハウなんかないが、もしノウハウがひとつでもあるとすれば、「失敗を恐れるな」だ、それは失敗にひるまず果敢に挑むということではなく、何かを「失敗」と、「知って」しまっているということ、これがもうハズレだということ、もう説明する気にはなれないが、どうせたぶん、例によって一般には想像を絶するようなことなのだろう、僕にとってはなつかしい再会であり、「またお前か」「やっぱりお前か」という気もするのだけれども。

心臓がバクバクする、これは、人の愛ではない。

人の愛というレベルではないし、高揚でもない、自律神経という感じもしない、そして、集中力の向こう側まで行ってしまう、<<自分の知らないものに集中してしまう>>からな/これは人の愛ではない、なぜなら、<<人の愛なんか要らない>>というのがわかってしまうからだ、この愛はむちゃくちゃだが、この愛に人が抗せないことを、僕は感覚的にも経験的にもよく知っている。
人の愛なんか要らない、つまりおれの愛なんか要らないし、おれの才能なんか要らないのだ、おれが「おれのもの」と思っているものは、単におれが「知っている」ものというだけでしかない、そして「知る」という範囲に収まっているすべてはハズレだ/おれが正しくなる日は永遠に来ないな、だからおれは間違い続けるしかないのだ、おれはそういうやつが好きだったし、そうすることでしか自分がアタリをかすめることは起こらないからだ。

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すべての音楽はひとつ
や、ホントかどうかは知らんが、何かブログ更新しておかないとな……
女の子って基本、霊感ばっかだよな、変な思い入れを持たなければだいたい女の子の霊感が正しい(が、どうせ思い入れでめちゃくちゃになるのだ)。
仮にも元商社マンとして、人種差別は意味不明だと思うが、差別は大事だ、愛されたことがある人とない人で差別しよう。
愛されたことのないパワーパーソンについていくと、あんまりいいことないぜ、何しろ愛されたことがないぶん、思い入れが莫大なのだ。

この世で最も貧しい人間は、わかっていないことを、笑顔でわかったふりを続ける人だ。
たとえば、もし、いわゆる文化人のような人がいて、この人が実は文化的なことのすべてを、ちっともわかっていないとしたら、この人は最も貧しい人になる/数学がわからないまま数学の教師になったら、それはすさまじい貧しさなのだ。実は空っぽで超エラそうという空前絶後の最悪さんになってしまう(しかもそれで一生いく)。
典型的には、愛のわからない人が、恋愛論を語ることはよくある、手に入らないぶん思い入れを語りボンバーしているだけなのだが、こういう人は文化のわからない文化人と結婚ボンバーでもしたらいい、それが悪いということではなく、お互いにお互いの差別されたボンバーしようぜ、という話なのだった。

決定的に差別するのは、そっちも含めて「一つ」だからだ。

愛されたことのある人と、ない人は、決定的に差別されていい、それは文化のわかる人とわからない人のように/差別していいのだ、差別でぶった切ってよい理由は、ぶった切られた双方が、断絶して「一つ」だからだ、そうでないと「一つ」ということが正しくわからない。
ただ僕は、愛されたことのない側はイヤだなと、そして文化のわからない側や思い入れをボンバーするだけの側はイヤだなと、個人的に思っているだけだ、そっちはそっちなのだろうが、おれはイヤだよ! ということに過ぎない、いろんな音楽があって、音楽じゃねーよというやつもあるが、そっちはそっち、完全な差別があって、初めてすべてが「一つ」なのだとわかる。
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Oh, 二種類の「わたし」がある!

ほほおおお、うぇえええい、ついに看破したぜ、さすがおれだ。
われわれの言うところの「わたし」は、二種類あるのだ、一種類の「わたし」しかないと思い込んでいるから、整合しないのだ。
「わたし」のアルファ状態とベータ状態があるのではなく、それぞれの「わたし」は異なる存在だ、ふたつの「わたし」は、表裏一体ではない、むしろまったく別モノと捉えたほうがいい。
ひとつのわたしは、キリスト教的にいえば「神の子」たる「わたし」、もうひとつのわたしは、「サタンの子」たる「わたし」だ、このどちらをもわれわれは生きられるのだ/うーん「わたし」そのものが二種類あるとはなかなか気づかんわな!!

「わたしが○○する」というときの「わたし」と、「○○するわたし」というときの「わたし」は、前者が「行(う)」のわたしで、後者が「受」のわたしだが、この二種の「わたし」は、「わたし」を捉える向きが違うということではなく、そもそも別の「わたし」なのだ、前者が後者になることはありえないし、後者が前者になることもありえない。
仏教的に言えば、「行」の「わたし」、「わたしが○○する」というときの「わたし」は、薩埵(さった)であり、それじたいが「僧」と捉えるべきだろう、一方で「○○するわたし」という、「受」の「わたし」は、それ自体が「カルマ」なのだ、ちゃんと仏典には「カルマが、わたしである」と書かれてある。
悪霊入りの「わたし」と、聖霊入りの「わたし」は、まったく別モノなのだ、あんぱんとクリームパンが別モノであるように/悪霊入りの「わたし」は、「○○させられている」という受のわたしであり、聖霊入りの「わたし」は、「○○している」という行のわたしだ、このことを指してトルストイは、「労働はよろこびだから」と言った。
そして、布教者が人々に聖霊を伝播するのと同じ仕組みで、悪霊だって人々のあいだを伝染するのだ、そしてわれわれの周囲は今、悪霊入りのグッズとパーソンであふれかえっている/悪霊って、「悪霊だぜオロロローン」というような、オバケチックな形で現れてくるのではない、実際に受けるのはその「力動作用」だけだ、「受」の「わたし」が目覚めるという力動作用があるだけで、それ以外には何もない、だからこそこのことはまったく気づかれない。

今多くの人の自室は、本棚にマンガがキチッと並び、テレビがあって、スマートホンがあり、SNSがあって、身体を鍛えるバーベルが少々あり、ちょっとしたトロフィーと賞状があって、「わたし」はどこにもないのではないだろうか?

察するに、今多くの人はそういう部屋で暮らしているのだが、これが悪霊包囲状態の実物なのだ、無理無理、こんなの自分で気づけるわけねーよ/人々はみな善良なのだが、善良でも悪霊入りのサタンの子としての「わたし」が生きて活動しているなんて、気づけないし発想できるわけがない、この善良な人々が互いを包囲し合ってサタンの子たる「わたしたち」を保護しあっているのだから、よくできた話だ、こりゃ善良な人ほどこの組合から脱出できねえじゃねーか。
人々はみな善良であって、善良な人ほど、他人のことを尊重し、重視しようとしているのだが、そうした善良な人々の組合は、それでいて互いにまったく愛し合うということが起こらない、そりゃそーだ、愛し合うという仕組みは聖霊入りの「わたし」がやることであって、悪霊入りの「わたし」はそんなことしないからな、悪霊入りの「わたし」は、重要・重視・尊重・丁重と、互いに「重さ」を掛け合うことをする、重さは力だから、このことは人々の権力・暴力とつながっており、また「魅力」ともつながっている、うーんこんなことにいきなり気づける奴があってたまるか!!/とにかく二種類の「わたし」があって、それぞれは別個のものだ、この包囲状況でもう一方の「わたし」が覚醒することなんて、ほとんど不可能だろう、たいへんマズイ状況だがこれはわかりやすい状況でもあるのだ。

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「業務」と「仕事」の違い2

は、じっくり見ると、「業務」と「仕事」は関係がない。
なぜかというと、業務というのは「業」のものであって、はっきりと観測可能なことしか「業務」にはできないからだ。
たとえば料理人は、メニューに書かれているとおりの料理を、客に提供するのが業務だが、その料理の中に「季節を感じさせる」というようなことは、業務に組み込めない、なぜなら客がそこに「季節を感じているかどうか」などは、観測のしようがないからだ/せいぜいアンケートを取るぐらいしかないが、そんなことのアンケートなんてアテになるわけがない、またアンケートにどう書かれても、季節を感じさせるというような「方法」がない。
だから、いかなる腕前の料理人も、あくまで業務としては「飲食業」になる、「料理に季節を感じさせる業」なんて観測不能な業務はない/こうしてじっくり見ていくと、飲食業という「業務」と、料理人という「仕事」は、実は無関係だということがわかる。

Aさんが、50人分の食事を、30分で運搬しなくてはならないというとき、厳密にそれを「業務」として見るのならば、その業務については「高速運搬ロボット」が最強だ、もちろん「業務」も重要だから、従業員は具体的にその能力も身体に養わねばならない。
だが、冷静に考えれば当たり前のことだが、その食事を提供される50人の側から見れば、「いつものAさんが運んできてくれる」という環境と、「いつもの高速運搬ロボットが運んでくる」という環境では、住んでいる世界が違うはずだ、前者の世界では食事の運搬をAさんが「手がけている」のであり、後者の世界では誰も「手がけて」はいない/もしこの差分が不要だという人は、卒業証書の授与も授与マシーンがやればいいと主張していることになる、まあ中にはそういう極端な世界観を言いたがる人もいるのかもしれない。
数学的に純粋化して、「業務」だけを抽出すれば、「業務」とは極言するところ、「人間がロボットの代わりをしている」とも言える、人類がまだそんな便利なロボットを発明していないから、人間が代行しているだけで/実際、優秀で低コストの機械が発明された分野においては、業務はどんどん機械化されていく、だがどこまでいっても、機械やロボットがそれを「手がける」ということはありえない、どれだけ将棋の強いAIがいても、AIは演算しているだけで一切「対局」などしていない。
こうして考えていくと、けっきょく「業務」と「仕事」の違いは、「業務」が機械化も可能な、 "はっきりと観測可能なこと" に限定されるのに対し、「仕事」は "はっきりと観測はできないこと" に収束するのだ、その違いはやはり根本のところ、仕事が「わたしのすること」に起因しているから生じている/「こうしなさい」という務めのすべてはやがて機械化できるだろう、観測可能なすべてはやがて機械化できるはずだ。

機械とは永遠に「握手」できないが、Aさんとは「握手」ができる。

われわれは「握手」という、わけのわからないことを当たり前にする、わけがわからないというのは「観測不能」ということだ、握手したからといって何がどうなるというわけでも――観測上は――ない、だからAさんが手掛けてくれたメシを食べたとしても、観測上は何もないだろう/厳密に、業務のみでなく仕事に長けるということは、<<握手にあるナゾの力に長けるということだ>>、<<観測不能の力に長けるということだ>>、それは厳密には「力」ではないが、グダグダ言わずに長けてしまえばいい、長けてしまえばそんなことに文句を言うヒマ人はいない。
われわれが、業務と仕事に長けようとするとき、大前提は、業務を仕事の言い訳にしないこと、および、仕事を業務の言い訳に、なるべくしないことだろう/業務のこなしはわれわれの、生きていく者としての問題だ、個人的な問題じゃない、一方で仕事のこなしは、われわれの問題じゃない、お前の問題だ、お前の「すること」なのだから、この二つをごちゃまぜにしないことだ。

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「業務」と「仕事」の違い

来、こんなこと、胡乱代表の僕が言うようなことではないけれども……
たとえばAさんが、50人分の食事を、30分で運搬しなくてはならないとする。
このことを、「業務」として見た場合、「業務」とは何であるか/当たり前だが、「50人分の食事の運搬を、30分で完了させる」というのが "業務" だ、それを「しなさい」ということ、これは「務め」だから「業務」と呼ばれる。
では、「仕事」とは何かというと、これは「しなさい」ということではなく、「わたしがすること」になる、わたしが「仕える事」だから、それを "仕事" と言う/この場合、業務に仕事を見つけるならば、「わたしはみなさんの食事を、ちゃっちゃと運んで気分のいい、そういう快活ですばやい奴になります」というのが、わたしの "仕事" ということになる、しぶしぶ業務をこなすのではないのだ、「これをちゃっちゃとやるのが、わたしの仕事なの」と、それは「わたしがすること」に切り替わる。

表面上は、同じ作業のように見えても、「業務」と「仕事」では、人間の使っているチャンネルが違う/「業務」というのは上から下に掛かってくる「力」のもので、「仕事」というのは下から上に向かう光・悟性のものだ。
最も簡単に言うと、「仕事」というのは、上役がいなくても成立するものだ/たとえば、すでに財を成した偉大な作曲家が、「なんとしてもこのオペラを完成させなくてはならない」とその作曲に打ち込むとき、上役は存在しえないので、彼にとって作曲は業務ではない、しかしそれは彼にとって「わたしのすること」なので、彼の「仕事」になる。
一方で、業務といえば、たとえまったく「わたしのすること」でなくても、上役から指示されれば、その務めを果たさねばならない、「特に意味はないけれど、この地域の竹林の写真を撮ってきて。うふっ」と言われても、それが業務だと言われれば力の関係として抵抗はできないのだ(職業倫理や労働組合、コンプライアンス等がより上位の力を持つ場合は除く)。
仮にAさんが、50人分の食事を30分で運搬するという、その勤務先を辞めたとする、それでAさんがもう、「ちゃっちゃと動いて気分のいい、快活ですばやい奴」でなくなるのならば、それはAさんの "仕事" ではなかったということになる、あくまで業務としてちゃっちゃと動いていたにすぎず、それは上から下への力、要するに給金で作られた力関係に従っていただけということになる(それが悪いわけではないが、それはあくまで「仕事」ではない)。

お医者様は、休日でもお医者様だ。

同じようなことはいくらでもある、たとえば武士道を往くサムライは、業務として武士道を往っているのではないし、ボブ・ディランは、業務中だけボブ・ディランなわけではない/しかし気品にあふれて見えるキャビン・アテンダントも、休日にはまったく気品にあふれていないかもしれないし、勢いがあるように見えるお笑い芸人も、楽屋ではちっとも元気がなく退屈な人かもしれない。
基本的に、業務から離れるとその命が消えるという場合は、その業務は仕事ではないのだ、あくまで業務中に掛かってくる「力」に従って、「こうしなさい」ということをやらされているだけで、「わたしがする」ということではない/われわれは、大半が何かしらの業務を課されて生きることになるが、その中で "仕事" を見つける人はごく一部だ、それは別段嘆かわしいことではなく、「わたしがすること」なんて一生見つからないのがごくフツーで当たり前のことだ、そこから「仕事」うんぬんというのは、あくまでわれわれ自身が一人一人でする「挑戦」ということになる。

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雑用4

用レベルで生きている人は、全身が低級霊の棲みかになる。
そうなってくると、次第に逆転現象が生じて、「雑用モノのほうが心地いい」「雑用モノのほうが身に馴染む」ということが起こってくる。
逆に、低級霊の棲みかになった全身に、高級霊のものを入れようとすると、全身が凍えたり、身体が動かなくなったり、嘔吐してしまうことがある/現象が逆転するのだ、十字架を見てグエッと苦しむ吸血鬼みたいに。
それだけで済めばまだいいのだが、次第に逆に、低級霊というより悪霊のレベルに達し、呪いも強い力を持ち始めると、この者は高級霊の宿っている物を「攻撃」するようになる、この攻撃は衝動さえ感じないまま突発的に出現し、対象を破壊(ないしは汚損)完了したときにも、まったくその行為に自覚がない、という場合が多い、この現象は実際のこととして大変危険だ。

僕は実際、あるレベルから、人にはっきりと、「人の大切なものに決して触れないほうがいい」と忠告することがある/ここまで言うのはもう、危機的状況が目前まで差し迫っている場合だ、なるべくそんな破滅的なことは言いつけたくないので。
人は、意識的に「大切なもの」を捉えることはできるのだが、その大切なものを、大切にできるかというと、そうはいかないのだ、身の内に低級霊が一切いないという人はほとんどない、そしてこの低級霊ないし悪霊が、高級霊(ないしは聖霊)の宿った対象を、暗殺者のように「攻撃」してしまうという現象がある、この現象は本当に自覚のないまま突然発現するので、よほど警戒してこの知識を持っていないと防げない/いわゆる「魔が差す」という現象だ、体内に棲みついた悪霊が、ここぞというときに突然出てきて「大切なもの」をズバッとやるのだ、まったく "狙いすました" かのように。
人は余裕のあるとき、そんなわけのわからない現象に巻き込まれずに済む、余裕のあるときは単に体力で作業をしているのであって、このときにトラブルは発生しない、問題は余裕のないときだ、全力を使い果たしてなお何かをせねばならないときや、体力やキャラでごまかしの利かないことに向き合った瞬間、あるいは本当に大切な何かが目の前にあるときなど、そういうときこそ注意せねばならない/また、何か良いことがあって、浮かれているときも注意だ、いわゆる「好事魔多し」ということが実際にある。
余裕のあるときは問題ない、問題は余裕のなくなるときだ、余裕のなくなるとき、「命がけ」が出現するとき……つまり「雑用」ではなくなるときだ、そのとき身の内からザワッと、まったく心当たりのない何かが飛び出してきそうになる/雑用レベルで作られたモノ、「雑用モノのほうが心地いい」「雑用モノのほうが身に馴染む」という人は、高級霊・聖霊・命がけで作られたモノに触れたとき、身の内からザワッと、まったく心当たりのない何かが飛び出してきそうになるので、そのことを避け、自然に雑用モノを自ら選ぶようになっているのだ。

ビビらずにできる仕事はない。

僕なんか、今からコンビニのレジ打ちの仕事をしろと言われても、ちゃんとできるかどうか、緊張感があってビビってしまうけどな/僕は第一にビビるのが正しいと思っている、そうして真に受けて、直面して、ビビりながら、その緊張感を正面突破していかないと、きっと自分はまともになれないと思うのだ、居直るのは人間の弱さであって強さではない。
僕のなつかしい経験を掘り起こすところ、初めて舞台に立つ一年生や、初めてセックスをする女性、初めて面接を受ける青年、みんなそのときには、どうしようもなく膝が震えていた、それはきっと正しいことだったのだと思う、「教えてくださいよ」という態度ではなく、身をもって自分でなんとかしようとしていた/今の若年層は、何事にも膝が震えるなんてことないだろうが、それは単に優秀になったということではないと思う、「教えてくださいよ」という言い方はまっとうに聞こえるが、きっと教えて済むことなんて雑用でしかないのだ。

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雑用3

「雑用」という、発想そのものが危険だ。
たとえば、アルバイトのウェイトレスがハンバーグ定食を運ぶとき、それを「雑用の忙しいやつ」と捉えて働き続けることは、誰もトクをしない悲惨な結果をもたらす。
ウェイトレスさんは、せっかくアルバイトしたのに、全身が低級霊の棲みかになるし、ぶんぶん振り回されて投げ置かれたハンバーグ定食は、低級霊の入り込んだいただけないメシになってしまうのだ/表面上の「味」は変わらない、そりゃ物理的な味は変わらねーよ、だが味というのはすべてが物理的なものではない、むしろまともな感覚の奴なら物理的なもの以外の「味」を食事のよろこびにしているものだ。
こんなこと、今さら言う必要あるかね……というのは、誰だって、「こんな奴とは握手もしたくない」という体験を、誰だって日常的にしているはずだからだ、握手だって物理的・化学的に見れば、蛋白質と筋力と何kg/屬箸いΔ海箸靴ないのであって、誰と握手してもトクにはならないし損にもならないはずだ、そんなこと言い出せば女性のヴァギナに何を突っ込んでも物理的にはタンポンと変わらないはずだろう。

「何でもやりますよ」という人、あるいは逆に、「これといって、何をする気にもなれない」という人は、ひょっとすると、すべてのことを "雑用レベル" で捉えているのかもしれない。
ふつう、まともに生きてこられたそのへんのおばあさんを捕まえて、「百人の前で歌え」と言いつけたら、「無理です、そんなこと」と拒絶するに違いないが、きょうびの女子中学生を捕まえて同じことを言いつけたら、「えー、歌うんですかあ」と、まんざらでもなく乗っかってくるような気がする。
これはきっと、人前で歌うということ、まして、マイク(アンプ)をかけて拡大して人々に聴かせるということが、評価されるうんぬん以前に、霊的に干渉することだということがわかっていないからではなかろうか/もしそのような営為をして、自分から多数の人に低級霊を送り込むようなことをしたら、それは「呪い」を行使した当事者ということになる、そして「人を呪わば穴二つ」といって、呪いをかけたぶんは自分にも返ってくるから、百人に向けて「呪い」を行使してしまったら、一挙に百の穴を自分のために掘ったことになるのだ、このようにレバレッジされた業(カルマ)を不徳に積んでしまうと、もう当人の力では生涯をかけても償却はまったく不可能になってしまう。
「雑用」という発想があって、もし人が己に「仕事」を課すのではなく、「雑用レベル」をこなすことを仕事だと捉えていたならば、この人は日々生きていくごとに、醜く低級な存在になっていってしまう/そもそも自分に任せられた仕事を「雑用」と捉えるのはどういうことだろう? 命がけで生きている感触がない人は、きっとどこかで万事を「雑用レベル」で捉えているところがあるのではないだろうか。

「雑用レベル」で生きてきた人は、自分の「手がけた」ものが残っていないはずだ。

どれだけ忙しく仕事しているように見える人でも、「雑用レベル」で生きている人は、何かを「手がけた」ということが残っていないはずだ、それこそ雑用は「手がける」ものではないのだから/先に挙げた、歌う女子中学生の例で言えば、女子中学生はそのとき、何かしらの舞台を「手がける」という感覚はまったくなしに、ただ自分の思うとおり「歌う」ということしか考えていないはずだ、それでも当人は、自分のキモチだけで「めっちゃがんばった」と誤解してしまう。
誰が手掛けたものでもなく、雑用レベルで形だけ作られたものを、目にし、耳にし、口にし、飲みこんでいる、それを摂取しつづけてへっちゃらなのは、よほど当人が鍛えられた者である場合だけだ、鍛えられていない者はすさまじい速度で低級霊に蝕まれてゆくだろう。

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雑用2
回のことは、よい発見になった。
僕は以前、みんなのぶんのスクランブルエッグを作っているとき、「割と塩を使うんですねえ」と楽しそうに声をかけられて、「しゃしゃり出てくんな!」と怒鳴りつけたことがあった、そのときのナゾが今になってわかる/きっと多くの人にとって、何か人に出す料理を作るというようなことも、「雑用」のひとつなのだ、だからみんな、何か余計に浮ついた顔つきをして、人が料理しているところを覗き込みにきたのだろう。
覗き込みに来るのは構わないのだが、僕は断言する、そういう雑用レベルで料理したものを食えば、必ず人は体調を低下させる、体調というより霊的にコンディションをガタ落ちさせるだろう/多くの人が「雑用レベルで生きている」と捉えれば、この現代のことがわかりやすくなる、そりゃわけのわからない病気や、正体不明のこころの陰鬱、世界の喪失が起こって当たり前だ。
僕は几帳面なタイプではないが、自分が人に与えるものを、雑用レベルの、つまり悪霊が混入していてもヘーキヘーキというような、粗雑なものにすることは許さない、他人のことは知らないが僕自身においては許さない/逆にどれだけ几帳面に、どれだけ丁寧にしても、精神が「雑用」の奴はダメなのだ、丁寧にすると「高品質な雑用」というものが出来てしまう、それだと不思議なことに、キッチリそこに悪霊的なものは残っているのだった、悪霊というとアレだが、 "雑用" をしたらそこには低級霊が棲んでしまうと言うほうがわかりやすいか。

以前、僕の知るバーテンダーさんが、カクテルをステアするとき、「混ぜる回数も、一応あるんですけれど、モノや季節によって違いますし、実際には、何か指先でわかるんですよ、粘度が変わるというか」と話していた。
カクテルをステアするといって、単にマドラーで混ぜるだけだが、やはりある次元でマズいカクテル・ウマいカクテルというのは存在する、むかしシェイカーを振るのでも、見習いの黒人が振ったものを飲んで「な、なんじゃこれ」というマズさだったことがある、そんなことはいくらでもあって/たとえばむかしから続いているお茶のババアが、茶葉にポットの湯を注いだだけでも、何かやたらにウマい緑茶になることがある、こういったことは本当にナゾでまったく猿まねが利かないものだ。
雑用レベルで生きている人は、ウマいカクテルを飲むべきではないし、野球部の握力で握られたような気取り寿司を食うべきだ、あるいは使い古しのタイヤのように運ばれてきた皿のスパゲティを食べるべきだし、「鶏肉と鶏卵の混合物」というような親子丼を食べるべきだ/外科医が雑用のレベルで作業しても、方法さえ合っていれば手術は「成功」するので、いつかそういう手術を受けるハメになるかもしれない、そのときもお怨みする筋合いではなくなる。
こういうことは、信じなくてもいいし、信じるか信じないかは、まさにその人次第だ/僕は "入魂" の有無で、出来上がった物に霊的な作用に差異が生じることを、あっさり信じる派だ、物の品質が高くても、霊的に上級と低級があり、そのことに比べれば、僕は物の品質なんか二の次だと感じている、低級霊入りの高級品なんぞ僕はまったく触れたくもねえよ。

その「雑用の手」で、愛するものに触れると言い張るのか?

これは万人の利益と、万人の良心のために、誠実にお伝えしておきたい、雑用レベルで生きている人に、自分の愛する何かを触れさせるべきでは決してないし、また雑用レベルで生きている当人も、人が愛している何かに触れようとするべきでは決してない、必ず、全力で、己のすべてを懸けて、その手をひっこめろ、本当に取り返しのつかないことをしでかす前に、雑用レベルで生きてきた自分の手をひっこめろ、自分の全身が低級霊の巣窟と認めることには非常な屈辱と不快が伴うのはわかるが、それにもまして優先しなくてはならないことがある、どれだけ丁寧に、大切にしますと誓っても、そんなことは通用しない厳しい事実がどうしてもあるのだ、このことに踏みとどまれるか否かが、けっきょく当人の一生を決定する。
また誰しも、この世で生きていく以上、どうしても、雑用レベルで作られた食事や、雑用レベルで生きている人との談合を、摂取しながら生きていかなくてはならない側面がある、このことについて、やたら防衛しようとしたり、やたら嘆いたりするのは、かえってマイナスになり深手が生じる/侵入してこようとする悪霊・低級霊は、己の身で「焼き払ってしまえばいい」と気丈に考えるべきだ、<<ファイヤーウォールをくぐった時点で、悪霊はすでに揮発している>>、この場合のバリアというのは城壁ではなくファイヤーウォールとして機能するのがベストだ。
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雑用

とえば先日、「月刊ワーQ第二号」を作成し、プリントアウトした、プリントアウトしたらステイプラー(ホチキス)で製本し、各員に配布する。
プリントアウトといっても、両面印刷できるプリンターは僕しか持っていないだろうし、書籍めいた用紙も僕しか持っていないだろうから、そこまでは僕自身がする、あとは、「製本ぐらいはみんなでやってもらうか」と考えた。
右端を三か所、ホチキスで留めるだけなのだが、僕はその種の几帳面な作業が苦手で、疲れ果ててしまうので、「だれか几帳面な奴がやれ」と、中型ホチキスと本文を押し付けた/みんなふだんから、「雑用は何でも申し付けてください!!」という感じなので、一も二もなく引き受けてくれた。
が、結果的に、ホチキス製本も、僕自身がやるしかないと判断することになった、今回はまあしょうがないとして、今のところすべてのことは僕がやるしかないというのが率直な現状だ。

これは、誰が悪いという話ではなく、根本的に善し悪しの話でもなく、こういうことでもないと、僕だって気づかないということなのだ/僕が製本で「疲れ果ててしまう」のは、ホチキスひとつを留めるにしても、モノがモノだけに、ひとつひとつを "入魂" でしているからだ、しょーもない冊子のホチキス製本だったとしても、それが誰かの手元に渡るのであるから、なるべく宝物のようであってほしいと、僕は大前提として願っている(それが当たり前だと、僕は勝手に思い込んでいた)。
各員に製本作業を任せたところ、ガションガションと、手早く作業する音が聞こえ始めた、僕はジロジロ見なかったが、正直なところギョッとしていたのだ、やがて宝物になるかもしれない冊子に向かって、そんな作業の仕方がある? と、僕にとっては想定外の作業音だったので、とっさに引き留めるというよりは、何が現れているのかを観察してしまった(しょせん、どうでもいいようなしょーもない冊子のことだ)。
ふだん、事務方の仕事をしている人が多いので、そのクセが出たのだと思う……と、そういうふうに言えば尤もらしいが、しょせんウソだろう、そういうことではない、そもそも何かを手作りするということや、人の宝物に触れるということの、経験や感覚がないのだ、これは善し悪しの問題ではない、こんなものを怒鳴りつけたところで、当人は本当にわかっていないのだということを、この数年来さんざん見てきた。
製本というのはいわば、「出来上がった料理を皿にのせる」というような段階だと思う、「どうせ腹の中に入ってしまえば同じよ」「皿にのってりゃダイジョーブ」という捉え方もあるだろうが、僕はそうは思わない、最後の最後でいくらでも宝物を台無しにすることが当然に可能だと思う/くれぐれも、僕はこれを非難しているのでもなければ、善し悪しを言っているのでもない、こうした見えづらいところで「差分」が生じているのだ、この差分の生成が気づかれないままわれわれの社会は進行している。

正しくは、「雑用」なんて存在しない。

僕自身、こうして目撃するまで気づきようがなかったのだ、僕自身が製本する場合、端にステイプルの一つ目を打ち込むのに、紙の反りや馴染みが合わないということで、ぐぬぬぬと格闘したまま、打ち込むのに三分ぐらい掛かっていることがよくある、なるべく冊子の背に、平行にステイプルが並ぶようにと、床の木目をガイドラインにしながら、ホチキス本体が冊子に直交するように設置して……と、僕は几帳面にしているのではない、僕には確信があるのだ、ホチキスを雑に留めたら、そんなもの絶対に人にまともに読んでもらえない。
みんなで苦心して作り上げた冊子の本文をホチキスで留め、本にする、製本するというのは、「雑用」だろうか? 僕にはそれは、営為の出来を最終的に決定する重大な締めくくりの作業に思える、くれぐれも善し悪しを言っているのではない、目撃するまで僕自身気づきようがなかったのだ、その意味では僕には「雑用」は存在していない/僕は十人分の冊子を一人でホチキスで留めたりしたら、それだけで精魂を使い果たしてヘトヘトになるので、その意味で「誰か代わりにやってくれ」と言ったのだ、これは善し悪しではなく、僕が僕自身のことをどういう奴なのか・何をやっている奴なのか、差分において理解していなかったことに問題がある。

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天国行きと地獄行きの分岐点3

存知のとおり、僕の書くものには、「自己紹介」の感じがない、ずっと僕自身の情報を元に書き話しているにも関わらずだ。
なぜ「自己紹介感」がないかというと、僕には、「○○をするわたし」という感覚がないからだ、僕には能動の方向、「わたしが○○をする」という感覚しかない。
なまじ僕自身に、「○○をするわたし」という、つまり「受」方向の感覚がなかったので、このことを見落としていたのだ、今もなお、このことは意識して捉えない限り、僕の中からは消えてしまう、僕にはこの「受」の発想じたいがない。
僕には「受」の感覚がないので、たとえば誰かに悪く言われたとか、侮辱されたとか、逆に褒められたとか、そういう「わたしが○○された」という感覚もない、僕にあるのは「わたしが○○する」という「行」の感覚だけだ/僕は努力して能動的になっているのではなく、発想の根本に能動の感覚しか持っていないだけだ。

人間が上昇するためには、いついかなるときも、目の前のものに「力を尽くす」ということが必要だ/力を尽くすからこそ、力(重さ)が使い果たされ、己の身に力・重さがなくなり、上昇するというのが正規の仕組みだ。
このとき、「行」ではなく「受」の発想だと、「○○するわたし」ということに、力(重さ)を集めてしまう、すると「わたし」に力が集まり、「わたし」が重くなっていってしまう、そして「わたし」は重さによって落下してゆき、重さゆえに「脱出不能」になる/「下降してゆき」「脱出不能になる」からこそ、それは「地獄/地の獄」と呼ばれた。
「行」という方向においては、「わたしが○○する」ということで、「わたし」の力(重さ)は無限の方向へ発散してゆけるが、「受」という方向は逆だ、何もかもが「○○するわたし」or「わたしは○○された」ということで、すべての力(重さ)が己の身に降りかかってきてしまう、すると物理的にブラックホール様態を形成していってしまい、ついには光をもってしても脱出不能という重力に到達してしまう。
今すでに、多くの人が、人に○○しろと「言われた」ならば、そのことを実行でき、あるいは「○○をするわたし」ということであれば、そのことを "魅力的に" 実行できるのに、何もなしに「わたしが○○する」ということでは、行動が能発できないはずだ、人が「力(重さ)」に帰依しているというのはそういう状態だ/魅力・権力・暴力・経済力・実力・努力という「力(重さ)」に動かされるパターンをやめなくてはならない、感受性の開発が一定のラインを超えると、もう力(重さ)の感受性に知性では対抗できなくなる。

魅力・権力・暴力・経済力・実力・努力/すべての「力」は、「死」への怯えから生じている。

人は、永遠の命でも得られないかぎりは、死に怯えつづけねばならず、死を遠ざけたいと願い、そこから力を欲し、力を希求することになる/この原理はそもそも、われわれが死に首根っこを掴まれて、死の掌中で悪あがきしていることから生じている、だからたとえどれだけの力を得たとしても、むしろその重さによって動けなくなり、死の申し子として地の底へ落下していくよりなくなるのだ。
つまりわれわれは、<<死を遠ざけるために力を得ようとするかぎり、この仕組みから脱することはできない>>、もし死の掌中たるこの仕組みから、脱出できるとすれば方法はただひとつ、生死ではなく<<「命」に力を尽くす>>ことだ、われわれはもし永遠の命を授かれるのであれば、「力」を得る必要はなくなる、これは信仰心の問題ではなく、数学的な仮想の問題だ。

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天国行きと地獄行きの分岐点2

まり「感受性」がまずい。
「感性」は悪くないし、「感覚」は当然の機能だが、「感受性」はまずい。
感受性というのは、力(重さ)の作用を「受」けて、「グッとくる」という性質のことだ、人によって様々なレベルがある。
感受性というのは、いわば悟性の反対であり、己がどれほど「力(重さ)」に帰依しているかの、具体的実態を表している/すべての力・重さは「死」から生じており、死が最大の「キャアアア(感受性)」となる。

すべての毒も、ウイルスも、感受性がなければ中毒しないし、感染もしない。
アメリカで猛威をふるうオピオイド麻薬も、人体にオピオイド受容体があるから蔓延するのだ、オピオイド受容体がなければ中毒も依存も起こりようがない。
多くの人々は、自分自身も含め、人は「力(重さ)で動く」ものだと思っている、権力や暴力、経済力、魅力、実力、筋力によって動き、動かされるのだと/だが本来、物事は重さを増せば増すほど「動かない」はずだ、そこで「重くて動かないなら、より重大なパワーを……」と、人々はさらなる力を求め、力(重さ)への帰依を極点に高めていく。
より重大なパワー、および、その重大なパワーの持ち主に向けて、「グッとくる」という反応があるのだ、これを「感受性」と呼ぶ/人々は力で動いているのではなく、その機序はこうだ、力が感受性に届き・グッときて・動いている、体内物質が受容体に受け取られた瞬間、その感覚は「グッときた」と感じられるのだ、これが感受性の正体だ。

「感受性が豊か」というのは、「力(重さ)の作用に好き放題にやられまくりで、光への悟性はわずかもない」という状態だ。

だから感受性の豊かさで言えば、政治家などがその代表格に当たる、普通の人間はそこまで「権力」への感受性を持ち合わせていないものだ、だが彼らにとってその力(重さ)は実用のものではなく信仰・帰依の対象であるから、その希求は元より際限も躊躇も持たない(その筋の権力者を重役・重鎮等と呼称することに、力が「重さ」であることがよく表れている)。
光(重さのないもの)に帰依する者にとって、力(重さ)は実用的に「適宜必要」というだけのものだが、感受性をオープンされてしまった者は、体内の受容体を蝕まれ、「グッとくる」ということ自体が信仰の対象になるのだ、そうして際限のない力と重さを信仰した者は重力によって地の牢獄へと落下してゆく、このことを古代の人々は「地獄」と呼んだ。

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天国行きと地獄行きの分岐点

、移動中だし、わかりやすさだけを考えて言う。
天国行きと地獄行きの分岐がわかった。
輪廻図と十二因縁に、地獄道と「受」の因果が書かれている、どこかで輪廻図の画像でも検索してくれ。
十二因縁において、「行・行く・行う」が人間道だ、そしてこの、「行う」の反対が「受」(地獄道)なのだ/単純にいうと「受け身」のことであり「受動態」のことだ、こんなささやかな、しかし決定的なことが、われわれの分岐点になっている。

「わたしが祈る」というのはいいのだ。
けれども、おそらく多くの人がこんにち、「わたしが祈る」ではなく「祈るわたし」になってしまっている、「受」なのだ、このことは近年隆盛した「自撮り」の圧倒的横行の原動力でもある。
「わたしが祈る」というのは「行」だから人間道の因果だ、しかしそこに「祈るわたし」という魅力的成分が混ざっているなら、それは「受」であって、地獄道の因果だ、こんなことでこんにちのわれわれは、地獄行きを大量生産されているのだった。
もちろん「地獄」というのは、一般にも恐ろしい概念であって、われわれごときが軽々に扱える言葉ではない、今ここではわかりやすさを重視して最も単純な形で書き話している。

「わたしが◯◯する」と、「◯◯するわたし」は、分岐点で、魅力的なほうが地獄行きだ。

なぜ魅力的なほうが地獄行きかというと、力はもともと「重さ」であり(kgw単位を見よ)、重さは天から地に向かうからだ/「魅力」は魑魅魍魎のうち「魅」の力を指しており、語源として悪霊のひとつを指している。
わたしがやる、わたしが頑張る、わたしが歌う、わたしが笑う、それらはまだよし、しかし現代の主流は「やるわたし」であり、「頑張るわたし」「歌うわたし」「笑うわたし」だ、これはわたしの行ではなく受であって、だからこそ魅力的に、われわれを地獄道へ案内してゆく。

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