☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
自分に課したルールが「キャラ」だ
クサーは第一にブン殴る、剣道家はブッ叩く、ランナーは突っ走る、それが「ルール」だ。
あなたは人に接したとき、第一に「どうする」だろう、ブン殴りはしないし、ブッ叩きもしないし、急に突っ走りもしないだろう、それはあなたとその場所がボクシングではないし剣道場でもないし競技場でもないからだ、あなたはスポーツ的なルールの外側にいる。
じゃああなたは、人と接したとき、どういう「ルール」で動くのだろう、そのときあなたの「自分に課しているルール」が、あなたの「キャラ」になる/接客業なら接客業、営業マンなら営業マンの、「ルール」で人に接するように、あなたはあなたの「キャラ」で人に接することになる。
ルールは呪いで形成されているので、つまり、あなたのキャラは、あなたの「呪い」なのだ、これは呪いなので、「キャラ」をやめることはできない、キャラをやめようとしてもひたすら「動けなく」なり、同時に「何かが噴き出してくる」ので、やたらに苦しむばかりになる。

極端な話、トルストイが「キャラ」だったとは、さすがに思えない/それはトルストイが、呪の人ではなく言葉の人だったからだ。
一方で、三島由紀夫や芥川龍之介は、「キャラ」ではなかったのかと言われると、「うーんひょっとしたら……」という気がする(僕は正直なところ確信している)。
人々が、「陽キャ」や「陰キャ」に分類され、オカンが妙に「オカン」だったり、老人が異様に「老人」だったり、善人がわざとらしいぐらい「善人」だったり、スポーツマンがロボットのように「スポーツマン」だったりするのは、すべて「キャラ」なのだ、そしてキャラというのは呪いだから、自分でやめようと思ってもやめることができない。
「言葉」がなければ「世界」はなく、「世界」がなければ人には接しようがないから、つまり、「言葉」がなければ「キャラ」にならざるをえないのだ、この「キャラ=呪い」の性質によって、作り笑顔をやめることはほとんど不可能で、たとえ一時的に作り笑顔をやめられたとしても、初対面の誰かに接するときには必ずまたその「作り笑顔」が湧き出てくる、この「作り笑顔」はキャラの一部であって呪われたものだから自分で除去できないのだ。

「言葉」を持たない人は、「キャラ」にしかなれない。

「キャラ」が悪いというわけではない、むしろ単純に生きていくには、「キャラ」のほうが便利で有利ということさえあるだろう、ただ言葉を持たない人は永遠に「キャラ」でありつづけるから、どういじくっても「その人」に出会うことはできない、そのことでやがて苦しむのかどうかは僕にはわからないが、重要なことは、それが呪であるということで、自分の精神で始めたものでもなければ、自分の精神でやめられるものでもないということだ、思われているよりはるかに根の深い血と僻みの力が掛かっている。
言語が魂に入らないとき、言語は言葉にならず必然的に呪になるのだが、この呪が「キャラ」を形成していく、このことは実は他の動物を見れば明らかだ/他の動物で「キャラ」をする存在はないのだ、人間だけが言語を持っているので、人間だけが「呪」によってキャラを形成する。
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身近な「呪」と、縁遠い「言葉」
ールは人に「強制」する、「○○をしなさい」、また「△△をしてはいけない」と強制する(広義の「呪縛」)、この強制と命令の呪縛がルールの本質だ。
われわれは言語を持つ、それは識業を持つわれわれの特徴だが、この「言語」が魂魄のうち魄(気魄)に入ると、言語は「呪」になり、魂(ソウル)に入ると、言語は「言葉」になる。
何もむつかしい話ではないのだ、たとえば酸性・塩素系の洗剤には、「まぜるな危険」と赤字で書かれてあるだろう、あれは気魄たっぷりの言語だ、だから「まぜてはいけない」という禁止強制の呪になる、もちろんその程度なら呪であっても何の問題もないだろう。
交通標識もそうだが、たとえば「止まれ」等、ルール・強制の呪は血の色である赤で書かれるものだ、赤色のほうが視認しやすいというのはウソで、血の色でないと呪の力を持ちにくいというだけだ、サッカーで退場を意味するレッドカードも同様の理由から赤色が用いられている。

少なからぬ国の国旗には、「独立戦争で流れた血」を意味するものだと公式に定義されて、血の色である赤が施されている。
つまり、われわれが用いる言語のうち、実は呪のほうが身近であって、言葉のほうが縁遠いのだ、禁止と青色で書かれると作用がなくて、禁止と赤色で書かれたほうが作用があると、今このときに確認できるだろう。
別に色味の問題なんかどうでもいいのだが、とにかくこのところ、人々が「言葉」を失ったことが、どれだけ取り返しのつかないことなのかを深刻に痛感している/人々が言葉を失うということは、「まぜるな禁止」みたいな会話しかできないということなのだ、これは魄(気魄)で流通する言語なので、あちこちの飲み会では「言葉ではない怒鳴り声」が爆発するばかりになってしまう。
ルールには実体がないので、識業を魄に流入させる「呪」を用いて、ルールが存在するように「思い込ませる」しかない、それでどういうことになるかというと、たとえば「路上喫煙禁止ですよ」という呪だけが強烈に作用しあい、「お正月ですね」という言葉はまったく伝わらなくなるのだ(言葉は伝わらず「意味」しか伝わらない)/すでに多くの人は「あけおめ」や「メリクリ」のメールさえ送らなくなっただろう、それは流行りすたりではなく、「言葉」が失われて「呪」の世の中になったということなのだ。

「ルールがある」ということは、誰でもわかるのに、「言葉がある」ということは、誰もが「?」になってしまった。

たとえば僕が「男」で、あなたが「女」だったとする、するとそこには、男女の「ルール」だけがあることになり、男女の「世界」はもうないのだ、女が男の半歩後ろを歩くという、「世界」はかつてあったのかもしれないが、それを「ルール」にしたら全員発狂のアホバケモノになるのが当然だった。
陰陽でいうと、道教や儒教に書かれているように、魂は陽であり、天に往く神だ、そして魄は陰であり、地に帰る鬼だ、「まぜるな危険」というルール文言が「陰」だということぐらい感触でわかるのじゃないか/陽である魂の「言葉」が聞けりゃそれで僕としては何の文句もないのだが、人々の趨勢はまったく逆方向に突っ走っている。
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何かを「してしまう病」
クサーはブン殴るし、剣道家は打ち込むし、サッカー選手はボールをブチ込むだろうし、ランナーは突っ走るだろう、それが「ルール」だ。
この「ルール」の中にいる以上、人は「何もしない」ことなど不可能だ、「何もしない」ということは、ボクサーにブン殴られ、剣道家に打ち込まれ、サッカー選手にボールをブチ込まれ、ランナーに追い抜かれるということで、つまり「ボッコボコにされる」ということだ、ボッコボコにされるのでは耐えられるわけがない(し、耐えていても何のトクもない)。
いかなるルールブックを見ても、「第一条 何もしないこと」なんて書かれているはずがない、「何もしない」では、「それは何の競技になるんだよw」という笑い話にしかならない。
よって、呪われたルール・マンは、「何もしない」ということが決してできない、常に何かを「してしまう病」に罹っているのだ、人のやることや話すことを、黙って見ているとか聴いているとかいうことは、呪われたルール・マンには不可能になる。

僕は、断じて「何もしない」人間だ、なぜなら僕は、人をブン殴っても、小手や面に打ち込んでも、ゴールにボールを蹴り込んでも、突っ走って人を追い抜いても、僕にとっては得点にならないからだ、それらが得点になるというのはヨソのルールであって、僕にはそもそもそのルールがない。
僕は断じて「何もしない」/そりゃ僕だって、グラウンドにサッカーボールが転がっていたら、「えーい」とそれを蹴っ飛ばしたりはするが、仮にそれが無回転シュートとなってキーパーの手の届かないゴール隅に突き刺さったとしても、僕にとっては得点にならない、なぜなら僕には敵もいないしゴールもないからだ。
敵がないなら敵陣がないし、敵陣がないならゴールもただの網籠でしかない/42.195km走ったとしてもそこが僕の「ゴール」ではないのだから、別に何かをしたことにはなっていない、たとえルール上でそれが「敵」「敵陣」「ゴール」「マラソンゴール」と決められていたとしても、僕はもともとそのルールに失格しているのだから何の得点にもならない。
僕は断じて「何もしない」のだ、僕は「言葉」によって動いているのであり、「ルール」によって動いているのではない、だからルール上では僕は本当に「何もしていない」、僕の人生は0点だ/そして、僕にはルールがないように、ルールの人には言葉がない、言葉の人にはルールがなくて、ルールの人には言葉がないのだ。

言葉は進む、ルールは進まない。

必要な言葉を言おうか、「交通ルールのすべてには吐き気がするぜ!?」、だがこれは言葉であって、僕が道交法違反をするヒマ人だということは指さない、もともと0点の僕からどうやって減点する? もともと失格者である僕から何かの資格を剥奪することはできない。
言葉は進む、言葉は世界だから、「これは世界だったんだ」という世界に進んでいく、おれはルール違反を決してしない、ルールがない者がルール違反はできない、点数がないのだから攻撃もディフェンスもできない、点数がある者は攻撃かディフェンスのどちらかを必ず「してしまう」だろう、それをやめることはできないのだ。
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呪われたルール・マンは、「見ていない」し「聴いていない」

われた人は、いつも人の話を聴いていないし、人のやることも見ていない。
これには理由があるのだ、呪いとは「ルール」を形成する力なので、呪われた人は「ルール」を理解することしかできない/そして「ルール」の中に、人のやることを「見る」とか人の話すことを「聴く」なんてことは入りっこないのだ。
「ルール」というのは常に、「敵ゴールにボールを入れたら一点」とか「手でボールに触れたらレッドカードで退場」とか、「○○をしたら得点」「△△をしたらペナルティ」というふうに、「これをせよ」「あれをするな」を命ずるものだ、だから「自分はこれをする」「自分はあれをしない」ということしか発想に出てこない。
人のやることを静かに見ているとか、人の話すことを黙って聴いているとかいうことが、呪われたルール・マンには不可能なのだ、呪われたルール・マンは、常に「何かをしてしまう病」に罹っているし、それでいて「肝心なときには動けない病」罹っている。

この、呪われたルール・マンは、「フィクション」や「世界」のことがよくわかっていない。
人のやることを「見る」ということがないためだ、人のやることを見ていないし、人が話すことを聴いてもいないので、そこにどういう「世界」があるのかをわかっていない、これは意識的にそうしようとしても機能として不能のことだ。
フィクションや世界のことがわからないので、この呪われたルール・マンは、ジョークやユーモアの機能がまったくなく、他人のジョークに笑っているときも、雰囲気を察して笑っているだけだ、本質的に何が「面白い」のかをわかっていない。
こうして結果的に、呪われたルール・マンは、そこにどういう「世界」があるのかもわからないまま、そこで何かを「してしまう」ことをやめられず、肝心なことについては「自分から動けない」という状態になる/そうして、そこにあった「世界」を台無しにする破壊者になり、「世界」に寄与することには発想が起こらない消費者になる、それでいて本人はルール・マンだから、自分はどうしても「正義」だと感じているのだ、何しろ自分は何もルール違反をしておらず、ジョークとユーモアで世界を形成している人のほうがルール違反者なのだから。

呪われたルール・マンは、他人に感服したことがない。

呪われたルール・マンは、いくらでもはしゃぐが、他人のすることに「す、すごい!」と目を丸くし、唖然とし、感服し、感動するということがないのだ、そりゃ人のすることを見ていないし聴いてもいないのだから他人の何かに感服することなどありようがない。
呪われたルール・マンは、「すっごーい」と、他人のことに"ワタシ"がはしゃぐだけなのだ、学習能力がない人のほとんどはこれだ/「すっごーい」と"ワタシ"がはしゃいで、よろこんで努力するふうなのだが、根本的に人のやることを見ていないし聴いてもいないので、学習するといってもその学習する対象がないのだった、ただ「わたしは努力した」というルール上の得点が加算されるだけになる。

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ルールは「呪」である
たり前だが、ボクサーは、ゴングがカーンと鳴ると、初対面の人の顔面をいきなり殴るのだ、相手がブッ倒れるよう殴る訓練をしており、しかも矛盾するように手にはやわらかいグローブをつけている。
また、剣道家は、「始め!」と言われると、初対面の人を竹刀でブッ叩くのだ、そしてキエエエエと叫ぶ、なるべく最速でブッ叩くように訓練をしており、しかも矛盾するようにわざわざ防具の上を打つのだ。
いきなりブッ叩くなら、「防具のないところを打てよ」「防具の上をわざわざ打つなよ、効かないじゃん」という気がする、でもそれが「ルール」なのだ/いきなりブッ叩いていいが、「棒はダメ、竹刀で」「竹刀は120センチ以内で、510グラム以上な」「防具の上だけを打つように」「それ以外は失格な」というルールになる。
Xという競技があるとき、実はわれわれは、「ルールを守ってXをしている」のではなく、「Xというルールそのものをしている」のだ、ルールは必要なものだし、ナメてはいけない/ルールは「呪」なのだ、「呪」によってかなり深いところまで人間を呪縛している。

剣道家は、全身全霊で、竹刀の打ち合いをしている、その中で手抜きはまったくない。
手抜きはまったくない、無我夢中……なのに、竹刀は相手の防具の上しか打たない、これはその無我夢中のレベルにまで「呪」が到達しているということだ、人間はそれぐらいの深さまで「ルールをやる」ということができる。
防具のないところを打つと、「失格」になる、失格にならなければ、つまり「合格」ということになるが、では「格」とは何のことを指すか/格とは格子であり、規格であり、人格、格付け、骨格のことだ、つまり「はみ出してはいけない骨組格子」のことを指す。
この、「はみ出してはいけない骨組格子」は、概念上だけにあり実在はしていない、だから強固にこの格子を「思い込む」必要がある、この思い込みを形成するために「呪」が用いられる、「ルール」のすべてはこうした「呪」で作られている。

「合格」ということは、その格子組みの中に磔にされるということだ。

格子の外側には「世界」がある、「世界」では初対面の人をブッ叩かないし、逆にブッ叩いてもよい、鉄の棒でも日本刀でもブッ叩いてよくて、ブッ叩くならわざわざ防具の上は狙わない、そしてブッ叩く義務はないので、ヘラヘラ笑い合っていてもよい。
剣道家は、剣道というルール格子の内側を、自分の家とし、その家の外には出なくなる、剣道という世界があるのではなく、世界から切り離された剣道という家があるのだ、「ルール」というのはすべてそうして「呪」によって世界から隔離された「家」を作る呪術だ、ただしわれわれが生きるのに家が必要ないとはなかなか言えない。
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新ルール発足

ルール発足。
という、タイトルをつけたのだが、これはウソだ。
新ルール発足などしないが、おそらく、このタイトルに、無条件で「食いつく」という反応があるはず。
フィクションのわからない人は、「世界」がわからず、その代わりに「ルール」を欲している。
その反応が、実際あるということを検出するために、偽りのタイトルをつけてみた。

スコッチを飲むとき、グラスの中でスコッチをくるくる回転させながら、香りを立てて飲むことが多いが、あれは原則、左回転はさせてはならない、だからグラスはああいう持ち方になるのだ。
という、ルールはまったく存在せず、これは完全にウソのデタラメなのだが、それでも「そういうルールがある」と言い出せば、人は食いつく性質がある/そして、そのルールを知って、それを履行することが、何か自分の「成長」「上昇」だと感じているところがある(むろん錯覚だ)。
もし僕が、その架空の「ルール」を聞いたら、「なんだそりゃ」といって、一切無視するだろうな、僕は世界を構築する言葉にしか興味がない/けれどもおそらく、そのルールを「一切無視する」ということは、呪の人にはできないのだ。
「新ルール発足」として、たとえば「朝起きたら、東西南北に一礼すること」とすれば、明日からでもそのようにやりはじめることに決めて、そのルールに自分が縛られることに違和感がない/そして東西南北に一礼しているとき、自分が「成長」「上昇」していると錯覚するのだろう? これは「呪い」の原理とピタッと合致している、「呪い」は「思い込みの術」だが、この思い込みは「ルール」という次元に重なっている。

節分に豆をまくのは、世界であってルールではない。

クリスマスも正月も、お誕生日もハロウィンも、世界であってルールではないんだよ、だが年中行事となると一気に確信づいて能動的になる人が少なからずいる、あれは、年中行事を「ルール」だと思っているからなんだな、年中行事は母親がくれた「ルール」だと思っているのだ。
女性が男性にチョコレートをあげるというのが、バレンタインデーの「世界」ではなく「ルール」になって、するとルールとしては不当なものだから、ルールの改変が起こり「友チョコ」というような意味不明の発想が生じる/現在のデタラメ化した年中行事のやり方は、何らルール違反ではない、みんなルールにのっとってやっているのでルール的には問題ない、だが「世界」はもうムチャクチャになった、特にこの十年間で<<ルール・マンが「世界」をメチャクチャにしていった>>と言えるだろう、今日もあちこちで「新ルール発足」が行われようとしている、世界のないヒマ人がそれをする。

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フィクションがわからない人の特徴2
「言葉」は世界であり、「呪」はルールだ。
そのせいで、もう何年も、「コイツ何言ってんだ?」という奴に出くわしてきたのだ、ホエホエ吠えている奴の原理というか、そいつが何を言っているのか本当にわからなかった。
たとえば週五の勤務があったとすると、週五で勤務する忙しい世界があるのじゃなく、週五で勤務するという「ルール」だけがあるのだ。
毎日が、ルール発見の日々なのだ、ruleは「支配する」という動詞でもあり、rulerだと「支配者」となる。

「言葉」がないと、「呪縛」から抜け出せない、rulerの支配下でruledであるという、まさにそのとおりになる。
未成年者の喫煙やら飲酒やら、不倫どうこうで、人々がドカーンするのはこれが原理だったのか。
タバコ葉や蒸留酒や愛の世界があるのではなく、ただただ「ルール」だけがあるのだ、おそらく彼らには酒の味などまったくわかっていなくて、ルールの味だけがわかっているのだ、これは比喩ではなく、まったくの事実として。
8ビートのルールを守って、ステップのルールを守って、週五勤務のルールを守って、男女交際のルールを守って、婚姻と出産のルールに準じれば、rulerからのご評価がいただけると、そういう感覚なのだ、ある意味「呪が作り出す健全な世の中」がこれだ、ビート・ステップ・ワーキング・ラヴィングとか、そういうことは関係なかった。

ノンフィクションは、「現実」ではなく「ルール」だ。

ルールは人を(健全に)縛るために存在しているが、縛りつけるための縄が実際に存在するわけじゃない、だから「呪」で拘束する、血と僻みで「呪縛」するのだ、僻みには「拘束・閉じ込め」も関係しているのだが(割愛)/ルール呪縛があるのは社会生活上やむをえないが、問題は、ルール呪縛だけが存在して、それが世界だと錯覚させられていることだ、もちろんそれはおれの問題じゃない。
本質的な問題は、フィクションがわからない人は、ルールしかわからないという上で、この人は「ルール遵守」かもしくは「ルール違反」しかできないということなのだ、ルール違反したからといって世界に接続できるわけじゃない/ルール違反をしたところで、自分がどれだけの呪に縛られているかに気づいて、精神的に破綻するだけだ、この精神的な破綻は、「言葉」と「世界」を持つ者を殺害するほうへ人を引き寄せていってしまう。
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フィクションがわからない人の特徴

ィクションがわからない人の特徴を発見した。
フィクションがわからない人は、「フィクション」と「ルール」の区別がつかないのだ。
「言葉」はフィクションを形成し、「呪」はルールを形成する。
たとえば「鬼ごっこ」というとき、「言葉」の人は、「鬼に追いかけられる」というフィクションで「遊ぶ」のだが、「呪」の人は、「鬼役に追いかけられる」というルールで「競う」のだ、このことは表面上は判別しがたい。

たとえば、テーブルマナーひとつを取ってもそうだ。
「言葉」の人がテーブルマナーを履行するとき、それは「食事」という言葉から形成される、「食事」のある世界をキャッチして、その世界と接続するために、テーブルマナーを履行することになる。
一方、「呪」の人がテーブルマナーを履行するとき、この人はテーブルマナーという「ルール」があると思っているのだ、だから「呪」の人がテーブルマナーを履行すると、それが「食事」という光景にならない。
仮に、「女性は男性の、半歩後ろを歩いたほうがいいよ」という話があったとして、「言葉」の人は、そういう「男女」のある世界をキャッチするのだが、「呪」の人には、そういう「男女」のルールがあると思い込むのだ、それで「どうしてこんな不当なルールがあるの」という憎悪を引き起こすことになる/「言葉」の人と「呪」の人のあいだに、まともな会話は成立しない、片側は世界の話をしているのに、片側はルールの話をしているからだ。

駅前の放置自転車にルールを課した人は、「駅前」という世界を前提に捉えていない。

なるほど、このところ、日本のみならず世界全体がクルクルパー化しているような感じが(個人的に)するのは、「世界」がわからない人が、「ルール」にしゃぶりついているからなのだ/彼らは「おはようございます」と、世界の中であいさつしているのじゃない、「あいさつをします」という(呪)ルールの中であいさつしているだけだ、なんて物騒で不穏なことだろう。
フィクションがわからない人は、僕が「twist!」と呼びかけても、「……?」と苦笑いしている、それは「twist」という言葉から見える世界がわからなくて、「twist」に定義される「ルール」を探している顔なのだ、そして「そのルールは習っていないからどうしたらいいかわかりません」となる/twistならtwistで、「早く、twistのルールをください」ということなのだ、僕の分け与えようとする世界がいつもポイポイ捨てられる理由がよくわかった。

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ズコズコバララタ

「偏りがない」というのはいい話だよ。
自分のやることをイッショーケンメーやればいいのにと思う。
誰もが自分の偏りに燃える、みたいなことはやめような、そんなことしたってテメーの人生がマシになんかならねーからよ。
おれは自分の人生がピッチピチの満っち満ちでないと納得しないが、それはつまりどこにも行かないし何もしないってことだぜ、「何もしない」はイコール「やりまくり」ってことじゃないか。

誰もが自分のバランスを取るのに必死だが、それは自分の偏りと呪いのせめぎあいごっこだろ、それはおれとはやっていることが違くない? 原理っつーか根本がよ。
おれにとっては、吹っ切るということは「偏らない」ってことだし、やりまくるってことは「偏らない」ってことだが、多くの人は違うじゃない、吹っ切るということが「偏りきる」ことだと思っていて、やりまくるってことは「偏りきる」ってことだと思っているだろ?
ズコズコバララタズコズコバララタ、これのどこに偏りがあるのかおれにはわからん、ズコズコバララタ、8ビートじゃない? 偏っていたら8ビートじゃなくない?/8ビート、この実物が出た瞬間「お休み」に入る人はいったい何をやっているんだ、偏りと呪いの愛好者かよ。
8ビートなんて単純なモンを共有できないのに、何を共有できるってんだ、みんなの言うところのつながりって、巻き込んで道連れにする、みたいなこと言っていないか、もしそうだとしたらおれはゴメンこうむるんだが。

晴れた日、名前を知らないえっちな女。

ズコズコバララタ、おれは見た目にもえっちな女は、ステキな女の一パターンだと思うが、なぜ男も女も、「えっちな女」というと、何か偏りに飛びつこうとするんだ、おれはそんなことは一言も云っていないのに。
もちろん、呪われたまま8ビートに入れるわけはない、呪われてりゃ縛られているって何度も話しているとおりだ、8ビートのコツは「何もしない」ってことだが、偏りがあると「何もしない」は不可能だろ、どうしたらいいって、オカーチャンに胴回し回転蹴りでも食わらしてもらえばいいんだ、ヒャーーーーーーーー。

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呪いが「必要」とされているということ2
「言葉」を使って、「どこへも行かない」のがナイスだ。
どこかへ行ってしまう人は、危ないので、呪いで固定しておくしかない(そのぶん言葉は剥奪される)。
バーンスタインの映像を見るとわかるが、バーンスタインは、その演奏の渦中、激しいクライマックスに至っても、ずっと「そこ」に居続けている。
呪われてもおらず、ずっと「そこ」に居続けられるのは、偏りがないからだ、偏りがないから、音楽に「言葉」があるのと出会うのである。

偏りがあると、人は必ず、「何かをしてしまう」。
何かをしてしまうと、アクション・リアクションが生成され、ストレスになる上に、元の場所からズレていってしまうので、そうならないように、呪いで固定しておく。
言葉を正しくシャウトし続けたとき、その人は「どこにも行かず」「何もせず」、ただずっとそこにありつづける、ただしそのとき、己のソウルと言葉の「精神」は、何か知らないが邂逅している、言語としての「意味」ではなく、「言葉」そのものと出会っている。
われわれは学校で、二次方程式を習うけれども、われわれはふつう、それを「何かの計算をするもの」と捉えている/だがそうではなく、本当はそれは「どこへも行かず」「何もしない」ものだ、数式の意味が使用されるのではなく、己のソウルと数式の精神が邂逅している、ただしそのことに頭がおかしくなってしまう人に向けては、「勉強が学生の本分」「これぐらい解けないと学生として恥」「ろくな大学にいけない」と呪いをかけるしかない。

「I feel good」という「語の意味」と、「I feel good」という「言葉そのものの精神」がある。

意味は理解するだけだが、精神は出会ってしまう、出会うことで頭がおかしくなり、「何かをしてしまう」人は、そうならないよう呪いで固定しておく、この場合の呪いはたいてい「歌唱力でしょ」というあたりの呪いだ、そう固定しておけば精神と出会うことはないし、その結果「何かをしてしまう」ということも避けられる。
あなたが「I feel good」と言ってみたとき、あなたは「I feel good」と、「言ってしまう」はずだ、呪いにつながれているので、あなたはその「意味を言う」しかできない、だがそれでいいのだ/「I feel good」という言葉そのものの精神と、己のソウルが出会うことはできない、もしそれが出来る人があるとすれば、それと出会ったとき厳密に「どこにも行かず」「何もせず」「そこに居続ける人」だけだ。
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呪いが「必要」とされているということ

来は、こんな手短に話してよいことではないが、さしあたりクイックに、必要分だけお伝えしておく。
人間は、誰しも言語を持っているのだが、その言語が「言葉」になるか「呪い」になるかがあって、そこに「言葉 vs 呪い」の構造が形成される、とお話ししてきている。
こう聞くと、単純に「言葉」がアタリで、「呪い」がハズレという感じがするし、それはまったくそのとおりなのだが、ことはそう単純ではなく、逆に「呪い」は必要とされていて、「呪い」なしにはやっていけないということがあるのだ、あるいは呪いなしでは「さらにキケンだ」ということがあるので、その点については「呪い」を正当に評価しなくてはならない。
「呪い」というのは、クセや意識のさらに奥、催眠術なんかよりずっと奥の、「思い込み」の根源だ、おおむね「血と僻み」によってその「思い込み」を形成するのが呪いだが、果たしてわれわれは、それら一切の「思い込み」をなしにして、まともに生きていけるのかという問題があるのだ、だから現実的には、呪いは必要か不必要かと問われると、「ぜったい必要じゃん!」と答えざるをえない現実がある。

かいつまんで言うと、そりゃ確かに、「呪い」から解き放たれて、思い込みの根源がなくなり、そのまま「言葉」にズバーッと接続できりゃ、それがベストではある、だが必ずしも「そうなるとは限らない」のだ/「呪い」から解き放たれて、思い込みの根源がなくなり、そのまま見当外れな「XXX」にズバーッと接続してしまうケースもあるのだ、だからキケンだ、実は「呪い」はこのキケンに対する安全装置としてはたらいている。
たとえばこの世間には、「神のお告げを聞いた」とか、「わたしは神だ」とか、「○○の生まれ変わりである」とか、「解脱に至った」「わたしは支配者だ」「わたしの言うとおりにするべきである」とか、そう思い込んでアチャチャになってしまった人が少なからずいる、これはひとつの典型例で、こういう人は確かに「呪い」から解き放たれたのではあるのだ、しかし、呪いを解いた後、まともなものには接続できなかったということになる/堅牢な学門の構築なしに「呪い」だけ解除すると、たいていこういうパターンになるのだ、学門がないのでアチャチャなものと接続してしまう。
また、別の典型例としては、「呪い」から解き放たれたぶん、際限なく「オバケ」や「霊」を見るようになったとか、何かに好き放題「憑かれる」ようになったとかいうパターンがある、これも、やはり堅牢な学門の構築がないままに、「呪い」だけを解除したから、その後まともでないものに接続してしまった結果だ/だから、ブラック企業に勤めながらオバケを見るという人はいないはずだ、ブラック企業の強力な呪い(思い込み形成)に掛かれば、いかなる霊感持ちも全身は呪いまみれになり「それどころじゃねえ」という状態になるだろう。
「呪い」は人を縛り、動けなくするのだが、それは「動かないようにしてくれている」という側面も持っている、まるで船の碇のように/この碇のような固定装置である「呪い」を解除すると、その人は、そのとき自分が「偏っているほう」へスーッと連れていかれてしまう、その人がビシッと「中道」(偏りがない)に至っていればいいのだが、そうでない道に偏っている場合、そうでないところへスーッと連れて行かれてしまう、だから「呪い」は現実的にはとても「必要」なものなのだ。

偏りがゼロで、碇を外せば、その船はどこにもいかない。

あなたの住んでいる部屋は、当たり前だが床が水平なはずだ、それは建築屋さんがそのように建築してくれているからだが、もし部屋の床が水平でないなら、すべてのものは次第に傾いたほうへ引っ張られていってしまう、そうなると部屋がめちゃくちゃになるので、椅子やテーブルを「固定」しておかねばならなくなる、その「固定」に使うのが「呪い」だ、むしろその「固定」がされているからこそ、部屋としての体を保っているということになる。
呪いを解除するということは、「偏りがない」ということの実現と共に為されねばならない、そうでないと、人は「偏り」があるとき、必ず<<何かをしてしまう>>のだ、その<<何かをしてしまう>>ぐらいなら、呪いがあったほうがマシだったということがほとんどだ/呪いを解除して「言葉」に至るということは、大前提として、自分の内部がいかに偏っているかを直視する作業と並行になる。

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人が「言葉」になるということ

の手前の、佳い風の日々だ、昨夜も今朝もつい散歩に出てしまった。
そして、確信するというか、学門的にこれだね、「どうやって生身の人間が言葉になるか」なのだ、人が「言葉」になるということは、「呪いを離れて言葉になる」ということ/これは身分の高い人には到達できない領域だ。
こうして学門的にクリアになってしまえば、もう落ち着いてしまうな、あとはじっくりやっていくしかない、正しい学門はビターッとした成功結果を生み出すし、正しいがゆえにビターッとした叛徒(アンチ勢)を生み出すだろう。
ワークショップの名前も、「世界のボトムを見せたりまっせ教室」に改め、一から出直しとなった、一から出直すというのは手ぶらで気楽でいい、とても身軽だ。

よくよく考え……るまでもなく、このブログだって、あるいは本サイトのほうだって、No. 001のコラムがいつかあったわけで、記事にだって第一号の記事があったわけだ。
そうして、「No. 000」という虚無から、突然「No. 001」というコラムが生じるためには、身分の低さが極限を超えていなくてはならないのだ、ゼロから唐突に「言葉」が出現する身分/この領域に接続していないかぎり、すべての営みは必ずどこかに土台を借りた業務的なものになってしまう(それが悪いというわけでは決してない)。
なぜ、文学者()である僕が、身体操作のワークショップなんかやるハメになったか、ここにきてようやく理由というか、構造が接続した、「言葉」なのだ、身体操作を教える人ならいくらでもハイレベルな人がいるし、いわゆる「身体言語」のやり方を教える人はいくらでもいるが、そうではなく「言葉」に到達させるとなると、そんな人はなかなか見当たらないのだ/それは、そういったことの先生たちは、ごくまともな人たちであって、僕のように身分が地の底を這っていたりしないからだ。
よく、「枠に嵌まらない考え方」と言われるが、そう言い出すと、「枠」という概念がすでにひとつの「枠」なので、枠から脱出できていない、そうではなく、時間軸上「枠」がまだ形成されない領域に住むのだ/自分が「言葉」になるということは、「自分が言葉を実行する」ということではなくて、「自分の実行が言葉になる」ということだ、そこには生まれたてホヤホヤの言葉が現成することになる(まあそんなこと言われても何のこっちゃわからんわい)。

6月27日という世界はまだないので、われわれは6月27日を生きられない。

そりゃまだ午前中だからな/先に6月27日という世界があるのではなく、自分の実行が、6月27日という世界になる(可能性がある)ということだ、このことを正しく取れば、「6月27日」という言葉が得られる可能性があるが、誤って先に「6月27日」なるものが存在するのだと捉えると、「6月27日」という語は言葉でなく呪いになってしまう。
たとえばこのブログの名前は「いい女で行こう」だし、本サイトの名前は「Quali, 恋愛エンターテイメント」だが、先にその言葉があったわけじゃない、僕が自分を実行して、自分の実行を言葉に現成しただけだ、たぶん僕のように根こそぎ身分の低い者は、言葉や世界を先に与えてもらえるという期待が初めからないのだろう、まあそれだけ下賤の身を生きてきた自覚はある/このことを、直接身体的にやるというぶっとびなことをワークショップでは教えるのだが(しかもメソッドまであるので草不可避)、ふつう能力どうこうでなく、「身分をそこまで落とせねーよ」という点で無理だ、だからほとんどただの見世物になる予感がするが、まあそんなことは気にしていてもしょうがないのであーる(無責任)。

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「呪いの人」ができあがる、わかりやすい例

曜ロードショーで「天空の城ラピュタ」が放映されると、ツイッターで「バルス!!」が投稿され、サーバーが落ちるという名物現象がある。
なぜこのようなことが起こるかというと、シータとパズーが「言葉で話す」からだ。
「天空の城ラピュタ」は、作品とか宮崎駿とかいう次元でなく、物語(およびその世界)として宝物なので、人々の体内にある「呪い」はこれを許さないのだ。
だからその物語と世界を"台無し"にするため、ツイッターに「バルス!!」と投稿する、これは「衝動」があるのであって、偶発的に起こることではないのだ、台無しにしないと自分が死ぬので、台無しに向けて必死にトリガーを引くのだ/これによって「天空の城ラピュタ」という物語と世界は呪われて「宝物」ではなくなった、こうしてひとつの宝物を「台無し」にした人々は、心中に「大金星」の感覚を得ているはずで、かつ当人としては、<<別に何もしていないつもり>>であるはずだ。

僕が十歳のころ、初めて金曜ロードショーで「天空の城ラピュタ」を観たときは、震えて物も言えなかった。
その後、どうしてももう一度、シータとパズーに会いたくて、当時すでにレンタルビデオ屋はあったのだが、家族とレンタルビデオ屋に行くたびに、なぜかどうしても言い出せなくて、何年間も、レンタルビデオ屋に行くたびに震え、どうすることもできず立ち尽くしていたように記憶している。
その後、なんとかテレビ放映されたものを録画することができたら、その録画を、誇張ではなく何百回も観た、当時は映像に一言一句間違わずセリフをかぶせられたほどだ(今でもだいたいできるが)、とにかくそれぐらい宝物だった/ちなみに僕は、空と雲を見上げるたび、この世界に天空の城が「ない」ということにどうしても耐えられず、「じゃあ自分で作ればいい」と考え、十歳のときに百科事典の「物質とエネルギー」という分厚い一冊を読破した、当時からすでに三相交流に目をつけていて、「でも現在の技術ではけっきょく人工衛星になってしまう、それは違う」というのが悩みだった。
それが今は、「バルス祭り」のコンテンツでしかなく、何ならもうその祭りも飽きたのだろう、飽きたのは「天空の城ラピュタ」がもう宝物ではなくなってしまったからだ……そうしてかつての宝物は「消費」されていった、典型的に、<<別に何もしていないつもり>>の人たちによって/こうして、「宝物」「言葉」「言葉を持つ者」「言葉で話す者」に相対したとき、爆発的な「台無し行動」の衝動を起こすメカニズムが「呪い」だ。

「天空の城ラピュタ」という語は、すでに「物語の言葉」ではなくなり、「コンテンツの呼称」でしかなくなった。

「バルス祭り」の勢力にとっては、シータもパズーも、ただの「キャラクター」だ、彼らにとって映画「タイタニック」の主人公ジャック・ドーソンも、ジャック・ドーソンではなく「レオ様」に見えている、彼らにとって「バルス」は滅びの言葉ではなくネタの言葉だ/こうして「宝物」を呪いによって踏み壊してきた者の身には、その行いがきっちりカルマとなって刻まれている。
このようにして、<<別に何もしていないつもり>>の人々は、当然の報いとして呪いの組に取り込まれてゆき、ふと気づいたときには、もうどのように工夫しても自分から「言葉」が出てこない状態になっているのだ、だからこそ、ますます他人の「宝物」を絶妙のタイミングで踏み砕く衝動に取り憑かれ、そのことから抜け出せない者になっていく、「言葉」を失った今、「呪い」の支配下にあらざるをえない/「言葉で話してみろ」と単純に正鵠を射られたら、ますます呪いの力に転じてその場をやりすごそうとするだろう、それは言葉を失った者にとって危急を極める死活問題だからだ。

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人のつらさがわからない人2

ういえば、最近は、はっきり言わないと理解されないのだった。
もう何年前になるのかな? 僕はいつからか、試練のたびにか、「つらい」とか「かなしさ」とか、そういったものを自分のパラメーターにするのをやめようとした。
どれだけ笑われても、どれだけ攻撃されても、どれだけ土下座させられても、どれだけ無視されても、どれだけ消費されても、「もういいや」と、それを「つらい」とか「かなしい」とか扱うすべてをやめてしまった。
今ふうに言えば、「わかりみ」をゼロにしてある、だが「わかりみ」がゼロだったとして、「つらみ」が本当にゼロなのかどうかは、外部からはわからない、二度と手に入らない宝物を次々に踏み壊され続ける、その際限のない繰り返しが、つらいのかどうか、少なくとも僕はそれを「つらい」「かなしい」と扱うことをやめた/それを徹底した自己責任と呼ぶのならそう引き受けてやろうと決めた、その先はどうなるのかまったくわからないまま、もう何年になるのかは忘れた。

僕のことを直接知る人へ、改めて訊いてみるけれども、いくらなんでも「コイツに能力が集中しすぎ」じゃない? 明らかに不自然なほど……なぜそんなことになるのかというと、これが真相だ。
今は、はっきり言わないと理解されないのだったな、だから野暮を承知で明確化するしかない、おそらく僕は膨大な「つらさ」の中に立ち続けていて、<<別に何もしていないつもり>>の人々に向かって無防備に立つということを、際限なく続けている。
そのことが、何かになると思ったわけじゃない、そういう期待をすること自体、もうやめようと決めたのだ/だからこの半年間、「カルマ」の現象が人々に現れてくるのを見つけることができたが、その発見だってオマケでしかない、僕はただ踏み壊されるためにまたゼロから宝物を作り続ける。
最近になって、「呪い」のことまでわかってきたよ、なぜ僕の作ろうとした宝物が、毎回「必ず」、絶妙のところで――僕が最も苦しむタイミングで――踏み壊され、またその破壊者も積みたくはなかったカルマを積むのかというと、そういう「呪い」が掛かっているからだ/僕への祝福に向けては重苦しくコンマ一ミリしか動かないものが、僕への破壊に向けてはきらめくほどの跳躍と鮮やかな動きを示すのは、そういう呪いが掛かっているからだ、僕の宝物を絶妙のタイミングで踏み壊したとき、その人は「大金星」の歓喜に震え、勝利に血を戦慄かせる。

僕から届けた宝物に、あなたが反応できないのは、あなたがそれをゴミ箱に捨てているからだ。

これは、うらみつらみで言っているのじゃない、学門だ、もし僕がつらさやかなしさに負けていたら、この学門は発見されなかっただろう、あなたがそれをゴミ箱に捨てたら、僕はまったく同質かそれ以上の宝物を届け直す、ふつうはありえないことだけどね/あなたの身は、際限なく届けられる宝物を、際限なくゴミ箱に捨てていることを知っているから、やがて身体の奥から震え(凍え)始める、それでも繰り返される宝物廃棄のカルマが「いくらなんでも」と極限を迎えたとき、僕は引き下がることにしている、その先は本当のクラッシュになってしまうから(そのクラッシュにまで至ると、もう戻ってこられなくなる)。
届けられた宝物を、ゴミ箱に捨てるのみならず、逆に絶妙のタイミングで鮮やかに踏み出して「大活躍」し、僕の作ったものを台無しに破壊しようとする、それが為されたとき彼(彼女)は「大金星」に歓喜する/そしてその後、「もう二度と、こんなことしたくない」と震えるほど後悔しても、決意とは逆に、「いいえ、あなたはこれからもそのことを繰り返し続けます」ということになる、なぜならそれが「呪い」だからだ、だからあなたは、初めから汚損されているコンテンツを見て楽しむほうが「気楽」で癒されると感じている。

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人のつらさがわからない人

れだけ戦争の映像を見せて、「戦争は悲惨です」と刷り込もうとしても、そもそもの「つらさ」がわからなければ、人は観念しか習得しない/自分の住んでいる町と、作ってきた町と、家族と友人と、愛した人が、爆弾で焼かれていく、そしてそれが「負け」と言われるという、その「つらさ」がわからないのでは、戦争の悲惨さなどわかりようがない。
人の「つらさ」がわからない人に、そうした「戦争は悲惨ですビデオ」を見せると、人は一足飛びに「戦争は許せないことです!」と、いきなりの正義にまでジャンプしてしまう/本来、懸命に生きてきた人たちの藁葺きの村が焼かれ、ベトコンの罠を踏んだ青年が身体を切り裂かれて死んでいくつらさとむごさを直視することは、「キラキラの正義」の出番などなくしてしまうぐらいえげつないことだ。
よくアニメ映画「火垂るの墓」が、戦争悲劇のイメージとして捉えられるが、あれは登場人物らの「閉じた人間性」が苦しいという精神的な悲劇であって、戦争の悲劇ではない、戦争の悲劇そのものを上映はしづらいだろう/戦争の悲劇というのは、娘のちょっとした火傷にもあわてて軟膏を塗って治そうとしてきた母親の目の前で、その娘に焼夷弾の油をかけてギャーと焼き殺すということだ、ちいさな火傷を治そうとしてきたことには多大なこころがあったのに、焼夷弾の油を掛けて焼き殺す側には何のこころもなかったということ、「じゃあ何のために生まれてきて、何のために尽くそうとしてきたの?」という問いかけに完全なゼロ回答しか返ってこないというのが戦争の悲劇だ(こんなもの上映できねー)。
せっかく作ろうとしてきて、せっかく守ろうとしてきて、せっかく慈しもうとしてきて、せっかく尽くそうとしてきて、そのことをすべてにしてこようとしてきたのに、それを壊す側は一瞬のことで、そしてそれを壊す側は、<<別に何もしていないつもり>>ということ、それが悲劇だということだ、しかもその<<別に何もしていないつもり>>の人こそが、一足飛びに思いつき、「キラキラの正義」を振りかざし始める……/さてこの繰り返される悲劇の向こうに、われわれの行く先はどのように用意されているのだろうか。

有益な話にするために、ちょっと差し込んで言えばこうなる、何の話をしているかというと、<<別に何もしていないつもり>>の、あなたのことですよ、ということになる。
あなたは今、<<別に何もしていないつもり>>だろうし、これまでも、<<別に何もしていないつもり>>で来たのではないだろうか。
せっかく作ろうとし、守ろうとし、慈しもうとし、尽くそうとし、それをすべてにしようとしてきて、しかしそれを<<別に何もしていないつもり>>の者たちから爆撃されて破壊されるということの「つらさ」に、目撃者としてでも凍りついてきたことがあるだろうか/もしそれがなかったとしたら、あなたはこれまで何を見て生きてきたのだろう、そして「つらさ」を見てきていないのに、なぜ「正義」だけ持っているのだろう。
<<別に何もしていないつもり>>だったとして、じゃあなぜ、あなたの身はどこか重く、のびのびとは動けず、こころの底から笑うことができず、眼の奥はどこか罪におびえていて、その声はたましいから切り離されているのだろう? <<別に何もしていないつもり>>だったとして、あなたは本当に、誰かが大切に作ろう・守ろう・慈しもうとしてきたものに対し、「壊す側」の自分を蓄積してこなかっただろうか/人の「つらさ」を見てこなかったあなたは、本当に、人の「つらさ」に対して加害者たることがゼロで来たのだろうか。

「別に何もしていないつもり」なのに、常にどこか、自分が「責められている」という感触がないだろうか?

なぜか、どこともなく自分が「責められている」という感触があって、その感触が強い人は、自分が生きるのがつらくて苦しくてしんどいから、「わたしがつらい」と感じ、何なら内心で不平不満を溜め込んでいるものだ、しかしたいていの場合、その自分が「責められている」という感触があるのは、自分は知らなくても、自分の身は知っているからだ、人の大切にしようとしてきたものを壊し、人につらい思いをさせたということを、自分は知らなくても、自分の身は知って覚えている/自分が人に与えたつらさは、上映できないレベルのものだから、それは上映されず抑圧され、引き続き自分は<<別に何もしていないつもり>>で生き続ける……だが、自分が「責められている」という感触は増大し続けていく。
本当に「別に何もしていない」のかな? もしそうだとすると、身が業(カルマ)で重くなっていくのは理論上おかしい、業は行いに応じて生じていくものだから、業が重くなるということは、必ず何か行いがあるはずだ/あえてもう一度申し上げる、せっかく作ろうとし、守ろうとし、慈しもうとし、尽くそうとし、それをすべてにしようとしてきた側には、多大なこころがある一方、それを「壊す側」には、何のこころもない、だから壊す側は<<別に何もしていない>>と感じている、壊す側は壊される側のつらさを見ていないので、<<わたしは別に何もしていない>>と確信するのだ、あとは身の重さと責められている感触だけが無制限に増大していく。

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二日間のワークショップを終えて4「身につけるコツ」

事を身につけるにはコツがある/実際、何でも身につけていってしまうヤツと、何をしてもまったく身につかないヤツとに分かれるのは、誰しも経験的に知っていることだ。
物事には、何でも「入門編」というのがあるのだが、ここが肝要だ、何をやっても身につかない人は、まずその「門に入る」ということが感覚的にないのだ、だからただの「習い事好き」になってしまう(習い事好きが悪いわけではない)。
仮に、「○○先生の収納術!」みたいなものがあったとすると、そんなものには入門もヘッタクレもない、「こうして収納しておくと、あとで取り出しやすいんですよ」「へー、なるほど」みたいなことは、ただの"オリエンテーション"でしかない/この「オリエンテーション」と、「身につく」ということの区別がついていない人がけっこういるのだ、「書類は七階に回すの、そんでコピーをロジに回すの」「はい」と教わったということは、やはりオリエンテーションであって、「身につく」ということではないのだが、これが「身についた」だと思っている人が少なからずいる。
オリエンテーションが不要ということではなく、オリエンテーションというのは概要のガイドであって、人はそのオリエンテーションを見て「入門しようかな、どうしようかな」と考えるのだ、それなのにオリエンテーションの時点で「わかった!」となっている人は、残念ながら知性が未発達すぎる。

肝要なのは「入門」であって、そのことさえわかっていればいいのだ、あとは別にいきなり中級にトライしたり、上級の真似事に挑戦してみてもかまわない、入門してしまえば後は何でも同じだ。
ただ、「入門」という感覚がない人は、永遠に致命的にダメなのだ、なぜかというと、<<門の外のものを持ち込んでくる>>からだ、これでは未来永劫一ミリも身につかない、門の内外がわかっていないので、この人は永遠に「門外漢」のまま他の人に迷惑をかけ続けてしまう。
たとえば僕が「入門編」として、「抜けて動く」ということを教えたとする、そのとき、「入門」という感覚があれば、門の内側では「抜けて動く」がすべてになるのだが、「入門」の感覚がない人は、ただの「やってみる」になるのだ、なぜなら門の外では「抜けて動く」も「力で蹴って動く」も個人の自由だからだ/つまりこの人は、「抜けて動く必要などない」のままになる、脳みその奥がそう判断しているので、この人はどれだけ時間をかけても何一つ身につかない。
「入門」の感覚がない人に、僕が「抜けて動きます」と説明すると、彼は必ず「へえー、抜けて動くんですか。やってみます」という反応になる、つまりどこまでもオリエンテーションになる/別に本当に入門する必要はないのだ、入門という「感覚」なのだ、<<入門したら門外の動きと言葉はしてはならない>>のに、そのことがどうしてもわからないのでワヤクチャになる。

身につかない人は、必ず、門の外でも内でも同じ顔・同じ声だ。

たとえば観光客が、空手の道場を観光したとして、「押忍!」とはならないだろう、観光客なのだから/「入門」の感覚がない人は、この観光客状態でオリエンテーションを聞いて「へえー」となりつづけるだけなので、本当に何も身につかない、そりゃ入門していないのだから身につくわけはないのだが、本人は観光気分でオリエンテーションにわくわくしているから幸せそうだったりする(そして本人は、「幸せだからこれが正しい」と思うようだ、それはアカン)。
今はインターネットや動画サイトが発達しているから、自宅にいながら色んな「入門編」をつまみ食いできる、ただし「門外」でつまみぐいしているだけなので、結果的に何も身につかないだろう(多くの人が経験的に実感しているはずだ)、それでけっきょく、自宅の「門」にしか入らないから、あまり意味のない親の言いつけしか身につかないことになる/冗談でなく、多くの人はすべての「入門編」が身につかず、ママの言いつけだけで生きているということが多いものだ。

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二日間のワークショップを終えて3「かっこよくなった」

っそく「かっこよくなった」と言われたので、やはり方法は合っているのだ。
「典雅になって若返った」「豪腕の外科医みたいだったのが、将来をメチャ嘱望されている天才書生という感じになった」と、そういうふうに言われた、もちろんこんなことでウソはつかない。
胴体に感覚と接続の「点」が増えたからな、それぐらいの変化は外見にも現れて当然だ、僕の身分は虫なので、ウイルスのように変異は速い、二日もやればまったく別次元に到達して当たり前だ。
誰だって正しくやれば正しく結果が得られてくるが、ひょっとすると、レベルの認識について誤解があるかもしれない、レベルなんてものはどこを基準に取るかでしかないが、見方によっては「想像を絶するほどレベルが高い」とも言えるし、「別にそんなことはない、粗雑なモンだ」とも言える。

仮に、「○○先生の収納術!」みたいなものがあったとしたら、それは「ほうほう」と聞いていれば、イッパツでわかるし、イッパツで実現可能だろう/「このようにしておけば、後で取り出しやすいんです!」「へえーなるほど」と。
しかし、さすがに僕がワークショップでやることは、そういうレベルのことではない、レベルが高いということは、何もエライということではなくて、要求される覚悟や集中力のレベルが高いということだ/なんというか、「○○サークル」という感じのノリでは、どうしても土台の緊張感としてキャッチアップできないだろう。
まったくよかれあしかれのことだと思うが、僕はそういう、「○○サークル」というようなノリにするのが苦手なのだ、僕にとっては集中力が要らないというのはイコール退屈と感じてしまうから/でも中には、そういう「○○サークル」みたいなのがやりたかったという、ただそれだけの発想だった人もあったかもしれない、そういう人にはまったく申し訳なく思う、僕はどうしてもサークル性の品質よりテクノロジーの品質を追求してしまう。
随時、ゲラゲラ笑いながらやっていて、だからこそ朝までやれるのだが、ニコニコしていたら何にもならないだろう、別にこんなワークショップに限ったことではなく、ニコニコしている人がマジな何かを獲得することは一般則として無い/僕はワークショップなんぞを有意義にしようとしているのではなく、そこに来てくれた人の人生を有意義にしようとしているのだから、「ニコニコしよう」なんてシーンはまったくないな、ただあいかわらずこのあたりが、僕が空回りする原因かもしれない(そうだとしたら、空回りのほうを続けるけれどね)。

「カンタンそうに見える」ということは、「そんなレベルにまで至ってしまっている」ということだ。

別にワークショップに限らず、何でもそうだ、このことが見えないと、目利きがないということになる/「カンタンそうに見える」というのは、逆にヤバいということだ、100あったノイズを1まで減らしたとき、それは「カンタンそう」に見える、しかし本当は逆で、「99%のノイズを排除しないとこの一点に到達できない」ということなのだ、だからそれを見た瞬間「げっ、ヤベエ」と見えないようでは目が利いていない。
目が利いていない人は、ただただノイズに引っかかるから、ノイズが100あるものを「大変そう、むつかしそう」と見、ノイズが1しかないものを「カンタンそう、それだけでいいの?」と見る/本当は逆で、ノイズを100も残していいのなら、何だってカンタンなのだ、その意味ではたいてい「大迫力」のものはカンタンなのだと言える、逆に「今って何したの?」と、もはや視認できないぐらいのものが本当に難しくなる、「今って何したの?」は本当にヤバイぐらいむつかしい。

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二日間のワークショップを終えて2(言葉と呪いの相克)
を抜いたり肩を抜いたりは、身体のことなので、身体がいったんそうなってしまえば、あとは自覚がなくても適宜勝手にそう動く/僕などは最近、歩いていて地面の出っ張りに蹴つまづいたとき、膝がポンと抜けて衝撃を受け流し、再び着地しなおすのを自分で感じ、それがなめらかすぎて「気持ち悪っ」と思ったほどだ。
そして、逆に考えれば、身体がそうして「つながり」「切れ(抜け)」を適宜勝手に使うということは、その逆、力みやクセ、こわばりや執着も、身体は勝手に使っているということだ、自覚のあるなしはまったく関係がない。
そして、もし身体のレベルで「呪い」が入っているのならば、身体は勝手に、その「呪い」も使っているということになる、僕が何の自覚もなく「言葉」を適宜使っているように、そうでない人は何の自覚もなく「呪い」を適宜使っていることになるはずだ。
僕はこのことを、問題視しているのではなく、学門として発見(discover)できたと思っている、ずっと不思議だったのだ、僕が言葉――あるいは、言語ではなくても「言葉質」のもの――を人に向けると、人の全身がひゅっと停止して閉じていくという現象を目撃してきた、それは「言葉と呪いの相克」だったのだと今になってわかる、停止して封じ込められた呪いは、そのとき表面上からは消え失せるが、その内部で力をたくわえており、決定的なチャンスを得たときに捲土重来で噴き出してくる。

まあ、「そういうものか」と、合点がいったのだった、何にせよそれは身分の高い人の話であって、けっきょく僕が口出しする筋合いのものではない。
これまで、もう何度か数えられないが、タクシーの運転手さんが、「○○ですねぇ〜」と話しかけてくるのに、「ホンマですねえ、△△が××でねえ」と僕は返すのだが、そのとたんタクシーの運転手さんは、ひゅっと停止して閉じていくのだ、もう何千回とこの現象を見てきた、これを「言葉と呪いの相克」と名付けることで、積年の疑問が解消される。
「言葉と呪いの相克」だ/ありがたいことなのだが、これは、外見上が同じ人間に見えるため、向こうが僕のことを、いちおうまともな人間と扱ってくれているからこそ、発生する余計な相克なのだ、僕が見た目にもはっきりとわかるゲジゲジ虫だったらこの相克はいちいち現れてこない、だから本当は僕も、もっと奇抜な格好でもしたほうがいいのかもしれない。
すべてを通して、「まあいいか」という感じに行き着く、梅雨の合間に今日の陽射しはうららかだ、空にヘリコプターが飛んでいる、僕には身分の高い人のむつかしいことはわからない、今日も何かを見上げる虫として生きるが、けっきょく「よくわからない」のだ、陽射しとかヘリコプターとかしかわからないのだ。

あなたの呪いが僕には届かないぶん、僕の言葉はあなたには届かない。

まさに、幸か不幸かということになるが、僕には一ミリでも上の身分のことはわからないのだ、身分というのはそれぐらい峻厳なものなのかもしれない/これまで何度も、まともな人間の身分の真似事をさせてもらってきたが、まあそのたびにヒドイ目に遭わされて、その上けっきょく何も身にならないのだ、呪いが身につかないといっていい、もちろんその気になれば身につくのだろうが、どうしても根本的にその気になれない、それは身分の高い人がフィクションや言葉に「その気になれない」のと同じで、僕だってノンフィクションや呪いに「その気になれない」。
そういえば僕は、インドに行ったとき、乞食の子供をガンジス川に放り込んでキャッキャと遊んでいたものな、どんだけ身分が低いんだよ、まあしょうがない/この身分は逆転しないので、まあなんというか、やはり「まあいいか」となるのだった、呪いが届かないぶんシリアスになる能力がそもそも与えられていないのかもしれない、梅雨の合間にこの陽射しだと、身分差よありがとうと逆に僕は言いたくなる。
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二日間のワークショップを終えて
日間のワークショップを終えて、僕自身は、改めて胴体各所(点)の連結から、腕・手先までの連結がよくなった、特にこれまで甘かった「肩」の点がちょっとはマシになったと思う、このことは「肩も『伸びる』ことでつながる」とはっきり確認できたことが有為だったと思う。
他の参加者の方たちはどうだったのかというと、正直知らない、別に誰も何も言わないし、そんなことは知ったこっちゃないというのが当方のスタイルだ(無責任)、全力で教えるがその結果がどうなるかは本人次第だろう、僕はあくまで学門をやっているのであって、他人のことをどうこうしているのではない/全力で教えるかどうかは僕の側の問題だが、全力で学ぶかどうかは僕の側の問題ではない。
「全身をつないで膝だけ抜きまーす」あたりのところまでくると、たちまち「できねー」という実態が出てくる、とはいえ、誰だって膝の構造は同じなのだから、同じように操作できないのはおかしい。
体重が乗っているほうの膝をポーンと抜くというのは、感覚的に「不可能」に思える、だが実際に僕が目の前でポンポンやるので、理論的には不可能ではないのだということがわかる/じゃあなぜ「不可能」に思えるかというと、そう思い込んでいるからだ、「膝ってこういうものですよ、カッチカチのもんですよ」と、膝が思い込んでいるので、あとはもう本人がどう信じなおそうとしても、膝の側が断固として拒否するのだった、「膝ってこういうものですよ、カッチカチのもんですよ」と。

なぜそのように、身体のことごとくに思い込みが張り付くかというと、第一には「クセ」、第二には「自意識」があるのだが、僕はその奥に第三の、「呪い」があると捉えている。
ふつう、この第三段階のところまではアプローチしない、つまり身体からクセを抜いて自意識を抜くというところまでは、どこの身体操作塾でもやるだろうが、身体からさらに呪いを抜いて、身体に「言葉」「フィクション」「物語」を生じさせるということは、ふつうやらない、やらないというか、それはすでに身体操作の領域をはみ出ているのでジャンル違いになるだろう。
思い込みの第一たる「クセ」は、障害、という感じのもので、続く第二の「自意識」は、執着、という感じのものになる、ここまではまともだが、第三の「呪い」は、もっと暴力的なものなのだ、血と僻みと、攻撃と狂気、処刑と虐殺が入っている、だからここまではふつうやらない、身体が言葉と物語を宿すということについては諦めムードなのだ/だからたまに、身体操作に関してはバツグンなのに、身体に入っている「呪い」だけは濃厚に残ったままで、「身体の動作は完璧なのに目と顔は呪い顔ですな」という人もいる、それは一部の業界では一種の名物みたいなものとして存在する(なまじ技術的には優秀なのでどうしようもないという側面があったりする)。
「呪い」は「思い込み」を利用するものだが、その原理は、ざっくり言えば催眠術と変わらない、膝が抜けないのは「体重が乗っているのでカッチカチで〜す」という催眠に掛かっているからだ、その催眠が解けたら抜くのはカンタンなものだ/ただしこの催眠が「呪い」というレベルで掛かっている部分については、そこには業(カルマ)の火が封入されているので、そこまで解放して解決するというのは常識の範囲においては「不可能」となる、もちろんそのレベルまで解放されたとき初めて、身体は「言葉」になるのでもある(いわゆる「身体言語」のことではなくて、身体が「言葉」になるということ)。

何を言っているか「わかる」のが言語(呪い)で、何を言っているか「わからん」のが言葉(物語)だ。

いわば呪い(カルマ)のレベルまで思い込みが取り外されたとき、人は初めて「ソウル」に触れることになる、おそらく言霊(ことだま)というのとは違うもので(たぶん多くの人が「言霊」と言っているのはのろいとまじないのことだ)/たぶん理解されようのないことだが、「言葉」といったとき、言語の成分が「言」であって、その土台になるソウルが「葉」なのだ、僕が人に届けようとするのはそちら「葉」のほうであって、いわば「何が書いてあるかわからん葉書がドシドシ届く」ということだ、なるべく最上級のハガキにクソみたいな意味不明の文言が書いてあるということ、だからコピーしたら値打ちがゼロになる、お前のハガキの材質はどんなだよということであって、言語の意味は言葉の価値から切り離されている。
ハガキ(ソウル)は、純度が高いほど高級品だ、そしてデカいハガキのほうが値打ちがあるだろう、たとえば「ビリー・ジーン」という言葉に言語としての意味があるか? だが「ビリー・ジーン」は高純度でデカかった/ハガキ(ソウル)に、血と僻みと思い込みの成分が混入するほど、ハガキ(ソウル)の純度は低くなる、この混入物を「切る」ことができるかという学門を、僕はえんえんしたのだった。
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ゲジゲジ虫身分再興5(このブログには言葉がある)

いうわけで、「呪い」は実際にあるのだ。
実際にある、といっても、僕はそれを、ときに覗き見することしかできない/なぜなら「呪い」は、身分の高い人のあいだでやりとりされるものだからだ。
僕のように、世界の底にへばりついているような身分のものは、身分の低さのせいで、根本的に「呪い」に触れることができない、だから上位者たちの「呪い」をときに見物して、「へええ」と感心するしかできない、つまり僕には「そんな高度な話はわからない」のだ。
誰しも「言語」を与えられて暮らしているが、身分の高い人はどうやら言語を「呪い」として用いるらしく、僕のような身分の低い者は言語を「言葉」としてしか用いることができない、ワークショップのときも僕が一人でハァハァ息を切らしているのだが、それも僕の身分が低いからだ(もう何十年もそうして生きてきた)。

このブログには、「言葉」があるのだが、それはつまり、僕のように身分が世界の底に落ちている奴には、もう「言葉しかない」からなのだ、世界の底にへばりついてしまった身分の者が、唯一掴めるのがその「フィクション」だと捉えていい。
身分の高低において、実は「僕から見てみんなのやっていることがわからない」のであって、「みんなから見て僕のやっていることがわからない」のではない、僕のやっていることは「わからない」ではなくて「やりたくない」のだ、なぜならそれは極めて下賤の身分に現れてくる象(かたち)だから。
ここしばらくまでの期間、こうした「言葉」や「フィクション」を現成せしめる者のほうが、身分が高いのかもしれないという見方もしてきたのだが、その見方には実に希望にあふれる感触があったものの、けっきょく実地のレベルにおいては破綻するしかなかった、向上心の先にフィクションの皮膜はない以上、フィクションの皮膜は下側にある、だから僕は「上位者」たりえず、積極的に「受刑者」の身分にならざるをえない、僕に対する処刑を前提にしか「許す」ということは成り立たないだろう。
僕は「言葉」でしか話せないので、「言葉」で話すのだが、そうすると呪いの力が抑えられていくので、人はどんどん動けなくなっていく、あるいは凍えて震え始める、つまり、呪いで動いている身分の高い人に対する、拮抗阻害剤のようにはたらいてしまうのだ、この繰り返しで僕は「受刑者」の度合いを深めていくことになってしまう/この身分の低い者を処刑するとき、身分の高い人は息を吹き返し活躍を得るだろう、だからこの処刑はどこかのタイミングで必ず現成せざるをえない(だとしたら初めから儀式的に「処刑」してから始めたほうがいいのではないかとも考える、果たして成立するかどうか)。

僕は「言葉がある人」ではなく、「言葉しかないヒマな奴」だ。

このブログには言葉があって、そりゃだからこそ何年もずっと読んでくれている人がいるのだろうが、これは身分の最下層に現れてくる象だから、「身内」に並べることは許されないのだ、これを「身内」に並べてしまうと、身内全体の身分が最下層に落ちてしまうから/このことは単純に、「呪いの人が偉い人」「言葉の人が下賤の人」と正しく捉え直すだけで何の矛盾もなく理解される、あなたが今目の前にしているものはゲジゲジ虫身分の実物の現れだ。
このブログには「言葉」があるが、ここにいるのは「言葉しかないヒマな虫」「フィクションしかないヒマな虫」「物語しかないヒマな虫」だ、その「ヒマな虫」の定義で、すべては整合して、すべてがストレスなく解決すると思う、ヒマな虫というのは靴の裏に踏んづけて「まあいいじゃん」って感じのものだよ、それは生まれながら上位者と下位者なのだからしょうがない(虫側もそれで別に不満はない)。

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