☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
あなたを大切にしてくれる男

を大切にすると、女によろこばれるが、同時に女に幻滅もされる、これは古くからあるトリックだ。
なぜかというと、女は男に大切にされたい半面、「わたしなんかを大切にしようとするこの男はゴミなのじゃないかしら」という観念が湧き止まないのだ、「キミが愛され慣れていないからさ」などと言われると、「ああやっぱりこの人はゴミなんだ」と女は確信してしまう。
男は断じて、女を大切にする、などという安直極まる卑劣なチート行為をしてはならないのだ、一見うまくいくようだがそれはやがて互いに失望しあってアサルトライフルで銃撃しあうヒサンなルートにしかならない。
女は男に安使いされながら、「女を安使いする権利があって当然の男性」を、自分の男として見上げていたいのだ、それがナヨナヨと「キミを大切にするよ」と言い出した日には、女性としては「ゲッ」とのけぞってただちにリステリンでうがいをしたくなるのだった。

ただし、この正しい関係性は、女性が女性として自信と誇りを保っているときにしか成り立たない。
自信を失い、誇りを見失っているところの女性は、だいいちに自分を大切にしてくれる男にすがりたくなってしまう、そこでひとまず自己愛と自信を満足させてから、「じゃ用事は済んだので、この男を捨てよう」という発想になる。
何にしても嘆かわしいことだ、女を大切にするという男と、大切にされて恢復したいという女の組み合わせは、どうしても発生するが、やがて決裂する一時的な救済措置でしかない。
かといってもちろん、女を大切にしない男はサイテーなので、男は女を大切にするしかないのだが、男が女を大切にしているということは"一ミリもバレてはだめ"なのだった、結果的に大切にしているのに、それがわずかもバレないということが必要だ。

あなたを大切にしてくれる男は、最高にありがたい男だが、最低ランクの男でもある。

女の側が自信と誇りを取り戻したとき、「なんでこの人は、わたしごときを大切にして、他に大切なものがないのかしら」と気づいてしまい、急激に愛想が尽きる。
思い出せ、あなたをズタズタにしたあの人は、あなたに何もかもを与えてくれたのに、あなたを大切にしてくれるあの人は、実はあなたに何も与えていない/あなたを本当に大切にしてくれた人はどっちだったのか? これは古くからあるトリックだ。

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「物議」というジョーク
ユーチューバーが、縁日に出ているテキ屋のくじ引きに、大きな「アタリ」が入っていないということを暴露したらしい。
そういう動画があるのはわかるが、その動画に大きな反響がある、ということが僕にはわからない。
当の動画を見ていないので、どういうことなのかよくわからないし、でも精神衛生的にそんなものを見たくないので見ないのだが……
テキ屋のくじ引きに、そんなまともな大当たりが入っている「わけがない」と僕は思うのだが、そういったことは大騒ぎされる値打ちのあることなのだろうか、最近僕は「本気でわからない」と困惑しているのだった。

僕はこれまでに、女の部屋で煙草を吸わなかったことがないし、女の部屋で煙草を吸って文句を言われたことは一度もない。
女に水割りを作らせて、エッチなことをさせて、そのまま寝てしまっても、文句を言われたことはない/僕が「あ、しまった」と目を覚ましても、彼女はエッチなことを続けながら、「いいよ、寝てて」とやさしく言ってくれるだけだ。
女と会うのにいちいちヒゲを剃ったりはしないし、手持ちがすっからかんのときは女におごってもらったりもするが、もちろん文句を言われたことは一度もない。
まして、居酒屋のからあげにレモンを絞ったとかどうとか、いちいち確認したこともないけれど、そういう「物議」って全部ジョークで言ってるんだよな? まさか真に受けている人なんて、この世界に一人か二人ぐらいしかいないよな? 最近ちょっと本気でわからなくなってきた。

もう何年も、「物議」というジョークが続いている。

まさか真に受けている人はいない、と信じたいのだが、ひょっとしたらそうではないのかもしれない、僕はデートのときに自分の服装とか「コーディネート」なんて一ミリも考えたことがないが、文句を言われたことも一度もない。
あ、一度か二度だけ、そういうこともあったか、でもその女は明らかに狂人だったからどうでもいいのだ/まともな女はほうっておいても勝手に肩を揉んでくれたり汗を拭いてくれたり髪を整えたりしてくれるが、そういうのが実態で、何年も続く「物議」などというのは絶対にジョークなのだと、僕は信じたいのだった。
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君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず

題は、 孔子の論語にあるものだが、この句はそのまんまでわかりやすい。(ところで論語って孔子が書いたんだっけ? よくわかっていない)
「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」、つまり、「和合できていないのにうわべだけ同調している奴は寒いしショボイし間違っている」と孔子は指摘している。
これを聞くと、いかにも「なるほど!」という感じがするが、ひるがえって「じゃあ"和する"ってどうやるのよ」と考えてみると、急転直下、「うふふ、わっかんなーい」ということに気づく、それで「まあ別にいいかな」と。
「和する」ってどうやるんだろうね、孔子さん教えてください。

「和する」ということは、つまり、できない。(なんて投げやりな文脈だ)
そもそも「和する」ということができないから、「同じる」ということやってるんじゃないか、んなこたわかりきっているだろ? 孔子さんそこのところ察してよね。
とにかく「和する」と「同じる」は違うらしい、まあそれぐらいは誰にでもわかる。
というわけで、偉い人いわく、「和する」ほうが偉いようなので、そう覚えておこう、「和する」ということが「オレはできるぜ!」とは一言も云っていないのでよろしく。

同じているけど和してないぜ、そりゃあな。

たとえば僕は男性で、女の子は女性だから、僕と女の子は「同じる」ことはできんな、僕はオカマでもないし断種もしていないからな。
でも女の子と、和したいので、どうしたらいいかと、悩むばかりなのだった。

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表現者の出現がこの世で最も醜いこと
現者はクソだ。
表現者が表現するたびに世界が出現する。
その世界をどんどん信じていけばいいわけであって、表現者自体はクソだ。
誰も表現者をやりたくてやっているわけじゃないだろうのに、「表現者になりたい」という輩は誤解をしている。

表現者が表現をするたび世界が出現する。
それをどんどん信じていけばいいわけであって、表現者自体はクソだ。
「表現者になりたい」という輩は世界を否定して世界から離れたがっている。
表現者が表現する「世界」の中に、「表現者」なんていない、「戦場のメリークリスマス」の中からは「戦場のメリークリスマス」だけが聴こえてくるのであって、その中に「表現者」なんて聴こえてたまるか。

「表現者」という自己表現が、「世界」から最も遠い。

誰が演奏しているか、なんてことに何の値打ちがある? 誰が演奏しているかと言われたら、最も正しいとき、「誰も演奏していない」と答えるだろう。
演奏において最も邪魔なものは演奏だ、執筆において最も邪魔なものは執筆だ、表現において最悪に邪魔なものは表現であり、芸術において最も嘆かわしい醜さは芸術だ、表現者の出現がこの世で最も醜いことだ。
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正体不明のことに力を尽くせる器量を忘れるな

だって、自分のやるべきことをやらなくてはならない。
ところが、この「自分のやるべきこと」というのは、探しに行ってもいけないし、自分で創り出してもいけないのだ。
だいたい想像がつくだろう、「やりたいこと探し」とか「やりたいことをクリエイトする」とか、そんなものは初めからスベるに決まっているのだ、うまくいかない上にキモチワルイという大ダメージまでついてくる。
誰だって、「自分のやるべきこと」をやらなくてはならないのだが、これには何の手かがりもなくて、唯一あるヒントは、それは常に「わかりにくいもの」であるということ、および「わかりやすいものはたいていハズレ」ということだけだ。

たとえば、僕が過去を振り返ったとき、「なぜあのとき震災のボランティアにいたのだろう」「なぜ手品をしていたのだろう」「なぜ合唱団にいて指揮者をしていたのだろう」「なぜあのコと出会ったのだろう」「なぜインドにいたのだろう」「なぜ総合商社にいたのだろう」「なぜ今文章を書いているのだろう」という思いがあるが、これらすべては、今になって「なぜ」ともいえない、とてもわかりにくいことなのだ。
とてもわかりにくいことでありながら、同時に、これらのすべてが僕にとって必要なことで、ひとつにつながっている、ということだけが感覚的にわかる。
こんなデタラメなジャンルの数々が、僕にとって「必要」だったわけで、そうなるともう、それを「探す」とか「創り出す」とかいうことがいかに無力で無為かということがわかるだろう。
だから、「自分のやるべきこと」については、上っ面で「考えて」はいけないのだ、何か知らないが自分の「本体」で掴み取るしかない、それぐらいのこと十八歳にもなればわかるだろう。

「自分のやるべきこと」は、正体不明でこそ正しい。

それは正体不明だからこそ、「自分のやるべきこと」かもしれないという可能性を持っている/逆にわかりやすく「将来のために英検を取ろう」というようなことは、わかりやすいがゆえに「自分のやるべきこと」では本質的にない。
自分のやるべきことを、見逃してはならない、そしてそれがもしわかりやすいものなら、誰も見逃すわけがないのだ、見た目にはまったく正体不明にしか見えないからそれを見逃してしまうのだ/正体不明のことに力を尽くせる器量を忘れるな。

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「可能性」こそ「現実そのもの」ということ

しも未来に向けては「可能性」がある。
「いや、お前だけは例外で可能性がない。スーパーゼロ」と言いたくなるようなケースもあるが、それだって理論的にみれば間違っている。
人は誰しも未来に向けては可能性があるわけで、ただ人によってはその「可能性」を自らの手ですりつぶしていくということがあるものだ。
「可能性、ですか……」という人がまさにそれであって、「可能性」なんて自分で考えなくても理論的にあるっちゅうねん、ということ、それがわかっていない人は自分で可能性をすりつぶすのだ。

可能性が「ある」ということと、それに「手をつける」ということは別だ。
誰しも未来に向けて可能性は「ある」が、それに「手をつける」という人はごく少ない。
僕は一年前、「速球を投げたい」というわけのわからん未来を所望し、そのとき練習したら背中がグキッとなったのでタクシーで帰ってもうやめたのだったが、実はしつこく考えてはいて、ついに昨日、はじめて自分の投げる球がホップして伸びる、という状態を獲得した、むろん僕の野球経験はゼロだ。
人は誰しも可能性を持ちながら、それに「手をつける」のはいやがるものだ、なぜなら「可能性」は「現実そのもの」だからだ、「可能性」は「かもしれない」ではなく現実そのものだという、この思いがけない真実にヒントがある。

可能性に手をつけるということは、現実と握手するということ。

現実と握手するとなると、いろいろとコワイわけで、だから人は可能性を「かもしれない」という封印に閉じ込めておきたがる、そうしたら現実のコワさを無視していられる。
よくよく冷静に考えてみてね、「可能性」に「手をつけた」ら、そのとたんそれはもう現実でしょ、それがコワイから人は永遠にそれをしないでおくんだよ。

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なぜか永遠にグッドモーニング
白いことに気がついた。
どうやら、笑えば豊かになる、と思われている向きがあるらしい。
でもたぶん逆だな、豊かだから笑うのだ。
別に笑っていなくてもいいが、笑うのは豊かだからだ、豊かでないものが笑ったって豊かにはならない。

それで、豊かとは何かということを考えるけれども……まあ考えていないけれども。
246号線の高速道路を見上げたりすると、おお豊かだ、という感じがする、ああいうものは好きだ。
豊か、というのは、ただ当たり前に豊かなのであって、「価値」とか「所有する」とかいうこととは関係がない。
空とか海とかを自前で作った人はいないものね、そして僕は豊かだからつい笑ってしまうし、話すことがあるのだった。

朝、起きたときから豊かだ。

たぶん僕はすごくバカなところがあって、朝起きたときからはっきりと豊かなのだ、何が豊かかと言われたらわからない。
豊かさのない人は、朝起きたらまず焦って豊かさを探しにいくような気がするが、僕は生まれてこのかた一日たりとも豊かでない起床をしたことがない。
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質問豪族
合に前後して、スボーツ選手に「今の心境を」とレポーターが訊く。
それを見ていて、「なんでこいつにこんなことを訊く権利があるんだ?」と不思議に感じている。
そういう仕事なんだからしょうがないのだろうが、「こういう仕事をさせられるのはつらいな」と同情する。
しかもスポーツ選手の「心境」などというものに、わずかでも興味を持つ人がこの世に一人でもいるのかあやしいし、しかも絶対そんな心境の話なんて聞いたって誰も覚えていないのだ、これはただの時間と労力のロスでしかないと思う。

「ヤフー知恵袋」みたいなものもあるが、それを見ると「うわ、訊いてる」と思うし、「うわ、しかも答えてる」と思ってしまう。
もしこの「知恵袋」みたいな文化に触れた青年が就職して、上司になんでも「訊く」ようなことをしたら、青年はただちに張り飛ばされるか、ただちに人事部に「頼むからヨソの部署に飛ばしてくれ」と嘆願が出されるだろう。
人間は「訊く」というときに、最短にまとめる必死の工夫と最精鋭の集中力を発揮していなければならないが、「知恵袋」とか「今の心境を」とかの文化は、それとまったく正反対の人間を生み出すだろう。
すでに今、「質問豪族」みたいな人たちが少なからずいて、「わたしがわずかでも疑問をもったらただちに訊きますから」みたいなことを平気でやっていたりするのだ、上司は三日で「こいつを蹴り殺したい」ともてあますだろう。

「なんで訊いちゃだめなんですか?」とさえ訊きかねない。

おそらく甘えの極致にいて、自我と自意識が全方位に漏れ出しているのだろう、これは現代が生み出したモンスターであって、誰もその処理や処分に責任を持つつもりがない。
質問豪族は、もし「いちいち訊くな」と制されたら、内心で猛烈な不満を持つだろう、それぐらい質問の権利が自我意識において膨張している/誰でもGoogleやSiriを使っているとそうなるのかもしれない、アンサーを求める側が偉いという前提が出来上がって、この基本態度はもう洗滌できなくなる。
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最重要の能力(の欠損)6

体性がないと、自分のことが人にわかってもらえない。
そもそも主体性がないと、自分のことが自分にさえわからないだろう。
そして、自分のことが人にわからないということは、人にストレスを与えることになってしまうし、自分にさえわからないということは、自分にもストレスを与えてしまう。
「主体性のない人」は、まったく無害に見えるがそうではなくて、加害はしてこないというだけでストレスにはなってしまうのだ。

就職面接で「万事、主体性を持ってやってきたので」と履歴を披瀝できたら、そこそこ有効な説得力を持つと思う。
主体性は、すべてのまともな仕事の入口であり、すべてのまともな芸術の入口であり、すべてのまともなセックスの入口でもある。
主体性のない人は、自我がないわけではなく、自我を隠し持っているだけなので、たとえば主体性のない子供はものすごく駄々をこねて「わめいたら誰かがなんとかしてくれる」という厚かましい生き方を選択する。
主体性のない男性を、励ましてあげたくて交際した女性は、半年後「なんてタチの悪い男なのかしら」と、それまで与えてきたセックスをやりきれなく後悔するだろう。

本当は名刺を交換しているのではなく、主体性を交換している。

A社はどうする、B社はどうする、というそれぞれの主体性が交換されるのであって、もしそこに主体性がなかった場合、「なんなんですかねこの会社」と、意味不明の烙印を押される。
名刺交換をしたビジネスマンは、ただちに互いが「何を生産しようとしているか」「どういう営みに向かおうとしているか」がわからないといけない、主体性には説得力や一目瞭然性がいるし、またその主体性を第一に読み取れるということが最重要の能力なのだ。

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最重要の能力(の欠損)5
「おれが何を感じているか、何を言いたがっているか、何をしているか、しようとしているか、本当にまるっきりわからないの?」
人のことを「わかる」べし。
人のことをわかり、「呼応」するべし、それだけでまったく別次元のパラダイスDocomo80だ、なんて居心地いいの
Docomo80になる、そのことは保証する。
「そもそも、"人"って何なんですか」「主体性」「えっ」「主体性が"人"です」、その主体性に呼応するのだ、主体性が伝わってきてそれに呼応しちゃうとそれだけでパラダイス
Docomo80なの、そのことは保証する。

「その"主体性"がない人が多いんですがそれは……」「うん、まあ、それはね、うん」、そこはノーコメントでいこう(投げやり)。
たぶんすごくシンプルな話で、主体性のない人の世界を生きてきたせいで、主体性っつーもんを見たことがないんでしょうな(じゃあ呼応できないのもしょーがない)。

ちょっと笑えない問題は、「主体性のない人同士でうまくやれても意味がないぜ」というところ、でもその中でうまくやっていくことばかりに時間を使っちゃうんだよなあ……
僕なんかは主体性「しか」持っていないという奇人の類だが、問題は主体性の人を「好き」と感じてしまう場合だ、主体性のない人のことを好きになれないのに、そっちの人とうまくやる能力だけ育てていたら、そりゃもともと破綻しちゃっている。

おれのことをわかった上で、「あたしをあげるDocomo80」をやってくれ。

そりゃそうだろ、「あたしをあげるDocomo80」っつーのは、明確に「あなたにDocomo80」でないとおかしいだろ、概念上で「あたしをあげる所存ではあります」ではコエーじゃないか。
目の前の「こいつ」はどうしたらよろこぶよ? 「こいつ」が遊歩道で野良猫を撫でているとき「こいつ」は何を感じているんだ、「こいつ」には主体性しかないんだぞ、おれのことわかってね、おれはおれのことをまったく隠していないよDocomo80まあ別におれのことに限らずね、おれがパラダイス以外のことを主張するわけがないんだから。
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最重要の能力(の欠損)4

「おれが何を感じているか、何を言いたがっているか、何をしているか、しようとしているか、本当にまるっきりわからないの?」
整理1.僕のことを好きになってくれてありがとう、そのことははっきりしているね。
整理2.でも好きでいてくれているのに、僕のことが「見えていない」ね、見えていないのに「届いてはいる」から好きになってくれている。
整理3.この届け物が、お中元やお歳暮なら「わかる」のだけれど、「主体性」からなので「わからない」、「お中元やお歳暮ならわかるけど、主体性って何?」ということで、了解不能のままそれを受け取って、了解不能のまま「これ好き」となってくれている、了解不能なのにあなたは「これが一番好き」だ。

整理4.この「整理」の項目も、僕の主体性からの届けものです、届かないと意味がないし、なぜ届けるかといってその理由もおれの主体性からです、「おれが何をしているかわかる?」、たぶん「そこは考えたことがなかった」。
整理5.これまでにこんなにはっきりと「主体性」から何かを届けてくる人に会ったことがない、初めてだ、しかも赤の他人に向けてなのに、だからこれまでの知識では対処のしようがない。
整理6.これまでの「贈り物習慣事典」には、お中元やお歳暮のことは書かれているけれど、「主体性」のことは書かれていない、だからあなたはこの届け物にどう返礼したらいいかわからない、どこを調べても出てこない、動き方がわからない。
整理7.あなたは「主体性」ということはなんとなく「わかる」、が、「あなたに主体性のことを伝えようとしている僕の主体性」については「わからない」、やはり「そこは考えたことがなかった」。

整理8.おれのことがわからないのに、主体性のことだけわかってもしょうがない/目の前の「こいつ」は何ですか。

整理9.すべての事典とグーグルを捨て去って、目の前の人のことが「わかれば」それでいい。
整理10.ただこれまでに、「わかる」べき「主体」を持っている人がゼロだった、だから目の前の人のことが「わかる」という能力が養われてこなかった、十歳児が世界をまったく新しく知っていくように、このことは今ゼロから始めていい、わかるべき主体を持っている誰かに出会え。

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最重要の能力(の欠損)3

「おれが何を感じているか、何を言いたがっているか、何をしているか、しようとしているか、本当にまるっきりわからないの?」
僕がここに何を書き話そうとも、何かを書き話そうとしている「こいつ」のことがわからなければ、どんなノウハウを文面上から拾ったとしても確実に無意味だ。
おれのことが「わからん」のに、おれの言っていることがわかるわけがないじゃないか、目の前のイヌのことが「わからん」のにそのイヌがなぜ吠えているかなんてわからないだろう。
イヌが吠えたり、僕が何かを書き話したりするのは、イヌにも僕にも「自立した主体性」があるからなのだが、そもそもその「自立した主体性」を目撃したことがないので、表面的なワンワンを理解しようとする、そのワンワンの理由なんてググったってわかるわけがないじゃないか、目の前のイヌを「わかれ」よ、なぜイヌじゃなくてグーグルをあてにするのか。

今この瞬間もそう。
今目の前に、ここに何かを書き話そうとしている、「主体」が存在しているのがわかる? ワンワン。
理論上そう言いうるということじゃなくて、「おおっ、書き話そうとしてるねえ!!」「つまりあれだろ!! うまく言えんがわかるよ!!」「来てるよ!!」という感触において、目の前の「こいつ」の主体が存在しているのがわかるか。
最重要の能力というのは、目の前の「こいつ」の主体性に向けて、受け取り、読み取り、呼応する、舌なめずりして「OK」と受けて立つこころが勝手に起こる、そういう読み取りと呼応の能力のことだ、そんなの芝居していてもしょうがないだろう。


少なくとも僕は、何かを感じているし、何かを言いたがっているし、何かをしているし、しようとしている、僕の主体性において。

そんなもんね、「僕の主体性があなたの主体性に直接流入する」ということでしか、「わかる」わけがないわな、今僕が「何をしようとしている」かわかるか。
筋のいい人は、「うん、わからないけど、わかるよ、すっごくわかる」と笑顔でいる、筋の悪い人は「わかるんですけど、すっごくわからないんです、ピンとこないんです」と暗い顔をしている、暗い顔で「つまりこういうことですか」、その差は「自立済み主体性」が前提にあるかないかで分岐している。

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最重要の能力(の欠損)2

「おれが何を感じているか、何を言いたがっているか、何をしているか、しようとしているか、本当にまるっきりわからないの?」
まあいいや、まったく飾らないナマの情報をお届けしよう。
僕は主体的に生きてきたし、自発的に生きてきた、つまり自分の意志をもって生きてきた、何も人にやらされず自分で踏み出してやってきたし、クラスメートとかクラブメートとかの共同体の身内感に依存せず、必ず僕自身として突破してこの世界を生きてきた。
そして、身内でないすべての人に「こころ」を向けてきたし、愛も向けてきただろう、僕は人をよろこばせるのがどうしても好きで、笑わせるのがどうしても好きで、驚かせるのがどうしても好きで、逆にがっかりさせることがどうしてもきらいだった、それは僕の努力ではなく「性分」であって、僕はその性分をむきだしにして隠さずにきた。

たぶん多くの人にとって、その「主体性」やら「こころ」やらを赤の他人にも向けてくるという人間が、これまでにまったくおらず、僕が初めてだったのだろう。
これは自慢話をしたいわけでもないし傲慢になりたいのでもない、今やこのことがシャレにならないゴリゴリの事実だから、ヤバいぐらいこのことを認めるしかないと痛感しているし、そのことをただご報告しているにすぎない。
誰だってこれまでに、自分の世界観や人間観を構築してきているから、その自前の世界観と人間観で僕のことを理解しようとする、ところが理解は当然整合しないので混乱するのだ、<<みんな僕のことを慕ってくれるがその慕情が了解不能のままになっている>>。
これは言うなれば、これまで二十年間、点滴で栄養を摂取してきた人間が、急に口に麻婆豆腐を放りこまれたようなものだ、わけのわからない歓喜と栄養の充足があり、当然「これ好き」となるのだが、「好き」なだけで了解は不能だ、栄養といえば点滴で入れるものだと思っているので混乱する。


主体性のある人間を見たことがなければ、主体性のありようを汲み取る能力なんか持っているわけがない。

このズッコケそうなことが真相だ、最重要の能力が欠損しているのは、その最重要の能力を向ける先がこれまでに一度もなかったからだ、帆の操作の仕方がわかっていないのではなく、それ以前に海と風があって人がそこに出航するということ自体を見たことがない。
性欲と願望に振り回されて、つまり「主体性なし」にセックスしたがる男のことは「わかる」だろう、だが主体性において「お前に話すことがある」と言う僕のことは「わからない」だろう、そしてその「わからない」ほうに慕情が起こる、だから混乱する、「おれが何を感じているか、何をしようとしているか、本当にまるっきりわからないの?」。

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最重要の能力(の欠損)
「おれが何を感じているか、何を言いたがっているか、何をしているか、しようとしているか、本当にまるっきりわからないの?」
言いながら、「そりゃそうか、わかんねえんだよなこいつ」と途方にくれた。
途方にくれるというほどでもないか……とにかく、本人は真剣なつもりなのだが、最重要の能力が欠損しているし、意識もその最重要のことに向かっていないのだ。
最重要の能力は、目の前の人のことが「わかる」ということなのだが、そもそもその「わかる」という現象があること自体を知らないようだ、それは時代状況的にしょうがないのかもしれない。

「教えてくれたらわかります」ということではなくってね。
そりゃ、自前でわからないものだから、情報を知識として記憶しているだけだ、「この人は焼きそばが好きらしい」とか、それを「わかりました」ではいかにもアホウの極致じゃないか。
そうではなく、目の前の人の焼きそばの食べっぷりを見て、「お前、焼きそば好っきやなあ」と「わかる」というのが最重要の能力だ、これは本来十歳児ぐらいが身につけていく能力だろう。
「目の前の人がどれだけのかけがえない思い出を持っていて、どれだけの情熱があって今ここにいて、どれだけ勇気をもって生きていくことを覚悟していらっしゃるのか、本当にまるっきりわからないの?」、まあ本当にわからないのだろう、それはしょうがない。

この話は「わかる」だろうが、「僕」のことはわからないだろう。

つまり情報をアンダスタンドしているだけで、「人」のことがわかっていない、それはそうなるだけの状況があったのでしょうがないのだが、それにしても核心を突かなきゃいつまでたっても何もかわらない。
最重要の能力が何なのかは「わかる」だろうが、最重要の能力について話して説こうとしている僕のことは「わからない」でしょ? 最重要の能力が「わかる」なんて何も最重要の能力じゃないんだよ、先に言ったようにそんなのアホウの極致じゃないか。
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刺激と体験の違い2
が掛かりつけにしているドクターは、元、とある大病院の第一外科の医局長だ。
W先生というのだが、「どうされましたか」と問診するW先生を目前にすると、先生の胴体の真ん中から「医」が吐き出されてくるので毎回びっくりする、キャリアよりその吐き出されてくる直接の「医」に僕は圧倒される。
本当に「医者」なのだと思う、これまで何万件もの症例に向き合ってこられて、今も医学知識の最先端にいらっしゃるのだ、僕はヒシヒシ伝わってくるその気配に圧倒されて「あ、う、」と口ごもってしまう。
あと、お世話になっている動物病院のN先生も、冗談じゃなく年中無休で患畜を救ってくれているが、その中でも学会には出ているらしいし(どうやって?)、それでいてお人柄はユーモラスなのだが、それはもうスタミナという次元のものではないので、やはり圧倒されるばかりなのだった。

そうして明らかに、本物の「医者」がいてくれるので、僕は安心して健康についての診断を任せていられる、ありがたいことだ(しかもW先生は常々、「責任感のない医療」に対して強い怒りと否定を向けていらっしゃる)。
論を俟たず立派な人なのだが、そういう立派な人がいることに、僕は「刺激を受ける」という考え方が好きじゃない、僕はただ「お医者様」を「体験」できることにひたすら感謝している。
医療機関を利用する、というノンフィクションの利益を得るだけではなく、僕は「医」という文明のある世界を「体験」できるのだ、こんなにありがたいことはない。
医師免許を持っていたらノンフィクション上は「医者」のはずだが、そのことと「お医者様」と拝みたくなる体験は違う、実体験やノンフィクションは営為がフィクションのレベルにまで至っているとき初めて「体験」される、W先生は医を信じていらっしゃる。

「医」が詰め込まれたのではなくて、「医」が吐き出されてくる、W先生の真ん中から。

いわゆる詰め込み教育が貧しさを生むのはこのことなのだろう、外部から「医」を詰め込まれた人を、われわれは「お医者様」と呼びたくないのだ、本人から「医」が吐き出されてくる人をお医者様と呼びたい。
料理人もそうだし、教師もそうだな、料理やお勉強が外から詰め込まれてあるのじゃなくて、その当人の中心から吐き出されてくるものであってほしい、そうしてノンフィクションの存在はフィクションにまで及んだとき初めて「体験」されることが可能になる。
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刺激と体験の違い

とえば昔話の「桃太郎」を聞いて、「刺激を受けました」という人はいない。
一方、「〇〇くんが先輩のこと殴ったんだって」というのは「えーっ!」「やるじゃん」と刺激を受ける。
このように、「フィクションは体験を与え」「ノンフィクションは刺激を与える」という性質がある、鬼退治はフィクションだが先輩を殴るのはノンフィクションだ。
「ノンフィクションのほうが重要に思える」だろう、それは現代のわれわれが「刺激を受けて発奮したい」というやり方に慣らされているからだ、ここに「刺激を受けるのが体験だと思います」という誤解がまかりとおることになる。

誰だって「体験」が欲しくて、「刺激」を探してまわる。
また、「体験」が自分を鍛えてくれると思うから、その理由でも強い「刺激」を探してまわる。
たとえ自覚がなくても、そのときごとに流行する「新しい刺激」に振り回され、でも二か月後には消え去っている、それはそこに「体験」がないからだ、「体験」があれば消えない。
「あのときの猛然としたキモチはどこに行ったのかしら?」と、ふと気づいて焦りはじめる、すると習慣的に「強い刺激」を集めようとし始め、それを自家生産もしようとし始める、それが「体験」でないということはこれまでまったく教えられていない。

人はノンフィクションに逃避する。

戦おう、と僕は申し上げている、何のこっちゃわからなくても、僕は「戦おう」の一点張りだ、フィクションのレベルで戦うなどということは、ふつうは意味不明に聞こえる、でも一方で「刺激で発奮!」とかいうこともばかばかしいと知らないでもない。
人はノンフィクションに刺激を受け、発奮したり催眠状態になったりするが、それは「体験」ではないので後に残らない、そしてどこまでいっても人を鍛えるのはやはり「体験」のほうだ、なお「刺激」には耐性がつくのですぐに増量していって中毒になる。

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深入りするための能力

は何かに「深入り」しないと、生きているという実感が得られない。
今、「深入り」というと、やれソーシャルゲームに膨大に課金したとか、アイドルにストーキングして逮捕されたとか、母親と娘が共依存で病気になったとか、そういうことが連想されそうだ。
けれども当然、そういうことではない、深入りというのはもっと単純な、ドラマかあるいは青春のようなものだ。
この時代には、モーレツに勘違いするという人が少なくなくて、「深入り」というとイコール「狂気」だとしか連想しない人がいるのだ、まったくそんなことは支離滅裂なのだが、当人が狂気に特権があると信じているお子様なのでいかんともしがたい。

僕はかつて自分が演奏した曲を聴くと、「もうやめてくれ」と半笑いになる。
当時の思い出や、やきもきさせられたことが噴き出してきて、「もうカンベンしろよ」という気分になるのだ、当時それだけ深入りしていたのだと思う。
映画でカルカッタの映像を見たりしても、「あ、もうやめてくれ」と半笑いになる、胸を引き裂かれるほど深入りして生きてきた時間、それはすでに終わったものでありながら、僕は今もまだその続きを生きつづけている。
深入りしてきたすべてについて、「もう一度」とはまったく思わない、ただあのときのままでいたいとは思う、深入りするということはそこにこだわって居座り続けるということじゃなくて、あのときのまま進み続けることだと思う。

こだわりを超えることだけが、深入りできる能力になる。

たとえば男女交際にしたって、すぐ嫉妬や束縛やコンプレックスでキーキー言うようでは、とてもじゃないが深入りはできない、ほどほどにしか付き合いようがない。
深入りできるということは、徹底して依存しないから深入りできるということなのだろう、適当に距離をとっていかねばならないというのは、うまくやれているわけではなくて依存しないためにごまかしに長けてしまったということだと思う/むろん依存みたいなしょうもないことになるぐらいなら、距離をとってごまかしたほうがはるかに健全ではあるわけだけれど。

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低所得ということ以上の貧困
所得、ということ以上の貧困がやってくるだろう。
若い人はまだ間に合う、と思いたいし、僕はそう思っている。
低所得ということ以上の貧困、という事態に陥るのがいやなら、きっと勉強するべきなのだろう。
資格の勉強……ということもそうだが、それ以上に、脳みそが「同時多層処理」をできるよう、勉強するべきだ。

金曜ロードショーで「天空の城ラピュタ」が放映されると、「バルス!」でツイッターのサーバーが落ちる、という風物詩があった(今もあるのかな)。
それは、愉快だな、ということではなくて、たぶん物語の構造がわからず、「バルス」とか「人がゴミのようだ」とかの、「セリフ」しかわかっていないのだと思う。
「低所得ということ以上の貧困」というのは、「所得が低い上に、知性はもっと低い」という状態のことを指す、これはもう救いがない。
天空の城ラピュタは「名作」と言う、「名作!」というセリフはわかっている、でも「どう名作なの」と訊くと「逆ギレ」が返って来かねない、たぶん過去にここまで知性の荒廃した時代はない。

なぜか学校では、「知性」ということをまるで教えない。

知性があれば、まだ革命の余地が残るが、知性が無い人間は、もう消費と八つ当たりしかできなくなる、これは低所得ということ以上の貧困だ。
知性に満ちた人たちと雑居するのは一つのロマンだが、知性のない人たちと雑居するのはストレスの地獄でしかない、所得がなく知性もないという空間に閉じ込められた人が最もつらく生きるだろう。
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現代は催眠ズンドコ節3

ホなタイトルだなあ……
現代では、信じるものがなくなった人は、信じるものを捏造するのに「催眠」を用いる。
「催眠」の特徴を知っておくとよいと思うが、催眠の特徴は「内容がない」ということにある。
「内容」を持たず、ただ一定の刺激をリズミカルに与えるということ、それにより催眠状態が生まれる、催眠のためには「内容はないほうがいい」というのがミソだ。

たとえばヒトラーは、「大衆はアホだから繰り返して言うのがコツ」と堂々と言っていたし、激しい声と激しい仕草で演説をしていた、それによって聴衆を催眠状態に導いていた。
内容は問題ではなくて、内容はなるべくないほうがいいのだ、内容なしに刺激だけ繰り返す、そして警戒心を解くというのが催眠のやり方だ。
たまに居酒屋で、あまりにも内容のなさすぎる話をして、「それな!」と大声で言いあっている大学生の集団がいると思うが、あれは互いに催眠をかけあっているのだ、あんなところに「内容」なんか持ち込んだら逆に野暮になる。
「内容」があると、人は胴体から向き合ってしまう、すると催眠が解けてしまう、そして催眠が解けるということは、しんどいことなのだ、全身がドッとセメントで固まったように動けなくなる。

内容がなく、パターン化した刺激が与えられ、警戒心が解けていく、安心感ができてくる。

その安心感の中で「アガる」とか「癒される」とかいうのが催眠の定番だ、人は「物事に向き合う力がなく、しかしさびしい」というときに、この「内容のない刺激がくれる安心感」に依存する。
そして催眠状態で「やる気」を得るのだが、このとき身体は催眠によって「寝ぼけている」状態で、実はまともに動ける状態にない、にもかかわらず暗示された「やる気」を履行してしまうものだから、身体には大きな負担がかかってしまう、食事も摂る気になれずボロボロになっていってしまう。

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愛という単純な現象

は、愛というのは割と単純な現象だ。
たとえば、自分のコートを粗雑に扱われると誰だって腹が立つ。
他人のコートが粗雑に扱われていても、「おいおい」ぐらいにしか思わない。
なぜ「自分のコート」が粗雑に扱われると腹が立つのかというと、自己愛があるからだ、愛というのはただそれだけで、実は何も複雑なことではない。

中には、他人のコートであっても、「雑に扱ってやるなよ!」と本気で腹を立てて怒鳴る人もいるのだ。
そういう人は、愛が自己愛にとどまっておらず、他の人のことに及んでいる、ということにすぎない。
実は愛が難しいわけではなくて、愛が自己愛にとどまる人と、自己愛を超える人があるだけなのだ、そして自己愛を超えるのが「不可解」というだけで、愛そのものが「複雑」なわけじゃない。
自己愛を超えようと、思うことは簡単だが、そう思えるだけで実際には超えられない、どうしたって他人のコートが粗雑に扱われたことに直接「腹が立つ」ということは起こらないからだ。

男が女にマフラーを貸すのは、親切ではなくて、単に女が冷えるほうが男にとって「つらい」からだ。

目の前でばあさんが重い荷物を引きずっていたりすると、「見ていられない」という感じになる、見ているだけでしんどいのだ、それならおれが運んだほうがおれがラクだ、となる。
女にマフラーを貸したとき、礼を言われると「うっせえな」と毒づいてしまうことがあるが、これは勘所がずれているのでイライラしているのだ、僕はこの世で親切心なんか持ったことは一度もない。

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