☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
カミサマにあこがれる前に人間を敬え
「認識」の話は人気があるようだ。
「認識」よりはるかに上位の、接続や直覚の現象は確かにある。
が、それらはすべて、もともとの「認識」「識別」の能力が備わってから後の話だ、先にフワフワしてもロクなことにならない。
それは地上でろくに呼吸できない者が、水中での呼吸という難行に挑むようなものだ、あくまではるか上位のことがあるということを前提に、さておきまずはまともな「認識」の能力を強化すべきだ。

「認識から行いが為される」ということ。
これは、究極は「正しくない」のだが、究極のはるか手前、人間の初歩として絶対に「必要」なものだ。
「認識」の能力がないと、「敬う」という能力が手に入らないし、けっきょくメラウルワーに加熱していくだけだ、そんなインチキ霊感には悪霊しか憑りつかない。
公道でなめらかな安全運転ができない者が、サーキットで霊的な走りの出現にあこがれるのは、怠惰と無謀と事故の元凶にしかならん、まず「認識から行い」だ、カミサマにあこがれる前に人間を敬え。

来客にまともな茶も出せん者が、茶道に興味なんか持つな。

アルバイトもまともにこなせない者がジョブズにあこがれるな、友人や先輩にまともな言葉遣いもできない者が詩文に色気を出すな。
まともな運転、まともな応接、まともな労働、まともな会話、これらを問題なくこなせるなんて人が今の時代どれだけいようか、このまともな「認識」をイヤがって大暴れしやがるのが現代のわれわれじゃないか、もう「その場しのぎ」で時間を無駄にする余裕は残されていない。
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(レポート)現代人の滅び方4、「人間である」ということの再定義

近、「獣化」「グール化」という話をしてきた、これは聖書説では「獣」と指摘されているし、仏教説では「餓鬼畜生者」と指摘されている。
単に遺伝子上でホモサピエンスに分類されるということと、人が「人間である」ということとは異なるのだという指摘が、改めて正当性を持っていることを、誰もが冷静に認識しなくてはならない。
これまでの僕自身の徹底した観察、というよりは「目撃」に基づいて断言するなら、どれだけきれいな子も、どれだけかわいい子も、同様に「人間ではなくなっていく」、獣になりグールになり、餓鬼畜生者になっていく、何の罪もなくただつまらない「メラウルワー」の浸食によって。
人が「人間である」ということは、唯一、「認識する」という能力によって成り立っている、「認識して行いを為す」ということが失われたとき、いかなる美女も麗人もただちに人間ではなくなっていく。

「言葉」が肉から離れていく:「言葉」が身近なものでなくなっていく、「言葉」は人間の認識能力の第一であるから、まずこれが失われていく、その後はメラウルワーにおいてしか発話できなくなる(代わってメラウルワーによる発話は強烈に生じる)。
「営み」が肉から離れていく:たとえば炊事や洗濯にしても、感覚的に「何をやっているのかわからない」となり、身近なものではなくなっていく、その後はメラウルワーにおいて淫蕩や騒動、ギャンブル、競争、顕示、といったことしかできなくなる。
「人」が肉から離れていく:目の前に「○○さん」がいるはずだとしても、その認識は遠のいてゆき、目の前に人がいること自体がよくわからなくなっていく、その後はメラウルワーにおいて自己主張と自己顕示しかできなくなる。
「場所」が肉から離れていく:ここが「職場」であるとか「飲食店」であるとか、酒宴の場であるとか勉学の場であるとか、公共の場であるとかいったことが認識できなくなってゆく、その後はメラウルワーを奔出させないよう、「沈滞」「仮面」あたりの抑圧発作でやりくりをしていくしかなくなる。

すでに多くの人が「人間」でなく、「人間」の情報や記憶を使ってその場しのぎを繰り返している。

われわれは現代の社会通念において、「人が人間でない」などという言い方に不穏と不遜の躊躇を覚えるが、この際はより上位の正しい認識に至るほか道はない、多くの人が「認識」の能力を失い、代わりにマニュアル化した「記憶」を元に日々の振る舞いを強行させて暮らしている。
人は「認識して行いを為す」ということではじめて人間の道に入るので、この「認識」という能力が再建されたとき、ただちに人が「人間である」ということの実像が瞭然と発見されてくる、現代に薄々感じ取られているようなすぐ水面下の阿鼻叫喚を人間世界と見做すのは恣意的であり不当だ。

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(レポート)現代人の滅び方3、抗メラウルワーの発作
「メラウルワー」(メラメラ、ウルウル、ワーッ)の状態は、当人にとって苦しく、また醜態であるので、人はそれを生じさせまいとし、それを抑圧する。
その抑圧の衝動は発作のように表れ、それらの発作は「沈滞」「仮面」「破滅」の三種で現われてくる/現代では「仮面」は「キャラ」と言ってもいいし、「破滅」は「後悔」や「恐慌」と言ってもいい。
何かを「認識」しようとすると、すでに麻薬的習慣づけによって、ただちにメラウルワーによる「上書き」が起こってくる、そのままメラウルワーが呈される場合もあるが、それを抑圧する発作症状が呈されることもある。
このとき、表面上はメラウルワーが生じないので、平穏が成り立っているように見えるが、引き続き「認識」の瓦解は止まらないまま進行している、このようにして現代人の認識能力喪失は、「直メラウルワー呈示型」と「抗メラウルワー発作型」に分かれる。

「沈滞」:メラウルワーの奔出を封じるため、急激に眠くなったり、落下していくような沈黙に陥ったりする、または一種の急激な麻痺(numb)が生じ、認識の以前に「了解」そのものが不能の状態に陥る。
「仮面」:メラウルワーの奔出を封じるため、強固な仮面的挙動が生じ、いわゆる「キャラ」の振る舞いが強固に生じる、最も多い種は「活発で理解のよいキャラ」になる。
「破滅」:メラウルワーの奔出を封じるため、破滅的な後悔や、恐怖、自己否定などに落下していく、多くは「早く死にたい」という突発的な想念を伴う。
哀しいことに、これらの発作は少なからず、「人に迷惑をかけたくない」という美徳の精神から生じている、われわれはそのことに心痛を覚えるべきではあるが、同時にこの美徳だけでは解決には接続していないことを厳しく見る必要がある。

「認識」という静かな能力の再建だけが、これらの発作を消失させる。

直メラウルワー呈も抗メラウルワー発作も、それ自体を消失させることはできない、ただ人間の「認識する」という能力を強固に再建することのみによって、結果的にそれらは消失していく、よってあくまで注目すべきはメラウルワー側ではなく「認識する能力」のほうだ。
「認識」の能力が再建されたとき、まるで自らを縛っていた氷の鎖に温湯が注がれたように、「さっきまで苦しくて無理をしていたのは何だったの?」という解放を得る、人が人として生きるにも苦しみはあるが、メラウルワーとその抑圧に苦しむのは人としての苦しみではない。
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(レポート)現代人の滅び方2、メラウルワー
「メラウルワー」について記す。
人間には、「認識する」という能力が本来あるが、その逆側に、「メラメラする」「ウルウルする」「ワーッとなる」という機能もある。
主に「血が騒ぐ」「むしばまれる」という感触で、そのメラメラとウルウルとワーッは生じてくるのだが、これらは総称して「メラウルワー」と名付けてよい。
現代人は、何かを「認識」しようとすると、ただちに「メラウルワー」が起こってきて、「認識」が破壊される・瓦解するという状態にある、七秒前の認識はすでにメラウルワーによって破壊されて見失われる。

認識の機能がゼロでない場合、たとえば僕の話したことは、その直後においてのみは正しく「認識」される。
けれども、その数秒後、その「認識」は崩れ去ってゆき、代わって「何かメラメラ燃えさかっている」「何か涙ぐましくあわれな感じになっている」「何か暴れ出したいような、ワーッとした気持ちが起こっている」という状態になっている。
これは単純に、心身が、そのような中毒症状にまで習慣づけられ、訓練されているということだ、あらゆる静かな「認識」に対して、燃えさかるメラウルワーが「上書き」を行うようにクセがついている。
このメラウルワーのレベルテストの作成と施行も実際に可能だ、メラウルワーはレベル5ぐらいに収まってほしいところだが、多くの人で40〜50、強い人は容易に100超えのスコアを叩き出すだろう。

あくまで、「認識(およびその保持)」の能力を再建するしかない。

すでに多くの人にとって、それは自己解決不能のレベルにまで至っている、専門的な指導がなければ改善の入り口にさえ入れないだろう、今言いうるのはせめて各自が「認識」の能力を尊重し、「メラウルワー」を自覚的に発見し見切りをつけることだ。
代わりに、「認識する」という能力さえ再建されれば、何も恐れるものはない、ただし認識能力が再建されるということは、メラウルワーを各種発作で抑圧するということではない(後述する)。
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(レポート)現代人の滅び方、認識力の喪失

こ最近で研究し、発見しえたことのレポートを記す。
一言でいえば、現代人は、「認識する」という能力を喪失して破滅する。
人間には、「認識する」という能力と、「刺激を受けて盛(さか)る、発奮する」という性質とがあるのだが、この前者「認識する」という能力が非常に弱体化し、「盛(さか)る、発奮する」の側が極端な隆盛となった。
理論上、「識」の能力(認識する能力)を保全・堅持できた者だけ、現代の滅びのパターンから外れうる、あくまで理論上はそうだが、現実的にこれを為すのはとても困難なことだ(不可能というわけではない)。

感覚的な例え話にするとこんな感じだ、たとえば「認識力およびその保持のテスト」を施行したとする、このテストの作成と施行は実際に可能だ。
多くの人が、「最低限これぐらいはないと」と求めるところが認識力レベル10ぐらい、次に「尊敬するわ」と言いうるところがレベル30ぐらいだ、そして実際に自分がテストを受けると、レベル2や3あたりで脱落する。
これは本当にそうで、認識の能力はすでに常時のこととして「風前の灯火」という状態になっている、それに比べて「メラウルワー」の機能は(意味は後述する)かつての何十倍も盛(さか)っている。
現代人の「認識」の能力は壊れたのだ、「認識」のスイッチを入れようとしても「メラウルワー」のスイッチが入ってしまう、それはどのような状態かというと、部屋のエアコンを入れようとしたらなぜかエアコンでなくスピーカーのスイッチが入るというような状態だ、もう怖くてどのスイッチも押せない、現代人の体内はすでにそういう暴走状態に入っている。

自分で測定してみてもわかる、「認識する」という能力は平均7秒も保たない。

たとえばあなたは、○○市や△△区といったところに住んでいるはずだが、「ここは○○市」ということを認識としてみよう、その認識は数秒と経たず「プツ、プツ」と途切れるはずだ、そこが○○市と「知って」はいるが認識は途切れて溶けていきそうになる(やってみると非常な負担が掛かることがわかる)。
これは麻薬中毒症の患者と同じ症状で、本人は知らされないと自覚できないが、すでに壊滅的な状況なのだ、こんなことに疑問を持ってもしょうがないので、「認識する、およびそれを保持する」という能力を再建するしかない。

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単純化する人々
はストレスが掛かると攻撃的になる。
人は攻撃的になると単純化する。
ストレス下を生き延びるため、複雑性の機能を廃棄するのだ。
それはサバサバしているのでもなければ、強くなったわけでもない。

人は複雑性の機能を失ったのち、その喪失の怨みを忘れはしない。
幽(かそけ)し玉響(たまゆら)のすべてを廃棄させられた怨みを忘れてはいない。
よって、単純化した人は複雑性を残している人を怨恨によって攻撃する。
それは「怨み」なのだ、人は恨みにより、愛と芸術と夢の所有者を攻撃する。

彼/彼女は、複雑性の機能を失った。

愛と芸術と夢、また、敬いや恩、粋や機転やもののあはれの語らい等、消え失せていったそこは怨みの世界だ。
人は邪悪化せず単純化する、「つまりこういうことですよね?」と、不純な怨恨のほとばしりが聞こえる。
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永遠に油断大敵

んなことは、どうか僕の妄想でありますように。
仏教が説くところの、煩悩の「三毒」説、むさぼりとにくしみと無知の三つが、「毒」のように全身に回っていく……という話はとてもわかりやすい。
しかし、その「毒」の入り込んでゆく先が、想像を絶するほど「深い」のだとしたら?
そのにくしみが流れ込む本当のところの深度は、尋常の人間が知覚できるような深さじゃない、心理学者でさえ考えもしなかったような未知の深さに、その毒は入り込んでゆくのだとしたら/こんなことはどうか僕の妄想でありますように。

「敬い」という、現象と態度を、持てない人に気をつけて。
本当の深度まで入り込んだ毒は、通常の生活ではまず影響を及ぼしてこない、何しろ深すぎるから、表面上は「まったく問題ない」と見えるものだ。
人間は突き詰めるところ、自分では知覚できようもない深度に入り込んだ三毒により、自分では知覚できようのない現象の起こりによって、振り回されて生きるのみだったとしたら。
もし、最も深くまで入り込んだにくしみによって、自分が最も深く愛したものをこそ深淵の毒が出て傷つけてしまうという、その発作に人間は抗いようがないのだとしたら/こんなことはどうか僕の妄想でありますように。

「大丈夫な人」はいない、永遠に油断大敵だと僕は思う。

少なくとも僕はそう思っている、「人間って煩悩があるよね〜」という、そういう知覚できる範囲のことではなく、もっと知り得ない深度において、その毒はきっちり貯蓄されており、うやむやに消え去ったりはしない。
「敬い」という、現象と態度を、持てない人に気をつけて、「なぜ敬いというものが持てないのだろう?」、その新聞の読書投稿欄に書かれていそうな世間らしさの疑問は、ほとんど人智を逸脱した尋常ならざる深淵から起こっている現象への、場違いな昼行灯の疑問かもしれない。

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「何を正常とするか」という範囲内で……

ンガ「ジョジョの奇妙な冒険」の第三部で、空条承太郎は高校生なのにタバコを吸っている、こんなマンガは発禁にすべきだろうか。
あるいはアニメ映画「耳をすませば」でも、天沢と雫は公道を自転車で二人乗りしている、やはりこんなアニメ映画も放映禁止にすべきだろうか。
映画「タイタニック」においては、ローズは流浪の青年とイチャついている、これも婚約者あっての不倫だから、こんな映画は焚書でフィルムごと焼き払うべきだろうか。
「けものフレンズ」や「君の名は」などには、そんな不埒なシーンは出てこないのかもしれない/街中で少女は連日の自撮りをアップロードし、北朝鮮は相変わらずミサイルをぶっ放している。

われわれは、或るコントロールを受けることによって、簡単に「気が狂う」ことができるものだ。
われわれは、「異常になって気が狂う」のではない、あくまで「何を正常とするか」という範囲内で、そのことは起こっていく。
われわれは、喫煙と放置車両と不倫とに、やたら否定的にヒートアップするようにコントロールを受けている、それらを「カス」呼ばわりして金銭懲罰にかけることが「正常」だという風潮の中に追い込まれている。
あなたはコントロールを受けていて、そのコントロールの善悪なんて誰にもわからないが、ただそれらはあなたに向けて「大事なことを教えている」とは言えないのじゃないか、その軽薄な感触を見るかぎりは。

恋人を自転車の後ろに乗せて走ることは、「大事なこと」なのか、それとも「不法行為」なのだろうか?

僕は、その不法行為を取り締まるのは、おまわりさんだけでいいと思っている、ただしくれぐれも事故のないように、なぜ事故があってはいけないかというと、不法だからじゃなく/恋人を後ろに乗せているんだろ?
「何を正常とするか」という範囲内で、われわれはすっかり殺されている可能性がある。

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「趣味が合う」の6パターン

「男だから、女の子を笑わせてきたよ」、これ人間が、物語を捉えて行為するということ。
「男だから、女より鍛えるべきだよね」、これ修羅が、有意義を捉えて生きるということ。
「男だから、とは何のことであろうか」、これ天人が、空虚を捉えて老いるということ。
よく見てね、それぞれこういう人って実際にいるよね/これらはどちらかというと善寄りのほう。

「男だから、女に認められたいんだ!」、これ畜生が、渇愛に駆られて獲得に執着するということ。
「男だから、目立つ女は食うでしょ!」、これ餓鬼が、メラメラに駆られて勝ち組に焦がれるということ。
「男だから、女にワーッってなるの!」、これ獄人が、享受に駆られて腐蝕していくということ。
よく見てね、それぞれこういう人って実際にいるよね/これらはどちらかというと悪寄りのほう。

六タイプの趣味。

これら六つを「趣味」と言って、この「趣味が合わない」と、人は基本的にはどうしようもない/ちなみにどの趣味も本当には正しくないが、われわれはなるべく人間であるべき、善の趣味も正しくはなくて、ただせめて悪いほうの三つの悪趣味は避けるべき。
人間だけが「行為」をしている、<<「行為」のあるなしによって人間かどうかが決定される>>、思ったり悩んだり、騒いだり暴れたりするのは「行為」じゃない/われわれはなるべく人間であるべき。

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臨死体験を引き起こす物質

は、臨死体験を引き起こす物質が、すでに特定されているようなのだ。
ジ・メチル・トリプタミン(DMT)という、いかにもありふれた、簡単な構造式のものがそれだ(C12H16N2)、こいつが脳の松果体に作用する。
こいつをキメると、「いきなり」最深部にトリップするということで、世界中のドラッグ中毒者が注目しているらしい、ストラスマン博士はこの物質を「精神の分子」と呼んだ。
これはもちろん、遊びでは済まない、最悪の状況をもたらすだろう、最悪の状況とは死ぬということを指してはいない、こんなもので遊ぼうとする奴の気が知れない。

いろんなことが明らかになってきている、と感じるが、何一つ明言はできないので、やっかいなことだ。
問題は、なぜ薬物で人間が臨死体験(宗教的体験)を得るのかというところだ、もちろん本質はDMTとやらの物質にあるのではない。
DMTうんぬんは、ただの物質であって、それ自体が臨死体験を生じているのではない、臨死体験を生じているのは脳のほうだ、脳の松果体あたりに「何か」をすると脳は隠し持っていた臨死体験(宗教的体験)を解放するということだろう。
僕は精製薬物なんかキメたことないし、ホントかどうか知らないけどね、ただ僕が感じているところ、この世界の宗教的側面は実はすごくシンプルで身近にあり、これで遊んではいけない。

トリップする? それが永遠のトリップでもか。

インドで、麻薬でバッドトリップし、地獄の悲鳴を上げていた女性を見たことがある、数時間後には収まったが、あの悲鳴がやがて彼女のいく世界だったとしたら/わざわざ地獄への行き方を鍛えてどうする。
古く、われわれはいずれ永久(とわ)の旅に出ると言われているけれど、その旅(trip)がバッドトリップだったらいやだな、あの悲鳴の中を幾星霜というのは。

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他者の無事を乞うもの
る女性が、飼っているネコに湿疹ができて「かわいそう」と泣いていた、身を切られるようにつらそうだった。
そのとき、彼女自身がやけに咳き込んでいるので、「病院行ったら」というと、しぶしぶ耳鼻咽喉科に行き、「炎症してた、熱があったみたい」と報告してきた。
自分のことは放ったらかしなのに、飼っているネコちゃんに対しては、もう胸が張り裂けんばかりに心配している、まあたしかに、飼っている動物が少しでも病気をするとすさまじく心配ではある。
張り裂けそうな胸で愛されているネコちゃんは、すでにネコという顔つきを離れて、愛し愛されて存在する何者か、という顔つきをしている、愛し合う者たちはもう哺乳類レベルで顔つきと眼差しが違うものだ。

毛並みがふわっふわなネコは、かわいらしいし、華もあると思うが、「癒やされる〜」とかそういうことではない、そういう癒やしものには切実な眼差しはない。
愛は、当たり前だが、その自己の生命存在を定義している、何のために・何をもって・何によって「存在」しているかということを、説明的にではなく直接的に愛という事象が定義する。
この直接的定義が起こったとき、「華」というのも、わかるし焦がれるし存在するのだが、「別にどうでもいい」ということになるのだ、ダサいのはイヤだが、ダサいうんぬんが中枢的には何の意味も無いということが強制的にわかってしまう。
「あなたがいてくれないとダメなの」と泣くのではなく、「あなたが無事でいてくれないとダメなの」と涙が出てくるもの、それが愛だ、それは自分の無事を乞うものではなく、他者の無事を乞うものだ、この現象は利己的遺伝子においては不明のものであって、存在はするが説明はできない。

やさしい人だ、愛があった。

愛にもいろんな程度とカタチがあると思うが、本質は同じだ、自分ではなく誰かの無事と行く道を祈っている、その人の明日を案じて胸を苦しめている。
現代、愛は笑いものにされていて、なんでもかんでも「すてき!」と、それぞれ当人の華願望に供されなくてはならない悪魔の運びだが、今さらそんなことを咎めていてもキリがないのであって、必要なことは愛の情報を漏出させないことなのだった、僕は必ずその秘密を厳守する。
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華に惹かれるこころ、愛に赴くこころ
人のおしゃれは「華」がある。
愛嬌のある表情やめざましい動きやプロポーションにも「華」があるだろう。
「あの人と、きれいな景色の丘へ、そしてホテルのスイートルームで、夜景の上で抱き合って、そのときはそれぞれの栄光と名誉を持ち寄って」という空想にも「華」がある。
人はこの「華」に強く惹かれ、「華やか」なことに強くあこがれ、駆り立てられては、そこに恋もするのだが、それらはすべて「華」であって「愛」ではない、単純に事象を指す言葉としての充当が間違っている。

「華」に強く惹かれることが愛ではない(んなもん当たり前だ)。
「華」を否定するのはセンス的にバカだが、「華」を「愛」と誤解するのは学門的にバカだ。
「華」に惹かれるこころは誰にだってある、だから誰だって、「同じ値段ならなるべくきれいな服を買おう」とする。
「華」に惹かれるこころは誰にだってあるが、「愛」のこころは誰にでもはない、だから「同じ値段ならなるべくあいつに服を買おう」と考える人はとても少ない。

華のない人はダサい、愛のない人は寒い。

ダサい人は一目瞭然だし、寒い人も一目瞭然だ、それは見えるようになったら、ミエミエに見えてしまうものだ。
人はしばしば、「よし、おいしいものを食べに行こう!」とは思い立つのに、「よし、あいつをうまいもん食わせに行こう!」とは思い立たない/愛のない人はそもそも心中に「あいつ」という単語が存在しないはずだ、心中に「自分」と「惹かれる華」しか存在しないはずだ。
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自分の足しにはならなくていいナゾの行為
「橋本環奈ちゃんとデートできる券」と「志村けんが生涯を健康に生きられる券」があったとしたら、僕は志村けんの生涯健康券を選ぶ。
別にファンというわけではないが、あのおじさんが病気になることなどは考えたくない。
愛の前には好きとか性欲とかが無力だというのがよくわかる。
デート券の橋本環奈ちゃんを、エマワトソンやクロエモレッツや石原さとみに変えたって同じだし、セックス券に変えられたって同じだ、僕は志村けんの生涯健康券を選ぶ。

もし僕の後輩が、同じ選択肢の前に立たされて、橋本環奈ちゃんデート券を選ぶようなら、ブン殴って「お前はアホか」と、強制的に志村けん券を選ばせるだろう、恨まれたってかまやしない。
人として曲げてはいけないことが当然ある、愛なしに生きていくことはおそろしく退屈で、それどころか苦痛きわまるものだ。
愛というのは飢えではないし渇(かつ)えでもない、愛を知らない人は自分の飢えと渇えを自分の愛だと曲解する(恣意的に曲解する)。
橋本環奈ちゃんデート券と、志村けん生涯健康券があったとして、もし橋本環奈ちゃんが「もう、どうしてわたしとのデートを選んでくれないの?」とかわいく頬を膨らませたとしたら、僕は「お前はアホか、地獄におちろ邪悪な獣め」と容赦なく弾劾するだろう/かわいい女の子とデートしてセックスしたいというのは何の愛でもない、単にヒマなだけだ。

愛とは努力を要せず損をすること。

志村けんが健康でテレビに出ていたとして、それで僕がうれしいわけではないが、「別におれがうれしい必要はないだろ」という限りのことであって、これだけで話は済んでいる。
愛は履行されればよいのであって、それについて議論したり感想をもったりするのは「めんどくせえな」ということにしかならない、愛は履行されればいいだけだ、それは自分の足しにはならなくていいナゾの行為だ。
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「職場」の思想4

の内に勤めていたときの経験から、僕は「職場の思想」を、自己のうちに再生することができるし、またそれを停止することもできる。
なぜそれが操作できるかというと、僕は根本的にそこにある「快感」が好きではないからだ、僕は自分の地位が上がるのが好きではない。
「仕事」に人権を献上するほど、その人の地位は上がっていくし、地位の高い人は地位の低い者に<<刑罰を加えることで地位の高さを実感する>>という性質があるが、僕はそもそもその「快感」が好きじゃない。
僕は人の活躍が好きだし、自分も活躍したいが、「仕事」というのは苦手だ、迷いを無くしたいのはわかるが、自分が生きることの迷いは自分で始末するべきじゃないのかと、珍しくまっとうなことを思う。

人は、思いがけないところが繊細で、しんどがりだ、自己肯定感を「確信」したいし、それがないとどうしても「しんどい」ので辛い。
ズル休みひとつでも、途端に自己肯定感がおびやかされ、不安になり、しんどいから、それならいっそのこと、すべての人権を仕事なり何なりに献上したいと望んでしまう。
たとえば、戦争に負けて、職を失って、何をどうしたらいいかわからないという不安としんどさの毎朝を起きるぐらいなら、ヒトラー総統の言うとおりのことに、自分のすべてを献上したい、と当時のドイツ国民は思ってしまっただろう/そこに虐殺と戦争の勝利が重なると、どうしようもない「快感」がきっとあったに違いない。
「快感」が好きで、「不安」がきらいか、それはそうかもしれないが/僕はその仕組みで自分のすべてが手玉に取られることに、最後まで反発してゆきたいと思っている。

「人権」もきらいだが、「仕事」もきらいだ。

ただ人の活躍だけが好きだ。
仕事がきらいということは、活躍しなくていいという理由にはならない。

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「職場」の思想3

かし、日本の共産革命を志向した連合赤軍が、「総括」という名称で、仲間内のリンチ殺人を多数やったことは有名な事実だ。
「総括」によって殺された理由は、たとえば女性メンバーが「革命戦士のくせに化粧した」とかだが、これを馬鹿げたことだと思ってはならない、人間にはそういうことをする「性質」があるのだ。
僕だってそのときの連合赤軍にいたら、大喜びで女性を木刀で殴打し、開放骨折で流血させた上で、麻袋に詰めて氷点下の地下室に放置しただろう、それで死んだら「だらしない奴、総括終わり!」と、僕は正義の執行に喜色満面になったはずだ。
考え方を変えないと、このことはわからない、つまり女性メンバーが化粧をしているのは、「革命をナメてんの?」ということなのだ、その上で初めて「そんなの撲殺されて当然」ということがわかるだろう。

人間にはそういう「性質」がある、つまり「仕事をナメてんの?」という一点において、木刀で殴殺するのが間違いなく正義だと確信できるという性質だ、特に<<同盟集団的に確信犯化する>>という性質があると見ていい。
たとえば「交際相手が事故に遭って」という理由で、19時に退社しようとするような奴は、仕事をナメているとして「総括」していい、じっさい「職場」の思想においては、こんな奴は木刀で殴り殺すことだけが正義だ。
この、極論でも何でもなく「木刀で殴り殺していい」ということが見え始めたら、あなたには「仕事」が見え始めている、これが見え始めたとき、あなたは職場で学生気分を指摘されることがなくなるだろう。
「仕事」が見え始めたとき、血まみれの殴殺で「総括」が為されるのは、大いなる「快感」だ、この強烈な「快感」がわかるか/最低そこまで到達しないと、あなたは何の「仕事」にも追いつけないだろう。

仕事に「やりすぎ」はない。

それが職場のルールだ(もちろん文治社会のルールではない)、「仕事をナメてんの?」と思わせる者は、撲殺して獄門、それでも「やりすぎ」どころか「やり方がぜんぜん甘い」と感じられるのが職場の性質だが、これは強烈な「快感」の原理によって推進されており、あまり誰の意志というものでもない。
ブラック企業に反対する立場が本来の共産主義のはずだが、よりによって共産主義革命の闘士たちが真っ先にこの「総括」を急進的に執行したということは、注目に値する、つまりブラック企業がどうこうではなく、人間にはそういうことをする「性質」がそもそもあるということだろう。

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「職場」の思想2

「職場」の思想は、<<主権を仕事に献上し、人間の主権を否定する>>ということに尽きると思う。
人間が生きるために仕事がある、などというのはまるきりウソで、別に誰が死のうが知ったこっちゃないというのが職場の事実だ、もちろんそうでない職場も存在するとは思うけれど。
僕だってもし、同僚が目の前で車にひき殺されても、何らの痛痒も覚えないだろうし、頭の中は「あっこのバカ、業務が増えるだろうが」と舌打ちしかしないだろう。
人間がそれぞれの人間性を尊んでいるというのも、ひとつの仮想的状況にすぎないのだから、「職場」に入ればそんなものはすぐ消し飛ぶ/正直同僚が病気で倒れるより、プリンターが故障するほうが悲しみだ、同僚が倒れても僕の業務には影響しないが、プリンターが故障すると僕の業務に差し支えが出るから。

「お前はそれでも人間か」と言いたくなるような状態だが、こっちは「仕事を進めるのに、人間がどうとか言われても」としか思えないので、やりとりは不毛だ、これは「職場」では当然のルールになる。
何しろ主権は仕事に献上してあるのだから、自分が何であるとか人が何であるとかについて、すでに自分で決定する主権を所有していない。
それは純粋な状態で、たとえば目の前で十歳の女の子が拷問にかけられて悲鳴を上げていても、「うるさいから向こうのフロアでやってくれる?」と、何の沈滞もないだろう、純粋に自分の仕事だけを進めてゆけるような状態だ。
それが正義か否かという判断についても、すでに主権は仕事に献上されているので、判断は仕事がしてくれるだろう、人はただ業務を進めていくだけという状態/いわゆる大規模な企業犯罪もこういった現場の思想から発生している、よって企業犯罪を悔いている当事者はこの世界に一人もいない。

職場においては、両親の急死さえ「めんどくさ」と感じる。

「仕事中」の人間に、たとえば妻が倒れたとか息子が事故に遭ったとか、そんな急報を告げても、それは邪魔だし何の売り上げにもならないので、「はぁ、めんどくさ」「うっとうしい」としか感じられない、「仕事中」の人間とはそういうもので、この「仕事中」はだいたい五十年ぐらい続く(勤務中だけが「仕事中」ではない、念のため)。
これは何の誇張もしていない話なので、これから職場に赴く人は心するに越したことはない、人間がなぜこんなことをしているのかその理由はよく知らないし、正しいのか邪悪なのかも知らないが、僕は少なくともその純粋さがきらいではなかった。

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「職場」の思想
の内の総合商社に勤めていたときのことを思い出すが、そのとき目の前にあったのは純粋な「仕事」だった。
そこにあるのは純粋な「仕事」なので、これに関しては、そこに「人間関係」等を求める人のほうが、神経がわからん、と感じる。
もちろんそうでない職場もあるのだろうが、僕の知る限り、丸の内とかそういう場所はそうではない、あるのはただ純粋な「仕事」だけだ。
何の売り上げにもつながらない、何の業務にも関係ないただのおしゃべりを、「1秒たりともしないでもらえる?」と全員が真剣に思っているので、それは純粋な場所には違いなかった。

いくつかの企業で、過労死やストレスによる自殺が相次いでいるが、僕の知る限り、その自死等が職場の同僚たちによって悼まれるということはまずない。
誰かが自殺したと聞いたら、瞬間的に脳裏に浮かぶのは、「引き継ぎもせずに死んだの?」でしかなく、感覚的には「人事(考課)的に面倒なことでしょ」「退社してから自殺すればいいのに」だ、どれだけドラマチックに自殺しても、同僚は業務への差し障りについてしか考えない。
そこにあるのは仕事であって、人間ではないのだ、これは邪悪さを指摘しているのではなく、職場に人間を持ち込むほうがおかしいという考え方なのだ、職場なんて究極は優秀な人工知能だけ並んでいればそれで十分なのだから。
実際、僕が勤めていたときも、同僚の女性が致命的な病気に罹ったが、それについて胸を痛めるというような事象はゼロだった、別に女性が病死しても売り上げにはならないのだから/僕はその純粋な空間が、それ自体はきらいではなかった。

純粋な「仕事」は、生きるためでも何でもない。

仕事のしすぎで死んだとしても、そこにあるのは仕事のトラブルであって、人間のトラブルではない、人の自殺なんぞに注目しているようでは「きみ仕事ナメてんの?」という扱いにしかならないだろう。
「何も死ぬまで仕事することはないよ」というアドバイスは世の中に多いけれど、それはリアルな「職場」をナメているように感じる、リアルな職場では「死ぬのはいいけど引き継ぎだけちゃんとしてから死んでよ」というのが本音だ、このことに同意できないでは逆に職場で生きていけないだろう。
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活躍と男女の順と逆
定や否定を考えたことはない。
男はあるていど、かっこよくなければならず、男はかっこよくなるほど、抱ける女のレベルを向上させていくだろう。
世の中がゆがんでいないかぎりは、男はいちいち、女を口説くというようなことをしなくても、女は抱ける形で舞い込んでくるはずだ。
ただしこの時代、女は女であるとは限らないので、かっこいい男の前で、女が恐慌するだけということはよくある、それは時代のせいなのであまりあれこれ考えても無意味だ。

男は女を、生まれつき求めているものなので、あまりいちいち男から女へ「求める」という行為をするものではない。
男が女を「求める」のは、セックスの最中になってからであって、セックスを得るまでにいちいち「求める」ということはしない、「求める」のは女の側からだ。
そういえば最近、エロマンガを見ても「つまんねえな」と疲れるようになった、エロマンガは当然美少女の描写に力を入れるので、美少女が活躍し、男は活躍しないのだ、それならそもそもセックスが発生する力学がない/男はあるていどかっこよくなければならない。
あるていどかっこいい男を、女が「求める」のであって、このことに気づいている女性はトクをするだろう、逆に「わたしが求められる側よね?」と首をかしげている女性は、損をするだろう、そういう女に「求める」を向けてくるのは、どうしてもかっこよくない、活躍していない男だからだ。

男を求めない女は、活躍を求めない男と共鳴する。

物事には「順」と「逆」がある/順流だと、男の眼差しは活躍に向かっており、女の眼差しは活躍する男に向かっている、それで女は自然に男に寄っていくし、男は自然に活躍に寄っていくのだ。
これが「逆流」になると……面倒なので説明はしないが、今女性は男を「求める」ことが不全になっているだろうし、男性も活躍を「求める」ことが不全になっているだろう、今女性は男が寄ってくるのを待ち、男性は活躍が寄ってくるのを待っている状態だ、それはとても不健全な状態だ。順:[女→男→活躍] 逆:[女←男←活躍]
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「にくしみ」の実体
レヴィに出ている或る人をサンプルに指して、「この人、発達障害かな」と友人が言った。
僕は、「たぶんそうじゃなくて、これはにくしみだね、にくしみの蛇で発達障害みたいになっているんだよ」と答えた。
「憎悪だ」と僕は付け足した、「そんなおそろしいことになるの」と友人はおののいた。
僕には医学の知識はないので、ポリコレの精神に基づき、これは与太話だと思ってくれ。

人間の三毒のひとつがにくしみだが、肉に染みたこの憎悪は、本人の制御できないところまで入り込み、すべての生活のシーンで、とんでもないポカを引き起こしていく。
大事なときに笑い出したり、叱られているときに笑い出したりするのだ、それは失笑なんてレベルではなくて、肉に染みた憎悪のケイレンであり、本人もすでに差し止められない/まるで悪魔に憑かれたかのようにだ。
前歯を剥き出しにして、つまり「牙をむく」ということがすでにやめられない、こういう人はものすごく周囲に怒られて生きることになり、それどころか周囲に「憎悪」をまきちらし、植え付けて生きることになる。
会話がちぐはぐに見えて、人の話を聴いていないように見えて、それはいわゆる発達障害のように見えるのだが、そうじゃない、肉に染みた憎悪でケイレンしているのだ、本人がどれだけ改善しようとしても、すでに肉の憎悪痙攣がそれを許さない。

あらゆる瞬間に、「ムカついて悪態をつく」ということが出現し、もう本人の意志では止められない。

人の大事なもの、大切なもの、崇高なものを、「侮辱しよう」とするケイレン発作が止まらないのだ、それが人間の肉に染みた憎悪、「にくしみ」の実体だ。
本人にも、周囲にも、むろん僕にも、どうしようもないのだ/目の焦点が合わず、前歯を剥き出し、肉が憎悪に囚われていく……これは実験で観察できるほど科学的に明らかなことで、それだけにひどく残酷な現象だ(そんなことになったらダメよ)。
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「求める」ということは実現でしかない

はAを求める。
Aが「欲しい」とはまったく思わない。
僕はなんでもかんでも求めてきたが、これまでに一度も、何かを「欲しい」と思ったことはない。
「欲しい」はただの「飢え」だろう、僕はこれまでに「飢え」を覚えたことがないので、「欲しい」という心理現象そのものがよくわからない。

「求める」というのは、意志であり、実現のことだ。
何かを「欲しい」といえば説明を要求されるが、何かを「求める」ことについては説明を要求されない。
なんでもかんでもを「求める」とき、自分がこの世界でただ一人生きているのだな、ということがよくわかる/誰にも説明を請われないから。
もし、「輝くものが欲しい」と思っている人がいたら、その人はほとんど永劫の牢獄にいると言える。

「求める」ということが輝きであって、「輝くものが欲しいんです」は単なる誤解だ。

なんでもかんでもを「求める」とき、僕はこの世界で自分がただ一人生きているのだというのがよくわかる、これを自由と呼ぶのだなと感じて、そのこと自体が輝く。
求めて得られる場合と、求めて得られない場合があるはずだが、じっさいには求めて得られない場合なんてないので(少なくとも僕のこれまでにはなかったしこれからもないので)、その点は考える理由がない/「求める」ということは実現でしかないから。

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