☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「神話世界」がマジである(えぇ……)2
話世界にも「人」はいるのだが、神話世界における「人」はわれわれがふだん思っているのとはちょっと違う。
……こんな話、もうただの「空想」ということにしておいてね、こんなん言い出したらもう常識的にメチャクチャやないか、別に神話世界とか急に言われたって見えてくるもんでもないので空想ということにしておこう。
神話世界における「人」は、なにしろ「ダルさ」がないので、「人」といってもわれわれがふだんやっている何か「キリッ」としたキメ顔の「わたし」ではないのだ、こころがあり活気もあるが根本的にワタシワタシ感がない、ワタシワタシ感はゼロだと思っていい。
そして、神話世界には「男」「女」があるし、王や騎士や王女や平民や、労役夫などもいるのだが、それらの階級・格差は、まったくネガティブではないというか、そこに注目は向けられていない、愚かな王や賢い労役夫はいるが、そこに差別の解消や革命は考えられていない、そもそも王と労役夫の仲が悪いわけではないのだから/ツンツンしているのはわれわれだ、神話世界においては誰も身分でツンツンはしていない。

実のところ、われわれが現実世界で格差や差別を、社会的にも個人的にも廃絶しようとし、それを正義だとみなすところがあるのは、単に「ダルさ」があるからなのだ、差別が問題なのではなくダルさが問題なのであって、もしダルさがなければそもそも格差だの差別だのに人はそもそも注目を向けない。
労役夫と貴族と王とで、誰も別に「ダルくない」のなら、差別どうこうといっても、火がつくわけがない/われわれは現実世界において、身分や労働を平等にすべきと考えているふうだが、実はそうではなく、本当は「ダルさ」を平等にしようとしている、ダルいからなのだ、だからそっち方面はあまりカッコイイ話にならない。
現代のわれわれは、特に「男」「女」ということについて、その性差をどういう格差に決着させるかということに難儀し、男女は互いに上を取るマウント合戦を繰り広げているが、その結果どうなったかというと、男女とも「ダルくなった」、そりゃ神話世界とのつながりなしに男女とか言われても、そのせめぎ合いはダルさの相乗効果しか生み出さないだろう。
「ドラクエ」的なロールプレイングゲームは、たいてい「王」がいて「勇者」がいて、「戦士」や「魔法使い」、「僧侶」や「賢者」がいる、それはそういった中世の世界が神話世界の模擬にわかりやすく近いからだ/選挙で選ばれていない専制の「王」に、勅命を受ける「勇者」というのは選民思想に満ちていると、もしわれわれが攻撃し始めたら、われわれはいよいよダルさだけの生きものになったと言えよう。

たとえば男Aと女B、それは神話世界的にどうか? ということだけが問題であって、現実世界的には、もちろん「ダルい」だけだ。

「恋愛はめんどくさい」とか「結婚にはメリットがなさすぎる」とか、よく言われることがあるが、それはよく言われていることがまったく正しい、神話世界に接続する可能性がないなら、そんなもの「ダルい」に決まっている、別に男女じゃなくても生きていることすべてが純粋ダイレクトで「ダルい」だろう、こんなことに議論の余地はない。
構造上「ダルい」に決まっているものを、「がんばれ!!!」となお力で追い立てるのはどうなのか、僕には正直おっかなくてよくわからん/僕が女の子と手をつなぎ歩いて、それが神話世界に接続ナシだったら、そりゃデートクラブか援交だよ、平等化した世界で「誰もがお姫様ごっこをする権利がある」というのは理論上正しいが、そのことには「ダルい」という致命的な欠陥が考慮されていない。
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「神話世界」がマジである(えぇ……)

んな話、信じなくてもいいというか、信じるほうがどうかしているとは思うが……
「ヴィジョン」というのは、「神話世界」からの接続によって見えるものだ、想像力が描いたものではなくて、もともとあるものが見えるだけだということ。
つまり「神話世界」というのが、<<マジに存在している>>という話、なんなんだこれはと言いたくなるが、どうやらマジのマジにそうっぽいので致し方ない。
人間は馬に乗ったり、盾を構えて剣を振ったりするが、それはもともと、神話世界で人が盾や剣を振るうので、現実世界でもそれをなぞろうとするということなのだ、神話世界で人が馬に乗っているから、この世界でも人は馬に乗るということをしようとする。

現実世界を元に神話が書かれたのではなくて、神話世界を元に現実世界が創られていったのだ。
人の世に語り継がれる「神話」というのは、神話世界の歴史上で起こった複数のクライマックス(を伝えるもの)みたいなものだが、クライマックス以外にも神話世界は存在している、神話世界はたいへんだだっ広いので、まあどうせ全域はわれわれの世界より広いんだろう、神話世界にもこまごまあるのだ。
じゃあ一方、われわれの世界はなんやねんということになるが、われわれの世界は究極のところ「ダルさ」だ、二日酔い的な物質が「はぁ」と吐き出されるとき、われわれの身にはドスンと「ダルさ」が生じる、われわれはこの「ダルさ」を「現実世界」と認識しているだけだ、だから現実世界というのはそれ自体にはあまり意味がない(えっ)。
この現実世界で、唯一まともなことといえば、神話世界とつながった何かを現成できるかどうか、およびそれを感得できるかどうかだけだ、究極のところわれわれは「神話世界はダルくないが、現実世界はダルい」という中を生きている、シンプルすぎて鼻白むぐらいだ。

神話世界が見えない場合、われわれはダルさをごまかさねばならない。

神話世界はダルくないが、現実世界はダルいので、神話世界が見えない場合は、ダルくてしゃあない、そうなると何か自分なりのスイッチを入れて、さもダルくないふうにごまかすしかない、そうでないと生活していけなくなるし、友人とも付き合っていけなくなる。
「こいつは何をイタいことを言っているんだ」という意見に、僕もいっそ与するが、一方じゃあ神殿とか戦争とか交合とかは、人類のネタ行事なのか/いっそそのほうが平和でいいのかもしれないのだが、そのぶんダルさの中をえんえん生きなくてはならないのもそれはそれでツライのだった。

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「指導者はレーニン」というナゾの話の続き4(ラスト)

に考えればいい、「指導者はレーニン」ということで、自分を根本的に変えることが封じられてしまうのなら……
「おれみたいなもんは、差別してくれ、格差プリーズ、おれのことに胸を痛めるとか絶対にナシ、ぼちぼち搾取しておれをウワアアアと言わせてくれ」と、レーニンのまるまる逆を自分から求めていけばいい。
実際僕は、そういうふうにしてきたからな、サラリーマン時代には残業の無い日は一日たりともなかったし、残業代を請求したことは一度もない(請求の仕方を調べたことさえない)、学生のころはイベント会場の設営と廃棄のアルバイトで、大きなガラス片が上から降ってきて死にそうになり、ふと見上げると横にはキレーなコンパニオン姉ちゃんが鼻歌混じりに立っていた、コンパニオン姉ちゃんの時給はわれわれの倍以上あった。
しかしそういったことのすべては、なぜかわからんが、僕にとってはゲラゲラ笑うだけの何かで、楽しかったけどな……まあいったんブルーに感じたら永遠にブルーに感じるのかもしれない、また周りのみんなもゲラゲラだったので僕もゲラゲラだっただけかもしれない。

僕は「姉に暴力を受けて育ったファミコン少年」がスタートだから、今でいう典型的な「陰キャ」スタートだ、いじめみたいな時期もそれなりにあったし、小中学校で女子とおしゃべりした時間は総計してもたぶん5分に満たない(マジで)、実際僕はまともに告白されたり「付き合ってください」と言われたりバレンタインチョコをもらったりしたことは一度もない。
大阪の南部の、しゃれっ気ゼロの土地、しかも「不良」がブームだった時代に少年時代を過ごし、街中ではカツアゲリスクが当たり前、姉は非行に走って何度も警察につかまるわ、両親は離婚するわで、僕も学生時代には自殺未遂を二度ほどやっているから、メンヘラ化するのは大ありの路線だった。
大学のころ、着ていた服は、半分以上が中学時代からのやつだったが……そして近隣にはお嬢様女子大がテンコモリにあり、僕の乗っている原付より女の子の履いているミュールのほうが高価だった、しかしレーニン先生、なんでかな、おれはゲラゲラ笑ってしまうのだ、何かが好きでゲラゲラ笑ってしまう、たぶんあんたが気にしていることを、おれはほとんど気にしていない(なぜかは知らん)。
僕には何度も、いい気分になるチャンスがあった、ボランティア集団で顔利きとして居座ったり、十億ていどの資産家になってタダでパイロットになるチャンスも実はあった、しかしあらゆるところで僕は、「おれがつらくないのはウソだ」と断じて、そのたびに引き返してきた、あんたの思っている悪夢はおれにとっては悪夢ではないし、あんたの思っている希望と夢はおれにとっては希望ではないし夢でもないよ。

カスはカスの道を行く、そこをどけよ微笑んでいる奴。

自慢じゃないが、キレーな女の子が僕のことを差別しなくなったのなんて、ここ数年のことだぞ、差別されないので逆に居心地が悪いというか、どうしたらいいかわからんという感じが今もある、死ねとかキモいとか言われた方が、僕は「おっしゃ、帰ってきた」という気がするのだが/こんなところにレーニンが参上したらドッチラケになる、カスにはカスの戦い方があってなあオッサン、スイートルームを格安にされたら旅じゃなくなるって旅もあんだよ。
かといって、見放されたら人は死ぬし、庇護されたらやはり死ぬしで、まあただの按配だろ、貧しきを救うは社会正義だが、社会正義はまるで最上位じゃない/僕が見下されるアホでクズでキモいカスで、いつも致命的に「なんとかしなくてはならない」というのは、僕にとっては行住坐臥、これまで常のことだった、レーニンが同じカスの道を行きたいというならゲラゲラ笑って招きいれるが、彼が僕をどこか僕でない場所に連れて行こうとするなら、それはお断り申し上げる、僕は僕のものでない上席に座らされるのが、どれぐらい退屈で致命的かよく知っている。

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−20歳するとつじつまが合う

とえば25歳の女性が仮装してハロウィンに参加する。
もともとハロウィンに仮装して現れるのは子供たちだったはずだが/このことは、だいたい年齢を−20歳するとつじつまが合う。
25歳[5歳]だからハロウィンで仮装、30歳[10歳]だから「わたし塾に行きたい」、32歳[12歳]だから「ちゃんと男の人と付き合いたい」、35歳[15歳]だから「わたし身体を鍛えたい」、40歳[20歳]だから「政治のこともわかっていないといけない」と思うようになる。
現代人は−20歳するとつじつまが合う、これはどういうことかというと、<<年齢が分配されている>>のだ、現代人には「生身(なまみ)人格」と「オンライン人格」があって、オンライン人格が20歳に育っているぶん、生身人格は年齢を停止しているのだ。

人は、人との「やりとり」に経験を積み、その経験滋養によって成長し、大人になっていく、目に見えない次元でそういうことが起こっている。
現代においては、人との「やりとり」は大半がオンライン化しているので、その経験滋養はオンライン人格に吸われていく/そうしてオンライン人格が分配を受けただけなので、「現代人は幼稚」ということではない、オンライン人格と生身人格を足せばちゃんと年齢相応になっている、生身人格の現れだけを見ると幼稚に見えるだけだ。
単純に、勉強してきた二十代後半の人間が、オンラインでグループチャットをすれば、とても闊達にそれをするだろう、しかし生身でそれをさせると、生身の「顔」や「声」や「目つき」「体つき」がヘンなので、グループチャットは続かない/−20歳の生身なので、当たり前なのだ、ちょうど小学生たちぐらいの生身だと見直せばつじつまが合ってくる。
今、たとえば28歳[8歳]の女性に紙ヒコーキの作り方を教えてあげると、公園で飛ばして「わーいわーい」となるのが割と普通ではないだろうか、むしろそれが無理のない「ぴったり」に見える/僕は大人のハロウィン仮装を否定しているのではなく、むしろ派手な祭りはどんどんやってゴミは渋谷にポイ捨てしろと思っているが、逆に大人のハロウィン仮装がなぜか「ぴったり」に見えるということを、無視はできないと認めているのだった。

古い体質の上場企業でも、すでに歓送迎会の飲み会は廃止されている。

むろん、歓送迎会といって「生身」を寄せ集め、「生身」に酒を飲ませるというのが、発育のレベルとして不能だからだ、歓送迎会は公式に、役員を含めた一同から特別なメールが送られてくるというようなオンライン形式に変化せねばならない/今のところ生身を本来の年齢水準に戻すという発想は理想的だがメドが立たない。
今、相撲協会の問題でも、上は下をぶん殴ってもいいかの議論がなされ、それについては「タフでないと」という意見もあるようだが、僕はその意見がよくよくわかりながらも、「たぶんすでにそういう状況にない」と思っている、相撲部屋であっても生身の年齢は−20歳として考えねばならないのだ/われわれは<<−20歳のキッズ化>>を土台にして生身の問題を考えねばならない、そうでないと本当に「かわいそう」という実態がある、「大人のやりとりはオンラインでする」というのが今のところは合理的な判断だと覚えておかなくてはならない、誰も本当にコドモというわけではない。

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「指導者はレーニン」というナゾの話の続き3
とえば「あの人は本当にジョークが上手」「あの人は人を褒めるのが本当に上手」「あの人は本当に腰が低くて人が好いわ」「あの人は本当に頭がよくて、鳥肌が立つほどだわ」というようなことは、実際にはほとんど「ない」ものだ、そういったものはいかにも美徳として「ありふれた要素」のように見えて、本当にそこまでの美徳が身に現れている人は世の中にほとんどいない。
多くの人々の、笑顔は楽しく、気質は善良で、人柄は愉快、気が利いていて、やさしくしてくれる、それはそうだし、それで「十分!」と断言して差し支えないが、では「これですべて十分」ということは、「もうその人にはなすべきことがない」ということだろうか、それはそれで「違う」という気がする。
あなたが見て、「十分」と思える人との仲を、あなたは大切にするべきだ/しかし一方で、その「十分」な人を破壊するわけではないが、別次元の徳性を発揮する人は存在するし、われわれは「十分」な人の仲をよろこぶと同時に、別次元の徳性事象を平行する可能性として尊んでいなくてはならない。
われわれが「十分」と仰いで認められる人々との豊かな世界を、われわれは誇らねばならない、その世界はかけがえなく意味があるものだ、しかし同時に、別次元の「意味」がある世界があることも、あなたは本当は知らないわけではない/人はときに、自分が生きているということの意味を、その別次元のほうにしか決着できないことがある、われわれは「十分」な世界を誇る義務と、さらに「それ以上」の世界を誇る義務とを、同時に持っているのだ。

ジョークを言えない人は、一生ジョークを言わないものだし、人を褒めない人は、一生褒めずに生きていくものだ、人に頭を下げられない人は一生下げずにいくものだし、頭のよくない人は一生よくないまま生きていくものだ、<<努力の結果、「変わりませんでした」>>ということの中を生きねばならない、<<無数の「変わらなきゃ」の結果、「変わりませんでした」>>ということの中を生きねばならない。
別にジョークなんか言わなくても、人を褒めるということがなくても、人に頭を下げることがなくても、頭なんかよくなくても、「十分」だ、そのことは疑いないし否定されない、楽しい笑顔と善良な気質、愉快な人柄、その人なりのやさしさや気遣いがありがたいしうれしい、ということは消えてなくならない、それだけでいいといえばそれだけでいいのだ。
ただ、そうしてかけがえなく、「よろこばしかった」ということですべてが満ちるかというと、そうでもない、<<「よろこばしい」と「すさまじい」は違う>>、われわれの生きることはよろこばしくあってほしいが、よろこばしいだけでよいのかというと、そうではないとどこかで知っている。
ジョークが言えない人は、一生ジョークを言わないものだ、もしそれが変化するとしたら、それは「すさまじいこと」になる/この「すさまじいこと」を辞退するのは、人間にとって「当然」であり、同時に「哀しさ」でもあるが、この取捨をいざ自分が決めようとするとき、すでに決められない仕組みが前もって自分の中に巣喰ってあるのは、やはりおぞましいことだと思う。

「十分」は、うつくしく正しい、が、その顔色を一変させるものもやはりある。

実際に、すでに「十分」だった人が、まったくそのことに安住せず、次々に「すさまじいこと」へ進んでゆき、突破しているのを目の前に見ると、「十分」ということのうつくしさと正しさが、相対化されて危うげになる/それでもなお、「十分」ということの意味と誇りは瑕疵さえつけられるものではないのだが。
「十分」は、それとしてよろこび、誇って、一方でサクサクッと、「すさまじいこと」にも突入してイエーイとしていれば、それで単純に解決しそうな気がするが、そうはさせない「レーニン」がそのとき突然出てくる、「すさまじいこと」へ進んで突破していくほうのうつくしさと正しさおよびその意味を、「殺害しろ」という指示が突然湧いてくるのだ、このせいで人は「十分」以上のことはやらせてもらえないようになっている/「十分」まではやたらに礼賛されるのに、「十分」以上からは急に「死ね」と言われる、そういう仕組みが前もって組み込まれている。
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現実は神経にくる
学や禅の本などにはよく「宇宙」と書いてあって、正しく見られたらそれを観ずることになって「見神の事実」を得たりすると書かれている。
それはよくわかるのだが、それはいわば「宇宙とわたし」「この世界とわたし」ということの直接体験であって、しかしどう考えてもそこから「わたし」を取っ払ってしまったほうが上位なんじゃねということがあって/そう考えたら僕にはもともと「わたし」なんてあったためしがなく、女神があったり戦いがあったりして初めから光だったのだが、でもそこまで行ってしまうともう「僕」が話すということも成立しなくなるので、困るのだった。
こんな話、フツーに書いてあったら統合失調症のヤベー奴の話でしかないが、例によって僕はしれーっと現実感覚を残したままなので、逆にもうこいつはつまらん奴なんじゃないかという気が我ながらしてきた。
ふつう、胸にグッと来るとか、そういうことを好んでおいかけるもんじゃないのかね、それがオメー、身体もすでになければ「わたし」もすでにないで、女神とか戦いとか「わたしはないのでわたしの意志ではなく光」とかそんなこと言われてもよ、ブログ記事としては本来完全に再提出ボンバーではあるがまあこんなわけのわからんことを書いてあるのもヨソにはないだろうということで、あえて記事にすることにした。

大雑把に分類すると次のような感じだ、低いほうから高いほうへ、本当はもっと細かいだろうがもう細かいことはせんぞ。
[低]神経にくる→胸にくる→わたし&世界にくる→光&神々(小規模)にくる→たぶん「大いなる神」にくる(と予想)→(この先は不明)[高]
言い換えてみればこうだ、別にマンガでも映画でも小説でもいいのだが、わかりやすく。
[低]「絵」的なマンガ→「声」的なマンガ→「世界」的な映画→「神」的な話(神話)→わからん、すんません→さらにわからん、ムリっす[高]

現実は神経にくるが、それで合っている。

いわゆる「現実を見ろよ」というときの「現実世界」は、確かにそういうものとして存在しているのであって、それで間違っていない、ただしそのようにしか存在していない/人が「現実を見ろよ」と言われたとき、どのようにしても「神経にくる」しかない、どれだけ現実世界で有利な人も豊かな人も同じだ、それはそういう層のことを「現実」と呼んでいるのだから当たり前だ(だからそこにフォーカスを当ててもあまりトクをしないということがけっこう多い)。
まあ次こそはまともな記事を書くぞとこころに決めつつ、とりあえず朝メシでも食ってきます。
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「指導者はレーニン」というナゾの話の続き2
子さんは、豊かな未来のために、就職活動をがんばりたいと思った、それで面接の指導を受けてみたが、「声が暗すぎるな」という指摘を受けた、「もっともだ」と理解したA子さんはそれを改善しようとするが、やってみても明るい声の「ふり」しかできず、何かヤケクソになった子供のような声になってしまうことを、自分で恥じた。
「まあ、本当に明るい声で明るく話せるよう、根本的な努力をするしかないな。しんどいことだと思うけど、ここでそれを手に入れたらさ、この先ずっと、あなたは明るい声で話せる人になるわけだから。この機会になんとかしていこう」
指導してくれた人は、まっすぐなこころでそう言ってくれたし、A子さんは何も不満でなく、「まったく言うとおりだ」と思った/自分の声の暗さにはこれまでにもこころあたりがあったし、これから先ずっと明るい声でゆけるのならば、なんと素敵なことだろうと思う、そういうことが本質的なことだとA子さんも思う、「こういう機会に改善しないと、もう改善する機会なんてないもの。ほんと貴重なこと」とA子さん自身も後にツイートしている。
にもかかわらず、A子さんの内心には、正体不明の「もやもや」、そして破裂しそうな何かの「ムシャクシャ」が起こる、A子さんは「なんなんだろうこれ」といつも思いながら、すでにこれに慣れているのでもある/俯いたままになっているA子さんをいぶかって、「……どうしたの?」と指導員、しかし「なんでもないです」とA子さんは答え、指導室を出て行った。

A子さんはしばしば、「この人の声は明るいな」という人を、動画サイトなどから探し、また簡単な発声練習のやり方も調べてみた、参考資料も練習方法も十分に見つかって実にありがたいことだと思う。
しかし、いざ実際に声を出して、面接の練習をしてみようとすると、数秒も経たぬうち「ムシャクシャ」が起こる、まるで条件反射のように/この「ムシャクシャ」が生理的に負担すぎて、A子さんは練習ができない、意欲はあるのだが練習をすればするほど「ただイライラして疲れる」ということを重ねる、そのうち面接会場に行くにも気が滅入ってきて、そもそも「豊かな未来に向けて就職活動をがんばる」ということ自体がイヤになってきた。
何が起こっているのか? A子さんの内部、自覚もないような深部の構造で、「どうして自分だけこんなに苦労しなきゃならないんだろ」「こんなのあっさり出来る人もいるじゃない、なんかそんなのズルいっていうか、不平等すぎる」「こんな初めから決定的な差がついてるんじゃ、けっきょく勝てないに決まってるじゃん」という声がぼやいている、「こんなの、誰かわたしのこと褒めてくれないと、身がもたないよ」という気がして、A子さんは高校時代の卒業アルバムなどを取り出して見ていた、そうすると少し元気がでる気がした。
「あー誰か、わたしにこういう仕事をしなさいって、いっそ命令してくれないかな。単純作業の仕事でもいいから、あなたはこれをしたらいいよって、そうしたらわたしがんばれるのに」

気づくとA子さんは、努力と研究の先に、「卑屈さ」を手に入れていた。

就職活動の結果はどうあれ、こうしたことの繰り返しから、A子さんは「あーこういうのはわたしはムリ」というパターンを見抜くようになっていった/そして「これ以上卑屈になりたくない」という感覚から、根本的なことへ努力することはむしろ「やってはいけないこと」なのだと定めるようになっていった。
A子さんは、身についた卑屈さをなるべく人に見せないように、明るく普通の「問題ない人」として振る舞うようにしている、たまに先輩はA子さんに「もっと前向いて歩いてゆきなよ」と言った、そのときA子さんは内心で(それわたしムシャクシャしますよ)と思うようになってしまった、暴力的に――/そうして「不穏」が生じることを周囲は次第に覚えてゆき、誰もA子さんに向けて深入りすることは言わなくなっていった。
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「指導者はレーニン」というナゾの話の続き

日、「あなたの指導者はレーニンなのだ」という、わけのわからん記事を書いた、そして「のちのち効いてくるから〜」と妙なことを言い添えたりもした。
あの話、あれだけではさすがに意味不明すぎるので、もう少し話しておこうと思った/まず当たり前だが、われわれが普通に暮らしているぶんには、「貴様はレーニンを指導者と仰いでいるな!」みたいなことは出現するわけがないのだ、そういう表面的なことの話ではない。
あなたが生きていく道中、もし何かシリアスなシーンに出くわすことがあって、そこで「自分を根本的に変えよう」としたとき……その「レーニン指導下の国民」という相が出てくることがある、それはそれでマジの話だ、ということだ。
たとえば学校の○○先生は、すごく温厚でやさしい、善人だというとき、その○○先生は「麻布のロックバーでいきなりジョークのぶちかましから人間関係に入ってテキーラを呷ってカッコいい、パンチのある声をしているぜ」という人にはならない、もしそこまで「根本的に変える」ということを試みたとき、内部にある「指導者レーニン」がそれを妨げているということが本当に出てくる。

一般的に、その人の「個性」とか「性格」とか、固定的に思われているもの、これを「根本的に変えなくては」というとき、そのことをさせない強力なお札として、「指導者レーニン」が内部に効いているということが出てくる。
どういうことかというと、自分を根本的に変えるということは、「こんなことではダメだ!!」という自分への断定を必要とするのだが、この断定の背後にはレーニンがアンチテーゼに効いていて、「人はもともと平等」「格差はない」と語りかけてくるのだ、だから自分を「ダメだ」と断定できない。
内部の指導者レーニンが言うのは、「貧しい者は、不当に不遇なのであって、自分が悪いわけじゃない、だから救済されるべき、絶対に!」「貧しい者が自分を否定する必要なんかあるわけない!」ということなのだ、このお札が効いているので、人は自分を変えようとしても、まず「こんな貧しい生き方をしていてどうする!」という自己否定ができない(やろうとしても完成しない)。
だから、いわゆる「キモい」人や、ダサい人、頭の悪い人、仕事のできない人、学門が苦手な人、文化性のない人、下品な人、嫉妬や執着がやめられない人や、声や表情の暗い人、あるいは人のこころがわからない人は、いったんそうなってしまうと、もう「絶対に変えてやる!」ということができなくなるのだ、どうしてもどこかで「こんなに貧しい自分は、それだけ人に庇われ、救済されるべき。でないと不平等すぎる」「そもそもわたしが悪いんじゃないんだもん!」と転倒してしまう。

内部にある「レーニン札」によって、貧しい人は、むしろすさまじい不平を抱えることになり、内心で「ムシャクシャ」している。

どういうことかというと、生きることが貧しい人は、レーニン札の効果によって、「不平等! 不平等!」と感じ続けるということなのだ、レーニン札が主張する絶対にあるべき「救済」とやらは、いつまで経ってもやってこない、「もしこのまま低賃金で働かされて結婚もできなかったらマジ日本死ねだわ、そのときは何人か殺してわたしも自殺しようかな」と空想するようになってしまう。
A君が楽々クリアできるテストに、B君がさんざん苦労するということがあったとして、「お前もA君を見習ってがんばれ」とでも言われて努力されられるようなものなら、猛烈に「ムシャクシャ」するのだ、なぜこんな不平等を押しつけられねばならないのかと思える、このとき人は「不穏」の気配を放つ/なぜなら不平等を押しつけられた弱者は、団結して支配者を「皆殺し」にしていいと、学説上で流血許可を定義されているからだ、もともとはこの「支配者を皆殺しにする」までを含めて共産党の設立は宣言されている。

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傍聴

「おれなりになんとかしたいと思ってる、あのコのことだけはこのままにしたくない」
「そう? でも向こうはなんて言ってんの」
「ちょっとそういう、前向きにはなれないって」
「まあ、そりゃそうだろうね。あなた実際には、二、三回話しただけなんでしょ?」

「おれのほうはさ。あのとき、いろいろ大変だったんだ。でも今は一通り片付いた。今はもっと、あのコとふつうにやれると思う。あのときの自分はひどかったと、自分でも反省してる」
「あなたの話聞いているとさ、あのさ」「うん」
「あのコには、うつくしさがあると思うよ。わたしもあのコのことは、いつもすごいなって思うもん。でもあなたには何のうつくしさも感じない。わたしだって正直、あなたと話すよりあのコと話したい。あなたと話しているとすごく損した気分になるもの」
「だから、おれのほうは、このところいろいろ大変だったんだって。誰だってどうしようもないときってあるじゃん。今はもう、本当に反省したんだって」

「あなたがあのコの友人にふさわしいとは一ミリも思えない」

「だからさ。今はもう、色々片付いたし、本当に反省したんだって。あのときが異常だったのは仕方ないし、自分でも認めるよ。悪かったし、迷惑かけたと思ってる。でも今は、もう一度会って話させてもらえたら、ぜったい普通にやれる。おれ自信あるもの」
「ううん、そんなことないよ。あなたはずーっと自分のことだけを話してる。今もそうだし、もう何年もそう。もう何年も、あなたはずーっと自分のことだけを話し続けてる。あなたがそれをやめる日なんて、きっとこないと思う」

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タメニ理論8
メニ理論はヒジョーに評判がいいので、これからもちょくちょく話そう。
なんというか……たとえば僕だってこの世界に本当に存在しているわけで、あなただってこの世界で本当に存在しているわけだ(当たり前)。
しかし、この当たり前のことが、実はいつの間にか消え失せているか、そうでなければ、実は初めから「わかっていない」ということがあるのだ、<<本当に>>僕もいるしあなたもいるということが、実はわかっていない、こんなことハッキリわかっている奴は今や極めて希少だ。
タメニ理論というのは、この「僕もいるしあなたもいる」ということが、実はこの行為によって得られているので、これをやらないと世界がないですよ、という理論だ、非常にわかりやすく、また非常にまともな話なのだった。

理論はヒジョーにカンタン、あなたは自分の「ために」ということは、いつだってしている、自分の「ために」、たとえばストーブのスイッチを入れている、こんなことは覚えればチンパンジーだってやる。
が、その「ために」の機能が、実は自分の「ために」だけでなく、誰かの「ために」も使えるということ、このことが以外に気づかれにくく、ともすると一生その使い方をしないままいってしまうということも少なくないのだ/たかがストーブのスイッチを入れるだけでもだ。
ここのところは、ひたすら冷静に捉える、実にシンプルだ、あなたがあなたの「ために」ストーブのスイッチを押すことと、あなたが僕の「ために」ストーブのスイッチを押すことは、<<事象として完全に同じ>>だ、僕が僕のために押すか、あなたが僕のために押すかの差しかない、どちらの肉が動いたって内容は変わっていない。
あなたにとってあなた自身は「わかる」ものだが、あなたにとって僕は「わからん」ものだ、その「わからん」ものの「ために」ストーブにスイッチを入れる、僕の「ために」あなたが動く/この行為をすると、急に、その「わからん」ものが自分と一緒にあるということが<<本当に>>見えてくるのだ、実はそのことをするまでは、目の前に人がいることなんて本当はまったくわかっていないのだ。

あなたがあなたの靴を磨くのを「仕事」とは言わないように、あなたが僕の靴を磨くのも「仕事」であってはならない。

なんのこっちゃ? という気がするかもしれないが、ここが注意点だ、あなたがあなたの靴を磨いてもそれは「仕事」にはなりえないが、あなたが僕の靴を磨いたらそれは「仕事」になりえてしまう、これが<<危険>>だということ、どう危険かといって、「致命傷」になりえるほど危険だ。
自分の「ために」だけが機能して、僕の「ために」が機能しないなんて、そんな<<不自然>>な状態があってたまるか、わかりかけている人はさっさとわかってしまおう/あなたがあなたの「ために」することと、あなたが僕の「ために」することは、<<事象としてまったく同一>>だ、まったく同一のこととして行為すればいいだけだ、それだけでタメニ効果は勝手にバチーンとはたらいてくれる。
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あなたの「お上」
間には、「お上(かみ)にしたがう」という性質がある(それ自体は何も悪い性質ではない)。
「徳川家」のしるしに、「へへーっ」と従っていたのが江戸時代。
「日の丸」に、ビシッと黙礼していたのが昭和初期。
胸に手を当てて、「毛沢東」や「スターリン」の肖像画に崇拝の眼差しを見上げていたのが昭和中期だ、急に「えっ?」という話だがこれがマジなのでしょうがない/「ありえない」と感じる人は、当時日本が戦争で大敗したという超ダメージを忘れていることが多い。

「お上にしたがう」というのは、もちろんマジな話であって/だってあなたは自分の婚姻も就労も、「お上」が定めたとおりにするのだから。
問題は、あなたの従っている「お上」が、実際にはどれかということだ、実はこのことには点検するテストがある。
人に「へへーっ」と頭を下げるのが封建的お上で(政治家や企業役員等の権力序列)、人にビシッと黙礼するのが神道的お上で(年功序列)、背筋を伸ばして熱い眼差しを見上げるのが共産的お上だ(ストイシズム序列)。
つまり「礼」の仕方で、その人の従っている「お上」がわかるのだ、「へへーっ」は夷狄を滅ぼす中枢権力を究極のお上とし、「ビシッと黙礼」は貢献を為して祀られるに至った氏神を究極のお上とし、「熱い眼差しを見上げる」は禁欲の果てに革命を為した書記長を究極のお上とする。

あなたが好きになる男性は、「権力者」「貢献者」「禁欲者」のどれか。

何が「カッコいい」と見えるかは、この「お上」の性質によって分類されているのだ、「すごい権力を持っている」が「偉大」に見える人もあるし、「すごい貢献を為している」が「偉大」に見える人もあるし、「すごい禁欲をしている」が「偉大」に見える人もある。
例外的に、過去の偉大な宗教者たちは、カミサマにしたがうので、お上にはしたがわない、だからしばしば「お上」は宗教者を弾圧してきた、宗教者たちは「身に現れているもの」をもって序列にするわけだが/よって、宗教関係において「権力」が目立つもの、「貢献」が言いふらされるもの、「禁欲」が競われるものは基本インチキだ。
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総書記のロボット

倍総理が、あなたに向けて、「ここの花壇を、掘り返して、トマトを栽培するように」と命じたら、あなたは「はあ?」と反発するだろう。
一方、北朝鮮の総書記、金正恩があなたに向けて、「ここの花壇を、掘り返して、トマトを栽培するように」と命じたら、あなたはたぶん「はい!」と、その命令を拝領する。
不思議なことを言っているようだが、そうじゃない、ちゃんと想像してみたらわかる/あなたはなぜか、総書記の命令にだけは従うように教育されている、<<マジのマジでそうなっているから甘く見てはいけない>>。
あなたはサヨク教育を受けてきたので、総書記あるいは書記長の命令「だけ」はきくように、知らないところで訓練されているのだ/その他は総理大臣でもダメだし、アメリカ大統領でもダメ、お代官でもダメで幕府将軍でもダメ、なんと天皇陛下の勅命でもダメなのだ、あなたは唯一「総書記あるいは書記長」の命令にだけ従うように、すでに作り込まれている。

どういうことかわかるだろうか、つまりあなたは、<<「自分で考えて行動する能力」を、すでに正式に潰されている>>のだ、総書記の従順なロボットになるよう、すでに作り込まれてしまっている。
「んなアホな」、と言いたくなる気持ちはわかるが、それだと北朝鮮の人民に失礼だ、「んなアホな」と言わずに実験してみたらわかる、「自分で考えて行動する」ということ/やってみたらわかるが、あなたにはとっくにその能力はないし、考えてみれば過去にもその能力はなかったはずだ。
朝起きた瞬間から、あなたは総書記の「命令」だけを待っている、実際「自分で考えて行動する」ということはないはずだ/自分に訓練をほどこした教師たちや両親のことを思い出してみろ、彼らもまた、総書記の命令によってあなたにその訓練をほどこしたにすぎない、彼らもすでに「自分で考えて行動する」という能力はもっていなかった。
あなたの人生の歓喜はというと、おそらく「レーニン書記長に農作を命じられる」ぐらいが最高のよろこびだ/いわゆる「アカ」をナメてはいけない、あなたは「自分で考えて行動する能力を持ちなさい」と言われると「ハイ」と答えるが、ハイと答えて、そのまま書記長の命令を待ち続けている、すでに自分の歓喜はそこにしかないのだから致し方ない。

実際あなたは、なぜか安倍首相より金正恩総書記のほうが「大好き」なはずだ。

安倍総理とトランプ大統領と金正恩総書記を並べたとき、安倍総理とトランプ大統領は「政治家」と見えるのに対し、あなたは金正恩だけ「好き」の目線で見えるはず/それは旧共産主義のシステムと教育があなたにほどこされているからだ、いくらそれが「間違っている」と教えられても、それとは別にあなたは総書記の命令だけに歓喜するように作られている(政治体制が間違っているかどうかなんて「どうでもいい」のだ)。
資本主義は邪悪なものであり、資本主義のすべてはあなたを傷つけてバカにするだけだ、その中で唯一総書記だけが、偽りなくあなたを愛してくださる、と、冗談ではなくそう教えられてあって、冗談ではなくそう感じるように訓練されている/あなたは、微笑んだレーニンやスターリンやポルポトや毛沢東に、トンネルを掘りあげるよう命じられて、「みんな」でつるはしを振るうときだけが、愛のある世界だと感じる、このことを否定する人なんて邪悪な悪魔としか感じられない。

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タメニ理論7
リがないのでこのへんにしておこうと思うが、この「タメニ」という原理がわかれば、人はごく単純明快に、「確信」をもって振る舞えるようになる。
「タメニ」が「世界」を与えるのであって、その「世界」があれば、人はそんなにいちいち迷わないのだ、逆に「タメニ」がなければ世界がないので、どう頑張ってもアヤフヤで自信がなくなる。
「タメニ」がなければ、空気の読みあい、探りあいだ、あとは思念を強くするしかないが、そんなことしたって相互のストレスがパワーアップするだけでしかない。
「タメニ」があれば、相互に「問答がなくなる」という感じでもある、なぜならすでに「届いている」からだ、「要らんことしなくていーから」という感じになる、お互いが探りあいなしに活発でいられる。

僕はおそらく、この「タメニ」を振り回し、好き放題にほうりこんできた。
ところが、多くの人は、この「タメニ」のセオリーとメソッドを知らなかったので、投げ込まれた「タメニ」は返報されてこなかった/「タメニ」の授受にはバランスが求められるので、いよいよこのバランスが今になって臨界点に達したのだと思う。
僕の側は割と平気なのだが、むしろ相手側が臨界点に達した、先方から僕に向けて「タメニ」の仕方がわからないので、バランスが崩れつくし、「世界」を得る機能が根底からクラッシュしかけている具合だ。
安直な言い方をすると、多くの人は「タメニ」のドシロウトだったのに、僕が慣れっこの「タメニ」をぶっつけまくるものだから、ハングアップしたのだ、何かエラソーな言い方になって申し訳ないが、正直にレポートしないと意味がないので、あるがままをお話ししておく。

人間関係は、一般的には[Aさん to Bさん]だが、タメニ原理においては、[* in Bさん]になる。

なんのこっちゃわからんと思うし、まあできたら近いうちに、もっとまとめた形でコラムに書こうと思うが、最近こんなことばかりで、まとめる速度が見つかる速度にまるで追いつかないのだ、ちゃんと書けるかね……
僕が書いているこの文章だって、僕は誰かの「ために」書いているので、その「タメニ」が正しく作用していたら、「僕」はあなたの「前」には存在していないと推定される/「僕」というよりは、非問答的な「九折さん」というやつが、あなたの「前」ではなく「中」に存在しているはずだ、[* in あなた]だから。
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タメニ理論6
に、何も難しいことはないのだ。
誰だって、「自分のために」という行為はする、たとえば「あ、そろそろ部屋のティッシュがなかったな」ということで、ボックスティッシュを買ってくる、そんなこと誰だってする。
ただそのことを、誰かの「ために」やることを、しない、そのことを忘れている、そのことを教えられていない、というだけだ、まったく簡単な話だ。
誰だって、「あ、ティッシュ買ってきて」と言われたら、「はーい」と答える、そんなことに吝嗇(けち)ではないのだ、だからこれは「タメニ」ということのセオリーとメソッドが、ただ教えられていないということにすぎない。

ダマされたと思って、このままにしてみればいい、友人に対しても、恋人に対しても、親に対しても、あるいは先生に対してでもいいから、「あなたに買ってきたよ!」と、ボックスティッシュを燦然と突き出せ、ティッシュぐらい一箱よぶんにあってもジャマにはならんだろう。
ただ、あなたが、その人の「ために」買ってきた、ただそれだけでいいのだ、相手がそれを受け取る、それだけで「世界」が得られるし、相手が親なら親孝行になる。
ただあくまで明瞭に、ここだけは徹して、その人の「ために」それを買ってくるということだ、重要なのは物品ではなく「行動原理」、この行動原理としての「タメニ」が、すでにまったく知られていない状況がある。
これは人間が、「自分のために」以外の原理で行動できるという実践なのだ、だから徹して、そこに「自分のために」がわずかでも入っていてはいけない、さすがにティッシュを買ってくるぐらい「自分のために」から離れられるだろう、あなたはついに自分の行動原理を「自分」から切り離す/冷静に考えろ、ただのティッシュだぞ。

「タメニ」は、自分から切り離され、相手の中に飛び込む。

僕がたまに、誰かにマフラーでも買ってやったとして、「あの、ありがとう」と言われたりすると、「ちっ、うっせーな」と本当に邪険にしたりするのはこのせいだ、僕にとっては、寒がりの首元にマフラーが飛び込めばそれでいいのであって、そこにおいて僕は「何もしていない」、だから礼を言われたりするとうっとうしいのだ/「タメニ」が理解されていないことがうっとうしいのであって、礼そのものがうっとうしいわけでは本当はない。
タメニ行為としてティッシュを買ってきたら、ただただティッシュだけが相手の中に飛び込む、その中に「おれ」なんてない、なんでおれがティッシュと一緒くたにされなくてはならんのだ、このときタメニの主役はティッシュであっておれではない。
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タメニ理論5

なたがポテトチップスを買ってきたとする。
あなたはそれをバリバリ食べながら、「あ、よろしかったら九折さんもどうぞ」と差し出すはずだ。
それは何の問題もないことだが、それにしても、そのポテトチップスは僕の「ために」買ってきたものではない。
だからそのポテトチップスは、ただのウメエポテチの味しかしない(ウマイけどな)、そして肝心なことは、そのポテチをありがたく食ったところで、世界はまったく得られてこないということだ、この道筋に人間世界は決して広がらないのである。

一方、僕があなたに向けて、「お前に買ってきたぞ!」と、買ってきた「黒板消し」をプレゼントしたとする。
黒板消しは、全力で使い道がないので、あなたはメチャクチャ困るはずだ、それでいて、あなたはその黒板消しをとても「捨てづらい」はずだ/なぜなら僕は、そんなアホなものを本当にあなたの「ために」買ってくるから。
そうなると、あなたの部屋のどこかには、その使い道のありようもない黒板消しがえんえん居座ることになるが、あなたはその黒板消しをしばしば目にし、「うーむ」とやりきれない気持ちになる、「なーんか捨てるわけにもいかないし、どうしよこれ」と。
その何の使い道もない、価値もなければいっそ迷惑でさえある黒板消しが、自分の部屋の中にあるということに、しかし「世界」が得られてくるのだ、もちろんわざわざそんな嫌がらせみたいなものを買う必要はないのだが、仮にそういう無価値なものでも、「タメニ」が入っていると、本当に「世界」が得られてくる/僕があなたの「ために」買ってきたもの。

「あなたが買ってきたものを、僕に差し出す」のではだめで、あなたが「僕のために買ってきた」ということが必要だ。

これは、似て非なるもので、ここが肝心なのだ、あなたが作った料理を僕に差し出すというのはだめで、初めからあなたが僕の「ために」作った料理でなくてはならない。
わかるだろうか? 僕があなたの「ために」黒板消しを買ってくるということは、「僕は黒板消しを買っていない」ということなのだ、あなたの「ために」の行為であって、僕自身の「ために」の行為ではないので、僕自身は黒板消しを買っていない、あなたがいなければ僕は黒板消しを買わないのだから、僕は黒板消しを買っていない/もし僕が、自分で買った黒板消しをあなたに差し出したとしたら、それはただの不要品の押しつけだ。

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タメニ理論4
メニ理論は、今夜見つかったもので、この時点ですでに僕の友人らに広く受け入れられ、非常によろこばしいことになっている。
こんなものが、いきなり天啓じみて降ってくるようでは、おれの普段の努力はなんなんだと言いたくなるが、まあしゃあない、結果オーライを目指すしかない。
結果オーライを目指すこととして、こと「タメニ理論」に関しては、少々のオカルトもやむなし、人が「タメニ行為」をするとき、人は「タメナー」になり、そのタメニ行為には独特の「タメニエネルギー」が乗っかると(それは魂魄的なものだ)、いっそ信じてしまったほうがいい。
このことには、先に奥義もあるのだが、ひとまず奥義のことより、もっと手前のわかりやすいことが語られるべきだろう、少々のオカルトを許容して捉えるぶんには、このタメニ理論は非常にシンプルでわかりやすいのだ。

たとえば僕が、自分で飲むためにコーヒーを淹れたとする、そのとき友人が、「一口飲ませてくださいよ」と言ったとする、僕はそのとき、「いやちょっと待ってくれ」と言いたくなる。
なぜかというと、もちろんコーヒーなんか横取りしてくれていいのだが、そうではないのだ、そのコーヒーは僕が自分で飲むのに淹れたものなので、お前の「ために」淹れていないということが引っかかる、「飲むのはかまわんが、これをもっておれのウデマエを評価しないでくれ」と強く主張したくなるのだ。
僕が自分で飲むのに淹れたコーヒーと、誰かの「ために」淹れたコーヒーとでは、味も品質も決定的に違うのだ、それはもういっそ、「これにはタメニエネルギーが入っていないから!」と言いたくなる、だって本当に根本的に違うモノになるのだからしょうがないのだ、証明はどこかの科学者が未来でやれ。
僕が自分用に作った料理と、誰かの「ために」作った料理とでは、味が違うのだ/「タメニ」が入っていない料理は、どれだけおいしいふうに感じられても、そこから「世界」が感じられない、そして「世界」が得られない物をいくら摂取しても、われわれにとっては何の意味もないのだ、たとえそれがどれだけ高級な上物であってもだ。

「タメニ」というのは、本当にある。

あなたが僕にコーヒーを淹れてくれるというとき、あなたが僕の「ために」コーヒーを淹れてくれるのでなければ、あなたはただの自動販売機か、ただのコーヒーサーバーだ/「タメニ」というのは本当にあるので、まあ鵜呑みにしてやってみるしかない、「タメニ行為」は割と集中力のいるもので、ふだんからやっていないとすぐ途切れてしまう。
実際おれが料理を作ったら、どいつもこいつも狂ったように食うじゃないか、あれを食った奴は信じる義務があるだろう、あれはおれが料理オタクということではまったくなく、ただお前らの「ために」作ったから、「タメニ」が入っているというだけだ、訓練によって、その投入される「タメニ」の量が違うというだけだ(ただし単純なウデも悪くないので、そこんとこも称賛するように)。
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タメニ理論3
実はおうおうにして残酷なものだが、この「タメニ」の原理を漠然と知っていた人は、普通に生きていたら自分の「世界」が得られて、このことを知らなかった人は、どれほど努力しても自分の「世界」は得られないままになる、何もかも空転し続けて、やがて破滅的なエッサッサに行き着いてしまう。
このことは、このところ槍玉に挙げてきた旧共産主義とも関係があるなあ……なんと残酷なことかという気もするし、ある意味、僕はこれまでのすべての発言を通して、最上の値打ちがあることを今、申し上げているような気もする。
「タメニ」が入口であり、「タメニ」がゴールなのだ、誰かのために1ドルを差し出すとき、および誰かのために1億ドルを差し出すとき、値打ちに差があるのはドル高ではなく、タメニ指数なのだ、タメニ指数が同じなら「世界」においては値打ちは同じだ。
もちろん、自分が世界を取り戻す「ために」ではダメだ、そうではなく誰かの「ために」、さすがにこれぐらい簡単なことは根性入れてやれよ、そんなささやかな「ために」ぐらい、1ドルとか5分とかあれば済む話だ。

「タメニ」というのはつまり、人間が唯一、ミトコンドリアの虫原則から逸脱できる道なのだ、誰かの「ために」何かをするということは、ミトコンドリアにとっては利益にならない、「ちっ」と舌打ちをするしかない行為だ、このことで人はついに「人間世界」に入れる。
まあ、そんな原理の難しい考究はいい、とにかく自前のクソみたいな思い込みは捨てて、「タメニ」を実行するだけだ、実行したらただちに「世界」がある。
「世の中のために」とか「人々のために」とか、そういう観念的なものはダメだ、個体としての誰かの「ために」、その誰かというのは見たこともないし見ることもない誰かでもいい、それでも個体としての「誰か」のためにだ。
このことは、このご時世、まったく流行らないというか、文化情勢として心理的な反発がある、またあるいは、この人の「ために」と素直に信じられる、「この人」というのに出会ったことがないのかもしれない、だがそんなもんは根性入れてなんとかするしかない、「タメニ」の授受が成立する誰かを探せ、それだけがあなたにとって唯一本当の「出会い」だ。

花壇に水をやるな、「こいつ」のために水をやれ。

植物を相手にするのは、レベルが足りないような気もするが、まあしょうがない、「花壇」なんて漠然としたブツに水をやってはいけない、水をやるなら目の前の「こいつ」に水をやれ、花を育てたり水やりをする「趣味」を持つな、ただただこいつの「ために」水をやれ、そうしたらそれがあなたの「世界」になる。
善いことなんかしなくていい、善い人を見つけてその人の「ために」何かをしろ、上手なことや立派なことなんかしなくていい、誰でもできるようなことをただ個体の誰かの「ために」しろ、それが善いことでも何でもなく「タメニ」のことに収まったとき、善悪などどうでもよいような「世界」が直接得られてくる/確認、善悪ではなく「タメニ」だ、それ以外は不純物だ。
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タメニ理論2
とえば厨房に料理人が入っていたとする、料理人はいやしくもプロなので、真剣に料理に取り組んでいるだろう。
が、おうおうにして、店に来る「お客さんのために」料理をするという料理人はそう多くない、お客さんのために料理をするという人と、料理が好きだから職業的に料理をするという人はまったくの別物だ。
本人はどれだけマジメなつもりで、真剣なつもりでも、意味がないのだ、「料理」と「タメニ」を比較したとき、「タメニ」が上位にない限りその人は死ぬ、死ぬというのは大げさだがわかりやすくそう申し上げておく。
どれだけ上手になっても意味が無いのだ、無世界の中を生きなくてはならない、世界のない中で料理だけ上手になってもアホみたいだ、この「タメニ」の授受がバランスを失って崩壊するとき、何かとんでもないことに人は追い詰められてしまう。

時間的に猶予のない感じがヒシヒシあるので、正直にぶっちゃけてお話しするが、たぶん僕はまったく無自覚に、多くの人に対してその人の「ために」、あれこれ何かをやってきたのだと思う。
で、僕から差し向けた「タメニ」に対し、向こうから返報の「タメニ」は、あまり帰ってきていない、そのことが、僕を死なせることはないが、先方を死なせてしまうのだ、わけのわからないうちにますます「世界」は消えていったはずだ/このことは正規のセオリーもメソッドも教わっていないのだからしょうがない。
いわゆる内観法に近いところがあると思うが(あれ? おれっていつの間に内観法なんて知ってるんだ、これもまた不気味だ)、おそらく内観法的な授受のバランスというよりこれは、本当に定量化された「タメニ指数」の蓄積そのもののバランスによって支配されることだと思う/まあそんな難しく言わなくとも、「タメニ」=「世界」という数式で合っているし、それだけですべて説明がつく。
誰かの「ために」何かをするということ、そのことで初めて、自分にとっての「誰か」というのが存在しはじめる、その存在を元に「世界」が生成されていくのだ、なるべくそのタメニ指数の大きい人に向けて、その人の「ために」ということが純粋にできたら、その瞬間に「世界」は突然、下賜されたかのように広がって得られる/ただただ、「タメニ」によって。

あかん、「自己実現」の発想はただの罠だ。

自己実現もそうだし、自分磨きとか、マイブームとかもそう、ライフワークなんてのもたいていそうだ、すべて世界を失わせる罠でしかない、自分を高めることにはわかりやすい利益がある感じがするが、それは利益で人をつり上げて世界を失わせるための罠でしかない。
駅前の美観の「ために」、放置自転車を撤去すると、世界は失われる、それよりは忙しく遊びたがるどこかのアイツやコイツの「ために」、自転車ぐらい置かせてやる、そうしないと世界は失われる、もちろん自分の生きる「世界」よりも駅前の美観のほうが火を噴くほど大事だというなら別だが、そんなアホなことを唱えるセオリーやメソッドはありえんだろう。
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タメニ理論
突で申し訳ないが、といっても僕にとっても突然に天啓で降ってくるので唐突なのはしょうがないのだが、人は誰かの「ために」何かをするということがあって、このことをタメニ理論という。
なんでこんなことに急に気づくんだよ……ということは不気味でしょうがないが、まあ気づいたのは僕が苦しんでいたからであって、タメニ理論、人は誰かの「ために」何かをするということで、「世界」を下賜される。
「ために」ということは、この世界の「機能」なのだ、なんでなのかはしらん、なんでなのかはもう天のカミサマに直接訊いてくれ。
誰のためにということでもいいし、まだ見ぬ誰かのためにということでもいい、とにかく誰かの「ために」それをする、誰かの「ために」たとえばここにカサを置いておこうとか、そんなことでさえ「世界」が下賜される、このところこの世間に何の世界もないのは、その誰かの「ために」ということが枯渇したせいだ、こんなこと急に教えられてもおれが困るぜ。

誰かの「ために」なのだ、それだけで「世界」が恢復する。
たとえば、誰かがスポーツの練習をしたり、試験勉強をしたり、溜まっていた仕事をやっつけたり、新しい服を買ったり、料理の練習をしたりする。
だがそれが、漠然と何のためでもなく、要するに自分の「ために」でしかない場合、それはいかに向上しても、「世界」を与えられない。
あるいは、自分としてはまったく興味のない靴磨きをするとして、それが誰かの「ために」することであれば、急に「世界」が下賜される、われわれの獲得できる「世界」という現象は、この「タメニ」から生じているのだ、タメニが世界なのである、だからこのことをタメニ理論という/何か原付で走っていたらワーと急に降ってきたのだ、細かい理由はしらん。

僕のためにやらなければ、あなたが死ぬ。

死ぬというのは大げさというか、ただの語呂でそう言っているだけだが、死ぬというより「失われる」、あなたのあるべき世界が失われるのだ、そりゃもう半ば死ぬようなことだと言っていいじゃないか、これはシャレでも誇張でもなくそういう仕組みだからしょうがないのだ。
「タメニ」なしに世界をやっていこうとするのは、金魚なしに金魚すくいをやろうとするようなことで(マジで)、そんなんもうムチャクチャじゃないかという話だ、このタメニがないから京都も東京もわけがわからなくなっているのだ、タメニが恢復したらその途端「あああああ」とびっくりするぐらい世界は恢復する。
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天分的差別のシステム
の世は「自業自得」の大劇場だ。
こう書けばわかりやすいか、[天天天天天天天天自自]、この人は天分が多く自分が少ない、だから自分が出しゃばらず、徳性が多く身に表れている。
自自自自自自自自自]、この人は自分ばっかりで天分が少ない、だから自分が出しゃばるばかりで、徳性が少なく、身があわれな感じがする。
自業自得というときの、いわゆるカルマ的なものが、この「自」で表されている部分だ、このカルマ(自業)を償却していくと、天分が増し、そのことが「証」として身に現れてくるということだ、だからそんなに難しい話じゃない、以下の図をごらんあれ。

身分[天天天自自自自自自自
財産[天天天天自自自自自
才能[天天自自自自自自自自
賢さ[天天天自自自自自自

(ただし「天」や「自業自得」の一切を否定すれば、このシステムは無いことになる)

上に示した例は、それぞれのパラメーターにおける現時点の天分度自分度を表している、この人は何かうまく学門を進めることができて、賢さの徳性を3から4に上昇することができた、そのことが彼の身に「証」として現れているだろうし、出しゃばっていた彼の「自分」が明らかに減っているだろう。
ただしこのことは、「天なんかあってたまるか、まして天分的差別なんてあってたまるか、人間は平等じゃ」と激烈に言い放つ立場にとっては、無効であり無益となる/この世界には自分しかないという説も十分にあり得て、その説を否定する便利な方法はない。
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