☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
グール化とゆがめられたエクスタシー

間の全身はエクスタシーに向かう。
このエクスタシーがゆがめられるとき、人はグール化する。
自分がグール化していることを認めるのはイヤなものだし勇気が要る。
友人がグール化していることを認めるのはイヤなものだし勇気が要る。

われわれは麻薬をイヤがっているわけじゃない。
麻薬によってグール化した人間を見たくないだけだ。
誰だってセックスをしたいのは当たり前で、さびしい暮らしはさびしいのが当たり前、野心や願望だってそれなりにあるのが当たり前だ。
それはもともと、人をグール化させるものではなかったのに、いつのまにかそうなっちまった、われわれはセックスやさびしさについてとても話しづらくなった。

エクスタシーは本来、うつくしかった。

見ろよ、本来のエクスタシーを知らない者たちが、グール・エクスタシーを真実だと思って、知恵のない奮闘をしている。
いったんグール化してしまうと、もはや自分の中枢に触れないようにするか、もしくはグール化に開き直るかだ、そのどちらとも救いのある方法じゃない。

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この世界は思うがままだ

「怒りの日」のシリーズ、その最終話を書いている。
追究するところ、人間のど真ん中にはやはりカミサマとつながった魂が入るように出来ている/ど真ん中にカミサマが降りていなければ、それは「空き家」だ(そういう人も実際にいる)。
カミサマは永遠のものであり、一時的なものではないが、永遠というのはつまり「存在」であり、「存在」とはけっきょく"ただひとつの統一的存在が時間と無関係にある"ということになる(西田幾多郎の言い分と同義)。
この「存在」は、われわれがどう思おうと関係なく存在している、つまり「思ってもみないもの」として存在しているので、この「思ってもみない」ということが本当に知られれば、この統一的「存在」という永遠性は実際に目の前に体験として得られる(西田幾多郎の言う「見神の事実」)。

この世界の「存在」という事象は、われわれが「思う」なんてことをしなくても存在しているので、われわれがどう「思って」も無意味だ、このことを僕は体験上「手の出しようがない」と表現する。
手の出しようがないということはつまり、この世界へのイメージや先入観は実は何の意味も持たないということだ、いうなれば「現実的」という先入観さえこの世界に手を出していることにはなりえないと言える。
では、そうなるとこの「わたし」は? ここまできてようやく、真に「思う」ということの機能が活躍してくる、このことは心臓に宿り「真我」と呼ぶのにふさわしい/「手の出しようがなく、思う」という真我においてこの世界は「思うがまま」のものとして実在する。
これらのことはつまり、古代インドにあったウパニシャッド哲学の言い分に符合する/そのことが想起されたのは、わたしが十五年前にインド当地のガンジス川のほとりで、インド人のおっさんにブラフマーの話を聴いたからだった、今になってそのことがバックアップになってくるとはな(あのおっさんは元気にしているだろうか)。

特別な本なんか読まなくても、誰の目の前にも世界はある。

ショーペンハウアーが「読書について」の中で述べているように、まともな哲学者は、哲学書を読むのではなく、世界そのものを直接読んでいる、そしてその世界そのものは誰の目の前にも平等にあるだろう。
ウパニシャッドの言い分は、梵我一如、すべてが「思ってもみないもの」であり、それらすべては「思うがまま」だということだが、こんなことは知識としてはまるでゴミだとして、それが「体験される」なら話は別だ。

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断片(他人でさえない)2
「他人でさえない」という言い方は、ヒドイが、重要でかつ有効だ。
われわれは、汝の隣人を汝のごとく愛するべきだが、このとき隣人という他人が、あまりに断片すぎて困ることがよくあるからだ。
なぜ断片になるかというと、定番としては、幼児的自己中心性の中にある人ほどその当人が「断片」になる、これが付き合いきれない。
あるていど、年長者は年少者に対し、その断片をひとつの人格に組み立てるのを援けるべきではあるが、いくらなんでも付き合いきれないということがよくある、今「断片」という捉え方は残酷だがどうしても必要だ。

いわゆる、昔から言われるところの「自我の確立」だが、その「自我の確立」はどのように為されるだろう。
「自我の確立」というのは、いわゆる甘えの脱却、自己中心性を解決して、自分と他人との関わりという「他者性」に目覚めることで得られる。
残酷だがやむをえない話として、幼児的自己中心性の中にある人は、まだれっきとした「人」ではないのだ、だから他人を愛するにしても、彼はまだ「他人」でさえないので、こちらからはアプローチのしようがない。
本来、その自己中心的断片をひとりの「人」にしてやるのは、母親と父親がコンビプレーでする仕事なのだろうが、今ほとんどの家庭で父親は機能していないだろう、昔から言われる「父親不在」の状況は、この世界に「断片」の人間を生産している。

隣人を愛して、断片災難は忘れろ。

隣人とどう愛し合ってゆけるかということは、尊いテーマだが、断片に脅かされる災難というのは、単に「たまったものではない」だけだ、これはもう防犯だけして忘れるしかない。
「他人でさえない」、それはなぜかというと、向こうから見てこちらは「人」に見えていないからだ、これでは他人と他人が出会うということがなく、向こうが一方的に何かをぶちまけてくるだけにしかならない。
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断片(他人でさえない)
人が重要だ。
なぜ重要かというと、他人というのが真実だからだ、この世界には本人と他人しかいない。
身内、という現象は、他人というこの世界の真実が生ライブだけではキツすぎるので、主に子供向けに認められている安全装置だ。
重要なことは、他人が他人のままでいることであり、その他人とうまくつながり、損得なく与え合えることだ、その現象と行為はごく当たり前に愛と呼ばれている。

しかし他人といっても、街中ですれ違うすべての人が重要だなんて言っていられない。
正直なところ、街ですれ違う人のほとんどは、「なんやようわからん」ものだ、これは時代のせいもある。
それを「破壊された人」なんて言い出すともうメチャクチャになってしまうが……まあたぶん、これは何か新しい呼び名が要るのだろう。
この世界には他人と本人しかないが、その他人を分類的に言うと、身内、他人、断片、となるのだ、重要なのは他人であって断片ではない。

(身内)← 他人 →(断片)

この中で「人」という字を含んでいるのは他人だけなので、われわれが「人」に出会えるのは他人の中にだけだ。
僕は人間性を冒涜しているつもりはなく、「人が断片になってはいけない」というヒューマニズムを唱えているつもりだ、僕は他人に向けて話している。
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永遠のものと一時的なもの
遠に遊べる誰かと出会えばいい。
あなた自身もその「誰か」になるべきだが、そのためには経験が必要だ。
一時的な何かにしかならなかった、ということが最終的にむなしい。
一時的に「楽しい」というのも、悪くないが、それだけしかないというのはまずい、永遠に遊べる誰かと出会うように。

われわれは一時的に生きているから、すべての時間を永遠の中に遊んではいられない。
が、その一時的に生きている中で、何をしないといけないかというと、やはり永遠に遊ぶ誰かと出会うことなのだ。
一時的なことも重要だが、それは一時的に重要なだけだ、このことを忘れないように。
一時的に重要なことだけで生きていくと、時が過ぎたときすべてが消えていってしまう、あなたの青春は永遠でなくてはならず、一時的なそれでは本当は青春とは呼ばれないんだ。

一時的に生きたが、たくさんの永遠をつかんだ。

それでよろしい、それで、一時的に生きていくというほうも、ぬかりなく厚かましくやるんだ、なるべくたくさんの永遠をつかめるように、なるべく一時的なものに足を引っ張られないように。
日本人の春には、いつも桜が咲いている、それは四月のうちには散るけれど、桜は一時的に咲いているのみか?
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夏の風と同じように

ずは自信を持つことだ。
おれたちは自信を持つ責任がある。
自信を持つということは、他人をアテにしないということだからだ。
だから自信を持つ同士は口論をしなくて済む。

周りを見てみろ、自信のない連中は口論と無視しかできない。
どちらも他人をアテにしているからだ、依存が負担を生み、負担が口論を生み、口論がやがて無視を生み出す。
自信のない連中は、生きていくのがキツいから、自信の持ち方ガイドブック、みたいなものを探している、その腐敗に気づかない。
自信のないままだと、人は話し合おうとしたり、わかりあおうとしたりするようだな、そして愛する誰かを一人も得ないまま時間だけが過ぎてしまう。

自信が吹いている、夏の風と同じように。

自信のない奴は、いつまでも母親に褒められたがっている、あるいは社会に、上司に、褒められることが目的になってこの世の中をさまよっている。
自信を持つということは、他人をアテにしないということだ、他人をアテにしない奴だけが、夏の風が吹いていることに気づくんだ。

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選ぶということ
分に正直になることだ。
お前は選択肢を選ぶということがわかっていない。
選んだ選択肢を、別にやらなくていいんだ。
それは「選ぶ」って行為なんだ、それで十分だろ。

お前は条件を選んでいる。
神戸牛とシリアルフードを選ばされるとき、「神戸牛は10000円で、シリアルは100円」と勝手に"条件"を付与している。
そしてお前は、勝手に選択肢を「重要なもの」だと思っている。
おれは美少女と老婆なら美少女を選ぶが、美少女が重要なものだなんて思っていない。

札束を重要がっているから、札束を選べない。

選ぶってのはもっと粋なものだ、おれは選ばせているのであって決定をさせているのじゃない。
選べよ、おれたちの人生に重要なこととか決定的なことなんて何一つないんだ、だから選べるだろ。
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バカだけが王になれる
カと賢い奴とだったら、バカのほうがスピードは早い。
なぜなら、バカのほうは、計算がはたらいていないからだ。
そして、この世のすべては、計算がはたらいていたら間に合わないのだった。
バカは、「学生は勉強するものだよ」と言われたら、「そうか」といって勉強をしてしまう、そこに計算や納得を割り込ませないのはバカ特有の現象なのだった。

バカには配分がない。
配分がないので、テレビゲームをやり始めると宿題を忘れる。
テレビゲームをやり始めると、テレビゲームが100%になるのだ、だから宿題なんかはこの世に存在しない、という状態になってしまう。
賢い奴は、「集中しよう」と努力するのだが、バカはそもそも配分を知らないので、分散するという現象がないのだ、ひとつひとつがすべてになる/そうしてバカにはバカの有利さがあり、そこは賢い奴では追いつけないのだ。

賢さはやめることができる。

僕はよく「おおっと」と言うことがある、「けっきょくこれか」「丸腰で向かうしかないのね」という瞬間、とっさに「おおっと」と気を取り直す。
どう考えても僕は王ではなくて、そりゃ計算したら王じゃないことぐらい僕にでもわかる、しかししばしばまったく逆のことが、僕が生きる上で決定的なシーンを作り出してきた。
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情熱はどこから湧いてくるか5(ガマンと耽溺願望の構造)
こ最近、僕はこれまでの一年間を振り返っている。
去年は、ワークショップ等もやり、またその他にも色々あって、今になってまとめなおしが必要だと感じているからだ。
そのまとめなおしの中で、新しく現今の状況を知った中で、僕自身は改めて「情熱」に立脚するしかないと感じる。
これまでの一年間で知ったことのひとつに、いかに人々に「情熱」が機能していないかを知ったということがあるからだ、そのことを踏まえた上で、僕はより露骨に「情熱」に立たねばならない。

僕が「情熱」に立てば、また他の人と距離が大きくなり、「噛みあわない」ということがさらに増大してしまうが……
だがここに来て、逆に僕は、よりレアな「情熱」の実物をやらねばならないだろう、まったくガラではないのだが、いいかげん僕がそれを残していかないと本当に周囲から消え去ってしまう。
これ以上、弱さを焼き払おうとするのは、いいかげん不自然で無理があるが、まあしょうがない、他にすることもないのでそのようにやっていこう、なんだかんだでヒマだ。
情熱はどこから湧いてくるか、それは「間違っててもかまわん」というところから湧いてきている、情熱は弱さを焼き払うものだが、正しいか間違っているかに囚われるのが人間の第一の弱さだ。

正しいことは、わかるが、僕には聞こえん。

けっきょくこうなるしかないのか……といって、もう二十年ぐらい変わらない中を生かされているような気がするが、まあいいや、ちなみに情熱といっても休憩はします、一年間を振り返って「休憩ゼロの前提はどーなの」ということもさすがに考えたのだ。
正しいことは、割と人によって違うので、人の顔色をうかがっていると時間を無限に無駄にします、情熱はただ強さの実物に向かっていればよし、まあでもまた距離が大きくなってしまうのはいささか憂鬱でもあるなあ、しょうがないけどな。
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情熱はどこから湧いてくるか4(ガマンと耽溺願望の構造)
やあ、こりゃ本当にまずいな。
たぶん、少なからぬ人が、耽溺している人のことを「明るい」と思っている。
ガマンの暗い時期があり、それが過ぎれば次は耽溺の明るい時期があるのだと、単純に思っていて、そのことを「そのうちいいことあるさ」と冗談でなく思っているところがある。
「暗い受験勉強を終えて、無事大学に入って、彼氏ができたからリア充になって明るくなった」と、冗談でなく思っているところがある、これは本当にまずいことだ。

受験勉強だろうが、恋人だろうが、「情熱」なら同じだ、どちらも本来は情熱をもって向かうものだ。
◆正:受験勉強(情熱)、恋人(情熱) ◆誤:受験勉強(暗・ガマン)、恋人(明・耽溺) と、こうして並べて書けばわかりやすいか。
「弱さを焼き払うのが情熱」、これは変わらない。
「弱さを抑圧する苦しさがガマン、暗いのよ」「弱さをぶちまけていい快楽が耽溺、明るいのよ」というような、目を覆いたくなるような概念を往復しないでくれ。

参考書も恋人もボロボロになるまで愛するのが情熱。

ガマンが暗くて、耽溺が明るいとか、そりゃいくらなんでも「煩悩」そのまんますぎるだろ……ちょっとは直観的に気づけよ、まして煩悩もどうせ執着になって暗くなるよとミエミエに予言されているんだから。
情熱とは、自分の生きることに現れてくるすべてのことを、何もかも肯定して笑えるものにしてやろうとする力のことだ、自分にとってオイシイものに執着して追いかけまわすことのどこが情熱でありうるものか。
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情熱はどこから湧いてくるか3(ガマンと耽溺願望の構造)
「ガマン」もクソだし、「ぶちまけ」もクソだ。
そもそも、何かを「ガマン」しているから、「ぶっちゃけさあ」が出てくるのだろう、そんなものは何も偉くない。
「我慢(ガマン)」という漢字をよく見ろ、「我」の「慢」だ、「巨大な我慢」ということがいかにヤバいかがわかるじゃないか。
「ガマンしている」という状態は、自分を押さえているのではなく、実は自分を膨らましているのだ、だからそれはやがて来る破裂(ぶちまけ)への準備にしかならない。

「ガマンしないなら、ぶちまけるしかないじゃん」というデタラメ短絡な発想を、どうか捨ててくれ。
ガマンは自分への執着だし、ぶちまけも自分への執着なんだ、ここを往復していたらキリがないし救いがない。
あなたは、他人の苦悩について、自分がガマンするということはないだろう、「ガマン」というのはあくまで自分のことしか「ガマン」できないはずだ、ここにヒントがある。
自分を突きはなせ、自分が「自分」というくびきを超えられたら、もうガマンの必要もぶちまけの必要もなくなる、他人の耽溺が気色悪いことにしか見えないように、自分の耽溺も気色悪いことでしかなくなる。

カミサマの降りてこない苦行をしてりゃ、そりゃただの我慢大会になる。

これまでに、「自分のためにがんばりなさい」とか言われてこなかったか? これが「ガマン」の温床になる、「自分のために」なんて念頭に置いてりゃ、我・慢が増大するに決まっている。
ガマンしてきた者が、やがて耽溺を得たとしても、そんなもの救われるわけがない、情熱というのはこのクソ構造にいよいよ見切りをつけようとする理性のはたらきのことだ。
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情熱はどこから湧いてくるか2(ガマンと耽溺願望の構造)

はりこの話が、現代に「当たっている」と感じる。
鉄則だ、「情熱とは、弱さを焼き払うこと」だ、これはもう曲げなくていい。
情熱の湧いてこない人は、「ガマンとヒステリック耽溺を往復」しているのじゃないか? ここは正直に考えてみてくれ。
生活上でする「ガマン」を、「善」「大人」「自制心」「いい子」と思っているのじゃないか? だとしたらそれは単純に間違いだ、大急ぎで訂正してくれ。

「情熱を、ほれ、やってみろ」と言われたらどうする、どう感じる。
たちまち、何かを「ガマン」するか、もしくはそのガマンが切れて、「ヒステリック耽溺」に転落したくなるのじゃないか、だとしたら根本構造が間違っている。
わかりやすく言っておこう、ガマンが偉いわけではまったくなくて、ガマンを乗り越えてガマン以上の何かに到達した人が偉いのだ、「耽溺に興味はないし、何かをガマンした覚えもないな」という人が偉い。
われわれは、ガマンにストレスをためて、耽溺にドーパミンをプシャーするというような、愚かなばかりの生きものではないのだ、そんなことは元々わかりきっていることだろう。

必要なのは「自制」ではなく「克己」だ。

「とてもつらかったけれどガマンしました」と自負するのは、とってもよくない、それは「不満を溜めこんだだけ」だ、その焼き払われていない不満はやがて耽溺にぶちまけられることを待ち望んでいる。
「克己」というのは、「初めはつらいとか言ってたけど、いつの間にかすっかり忘れたね、ハッハッハ」と笑っている状態だ、そして情熱というのは、そのただならぬ克己に向かおうとする人間のあらわれのことだ。

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情熱はどこから湧いてくるか(ガマンと耽溺願望の構造)

とえば若い男性は、毎日オナニーしているだろう。
若い男性は(女性もか)、オナニーしたくなるので、オナニーするわけだが、このときオナニーは「自分のやりたいこと」ではない。
「○○を味わいたい」という願望の方向に、「自分のやりたいこと」はないのだ。
つまり、「耽溺」という弱い方向に、自分のやりたいことはないということになる、「情熱」は強いほうにあり、いわば「情熱の反対は耽溺だ」と言いうる。

情熱はどこから湧いてくるか。
それは、弱さの逆方向、つまり「自分の内にある弱さを焼き払いたい」という無私の衝動から湧いてくる。
「自分のやりたいこと」を探すというのは、「人生に一度、思いっきり何かに耽溺してみたい」というアホな願望のことを指すのではなく、その逆、この耽溺願望を焼き尽くしたい、という衝動を指す。
どうも僕の知るかぎり、生きる上で何かを「ガマン」してきた人は、その「ガマン」によって「耽溺願望」を無意識下に育ててきているような気がする/情熱のない人はきっと、「ガマンと耽溺願望」に不穏な心当たりがあるのじゃないか。

ガマンすんな、戦え。

誤解している人は、「ガマンすることが正しい、戦い」と思っているのじゃないか、その誤解はやがて耽溺願望に取り込まれるぞ、それはきわめて危険なことだ、ガマンということの地位を下げろ。
情熱はどこから湧いてくるか/ストイック風情は情熱のたまものじゃないぞ、ガマンおよび耽溺願望の両方を焼き尽くして立つという決意が情熱だ、プラスの妄想もマイナスの妄想も焼き払って笑うのが情熱だ。

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「評論」はおすすめしない
・淀川長治さんは、まさに映画と共に生きた人だった。
だからあの人が映画評論をすることには聞く値打ちがあった。
ここで、もしあなたが、まさにラーメンと共に生きる人であったなら、あなたはラーメンの評論をしたらよいことになる。
ただ、「ラーメン消費者であることがわが生」というのでは、あまりにも人生を喪失した人みたいで、あまりいい感じはしないけれども。

自分にとって、よほどかけがえのない愛やストーリーがある場合には、評論ということもあっていいのかもしれない。
が、そうでないかぎり、評論なんてしないことだ、「評論」をすると、自動的に自分の人生を喪失する仕組みが待っている。
「評論」をすると、それ以降は、もう自分の中にそれが入ってこないという仕組みがあるのだ、たとえばラーメンについて評論した人はもう食事の一切が自分の中に入ってこなくなる。
「評論」をすると、以降は一切のものが頭で弾かれるようになり、自分の身には体験されないようになるのだ。

自分のストーリーがない人は、どうしても評論で時を過ごす。

たとえばロクに女性と付き合ったこともない男に限って、「A子の性格はさあ」「B子の身体はねえ」と評論を始める、こんなもの女性から見たら全力で「ゲッ」としか思わないはずだ。
あなたはこれまでに、芸術を評論する人に芸術性を覚えたことはないはずだ、何もあなた自身がわざわざそんな人物になる必要はない/あなたにあなたのストーリーがあればあなたは「評論」なんてやらかさない。
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親兄弟
兄弟の話をよく聞く。
親兄弟というのは、よくわからないものだ。
人が、親兄弟にこだわるとき、たいていロクなことにならないし、そのこだわりは何の役にもたたない。
親兄弟というのは、カミサマのこだわりであって、われわれのこだわりではないので、特に気にしないというのが一番よいと思われるのだった。

たとえば近親相姦の話などはキモチワルイ。
キモチワルイにもかかわらず、たとえば兄から見ても妹のおっぱいはプルンとしている。
それが何なのだ、ということになるが、それはきっと何でもないので、「知らんわ」といってさっさと外に出るのが一番まっとうだと思われる。
フロイトはさまざまなエディプスコンプレックスのありようについて解き明かしたが、そういったことは特にこじらせた人にだけ必要な知識で、そもそもこじらせずに放っておくのがベストなのだ、親兄弟についてこだわるのはたいていロクなことにならない。

血のつながりは、あるのかもしれないが、あんたにはわからん。

カミサマから見たらわかる何かがあるのかもしれないが、われわれにとってはよくわからんことだ、われわれはDNA鑑定とかいう野暮の極みを用いてしか、血のつながりを知ることができない。
親兄弟には、きっと「何もない」のだ、もしあったとしてもわれわれが知ることのできない何かだ、だから親兄弟とは「何もない」というのがベストだ、ポジティブもネガティブもないのが一番いい。
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「燃焼」と「常温保存」
間は「燃焼」するべきか、それとも「常温保存」されるべきか。
このことについて考えるが、考えた上で、どーも人に話すのは気が進まないでいる。
岡本太郎や、ジェームスブラウン、尾崎豊などは、明らかに「燃焼」を選んでいる側だ。
しかし現代の思想は「常温保存」であって……たとえば煙草の煙は害悪だし、バカ食いも深酒もダメ、そして運動とビタミンを欠かすなというのが現代の思想だ、このことの前に、やはり僕はこのことを人に話すのは気が進まないでいる。

僕は「燃焼」を選ぶたちだ。
カミサマが生命を創ったのなら、なぜこの生命は死んでしまうんだよ、という問題がある。
カミサマが創ったものなら永遠に生きてもよさそうなものなのに。
このことはつまり、カミサマはすべからく生命に、「さあ燃え尽きろてめーら!!」と言いつけているといいうるのだが、それにしてもこのことは人に話すのは気が進まないのだった。

「燃焼」と「常温保存」、どちらを選ぶか。

このことは、なかば禁句のような感じがするが……まあいいや、僕は「燃焼」を選ぶし、僕が燃焼を選ぶせいで、僕の友人は多大な被害を受けているだろう。
ただ僕は、「燃焼」と「常温保存」で、言い争いだけはしたくないのだった(だからどーも話すにも気が進まないのだ)。
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ハーバード大学医学大学院から、「死後の世界はある」というレポート
ーバード大学医学大学院で、長らく脳神経外科の治療と研究にあたってきた医師エベン・アレキサンダーは、自己の体験を元に「死後の世界はある」と発表した。
エベンはある日、髄膜炎にかかって倒れ、死の淵をさまよったのだが、そのときに典型的な臨死体験を得たという/エベンはうつくしい谷の上を飛行し、そこで見たこともない女性に出会ったという(その女性はエベンに「永遠に愛されている」と告げたそうだ)。
奇跡的に生還したエベン医師は、臨死状態にあった自分の脳CTスキャンを見て、こう断言した、「こうして脳が腫れ上がっている状態で、ああいう鮮明な幻覚を見ることはありえない」。
つまりエベン医師の結論は、「あれは幻覚ではないのだ」ということ、幻覚でないのなら、それはマジで死後の世界ということなのだろう。

ハーバードのエベン医師がインチキ野郎でないかぎり、どうやら死後の世界はマジにあるというのが濃厚だ。
そして、死後の世界が、そうして「ギリギリ生きている人間でも見ることができる」ものなら、ブッダやかつての高僧たちや、トルストイやウィリアムブレイクのような人たちは、それを知性の能力において直接見ることがあったのかもしれない。
だが、死後の世界があるということで、生きている世界をナメてかかるのは、直感的に不遜で不潔だ、死後の世界は死んでから行けばいいだけで、生きている世界をシカトしてよいということにはならない。
ただまあ、人が生きているという話は、この現世における「一話完結」ではないようだ、全体のストーリーがどうなのかは、われわれがブッダやトルストイでない以上わかりっこない。

じゃあ燃焼しろ。

われわれが生きているということが、この現世の「一話完結」ではないということなら、燃焼しろ、僕は燃焼していない奴は根本的に「わかっていない」とみなしている。
ちなみにエベン医師が臨死体験の中で出会った女性は、ついに顔を見ることもなく死別した彼の妹だったらしい、のちに残された写真を見てわかったのだそうだ/それはあまり「不思議」なことでもない。
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僕にとって/あなたにとって
とえば僕にとって、かつて就職活動は、夢と冒険とロマンだった。
だが別の誰かにとっては、「あんなもん地獄だったよ」ということもあるらしい。
「毎日何かを書いていて、イヤになったことはないんですか」と訊かれることがよくある。
「イヤになるとか、そういう類のことではないな、考えたこともない」と答える、それも"僕にとって"の「書く」ということが何か違うからだろう。

僕にとっての湖と、あなたにとっての湖は違う。
僕は、僕にとっての湖に向かうことはできるが、きっとあなたにとっての湖には向かえない。
あなたにとっての湖に向かおうとすれば、僕はたちまち「挫折」するだろう、朝起きたときから僕の身体は動かないに決まっている。
僕にとっての湖に、「わたしも向かいたい」という人がたまにあり、そのことが正しくなされるとき、かけがえのない輝きがある。

あなたの努力は、あなたに向かうべきではない。

あなたに向かうあなたの努力は、有意義なものにはなるだろうけれど、輝きは異なる、あなたに向かうあなたの努力はあなたをあなた以上のものにはしない。
あの人が見たもの、この人に見えているものを見るんだ/メンデルスゾーンの楽譜の中に、メンデルスゾーンが見たものを探すんだ、あなたが見るもの・思うものを探すのじゃない。
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「刺激」の中に「好き」はない
つて、「街には刺激がいっぱい」と言われた。
今は、「ネットには刺激がいっぱい」と言われねばならない。
街中で、スマートフォンをずっといじっている人が多いのは、ネットの刺激が街の刺激を超えているからだ、単に刺激の強いほうに引き寄せられている(ネットの刺激>街の刺激)。
街の刺激は、帰宅すれば遠ざけることができたけれども、スマートフォンは端末だ、あなたの枕元まで付き添ってくる、あなたはそれから離れることができない(これがVRになれば刺激はさらに強力になるだろう)。

あなたは「刺激」から離れることはできない、それは生きものとしての性質だ。
「刺激」を受けると、あなたは華やぎ、満たされているような感じになる、だがそれは一時的なものなのだ、この仕組みは実はシリアスなものだ。
「刺激」の中に、あなたの「好き」なものはないのだ、にもかかわらず、あなたは「刺激」から離れることができない。
一度、実験してみたらいい、独りでスマートフォンを手放し、テレビも切り、いろんな「用事」を考えるのをやめる、するとゾッとするような「さびしさ」があなたを苦しめ始める/だがこの「さびしさ」は実はあなたの味方なのだ。

「好き」があれば「刺激」は要らないし、「刺激」があれば「好き」は要らない。

何もかもスイッチをオフにして、ひどい「さびしさ」の中を数分間耐えてみる、そして部屋の明かりや窓の外の景色を見てみるのだ、するとそこにやがて「好き」という静かなこころが立ち上がってくる。
単純な話、人は刺激を受けているとき、「好き」を含めた「こころ」の機能を失うのだ、だからこそ人はデタラメな暴力やセックスができてしまう/これから先、「刺激」と「こころ」を感覚的に区別できる人は、すごく有利だ。
 
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この時はあのときの春なり
の時は永遠なり。
永遠なれば友人に行きつき、有限なれば諍いに行きつく。
この時は永遠なり、この時はあのときの春なり。
諍いは誤謬を差し込まれることによって生ずる。

時間はまこと存在せず。
時の流れるは時を評価する自我の妄想なり。
時計の針の巡る様は、ゴム布の引き伸ばされたるに似たり、本質に変動なし、時は流れず。
一秒は単位なり、一日は単位なり、一年は単位なれば、一生もまた単位なり、それは実在個数の単位なれば、長さの単位にあらざるなり。

八十八度の、一個の春なり。

回数は有限なれど、一個は永遠なり、回数の沙汰に欺瞞されず、永遠の一個を見失うなかれ。
二個の生を得たる者なし、同じく一個の生を得ざる者なし、また一個に伸張なし、刻みもなし/一個の生に在り続ければ、虚空に条を引きたる曲学の物理風情に比べごとの手遊び吹き込まれぬこと。
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