☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「現実的に神がいるか」ではなく、「現実的には神がいる」ということ
戦空手の師範代と、お遊びで乱取りしてもらったことがある、まだおれが高校生のころだった。
その筋の人はよく知っていることだと思うが、大会でも活躍するような実戦空手の師範代となると、もう反応速度は違うし動体視力は違うし鍛えこまれたワザのパターンもレベルが違うし、そもそも身体の頑丈さがハンパじゃないので、まず何をやってもシロウトの攻撃が通用するレベルにない。
いっぺんそのあたりの、「こんなもんに勝てるわけあるか!!」という笑えるほどのリアリティは、誰もが経験してみたらいいと思う/たとえば女性が護身術を習うと、「手首のこの骨の部分をもって、外側にこうひねりあげる」みたいなことをやらされると思うが、それは通常の人の手首だから成り立つのであって、実戦空手の師範代みたいな人の手首には通用しない、それはもう掴んでひねろうとした瞬間に「はあ?」と、中に鉄筋コンクリートでも入っているのかと感じさせられるぐらいだ、そして「こんなもんに勝てるわけあるか!!」と笑わされること必至なのだった、いわゆる「鉄拳」というやつは本当に工事現場の鉄筋のような感触がする。
そして同時に、今になって思うことだし、その当時もうっすら思っていたことだが、じゃあその実戦空手の師範代を実際に殺すとして、それを殺せないかというとそうとは限らない、それは<<リアリティと現実は違う>>からだ、奇妙な言い方だが、現実というのはリアリティのようには進んでくれない/リアリティの面では「こんなもんに勝てるわけあるか」なのだが、現実にどうなるかというと、そのリアリティのとおりにはならない、現実には神も悪魔もいるからだ、神も悪魔もいる現実のもとで、人のリアリティなんてどうなるものか、そんなものあってなきがごとしだ。

このことは、単に「ぶちのめす」という範囲のことでは、現実的に起こってこない、「ぶちのめす」というのは逆にいうと "相手を殺害するつもりがない" ということなので、言ってみれば世間的な「生活の範囲」に収まっていることになる/この場合はほとんどが「リアリティ」の範囲に収まるので、何も面白くない、神や悪魔はそうした人間の「世間的・生活の範囲」のことには興味がないようだ。
これが、相手の首をはねるかその骨を折るか、もしくは流血なり絶息なりさせるとして、相手をきっちり「殺す」ということになると、物事の性質が変わってくるのだ、それは何が違うかというと/「ぶちのめす」という場合はAがBをぶちのめすということになるが、これがきっちり殺害を前提にする場合、AがBを殺害するように見えて、その実際が済むと、そこにはもうAしか残っておらず、Bは消失してしまうのだ、あるのはAだけ、いわばBは "初めから存在しなかった" ようなことになる、この点で殺害前提の戦いは性質がまったく異なるのだった。
われわれは世間的生活の習慣と、スポーツの発想に慣らされているので、AがBを「ぶちのめした」場合、Aが勝者でBが敗者になるというふうに当たり前に思っているが、殺害前提の場合はそうではないのだ、殺害前提の場合は敗者が死去によって "消失" してしまうので、同時に勝者という立場も消失してしまうことになる、勝者も敗者もそこには残っていない……そうなってくるとわれわれの自前の感覚ではこの出来事を追跡できないのだ、そのとき実際には「……???」となる/なぜならわれわれは「なぜ自分や他者が "存在" しているのか」を初めから知らないからだ、われわれはそれぞれを勝者・敗者というステイト(状態)に分類することはできるが、そのイグジスタンス(存在)については取り扱いができない、われわれはなぜ生まれてきてなぜ死んでいくのかがわからないので、その生死を自分で他者に施行するということには、言ってみれば「リアリティの得ようがない」のだ。
だからリアリティとはまったく無関係の出来事が起こる/おれがその実践空手の師範代を、「初めから存在しなかったことにする」ということに確かに目覚めて攻撃するとき、その攻撃は「完全にリアリティがない攻撃」になるので、リアリティの中で培ってきた技術や強さはまったく使えないというか、培ってきたものが "まったく反応してくれない" ということになる、リアリティがゼロの攻撃はもはや「攻撃」なのか何なのかわからないのだから……これはもちろん逆の立場でもまったく同様で、女子小学生がおれを「初めから存在しなかったことにする」として簡単な包丁一本を手にもっておれを殺しにきたら、その場合は何がどうなるかは誰にもわかったものではない。

勝敗なら人のリアリティで取り扱えるが、存在と消失はまったく別のものが決めてしまう。

だからこのことは、練習なんかしようがないのだ、どれだけ実戦的な練習をしようが、そもそも存在と消失を決めているのはわれわれではないので、われわれが練習するということ自体に意味がない、神と悪魔が練習するのなら意味があるだろうが、そんな練習メニューを誰がどう組んで誰がどう指導すればいいのか、さっぱりわからない/それでもおれが、世迷言として大真面目に言うなら、自分が練習するというようなリアリティのアホはやらずに、「神に練習させろ、あるいは天使に練習させろ」と言うだろう、その意味で練習はやっぱり必要デース。
仮にこの宇宙に、知性をもつ者がAさんとBさんしかいなかったとする、ここでAがBを殺害した場合、Bは消失するので、この宇宙に残された知性はAのみという状態が残る/このときAがBを殺害したということが「善いのか悪いのか」を決定するのは、唯一の知性であるAだけということになるので、それを善いとすることもできるし悪いとすることもできる、このようにおれの話していることはすべて現実的なことであって、現実的だからこそリアリティがない、おれは「リアリティに頼って現実から逃げるな」ということを警告している、誰にでもいつかそうしたリアリティのない現実の瞬間が来るのだから。
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仏教には教えしかなく、キリスト教には愛しかない

日、人に聖書と仏典の話をしていて、とても不思議な発見をした、それは巨大なナゾであり巨大な発見だった。
なんというか、仏教(根本仏教)については、その教えがどうだったかというのは説明できるのに(つまり四諦八正道)、キリスト教についてはその教えがどうだったかというのは説明できないのだ、いやもちろん説明しようと思えば説明できるが、断じて「説明する気にならん」のだ、このわけのわからない確信はわけのわからないままに先に確信として定まっている。
仏教といって、阿弥陀仏信仰はまた別になるが、シャカを開祖とする根本仏教については、そもそも信仰心を必要とするものではない、根本仏教はひたすら「理」だ/「苦しみを断つのではなく苦しみの原因を断つ、そのための八つの正しい道を教える」という、ただの冷徹なメソッドであり、ただそのことを為した人とそのことに集った人たちの、才能も根性も知能も桁外れだったというだけだ。
一方キリスト教は、一見すると理に叶ったことを言っているようだが、それは見せかけであって、すべての見せかけの向こうには「そうしないと天の国に入れません」「父なる神の祝福を受けられません」ということしか言われていない、これは "信仰" だ、キリストは福音書でずっと「信心の薄い者たちよ」と嘆き続けているのに対し、仏教ではブッダが「必ず煩悩が苦しみに変わる」と説き明かし続けているだけだ、この二つはそもそも「宗教」といって同じジャンルに並べるものではないとおれは考えるようになった。

これは不思議な発見だった、なぜか、いわばおれの内にあるどの蛇口をひねっても、キリスト教の「教え」などというものは出てこないのだ/もちろんいわゆる隣人愛というようなもの、「第一に汝の主たる神を愛し、第二に汝の隣人を汝のごとく愛しなさい」というような説諭はあるしそのことも説明はできるが、<<これを説明したところで断じてキリストの教えにはならない>>、これは聖書を含めた<<テキストのコピー>>に過ぎず、つまりイエスキリストから切り離されているので、テキストのコピーには何の意味もないのだ、断言していいが「味付けの順番はさしすせそ」と言っているのと同じだ、そんなものは神でも何でもなく、そんなものを学んだとしても「ふーん」ということにしかならない。
おれの内部のどの蛇口をひねっても、キリスト教の「教え」なんてものは出てこない、キリスト教の「教え」なんてものが出てきたらそれは郵便受けに突っ込まれる質屋のチラシと同じだ、おれはたとえローマ法王に中指を突き立てられてもこのことを改めるつもりはなく、キリスト教の場合は教えが重要なのではなく「イエスキリストがそう教えた」ということだけが焦点なのだ/だからまかり間違っても「イエスキリストはこう教えた」というようなことをおれの口から説明するということはありえない、キリスト教についてはイエスキリストの口から説明を受けるしかないのだ、この「イエスキリストの口から教えが説かれる」ということ自体がキリスト教なのであって、イエスキリストの口から教えが説かれたときにのみ発生する "神の愛" という現象そのものがキリスト教の本体であり実質になっている。
キリスト教は、「宗教」とされ「教える」の字がついているが、実は本体は教えではなくそれを教える「主体」の存在だということになる、シャカを開祖とする根本仏教はこれと異なり、仏教は誰がそれを教えたということは問題ではなく、まるで宇宙開闢の以前からある「理」だけがシャカによって開示され、それを正覚できるかというだけの問題になる、つまり仏教には本当に「教え」しかない。
仏教といっても阿弥陀仏信仰はまた別で、阿弥陀仏信仰もシャカがわれわれに教えてくれたから成り立っている別次元の存在のことだが、アミダであろうがアーメンであろうがヨガの聖音AUMであろうが「阿吽」であろうが、母音がA→Mに向かうのは同じだ/何のことはない、キリスト教だろうが阿弥陀仏信仰だろうが、A→Mの中に現れる霊的な愛(キリスト教的には「憐れみ」、仏教的には「慈悲」と呼ぶ)に「すべてをゆだねろ」と言っているだけだ、親鸞はそれを強調して「他力本願」と言っただけで、アミダであろうがアーメンであろうがその自力ならざる主体のところに「命を帰らせる」と言っているのはまったく同じだ。

根本仏教は「ゼロヘルプ」が前提で、キリスト教や阿弥陀仏信仰は「全ヘルプ」が前提だ。

阿弥陀仏信仰では、ブッダに説き明かされたところに基づき、正式に「完全に信じて十回でもその名前を唱えたら慈悲による救済対象になる」とされているし、それはキリスト教の福音書にしつこく出てくる描写に突き合せれば、それぞれは別物であるにしても、「完全に信じてアーメンを十回でも唱えるようならそりゃ天の国に迎え入れられるでしょうよ」という旨のことが福音書で言われているのは明らかだ/いちいち救世主とかメシアとかいうから物々しくなるのであって、分類的には単に、「1.ゼロヘルプで本当にやれるのか」「2.全ヘルプを本当に信じられるのか」という二種類があるにすぎない、そして前者はあまりにも厳しく、後者は後者でむつかしいというだけだ。
というわけで、自分の内部のどの蛇口をひねっても、キリスト教の「教え」なんてものは出てこないということの発見は、おれに一種の膨大な歓喜を与えた、おれが断言できるのは「キリストは存在しているがキリスト教は存在していない」ということだけだ、新約聖書というのは一切 "教典" ではなく、本当にただの "福音書" なのだろう/キリストが存在するということはキリスト教が要らないということだし(当たり前だ、救世主がいるなら宗教は要らんだろ)、キリスト教をデッチあげることはキリストの存在を否定することになるだろう、なお当然のことだがキリストは死後に復活しているしその後死んだわけでもないので、二千年前の過去の人ではなく現存しているということになる、だから都市伝説によくあるキリストの子孫ネタもどうでもいいのだった、当人が現存しているのに子孫の有無なんかどうでもいいだろう。

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人は成長すると不味くなる
代が進み、人々は豊かな情報とツールを得て、成長した、そして成長すると人は不味くなるのだった。
情報が増え、人々が賢明になると、「分かる」ことが増えてゆき、分かることが増えたぶんだけ成長しているのだが、分かることが増えるというのは「何もかもがわたしのものでなくなる」ということなのだ、「わたし」から分離しているからそれを「分かる」という。
たとえばモナコに住んでいたとしても、成長した人にとってはモナコに住んでいるということが「分かる」のであり、「分かる」ということは主体から分離されているということだ、この場合の分離的主体(何も得ていない主体)のことを、字義のとおり「自分」という、「自分」と「モナコ」は分離されているので、まさに自分がモナコに住んでいることは「分かる」のだが、けっきょくわたしはどの場所も獲得していないということになる、自分はモナコに住んでいるのだが「モナコはわたしの場所ではない」となる。
一般に言われている「成長」というのは、そんなくだらんことなのだ、時代が進むにつれて情報とツールが豊かになって「分かる」ことが増えた人々は、大いに成長したが、「何もかもがわたしのものではない」という中で生きてゆき、現在ではすっかり自分の人生だって「分かっている」という状態になった、自分の人生が分かるのだが、それが「わたしのものではない」という状態、これが現代では当たり前になった。

この急加速した「成長」、けっきょくは「分離しますたw」でしかないこの急成長を、今さらどうにか転覆できるものかというと、馬鹿げて困難を極めると言わざるをえない、このおれですら途方に暮れる感じがするのだ。
このような「成長」であるから、「成長」に対してネガティブになるかというと、そうではなく、成長への願望と肯定じたいも日々加速し続けている、このところは自分の夢やメンタルでさえも「わたし」からは切り離して分離されたものとして持っている人が多数派だ、夢も人生もメンタルも「わたし」から切り離されているというのではもはや「わたし」というのは何の存在なのかまったく意味不明だ。
「分かる」というのは業(カルマ)であり、それに肩入れが加速するはたらきはもはや魔物の作用でしかないのだが、今さらこんなことを言ってもな……おれの言っていることは誰にでもなんとなく「分かる」と思うが、分かっているはずのこの話、おれが「じゃあ実物はこうよ」と、「わたし」から分離されていないすべてのものを実際に見せると、そのとたん「分からない」といって、けっきょくは分かる教信者であるふうを自白して暴れだすのだ、このパターンを解決する方法がない。
このあたり、つまり「分からないものをどうやって分かれというんだよ」という話になる、それで、分からないものは分からないので、分かるかわりに結合しろということなのだが、結合ということになると急に、自分の側が「わたしの中に何もない」という事実に突き当たって、急激にひがみ・呪いという反応にすり替わっていくみたいだ、もちろん「そんなこと言われましてもな」とおれとしては頭を掻かざるをえない/おれまで空っぽならおれの話はスムースに伝わるのだと思うが、そんなしっちゃかめっちゃかな話に付き合うことはできないし、別にこれは貧富の格差でもないのだからそんなに必死にならんでもと思う、とはいえこれは貧富の格差ごときでは済まないことだからこそどうしようもない反応なのかもしれない。

「分からせる体制」には初めから無理がある。

分かるという機能は、それじたいは別に悪ではないのだが、分かったのちにそれが「わたしのもの」にならないのなら、何のために分かったのやら意味不明だ/このところは「わたし」というそれじたいさえ「分かる」までに人々は成長してしまい、「わたし」から分離した「自分」をいじくって、そのメンタルやらモチベーションやらを見物している、唐突な言いようになるが世の中の何かがあなたの「わたし」に加勢することは一ミリもない、世の中はあなたの「わたし」に寸分も興味がないのだ、世の中はあなたに「分からせる」ことにしか興味がない。
子供というのは主体としてまだ空っぽだから、結合といってその代替品でしかない「甘え」の中を生きるのはまあわかる、わかるといってそんなものせいぜい十歳かそこらまでだと思うが、そこから分かる分かるの分離だけ蓄えて成長したところで大人にはならない、空っぽの木偶(デク)が出来上がるだけだ、内部に甘えの衝動を抱えたままの木偶を前提にしてまともな話なんかできない/自分は成長してきたけれど空っぽの木偶なのではないだろうかとギクリと思い当たる人は、たぶん掛け値なしにそのとおりなのだと思う、それについておれはどうすることもできないのだ、何しろおれの話はとても分かりやすいと思うが、分かりやすくしたところでおれの話はあなたのものにはならないからだ、それはあなたが選択していることだからおれにはどうしようもない(意地悪で言っているのではない、本当に方策がないのだ)。
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バンザーイ/一瞬ごと神がいる、結合は一期一会ごとの命

には分割の能力しかない、「分かる」の能力しかない、結合の能力は神にしかない、神は一瞬だけその奇跡を慈悲か憐れみでわれわれに与えてくれる。
たとえば結婚などは、社会的にはどうあれ、神学的には初めから破綻している、なぜなら、人が人の「結婚」を定義できないから何かしら神の前でその儀式をするのだが、キリスト教の場合イエスキリストは「神の国では誰も結婚なんかしていない」と言っているし、「誓いを立てるのはダメです」とも言っている、「誓うことで自分の言っていることの価値を水増ししようとするな」とキリストは言っているのだが、そんなことを言われたらもう人類の結婚文化はメチャクチャだ/これではまるで不倫で騒いでいるわれわれがアホということになるではないか、「神の国では誰も結婚なんかしていないし、誓いを立てるとか基本カスやで」と聖書に書いてある。
ともあれ、おれが新しく知った、あるいは確信したことは、人には何かを「結合」する能力はないのだ、結合の能力は神にしかなく、われわれはアホなので、その結合の現象を記憶し、その記憶したものを概念にしてなぞるだけなのだ、ちょうど習字の手本をなぞるようにだ、だからアダムとエヴァの神話から「伴侶」を概念化してなぞって婚姻の様式をつくるのだ、それが社会的にはどうであれ神学的にはアホということになってしまう。
結合は神にしかできなくて、だからこそ結婚式は教会でやるのだが、教会でやったってけっきょく人の手では結合はできないわけだし、だから苦し紛れに「誓い」をやるのだが、それも救世主にカス呼ばわりされるわけで、そもそも神が結合を為すのであれば人がいちいち儀式をやる必要はない、だからどうなっているかというと、そこのところを強引に神父か牧師にすべてのレスポンシビリティをなすりつけているのだ/こんなことを書き話しているとおれはバチカンから暗殺者を送り込まれて殺されてしまうのだろうか。

おれが書き話していることのヤバさは、内容ではなく、ひとつひとつの言葉が何ら記憶によらず、また文章の構築も何ら記憶にも概念にもよらず為されているというところだ、これは一語ごと・一瞬ごとに神がいるということだ。
おれは人であって、人であるおれにはこれらの語を結合する能力はない、結合する能力はないからふつう、結合の現象を記憶して概念化してそれをなぞるということを人はするのだが、おれはそれを記憶したり概念化したりという手間、つまり根源的な人の「ノウハウ」の一切を持たずこれを書いているのだ、十数年も書き物を続けているのにノウハウゼロというのはある意味ブッ壊れているのだと思う、白い画面にテキストを入力してゆくとして、白い画面と一字ごとも結合してゆかねばならないが、その結合だっておれにはできないから、結合の能力者たる神がやっている。
おれはいちいち神に祈っているつもりはないのだが、けっきょくのところ、おれは奇跡以外には何の興味も持てないのであって、おれが何かを続けているということは、奇跡が続いているから続けているということなのだ、奇跡だけが続いてくれないと、人のやることに対する関心なんておれは五秒ももたず消えてしまう、結合はすべて神の能力であり奇跡なのだ、おれのわけのわからない話は、おれが何らノウハウも記憶も概念化もなしに書いているからわけのわからない話として出現するのだが、いつも自分で眺めながら「文章になっていくのは不思議だなあ」と思っている、この一語ごとに神の結合能力がはたらいており奇跡なのだ、そうでなければおれはソッコーでこのつまらんことを投げ出すだろう。
すべてのことは、一瞬ごとに一期一会なのだ、歌があったとして言葉と音階とリズムが結合するのはその瞬間だけの奇跡であって、人が結合させているのではないのだ、だからいくら人が練習しても歌というのは上手くならないし値打ちが生じないのだ、おれはおれのものを人に自慢げに見せたことはなく、偉大なるおれさまの奇跡だけを自慢げに人に見せている、その偉大なるおれさまの奇跡とはつまり一瞬ごとの "結合" なのだ、すべてのことが一瞬ごとの一期一会で、なぜか知らんがおれはいつのまにかそれが当たり前になっていた。

<<私は、罪に満ちておりますゆえに、誤った様ざまな考えから逃れることができません。しかしこの仕事を偉大な美しいものとする営為において、真にあなたの召使いとさせてください。そしてもし私の動機(モティーフ)があいまいであり、楽音(ノート)がばらばらで意味をなさぬことしばしばでありますなら、どうかそれを私が秩序づけうるようお助けください。 or I am lost……>>/マルカム・ラウリー「泉への森の道」

大江健三郎「新しい人よ眼ざめよ」から引用した/ずっと気になっていた詩句で、まあわかるようなわからないような、という詩句だったのだが、今になってはっきりとわかる、楽音が「バラバラで意味をなさぬ」ということ、これを結合してくれるのはカミサマだけなのだ、これを結合してくれるのはカミサマだけなのに、われわれは<<誤った様ざまな考えから逃れることができません>>。
岡本太郎は「芸術は爆発だ」と言った、爆発というのは基本的にコナゴナのバラバラに破壊する現象であるべきだが、それはわれわれの「分かる」という能力が、いかに結合ふうに固めてみても、「けっきょく "分" だからコナゴナのバラバラでしょ」ということへ急速に回帰させて認めさせるということへ芸術の原理を紐づけているのだ、岡本太郎はそこからあくまで神ではなく人を見出して、神ではなく「呪」そのものに向き合っていくという実に人間らしい向きを見せたが/人が固めたつもりのものなんてけっきょく元よりコナゴナのバラバラなのだから、そんなもんズバーンと、ところがそこから瞬間ごとナゾの結合に助けられて救われて、「おかしいだろ、なんでお前はハッピーなんだよ……」ということになる奴がいるのだ、一瞬ごとに神がいて、一瞬ごと、一期一会の結合がある、これがどうやらわたしが「命」と呼んできた現象の正体だ。

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呪いをぶっとばせ!!
代人は過去より弱くなったと思うが、人が弱くなると実際にはどういう行状が現れるだろう。
呪術の基本は「ひがみ」「うらやましい」だが、現代人はこの情緒に抗せず(弱すぎて草も生えない)、「ひがみ」「うらやましい」が発生するとただちに呪いに切り替えて己の身を守るのだ、オウフいくら弱いからといってこんなハチャメチャな足の引っ張り合いはやめにしたほうがいいぜ。
「ひがみ」「うらやましい」の苦しいこころが発生するとただちに呪いに切り替えて己のこころを守っていく、そうすると自分限りにおにいては防御が素早く万全でバッチリOKという気がするのだが、そうはいかないのだ、呪いというのはいわゆる「穴二つ」という現象があり、呪いを使えば使ったぶんだけ、自分も呪いを受けやすくなるのだ、受ける度合いがそのたびに増すといっていい、だから少しでも呪われると一ミリも動けないようになる。
そりゃ自分だけ防御バッチリで、その後自分はのびのびとやらしてもらいますなんて、虫の好い話はないもんだ/このとおりおれなどはのびのびやっているのだが、どうやらおれはこれまで「ひがみ」「うらやましい」という感情があまりなく、あったとしてもそれを呪いに転じて防御するという発想がなかったらしい、おかげでおれは呪いが効かない体質になった、おれは若いころはうらやましいものに対しては「ぐえええ〜」と素直にクソほど落ち込んでいたからな、そのぶんの果報が今になってやってきているというわけだ。

美醜とか才能とか、財産とか生まれ育ちとか、東京とか海外とか、友人とか恋人とか青春とか思い出とか、仕事とか知名度とか、若さとか体形とか、やっぱりうらやましいものはうらやましいらしい。
現代になって、誰もそうしたものに対して「ううう、うらやましいよぉぉぉ〜」とは言わなくなったから、人々はすっかりそういうことから関心をなくしたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい、素直にうらやましがってみじめさを受け止めるという強さがもう残っていないらしく、「うらやましい」はただちに「よっしゃ呪うぜ!」ということに切り替わるのがデフォルト設定のようだ、だから誰も何もうらやましがることなく、こころ穏やかなまま、呪いだけがすさまじい濃度で蔓延しているのだ。
おれはけっきょくのところ、うらやましがられることのほうが多くなってしまったが、そんなもんいつまで続くかわかったものではないので、おれとしては何も思っていないのだが、そうしてうらやましがられる・ひがまれることが多くなったとして、おれには呪いは効かないものだから、おれのことを呪おうとした人は完全に空振りして自分がその呪いを食らってしまうハメになった/なんとなくイメージどおりのことだが、呪いというのは相手に弾かれると、呪ったぶんを全部自分で引き受けることになるのだ、しかも自分で信じた呪いだから自分がそれを弾くことはできない、典型的なブーメラン現象といえる。
呪いというのはもともと、ノロイであれマジナイであれ、カミサマから祝福を得られない者が人為的に力を得ようとしておっ始める、いわば祝福の代用品・人工模造品のようなものだ、自分に呪術をかけて力を得るという方法もあるし、ただしノロイであれマジナイであれそれは業(カルマ)を深めて力を引き出しているだけなのでどちらにせよ苦しみと不能は増えていく……まあそんなことはどうでもいいのだが、とにかく現代のデフォルトは「ひがみ即呪い」であって、だからひがみ根性がなくこころ穏やかにみんな生きているよ、と表面上見えるよ、ということなのだった/おれには呪いが効かないから平気だが、そうでない人にとってはこりゃけっこうホラーな状況なんでないかい。

ひがみを乗り越えろ、とはオススメできないぐらい、その苦悶はデカい。

通常の、思春期や学生時代なら、ひがみを乗り越えろ・解決しろというのが正道だったのだろうが、そんなビール瓶一気飲みよりキツいことを現代人に強いることはできない、冗談でなく精神を損傷するというか、何かしらのクラッシュを起こしてしまうだろう、それぐらい現代人は本当に弱い/かといってもちろん、ひがみを即呪いに切り替えるというのは、後払いに繰り延べているだけであって、それらはやがて金利をつけて大きな債務になって戻ってくる、しかもそのころには呪いの積み重ねでさらに弱くなっているのだから、もうどうしようもねえなというのが実際のところだ、やはり何かまともに支えになるもの・信じられるものに出会ってからしかまともに向き合うことはできないだろう(といって、呪いワールドの中でどうやってそんなもんに出会うんだという堂々巡りの問題はある、おれは知らん)。
おれがここまでに受けた、ナゾの攻撃および、その攻撃勢のナゾの自滅について、今さらではあるが「そうか、うらやましかったんだ」ということで理解と納得が得られた、「今さらかよ」とため息をつかれるところではあると思うのだが、おれ自身にそのひがみうんぬんの性質がもうほとんど残っていないので、感覚的にどうしてもわからないのだ/まあおれがのびのび歌ってのびのび歩いてスラスラ何かをやっていたらうらやましいしひがみも起こるのだろう、そうしておれのやるべきことは、そこからさらに呪いをぶっとばすことだということが視えた、今のうち一家に五人あれば三人と二人に分かれて争うがいいぜ。
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習字のカルマ
筆でビシッと、あるいは毛筆でスラスラッと、美麗な字が書けたら格好いいので、誰でも習字にあこがれる。
といって、その訓練は地味でかつ時間のかかるものなので、マジの高段者はそんなに多くない、もちろんおれなんか字はキッタネエ上にデッタラメだ、文学者としてはあるまじきことに思える。
が、おれは思いがけず習字とやらに業(カルマ)を見ているのだ、なぜか?/習字というのはもちろん「字を習う」ことだ、そして習うということは当然「見本をきっちりなぞる」ということだ。
そうして、どこかに閉じ込められて見本をきっちりなぞることをやらされ続ければ、そうしたものは身につくのだが、そうしてきっちりなぞることを覚えたとして、「それで何をする」ということは教わらないのだ、もちろん自分が何をするのかなんて誰にも教わることができない。

自分が何をするかという、最も簡単かつ、最も障壁のあることに向き合わず、「やり方」だけを「習う」ということ、このことに大きな落とし穴がある。
習字なんかその典型で、本人は何をするわけでもなくても、ただ字が美麗ならそれだけで評判がよくなるし、格好よく見えるし箔がつく、何なら格付けも上位に扱ってもらえよう、でもこれは何をしているかというと、ただの「見本の大量コピー」をやっているだけなのだ、見本の大量コピーが上手というだけであって、それは業務にはなりえても人の輝きにはならない。
われわれが音大出身の声楽家が歌うのを聞いても何も感じないのと同じだ、声楽家はシロウトにはおよびもつかないような訓練を受けているので、それぞれの母音と音域で、きっちり音の焦点と輪郭と響きを失わないように発声器官を訓練している、が、かといって「何を歌うのか」は他人に与えてもらえるわけではない/結婚式場のアルバイトでアヴェマリア等を歌えばもちろん「上手」とはなるが、それは「字が上手」なのとまったく同じだ、それは「そういうプロ」なのであって「そういう人」なのではない、プロというのはもちろん "業者" ということだ。
習うということにはこの大きな落とし穴があって、習うというのはけっきょく二種類、「見本を上手になぞる」と「見本をヘタになぞる」しかない、同じなぞるなら上手のほうがマシに決まっているが、用事のないところにその見本の上手コピーを見せられても意味がないのだ、もちろん世の中にはプロのドクターがいてプロの外科医がいてくれないと困るが、かなうことならばプロの外科医にかかる用事がないほうがいいなあというのがわれわれの願いなのだった/このようにして、「習う」ということは生活に不可欠で用事のあるものだが、それじたいは人の目的に何ら接近できるものではない。

模倣から始まると言われるが、模倣なら何も始まっていない。

つまり「模倣から始まる」というのはただのウソだ、むしろ模倣に入ってしまった時点でもう "始まらない" が決定したとさえいえる、たぶん伝わらないと思うが「見本」「手本」というのは "なぞらない" のが正規の手続きだ、それよりは見本や手本に対しては「コイツは何をやっているのか」ということを見抜かなくてはならない/志村けんは人を笑わせていたのであって、志村けんを見本にしてなぞっても何もいいことにはならない、なぞるようなまねは「うぜえからやめろ」としか言われないだろう。
世界には「いいムード」が出現することがあるが、「いいムード」をなぞったとしてもいいムードにはならないのだ、当人はすっかりその気になれるが、当然ながら思い込みの妄想にすぎない、周囲としては「うぜえからやめろ」としか感じられない/じゃあ「いいムード」の元は何をやっているのかということなのだが、単純なことなのだ、いいムードをやっているのだ、だがその単純でカンタンなことに、人は向かえるかというと向かえない、それだけ人はふつう弱くて根性がないし向かったとしても何年かかるかわかったものではないというのが本当のところだ。
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愛されているからテンションが上がる
事には、自信をもって、テンションを上げて取り組まねばならない。
そこから、近年は「モチベーション」や「メンタル」が言われるようになったのだが、これにはけっきょく無理があった、無理というか、はっきりといえば隠し切ろうとしたみじめさだけが残った。
おれはテンションを上げようという努力をしたことはない、モチベーションを得ようとしたこともないし、メンタルやらマインドフルネスやらに興味を持ったこともない、おれはただ「愛されているからテンションが上がる」というだけなのだということをはっきり知った、それも漠然とした愛ではなくもっと全力で投げ込まれて怯むぐらいのまっすぐな愛だ。
それはまた、言ってしまえば、人の愛ではないのだ、そもそも愛というのは人の次元に存在している現象ではない、生きものの次元に存在している愛は畜生道で言われている貪愛しかない/一般に言われているところの愛というものでいえば、おれなんか当然愛の対象にはならないだろう、それはならなくてけっこう、おれは人に愛があるなんて傲慢な思い込みからは無縁でありたい。

おれは何らの努力もなしに、自信とテンションをブイブイ言わせて遊んでおり、何らの努力もなしにナゾの能力を次々に発揮しているが、これらは実はおれの能力ではなく、いわば天使とか聖霊とかの能力だ、こんなものは「初めから成功するに決まっている能力」であり、そもそも成功というのはこの能力が行き着く先を指しているのだ/人為的に「成功」なんぞにたどり着くことはそもそもできない。
構造はそんなに複雑ではなく、おれはただこの世界の「何か」を愛しており、ひいては「世界」を愛しているのだが、どうもこのことがそもそも高等らしく、おれがそうして世界を愛していることによって、おれは天使や世界から愛されるようなのだ、なぜなのかは知らん、その主体が何であれおれのことを愛する理由になどおれは一ミリも興味を持ったことがない。
が、そのあたりも、いいかげん反省するというか、おれはいくらなんでも「自分が愛されているかどうか」に対する尺度が厳しすぎるのだ、愛されているかどうかになど一ミリも興味を持たないというのは、スタイルとしてはタフでけっこうなことだと思うが、それだとおれのことを愛してくれる天使や聖霊がしょんぼりするというか、いくらなんでも厳しすぎて「愛しているのに受け入れてもらえない」と感じさせてしまうようだ、そういうことなら「そうか、そりゃいかんな、それはすまん」とさすがのおれも反省する。
けっきょく、おれが言っているのは人が社会通念的に言っている愛のことではない、おれが女に愛されるとしても、それは愛の天使や聖霊が女に作用して、その女がおれを愛しているだけで、それ抜きにいきなり女がボヨヨーンとおれを愛することはありえない、おれはそういうタイプのナンバーワンイケメンではまったくないからだ、そしてその証拠に、おれのことを愛する女は、何か天から命じられたように「この人のことを愛さなくては」と感じているはずだ/おれはそもそも、理論的に「人から愛されているか」というファクターを捨象できることになる、おれは愛の天使か愛の聖霊に愛されていればよいのであって、けっきょくそうした高度な体験は人という生きものの次元には発生していない、おれが世界を愛しているから天使や聖霊はおれのことを「愛したくて仕方がない」ということであって、おれのすべてはそれだけでしかないのだった、なぜこんな仕組みになっているのかはおれは知らない。

愛されていないのに「テンションを上げる」というのは無理がある。

そして、ここでいう「愛されている」というのは人の愛のことではないし、なぜ愛されたり愛されなかったりという差があるかというと、「世界を愛している人しか天使と聖霊には愛されない」からだ/世の中にけっこう多数いる宗教おばさんは、テンションが低いので天使にも聖霊にも愛されていないと言える(ということは、当人も世界を愛してなどいないということだ)。
これまでおれは、自分が愛されていることについてあまりにも冷淡で厳格すぎたので、いくらなんでも少しゆるめようと思う、おれ自身はタフでけっこうなことだが、そのせいで「愛を受け入れてもらえない」と天使や聖霊をしょんぼりさせるのはあまりに無体でかわいそうだ/というわけで今日もおれは愛されているがゆえにテンションアゲアゲなのであった、そりゃ愛されていたらアガるわな。
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この世界はわたしである/正しいと思うことを捨てよ
象的な意味でなく、愛がすべてに先んじている。
分離的に、自意識の対象を「わたし」とする習慣が、いわば「愛の反対」であり、愛とはその反対の反対、自意識の対象をもたない「わたし」のことを指している。
聖書に書かれている、 "汝のごとく" 汝の隣人を愛せということだが、これに先立っては「第一に父なる神を愛し、あくまで第二に隣人を "汝のごとく" 愛しなさい」と書いてある、なかなか正確で慎重な記述がされている(当たりめーだ)。
われわれは漠然と、「無我の境地」みたいなことをイメージしており、「無心」みたいなこともイメージしているが、そうして安物にイメージできるものはたいていどうしようもない安物でニセモノなのであって、そうではない、無我ということに値打ちはないのだ、無我ではなくて全我ということに値打ちがある、無我なんてものは老人が行き着いて「無じゃん、死ぬだけじゃん」と思い込んでしまうたぐいでしかない、これは年齢的に老人でなくても精神が老いれば十二歳でも同じ心境になるのだ。

この世界のすべてが「わたし」であり、だからこそ生きる値打ちがあるというか、そうでない世界に長生きする値打ちなんてあるわけないのだが、それでも食い下がって「愛の反対」、愛の反対である自意識だけをなんとしても死守したいという人も少なからずいる/あるいはその習慣づいた根性は、サタンのように多くの人々の性根にそれなりに棲みついてしまっているものだ、これはホントに何の役にも立たないのですっぱり消えてしまうほうがいい。
それを死守するというのはけっきょく、最後は「サタン様、死守」という自己決定になってしまうのだが、できれば最後までそれで突っ走ってしまうよりは、途中であっさり改めてしまったほうがいい、サタン死守の信仰は「習慣」によってしか成り立っていないからだ/そしてなぜそんな習慣が出来上がったかというと、ガキのころにいくらかサタンへの肩入れで表面上「助けられた」「力を与えてもらった」と感じているからだ、それを大人になってまで続けるのは痛々しいのだが、こうした習慣から個人というのは離れにくい。
正しいことが何なのか、わかっていれば誰も悩まずに済むし、誰も迷わなくて済むのだが、そうはいかないのだ、われわれは決まって「正しいと思っていること」を所有しており、これらがことごとく誤っているものだから、その誤っている正しさを信奉して、いくらでも迷子になってしまう/われわれは正しいことと誤っていることが「分離的」に存在していると思っており、だからこそ「分かっている」つもりでいるのだが、そうではないのだ、すべてがわたしであるこの世界には、正しいことのみが存在しており誤ったことは存在していない、誤ったことが存在するという習慣的仮定が、もう本来の正しいことの一切をわれわれに与えないのだ。
遠く、電車が線路を走る音が聞こえてくるが、これはわたしがわたしを体験しているにすぎず、わたしが電車の音を体験しているのではない、世界のすべてはわたしなので、わたしから分離された電車の音は存在しておらず、電車の音から分離されたわたしも存在していない/だがどーしてもこのことが気に入らないという人が少なからずいるのだ、それが習慣的にサタンを信奉しているということだが、それはホントに何の役にも立たないのであっさり改めてしまうほうがいい、サタン信仰が悪いというわけではないが、単にサタン信仰には「命がない」ということ、命がないということは存在していないということだ、この世界には誤りはないけれどもサタン信仰は「この世界にいない」ということになる、世界のAとBという区分があるのではなく、世界といえばAしかないのだ、その世界にないものは何なのかというと、世界にない以上は「何だとも言えない」ということになる。

おれの言っていることは、「食べ物はすべて食べられるもの」というだけのことだ。

「食べ物」という世界があるとすると、その世界にあるものはすべて食べられるもので(当たり前)、食べられないものはその世界にない、一方に「食べられない食べ物の世界」があるわけではない、食べられないものは食べ物じゃないんだから無理言うなということだ/「命ある世界のすべてには命がある」ということで、一方で「命のないものの世界」が存在するわけじゃない、命のないものは世界とは呼ばない、ここで言っている「命」とは生きものことを指してはいない。
「わたしのある世界のすべてにはわたしがある」というのも当たり前で、世界のすべてにわたしがあるのならば「世界のすべてはわたし」「この世界はわたし」ということで当たり前だ、わたしはわたしの言うことしか聞く必要がなく、イコールわたしは世界の言うことしか聞く必要がない、そのことがどーしても気に入らないという人もいるのだが、そうした人たちの言うことにいつまでも耳を貸すふりをしてはいられない、いわばおれは人々のサタン信仰を "無視" して話し続けているということになる、存在していないものを無視するのは当たり前というか、存在していないものに配慮するというのは無理なことだし、何よりそのことが相手に対する不幸になってしまうから、おれはなるべくそういう悪趣味なことはしたくないのだ。
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外部情報の作用と、内部情報の作用
んなもんオカルトで上等だが、一種のフィクションの設定のように聞いてもらえばいい、フィクションですと言い張っていれば何でもアリだから便利だな!(いつもこの言い方ばっかりしている)
世の中には、呪いを生産してしまう奴もおり、呪いを解除してしまう奴もいるとしよう、解除できる奴は一種の浄化能力を持っているという感じになるが……こいつが自らの "内部情報" から何かを手に取る場合(特に購入する場合)、カッチリ内部情報からそれを手にするのであれば、そこに何か呪いが貼り付けられていたとしても、浄化能力によって剥げ落ちてしまう/とまあ、フィクションの設定としてはそれっぽいなと思え。
そこで、もし自分の内部情報によらず、外部情報から何かをぼんやりと手にする場合、その浄化能力は作用しないのだ、特に購入する場合は、購入という手続きのせいで、貼り付けられていた呪いがそのまますべての結界を素通りして手元にまで入り込んできてしまうことになる/あくまでそういうフィクションの話として聞いておくように、そのほうが健康にいい。
中にはもう、当人がダメになっていて、内部情報の源たる自分が呪いの源泉になってしまっている場合もあるが、そうでない健全な奴の場合、自分の内部情報から何かを買う場合は、小なりといえどもあるていど呪いを浄化して剥ぎ落す能力がある、だから外部情報を内部に入れてはだめだ、外部情報を外部のまま使うのはいいが、何かを手に取るときは必ず自分の内部情報からそれを手に取らないといけない/ここ近年は端末から大量の「外部情報祭り」が永遠に続いていく見込みだから、これの言いなりになって内部情報を使わなくなるのはまずい、いわばそれは「外部情報のファンになる」ということなのだが、そうなるともう外部にはびこっている大量の呪いをじゃんじゃか手元に招き入れることになってしまう、自分で購入した呪いはまったく減殺されずに最大権限で手元に居座り続けてしまう(というフィクション)。

たとえば、なんとなく自分が頼りない気分のまま手に取って購入した「高級キュウリ」三本と、おれがフハハハとよろこびながら買ってきた「なんか無人販売があったから買ってやったぜ!」と手にしている安価なキュウリ三本なら、おれが手に持っているキュウリのほうがやったらウマそうに見えるということがないだろうか? あるいはおれが「目刺しがやたらウマい」と言うと、急激に目刺しが食いたくなってこないだろうか。
まあ、おれのような偉大なものが、それを手にしたり口に出して言ったりすると、それだけでチャチな呪いなんかぜんぶ剥げ落ちるので、呪いなし・しかも祝福ありのそれが食えるという大ボーナスチャンスなのだ、そのことがあるから大慌てで自分もそれを食いたくなるという、ただそれだけのことだ、単に連想から食欲を刺激されているだけではない、だいいち「食欲」なんてハングリーな状態の奴はこの飽食の時代にほとんど存在していない。
道路に落ちている、まだ使えそうなボールペンと、おれが「まだ半分残っているからやるわ」というボールペンでは、明らかにおれの使いさしのボールペンのほうが、何か「いいことがありそう」な気がするではないか、こんな話はオカルトでもフィクションでもけっこうだが、あちこちの結婚式で多くの女性が割とガチめにブーケトスをキャッチしようとしているのに今さらオカルトだのフィクションだのを差別してもあまり意味がないように思う。
おれは外部情報から何かを手にすることはまずないので、おれが手にするものは基本的におれの浄化能力が作用していることになる/おれが作るメシが異様にウマい、のみならず「異様に口腹に飛び込んでいく」のはそれが理由だ、おれの書いている文章だって読んでいるあなたの内側へ異様に飛び込んでいくと思うが、それだって同じ仕組みだ、おれは言葉のひとつさえ――というよりは、言葉については特に厳密にか――おれの内部情報によらずそれを手にするとか口にするということはない、だからおれの書き話していることは内容がひどくても根本的に呪いがなく祝福に満ちて楽しいのだった。

駅前で配っているティッシュを「受け取りたくない」と感じる理由がこれだ。

今では考えられないかもしれないが、かつて「ティッシュ配り」という公告方法が初めて世の中に出たときには、よく配っているアルバイトが強面のおじさんに怒鳴りつけられていたのだ、それも本気でブッ殺すというぐらいの「ンじゃゴルァアア!!!」という勢いでだ、このとき怒鳴りつけていたおじさんの直観・感覚は正しい/内部情報によらず何かを手に取るとか口に出すとかは本当によくないのだ、内部情報によらず「イケメン」とか「リア充」とかの言い方を口にしてきただけでもけっこうガッツリ呪われてきている。
おれはそのあたり、外部情報に対して相当冷淡な奴であるらしく、おれの手元のメールやラインにもさまざまな広告が届くが、おれにいくら広告情報を送り付けたところで、おれは広告によって購買意欲が掻き立てられるということがゼロなのだ、おれのところに届く広告のすべては確実に無駄死にする/外部情報から買ったものなんてマズくて食えないし、外部情報から入った店でなら何を注文したってマズくて損をする、そして偉大なるおれみたいな奴が内部情報から入店してやらないと、その店はいつまでたってもいい店になれない(というオカルトでありフィクションでよろしく)。
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偉大なるおれさまをチヤホヤするといいことがあるぞ
んというか、ここ数年で、「外部情報」が役に立たないことがイヤというほどわかってきた。
外部情報、つまりマスメディアやSNSやウェブコメントで言われていることが、何の役にも立たないということだ、こんなもん言ってみれば「カミサマの庇護を受けていない人のリアル情報」でしかなく、そんなリアル情報は聞く前から「要するに阿鼻叫喚でしょ」ということがミエミエなのだった。
このことさえ、こんにちの状況に至らないと見えてこなかったことだが、人それぞれ本当にまっっっっったく違う世界を生きているのだ、おれはこのところスーパーマーケットで売っている目刺しをグリルで焼いて「うめえ、異様にうめえ」と食っているのだが、うるめイワシの目刺しは高級食材ではないので、人によってはそれは貧しい食事ということになるだろう、だがおれは「異様にうめえ」と連日言いながらそれを食っている。
そういえば、このコロナ騒ぎに乗じて、どうせ外食もできないのだからということでダイエットに取り組み、すでに体重を 10kg 落としたのだが、フツー 10kg 減量というとそこそこの数値じゃないのか、おれはこの減量の中でツライと思ったことは一度もない、イライラするとかダルいとかいうこともまったくないし、強い意志なんか持ったことがない/年齢のせいで「徹夜ができなくなった」とかはまったくないし、腰が痛いとか肩こりがどうこうというのもゼロだ、かといっておれは別に元気とか健康とかいうわけでもない、ただフツーにおれはおれのままが続いているだけだ、外部情報はまったく役に立たないということがイヤというほどわかってきた。

おれの健康については、かかりつけのドクターが厳しく管理しているので、まあ平均よりはるかに安心だ、ただし毎月診察がおっかないけどな/この先生もなかなか厳しいことを言ってくるときがあるが、それは外部情報ではない、おれをビビらせるほどの迫力がある人で、 "この人がおれに向けて言っているのだから" 、それは外部情報ではない。
外部情報とそうでないものの区別ぐらいつくだろう、たとえば「〇〇のスムージーを飲むとデトックスで身体にいい」というのは外部情報だ、比べて今おれが言っている「偉大なるおれさまをチヤホヤするといいことがあるぞ」というのは外部情報ではない、 "外部" のどこを探したってそんなわけのわからん情報はないはずだ、だからこのわけのわからん情報はあなたの内側に発生しているのだ。
いいかげん、そういう情報の区別に鋭敏になるべきだ、世の中にはいろんな放言が飛び交っていて、その中で特に放言じみているおれの話をわざわざ拾っている理由は何なのだ、それは自覚できない何かの感覚があなた自身を「……」と立ち止まらせるからだろう/いいかげん鋭敏になるべきだ、外部情報のすべてはあなたを不安にさせ、夢を奪うことにだけ作用し、おれの発しているナゾのデタラメ情報は、なぜか外部情報のそれとは異なり、ナゾの安心とナゾの夢をあなたに引き起こしている。
外部情報というのは、畢竟 "情報ではない" のだ、今すぐ「10kgやせる方法」でも検索すれば、そこから現れてくる外部情報はあなたを遠巻きに死なせることにしか作用しないだろう/外部情報というのは実は情報ではなく、世界がないところからの阿鼻叫喚でしかないのだ、偉大なるおれさまをチヤホヤするといいことがあるぞ、何しろこの話だけですでにあなたは何か "内側から笑い出したくなっている" はずだ、それは外部情報の作用ではない。

あなたは「外部情報のファン」になってしまうのか。

外部情報といっても、たとえば価格.comで売れ筋の商品を探すとか、そんなことはかまわない、そんなことはかまわないけれども、それでもあくまで「外部情報」なのだ、使っても構わないがアテにしてはならない、奇妙なことだが買うときは必ず「自分で」買わなくてはならない/外部情報を使っても構わないが、「買う」のは必ず自分の内部情報に基づいてだ、そうでないととんでもないものを購入してしまうことになる、もちろん購入する商品は同じなのだが、外部情報で購入するとあなたのまったく知らない「呪い」がくっついてきてしまう、購入したものはあらゆるバリアをくぐりぬけてあなたの手元にまで届いてしまうから要注意だ。
このあたりのことをまったく知らない人、および、このあたりの感覚をまったくもっていない人、もしくはこのあたりの感覚をずっと無視して生きている人は、ずっと「外部情報のファン」として生きていて、ありとあらゆる呪いを自分の手元まで素通りさせて購入していることになるのだ、そりゃあもうめちゃくちゃになるし、楽しいことなんかひとつもありゃしないし、信じられるものなんて何一つ得られやしないよ/外部情報のファンの人は、「偉大なるおれさまをチヤホヤするといいことがあるぞ」と言われても、内側から笑いたくはなってこないし、それどころか何か神経がイライラして何かを振り回そうという衝動を覚えるだろう、何かを振り回そうというとき、その「何か」というのは確実に "外部情報" だ、外部情報を振り回したくなる衝動が必ず起こるようになっている。
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おれはおれの栄光に寄与することしかできない
れは万事についてモチベーションのまるでない男で、自分の名誉欲や承認欲求とやらがモチベーションになることが一ミリもない。
一方で、おれはおれの栄光に寄与することしかできないし、栄光に寄与することについては、なぜかわからないがモチベーションなしにいくらでもやるという機能がある、それはおそらく、おれのやることがおれにはできないことばかりだからだろう。
おれのやることはおれにはできないことばかりで、それでもなんとかやってしまうということは、つまりおれは他の何かの力を借りてそれをひょいひょいとこなしているのであり、おれはその借りている力の先に対して感謝……というのは違うが、何かとにかく、この力を借りている先に対して、その栄光に寄与することしかできない。
話が矛盾するようだが、なぜかおれの中では当たり前のこととして、おれの栄光というのはその力を借りている先の栄光のことを指すので、「おれの栄光」というとそれのことなのだ、そしておれはこの「おれの栄光」に寄与することしかできない、おれはいくらでもわけのわからない能力を発揮することがあるのだが、それはこの「おれの栄光」に寄与することに限定されるのだ、この寄与を本分としてないことについては本当に一ミリも能力は発揮されない。

おれはけっきょく、人助けには何の興味もないし、人と共に何か向上心を共有するというようなことのたぐいに、やはり一切の興味がない、そのときのおれの体内の堕落ぶりといったらすさまじいものだ、ホルマリンに七年漬けたウシガエルの内臓のようにもう何の反応も起こらない。
おれは人助けには何の興味もなくて、そろそろ自分の欲望というのも何なのかよくわからなくなってきているのだが、唯一の例外として、おれの栄光に寄与することだけについては、なぜかナゾの能力を発揮し続けている/おれがわけのわからない超能力で人助けをしておれの栄光に寄与が起こるなら、おれがあれこれ意識したりガンバったりしなくても、おれに可能な範囲(すべて不可能な範囲だが)のことは、おれが勝手にやるようになっている。
おれはつまり、「何かがある」と言いたいだけなのだろう、おれ自身にはそんなつもりはまったくないのだが、何しろ放っておくとおれは勝手にそのことにだけ機能し、そのことにだけナゾの能力を発揮し続けるので、当人してもこれが何なのか「さあ?」という具合なのだ、この「何かがある」ということが証されたらおれにはもう本当にすることがない。
おれにはいちおう、おれの好みというものもあって、おれは必ずしもおれの栄光に寄与することは「好み」ではないし、「何かがある」という実演ぱかりやるのもおれの「好み」では実はないのだが、何しろそのことはやめさせてもらえないし、そのこと以外はやらせてもらえないのだ/万事について「何かがある」というのは、おれにはすでに当たり前のことであって、おれ自身としては正直もう飽きているはずなのだが、それでも強制的にやらされるし、それ以外のことは本当に一切やらせてもらえない、おれの好みのこともたまにはやらせてほしいのだが……ただおれの文章は、おれ自身が読んでもカッコいいのはわかる、おれが読むぶんにはこれはけっこう好みなのだが、なぜか書くぶんについてはそんなに好みで書いている感じもしない、だがこうやって書き続けないとおれはホルマリン漬けのウシガエルになってしまう(ひでえ話だ)。

おれに善意は、なかったわけではないのだが、破壊されてしまったのだ。

ひでえ話だろう、おれにはもう善意もやらせてもらえないのだ、趣味というのもほとんど体調不良のときしかやらせてもらえない、ヘンな言い方をするともう旅行に出るたびに奇跡のような景色を目撃させられることに「ちょっともうカンベンしてくれ」という思いさえあるのだ、そんなにゴリゴリの栄光と威光でおれを支配しなきゃいかんかね、まあいかんのだろうが……
次から次に、巡りあわせというやつがまるで大渋滞のようにやってきて、「こんなに処理しきれねーよ」ということが続いている、まあおれが求めたから与えられたのであり、おれが求めたから自己責任でしょと言われたらそうなのだが、どこの本にも「求めすぎると与えられすぎる(草)」みたいなことは書いていなかったぞ、ハッピーがごり押しでおれを塗りつぶして趣味も善意も埋め尽くされるというのはどういうことだ、思わず助けてくれーと言いたくなるのだが、そのたびにまた求めたとおりに与えられるので、ますます押し寄せるものが押し寄せるのだった、そうするとまたそれが栄光への寄与になって……ある意味おれは毎日そのことにビビっているような状態なのだった。
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光は光、音は音2
教的に言うと五感は眼耳鼻舌身(げんにびぜつしん)であって、それぞれの覚が色声香味触(しきしょうこうみそく)になる、これに六つ目を足すと眼耳鼻舌身意であり色声香味触法だ、もちろんこんなそれっぽいことを暗記しても値打ちはない。
般若心経に書かれているように 色不異空だから空不異色で、色即是空となり空即是色と言いうる、これはつまり「眼球にクソほど映り込んでも空(くう)だろ」と言っているだけでしかない、これは当たり前のことであってこんなものを読み取ったからといって威張るようなアホはいない/百億の知識を了解してもアホはアホだ、わたしはこの手合いで威張る輩には臓腑に土嚢(どのう)を入れてやることにしている。
カルマを償却しようとして眼球をつぶすアホは、この「色が空でしょ」ということがわからんのだ、おおよそストイシズムに走るアホはこれであって(アホ呼ばわりが多いな)、ストイシズムと悦楽主義の差は前者がガマンになり後者がトラブルになるという違いしかない、まあトラブルよりはガマンのほうが事実上マシではある。
目玉に映るものが空だと言っているのに、その目玉をつぶすやつはエクストリームな勘違いをしている、われわれは一般にヘロインをキメるとオワリだと言われているが、それはド派手にオワリが明るみに出るというだけであって、何の薬物もキメなくてもそのままではオワっているのだ、オワるというのはよくないのでなんとかしなくてはならない。

色声香味触がフィーバーでボンバーなのであり、にもかかわらず魂は一ミリも変動せんわね、「そりゃ魂だからな」ということが言いたい&やりたいのであって、なぜか知らんがこの魂というやつは永遠の過去からずっと永遠に「カッコいい」ようだ、おれがずっと追いかけていたものはこれなのかということになる。
昨晩、金曜日のワークショップはおれ一人19時から朝の5時までまさかの何も発せず唸り続けるということになったのだが、おれはこの永遠の過去からずっとカッコいいであり続けている魂というものについて、何をどう教えて導けばいいものやらさっぱりわからんのだ/もちろん一般常識やいろんなお役立ちは教えることができるが、そんなもの教えられたってヘロインの一発に敗北するのだから何の意味もない。
おれの言っていることは、まるで「たっぷり濃厚スープで何の味もしない」というようなことで、聞いている側は頭がおかしくなるのだ、だが色不異空とはそういうことだ、これが般若心経だとしたら、おれの言いたいことは「般若は超カッコいい」ということになる、線香くさいものはゴミだ。
この世界には何もないのではなく、光があって音があるのだ、ただそれは光でしかなく音でしかないということだ、つまりこの世界にはヘロインしかないということなのだが、言うべきは「ヘロイン大好き☆」であって、とはいえ薬物に頼るというのはマックスダツいので、光と音でキメキメになろうやということなのだった、光は光でしかないし音は音でしかない、光と音と法は永遠のカッコよさの印影でなくてはならない。

おれが教えても人は救われるだろうし、おれがゴミを投げつけても人は救われるだろう。

人がどのようにして救われるかというのは、認識できないのだ、唯一あるのは「カッコいい」ということだけで、人はカッコよくない人に愛情たっぷりで教わることでは救われず、カッコいい人に理由なしにゴミを投げつけられることで救われるのだ、それは永遠の自分を手に入れることであって、永遠の自分は永遠の過去から何ら変動しないし認識もできないのだからXを与えられても何の変動もない、このXにゴミを入れても真理を入れても変わらない。
それはけっきょく、おれが何をしてもいいということでもあるし、逆に何もしなくても構わないということだ、おれは大変な苦労をしているのだが、どんな大変な苦労なのかについてはおれも認識できないのだ/光は光、音は音だ、そんなところにおれはいないのだから、マックスキメキメになっていい、光がキメて音がキメたらいい、光や音がおれの印影にならない方法はない。
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光は光、音は音
に光が映るのは心身の業(カルマ)であり、耳に音が届くのも心身の業(カルマ)だ。
では目や耳を破壊すればカルマは償却されるかというと、そうはいかない、逆にそれらを破壊すると「何がカルマか」が視えなくなる。
光は光でしかなく、音は音でしかないということだ、それが視えてこそカルマが償却されたのであり、それを視えなくしたって、カルマが消えてなくなったことにはならない/それは子供が宿題を燃やしたのと同じだ、紛失したが消失してはいない。
光も音も抜群にカッコよくなくてはならない、それは光や音に人が入り込んでいないということだ、あくまで光は光、音は音でしかないのだから。

われわれは認識をアテにしてしまう、その認識の第一が視覚であり、それに次ぐのが聴覚その他だ。
けっきょくそれらは生身の器官による「感覚」であり、その感覚のどこから「カッコいい」を得ているのかは誰にもわからない、誰にもわからないということはつまり、カッコいいというのは生身の器官による「感覚ではない」ということだ。
生身の器官感覚からではなく「カッコいい」が生じているということは、「カッコいい」は生身より先にあるということだ、つまり「カッコいい」は生きものが誕生する以前からあり、生きものが死滅したあとも永遠に存在している。
何のことはない、われわれの頼る認識機能から「カッコいい」を手探りすることはできないということだ、そこで唯一まともでかつ当たり前の手続きとしては、生身の感覚・認識機能は「変動しない」というのが必然になる、正確に言うと感覚情報が変動したとしてもそれら何ら魂の変動ではありえないということだ、そもそも魂に変動というのはないのかもしれない、魂というのはこれから永遠になったり永遠でなくなったりするのではなく永遠の過去からずっと永遠のまま存在していて、実は何ら変動はしていないただの存在なのだろう。

光があり、音がある、おれはない。

正確には、おれは永遠の過去からずっと「ある」のだが、「ある」という認識も感覚も得られないということだ、あるのはただ「カッコいい」だけなのだろう、そしてその「カッコいい」というのも、いわば「足」と「足跡」のような関係のもので、足跡は足ではない、ただ認識できない足の反映として認識可能な足跡が印されるということだけがある。
いわば一般的なおれは、おれの印影でしかないのだろう、そして一般的なおれがおれの完全な印影であるというのが最高の状態だ、カッコいいというわけのわからない状態はそのようにして得られる、われわれは印影を認識しているのでありその元になっているものを認識することはできず、印影だけを曲げようとすると永遠の自分からまったくかけ離れた醜いものになる。
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いいものを求めるな、いいものを作ろうとするな
ちょっと時間がないので殴り書き。
自分の生きたウンタラカンタラが、いいものになるかどうかは本当に人と関わりがない。
わけのわからない話だが、物事はやる前から成功していなければいけないし、「いいもの」というのはやったあとでいいものにしてしまうしかない。
人が「いいもの」なんて作れないし、作る必要はないのだ、作ったものを後でこっそり「いいもの」にしてしまえばいいのだ、いわば詐欺である(なんだこのテキトーな話は)。

世の中では承認欲求がもてはやされていて、「いいね」の取り合いが横行しているが、冷静に考えればたとえばおれがお前らに与えるものなんて基本的に「BAD」なものであって、何を誤ってかお前らに「いい」なんてものを与えるつもりはない。
こんなことは当たり前なので目を覚まさなくてはならない、なぜおれが人々に「いい」ものなんて与えるわけがあるのだ、おれが何かまともなものを創り出すということは、決まって人々にとってBADなものに決まっている、その点でも「いいものを作ろう」という発想は誤っている/いいものというかまともなものは、人々にとってBADだ、人にグハッと血反吐を吐かせるのがいい歌じゃないか。
いいものを求めるから人はゴミムシになってしまうのであり、まかりまちがって自分が何か「いいもの」を審査・審判しようとする発想になったらその人は終わりだ、かつてボブディランのファンたちはライブ中のボブディランに向けて「やめてくれ!」と叫んだのだ(これはマジの話)。
おれの生きてきたことのすべては、世間一般からみたらBADもBADであり、BADの五つ星という具合だ、だがなぜか知らんがおれはハッピーであり、おれを愛した人も自動的にハッピーになり、女性なんか美人になってしまう、なぜなのかは知らん、おれがそんなことを知る必要はない、何か「いいもの」を決めているのはおれではないし人でもない、そして「いいもの」なんて後で決定されるのであってやっている当人が「いいもの」なんて考えたってそれはアアアアにしかならない(時間がないので表現を最大限手抜きした、アアアア)。

おれに迷いがないのは、おれ自身は何もやっていないからだ。

人が何かを考えたって、どうせ「いいもの」を考えるんだろ、それってもう入り口から誤りなので、無駄なことだ、だからおれは何もしない、むしろ何もしないということの証明のようにこんなわけのわからん記事を書き話している。
おれの書いたものがいいものになるかどうかはわからんので、それをいいものにしようとは思っていないし、そもそも思う前から成功するのは目に見えているし、前もって「後からいいものにしておきまーす」という約束が入っているので、おれは何も考えなくてよいのだ/<<いいものを作れるのはいいものだけであって>>、おれはいいものではないのでいいものなんか作れない、あるいは何か、ひょっとして自分のことを「いいもの」と思っている人がいるのだろうか、それだとしたら大変アレだ、大変アアアアということになってしまう。
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「偉大なるおれさま」の性質について
つて「仕事と遊び」という言い方があったが、それらは失われ、今は「業と趣味」だけになった。
業(カルマ)という字義に注目してみると、たとえば学生が「学業」に専念するのは、一見マジメなことに見えるが、それはあくまで「卒業」するためであって、だからこそ「学業」と呼んでいるのだ、そして学業としてそれに詳しくなる場合、実はそれじたいは学門とまったく関係がない/学業で鍛えた人が学門としては空っぽということがいくらでもある。
こうして、いろいろとシッチャカメッチャカなのだが、このどうしようもない中で、なぜかおれの「偉大なるおれさま」ということだけが、すべての状況を一変する、「偉大なるおれさま」だけが仕事と遊びを復活する/これがなぜなのかということの理由はさして大事ではなく、ただ事実として一変するということがいつまでも不思議だ。
おれが言っている「偉大なるおれさま」を忘れると、ただちにすべてのことは「業と趣味」だけに戻ってしまう、仕事と遊びは消え去ってしまう、本当はこんなことではいけないのだが、さしあたりしょうがない、おれが偉大なるおれさまを続けていくしかしょうがないのだ。

「偉大なるおれさま」というのは、なぜかわからないがただの事実と言葉であって、こんなものをあがめる必要はない、こんなものを無理やりあがめるというのは当人の内部がこじれているのだ/そしてこじれている場合はあがめてもギリッギリでしか作用しない。
偉大なるおれさまということについて、肯定も否定も要らないのだ、肯定しようとする人は無理にあがめることになるし、無理にあがめるということは水面下に否定の可能性も潜んでいるということだ、よって「偉大なるおれさま」に呼応する言いようとしては「偉大なるおれさま」しか存在していない/それでいいじゃないかという感覚しか存在せず、肯定や否定という趣きそのものが発生しない。
なぜなら、偉大なるおれさまが偉大なるおれさまなのかどうかについて、思案したり決定したりすることじたい、偉大なるおれさまにしか為しえないからだ、偉大なるおれさまというのは「偉大」という事象そのものを決定できるのだ、そんなもんに個々人が肯定やら否定やらを持ち込むことじたいが偉大なるおれさまに対して否定的な向き合い方になる。
人は己の何かをもって、偉大なものの「偉大か否か」を決定しようとする底意地を持っているのかもしれない、まるで漫才グランプリの審査員がオモロイ奴を決めようとするかのようにだ/偉大なるおれさまは何かに対して有害ではないし、何かに対して有益でもない、偉大なるおれさまは人に知られた有益さをもたらすのではなく、何が有益かという事象そのものを決定できるのだ、火を消すのに水を生み出すのではなく、火を消すのに水は要らなくなるというのが偉大なるおれさまの機能だ。

偉大なるおれさまは何も与えないが、何も与えられなくてよいだけ "事象を変えてしまう" のだ、そのことを「祝福」と呼ぶ。

われわれはふと、「偉大なるおれさま」から離れると、すぐ自分の知っている事象の中で、何が有益で何が無益かということを決定したがる、そうではないのだ、何が有益で何が無益ということではなく、有益・無益といった事象そのものをテキトーに決定できてしまえるから偉大なるおれさまなのだ、こんな次元の違う偉大さを、人が既知の「偉大さ」という尺度で測定できるわけがない。
四畳半で過ごした青春が「いい」わけではまったくない、四畳半は単に十畳間より狭いのだが、その四畳半をお前の青春にして、「いいもの」にしてやろうか、というのが偉大なるおれさまのはたらきだ、だからその外形をなぞって四畳半で過ごしただけでは何もいいことにはならないし、それが時期的に青春だったとしても「いいもの」にはならない/だから保証してもよいが、本当にそうした「いいもの」の青春を生きている者がいて、そいつに「偉大なるおれさま」と言えば、何の理由かわからずアッハッハとうれしそうに笑うものだ。
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ひがうぬバベルナンセンス
がみとうぬぼれは同じ性質のプラスマイナスでしかないので、おれはよくひっくるめて「ひがうぬ」という。
ひがうぬは呪力や魔力の方面だが、現代人は精神の回路がほとんどこのひがうぬでショート(短絡)しているため、もう何を思考しても、何を話しても、どんな映画を観ても、まともに機能しないようになっている。
聖書に書かれている、むかしバベルの塔をおっ建てた人々が、神に見咎められて「言葉が通じないようにバラバラにされた」という話があるが、それはこうした現象だろうか/意味のことを "sense" というが、これが崩壊することを「non-sense(ナンセンス)」という、だからバベルの塔事件のことはざっくりと「バベルナンセンス」と言いまとめることができよう。
現代人がバベルの塔を再建したのかどうかは知らないし、なぜ脳みそが常時ひがうぬショート(短絡)しているのかおれにはわからないが、とにかく能力どうこうでなく回路的にもはやまともに機能しようがないということを、ここ数年がかりでイヤというほど見せられている、近所の子供が奇声しか発しなくなったことにすっかり慣れてしまったというのは本来は非常に危機的な状況だ。

「どんな入出力を与えても、電流が全部ショートしたひがうぬ回路に流れていくから、本来の回路は何も体験しないの」と、たとえばこのことを、二十歳の女性に三回聞かせたら、三回通してけっきょく「はあ……?」となると思う。
冗談でもシャレでもなく、本当に「話」「会話」は不可能になったのだ、会話は本当に破壊されてしまったのだが、もはやそれが破壊されたという「話」すらよくわからなくなって、よくわからないまま漠然と半笑いを続けているのだ。
それでどうなっているかというと、ほとんど夢遊病者みたいに、「ひがうぬ」に流れ込む情報をふわふわ求めてさまよっているだけだ、うぬぼれに寄与するものには「うふふ」となり、ひがみに寄与するものには「まあ」となっているだけだ、こんなものは機能としてほとんど "ドローン" と変わらない/そしてこの話もなぜか強引にひがみかうぬぼれのどちらかに流れ込むだけなのだ、むちゃくちゃな話だが回路のショート(短絡)というのはそういうむちゃくちゃな状態なのだからどうしようもない。
友人が結婚して式をしようが親族が死んで葬式をしようが、すべて「ひがうぬ回路」にしか電流はいかないのだ、「そっちに電流がいくのはおかしい」というだけの "話" を、何十回も何百回もし、そうするとようやく覚えるのだが、覚えるというのは文言を記憶しているだけで、何かに気づいたとか理解したとかいうことではないのだ/しかもひがうぬ回路の電流だけ訓練のせいで膨大になってしまい、今さらこんな膨大な流量を未経験の本回路に流し込むわけにいかないという、物理的な不能性まで出てきてしまった、これを誰がどうするのかはまったく不明で、たぶん誰もどうにもしないのだという予感がプンプンする。

「ひょっこりはん」ってどこへ消えたの。

「ひょっこりはん」という出物に、「なんだこれ?」と思ったまま、それが流行らしいと聞かされ、フーンと思っていたら全員が忘れてしまった、「けものフレンズ」とか言っていたやつはどこへ消えたのか、そして「鬼滅の刃」も消えるんだろう(というかもう消えたのかどうかおれはよく知らない)、この中でむしろタピオカは新型コロナまでよく長持ちしたと思う/すべて non-sense なものが、一時的にひがうぬ回路に入ってよろこばれているだけで、本来の回路には何も体験されていないということ、何の「話」にもなっていないということが、若い人々の青春を支配している、冗談や誇張で言っているのではないのだ、本来は自分の生きた場所や時代の「話」はそんなにキレイさっぱり消え去るものではなかったのに。
何もかも揮発してゆき、どんな話も自分の体験にならない、何もかもが non-sense 化して「話にならない」、ただ時間だけが過ぎて状況だけが悪くなってゆく、このことはとても単純に「ひがうぬ回路へのショート」というアホみたいな構造・理由によってのみ起こり続けている/解決方法がないわけではないのだ、その「解決方法」が脳みその回路に入っていかないのでどうしようもないという、落語のオチみたいな構造が出来上がってしまっている。
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楽しいことはやるが、やりたいことはやらない
しいことはやるが、やりたいことはやらない。
「楽しいこと」というのはただの事実だが、「やりたいこと」というのは己の欲だからだ。
おれは「偉大なるおれさま」とか言って遊んでいるが、それは楽しいからそうして遊んでいるのであり、そんなことをやりたいからやっているのではない。
そもそもおれには "やりたいこと" なんてないのだ、おれは基本的に満ち足りているので、満ち足りている者にとって「やりたいこと」なんて存在していない/モテない男は美女とデートしたいだろうし、みじめな人は承認欲求の充足が「やりたい」だろうが、おれはそういう「やりたいこと」はやらない、やりたいことなんてないし、もしあったとしてもおれはそんなことはやらないだろう、おれは勘の悪いタイプではないからだ。

モテない男が美女とデートして「楽しい」というのは幻想であって誤りだ、それは一種の飢餓が充足されるから楽しいように錯覚されるだけであって、よくよく見るとモテない男が美女とデートするのはむしろ「つらい」ことのはずだ/いつまでたっても「モテない男」という事実と認識は変わっていないのだから、この認識に直面し続けることはむしろ「つらい」と感じなければおかしい。
そうして考えると、現代は、楽しいことが得られない人々が、代用品として「やりたいこと」をむさぼっているような状況にあるのかもしれない、あまつさえそれを「自己実現」と美化しているような向きも想像されるので、そっち側には決して踏み込んではならない何かがひしめていることがわかる。
じゃあ楽しいこととは何かということになるのだが、楽しいことといえばお察しのとおりで、おれはとにもかくにも楽しいことばかりで包まれている、おれがこうしてブログ記事なんか書いているのもただ楽しいからであって別にこんなことが「やりたい」わけではない、ブログ記事を書きたいとかいうヒマ人がいたとしたら、そいつは自分の書いたものを力関係も利害関係もない赤の他人が読んでくれるものだというとんでもない思い上がりの病気にかかっているのだろう。
おれは楽しいことしかやらない、やりたいことなんてやらない、そうでないと近所迷惑になるからだ、おれは楽しいことしかやらない/どうも世の中には、「楽しいこと」という事実と、「自分が舞い上がること」という情緒の現象との、区別がつかない人が多くいるみたいだ、どう考えても「自分のやりたいことをやっていい」なんて世界はこの宇宙のどこにもないはずなのだが、そこを本気で百八十度ひっくり返している人が少なくない、それは自分のヤバイぐらいの楽しくなさをごまかすことに首ったけになってしまったからだろう、うーんなかなかのっぴきならない状況になっているようだ。

楽しいことに努力は要らず、やりたいことには努力が要るので、おれは努力の要る一切はやらない。

何かに対して努力が要るというのは、もう何かが誤っているから努力が要るのであって、愛されていれば楽しいし、楽しければ努力は要らないのだ、こうして考えると「やりたいことに努力する」というのは愛されない人の単なる逃げ道なのかもしれない。
それでいて、おれは楽しいから愛されているのだから、論理は循環しているように見える、けれどもこれは解決しているのだ、循環は見た目だけで打ち破る方法は簡単にある、つまり人は誰も「愛されていない人のふるまいをしてはいけない」ということだ、楽しそうなふるまいにわずかでもインチキがあればそれは自分が愛されていないという事実に耐えられていない・それを乗り越えられていないということだ/その感覚は正常だが、ただ正常なだけで未来がない(それよりは正常でなくても未来があるほうを選べ)。
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噛み合うべきことと、噛み合うべきでないこと
ういえば、おれが学生のころには、男が女にマウントを取るというようなことはなかった。
別の言い方をすれば、それは「噛み合っていなかった」のだと思う、おれの乱行ぶりが目の前の女の日々に勝るということについて、それが比較とか自慢の対象になるという感覚じたいがなかった。
女がおれに、「あなたはわたしに何をしてもいいの」と言ってくれる場合、それはある意味、噛み合っていないからで、マウントがどうこうとか支配欲がどうこうとかいう話ではなかった/噛み合っていないもののマウントを取ることはできない。
先日、「女性の脚はそんなところになかった」という話をして、現代の女性は交合において旧来の正常位を取れないということを指摘したが、それはある意味、現代の男女のほうが "噛み合っている" からなのだろう/おかげでおれだけはほとんど誰とも噛み合わないようなナゾの奴になってしまったが、もうここまでかけ離れるといっそスッキリしたもので、これはこれでなかなか悪くないと感じている。

かつて、そうして男女は、もしくは人々は、ある意味で噛み合っていなかったのであり、だからこそ、話が噛み合うということがよくあった。
現代はきっとそれが逆転しているだろう、マウント感覚では噛み合っているのだが、話は噛み合わないという感じだ、街中でダミ声で話している人々は、うるさいのに何の話をしているのか一ミリもわからない、きっと話している当人らもまったくわからないまま話しているのだろう。
マウントというのは、霊長類に近いサルがやるものであり、それは「識」という業(カルマ)の現出だ、どちらが上でどちらが下とかいう認識に取りつかれるというのが「識」、そしてそれしか見えなくなるというのが業(カルマ)という現象だ。
これは業(カルマ)の解発にすぎないので、呪術をほどこせば簡単にその状態は得られるし、それは解発なので、いったんフタが開いたものは基本的に二度と元には戻らない、神に祈りでも通じないかぎりは/黒くなり狂暴化したトノサマバッタは緑色の穏健なトノサマバッタには戻らないのだ、これは蟲毒の一種であって誰でも手元の箱で作れる、まあそんなことはどうでもよくて、おれは引き続き、誰とも噛み合わない奴で、ひたすらおれの話だけが何かと噛み合い続けているのだった。

清潔な布団に寝転がることを、布団に対して「マウントを取った」とは言わない。

つまり、おれが噛み合わずにきたというのは、同じ業(カルマ)にいなかったから噛み合わなかったということなのだろう、ネコが本気でネズミを捕まえるときの疾さに勝てる人間はいないが、そのことで人がネコにマウントを取られたとは感じない、所属する業(人間道と畜生道)が違うし、所属する因果も違う/マウントを制御されているのではなく、噛み合っていないからマウントうんぬんには「感じようがない」のだ。
おれはたとえば吉田松陰の光輝あるエピソードには「うおお〜」となるのだが、二十四歳の女がロールスロイスに乗っていることについてはいまいちピンとこない、噛み合わない、おれが切実に思うのは「で、助手席でタバコ吸っていいのかね」という小声だけであって、まあ噛み合っていない、おれは疑いなく喫煙できるヴィッツの助手席に乗るだろう/おれの「話」は光輝と幸福に噛み合っていて、ずっとそのことだけを続けてきたものだから、いつのまにか人とはまったく噛み合わなくなってしまった、そして逆に、今噛み合っている人々は光輝と幸福の話にはどうやっても噛み合わないはずだ。
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才能と「頭に入らない」の関係
とえば、「サルトルは、対自存在を対他存在に沿わせていく合意のことをアンガージュマンと呼んだ」「ただしそんな理論はおれから見るとカス以外の何物でもない」と言ったとすると、多くの人は、こんなことが何を言っているのかよくわからないのだ。
老人にオンラインストレージの話をしても頭に入らないだろうし、女子大生に五箇条の誓文の話をしても頭に入らないのだが、それは興味がないからではないし、知能が足りないからでもない。
実はこのことは、「自分に才能があると思っているから」という、思いがけないファクターから起こっている現象だ、根っこで自分に才能があると思っているから、脳みそは傲慢かつ横柄になって、もう動こうとはしなくなる、このように才能と「頭に入らない」は同居する現象として関係している。
おれはおそらく、平均よりはいろんなことを細々知っているたちで、現在でも割と新しく聞いたことがバカスカ頭に入るタチだが、これは単に頭がいいからではない、根本的に自分に才能がないと思っているか、あるいは自分の才能なんかアテにしていないから起こる現象だ、脳みそが骨の髄から「いろいろ知らないとなあ」と焦っているのであり、それは自分の才能なんかをアテにして人並みにはなれないと確信しているからこそ得られる活性なのだった。

たとえばここで、「未必の故意と必然性のある偶然って何だっけ? 誰かレポートしてくれ」と数人に向けて言うと、自分に才能がないと思っている人は「おれがやらなきゃ」と自動的に思うもので、自分に才能があると思っている人は「わたしがやることじゃない」「他の誰か、得意な人がやってくれるだろう」と自動的に発想するものだ。
だから、たとえば現代の、お笑い芸人の養成所NSCあたりで、「おい誰かレポートしてくれ」と言ってみても、法学部でも出ていて既知でないかぎりは誰も調べないだろう、それは若い全員が「自分には才能がある」と思っているからだ/だからそういう人たは、けっきょく何も知らないまま生きてゆき、たどり着くところ「話が面白くない人」になるのだ、たぶんそういう人たちは、「だれか古典落語の "しじみ売り" を一夜漬けでやってみてくれ」と言っても、反射的に「自分のやることじゃない」と発想する、そういう人たちは誰かにじきじきに「お前がやれ」と命令されるまで自分から何かをするということがない。
いわゆる受け身の、「指示待ち人間」がこうして出来上がるのだが、こうした指示待ち人間タイプは意欲が足りないのではないし、能動性がないとか「自分」がないとか、そういう問題ではないのだ、根底で「自分には才能がある」という前提を抱え込んでいるので、これによって脳みそがいっさい能動的にはたらかないという状態であり、これに対する解決法や治療法は存在しない、たまたま自己治癒する奴が勝手に自己治癒していくだけしか解決のパターンはない。
典型的に、たとえば女子中高生にニュートン力学の話をしても、何一つ頭に入っていかないと思うが、これは女子中高生に物理アレルギーがあるわけではない、彼女らが反応を起こしているのは「自分には才能がないという前提に立つ」ということに対するアレルギーなのだ、そういうことなら「アレルギー」というのも納得がいくだろう、女子中高生は無条件で秘められた自分の多大な才能だけを全能の神のごとく信じている/何かが頭に入るとか、自分から何かをやるように発想するということはすべて、「自分には才能なんてある気がしないし、もしあったとしてもアテにする気はしない」という前提でしか機能しないし始まらないものだ、いわゆるそうした怠慢なオクテの人は、オクテで沈滞しているように見えるが、その底は違う、その底には猛然たる「自分には才能がある」という不動の前提が神聖不可侵の王城としてそびえたっている。

真相は「タレンテッド・パッシブネス(才能ある受け身)」だ。

たとえば、クソニュースに対して嘆きのツイートを垂れ流すのが習慣になっている人たちがいるが、本来そうしてクソニュースに嘆きの口上を発して市井に響かせるというのは、玉座の主がやることなのだ、根っこのところで自分には才能があり自分を選ばれた存在のように信じているから、そんなわけのわからないことをしている自分に違和感がなく、また自分としては「このポジションが心地いいの」と平気でのたまったりする、これがシャレじゃなくガチガチのガチなのだから直視すると胃の腑が冷えるところがある。
誰もゴッホに初頭物理を学べとは言わないだろうし、アインシュタインにポスターのデザインをしろとは言わないのだ、安室奈美恵に対して「佃煮の作り方も知らんのか」とは言わない、けれども往々にして、安室奈美恵さんのような人のほうが、活性が高くて「勉強して佃煮を作ってきました」みたいなことをしれっと笑顔でやりかねないところがあり、そうなるとタレンテッド・パッシブネスの人々は内心でヒェーと震えながらもそれ以上の才能を前提にしなくては成り立たなくなるが、それは事実上なかなかキツいのだった/タレンテッド・パッシブネスは、多くの人にとって自分のナンセンスを防衛する唯一で堅固な防壁だと思うが、それはきわめて強力であると同時にきわめて無謀な策でもあるのだった。
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品質は力だ、ゆえに品質は邪悪になる
質の低いものは100円で買い取られ、品質の高いものは1万円で買い取られる、ゆえに品質は「力」だ。
そして、空っぽの人間に武力や権力を与えたときに、その邪悪が正体を現すように、何らの聖も美もないところに「品質」だけがあることは、ただちに邪悪を生じる。
何らの聖も美もない女が、ただ品質的に美女だったとして、その品質は力となって邪悪の正体を現す、ここに高級な機材をあてがって品質だけが高い映像や音声だけを生産させると、それはより際立った邪悪となる。
現代のアイドル・ミュージシャンの舞台や衣装、撮影機材やPA機材は、ディープパープルやジェームスブラウンが立った舞台や着ていた衣装や使っていた機材よりも高級だ、そうして高品質ゆえの力と、その邪悪が正体を現している/人類のテクノロジーや生産技術の向上は、基本的にこの「品質」の向上でしかなく、聖や美の向上ではもちろんない。

品質の高さそのものが悪いわけではない、一般にいって高品質のもののほうが低品質のものよりも優れているのは誤りでない。
ただ、あくまで品質という「力」は、それを上回って支配する聖と美があって制御されるのであり、つまり優れた飼い主のもとでなら勇猛な犬は秩序とよろこびの一翼となるが、劣った飼い主のもとでは獰猛なだけの犬となりただ血のむさぼりだけを生じる。
柳宗悦を第一人者として知られる民芸運動などもこのことの一で、いわゆる上手物がしばしば品質だけの邪悪なものになりうることを看破し、そうではない低品質のそれにこそ聖と美の本質が現れるとした。
低品質といって、使用に不便と不快までもたらすのであっては、それは低品質というよりゲテモノに及ぶと思うが、そうではない清潔な低品質に聖と美の本質が現れるというのは明らかだ、黄金の宮殿というのはしばしば典型的な伏魔殿であり、その品質ごときが、青春の六畳間アパートの聖と美に及ぶことはほとんどない、聖と美の極みにある者が黄金の宮殿に住むことは善いことだが、ほとんどの場合そんな例は成り立たないと考えてよいほどなのだ。

品質は力であり、聖なき力は邪悪であり、人々は今「邪悪を張って自分を守る」のを本能にしている。

何の聖も美も面白味もない者が、億の衣装を着て億の高級車に乗り億の撮影をして億の加工を施し、さらには億の身体トレーニングを積めば、ただその品質の力によってすべてを押し通せるのだ、これが人々に邪悪をもたらすのみならず/むしろ人々は自分もそうした品質邪悪の力を振り回せるようになりたいとこころの底から望んでいる。
なぜ品質邪悪の力をこころの底から望んでいるのか、それは、いよいよ聖や美や面白味といった本当の清潔な美徳が、自分の身には一切得られないという確信があるからだ、その絶望の中で執念深く、品質邪悪の力があれば自分もすべてに押し通ることができると夢見ているのだ/その夢想はきっと、自分の本質的絶望を直視できず、その絶望に直面できないという苦しい弱みから起こっている。
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