☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
魂をイージーに考えよう!!(罠つき)

「魂」をイージーに考えよう……魂というのは、なんのことはない、「あなたの言葉は?」「あなたの姿は?」「あなたの声は?」ということでしかない/ここではわかりやすく、「あなたの言葉は?」と考えよう。
あなたの言葉は、あなたの言葉だから、何の前フリもない、「ほれ、どうぞ」というだけ、さああなたの言葉をどうぞ、あなたの感想とかあなたの意見じゃなくて、あなたの「言葉」だよと。
なぜ感想とか意見とかではダメなのかというと、感想や意見は遡る元ネタが存在してしまうじゃないか、何かについての感想であり、何かについての意見だから/そうではなく、何かに遡ることのない「あなたの言葉」だ、ある意味最もカンタンなものでもあるな、何に遡る必要もない「あなた」の言葉だから。
わかりづらかったら、「これはわたしの言葉です」と先に宣言してから、その後に続けてもいい、わかりやすく「あなたの言葉」だ、それを赤の他人に向ける・叫ぶ・ぶつける・響かせるというのが、「あなた」という存在だ、だから何もむつかしくはない、考えてみりゃそれがあなたの魂であるのは当たり前のことだ。

ところが、目の前に赤の他人が十人いて、「ほれ」と言われると、たいてい人は「社会的」な口上に逃げてしまう/やれ、出身はどこで、学歴はどうこうで、そのとき部活をあれこれしていて、現在はこういう職業につき、どこに住んでいて家族はどうこうです、というような話に逃げる。
だがそうした社会的な情報は、「あなたの言葉」ではない、あなたが農家であるかあなたがパイロットであるかなどは、あなたの言葉には関係ない/さまざまなことがあなたの魂を育ててきたかもしれないけれども、それならその育った魂を見せればそれでいいのであって、魂がお世話になった先を説明されてもしょうがない、あなたは海産物ではないので産地を表示してもしゃーないのだ、四の五の言わずに「あなたの言葉」をさっさと表示せよ。
仮に、目の前にかわいい女の子がいたとき、あるいはステキな男性がいたとき、どうするのだ、そりゃ「あなたの言葉」が表示されないとおかしい、なぜ目の前にかわいい女の子がいたときに、「僕はエンジニアさ」みたいな意味不明の話をするのだ、月を見上げて「最高の夜だ」というときに、「わたしは編み物の趣味サークルで熱心に活動しています」ということは何の関係もないじゃないか。
こうして、「ほれ、あなたの言葉を」と言ったときに、十中八九、人は「ええっと……」と "探し物" をする、いったい何を探しているのか、「あなたの言葉」は今居るあなたにしかないだろうのに、いったい何を探しに出かけているのか/僕は目の前にかわいい女の子がいたらアイラブユーしか出てこないが、この単純なことがぐっちゃぐちゃの汚穢物になり、いろいろごまかしているということがあるのだ、そりゃおれは何十年もアイラブユーしか言ってこなかったからな、他の人が何十年も何をしてきたのかはおれは知らんぜ。

あなたがキモくない、ように見えるのは、あなたが「あなたの言葉」を発していないからにすぎない。

単にそういう立ち回りを覚えた・覚えてしまったというだけで、あなたがキモくない人になれたわけではない、ためしにウオーと叫んでから異性への愛を語ってみればいい、そうしたらあなたは必ずごまかしをする、なぜごまかしをするかというと、ごまかしをしないとキモいのがバレるからだ、しかしシャウトと共に異性への愛が語れない、あまつさえそれを「ごまかす」ようでは、いったい何が「魂」なのか、冷静に見たら土台が超インチキなのが初めからバレバレだ。
問題は、あなたが「炸裂」して、その炸裂しているあなたがキモくないかどうかの問題であって、ごまかして立ち回るようにキツキツに設定してあるあなたが表面上キモくないことは、当たり前である以上に、あまり意味がないことなのだ/炸裂するあなたに出身地とか経歴とか職業とか何のカンケーもねえよ、いいかげんそのごまかしネタはやめたら。

正しく見ないとな | comments(0) |
「借り物を既製の型に押し込む」という作業しかできない人

「コミケ」に象徴されるように、今は膨大な数の同人誌、二次創作、特にエロ同人が創作されている。
エロ同人はさまざまな嗜好に分類され、やれNTRだったり快楽堕ちだったり触手ものだったりおねショタだったりと色々ある。
そういうものなのだろうか、と思っていくつかのジャンルをざっと見てみたのだが、うーむこれはと、余計なお世話だが、とてもかわいそうな気がした、こんな勝手な思い入れはジジイ特有のものだとして聞き流してくれて結構だが……
つまり、「モチーフを借りてきて、規定の嗜好ジャンルに当てはめる」ということしかできないのだ/「どういう世界があって、どういう人がいて、どういう物語が生じうる」ということについて、当人の心当たりが一切ないのだろう、だから "借り物を既製の型に押し込む" という作業しかできない、そのことに僕は深刻な悲哀を覚えた、これは煽って言っているのではなく本当に切実な悲哀を覚えたのだ。

別にエロ同人に限ったことではなく、今は――あるいはずっと以前にもか――多くの人が、自分では世界や人や物語に直接の心当たりがなくて、借りてきたイメージを既製の型に押し込んでいるだけなのかもしれない、陽キャとか陰キャとかもそうで、グラビアアイドルの卵が水着姿で一般のポーズを取っているのも、何かの意図があってそうしているのではなく、本当に借りてきたイメージを既製の型に押し込んでいるだけなのだろう、これではあまりにも時間とエネルギーがもったいなさすぎる。
物事には一定の「型」というものがあり、「型」の中には人智を超えた妙が含まれていたりもするが、それは「型の中に身を入れて学ぶ」ということであり、型に押し込んで完成バンザーイということではない、たぶんこの「型」のことを根こそぎ誰にも教わっていないので人々はドエライ損をしているのだ。
たとえばこのブログ記事だって、もう長いあいだ、四文+四文+一文+二文という「型」を保っているし、文章そのものに当然の文法と、それ以外にも実は文学の型が入り込んでいて文脈と文体を為しているのだが、それが「型の中で我でない主の自由を得る」ということだとは、たぶんほとんどの人は知らない、たぶんほとんどの人が根こそぎ本当に何一つわかっていない。
ワークショップ等々をやっていても、すぐに気づくことだが、状況の障害は何も複雑なものではなく、あえて単純化するなら、「僕のようなアホができることをあなたができないのはおかしい」という、その一点に尽きるのだ、いわばエロ同人のえげつないジャンルをえげつなく描ききる才人なら、たとえば「鉄腕アトム」のようなイージーな世界観はゼロからホイホイ産み出されないとおかしいのだ、そのことについての論理的整合性を放置しているので、状況が息苦しくなっている。

知恵の結晶たる老人たちが村おこしできないのはおかしいし、感性の権化たる女子高生の美術館が設立されないのもおかしい。

老人が若年者の知恵を授かるということはありえないし、女子高生がおじさんから感性を学ぶということもありえない、授かったり学んだりはしないから、どうするかというと「借りる」のだ、たいていは無断で借用して、でも使い道がわからないのでどうするかというと、既製の型に押し込めてみて「できた」とする、ほとんどの「ジャンル」は現在それで認められて成り立っている/そういう構造でエロ同人は大量生産されているし、その他のものも同じ構造で今大量生産されている。
これは別に陰険な意図で言っているのではなくて、状況が深刻かつ、痛みと悲しみに満ちているということを述べているつもりだ、自身でもう何十年も生きていながら、「世界と人と物語」の直接の心当たりがないというのは、とてもつらくて苦しい、受け止められないほどさびしいことなのだ/何もかもを借りてきて既製の型に押し込めるという作業しかできない、それでも人はなんとかして「自分」として生きなくてはならないから、この状況のまま放置されているのは本当に無慈悲だ、息苦しさの構造を隠蔽するために人生の九割のエネルギーを割き続けねばならなくなる。

正しく見ないとな | comments(0) |
ケンカを売れ2

ウル・魂の発露というのは、けっきょくのところ、街ゆく人にケンカを売ってションベンをチビらせること本質的に同じだ。
ただしそれが、「恫喝」になってはいけない、「恫喝」は魂の勝負ができない人の卑劣な工作にすぎない、恫喝はただの血の圧迫だから、どうせ徒党を組む連中の発想だ。
では何が違うかというと、魂の勝負でケンカを売るというのは、たぶん想像を絶することと思うが、友人よりも至近に魂を接続するということなのだ、急に魂をこの世界に二人きりにするということ/だから男同士の「やるのか」と、男と女の「やるのか」は同質なのだ、よってケンカが売れない人はナンパなんかするべきじゃないということになる。
この魂の勝負は、子供に対しては起こらず、老婆等に対しても起こらない、なぜなら子供や老婆は家や家族という甘え(マザコン)の中に百パーセント引っ込んでおり、一人の魂としてこの世界には出てこないからだ/仮に老婆にケンカを売ったとすると、老婆はすべての抗弁をもって「家の者です! 家の者です!」と言い続ける(つまり魂のすべては家主が所有していると宣言する、これは子供の場合は当たり前だ)。

まあそれはいいとして、本質を突くためにここでは「ケンカを売れ」と言っているが、それで本当の取っ組み合いになってもしょうがないのだ、それではただの貧民街みたいになってしまう。
「愛」というのは何かというと、全力でケンカを売って、魂の勝負として友人よりも魂が至近に接続するのに、そこに何のゆがみも偏りも憎悪もないため、魂の勝負として相手は「殺される」と直観すると同時に、「殺されることに抵抗する理由が見つからない」とも直観するのだ/つまり魂が至近に接続して「殺すぞ」と言っているのに、何かがやさしい気がして「……はい」と応えてしまうということ、その現象が「愛」だ。
これは男女のほうがわかりやすいかもしれない、まだ一部の女性には、そういう感覚が残っているだろう、つまり魂が急に至近まで接近してきて、「殺すぞ(犯すぞ)」と言っているのに、抵抗する理由が見つからず、何かがやさしい気がして「……はい」と応えてしまうということ/こうして、街ゆく人にケンカを売るという極悪非道の行為であるにも関わらず、「この人が正しい」「この人に殺されていい」となり、ケンカが生じないということ、それが愛だということ、そこまでいかなければけっきょく魂の交わりとして佳き決着はないのだ。
技術的に言うと、このことは、(ほぼ)完璧というほど魂の統合が為されていないと実現されない、魂の状態はそれぞれ解体(バラバラ)と統合(ゆがみ・曇りがなく一つ)の二つの方向性があるが、統合というのは全身のすべての末端まで力みの偏りがなく、末端まで完全に中心からのソウルが行き渡っているという状態を指す、その状態が、ゴリゴリにケンカを売っている緊迫の最大ピークのときに生じなければダメだということだ、そこまでいって初めて人は一生の「誰か」に出会う。

ケンカを売ったとき、わずかでも力が末端力と中心力に分離していたら、それはただのしょーもないケンカになる。

昔で言うところのツッパリやいわゆる「不良」というのは、このことを探していた連中なのだ、何しろ魂の統合度でいえば、学校の先生と十代の少年とで、どちらが上だなんて決まっていないのだから、そこにはただ二人の魂しかない/それで「不良」は、教師に悪態をついて、言外に「ケンカ売れるもんなら売ってみろや」「魂で勝負に来てみろやコラ」と本質的な問いかけをぶっ放していたことになる、よもやその "テスト" で満点を取れる教師などほとんどいなかっただろう。
現代、そういったツッパリや「不良」はいなくなったが、それは人が優等生になったからではなく、単に全員の魂がバラバラに解体されたからだ、魂がバラバラのままケンカを売ると(末端力と中心力が分離していると)、ご存じのとおりただのキチガイや通り魔になってしまう、そしてキチガイの破裂は常に卑劣で不潔で誰にも何の利益もないことがすでによく知られている/だから世の中に「なんだコラ」と "単独で" ケンカを売ってくるツッパリや不良はいなくなり、代わりにコンビニの前で徒党を組んで座り込んでいるか、そうでない組は通信の匿名性を介してさまざまなものを攻撃・炎上させることに耽るようになったわけだ、魂の勝負なんか出来ずに自分が「発狂」しかできないことを、技術的にも感覚的にも知っているということの結果だ。

正しく見ないとな | comments(0) |
ケンカを売れ
ろいろ準備も整ってきたので、本当のことをドーンと表示して、絶望と希望を同時にワッショイするか、みんな準備はいいのだろう(よくない)。
最も多くの人々が、最も "しない" ことは何か、それは、街ゆく誰かに「おい、そこのワレェ」と、ケンカを売ることだ。
そして、最も困ったことに、けっきょくソウル・魂・霊魂を人に向けて表示するということは、そうして街ゆく誰かにケンカを売ることと、本質的に同じなのだ、だからこれができなゃ最終的にソウルはムリ、という厳しい障壁がある。
友人に向けて、絡むごっこをするのではないし、通りすがりの誰かに向けて、絡む芝居をするのでもない、マジで「おいコラ」と、いきなり魂をぶっつけるのだ、そんなバカなことを誰がやるだろう/自分からそんなことしないどころか、受けて立つことさえしないという人が99.9%ではないだろうか。

しかし、しゃーないのだ、けっきょく人と人の関係は、通りすがりの赤の他人に対し、1.「男同士だろ、やんのか」 2.「男と女だろ、やんのか」という二種類しかない/女同士の場合はどうなのか僕は当事者でないので知らない。
僕の直接の友人は、何度か目撃したことがあると思うが、たまにたとえば路上の客引きがしつこいとき、急に魂をぶっつけて「おい……おい!」とやると、急にシチュエーションが変わって、目の前の客引きは本当に僕の目の前に立っていられなくなる、わけのわからない作用でねじれてまわるのだ、膝が震えて当たり前、冗談じゃなく小便をもらすケースもある。
その急なシチュエーションの変化、急な現象は、いっそのこと「神秘的」とさえ言いたくなるところがある、そこに何かとてつもないことが急に起こるのだ/魂をぶっつけられた側は、本当に、急に巨大な銀色の十字架を目の前に置かれたドラキュラみたいに、「ううう! あああう!」と身体をねじって正面から逃れようとする、本当に「人ってこんな挙動をするの?」と驚くほどにだ。
つまりそこに起こるのは、ふだんは認識しえない、場合によっては生涯知ることのない、 "根源的な恐怖" なのだ、それは一般的な「怖い」というのとはケタが違う、この根源的な恐怖に直面すると、人は恐怖を避けたいがあまり、「恐怖を避けられるなら破滅してもいい」という行動をとっさにとることがある/基本的にこれがソウルの入口、だから魂とか霊魂というのは本当にやるのはむつかしいのだった、よもや自分が街ゆく人にケンカを売ってションベンをチビらせるとは発想さえしないものな。

嫌味を言う上司・親・オバハンは、街ゆく人にケンカを売れない引け目を生涯ごまかし続けるために、嫌味を言い続けている。

そりゃそうだ、嫌味を言う上司が、「今日もまた商店街でチンピラをシバいていたよ……」なんてことあるわけがない、どうせ誰も彼も法律がどうこうで野蛮だどうこうと言うに決まっているのだが、それはそれ、社会通念上正しい、だが魂が小さく弱いという事実は覆されない(当たり前だ)。
気合いの入っている "つもり" の人、大声で興奮している人も、実は同様で、魂が小さく弱いことをごまかしており、たとえそれでごまかせたとしても、やはり事実は覆されない、気合いが入っているつもりで大声を出して威嚇してくる人は表面上「怖い」が、それは根源的な恐怖ではなくただの危険性への警戒だ、根源的な恐怖はそれと違う、もっと空間が曲がるナゾの現象だ、周囲の人がなぜか「感謝」を覚えたり、手を合わせて拝んだりするようなことが実際にある。
正しく見ないとな | comments(0) |
全身全霊とは、ひとつをすべてにするということ
れの代わりに誰かが頑張ればいいと思う、おれはMAXサボりたいのである。
人は全身全霊であるべきだが、「熱中」と区別がつかないので、人はむしろそれで失敗してきた、いや失敗というのは大げさだが……
全身全霊に、なれると思ったら大間違い、全身全霊にはノウハウが要るのだ、そしてノウハウだけでやれるのは天才であって、たいていの場合は誰ぞの導きがいるのだ。
導きは必要であって、不必要なのは感謝だ、恩というのはあるかもしれないが、恩返しなんてものは必要ない、恩なんか恩のまま無限に放置しておけばいいのだ、恩や感謝によって上下関係ができるのはまったくクソであって、それよりは暴虐で上下関係ができるほうがずっといい/つまりおれが暴君でゲラゲラ笑い続けないと、人々は全身全霊になれないだろうという、ステキな結論が導き出されるのだった、うーむこの世は正義に満ちているな。

目の前のひとつのことが「すべて」にならなくてはならない、つまりどんな美人でもおれの目の前を通ればただちに「キミがボクのすべて」だ、これを全身全霊という。
「なぜそんなテキトーが全身全霊なのか」と、立派な人は疑問なり不平なりを覚えるかもしれないが、そこで「なぜ」なんて疑問を覚える時点で、もう何も「すべて」ではないということだ/なぜ美人がボクのすべてかは、美人に訊いてくれ、そこにボクのすべてがあるのだから、訊きたいことの答えだってすべてそこに含まれているだろう。
そして、なぜ通りすがりの彼女が美人なのかというと、ボクのすべてだからだ、そりゃ造形だけどうこうで美人は定義できないだろう、造形が上等でもボクのすべてとして存在していないのであればそれは美人として存在していない、「存在」していなければ美人を「体験」することもできないので意味がない、せっかくの造形も持ち腐れということになる。
「熱中」と「全身全霊」は、いつまでも区別がつきづらい、ただひとつのことが自分のすべてにならないといけないが、そこで「願望」が邪魔になる、よくよく見極めることだ……ただひとつの願望に熱中、執心、これは全身全霊か、いやいやそれはよく見たら、 "ただひとつの自分のすべてのこと" が「手に入っていない」という状態だろ? だから願望が燃え盛っている、全身全霊というのはそれじゃない。

美人にフラれるのもボクのすべてだ。

美人がボクのすべてだとして、どうしてそれが、ゲットした・フラれたで変動することがあるんだ、変動するのはかまわないが、それを全身全霊と言い張ってはならない、それはただの虚言になってしまう。
美人と芸術と金銀財宝がボクのすべてだが、そこに成功と失敗がつきまとう奴は知性が残念だ、僕はただ「ボクのすべてがすでにこの世界にある」という話をしているにすぎない、目の前のひとつがすべてならもう成功も失敗もないだろ?/成功と失敗で分岐するなら、それは何もひとつではないし、すべてでもないな、成功と失敗を比較(ratio)に掛けて熱中するのは、典型的な熱中で、比較の上でひとつのことしか見えなくなるに見せかけて、本当は二元論に取り憑かれるのだった、つまり本当に一つをすべてにする人と、二つ(二元)をすべてにしてしまう人とがあるのだった。
正しく見ないとな | comments(0) |
世界があるという冒涜(世界と接続する必要はない)
リッキーなタイトルだが、奥義に近いほうが作用能率がいい場合がある。
「現実」は存在していなくて、「世界」は存在している、そして世界は「魂」なのだが、これ、そもそも「存在していないもの」と「存在しているもの」を並べて考えること自体がおかしい。
「存在していないもの」と「存在しているもの」は、 ratio (比較)の関係にないので、この発想じたいが間違っているのだ/こういう「説明」というのは、わかりやすさと間違っている度がどうしても比例するものだから、あるていど説明上はしょうがない。
「現実」と「世界」の違いというのは、そもそも事象平原が違うので、何が違うとも言えない、「空き瓶とジュースの違いは?」と訊かれているようなものだ、「空き瓶」は「入り瓶」との ratio で成り立っており、ジュースはただのジュースなのだから、この両者は単に「無縁」だ、入り瓶を空想したところでそれはやはり「瓶の状態」に過ぎずジュースではない、容れ物の瓶がなければジュースが存在しないなんてことはない。

「世界」(魂)が存在しているというより、「それしか存在していない」というのが、まだ少しだけ正しい。
そして、それしか存在していない場合、わざわざそれを存在しているとは言わない/たとえば「三丁目」しか存在していない場合、それを三丁目が存在するとはわざわざ言わない、「三丁目が存在する」と言うときは、他の○丁目が存在するときにその ratio として言われるだけだ。
じゃあ世界(魂)の存在についてはどう言えばいいのかというと、まだ「ギャーン」とでも言うほうが正しい、世界と接続する必要はなく、そもそもすべての「存在」は「世界」の一部で相互は合一(区分されていないもの)なのだから、公園と敷地を接続する必要がないように、魂を世界と接続する必要はない、公園の敷地は必ず公園の一部のはずだ。
となると、ここでやはり、「時間は流れていない」ということが必要になってくる、なぜここで急に時間の話になるのかということについては、正直なところ説明しきれないところがある/流れていない時間は "秘密の時間" (秘密の永遠)だ、一方、一般に流れているとされる時間は、時計やカレンダーで打ち合わせされて共有され、これがつまり「現実」の入口になっている、この「公然の時間」がまるで黒魔術の魔方陣のように、現実のバケモノを闖入者として呼び込んでしまう。

秘密の中にいる組は、秘密に接続する必要がない。

そして秘密の外にいる組は、秘密に接続などできない、外にいる組が接続できるものは「秘密」ではないからだ、何か別のものをこしらえて勝手に別のものに接続する/それに対して、秘密の中にいる組、その同士は、いちいち秘密があるとは言わない、同士においてはそれは秘密ではないからだ。
つまり、世界は秘密の unique であり、公然の common (general) ではない、「唯一絶対のもの」というのは、何も気合いを入れた心構えのことを言っているのではなく、 unique のものは相対的でありえないというだけだ/わざわざ「世界がある」と言い立てることは、ときに unique の世界を相対的に主張しようとしていることにもなり、冒涜にもなりうる、よって「世界」などなくてもよい、あくまで「世界がある」と言い立てるのは、便宜上 common の文脈に寄り添わせて言っているだけだ……そしてけっきょくこの文脈だけで秘密の外組が秘密の中に入れはしない、現実は本当には存在していない以上、現実の文脈も本当には存在しておらず、 common なるすべてのものは本当には存在していない、よって「誰にでもわかること」はすべて誤りであり、「誰にもわからないこと」という非共有が世界の立脚点となる。
正しく見ないとな | comments(0) |
脳天から魂がビュンビュン出る

のごろは、朝起きたときにはっきりと気づくことだが、脳天から魂がびゅんびゅん出ている、それは本来、僕の身を右へ左へと動かすものだ。
なんというか、煙突の煙が、流されるのではなく指向性を自ら持って、自我とは無関係の能動性で、びゅんびゅん動いているのがわかる、ある意味「なんだこのわかりやすい仕組みは」という感じさえする。
いくつかのシチュエーションで点検済みなのだが、わかりやすい代表例としては、たとえば隣に女性(老いていない女性)が座ったとき、僕の魂はそちらのほうへスーッと飛んでいっているのがわかる、男に対する寄り方とはまったく違うので、「これが男女か」といつも不思議がらされている。
いわゆる「気がある」「気が向く」「気を引く」というのとは違い、魂が吸い寄せられているのは、ほとんど女性の「頭上」だ、あとは気があるとか気が向くとか気を引くとかは、女性の側から僕に向けてのことではないだろうか/といって、僕のほうはもうほとんど「気」とアクセスしていないので、女性の側がどうなっているのかはよく知らない、少なくとも僕の側から女性に気を送るということはしない。

男尊女卑というアホな言い方があるが、それは論外として、「男霊女気」「男魂女魄」「男命女生」というようなことはあるのかもしれない/ただしあくまでニュートラルの状態でだ、必ずしもこの関係を絶対にする必要はない、こんなもん個々人のレベルでいかようにも変転する。
女性が僕を見上げるということはあっても、僕が女性を見下ろすということはほとんどない、僕は女性の頭上を見ていて、つまり世界を視ているからだ、もちろんこれは極端な例であって、つまり僕に「男気」がないということだ、ほとんど「気」とアクセスしていないので結果的に男気も出力されなくなる。
おそらく、僕がこの世界の命やら言葉やらを視つづけて、魂のままに挙動し、その下で女性が僕の生を補助しているというのが、(女性たちにとっても)一番リラックスできる構造ではあるのだろう、実際いつも大勢でファミレスにいくとそんな感じだ、僕一人だけドエライことになりつつ、みんなそれを見上げつつ、テーブルの上のメシやコーヒーは誰かがササッとなんとかしてくれている/そういうリラックスの限界構造まで至らなければ、ぶっとおしで三十時間も遊んでいられない。
多くの女性が僕を好いてくれるかどうかわからず、一部の人にとっては僕などはクソ男の最たるものかもしれないが、そのあたりは正直どうでもよくて、ただ朝起きたときからはっきりわかることは、こういう奴が「必要」で、そういうものを女性の魂が「求めている」ということは直接わかる、求めていたってそのとおりにというわけにはいかないだろうけれども/僕が魂どおりに挙動すると、僕は女性の頭上とつながりにスーッと寄っていくことになり、ときにそれを「これでいいの」と反応した女性が、入れ替わりに胸元にビタッと入り込んでくることがある、そのとき「誰だコイツ」という気がするのだが、「誰か知らんが女だな」という感触だけで安定する、そうするといわゆる「太極図」が正しいのだなということがよくわかる。

ただしこれは恋ではないので、恋希望の人にはウケが悪い。

恋というのは、もともとは「戀」(旧字体)であって、「思うようにいかないこころのもつれ」という状態を指す、そこで太極図にビタッと嵌まるのは愛であって恋ではない、恋はむしろ原義的にこの太極図が歪んで "こじれる" 状態を指す/確かに、思春期の少女がいきなり「太極図!」とか言っているのはどーかと思うよ、だから太極図のような男女の結合は、ひととおり恋の焦がれと恋のむなしさ、恋が「思っていたものと案外違う」ということを、ひととおり経験した人が、ようやく本来必要なものがそれだったと気づいて到達するものかもしれない。
まあいいや、とにかく朝起きたとき、すでに頭上から魂がビュンビュン出ていて、それは老いていない女性に対してその頭上へずいぶんな指向性で飛んでいってしまう、女性の魂の側にはそれは「欲求」ではなく「必要」なものであって、そのとき確かに「世界」がある/ただし「恋」とは原則異なるので、何というか、「恋は盲目」ということの真相がここで逆に暴かれるとも思う、「恋」とはむしろ "世界を見失う甘露" なのだ、それはとても魅惑的で、だが最終的には魅惑という範囲からは出られない、だから誰かが恋に "落ちて" いるとき、少しのうらやましさを覚えながら、逆に他人事としての距離感が増大する。

正しく見ないとな | comments(0) |
現状分析/学門派、人情派、非人情派

明は抜きにして、現在、以下の三つの勢力があると推定する。
1.学門派(極少数)
2.人情派(保守派)
3.非人情派(新興勢力)

僕はこれまで、人情派が学門派に抵抗を示しているのだと思っていた。
だがどうも、この切羽詰まった感じは、別の理由があるという気がしてきた/現在の人情派は、学門派に抵抗しているのではなく、新しく生じた「非人情派」に対抗しているのではないだろうか、あるいはもっとはっきり言えば、新しい「非人情派」に、率直に "恐怖" しているのではないだろうか。
非人情派というのはつまり、現代に明らかなところ、何でもパワハラ、何でもセクハラ、サービス残業は犯罪、会社の飲み会は業務でしかない、あくまで生活費のために働いているのであり、それ以外には一ミリの関係も覚えない、喫煙者は死ね、という、現代では最も合理的な、かつ現代においては最大の説得力を誇る勢力のことだ、旧来から残存している人情派は、ただこの新興勢力に殺されることに怯えているだけではないのか。
はっきりいって、現代はもう人情派は、解体されるしかないというか、すでに中枢的には解体されたとみなすよりない、今さら「男はつらいよ」なんて映画が成り立つわけがないし、もう年末に「忠臣蔵」で視聴率を獲るのも無理だからだ/ここで現在の状況は、すでに解体されて説得力のない人情派勢力と、もともとやけくそでしかない非人情派勢力とが、一方は恫喝を武器に、一方は酷薄さを武器に、不毛な血みどろの対立をしているような気がする、僕はそういう他人の状況に疎いのだが、よくよく考えればフツーの感覚として、根幹に人情をまったく持たない、人情ゼロ人間の大量出現が怖くないわけがないのだった。

事実僕は、非人情派の台頭に合わせて、明確な学門(ソウル)派に移行した。

かつて、人は人情の中を生きていて、人情の中で、それを越えるものを探していたのだ、「人情のごり押しに矛盾があるのはわかるけれど、ちょっと待ってくれ、わたしは何かを探しているのだ」「会社の飲み会が正しいわけじゃないのは知っている、でも、それをなくすのが正しいとも思えないんだ、ちょっと待ってくれ……」ということの中に人々はいた、だがいつのまにか「待つ時間など与えられない」ということで、新興勢力が人情派を切り刻みにやってきた/そのことに、保守派の人々は震え上がり、しゃにむに防壁を作り上げているだけなのでは。
いつもの僕の、悪いパターンとして、「僕がへっちゃらなものは、他の人もへっちゃらだと思い込む」というのがある、でもよくよく考えれば、眼の奥に何もない、また声の奥にも何もない人々の大群に向き合わされて、ほとんどの人はへっちゃらであれるはずがないのだった、そりゃ強引にでも人情を信じてそれを押し込もうとするのも当たり前のことかもしれなかった。

正しく見ないとな | comments(0) |
「人」→「表示」→「言葉」/「言葉」→「表示」→「人」
のネタは説明すると長引くので、必要な情報だけ。
「人」が表示されて、初めて「言葉」になるということ、これは実験したら誰でも視認できる、これはつまり、人の魂(命)が表示されて、初めて「言葉」が成り立つということ、よって「言葉」は魂のモノだということがわかる。
それで、じゃあその魂をどこからもらってくるんだよということになるのだが、これは元々、「言葉」の側から魂をもらってくるのだ、逆転というか逆流の発想だが、タイトルに書いたように、元をたどると人の魂は「言葉」からもらっており、どのような手続きでそれをもらうのかというと、やはり「表示」を媒介にしているのだ。
魂そのものは観測不能のものだが、観測不能でも作用や事象は起こるのであって、その事象が「表示」だと言える、その身に魂を持つ者が「表示」をすると、魂のモノである「言葉」が現成するし、未だ魂を持たざる者が言葉の「表示」に導かれると、その身に魂が宿るのだ、多くの人がこれまで「何これ、何だこれ」と言ってきたやつの正体がこれだ、この現象は非常に体験する機会が稀だというだけで、現象そのものはまったく複雑怪奇ではない。

このことの本質は、すでにウィリアムブレイクの詩文に書かれていて、つまり魂は form (形式)にあるのだ、そして form の反対が ratio (比・比較すること)にあるということ。
よって学門・言葉・数式に「魂」があり、「人情」のすべては実は ratio から生じているということ/人は学門派と人情派に分かれているように見えるけれども、その本質は form 派と ratio 派に分かれているということだ。
たとえば世の中には、美人と不美人がいるが、ここで不美人Aは自分の顔について、不美人の自分の顔を form (わたしの顔かたち)と捉えているのだが、不美人Bは自分の顔を ratio (あのコよりはブスだけど平均よりは少し良い)という比較で捉えている、もちろん美人Aと美人Bも同じだ/そしてお察しのとおり、「あのコよりはブスだけど平均よりは少し良い」と捉えている人のほうが、実態として「人情派」ということになる。
人情派、 ratio 派、「比較」によって捉えている派、つまり「どうしてあんな人のほうがわたしよりも幸福になるのだろう、なぜわたしの負けになるのか、理不尽だ、許せない」と物事を捉えている ratio人情派の人は、たとえば y=ax+b という直線の一般式が根本的に「ピンとこない」はずだ、それはどれだけ勉強しても、またいつまでたっても、永遠に「ピンとこない」のだ、それは y=ax+b という数式にある魂と接続できないからだ/すべてのことを form ではなく ratio で捉えているので、「 y=ax+b という式は、他のノウハウと比べてどう役に立つのだろう?」という疑問で数式を見つめ続けている、それ以外に視力がないのでそうならざるをえないのだ。

驚いたことに、人情派は「魂の放棄」に行き着く。

現代にはうまい言い方があって、人情派というのはいわゆる「エモい」(エモーショナルということのスラング)ということと結びつけることができる、たとえば「わたくしの母は、まさに不運の人で、すべてを我慢せねばならず、それはあわれな生き方でした……」という人情へのくすぐり表現は、古典的に「エモい」と言いうる/この「エモさ」は ratio を煽ることで引き立ってくることが誰にでもわかる、たとえば「正直にさ、今よりもっといい暮らしをしたいと思わないか?」と悪徳商法が煽るように。
ratio の煽りたてに、エモエモになるのが人情というものだ、誰だってそういう業(カルマ)をもって生きている、だから誰もそのことをバカにする気にはなれないのだが、よくよく冷静に考えてみれば「人情派はノーソウル」というのは割と当たり前のことなのだった、エモエモしていたらそりゃソウルはないし、エモエモしている人が急に y=ax+b に眼ざめたりしないわな。
正しく見ないとな | comments(0) |
何のために身体を高度操作するか3

とえば母音「ア」を発したのち、母音「オ」を発するとしたら、何かしら身体の変化が必要なはずだ(当たり前だ)。
そのとき、まず全身と大地が「ア」に応じているか、そののち、全身と大地が「オ」に応じているか。
そこをモタモタしてんじゃねえということ、口をゴニョゴニョしてアとかオとか言っているのは全身全霊じゃない。
全身全霊じゃないと、見るからに「まさにア」「まさにオ」ということにはならないだろう、人がアになるか、また人がオになるか、ということをやっているのだ、肉体は地とつながっているから、地ごとアになりオにならないと、人が「まさにア」「まさにオ」にはならない(ハイレベルすぎて無理)。

どれだけカッコイイポーズを形作ってもムダだ、それは「まさに○○」ではないからだ、外形だけ似せてもそこには何の魂も通っていない。
竹を割って作った流しそうめんの台を考えろ、流しそうめんの台は、あくまでそうめんを流すための台であって、もし、そうめんを流すことを知らない奴が、その外形だけ真似てその台を作ったとしても、「……何か違う、何これ」となるだろう、そりゃ当たり前だ。
われわれの身体と地はそのように、「流したましいの台」みたいなものだと思えばいい、ただし魂は言葉等でぐいぐい変化するので、その変化のたびにビシッと最高の形に変化する台でなければならない、つまり「流しアの台」から「流しオの台」へスッと変化しきってノイズがないということだ。
人の観測可能な身体と地は、この世界の観測不能な何かの通り道を形成して示すのだ、その姿が結果的に「カッコイイ」と見えているにすぎない、だからこのことを正しくやれている人は、身体と地においてはむしろ「カッコ悪い側」をやっている感覚なのだ、だってカッコイイものは観測不能物として通り抜けていく何かのほうなのだから。

風車にモーターを入れたらアホだ。

風車が回っているのは、風が通り抜けているからであって、その外形だけを真似して、モーターで回してどうする、その風車がカッコいいデザインになることは永遠にない、代わりに「トルクを水のくみ上げにでも使えば?」と言われるのがオチだ。
あなたがくるくる回るとして、あなたが自前のモーターでくるくる回っていたら、そのダンスがカッコよくなることは永遠にない、正しい仕組みと正しいやり方に気づかねばならない。

正しく見ないとな | comments(0) |
何のために身体を高度操作するか2
ーい面倒くさいので、勝手にどんどん言うと、よく「空間を広く取って」と言っているが、そのときあえて地面は無視している/いきなりすべてのことをまとめてやることはできないからだ、ひとつずつやるしかない。
本当は、「生」ということは「地」につながっていて、生体としての肉体は「地」に立っている、肉体と地は一緒くただ、本当は肉体と地はつながっていなくてはならないが、それを「つながり」というと、どうせ癒着してくっついてしまうので、そういうことじゃない/身体をすばやく操作・変化させられるということは、「地」もすばやく操作・変化させられるということだ、そうでなきゃ演者によって「舞台」がコロコロ変わるということに説明がつかない。
そして、地と共に身体をすばやく操作・変化させるのは、何のためかというと、すべてを魂に従属させるためだ、地も身体も「モタモタしてんじゃねえよ」ということ、その瞬間に変化していないともう「間に合っていない」だろ/身体が動いたからといって何かになるわけではないのだ、そりゃただの運動でしかない、そうじゃない、魂の往く先に「間に合っているか」ということだけが問われるのだ。
人の肉体には「実感」があって、「生」ということにも実感があるから、人はその観測可能な実感モノだけを追跡していってしまい、実感を膨大に確信しながら、同時に「でもわけがわからない」という状態になっていくのだ、それは観測不能の側に人の本質があるからだ/そこを理屈として知ったとしても、それだけではどうしようもなくて、地と身体が一緒になって、霊魂に「間に合って」動くということが主眼だ、これはわけのわからない話ではなくて、本当はとてもシンプルなことを話している。

たとえばわかりやすく、人の「声帯」の機構を見てみよう、声帯というのは喉仏に入っている小さな唇のよう器官で、この唇の隙間に呼気が通ると唇が振動し、それが声帯原音となって響き、人の声・音声になるということだ、単に声帯がビーンと振動して音が鳴りますということ、こんなことは子供だって知っていよう。
ところが人は、単純な思い込みによって、そのビーンと振動している声帯のほうを「わたし」だと思うのだ、なぜそっちが「わたし」かというと、単にそちらが肉体であって、肉体には実感が伴うからだ、実感もあるし生存本能から肉体を守ろうとする衝動も伴っている/そこでよもや、声帯を吹き抜けていく呼気のほうを「わたし」とは思わないだろう、呼気ってただの窒素と酸素のガスなんだから。
だから、同じ声帯原音が発生するとしても、声帯粘膜の側が「わたし」だと思っている歌手がいたとしたら、その歌手にとっては、「わたし」とは歌のことではなく粘膜のことなのだ、またこの粘膜を非常にテクニカルに使ったりしてスゲーという場合があるのでタチが悪い/それは字義どおり「のど自慢」でしかないのだが、むしろそっちのほうが好きで感動すると言い張る消費者も多いのだから、もう何がどうなのか本当のことが行方不明になるのだ。
なぜ声帯粘膜の側が「わたし」であって、そこを吹き抜けていくガスのほうは「わたし」ではないのかというと、別の言い方をすれば、自分の肉体が自分にとって「親しい」からだ、窒素と酸素の混合ガスに「親しい」という人はいないだろう/つまり「のど自慢」方式においては、声帯粘膜が主であって、吹き抜けていくガスのほうが従であるということ、ふつう逆の発想は取れないのだ、吹き抜けていくガスが主であって、結果的に振動している声帯粘膜のほうが従であるなど、親しさの原理において承認できようがない、ただし愛の原理で考えてみると、自前の粘膜は自分のものでしかないので、声帯の粘膜が誰かに届くということはない、だから愛の原理で身体操作を考えると、身体操作は「呼気(主)が通るために声帯(従)が道をゆずる」という方向にはたらくことになる、僕が唱えている身体操作の原理はそちらのほうであり、それは「○○自慢」のためにする身体操作とは逆のものだ。

地と肉体よ不細工であれ、「わたし」が通る道を空けよ。

少女マンガに出てくる登場人物は、男も女もきわめて端正だ、それは端正なものが親しみやすいからだ、十二歳の少女が読むマンガがすべてピカソの絵だったり笑顔がルイ・アームストロングだったりでは親しみづらくて投げ出されるだろう/地と肉体は不細工でよい、ただし、そこで上昇する魂の「わたし」があればだ。
そこに上昇する魂の「わたし」がない場合、地と肉体を不細工とし、しかもその地と肉体と生こそが「わたし」であったならば、その無意味で不細工なものの集合に、サルトルがした「嘔吐」をしなくてはならなくなる、のど自慢が声帯粘膜を「無意味で不細工」と確信したらそりゃあ嘔吐するだろう/まあそんな感じで、諸事情から阻害要因もあるのだが、原則として身体操作は、魂が通る道をすばやく空ける・整えるために為されるもので、身体操作そのものに美はない、どんなカッコイイ車だって、人を乗せて人を運んでいるから結果的に「車がカッコイイ」のであって、人が乗っていないのに「速いぜ、高性能だぜ」では意味がわからない、花火職人がカッコイイというのも、花火が打ち上がるからカッコイイのであって、花火を打ち上げる土台たらない花火職人なんか何もカッコよくないだろう、人の肉体と地というはそういうものだ、少なくとも僕の方針としてはそのような捉え方だ。
正しく見ないとな | comments(0) |
親切、「親」という機能を切ること
人の荷物を運んでやると「親切」だが、身内の荷物を運んでも「親切」とは言われない。
以前、親愛といって、「親」と「愛」は類似ではなく相克の事象だと指摘した。
人の血と筋肉には「親しむ」「親しい」という機能が入っている、この機能を切らないとすべてのことが曲がってしまう。
「曲がってしまう」は言い過ぎか、少なくとも、僕が言っている愛の現象には接触できなくなってしまう。

「親」という機能はとても具体的なものだ、身に起こること・血に生じる機能であって、これを切断(OFF)しないかぎり愛の現象には触れられない。
人は、特に現代において、勝手に他人に「親しんで」いるのだ、そうすることで、実は他人の領域を侵害し、愛がないことをごまかし、誤解に苦しんだり、何かをひた隠しにしたりしている/「親しい」という機能はまるで暴力のように振る舞われてこんにちの世間を跋扈している。
人の血と筋肉は、同じように腹が減り、同じように苛立ち、同じように悔しがり、同じように困るものだ、この性質の共通につけこんで、人は他人と「親しい」という状況を作りだす、だがそれは愛ではない、なぜならそもそも血と筋肉は「人」ではないからだ、それはあくまで生存本能をもった「肉体」でしかない。
「わたし」とは何なのか、誰だって自我のことはわかるが、では「真我」とは何なのか? そのことへ接近するために、思いがけない手続きが要るのだ、「親しさ」を切ること、しかも……

己の肉体との親しさを切れ。

人は第一に、己の肉体に対し、最大の「親しさ」を築いている、そのせいで「わたし」が行方不明になって……つまり腹が減り・苛立ち・悔しがり・困っているのが「わたし」だと思い込むようになる、そうしてすべてのことが我慢(吾我の驕慢)に結論づけられていくことになる。
古く、魂魄(こんぱく)という言い方があり、肉体とその生きる機能――地につながったもの――を、魄(気魄)と呼んだ、一方で、生きる機能とはいえない、観測不能の何かのことを魂(霊魂)と呼んだ/人はつまり「わたし」というのが魂と魄のいずれに属するものかがわかっていないのだ、そして多くの場合、観測可能な上に実感の伴う魄(気魄)のほうを「わたし」だと定義してしまう、その上で「これは真我じゃない」という違和感も抱え続けていかねばならないのだ、なればこそ逆のアプローチを生あるうちに考えなくてはならない。
正しく見ないとな | comments(0) |
ソウルリレー
ちょっと、細かく説明する時間がないが、われわれは遺伝子をつないでいるようでいて、実はまったく別のものもつないでいる。
それは命のリレーであり、魂のリレーなのだが、どうしてもイメージしてもらえるものと、本当のことは違っている、<<人は実は自分ひとりでは本当に何もできない>>。
自分一人では何もできないといって、だから「協力」とか「共生」とかを考えるのだが、そういうことではないのだ、人と命は無関係なのだ、命は命であって、その「命」という、空中に何かあるようなものを、人はリレーしているのだ、それは一種の雰囲気とか風とか、とにかく観測不能だが「ある」ものだとしか表現できない。
人は、何かとつながってはじめて「人」であって、この継承されている命・魂から切り離されると、一人では本当に何もできないのだ、本当にギャーギャーわめくことしかできない、この切断が非常に致命的だった、こんな単純な、かつ想像を絶する現象が人の本質を支配しているとは……

一般にいう「人とのつながり」とは無関係だ、人とのつながりというものではなく、それでいてもっと直接的な「つながり」だ、自分が何の中に立っているかというぐらいのつながりだ。
ボン、と空間に蒸気が満ち、急にそれが「世界」として存在を恢復する、これをリレーしているのだ、魂だがもっと巨大な魂だ、こんなものは先にあるのであって、人がねちねち加工して出現するものではない。
つながれ〜つながれ〜蒸気とつながれ〜という、アホみたいなことしか言えない、でも本当にこれなのだ、僕がよくいう「急に天から降ってくる風」もこのたぐいの一つだ、人は実はそれぞれの出来のよさなんかまったく比べっこしていないのだ。
これを絶やしてはいけない、というより、これから切断された人は本当にもう何もできないじゃないか、いくら生きていたってだよ、<<世界って運搬物なのかい!>> 世界は時間軸の歴史で考えるより、一種の「伝説」がずーっと漂っていると捉えたほうがいい、伝説の匂いをかげ。

運搬物は「記憶」の逆だ。

たしかウィリアムブレイクが(だっけ?)、「記憶」ということをずっと悪く言っていたが、その理由がこれなのだ、「記憶」の逆に「運搬物」があるのだ、これはヒジョーに紛らわしい、記憶は過去のものだが運搬物は「今も運ばれているもの」だ。
人は、愛とか美とか物語とか歌とか言葉とか、男とか女とか、自分でディールできるわけではないのだ、運搬物につながることでしかそれは出てこない、「記憶」から引っ張りだして言葉がディールできると思っているだろ? そういうことじゃない、たくさんの人がいる(いた)理由がこれだ、天元の連帯は運搬物をリレーしているのだ、それは記憶の反対だ(うええこりゃ厄介だぞ、そりゃ男女も消失して当たり前だ)。
正しく見ないとな | comments(0) |
女は邪魔だから愛されていろ!!2

「魅力」において、男が女に勝てるわけがない。
美青年のグラビア写真集が、美少女のグラビア写真集より売れるということはないだろう、美青年のグラビアを買うのはあくまで彼のファンであって、美少女のグラビアは別にファンでなくても「おっ」と思えば買う可能性が十分にある。
「魅力」において、男が女に勝てっこないように、何か別の成分においては、女は男に勝てっこないのだ、街中に男性のブティックのほうが多くなる可能性はゼロだし、一方で女性たちが「鉄人28号」を作るということもありえない。
つまり、ブティック的な局面になれば、男は引き下がるべきだし、鉄人28号的な局面になれば、女は引き下がるべきなのだ、引き下がるといっても一歩だけでよく、ふてくされてトンズラしてしまう必要はない、何も「平等」といって鉄人28号に一歩踏み込んでくるような動機が本当にあるのか。

男同士は、魂で勝負しあわなくてはならないし、女同士は、魅力で勝負しあわなくてはならないのだろう、本来そこは堂々としているべきで、ヒステリーを起こすべきではない、男は「奴の魂はデカかったぜ」と負けるべきだし、女は「あのコの魅力には勝てないわ」と負けるべきだ(まさか全部には勝てねーだろ)。
それが、魂で負けた男が、髪型をかわいくしたり母性本能系で利益を得ようとしたり、魅力で負けた女が、力業方面で沽券を恢復しようとしたりするのは、相互にとってよくない、ごまかし男とごまかし女が野合するのは底意地が見え透いていて不潔だ、ましてごまかし男が正当な女に言い寄ろうとするのは恥知らずだし、ごまかし女が正当な男にすり寄ろうとするのも醜いことだ。
仮に、人間の特性が七つあるとすると、男は[BCDEFG]の徳性で生きており、女は[BCDEFG]の徳性で生きている――1個ズレている――ということになる、そうなると分野は男の特権ということになるし、分野は女の特権ということになるだろう、だからそれぞれはその分野においては一歩引き下がっていたらいいし、差別分野においては、異性を頼って異性にその徳性を借りれば済むことだ/つまり女は男なしにはできないし、男は女なしにはできないという、ただそれだけのことだ。
男同士でをしようとしたら無理があるし、女子会でをやろうとしても無理があるだろう、男が女にを頼られるのは本来光栄なことだったし、女が男にを頼られるのも本来光栄なことだっただろう、男女のどちらが上なんてのも定義次第のことであって、男を上にしたら人々はAの向こう側へいくし、女を上にしたら人々はZの向こう側へいくというだけのことだ、とにかく男女は互いに邪魔をするべきではない/とりあえずこれらの話で、僕自身は新しい体勢が得られた(だからまあ、おれはもうOKだぜ)。

女が邪魔な場合、上に置いておくに限る。

うーむ、やっぱりこうなる!! じゃあやっぱりおれがボトムじゃないか/となると、トラブルは二重に起こっているということだ、ひとつは男女が互いの邪魔をするということ、もうひとつには、邪魔をしないように棲み分けをつくると、現状では女を「上」に棲ませるしかないということだ、このことが当の女性の側から「やめてほしい」と言われ出すという状況があり、そんなこと言われましてもという、まるで面倒に巻き込まれた不動産屋のような状態があるのだった。
何はともあれ、男は女と関わってはいけない、女と関わるということは、男が己のを捨てるということだし、そんな男に関わる女というのは、やはりを捨てた女だからだ、男と女は関わりなどもたず、だからこそ相互に愛し合っていないといけない、むろん[BCDEFG]の六つは男女共有だからいいのだ、共に生きましょう、ただ残りのひとつずつについては相互に愛し合うしかないということ、そして、その相互のどちらが上とかいうのはもうそれぞれがラクなほうでいいんじゃないかな〜(無責任)。

正しく見ないとな | comments(0) |
女は邪魔だから愛されていろ!!

めだ!! さまざまな情報を統合した結果、現代は「失敗」したという結論に行き着かざるをえない!!
なぜかといって、女が邪魔すぎるのだ、女が邪魔な上に、女に毒された男も、使い物にならなくなってしまった/これは男女差別の話をしているのではなく、平等……ではなく、もっとヒデエことについて話している。
なぜ女が邪魔かというと、女は「ワッショイ」を言えないからだ、女に毒された男も、「ワッショイ」は言えなくなってしまったが……すべての女は、「オカン」と同じだけの存在力を誇っている、だから猛烈に邪魔なのだ、われわれはどうしても「落語家」をイメージしたとき、それを女性の像と声でイメージはしない。
そのことをもって、女はクソということではないのだ、女は邪魔だから、愛されていたらいいのだ!! 女がイライラしているのは、女性差別のせいじゃない、女に毒された男が、女から見てもなーんか気分悪いので、しかもなぜか誰も自分のことを愛さなくなったので、そのことに袋小路になってイラついているだけだ。

男とはいうのは何か、男というものを定義しよう、男というのは「女と関わりのないもの」を男というのだ!! うーんこれでスッキリする。
男というのは、女と関わりがないから男なのだ、そして関わりがないから何もないかというと、そうではない、関わりはなくても男は女を愛していたのだ、だから昔の歌手は晩年まで歌い続けることができた(近年の歌手はすぐ活動終了させられる)。
女が、技術的・技能的に男より劣っているということはない、だから技術的なことは女もバリバリ頑張ればいい、だが男と女には決定的な差があって、女はシャウトしないのだ、実際 YouTube などで検索しても該当例はほとんど出てこない、女がシャウトしようとすると例外的にデスボイスになってしまう(デスボイスは魂が死んでいる声だからシャウトの意味が違う、スクリームだ)(ごく一部、シンディローパー等を除く)。
なぜ女はシャウトしないのか、また、仮にシャウトしたとしても何が違うのか、それは簡単に言うと、女の声には成分がひとつ足りていないのだ、男のシャウトには感情とは異なる "何か" の成分が一つだけ乗っかっている、だから女のシャウトと男のシャウトはどうしても異なるのだが、女にはこれがわからないのだ、そもそも女は、男が何に叫んでいるのかが根本的にわかっていないはずだ。

男と男は、魂の勝負をしているが、女はそれが感覚的にわからない(男性固有のパラメーターだからだ)。

いわば高齢者にとってのモスキート音みたいなものだから、女にはその戦いが見えなくて当たり前だ、そこで女がずっと首を突っ込んでいると、戦いの場にポカーンと女が突っ立っているということがよくあるのだ、それで「邪魔!!」となる、しかしそんなことで罵倒されたら、女はわからないので非常に気分を害してしまう。
しかも最近は、男も女に毒されてしまって、その男性固有のパラメーターが男にもわからなくなってしまった、それで男性も、技術的・技能的には向上しているのだが、魂の勝負というものはスッカラカンになってしまった、何をどうやっても石原裕次郎や松田優作みたいになりえないのはそれが理由だ(なりたいとも思わないだろうが)/女が邪魔だというのは、女が無能だということではなく、そもそも男の勝った・負けたと、女の勝った・負けたは違うのだ、男は女の知らない "何か" の成分で勝ったり負けたり、していたのだ、過去形で言わねばならないのがたいへん残念なところではある。

正しく見ないとな | comments(0) |
近年の男女のつじつまを解明する方法

まりむつかしく考えずに、「女性が男性にありがとうを言う構図は絶対に許さない!!」と書いて壁に貼っておけば、近年のすべてのつじつまが解明される。
僕はこのあたりの経験とデータがとても多いので、よくわかるつもりだ、僕に向けて「ありがとう」と言う女性と、決してそれだけは言わない女性、この両者は明瞭に分かたれている/別にどっちが正しいというわけでもないが、一方はごく素直に「ありがとう」と言って幸福に上気するようであり、一方は「ありがとう」と言うときには強いストレスを押し切っている様子がある(慇懃無礼の例もある)。
「女性が男性にありがとうを言う構図は絶対に許さない」、これは現代のルールであり、人々の知らないところで為された何かの「契約」だから、しょうがないのだ、女性が男性に対して「ありがとう」と言うのは、自分の場合であれ他人の場合であれ大きなヘイトと拒絶感が発生する/なぜという理由はなく、ただ契約なのだ、たとえ自分がその契約に対して不本意でも、契約そのものは消えないので、自分の内でその契約と衝突しながら、けっきょくはそれに従って生きなくてはならない、つまり思想的にではなく契約的に、現代の女性は男性に対して「ありがとう」は言えないということだ。
別にそれで何が悪いというわけでもないし、誰が困るというわけでもないので、このまま行けばいいのだが、ときにより不明の「危険」が生じるので、たとえば僕の場合、やむをえずワークショップの先生という立場を新たに作ったのでもある/先生に対して「ありがとうございます」と言うことは、まだ契約上禁忌とはされていないから、このことは「ありがとう」のガス抜きに機能しているのだった。

このことは、思考実験してみてもわかる、たとえばあなたが女性だったとして、同年代の「Aさん」に、何か特別な場所に連れていってもらったとする、そしてそのときAさんに、「ありがとう、こんなすてきなところに連れてきてくれて」と言うとして……そのとき「Aさん」が女性なら何のストレスもないが、「Aさん」が男性だった場合、あなたは何か特殊なキャラづくりをしてから、当該のセリフを言うしかないはずだ、何かただならぬ抵抗とストレスが掛かり、女性は男性に「ありがとう」とは言ってはならないというルールが水面下に潜んでいることが顕(あきら)かになる。
もちろんこのことは、男女観にも関係しており、「こんなものが男性と呼べるのか」という場合には、逆にすんなり「ありがとう」と言えたりするのだ、だからこそ現代の歌手(俗にいうアーティスト)は、男性の中でも特に線が細く、女性と変わらない髪型をしている人が多い、そのほうが女性が素直にキャーキャー言えるということがあるのだ/つまりAさんが、そういうマッシュルームヘアーの、細身の、物憂げなタイプなら、女性は素直に「ありがとう」と言えることになる。
さらには、もっと典型的な例を考えるなら、Aさんがオカマなら、女性から「ありがとう」と言うのは最もイージーになる/このようにして、現代の女性のほとんどには、本人の思想にかかわらず、何かしらの契約によって先に、男性および男性性への強力なヘイトルールが課せられているのだ、それは即座に全男性の死滅を熱望するものではないが、やがてストレスが蓄積する先、実際にそうしたマニアックなフェミニズム・ミサンドリーが出現しているという事実がある。
いわば幼少期から、反日教育を受け、日本を敵国とみなせという刷り込みを受けてきた一部の勢力のようなものだ、そうした人々は、もはや無条件で原始契約上の反日・ヘイト感情を持っているので、日本人を見ただけで深奥に「敵」とみなす反応が起こるし、仮にその後日本人に何かの愛を受けたとしても、まかりまちがっても「ありがとう」なんて言うことは "絶対に許されない" だろう、それはこころの問題ではなく精神の構造の問題なのだ/よって現代の女性にとって、男性に「ありがとう」と言うことは、「イヤ」というより「正義に反している」とみなされることになる、だからすべての女性は今、あくまで「正義」の名の下で男性に激怒している。

先に僕が土下座すれば、女性も僕に「ありがとう」が言える。

不思議なものというか、実は不思議なものではなく、すでに解明済みのことなのだが、そういう契約が為されているのだ、「絶対に許さない」という契約が先にあるので、僕が土下座をすると、女性は僕を許すことができ、許した上でなら素直に「ありがとう」が出てくる/これは本当に、実験をしてみたらわかる、「そんなわざとらしいことをされても」と初めは思うのだが、僕が土下座をした瞬間、何か自覚のない未知のものが精神の底からワッと湧き出てきて、「よろしい」という感情が起こるのだ、本当にそういう契約が為されている、だいいちそうでなければ現代のわれわれが「騒動を起こした芸能人のことごとくについて謝罪(低頭・土下座等)を心待ちにしている」という現象の説明がつかない。
一種のイニシエーションみたいなものだ、人間の精神は、いわゆる「こころ」よりも根底にあって、構造化されてその当人を支配している/実験してみるとわかる、あなたが女性だったとしたら、あなたは僕に向けて、わけのわからないまま「許します」と言ってみればいい、それが何のことなのか、当人がわからなくても……あなたが僕に向けて、「許します、許します、許します……」と言い続けると、なぜかそのたびに、精神の奥がぐらつき、「何これ?」と不穏になっていくという現象がある(注・それ以上は精神構造が損傷するので実験ていどにしかするべきではない)、そのように、あなた自身がそのことをまったく知らなかったとしても、現代の女性であるあなたが僕に向けて第一に覚える感情は、実は僕に対して「許すか・許さないか」なのだ、人はそのように、実は当人の「こころ」ではなく、契約で組まれた「精神」の構造に支配されている。

正しく見ないとな | comments(0) |
何かを話すのは何かを愛している人だけだ2
々の知り得ないレベルで、「話せない」ということが、人々に多大なストレス環境をもたらしている。
正確には、話せないことがストレス環境なのではなく、話せないということが、「ストレス環境」を何の値打ちもない「ストレス環境のまま」にしてしまうということだ/かつて人々は、それを単なるストレス環境でないものにする営みを持っていたということ。
すでに「話す」ということは失われてしまったので、今さら「そうか、話せばいいんだ」と、安直に捉えることは適切でない、すでに失ったものを今さら「話そう」とやりだすと、それは必ずただの言いつけか、悪くは「呪」か、そうでなければ、最善でもただの「問答」になってしまう/人々はなるべく早急に、自分が「話す」という徳性を失ってしまったことを発見しなくてはならない、なるべく早期発見がいいというのは誰だって知っていることだ。
人は、何かを愛しているから話せるわけで、つまりかつては、何かを愛していたから話せていたわけだ、しかしすでに「愛する」というのも、不思議なものではなくわかりやすい「思い入れ」と誤解されてしまったので、この誤解に基づいてさらなる誤解の「話す」をやり始めると、ますます迷いの森に入っていくことは確実だ/だから今のところ知っておくべきは、人々は「話す」ということを失ったせいで、ひどいストレス環境の直撃下を暮らしているということ、それはまるでオゾン層を破壊された直射日光下を暮らしているようなものだ、そのことを認めずに日光浴なんかしたらとんでもないことになってしまう。

ワークショップ方面では、大前提として「言葉の恢復」「言葉の獲得」を最終目標にしているので、やがてこの「話す」ということにも直面しなくてはならない、今はその前段階として「物語」をやっているところだ/なんというか、やっていることはまるで古代の大学みたいだ。
「話す」ということは、実は話の内容が主体ではなく、やがて話の中から形成される――恢復される――「言葉」のほうが主体だったのだ/すべての「言葉」には、その言葉という事象そのものに、すべての人が(生きものが?)愛せる普遍的な愛があった、その「言葉」という事象に到達することが、本来の「話す」ということの目的(動機)だった、だがこの話はハイレベルすぎて一般には何の指標にもならないだろう。
たとえ金曜日に飲み会を開いて、そこでヤンヤヤンヤと盛り上がったとして、またそこで何かが大声で忌憚なく話されたように思えても、月曜日になって上司と部下のあいだで――頭上で――ひとつの「言葉」が共有されているということはまずない、そうして共有されているものがない以上、人々のあいだにはひたすらストレスしかない。
共有されている「言葉」が、全員の頭上にあって、その人々の場に今日もゆくというのは、なぜか無上のよろこびがあるものなのだ、それはワークショップに来ている連中なんか、スタジオの階段を下るあたりでヒシヒシ感じたりしない? こうして頭上に共有される「言葉」があるということが、物語の本質なのだ/この頭上の言葉が恋しくて、でもそれが現成しないから、さまざまな業界はさまざまな業界用語を生み出すのだ、だがその語は業界にはびこっているものであって、頭上で人々をつないでいるものじゃない、証券マンがいい「ペロ」を切ったとして、そこには一抹のうれしさがあるものの、それだけでは背後の膨大な寂しさには対抗できていない。

「言葉」はマジで空の上にある。

これは僕がイタいことを言っているのではなく、空の上にある「言葉」が視えないポンコツであるお前らが悪い、空の上にある「言葉」が視えないから、空の上に言葉があるというような「イメージ」を自作するのだろう/マジで空の上にあるものを、どうして「イメージ」する必要があるのか、空の上に宇宙があるのは当たり前だが、そうして実際にあるものをわざわざ「イメージ」する必要はないだろう。
そして、この空の上にある「言葉」だけが、われわれを赤の他人同士、殺し合いのストレスものではなく、ひとつの能動的なつながりにしてくれる、なぜそんな作用があるのかはよくよく考えるとわからないのだが、実際にその作用があるのでそれを「愛」と呼んでいる、つまり愛というのは人為的なものではなく、さらには人智が及ぶものではない、あるのはただその作用を帯びるか否かという差だけだ/まったく想像がつかないと思うが、その差がつくのは空の上の「言葉」が視えるか・視えて共有されるかというところなのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
何かを話すのは何かを愛している人だけだ
業マンというのは、「業務」そのもののニオイが嗅ぎ取れるようでなくてはならない、マンガに出てくる営業マンの話はまったく的外れだ/営業マンは、「誰でも必ず、何か困っていることがある」という前提で、その困っているニオイを嗅いでいるのだ、もしそのニオイが見当たらないときは、自ら工作して相手を「困らせれば」いい。
人は何かしら、困っていることがあり、あるいはこの先に、何か困る局面に陥り、そのときの脱出口として、営業マンとコンタクトを取ることになる、営業マンがいつもあちこちに出向いているのは、そのときに何かを売ろうとしているのではなく、相手が困ったときに自分を思い出すように印象づけをしているのだ、「お困りのときはご相談ください」と、だから営業マンはずっと外回りをやらされている、そのときが空振りでも、やがて相手が困ったときに網に掛かるというのが本当の狙いだ。
一方、その「営業」から離れたとき、人は何をするのかというと、いっそ何もすることはないのかもしれない、余暇は休憩して、何か好きなテレビでも見てビールを飲んで、少しは身体を鍛えたりして……と、実際に人々はそのようにして生きている、人はこうして、多く「営業」を学ぶと、その後はもう営業以外のことは消失してわからなくなってしまうというのがパターンだ。
仮に、上司に「お前もそろそろ結婚したら」と言われて、出世も考えるとまさにそのとおりと思えて、街コンにでも参加してみることにすると、いざ街コンの場で何を話すかというと、「こういう会社で、ふだんこういう営業をしていて……」ということぐらいしか、やはり話すことはない、あとはやはり、「休日はジョギングと、あとはテレビとビールですね」「アメリカの連続ドラマが面白いんですよ」という感じで、余暇の趣味が合うということぐらいしか、話すことがない、それが今のところ人々の大きな現実だと思う/そもそも人が「話す」というのは何だったのだろうか。

営業マンが業務を持っていなかったら、何も話すことがないように、人は何かを愛していなかったら、実は何も話すことがない、これは鉄則だ、営業マンが業務という主体を背後においてしか話しえないように、人は愛という主体を背後においてしか話しえない。
それでも、人は何も愛していなくても、何かしら話をしているように見えるが、これは上手に欺瞞されたスリカエなのだ、ツイッターが大流行して人々の必須ツールになったように、人はそのとき話すのではなくて「つぶやく」のだ、「○○という映画を観ました〜、うーん、わたし的にはイマイチだったなあ笑♪」というように/人は本来、愛した映画についてしか「話す」ということはできない、だから何かを愛することがない人は、話すということをスリカエて上手に「つぶやく」ということまき散らす。
営業マンが、業務のニオイ、人が「困る」ということのニオイを嗅ぎながら、営業トークをするように、人は本来、愛の気配、その光を脳裏のどこかに垣間見ながら、何か愛していることについて話し合うのだ/営業トークの本質が、実は人の「困」にあるように、人が話すことの本質は、実は人の「光」にある。
「困ったときはご相談ください」と、営業マンは「困」に対する脱出口を売り込んでくるように、「光ある人は話そう」と、人は愛に向けて解放を与えあっている/それが本来の営みだが、今は何も愛することがない人の、大声のつぶやきが交わされあっているという状況がある、さらにはその横暴ぶりを逆にコミュニケーション能力と呼ぶ側面さえある、実際こうまで人が「話す」ということがなくなっていくと、いざ「話す」ということが目の前に展開されたときも、もう話を「聞く」という機能が立ち上がらないということがあるのだ、だからいっそ「つぶやきこそコミュニケーション」? 人々は今そういう局面に至っている。

今や、「話す」と「つぶやく」は、「剣術」と「剣道」ぐらい違う。

明治時代、廃刀令が施行され、サムライが刀を振るうという時代は終わったので、剣術は竹刀で相互を打ち合うスポーツへと変化していった、剣道においては、素人目には相打ちに見えても、コンマ数秒でも先に相手を打った者が勝ちとなるのだが、もちろん真剣でそれをやったら二人とも死んでいることになる、「じゃあコンマ数秒だけ早かったなんて意味ないじゃん」というのは、剣術の考え方だ、だがもう剣道の思想が剣術に戻る道筋はないし、剣道家は剣術性に戻る必要を覚えないだろう/そうして剣術が時代の主流ではなくなっていったように、人が「話す」ということも、この現代で時代の主流ではなくなっていった、「つぶやきあうのと話すのは意味が違うじゃん」という主張は、きっといつまでも正しいのだろうが、その主張はもう必要とされなくなったと言える。
このことは、実験して確かめられるほどすでに明らかなことだ、僕が何か愛していることについて「話した」として、それを聞いていたはずのAさんが、僕に向けて「話そう」とすると、声の性質そのものが違う・声の性質が噛み合わないということがその場でわかる、それはつぶやくことに使われてきた声なので、そこで話された何かに対する愛を否定する音色を持っているのだ、何かがドスンと落下する感触がある、数回も実験すればこのことは誰にでもわかることだ/このことは、すでに嘆くような段階にはなく、疫学的な現象として認知し、現在の出立点として認めるしかないという状況だ、そこから「話す」ということを恢復するかどうかは、この時代に剣術を覚えるかどうかに似ているだろう。
正しく見ないとな | comments(0) |
言葉を信じること、世界(という錯覚)を信じないこと
「愛の世界」についてコラムを書き上げたので、もうじきアップロードされるだろう、お楽しみに。
それにしても、書き切れないことがいくらでもあって、「言葉」というものに今さらながらナゾを感じる、もはやナゾを確信すると言ってもいいかもしれない。
ふつう、小説などを読むと、言葉から文章が成り立ち、言葉から物語が書かれているように見えるが、どうも真相はそうではないようなのだ。
言葉は物語の道具ではなく、物語が言葉の道具なのだ、言語が言葉になるために物語を必要とするというか、とにかく「言葉」にはわれわれのまったく知らないナゾのよろこびがある、生きるために言葉が必要なのではなく、言葉のために生きるということを使えということのようなのだ。

言葉は物語を為していなくてはならない、それは、物語でないと「言葉」が生じないからだ/物語を表現する便宜に言葉が使われるのではなく、言葉を現成させる便宜に物語が使われるということのようだ。
われわれはさまざまな思いをもち、その思いを言葉にする、ように見えるが、おそらくそうではない、われわれがいずれ言葉に到達するために、われわれのこころには思いが起こるように設計されているのだ、これはとんでもない方向転換だと思う。
ふつう、言語というのは物事を分割するために使われ(tell A from B)、分割するために言語は「力」を持つ、物事を分割するのは「力」だからだ、この力のことを「呪」という、だが「言葉」というのはまったく不可解で、たとえば「男と女」というとき、それが呪なら男と女は分離・分割されるのに、それが言葉なら男と女は「男と女」というひとつの事象に統合されてしまう。
たしか聖書には、人がバベルの塔をおっ建てたから、神の怒りに触れて言語をバラバラにされたというような記述があったと思うが、それで言うと、バラバラにされる前の言語はどのようだったのだろう? これだけ無数にある言葉のすべてが、ことごとく統合の力を持っているのなら、もういっそ言葉のひとつごとに、引き当たる宇宙が用意なり生成なりされているとさえ考えたくなる/言葉というのはそもそも何次元なんだ、いろんなことがわかりやすいこの世において、「言葉」だけ急に理解をぶっちぎっているのが困る。

「言葉」は「世界」より先にあるのかもしれない。

そうでないと、つじつまが合わないのだ、そもそも世界というのは状態的には存在していないのじゃないかね、存在と非存在を同時に成り立たせているときだけ、特殊な事象として「存在」を生じていないか?
言葉を信じるということは、状態的な「世界」(という錯覚)を忘れることだと思う、これまでに「時間が流れているというのはウソっぽい」ということは指摘してきたが、世界は基本的に存在していないというのは割と新しい指摘のはずだ、「世界」という事象が生じるのは、「世界」が存在と非存在の二つの状態を同時に取ったときだけだ、そして世界の存在も非存在も、同じ「言葉」が同時に作り出している気がする、いっそこの世界には世界なんかなくて言葉しかないと捉えたほうがよいぐらいだ、たとえば「目黒区」という言葉より先に「目黒区」という世界があると錯覚していたら、その人はもう目黒区という世界を歩くことはできない、真相は目黒区なんて存在しておらず、目黒区という言葉がその存在と非存在の状態を同時に成り立たしめるから、そのときだけ目黒区という世界の事象が生じるのだ/となるとやはり、言葉より先に世界があると思っていたら、それだけですでに言葉を信じていないということになってしまう、言葉を信じるというのはなかなかシビアな階層だな。
正しく見ないとな | comments(0) |
男女における美の格差2
力は「力」だから、重さに属している。
美は「命」だから、光に属している。
重さと光はそれぞれ反対だから、魅力と美も、実は反対方向にある/美術学校の人がアイドルのデッサンをしないのはそれが理由だ。
ときおり女性のバレエダンサーが、衆目の前で半裸のまま踊ったりすることがあるが、その舞台はストリップショーの魅力とは明らかに異なる性質を持っている/それは漠然と「ゲージュツ」と言い張っているものではなく、性的な力を消し去って美の命・光を現出させようとしているものだ、美術館に置かれているどの裸婦像もオナニーのオカズには(ふつう)ならないのと同じで、バレエに示される女性の半裸に性的な「魅力」はない。

力があるほうが、生きていくには有利だ(生存競争)、だから若い女性は、自分の「魅力」が失われないうちに、金持ちと結婚して勝ち組になろうとする/これは「魅力」という力を「お金」という力に為替取引していると言える、そしてこの取引は何も不当なものではない。
ただ、お金持ちのおじさんのまわりに女が集まってくるのは、たいてい純粋な「お金」という力の作用であって、そのお金持ちのおじさんが「美」を具えているからということはごく少ない、そりゃ女性なら誰でも知っているだろう、カネの尽きた金持ちに誰も用事はない/あくまでお金持ちのおじさんは、女性にとっては「生存競争」の上で最高のグッズということにすぎず、だから正直なところを言えば、お金持ちのおじさんは自分と結婚してくれて、その直後に安らかに急死してくれるのがベストなのだ(惨死を求めているわけではない)、それも別に不当なことではなく、当のおじさんもそれぐらい自明のことは前もって認知していなくてはならない。
われわれに内在している、生存競争という本能によって、お金そのものが魅力を持つように、若く性交を誘引して目立つ女体も、それ自体が「魅力」になる、この場合の生存競争というのは、自己の生存ではなく自己遺伝子の生存・拡散の競争ということなので、本能は "目立つ受け皿" に誘引されるのだ/それはブサイクな子孫より目立って魅力ある子孫のほうが拡大して繁栄するということを遺伝子が見逃さないということだ。
若い女性、特に「かわいい」「エロい」とみなされる女性は、魅力ある "目立つ受け皿" としてチヤホヤされるが、その中で「きれいだ」「美人だ」と言われることで、女性はしばしば自分にうつくしさがあると誤認することがある/残念ながら魅力たっぷりのあなたも、そこに美があるかというと話は別だ、むしろ経験的には賢明な――聡明な――女性ほど、自分の「魅力」が美とはまったく異なるということを先に知っていて、その落差を厄介で呪わしいことだと感じて苦しんでいることが多い、だから魅力に寄ってくる男どもをどうしても毛嫌いしてしまうということになる(実際に迷惑千万でしょうがないという正当な実情もある)。

ほとんど場合、終生「魅力」にしかセンサーがない。

われわれは生きものだから、生存競争は半ば強制的にあり、そのまま生存競争以外のものには触れずに生きたら、むろん生存競争だけの生きものになる、魅力と財力と体力と筋力という、力しか生存競争においては必要とされないのだ、あとはせいぜい知力や判断力ぐらいのものであって、そんなものは基本オマケでしかない/これら「力」への希求は加齢によって死が近づいてくるほど露骨になり、莫大な力で最大まで生き残ろうとする(生存本能)、そしておそらくは死のギリギリ直前になって、「こんなものすべて、何一つ本当に欲しいものではなかった」と気づくようだ、むろんそのときになって人が救われるというわけではなく、手持ちが空っぽ、「うつくしいとき」がひとつもなかったという悲嘆を抱えて、そのことに思索もできないまま死んでいくしか実際にはないようだ。
われわれの大半は、「生存本能」イコール「力」、というだけの原理で生きてゆくので、「魅力」についてはハアハア詳しくなる一方、「美」などというものには最後まで無縁なのだ、別にそれが悪いということはまったくなくて、われわれには基本「魅力」についてのセンサーしかないために、そもそも男女でいえば女性のほうが美においてビハインド(不利)だということが、いつまで経っても気づかれないということをここに報告しているだけだ/戦争で犬死にするのは男性市民の役目であるべきで、女性市民が前線に出て犬死にするべきではないが、それは女が出産能力を持っているという事情に加えて、「美」において不利な女性をすっぴんのまま銃弾で死亡させることにはあまりにも美がないからだ、「ふつう」のおっさんたちがオラオラ言いながら戦場でバタバタ死んでいくことにはまだギリギリの美がある、これはおっさんたちが戦場で犬死にできるだけの「美のアドバンテージ」を生まれつき持っているということだと捉えていい。
正しく見ないとな | comments(0) |
<< | 2/90PAGES | >>