☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
すべての歌と言葉と物語

ったく残念なことに、すべての歌と言葉と物語は、「にょんにょんにょん〜」が正体らしい、まったく冗談みたいなのだが、学究の結果そのことが証されたのだからしょうがない。
何か、もうちょっとこう、ドラマティックで感動的なものであってほしかったのだが、ピタッと嵌まるのはこの「にょんにょんにょん〜」しかないので、しゃーない、カミサマは冗談だと自分で指摘したのだが、何かこう、思い入れとしてがっくりくるものがあるな……
しかしもちろん、にょんにょん側が悪いのではなくて、そういったものが降り注いでいるのに、花を咲かせないわれわれのほうが悪い/すべては花の観察者が、降り注ぐものを知らずに花だけ見て高説を垂れたのが誤りの根源だ、花についての弁論は降り注ぐものについての視点がまったくなかった。
花というのは、タネがド突きあいをして、思念と願望の結果、咲くものではない、花はなんでか知らんがいつのまにか咲いとるのだ、その作用の根源を聞きとるなら「にょんにょんにょん〜」だが、こんなことを言っていてはまるでUFOを呼びだそうとする電波おじさんみたいでやる気がなくなるのだった。

今このときもそうなのだが、われわれが自分の意識で何かを「やる」とか「始める」とかいうことは、基本的にナイのだ、自分の意識で何かを始めようとするのは、そりゃ元のにょん(略)から切り離されているからにすぎない/それは「自分」というのではなく「自我が元の何かから分離されてしまったヤツ」でしかない、もっとにょんにょんしろ。
ダメだ、こんな説明をしたって、これでは世の中に勘違いにょんにょんを増やすだけだ、勘違いにょんにょんなどもちろんガソリンスタンドのアルバイトも務まらない不思議電波の役立たずだ/正月には正月らしいことをやはりするべきなのだが、「なぜ正月らしいことをするか」という思念が湧いた時点でもう負けなのだ、元のものとつながっていたらそんな余計な思念は湧いてこない。
このところ僕は、まるで人のことを完全に無視しているかのごとくだが、そうではないのだ、もう僕一人ぐらい、別の原理で機能している実物として存在していないと、このパターンが世の中に皆無になってしまう/もちろん僕の言っていることは、常識的にはタワケの限界突破みたいなブツだが、それにしては「なぜコイツの歌と言葉と物語はこんなに上手いんだ?」というナゾが残るだろう、僕自身そのナゾを追いかけた者なのでこんなことになってしまうのはしゃーない。
僕はまるで人のことを無視しているみたいだが、そうではない、僕はたしかにあなたのことを無視しているが、あなたのことを無視していないナゾの何かのことを、僕が無視していないので、こんなことになるのだ/つまり、僕があなたを気に掛けたって、けっきょくあなたを豊かにするのに最善ではないということが知られているのだ、僕があなたに仕掛けられる最善は、あなたが無視している、そして向こうはあなたを無視してはいない、何かよくわからないにょん(略)と、あなたを接続することだ、あなたがあなたの物語を上手くなる以外にあなたが豊かになる方法なんてありっこないんだから。

あなたの自分(我)をブッ壊して、あなたのにょん(主)と接続したら、ようやくあなたはあなたになる。

ここ十数年、降り注いでくるものに比較して、われわれの証した成績はガッタガタだぞ! おれの言っていることがわからん奴は、壇上に立たせて「わたしの物語」を話すという刑罰に処す、その刑罰に処されたら、いかに自分の「物語」が破綻と偽装に満ちているかがわかるだろう、まさかオメェ、お茶の間向けにウケがいいように加工された姑息的物語を言うんじゃねえだろうな、聞いたところ三十分後にはキレーに忘れ去られるものをよ、それを物語とは言わんぜ。
われわれはけっきょく、歌と言葉と物語そのものにならねばならないが、自我が歌と言葉と物語になりきるなんてことになっては、そりゃイタさ爆発というものだぜ、己の主が歌と言葉と物語そのものにならねばならないが、それを言うなら己の主というのはもともとが歌であり言葉であり物語なのだから、そこに人為的な細工はしなくてよいのだ、鹿が鹿のフリをすることはあるめえよ、にょん(略)は元からにょん(略)なのだから、それか歌や言葉や物語のフリをすることはない/なんだこれという話だが、なんだこれというならあなたは何を手がかりにこのわけのわからん話を聞きとっているんだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
「中央」と「地方」、魂の向かうベクトル
は割と多くの人に頼られているし、多くの人に利用されている(というよりはご利用いただいている)のだが、その過程で単純に「九折さんサイコー」となる人もあれば、ある意味ド定番として、僕のことを「こづく」ことが決してやめられないというケースが出現する。
そして、この「こづく」というケースを集計してみると、なぜだろう、あまりにも有為な割合で、「地方出身者は僕をこづく」というパターンが認められるのだ/もちろんこのことは百パーセントではないが、九十数パーセントには達しており、ほとんど百パーセントに近いとみなさねばならない。
僕は、なぜか気づいてしまったのだが、この世界の仕組みには「中央」と「地方」があって(市場と同じだ)、人それぞれに、魂の向かう方が「中央」に向かう人と「地方」に向かう人があるようだ、なぜそんな二種に分かたれるのかはよくわからないし、その理由にあまり興味はない。
今知られているのは、地方出身者が僕を「こづく」ということなのだが、正確にいうと、魂が「地方」に向かう人は、僕のことを「こづく」のであり、魂が「中央」へ向かう人は、僕をこづいたりはしない、ふつうに「九折さんサイコー」といって遊んでくれるということだ/この法則はびっくりするぐらい普遍的に当てはまる、この世界には「中央」と「地方」という仕組みがあって、そのことはわれわれの魂の向かう先と深く関連しているのだ。

魂が向かう先について、このような質問を出すと、割とタイプが判別できる/「年越し」をするときは、1.それぞれが地元でしめやかに過ごすべき、2.全員がタイムズスクウェアに集まってドカーンといくべき、この二つのうちどちらを真実と感じるだろうか。
いわずもがな、2を選ぶ人は魂が「中央」に向かっており、1を選ぶ人は魂が「地方」に向かっている/まあ、ざっくりとしたテストでしかないが、少なくとも「タイムズスクウェアに集まってドカーン」と唄うような演歌はない。
もちろん、1も2も、どちらが正しいというわけではなくて、どちらもある程度正しいだろというたぐいなのだが、中には頑強に1だけを主張する人もいる、そういう人は2のことが本当に一ミリもわからないという人だ/いわゆる「ハレの日」というものがあったとして、ハレの日は「地方」に向かうべきだろうか、それとも「中央」に向かうべきだろうか? そこで地方に向かう魂の人は、僕のことを「こづく」という法則がある(それが悪いとか間違っているとかいう話ではない)。
そもそも、われわれは誰しも「発展」しながら生きようとしているのだが、その「発展」というものの元型が、「発展といえば中央が発展するでしょ」と捉えられている人と、「発展といえば地方が発展するでしょ」と捉えられている人がいるのだ/たとえば、四国で生産した特別なトマトが、赤坂の料亭で消費されているとしたら、それをもって1.「だから本当は地方のほうが偉い、中央なんて実力のないウソの集まり」と捉えるか、2.「中央を栄えさせるために、われわれ地方が頑張るんじゃないか」と捉えるかだ、これはどちらが正しいという話ではなく、人それぞれの魂の向かうベクトルを示している。

「中央」と「地方」の関係は、「精神(中央)」と「身体(地方)」の関係に重なっている。

ある人は、1.地方のために、中央が頑張らないといけない、と捉えるだろうし、ある人は、2.中央のために、地方が頑張るのだ、と捉えるだろう、それと同じように、1.健康で豊かに長生きするために、精神が頑張る必要がある、と捉える人と、2.精神が高みに到達するために、己が身が力を尽くす必要がある、と捉える人がある/「中央」と「地方」の基本感覚は、このように人それぞれの「精神」と「身体」の基本感覚に重なっているのだ。
心身の構造上、精神が「中央」であり、身体がそれぞれの「地方」に当たる、この中央と地方を見て、どちらが主でありどちらが従であるかについて、人それぞれの基本感覚があるのだ、その基本感覚の対極は、魂がどちらを向いているかで分かたれている。
正しく見ないとな | comments(0) |
死への恐怖と、縛りプレイ

の年末年始に僕が知ったことは、すべての一般的なものが、実は単一の「死への恐怖」から生じているということだった。
われわれは、ジャンケンに勝ってさえよろこぶ、「なぜ?」と言われたらわからない、幼児でさえ「勝つ」ことによろこぶ/ルールが解せるものなら、ムカデだってジャンケンに勝てばよろこぶだろう。
タクシーの運転手は、死への恐怖から生じている、アダルトビデオの喘ぎ声も、死への恐怖から生じている、そのことがはっきりと視えるようになった、これで僕の積年の、しょうもないナゾもひとつ解けた。
積年のしょうもないナゾというのは、タクシーの運転手さんが軽く話しかけてきてくれるところに、僕が陽気に話を重ねると、運転手さんがピタリと話し止んでしまうことだった、これは長いあいだ「なぜ?」と不思議だった/そこに僕は、意図的に死への恐怖を(声に)盛り込んでみた、すると運転手さんはスルスル話すようになった、このことで積年の疑問は氷解した。

逆に、僕が能動的に話し、唄い、動き、飲食すると、周囲の人々は、急に解放されたように動き始めることになる、このことの現象もより正確に視えた。
僕が何かしらの声・言葉を発すると、周囲の人々は、一時的に「死への恐怖」から離脱できるのだ、それでそれぞれに、「何かわたしはイケているかもしれない」という錯覚を起こしてノリ始める、僕がこれまで何千回と見てきたのはこの現象だった。
僕はもう、話すことや、言葉を発すること、唄うこと、動くこと、飲食すること、その他のことを、見せ続けねばならず、やり続けねばならず、はたらき続けねばならないということがよくわかった、もう僕がそれを止(と)めたら、誰も呼吸できなくなるからだ、もう実情として僕がしぶったり見物に回ったりしている余裕はない/最善を尽くすしかないのだ、「死への恐怖」から離脱した一瞬だけでも人々が得られるように。
それにしても、それで一時的な解放を得た人々は、「何かわたしはイケているかもしれない」とノッてくるわけで、ノッてくると必然、自分のほうが偉いと思っているものだから、たいてい僕のことを「こづく」のだが、これは大丈夫なんですかね……僕はこづかれながらも、もう「解放」への最善を続けるしかないのだが、こづかれながらそれをするのは数十倍も大変で、それでもすでに僕は「最善縛り」というような縛りプレイをやらされている状況なので、どうしようもないのだが、最後までこの「こづかれる」ままでいいのだろうが、たぶん僕は大丈夫なのだが、全体としてこれで大丈夫なのかどうかはよくわからない(おれにはどうにもできねー)。

意味不明だと思うが/「死への恐怖」が支配者で、「死」そのものは味方だ。

もしわれわれが、努力と慎重さによって「永遠に生きられるチャンス」を持ち得たとしたら、われわれの生はもっと悲惨だ、われわれはひたすら自分の保護と遺伝子コピーの繁栄にのみ血道をあげることになってしまう/死が約束されているから(および、地球上の生命といっても百億年後には全部カラっぽでしょと約束されているから)、われわれは死への恐怖にあるていど区切りをつけることができる、だから死そのものは実は味方だ。
それはいいとして、とにかく仕組みは視えた、僕のことをふんだんに利用しながら、その利用者は利用したぶんだけ僕を「こづく」のだ、それは得られた解放の中で先方のほうが「偉い」からだ、偉いものが卑しいものをこづくのはしょうがない、それは一般的には理不尽に類することだろうが、つまり一般的でない僕が悪いという卑近な結論に落ち着くようだ、何にせよ僕は最善縛りという特殊プレイを強いられているような状況なので、常に「こづかれながらやる」というのを大前提にしなければならないようだ、唯一それで「大丈夫なのかね」という不安だけがほんのり残っている。

正しく見ないとな | comments(0) |
「かわいそう」という感情について3

わいそうシリーズ第三弾(これでおわり)。
何かを「かわいそう」と激する感情は、しばしば「わたし・かわいそう」という感情にも転用され、だからこそ「勝ち組になろう」「負け組になるのは絶対イヤだ」と人は動いていくのだが、多くこの「かわいそう主義」は、けっきょく真のかわいそう主義にはなり得ない。
どういうふうになるかというと、この「わたし・かわいそう」の主義から力を得ていった者は、加齢と共に権力や財力を持つようになるのだが、そうして力を得ていく過程で、むしろ「どうやったら人がかわいそうな目に遭うか」にとても詳しくなっているのだ、だからこの者はヒューマニストになどならず、いつでも「逆らう者にはかわいそうな目に遭わせてやる」という悪魔の発想を手元においた、まあ何のことはない単純な悪霊の使途になってしまう。
だからもし、一人の資産家が、かわいそうな子供たちにチャリティの側面を強く持っていたとしても、そのことを表面上だけ理解して、早合点しないように/まるで冗談みたいだが、そうしたチャリティおじさんに、酒に酔った誰かが軽口の一つでも叩くと、そのとたん「あいつはクビね、二度とこの業界で生きられないようにしておいて」と、躊躇のない処刑に転じることはよくあるのだ、むしろそれは「かわいそう主義」における当然の力関係だと知っておかねばならない、<<「かわいそう」という感情はその人のやさしさを保証はしておらず、むしろその逆の冷酷さを保証していることが少なからずある>>。

「わたし・かわいそう主義」でやってきた人は、そのキャリアから、当然「かわいそう」という現象に詳しいのだ。
だから、どのようにすれば、かわいそうな人から評判がよくなるかもよく知っているし、どのようにすれば、かわいそうな人をより深く苦しめられるかもよく知っている。
そして、どのように趣向を凝らせば、あなたを最もかわいそうな目に遭わせることができるかについても、どうしても詳しいのだ、脳みそがその手続きを発想することに長けてしまっている/人によっては、その発想の早さと深さは、まさに悪魔じみているというケースさえある。
どういうことかわかるだろうか、つまり、「わたし・かわいそう」と激する感情を抱え続けるというのは、長年、自分自身を「かわいそう」と呪い続けることに他ならないのだ、長年その呪いを原動力として動いてきたぶん、この人はその呪いを自他に行使する技量に長けている/「かわいそう」と感情が激することは、魂が八つ裂きにされることだと言った、だからこの人は、人の魂をバラバラに砕く呪いの術を知っているということなのだ。

一所懸命生きている人に向けて、一斉に全力で「かわいそう」と言ってみれば、それが呪いになるということがわかる。

目を剥き、血をにじませて、誰に対しても「かわいそう! かわいそう!」と連呼してみれば、それだけではっきりわかるだろう、「かわいそう」というのはかなり悪質で特級の呪詛になりえるのだ/この呪詛に掛かった者は、自他どちらに掛けられたにせよ、実感的に「かわいそう」という呪縛に掛かり、何もかもを「待つ」「受ける」ということしかできなくなる(呪縛されて能動性を喪失してしまう)。
「かわいそう」という呪詛に掛かると、1.悪魔の力を得るか、それが得られない場合は、2.「待つ」「受ける」しかできなくなり、他人が聞いたら呆れるような根拠のない無制限の幸福を待ち受けていたり、一方で、明らかな絶望や破滅がやってくるのにも、それを座して待ち、ただ受けて悲鳴を上げていたりすることになる/一所懸命に生きたもの・生きているものに、「かわいそう」が激することがあってはならない、特に血が流れるときは注意だ、好き放題に呪われてそれをヒューマニズムだの正義だのと言い張るのには強い禁忌を覚えておこう、まだ十分に引き返せるうちに。

正しく見ないとな | comments(0) |
「かわいそう」という感情について2
「かわいそう」という感情は、実は強烈な危険を孕んでいるということを、先日の記事で話した。
「かわいそう」という感情は、おおむね血と苦しみに関連して生じ、その痛みゆえに魂を否定し、魂をバラバラにする作用がある/そして魂が粉砕されたら、あとはもう生存本能と血の勝ちだ、われわれの霊魂は敗者となる。
「かわいそう」という感情は、なくてはならないし、なかったら単純に「人でなし」なのだが、それが「人でなし」であるからこそ、「かわいそう」という感情の完全勝利は、われわれを「ヒューマニズム」に閉じ込めるということでもある。
われわれは人間なので、ヒューマニズムもなければ話にならないが、ヒューマニズムはあくまで人の感情であって、カミサマの感情ではない、この道理を感情のあまりに違(たが)えると、われわれはカミサマから切り離され、思いがけず「呪いと悪霊の勝利」というバッドエンドに行き着く、何しろヒューマニズムは強烈な「かわいそう」のカタマリで、一方でカミサマは「冗談」だというのだから、われわれがこの「かわいそう」からのヒューマニズム決着から逃れるのはとても困難なことなのだ/だからこそ繰り返し言われねばならない、<<「かわいそう」という感情が物事をハッピーエンドに導くことはない>>。

そして、言い足しておかねばならないのはこのことだ、その「かわいそう」という人間感情が、他者に向くのならばまだしも、半数以上の場合はその感情がひたすら自分に向くと覚悟せねばならない。
単純化して言えば、この「かわいそう主義」はいくらでも、やがての「わたし・かわいそう主義」を内包するのだ、戦災孤児を「かわいそう」と激し、チーターに食われるインパラを「かわいそう」と激し、膝を悪くして孤独な日々を過ごす母親を「かわいそう」と激すると、その次はおおむね老いて寂れゆく自分自身を「かわいそう」と激するようになってしまう。
そして、それらがおおむね「かわいそう」ということは、判断としても感情としても間違ってはいないのだが、問題は、そのとき「かわいそう主義」の徒は、<<「かわいそう」という感情を正義の頂点に据えてしまっている>>ということだ、こうなるともう、この「かわいそう」という感情より上位の判断は一切成り立たなくなってしまう。
「かわいそう」という激しい感情は、かくも巧妙に、われわれの魂を粉砕しにきて、するりと最上の正義の座に納まる、しかもタチが悪いことに、この「かわいそう」という感情は、即効性でカネになるのだ/だから完全に容赦のない言い方をすると、単純な悪知恵として、世界中から「かわいそう」の極致をたくさん見つけてくれば、それだけで募金詐欺ができるし、実際にそのようなことをしている悪徳業者だって少なからず存在するだろう(それはしばしば、悪徳であっても不法ではない)。

かわいそう主義は、ヒューマニズムの錯覚を経て、しばしば「わたし・かわいそう主義」に転じ、ときに苛烈な「富の戦争」にまで行き着く。

ここに、このとおりデタラメな僕がいて、仮に、ここに大マジで「かわいそう」な人がいたとしよう、そのとき僕が「かわいそう」な人を怨んで攻撃するというようなことは動機としてありえないが、「かわいそう」な人が僕を怨んで攻撃してくることはありえる/そして「わたし・かわいそう」の動機からその攻撃が生じてきた場合、いかなる事情があっても攻撃者のほうが内心で正義であり、攻撃される僕の側は悪に決定される、何しろ「かわいそう」より上位の正義はないのだから、「かわいそうでない」僕の側に正義が認められることは構造上ない。
貧困から店先のパンを盗って走って逃げた少年が、転倒して脚をケガした場合、必要なのは「かわいそう」という感情じゃない、カネが必要な場合はそうしたものを「かわいそう特集」として蒐集していくのが良策だが/パンドロボーの少年に与えねばならないのは、「かわいそう」という感情じゃない、パンと罰だ、そして治療と学門だ、それをかわいそうなシーンに仕立てるのはバッドエンドへの手続きであり、ハッピーエンドに向かうためにはすべてを冗談のようなシーンにしてやらねばならない。
正しく見ないとな | comments(0) |
カミサマは冗談

くの人が「カミサマとは何ぞや」に到達することはまずない。
なぜかというと、カミサマというのは、思いがけず「冗談みたい」だからだ。
こんな話をする資格が、僕にあるわけではまったくないが、まあ別にいいじゃないか、それこそ本当に冗談みたいだからいいじゃん、おれは冗談みたいな話をしている。
われわれは人間なので、カミサマというのは、とびきり「マジ」なものだろうと空想している、だが実際は逆なのだ、われわれごときの存在に、ゴタゴタしないからカミサマなのであって、われわれは人間だから己どものことにすぐ「マジ」になるにすぎない、この人間ごときの都合をカミサマに押しつけると、カミサマは視えないのだが、何しろカミサマが冗談みたいなシロモノだとすると、われわれ人間どもは「じゃあ要らんわ、ノーサンキューですわ」と唾を吐くだろう、それがわれわれ人間だ/われわれのためにマジになってくれるのでなければカミサマじゃないです、「認めません!」と、カミサマを決定する審査員の性根がドカンとあるのがわれわれ人間どもの本性だろう。

動画サイトで "own voice" あたりで検索すると、たとえば詩聖タゴールの声が録音に残っていたりするが、詩聖タゴールの声はまるで女の子みたいだ、そしてたとえば合気道の開祖・植芝盛平も、祝詞のようなものを女の子のような声で詠んでいる、それでいえば今上陛下(現天皇陛下)のお声もどこか女の子のような可愛らしさがある。
その声は、たとえば「実録!! ○○ドキュメンタリー!!」のような資料から確かめられる「大マジ」の声と比較すると、まったく違うものだ、タゴールや植芝盛平の声はまるで「冗談みたいな声」だ/「実録!!」のほうは、マジもマジ、気魄にズドンと突き刺さる、血の滲むような声が記録されており、多くの人にグッとくるだろう(だからこそお茶の間に向けて放映するメディアコンテンツにもなるわけだ)。
タゴールの声を聞いて「グッときた」と感じる人はない、植芝盛平の声に「グッとくる」ということはないし、あるいはマイケルジャクソンの声もやはり女の子みたいなところがある、あれも「グッとくる」というたぐいではない/「グッとくる」というのが「マジ」の声だとするならば、カミサマの声はまるで「冗談みたい」な声なのだ、このことがあまりにわれわれの思い入れと相反するから、われわれはカミサマとは何ぞやに到達できない。
声にせよ言葉にせよ「話」にせよ、神々のものは「冗談みたい」なのだ、われわれはそれを「軽視」するので、「カミサマとは何ぞや」に、到達するどころか生涯に亘って接近さえできない……のみならず、われわれはそれを「軽視」することで、ずーっと「侮辱」を継続していることになる、本人にそんな意図はなくても自動的にそうなっているのだ、だから年を経るごとにわれわれはこころの底が何か追い詰められたように黒く澱んでくる/われわれが老人になり、発狂スレスレの眼差しで徘徊するようになるのは、なんとも皮肉な話、常に「大マジ」で生きてきたからなのだ、それは必然のことかもしれないが、それにしても皮肉がすぎる話ではないか。

カミサマは冗談、獣は大マジ。

しかし、われわれは実情として、「マジ」なものしか信仰できないので、まあいろいろとムリでしょーな!! それでもいちおう、知っておけばいつかいいことがあるのかもしれない、「カミサマは冗談」/いつかのとき、筋のいい人がいれば、「最後にはけっきょくこれしか使えねーじゃん」ということに気づくかもしれない、もちろん気づくのは早いほうがいい。
カミサマは冗談であり、カミサマのものは、われわれから見て基本的に「失笑」の対象なのだ、そりゃ母親が娘に超絶絶叫しているところにタゴールの歌声が聞こえてきたら、失笑しか起こせないだろう/僕は最近になってようやくこの「カミサマは冗談」ということがはっきり視えた、何しろ実際には「これしか使えねーじゃん」ということを否応なしに知ったからだ。

正しく見ないとな | comments(1) |
「かわいそう」という感情について(必ず覚えておいてほしい)

「かわいそう」という感情は、それ自体は邪悪なものには到底思われない。
が、必ず覚えておいてくれ、「かわいそう」という感情は強烈なもので、あなたの心身を「八つ裂き」にしてしまう/「かわいそう」の感情によって、あなたの心身はバラバラになる(霊的な統合が失われる)。
「かわいそう」という感情は、それ自体は至極まっとうなものだ、その感情がなければ人でなし、愛のない者に見える/少なくともその感情は、本当に、至極まっとうなものに見える、僕もそのことはまったく否定する気にはなれない。
だが、それよりも強く対抗しえる理知として、このことを必ず覚えておいてほしい、「かわいそう」という感情は、至極まっとうなものでありながら、その感情は、物事をハッピーエンドに導かない、たとえどれだけ冷血・冷酷に思えても、本当のことをどこかで覚えておくのだ、物事をハッピーエンドに導くのはまったく別のものだということ、「かわいそう」という感情こそ、むしろ温情たっぷりにストーリーをバッドエンドに導いてしまう。

「かわいそう」という感情は、強烈であり、あなたを八つ裂きにし、哀号させ、あなたに生きものの世界を与える、特にそれが、己の血肉に近しい者であれば近しい者であるほど。
そして、それがあなたに「生きものの世界を与える」からこそ、あなたはそのとき、ふと我に返って世界に降り立ったような気がするのだ、何か手ごたえのある世界につながった、という感触を得てしまう/それは間違いではないのだが、その感触が得られるのは、霊的にあなたが「八つ裂き」にされたからなのだ、解体されたあなたにはもう遺伝子の指令を己の感情とする道しか残されていない、「かわいそう」という感情はそれぐらい、実は致命的な危険をもっている。
「かわいそう」という感情は、あなたから統合を奪い、物語や、夢、呼吸や、これまでに視えていたもののすべてを視えなくして奪ってしまう、そうなるともうあなたは一切戦えなくなり、そのように戦いようがなくなった自分の心底について、それを何か「受け入れて生きている」のだと誤解してしまう/それは本当に誤解であって、それは受け入れているのではなく抗する根拠の一切を見失ってしまったというだけなのだ。
また付属として、これも必ず知っておくべきことだが、「かわいそう」ということは、割と即効性でカネになるのだ、だから「かわいそう」の周辺には借金や資金繰りの人が多くなる、至急にカネが必要な人は知らず識らずこの「かわいそう」の即効換金性を使うようになるものだ/またこの「かわいそう」の八つ裂きピークは、日中のにぎやかなところでは出現しにくい、主に夜間のさびしいところに出現するものだ、つまりオバケと同じようなタイミングで出てくる、そのこともぜひ覚えておいてほしい。

「かわいそう」は、正義と温情に満ちて、あなたからすべてを奪う。

「かわいそう」は、人の情、つまりヒューマニズムのコアだと思うが、それがヒューマニズムということは、けっきょくカミサマのバックアップは受けていないということだ、だからこのヒューマニズムは物事をハッピーエンドに導かない、ヒューマンの感情をカミサマの感情だと偽ってはならない/カミサマはわれわれに慈悲や憐れみを向けてくれるのかもしれないが、それはわれわれの持つ「かわいそう」という引き裂かれるような感情ではない。
じゃあ実際に「かわいそう」なものには、どうしたらいいのかというと、「かわいそう」という感情は要らない、ただ必要なていどの救済に最善と最速を尽くせ、ハッピーエンドに向かうためには冷酷にもなれ/今ここで僕が話したことは、今このときにはほとんどあなたにとって了解不能のことだ、だがずっと先であなたを危地から救い出すから、こころの端に留め置いてほしい、「かわいそう」はハッピーエンドに向かわず、正義と温情に満ちてあなたからすべてを奪ってしまう。

正しく見ないとな | comments(1) |
遊ぶ魂、サカる格2

才もグランプリがメインになったように、またソーシャルゲームも「ガチャ」がメインになったように、そして少年漫画もドスケベ女体の表示がメインになったように、すべてのものに競技制とギャンブル性と刺激性が組み込まれていった。
それは、遊ぶことができなくなったからだ、遊べなくなると人は刺激と興奮で己をコスるしか活力を得られなくなる/「遊ぶ」には、一般的に言って「余裕」が必要だ、すべての遊びの喪失は、「それどころじゃない」という実感から起こってくる。
だが一方で、「遊ぶ」ということを失ってしまうと、ずっと先に「何のためにこれまで生きてきたのかわからない」という行き詰まりにぶつかってしまう/気づいたときには、己の魂とはまったくつながっていない、はるか彼方まで行ってしまっているものだ、それはそれで取り返しがつかないということになってしまう。
このことについて、僕は執拗に、「遊ぶことがメインで、遊ぶために生きるのだ」ということを唱えていきたい、それは僕が正しいからではなく、僕が受け持った役割だからだ、僕まで含めて全員が「それどころじゃない」となるわけにはいかない、それではけっきょく本来の魂でないものが勝利したことになってしまう。

また、僕には狡猾な考えもあって、遊ぶことが本分だと見切った者にこそ、あるていど幸運のバックアップがあるのではないかと思う算段もあるのだ、遊ぶということはそこまで向こう見ずなことではない。
また単純に言って、日本が製造業で勝利できない経済状況の中、これからわれわれは異民族も含めた同居のような暮らしをしてゆかねばならない見込みだが、そこで同居するのが、真に愉快で真に大切な、真に愛し合える誰か同士なら、その環境は一転、かけがえなく豊かな暮らしを得たということになるではないか。
われわれにとって真の敗北とは、魂の触れ合わない者たちが、ただ生きるためだけに同じ檻の中に囲われ、同じ檻の中だからこそ縄張りをもたねばならず、なるべく孤立した個人として生きようとしたところ、けっきょくコストが追い付かずまともな暮らしもさせてもらえなかったという結末だ/われわれは、魂の触れ合わない同士においては、孤立しあって無関係に生きていけばよいが、そうした孤立した暮らしの形成には非常なコストが掛かるのだ、そしてその環境の構築のみならず、そこから寂しさを慰めるためのコストも膨大に発生することを前もって見積もっていなくてはならない。
比較して、僕が思うところの最高の勝ち筋は、「魂が触れ合って遊んでいたらたくさん幸運があってみんなでワイワイやっているうちに逃げ切ってしまった」という結末だ、このことの実現には非常な困難が予想されるが、成立に多大なコストが掛かるというわけではない、むしろ魂で遊ぶことにハマっているうちはコストが削減されるだろう、魂には課金できないからだ。

生存本能が「それどころじゃない」と言う、それに対抗する遊びの魂は、「永遠にこれでいいだろ」を見つける。

だから遊びというのも、遊興ではないのだ、そこにいる全員が「永遠にこれでいいだろ」に到達できるか? それはそんなに簡単なことではなく、けれどもこのことが見つからないままでは、自分はけっきょく何のために生きていくのかわからないし、魂なんてものがもし本当にあったら、己の魂がやがてどこへいくものかわからず不安でたまらない。
僕が敷地だけ広いおんぼろ小屋に住んだとして、その玄関先に雑魚寝するということが、2LDKの独り暮らしよりはるかにイヤか? そんなことはなく、「ぜったいにその玄関先のほうがいい」とこぞって跳ねる人がすでにうじゃうじゃいる、それは経済的に有利なポテンシャルを秘めているということだ、むしろそのことへの基本を手に入れたほうが、この先々で生きていくのに有利だと見立てて僕はプランを練っている、つまり究極的には生存本能より遊ぶ魂のほうが幸運も含めて「生きるのに有利」という仮説に基づいている、もしこの仮説がアタリだった場合はわれわれで大いに笑おうじゃないか。

正しく見ないとな | comments(0) |
遊ぶ魂、サカる格
つからか、「楽しむ」ということが幅を利かせ始めた。
そして端末の再生ボタンを押すようになった。
youtubeの再生回数は、人々が遊べなくなった回数を示している。
ポチッと押せば、「楽しむ」が始まる……そうこうするうちに人々は「遊ぶ」ということができなくなった、そして魂を解放する道筋を失った。

「遊ぶ」というのは、実は高度なことだ、生きものがする営為の中で、最も高度なものだと、すべての光の詩人が指摘している。
そのことは、政治集会の人々や、競技場の人々、予備校で血道を上げる人々、目立って興奮しようとする人々、講演会で自己啓発を目論む人々に、一声示してみればわかる、「遊びましょ」と。
数万人の集まりも、「遊びましょ」の一言で、何もできないということがわかり、凍りつくだろう/われわれは格子に魂を閉じ込められた生きものであるから、「努力」したり「競争」したりは簡単にできる、力に努めて競争 "してしまう" のがわれわれの性(さが)だからだ、だがもし努力も競争もやめて「遊べ」と言われたら?
「遊べ」と言われたら、具体的には何もできないのだ、このことを目の前に据え、まずは己の魂の荒廃ぶりをしみじみ確かめよ、凍りつくしかない実際的な自分の事実/学校の職員室で、先生たちが「遊んでいる」のを見たことがあるだろうか、遊べなくなった人々は必ず「威張る」ということを覚える、自分たちこそが高等なのだと必ず死ぬまで言い張り続けることになる、その中で永遠に遊ぶことを忘れない僕はやがて迫害の対象になるだろう。

男が女を、女が男を、「楽しんで」いるのだとすると、実にオッサンとオバサンで気持ち悪い。

学校の先生は、自分たちが同僚同士で和合して遊べるわけではまったくないのに、生徒たちには和合と協調を指導しようとする、だからおのずと示される思想は、「集団行動」というたぐいの、つまり魂を閉じ込めた姑息的同調のやり方だけを教えることになる/なぜ先生たちは同士で遊ばないのかと子供たちが問うたら、先生たちは必ずにこやかに、自分たちが子供らと違って「高度な存在だからだ」と宣伝のように言うだろう、まさか「魂が閉じ込められているからさ」と答えるような大人はいない。
スマホ中毒は何の問題でもない、問題はより直截的に、「遊べなくなった」という致命的なところにある、遊べなくなったから再生ボタンをポチッと押す、すると「楽しむ」ということが始まり……するとまるで自分は豊かで偉くなったようで、楽しまれるコンテンツに対しても、一家言を下賜するのが当然という感覚が得られてくる/この「楽しむ」体質になりきった人が、デートの現場に来て「楽しむ」という予定のありありした面をぶら下げていると、その姿は客観的には驚くべき醜さに映る、何者がわれわれを一方的に「楽しませて」くれるという見込みなのだろう? 遊べなくなるというのはそのように根深くおそろしいことなのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
すべての生きとし生けるものに祝福を

ょっと、今書ききれる状況ではないが、いろんなことが見え始めている。
「生きる」ということは、生存本能の支配する範疇だが、これは厄介であると同時に、やはり「切ない」のだ、甘やかしを利かせられるものではないが……生存本能はけっきょくわれわれを滅ぼすのみなのだが、そうした滅びを内包して生きるしかないということ、それ自体はとても切ないことだ、だからすべての生きとし生けるものに祝福を。
そして、不遜なことだが、僕はすべてのことを正常化したいと望んでいる、不遜ついでに申し上げるが、優れたる者は僕の物語を聴け、僕の生きてきた物語を/僕は生きることを忘れて生きてきた、僕にとって生きるということは、生きるということではなく、ナゾを解くということだった、ナゾが気になって「死ぬわけにいかない、気になる」と生きてきたようなものだ。
僕が、あなたがどう生きてきたかの話を聴くことは、実はまったく有効でないということがわかってきた、逆、あなたが、僕がどう生きてきたかを聴かねばならない、あなたが僕がどう生きてきたかに少し詳しくなったとき、あなたの中で何かの解決と進捗が得られるだろう、僕があなたの話を聴いたところであなたの中に解決も進捗も生じはしない。

現在の僕でさえ、自己の「死」というものを視るとき、それはとてつもないナゾであって、ぼちぼちの恐怖感を認めるものだ、これを何の訓練もない者が平然と眺められるはずがない/だから自己の死についてはナゾと恐怖ごと無意識下に抑圧せざるをえず、この抑圧された恐怖がわれわれの精神と立ち回りを支配している。
われわれは、いつも死と隣り合わせだ、別に戦場の兵士でなくても誰でもそうだ、もちろんそんなことは徒然草のころから言われている、だがどう考えても学門ナシの人々がこの巨大なナゾと恐怖に直面できるはずがない、だからわれわれはほとんどの場合、半ば以上ヤケクソで、自己が生きることを肯定しながら、そのヤケクソの肯定を理由にしながら生きていくしかないのだ/いつも死と隣り合わせというが、本当にそんなものと隣り合わせということは、ふつう恐ろしすぎて隣り合わせに置いていられない。
だからあなたは、僕がどう生きてきたかの物語を聴く必要がある、わけのわからない話だろうが、あなたは生存本能とは異なる動機で生きてきた例を聴く必要があり、少なくともその一パターンに、詳しくなる必要があるのだ、そのことが為されないかぎり、あなたの中で「物語」というものが命をもってあなたを救うということはない/僕が生きてきた物語を、あなたのものにしなくてはならない、そのフォーマットが敷かれないかぎり、あなたは生存本能の履行だけを繰り返して生きることになってしまう。
すべてのことを正常化したい、その道筋はすでに見えていて、ただどうやったらすんなり気づいてもらえるのかわからない、自己の死の恐怖から生存本能を尊ぶということはやはり誤った道で、われわれが誰も罰の只中にあると再設定するのが正常化への道だ、つまりあなたが知るべき僕が生きてきた物語は、僕がどのように罰の中を生きてきたかのサンプルになる、僕にとってナゾを解くことは罰であって、この罰を受けきらずに死ぬわけにはいかなかったのだ。

僕は光栄な罰の中を生きてきた、だからあなたも光栄な罰の中を生きることができる。

あなたは自分の物語を、自分で創作するふりをして捏造しなくていいのだ、あなたは罰の只中にあるのだから、その罰の光栄を知れば、おのずとあなたは自己の生がどう光栄で、かつ罰としてふさわしいのかを知ることができる/罰だから必ずしも楽なわけではないけれど、見当違いの努力ワールドでおびえた目になるよりはずっと上等だ。
生きとし生けるもののすべては切ない、切ないのは生存本能という滅びを内包して生きるよりないからだ、これをなんとかして「光栄だ」という転じた事実に気づいてもらう必要がある、僕が勝手にそのように求めることは不遜な話だが、この不遜の道も僕の受ける罰のひとつなのだ/僕は正しくはなく、ただ罰のプレイヤーとして純然たる強さを見せたい。

正しく見ないとな | comments(0) |
能力獲得の根源的ノウハウ
だん、「導く・導かれる」なんてことを、まさか考えないと思うが、もし「導く・導かれる」ということを正しく考えるなら、その導きというものは、「罰を与える・受けるということが、導く・導かれるということの定義」と捉えるのがよい。
この定義は、きわめて重要なもので、決して見失ってはならないものだ/もしあなたが、僕から罰を与えられるということが「しっくりこない」と感じるのであれば、何をどうやっても僕があなたを「導く」ということは不可能になる、これは導く・導かれるということを背後で支配している「定義」だからだ。
僕があなたに、「罰として缶コーヒー買ってこい」と言いつけたとき、その罰を自分が「受ける」ということがどこか当たり前に感じられるというとき、僕はあなたを重要なことへ導くことができる/それが当たり前には感じられないというとき、あなたはあくまで自力でどこかへ到達せねばならない、もしくは、他の誰かの「導き」に支配されていることに気づかねばならない。
たとえば多くの環境では、女性などは特に、成人してもなぜか親から「罰」を与えられる立場にあることが、当たり前に感じられていたりする、この状況にある人は、もはや外界の誰かに「導かれる」ということは不可能になる/現代において多くの人は、教師に対しても、先輩に対しても、あるいは自分では信じて頼っているつもりの誰かに対しても、「罰を受ける」「罰を与えられる」ということが当然に馴染んで感じられない状況にある、だから多くの人が、どう努力しても現在の自分から変化できずにいるのだ、自己の根本的変化が得られないのは、誰か導き手と「罰の授受関係」になれないことによってあらかじめ決定してしまっている。

ここで「罰」といって、シリアスに考えるのはナンセンスだ、「罰」といってもたとえば、男性が交際相手の彼女に向けて、「罰としておれが夜景を見にいくドライブに同行しなさい」という言い方もできる/こんな一工夫で、どれだけ多くの実りが与えられるだろう。
「罰」の授受関係におよぶことが、実は神聖さへの入り口なのだ、正しくよい罰を見出すというのもセンスが要ることで、感情的・恣意的な罰を思いつくばかりでは、彼には導き手の資格がない、この者は己の身分を低く落としていくだろう。
たとえば、人にあいさつをするのが苦手な誰かがいたとして、その人が自力の努力であいさつをできるようにはならないのだ、「罰としてここに立ってすべての人にひとりひとりあいさつをしなさい」と罰を与えられることで、ようやくやり方がわかるというか、やり方に「つながる」のだ/人は「訓練」によって、能力や技術を強化ないしは向上できるが、訓練によって能力を「獲得」はできないのだ、得られがたいことの「獲得」は、実は罰の授受関係を経てしかほとんどの場合得られない(自分で得られる場合は、努力の結果ではなくいわゆる才能の結果だ)。
だからこそ、いわゆる優等生のたぐいは、経験的に見て特別な能力を得てきていないということが一般的にある、それは優等生が生きていく中で罰されることがないからだ、もし極端な優等生が生涯に一度も罰される関係を持たなかったとすれば、それは生涯に一度も「教師」「先生」を得なかったということだ/マンガ「ドラえもん」で見れば、のび太にとって学校の先生は「先生」だが、出木杉君にとっては「先生」ではない。

罰の中をゆけ、そうしたら実る。

男は何かしらの罰として、男の形容で生まれ落ちている、女も何かしらの罰として、女の形容で生まれ落ちている、それが「罰」だと捉えられていないから、いつまでたってもやり方につながらない/何に対する罰かなんて知らなくていい、そんなことは意識的にはわかりっこないことだ、だが意識的にはわからなくても、われわれの魂は何かを知っている、だから魂だけはその不明の「罰」に率先して呼応する、われわれのうちに罰の中にない者など一人も存在しない。
多く、真髄の何かを獲得している人に限って、謙遜のように「まだまだ自分などは」と言うことがよくある、あれは謙遜しているのでも何でもなくて、直接の感覚として「こんなことではまだまだ罰は終わらない」ということを知っているのだ、だからそれは謙遜ではなくまったくの本音として言われている/われわれの魂は努力によって檻から出られるのではなく、罰を受けきることで檻から出られるのだ、優等生は一般に犯罪者の真逆にあるから、このことになかなか気づけないものだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
くっきり道と使える原理
の筋に詳しい人に言わせると、日本語の母音の並びは本来アオウエイであって、そのことには「言霊」というようなことがあるらしい/まあそんなことはあるのかないのか、われわれのような凡人にわかってたまるかというたぐいだ。
ただそんな僕にも、アオウエイの母音に「方向」があることぐらいは、感覚的にわかる、感覚的にわかるというか、そりゃ "Yeah" というのはどうしたって下から上に行かざるをえないし、マイケルジャクソンがシャウトする "Aw!" は、方向的に上から下へ降りてくるしかない/そんなことは、単純な発声技術でも説明がつくことだし、そもそも発声練習で「アイウエオ」の順を使うことはまずない。
何にしても、そういうスピリチュアル系の人がよろこびそうなことは、わずかも吸い上げてやらないのだ、わずかも信仰なんかさせねーというのが、僕のタチの悪いところというか、エグいところである、おれは具体的かつ直接的にカッケーことしか認めない、それでつまづく奴はつまづいて帰宅すりゃいいでしょというのが僕の思想だ、こんな考え方をしているから誰も味方してくれないのだ。
正月は、割と寝正月で過ごして、夢うつつの中で確かに、言霊に関する何かを見たような気がする、それでタチの悪い僕としては、「ああそうか、これで "くっきりさせる" ということができるんだ」と、大いに獲得と舌なめずりをしたのだった、さあ今年もガンガンやってまいりましょう。

われわれは、観測可能なものにけっきょく魂が震えることはない、つまりマッチョ男の握力が120kgもあると「すげえ」とはなるのだが、そのことに魂が震えて「わたしの生きている理由」に結びつけたりはしないということだ/F1のレーシングカーが300km/hで走って感動的なのは、人がそれで走るからであって、単にマシンだけが走行していても、それは巨大化したミニ四駆でしかない。
魂が震えるというような言い方も、あまりしたくないものだが、とにかく僕が本当に与することができるといえば、唯一そのことだけ、浮世のすべての冗談から離脱できる瞬間だ、僕はそのことをぼんやり思わせぶりにする勢力をたいへんネガティブに見ている、僕はくっきりしているものを愛しているのだ、僕はむろん宗教かぶれより江頭2:50のほうが神域に近いと確信している。
江頭2:50は、くっきりしている、そのへんのパンク気取りのピアス女よりはるかにくっきりしている、パンク気取りのピアス人間になって物憂げな表情をすることは誰にでもできるが、江頭2:50になってドーン!! とすることは誰にでもはできない、ほとんどの人はそんなことできない(できてたまるかよ)、江頭2:50はパンク気取りではまったくないが、非常にくっきりとしたパンクだ、ライブ中に甲本ヒロトの横に立っていても見劣りしないぐらいパンクだろう(シドヴィシャスでさえ江頭2:50にドーンされたら笑ってしまったかもしれない)。
言霊だか何だか知らないし、そのそれぞれの「方向」だか何だか知らないが、「これはくっきりさせるのに使える」と僕は気づいた、僕はこのくっきり道を行きたいと、新年からとてもノリノリなのだった。

「観測不能物を具体的にくっきり顕わす」が聖霊、「観測可能物をぼやかして思わせぶりにする」が悪霊。

髪を脱色してピアスを入れて物憂げな表情をしてみたって、それらはすべて観測可能物だから、それらをぼやかして何かあるふうに「思わせぶり」にするというのは、悪霊の仕業だ、くっきりしろ、魂(ソウル)を身に顕してくっきりするのだ、あるいは声に顕して、脳に顕して、知恵に顕して、作品に顕して、くっきりするのだ、そうでなきゃ言霊だのソウルだの観測不能物だのはただの与太話じゃねーか。
世界へのつながりというか、そりゃもともとつながりはあったけれども、その方法がよりsureに得られたわけだ、うーんもともとおれは、LSDなんかなくてもサイケの世界が直接観られるんだぜ、「春の力」もな……/それが「くっきり」具体化されてから、初めてそれが存在していると言えるわけだ、そりゃそうだな、そのことには言霊だか何だかの「方向」が重要という、おれにしかわからんナイスな話があるのだった、そこでもう一度繰り返して申し上げる、おれは具体的かつ直接的にカッケーことしか認めない。
正しく見ないとな | comments(0) |
「言葉」は人のものではなく、「話」もまた人のものではない

般に、言葉は人の発明物だと思われているが、僕はそうではないと唱える、まあ立場ある学者ではないので好きに唱えても別にかまわんだろう/僕は言語の素(もと)と呼ぶべき、「言葉」という現象ないしは現象野が先に存在していると感じる、一般に言葉と呼ばれている言語は、その「言葉」という現象野に脳や精神や魂がアクセスした結果として出力されているにすぎない。
もちろん、人がいちいちそんなヤベーものにアクセスしていたらたいへんなので、一般的にはそんなところへアクセスはしていない、一般的には単に「記憶」の中から情報化された言語を引っ張りだして再利用しているにすぎない/だからわれわれが詩文を朗読しても、たいしてイイ感じのものに聞こえない、歌唱力以前に詩文を読み上げるという営為の事象次元が違い、われわれはしょせん言語と意味の記憶に自分のキモチを乗っけているだけだ、そんなもので真の感動が生じるわけがない(ニセの感動は生じえます)。
さてここにおいて、ちょうど年末らしくて具合のいい、新しいことをみんなに伝えることができた、これは僕自身はかなり以前に薄々感じていたことなのだが/「言葉」が人の発明品でない以上、実は「話」というのも、人の発明品ではない、これこそ一般には「はあ?」と一蹴されそうなことだが、僕はけっきょく「人」に物語を創作する能力はないと確信している。
「話」という現象は不思議だ、色んなことが、聞いていて「話にならない」ということがあるし、いろんなゲームやアニメや映画についても、何か一つの「話」としてまとまりがないというか、「ニセモノの話」にしか聞こえないということがある、それに比べるとたとえば「ドン・キホーテ」の物語なんかは、著者セルバンテスの創作のはずなのだが、なぜかあの滑稽話の連続が、「ニセモノの話」というふうには聞こえないのだ/それはけっきょく、「話」「物語」というのが、実際に人の創作などではないからだ、それはモーツァルトだろうがリストだろうがボブディランだろうが同じだ。

まだ言語になる前の、言葉の「素(もと)」なる現象野があるとして、話や物語というのも、まだ具現化される前に、その「素(もと)」となる現象野が存在している、これらの現象野はけっきょくひとつのものでしかないとも思えるので、言葉の素も物語の素も、音楽の素もダンスの素も同じひとつの根源野なのだろうが(僕はこの根源野を総括して「言葉」と呼んでいる)、まあそれはいいとして、とにかく人に話を「創作」する能力なんてないのだ、人が「話」を作れるとしたら、それは何かしら「神話」からの影響や派生、あるいは類型を帯びているときだけだ(そしてそれはけっきょく、人が創作したわけではないということだ)。
だから、何かしらフィクションの営為に向かおうとする人にとっては、ある意味究極のネタバラシなのだが、自分で何か話を創作したり、演じてみたかったりしたら、何かしらの「神話」に接続しなきゃ100%ムリだ、なぜなら「話」の出力元は人にはなく神話にしかないからだ/これってたぶん、知っている人は最後まで秘密にしているというか、秘匿し続けているような気がするが、そんなケチなことをせず、バラせばいいじゃんと僕は思う、もちろんバラしたらバラしたで、曲解して面倒くさくなったブツと人が大量発生するに決まっているけれども……
何かしら、根源的な現象野に、言語的・物語的な人が接続すると、その人がニセモノでない「話」を語りだすのだが、その語り出すものの中で、最も元型に近いものを「神話」と呼んでいる、つまり神話というものが一番、根源的な現象野を写し取ったナマ写真に近いということだ/認識不能の根源野から、ギリッギリで認識可能なものに落とし込むと、それはたとえば神話になるということ、これが原理なので、この原理から逸脱したほうへ「創作!」とやる人は、理論的に筋が悪くなる(かといってもちろん、神話に似せただけというのでは、その不誠実さは呪いでも受けそうな気もするが)。
まあ何にせよ、われわれの知りうる「話」という現象は、実は人の創作ではなくて、根源野から神話を経てわれわれの末端に現れているにすぎないということ、図式化するなら[根源野→神話→ナゾめいて荘厳な話→わかりつつミラクルな話→俗っぽさの中にも光がある話→光がないが故に俗そのものが表される話]というような感じになる、この構造の中にないものをどうひねくってもそれは「話」にも「物語」にも「ストーリー」にもならないし、その中に登場する「人」というのも存在しえない、全部がニセモノのツクリモノになってしまう。

数々の物語の中心には、必ず神話、もしくは巨大なデーモンがある。

この場合、デーモンというのは必ずしも悪いものではなくて……というのは、デーモンだって本当は光の国を目指しているからだ、ただ安易にデーモンの力を借りると、自分の身や精神が持って行かれるので、原則としては神話を基準に取るべきだと僕は思う(といって、デーモンだって神話の中からしか登場しないものだが)。
中心に巨大なデーモンを置くと、実は「話」を作るのは(「話」を引っ張ってくるのは)、けっこうカンタンなのだ、でもそれがカンタンということは、何かしらの代償を支払うということでもある/中心にデーモンを置けば、デーモンは「力」の属性だから、ぐいぐい力を引っ張ってこられる、僕はこのイージーすぎるやり方に、それがイージーすぎるという点において否定的だ、つまりB級サメ映画や、残虐グロサイコ漫画と同じだな、もちろんそれらだって「力」を持っているので、トルストイの書く小説よりは即効性でウケるのだが、本質的に読んで字の如く「邪道」なやり方ということになる、漫画ドラゴンボールの中心にあるのはピッコロ大魔王でもなくフリーザでもなく、やはり「神龍」であるべきなのだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
ゲインとアンプとあなたの体質2
うか早く、気づいてくれますように。
僕が高校生だったとき、同級生に、連日ずっとワナワナ震えている奴がいて、どうしたのかと聞くと、「ライブに行くと、三日ぐらい、その熱が身体から消えない」とこっそり教えてくれたことがあった。
今は逆だ、ライブに行った高校生は、三時間後には平静に戻っているだろうし、そのかわり、同級生にマウントを取られたりしたら、そのことは三日……どころじゃない、数年に亘って憎悪して覚えているだろう。
僕はいくつかの、感動した映画を、数十〜百数十回と観たことがあるが、それは映画を観たあとも、ずっとその世界が消えてくれないからだ、「消えないならいっそ観たほうがマシだ」という感じで、繰り返して観てしまうのだった、そりゃ<<元々そういうモンでしょ?>> どうか早く気づいてくれますように。

ウェブでは公開していないが、僕は小説を書いており、もう何本になるのか(数えるのがメンドくせえ)、それを友人に読ませたりもする。
おれが書く小説だから、爆裂にオモシロイし、それを二日〜五日ぐらいで書くので、いつも狂気の沙汰でそれを書くのだが、それを書いて読ませたところで……体質の問題として、どうしようもないのだ、僕が百の小説を送ったところで、僕から二、三の失言でもあろうものなら、その失言だけバッチリ記憶&反応されて、僕はそれについての弁明と謝罪をさせられる、小説を書き上げたことに対する称賛なんてほとんどない/このことは、これからを生きるすべての人が知っておいてよいことだ、魂をかけたことに称賛なんて一ミリしか来ず、わずかな失態については痛烈無比で強力な難詰が向けられてくる、もうごまかしていてもしょうがないのでそういうものだと覚悟するしかない。
こんなことの中で、へっちゃらで突き抜けていく僕が、はっきり言って狂人のたぐいなのだろうが、しょうがない、この時代は基本的にヘイトゲインとヘイトアンプの時代なのだと思いたまえ、そういう体質なのだ、僕の歌に魂があったら人は「納得」するだけで、僕の歌が音程をハズしていたらそこに向かって大量に石を投げつける時代だ。
体質の問題なので、いかんともしがたく、点検してみりゃすぐわかる、「ブラボー」「愛しているよ」「最高だわ」「やるねえ」「さすが」、これらの語句をヤンヤヤンヤと言ってみようとすると、口がすぐインチキ声しか出さないのがわかるはずだ、それに比べてヘイトネタについては、「きもい」「うざい」「あーあ」「違うんだよなあ」「だめだねえ」「何か勘違いしてるよね〜」、これらの語句は何の違和感もなくたっぷり粘り気を持たせてフルスイングで言えるはずだ、そういう体質になってしまったものはしょうがねえ、それがわれわれの人生ですよ!

×どうしたらいいのか ○どうなっているのか

見たくもないし聞きたくもないし、メンドクセーのはすごくわかるのだが、「どうなっているのか」を訊くことなく「どうしたらいいの(早く言え)」と恫喝するのはさすがにちょっと……/僕はいいのだが、そこの手続きを省略すると、もう何も改善できないのだ、僕に訊きながら僕に「死ね」を送り込むのはやめてもらいたい、僕はそれでかまわないのだがそれはけっきょくあなたのヘイト機能の増大にしかならないのだ(「死ね」のキモチはよくわかるのだが)。
このことについては、「わたしはどうなっているのでしょうか」と、自分から訊くのが第一で、その手続きが済めば、その後は実はカンタンにコロッと展開するのだけれどね、なかなかそのカンタンなことに踏み切れないのが人の心理というものかもしれない、ただしもちろん僕は人の心理を学門より上位には決して置かない。
正しく見ないとな | comments(0) |
ゲインとアンプとあなたの体質

イクによって、高音をよく拾うマイクや、低音をよく拾うマイクがある。
マイクはその後、シグナルをアンプ(アンプリファイア)に送り、増幅するからいわゆる「マイク」になるのだが、アンプの側でも、高音を拡大したり、低音を拡大したり、という操作ができる(イコライザ)。
ここにAさんがいたとして、Aさんに、「落葉ふかく水汲めば水の澄みやう」と種田山頭火の詩句を与えたとする/するとAさんはほとんど何の反応も起こさないので、Aさんというマイクは種田山頭火の詩句からは何も「拾わない」といえる。
一方でAさんに、「○○さんって、不倫しているらしいよ」というと、Aさんは「ええっ!? 何それちょっと」と、大きな反応を示す、これはAさんというマイクは、そういうネタを「よく拾う」と言える。

種田山頭火の詩句は、帰宅する前に消失するだろうから、Aさんというアンプは、そのような詩句はむしろノイズとみなしてノイズキャンセルをかけるといえる。
帰宅してからAさんは、「○○さんが不倫とか、マジやばくない?」と、誰かにラインチャットでも送りそうなので、Aさんというアンプは、そういうネタをよく拡大するといえる。
Aさんは、どれだけ映画を観ても、またどれだけ景勝地を旅しても、どれだけ勉強しても、どれだけ物語に触れても、どれだけ唄っても、どれだけ絵を描いても、どれだけ話しても、よいものは得られないし、よいものは出力されない、それはもともと、その成分にゲインもなければアンプもないからだ。
そしてAさんは毎日、たとえば上司に言われた小言や、「あそこの店員の態度が最悪だった」というようなこと、あるいは「これって男女差別じゃない?」「こういうとき女って損すぎない!?」、「これってもうオワコンだよね」、「うわーこの人イタいなあ、スベってるよ」ということについては、わずかなシグナルも見落とさず、バリバリに拾って、存分にアンプをかける、そうして毎日がネガティブシグナルで爆裂して生きることになるのだが、このような「体質」になるようにさまざまな仕掛けが張り巡らされていることに、Aさんは最後まで気づかなかった。

1000リットルのやさしさとナイスさを注いでも、一滴のネガティブでかき消される。

冗談ではなく、現代のわれわれは、そのような体質になるように、習慣づけられて訓練されている、人類最高峰の何かをふんだんに見せても、「やっぱすごいよね」という程度に留まり、誰かのうかつな態度や発言ひとつについては、三日ぐらいはイライラできるのだ。
ここ最近のあなたの口は、感動を1000言っただろうか、そして「愚痴も1は言ったなあ」という感じだろうか、ほとんどの場合は逆ではなかろうか、あなたの口が感動を1言うようになり、愚痴は1000言うようになると、もうあなたの頭上にどんな青空や星空が現れても無意味なことだ/あなたに能力がないのではなく、あなたの能力がどこを拾って拡大するかをコントロールされているのだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
「物語」が視えなくなるということ2/ "ブタのエサにもならないもの"

般に、童話を読み聞かせるのは童子のうちだが、現代の童子が童話の物語を「視る」ことができるのか、僕は知らない。
たとえ童子であろうが、関係なく、生存本能への刺激が本体に「力」を選ばせるとき、もうその当人は「物語」を視ることはできなくなる/これはもうただの生きものの仕組みだ、力は物語を分割・解体する。
生存本能は、すべての動物にあるので、生存本能から「力」を選んだわれわれの身体(力んだ身体)というのは、触れてみると直観的に「大切なもの」という感触がしないのがわかる/「人」という独特の感触、「物語の中にある "人" 」という感触が消えるのだ、これが具体的に消えるのだから不思議なものだ。
「人」という独特の感触が失われると、それはただの骨や節や筋肉の集合体という感触に転じ、その中に、おだやかでない「血」が流れているのがわかる、呼吸はしているが、獣だって呼吸はする、生き残ろうとする遺伝子の本能はむしろ獣のほうに顕在だ/われわれは「人」を大切にしたいと望むし、もし「人」そのものがそこにあれば、だいたい無条件で大切にするのだが、そうした「人」でありつづけるのはそんなに容易なことではないようだった。

これは、僕がひどいことを言っているのではなくて、僕が奇妙なことを言っている、というような状態だ。
というのは、僕がこれまでのことを振り返るに、そういう意味での「人」の感触じたい、これまでに触れたこともなければ見たこともない、という人が多いようだからだ。
実際、これまでに何度も(何度、というような回数で言えるようなことではもはやないが)、僕のところにやってきた人は、僕そのものを「何これ……」と不思議そうにつついてみたり、触ってみたりすることがほとんどだったからだ/自分で言うのもアホみたいだが、この「実物」がすでに絶滅危惧種なのだと思われる、危惧種が必ずしも絶滅するというわけではないだろうけれども。
こころあたりのある人に、あえて説明しておくと、あなたが触れたのは単に「力みのない身体」ではなく、実は「物語」だ、「物語の中にある "人" 」の感触だから、すーっと吸い込まれるような、包み込まれるような、不思議な感覚になる/あなたが生存本能を刺激されて「力」を選ぶとき、あなたは僕に触れられなくなり、あなたは自動的に僕を分割・解体・破壊・攻撃することを選ぶようになる、それはあなたを決定する仕組み、あなたの知らないあなたの仕組みなのだ。

人が人に触れたとき、1.意志、2.こころ、3.自律神経のやりとりが起こり、ごく例外的には、4.物語のやりとりが起こる。

1〜3は、生きものとしてのやりとりだ、これだって平和にあたたかくやりとりが為される必要がある、意志がぶつからず、こころが通い、自律神経が援けあう必要がある/けれどもその三つを万全にしたとて、物語の中につながることにはならない、物語の領域はまったく別の次元にある。
生体に原初から具えられてある本能を、生存本能と呼ぶのならば、その生存本能の対極に、「存在本懐」と呼ぶべき何かがある、これらは生体に具えられてあるのではなく、魂に具えられてある、だから具体的には到達点でありながら、魂としては己の "帰参" するところになる/生体は生存本能を固持し、魂は存在本懐を希求し続ける……あくまで構造上はそうだが、現代のわれわれ自身とその周囲は、このところひたすら生存本能をバッチバチに刺激するばかりで、魂などという "ブタのエサにもならないもの" に一ミリの価値も認めないのが主流だ、物語が視えなくなるという現象は、それが生存本能として「ブタのエサにもならない」と視えることで起こってくる、このことは加齢と共に進んでゆき、青春の十五年後にはすべての物語をブタのエサより下等なものにみなすようになっている、もちろんそれが生存本能としては正しいのだ、われわれはそのように生きているのだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
「物語」が視えなくなるということ
は、多くの人は、もう「物語」が視えなくなっている。
「物語」が視えなくなっているので、暗記したり、感情的に捉えて「泣ける映画」としたり、作品のデキを論評したり、グランプリ形式にして順位付けをしたりしている。
なぜ「物語」が視えなくなるかというと、「分割」の作用が掛かるからだ、1mmごとにコナゴナに分割された定規はもう定規でないように、分割された物語はもう物語ではない。
物事は、「力」が掛かると、分割されて全体性を失い、物語を失うのだ/たとえば「忠臣蔵」がどういう物語なのか、ウィキペディアを見ればわかるのだが、わかったとしても視えないのだ、これはもう「物語」を視られる因果からキックアウトされているという状態だと、理性的に判断しなくてはならない。

人のみならず、すべての動物は、生存本能を危機にさらされると、「力」に偏るという機能を持っている。
弱肉強食のルールの中でサバイブしようとするとき、頼れるのは「力」だけだからだ、これは実験的に確かめることもでき、また古来からの呪術(呪い)も、生きものが持つこの性質を利用している。
たとえば第二次世界大戦がどのように勃発して、どのように終結していったか、その物語はどのようだったかということを、分割した知識にして暗記はできるのだが、それがひとつの物語に「視える」ということは、すでにほとんど失われている。
だから現代においては、物語がどうこうというのではなく、刺激的な色と感情的な表情と大げさなBGMを貼り付けることが「感動」ということになっている、もう「物語」は視えないのだ/そしてそのことは、誰にとっても例外ではなく、「生存本能を刺激されると力に偏り、必然的に分割の作用が掛かるので物語は視えなくなる」と、理性的に捉えておかねばならない。

生存本能の上で「脱力」は決してできない。

どれだけ脱力しているつもりでも、生存本能が幅を利かせているうち、体内には必ず「力」がこびりついており、この力に分割作用を受けるうちは、ありとあらゆる「物語」は破壊される/バカみたいな言い方をするならば、なかやまきんに君にストーリーテリングの能力はない(きんに君のネタは面白いのでおれは好きだが)。
生存本能の上で「脱力」はできないということは、単に「うへらうへら、ちょいぽいぽろぴ〜」と言ってみるだけでわかる、この無意味な文言を違和感なく魂のまま吐けるのは、まだ生存本能が機能していない赤子だけだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
「ピンと来る」という現象の深い背後3

から、安易な「平等」の思想は、実は底なしに恐ろしいのだ、何かを果てしなく「偉い」と崇めたてる思想ときっちり同等に、「平等」という思想は怖い。
「平等」といって、本当に完全な平等に到達できれば話は別なのだが、無理なのだ、たとえば共産主義思想は平等の思想を追求しようとしたのだが、まず「共産主義思想が偉い」と思っている時点ですでに平等ではない、何かが「偉い」のだと捉える事象が発生している時点ですでに平等は破綻している/何かを「偉大だ」と認める悟性・理性と、何かを「偉大なのですううう」と崇めたてる心理は別だ、後者のほうは思われているより遥かに暗黒の度が深い。
まあそれはいいとして、「平等」という安易な思想は恐ろしいのだ、「平等」といいながら、たとえば初心者よりヴェテランのほうが「上」で「偉い」と思っている、これが闇だ/僕はポケモンゲームをやったことがないので、ポケモンゲームについては初心者だ、それに比べれば近所の子供のほうがヴェテランだろう、そうなると必ずポケモンゲームについては子供が僕を「導く」ことになる、そのようにして子供の側には自動的に「偉い」が発生する。
僕だって、ワークショップの先生をやっているのだが、僕がそうした指導をするからといって、僕のほうが「偉い」ということはまったくない、そのことについてはウソ発見器にかけていただいてもけっこうだ、何しろ初めから「世界のボトムをお見せする」と申し上げている/ワークショップといって、うんこメンバーとうんこ先生がやりあっているだけなので、誰がどう「偉い」というようなことはない、そしてそんなトンチキな先生はふつう健常の世の中にありえねーから、せめて僕だけでもと、奇妙なことを続けている。

われわれは、何かをしながら生きており(そりゃそうだ、停止していたらそのまま干からびて死ぬ)、何かをしながら生きているということは、常に何かしらのアクティベートを受けて行動している、それを認識していようがいまいが……だから大前提として、われわれは何かしらの "アクティベート元" に「導かれ」ながら生きている、われわれに導きや先生がいないということはないのだ、常に何かに導かれて生きており、何もしなければ自動的に己のカルマと道と因果が己の「先生」になっている、われわれはそういう仕組みの生きものだ。
よって、われわれのいう「平等」というのは、極端な例外を除いてはことごとくウソにすぎないのだ/共産主義者は共産主義を「偉い」として、それを先生に立ててアクティベートされていたのだし、男女平等を唱える昨今のムードは、それが「偉い」としてアクティベートされている、それでいえばファナティクな様子の宗教者あるいは信徒たちだって、それが「偉い」としてアクティベートされているわけだ、だからこそわれわれは、ファナティクな様子で演説している街頭の宗教演説を立ち止まって聞こうとは思わないし、共産主義活動の経験者は「あれはひとつの宗教だった」とこぞって言う。
さてでは、何をどうせねばならないかというと、奇妙な話、<<強いアクティベートを受けている者が、非アクティベート者に導かれなくてはならない>>、強いアクティベートの中でそれをする者は、アクティベートのない中でそれをする者と、共同にそれをさせてもらって、同じ営みの中でアクティベートを消失させねばならない/表面上、<<偉くない人が偉い人を導く>>のだ、なぜならその背後で、一方を「偉い」と実感させているのは「因果」だからだ、ここで因果の側の仕掛けとしては、偉くない人が偉い人を導くという方法を採られると、大変困るという実情がある、つまりこのやり方でわれわれは仕掛けられた獄を打ち破ることができる。
たとえば僕がやっているワークショップでいうと、その参加者は、プロのダンサーであったり、合気道の有段者であったり、元ラクビーの選手であったり、体操選手であったり、舞台で唄っているシンガーであったり、社交ダンスで世界大会に出た人だったり、ギターを弾く青年であったり、元あるいは現役の演劇人だったりする、そうした人々の中で、僕だけが何一つアクティベートを受けていない者なのだ、だから彼らは僕と一緒に何かを営む必要がある、僕ほど偉くない人はなかなか世の中にいないものなので、彼らが何かを営んでいくのにアクティベートを抜いていくのにはピッタリなのだ/すべてのことに、「ピンと来る」というアクティベートは本当は要らない。

すさまじいことを、「何もしていない」という状態のまま営むべし。

人は因果の中にいて、それぞれの所属する道と因果によって、強制的に「ピンと来る」、強制的に「アクティベート」を受けるということの中にいるのだ、もし一般的な意味で僕を愛してくれる女の子がいて、その女の子と僕が一緒に手をつないで歩こうとするとき、どうしても強いアクティベートを受けている彼女のほうが「偉く」て、アホまるだしの僕はどうしても、責めるに値する対象にしか見えないだろう/一般に、われわれは強く「何かをしている」ほうを偉いとし、「何もしていない」ほうを愚かで低劣だとみなすものだ、 "何もしていないのに女の子と手をつないで歩いている" というようなことはあまりにも「ピンと来ない」、それはまるで "何もしていないのに襟首を掴んだ男がすっ飛んでいった" ということと同じくらい、見ていて「ピンと来ない」。
ただそれにしても、ピンと来ないまますっ飛んでいった当人は、そのとき何を学んでいるだろう? アクティベートのまま掴みかかると、ピンと来ないものによってすっ飛ばされた、あるいは強く情熱的な愛と当人が信じるところのものによって、手をつないで歩いてみた、するとなぜかピンと来ないものに包まれていった……このことが繰り返されると、これまでピンと来ていたものを、本人が見失ってゆく、アクティベートに力を尽くすほど、それは「???」に包まれてゆき、掴みかかる側が「自分で何をしているのかわからなくなってきた」、手をつなぐ側が「何をやろうとしていたのかわからなくなってきた」という状態になっていく/ここに分水嶺が生じる、それは決定的な分水嶺だ、1.目の前の、何もしていない人がわたしを導くのか、それとも、2.強く何かをしているわたしが、目の前の何もしていない人を導くのか、こうしてわれわれのあいだに「導き」が消えることはなく、一方の導きは単純に否定されるのではなく、必ず逆方向へ導き返そうとする対抗力をもって迎えられることになる、それはわれわれがまず数学的に厳密な「平等」になど至れないからだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
「ピンと来る」という現象の深い背後2

ともと「趣味」というのもそういう意味だ/六道説においては、人間道・天道・修羅道が「三善趣」であり、餓鬼道・地獄道・畜生道が「三悪趣」とされている、そして「趣味」というのはそれぞれの道と因果の「趣きと味わい」ということだ、「おれの趣味なんだからほうっておけよ」というのは、「おれの道と因果の趣きと味わいなんだからほうっておけよ」ということになる、もちろんほうっておくべきが大原則だろう。
子供はポケモンが好きで、昔でいえばビックリマンシールが好きだが、それは子供がガキであって餓鬼道であって名色の因果に支配されているから、名色の趣きと味わいに「アクティベートされる」「ピンと来る」ということだ/子供が辞書について「買って、買ってぇ〜!」と暴れてダダをこねることはまずない、名色にほぼ関係がない「辞書」なんぞに餓鬼道にいるガキがアクティベートされることはありえない、辞書とポケモンは同じ因果と趣味にない。
ところが、これが仮に「最近流行して有名になっているキラキラ辞書」みたいなものだったとすると、子供は「買って、買ってぇ〜!」と暴れる可能性が十分にある、可能性というより必然的な仕組みがそこにある、そこで「辞書がキラキラしていても何の意味もないし、こんな一時的に流行しているだけのネタを買って何に使うんだ……?」と首をかしげるのは、他の道にいる人の感覚だ、逆にいうとそこで血ヘドを吐いてでもそれが欲しいと求める感覚は、餓鬼道の因果にある人にしかわからない/「因果」の衝動は、その道に深入りしていけばいくほど、想像を絶して強烈なものだ。
別の言い方をすると――より有効で実際的な言い方をすると――、それぞれの所属する道と因果のほうが、絶対的に「偉い」のだ、そう感じて定義される仕組みにわれわれは支配されている、二次曲線と直線の交点より、流行して有名なキラキラ○○のほうが「偉い」のだ、人(あるいは生きもののすべて)はそうして、己を支配する「因果」そのものをどうしても「偉い」と実感して、自動的に帰依する仕組みの中にある/餓鬼道においては有名キラキラ、地獄道においては感受性の虫食み、畜生道においては獲得的(独占的)愛、これが他のすべてより「偉い」と定義される、だからこそわれわれは自分の往く道を変えることができない。

だが、ごくまれに例外が起こる/たとえばここに、Aさん・Bさん・Cさんがあったとする、Aさんは「流行して有名なキラキラ○○」が一番偉いと(どうしても)思っており、Bさんは「権力、暴力、性における、奴隷とサディズム」がけっきょく最強でグッと来ると思っており、Cさんは「わたしはあの人のもの、だからあの人はわたしのもの」という真理には何物も勝てないわ、と思っている、これらはもちろん、それぞれに餓鬼道・地獄道・畜生道の因果を表している。
ここにDさんが現れて、このDさんが、すべての道と因果をすでに一通り生きてこられ、すべての道と因果から離脱しかかっているようなとき、このDさんの魂にそれぞれが触れると、AさんBさんCさんも、これまで一番「偉い」と思っていた道の因果からふわっと一時的に離脱するような現象を得る/そのとき、Aさんは一時的に、「流行して有名なキラキラ○○」なんか、「別にいいか」と思っており、Bさんは一時的に、「奴隷とかサディズムとか、別にどうでもいいか」と思っており、Cさんは一時的に、「わたしが誰のものとか、誰がわたしのものとか、バカなこと言っていたものだわ」と思っている、なぜそうなるかは当人もわからなくて、ただそういう「支配からの離脱」が一時的に起こるのだ、つまりふだん自分を支配している因果に、なぜか「ピンと来なくなる」という形で離脱が起こる、だから「ふしぎ」な感覚になる。
このとき、Dさんはそれぞれの道と因果を先に生きてこられたわけなので、一般に「先生」という存在になる、そして、それぞれが支配されている道と因果を一時的に離脱して別のものを見ることができるようになるので、AさんとBさんとCさんは、このときDさんによって「導かれている」ということになる/このように、道と因果の支配を逃れて「導かれる」というのは、「先生、わかります!」という形では現れてこない、当人も何だかわからない「ふしぎ」「なんだろうこれ」という突然の形で現れてくる。
もちろんこのことは、たいてい一時的なことにすぎず、それぞれがDさんと魂のきずなでも選ばないかぎりは、二日後ぐらいには消えてなくなる、消えて無くなると元のとおり、Aさんは有名キラキラ、Bさんは奴隷サディズム、Cさんは獲得的愛の虜囚に戻る、それぞれは元の「一番偉いもの」を取り戻すので、そのときには逆転してDさんに対して軽蔑や嫌悪や攻撃(ないしは殺意)の感情を覚えることも多い、そうしてそれぞれはそれぞれの道と因果、Aさんは有名キラキラ、Bさんは奴隷サディズム、Cさんは獲得的愛の、衝動(煩悩毒)に「導かれて」いく、いつもどおりそれが彼らの「先生」となる。

子供がポケモンにウキャーとなることがヤバいのではなく、「この子、○○先生といるときは、ポケモンのことを忘れるんだわ」という現象に結ぶことが大事。

たいそうに「先生」というのでなくてもよく、先輩でもいいし友人でもいいし、ただの○○さんでもかまわない、あるいは恋人がそういう存在たりうるときもあるし、何かの著名人、歴史上の人物、物語の登場人物でもかまわない、あるいはよほど聡明な者なら直接「叡智」そのものを導きとできるのかもしれないが/何にせよ、「○○さんといるときは、ふだん支配されているものから離脱できる」「ふしぎだ、何かに包まれるようにそうなる」という現象で、実際的な「導き」というのは得られてくる、そして魂のきずなが得られた――それを選んだ――としたら、以降は基本的にずっとその「○○さんといる」という状態を継続することができる、ただしもちろん、そのきずなさえ切り離す「パニック」という現象もあるのだが、そのことはさておき、大原則として。
この実際的な「導き」が起こるとき、逆に先生たる○○さんが「偉い」と感じるのではなく、「偉い」と感じる現象そのものが消失する、「偉い」は消失するし、同時に「平等」「イーブン」という感覚も消失する、つまり「偉い」とか「平等」とかいうチャチな意識支配のすべてが消失する、その状態は高度な意味においての「愛」と捉えて差し支えない/Dさんと魂の接続を得ていると、AさんとBさんとCさんは、ふだんの因果から離脱して相互に友人でありえるが、ここでDさんを殺害すると、AさんとBさんとCさんは、それぞれ所属している道と因果が異なるので、互いに「ピンと来ない」というバラバラの三者に戻る、この三者は一般に空気を読み合ってつつがなく互いをやりすごすことになる。

正しく見ないとな | comments(0) |
「ピンと来る」という現象の深い背後

とえば、放物線(二次曲線)があったとして、そこに直線(一次関数)を交わらせたとする、すると頭の中でもイメージできるとおり、交点は二つ出るはずだ。
このことをイメージして、「なるほど、じゃあ、この放物線と直線の交点は、二つの数式が等しくなる座標の値として、二次方程式の解となって得られてくるはずだ」ということがわかる。
実はこのこと自体は、割と誰でも「わかる」のだ、「あ、なるほど」「そういうことですよね」ということは誰でもわかる/ところが、そこでそのこと自体に "ピンと来る" ということ、「おお、それだ!」というアクティベートを得るかというと、そういう人は実は少ない。
放物線と直線の交点を求める解法は、割と誰でもわかるのだ、誰でもわかるのだが、そうして「わかっている」人たちのほとんどが、実は「何をやっているのかわからない」という状態、「何をやっているのかピンと来ない」という状態で、その方程式を解いている/実は二次方程式の解法より、この「ピンと来る」があるかないかに、重大な差があるのだ、もちろんそんなことは学校教育の中では取り沙汰されない。

たとえば、最近はインスタグラムとインスタ映えが流行しているが、インスタ映えといえば、「有名スポット」の「色あざやか」な映像が、「インスタ映え」とされている/これはつまり、「名色」の因果がインスタ映えの成分だということを意味している、名色の因果は六道における餓鬼道だが、餓鬼道にいる人はそうして「ネームバリュー」や「色あざやか」に "ピンと来る" ということなのだ。
だからインスタグラマーには、放物線と直線の交点を求める話は、理解はされるがピンと来ない、地獄道にいる人は「感受性の苦しみ」にピンと来るし、畜生道にいる人は「ゲット」と「愛の奪い合い」がピンと来る、修羅道にいる人は「有意義なこと」と「ライフ」がピンと来るし、天道にいる人は、老化と老衰と死の諦観がピンと来る/人それぞれ何が「ピンと来る」かは、性格の問題ではないのだ、所属している道と表れてくる因果の問題なのだ、修羅道にいる人にとっては「色あざやか」なんてどうでもいいし、地獄道にいる人は「有意義」なんてピンと来ない、天道にいる人に半導体なんて何の興味もないのだ、それは「因果」という現象のせいで魂がキックアウトされるからだ、他の道にあることは何をどうやっても「ピンと来ない」という、この現象にわれわれは支配されている。
その意味で、街中のさまざまな広告や、自分の観ないテレビ番組のジャンルなどを見てみよう、すると実はさまざまなものが、それぞれの「因果」に適合するように作られていることがわかる/自分にはまるでピンと来ないものでも、他の誰かには「まさにそれ」ということで、アクティベートを伴って「ピンと来る」のだ、このことが視えるようになると、現在の自分がどの道と因果に所属しているかがわかるようになる。
一般に、子供のことを「ガキ」と読んだりするが、ガキが餓鬼道を現しているので、一般に子供はたとえばポケモンのような、キャラクターの名前が目立つ、色あざやかなコンテンツが好きだ、それは子供が餓鬼道の因果に支配されているからだ、そして年齢的に大人になったとしても、このことは脱却されるとは限らない、表面上は取り繕うが、内部的には何も変わっていないということが往々にしてある/さらに、興味深いことに、このそれぞれが所属している「道」と「因果」は、それぞれの体型や顔つきにも影響していくのだ、たとえば餓鬼道に所属している大人は、目がギョロギョロ大きく、体つきが大人にならず、なぜか身体には肉感がなくて、飢えて干上がっているような身体になる(そのほかにもいろいろあるが、ここには書き切れない)。

あなたに何が "わかる" かではなく、あなたが何に "動かされる" かだ。

誰だって、二次曲線と直線の交点ぐらいは、強制的に勉強させられればわかるのだ、しかしそれが「わかる」といって、それに「動かされる」わけではないということ、それが問題だ/餓鬼道にいる人は、実はネームバリューと色あざやかさに動かされるし、地獄道にいる人は、実は感受性で苦しんでいる何かに動かされる、畜生道の人はけっきょく「自己愛」に動かされるし、修羅道の人は生活拡大的なこと、天道の人は年金と病院と知り合いの死去ばかりが「ピンと来る」ようになる。
あなたがけっきょく、何に「動かされている」か、何に動かされるのが正しいとも言えないが、僕は個人的に人間道への所属と、識と行の因果に動かされることをオススメしたい……といっても、他の因果に支配されると、もうどう努力しても「ピンと来ない」ので、どうしようもないといえばどうしようもないのだが、この仕組みを正しく知れば、いいかげんこのしょうもない仕組みから脱却しようという、魂の意志は得られる/インスタ映えが今多くの人にピンと来るように、実は、今は信じがたいかもしれないが、放物線と直線の交点が二次方程式の解として「二つ」得られるというのは、人間映えするのだ、そのことをどうか魂の隅に、へえええと面白がっておいていただきたい。

正しく見ないとな | comments(0) |
<< | 2/84PAGES | >>