☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
OUTSIDE
識は外側にある。
人の思念や問答は内側にある。
わたしはこの内側を否定する。
内側は外側を見えなくするためにしか機能していない。

わたしは何かを考えることがない。
正確には、内側で考えることがない。
知識は外側――OUTSIDE――にある。
おれが何も考えないのは、世界が何を考えているか聞いているからだ。

人の子と世界の子がいる。

人の子が増えて世界の子が減った、だからおれは話が合わなくなった。
おれは人の子の言うことは聞いていない、おれは世界の子の言うことを聞き続けている。
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おれだけが異様に気楽な理由3
約聖書には、「金持ちが天の国に入るのは、らくだが針の穴を通るよりむつかしい」と書かれている/書かれているというか、イエスキリストがそのように教えたとレポートされている。
おれはキリスト教のことはよくわからないが、それはさておき、おれもこれまでに、それなりの数の金持ちを見てきた、二百万円の腕時計をしている女子大生や十億円の家に住んでいるご夫婦や誕生日に遊園地を借り切るような人たちとも交流したことがある。
そして、そうしたお金持ちの人々と接触するたびに、おれとしては内心で「???」と首をかしげるところがあったのだ、それだけ資産が潤沢にあるのなら、何でも自分のやりたいことをやればいいのにと思うのだが、一方でもっと直接、何か「どうしようもないもの」を感じてもいた、「金持ちは金持ちで "どうにもならない" んだ」という直観をおれは積み重ねてきている/おれは貧乏人より金持ちのほうが好きだが、金持ちは必ずしも金持ちが好きではなかった。
今になってそれが何の直観だったのかわかるのだが、それはつまり、お金持ちは自分の「生」を減らせないのだ、たとえ慈善事業に寄付したとしても、少々のことでは金持ちの「生」は減らない、資産が100億ある人が50億を慈善に突っ込んだとしても、やはり金持ちの「生」はまだまだ余剰がありまくってマイナスは出ないのだ、だから彼らの器には一切「命」が注がれない、このことは聖書にもあるし仏教でも言われる貧者の一灯にも伝えられている、貧者の一灯というのは仏教というよりただの慣用句で一般教養かもしれない。

何度も言うように、水の反対が油であるように、生の反対が命なのだ、そしてわれわれには「器量」というような一定の容量を定められた器(うつわ)のようなものがあるとして、生がマイナスにならないと命の入る場所がないのだ/たとえば容量が100のところに生が80ならば命が20入る余地が生じるという、ただそれだけのことだ。
ここでお金持ちというのは、容量100に対して生がたとえば10000000000もあるのだから、「そんなもんどう使っても容量に空きは出ねぇよ」ということ、このことを指して「金持ちが天の国に入るのはらくだが針の穴を通るよりむつかしい」と言われている。
命をちょびっとでもゲットしようとすると、器から生をちょびっとだけマイナスさせないといけないのだ、そう考えると現在のおれが一般より異様に気楽な理由について一端が説明できる、おれはもうずっと前に「まあ野垂れ死んでもいいや」と思い、何もかも放り出しておれ自身が信じることだけをするようになり、そしてもう長いあいだ「なんでコイツ死なないんだろう? 不思議だ」と感じているのだった/ふつう生きるというのはもっと大変で、こんなにテキトーにやっていたらさっさと破滅しているはずなのに、なぜかコイツはなんだかんだで生き延びている、その理由は不明だ。
おれも大学生のころには青春らしく、自殺念慮や未遂などがあったが、今はもうわざとらしい自死の発想はない、それどころか多大な命・魂をゲットするのに、生が元手になるならその元手だって「もっとよこせ」という渇望があるばかりだ、おれがこのわけのわからない生をぜんぶ命に代えてやるからもっとよこせという、悪徳ファンド業者のようなマインドで生きているのだった、そりゃおれが善良慈善業者のようなマインドで生きたら気持ち悪ィもんな。

とはいえ、永遠の命を有限の生に換金する悪霊ファンドよりはマシだと自負する。

新約聖書にはパリサイ派(ファリサイ派)がボロクソに言われるというシーンが多出するが、新約聖書いわくパリサイ派が何をやっていたかというと、聖書やら神殿やら祈りやらの「永遠の命」に係わるものを自分たちの "食いぶち" に換金するという行為をしていたのだ/「神殿を強盗の巣にして、自分たちのためだけのしきたりを他人に強要して、あとは未亡人につけこんで食い物にしているだけだろ、お前らはホント生まれてこないほうがよかった」と、キリストは満座の中でフルスロットルで弾劾するので、パリサイ派が激昂してキリストを処刑してしまったという、これは一般教養ていどにも知られていてよい新約聖書のストーリーだ。
誰にとっても有限な生を、誰もが有効活用するべきだと思う、生そのものが資産なのだから、それを突っ込んで永遠の口座にビッグリターンがあるならアタリだし、永遠の口座にノーリターンならハズレだ、そして有限の口座にリターンがあるのは生業であって、それはアタリでもないしハズレでもない、ただのナッシングだろう、どうせナッシングならざくざく増えてほしいというのもわかるが、一方で「金持ちは金持ちで "どうにもならない" んだ」ということもおれは見てきた/さしあたりおれ自身は、これまで自分でやけくそのように突っ込んできた生は、ことごとくおれの命に両替されて永遠の口座に振り込まれてきた、それがおれだけが異様に気楽な理由だ。
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おれだけが異様に気楽な理由2
の反対を油としたとき、生の反対は命だ、ただしそれは命が "あれば" に限定される話であって、命がない場合、生の反対は空っぽになる、この人たちにおいては生の反対は「死」になる。
われわれに与えられている生は有限なので、この生は放置しておいても時間と共に目減りしていくのだが、これは何を意味しているかというと、滅びに向かっている肉体の国の「通貨」だということだ、滅びゆく国の通貨なのでその資産価値は目減りしていくのが当たり前だ。
じゃあこの通貨・資産をどうすればよいかというと、ここにマトモ銀行とインチキ銀行を用意する、そしてマトモ銀行において両替をすると、正当なレートで生の通貨は命の通貨に両替される/命はほとんど魂と同じものだが、こちら命は永遠の国のものなので、その資産価値が目減りすることはない、そういうことなら誰がどう考えても、目減りしていく通貨を永遠の通貨に両替したいと思うだろう。
一方、ここでインチキ銀行に頼って両替をすると、インチキ銀行においては為替がまともでないというか、そもそもインチキ銀行は命という通貨を流通させる窓口になっていない、だからどうなるかというと、つぎ込まれた生の通貨はどこかへ雲散霧消するのだ、つまりただの詐欺だ、「お預かりしたご資産につきましてはですね……」/こうして生の終わり・生の尽き果てるときが、イコール残高空っぽ、「無」だということになる人が続出して、この人たちが「生の反対は死だ」と捉えているのだ、この人たちは何も誤っているのではなく、この人たちにおいては本当に生が尽きたときには死ぬのだ、その先がどうなるのかはおれの知る領分ではないので知らない。

われわれはふつう、生活・生涯で何をやっているかというと、「生」の通貨で「生」の通貨を買うという、いわば等価交換をしている。
「生」を費やして働き、働いて得た給与で衣食住を買い、つまり「生」を買っている、これは一般的に「生きるにはしょうがない」ことであって、だからこのことを「生業(なりわい)」という。
問題は、この「生を生に等価交換する」ということを繰り返していっても、これはやがて滅びる肉体の国の通貨だから、どれだけ盤石に資産運用しても、けっきょくは残高ゼロになってしまうということだ、大量の通貨を残したとしても資産価値は数学的にゼロになってしまう。
そしてそのときになって「目減りしない永遠の口座のほうは残高どうなっていますか?」と言われると、「そんな口座に入金したことは一度もない」「はあ」「だって入金できる通貨を得たことがないんだもの」「はあ、じゃあもうおしまいっすね、ガチのゼロで無ですね」ということになってしまう。
なぜこんな、ミエミエの破局にそのまま突っ込んでしまうかというと、「このままでは破局に至る」ということが、怖くてどうしても直視できないからだ、つまり生というものが「やがて滅ぶ肉体の国の通貨」だということが直視できない、だからいつまでもこの通貨の資産価値があるように思い込んで、恐怖を抑圧してしまい、最後の最後までこの使えなくなる資産に依存・しがみつくことになる、先の短い老人がむしろカネや生に狂気じみた執着を見せることがあるのはこの性質による、先の短い老人のほうが抑圧と依存の強迫が目前にせまって強くなっているのだ/彼らは死を恐れたことは一度もないのだが、それは命なき死を直視したことがこれまでに一度もないからだ、潜在的には直視できないほどそのことを恐れぬいているというのが真相だ。

われわれの生の使い道は二つ、1.生に交換するか、2.命に交換するか。

誰でもわかっていること、車が壊れたらガソリンはもうエンジンの燃料にはならないわけで/ガソリンのみを求めて走り回った車は、確かに最後までガス欠にはならなかったかもしれないけれども、ついにはそのまま廃車になり、「どこも走らなかった車」とも言いうることになる、人が生きながら何の命もなかったというのはそういう状態だ。
車はアイドリングしていてもガソリンを消費するし、それよりはガソリンを求めて走り回っているほうが活発に見えるが、けっきょくのところどうなるかというと廃車になるのだ、それで「けっきょくどこをドライブしたの」と言われると、両方ともうつむいて黙ってしまうことがよくある/ドライブそのものが廃棄になることはない、命が永遠だというのはただそれだけのことだ。
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おれだけが異様に気楽な理由
鏡を新調しようとして、検討のために久しぶりに百貨店に入ったのだが、改めておれが、他の一般的な人々とかけ離れて存在しているかがわかった。
ずっと以前から、それこそまだガキのような時分から、「なんでおれだけヘンに見えるのだろう?」と鏡に映った自分を気持ち悪く感じていたのだが、どうやらそうではなかったようだ、おれはどうやら実際に「違う」ので、違って見えて当たり前なのだった。
今になってようやく、本当にようやくという感じだが、おれはおれの特殊性を理解することができた、今になってようやく説明できるようになった、おれだけがありとあらゆる場所でひとり、「事情がない」という状態で突っ立っているのだ、だから鏡越しに自分を見ても空間の中で「なんだこいつ」と見えてしまう。
もちろんおれだって、表面的には「眼鏡を新調しようと思って」という事情を持って百貨店内にいるのだが、おれの場合はけっきょく事情がおれを支配していないのだ、おれがこれまでに無数の、ナゾの攻撃を受けてきたことや、逆にナゾの愛され方をしてきたことのすべては、この一点をもって説明がつく、おれはおれ自身で見ても浮いてしまうぐらいに、おれひとりだけ「事情がない」のだ、事情がない生きもの・事情に支配されていない生きものとしてずっとそこに突っ立ってしまっている。

おれは最近、生きものの身体が、やがて打ち滅ぼされるということから、「生きものの身体って、 "折檻" されるために存在しているよな」ということに気づいた。
折檻されて、痛苦によって滅ぼされるというのが肉体・身体・生の真相だ、それが暴力や性で為される場合もあるが、そうでもなくても事故や病気や老衰によって、肉体というのは急激にであれ緩慢にであれ「折檻されて痛苦によって滅ぼされる」ものだ。
おれはそのことについて、「イエスキリストでさえその肉体は折檻を受けて一度滅んだ」と指摘する、むしろその贖罪と肉体の真相を顕すためにキリストのストーリーはむごたらしい磔刑のシーンを含んでいると言える。
それで、折檻されて痛苦で滅びるというのは誰の肉体でも同じだし、痛苦というのは誰にとっても「痛くてキツくてイヤです」というものなのだが、同じイヤにしても、その向こうで許されている人と許されていない人がやはりいるのだ、ほとんどすべての人にとって生の反対は死であって、痛苦の果てに「滅びる」ということが、けっきょく最悪すぎてそのことを直視することができない/おれはその痛苦の向こう側についてはいつの間にか許されているので、そのことを直視できるし、生きるといっても根本的に「事情がない」のだ、人の事情はけっきょくこの一点、「痛苦の果てに肉体が滅ぶ」ということにどう救われたらいいのかわからないということから生じている。

水の反対が油であるとき、「生」の反対は「命」だ/ただしそこに命がないとき、生の反対は空っぽの「死」だ。

水の反対が油だとして、水が減っていけばどうなるか、それは油で満たされていくということになるだろう、とはいえそれは油が存在する場合に限る、もし油がないときに水が減っていけばどうなるか、それはただ空っぽになっていく、こうして水が減っていってゼロになったときが空っぽの死だ、この痛苦を伴う破滅エンドに対抗する方法がわからないので、人は他の生きものと同じように遺伝子を残して「生」に寄与しようとする、それは痛苦と滅びに対する救済を「生」に帰依することで得ようとする発想だ/この帰依がすべての「事情」を発生させている、つまり人々はこのひとつの帰依のもとで仲間として暮らし、同じ帰依の姿を全身で顕している。
そこがおれの場合、水がなくなれば「そりゃ反対の油で満たされていくだろ」というケースであって、おれが生を失っていくというのは命で満たされていくということなのだ、おれには破滅たる空っぽの死が用意されておらず、いわゆる「死を恐れない」ということじたいを必要としない、もちろん生は大事な資産なのでそれを無駄に捨てるつもりはまったくないが/「人は死んだらどうなるのでしょう」というありがちな問いに対し、「おれは死ぬコースではないので、おれに訊かれてもなあ」とおれは答えるしかない、おれだけがずっと異様に気楽なのはこれが理由なのだ、別におれはそうなろうとしてそうなったのではなく、気づいたらこうなっていただけだ、あとはあまりにもおれがおれ自身のことを話さずに来たのがいまいちマズかったかもしれないと思うだけだ。
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夜が味方する

の子がおれのことを好きなのは、当たり前であって、おれが何かをする必要はない。
好きになられるとか、そういうことは存在せず、前もっておれのことが好きなのだから、そのことに "気づかせてやる" だけだ。
もしおれが女の子に好かれないとしたら、それはおれがおれでないか、女の子が女の子でないのだ。
そしておれがおれでないことなんて、よほどの状況を除いてはありえないのだった、おれはホントにずっとおれだな、これは自慢しているのだし半ば呆れてもいるのだ。

といって、人それぞれいろんな状況、いろんな事情の中を生きているので、女の子がことごとくおれのことを好きだといって、それですべてが思い通りになるというわけではない/九割ぐらいしかおれの思い通りにはならないし、何より女の子自身が、自分の思い通りにならない。
だが、そんなことはどうだっていいのだ、おれはずっとおれのままだし、事情がどうあれ、女の子がおれのことをもとから好きというのは、それだけで世界が成り立つのだ、夜が味方するといっていい、昼もそうだが、特に夜が味方する、祝福があって「世界」がわれわれの味方をしてくれているのがよくわかる。
世界を切り離せば、物事をしょーもない認識で考えることができる、そうすると世間の正論が成り立ってくるのだ、正確には「成り立ってくるような気がしてくる」のだ、世界がなければ世の中というのはそういうつまらない「失敗のカタマリ」のように存在している、何をどう前向きになっても失敗でカチカチに固められているというような時空だ、そりゃあ世界もなければ祝福もないではどうしようもない、迷路に嵌るというよりは入り口も出口も与えられていないものを迷路だと思い込まされているようなもので、それは何かが始まるものではないし何かがフィニィッシュするものでもない。
すべての電車は、世界の住人を乗せるために走っているのであって、つまりおれとおれをもとから愛している女の子のために走っているのだ、そうでなきゃ電車なんてただの鉄オタの観察愛玩物じゃないか、夜が味方する、夜のすべての部屋はマンションから部室に至るまでおれとおれを愛する女の子のために存在している、例外はない。

世界があなたを認めていないのではなく、あなたが世界を認めていないのだ。

あなたが世界を認めていないから、あなたには世界が存在していなくて、いかなる夜もあなたの味方ではないように感じられて、だからあなたは世間に認められようとし、世間に味方される立場になりたいと、立ち回っているのだろう、あくまで世界を認めないなら確かにあなたの戦略が正しい、だが世間にあるのは必ず「取引とルール」であって、世間が守っているのはあなたではない、世間が守っているのは世間そのもの、つまり世間は「取引とルール」を守っているだけだ、そのためには誰が苦しんで死のうと世間は興味を持たない。
誰だって眉目秀麗に生まれついたわけではないし、誰だって財産や家柄や才能に恵まれて生まれてきたわけではない、そのことに対して世間はあなたに「大丈夫よ、平等よ」と言ってくれるだろう、比べて世界は沈黙している/それで世間こそあなたの味方であなたの庇護者なのだろうか? 世間があなたにやさしげな何かを言うのは、しばしば劣って恵まれていないあなたに、「劣っているけれど平等に分配するよ」と言っているのであって、世界が沈黙しているのは、「劣っているあなたに分配はしない」と言っているのだ、世界はあなたに分配ではなくあなたのすべてを与えると言っている、あなたのすべての夜をあなたのものにすると言っているのだ。

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おれは超スゴイ
という現象は存在する。
おれは、わざわざ「愛」なんて追いかけるつもりはないのだが、おれにその気があろうがなかろうが、おれからは愛の現象が発生してしまっている、そのことに敏感なのはむしろおれの側ではなくおれに接触する他人の側だ。
ただ、おれに接触する他人は、そのことに敏感なくせに、それが何なのかはわかっていない/一方でおれのほうは、基本どうでもいいと思っているのか感覚的に鈍感なのに、それが何なのかはよくわかっている、おれは理詰めで生きてきた者だからだ。
愛という現象は存在する、そしてその現象はおれから発生しているが、おれの意思として発生しているのではない、よって愛というのは人の意思ではない、もともとこの世界にある意思だとしか言えない、だからおれが何かを蹴飛ばそうとも、また誰かがおれを蹴飛ばそうとも、そんなこととは無関係にこの世界の意思たる「愛」は現象として存在するのだ、それがなぜなのかはおれは知らん、そんなもんおれに聞かず当事者に聞け、この意思の当事者たる世界に聞け。

聖書ではていねいに、われわれのようなバカでもいくらかわかりやすいように、「第一に、汝の神を愛せ」「第二に、汝の隣人を汝のごとく愛せ」と書かれてある。
おれはその第一にも第二にも心当たりがないというか、そもそも心当たりを必要としていないのだが、この文言が的を射ているのはわかる、このことを理詰めで理解したのはおれが二十歳のころ、エーリッヒフロムを読んでいたころだが、そのことはもう面倒なのでいちいち説明しない、聖書に書かれている隣人愛の説明はびっくりするぐらい正鵠を射ている。
おれは意図的に愛や隣人愛を実現しているわけではないが、ある種の仕組みによって「勝手にそうなっちゃう」のだ、端的に言うとおれは故障しているというか頭のネジが外れてしまっていて、根本的に「自分の他人の区別がついていない」のだ、だから「汝のごとく汝の隣人を」と言われても、あるいは言われなくても、そもそも汝やら隣人やらというのがすでに「よくわからない」という状態になっている。
おれがずっと昔から追求していた、あるいは追跡していた、現象のすべてを一言でいうとそれは「魂」(ないしは「命」)ということになるようなのだが、この魂とか命とかいうのは、正確には「誰の」というふうにカウントできるものではないようなのだ、だからおれは自分の魂と誰かの魂の区別がついていない、区別がついていないというよりそもそも区別がないシロモノらしい、だからおれは人のことは平気で蹴るが魂を蹴るわけではない/そりゃそうだ、どうしておれがおれの魂を蹴るなんてバカをやるのか、魂というのは「誰の」というものではないのだ、すべてひとつの主体のものだ。

おれは何もすごくないから超スゴイ。

なんというか、立派ですごい人というのは、何かスゲーがんばっていて善人だからすごいのだ、そこがおれの場合は違う、おれは見たまんま何もすごくないのに、にもかかわらずすごいから超スゴイ/おれはおれの何かを磨いているわけではまったくないのだ、もともと磨く必要がまったくないものが存在していてただそれだけを取り扱っているので結果的におれが超スゴイことそのものになるというだけだ。
ハッピーという概念があるが、自分がハッピーという状態になろうとする、つまり「アイムハッピー」という発想は誤りだ、ハッピーとは出来事のことであり、無理やり形容詞ふうに言うと「出来事ィ」ということなのであって、「出来事ィ」というのはそれじたいが主体であり主格だからだ、「わたしが出来事ィ」なんてことはありえないのでアイムハッピーという文脈は成り立たない、あるのは「出来事ィは出来事ィ」という、ハッピーイズハッピーしか成り立たない、「超スゴイ」はそれが人格ではなくていわば常時それが「出来事ィ」ということだ、人格ではなく出来事格だから超スゴイ、もちろんこんな話は何のこっちゃわかってたまるかというような話ではある。
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軍を忘れるな
ともな人のうち、文学に無縁な人など存在しないように、軍学に無縁な人も存在しない。
軍とは「いくさ」のことだ、おれは軍人ではないが、まともな人のうち軍に無関係な人など存在しない/警察と犯罪者のあいだでも、実際に交わされているのは「いくさ」だ、警官は腰に銃砲を携行しており、けっきょくは抵抗する犯罪者を「いくさ」の力で制圧する。
社会的には市民は軍事行動に無縁とされているが、そうではない、市民は権力によって軍を使役している、つまりわれわれには「人権」が与えられていて、その権力に基づいて、犯罪に巻き込まれた場合には警察を呼ぶ、実際にそうしてわれわれは「いくさ」の力を使用しているし、また常にその準備をしている。
テレビドラマというと刑事ものが多く、時代劇というと長谷川平蔵や遠山の金さんであって、映画というと戦争ものやギャング・テロリストもの、われわれはむしろ文学より軍学を愉しむことのほうが多いぐらいだ、「いくさ」の力がすべてを制している、われわれはそういう世界に住んでいる。

われわれは世界を見失うと、わけのわからない迷妄、鬱、際限のない刺激とオナニーという行方不明に陥っていく。
われわれは社会的に、二・二六事件を発想しないように、「軍」そのものを思念から切り落とすように操作・コントロールされているのだが、これによって世界を視認できなくなるのだ、この作用はまったくよくわからないもので、このことは世界の視認を取り戻した者にしか理解しえない。
ただでさえ日本は、軍隊を建前から自衛隊と呼んで認識が曲がりがちなので、われわれは世界の失認から鬱とオナニーの迷妄に陥りがちだ、おれが言っているのは暴力の礼賛ではない、暴力を否定するのも「いくさ」の力だという話をしている、ツイートで誰かの暴力を止められるわけではない。
この世界にはマンガやアニメやアイドルだって存在してよく、またマニアックなスポーツや趣味だって存在していいのだが、「軍」を忘れるとだめだ、おれは軍人を礼賛しているのではない、おれと軍人が殺しあったらたぶんおれが相手を殺すと思うが、それだけ軍・いくさというのは建前ではなくて世界そのものだということだ、おれがバスケットボールの選手とバスケの勝負をしたら勝つ見込みはないが、「いくさ」というのはそういう人為的な設定とは関係ない世界そのものの現象だ。

どれだけ非力な個人でも、「軍」でなくてはならない。

たまにテレビや Youtube で、自衛隊が近接戦闘の訓練・演舞を見せているけれども、おれが勝手に見るところ、彼らはちゃんと、まじめで、正しく、すてきなことをやっている、もちろん殺し合いの模擬でしかないが、模擬でいいのだ、それは空想でするヒステリー喧嘩とは正反対の、本当の「軍」だ。
「軍」には少なくとも、世界そのものの一部が現れているのであり、そこにはすてきなものがあるのだ、それがどうすてきなものなのかは、世界に触れていない人にはわからない、少なくとも暴力と軍の区別がついていないような人には視えようがない、おれが言っているのは侵略の話でもなければ自衛の話でもない、「軍隊」という集団の話でもない、ただの「軍」の話だ/軍を忘れるな、軍を忘れると世界から切り離され、決して解決しないむなしさに支配される、そのことを他に解決する方法は存在しない。
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アウトプットは大威張りで、インプットはわがままに2
界は主観的にしか存在していない。
主観の反対は客観だが、どちらかというと主観の反対は「一般」だ、だから世界の反対が「一般」になる/一般というのはつまり、自分が行くこともない場所の情報や、自分の口に入ることもない酒の情報をありがたがることだ、自分の友人になるわけでもない人々の数十億の意見をアテにすることだ。
おれはそんなものをアテにしたことはないので、これはおれのために言っているのではなく、誰かのために言っているのだ、世界の反対は一般で、一般にどれだけ優秀になっても何の世界にもならない、まして何ら劣等の言い訳にはならない。
世界は主観的にしか存在していない、そして主観は主体のものだ、ここで主体というのはこの世界で「おれ」しか存在していない/個々の人格、個々の自我を認めてやってもよいが、それはサルトルになるだけだ、サルトルの作った捨て台詞は「地獄とは他人のことだ」、これでサルトルの小説は終わった。

世界には「おれ」しか存在せず、一般には個々の「我」が存在する。
存在するといっても、世界が存在することに対し、一般というのは本当には存在していないのだから、正確には「個々の我が存在するという錯覚が、 "一般" という錯覚を生じさせている」ということになる。
おれはいつでもこのことを思い出す、この場所のことを、おれがずっといたこの場所のことを/おれはおれと世界だけのことを言い張って、そうでない人々は一般と個々の我のことを言い張っている、この両者はどれだけ近接してもけっきょく接触はしていない。
世界というのは無限の現象だが、無限だからこそやたら一般のように情報を広げなくてよいものだ、そうしておれはずっとこの聖域の中にだけ生き続けていることになる、おれの出来ることはこの聖域に、おれを入れてやることだけだ、ありもしない個々の我みたいなものはどうやってもこの聖域には入り込めない/この聖域は、常におれの周りであって、何の情報もなく無限だ。

何の技術も情報も要らない、「おれ」なら入れる。

おれの名をコールしてもかまわないが、他人の名をコールするのではだめだ、自分の名をコールしろ、おれの名を自分の名としてコールしろ、そこには世界がある、聖域に入れる。
外から聖域に入るのもそうだし、内から聖域へ入れてやるのもそうだ、「おれ」しか入れないし、「おれ」しか入れてやれない、世界とは主観の現象なのだ、主観は主体であり「おれ」だ、このことが外側の、ありもしない個々の我に理解されることはない、入れる者の名はすべておれの名だ。
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アウトプットは大威張りで、インプットはわがままに
れは本当に世間の話を聞いておらず、ゆえにおれにだけに救済のヒントがある。
ヒントどころか、おれじたいが救済そのものだが、おれは他人の誰かに何かを一切期待していない、おれは他人の中にもあるおれに期待しているのみだ。
期待? より正確に言っておこう、おれは他人の中にあるおれを信じているというか、他人の中にあるおれだけを相手にしているのであって、そのほかの戯言は聞こえていないのだ、このむちゃくちゃなやり方というかむちゃくちゃな感覚が、今になって唯一の救済の手掛かりになった。
おれは他人の人格を認めていないわけではない、いや、認めていないのかな、おそらく認めていないのであろう、おれは他人の主体は認めている、ただしそれが主体であるならば、それは他人ではなくおれであるはずだ、おれは他人の中にあるおれとしか接触しない、だからおれにとって他人なんてものは存在していない、その魂のうちにおれがいない誰かなどおれの世界に存在を認めない、そんなものはただの汚れた物質だ。

一方、おれが外側の何か作品等を楽しむときにも、けっきょく本当には、おれが勝手に作品を利用して、想像力で遊んでいることがわかった。
作品それ自体の概要や品質など、どうでもいいのだ、どうでもいいというのは言い過ぎだが、おれはけっきょく他人が表現したらしきものなどまったくアテにしていないし認識もしていない、ただおれが外部の作品にも入り込んで遊ぶだけだ、おれはおれとしか遊ばない。
これは何もデタラメを言っているのではなくて、まともな奴なら誰だって知っていることを、わざわざ再発見して言いなおしているだけだ、おれと誰かの距離感のなさ、おれが知人の誰の家に押し入って泊まり込んでも何の違和感にも迷惑にもならないというこの現象は、おれがおれの家に泊まりに行くだけだからということに結論できる、そしておれが他人のうちにもおれをぶちこんでいるので、そのときはじめてその他人も、「わたし」という主体を獲得するのだ、おれの世界においてはおれを通してしか主体という現象は獲得できない。
おれはこの五年間か、十年間ぐらい、ひとつの戦いをしてきたように思う、おれは他人の中のおれとだけ接触し、他人の中におれを入れ、他人の中のおれを引っ張り出してきたのだが、そのことをなぜか「がんばって拒絶する」人々が急激に増えたのだ、それでおれは生来のリベラル気質を発揮して、徹底的にフェアに構えた、そしてフェアに理知と理路だけで語ることにした、そうして「理路整然」なんてやり方をさせたら、けっきょくまた九折さんが勝つだけだ/そんなことを何年も続けて首をかしげていたが、ついにそうして「頑張って拒絶する」人々に対してフェアネスと理路を徹底するということは、「意味がない」と結論づけることができた、それは頑張って拒絶する人々に何の意味もないからだ、もちろんそれでもおれは誰かに何かを無理強いするということは性格上ない。

おれはフェアに、理路整然と、彼らに手がかりを与えてきたが、その手がかりは彼ら自身に、「絶対に無理だよ」という壁を教えるものにすぎない。

おれは生来的に、クソがつくほどリベラルな気質があって、たとえば何の経験もない十五歳の少女が、「クソアニメを見てオナニーしているだけのわたしだけど超絶の神技を手に入れて自分の優越感と承認感に恍惚となりたい、だけどあなたのことは認めたくないから方法だけきっちりわかりやすいように教えてね」というとき、おれは本当に方法だけきっちりわかりやすいように理路整然と説明するのだ、そして十五歳の少女が自己陶酔と承認欲求を叶えるためだけに神技を会得して無事クソアニメオナニーを続けていくことができるかというと、無理だ、絶対に無理なレベルの壁・精神の次元の壁があるのだが、おれはそれでもそれを「無理だとは思わない」と断じるほどにリベラルだ/おれはむしろ当人の意志がそれなのだから「そこで何億年経とうが一人でやれよ」と考える、幼児的万能感を叶えるためなら地獄に落ちてでもやれ、おれは相手がガキだろうが何だろうが、当人の発言と意志を最優先にする、たとえそれがどれだけ誤っていようともだ。
おれが超えられる壁は、人為的に超えられるたぐいの壁ではない、それを超えようと思うと、そいつの中にいるおれにしか超えられない、そのとき魂のおれが陽であってそいつの人格は陰なのだが、この陰は否定されているのではなく、陰陽が一体になって世界を為すのだ、陰でしかない無経験アニメオナニー陶酔人格が陽たる魂のおれなしに人為の及ばぬ壁を超えられるわけがない、重力に引かれるだけの陰たる人格がどうやって壁を超えられる道理があるか/それでもおれは、当人が己の人格の陶酔を言い張るなら、当人にそれを最優先させる、そしてそれは本当に「何の意味もない」ということが結論づけられた、つまり何億年経っても一ミリも何も進まないということだ、当人がそれを選んだとしてもそれはおれの選んだことではない、何しろ当人が自分の中におれはないと言っているのだからおれには何の関係もないと当人も言っている。
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あの空の下
はりいのちは永遠であって、生は有限だ、永遠のいのちがないから有限の生が直視できないのだろう。
おれはずっと、ひとつの空の下にいたことを思い出す、夏バテが抜けたから体調がいいんだろうな、いかなるときも呼吸をするのが気持ちよかった/体調が気持ちいいのではない、空気が、天の下の宝石のように気持ちよかった。
世の中がどれだけのものを展開しても、それらは「違うもの」だ、おれの話していることは誤解しかされないということが、どうしようもなく理解される、まったく「違うもの」に変換されるのだ、それは今さらしょうがないことだが、必ずしもそのことが致命傷というわけでもない。
おれがみんなにわかるように話をしようとすると、おれも表面上、何かを軽度に誤解した状態を偽装して話をするしかなくなる、こうすればおれの話は誰にもわかるようになるが、このときはもうおれの話すことに値打ちはないのだ、ああ何もかもが誤解にしかならない、これはシビアなことだからしょうがない。

おれは満天の星空をまともに見ることができない、あまりにも巨大すぎて恐ろしいからだ、まるで天体望遠鏡で宇宙のすべてを一気に視ているような感覚があり、恐ろしくてしょうがない、それは「心臓がもたんわ」というような感覚だ。
このことひとつをとっても、おれに視えているものは他の人とはまったく違うのだ、もしおれと同じものが視えたら、ふつうの人は夜空なんか見上げたら発狂するだろう、このおれでさえ「恐ろしい」「心臓がもたん」と言っているのだ、おれと同じものをふつうの人が視たら正気を保てるわけがない。
そうした星空(というかそれはただの宇宙そのもの)も含め、おれはいくつもの「あのときの空」という記憶があり、すべてのまともな思い出は、ことごとくその空の下でのみ起こっていることが確認される、おれが書く小説もだ、「あのときの空」はいつでもひとつのつながりを持った空であり、こうして言い方がややこしくなるのは、「あのときの空」には時間が流れていないからだ、そしておれは、時間の流れていない空の下で、やはり時間の流れていない空気を吸っている、天の下の宝石のような空気を。
ああ、そうか、これは夢うつつに見たことだが、やはり人はダメなのだ、人はそもそもダメであって、ただあの空の下にあるときだけ、人はダメな存在のまま許されることができるのだ、なぜ許されるのかはさっぱりわからない、われわれの知るような仕組みではない、多くの人は健全でまともで善良なふりをし、自分自身もその思い込みに掛かっているが、そうしてダメじゃない人のふりを続けざるをえないのは、あの空の下にないからだ、おれが見てきた学校の先生たちがそれだった。

「カワイイ」を演出しているのは、空の下にないからだ。

愛されるということと、現代でいう「カワイイ」というのはまったく別のもので、愛されるというのは、人の本質であるダメなものが、そのままでいて許されるということだ、なぜ許されるかというとあるときに疑いを持たなかったからで、何かを信じているというよりは単に疑い・不満を持たなかったことで許された、疑いを持っていない人は不満を持ちようがないので、不満と満足を比べっこするような愚行にも陥らない。
おれの言っていることは誤解しかされない、誤解しかされないのだが、一方でわけのわからない作用はおれから届き続ける、この作用が何なのかついにわかる人はけっきょく現れないのかもしれない、だがそれでいい、何しろもともとがダメな存在というのがわれわれの本分だ、おれにある唯一の本当のことは、本当に「あの空の下」というものがあって、あの空の下の空気を直接吸えるということだ、おれはそれを吸って存在してきた、それがすべての世界を与えてきてくれた、おれはわざわざ何かを信じてきたわけではなくて、ずっと吸っている「あの空の下」が、ただすべてを「許して」きてくれた、世界とはそれのことだった。
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「大切なもの」と痛み、および魂の関係
でもそれなりに好きなものがあり、それなりに叶えたい夢があったりする。
ただ、ほとんどの人にとって、もう「大切なもの」はなくなったのだ、なぜ大切なものはなくなったかというと、人が弱くなったからだし、世の中がやさしくなくなったからだ。
おれの場合、たとえば先日の野反湖の景色が魂に突き刺さっているあたり、おれは何でもかんでもにその「大切なもの」を触れてしまうのだと思う、この言い方はややこしいが書き間違っているわけではない、「大切なものを触れてしまう」で表現は正しい。
同じ場所にいき、同じことをして、同じものを見て、同じものを食っても、おれの場合は何かことごとくが「違う」というものになってしまう、おれの周囲にいる全員が「なぜだ?」と不思議がる定番のところだが、これはつまり、おれの魂が何もかもについてその「大切なもの」を触れるということから起こっている、通常の人はこの痛みに耐えられない。

「大切なもの」を触れることによって、それは魂の一部となるのだが、そのぶん、「大切なもの」は直接自分の魂の痛みにもなる、ふつうこの痛みに耐えられないので、「大切なもの」が発生しないように人は生きているものだ、ましてきょうび世の中はまったくやさしくないので、そんな弱点を持つといくらでも痛みを踏みにじる攻撃を受けてしまう、やめておいたほうがいいというその判断は100%正しい。
おれの場合けっきょく、他人の言うことをまったくアテにしていなくて、ほとんど人の話なんか聞いていないのだと思う、人の話なんかよりおれの大切なもののほうが大切というわけだ、これだけでも極度の奇人変人だが、それに加えておれの場合は痛みに苦しんでいるわけではないので特殊を極めている。
痛みがなければ魂ではないので、痛みは常に魂の必要条件だが、痛みについては「許される」「許されない」があり、許されていない人の痛みは「痛苦」になってその魂を苛(さいな)み続けてしまう、よくあるパターンとしてうつくしがろうとして耐えきれず自死する詩人などがこのパターンだ、その死に方は直観的に「何かダセェな」と知られるのだが、このダサさは「痛みが許されなかったんだな、草」というダサさだ。
つまりありていにいうと、人には第一の関門として「痛みに向かえるか」というガキみたいな試練があり、次に二次試験として、痛みが「許されるか」「許されないか」という試練を受けるのだ、一次試験さえオリる人は論外であって、試練としては二次試験のほうが遥かにキツい、おれはたまたま他人の言うことをまったくアテにしなかったので、何かしらまったく別のものによって、痛みの多くが許されることになった、ちなみに許されない痛みを根性で耐えることを「我慢」といい、これは「吾我の驕慢」という意味だから、痛みが許されなかった人はけっきょくド根性の後にモンスターになってしまう。

おれの場合、痛みは偉大なるおれさまと世界が許した。

むしろそれをおれは「世界」と呼んでいるのだ/「九折さんと歩いていると景色が異様にきれい」「街の明るさが増している気がする」という定番の現象は、おれが痛みの肩代わりをしているからだ、だから一緒に歩いている人もひととき「大切なもの」を触れることができる、もし自分かぎり単独でその大切なものと痛みを引き受けたら、それだけで二日間ぐらいベッドにもぐりこんで痛みに泣いているだろう(本来、青春というのはそういうことのための時間だったのだが)(しかもそれでも許されるパターンは極めて少ないという)。
誰でもそれなりに、好きなものがあり、叶えたい夢がある、そして楽しく生きている、が、大切なものがあるかというと、なかなか無いものだ、そこで焦って勇猛果敢なつもりで「大切なもの」に向かうのもよいが、想像を絶する痛みの予感で五秒ともたずパニックに陥るだろう、そしてすごすごといつもの楽しいワタシウフフに戻ってくるしかないのだが、それでもその壮絶な痛みの予感に触れて戻ってくるだけでも少しはマシな価値があるだろう、そこでそのことをバカにしないでいられたら、それだけでも人としてはとても「強い」部類に入る、ほとんどの人は痛みの予感からそれをバカにする・汚すという方へ転じるだろうが、あれ、もしそうなら、もうそんなことは一切やらないほうがいいなあ(矛盾)。
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あなたが平等の中を生き、血の報復に行きつく仕組み2
し上下関係が相互に魂から発生した場合、上下関係の制度を定める必要がない。
制度を定めなくてはならないのは、魂からそれが自然発生・自然成立しないからだ。
たとえば「気づけば初めから彼女は彼の半歩後ろについて歩いていた」という場合、「半歩後ろ制度」をルールで定める必要はない、そしてもしそんな現象が自然発生しない場合に、ルールとして「半歩後ろ制度」を定めてそれを強制したとしたら、何がどうなるか、そんなこと誰でもお察しだ。
制度として半歩後ろを強いられたら、その不快と屈辱に対する手当として、何かしらの金品を請求するか、それが給付されなければ半歩後ろから手をつなぐのではなくて出刃包丁で刺し殺すことばっかり考えるだろう、歴史上すべての下克上はそのように起こってきた/自分の大切な「上」の人を刺し殺すバカはいない、そうではなく制度で強いられた「上」だから血祭りにあげてきたのだ。

平等だからこそ、制度で上下を強いる必要がある、あなたの上司もそのように成り立っている。
だから、職場を辞したら上司なんてただのゴミカスおじさんになるし、たとえ職務中でも、もし憲兵がやってきて上司の頭をショットガンでコナゴナに吹っ飛ばしたら、とりあえず第一には気分がスカッと爽快になり、このことが「平等が果たされた」「不平等が果たされた」のどちらに感じるかというと、やはり何か「平等が果たされた」という感じがするのだ、だからわれわれはショットガンで頭を吹っ飛ばせばいいという維新の発想を持たないように教育・マインドコントロールされている。
おれは三島由紀夫ではないので、二・二六事件をやれと言っているのではない、そうではなく「平等だから上下制度が生じている」と言っているのだ、そしてそれが何かしら、行き着く先は血の報復にしかならないということを述べている、おれはまったく逆のことを言っている、「魂の上下関係が自然に成り立ってしまうから、平等の制度も必要」と述べている/たとえば何につけおれが誰にも「体調優先」と言うのは、平等制度の一面だ、体調は誰にでも平等にある、体調に甘えているといつまでも進めないというところはあるにせよ、それでも平等の制度として「体調優先」は言われ続ける必要があるとおれは思っている。
魂は天地のあいだにあって、天地という上下の中に流れるものを芯糸にしているから、この上下の芯糸を切断すると散漫化するのだ、ビーズステッチの芯糸を切断したときに散らばっていく無数のビーズをイメージしろ、すべてのビーズが途端に平面上・同じ高さに並ぶことがわかるはずだ、こうしてすべてのビーズはどれも平等になったのだが、それぞれが「自分が何なのかわからない、何をやっても何かにはならない」という状態になった。

おれは平等接触と上下接触をそれぞれ別物として実演できる。

このあたり、マジで実演できてしまうのが九折さんのたちの悪いところで、そうして実演されると話はわかりやすいが、何かもう人間離れしていてわかりやすさの反面めまいやパニックが起こるのだ/実演すると、感覚のいい人の場合、おれが何も言わないままその上下接触を向けるだけでも、「あ、はい」となぜかYesの応答を発するし(このとき彼女は安心を覚える)、そのまま逆に平等接触に切り替えていくと、やはり「やだやだ、やめて」と敏感に拒絶を応答する(このとき彼女は急激な不安を覚える)、これはこころの応答ではなく魂の応答だ、こころの応答はまた別だということで、これもまたその区別を実演できてしまうところがたちが悪い。
おれが恐ろしいことを言っているのではない、他の人々がおそろしい世の中を生きているのだ、上司の頭がショットガンで吹っ飛ばされても「特に何も思わない」「が、なんとなく今日のメシは旨い」というのが当たり前だという世の中を生きている、そしてその中でそれぞれが死んでいくしかないという、そういう恐ろしくも値打ちがない世の中を生きている、おれはそのことを「なぜみんな平気なんだ」と訝っているだけだ/だから世の中のおじさんやおばさんがあなたに何かをニコニコ話すと、あなたは本質的に不安になり、おれがあなたに「灰皿持ってこい」と言って、こうしてデタラメな話をすると、あなたは本質的に安心を覚えるのだ、だからあなたはこのおれのわけのわからない話を聞き続けているのだろう。
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あなたが平等の中を生き、血の報復に行きつく仕組み
下関係に入ると安心する。
平等の関係というのは「疑っている」ということだからだ。
完全に下の者に「あれやっといて」と頼むのは安心する。
完全に上の人に「あれやっといてもらえますか」と頼むのも安心する/これが平等の場合「あれやっておいて、くれるかな?」「うん、いいよ」みたいな政治が発生する、そこにおける信頼の担保は打算しかない。

ただ、上下関係には「入れない」のだ、上下関係に入ることはできないので、人がそれを捏造する、その捏造が慣習や制度になる。
慣習や制度というのは、本物のそれに入れなかった人々が表面だけ真似してみたイミテーションなのだ、そしてイミテーションだから本当のそれの作用はなく、表面を真似ただけで内部では平等の疑いと抑圧の不快が蓄積していく。
おれの知る限り、おれを慕ってくれる女性に向けて、「今日から平等でいこう」とおれが言ったりしたら、すごいショックを受けて「どうしてそんなひどいことを言うの」と泣くか、そうでなければ軽度の錯乱を起こすと思う、今や平等でいこうなんて話はただ「マンガイメージのゴッコ遊びをしていろ」と言いつけているにすぎず/また一方ではそうしたマンガイメージのゴッコ遊びが好きな人も多いから混乱する。
上下関係というのは、上が下を威圧するものではないし、下が上を拝み倒すものでもないのだ、それらは "上下関係に入れなかった人々の戯画" というような光景であって、上下関係に入れなかったからそんなマンガみたいなことをやっているのだ、そして頭の中はマンガに染まっていく。

安心できる日々は帰ってこない。

マンガにたとえるなら、現代のわれわれは、スラムダンクの「湘北高校バスケ部」みたいにはならずに、進撃の巨人の「調査兵団」みたいになるということだ、湘北高校バスケ部に比べると調査兵団は上下関係が成り立っていないのがわかる、いくら制度上の階級を定めてそれっぽく演出を加えても互いに上下に流れるものが存在していないので人々は孤立している/孤立した人々に信頼関係はないので、それぞれがずっと打算しながら、平等に不安の中を生きている。
これは、上下関係を取り戻そう、という話をしているのではない、ただ多くの人にとってただ生きることが、なぜこんなにもつらく、こんなにもむなしいのか、そのことを説明しているにすぎない、何度でもいうが慣習や制度で捏造した上下関係は怨恨の蓄積にしかならず後に殺し合い・血の報復しかもたらさない。
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いい思いがしたいんだがな

かにおれさまが偉大だとは言え、夏バテはするのだ、なんなんだこの馬鹿げた暑さは。
もうそれなりに長いこと文章を書いているように思うが、こういうド真夏と、反対のド真冬は、ちょっとまともに文章なんか書けない、こういう季節は創作に向くものではないのだ、ということで万事の言い訳にしておこう。
窓の外に吹く風が、熱風で、風が吹けば吹くほど暑い、こりゃもう気温が体温を超えているのじゃないか/夏バテから昨日は体調が悪くて、今はもう恢復したが、それにしても夏バテそのものが消えるわけじゃないな、何かもっとこう、今は単純なことだけ考えていたい。
学生のころは、部屋にエアコンがなかったので、暑すぎると原付で六甲山の丁字ヶ辻に逃げていたのを思い出す、こちら東京の都心はハデでいいところだが、いざ高原に逃げようとしても、どうしても富士山麓やら軽井沢やらまで行かなくてはならないので、困るのだった、というわけでこの話はまったく何の話にもなっていない(文章作法としてはサイテーの部類だ)。

何のために生きるのか、といって、「いい思いをした〜い」という、アホみたいなことを言ってみたい。
言ってみたいというか、おれはそう言いたければそのまま言うだけなのだが、いい思いをした〜いのであって、それはおれにとって願望ではなくて、ただの指針だ、指針を持たないとバカになってしまうので指針を持つようにしている。
いい思いというと、たとえばこんなとき、まったく必要としていないが、「何かちょっとしたカバンでも買おうかなあ」と考える、おれにとってそういうことを考えるのはきわめて珍しいことだ、そういえばおれにとって何かちょっとした私物が欲しいと発想することは数年に一回ぐらいしかないような気がする、おれはそんな状態なので、たまには「いい思いをする」ということを思い出さねば精神がヘンになるのだ/おれがいい思いをしないかぎり周囲の誰も祝福を受けないというのに……
といって、こんなことを言うとまた、「カバン買いましょう!」という勢力が決起しておれを包囲してしまうので、あくまでそれはたとえ話で言ったことだということにしておく、うーんおれは何だかんだ、いい思いをすることに慣れていないのかもしれない、なぜか何をしてもどこに行っても何をして遊んでも結果的におれは「くたくた」になっているのだ、どういうふうに切り替えたらおれは「いい思い」に浸ることができるのだろう、誰かその根本的な考え方を教えてくれプリーズ。

おれは「自分がもしキャバクラに行ったら」と考えると恐怖する。

何が恐怖かといって、おれはどうせ、おれの横で女の子が入れかわり立ちかわりすると、わけのわからない魂の読み取り等々をしてしまうのだろう、その忙しさを考えると想像だけで恐怖を覚える/これだけっきょく、おれはずっと魂の読み取りと魂のコールをしている、これをやめられないのだ、だからいい思いに浸る・耽るということができない、おれは何かありとあらゆる瞬間にその空間の「責任者」になってしまっている、おれは最近本当に数日間ぐらい山奥のキャンプ場ででもひっそり過ごそうかなと考えたりしている(うーむそれでもきっと、ボーッとすることなんて出来ないんだろうな)。
というわけで、おれはこうして「夏バテだ」と言い「いい思いをした〜い」と言いながら、けっきょく何をしているのかというと、こうしてそのことを文章作品にしているのだった、何かこの無限ループはそれなりにヤバいのじゃないのかという気もしてきた/魂のコール能力があるのはわかった、そりゃわかったしけっこうなことなのだが、魂のコールが「やめられない」というのは盲点だった、これはこれでけっこうヤバいんじゃないのかね、ひょっとしておれはもう倒れて死ぬときまで休みはナシだったりするのだろうか(誰か休み方を教えろ)。

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ヘイ、はらわたが腐っている
れはもと合唱団の指揮者だから、目の前の人から声が「出ている」か「出ていない」かはよくわかる。
誰でもが知っているとおり、そして目を背けているとおり、どう見ても B'z やミスチルやサザンと比べて、現代の歌手は声が出ていない。
どうしても視認しようとしない習慣があるようなので、もう一度申し上げるが、歌手なのに声が出ていないのだ、布施明や加山雄三や尾崎紀世彦や北島三郎や細川たかしに比べると現代の歌手は声が出ていない(細川たかしと比べるのはさすがにどうかとは思うが)。
なぜ声が出ていないのかというと、「そりゃあんなキモチワルイことしていたら声が出るわけないだろ」「あんなキモチワルイ奴から声が出るわけないだろ」と、本当は言わなくてはならない、どれだけ逃げ回っても必ずその当たり前のところに戻ってくるしかないのだからしょうがない。

もう一度言うが、おれはもと合唱団の指揮者なのだから、あなたがおれの目の前で、思いっきり「あー」と声を出してくれれば、その体内で起こっていることがわかる。
すでに想像の時点でわかると思うが、ふつうほとんどの人は、「大きい声」を出した時点で、それは「汚らしく」「弱々しく」「痛々しい」ものになることが予想される/それでも予想と現実は違って、現実はもっとひどい、目も当てられないものになるのだが(これは実際にやらされてみて初めて知ることだ)。
そんなこんなもあって、こっそりボイストレーニングに通う人や、通ってみたいと思っている人は多くいるのだが、本質的にはボイストレーニングに通っても無駄だ、なぜかというと事態の原因は技術や経験にあるのではなく、ただ「はらわたが腐っている」というどうしようもない事実にあるからだ。
はらわたが腐っているので、大きな声を出すと、そこに「汚らしい」「弱々しい」「痛々しい」という体質・血質が露出するというだけだ、ここにどのようなボイストレーニングをほどこしても、腐敗物に厚化粧と生クリームを塗りたくった声にしかならない/しゃーないだろう、実際に腹の中には汚らしい生クリームマンガと弱々しいマウント根性と痛々しいアニメ願望しかないのだから、何をどうやったってそのはらわたの声が出てくるしかない、またそれを技術やボイトレで回避できると考えるその発想がいかにもはらわたが腐っている。

顔面ははらわたの腐敗を隠すための愛想装置じゃねえぞ。

そんな、顔面や髪型や作り声や作り笑いを、あれこれデコレーション・シロップで味付けされたって、はらわたが腐っているものは腐っているんだよ、これはどうしようもないことだ/おれは意地悪を言っているのではない、危機的な進行に少しでも巻き返しや、そうでなくてもブレーキをかけたいのだ、あなたとおれとで相互に目の前で大きな声を出し合ってみればそれだけでわかる、どうしようもないのだ、はらわたが腐っているというこの耐えがたい恥辱に向き合わないかぎり、あなたには「勇気の欠片さえない」という事実まで付属してしまう。
そして多くの人が、自分のはらわたが腐っているという事実から目を背け、なんだかんだ、はらわたの腐っているコンテンツをむさぼり、はらわたの腐っているまま自己表現・意見行動を重ねてきたわけだ、そりゃはらわたの腐っているところに、目の前で腐っていない大きな声をぶつけられると苦しいからな、このえげつない事実に直面しないために逃げ回ってきたのだという事情は斟酌するまでもなくよくわかる……けれども、どのようにむつかしいふうに、シリアスなふうに変形してみても、けっきょくは同じだ、「はらわたが腐っている」という何の複雑性もない、ただ直視しがたいだけのシンプルな事実に帰ってきてしまう/あなたはこの話を「まったくその通りだ」と噛みしめるかもしれないが、じゃあ一週間後はどうなっているとかというと、はらわたの腐敗は「進行しました」というのがほとんどだ一週間けっきょく、はらわたを腐敗させるものを好んで摂取し、また好んで口から吐くということをやめられないのだから、それは麻薬中毒者が「体内が腐っていく」と恐怖・実感しながらもその中毒を進行させざるをえないのとまったく同じだ。
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魂をコールする能力2
きな潮流が来ている、けっきょくおれがやるしかない。
これだよなあけっきょく、いくら理詰めでまっとうなことを他人に積み重ねさせたって、意味がないのだ、けっきょくはおれだけがすさまじいのであって、おれが他人に教えられることといえば「な? どうしようもないだろ」ということぐらいだ。
偉大なるおれさまはすさまじすぎて、けっきょくおれさまは世界になってしまい、世界があるのだからもうどうでもいいだろとなって、これという自我はなくなるのだ、それで自我どころじゃない「いそがしいっス」になる。
座り込んで半眼ふうになって解脱ふうなんてヒマそうなものはニセモノだ、世界になった偉大なるおれさまというのは栄光で光輝いているので、そんな解脱コピー品みたいなヒマなまねごとをやっている無駄な時間は一切ないのだ、どれぐらい忙しいかというとサザンの海とすべてのハリウッド映画が重なったぐらい忙しいのだ。

「お前らはなぜそんなにアホなんだ」という言い方をよくするが、いいかげん理解が変化してきた、こりゃムリだわ、偉大なるおれさまの影を踏むていどにもお前らが賢くなる "はずがない" 。
こんなに差があるのか、といって、この差はもう埋まるとかそういう性質のものじゃない、おれが一方的に降り注ぐしかなく、降り注いだとしてもお前らみたいなモンにはわからないのだ、降り注いでいるということさえわからないんだぜ? おれを慕う奴もおれを拒絶する奴もけっきょく視えてはいないのだ、どちらもハズレがグイグイ視えてしまってそれに囚われてヘッヘッヘということを繰り返すしかない、そこでおれがまったく誰にも知られないまま降り注ぐしかないという、なんじゃこれの状況が続くしかないのだ。
おれがお前らに大革命と真理をもたらしているとき、逆なのだ、おれの側は根こそぎレベルを下げているのだ、お前らが「うおおお↑」をしているときはおれは「はあああ↓」をしているのだ、おれはスイッチをオフにすれば世界になるのであって、わざわざレベルダウンスイッチをオンにして何かをもたらしているというのが真相だ、おれは視るということをやめれば(スイッチをオフにすれば)世界が視えてしまうという状態なのであって、おれは正直なところもう何も参照する必要がないのだ、もともと世界になっちまうもんが世界のために何を参照する必要があるというのか。
このようにして偉大なるおれさまは、偉大なるおれさまとして存在しており、何をどうやっても「おれ」なんてものは存在していないのだ、その存在していないっぷりは、お前らが個々人のごとく存在していないのと同様にだ、お前らが存在などしていないのと同等におれというのも存在していないのだから、その存在していないっぷりは明らかで保証があるだろう、おれの言っている偉大なるおれさまイコール世界というのは、何もかもがあるから何も要らない世界のことだ。

おれに賢さは要らねえ、おれが賢く見えるのはお前らに理解できるようレベルを下げているからだ。

で、けっきょくどこかでおれが、スケールをボンッとやって、偉大なるおれさまで包むなり降り注ぐなりするしかないのだが、そうしてボンッとやったとたん、お前らは救われるけどお前らには完全に理解不能になるのだ、降り注いでいることさえわかりゃしねえのだ、そりゃそーだ、「あたし」なんてものは存在していないのに、その「あたし」に依拠して理解しようとしているのだからそんなもん成立するわけねーんだよ/悪く言っているのではない、おれはまったく別のことを言っているのだ。
バスケット選手はバスケットボールを手にするだろう、トロい選手は試合中にボールに触れることができないかもしれない、優れた選手はボールをよく受け取りキープできるだろう、トロいとか優れているとかいうのはそういうことだ、だがそういうことじゃない、バスケット選手はどうやってもバスケットコートから出られねーだろという話をしている、愛というのはそちらの現象であって、手のひらの毬みたいに持ったり投げたり取ったり失ったりするものじゃねえ、誰かがコートに入れてくれたらそこはバスケットコートだ、自分から唾を吐いたりして追い出されたりしないかぎりは。
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魂をコールする能力
ったことに、やはりおれにはヘンな能力があることがわかった、それは超能力ということではなくて根源的な能力ということだ、まあ実際の感触は何か超能力じみている感じもするけれども(でもそういうもんじゃねえ)。
おれの書いている文章は、わけがわからないのに、なぜか読んでしまうという具合であなたは読んでいると思うけれども、これはアレだ、おれがあなたに「読む」という主体を入れているのだ、あなたの魂がうんぬんというより、おれがあなたに読む魂を入れているということになる、だからこそこのわけのわからない話もなんとなく「はい」という感じであなたは読んでいる。
これが超能力でない証拠に、このことの発現には何かしらの接触がいる、こうして言葉を書き連ねて接触しているのもそうだが、あるいは一声、あるいは指一本がどこかに触れているだけでもこのことは起こる、あなたにはふだん主体性などないのだが、おれは接触によってあなたに主体性を入れることができるのだ、だからあなたはおれの話を聞いているときなぜか自分の「人格」がどこかへ消えているような感触を覚えている。
もちろんおれがコールしてあなたに与える主体性を、あなたが拒絶することもできる、それはあなたがおれのことを信じず(というよりは一切の「信じる」ということをやめて)、代わりに「人格」という防衛装置を立ち上がらせて稼働させればいいだけだ、まあ直接の接触だとその人格を破砕して主体性を流入させることも不可能ではないが、そんなことをする意味も利益もないのでそんなことはやらない。

「人格」というのは、「主体」という現象に対するバリアなのだ、なぜそのようなバリアが必要かというと、主体という魂の現象が流入するとして、必ずしもその魂というのはよいものとは限らないからだ、単純に言うと「主なる神」という側の主体性・魂もあれば、サタン側の魂もあるということ、どう考えてもサタン側の魂なんか入れられたくない。
今、おれの周りのほとんどの人が、やたらにおれから「命令」なり「申し付け」なりを受けることを求めてやまないのだが、これは何を求めているかというと、「主体性プリーズ」と求めているのだ、驚いたことに主体性という魂の現象は当人から発現するのではなくおれから「入れる」ということで当人に発現するのだ、これはキリスト教のそれとは分離して一般的な語彙として言えば、つまりおれには「洗礼」をする能力があるということになる。
おれがあなたの人格に何かを強制したり、何かを要請したりすることはないのだ、あなたの人格に対しては「ボールペン買ってきてくれ」と依頼することさえない、そうではなくおれが「ボールペン買ってきてくれ」と言えば、そのことはあなたの人格に査読されることなく直接あなたの主体性となって、あなたにはボールペンを買いに行くという主体性の魂が入ることになる、この主体性の世界を歩きたくて多くの人が今「うおおお」となっておれからの命令を待ち焦がれている(わけのわからん話だがマジにそうなのだからしゃーない)。
このことに巻き込まれたくなければ、人格でバリア処理すればいいだけなので何の問題もない、誰でも知っているようにオカルトや悪徳商法には巻き込まれないのが一番だ、それは当たり前でかまわないのだが/問題はこの主体性の現象を、とっさにおれ由来だと直観する奴と、自分由来だと誤解する奴に分かれてしまうということだ、自分由来だと誤解した瞬間におれからコールして発現させていた魂・主体性は、パッと砕け散って雲散霧消する、そこで当人は「人格」で魂と主体性のふりをするのだが、それは人格なので基本的にカルマ動力でしか動かず主体性の現象はもたらさない、困ったことにここ数週間で、おれの「魂をコールする能力」は格段に飛躍してしまった、ただでさえまずいようなレベルにあったのにいよいよわけのわからないレベルになってしまった。

つまり、おれと接触すると「やること」が生じる、おれを切断すると「事情」が支配する。

おれが書き話すことを、あなたが読まなくてはならない「事情」は一切ないはずだし、またおれの書き話すものには何の娯楽性もないので「何が楽しいの」と言われてもまったく説明できないはずだ、けれどもこのことはあなたにとってナゾの、自分の「やること」になっており、やることに意味があるわけではないが、決してむなしくはない何かになっているはずだ。
おれがおれ自身、人格ではまったく行動していなくて、常に魂・主体性だけで行動しているので、いつのまにか「人」に接触するのも、その人格と接触するという性質がまったくなくなってしまったのだ、それで初めから相手の魂・主体性に接触するという能力しか使わなくなっているのだが、このおれと猛烈にぶつかる・反発する人というのは、おれが魂をコールするより先んじて、すでにサタンの魂が入っている、おれがこれまでに見てきた「???」の現象はすべてこれだったのだ。
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ポイズンで痛みを消す原理、そして魂がなくなる原理
れまで繰り返されてきたパターンが、「痛み」というキーワードですっきり説明されるので、いっそのことおれは気分がよくなっている。
これまでに繰り返されてきたパターンというと、まず誰かが九折さんに会うと、何かよくわからないが「やさしい」という感触を受けるようだ、それは今になって「九折さんが痛みを肩代わりしてくれているからだ」と説明できる。
それで、肩代わりによって痛みの負荷がなくなった人は、ふと自分の魂が得られてくるような(統合されてくるような)現象を体験する、なぜかというと<<痛みの負荷がなくなることによってポイズン漬けから脱却できるから>>だ/ここでいうポイズンとはオピオイド的な麻薬・鎮痛剤であって、今多くの人は脳内麻薬的にこの鎮痛剤を分泌することで痛みを抑えている、この鎮痛剤のせいで魂の解離・全身のポイズン状態が起こっている、このことが一時的にせよ緩和されるということだ。
これらの現象が急激に起こるので、多くの人はわけのわからないまま希望と安らぎを取り戻すのだが、これはおれが目の前で痛みの肩代わりを続けているときに限られるのであり、それぞれ各自が「さあがんばろう」と取り掛かろうとすると、痛みは再び自分で引き受けねばならないことになるので、ここで急激なショック症状が起こる、感情が激化したり気分が暗転したり、パニックと呼ばれる症状、あるいは強度の失錯が起こったり、場合によっては一時的に恐慌・錯乱に陥ることもある、これは魂が統合と解離で逆方向に同時に引っ張られるからだ、けっきょく自分で痛みを引き受けられるわけではないので当人は何もわからないまま何かが「しっちゃかめっちゃか」になる。

「ポイズン」、毒というとマイナスのイメージしかないが、ポイズンは痛みを消してくれるので、多くの人にとっては「癒し」に感じられているのだ、もちろん医療行為としては鎮痛剤は正当に使われていいし、今どき「麻酔なしでやれ」みたいな思想は少なくともおれにはない。
ただ魂に関わることにおいては、痛みはそれじたいが魂であって、ポイズンで痛みを消すということは、つまり魂と人格を解離させるということなのだ、魂と人格が解離するから「痛みが魂に届かない」、だから痛みが消えて「癒し」に感じられるという仕組みだ、そうすればもちろん痛みは消えるというか非接続状態になるから助かるかもしれないが、そのぶん、自分の人格がどうやっても魂につながらないという状態になる、つまり人格が「キャラ」になってしまう。
人格が「キャラ」というのはたいへん虚しいことであって、誰だって自分の人格が魂と統合されたなら、何の意味もない「キャラ」なんてやりたくないと思うものだが、魂と統合された人格を、「さあ自分でやってみよう」としたとたん、何か壮絶な、自覚の及ばない膨大な痛みが降り注いでくるわけだから、これはたまらない、もう反射的にこれまでの習慣として「ポイズン」を自分に発生させるわけだ、そうすると降り注いできた痛みは消える、その代わりもう統合された魂はなくなって再び元の「キャラ」に戻っている。
この二律背反(こちらを立てればあちらが立たず)は、なかなか強烈なストレスで、しかも原因が「痛みを引き受けられないという自分の弱さにある」とはまったく想像もしないので、たいていの場合は巡り巡って九折さんに八つ当たりをすることになる、おれはこの八つ当たりのせいでそれなりの暴力を受けたり土下座させられたりをけっこう繰り返してきたが、そうなるともう相手はどのようにしても魂は戻ってこなくなった、本当の構図としては「魂を取り戻させるために痛みを肩代わりしてくれた人を打擲して土下座させた」ということそれ自体が猛烈な毒となってその人を縛り付けてしまうからだ、おれ自身は正直どうでもいいことなのだがとにかくおれがズタズタになってもけっきょくそれはよい方法にはならないということが残念ながらわかってきた。

まず「なぜ自分に魂がないか」について合理的な理解を得よ。

痛みを引き受けられないのだ、それぐらい弱い者として生きてきたはずだ、弱い者はどうするかというと、痛みから逃れるためにポイズンを使う、ポイズンを投与すると魂と人格は解離するので、魂に痛みは届かなくなる、そうすると表面上「強い人格」という欺瞞が得られる、いったんこのようにしてしまうと欺瞞された人格の上に痛みの負債が蓄積するので、もう二度と魂との統合はできない、ということに進んでいく、そうして人は老人になってゆく。
ポイズンには貪瞋痴という三種があり、それぞれ貪り老人・憤怒老人・痴愚老人と進んでいくのだが、この現象を認めることじたいに痛みがあるので、この現象が認められずさらにポイズンが投与される、という当然の悪循環に向かってしまう、だから解決法にはまったくなっていないが、とにかく現象としてすっきり解明されたので、おれは気に入っている、誰だって魂といのちを得て存在したいと望んでいるが、その願望は「痛み」の存在を除外して空想しているから夢のように思えるだけだ、おれの見る世界は確かにぶっとびでうつくしくてそれだけでもう絶対の価値があるけれど、このことのために引き受けねばならない痛みというと、「今さら急にそんな方向転換は無理だろ」と常識的に思いもするのだった、とりあえず仕組みが解明されたのですっきりして気分がいい。
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現実は催眠術と呪術で成り立っている2
実は催眠術で成り立っているので、あなたに掛かっている催眠は基本的に、「現実的に」という単語で引き出されてくる。
思い返してみればわかると思うが、あなたにとって「現実的なもの」といえば、ひとつには血縁者のことであり、ひとつにはあなたを「閉じ込め・括り付けている環境」のことのはずだ、それがダブルに重なって「家庭」になっていることも多々ある。
現実的にはいろいろあって、たとえばどんな仕事をしても、現実的にはいろいろあってそう簡単にはいかないものだが、そこを「催眠術的に」と言い換えると、現象の本性が知られてくる、つまり現実的にはいろいろとんでもないオッサンやオバサンが絡んでくるので万事は簡単にいかないのだが、それは「催眠術的にいろいろあるからそう簡単にいかない」というのが真相だ、しかもその被催眠者たちは呪術で固められているのでまず生涯剥がれないものだ(それどころか年々強化されていくものだ)。
真の現実としては、たとえば親子であっても、何か物理的な関係があるのかというと、関係はないのだ、憲法には身体の自由が保障されているので、たとえお盆であろうが正月であろうが、「帰ってきなさい」と親が言うのに「知るかボケ、誰だお前」と言い切ることは可能だ、そちらが本当の現実なのだが、催眠としての「現実的」にはそうはいかないという感覚がある(これが「思い込み」だ)。

ところがその「現実的」というのも、親が「帰ってきなさい」と言うのに対し、たとえば弁護士が入って「強要罪になります」と言えば親もスゴスゴ引っ込むのだから奇妙なものだ、それは犯罪をやると刑務所というよりキツい「閉じ込め」が待っていることや、罰金や慰謝料という「出血・吸血」があることを知っているからでもある。
もともと江戸時代には幕藩体制の中でそれぞれの武家が「代々」、親孝行するのがエライのだとインチキ朱子学を思い込まされたので、そのことがずっと続いて現代の「親子」が成り立っている、本当は親孝行の何がエライのかについては根拠もないし理由もないのだ、そしてしょせんはお上が強要した朱子学でしかないので、同じお上に権威を保障されている弁護士が「強要罪になります」というと、まあ素直にお上の仰せに従うものだ、こうして現実とは異なる「現実的に」という思い込みの現象は成り立っている。
本来、何か「祝福」があって、それこそお盆や正月には親にも会うし地元の旧友にも会うということならステキだったはずなのだが、そうした祝福というのはほとんどの人には与えられないものなので、祝福が与えられない人は人為的にイミテーションの祝福を偽造する、つまり祝福なき親子は催眠と呪術で思い込みの親子をやるのだ、しょうがない/誰がトクするんだと首をかしげたくなる話だが、まあいったん思い込まれてしまったものはもうどうしようもないので、せめて自分かぎりはそうした思い込みには無縁であり続けるしかない、首を傾げ続けているのが真の現実としては正しい。
わかりやすく親子を例にしたが、上司と部下だって、閉じ込めの環境の中でやはり同じように、祝福なき人々として催眠と呪術で思い込んだ同僚と社会人をやっているのだ、祝福が得られないだけでこんな目に遭うのかというところだが、むしろそのことまで含めて「真の現実」なのだと思う、真の現実を引き受けて生きることが真の勇気だとおれは思う/多くの人がまだ呪われていない若い人を、「世間の荒波」で揉もうとするのだが、荒波で揉まれてきた当人たちは、なぜか知らないがとてもしんどそうだ、結婚でまるで幸福にならなかった母親も娘に結婚を促すし、荒波で死に体になったおじさんやおばさんも、なぜか次の世代を荒波で揉もうとするのだった、祝福がないところはこうしてすべて勇気なき催眠と呪術の思い込みで代替されている。

現実的なことをやりくりしてよいが、それはあくまで催眠術的なのだと知っておくこと。

集団ヒステリーがしばしば心身に作用まで及ぼして事件になるように、強固な催眠で思い込み状態になっている人のことを真に受けていると、自分まで催眠状態になっていくことがよくある、ましてそこに血と閉じ込めの呪術が加わるのだから一入だ/それでもすべてのことは、NHKがあなたを実名で取り上げて「独立した一個の個人です」と報道すれば、上司も両親もあなたのことを手放すのだ、なぜNHKに報道されたらすべてが霧消するかというと、「お上」に刷り込まれてきた思い込みのほうが強力だからだ、より強い催眠術のほうだけが残ると先の記事に述べたとおり、あなたを支配している「現実的」なんてそんなものでしかない(ついでに、現在のあなたは、「現実的に」という呪術によって、ここに述べられている仮定について「現実的に考えられない」と感じがちだ)。
これら、世の中・現実を形成している催眠と呪術に対抗しようとして、より強烈な、すべてを打ち払う呪術と思い込みを得んと、これまでにいくらかのテロリストも出現してきた、テロリストは自他の血を直接大量に流すことで、自分に掛けられた催眠と呪術を振り払おうとしたのだ、そうまでして思い込まされた「現実的に」を振り払おうとした、祝福なしに催眠と呪術に頼った以上、あなたの持っている「現実的な」を本当に超えようと思うと、流血現場のテロリストになるしか方法がないのだ、そこで「両親をこそその手で殺せ」とした革命もかつてあった、現実的以上の思い込みを革命に持たせるためだった、重ね重ねこう言いたくなる、「祝福がないだけでこんな目に遭うのか」。
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現実は催眠術と呪術で成り立っている
ともと呪い・呪術は、人為を超えた「祝福」が得られない人が、人為的にそのパワーを得ようとして施す術だ。
そして呪いというのは、単純には一種の「思い込み」の作用を用いるもので、ただし単なる思い込みではなく、それに生きものの「血」の性質を括り付けようという発想で為される、それぞれの生きものによって血(業・カルマ)の性質が違うので、それぞれの血によって、虫を使えば蟲毒になるし、犬を使えばイヌガミになる。
生きものの血は、いくつかの状況や刺激を与えると暴走するという性質があるので、「閉じ込める・拘束する」「共食いさせる」などの環境を課して、その血を暴走させる、その血を摂取すると共に「思い込み」を刷り込むことで、その思い込みは心身を変化させるほど強力になるということだが、これは「思い込み」なので一種の催眠術でもある。
催眠術というと、ふつう「テレビで何度か見たことがある」というやつだが、あれがインチキなのかマジなのかはさておき(別にインチキではない、前もって入念に暗示をかければ掛かりやすい人はああなる)、催眠術がインチキとかマジとかいうより、実際には人の世は「催眠術だけで成り立っている」といっても過言ではない、そしてその強化したバージョンが呪い・呪術になっていると捉えるとすっきりしてわかりやすい。

たとえばあなたの母親は、常にナゾの深刻なネタとして、娘であるあなたに「そろそろあなたも結婚を考えなきゃね」と言い続けるわけだが、実はこのことには何の根拠もない、「結婚して子供を持たなきゃ」ともいわれるが、それがなぜなのかという理由はまったくないのだ。
根拠も理由もまったくないのだが、もう長いこと催眠術と呪術に掛かっているので、およそそれが根本的に取り外されることはないだろう、そして母親と娘は血縁の第一親等なので、血の関係から呪いがよく聞く、これが典型的な「催眠術と呪いの合成パターン」だ、こんなもん「あなたも二十歳になったのだから鼻毛の標本を作らなくちゃ」という内容でも同様に成り立ってしまう、何しろどちらとも根拠も理由もないのだから。
ブラック企業やかつてのモーレツ社員なども、外部から眺めているとまるでアホみたいで宗教じみていると見えるのだが、あれは「閉じ込める」「同期と競わせる(共食いさせる)」ということで呪術が成立している状態なのだ、目の血走った営業マンが機械のように業者をやって他人からカネを吸い上げることだけに働くのだが、そういう「思い込み」を呪術で強化してあるということだ/かつてのモーレツ社員が悪いわけではない、祝福を受けられなかった憐れなハズレモーレツ社員が呪術に頼ったのがハズレというだけだ、アタリの人々もかつてはいてアツい時代を過ごしただろう、そもそも彼らは従業員であって社員ではない。
あるいは、たとえば法律では「人を殺してはいけない」ということになっている、と思い込まれているが、人を殺してはいけないとはどこにも書かれていない、「殺人はこれを罰する」と書かれているだけなので、ちゃんと罰を受けるのなら勝手に殺人してOKよとも読み取れる、かといって全員がそう正しく解釈したらけっこう世の中はムチャクチャになってしまうだろう、このように人の世というのは催眠術の思い込みを呪術で強化したもので成り立っている/もちろん、まったく別の意味で「そういう殺しをしてはいけない」と何かから教わることがあったなら、それはラッキーだが、それはその人に祝福が注がれたということなのだ、ほとんどの人はそんなイイことにならないので、やむをえず催眠術と呪術をほどこしている、祝福の与えられない者に人為的な呪術をほどこすのだと先に説明したとおりだ。

先により強固な催眠を掛けられている人は、催眠術には掛からない。

たとえばブラック企業に閉じ込められて邪悪営業の訓練呪術を施されている人は、そちらの催眠術のほうが強力なので、その他のお遊びのような催眠術にはもう掛からないのだ、だからたとえば強烈な催眠と呪いに掛かっている教育ママには今さらチャチな催眠術は効かないし、教育ママをやめさせようとするとカルト宗教か何かの施設に閉じ込めてより強力な催眠と呪術で上書きするしかない、そうしたらママは教育ママをやめてくれるだろう(そのかわりこんどはカルト宗教に激烈に入信させられることになるが)。
このことから何を発見すればいいか/それはつまり、「祝福を得られないだけでこんな目に遭うのかよ」ということだ、すべては祝福が得られない人がその代替に催眠術と呪術に頼るということから始まっている、ここで「祝福なんかなくても生きていけるさ」というのは事実ではあるが、その代わりに大量の催眠と呪術をブチこまれなくてはならないと考えると、どう見ても第一には祝福があるほうがステキでナイスなのだった、祝福がある人は思い込みを持つ必要がないので、催眠にも呪術にも用事がなくなる(作用も受けなくなる)。
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