☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
WS報告078(2)/毎回、具体もやってます
まにはまじめに身体操作の話。
われわれは「脚」と「股」の区別がついていない。
正しくは、「脚を上げる」ときは「股は下がる」のだ、ここで脚も股も一緒くたに呪縛されているから動きが不格好になり関節に疲労とダメージが溜まる。
われわれは、ハリガネのような人間像を描くとき、胴体の下に脚が生えているという図を描く、この図が誤っているから、われわれの脚はまともにはたらかないのだ、われわれの脚は胴体の下にはついていない、脚はなんと「横」についている/脚というのは胴体の "サイドパーツ" なのだ、そして胴体のボトム部を「股」と呼ぶ。

下腹から股間に片手を当てて、もう片方の手を、左でも右でもいいので、脚の付け根に当てる。
脚の付け根といっても、どこだかわからないので、「骨盤の下の、掴めるところ」をガシッと掴むしかない、そしてその掴んだところ(脚の付け根)を上にあげる、そのとき下腹から股間に当てた手は下がらないといけない。
これで正しく股関節がリリースされ(呪縛から解放され)ると、膝から下、脚のすねから下がぶらんぶらんに脱力できる/いくら膝の力を抜こうとしても、構造上、根っこの股関節の側が呪縛されていると脱力するのは不可能なのだ。
といって、こんなことを文章で説明してもまずわからないので、こういったことを「身体操作」といって、割とまじめに実地・具体でやっているのだった/具体はとても大事だ、<<具体だけでは何にもならない>>にしても、具体は大事だ。

立ち姿で、膝が正面を向いているのは不自然だし、かといって外側に向けるのも不自然だ。

股関節やら膝やらの「関節」は、もともとの構造があるのだから、その構造のとおりに解放してやると(呪縛を解除してやると)、しかるべき方へ向くのであって、それを力ずくで「正しい方に向ける」という発想はおかしい、そんなものダメージになるに決まっている/理学療法的にはきっと、起立・歩行を支える脚の「筋力」を重要視するだろうから、力の入りやすい状態を尊ぶだろうが、当ワークショップではそうではない、力を入れなくて済む状態、関節を動かさなくても動く状態を尊んでいる。
われわれは、くるくる回る椅子やスツールに座ったとき、それを「動かす」とはいちいち思わないものだ、いちいち「動かす」と思わなくても椅子はくるくる回ってくれる/関節も本来はそういうもので、もともと「動く」ように作られているのだから、解放されれば「動かす」というパワーの入力は必要ない、このことをきっちりやりこむと巨大なメリットがあるのだが、それにしても地味なので、やる気を出してもらうために女性などには「脚が長く見えるようになりますよ〜」とけしかけている、そうすると「何ッ」と反応してやる気を出すのだから、うーん、股関節も膝も大事だねということなのだった、また来週もやりましょう。
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WS報告078(1)/二月の宿題と困難の発見
「出来事を公的に語れ」という宿題を各員に出している、通称「二月の宿題」でありこのことは以降毎月課される。
ノルマは「20分から45分くらいだなあ」とし、各員はギョエエエと悲鳴を上げたのだが、やり始めると一部には、各50分の前後半・二本立てというようなことをやり始めるありさまだ、何がギョエエエだったのかと聞きたい。
二月の宿題を済ませた者から、「次の宿題テーマは何ですか」とウキウキ聞いてくるぐらいだから、各員が単純に、「勉強を楽しみにしている」、そしてこのことは各員にとって生まれてはじめてのことらしい。
そんなこんなで、今この月曜日の朝も、寝たり起きたりしながらワークショップが実は続いているのだが(ドン引き)、とにかく新型肺炎は防御しようねという、真っ当なことはそれぐらいしか言えないのだった。

ワークショップは、結局万事が、「自分ってこんなのなのか」ということに直面する仕組みで出来ている。
人は、ふつうわざわざ自分で実験して、自分自身のデータを取ったりしないので、自分に直面することはないまま、すべてのことについて漠然と「出来そう」と思っている(ようだ)。
けれども実際に直面してみると、例えば右肘と右膝を一緒に動かすというような単純なことさえ「あれ?」と、まともには出来ないものだ、すべてを出来そうと思っているので、戸惑って「やり方」を訊きにくるのだが、「やり方はさっき説明しただろ」「はよやれや」と言われる。
通称二月の宿題、「出来事を公的に語れ」を自らやってみた人は、先立ってわたしが提出したサンプルにつき、「やっぱすげえっすね!!」「これめちゃくちゃムズイっすよ」と直視出来るようになる、このようにして勉強を楽しみにするどころか困難を楽しみにするようになる、そうなれればもうレベルの問題などもうどうでもよくなるのだが、ふつうそんな状態には生涯に一度もならないのだった。

常に「出来そう」が私的、「出来ない」が公的。

代表的には例えば、「ジョークとユーモアをかましてみよう」として、それが「出来なさそう」と予感する人は一人もいない、ほぼ確実に「それは出来そう」と全員が予感する/が、実際にジョークとユーモアに優れた人にお会いすることは生きているうちにほとんどない。
それは、能力うんぬんの問題ではなく、実はすべてのことにおいて、「出来そう」が「私」であり、「出来ない」が「公」というだけだ、そしてこのとき私より公を愛する人なんてまずいないということ/われわれは能力のせいで公に至れないのではなく、「自己愛によって公に向かわない」のだ、多くの人にとっての「わたしがんばります」は、この改めての自己愛主義の表明にすぎない、だから何でも「出来そう」で「がんばります」と思っている。
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WS報告077(3)/拡大について随想
ークショップは、楽しくやっているし、もっと規模が大きくなれば……とも思うが、わずかでも陳腐化するなら、規模を変える必要はないとも思っている。
何しろ、今あるものをみんなが大切に思っているので、これを壊したくないのだ、これについては各員に安心していてもらいたい/今あるものを壊してまで、無意味な「拡大!」というような夢も野心もわたしは持っていない、みんなが大切にしているこれは、すくなくともわたしが死なないかぎりは保障されるので安心してくれ。
それでいてもちろん、閉塞的な、内輪だけで遊んでよろこぶような集まりでは論外だから、常に拡大の夢はなくてはならない、その夢を失って内輪で遊ぶかぎりになったら、そんなもんすべての加護が消え失せて、まぎれもないクソの集まりになるだろう、そうなったらただちにおれ自身で取り潰すのて、その点も安心していてくれ、おれは全員を処刑してでも現在ある「気分のいいもの」を保つことを優先するだろう。
拡大の夢といったとき、拡大するに越したことはないが、原則、「まるで初めからいたような人」しかけっきょく招き入れることはできない、そりゃ当たり前だし、各員が見てきたとおり、けっきょくそこはすべておれの超能力でなんとかしているばかりだ/けっきょくおれの超能力で、なんとかなる人だけ「まるで初めからいたような人」にするし、おれの超能力ごときじゃなんともできない場合は、申し訳ないがその人には諦めてもらっている、この仕組みはこれからもこのまま続けていくだろう。

この仕組みは、いちおう公式に表示しておくべきだと思った、またいずれワークショップ案内記事にそのように付け足しをしておこうと思う(うーん忘れそうだな)。
このワークショップは、いちおう誰でも参加できるものだが、実際には適合する人としない人がいて、適合しない人はどうしても継続参加は無理だ、基本的におれの書いているものをずっとアホみたいに読んでいる人は大丈夫なはずだが、それでも人それぞれ気質や捉え方の違いというものがあり、どうにもならないことはある/それはもう、ずっと公園だけでやっていたときとはレベルも密度も違うからしょうがないのだ。
いちおう公式に、初参加の方は二時間〜三時間を目安として一区切りにし、そこでいったん体験のまとめと、適合のチェックとさせてもらうことにしよう、実際今までもそんな感じで運営してきているのだし、そのように前もって申し上げておいたほうがこれから初参加する人にとっても気が楽だろう。
何しろ当ワークショップのメソッドは、理論的に正しいのは明らかだが、その実演と実効が、けっきょく「こんなもんおれにしか出来ねーじゃねえかwww」というたぐいのものになっており、そかもその実効を各員にもたらすのだって、根本的にはおれの超能力をブチ込んでいるところがあるので、もうメチャクチャなのだ、まあそれが楽しいから現在の各員は来てくれているわけで、そのことをおれのほうから台無しにすることはありえないから、その点について各員は心配しなくていい、拡大はするべきだが超能力以外で拡大はしません(メチャクチャ)。

九折さんにビビっている人は割とOKです。

ぶっちゃけ、九折さんに対して「意見の交換がしたい」というような感じがあるところの人はダメなのだ、その人がダメというのではなく、ワークショップへの適合として不向きという意味だ、ワークショップは意見交換の場でもないしムードでもない/何しろ、すべてが「んなアホな」という技術と実演の洪水ばかりで進んでいくので、一般に常識的なものは邪魔になるのだ、それより逆のまっとうさ、「常識的に見てこんな人にはビビるでしょ……」とおののいている人のほうが初めから適合しやすい。
遠方からいらっしゃる人で、数回しか参加できていないという人でも、理論と技術と実演に「んなアホな」とビビって呆然とする人は、今でもつながって学び続けているのが実際だ/要は、実はそうした人、素直に驚いたりビビったりする人というのが世の中には意外と少ないということになるだろう、ワークショップに参加してみようかなと迷っている人は、その迷いが「う〜ん、恐怖!w」という具合ならだいたいハズレではないです(たぶん今の参加者で、恐怖なしに初参加した人はいないんじゃないかな)。
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WS報告077(2)/対自存在と秘儀の主人
ーゲルやサルトルが言ったように、といってもわたしはサルトルを目の敵のようにあげつらって言うのだが、人の「存在」と呼ぶべき事象には、「対自存在」と「対他存在」がある、「即自存在」についてはここで考える必要がないとして……「対他存在」というのは「他人から見て成り立っている」という存在のことだ、おまわりさんが交番に立っているのは、社会としても法律としても社会通念としても他人から見るところの「おまわりさん」として成立している、何も本人の気合いで「おまわりさん」になっているのではない。
対他存在というのはそのようにわかりやすいのだが、対自存在とは何かというと、たとえばこのおまわりさんが自分で自分のことを「秘められた存在、紅蓮のジョルジオと眷属の連座」と認識している場合、そのことは他人にはまったく無関係だし、他人にはまったくわかりっこないということだ/このように対自存在というのは、自分というものはどのような存在であるかを、「完全に自分ひとりきりで決定している」という事象そのものを言う。
まったくのアホな話、もしこの「社会的にはおまわりさんの人(対他存在としてはおまわりさんの人)」が、対自存在としては「秘められた存在、紅蓮のジョルジオと眷属の連座」だったとして、その秘儀として毎夜「ウサギの血で書かれた魔方陣を思い描き、無垢への思いを祈る」というようなことを、仮に妄想としてでもやっていた場合、彼の魂の主人は「それ」なのだ、つまり魂の主人は「マンガ」であり「中二病」ということになる。
だからこのおまわりさんが、百年間マジメに勤務して、百人の犯罪者を逮捕し、百人の女性とセックスして、百万通のラブレターを書き、百億円の寄付金(醵金)を赤十字に納め、百万年礼拝堂で神像を拝み倒したとしても、魂には何の足しにもならないのだ、本当に冗談でなく魂に対するプラスはゼロで、実は金持ちがいくらチャリティでお金をまき散らしてもまったく魂が救われないのはこの仕組みのせいなのだ、公(おおやけ)にいくら立派なことや愛や尊厳や信仰をやってみたとしても、自分のみが抱えている「秘儀」がまったく別モノなので、その人の魂は厳密に「秘儀」の主人からのみ支配と庇護を受けるのだ、彼は自作したナゾのウサギの魔方陣と紅蓮のナントカとかいう名前だけで悪魔の軍勢を退けて死後の裁きを突破しなくてはならない(無理すぎて草)。

これは何も特殊な話ではなくて、普遍的かつ、誰にとってもフツーのことなのだ、人それぞれ自分が生きるのにエネルギーを借りている「秘儀」というものがある/人によってはそれはアイドル崇拝であったり、アニメ崇拝であったり、性的変態嗜好の摂取や空想であったり、カワイイ猫動画だったり、おしゃれであったりウィンドウショッピングであったり、マウントや選民意識であったり、ひがみやうぬぼれであったりするし、不安や傲慢であったりする。
誰でも無自覚のうちに、いつのまにかそうして、日々のエネルギーを借りている先というものがあるのだ、そしてそのエネルギーを借りている先が、自動的に自分の所属する国になり主人になる、「そんなことに捺印した覚えはない」と言いたくなるが、社会契約論が言うように、もう長年そこから当然のように力を借り続けているので、「こんなもん実質お前の所属する国だし主人だろ」ということで自動的に契約が成立してしまうのだ/つまり悪魔と契約するのにわざわざ書面とサインを交わす必要はないということで、誰も自分の所属契約した国や主人のことなんて「知らない」ということなのだ。
対自存在と呼ぶべき事象において、人それぞれが、じっさい誰にも知られようのない自分限りの自分において、どのような「儀」をやっているのかはけっきょく誰にもわからない、ただ、自分だけが管理責任と閲覧する権利を持つその「秘儀」によって、自分の魂の主人は自動的に決定しているのだ、だからこの「対自存在かぎりがやっている秘儀」に注目するしか根本的な変化はありえないのだが、サルトルが言うにはこの対自存在というやつは「不安」であるため、人はそれに自己欺瞞を掛けるというのだ、そして自己欺瞞が掛かるから、対自存在としての自分が本当にはどのような奴なのかは自分にも視えなくなるという/それはまあ、他でもないサルトル当人が言うからには本当にそのとおりなのだろう、自己欺瞞が掛かるのでもはや対自存在の自分が何者なのかは自分にさえ閲覧できなくなっている。
というわけで、他人には知られようのない自分が、自分自身にさえ知られようがなくなって、ナゾの暗渠になって放置されたまま、その暗渠がゆく結末だけを自分の魂が引き受けることになるのだ、その間、もう何十年ジタバタしてみたって無意味で、もはや「なるようにしかならない」という状態だけが続く、そしてこの場合の「なるようにしかならない」というのは、当然最悪の結果が待ち受けているに違いないのだ/もはや基本的にはどうしようもないことだが、まだ若く、勇気があり、光あるうちに光の中を歩める人は、自分が無自覚のままこっそりやっている対自存在の自分の「秘儀」を甘く見ないことだ、こっそりやっているそれは永遠に他の誰にもバレることはないが、けっきょくはその儀だけがあなたの魂の行く先を決定している、そこにどのようなキモチを加えてみたり、公儀(おおやけの儀)としてどれだけ立派なことや善を付け足してみたって、そんなものの効果はゼロなのだ、本当に自分かぎりがこっそりやっていた無自覚の秘密の儀だけが己の魂とその行く先を決定する、だから自分の秘密の儀を問い質す勇気だけはなんとかギリギリまで失うな。

公の儀として寄付された十億円は、秘密の儀として寄付された十円にはるかに劣る。

公儀から見た善・対他存在としての善は、十億円という圧倒的な金額と実効に軍配が上がるが、魂においてはそうではないのだ、誰にも知られようがない秘密の儀として収められた十円はまさに収めた財としてのぶん直接自己の魂を救済し庇護するが、公の儀として寄付した十億円は本当に魂の救済としてゼロ評価になる、それがいくら人の世で「善」であってもだ、われわれがわれわれの事情と感情で決定する「善」なんて、この世界の仕組みにおいてはゴミカス程度も評価されないと考えたほうがいい/むしろそれは人からカミサマに対してする越権行為・侮辱行為でさえありうるから、人によっては多額の寄付をしてますます闇を深くするということは往々にしてある。
まあそんな理屈を言っていても、それじたいがワークにはならないのだが、理論を知らずにワークだけやっていても、そんな怠慢は実らないのだ、ワークとしては単純に「小劇場」等々で、本当にその人の魂が、「秘儀」として世界をよろこび、光景をよろこび、愛、春の風、歌、言葉、音楽、夢、その他いろいろをよろこんでいるかどうかが浮き彫りになるように仕組みを作る/今のところ「自分が何から力を借りてきたか」という秘儀の主人の契約が、みなさんの思っているほどにはホワイトにはなっていないということを浮き彫りにしている、自分の「思い」とか「やる気」とかいうふざけたものでわずかでも魂が前進できるなどと虫の好い発想を持ってはいけない。
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WS報告077(1)/「公儀の主人」と「秘儀の主人」

儀(こうぎ)というと、聞き慣れない言葉だが、意味はまさかの「中央政府」のことだ、中世・近世までは「幕府」の意味で使われた/「このようなことがご公儀に知られましたら、我が藩は……」というような使い方がされた。
秘儀というのは、何もオカルティックなものではなくて、「公ではない儀」のことだ、究極のところ自分しか知り得ない儀のこと/言ってみれば、自分の夢というのは自分しか見られないので、夢というのは秘儀ということになる、この世で誰も他人が夢についての証拠は持ち得ない。
そして当ワークショップでは、「主体性」ということを重視するので、「主」「主人」ということに追究のメスが入る、「わたしの "主体性" って何? どこにあるの」ということになるのだが、このことを当ワークショップでは「秘儀が自分の主人(主体性)を決める」と表現する。
われわれのやっていることは中央政府とは何の関係もないので、「公儀」のほうは何も関係がなさそうなのだが、ここでは公儀と秘儀を比較することで話がわかりやすくなるのだ、だからわざわざ「公儀」についての話もする/つまりノンフィクション上の主人が公儀で、フィクション上の主人が秘儀だ、そして各人がどのような秘儀をしてどのような主人(主体性)に属しているのかはけっきょく他人にはわからない、何しろ「秘密の儀」なので他人には知られようがないのだ、いくら公開してもそれが本当の秘儀かどうかは自分しか知らないから。

十八歳になると、買ってもないのに選挙権がどこからともなくやってくるし、二十歳になると、どこからともなく納税の義務がやってくる、どちらも頼んだ覚えがないのに勝手にだ、このことを社会契約論という。
選挙権はどこから来た? そして取り立てられた税金はどこに行く? それは衆知のとおり中央政府だ、われわれの場合日本政府だ、日本政府が勝手に選挙権を持ってきて、勝手に税金を召し上げていく、だからこれがわれわれの「主人」だ、公儀がわれわれのノンフィクション上の主人になる(選挙を介して主権は国民にあるとはいえ、実際の主人格を担うのは公儀・政府だ)。
この「公儀の主人」と同じことが、魂においても起こっているのだ、「秘儀の主人」というものにいつのまにか所属していて、その主人が魂に何かを持ってきたり、魂から何かを持ち去ってしまったりする。
公儀の主人がコントロールされていない「ヤバい主人」だったら、実際にヤバいのは誰だってわかるだろう、「今日からこの国は皇帝ネロが治めます」と言われたら超ヤバいのは誰だってわかる、明日にでも税金が十倍になり明後日には百万人が処刑されるかもしれない/それと同じ、秘儀の主人が「ヤバい主人」だったら、魂にとって超ヤバいのだ、サタンやらルシファーやらが主人になって、魂にいくらでも重税や処罰を科しかねない、だから当ワークショップでは「あなたの秘儀の主人はどんな存在か」ということが明るみに出るようなワークにアプローチする、そうでもしないと自分の秘儀の主人がどんなものかなんてわれわれの誰も知らないからだ。

中央政府(公儀)がヤバくなったら「亡命」しなくてはならないように、秘儀がヤバくなったら現在の「国」から脱出しなくてはならない。

他の野生動物がすべてそうであるように、野生の生きものには本来「主体性」なんてものはないのだ、「人」とその周辺だけにそのナゾの現象がある、つまり生きものとしてのホモサピエンスの全身をどう調べても「主体性」なんて臓器はないのだ、主体性という現象は霊魂とか精神とかの不明な空間的事象の中にある/本人の努力で「主体性」そのものは所有できないし変更もできないのだ、主体性の所有と変更を求めるなら本人の意思で "秘儀の主人" を獲得なり変更なりするしかない。
自分の「秘儀」はどのようなものか? それは、ふだん自分がどういったものに力を借りているかを観察することで浮き上がってくる、われわれが緊急時に110番して公儀の力を借りるように、われわれはエネルギーを必要とするとき秘儀の力を借りている、その力を借りている先が「秘儀の主人」だ、自分の魂はやがてその主人の国へ自動的に帰ることになっており、それがどれだけ暗黒と落下の予感をもたらしても、システム上で所属が変更されないかぎりは絶対に逃れられない。

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WS報告076(5)/方針の模索(別に読まなくていい)
れ自身が方針を掴んでいないといけないので、書きながら考えるが、別に他の誰かはこのことを読まなくてよろしい、まあ読むと面白いからみんな読むだろうけど……
当ワークショップは、「身体操作」と「フィクション」の二面から自分を鍛錬することで、具体および精神における「自己のオモシロ完成」を目指しており、その完成は「言葉の獲得」によって証される、という方針で来ている/まあそんな方針は、ほとんどおれしか把握しておらず、やらされている側はただ目の前のことをヒーヒーやらされているだけだが、それでも方針は自動的に作用しているのだ。
いちおうそうしたゴール目標が設定されているからには、逆にゴール目標から下ってくるルートを把握しておかないと、どのルートでそこへ辿り着けるかがわからないのだが、そうして逆ルートを探ってみると、言葉のすぐ下に「愛のカミサマ」「戦(いくさ)のカミサマ」があるように感じる。
この愛の神と戦(いくさ)の神、つまり文学と軍学ということになるが、この両方の神から祝福を受けている者は一般に「英雄」ということになる、「英雄」という烈しい存在を見上げ、「ワテ」という激しいだけのアホを見切ろうというのが基本方針だ、ここに「英雄」という単語が出現してきたのがここ最近のワークショップの特徴でもある、たしかにいかなる時代も英雄がいないと世界は何も面白くないし、世の中は腐敗していくだけなのであった。

愛と戦、文学と軍学が「英雄」で、この「英雄」の地位に到ると、だいたいカミサマうんぬんに興味がなくなってくる。
カミサマといっても、それは唯一神とかそういうものではなくて、聖書ふうにいえば天使のたぐいだろうし、仏教ふうに言えば「○○天」や「○○菩薩」のたぐいなのだろうが、そういうものに興味がなくなってくる、そうしてカミサマうんぬんに興味がなくなってくるのは、きっと「言葉」というのが人のものではなく、それどころが「言葉」が「言葉」をやりあっているにすぎないと視えてくるからだ/まるで音楽を得た人が「音」に興味をなくしていくように、「言葉」を得ていくと人とカミサマのうんぬんには興味がなくなっていく。
つまり、「言葉の獲得」を最終的なゴールにしているのだが、このルートが、図示すれば次のとおり、[ワテ→具体の呪縛解除→フィクションの実現→アハムと作品→愛と戦(英雄)→言葉の獲得]という感じで、最終的には何というか、「人とカミサマとかどうでもよくね」という感じになり、「人が言葉を納得しなくてもいいじゃん」「言葉が言葉を納得したらそれでいいんじゃね」という感じになってくる、つまり主体というものが「わたし」じゃなくて究極「言葉」の側にあるということ/そして「納得」というなら主体が納得するものなので、人が言葉を納得しなくても、言葉が言葉を納得すればいいじゃんということになるのだ、もうこんなことはふつうワケがワカランの一言で片付けられていい。
こうして並べてみると、もう「英雄」というのは、ほとんど「人」ではないのかもしれない、烈しい人というより「烈しく人でないもの」なのかもしれない/何しろアダムとエヴァの神話によれば、アダムはルシファーを使役する側だったはずなので、天使長より位が高い、かなり絶頂の存在だったことになる、天使長ルシファー(後のサタン)をアゴで使えるような奴は一般的に「人」ではないわな、そうするとどこかの地点で激しい「慾望」というのも性質が変わってくる。

英雄は慾望を使役する/英雄でない者は慾望に使役されてしまう。

テキトーに考えてみたのだが、思いがけず有益な推論が得られてしまった、サタンはもともとルシファーだったらしいが、サタンは一般的にヤバイ奴と言われているものの、それだってアゴで使えるなら、その力は使い回して便利で有益なわけだ、絶対にコントロールできる原子力発電所が有益でしかないように/おれはおれの慾望が大好きだものな、そしてみんなおれの慾望が大好きだから、これは慾望といっても関係と性質が一般とは異なっているわけだ。
自分は「自分でないもの」に動かされる必要があるが、自分は自分より上位にあるものに動かされてしまうのであって――いわば平社員は課長に動かされてしまうのであって部長に動かされるのではないから――ふつう人は慾望や傲慢に動かされる(サタンルシファーに動かされる)ことになる、だから一般にわれわれがカミサマに祈るつもりになってもダメなのだ、われわれが祈るつもりになるとたいていイメージ優先の偶像崇拝になり、結果的にサタンルシファーを崇めることになる、その結果「宗教関係はヤバイ人」という事実が出来上がってしまい、宗教関係の周辺は慾望と傲慢がマジてんこもりという事実が出来上がってしまうのだ、そりゃサタンルシファーをゴリゴリに崇めていたらそうなるわな/慾望を使役できる英雄をあいだに挟んで祈るしか方法はないのであって、つまり現在のサタン課を異動して英雄部に所属しないと、平社員の祈りはすべてサタン課長に届いてしまう、だから慾望と傲慢を使役できている(サタン課長を使役できている)英雄部長が見つかるといいし、その直下に就けてもらえるとすごくイイのだ、英雄部長の命令でサタン課長と一緒に仕事する場合は上長が英雄部長なので安心してその力を解放できる。
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WS報告076(3)/ありもしない母体を剥ぎ取れ
とえばここに一般的な既婚者A子さんがいたとする、このことは一見して公的な事実に見える。
けれども、ここにもし、わたしが「スーパー結婚」のことを言い出して、一般既婚者A子さんに対し、「わたしはあなたとスーパー結婚する」と言い出したらどうするのか。
スーパー結婚の典礼書は、もちろんおれがおれの権威によってテキトーに書くのだが、その典礼書によると、1.他ならぬおれは無条件でスーパー結婚の儀をつぶやくだけで成立させることができ、2.またスーパー結婚は相手の合意など必要とせず、3.スーパー結婚は誰とでも出来、また何人とでも出来、4.そしてスーパー結婚に比べると一般結婚の一般旦那などはスカスカで川べりの笹の葉一枚ていどの価値しかない、と定められている。
よって、この典礼書が法であるかぎり、このわたしによるスーパー結婚の宣言に背く者はすべて「違法」ということになる/「このことにどう抗弁するか?」とわたしは各員に問うたが、問うも何も、「抗弁はできない」のだ、ほとんどの人がここのところの仕組みがわかっておらず、ありもしない母体に包まれている幻想の中を生きている。

はっきり言っておいてやる、多くの人が「結婚」といって、一般的結婚をするのは、奥さんが旦那さんを信じてのことではない、奥さんが信じているのは旦那ではなくて「国家」だ、奥さんは国家と社会と風習を信じているのであり、旦那さんを信じてはいない。
これは残念ながら、まったく言い逃れのできないことで、もし奥さんが旦那さんを信じたのであれば、旦那さんが「あなたはわたしの妻デース」と承認すればそれだけで婚姻は成立するはずなのだ、けれどもそれがアテにならないと心底では思っているので、宗教組織に頼って宗教組織から承認を受け、またお上に頼って役所から承認を受けた/そのことに比べれば旦那さんなんて終始無言でまったく問題ない。
言ってみれば、婚姻届を出したあとに旦那さんが「おれは結婚したつもりはない」と言っても、「教会と神社で儀式もしたし、役所に届け出て承認を受けているから、あなたがどう抵抗しても、わたしたちは夫婦ですよーっと」というのが一般の見方なのだ、そりゃ事実そのとおりだろう/つまり、ただの「登記」だ、誰も旦那さんの宣言で婚姻を認めているのではなく、国家・役所への登記をもってそれを婚姻関係と認めているだけだ。
そうして一般にわれわれは、ありもしない母体、それも典型的に国とか社会とか役所とかを、「世界」の権威だと信じている、おれがスーパー結婚と言っても誰もおれのことを信じず、国・政府が定めた届け出の様式を信じているのが事実だ、おれのテキトーに定める典礼書より、六法全書のほうが「世界」の権威だと信じているということ、なんというアホチンだ/だから何をどうやっても、一ミリとて「世界」に触れられないのだ、ありもしない母体の幻想に包まれつづけて。

むかつくババアが目の前を通ったとき、その頭を斧で叩き割ると国家的に違法だが、叩き割らないとおれ的に違法になる。

これは何も虚構を言い張って遊んでいるのではなく、ここで言っていることが正当にわからない人は、単に法学の仕組みがわかっていないのだ、それは残念ながら善人ではなくてただの「知性のないアホ」だ/この場合、国家の六法全書と、おれの法全書の「どちらが権威か」ということが問われるだけだ、そして何がどう間違っても、ひとつの国ごときがおれよりエラいわけがあるまい、どう見てもこの世界の権威たりうるのはおれのテキトー典礼書のほうだ。
「むかつくババアが目の前を通ったときには、斧でその頭を叩き割ること」というのは、ちゃんとおれの法全書に書かれている、立派な合法行為で、それを履行しないほうが違法になる、それが法律というものだし、「法治」という精神だ、うーむ清廉潔白/ただしおれの法全書にはそのように書かれていても、おれの世界の風土らおいてはいちいちそんな違法を通報もしないし立件もしないので、実態としては看過されている、それでも違法か合法かと問われれば違法だ、むかつくババアが目の前を通ったらちゃんとその頭を斧で叩き割らねばならない、それが遵法精神というものだ、どうしても話のわからない人はまず社会契約論を読むか、面倒なら大学の法学の教授に訊け。
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WS報告076(2)/文学と軍学、王と民、盗賊が奴隷になること
ワークショップは「小劇場」という形式で "フィクション" という現象にアプローチしている。
そこで今回は、「戦(いくさ)とはどのようなものか」および「戦(いくさ)の神とはどのようなものか」を、小劇場の形式で表示また実演させてみた。
実際に自分で実演表示してみると、直接わかるというか直接「視える」ということがあるものであって、各員はその実演表示に形容しがたい理解とよろこびを得たようだった。
そしていつもの、まったくいつもの不明のこととして、何か正しいことをすると「空間がよくなり」「出来ないはずのことが出来る」という一種のボーナスタイムが与えられる、この作用として土曜日は各員、出来るはずもないレベルの命令法がサクサク出来た、もちろんそれですべてを体得したわけではないにせよ/もともと、各人にとって「出来ないこと」は、どう努力しても永遠に出来ないのであって、何かが「出来るようになる」には、こうした別のバックアップ、フォロー、恩恵、祝福が必要なのだ、努力でなんとかなるものなら世界中の全員がとっくになんとかなっているだろう。

文学は軍学なしには得られないし、軍学は文学なしには得られない、「それらは両立でしか得られないものだ」とわたしは話してきた。
文学とは「隣国の民に与えるもの」であり、軍学とは「隣国の領土を奪うこと」だ、ここで隣国の民に与えるものが「ある」ということは、隣国の領土を奪うことで、隣国は豊かになるということだ、この両立でしかこのことは成り立たず、片側だけを恣意的に得ることはできない。
ここでいう「隣国」というのは、別に国家のことを指してはいないのだが、いいかげんこの注釈はしつこい/それより要点は、隣国に与えうる愛を持っていないなら戦(いくさ)の神は庇護を与えないだろうし、隣国に攻め入ってそれを与えにゆかないのであれば愛の神はその文学を与えないだろうということ。
B’zの歌うところに「愛のバクダン」というのがあるが、隣国に攻め入らないならバクダンは必要ないから与えられないし、隣国に愛を与えないのであれば戦の神は庇護を与えず見捨てるだろう、愛のバクダンを隣国に落とすということは、貧しく不毛な隣国を爆撃で「終わらせる」ということで、バクダンでない愛はニセモノだし、愛でないバクダンもゴミなのだ/不毛な国を吹っ飛ばすための戦士、そのための愛とバクダンを具有している(文学と軍学を得ている)者を「英雄」と呼ぶ、この「英雄」だけが己の慾望を宣言していい権利を公的に有する。

ニセの愛と文学が、人を誘惑し、誘惑されきったところで、そのニセの愛と文学はフッと消える/そして持たざる欲しがりの盗賊が残る。

これが悪魔のしわざだということは、言語的に説明されるより、自分で実演表示してみるほうがわかりやすい/このところ、あらゆるブームが人々の手元に現れ、数ヶ月でフッと消えるのは、人々を真の愛と文学から切断するためなのだ、手元に与えたそれがフッと消えたとき、その人は「さびしい」「何も持っていない」者になり、この者は愛と文学を「欲しがる」から、強制的に "盗賊" になる。
こうして出現した盗賊は、真の愛と文学を持つ人たちから、それを奪おうと忍び寄るが、そこで戦士に見つかると、戦の神に庇護を受けている戦士には太刀打ちできず敗北してしまう、そして盗賊はどうなるかというと、当然ながら奴隷になる/この世をまるで奴隷のように生きていかねばならなくなった人は、実はそのような仕組みで作られているのだ、周囲をよくよく観察してみるとこの仕組みが本当にあることがわかる、彼はまずニセの愛を掴むも、それが後にフッと消えて、さびしさからホンモノを奪いに行こうとするが叶わず、偸盗を為そうとした罰として奴隷にされる。
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WS報告076(1)/×自分さがし ○強制自分視認
日は遠方から再訪してくれた初学者がいたので、身体操作含め「基礎」をみっちりやった。
ここ最近、「呪縛からの解放」「関節の解放」という基本によって、まさに実物の具体を手に入れ、それによってこれまではかすりもしなかったアハムにかするようになった人がいるので、具体の基礎をやり遂げるということは実に値打ちがあると、このおれさまのメソッドは改めて評価されているのだ、じゃあ乗るしかないぜこのムーブメントに。
今そうして「具体っしょ」という再評価のブームなので、今回は逆に初めて、「寝返らせ名人グランプリ」をやった、ううむテキトーに題したせいで説明が面倒くさいな、理学療法士の方がいたのでこのワークになった/つまり目の前に誰かに寝転んでもらい、それをひっくり返す・寝返りを打たせるということなのだが、この単純なことで本当に人の身体の構造および、それに触れて操作するということが出来ているかどうかが浮き彫りに出てくる、このワークはとても好評で意外に盛り上がった。
具体のブーム、つまり直接の「身体!」なのだが、身体については本当に単に正しい知識と、正しい方法(メソッド・教え)と、何よりそれに触れる「手」そのものの発達が必要だ、人の身体に触れる「手」そのものがクソほど賢くならないとダメなのだ、手そのものの機能というよりグレードが上がらないといけない、こんなものはやはりクソほど人に「触れる」ということを積み重ねるしか方法はない、もちろんあくまで正しい知識とメソッドの上でだ。

「露骨法」「命令法」も基本通りやった、途中で面白ワークとして「暗殺術」もやったが、これだって実はネタではなく根底の最重要クラスの感覚を発見するためにやっている/暗殺というのは(笑)、攻撃してはダメなのだ、攻撃すると防御されてしまう、するとバトルになってしまう、バトルに強いことは何の意味もない(だってバトルなら人より戦車のほうが強いもん)、そうではなく暗殺というのは最も "魂を寄せて" 刃を突き立てないと成り立たないのだ、暗殺というのはそういう "術" であって "バトル" ではない。
実は現代のわれわれが想定する「戦い」「戦争」は、本来の戦(いくさ)とはまったく異なるものだ/われわれは人の諍い・揉め事から戦争や暴漢をイメージしてしまうので、このことが人々に実りのない格闘妄想を与えてしまっている、まあそんなことは今ここで説明しきれないのだが、とにかく戦(いくさ)がいくらか視えていないと「英雄」がまるで視えないのだ、そして戦(いくさ)というならバトルよりも暗殺術のほうがずいぶん近い(何の説明にもなっていないなこれ)。
今回は命令法を録画してみた、するとなかなか興味深い資料が得られた、きっと各人は自分がマスター状態(のつもり)のとき、どのような様相にあるかを改めて直視することになるだろう、これを録画して見直す方法はまたこれからもやろうと思う/ところでついでに思うが、各員にあるていどカメラマンとしての基本動作を学ばせたほうがいいな、これだけ撮影するからには、何しろカメラマンの気の利かせ方ひとつで映像に写り込む情報量がまるで違うのだ。
当方のワークショップは、現在に到るまで毎回必ず新しいワークがその場で飛び込んでくるというのがひとつの目玉になっているが、今回はそれで「フィクション・サバイバー」のコーナーをやった、これは初学者でも長尺の動画が撮れるので自己研究にとてもよいものだ、もちろんその自己研究は泣きたくなるぐらいブルーなものだが/フィクション・サバイバーもまたぜひやろう、何がどうなるまでやるかというと、出来るようになるまでやるのじゃない、周囲が無意識に拍手してしまうところまでやるのだ、人はそこに何かがあったとき無意識に拍手を打つものだから。

遠方から来た方は、「動画で拝見していて、出来そうと思っていたものが、ことごとくまったく出来ないということがわかった、すごい収穫だった」と言った。

当方のワークショップでは、ワークはえげつないほどシンプルかつ酷薄に出来ていて、シンプルだからこそごまかしはまったく利かず、カンタンだからこそ「出来ないほうがおかしい」と見えるものばかりなのだ、そして実際、内容として「出来ないほうがおかしい」のだが、自分でやってみると本当にぜんぜん出来ないことがわかる、そのことから何がわかってくるかというと、「自分が思っていたより "おかしい" 」ということなのだ、「出来ないほうがおかしい」という、その「おかしい」に自分がまざまざ当てはまるということが、連日連夜、しかも確認可能な動画に記録されてしまう(※注:この動画は、プライバシー保護のため、現在のところ参加者だけで共有するものです、検索しても出てきません)。
百数十回も徹夜でこんな珍妙なことをしてきて(※注:全員が徹夜ではないです、終電で帰る方もあります)、今になって誰もが振り返って思うのは、「もし、この "おかしい" 自分に、まったく気づかないまま生きていっていたら今ごろどうなっていたんでしょうね……」という恐怖の笑い話だ/というわけで、今夜も絶望に向かってまいりましょう、なぜ今夜絶望に向かうかというと、翌朝を明るいものにするためです、なんというかこんなのいつぞや流行した「自分さがし」どころではなく、ただの「強制自分視認」だよなあ。
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WS報告075(2)/作品ナイトと馬食の朝
曜日は、以前から予告していた「作品ナイト」のような夜に、図らずもなった。
零時以降はずっとその場で作品を産み出し続けるというふうにしたのだが、実際にやってみると、各員は精魂尽き果てるようだった、作品はどんなものでもやりはじめると、そのことだけはおれが手加減しないので、集中力は増すが各員の精魂は尽き果てていく、しかし一晩でダウンするようじゃまだまだ使いモンにならんなあとわたしは一人思っている。
このごろワークショップ報告のタイミングが遅いのだが、これはサボっているのではなく、「朝食の儀」をやり始めてから、各員があまりにも食うということが起こってしまい、その後昼食も夕食も作っているので報告記事の時間が押しているのだ/さすがに各員のあの食いっぷりを見ていると、なるべくまともなメシを食わせてやりたい、毎回本当に食卓に激震が走っている、おれが料理人までやっているのは明らかに無理があるがしゃーない。
今週は思いがけず、決定的な全身の解放を得た者がおり、また始めて作品のマスター役に踏み出して、ガクブルしながらもなんとかやりきる者も出た、こうしておれのメソッドは割とホントにまともなものなので、インチキをせず各員がまっとうに取り組めば、本当にそのとおり経験も成果も得られるものだ、表面上はしょーもないことに見えるよう偽装してあるが、すべてフツーの人が生きているうち到達できないことへ到達させているものだ、そしていったんそこに到達してしまえば、よほどのカルマでも購入しないかぎり、全身に得たそれを自分の生の常識・常態として生きていくことができる、これはすさまじく有利なことでもあるし、また知らないところで生きるコストも大きく節約できているのだ、もちろんいいことずくめであって、おれはいいことずくめのことしかやらないしさせない。

おれはこのところいつも焦っている、おれ自身が焦っているのではなく、人々が好き放題に陥る「ふつう」という状態に焦っている。
「ふつう」という、「居心地のいい」状態、つまり作品なんか無関係で、作品といっても趣味の範囲で鬼気迫るものではなくよもや自己の存在そのものに関わるものではなく、つまりずーっと「うふふ」と思っているブキミな状態、これが現代の「ふつう」だ、いわば魂の相場がすさまじい暴落を続けている状態だが、なぜこの状態が多くの人にとって "平気" なのかがおれにはわからない。
誰にとってもそうだが、たとえば「十七歳の春」といえば、それ以前に死んだ人を除いては、万人にその春は与えられるのだ、そしていかに有能な、才能と環境に恵まれた人であっても、十七歳の春を二回体験できる人はいない、十七歳の春が二度帰ってくるということは誰にとっても決してない。
ここに二十五歳の誰かがいたとして、「二十五歳の冬」は一生に一度きりなのだ、二度と帰ってこないのだ、そんなもん当たり前なのだが、そこで弾けるべき魂の瑞祥は、なぜかよくわからない不溶性のプラスチックのような「ふつう」という妄念に呑み込まれていってしまう、彼らが生のメインにしている「ふつう」は、明らかに「何もない」を言い換えただけのものにすぎないのに/そんなことを言い出すと、また他ならぬわたし自身が焦りだしてしまうのだった、おれはもう「ふつう」の日々なんて得られないからいいのだが、なぜ多くの人が自ら何もない「ふつう」の日々にウフフと溶け込んでいこうとするのだろう、なぜそこにあるべき最大の恐怖が最強の安穏にすり替わってしまっているのだろう。

振り返れば青春はあったのかもしれないが、おれは今もなお、青春を肯定しているヒマなんかないという状態だ。

奇妙なことを言うようだが、仮にここに "あなた" がいたとしたら、あなたの主張が必ず勝つのだ、その内容に関わらず、必ず勝つのは "あなた" の主張だ、そのことは初めから決まっている/だからあなたは、おれのようなわけのわからないことには到達できない、あなたが誤っているから到達できないのではなく、あなたがけっきょく "正しい" から、あなたはおれの言っていることには到達できない。
以前から予告していた、作品ナイトのような夜があって、朝は馬食、日の出から12分後にビル街の地平からサンライズが覗いた/おれはなぜか、自分のやっていることを肯定する気にはまったくなれない、否定する気にもまったくなれないが、わたしにはもはや「ふつう」のことは作用しておらず、かといって狂ったことも最早わたしには作用していないのだ、ただすべての日々は戻ってこないということと、すべての日々は過去になんかならないということだけがわたしの全身を取り巻いている。
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WS報告075(1)/ダンスの秘訣はノーダンス
れはダンサーではまったくないし、ダンス経験など皆無だが、まあ日頃ずっと踊っているような人間だし、メンバーにプロダンサーがいるので、ダンスの項目をワークに入れている。
われわれの「魂魄」において、霊魂がイエスで気魄がノーなのだから、空間がイエスで肉体がノーだ、「つまりダンスというのは生身のノーダンスなんだよ」「おれがまったく "文章" を書かないのと同じだ」。
「この世界のすべてはダンスだし、われわれの内に入る魂もダンスでよいけれど、生身だけはノーダンスなんだよ、つまりわれわれの肉体だけが、この世界で唯一踊れないものなんだ、そしてそれは否定することでもないんだよ」。
「この生身は、われわれに課せられた "十字架" なんだ、われわれはこの生身があるせいで空を飛べないだろう?」「それがこの世に生を享けたってことなんだ、よくよく考えてごらんよ、そうでなければキリスト教の教会は、キリストの処刑道具をシンボルとして屋根の上に立てているのかい? そうじゃないだろ、人の身で生まれるというのはそういうことなんだ」。

「あるいは仏教説を採っても同じことだ、仏教説てはこの身のことを業(カルマ)という、この身の業(カルマ)のせいで魂は閉じ込められており、空を飛べない、この業(カルマ)のことを十字架と言ったって同じなんだ」
「この生身はカルマであり十字架だからダメと言っているのではなくて、それで "合っているだろ" ということなんだ、聖書説では罪のせいでエデンから追放されたのだし、仏教説では業のせいで輪廻を繰り返している、ちゃんとそれら聖典の神話に "合っているだろ" ということだ、その神話の末端に自分がいるのだから何も誤っていないんだよ」
「要は生身でダンスを "やらない" ということだ、この宇宙のすべてのものは踊れるのに、唯一踊れないのがこの "生身" 、十字架だよ、一般に思われていることとはまったく逆で、人の生身だけがこの宇宙で唯一踊れないシロモノなんだ、それが自分の背負っている罪業なんだから "それでいい" と、知って肯定している奴が必要なんだよ、ふつうそんなの気づかないからさ」
「己の生身に完全なノー・ダンスを満たせ、そして己がノー・ダンスであり、目の前の観客もまたノー・ダンスなんだ、それが正しいんだ、そうして相互の生身に完全なノー・ダンスを満たしきったら、それを保ったまま動くんだよ、相互の生身は完全なノー・ダンス、その代わりこの宇宙のすべてはダンスで満ちていい」「わずかでも生身でダンスできるなんてイキってはいけないよ、この生身は罪業の十字架なのだから、 "罪業の十字架パワーアップ" を誇ったら見当違いのアホじゃないか」。

おれはノー・ダンスだし、あなたもノー・ダンスだ、だからダンスはまるで神の名を称えるがごときだ。

もしわれわれが生身をもって神なら、わざわざ神の名を称える必要ない、プロテインとか筋肉とステロイドを称えればいいだろう/神の名はあくまで "生身ではないもの" だから神として称えられる必要がある。
単に筋肉強化した生身がヒョコヒョコ動いてそれが「神」になるわけがない、それは「神のくせに死ぬのかよwww」という一撃で理解できるだろう/言葉はすべて神の名に等しい、それを生身にやらせるとすべて呪縛になる、生身はノーで空間がイエスなのだから……だから言葉をワイルドカード***に採ったとき、何であれ生身はすべて完全なノー・***と定義される、それが正しい、そのとき言葉は正しく言葉として生身を除いたすべての空間を支配する、あるいは元々それが支配していることにようやく気づく。
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月刊ワーQショップ 第八号「主体」

pdf[A4]49頁


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ご寄稿のみなさまありがとうございました!!
九折


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WS報告074(2)/公私混同と自律神経
る人が途中で体調を崩したので、わたしはそれを自律神経失調と判断し、それを治癒する処置をした、そしてそのとき場内にあった公私混同を糾し、しかるべき思弁を語った/そして公私混同の空気が吹き飛ばされると、体調を崩していた女性はすっくと正気を取り戻した。
このところ、「朝食の儀」という遊び方をして、毎週日曜日にわたしが料理してみんなに朝メシを食わせているが、ご存じのとおりわたしが朝食を振る舞うと、みんなすさまじい勢いで、ふだんの三倍以上のメシを食う、それでいて胃もたれや胸焼けはしない、それはわたしの料理の腕前が本来の意味で「まとも」ということではあるが、それ以上に実はわたしが料理を振る舞うひとつにしても公私混同をしていないということが背後にある/公私混同をしていないから自律神経が正常化し、自律神経によって口腹の機能が健全化するということが起こっているのだ、まずはその現象をよくよく知ってもらうためにそのような遊び方をしている。
わたしが料理を振る舞うことによって、みな「異常に食う」ように見えるが、実はそうではなく、あれが本来の「正常に食う」という状態なのだ、みなふだんの摂食状況こそが「異常」なのだ、とはいえそうした異常も常になってしまうと常識・正常に成り代わってしまう。
人類のすべての文化において「食事」は、部屋で一人でモソモソ食うものではなく、みなで食卓を囲んで採るものだとされている、なぜ人類のすべての文化において「食事」はそのようにみなされているのか、それは人にとって食事は食餌と異なり「公」のものだと考えられているからだ、われわれがそれを否定するとき、われわれはただ "嗜好的なエサ" を食うだけの哺乳類に成り果てるだろう。

わたしは生真面目とは正反対の性向にある者だから、よもやスマートフォンの画面を指先でナデナデシコシコするのをやめろと言い出すような古流の老人ではない。
わたしは「私的」なすべてを否定するつもりはまったくないのだ、ただその私的なものを公的なものと「混ぜるな」と言っているにすぎない、よってこれは断言していいことだが、当ワークショップで実技に当たっているとき、ほんのわずか一ナノでも頭の中に私的なものが去来するようでは、わたしが教え伝えているものは何一つまともに現成しない/だからこそ、公私を「混ぜるな」と言っている、公と私は「同じもの」ではないのだから。
みなが知らないこと、また一般にわれわれ全員が知らないことなのだが、みな自分が思っているほど、自分の神経が強くないのだ、誰もが揃って神経虚弱であり、神経虚弱だからこそ強がりあってマウントを取り合っているというような状況がある/みな自分の神経の弱さを知らなくて、自分がスマホをいじりながら「神経をやられている」ということに気づいていないのだ、それで神経をやられたまま公的なことに取り組むから、公私混同によって自律神経が失調し、まともに飲み食いもできないし声も出ないし、まともに眠れない上に起きているときはずっと眠たいという状態が続いてしまう。
わたしはスマートフォンで「おすすめの商品」を検討しながら、目の前の者が打ち込んでくる打撃を外して一調子に相手を投げ飛ばせると思うが、みなそんなことができる変人のレベルにあるか? 自分で言うのもおかしいが、わたし自身そこまで神経が強化されているのは非人間的な印象を受ける/わたしは目の前で肉親が亡くなったときにもその場で落語を始められるようなふしがあるが、そうでない者は己で自覚して公私混同を律するべきだ、みな日常的に「メシも喉を通らない」という状態にあり、翻って「ストレスでヤケ食いしてしまいそう」という状態に常にある、これらはすべて公私混同によって自律神経を失調しているということであり、つまり「脳内の私的ブラウザが閉じない」ということだ、脳内の私的ブラウザばかりが強力なアプリとして鍛え上げられてきた実情にある昨今、公的なことが学べるわけがない、自分がどれだけアホの極致たる状況にあるかをまず自覚せねばならない。

「楽しいからメシが食えない」のだ。

私的な刺激を私的に楽しむということを、際限なく積み重ねてきたことにより、その私的ブラウザが脳内で閉じなくなってしまったから、公的な一切が公的に営めなくなった、そして食事が公的な営為だから、まともに食事できない、メシが喉を通っていかない、という状態になっている/わたしは公私混同に口うるさいオッサンというつもりはなく、「いいかげん無自覚に公私混同で己の自律神経を破壊しつづけるのをやめろ、おれの手間を好き放題に増やすな」と言っているつもりだ。
現在、そうした致命的な公私混同の状態が、ほとんど疫病の状態としてはびこっているのだが、それどころか現在、状況は次のフェーズに移行しようとしている、この先はもう公私混同ではなくて、すべてを「私化」しようとするはたらきがあるのだ、すでにその状況の端緒は起こっており、この先に進んでしまった者はもうさすがに戻ってはこられないだろう/公私混同が爆発して、一時期のように成人式で暴動を起こしていた人々が、もうその暴動も起こさなくなるのだ、それはむろん公の何かが恢復したわけではなく、もはや混同しうる公の一切さえ検出されなくなったということ、その先には本当に生きる値打ちが完全にゼロになった世の中が待っている。
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WS報告074(1)/「あなたは公私混同をするクズなのです」
「いつものことです、きみが進みゆくのに最も必要な情報を与えるなら、あなたは今わたしの目の前で、 "公私混同をするクズ" だということです、もちろんあなたのことをクズ呼ばわりしたいわけではありません、けれどもこれはあなたに必要な情報なのです、わたしは立場上あなたが進みゆくのに最大効率の情報を与えないわけにはいきません」
「あなたをクズ呼ばわりしたいわけではまったくないですし、周りの誰も現在のあなたのことを、クズだとは思っていません、しかしこのままいくとあなたは加齢と共に、その公私混同するという性質が前面に出て来ます、それはまだあなたがたの知らないことです、わたしは年長者してこのことを見てきたのです、そのとき加齢しきったあなたは本当に、公私混同することによってクズになった加齢者という実物に成り果ててしまいます、そのことは決してあなたの本意ではないはずです」
「今、誰でも彼でもが、何でもかんでもを "私的" に取り扱うことをします、私的にはしゃぐことが好きで、私的なことだけで盛り上がり、私的に感情を激したり、私的に気分を害したりします、全員がそのことだけを繰り返して過ごしていくような現状です、そこで振り返ってみてほしいのですが、楽しくやっているワークショップだって、わたしが一度でさえ私的な指導の仕方をしたことがあるでしょうか? わたしは常に公的な指導をしてきたはずです、にも関わらずわたしが公的に指導してきた百数十回に及ぶすべてのことは、みなさんによって私的に消費されてきました、わたしが公的にみなさんに与えようとしたことは、みなさんによって私的な消費の具材に供されたのです、それがこの現代を席巻している消費者精神の実体です」
「むろんわたしは、そのことを承知の上で、またそのような結果に到ることを承知の上で、すべてのことを進めてきたのです、わたしが公的に教え与えようとしたことは、私的に消費されるのみだろうということを予測以上に確信した上で、このことを進めてきました、なぜならあなたたちは、自分たちがそういった "消費" の徒であるということじたい、そうした多量の経験と教えの実際の上でしか知ることができないからです、わたしは嘆いているのではないしあなたがたは責められているのでもありません、わたしは今もなおこうして教えているのです、あなたがたが公私混同をするクズであるということ、このままで本当にそうなってしまうのだということをです」

たとえばわたしは男性であって、男性というのは女性にとって「頼もしくて愉快な存在」でなくてはならないと思っているが、それはわたしが公的にそのように「男」を捉えているのであって、私心からそのように思想を持っているわけではない。
わたしが公的に、「男は女性にとって頼もしくて愉快な存在でなくてはならない」と考え、そのように述べたり実践したりしていると、女性からどう扱われるかといえば、「そういうのってステキですよね」と、ただ女性の私心をはしゃがせるのに消費される、そのことはもうずいぶん前から承知の上だ、女性が男性にとってどのような存在でなくてはならないという公的な何かが考えられ実践されることはまずない、現代人には「公」という機能そのものがもう無いからだ。
こうしていくら男性が、せめてまともな男であろうと公的に考え実践を振る舞ったとしても、それがひたすら無数の女性たちによって消費されていくということついて、義憤を唱える女性もしばしば現れるが、その女性の義憤も実のところ義憤風情を素材として私的感情を激化されるのに消費されるのみであって、実際には公的な何かが育まれるわけではない、結果的にわたしは二重に消費されるだけだ、わたしは相手方と味方の双方によって消費される、けれどもわたしはそのことを今さら問題視していない、わたしは自分までが公私混同の徒にならないことだけを求めている、それはかつてのわたし自身や友人や先輩や、先生や恋人にがっかりされたくないため。
わたしはワークショップなんてものをやる以上、その内容について手抜きはない、わたしが今さら誰かの公私混同の精神を責めることはないが、ただ情報として伝えることには徹底する、そしてわたしが実演して教えていることの肝腎なすべては、けっきょく公私混同していたら永遠に現成しないことで、公私混同をやめればただちに現成するというようなことばかりだ、公私混同していたら永遠に努力してもムリということばかりを教えているので、各員はその空回りを無限に観察することができる、それでいいだろう/なぜ目の前で見たことが自分にはできないのか、とてつもなく簡単そうにやられている、また実際技術的にはきわめて簡単であるはずのことが、なぜいつまでたっても一ミリも進めないのか、それは公私混同が止まないからだ、全身の数十兆個の細胞の隅々まで行き渡ったこれまでの「公私混同」が、今さら自分を手放してはくれない、その恐ろしい罪業に掴まれている自分の身をまざまざ明視できるように、このワークショップは組まれている。

吉田松陰は八歳ぐらいのころ、軍学を学んでいるときに頬にハエが止まって頬を掻き、そのことで叔父にその場で殴り倒され崖から突き落とされて気絶して死にかけたが、それは学門のさなかに公私混同する少年吉田松陰がアホだっただけだ。

講義中に頬を掻いただけで、何も崖から突き落とさなくても……と一般的には考えるだろうが、おそらくそのようにまでしなければ、人は公私混同の根を断てないことがあるのだろう、頬を掻くのが悪いわけではなく、公私混同のまま学門をやっているのがアホということだ、それはたとえ八歳であっても変わらない、言葉を使うようになった時点で、何歳であってもクズはクズだ。
本来はどのようでなければならかったかというと、たとえいきなり殴り倒されて崖から突き落とされることになっても、少年吉田松陰(吉田寅次郎)は、「邪魔するなボケ、次のページを読ませろ」と師範である叔父を怒鳴りつけねばならなかった、それこそ師と弟子のすったもんだなど私的な騒動以外の何物でもないからだ。
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WS報告073(1)/よみがえる必要なし
んぜん関係ない話だが、昨年末に紅白で出された「AIでよみがえる美空ひばり」という映像を今になって観た。
すると、まあAIとCGなので、美空ひばりによく似た絵が動くだけなのだが、それを通して、美空ひばりみたいな人は「死んでいない」のだということがよくわかった。
わたしは美空ひばりのファンでも何でもないが、それとは関係なく、美空ひばりさんが死んでいないということはよくわかった、死んでいないのだからそもそも「よみがえる」という必要はない、別にAIで擬似ひばりを出さなくても美空ひばりは死んでいなかった。
AIを通して、またその合成音声を通して、美空ひばりが今もなお唄っているのが聞こえる、それはAIの成果ではなく、ただのわたしの想像力の成果だ、わたしが今も美空ひばりさんが唄っているのを聞けるというだけで、AIはあまり関係がない、おれが聞いているのは美空ひばりだったがAIが歌っているのは美空ひばりではない/当人が死んでいないのだから当人が唄っているのを聴けばいいのであって、わざわざ擬似ひばりを聴くことはないな、想像力がそれを捉えうるということは……。

まあそんなことはぜんぜん関係なく、いや関係あるのか、とにかく今日(昨日)もワークショップをやり、今回はシンボリックフィクションが盛り上がった、また新しい扉が開いた感だな。
パーミッション法というのも、とても本質的で的を射たワークだったと思う、またやりましょう、必ずやりましょう/今回は隣人愛をやるヒマがなかったが、その代わり合気や順体法を改めてやった、もう身体操作のほうも直接「主体で」とやりだし、「もうこんなもんワザでも何でもないじゃないか」という感じになった。
で、突然ヘンなことを言うようだが、おれの庇護下にある人、おれの祈りの届く範囲にいる人は、もう今さらその範囲から出ないように、なるべくな/おれの祈りが届く範囲と、届かない範囲としでは世界がまったく違う、おれの祈りの届かない外側の世界はもうめちゃくちゃだぞ、もともとはおれだけに限ったものではなかったのだろうが、有効な祈りの庇護下にない者はもうまともに生きていけないのだ、今はもう有効な祈りが為せる人がほとんどいないので、おれが祈るのをやめたらものすごい数の人がむちゃくちゃになってしまう(もちろんこんなものはおれの狂言と思ってもらってかまわない)。
「感受性がはたらいたら負け」という、具体の現象をしつこいほど実演した、「主体」なんてのはまるで空想か虚構か催眠術のように思うだろう、でも実際に検証していくと、感受性のほうが錯覚であり虚構で思い込みなのだ、美空ひばりが生きているというのは虚構ではなく、現代のわれわれが生きているというほうが虚構なのだ、びっくりだろう、正確には生ではなく命の話だが、美空ひばりの命は今もあって、生存者のわれわれのほうが大半その命を失っているのだ、だから「よみがえる」なんてちゃんちゃらおかしい、よみがえるならテメーら自身がまずよみがえれって話なんだよ(技術者を悪く言っているのではない、技術者はただの技術者だ)。

命を得た人たちの命は今も当然続いていて、皆で今日はパーティ第百回だ。

まあ、聞こえてしまうものはしゃーないし、視えてしまうものはしゃーない、生物的に生存しているというのは「外出している」というようなもので、外出していりゃ靴を履いているものだ、その靴を指して「足」というのは間違いじゃないが、正確にはそれは足の容器であって足の「ガワ」だな、かといって路上で靴を脱ぐわけにもいかない道理と同じで、われわれは生物としてのガワを取り去るわけにはいかない、それでもやはりそれはガワであって本当の「足」は靴のことではない。
形あるものは皆ほろぶとして、靴はそりゃいつか履きつぶすだろう、だがそのたびに足がつぶれていてはかなわない、靴がつぶれてもふつう足は無事だろうよ、靴と足とを縫い付けでもしないかぎりは/だからこそ「靴は足じゃねえよ」と言い続けなくてはない、目の前に人の容れ物を置いて「これは主体じゃねえよ」ということがついにはっきり視えるようになった、主体はそのすぐ頭上に張り付いているわい、何を主とするかによって性質が違い、つまり同じ主の元にいなければいまいち接続に手続きが掛かるが、主体の命なんて滅ばないのだから、誰もよみがえる必要はない、死んでいないものに「よみがえる」などというのは実に寝言だ。
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WS報告072(3)/戦(いくさ)とは隣国の領土を攻め取ること
代人の気質はヒステリックであり、実に競争社会の性根を浮き彫りにしていると思える、そしてスポーツやトレーニングが脚光を浴びるのも、やはり競争という原理を母体にしているジャンルだからに他ならない。
このヒステリックな気質の中、マウントの衝動から「戦争」を空想することは容易に思えるだろうが、そうしてヒステリックに想起される戦争のイメージと、わたしが捉えるところの「戦(いくさ)」は異なる。
現代人にとって、恋あいがピンと来ないように、戦争もピンと来ない、現代の恋愛イメージがヒステリックに変態マンガを空想させるのと同様に、戦争のイメージが空想されるとしても、やはり恋あいからの力が得られないのと同様に戦(いくさ)からの力は得られない。
現代人にとって、恋愛が異性侮蔑になり、宗教が呪詛習慣になったように、戦争が個人マウントになった/何のこっちゃわからないと思うが、わたしは「戦(いくさ)とは隣国の領土を攻め取ること」と話さねばならなかった、そして何のこっちゃわからなくても、わからないまま効用が得られるということはある。

隣国の領土を攻め取って「わたし」の国とし、またそうして新しく得られた「わたし」の民に、等しく分け与えられるものが文学だ、そのことを文学と軍学の両輪とした。
ワークショップでは、合気や武術の叡智を具体に得んとするワーク・稽古にも取り組むが、このときためしに「戦(いくさ)」からの力を得て打ち込んでみると、その打ち込みは稽古用にミエミエのものであっても、やはり具わった力を御し得ず、初学者には捌けない。
つまり、現代人のヒステリーマウントを土台にした打ち込みと、戦(いくさ)およびその軍神を土台にした打ち込みでは、性質がまったく異なるということだ、そして戦(いくさ)およびその軍神を土台とした武の稽古を積まないでは、やはり武術方面の稽古には真の値打ちが得られない。
よく「戦争と平和」という言い方がされるが、戦争は外交の破滅的手段の一つであるのに対し、平和というのはただの状態であるから、戦争と平和を対極のように捉えるのは概念として単純な誤りだ/のみならず、「戦争」という特別な有事の状態があるのではなく、人は常時「戦(いくさ)」という状態の中を生きている、戦(いくさ)は特別の有事ではなく人が生きる上の常時なのだ、表面的事実としての平和の状態が続いていたとしても、それは「平和」という "戦(いくさ)の一局面の状況" が続いているにすぎない、戦(いくさ)がない状態をわれわれが生きた試しはない。

戦(いくさ)を否定したことで、われわれには獣のマウントが残った。

つまり、戦争は消えてなくなってはくれないということだ、戦(いくさ)を否定しても戦争は残るので、軍神だけが消えてしまい、軍神のいない獣や猿のマウント戦争だけが残ってしまった、それは恋あいがなくなってもオスメスの交尾だけが残ってしまうという現代の様相とまったく同じ仕組みによる。
われわれは戦(いくさ)というと、住宅地に焼夷弾をばらまくのが戦(いくさ)だと思っているがそうではない、それは軍神と無関係なテクノロジーの人間が為すただの破壊行為にすぎない、殺されないように生き延びようとする生存本能から起こる闘争と「戦(いくさ)」は作用している原理が異なる。
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WS報告072(2)/130以上の夜を越えて
曜日のワークショップは第132回だったので、これまで132回の徹夜を重ねてきたことになる。
人によっては、ほぼこの全てに出席しているので、130回の徹夜を、ワークショップとして重ねてきたことになる、それは努力とかいう眠たい発想のものではない、こんなものは楽しくなければやれないのだ、そして楽しいだけでなく、己の生と命に直接足しになっていると確信できなければ、こんなアホなことに付き合っていられない。
徹夜の中で何を超えてきたかというと、それはまったく汗と涙ではなく、恐怖とパニックだ、恐怖とパニックを超えてきた132の夜があったと言っていいだろう、そりゃ132回の徹夜でずーっと霊魂の現場に直面させられるというのだから恐怖だ、目からうろこが落ちるといえばよい言い方だが、その実際は青ざめて肺腑が冷え、希望と裏腹に破壊される思い込みが混乱して急速にパニックを起こす。
当ワークショップは、何も厳しいところはなく(ウソ)、あくまでも体調優先で、体調を崩した人は端っこでお休みOKだ、むしろ体調不全のまま無理をする人のほうが叱られる向きにある/ただしどのようにケアしても、通底している学門を曲げることだけはない、各員にどんな心境が生じてもすべて学門の解明だけが優先される、それはときに無慈悲なシーンを創りだしてきたが、けっきょくそのことだけが実りをもたらしてきた、もういつのまにやら、おれが誰かを激烈に叱り飛ばしても、そのことに対する心理的な反応や抵抗はなくなった、いいかげん誰もが、そうした心理的なウンヌンとかについて、いつも「それどころじゃない」ということが肚に決まったようだ。

サンプルとして、先の記事「カンタンに見えること」で、ちょうど文字数としては2000字ぐらいある/そしてちょうど今日が締切りの、月刊ワーQショップの寄稿は、常連メンバーにとって4000字がノルマとしてある、つまりこのブログ記事の二つぶんぐらいを書けばそれでOKなのだが、そんな量にさえ取りかかると四苦八苦するというのが事実だ、そしてそんな量でさえ、書いてみると他人からは「何が書いてあるのかよくわからん」という、迷走・行方不明の文章になるものだ。
そのあたり、改めて言うほどのことでもないが、物事への取り組みというのは、1000回や2000回ぐらいの積み重ねは必要なのだ、完成のために必要な回数ではなく、入口を得るのに必要な回数がそれだ、しかもそれが、筋肉トレーニングのようなルーティンの繰り返しではなく、毎回新しく困惑して取りかかるという回数でなくてはならない/ルーティンの繰り返しは、ルールが制定されているスポーツ的な業界でしか役に立たない、魂というのはそうではないのだ、魂にとって面白いことのためには、まったく新しい困惑に立ち向かうということを1000や2000は積まないといけないのだ、このことはド基本であって今さらおののいているようなヒマはない。
ワークショップで130以上の徹夜を重ねてきたわけだが、もしこんな馬鹿げたことに何か誇るべき成分があるとすれば、それはこの130以上の徹夜が、一回として同じルーティンの繰り返しはなかったということだ、毎回特別な一回を積み重ねてきたはず、そうでなければ回数をカウントすることには何の意味もない、前回をなぞったのなら今回は「何もしなかった」ということだ/同じワークに取り組むにしても、前回の何かをなぞることで得られるものは何もないので、次回が今回をなぞるということも決してない、だから次回がどのような内容になるのかは、わたしも知らない、無為無策のわたしは不安と困惑に駆られるが、この不安と困惑を次回も打破するということ、それではじめて回数をカウントすることにも少しは意味があろう。
今ごろ各員は、課せられた4000字(初学者は1500字)の寄稿について、書いたり消したりを繰り返しているだろうが、そうしたことが1000や2000、毎回新しい困惑として打破されなければ、物事の入口を得ることはできない/わたしが第一にしているのは、経験の量であって反復の量ではない、どれだけ頑張ったかではなくどれだけ生きたかをアテにしているのだ、わたしが与えているのは慣れて安心することではなく加速して焦ることだ、四苦八苦して取り組むことを、まず四〇〇〇苦八〇〇〇苦に増やそうということ、そうしたら四苦八苦のひとつぐらい、「カウントに入らんわ」と鼻息で飛ばせるようになる。

すでに「三日三晩考えたこと」には注目がいかない。

何が三日三晩だ、こちらはもう130を超えているわいということ、そういう物量で押しつぶす作戦だ、慣れるということを決して生じさせず、出来事のスケールを狂わせてしまうということ、常に恐怖とパニックを目前に置きつつ、それが1000でも2000でも積み重なればいいというのは、本来人にとってこの世界と命というのはナゾであって、世界との直面は恐怖とパニックとの直面に等しいからだ、われわれが慣れて安心したときは必ず、われわれは世界ではないただの思い込みの中に蟄居している/われわれが嬰児としてこの世界に眼を開いて以降、この世界が何なのか・どのようなものなのかが分かったということは一ミリもない。
130以上の夜を越えて、もしこれまでのことを思い出そうとすると、膨大なことが思い出され、それはすでに取りまとめることもできない量になっているはずだが、それがまともに生きてきたということだとわたしは思っている、それは自分がどう進んできたかというより、「けっきょく何がどうなって今の自分になったのかもうわからない」と笑える状態だ、今は小劇場やら4000字ごときで四苦八苦している自分が、後には「あのとき何に四苦八苦していたのか今はもうわからない」と笑える状態になるのだ。
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WS報告072(1)/カンタンに見えること

曜日はビギナーが多かったので、改めて「小劇場」をみっちりやった、みっちりやってみると、実はぜんぜん出来てないということがわかる。
別に劇団員でもないので、小劇場なんか出来てもしゃーないのだが、そういうことじゃない、一事が万事、「自分のやっていることが他人にはまったく視えていない・伝わっていない」ということであり、また「カンタンそうに見えていることが自分でやってみると一ミリもできない」ということでもある。
現代、自分のやっていることは他人にぜんぜん見えていない・伝わっていないという状況にあるのだ、それが "伝わっていないと知る" 機会を得ていない、もしくは目を背けているせいだ/数億人がツイッターでぽんぽこ独り言を発せているのは、それが誰にも伝わっていないのに、そもそも伝わるということじたいを見たことがないから、誤解したまま続けていられるという状態だ。
誰にも何にも伝わっていないということに、自覚も知見もないから、現代はあちこちにツイートやコメントがまき散らされているという状況にある、それで何も伝わらないまま相互に気分の阻害だけをもたらして、隙があれば炎上騒ぎになるという、ただそれだけのことを繰り返している、あのとき彼が何を話したかなんて誰も覚えていないし、あなたがそのとき何を話したかなんて、誰も覚えていないし誰にも伝わっていないのだった。

いわゆる「陽キャ」の「コミュ力」みたいなものは、ウェーイを繰り返してバーベキューをして安い女の乳を揉むというようなことで(古い)、これはコミュ力でも何でもなくただ空虚が爆裂しているだけだ、この空虚がフットサルでヘディングシュートを決めることほど人類史上で無意味なことはない。
これではまるで悪口を書いているだけなのだが、なぜ悪口を書いているだけになっているかというと、特に書くことがないのだった、ワークショップはいつもどおりで、いつもどおりということは、もう色々ありすぎていちいち思い出せないということだ、それでしょうがないので漠然と世の中の悪口を書いている(うーむ性質が悪い)。
ワークショップでは、真のコミュニケーション能力(?)を目指して、「ごくカンタンでもいいからひとつのシーンを示して見せろ」という指導と訓練をほどこしているのだが、こうすると次第に「そもそもシーンということがわかっていないかも」ということが見えて来、果ては「生きてくる中で何かのシーンそのものに接触したことがない」ということさえ明らかになってくる/そりゃひでえ話なのだが、それで絶望しろということではない、早くその絶望的な事実に気づかないと取り返しがつかないぞということなのだった。
しょーもないシーンでいいので、たとえば「瞬間接着剤でミスをする」というシーンを小劇場形式でやらせてみる、するとこれは、わたしが実演しているぶんにはとてもカンタンで当たり前のジョークシーンに見えるのだが、自分でやってみるとテンヤワンヤ、誰も彼も人前でナゾのテンションと引きこもりと小芝居をやり始めるのみであり、他人の目には「???」としか見えないのだった、こんなアホチンの状態でとっくに成人を過ぎているというのはとてもヤバいのだ、かつて「甘えの構造」を著した土居健郎が現代の状況を見たら、おそらく「もうあきらめろ」と言うだろう/他人に何も伝わっていないのに承認欲求タピオカボンバーというのはいくらなんでも酸鼻を極めている。

競技ダンスの世界大会経験者が、このワークショップ「小劇場」のレベル1さえクリアできない。

これは例えで言っているのではなく、事実の話だ、学生の部だがいわゆる社交ダンスで日本代表として世界大会まで行った人がいるのだが、その人がこのアホワークショップの「小劇場」の初級ができない、それは今となっては「当たり前」なのだが、それがなぜ「当たり前」なのか、本当の仕組みを知るためにここまでワークショップの訓練と学門を積んできたのだと言える/現象が違うのだ、そしてわたしが実演してカンタンに見えるように見せているその現象が、自分でやってみるといかに不明の雲を掴むような技術によるものかわかる。
もう各員は、いよいよパターンを経験してきたので、もう「この人がカンタンそうにやるやつほどヤバい」ということを知っている、そして各員はいつも自分が取り組むとき、「さて、今から死ぬか」といつもどおり死ぬワークとして取り組むのだった/世界大会に出るようなことは、何だって見るからにむつかしくて無理に見えるものだけれど、じゃあカンタンに見えるものは「できそう」なのかというと、そんなことはまったくないのだった、このことから目を背けているから人は加齢と共に自分のやることがなくなってしまうのでもある。
 

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WS報告071(1)/隣人愛現象
年あけましておめでとうございます、新年初回も盛会でした。
さて今回は新しく「隣人愛」をやった、隣人愛というのは精神ではなく現象だということで、といっても「精神」だって「神」がつくから本当は現象なのだが、それはいいとして、とにかく隣人愛という "現象" をやった、汝のごとく汝の隣人をうんたら、これは実際にやられてみると「あれ? なんだこれは」とニヤつく、事実としてこの現象をディールできるということが主眼だ(いつもの言い方)。
われわれは、自分の肉体とその感覚に依拠して、およそ自分の肉体を「わたし」と思っているが、たとえば「わたし」と思っている自分の両腕だって、切り落とせば「あれ? わたしじゃなくなった」となるのであり、肉体が「受精して卵割していく」という生物プロセスで成り立ったものにすぎない以上、肉体に「わたし」を依拠させることには、実はたいした根拠はないのだ。
ただ習慣的に感覚・体験のインターフェイスがこの肉体だから、インターフェイスのほうをいつのまにか「わたし」だと思い込んでいるにすぎない、たとえば今デスクトップPCでこれを見ている人は幸いだが、あなたの見ているものは本当はモニタであってPCではない、PCはあなたの足許にあるのだが、あなたは習慣的に目前のものを「PC」だと思い込んでいる。

冬場にヤカンで湯を沸かすと、ヤカンの注ぎ口からモウモウと水蒸気が出るのだが、本当はモウモウと出ているのは水蒸気ではない、それは湯気だ、水蒸気は無色透明の気体なので視認は出来ない/モウモウと見えているのは冷やされて液体に戻った水滴の粒であって、水蒸気ではない、空に浮かぶ雲も水蒸気ではなくて水の粒(氷の粒)だ。
だがわれわれは、視認・実感できないものを認識しづらいため、湯気や雲を「水蒸気」だと思い込むようになる、ヤカンの口からモワモワ〜と湯気が出ると、それを実感しやすいので「水蒸気」と思ってしまう、それと同じようにわれわれは、実感のインターフェイスである肉体を「わたし」と思ってしまうのだ、それで目の前の肉体を「他人」と認識し、相互の肉体にある利己的遺伝子が互いに「政治」を始めてしまう。
肉体の個数は数えることができるが、「わたし」という主体の現象は、本当は数えることができない、だから目の前の一般的には他人の肉体に、こちらからわたしの「わたし」が入り込むことがある、そもそも「わたし」という現象はわたしのものではないため……ふつうこのあたりで認識は「???」となるだろうが、このことが学門として把握されていないと隣人愛現象はディールできない。
実際のワークとしては、まずマスター側が「いぇーい」と一人でもりあがり、他人を巻き込まないようにする、他人を巻き込まないのはそれが「隣人」だからだ、それでいてマスターはなぜか、目の前のその隣人に対して、「お前、盛り上がってるぅ」と指さす、これは一般的には主語の錯誤だ、盛り上がっているのはおれであってあなたではない、にもかかわらず目の前の人を主語として「盛り上がってるぅ」と指さす、すると目の前の人は「あれっ?」と、自分の身に言われた「主体」が降臨することを体験する、言われた側が確かに「いぇーい」と盛り上がってしまうという現象が本当にあるのだ。

隣人愛が成立する以上、隣人を身内にする政治工作は不要になる。

たとえば日本はアメリカと同盟を結んでいるが、同盟を結ぶという政治をしなくてはならないのは、相互に隣人愛が成立しないためだ、そりゃ国家法人の隣人愛なんて現在の人類にはまだ無理なのだろう/その点おれは、誰かと同盟を結んだことはないし、誰かと友好を結んだことさえない、おれには隣人しかおらず、しかしその隣人というのはおれ自身みたいなものだからかまわないのだ、おれの隣人はおれ自身なので、おれが蹴っ飛ばしても問題はないし、かといって自分で自分を傷つけるような蹴り方はしない、おれには隣人愛の現象があるので、このとおり他人にたいして善意という政治工作をする必要がない。
隣人愛現象は、「わたし」という現象に対する思いがけないサイエンスなので、昔からわたしの得意分野というか、十八番だ、おれにとっては一番カンタンなこのことが、やはり他の各員にとっては絶望的にむつかしいらしい、新年の初めからこれはよい壁を提出できたと思う、常に真なる「わたし」という主体の現象は出来事(happ)から生じていて各個の肉体に分配される(分配則)ということにまったく整合する話であり現象だ。
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WS報告070(1)/本年ラスト回
年ラストの回であった!! といっても、何をどうしたわけでもない、わたしはむしろ何も特別なことをしないようにした。
とはいえ、この土壇場に、「カッコいいワーク〜」とコールして、なんじゃそのコールはと思いつつ、けれども実際に、ついに「カッコいい」ということに直接アプローチすることができた、これは実は偉大な成果なのだが、そのことは他の各員にはまだわからないだろう。
ずっと魂魄の話をしてきて、魂魄といえば霊魂と気魄で、それは「わからない」と「わかる」であり、集合と離散だ、このことをいつもどおりやり、やればやるほど、「身体操作の精密化ってけっきょく必要っスよね〜」ということにも直面してくる、実にそうした具体的な回だったと思う。
たとえば今回、相手が自分の肩をガッと掴む、それを「ほい」と外すという、シンプルなワークをやった、正しく魂魄を操作すると、ガッと掴んでいるはずのものがスポッと外れるので、「ええええ〜?」となるのだが、アホほど繰り返すと次第にそれは当たり前になり、「難しくて出来ないけど当たり前のこと」になるのだ、出来て当たり前になるのではない、「出来ないけど当たり前」の現象になる/この一年間はそうして、「難しくて出来ないことが大量にありまくるのが当たり前」という日々を各員にコッテリ形成したと思う、その中でさすがに、根本的なうぬぼれやらひがみやらのアホな現象は消え去っていった、そりゃこれだけ「出来ないけど当たり前のこと」に包囲されまくったらうぬぼれることなんで物理的に無理だ。

先日、六ヶ月前に撮影した動画を見直す機会があったのだが、六ヶ月前のわれわれと現在のわれわれを比較すると、もうまったく話にならない、まったくの別次元に到達したのだということがよくわかる。
それは、技術レベルが上がったというのではなく(技術レベルも相当に上がっているが)、単に精神の「まともさ」が別次元に到ったのだ、逆にいえばこのワークショップの試みをする以前は、すっかり精神が「まともじゃない」というヤバい状況にあったと言える。
六ヶ月と言わず、一年前、あるいは始まった当初の一年半前は、何をやるにしても各人がいちいち「パン祭り」、パニックになって感情が荒れてしょうがないという状況だったのだ、各員はそのころのことを思い出すと、すでに「ああ、わかるよ……」と遠い目をするに違いない/けれどもあのときからまだ一年半しか経っていないのだとわたしは見ようと思う、一年半といえばたとえば大学の新入生が二年生の半ばになるのだが、人はふつう一年半ぐらいでこんなに長足の進歩はしない。
「来年は一月四日からスタート、さすがに三が日は各員も集まりきれないので」、今一番大事なのはそのことだと思う、来週もやるのだ、今週やったように来週もやる、「半年前の自分たちと比較にならないなら、半年後の自分たちとも比較にならないのじゃないか、そしてそんな勢いで進んでゆけるものなら、もう思案の必要はない、停滞がやってくるところまで突き進んでから考えよう」、何をやってきたのかを振り返るヒマは未だ与えられていなくて、キョエーと言いながら今日はパーティなのだった、「もうド年末のはずなのに、まだ年末がやってこないんですが(恐怖)」。

「もっとダルそうに立て、ダリーんだよ、いいことないよ」

ついに、この年内のうちに、「カッコいい」ということにアプローチし、その一端を現成することができたのだ、これは偉大な成果でバンザーイ/「カッコいいふうにしてカッコよくなるのは、もとからカッコいい人だけだよ」「自分をカッコいいと思っているのか? その顔は」「カッコよくないやつがどうやったらカッコよくなるかでしょ」。
「この半年間、全体が異常に進んだのは、おれが『偉大なるおれさま』に踏み切ったからだった」「それぞれの努力次第、なんてことはまるでなくてね、ぜんぶおれ次第なんだよ、お前らがどうなれるかなんて」「人それぞれの努力次第とか、そういう水くさいもんじゃないみたいだよ」「全部おれ次第だった、だからこれまで、きわめて容赦ない言い方や態度や言いつけをしてきたけど、けっきょくそういう容赦ないものだけが、成果をもたらしてきただろう? だからしゃーない、お前らの努力じゃないんだよ、おれの到達点と愛だけの問題だ」「何度も言うけれど、おれに感謝するのは、形式的にはかまわないが、どこまでいっても的はずれだ、おれにはお前らを救済する意図はない、その能力もない、その慈悲深い意図と能力をもっているのは、おれがいつも相談している、形も質量も持たないヤツだよ、こいつには何でも出来るんだろうな」「何が正しいのかについて、あえて答えるなら、『お前らが知らないものが正しい』よ」。
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