☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
唯一のノウハウ
ェブ上のあちこちでアカウントを取得していると、どこぞから、頼んだつもりはないメルマガが届いてきたりする。
その中には色んなノウハウが書かれていたりして、「人間関係レベルを向上するテクニック!」みたいなものが書かれていたりもする。
僕はそういうものを見るたびに、「ふざけんなよ」と思うのだ、なまじ役立ちそうなことが書かれているのがますます気に食わない。
ノウハウに頼って人間関係を向上するぐらいなら、破滅してしまえ、僕は虫の好い考え方で自己利益を吸い上げようとして疑問を持たない人間の厚かましさに腹が立つのだ。

こんなブログを書いている僕が言うのもヘンなことかもしれないが、ノウハウなんかに頼るなよ、ノウハウなんか知ろうとするな、ノウハウに頼るなんざ典型的なゴミ人間じゃないか。
「お互いを高め合う『快』の関係」などという、生ゴミ臭のするような行為を僕は一度だってしたことがない、どれだけ追い詰められたらそんなヒサンな発想に行き着くんだ。
だいいち、知らねえよ、おれの得ていく人間関係と、他の誰かの得ていく人間関係は、まったく別物で無関係じゃないか、他人の人間関係の作り方なんか知ったこっちゃない、他人の栄え方も滅び方も知らんしわからんしわかってたまるか。
僕は他人に、希望なんか押し売りしたくないのだ、希望なんてものは各自か勝手に見つけたり失ったりするものだろう、おれは知らん、おれは誰の友達でもない、自分が孤独か孤独でないかなんて、これまでに一度も考えたことがない。

ノウハウは人間の終わり。

そんなことは、言われなくても誰だってわかっていることのはずだ、そんなわかりやすい終わりにやすやす自分から嵌りこむなよ。
僕からお伝えできる唯一のノウハウがあるとすれば、誰だって中指を突き立てて「ノウハウはクソだ」と言い放つことだ、合言葉は「うせろ」でいい、その後どうなるかなんて誰も知ったこっちゃないよ。
恋女のマインドね | comments(0) |
性感とセックスの違い2

「性感」は、アホみたいに簡単な話で、これは誰にでもあり、自分でやるか誰かとやるかの違いしかない、ローションをつけて性器をぬるぬるすればそれなりに性感になる。
そのことと、「セックスを通じて男と女が出会う・結ばれる」というようなことは、まったく別だ、という、これは当たり前の話なのだった。
当たり前の話、とは言うけれども、そんなことを「当たり前」といって堂々と引き受けるという奴がどこにいるのか、このご時世、そんなことに準備ができている清冽なガールなんてそうそういるようには思えない。
男だって、目つきを見ていればわかるが、そもそも何かを「見る」とか「狙う」とかいう眼差しを持っていない、このあたりのことはあまり言っても悪口にしかならないのだった。

ハートにタフな経験を積んでいない人ほど、なぜかセックスについて異様な自信を持っていたりする。
それは確実に、「性感に鼻息が荒くて願望たっぷり」ということが、間違って「自負」にすり替わっているだけでしかないのだが、これもどう言っても悪口になる。
男の前に堂々と立てない女が、裸で寝転んだら堂々と何かができる、というような虫の好い話はまったくなくて、性感は誰にでもできるけれども、「セックス」と呼んでいい何かをできるかというとまったく別なのだった。
ためしに、男Aと女Bで「見つめ合って」みたらいいけれど、見つめ合ったところで何も入ってこないだろう、ただのにらめっこになって互いにプッと噴き出すはずだ、それがペニスとヴァギナにすり替わったところで、やっぱりお互いに何も入ってきたりはしない/さすがに「性感」なんかに自信を持つのはやめよう。

本来のセックスを得ると、冗談でなく「世界」が増える。

たとえば日本が新しく倍の領土を獲得したら、「日本」という国は形を変えて、元よりも大きな国になるだろう、じっさいセックスが正しく得られるとそういうふうに自分の生きている世界が拡大する。
そして、正しいセックスの最中には、「性感」はほとんど確認されない、性感はあるのだろうけれど「そんなことかまっていられない」からだ、キモチイイとかそんなことはどうでもよくなる、男と女が出会って認め合うというのは本来そういうできごとになる。

えっちはいいよな | comments(0) |
性感とセックスの違い

くの人は性感を求めている。
それはおかしなことではなくて、特に男性は性感を求めて性風俗でサービスを購入する。
性感というのは、一定のムードとローション的な摩擦があれば、それで得られるし、没頭もできるので、そのこと自体には何の罪もない。
そこには何の罪もないので、性風俗のキャストは、単なる肉体労働として性風俗のサービスができるし、AV女優だって撮影を共にした男優と恋仲になるわけではないはずだ、仕事が済めば「誰が誰だったか」すべて忘れてしまうようにできている。

性感とセックスの違いは何かというと、性感には方向性がないのだ、方向性がないので「発散したい」という形の動機になる。
性感というのは、単に異性と裸でアヘアヘしたい、そして発散したいというだけで、AがBを「狙う」という方向性がない。
男Aが上玉女Bを狙っている動機は、単に上玉から性感が得たいという望みからにすぎず、直接AがBを「対象」として狙っているということではない、この場合男Aはより上玉の女Cが現れたら、そちらに切り替えて問題ない。
たいていセックスに関わるいざこざは、この「セックスと性感のやりあいを混同している」ということに起こる、女にとって男に性感を求められることは何のプレッシャーでもないが、そのかわり得られるものも何もない、欲求不満の「発散」が得られるだけでしかない。

男はジロジロあなたを見るが、誰一人「あなた」を見てはいない。

男どもが、上玉から性感を得たい、発散したい、とモーレツに望んであなたをジロジロ見るだけで、それは「あなた」という存在が狙われているということではない。
ひどい話だが、あるがままを言うしか救いがないのであるがままを述べるしかない、そもそも多くの人は、人を「見て」「狙う」ということ自体ができないので、何もそれは性感に限ったことではないのだった。

えっちはいいよな | comments(0) |
「セックスは気持ちよくない」という常識
ろんな人から、「セックスが気持ちよくない」という報告を受けている。
恋人とのセックス、妻や夫とのセックス、いわゆるセフレや行きずりのセックスまで含めて、「気持ちよくない」「自分の手でしたほうがいい」という報告を典型的に受ける、男からも女からもだ。
僕はそれに、「今は割とそれで当たり前、焦らんように。慌てるようなことじゃない」と答えている。
たぶん典型的に、「挿入が気持ちよくない」という現象が目立ってあるはず、逆にローションを使ってぬるぬるごっこをしたら気持ちいいだろう、今はそういうことが当たり前になる状況にある。

原因は簡単で、今は時代状況的に、人々が男であることや女であることをやめているからだ、「性的に凍結した胴体」で生きている、こうしないと現代では生活が不快すぎるのでしょうがない。
このことに慌てる必要はないが、このことを正しく知っておかないと、いちいちうまくいかないセックス・気持ちよくないセックスにイライラして過ごすことになってしまう、イライラして仲たがいすることは不毛だ。
こう考えればいい、「もしセックスがかつてのように、天国のように気持ちいいなら、みんな必死で恋人を欲しがったし、恋人のいる人はもっと日々幸せそうで光り輝いているでしょ」と/今明らかにそんな幸福そうな人はいないでしょ。
セックスで、「興奮した」「あれは燃えた」と語る人も少なくないとは思うが、それは胴体が性的に凍結しているので、その中でセックスをするのに「異様な量のムード」を要求されているというだけだ、だからそのへんの話もアテにしなくていい、この問題はそんな一朝一夕に解決はしない。

本来、女は男に押し倒されるだけで、ヘソのまわりに汗が噴き出す。

本来はそういうものなのだけれど、今はそんな現象はありえないだろう、こんなもの訓練のしようもないし解決のしようもない、もともとはセックスにおいてはヴァギナ内の温度がまったく違ったのだ、さすがにそんな科学的なデータは残されていないだろうけど。
われわれは他の哺乳類と違い、文化的にセックスをしているので、路上で交尾はしない、だからわれわれは文化的な生き方から離れていくごとに、セックスを不能にしていくのだ、これは別に焦ることではなく「そういうものだ」とあらかじめ了解しておくしかない。
えっちはいいよな | comments(0) |
「物議」というジョーク
ユーチューバーが、縁日に出ているテキ屋のくじ引きに、大きな「アタリ」が入っていないということを暴露したらしい。
そういう動画があるのはわかるが、その動画に大きな反響がある、ということが僕にはわからない。
当の動画を見ていないので、どういうことなのかよくわからないし、でも精神衛生的にそんなものを見たくないので見ないのだが……
テキ屋のくじ引きに、そんなまともな大当たりが入っている「わけがない」と僕は思うのだが、そういったことは大騒ぎされる値打ちのあることなのだろうか、最近僕は「本気でわからない」と困惑しているのだった。

僕はこれまでに、女の部屋で煙草を吸わなかったことがないし、女の部屋で煙草を吸って文句を言われたことは一度もない。
女に水割りを作らせて、エッチなことをさせて、そのまま寝てしまっても、文句を言われたことはない/僕が「あ、しまった」と目を覚ましても、彼女はエッチなことを続けながら、「いいよ、寝てて」とやさしく言ってくれるだけだ。
女と会うのにいちいちヒゲを剃ったりはしないし、手持ちがすっからかんのときは女におごってもらったりもするが、もちろん文句を言われたことは一度もない。
まして、居酒屋のからあげにレモンを絞ったとかどうとか、いちいち確認したこともないけれど、そういう「物議」って全部ジョークで言ってるんだよな? まさか真に受けている人なんて、この世界に一人か二人ぐらいしかいないよな? 最近ちょっと本気でわからなくなってきた。

もう何年も、「物議」というジョークが続いている。

まさか真に受けている人はいない、と信じたいのだが、ひょっとしたらそうではないのかもしれない、僕はデートのときに自分の服装とか「コーディネート」なんて一ミリも考えたことがないが、文句を言われたことも一度もない。
あ、一度か二度だけ、そういうこともあったか、でもその女は明らかに狂人だったからどうでもいいのだ/まともな女はほうっておいても勝手に肩を揉んでくれたり汗を拭いてくれたり髪を整えたりしてくれるが、そういうのが実態で、何年も続く「物議」などというのは絶対にジョークなのだと、僕は信じたいのだった。
正しく見ないとな | comments(0) |
自己愛の問題は解決しない
己愛の問題は解決しない。
自己愛とは何か、ということに知能を使う必要はない、そんな疲労は負わなくていい。
ただ、自己愛の問題は解決しない、ということだけ言葉どおり覚えておけばいい。
ややゾッとするが、ゾッとしたって解決するわけではないので、あまり難しく考えず知っておくだけでいい、「自己愛の問題は解決しない」。

もちろん、そんなことは根本的には間違っているのだ。
間違っているのだが、そうとわかってはいても解決しないのがミエミエなので、解決しないものだと腹に据える度量のほうが今は必要だ。
「自己愛を超克した人々の邂逅にこそ希望がある」と言い得るのはもちろんだが、たぶん今、相当な気合いを入れなおさないと、「自己愛」とは何で「希望」とは何か、ということが見えてこないはずだ、見えてこないものを取り戻すには相当な負担が掛かりストレスになってしまう。
それぐらい今、知性という機能は破損しているのだが、今は「それがどうしたのよ」と肝を太くしていないといけない、今知性が破損しているという状態は何も恥ずべきような状態じゃない。

自己愛の問題を解決しようなどとしたら、パニックに襲われるだけだ。

今はそういった、知的にタフな活動ができる状態ではないのだ、かといってこの先に好転する予定があるわけでもないが、そういったことも含めて「それがどうしたのよ」と肝を太くしていくしかない。
取り乱すと、人は何も見えなくなってしまい、何も見えないまま努力することは人を不幸に近づけてしまう、それよりはひとまずあっけらかんとして、そうしたら何か見えてくることがあるかもしれない。
視点変えてこ | comments(0) |
明るく生きるための秘訣
念ながら時代は変わってしまった。
旧来、価値があるとされてきたものは、もう期待するべきではないのだ。
そんなことはさておき、明るく生きるための秘訣がいる。
秘訣は、今日のことをあまり重く考えないことだと思う、今日がどうであっても明日が変わってしまうわけではない。

今、考えられるべき主題は、「どう生きるか」ではなく「どう死なないか」に切り替わっている。
「どう死なないか」、つまり、別に今日死ぬわけではないのでまあいいだろうという精神だ。
それによってまず、明るくあれることが先決だ、暗くなってしまったらもうまともな思考回路もはたらかない。
思考放棄を意図的に選択するのだ、今日は考えない、明日どうするかは知らない、それはたぶん間違っているのだが、この間違いを今日修正する必要はないのだ。

「今日何もなかった」ということはすばらしいことだ。

旧来、「今日何もなかった」ということはサイアクのことだったのだが、そういう時代は過ぎたのだ、今は「何もなかった」ということはすばらしいということに切り替わっている、なぜなら「何もない」ということは「死なない」ということに最も好都合だからだ。
もし不愉快や不都合なことが起こったとしても、「何もない」と、さしあたりそう思うしかない、そう思考放棄することは今、未来に向けて取りうる最も明るい手段だと言わなくてはならない、「何もない」ということを怖がる必要はない。
視点変えてこ | comments(0) |
君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず

題は、 孔子の論語にあるものだが、この句はそのまんまでわかりやすい。(ところで論語って孔子が書いたんだっけ? よくわかっていない)
「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」、つまり、「和合できていないのにうわべだけ同調している奴は寒いしショボイし間違っている」と孔子は指摘している。
これを聞くと、いかにも「なるほど!」という感じがするが、ひるがえって「じゃあ"和する"ってどうやるのよ」と考えてみると、急転直下、「うふふ、わっかんなーい」ということに気づく、それで「まあ別にいいかな」と。
「和する」ってどうやるんだろうね、孔子さん教えてください。

「和する」ということは、つまり、できない。(なんて投げやりな文脈だ)
そもそも「和する」ということができないから、「同じる」ということやってるんじゃないか、んなこたわかりきっているだろ? 孔子さんそこのところ察してよね。
とにかく「和する」と「同じる」は違うらしい、まあそれぐらいは誰にでもわかる。
というわけで、偉い人いわく、「和する」ほうが偉いようなので、そう覚えておこう、「和する」ということが「オレはできるぜ!」とは一言も云っていないのでよろしく。

同じているけど和してないぜ、そりゃあな。

たとえば僕は男性で、女の子は女性だから、僕と女の子は「同じる」ことはできんな、僕はオカマでもないし断種もしていないからな。
でも女の子と、和したいので、どうしたらいいかと、悩むばかりなのだった。

正しく見ないとな | comments(0) |
まず単純なことから、まず噛みあっていかんとホホホイ
フフ、おれは正しいことを知っているぜ。
噛みあわないけどな!!
噛みあわない正しさって何にどう使えるのよ……といつも困っている。
逆におれが間違っているのでは? と疑ってもみるのだが、そんな自己疑心を許される悠長な状態ではすでになく、突き進むしかなく、それで僕はもうプレステのVRでも買っちゃおうかなーと考えるほどテンヤワンヤなのであった。

誰か噛みあってくれんかな、と思うのだが、このごろどうもいけない、誰が悪いのかはまったくわからん、ボクが悪いのかもしれないしキミが悪いのかもしれないが、別にそのことはどっちゃでもいい。
僕は単純なことをしようとしているのだが、むつかしいことを訊かれるので、むつかしいことを答える、フフフばっちり答えてやるぜ!
しかし、むつかしいことをばっちりむつかしく答えると、訊いた側が呆然として行方不明になるという結果が得られるので、いつもこれでは意味がわからんと感じる、これを一般に「噛みあってなくて草不可避」という。
いつもむつかしいことを訊かれる気がするが、たいていわれわれは単純なこともできないものなので、むつかしいことは単純なことの後でいいのでは……と思うのだが、噛みあっていないのでアンサンブルは総崩れになるのであった。

単純なことは手ごわいので、人は単純なことからシュバババ逃げる。

たとえば「気の利いたジョーク」とか、「ゲラゲラ笑いながら敬語」とか、そういったことは単純かつとても手ごわいので、人はたとえばコンテンポラリーダンスで怖い顔をすることなどに逃避したがる。
「やりまっせ!!」とたとえば僕は言うので、誰か噛みあってくれんかな、そういう単純なことがな、ぐいぐい成り立てばいいのになと思うが、いつまでも僕が能天気すぎるのかもしれない。
できるオンナだね | comments(0) |
Hustle!!
は活性化に憧れている。
活性化に憧れているのに、活性化が得られない場合、それを捏造しようとして「刺激発奮」をする。
「刺激発奮」は、「内容のない刺激」によって起こる、内容のない刺激によって「催眠状態」になったり「性癖でアヘアヘ」になったりする。
自分に起こっているのが「活性化」なのかそれとも捏造された「刺激発奮」なのかは、とても区別がつきにくい。

それでも敢えて申し上げたいのだが、ハッスルしなきゃだめだよ!!
モソモソっとしているのは、一番弱いし、一番覚醒から遠い、達観ぶっているようなものは全部ガーベッジだ、エセ選民ぶりたい中学生じゃあるまいし。
活性化というのは、「自己利益のないことにハッスルできる」という状態を指す、これが難しくて、自己利益のマニア(熱)は本人が焼けるだけで周囲にとっては寒いのだ。
ハッスル、戦え、勝利に向かえ、そして真の勝利とは自己利益を得ることではなく、自己利益を超克することなのだ、人間にとって自己利益へのこだわりが一番の弱みなのだから、それを置き去りに出来るということがハッスル! ということ。

今日勝利しろ、明日にはすべて忘れろ。

「明日のために」などと考えると、たいてい自己利益になってしまう、おれの明日を気にしている奴なんて世界でおれしかおらんだろ、そういうのは小さくてつまらない、それではハッスルにならない。
一日だけ自分を超えりゃいい、単純なことだ、今日間違って明日を失うとして、それで困るのなんてこの世界でおれ一人だけなんだろ?
バカをやろうかあ | comments(0) |
表現者の出現がこの世で最も醜いこと
現者はクソだ。
表現者が表現するたびに世界が出現する。
その世界をどんどん信じていけばいいわけであって、表現者自体はクソだ。
誰も表現者をやりたくてやっているわけじゃないだろうのに、「表現者になりたい」という輩は誤解をしている。

表現者が表現をするたび世界が出現する。
それをどんどん信じていけばいいわけであって、表現者自体はクソだ。
「表現者になりたい」という輩は世界を否定して世界から離れたがっている。
表現者が表現する「世界」の中に、「表現者」なんていない、「戦場のメリークリスマス」の中からは「戦場のメリークリスマス」だけが聴こえてくるのであって、その中に「表現者」なんて聴こえてたまるか。

「表現者」という自己表現が、「世界」から最も遠い。

誰が演奏しているか、なんてことに何の値打ちがある? 誰が演奏しているかと言われたら、最も正しいとき、「誰も演奏していない」と答えるだろう。
演奏において最も邪魔なものは演奏だ、執筆において最も邪魔なものは執筆だ、表現において最悪に邪魔なものは表現であり、芸術において最も嘆かわしい醜さは芸術だ、表現者の出現がこの世で最も醜いことだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
バカバカしい、という耐えがたい苦痛
「けものフレンズ」が流行っているらしい(ホント?)
よくわからないので第1話と第11話だけ観たが、むろん、僕のようなおっさんが楽しめるものではない。
人は、自分を高揚させてくれるものはどうしても「味方」だと思ってしまう。
例えば男性なら、下着を見せてくれる女性やペニスをこすってくれる女性は、どうしても「味方」なのだ、人間はそうした悲しい生きものだ。

人間はそうした悲しい生きものだ、なんてのはもちろんウソで、いちいちそんなことで高揚する奴が悪い。
よほど追い詰められて、さびしく、自分の生きる余地がないのだろう、だから子供キャラクターが走り回っているのを見るだけで高揚して「癒し」が得られる。
僕は先日友人と、「どうしておれが、『けものフレンズが好き』っていう女とセックスなんかしなくちゃいけないんだよ」という、わけのわからない会話をした。
「けものフレンズ」に何の悪いところがあるわけでもないが、「けものフレンズが好きです」という女とセックスするとか、そいつにメシを食わせるとか旅行に連れて行くとかは、ものすごくバカバカしいことに思えるのだ、なぜそうなるのか理由は不明だ。

何かを諦めた人とする食事は、バカバカしさにおいて苦痛だ。

かといって、やみくもに「諦めない」と言い出す人もあまりに現実的でなく、とにかくまともに相手しようとすると、途端にバカバカしさが苦痛になる、「けものフレンズ」は何も悪くない。
以前、自転車が趣味だという五十歳のおじさんがニコニコして、実は「大のアニメ好きで癒されるんです」と話してくれたとき、ヘェーッと僕は素直に驚いた、彼は何の罪もないおじさんだったが、もし一緒に食事に行けばひどく苦痛だっただろう。
恋女のマインドね | comments(0) |
希望の報告

なので遊びすぎて身体がぼろぼろだ(ここからまた悲惨なスケジュールが続くのだがどうしよう……)。
「疑う胴体が失ったすべてのもの」が非常に好評で読まれている(Book読んでね)。
あれだけの分量をよくスッと読んでくれるなと恐縮するが、それだけ人はまともなところをまだ十分に残しているんだなあと、割と冗談でなく思う。
読んだあと、一種の熱と「震え」が来るのが当然、震えが起こるように書いてあるの、それが本来の読書体験というものなのよ、震えない読書なんて本当は意味ないのよ。

余計なお世話というやつの典型例だが、一度、自分の読解力や本を読む力というものの実験台にしてみてもいいと思う。
今のところ、二十代の女性たちが、こぞって「内容が明瞭すぎて」「すっごくわかりやすい」「無駄なところが一か所もない」と報告してくれている。
男性諸君は、女性から見て知性的でないと諦められた男性はもうほとんど絶望するしかないが、まともな二十代の女性は当該コラムに書かれてある内容を「明瞭すぎてわかりやすい」とスラスラ読み取れるだけの知性を持っているわけで、つまりそれが読み取れなきゃ自分は比較的にアホだということだから、それでは致命的にヤバいと覚悟しておこう。
知能が高いつもりで、でも実は知能もたいしたことなくて、本質的には実は「知性が無い」というだけの人は、何に対してもまず「難癖をつける」という行為をして知性風味の自己顕示欲を満たすということばかりするが、こんなものとっくに「あ、読解力がない人だ」と女性たちには見抜かれているので、男性諸君はもっとまともな勉強をしよう、たぶんこの先「知性がない」というのが一番ヤバいよ。

希望の報告:同じく震えているあなたの友人が、この世界のあちこちにいる。

それと出会えるか、というとむつかしい、またそうして打ち震えたものを、表沙汰に発揮できるかというと、それも一層むつかしい。
ただ、今この時代でも、まともなものに触れてまともな読み取りをし、まともに打ち震えるという人は少なからず「いる」のだ、それが「いる」という事実は十分に希望と言えるだろう。

恋女のマインドね | comments(0) |
正体不明のことに力を尽くせる器量を忘れるな

だって、自分のやるべきことをやらなくてはならない。
ところが、この「自分のやるべきこと」というのは、探しに行ってもいけないし、自分で創り出してもいけないのだ。
だいたい想像がつくだろう、「やりたいこと探し」とか「やりたいことをクリエイトする」とか、そんなものは初めからスベるに決まっているのだ、うまくいかない上にキモチワルイという大ダメージまでついてくる。
誰だって、「自分のやるべきこと」をやらなくてはならないのだが、これには何の手かがりもなくて、唯一あるヒントは、それは常に「わかりにくいもの」であるということ、および「わかりやすいものはたいていハズレ」ということだけだ。

たとえば、僕が過去を振り返ったとき、「なぜあのとき震災のボランティアにいたのだろう」「なぜ手品をしていたのだろう」「なぜ合唱団にいて指揮者をしていたのだろう」「なぜあのコと出会ったのだろう」「なぜインドにいたのだろう」「なぜ総合商社にいたのだろう」「なぜ今文章を書いているのだろう」という思いがあるが、これらすべては、今になって「なぜ」ともいえない、とてもわかりにくいことなのだ。
とてもわかりにくいことでありながら、同時に、これらのすべてが僕にとって必要なことで、ひとつにつながっている、ということだけが感覚的にわかる。
こんなデタラメなジャンルの数々が、僕にとって「必要」だったわけで、そうなるともう、それを「探す」とか「創り出す」とかいうことがいかに無力で無為かということがわかるだろう。
だから、「自分のやるべきこと」については、上っ面で「考えて」はいけないのだ、何か知らないが自分の「本体」で掴み取るしかない、それぐらいのこと十八歳にもなればわかるだろう。

「自分のやるべきこと」は、正体不明でこそ正しい。

それは正体不明だからこそ、「自分のやるべきこと」かもしれないという可能性を持っている/逆にわかりやすく「将来のために英検を取ろう」というようなことは、わかりやすいがゆえに「自分のやるべきこと」では本質的にない。
自分のやるべきことを、見逃してはならない、そしてそれがもしわかりやすいものなら、誰も見逃すわけがないのだ、見た目にはまったく正体不明にしか見えないからそれを見逃してしまうのだ/正体不明のことに力を尽くせる器量を忘れるな。

正しく見ないとな | comments(0) |
私語が止まらない病気

生時代、とある合宿所で、後輩が深夜テレビを観ているのを見た/彼は前傾姿勢で、モニタに食い入るようだった。
番組途中、いわくつきで登場した地下タレントのような誰かを観て、彼はただちに「あー、思ったよりイタくないなー」とあざけるように言った、ほとんど「反射的に」という声だった。
僕はそのとき、(なんだこいつ)と思ったし、立場が先輩だったので、「おい、その気色の悪いテレビの見方やめえや。少なくともおれの前でやんな」と制した。
彼は「えっ」と驚いた様子で、「でもこういうテレビってこういう見方するじゃないですか」と不平を言ったが、当時は先輩後輩の関係は凶悪なものだったので、僕が「あ? "おれの前でやんな"って」と重ねて言うと、彼はささっとテレビを消した。

誰でもテレビぐらい観るだろうし、今ならウェブ動画をいくらでも観ると思う、その点は誰でも同じだ。
が、おそらくその「見方」はかなり人それぞれなのだ、僕の知るかぎり、ずーっと直接でも頭の中でも自分の「私語」が止まらないタイプがこの時代には少なからずいる。
そういう人間は、会話しているように見えるときでも、よくよく聞くとその都度に思いついた「私語」を吐きだしているに過ぎなかったりする、だから全体として「会話」が成り立たない。
ニュースを観ていても映画を観ていても、あるいは小説を読んでいても、何ならたぶん交通事故を見たときさえも、頭の中で「私語が止まらない」という病気に罹っている人がいる、こういったことは誰か偉い人が是正というか治療をしなくてはならないだろう(おれは知らん)。

私語病に罹っている人は、たぶん一生に一度も「聞く」「話す」をしたことがない。

たぶんそういう人は今、ものすごい割合で有象無象の中にいるのだ、老婆心から申し上げたいが、「頭の中で私語が止まらない」ということは決して「自分なりに考えている」ということではない(どうか若いうちに引き返してね、若いなら間に合う)。
レストランに行って、「これがおいしい」とか「この食材が」「ウーン」とか言っている人たちがあるだろう、あれは会話をしているのではなくて私語が止まらないだけなのだ、だから周囲からは「聞くに堪えない」という感触がする。

できるオンナだね | comments(0) |
まともに生きるのには常にキアイがいるものだ

っとコラムが書きあがった。(→(六日目)怒りの日、疑う胴体が失ったすべてのもの
原稿用紙450枚分もあるそれを「コラム」と言い張るのはどうかと思うが……
165,790字だから文庫本で230頁ぐらい? 普通に考えてウェブブラウザで読む分量ではないな。
まあそこはキアイで読んでくれ、あとはUSBメモリにpdfファイルを入れて持っていけばコンビニでも印刷できるし、その他ネットプリントとかの方法も最近はある、まあそういったことのすべてはめんどうくさく、まともに生きるのには常にキアイがいるものだ。

こういったことには二つの考え方があると思う。
こんなクソ長い文章、読むのは正気の沙汰じゃない、という考え方がある一方、「読まないのは正気の沙汰じゃない」という考え方もある。
僕は、大学生がまとまった読書をしないことや、社会人が日常的に大きな情報を仕入れないことのほうを、「正気じゃない」と捉えるたちだ、どうしてマンガと動画を漁るだけのほうが「まとも」なのか? それはただのすりかえだろう。
このごろは、「生きることを諦めた人から順に威張っていく」というよくわからないスタイルがあり、そのスタイルの感覚は僕にだってわかるのだが、やはりそれは「正気の沙汰じゃない」と僕は思っているのだった、僕は卑怯者だからな。

「何の勉強にもならなかった一年」は、わりと人生を破綻させる。

誰でも思い返してみるとわかるが、5歳から15歳まで、勉強の要らなかった一年なんかなかったわけで、そしてまともな青春なら、15歳から25歳まで、勉強の要らなかった一年なんてやはりなかったのだ、遊ぶことも含めてまともな生命は学びつづける。
しかしいつからか人は、「勉強の要らなかった一年」をこっそり過ごし、そこからパタッと自分の生きることを終えてしまう、そういうのはコワイことだからみんなゴリゴリ勉強しようね、まともに生きるのには常にキアイがいるものだ。

恋女のマインドね | comments(0) |
アップロード:(六日目)怒りの日、疑う胴体が失ったすべてのもの

本体サイトにて掲題の記事アップしました。ご笑読ください。

→「(六日目)怒りの日、疑う胴体が失ったすべてのもの」
(pdfファイル、A4サイズ94頁)

→本体サイトはこちら

九折

そのほか | comments(1) |
消費者の矢印

れまでに三千兆回ぐらい、「本気出します」と聞いてきた気がする。
いいかげん気づけよ、と言いたいのだが、ハズレのパターンは必ず、「やることが見つかったら本気が出せる」というドデカイ誤解に基づいている。
これが逆だということに、いいかげん気づけよ、「やることが見つかる→本気を出せる」じゃなくて、「本気出す→やることが見つかる」なの。
読みたい本があるから購読意欲が湧く、のじゃなくて、そもそも購読意欲があるから読みたい本が見つかるんだよ、あなたは書店で札束を投げつけるほど本気になる前提がないんじゃないか。

「やることが見つかる→本気を出せる」という、この向きの矢印を、「消費者の矢印」と呼ぶ。
消費者のマインドは実にクリアで、「余が本気にならざるを得ない製品およびサービスを、まず余の前に示せ」ということに尽きている、「そうしたら余は本気出すし、余の本気出したい願望は大満足するもん」と傲然と申しつけている。
「超いい女がいたら超本気出す」「超いい男がいたら超本気出す」という両サイドが投石しあうこの悲惨なコロシアムをいいかげんにやめなくてはならない。
あなたが消費できるものなんてこの世に一つもないのです、教会か神社かお寺に行って、「どーしてわたしの消費するものが与えられないの!?」と聞いてきてみんしゃい。

主体性がないのじゃなく、消費者性が超ある。

いいか、まずなあ、テレビモニタやPCモニタ、スマートフォンのモニタにな、お前の消費するモンがパッと必ず現れてくれるはずだという、そのとんでもない習慣をやめろ、それ「モニタ」っていうただの機械だぞ、光るようにできた板だぞ。
いいか、次になあ、身の回りの「紙」を見てみろ、印刷物ばっかりで白紙がぜんぜんないだろ、でももともとの「紙」って「白紙」なんだぜ、そのことをもうあなたは何年も忘れているんじゃないか。

恋女のマインドね | comments(0) |
「可能性」こそ「現実そのもの」ということ

しも未来に向けては「可能性」がある。
「いや、お前だけは例外で可能性がない。スーパーゼロ」と言いたくなるようなケースもあるが、それだって理論的にみれば間違っている。
人は誰しも未来に向けては可能性があるわけで、ただ人によってはその「可能性」を自らの手ですりつぶしていくということがあるものだ。
「可能性、ですか……」という人がまさにそれであって、「可能性」なんて自分で考えなくても理論的にあるっちゅうねん、ということ、それがわかっていない人は自分で可能性をすりつぶすのだ。

可能性が「ある」ということと、それに「手をつける」ということは別だ。
誰しも未来に向けて可能性は「ある」が、それに「手をつける」という人はごく少ない。
僕は一年前、「速球を投げたい」というわけのわからん未来を所望し、そのとき練習したら背中がグキッとなったのでタクシーで帰ってもうやめたのだったが、実はしつこく考えてはいて、ついに昨日、はじめて自分の投げる球がホップして伸びる、という状態を獲得した、むろん僕の野球経験はゼロだ。
人は誰しも可能性を持ちながら、それに「手をつける」のはいやがるものだ、なぜなら「可能性」は「現実そのもの」だからだ、「可能性」は「かもしれない」ではなく現実そのものだという、この思いがけない真実にヒントがある。

可能性に手をつけるということは、現実と握手するということ。

現実と握手するとなると、いろいろとコワイわけで、だから人は可能性を「かもしれない」という封印に閉じ込めておきたがる、そうしたら現実のコワさを無視していられる。
よくよく冷静に考えてみてね、「可能性」に「手をつけた」ら、そのとたんそれはもう現実でしょ、それがコワイから人は永遠にそれをしないでおくんだよ。

正しく見ないとな | comments(0) |
ヒサンな待遇を受けている人が、自分の待遇改善にマックスフルパワーが止まらなくなるということ
ーパーマルチ言い訳マシンになるのをやめよう。
自分から誰かへ愛のアタックをかけていないのは明らかだ。
ホントーに「自分の待遇改善」のことしか考えなくなっているし、ホントーにそのことにしか努力する気なくなっているだろ?
おおっと、ここでスーパーマルチ言い訳システムの発動は禁止だ、だって「マジにそう」なんだからしょうがないじゃん、マジに自分の待遇にしかキョーミないんだから今さら言い訳なんかしなくていいじゃん。

自分の待遇改善にしかキョーミが持てないということは、つまり、えー……、まずそれだけヒサンな境遇にいるということなのだろう、誰も自分によくしてくれず、ヒサンな待遇の中にいる、と。
そういうことは、すごくよくわかる、なぜなら僕も、そういうヒサンな境遇でヒサンな待遇を受けている奴をたくさん見てきたからだ。
一方僕自身は、なぜかこれまでに、自分の境遇や、地位や待遇ということに、そもそもキョーミを持ったことがなかった、「待遇」という概念を忘れてしまっていたほどだ、なぜか一度も考えたことがない。
まあなんであれ、実際のところ、自分の待遇改善にだけマックスフルパワーが止まりませんという状態で、その無節操さについてはスーパーマルチ言い訳システムがバッチリはたらきますという状態では、それはたぶんあなたがかつて「こうなりたい」と思っていた自分の像とはまったく違うのだろう、少なくともおれのせいじゃねえ。

「自分の待遇改善にしかキョーミのない人」に、どういう待遇を与えるべきか。

もちろん、与える待遇は、下の下、つまり「ボッタクリの着色料でも食ってろ」ってあたりになるわなあ、僕はラブリーな女の子を膝に乗せてシーチキンごはんを食べていたいもの。
あなたは自他ともに認める「愛のアタックをかけまくりやがるすげえ人」では、ないのじゃないか、そのままハイクラス待遇を待ち続けるというのは、まるでマリアナ海溝の沈没船の中で市バスが来るのを待ち続けているような状態だと思うのだがどうか。
視点変えてこ | comments(0) |
<< | 3/146PAGES | >>