☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
マンガとアイドルの疲れ/「えっちかわいい」は公害になりつつある2
れだって、たとえば早朝にテレビを点けて、かわいい巨乳のお姉さんがえっちなお肌でほほ笑んで天気予報を伝えてくれていたら、いちおうそれを見るのだ。
そういうお姉さんは、本当にかわいくて、おしゃれで化粧もきれいで表情もキラキラ、まるでマンガみたいだしアイドルみたいだ、アイドルみたいというか実際アイドルなのだと思う、所属団体がアイドルを決定するものでもなかろう。
おれは彼女の、えっちなお肌とマンガみたいにセクシーなプロポーションを眺めながら、同時に自分の体内がメタメタに疲れていくのも感じ取るのだ、何に疲れているかといえば、そのマンガみたいにかわいいお姉さんの内部に、本当にマンガしかないのが看て取れるからだ、内部にマンガしかないので彼女はマンガみたいな表情と振る舞いをしているのだった。
マンガみたいにセクシーと言ったが、それは便宜上のことであって、本当にはマンガはセクシーではない、そりゃ当たり前だ/だがここで強調しておくべきこととして、今の人々にとってセクシーというのは「マンガみたい」「マンガのキャラクターみたい」ということだ、なぜなら思春期の恋もオナニーもすべてマンガのキャラクターがその対象だったのだから、ここでは逆転して「セクシーということは、マンガみたいってことだ」と言い直さないとと実情に沿わないのだ。

くれぐれも、おれは女を罵っているのではないし、また、罵りたいと思ったことも一度もない、そうではなく、おれぐらいは「なぜか疲れない奴」であってやりたいのだ、おれの書き話していることはいつもメチャクチャでポリコレもクソもないような暴言の専門家みたいになっているが、それでこそ誰かにとって「なぜか疲れない奴」でありえる、おれまでこの「マンガアニメえっちかわいい」に同調したらもう何もかもが疲れてしまう。
今、多くの人は疲れていて、何をするにも穴が空いたように疲れ果てていて、休憩が必要だ、休息と癒しとケアが必要だと自ら感じていると思うが、そうではないのだ、疲れ果てているのはずっと休憩をブチ込まれているからなのだ、ずっと休憩をブチ込まれているから、自ら認めるところ、自分はひどくダサい顔をしており、ひどく濁った眼をしていて、ひどくだらしない呼吸、寝起きで怒鳴ったみたいなひどい声をしている、そのことが四六時中じぶんの事実として付きまとってくるから、そのことに嫌気が差しすぎて疲れ果てているのだ。
それで多くの人が、何かしら意識を高めて、強度のトレーニングに傾倒したりするのだが、そうすると一種のギラつきやオラつきは得られるものの、それは興奮物質が出ているだけで、根本的な疲れおよび、その疲れにむしばまれた薄汚さは解決されない、そしてけっきょく疲れているからソシャゲをして、たまに彼氏とデートはするけれども三回に一回は気分の悪いケンカをするのだ、むしろそうしてケンカしてムカつくことさえ自分の筋トレのエネルギーにするというのが習慣になっている人も少なくない(冷静に考えたら怖すぎるだろ)。
朝から巨乳のお姉さんを見て、そのマンガポーズを見て元気を出して、今日も一日がんばろう、と奮起するかというと、そんなことにはならない、朝から映像でえっちかわいい巨乳を見て自分を奮起させるというようなありさまの、どこに夢や希望があるというのだ、そのとき本当に魂が叫んでいるのは、「ああ今日もしんどいだけの休憩を一日過ごさねばならないのか」という痛哭だ/何度も言うが、おれは女を罵っているのではない、おれが言っているのは、「まともな女は全員、すべての日々を胸に突き刺さる日々として生きたいと叫んでいる」ということだ、魂からえっちかわいいがやりたいなんて望んでいる女は一人もいない、ただそれしか出来ることがなくて、また自分に与えられてあるものがそれしかなくて叫んでいるだけだ。

禁欲なんかしたって何にもならない、禁欲という発想がすでにマンガ漬けのアホの思考だからだ。

「禁欲」という発想のアホさは、「巨乳」という発想のアホさとちょうど同等ぐらいだ、そしていくら過酷なトレーニングを積んでも、あるいはどこかの国の宗教兵士になって戦場でドンパチやっても、このアホは治らない、そういう過酷でシリアスなことをしたら何かになるという発想がすでにマンガ漬けのアホ思考なのだ/冗談でなく、今の人なら「自分を鍛えなおすために禁欲とトレーニングをすることにした」と自らSNSで報告しかねないし、それに大量の「いいね」がつきかねない。
そうして考えると、「えっちかわいい」の包囲網によって、己の顔面と声と脳みそを「アホにされる」というのは、けっこう強烈な攻撃であり、けっこう強烈な痛苦の責めかもしれない、自分の大脳も小脳もすべて「コンビニの端っこに置いてある一番要らない本」になってしまうというのはなかなかの拷問だ/このとおりおれの書き話すことは今日もメチャクチャでおれ自身の立つ瀬がないが、少なくともおれの提出するものは巨乳マンガのえっちかわいいからはかけ離れている、おれはなぜかあなたを疲れさせない奴でありたい。
視点変えてこ | comments(0) |
マンガとアイドルの疲れ/「えっちかわいい」は公害になりつつある
「かわいい」女の子が大増殖している。
無数のコンテンツの中に、無数の「かわいい」女の子がいて、またコンテンツの中でなくても、夜中の恵比寿あたりにいくと地下アイドルらしき人たちがディレクターと共に打ち合わせしていたりするのだが、とにかくたくさんいる、ものすごい数いる。
あまりにもそれを見かけるようになったのは、単にスマホにカメラがついたからだろう、とにかく自撮りを連打するのがSNSの流儀になって、彼女らの自撮りは自分が「かわいい」以外に表現の内容はない、とにかく「かわいい」だけだ。
そして、そこまでフルスロットルを踏まれると、いいかげんごまかしが利かなくなってくるのだが、「かわいい」は疲れる、「かわいい」というそれじたいは悪いことではないはずなのだが、かわいい「しか」ないというのが、なんというか精神の根底に鈍痛のごとく響いて疲れる。

漫画もアニメもアイドルも同じで、またかなりのていど一般人も本性として同じになってきたと思うのだが、とにかく第一義は「かわいい」で、それと同じぐらいの第二義が「えっち」だ、その「えっち」というのもずっと見せられていると単純に疲れる。
疲れると元気が欲しくなるので、いろいろ探してさまようのだが、探してさまよっても、もはや「かわいい」と「えっち」しかない/なんというか、エナジードリンクしか飲み物がないというような世の中だ、それを飲めば一時的に元気になる気がするだけで、カフェインを大量摂取したらトータルでは疲れるに決まっている。
冗談ではなく、今やマンガもえっち、アニメもえっち、アイドルもえっち、一般人もえっち、男まで女みたいにえっちになっていて、本当にもう単純に疲れるのだ、いっそ軍艦マーチでも聞いていたほうが疲れなくて済むというような状況になっている。
状況は大変まずくなっているのであり、ミエミエのまま最低の状況が進行したのに、けっきょくそれを止める方法はまったくなかったし、そんな方法は誰にもなかった、多くの人がすでに「かわいい」と「えっち」にしか反応できなくなっており、またそのうちでもかなりの人が、実のところ生まれて以来「かわいい」と「えっち」しか刺激と体験を与えられていないのだ、明日もえっちで明後日もえっち、かわいい&かわいいで全ての日を埋め尽くして、ものすごい勢いで疲れて老いて死んでいくしかない。

周囲に「えっちかわいい」しかないという状況は疲れる、周囲にピカソの絵しかないほうが遥かに元気が出る。

いいかげん、若い男性だってもう疲れ果てているのだ、街ゆく若い男性たちを見ると、何か直観的に「ズタズタ」という印象があるだろう、あれはもう「えっちかわいい」とオナニーの繰り返しで疲れ果てているのだ、そして若い人は疲れるとマンガを読むしか出来ることがなくなるので、またそのマンガが「えっちかわいい」だけで構成されているという、一種の包囲網に置かれている。
かといって、今の若い女性に、何をどうしろと求めるのも無茶であり無謀だ、ただちにおれは無数の火矢を撃たれてしまうだろう、何しろ若い女性自身に今のところ「えっちかわいいしかない」というのが実情のはずだ、ずっとマンガを読んできただけなのに急にマイルス・デイビスみたいになれるわけではない/つまり、次第に「えっちかわいい」が一種の公害になりつつあるということなのだが、そうは言われても若い女性のほとんどは「えっちかわいい」しか自分の出来ることはないのであって、それを公害呼ばわりされたら、もう無条件で反撃の火矢を撃つしかなくなるだろう、おれは女を罵っているのではない、女を愛しているのだ、おれは女を愛していて「えっちかわいい」を罵っている、女だって自分と周囲に「えっちかわいいしかない」ということに心底疲れ始めているはずだ。
視点変えてこ | comments(0) |
軍を忘れるな
ともな人のうち、文学に無縁な人など存在しないように、軍学に無縁な人も存在しない。
軍とは「いくさ」のことだ、おれは軍人ではないが、まともな人のうち軍に無関係な人など存在しない/警察と犯罪者のあいだでも、実際に交わされているのは「いくさ」だ、警官は腰に銃砲を携行しており、けっきょくは抵抗する犯罪者を「いくさ」の力で制圧する。
社会的には市民は軍事行動に無縁とされているが、そうではない、市民は権力によって軍を使役している、つまりわれわれには「人権」が与えられていて、その権力に基づいて、犯罪に巻き込まれた場合には警察を呼ぶ、実際にそうしてわれわれは「いくさ」の力を使用しているし、また常にその準備をしている。
テレビドラマというと刑事ものが多く、時代劇というと長谷川平蔵や遠山の金さんであって、映画というと戦争ものやギャング・テロリストもの、われわれはむしろ文学より軍学を愉しむことのほうが多いぐらいだ、「いくさ」の力がすべてを制している、われわれはそういう世界に住んでいる。

われわれは世界を見失うと、わけのわからない迷妄、鬱、際限のない刺激とオナニーという行方不明に陥っていく。
われわれは社会的に、二・二六事件を発想しないように、「軍」そのものを思念から切り落とすように操作・コントロールされているのだが、これによって世界を視認できなくなるのだ、この作用はまったくよくわからないもので、このことは世界の視認を取り戻した者にしか理解しえない。
ただでさえ日本は、軍隊を建前から自衛隊と呼んで認識が曲がりがちなので、われわれは世界の失認から鬱とオナニーの迷妄に陥りがちだ、おれが言っているのは暴力の礼賛ではない、暴力を否定するのも「いくさ」の力だという話をしている、ツイートで誰かの暴力を止められるわけではない。
この世界にはマンガやアニメやアイドルだって存在してよく、またマニアックなスポーツや趣味だって存在していいのだが、「軍」を忘れるとだめだ、おれは軍人を礼賛しているのではない、おれと軍人が殺しあったらたぶんおれが相手を殺すと思うが、それだけ軍・いくさというのは建前ではなくて世界そのものだということだ、おれがバスケットボールの選手とバスケの勝負をしたら勝つ見込みはないが、「いくさ」というのはそういう人為的な設定とは関係ない世界そのものの現象だ。

どれだけ非力な個人でも、「軍」でなくてはならない。

たまにテレビや Youtube で、自衛隊が近接戦闘の訓練・演舞を見せているけれども、おれが勝手に見るところ、彼らはちゃんと、まじめで、正しく、すてきなことをやっている、もちろん殺し合いの模擬でしかないが、模擬でいいのだ、それは空想でするヒステリー喧嘩とは正反対の、本当の「軍」だ。
「軍」には少なくとも、世界そのものの一部が現れているのであり、そこにはすてきなものがあるのだ、それがどうすてきなものなのかは、世界に触れていない人にはわからない、少なくとも暴力と軍の区別がついていないような人には視えようがない、おれが言っているのは侵略の話でもなければ自衛の話でもない、「軍隊」という集団の話でもない、ただの「軍」の話だ/軍を忘れるな、軍を忘れると世界から切り離され、決して解決しないむなしさに支配される、そのことを他に解決する方法は存在しない。
正しく見ないとな | comments(0) |
アウトプットは大威張りで、インプットはわがままに2
界は主観的にしか存在していない。
主観の反対は客観だが、どちらかというと主観の反対は「一般」だ、だから世界の反対が「一般」になる/一般というのはつまり、自分が行くこともない場所の情報や、自分の口に入ることもない酒の情報をありがたがることだ、自分の友人になるわけでもない人々の数十億の意見をアテにすることだ。
おれはそんなものをアテにしたことはないので、これはおれのために言っているのではなく、誰かのために言っているのだ、世界の反対は一般で、一般にどれだけ優秀になっても何の世界にもならない、まして何ら劣等の言い訳にはならない。
世界は主観的にしか存在していない、そして主観は主体のものだ、ここで主体というのはこの世界で「おれ」しか存在していない/個々の人格、個々の自我を認めてやってもよいが、それはサルトルになるだけだ、サルトルの作った捨て台詞は「地獄とは他人のことだ」、これでサルトルの小説は終わった。

世界には「おれ」しか存在せず、一般には個々の「我」が存在する。
存在するといっても、世界が存在することに対し、一般というのは本当には存在していないのだから、正確には「個々の我が存在するという錯覚が、 "一般" という錯覚を生じさせている」ということになる。
おれはいつでもこのことを思い出す、この場所のことを、おれがずっといたこの場所のことを/おれはおれと世界だけのことを言い張って、そうでない人々は一般と個々の我のことを言い張っている、この両者はどれだけ近接してもけっきょく接触はしていない。
世界というのは無限の現象だが、無限だからこそやたら一般のように情報を広げなくてよいものだ、そうしておれはずっとこの聖域の中にだけ生き続けていることになる、おれの出来ることはこの聖域に、おれを入れてやることだけだ、ありもしない個々の我みたいなものはどうやってもこの聖域には入り込めない/この聖域は、常におれの周りであって、何の情報もなく無限だ。

何の技術も情報も要らない、「おれ」なら入れる。

おれの名をコールしてもかまわないが、他人の名をコールするのではだめだ、自分の名をコールしろ、おれの名を自分の名としてコールしろ、そこには世界がある、聖域に入れる。
外から聖域に入るのもそうだし、内から聖域へ入れてやるのもそうだ、「おれ」しか入れないし、「おれ」しか入れてやれない、世界とは主観の現象なのだ、主観は主体であり「おれ」だ、このことが外側の、ありもしない個々の我に理解されることはない、入れる者の名はすべておれの名だ。
正しく見ないとな | comments(0) |
アウトプットは大威張りで、インプットはわがままに
れは本当に世間の話を聞いておらず、ゆえにおれにだけに救済のヒントがある。
ヒントどころか、おれじたいが救済そのものだが、おれは他人の誰かに何かを一切期待していない、おれは他人の中にもあるおれに期待しているのみだ。
期待? より正確に言っておこう、おれは他人の中にあるおれを信じているというか、他人の中にあるおれだけを相手にしているのであって、そのほかの戯言は聞こえていないのだ、このむちゃくちゃなやり方というかむちゃくちゃな感覚が、今になって唯一の救済の手掛かりになった。
おれは他人の人格を認めていないわけではない、いや、認めていないのかな、おそらく認めていないのであろう、おれは他人の主体は認めている、ただしそれが主体であるならば、それは他人ではなくおれであるはずだ、おれは他人の中にあるおれとしか接触しない、だからおれにとって他人なんてものは存在していない、その魂のうちにおれがいない誰かなどおれの世界に存在を認めない、そんなものはただの汚れた物質だ。

一方、おれが外側の何か作品等を楽しむときにも、けっきょく本当には、おれが勝手に作品を利用して、想像力で遊んでいることがわかった。
作品それ自体の概要や品質など、どうでもいいのだ、どうでもいいというのは言い過ぎだが、おれはけっきょく他人が表現したらしきものなどまったくアテにしていないし認識もしていない、ただおれが外部の作品にも入り込んで遊ぶだけだ、おれはおれとしか遊ばない。
これは何もデタラメを言っているのではなくて、まともな奴なら誰だって知っていることを、わざわざ再発見して言いなおしているだけだ、おれと誰かの距離感のなさ、おれが知人の誰の家に押し入って泊まり込んでも何の違和感にも迷惑にもならないというこの現象は、おれがおれの家に泊まりに行くだけだからということに結論できる、そしておれが他人のうちにもおれをぶちこんでいるので、そのときはじめてその他人も、「わたし」という主体を獲得するのだ、おれの世界においてはおれを通してしか主体という現象は獲得できない。
おれはこの五年間か、十年間ぐらい、ひとつの戦いをしてきたように思う、おれは他人の中のおれとだけ接触し、他人の中におれを入れ、他人の中のおれを引っ張り出してきたのだが、そのことをなぜか「がんばって拒絶する」人々が急激に増えたのだ、それでおれは生来のリベラル気質を発揮して、徹底的にフェアに構えた、そしてフェアに理知と理路だけで語ることにした、そうして「理路整然」なんてやり方をさせたら、けっきょくまた九折さんが勝つだけだ/そんなことを何年も続けて首をかしげていたが、ついにそうして「頑張って拒絶する」人々に対してフェアネスと理路を徹底するということは、「意味がない」と結論づけることができた、それは頑張って拒絶する人々に何の意味もないからだ、もちろんそれでもおれは誰かに何かを無理強いするということは性格上ない。

おれはフェアに、理路整然と、彼らに手がかりを与えてきたが、その手がかりは彼ら自身に、「絶対に無理だよ」という壁を教えるものにすぎない。

おれは生来的に、クソがつくほどリベラルな気質があって、たとえば何の経験もない十五歳の少女が、「クソアニメを見てオナニーしているだけのわたしだけど超絶の神技を手に入れて自分の優越感と承認感に恍惚となりたい、だけどあなたのことは認めたくないから方法だけきっちりわかりやすいように教えてね」というとき、おれは本当に方法だけきっちりわかりやすいように理路整然と説明するのだ、そして十五歳の少女が自己陶酔と承認欲求を叶えるためだけに神技を会得して無事クソアニメオナニーを続けていくことができるかというと、無理だ、絶対に無理なレベルの壁・精神の次元の壁があるのだが、おれはそれでもそれを「無理だとは思わない」と断じるほどにリベラルだ/おれはむしろ当人の意志がそれなのだから「そこで何億年経とうが一人でやれよ」と考える、幼児的万能感を叶えるためなら地獄に落ちてでもやれ、おれは相手がガキだろうが何だろうが、当人の発言と意志を最優先にする、たとえそれがどれだけ誤っていようともだ。
おれが超えられる壁は、人為的に超えられるたぐいの壁ではない、それを超えようと思うと、そいつの中にいるおれにしか超えられない、そのとき魂のおれが陽であってそいつの人格は陰なのだが、この陰は否定されているのではなく、陰陽が一体になって世界を為すのだ、陰でしかない無経験アニメオナニー陶酔人格が陽たる魂のおれなしに人為の及ばぬ壁を超えられるわけがない、重力に引かれるだけの陰たる人格がどうやって壁を超えられる道理があるか/それでもおれは、当人が己の人格の陶酔を言い張るなら、当人にそれを最優先させる、そしてそれは本当に「何の意味もない」ということが結論づけられた、つまり何億年経っても一ミリも何も進まないということだ、当人がそれを選んだとしてもそれはおれの選んだことではない、何しろ当人が自分の中におれはないと言っているのだからおれには何の関係もないと当人も言っている。
正しく見ないとな | comments(0) |
あの空の下
はりいのちは永遠であって、生は有限だ、永遠のいのちがないから有限の生が直視できないのだろう。
おれはずっと、ひとつの空の下にいたことを思い出す、夏バテが抜けたから体調がいいんだろうな、いかなるときも呼吸をするのが気持ちよかった/体調が気持ちいいのではない、空気が、天の下の宝石のように気持ちよかった。
世の中がどれだけのものを展開しても、それらは「違うもの」だ、おれの話していることは誤解しかされないということが、どうしようもなく理解される、まったく「違うもの」に変換されるのだ、それは今さらしょうがないことだが、必ずしもそのことが致命傷というわけでもない。
おれがみんなにわかるように話をしようとすると、おれも表面上、何かを軽度に誤解した状態を偽装して話をするしかなくなる、こうすればおれの話は誰にもわかるようになるが、このときはもうおれの話すことに値打ちはないのだ、ああ何もかもが誤解にしかならない、これはシビアなことだからしょうがない。

おれは満天の星空をまともに見ることができない、あまりにも巨大すぎて恐ろしいからだ、まるで天体望遠鏡で宇宙のすべてを一気に視ているような感覚があり、恐ろしくてしょうがない、それは「心臓がもたんわ」というような感覚だ。
このことひとつをとっても、おれに視えているものは他の人とはまったく違うのだ、もしおれと同じものが視えたら、ふつうの人は夜空なんか見上げたら発狂するだろう、このおれでさえ「恐ろしい」「心臓がもたん」と言っているのだ、おれと同じものをふつうの人が視たら正気を保てるわけがない。
そうした星空(というかそれはただの宇宙そのもの)も含め、おれはいくつもの「あのときの空」という記憶があり、すべてのまともな思い出は、ことごとくその空の下でのみ起こっていることが確認される、おれが書く小説もだ、「あのときの空」はいつでもひとつのつながりを持った空であり、こうして言い方がややこしくなるのは、「あのときの空」には時間が流れていないからだ、そしておれは、時間の流れていない空の下で、やはり時間の流れていない空気を吸っている、天の下の宝石のような空気を。
ああ、そうか、これは夢うつつに見たことだが、やはり人はダメなのだ、人はそもそもダメであって、ただあの空の下にあるときだけ、人はダメな存在のまま許されることができるのだ、なぜ許されるのかはさっぱりわからない、われわれの知るような仕組みではない、多くの人は健全でまともで善良なふりをし、自分自身もその思い込みに掛かっているが、そうしてダメじゃない人のふりを続けざるをえないのは、あの空の下にないからだ、おれが見てきた学校の先生たちがそれだった。

「カワイイ」を演出しているのは、空の下にないからだ。

愛されるということと、現代でいう「カワイイ」というのはまったく別のもので、愛されるというのは、人の本質であるダメなものが、そのままでいて許されるということだ、なぜ許されるかというとあるときに疑いを持たなかったからで、何かを信じているというよりは単に疑い・不満を持たなかったことで許された、疑いを持っていない人は不満を持ちようがないので、不満と満足を比べっこするような愚行にも陥らない。
おれの言っていることは誤解しかされない、誤解しかされないのだが、一方でわけのわからない作用はおれから届き続ける、この作用が何なのかついにわかる人はけっきょく現れないのかもしれない、だがそれでいい、何しろもともとがダメな存在というのがわれわれの本分だ、おれにある唯一の本当のことは、本当に「あの空の下」というものがあって、あの空の下の空気を直接吸えるということだ、おれはそれを吸って存在してきた、それがすべての世界を与えてきてくれた、おれはわざわざ何かを信じてきたわけではなくて、ずっと吸っている「あの空の下」が、ただすべてを「許して」きてくれた、世界とはそれのことだった。
正しく見ないとな | comments(0) |
「大切なもの」と痛み、および魂の関係
でもそれなりに好きなものがあり、それなりに叶えたい夢があったりする。
ただ、ほとんどの人にとって、もう「大切なもの」はなくなったのだ、なぜ大切なものはなくなったかというと、人が弱くなったからだし、世の中がやさしくなくなったからだ。
おれの場合、たとえば先日の野反湖の景色が魂に突き刺さっているあたり、おれは何でもかんでもにその「大切なもの」を触れてしまうのだと思う、この言い方はややこしいが書き間違っているわけではない、「大切なものを触れてしまう」で表現は正しい。
同じ場所にいき、同じことをして、同じものを見て、同じものを食っても、おれの場合は何かことごとくが「違う」というものになってしまう、おれの周囲にいる全員が「なぜだ?」と不思議がる定番のところだが、これはつまり、おれの魂が何もかもについてその「大切なもの」を触れるということから起こっている、通常の人はこの痛みに耐えられない。

「大切なもの」を触れることによって、それは魂の一部となるのだが、そのぶん、「大切なもの」は直接自分の魂の痛みにもなる、ふつうこの痛みに耐えられないので、「大切なもの」が発生しないように人は生きているものだ、ましてきょうび世の中はまったくやさしくないので、そんな弱点を持つといくらでも痛みを踏みにじる攻撃を受けてしまう、やめておいたほうがいいというその判断は100%正しい。
おれの場合けっきょく、他人の言うことをまったくアテにしていなくて、ほとんど人の話なんか聞いていないのだと思う、人の話なんかよりおれの大切なもののほうが大切というわけだ、これだけでも極度の奇人変人だが、それに加えておれの場合は痛みに苦しんでいるわけではないので特殊を極めている。
痛みがなければ魂ではないので、痛みは常に魂の必要条件だが、痛みについては「許される」「許されない」があり、許されていない人の痛みは「痛苦」になってその魂を苛(さいな)み続けてしまう、よくあるパターンとしてうつくしがろうとして耐えきれず自死する詩人などがこのパターンだ、その死に方は直観的に「何かダセェな」と知られるのだが、このダサさは「痛みが許されなかったんだな、草」というダサさだ。
つまりありていにいうと、人には第一の関門として「痛みに向かえるか」というガキみたいな試練があり、次に二次試験として、痛みが「許されるか」「許されないか」という試練を受けるのだ、一次試験さえオリる人は論外であって、試練としては二次試験のほうが遥かにキツい、おれはたまたま他人の言うことをまったくアテにしなかったので、何かしらまったく別のものによって、痛みの多くが許されることになった、ちなみに許されない痛みを根性で耐えることを「我慢」といい、これは「吾我の驕慢」という意味だから、痛みが許されなかった人はけっきょくド根性の後にモンスターになってしまう。

おれの場合、痛みは偉大なるおれさまと世界が許した。

むしろそれをおれは「世界」と呼んでいるのだ/「九折さんと歩いていると景色が異様にきれい」「街の明るさが増している気がする」という定番の現象は、おれが痛みの肩代わりをしているからだ、だから一緒に歩いている人もひととき「大切なもの」を触れることができる、もし自分かぎり単独でその大切なものと痛みを引き受けたら、それだけで二日間ぐらいベッドにもぐりこんで痛みに泣いているだろう(本来、青春というのはそういうことのための時間だったのだが)(しかもそれでも許されるパターンは極めて少ないという)。
誰でもそれなりに、好きなものがあり、叶えたい夢がある、そして楽しく生きている、が、大切なものがあるかというと、なかなか無いものだ、そこで焦って勇猛果敢なつもりで「大切なもの」に向かうのもよいが、想像を絶する痛みの予感で五秒ともたずパニックに陥るだろう、そしてすごすごといつもの楽しいワタシウフフに戻ってくるしかないのだが、それでもその壮絶な痛みの予感に触れて戻ってくるだけでも少しはマシな価値があるだろう、そこでそのことをバカにしないでいられたら、それだけでも人としてはとても「強い」部類に入る、ほとんどの人は痛みの予感からそれをバカにする・汚すという方へ転じるだろうが、あれ、もしそうなら、もうそんなことは一切やらないほうがいいなあ(矛盾)。
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あなたが平等の中を生き、血の報復に行きつく仕組み2
し上下関係が相互に魂から発生した場合、上下関係の制度を定める必要がない。
制度を定めなくてはならないのは、魂からそれが自然発生・自然成立しないからだ。
たとえば「気づけば初めから彼女は彼の半歩後ろについて歩いていた」という場合、「半歩後ろ制度」をルールで定める必要はない、そしてもしそんな現象が自然発生しない場合に、ルールとして「半歩後ろ制度」を定めてそれを強制したとしたら、何がどうなるか、そんなこと誰でもお察しだ。
制度として半歩後ろを強いられたら、その不快と屈辱に対する手当として、何かしらの金品を請求するか、それが給付されなければ半歩後ろから手をつなぐのではなくて出刃包丁で刺し殺すことばっかり考えるだろう、歴史上すべての下克上はそのように起こってきた/自分の大切な「上」の人を刺し殺すバカはいない、そうではなく制度で強いられた「上」だから血祭りにあげてきたのだ。

平等だからこそ、制度で上下を強いる必要がある、あなたの上司もそのように成り立っている。
だから、職場を辞したら上司なんてただのゴミカスおじさんになるし、たとえ職務中でも、もし憲兵がやってきて上司の頭をショットガンでコナゴナに吹っ飛ばしたら、とりあえず第一には気分がスカッと爽快になり、このことが「平等が果たされた」「不平等が果たされた」のどちらに感じるかというと、やはり何か「平等が果たされた」という感じがするのだ、だからわれわれはショットガンで頭を吹っ飛ばせばいいという維新の発想を持たないように教育・マインドコントロールされている。
おれは三島由紀夫ではないので、二・二六事件をやれと言っているのではない、そうではなく「平等だから上下制度が生じている」と言っているのだ、そしてそれが何かしら、行き着く先は血の報復にしかならないということを述べている、おれはまったく逆のことを言っている、「魂の上下関係が自然に成り立ってしまうから、平等の制度も必要」と述べている/たとえば何につけおれが誰にも「体調優先」と言うのは、平等制度の一面だ、体調は誰にでも平等にある、体調に甘えているといつまでも進めないというところはあるにせよ、それでも平等の制度として「体調優先」は言われ続ける必要があるとおれは思っている。
魂は天地のあいだにあって、天地という上下の中に流れるものを芯糸にしているから、この上下の芯糸を切断すると散漫化するのだ、ビーズステッチの芯糸を切断したときに散らばっていく無数のビーズをイメージしろ、すべてのビーズが途端に平面上・同じ高さに並ぶことがわかるはずだ、こうしてすべてのビーズはどれも平等になったのだが、それぞれが「自分が何なのかわからない、何をやっても何かにはならない」という状態になった。

おれは平等接触と上下接触をそれぞれ別物として実演できる。

このあたり、マジで実演できてしまうのが九折さんのたちの悪いところで、そうして実演されると話はわかりやすいが、何かもう人間離れしていてわかりやすさの反面めまいやパニックが起こるのだ/実演すると、感覚のいい人の場合、おれが何も言わないままその上下接触を向けるだけでも、「あ、はい」となぜかYesの応答を発するし(このとき彼女は安心を覚える)、そのまま逆に平等接触に切り替えていくと、やはり「やだやだ、やめて」と敏感に拒絶を応答する(このとき彼女は急激な不安を覚える)、これはこころの応答ではなく魂の応答だ、こころの応答はまた別だということで、これもまたその区別を実演できてしまうところがたちが悪い。
おれが恐ろしいことを言っているのではない、他の人々がおそろしい世の中を生きているのだ、上司の頭がショットガンで吹っ飛ばされても「特に何も思わない」「が、なんとなく今日のメシは旨い」というのが当たり前だという世の中を生きている、そしてその中でそれぞれが死んでいくしかないという、そういう恐ろしくも値打ちがない世の中を生きている、おれはそのことを「なぜみんな平気なんだ」と訝っているだけだ/だから世の中のおじさんやおばさんがあなたに何かをニコニコ話すと、あなたは本質的に不安になり、おれがあなたに「灰皿持ってこい」と言って、こうしてデタラメな話をすると、あなたは本質的に安心を覚えるのだ、だからあなたはこのおれのわけのわからない話を聞き続けているのだろう。
正しく見ないとな | comments(0) |
あなたが平等の中を生き、血の報復に行きつく仕組み
下関係に入ると安心する。
平等の関係というのは「疑っている」ということだからだ。
完全に下の者に「あれやっといて」と頼むのは安心する。
完全に上の人に「あれやっといてもらえますか」と頼むのも安心する/これが平等の場合「あれやっておいて、くれるかな?」「うん、いいよ」みたいな政治が発生する、そこにおける信頼の担保は打算しかない。

ただ、上下関係には「入れない」のだ、上下関係に入ることはできないので、人がそれを捏造する、その捏造が慣習や制度になる。
慣習や制度というのは、本物のそれに入れなかった人々が表面だけ真似してみたイミテーションなのだ、そしてイミテーションだから本当のそれの作用はなく、表面を真似ただけで内部では平等の疑いと抑圧の不快が蓄積していく。
おれの知る限り、おれを慕ってくれる女性に向けて、「今日から平等でいこう」とおれが言ったりしたら、すごいショックを受けて「どうしてそんなひどいことを言うの」と泣くか、そうでなければ軽度の錯乱を起こすと思う、今や平等でいこうなんて話はただ「マンガイメージのゴッコ遊びをしていろ」と言いつけているにすぎず/また一方ではそうしたマンガイメージのゴッコ遊びが好きな人も多いから混乱する。
上下関係というのは、上が下を威圧するものではないし、下が上を拝み倒すものでもないのだ、それらは "上下関係に入れなかった人々の戯画" というような光景であって、上下関係に入れなかったからそんなマンガみたいなことをやっているのだ、そして頭の中はマンガに染まっていく。

安心できる日々は帰ってこない。

マンガにたとえるなら、現代のわれわれは、スラムダンクの「湘北高校バスケ部」みたいにはならずに、進撃の巨人の「調査兵団」みたいになるということだ、湘北高校バスケ部に比べると調査兵団は上下関係が成り立っていないのがわかる、いくら制度上の階級を定めてそれっぽく演出を加えても互いに上下に流れるものが存在していないので人々は孤立している/孤立した人々に信頼関係はないので、それぞれがずっと打算しながら、平等に不安の中を生きている。
これは、上下関係を取り戻そう、という話をしているのではない、ただ多くの人にとってただ生きることが、なぜこんなにもつらく、こんなにもむなしいのか、そのことを説明しているにすぎない、何度でもいうが慣習や制度で捏造した上下関係は怨恨の蓄積にしかならず後に殺し合い・血の報復しかもたらさない。
正しく見ないとな | comments(0) |
野反湖(のぞりこ)に行ってきた
まりの暑さに腹が立って、草津に行ってきた、草津は標高が1200メートル前後にある。
そして、草津に行くだけではもの足らず(われながら相当腹が立っていたのだろう)、野反湖(のぞりこ)というところまで行ってきた、標高1500メートルにある湖畔だ、行ってみるともう涙が出そうなくらい涼しかった/日中で23℃!
湖畔の涼風に吹かれていると、もうムラムラしてたまらず、そのまま目の前にあったキャンプ場でバンガローを借りて一泊してしまった、バンガローといっても掘っ立て小屋にふとんが準備されているだけだ、ほとんどその場の思い付きだったのでキャンプ道具がなくそれなりに苦労させられたが……(それでも強引に一人でバーベキューをして酒を飲んだ)。
早朝、まだ暗いうち、目を覚まして手洗いに行くと、気温は17℃、そしてバカでかいオリオン座がバカでかい空に浮かんでいて、星がぎっしり並んでいて恐怖だった、ちょうど流星群もあったので、「こんな夜空に流星が飛び交ったら精神がイカれるわ」ということで目を伏せて歩いた。

どうしても大きめのガや、羽アリやアブがいるので、そういうたぐいが苦手な人にはおすすめできないが、とにかくもう涼しくて、景色まで涼しくて涙が出た、まあオススメも何も、東京から車で五時間かかるので、ふつう思い付きだけで行くようなところではない、われながらとびきり腹が立っていたのだろう。
おがけで暑気は身体の芯から抜けてくれたのだが、ふと妙なことに気づく、そういえばおれはそうした遊びについて、ほとんどの人より経験が豊富にあるはずなのに、なぜかそうして遊ぶとき、いつもおれが一番はしゃいでいる気がする。
おれは生まれてこの方、何もせずただ遊んで生きてきただけなので、遊ぶことについてはたいていの場合「一番経験が多い奴」になるのだが、同時にたいてい、「一番大喜びではしゃいで浮かれる奴」にもなる、これは奇妙なことだ、ふつうに考えると、一番経験が多いなら一番スレていて一番落ち着いていそうなものなのに、実際には何であれおれが一番「うおおおお」となっている(今回は一人旅だったが)。
そもそも、おれぐらいの年齢になって、いまだに「暑さに腹が立ったから五時間爆走」とか「湖畔の景色が涼しすぎてうおおおお」とか、そんなことを演出なしにやっているほうがヘンなのだ、自分で言うのも馬鹿馬鹿しいが、こいつは正真正銘の奇人なのだろう、火傷しながら直火で牛肉を焼いてハイボール缶を短時間で5缶飲み干すと脳みそが蒸発して寝た。

おれはソロキャンプが趣味ではないが、あらゆるソロキャンパーより浮かれているだろう。

おれが何かを趣味にすることはけっきょく死ぬまでないのだろう、何かを「趣味」にするというような高尚な機能がおれにはないのだ、おれの脳みそはバカであって、何かいつもとてつもないものに「うおおおお」となっている、遊んでいるときは趣味がないどころか友人も未来もなくなっている気がする。
それをいちいち「遊ぶ」と認識しているわけではないが、とにかくおれが遊んでいるとき、世界のすべてが目の前にある気がしているのだ、そして当たり前だが、世界のすべては目の前にあるのだろう、「世界」をイメージしているほうが錯覚だ、目の前にあるものが世界のすべてにほかならないのだから/そしておれは目の前にありつづける世界のすべてに、大いに満足し、そのはてしない何かを讃嘆し続けているのだった、何がなんだかわからないが、おれだって何がなんだかわかっていなくて、ただ誰もついてこられないということと、誰もついてこられなくていいということだけがそのときのおれにはわかっている。
バカをやろうかあ | comments(0) |
オバハンがロマンチックになりえない原理

「オバハン」とは、世間・共同体との接続および連携を持っている女性のことを指す。
オバハンが井戸端会議をしているのではなく、井戸端会議の列席する女性たちをオバハンというのだ、彼女らは世間や共同体で共有される噂話や圧力等の「主権」に参画することでオバハンになっている。
オバハンがロマンチックになりえないのは、この原理による、つまりオバハンというのは世間・共同体の「党員」であって、一個人ではないということなのだ、彼女らはそうして個人という存在を失う代わりに、連帯する党という力を持つことになるので、ユニットとしては強力になる。
ロマンチックな少女が、例えば誰かと誰かの殴り合いを見たとすると、彼女はそのことを井戸端会議での噂話のネタにはしないが、オバハンは必ずそれを噂話のネタにする、オバハンは党員で少女は個人なのだ、だからオバハンのほうがユニットとして強く、少女のほうが弱い。

そして、今どき「少女」なんて言い方をしても、それはほとんど仮想のものであって、思春期になれば誰もが端末とSNSで一定の世間に接続し、そこで連携すること・政治することを知っているので、現代において女性は思春期からオバハンになるのだ、これは必ずしも悪いことばかりではない、思春期からすでにユニットとしては「強力」になれるということだ。
女性がそうしてユニットとして強力になれるということは、たとえばセクハラ被害を未然に防ぐ抑止力を持つということになる、昔は学校の先生といえば気の弱い女子生徒にセクハラするのが定番のスタイルというか、どこの学校にも「いるいる」というお決まりの存在だったのだが、女子生徒がすでに端末から世間に接続していることで、この不法行為は抑止されるようになった(といっても根絶にはまったく至らないだろうけれども)(昔はもっとひどかったのだ)。
とはいえ、女性が思春期からすでに強力なオバハンであるという事実は、青春とロマンチックな夢およびその可能性を根こそぎ断ってしまっている、たとえばおれが書き話しているこの記事も、もし気にくわなくて「許せない」と感じる人があれば、その人は個人としておれを論難してくるというよりは、こういったものを嫌う「世間」にこれを晒して潰してやろうという発想をするはずだ、いわゆる「炎上」という世間攻撃を第一に発想するはず、その発想はもちろん中学一年の女子にもある。
ここで、もし少年が少女に愛を向けようとしても、そのたどたどしい愛の言葉や、不慣れでうわっ滑りの愛のふるまいは、その少女ひとりに笑われるのではなくて、SNSに広告されて世間の全体に知られるという状況にあるのだ、じゃあ少年たちはどう対応するかというと、いざというとき世間に広告されても咎めがないように、何かしら定番のキャラや「かわいいボク」みたいなものを確固とした担保として前面に押し出しておくしかないのだ、とてもじゃないが少年が少女に真心を向けられるような状況ではない、ささやかなミスひとつでもただちに断罪ネタとして世間の俎上に載せられるのだ、冷静に考えて「オバハンに真心を向ける」なんてことは誰にとってもありえず、それはオバハンが世間の党員として政治的に強力なユニットである以上は安全保障として致し方ないところだ。

少年が少女に向ける態度は、少年がその少女の母親に向ける態度と同じだ。

旧来、少年と少女とその母親がいたとすれば、少女の母親なんて距離的に遠く、よそよそしいものだった、なるべくかわいがられようとはするけれども、なにせ大人と子供だ、そして少女のほうはそうではない、少女のほうは世間とのつながりや連携を持っていない一人の個人だった、かつて少年はこの一人の個人たる少女に愛を向けて何かを見つけようとしていた/これは懐古主義として申し上げているのではない、そうではなく逆、今ある現実を明視すべきだと申し上げているつもりだ。
少年から見て、よもや少女の「母親」に、真剣なまなざしやら魂やらハートやら真心やらを向けるわけがない、なるべく「かわいがられるボク」を保とうとするはずだ、そして現代においては少女というのも、その母親と同じくらい強力なユニットで、何であれば母親よりも抑止力として強力なユニットたりえる場合もある、つまり常時、「SNSで党に拡散するぞ」という手段が、切り札というよりは常識的な手続きとして手元に準備されているということ、この中に少年と少女がいたとして、「オレとお前の問題」というものはすでに存在しない/少女がオバハンの自衛力を持ったという安全性の側面と、ロマンチックにはなりようがないという喪失の側面があるということだ、このことじたいには是非もない、なぜならどの時代でも「旧来のありように戻る」ということはできないからだ。

視点変えてこ | comments(0) |
ポイズン以外の何かの「作用」
れが何かを教えるということはない、おれは教育者じゃないし、もし教育者であっても何かを教えるなんてことはなかっただろう。
おれが何かをもたらすとか与えるとかいうことも、あるような無いような、もしあるとしてもそれはおれが与えているわけではない、もともとこの世界にある現象だ、だからおれが何かをする必要はまったくない/誰にでも触れられるこの世界の現象がある。
誰でもポイズンが作用することは知っているだろう、甘いミュージックや映像を入れられるとハイになるんだろう、そんなポイズンはアヘン以来誰でも知っている、ただポイズン以外にある何かの「作用」、これについては誰もが知っているわけではないという、ただそれだけのことだ。
ポイズン以外の何かの「作用」、それは一種の、超越的な光だとやはり言ってよい、「超越的なのだからどうしようもないだろ」というやつだ、超越的だからナンクセがつけられないということ、ナンクセを飛び越えて存在しているのだからどうしようもない。

ほとんどの場合それは「言葉」となる、言葉が地位を下落させるとただの言語となり呪詛となるが、言葉が本来の超越的地位を回復すれば、それはナンクセのつけようがない「何か」の作用そのものになる。
われわれは「現実」ということにこだわっているが、何が現実にあり何が現実にないかということについて、言葉の地位は超越してしまっているのだから、ナンクセはつけようがない、たとえば「おれには翼がある」と言ってみたところで、「現実にはないじゃないか」とナンクセをつけようとも、「現実にある必要はまったくない」と言われるとどうしようもない、「現実なんてチンタラしたものに都合をあわせるようなヒマや事情はどこにもない」。
ポイズンや空想や、妄想の万能感などというのは、しょせん現実にこだわっている者の自己手当でしかない、現実が上位にあるからその下部でポイズンを生成してごまかした空想に耽るのだろう/現実はしょせん二義的なものに過ぎず一義的なものは超越の地位にある、われわれがこだわっているという理由だけで現実が一義的であると保証されるわけではないのだから。
現実というくだらない壁を倒すのに、多くはポイズンという逃避を決め込むしかないのだけれども、それで本当に現実が倒せるわけではなし、むなしいことだ、そしてやむをえないことだ/現実というやつが、さも威張っているようで、実は超越的地位から見ればただの「言いなり」でしかないということ、よもや気づかないだろう、ただおれは遊ぶことに貪欲で、第二義や第三義のネタで遊ぶ気にはなれないのだ、おれにとって遊ぶということは最高の地位にあり続けねばならない。

安息日以外の日は存在しない。

安息日というものが、多くは "現実日" と呼ぶべきものとのバランサーとして認識されているのは、実に迷妄であり侮辱だ、おれが話しているのは安息日のことであって定休日のことじゃない。
ポイズン以外の何かの「作用」があり、その作用をいくらでもブッコ抜いてこられるのだから、もうポイズンの作用なんて要らないだろう、おれが何かを教えるということはないし、おれが何かを与えるということもない、そんなもののすべてもやはり要らないからだ、毒が要らないなら解毒も要らないだろう、安息日のおれと共にあれとしかおれは言っていない、それは現実的に何もしないということではなく、ただ完璧になるものの話だけをおれはしている。
恋女のマインドね | comments(0) |
WS報告 of 191st/幼児的万能感と被害者感情
まに心理学関連に、投げやりに出てくる「幼児的万能感」というのが、よくわからなかった/心理学といっても、ふつうの心理学者が人のこころに深入りして付き合ってきたわけではないので、まあアテにならない、本棚に人のこころがあるわけではない(そして本棚より人のこころのほうがエライわけでもない)。
おれなりに、幼児的万能感というやつの正体がわかった、正体というより実情がわかった、幼児的万能感とはどんなものであり、何のために存在しているかというと、要するに現代のわれわれが毎日を明るく過ごすために役立っている/もちろん万能感なんてものは空想でしかないのだが、それを妄想化することで、日々を楽しくしているのだ、いわば幼児的万能感は現代人たちの「こころの拠り所」だと捉えていい。
「万能感」というのはつまり、「万事、自分が思い描いたとおりにやれる(気がする)」と思い込んでいる、その妄想のことだ、心理学的には妄想というよりはただの思い込みかもしれない、が、うるせえ、はっきりいえば妄想だ/何かよくわからないが、カーネギーホールに人を集めて自分が壇上から唄うと、感動の嵐と拍手喝采が起こるものだという妄想・前提があるのだ、「じゃあ実際にやってみろ」ということになるが、もし本当にそんなことを実際にやったら見るも無残な惨劇が起こるのは常識的に当たり前だ。
なんというか、男女とも、クリスマスにデートして宵の街を歩いたら、何かいいこと・いいムード、そしてロマンチックな愛うんたらが体験できるという妄想があるのだろう、それは残念ながら錯覚だ、「じゃあ実際にやってみろ」という、その実際を避けてまわっているから妄想に浸っていられるだけだ、毎日がつまんねー情熱ナシナシマンがカーネギーホールに立とうがクリスマスの宵を歩こうが、実際に得られるのは目も当てられない「つまんねー」なのだ、あなたが大企業のスーパーバイザーになったとしてもあなたは何の役にも立たないし、業績をあげるどころか状況判断の能力さえないだろう、だって日経新聞に何が書いてあるかもわからないじゃないか、それが当たり前のことなのだが、そういう当たり前を押しつぶして自分には秘められたる万能性があるという前提で生きているから、妄想の中では楽しく生きられるのだった、こうして幼児的万能感は人々が日々楽しく生きることに役立っている。

マンガの読みすぎ・アニメの見過ぎをやるとこんな感じになるのだろう、あるいはテレビドラマやスポーツ観戦も含め、世の中にある「コンテンツ」というものの多くはけっきょくそれでしかないのかもしれない、「幼児的万能感のエサ」が人々を明るく生きさせているということなのかもしれない/それが悪いと言っているわけではない、ただおれがそのことを知らなかった・気づかなかったというだけだ。
幼児的万能感の特徴として、「じゃあ実際にやってみろ」「お前の力でやってみろ」と言われると、急激に「被害者」になり、「追い詰められた」という感情を持ち、その状況をもたらした人を憎らしく恨む、ということがある、「実際に」ということを問われない万能感妄想が楽しく生きる拠り所なのだから、この拠り所を奪われると人は途端に楽しく生きられなくなる、だから当人は「被害者」になるのだ、振り返ればおれはかつてこのパターンで急激なパニック症状を起こす人をたくさん見てきた、おれは決してそれをバカにしているのではない、おれはもはや何についても打開と解決のことしか考えていない。
今回のワークショップでは、「おれとまったく同じことをやってみろ」という課題を与えた、それも元となる動画、台本をきっちり与え、尺としてはごく限られた数分のことを、各員に分担させてやらせるという補助つきだ、それでもこうすることで初めて、各員は「自分の思い描いていたようにはできない」ということをはっきり体験できた、おれのバージョンと各員のバージョンを数秒ごとに切り替えて比較する資料映像まで作成したのだ、これはおれがいじわるをしているのではない、おれは誰のことも幼児とは扱いたくないだけだ。
今、多くの人の中には幼児的万能感が残存していて、人によっては残存どころか今もなおフル稼働中ということがよくある、ここでこの万能感妄想に直接否定のメスが入ると、多くの人は「ショック」を受けるようなのだが、冷静に見ればそんな万能感を土台に生きている人がいるということのほうが客観的にはショックだ/おれは現実を突きつけるなんてヒマなことをやっているのではない、失われた現実を取り戻させようとしているだけだ、現実的には何も楽しくないという恐怖がヒシヒシあるのもよくわかるが、それは現実に負けた者の現実でしかない、情熱と踏破を為す者の現実はお前らの知っている現実とは異なる。

できないど真ん中に立った奴だけ、できるど真ん中とつながる。

おれはこのことを、「栄光と恥は一直線上にある」と呼んでいる、恥というのは痛みの一種で、しかも致命的な痛みだからふつう避けるしかないものだが、あえてこのど真ん中に立つことができた奴だけ、栄光のど真ん中とつながり、それを得る可能性を与えられるのだ、栄光と恥は同一の数直線上にある両極であり、恥のど真ん中に立った者だけが栄光のど真ん中を見上げることができるからだ。
おれの言っているところの出来るとか出来ないとかいうのは、けっきょく能力の問題じゃない、誰もおれみたいに恥のど真ん中には立てないだろうということを言っているだけで、またそこに立ち続けることはさらにできないだろうと言っているだけだ/おれの恥について多くの "健全な" 人々は目くじらを立てて攻撃するだろうが、そうして彼らがパニック感情を起こすのはちゃんとそうした仕組みがあるのだ。
ワークショップ | comments(0) |
わたしがキャバ嬢をうらやましく思う瞬間のこと
るほど、わたしはどこかでルールから離れたわけだ。
多くの人は、ルールの中で生きている、たとえばカネを出せば女が買えるなどだ、このルールの中で遊んでいる。
そしてわたしの場合、女を買わずレイプする、ということではないのだ、レイプという非合法が成り立つのは、あくまで合法が先にあって、それに反するから不法・非合法が成り立つという仕組みだ、そもそものルールから離脱してしまうと合法も非合法もなくなってしまう。
これが、多くの人がわたしの前でパニックないしは茫然自失になる理由だ、わたしはルールを守っているのではないし破っているのでもない、ルールそのものから離脱してしまったのだ、だからわたしがどのように遊んでいるのかがふつうの人からは視えないのだ。

むろん、神の存在を除いては、宇宙創世から「ルール」があったわけではないので、ルールというのは人類社会の秩序や習慣から生じた後付けのものだ、だがこの後付けより以前にさかのぼる感覚の人はほとんどいない。
宇宙創世なんてことを言い出せば、人というのはわけもわからないままその魂や存在が宇宙にぽつんと置かれているのであって、それこそまさにわたしの感覚であり「そりゃそうでしょ」のところなのだが、ふつうの人はこの感覚に生涯一度も至らないのだ、それが突然わけのわからない宇宙にわけのわからない自分がぽつんと置かれたら、そりゃあパニックにもなるし茫然自失にもなる、これはむしろこれまでのわたしがうかつだった。
わたしはたまに、茶髪の下品でないキャバ嬢を見て、何かうらやましく感じることがあったのだが、このうらやましさの理由がわかった、そうした彼女たちはルールを頭から信じ込んでいて、ルールの中で遊んだり、ルールからはみ出してドキドキしたりしているのだ、それで何というか、人として素直な色気を放ち、人として素直なセックスを楽しんだり売ったりしている、陽気で明るくて善良だ、「おれの場合はそうはいかないな」というのがわたしにとってはうらやましかったのだ。
わたしがそうした彼女たちを目の前に置いた場合、どういうことが起こるか、もうさんざん繰り返してきたのでよくわかっている、彼女らはいつもの素直で陽気な振る舞いを収めて、夢遊病のような目になってわたしに魂を乞うのだ、魂を乞いながら自分の視認しようとしているものに恐怖が勝ち、何かを閉ざしたり錯乱したりする、「ルールなんか本当は存在していない」ということを視認してしまうのだ、わたしはそうしたことを自慢しているのではなくて、そうではない彼女たちをどこかうらやましがっているのだ、まあ単なる一種の未練なのかもしれない。

世の中が彼女らに良くしてくれますように。

わたしとしては、そう祈らずにはいられない、まあいずれはルールというものは架空の存在であって、そうではないナゾの事実だけが本当には存在しているのだと、知っていくよりしょうがないと思うが、それは何も今このときでなくていいじゃん、といつもわたしは思っている、新しく買ったお気に入りのイヤリングをぶら下げて、好きな人やそうでもない人と楽しくセックスする夜が、彼女たちをやさしく笑わせ続けることを祈っている。
大真面目に魂だの存在だのと、血眼になってみたところで、それで当人が救われるというわけでもない、若いころはたくさん遊んだ、そしてたくさんの夢を見たわ、わたしバカだったからね、と世の中に良くしてもらって生きてきた素直で明るいエッチな子のほうがよほど救われるというのは事実としてある、フェアなのだ、おれもたまにはこのずっと視ているとんでもないものを脇において、ありもしないルールの内外で明るく遊ぶこともしてみたいなと、やはりうらやましく憧れるのだった。
バカをやろうかあ | comments(0) |
いい思いがしたいんだがな

かにおれさまが偉大だとは言え、夏バテはするのだ、なんなんだこの馬鹿げた暑さは。
もうそれなりに長いこと文章を書いているように思うが、こういうド真夏と、反対のド真冬は、ちょっとまともに文章なんか書けない、こういう季節は創作に向くものではないのだ、ということで万事の言い訳にしておこう。
窓の外に吹く風が、熱風で、風が吹けば吹くほど暑い、こりゃもう気温が体温を超えているのじゃないか/夏バテから昨日は体調が悪くて、今はもう恢復したが、それにしても夏バテそのものが消えるわけじゃないな、何かもっとこう、今は単純なことだけ考えていたい。
学生のころは、部屋にエアコンがなかったので、暑すぎると原付で六甲山の丁字ヶ辻に逃げていたのを思い出す、こちら東京の都心はハデでいいところだが、いざ高原に逃げようとしても、どうしても富士山麓やら軽井沢やらまで行かなくてはならないので、困るのだった、というわけでこの話はまったく何の話にもなっていない(文章作法としてはサイテーの部類だ)。

何のために生きるのか、といって、「いい思いをした〜い」という、アホみたいなことを言ってみたい。
言ってみたいというか、おれはそう言いたければそのまま言うだけなのだが、いい思いをした〜いのであって、それはおれにとって願望ではなくて、ただの指針だ、指針を持たないとバカになってしまうので指針を持つようにしている。
いい思いというと、たとえばこんなとき、まったく必要としていないが、「何かちょっとしたカバンでも買おうかなあ」と考える、おれにとってそういうことを考えるのはきわめて珍しいことだ、そういえばおれにとって何かちょっとした私物が欲しいと発想することは数年に一回ぐらいしかないような気がする、おれはそんな状態なので、たまには「いい思いをする」ということを思い出さねば精神がヘンになるのだ/おれがいい思いをしないかぎり周囲の誰も祝福を受けないというのに……
といって、こんなことを言うとまた、「カバン買いましょう!」という勢力が決起しておれを包囲してしまうので、あくまでそれはたとえ話で言ったことだということにしておく、うーんおれは何だかんだ、いい思いをすることに慣れていないのかもしれない、なぜか何をしてもどこに行っても何をして遊んでも結果的におれは「くたくた」になっているのだ、どういうふうに切り替えたらおれは「いい思い」に浸ることができるのだろう、誰かその根本的な考え方を教えてくれプリーズ。

おれは「自分がもしキャバクラに行ったら」と考えると恐怖する。

何が恐怖かといって、おれはどうせ、おれの横で女の子が入れかわり立ちかわりすると、わけのわからない魂の読み取り等々をしてしまうのだろう、その忙しさを考えると想像だけで恐怖を覚える/これだけっきょく、おれはずっと魂の読み取りと魂のコールをしている、これをやめられないのだ、だからいい思いに浸る・耽るということができない、おれは何かありとあらゆる瞬間にその空間の「責任者」になってしまっている、おれは最近本当に数日間ぐらい山奥のキャンプ場ででもひっそり過ごそうかなと考えたりしている(うーむそれでもきっと、ボーッとすることなんて出来ないんだろうな)。
というわけで、おれはこうして「夏バテだ」と言い「いい思いをした〜い」と言いながら、けっきょく何をしているのかというと、こうしてそのことを文章作品にしているのだった、何かこの無限ループはそれなりにヤバいのじゃないのかという気もしてきた/魂のコール能力があるのはわかった、そりゃわかったしけっこうなことなのだが、魂のコールが「やめられない」というのは盲点だった、これはこれでけっこうヤバいんじゃないのかね、ひょっとしておれはもう倒れて死ぬときまで休みはナシだったりするのだろうか(誰か休み方を教えろ)。

正しく見ないとな | comments(0) |
ヘイ、はらわたが腐っている
れはもと合唱団の指揮者だから、目の前の人から声が「出ている」か「出ていない」かはよくわかる。
誰でもが知っているとおり、そして目を背けているとおり、どう見ても B'z やミスチルやサザンと比べて、現代の歌手は声が出ていない。
どうしても視認しようとしない習慣があるようなので、もう一度申し上げるが、歌手なのに声が出ていないのだ、布施明や加山雄三や尾崎紀世彦や北島三郎や細川たかしに比べると現代の歌手は声が出ていない(細川たかしと比べるのはさすがにどうかとは思うが)。
なぜ声が出ていないのかというと、「そりゃあんなキモチワルイことしていたら声が出るわけないだろ」「あんなキモチワルイ奴から声が出るわけないだろ」と、本当は言わなくてはならない、どれだけ逃げ回っても必ずその当たり前のところに戻ってくるしかないのだからしょうがない。

もう一度言うが、おれはもと合唱団の指揮者なのだから、あなたがおれの目の前で、思いっきり「あー」と声を出してくれれば、その体内で起こっていることがわかる。
すでに想像の時点でわかると思うが、ふつうほとんどの人は、「大きい声」を出した時点で、それは「汚らしく」「弱々しく」「痛々しい」ものになることが予想される/それでも予想と現実は違って、現実はもっとひどい、目も当てられないものになるのだが(これは実際にやらされてみて初めて知ることだ)。
そんなこんなもあって、こっそりボイストレーニングに通う人や、通ってみたいと思っている人は多くいるのだが、本質的にはボイストレーニングに通っても無駄だ、なぜかというと事態の原因は技術や経験にあるのではなく、ただ「はらわたが腐っている」というどうしようもない事実にあるからだ。
はらわたが腐っているので、大きな声を出すと、そこに「汚らしい」「弱々しい」「痛々しい」という体質・血質が露出するというだけだ、ここにどのようなボイストレーニングをほどこしても、腐敗物に厚化粧と生クリームを塗りたくった声にしかならない/しゃーないだろう、実際に腹の中には汚らしい生クリームマンガと弱々しいマウント根性と痛々しいアニメ願望しかないのだから、何をどうやったってそのはらわたの声が出てくるしかない、またそれを技術やボイトレで回避できると考えるその発想がいかにもはらわたが腐っている。

顔面ははらわたの腐敗を隠すための愛想装置じゃねえぞ。

そんな、顔面や髪型や作り声や作り笑いを、あれこれデコレーション・シロップで味付けされたって、はらわたが腐っているものは腐っているんだよ、これはどうしようもないことだ/おれは意地悪を言っているのではない、危機的な進行に少しでも巻き返しや、そうでなくてもブレーキをかけたいのだ、あなたとおれとで相互に目の前で大きな声を出し合ってみればそれだけでわかる、どうしようもないのだ、はらわたが腐っているというこの耐えがたい恥辱に向き合わないかぎり、あなたには「勇気の欠片さえない」という事実まで付属してしまう。
そして多くの人が、自分のはらわたが腐っているという事実から目を背け、なんだかんだ、はらわたの腐っているコンテンツをむさぼり、はらわたの腐っているまま自己表現・意見行動を重ねてきたわけだ、そりゃはらわたの腐っているところに、目の前で腐っていない大きな声をぶつけられると苦しいからな、このえげつない事実に直面しないために逃げ回ってきたのだという事情は斟酌するまでもなくよくわかる……けれども、どのようにむつかしいふうに、シリアスなふうに変形してみても、けっきょくは同じだ、「はらわたが腐っている」という何の複雑性もない、ただ直視しがたいだけのシンプルな事実に帰ってきてしまう/あなたはこの話を「まったくその通りだ」と噛みしめるかもしれないが、じゃあ一週間後はどうなっているとかというと、はらわたの腐敗は「進行しました」というのがほとんどだ一週間けっきょく、はらわたを腐敗させるものを好んで摂取し、また好んで口から吐くということをやめられないのだから、それは麻薬中毒者が「体内が腐っていく」と恐怖・実感しながらもその中毒を進行させざるをえないのとまったく同じだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
魂をコールする能力2
きな潮流が来ている、けっきょくおれがやるしかない。
これだよなあけっきょく、いくら理詰めでまっとうなことを他人に積み重ねさせたって、意味がないのだ、けっきょくはおれだけがすさまじいのであって、おれが他人に教えられることといえば「な? どうしようもないだろ」ということぐらいだ。
偉大なるおれさまはすさまじすぎて、けっきょくおれさまは世界になってしまい、世界があるのだからもうどうでもいいだろとなって、これという自我はなくなるのだ、それで自我どころじゃない「いそがしいっス」になる。
座り込んで半眼ふうになって解脱ふうなんてヒマそうなものはニセモノだ、世界になった偉大なるおれさまというのは栄光で光輝いているので、そんな解脱コピー品みたいなヒマなまねごとをやっている無駄な時間は一切ないのだ、どれぐらい忙しいかというとサザンの海とすべてのハリウッド映画が重なったぐらい忙しいのだ。

「お前らはなぜそんなにアホなんだ」という言い方をよくするが、いいかげん理解が変化してきた、こりゃムリだわ、偉大なるおれさまの影を踏むていどにもお前らが賢くなる "はずがない" 。
こんなに差があるのか、といって、この差はもう埋まるとかそういう性質のものじゃない、おれが一方的に降り注ぐしかなく、降り注いだとしてもお前らみたいなモンにはわからないのだ、降り注いでいるということさえわからないんだぜ? おれを慕う奴もおれを拒絶する奴もけっきょく視えてはいないのだ、どちらもハズレがグイグイ視えてしまってそれに囚われてヘッヘッヘということを繰り返すしかない、そこでおれがまったく誰にも知られないまま降り注ぐしかないという、なんじゃこれの状況が続くしかないのだ。
おれがお前らに大革命と真理をもたらしているとき、逆なのだ、おれの側は根こそぎレベルを下げているのだ、お前らが「うおおお↑」をしているときはおれは「はあああ↓」をしているのだ、おれはスイッチをオフにすれば世界になるのであって、わざわざレベルダウンスイッチをオンにして何かをもたらしているというのが真相だ、おれは視るということをやめれば(スイッチをオフにすれば)世界が視えてしまうという状態なのであって、おれは正直なところもう何も参照する必要がないのだ、もともと世界になっちまうもんが世界のために何を参照する必要があるというのか。
このようにして偉大なるおれさまは、偉大なるおれさまとして存在しており、何をどうやっても「おれ」なんてものは存在していないのだ、その存在していないっぷりは、お前らが個々人のごとく存在していないのと同様にだ、お前らが存在などしていないのと同等におれというのも存在していないのだから、その存在していないっぷりは明らかで保証があるだろう、おれの言っている偉大なるおれさまイコール世界というのは、何もかもがあるから何も要らない世界のことだ。

おれに賢さは要らねえ、おれが賢く見えるのはお前らに理解できるようレベルを下げているからだ。

で、けっきょくどこかでおれが、スケールをボンッとやって、偉大なるおれさまで包むなり降り注ぐなりするしかないのだが、そうしてボンッとやったとたん、お前らは救われるけどお前らには完全に理解不能になるのだ、降り注いでいることさえわかりゃしねえのだ、そりゃそーだ、「あたし」なんてものは存在していないのに、その「あたし」に依拠して理解しようとしているのだからそんなもん成立するわけねーんだよ/悪く言っているのではない、おれはまったく別のことを言っているのだ。
バスケット選手はバスケットボールを手にするだろう、トロい選手は試合中にボールに触れることができないかもしれない、優れた選手はボールをよく受け取りキープできるだろう、トロいとか優れているとかいうのはそういうことだ、だがそういうことじゃない、バスケット選手はどうやってもバスケットコートから出られねーだろという話をしている、愛というのはそちらの現象であって、手のひらの毬みたいに持ったり投げたり取ったり失ったりするものじゃねえ、誰かがコートに入れてくれたらそこはバスケットコートだ、自分から唾を吐いたりして追い出されたりしないかぎりは。
正しく見ないとな | comments(0) |
魂をコールする能力
ったことに、やはりおれにはヘンな能力があることがわかった、それは超能力ということではなくて根源的な能力ということだ、まあ実際の感触は何か超能力じみている感じもするけれども(でもそういうもんじゃねえ)。
おれの書いている文章は、わけがわからないのに、なぜか読んでしまうという具合であなたは読んでいると思うけれども、これはアレだ、おれがあなたに「読む」という主体を入れているのだ、あなたの魂がうんぬんというより、おれがあなたに読む魂を入れているということになる、だからこそこのわけのわからない話もなんとなく「はい」という感じであなたは読んでいる。
これが超能力でない証拠に、このことの発現には何かしらの接触がいる、こうして言葉を書き連ねて接触しているのもそうだが、あるいは一声、あるいは指一本がどこかに触れているだけでもこのことは起こる、あなたにはふだん主体性などないのだが、おれは接触によってあなたに主体性を入れることができるのだ、だからあなたはおれの話を聞いているときなぜか自分の「人格」がどこかへ消えているような感触を覚えている。
もちろんおれがコールしてあなたに与える主体性を、あなたが拒絶することもできる、それはあなたがおれのことを信じず(というよりは一切の「信じる」ということをやめて)、代わりに「人格」という防衛装置を立ち上がらせて稼働させればいいだけだ、まあ直接の接触だとその人格を破砕して主体性を流入させることも不可能ではないが、そんなことをする意味も利益もないのでそんなことはやらない。

「人格」というのは、「主体」という現象に対するバリアなのだ、なぜそのようなバリアが必要かというと、主体という魂の現象が流入するとして、必ずしもその魂というのはよいものとは限らないからだ、単純に言うと「主なる神」という側の主体性・魂もあれば、サタン側の魂もあるということ、どう考えてもサタン側の魂なんか入れられたくない。
今、おれの周りのほとんどの人が、やたらにおれから「命令」なり「申し付け」なりを受けることを求めてやまないのだが、これは何を求めているかというと、「主体性プリーズ」と求めているのだ、驚いたことに主体性という魂の現象は当人から発現するのではなくおれから「入れる」ということで当人に発現するのだ、これはキリスト教のそれとは分離して一般的な語彙として言えば、つまりおれには「洗礼」をする能力があるということになる。
おれがあなたの人格に何かを強制したり、何かを要請したりすることはないのだ、あなたの人格に対しては「ボールペン買ってきてくれ」と依頼することさえない、そうではなくおれが「ボールペン買ってきてくれ」と言えば、そのことはあなたの人格に査読されることなく直接あなたの主体性となって、あなたにはボールペンを買いに行くという主体性の魂が入ることになる、この主体性の世界を歩きたくて多くの人が今「うおおお」となっておれからの命令を待ち焦がれている(わけのわからん話だがマジにそうなのだからしゃーない)。
このことに巻き込まれたくなければ、人格でバリア処理すればいいだけなので何の問題もない、誰でも知っているようにオカルトや悪徳商法には巻き込まれないのが一番だ、それは当たり前でかまわないのだが/問題はこの主体性の現象を、とっさにおれ由来だと直観する奴と、自分由来だと誤解する奴に分かれてしまうということだ、自分由来だと誤解した瞬間におれからコールして発現させていた魂・主体性は、パッと砕け散って雲散霧消する、そこで当人は「人格」で魂と主体性のふりをするのだが、それは人格なので基本的にカルマ動力でしか動かず主体性の現象はもたらさない、困ったことにここ数週間で、おれの「魂をコールする能力」は格段に飛躍してしまった、ただでさえまずいようなレベルにあったのにいよいよわけのわからないレベルになってしまった。

つまり、おれと接触すると「やること」が生じる、おれを切断すると「事情」が支配する。

おれが書き話すことを、あなたが読まなくてはならない「事情」は一切ないはずだし、またおれの書き話すものには何の娯楽性もないので「何が楽しいの」と言われてもまったく説明できないはずだ、けれどもこのことはあなたにとってナゾの、自分の「やること」になっており、やることに意味があるわけではないが、決してむなしくはない何かになっているはずだ。
おれがおれ自身、人格ではまったく行動していなくて、常に魂・主体性だけで行動しているので、いつのまにか「人」に接触するのも、その人格と接触するという性質がまったくなくなってしまったのだ、それで初めから相手の魂・主体性に接触するという能力しか使わなくなっているのだが、このおれと猛烈にぶつかる・反発する人というのは、おれが魂をコールするより先んじて、すでにサタンの魂が入っている、おれがこれまでに見てきた「???」の現象はすべてこれだったのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
WS報告 of 189th /お前らに魂なんかない
んでこんなにずっとドタバタしているんだろう、しゃーないのでテキトーに書く。
多くの人がいろんなコンテンツを楽しみ、自身としてはいろんな「キャラ」を振る舞って生きているが、これらは総じていえば「ネタ」であり、ネタであることによって「マジ」のしんどさから逃れている。
「マジ」なんてしんどいだけなので、「ネタ」に走っているという状態なのだが、こんどは「ネタ」のほうはも「むなしいだけ」と辟易してくるので、次は「マジ」に走るということも出てくる。
そして「マジ」をやってみたら、しんどいというかそれ以前に「痛い人」になってしまうので、アイタタタということで、「なーんちゃって」と再びネタに走るのだった、これを「ネタマジ往復」という。

本来、テレビを見ることやマンガを読むこと、それらは「ネタ」ではあれ、別に「むなしいもの」ではなかった、それはそれでかけがえのないものだった。
一方、仕事というと「しんどいだけ」ではなく、しんどいけれども何か「かけがえのないもの」だった。
だから、旧来というか本来、仕事とマンガ娯楽を往復していることは、別にむなしいだけではないし、しんどいだけではない、何かかけがえのないものの中を生きていたのだけれど、この外形はまったく変わらないまま、仕事とマンガ娯楽を往復して、一方はしんどいだけ、一方はむなしいだけ、というように本質が変化している。
本来、ネタマジの往復というのは、直線ではなく根底で支える魂があって、魂を含めた三角形だったんだよという話をした、もちろんそういう話をするだけでは足しにはならないので、実際の作業・ワークを加えて、実際の変化をもたらすのだ、その実際の作業やらいうのはもうここで書くのはさすがに面倒くさい、ただまあおれは毎週天才でアタリマエなんじゃないかな〜とテキトーに言っておく。

お前がデートに誘っても「ネタっぽい」、にもかかわらず下心は「マジっぽい」から困る。

今どき女性が「ウフフッ」みたいなことをやっていたらネタでしかないが、そういうネタっぽいことをしきりにやる女性に限って、強烈な結婚願望や栄達欲はマジマジのマジだったりするから怖いものだ、マジというのはしんどいし、ネタというのはむなしい、その欲張りセットなんてごめんこうむるぜ。
「お前らに魂なんかないんだ、だからお前らが魂について考えても無駄だ」「魂のことを考えるのじゃなく、おれのことを考えろ、お前らに魂は視認できないがおれは目の前にいるのだから視認できるだろう」「自分が魂を視認できないから、その代理人を視認するんだ」「別におれじゃなくてもいい、代理人の資格があるなら誰でもいい、ただし言っておく、おれ以前にお前らの中には "誰かいる" ぞ、何の代理人かおれは知らない、ただそういうときに入っているのはたいていサタンの代理人だ」。
ワークショップ | comments(0) |
おれが奇人でありつづけるために
2020年の「ぷよぷよ」公式試合、「ぷよぷよファイナルズ SEASON2」の決勝戦はすさまじい戦いだった、のちに伝説の一戦と語り継がれてもいいような内容だった。
一方で、「世の中」は本当に、おれのまったく知らない世の中になりつつあるのだと思う/おれはその試合のすさまじさに魂が震えていたのだが、観客やスタッフはそんなに取り乱すというふうではなかったのだ、これは悪口を言っているのではなく、おれがいかに世の中とズレまくっているかという、自覚とその報告でしかない。
おれはもう四半世紀も前に最初期のぷよぷよをやりこんでいたという思い出をもとに観戦しているにすぎないので、もしぷよぷよを競技としてプレイしたら、解説の若い女の子にもボロ負けするんじゃないかなと思う、「世の中」は本当におれの知らない世の中になっていて、万事のレベルはめちゃくちゃに上がっているのだ、そして魂が震えるとかいって取り乱すようなアホはもう誰も残っていない、あるいはもともとおれがそういう珍しい奇人だっただけでかつてもそんな奴はいなかったのかもしれない。
万事のレベルはめちゃくちゃに上がっていて、今や「ぷよぷよ」というひとつのゲームも、公式に戦うのは「プロ」のプレイヤーという前提だ、そして確かにそこにはプロレベルと呼ぶべき次元が確立されていて、おれが遊んでいた「ゲーム」という世界とはまったく異なるものがある、万事のレベルはめちゃくちゃに上がっているので、このまますべてのものはプロ化していくのだろうか、すべては職業化されていって、「遊ぶ」なんてことは日向のプロに対して物陰でこっそりと遊ばねばならなくなるのだろうか。

おれにはわからなくなってしまったことがたくさんある、たとえば2020年度に優勝したプレイヤーは「ともくん」という高校生らしいのだが、この「ともくん」の風貌を指して「チー牛」呼ばわりするのが通例のノリでありシャレというムードらしいのだ、ところがおれは少年の青春に対して大のオトナがわざわざディスって掛かる理由も動機もよくわからないでいる、「大人が少年の青春を肯定しなくてどうするんだ」と、批判というよりは単純に「???」となる(本当におれがズレているのだと思う)。
おれが高校生のころ、ゲームセンターに通い詰めで、確かによく「なか卯」でメシを食ったものだった、頭の中では「スト供廚龍遒碓きをあれこれ思い浮かべながらだ、おれにはなぜそのことが唾を吐かれるようにディスられなくてはならないのかがよくわからない、ゲーセン通いでなか卯でメシを食うような青春はダサいのかもしれないが、おれは当時の自分の青春を、「日焼けしたマッチョで女をヤリ捨てにしてトレーダーとして名を馳せて六本木でシャトーブリアンを食っている」という青春に取り替えたいとは思わない/おれは「ともくん」の見せたプレーについて「すげえ」「行き着くところまで行き着いてるわ」と驚嘆と感動しかしなかった、そこでなぜ「チー牛」が感想のファーストチョイスになるのかおれにはまったくわからないのだ。
同じく天才的な少年プレイヤーというと、将棋の藤井聡太棋士が有名だが、彼に対してもなぜやたらにキャラ扱いして、チヤホヤしたり逆に安いおもちゃのような扱いをしたりするのか、おれにはまったくわからないのだ、少年や少女の青春に大のオトナが首を突っ込むものなのだろうか/そのあたり、部外者でも首をつっこんで何か揶揄をしないと気が収まらないという、一種の体質が、いわゆる流行の「マウント」という精神なのかもしれないが、おれはけっきょくその精神がよくわかっていないのだと痛感する、おれは本当に批判しているのではなくて本当にわかっていないのだ、それで毎回同じことで「えっ!?」とびっくりしている。
おれはけっきょく、そうした奇人でありつづけたいから、この先はますますそうした「わかっていない奴」として浮き続けていかねばならないのだろう、まあそんなことは慣れっこというか世の中から浮いていなかったことはほぼないのでただの通常運行ということになるけれども、さしあたりおれが発想するのは「ともくん」に対して「メシでもおごるわ」という一点のみに尽きる、それがおれの正直なところのファーストチョイスであって、それが「チー牛」呼ばわりになる発想はおれにはどうしても感覚的にわからないのだった(※当の「ともくん」はぜんぜん気にしていないらしいので、まあどうでもいいのかもしれない)。

ぷよぷよの決勝戦は異次元すぎて魂が震えたし、チー牛呼ばわりも異次元すぎて魂が凍った。

ふと気づけば、本当に「世の中」がわからないブツになってしまったので、逆に考えると、世の中からおれを見た場合も、おれはまったくわからないブツに成り果てているのだろう、おれは望んで奇人でありつづけるしかなくて、おれは本当にガチで何の演出でもなく、夜中に一人で吉野家で牛丼を食ったりするのが好きなのだった、自分のやるべきことを携えて夜中一人で歩いている先、吉野家の看板が光っているのは、しつこく続くおれの青春のオマケ的ワンシーンと言える。
ゲームがプロレベルを確立することもよくわからないが、同時に、万事のプロレベルに対して常にディスとマウントをファーストチョイスするというのも、いわばこの現代のプロ、世の中のプロ、また観客のプロという風情なのかもしれない、いわばおれはプロ集団の中に一人だけズブの素人が紛れ込んでしまったというような状態になっているのかもしれない、おれはプロというのは単なるカネ稼ぎのことを意味しているのではないと思っていたのだが、そのあたりの発想もけっきょくおれがいつまでも素人だという証なのかもしれない。
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