☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
妄想のセンス

「妄想」、国語としては正しくは「空想」だが、まあ一般的に言われる「妄想」ということを、男女ともよくする。
「誰だって好きに妄想する権利ぐらいあるんだから、妄想ぐらい好きにさせてやれよ」という温情派の意見に、僕も与するものだが、どうせならということで、自分を悪化させない妄想の「方向づけ」ぐらいは知っていていいように思う。
妄想するにもセンスというものがあり、たとえば、「ヌフォ、○○タンは小生のこころを抉りにくるでござるな、正直マイッタでござるよ、さあ課金せずにはいられない」みたいなもの、これはサイアクだ、課金が悪いのではなく発想のパターンがサイアクだ。
なんというか、厳密には妄想がキモいのではなくて、妄想の中で「あっさり鼻の下を伸ばす」というのがキモいのだ、これは男女ともやめておいたほうがいい、妄想はいくらしてもいいが鼻の下を伸ばすのは禁止だ、それは妄想以前に頭がオカシイのを自分でパワーアップさせてしまうからだ。

僕は世代的に、「ときめきメモリアル」を皮切りとしていわゆる「ギャルゲー」が隆盛を極めた時代を過ごしてきた者だから、よくわかるのだ、同じ妄想といっても良性のものと悪性のものがある。
「女の子が(男の子が)かわいい」という妄想はいい、が、そのかわいいものが自分に無垢に親しげに好意をもって無防備に迫ってくる、そしてブフォとなる、という妄想のパターンはやめることだ、なぜやめなくてはならないかというと、頭がオカシイからだ、「そんなことあるわけないだろ」と言わねばならない、「かわいい女の子」を妄想するのはいいが、それが自分に迫ってくるのは「そりゃないわ」と冷静に判断しなくてはならない。
妄想してよいのは、「そういう女の子がいた」というところまで、そこを逸脱して「ボクちんと○○タンの関係は〜」という妄想に入る奴、これはダメだ、「ボクちん」を含めて妄想するならもっと別の方向で妄想すること。
特別に無垢で、かわいい○○タンがいたなら、その世界の中で自分はひっそり、死ぬ気で努力して自分を鍛え、ぶっちぎりで優秀な人間になって、誰に知られることもなく男らしく生きたという妄想をしろ、「すべて、○○タンがいてくれたおかげだ」と、自分一人だけが知っているという、そういう妄想だ、そうでなきゃ自分が妄想の中の登場人物にもなれないだろう、妄想にもセンスを持て。

過剰報酬の妄想をするな、過剰努力の妄想をしろ。

女性の場合、「西園寺○○クン」とか「クリステナーデ・フォン・○○皇太子」とか、あるいはジャニーズの誰かでもいいのだけれど、それについて妄想するとき、○○クンがわたしに迫ってきてわたし「きゃああああ」とかいう、判断力の欠損した妄想をするな、妄想するというのは判断力を喪失していいということじゃない、妄想の世界を持っていいから、その世界の片隅で誰にも知られず取り憑かれたような努力をしろ、報酬の要らなくなった努力の化身たる自分を妄想しろ、それぐらいしか「○○クン」に恩返しなんかできないんじゃないのか。
萌えなるものが、拙者に向かってきてブフォ、というのでは、言ってみれば「妄想が足りない」、鼻の下が伸びるのは妄想が足りないからであって、何百倍もの力を持つ戦士に成り果てる自分を妄想すれば鼻の下が伸びるようなヒマはない、叡智の積み過ぎで木の葉に七色を見るようになった叡智のバケモノを妄想しろ、いかなる苛烈な訓練にも平然と向き合うようになった自分の妄想は、まだ妄想として良質のものだ。

バカをやろうかあ | comments(0) |
「神話世界」がマジである(えぇ……)2
話世界にも「人」はいるのだが、神話世界における「人」はわれわれがふだん思っているのとはちょっと違う。
……こんな話、もうただの「空想」ということにしておいてね、こんなん言い出したらもう常識的にメチャクチャやないか、別に神話世界とか急に言われたって見えてくるもんでもないので空想ということにしておこう。
神話世界における「人」は、なにしろ「ダルさ」がないので、「人」といってもわれわれがふだんやっている何か「キリッ」としたキメ顔の「わたし」ではないのだ、こころがあり活気もあるが根本的にワタシワタシ感がない、ワタシワタシ感はゼロだと思っていい。
そして、神話世界には「男」「女」があるし、王や騎士や王女や平民や、労役夫などもいるのだが、それらの階級・格差は、まったくネガティブではないというか、そこに注目は向けられていない、愚かな王や賢い労役夫はいるが、そこに差別の解消や革命は考えられていない、そもそも王と労役夫の仲が悪いわけではないのだから/ツンツンしているのはわれわれだ、神話世界においては誰も身分でツンツンはしていない。

実のところ、われわれが現実世界で格差や差別を、社会的にも個人的にも廃絶しようとし、それを正義だとみなすところがあるのは、単に「ダルさ」があるからなのだ、差別が問題なのではなくダルさが問題なのであって、もしダルさがなければそもそも格差だの差別だのに人はそもそも注目を向けない。
労役夫と貴族と王とで、誰も別に「ダルくない」のなら、差別どうこうといっても、火がつくわけがない/われわれは現実世界において、身分や労働を平等にすべきと考えているふうだが、実はそうではなく、本当は「ダルさ」を平等にしようとしている、ダルいからなのだ、だからそっち方面はあまりカッコイイ話にならない。
現代のわれわれは、特に「男」「女」ということについて、その性差をどういう格差に決着させるかということに難儀し、男女は互いに上を取るマウント合戦を繰り広げているが、その結果どうなったかというと、男女とも「ダルくなった」、そりゃ神話世界とのつながりなしに男女とか言われても、そのせめぎ合いはダルさの相乗効果しか生み出さないだろう。
「ドラクエ」的なロールプレイングゲームは、たいてい「王」がいて「勇者」がいて、「戦士」や「魔法使い」、「僧侶」や「賢者」がいる、それはそういった中世の世界が神話世界の模擬にわかりやすく近いからだ/選挙で選ばれていない専制の「王」に、勅命を受ける「勇者」というのは選民思想に満ちていると、もしわれわれが攻撃し始めたら、われわれはいよいよダルさだけの生きものになったと言えよう。

たとえば男Aと女B、それは神話世界的にどうか? ということだけが問題であって、現実世界的には、もちろん「ダルい」だけだ。

「恋愛はめんどくさい」とか「結婚にはメリットがなさすぎる」とか、よく言われることがあるが、それはよく言われていることがまったく正しい、神話世界に接続する可能性がないなら、そんなもの「ダルい」に決まっている、別に男女じゃなくても生きていることすべてが純粋ダイレクトで「ダルい」だろう、こんなことに議論の余地はない。
構造上「ダルい」に決まっているものを、「がんばれ!!!」となお力で追い立てるのはどうなのか、僕には正直おっかなくてよくわからん/僕が女の子と手をつなぎ歩いて、それが神話世界に接続ナシだったら、そりゃデートクラブか援交だよ、平等化した世界で「誰もがお姫様ごっこをする権利がある」というのは理論上正しいが、そのことには「ダルい」という致命的な欠陥が考慮されていない。
正しく見ないとな | comments(0) |
「神話世界」がマジである(えぇ……)

んな話、信じなくてもいいというか、信じるほうがどうかしているとは思うが……
「ヴィジョン」というのは、「神話世界」からの接続によって見えるものだ、想像力が描いたものではなくて、もともとあるものが見えるだけだということ。
つまり「神話世界」というのが、<<マジに存在している>>という話、なんなんだこれはと言いたくなるが、どうやらマジのマジにそうっぽいので致し方ない。
人間は馬に乗ったり、盾を構えて剣を振ったりするが、それはもともと、神話世界で人が盾や剣を振るうので、現実世界でもそれをなぞろうとするということなのだ、神話世界で人が馬に乗っているから、この世界でも人は馬に乗るということをしようとする。

現実世界を元に神話が書かれたのではなくて、神話世界を元に現実世界が創られていったのだ。
人の世に語り継がれる「神話」というのは、神話世界の歴史上で起こった複数のクライマックス(を伝えるもの)みたいなものだが、クライマックス以外にも神話世界は存在している、神話世界はたいへんだだっ広いので、まあどうせ全域はわれわれの世界より広いんだろう、神話世界にもこまごまあるのだ。
じゃあ一方、われわれの世界はなんやねんということになるが、われわれの世界は究極のところ「ダルさ」だ、二日酔い的な物質が「はぁ」と吐き出されるとき、われわれの身にはドスンと「ダルさ」が生じる、われわれはこの「ダルさ」を「現実世界」と認識しているだけだ、だから現実世界というのはそれ自体にはあまり意味がない(えっ)。
この現実世界で、唯一まともなことといえば、神話世界とつながった何かを現成できるかどうか、およびそれを感得できるかどうかだけだ、究極のところわれわれは「神話世界はダルくないが、現実世界はダルい」という中を生きている、シンプルすぎて鼻白むぐらいだ。

神話世界が見えない場合、われわれはダルさをごまかさねばならない。

神話世界はダルくないが、現実世界はダルいので、神話世界が見えない場合は、ダルくてしゃあない、そうなると何か自分なりのスイッチを入れて、さもダルくないふうにごまかすしかない、そうでないと生活していけなくなるし、友人とも付き合っていけなくなる。
「こいつは何をイタいことを言っているんだ」という意見に、僕もいっそ与するが、一方じゃあ神殿とか戦争とか交合とかは、人類のネタ行事なのか/いっそそのほうが平和でいいのかもしれないのだが、そのぶんダルさの中をえんえん生きなくてはならないのもそれはそれでツライのだった。

正しく見ないとな | comments(0) |
「指導者はレーニン」というナゾの話の続き4(ラスト)

に考えればいい、「指導者はレーニン」ということで、自分を根本的に変えることが封じられてしまうのなら……
「おれみたいなもんは、差別してくれ、格差プリーズ、おれのことに胸を痛めるとか絶対にナシ、ぼちぼち搾取しておれをウワアアアと言わせてくれ」と、レーニンのまるまる逆を自分から求めていけばいい。
実際僕は、そういうふうにしてきたからな、サラリーマン時代には残業の無い日は一日たりともなかったし、残業代を請求したことは一度もない(請求の仕方を調べたことさえない)、学生のころはイベント会場の設営と廃棄のアルバイトで、大きなガラス片が上から降ってきて死にそうになり、ふと見上げると横にはキレーなコンパニオン姉ちゃんが鼻歌混じりに立っていた、コンパニオン姉ちゃんの時給はわれわれの倍以上あった。
しかしそういったことのすべては、なぜかわからんが、僕にとってはゲラゲラ笑うだけの何かで、楽しかったけどな……まあいったんブルーに感じたら永遠にブルーに感じるのかもしれない、また周りのみんなもゲラゲラだったので僕もゲラゲラだっただけかもしれない。

僕は「姉に暴力を受けて育ったファミコン少年」がスタートだから、今でいう典型的な「陰キャ」スタートだ、いじめみたいな時期もそれなりにあったし、小中学校で女子とおしゃべりした時間は総計してもたぶん5分に満たない(マジで)、実際僕はまともに告白されたり「付き合ってください」と言われたりバレンタインチョコをもらったりしたことは一度もない。
大阪の南部の、しゃれっ気ゼロの土地、しかも「不良」がブームだった時代に少年時代を過ごし、街中ではカツアゲリスクが当たり前、姉は非行に走って何度も警察につかまるわ、両親は離婚するわで、僕も学生時代には自殺未遂を二度ほどやっているから、メンヘラ化するのは大ありの路線だった。
大学のころ、着ていた服は、半分以上が中学時代からのやつだったが……そして近隣にはお嬢様女子大がテンコモリにあり、僕の乗っている原付より女の子の履いているミュールのほうが高価だった、しかしレーニン先生、なんでかな、おれはゲラゲラ笑ってしまうのだ、何かが好きでゲラゲラ笑ってしまう、たぶんあんたが気にしていることを、おれはほとんど気にしていない(なぜかは知らん)。
僕には何度も、いい気分になるチャンスがあった、ボランティア集団で顔利きとして居座ったり、十億ていどの資産家になってタダでパイロットになるチャンスも実はあった、しかしあらゆるところで僕は、「おれがつらくないのはウソだ」と断じて、そのたびに引き返してきた、あんたの思っている悪夢はおれにとっては悪夢ではないし、あんたの思っている希望と夢はおれにとっては希望ではないし夢でもないよ。

カスはカスの道を行く、そこをどけよ微笑んでいる奴。

自慢じゃないが、キレーな女の子が僕のことを差別しなくなったのなんて、ここ数年のことだぞ、差別されないので逆に居心地が悪いというか、どうしたらいいかわからんという感じが今もある、死ねとかキモいとか言われた方が、僕は「おっしゃ、帰ってきた」という気がするのだが/こんなところにレーニンが参上したらドッチラケになる、カスにはカスの戦い方があってなあオッサン、スイートルームを格安にされたら旅じゃなくなるって旅もあんだよ。
かといって、見放されたら人は死ぬし、庇護されたらやはり死ぬしで、まあただの按配だろ、貧しきを救うは社会正義だが、社会正義はまるで最上位じゃない/僕が見下されるアホでクズでキモいカスで、いつも致命的に「なんとかしなくてはならない」というのは、僕にとっては行住坐臥、これまで常のことだった、レーニンが同じカスの道を行きたいというならゲラゲラ笑って招きいれるが、彼が僕をどこか僕でない場所に連れて行こうとするなら、それはお断り申し上げる、僕は僕のものでない上席に座らされるのが、どれぐらい退屈で致命的かよく知っている。

正しく見ないとな | comments(0) |
−20歳するとつじつまが合う

とえば25歳の女性が仮装してハロウィンに参加する。
もともとハロウィンに仮装して現れるのは子供たちだったはずだが/このことは、だいたい年齢を−20歳するとつじつまが合う。
25歳[5歳]だからハロウィンで仮装、30歳[10歳]だから「わたし塾に行きたい」、32歳[12歳]だから「ちゃんと男の人と付き合いたい」、35歳[15歳]だから「わたし身体を鍛えたい」、40歳[20歳]だから「政治のこともわかっていないといけない」と思うようになる。
現代人は−20歳するとつじつまが合う、これはどういうことかというと、<<年齢が分配されている>>のだ、現代人には「生身(なまみ)人格」と「オンライン人格」があって、オンライン人格が20歳に育っているぶん、生身人格は年齢を停止しているのだ。

人は、人との「やりとり」に経験を積み、その経験滋養によって成長し、大人になっていく、目に見えない次元でそういうことが起こっている。
現代においては、人との「やりとり」は大半がオンライン化しているので、その経験滋養はオンライン人格に吸われていく/そうしてオンライン人格が分配を受けただけなので、「現代人は幼稚」ということではない、オンライン人格と生身人格を足せばちゃんと年齢相応になっている、生身人格の現れだけを見ると幼稚に見えるだけだ。
単純に、勉強してきた二十代後半の人間が、オンラインでグループチャットをすれば、とても闊達にそれをするだろう、しかし生身でそれをさせると、生身の「顔」や「声」や「目つき」「体つき」がヘンなので、グループチャットは続かない/−20歳の生身なので、当たり前なのだ、ちょうど小学生たちぐらいの生身だと見直せばつじつまが合ってくる。
今、たとえば28歳[8歳]の女性に紙ヒコーキの作り方を教えてあげると、公園で飛ばして「わーいわーい」となるのが割と普通ではないだろうか、むしろそれが無理のない「ぴったり」に見える/僕は大人のハロウィン仮装を否定しているのではなく、むしろ派手な祭りはどんどんやってゴミは渋谷にポイ捨てしろと思っているが、逆に大人のハロウィン仮装がなぜか「ぴったり」に見えるということを、無視はできないと認めているのだった。

古い体質の上場企業でも、すでに歓送迎会の飲み会は廃止されている。

むろん、歓送迎会といって「生身」を寄せ集め、「生身」に酒を飲ませるというのが、発育のレベルとして不能だからだ、歓送迎会は公式に、役員を含めた一同から特別なメールが送られてくるというようなオンライン形式に変化せねばならない/今のところ生身を本来の年齢水準に戻すという発想は理想的だがメドが立たない。
今、相撲協会の問題でも、上は下をぶん殴ってもいいかの議論がなされ、それについては「タフでないと」という意見もあるようだが、僕はその意見がよくよくわかりながらも、「たぶんすでにそういう状況にない」と思っている、相撲部屋であっても生身の年齢は−20歳として考えねばならないのだ/われわれは<<−20歳のキッズ化>>を土台にして生身の問題を考えねばならない、そうでないと本当に「かわいそう」という実態がある、「大人のやりとりはオンラインでする」というのが今のところは合理的な判断だと覚えておかなくてはならない、誰も本当にコドモというわけではない。

正しく見ないとな | comments(0) |
「指導者はレーニン」というナゾの話の続き3
とえば「あの人は本当にジョークが上手」「あの人は人を褒めるのが本当に上手」「あの人は本当に腰が低くて人が好いわ」「あの人は本当に頭がよくて、鳥肌が立つほどだわ」というようなことは、実際にはほとんど「ない」ものだ、そういったものはいかにも美徳として「ありふれた要素」のように見えて、本当にそこまでの美徳が身に現れている人は世の中にほとんどいない。
多くの人々の、笑顔は楽しく、気質は善良で、人柄は愉快、気が利いていて、やさしくしてくれる、それはそうだし、それで「十分!」と断言して差し支えないが、では「これですべて十分」ということは、「もうその人にはなすべきことがない」ということだろうか、それはそれで「違う」という気がする。
あなたが見て、「十分」と思える人との仲を、あなたは大切にするべきだ/しかし一方で、その「十分」な人を破壊するわけではないが、別次元の徳性を発揮する人は存在するし、われわれは「十分」な人の仲をよろこぶと同時に、別次元の徳性事象を平行する可能性として尊んでいなくてはならない。
われわれが「十分」と仰いで認められる人々との豊かな世界を、われわれは誇らねばならない、その世界はかけがえなく意味があるものだ、しかし同時に、別次元の「意味」がある世界があることも、あなたは本当は知らないわけではない/人はときに、自分が生きているということの意味を、その別次元のほうにしか決着できないことがある、われわれは「十分」な世界を誇る義務と、さらに「それ以上」の世界を誇る義務とを、同時に持っているのだ。

ジョークを言えない人は、一生ジョークを言わないものだし、人を褒めない人は、一生褒めずに生きていくものだ、人に頭を下げられない人は一生下げずにいくものだし、頭のよくない人は一生よくないまま生きていくものだ、<<努力の結果、「変わりませんでした」>>ということの中を生きねばならない、<<無数の「変わらなきゃ」の結果、「変わりませんでした」>>ということの中を生きねばならない。
別にジョークなんか言わなくても、人を褒めるということがなくても、人に頭を下げることがなくても、頭なんかよくなくても、「十分」だ、そのことは疑いないし否定されない、楽しい笑顔と善良な気質、愉快な人柄、その人なりのやさしさや気遣いがありがたいしうれしい、ということは消えてなくならない、それだけでいいといえばそれだけでいいのだ。
ただ、そうしてかけがえなく、「よろこばしかった」ということですべてが満ちるかというと、そうでもない、<<「よろこばしい」と「すさまじい」は違う>>、われわれの生きることはよろこばしくあってほしいが、よろこばしいだけでよいのかというと、そうではないとどこかで知っている。
ジョークが言えない人は、一生ジョークを言わないものだ、もしそれが変化するとしたら、それは「すさまじいこと」になる/この「すさまじいこと」を辞退するのは、人間にとって「当然」であり、同時に「哀しさ」でもあるが、この取捨をいざ自分が決めようとするとき、すでに決められない仕組みが前もって自分の中に巣喰ってあるのは、やはりおぞましいことだと思う。

「十分」は、うつくしく正しい、が、その顔色を一変させるものもやはりある。

実際に、すでに「十分」だった人が、まったくそのことに安住せず、次々に「すさまじいこと」へ進んでゆき、突破しているのを目の前に見ると、「十分」ということのうつくしさと正しさが、相対化されて危うげになる/それでもなお、「十分」ということの意味と誇りは瑕疵さえつけられるものではないのだが。
「十分」は、それとしてよろこび、誇って、一方でサクサクッと、「すさまじいこと」にも突入してイエーイとしていれば、それで単純に解決しそうな気がするが、そうはさせない「レーニン」がそのとき突然出てくる、「すさまじいこと」へ進んで突破していくほうのうつくしさと正しさおよびその意味を、「殺害しろ」という指示が突然湧いてくるのだ、このせいで人は「十分」以上のことはやらせてもらえないようになっている/「十分」まではやたらに礼賛されるのに、「十分」以上からは急に「死ね」と言われる、そういう仕組みが前もって組み込まれている。
正しく見ないとな | comments(0) |
「○○はおれの嫁」「妻じゃないのか」

「ウチの嫁がさあ」というのは、「妻じゃね?」といつも思う。
「ウチの嫁、っていう言い方は、お前の父御さんが使う言い方だと思うが」「そうなん?」。
息子の妻のことを「嫁」と呼ぶ、オトウサンの言い方、というのが普通だ、そりゃ「婿」の反対語なんだから当たり前。
かといって、「じゃあ僕の妻がね」と言ったとして、まあ冗談かギャグみたいになるので、「もう元の言い方でええわ」となるのだが/あるいはこじゃれた言い方としては、あえて旦那さんが「うちの奥さんが……」と他人事めいて言う方法もある。

アニメオタクが、気に入ったアニメキャラクターを「おれの嫁」と呼ぶのと同じように、日本人男性はすでに「妻」という概念を失っている、アニメキャラを「おれの妻」とは言わない。
あるいはもともと、「妻」なんて概念はなかったのかもしれないな、伴侶制の神話がある国でもないし/「嫁」というのは「○○家」という家制度に「嫁ぐ」のであって、直接個人の「○○クンに嫁ぐ」ということはできない。
なぜ「ウチの嫁」がデフォルトの言い方になっているかというと、ぶっちゃけ、日本人男性は文化的に重度のマザコンであり、一人の男性として一人の女性を「娶る」などという器量はないからだ、日本人男性が「妻」などというのはジョークのたぐいでしかない、これは文化的にしょうがないことだ。
そこで全体がどうなっているかというと、「一人の男性として一人の女性を『娶る』なんてできないので」→「○○家というか、『ウチ』に、嫁がない?」「うん、嫁がせて〜」という形で、婚姻が成立している、だからまあ「ウチの嫁がさあ」という言い方で合っている、だから問題は……

「妻」はいないのに「夫」だけがおり、日本の夫婦制度は根本的に破綻を定義されている。

「夫と嫁」という、奇妙な婚姻状況があるのだ、だから「夫」は「嫁」の素行に口出ししないほうがいい、口出しすると烈火の如く反撃を食らうし、またその反撃が正当なのでぐうの音も出なくなるだろう、ひたすら「ムリすんな」と率直に申し上げたい、根本が破綻しているものを急に気分で努力しても絶対に改善はされない。
「嫁」というのは○○家に「嫁ぐ」ものなのだから、○○家の「当主」の指示しか聞かないよ、あなたが言っても「なぜ○○家の次男でしかない丁稚まがいの男の言うことなんか聞かねばならんのだ」と絶対的に反撃されてしまう/かといって「○○家の当主」なんてものは時代錯誤すぎて存在していないので、さらにどういうことかというと、<<家制度がすでに終わっているのに、家制度の名残りである「嫁」文化だけが残存している>>という状態なので、「嫁」と対等に口をきける存在は親族内に存在しないのだ、それはそういうモンなので、あまりむつかしく考えずヘラヘラしているのがベストだ、単なる共同生活ということでも、それは決して暗いものではない。

いいオンナはいい言葉を | comments(0) |
現実は神経にくる
学や禅の本などにはよく「宇宙」と書いてあって、正しく見られたらそれを観ずることになって「見神の事実」を得たりすると書かれている。
それはよくわかるのだが、それはいわば「宇宙とわたし」「この世界とわたし」ということの直接体験であって、しかしどう考えてもそこから「わたし」を取っ払ってしまったほうが上位なんじゃねということがあって/そう考えたら僕にはもともと「わたし」なんてあったためしがなく、女神があったり戦いがあったりして初めから光だったのだが、でもそこまで行ってしまうともう「僕」が話すということも成立しなくなるので、困るのだった。
こんな話、フツーに書いてあったら統合失調症のヤベー奴の話でしかないが、例によって僕はしれーっと現実感覚を残したままなので、逆にもうこいつはつまらん奴なんじゃないかという気が我ながらしてきた。
ふつう、胸にグッと来るとか、そういうことを好んでおいかけるもんじゃないのかね、それがオメー、身体もすでになければ「わたし」もすでにないで、女神とか戦いとか「わたしはないのでわたしの意志ではなく光」とかそんなこと言われてもよ、ブログ記事としては本来完全に再提出ボンバーではあるがまあこんなわけのわからんことを書いてあるのもヨソにはないだろうということで、あえて記事にすることにした。

大雑把に分類すると次のような感じだ、低いほうから高いほうへ、本当はもっと細かいだろうがもう細かいことはせんぞ。
[低]神経にくる→胸にくる→わたし&世界にくる→光&神々(小規模)にくる→たぶん「大いなる神」にくる(と予想)→(この先は不明)[高]
言い換えてみればこうだ、別にマンガでも映画でも小説でもいいのだが、わかりやすく。
[低]「絵」的なマンガ→「声」的なマンガ→「世界」的な映画→「神」的な話(神話)→わからん、すんません→さらにわからん、ムリっす[高]

現実は神経にくるが、それで合っている。

いわゆる「現実を見ろよ」というときの「現実世界」は、確かにそういうものとして存在しているのであって、それで間違っていない、ただしそのようにしか存在していない/人が「現実を見ろよ」と言われたとき、どのようにしても「神経にくる」しかない、どれだけ現実世界で有利な人も豊かな人も同じだ、それはそういう層のことを「現実」と呼んでいるのだから当たり前だ(だからそこにフォーカスを当ててもあまりトクをしないということがけっこう多い)。
まあ次こそはまともな記事を書くぞとこころに決めつつ、とりあえず朝メシでも食ってきます。
正しく見ないとな | comments(0) |
こころの視力を使わないこと

「人」なんかいない、「人」というのは誤解だ。
というのは、無人の風景があるということじゃない、そういうことではないがわれわれが「人」というと、誤解しているのだ。
何か二日酔いのような物質が、ハァと吐き出され、それの溜まるところ、感情や意識が生成していて、それが「人」だと思われている、これはもうどう見ても「ダルさ」だ。
われわれが一般に「人」と思ってそうみなしているものは、本当にはただの「ダルさ」だ、われわれはダルさを人だと思っている、そのせいで元気なのも人だと思っている、そういう意味での「人」なんて本当は存在していないのに。

女の子のためにずっと走っている、走っているというか止まらずに前進している、女の子はむろん人ではなくて女神だが、僕が走るのは男だからか、女の子の側からは何が見えているか、けっきょく僕にはわからないかもしれない。
臨場感というのもウソで、ウソというか、この世界にはどうやら細かく「段階」がある、まじめに追求すれば分類できるかもしれないが、それはちょっと今はしんどい。
僕はたぶん、最上位に近いほとんど最上位の世界から始めている、もっとその先に本当の最上位はあるのだろうけれど、もうこの先はさすがに見えない、だから実質最上位と言っていいだろう、少なくとも光はこれ以上は見えない、女神は見えるが「大いなる神」は見えないので、これは僕がとんだスケベなのか(ありうる)。
「光の戦士」というと、その「戦士」というのがまた二日酔い物質のものと誤解されるので、あまり賢い言い方ではない/僕はたぶん珍しいタイプで、最上位の世界から初めて、後から下位の世界の埋め合わせをしてきた、僕は下位の世界で出来ることを増やして「向上した!」とよろこんでいるから、何かアホな感じなのだ、といって下位の世界も楽しいことがたくさんあるので、ついやるべきことというか向上心をくすぐられてしまうけどな。

言うなれば、はじめに大学に入って、高校には落ちていた。

こんな、アホというか、順序のちぐはぐな奴っているの……大学に入れた奴が、なぜ高校入試にがんばって「できた!」とか言っているんだ、アホみたいだが実際しょうがない、なぜか大学には入れたが高校には落ちたのだ、何かそういう段階的世界があるのに、なぜか僕は上から入っている。
まじめに追求して分類したら、もっとわかるのだろうし、分類したらどうせお釈迦様が全部先に解き明かしてあるのだろうが(まさに「お釈迦様」で笑える、シャカに勝てる奴なんかいるかよ)、さすがにそんなことにエネルギーを割いていられない/うーんしかし光の最上位(仮)のやつをやっても、正直これは誰にもわからんぜ、誰にもわからんことをレポートしても意味がないので、高校のレベルでレポートを書いているわけだが、「お前何やってんの」と言われたら立つ瀬が無いな、手抜きしたら大学レベルで頑張ったら高校レベルという、このアホな状況はなんだ、いわばこころの視力が高校レベルで、光の現成力が大学レベルなのだが(こころの「視力」を使ってはいけません、光の光力で見えることなのでこれはもう身体的ではない、たぶん非生存系で、おそらくイマジネールの上位にある「ヴィジョン」と呼ぶべきやつ。ヴィジョンが「見える」のじゃなくてヴィジョンという「現象」、それは初めからある事象運動体であって創造するものではない)。

できるオンナだね | comments(0) |
女神と光と赤紫の遠い空(風景は無限にある)
じまりは定かではない。
女の子は人ではない、人以上のものだ、だから見なくてもわかる、女神というのは当たり前にあって、見なくてもわかる、それはあるものであって戦いの理由になる。
戦いはある、戦いは前進であって闘争ではない、静かなものだ、戦いはあるが戦うべき自分はおらず戦いのみがあり前進する。
空の赤紫は洗剤のように遠く、何を教えようとしているのだ? ただ「来い」と呼びかけているのはわかる。

わたしを「尊い人」といってくれた人があったが、ここまで来れば尊いという現象自体がない。
説明はなく、感情はなく、意志はあるような気がするが、これはもはや意志ではない、これはやはりただの「光」だ。
映像でない風景、思念でもない風景を見ている、もともとこれが「風景」だ、メロディラインは何を教えている? 僕はメロディというものをたぶん聴いたことがない。
わたしが見ているのは、たぶん初めから人ではない、カミサマのことはわからんが、これは光だ、光の中で赤紫の空は計測の次元を超えて遠い、風景は無限にある。

人はいない、人と呼ばれているものは誤解だ。

わたしというものも存在しない、そもそもキャラクターというものが存在していない、現実というのはあまり意味がなく、現実というのは何か二日酔いのような物質がため息のように吐き出されて生成されているにすぎない。
誤解しうる何もかもが、もともと教えているのは何? 誰でも「夢中になる」という現象は同じだと思うが/たぶん僕は、その「夢中」の反対側のものをもっていない、だから僕はもともと、この夢中でない側の生成物世界には存在していない、僕はいつのまにか初めから見つかっていたものの中にずっと住んだままだ。
恋女のマインドね | comments(0) |
「指導者はレーニン」というナゾの話の続き2
子さんは、豊かな未来のために、就職活動をがんばりたいと思った、それで面接の指導を受けてみたが、「声が暗すぎるな」という指摘を受けた、「もっともだ」と理解したA子さんはそれを改善しようとするが、やってみても明るい声の「ふり」しかできず、何かヤケクソになった子供のような声になってしまうことを、自分で恥じた。
「まあ、本当に明るい声で明るく話せるよう、根本的な努力をするしかないな。しんどいことだと思うけど、ここでそれを手に入れたらさ、この先ずっと、あなたは明るい声で話せる人になるわけだから。この機会になんとかしていこう」
指導してくれた人は、まっすぐなこころでそう言ってくれたし、A子さんは何も不満でなく、「まったく言うとおりだ」と思った/自分の声の暗さにはこれまでにもこころあたりがあったし、これから先ずっと明るい声でゆけるのならば、なんと素敵なことだろうと思う、そういうことが本質的なことだとA子さんも思う、「こういう機会に改善しないと、もう改善する機会なんてないもの。ほんと貴重なこと」とA子さん自身も後にツイートしている。
にもかかわらず、A子さんの内心には、正体不明の「もやもや」、そして破裂しそうな何かの「ムシャクシャ」が起こる、A子さんは「なんなんだろうこれ」といつも思いながら、すでにこれに慣れているのでもある/俯いたままになっているA子さんをいぶかって、「……どうしたの?」と指導員、しかし「なんでもないです」とA子さんは答え、指導室を出て行った。

A子さんはしばしば、「この人の声は明るいな」という人を、動画サイトなどから探し、また簡単な発声練習のやり方も調べてみた、参考資料も練習方法も十分に見つかって実にありがたいことだと思う。
しかし、いざ実際に声を出して、面接の練習をしてみようとすると、数秒も経たぬうち「ムシャクシャ」が起こる、まるで条件反射のように/この「ムシャクシャ」が生理的に負担すぎて、A子さんは練習ができない、意欲はあるのだが練習をすればするほど「ただイライラして疲れる」ということを重ねる、そのうち面接会場に行くにも気が滅入ってきて、そもそも「豊かな未来に向けて就職活動をがんばる」ということ自体がイヤになってきた。
何が起こっているのか? A子さんの内部、自覚もないような深部の構造で、「どうして自分だけこんなに苦労しなきゃならないんだろ」「こんなのあっさり出来る人もいるじゃない、なんかそんなのズルいっていうか、不平等すぎる」「こんな初めから決定的な差がついてるんじゃ、けっきょく勝てないに決まってるじゃん」という声がぼやいている、「こんなの、誰かわたしのこと褒めてくれないと、身がもたないよ」という気がして、A子さんは高校時代の卒業アルバムなどを取り出して見ていた、そうすると少し元気がでる気がした。
「あー誰か、わたしにこういう仕事をしなさいって、いっそ命令してくれないかな。単純作業の仕事でもいいから、あなたはこれをしたらいいよって、そうしたらわたしがんばれるのに」

気づくとA子さんは、努力と研究の先に、「卑屈さ」を手に入れていた。

就職活動の結果はどうあれ、こうしたことの繰り返しから、A子さんは「あーこういうのはわたしはムリ」というパターンを見抜くようになっていった/そして「これ以上卑屈になりたくない」という感覚から、根本的なことへ努力することはむしろ「やってはいけないこと」なのだと定めるようになっていった。
A子さんは、身についた卑屈さをなるべく人に見せないように、明るく普通の「問題ない人」として振る舞うようにしている、たまに先輩はA子さんに「もっと前向いて歩いてゆきなよ」と言った、そのときA子さんは内心で(それわたしムシャクシャしますよ)と思うようになってしまった、暴力的に――/そうして「不穏」が生じることを周囲は次第に覚えてゆき、誰もA子さんに向けて深入りすることは言わなくなっていった。
正しく見ないとな | comments(0) |
「指導者はレーニン」というナゾの話の続き

日、「あなたの指導者はレーニンなのだ」という、わけのわからん記事を書いた、そして「のちのち効いてくるから〜」と妙なことを言い添えたりもした。
あの話、あれだけではさすがに意味不明すぎるので、もう少し話しておこうと思った/まず当たり前だが、われわれが普通に暮らしているぶんには、「貴様はレーニンを指導者と仰いでいるな!」みたいなことは出現するわけがないのだ、そういう表面的なことの話ではない。
あなたが生きていく道中、もし何かシリアスなシーンに出くわすことがあって、そこで「自分を根本的に変えよう」としたとき……その「レーニン指導下の国民」という相が出てくることがある、それはそれでマジの話だ、ということだ。
たとえば学校の○○先生は、すごく温厚でやさしい、善人だというとき、その○○先生は「麻布のロックバーでいきなりジョークのぶちかましから人間関係に入ってテキーラを呷ってカッコいい、パンチのある声をしているぜ」という人にはならない、もしそこまで「根本的に変える」ということを試みたとき、内部にある「指導者レーニン」がそれを妨げているということが本当に出てくる。

一般的に、その人の「個性」とか「性格」とか、固定的に思われているもの、これを「根本的に変えなくては」というとき、そのことをさせない強力なお札として、「指導者レーニン」が内部に効いているということが出てくる。
どういうことかというと、自分を根本的に変えるということは、「こんなことではダメだ!!」という自分への断定を必要とするのだが、この断定の背後にはレーニンがアンチテーゼに効いていて、「人はもともと平等」「格差はない」と語りかけてくるのだ、だから自分を「ダメだ」と断定できない。
内部の指導者レーニンが言うのは、「貧しい者は、不当に不遇なのであって、自分が悪いわけじゃない、だから救済されるべき、絶対に!」「貧しい者が自分を否定する必要なんかあるわけない!」ということなのだ、このお札が効いているので、人は自分を変えようとしても、まず「こんな貧しい生き方をしていてどうする!」という自己否定ができない(やろうとしても完成しない)。
だから、いわゆる「キモい」人や、ダサい人、頭の悪い人、仕事のできない人、学門が苦手な人、文化性のない人、下品な人、嫉妬や執着がやめられない人や、声や表情の暗い人、あるいは人のこころがわからない人は、いったんそうなってしまうと、もう「絶対に変えてやる!」ということができなくなるのだ、どうしてもどこかで「こんなに貧しい自分は、それだけ人に庇われ、救済されるべき。でないと不平等すぎる」「そもそもわたしが悪いんじゃないんだもん!」と転倒してしまう。

内部にある「レーニン札」によって、貧しい人は、むしろすさまじい不平を抱えることになり、内心で「ムシャクシャ」している。

どういうことかというと、生きることが貧しい人は、レーニン札の効果によって、「不平等! 不平等!」と感じ続けるということなのだ、レーニン札が主張する絶対にあるべき「救済」とやらは、いつまで経ってもやってこない、「もしこのまま低賃金で働かされて結婚もできなかったらマジ日本死ねだわ、そのときは何人か殺してわたしも自殺しようかな」と空想するようになってしまう。
A君が楽々クリアできるテストに、B君がさんざん苦労するということがあったとして、「お前もA君を見習ってがんばれ」とでも言われて努力されられるようなものなら、猛烈に「ムシャクシャ」するのだ、なぜこんな不平等を押しつけられねばならないのかと思える、このとき人は「不穏」の気配を放つ/なぜなら不平等を押しつけられた弱者は、団結して支配者を「皆殺し」にしていいと、学説上で流血許可を定義されているからだ、もともとはこの「支配者を皆殺しにする」までを含めて共産党の設立は宣言されている。

正しく見ないとな | comments(0) |
傍聴

「おれなりになんとかしたいと思ってる、あのコのことだけはこのままにしたくない」
「そう? でも向こうはなんて言ってんの」
「ちょっとそういう、前向きにはなれないって」
「まあ、そりゃそうだろうね。あなた実際には、二、三回話しただけなんでしょ?」

「おれのほうはさ。あのとき、いろいろ大変だったんだ。でも今は一通り片付いた。今はもっと、あのコとふつうにやれると思う。あのときの自分はひどかったと、自分でも反省してる」
「あなたの話聞いているとさ、あのさ」「うん」
「あのコには、うつくしさがあると思うよ。わたしもあのコのことは、いつもすごいなって思うもん。でもあなたには何のうつくしさも感じない。わたしだって正直、あなたと話すよりあのコと話したい。あなたと話しているとすごく損した気分になるもの」
「だから、おれのほうは、このところいろいろ大変だったんだって。誰だってどうしようもないときってあるじゃん。今はもう、本当に反省したんだって」

「あなたがあのコの友人にふさわしいとは一ミリも思えない」

「だからさ。今はもう、色々片付いたし、本当に反省したんだって。あのときが異常だったのは仕方ないし、自分でも認めるよ。悪かったし、迷惑かけたと思ってる。でも今は、もう一度会って話させてもらえたら、ぜったい普通にやれる。おれ自信あるもの」
「ううん、そんなことないよ。あなたはずーっと自分のことだけを話してる。今もそうだし、もう何年もそう。もう何年も、あなたはずーっと自分のことだけを話し続けてる。あなたがそれをやめる日なんて、きっとこないと思う」

正しく見ないとな | comments(0) |
タメニ理論8
メニ理論はヒジョーに評判がいいので、これからもちょくちょく話そう。
なんというか……たとえば僕だってこの世界に本当に存在しているわけで、あなただってこの世界で本当に存在しているわけだ(当たり前)。
しかし、この当たり前のことが、実はいつの間にか消え失せているか、そうでなければ、実は初めから「わかっていない」ということがあるのだ、<<本当に>>僕もいるしあなたもいるということが、実はわかっていない、こんなことハッキリわかっている奴は今や極めて希少だ。
タメニ理論というのは、この「僕もいるしあなたもいる」ということが、実はこの行為によって得られているので、これをやらないと世界がないですよ、という理論だ、非常にわかりやすく、また非常にまともな話なのだった。

理論はヒジョーにカンタン、あなたは自分の「ために」ということは、いつだってしている、自分の「ために」、たとえばストーブのスイッチを入れている、こんなことは覚えればチンパンジーだってやる。
が、その「ために」の機能が、実は自分の「ために」だけでなく、誰かの「ために」も使えるということ、このことが以外に気づかれにくく、ともすると一生その使い方をしないままいってしまうということも少なくないのだ/たかがストーブのスイッチを入れるだけでもだ。
ここのところは、ひたすら冷静に捉える、実にシンプルだ、あなたがあなたの「ために」ストーブのスイッチを押すことと、あなたが僕の「ために」ストーブのスイッチを押すことは、<<事象として完全に同じ>>だ、僕が僕のために押すか、あなたが僕のために押すかの差しかない、どちらの肉が動いたって内容は変わっていない。
あなたにとってあなた自身は「わかる」ものだが、あなたにとって僕は「わからん」ものだ、その「わからん」ものの「ために」ストーブにスイッチを入れる、僕の「ために」あなたが動く/この行為をすると、急に、その「わからん」ものが自分と一緒にあるということが<<本当に>>見えてくるのだ、実はそのことをするまでは、目の前に人がいることなんて本当はまったくわかっていないのだ。

あなたがあなたの靴を磨くのを「仕事」とは言わないように、あなたが僕の靴を磨くのも「仕事」であってはならない。

なんのこっちゃ? という気がするかもしれないが、ここが注意点だ、あなたがあなたの靴を磨いてもそれは「仕事」にはなりえないが、あなたが僕の靴を磨いたらそれは「仕事」になりえてしまう、これが<<危険>>だということ、どう危険かといって、「致命傷」になりえるほど危険だ。
自分の「ために」だけが機能して、僕の「ために」が機能しないなんて、そんな<<不自然>>な状態があってたまるか、わかりかけている人はさっさとわかってしまおう/あなたがあなたの「ために」することと、あなたが僕の「ために」することは、<<事象としてまったく同一>>だ、まったく同一のこととして行為すればいいだけだ、それだけでタメニ効果は勝手にバチーンとはたらいてくれる。
正しく見ないとな | comments(0) |
「本当にあった」ということ……

くわからん話を、シツコクするけど、意味があってそうしているので、忍耐してついてくるように、必ずあとあと効いてくるから。
あなたの指導者はレーニンなのだ! わけがわからんと思うが、ひとまずこのことを肯定すること、ギャグみたいに聞こえていい、ここから始めないと解決しないことがどうしてもあるのだ。
そして、この手続きをやってみよう、あなたが街中に出て、通りすがる人々の顔をなんとなく眺めてみる、するとそこには、「よくわからん人の顔」があるはずだ、そりゃ知らん人だからよくわからん顔で当たり前だ。
しかし次に、その「よくわからん人の顔」を、「レーニンを指導者とする人」という仮定で眺めてみたらいい、するとどうなるか/驚いたことに、その「よくわからん人の顔」が、「なんとなくわかる人の顔」に見えてくる、特にオジサンとオバサンがわかりやすい、金髪でオラついている人はわかりにくくなるので除外しよう。

「よくわからん人の顔」は、「偉大なる大指導者レーニンの下(もと)にある市民」として眺めると、なぜか急に「なんとなくわかる人の顔」に見えてくる。
それは、いわゆる世界観という現象だが、本当にそう「見える」という現象があるのだ、それはつまり、人々の顔にそういう「相」が出ているということだ。
通りすがる人に、「クリスチャン」「仏教徒」「ビジネスマン」「学者」「サムライ」「大和男児」「大和なでしこ」と色々当てはめるのもいい、しかしそう当てはめても、今度は「そうは見えない」というのが出てくる、いくら立場上が仏教徒でも、「相」が出ていないのでそのようには見えないのだ。
通りすがる人々を集めてモンペを着せて、「戦前の日本」という劇をしようとしたら入念な演技指導が要るが、国民服を着せて「レーニン指導下の人々」という劇をするならば、まったく演技指導は要らない、初めからその「相」が出ているからだ、冗談でなくわれわれは、「わたしの指導者はレーニンさまです」というとんでもないジョークから始めないと根底のナゾが解けない。

問題は、彼らが史実、「指導者」だったこと。

今も北朝鮮において金正恩総書記は「指導者」なのであって、それをわれわれがどう思うとしても、史実は消えない、現在においてもかつてにおいても、何億もの人々が「指導者」を仰いで生きる世界があったということ、この史実は消せないし消えない。
こんな話、したくないけどな……僕はホレ、このとおり、特殊な次元での「想像力」という能力があってアタリマエの人間だから、かつて指導者を仰いで生きる「共産主義」という国と、その国の人々が、「本当にあった」、僕にはその「わからんもの」が本当にあったということが「わかる」のだ、それが「本当にあった」ということがわかれば、根底のナゾは解ける、ただそれが本当にわかってしまうと、びっくりインパクトが、ちょっと普通の神経には耐えられないぐらいデカいかもしれない。

視点変えてこ | comments(0) |
愛していることしか一言一句発さない

は区役所などにいくと、夢遊病者のようになってしまい、手続きをしたりする際には、本当に半分痴呆みたいになってしまう、気合いを入れれば切り替えもできるのだが/今はたいてい、友人に付き添いを頼んでいる、それは傍から見ていても「かわいそうすぎるから」だそうだ。
なぜそんな痴呆状態になるかというと、僕は習慣的に、愛していることしか一言一句発さないし、一言一句書かないからだ/役所の手続きで書かされる書面には、僕が愛していることは何も記されないので、僕は本当に「わ、わからん」となる(頭が悪いわけじゃないぞ、昔は総合商社の営業だったんだ)。
僕はたとえば、「写真を撮るときは被写体に光源が近いほうがライティングは柔らかく入る」というようなことを知っている、けれどもそういったことはふだんまったく話さないし、ブルガリのプールオムは1996年(95年だっけ?)から発売されているというようなことも、知ってはいるがまったく話さない、僕は自分がただ知っているというだけのことを、愛してもいないに発するということを一言たりともしない。
もしあなたが、自分のやり方について、長足の進歩をいきなりブチかましてやるぜという気概をお持ちなら、このことをおすすめするし、ぜひそうしたらいい、「愛していないことは一言たりとも発さない」、もしそのようにできたら、しょーもないレベルのことはすべて一発で片付くだろう。

前段階というか、予備的に、区別だけは持っていてもよいかもしれない、「愛していることを話している人と、愛してもいないことを話している人がいる」ということ/まあそんなこと言い出すと、万事が急に厳しくはなってしまうが。
たとえば「相撲協会で、またトラブルが起こったそうですねえ」というとき、「はあ、そうらしいですね」という感じだが、そうした世間話を愛して話しているのか、それとも、何も愛していないが単に頭に情報が入っているというだけで発言しているのかは、大きな違いなのだ、正直なところ後者は僕にとって意味がわからん。
「職業柄、洗剤で手が荒れちゃうんですよ〜」と話されたとして、「そりゃまあ、そうでしょうね」とは思うが、僕からすると、こういう人は「会話」「話す」ということを、土台から勘違いしているように思う、「よ〜」と語尾に演出を足されたところで、なんだそりゃということにしかならない、愛してもいないただの情報をいきなり発話して何をどうするつもりなのだ。
僕はたとえば、「大阪方面から神戸方面へ、JRでなく阪急電車でいくと、阪急電車は割と山手側を走るんだよ」ということを話す、僕はそれを愛しているから話す/そこで「へえ、そうなんですね!」みたいな反応をされると、なんなんだコイツは死にたいのか、と思ってしまう(言い過ぎた)、僕の話なんか愛だけ受けてりゃ伝わるように出来ているのに、なぜわざわざ愛を廃棄してゴミ情報だけ拾い上げていくのか、これはもうライフワークを手裏剣投げにしてカバンを全部ボストンバッグにされるぐらいの刑罰を受けたほうがいい。

「そろそろ寒ブリの季節ですな!」と、寒ブリを愛していないなら話すなよ。

だってそりゃそうだろ、寒ブリの季節ぐらい誰だって見当がつくだろうし、ググればすぐ出てくるだろうし、情報番組や新聞の端っこから小耳に挟んだりするかもしれないけれど、その情報があるからっていちいち話してどうする、そんなこと言い出したら、僕はなんだ、黒雲母の話とかエチゼンクラゲの話とか墾田永年私財法の話とかモッズヘアーの話とか、デタラメに放り込みゃいいのか、そんなわけないだろ。
少なくとも、この「区別」はシンプルで有益だ、愛していないことを顔面たっぷりにして話したところで、その会話は永遠に「意味がわからん」ままだろう、まあ実際にやろうとすると意外に難しいのはわかるが/どこかでインチキをやめる努力を始めるしかない、しくじったってせいぜいライフワークが手裏剣投げになってカバンが全部ボストンバッグになるだけだ、少々つらいが耐えられないってレベルでもないだろう。

できるオンナだね | comments(0) |
人類が繰り返す、「ひとつになりたい」ということ

このところ、話が壮大になりすぎて申し訳ない、僕もさっさとやめたいのだが……
人類は、「ひとつの絶対的なものを見上げて、<<みんな>>でワーッとなりたい」ということを繰り返している。
人は、「みんなでひとつになりたい」のだ、けっきょく誰もこの法則からは逃れられない。
お祭りは基本的にそうだし、ナチスドイツだってそう、学生闘争もそう、オウム真理教もそう、オリンピックもワールドカップもプロ野球も、今あるアイドルオタクのブームもそうなのだ、「ひとつの絶対的なものを見上げて、<<みんな>>でワーッとなりたい」、人間はどうしてもみんながひとつになるアンサンブル(合奏)をしたいのだ、だから人類の繰り返しを上から笑える人なんて一人もいない。

この「みんなでひとつになる」ということが、正しく成り立つのはとてもむつかしく、だからこそナチスドイツとかオウム真理教とか、明らかに悲劇を生んでしまうものも出てきた。
「みんなでひとつになる」ということが、なぜ難しいかというと、正しくは「ふざけて始めたことが、知らぬ間に神聖さに引き込まれていく」という順序でしか起こらないからだ、たいていはその逆になってしまう。
つまりたいていは、「マジメに始めたことが、知らぬ間に邪悪さに引き込まれていく」という順序で進んでしまう、このことにはそのまま、二重になった難しさがある。
まず、神聖さに素質がある奴がもともと少ない上に、その素質のある奴が「ふざけて」何かを始めるということはさらに少なくなってしまう/ほとんどはその逆、邪悪さの素質がこっそりあった奴が、「大真面目に」何を始めることになる、だから正しく「みんなでひとつになる」というのは、実際にはほとんど起こらないのだ、残念。

「神聖な奴」が1/100、「ふざけて始める」が1/100、「邪魔しない」が1/100なので、みんなでひとつになる可能性は百万分の一だ。

せめて「神聖な奴」が1/10、「ふざけて始める」が1/3、「邪魔しない」が1/2ぐらいなら、成立の可能性は1.7%ぐらいあるのだが/この割合数は時代と共に変動するし、教育環境によっても変動する。
99/100、誰でも自分は神聖なつもりだし、自分は愉快なつもりだし、自分は人の邪魔だけは決してしないつもりなのだが、おそらくそういったことは本当はカンタンじゃないのだ、それがまるでカンタンなことのように教えられている時代と教育環境が、よけいに悪く響いているのだろう(と、たまにはマトモなことも言ってみるのだ)。

視点変えてこ | comments(0) |
あなたの「お上」
間には、「お上(かみ)にしたがう」という性質がある(それ自体は何も悪い性質ではない)。
「徳川家」のしるしに、「へへーっ」と従っていたのが江戸時代。
「日の丸」に、ビシッと黙礼していたのが昭和初期。
胸に手を当てて、「毛沢東」や「スターリン」の肖像画に崇拝の眼差しを見上げていたのが昭和中期だ、急に「えっ?」という話だがこれがマジなのでしょうがない/「ありえない」と感じる人は、当時日本が戦争で大敗したという超ダメージを忘れていることが多い。

「お上にしたがう」というのは、もちろんマジな話であって/だってあなたは自分の婚姻も就労も、「お上」が定めたとおりにするのだから。
問題は、あなたの従っている「お上」が、実際にはどれかということだ、実はこのことには点検するテストがある。
人に「へへーっ」と頭を下げるのが封建的お上で(政治家や企業役員等の権力序列)、人にビシッと黙礼するのが神道的お上で(年功序列)、背筋を伸ばして熱い眼差しを見上げるのが共産的お上だ(ストイシズム序列)。
つまり「礼」の仕方で、その人の従っている「お上」がわかるのだ、「へへーっ」は夷狄を滅ぼす中枢権力を究極のお上とし、「ビシッと黙礼」は貢献を為して祀られるに至った氏神を究極のお上とし、「熱い眼差しを見上げる」は禁欲の果てに革命を為した書記長を究極のお上とする。

あなたが好きになる男性は、「権力者」「貢献者」「禁欲者」のどれか。

何が「カッコいい」と見えるかは、この「お上」の性質によって分類されているのだ、「すごい権力を持っている」が「偉大」に見える人もあるし、「すごい貢献を為している」が「偉大」に見える人もあるし、「すごい禁欲をしている」が「偉大」に見える人もある。
例外的に、過去の偉大な宗教者たちは、カミサマにしたがうので、お上にはしたがわない、だからしばしば「お上」は宗教者を弾圧してきた、宗教者たちは「身に現れているもの」をもって序列にするわけだが/よって、宗教関係において「権力」が目立つもの、「貢献」が言いふらされるもの、「禁欲」が競われるものは基本インチキだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
総書記のロボット

倍総理が、あなたに向けて、「ここの花壇を、掘り返して、トマトを栽培するように」と命じたら、あなたは「はあ?」と反発するだろう。
一方、北朝鮮の総書記、金正恩があなたに向けて、「ここの花壇を、掘り返して、トマトを栽培するように」と命じたら、あなたはたぶん「はい!」と、その命令を拝領する。
不思議なことを言っているようだが、そうじゃない、ちゃんと想像してみたらわかる/あなたはなぜか、総書記の命令にだけは従うように教育されている、<<マジのマジでそうなっているから甘く見てはいけない>>。
あなたはサヨク教育を受けてきたので、総書記あるいは書記長の命令「だけ」はきくように、知らないところで訓練されているのだ/その他は総理大臣でもダメだし、アメリカ大統領でもダメ、お代官でもダメで幕府将軍でもダメ、なんと天皇陛下の勅命でもダメなのだ、あなたは唯一「総書記あるいは書記長」の命令にだけ従うように、すでに作り込まれている。

どういうことかわかるだろうか、つまりあなたは、<<「自分で考えて行動する能力」を、すでに正式に潰されている>>のだ、総書記の従順なロボットになるよう、すでに作り込まれてしまっている。
「んなアホな」、と言いたくなる気持ちはわかるが、それだと北朝鮮の人民に失礼だ、「んなアホな」と言わずに実験してみたらわかる、「自分で考えて行動する」ということ/やってみたらわかるが、あなたにはとっくにその能力はないし、考えてみれば過去にもその能力はなかったはずだ。
朝起きた瞬間から、あなたは総書記の「命令」だけを待っている、実際「自分で考えて行動する」ということはないはずだ/自分に訓練をほどこした教師たちや両親のことを思い出してみろ、彼らもまた、総書記の命令によってあなたにその訓練をほどこしたにすぎない、彼らもすでに「自分で考えて行動する」という能力はもっていなかった。
あなたの人生の歓喜はというと、おそらく「レーニン書記長に農作を命じられる」ぐらいが最高のよろこびだ/いわゆる「アカ」をナメてはいけない、あなたは「自分で考えて行動する能力を持ちなさい」と言われると「ハイ」と答えるが、ハイと答えて、そのまま書記長の命令を待ち続けている、すでに自分の歓喜はそこにしかないのだから致し方ない。

実際あなたは、なぜか安倍首相より金正恩総書記のほうが「大好き」なはずだ。

安倍総理とトランプ大統領と金正恩総書記を並べたとき、安倍総理とトランプ大統領は「政治家」と見えるのに対し、あなたは金正恩だけ「好き」の目線で見えるはず/それは旧共産主義のシステムと教育があなたにほどこされているからだ、いくらそれが「間違っている」と教えられても、それとは別にあなたは総書記の命令だけに歓喜するように作られている(政治体制が間違っているかどうかなんて「どうでもいい」のだ)。
資本主義は邪悪なものであり、資本主義のすべてはあなたを傷つけてバカにするだけだ、その中で唯一総書記だけが、偽りなくあなたを愛してくださる、と、冗談ではなくそう教えられてあって、冗談ではなくそう感じるように訓練されている/あなたは、微笑んだレーニンやスターリンやポルポトや毛沢東に、トンネルを掘りあげるよう命じられて、「みんな」でつるはしを振るうときだけが、愛のある世界だと感じる、このことを否定する人なんて邪悪な悪魔としか感じられない。

正しく見ないとな | comments(0) |
ブラウスコットンスカートガール
んか突然だけど、明るいのがいいやな。
ずっと昔の話になるけれど、むかし、あいさつ代わりにセックスでも、というようなことが本当にあったな。
何か知らないが、とにかくもうおっかしくてしょうがなくて、何かもうエロいのか何なのか、もう笑って笑ってしょうがないということがあった。
初対面なのにな、腰振りながら「ど、どっからきたの?」みたいな感じで、ひゃっひゃっひゃっひゃで、そのときは明らかに、初対面なのにいきなりこんなに笑えるということのほうがはるかにうれしかったんだ。

何か、あの時代は、まだみんながオタッキーではなかった。
「天然」とか、そういうのもまだなかった、そんなヘンチクリンな性質の奴はいなかったぞ。
何かあのときは、まだ誰も、怒ってなかった、だから誰も、強気なんかじゃなかった/たぶん強気になる必要がなかった。
たぶん、笑うのにアゴが忙しくて、何をしゃべっていたものやら覚えていない、たぶん会話というほどの会話はしてないんだ、そんなこともむかしあったよ。

誰もアニメのキメゼリフなんか言わなかった。

アニメのキメゼリフとかを覚えているのは、むしろオッサンやオバサンが多かったように記憶している、「年寄りってそういう断片的な覚え方するんだなあ」と、当時の僕は不思議がったのを覚えている。
こんなことを今さら話しても意味ないのかもしれないが、まあ僕は記憶が消えないヘンな奴なので……たぶんあのときは、何もエロくなかったよ、セックスはすごくスムーズだったが、あの当時に「エロい」とか言っていたらたぶんビョーキか何かだった、色香はまるで街の一部みたいなものだった。
 
えっちはいいよな | comments(0) |
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