☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「できない」というすばらしいこと
ークショップの途中、「で、できね〜」「コンタクトできね〜」という人がいた/これはとてもすばらしいことだと思う。
なぜなら、率直に言ってアホちんは、そういうときに「むつかしいですね」と言うからだ。
この、「むつかしいですね」は、たいへんに鬼門であって、これが出てくる人は、基本的に万事が何一つ進まない。
この人にとっては、戦闘機の操縦も「むつかしいですね」だし、エベレスト登頂も「むつかしいですね」、トリプルアクセルも「むつかしいですね」、ダークソウルRTAで一時間を切るのも「むつかしいですね」、般若心経も「むつかしいですね」、ムーンウォークも「むつかしいですね」、ハーバードに入るのも「むつかしいですね」、三船十段の空気投げも「むつかしいですね」だからだ、それで本人の実力はというと、初代スーパーマリオもクリアできないのだが、そうしてすべてが「むつかしいですね、うふふっ」で過ぎてしまうのだ。

こういう「無敵マン」の人はけっこうな割合で存在していて、何が無敵かというと、この人はどんなことでも「誰かが教えてくれれば」、すべて超一流で出来るという前提でいるのだ、これは誇張でも何でもなく、いわゆる幼児的万能感というやつだ。
だからこの人は、たとえば目の前に超一流の板前がいて、その彼がとんでもない味覚の繊細さと、人間離れした静寂の包丁さばきを持っていたとしても、「自分も同じだけ習えば同じようになれる」と思って眺めているのだ、だから「すごい!!」と感嘆しない、ただ本人に包丁を握らせると、リンゴの皮むきにさえモタモタするので、「むつかしいですね、うふふっ」という感じになる/そして、誰もわざわざ習うようなことではないはずのリンゴの皮むきでも、「皮むきの仕方を教えてください」と他人任せモードに移項するのだ、そのとき、やはり根底で「ちゃんと教わればわたしはぜったいにできます!」という怒りのような確信がある。
たとえば、車の運転がヘタな人は、もし運転を上手になろうとするならば、何かを根本的に「変える」必要があるはずだが、無敵マンの人は大前提として自分を何か「完璧」と思っているので、自分の何かを「変える」という発想がない、<<ちゃんと教わればできるはずだ>>と思い込んでいるので、自分を変えることはまったくないまま、やり方を教えてくれる人に丸投げする態度になる、それこそが無敵マンの人にとっては「誠実で一所懸命、努力」という感覚なのだ、これはもうマジの話なので責め立てる気にもなれない。
大変まずい話、「むつかしいですね」が口から出てくる人は、「できる」「できない」でいうと、すでに「できる」側の感覚でいるのだ、だからできないことへのアプローチは構造上一切の不可能になる、まあ幼児的万能感の保持のほうが優先なら致し方ないのだが、合理的に考えると「で、できね〜」のほうが利益的だとおすすめしたい。

「で、できね〜」と言っている人のみ、「何が違うのか?」を見つめる眼差しを持っている。

「むつかしいですね、うふふっ」のパターンの人は、あとは努力すればできるので(と本人は思っているので)、「何が違うのか」を見つめて探す眼差しがないのだ、そりゃそんなもの必要ないのだから、そんな眼差しは出てこないに決まっている、だからこのタイプの人の努力は必ず盲目的になる、盲目的になるので、「やっていることが違う」ということに何十年経っても気づかないままなのだ。
たとえば僕の場合、速い球を投げる人や、サッカーボールを蹴って遠くまで飛ばす人が、どうやっているのか「うぬむむぐ、さっぱりわからん!!」のだ、そして自分でやってみると、「んぬくえおおおあ、さっぱりできん!!」のだ、なーにが違うんだろうなと思って、よくyoutubeを見るのだが、どれだけ解説されても、「わからん!」「できん!」のだった、それでいいのだ、「むつかしいですね」とはまったく思わない、自分ができねーのにむつかしいもヘッタクレもないわ。
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手を使うこと、「その手があったか」

そらく、どんなジャンルでもいいから、まっとうなことに、「複雑に手を使う」という作業が、暮らしの中であったほうがいい。
ピアノを弾くことや、タイピングすることでもいい、あるいは編み物であったり、料理や洗い物でもいいかもしれない、「力を使うのではなく、手の複雑な形を使うこと」だ。
どうも、僕の経験上、たとえばバットを振り回したりダンベルを持ち上げたり、腕立て伏せをしたり、重量物を運んだりするだけで、手の複雑作業というと「うーん、スマホのフリック入力ぐらいかなあ」という人は、何かの「相」が悪い気がする、根拠はないので、ただの与太話だが。
僕の経験上、ルール脳の人、あるいは、何かに「触れる」という能力がバカになっている人は、長い間、「手」の複雑な形を使っていない、という印象があるのだ/手先が器用かどうかの問題ではなく、手の「形」が限定されていることに、何か悪い相を感じてならない。

仏像を見ると、その手は投げ出されてはおらず、たいてい何かしらの「印」を結んでいる、その印が何を意味するのかはまったくわからないけれども、とにかく仏像の「手の形」はかなり幽玄に複雑な形をとっているのがわかる。
あくまで仮説というか、与太話だが、どうも僕の直観上、われわれはなるべく単純作業でない複雑な「手作業」「手でものに触れること」で、知らぬまに手がいくつもの「印」を結んでおり、その中で啓かれていく何かがあるんじゃないのかという気がする、もちろんひとつひとつの印なんてわれわれにはわかりっこないので、「たくさん複雑に動かしている奴のほうが格段に有利」というだけでしかないけれども。
僕はいつも、古くから使われている言葉、漢字、熟語などを学門の手かがりとして重要視するが、それこそ「手がかり」というのも手という字を使うし、「手段」「一手」「手ほどき」「手抜き」「手こずる」「打つ手がない」「その手があったか」等、「手」に関わる熟語や慣用句は極端に多いのだ、どうもこのあたり、以前から、「何か、『手』というのは、思っているよりもヤバい器官なのか?」という気がしてならない。
僕には、人の手相を見るというような趣味はないが、手のひらのシワがどうこうというより、「手」そのものの印象として、手が「見えない」とか「くぐもっている」とか「固まっている」「こわばっている」「手そのものがない」とかの印象を受けることはよくある、そして「手」がトラブって見える人はたいてい、ロクな状態にないものだ、たぶん暮らしの中で、フリック入力しか手作業はしませんというのは見えざるレベルで「ヤバい」のだと思う。

あなたの「手」がこれまでに付き合ってきたものを思い出してみよう。

誰だって生活上、小銭に触れながら生きているはずだが、それは手品師がコインに「触れてきた」ということとは、内実が違うだろう、その意味ではあなたの手は何に触れてきたか/逆に考えれば、あなたの手垢が最もついているものは何だ。
僕はこれまでに、千匹以上の犬に触れてきただろうし、トカゲやらカエルやら、もちろん女性にも、そして十代のころは手品師だったし、ずっとゲームコントローラーを握っていたし、指揮棒に触れていた時期もあったし、手巻きタバコを15秒で巻くし、今も僕のデスクのシートは手を乗せる部分で剥げ、チェアの肘当ては両側とも穴が空き、キーボードの刻印は指で擦られて消えかかっているのだが、もし「手」そのものに学習と「印」を結ぶ能力があるのだとしたら、これまで「手」が触れてきた対象と経験の量は膨大な差を生み出すはずだ/ひょっとすると単純に、「手を使い込んできた奴には勝てっこない」という現象があるのかもしれない、だとしたら暮らしの中に手の作業がないのは損だ。

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ルール脳と学門脳3

「人間の身体は、力を入れると"止まり"、力が抜けると"動く"ものだ、だから力で動いちゃダメ、『抜けて動く』の」と説明する。
すると、どうしても、「えーっと、抜けて動くんですよね」と確認される、僕は「そうだね」と答えるしかない。
僕は学門の話をしているのだが、どうしてもルール脳の人は、「抜けて動く」というのが「ルール」だと思うのだ、そしてそのルールを守れば何か正しい動き方ができるという発想になってしまう。
もちろん、そんなルールがもしあれば、守ればいいのかもしれないが、別にそんなルールは「ない」ので、ありもしないルールを守ったところで何にもならない、そして困ったことに、そのありもしないルールを守っているつもりの当人は、誰より自分が「がんばっている」つもりになるので、誰よりも興奮するのだ、それで手が付けられなくなってしまう。

テーブルの下に、手のひらを上にして、前腕を入れてみる、そしてテーブルを持ち上げてみる、そして次に、今度は手の甲を上にして、前腕を入れてみる、そしてテーブルを持ち上げてみると、なぜか手の甲を上にしたほうがラクに持ち上がるということがわかる。
このとき、学門脳の人は、実際にやってみて、「えっ!? ホントだ!」ということで驚く、びっくりして「すごい」「なにこれ」という反応をする、これは学門脳特有の「発見」がはたらいているからだ、これまでの思い込みがはがれて新しい発見を得ることによろこびを覚えている。
物を持ち上げるとき、手のひらを上にするほうが、「力が入りやすい」というだけで、強い力が出ているわけではないのだ、腕に力が入ると、「力感」は強く得られるが、それは強い力が出ているということではない、まったく意外な感触だが、手の甲の側へ持ち上げる力のほうが実力としては強いのだ。
このとき、ルール脳の人は、「えっ!? ホントだ!」という驚きがなく、「これって、手の甲の側のほうが強いんですよね」というルールに加工して、そのルールを持ち帰ろうとするのだ、この人は「膝を抜いて動く」というのもルールだと思っているし、全身を「伸ばせばつながる」というのもルールだと思っている、これでは「えっ!? ホントだ!」という驚きの瞬間はいつまでたってもやってこない。

だから、いくら覚えても、自分で説明(説き明かすこと)ができない。

ルール脳の人は、自分がルール脳であるため、他人に対しても「ルールを押しつける」ということしかできない、そしてルール脳は学門脳より格上であるため、どうしても居丈高に、上から目線でモノを言うことになる/「ここに郵便番号を書くの」「二酸化マンガンが触媒なの」「手の甲側のほうが強いの」「とにかく抜けて動くの」「伸ばせばつながるの」というふうに、とにかく押しつけて言うことしかできない。
これはまったく「説き明かす」ということになっていないため、自分自身にも、説き明かしがまったく得られていない状態になる、「とにかくこういうふうにするのが正しいらしい」というルールを自分にもゴリ押しするのだ、それで何かになるのならまだマシなのだが、それは本当に何にもならないので、キツイのだった/この問題は、ルール脳者が「ルールに呪縛されている」ということに気づくことでしか解決しない。

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ルール脳と学門脳2

ール脳の人は、「殺人をしたら警察が捕まえにくる」と確信している。
そして、それが「法律だ」と確信している。
しかし正確には、殺人は立件されると「事件」になり、「事件」は「解決」しようと国家(司法)の統治権力がはたらき、その結果警察と検察の捜査権が発動され、逮捕されると刑事裁判になり、判決が下ると「事件解決」になる、というのが法律だが、こう言われるとルール脳の人は「確信」がなくなってしまう。
法律は、学門上、「社会契約をしたとみなされる市民が合意の上で認めたとされる統治制度の権力が法文のとおりに執行・実力行使されること」と捉えてよいと思うが、このことがルール脳の人にとっては「???」なのだ、法律ってそういうものだよという「確信」がまったく得られてこない。

多くの人は、「殺人をしたら警察が捕まえにくる」「刑務所に入れて罪を償わせるために」と思っているが、これは言ってみれば、自分が勝手に自作した「ルール」でしかなく、法律でも何でもない。
実際、刑法に定義されているのは基本的に懲役刑・禁固刑・罰金刑・死刑といった「刑罰」であって、賠償は民法の定義だから、刑務所と「償い」は関係がない。
これは、学門脳の人にとっては脳みそレベルの快感がある話なのだが、ルール脳の人にとっては、逆に脳みそレベルの不快感がある話なのだ、法律という学門が自分のルール脳に反するということが、実はかなり強烈な不快感をもたらす/制度に囚われている人は、制度の背景には遡れないので、制度の背景に学門があるということには強烈な不快感と不可視(見えない)感を覚える。
ルール脳の人は、いわば脳の接続範囲が「制度以上」に限定されているので、「制度」より背後に遡ろうとすると、「キーッ!」という不快感をもよおすのだ、この不快感は脳レベルのものなので非常に耐えがたいものになる/だからルール脳の人は、「なぜ過酸化水素水に二酸化マンガンを加えると酸素が発生しますか」と問われると、ついに「学校でそう習ったから!」と答え、その解答に快感を覚える。

ルール脳は、学門脳より「格上」だ。

ルール脳は、制度「以上」に限定されてはたらくのに対し、学門脳は、制度「以下」にもはたらくので、学門脳のほうに格はなく、ルール脳のほうには格があるということになる、なぜというものではなく、それが「格」というものだ、「格」とは規格や格納といった熟語に表されるように、「その線引きから出ないように区切る」という意味だ。
「殺人をしたら警察が捕まえにくる」という思い込みに対し、「それが法律だ」という人のほうが格が高く、「そういう制度ですな」という人のほうが格がない/単純に考えて、たとえばあなたの母親と僕が対面することを考えたら、そのときはあなたの母親のほうが僕より「格上」の関係になるはずだ、僕のようなルール失格者が誰かの格上になることはまずない、そして脳みそが「キーッ」となる不快感はすべて、格上が格下に理を言われるから「キーッ」となる。

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ルール脳と学門脳

便物を送るときには、郵便番号を書き、住所と宛名を書いてポストに入れる。
そのことについては、あなたは「確信」があると思う。
一方で、「過酸化水素水に二酸化マンガンを入れると酸素が発生する」ということについては、「たしかそうだったはず」とは記憶しているが、「確信」はないのじゃないか。
郵便物に郵便番号を書くのは「ルール」で、過酸化水素水に二酸化マンガンを入れたら酸素が出るというのは、「ルール」じゃなくて学門だ/ルール脳で生きている人は、どれだけ学門に触れても、その学門が確信を与えてくれないという状態にある、これは脳の性質を切り替える必要がある。

人の脳は、ルールにだまされるのだ。
「ルール」が、「存在」するものだと思い込まされて、脳みそがルール脳になってしまう。
「過酸化水素水に二酸化マンガンを入れると酸素が発生する」と、記憶はしているのに、なぜか「確信」が持てないのは、「そう解答したら○がついて点数をもらえた」という、学校ルールの記憶が刻まれているからだ。
あなたは、穴埋めの問題として、「過酸化水素水に二酸化マンガンを入れると(  )が発生する」という設問があったとき、そこに「酸素!」と答えることには確信がある、しかし、過酸化水素水から酸素が出るという実際のことについては確信がない/テストで点数がもらえる確信[ルール]はあるのだが、過酸化水素水から酸素がもらえる確信[学門]はないのだ、これは典型的なルール脳の症状で、このままでは学門を身につけることができない。

郵便物に郵便番号を書く確信は、制度であって学門じゃない。

ルール脳の人は、自分が制度に縛られているのに、「制度」のことをよく知らないから、自分が縛られているのがわからないのだ、そして「ルール」がこの世界だと思っているので、過酸化水素水に二酸化マンガンを入れると酸素が出るのも、どこかそういう「ルール」だと思っているのだ、ルールとは関係なくこの世界が存在しているということが根っこのところでわかっていない。
たとえば僕が、「別に二酸化マンガンでなくても、そのへんの砂をブッ込んでも、酸素は出るんじゃない? 過酸化水素水なんだから」と言うと、ルール脳の人にとっては「???」となる、これまでに与えられてきたルールとして、「そのへんの砂をブッ込む」というルールは習ってきていないからだ/しかし当然ながら、本来の学門というのは、「過酸化水素水にそのへんの砂をブッ込んだらどうなるか」ということが理知で推測できるから学門なのだ、それはルールではなく理の知識だ。

できるオンナだね | comments(0) |
池上彰についていけば間違いない

金の余裕がプールされていて、その使い道が特にないなら、池上彰の著作を全部買ってしまえばいい。
今、池上彰氏の知識とその教授が、わかりやすく、正確で、核心を突いており、スリルに満ちている。
なぜ「スリル」に満ちているかは、正しい知識が獲得されていくとわかる、池上氏がどういう境界線でギリギリの中立を保ち、しかし本当には何を企んでいる男なのか、それが見えてくると、本当に見ていてほれぼれする。
池上氏は、本当に頭が良く、賢明で、ウイットに富み、タフで、すさまじい精神力を持ち、かつ熱い男だ、彼は単にわれわれに知識を与えようとしてくれているのではなくて、彼は知性の工作を仕掛けてきている、いわば知性のテロリストというような男だ、このタフガイについていけば基本的に間違いない、あなたは決してバカにはならない。

旧約聖書は、ざっくり言えばモーセが書いたものであり、新約聖書は、キリスト以降の弟子たちが書いたものだ、それぞれ書かれた時期は一五〇〇年以上離れている。
そして、ムハンマドがコーランを預かったことについてもそうだが、中東方面を発端とする宗教は、「奇蹟というものがマジである」ということから始まっている、なんとなく山ごもりしていたムハンマドは、ある日突然、長大な詩文であるコーランを暗唱して帰ってきたのだ、しかしムハンマドは文盲であり、字が読めない男だった、人々は「んなアホな」とびっくりしたことだろう。
人智を超えた事象がマジで目の前に示されるので、「これをどうしよう」「こりゃマジでカミサマがいてはるわ」というところから宗教が始まっている、決して道徳や世間知の集積から宗教が形成されたのではなく、人間のものではないカミサマの言葉を預かってしまう、「なんだこりゃ」に直面して宗教が興っているのだ/そして、こうして興った宗教から、社会が形成されていったのであり、その逆ではないのだ、社会が宗教を生み出したのではない、そして宗教側の本質に触れている立場の人は、人々がこの点を誤解していることについて、「知ったことか、ほっとけ」という考え方なのだ、つまりあなたは誤解したまま放っておかれている。
そしてここにきて、最先端の物理学が、宇宙の成り立ちを解明していくと、どうも物理学の結論が、それぞれの宗教が語っている宇宙の成り立ちと、符合してくるようなのだ、それも含めて「どうやら奇蹟とかカミサマとかいうのは、信仰のモンではなく、マジのモンらしい」と思い知らされる、そういう局面に、今人類のストーリィは来ている、あなたは放っておかれているが/そうした奇蹟と宗教と社会と学門が本質的に「何だったのか」を、総合的に、池上彰はあなたにブチ込もうとしている、しれっと「ジャーナリストです」という顔をしているが、なんとまあ熱い男だと、見ていてほれぼれする。

池上彰があなたの父親でいい。

現在の父親には、ちょっと席を移動していただいてだ、池上彰を私淑し、師父に仰ぐというのは、今もっとも有益でスリリングでバランスがよいと思う、池上彰を指して「この人がわたしの父ですから」というのは、機知に富んで、何もアタマのおかしい話ではない。
池上氏は、本当にスリリングな叡智の活動を、ギリギリのバランスで展開しており、場合によっては本当に暗殺されてもおかしくないような方だ、きっとあの方は、われわれの知らないことを知っている(知ってしまっている)/あなたも人生に一度くらい、「この人の新刊を楽しみにする」という経験を持ったらいい、それはあなたの生きたひとつの時代になるだろう。

できるオンナだね | comments(0) |
WS報告003(3)

ゃんとレポートしないとな……
二日間で計36時間のワークショップを終え(えぇ……)、その後眠って起きると、身体が新しく確実な感覚を得ているのがわかる、まるで「身長が伸びたのか?」というような感覚だ/感覚が増えるということは身体のパーツが増えるということでもあるので、古い2DKの全身から新築の6LDKの全身に引っ越ししてきた、というような感覚が得られる、全身の充実感と確かさがまるで違うのだ。
身体を使い込むことで、身体はヘトヘト……にはまったくならず、むしろ細かいガタつきがなくなり、ワークショップ前よりも格段に軽く穏やかに、かつ静かになっている、そうして「使い込むことでラクになる」というのが、正しく使い込めている証拠だと僕は考えている。
僕はしんどい方向には決して進まない、極限にラクになる方向にしか進まない、何しろ「何もしない」ということに特化したワークで、「何もしないことによって最速で動く」ということなのだから、身体は極限のラクさに向かうのが当たり前だ、負荷をかけた運動で課される筋肉や関節の灼熱感というようなたぐいはまったくない、むしろそれらの炎症を徹底的にゼロにして最速を得るのが僕のワークの基本方針だ。

まあ、二日間で36時間も、全身の連結と切り外しを正式に行っていたら、当然そうなる。
僕は当然そうなるが、参加者の全員がそうなるわけではもちろんない、いきなりそうなれるなら何も人に教わる必要はないし、何より僕だって毎回驚いているのだ、「逆にこんなにラクになるのか、へえええ」と。
とりあえず、「身」を使い込まないことには、何も始まらない、だから基本として、まず自分の身が集中できることを探す/あまりにも「さっぱりわからん」ことには集中できないし、また何か感情的になったり心理的になったとしても、けっきょく「身」は何もしていないことが多いので、とにかく自分の「身」で集中できることを土台にする、具体的にはそういうふうに積み重ね始めるしかないのだ。
「ものっすごい集中して、ものっすごい丁寧にしたら、ちょっと出来る」ということを見つけて、そこに集中力と錬磨を注ぎ込むのだ、その蓄積の果てに毎日身体が変わっていく、昨日の身体と今日の身体がもう違うというのが「当たり前」という日々にしていくしかない、僕みたいな奴でも割とそこはありふれてマジメに考えるのだった。

昨日の僕より今日の僕のほうが、強くて速くて精密でラクだ、それが「当たり前」でなくてはいけない。

一方、スポーツや筋トレといったたぐいは、ピークを保っていないと、すぐスコアが落ちるじゃないか、僕のやっていることはそういうことではない、ピークを強化しているのではなく呪縛を取り去っていっているのだから、何かをキープするという必要はない/僕はステータスを強化しているのではなく、イグジスタンス(存在)を変化させているのだ、「永久脱毛すればその後がラク」というのと同じように、永久解呪したらその後がラクというだけで、こんなことはけっきょく、「思い切ってやっちゃおう」以外の何物でもない。
だからこれは、やはりフィジカルのワークではないのだ、右脳とか左脳とかいう捉え方は古いらしいが、仮にその右脳と左脳の回転と使い分けがおっそろしく速い人がありうるとしたら、それと同じように、魂魄(霊魂と気魄)の回転と使い分けがおっそろしく速い人になるまで根こそぎ鍛錬してやろうというだけだ、ただしそういったことは思念ではできないので(思念では霊魂も気魄も凝固していくだけだ)、具体的に身をもってやっていくしかない/シロウトがたこ焼きをひっくり返そうとすると、タコも小麦粉もグズグズになるが、名人がやるとパッと一瞬でひっくり返っていく、それと同じ速さの差が人間の全身と魂魄に起こるというだけだ。

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WS報告003(2)

、ワザ的なものに興味はないのだ、ワザ的に捉えると、「出来ているか・出来ていないか」の判別がしやすく、またその修練で己の身が「練られる」のでグッドというだけで、ワザそのものに重きはない、ワザは単なる方便だ(競技者や職業人は除く)。
で、何から話したらいいものやら、けっきょく「言葉」というのは人に向けてよいものではないのだ、言葉は「世界」に向けるものだ、僕がこうして人に届けているのも、実体は言葉でなく世界だということになる。
まあもともと「言葉」イコール「世界」だと唱えているのだから、今さら同意義の循環ではあるが、今回はいよいよそのことが明確に発見されて、こうして書き話すことと、音声で話すことの、統合が得られるということが起こった、僕は「世界」を提供しているということなのだ/実際、僕がえんえん何かを話しているのだが、僕に何かを「言われた」という人はほとんどないはずだ、僕はずーっと「話している」のに、「人には何も言っていない」となる、それはひたすら「世界」を届けているからであって、言語の使い道がまったく違うということになる。
今、多くの人が、なぜか僕に向けて「食事代ぐらい出させてください!!」となっているのだが、これは何が起こっているのかというと、別に僕がエライわけではなく、これは「祝祭」の手続きなのだ、「呪い」の反対に「祝祭」があって、何か直観的にその祝祭の方向へ「参加させてくれ!!」ということが起こっているということ、ただそれだけにすぎない。

今回起こったのは、「呪い」の手続きを見ることで、逆に「祝祭」の手続きが見えてきたということだ、といってもそんなワークをしているわけではない、ワークをしているうちに背後の原理が見えてきたということ(ワークそのものは泣きたいぐらい具体的です)。
人のタマシイには魂魄(こんぱく)という二種類があり、魂はフィクション担当で魄はノンフィクション担当なのだが、この魂魄に関わる営為を「合っている」方向でやるとそれは祝祭になり、「反対でっせ」の方向でやるとそれは呪いになる。
簡単に言うと、「血」を神殿に捧げ、「詞」を人に向けると、それは呪いになるのだ、そりゃそんなことしたら呪いになるだろうよ/本来の正方向は、「神殿に祝詞が捧げられ、人に御神酒が下される」のだが、その逆方向が呪いになる、だから「血筋をあがめて人に詞をぶつけまくる」とかをやれば、呪いはガンガン掛かることになる、そして呪いはその性質上、祝祭と同じだけの力を持っている、祝祭の解放力と呪いの呪縛力は強度において同等だ。
「言葉」をどうすればよいか? たとえばオゾン(O3)は、天空で層をなすことで、われわれを守ってくれているのだが、このオゾンが直接体内に入ると、オゾンは人体にとっては猛毒なのだ、それと同じで、言葉は天に向けられるとき正方向で祝祭となるが、言葉は体内に入り込むと猛毒になる、そのことをわれわれは「呪い」と呼んでいる/一方、血は体内にあると生命だが、血を「世界」に流出させると、やはり「呪い」になる、正しい方向は逆だ、「血肉を為す気魄を人に向け」「言葉を世界に捧げる」が正方向だ、これを逆転して「詞を人に向け」「血肉を世界に捧げる」とするとゴリゴリに呪い方向へ進んでいってしまう。

[祝祭:世界に言葉が流れており、人々が血肉を為し合う]/[呪い:世界に血が流れており、人々が詞を為し合う]

これが祝祭と呪いのメカニズムだ、だから、人々が血肉を為し合えば、世界に言葉が流れ始めるし、人々が詞を為し合えば、世界に血が流れ始める/「食事代ぐらい出させてください!!」ということが起こっているのは、そうして「血肉を為し合う」ことに参加することで、祝祭に参加することになり、言葉が流れ始めた世界に参加できるからだ、その逆方向は、やれ陽キャだのセクハラだの「詞を為し合う」ことに、「おれにも言わせろ」と参加すると、呪いに参加することになり、血が流れ始めた世界に参加することになる。
魂魄を入れ違えに営為させると呪いになり、正方向(というか順方向)に営為させると祝祭になるわけだ/「飲めや歌え」という言い方があるが、これは「気魄が酒を飲み、霊魂が歌い出す」のが祝祭だということであって、逆方向に、「気魄が演説しだし、霊魂が酒を飲み始める」と、これは呪いの宴になってしまう(うーんこれってワークショップの報告になってねえな)。

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WS報告003(1)

ークショップで得られる知見のことを、書き出すと膨大になりすぎる。
そもそも、ワークショップ関連ネタは、読み手にウケているのだろうか、ウケていないのだろうか……もしワークショップ関連のネタがもっと聞きたいよ〜という人がいたら、その人は横カラムの拍手ボタンから「WS関連ネタ希望!」とでも送っておいてくれ。
「伸ばすとつながる」「金魚法」「余韻法」「命令法」というように、シンプルで質のいいワークが形になってきた、命令法というのは本質的に「関係法」でもあるが、このことはまた説明しないとな。
「余韻法」は、やはり大いにウケたな、フィクションに入る方法として、マジに「具体的」なやつだ、ただ方法が超シンプルだとして、シンプルがイコール簡単というわけではない、まあそこはみんな全力で苦しみましょー。

追究していくと、すべては「アクション」と「余韻」のどちらかに分かれる。
そして、われわれの魂魄[こんぱく]のうち、(気)魄はアクション、(霊)魂は余韻に属する、というだけだ。
そこから、われわれが高性能かつまともになろうとするとき、つまり気魄は「触れるだけ」「他者に何もしない」を徹底すればよく、そのぶん霊魂は「やりたい放題」「自分も他者も一緒くたに連れていく」に到達すればよい。
手のひらを打ち鳴らすのが「アクション」で、パーンと打ち鳴らされた直後から生じているのが「余韻」だ、自分の全身がアクション側から余韻側へスルッと脱け出るかどうかの問題で、スルッと脱け出たとき、その人はキャラから脱け出しており、そのときその人の魂が見える。

気で留めて、霊でブッコ抜く。

これがバッッッチリ決まると、たとえば手首をひょいと捻られただけでも、人がスッテーンとひっくり返ることが実際にある、人はいつも自動的に、スッテーンと転ばないように「気をつける」という状態でいるのだが、このワザに掛かったときは、何しろ気のほうは「留まっている」ままなので、気をつけるといっても気をつけようがないのだ、気のほうは「大丈夫」という気がしたままスッテーンとひっくり返ってしまう、「大丈夫」のまま肉の座標だけが変わってしまうため、もうそのときには今さら「気をつけて」もすでに手遅れになる。
ということを、どうも僕は出来ているくさいが、他の誰かが出来ているわけではない、そりゃこんなヘンタイワザがそうそう余人に出来てたまるかよ、ただわれわれは何にガンバればいいのか、われわれが追究すべきは何なのか、その糸口を垂らしているだけだ、それをどれだけ上れるかなんて人と比べっこしなくていい(ただ糸口がないとか糸口が間違っているというのは単純に損だと思う)。

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「不思議」ということ
リズムで太陽光を分けると、いわゆる七色に分光される、この分光を見たら「ほえ〜〜〜」と感嘆してよろしい/だって不思議じゃん。
「フシギね、うふふっ」となる奴がいたら、こいつはおでこに死と刻印していい、「うふふっ」はいらないのだ、どうして太陽光を分光してテメーが「うふふっ」なのだ? 二度と光の差さない世界へブッ込まれるぞ。
「不思議」というのは、テメーの「うふふっ、フシギね」感ではないのだ、「不思議」は「not 思議」ということであって、そりゃ太陽光がそれぞれの屈折率で分光されて七色になるのは、「思議とはカンケーねえ話だな」ってことだよ、それをテメーの思議でうふふっとしたら死だ。
「不思議」は「マジカル」じゃねえぞ、「不思議」は「not 思議」だから、「unthinkable」だぞ、その「not 思議」あるいは「out of 思議」が、事象として実在してしまう、これをどうしようということだ、どうするといって、どうしても「不思議」には変わりないのだけれども、not 思議のままそれを取り扱う、これを学門という。

胴体を向ける、気を向ける、人に向ける、コイツに向ける、そして「向ける」というのは「結合」に至らねばならず、結合に至れば「一緒くた」だ、それを実演すると「おお」「あ、なんかわかりますわ」「ここにいるとすっげえわかりますわ」となるのだが、僕は「な、ホンマやろ?」と言いながら、なぜそうなるのかは「不思議だなあ」なのだ、僕はなぜそんな事象が存在するのかは知らんのだが、その事象を起こすことだけはできるようになっている、それが「わかった」という日は永遠にこない。
僕のやっていることのすべては、そのように、「なんや知らんけど"こう"や」ばかりだ、ここでレベルがあがるといのうは、"こう"という感覚が精密化していくということであって、「わかった」が深まるということではない、何かが「わかった」ことはこれまで一度もない。
誰だってグーチョキパーでジャンケンをすると思うし、利き手の指で箸を使っていると思うが、それに先立って「手指の骨格および筋肉構造概論」みたいなものを勉強して、「わかった」の末にジャンケンしているだろうか? 「ジャンケン、ポン」というとき、その手は「ポン!」と出しているじゃないか、じゃあ何が「ポン」なのか、「ポン概論」を大学で履修した覚えはあるか、そんなはずはないだろう、なんや知らんけど「ポン!」であって、何も思議することなくその事象を我が身で実現しているじゃないか。
ジャンケンを「ポン!」と出すとき、人に向けて出しているはずだ、それのもっと高度なやつを、人に向けて「おりゃ」「おいっ」「ほうっ」「こうだ」「よっ」「ふんぬぬぬ」「びたーっ」と出すだけだ、そんなものに「わかった」も「わかりました」もない、なんでや知らんが「こう」であり「ここ」なのだ、不思議というのはそういうnot 思議の事実・事象のことであって、マジカル気分にうふふっの沙汰ではない。

どうやって二本足で直立歩行しているのか、わざわざ「わかっている」のか。

そんなわけはない、朝起きたら顔を洗いに行くとき、「よーし二足歩行だ」なんてスイッチを入れているアホはいない、二足歩行を思議している奴は二足歩行ができていないのだ、そして「二足歩行、フシギね、うふふっ」という奴も頭がオカシイ、人とつながるというのも、「よーし人とつながるぞ」というのは土台がおかしい、靴を履くときに「よーし靴を履くぞ」と思議する人は生活水準がおかしい。
「不思議だなあ」「不思議ですねー」というのはイイのだ、これはイイ反応だ、ただその不思議を思議で分解しないことだ、それを分解したところで「そうか、人は裸足で外を歩きたくないから、靴を履くんですね、足の裏が痛いし汚れますもんね!!!」というような、爆裂につまんねー意識化にしかつながらない/「不思議」のままでいいのだ、not思議、「靴を履いて外に出る」というのと、「人とつながって生活する」というのは同列のout of 思議でないとしんどい。
正しく見ないとな | comments(0) |
「わかった」は学門の死
「わかった」「わかります」は、クイズに対する解決でしかない。
学門の生命は「なんでやろな」にある、「なんでやろな」は解決されるのだが、その解決は「ほえ〜〜〜なるほど〜〜〜」と与えられ、これが与えられると同時に、次の「ということは、じゃあ、○○はなんでやろな」という学門が与えられている。
それは学門が「進んでいる」ということだ、一方で「わかった」「わかります」というのは学門の死を意味している。
「余韻法」で、パンとやって、余韻の中で「ほらフィクションと世界」「魂魄が二重に存在しとるわな」とやると、「なるほど、たしかに!!」としか見えないのだが、でもなぜそうなるのかは「なんでやろな」のままだ、「呪縛」から解き放たれて「余韻」の側に入るとそうなるのだが、なぜそうなるのかについては「なんでやろな」が続いている、「なるほど」が進むと同時に「なんでやろな」も進み、学門というのは永遠に続いていく。

学門に対する食いつきがよくないといけない。
学門は、単なる知識ではなく、「ほえ〜〜〜」だ、たとえば食塩が水に溶けるのは、水が電気的に偏った液体で、その偏りがNaClのイオン結合をバラしてしまうからだが、水の構造式から見て「なるほど、ほえ〜〜〜」となるのが学門であって、「わかりました」と言い出すのは死である、おでこに「死」とでっかく書いておけ。
水がイオン結合をバラすのは、まだ「わかった」と言いたくなるかもしれないが、そこで「ん? じゃあ、飽和ってどういう現象なんだろう」と言い出すと、ただちに「なんでやろな」が再開されるので、「わかった」なんて意味がないのだ、「なんでやろな」の永遠連鎖が学門の生命だ。
帰り道、歩きながら、「くおりさんってこういうときどう歩いているんですか」と訊かれたので、「おれはそもそも歩いていないよ」と答えた、そして実演してみると「ほんまや、歩いてない」「ほんまに"何もしてない"」ということが確認された、それは僕が何か「わかっている」からではなく、唯々「なんでやろな」を続けているだけだ、僕が「何もしない」のは僕にとって「なんでやろな」だし、他の人が「何かしてしまう」のも僕にとって「なんでやろな」だ、これが「わかった」になる日は最低十億年はこない。

砂糖を舐めるとなぜ「甘い」のか、その「なんでやろな」さえ「わかった」には到達しない。

こんなものクオリア問題だから、「わかった」にはならないのだ、なぜ砂糖は甘いのに、石油を舐めても甘くないのだろう、それを「わかった」と解明できる人はいない、だが学門は進み、構造式と官能器の関係は解明されていく、解明されるごとに「なんでやろな」のレベルがあがっていくのであり、「なんでやろな」が消え去ることはない。
僕が説明したことを、「わかりました」といって練習しているうち、それが出来るようには決してならない、僕が説明しているのは「事象」であって、その事象は永遠に「なんでやろな」を含んでいる、だから「なんでやろな」のまま取り組んで、出来るようになっても「なんでやろな」のままだ、ただ「ここ」「ここでこう」「こうする」というのが掴めるだけだ、掴んだ上で「なんでやろな」は一向に変わっていない、ただそのレベルだけが進んでいく、この場合はおでこに生と書いてよろしい。
正しく見ないとな | comments(0) |
今日は「余韻法」をやりま〜す
、今日は東京、19時から雨が降るのか止むのか、本当にビミョーだな。
ううむ、前線は北へ逸れると信じて、とりあえず強行だ、世田谷公園にいこう、どうせ今からでは19時代のスタジオは取れないし、そんなに本格的にやるのも面倒くさい、公園でやりましょ。
小雨なりでも降るかもだから、今回は金魚法だけではなく、余韻法も用意していこう、余韻法は新しいワークだ、まあこれは例によって「で、できね〜」というワークになるが、そうして「できねー」やつほど、実現すべき本質に近くにある(当たり前)。
たとえば手のひらをパンと打ち鳴らすだけでも、フィクションとノンフィクションの分岐点が生まれるのだが、この分岐点で、自分も分離されて並行に機能を続けねばならないのだ、前に言った「魂魄分離論」というやつ、ここが分離並行で機能しないと、一方は「現実〜」に偏り、一方は「空想……」に偏ることになる、この差異は目の前で実演されたら一発でわかる。

思えば、今やっているワーク群は、すべて「分かれ目」にばかり注目していることになる、その分かれ目を「実際に自分でやってみよう!」というやつだ、われながらシンプルでよろしい。
そして、ある意味予想通りのことではあるが、この「分かれ目」を実際にやってみると、多くの人はけっきょく、その分かれ目が「きらい」なのだ、むしろアンチとなって、その「分かれ目」なるものを壊しにかかりたくなるという現象が発生する/この現象については僕は口出ししない、それはワークの問題ではなく人それぞれの選択の問題だからだ。
なぜ「分かれ目」に対するアンチが発生するかというと、いわゆる自己愛があるからだ、人は自分の囚われる「現実」と長年付き合っており、その執着を「わたし」にしている、そして一方で、現実を紛らわす「空想」にも、長年の思い入れを持っている、「分かれ目」の方法はこの両方を同時に消失させてしまうから、いくら正しいにせよ、人々は否定と攻撃に傾くのだ/他人がやっていることについては、その「分かれ目」が正しいと見えるのだが、自分がやるとなると、その「分かれ目」はとってもイヤなのだ、これはむしろワークに取り組む上での大前提といえる。
手のひらをパンと打ち鳴らした直後、ノンフィクション側では「時間が流れ」、フィクション側では「余韻が残る」ことになる、こりゃどちらとも「当たり前」なのだが、この両方に同時につながっていくとき、まったく別のことが起こる/まったく別なことが起こるぶん、これまでにあったいつものこと、つまり「わたし」という吾我が消えてしまう、このことが許しがたいので、多くの人は否定に転じるのだ、それは別に悪い選択ではない(が、僕の指示するワークではない)。

誰でもできるが、「わたし」にはできない。

これは「誰でもできる」ものなので、逆にいうと、あなたがその「誰でもできる」を身につけないといけない、ということになる/「わたし」のやつをやりたい人は、それは「わたし」にしかできないやつなので、「誰にでもできる」のやつではないはずだ、ここを取り違えていると永遠に時間の無駄になってしまう。
これは「誰でもできる」のやつなので、言ってみれば、「みんなのやつ」なのだ、「わたしのやつ」ではなくてね、そして「みんなのやつ」より「わたしのやつ」が好きというか、そちらばかり大事な人は、ワークうんぬんに用事はない/手のひらをパンと鳴らしたとき、「時間が流れる」はみんなのやつだし、「余韻が残る」のもみんなのやつだろう、そこに「どう思うか」「どうイメージするか」などは、「あなたのやつ」だ、この「あなたのやつ」に注目するかぎり僕の話していることは何一つ伝わらないし、また本質的に伝わる必要もない。
できるオンナだね | comments(0) |
僕が自分をクソ呼ばわりする理由

オウム真理教の、事件の首魁ら七名について本日、死刑が執行されたらしい、もう何年前になるのだろうか、「地下鉄サリン事件」があったのは1995年だ、当時まだ僕は高校生だった。
死刑囚に、死刑が執行されるのは当たり前だし、僕は死刑廃止論者ではないが、「先ほど命を取りました」と言われると、なんというか、恐れ多い気持ちになる/少なくとも、「死刑になるだけのことをしたのだから当然でしょ」と、傲然と言い張ることは僕にはできない、血で血を贖うリアリズムの近傍で、さすがに悠々と深呼吸できるほど僕は頑丈な人間ではない。
今になって、いくつかの元オウム真理教の映像を見ると、「麻原彰晃」と呼ばれていた首魁は、ヨーガ的に無能では(まったく)なかったことがわかる、単なる芝居ではああいう目つきや手つきにはなれないからだ/元オウム真理教はヨーガ集団として無能ではなかったのだ、むしろあそこまで徹底的にそれをやってみようとした集団は他になかったという見方もありうる(むろん、それが何の免罪になるわけでもない)。
僕も経験上思うが、つまりヨーガなんて、健康法としてなら健全であっても、それ以上のことに深入りすべきではないのだ、ヨーガというのは本当に「効果がある」のだ、それも思われているよりも「あっさり」と、これがまずい/これまで視えていなかったものが視えてきたり、本当にしてしまう、それは厳密に正しい道筋につながっていないと、人をとんでもない行方不明の森へ連れて行くだけになるのだが、それを「厳密に正しい道筋」につなぐということが、そもそもすでに非現実的なのだった。

オウム真理教の事件以来、人々は健全に、そういう「ヤバい」「電波」なものには決して踏み入らないよう、決定的な定義を獲得したと思える/つまり「オウムっぽいw」といえば、人々はいつでも冷静になり、健全なほうへ帰ってこられるということだ、これは事件以降われわれに残された財産のひとつだと思う。
それにより、人々は、極端な国粋主義にも入り込まなくなったし、極左に流れる人もほとんどいなくなった、それはとても健全なことだと思うが、その代償として、「クリスマスの不思議な空気」「正月の不思議な気配」「神社の不思議な風」「寺院の不思議な匂い」というような、「非日常」のすべてからも切り離されてしまったと思える/だから今は、恋愛にしても仕事にしても、セックスにしても芸術にしても、歌にしても踊りにしても、人の声や言葉にしても、何の「不思議」もない、ひたすら「日常」に括り付けられたものとして人々に課されている、与えられているというよりは課されているのだ、われわれは生きているあいだに一度も「不思議な次元」に到達することがない。
この、「不思議な次元に到達することは一度もない」と固定された生が、どうやら思ったより苦しいらしく、人々はその苦しさと絶望感からの逃避として、神秘主義へ傾倒することや、自分の願望を妄想にまで上昇させることを、やめられなくなっている/僕の言い方でいうと、オウム以降、人々はフィクション世界との接続が断たれたため、空想を妄想に信じ込むことがやめられなくなっているのだ、アイドルやアニメに異様な幻想と没入を持つ人が多いのも、ノンフィクションでの窒息が限界にきていることの反動から生じている。
僕だって今、ワークショップ等をやっているが、そういうことをやっていると、どうしても「不思議な空気」というのは生じてきてしまう、そうなると、これまでそういう経験がなかった人は、何か脳みそがグラグラになるのだ、不思議な空気の中で何かが「視えてしまう」というのはどうしてもそういうことになる/ただここにおいて、僕がオウム的なものと異なるのは、習いに来た人をわざわざクソ呼ばわりすることだ、なぜクソ呼ばわりするかというと、僕がこれまで、自分自身をクソ呼ばわりしてきたからだ、これじゃあ「教団」にはなれっこないな。

オウム真理教は信徒に苛烈だったが、信徒に「過労死」は出ていない。

悪名高き「オウム真理教」だったのだから、修行と称して、力ずくの苛烈な行為はいくらでもあっただろう、その中では死人も出たかもしれないが、それは「過労死」ではない/「過労死」はいわばノンフィクションの極限で生じる呪殺だが、過労死だって苛烈で笑えないものだ、そのことを踏まえれば、われわれは元オウム教団を単に狂った集団として笑い飛ばすことはできない、われわれが生きるということはどちらにしても危ういことなのだ、フィクションにもノンフィクションにも、われわれは狂ってしまえる。
本当には何があったのか、しょせん外部のよそ者にはわかりっこないのだろう、さしあたり死刑執行のニュースは、どれだけ正当なものであっても、僕に正義の歓喜など与えることはまったくなかった/だから、本当には何があったのかなど、わかりっこないことに興味を持つことはやめて、僕は少しでもマシに生きようと思うのだった、それはつまり、引き続き僕自身の「クソ呼ばわり」を続けていくということだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
(言葉)

(これは言葉だ)ヘイ、なんだあいつのことか、あいつのことは、適当にサブマシンガンで撃った、ひょっとしたら死んだかもしれないが、どうだかわからない、ひょっとしたら撃ったのはあいつではなかったかもしれない、ただおれがすっきりしたことは事実だ
(これは言葉だ)おれはつくづく思うが、おれはこの街を愛している、夕焼けの中、工場の林立や、ビーチウェイを走って椰子の木が風に揺れているのを見るとき、どの女のケツだって抱いてやろうという気持ちになれて、おれはひどく感動するんだ、クスリなんか要らない
(これは言葉だ)おれは、自分の子供のころなんて思い出さないし、ママの思い出なんか一ミリも必要としていない、子供のころといえば、今がその子供のころなんじゃないか? 青い空の下は、夜とはまったく別の世界の気がする、おれは無限の世界を生きている気がする、気がするだけじゃなくて実際にそうなんだ
(これは言葉だ)おれには友人がいて、愛する女もあって、すべての犬や猫を愛しているが、誰が友人で、誰がおれの愛する女なのかは、よくわかっていないんだ、友人はいるが友情はないんだ、友情なんて気色の悪いものを、おれは自分の友人にぶっかける気にはならない、どうしてそんなものが必要とされているのかも、おれにはさっぱりわからない

(これは言葉だ)おれは交通違反をして走っているのじゃない、おれは交通に興味がないだけなんだ、だから赤信号を無視しているのじゃない、赤信号も青信号も見ていないだけなんだ、だってあれはおれのために設置されたものじゃないだろ? おれだっておれ宛に書かれた手紙なら見るよ、でもそうじゃないものに目をくれてやる必要はおれにはないはずだ
(これは言葉だ)文句つけてきたおっさんが、バットを持って殴りかかってきた、それは撃ってくれってことなんじゃないか? だからおれは撃った、そんなに騒音は立てなかったし、ほんの数秒のことだ、死体は誰かが片付けるだろう、おれはまったく慌てなかったし、そのあと気分のいいスタンドの兄ちゃんからサンドイッチを買うときには、ちゃんとカネを払った、おれはあの兄ちゃんの笑顔が好きだから、こういうことは毎週続いていい
(これは言葉だ)おれはずっと感動している、この街はなんてうつくしいんだろうって、おれはこの街に生きることができて本当によかったよ、おれは一部に勘違いされているかもしれないが、おれは興奮しているのじゃない、おれは興奮の一切が要らないんだ、だからシャッターに突っ込んで走ったり通行人のババアをサブマシンガンで撃ったりするのも、興奮したいからじゃない、興奮しないために、おれはやりたいようにやっているんだ、だからおれはいつも満足で穏やかなんだよ
(これは言葉だ)これ以上何の必要がある? 無理解なやつは殺してしまった、だからこんなに平和になっている、おれはこの街を愛しているんだよ、おれは理解者が欲しいのじゃない、ただ誰もがおれのこの街の人間であってほしいんだ、おれが気分よく走り回るためにだよ

(これは言葉だ)殺しても、血は流れていない、ただ別のところに行きたい奴が、別のところに行っただけなんだ

(これは言葉だ)血を流させるなんてことを、おれは決してやらない、血は興奮するだろう、そういうものを消しながらおれは走り回るんだ、おれは大声を出したことがないだろう? それはおれが満たされているからなんだ、たまに強盗みたいなこともするが、別に困って奪って興奮しているのじゃない、おれはこの街に似合う強盗しかしないよ
(これは言葉だ)なあ、おれは満たされきって、もう何の願望もないんだ、おれは満足したんだよ、よろこびばかりがあるんだよ、ヨットの上で男を突き落として女とやった、すばらしい潮の香りと星空が包んでいた、そのあとおれは女と話し込んだよ、海の上で、おれはそのあと寝入ったんだが、女は寝入っているおれを殺さずに、夜明けになって「おはよう」って云ったよ、ここはそういう街なんだ

恋女のマインドね | comments(0) |
今何をしたいかのまとめ

に見失っているわけではないが、読む人がわかりやすいように、ささやかなまとめ/今僕は何に向かって話そうとしているのか。
一言で云えば、「言葉」を取り戻させたいということ、これは間違いない。
今、われわれの言語は、ノンフィクションの側へ入ってしまっているので、これは「呪」になってしまう、「言葉」になってくれない、この不具合を実際的に解決せねばならない。
「魂魄」という語があって、これはどちらともタマシイ的なものを指しているが、それぞれ漢字の部品に「云」と「白」が入っている。
今、言葉が失われているというのは、言語が「云う」にならず、「白状」になってしまっているということだ、言葉というのは元来そういうものじゃない、僕が今何をしたいかの第一は、言葉を魄ではなく魂に還すということだ、これは魂魄の混乱を具体的に整備しなおさないと解決しない。

いきなり「言語」を、魂のほう、フィクション世界のソウルのほうに切り替えて使う、そして「言葉」を現成せしめるなどというのは、とてもムリだ、感覚的にどうすればいいのか、「見当がつかない」ということにしかならない。
それで、第一にはなんとかして、具体的なワークを重ねて、フィクションとノンフィクションの「境目」「皮膜」を、しつこく体験させてやるしかない、いくら僕がそれを実演できても、見ているだけでは無意味なのだ、当人がなんとかしてその体験を積み重ねる必要がある。
フィクションとノンフィクションの境目、いわゆる「虚実皮膜」は、「呪縛」と「解放」の境目にある、だから「呪縛」からフッと抜けて動くということを繰り返していれば、フィクション上のテクニックがなくても、その境目に接触し、その感触を知ることは不可能ではない。
そんなことをして、「言葉を取り戻させる」ということが、仮にありえたとして、それが何になるのかというと、それ自体は何にもならない、別にそんなことをしたいという願望が僕にあるのではない、ただ何か、タイミング的にというか流れ的というか、今これをやることをさらなる未来への足がかりにするしかない、僕がこれをする根拠は僕の内側にはない、僕の外側のどこかにある、やらなくてはならない理由はないが、やらなくてはならない理由がある。

今すぐ出来ていいが、「出来た」とは決して言わないように。

なぜなら、「出来た」という語が、すでに呪になってしまうので、その呪のせいで、何が出来たのか出来なかったのか、何が出来ればよかったのか、わけがわからなくなるからだ/「出来た」なんて語を白状するより、「半月の下を走り抜けていく東横線」あたりをごにょごにょ云っているほうがはるかにマシだ、ここにおいて、いかに「白状」がカンタンで、「云う」がむつかしくなっているかが分かるだろう。
「言葉」は、何かの役に立つものではない、なぜなら「言葉」は「世界」であって、「世界」は何かの役に立つものではないからだ/そうではなくて、話は逆、われわれが「世界」の役に立ちたいのだ、そのためにはまず「世界」が与えられないといけない、「世界」なしに努力だけさせられる呪の世の中はいいかげん勘弁願いたいのだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
進化と愛着

ワーアップはできるが、進化はできない。
なぜなら、パワーアップは、何も捨てる必要がないが、「進化」ということになると、旧来のものを捨てなくてはならないからだ。
たとえば、ひどい肩こりの人がいたとして、その肩こりを取り去る方法があったとしても、多くの人はその方法を受け入れられない。
なぜならその人は、肩こりから生じてくるキモチや、肩こりから形成される人格というものを持っていて、ひどい肩こりまでを含めて現在の「わたし」だからだ、どれだけ不具合の多い「わたし」であっても、人は現在の「わたし」に愛着があるので、この愛着が捨てられないぶん、基本的に人は「進化」しない。

現在の自分に「愛着」があるから、「進化」できないということ、僕はむしろこのことを、人らしくてかわいらしいと思うし、もしこの成分がまったくない人がいたとしたら、その人とはちょっとお付き合いがしにくいと感じる。
僕はよく言うのだ、「古いドブ側なんか埋め立ててしまえ」と/もちろんその古いドブ川にも、近隣のおばあちゃんはたくさんの思い出と思い入れを持っている、そんなことはわかっているのだ、でもだからこそ僕は「埋め立ててしまえ」と第一に考える。
それは、おばあちゃんの思い出と思い入れを、軽視しろということではない、むしろそのおばあちゃんに、新しい一歩を踏み出させ、その気にさせてしまうぐらいの工事をしろ、そうでないと消えていくドブ川への「弔(とむら)い」にならないから、ということなのだ。
あざやかな桜をガンガン植えろ、最新鋭の照明で飾れ、ババアの土地の地価を六倍に上昇させろ、そしていつか、「昔はここはドブ川だったのよ」と、おばあちゃんの昔話が自慢話になるように/進化というのはそういうものだ、現在の自分への、愛着を捨てていいと思えるほど、進化というのは偉大で勇ましくなければならない、そうでなければ、消えていく現在の自分への弔いにならない。

現在の自分を守るなら、軍隊を派遣してでも守れ、進化させるなら、過去が誇りになるまで進化させろ。

守るならテッテー的に、進化させるならブッ飛びにだ/たとえば、四万十川みたいなものは、もう日本の国宝みたいなものだから、軍隊を派遣してでも守ればいいのだ、一方で、よくわからんドブ川を埋め立てるなら、これはもう工事ではなく祭りのように埋め立てろ、これの中途半端がよくない、四万十川は微妙に汚くなり、ドブ川はなんとなく見た目だけマシになるとか、そういうのが一番人を虚しくするのだ。
現在のあなたは、現在のあなた自身に「愛着」があるので、基本的に進化しない、愛着を捨てるのはとても切ないことだから/それでいいと思うし、それが正しいとさえ思うよ、ただ僕は、「進化」の起こりうる手続きについてのみ話している、切なさの六倍の「わくわくするね」が得られるのなら、おばあちゃんだって「やっちゃって!!」と言い出していいのだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
法とルールの違い
般的に、「法律」がルールだと思われているが、法律はローであって、ルールではない。
法律とルールは何が違うのだろう? それは、ルールは「失格」を持つのに対し、法律は「失格」を持たないということだ。
法律は、「○○をしてはいけません」ということを定めているものではない、法律は、「○○を罪と定め、この罪を犯す者には、△△の刑に処す」という条文があるだけだ/この文言の中に「失格」はなく、ただペナルティのratio(比率)が定められており、そのペナルティは「刑罰」だ(もちろん民法には「欠格」の定義もあるが、それは法の本質ではない)。
一方で「ルール」というのは、「○○は反則であり、この反則をした場合、この者は失格とされ、退場処分にする」と定められている、この「ルール」におけるペナルティは、刑罰ではなく、最大で「失格」「資格剥奪」「永久追放」だ/このペナルティが「失格」か「刑罰」かによって、法律とルールは性質を異にしている。

ルールは人為的なものだが、法律のほうは、なるべく非人為的に、なるべくカミサマの意に沿うものにしようと、討議されて施行されるものだ、法律には背後に法理学があるが、ルールの背後にルール理学はない。
だから、「ルール」のもっとも端的なあらわれは、よく見るパターン、「そんなこと言う子は、もうお母さんの子じゃありません」というやつだ、「お母さんの子から失格です、追放です」という意味を持ち、刑罰は科されないが、登録を抹消されることになる、これはまさに「ルール」だ。
「遅刻したら正座の刑」というのは、私法だがいちおう「法」だ、一方で「宿題をしなかったので晩ご飯抜きです」というのは、どうもニュアンスとして「晩ご飯をたべる資格はありません、失格です」の響きが強いから、法ではなく「ルール」だといえる。
われわれは法治国家を生きているし、法律に守られた中を生きているのだが、法律を「ルール」だと捉えていると、必ずどこかで破綻するので、その認識は修正しておこう、法律は「ルール」ではない、違法行為をしたら刑罰があるが、違法行為をしたからといって「失格」にはならない/違法性があると人間が「失格」になると思っている人は存外多く、いつのまにか「何をもって人間の資格があるか? それはワタシが決める」という立場になっていることがあるが、カミサマに何のことわりもなしにその立場を採るのは、今すぐにでも危険なことだ。

法は知恵だが、ルールは支配だ。

だからといっては何だが、ルールはどんな知恵なしにも基本的に「わかる」のに対し、法のほうは知恵のない人にはチンプンカンプンなのだ/法は、何かしらカミサマの下において、なるべく「公正さ」を尽くそうという人々のgoodnessから生じている、一方でルールというのは、ただ支配者の「支配の力」から生じている。
法律の条文には、たとえば「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」と書かれているだけで、「人を殺してはいけません」とはどこにも書かれていない、そりゃ「いけません」と言ったところで、人がやることは止められないんだから/つまり「法」というのは、突き詰めるところ、人を殺すことが「いけない」とは言っていなくて、いっそ「やりたきゃやれよ、しゃーない」とまで言い放っているわけだ、だから実は人々は法に縛られているわけではまったくなくて、縛られているのは、それが「ルール」だという思い込みによってだ、「法」はむしろ、人々の知恵の結集なので、逆に人々が本来どれだけ自由かということを解き明かしているところさえある。
正しく見ないとな | comments(0) |
W杯によせて
っきょく、今回は、サッカーワールドカップの試合を、ひとつも見なかった。
日本はベスト16までたどり着いたが、それがいまいちな戦績だとは思わないし、偉大な戦績だとも思わない。
遠い異国で行われた、サッカーの戦いがあったらしいという、ただそれだけのことを、僕一人で眺めている、その遠い異国は、僕が見上げる雲よりもずっと遠くにある、魂が震えるほど遠くにある。
すごいのはすごいのだろうが、よくわからないのだ、僕から見たらそのへんの高校のサッカー部でもすごいからな/遠い異国の戦いを、僕は称賛も批評もする気になれない。

正常なときの僕は、何一つをも身近に感じない。
たとえば今、窓の向こう側で、幼子が悲鳴のように泣いているが、何に泣いているのか、またその母親はどのような人なのか、僕には何一つ身近でない、この世界で僕の理解がおよぶ範囲などわずかもない。
日本代表のサッカーが、もちろん勝ち進んで欲しかったけれど、それは僕の希望や感想が届くような、身近にあるものじゃない、僕は隣家の夕餉の献立さえ知らないのだ、世界はまったく果てしないものだと思う。
僕が知っているのは、颱風の雲が吹き飛んでいく切れ目に、黄金の太陽が沈んでいって、その向こうにはひとつの国があるということだけだ、それは僕の見たものだから/僕の見るものは、幼いころから何一つ変わっていない、ひょっとしたらサッカー選手も、同じように幼いころから何一つ変わっていないのだろうか。

日本代表は勝利した。

と、勝手に僕は思っている、もちろん間違っているのは当たり前だし、僕はサッカーのルールなんて知らんからね、今僕が唯一確信して言いうることといえば、「日本代表は勝利した」、なぜなら試合後の彼らの相に敗北は見当たらなかったから。
雲間に沈んでいった黄金の陽のように、輝いている相があって、輝いているのならば敗北はない、僕もどうか、少しはそういった日々を生きられる者でありたい。
正しく見ないとな | comments(0) |
格上は格下から学べない2

「格」というのは、ルール・枠組みで形成されるものだが、その格付けそれぞれの「上下」については、ほとんど社会通念で定義されている。
だから、たとえば「社会人」が、「大学生」に学ぶことはまずないし、「女」が「男」に学ぶこともまずないだろう、「親」が「子」に学ぶこともまずないし、日本人が中国人や韓国人に学ぶこともまずない。
仮に、ここに十四歳の「女優」がいたとして、この十四歳の女の子が、僕に「学ぶ」ということはまずない、なぜなら格付けにおいて彼女は「女優」格であって、僕のほうは無格だからだ。
「格」の性質の強力なところは、本人の意志や希望や選択とはまったく関係なく、強制的に「格下からは学べない」という性質をもたらすところだ、本人がどうこころを砕いても、格上の者は格下の者の、言葉を聞いたり、そのやることを真に見たりすることはできないのだ/究極的な格上者は、けっきょく親(少なくとも「親分」)の言うことしか聞けないし、学べないということになる、本人の意志とはまったく関係なしにというのが面白いところだ。

だからけっきょく、「世界から切り離された人」は、別に暴力団ではなくても、何かしら「○○組」に入ってやっていくしかないのだ、「○○組」には「親分」がいて、また親分の下も、それぞれの地位が細かく「格付け」されている、その中で格上から格下へのトップダウンでしか命令系統は機能しない。
社会人が大学生から学ぶことはないし、女が男から学ぶこともまずないが、「親分」がそう命令すれば別だ、「お前はあの下のモンから学べや」と命令したら、「はい」であっさり済む、別に親分じゃなくても親そのものでもかまわない。
「世界から切り離された人」は、この点について、覚悟する必要がある/「世界から切り離された人」にとって、世界中すべての「言葉」は意味が無いのだ、自分の組にある格付け上、「兄弟(同格)」「頭(かしら)」「親分」の人の言うことがすべてであって、組の格付けに属していないすべての「言葉」は届かないように作られている。
よって、総合するとこのように言える/それぞれの「格」があり、それぞれは社会通念上で「格付け」され、その格付けの集合体が「組」だと言える、自分という単体が「世界」につながるということは、この「組」から脱退するということだが、これは現実的には至難といわざるをえない、なぜならすでに「言葉」を失った者にとっては、「組」の外はまっくらで無意味な空洞だからだ。

格上は格下から学べない、それは組のルールに反するからだ。

ごく例外的に、その組の「親分」が、「世界」や「言葉」に接続していたら、組員は組に属したまま、世界とつながることができるのだろうが、残念ながらそういうケースはごく少ないし、そういうケースは破壊されるのが現代のパターンだ、たとえばわれわれ日本人の「親分」も、天皇陛下というよりは総理大臣であって、さらに総理大臣というよりは、アメリカ大統領か中国共産党だ。
それならば、誰か「世界」や「言葉」に接続している人を「親分」に奉り、自分は現在の組を抜け、その組に移籍したらいいんじゃないかと思えるのだが、そうはいかないのだ、なぜなら組を抜けるということ自体、自分で決められることではなくて、頭(かしら)や親分が決めることだからだ、頭や親分の承認なしに組を移籍なんてできない、格付け上、頭や親分の言うことが「すべて」なのだから、移籍じたい親分に決めてもらう必要がある。

正しく見ないとな | comments(0) |
格上は格下から学べない

「格」とは何かを、辞書で調べると、格とは「(おきて)」だという、規格・失格・資格あたりに、その「格」の性質が表れている。
格とは「掟」、つまり「ルール」のことだ、人は上位のルールに「合格」することで、その格を上昇させていく。
「ルール」は「世界」の対極なので、つまり「世界」から追放された人ほど、「格」を上昇させていく傾向が高くなる、ということになる。
そして、「格」の性質として、「格上は格下から学べない」という性質があるのだ、そりゃ一軍の選手は二軍の選手から学ばないだろう/よって「ルールの人」は「世界の人」から、そもそも「学べない」という一般則が成り立つ。

僕の書き話すことが、ほとんど無意味で、僕が誰かに何かを教えたとしても、おおよそ何も学ばれないのは、それが原因だ、僕より格下の人なんてほぼ存在しないので、僕が何かを教えてそれを学べる人なんてほぼ存在しない。
逆に、僕がなんでもかんでも、習わないまま学んだり、身につけたりすることが多いのは、僕が徹底して格下の存在だからだ、僕は何もかもに失格して生きてきたので、すべての人は僕より格上だ、だからわざわざ誰かを「先生」「師匠」という立場に奉らなくても、自動的に「学ぶ」ということが起こってくれる(まったく努力はしていないのだ)。
かつて、弟子入りや丁稚奉公というシステムがあって、そうして下働きに入ると、まるで人権のないもののように扱われたが、それはそうして「格下」を徹底しないかぎり、「学ぶ」ということは不可能だからだ、「格下」にならなくても「暗記」はできるが、本質的に「学ぶ」ということは不可能になる/「学ぶ」ということは、どうしても「格下が格上に学ぶ」ということしか成り立たない。
たとえばハナコちゃんに僕があれこれ話したとしても、ハナコちゃんは、僕のやることを見てはいないし、僕の話すことを聴いてもいない、なぜかというと、ハナコちゃんのほうが「格上」だからだ/僕が何をどう話し、どうアドバイスしたとしても、ハナコちゃんは格上の者として、必ず上位に「格付け」された自分の動きと発想と言語を用いる、「格付け」および「格上」というのはそういうシステムなのだ、実力どうこうと「格」の性質はまったく関係が無い。

僕があなたに「教える」と、あなたは水面下で無性に腹が立つが、あなたが僕に「教えて」も、僕はまったく腹が立たない。

それは、「教える」と「学ぶ」という営為が、背後にある「格付け」に支配されているからだ、実力とは無関係に、僕が格上のハナコちゃんに「教える」ということは根本的に許されていない/今ちょうど、日本のサッカーワールドカップが敗退して、多くの人が日本代表勢に「学ぶ」のではなく「教える」側に立ってコメントするのは、代表選手より己のほうが「格上」だからだ、「格」というのはそういうものであって、格上が格下の話に「耳を傾ける」ということは基本的に発生しない。
いつからか、お笑いや漫才というと、審査員と視聴者が、それを「審査する」という形式が基本になったが、それは視聴者が「格上」になってしまったため、視聴者は漫才師の笑い話に「耳を傾ける」ということが不能になったからだ/現在は映画や小節やドラマ、あるいはマンガやアニメ等も、消費者が「格上」になって、審査し「教える」というシステムになった、全消費者が「先生」の格に上昇したというのが現在のわれわれが生きている空間だと捉えていい。

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