☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
メモリ増設した!!
はは、これまで4GBだったメインメモリに8GBメモリを増設して12GBにしたぜ! キングストン社のメモリで七千円弱した。
元からあるメモリとメーカーごと違うのでむろんデュアルでは動かないが、あんまり関係ないっぽいな、シングル動作で十分だ。
これでcore i5の本来のCPUパワーも発揮されるであろう、最近は複数窓であっさりフリーズするようになっていて、「今どきフリーズとか……」と落ち込んでいたのだ、しかし今メモリ三倍で快適サクサクとなり気分の好いことこの上ない。
ところで、ずっと前にも思ったことだが、マザーボードに増設メモリを差し込むとして、なぜその差し込み口はあんなにキチキチで「力任せ」なのだ、これだけハイテク製品なのだからメカ(物理機構)も快適にしてくれよ、なぜか何年経ってもメカの部分は「電子工作」のままだなオイ。

メモリを増設するときは、まず「CPU-Z(CPUID)」という無料アプリを入れるのだ、そして現在使っているメモリの「タイプ」を調べる、この作業は必須なので省略不可能となる。
で、「タイプ」の何を調べるかというと、「DDR3とかDDR4とか」を調べ、次に「PC3-12800」とかを調べる(鵜呑みにしろ)/で、これらのタイプについて、「現在刺さっているメモリと同じタイプのもの」を買ったほうがいい、それ以上のことはマニアックすぎて専門的な奴にしかわからん。
DIMMというタイプ表記があるが、これはふつう個人用のタワーデスクトップなら「DIMM」で、ノートパソコンなら「S.O.DIMM」というのを選ばないといけない、これは大きさが違うのでタイプが違うとマザーボードに刺さらないのでどうしようもない(スリム型デスクトップはどっちか怪しい)。
とにかくまあ、「CPU-Z(CPUID)で、今刺さっているメモリを調べて、それと同じ『タイプ』のものを選ぶしかない、デュアルで動くとかは初めから諦めろ」ということになる/うーん、メモリ増設という誰でもやりたがりそうなことが、ややこしい上に前近代的すぎるよな、なんとかしろビルゲイツ。

DDR( )、(DIMM or S.O.DIMM)、PC( )-(     )、←この空欄を埋めたらメモリ増設ができます。

なんでこんな話をしているかというと、単に書斎のPCが快適になって気分がよいからであった、その他の含みはまったくない。
こうして快適になったPCをよろこび、タスクマネージャーからそのパフォーマンス性能の表示を眺めていると、「あ、ハードディスクが遅いな」と気づき、次はHDDをSSDに換装したくなるというどーでもいい欲求がムクムクと起こってくるのであった、こういうのってやりだしたらキリがないわな。
バカをやろうかあ | comments(1) |
六月の薄藍色
んな季節のこんな夜は、世界中の世界が綺麗すぎて、何も手につかんな。
直線で正確に半分に割られた、新品の月が、LEDでも仕込まれたように、薄藍色の空に光っている。
天空に古代の風が吹き、地上に時代まぎれの風が吹く、現代なぞはどこにもない。
本当に何も手につかないので、このまま外に遊びに出るのはヤバい、いつまでも帰ってこられなくなる。

今になって言えることは、人と人とは、思ったような関係で成り立っていないということだ。
それはブキミですらある、みんな正しい知識を得たのだが、言うなればその正しい知識が「要らない」ということだ、人と人とは絶対に思ったような関係で成り立ってはいない。
みんな能力を上げたので、現在のような状況があり、まさかのまさか、好転させるためには能力を"下げ"ないといけない、これがいかにも無理難題だ。
人と人とは、本来おそろしいものだった、おそろしいからこそ面倒くさくはなかった、もうそろそろ空も藍から黒へと変わってきたことだろう。

僕たちのウソ話の中、ホントのことが混じり込む荘厳。

正しい詩人の知識は、詩人として存在していなかったらどーする、そもそも「人」というおそろしい存在は、思われているようなパッキリとした存在ではない、何が何なのか本当はわかったものではないのだ。
トランスとか変性意識とかサイコパスとか、漫画的に言っているのが一番気楽だろうね、もっともおそろしいことはこの世界と人とが正しい知識では成り立っていないということだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
「我慢」を絶対の禁止とする2

「お前、ここ片付けとけ」
「えー、なんでわたしがやんなきゃいけないんですか」
「それはガマン!」
「はーい、わっかりましたぁ」

あなたはこの文脈での「ガマン/我慢」をどう読み取る?
「はーい、わっかりましたぁ、ガマンしまーす」と読み取っているだろう、だがそれが間違いでありすべての禍いの元凶だ。
本来の意味はそうではない、ここで言われている「ガマン/我慢」は、「あなたは吾我(ごが)の妄執にとらわれており、そのせいで自分のやるべきことを見失って、煩悩の炎に焼かれています」という指摘を意味している。
だから本来は、「それはガマン!」の後は、「あっ、失礼しました、見失っており筋違いを申し上げました」という文脈にならないといけない/頼むからもう、「我慢が足りない」とか「我慢強さ」とか、おぞましい文脈に結びつけるのを辞めてくれ。

あなたは精神性において役割をこなさなくてはならない。

ガマンして役割をこなしているのではないか? そのことはとんでもない邪悪の蓄積になる。
役割をこなすのに、しばしば忍耐が必要なシーンもある、だが忍耐も含めての精神性だ、それを「ガマン/内心で舌打ちしてメラメラしながら表面上はこなしてみせる」なんてやり方をしていたらあなたは必ずグールになる。

いいオンナはいい言葉を | comments(0) |
「我慢」を絶対の禁止とする

「我慢」という語は誤用されている。
「我慢」とはもともと仏教用語でアートマ・マーナと言われる煩悩の一つで/「我慢」というのはその字義のまま、「我、という傲慢さ」のことを指している、これは煩悩のありがちなやつで、七つの傲(おご)りのひとつと数えられている。
じゃあ、母親が子供に向かって「我慢しなさい!」ときつく言うことの、とんでもなさがわかるだろうか。
本来は「辛抱しなさい」「忍耐です」と言われねばならないのだけれど、当人が「我慢」しかしてきたことがないので、辛抱とか忍耐とかは言葉として言われない、本人が定義体験を得てきていない言葉は使えないものだ。

現代における「我慢」とは、ずばり本質的に以下の意味になるし、そのままの役割を果たす、このことは断言していい。
「我慢しなさい」とはつまり、「内心で舌打ちしてメラメラしなさい」という意味だ、そういう意味にしかならないし、そういう呼びかけとしてしか機能しない。
内心で舌打ちして、メラメラする、それでしょうがないから表面上は「わっかりましたぁ」と言う、それが現代で言うところの「我慢」だ、このことが人間の内心にグールと呼ぶべき邪鬼を育てていく、アートマ・マーナの鬼が内部に育っていく。
金輪際、「我慢する」および「我慢しなさい」という用い方を国語として禁止せよ、まして母御さんは自分の子をグールと呼ぶべき邪鬼の子に育てたいのか、「我慢の子」に育てるというのは洒落じゃなくそういうことだぞ。

「我慢する」ということは、つまり「精神性のなさ」を育てる。

もともと人は、我慢(アートマ・マーナ)ということの愚かしさを脱するために、辛抱や忍耐も含めたことの中から、ある種の精神性に到達して生きていくものだ、勉強も仕事も「我慢」でするものではなく、精神性に到達して営まれるべきもの。
精神性のない舌打ちメラメラ我慢が内部に育っていく、それは精神性がないのだから「グール」と呼ばれるにふさわしい/どれだけ不本意であっても、「我慢」という語を使っていると必ずそういうふうになる、それが言葉の力なのだからしょうがない、「我慢」は徹底的に否定されなくてはならない。

いいオンナはいい言葉を | comments(0) |
僕の知力のなさについては
もかもが、うつくしくて楽しいのだと思っていた。
が、いつのまにか、そうでないものがニョッキリ出てくるようになり……
うつくしくないもの、楽しくないものについても考えさせられてきたけれども、たぶんそれらにはけっきょく何の意味もないのだ。
何の意味もないからこそ、それが主題になっている人はつらいのだ、と想像するが、その想像もけっきょくよくわからないのだった。

つまり僕がAさんを見るから悪いのであって、Aさんが僕を見ればこの問題は生じない。
が、Aさんにはすでに僕を見るなどという機能は残されておらず、AさんはAさん自身およびそれに類似する何かをしか見ることができなくなった。
僕は人のことを見ないようにしよう、そのほうがけっきょくAさんのためにもなるのだ。
僕は何にもわかっていない、あまり知識や概念を保有するだけの知力がないのだ、僕の知力のなさについてはどうかあきらめてくれ。

知力を振り絞ったが、何の意味もなかった。

僕は、誰がどういう人であるとか、誰がどういう問題を抱えているとか、その解決策はとか、そういうことを把握する知力がもともとないのだ、実はカレンダーの見方さえ本当にはわかっていないところがある。
気候とか、うつくしいものとか、そういうものに引き寄せられているだけで、そこでニョッキリ・ドバッと何かが出てきたとしても、それのことはよくわかっていないのだった、ただ夏の光に光っているものは眼下にわかる。
視点変えてこ | comments(0) |
「そりゃこんな人、守るでしょ」と笑ってくれた
ぅ、ちょっと休憩。
よくよく考えれば、僕の側には何の問題もないのだった。
周りに合わせて書いているのだが、けっきょく周りのことなんてどうしようもないというか、本当はよくわかっていないので、周りのことなんて僕には何をどうしようもない。
僕は、好いてくれる人もいるし、いい人といい思いをしたいというだけで、そして今日も新しくそれが可能だというだけで、それ以上の何があるわけでもなかった、僕にはハイレベルなことはよくわからない。

体調の悪い日なんかが好きだ(と思ったがこの話は長くなるのでやめよう)。
僕の記憶にあるかぎり、まともな女性は、すべからく直観的に、会うなり僕のことを守ってくれようとした。
なぜかわからないが、女性は直観的に「そりゃこんな人、守るでしょ」と笑ってくれる様子だったので、よくわからない、たぶん僕はそれぐらい弱い生き方をしているのだろう。
弱い、というのが僕自身にぴったりくるし、僕を直観的に守ってくれようとした女性はすべて素敵だった、それは向上心とは何の関係もないことだ。

守ってくれようとした女がいた、それでいいじゃないか。

それが何なのか、ということは、たぶん他の誰かにはわからない、他の誰かはまた別の人生を生きているからだ、他人がどう生きているかということは、けっきょくわからないので、自分の生きることにはあまり関係がない。
守ってくれた人に特に感謝があるわけでもないので、守ってくれない人に特に非難があるわけでもないが、ただ守ってくれた人は何かが無性にうつくしかった、僕には理解や納得や向上やエンジョイが「うつくしい」とは感じられないでいる。
恋女のマインドね | comments(0) |
グール化とゆがめられたエクスタシー4
事につけ、必死になれない、全身全霊で取り組めない、という人が多くあるものだ。
全身全霊で取り組めないということは、自分の中枢から取り組めないということだが、それは中枢がグール化しているからによる。
全身全霊で取り組むということは、自分のエクスタシーを明らかにして取り組むということだから、グール化している人はそれができないのだ/グール化した人の全身全霊行為は「うわぁ……」にしかならない。
全身全霊で取り組めないのは、やる気や根性の問題ではなく、グール化のせいだ、エクスタシーが「お見せできないもの」に成り果てているので、それが永久に封印されているだけだ。

われわれは音楽を聴いているのではないし、絵を見ているでもないし、小説を読んでいるのでもない。
人間のエクスタシーを見、人間のエクスタシーを体験しているのだ、それは恋あいだってセックスだってそうだし、学問や仕事だってそうだ。
あなたの人間的エクスタシーを見ない限り、誰かがあなたのことを「見た」とか「会った」とか「知った」とかいうことにはならない、このことの見物人気取りは必ず最悪の報いを受けるだろう。
マイケルジャクソンを見ろ、ジェームスブラウンを見ろ、バーンスタインを見ろ、ボブマーリィを見ろ、すべてエクスタシーを明らかにして人前に立っている/このことを「見物評価」して増長する連中は必ず最悪の報いを受けるだろう。

自分が人間的だと言い張るなら、エクスタシーを見せてみろ。

エクスタシーという容赦のない壁を前にして、退散するのはある意味正しい、だがそこで評価ぶって増長しているのはだめだ、見物評価の風情は最悪の罪を背負うだろう。
すっきりするじゃないか、エクスタシーを除外しているから、何にもならないし、何も始まらないんだ、エクスタシーなしに充実ぶったって形骸無実にしかならなくて当たり前だ。
正しく見ないとな | comments(0) |
グール化とゆがめられたエクスタシー3
う考えればいい、まずあなたが思いつくXさんやYさんをイメージする。
そのXさんが「解放」されて、エクスタシーに到達するとしたら、そのときXさんのエクスタシー像はどのような感触に想像されるだろうか。
「うわぁ……」と気持ち悪く感じるか、あるいは「ゾクゾクする」と半笑いで感じるか、「そそる」という言い方もする、けれどもそれはグール向けの安っぽい淫靡さでしかない。
XさんやYさんの、エクスタシーに、美と荘厳を覚えるか、静まりかえり、このことに「自分の命を使っていい」と思えるか。

もし、そこに「自分の命を使っていい」と思える美と荘厳を覚えるなら、XさんやYさんはあなたの人生の登場人物だ。
それは大げさなことではなくて、なにげないことだ、どこにでもあるありふれたこと、それがわれわれの生でありエクスタシーだ。
「自分の命を使っていい」と思えるものが何一つ見つからずに生きている人は、あまりにさびしいので、「ゾクゾクする」「そそる」というしょうもないことへグールの慰みを得ようとする。
あなたは誰のエクスタシーを見たいか、受け止めたいか、またあなた自身のエクスタシーは、人に見せられるものか、人に与えるにたえるものか。

名刺交換が社会的、エクスタシー交換が人間的。

エクスタシーというのは、何もセックスのことだけを言うのじゃない、万事にどう高まり、どう結実するかだ、これを投げ出した卑怯者はグール化する。
人間が人間的に堂々としてあれるということは、自分のエクスタシー・ボディを堂々と見せつけていられるってことだ、このことに何のごまかしも利かない。
正しく見ないとな | comments(0) |
グール化とゆがめられたエクスタシー2

ール化したガキを作るのはカンタンだ、まず苦痛を是として、エクスタシーを否で禁忌だと教え込む。
とにかくつらいガマンをさせて、そのガマンだけがエラいと教え込むんだ/メシを食うとか笑うとか、そういうエクスタシーは汚いものだと抑圧する。
一方で、つらいガマンの中、うまく偽装された性的アニメ等、猥褻で淫靡で貪婪な刺激を与え続ける、そうしたら子供は当然依存する。
ガマンさせられてつらいところに、チンコ・マンコがうずく刺激を送り込まれるからだ、偽装されてわけのわからない甘みを覚える、子供は早々にそうして自分に局所的な慰めを与えることを覚える、このことは加速していく(ついでに頭の中とチンコ・マンコが分離するので人間が断片化する)。

親や教師や世間に、つらいガマンばかりをさせられた人間は、親や教師や世間を怨んでいる。
怨みは反逆や報復を生む、その報復としてのあてつけに、「えげつないものをブチかましてやりたい」という衝動が養われていく。
彼らにとってエクスタシーとはそういうものなんだ、"えげつないものをギャーッとやる"、つまり自分がグール(食屍鬼)なんだと見せつけて、悲願だった「解放」を得たいと欲する。
エクスタシーを否定された怨みが、人を復讐のグールにする、むろん誰だってそんなものになりたいわけじゃなかった。

子供のころ、エクスタシーを肯定してくれるうつくしい人はいたか?

人間の中枢にはエクスタシーがある、これを否定されると、人間は表面上ロボット化し、しかし中枢は消えてなくなるわけではないので、中枢は閉じ込められたまま腐敗し、グール化する。
エクスタシーがうつくしいと知らない奴の言うことをアテにするな、そしてまた、自分がそれを知らないというなら、自分の思うこともアテにするな。

正しく見ないとな | comments(0) |
グール化とゆがめられたエクスタシー

間の全身はエクスタシーに向かう。
このエクスタシーがゆがめられるとき、人はグール化する。
自分がグール化していることを認めるのはイヤなものだし勇気が要る。
友人がグール化していることを認めるのはイヤなものだし勇気が要る。

われわれは麻薬をイヤがっているわけじゃない。
麻薬によってグール化した人間を見たくないだけだ。
誰だってセックスをしたいのは当たり前で、さびしい暮らしはさびしいのが当たり前、野心や願望だってそれなりにあるのが当たり前だ。
それはもともと、人をグール化させるものではなかったのに、いつのまにかそうなっちまった、われわれはセックスやさびしさについてとても話しづらくなった。

エクスタシーは本来、うつくしかった。

見ろよ、本来のエクスタシーを知らない者たちが、グール・エクスタシーを真実だと思って、知恵のない奮闘をしている。
いったんグール化してしまうと、もはや自分の中枢に触れないようにするか、もしくはグール化に開き直るかだ、そのどちらとも救いのある方法じゃない。

正しく見ないとな | comments(0) |
セックス・トラブルの時代4
クスタシー。
この言葉がこのセックス・トラブルの時代を切り返すヒントになる。
あなたの全身は、「エクスタシーに向かえ」とあなたに命じているのだが、あなたはアホなので、そのエクスタシーをエロマンガレベルに定義している。
もし、「エクスタシーがわたしのようなアホにわかるわけがない」と笑って言えるところに立ち返れば、あなたはまともな道をゆけるだろう。

「エクスタシーに向かえ」と命じられると、「うん、つまり、グール化するしかないのよねやっぱり」と、アホみたいな結論を確信する。
まあ、それが抑圧下で育ててきた、ほとんど信仰の対象のような「エクスタシー」イメージなのだからしょうがないのかもしれない。
たぶん、「エクスタシーは一種のヌミノーゼだよ」と言われると、「わかるけどもう何もかもイヤになる」と、すべてから離脱したくなると予想される。
ヌミノーゼとしてのエクスタシーなどと言われても、「やり方がわかんない」ということになるだろうが、そこのところは逆に問うしかない、「なぜ万事のやり方を知りえるなんて思ったの」と。

エクスタシー、うらやましいだろ。

勇気をもって、エクスタシーについて考えるべきで、さらに勇気を持ち得れば、自分のグール・エクスタシーのイメージを、どうやら本当にゴミらしいと笑い飛ばすことができる。
ヌミノーゼふうのことに、同意を示しているふうにするのはカンタンだけれどね、口ではそう言えてもヴァギナからそれを語れる人は少ない、まったくカラダは正直だなオイ。
えっちはいいよな | comments(0) |
セックス・トラブルの時代3

代人は、ただならぬ抑圧、言うなればウルトラ抑圧の環境下にある。
そのウルトラ抑圧の中に、これまた負けずおとらずの、ウルトラ自我の肥大がある。
この構造の中で、人々は空想を始める/抑圧を破裂させて「グール化」し、グール化すれば「実はすごく強い」のだという空想に耽りはじめる。
「進撃の巨人」あたりを見ていてもわかるが、人々は自分が破裂したらグール化して強くなれると思っており、「がんばらなきゃ」という場面では、連想がこのグール化に向かうようになっている。

このグール化には、大きな力と、同時に強いエクスタシーが伴うと空想されている。
ウルトラ抑圧を、ウルトラ破裂させるのだから、それはものすごいことで、ものすごいエクスタシーと力があると空想されている。
そしてその強い力とものすごいエクスタシーを得たら、自分は特別な人間(ウルトラマン)になれて、その特別化した人生は、ウルトラ肥大した自我を満足させうるのだと空想している。
だがそれらは残念ながら空想で、ただのウソだ、すべてがウルトラ化しているから、空想までウルトラ空想化しているだけだ。

グール化空想にとらわれる人は、自分のウルトラ化を空想するが、実際にはすべてに「初心者」のままになる。

人と話すにせよ、セックスするにせよ、仕事をするにせよ芸事をするにせよ、なぜか何も進まず「ずっと初心者のまま」という人が少なからずいるが、そのことの背後にはこのグール化空想がある。
「がんばらなきゃ」というときに、エネルギーがグール化空想のほうに吸い込まれるからだ、架空のエクスタシーを求めてさまよい続けるのみなのだが、ほとんどそのように調教されたかのごとくでこのことは修正がむつかしい。

えっちはいいよな | comments(0) |
セックス・トラブルの時代2
くの女性が、「理不尽に」「強制的に」、そして「嗜虐的に」、「なぶられたい」と思っている。
そして、その妄想に向けて起こるheatが、正直なところ人生の「可能性」というか、ひとつの「夢」になっている。
そこにさらに、「不倫」とか「オフィスで」とか、逆に「純愛」とか「処女」「童貞」とかを貼り付けたがっている。
絶望させて申し訳ないが、そういう空想の中で描かれているエクスタシーというのは実際にはない、あなたがそのことを考えるとモンモンとするというだけで、実際にはそんなところにエクスタシーはないのだ、夢を壊すようでまったく申し訳ないけれど。

たとえばロリコン趣味の男や、レイプ願望のある女や男がいる。
が、実際に女子小学生の身体に触れたとして、それとの性交が本当に特殊な純潔や性感を与えてくれるかというと、残念ながらそんなことはない。
レイプということになったら、男女とも特別な叫声や挙動を発揮するかというと、残念ながらそれもない、本人が一時的に興奮するだけで実は何もたいしたことは起こらない。
つまり、まったく残念だが、秘密のエクスタシーが存在して、それがあなたの生を解決するということはまったく起こらないのだ、ゼロだと言っていい、あなたはたとえ最低のセックスにまみれきったとしても救済はされない、それぐらいあなたは行き詰まっているのだ、まったく申し訳ないが。

エクスタシーは、存在するが、凡才の空想する方向にはない。

残念なことだが、これは人々の健全さのため、ハッキリ言われるべきだ、凡才がエクスタシーの誇張によって自己の生を特別化できることは決してない。
あなたの必殺技である「取り乱す」が、エクスタシーに到達することは決してない、なぜなら「取り乱す」のは弱い人の特徴であって、強い人の到達するものではありえないからだ。
えっちはいいよな | comments(0) |
セックス・トラブルの時代
うもどの方面を見ても、情熱とか集中力とかいうことが失われてきている気がする。
そして、どうもその背後には、セックス・トラブルがある感触がするのだ。
フロイトの言うとおり、セックスは根本的な情動の装置だから、ここがゆがむと全体がゆがんでしまう。
どうも誰も彼も、抑圧下に「ヒステリック・セックス」のheatが電熱線のように走っているような気がする、ここに通電すると何かが大爆発してしまうので、そもそも電圧が生じないように暮らしている、というふうに見えるのだ。

ネット上では「キチガイゲージ」「キチゲ」という表現が見られる。
そういう、ネタでしかないと思えるようなものが、実はネタでもシャレでもなく人々をおびやかしているのかもしれない/セックス方面の「キチゲ」がぐいぐい溜まるのだろうか。
何かおぞましい(と本人は大げさに思っている)ものを溜め込んでいて、それが破裂しそうになるのがとてもイヤで、でも破裂させたくって、自分のロマンや空想というとそのおぞましいものにしか向かわない、ということなのだろうか。
僕はヒステリック・セックスの妄想について、「しょーもな」と言い捨てることができるが、それは僕が特殊な大人だからであって、言い捨てておしまいにするのは卑怯な気がしている(といって特に対策はない)。

こころの地下室にひどいエロ本を大量に秘匿している。

僕はもう大人なので、そのことを「しょーもな」と言えるが、大人になれない当人にとってはオオゴトなのだろう、どうしたらいいという方法はまったくないが、少なくとも破裂させたところで気色悪いことにしかならないと言える。
こういったことには名前が必要で、適切な名前はきっと「セックス・グール」あたりだろうが、つまり情熱や集中力が生じないのは「グールだから」と言えよう、解決や改善の方法は今のところまったく見えない。
えっちはいいよな | comments(0) |
進む力2

「進む」ことを選択していないただの努力ふうは、すべて茶番に終始するだろう。
人間にとって、停滞は恥ではないが、茶番は恥だ。
世の中のいくつものことは不可能に見える。
だが「進む」ということを前提にすれば話は別だ、「進む」という選択において人間はまったく異なる力を得る。

進み続ける者は、いつのまにか学問を得る。
進むという選択がない者は、ただ知識だけを増やして、よくわからないで微笑んでいる時間を過ごすだろう。
人間に成長は必要なく、成長というタテマエはしばしば進もうとしない人間の逃避先になる。
真に進もうとしたとき、人はなぜか自分が得るべきものを知っている、その得るべきものを教えてくれる大きなはたらきを英知と呼ぶ/わたしは英知の人になりたかった。

誰にでも未来はあるが、進むのは英知ある人だけだ。

死刑囚が、絞首の縄を前にして立ち止まらず、「自分の足で歩かせろ」と叫ぶとき、人は英知において「進んで」いる。
アメリカのいいところは、地獄を知っているところだ、日本の平和ボケのよくないところは、人を天国に鎖でつないでおこうとするところだ/進むというのはその鎖を断ち切ることだ。

恋女のマインドね | comments(0) |
進む力

「進む」ということにはスリルがある。
「がんばる」というだけではスリルがない。
いくつかの楽しいことは人を励ましてくれる、かに見える。
だが「癒やし」の効果は、いっけん人を励ましているかに見えて、実は人から「進む力」を奪っている。

「進む」ということが何なのかは、よくわからない。
けれども、「進む」ということは直観的に知っている。
「進む」ということには何の安楽もない。
「進む」ということには、美と荘厳がある、どこに進むかということに関係なく。

進むということは、友人を失うことであり、友人を得ることでもある。

進んでしまったら、何かとは遠くなり、何かとは近くなるものだ、それは切なくもあるがうつくしくもある、しょうがないことだ。
進むということは、有益ではないのかもしれないが、そういった有益・無益の打算から離脱すること、そこに美と荘厳がある/進むときうつくしくない人間はいない。

恋女のマインドね | comments(0) |
この世界は思うがままだ

「怒りの日」のシリーズ、その最終話を書いている。
追究するところ、人間のど真ん中にはやはりカミサマとつながった魂が入るように出来ている/ど真ん中にカミサマが降りていなければ、それは「空き家」だ(そういう人も実際にいる)。
カミサマは永遠のものであり、一時的なものではないが、永遠というのはつまり「存在」であり、「存在」とはけっきょく"ただひとつの統一的存在が時間と無関係にある"ということになる(西田幾多郎の言い分と同義)。
この「存在」は、われわれがどう思おうと関係なく存在している、つまり「思ってもみないもの」として存在しているので、この「思ってもみない」ということが本当に知られれば、この統一的「存在」という永遠性は実際に目の前に体験として得られる(西田幾多郎の言う「見神の事実」)。

この世界の「存在」という事象は、われわれが「思う」なんてことをしなくても存在しているので、われわれがどう「思って」も無意味だ、このことを僕は体験上「手の出しようがない」と表現する。
手の出しようがないということはつまり、この世界へのイメージや先入観は実は何の意味も持たないということだ、いうなれば「現実的」という先入観さえこの世界に手を出していることにはなりえないと言える。
では、そうなるとこの「わたし」は? ここまできてようやく、真に「思う」ということの機能が活躍してくる、このことは心臓に宿り「真我」と呼ぶのにふさわしい/「手の出しようがなく、思う」という真我においてこの世界は「思うがまま」のものとして実在する。
これらのことはつまり、古代インドにあったウパニシャッド哲学の言い分に符合する/そのことが想起されたのは、わたしが十五年前にインド当地のガンジス川のほとりで、インド人のおっさんにブラフマーの話を聴いたからだった、今になってそのことがバックアップになってくるとはな(あのおっさんは元気にしているだろうか)。

特別な本なんか読まなくても、誰の目の前にも世界はある。

ショーペンハウアーが「読書について」の中で述べているように、まともな哲学者は、哲学書を読むのではなく、世界そのものを直接読んでいる、そしてその世界そのものは誰の目の前にも平等にあるだろう。
ウパニシャッドの言い分は、梵我一如、すべてが「思ってもみないもの」であり、それらすべては「思うがまま」だということだが、こんなことは知識としてはまるでゴミだとして、それが「体験される」なら話は別だ。

正しく見ないとな | comments(0) |
群れ充(モコるというやり方)3
ぜこんなガラにもないことを考えているかというと、何にせよ新しい可能性を模索しているのだった。
「ideaに反したキャラを確立する」という発想には可能性と爆発力がある。
逆に考えると、キャラを確立している人は、内部的に自己ideaとの背反があるので、潜在的に大きく苦しんでいるかもしれない、という仮説も成り立つ。
でも、キャラというのはそういうものだし、キャラはそれでいいんじゃね? とも思うのだ、足しになるならなんだっていい。

キャラづくりに苦しまなくて済む方法は、あくまでキャラを、完全なつくりものにすることだ、自分とつなげることさえしなければ苦しみは生じない。
そんなことをして何の価値があるんだ……ということになるが、これは価値があるのではなく「可能性」があるということになる。
営業マンが仕事上で営業キャラをつくるように、完全なつくりものを履行するということは、それだけで新しい「可能性」がある、それは新しい自分が出現していくための素地になる(かもしれない)。
何か冷たいものを想像することが必要だ、冷たい外力によって、われわれは完全なキャラづくり(for battle)を発想することができる、つまり血も涙もない何かに飛び込もうとするとき、われわれは新しい自分の素地づくりにトライすることができる。

I was born for battle, 群れ充は可能性のバトルをする。

むろん、そのバトルに勝利できず、可能性が未遂のまま敗退すると、惨憺たる結果しか残らないが、バトルというのはそういうものだ、バトルそのものを否定していては話にならない――バトルに向かえ!
バトルが明確に意識されるとき、群れ充の潜在的正義がはっきりと見えてくる、ただそれがバトルなのだと明確に知らされていないときは、誰にとっても不毛で不利益な時間に堕するだろう。
視点変えてこ | comments(0) |
群れ充(モコるというやり方)2

とえばわれわれは、AKBの中心的存在である指原莉乃さんのことについて、「よく知っている」というような感触を持っている。
しかし一方で、彼女の考え方であるとか、彼女の愛するものであるとか、彼女がかつて感動したものであるとかについて、実は何も知らない。
指原莉乃さんのキャラクター、および指原莉乃という「キャラ」については、われわれはよく知っているのだが、彼女のideaについてはわれわれは何一つ知らない。
よほど趣味やこだわりに反するでもなければ、指原莉乃さんに悪意や嫌悪を向ける人はないだろうが、われわれは指原莉乃さんを漠然と好意的に眺めながら、やっぱり彼女のことを何も知らない。

一方、たとえば浜田雅功さんが、「若手が礼儀や筋を通すことを怠ったら、そこだけはめっちゃ怒るだろう」ということはわれわれにも想像がつく。
あるいは、故マイケルジャクソンが、世界中の子供たちと自然環境に能動的なケアをはたらきかけようとするこころを切実に持っていたのはほとんど周知のことだ/われわれはそういった人たちの存在とidea(考え方)を知っている。
あなたの場合はどうだろうか? あなたの考え方、あなたの愛するもの、あなたがかつて感動したものについて、実は何も知らないということがままある。
あなたのキャラクター、および、あなたがやっているかもしれないあなたの「キャラ」については、みんなよく知っているのだが、あなたのideaについては――模糊として――みんな何一つ知らない、そういうことがままあるものだ。

(モコるなら)"ideaに反した"キャラを確立せよ。

突き詰めていくとわかる、現代のわれわれは他人にideaを求めてはいない、キャラを求めているのだから、現在おそらく「ideaがない上にキャラもない」という場合が一番うっとうしくなる。
群れ充に参画しようとする場合、最重要のポイントは、「ideaに反した」というところになる、このやり方は皮肉ではなく、実際に活動を拡大するのに大きな力を持つ可能性がある。

視点変えてこ | comments(0) |
群れ充(モコるというやり方)

「リア充」という言い方が、馬鹿げた言い方と苦笑されながら、依然それが上位の様相であるという威を保っている。
そして一般的に「リア充」の定義というと、投稿されるデジタル写真によって証される「群れ」の像が必要十分条件を示している、というように見える。
さかのぼって二十年以上前、人々は「個の確立」ということを、感覚的に知って追求していたように思うが/当時はよく「"自分"がない人キライ」という言い方で異性がクリティカルに評価されることが多かった。
ここで合理的に言うならば、時代は「個の確立」から「群れの模糊」に移り変わったと言える(「模糊」は「確立」の反対)、そのことの是非を論じるのは誰かにまかせるとして、「群れの模糊」という思想は単純知的に現代のわれわれに知られねばならない。

われわれはおそらく、「どういう自分になるか」ということを、考えさせてもらえるフェーズにはないし、そういったことを考えられる機能をどこかの時点で失ってきている。
現在、「どういう群れにモコる(模糊る)か」ということでしか、自分の行き先を考えられないだろう、人間の思考機能は文化や風潮の中で大きく制限されているものだ。
実際、十以上年下の人間と話すと、そのことを如実に感じる、すべての思考はただちに「群れ」のほうへシフトしていくのだ、「自分」という確立個に焦点を当て続けることがほぼできない。
「個の確立」のアンチテーゼのように勃興した、この「群れの模糊」という思想が、この先に何を顕してくるのか、まだ誰もわからないので、そこは静観するしかないが、ただ言えるのは「モコる」というやり方が現在は便利にはたらくということだけだ。

モコる技術には可能性がある。

現代、アイドルではなくて「アイドルグループ」が重要であるように、また「パーティ」ではなく「パーティピーポー」が重要であるように、「群れ」という現象への模糊性そのものが重視されている/われわれは「模糊」そのものになれるだろうか?
かつて「個の確立」ということにガイダンスが必要だったように、「群れの模糊」にもそれなりのガイダンスが必要なように思える/「群れの模糊」ということが哀しさを帯びるようでは、どこかが不徹底だと思うのだ。

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