☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「クソガキ」のサイエンス
「認識」の機能が失われると、人間は、その次点にある機能、「刺激」に依存した存在になる。
「認識」によって生きていた人間が、「刺激」によって生きている何かに転生するのだ。
こうなると、たとえば子供に、「お店の中を走り回っちゃいけません」と教えても無駄だ、「認識」の機能がもうないのだから、子供は何をどう言われても、二秒後にはそこにある刺激を受けて走り出してしまう。
そうなると、「走っちゃだめって言ってるでしょ! もう置いて帰るわよ!」と、子供を「恐怖」させるしかなくなる、これは「鬼」の刺激によって子供を固めているというような状態だ、どんな人間でも「鬼」が出てくると固まるのは当然のことだ。

異様に態度の悪い店員がいたり、成人式で暴れる新成人がいたりするが、彼らは何も悪態をついているのでもなければ、悪ふざけをしているのでもない。
「認識」できないのだ、周囲に人がいることや、その場所が何の場所であって何の営みが執り行われているかということが、本当に「認識」できなくなっている。
自分が男(女)であることや、自分が何の仕事をしているのかということ、目の前の学門が何を解き明かしているのかというようなことが、言われたら「記憶」はできるのだが、「認識」はできないのだ、それで当人も、笑顔の裏側で実はメチャクチャになっている。
笑顔の裏側で、「認識」の機能が壊れているから、実は刺激を受けて暴れまわることと、恐怖を受けて固まることの、往復をしているにすぎない、そこにうまく見せるだけの記憶のツギハギを当てているのだ、本人は実はストレスで疲れ果てている。

「クソガキ」という言い方は、単なる慣用句ではなく、本当に人間が餓鬼に転生したことを指している。

生後六ヶ月までに「クソガキ」は存在しない、まだ刺激を受ける感覚器官や「意味」の機能が盛(さか)っていないからだ、生後六ヶ月までは誰だって「人間」の眼差しを持っている、しかしその後、「識」を失うと認識の機能を持たない糞餓鬼に転生する。
生後六ヶ月まで、人は「識」の存在である「人間」でいられる、だから母国語を急速に習得するなど、「知識」を得ていくことができる、その後はだめだ、その後はもう「識」の存在ではないので、刺激のあるものしか吸収しなくなっていく、刺激で暴れ回り、恐怖で固まるだけで、その中で何も知識は得ない仕組みだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
生産と競争力の希望
イデンヘッドのリンクウッド24yを買ってしまった、グレンドロナックよりも甘いんじゃないかというような、まるでハチミツを直に突っ込んであるんじゃないかというような、ハニーでバターでアプリコットなスコッチだった(こんなことは知らなくていい)。
開封したてでこれなのだから、この先のボトルコンディションがとても楽しみだ、ちなみにシングルカスクだがアンチルではない(こんなことも知らなくていい)。
僕は未だに、トランプ大統領というアメリカ世界を、どこか「冗談みたいだな」と感じたままだが、ここにきて日本も「希望の党」とかいうムードが高まっているようで、それもどこか「冗談みたいだな」と感じてしまった/だけどトランプは本当に大統領になってしまったわけだし。
僕は、たとえば「ブルゾンちえみ」もよくわからないし、芸能人の不倫スキャンダルもよくわからない、いつのまにか、よくわからないことばかりの世界になってしまった、今このときに「トランプ大統領と希望の党で世界はゴーだぜ! 不倫と喫煙は死ね」とこの世を確信できている人は本当にいるのだろうか。

目先の選挙に野合した「希望の党」は、呉越同舟の、きっと大同団結ではない同床異夢の、面従腹背の玉石混淆にならざるをえないだろうが、このキメラ政党にムードが盛り上がるということが、僕にはよくわからない、悪く言っているつもりではなくて、本当にさっぱりわからないのだ。
ちなみに「キメラ」とは、複数の動物を無理やり合体させた異形生物のことを指す、それでそのキメラ政党に、大樹将軍はいない気がして、付和雷同さえできない気がするが、よりによって事の発端らしい小池百合子さんは出馬しないの? 朝令暮改か何なのか、そのあたりで僕にはもうわけがわからないのだ。
このままだと、かつて雲散霧消した民主党が、捲土重来というよりは醜類の蠢きめいて、機会にすり寄ってきたという気がするのだが、この情勢のどこに「希望」を見いだして盛り上がっているのか、僕にはさっぱりわからない。
自公の長久与党が続くのは民主主義の原則としてまずいのはわかるが、原則としてマズいからといって、直面的なマズさを無視して原則ぶることもできないだろう、僕は「アベ政権をゆるさない」と声高な人がいるのを知ってはいるのだが、具体的に何が許せないのかやっぱり聞いていてもよくわからないのだった。

国を豊かにするのは、生産と金融であって、立法ではない。

ブラック企業の問題が顕在化するのは、日本に生産性と競争力がないからであって、そのしわ寄せが末端に噴出しているにすぎない、もともと「政治家が国をなんとかする」などという現象は存在しないだろう、日銀が為替と公定歩合を管理し、国民が生産と流通をするだけだ/政治家が国をなんとかするのは基本的に安全保障においてのみだ、安全保障上、有事に向けて「トロい上に無謀」というのが一番怖い。
内閣は税金を行政に分配するが、その税金だって元は日本国民の生産と流通から生じているわけで、日本の生産性と競争力が低ければどういじくっても必ず財源は不足するだろう/ところで最近は台湾でもスコッチが作られているのだが、この台湾スコッチの評判が世界的にいいのだ、誰が台湾にスコッチの生産を興したのかは知らないが、そういったことが「希望」に属するのはさすがに僕でもわかる。
視点変えてこ | comments(0) |
UFOに向けて「ゆん、ゆん」言っている人
の中には、UFOと交信できると信じている人がいて、屋上から「ゆん、ゆん、ゆん」と、ヘンな声で空に呼びかけている人がいる。
そういう人は、アタマがおかしくなったのかな、と見えるが、かといってオラついているわけでもないし、別に近所迷惑でもないし、何か本人にとっては重要なことのようなので、「まあ、そっとしておこう」と誰でも思う。
ああいう人は、本当は何をしたかったかというと、この世に生まれてきて、カミサマとつながる努力をしたかったのだ、けれども小さいころに「カミサマなんてウソに決まってんじゃん〜」と言われたので、哀しくもそれを信じ、残された思いがUFOに向けての「ゆん、ゆん、ゆん」に転じている。
カミサマのことを教われなかったし、否定もされたので、UFOという「未確認」のものに思いを託し、交信しようとしているのだ、だからものすごいバカであると同時に、ものすごく正しいことをされているわけで、でもやっぱりあわれなほどバカだ。

UFOに向けて「ゆん、ゆん」言うために、かの人はこの世に生を享けたわけではあるまい。
と、他人事なら笑っていられるが、じゃあ人それぞれ「あなたは何のためにこの世に生を享けたか」と問われると、誰だって確信をもって答えられるわけじゃない。
見えざるUFOに向けて「ゆん、ゆん」言っていると明らかにバカだが、じゃあ、あなた誰に向けて何を言えば明らかにバカではなくなるのか、彼を愚者だとして賢者の自分はこうするのだという/そんなことに本当の確信を持てるのか。
UFOに向けて「ゆん、ゆん」と言っている人は、明らかにバカだが、彼は周囲にバカにされることは気にせず、自分で発明した、自分で気づいた何かに向けて、何の利益を求めてでもなく、自分の「行為」を続けている/あなたが恋人の肩を揉むときには、きっと「ゆん、ゆん」というほどの行為の純粋性を持てないだろう、「あなたは何のためにこの世に生を享けたか」。

彼がUFOを敬う態度だけは、あなたが人を敬う態度に勝るだろう。

何しろUFOに向けて「ゆん、ゆん」言い続けている彼は、何一つふざけていないのだ、何一つおちゃらけず、何一つでしゃばらず、ただその交信のあらんことを願い続け、その断片を感じ取ろうとし続けている、それはどれだけ馬鹿げていても、「祈り」であるには違いない。
彼は「祈るためにこの世に生を享けた」のだろうか、そう考えると、表面上のバカくささはやむをえないにして、われわれは彼をあざけり笑ってよいのかはたいへんあやしいことになる。
視点変えてこ | comments(0) |
「識」の究極解7

「識」については、コラムにして書きまとめたほうがいいわな、ちょっと待っててね。
「識」というのは、だいたい生後六ヶ月まで誰もが持っていた、「わたしはなんのためにこの世に生まれてきたのか」を、直接持っている現象、およびそれを直覚し続けている能力のこと。
その能力が、今も続いている人は、他ならぬ「わたし」がこの世界にいることを直覚し続けている。
それによって、「わたし」がたとえば「東京にいる」というようなことの認識が、他人事のような淡泊な認識ではなくて、一種の体験と覚悟になるのだ/それはずっと「わたしとこの世界」という事実の中を密接に生きているという状態なのだが、これ、どう説明しても説明でわかるようなことではない。

たとえば、或る自動車の運転手が、不注意で、横断歩道の子供にケガをさせてしまったとする、もしそんなことをしてしまったら、ふつう「なんということをしてしまったんだ」と、深く悔恨し、慚愧する――はずだ。
ところが実際は、そうして深く悔恨し、慚愧するということが、本当にはできない人がワンサカいるのだ、なぜかというと「識」がないからだ、「わたし」がこの世界にいるということがわからないので、「わたし」のしでかしたことのチョンボと罪が本当のところでわかっていない、「認識」が他人事のようで、本当には機能していない。
「申し訳ありませんでした」と、頭を下げるふうなのだが、実は「わかっていない」ので、その頭を下げるふうはフェイクになる、「とんでもないことをしてしまった」とアタマではわかっているのだが、その反省は概念でしかなく、概念をなぞった謝罪「ふう」を演じることしかできない。
ふつう「こころの底から」といって、こころの底から愛したり、詫びたり、頑張ったり、悲しんだりするのだが、その「こころの底」は生後六ヶ月までの「識」なのだから、「識」がないということは、「こころの底がない」ということなのだ、その後は何百年生きても「こころの底から」という行いがひとつも為せないという、これは当人にとっても生き地獄なのだ。

彼は、善良で、意欲的で、さわやかで、努力家で、いつも笑顔だった、ただし何一つこころの底からではなく、しかも何一つウソをついているのでもないが。

「こころの底」が、無いもんはしゃーない、すべての認識が他人事のようで、それでもその他人事の認識を自分の記憶に強引に縫いつけて毎日を振る舞っているのだ、縫いつけたぶん彼の内面は血まみれであって、やがてその痛みに限界がきたときに決壊する。
われわれは冷静でなければならず、素直でかつ、理知的な科学者でなければならない、恐怖で埋め立てをすることの前に、冷静に考えて冷静なままにしておく/「こころの底」が明らかに「ある」人なんてそうゴロゴロ存在してるか? ひとまずそれでいいじゃないか。

正しく見ないとな | comments(0) |
「識」の究極解6
はいえ、われわれはみんな、しょーもない苦労や悪だくみをする人間であって、何かを知ったり気づいたりしたからといって、偉くなるわけではない、喰われてはいけない。
われわれは人間なので、みな小さく、弱く、運が悪いと生きていけない、運が悪いというか、「運び」が悪いと生きていけない。
運をよくするために、厚かましく、かつどこか、義侠や献供を意として生きていなければならないし、極めて理知的でタフでありながら、平気で霊感を採用するぐらいカンがよくなくてはならない。
理知的に、タフに行こう、「べつに野垂れ死んでもかまわん」という諦観の向こうに、「何がなんでも生き延びるけどな」というタフネスがあってこそ、人は人らしいし、強くて信じられる。

理知的に、タフに、何がなんでも生き延びて、そのためには何だってやってやる、けれどもなお、それを自慢することは自分の生きる理由じゃない――みんなそうやってこの世に生まれてきたのではなかったか。
運をよくするために、理知的でタフで、かつ非合理で、達成しながら悩みつづけるというような、わけがわからないがきっと正しいと「識って」いるそれ、その態度を僕は「求め続ける人」および「求め続けている生き方」と呼びたい。
弱く小さいわれわれは、安全に生きたいのだ、そして最も安全に生きる方法は思いがけず、死にそうになりながら生きることなのだ、「べつに野垂れ死んでもかまわん」「何がなんでも生き延びるけどな」と。
僕は、自分がピンチに陥るのがいやだし、友人がピンチに陥るのもいやなのだ、僕がどうしてもひどいことを言うのは、人がピンチに陥ってほしくないからだ、ピンチというのは本当にゾッとしていやなもので、そこに深入りしても何の利益にもならないものだ。

最も安全なのは、助けを乞うことではなく、助け合うことだ。

われわれは、本当のピンチに陥ると助けを乞うしかないが、助けを乞うところまで行き着いていると、すでに「助け合う」というレベルを失っている、これは危険なのだ、われわれが安全でいられるということは、お互いに助け合う世界の中で、「今のところ助けは要らない」と各人が言える状態だから。
勇気を持って、「助けは要らない」とまず言おう、自分は理知的だしタフだし、「べつに野垂れ死んでもかまわん」し、「何がなんでも生き延びるから」と/そうしたら助け合う世界が待っている、なぜそういう世界が現出するか/われわれは助けを乞うために生まれてきたのではなく、全員で求め続けるために生まれてきたからだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
「識」の究極解5
間は、ヤバいピンチにならなければ、まあいいのかもしれない、これは非常に現実的な話。
ピンチには三種類あって、僕はこれをピンチ三種と呼びたいのだが、メラウルワーの三種に合わせて、やはりピンチの三種があるのだ。
メラメラ野心の人は、初めは燃えられるが、その果ては「すさまじい嫉妬の世界」であって、この道筋を「引き返せない」と感じ始めたとき、人はピンチに陥る、これは「嫉妬ヒステリーピンチ」と呼んでいい。
ウルウル寂しがりの人は、初めは「手に入れるんだ」とトキメキを持てるが、その果ては「精神決壊スレスレの世界」であって、この道筋を「引き返せない」と感じ始めたとき、人はピンチに陥る、これは「寂しさパニックピンチ」と呼んでいい。

感受性ワーの人は、初めは「センスがあるから」と優越していられるが、その果ては「アレがないと身が震えて止まらん世界」であって、この道筋を「引き返せない」と感じ始めたとき、人はピンチに陥る、これは「依存症で止まれないピンチ」と呼んでいい。
その他われわれの果てには、ビジネスの果てや老境の果てもあるが、これらは「ピンチ」というのとは具合が違うので、まあここでは省こう、おそらくビジネスの果ては「征服者」に行き着き、老境の果ては「世捨て人」に行き着く、征服者はチンギスハンのようであり、世捨て人は芥川龍之介のようだろう。
生後半年からあったはずの、「識りて行う」ということをスッカラカンにしていると、たいていの場合人は三種のピンチに陥る、メラウルワーの三種をせいぜい「悪趣味」「悪い遊び」「悪いクセ」ぐらいに留めておくのは現実的だが、途中から「引き返せない」ということが本当に起こるので、そこまで進んでしまってはいけない(この「引き返せない」は二十代の前半ぐらいまではまず気づけない現象だ)。
ピンチ三種の実例は、メラ:明らかにヘンになった政治家、ウル:カルト宗教にイッてしまった人、ワー:麻薬依存症でヒサンになったヤク中、等で確認することができる、この<<ピンチ三種を渡り鳥していてもしょうがない>>ので、さすがにこのピンチからは縁遠くあろう、縁遠くあれているうちにそう決めよう。

メラ:オラつき、意識高い系、ウル:ボランティアやクラウド○○、ワー:オタク系、に多い。

そりゃ冷静に見てみれば、「内心メラメラしてんなあ」「内心ウルウルしてんなあ」「内心ワーッてなってんなあ」と、元々わかっているわけで、別に珍しい見方ではない、ただのその先というか、その果てにあるピンチがガチで怖いということと、案外「引き返せない」ということが起こるということを、ここでお話ししている/案外「進む」ものだ、メラウルワーのそれぞれは自動的に。
ピンチ三種に至ると、もちろんそれをなるべく隠して、つまり抑圧して暮らしていくわけだが、隠していたって解決してくれるわけではないので、まあおっかないのだった、「識りて行う」をこっそり進んでほうが、安全でいいよと僕は勧めたい、誰だってピンチなんてまっぴらごめんだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
「識」の究極解4
「識りて行え」ということを勧めている。
これは、それがエラいということではなくて、本当に勧めたいのは「意識が消失するところまでやれ」「行為が消えるところまでやれ」ということなのだ、いちおう僕の経験上から。
しかし、このことを勧めようとすると、僕の予期していなかったこととして、「野心的な人はメラメラし」「寂しがり屋の人はウルウルし」「感受性タイプの人はズーンと落ちていって内心でワーッとなる」ということが起こった、それで僕は真相究明を余儀なくされた。
思えば、僕の友人に老境タイプはいなかったし、ゴリゴリのビジネスタイプもいなかったわけだ、それで目下のナゾは「メラウルワー(メラメラ、ウルウル、ワー)」に行き着いた、大前提となる「識りて行う」ということ自体がこんなに遠いものだとは考えもしていなくて、僕は自分の考えが甘かったと思い知らされているのだった。

まあ、ともあれだ、僕はしんどいことが苦手なので、「識りて行う」ということの果て、「意識が消失するところまでやれ」「行為が消えるところまでやれ」ということを、本当は単純に勧めたい、このことはもうずっと変わらないままある。
その、「消えるところまで」というのが、かねてから申し上げているところの「フィクションの早さ」で、時間軸上のズレということになるのだが、このことはあくまで「識りて行う」ということの果てにあるのであり、メラウルワーの果てにはない(ビジネスや老境の果てにもない)。
意識も行為も、消えるところまでやる、その他も同じだ、野心メラメラも見切って消す、感受性ワーも見切って消す、寂しがりウルウルも見切って消す、ビジネスと老境は、別に悪ではないのだろうが、究極消す、何もかも消えるところまでやる、そうしたら人は「永遠」および「永遠の相貌」に到達する、「永遠の相貌」は詩人ウィリアムブレイクの言葉だ。
で、どこまでいっても、「識りて行え」がスタートラインになるのだけれど、このスタートラインになる「識」は、生後半年ぐらいのところにあるのだ、この世に生まれて六ヶ月ぐらいのところまで引き返して、そこに接続しないといけない、「自分は何のためにこの世に生まれてきたか」という、わりとありふれたテーマのところに引き返さないと、そもそもスタートが切れないのだった。

あなたが「願望」を持つ以前にも、あなたは漠然と「夢」を持っていたはずだ。

「識」なんて言うと、あまりにむつかしく聞こえてしまうので、それは「夢」だと言いたい、われわれは誰だって願望を持っているが、その願望の裏側に、願望とは違う何か「夢」そのものの成分を持っていたはずだ、それ自体が無垢で幸福な、何かよくわからない――けれども永遠に確信されつづける――成分のそれを。
そこにつながる、そこにつながってする、そこにつながってデートも仕事も、勉強もセックスも、食事も旅行も、するもんだ、そうすることで初めてすべては人間の足しになる、識りて行うことの果てに「あの夢」の中へ消失するのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
「識」の究極解3

の話は、直接役に立つわけではないが、予備知識みたいなもの。
まず、「よくわかっていないわたし」みたいなやつ(カルマ:業)が、この宇宙をフラフラ〜としている(なんだこのインチキスピリチュアルみたいな話は……)。
で、コイツは、「よくわかっていないやつ」なので、何かいらんことをするし、過去にもいらんことをしている、そしていらんことをしているから意識(識)が生じる、そりゃ究極なーんにもしたことのない存在には意識が生じようがないだろう。
この、「いらんことした→だから意識が生じた」ということで、この存在は宇宙から落下し、人間としてこの世に生まれてきている、聖書世界でいうと禁断の果実を食ったところだ、「いらんことをしたから神の国を追放されてこの世に落ちて生まれてきよった」ということになる。

この世に生まれて落ちてくると、この世には色とか形とか名前とかがあるものだから、目とか耳とか鼻とか口とか、身とか(つまり五感)、意味(六感)とかが活躍しよる。
そうなるとこの世で、目とか耳とか(以下略)は、いろんなものに接触し、蝕まれていく、そうするといろんなものをキャッチするというか、いろんなものを感受することになる、感受するとそれを愛してしまい、愛したものが手に入らないと寂しいし飢えるので、それをゲットしようとする。
そうして何かをゲットしたら、何かを「所有」することが発生する、所有があるから未来に向けて生きていけるわけだが、未来に向けて生きていくということは、やがて老いて死ぬことにたどり着く。
そうして老いて死ぬとき、「で、わかった?」ということになるが、やっぱり「よくわからんかった」となるので、その後は「よくわかっていないわたし」としてまた宇宙をフラフラ〜とする、そうしたらまた「過去にいらんことしたから意識が発生して、人間として生まれ落ちて……」ということになる、これが仏教説が唱えているところの輪廻だ。

わからん→(わからんから)いらんことする→(いらんことするから)意識発生[人間誕生]→(誕生したから)物質世界→(物質世界だから)六感活躍→(六感活躍するから)六感接触→(接触したから)感受性→(感受したから)渇愛→(愛したから)ゲットしたくなる→(ゲットしたから)所有→(所有したものには)未来がある→(未来は必ず)老いて死ぬ→(老いて死ぬだけとなったら)わからん→以後繰り返し。

アナログ時計はご存じ十二種類の方向を持っているが、1時がなければ2時がなく、3時がなければ4時がないように、仏教の輪廻および十二因縁も、出口のないままぐるぐる回っているということが指摘されている、ホンマかどうかは僕ではなくブッダに訊いてくれ、僕なんかに訊くよりはるかに確かだ。
物理学上、この宇宙は数式的には存在しなさそうなものが、「自発的対称性の破れ」によって生じているそうだから、われわれ人間も、「自発的いらんことするやつの破れかぶれ」によって生じているのかもしれん、アダムとイブは放っておくと自発的にヘビに誘われて禁断の果実を食うというわけか(ちなみに「自発的対称性の破れ」の発見でノーベル物理学賞を受けたのは日本の南部陽一郎博士だ、僕はオカルトやスピリチュアルの話がしたいのではない)。

正しく見ないとな | comments(0) |
「識」の究極解2

ず、人間の生まれてくる仕組み、特に「わたし」がどこから生まれてきているのかは、誰にもわからない、誰にもわからないが何か仕組みがあるのだろう(天国的な何か)
で、赤子なんか見ているとわかるが、赤子は無知のはずなのに、見ていとると明らかに「バカ」ではない、何かをすでに識っている眼差しをしている、何もしない赤子なんていないし、何かを識っていて何かをしようと常にしている、一般的な人間の原初がこれだ(識りて行う)
とはいえ次に、自分の識らないことというか、自分にカンケーないもの、つまり液晶画面がビカビカーとか、サウンドがズンドコーとか、ナントカヒルズの建物がババーンとか、そういうものを見て「おおー」「メラメラする」ということを知ってしまう、それで原初の「わたし」がどこかへ消えてしまう(メラメラ野心)
次に、自分にカンケーないものを、摂取して蝕まれていく、「これは……この食感はサイコー!!」とか、「なんかこの曲聴くと、ヘンな気分でハイになっちゃう〜」、そうしたらメラメラを離れられるので、「これか!!」とアホ用の確信をしてしまう(感受性ワー)

とはいえ、食感とオナニーだけで生きているのは、さすがにさびしくなってくるので、「ちゃんと共に生きていける家族がほしいの」「そのために婚活する」「あと子犬も飼いたい」「あとちゃんとした職業と立場がほしい」となる、「全部ゲットする!!」というアホ用の確信が出てきて「これか!!」となる(ウルウルハングリー精神)
しかし、そんなに実際にゲットできるわけでもないので、「いま所有しているものを大事にしよう」「未来に向けて、こういった所有物を増やしていこうよ、それが有意義だよ」となる、それでいったん落ち着きを得ると同時に、実務的に忙しくなる(ビジネス)
そうして忙しくしているうち、あっという間に「すごい、年取ったなー」「老けたなー」という実感のときがやってくる、すると「リアルに長生きしたいわ」という危機感が起こってくる、「ビジネスっつーのもどうなの」「限界あるわぁ」となってくる(死ぬ準備)
このようにして人は、人間の原初、「何をするためにこの世に生まれてきたのだったか」ということから、いつの間にか遠く遠く離れてしまう、そしてやがて死ぬと天国的なところに行くわけだが、「あれ? けっきょくやり残していることない?」となり、ふたたびこの世に生まれてくる、「永遠にこれではキリがないだろ」ということのようだ。

二十五歳のあなたの胴体を、二十四年と半年前に戻してくれ。

生後半年ぐらいまで、あなたには「識」が残っていたのだ、んなアホなという話だがこれはマジだ、あなたの胴体と四肢はアホのクセがムキムキについているから、それを取り除かないといけない。
メラメラ野心もわかるし、感受性ワーもわかるし、ウルウルハングリー精神もわかるし、ビジネスもわかるし老いて死ぬブルーもわかる、そして死んだあとの天国的な何かもわかるのに、どーして「識りて行う」だけがわからんのだ、生後半年のあなたはわかってたでしょーが。

正しく見ないとな | comments(0) |
「識」の究極解
「識りて行え」「認識して行いを為せ」と、最近よく勧めている。
で、この話は必ず、「識」とはなんぞや? という不可解に突き当たってしまう。
このことの解がようやく出た、「識」とはアレだ、「自分はこの世に何をしに生まれてきたのか」という、プリミティブな既知感覚のことだ。
自分はこの世に、何をしに生まれてきたのかは識らないが、「何かしに生まれてきたんだよ」と、信じるというよりは「識っている」ということ、これが「識」の原初だ、カッコイイ言い方をするなら「識」の究極解がこれに当たる(カッコよく言わないと誰も読んでくれないのでね……)。

つまりだ、「識りて行え」というのは、もちろん「わたし」がそれを「認識」して行為しないと、それは行為にならないよ、ということなのだが……
あなたがたとえば、公園のケヤキの樹を、深夜にノコギリでゴリゴリ伐り倒したとする、「ファォォォー!」、人間にはそうした行動も可能ではあるが、確実にそのときのあなたは、「自分はこんなことをするためにこの世に生まれてきたわけではない」と感じるし、そのむなしさを悔いるだろう、何の行為にもならないその行動と叫びを。
どうやらマジに、人間は、この世に何かするべきことがあって、つまり解消すべきカルマがあって、生まれてきているわけだから、それと接続してこその「わたし」なのだ、この本性と接続した「わたし」が失われると、人間は行方不明の「我」のバケモノにしかならない。
人間に、たくさんの刺激や抑圧やオカズなどを与えると、猛烈にオナニーしたり薬物に耽ったり、しきりに「うぇーい」と叫ぶようになったりするが、そんなことをするためにこの世に生まれてきた者は一人もいない、「識」の究極解はそのようにして、「自分は何をしにこの世に生まれてきたのだったか」だ。

刺激に駆られて暴れ回った人が、後にほとんど不能の「自分探し」をやらされる。

刺激に駆られて「ウオオオー」みたいなことに長期間耽ると、人間の根源的な「識」がどこかへ消し飛んでしまうのだ、そうなるとその後は何らの「行い」も為せなくなる、勉強も仕事も恋愛も子育ても、すべて上っ面になるのだ、これは怖い。
400メートルトラックを一周するつもりだったはずの人が、いつの間にか脱線して隣町まで行ってしまったのだ、「あれ? 何をしていたのだっけ」、こうなると元のコースに戻るのはとても難しいし、ずっと変わらず走り続けているのに、「なぜ走っているのかはもうとっくにわからない」でハアハア走っているのだ、これはキツい上に不毛で恐ろしいじゃないか。
正しく見ないとな | comments(0) |
「感受性」の本質はどこへ行くか
学志望のくせに、「感受性」を放棄してきたとは、この十年間、なんたる無謀であろうか。
われながら、よくそんな無知ができたなと今さら驚くが、やってしまったものはしょうがない、どうせそういうことはよくあるのだ。
僕の書く、むかしの文章のほうが好きだったという人もいるだろうが、それは狙い所が「感受性」にあったかどうか、という差に尽きる。
僕はあろうことか、ゆったりとした感受性で世界が拓けるということを、否定してかかっているのだ、こんな文学志望はふつうあったもんじゃないな。

だからこそ、非感受性の文学の動きを起こしたい、というのもある。
そんなことは、他の立派なヤツがやればいいと思うが、まあ僕も他にすることがないので、僕が目指してもかまわないだろう。
僕は、ゆったりとした感受性で、ゆったりするということが、苦手なのだ、あろうことか僕が苦手なのだ、僕は追い詰められる中で光を見つけることを愛している。
まあしかし、いくらなんでも「感受性はゼロで」というわけにはいかないよなあ、と今さら反省しているのだった、どうも僕だけのわがままな世界を生きてきてしまった。

「感受性」の本質は、停止にある。

「感受性」の本質は、それに浸るということだから、人はその中で動かなくなる、満足の中で動かなくなるというのが僕は苦手だ、求め続けて動き続けろというのが、まったく文学がわかっていない僕の希望だ。
「感受性」の果てが、どこに行くか、ふつうはあまり知らないし、考えもしないだろ? 僕は警告したい、「感受性」の果てはとても危険なところに行くのだ、それよりは「識りて行え」と僕は勧めておきたい、このことがずっと先にはあなたを安全にするから。
できるオンナだね | comments(0) |
感受性にはまったくの裏側がある
は受け身になれない人間だ。
そんなことに、今さら気づいた。
受け身になれないから、趣味とか娯楽とかがないのだ。
そして、いつまで経っても、他人の趣味とか娯楽に対しても、共感がヘタなのだ。

まあそういうヤツもいるんだなと、誰かが知ってくれたらうれしい。
世の中には、自発的になれない人もいれば、受け身になれない人もいるのだ。
能動的、ということがさっぱりわからない人がいるように、僕はずっと、受動的ということが、さっぱりわからないまま生きている。
そういうヤツもいるのだ、特徴か欠陥か、長所かは知らない。

僕の文章は、能動的なヤツが読むと、別の読み取りが起こるようにできている。

今、この記事は別だ、この記事は、ただ眺めて受け取りやすいように書かれている(これはこれで、悪くはないのだ)。
文章を読むことや、生きることそのものも、「感受性」がすべてじゃないということを、僕は勧めておきたい。
できるオンナだね | comments(0) |
無意味の点、フィクションスター

極星という星があるが、星といってもわれわれから見れば夜空の「点」でしかないので、何の意味もないというか、われわれの健康や幸福の足しにはならない。
けれども、夜空にその「点」が浮いているからこそ、これまでの人類は東西南北をよく把握でき、海をゆく船も目的地にたどり着けたということがあるだろう。
われわれは、北極星を基に、東西南北を創ることはできるが、東西南北を基に、北極星を創ることはできない、星は初めからあってもらわないと困る、あんなデカくて遠いもの誰が創れるか。
北極星という星は、それ自体はわれわれの実生活に何も関係ないが、その関係ないものがずっと変わらず浮かんでいるからこそ、われわれは迷わなくて済むし、また自分の住む世界をよく見通せるということがある/生活費の足しにならないからといって、北極星を否定する奴はもちろんアホだ。

北極星がなければ、海をゆく船は、まさに「右往左往」になっただろう。
人間が生きるときも、何かその「無意味の点」、フィクションだからこそ変わらずにありつづける標準点がいるのだ、それがないと人間自体も「右往左往」しかできない。
「男だから」とか「女だから」とか、「先輩だから」とか「後輩だから」とか、そんなことに本当は何の意味もないのだ、何の意味もないのだが、そのフィクションが人を「迷わせずに済む」という役割を果たしている。
北極星というフィクションを基に、われわれは地図と東西南北というノンフィクションを生きているのだ、むろん地軸とか地磁気もあるけれどね、そういうことじゃない、われわれはフィクションの点なしにノンフィクションの世界を整理できないということ。

声が出るから挨拶をするのではなく、挨拶があるから声の出し方がわかる。

東西南北があるから「北極星」がありうるのじゃなく、「北極星」があるから東西南北がわかるのだ、一番遠いものが身近なものを定義するのであって、身近なもので遠くのものを定義はしない/右往左往したくなければ。
「カミサマに祈ったら腹痛が治った」というような、身近なもので遠くのものを定義しようとする浅はかさは、ロクなことにならないよ/われわれの身近な都合から、遠く深淵の真理なんて定義できない、ここを誤るとますます邪悪化してしまうわな。

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ヨーイドン2
ーイドン、というのは実際にある、誰でも知っているし、わかりやすい。
僕があなたに、「ヨーイ」と厳しい声で言う、するとあなたはバッと身構える、「ドン」というと走る、あるいは何かをスタートする。
ところがなぜか、あなたはあなた自身に向けて、「ヨーイ」と言っても、あなたは身構えないのだ、「ドン」といってもスタートしない、なぜこのことの違いが生じるのか?/しかもわざわざ、「やらされる」ほうを選んでいる。
これは認識機能の問題なのだが、むつかしい話はいい、ただあなたが知るべきことは、「他人のヨーイドンにしか反応できないのはマズい」ということ、こんなこと考えてみれば当たり前のことなのだから。

なぜ「ヨーイドン」の、セルフができないのか、このことは意外に、「人付き合いが少なかったから」ということになる。
つまり、ヨーイドンを、言われることは多かったのに、自分で言ったことはないのだ、ほとんど権威と権力にヨーイドンを言われるだけで過ごしてきた。
人付き合いの少なかった人間は、実は、自分自身と付き合うこともできなくなる、誰かにヨーイドンを言わずにきた人間は、自分にもヨーイドンを言えなくなっているものだ。
人間としてのヨーイドン、それはあくまで人付き合い、人間関係のものであって、権力の関係じゃない、権力でヨーイドンを言う・言われることばかりしてきた者は、けっきょく人間のする「ヨーイドン」を知らない、それはとてもマズいことだ。

学生のころは点数で、大人になってからは金銭で。

高い数字利益をもらうためだけに、ヨーイドンを聞き取ろうとする、そういう人間になるように、社会は人を飼育するところがある、それは社会生産に向けては必要なことだが、そんな自分の幸不幸なんて勘案してくれないシステムに下駄を預けてはいけない、そこまでわかっていなけりゃ大人とはいえない。
あなたはヨーイドンに向き合うと、きっと「有意義かどうか」ということを考えるだろう、それは人付き合いが少なかったからだ、少なくとも僕と付き合って有意義と感じた友人は一人もいなかった、それでも無数のヨーイドンは飛び交っていた、誰もトクをしないのが幸福だった。
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ヨーイドン
ラソーなことを言うようだが、自分が何かをやるということは、それを「自分のもの」にするということだ、人に命じられたことを済ませるってことじゃない。
あなたがお笑い芸人だったとして、テレビ局に「手こぎボートで東京湾を渡ってこい」と言われる、そうしたら手こぎボートで東京湾を渡るということが、「自分のもの」にならないといけない。
つまり、テレビ局の命令なんか関係ないってことだ、「おれは手こぎで東京湾を渡る、それをテレビ局は撮影でもしやがれ」と逆転する、そうしてあなたは手こぎのボートに「○○号」という名前をつけるんだ。
あなたが「ドラクエ」をやるのでもいい、そうしたら、ゲームのミッションによってあなたは竜王を倒すのじゃない、「おれが竜王を倒す」のだ、それがゲームとしてどうか? なんてことは関係ない、自分が何かをやるということは、それを自分のものにするということだ。

学校から宿題が出る、算数とか作文とか、それらは面倒くさいが、やるならやる、そしてやるということは、それを学校の宿題にするのじゃない、「おれの宿題」にすることだ。
ここを勘違いする努力家は、宿題を、提出するものだと思っている、そうじゃない、宿題をやったというなら、わざわざ提出してやる義務はないんだ、教師どもが生徒の宿題を見てニヤニヤすることには何の意味もない、そんなことに加担する必要はない。
自分に課題があるとしたら、自分で自分に課したものだけをやることだ、他人に課されたものなどほうっておけばいい、宿題のノートを提出しろというなら、「お前がやれ」と教師に言い返せ、教師はどうせそういうことが得意なんだから。
権力のある奴に、あれをしろこれをしろと言われたら、すべて自分のものにしてから、二倍のワークにして返せ、どんな権力者も二倍のワークが返ってくれば文句はいわない、そしてごくまれにいるまともな権力者が、あなたを朋友に選んでくれるだろう。

「やらされた」なら、「やらなかった」ということだ。

宿題をキチンと「やらされた」者は、教師の言いなりになったというだけで、自分を自分の言いなりにはできなかったんだな、そういうタイプはやがて追い詰められる、実は自分では何一つ「やらなかった」というまま生きてきているからだ、こんなことは早く気づいて切り替えるべきだ。
権力のある誰かが、「ヨーイドン」と言うとあなたは走る、なぜあなたは自分で自分に「ヨーイドン」と言っても、走り出せないのか? そうやっていつのまにか飼い慣らされているということは実際にあるんだ。
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(これは僕の話)解決編
りがたいことに、帰国子女の友人がさっそく情報をくれた、「デーモン」の原義について、英語版のwikipediaを調べてくれたらしい(助かる)。
デーモンの概念は、古代ギリシアの時代からあり、つまり紀元前からあるので、キリスト教成立以前からあるのだ、そしてキリスト教以前の「デーモン」(スペリングも違い、もともとはダイモーンと呼ぶらしい)は、あきらかに「霊」ないしは「神霊」のことを指しており、必ずしも悪魔じみたものを指してはいない。
ただ、キリスト教が主流化していく中では、ダイモーンの神霊力はキリスト教にとって異端であるので、単純な権威主義的な背景から、デーモン=異端=悪魔、という見做し方をするようにバイアスが掛かっていったようだ、特にルネサンス以前の保守的な教会勢力においてはそういう抑制が有為にあり得ただろう。
キリスト以前、紀元前の賢者ソクラテスは、典型的な「カミサマありき」の「光の人」だったが、その弟子プラトンから見て、ソクラテスはダイモーンによってインスピレーションを得ていたと看取されたようだ、ということは元々のデーモン(ダイモーン)は、僕が捉えるところの「霊」ということで間違いない。

ご存じのとおり(?)、僕は「血に情念が宿り」「肉に霊が宿る」と主張している、そして「血の情念が肉に染みる」ということが「にくしみ(肉染み)」になると、僕はそのことを忌避的に捉えている。
そして、肉から血の情念を抜かなくてはならない、つまり染み抜きをするように肉を洒脱しなくてはならない、そうすることで肉に霊が宿るのだと唱えているが、このとき「肉に善なるダイモーンが宿る」と言い換えても差し支えない(さすがに言い方がおっかないが)。
人間の中心軸「精」に、カミサマが入り込むことで、人間の中心軸はその字義どおり「精神」になり、このときウパニシャッド(ヴェーダの奥義書)で言われる梵我一如の状態が得られるのだが、このとき肉が鍛えられていると全身の霊化が起こる、胴体の「流れ」が滞りなく精神と合一する、つまり人間はこのとき全身全霊でダイモーン化する。
われわれが自分を「鍛える」とか、「修行する」とかいうのはすべて、この全身全霊のダイモーン化を目指すことを言うのだが、このとき人間のクリエイティビティが「神業」に及ぶので、そのことをユングは「創造のデーモン」という元型で捉えたということだろう/何を言っているんだコイツはという話だが、こういう基礎理論はちゃんと整合していないと自分が混乱する。

わたしが世界を描くことはありえず、ありえるなら世界が世界を描き出す[創造のダイモーン]。

何を言っているんだコイツという話だが、実用的に書き残すならこうしておくしかない、こんなもん僕だけがわかっていればいいのだ、僕が何かを書くのではなく肉に宿った霊が何かを書く、ところがその霊は世界から宿ったものなのだから、けっきょくは世界が世界を描き出すにすぎない、ただ僕は人間の肉を持っているので、その描き出しは人間の肉(の性質)に特徴づけられる。
僕自身には何のクリエイティビティもないのだ、僕は何もしない、ただ肉という装置が勝手に世界化のin-outの営為をするにすぎない、第一この肉自体、勝手に育ったもので僕が創ったものではまったくないのだから、肉の性質は勝手に肉の性質だし、肉が世界でないほうが不自然だ。
視点変えてこ | comments(0) |
(これは僕の話)
れは僕の話なので、誰も理解せんでいいが……
「創造者のデーモン」がわからんのだ(ユング元型)、いやもちろん僕は芸術家なので、創作のときにはけっきょくその力ばっかり使ってはいるのだが、その「デーモン」の存在が僕の基礎理論と合一しないで困っている。
「まとめる力」がカミサマ由来なのはわかるが、「ぶっ壊す力」はデーモン由来なの? 創作に関して人間がチャチいのだけはわかるが、何しろ東洋人としては「デーモン」が感覚的にわからん。
デーモンというと、典型的に岡本太郎がわかりやすいが、あれも別に「闇」というのじゃないし、獣とかグールとかとも違うものな、じゃあ「デーモンってなんだよ?」、これが、さんざん使っているくせに実は自分でわかっていないのだった(誰か教えろ)。

「デーモン」を、もし地獄由来のものだとすると、これはどうも僕の基礎理論と合一しない気がする……じゃあ「ぶっ壊す力」はいわゆる破壊神(シヴァ)あたりなのか? それなら話はわかりやすいが、破壊神イコールデーモンでいいのか、というとやっぱり確信がない。
あ、でもそういえば、このところやたらに「おでこに横線」のインスピレーションを受けているから、やっぱりシヴァ神なのか? うーん、そうなると破壊と創造はヨコとタテしか変わらんということになる(いや、そう考えてみるといかにもそれっぽくはある)。
こんなもん、もうただのグチにしかならんのだけどね、維持神(ヴィシュヌ)方面に偏ったまま、芸術の創作なんかできないわけであって、だから本当は人間の認識と行為を勧めるとかいう話を、僕はしたくないのだ、こうして本分の能力が行方不明になっちゃうから。
まあどうせ、おれのことだから、なんとかするんだろうけれどさ(ぐずっている)、この切り替えを日に何度もやらされるのはさすがにキツいというか、まあいいやさしあたり地下室と生命のグロッタで芸術につなごう(自己解決)。

カミサマの要らない世界がカミサマだ。

われわれが、老いたり死んだり苦しんだりするからカミサマが必要なのであって、それさえなければカミサマは要らないということになる、なぜならすでにそこにカミサマがあるからだ、デーモンを否定しないでいられる唯一の存在がカミサマだ、なぜならカミサマのほうが強いから。
カミサマのいない世界で、デーモンが暴れたらサイアクだが、カミサマがいれば「好きにせえ」てなもんよ、デーモンの脅威を説く賢人を正面から踏み潰して笑うのがカミサマの徒というやつだろう、稚拙で未完成だが僕の知っている正しいことなんてこれきりしかないのでしょうがない。
視点変えてこ | comments(0) |
とりいそぎ実用的な、人間への道[4] 「フィードバック、行為を再認識する」

とえば「彼とパリに行ってステーキ食べてきました〜」という発信があったとして、「それって何の行為やねん」ということになる。
そんな「行動」は、勝手にしたらいいが、何らの「行為」にもなっていない、このことはいくら反論をこねくりまわしても無駄だ。
どれだけ「行動」を派手にしてみても、「行為」の芳醇さには勝ちようがない、「行為」というのは思いがけずギッシリと賑やかなものだ、この<<「行為」とはギッシリ賑やかなもの>>、<<しかも割と忙しいもの>>ということはぜひ覚えておいてほしい。
「認識」は、メラウルワーと無縁の静かなものなので、それだけに無限にギッシリと詰め込めるのだ、その実体化である「行為」が賑やかでないわけがない、静かだがギッシリと賑やかだ、このことは漠然とでもいいから覚えておくほかはない。

認識は「見上げるもの」だが、行為はその実体化であるため、これまでにした「行為」というのは、後になって実に「認識」しやすい(見上げやすい)ものになる。
たとえば「あのときは毎日○○に行ったよね」という「行為」は、いわゆる思い出として「認識」しやすい、あくまでそこに感傷的にならず、「認識」のみを見上げるのがポイントだ、これを行為から再認識を得るフィードバックと呼ぶ。
認識を披露しあうわけだが、<<あなたの内にあるものは人には伝わらない>>、あなたの「内」にあるからだ、だから見上げる「認識」によって話す、あなたが見上げているものは他の誰かも見上げることができる。
「行為」を「再認識」することで、認識の披露の足しにするわけだが、あくまで「行為」を認識するのであるから、行為には失敗もなければ成功もない、行為には「有意義」もないのだ/ゴルフのおじさんが空振りしたとしても、それは失敗ではなく、おじさんの行為はただ「ボールを狙ってクラブを振った」というだけだ、価値観や意見や意義が「認識」に混入してはならない。

「パリに行って、ステーキを注文した」なら「行為」だ。

獣やグールでも、ステーキを食べることはできるが、ステーキを「注文」することはできない/そして後になって、「あのときはステーキを注文したね」と再認識できないなら、そのときは何の行為もしていなかったということだ。
認識を披露しあうことで、互いの「行為」が生命を得てゆく、また後日には「行為」の再認識が披露されあい、また新しい「行為」の生命が付与されていく、われわれの交友関係はこのことで成り立つべきだ、いくつもの認識を互いに見上げあった友人として。

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とりいそぎ実用的な、人間への道[3] 「行動をやめさせる!」
なたがテストで百点を獲ったとき、あなたの行為はあくまで「問題に解答した」だけだ、満点を「獲得した」ということはあなたの「行為」ではない、<<獲得のことはなるべく忘れるほうがいい>>。
あなたはメラウルワーによって、「○○したい」という衝動に駆られる、一般にそれはモチベーションと呼ばれているが/このときあなたは「獲得」に向かっていて「行為」には向かっていない。
認識する、認識を見上げる、そして行為すること、かつ<<認識していないことは行為しない>>こと、認識していないことの行為に及ぶことを基本的に禁じること(なぜならそれは本当の「行為」ではないから)。
テストで百点を「獲得したい」と駆られると、人はテスト勉強という「行動」を起こす、けれどもこれは認識から生じた行為ではない、獲得に向かうわかりやすいモチベーションは人間の道ではなく、やがて人間らしさを損なっていくものだ。

お互いに認識を披露し合うこと、そして、一般論とは真逆になるが、<<行動につなげないこと>>、行動につながってしまうのはそこにメラウルワーが発生しているからだ、人は駆り立てられると行動に移したくなる(そして三日坊主で消沈する)。
メラウルワーに駆り立てられて、行動に「飛び出す」こと、それはまるでヒロイックな青春正義であるかのふうに捉えられているが、完全に誤解なので修正すること。
「行動しちゃダメ」、それでいて「認識」を見上げて、「認識」が静音化し、確実化するまで見上げ続けること、行動はしない、行動などしなくても、本当に「認識」が得られたらそのとき「行為」はすでに生命を得ている。
あなたが二十代の女性だったとする、「二十代だね」ということに、まずあなたはメラウルワーを起こすから、あなたは自分の内を放棄し、「二十代」という認識を外側において見上げる、<<あなたがどう思うかではなく、「二十代」という認識がどう思うか>>、あなたがワーワー言うのではなく、「認識」そのものが発している声がある、その声を聴いたとき「行為」は勝手に生命を得る。

友人同士、行動をやめさせる! そして認識を披露しあい、互いの「行為」に生命を与えあう。

「行動をやめさせる!」というのは、現代のリア充インフルエンサーの発想とは正反対になるだろう、見上げる「認識」の世界を充実させ、互いの「行為」に生命を与えあう/そのときすでに、互いの「話す」「聴く」「考える」といったことが行為の生命を得ている。
自分の内なるものとやらで、「行為」に生命を与えることは不可能だ、見上げる認識の豊かな世界が成立したとき、「認識」だけが「行為」に生命を与えてくれるのがわかるだろう/生命を吹き込まれた「行為」は三日坊主にならず、その人の生涯をつらぬいて続く「行為」となる。
おしゃべりしちゃおうぜ | comments(0) |
とりいそぎ実用的な、人間への道[2] 「認識を見上げる」
うのをやめ、楽しむのもやめ、理解するのもやめ、「認識」を見上げる。
「話す」と「言う」は別だ、「話す」のは、「認識」を見上げて話す。
視線を上にあげるわけじゃない、感覚、「認識」そのものを見上げる感覚。
木々は緑で、薔薇は赤い、その認識が、正面にはない、「認識」は見上げるところにある。

人間は、「頭の中」で考え、「胸のうち」で思う、すなわちそれはinnerのものだ。
「認識」は違う、認識は頭の中にもないし胸のうちにもない、正面にさえない、見上げるところにある。
「お前はきれいになったな」と言うとき、おれがお前に言っているのじゃない、おれがお前に思っているのじゃない、見上げる「認識」について話している。
「認識」は、そんなに上空にない、せいぜい見上げるところ45度、天井と頭の中間ぐらいのところを漂っている。

あなたの内にあるのは「意見」だ、「認識」はあなたの外側にある/あなたの「思っていること」じゃなく、あなたに「見えているもの」が「認識」だ。

「認識」を見上げる、「認識」にはたいてい言葉も使うので、そのときは言葉も見上げる。
火曜日、とあなたが意見しなくても火曜日だ、ならば「火曜日」の認識を見上げる、そのときはじめて「火曜日だね」という認識が得られる。
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