☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
カルマ肉の真相
「カルマ肉が循環しているだけですやん」という看破は、一部の人に大ウケしたようだ、「目が覚めるようでしたよ!」と/確かに僕自身、改めて「んっふwww」と笑ってしまうだけのパンチ力がある。
僕は人をバカにするのではなくて、こんなものを「人」とは認めないというだけだ、だって本当にカルマ肉が循環しているだけなんだものな、<<どうりでコイツ何も勉強しねえなと思ったよ>>、人として存在していないものなら勉強しないのは当たり前だ。
カルマ肉は、もう長いこと「人」のふりをしているので、ここまで膨大な「裏切り」を蓄積してきているはずだ、そしてその「裏切り」を、いざというときには泣き落としで許してもらおうという魂胆でいるな、なぜ彼(彼女)の中でその甘い見通しが独自に成り立っているのかは意味不明だが……
カルマ肉はけっきょく、立ち回ったり、恫喝したり、立場や慣習を利用したりで、本当のことを引き受けて対峙することを避けてきたのだ、そこには罪というより近所迷惑が生じた、そして本当にただのカルマ循環の時間しか過ごさなかったというのは、懲罰というよりはただの「妥当なところ」だった。

「カルマ肉循環」or「学門」という、単純な二者択一だけがあるのだ。
すべての生きものは、放っておけば、生来的に付与されたカルマのとおりに、その生涯をぐおんぐおんさせるだけだ、「なんだこれ」と言われても、本当に何でもないのだ/木星が木星として浮かんでいることが、「ただそれだけ」としか言えないことのように、カルマ肉の循環というのも、「ただそれだけ」しかないのだ。
生きものは、いったん生まれたからには、死に向かっていくしかないので、ゆくほかはないのだ、<<下へ下へとゆくほかはない>>、何に焦がれていようとも、どれだけ焦がれていようとも、下へ下へとゆくほかはないのだ/その唯一の例外が「学門」にあたる。
おれの言うことより、カルマ肉の誰かが言うことのほうが、ドーンとした迫力と説得パワーがあるよ、なぜならそれはカルマ肉の呼応があるからだ、おれの話すことは笑えるだろ、あちらさんの話すことはけっきょく「笑えないこと」に行き着く、それがドーンとした説得力の正体だ、アンド、グッバイだ。

カルマ肉の真相は、「人」の真相ではなかったのさ、グッバイ。

だからカルマ肉の真相を、見つめて追究することには、畢竟何の意味もない、意味のない苦しみが猛然と繰り返されているだけだ、<<繰り返されるものの始まりや終わりを探して何かが見つかる可能性があろうか?>> 今さらグッバイではなく、初めからグッバイだったのだ、そこにもともと「人」なるものは存在しなかったから。
カルマ肉は、いっそ、すさまじいと呼ぶべきほどの執念で、「人」のふりを続けている、その涙ぐましさまでちゃんと計算に織り込んでだ/しかしその執念的なやり方をいかようにしても、カルマ肉が「人」の身分に昇格することはありえない、どれだけ焦がれてもがいたとしても、下へ下へとゆくほかはないのだ、なぜそうなるかというと、うーん、正しいやり方を知らないからだ、シンプル過ぎて笑える結論だな。
正しく見ないとな | comments(0) |
「やることがある」というすばらしさ
は安定して暮らしたいものだ。
だから多くの人は、安定して暮らすことに成功する。
だが、今日も一日、安定のために頑張りましたということをずっと続けていると、ふと寝床についたとき、「何のために毎日を安定させているのだろう?」という想念に襲われる。
翌朝、予定通りに目が覚めるのだが、「さあ今日もがんばろう」と思いつつ、その向こう、「こうして安定を続けていってどうするのだろう」という想念に襲われる/とりあえず「いってきまーす」と言って出て、がんばって、帰宅するしかないが、また寝床では同じ想念に駆られる、このことはいずれ宥めるのに酒や薬物や刺激物を必要としてくる。

誰もが大企業に勤めているわけではないし、誰もが大都会に暮らしているわけではない、むしろそんな人は一握りだ。
ありふれた街で、ありふれた立場にいて、具体的に、毎朝起きたら何をしたらいいのだ? そして何をやりきって夜眠ればいいのだ? けっきょくその問いかけには誰も答えない、年配の方などほとんどが漠然と「テレビを観ている」だけで、何かを特別に「やっている」ということはほとんどない。
若年層は、マンガを読んだり、アニメを観たり、アイドルを観たり、ユーチューバーや動画を観たりしているだろうが、それだって積極的に「やっている」わけではない、何もしないのが「怖い」ので、その埋め合わせに娯楽を補充しているだけだ。
「やることがない」という状態に、二週間でも置かれると、人は朝も夜も怖くてしょうがないのだ、朝は何のために起きるのかわからないし、夜は何のために今日起きていたのかがわからないのだ/それで、本当はやることがないからマンガを読んでいるのに、マンガを読んでいることを「充実」とすり替えるようになる。

「忙しい」は不幸で、「時間が足りない」は幸福だ。

サグラダファミリアは今もまだ建設中だが、あれは時間が足りていないということだ、忙しいということではない、忙しいというのは誰でもトラブルとリソース不足を抱えれば強制的に忙しくなる、そのときに人は「時間が足りない」とは言わない。
マンガを読んじゃダメとか、ゲームをしちゃダメとか言っているのじゃない、マンガを読んでゲームをきっちりクリアするのに、「うおおお、時間が足りないいいいい」と感じるのが幸せだということだ/ゲームをしちゃダメと説教してくる教師がいたら、それはその教師当人が時間を余らせているということだ、やることがないから人にしょーもない口出しをしているのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
多くの場合、人生はびっくりするぐらいつまらない3
いこと、「どうしてこの人は他人のことがわからないのだろう」という疑問に直面することがあったのだ。
その回答はどうやら、他人がわかるどうこうの前に、本人が「人」ではないということらしい、どうやら単なる生命体というのは本当にただのカルマ肉のようだな、そりゃ他人のことなんかわかるわけなくて当たり前だ。
他人のことを、わかろうとしてわからないのではなく、そもそもわかろうとするメカニズムそのものを所有していなかったのか……そりゃ同じことがえんえん繰り返されるわけだよ。
これは人のことを悪く言っているのではない、<<無存在を看破>>しているだけだ、そりゃライブ会場がスカスカに見えるわけだよ、まさか人の集まりではなかったとはな。

カルマ肉は、繰り返ししかできない、のではなく、繰り返しを選択している。
それはカルマ肉の意志なのだ、だからこちらから口出しする筋合いはない。
カルマ肉は、人ではないので、何かを理解するということがない、円周上の点Pのようにぐるぐる回り続けるだけだ。
朝、目が覚めたときから、夜、トイレに行き、夜中、眠るときまで、何かしらの幾何図形の上を点Pが巡回しているだけだ/カルマが歩いているのだ、これは幽霊が歩いているという話とは違ってオカルトではない。

アナログ時計がぐるぐる回っているのが珍しくないように、カルマ肉がぐるぐる回っているのは何も珍しくない。

一種の時計が歩いているようなものだと思えばいい/人は時計で時刻を理解できるが、時計が人を理解できることは永遠にない。
時計が何かを所有するということはないし、何かを命じるということもない、人が時計とのかかわり方を誤解しないことだ、時計はけっきょく人の正当な利用物でしかない。
正しく見ないとな | comments(0) |
多くの場合、人生はびっくりするぐらいつまらない2

、これはどうやらマジで、ドエライことに気づいてしまったらしい。
「カルマ繰り返されるマン」は、正確に言えば、マンでさえない、「カルマ繰り返される肉」だ、本当に「カルマ」という現象が肉の姿に成り立っているだけだ。
カルマ肉が生成されて、カルマ肉が滅んでいくだけなんだな、そりゃ何も変わんねえわけだ、それはなんというか、「紙芝居に描かれている絵が変化するわけないだろ」というような次元のことだ。
なんというか、本当に繰り返される「だけ」なのだ、そりゃ何にも出会っていないんだものな、同じ肉の同じ具合が繰り返されるだけに決まっている(と、理知としてはわかるが、それにしてもあまりにもオドロキだ)。

もはやここにきて、こころのある人とない人、という分類さえ意味がないじゃないか。
分けるとすれば、「人」と「カルマ肉」を区分しないといけない、後者は言ってしまえば「人」ではない。
でも確かに、考えてみれば、「人」という感触はしねえもんなあ、とはいえまさか、「人」と対話しているのではなかったとは……ある意味「カルマ肉」だからこそ、何も進まないその生き方にまったく疑問も迷いも生じないということなのね、それなら逆に話はわかるわ。
そりゃカルマ肉が何かと「出会う」なんてことはありえねーわ、カルマ肉の機嫌がよくなったり悪くなったりするだけなんだな、そしてカルマ肉の生産活動が、向上したり下落したりするだけということか、でも確かに、それがこの世界だという見方は実態にも学門にも合致している。

カルマ肉に何かが届くことはないし、カルマ肉から何かが届いてくることはない。

届くとしたら、カルマ反応物質が届くだけで、また届いてくるとしたら、カルマ反応物質が届いてくるだけだ、だからキャバクラのねえちゃんに褒められてごきげんになるという人が、ガチで存在しうるのだ。
僕は人に冷たくするようなダサ男じゃない、が、カルマ肉にやさしくするというのは理論的に不能だし、カルマ肉に「人」という性質を恢復してやるというようなことは、正直僕にはさっぱりやり方がわからん、そんなやり方は存在しないのじゃないかとさえ思える。

正しく見ないとな | comments(0) |
多くの場合、人生はびっくりするぐらいつまらない

くの場合、人が生きるというのは、びっくりするぐらい「つまらない」という実態に行き着く。
なんというか、たとえば百歳まで生きたバーサンが、同じく百歳まで生きたジーサンに看取られて亡くなるということがあったとき、そこにある実態は、すべて「?」なのだ。
驚くべきことなのだが、精密に追求していくとやはり、人はたとえ百年連れ添った誰かであっても、その人のことがわからなかったら、ずっとわからないままなのだ、百年連れ添ったバーサンが死んでも「?」だし、またバーサンの側も「?」のままなのだ。
つまり、多くの人は、この世界の何とも出会わず、誰とも出会わず、何一つもわからないまま、「?」のまま死んでゆくのだ、それは逆に絶望さえないという状態で、ただルーチンとカルマの循環がひとつ繰り返されたという、本当にそれだけで終わるのだ。

まったく冗談でなく、われわれの「メイン」の生き方は、そんなもんだと言い切るしかない、だって本当にそうだからね。
百年生きた人が、何にも出会わないまま、「?」のままずーっと生きているのだから、言ってしまえば、この人はずっと中空で独り言を言っていても変わらなかったということだ/本当にこの人は、生きていて「何もなかった」のだ、これにこころや感情を傾けても、本当にびっくりするぐらい何のレスポンスもない。
この、「何にも出会わないマン」「永遠の独り言マン」に、仮に百年間、誕生日プレゼントをしたとしても、本当に何も届いていないのだ、その場では当人はいい気分になるだろうが、本当にこの人は自分の気分しかなくて、誰かに向けて「ありがとう」というこころが起こることは一ミリもない。
僕は、そういう人のことを責めているのじゃない、ただガチでそういうものなので、本質的に相手しちゃだめだよと警告したいのだ、そういう人は本当にこの世に「存在」していないのだ、なぜなら彼にとってこの世界もまた存在していないし、彼から見ればあなたも存在していないのだから。

本当に、そういう人は、電柱に看取られても同じなのだ。

仮に、娘の前で母が泣いているシーンがあったとして、それは何か母子的なこころうんぬんに見えるが、本当はそうではないのだ、この母は自分の気分のみで泣いているので、娘の代わりに電柱を置いても同じなのだ/この世で何にも出会わない人のほうが「メイン」なのだと、われわれはいつか気づく必要がある。
この話は、絶望的というより、「つまらなさすぎワロタ」ということに行き着く、でも本当にカルマと輪廻が繰り返されるってそういうことだぜ、本当に何もなく「?」のままカルマだけがえんえん繰り返されていくんだ、そりゃニーチェだって発狂すると思うよ/ただしそれは、おれのようにバッチリ「存在」している者は別だ、だからたくさんの人が、わざわざ僕に「会いに行かなきゃ」と感じてくれているんだろうな(もうごまかしていても意味がない)。
 

視点変えてこ | comments(0) |
しょーーー、もないことから離脱する方法
ょーーー、もないことに付き合うべきではない。
しょーーー、もないこととは何かというと、ハートもなければグルーブもない、回転数も高くない、そして、何もグレートではなく、セクシーでもない、ということだ。
どうせ付き合うなら、わけのわからないグルーブに満ちた、「すぐ振り落とされてしまいそう」と感じることに付き合うべきだ。
あなたの付き合う相手は、あなたの希望によって決定はされない、残念ながらあなたのレベルで決定してしまう/そしてあなたは、自分で人生を歩んでいかないかぎりは、基本的にあなたのお母さんが付き合えるレベルのものしか付き合えない。

だからあなたの態度が重要なのだ。
あなたがあなたのレベルを超えていくということは、あなたが前向きに屹となる、ということではない。
あなたがあなたのレベルを超えていくということは、あなたがあなた自身を蹴っ飛ばすのみならず、あなたのお母さんも一緒に蹴っ飛ばすということだ/あなたの現在レベルが蹴っ飛ばされると同時に、あなたのお母さんも蹴っ飛ばされてしまう。
そのことまで引き受けていくというのが、己の生まれ落ちた身分やカルマを超えて生きていくということだ、あなたの生来的な身分は母親の身分によって決定されているから/もしあなたが、「母親を蹴飛ばされてまで進むべき道なんてない」という立場を採る人なら、あなたは生来の身分を超えた誰かと本当に付き合うことは起こらない、それは不幸なことではないのかもしれないが、しょーーー、もないことからの離脱は初めから成り立たない。

あなたが母親のレベルを引き継ぐことは、あなたを安定させるが、母親の救済にはならない。

なぜかというと、母と子が同レベルのまま、しょーーー、もないことにかかずらわり、共倒れになることは、母親にとっては不本意だし、子にとっては怨恨だからだ/その愛憎劇は典型的な「あるある」であって、不幸とは違うと思うが、まあ趣味としては悪趣味だなあと個人的に思う、僕はわざわざそんな筋書きの二時間ドラマは観ない。
僕があなたの母親を蹴飛ばせない限り、あなたのことも蹴飛ばせない、じゃああなたは現行のレベルを超えることはできない、しょーーー、もないことはこれから30年後も繰り返されるだろう。
できるオンナだね | comments(0) |
大吉探し
勢の下がる人は、勝手に「不吉」を探している。
目が覚めたら雨だったとき、「こんな日に雨が降るということは……」と、わざわざ不吉を見るほうを、勝手に選んでいる。
「めちゃめちゃ体調よく目覚めましたけどね」という、大吉の見え方を捨てているのだ。
運勢にオカルトがあるのかどうかは知らないが、少なくとも、わざわざ不吉を探しているようでは、自らの気力を不利にしているだけだし、大吉を探す奴のほうがまともで有利だということは間違いない。

「将来が不安」という人は、「現在まで無事やってこられた」という大吉を見捨てている。
「カバンをなくした」という人は、我が身にトラブルはなかった、という大吉を見捨てている。
下駄の鼻緒が切れたとしたら、転倒しなかったというのが大吉だ。
大吉がひしめいているのが見えないか/今日もきれいな女性とすれ違ったりしたんじゃないか? 今日も友人からメールが来たんじゃないのか、今日もこんな楽しいブログを読んでいるのじゃないのか、今日の食事はとてもナイスで、今日の野良猫ちゃんもとてもかわいくて、ことごとく大吉に満ちていなかったか。

大吉だけを探せ、これは単純な認知療法だ。

わざわざ自分で「不吉」を探している人が案外多くて、びっくりさせられる、何を弱気になっているんだか、その気になれば明日にでもワンピースが買えるでしょ?
焼肉を食ったりさ、なんでもない文庫本を買ったり、楽しい動画をこってり観ることだって可能じゃないか、不吉連盟さんの発想に馴染むのはよくないよ、不吉連盟の発想に対しては「ええええっ!?」と、根こそぎその発想を否定してやればいいんだ、そのほうが相手も救われるから。
できるオンナだね | comments(0) |
魔を跳ね飛ばすのはアクティブネス

中に通り魔が現れたとして、通り魔が工事現場のおっさんに飛びかかるという例はない。
工事現場のおっさんが屈強ということもあるが、それ以上に、工事現場のおっさんがアクティブだからだ。
アクティブネスの真っ最中にあるおっさんに、チンタラした通り魔が襲いかかっても勝ち目はない。
「魔」に対する最強の防壁がそれだ、チンタラしておらずアクティブネスの真っ最中というのが防壁だ、魔はその防壁に「はぁ?」と言われるのに一番弱いのだった。

強い奴が通り魔にはならない、魔というのは必ず弱い者に取り憑いているものだ。
だから誤解してはならない、魔の取り憑いた者が「ウオー」という表情だったとしても、必ず弱いから取り憑いているのだ、そのときは必ず相手の「弱さ」を見ろ。
魔の取り憑いた者は、一見すごそうに見えるが、フェイクだ、実は立場はすっごく弱くなっているのだ、立場の強い者に魔が取り憑いたりしねえよ、馬力がないから「ウオー」なんだよ、本当は孤独に落とされることが怖くて内心でひどくビビっている。
魔を跳ね飛ばす最強の防壁は、アクティブネスを保っていてやることだ、こっちが気力を上げっぱなしでいくと、魔は打つ手がなくなるんだよ、魔は湿っぽいものには取り憑けるが、バネみたいな奴には取り憑けないんだ、「噛み合わない」という状態になったら、必ず魔のほうが弱いもんだぜ。

魔が来たら足元に土下座させろ。

実はこの構えが、魔に対する特効策なのだ、魔の側は実は自分が弱いということを知っているから、自分が土下座させられる気配にどうしても弱いのだ、<<本当はアクティブなものに土下座したがっている>>、<<従いたがっている>>というのが「魔」の正体なのだ。
魔の側が実は弱いということを忘れるな、そのとき限りで強がっているだけで、裏側ではいつも弱っちいのだ/冷静に見れば、相手がどう弱くなっているか、その理由は必ず透けて見えるはずだ、本当は従いたがっていて、安心したがっているのだ。

できるオンナだね | comments(0) |
合理的なアクションを取ること
ょうび、正気でない人もいるし、未来に向けては不安な要素も多くある。
が、けっきょくどうなるかといって、われわれは合理的なアクションを取るしかないのだ。
合理的なアクションを取り、その他のことは何かというと、その他のすべては「余計」だ。
パニクった人は、必ず余計なことを言い、余計なことを迫ってくる、だがそれはどういじくっても「余計」なのだ、余計なことは元から「No」に決まっているのだし、そのことに向けての最善は「時間をかけない」ということだけなのだ。

休憩、余暇、お楽しみ、ということを重視しよう。
それこそが、「余計」ということの出現を抑制するからだ。
余計なことにかかずらわっているとき、何が起こっているかというと、単に休憩時間を削られているだけだ。
休憩と余暇とお楽しみを、最大までキープする、厚かましくだ、そうしたら「余計なこと」は排斥される、休憩と余暇とお楽しみまで含めて、われわれはこれを「合理的なアクション」と呼ぶ。

合理的に、厚かましく、つまりギャングのように。

正気でない人もいる、不安な要素も多くある、でもそれがギャングの日常だ、手際のいいギャングを見習え。
ギャングは相手に死さえ用意するが、それは必ずしも相手を殺すということではない、誰だっていずれは死ぬということだ、それでも誰だって死ぬまでは生きているのだから、なんだかんだでどうにかなるということだ、ギャングは「余計なこと」に流されない。
できるオンナだね | comments(0) |
われわれが痛みの餌食になる方法
「ためしてガッテン」で、慢性痛の特集が組まれていた。
なんと、(心理的)認知行動療法で、慢性痛が改善するということだ/なぜ改善するかというと、痛みそのものがファントム(幻想)として生じている場合があるからだ。
極論すると、「ボサーッとしていると、ありもしない痛みに苦しみ続ける」ということがありうるということだ、まさにカルマという感じがしてしまうが……原因のない痛みなんてもう逃げようがないからな。
達成感という言い方は、僕は好きではないが、日々何かを「達成」している人は、痛みに苦しまなくて済むようだ、もちろん本当に原因があって痛いものは別だが、それにしても「痛み」や「炎症」というのは、どうも経験上、そんなに単純な生理現象ではない、正当に思える理由さえ、そのまま痛みの肯定にはつながらない。

人は、ありもしない痛みに苦しみ、ありもしない炎に焼け焦げるのだ。
今や街中に、不機嫌な老人を見つけるのはむつかしくないことだが、なぜそういった老人は、「むかしむかし、あるところに……」というようなおじいさんおばあさんにはならなかったのか、なぜ老境を得てなお、安らぎの一端を掴むこともなく、残された日々を徹底した不機嫌で生きているのか。
もし、毎朝起きたときに、何もないのに身体のあちこちが痛い、身動きできないほど痛い、そして何もないのに猛烈に爆発しそうにイライラする、というようなことが、無条件で発生したとしたら、われわれはどうするだろう、どうするといって、もう「どうしようもない」のだ、そのまま何十年間も生きねばならず、その時間を支えて愛してくれる人など一人もいない/疎まれるだけの日々が何十年も続き、ずっと強がっていなくてはならず、しかもその先に待ち受けているのはよくわからないままの「死」だ。
ここ数年の、炎上騒ぎに加担した人たちは、己の行く先に恐怖しないのだろうか、いずれ己に痛みと焼け焦げの時間が始まるのはミエミエだというのに/そんなバカなことをしておらず、どんなささやかなことでも日々達成していくべきだ、われわれは学門をするためにこの世に生まれ落ちている、ボサーッとしていれば逃げ切れるかというと、そうじゃない、そんな逃げ切り方はできないように作られている。

空っぽの時間は、やがて痛みと焼け焦げになって戻ってくる。

「ためしてガッテン」で紹介されたように、習字をしたら慢性痛が治ったとか、毎日書店に通ったら慢性痛が治ったとか、事実としてレポートがあって、今やその認知行動療法が、慢性痛治療法の最右翼だとアメリカでは目されつつあるとのことだ/<<われわれはボサーッとしていると痛みの餌食になり続ける>>のだ。
ボサーッとしているのが一番ラク、ということではないんだな、脳みその全体が活性化することで、痛みは取り下げられるのだと、「ためしてガッテン」で説かれていた/脳みその活性化をしんどがっていたら、後になって真のしんどさが降りかかってくるよ、前者の「しんどい」はシャレで済むが、後者の「しんどい」はシャレでは済まない、われわれの生死を決定してしまうようなたぐいだ。
できるオンナだね | comments(0) |
一羽の鳳凰と孤独が大勢

メリカの保険会社と調査会社が、二万人を対象に調査したところ、アメリカ人の43%は、「人間関係は無意味」と感じているそうだ(2018年5月)。
その他、25%は「自分を理解してくれる人がいない」と感じているとか……まあとにかく、「人間ってクソやわ」が蔓延しているということだろう/43%が「人間関係は無意味」と感じているとか、リアルに滅茶苦茶ヤバいやつやん。
今から十年ほど前、2007年、ユニセフの調査によると、日本の子供が感じている「孤独感」が、先進国中でぶっちぎりのトップだった(三人に一人の子供がガッツリ「孤独」だと答えている)わけだから、日本人の感じている孤独感や人間関係のむなしさだって、水面下でドエライことになっているだろう。
ちなみにアメリカの調査によると、孤独感うんぬんは、SNSを使っているかどうかには何も関係ないそうだ、とにかく絶望的な孤独が進行しているという状況だけがある/実際僕も、表面的な「リア充」の女の子が、水面下でまったく逆のことを見つめているという話を、これまで何十回も聞かされてきた、だからこれはどうやらマジのことのようだ。

考え方を逆にしてみよう。
というのは、実は、僕はよく心配されるのだ、「九折さんは天才すぎて、孤独なんじゃないでしょうか」「同レベルで話ができる人がいなくてかわいそう」と、まあ確かにそういう側面もあるかもしれないが、この発想を逆にしよう。
つまり、孤独なのはおれじゃなくてお前らだということ、そう言われたらそれなりにギクッとするところもあるんじゃないのか、ただしくれぐれも、深刻な気分になることは何の意味もない、学門もないくせにシリアスぶるのはやめような、小鯛の笹漬けでも食ってろ(ウマイ)。
現代人にとって、内心で「孤独」というのはよくわかるだろうが、それを「どうしたらいいか」は、さっぱりわからんだろ〜(ざまぁみろ〜)、まあみんなで揃って100億円ぐらい積んでくれたら解決法を教えてやらんでもないのだが、たとえ教えてやったところで実現されるかどうかだな/初対面の人と同じ歌を唄ったことはないか? そのときはものすげえ感動するぜ。

「全員」という事象を知っているおれを、鳳凰のように保護しろ。

現代、あちこちで「炎上」が起こっているが、炎上に人々が群がっているのは、もはや野合でもなくて「孤独が大勢」にすぎないじゃないか、その貧しさたるや、ペンギン村にさえ大きく劣るところだ、どうしたらいいかはホントにわかんないだろ?/そりゃ「全員」という事象へ届いているビートを感得できないとやりようはゼロなのだから、あまりデカい面さげていないほうがいいぜ。
「みんなで」なんて、つまんねーことをおれは言わないぜ、だってそういうことじゃねえし、幼稚園の先生じゃないんだからよ/ただ「全員」の事象だ、全員の目の前に一羽の鳳凰が飛んでいる、その映像がイメジされるのではなく、そのときのビートが聞こえてくるかどうかだ、これを鳳凰理論と呼ぶことにしよう(そのとき孤独が消し飛ぶ世界が現成する)。

バカをやろうかあ | comments(0) |
ポル・ポトが理想的全体主義社会を希求して市民を殺しまくった理由

ほどの記事に、拍手ボタンをつけてみたのだが、たまにはいいものだな、ラブメッセージをまだ入れていない奴は早く入れるように。
それで、もういいかげんわかってきたよ、「社会」を幻想している人は「全員」という事象が見えていないんだろ。
それで、「全員」という事象が本当に見えない人が、絶望的に全体主義社会を希求して、そのなれの果てが共産主義国家になり、独裁者を生み出して、市民の虐殺を生んだということだ。
つまりポル・ポトには、「全員」という事象が本当に見えていなくて、「社会」という幻想しか見えていなかったんだよ、それで完璧な全体主義社会を作ろうとした、完璧なそれを作るためには、わずかでも個性を持ちうる人を殺すしかなかった(ムリ)。

「全員」という現象がある。
というのは、現在のわれわれは、たとえば聖書に倣えば、もともと一個の「アダム」(ウパニシャッドでいうと「アハム」)が分散したものにすぎないからだ。
われわれはもともと、一つの存在なのです……と、ウルウル神秘主義に耽っても意味ねえよ、そういうことじゃなくて、「全員」という感覚事象があり、その事象と己が接続可能だということ/おれはマジの話しかしねえよ。
ポル・ポトの対極に、たとえばチャビー・チェッカーがいるな、別に不思議がることでもなく、「全員」というナゾの力に接続している奴は実際にいるということ/この接続を得られない奴が現代で「社会」を幻想しているという、ただそれだけの話だ、たいして悲しい話でもねえな。

他人を傷つけてしまう病気を「社会人」と呼び、また、他人に同情してしまう病気を「社会人」と呼んでいるだけだ。

なぜかというと、「全員」という事象が捉えられていれば、他人を傷つけることは「全員」のテンションを下げることなので、そもそもそんな発想が出ること自体おかしい、他人をボコボコにするのはかまわないが傷つけるのはいけない、「全員」という事象を弱らせてどうする/もともと「全員」が視えている人は、そもそもそんなアホな発想を持たない。
ビートは万人に平等、ということではなくて、ビートは初めから「全員」という事象に届いている、疑問とか迷いとか躊躇とかが出てくる時点で土台が根こそぎ大間違いだ、「わざとらしさ」が出てくるようでは毎日がツラ〜イでしょ/映画「フットルース」には何のわざとらしさもないし、どのシーンを見ても「社会人」なんて映像はない。

正しく見ないとな | comments(0) |
幻想の停留所
定時刻は必ず来る。
そりゃ時刻は来る。
ただ予定は来ない。
ヨソが運営するバスじゃねえんだ、時刻は来ても予定は来ねえよ。

バスは社会的なモンだから、予定時刻どおりに予定のものが来てくれるよ。
だがあなたが十八になっても青春は来ないし、二十になっても就職は来ないし、二十五になっても結婚は来ない、三十になっても学門は来ないよ、あなたの青春は京急と契約しているものじゃないんだから。
予定時刻といって、時刻だけは自動的に来るよ、「社会が悪い」という側面があったとして、そもそも社会があなたのところに何かを運んでくることは決してないよ、バスと電車しかこねえと思っておきなよ。
たまに停留所で待っている人を見るのだが、あれは何をやっているんだろうと、見ていて怖くなるよ、スマイルでいるぶん逆にね。

毎夜獲得している奴を予定とはいわない。

毎夜獲得していないのか? まさかとは思うが、ビートを待っているんじゃなかろうな、地球の中心にいかないとビートはないぞ、街に行けばビートがあるのじゃなく、ビートがあるから街が作られるんだぞ。
別にどこかに行こうという話ではなく、このビートの中にいて、どこにも行くなって話だ、どこかに行こうと言い出したらそれが「予定」になっちまうだろ、そうしたらまた幻想の停留所で待ちぼうけするヒマな日々になっちまうからさ。
恋女のマインドね | comments(0) |
社会幻想と野垂れ死に

を聴いていると、どうやらマジに、自分には仕事や愛や結婚が与えられると思っているらしい。
どこでそう誤解したのかは知らないが、完全に誤解だ、われわれに仕事や愛や結婚なんて与えられはしない。
われわれは<<野垂れ死に>>するのだ/「何も悪いことはしていない」「ずっとマジメにやってきた」なら、野垂れ死にするのだ。
だって、与えられるはずがないものを、与えられると思ってずっと待っているのだから、遅かれ早かれという差だけがあって、けっきょくは野垂れ死にする/いったい何をもって、「与えられる」と思い込んだのだろう?

いったい何をもって、誤解に至ったのかわからないが、この社会があるとして、この社会はあなたの野垂れ死にを防ぎはしない、ニュートラルに生きたらあなたは野垂れ死にするコースが確定だ、もともとそういう合意で成り立っているのがこの社会だ。
「助けてくれるはず」って……自分は誰も助けないのに? どうやらすでに、少なからぬ人が、この世には「人」以上の存在があって、そういう巨大な何かがズーンと自分を救済するものだと思い込んでいるふしがあるようだ/そんなもん、野垂れ死に寸前の人に手を差し伸べる人なんて、タコ部屋管理のヤクザさんしかいませんぜ、いったい「社会」に何の夢を見ているのだろう。
社会が悪いとか、いろいろ言うし、いろいろ思っているようだけれど、それをどう思うかは自由だとしても、どれだけ健全な社会であっても、あなたの野垂れ死にを防いだりはしないよ、ロールプレイングゲームじゃないんだから、次のイベントなんか設定されていないんだって。
誤解という以上に、巨大な幻想を抱え込んだようだな……まあ別にいいけど、結婚とか、「したい人はどうぞ」という社会があるだけで、市役所の側から結婚を持ってきてくれるわけじゃないよ、若いうちは青春のチャンスがあるというだけであって、若ければ青春が供与されるということではまったくないからね/あなたが何十年も間違っていたとしても、社会はあなたに何の口出しもしないよ、社会についてボヤいているとして、「社会」なんて実体は存在していないんだよ、どうもそこのところに幻想があって、何かヌーンと実体として存在している「社会」があると思い込んでいるみたいだ。

ひょっとして、自分の番が回ってくると思っている?

そんな、共産主義国家じゃないのだから、配給制で仕事とか結婚とか青春とか、回ってこねえよ、みんな大学を卒業したら就職だね〜というのは、おおむねそういうタイミングになるのが一般的だよねというだけであって、自動的に就職というイベントがやってくるわけじゃねえよ、また適齢期になったからって結婚イベントが発生してくるわけじゃねえよ、自動的にやってくるものは「野垂れ死に」だけだ。
われわれには、青春も、恋あいも、学門も、仕事も、結婚も、夢も、与えられたりはしないよ/情報を集めこんで、それを冷暗所に保存して、熟成させて……としたとき、その情報は熟成なんかせず、単に「古くなる」だけだよ、「いつかきっと何かになる」って、ならねえよ、そこを誤解しているから何かずっとスマイルでいるのか。

正しく見ないとな | comments(0) |
頭上からの涙
「全員」は「ビシャッ」だ。
そして、頭上の感覚は、天というか星空というか宇宙だが、この「ビシャッ」と「天」が同時に起こってつながると、涙が出るわ。
「天」のほうとつながると、「あ、これは涙だわ」というのがわかる/「全員」イコール「ビシャッ」のほうは、唸りであり無限の間熱であり咆吼なのだが、そのとき天は星空だ、たぶん同時にやるのはけっこうむつかしいことだが(おれは余裕だ)、おれは昔このビシャッと星空を淡路島の夜に見たことがあるぞ。
「個人」って何だろうな、たぶん「個人」というのは、本当にただの「容れ物」だぜ、この「個人」という感覚事象をあれこれしてみるということは、本当に何も本番じゃない、「弁当箱をかじっている」というような状態だな。

「個人」というのは「箱」なのだ、いわゆる「殻を破れ」というときの殻にあたるのかもしれない。
自分を解放するというのは、自分という「個人」を解放するということではないな、薬のカプセルみたいに、カプセルが溶けないと薬効がないよ、というようなことだ。
その薬効をステージに並べるのに、カプセルを並べる人は、「何やってんねん」という状態だな、おれは薬効であって、カプセルになっている「個人」はおれの容れ物でしかないよ、このカプセルが対話することにはまったくといっていいほど意味が無い。
自分を解放するということは、個人(カプセル)の中の、「全員」という事象を解放するということだ、「全員」こそ真のおれだということ、おれを解き放つということは「全員」という事象を解き放つということだ/いやあまさか「おれ」は「全員」だったとはな。

すべての景色に情熱と涙がある理由がわかった。

ついにわかった、ということかもしれない、そしてこの「全員」というのが、たぶんヨーガ的な「真我」でもあるのだろう、よって、真我イコール全員という、結論だけ聞くと「なにそれ」必至の、おもしろい話ばかりなのだった。
「全員」が「ビシャッ」なら、「天」は「キー」だ、耳鳴りのような高い音が鳴っている、これは涙になる、楽器の音色でいうとバイオリンの高音に近い、直撃すると涙のみならず鼻血になる可能性もある/バイオリンが涙の鼻血を出させた、という事例が過去のレポートにあるかもしれない(調べようはない)。
正しく見ないとな | comments(0) |
「ビシャッ!!」

「全体」より「全員」がいい(言い方としてステキだ)。
そして「全員」とは、個人の集合ではない。
「全員」は「全員」という事象だ。
個人たちの総意が全体の意思になるのではなく、初めから「全員」という事象があるのだ、言ってみりゃ一人でも全員だ。

「全員」には意思があるのかないのか……おそらく「ない」と思う、思うというか、見当たらない。
「全員」には、ただ作用だけがある/その作用は合図的にはたらき、この合図は意思以上の強制力を持つ。
ひょっとして、ダンサー大野一雄が言っていた宇宙意思ってこれのこと? 宇宙意思って個人に届かず「全員」に届くの? と、またこんなことを言い出すとわけがわからんのだった。
「全員」というナゾの作用がある、それはわれわれに、踊り続けることを命じている、雰囲気で言っているのではない。

音楽から統一が生じるのではなく、統一から音楽が生じている。

個人の思念より、ずっと底のほうに、「全員」という事象エリアがあるわ、これすげーわかるし、感覚的にカチッとつながれるぜ、あーコレはコレだわ、これはおれだが個人ではなくて「全員」だわ(意味不明だがこの表現で合っている)。
個人キラ〜イ、全員なら「ビシャッ!!」だわ、なんの説明にもなっていないが「ビシャッ!!」なのだからしょうがない、これたぶん永遠に生きているおれだよ、いわゆる個人という感覚事象のほうはやがて死滅するわ(つまり寿命で)。

正しく見ないとな | comments(0) |
ドゥー・ドゥー

人のことは他人のことなのだ。
他人には、他人の事情があるのだろう……ということは、考える必要はなく、むしろ「事情はない」という、メチャクチャな暴論を押し込んでかまわない。
他人と連携しようと考えるな、全員と連携することを重視しろ。
全員と連携するということは、連携する必要のないところと連携するということだ、イヌがワン! と吠えるタイミングと連携しろ。

自分が生きるというのはその「連携」のことだし、他人が生きるというのもその「連携」のことなのだ。
そこに事情印の100泥織鵐哀好謄鵑鬚くりつけたら、それは余計にカワイソーだよ、見えない鎖をつけるのではなく、見えない翼をつけてやれ。
事情合戦をやりだすと、本当に双方が不幸になるからな、そこでイヌがワン! と吠えるタイミングだ、これと連携するかぎりわれわれに「事情」はない。
他人のことはドゥー・ドゥーと呼べ、さすがにこれでは話が意味不明すぎるか、でもこの意味不明に引きちぎっていくような話し方を、何年も前にはおれはしていただろ? 実はあのころからおれのほうはなーんも変わっていないんだぜ。

「事情」を除いて、すべては「合図」だ。

何もかもが「合図」なのだ、そのすべてに連携する、なぜそうなのかといって、初めからずっとそうなのだからしょうがない。
おれはドゥー・ドゥーに説明はしない、なぜならおれだってわからないからだ、おれに事情がない以上、おれに何がわかるというのだろう? わからないから「合図」に連携するしかないのだ。

できるオンナだね | comments(0) |
40000

、この記事で四千件目らしいな。
四千件目らしいので、記事のタイトルは、景気づけに40000にしてやった、これが文学ショーというものである。
せっかくなので、たまにはということで、拍手ボタンのなんやようわからんやつを拾ってきたぞ、たまにはこれを押しておれのことを応援するように。

恋あいはするする〜である、だってしょうがない、ボクは愛の人なんだもの。

注目するのをやめろ!!
おれに対してではなく、というか、誰もおれには注目しないと思うが、そうではなく、何に対してもだ、「注目」という状態そのものがいただけない。
注目というのは視力を失っている状態なのだ、見えなくなっているのだ、あなたの大好きなそれはマチガイということだ。
ついていけない感じがするだろ? そのとおり、ついてこられてねえんだよ、注目しているからついてこられてねえんだよ!!

見よ、

お前らだって何回押したってかまわねえんだ。

何をしゃっちょこばっているのか、というかしゃっちょこばるって表現自体が古すぎるというかジジイすぎるか、まあいい、どうよこの短期間に二度も拍手ボタンを掲示するスタイル、これが注目するなということだ。
恋愛はするする〜という記事を、40000件も書いてきたのだな、数が割り増しされているがまあ別にいいだろ、どうせ全部おれの記事でお前らの記事なんだから。

バカをやろうかあ | comments(0) |
他人のことなんか知らなくていい
人のことなんか知らなくていい。
インドのガンガー(ガンジス川)に行ったことがあるか? 夕暮れになると祈り(プージャ)が始まるのだが、人がわらわらと集まってきて、こんなもん他人のことなんか知ってどうするんだよ。
他人のことなんか知らなくても、もともとつながっているでしょうが、「つながらなきゃ」みたいなのはもう初めから穴に落ちている証拠でっせ。
インド人は祈っているだろ、僕は美女と美少女を愛しているのだ、雲は夜空を流れているだろ、ほーれつながっているじゃないか、乞食のガキどもはスタタタと川辺を走り抜けていくぜ。

他人のことなんか知らなくていい。
他人のことを、知らないと愛せない・愛されないというのは、もう何かその時点で、すげー負けフラグの感じがするだろ。
ガパオライスを食い過ぎのナゾの外国人と目が合って、ネオンライトの下で言いうるのは、「知〜ら〜ん〜わ〜」の一言に尽きる、だって本当に知らねーんだもの、知らねーけど大好きだよ、たぶん詳しく知るとあんまり好きじゃなくなるだろうな、他人を知るのなんて新聞記事を読むみたいなことだからな。
フラッシュライトは光るのが仕事だ、おれたちの仕事は? まさかフラッシュライトに眼を細めているのが仕事じゃねえよ、おれたちもそれぞれ光るわけだろう、何のために光るのかって、そんなもんフラッシュライトに聞いてこい、「アホか」とバカにされるだろうよ。

識化したら穴に落ちている。

あなたこれ、読んでいて、文章だなあって感じがする? まさかしねえよな、ということは、楽器だって楽器に聞こえたらダメだし、音楽だって音楽に聞こえてはダメ。
他人のことを知ろうとするから、識化して、楽器は楽器に聞こえてしまい、音楽は音楽に聞こえてしまうの、知らなくていいってほうが気が楽なんだからいちいちヘンな抵抗をするもんじゃないよ、フラッシュライトくん。
バカをやろうかあ | comments(0) |
あなたが楽しくなる方法

なたが楽しくなるためには、僕と同時にやることだ。
あなたが何をする人か知らんが、僕と同時にやることだ。
あなたが、あなたのやるべきことを、あなたのタイミングだけでやろうとするから、何も楽しくなくなる。
たとえば先生と生徒がいて、先生が教えるのと、同時に生徒が学ばないと、おもしろくないじゃん、何をやっているのか、クソ勉強みたいですっげー不快じゃん。

あなたはあなた限りのことをやるのだ。
まわりに合わせてとか、まわりに流されてとか、そういうのは何の足しにもならんからやってはいけない。
あなたはあなた限りのことをやるのだ、それでこそ、正しく「全体」に噛み合っていることになる。
あなたがあなた限りのことをやる、そのとき「孤独だ」と感じるのなら、それは感覚がオカシイ、みんな自分限りのことをやるので揃っているのに、この大団円に何の寝言をいっているんだ、何かビート音を聴き取って自分限りのことをやれ。

あなたにしかできないことが自動的にある。

なぜなら、あなたは前を向いているだろう、そりゃ眼球が前についているんだから前しか見られねーよな、そして「あなたの前」を見られるのはあなただけだから、あなたにしかできないことがあるのだ。
人には「フツフツくる」という現象があると思うが、それは前方に向かって生じるものだよ、観念的ではなく実際の前方にだな、「ビートと前方とフツフツ」でだいたい正解だよ。

できるオンナだね | comments(0) |
<< | 3/203PAGES | >>