☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
僕の視ている「不自然」について
施明や尾崎紀世彦のような、「歌のうまいおっさん」は、どこへ行ってしまったのだろう?/フランクシナトラでもいいし、そこからさらに遡って、たぶん観阿弥や世阿弥の時代にまで遡っても、「歌のうまいおっさん」というのはこれまでの時代に必ず存在したはずだ、「歌のうまいおっさん」は現代でどこへいってしまったのだろう。
あるいは「恋あい」というのはどうだろう、シェイクスピアの時代から恋あいは大きなテーマとして存在しており、近年でも90年代に、人々は「ねるとん」だの「あいのり」だのに一定の「恋あい」への希望と衝迫を見いだしていたし、少女マンガには「恋あい」が大真面目に真剣に描かれていた、これら「恋あい」はどこへいってしまったのだろう。
また、ワーグナーあたりから以降は、これという交響曲の作曲家は出て来ていないし、他にも映画といえば、「これぞ映画」というような、ヒッチコックのような作品は出てこなくなった、そういったシリアスな迫力の作品たちはどこへいってしまったのだろう。
あるいは、松田優作やジャッキーチェンのような、熱い兄さんたちはどこへいってしまったのだろう、あるいはドラゴンボールや天空の城ラピュタのような血湧き肉躍る冒険活劇はどこへいってしまったのだろう/僕はこれらのすべてについて、「不自然」を一挙に視ている心地でいるのだ、歌も映画も恋あいも熱気も冒険も「ない」という事実に、誰が心底から納得しているだろう? 多くの人はそのことについて考えるのをやめてしまったが、考えるのをやめたとしても、状況の進行がなかったことのように消えてくれるわけでは決してない。

当たり前のことだが、人はどうあがいても、歌や映画や恋あいや熱気や冒険が「要る」のだ、それが得られないからといって、最新の薄型ノートPCをいじくってみたところで、本質をごまかすことは出来るわけがない。
今や、少子化の時代だから、渋谷でさえおじさんやおばさんがあふれかえっているが、年齢のことはどうだっていい、ただそのおじさんたちやおばさんたちは、歌や映画や恋あいや熱気や冒険が「ない」もしくは「なかった」人々なのだ、だからどう加工して表面を装ってみても、本質的に「ブキミ」だ、必要だったすべてのものを何一つ得られずにきて、それで最後まで「ふつうです♪」と言い張れるわけがない、眼の奥や呼吸や皮膚の気配が、どうしたってブキミなのだ、そんなこと本当は当人だってわかっているだろうに。
なぜこんな状況になったのかについて、きっと誰一人、まともな回答を持っていないだろう、だいたいがやけくそで「時代の変化かもねえ」とつぶやくだけで、誰一人「わたしはわけがわからなくなってしまったのです」とは言わない/あまりにも多くの人が空っぽのままニコニコしていて、とてつもなくブキミだ。
街中から喫煙を減らして、LGBTを社会化して、菜食化して有酸素運動をして、意識を高くしてクラウドファンディングに賽銭してみたとして、そんなことで恋あいや熱気や冒険の代替になると思うだろうか? <<何かしらの手続きによって人類から「歌のうまいおっさん」を消去できるらしいが>>、その手続きが為された上に、全員がウソをついたままニコニコしているのがとてもブキミだ、もともと恋あいというのは努力の活動ではなく男女が「まとも」だったことの証として起こる当然の現象にすぎなかった、それでもまだニコニコするのか。

空っぽおじさんは虚無の死におびえすぎだ。

僕が思うに、「空っぽおじさん」といって、多くの人はよくよく考えれば空っぽに生きてきたのが当たり前であって、そのまま空っぽのまま死んでいくのがごくふつうのことなのだから、ヘンにライフワークや主張を持たないほうがいいと思う、空っぽに生きてきたということは、まず途中からは巻き返しが利かないのだ、むしろその「空っぽでないフリ」をすることが、すべての時間を空っぽにしてきたに違いないのだから、いいかげん諦めて堂々と空っぽの生そのものを引き受けて表示すべきだ/どんなライフワークと主張があるフリをしても、<<空っぽおじさんの話を聞きたがる人はこの宇宙に一人もいない>>、この当たり前の事実からいつまでも目をそらすべきではない、<<空っぽおじさんは社会的な「立場」に乗っかることでしか話を聞いてもらえない>>というのが事実だろう。
僕が視ているすべての「不自然」は、空っぽおじさんのオタメゴカシのためだけに、際限なく生成されているような気がしてならない、そんなことのために「歌のうまいおっさん」は消去されていったのか……誰にも何も必要とされず、自分の生に一厘の価値もないということが、そんなにおそろしいか、それはちょっと単純に宗教観が甘すぎるのじゃないか/僕は自分が誰かに必要とされるとか自分の生になんらかの価値があるとか、そんな甘い夢想に頼ったことは一度もない。
正しく見ないとな | comments(0) |
記号の夢と新始動

れはさすがに、わけのわからん話。
キリスト教は十字架を掲げている、赤十字だって十字だし、ナチスドイツも鉤十字を掲げていた。
まったく説明できないが、<<記号が世界を軽くする>>、記号につながった世界は光であり重さの桎梏を離れる。
そういう夢を見たのだが、それは夢ではなく新たな指針だ、じっさい記号につながった世界は光であり、そこに記号につながっていない女性が一人通りすがるだけで、世界はずっしり重くなるのだ。

記号のために世界は存在する/こんなこと、いったい今の誰がすんなりと納得しようか。
人々は、記号というものを、この世でいちばんつまらない、実のないものとみなし、ただ便利だからということで、コストなしに好き放題に使役すればいいものだと思っている。
記号につながった世界は光だ、そして記号につながった世界があるとき、人は "所有" を放棄することができる、だから軽くなる、いつでも完全な子供のように、その日の青空を基準に走り出し、光り、語り合うことができる。
記号につながった世界に、所有は必要なくなるから、いついかなるときもすべてが新始動ということになる、すべての重さから離れることができる、特に女性の重さを消すことができる方法がこれだ。

「わたしはアハムである」(ウパニシャッド)ように、「世界は記号である」。

人が勝手に、記号と特定の意味を結んでいるから、その思い込みによって、すべてに意味を見いだして重くなっているけれども、よくよく考えれば記号と意味のあいだに特定の契約はない、いわゆる共同幻想があるにすぎない。
このわけのわからない話を、誰かと共有しようとは思わない、ただ僕は世界が軽くなればいいだけだ、人々のすべてが軽くなって、それに常に「新始動」なんてやっぱりうつくしくてカッコイイじゃないか。

正しく見ないとな | comments(0) |
WS報告034(5)/愛は理由にならない
や命や魂は、どうやら人々の帳簿の感覚や、採算の感覚を完全に度外視して存在するようだ。
実際にやってみるとわかるが、愛やら命やら魂というのは、もう一方的に入れてやるしかないというのが事実だ、それによって何のメリットがあるかというと、何のメリットもない、そして何のメリットもないのに、そのことを為そうとすると魂がありったけ叫び続け、歌い続ける必要がある。
なんというか、人のする行為としては、何の理由もなく隣国に核弾頭を落としてみるということと、同じぐらい意味不明で、理由のないことだと思う/まあよくよく考えれば、人はそうして核弾頭を落とすのだから、その逆のことをしようとする現象も、あっておかしくはないのかもしれない、人はそれぐらいわけのわからないことをする。
隣国に核弾頭を落とすのに、隣国と競技の上でということはありえないのと同様に、けっきょく愛や命や魂をぶっ込むというのも、その人と協議の上でということはありえないのだ、よかれあしかれ無法であり、何のメリットもない、どちらも狂人の度合いでいえば同等の行為だ/「愛がすべて」という言い方は、「核弾頭がすべて」という、世界情勢の事実の指摘と同程度に、正しい指摘を含んでいる。

なんの理由もなく核弾頭をぶっ込まれた場合、もはや悪とか怨みとかが用を為さないように、なんの理由もなく愛や命や魂をぶっ込まれる場合も、もはや善とか感謝とかは何の用も為さない、そこに善だの感謝だの言う奴はいつまでも本質を見たくないだけなのだろう。
なんの理由もなく核弾頭をぶっ込むことについて、もう当人も理由を探しうる方途がありえないのと同様に、なんの理由もなく愛や命や魂をぶっ込むことについても、当人はもう理由を探しうる方途がないのだ、この理由というやつをさっさと諦めるのが、唯一まともでいられる方法かもしれない/こんなことけっきょく、因果がぶっ壊れた奴しかやりようがないのだ。
WS報告をするのだった、えーっと、とにかく、魂魄の境目、虚実の皮膜、世界はマルチだそうで、それをぶっ込む命令体になりうるとして、それはもう本人の志望などは無関係のことなのだ、核弾頭キチガイと同種のものがこの世界には存在すると前提してもらうしかない。
先に述べたように、これはもう感謝とか、そういうしょうもないことで帳簿を合わせられるたぐいのことではないので、ただ狂人スコアのこととして捉えてもらうしかないのだが、とにかく学門の到達点として、愛や命や魂は、ただ限界突破して一方的に注ぎこみ続けるしかないというのが事実のようだ、どうやらそういうものらしいということだけは知って、認めておかないと、人は知らぬまに核弾頭キチガイのほうへ契約したものとみなされるだろう、それなら逆の側を認めたほうがずっとマシだ。

愛や命や魂がぶっ込まれるのは、最後まで理には適っているが、最初から都合には整合しない。

「理由なしに核弾頭をぶっ込むのと同じだから」と、このことは最後までつきまとってくるだろう、理由なしに核弾頭をぶっ込むということは、「都合」という前提においては「ありえない」ということになるが、理を前提にすれば、いくらでもありうるということになる/ただそうしたことが、不可能ではないという理によって、それはいくらでも可能だ。
僕はもう面倒くさいので、根本的な「理由」を放棄する、もうだいぶ前から放棄していたようなものだが/理というのはただ、こうすればこうなる、というだけだ、なぜこうするかという理由はもうない、愛というのは現象であって理由ではないのだ、このことを正しく把握していないと学門が見失われるので、すべての都合は無視してこの現象だけを認めるように、その他は特に変わりなしです。
ワークショップ | comments(0) |
魂の寝床
いうわけで、魂そのものの、拡大、モノを変える、ということに向かっていかないとな。
僕は、ダサいことはきらいなので、ダサいことはしない、誤ったトレーニングやスポ根のようなたぐいにはならない、だいいちそんなことで魂が拡大されるものならそもそも苦労がないだろう。
ワークショップ方面では、しょっちゅう来ている奴らは、なんだかんだ以前よりスゲー鍛えられたと思うが、本質的にはワークショップがどうこうの話ではない、そりゃ魂の問題だからな。
魂の問題とは何かというと、「こりゃ魂の問題だぜ」ということだ、当たり前すぎるな、僕がせいぜい口出しできることなど、紛らわしいものの排除しかない/何が魂かといって、血気盛んになるとよくわかんなくなってしまうからな、それをまともに誘導するのは、たぶんまともな年長者のすることであっていいだろう。

誰でもエネルギー的な拡大を求めている、そりゃわざわざ湯量の少ない源泉を求める人はいない。
だが一方で、自分がさまざまな現場に立たされたとき、即座に防衛システムがはたらき、自分の魂の小ささをごまかしてその場をしのぐということを、繰り返し何十年も続けてしまうという事実もある。
だからそこは各人が、「こういうことではない」「魂の、モノを変えてやるぜ」と、当然に志せばいいのではないだろうか、自分の防衛システム内でやりくりせずに。
自室で寝転んでいるときには、魂の拡大に可能性を見いだし、現場に立つと、魂の防衛を第一とするというようでは、明らかに不毛だ、逆に考えよう、現場があなたの寝床だよってことだ、本番しかない日々を生き、本番の中で眠るという体験を持ちなよ。

自室でくつろいでいるというのはウソだ。

老人じゃあるまいし……人が自室で魂からくつげるものなら、B’zの歌は全部要らないことになるな/自室でくつろいでから、どこかの本番を探しに行くというような、前もって悪臭がするスタイルはやめなよ、そもそも休憩が人の拠点になるわけがないんだから。
休憩もちょっとは必要だが、もっと必要なものがてんこもりにあるのだから、自分が損をするようなスタイルはやめるべきだ/世界の響き、愛の響きが、本当にわからないわけじゃない、ただ想像を絶するほど遠くなってしまって、その想像を絶するほどの遠さが、何も間違っていなくて正しいというだけだ、いつのまに魂がご近所で満足するというようなウソの前提を信じることにしたの、現実的には届きそうにないはるか遠くの響きで合っているよ。
できるオンナだね | comments(0) |
WS報告034(4)/あなたのソウルは何ccか

週、丸二日間、遊ぶわけだが、フルコースの場合は金曜の19時から始まって、率直にいうと、日曜の夕方ぐらいまでブッ通しだ、二日間あるというよりも、48時間のうち6時間ぐらい休憩が挟まっているだけというのが実態だ/本当の時間割は、[11時間ワーク+5時間座学+(6時間休憩)+11時間ワーク+7時間座学+6時間座学かワーク遊び]という感じだ、これに各自の移動時間が2時間プラスされるだけという、企業でいえばブラックの極みというような時間割だ。
もちろん全員がフルコースで参加しなくていいのだが、なるべくみんながフルコースで参加しようとするので、こいつらバカじゃねと思うのだが、それで言えば当人の僕が誰よりバカなのかもしれない、なぜこんな引っ込みのつかないチキンレースを始めてしまうのだろう/まあとはいえ、人って、自分が誰よりも遊んだという事実を持たないと、自信なんか持ちようがないから、やるだけやるしかしょうがないのではあるが。
このブラック時間割の中、常に僕のソウルは叫び続けているわけだが、なぜ叫び続けているかというと、退屈になったらオシマイだからであって、そんなもん魂の叫びが15分でも途絶えれば、人は何もかもが退屈になって世界に絶望するものだ、すると老後の生活資金のために株でも始めようかなということをただちに考え始めてしまう(別に老後の資金繰りを考えるのが悪いわけではない、ガンガンやれ)。
ただ最近になって、どうやらマジらしいと感じるのは、みんな人それぞれにマジメで真剣でありながら、僕の放出しているエネルギー量と、自分の放出しているエネルギー量が、根本的にどう違う・どれぐらい違うというのが、感覚的にわからないらしい/あるいは、感覚的にわからないどころが、漠然と「同じ」と思っているフシがあるのだ、ここのところがさっさと目覚めないとワークといっても魂がエグい汗を流すことがなくなるのでもったいないだろう、もっとえげつない事実に直面するほうがいい。

人はみな、自分がスターになったところを妄想したことがあると思うが、その妄想において、自負はどうなっているだろう、ここに前提の違いがあって、スターとまでは言わなくても、瞠目すべきはたらきを発揮する者は、気持ちの問題ではなく、実際のこととしての、膨大なソウルエネルギーの放出が必要だ、こぢんまりした平凡なボクが壮大なはたらきをすることは当然ながらありえない。
つまり、一言でいえば「ショボい」ということがあり、魂がショボいと「何にもなるわけがない」のだが、このあたりの自負と前提は、各人においてどうなっているのだろう/どうも少なからぬケースにおいて、自負にまやかしが掛かっていて、本人のキモチを元に、ソウルエネルギーの定量から目を背けているフシがあるのだ。
まさかのまさかとは思うが、どうも一定の「ありがち」なパターンとして、自分もスターと似たようなことをすれば、スターと同じようなはたらきを為せると、前提のブッ壊れた妄想をしている人が少なからずあるようなのだ、そんなこともちろんありえなくて、どれだけ舞台上で聖書を読み上げてみたとしても、ソウル量がショボければただの退屈な朗読にしかならない/どうもふざけた話、「正しいことをすれば量的なことをごまかせる」と、水面下でごまかし信じているようなところがあるのではないだろうか。
今流行の、「なろう小説」の異世界転生モノじゃあるまいし、コンビーフをパンに挟むようなフンフン♪とした涼しい顔で、誇らしいことなんかできっこないぞ/スターになった自分を妄想するということは、自分の身に100トンの液体燃料を吸い上げ、それを五分以内に燃焼し尽くすのが当たり前という、つまり自分がスペースシャトル基準のエネルギーユニットになることを妄想するということであって、50ccの原付が鼻歌気分で宇宙に飛び出せるという妄想をすることではない。

スペースシャトルを空想するガキには才能がなく、スペースシャトルにビビるガキには才能がある。

ガキがスペースシャトルにビビる場合、子供ながらに、人が住めるほどの巨大なブツが時速28,000kmまで加速するということに、想像力がはたらいているのだ、レースカーが280km/hを出しただけでも弾丸のように速いのに、その100倍の速さなのだから、質量あたりのエネルギーは一万倍ということだ/鉄のバケツに花火の束をつめこんで火を付けたことがあるだろうか? 紫色の炎が立ち上って渦を巻き、鉄のバケツは融解していくのだ、手持ち花火に火をつけて「わーキレイね」ということの先に人のスター的なはたらきはない。
これは誇張でもなければ冗談でもなく、そもそもの「エネルギー量」ということに、当然の感覚を持っていない人が少なからずいるようなのだ、それもおそらく、自分のショボさから目を背けるために、恣意的に感覚を閉ざしているところがある、そんなしょうもない防衛をしていないで、「エネルギー量」に対して公正な視力を持つことだ/エネルギー量がショボい者ほど「センス」に逃避しようとする定番のパターンがあるが、その場合けっきょくセンスもたいしたことがないので、そんな不毛の退路に逃げ込まないことだ、どれだけ近所の口うるさいオバサンのヒステリーも、そのエネルギーが Deep Purple を上回ることはありえない、そんなもの自分が一声「うりゃー」と叫んでみればわかることだ、自分がヒステリーオバサンと Deep Purple のどちらに近いか、自分がショボいのかデカいのか、そのことをごまかしていたら学門になりようがない。

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WS報告034(3)/「絶対に動いてはいけない」法(仮称)
回のワークショップから取り組んでいこうとする新しいやつ、現在検討中。
人の内部には、魂を庇護する防衛システム、通称「ペアレンツ」というシステムが具えられている/人の身は愛想良く動いたり、剣呑に固まったりするものだが、これらは実はこころの正順機能ではなく、主に魂を守るためにペアレンツという防衛システムが動いて生じている現象なのだ、この装置を外部的に抑制・停止させなくては次の段階に進めない。
「しもべ法」といって、プレイヤーをマスターの命のみで挙動させ、その他いっさいのことをさせなければ、自動的に命・魂が宿るという現象を、体験的に研鑽するワークがあるが、この「絶対に動いてはいけない」法も、しもべ法の一種にあたる、つまり「絶対に動いてはいけない」という命だ、「絶対に動いてはいけない」というのは、モゾモゾしないということもそうだし、力んだり身を固めたりもしないということもそれにあたる。
この方法を、現在検討中だが、この方法はミエミエで「危ない」ので、プレイヤーは前もって理解しておくように/何を理解しておくかというと、未知の危険を察知したら、自身で一時離脱を申し出なくてはならないということだ、何しろ防衛システムを生まれて初めて切るというようなことなので、無理をしたらどんなクラッシュが起こってもおかしくない。

ここで、まったく思いがけない真相を知る必要がある、人はあれこれ動くものだが、動くのは魂に応えるためではなく、魂に応えないためなのだ/人は気魄を乱すことで霊魂へのアクセスを弾くことができる、それは「魂魄」ということの仕組みから見て当然のことだ。
人はガンバって動いているのではなく、主に魂を逃避させるために動いているのだ、それが防衛システム「ペアレンツ」の本質だが、つまり「ペアレンツ」は「ヨガ」の反対だと言いうる、ヨガのように呼吸を深くして静止していると、「響いてくるもの」が横隔膜に届いてしまうので、そうはさせじと「ペアレンツ」がはたらくのだ、響いてくるものを弾くという意味でペアレンツはまさに「防波堤」の機能を果たしている。
ワークショップに参加した人の多くは、初期のうちに「パン祭り」(一時的なパニック症状)を経験するが、それは僕が、防衛システムが想定していない過剰なエコー・ソウルをぶち込むからだ、防波堤の想定を超えるエコーをぶち込むことで、防衛システムが混乱をきたしてパニックになる/これまでは、防衛システムの盤石により、魂などというものは「ない」と感覚的に断定した中を生きてきたのに、急に魂というものが「ある」と体験されるので、内部的に「激震」が走るのだ、これまで自分を支配してきた与党が急に苛烈な弾劾を受け始めるという、一種の政情不安定が起こると捉えていい。
「絶対に動いてはいけない」法は、楽しみではあるが、明らかに注意が必要だ、現在までのところ僕は、直観的に、相手の防波堤を越える量のソウルを強制的にぶっ込むようなことを常に続けているが、もしこれが急に防波堤なしになると、いつも言うように「死んでまうぞ」という、一種の災害が起こってしまうことになる、そこは少しこちらの側で安全性の担保を組み立ててからにしないとな……そうだな、ペアレンツを停止させるかわりに、ワーク時には「後見人」というプレイヤーを傍に立てるようにしよう、後見人の立場も大きな勉強になるだろう。

ペアレンツは、玄関前ですべての来訪者を追い返してくれる。

それによって、箱入り娘は、外部の何の魂にも接触しないので、安心というわけだ、ペアレンツというのはまさにそういう機能のものだし、確かにそれによってヘンな悪霊に取り憑かれるリスクを排除できるのでもある/むしろ現代においては、ペアレンツが甲一種体勢で機能しているのが基本かつ最大利益的だと言えるかもしれない。
この防衛システムを、恣意的にガラ空きにするというのは、管理されたワークの中であっても、それなりの危険が伴うだろう、だからまあ、不穏になったらやめることにしよう/ただ誰しも、このシステムの存在については知る必要がある、そして一部の、言葉なり命なりが「響く」という性質を持っている人は、このシステムに頼らず己の魂で多くのことに向き合ってきたのだということを――つまり自分とはモノが違うのだということを――知らねばならない、そうでないとどこまでも自分が超一流だというデタラメな妄想から抜け出せない。
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WS報告034(2)/歩く命令体となる
ともと「魂魄」の差分について実用を得るのが主軸のワークショップだ、このごろはもうそれが明らかになってきて、合気挙げひとつを採っても、合気挙げどころじゃない、人がビヨ〜ンと起立するのだから大笑いだ、それもすでに実演可能なのは僕だけではなくなってしまった(冷静に考えたらスゲーことだ、フツーの奴ができるワザじゃねえぜ)。
「気魄」といって、全身をまんべんなくNoの状態にすること、そこから「霊魂」といって、横隔膜をやわらか〜く、空間を広くとって全身をYesの状態にすること、そこに「命」と呼ぶべき現象が生じるということをずっと追究してきた。
気魄は互いに押し合うものだから、それがまんべんなく釣り合うとき、一方の気魄が霊魂に(ミリ秒で)入れ替わると、残っていた気魄は釣り合う先を失ってフラッと前に飛び出してしまう、命令法も金魚法も根本的にはこの現象を利用している。
虚実で言えば、気魄が実で霊魂が虚だから、マスターは初めこの世界を定義する唯一の実として立ち、その後虚に転じることで、プレイヤーに実を移すという手続きを扱う、初めマスターのみが「実在」であったものが、直後にはプレイヤーたちだけが「実在」になるわけだが、このことを「マスターの消失」と呼ぶ、マスターは虚実において「実在」をプレイヤー側に移すので、そのとき自身の側は「消失」しているのだ/合気挙げにおいて人がビヨ〜ンと立ち上がって笑いを誘うとき、本質は力学のワザではなく、立ち上がっているときには実在が片側にしかないのだ、二者が向き合っていたものが、立ち上がるときにはそいつ一人しか実在していないという状態になるから、事象が力学を超えていて笑いを誘うのだった。

はじめ、マスターは「世界」に「実在」し、待機するプレイヤーどもはクソジャガイモの雲として、「こんなもん存在していない」と扱われる/もちろんこの時点で、マスターは「お前の世界ってどうなん? あるの?」ということが問われるのではある(そんなもんテメーでなんとかしろ)。
マスターが「世界」の唯一実在としてそこに立ち、その後実在がプレイヤーに移され、そのときマスターは消失しているわけだから、プレイヤーは先ほどまでマスターが示していた空きの「世界」へポンと踏み出すことになる、そこに「世界」と己の「実在」が存在しているという体験が得られる/人はこの手続きにおいてしか、世界や愛や魂というものを獲得できない(ナマの世界から直接の天啓を得るような奴は除くが、そんな奴は歴史的にも例外をきわめる存在なので考えなくていい)。
マスターというのはけっきょく、高度化すると、「世界の唯一実在」という状態と「消失(実在をプレイヤーに移す)」という状態を、具体の操作によって、単位時間あたりに何十回も何百回もできる人、ということになる、それは体験的には「何か知らんが "世界" にぐんぐん連れていかれる」という感じで体験される、この体験にぐいぐいついていけたら、「夢のような人、そして夢のようでありすぎてヤバい」という体験になり、この体験にまったくついていけないと、「自分がポカーンとしているうちに、自分は何かとんでもないことをしてしまっていて、自分が呪われそうで怖い、これは殺される、ヤバい」という体験になる。
じゃあどっちにしてもヤバいんじゃないか……使えねぇ奴め、というのも、半ば冗談ではなくて、本当にそうして高度化したマスター状態になると、「誰がついていけるんだ、ついていったら精神がもたねーだろ」という状態であると同時に、「かといって、ついていかないと、何かとんでもない絶望をオウンゴールするんですよ〜」という状態になってしまう、だからリアルに使えねー奴というのも、半ば当たってはいるのだった/ついていったら事故るし、ついていけなくても事故るという、強制的にサーキットに放り込まれたような状態になる。

高度化したマスターは、もはや何をしているのか視認できない、ただ常時作用だけが起こっている、「歩く命令体」となる。

虚実皮膜といい、虚実皮膜は魂魄の入れ替わりに生じる分岐点のことだが、完全に高度化したマスターは、この虚実皮膜の前後に、人々の魂魄を、ほとんど周期的にといってよいほど揺さぶり続けている、それで常に人々に命と世界を与えている/この人は常に、カルマ・ノンフィクションに傾倒した人に排除され、同等に、スピリチュアルに傾倒した人に排除されるだろう、業界どっぷりの人もスピリチュアルどっぷりの人も、どちらも皮膜から目を背けた人たちということにおいては同質だからだ。
ワークショップとしては、魂魄の入れ替わりに生じる現象を、己で具体的に取り扱えるように研鑽している、それぞれの身はまんべんなく気魄に満ちてハイに独立していなければならないし、それらの身のあいだに命・魂が流れ込む仕組みがなければ何も楽しくない、そこは考えれば当たり前の話なのだ、その行き着く先は当然の「歩く命令体」となる、この歩く命令体が中央にあり、片側の果てには「業界」があり、もう片側の果てには「スピリチュアル」があるだろう。
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WS報告034(1)/理屈で言ってマルチ世界にならぁな
うあまりマジメに報告する気もないけれども、よく「世界世界」と僕は言うので、その「世界」というのは、必然的に "マルチ" 世界にならざるを得ない。
なぜマルチ世界になるかというと、命やら魂やらは、もともとひとつのものであって、またそれらが時間軸とは無関係の永遠として存在しているというのであれば、やれ「命」やら「魂」やらの営みは、この世界のあちこちのすべて、また歴史上のあちこちのすべてと、ひとつにつながって存在し、営まれていないといけない、そうでなければ「ひとつ」ではないし「時間軸から独立」でもない。
「命令法」うんぬんをやって、具体的にその技術と現象があるのは確かだが、その現象の真相へ接近していくと、最終的にマルチ世界うんぬんになる、その場かぎりのその場の空間で「命(令)」というわけではないのだ、そんなこんなで「おまけワーク、マルチ世界法〜」といって、僕一人で遊び始めたりした。
すると驚いたことに、このマルチ世界法とかいうふざけた遊びについて、全員の反応だけが異様によいのだ、お前らってホントわかんねえよな、なんで何も理解しないのに反応だけは妙に勘が良いのだ。

「世界」といって、僕はそもそも時間が流れているというのがウソだと唱えているのだから、この世界ってマルチ世界じゃねということ、つまり命やら魂やらは世界中のすべてと時間軸上のすべてに「ひとつ」としてつながって営まれてない? ということの感覚が、正直なところもともとあった、ただまあそんなことまで言い出すと、何も練習しようがないし、聞くだけでもヤベー奴の話なので、そんなところまで説明する必要なかろうと、言わずに放置してきたのだが……
この、お前らなんぞにわかるわけねーべと思っていたやつが、確かにお前らなんぞにわからねーのだが、反応だけはバッチリいいところに、妙に憮然とするというか、首をかしげざるをえない、なぜ何もわからないくせに直観だけは利くのだ、おれが逆の立場だったら、たぶんおれはそういう直観は利かないのだ、それはおれが直観というものをあまりアテにしていないからでもあるとは思うけれども。
もしお前らがそうして直観だけで「わー」となるなら、まあそれでもいいや、そういうことならもう、命や魂はもともとマルチ世界でーすと、定義してしまおう、命令法といって「おれ」が命令法をやっているのじゃないよ、おれはたまたまその場に居合わせて「身」を使っているだけだ、命令法そのものをやっているのは命それ自体であって、じゃあ命とは何かといえば、それはもう「おれじゃない」というぐらいしか言えないだろう/もう説明の限界を超えていると思うが、この世界をシングル世界・モノ世界として扱う場合、あくまで限定的な命令法(のようなもの)を使うのが「おれ」「わたし」になる、初めは説明のためにそういうやり方を示してきたのだが、この世界をマルチ世界だと言い始めたら、命令法を使う主体は「おれ」「わたし」ではなくなり、そもそも「おれ」とか「わたし」とかいう有限の主体は存在していないという話に定義からすり替わってしまう。
モノ世界の有限の人格、いわゆる「人」「誰それ」というのは、マルチ世界においては「役に立たんクソジャガイモども」でしかなくなるので、ほっとけ・無視しろ・こんなもん存在しとらんという扱いになる、そのたいへん失礼きわまりない邪悪で不遜な扱いが、実は人々を救済するのだった、みなさんはどう思いますか、自分を含めて人およびすべての誰それは、こだわりたっぷりの尊重されるべきものたちでしょーか、それとも役に立たんクソジャガイモどもでしょうか、おれはどうも後者に思えるんだよな。

クソジャガイモどもとなら、旅行にいくのも悪くない。

それがお前、尊重されるべき誰それ・パーソン群と、旅行にいくとか、はとバスじゃあるまいし、かったるくてまっぴらゴメンだぜ(はとバスが悪いわけじゃない、はとバスはいいツアーだ)/マルチ世界に気づくということは、同時にわれどもをクソジャガイモどもだと認めるということだぜ、このことに気づくまで人というのはうっとうしいウフフ同調をやめられないのだ、うーん想像するだけでキツいなあ。
みんなどう思うのかね、ただ世界があってクソジャガイモどもが運ばれているほうが、よっぽど楽しいと思うのだが、それよりも最強不変のわたしパーソンが今夜も思い詰めるほうが楽しくて正しいと思うのかな、そんなわけねえよなあ、僕はすべての小説をクソジャガイモどもの運ばれる愛の世界として描いてきたし、僕が得てきたすべての体験もそれだった、人がガンバってマルチ世界に到達するということではなく、そもそも世界といえばマルチ世界でしかありえないのが理屈ですがアンタ何言ってんだという話なのであった、うーんWS報告になっていないな。
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激怒と依存と "わからない" 3/愛を受けると何が起こるか
に述べたように、人は孤独に死んでいくことなどできず、「激怒と依存と "わからない" 」でパンパンになって、とっても苦しみながら生きるし、とっても苦しみながら死にますよということは、誰だって知っておいたらよいと思う/ブルーな話だが、それだけに、何の予告もなしに知るほうがやがてキツいからだ。
「激怒と依存と "わからない" 」になっていくということ、そこまでは、やがて誰でも事実と整合するから、そのときになって「なるほど」と知れることなので、何であれば、その補いとして、逆のことも知っておいたらいいと思う、あくまでそのように聞いたという話として……/つまり逆に「愛」を受けたらどうなるかについて。
愛を受けたら、これは不思議だ、けっきょく本当に起こることというのは、なぜそうなるのかわからないことばかりなのだと思う/愛を受けると、なぜか「激怒」という現象が遠のいてゆき、「依存」という現象が消え去ってゆき、代わりになぜか、何かが「視える」「わかる」ということが得られてくる。
なぜそんなことが起こってくるのかは、けっきょくよくわからないのだ、自分で抑制しようとしたわけでもないのに、「激怒」は遠のいてゆき、「依存」は消え去ってゆき、なぜか「あれ?」という具合で、学門のあれこれが視えるようになってくる/「寛容」と「離脱」と「学門」が得られてくるのだ、それがなぜなのかは当人もわからない。

もちろん仕組みとしては、つじつまは合うのだ、そもそも「激怒と依存と "わからない" 」が、「寂」からの逃避によって生じている以上、「寂」そのものを退けられれば、逃避が必要なくなるので、「激怒と依存と "わからない" 」という現象も必要がなくなる、だからそれらは消え去っていく。
とはいえ、これは実際に体験すると、やはり「不思議」なのだ、何しろ本人は、自分の何を変えようと思ったわけでもない、何を変えようと思ったわけでもないのに、気づくと自分の体内で毒性がはるかに薄まっている。
そして、「不思議だなあ」と首をかしげたとき、同時にこうも気づくのだ、「これって、自力でどう努力しても無意味だ」「こうやって、消えていってくれるということがないかぎり、自分で消せるものじゃないんだ」「これって努力の問題じゃなくて仕組みの問題なんだ」と。
こうして、愛を受けたらどうなるかというのは、体験した者でないとわからないし、体験した者だって「なんでだろうね」と、やはりよくわかっていないといえばよくわかっていないのだ、ただそのときにあるのは、すでに何もかもがガラッと変わったという事実と、同時に、社会的・世間的・身の上的なことは何ひとつ変わっていないという事実だ、だからますます、「こんなこと、誰に説明してもわかってもらえるはずがない」と前もって知れてしまう。

一方は「わたしはこんなにガマンしてきた」と震え、一方は「あれ? わたし別に何もしてない」と首をかしげる。

人が「寛容と離脱と学門」を得るのは、愛の仕組みであり、また人が「激怒と依存と "わからない" 」に行き着くのは、業の仕組みだ、おおむねどう努力しても変化はない、表面上がややマシになるということはあるが、二つの仕組みの方向性そのものが変わるということはない/いずれそのブルーなほうの仕組みも、よく知っておいたほうが、ナイスなほうの仕組みもますます、「なるほど、仕組みだ」とはっきり視えるようになる。
決して何かをバカにする必要はなく、また否定する必要もなく、ただそうした「仕組み」があるということだ、あなたの知るAさんを眺めるときも、たまにその「仕組み」のことを思い出して眺めるといい、特に自分から見てその人の情緒模様が「わからない」と感じる場合、仕組みに照らし合わせると「そのまんまだな」ということが視えるようになってくる。
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激怒と依存と "わからない" 2/味方妄想

でも表面上はまともに見える、むしろ「まとも」というのは、ほとんどその表面上のことしか指していない。
問題は、一皮剥いた中身がどうかということだ、一皮剥いた中身が、実はすぐ激怒していて、こっそり何かに依存していて、実は物事の本質がまったく理解できていない・知性が壊れているということがよくある。
たとえばあなたの知るAさんのカバンに、こっそりいたずらで、1kgある石を入れてみよう、「今日は妙にカバンが重いな」となって、Aさんは後で気づいて「やりやがったなw」と、笑ってくれるだろうか、そのAさんを60歳以上の高齢に当てはめてみた場合はどうだろうか。
そのAさんから、テレビとスマホとアルコールを一日取り上げてみたらどうだろうか、「スマホ見た〜いw」と、Aさんは笑うだろうか、そのAさんに作文を書かせてみたらどうだろうか、観た映画についてA4二枚の感想文が「なるほど」と読ませる感じに書かれるだろうか。

知っておかなくてはならないのは、世の中・世間というものは、別にあなたの味方ではないということだ/世の中・世間があなたに求めることは、あなたが世の中・世間に利することだけであって、他の誰かがあなたを利することは一ミリも考えていない、そこに「あなたのため」という真意はわずかも含まれていない。
学校だって同じで、教師個人が何かを教えようとした場合を除いては、学校という装置があなたを豊かにしようとはまったく目論んでいない、学校も世間の装置にすぎないから、学校はただあなたに世間を利する業を具えさせようとしているだけだ(学業)、学校があなたを利するために何かを教えてくれるということはまったくない。
そこを勘違いした人が、やがて「激怒と依存と "わからない" 」に陥っていく/それは、「寂」の感情に晒された人が、自分とつながってくれる何かを探して、世の中・世間を自分の「味方」だと誤解することに端を発する、どうしても「寂」の感情に晒されると、耐えられなくなって自分は世の中・世間との「つながり」の中にあると思いたがるものだ。
またその中から、少なからぬ人が、何かしらの宗教にすがりつくこともある、そしてここでも考えが甘くて、宗教の "施設" があなたの魂を救済しようとはしてくれない、宗教の施設は何もあなたの味方ではない、宗教の施設があなたに求めるのはやはり宗教の施設を利することであって、あなたの魂を利することではない/その結果、本当にウソの教えをねじこまれることがよくある、そりゃあなたは宗教の施設において、誰かのカバンに1kgの石を入れていたずらしようなんて考えないだろう、そんなことしたら「激怒」されるに決まっている。

他人があなたの魂を利するしたら、それは「愛」だが、通常「愛」なんて不自然な現象はどこにもない。

何なら、近所の宗教施設でも覗いてみればいいと思うが、そこに「激怒と依存と "わからない" 」ではなく、その逆の「寛容と離脱と学門」がひしめいているだろうか? そのあたりは、マジマジ見つめていると、本当に怖くなってくるものがあるが……つまり、世間はあなたの味方ではないし、いざというとき、一般に脱世間とされているものも、やはりあなたの味方ではない。
どこにも味方なんていないということに、震え上がれと言っているのではなく、この味方の誤解、ないしは味方妄想から、人は「激怒と依存と "わからない" 」のコースに編入していくということだ、おそろしい話だが誤解しているよりはマシだろう、これは味方なんかいないから孤独にさびしく生きろということではなくて、<<世間性で愛の代替はできない>>と指摘しているだけだ/あなたのカバンに僕がこっそり1kgの石を入れてゲラゲラ笑ったとして、あなたは僕に対して激怒したりはしないだろう、それが実はとてもレアな現象だということだ。

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激怒と依存と "わからない"
れから先、未来に向けて、絶対に知っておいたほうがいいと思うのは、「人は孤独に死んでいったりはできない」ということだ。
いわゆる孤独死という言い方があるが、社会的にはそのように言われるにしても、人間の性質として、内面的にはそう単純に「孤独死」とはいかないのだ、もっと別のことが起こってしまう。
人は、「寂」という感情になかなか耐えられるものではないので、「孤独だ、さびしいなあ」と噛みしめながら、死んでいったりはできないのだ、本能が「寂」という恐怖を回避しようとして、別の現象に食い込まれる。
どうなるかというと、「激怒と依存と "わからない" 」で死んでいくのだ、こんなえげつないものはさすがにNHKだって生々しくはレポートできない。

「わからない」というのは、たとえば認知症などもそれにあたる。
認知症になって、本当に何もわからなくなって、それで何もわからないぶん穏やかになるかというと、そうではないのだ、認知症の人の多くは常時「激怒」という状態になる/実際、それによって老人が暴力を振るうことが、各方面で重大な問題になっている。
そして、「わからない」アンド「激怒」の上に、当人はえんえんと、たとえばある種のアダルトビデオをえんえん見続けたりしているのだ、「やめられない(依存)」のだ、人の生き様と死に様は最終的にそんなメチャクチャな様相に行き着いてしまう。
仏教説では、人の煩悩は貪瞋痴といって、三毒からできていると説かれているが、そんな宗教くさい言い方をする必要はない、実際に起こるのは「激怒と依存と "わからない" 」だ、孤独でさびしいからといって、さびしさの中で死んでゆけるわけじゃない、直面させられる恐怖はそんな生やさしい恐怖ではないのだ。

各方面にヘイトを覚え、SNSに依存し、「つぶやき」の短文しか読み書きできなくなる。

今まさに、若年層でも、そういう実態が生じてきているということだ、なぜそういう実態が生じてきているかというと、孤独でさびしいからだ、といって当人にさびしいという感情は直接それほどにはない、人はその感情に直面できるほど強くないからだ、よって若年層でもそうして老人と同じように、「寂」から逃れるために「激怒と依存と "わからない" 」に食い込まれていかざるをえない。
晩年に、もし「孤独だ、さびしいなあ」と、寂の感情に直面できる人がいたとしたら、その人は生きてきた中で、何か確かな思い出や世界や愛に、わずかでもかすってきたということだ、だからこそ「寂」を正面から引き受けることができる、だがそれらのものにかすりでもできたという人は実はそれほど多くはない/僕はこのことは是非知っておくべきだと思うのだ、「別にもうどうでもいいや」と思ってみたって、その「どうでもいいや」のまま死んでいくことはできないように作られているということ、「激怒と依存と "わからない" 」に支配されたまま何十年も生き残るのはとてつもなく苦しいことだ。
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いかにして女を軽蔑するか3

ういえば、十数年前のノリにおいては、「どういう女の子がタイプですか」と訊かれるのに対し、僕はいつも「女の子なら誰でもタイプ」と答えていた。
それについて、「サイテー」と笑う人もいたけれども、一方で、びっくりして、「ずいぶんと、おやさしいのね」と言う人もいた、ただし十数年前までのことだ、今はもうそんなノリというかそんな思想はどこにも残っていない。
「女の子なら誰でもタイブ」というのは、つまり「女なら誰でもいいのかよ」ということで、女性に対する典型的な軽視だと思うが、そうすることでしか成り立たない何かがあった/僕は現在でも、自分が「ボクの好きな女のタイプはね……」などとほざくのは宇宙で一番キモチワルイことだと思っている。
僕は男なのだから、女の子なんか全員タイプなのが当たり前なのであって、だから女の子の一人ひとりを、いちいちジロジロ眺めまわして「あのコはこうで」「このコはこうだなあ」と品評することが、キモチワルイし面倒くさくてしょうがないのだ/僕は魂の響きについては、峻厳に個別化して捉えるが、そうでないものは別にもうどうだっていいだろ、但馬牛もウマイと思うし飛騨牛もウマイと思うよ、そんなもんどちらもサイコーに決まっているので銘柄なんか見なくていい。

今、あらゆる方面において、「わたし」という "存在" が得られないという状況があるから、特に男女交際やセックスの方面で、紛れもない「わたし」の確認を求める向きがあるのだろう、でもそれは構造的に不適切だ。
魂の営為で「わたし」の存在が得られないのに、急に男女交際やセックスで「わたし」が得られたりするかよ/この、男女交際やセックスで己のオリジナリティを成り立たせねばならないという、構造的に誤った捉え方が、現代の男女観をややこしくし、男女の関係を初めから気の重いものにしている。
極端な話、あなたがマラソンで走るときに、あなたのオリジナリティなんかないし、あなたが健康診断を受けるときにも、あなたのオリジナリティなんかないだろう、それと同じで、男女交際やセックスにもあなたのオリジナリティなんかない/この、「わたし」という "存在" が欲しいという、オリジナリティ探しが混入すると、男女交際やセックスはたいへんいかがわしいものなる、あるいは他のすべてのこともいかがわしいものなってしまう。
男女交際やセックスなんて、基本的に男の側の慾望という事情で生じるものなので、この一方通行でワガママな慾望に対してどうするか、その前後で愛が問われるだけにすぎない/そして、もしオリジナリティという言い方でいうなら、オリジナリティのある男は、セックスの前からオリジナリティがあるし、セックスの後もオリジナリティがある、不変だ、セックスはそのオリジナリティとは無関係にすることだ、乗っている車でオリジナリティなんか得られないように、セックスのやりようでオリジナリティなんか得られるわけがない。

だからまともなセックスには、「セックスした」という記憶がない。

そりゃそうだ、たとえばみんなでどこかにドライブしたとして、「フォルクスワーゲンに乗った!」なんて記憶があるわけがない、別にフォルクスワーゲンであろうがなかろうが関係ないからだ/僕が「女の子なら誰でもタイプ」というのは、「ドライブに行くならどの車でもサイコー」と言っているのと同じだ、もちろん名車のほうが乗り心地がいいに決まっているが、ヴィッツで行ったドライブがサイテーになるということはまったくない、同じくサイコーだ。
「いかにして女を軽蔑するか」というのは、いかに自分が女をジロジロ品評したり愛玩したりするのをやめて、ただ女の魂と一緒にどんな景色が見られたかを追いかけられるかということだ、女が自分の汚らしさをその日使い切って、魂がまったく別の景色を見たなら、女は自分の扱われ方がどうだったかなんてまったく気にしないし記憶にも留めていない/女だって生きているうちに<<鏡よりも心惹かれる景色>>というものを見てみたいのだ、そこで女をきれいきれい扱いだけしていると、女はずっと景色でなく脳内の鏡ばっかり見て生きなくてはならないのだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
いかにして女を軽蔑するか2

のある話で、これは男尊女卑とか、女性蔑視の話ではない、タイトルが矛盾しているようだが……
きれいな女の子は、きれいに扱われることで、実は閉じ込められているのだ/といってもちろん、汚らしい女になってはいけないのだが、そこが問題だ、女は男と違い、その気になればいつでも汚らしい女に「なれてしまう」というのが問題だ。
女がいつでも、汚らしいものに「なれてしまう」というのは、汚らしいものの素質を、いつでも秘めているということだ、この秘めているものを秘めたまま、「きれいなもの」として扱われると、女はずっと、何かを自分のうちに閉じ込めたまま生きねばならない、このことが女の魂を解放せず憂鬱と退屈に押し込めるのだ。
これについては、どうしても、まともな男がいたほうが有利だ、いわば男のほうが、汚らしいものの扱いに慣れているので、女は自分の汚らしさを、自分で解放せず、男に解放をガイドしてもらうほうがいいのだ、そうすることで、女は自分の内にある汚らしさを、理性的に解放し、「なんだこんなものか」と、脈絡をもって管理できるようになる/女は汚らしいものの扱いに慣れていないので、女自身で汚らしさを解放すると、本当に汚らしいものになってコントロールが利かなくなるのだ。

代表的なところでいうと、女はたいてい、虫が苦手だ、ただし虫が苦手だからといって、秋に鳴く虫の音をすべて根絶やしにして殺せ、と女たちが願っているわけではない。
女は虫が苦手だが、男は割と平気だったりする、男から見ても虫というのはそんなに気分のいいものではないが、女の場合は見ただけで半ばパニックになる人もいるので、それに比べれば男のほうがはるかに虫に対して理性的だ。
女が自身で汚らしさを解放しようとするのは、女が虫を管理しようとすることに似ている、おそらくは初めから半ばパニックになってしまい、ただ汚らしいものをぶちまけてしまうだけになるだろう/そこは男のほうが、カブトムシを水槽で飼うように、理性的に扱うことができる。
女にきれいなものを求めてしまうのは、スケベおじさんの永遠の憧憬みたいなものだが、それはけっきょくアニメキャラに恋するオタクと変わらないので、そういうことではないのだ、女はきれいでないものを秘めているので、男はその処理と管理が上手になったほうが、女にとってよっぽど頼れるし足しになるのだ/だから女はオタク男がきらいで、自分の股間やおっぱいに動転しない男が好きだ。

女なんてみんな同じでかわいい。

もちろん、一人ひとりの魂・命・物語は別で、うつくしい女というのも存在するのだが、その魂の問題は、その手前の「女なんてみんな同じ」を解決してから後の話なのだ、特に若いうちはその手前のほうの問題に向き合わされることが多くなる。
「女なんてみんな同じ」というのは、性風俗がいかにもそれを示しているし、明かりを消して乱交でもすればますます明らかになるだろう、「女なんてみんな同じ」/もちろんそれだけで解決するわけではなくて、本質的には「女なんてみんな同じ」を解決した後に、本当にうつくしい女の魂が見えたり宿ったりするのだ、そして賢い女はむしろ男よりその本質がわかっている、「キミだけが特別さ」と浅はかな思い入れで言う男に対して、浅薄な女は好感を高めるが、その男が何かの手がかりになるとは本当は思っていない。

正しく見ないとな | comments(0) |
いかにして女を軽蔑するか
妙なタイトルだが、これは愛なのだ。
おれは女を軽蔑するのが苦手なので、そのことが逆に女性を閉じ込めてしまっている。
おれが閉じ込めるといっても、解放から較べれば微弱なものだけどね……
もちろん、女を軽蔑している男がいたとして、それはだいたいハズレなので、そういうことじゃない/いかにして女を軽蔑するか、特別な話、おれは女がいきいきしているところだけが見たい。

女にとっては、軽蔑が解放なのだ。
ただしその場合、その女が、目の前の男を、魂の底から尊崇している、ということを条件にする。
女としては、同じ尊崇エリアに括られるほうが、不自由で閉じ込めなのだ、軽蔑してくれたほうがパッと解放されるということがある/たぶんこのことは、体験するまで何のこっちゃまるでわからない。
軽蔑された女は、非尊崇のエリアに落ちることになるが、それでも大丈夫なのだ、目の前の男を愛してつながっているから、女は本領発揮しながら魂の底からの尊崇とつながっていられる、そのときはじめて「ウソ隠しなく」自分は何かとつながれるのだ、もちろんこれは知られざるナゾの事象であって、一般に言われている男尊女卑をなぞったところで重油をジョッキ飲みするぐらいのストレスにしかならない。

「しょうもない女」扱いすることで、初めて解放が起こり、愛が成り立つ。

となるとやっぱり、原則として男は、しょうもない奴になってはだめなのだ、男と女でそろって「しょうもない奴」をやると、くっつきやすくはなるが、その後救いがなくて、やることがなくなる、しょうもないことは女のためにとっておくべきだ。
こんなことを言い出すと、一部のフェミニスト勢には猛烈な勢いでクラスター爆弾でも落とされそうだが、そういうことじゃない、僕が言っているのはそんなありふれた事象平原のことじゃない、しょうもない女を愛するとき女はとてもうつくしいのだ、せめてこのことにこっそりうなずきたい女がいることについて、彼女らの個人的権利まで侵害しないでおくれ。
正しく見ないとな | comments(0) |
月刊ワーQショップ 第五号「憎悪」

pdf[A4]39頁
→月刊ワーQショップ 第五号「憎悪」



月刊ワーQショップ1月 第五号「憎悪」をアップロードしました。ご笑覧ください。
(ブラウザから閲覧するとまれに文字化けすることがあるので右クリックからダウンロードしての閲覧を推奨申し上げます)
ご寄稿のみなさまありがとうございました! 九折


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第一号はこちら→「創刊号」
第二号はこちら→「夢中」
第三号はこちら→「軽薄」
第四号はこちら→「Yes」

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No. 391 何もかもが裏返る

掲題のコラム、本サイトにアップしました。
 

 

No. 391 何もかもが裏返る

ここでキーワードは、「世の中のカスどもめ」になる。

 


よろしくお願いします。
九折

本サイトコラム | comments(0) |
人は創作を見ると "安らぐ"
のブログを読んでいる人の多くはきっと、通勤通学中や、昼休みなどの時間つぶしに読み、「内容はよくわからんが、なんとなく読んでいると正気に返る」「なんか精神を取り戻す感じがする」「なぜか明るくなる」という感じで読んでいるのではないだろうか。
なぜそんな、不明の動機が成り立つかというと、一般にはあまり知られていないこととして、人は人の創作に触れると、何か「安らぐ」のだ、致命的な "寂" に対抗できるというのがあるし、何より理由はわからないがとにかく安息が得られるのだった。
これが、創作とは異なる何かしらの「娯楽」だと、娯楽性は高いのでなんとなく熱中できて楽しめるのだが、この熱中はきわめて一時的なもので、熱中が醒めると即座に倍増した「寂」に押しつぶされるのだった。
このように、娯楽と創作はある種の対を為しており、娯楽は「よくわかる」が後がキツい、創作は「よくわからん」が後がラクという、不思議な効能があるのだった、この効能はなかなかバカにできない。

なんというか、人が「創作」をして、その実物が目の前にあると、人は魂のどこかで「よかった、人は "まとも" だ」と安息するのだ、その場合創作はヘタでも上手でもいい。
ただ逆に、創作が創作でなく、創作ふうの、雰囲気だけ、業界の何かであったり、自意識の陶酔の何か……という場合、逆に「寂」は増大して不安になる/僕はむかし、女の子の股間しか見るところのない前衛ダンスを見て、その後吐きそうになったことがある。
もちろん、このことには逆のパターンもあって、魂の向きが逆さまになっている人は、まともな創作を見たときこそ恐慌に陥るという場合もあるが、もうそんなパターンまで考慮に入れていてもしょうがないので、創作というのは第一に人を「まとも」に息づかせると捉えていい/もしあなたが、何かしょーもないことでも創作に興味があるのなら、このことを頭の隅っこに入れておいたらいつかのときに役に立つかもしれない。
せっかくインターネットもあることだし、もっと創作が多くあふれかえればいいのだが、なぜか状況は逆に進行し、インターネットは「あれ? 人は "まとも" じゃない?」と怯えさせるほうに機能している/別にわざとらしい「創作」でなくてもいいのだ、ようは魂が露出していればそれだけでいいということ、魂がないものをまき散らすと人は寂に怯えるしかなくなるということ。

プチ動画やgifやユーチューバーばかり見ていると精神が恐慌する。

この現象はじわじわやってくるので、なかなか気づかないのだが、そういう楽しげなものというか、容易に「楽しめる」と感じられるものは、危険なのだ、実は精神は「寂」のほうへ追いやられているということ/それらのコンテンツが悪いといっているのではなく、それはそういう「性質」なのだ。
創作と呼びうるものと、そうでないものとの区別はあいまいだが、要は「誰か」の魂が露出していたら、それは創作だといえる、そして人は、自覚がなくとも、「誰か」の魂に触れることで、ようやくまともな安息を得るのだ、僕が書いているこのわけのわからん記事群も、僕の魂が露出していることについては疑いないので、まあレベルはアレでも創作であるには違いないだろう。
 
正しく見ないとな | comments(0) |
クソ男より女の子たちへ
際、傲慢になんかなりきれたもんじゃない。
自己陶酔のやり方がわからない、そんなヒマはないと痛感しているうち、本当にやり方が完全にわからなくなった。
僕の慾望は僕のものではない、世界の慾望だ/世界が世の中に裏返る前にあった、裏返る前の慾望だ。
愛というのは世界の、裏返る前の慾望だ、僕がすべての女の子を愛するのは、世界の強制であっておれの意志じゃない、もうおれの意志というやつはどこに行ってしまったのか正直よくわからなくなった。

もともと、二十数年前から、そういう感覚はずっとあった。
僕が女の子にフラれたら、僕はかまわないが、何かもっと大きなことにおいてマズい、それが僕の失態だと思っていた。
女の子を、いい気分にさせないといけないのだ、それもおだてるとかではなく、何かもっと、荘厳なことがあったと思い出させるような形で/そのためには僕がフラれているとかそういうことは、二の次というか三の次というか、五十億の次ぐらいのことだ。
女の子は、どういうアホがお好みだろうか、お好みといって、そんなことはわかっている、女の子は自分のお好みに振り回されている小さな自分がイヤなのだ、僕はなるべくクソ男になって、女の子に愛に気づかせてから死滅せねばならない。

おれの愛なんかどうでもよく、主題は女の子の愛なのだ。

女の子の愛が途絶えているのは、女の子自身にとっての不幸であり、女の子自身にとっての危機なのだ、その危機を救うためには、クソ男が活躍しなくてはならない、女の子が真の自信を得るのは、紛れもないクソ男を紛れもなく愛したというときだから。
最近は僕も、女の子にモテるようになって困っている、女の子に愛に気づかせるためには、クソ男でないとダメなのだ、クソ男としての次のスタイルを考えないといけないのだろうな。
恋女のマインドね | comments(0) |
犯罪と魂の問題
近の犯罪者はハズレばかりで、かつてのようにジェームスブラウンが公衆便所にサブマシンガンを撃ちまくって便器をコナゴナにしたというようなアタリ犯罪が少ない。
犯罪というと、まるで子供のように「悪いこと」と思われているフシがあるが、たいていの場合は「人権の侵害」だ、とりあえずこいつを正座させてみようということで「正座!」と強制すると、それは人権の侵害にあたり犯罪となる。
僕がそのへんの女の子をテキトーに捕まえて海辺に連れて行ったりすると、海辺が犯罪なのではなく、本人の合意を得なかったということで、人権の侵害があり、そのことによって犯罪になる。
僕の友人が目の前でコカインをやっていたとして、僕が「やめろバカ」と抑え込んだとすると、やはり人権の侵害として僕は犯罪者になってしまう、現行犯で私人逮捕するというなら話は別で合法だが/つまり完全な「法治」を基準にして考えると、この世界には魂などというふざけたものはなく、当人の意思だけが存在していることになり、僕が女の子の魂を海辺へ連れて行く可能性はなくなるのだ、これはまったくむつかしい問題で、おれだけ永遠の不逮捕特権がつかないかなあと、夢を見続けるのだった。

どう考えても、犯罪なんて基本的にハズレであり、今さらソウルの人を気取ってみても、しょうもない迷惑になるに決まっている、ソウルならソウルで必要な手続きがあるので、ここのところを甘く夢想するのは論外だ。
ソウルならソウルの手続きが必要というのは、ひとつには芸術であったり、ひとつには司法以外の厳正なルールであったりだ、まあここではわかりやすく芸術のたぐいを例に採りたい。
芸術のたぐいは、ノンフィクションで作用しないかわりに、フィクション上では対象の合意を無視するということだ、対象の合意を無視して魂を連れていこうとする/もちろんそれが、キャンバスからはみ出さないのであれば、けっきょくつまらないのだが、まあそれにしてもどうせ入口はフィクションなのだからそれでいいのだ。
それで何が言いたいかというと、芸術のたぐいは、そもそも人に合意を得てからどうこうするという行為と本質的に異なるので、本質的に犯罪者の行為だということ、芸術家というのは例外的に、魂のはみ出しがフィクションの受け皿に流入して報われたタイプだということだ、その受け皿がなかったら徹底して通常の犯罪者だっただろう/これは芸術家を賛嘆しているのではなく、そうでない人は基本的に芸術家ではないのだろうなという話をしているだけだ、僕は芸術家気取りと不毛の犯罪者が同等に苦手だ。

生きるのをやめさせれば合意は必要なくなる。

つまり、僕が女の子の死骸を海辺に連れていっても、それを拉致だの誘拐だの言われることはなくなる、他のしょーもない罪には問われそうだが、少なくとも人権の侵害とは言われないだろう、だって死骸はもう人権の主体じゃないからな/かといって毒ガスを散布したからといって何もステキになるはずはなく、だいいちそんなことしなくても人は放っておけば数十年で勝手に死による、わざわざ殺害する必要はない。
犯罪だの人権の侵害だの、ややこしいことを言わずとも、それは「人が生きるのを邪魔すんな」というだけのことにすぎない、「悪いこと」が犯罪なのではなく「人が生きるのを邪魔すること」が犯罪と法定されているだけだ/だとすると寿命や病気が一番の犯罪者ということになるなあ、やがてみんなその犯罪者の手にかかって殺されていくということだ、その前に僕と海辺でも散歩しない?(しない)。
正しく見ないとな | comments(0) |
犯罪者に注目してみる
罪者というのはダサい言い方だが……/テレビで何かの事件の犯人が逮捕されると、その連行映像が流れる、その犯罪者の顔に注目してみる、正確には犯罪者ではなく「犯罪で逮捕された人」ということになるけれども。
逮捕された人は、男前というわけではないけれども、何か一種、すっきりした顔をしている、それはある意味で魂の顔でもある、なぜそこに魂の顔が出現するかというと、もうインチキの人付き合いをする必要がなくなったからだ/少なくともその逮捕された者の顔は、隣を歩く警官の顔よりも求心力がある。
逮捕された者の連行映像、またその顔の映像は、お茶の間に流れる映像の中で唯一、映画のワンシーンにしても差し支えないような映像だ/逆に言えば、安物の映画が映画の映像を為していないとき、そこには犯罪者が映っていないと捉えてもいい、やはり犯罪者ぐらいは映っていないと映像というのは面白くないのだ。
逮捕された犯罪者のいいところは、もう逃亡する理由がないというところだ、比べて一般の人々は、単に不法性がないというだけで、何かしらの罪を抱えたまま、ずっと逃亡している、だからどう撮影しても映画のワンシーンのようにはならない、だからインスタ映えを狙う人々は、自分の逮捕映像をイメージして撮影すると、何かいいことになるかもしれない(いや、ならないかもしれない)。

人々は本来、法曹の担当者でないかぎりは、誰かが麻薬をやったとかどうとかで、その不法性に注目する必要はないが、人はどうやら自分は漠然と「セーフ」「大丈夫」と思いたいらしいので、法的にセーフでなくなった人に注目し、攻撃してみるという性向があるようだ、そうすることで相貌から魂の成分が抜け落ちていく。
この世の中に、「わたしは犯罪者です」と、決して言えない人というのは存在しないと思うのだが、なぜかこの発想は嫌われていて、履歴書に自己PRとして犯罪者性を書くことはまずない(当たり前か)、犯罪者といって問題は美醜であって、人は誰しも犯罪者であるから醜悪でなければそれでよいのだが、人はどうも信号無視ひとつでも必死で言い訳しようとする向きがあり、このごろはその向きが奇妙に強くなった。
マンガ「ワンピース」でさえ、主人公を海賊に設定しないと成り立たなかったし、「紅の豚」だって当地の司法で見れば犯罪者なのだろうが、犯罪者というのは必ずしも醜いものではないし、必ずしも人を傷つける存在ではない、昨今の人々はこの犯罪者アレルギーによって己の魂を喪失している部分があるように思う。
僕が女の子をいじって、からかって、口説いて、教えて、遊ばせて、いろいろしているうちに、女の子は僕のことを愛してくれるようになったりするけれども、そうして女の子に愛されてしまうというのは、単純に言って犯罪だと思う、そしてそれが犯罪だからこそ、美醜が問われるのだろう、おおむね犯罪アレルギーの(つまりPTA気質の)人にその眼差しがうつくしかったためしはない。

犯罪者がうつくしいわけではないが、うつくしいものが犯罪でないパターンはない。

女の子が僕のことを理由なく愛してくれるのは、うつくしいことだが、それがうつくしいということは、必ず犯罪性を含んでいなくてはならない、犯罪といって近所迷惑とか人を傷つけたりするのは単にダサいことだ、そうではなく、人はそもそも魂に帰ることじたいが犯罪だとみなされているということ/それが世の中のルールなのだからしゃあない、絶対に身内はブーブー言う。
というわけなので、逮捕された犯罪者は、とりあえず失敗したパターンではあるにせよ、割と魂の一部が、その相貌に浮き出しているのが視える、へんちくりんに歪んだパターンも多いが、それをとりかこむ報道記者の顔を見ているよりは、まだ何かが視える感じがするだろう/犯罪に興味を持つのはただの悪趣味だが、犯罪者の顔には「魂の表示」というメカニズムの一端が証拠として現れているのが看取できる。
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