☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
早朝、K公園で119番通報

朝に散歩をして、公園で休んでいるところ、何か植木鉢を落としたようなパツンという音が聞こえてきて、直後、「あーあ、もう、何よ」とおじいさんがぶつくさ文句を言うのが聞こえてきた。
それは何でもない小さなトラブルのように聞こえていたが、どうもそのぶつくさ続く小言のような声に違和感がある、僕はやがて(あれ?)と感じて立ち上がり、僕は物音のした方へ駆け寄っていった。
駆け寄っていくと路上に、転倒したらしいおばあさんが倒れていた、後頭部を打ち付けたらしく路上には少なからぬ流血が垂れている、先ほどから「何やってんの」と小言を続けていたのはご主人らしい、見慣れない血の量だが、ひとまず、慌てて圧迫止血、というほどの流血ではない/僕は目の端で現在位置の住所と番地表示を探していた。
ご主人は「やれやれ」と、冷静さを保っているふうだったが、きっと動転して判断力を喪失していらっしゃったと思う、それで僕が割り込んで、差出口ながら救急車を提案し、半ば強引に救急車の招請に合意してもらった、「迎えがくるからそれでM病院に行く」と言ってらっしゃったが/「この時間にまだ病院はやっていないので、どうか」と僕が救急車を呼ぶことを"お願い"するのが一番手っ取り早かった、僕がしつこくお願いするとご主人はようやく折れてくれた。

119番に電話すると、必ず第一に「火事ですか、救急ですか」と訊かれる、つまり「消防車か救急車、どっちが要るの?」と訊かれる/僕は「救急です」と答えた。
そして次に訊かれるのは、住所、番地だ、そして住所に加えて「目印」を訊かれる、「どの建物の近くですか」あたりを訊かれる、「公園の脇です」と僕が電話口で言うと、心配で寄ってきていた近隣の女性がとっさに「K公園!」と教えてくれた、僕は「K公園の脇です」と電話口に答えた。
この時点で救急車は動いてくれるから、あとは必ず訊かれること、「けが人の年齢は」「出血はありますか」「意識はありますか」に答え、あとは通報者の氏名を報告しておく、なおその後通報者の携帯には救急隊から電話が掛かってくるのでその場を動かないほうがいい。
五分ほどして救急車の音が聞こえてきた、僕はそばにいた人に「救急車、誘導に出てください」とお願いした、救急隊はすぐ駆けつけてくれるが、具体的にけが人がどこに倒れているかはわからないのだ、必ず誰かが「こっちです!」と誘導に出なくてはならない(建物の中から救急車を呼んだ場合は特に重要)(あと、事故の現場を見ていた人は、けがの特定のために事故の発生状況を細かく聞かれるので、ぜひその場にいたほうがいい)。

救急車は無料です。

たまに土壇場で訊かれることがある、「救急車ってお金かかるんじゃないの?」、それで躊躇して通報が遅れることがある、小学校で教えておいてもいいんじゃないか、「救急車を呼ぶのにお金はかかりません」。
転倒したおばあさんは、後頭部から大きく出血しているものの、なんとか意識もあり呼吸も正常だった、あとは外傷性脳内出血がなければ、単なるケガで済むと思う、どうかご無事でありますように(ところでたまにはまともなこともするおれのことを褒めるように)。

できるオンナだね | comments(0) |
古いものから距離を取ること

いものから距離を取ろう。
古いものを敬い、必ず敬いながら、それでも一定の距離を取ろう。
ただし、古いものといって、古来からのものは別だ、古来からのものはすでに普遍的なものであって、古来からのものは絶対にスゲーに決まっているのだ、「古いもの」とはそれのことではない。
古いものからは距離を取ろう、なぜかというと状況が違うからだ、古いものには敬いをもち、必ず敬いながらそれでも一定の距離を取ることだ。

「古いもの」というのは、あなたの内側にもある、つまりあなたの三年前の正義、五年前の考え方、十年前のやり方だ。
それはかつて正しかった、かつては正しかったのだが、状況が変わった、だからそれだけを見て、敬いを保ちながら距離を取れ、それらは捨てられるものではないが、これから先に使われるものでは決してない。
なぜ古いものから距離を取らなくてはならないか? それは、古いものがあると、現在のものが「見えなくなる」からだ、十年前に自分が二十歳だったとして、それを残していると三十歳の現在の自分が見えなくなる。
昔はデカかったコンピューターが、今はとんでもなく小型化されたように、かつては小さかったものが、現代では思いがけず大きくなっていることがあるのだ、「コイツはデカくなったんじゃないか」ということを見落とさないために、小さかった十年前のことを忘れなくてはならない。

かつて要らなかったものが、現在は要るものになった。

われわれは時代の変化と共に、「かつて必要だったものが、今は必要なくなった」という側面ばかりに注目する、だが逆もあるのだ、たとえば「かつて不必要だった読書が、今は必要になった」ということも起こっている。
古い正義を残していると、「そんなもん要らねーんだよ」と思いがちで、今は必要になっているそれを見落とすことがよくある、かつてそれを「要らねーんだよ」と言えていたのは、かつてはそれが小さかったからだ(抽象的な話でごめんね)。

視点変えてこ | comments(0) |
膜に包まれたようにボーッとして……
「あなたに会うまで、わたしずっと、膜が張った中に生きていたの、何もかも他人事のように感じていて、自分がこの世に生きているってことがわからなかったの」
僕はそれを、離人症のたぐいだなと理解したが、あえて余計なことは言わなかった、病名はすべてウソで、病名ふうに言うことなど人間の現実逃避にしかならない。
「わたしその膜の中で、ずっと寝てたのよ、ひたすら寝てたわ、この膜がまた、眠るのにはちょうどいいのよ、何にも傷つかずに済むし、自分は夢の国に行けばいいのだからって。ずっとそうしてた」
「うん、本当はそんな奴ばっかりだよ、世の中って」と僕は言った、「ねえどうやったらこの膜はやぶれるの? どうやって人は膜からハッチアウトするの」と訊かれたので、僕は「人とのつながりで」と答えた、「人間は、膜に覆われてしまうのではなくて、もともとが膜の中にいるものなんだよ、その中から出てくる機会があった人は出てくるし、その機会がなかった人は、ずっと膜の中でボーッと麻痺したまま生きるんだ。そんなもんだよ」。

いいかげん経験上、はっきり分かることがある、人がこの世界に「生きている」「存在している」と実感する現象は、単純な「呼応」によって起こっている/その「呼応」が起こるまで、人は膜の中から出てこない、出てくる原理も方法もない。
「呼応」といって、何もむつかしいことではない、単に「オイ!!!」と呼ばれるということだ、「お前だ、お前!!!」と、直接その胴体(こころ)に呼びかけられる、すると生まれて初めて呼びかけられた人は、「え? わたし?」という感触に驚く、そのとき初めてこの世界に「わたし」が存在していることを直覚する。
やがて屠殺してしまう家畜なら、そうしたボーッとした中を生かしてやるべきだが、人間にも同じく、ボーッとした膜の中を生きて、よくわからないが毎日タクシーの運転手をしている、というような人があるのだ、それは悲劇ではなく事実であり、悲劇というよりは「秘密」のことだ。
よくわからないが、教科書に書いてあることを暗記し、受験して合格し、卒業し、よくわからないがスーツを来て就職し、毎日職場に出勤し、よくわからないが女性に言い寄られたのでセックスしてしまった、そしてよくわからないが向こうの両親に紹介され、よくわからないが結婚式になり、よくわからないが子供が生まれたので「家庭」ということらしい……という人が、実はすくなからずいるものだ/「膜から出してもらえたことって、この上ない"僥倖"なのよ、あなたは命の恩人だわ」と彼女は言った。

「膜」or「つながり」(下ネタじゃねえぞ)。

以前、「僕があなたを『オマエ』といい、僕があなたのこめかみをつついたら、あなたはとんでもないことを知る、それは単純で決定的なことだ」という話をしたが、何のことはない、そうして「オマエ」をはっきり呼び出されないと、人は生涯その膜の中から出てこないのだ。
僕はそれを悲劇とは思わなかったが、彼女は首を横に振り、「すっごくしんどいのよ」と言った、「そうなのか」と、僕はけっきょくそのことについてはわかってやれない(膜の中にいた経験が無い)。
正しく見ないとな | comments(0) |
一番疲れない方法

番疲れない方法は「緊張感」だ。
親の小言や、夫婦喧嘩、同僚の愚痴や、メンタルヘルスの問題などは、緊張感がないので疲れる。
このことには一般に誤解があるのだ、一般には「緊張感がないのがリラックス状態」だと思われている。
それは逆で、「緊張感がない」ということは、人間が「パニックに接近している」ということだから、内部的にはリラックスから遠ざかっているのだ/このことは覚えておいて損はない、「緊張感がないということは、パニックに接近しているということで、実際はストレスが高くなる」。

一般に思われていることと逆で、本当は、身体(の流れ)がやわらかいと「緊張感」は増すのだ。
逆に、身体が固まると「緊張感」は減る、「身体が緊張すると空間の緊張感は減る」のだ、「緊張」と「緊張感」は互いに相殺関係にあると言っていい。
完全に身体のやわらかい熟練の落語家が舞台に出てくると、「おお」と会場の緊張感は急上昇する、一方、ガチガチに緊張したおじさんが結婚式でスピーチしようとすると、「ははは」と会場の緊張感は一気に下落する。
あなたは何かを討ち取って生きていくだろう、そのために、身体をやわらかく使えるのがいい、身体をやわらかくして討ち取りにいく空間の、濡れた刀剣のような緊張感だ、これが一番疲れない。

美人と話していて疲れることがないのは、美人に緊張感があるからだ。

逆に、不美人には、典型的に緊張感のないタイプがいて、こういうタイプと話すと誰だって疲れる、これは不美人が悪いのではなくて正しくは緊張感のなさが悪いのだ/達人の演舞を見て疲れる人はいないし、おばさんの悋気講を聞いて疲れない人もいない。
緊張感がないということは、固いということだけど、すべてのことはやわらかくないと「間に合わない」/間に合わない上に疲れるなんてまるでいいことなしだな、素直にやわらかさと「緊張感」への稽古を積もう。

できるオンナだね | comments(0) |
強くなるために、やりとげることを

くなる、といって、強化に走るのは邪道だ。
真に強いなら強化しなくたって勝てるのだから。
強化の発想は基本的に弱虫で、真に強くあろうとするなら不利な態勢を選ぼう。
不利な態勢、つまり万全の態勢の逆だ、不利な態勢の中でさらに「やることを増やす」、その中で状況は不利になるが、中にいる人間は強くなれる。

やりとげる」、と自分で決めたことを、一つから二つに、二つから三つに増やすことだ、これを持っているか持っていないかでは大違いになる。
これはつまり、すでに出撃した戦闘機みたいなもので、地上に駐留している戦闘機なんかよりはるかに強くなる、どんな戦闘機も出撃するまでは一個の置物でしかない。
人間誰だって、「やるべきこと」を持っている、けれどもその「やるべきこと」を、「やりとげる」と自分で決めて出撃したかというと、そうでもないのだ/攻撃目標は定めてあるが、まだそこに向けて出撃はしていない、駐留中の戦闘機がある。
誰と何をする? それは自分の「やりたいこと」とは違って、ただ「やりとげること」だ、やりとげることに意味なんかなくていい、それでもやりとげるために出撃した戦闘機は、地上で会議しているだけの置物戦闘機よりはるかに強い。

こちら作戦行動中、オーバー。

強くなるというのは、帰参して強化トレーニングを積むということじゃない、作戦行動の只中にずっと立ち続けることだ、そして作戦行動はミッションの完了――やりとげる――までずっと続く。
作戦行動中でない時間は、一見、じっくり落ち着いて考えられる時間のように思える、けれども逆だ、それはすでに「やりとげること」を見失っているので、迷子の弱さ、何とも戦えず、何もまともに考えられない弱さの状態に実はあるのだ。

できるオンナだね | comments(0) |
「誰かと共に生きるために、(以下略」←しつこい

日に記事を書きすぎだ、まあいいか……
「誰かと共に生きる」ことが必要だし、なんというか、多くの人々が「ひとつになる」ということが必要なのだけれどね。
と、別におれがエラソーに言うことでもないのだけれども。
おそらくその、「ひとつになる」というのは、一般的に想われているようなことではないのだ、そのことを、この大天才である俺様が教えてやろうかなっていう、まあとにかくヤキモキしているところがあるのだった。

「ひとつになる」というのは、僕の考えとあなたの考えが、説明され整理され、合意されて、揃う、ということではないんだ。
直接、人から人へ、人の真ん中から人の真ん中へ、僕の真ん中からあなたの真ん中へ、「光」が入らなきゃいけない、光が入るというか、光に「なる」というか。
それは、一般的に想われている「コミュニケーション」とはまったく格の違う現象だ、しかし、この「全員が直接、同じ光になる」ということが起こらないかぎり、多くの人が「ひとつになる」なんてことは起こらない。
何言ってんだコイツ、という話なのだが、今ここに話している現象は「本当にある」のだ、「ひとつになる」というのは、説明されて合意されて意見が揃ってひとつになる、なんてことじゃないんだよ。

すべての意見が破壊され、全員がそこにある光のみに従う。

そういうことは、実際あるもんだ、本当にそういうことが起こる「現象」が科学的にあるのだ、それが時代と共に失われていったものの正体だ。
破壊」というところがポイントだね、全員が破壊されるから、全員が光になり、光のみに従う、若い広場で、意見なんか要らなかったんだと全員で気づく瞬間がいつかある、それはそれはおだやかなものだ、破壊はおだやかなものだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
破壊と創造

壊と創造は表裏一体のものだし、何なら表裏一体というよりは、「破壊が創造だ」「破壊を創造というのだ」と言ってもよい。
玄米を取り出すためには籾殻を破壊せねばならないし、白米を取り出すためには糠を破壊せねばならない。
それはただちに、籾殻の破壊が玄米の出現に他ならないし、糠の破壊が白米の出現に他ならないということでもある。
われわれは、われわれの身を破壊しなくてはならないが、それはわれわれの身を破壊して人間を取り出すということで、われわれの身の破壊はただちに人間の出現に他ならないということだ。

つまり、破壊というのは表面的に行われる、表面的なものを破壊し、内部的なものをより濃密にする。
表面的なもので塞がれていると、内部的なものが交流しないのは明らかなので、表面的なものは破壊する、破壊された表面は後に補われればよい/それは外科医が開腹の後に閉腹をすることに大差ない。
「蓋」は、ふだんは「容器」の一部となって内部を隠匿している、だから「蓋」を引っ張りだして「外」と交わらせる、それによって容器は破壊(開封)され内部的なものがやりとりされる。
われわれは実は、内部的なものを操作することはできない、操作できるのは表面的な「身」だけだ、だが「身」の破壊はただちに内部的人間の出現である、これがやりとりされる。

破壊と創造、そのとき破壊されるのは「妄想」の一点である。

われわれは妄想を持っているし、妄想はいけないという妄想も持っている、これらをこねくりまわしていてもいつまでたっても真実には至らない、だからそれらは「破壊」される、われわれは破壊しかできないが/同時に内部が出現する。
われわれは内部的なものに力をこめることなどできない、財布のチャックを開けるときと同じで、われわれは力を込めて財布のチャックを開けることができるのみであり、そのときのカネに力は込められない/われわれは自己の内なる声に力をこめることなどできないのでするべきではなく、われわれができるのは力強く身の蓋を「外」と交わらせることだけだ、それがただちに内部の出現、「開く」すなわち「創造」となる。

視点変えてこ | comments(0) |
自分に呪(のろ)いを掛ける簡単な方法

ホみたいな言い方だが、自分に呪(のろ)いを掛ける簡単な方法がある。
それは、自己を大とし、事物を小として、口に出して何かを言うことだ(「呪」は口偏がついている)。
たとえば、「わたし学門に興味があるんです」と言う場合、これは自己を大とし学門を小としているので呪(のろ)われる。
一方、「思えば、学門に支えられて、ここまでやってこられたのだと思う」と言う場合、これは学門を大とし自己を小としているので呪(のろ)われない、この場合は逆に自分に呪(まじな)いが掛かる、「のろい」と「まじない」は同じ字で記されるものだ。

たとえば、イケメンが「おれ、海が好きなんだよね」と言うと、一見さわやかに聞こえるのだが、実はこれは呪(のろ)いが掛かる、自己が大であり海が小だからだ、呪いは蓄積していってやがて解決不可能になる。
一方、加山雄三は、「海よおれの海よ 大きなその愛よ」と唄っている、これは海が大であって自己が小なので、呪(まじな)いになる、呪(まじな)いもやはり蓄積していく。
自分に呪(のろ)いを掛けるほど、自分は肥大し、「大いなる自分」になってゆく/そして自分が「大いなる」ものになるがゆえに、ますます自分に呪(のろ)いを掛けることが加速していく、加速してやがて解決不可能の極点まで行く。
逆に、自分に呪(まじな)いを掛けるほど、世界は明視され、「大いなる世界」になってゆく/そして自分が「小さき」ものになるがゆえに、ますます自分に呪(まじな)いを掛けることが加速していく、加速してやがて解決不要の極点まで行く。

望遠鏡を逆さまに使ってりゃ、そりゃ呪(のろ)われる。

望遠鏡を逆さまに使えば、そりゃ加山雄三だって「海って小さいねえ」と言うだろうよ、これで呪(のろ)われていくなんて、こんな馬鹿げた話があるか。
学門や文化や芸術を、「吸収」しようと熱心な人がよくあるのだけれど、そのありさまはどうも自分を膨らませて呪(のろ)われる方向に見えてならない、学門が自分に飛び込んでくるのではなくて、自分が学門に飛び込んでいくのではなかろうか/「大きなその愛」に。

視点変えてこ | comments(0) |
願望バッフ〜ンのこと

分はどう生きるべきか?
と、そう考えたときに、どうして願望がバッフ〜ンとなるのだろう。
自分はどう生きるべきか、という、学門について問うているのに。
「○○がしたい」「○○でないとイヤ」「○○でありたい!」と、なぜそういう、願望バッフ〜ンが出てくるのだ、それは脳みその仕組みがおかしいだろ。

ふと冷静になって思うのだが、自分に何か特別な仕事がこなせたり、特別な存在になれたり、特別に誰かに愛されたりというようなことは、基本的に特殊なことであって、そんなことは「普通ない」と認識しておかねばならない。
なぜそんなに「特別」ということがすべてのトリガーになるのかわからないが、特別というのはその字義のまま「特別」のことであって、普通にはありふれていないから特別と言うのだ、ここで「わたしも人並みに特別扱いされたい」というのは論理としておかしい。
このあたりは、言ってみれば、「特別扱いされないと負けです、屈辱です」という思想を持つように、思想をコントロールされているのだ、冗談でなくそういう思想コントロールは世の中に実際ある。
自分はどう生きるべきかと考えたとき、それは学門として考えるべきなのに、そこで自己特別化願望がバッフ〜ンとなるのはまずい、いったい何を根拠にその願望バッフ〜ンは出現しているのだ、学門を爆破して押し通るようなまねはやめよう。

願望バッフ〜ンさんは、自分では「ささやかな」つもりでいる。

「ささやかでいいから、静かで落ち着いた暮らしがあって、自分だけを愛してくれる人がいて……」というのだが、それがささやかではないという話、もし生涯にわたって自分のことを愛してくれる誰かがいたら、それが少しだけのことであっても、「なんて大きなことだろう」と感じないようでは、すでに尺度が狂っている。
生涯の友人とか、生涯の仕事とか、もしそんなものが手に入ったら、それだけで普通はきらめかんばかりの「僥倖」だ、あなたはそれを「普通でささやか」と思っているかもしれないが、それは願望上の「普通」であって、学門が教えるところの「普通」ではない。

正しく見ないとな | comments(1) |
光は質量ゼロ

まり、こうして「書く」、およびそれを人に晒し続けるということが、僕を救ったわけだ、フームさすがオレだと言いたい。
この世界には何ら深刻ぶるべきことはないので、同じ何もないなら、遊ばにゃ損ということである。
「光あるうち、光の速さでおれに抱かれろ」とトルストイの著書にもある(光がなくなってから来るんじゃねーよ頼むから)。
思考が「重い」とか発想が「重い」とか、女が「重い」とかいうのは、つまりヒッグス粒子のせいなので、ヒッグス粒子を精神空間に持ち込まなければいいのだ、ヒッグス粒子に邪魔されるのは物質空間だけで十分である。

これはまさに光の考え方なのだけれど、そう、まさしくその「光」があるかないかで、僕は自分の書くものを自分自身で見てきたから、けっきょくこのことが僕を救った。
僕自身、光のないものは2行も読めないたちなので、僕が何かを書くということは、初めから自己に光を要求するハメになるのだ。
質量ゼロ、引きつける力を持っていて、ヒッグス粒子に干渉されないとか、まさに光子であり光、その質量ゼロというあたりがいかにも僕らしくていいぜ! 「どれだけ頭カラッポなの、バカなの?」と言われ続けてきたのだ、それが僕の命脈だった。
光というのは減速不可能で、減速させようとすると消えてしまうものだ、僕は誰のどんな小説にも興味はないが(えっ)、そこから放たれている光だけはよろこんで摂取する者なのである。

宇宙開闢(かいびゃく)当時はすべてに重さがなかった、あなたも開闢当時はすべてに重さがなかった。

そりゃ開闢当時はヒッグス粒子がないからね……これは物理の話であって信仰の話ではない、理科の先生に聞いてこい。
といっても、カミサマだって信仰の話ではないけれどね、人間の信仰ごときでビッグバンが生じないのと同様に、人間の信仰ごときでカミサマが爆誕してたまるか、そういうものは元々在るのである/ワハハハハ、重さのあるものをいくら加速しても光にはならんぞ(むしろエネルギーを掛けるほど質量が増大します)。

バカをやろうかあ | comments(0) |
D妄想、人は割と妄想の中を生きている
じめなことを書きすぎたので休憩!!
人はあんがい、妄想の中を生きているものだね。
僕はそれをD妄想と呼んでいるのだけれど、これはずっと昔にやらかしたDくんの知識から由来して名付けられている。
人は、何について妄想しているかというと、実は「何に」ということでもなくて、あんがいすべてのことについて妄想を持っているものだ、まあふつう生きてるっちゅーのはそういうモンだな。

で、D妄想のいちいちを否定していたってキリがない、キリがないし何か野暮すぎる。
有効なことは、何かひとつでもいい、自分の「これは」というジャンルでだけ、そのD妄想を突破するのだ。
真実の周りをDが取り囲んでいるので、何かひとつのジャンルでいい、そのひとつだけはD層を掘削して真実の層まで到達すること。
僕なんかは、いつか女の子にモテてやるという妄想だけで生きてきたので、今さらその妄想を掘削する気にはなれないのだった、掘削するならもっと別のトコですよ、もっと気楽で愉しいやつをやろう。

D=0に到達せよ。

真実はもともとこの世界にあるモンで、われわれがD妄想でその真実をくるんでいるだけなのだから、何かひとつのジャンルでいいので、そのジャンルについてのD値をゼロにすればいい(そんなもん全域をD=0にできるのはお釈迦様ぐらいしかおらん)。
仮に、超ドスケベ剣豪というのがいたとする、女の前ではグズグズである、しかし裸の美女60人が、刀を抜いて立ち塞がれば、話は別だろう、そのときは超ドスケベが消えて剣豪になる、剣のやりとりにおいてはD=0というのが剣豪なのだから。
視点変えてこ | comments(0) |
「誰かと共に生きるために、優秀でなくてはならない」4

かと共に生きることは得意だろうか。
苦手な人が多いのかもしれない。
かえりみて、僕はこれまでに、一人で生きたという時間がほぼゼロなのだ、四十日間インドに単独行していたときさえ、現地のインド人とワチャワチャしていたので、「一人で」という時間はけっきょくなかった。
初対面のMくんの家に一ヶ月一緒に暮らしたこともあったし……あまりプライベートのことは言いたくないが、とにかく僕は、これまで傍らに人がいなかった時間がほとんどない、僕はきっと「共に生きる」ということがそれなりに得意なタイプなのだろう。

「共に生きる」ということが苦手な人にとっては、「お高くとまっていられる」という地位が、あこがれというか、垂涎の的だ。
本当に孤独だとさびしくて死んでしまうので、多くの知人に囲まれていたい、しかし「共に生きる」ということは苦手なので、多くの人に囲まれながら「特別に高い地位」を持ち、ツーンと孤高風味&クールワガママを振る舞えるのが「イケてる」とこころの底から思うわけだ。
たとえば、暗く寂しい歌を唄う、芸術的・実力派シンガーのようなものになって、特別なドレスと特別な気配をまとっている、そして「わたし今日はメロンを食べたいの」と言うと誰かがササッと買いに走る、そういうのが「イケてる」とし、そういうのなら「こころの底から目指せる」と感じている。
つまり……誰かと共に生きることが苦手な人に向けて、誤解させ錯覚させ、取り込んで散財させるシステムがきっちりできあがっているのだ/その「苦手」を隠蔽したままあなたは特別な人になれますよという幻想を演出して、あこがれて取り込んだ層から機械的に富を搾り取るのだ、なんともまあおそろしい話じゃないか、残念ながらそちらの行く先にはゴールはなくて、たいてい行き止まりでは「力のあるところに媚びる」がはたらいている。

孤高風味&クールワガママの背後には、「力」。

孤高風味&クールワガママの背後には、実は十中八九「力」があって、本当のところはその「力」に媚びているので、当人はまるで孤高でもなければクールでもなし、ワガママふうも見せかけなのだ、本当は「力」に支配されたカゴの鳥だ、これは本当におっかない話だなあ。
たとえばあなたは、テレビの中に孤高風味&クールワガママの誰かを見てあこがれたかもしれないけれど、じゃあなぜあなたはテレビを通してそれを見ることができたのだろう? そう考えるとちょっとは見え方が変わるかもしれない、うーん僕はおっかない話は苦手だ。

正しく見ないとな | comments(0) |
「誰かと共に生きるために、優秀でなくてはならない」3

「誰かと共に生きるために」ということが、第一の念頭にあるか、実はこれがあるかないかで行き先が大きく変わってくる。
人間の脳みそというのは、その当人の意識よりも正直なものだ、当人の意識がどうごまかしていても、脳みそのほうはその本音を容赦なくブチ抜いてしまうところがある。
つまり、「共に生きるのでないなら」と、脳みそのレヴェルではこうブチ抜かれてしまう――「共に生きるのでないなら、力のあるところに媚びればいいじゃん、それで済むじゃん」。
脳みそは正直なところ、ここだけに全力を尽くす、「力のあるところに媚びる」ということだけに全力を尽くす、えげつない言い方をすれば、「権力者を見ると問答無用で濡れてしまう」という女性は世の中にまったく少なくないのだ/そういった人が意識的に清潔な努力をしても、その努力は必ず空転する、なぜなら脳みそのレヴェルでは「それ要らなくね?」という判断だからだ。

つまるところ、「一人で生きる」というのはけっきょく不可能なので、脳みそのレヴェルではほとんど二者択一しかない、1.誰かと共に生きる2.力のあるところに媚びる、だ。
この二者択一のうち、「力のあるところに媚びる」を選んでいる人は、もう脳みそのレヴェルで「優秀さとか要らなくね?」なので、それ以降は何をどうやっても優秀さが獲得されていくことはなくなる、本当にポッキリ0ポイントになる。
一方では、「力あるところに媚びる」という人が増えてくると、それを絡め取って肥え太っていく人や組織が成り立ってゆき、それは実際おっかないシステムとして実在するのだが、まあそんな怖い話はやめておこう。
覚えておいて損はない話、「誰かと共に生きる」ということができない場合、「力のあるところに媚びる」ということだけを、知らず識らずやり始める、そしてそれはたいていどこかで力のある側のシステムに絡め取られるものだ、インチキの「共に生きる」がカルト宗教に取り込まれるように、「力のあるところに媚びる」も社会のインチキな部分に絡め取られるようにできている。

あなたの「媚び度」に応じて「優秀です」と認めてくれる某システムにご用心。

たとえば学校でも、学門の修了程度と関係なしに、教師や教育システムへの媚び度が高い者に好成績を与えて「優秀」と認める制度がある、これに乗っかっているとたとえば女性はいつの間にか内心で「尽くすタイプ」を自認するようになったりする、「媚び度=優秀」という発想がこびりつくのだ。
なぜか、「誰かと共に生きる」ということは、いつの間にかの禁句になってしまったかのようで、学校の先生でさえきっと「誰かと共に生きるためにです」とは言わないだろう、これはまずい/けっきょくは「共に」生きるか「媚びて」生きるかしかないのに。

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「誰かと共に生きるために、優秀でなくてはならない」2

タイプα={共生第一、優秀必須}:「誰かと共に生きるために、優秀でなくてはならない」
タイプα={優秀第一、共生付属}:「優秀でなくてはならない、そうしたら誰かと共に生きていける」
タイプβ={孤立第一、優秀必須}:「一人で生きていくために、優秀でなくてはならない」
タイプβ={優秀第一、孤立付属}:「優秀でなくてはならない、そうしたら一人で生きていける」

αは「共生主義」、βは「孤立主義」を意味しており、はそれぞれ、共生・優秀と孤立・優秀の、どちらが「第一」かということを区別している。
この4タイプの中で、本当の意味で優秀になりうるのは、タイプα甲、{共生第一、優秀必須}のタイプだけだ。
その他、似て非なる優秀主義者は、優秀さを志向しながらも、けっきょくは真の優秀さに到達することはない(なぜなのかは次の記事で説明する)。
理解がむつかしいといって音を上げるな笑、右側のセリフ群をもとに、自分がどれに当てはまるかを考えてみよう(ただし、そもそも「優秀になろう」と志向しない人は捨象されています)。

自分が生きることの足しに、他人を利用する人がごろごろ。

共に生きる」という、このダサいフレーズは、今や明らかな死語で、しかし「じゃあお前は誰とも共に生きるなよ」とカミサマに言われるとキッツイのであって……とにかくそういうヤバい局面にわれわれは生身で立たされている。
「優秀さを求める人たちのスレッド」を立てて、そこから交流会が発生したとしても、そのことで誰かが「共に生きる」ということにはならない、そんなことを続けている中で本当の意味で優秀な人など一人も発生しない/「共に生きる」のほうが元々まともじゃないか。

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「誰かと共に生きるために、優秀でなくてはならない」

日話した内容と同じ。
タイトルの文言には実は決定的な内容と威力が秘められている、だから丸暗記しておくと運気が上昇するだろう。
誰かと共に生きるために、優秀でなくてはならない。
今、多くの人は誤解して逆をしている、「一人で生きていくために、優秀にならなきゃいけないでしょ?」と思っている、これがやがて人を台無しのところに行き着かせてしまう。

残酷な話だが、真実はこっちだ、「優秀でない人は、共に生きることができない」のだ、誰でも考えればわかるとおり、破綻する人は必ず一人になって孤独の中で破綻している。
われわれは誤解していて、誤解の文脈の中ではこう思っている、「一人で生きていけるほど優秀じゃないから」「お互いに助け合って生きていこうよ」、この誤解の裏には、自分が気持ちひとつで人と連帯できるという思い上がりがある。
そして気がついたときには、「あなたみたいな人と、誰が共に生きていくわけがあるのよ?」と言われてしまう状況ができあがってしまっている、これはとても残酷な事実だ、だからそうなってしまう前に気づかないといけない。
あなた自身、「誰と共に生きていきたい?」と考えてみるといい、すると残酷なことに、「あの人と、あの人……」と指折り出てくる順番は、優秀な人の順番のはずだ、決して弱い人の順ではない/われわれは「愚鈍だから共に生きよう」とできる生きものではなく、「優秀であれたら共に生きていけるのに」という生きものなのだ。

「誰かと共に生きよう」とする人は優秀になり、「優秀になろう」とする人は優秀にならない。

人にとって優秀さの「証」とは、誰かと共に生きられた時間それ自体が「証」になる、そこでわざわざ「一人で生きられるように」という発想を持ち込むことは、知らず識らず自分を愚鈍さのほうへ成長させていっていることになる。
優秀な人たちなればこそカンパニーを形成できる、愚鈍な人たちだけを集めてカンパニーを形成したらどうなる? 倒産するに決まっている、「わたしアホだから誰かと一緒に」という虫のいい話は残念ながら成立しない、途中で気づいた「優秀でないと共に生きられないじゃん」という慧眼の人だけが本当の意味で「優秀」とはどういうことなのかを知るだろう。

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闇に食われていく人へ、ささやかな救急箱
が闇に食われていくところをまざまざ見るのはイヤなものだ。
それはまるで、人の抗えぬ死病が人を食い尽くしていくのを、無力に眺めているしかない医者の慚愧のごとくだ。
彼はいつものように笑おうとし、しかし目の奥がすでに暗黒に吸い込まれている。
彼は救済を求める、努力もする、そして彼は救済を得て努力をし、目覚めて翌朝の鏡に見つけるのは――より進行して食い尽くされている自分の顔、死病のように進んでいる闇の実相なのだ。

闇からの恢復や、闇の予防は、きっと可能で、しかも実は単純に可能だ。
しかし、その本来は単純に可能なことが、実際にはきわめて困難で不可能じみる、なぜなら闇に食われているところの人は、すでに闇にあやつられるからだ、闇は闇を拡大するほうへ官能を与えて人を引きずりこむ。
この、闇に浸されていく肉体の中で、流されていかないよう唯一抵抗できる「杭」があるとしたら、それはいつもいう「学門・文化・芸術」だ、もしこれが消えなければ人はそこにしがみつき、ついに闇に対抗しきることができる。
だが闇は肉体のうちに闇を流しこみ、人のキモチと心境を暴騰させ渦をつくる、この渦に呑まれることに闇は官能を与える、それでよいのかもしれない、けれども翌朝の鏡は昨夜よりも強烈になったグールをそこに映し出すだろう。

菜の花畠に入り日薄れ/「朧月夜」を唄え。

この場合、メロディは学門であり、唄は文化であり、詩文は芸術だ、これが文部省唱歌であることにあまり意味はなくて、ただ獣でない「人」と「天地自然」の歌というのは一般に思われているより大きな効果がある、こんなもんタダなんだから好きに歌ったらいい、JASRACも文句は言わない。
人間なんてか弱いもので、「朧月夜」が入る前に先に「妖怪ウォッチ(第一体操)」が入ってしまうと、壊れちゃうのだ/闇に食われていく死病に対抗するささやかな方法に古くからの唄がある、夏がくれば思い出す、秋の夕日に照る山紅葉……
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正しく見ないとな | comments(0) |
「まともな人」のところに遊びに行くこと
わいい女の子は、誰かのところへ遊びに行かなくてはならない。
かわいい女の子なら、ぜひ僕のところに遊びに来てもいいが、もしそうでなくても、誰かのところに遊びに行かねばならない。
それは、「なぜ?」という問題ではない、かわいい女の子はミツバチのように、自分の知らないところで花粉を運んでいたりするので、飛び回っていなければ漠然と「ヤバい」のだ、世界が滅んでしまう。
どこにでも遊びに行くのがいい、ただしかわいい女の子はなるべく最優先で僕のところにだなあ……

女の子はどこに遊びに行くか、何より「誰」のところへ遊びに行くか。
それは、一言につきる、「まともな人」のところに遊びに行くのだ、誰であってもかまわないから、「まともな人」のところに遊びに行く。
だからこそ、若い男性たちのモットーは、第一に「まともな人」を目指していなくてはならない、今や多くの女性は「まともな男の人って、すごく少ないの」と嘆いているのだから、男性にとってはチャンスの時代でもある。
かわいい女の子は、すべからく遊びに行くように、誰か「まともな人」のところへ遊びに行くように/理由はない、別に理由はなくても、「そのほうが正しい」とあなたも漠然と知っているのだからかまわないだろう。

自分から遊びに行かなかった人は、将来必ず悔やんでしまう。

「もっと遊べばよかった」で検索してみたらわかるが、多くの人が後にそう悔やむものだ、「遊ぶ」「遊びに行く」ということをやりのこすと、必ず悔いになるし、サイアクの場合はそれが怨みにさえなってしまう。
かわいい女の子は遊びに行くこと、ただし現代ではそこに「まともな人、のところに行くこと」という条件がつく、あなたの周囲に「まともな人」があふれかえっていることを祈ります/もしそうでないときはそうでないように上手くやれよ、原則は変わらない、「まともな人」のところに「遊び」に行け。
恋女のマインドね | comments(0) |
「遊ぶ」機能は喉元に宿っている

ても信じられないことだろうが、人間の「遊ぶ」という機能は喉元に宿っている。
相変わらず、何かもうやべー奴の話みたいになるので、いっそ聞き流してねと自分で投げ出したくなるが……
鎖骨の中央、つまりネクタイの結び目が収まるあたりの位置だが、そこに筋肉のないU字のくぼみがあって、ここに人間の「遊ぶ」という機能が宿っている。
かといって、いきなりそんなとこ使えるわけがないので、さしあたり言い得ることは、喉が緩んでいないと「遊ぶ」ということができないということだ/なお実験してみるにしても、口をポカーンとアホみたいに縦に開けたほうが、このU字のくぼみ部分はゆるみやすい(呼吸を止めないように)。

人間が追い立てられ、遊べなくなるとき、この喉の部分が、奥に「引っ詰まっている」ような状態になるのだ、こうなるともう遊べなくなる(人間の想像力が停止する)。
だから、遊ぶときはその逆、この喉の部分が前方かつナナメ下方向に、解放されるというか、ゆったりと膨らむような形になる。
アゴや舌に力が入っていると、周辺の筋肉が硬直してうまくいかないので、なるべくアホっぽくやるのがいい、ただしこの喉のくぼみはとても繊細な部分なので、あまり手でグリグリいじらないように。
この喉の部分は、想像力と、いわずもがな声の部分でもあるので、「コミュニケーション」も司っている、たとえばダウンタウンの浜ちゃんなんかを見てみるとわかるが、あの強烈で愉快な声が出るとき、実は顔は動いておらず喉が動いている、あれは声がデカいのではなく喉のくぼみが開いているのだ。

「胸襟(きょうきん)を開く」、という慣用句がある。

「胸」はもちろん胸で、「襟」がその喉のくぼみ部分を指している、胸の中央点は情動を司っているが、つまりこの「胸」と「喉」の両方が開けていないと人間は「遊ぶ」ということができない。
そして、ふつうの人間の身体感覚では、「首」なんてほとんど存在していないものだ、ふつうは首を横に振ろうとしても「頭」を横に振ってしまう、まあそんなことはいいが/とにかく喉のくぼみ部分をキュッと引っ詰まらせるのをやめるのがいい(んなこと言われてもできるかっつー話ではある)。

できるオンナだね | comments(0) |
摂取せよ!2

日「摂取せよ!」という記事を書いたが、これのウケがいいようだ、誰でも心当たりがあるようで、今最も有益なところを突いているのかもしれない。
ついでに、光モノとして、ショーペンハウアーとガンジーを足しておいた/前にも述べたように、属性が「光」であることは、レベルの高低にあまり関係が無く、ただ何であれ希少で貴重だということだけがある。
その希少な「光」の属性のものを、とにもかくにも「摂取」すること、そこで「光とは何か」なんてウダウダ考えても意味が無い、単に摂取量だけがモノを言うぞ、という考え方、これは確かに今有効な考え方だ。
もし、本当は根こそぎ単純な仕組みで、「光の摂取量が足りないと獣になりま〜す」というだけだったら、どうしようね……と、割とそういったことは冗談でなくあるような気が、しないでもないのだった。

世の中に、立派な人やハイレベルな人はいるのだが、それとは異なり、「光」の属性の人はそもそも、あまりその「立派」とか「ハイレベル」とかの印象を覚えさせない。
ここで重要なことは、自分が「がんばろう」と思うのではなく、目の前の人に「幸福であってほしい」と感じることだ、なぜか「光」の属性の人に対しては、自分がどうこうと思わず、その人自身に幸せであってほしいと願ってしまうのだった。
昔話に「笠地蔵」というのがあるが、あれがちょうどわかりやすい、お地蔵さまを見て少女は「自分も雪に降られてもがんばろう」と思ったのではなく、お地蔵さまが冷えないようにと胸を痛めて笠を差し掛けた、そのとき別にお地蔵さまは「立派」でもなければ「ハイレベル」でもなかったはずだ。
僕などは、スキャットマンクロザースなどを見ていると、もし手元に瓶詰めのプリンでもあったならば、そのプリンを彼につい差し出したくなるような衝動があるのだが……つまり「光」の属性の人は、ハイレベルとか向上心とかいうことに関係がなく、「この人は守られなくてはならない」という直観だけが走る。

「光」を見たとき、自分が助かりたいと思うのではなく、自分が光を助けたいと思う。

なんだこのインチキ宗教みたいな話は……まあしかし、実際にそういう事象があるのだからしょうがない、たぶん「光明」といって、自分が助かるために光を追いかけるのは違うのだ、それは芥川龍之介「蜘蛛の糸」のように、とんでもないドリフエンドが待っていよう。
なぜか「光」の属性のものを見ると、真剣さや誠実さのこころが起こるより以前に、何か無性に笑いたくなってしまう、そのときの笑いには、「もうこれでいいじゃないか」という絶対的解決の気配が含まれているのだ、だからこそ笑いたくなるんだろう。

バカをやろうかあ | comments(0) |
あなたが優秀であらねばならない理由

年のごとく、葛飾区の花火大会をかぶりつきで観てきた。
毎回思うのだが、葛飾区の花火大会で打ち上げられる「デジタルスターマイン」の試み、あれは本当に正気の沙汰ではない。
誰がどうやって作っているのか? わからないが、よくもまあ、リハーサルも利かないファイアーワークであれだけのシロモノをつくれるものだ、正直いつも戦慄する。
さっそく今年の大会模様を翌日現在のyoutubeで観ることもできるが、こんなたぐいのものはむろん動画で体験できるものではない/「デジタルスターマイン」は特になあ、かぶりつきの至近で観た人にしかよくわからないであろう、とてもゼータクなものだ。

僕はたいへんわがままな人間なので、もし「花火、いいですよね」と美人キャスターに言われることがあったりしたら、とっさに微笑む美人キャスターのみぞおちにケリを入れたくなるだろう。
「いい」とか「好き」とか「きれい」とか、そういうことで花火を観ているわけではないのだが……といって、これは明らかに僕がおかしいので、僕が人格障害者だという捉え方でさしつかえない。
化学科を出て、花火職人になって、あの暗闇の下でコソコソ走り回り花火を打ち上げるというのは、果たされなかった僕のもう一方の夢でもあった、今でも花火を見上げているとき、かつてそう信じたときの自分が今も内側に生きているのを実感する。
僕は過去、何十年も、「花火と音楽を合わせようとかいうのは、邪道だし蛇足だし、しかも成功したためしがない」とそのことに否定的だったのだが、何年か前の葛飾区のデジタルスターマインによって、僕は持論をねじ伏せられたのだった/それは震えるほど幸福な屈服だった。

誰かと共に生きるために、優秀でなくてはならない。

話が飛ぶな、しかしその帰り道に急に気づいた、きっと多くの人が逆をしている、「一人で生きていけるように、優秀になるのだ」と思っている、そこでよく見ろ、破滅する人は必ず一人になって破滅している。
優秀になろうと努力するとき、ここのロジックが破綻している人は、絶対に進捗しないという法則がある/優秀であらねばならない理由は、一人で生きていけるためにではない、誰かと共に生きていけるためにだ。

恋女のマインドね | comments(0) |
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