☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
何かを、誰かを、「守った」ことがあるか
があるかないか、オトナかコドモかということは、簡単に判別する手段がある。
それは、「何かを守っているか」「何かを守ってきたか」を確認することだ/もちろん自分以外の「何か」をだ。
コドモの人は、自分以外の何かを守ったことがない、コドモというのはそういうものだ、コドモというのは「守られる存在」だから/コドモのまま生きている人は、どうしても自分が常に「守られる」側の感覚でおり、自分を守ってくれる存在「だけ」を認めるものだ、コドモのうちにこの変更は決して利かない。
たとえば、衛兵や近衛兵は、「ボスを守る」兵隊だが、ここで衛兵がコドモだった場合、衛兵はボスが「守ってくれる」という発想でいるのだ、たとえば衛兵が「敵から天皇陛下を守る」のではなく、「天皇陛下が敵からボクを守ってくれる」と信じている、「その意味においてなら、わたし、天皇陛下だって認めます」という文脈が背後にある、これはコドモにおいてはしょうがないのだ、コドモはボスに(たいてい家父長に)「守られる」存在であって、コドモの側に「ボスを守る」という発想はない。

コドモは守られる側であって、コドモに自分以外の何かを「守る」という発想はないし、またコドモのうちにそういう能力は決して身につかない、コドモにできることは唯一「暴れる」ということであって、自分で「キレたら何するかわからない」と感じたり吹聴したりしている人は、自分の性能がコドモだということを自ら表明していると言える/コドモはいわゆる「かんしゃくを起こす」ことで「暴れる」という能力しか持たないものだ。
その点で、現代の恋あいを考えると、いかにも初手が潰されているのがわかる、まず女性が男性の尊厳を守るということは発想に遠すぎるし、男性が女性の尊厳を守るというのも、どうしても多くがただのご機嫌取りというところがある/みな、このご時世に、セルフディフェンスの発想を持ってはいるのだが、自分以外の誰か・何かを「守る」という発想はない、また多くの場合そういうレベルの能力を養うべきしかるべき機会をあまりにも失いすぎてしまった。
現代、多くの人は「正義」に異様に敏感で、またその付属に「救済」の思想も強く持っているのだが、これらはどちらかというと、自分が「幼稚で俗悪」に与するとは考えたくないがゆえに、補償的に成り上がってきた思想だと言える/誰かを・何かを「守ってきた」という愛と誇りからあまりにも縁遠いために、自己肯定感の根拠を「正義」に接続しようとしている具合だ、だから現代の「正義」はことごとく「愛」から遠ざかった硬直のひどいハリボテに感じられる。
それでも一部、「正義」は、有効に機能するところもあるのだが、それにしても当人の「愛」のなさおよび「オトナ」でなさは、解決しない、現代で何かを「守る」ということをやろうとすると、天稟はもう潰されてしまっているので、まるでアイドルを守る気分に増長する「親衛隊」みたいになってしまう、それはいかにもコドモがする発想で、構造上しょうがないのだ/今や、両親が我が子を守るのだって、「守らなきゃ」というロール・プレイの向きが多くみられる、それでモンスターペアレントのような存在が増えた、幼児性の自己中心性が精神の骨格を為しているので、「守る」といっても自己陶酔的にその気分に浸るしかできないのだ、それがコドモということだからしょうがない、オトナになれなかったというのはそれぐらいツライことなのだ。

聖なる力で、何かを守れるのではなく、何かを守ろうとした者が、聖なる力を帯びるのだ。

聖なる力というのは、だいたいバリアー的にはたらくものだが、聖なる力で何かを守るというわけではない(ふざけんな)/何かを守ろうとしたとき、「なぜか」自分以外の力がはたらいて助けてくれるところがあるということが、経験的に知られてきたというだけだ、オトナというのはこの聖なる力をわずかでも帯びている人のことをいい、単に年齢や、世間知や、スレて老け込んでいることをオトナとは言わない、コドモはオトナにならずある時点で一気にただの老人になる、その場合はもちろんコドモの精神のまま臓腑と神経だけが老人になる(しょうがない)。
しばしば「少年のようなこころ」が賛美されることがあるが、これは古い物語や言い伝えによると、ときに少年が最も純粋に何かを「守る」という天稟を見せることがあるからだ、単に幼児性のままプラモデルにはしゃぐことを賛美しているわけではない、少年を愛玩物に見立てている人は何か貧しい世界から現実逃避をしているのだろう/今、自分が何かを「守る」という発想は最も遠く、自分は「守られて当然」という感覚のまま、しかし誰も守ってくれないので、膨大な憎悪が生産されるという構造が続いている。
できるオンナだね | comments(0) |
おれがやることへ向けて(定義が要るよォ〜)

れないうちに書いておきたいが、そういえば前回のパーティは、大いに盛り上がったが、あれはもうほとんど、一種のレイヴ・パーティの様相を示している、もちろん薬物なんか使わないが、逆に考えて、レイヴ的なものは到達できない人たちが薬物を使うのだ、原理的にはただの「ドーピング」にすぎない。
そして、自分で主催しているわけだから、僕が盛り上げるし、盛り上げたら行くところまで行くわけだが、それにしても、やはりつくづく思うところ、そうしたプレイは僕にとってあくまで余技だ、そうしたことも必要だろうと思うからやっているだけで、レイヴ状態を作り出したことは僕の自慢にはならない、そんなものおれがやればアタリマエにできるわという、それぐらいの確認にしかならない。
僕は感覚がおかしいのだ、なぜおかしくなったかといって、他人の情報がなさすぎるのだ、きっと多くの人はSMクラブに行ってムチで打たれた男女がオーガズムに到達してビクンビクン痙攣していたらトリップ的な気分になるのだろうが、僕にとっては性的関係の中でムチで打ってやれば女性がオーガズムに至るのは当たり前のことであって、目の前で見せられても何も思わないし、何であれば「僕がやりましょうか?」とさえ申し出ることができる/たいていの場合、そりゃおれがやったほうが速いよ!! やれと言われたらムチなんか要らなくておれが指先でやったほうが速エーよ。
僕は、あまりに他人の情報を持っていないので、多くの人がたくさんの「抑圧」の中を生きているのが感覚的にわからないのだ、だから抑圧の解放を人々が求めているということについても、実はよくわかっていない、レイヴやSMクラブうんぬんのトリップ状態を作り出すのに、衣装やらスモークやらライティング等は必要ない、僕は抑圧がないからボーッとして見えるが、僕をナメるのはよし、ただしあまり学門をナメないでいただきたい。

パーティは、パーティなのだから、レイヴ感ぐらいなくてどうする、という、この当たり前のことに、到達するまですいぶん時間が掛かったのだ、抑圧がない者が集まって飲めばそれは工夫しなくてもレイヴ状態になっていく、薬物は使わないといったがアルコールは使っているな!! 僕に限ればアルコールなしでもレイヴ状態になれるが、他の人はさすがに無理だろう、そういえば僕は先月など、パーティ以外ではけっきょく一度も酒を飲まなかった(忙しかったのだ)。
そんなことはいいのだが、ここにきてやはり、レイヴうんぬんというていどのことに、僕が詳しくなってもしょうがないとつくづく思うのだった、それは霊魂の話と同じで、そんなていどのことに、僕が詳しくなってもしょうがない、たいへん不遜な言い方だが、もうこのことを弁えていかないと僕は本質的な生産ができないのだ。
霊魂うんぬんや、レイヴうんぬんは、今そのあたりがテーマだぜ!! という、新進気鋭のところの奴に、できたら一任したいところだ、なにもかも僕がやるというのはいかにも不自然で、もともとワークショップの先生というのも、やっぱり僕は不自然なのだった。
仮に、物事を「教えられる」人が、先生やコーチであったとして、さらに直接触れることで「与える」ことができる人が、たとえば「導師」だったとしよう、僕はそのどちらでもないのだ、「教える」こともできるし、ちょいと触れて「与える」こともできるが、そのどちらも僕の本分ではないのだった、僕にしかできないことをしようとするなら、それら余技のことはいったん放逐せねばならない、そういうわけで中間人材が至急に求められているので、先生格、レイブ屋と霊魂屋、導師格、そのあたりにみんなササッと上昇してくれ、おれはおれのことをやらなくてはならんのだ、これがもうハードスケジュールとかいう次元ではなくてハードなのだ。

僕をグル呼ばわりする通りすがりの方々へ、僕はしゃあなしに余技でやっているだけでグルではありません!!

うーん、たくさんのことが見えてきたぜ、あれだね、おれ自身にだけわかるようにメモしておけば、おれがやさしく、にこやかにしないとダメなんだな、そうでないとみんなおれがコワイんだな、おれみたいな奴にどう接するべきかなんて、態度のライブラリにインストールされているわけがないものな、先生やら導師やら、敬うやら尊崇やら、常識的なやつはそれで済むが、僕の場合はそういうのでは済まないからな、僕の側から緩和してやらないといけないというのが、さすがにいいかげんわかってきた。
なんというか、やはり、大きく見て二段階ぐらい、態度や身分についての情報が抜け落ちている、基本的にそれを「愛」という現象でくくるなら、愛にもいくつかの「段階」があるようだ、これを一歩ずつ歩まないといけないので、至急中間管理の人々が現れてくることを期待する/僕がふと笑うと、どうやら苦しかったらしい緊張感がドッとほぐれるのを見て、さすがに気の毒だと思った、僕の側から緩和的方策を取らねばならないのはよくわかったが、どうかこのことが、また一部の人をあらぬ誤解のほうへ押し出してしまいませんように。

正しく見ないとな | comments(0) |
カネで自信は買えねー
はよく、神戸の話をするが、それはいわゆる思い出補正で話しているのではなく、実際に神戸がすさまじい街だから話しているのだ。
GDPの問題ではなく、たとえば横浜が神戸に勝つことはありえない、そんなことは、夜の三ノ宮から元町まで歩けばわかる、理屈でなくもうどうやっても勝てない/しかもこの背弧に六甲山と異人館と旧居留地と中華街とメリケンパークとモザイクと海と瀬戸内と灘高校と湧き水と日本酒と多数の大学があるのだ、勝てるわけがない。
夜の富山も、すさまじいもので、富山では予約なしには夕食ができないのだ、活気と食のよろこびが違いすぎる、そして言わずもがな京都もすさまじい街だが、京都のすさまじさは、京都市ではなく京都府全体がそれだというところにある、京都にはハリボテのエリアがないのだ、そりゃ千年も都だったのだから格差はしょうがない。
目黒区に住んでいる僕が言うのも、裏切り者という感じがするが、中目黒や代官山が神戸に勝てるわけがない、銀座でさえ勝てないのに/東京はみんな「勝ちたい」からおしゃれしているのであって、もともとおしゃれなエリアではない、だからご存知のとおり、勝つことをあきらめた人々が、今老人の群れとなって東京にあふれかえっている、東京はしばらくヨーロッパと競うことを棄権しなくてはならないが、神戸ならヨーロッパ諸国と戦えるだろう、神戸という街がどのようにして成り立ったのか、僕は一度郷土史を研究してみたいと思っているぐらいだ。

多くの人は、カネが欲しいと思っていると思うが、本当は、みな「自信」が欲しいのだと思う(本当に困窮している人は除くが、本当に困窮している人はこんなブログ記事を読んでいる場合ではない)。
だが、残念ながら、カネで自信は買えない、いちおうニューリッチ層にでもなれば人並み外れた「自信」が手に入る、ようには見えるのだが、こうしてカネに後押しされた自信というのは、当然ながら当人を虫食むのだ、カネでしか自信が買えないという痛烈な自覚がどうやったって突き刺さるからだ。
そのことはちょうど、東京が、GDPで東京を言い張ろうとしているということに似ている、新宿のGDPは三ノ宮と元町のGDPを上回るかもしれないが、それが本当の意味での新宿の自信にはつながらない、アメリカは極端な軍事国家だが、最近はいいハリウッド映画が作れないので、アメリカは自信を失っているだろう、いつまでもボブディランだけを言い張っているわけにもいかない。
そういえば先日、僕の友人が、東南アジアの或る聖地に旅をしてきた、そして聖地の人々と交歓したそうだが、彼女は帰国して第一声、「建物が立派なだけで、日本はずいぶん "遅れている" のではないかしら? 世界の人々は、本当にこころを開いていて、とてもたくさん勉強しているのよ、とてもじゃないけれど追いつけないぐらいに」と言った/彼女の言うとおり、GDPで自信は買えない、個人がカネで自信を買えないことのように、僕は彼女に、「その背後には信仰もあるんだ」と言った。

こころを開いて、交歓して、たくさん勉強して、何十年かの歴史を歩み、その背後には信仰もあったという人に、勝てるわけがない。

この当たり前のことに、目を伏せて、ナゾの村の習慣に引きずりこもうとするのが、日本という国のやり方だ、特殊にドメスティックな方法を持っているのだ、鎖国政策の影響だけとは思えない、もっと大きな陰が潜んでいる/写真でもみればわかるが、大正や昭和初期のほうが、日本は世界水準に近かった、現代では真似できないおしゃれとファッションが、当時の時代風景に記録されている。
われわれは、何か不当なことを考え、不当なやり方で自己を強化したため、そのときに何かにつけこまれたのだ、悪霊でも入っているとキメツケたほうが正しく判断できるぐらいだ/旅から帰ってきた彼女は、僕のことを、「世界から見たらあなたが "まとも" なのね」と理解してくれた。
できるオンナだね | comments(0) |
人の愛なんか要らない2
ークショップ等を通じて、やれ魂魄だの、気魄だの霊魂だのと教えている。
そこで教えていることは、間違いではないし、とっても大切なことで、必要なことなのだが、ゴールなどでは決してない。
たとえば霊魂うんぬんというと、何か奥の院を覗いている気にさせられるが、そんなことはないのだ、冷静に考えて、霊魂うんぬんの話は、本丸の二段階ぐらい手前の、イージーで容易でわかりやすい話をしている、それはしょうがないのだ、「わかる」という領域をはみだすものをどうやって「教える」ことができるものか/「教える」という形態にそもそもの限界がある、それはしょうがない。
最近は、悪霊がどうこう、という話を、わかりやすいかなと思ってお伝えしているが、実は本当のところを言えば、より本丸をかすめるぐらいに手が届けば、もう人は互いの霊魂になんか接触しなくなるのだ、霊魂に接触しないので、別に悪霊だろうが何だろうが「知らんし、知る必要がない」ということになるのだ/悪霊なんて、あくまで「人」レベルで考えたときに問題になるだけだからね。

人にとって、知識がないという状態は、リスクであるとともに、チャンスなのだ。
だから誰しも、子供のときはチャンスだったのだが、今はマスメディアおよび通信端末が、幼いうちにも大量の「知識」を与えるようになったため、人々はチャンスを失ってしまった。
人はアタリを掴むことなどできないのだ、掴めるのはハズレだけだ、そして子供というのは、まだ何も掴んでいないので、アタリとハズレ、どちらにも触れるチャンスがあった/人は知識を得ることで、森の中の毒キノコを拾い食いしなくなるのだが、そうしてわけのわからないものは食わなくなるぶん、わけのわからないものを食うことがなくなってしまう。
自分が知っているものをディールするのは簡単なことだが、ここで数学的な疑問が提出される、つまりわれわれは、自分の知らないものをディールできてしまうかもしれないという可能性だ、ナンノコッチャということになるのだが、ナンノコッチャに意味が「ない」とは、本当はわれわれは断定できないのだ、このことに自己が接続すると、確かに何かがズバンと爆発する心地がある。

霊的なことうんぬんは、必要で必須で有為なことだが、本当には、レベルが低すぎて、それだけでは使い物にならない。

だが、そういう基礎も、ちゃんとやっておかないと、本丸との接触は、僕でさえ数秒で「身がもたない」と感じるのだから、基礎に何の訓練もない人は無理だ、「わたしはいけます!」と奮い立つ人は、例によって悪い力を借りようとしている気配がミエミエなので、そういうことじゃない/これはもう「能力」とかいう次元のことではないのだ。
言ってみれば、これは能力という次元ではないどころか、超能力という次元でさえないのだ、超能力とかレベル低すぎてダサーイだ、そうして「能力」なんぞにこだわっているようでは話にならない/これはあなたをゲッと言わせるためのものではない、僕自身がゲッと言わされる側なのだ、身を投げ込むというのはそういうことだから……うーん能力開発とか気色悪いことを言っているようではダメだね、おれは自分のことをスゴイと思ったことはこれまでに一度もない、だっていつもそういうことの話ではないからな(たとえばどんな読書家でも世界中のすべての図書館が一斉に襲い掛かってきたらどうしようもない、そんなもの数秒も「身がもたない」に決まっているじゃないか)。
正しく見ないとな | comments(0) |
人の愛なんか要らない

「神の愛がどうこう」とか、アホみたいなことを言っていてもしょうがない。
本当のことは、もっと信じられないレベルでやってくるからだ。
禁断の知恵の実という伝説は、本当に禁断の知恵の実だったのかもしれないな/大人になり、成長していくと、「知る」ということが増えるのだが、この「知る」というのが業(カルマ)であって、ハズレなのだ。
仮に、真実を知ったということがあったとして、知ったのであればそれは真実じゃねーよ、ド神様であれド悪魔であれ、その作用は常に「未知」の領域からやってくる/われわれはみな、「わたし」を知っていると思っているが、それがハズレなのだ、なんなんだこの仕組みは、ホンマモンの「わたし」はカミサマと同様、常に未知の領域に存在している、この未知が既知になることはありえない。

これに「身を投げこめ」ということね、そりゃまあ話の筋道はわかる/知っているものなら、身を投げ込むのは別に怖くないし、投げ込むのもわかりやすいものな。
でもそういうことではないのだ、「どれに身を投げ込めばいい」といって、「お前の知らんやつに投げこめ」「ええええ、知らんとこには無理ですやん」という、この構造がずっと続くのだ、だから厳しい、ラクになることがない。
そして、僕はこの「身を投げ込む先」「身を投げ込む対象」について、心当たりがある、その対象を既知にはできないが、営為の形態は知っているのだ/これがかつて、僕の自殺を止めたやつだ、昔のおれの自殺を数度にわたって止めたやつの正体がこいつだ。
こんなもん、ノウハウなんかないが、もしノウハウがひとつでもあるとすれば、「失敗を恐れるな」だ、それは失敗にひるまず果敢に挑むということではなく、何かを「失敗」と、「知って」しまっているということ、これがもうハズレだということ、もう説明する気にはなれないが、どうせたぶん、例によって一般には想像を絶するようなことなのだろう、僕にとってはなつかしい再会であり、「またお前か」「やっぱりお前か」という気もするのだけれども。

心臓がバクバクする、これは、人の愛ではない。

人の愛というレベルではないし、高揚でもない、自律神経という感じもしない、そして、集中力の向こう側まで行ってしまう、<<自分の知らないものに集中してしまう>>からな/これは人の愛ではない、なぜなら、<<人の愛なんか要らない>>というのがわかってしまうからだ、この愛はむちゃくちゃだが、この愛に人が抗せないことを、僕は感覚的にも経験的にもよく知っている。
人の愛なんか要らない、つまりおれの愛なんか要らないし、おれの才能なんか要らないのだ、おれが「おれのもの」と思っているものは、単におれが「知っている」ものというだけでしかない、そして「知る」という範囲に収まっているすべてはハズレだ/おれが正しくなる日は永遠に来ないな、だからおれは間違い続けるしかないのだ、おれはそういうやつが好きだったし、そうすることでしか自分がアタリをかすめることは起こらないからだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
次なる恋愛フォーマットのゆくえ
まに、恋あいのことを考える。
多くの若い女の子が、恋あいなし生きていくのはかわいそうだ。
今、事実上、恋あいは無理なのだが、なぜ無理かというと、フォーマットが壊滅しているからだ/フォーマットに乗るのは基本的にダサいのだが、かといってフォーマットなしで恋あいを獲得しろというのは、現実的にご無体がすぎる。
今どき合コンというのもリアリティがないし、ねるとんやらあいのりやらテラスハウスというのも、遺物であって使いものにはならないだろう、ましてゲレンデでシュプールというのはさすがにない、だからチャットアプリで出会い厨をするしかないのだが、これは青春が欲しかった女の子に対してあまりにも残酷すぎる仕打ちだ(iOSはちゃんと、「出会い厨」を予測変換してくれる、なんてひどい話だろう)。

フォーマットというのは、たとえばバレンタインデーに、「はい、義理チョコ」みたいなことが、社会通念上に成立していたことを言う/もし何のフォーマットもなければ、元日にやたらハガキが届いたら「何これキモい」ということになる(年賀状というフォーマットも、おそらく今の十代にはないはずだ、年賀状は20世紀で終焉したのだろう)。
われわれは、フォーマットなしには、他人にチョコレートも贈れないしハガキも送れないのだ、だからフォーマットなしに恋あいなんかできるわけがない/たとえば、今聞くと冗談みたいだが、かつて女性は、男性に食事に誘われると、「あの、それってデートってことですか?」と、そのことを確認しようとしてアワアワしたものだ、それは「デート」というフォーマットがあったということだ。
もちろんそんなことを言い出せば、僕より古代の人も、元旦には本当に「書き初め」とかしていたのだろうし、元服とか帯刀とかいうのも本当にあったのだろう、旧来のフォーマットはすべて失われてゆき、現代は代わりにコスプレというフォーマットが出てきたのだが、コスプレで勃起してセックスして「恋あい!」というのは、いくらなんでもな……しかし実際にありうる、もう合コンを考えるよりコスプレコンパを企画するほうが脳みそがまともだろう、あとはジョギングやボルダリング等のフィジカルコンパがありうるが、フィジカルというのは基本的一人で営むものだから、これを恋あいに結びつけるのはどうもやりにくい。
現代で、非コスプレ的恋あいを考えるなら、「君の名は」みたいにするべきなのだろうが、何しろ僕は未だその映画を観ていないので、その先は考えられないのだった、なんだそりゃ/とりあえず現代の恋あいは「君の名は」に倣おう、何しろ観ていないので好きなように言えるのだった。

「家族」ですることがなくなったように、「男女」でもすることがなくなった。

フォーマットの崩壊に合わせて、することがなくなったのだ、今どきお盆に迎え火や送り火を焚く人はないだろうし、お中元だのお歳暮だのもまもなく消えるだろう、上場企業で忘年会や新年会をしているところはまだあるのだろうか? クリスマスや正月も実際には「することがない」し、男と女も、先輩と後輩も、教師と生徒も、店と客も、死者と生者も、することがなくなったのだ、だから何もかも業者が運営するイベントに頼るしか、営みらしきものは持てなくなってしまった。
具体的には、すべての年中行事は、コスプレイベントにするのが最善だと思う、クリスマスコスとか正月コスとかお盆コス、節分コスやバレンタインコスということなら、はっきりとした一年間が忙しくなるだろう、そうしたら差し当たり、出会いの機会は増えるし、恋愛に発展することもあるはずだ、これは冗談で言っているのではなく割とリアルなこととして言っているつもりだ、青春のフォーマットは今のところコスプレにしか光がない/男とデートなんかするのは勘弁だが、コスデートなら「いいかな」という、次のフォーマットが見えてきてはいるのだ。
視点変えてこ | comments(0) |
すべての音楽はひとつ
や、ホントかどうかは知らんが、何かブログ更新しておかないとな……
女の子って基本、霊感ばっかだよな、変な思い入れを持たなければだいたい女の子の霊感が正しい(が、どうせ思い入れでめちゃくちゃになるのだ)。
仮にも元商社マンとして、人種差別は意味不明だと思うが、差別は大事だ、愛されたことがある人とない人で差別しよう。
愛されたことのないパワーパーソンについていくと、あんまりいいことないぜ、何しろ愛されたことがないぶん、思い入れが莫大なのだ。

この世で最も貧しい人間は、わかっていないことを、笑顔でわかったふりを続ける人だ。
たとえば、もし、いわゆる文化人のような人がいて、この人が実は文化的なことのすべてを、ちっともわかっていないとしたら、この人は最も貧しい人になる/数学がわからないまま数学の教師になったら、それはすさまじい貧しさなのだ。実は空っぽで超エラそうという空前絶後の最悪さんになってしまう(しかもそれで一生いく)。
典型的には、愛のわからない人が、恋愛論を語ることはよくある、手に入らないぶん思い入れを語りボンバーしているだけなのだが、こういう人は文化のわからない文化人と結婚ボンバーでもしたらいい、それが悪いということではなく、お互いにお互いの差別されたボンバーしようぜ、という話なのだった。

決定的に差別するのは、そっちも含めて「一つ」だからだ。

愛されたことのある人と、ない人は、決定的に差別されていい、それは文化のわかる人とわからない人のように/差別していいのだ、差別でぶった切ってよい理由は、ぶった切られた双方が、断絶して「一つ」だからだ、そうでないと「一つ」ということが正しくわからない。
ただ僕は、愛されたことのない側はイヤだなと、そして文化のわからない側や思い入れをボンバーするだけの側はイヤだなと、個人的に思っているだけだ、そっちはそっちなのだろうが、おれはイヤだよ! ということに過ぎない、いろんな音楽があって、音楽じゃねーよというやつもあるが、そっちはそっち、完全な差別があって、初めてすべてが「一つ」なのだとわかる。
正しく見ないとな | comments(0) |
Oh, 二種類の「わたし」がある!

ほほおおお、うぇえええい、ついに看破したぜ、さすがおれだ。
われわれの言うところの「わたし」は、二種類あるのだ、一種類の「わたし」しかないと思い込んでいるから、整合しないのだ。
「わたし」のアルファ状態とベータ状態があるのではなく、それぞれの「わたし」は異なる存在だ、ふたつの「わたし」は、表裏一体ではない、むしろまったく別モノと捉えたほうがいい。
ひとつのわたしは、キリスト教的にいえば「神の子」たる「わたし」、もうひとつのわたしは、「サタンの子」たる「わたし」だ、このどちらをもわれわれは生きられるのだ/うーん「わたし」そのものが二種類あるとはなかなか気づかんわな!!

「わたしが○○する」というときの「わたし」と、「○○するわたし」というときの「わたし」は、前者が「行(う)」のわたしで、後者が「受」のわたしだが、この二種の「わたし」は、「わたし」を捉える向きが違うということではなく、そもそも別の「わたし」なのだ、前者が後者になることはありえないし、後者が前者になることもありえない。
仏教的に言えば、「行」の「わたし」、「わたしが○○する」というときの「わたし」は、薩埵(さった)であり、それじたいが「僧」と捉えるべきだろう、一方で「○○するわたし」という、「受」の「わたし」は、それ自体が「カルマ」なのだ、ちゃんと仏典には「カルマが、わたしである」と書かれてある。
悪霊入りの「わたし」と、聖霊入りの「わたし」は、まったく別モノなのだ、あんぱんとクリームパンが別モノであるように/悪霊入りの「わたし」は、「○○させられている」という受のわたしであり、聖霊入りの「わたし」は、「○○している」という行のわたしだ、このことを指してトルストイは、「労働はよろこびだから」と言った。
そして、布教者が人々に聖霊を伝播するのと同じ仕組みで、悪霊だって人々のあいだを伝染するのだ、そしてわれわれの周囲は今、悪霊入りのグッズとパーソンであふれかえっている/悪霊って、「悪霊だぜオロロローン」というような、オバケチックな形で現れてくるのではない、実際に受けるのはその「力動作用」だけだ、「受」の「わたし」が目覚めるという力動作用があるだけで、それ以外には何もない、だからこそこのことはまったく気づかれない。

今多くの人の自室は、本棚にマンガがキチッと並び、テレビがあって、スマートホンがあり、SNSがあって、身体を鍛えるバーベルが少々あり、ちょっとしたトロフィーと賞状があって、「わたし」はどこにもないのではないだろうか?

察するに、今多くの人はそういう部屋で暮らしているのだが、これが悪霊包囲状態の実物なのだ、無理無理、こんなの自分で気づけるわけねーよ/人々はみな善良なのだが、善良でも悪霊入りのサタンの子としての「わたし」が生きて活動しているなんて、気づけないし発想できるわけがない、この善良な人々が互いを包囲し合ってサタンの子たる「わたしたち」を保護しあっているのだから、よくできた話だ、こりゃ善良な人ほどこの組合から脱出できねえじゃねーか。
人々はみな善良であって、善良な人ほど、他人のことを尊重し、重視しようとしているのだが、そうした善良な人々の組合は、それでいて互いにまったく愛し合うということが起こらない、そりゃそーだ、愛し合うという仕組みは聖霊入りの「わたし」がやることであって、悪霊入りの「わたし」はそんなことしないからな、悪霊入りの「わたし」は、重要・重視・尊重・丁重と、互いに「重さ」を掛け合うことをする、重さは力だから、このことは人々の権力・暴力とつながっており、また「魅力」ともつながっている、うーんこんなことにいきなり気づける奴があってたまるか!!/とにかく二種類の「わたし」があって、それぞれは別個のものだ、この包囲状況でもう一方の「わたし」が覚醒することなんて、ほとんど不可能だろう、たいへんマズイ状況だがこれはわかりやすい状況でもあるのだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
シンプル悪霊説4

「悪霊」などと言っていると、まるきりアホの話に聞こえる。
が、いいのだ、「悪霊を困らせよう」という発想で、すべてがわかりやすくなるし、なんというか、馴染みがよくなる。
悪霊を困らせるにはどうすればいいかというと、まっとうなことをすればいいのだ、感受性うんぬんを出しゃばらせずただ「まっとうなこと」をするということ、これが悪霊にとっては一番困る。
たとえば、当たり前に人に挨拶するとか、目上の人には敬語を使うとか、仕事をテキパキするとか、なるべくたくさん勉強するとかだ、こういうことを感受性抜きにして当たり前にやっていくのが、悪霊にとって一番「困る」ということになる。

「まっとうなこと」を、マジメにやろうとすると、何か異様に善人チックになり、キモチワルくなる。
また、そのキモチワルイことを、断行しようとすると、何か感受性にスイッチを入れなくてはならなくなり、それもさらにキモチワルさを増大してしまう。
だから、「まっとうなこと」をするのに、その理由を、「悪霊を困らせるため」と定義づけるのだ、人に挨拶をするようなことは何もハイではないしダサいことだが、「悪霊を困らせるため」ということなら、なかなか痛快でよろしい、趣味としてはなかなかウイットが利いていてよい趣味だと思う。
悪霊と、戦うとか、根絶するとか言い出すと、それはまたヘンな人ということになるので、悪霊を「困らせる」という、ネタとして扱ったらいい、さわやかにされるのが悪霊としては一番困るのだ、そして前向きにさわやかになるというようなブキミなことはせずに、「悪霊を困らせる」ということ、悪霊を困らせるというのは、ストレス解消に罪がなくていいじゃないか。

悪霊を困らせるということは、悪霊入りの上司も困らせるということだ。

イヤミを言う上司というのは、どこの企業にも、まるで意図的に仕入れたかのように存在していて、そのイヤミがイヤミとして有効にはたらくのは、イヤミが感受性のスイッチを押すからだ、ここで感受性を無力化する術を持たれると、イヤミ上司としては困るのだ、悪霊を抱えている自分だけが損じゃんということになる/イヤミ上司に向けては、「おっ、今日も悪霊が元気ですね!! 今日も支配されていらっしゃる!!」と思えばいい、だって実際にそうなのだから(と、他人事だと大いに笑えるよな)。
実際、ブラック企業などと生ぬるいことを言っておらずに、伏魔殿の悪霊従業員たち、と断定してしまったほうが、世の中にロマンがあっていい/こりゃどう考えても悪霊説を知っているほうが有利なのだ、悪霊に憑かれている当人はその知識がないからカワイソーで、見ているこちらからすれば「んふふ、これは行くとこまで行きますね〜」と他人事を見物できるのだから、精神衛生にとってもイイのだった。

視点変えてこ | comments(0) |
シンプル悪霊説3

ったくアホみたいな話だが、たとえば以下のような、アホの文言を並べても、割とそれっぽい感じになる。
感受性、ドクンドクン。
感受性、ドクンドクン。
感受性、ドクンドクン。

なんだこのアホな文言は、しかもコピーして貼り付けただけだし……しかし悪霊の基本はこんなしょーもないことなのだ。
こんなアホの文言でも、内容が当を得ているので、ちゃんと効果は成立するわけだ、逆に「本当にこういう仕組みなんだ」ということがわかりやすいだろう。
このアホみたいな仕組みに、何かそれっぽい映像の明滅と、音楽のズンドコを足すと、「うーん、トラップ・ミュージック」みたいになるのだ、感受性のイージーさをナメてはいけない(いや、逆に全力でナメろ)。
悪霊であろうがなかろうが、さすがにこんなアホなことはやめなくてはならない、善悪というより「貧しすぎる」のだ、なんなんだこの貧しさは、あそーれドクンドクン、ドクンドクン、もひとつドクンドクン、感受性〜がドクンドクン〜ホイ〜。

「感受性、ドクンドk…」「きみはアホか」

まさかのまさか、そんなバカなという話なのだが、この感受性ドクンドクンが「ネタバレ」なのだ、本当にこんなスッカスカの仕組みで人は操られるのだ、こんなことはガンガンネタバレして悪霊などをガッツリ困らせていくべきだ。
さすがにこれはないわ、自分がケガしたら119番するくせに、安くて品質のいいコスメがあったら使うくせに、そういう公共性だけ利用しておいて自分は「ドクンドクン」とか、そんなテキトーなチョンボがあってたまるか。

視点変えてこ | comments(0) |
シンプル悪霊説2
「感性」は別に悪くないし、「感覚」はあって当然のものだし、感覚なんかバッチリ使いこなすべきなのだが、「感受性」はダメだ、感受性というのはただの悪霊用のスイッチでしかない。
だから、悪霊退散ではないが、悪霊サイドにとって「困る」という状況を作るためには、「感受性」から離れるのがいいのだ、感受性を軽視されたら悪霊としては人を操る方法がなくなるので困るしかない。
だいたい、世の中の猟奇的な犯罪等を見ればわかるが、「感受性」が暴走しているからそういうヤバイ奴になるのであって、感受性が軽快化していたら、そんなヤバイ奴にはならねーよ、街中のヤバそうな奴を見てみろ、誰だって「感受性」が盛り上がっているからこそヤバそうな奴になっているじゃないか。
いわゆるサイコパスというような存在に、多くの人は感心があるようだが、サイコパスは感受性がないのではない、感受性がなけりゃ猟奇的なことなんかしねーよ、サイコパスというのは感受性に支配されて感性や感覚がなくなっている人のことを指すのだ/仏像と悪魔の絵でも並べてみろ、どうみても仏像の側に「感受性」は見当たらねーよ。

シンプル悪霊説は、実にシンプルに、「悪霊を困らせよう!」という発想に立脚する/悪霊を困らせるには感受性から離れることが第一だが、その方法としてたとえば「自分をバカにする」という方法がある。
「僕はマンモスの生まれ変わりでプリンを鼻から食べまーす、両手にダブルリモコン!」と部屋で踊っている奴がいたら、こんな奴はあまりに感受性がない、こんな感受性のない奴を悪霊が操れねーよ、「ただいまよりフライドポテトを音速で喰います、フオオオ〜」と両手をクロスさせている奴をどうやって悪霊が操作するのだ、こういうのが悪霊にとって一番居心地が悪いのだ。
感受性でウルウルしたり、自己陶酔したり、逆に自己卑下したり、妖しい気分になってみたり、キチガイゲージを開放してみたり、怒鳴ってみたり、クスリをキメてみたり、とにかく意味を見つめてシリアスになる人ほど、悪魔にとっては上質で居心地がよくなる、「八方手裏剣って味方にも当たらない? 周りにチョー迷惑だよね」とか言い出す奴のほうが、悪魔にとっては操り甲斐がなくて最悪の居心地だ。
シンプル悪霊説は、シンプルに、悪霊の居心地を悪くする、そのためには「自分をバカにする」というのがいい、陶酔でも卑下でもなく、攻撃でもなく、思索でさえない、「ハーイボクはブラッドピットよりかっこよくない何かだよ〜よろしく〜」「ボクが人並みに持っているものといえば、うーん握力ぐらいかな」「休日って鼻毛抜くぐらいしかすることないんですよね」というような発言ばっかりしているのが最適だ/人は自分をバカにしているとき感受性のはたらきようがない

自分をバカにしよう、まさか自分をバカじゃないとは思っていないよね?

まさか、USBメモリの仕組みさえわからないのに、自分を賢いと思い込んだりはできないよな、自分をバカにすること、たとえば僕のよろこびは六本木で女の子のお尻を眺めることであって、女の子のお尻って六本木の特産品かな? というようなことばかりを考えている、これだから僕などは偉大な文学者でステキだなと思っているのだ、僕はバカなので自分をバカにする方法さえよくわかっていない、自分をバカにするということは、よくわからないので、まあお前らなんか悪霊の手駒で別にいいんじゃないのという気がしてきた、「悪霊の手駒だああああもうyoutubeをクリックするしかない」というぐらいが、ちょうど自分をバカにしていてよいかもしれない。
自分をバカにするというのは、感受性を無力化するのに最も手早く、直接的な方法だ、今日の好きな言葉は「エッセンス」、うあああ脳みその性能が悪いよう、と自分をバカにしながら生きよう。
 
視点変えてこ | comments(0) |
シンプル悪霊説

ンプルに考えたい/そして役に立つなら何でもいい。
現代人は、過去の人間より、明らかに「スカしている」と思うが、何もスカしたいからスカしているわけではないだろう。
本気になればいいのだが、本気になるとダサくなるというか、本気になろうとすると、イタくなる、あるいは何か、発狂している、みたいなものが出てきてしまう。
本気になろうとすると、そういう痛々しいアンド禍々しいものが出てきてしまうので、しょうがない、だからスカすしかないのであって、何もスカしている感じに新しい価値観があるわけではない、唯一の選択肢としてスカしているだけだ。

シンプルに考えたいし、役に立つなら何でもいいので、わかりやすーく考えるが、これはつまり、悪霊が憑いているのだ。
本気になろうとし、全身全霊になろうとすると、なーんかグチャッとした「悪霊」が出てくるのだ、それが痛々しいしキモチワルイ、割とマジなレベルで禍々しい、実際内部的に「闇」を自覚している人は多いしな……全身の全霊に悪霊がたっぷりinしていれば、そりゃ闇と狂気でアタリマエだし、全身全霊なんかお見せできないというのが当然だ。
だから、悪霊退散しなくてはならないわけだが、悪霊退散のやり方なんてわからないし、そもそも自分で招き入れた&ご購入あそばした悪霊については、契約が為されているので気合いうんぬんで退散はさせられない/どこで招き入れたのかな〜どこで購入したのかな〜そんなことマジメに考えてもしゃーないけどな。
シンプルに考えればいい、悪霊退散と鼻息を荒くする前に、悪霊を思い切り「困らせる」のが大事だ、悪霊の居心地を根こそぎ悪くしてやることが大事/そして悪霊というのは「感受性」で人を操っているので、われわれが感受性以外の行動をすると、悪霊にとっては「困る」のだった。

お中元や年賀状等、「つまんねー」と感じられる文化は、もともと悪霊にとっては「困る」ネタだった。

「つまんねー」と感じるのは、その文化と行為が、感受性と無関係だからだ、感受性と無関係な行動をされると、その部分については悪霊は人を操れないので、「いかん」「まずい」「困る」「操れない」「バレる」「居場所がなくなる」と悪霊側は焦るのだった/もし悪霊なんてモノを肯定するのであれば、悪霊というのはそういうものです、「感受性」で人を操るのが悪霊です。
全身に聖水をブッかけてどうこうとか、そういうものじゃないな、「おお、聖霊よ!」とか、感受性で盛り上がっている人は、悪霊にとってはナイスパターンなのだった/その証拠に、「感受性」が爆発しているおばちゃんが、本気アンド全身全霊などやらかした日には、とても見るに堪えないものが出現するのだった、だから悪霊=感受性で合っているのだ。

視点変えてこ | comments(0) |
百億円とレイプ公認権をよこせ

りあえず、みんな前向きにやっている。
力が悪いのではなく、光がなさすぎて話にならないからな、その修正をしているだけだ。
僕はみんなの狂信ぶりを中和して、まともな「人」に戻そうとしているだけだ、宗教的な狂信者ほど救いがたいものはない。
だれか百億円でもくれんかな、いやマジで……百人がかりでいいので、百億円よこせ、そして僕が誓えることは、たとえ百億円もらったってこのブログは日々更新されるだろうということだ、むしろ百億円もらったほうが調子イイだろうね。

われわれが、「光の存在」なんて言うと草不可避だし、「闇の存在」なんて言うと、さらに大草原不可避だ。
当たり前だが、どちらの成分も、ビタッと同量持てよ、そうでなきゃ中庸じゃなく、中庸でない奴はキモチワルイだろ。
いやー百億円が欲しい、あと僕だけレイプ公認権が欲しい、そしてこの場合の「欲しい」というのが、どうやら他の人と違うらしいのだ、他の人の「欲しい」は、どうやらガチの「欲しい」らしい、どんだけ追い詰められてんだよ、僕はそういうことを言っているのではなく、百億円とレイプ公認権ぐらいあったほうが「バランスが取れてスムースだよなあ」ということを希求しているのだ、百億円ぐらいでメラメラするほど人生ってヒマか?
百億円って、もしもらっても、すぐ使い切ってしまう気がするけどね、まずワークショップのための道場か何かの施設を建てなきゃ、あと僕が書いたものを読みやすいよう印刷物にする必要があるし、宣伝もバリバリしないといけない、うーんしかし宣伝してもどうなのかなあという気もする/クルマは引き続きレンタカーのヴィッツでいいが、百億円もあればレンタカー屋が家まで持って来てくれるかもしれない、なぜレンタカーがいいかというと、レンタカーのほうがメンテナンスがいいし、クルマを買うのとかってまず手続きが面倒くさいだろ。

百億円とレイプ公認権が与えられたとして、僕はどこまで嵐が静寂なのかが知りたい。

レイプ公認権があれば、僕は街ゆく女の子に、初めからお話ができるだろ、そうしたら効率がいいと思うんだ、帰りのタクシー代も出してあげられるしな、自分のカフェや、自分のナイトクラブも持ちたい、バーは……自分のじゃなく街のあちこちのところを彷徨うのがいいな/僕は「何も起こらない」ということを愛している、すさまじい嵐が、完全に解放されるとき、嵐のすさまじさは、この世界に何かが起こるということはないというナイスな事実を現成させるだろう、うーん僕は自分の乗るクルマの車種なんか知りたくないな、マンションの建築者名を教えられるみたいで面倒くさい。
僕は光への才能があるので、そのことを疎んじているのだ、僕のか弱い力の希求を、デカイ光が消し去ってしまう、もーカンベンしてくれよな、いろいろつまらなくなっちゃうじゃない、光と力が混ざらないと面白くない/たぶん、百億円とレイプ公認権が与えられたとしても、なお僕は、自己陶酔のやり方がわからんのだ、誰か自己陶酔のやり方を教えてくれ、百億円とレイプ公認権ぐらいでは、僕の言葉と文脈を見る悟性に勝てないのだ(この悟性をダウンさせないまま拮抗する「力」にまみれたい)。

バカをやろうかあ | comments(0) |
スゴイ人になる方法3

ゴイ人になるためには、まず、自分が「力」の世界に住んでいることに気づくことだ。
「屈服させられる」ということの屈辱、憎悪、そして「屈服させる」ということの快感、愉悦、これがいかにすさまじいもので、どれだけの隔たりで両者を区分するか、耐えがたい……ということを、メラメラッと考えたらいい、このことはむしろ女性のほうが得意だろう。
もちろんそのような、力勝負、バトルオンリーの世界では、あまりにひどすぎるので、人道ということも考えねばならない、ここに人道主義およびヒューマニズムが出てくるわけだ。
けれども、冷静に考えれば、そこに人道主義が出てくるということは、主流がそもそも人道から外れているということだ、車道を走っているタクシーがいちいち「車道主義」なんて言わないだろう/人道主義が出てくるということは、それだけ日常の原理が、非人道側へ逸脱しているということだ。

スゴイ人になる方法は簡単だ。
他人について、「す、すげ〜」「こりゃ勝てね〜」と、感動して拍手するだけだ。
しかしこのことは、「力」の世界に住んでいる人にとっては、構造上不可能になる、なぜなら誰かが自分より優れてスゴイということは、自分の敗北であり、敗北は屈服であり、屈服はどうしようもない激烈な憎悪だからだ。
「力」の世界に住む人は、他人について「スゴイ」と言うのを、必ずメラメラしてしか言うことができず、明るく「す、すげ〜」とよろこんで言うことはできない、他人のスゴさをよろこぼうとすると、「宗主国に心酔する」というよろこび方しか、「力」の世界においてはできない、このことによって人はわずかでもスゴイ人になるという可能性を根こそぎゼロに固定されている/どうしたって、できないものはできない、「力」の世界に住んでいる以上、できないものはできない。

スゴイ人になるということは、自分の敗北歴が真っ白に輝くということだ。

この逆転の構造が、「力」の世界ではありえないということだ、「力」の世界において敗北は黒歴史であり、深い怨恨は必ず血を流す復讐が為されるまで解除されない。
スゴイ人に敗北して、それもたくさんの人にたくさん敗北して、それが黒歴史にならずすべて白く輝いて、包囲されて「アッハッハ」「すげ〜」とよろこんで笑っているとき、無数の光に囲まれて "導かれている" ということがわからないか、この無数の光に「見返す」とか「乗り越える」とか血道を上げている人は明らかに筋違いだ。

できるオンナだね | comments(0) |
スゴイ人になる方法2
ゴイ人になれない人、のことを考えるとわかりやすい。
スゴイ人になれない人は、実は「力」の世界に住んでいるのだ、このことは特に女性に多い。
「力」の世界に住んでいる人は、自分が誰かに「負ける」ということが、大マイナスであり、回復不能の屈辱なのだ、ずっと「力」の世界で力勝負をしているので、負けた人は本当に「ゴミ」の扱いになる、そういう世界に住んでいる。
力の世界に住んでいなければ、自分が誰かに「負ける」ことなんて、単に誰かに「す、すげ〜」「負けたわ」と感動するだけなのだが、このことは力の世界においては許されない、<<力の世界において「負けた」ということは「屈服」なのだ>>、屈服の先はイコール「滅亡」か、もしくは雌伏してやがて果たす怨恨からの「復讐」しかない。

「力」の世界に住んでいる人は、勝手にそう思い込んで誤解しているのだが、この誤解は通常、一生続いて解除されない。
だから、特に女性に多いが(女々しい男性にも多いが)、力の世界に住んでいる人は、「力」を大きく保有する人に心酔し、力の保有者に「取り入ろう」とする/そのために「かわいさ」を使っていることが多く、それはかわいいのではなく偽装された政治力でしかない。
とはいえ、このことは、「力」の世界に住んでいる以上は、やむをえないことだ、この世界は自ら選択しないかぎり「力」の世界ではないのだが、本人がそうと信じ込み、本人がそれを選んでいる以上はどうしようもない/この「力」の世界の住人は、自分が力を保有する野心を第一に持ち、それが潰えると、力の保有者に心酔して取り入るということを第二のプランにする、そのあたり、どう工夫しても、自分が屈服せず、他人を屈服させることに必死なだけだ。
「力」の世界に住んでいる人が、他人のことに「す、すげ〜」「負けたわ」と、感動して拍手することはありえない、なぜなら「力」の世界に住んでいる人にとって、すべての日々は屈服へのバトルだからだ、そのことにばかり「やる気」が出てしまうのだからしょうがない/第二プランとしては、己が心酔する対象にだけ拍手するという方法があるが、これは宗主国に朝貢して、屈服の強みを生かそうとしているだけだ、どこまでいっても土台が力勝負(バトル)なので、スゴイ人なんか力の保有以外には出現しない。

スゴイ人に拍手するのではなく、あなたはなぜか、スゴイ人を「攻撃する」ということに転じる。

そのことは、インターネット上の匿名コメントを見れば明らかだ、いつでも「炎上」が起こる準備があって、特別な能力のある人やスゴイ人を、隙あらば総攻撃して失脚させることばかりを考えている/それぐらい、「屈服させられる」ということはすさまじい憎悪を生むことであって、「屈服させる」というのは至上の快感を得ることだからだ。
どんなカワイイふりをしている女の子だって、だまされてはいけないというか、だまされるようなネタではないと僕は思うが、何より当人がだまされているのかもしれないな/カワイイふりの女の子は、己が女の子らしくウルウルすることで、他者を屈服させる側に立つことを燃えさかる悲願に打ち立てている、おそろしいことだろう、でもまぎれもなく百パーセントこちらが真実だ、だって「力」の世界というのは純粋にそういうものだから。
できるオンナだね | comments(0) |
スゴイ人になる方法
れは、実は簡単だ。
自分のことはさておき、「す、すげ〜」と感動し続けられた人から、スゴイ人になっていく。
すぐ自分のことに切り替えてしまう人はダメだ、それは前向きなのではなく、自分のことにしか注目できないということだ。
冷静に考えて、自分のことにしか注目できない人が、スゴイ人になるわけがない。

自分のことを忘れて、他人のことを、「す、すげ〜」と感動できる人。
そういう人から順に、スゴイ人になっていく。
スゴイ人になれるかどうかは、自分の熱意ではなく「他人についての情報」なのだ。
<<あなたは誰のことに詳しいだろうか>>、あなたが誰か、「この人はスゴイんだよ」と他人のことを説明できないかぎり、あなたがスゴイ人になることはおろか、そちらに一ミリさえ近づくことはできない。

他人がスゴくて拍手するのは「人」だが、自分が興奮して拍手するのはチンパンジーだ。

自分の感想から離れられない人、自分のことしか考えられない人がいて、この人は、どう猛烈に努力しても、スゴイ人にはなれない、それで、けっきょく何かしらの権力に取り込まれていくしかなくなる/権力がスゴイ人は権力がスゴイのであってその人自身がスゴイのではない、権力の「座」を追われればただちに失脚し、一匹のネズミみたいになってしまう。
スゴイ人になれる人は、「心酔」をやめられる人なのだ、心酔でなく「す、すげ〜」と感動できる人、いわずもがな感動と心酔はまったく別のものだ。
できるオンナだね | comments(0) |
「業務」と「仕事」の違い2

は、じっくり見ると、「業務」と「仕事」は関係がない。
なぜかというと、業務というのは「業」のものであって、はっきりと観測可能なことしか「業務」にはできないからだ。
たとえば料理人は、メニューに書かれているとおりの料理を、客に提供するのが業務だが、その料理の中に「季節を感じさせる」というようなことは、業務に組み込めない、なぜなら客がそこに「季節を感じているかどうか」などは、観測のしようがないからだ/せいぜいアンケートを取るぐらいしかないが、そんなことのアンケートなんてアテになるわけがない、またアンケートにどう書かれても、季節を感じさせるというような「方法」がない。
だから、いかなる腕前の料理人も、あくまで業務としては「飲食業」になる、「料理に季節を感じさせる業」なんて観測不能な業務はない/こうしてじっくり見ていくと、飲食業という「業務」と、料理人という「仕事」は、実は無関係だということがわかる。

Aさんが、50人分の食事を、30分で運搬しなくてはならないというとき、厳密にそれを「業務」として見るのならば、その業務については「高速運搬ロボット」が最強だ、もちろん「業務」も重要だから、従業員は具体的にその能力も身体に養わねばならない。
だが、冷静に考えれば当たり前のことだが、その食事を提供される50人の側から見れば、「いつものAさんが運んできてくれる」という環境と、「いつもの高速運搬ロボットが運んでくる」という環境では、住んでいる世界が違うはずだ、前者の世界では食事の運搬をAさんが「手がけている」のであり、後者の世界では誰も「手がけて」はいない/もしこの差分が不要だという人は、卒業証書の授与も授与マシーンがやればいいと主張していることになる、まあ中にはそういう極端な世界観を言いたがる人もいるのかもしれない。
数学的に純粋化して、「業務」だけを抽出すれば、「業務」とは極言するところ、「人間がロボットの代わりをしている」とも言える、人類がまだそんな便利なロボットを発明していないから、人間が代行しているだけで/実際、優秀で低コストの機械が発明された分野においては、業務はどんどん機械化されていく、だがどこまでいっても、機械やロボットがそれを「手がける」ということはありえない、どれだけ将棋の強いAIがいても、AIは演算しているだけで一切「対局」などしていない。
こうして考えていくと、けっきょく「業務」と「仕事」の違いは、「業務」が機械化も可能な、 "はっきりと観測可能なこと" に限定されるのに対し、「仕事」は "はっきりと観測はできないこと" に収束するのだ、その違いはやはり根本のところ、仕事が「わたしのすること」に起因しているから生じている/「こうしなさい」という務めのすべてはやがて機械化できるだろう、観測可能なすべてはやがて機械化できるはずだ。

機械とは永遠に「握手」できないが、Aさんとは「握手」ができる。

われわれは「握手」という、わけのわからないことを当たり前にする、わけがわからないというのは「観測不能」ということだ、握手したからといって何がどうなるというわけでも――観測上は――ない、だからAさんが手掛けてくれたメシを食べたとしても、観測上は何もないだろう/厳密に、業務のみでなく仕事に長けるということは、<<握手にあるナゾの力に長けるということだ>>、<<観測不能の力に長けるということだ>>、それは厳密には「力」ではないが、グダグダ言わずに長けてしまえばいい、長けてしまえばそんなことに文句を言うヒマ人はいない。
われわれが、業務と仕事に長けようとするとき、大前提は、業務を仕事の言い訳にしないこと、および、仕事を業務の言い訳に、なるべくしないことだろう/業務のこなしはわれわれの、生きていく者としての問題だ、個人的な問題じゃない、一方で仕事のこなしは、われわれの問題じゃない、お前の問題だ、お前の「すること」なのだから、この二つをごちゃまぜにしないことだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
「業務」と「仕事」の違い

来、こんなこと、胡乱代表の僕が言うようなことではないけれども……
たとえばAさんが、50人分の食事を、30分で運搬しなくてはならないとする。
このことを、「業務」として見た場合、「業務」とは何であるか/当たり前だが、「50人分の食事の運搬を、30分で完了させる」というのが "業務" だ、それを「しなさい」ということ、これは「務め」だから「業務」と呼ばれる。
では、「仕事」とは何かというと、これは「しなさい」ということではなく、「わたしがすること」になる、わたしが「仕える事」だから、それを "仕事" と言う/この場合、業務に仕事を見つけるならば、「わたしはみなさんの食事を、ちゃっちゃと運んで気分のいい、そういう快活ですばやい奴になります」というのが、わたしの "仕事" ということになる、しぶしぶ業務をこなすのではないのだ、「これをちゃっちゃとやるのが、わたしの仕事なの」と、それは「わたしがすること」に切り替わる。

表面上は、同じ作業のように見えても、「業務」と「仕事」では、人間の使っているチャンネルが違う/「業務」というのは上から下に掛かってくる「力」のもので、「仕事」というのは下から上に向かう光・悟性のものだ。
最も簡単に言うと、「仕事」というのは、上役がいなくても成立するものだ/たとえば、すでに財を成した偉大な作曲家が、「なんとしてもこのオペラを完成させなくてはならない」とその作曲に打ち込むとき、上役は存在しえないので、彼にとって作曲は業務ではない、しかしそれは彼にとって「わたしのすること」なので、彼の「仕事」になる。
一方で、業務といえば、たとえまったく「わたしのすること」でなくても、上役から指示されれば、その務めを果たさねばならない、「特に意味はないけれど、この地域の竹林の写真を撮ってきて。うふっ」と言われても、それが業務だと言われれば力の関係として抵抗はできないのだ(職業倫理や労働組合、コンプライアンス等がより上位の力を持つ場合は除く)。
仮にAさんが、50人分の食事を30分で運搬するという、その勤務先を辞めたとする、それでAさんがもう、「ちゃっちゃと動いて気分のいい、快活ですばやい奴」でなくなるのならば、それはAさんの "仕事" ではなかったということになる、あくまで業務としてちゃっちゃと動いていたにすぎず、それは上から下への力、要するに給金で作られた力関係に従っていただけということになる(それが悪いわけではないが、それはあくまで「仕事」ではない)。

お医者様は、休日でもお医者様だ。

同じようなことはいくらでもある、たとえば武士道を往くサムライは、業務として武士道を往っているのではないし、ボブ・ディランは、業務中だけボブ・ディランなわけではない/しかし気品にあふれて見えるキャビン・アテンダントも、休日にはまったく気品にあふれていないかもしれないし、勢いがあるように見えるお笑い芸人も、楽屋ではちっとも元気がなく退屈な人かもしれない。
基本的に、業務から離れるとその命が消えるという場合は、その業務は仕事ではないのだ、あくまで業務中に掛かってくる「力」に従って、「こうしなさい」ということをやらされているだけで、「わたしがする」ということではない/われわれは、大半が何かしらの業務を課されて生きることになるが、その中で "仕事" を見つける人はごく一部だ、それは別段嘆かわしいことではなく、「わたしがすること」なんて一生見つからないのがごくフツーで当たり前のことだ、そこから「仕事」うんぬんというのは、あくまでわれわれ自身が一人一人でする「挑戦」ということになる。

正しく見ないとな | comments(0) |
ネット・カルマ・レバレッジ

態をついたり、人の陰口を言ったり、大切なものを罵ったり、揶揄・侮辱したり、曲学を嘯いて人に吹きこんだりすると、たいていロクなことにならない。
バレなきゃダイジョーブ、ということは確かにあるのだが、たとえ匿名であったり相手にバレなかったとしても、自分の口には悪口を言ったという履歴が残ってしまう、筋トレをした腕には熱と筋肉痛と筋力増加が残るように、悪口を言えばやっぱり口には何かが残るのだ、何かしら身が汚らしくなり、重くなる/この現象を古代の人々は業(カルマ)と呼んだ。
デカい「やらかし」をするほど、業(カルマ)もデカくなるのは当たり前だが、そこで現代、われわれの状況を考えねばならない、われわれは通信端末を手に入れ、Web上・SNS上にどんな軽口でも放りこめる環境を与えられている/われわれの「発信力」は格段に上昇し、どんな軽口も即座に・多数に・明瞭に、発信して伝達できるようになってしまった、このことがどうもわれわれの業(カルマ)状況にも影響を与えているようなのだ。
単純に言うと、われわれの口がやらかす、悪口や讒言、中傷や誹謗が、通信端末の発信力によってレバレッジされるという状況があるのだ、発信力の増大はナイスなのだが、そのぶん業(カルマ)の発生速度も激増しているじゃんという話/裏アカウントだしバレなきゃダイジョーブというのは、間違いないのだが、それで自分のやったことが消えるわけではない、自分のやったことはちゃんと自分の身に残っているもので、そんなものを若いうちに何十倍・何百倍・何千倍もレバレッジかけてダイジョーブなのかよという、これはリアルな話なのだった。

レバレッジというのはあれだ、検索してもらうのが一番だが、簡単に金融的に言うと、十万円の元手で二百万円の取引をするというような方法だ、実際にある金融商品で、ハイ・レバレッジをかけて取引をしているのは、ハイリスクハイリターンであり、多くの人は「やけくそ」「中毒」でやるようなことでもある/貧乏人が短期間に数億も稼ぎ、絶頂しているところ、翌日にはスッカラカンどころから借金まみれになって自殺するようなケースは、多くこのハイ・レバレッジが原因だ、負担できる範囲の何十倍もかけてギャンブルしているのだからどうしてもそうなる。
そして、業(カルマ)というのはアレだ、逆に考えるとわかりやすいが、誰だって人生を振り返って、「あのときわたしは、われながらまともな、徳のあることをしたんだよな」と確信できることがあると、そのことを支えに、自分を認めて生きていけるじゃないか、そのおかげで少しは身を軽くして生きてゆけるということ/じゃあやっぱり、逆もあるのだ、「あのときわたしは、とんでもないことをしたし、とんでもないことを言ったからな」ということを、人は自分で覚えているもので、これが償却されないかぎり、人は身軽には生きていけないのだ、前向きに生きて何かをよろこぼうと思っても、「でも……」とずっと足を引っ張られてしまう、それは徳行の反対なのだからしょうがない、<<業(カルマ)は、たとえ自覚がなくても、関係なしにきっちり「身」に積み重なるものだ>>、その点はいっそ摩訶不思議とさえ言いたくなるところがある、原因を自覚はできないのにこころの内の黒さだけが拡大していくというキョーフの状態が実際に起こる。
現代のネット環境・発信力倍増環境で、日々の気分のままに、悪態をつくようなツイートをすると、そのツイートを何百人もが目撃することになり、当人はそのことを意識せず、また記憶から次々失っていったとしても、「身」にはちゃんと残っているのだ、何百人もの手元に悪意の何かを届けたということが、業(カルマ)になって身に残っている/本人は、そこまでのことをしている自覚はないだけに、自分の身が重く・汚らしくなっていっても、「なぜ?」ということはまったくわからないのだ、こんなおそろしい状況があるだろうか。
冷静に考えて、たとえば自分が気分のままに思いついた悪態や悪口を、何百枚もの紙に書き、それを無作為に誰かの家にポスティングしていったとして、そんなことが業(カルマ)にならないわけがないじゃないか、フツーに考えて超絶コワイ行状だ/むろん憲法に言論の自由は保障されているし、本人はただ現代風に「ツイートしただけ」と思っているだろうが、それでまったく誰からも責められないにせよ、「身」に積もるカルマは、ちゃんと相場どおりに積もるのだ、カルマの発生源を身口意(しん・く・い)というが、これのレバレッジ装置をふんだんに活用して毎日を送るというのは、本当にダイジョーブなのか、ツイートしたりどこぞの掲示板やレビュー欄に書きこみしたりすると「スッキリする」のはわかるが、そんなに安易に「スッキリ」が手に入るということ自体はヤバくないのか、ふつう「一口でスッキリする薬品です」なんて警戒するだろ。

ハイ・レバレッジは、多くの人が「やけくそ」「中毒」でやるものだ。

ツイートや書き込みは、手軽に「スッキリ」を得られる方法かもしれないが、結果的にどうなったかというと、現代人は明らかにスッキリしていないわけで、疫学的にはむしろ逆、身がどんより重く、汚らしくなるということに、環境は作用しているはずだ、発信力倍増装置としてのインターネットは、当たり前だがわれわれに徳行を積ませるナイスアイテムには、主流としてはならなかった。
重要なことは、われわれはネット上に無数の「ひどい」ツイートや書き込みを目撃するのに、その「ひどい」ツイートや書き込みを、「わたしがやっています」とは誰も名乗らないことだ、だからどういう発信をした人がどういう身の様態になるかの、データが集まらない/もし身の様態とネット発信内容の相関を可視化できたら、若年層の多くは「ゲッ、これはやめよう」と思いとどまるのではなかろうか、もしリアルに声が汚く・暗くなるということなら、さすがにそれを引き替えにしてまでネット上に悪口なんかまき散らさないだろう(中年以降は、もうやけくそで引き返さないかもしれないが)。

視点変えてこ | comments(0) |
雑用4

用レベルで生きている人は、全身が低級霊の棲みかになる。
そうなってくると、次第に逆転現象が生じて、「雑用モノのほうが心地いい」「雑用モノのほうが身に馴染む」ということが起こってくる。
逆に、低級霊の棲みかになった全身に、高級霊のものを入れようとすると、全身が凍えたり、身体が動かなくなったり、嘔吐してしまうことがある/現象が逆転するのだ、十字架を見てグエッと苦しむ吸血鬼みたいに。
それだけで済めばまだいいのだが、次第に逆に、低級霊というより悪霊のレベルに達し、呪いも強い力を持ち始めると、この者は高級霊の宿っている物を「攻撃」するようになる、この攻撃は衝動さえ感じないまま突発的に出現し、対象を破壊(ないしは汚損)完了したときにも、まったくその行為に自覚がない、という場合が多い、この現象は実際のこととして大変危険だ。

僕は実際、あるレベルから、人にはっきりと、「人の大切なものに決して触れないほうがいい」と忠告することがある/ここまで言うのはもう、危機的状況が目前まで差し迫っている場合だ、なるべくそんな破滅的なことは言いつけたくないので。
人は、意識的に「大切なもの」を捉えることはできるのだが、その大切なものを、大切にできるかというと、そうはいかないのだ、身の内に低級霊が一切いないという人はほとんどない、そしてこの低級霊ないし悪霊が、高級霊(ないしは聖霊)の宿った対象を、暗殺者のように「攻撃」してしまうという現象がある、この現象は本当に自覚のないまま突然発現するので、よほど警戒してこの知識を持っていないと防げない/いわゆる「魔が差す」という現象だ、体内に棲みついた悪霊が、ここぞというときに突然出てきて「大切なもの」をズバッとやるのだ、まったく "狙いすました" かのように。
人は余裕のあるとき、そんなわけのわからない現象に巻き込まれずに済む、余裕のあるときは単に体力で作業をしているのであって、このときにトラブルは発生しない、問題は余裕のないときだ、全力を使い果たしてなお何かをせねばならないときや、体力やキャラでごまかしの利かないことに向き合った瞬間、あるいは本当に大切な何かが目の前にあるときなど、そういうときこそ注意せねばならない/また、何か良いことがあって、浮かれているときも注意だ、いわゆる「好事魔多し」ということが実際にある。
余裕のあるときは問題ない、問題は余裕のなくなるときだ、余裕のなくなるとき、「命がけ」が出現するとき……つまり「雑用」ではなくなるときだ、そのとき身の内からザワッと、まったく心当たりのない何かが飛び出してきそうになる/雑用レベルで作られたモノ、「雑用モノのほうが心地いい」「雑用モノのほうが身に馴染む」という人は、高級霊・聖霊・命がけで作られたモノに触れたとき、身の内からザワッと、まったく心当たりのない何かが飛び出してきそうになるので、そのことを避け、自然に雑用モノを自ら選ぶようになっているのだ。

ビビらずにできる仕事はない。

僕なんか、今からコンビニのレジ打ちの仕事をしろと言われても、ちゃんとできるかどうか、緊張感があってビビってしまうけどな/僕は第一にビビるのが正しいと思っている、そうして真に受けて、直面して、ビビりながら、その緊張感を正面突破していかないと、きっと自分はまともになれないと思うのだ、居直るのは人間の弱さであって強さではない。
僕のなつかしい経験を掘り起こすところ、初めて舞台に立つ一年生や、初めてセックスをする女性、初めて面接を受ける青年、みんなそのときには、どうしようもなく膝が震えていた、それはきっと正しいことだったのだと思う、「教えてくださいよ」という態度ではなく、身をもって自分でなんとかしようとしていた/今の若年層は、何事にも膝が震えるなんてことないだろうが、それは単に優秀になったということではないと思う、「教えてくださいよ」という言い方はまっとうに聞こえるが、きっと教えて済むことなんて雑用でしかないのだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
<< | 3/228PAGES | >>