☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
女性を侮辱してはならない

「女性を侮辱してはならない」と言うと、「そうだな」「そりゃそうだ」という感じが実にする。
一方、「男性を侮辱してはならない」と言うと、「草、なんで?」という感じがする。
なぜ、という理由は特になくて、ただの社会的な声だ、「女性を侮辱してはならない」というのは正で、「男性を侮辱してはならない」というのは草だ、本当にそういう感じがするのだからしょうがない。
「男性を侮辱してはならない」って、リアルに、ただのオモシロ冗談にしか聞こえないからな……ここに「社会的な声」の作用の強さを、われわれは見るのだった。

もし僕が、二十歳の女の子に、「まじウザイんですけど」と言い放ったら、僕はサイテー男になってしまう。
逆に、もし僕が、二十歳の女の子に「まじウザイんですけど」と言われたとしたら、それは僕がサイテー男だから、そのように言われているのだろう、根拠はないがそう感じる。
僕はなんとなく、それでいいんじゃないかなという気がしているのだが、本当にそれでいいのかどうかは知らない、まあ別にいいんじゃないか/というのは、もはやどうしたって、女性が男性を侮蔑的に見ないということは、すでに状況的に不可能だからだ、不可能なことをあれこれ考えていてもしょうがない、<<草が生えるのを止める方法はない>>。
別に女性を悪く言っているわけではないのだ、「男性を侮辱してはならない」と言うと、「草」という反応になるのは、僕自身だってそうなのだ、僕でさえ操作できないその反応を、若い女ごときの余人どもが操作できるとは思えない。

男性を侮辱しない方法が、女性にはわからないし、僕にもわからない。

「女性を侮辱してはならない」というのは、誰だってわかるのだ、誰だって「はい、そのとおりです」という感じがする、それに比べるとオメエ、「男性を侮辱してはならない」というと、誰だって「はい草、そのとおりです草」となるだろう、こんな草祭りを、たとえミラン・クンデラだって止めることはできない。
どうしよう、という発想はすでにないが、何が起こっているのか、ということには引き続き関心がある、きっと何か大きなことが進行しているのだろう、二十年前は「草不可避」なんて反応はなかったものな。

視点変えてこ | comments(0) |
作るよろこび
るよろこびだ。
用事を済ますことによろこびはない。
作るということは、それが存在を得るということ。
作ったものだけが残るのであり、用事を済ませたことは何も残らない。

目を覚ませ、目を覚まさないとカルマばっかり溜まってしまう。
作るからこそ、「やりましたねえ」ということになるのであって、用事を済ませただけ、あるいは楽しんだだけでは、何をしたことにもならない。
必要なのは、能力じゃない、逆だ、<<作るから能力が萌芽する>>のだ。
作るよろこびの素直さと、そうでない感情の邪魔さよ、あなたの作ったものをその手にぶらさげてみなさい、何も作っていなければその手にぶらさげることはできないから。

いかなる技術も、作るよろこびの家臣でしかない。

「これですね」と、作ったものを手に取ることだ、そのときだけわかることがある/僕がこうして書き話すことに何かの用事があるわけじゃない、まずは作るよろこびを王と認めよ。
作るよろこび……たとえば、ただ住めば家になると思うか、あるいは、ただ生きれば命になると思うか、ただ楽しめば世界になると思うか、そんなことはない、作ると作らざるとでは超えられない身分の差がある。
正しく見ないとな | comments(0) |
(元よりの世界)
いなる大地 遙かなる空 澄み渡る風 穏やかなる魔法の詠唱
元よりの世界が創世され 種々の幻想 元より一つならん
無尽の風 無数の光点 其にわれらの日常が解かれる
森林大湖の香気たゆたう 指先は元より魔法の生ぜむため

酒樽の幻想 幻想の酒気 酒場の熱気 今生の酒を解かむ
古の冷気 今生の秋を解かむ 秘境の晶水 今生の水を解かむ
今生の淀み 泥み 躊躇と迷いと血走りと 全て由あらず
迷いの書 迷徒より生ぜむ 彼のインキ 読まれたるも解かれざるなり

聖なるは彼の眼をつぶさむがためなり

其のインキ 迷いの眼をつぶしたもう 光にて 聖邪分断する
慈悲は無慈悲なり 彼の者の眼 光の命残すため 光にて砕かれり
正しく見ないとな | comments(0) |
すべてが始まる前の場所
こに立つしかない。
すべてが始まる前の場所。
まだ何もない場所、信じる者だけが立てる場所。
まだ誰も偉くない場所。

いつか話すときがくるだろう、「すべてのことは準備でしかなかった」。
「失敗なんてないんだよ、成功なんてないんだよ」。
じっくり見るべきものなんてない。
すべては確かなものであって、それが何であるのかを知る由は永遠にこない。

この場所に立つためにずっと来た。

ヘタもウマイも関係あるか、そりゃウマイに越したことはないけれど。
まだ何も否定できない場所だ、だから否定的なことが歌われる由はないじゃないか?
正しく見ないとな | comments(0) |
自信があるかないかについて2
はや、どうしたらいいのか……いっそ顰蹙(ひんしゅく)を買いながら進むしかないし、誰にも掴まれないまま進むしかない。
自信というのは、シェアの数ではないし、むしろ他人にシェア(共有)できるものなら、それは自分のものではないので自信にはならない。
状況は、もう承認欲求がどうこうというような、生ぬるい話ではなく、自信という機能の息の根が止められているので、多くの人が自分のネタの「共有」をしてくれることを、「生命線」にするしかないというような状況だ、もうムチャクチャであって、こんなことの解決法はない。
自信というのは何かといって、逆にいえば、「あなたには決して掴むことができないもの」だ、意地悪で言っているのではない、これで「なるほどな」とよろこばないようではあなたには自信を掴む可能性がない。

ここ数ヶ月でわかったことだが、あなたと僕とでは、とんでもないぶっとびの差があるのだ、顰蹙を買いながら進むしかないというのは先に申し上げたとおり。
あなたが掴む「自信」というのは、決して違うだろう、あなたは誇大妄想かシェア希望のどちらかしか掴めないはずだ、意地悪で言っているのではない、他人に自信の根拠を求めるというのは、自信の自給率をゼロにして他人に依存しているという状態だ、最大のヒントのためにこんな話し方をしている。
自信なんてものは、そんなやすやすと手に入らないのだ、ぶっとびの、かつ理知と冷静と愛を極めていないと手に入らないのだ、ヘタクソでもかまわないのだが、ぶっとびで理知的で冷静で愛に満ちていないと、自信なんて手に入るわけがない。
「こんなチンタラしている奴に、自信なんか手に入るわけがあるかよ」と、自分に堂々と言ってのける奴、それこそ自信に近い奴だ、そして「自信がどーこーとか言っていられる状況か?」という奴は、すでに速度として自信の次元に接近している、そのことを正しく見て、正しいと今思っているもののすべてを母親の足元に投げ捨てろ。

自信というのは、「すべてを忘れられる」ということだ。

逆に、すべてに引っかかっているようでは、自信なんか持てるわけがない、友人から「すげーな」と言ってもらい、そう言われたことが「ん?」と、すでに聞こえていないという状態が自信だ、あなたの辞書の中に「自信」はないのだが、それはあなたがいちいち辞書に頼っているからであって、辞書にないなら空中から掴めばいい、空中を信じられない奴が自信がどうこうと寝言をほざくべきじゃない。
もはや、どうしたらいいのか……という状況があって、解決法なんかないのだが、自信があるというのは少なくとも、「どうもせんでええわ」「解決法なんかいらんわ」と、それ以上の何かを空中から掴めている状態だ、周りにいる異性がことごとくメロメロになるなら「自信」を得ている状態だ、「それでいいし、そうでなくてもいい」というのが聞こえてくるぐらいでなければ、自信なんて上等なものは手に入らない、もしこれが異次元に聞こえるのであれば、直接異次元に手を伸ばして掴め。
できるオンナだね | comments(0) |
自信があるかないかについて
難はいろいろあるにせよ、何か楽しくなってきたな。
困難といっても、僕自身の困難ではないし、じゃあ他人の困難はどうかというと、原則として助け合うべきだ。
重要なことは、自信を持つことだ、そして自信を持つということは、自信なんか要らないということだ、なぜならもう持っているのだから。
この世でもっともアホらしいことは、他人と自信の共有をしたがることだろう、どうもそのあたり、面倒な奴が増えてきている、「自信」というパラメーターは他人にはいじりようがないものだし、外部に表示する必要もないものだ。

だから、自信をアピールする者は、自信のなさをアピールする者と同等に、意味がなくて愚かしい。
「共有」という概念ほど、近年でめんどうくさいものはない、僕が楽しくなってきたからといって、ヨソの誰かまで楽しくなったふりをする必要はない、あなたにそんな配当は与えられない。
楽しくなりたければ、独自で楽しくなればいいのであって、それをヨソの何かとの共有で楽しくなろうとしているから、自信がなくてブキミになるのだ、このごろはそういう共有ブッコ抜きマンが多い、あなたは何かこの世界のオカーチャンなのか、そんなアホみたいな話はあるまい。
そもそも共有なんてできないのだ、だからこそ共感の能力が必要になってくる/共有を妄想する人はいつも「アナタとアタシ」みたいなことを妄想していて吸血してくる、この人はけっきょく「アタシのこと」しかわかっていなくて、他人のすべてを共有する権利があると自認しているのだ、誰かの大切なことに共感する能力もないのにだよ、そりゃこんな奴がのさばっていたら誰も楽しくなれないだろう。

自信があるかないかは、永遠に自分だけが知っていればいい。

共有ブッコ抜きマンは、自信がないものだから、他人の自信を吸血しようと、やたらにしがみついてくるわけだ、こんなメチャクチャな話があるか/<<他人から自信を吸血している人は、他人も吸血を必要としていると思っているのだろう>>、自信吸血マンは、まさか自前の水脈から自信を得ている人が存在するなんて想像がつかないのだ。
自信があるかないかは、おれだけが知っていればいいのであって、ヨソの誰かが知る必要はないし、そもそも輸出入なんてできないものだ/他人から恵んでもらった自信で生きながらえようとする人は少なくないが、それは吸血行為である上に自殺行為だ。
できるオンナだね | comments(0) |
今夜も一人で生きつづける2
ンターネットやSNSは、人間の精神に、電子的な田舎村を作る。
田舎村、つまり、何かを共有していると思い込むのだ、だがわれわれは「本質」において、何かを共有するということ自体がない。
僕が聞いている雨音や、僕が見たガンガーの黎明が、どうやって「共有」されるのか、その共有を妄想することから、すべてのうっとうしさとつまらなさが始まっている。
本質的に「共有」などないのだ、この世界が歓喜なのか悲嘆なのか、そんなことは誰との共有もあてにできない、ただ自分のものだ。

今夜も一人で生きつづける、そもそも「生きる」というのは自分一人のことだ。
僕が誰かのことを愛したとして、他の誰かがその人のことを同様に愛するわけではなし、だから「共有」はないのだ、このありもしない共有への妄想を放棄しなくてはならない。
共有への妄想は、妄想の世界を創り出し、その中に妄想上の「わたし」を創る、つまり本質的に「わたし」でも何でもない習慣的な「わたし」を創り出すのだ、<<このエセの「わたし」は世界の何をも感じることができない>>。
この妄想の「わたし」を破棄したとき、人は何かを探す理由がまったくなくなる、いつもただ目の前のことを掴めばいいだけだからだ、そして目の前のことを掴むというのは自動的なことであって、本人がこれといって頑張るようなことではない。

正しい「わたし」は、「わたし」というよりは「一人」だ。

何しろ「一人称」というのだから、「一人」というほうがいい、一般的な「わたし」はすでに言葉として汚染されすぎているので、「一人」が一人称だと捉えたほうがいい。
僕の友人たちへ……人格が二つ存在するのだ、そして片側は、とんだエセ人格で、世渡りをする以外には何の使い道もない、それは本当には人格でも何でもない、誰かに向けて使うものでもない。
恋女のマインドね | comments(0) |
今夜も一人で生きつづける
っと昔からあるこの感覚。
何なんだろうな、"夜は僕のものだ"。
むろん、どこかで誰かが同じように生きているのだろう、だがそういうことじゃない、僕は今夜も一人で生きつづける。
孤独なわけではない、知人向けの何かを持たなくていい。

ずっと昔からあるこの感覚、この感覚は正しくて、ただそれが何なのか、もう何十年もかけて追求してきた、そしてこのごろは大いに真相に肉薄している。
「今夜も一人で生きつづける」、いい言葉だ、何かのためではない、何かのためなどということはこの世界に存在していない。
世界に吸い込まれていく、僕は小さなものだが、この小さなものは、僕にとって雄大な存在だ、何しろこの夜の持ち主だ、僕の夜は僕しか持っていない。
このシグナルは、何か正しいことに合致しているから、与えられている/他人の声を一切聞かないことだ、おれがおれの世界の主なのだから、そうでなきゃ友人に合わせる顔もない。

友人のいる世界に、今夜も一人で生きつづける。

それは他のすべての人にとっては間違いで、唯一僕にとってのみ正しいことになる、なぜなら他のすべての人は僕ではないからだ、当たり前だそんなことは、ただそれを持っている人と持っていない人がいるだけで。
われわれには相互に、共通しているところなどひとつもないのだ、だからこそコミュニケートが重要になる/ありもしない共通性に依存したとき、われわれはウソの世界を捏造しなくてはならなくなる。
恋女のマインドね | comments(0) |
何がどう"かわいい"のか

中に、いくらでも「かわいい」女の子がいるし、テレビや雑誌に出ている女の子なら言うに及ばず、そして男でも今は無数に「イケメン」と呼びうる人たちがいる。
が、ごくごく冷静に眺めてみれば、その「かわいい」女の子たちは、何かを愛しているわけではないし、何かに感動しているということでもないのだろう。
つまり、そこに「こころ」はまったくなくて、そのときごとの不安や感情に、ただ振り回されて生きている様子がある、何かを楽しいとかムカつくとか感じたりするが、何かを愛したり感動したりということはまったくないように見える。
コンテンツ的な「かわいい」女の子は、実にかわいらしい仕草をするが、けっきょくあれは、全部ただの「演出」だ、物憂げな表情で豊満なバストを持ち上げたりしているが、こころの中はマジで空っぽなのかもしれない、それは一般に「エロい」と言われたりもするが、僕はそうした蠱惑的な"肉塊"を抱くとどんな心地がするものか、すでに知っていて昂ぶりは起こらない。

ツイッター等を見ていると、たとえ有名人でも、またチヤホヤされる美人でも、「病む」ということがあって、死にたくなるようなことがあるのだというのがよくわかる、そういう報告をいくらでも見かける。
そして、「マジで死にたい」という感情が、いくらでも世間に見当たるのに対し、愛や光や、勇気や誠実さに向けて、「胸が張り裂けそうだ」「うずくまって、立ち上がることもできなかった」「震えて、震えて……」という歓喜と慚愧の入り交じった感情が起こってやまなかったという報告や現物は、まったく見当たらない/じゃあ、われわれが見ている「かわいい」って何だ?
そのときごと、パンケーキが流行ったり、キラキラのアニメが流行ったり、映画のテーマソングが流行ったり、イベントやインスタ映えが流行ったりしているが、その中で何かを愛して震えたのだろうか、いろんなジャンルにいろんなオタクがいるが、それらはけっきょくオタクであって、何かのテーマ世界が「自分をかけがえなく強くしてくれた」「自分に愛を教えてくれた」ということはあるのだろうか。
僕が何かを責めているわけじゃない、おそらく、もともと「責められている気がする」という、奥深くからの現象があるだけだ/僕はコンテンツ的な美女や美少女の画像を見ているといつも思う、「このコは何かを愛したことがあるのだろうか?」「このコは何かの光に歓喜して震えたことがあるのだろうか?」「もしそれがないのだとしたら、何がどう"かわいい"のか?」。

夕焼けはきれいだ、あなたのこころは震えないのか。

何かを責めているわけじゃない、むしろ逆だ、そこにこころが震えて歓喜するということが起こらないなら、無理に夕焼けを「きれい」なんて思わなくていい、こころが歓喜に震えないということは、つまり「しょうもない」ということだろう、そうしてすべては「しょうもない」としか感じられていないのに、無理に感動したふりなんかしなくていい。
インスタ映えの写真はカラフルできれいだ、そしてコンテンツ的な美女は蠱惑的かもしれない、だがそこにこころが震える歓喜を得ることはできない、何しろ当人がそこに震えるこころを持っていないのだから/今、人々は何を見て「かわいい」と言っているのか? 誰もが一種、すでにヤケクソで生きているようなところがある。

正しく見ないとな | comments(0) |
生きものが持つ、「殺し合いを為す」という仕組み
ポーツ格闘技を見ていて、いつも思うことがある。
いつも、見ているとなぜか、勝ったとか負けたとかではなく、「きっちり殺すところまでやらなきゃだめだ」と思う。
殺すというのは、比喩ではなくて、実際的な殺害だ、殺害するしか戦いを終わらせる方法がないので、殺すしかない。
きっちり殺しておかないと、また力を蓄えて報復にやってくるので、殺すしかないのだ、スポーツのルールがどうこうというのは、あくまでかりそめのことでしかない。

生きものが生きものを殺すのは、ご存じのとおり、そんなに悪いことではない。
生きものは、食べるためには殺さねばならないし、戦争になれば、相手を殺すことはまったく悪いことではなくなる。
生きものの仕組みとして、だめなのだ、生きものの仕組みとして、自分を殺しにきたものは、逆に殺し返すしかないので――つまり「殺し合いを為す」という生きものの仕組みがあるので――格闘技なんかするなら、そのたび相手をきっちり殺害しなくてはならない/そうして、前もって互いが殺害しあうことに合意するなら、そのことに問題はないと思う。
むろん、殺すとか殺されるとかいうのは、生きものとして最もイヤなことなので、最もイヤなことだけを己の生にすることになるが、なぜか一部の人は、この「最もイヤなこと」にしか納得しないという性向を持っている、そのリアリティにしか感受性がないという人がいるのだ。

われら人類は、そんなに賢くない。

「殺し合いを為す」という仕組みが、生きものにはあって、ふと気がつくと、立派なことをしているようでいながら、けっきょくはその「殺し合いを為す」という仕組みに恭順して、支配されて生きているだけ、ということがよくある/それならいっそ、初めからその人たちだけで、堂々と殺し合いに同意するほうがいい、今日殺して明日殺される、そうすれば少なくともごたいそうな欺瞞はなくなる(ただし、ヨソでやってくれ)。
「殺し合いを為す」という仕組みが、"生きもの"にはあって、われわれが光や愛の命を失えば、われわれは"生きもの"の仕組みしか持たなくなるのだ/われわれはそんなに賢くなく、目の前に示されているものが何であるのかをよくわかっていない、目の前にただの「殺し合い」を見せられても、よくわからずにそれを見せられたまま眺めている。
正しく見ないとな | comments(0) |
面白いこと
がびゅうびゅう鳴って落ち着かない、ひどいオクターブで窓が鳴っている。
木曜日に、世田谷公園で、入り身投げ(笑)の特別指導をすることになった、例によってキョーミある人は見学にカモン、まあこの日は合気道姉さんにその指導をするだけなので、他の人はほとんどそれを見ているだけになるが……
人間には「注目する」というしょーもない悪癖がある。
注目するということは、何かを見るために注目するのではなく、何かを見えなくするため、目を伏せるため、注目するのだ、面白くない奴は注目しがちとテキトーに言いつけておいてもかまわないだろう。

「面白いこと」ね……
必要な手続きは、注目しがちな人たちの、すべての期待を無視することだ。
人は、よほど頭がよくないと、自分がなぜ生きているのかわけがわからないので、「注目」することによって、さも自分は何かをわかっているのだというような錯覚に耽りたがる。
「打ち込んできた奴を、どうさばくか」とかね、それに注目していると、さも何かをしているふうだ、だが冷静に考えれば、打ち込んできた奴をさばいたところで人が幸福になったりするわけがない、そんな注目はアホの所業だ。

「面白いこと」は、せいぜい、「何もかもが、何もかもだった」ぐらいにしか言い換えられない。

打ち込んできた奴に、注目するなんてアホの極みだ、打ち込んできた奴を、食らっても幸福にはならないし、さばいても幸福にはならない、僕は打ち込んでくる奴を目前にしたとき、それとはまったく別のガールフレンドのことを考えている、それぐらいしか考えることがない。
ガールフレンドが、ガールフレンドのままいてくれるということは、かなりすてきなことであって、ガールフレンドでなくなるということは、たいていロクでもないことだ、この世界のすべてはすべて最愛のもののままあってほしい、面白いことといって何かに注目したことは僕はない。
正しく見ないとな | comments(0) |
WS報告011(5)/やっていないのに得られること
「先生のお力なのか、ワークショップに行くと、なぁんか愛に包まれるんですよね(←不思議がっている)」(ガイル青年)、「自分が大きな仕組みの中にいるということを知って、吾我が勝手に小さくなって、それがもう何かものすごいよろこびなんですよ〜(←このあといくらでも言いたい様子)」(たこやき姉さん)、「そうなんすよ、何か若返ったんすよ(←なんか楽しそう)」(ニンジャ青年)、という感じ/つまり、具体的なワークと、一見まったく関係ないようなところに効果が現れてくる。
「今回は、最初から最後まで、デザインされていたというか、この結論に行き着くためにこの一晩がすべて計算されていたというか……」「そりゃお前らが、『全体』を通して見られるようになったというだけで、元からそうだよ、第一回から今回に至るまでずーっと、すべてのことは綿密な計算の上だ、お前らがそういうことをまーったくわからんかっただけだ」「す、すいません笑」。
そういえば、金曜日のワークで、二年前にやっていた「跳ね釣り」をやってみた、すると僕のそれは以前とはまったく異なる次元にレベルアップしていたし、二年前は「わけがわからん」という状態だった人が、「言われたとおりにやってみる」ということを獲得していて、今になって少し指導を受けてみたら、それなりにスッとできるようになった、それを通して「改めて、積み重ねるということの意味を発見しなおしました」と、ニンジャ青年あたりがまたよろこんでいた。
僕にとっては当たり前のことでも、わざわざ言っておかなければ、他の人はまったくわかっていないということがよくある、それであえてわざとらしく言うが、ワークAを積み重ねたとして、得られる効果はAだけではない、アルファベットのAからZまでを獲得するということは、英語でスペリングされるすべての言葉がわかるようになるということだ、アルファベットだけを覚えるだけじゃ値打ちなんかあるわけないだろ? そんなこともいちいち言っていくべきなんだろうな/「なぜかは知りませんけれど、確実に、お通じはめっちゃよくなりました」というような報告もある。

当ワークショップで副次的に得られる、つまり「やっていないのに得られること」は、代表的に「若返る」「毎朝起きるのが異様に楽しくなった」「景色が輝いて見えるようになった」「イライラしなくなった」「大きな仕組みが見えるようになってきた」「食事がめっちゃおいしくなりました」「自分だけでなく、人々がいる、ということがわかるようになった」「自分で出来ないにしても、愛とかフィクションとかがはっきりわかるようになった」「生きていて、自分の『やること』がはっきり『ある』という状態になった」等だ、そしてその副次的なものが得られない人は、手前で通称「パン祭り」にうずくまることになる、そりゃしゃーない。
身をもって、「学門」をしているわけだからね、この学門に入れないと、代わりに獄門(パン祭り)に下されるというナイスな冗談つきだが、まあそれはそういうものだ、身をもって学門を修めていけば、そりゃあ世界は広がるし、カッカしなくなるし、何より若返ることになる、学門を捨てた人間の老け込む勢いというのはすさまじいものだ、しかもほとんどの場合戻ってはこられなくなる。
啓蒙、「蒙を啓く」ということは、当然だがマジであるわけだ、たとえば今回、ガイル青年や色鉛筆ちゃんを跳ね釣りで飛ばしてみたのだが、両者とも初めてそれを体験すると「うおっ!!?」「わあっ!!?」とまったく驚いてすっ飛んでいった、つまり人間の身体からそんな力が出るというのがまったくの想定外ということだ/「な、なんですかこれ!!」となるのだが、そりゃキミが知らんかっただけで、もともと身体を正しく使えばそれぐらいの力は出るものだ、そうして致命的に「知らんかった」ということがいくらでもあるということ、そのことを冷静に「無知蒙昧」というだけだ。
「ワークショップの後、クタクタになって、寝て起きると、そのときの自分が昨日とはまったく違う世界にいるのがわかる、教えていただいた新しい世界の中に自分がいる」という人もいる、そりゃそーだ、これまで閉じていた蒙が啓かれたのだから、アタリマエに本来の世界が見えているわけだ/いっそ「九折大学」に入れたらいいのにな、なんて話を帰り道にした、「そしたら四年間、みっちり、毎日がこんな感じだぜ」と、そういうことはたとえ空想でもウオオオと楽しいものなのだった。

学門をやるのは学者だから、学生気分で学門はやれない。

「過去の数年間で、なんて誤ったものを身につけてきてしまったのか」「いや、そういうことじゃない、過去の数年間で、『これは違う』ということを確かめてきたんだ、だから今ここにいるんだよ、その数年間がなきゃ今ここに来ていないんだから。むしろ、わずか数年間で、『これは違う』ということを見切れたのだから、そのときみっちりやった甲斐があったと捉えるべきだ」。
「以前、野球選手のイチローが言っていたよ、彼もかつてウェイトトレーニングに重きをおき、数年間やってみたのだけれど、研究の結果、スイングスピードが落ちるということがわかって、ウェイトトレーニングを放棄した、でもそれは、『自分でやってみて、自分で見切れたからあきらめられたのであって、自分でやらないうちに、あきらめることはできないでしょうね』ってさ、つまり一定量自分で誤りに飛び込んでみて、それが誤りだと確信する過程も必要なんだよ、それも学門の道なんだ、だからそういう、"我流で死にました"というような学生時代を過ごしてきたことは、今になって偉大なことだったと認めるべきなんだ、今われわれはその土台の上に立っているのだから」。
そのほか | comments(0) |
WS報告011(4)/オモシロ入り身投げ(笑)
加者の中に、合気道の経験者、というか現役の女性がいる、それもけっこう、骨太にやってきた人だ。
朝五時にワークショップが終わって、まだスタジオのレンタル時間が残っていたので、一度正式に彼女のワザを受けてみた、僕自身「何回か受けてみねーとわかんねーわ」と感じるので。
そうすると、まあ、僕が体さばきが速すぎて――つまり彼女が僕を振り回すより振り回される僕の体さばきのほうが速いので――わざとらしく僕がモタモタしないと型が成立しないのだが、いちおう型どおりに受けてみると、「なるほど、暴力的なものがあるな」と感じた、「こんなワザ掛け合っていたらお互いに仲悪くならない?」「そりゃなりますよ、険悪というか」/彼女はとても躊躇してワザをかけており、つまり彼女はその暴力的な自分のワザがキライなのだった、「本当の合気道のワザに到達したい」と彼女は切実に望んでいる。
僕は合気道なんか習ったこともないし、いわば彼女から受けたワザが「初体験」ということになるが、よく知らないまま当たり前のことが言いたい/いかなる理由があれ、大切な「人の身体」を投げ飛ばしていいわけがないし、締め上げたりしていい理由はない、公式のルールだろうがリングだろうが道場だろうがダメだ、ダメに決まっている、冷静に問いたいが「人の身体を何だと思っているんだ?」、大切な人の身体をブン投げて締め上げて「道!」などと言える道理はどこにもない。

そこで改めて、僕自身が独自に開発している、オモシロアイキ道、そのワザのひとつである「入り身投げ(笑)/イリミナゲカッコワライ」を彼女に披露してみた、するとこのワザは、彼女にとって実に感動的だったようだ/まあ独自のオモシロアイキ道だから、マジメな人たちに怒られる心配もないだろう、前もってそれはオモシロであると申し述べておきたい。
相手が打ち込んできたとき、こちらは身体をさばかねばならないが、僕自身、入念に調べてみてわかったこととして、僕はなんと、"相手の打ち込みの力を使って自分の身体をさばいている"ということがわかった、なんて厚かましい奴だ、「向かってきた相手の火力で自分のチャーハンを炒めているんだな、こりゃ厚かましいわ」というぐらいわかった。
そして、彼女との組み合いで研究を進めていくと、どうも僕自身呆れるぐらいに、この「相手の打ち込みの力で自分の身体をさばく」というのが、僕はとてつもなく上手いらしい、「こんなん、九折さん何もしてませんやん」「せやな、こんなもん、おれはこいつに抱きついているだけやで」と、しかも打ち込んできた奴に「ホラもっといけるやろ」と励まして、それで元気が出たところをさらに利用しているという厚かましさが判明した/僕は身体をさばいたあと、フラつくのがイヤなので、「どこか掴まれるところはないかな」と、目の前の彼女に掴まっているだけだ、その結果、彼女が走り回って僕を支えてくれているのであり、彼女は僕の代わりに振り回されてくれているだけだ。
僕は武術や武道に興味はないし、もし僕のやっているオモシロ(略)を見せたら、こんなもん武術でも武道でもないと、マジメな人は怒るだろう、そのとおり僕は武術にも武道にも興味はない、僕が興味を持つのはオモシロだ、真に愉快痛快なものだけだ、そしてさしあたり合気道を求めている彼女は、僕のそれを真に愉快痛快なものと認めてくれたのだった、「この入り身投げならやりたい、できるようになりたい」と/まあこれはこれで、できるようになろうとすると激ムズではあるのだけれども。

入り身投げ(笑)が炸裂すると、人々は大爆笑に包まれる。

マジにそうなのだからしょうがない、なぜか打ち込んだ奴がぐるぐる回って、最終的には静かに床に寝かせられて「お疲れ様です(笑)」となる/いっそカッコワライを逆転して、「笑(入り身投げ)」と表記したほうがいいかもしれない、カッコの中はあくまで予備的なモンだからな。
大真面目な話、僕は彼女に、「いっそ抱きつく練習をしたほうがいい、そのほうが早い。今のあなたは、たぶん抱きつくときにも躊躇してしまうでしょう」と指導している、実際オモシロ入り身投げ(笑)は、打ち込んできた奴にこっそりへばりついて抱きついているだけだ、そしたらその後何か知らんがそいつが勢い余ってぐるぐる回るだけだ、大切な人の身体がぐるぐる回っている……モーメントが輸出されただけで僕は何もしていない/さてこんなアホな指導が続いているわけだが、どうぞ彼女が望むなら、そのオモシロワザが彼女のものに、身につきますように、われわれもそうでない人もそのことを一様に願っているのだった。
そのほか | comments(0) |
WS報告011(3)/「誠心誠意」への脚光と眼差し
ィクションとは関係ない、「わたし」というノンフィクションの使い方、「誠心誠意」の正しいやり方を教えた、このことは大きなよろこびと共に受け入れられた様子だった。
胴体をまっすぐにして、相手にまっすぐ向けて、まっすぐにつなぎ、まっすぐ頭を下げるだけだが、ちょいとしたコツがあり、途中で胸が下がってはいけないのだ、胸が下がると相手との接続が切れてしまう/これを正しくやると「眼差し」が発生する、実は「眼差し」が発生するには科学的に"正しい要件"があるのだった。
多くの人には、とんでもない誤解があったらしい、そうして「誠心誠意」で頭を下げると、人に「触(ふ)れる」という現象があるのを、みんな知らなかったのだ。
「優劣とか優越感のものかと思っていた」「頭を下げてりゃいいんでしょと思っていた」とか、聞いてみりゃ話はめちゃくちゃだ、「頭を下げると(頭が下がると)コミュニケーションになるんだ」と、そのこと自体が大きな発見だった様子だ。

「なぜかはわからないけれど、この動作を何千回でもやりたい」「この動作そのものに、自分の全身が飢えている」と、多くの人が言っている。
僕は、「へえ、そういうものか」と驚かされたのだが、最近はこうしたときつくづく、「教わっていないというのは恐ろしいことだな」と思うようになった/僕もわざわざ誰かに教わったわけではないが、すべてはどこかで教わってきたことなのだろう。
多くの人は、「頭を下げる」というのが、イヌがよくする「服従のポーズ」と同じようなものだと感じていたらしい、んなアホな……と、もう笑ってはいられないのだ、"教わっていないというのは恐ろしいこと"なのだ、今はたして何%の人が確実に「誠心誠意、頭の下げ方を知っている」と断言できるのだろう。
ふとしたワークの合間に、誰も彼も、まっすぐに頭を下げる練習をしている、どうやら本当に全身がその動作に飢えているらしい、「こころに使い道があった!!」「キモチはこころではなかったんだ!!」と、あえて言えば今ちょっとしたブームだ/「眼差し」を持つようになって、それはつまり、自分を見たときに「ダメな人の目」を認めなくて済むようになったということだ。

僕が正しく「誠心誠意」を向けるという実験をすると、歩いていたプレイヤーは「うおっ!」と立ち止まった。

それぐらい、はっきりとした、正しいやり方と、正しい作用がある、こんなもん正しく教わらないでは、ただの損というか、ヤケクソで生きることにしかならない/このごろこうして色んなワークについて、「いちかばちかでやらなくていいんだ」「そりゃそーだよ、正しくやりゃ正しく成立するように初めから教えとるわい」という、実りの段階が生じている。
「誠心誠意」の"具体的"なやり方を、どこかで誰かに教わっておくべきだ、それが"クソみたいな平伏"ではなく、「コミュニケーションであり、"出会い"なんだ」とわかったとき、内心の奥でガマンしながら頭を下げていたという、"我慢"の悪魔が衰退していくだろう、この「誠心誠意」以外にはおそらく、空気がパンパンに詰まった「吾我」を縮小する方法はない。
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WS報告011(2)/フィクションは量子的
子テレポーテーションという、ヤバい現象がある、これは物理的な事実なのでしょうがない、どうヤバイかは物理に詳しい奴に訊いてくれ。
量子テレポーテーションは、つまり「観測、するとね……」ということなのだが、観測すると「性質」がテレポーテーションしてくるのだ、何を言っているんだコイツはという話だが、マジなのだからしょうがない/「んなワケあるか」と、かつては物理学者の大半も思ったのだ。
まあ、その量子テレポーテーションに、まさか関係あるまいということにしておいて、あくまで量子テレポーテーションに"なぞらえる"ということにしておくが、フィクションという現象はそのテレポーテーション現象を持つ量子「みたいに」仮想して捉えるとうまくいくのだ、それはもう見違えるようにうまくいくから、このナイスな方法を採らないテはない。
フィクションのコツは、第一に「観測不能」の状態を創り出すことにある、まあ初学者向けのテクニックだったとしてもだ/観測不能ということは、つまりシュレーディンガーの猫というやつだ、それ以前に二重スリット問題もそれだが、これは僕がヤバイのではなく物理がヤバイのであるから、僕に向けて「何コイツ」とは思わないようにヨロシク。

全員に「観測不能」の状態を創ってから、その後、ブラインドを開帳し、観測可能になった瞬間、つまり「初観測」を、Yesの状態で観測する、それによって性質がテレポーテーションしてくる、ように見える、まるで本当に「そのまんまですね」というように見える。
別にコジツケでもいいのだ、方法としてドンピシャを射貫いていればそれだけでいい、ただでさえ霊魂だの気魄だの言っているのだから、結果的にナイスになればいい、われわれの取り組みは「まともにジョークもユーモアも言えんのかキサマら」という、まともさへの取り組みだ。
初学者は、何かしらの物体をモチーフに、フィクションを構築して、ひとまずそれにブラインドをし、見た目に「観測不能」にする、という方法をやる、すると誰でもそれなりにフィクションの現象がプレイできるようになる、ただしこれはあくまで初学者のレベルだ。
このわかりやすい方法を敷衍するに、つまり僕は、ありとあらゆる「言葉」を、実は「観測していない」という状態で取り扱っていて、言葉が出現してから「後に」、言葉をYes観測しているということになる/ということは僕は、どれだけのアホウなのか、言葉に対して観測する・しないを、自己管理で操作できるのだ、そしてなぜそんなことができるかというと、「言葉の意味とか、観測するの面倒くさいから」という、えげつない退廃が理由なのだ、われながら……薄々わかっていたことではあるが、コイツは本当にどこかがメチャクチャな奴だ。

「空(くう)」というのは、つまり「観測しない」ということだ。

意外に思われることだが、言葉というのは、「わたし」の中に<<入ってはいけない>>のだ、言葉は実は人の発明品ではないので、人の体内に入ると毒になってしまう/言葉そのものは実体ではなく「空」なので、実は言葉というのは、真正面から「空回り」するほうが正しい、言葉が空なのだから空回りが正しい使い方なのだ。
「空」をYesで捉えると、「空」はすなわち「何でもアリ」になる、対して「空」を「No」で捉えると、「空」はすなわち「無」(何もない)になる、この「何でもアリ」「何もナシ」の結果は両極端であって、まるで何かの行き着く先の両極を表しているかのようだ/「何でもアリ」によって、性質をテレポーテーション(のごとくに見えるもの)で引っ張ってくるものは、原理的に「産霊(むすひ)」と呼びうる、「世界」をテレポーテーションで引っ張ってきたらそりゃあ産霊だろう。
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WS報告011(1)/「誠心誠意」のピンチ
眠時間が欲しいので駆け足で書くことになる、ご容赦願いたい。
今回、よく話す――「言葉」で――という、よい機会と状況を得たのだが、意外にみんな、このいかれぽんちなワークショップを、こころの底かワクワク楽しみにしているらしい、「毎回スゲー発見があって」「次々に新しいことを知って」と。
そういうことなら、もうちょっと普段からそのようにアピールするように、と思うが、まあしゃーない、とにかくみんな実は超楽しいようなので何よりだった。
パン祭りがあったり愛があったり、通りすがりの人がものすごく頭を下げていったり、もうそういうのにも慣れてきたが、とにかくとてもいいことをしている可能性があるので、このままコソコソといいところまで行ってやろうと思うのだった。

一方で、ノンフィクションの話、具体的に「こころの象(かたち)」として、「誠心誠意」とでも名付けるべきワークをやってみたのだが、とたんにボロが出た、まあ実力というのはそーいうもんである、「こころが真っ直ぐじゃない」「大人なのに頭も下げられんてなんやこれ〜うおお〜」と。
「全身全霊」というのは、フィクションへの取り組みだが、「誠心誠意」というのは、ノンフィクションの取り組みだ、胴体に流れているものの象(かたち)がそのまま「こころ」ということになるのだが、精密にやってみると、多くの人が身体をねじったり腰を引いたりして、「まっすぐ頭を下げないよう、躱している」ということがわかった、まあそれはそんなもんだな/その点、こころがまっすぐな人は、それだけで「こころまっすぐ先生」だ、それだけでそーとースバラシイ。
頭を下げる、といって、キモチが強い人、またキモチが善意の人は、自分をしょぼんと貶めて身体が屈する形になるのだが、これは「キモチの表出」であって「こころが届く」という現象とはまったく異なる、これができないのは当人も認めるところの「ピンチ」だ/ウーンこのことは、できないならできないで、どう「できない状態」なのかを、バッチリ知る必要がある、正直もうヘコんでいる時間が惜しい、ヘコむのは七分間ぐらいでいいだろう。
「おれは以前、日本料理の、ハイレベルな店に行ったんだけどね、そこで料理長とお弟子さん一同、揃って頭を下げられたことがあるよ、そのときの低頭のクオリティは空前絶後のものだった、こんなすさまじい低頭があるのかって驚いたね、『頭を下げる』と一言でいったって、そのクオリティにはそれぞれ雲泥の差があるよ、カンタンにできるなんて思わないほうがいい、本当の低頭なんて超一流の人間にしかできないもんだ、それで正当だしそれでいいじゃないか」

「頭を下げるとき、自分の中で『我慢』が騒いでいるのわかる?」

「これが我慢の実物だよ、本人に自覚があろうがなかろうが、こうしていつも互いに世話になっている仲間に対しても、頭を下げるとなったら『気に入らん』ということがあるんだ、気に入らんということに理由なんかないんだよ、ただ我慢という現象が実際にある、これは感情ではなく学門として捉えられないといけない、いわゆる善人には善意とキモチは強くあるのだけれど、『誠心誠意』はなくて、その背後に我慢があるんだよ」「あああ〜こころあたりある〜ガマンで生きてきましたあああ〜」
「こんなもん、いちいちヘコんでいるヒマはない、というかこんなもん、ちょっとでも深くつっこんでやると、誰だってそういうものなんだよ、よもや日常でこんなところまでつっこんでやらないから、ごまかされているだけだ、それでいつかの大事なシーンで、どえらいボロが出てしまうんだよ、じゃあこんなもんわれわれが長袖を着るころには解決してしまえばいいじゃねーか」
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特権をやりたきゃ勝手にどうぞ
は、放っておくと醜いものであり、また別のときは、うつくしいものでもある。
それは、ごく単純にいうと、エネルギーのない奴は醜いのであり、正確にいうと、エネルギー源とつながっている者はうつくしいのだ。
別の言い方をすれば、消費する者は醜いのであり、産み出す者はうつくしいのだ、この産み出す能力を「産霊(むすひ)」と神道では言うらしいが、産霊のエネルギーから断たれてあるものは、醜いので、やたら自分を飾らねばならなくなる、髪型青年やシャツ青年や顔の角度青年が跳梁跋扈するのはそのためだ/醜いということを糊塗しているのだ、それはまあそういうものだろう。
我慢(吾我驕慢)するとサイアクの結果になるのだし、じゃあ自分を解放せねばならないが、解放といっても醜かったら話にならない、醜いものを解放したところでワイドショーの最悪ニュースにしかならない、解放というのはうつくしい者の特権だ。

だからこそ色んなことの「解放運動」のようなものは、その現場においては息苦しい、何か醜いものの気配が立ちこめるのだ、まあそのことも、それはそんなものだろうとさっさと決着させるしかない。
正しい解放が知られねばならないが、このことは犠牲者を要するだろう、<<解放は悪である>>ということをまず知って、なぜか光が伴うという者にだけその解放の特権が与えられる。
なぜその特権が与えられるかというと、産み出しているからだ、世界や愛そのものを/産霊なのだ、産霊によって永遠の命(時間軸に無関係な命)が与えられるから、そのために犠牲者が出ても、別に何のことはないだろうということだ、誰も永遠の命があるのならわれわれは犠牲死うんぬんで揉めない、犠牲フライを打ってフィールドを呪う野球選手はいない、点を獲ることが永遠の命なのだから自分の犠打はかまわんじゃないか。
まあとにかく、産霊ということの実際は、想像を絶しているので、解放というのも想像を絶している、すさまじく産み出されるというか……そもそも産み出される前は何もないということ、「無」だということ、このことを知らねばならないが、そんなことを教えてくれる人はまずいないし、どうやって知るという方法もないのだった、じゃあけっきょく何かの幸運に恵まれるしかないのかもしれないな。

産霊(むすひ)をやりたきゃ勝手にどうぞ、それは自動的に特権です。

いやあ、世界はやはり光り輝いているなあ……ただしそれは、世界があればの話であって、一般的に眺められている生活空間は世界でも何でもない、「無」だ、「空」でさえない、世界がないところを眺めて「光り輝いているなあ」と真似事をしてもアホみたいなのでしないほうがいい、こと産霊ということになったら、多くの人が実は自分には友人などいないということにハッと気づく。
産霊が起こるまで世界などないので、産霊に出会わなければ女は女ではないし、キャラクターもキャラクターじゃない、自前のキャラクターや女を用意している人は産霊の門をくぐれないだろう、まったく一般に思われているものと違うのだ、特権だと言っているのだから特権なのであって、産霊に出会ってから始まるのであって、始まってから産霊に出会うのではない、だから自前で始めてしまった人は産霊に出会えない、自前の持ち込み物が検査機ゲートに引っかかって弾き出されるだろう。
恋女のマインドね | comments(0) |
完成に向かうことがない人

チンコ屋でオバサンが、「えいクソッ」とパチンコ台をどついていたとする。
これは、オバサンによって、「よしパチンコ台をどつくべきであろう」と判断された結果、パチンコ台がどつかれたのではない、単に感情的になっただけだ、体内にそういう興奮物質が駆け巡ったので、オバサンはパチンコ台をどついた。
「勉強しなきゃ」「あの人が好き」「○○へ行きたい」「ああいう服が着たい」、人によっては、自分の挙動や思念の何もかもが、単に体内を駆け巡る興奮物質によって活性化され、決定されている、メラメラしたりウルウルしたりワーッとなったりするので、僕は「メラウルワー物質」と呼んでいるが……
人間の体内のことなので、興奮物質を常時注入していれば、次第にボロボロになっていくのだ、そうして内部がメラウルワー荒廃すると、もう理性は残されてゆかない、すさまじい虚脱に陥るか、そうでなければさらなる興奮物質をオーバードースしていくしかないのだ。

麻薬でボロボロになった身体が、その後なめらかにすばやく動くということはまずない、われわれは引退した元プロ野球選手をテレビで見て、「テキパキしていてすばやいな」という印象は受けない、つまりジャッキーチェンのようではない/元プロ野球選手ということは、かつては最高峰クラスの身体能力を誇っていたはずだが、なぜかそのことはその後に「身体のすぐれたおじさん」を残さない、動かなくなるのだ、筋肉と興奮物質のエキサイトで振り回した身体は、そのときだけ表面上は意気軒昂にしてくれるが、内部的にはズタズタになっている。
麻薬でズタボロになった身体は、ひどい虚脱で、ダルく、苦しい、とても耐えられない、だからご存じのように、一度そうして麻薬漬けで暴れた者は、その後もずっと「麻薬をくれ、麻薬をくれ」と言い続けることになる/パチンコ屋のオバサンは、<<台をどつくぐらいならパチンコ屋に来なければいいのだが>>、そうはいかない、パチンコ屋と現金ギャンブルの興奮を、体内に注入しないでは、もう朝から晩までがダルくてしょうがないのだ、<<パチンコにハマっているのではなく、虚脱症状に耐えられないだけだ>>、そのダルさと苦しさは、あるところから人の意志や理性を吹き飛ばし抵抗を不可能にする。
最大の問題は何だろうか? それは、当該のオバサンが、自分を信じ、他の誰かのことをけっきょく信じていないということだ/オバサンはけっきょく、<<自分にこそ光があるという誘惑を断ち切れなかった>>、だからこれまでに差し伸べられた手に、本当に頭を下げるということができず、自分の洞窟の最奥では、……自分のカルマこそ光では? という信仰をこっそりやってきた、この先オバサンは、なおも自分が正しいと信じ続けるのだ、この吾我驕慢を字義のとおり「我慢」という。
「自分にこそ光がある」、メラウルワー麻薬を体内に流した者は、誰でもこのことの「確信」を得るものだ、「自分にこそ光がある」、そうすると自分は無敵のように感じる、そうすると他の誰かが<<完成に向かおうとしている>>ということが見えなくなり、そのことに否定的になり、当人は何の完成にも向かわなくなり、そのことに自覚もなくなる。

何かを完成させるのは、すさまじくダルいものだ。

このダルさを突破して、一定の完成を得てきた人と、そういった完成は一度も得ていない人とのあいだには、おびただしい格差がある/完成に向かってゆく人は、ひとつひとつのことに「気が遠くなるわ」と感じながら、なおもそのすさまじいダルさを独りで踏破してゆく、一方で完成に向かうことがない人は、漠然と自分は「無敵だ」と感じていて、自己陶酔が好調だが、けっきょくはわずかなダルさでも目前に現れると、多量のメラウルワーを注入してしか取り組めない。
「完成に向かう」ということは、すさまじくダルいのであって、そのダルさを知らない者は、何歳になっても何も知らないということになるだろう/そして、「完成に向かう」ということがない人は、必ず別の方へ向かっているはずで、別の方向といえば完成の反対、何かをメチャクチャにするという方へ向かっているはずだ、こうして人は無条件に「他人の完成を妨害する生きもの」に勝手になってゆく。

視点変えてこ | comments(0) |
「信じる人」を得る方法2

「信じる」というと、まるで「アアッ、神よ!」みたいな感じに、感情的に拝み倒すものだと思われている、だがこれはすでに気配からしてアホの感じがする。
そうではなく、「信じる」というのは、「信じる人」という分類を認めるということであり、それは「迷わす人」という分類を認めることに支えられている、あなたは「信じる人」を設定すればよいだけであって、その設定のために、「迷わす人」も設定すればよいだけだ/カーナビが「左折です」と言うところに、それが「迷わす人」だと設定されるのであれば、あなたは右折すればいい、そこに感情的な「信仰風情」は要らない。
それで、カーナビといっても、完璧というわけにはいかないものだ、たまにはエラーやバグも起こす、そのとき「信じていたのに裏切られた、迷わされた」といって、カーナビを大破壊していちいち買い換えていたらキリがないだろう/ここでこのことを知らねばならない、<<「信じる」ということは絶対性を担保にして成り立つものではない>>ということ、信じるといっても「誰しも完璧とはいかないでしょう」という前提があるのは当たり前だ。
「信じる」といって、誰かを絶対化することが「信じる」ということなのだと誤解している人は少なくない、それは仏教徒がブッダを崇めるような場合の信仰であって、その他の一切に向けうるものではない/「弘法にも筆の誤り」という言葉があるが、弘法大師が筆を誤ったからといって、そのたびにブン殴って別の師匠を探していたらキリがない、おおむね妄想気質の人が、この「人を絶対化して信じる」ということをやる傾向にある、この人は己の生成した絶対妄想を信じているというだけであって、誰か人を信じているということではない。

妄想気質に合わせて、われわれには「信じたくなる」という現象があることを、よく知らねばならない/端的に言うと、きれいに着飾った年少の女の子がシクシク泣いていると、そこにきれいなこころがあるのだと「信じたくなる」ものだ、だが本当にそこに自分の「信じる人」がいるのか、それとも「迷わす人」がいるのかは、わかったものではない、このことは合理的に捉えねばならない、合理的に捉えるために、われわれは「信じたくなる」という現象に十分な警戒心を持っていなければならない。
ここで警戒心として有効なのは、「信じたくなる」という現象は、あくまで感情的なものだということだ、たとえば「母親は我が子を愛するものだ」というようなことは、感情的に信じたくなるものだし、さわやかな笑顔のセールスマンがやってきたら、感情的には「悪い人ではない」と信じたくなるものだ/だがその感情は、学門としての判断とは異なるので、「判断を誤る」ということはあったとしても、「学門を曲げる」ということはあってはならない。
単に、われわれは己が感情的に"ほだされる"と、そのほだされるという感情がカルマ的に快感であるので、学門を曲げて判断をバイアスしてしまうということだ/<<感情的にグッとくることと、「光が差す」ということを取り違えてはならない>>、<<「光」はわざとらしい感情を伴わないものだ>>。
あなたは、自分の「信じる人」と、自分を「迷わす人」を分類せねばならないが、「迷わす人」はまさにあなたを迷わすということを忘れてはならない、あなたが信じたくなるかどうかの前に、自分が「迷わされているのではないか」という発想を持つことだ、その発想がありながら、なおも判断を誤った場合は、それはしょうがないし、そのことは経験にはなっても悪習にはならない。

あなたの「信じる人」は、あなたの感情を鎮める人であり、あなたを「迷わす人」は、あなたの感情を昂ぶらせる人だ。

誰でも知っているとおり、夜になると、繁華街で騒ぎが起こり、ときには殴り合いのケンカ等が起こるものだ、あまり昼の日中から騒ぎや殴り合いは起こらないものだ、つまり人は光を失うと感情を昂ぶらせるものであって、光が照ってくるほど感情を落ち着かせるものだ、女の子がシクシク泣いていて、それが傍目にもグッとくるのは、たいてい夕暮れか夜だからであって、正午の日向にシクシク泣いていたら感情はそこまで昂ぶらない/ここでは「光」の話をしている、ここではシクシク泣いている女の子より、まっすぐな眼差しで本を読んでいる少女のほうを信じるべきだ――どちらが「迷わす人」かをよく見て。
「光」の中、人は感情を落ち着かせるものだし、「光」の中であるから、物事はよく見えるようになるものだ、ところが「信じる」ということを誤って捉えようとする人は、自分に物事がよく見えないように、つまり「盲目的」に信じようとする、これは恣意的に学門を曲げているのであって、これをやるようではふりだしに戻るしかない、初めのところからやりなおしだ/「信じる」ということは意志の問題ではなく、感情の問題でもなく、ただの分類の問題だ、だからそのとおり「分類」しろ。

視点変えてこ | comments(0) |
「信じる人」を得る方法

いうわけで、さっさとやりましょうか、という気がしてくる、まあこれはいつもの僕の精神だな。
「光」がないと、「ガマン」とその中毒しかなくなるわけだが、それならさっさと「光」を得たらいいだけであって、何もお涙をウッウッと流している必要はない。
そして、「光」というのは、つまり「信じる人」を得るということだ、生きている人でもいいし故人でもかまわない/ただし、両親や身内はやめておいたほうがいい(血縁において「血」が作用するのでよくない、血縁はカルマを継承し合っている)。
そして、重要なことだが、「信じる人」を得るのには、コツがあるのだ、それはどういうことかというと、<<「信じる」というのは学門であって自分の意志ではない>>ということだ、そのことは以下の手続きで判明してくる。

コツは、こういうことだ、「信じる人」を設定する(大げさにいうと「奉る」)と同時に、自分を「迷わす人」、自分が「迷わされる人」も設定するということだ、この後者のことが見落とされている。
自分には、信じる人がいて、そのほかには、信じる気になれないクソどもがいる……ということではない、否定的に捉えなくていい、自分には「信じる人」がいて、また「自分を迷わす人」もいるということ/否定的に捉えなくていいのは、<<自分自身もその「自分を迷わす人」の一人だからだ>>、このことは死ぬほど理解しておく必要がある。
ここにおいて、自分の「信じる人」というのは、キモチの問題ではなく、ただの分類の問題だということになる、信じる人というのは、単に「迷わす人」の補集合にすぎない/この手続きによって、<<感情的にではなく、合理的に「信じる」ということを生成できる>>、<<疑うという現象を排除できる>>のだ、なぜなら「疑うぐらいなら、『迷わす人』に分類すりゃいーだろ」で済むからだ、これであくまで分類上「疑わない」ということが成立させられ、そこで初めて、その人の「話を聞く」ということが成り立つ、逆にいうとそれまでは自分が誰かの話を聞くということは成立しない。
あとは単純に、自分が誰を「信じる人」に奉るかの問題であって、そこのセンスがまずければ、まずい方向へいくのだろう、だがそれは自分で選んだものなのだから本懐のはずだ、芥川龍之介を「信じる人」に設定したとき、トルストイは「迷わす人」に設定されるだろう/重要なことは<<自分自身も「迷わす人」に設定する>>ということだ、こうすることで初めて、<<静かに人の話を聞ける自分>>というものが成立する、この手続きがないうち、自分というのは内心で常に何かを言い続け、決して黙ってはくれない。

「信じる人」「迷わす人」、どちらも疑わなくていい。

どちらも疑わなくていい、なぜなら、どちらも疑いはないからだ、「迷わす人」は「迷わす人」なのだから、疑う必要はない、詐欺師と定義されている人を「詐欺ではないか」と疑う必要はない、もう定義されているのだ、信じる人でないなら迷わす人なのであって、迷わす人は迷わせてくるだろう、そこに疑義を抱く必要はまったくない、「信じる人がいるので」で正当に一蹴できる。
このように、「信じる」ということは、<<何ら感情的なことではない>>のだ、<<あなたはカーナビの指示を拝み倒しているだろうか?>> そんな感情を入れなくてもあなたはカーナビの指示を信じてハンドルを切るはずだ、それは自分が道に詳しくなく自分では「迷う」ということを自覚しているからだろう、ただそれだけのことであって、このことを整理したら光はさっさと手に入る、こんなところにまごつく理由は一ミリもない。

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