☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
大きな力に飲み込まれない

れわれは数年前、AKBのやり方を全否定していた、「握手券を引き換えにした音楽CDの売り上げをカウントするなんて」と/われわれはその後、いつそのやり方に合意したのかわからないが、今はすっかり合意に転じている、AKBのやり方を攻撃しようなんて勢力はもうどこにも残っていない。
LGBTにせよポリティカルコレクトネスにせよ嫌煙思想にせよマニアックなフェミニズムにせよ炎上礼賛ブームにせよ、われわれは時代の当事者などではない、われわれはまったく知らない誰かに操作されているだけにすぎない、われわれがこの時代において「おれがこれを始めたのさ」「わたしたちはこれについていったのよ」と自負できるものは何一つない/われわれは「君の名は」や「けものフレンズ」や「アナ雪」に影響づけを受けて同時代の生き方を創り上げたわけではまったくない。
米津玄師というミュージシャンが新しく大人気らしいが、いわずもがな、すばらしいアーティストは、サザンやユーミンと同じく、この先の三十周年にも四十周年にも変わらぬ万雷の拍手を浴びているようにと願うべきだ、今米津玄師のファン勢力はまさに「熱烈」らしいが、これがもし数年後にはパッタリ冷え切っているというようなことがあれば、それは他ならぬファンたちが冷酷な裏切りで当のミュージシャンを消費にもてあそんだということになる、僕はもうそのような生臭い光景を見たくないのだ。
今年は新元号が発布されるが、新元号を待たずとも、すでに今も、去年とは異なる大きな力がのしかかってきている、この力に飲み込まれていくことは、時代についていっているということではまったくない、<<これからのことはすべて新しくなければならず>>、大きな力に飲み込まれていくということは、新しい時代を切り拓いていくということではまったくないのだ、ただ用意された屋形船にずるずる乗せられていくだけのことであって、ましてその屋形船はわれわれの幸福を目論んで作られたものではまったくない。

何かが「正しい」と信じられるなら、それについていけばよいが、何かが「おかしい」と感じられるなら、その不穏なものには抵抗しなくてはならない、あっさり飲み込まれるとラクになるだけで、利益にはなっていない/諦観というなら、われわれは無謀と知りつつ戦い続けねばならないということが諦観であって、大きなものに飲み込まれていくだけというなら、それは諦観でも何でもない、それは昼寝を繰り返しているだけの人間でも自動的にそうなっていくものだから、改まっての諦観など要らない。
今、女子高生のセックスを買おうとすると、「ホ別イチゴ」あたりが相場となる、別にカネでセックスを買うことが悪いと言っているわけではないし、そのことの倫理性を問うているわけではないが、それよりも「夢中で本を読んだ」とか「友達と将来の夢について真剣に話した」とか、そういう青春の正規ルートに無限の澱(よど)みが掛かって輝きを持たなくなり、その澱みに抵抗しないということの危険性を僕は指摘しているにすぎない。
僕がここで書き話していることは、いつも奇妙で変人で時代錯誤か狂人のたぐいに感じられることばかりだが、僕の書き話していることは、本当にそこまで奇怪で胡乱で悪臭のすることだったのだろうか? 今どき愛だの青春だの魂だの言っているのは、一言でいって「くっさw」で済むのは明らかだが、僕が指摘しようとしているのは、文化や思想としての正当性ではなく、そうした捉え方や風潮を<<あなたが作ったわけではない>>ということなのだ、あなたがそのように捉えてそのように感じてそのようにあざ笑うように、どこかの誰かがあなたを操作した結果でしかなく、あなたはこの草不可避時代の旗手でもなければパイオニアでもない、ただの操り人形だ、そのことに無抵抗であなたは本当に勝利者なのだろうか。
あなたが女性だとして、あなたはこころの底から尊ぶべき男性に出会うことが不可能というレベルにむつかしいだろうし、仮にそんな男性に出会えたとして、その男性を愛したり、その男性に献身したり、その男性の世話をしたりということに、激烈な感情的抵抗を覚えるだろうが、それはあなたがそうなるように大きな力があなたを操作したにすぎず、あなたが自分自身をそうなるように自己形成したわけではまったくない、その証拠に、<<勉強と経験が不足している人ほど操り人形の度合いが濃厚に出ている>>だろう、今われわれに降りかかる大きな力は、あなたの魂をいつくしむために降り注いでいるのではなく、あなたの魂を侮辱するために降りかかってきているだけだ。

十年前に信じたものを、今はもう信じていないのなら、他ならぬあなた自身の十周年がない。

あなたは時代についていっているわけではなく、大きな力に飲み込まれていきがちなだけで、その大きな力は、あなたの魂に十周年などさせないつもりなのだ、十年前にあなたが立っていた、あの場所に吹いていた風は、今もなおあなたの頬を通り抜けて吹いているか、そうでなかったら今のあなたはどこの誰に形成された人形なのか。
十年も経てば、時代は変わるし体調も変わるかもしれないが、魂は変わらない、魂に時間なんか流れていないからだ、常に新しい時代を生きろ/新しい時代に生きるということは、人為的に用意された屋形船にドッコラショと乗り込むことではまったくない、そんな出来合いのものはとっくの昔に古いのだ、新しい時代というのは今まだここにはない時代のことであって、用意された時代などすでに手垢がついた使用済み品でしかない。

できるオンナだね | comments(0) |
遊ぶ魂、サカる格2

才もグランプリがメインになったように、またソーシャルゲームも「ガチャ」がメインになったように、そして少年漫画もドスケベ女体の表示がメインになったように、すべてのものに競技制とギャンブル性と刺激性が組み込まれていった。
それは、遊ぶことができなくなったからだ、遊べなくなると人は刺激と興奮で己をコスるしか活力を得られなくなる/「遊ぶ」には、一般的に言って「余裕」が必要だ、すべての遊びの喪失は、「それどころじゃない」という実感から起こってくる。
だが一方で、「遊ぶ」ということを失ってしまうと、ずっと先に「何のためにこれまで生きてきたのかわからない」という行き詰まりにぶつかってしまう/気づいたときには、己の魂とはまったくつながっていない、はるか彼方まで行ってしまっているものだ、それはそれで取り返しがつかないということになってしまう。
このことについて、僕は執拗に、「遊ぶことがメインで、遊ぶために生きるのだ」ということを唱えていきたい、それは僕が正しいからではなく、僕が受け持った役割だからだ、僕まで含めて全員が「それどころじゃない」となるわけにはいかない、それではけっきょく本来の魂でないものが勝利したことになってしまう。

また、僕には狡猾な考えもあって、遊ぶことが本分だと見切った者にこそ、あるていど幸運のバックアップがあるのではないかと思う算段もあるのだ、遊ぶということはそこまで向こう見ずなことではない。
また単純に言って、日本が製造業で勝利できない経済状況の中、これからわれわれは異民族も含めた同居のような暮らしをしてゆかねばならない見込みだが、そこで同居するのが、真に愉快で真に大切な、真に愛し合える誰か同士なら、その環境は一転、かけがえなく豊かな暮らしを得たということになるではないか。
われわれにとって真の敗北とは、魂の触れ合わない者たちが、ただ生きるためだけに同じ檻の中に囲われ、同じ檻の中だからこそ縄張りをもたねばならず、なるべく孤立した個人として生きようとしたところ、けっきょくコストが追い付かずまともな暮らしもさせてもらえなかったという結末だ/われわれは、魂の触れ合わない同士においては、孤立しあって無関係に生きていけばよいが、そうした孤立した暮らしの形成には非常なコストが掛かるのだ、そしてその環境の構築のみならず、そこから寂しさを慰めるためのコストも膨大に発生することを前もって見積もっていなくてはならない。
比較して、僕が思うところの最高の勝ち筋は、「魂が触れ合って遊んでいたらたくさん幸運があってみんなでワイワイやっているうちに逃げ切ってしまった」という結末だ、このことの実現には非常な困難が予想されるが、成立に多大なコストが掛かるというわけではない、むしろ魂で遊ぶことにハマっているうちはコストが削減されるだろう、魂には課金できないからだ。

生存本能が「それどころじゃない」と言う、それに対抗する遊びの魂は、「永遠にこれでいいだろ」を見つける。

だから遊びというのも、遊興ではないのだ、そこにいる全員が「永遠にこれでいいだろ」に到達できるか? それはそんなに簡単なことではなく、けれどもこのことが見つからないままでは、自分はけっきょく何のために生きていくのかわからないし、魂なんてものがもし本当にあったら、己の魂がやがてどこへいくものかわからず不安でたまらない。
僕が敷地だけ広いおんぼろ小屋に住んだとして、その玄関先に雑魚寝するということが、2LDKの独り暮らしよりはるかにイヤか? そんなことはなく、「ぜったいにその玄関先のほうがいい」とこぞって跳ねる人がすでにうじゃうじゃいる、それは経済的に有利なポテンシャルを秘めているということだ、むしろそのことへの基本を手に入れたほうが、この先々で生きていくのに有利だと見立てて僕はプランを練っている、つまり究極的には生存本能より遊ぶ魂のほうが幸運も含めて「生きるのに有利」という仮説に基づいている、もしこの仮説がアタリだった場合はわれわれで大いに笑おうじゃないか。

正しく見ないとな | comments(0) |
遊ぶ魂、サカる格
つからか、「楽しむ」ということが幅を利かせ始めた。
そして端末の再生ボタンを押すようになった。
youtubeの再生回数は、人々が遊べなくなった回数を示している。
ポチッと押せば、「楽しむ」が始まる……そうこうするうちに人々は「遊ぶ」ということができなくなった、そして魂を解放する道筋を失った。

「遊ぶ」というのは、実は高度なことだ、生きものがする営為の中で、最も高度なものだと、すべての光の詩人が指摘している。
そのことは、政治集会の人々や、競技場の人々、予備校で血道を上げる人々、目立って興奮しようとする人々、講演会で自己啓発を目論む人々に、一声示してみればわかる、「遊びましょ」と。
数万人の集まりも、「遊びましょ」の一言で、何もできないということがわかり、凍りつくだろう/われわれは格子に魂を閉じ込められた生きものであるから、「努力」したり「競争」したりは簡単にできる、力に努めて競争 "してしまう" のがわれわれの性(さが)だからだ、だがもし努力も競争もやめて「遊べ」と言われたら?
「遊べ」と言われたら、具体的には何もできないのだ、このことを目の前に据え、まずは己の魂の荒廃ぶりをしみじみ確かめよ、凍りつくしかない実際的な自分の事実/学校の職員室で、先生たちが「遊んでいる」のを見たことがあるだろうか、遊べなくなった人々は必ず「威張る」ということを覚える、自分たちこそが高等なのだと必ず死ぬまで言い張り続けることになる、その中で永遠に遊ぶことを忘れない僕はやがて迫害の対象になるだろう。

男が女を、女が男を、「楽しんで」いるのだとすると、実にオッサンとオバサンで気持ち悪い。

学校の先生は、自分たちが同僚同士で和合して遊べるわけではまったくないのに、生徒たちには和合と協調を指導しようとする、だからおのずと示される思想は、「集団行動」というたぐいの、つまり魂を閉じ込めた姑息的同調のやり方だけを教えることになる/なぜ先生たちは同士で遊ばないのかと子供たちが問うたら、先生たちは必ずにこやかに、自分たちが子供らと違って「高度な存在だからだ」と宣伝のように言うだろう、まさか「魂が閉じ込められているからさ」と答えるような大人はいない。
スマホ中毒は何の問題でもない、問題はより直截的に、「遊べなくなった」という致命的なところにある、遊べなくなったから再生ボタンをポチッと押す、すると「楽しむ」ということが始まり……するとまるで自分は豊かで偉くなったようで、楽しまれるコンテンツに対しても、一家言を下賜するのが当然という感覚が得られてくる/この「楽しむ」体質になりきった人が、デートの現場に来て「楽しむ」という予定のありありした面をぶら下げていると、その姿は客観的には驚くべき醜さに映る、何者がわれわれを一方的に「楽しませて」くれるという見込みなのだろう? 遊べなくなるというのはそのように根深くおそろしいことなのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
すべての生きとし生けるものに祝福を

ょっと、今書ききれる状況ではないが、いろんなことが見え始めている。
「生きる」ということは、生存本能の支配する範疇だが、これは厄介であると同時に、やはり「切ない」のだ、甘やかしを利かせられるものではないが……生存本能はけっきょくわれわれを滅ぼすのみなのだが、そうした滅びを内包して生きるしかないということ、それ自体はとても切ないことだ、だからすべての生きとし生けるものに祝福を。
そして、不遜なことだが、僕はすべてのことを正常化したいと望んでいる、不遜ついでに申し上げるが、優れたる者は僕の物語を聴け、僕の生きてきた物語を/僕は生きることを忘れて生きてきた、僕にとって生きるということは、生きるということではなく、ナゾを解くということだった、ナゾが気になって「死ぬわけにいかない、気になる」と生きてきたようなものだ。
僕が、あなたがどう生きてきたかの話を聴くことは、実はまったく有効でないということがわかってきた、逆、あなたが、僕がどう生きてきたかを聴かねばならない、あなたが僕がどう生きてきたかに少し詳しくなったとき、あなたの中で何かの解決と進捗が得られるだろう、僕があなたの話を聴いたところであなたの中に解決も進捗も生じはしない。

現在の僕でさえ、自己の「死」というものを視るとき、それはとてつもないナゾであって、ぼちぼちの恐怖感を認めるものだ、これを何の訓練もない者が平然と眺められるはずがない/だから自己の死についてはナゾと恐怖ごと無意識下に抑圧せざるをえず、この抑圧された恐怖がわれわれの精神と立ち回りを支配している。
われわれは、いつも死と隣り合わせだ、別に戦場の兵士でなくても誰でもそうだ、もちろんそんなことは徒然草のころから言われている、だがどう考えても学門ナシの人々がこの巨大なナゾと恐怖に直面できるはずがない、だからわれわれはほとんどの場合、半ば以上ヤケクソで、自己が生きることを肯定しながら、そのヤケクソの肯定を理由にしながら生きていくしかないのだ/いつも死と隣り合わせというが、本当にそんなものと隣り合わせということは、ふつう恐ろしすぎて隣り合わせに置いていられない。
だからあなたは、僕がどう生きてきたかの物語を聴く必要がある、わけのわからない話だろうが、あなたは生存本能とは異なる動機で生きてきた例を聴く必要があり、少なくともその一パターンに、詳しくなる必要があるのだ、そのことが為されないかぎり、あなたの中で「物語」というものが命をもってあなたを救うということはない/僕が生きてきた物語を、あなたのものにしなくてはならない、そのフォーマットが敷かれないかぎり、あなたは生存本能の履行だけを繰り返して生きることになってしまう。
すべてのことを正常化したい、その道筋はすでに見えていて、ただどうやったらすんなり気づいてもらえるのかわからない、自己の死の恐怖から生存本能を尊ぶということはやはり誤った道で、われわれが誰も罰の只中にあると再設定するのが正常化への道だ、つまりあなたが知るべき僕が生きてきた物語は、僕がどのように罰の中を生きてきたかのサンプルになる、僕にとってナゾを解くことは罰であって、この罰を受けきらずに死ぬわけにはいかなかったのだ。

僕は光栄な罰の中を生きてきた、だからあなたも光栄な罰の中を生きることができる。

あなたは自分の物語を、自分で創作するふりをして捏造しなくていいのだ、あなたは罰の只中にあるのだから、その罰の光栄を知れば、おのずとあなたは自己の生がどう光栄で、かつ罰としてふさわしいのかを知ることができる/罰だから必ずしも楽なわけではないけれど、見当違いの努力ワールドでおびえた目になるよりはずっと上等だ。
生きとし生けるもののすべては切ない、切ないのは生存本能という滅びを内包して生きるよりないからだ、これをなんとかして「光栄だ」という転じた事実に気づいてもらう必要がある、僕が勝手にそのように求めることは不遜な話だが、この不遜の道も僕の受ける罰のひとつなのだ/僕は正しくはなく、ただ罰のプレイヤーとして純然たる強さを見せたい。

正しく見ないとな | comments(0) |
能力獲得の根源的ノウハウ
だん、「導く・導かれる」なんてことを、まさか考えないと思うが、もし「導く・導かれる」ということを正しく考えるなら、その導きというものは、「罰を与える・受けるということが、導く・導かれるということの定義」と捉えるのがよい。
この定義は、きわめて重要なもので、決して見失ってはならないものだ/もしあなたが、僕から罰を与えられるということが「しっくりこない」と感じるのであれば、何をどうやっても僕があなたを「導く」ということは不可能になる、これは導く・導かれるということを背後で支配している「定義」だからだ。
僕があなたに、「罰として缶コーヒー買ってこい」と言いつけたとき、その罰を自分が「受ける」ということがどこか当たり前に感じられるというとき、僕はあなたを重要なことへ導くことができる/それが当たり前には感じられないというとき、あなたはあくまで自力でどこかへ到達せねばならない、もしくは、他の誰かの「導き」に支配されていることに気づかねばならない。
たとえば多くの環境では、女性などは特に、成人してもなぜか親から「罰」を与えられる立場にあることが、当たり前に感じられていたりする、この状況にある人は、もはや外界の誰かに「導かれる」ということは不可能になる/現代において多くの人は、教師に対しても、先輩に対しても、あるいは自分では信じて頼っているつもりの誰かに対しても、「罰を受ける」「罰を与えられる」ということが当然に馴染んで感じられない状況にある、だから多くの人が、どう努力しても現在の自分から変化できずにいるのだ、自己の根本的変化が得られないのは、誰か導き手と「罰の授受関係」になれないことによってあらかじめ決定してしまっている。

ここで「罰」といって、シリアスに考えるのはナンセンスだ、「罰」といってもたとえば、男性が交際相手の彼女に向けて、「罰としておれが夜景を見にいくドライブに同行しなさい」という言い方もできる/こんな一工夫で、どれだけ多くの実りが与えられるだろう。
「罰」の授受関係におよぶことが、実は神聖さへの入り口なのだ、正しくよい罰を見出すというのもセンスが要ることで、感情的・恣意的な罰を思いつくばかりでは、彼には導き手の資格がない、この者は己の身分を低く落としていくだろう。
たとえば、人にあいさつをするのが苦手な誰かがいたとして、その人が自力の努力であいさつをできるようにはならないのだ、「罰としてここに立ってすべての人にひとりひとりあいさつをしなさい」と罰を与えられることで、ようやくやり方がわかるというか、やり方に「つながる」のだ/人は「訓練」によって、能力や技術を強化ないしは向上できるが、訓練によって能力を「獲得」はできないのだ、得られがたいことの「獲得」は、実は罰の授受関係を経てしかほとんどの場合得られない(自分で得られる場合は、努力の結果ではなくいわゆる才能の結果だ)。
だからこそ、いわゆる優等生のたぐいは、経験的に見て特別な能力を得てきていないということが一般的にある、それは優等生が生きていく中で罰されることがないからだ、もし極端な優等生が生涯に一度も罰される関係を持たなかったとすれば、それは生涯に一度も「教師」「先生」を得なかったということだ/マンガ「ドラえもん」で見れば、のび太にとって学校の先生は「先生」だが、出木杉君にとっては「先生」ではない。

罰の中をゆけ、そうしたら実る。

男は何かしらの罰として、男の形容で生まれ落ちている、女も何かしらの罰として、女の形容で生まれ落ちている、それが「罰」だと捉えられていないから、いつまでたってもやり方につながらない/何に対する罰かなんて知らなくていい、そんなことは意識的にはわかりっこないことだ、だが意識的にはわからなくても、われわれの魂は何かを知っている、だから魂だけはその不明の「罰」に率先して呼応する、われわれのうちに罰の中にない者など一人も存在しない。
多く、真髄の何かを獲得している人に限って、謙遜のように「まだまだ自分などは」と言うことがよくある、あれは謙遜しているのでも何でもなくて、直接の感覚として「こんなことではまだまだ罰は終わらない」ということを知っているのだ、だからそれは謙遜ではなくまったくの本音として言われている/われわれの魂は努力によって檻から出られるのではなく、罰を受けきることで檻から出られるのだ、優等生は一般に犯罪者の真逆にあるから、このことになかなか気づけないものだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
空前のオナニーブームにおける女性
らゆる国と地域において、性的コンテンツの摂取には年齢制限が設けられている、R18などの指定がそれだ/なぜ年齢制限が設けられているかというと、人類の経験的知識から、学ぶべきを学ぶ前に性感への耽溺を覚えると、引き返せない痴愚になってしまうことが知られているからだ。
では、年齢制限を設けたからといって、それによってすべての人が「学ぶべきを学んでから」性感への耽溺を覚えたのかというと、そのことは定かではない、多くの人が自分自身について「わたしは学ぶべきをすでに十分学んだ」とは断じがたいものだ/よって年齢制限というのも、投げやりに「自己責任」に押しつける以上には確固たる機能を誇ることはできない。
第一、R18指定を真にうけて、十八歳になるまでダウンロードをしないというような人はいないのだから、現代のわれわれはけっきょく、ほぼノーガードで現代の苛烈な性的コンテンツの渦中を生きざるを得ないというのが実情だ/ビクビクしながら深夜の書店でエロ本を買った旧時代とは比較にならない状況がある。
よって、ここで単純な疑問として、われわれは「これだけの強度と頻度の自慰に、本当に耐えられるのか?」ということに怯えねばならないのだった/われわれが愛や学門に向かうにしても、それは苛烈なオナニーを「やりこなして」の末でなくてはならない、だが多くの人は苛烈なオナニーの時点で引き返せない痴愚になっているという可能性をわれわれは考慮しなくてはならない。

現代のわれわれが、百年前の同国人と比べて、心身を強靭かつタフにしているとはとても言いがたい、どう考えても、何かがヤワになり、脆く、危なっかしく、虚弱になった/にもかかわらず、オナニーの強度だけは、旧時代より何十倍も高くなったはずだ、このことは本当に精神の水面下に重大なクラックを引き起こしていないのだろうか。
僕自身の記憶するところ、生まれて初めてアダルトビデオを観て、ショックで嘔吐した少年がいた、彼はヤワな男ではなかったが、思いがけないところで人は繊細なものだ/一方で現代においては、教師が声を荒げて生徒を叱責するのでも、生徒がショックから不登校になったり精神を損傷したりすることが起こるが、その彼が、液体まみれの不明の触手に少女が犯されている絵を日夜みて自慰していたとして、その水面下に本当に損傷は起こっていないのだろうか、彼はそのことに麻痺なり慣れなりを起こしているだろうが、それはタフでもなく貪欲でもなくて、その麻痺こそ損傷の結果ではないのか。
まして現代では、同様の苛烈なオナニーを、女性もかなり一般的にしているという状況がある、この前提を基にわれわれは本当に現在の「女性」を捉えられているのだろうか/ありていにいえば、現代の女性は、語らずあるいは自覚もなく、強力なオナニストという事実が潜行している可能性もあるのだ、われわれは著名なアイドルタレントのすべてがオナニーの実情を急に公開し始めないかぎりはこのことの真相を知ることはできないし仮定にも認めることがしにくい。
多くの女性の引き出しに、愛し合った彼との手紙のやり取りが保管されているというケースはすでに少ないだろうが、一方でPCの保存フォルダには、苛烈で多種多様な「オカズ」が大量に保管されているかもしれない、事実としてそのような女性はそこから急に愛や学門を拓き進めていくことができるのだろうか/われわれは現代において、女性を単純で強力なオナニストと仮定して眺め、状況や様相を捉えなおす必要がある。

アメリカ人女性の肥満者割合と同程度に、日本人女性はヘビーオナニストかもしれない。

ちなみに僕自身は、男性でもあるし、この時代いくらでもコンテンツがあるので、好き放題に自慰するが、その「オカズ」を漁ること共々、僕は己に制限を課したり、禁欲やストイシズムを試みたことはない、僕は好き放題にオナニーした上で、いつも愛のことを考えている/そしてどのような苛烈な刺激物を見せられても、それで性的嗜好が歪むということは起こらないし、そもそもオナニーに関連する性的嗜好で、実際の女性を眺めるということは起こったことがない。
つまり僕は、ノーガードでこの時代の、「苛烈なオナニーをやりこなし、その強度に耐えている」という実物になるが、最近になってこうしたことが、誰にでもできることではないということを知った/僕はどれだけの強度のオナニーをしても、女性に向けて愛より性欲が先行するということはないが、それはきっと特殊なことで、女性の側はどうだろう、女性は現代の苛烈なオナニーをやりこなして耐えられるのだろうか。
視点変えてこ | comments(0) |
男型の愛と女型の愛、そして老人の性欲
というものは、自己愛ではなくて、全体の幸福と豊かさに愛を傾ける、そういうものでなくてはならない、この愛を男型の愛と呼ぼう。
女というものは、そうした男型の愛の持ち主を、まさに愛の持ち主だとこころ打たれて、無条件で愛するようでなくてはいけない、この形の愛を女型の愛と呼ぼう。
こうしたことで、男というのは、大前提としてかわいい女の全てを愛していなくてはならない/女から男への愛は、給水のラインであって、男から女への愛は、スプリンクラーのごとくでなければならない、この形を安易に逆転させることがあってはならない。
男が安易に「君だけだよ」と言えば、荒れて性質の悪い女はほだされるというか好んで合意するが、そうして都合をよくしあったものが、けっきょくは互いを軽蔑しあう感情に行き着くのだ、男はバカでなくてはならず、浅知恵で女の希望に沿うと女は当の男を根こそぎ軽蔑するのだった。

このところ、女の勘が悪くなって、自らの手で男を、己の軽蔑するタイプへと押し出すことに、悪霊じみて長けているところがある/近頃で女と付き合っている男にろくなのがいなくなるのはこのせいだ。
男は男型の愛をもつから男なのであって、この男型の愛に女型の愛で反応しているうちが女も女だ、最近は誰もこの反応が悪くなり、男も女もまず可能性を失ってから交流しようとする、このことについては最近の女性はとんでもない無能になっていると認めざるを得ないところがある。
男をまず男型の愛から引きずり下ろして、それからどっこいしょと付き合おうとするから、男もみじめだし、女もとっくに醜いのであって、そこからオスがメスの乳でも揉もうものなら、そこにはもう老人じみた性欲のやり合いしか残っておらず、何の青春の断片もない。
最近の女性は、ひどく性的興奮に貪欲で、男性がいるとなんとかして自分の性的興奮のオカズにしようと第一にするから、そのような積み重ねの果てに、現在もう女が性欲以前に男に対して恋なり愛なりを向けるということがなくなっている/男型の愛も女型の愛もすっかり枯渇していて成り立たないのだが、代わりに老人じみた性欲しか交換されていない現状については、より責任の大なるは女性の側にあるかもしれない。

愛を向けているのに、性欲だけを返してくるのはやめてくれ。

この嘆きと請求は旧来、女から男へ向けられるものだった、しかし現在は女性の男性化が進んだため、女性も痴愚の男性と等しく、常に性的興奮とオカズを探す発想しか持たなくなっている/男性は歴史的に、この痴愚について踏み止まろうとする知識を与えられているのだが、ごく最近に男性化した女性は、歴史的に知識を与えられていない、だから本当に何の歯止めもなく、平気で男性を性的興奮のオカズに見立てて良心の呵責が一切ない。
しかも男の場合、性欲のことしか考えていないというのも、まだ自覚的で笑いどころがあるのだが、女の場合、自分でそのことを認めないからずっと無言で男性を性的興奮のために眺めているのだ、その点で女性が自分を愛ではなく性欲の主だと認めることはまずないだろう/一部の男性は、今も必死で女の子たちを愛そうとしているのだが、そのことごとくを無数の無言性欲で包囲して啄むのをやめてくれ、もはやそこに必要なのは愛ではなく、男型の愛を尽くそうとする者へ覚える義のこころなのだった、彼を平気でむしり殺すな。
視点変えてこ | comments(0) |
くっきり道と使える原理
の筋に詳しい人に言わせると、日本語の母音の並びは本来アオウエイであって、そのことには「言霊」というようなことがあるらしい/まあそんなことはあるのかないのか、われわれのような凡人にわかってたまるかというたぐいだ。
ただそんな僕にも、アオウエイの母音に「方向」があることぐらいは、感覚的にわかる、感覚的にわかるというか、そりゃ "Yeah" というのはどうしたって下から上に行かざるをえないし、マイケルジャクソンがシャウトする "Aw!" は、方向的に上から下へ降りてくるしかない/そんなことは、単純な発声技術でも説明がつくことだし、そもそも発声練習で「アイウエオ」の順を使うことはまずない。
何にしても、そういうスピリチュアル系の人がよろこびそうなことは、わずかも吸い上げてやらないのだ、わずかも信仰なんかさせねーというのが、僕のタチの悪いところというか、エグいところである、おれは具体的かつ直接的にカッケーことしか認めない、それでつまづく奴はつまづいて帰宅すりゃいいでしょというのが僕の思想だ、こんな考え方をしているから誰も味方してくれないのだ。
正月は、割と寝正月で過ごして、夢うつつの中で確かに、言霊に関する何かを見たような気がする、それでタチの悪い僕としては、「ああそうか、これで "くっきりさせる" ということができるんだ」と、大いに獲得と舌なめずりをしたのだった、さあ今年もガンガンやってまいりましょう。

われわれは、観測可能なものにけっきょく魂が震えることはない、つまりマッチョ男の握力が120kgもあると「すげえ」とはなるのだが、そのことに魂が震えて「わたしの生きている理由」に結びつけたりはしないということだ/F1のレーシングカーが300km/hで走って感動的なのは、人がそれで走るからであって、単にマシンだけが走行していても、それは巨大化したミニ四駆でしかない。
魂が震えるというような言い方も、あまりしたくないものだが、とにかく僕が本当に与することができるといえば、唯一そのことだけ、浮世のすべての冗談から離脱できる瞬間だ、僕はそのことをぼんやり思わせぶりにする勢力をたいへんネガティブに見ている、僕はくっきりしているものを愛しているのだ、僕はむろん宗教かぶれより江頭2:50のほうが神域に近いと確信している。
江頭2:50は、くっきりしている、そのへんのパンク気取りのピアス女よりはるかにくっきりしている、パンク気取りのピアス人間になって物憂げな表情をすることは誰にでもできるが、江頭2:50になってドーン!! とすることは誰にでもはできない、ほとんどの人はそんなことできない(できてたまるかよ)、江頭2:50はパンク気取りではまったくないが、非常にくっきりとしたパンクだ、ライブ中に甲本ヒロトの横に立っていても見劣りしないぐらいパンクだろう(シドヴィシャスでさえ江頭2:50にドーンされたら笑ってしまったかもしれない)。
言霊だか何だか知らないし、そのそれぞれの「方向」だか何だか知らないが、「これはくっきりさせるのに使える」と僕は気づいた、僕はこのくっきり道を行きたいと、新年からとてもノリノリなのだった。

「観測不能物を具体的にくっきり顕わす」が聖霊、「観測可能物をぼやかして思わせぶりにする」が悪霊。

髪を脱色してピアスを入れて物憂げな表情をしてみたって、それらはすべて観測可能物だから、それらをぼやかして何かあるふうに「思わせぶり」にするというのは、悪霊の仕業だ、くっきりしろ、魂(ソウル)を身に顕してくっきりするのだ、あるいは声に顕して、脳に顕して、知恵に顕して、作品に顕して、くっきりするのだ、そうでなきゃ言霊だのソウルだの観測不能物だのはただの与太話じゃねーか。
世界へのつながりというか、そりゃもともとつながりはあったけれども、その方法がよりsureに得られたわけだ、うーんもともとおれは、LSDなんかなくてもサイケの世界が直接観られるんだぜ、「春の力」もな……/それが「くっきり」具体化されてから、初めてそれが存在していると言えるわけだ、そりゃそうだな、そのことには言霊だか何だかの「方向」が重要という、おれにしかわからんナイスな話があるのだった、そこでもう一度繰り返して申し上げる、おれは具体的かつ直接的にカッケーことしか認めない。
正しく見ないとな | comments(0) |
明朗の安定供給タイプと、不明のケンカ腰タイプ
と考えてみると、こんな簡単な分類が出来る。
わたくし、安定供給の九折商店といたしましては、いつもユニーク、いつもユーモアと笑いを尊び、それでいてどこか斬新なideaと、思いがけず煮詰めた知恵などを、明るいソウルと共にご提供しつづけたく、ささやかながら自負なども示したい所存であります、そりゃいつも面白くないと誰もおれの話なんか読まねーだろ……
そこで気づいたのだが、人のタイプとして、僕のような安定供給を第一のモットーにしているタイプと、安定供給などは考えず、なんとなく根っこがケンカ腰、というタイプがあるようだ/僕にはこの「土台ケンカ腰」のタイプが、なぜそうなるのか根本的にわかっていない。
インターネット上では、さまざまな発言が為されているが、その中の多くは、1.土台がケンカ腰であり、2.発信者は自己表示にレスポンシビリティを持たず、3.不満と主張を強く持っており(けっきょく引き下がりはない)、4.根の深い「甘え」の気配があり、5.友人を確かに持たない気配がある、という性質で括ることができる、これは「不明のケンカ腰タイプ」と分類して差し支えなさそうだ、ケンカ腰なのに発想は甘えというところに大きな特徴があるように思う。

それで、だからといって、そのタイプがどうこうと、詳しくなってもしょうがない、僕はただ、「偽りのない安定供給タイプ」をオススメしたいし、自分自身もそのようでありたいと思っている。
「安定供給タイプ」、つまり、「どーもわたしです」と自己を公に表示して、いつもどおりのナイスなブツを、安定供給、いつもどおり、高品質でご提供できりゃ、それだけでいいんじゃないのかと、僕は思うのだ/もちろんその奥に、おどろおどろした怨みや憎しみや不満があるようでは、おっかなくてノーサンキューとなるが……
いつ見ても、中川家もサンドウィッチマンも、面白い空気を爆裂させてくれるし、いつ見ても、フット後藤は、ただならぬおもろいテンションで登場してくれるじゃないか、僕もそのようでありたいし(文学者)、そのようでなくては「他にどうしようもないですやん……」としか思えないのだ/ましてそこを、オープニングから「不明のケンカ腰」とか、ナンノコッチャにもほどがあるじゃないか(と僕は思っている)。
経験上、どうやら「不明のケンカ腰タイプ」は、諸事情から「偽りない安定供給タイプ」が好きではなく、どうしても「不明のケンカ腰タイプ」を続けねばならない理由があるようだ、その理由は何であるのか、もちろん他者には知る由もない、僕はその由を知る者となりたいのではなく、引き続き単なる安定供給タイプでありたいのだった、そんなわけで今年もやってまいりますのでみなさまよろしくご愛顧のほどを。

偽りなき安定供給が、当方のロマンであります。

別にそれを、美徳とか義務とか思っているわけじゃないが、安定供給がロマンそのものに信じられて、フツフツとくるのだから、これはしゃーない、こんなものはもう人それぞれの本分というものでございましょう。
「今日もやっているねぇ!」と、ささやかにお褒めと励ましのほどをいただければ、それで満足なんだろうな、だから今日も、偉大なるおれさまはやっているのである、よって不明のケンカ腰さんは、くれぐれも他店のほうへどうぞ、別に善し悪しの話ではなく、こうしたことには「何かある」のだろう。
視点変えてこ | comments(0) |
世界に名乗りを上げること2

に僕が、「九折空也といいます、趣味で歌とダンスをやっています、ここでちょっと唄って踊ってよいでしょうか」と言ったとする、これはいかにも話がおかしい。
何がおかしいといって、そこで僕が唄って踊ってをやりはじめたら、それは僕が自己紹介して「知り合い」になったから、「知り合い」の上で何かをおっ始めるということじゃないか、それはどう考えてもキモチワルイし、そんなことで唄って踊ってを見せつけられるのは知り合いの側はストレスだ(空気を読んで拍手させられるだけだぜ、つらい)。
そうではなくて、当たり前に正しい手続きは、僕が唄って踊ってをしているところ、それが妙にソウルに響き、「あいつは誰だ」「あんた何者よ?」ということになって、そこから訊かれて、「名乗る」という具合だ、そうでなきゃ唄って踊っては相手に何も届いていないってことじゃん/それをオメエ、知り合いになったからには強制的に見ろ、そして拍手しろ、という恫喝でやりこめるのはタチが悪い。
僕はいつも思うのだが、単に女の子をデートに誘うのだって、「知り合い」になってからデートに誘うというのは、根本的にヒキョーだと思う、だって相手は断りづらいじゃないか、「知り合い」に誘われたら/「知り合い」になってから、イイコトをしようと画策する、そういう浅ましい発想をせず、何かしら人としてソウルを響かせ、そこからデートに誘って「アンタ誰なのよ」と笑われるという、そのことをスタートにしないといけない、<<知り合いじゃないけど、アンタのことは覚えているわ>>という状態にならないと、それはソウルに届いていないということなのだ。

お互い、へっぽこでもいいじゃないか、まず世界に名乗りを上げよう、つまり「知り合い」の工作で自分の存在をインチキするのをやめよう/まずそのことを覚悟しないと、ソウルはいつまでも昼寝したままなので、これは覚悟して実行するよりしょうがない。
実際に、その覚悟をすると、ソウルが活動し始めて、いろいろまともなことが起こり始める/僕の友人は、これまでに幾度か体験があるはずだ、僕が咳を外すと店員さんがやってきて、「あの方は何かの先生ですか?」と訊いてくるようなことが、わりと珍しくないというか、いっそ定番の現象としてある。
人は、何を視ているのだろう、不思議なものだが、初対面から「ボス?」と言われたり、「何か、音楽の指揮者?」「芸術家?」「絵の先生?」と、まっさきに「あんた何者?」を訊かれることはよくある、だがこれはあくまで、知り合い術を放棄してソウルプレイヤーたるを選んだ後の結果だ、先に知り合い術をやめる覚悟をしないとこのことは性質として発生しない。
「人格」という言い方でいうと、自己紹介と知り合い術というのは、「人」の現象ではなく「格」の現象なのだ、立場も用事もないときに「格」を振り回すのはやめよう、年齢と共に格が拡大すると、もう弱っちい「人」を見せるわけにはいかなくなって、完全に手詰まりになってしまうから。

「もう一度会いたい」というのは、「もう一度唄って!」「もう一度あの話を聞かせて!」というのと同じだ。

どれだけ歌が上手に思えても、「もう一度唄って!」と求められるかどうかは別だ、「もう一度」を求められるというか、懇願されるというのは、完全に別の事象であって、それだけにこのことに食いついていかないようでは筋が悪い/どれだけ立派な「格」、どれだけ立派な身の上でも、その身の上について「もう一度聞かせて!」ということは起こらない。
ソウル(魂)というのはそういう性質のものだ、「もう一度あの光景が見たい」「何度でもあの場所に行きたい」、それと同じ次元に、「あの人に何度でも会いたい」ということが起こっている/だから名乗りを上げるということは、自己紹介を説明することじゃない、己の現象とソウルのありようをライブで示す覚悟だ。

できるオンナだね | comments(0) |
世界に名乗りを上げること

は、知人に向ける態度も、赤の他人に向ける態度も、基本的に変わりがない、初対面の外国の人に向けても変わらない。
そりゃそうだ、トヨタの製品が、外国の人に向けてはウケないとか、使えないとかいうことはありえない。
お互いに、先に立場が決まっている場合は別だ、相手が急に売り込みにきた訪問販売のセールスだとか、役所の人間だとか、国賓だとか、そういう場合は立場が優先される、そりゃ社会に生きてりゃ当たり前に誰だってそうする(これがまともにできないとただの社会不適合者でしかない)。
そうした「立場」がない場合、あるいは「ゆるい」場合、僕はどのように人と接するかというと、要するにソウル(魂)で接触しているらしい、それでデカい人には「デカいな」と接するし、かわいらしい人には「かわいらしいな」と接している、こんなことに知人も赤の他人も関係ない。

ワークショップ等の言い方でいえば、こうだ、僕がよく言うやつ、「われわれは今Aスタジオにいるけれど、隣のBスタジオに行ったって、おれの話し方は同じだし、何なら教えるとなっても、まったく同じ教え方だ」「お前らが常連だとか知り合いだとかそういうことは関係ない」と。
事実、僕はここに、「九折空也でーす、よろしく〜」という形で、何の前提もなくいきなり書き話しているのだから、こんなことに知人向けも他人向けもありようがない、誰が見ても「なんだコイツ」で、あとは読み進むうちに「ちょっとおもしろいじゃないかコイツ」と思ってもらえるかどうかだ、ただそれだけしかない。
僕は前もって、誰かと知り合いになろうとするやり方を好まない、そんなやり方は初めから蹴飛ばしているところがある、おれと知り合いにならなきゃならない義務がこの世界の誰にあるんだ、そういう鬱陶しいことだけはおれはやらないようにしているというか、そんなことをやっていい権利がおれにあるようにはまったく思えない。
「知り合いになってもらう工作」をするのは、たいへんキモチワルイわな、僕はそういうことを好まないので、このとおり何年やってもこのブログにもサイトにも「ファン」なんてつかないのだ、たとえファンがついても「誰だテメー」としか思っていないからな/そうして僕自身も、永遠に「誰だテメー」の扱いのままでいたいのだ、その「誰だテメー」に毎回答えるために、ささやかでも名乗りを上げるしかない。

知り合い術よ、滅びよ。

滅びよというのは言い過ぎかもしれないが、知り合い術はソウルプレイヤーの真逆にあるから、そこは峻別しなくてはならんのだ、<<自己紹介で名乗るのを金輪際やめよ>>、名前ってそういう機能のモンじゃないからよ、この現象とソウルの主が九折さんというらしいというだけで、それ以外に人の名前なんか知り合いになってもしょうがない。
試みに、自分の名前を「○○△△です」と名乗ってみるとわかるのだが、そのあとって、職業・住所・出身地・学歴とかを続けそうにならない? それって履歴書の情報であって、「身の上話」からの知り合い術だから、名乗るってそういうことじゃないんだよ、世界に名乗りをあげろ、世界の側はあなたの出身とか学歴とかキョーミないよ、あなたの現象とソウルを示してそのことに名乗りを上げろ。

できるオンナだね | comments(0) |
新年の抱負
年の抱負、なんて考え出すと、たくさんありすぎてキリがない。
とりあえず、打開的にヤリます、ヤリまくります、ということと、なんというか、生産量を爆上げしたいかなと/あと、「世界に名乗りを上げさせる」だな、このことは「対等」ということと絡み合っている(もちろん意味不明だ、この書き方では)。
生産量を爆上げしようとすると、やはり、生産量という次元そのものを越えねばならず、そのためには、自分で年末に書いたことがヒントになるだろう、元あったやさしさのところに帰るのだ/といって、このことが一番、妨害されまくるパターンだから、降り注ぐ妨害のことを思うと今から気が重いのではあるが……
「対等」というと、「平等」ということで、何やらうつくしい価値観のように思われているが、いやいやとんでもない、「対等」というのはたいへんナチュラルに怖いよ、ありとあらゆる窓から常に「対等」な人が飛び込んでくるんだぜ、そんなおっかない世の中はこれまでになかったぞ。

まあそれはそれとして、恋あい論も書かねばならないし……忘れそうなのでメモしておこう、おそらくタイトルは「恋あいは何も起こらないのが正しい」になると思われる。
「対等」というのはおそろしくて、対等というのはつまり、「四十年間、死力を尽くしてきました」という人と、「四十分間、頑張ってみました」という人が、「対等」になってしまうということだ、このびっくりな仕組みが、とても身近に浸透してきてしまっている/「対等」ってつまり「永遠に差分は無しね笑」ということだから、なかなかそれだけで恐怖じゃないか。
「対等」ということに関連して、「視える」ということもそうなのだが、どういえばいいのか……僕のところに、今あれこれ勉強しに来ている人がいるという状況があるが、いくら勉強しに来たとしても、おれのことを見て「がんばっている」と見えないなら、おれから学べることなんて一ミリもないぜ、これがまずいのだ、だいたい自分が頑張っていることだけ見えておれのことは頑張っているとは見えないのだから、おれから学べることなんて何一つない/人は自分の視える先にしか進めないものだ、たとえどんな不本意なものが「視える」にしてもだ。
そうして冷静に考えると、新年だからといって何らイケイケになれるというわけでもないのだが、でも新年だからイケイケにいこうかな、けっきょく最後に通用する外貨は「学門」という一言だと思う、誰が最後まで学門に食らいついてゆけるだろうか。

学門に差がある世界を夢見ている。

「対等」って怖いよなあ、「対等」の強制性があるから、学門の差において矛盾が生じる、この矛盾が、人の絆を破壊してまわるのだ/「対等」ってつまり、自分よりスゲー奴を認めない、殺せ、という思想だぜ、そのへんが僕にはわからない、僕は自分よりスゲー奴はただ「スゲー」とよろこぶようにしか捉えられない、自分よりスゲー奴がいない世界とかどう考えてもありえねーだろ。
まあしかし、「対等」というのは怖い、ヘッポコ新入社員も、業界で名うてのベテランも、「対等」でないといけないのだ、だとしたら名うてのベテランのほうは大丈夫だが、ヘッポコ新入社員はもう自己を壊滅させるしかないじゃないか、うーん新年の抱負から遠ざかってしまったが、とりあえずそういう壊滅野郎のことは見ないようにしよう、僕は今年は「学門に差がある世界」を、引き続き夢見ていくことにする。
バカをやろうかあ | comments(0) |
謹賀新年

様、新年明けましておめでとうございます、本年もどうぞよろしく。
平成最後の、ということで、卑小の身ながら一般参賀に行って参りました、ものすごい人の数で……お出ましを拝するまでにけっきょく四時間以上並んだな、陽射しが割とあたたかくてそのぶんは助けられたけれども。
天皇皇后両陛下ならび皇族の方々がガラス向こうにお出ましになると、僕はなんというか、思っていたよりもはるかに「こええ」と感じた、今上陛下は古今になく庶民に近しくしてくださる方でやさしい人となりであらせられるけれども、それにしても「うぉおん、なんつーか、やっぱり庶民とは完全な壁があるというか、えげつねえ結界でも張られているのか、目の前におわす一族が、何かとってもコワイですけれども!!」と感じた、このビクッと凍りついてしまうナゾの感覚は、八年前に伊勢神宮で何か黒装束を着た人の姿を見たとき以来だった。
そして、マイクを通して天皇陛下のごあいさつというか、そのお言葉をたまわる感じになるのだけれども、その声が、お年に関係なく異様に「強い」……何か知らんが、僕にはメチャメチャ「強い」声に聞こえた、何かでバシッと縛られる感じがするんだが、とにかく想像していたものとはまったく異なる厳しさがあった、あれが「帝(みかど)」というものか、とてもじゃないが僕のような胡乱者が入り込めない世界だというのがよくよくわかった、僕が紛れ込もうとしたら結界で焼き切れて死ぬのではなかろうか。

不思議なことに、皇宮の中は時間が止まっており(そんな気がするというだけだが)、皇宮内の世界は、大正か昭和か平成なのか区別がつかない、見分けはせいぜい人々がスマートホンとデジタル一眼を持っているということぐらいだろう。
十万人が四時間も待たされるのに、不思議だ、いつもどおり奇声を発する子供が一人もいない、駅前のケンタッキーですら順番待ちすると二分で子供は奇声を発するのに、奇声を発している子供は一人もいなかった/そして、家族連れが多いのだが、なぜかものすごく久しぶりに、家族同士の「仲が良い」という光景を見たように思う、何しろ中学生ぐらいの娘さんが母親をスマホで撮影したりしていた。
僕は天皇制やその歴史についてあまり詳しくないが、なぜか、日の丸の手旗を持って、コート姿のおじさんたちが陛下のもとへぞろぞろと歩いて行く、あの景色を、ずっと昔に見たことがあるような気がする、それはもちろん記憶の錯覚だが、何かそれだけではない別次元の記憶がどこかにあるような気がする/ちなみに、皇宮警護官の振るまいたるや、ワークショップ用語で言うと「顔を使わないこと」、またその相互が「呼応」して「同時に動く」ということが、これほど完璧に表示されていた例もない、逆にそこまで魂を投げ込まないと務められない仕事いうのは本当に大変だと思う、おれにはムリだなあとしみじみ思った。
天皇皇后両陛下、ならびに皇族の方々がお出ましになって、みんなでワーと歓声をあげて終わりだが、不思議なものだ、その参賀が終わると帰り道、とたんにみんな気が抜けて、浅草を歩いているヒマなおっさんの群れ、みたいなムードに変わる、僕はつい可笑しくなって、「みんな急にIQ下がりすぎだろ」と割と大声で言ってしまった。

本年も何卒宜しくお願い申し上げます。

天皇家の実物などを拝すると、僕などは、自分がしょせん、だらしないリベラルのいかれぽんちでしかないのだなあと痛感する/ただそんな僕にも、こうして「国」ないしは「クニ」というものが本当に "ある" のだなあということぐらいはわかった、僕のようなちゃらんぽらんには、一言でいって「こわいっす、おっかないっす」という感興しか持てなかったが……僕には「結界」のノウハウがない(あるわけねえよ)。
元旦には氏神様のところへ初詣にも行き、おみくじは大吉をひいたぞ、おとそを飲んでお雑煮をたべて、ひとしきり正月らしいことをした、「笑ってはいけない」も「よゐこ無人島」もサイコーだったね、紅白では桑っちょがまたも鬼神の如きはたらきを……あとは録画したいくつかの漫才を観て、ウルトラマンDASHも観ないといけない、そうして年末年始は割と忙しいのだった、本年もどうぞよろしく。

バカをやろうかあ | comments(0) |
No. 386「僕の越えたかったもの」

掲題のコラム、本サイトのほうにアップロードしました。

→No. 386「僕の越えたかったもの」

みなさま、よいお年を!!!

九折空也
 

そのほか | comments(0) |
月刊ワーQショップ 第四号「Yes」

pdf[A4]42頁
→月刊ワーQショップ 第四号「Yes」

月刊ワーQショップ12月 第四号「Yes」をアップロードしました。ご笑覧ください。
(ブラウザから閲覧するとまれに文字化けすることがあるので右クリックからダウンロードしての閲覧を推奨申し上げます)
ご寄稿のみなさまありがとうございました! 九折


第一号はこちら→「創刊号」
第二号はこちら→「夢中」
第三号はこちら→「軽薄」

そのほか | comments(0) |
「言葉」は人のものではなく、「話」もまた人のものではない

般に、言葉は人の発明物だと思われているが、僕はそうではないと唱える、まあ立場ある学者ではないので好きに唱えても別にかまわんだろう/僕は言語の素(もと)と呼ぶべき、「言葉」という現象ないしは現象野が先に存在していると感じる、一般に言葉と呼ばれている言語は、その「言葉」という現象野に脳や精神や魂がアクセスした結果として出力されているにすぎない。
もちろん、人がいちいちそんなヤベーものにアクセスしていたらたいへんなので、一般的にはそんなところへアクセスはしていない、一般的には単に「記憶」の中から情報化された言語を引っ張りだして再利用しているにすぎない/だからわれわれが詩文を朗読しても、たいしてイイ感じのものに聞こえない、歌唱力以前に詩文を読み上げるという営為の事象次元が違い、われわれはしょせん言語と意味の記憶に自分のキモチを乗っけているだけだ、そんなもので真の感動が生じるわけがない(ニセの感動は生じえます)。
さてここにおいて、ちょうど年末らしくて具合のいい、新しいことをみんなに伝えることができた、これは僕自身はかなり以前に薄々感じていたことなのだが/「言葉」が人の発明品でない以上、実は「話」というのも、人の発明品ではない、これこそ一般には「はあ?」と一蹴されそうなことだが、僕はけっきょく「人」に物語を創作する能力はないと確信している。
「話」という現象は不思議だ、色んなことが、聞いていて「話にならない」ということがあるし、いろんなゲームやアニメや映画についても、何か一つの「話」としてまとまりがないというか、「ニセモノの話」にしか聞こえないということがある、それに比べるとたとえば「ドン・キホーテ」の物語なんかは、著者セルバンテスの創作のはずなのだが、なぜかあの滑稽話の連続が、「ニセモノの話」というふうには聞こえないのだ/それはけっきょく、「話」「物語」というのが、実際に人の創作などではないからだ、それはモーツァルトだろうがリストだろうがボブディランだろうが同じだ。

まだ言語になる前の、言葉の「素(もと)」なる現象野があるとして、話や物語というのも、まだ具現化される前に、その「素(もと)」となる現象野が存在している、これらの現象野はけっきょくひとつのものでしかないとも思えるので、言葉の素も物語の素も、音楽の素もダンスの素も同じひとつの根源野なのだろうが(僕はこの根源野を総括して「言葉」と呼んでいる)、まあそれはいいとして、とにかく人に話を「創作」する能力なんてないのだ、人が「話」を作れるとしたら、それは何かしら「神話」からの影響や派生、あるいは類型を帯びているときだけだ(そしてそれはけっきょく、人が創作したわけではないということだ)。
だから、何かしらフィクションの営為に向かおうとする人にとっては、ある意味究極のネタバラシなのだが、自分で何か話を創作したり、演じてみたかったりしたら、何かしらの「神話」に接続しなきゃ100%ムリだ、なぜなら「話」の出力元は人にはなく神話にしかないからだ/これってたぶん、知っている人は最後まで秘密にしているというか、秘匿し続けているような気がするが、そんなケチなことをせず、バラせばいいじゃんと僕は思う、もちろんバラしたらバラしたで、曲解して面倒くさくなったブツと人が大量発生するに決まっているけれども……
何かしら、根源的な現象野に、言語的・物語的な人が接続すると、その人がニセモノでない「話」を語りだすのだが、その語り出すものの中で、最も元型に近いものを「神話」と呼んでいる、つまり神話というものが一番、根源的な現象野を写し取ったナマ写真に近いということだ/認識不能の根源野から、ギリッギリで認識可能なものに落とし込むと、それはたとえば神話になるということ、これが原理なので、この原理から逸脱したほうへ「創作!」とやる人は、理論的に筋が悪くなる(かといってもちろん、神話に似せただけというのでは、その不誠実さは呪いでも受けそうな気もするが)。
まあ何にせよ、われわれの知りうる「話」という現象は、実は人の創作ではなくて、根源野から神話を経てわれわれの末端に現れているにすぎないということ、図式化するなら[根源野→神話→ナゾめいて荘厳な話→わかりつつミラクルな話→俗っぽさの中にも光がある話→光がないが故に俗そのものが表される話]というような感じになる、この構造の中にないものをどうひねくってもそれは「話」にも「物語」にも「ストーリー」にもならないし、その中に登場する「人」というのも存在しえない、全部がニセモノのツクリモノになってしまう。

数々の物語の中心には、必ず神話、もしくは巨大なデーモンがある。

この場合、デーモンというのは必ずしも悪いものではなくて……というのは、デーモンだって本当は光の国を目指しているからだ、ただ安易にデーモンの力を借りると、自分の身や精神が持って行かれるので、原則としては神話を基準に取るべきだと僕は思う(といって、デーモンだって神話の中からしか登場しないものだが)。
中心に巨大なデーモンを置くと、実は「話」を作るのは(「話」を引っ張ってくるのは)、けっこうカンタンなのだ、でもそれがカンタンということは、何かしらの代償を支払うということでもある/中心にデーモンを置けば、デーモンは「力」の属性だから、ぐいぐい力を引っ張ってこられる、僕はこのイージーすぎるやり方に、それがイージーすぎるという点において否定的だ、つまりB級サメ映画や、残虐グロサイコ漫画と同じだな、もちろんそれらだって「力」を持っているので、トルストイの書く小説よりは即効性でウケるのだが、本質的に読んで字の如く「邪道」なやり方ということになる、漫画ドラゴンボールの中心にあるのはピッコロ大魔王でもなくフリーザでもなく、やはり「神龍」であるべきなのだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
やさしさと粗挽きと細引き
ークショップの打ち上げで、鳥貴族で飲み会をして、ゲラゲラ笑って、ウダウダ話した/「グラビアアイドルの反対は星空だ」と僕は言った、「恋あいというなら、女を見て星空が視えなきゃいけない、女を見てグラビアゆっさゆっさを見ているようでは、それは恋あいではないなあ」。
「やさしさ」という、ナゾの現象がある、「やさしさ」はそれだけでテーマであり、それだけで作品たりうるし、それだけで存在の定義になる/だが「やさしさ」の正体が何なのかは、未だ知れない、やさしくしようという意図だけでやさしさに到達できるなら、誰だって洗顔のついでに済ませていよう。
僕は「やさしさ」という、ひとつの世界に、いつでも逃げ込めることを知っている、それはやさしい誰かのところに逃げ込むというのではなくて、やさしさそのものに逃げ込むということだ、まるで細かい砂粒が漉し器の目を通り抜けてしまうように/それが何なのかはわからないが、ふっと細かい砂粒になって流れ込む先だということは知っている、小さすぎる砂粒は、善悪の尺度最小より小さいので、もはや尺度という事象で計測することができない。
僕は別に、誰にやさしくしているつもりもないのだが、みんな何かが「やさしい」と言う/「本体がやさしい」「そりゃサブパーツがやさしいとかねーよ」「それはもう文章にも滲み出ている」「へえ、そうなのか」、やさしさというのは、僕にはよくわからないが、僕は逃げ込める先を知っている、そしてその逃げ込んだ中からしか何かを書いたり話したりすることはできないということも、経験上いやというほど知り抜いている。

こういうことを言うと、ちゃんとした人に怒られるので、ナイショの話だが、夜明けには氷の張った世田谷公園にいって、半年間お世話になったことのお礼に、お参りする具合にした/そこで数分だけ、来年やりましょーねというネタで、合気道でいうところの一教と二教をやった、特に二教がきれいに決まると「ふんおっ!? なんじゃこれ!」となるので面白い(二教に痛みはまったくない)(もちろん有段者に掛けているのであり、ただのか弱い女性をいびっているわけではない)。
「どこでこんなワザを……」「なんでか、寝て起きたらわかっていた、やり方を知っていた」「ふえええ」「相手は打つ部分や掴む部分が、イケイケになるわけだから(その部分の感受性を頼りにするわけだから)、この部分は殺してはいけない、この部分はどんどんいかしてやればいい、だから二教のとき、相手の手は下がるんじゃなくて浮き上がるんだよ……それで、反動でこうしてやると、自分で勝手にポーンと飛んでいく、ほいっ」「うおっ!?」、まあ一応メモとしてそういうふうに書いておこう、こういうのは忘れるたぐいのことではないけれども。
僕は、「やさしさ」という現象を、パラメーターではなく「次元」という単位で知っている、「やさしさ」にどのていどの段階がありうるのかは知らないが、少なくとも星空が視える次元まで到達しないと、言葉とか物語とかは視えてこない。
「星空が視えて、星空の下に人が視えるようになると、 "人" というのが、物体ではなく物語の中にいるのが視えるようになる」「……今、ふと思ったのですが、あなたはわたしを、あくまで世界と切り離さずに見てくれるように感じるのです。それがやさしいということかもしれません」「あーね」。

粗挽き ← 中挽き → 細引き → やさしさ

なんだろうか、仮に魂に、何かしらの「凝り固まり」があったとして、その団子になった凝り固まりがほぐされないかぎり、くぐれない格子があったりするのだろうか/よくわからないが、確かに、僕は誰にやさしくしようとも考えていないが、それぞれの魂がこの世界と、物語とにつながって、みな星空の下にあるようにと、そのことばかりを考えている、それは僕の意図でそう考えているというのではなく、僕にとって考えるとか感じるとかいうことはその次元においてしかない。
端的には、誰にも「世界につながれ」と思っているのだが、特に健気に生きてきて、今もなお清潔な叫びを抱えている者は、そのまま放置されているのはかわいそうだと思うのだ、いかにも大きなお世話とはわれながら思うが/そこは年長者の義務と権利だとうそぶくことにして、僕は誰もが格子から出て世界につながることを望んでいるし、同時にそのことが、みんなが思っているような甘いことではないということもいやというほど知っている。
そのほか | comments(0) |
新たなナゾ、「自分から教わろうとする」ということ5
「わからん」というのが正常な状態であって、「わからん」を持たないものはカミサマだけだ。
その点、「わからん」という表情をぶら下げて、「教えてもらおう」「助けてもらおう」とパニクっている者を見ると、これはさすがに許しがたく感じる。
なぜコイツは、最低限、アレクサンドリア大図書館にある書物をすべて読破したわけでもないのに、自分の「わからん」が「大ピンチ」になるのだと、説明不能の怒りを覚える。
仮に、お釈迦様の亡き後、羅漢様が多数いらっしゃって、その中でも読み解けない経文があったりしたら、そのときにはわずかに目元にピンチ感がただよってもおかしくないのかもしれない、それに比べてわれわれの「ピンチ感」って……日経新聞に書かれていることの半分もわからない者が、なぜいまさら「わからない」ということでピンチ感を出すのか、これはもう根こそぎ間違っているので、これからチャーハンにウーロン茶を入れて一人で大ピンチになり続けるように。

ピンチしのぎの「わかる感」を求める奴は、本当に中学校に戻るように、いやこれは冗談でなく、そうしたことが精神安定に必要な人も本当にいるのだと思う。
2たす2は4ですよ〜ということを、先に入力されておいて、テストに「2たす2は〜」と出されて「4! 4!」と答えたら、マルがもらえるし、わかる、わかっている、ということになるのだろう、実際そういう精神構造で、ルーティーンワークとして生を過ごさねばならない人がいるのも知ってはいる、だがそれは残念ながら学門ではない。
当たり前だが、すべての学門は「わからん」のだ、この世の物質はすべて原子から出来ていますというのも、それが一番矛盾無くすべてを説明できる「仮説」ですということにすぎない、これを「原子を知っているから物質がわかります」と捉える奴は、どうあがいても学門に触れることはできない、どれだけ成績がよくても、それは学門の取り組みではない。
「わからん」のが、正常の状態で、神ならざる身にずっと続くことなのだ、これを「わかる」に貶めようとすることはたいへん投げやりであって冒涜だ、自分から教わろうとしろ、自分から教わりにいけ、それはわかるためではなく、追究しつづけるためだ。

あなたが持っているのは、「わからん」か「不満」のどちらかだ。

自分から教わりにいかないのは、あなたが持っているのが「不満」だからだ、こんな馬鹿げたことがあってはならない、ただちに修正しろ、あなたは重大な誤解をしている、あなたはどこの正解.comというサイトを検索しているのか知らないが、「わからん」ということがすべてのときめきだ、解決を欲しているのはあなたが安易に自分をカミサマだと思い込んでいるからだ、「わからん」というときめきがあれば、あなたが自分から教わりにいかないということはない、あなたには誰かに訊きたいことが具体的に山積みのはずだ。
学校教育の方式はすべて忘れよう、学校の先生が「わかっている」のは、学門を取り扱わず、テストを取り扱っているからであって、そのテスト問題を自分で作っているからだ、学校の先生はその意味で「わかっている」にすぎず、だから生徒たちに対して壇上から「わかるように薄めたエキス」を注ぐことができるにすぎない、あなたはそれをこぼさず飲めばテストで満点を取れるが、この方式のことは全部忘れよう、テスト用の知識だって基礎知識としてすごく大事だ、それを教え込む苦労だってあるには違いないが、もうこの際は関係ない、あなたは先生と呼ぶべき存在が、「わからん!!」ということに向けるきらめく眼差しを見たことがない。
できるオンナだね | comments(0) |
新たなナゾ、「自分から教わろうとする」ということ4
大の効率を上げるために、端的に言うと、あなたには「わからん」という機能が欠損しているのだ、脳みそにデカい穴が空いていると思え、脳みそに穴が空いたまま無意味にニコニコしているブキミな奴がアタシです〜と思え。
人には本来、「わからん」という機能があって、「わからん」ということは、それだけでエキサイティングなのだ!! 「わからん」ときらめくことが知性なのだ!! それが脳みそに穴が空いているやつは、何がどうなっているのか、世の中で和菓子を見るたびに反省しろ/脳みその中にはどうせアタシ大王みたいなものが棲みついてよくわからないことをハアハアやっているに決まっているのだ。
真空状態で、音は伝わらない、音は波だからだ、波は媒質がないと伝わらない、「あれ? でも宇宙って、電磁波は飛ぶよね」「太陽光とか、光だって電磁波だもんね」「なんで波なのに、電磁波は真空でも伝わってくるの?」と、そのことを「うお、わかんねえ」とよろこべ、興奮しろ、わからなさに絶頂しろ、「明治維新を為し遂げた人たちって、田舎の藩なのに資金はどこから工面したの?」ということぐらいわからなさに跳ね回って悶絶しろ。
民主主義は多数決の主義だけれど、初めにその「民主主義にしよう」っていうのは誰が言い出すの? えらい人が言い出すの? でもそのえらい人は多数決で選ばれてなくない? だって民主主義の前なんでしょ? ということに、たまらなくなってディープキスしたくなる衝動を覚えろ/ありとあらゆる瞬間に、無数の「わからん」と出会うこと、それが学ぶ奴の大前提だ、ここをボサーッと受け身になっている奴は決して何かを学んだりできない。

「このナチュラルターンって足首を使うの?」「ダンスサークルってやっぱり大学から初めてという人が多い?」「ん? その心不全に対して利尿剤ってどう効くの?」「やっぱ季節ごとに作物のシーズンとか感じ取るの?」「これって英語圏だとどういうニュアンス?」「今でも色鉛筆ってファーバーカステルが一番偉いの?」「郵政民営化されてから営業ノルマとかは課せられるようになったの?」「ワザを一通りかけてくれ、かけてくれんとわからん」「その案内をどう出すかは君の裁量範囲なん?」……よくよく考えたら、おればっかり訊きまくりじゃねーか、こりゃ根本的にここが違うんだよ。
おれは何に対しても、興味なんか持つことはまずないが、興味というのじゃない、「わからんところが見えていないのは自分でも気色悪い」という感覚だ、たぶんこの「わからん」というところを見つける速度と頻度と索野の広さが違うのだ、ただそれだけであって僕の何が優れているということは特にない。
わからんところを訊いたからといって、何かがわかるようになるわけではない、ただ、何かを「視える」ようにしようとすると、わからんところをわからんままに放っておけない場合がある、そりゃそーだ、エンジンを無視して自動車を視えるようになるというのは明らかに無理だ/エンジンというと、特にホンダは「エンジン」というイメージがあるが、それだってホンダのエンジンがどう違うのかは「わからん」ので、もしホンダのエンジニアと出会うことがあったら真っ先にそのことを訊くだろう、それは興味からではなくて、おれがこの世界を「視る」ためだ(だからどいつもこいつも協力しろ)。
以前、数年ぶりに、学生時代の後輩と電話がつながることがあった、そのときたまたま僕は――そいつは和菓子屋の跡継ぎだったので――「あのさ、ちょっと訊きたいんだけど、小豆を茹でるときって、茹でるときに味をつけるの? それとも茹でてから後に味を足すの?」と訊いた、すると彼は僕について呆れたように、「いやあ、相変わらずっすね」と言った。

全身の表情に「わからん」と印刷しろ。

それがまともな人の姿だからだ/まったく、ふざけてはならない、ソクラテスがステルス爆撃機で飛び込んでくるレベルだ、釣りキチが釣りに興奮する程度と、自分が「わからん」に興奮する程度を同一にしろ。
「わからん」は始まりであって、「わからん」は結果ではないのだ、それは疑問などという生ぬるいものではない、解き明かして鼻血を噴くためのナゾだ/あろうことか、「わからん」ということに、パニックのみならず不満を持つ奴さえいる、これは正真正銘「このボケが」と罵られてかまわない、この世界はテメーの気分を満たすための消費物じゃない、全員で飛びかかってナゾを解くための世界だ。
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新たなナゾ、「自分から教わろうとする」ということ3

ーるほど、わかってきたぞ、自分でナゾと言っておきながらただちに解決するのはどうかと思うが、まあわかってしまったものはしょうがない。
おそらく多くの人は、「学ぶ」→「わからん」という順序なのだ、これは大損をしている上に脳みそにダメージしか蓄積しないので、訂正する必要がある、耳をかっぽじってよく訊くように、順序が逆だ、「わからん」→「学ぶ」というのが正しい順序だ。
この順序を逆にしているということは、女性の場合、正しくは「洗顔」→「化粧」となる順序のところを、「化粧」→「洗顔」としているようなものだ、そんなものメチャクチャになるに決まっている/冗談じゃなく、それぐらいこの順序の取り違えは精神がおかしい、ブッ壊れているといってよいレベルだ。
多くの人は、「学ぶ」→「わかる」という手続きのつもりでいるので、毎回ストレスで破裂するのだ、ただちにこのことを発見するように/<<あなたの手続きには「わからん」という段階が組み込まれていない>>、だから毎回「わからない……」と焦ってパニックになるのだ。

物事を、信じられない速度で学習・吸収・習得していく奴がいる、そういう奴はどうなっているのかというと、単に「わからん」に到達するのが速いのだ、ただそれだけだ。
「学ぶ」→「わかる」の手続きだと思っている人には、永遠に見えてこないことだが、そうではない、物事を学べる奴からすると、「わからん」ということは「学べる」ということなのだ/よって、どれだけ速く「わからん」に到達できるかが、どれだけ速く学べるかということの支配要素になる。
人によって、「これをどうすればいいかわからないのです」ということに到達するのに、生きながら二十年かかる人もあれば、自分でやってみてただちに、「これをどうすればいいのかわからない」ということに、二十秒で到達する奴もいる、速度差は3153万6千倍だ、まるでドラゴンボールみたいな数値で、こんなレベルの差をつけられていては話にならない。
不毛な仕組みは即刻やめるように/「学ぶ」→「わかる」のつもりでいる奴、これは「学ぶ」→「わからん」となると、パニックになるんだろ、それは根こそぎアホすぎるじゃないか、正しくは「やってみる」→「わからん」→「学ぶ」→「なるほどムズイっすわ」なの、そして「わからん」→「学ぶ」の速度はだいたい誰でも同じぐらいだ(誰にとっても「ムズイ」のだから)、ただ「やってみる」→「わからん」の手続きは、人によって何千万倍の速度差がある。

「学ぶ」→「わかる」方式でテストの点数が獲れるのは、「そういうふうにテストが作ってあるから」です。

こんなもん、どこまでアホなんだ、授業があるからテストが課されるのじゃないぞ、テストが課されるから授業があるだけだ、授業なんてテストの設問を水で薄めて生徒に飲ませているだけだ、よくよく考えろ、学校の先生と一度でも学門の談義をしたことがあるか?(ある人はごく例外的で幸福だ)そして入学当日に全教科テスト満点を取れてしまったらそいつは授業を聴く理由がもう何ひとつないのだ、少なくとも現在のところ、学校はテストのためにしか存在していない(もちろん幸福な例外が多数あることを祈ってはいる)。
学校の授業というのは、90分のテストを、15回の授業に薄めてあるだけだ、一方で最先端の物理学者たちを見ろ、あいつらは毎日「わからん!!」という最前線にぶつかり続けている/なぜあなたにはわからんことがないんだ、「水は100℃で気体になりますけど、常温でも水蒸気はあるし、洗濯物はフツーに乾きますよね……?」と考えたとき、なぜ「わからん!!」とならない、その「わからん!!」に到達するまであなたが何かを学ぶということは決してない。

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