☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「認める」人と、「許す」人2
、世界一きれいなピアニスト、みたいな女性に、「レンタカー借りるからドライブいこうぜ」と誘ったとき、「助手席に乗せてくださるの!?」ときれいな声ではっきり言われて、逆にずっこけそうになったのを覚えている。
そう考えると、逆にふだん、どれだけ「許す・許さない」のスタンダードを生きているか、浮き彫りになって気づかされる/ふつう僕が女性をデートに誘ったとして、たいていは「いいよ」と "お許し" をいただくのが定番のはずだ、「助手席に乗せてくださるの!?」はとんでもないイレギュラーだろう。
たいていの人は、己を「許す・許さない」の主体において、その絶対自己を自分の安穏のキーファクタにしているのだが、これがすべての安穏を担っているため、これを取り外すことは今さらできない。
なぜそれが、安穏のキーファクタになるかというと、「許す・許さない」という絶対自己をもって、無意識に「グレートな自分」を確保しているからだ/たとえば近隣で秋祭りが開催されているのを見て、「こういうのは健全でいいよ」と、「お許し」を自ら下賜する、そのことによって無意識に「グレートな自分」が成り立っており、この満悦が日々の己の安穏を支えているのだ、これを取り外したらまるで自分は小さい何者かになってしまうので、これを取り外すことはとてもじゃないができない。

営業マンの人は知っていたらいいと思うが、特にこのごろ、人は自ら「お許し」を下賜することにご執心だ。
だから、何はともあれ「グレートな存在に "お許し" を乞う」というスタイルで臨めば、自然で無理のない営業スタイルが見えてくると思う/商品の値打ちうんぬんではないのだ、基本は「グレートな存在に "お許し" を乞う」であって、そうすれば顧客はグレートな自己を確保するためにあるていど胸襟を開いてくれるだろう。
端的に、事実だけを申し上げるなら、どうやら多くの人にとって、何かを・誰かを「認める」ということは、それじたいで耐えがたい苦痛らしい、どだいグレートな自分を確保しているから今のところ安穏と生きていられるのであって、そこで自分でない何かをグレートと認めるということは、自分を矮小・卑小と認めるということだ、そのことはとてもじゃないが耐えがたく、プライドや自尊心の問題もそうだが、それ以上に日々の安穏がすべて失われるということが耐えられないのだ、それは心理的な問題というより事実として個人の耐久力を超えてしまうという問題であって、もはやカウンセラーがどうこうできる問題ではない。
僕にとっては、わけのわからなかったおばさんの、唐突な発言「許します!」だったのだが、今になってこれは、姑息的ではあれ救済のワードだということがわかる、それは「認める」という地獄の苦悶の反対側にある、やはり不明の救済の甘露だ、何の脈絡もなくても「許します!」と言ってみるとわかる、なぜか甘く安らいだ気分が体内に立ちこめてくるはずだ、それはどうやら「グレートなわたし」という甘露らしい。

子猫のいたずらを「許し」、政治家の不出来を「許さない」と唱える、すると「グレートなわたし」が得られて元気が出る。

ふーむ、よくよく見ると、現代人はこうやって、ギリギリ生きる気力をつないでいるのかもしれない、自己の生が偉大な何かとつながらなかった場合、正直なにのために生きているのか人はわけがわからないものだから、とりあえず心理的報酬の甘露に準じて、「グレートなわたし」をやっておけば、とりあえず今日と明日のぶんの生きる気力は得られるということのようだ、ほとんどの人はその許す・許さないの「グレートなわたし」を満喫するために、YouTuberやテレビを観ているのかもしれない。
このことの事情の、のっぴきならないことは、ある意味僕にもよくわかるのだ、僕の場合は「偉大なるおれさま」であって、偉大なるおれさまはフィクション上の事実だから何の問題もないのだが、おれだってこの「偉大なるおれさま」がないのであれば、生きている意味なんてただちにゼロになってしまう、だから状況は似たようにお互い様だと思う/ただおれの場合は、何かまったく別の、縁もゆかりもないヨソのものを、許すとか許さないとか、そういうことで「グレートなわたし」を得ているわけではないということだ、正直便利だからiPadを使っているが、そのタッチパネルを操作していたからといって自分がグレートとはツユ思わん……あれ? このことには何か大きなヒントが隠れているみたいだ。
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「認める」人と、「許す」人

、とあるおばさんとのやりとりで、突然「許します!」と言われて、驚いたことがあった/その切羽詰まった調子と共に、突然の「許す」という脈絡がまったく意味不明だったのだ。
今になって、ようやくあのときのナゾが解けるようになった、人には二種類のタイプがあって、言葉尻はどうであっても、本質的に「認める」タイプと「許す」タイプがあるのだ。
たとえば、芸能人が何かスキャンダルをやらかしたり、あるいはアイドルが誰か恋人と付き合っているのがバレたりすると、「許さない」「許せない」という炎上が起こる、僕はこの「許せない」という語が出てくることにずっと首をかしげていたのだが、今はそれが人の本性なのだとわかる、自分とアイドルタレントには何らの権利関係もないと思うが、それでも人は「許す」「許さない」という絶対的な自己を持っているものなのだ、少なくとも「認める」という機能を持たない人においては、その「許す」「許さない」という絶対自己がこの世における自己存在の本性になる。
今、僕が書き話しているこの記事についても、単に「コイツ面白いことを言うなあ」と「認める」タイプと、「この人は面白い話をするわね、だからそのことを許してあげましょう」と「許す」タイプがいるのだ、単純な数的割合でいうと「認める」のタイプのほうがずっと少ない、これは時代の風潮とも関係していて、今は「認める」のタイプはぐっと少なくなった。

たとえば、仮に僕がヒルトンホテルに泊まったとして、その室内の清掃が、思いがけず不十分だったとしよう、僕はそのことに対して腹は立てないが、内部で「社会通念上、ヒルトンホテルという伝統と格式において、この行状は債務履行と認められない」という感覚があり、場合によってはフロントに「清掃が不十分だ、先泊者の使ったカミソリが放置されている」と連絡する/僕はそのとき、ヒルトンホテルの支配人にとっても、そのような行状は自分たちの格式において「認められない」と同意してくれるものだと思っている。
が、一方で、そうして清掃が不十分な状況に面したとき、「許せない」という感情を覚える人のほうが多いのだ、僕にとってはそこに許す・許さないのフェーズがあるようには思えないのだが、「許す・許さない派」の人は、常時そのフェーズの中を生きているので、常に第一の思念(かつ唯一の思念)は「許す・許さない」になる、それでフロントに連絡すると、破裂しそうな怒りに満ちて「前の人の使ったカミソリとか残っていて、ちょっとありえないんですけど」という調子になる。
いくつかの説明を省いて、簡単に申し上げると、たとえば嫉妬という熟語がおんなへんを持っていることのように、「許せない」の現象は基本的にメスジェニックだと思う、今や多くの男性もメス化しているので、今さら男性と女性を区別する必要はないが、現象のオスメスでいうと、この現象はメスジェニックだと僕は捉えている/つまり嫉妬というのも、単なるジェラシーの感情ではなくて、本質的に「許せない」という感情なのだ、クラスメートの誰かが高い靴を履いて海外旅行にいったということが、自分と身分差がありすぎて「許せない」という感情になる、他人の靴と旅行が「許せない」というのは文脈が意味不明だと僕は思うが……この「許せない」の反応はメスジェニックで、つまりジェニックなのでスタディを必要とせず血の性質として現れてくる。
あるいは、たとえば今テレビ番組の様相を見ていると、視聴者とテレビ番組の関係において、視聴者の大半はテレビ番組およびその出演者を、常に「許すか」「許さないか」の視点で監視し続けているように思う、不穏当な発現をする誰かを、「認められない」とは感じず「許せない」と感じ、自分の趣味に合わないお笑い芸人を、やはり「面白くない、とてもじゃないけれど許せないなあ」と感じている/だからYouTuberもその他のメディアも、視聴者の「許せる」「許せない」の感覚を狙ってコンテンツを放出する仕組みになっている、極端に「許せない」ものは炎上して伸びるし、極端に「許せる」ものは、たとえば子猫が甘えてじゃれるような映像として、やはり再生回数を稼いで伸びる。

どこにも誰にも、今や「熱気」が見当たらないのは、「認める」ではなく「許す」に事象が変わったからだ。

たとえば夏フェスのようなイベントがあったとして、壇上で唄っている者たちが、聴衆達に認められているのではなく、「許されて」いるのだ、だから壇上の者たちはずっと萎縮して唄っている、聴衆から許されるために聴衆の機嫌をとり続けているのだ……たとえそのときは許されていても、何かひとつのミステイクをすれば、とたんに「許さない」に切り替わって、今度は炎上の具材に供されるからには/どれだけ許されていても、何一つ認められているわけではないので、すべては監視者の胸先三寸にすぎない、そういう状況がずっと続いていく、その中を人々は顔を伏して生き延びねばならない。
僕の現在の住居は、商店街に近いので、たまに誰かの自転車が軒先に停めてあったりするのだが、それについて「邪魔だな」と感じることはあっても、それについて「許せない」という感情は僕のうちに起こらない、別に認めるというほどのことはないが、誰だって自転車で気楽にうろちょろして、ちょこっとそのへんに停めて用事を済ませたいというのは、わかるというか、誰だってそうだわなと、僕は認めている/僕には第一に「許す・許せない」が出てくる人の感覚はわからないので、おそらく逆側からも、第一に「認める・認めない」が出てくる感覚はわからないのだろう。

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全身と魂が「しっくり」いくということ2
「このことのためなら、なんだってやるわ」という体験・宣言・行為へ到達すること。
ただし、「このことのため」というのは、むろん単なる我欲であってはならないし、偽装された善意であってはならない。
方法のひとつは、自身で「このことのためなら、なんだってやるわ」と到達するか、もしくは、その体験・宣言・行為に到達した人を「認め」、「この人のためなら、なんだってやるわ」と関係するか。
つまり、「特製の魂」が降ってくることについて、自身で到達するという一次的なアプローチと、到達している誰かを認めるという二次的なアプローチがある、たいてい実際的には、その両方があるていどミックスされて成り立つようだ、どちらかだけで構成されているというのはむしろ極端で珍しい例といえる。

そして実際的には、多くの人は、その「特製の魂」の獲得に到達した人のことを、かなり初期のうちから無視・否定・侮辱してきており、そのとき以来、「全身と魂がしっくりいく」ということを、可能性じたいから失っている。
なぜかというと、その「特製の魂」が目前に示されたとき、人は「理由のない憎悪」を覚えるからだ、だからこれを否定し、嘲笑し、謗り、罵ることを、ついやめられないのだ、それはもともと人の身が天国に所属していないことから起こっている/そりゃもともと天の国から追放されてきたというストーリーなのだから当たり前だ、そこは仏教でもキリスト教でも変わらない。
そして構造上、その「特製の魂」を得ている人を謗り・侮辱したときに、こんどは天から降ってくるのではなく、地の底から這い出てきた何かに、体内に入り込まれているはずだ、これは「特製の魂[逆]」と呼んで差し支えなく、この魔物が人に「力」を与えてきた/学級の派閥でも職場の派閥でも、思い出してもらえればわかると思うが、性根のどぎつい奴が覇権を取っていたはず、それは謗りと侮辱のうちに地の底から魔物(特製の魂[逆])を引き入れていたことの力による、それはまた魔物からのご褒美というか報酬ということでもある。
体内に特製の魂[逆]が入り込んでいるので、たとえば残虐なマンガや残虐な映像、あるいは人を苦しめる責めの口論や、社会的「炎上」を見ると、入り込んだ魂[逆]が癒されよろこぶのを感じる、そのときはまた力を得たようにも感じる/が、次第に自分の魂が、当然ながら地の底へ連れてゆかれることが直観され、そのことが恐ろしくなってくる、けれどもそのときにはすでに特製の魂[正]とはとてつもない距離が開かれていて、しかもこの距離を埋めるのは炎の試練となるので、とてもではないが耐えがたい、だから今さら「このことのためなら、なんだってやるわ」と体験・宣言・行為に到達している人のことは、とてもではないが認められないということになる。

特製の魂[逆]が、全身に「しっくり」いこうとすると、全身どぎつい奴になるしかない、そしてその予感はすでにほとんどの人にあるはずだ。

われわれは生身を、抑圧的にコントロールできるので、特に筋肉でムキムキにすれば、そのコントロール力は強くなる、そしてその生身を魂と「しっくり」いかせようとすると、正であれ逆であれ、特製の魂と接続するしかないのだが、[逆]と接続するということは、つまりもう戻ってこられないどぎつさの何かになるということだ、そのどぎつさにはいくつかの種類があるが、事実、われわれはそうした全身のどぎつさに行き着いた人を何種類か見てきている/あれはけっきょく、全身の抑圧を、けっきょくやめざるを得なかったということだ、誰だってやがてはそうして、入り込んだ「特製の魂」に支配されるよりなくなる。
単純に考えると、人の身にはカルマがあって、カルマのままにあれば特製の魂[逆]を地の底から呼び込み、カルマを償却して超えられれば、特製の魂[正]を呼び込めることになる、カルマを償却するのは実に炎の試練であって、だからこそいわゆる「このことのためなら、たとえ火の中水の中」と言うのだが/誰だっていざとなれば本気を出すという、つもりを持って生きているものだが、その本気を出す予定には、自分が青ざめるというプロセスが組み込まれていない、これまでずっとバカにして力を得てきたものを、今さら認めるなんて屈辱に人は耐えられるものではない。
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全身と魂が「しっくり」いくということ
日、ふとしたときに、何かの魂が――仮に「魂」なんてものがあればだが――、バリューセットのように何かの三つの連なりになって、人の身にふっと降りてくるのを見た。
そして直後、その人の全身が、降りてきた魂と「しっくり」ゆき、急に存在がはっきりと、かつ穏やかになり、また存在として急に「近く」なるのを見た、「なんじゃこりゃ」と思ったものの、同時に何か気づかされることがあった。
なぜそのように気づいたのか、脈絡ははっきりしないのだが、全身と魂が「しっくり」いくためには、大前提「このことのためなら、なんだってやるわ」という体験・宣言・行為が必要らしい/そのことなしに、全身と魂が「しっくり」いくということは、どうやら仕組み上決してありえないらしい。
われわれは生きているし、事情があろうがなかろうが、基本的に生きていくのだが、この無条件に「生きていく」というシステムの中で、単に生きるということから離脱した、「このことのためなら、なんだってやるわ」という体験・宣言・行為が一度でもあるか、そのことが全身と魂が「しっくり」いくということのトリガーらしい/つまりこの要件を満たしていないかぎり、全身と魂は永遠に「しっくり」いかず、しっくりいかないまま漠然と生きていくしかなくなるらしい、それでもちろん加齢と共に身体はガタガタにズレてしまう。

「このことのためなら、なんだってやるわ」、あるいは、「この人のためなら、なんだってやるわ」ということ、それが実は、全身と魂が「しっくり」いきはじめるトリガーになっている。
そして、全身と魂が「しっくり」いかないということ、つまり顔つきや目つきや姿、力加減や振る舞いや声や言葉が、何か「違う」という状態で出力されつづけることは、当人にとって多大な苦痛らしい/そりゃ内部の魂とまったくズレた挙動と感触を全身が発揮し続けるのだから、不快でたまらないだろう、しかもその不快さは周囲の人をも魂と全身において不快にさせるのだ。
僕はもともと(あるいはもう長いあいだ)、自分の全身と内部の魂とが、基本的にしっくりいっている奴だったので、多くの人々がどのような不快と苦しみに晒されているのかよくわかっていなかった/わかりやすさのためにアホみたいな説明をするが、魂といっても「特製の魂」が入り込まないと、全身と魂はしっくりいきません、もともと自前の閉じ込められた魂で自分の全身をしっくりいかせるのは不可能です。
また、「特製の魂」が行き渡っていない身体の各所は、管理するOSが入っていないような状態なので、好き放題に悪霊に入り込まれます、もし悪霊なんてものが本当に存在すればという仮定ですが/それでこのところ、筋トレで身体をガチガチに固める人が多くなっています、筋肉でガチガチにしてしまえば、悪霊も聖霊も入らないからです(悪霊を購入しないかぎりは)、ただし明らかに無理をしているので、心身はコスト分だけ損耗していきます。

特製の魂が入らないかぎり、全身と振る舞いはガタガタだ、安心していい。

「安心していい」というのは奇妙な言い方だが、仕組み上それで「合っている」ので、何も慌てなくていいということだ、きっと何をどう努力して、何をどう勉強して、何をどう改善してみても、けっきょく自分の魂と全身がズレており、次第に精神的に破滅の予感がしてくるが、それで「合っている」のだ、ここに説明している仕組みのとおりに進行しているので、その恐怖感だけに煽られる必要はない/精神的なクラッシュが、けっきょく全身と魂の乖離から起こるのじゃないかというようなことは、故・河合隼雄も指摘している。
全身と魂が乖離して、ずっと「違う」と感じられる、しっくりこない自分が続き、その「違う」という感触(違和感)は年々大きくなっていくのだけれども、そのことは仕組み上解決されない、自身で「このことのためなら、なんだってやるわ」という体験を得るか、もしくはその体験を得て生きている人を「認める」かでしか、全身と魂の乖離は解決されない、つまり「特製の魂」が入り込むことでしか全身と魂はつながらないのだ、むしろそのようにして解決と破滅がはっきり示されているということを知るためにわれわれは生きているようなところがある。
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WS報告056(4)/生身をお持ちの方も、そうでない方も2

れはすべてのことを、「フィクションだ」「仮想だ」と言っているし、おれの言っていることを信じろとは一ミリも要求しない、むしろその「信じる」という機能を破壊されているからこそ、向き合うことの困難さが浮き立つ、そういう絶望の面白さがこのワークショップの一面としてある。
今われわれのあいだに、人が人を信じるということは成り立たないから、誰かにおれのことを信じろというつもりはないし、そもそもおれ自身、自分が誰かに信じてもらえるに足るほどの何かを持っているとは思えないし、得ているとも思えない、おれは極端に自己評価の低い奴で、自己評価がそもそも「ない」というような状態でいる、だからこれだけ大仰なことを言い散らかしているのに、おれのことを信じると言い出す奴がいたら、「アホじゃねえの」と冷淡なのだ、これはいささか僕自身が極端で病的なのかもしれない。
まあ、それにしてもとりあえず、現代の状況の中であくまでフェアに公正にやろうとすると、「信じる」とかいう前提はゼロにするしかないのだ、誰もおれのことを信じず、ただおれがおれ自身については「こうやっています」と開示するので、あとはおれのことを忘れて、それぞれが個人として同じレベルに到達するしかない、ただしそれが本当に可能なのかどうかはおれは知らない。
卑怯なことに、おれ自身は、これまで色んな人の色んな偉大さを、「すげーなあ」と無邪気に信じてここまで来てしまったので、おれ自身としては、誰のことも信じずに何かまともな果実に到達するというのは、絶対に不可能だと思えるのだが、それはあくまで僕の観点であって、僕の観点ごときで全体の現代性を転覆はさせられない、「誰のことも信じないし、誰のことも認めない」「誰のことも称えない」という前提の上で、あくまで個人の魂だけをもって、もしこの世界に真理があるならその真理に到達せねばならない/だから本当に、おれは情報の開示と提供しかしない。

一方で、おれが実際にみなさんの目の前に立ったとき、おれ自身には何の絶望感も見当たらないだろう、ワークショップは常時、ただのおもしろワークショップとして続いていく/撮影された動画は常に笑い声でみたされていて、再生していると正直その笑い声がうるさいぐらいだ、それはお前らのほうがマイク位置に近いからしゃーないのだが、冷静に考えるとこんなふざけた動画資料はないかもしれない、まあとにかくそのように実際の現場として絶望的なムードはない(当たり前だ、そんなもん続くわけがあるか)。
そして、根本的な跳躍を得る奴というのは、けっきょくのところ放っておいても、おれのことを信じてやっているので(ゼロ秒Yesという)、何をどう思うかというと、「信じる」という経路が一番速いんだなということがつくつくわかる、それで現代の主義を転覆させることはできないが、それにしても合理的に考えるなら、つまり現代の主義は、人々を最悪に不効率化し、最悪にしんどくさせ、最悪に閉塞させているということになる/誰のことも信じず、誰のことも認めず、誰のことも称えず、あくまで自分個人だけが真理に到達するというのは、いわば食事の一切をとらずに一流料理人になるというのと同じだ、理論上は可能だがその可能性に現実味を見るのはあまりにふざけていると言わざるをえない。
でも本当にそういう主義を履行していかねばならないのだから、本当に先が思いやられるというか、何兆年かかるのかという感じがして気が遠くなる、現代においてはいっそ「信じる」というのは、一番ズルい、一番の不正行為かもしれない、「ちゃんと誰のことも信じずやれよ」というのが現代の正義だろう、まあおれなんかは典型的に、正義を気にしないタイプだったので、この卑怯ぶりがサマになっているわけだが……
「生身をお持ちの方も、そうでない方も」という言い方をしていて、あくまで「仮想」だが、仮想するぶんには信じてもかまわないだろうということで、おれは信じてやっている、空間に直線をグリッドするのは、「生身をお持ちでない方」が、数学は視えるからだ、おれが感覚と挙動を数学に収束させると、生身をお持ちのみなさんの「目」(視力)には、おれの輪郭は次第に捉えられなくなり、光にぼやけていくのだが、そのときのおれは生身をお持ちでない方々にはっきりと視えているのだ/おれは人と人のあいだ、つまり「人間」を移動しているのではなく、数学上の直線を移動している、だからいつもワッと集まってきた、生身をお持ちでない方々に囲まれている、おれの姿のどこにも絶望感がないのはそのためだ。

「偉大なものとのつながり度」は、「生身をお持ちでない方々の集まり度」と比例している。

逆のパターンでは、やはり悪霊が集まってきたりもするのだろうか? つまり「偉大でないものとのつながり度」が高いと、「生身をお持ちでない "厄介な方々" の集まり度」も高いのかもしれない、まあそんなことはおれにとってはどうでもよく、おれはただ「結果的にいい果実が生ればいい」という、そのことしか考えていないが/ちなみに生身、つまり筋肉をムキムキにすれば、さしあたって「集まってくるもの」の干渉を遮断できるが、人はいつまでもムキムキではいられず、最後はその筋肉も埋めたり焼いたりして滅ぶので、ムキムキ筋肉バリアは姑息的には人の魂に安穏を与えるが、それは急場をしのぐだけであって根本的な解決にはなっていない、筋肉バリアのすぐ外側にはやはり「どうも」と、「生身をお持ちでないさまざまな方々」が待ち受けているだろう。
われわれにとって、ソウル(霊魂)を仮想するというとき、われわれ自身のそれを仮想することは、なんとなく身近でわかりやすいものだ、けれどもわれわれだけではない、「生身をお持ちでない方々」を想定することは、途端にダイナミックで、意表を突いている/これは技法の根幹をなすものなので、あらためて確かに考えていきたい、人のあいだの人気者ということではなくて、人にとってもっと近く、無碍にできないものがある、「どうしたらいいかわからないまま、何も知れず、何も遂げられず、土に還るしかなかった」という魂の嘆き悲しみが、あくまで理論上はありうる、さすがにこんなにテキトーなおれでも、そこまで切実でおれしか頼るものがない者を、唾を吐いて足蹴にしようとは思えない、さすがにおれも必死で何かマシなことをしようと考えるし、使えるものがあるならなんだって使う。

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WS報告056(3)/生身をお持ちの方も、そうでない方も
くまで仮想として、「生身をお持ちの方も、そうでない方も」という言い方をする。
あくまで仮想だし、いつも、「結果的に、よい果実が生れば、それでいいんじゃない」という言い方をする/どんな仮想でも、結果的によい果実を生らせるのなら、それはナイスな仮想だろうし、どれだけ生々しく感じられる事実にもとづいてみても、結果的に何らの果実も生らせないなら、そんなものにもとづいてもしょうがないじゃないか。
桑田佳祐が「いとしのエリー」を唄うと、ステキな感じになるが、音大生の全員に唄わせてみても、決して桑田佳祐が唄ったようなステキな感じにはならないだろう、これは理屈に合わない、なぜなら理屈では音楽の要素はリズムと和音とメロディだと言われている、この三要素に則っていれば、シンセサイザーが唄ったって(ボーカロイドが唄ったって)、その歌は同じ芸術的価値を持っているはずだ、まして機械なら一切ミスがありえない/しかし実際にはまるでそうは感じられないので、この理屈に合わない差分は何だということを、当ワークショップでは「ソウル(霊魂)っすわ」と捉えている。
なぜマイケルジャクソンが「ビリー・ジーン」を歌って踊ると、一種の「世界」が現成するのだろう? 他にも歌の「上手」な人、踊りの「上手」な人はいくらでもいるが、なぜかその一種の「世界」が現成するということはいまいち起こらない、「マイケルジャクソンの世界」は視えるのに、ただの上手な人の世界というのは視えたことがない、この差分は何なのか/この差分、つまり「世界」が得られ、またそこに「存在」「体験」を得るという現象の性質は、当ワークショップでは「ソウル(霊魂)」の機能に由来すると捉えている、だから人が唄うのと機会が唄うのは違うし、「上手」かどうかの問題ではなく、「誰(の魂)」が唄ったかということが問題になる、そしてソウル(霊魂)が何かを直接営むということのむつかしさと厳しさを考えて、そのことにトライしていくのだった、おれが今書いているこの文章が、他ならぬおれが書いているということがはっきり視えることのようにだ。

あくまで仮想として、「生身をお持ちの方も、そうでない方も」という言い方をする。
ソウル(霊魂)というものを仮想する以上、生身(気魄)とセットになっている人は分かりやすいが、そうでない方も想定せざるをえない、つまりわれわれは生身にパッケージされた霊魂の所有者だが、すでにパッケージはなくされた方もあるかもしれず、また次のパッケージを未だ獲得していない方だっていると想定せねばならない、もともとソウル(霊魂)という概念はそういうものだろう/ただしこのワークショップは、スピリチュアルや霊能者のたぐいをもてはやすものではない、ソウル(霊魂)を「分かるもの」に捉えようとするのは、単に知性が不足した混乱者の物言いだ、色やかたちをもって視えるものは妄想であってここで仮想されているソウル(霊魂)の性質ではない。
「生身をお持ちでない方」は、すでに目も耳もないので、ものは見えないし音も聞こえない、ただ魂だけが視えるし、魂だけが聞こえよう、その営みだけが彼らには現れよう、たとえば数学で定義される直線は、太さをもたないのでわれわれの「目」には見えないが、フィクションという能力によってその直線の存在を認めることが――あくまでフィクション上に――できる、それと同様の機能を、あくまで仮想された「生身をお持ちでない方」も持っているはずだ、むしろ「その機能しか持っていないし、その機能しかアテにできるものがない」という状態になっているはずだ。
この「生身をお持ちでない方」「ソウル(霊魂)の営みしかアテにするものがない方」を、仮想上に認め、空間に直線群をグリッドすると、身のまわりに「それしかアテにするものがない」という方々が、ワッとアテにして集まってくる、仮想されるその魂たちは、われわれの魂と同じように、なんとかして天の国に行く手がかりを求めていらっしゃるだろう、その憐れな希求をさすがに無碍にすることはできないので……そうすると、よくわからない現象が起こる、そんなわけのわからない魂群を、われわれがどうすることもできないから、「無碍にできない」と真に思うとき、そのわれわれにはどうしようもできないことについて、それをなんとかしてくれる唯一の作用が注がれてくる、そこから吾我でない声や振る舞いが真の主体として生じてくる、吾我でない上位の主体が自分を支配して、自分ではありえない「まともなこと」「まともなやさしさ」をやらせてくれるのだ/そのとき見ていた人は、「あなたの周りに誰かがいた、たくさんの人たちが集まっていた」という。

おれが完全なアホで世迷い言を言っているのだとすると、大野一雄も完全なアホで世迷い言を言っていたということになる。

おれは大野一雄に詳しくないのだが、詳しい人がいて、色々教えてくれる、大野一雄もよく、「控え室から舞台に行くとき、救われなかった幽霊たちがたくさん身の周りに寄ってくる」というようなことを言っていたらしい、大野一雄も「宇宙意識」といって、空間に(無限に続く)直線群をグリッドしていただろう/それが本当なのかどうかはおれは知らない、おれはただ「結果的にいい果実が生ればそれでいいだろ?」という、あくまで仮想で話しているし、結果的にいい果実が生るなら、それは仮想のままでかまわない、おれが欲しいのはいい果実という結果であって、仮想を実相と認めてもらうことに一ミリも願望はない。
おれはスピリチュアルや霊能力のたぐいを、振る舞ったり焦がれたりするほどのヒマ人じゃない、おれが仮想しているのは、霊的なものを実体化するというような、つまりアホの降霊術のようなことではなく、おれが霊的世界に姿を現すということだ、おれがあっちに行くのであって、あっちのものがこっちに来るのではない、そりゃ仮にあっちの霊的世界なんてものがあったとするならば、そこに聖霊を帯びた姿の者が現れたら、思い切りアテにされるだろう、それしかアテにするものがないのだから/そんなことはおれみたいな愚物には不可能なので、肝腎なところはけっきょく何か偉大なやつがやるしかない、偉大なやつの偉大な作用でしか、まともなことは何一つやれない、おれはしばしば自分の身でいくつかのことをやりながら、自分の身を「なんだコイツ」と首をかしげて思っている。
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WS報告056(2)/「すげーなぁ」という圧倒的有利さ
に出して何かを「すげーなあ」と称えること/大きく響くように、無邪気に。
それが「認める」ということであって、すげーものを認めるということは、それが「偉大なる」「偉大さ」を認めるということで、その認めるべき偉大さのことを、聖書的発想で「父」という、偉大なる主、父と呼ぶ/そしてその偉大さを無邪気に称えるということ、大きく響くように "無邪気に" ということ、そのことを聖書的発想で「子」という、ここで父と子の関係が成立する。
もちろん正規の聖書宗教においては、もっと正統な見方・捉え方があるのは当然だが、当ワークショップではあくまで "聖書的発想をお借りして" そのような捉え方をしている、「すげーなあ」と無邪気に称えるとき、称えている当人は「子」、称えている対象が「父」だ/するとそこに、聖霊があるのかどうかは知らないが、命・魂と呼ぶべき現象と性質が注ぎ込まれるのだ、なぜ注ぎ込まれるのかはおれも知らん、ただそういう現象と性質がある。
無邪気に「すげーなぁ!」と、大きく響くように称えるのは、性質として多大に有利であって、事実僕などは、これまでに何も習っていないのに、今教えていることのすべてはいちおう獲得されているのだ、なぜ何も習わずまともに訓練もしていないのに、いきなり獲得されているのかというと、ただスゲーと思ったものにことごとく「すげーなぁ」と声を出して称えてきたからだ、そうしたら何も習わなくても勝手に色んなことが身についたし、今になって考えれば、そうして無邪気に称えることなしに、何かを習って練習したって肝腎のところが獲得されるわけがないのだった/スゲーものを「すげーなあ」と認めることがすべての入口であり、この入口に入った者はすでに肝腎のゴールに先に触れている(このゴールに先に触れていない人はその先どう進んでもゴールの果実は味わえない)。

そうして考えると、「すげーなあ」と声に出して称えたほうが圧倒的にトクなのだが、かといって実際にそうしようとやってみると、「無邪気に」「声に出して」「大きく響くように称える」というのが、実にむつかしいことがわかる/なぜむつかしいかというと、無邪気にはなれないし、大きく響くように言えないからだが、なぜ無邪気になれないかというと、「認める」というのが気持ちの問題ではなく数学的感覚だからだ、だからいくら気持ちで認めようとしても、数学的感覚がない場合、その承認たる「すげーなあ」が無邪気に発されない。
多くの人に、実は「認める」という機能は具わっておらず、現代の多くの人に具わっている機能は、「認める」ではなく「許す」なのだ、特に女性に多いことだが、人は自分でない誰かや何かを、認めるのではなく実は「許して」いる。
多くの母親などと話してみて、じっくり追究してみると明らかになることだが、たとえば「アインシュタインは偉大な学者だ」ということを、多くの人は「認めている」のではないのだ、あくまで「許している」にすぎない/「アインシュタインは偉大な学者だと言われているし、どうやら本当にそうらしい」ということを、一応「許している」にすぎず、当人がアインシュタインを偉大な学者だと認めているわけではない、数学的感覚がないのにアインシュタインとその学説を偉大だと認めることはできない。
子供のように・無邪気に・偉大さを・認め称える、ということは、数学的感覚から生じるので、数学的感覚がない場合、「すげーなぁ」ではなく「すごいですね」となる、それは大きく響くものではないし、無邪気な子供のように称えるものでもない/だから父と子の関係は成り立たず、そこに聖霊の庇護も接続も得られない、だから肝腎なものは何ら獲得されないということになる、これは何も責めて言っているのではなく、物事にはこういう性質がある以上、この性質から逸脱して努力しても無駄だということを合理的に捉えているのだ。

偉大なものを身に顕わしている人は、かならず「無邪気な子供」のような一面がある。

マイケルジャクソンでもそうだし、ガンジーでも、詩聖タゴールでも、塩田剛三でもそうだ、このことにはパターンがあるのではなくれっきとした仕組みがあって、人の身に「偉大なもの」が顕わされるには、その人が偉大な父に対して「子」である必要があるのだ/もちろんそんな現象は科学的には観測不能なので、「聖霊」のはたらきがあるのじゃないかと、非科学的な設定を仮想する必要がある、あくまで「仮想」だと言っているかぎりは、好き放題に言って差し支えないだろう。
「認める」「認め称える」という機能はそのようである一方、「許す・許さない」の機能はジェニック(遺伝子的)だから、何も仮想する必要はなく、誰だって年齢が進むほどに勝手に身に現れてくる、「○○を許さない」という看板を立てて更新している子供らはいない、これが大事な観点だが、あなたが「何も悪いことをしていない人」でも、その性質は勝手に身に現れてくるのだ、それは遺伝子が発現させる形質だから/ほとんどの人は、自覚的には「何も悪いことをしていない人」だろうが、かといって何か「偉大で輝かしいことをしてきた人」でもないので、遺伝子(ジェニックなもの)が発現してきた場合には、それに拮抗する機能がないので、ひたすら発現してきた遺伝子形質に支配されることになる、「許す・許さない」の基準が自動的にあなたを支配するのもその仕組みだ。
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WS報告056(1)/動きを数学に収束させる
る種のワザでもそうだし、芸術方面のパフォーマンスでもそうなのだが、動きを数学に収束させる。
「まっすぐ動く」ということが要なのだが、「まっすぐ動く」という発想だと、どうしても最終的にイイところに届かない、だから初めから数学に収束させる、空間に直線が存在するという数学的フィクションを認め、初めからその直線に収束するように身体を使う、このほうが初めからいいトコにいく。
身体操作系のワークショップでは、ほとんどがまず「身体」を対象とし、身体の "感覚" に重きをおき、それを洗練させて使っていくという発想になると思うが、当方では別の捉え方をする、まず「空間」があって、数学的なフィクションを認め、それに身体の動きを収束させていくということ、そのために身体の感覚と洗練が必要だという、二次的な捉え方をする。
なぜそのような捉え方をするかというと、学門の代表たる数学が、人にとって真に執着を離れうるものだからだ、人は何をどうひねくれても、直線ABに思い入れを持つことはできない、直線ABがCDに変わっても一般性を失わないということは数学の定義であって、われわれの思い入れが入り込む余地がない、だから数学に収束させていくことで、われわれは執着から離れた身の動きへ接近してゆける、そこで数学と比較すると、「まっすぐ」という「つもり」はどうしても思い入れが入り込むのだ。

われわれは寝ているあいだに、「夢」というある種の体験をする。
「夢」はフィクションのはずなのに、われわれはなぜかそのフィクションを「体験」するのだ、身体は布団に寝たままのはずなのに、ある意味では実体験より濃厚に、われわれは夢を「体験」する/そして「夢」には、もうひとつ気づかない秘密があって、それは夢が「とぎれない」ということだ、夢はフィクションのヴィジョンであるはずなのに、それがわれわれの意識のように「ええっと……?」とつまづくことがない、夢のフィルムが途中で止まったりはしない。
そして夢の中の体験というのは、かなりの割合で荒唐無稽だ、内容は荒唐無稽なのに、われわれは夢の中でその荒唐無稽さに違和感を覚えない、このことは数学の性質と関係があって、直線ABには妥当な直線というのはないし、荒唐無稽な直線というのもない、そして直線ABは無限に続くという公理であり、直線は途切れない、途切れていたらそれは直線ではなく線分だ。
何かが「止まる」ということは、力・重さの作用であって、生身・ノンフィクション・気魄の作用によってしか「止まる・途切れる」ということはありえない、仮に人の身に気魄の側面と霊魂の側面があって、いわゆる魂魄の両面があるのだとすると、霊魂の側は力・重さを持たず事象の性質として数学的だ、つまりこの世界に生身を持たない霊魂があると仮定すると、その霊魂は数学だけは視えていることになる、そして筋肉運動は視えていないということになる。

床にまっすぐ白いテープを貼ったとしても、それは「直線」ではない。

「直線」というのは数学上のフィクションであって、どのように実物で模したとしても、それが実物である以上はフィクションであはりあえない、だからレーザー光でさえ直線ではありえない/レーザー光はあくまで、空間を直進するという "性質" によって直線に沿うように進行するだけだ、もしレーザー光が直線そのものだったら、われわれはそれを視認できないはずだ、直線は太さを持たないのだから。
当ワークショップの取り組みに必要なものは、運動神経ではなく数学の感覚だ、身体の動きを数学に収束させていこうとするのだから、どれだけ運動神経がよくても指針の数学が視えないのでは動きを完成させていく先がない。
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用事のない人を冷静に判断すること
れはブスには用事はないし、ダサい奴にも用事はない。
大量のカネをくれる人には、用事がある……ように見えるが、それも正確じゃない、大量のカネをくれる人はさっさと振り込んでくれたらいいのであって、別にそいつはサバンナでキリンに踏まれて客死してもかまわない、だからその人自身に用事があるわけではない。
ダサいものはダサいと否定し、ブスはブスだと否定すること、それは感情的に否定するということではなく、冷静に判断し、冷静に決定するということだ。
ダサいものはダサいと、本当にちゃんと判断しないと、やがて自分がダサいものになってしまう、おれはブスになりたくはないし、キリンに踏まれて死にたいとも思わない/その判断に一ミリグラムでも感情や執着が入り込むとそれだけで人は行方不明になってしまう。

おれは意地悪を言っているのではない、ただどうせ物申すなら、すべての人が、なるべく「本当に用事のある人」になりうるよう、提供できる情報の精度を上げようとしているだけだ。
おれが用事のある人といえば、単純に、おれの偉大さが視える人だけだ、それはおれの偉大さでなくてもよく、何かの「偉大さ」が直接視えているなら、それだけでその人には用事がある/つまるところおれは、しょーもないものとなるべく縁を切りたくて、偉大なものとなるべく接続を得たいのだ、それは考えてみたら誰だって当たり前のことではある。
たとえば海外旅行にいくのに、まったく偉大さのない国に行くよりは、何かしら偉大さのある国に行きたいはずだ、われわれが観光旅行で世界遺産に行ったり、サハラ砂漠に行ったりガンジス川に行ったりタイムズスクウェアに行ったりするのは、そこに何か「偉大さ」を見いだしてのことだろう、アンコールワットとヤマダ電機店舗だと、どうしてもアンコールワットのほうが偉大なので、人はわざわざパスポートをとって海外のヤマダ電機にいこうと思わない(もちろんそれはヤマダ電機が悪いわけではまったくない)。
何の偉大さにも接続していない人に、おれは用事はないし、そもそもおれの偉大さがまるで視えない人は、おれに対しても用事なんかないはずだ/それでもたとえば、人は老人になると、漠然と近所づきあいや飲み友達のようなものを作りはじめるが、それはつまり、何の用事もない人に対して、それをまったく気にせず自分だけ楽しめる人がいるということだ、それは最終的にそちらのタイプのほうが冷酷なのだと思う。

どれだけすぐれた娯楽でも、今のところ娯楽に「用事」はない。

これは当たり前のことを言っているようだが、そうでもなくて、実は世の中には、娯楽とガマンを往復しているだけという人もいるのだ、何の偉大さもない出勤をして、帰宅すると何の偉大さもない娯楽に耽る、という人がけっこう多い、そしてそのまま何十年も変わらず過ぎて、そのまま老人になる人というのも実に多い/そういう老人は本当にもう何も視えていない目つきになっている……きっと、用事のないものをそうと冷静に判断せず、そのまま何十年も放置していると、自分が究極の「用事のない人」に成り果てるのだろう、何かに用事があるという感覚そのものが完全に消滅して視えなくなるのだ。
おれはふだん、何かに用事があるつもりで生きてはおらず、「何にも用事はないから、タラタラ〜と過ごしたいぜ」と思っているのだが、けっきょくは各シーンで、それこそ朝起きた瞬間から、何かに首根っこを掴まれて、何か偉大なことにむけて命を尽くすことをやらされている/おれみたいな者は、やる気をもたずタラタラしているくらいでちょうどいいのだろうが、それにしても気がつくといつも、何かに支配されてギリギリまでやらされている、そして数ヶ月か数年すると、「あのときのあれがすべてだった」と、そこにすさまじい用事が密集していたことに、後になって気づく。
できるオンナだね | comments(0) |
慾望と不安、慾望と満足

美人の、育ちのいい、とてつもなくいい香りがする女子高生か何かが、おれのことを深く愛するために、おれに駆け寄ってきて抱きついたりしないかな、そういうことがあればこの世界はハッピーで祝福されまくりだ。
あとは、とりあえず使う用事はないのだが、無意味に六百億円ぐらい降ってこねえかな、別に使う用事はなくてもそれだけ降ってくりゃそれだけでハッピーだ。
慾望というのは、いいパラメーターで、このパラメーターを開放させたとき、何の不安もよぎらない人が、逆に罪がないということになる/少なくとも、罪を「隠蔽」はしていないということになる。
超美人の、育ちのいい女子高生が、とてつもなくいい香りをまとっておれを深く愛するために駆け寄ってきておれに抱きついたとして、またおれがその少女を好き放題にしたとして、そこに何の不安があるだろう、おれが自家用ジェットを買ってパイロットをやとい、なんとなくドゴール空港まで飛んでみたとして、そこに何の不安があるだろう/慾望というパラメーターを開放した状態で、すべてが視えるかということが問題なのであって、慾望を隠蔽したまま視える人のふりをしたところで、そんなものはニセモノのインチキにすぎない。

ふつうの人は、週に五人も初対面の美少女を抱き、「別に一銭も与えていないし、美人だから下着姿で給仕させたり、おれの靴を磨かせたりしているよ」という状態にもしなったら、どうしても「罪」の感覚がよぎるはずだ。
そして、そこに罪の感覚がよぎるのならば、それはその人にとっては罪なので、やらないほうがいい、罪を覚えながら豪遊なんてするものじゃない/おれは世界中のニワトリに、おれのためにナイスなフライドチキンになってくれと願っているし、ヴィーガンの人たちが言う「動物はごはんじゃない」のスローガンに対しても、「いいや、おれのごはんだぜ」と楽しみにしている。
美少女はおれの慾望のために肢体と魂を献じてナイスだし、ニワトリさんはおれの慾望のためにスパイスをふられて油の中へドボンしてナイスだ、その両者は同じようなことにすぎない、おれは何かを苦しませたり悲しませたりするのはイヤだが、おれは何かを苦しめたり悲しませたりしようとしているのではない、ただ双方におれの慾望のためにヨロシクと言っているだけだ。
慾望を開放したとき、何か「不安」がよぎるなら、それはやはり「罪」を形成していて、罪に罰が報われそうだから不安がよぎるということだ/慾望を開放させたとき……つまり初対面の美少女を裸にして押し倒し、ベッドにいい香りをかぎながら、二億円の宝石を指先に眺め、それらが最高でヒャッホウだと慾望を開放させながら、なおも学門が視えているかどうかが問題だ、慾望に無反応になるとか抑圧するとか、隠蔽するとか禁欲するとかは、基本すべてインチキであって、慾望はビンビンに開放されていながら別のメカニズムが支配しているという状態でなくてはならない、ブッ壊れているのに誰よりも正しく動くという状態でなければ何にも到達したことにならない。

調整している奴なんて、ちゃんちゃらおかしい。

とはいえ、現実的には、その調整というものができないとバカなのだ、ただの犯罪者か、少なくとも近所迷惑の、とっても恥ずかしい奴になってしまう/とはいえ、その「調整」をしながらまともな人のふりをしているのは、基本的に偽装だし、「調整」を長くしていると、もう調整ネジがバカになってしまって、「開放」ということじたいがわからなくなる、だからこそ、すべてのことはそんなにカンタンじゃない。
おれは好き放題にできるガールフレンドは二百万人必要だと思っているし、使うアテのない残高でも四千億ぐらいは最低欲しいと思っているが、このガールフレンドが二人になり、残高が四千円になったとしても、満足度は一ミリも変動してはならない、いかなるときも完全な満足にありながら、慾望をフルオープンにしても満足そのものは変動しないということでないと、慾望を満足度にすりかえようとする愚かさの罪が明らかになってしまう/何が罪かといって、慾望を開放すると、実は吾我の慾望を「信仰」しているじゃないかということが明るみに出て、それが罪だとはっきりするのだ、慾望は慾望としてフルオープンして、なおもそのきらめく慾望を「信仰はしていない」ということが要になるのだ、ここまできてようやく、人は初めて「信じられる人」に出会う。

視点変えてこ | comments(0) |
三位一体でなきゃ話にならねえ5
れまでウソつきになるわけにいかないので、本当のことを書いておかねばならない、単純なおれ自身のためのメモとしても/あくまで原理的に、フィクションでお話しするので、外側からあれこれ思っても無駄だ、「フィクションですから」で話は終わる。
生身のある人も、ない人も、あるいはそれはもう「人」ということではないのかもしれないが、地の古(いにしえ)および、周辺的な霊が「求めている」というのを聞く、これに向けて語りかけないのでは、おれのやっていることは週刊誌と同じになってしまう。
で、なんのために語りかけるかというと、おれは風の中や光の中に、あるいは空間のエコーの中、また「世界」や「物語」の中に、ある「偉大さ」の現象を視認していて、われわれの空間がその「偉大さ」に向けて、穴があいているというか、通風口が開いているのが視えるのだ、そこに「よろこび」が流出していくのが視える/われわれの霊魂が天の側へ「抜けられる」(あるいは「脱けられる」)のが視える、魂が「偉大さ」の側へ抜けられるのが視えるのだ、となるとそれについて語らざるをえない。
そして、語るといっても、そんなものを「説明」したところでどうにかなるわけがないのだ、そうではなく、おれ自身がその通風口につながって、語る声を発すること、それによって周辺的な霊も、その脱出口が「視える」のだ、おれ自身が魂のワークとして脱出口の接続そのものを見せる/特に、すでに生身をもたない存在は眼球も鼓膜もすでにないので、魂のワークしか視えない、魂に聞こえるためには魂のワークで伝えるしかないのだ、それしか霊には届かない、それはフィクションしては当たり前の設定だろう。

われわれは何をしたらいいかといって、その場にあるものを聞くしかないのだ、ひとつにはその場にある、行くあてのない霊の声、もうひとつには、やはりその場にある(どこにでもある)「偉大さ」の声だ、それは光であったり響きであったりするが/重要なのは「その場にあるもの」を聞くということなのだ、だから一切の「覚えごと」は通用しないということになる、あくまで本当に「その場にあるもの」とやりとりするしかないから。
「その場にあるもの」については、ある意味、「偉大さ」のほうがカンタンと言える、なぜならそれはいつも変わらず、もとからあって、いつでも同じ、永遠の偉大さとしてあるからだ、これはその場によって変化したりしない、ところが、周辺的な霊とか、地に積み重なっている古(いにしえ)の霊などは、本当にその場によって違うので、これは毎回その場かぎりのものを聞きとらねばならない/「偉大さ」を「父」と呼ぶならそれはいつもの不変の父だが、周辺的な霊は毎回まったく知らない赤の他人みたいなものだ、どこの誰ともまったく知らないただの観客、こちらのほうが「その場にあるもの」としてのライブ性が生々しい。
キリスト教的な考え方でいうと、「父と子」というとき、「子」というのはキリストで、そこにもし周辺的な「行くあてのない霊群」があるとするなら、それが「仔羊たち」ということになるのだろう、キリストは父がばっちり視えているが、仔羊たちは何も視えていないので、キリストが語りかけないとしゃーない、という構図になる。
おれは冷静に考えて、自分が救世主とか預言者とかいうたぐいではまったくないが(そんなにポンポン奇蹟は起こせねー)、やはり冷静に考えて、キリストぐらいになれば死んだあとに復活するぐらいはフツーにあるだろと思うし、キリストをがっつり信じた人にとって、その瞬間からキリストがパンでありワインだというのも「そりゃ当たり前だ」としか思わない、それはただの知性の問題であって信仰の問題ではない/とはいえおれは初めから偉大なものはすべて偉大だと、その偉大さが直接視えているので、信仰を必要としないのはおれの特殊事情なのかもしれなかった、とにかく偉大なる父と、子と、仔羊たちという構図は、正直身に差し迫ってリアルだと思う、宗教というよりただのマジの話としか思えない。

キリストが昇天後、この地上には神も神の子も存在していないはずだが、不在の代わりに「聖霊」というシステムを残していったのではなかろうか。

あくまでキリスト教のストーリーを真に受ければだが、神は原罪の子孫どもに言葉を預けてみたが(預言)、それだけではどうも救われがたいということで、神の子を派遣し、この神の子はすぐにふたたび天に召し上げられるけれども、すべてを為し遂げて、代わりに地上に聖霊というシステムを残していったのではないか/そうでなければ、キリストはけっきょく天に戻ってしまったので、「地上は元通りじゃん」ということになってしまう、システムとして元の木阿弥になったのだとしたら、その後いくらキリストを崇めたって解決するわけがない、そんなことで解決するならそもそもキリストの降臨は必要なかっただろう。
おれのような無教養の者でも、漠然と、イエスキリストが原罪(禁断の知恵の実を食べた罪)をあがない、その贖罪のために磔刑に処されねばならなかったという説は聞いたことがある、それが本当かどうかなんておれにはわからんが/ただ単純なストーリー考察としては、キリストがわざわざ地上に降臨して、「人」の一人として原罪を贖い、その贖罪によって地上に「聖霊」というシステムを残してくださり、人々にはあらたに神・天の国へのアプローチ方法が与えられたということなら、いちおう辻褄は合う、おれは聖職者でも何でもないのでこんなことは専門家に任せていればいいのだが、ここの辻褄が合わないと、おれ自身が体験する現象におれ自身で説明がつかなくて困るのだった。
正しく見ないとな | comments(0) |
三位一体でなきゃ話にならねえ4

べてフィクションで、 "仮に" という前提でお話しする。
 "仮に" 、地には古(いにしえ)が積み重なっており、 "仮に" 、魂や霊には時間の経過が起こっていないのだとすると、すべての霊魂というのは今もこの足許の地に、また身の周りにひしめいていることになる。
その霊魂的なものが、どれだけあるかというと、霊魂というのは「分からない」ものなので(「魂」という字がもともとそういう意味だ)、「分からない」ということは「分離されない」「分割されない」ということだ、だから単純な物体のようにカウントはできないということになる/もやもやとある空の雲がカウントできないようにだ。
そして「父と子と聖霊」といったとき、その霊とか呼んでいるやつはどうするの、という問題になる、「父」は「偉大なもの、偉大さ、主体」であり、「子」は「主に対するしもべ・無邪気で純真に信じる者・主体性を代理するユニット」だという、それはまだしも、「聖霊」とか言っているやつはどうするんだということになる、そこであくまで "仮に" だが、もし霊魂的なものが存在するとしたら、それは古(いにしえ)から地に積み重なっており、今もこの足許に、そして身の周りに、いくらでもそれはひしめいている、ということになる(天の国に行けてないやつは地の国に残っているはずだということになる)。

「霊魂」に対極して「気魄」といい、この相克を「魂魄(こんぱく)」と古い熟語で言うのだが、気魄の「魄」の字は「はっきり分かる」の意味なので、われわれはけっきょく、この自分と他人の「生身」をカウントして考えたがる、何よりそれが「分かる」「分かりやすい」からだ。
が、三位一体と言っているとき、それが分割されていたら「一体」ではないので、三位一体の話をするならどだい「分からない・分割されない」ほうの霊魂を考えるよりない、つまり三位一体の話は、「カウントしやすい生身をアテにして考えるのやめーや」という発想を背後に置いている/そもそも人と人を生身カウントで考えるならわざわざ三位一体なんて特殊な考え方を導入する必要がない、常識的な感覚でいつもどおり暮らしていけばつつがないことだ。
そこで、あくまで "仮に" ということになるが、結論を言ってしまえば、子は父の忠実なしもべだから、何をしたらいいかというと、周囲のすべての霊を偉大なる父の国に送り込め、その手助けをしろ、ということになる/ありとあらゆる霊は、時間軸と関係なく今もずっと、どこにでもひしめいていて、これらの霊の多くは、聞くべき話を聞けなかったため、行く先を見つけられないでいるから……この周辺的な霊が「求めている」という、霊の声を聞け、この求める声に応じて、魂の往く偉大な先はこうだ、ということを教えてやれ、と、あくまで "仮に" 、フィクションとして霊魂のことを認めるならそういう話になる。
偉大なる主体と、その無邪気なしもべがいるとして、無邪気なしもべとしては、偉大なる主体につながってその声を聞くと共に、周辺的な霊が「求めている」という、その声も聞かねばならない、もちろん生身カウントできない霊を対象に捉えるのはアレな話だと思うが、その点は心配無用、なにしろフィクションだと言っているし、百年後にはこれを読んでいる全員も生身カウントはできなくなっている、お前らもそのわけわかんねー霊群にジョインするのだから笑い話じゃねーか。

しゃーない、百年前に死んだ霊群がもしあったとしても、そいつらにもおれは「お前らみたいなモンは」と言うしかない。

あくまでフィクションだが、 "仮に" そんなことが本当にあった場合は、もう忙しくて、しょーもないタテマエなんかやっていられないのだ、それこそ全身がすでにないので全霊のみということになるが、そんないたいけなモンが行くあてなく縋ってくるのなら、まあ最大限のことをしてやるしかない、おれのできる最大限なんてたかが知れているけれども/おれは神の国やら極楽浄土やらを語って聞かせられるような高みにはない、おれはおれの視えているレベルのものしか分け与えてやれないので、おれはただおれに視えている「世界」だけを物語にして聞かせる、生身のない人はこちらの魂が営んでいるものしか視えないので、おれも魂で何かを営むしかない、魂で営むものは生身のない人にも視える、だから魂の視る「世界」や「物語」や「言葉」や「偉大さ」としてしか伝えられない。
まあ実際におれの隣にくればわかるけれどもね、それはたまにスナックの酔いどれおじさんでさえ言うのだ、「あんたの声はどこから出ていて、どこへ届いとるんや、なんや不思議やなあ」と/生身に届くのは気魄であり、生身に届く声はただ「音波」が届いている、それは理科の授業で習ったとおり、空気を媒質とした粗密波だ、音波以外に届くものは、もしあったとしても観測不能なので、物理的には「観測されない」と否認するよりなく、そこのサイエンス事情をごまかすためには「フィクションで」と前提するしかない、虚数iをイマジナリーに捉える手法と同じだ、そもそもサイエンス事情としては「わたし」という現象さえまったく説明できないのだけどね。

正しく見ないとな | comments(0) |
三位一体でなきゃ話にならねえ3
ンプルな話なので、何もむつかしそうな顔をする必要はない、むしろむつかしそうな顔をして、ミエミエのことから逃避しないことだ。
たとえば故マイケルジャクソンがいたとして、彼は音楽とダンスの中に、何か「偉大なもの」を視ていただろう、そしてどこか子供のように無邪気で無心であり、人々を聖なるほうへ惹きつけ、あれだけのパフォーマンスを自ら産み出すだけの主体性があった。
あるいはマハトマ・ガンジーを見てみよう、彼はインドという国の恢復と、それが非暴力でなされてこそインドなのだということに、偉大な何かを見いだしていただろう、そしてガンジーは見た目にも何か子供みたいで無邪気だ、そして人々を聖なるほうへ惹きつけたから「塩の行進」が成り立ったのであり、誰に指示されてのことでもないのですべては完全なガンジーの主体性だった。
たいへんシンプルに、「偉大+子供みたい」が「惹きつける」という、ただそれだけのことだ、合気道の開祖と後続の天才、植芝盛平と塩田剛三もそうだし、詩聖タゴールもそうだ、アリーナ・コジョカルも舞台の上では子供みたいだし、ビョークだって唄うパフォーマンスとはうってかわって平時はいつも少女みたいだ。

聖書においても、イエスキリストは、邪心のない子供を指して、「神の国はこういう者のためにある」と言っていたはずだ、そりゃ当人が神の子なのだから、「子」というのがどういう状態かはよくよく知っているだろう。
三位一体の話をしている以上、「父と子と聖霊」と言わざるをえないのだが、この場合の「父」というのはむろん、遺伝子的な父親のことを言っているのではない、遺伝子的なほうは「ジェニック」という。
悪口で言っているのではない、正式に語彙として「ジェニック」というのは「genic/遺伝子の」という意味だ、フォトジェニックというのは「被写体専用遺伝子かよ」みたいな意味だ、だからどれだけうつくしいバレエダンサーもフォトジェニックとは言わない、せいぜいバレエジェニックではありえてもフォトジェニックでは意味がずれる。
まあそんなことはいいとして、三位一体とはシンプルに、「偉大かな?」「子供みたいに無邪気かな?」「聖なる何かで惹きつけているかな?」というだけのことだ、それが三位一体で、それ以外はブーです残念、というだけ/だいたい優秀な奴というのは、偉大なくせに子供みたいなところがあってカワイイのだ、優秀な兄ちゃんもそうだし、優秀なおっちゃんもそう、優秀なじいちゃんもそうだ、「偉大なくせに子供みたいなところがあってカワイイ」というのが三位一体だ、話は簡単で、その三つともがリアルにキツいという事情が厳しいだけだ。

芥川龍之介はノベルジェニックだったが、だからこそ「ぼんやりした不安」で自殺した。

誰でも加齢していくと、気づくこと、あるいは少なくとも発症することだが、「三位一体」が成り立たなかった場合、強制的に遺伝子だけが自分の支配者になるのだ、親のどちらかと同じ挙動・クセが発現するのはそのせいで、このことを仏教ではカルマという(カルマは血族の子に継承される)/つまり三位一体が成り立たなかった場合、あなたは何かしらのジェニックに行き着く、必ずそうなるように出来ていて、それが始まることは止められないし、始まってしまった場合はさらに止められなくなる。
それを差し止める唯一の力・唯一の方法が、何であれ「三位一体」だ、何しろ「偉大さ」そのものを父とするのだから、遺伝子の発現に支配されずに済むことになる/「ジェニックの反対は主体性」と捉えてもいい、ごく一部の人だけが三位一体から「主」たる自己を得ることができ、それが得られなかった人は主体性を持てないまま、やがて発現する遺伝子に支配されることになる、それが何ら偉大でなく当人の希望しないものであったとしても、強制的にカルマの支配に服従するしかなくなる、そのときはもう支配に抗する手段がないのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
三位一体でなきゃ話にならねえ2

ビアで生々しい、三位一体チェック。
1.「偉大さ」が直接視えていますか/「自分の興奮」ではないですか。
2.子供のように無邪気で、無心で、途切れない集中力を湛えていますか/一時的な三日坊主ではありませんか。
3.聖なる力で人を惹きつけていますか、その実態がありますか/あなたが吸い寄せておらず、あなたが「主張」していませんか。

4.打算や欲とは異なる「主体性」がありますか/外的な力やルール、しきたり等に、「やらされている」のではありませんか。
5.あなたのよろこびは「偉大さ」に吹き抜けていますか/あなた自身のうれしさだけに留まっていませんか。
6.あなたに触れた人は別の世界があることに目覚めますか/それぞれが個人的な思いで「つるんでいる」だけではありませんか。
7.あなたは人から見て「世界にいいことをしている」でしょうか/「善人」だけれども実は「世界にいいこと」は何もしていないのではないでしょうか。

8.「平場に立って」尊崇を受けていますか/「立場に立っている」から気を遣われているのではありませんか。

三位一体というのはそういうことだ、シャレで言っているのではない、マジで言っている、おれがマジなのではなく、三位一体という現象がシンプルにマジということだ、そんなもん平場に立たせて「ほれ、見せてみ」と言いつけてみたら一発で明らかになる、それだけこれはシンプルでかつマジなので、本当にシャレにならんのだった/いったいどこの誰が、平場に立たされて、「ほれ、見せてみ」という言いつけに応じられるだろう、そんな要請の中で「三位一体」がガチで見せられる奴は特殊も特殊だ。
ほとんどの場合、「偉大さ」なんて視えていないし、子供のように無邪気で無心ではないし、「この人といると聖なる力で連れて往かれてしまう」なんて具合ではない、じっくり調べられると本当の「主体性」なんか得ていないし、よろこびが偉大さに吹き抜けるなんて「正直よくわかりません」だし、そもそも当人が何かの世界に目覚めていないし、「世界にいいこと」といってもけっきょく「何が最終的にいいことなのかわかりません」だ、それでも加齢と共に、社会的にも気位としても、何かしらの立場についてしまう、そしてその先はもう何もかもよくわからない状態になってしまうのだった、どこが三位一体だ。

正しく見ないとな | comments(0) |
三位一体でなきゃ話にならねえ
「三位一体」は聖書世界の概念で、最もよく知られた象徴的には「父と子と聖霊の御名によって」が言われる。
そして、そうした概念はむつかしいので、誰も何もよくわからないまま言われている、そりゃそういうものだろう、おれはヨソの宗教的なものに口を出すつもりは一切ない。
ただ、あくまでおれが何かをまともにやろうとするとき、また、あくまでおれが何か人にまともなことを教えようとするとき、「三位一体でなきゃ話にならねえ」と思う、これはあくまでおれの個人的なメソッドの話であって聖書宗教を騙るものではないが、「父と子と聖霊も出来ていないのか」「そんな基本が出来ていないようじゃ話にならん」と個人的に思っている。
それでは「三位一体」とは何であるのか、ここではあくまで "個人的" に、つまり既存の宗教とは関係なしに、おれが三位一体のタネあかしをする、タネあかしといってただフツーの、見たまんまのことをわざわざ説き明かすだけだが、こんなことだっていちいち説き明かされないと案外自分では気づかないのだ。

「父」というのは、「偉大さ」「偉大なもの」「偉大なこと」「偉大な現象」であって、「偉大なる父」というのは、父が偉大だということではなく、「偉大さ」そのものが父だということだ、偉大だからそれを父と呼んでいる/おれは面倒なのでいちいち「父」とは呼ばない、ただ「偉大」とだけ呼ぶ。
その「偉大なもの」が直接視えてしまった場合、「うおおお」となり、無邪気にその偉大さのしもべになる、その姿は無邪気なよろこびと集中力と威厳に満ちているので、これを「子」と呼ぶ、 "無邪気なよろこびと集中力" がミソだ、それはいかにも父の下にある「子」という感じがする。
こうして「偉大さ」が直接視えて、その偉大さにつながって「うおおお」と無邪気によろこびに満ち、ひたすらその偉大さの意志を履行しようとすること、これが仏教方面では「帰依」と呼ばれる、本人は「うおおお」となっているので、いわゆる自我や吾我から離れ、視えるままの「偉大さ」の意志を履行しようとする、そして偉大さは父であり「主」だから、そのとき始めて人は「主体性」を得ることになる。
そして、そうして偉大さに「うおおお」となり、吾我や欲ではなく、偉大さの意志を履行する主体性を得ている者に対しては、周囲の人々――人だけではないけれども――が、何か霊的に聖なる力で惹きつけられる感じがする、その霊的に聖なる力で惹きつけられる作用があることを「聖霊」と呼ぶ/ただそれだけのことであって、何も神秘的なことではない、神秘的どころかいつの時代だってわれわれの身近に顕かなことだ。

「偉大さ」が直接視える奴が、無邪気な子供みたいになって偉大さを実現しようとし、それに人が惹きつけられて共働する、というだけ。

三位一体というのはただそれだけのことなのだが、なぜただそれだけのことがこんなに大仰に言われるかというと、この「ただそれだけのこと」が、実際にはほとんど見当たらないからだ、われわれの実際というと、実は偉大さなんて何一つ視えていない連中が、打算を隠し持ってさまざまなキャラをかぶせて立ち回り、人がダマされたり依存したりして共働する、というようなことばかりだ/三位一体とは何のことか、そんなもん、おれがあなたに「今すぐ思いついた小説を書くから原稿用紙買ってこい」と言いつけたらただちにわかる、あなたは四の五の考える余地もなく、その重大な仕事を果たすために聖なる意志をもって文房具屋に駆けていくだろう、それはおれが偉大さを直接視る無邪気な子だからであって、たまたまそこにいたあなたも聖霊の呼びかけが作用して巻き込まれるという、ただそれだけのことだ。
あくまでこれは、おれの個人的な話をしているだけだが、よく知られた聖句として「父と子と聖霊の "御名(みな)" によって、アーメン」と言われている、御名は名前であって Name だが、サンスクリット語ではこれをローマ字のように呼んで「ナーム」という、いまでもインド(ヒンディー語)では名前は「ナーム」だ、当地でアプカー "ナーム" キャ ヘイ? と訊くと「what's your name?」になる/だから、「御名、アーメン」は「Name, Amen」であって、「ナム、アミ」と同じ音の連なりを示している、ヨガではAUMが聖音といわれ、日本語でも「あうんの呼吸」といわれる、この音の連なりには何かあるのだろう/だがそんなことに感心していてもしゃーない、ただ「お前には偉大さが視えているのか」「偉大さのもとで子のように無邪気で熱心か」「だとしたら聖なる力で庇護されて人を惹きつけているはずだ」というリアルなところをおれは唱えて、かつ問い詰めているだけだ。
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台風被害による屋根修理のケーススタディ[応急手当15万円、本修理70万円]
ログの趣旨にまったくそぐいませんが、千葉県で台風災害に遭われた方にお見舞い申し上げる意図として、本記事を申し上げます。
もし、小耳に挟んで頂いて、何かの役に立てばと思いますが、昨年の台風21号で大阪各地が被災し、それに係わって生じた屋根の破損の修理・応急手当の代金は、それぞれ応急手当が15万円本修理が70万円でした、これはわたしが直接依頼した実例です。
もちろん被害程度や、建物の規模、修理の工法によってケースバイケースだと思いますが、このケースは一般家屋よりも大きな寺院本堂の屋根修理の費用です/屋根一部の瓦(一割ていど)が散逸し、建物内各所に重大な雨漏りが見られるケースについて実例の費用がこのようでしたとご報告申し上げます。
加えて申し上げるなら同件について、本修理450万円の見積もりを出した業者もありましたし、風に強い特別な工法を施すからといって、本修理1000万円の見積もりを出した業者もありました、それに比べると70万円は破格です、そのような破格を提示してくださる業者は実に数少なかったです/雨漏りが続くと家人には実に危急の思いが致しますが、なにとぞ冷静なご判断をされ、不本意な出費をされないことお祈り申し上げます、素人には相場のわからない屋根修理でも、けっきょく掛かるのは資材費と人工代です(「にんくだい」と読みます))、足場を組む場合(いわゆる「単管」で足場を組む場合)は足場代が思いがけず高くつきます、足場は1屬△燭700円〜1000円が相場だそうです。

わたし自身の、一度きりではありますが経験から申し上げますと、かかる台風被害における屋根修理については、第一に応急修理を依頼するのが妥当だと考えています、わたしが経験したケースでは応急手当で二年ほどは屋根がもつそうです/その応急期間をもうけて、その間に落ち着いて本修理の発注を検討するべきです。
また、業者が良心的か悪徳かに関わらず、現在のところ建築資材が不足しており、特に瓦そのものが全国的に欠乏しているはずです/というのは昨年の台風21号以来、大阪だけでも瓦がまったく足りず、現在に到っても修理の順番がまわってくるのは二年後というような状態(2019年6月時点)だったからです、ここに来て千葉県で大規模な被災が起こったからには、瓦そのものの欠乏は致命的なレベルになっていると想像がつきます、そのことを含めるとやはり第一に応急修理を依頼するのが妥当な方策ではないかと少考します。
また、もともと行政で災害見舞金を予定していますが、災害のていどや義捐金のていどによって、今回は特別災害見舞金が設定されるかもしれません、ですから被害の状況を写真に収めておくとよいかもしれません、スマホで撮っておけばじゅうぶんです(たいてい、後にプリントアウトして書類に添付するような形になります)。
また、火災保険にご加入の方は、火災保険にはたいてい風災・水災の保険も含まれますので、窓口にご相談ください、ただし保険金を請求する際には、受けた被害額の報告が必要になりますので(報告していない被害額は保険金がおりませんし、被害額によっては保険そのものが適用されない場合もあります)、被害額がどれだけであるかを、ご自身でなるべく遠慮無く算定してください/保険の調査員(サーベイヤー)は、どうしてもこうした災害の場合、ロスレシオが増大する状況から、それとなく値切れという指示を上から受けていますから、加入者は堂々と抗して自己の権利を主張する必要があります、受けた被害の報告に遠慮はいりません。

雨漏りすると、「木が腐っていって倒壊する」と言われるが、そんな一瞬で壊れたりしねーよ。

天上や壁にシミができるのは事実だが、いうても雨漏りって、ただの水じゃねーか、そんな水が掛かっただけでそんなに簡単に建物がブッ壊れるかよ、雨漏りといってもそもそも毎日雨が降るわけじゃねーし、たとえば山に登ったり森にハイキングに行ったりしたとき、雨ざらしの倒木はあっというまに腐り果てていたりするか? 雨漏りぐらいでゴタゴタいってんじゃねーよ、適宜サーキュレーターでも当てて乾かせ、東南アジアのド田舎民族はずっと雨漏りする家に住んだままだよ。
われわれは「家の中」というものを、外界と区切って過ごしやすくしているのだが、そのぶん、区切りが破損して外界からの流入があると、心理的に動揺するのだ、その焦燥は実生活というよりも、「家の中」という安息が脅かされることによって起こっている/そんなもん、どこまでいってもアフガニスタンで空爆された家の子供よりはるかにマシなので、「降ってくるのがナパーム弾でなくてよかった」と思いながら過ごせ、そうしたら十分過ごせているのがわかるし、実際そのほうが本当の世界に近い。
そのほか | comments(0) |
美3
ういえば、おれはもともと、色んな人に相談されることが多いのだった、そりゃこんなブログやサイトを運営していたらそうなる。
そして、おれの持つ相談役の定番スタイルというと、悩んでいる奴・相談してくる奴を、肴にして大いにバカにするというものだった、最近はシャレがわからない人・とてつもなく余裕がない人も増えたので、あまり露骨にはやらなくなったが。
だいたい、相談とか悩みとかいうのは、当人にとって「越えられない壁」から発生しており、当人は壁を越えるつもりがないので、つまり "あきらめている" のだが、諦めているくせに不満だけ持っているので、悩んで苦しい状態になる。
そして、悩んで苦しい状態、のみならず、当人が醜い・うつくしくない状態になるのだ、そりゃ「あきらめているくせに不満だけ増大していく」のだから、醜くなるに決まっている。

その点おれなどは、基本的に何一つあきらめないようにしている。
それは、別に「あきらめるな!」と情熱的になっているのではなく、ただの選択だ、選択としては「あきらめる」「あきらめない」しかないのだから、おれは「あきらめない」を採るようにしているだけだ、そんなことに情熱は要らない。
よっておれは、完全に満足しているくせに、何一つあきらめないというのを基本のスタイルにしている、どうせスタイルは自分で選ぶしかないのだから、おれはおれの選びたいほうを選ぶだろう/そしてこのスタイルをもって、逆のスタイル、「あきらめているくせに不満が増大する」という人を、徹底的にバカにするようにしている、このスタイルはいつもスカッとして気分のいいものだ。
なぜそのように、相手を徹底的にバカにするスタイルを採っているかというと、そうしてはっきり示さないと、スタイルの差分が視えないからだ、この差分が視えないかぎり、先方に脱出口はない/おれは完全な満足にありながら、何一つあきらめないのに、あなたは何もかもあきらめていて、そのくせ不満が増大するんですね〜と、根こそぎバカにしてやらないと、この構造の差分と脱出口に気づかない。

多くの人は、美をあきらめ、不満を増大させている。

何度も言うように、おれはまったくあきらめておらず、常に完全な満足の中にいる、なぜおれが美をあきらめねばならないのか意味がわからないし、同時に何を不満に思うのかもまったく意味がわからない。
おれの生きるすべての時間はうつくしくて、おれは常に完全な満足の中にいる、「あなたはちょうどその逆ですね」と言えば、感情はどうあれ事実だと認めるしかない/それで、「わたし損じゃないですか」と言われることもあるが、「ええ、損ですよ」といつもおれは答えている、それについてどう思うかというと、「おれは損なほうじゃなくてよかったなぁと思いますよ」としか答えない、自分で呪って選んだことがどのような結果をもたらしているか、最短で視認するにはそう言うしかない。
正しく見ないとな | comments(0) |
美2
価と満足がごっちゃになっているらしい。
満足といっても、もちろん顧客満足とか、消費者としての満足ではない。
すべてのことに対する満足だ。
評価が満点になることはないし、評価が満点でも存在が0点なのだし、そもそも評価と満足には何の関連性もない/おれが生きてきたすべての時間は、「生きログ」みたいな評価においては星1.5ぐらいかもしれないが、その評価がどうであれ、おれの完全な満足は消せない、自己評価を含む評価と満足は何の関連性もない。

ブスに生まれついた人もいるだろうし、身体に不具合をもって生まれた人もいるだろう。
その個々人が、すべてのことに完全な満足をしているのかどうかは知らない、ところで念のため「満足」というと、その字義上、完全な満足でないと「満足」ではありえない。
たとえばおれだって、別にイケメンに生まれついてはいない、外見上の品質は下の中ぐらいが妥当な評価だろう、だがおれは自分の生きているすべてに完全な満足を得ている/見た目でおれに惚れる女はいないが、それがおれの話であって、ここでヨソの誰かの話はまったく関係ない、ヨソの何かのせいでおれの満足が脅かされる可能性はない。
おれにもそれなりに向上心はあるが、向上心といっても、不満からやや満足に到達しようとするような、こすい向上心は持ち合わせていない、そんなものは向上心でも何でもなく、悪あがきするババ色根性だろう、おれの完全な満足は永遠不変であって、おれは評価で満足を得ようとしているアホを見ると液体窒素でもぶっかけてやりたくなるのだった、液体窒素ってそんなにダメージにならんけどね。

けっきょく、自分に満足していない他人は知らない。

おれはこれまで、人と社会的に関わることをほとんどなしに生きてきたのだが、なぜ人と関わらずにきたかというと、不満を持っているアホに話を合わせるのがイヤだったからだ、完全な満足を得ている人だけが「人」であり、不満を持っている奴は永遠に不満マンなのだ、この永遠の不満マンに基準を合わせたら世界がどんどん曲がっていってしまう。
断言していいが、誰かXさんがおれより頭がよくなり、おれより才能にあふれ、おれより多数の人に囲まれて、おれより大きな活躍をしたとしても、そのXさんの満足が、おれの満足に到達することはありえない、不満マンは永遠に不満マンだからだ、不満マンの不満は一次的に鎮静するという性質しかなく、しばらくするとまた不満は増大して新しいかたちでやってくる、だから不満マンは能力や評価や実績によらず、何をどうやっても「美」には到達しない。
正しく見ないとな | comments(0) |

所懸命やりたくても、「美」が視えないからやりようがない。
全身全霊でやりたくても、「美」が視えないからやりようがない。
感動したことがない人が、いくらバレリーナになってくるくる回っても、何かになるわけがない。
バレリーナで、すごく美人で、身体の動作も完璧で、でも何にもならないということはよくある、これは悪口を言っているのではない、ただ「当人が何にも感動したことがない」という事実を指摘しているにすぎない、そういう人はすごく多い。

おそらく単純な話、自己感情の興奮と、「美」という体験の、区別がつかない人がいるのだ。
さらに言えば、美とか感動とかの体験が得られない人は、けっきょくどこまでいっても、自己感情に追随するしかない、それで全身全霊といっても、土台が自己感情なのだからどうしようもない。
美とは「不安のなさ」で、つまるところ「これをもって、死んで滅んでもかまわん」という完全な満足のことを言う、これを目撃すると「感動」という体験が得られる。
だから問いかけは、初めからずっとシンプルであって、1.「感動したか?」 2.「美をやってみたら?」 の二つに尽きる/どれだけ多くの人が、「美をやってみたら?」と言われたら情緒を崩壊させ、「感動したか?」と言われたら猛烈な言い訳を始めるだろう、そうして対外的にごまかせても自分の事実はごまかせないのだから意味がない。

救いが必要なくなれば美だが、救いを求めているようじゃエセ宗教でしかない。

救いを必要としている奴が、救われていた試しはないな、美というのは何かを塗ったり飾ったり気取ったりすることで得られるものではもちろんないし、やけくそで死にたがるのも美ではない、「完全な満足」が得られていないと美ではないのだから条件が厳しい。
人間に完全なことはできないので、結果に応じて「完全な満足」を得ることはできない、人間は百点満点を設定できるが、無限大満点は人智で設定不可能だ、人智では設定できないからそれを無限大というのだが/そして無限大満点で割り算すれば、50点だろうが100点だろうが、除算の結果は0点になってしまう、だから人間が「完全な満足」を得ようとしたら、ただただ「完全な満足」を得ると決めるだけだ、5点でも10点でも完全な満足をすると決めている奴はどうしたって完全な満足をしてしまうだろう。

正しく見ないとな | comments(0) |
おれが愛してやらなければ
とえばiPadを持っているのは世界でおれだけだ。
秋の涼風が頬に吹き付けているのも、世界でおれだけだし、過去に神戸に住んでいたのもおれだけ、現在目黒区に住んでいるのもおれだけだ。
おれはまったく無邪気だったので、カミサマを使役していた、そして現在も、やはり最低限のことを、「カミサマを使役すること」に置いている。
あのときからずっとおれは変わっていなくて、唯一変わったといえば、それがカミサマの使役なんだと気づいたことだけだ、それだって表面上の利便にすぎないから、やっぱりおれはあのときから何一つ変わっていない。

おれが愛してやらなければ、この世界は存在しない。
この世界が「存在する」というのは、おれが愛してやっているということだからだ、カミサマだっておれが愛してやっているのだ、それがカミサマなのだということをつい最近知ったにすぎない。
カミサマに感謝を捧げるようなアホ行為は断じてやめろ、おれは生まれてこの方、一度たりとも宗教的な気分になったことはない、どこの聖典にも宗教的な気分になれなんてアホ行為は書かれていない。
どんな聖人だろうがカミサマだろうが、おれが愛してやっているから存在している、すべての場所でさえ、あるいは季節でさえ、おれが愛してやっているから存在している/ここ数年の不毛は、わざわざ悪魔を蓄えた奴がおれに愛されることを拒絶ないしは躊躇することから起こっている、どんなアホな流儀があるのか、一顧だにする価値もない。

おれの愛以外に存在を言い張るから呪われる。

すべての存在の、形式および存在度は、おれがその対象をどのように愛するのかで決定するのだ、そこに茶々を入れるからすべてが行方不明になる/スポーツ選手がスコアの反映だけで存在するように、この世界のすべてはおれの愛の反映だけで存在する。
それはつまり、おれが主体的な存在だということを意味している、どんなカミサマだって、この「主体」の代替はできない。
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