☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
WS報告006(4)/霊能力について与太話

わゆる超能力というか、霊能力みたいなものに、興味を惹かれるというか、そういう人は多いものだし、僕だってテレビ番組等では、「FBI超能力捜査官!」みたいなやつは大好きだ、ああいうのはつい盛り上がって最後まで観てしまうな、理由はわからないが何かが面白いのである、じゃあ面白くないものを観るよりはマシなので、超能力や霊能力みたいなものプリーズ、というふうに、どうしてもなる、それはある意味、健全だ。
で、たまにはそういうネタもいいかと思い、そういう与太話も開示しておくけれども、そんなもん糸でつるした錘をくるくる回してみたり、水晶玉をナデナデしてみたって、無駄でっせ、そういう「聞いていないはずの情報が直接得られる」というのは、どちらかというと「勝手に入ってくる」というものなので、自分が精神集中しても意味がないのだ、家にスキマ風が入ってくるような現象だから、むしろ精神集中なんかしたら鉄筋コンクリートのマンションみたいに、スキマ風は入ってこなくなる(そして、入ってこないほうがいいんだよそんなもん)。
身も蓋もなく言うと、そういった現象は、単に他の人が持っている「心当たり」が、自分の中にも流入してくるというだけなので、人と具体的な「つながり」が形成できない人は、いくら生年月日や氏名の画数を研究しても意味が無いのだ/自分の「心当たり」が自分にはわかるように、「つながり」が起こると、相互に「心当たり」が流通することが割と起こるというだけだ、別に神秘的なものではないし、けっきょくトロい奴にはそんな能力得られないから関係ないのだった、トロい奴が霊能力で救済されるというのは完全に幻想でしかない。
今回のワークショップで、「ついでに言うけど」と、少しそのことも話した、「こうやって、『つなぐ』だろ……するとこのとき、実は、何かよくわからん、『指先?』『スーパーマン?』『上履き?』『外国製のポテトチップス?』みたいな情報も入ってきているんだ、それはいつものことであって、いちいち注目しても意味がないのでいつも無視してんだよ」。

で、これもいつものことだが、そういうナゾの流入情報について、あとで本人に問い質してみると、やはり本人はそれらの単語やシーンに「心当たり」があるのだ、「そういえば先日、仕事で上履きのことを……」と/そして、何よりこのことが重要だが、それはただの当人の心当たりであって、その心当たりを僕が知ったところで、何も役に立たないし、「話したって同じじゃん」ということなのだ、このことが一番大切だ。
なんというか、このことのバカバカしさに気づかなくてはならない、たとえば目の前に一冊の本があり、もしその本を開かなくても、一ページ目に何が書かれているのか透視できる能力があったとしよう、そのとき、たとえその能力が本当にあったとしても、「……本を開けばよくね?」ということなのだ、わざわざ透視する必要がねーじゃんということなのだ/それぐらいその手の霊能力というのは、あったとしても意味がないということなのだ、このことによくよく気づかなければならない。
どうかこのことを、鼻血が出るまで理解しろ、「話したって同じじゃん」といえばまさにそのとおりで、「わざわざ透視するような、いかがわしく不確かなことをせんでもいいでしょ」ということ、それはつまり、己の心当たりについて、言葉を以て話せば伝わるということのほうが、超能力よりも上位にあるということなのだ、このことに気づかないとえんえんカルマが増産されるだろう、超能力がスゲーのではない、超能力よりも遥かにシュアーに伝達ができる「言葉」の使用のほうがスゲーのだ、このスゲー度の上下を見誤っていると、知らないうちに「言葉」を冒涜することになり、本人の身が懲罰のように荒んで衰えていく。
オカルト愛好者が、身そのものとしてダメ人間になっていくのは、これが理由だ、テレパシーでおぼろげに伝わることより、言葉で明確に伝わることのほうがはるかに偉大だということ、ところがわれわれはこの「言葉」という偉大な能力の賜りしを、「誰でも持っているからつまらん」と、つまり己の選民意識を鼓舞してくれないというしょーもない理由で、低級に扱う、そしてテレパシー風情のほうをありがたがろうとするので、カルマが溜まるのだ、「言葉」という能力そのものを低級に扱うということは、すべての聖典を低級に扱ったとみなしてよろしい、だってどの聖典だって「言葉」を通して書かれてあるのだからな。

テレパシーの上位に「言葉」がある。

そんなことは、当たり前であって、誰だって選択肢を与えられればすぐわかる、1.「言葉」の能力をすべて失う、2.テレパシーの能力をすべて失う、この二つのうちどちらかを選べと言われたら、どう考えても2のほうを選ぶしかない/「言葉」の能力をすべて失うというということは、今ここに書かれてある言葉群もすべて失認されて、すべてただの模様にしか見えなくなるということだぞ、そうなるともう獣のようにしか生きられなくなる。
物事の成り立ちとしては確かに、たとえば現在のPCというのは、もともと「電卓」から発達したものだ、どちらも電子計算機でしかないのだから、それと同じで、元々はテレパシー的なものから、「言葉」に発達していったのだろうが、テレパシーが原初だったとしても、上級と低級を入れ違ってどうする、「電卓がブッ壊れるのとPCがブッ壊れるのならどちらがキツい?」、電卓が壊れてもPCのexcelではるかに上位に計算がこなせるじゃないか/PCがあれば電卓は基本的に要らんのと同じで、「言葉」があればテレパシーなんぞは基本的に要らんのだ、そのことの正順を誤認しているから、「言葉」の機能がブッ壊れ始めている、水晶玉をナデナデしていたとして、水晶玉よりそれを撫でる「手」のほうがはるかに上級で奇蹟のものだということに気づかなければならない。

そのほか | comments(0) |
WS報告006(3)/導師事件

夜連続のワークショップを終え、けっきょく日曜日の昼までやり、帰り道を三人で歩いていた、その中途に公園の木陰のベンチで休んでウーロン茶を飲んだ。
するとそのとき、赤いアロハを来た巨躯の、西洋人の方が通りかかって、はたと、われわれのすぐ目の前に立ち止まり、こちらを向き直って、数秒間僕のことを見つめた、白人の方の実用的なサングラス越しに/太鼓腹が印象的なその巨躯は、非常に大きなものに見え、(……な、なんじゃあ?)と僕はただその迫力を見返していた、まったく悪い人には見えないが、完全に穏やかな人というふうにも見えない、サングラスの向こうに瞳の色は見えない、ただ目の前で僕のほうにはっきりと向き合っている。
数秒後、その巨躯の外国人は、僕に向けて第一声、これは穏やかな声で、「……グル(導師)デスカ?」と訊いた、われわれは三人が三人とも、内心で(えっ!!!??)と驚いた/十分に看取されての訊かれ方に、粗雑な答え方を返すわけにもいかないので、「う……まあ、そのようなものです、よくおわかりですね」と答えた。
「べーすハ、何デスカ? ヨーガ、仏教、哲学……」「う……。えー、根本的な帰依は仏教ですね」「道元、トカ」「!……お詳しいですね」「道元、大スキデス」

オ邪魔シマシタ、といって、満足そうに、その巨躯の男性は歩き去っていった、炎天下の中を……その後ろ姿は何となく、日曜日だからどこかのミサにでも行くのかな、というふうに見えた、本当にそうかはわからない。
というわけで、何がどうだったかというと、つまり、ついに通りすがりの外国人に第一声から、「グル(導師)ですか」といきなり言われるようになったぜ!! なんだこりゃ、誰がそんなことになれといった!! オモシロ人間もここに極まれりだ/どーですかみなさん、いきなり通りすがりの外国人から「グル(導師)?」「おう」みたいなやりとりになることってある? 夏休みの日記にそんなこと書く奴ある? そんなことになりたいわけではまったくないのに、オモシロ人間ぶりだけが強制的に上昇していくぜ!!
よくまあ、Tシャツにジーパンで、何の飾り物もつけず、ベンチでウーロン茶飲んで煙草吸っている僕が、グル(導師)に見えたものだな、「グル」というのは教義にはヒンドゥー系の、バクティ・ヨーガ等の指導者のことを指す、むろんおれがそう知っているということではなく、ウィキペディアにそう書いてあるというだけだ、そんなものを志したことは一度もない(当たり前)。
まあ、僕だってそこまでバカじゃないので、あの数秒間で、あの外国人の方が僕から何を読み取り、何を聞きとり、何を感じ取っていたのかは、わかっていないわけではない、そりゃおれがわかっていないわけがねーだろうよ、そしてそこまでじっくり読み取られたからには、テキトーにウソを答えるわけにもいかんかったのだ/そりゃじっくり読み取ってあるていど確信が得られなければ、いきなり「……グルデスカ」なんて専門用語は出てこねえよ、それにしてもとっさに「道元」という単語まで出てくるとは、あの人はいったいどんだけ勉強してんだ、日本語を含めて東洋の学門に精通しすぎだろ。

日本人が鈍すぎる説。

おかしいだろ!! どうして東洋人かつ同国人であるわれわれが集まっても何も気づないのに、通りすがりの西洋人が一発で、グルジャネ→仏教デスカ→ジャア道元トカ、と気づくんだ/断言していいが、僕が東大の哲学科の中を歩こうが、永平寺の周りを歩こうが、道すがらに「導師ですか」と言われることはありえねーよ。
ああ、どうしてこうなった/もちろん例外的に、たまーにご年配の、きれいにお年を召された方が、何かやたらうれしそーに僕を拝んでいくことはあるが、どうしてこころが素直で無垢なはずのスカートを短くした女子高生とかは寄ってこないのかな、僕はガールフレンドをあと18000人ぐらい募集しているのだが、実際に起こることといえば、巨躯の外国人にグル呼ばわりされるという事件なのだった、そういうことじゃねえんだよ、もっと安くていいからセクシーでロマンチックなやつをくれよおおおお。

そのほか | comments(0) |
WS報告006(2)/実績が出ねーとな!

績というと、大げさだとは思うが、いいのだ、実績は出始めている。
「歩き出すときにつんのめらなくなっているでしょ」「あ、ホントだ!」「横向くときに『いらんこと』しなくなっているでしょ」「あ、ホントだ!」、まあそのほか、お通じがよくなったり、なぜか小顔になったり、集中して本が読めるようになったり、「洗練されたね」と言われるようになったり、なんだかんだ憑きものが落ちた感じだったり、色々あるのだが……
このように並べると、「なんだ、しょーもない」と思われるかもしれないが、それって本当にそうか、僕としては、クスリもなしに女性のお通じをよくするなんて、それだけで快便神社が建立されてもかまわないぐらい偉大なはたらきだと思うが、まあそこは人それぞれの価値観なのかもしれない、僕はおおいによろこんでいる。
僕は、背後の理論を非常に重要視するが、その背後の理論から、ナイスな結果と実績が、本当のこととして起こってこなければダメだ、結果が出てこないのなら理論やらメソッドやらが間違っているのだ、僕は高邁な話を聞かせて摩訶不思議な気分にさせるような趣味のことをやっているのではない、結果を生み出すための最短距離を導くものとして背後の理論を重要視しているだけだ。

最短距離というのは、真っ正面からドエライ苦労するということだから、真っ直ぐいけるということじゃなくて、うねりくねった道を「ぬああ〜これを行くしかないんじゃ〜」と踏み出すということだ、「できね〜」アンド「自分がアホすぎて笑えね〜笑うしかね〜」というやっぱりそうなのか感が最短距離だ、まあそりゃそういうものだからしゃーないわな。
それで、何が言いたいかというと、なんだかんだ、その実績が出ているということを言いたいのだ、僕はそこのところ割と単純な奴で、実績が出ていると「やったぜ〜」とよろこぶのだ、レベルの高低ではなくとにかく実績が出ていればそれでバッチリだ。
何をそんなによろこんでいるかというと、こういうことって、理屈はどうでも、本当に結果や実績が出るものかどうか、何しろ経験がないのでわからなかったのだ、それがこのところ、「あのときのアレが、こういう結果になって出てくるのか〜ほお〜」と返報されることが多くて、僕はよろこんでいるのだ、そして「思ったより結果につながっているじゃん、やっぱ効くんだ、へええ〜」と感心しているのでもあった、まるで無責任なセンセーだが、割と必死こいてこれなのだからなのだからしょうがない。
「あのとき蒔いたあの種が、ここでこういうふうに芽を出すのか、すげえ」という、完全にベタでありふれている面白さを、僕は勝手によろこんでいる、非道な僕は人の成長をよろこんでいるのじゃない、理論(学門)が実際の形になって生じてくるのが僕にとっては感動的なのだ、そのとき僕はとてもまともでマシなことができている気がする。

ぜんぜん低レベルだが、むしろ予想より格段上の成長率だ。

正直なところ、僕は自分がハイレベルだとは思っていないし、他人の誰かを低レベルだとも思っていない、そりゃ僕のほうができることは多いし、僕のほうが「なんじゃそれ」というナゾのワザができるのは確かだが、そういうレベルを誰かと比べることに意味があるとはまったく思わない、僕の海釣りと漁師のはえなわ漁を比べることに何の意味がある、どちらも「釣れた〜」というよろこびが大事なのであって、それ以外には何もない。
いろんなゴタゴタを抱えつつも、なんだかんだ、みんな先月とは立ち姿も違うよ、今は「へえ〜」というだけでしかないかもしれないが、その差が十年後に何をもたらすかはわかったものではない、というわけで、僕はやっただけ値打ちがあるなあという渦中にて、なんだかんだよろこんでいるのだった、おれはお前らよりもずっと単純な奴だからな、まあスゲーところまでやりまっせ。

そのほか | comments(0) |
WS報告006(1)/パニックとエコー

23時からスタジオを借りておいたら、22時30分から降り始めた、そして今さっき帰るときは雨があがっていて、おれが原付で帰宅したらただちにまた降り始めた、よっしゃタイミングはドンピシャである、やっぱりこれぐらい祝福アンド福音に噛み合っていないとな!
ただいま絶賛、横隔膜をいじっているところだが、横隔膜っつーと声を出さんわけにもいかないので、今回は雨天でスタジオを借りたのも偶然の吉相だ、声を合わすというのは僕にとってはベタなことだが、多くの人にとっては初体験だった模様、こんなもんは実際にやらせりゃ一発なんだよ〜、スタジオ環境は大変有効活用された。
そしておれさま自身の技術はというと、もうあれこれ言うとウソくさくなるので、言いたくないが、僕自身「えっホントにこんなことになるんだ」「このワザってマジでこうなるんだ」と、びっくりして祝杯をあげたほどだ、まあ先日書いた記事がそのまんまマジでーすということなのだが、もうこんな話に説得力を持たせる気も失せてきた、僕だって他人事だったら「ウソつけ」としか思わないものな。
横隔膜にアプローチする、「入口」の方法として、よいメソッドが見つかった、これ、やらせてみたらみんなえんえんやり続けるし、その後「こんなに集中力を使ったのは初めてです」とフラフラになっていたから、これはよい方法だ、よい方法な上に僕は割とサボっていられるので(タバコ休憩サイコー)、その意味でもよいワークなのだった。

横隔膜ウンタラといって、目の前で、ああいうフルヴォイス(むろんおれのやつだよ)を聞いたのは、割とみんな初めてだろ? 知り合いにオペラ歌手でもいない限りは、ひとまずそれで「横隔膜」とか「声」とかの思い込みを破壊した(つもりだ)、つもりといってそりゃ目の前であんだけやられりゃ横隔膜の「出力」っつーもんについての認識が根本的に変わるだろう、基本的にそういう度肝を抜くもんでないと面白くない。
で、いよいよ主題は、衆目の一致するところ、確信に手が掛かっている、つまり自分がなんとかして「イエス」に機能する、ただそれだけだ、横隔膜がエライのではなくイエスがエライのである、イエスってキリストのことじゃないよ、イエス・ノーのイエスね。
これをワザ的に使うとなると、身体の内に陰陽を分けて作り出し(魂魄分離)、人は陰(ノー)の部分でケンカするので、でも陽(イエス)のところでワザが掛かっているので、「がんばっているのに無抵抗」みたいな状態になり、「なんか手が離せねえ、ぐおおお」→すってんころりん、となる、まあでもそういうワザをやりたいのではない。
僕はただ、「イエス」というコマンドで、「世界」が現成するというのをやりたいだけだ、コマンド、つまり命令法ということになるが、研究の結果、「自分で自分に命令してみて?」とやると、「うおおお〜気づいたあああ〜自分に対してさえノーを出しているぅぅぅ〜」という切実なことが起こった、まあ笑うしかないな、たぶん横隔膜が固まっていると、それだけで「エコー無し」「慢性パニック」「全身ノー状態」「言語オート呪状態」になるのだ/それが悪いという話ではなくて、単に「別の状態もありまっせ」というだけだ、その別の状態とやらをやっていけばいいだけの話、そりゃ横隔膜を広大な羽二重餅にしたら別の状態なるわい。

パニックとエコーは、対極であり、等価だ。

パニックが悪いわけではない、僕はパニックが好きでなく、たぶん誰だってパニックは好きでないというだけだ、<<パニック要因>>というのがあって、人は単に握力を込めたり鏡を見たり他人の視線や言葉にまごつくだけでもあっさりパニックになる、そしてパニックなるとすべてのエコーは聞こえなくなるのだ。
だから、なるべくパニック要因を減らしていけば、エコー状態とやらの「入口」には到れる、あとは横隔膜の性能と精度と威力を増していけばいいだけだ、僕はわけのわからないことをやっているのでは一切なく、逆に「わけのわかる」状態に人を連れ戻そうとしているだけということになる、それなりに実績は出始めているぜひゃっほう。

そのほか | comments(0) |
パーティ報告82(4)/尽くしていますか〜
「別におれは、明るくしようとしているのではないが、もしおれが明るい人間なのだとしたら、それは本分に尽くしているからなのじゃないかと思う、本分に尽くしていない人間はどうしたって底から明るくはなれないだろう」
尽くしていますか〜、という、一言で済むというわけだ、そりゃ尽くしていない者が尽くしている者には勝てないわな、『本分』でやっていないということは、必ず『自分』でやっているということだ、本分が縮んで自分が肥大するというのはどう見ても正道じゃない」
「こういう話をしていると、『厳しいなぁ〜』とよく言われるけれども、そうじゃない、逆なんだ、本分でないことを自分でやり続けるほうが、よっぽどダルくてしんどいんだよ、しかも底から明るくはなれないという、そりゃそっちのほうがキツイよ、おれにはそんなキツイことは耐えられないんだ」
「しかも、おそらく、人は本分に尽くしていないかぎり、それに見合った能力や徳性や幸運も授かれないんだ、努力しているのに何も得られないってことになるんだよ、しんどい上に何も得られないなんて、こんな不合理なことをやっていられるかい、おれはイヤだね」

どうやら、ほとんどすべての人は、「何かしなきゃ」「何かをしないわけには」「あああ」という思いと危機感はあるらしい。
パーティうんぬんが始まると、僕は自動的に、その場の本分に尽くすので、そこにいる人は自動的に「尽くされる」ことになり、「それはマズい!」と感じるようだ、「カ、カルマが溜まるぅ〜」という感触が実際にあるらしい、そりゃ自分だけ尽くされてホワホワ〜ンと棒立ちしていたらそれなりにカルマが溜まるだろう。
「『本分』は、『自分』の中を探し回っても見つけられない。『自分』とは異なるから『本分』と呼ぶわけだからね。本分というのは、そのときの場所、環境、目の前に置かれているものに対して発生するんだ、現場で反応するのが本分というものだ、人それぞれ、何を本分するかという個性はあるだろうけれど、それはただの傾向であって、本分の本質はそこじゃない」
「たとえばおれは、居酒屋に飲みに行くじゃない? そうしたらガンガン注文して、ガンガン食ってガンガン飲むのだけれど、その背後にはどこか、『それが客の本分だろ』という感覚があるんだ、それで『ごっそさんしたぁー』と帰って行くのが客の本分だと思っているんだよ、なぜか知らんがその本分を尽くそうというはたらきに、その現場ごとに反応してしまうんだ」

「本分というのは、自分の中にルール作りをすることではないのですね」「そう」

「おれだって、こうして色んな場所にいてさ、そのときの本分に尽くさなかったとしたら、後で気分悪いもの、そしてそれ以上に、何か道を外れたとか、運気が下がったわとか、よくない不穏の実感があるものだよ、そこはそもそも、本分に尽くしていないのに明るくなろうというのは話がメチャクチャなんだろうな」
「本分というのは根が深いようだな……自分の中に本分を探すなよ、こうして現場があって、隣に女性がいたら、おれには男として尽くすべき本分が発生する、隣に年少者がいれば、おれには年長者の本分が発生する、おれがこの場の主催者なら、主催者の本分が発生する、自分の中に発生するのではなくて、目の前に置かれた現場とそこにある関係性の中に本分が発生する、目の前の世界に対して本分が発生している、それを自分の中に探さないことだ、目の前の世界の中に探すことだ、本分が見えないかぎり本望には到達できないだろう」
そのほか | comments(0) |
パーティ報告82(3)/caseの人々とボエーム主義
19時に飲み始め、朝の5時までやり、その後ファミレスでメシを食うと、10時から禁煙になってしまうので、帰るか〜となり、歩き始め、また喫茶店に寄ってしまい、けっきょく昼下がりまでやる(二十四時間耐久はさすがに、この季節にはキツすぎる)(つーか、別に耐久モノにする理由はねえよ)。
「世界」は、ボエームのものだ/これに関しては、今のところ、本当にわかるのは僕だけだ、これは、別に命がけになる必要はないが、生死は超えている必要がある(生死を超えるということは、命がけにロマンを見ないということでもある)。
今回は、翌日の昼下がりにまで至って、重大な発見を僕にもたらしている、ようやくつながったという話でもあるが/「100%やる」、これを自在といい、「100%何もしない」、これを無碍という、この二つが同時に成り立つとき、人の霊魂は「世界」と出会う。
「ずっと遠い昔、自分の身体を見て、これはきっと「容れ物」なんだと思っていたろ? 『わたし』の容れ物。どうやらその見方が、本当に正しかったということのようだよ、すべての切る・つなぐは、この『容れ物』と『中身』を切るということで決着できることになった」

みんなが「言葉」と思っているものは、実は言葉ではなく、それは「言語」であって、実は言葉の「容れ物」だ/言語は言葉の「容れ物」にすぎない、そして容れ物だけあっても中身が入っているとは限らない。
みんなが「わたし」だと思っている身体は、やはりわたしの「容れ物」でしかないのだが、さらに重要なことは、みんなが「世界」と思っているこの世界が、実は世界の「容れ物」でしかないということ、この容れ物の「中身」に出会えるかどうかは人それぞれであって、またその中身に出会うには満たされねばならない要件がある。
気魄は「100%偏らないこと」、霊魂は「100%偏りきること」、このことが同時に為されたとき、霊魂は容れ物から飛び出て、この世界(中身としての世界)に「出会う」ということが起こる/このことがはっきりわかっているのは、さしあたり僕のまわりでは僕一人だ。
すべての容れ物は、「ノー」という事象で骨格を為されており、すべての中身は、「イエス」という事象のみで満たされている、中身は全部同じなのだ、「わたし」も「言葉」も「世界」も、中身は同じ、中身はすべて「世界」というひとつのものであって、これはひとつなのでどこまでも区切ることのない元々からのひとつのものだ。

容れ物の沙汰は、すべて「case/ケース」の一語で済む。

caseとは容れ物であり、箱に入れるということであり、同時に「場合」という意味でもある、そして僕は容れ物の沙汰に詳しくなる意図をもたず、どうやったら中身が出てくるのかという視点のみにおいてcaseの問題を取り扱う/僕が神戸とかカルカッタとか言っているとき、それらの語は「地名」ではない。
ボエームと呼ばれる人々は、定住を持たないのではなく、容れ物を生きていないということなのだ/世界の容れ物は誰でも認識できるが、その中身と「グワッと」出会える人はごく限られている、何もたいしたことではないのだが、今のところこれを当たり前にやれるのは僕のまわりでは僕一人だ、通りすがりにお茶でもしていくか。
そのほか | comments(0) |
パーティ報告82(2)/永遠に遊んでいくためには、マジメに道を切り拓いていく必要がある
ェジ青年は、ワークショップでの発見もあって、すでに「言葉」に集中して耳を傾けるということを、覚え始めている(そんなもんコッソリやっていたっておれには丸見えだぜフハハ)。
ガイル青年は、ワークショップにも関連して、何か最近ウキウキの様子で何よりだ、きっとノンフィクションの呪縛から離れて過ごせる時間が単純に楽しいのだろう、この機会に横隔膜をモノにしてしまえばとてもすばらしいことだ。
パドック青年は、今回、ちょっとまともな大人の青年になってやってきた、これはまったく祝福すべきことだった、あのときのアドバイスはマジで有効だったんだなあ……と逆におれが驚いたわ/会費、二万円も置いていってくれてマジで大丈夫だった? まあこの差異は受け取るほうが吉で仁義だと思ったので受け取ったが(会計時に女性陣はお礼を言っていた)、この供出分はいつかのG1レースで報われるように祈っている。
ニンジャ青年は、今回は体調不良で欠席となりました、とまあ、こんな感じ、男組はなんだかんだ楽しそうじゃのう。

女性組のほうは、まあ、いつもどおりで、何かあるかね、レディ合気道は肘の位置がよくなり、腕と肌がきれいになっていた、たぶんいつぞやのやりすぎで腕にマヒとシビレが出たのが逆によかったのだろう。
レディ喜望峰は、「こんなことで元気が出るとは!!」とか「猫かぶらなくていいのか!!」とかで、居心地がよくてやりやすいぜ〜充電できたぜ〜ということのようだったので、ナイスで何よりだ、さああとは「ストーリーを掴め」よ!
女性陣をネタにしてもいまいち盛り上がらないのでやめておくが、さしあたり、遊びに来てくれている人には、いちおう何かの足しにはなっていると思う/なんというかね、永遠に遊んでいくためには、マジメに道を切り拓いていく必要があるのだ、常に道を切り拓いていかないと、その遊びは必ずどこかで途絶えてしまう。
もちろんパーティなんか、生きるのに何も重要ではないのだが、そうではなくて、そもそも人生が重要化するというのはシンドイということなのだ/われわれは常に生きるのに光を求めているのだが、重さがあったらそれはもう光ではないのだ、物理的にそういうもんだ、これはこじつけではなく割とマジのことだ。

誤解するな、おれがいる場所は常にパーティだ。

おれがわざわざ、企画イベントでござい〜の「パーティ」なんかするわけないだろう、そんなことしなくて、おれがいればそれはいつでもどこでもパーティなのだ、そりゃそうだろうというのは単に語学の問題であって、元々partyというのはそういう意味だと辞書に記されてある、TOEICにも割とよく出題されるじゃないか。
帰り道、レディたこ焼きが歩いているところ、「……ほれ、気づかないか」「何でしょう」「ほら、こいつ、これまでのクセだった、歩いていたら夢遊病みたいになるのが、今はもうなくなっているだろ」「……あ! ホントだ!」「人とつながって、一緒に歩いているってことが、わかるようになったんだよ」、これについては当人が一番驚いていたかもしれない、「ワークショップのやつとか、あれマジだったんですね!!!」「そりゃそーだ、おれがやるからには、役に立たんことはやんねーよ」「うおおお〜」、まあこんな感じ、どいつもこいつも、来月もよろしく〜。
そのほか | comments(0) |
パーティ報告82(1)/本分に尽くす

のところ、パーティは毎回面白いし、毎回盛り上がるので、まあいいんじゃないのと思うが、こうして面白いうちに次の手を打っておきたい。
次の手、といっても、別に何もないんだけどね、もっとたくさんの人が来たらいいなあとは思う/特に打つ手はないので、何か打つ手のようなものが天空から降ってきますように、おれが考えるのはメンドウなのであった。
「面白い」とか「かっこいい」とかいうのは、ほとんどアプリオリなものなので、「まず面白いライン・かっこいいラインが見えていなきゃだめだよなぁ、想像力として」と僕は話した。
「たとえば、『ダルいから行きたくない』というのは、誰だって当たり前、そこで『ダルいから行ってきます!!』という奴がいたら面白いし、何かちょっとカッコイイ、そうして面白さやかっこよさというのは、常に思い込みを破壊することから生じてくるもんだ、まあキホン中のキホンだわなあ」

「面白いとかカッコイイとかいうのは、自分の中を探しても出てこない、本分に反応する奴だけが見つけられるラインだ、『自分』と『本分』、という二つの言葉に括っておけば何かの役に立つかもしれない」
「本分が掴めないヤツは、どうしても自分の中で探し物をするしかなくなる、すると本分から動くのではなく、自分の願望から動くことになってしまう、そしてその願望というやつは、いくら満たされても『本望』にはなりえないんだ、願望と本望は別モノだからね」
「たとえばおれは、こうしてわけのわからんパーティやワークショップをやっているが、どうしてヒィヒィ言いながら何のトクにもならんことをしているのか、その動機が、普通の観点からは理解できないはずだ、だっておれの中にその動機はないんだからね、これはおれの願望じゃないんだ、おれは本分に反応してヒィヒィ言っているだけなんだな/パーティやワークショップだけじゃなく、お前らがいつも読んでいるブログやサイトだってそうだよ、あんなところにおれの願望なんて一ミリもあってたまるか、おれは本分に反応してヒィヒィ言っているだけだから根本のメカニズムが違う」
「で、そうして、願望でなく本分に反応しているヤツは、何かしらちょっとは面白いだろうし、ちょっとはカッコイイはずだってことだ、別に願望を持ってはいけないということじゃない、願望で燃えさかるのは筋(スジ)が悪いってことだ、本分に<<尽くす>>というヤツがいたら、願望の徒はどうしてたって勝てないだろう」

「おれは本分に尽くすから、仮にお前らが何もしなくても、自動的にお前らは<<尽くされる>>ってことだよ、今ここではおれがお前らに尽くしているんだ」

「いろんなヤツがいて、いろんな事情や、いろんな考え方があるのだと思うが、そのことについては、おれは茶々を入れる気には一切ならない、なぜならそこに口出しすることはおれの本分ではないからだ、おれはおれの本分にしか反応しなくて、本分でないことは一切耳に入らないようにできているんだ」
「おれのことがキライなヤツもいるだろうし、他のヤツから見たらおれの生きていることなんかは、みじめであわれで貧しくてカワイソーなのかもしれないが、そこはどう思われようが本望だ、本望が成り立っているのだからしゃーないわな、まあこの夏はさすがに暑すぎるのでおれは避暑にいこうと思っている、軽井沢か清里あたりに行ってこようっと」

そのほか | comments(0) |
WS報告005(2)

魄を分離するといって、それは「心臓」→「横隔膜」にセンターを移動するということなのだが、まあ念のために言っておくと、おれ自身の能力はそんな次元のもんじゃねえ、これはワークショップのために次元を落として取り組んでいるんだ、おれの次元はもっとぶっとびなのでそこんとこヨロシク、そりゃおれは直接女の子をメロメロにしうる領域じゃなきゃ本分じゃねえよ。
まあその次元のこともどこかでnotice程度には表示したくあるが……まあいいや、とにかくギリギリ「視える」ところからコツコツとだな、それでいうと、「腹から声を出す」というのもやってみたいと思った(こうして書いておかないとおれは忘れるのだ)。
腹から声を出す、といって、「ああ、やっぱそうですよね」と多くの人は賛同すると思うが、ふへへへ、実はこのことは根こそぎ誤解されているのだ、腹から声を出すといって、「やっぱり口先三寸ではダメですよね」と思われていると思うが、違うのだ、「腹から声を出す」というのは、腹→喉→口で声を出すということではないのである。
じゃあどういうことかというと、「腹」から、それ自体をスピーカーのようにして声を出すのだ、「腹」から直接サウンドアウトするのだ、喉を経由しないのだ/そりゃふつう「ええっ」とビビるような話じゃないか、「腹から声を出すって、直接ですか……」とドン引きされるとたいへん面白い。

横隔膜自体が「エコー」の能力があるということ。
だから、横隔膜の下部に、エコーアウトすると、「腹」が直接鳴っているように聞こえるのだ、聞こえるというかたぶんマジで鳴っているのだろう、それは喉から出る「音」とは性質が違うのだった。
僕も学生時代に合唱団にいたので、いわゆる「発声法」みたいなものは、基本的に一通り知っているつもりだ、だがあの発声法というのは基本的にベルカントを土台にしており、横隔膜の下部にサウンドアウトするというようなキショイ話は出てこない、少なくとも僕の知る限りそんなイカレポンチ発声を教えている教本はない/ベルカント唱法は、マイクのなかった時代、オーケストラを飛び越えて客席に声が届かないといけないので、とにかく声量と響きの大きさを最大化することを基本の目的に作られている、もちろんそれはひとつの精髄であってインチキのものではまったくない。
が、われわれがベルカント唱法を身につけても、あまり意味がないので、僕が伝えたいことは別だ/まあそれ以上は説明できないが、おれが実際に横隔膜の下部からサウンドアウトしたら、フツーに「うお!」とびっくりするよ、それはエコーだから届いてくる性質が違うし、「なぜか声の向こうからオーケストラが聞こえてくる」というようなやつだ、エコーだから実は「空間」「世界」が届いているんだな、次回はこの露骨なやつをやってみよう(出来るのはどうせおれだけだが、横隔膜に直接覚醒の作用があるかもしれないと期待している)。

「この声ってどこから出ているんですか」「うーん、たぶん、横隔膜の『思い出』からなんだろうな」

「思い出」が、人の身のどこに入るのだろう、どこに刻まれるのだろう、思い出というのは単なる記憶とは違うし……/どうもこの解答が、横隔膜ということらしい、少なくとも大きな部分を横隔膜が担っているのは間違いない、「横隔膜って呼吸するための膜っていうだけじゃないんですね」「そりゃそうだ、スリーエムが開発しました、みたいな話じゃねえもの」。
ワーク中、自分の身体に手を当てて、「うわー、あった、あったわ、横隔膜あったわ」と歓喜している人がいた、たいへん素直で健全でいいと思う/おれは別に横隔膜がスゴイという話をしたいのじゃない、横隔膜がないのはヤバイという話をしているのだった、横隔膜がないままこの先を何十年も生きるのはキツすぎるだろう。

そのほか | comments(0) |
WS報告005(1)
から書けばいいのかわからんが、とにかくまた19時から朝の5時までやった、ダレている時間はない、少なくともおれはない(いや、たぶん誰にもない)。
とにかく、当初はおれが言っていた、全員にとっては「なんのこっちゃ……」が、ここにきてプレイヤーの全員に「視えてきた」「つながってきました」ということになったので、たいへんめでたい、とにかくおれが何のことを言っているのかがわかってきたのだ。
これについてはやはり、横隔膜の発見が大きかった、つーかテメーらはここまで具体化しないとわかんねーのかよという話だが、むしろそうしたプレイヤーとの関わりの中で、僕自身が「どこ」を使っていたのかがわかってきた、これは僕一人ではわからんことなのだ。
ある種の現象を、僕はできて、他の人はできないわけだが、そうなると「どこが違うんだ?」ということになる、プレイヤーだけでなく僕もなる、その中で僕自身も「ここが違うのか」「おれはここを使っていたのか」「へえええ〜」と発見していく、それで学門が進む/これまで僕が何も知らないで出来ていたことが、今は明瞭に「これ」とわかって出来るようになったということ、そうなると今度は、出来ることの精度が格段に上がっていく(いや別に、もともと精度が低いわけでもねーけどよ)。

「ノー」の出どころと、「イエス」の出どころが、まったく違うということ、それぞれは次元が異なる事象だということ、これがうまくハマったし、その先に「全身にイエスが満ちている者にならないと」ということは説得力を持った。
まだ全員、「言語が入るとぜんぜんダメですわ」という状態だが、それが「ぜんぜんダメだわ」という自覚レベルに至ったということがすばらしいことだ、前にも言ったが「できね〜」というのはすばらしいことなのだ、「出来ているか、いないか、よくわかりません」というのが本当の蒙昧だから、その蒙昧状態よりは遥かに躍進したことになる。
やっていることはずっと同じ、気魄は人に触れ、「触れるだけ、何もしない」、霊魂は横隔膜でエコーを聞く、「イエス」を聞く、包む感じになる、エコーというと「行け行け行け行け……」とやまびこだが、「こんなことがマジで正しいんだ」という驚き。
そして、横隔膜・エコーについては、「直接法」とでもいうべきか、直接横隔膜から横隔膜へ共鳴させてやるのが手っ取り早いというのがわかった、むしろこれが唯一の方法なのかもしれないな、あと「格はずし」のワークをやるのを忘れた、こんなことでまだ半分も書き話せていないと思う。

ヘンなことをしているようだが、違う、まともな奴になるための訓練をしている。

朝にはデニーズに行って、メシを食ってアイスコーヒーをがぶ飲みし(暑いんだよ)、「言葉」についての点検をして、○△□×とやってみると、「な、言葉に見放されているだろ?」「ほんまや、これめちゃまずいですやん、逆に笑けてきますわ」となった、こうしていよいよ本丸に手ごたえが出てきたのだ(本丸に討ち入れるかどうかは知らん)。
「胸は身体の表側にあって、肩は身体の裏側にある……のじゃないよ、そりゃたとえば、ブラジルが地球の裏側にあると思っているんだろ? 勝手に日本が表だと思ってさ。自分の見えているほうが『表』で、見えないところは『裏』だという、その思い込みから逃れないかぎり、肩は身体につながらないよ/たとえば冷蔵庫にマヨネーズのボトルがあるじゃん、あのマヨネーズのボトルの裏表なんて気にしないでしょ、身体もそういうものだよ、肩がつながるとあなたの腕は腕でなくなりようやく『身体』になるよ、そのとき腕は『消える』んだな」
そのほか | comments(0) |
第82回Quali's Party[7月21日(土)]参加者募集!

Recent entry: ひろみ、ゆか、あきら、りさ、ともこ、まなみやじー、つかごん、ゆうさく、くおり
7/19 Quali tweet> 今を調整してしまったら、十年後の思い出にならない。 pls entry


キラキラ加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


日時2018年7月21日(土)19時〜23時
場所原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB待ち合わせ:原宿竹下通り商店街突き当たり竹下口交差点ムラサキスポーツ前
費用男性5000円 女性3000円
参加資格ブログorサイトのファンであること
→その他詳細はこちらから

皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております! どうぞお気軽にご参加くださいませ。九折

宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!

そのほか | comments(0) |
WS報告004(5)

ークショップの報告ばかりになってつまんねーな……まあ今だけのことなのでお許し願いたい、申し訳ない。
ひとつだけ、業務連絡みたいにもなるが、「マスター状態」についてメモ書きしておきたい/本ワークショップでは「マスター状態」を重視しております。
「マスター状態」なしに、チームワークとかリーダーシップとか、みんなでどうこうとかは、「どうせ伝わらんから疲れるだけや」と身も蓋もなく言うのが本ワークショップの理念であり、一方「マスター状態」なら、何の文句もストレスもなしに「命令」がスイスイ通るし、それで全員がすげーラクだし、しかも「何か世界があるわー」ってなるやん、ということを実演・実体験するのが本ワークショップの実体だ。
マスターというのは、中央にどっしり立つ帆柱(マスト)に引っかけて、その原理を理解するのがよいのだが、逆にこの「マスター状態」が、「決して成り立たない」というケースについて指摘しておきたい、受講生はクソほどこのことを把握しておくように。

マスター状態が「決して成り立たない」という状態、それは「」だ。
「輪」とはどういう状態かというと、「中心に何もない」という状態だ、この状態になる人がとっっっても多い。
マスター状態というのは違うのだ、自分が「マスター」としてそこに立つとき、中心は自分だ/誤解するな、マスターとプレイヤーが向き合って、マスターとプレイヤーの中点に中心があるのじゃないぞ。
マスターが「中心」であって、マスターの前方にはプレイヤー、マスターの後方には「客」(対外)があるということだ、プレイヤーと客が「輪」になるのであって、マスターは「輪」の一員じゃないよ/この「輪」に入りたがる人・「輪」から出たがらない人は、マスターとして機能することはできない、これは「原理」なのでよーく把握しておくように。

オーケストラのコンサートがあったとき、「演奏もしていなければ、音楽を聴いてもいない奴」が一人だけいる。

オーケストラのメンバーは、全員プレイヤーだから、全員「演奏」をしている、一方で客席のほうは、全員オーディエンスだから、全員「音楽を聴いて」いる、その中で、真ん中の指揮者だけ、何の音も出していないし、何の音楽も聴いていない、じゃあコイツは何をしているのかというと、the echo を受けている、コイツ一人だけコンサートホールの中でまったく別のことをしているのだ。
このことを徹底的に把握しておくこと、たとえばオーケストラの指揮者は、音楽を聴いていたら<<絶対に間に合わない>>よ、だって指揮者が振り出す前に演奏は無いんだから、音楽を聴いてから指揮棒を振り始めたのでは間に合うわけがない、指揮棒から演奏が「始まる」のであって、指揮棒は常に演奏の「以前」にしか存在しない/多数の人々の「輪」があったとして、マスターはその輪の一員では決してない、背後のオーディエンスと目前のプレイヤーが輪になって「コンサート」が成立するのだろうが、指揮者は時間軸上「コンサート」より先行した時点に立ち続けている、「マスター」は人々の輪の「出来事」から離脱しており、逆に「コンサートに参加したことがない」のが指揮者だ。

そのほか | comments(0) |
WS報告004(4)
スト(帆柱)が低性能だと、船は進まない。
セイル(帆)が低性能だと、やはり船は進まない。
マストがぐにゃぐにゃだわ、傾いているわ、甲板につながっていないわ、セイルは畳まれたままだわ、スカスカだわというのでは、船は進みっこない。
ちゃんとしたマストが立っていて、ちゃんと帆が貼っている船のことを、「マスター」という、これはただの、船に関する用語の話。

もし船がマスター状態になっていなければ、それぞれが人力で船を漕ぐしかないが、それで大西洋を渡りきれというのはえぐい話である、全員腕がムッキムキになってしまうぜ。
マスター状態において、マストはまっすぐ、偏りなく立ち、しっかりと一本になって、船の中央につながっていなくてはならない/そこでマストそのものは、「何もしていない」のだが、このマストはセイルに受けた力を船の全体に伝える役割を果たしている、船員たちはこのマストに「運ばれていく」のだ。
もちろん、人間はムササビではないので、風そのものを受けて進むものではない、だがこの世界にはどうも、the echo と呼ぶべき何かがひしめいている、それは一種の「言葉」ないしは「言葉の素(もと)」なのだが、説明はしにくいし、実用的にも the echo と呼ぶしかない。
桑田佳祐の歌に、「いつか何処かで (i feel the echo)」というのがあったけれど、それはつまりそういうことなのだ、人は気魄で触れてつながり、かつ「何もしない」なら、the echo を受けて進んでいくのだ、何もむつかしいことはなくて、ただ思いがけないことが「マジだった」というだけだ。

横隔膜には、この世界の「マスター原盤」が入る。

それは記憶ではなくて、原盤のレコードなのだ/全身をレコードプレイヤーに見立てたとき、レコードプレイヤーがガタついていてはいけない(ポンコツかよ)、レコードプレイヤーはハイエンド機であってガタつかず、その中で原盤レコードだけがスーッと回り始めるといいのだ、それだけで人を何かの世界に連れて行くことができる。
頭の中には、いろんな理解(格・分割)と記憶が入るのだが、それはつまり、「解説! 尾崎豊のすべて」というような冊子が本棚に入るというだけであり、尾崎豊の原盤レコードが頭に入るわけではない、まあ目の前でやられたら一発でわかるので、気になる人はどうぞいらっしゃいませであり、説明はメンドクサ〜イのだった。
そのほか | comments(0) |
WS報告004(3)/マストに帆が張られエコーに出会う

19時から始まったWSは午前4時に「まとめ」に入り、その後向かいのデニーズに行く、そこでおれは大量にメシを食いながら、食後にはコーヒーを飲んで引き続き学門を考究する、メンバーは半分ぐらいついてくる、これがいつものパターンだ。
今回は革新的な発見があって、基礎の理論とワークの品質が大幅に向上したので、そのことを記録しておきたい、時刻は午前9時を過ぎていた(マジメにやっているわけではない、マジメが始まったらこの世のオワリだ)。
マストに帆が張られエコーに出会う/「余韻法」と呼んでいた「余韻」というのは、the echo のことだと再定義すればすべての話がひとつにつながる、エコーというのはギリシャ神話に出てくる妖精の名を成り立ちにするのでもある、妖精エコーは半獣神パーンを置き去りにする(ググれ)。
全身をひとつなぎに"戻す"、なぜ"戻す"かというと、神話において妖精エコーは身体の節を「八つ裂き」にされてバラバラになったからだ、この節は音楽の節とも同義の語が当てられる、ひとつなぎに戻して何にするかというと、船のマスト(帆柱)となる、マストになって何をするかというと、帆(sail)にエコーを受けるのだ、この帆船はthe echoの力によって動く、この帆船は自力の動力によって動いてはいない。

今回の大発見、それはエコーを受ける帆(sail)が、つまり横隔膜だということだ、横隔膜はエコーについて、スピーカーであると同時にマイクでもある(そもそもマイクとスピーカーはまったく同じ構造のものだ)、そしてこの横隔膜というやつは、受けたエコーをそのまま「保存」するというレコードでもあるのだ。
何度も話すように、ノンフィクションとしての「気」「気魄」というものがある、この機能の中心(センター)は、どうやら胸の中央、胸郭の中央であるらしい(およそ両乳首の中点)、ここに全身がつながると、確かに「気」と呼ばれる現象が明らかに起こってくる。
この胸郭中央からの「気魄」で何をするかというと、「触れる」「つながる」、そして「何もしない」なのだ、何かをしてしまうと、ただ接触とつながりが切れてしまって、相手の気とぶつかってしまうだけになる/この、「触れるだけ、何もしない」、かつ「動く」というのが大問題だった、それはこれまで「気魄は触れるだけで、霊魂が抜け出して動く」と説明していたのだが(魂魄分離論)……
今回は、はっきりしたことがわかった、魂魄分離というのはつまり、胸の中央(心臓)から「つなぐだけ」「触れるだけ」とし、その状態を保ったまま、機能の中心(センター)を、数センチ下の横隔膜(の上面)に落とすことなのだ、そのとき「わたし」「あなた」だった関係は、突然ガス化してすべて世界とひとつながりになる(ガスは分離できない、これは「魂」の字義に整合する)、このとき「肉体」はふれあったまま相互に「何もせず」、しかし世界とひとつながりになって唯々「世界」を見る、つまりすべてが in the echo の状態になるのだ/この世界はからっぽではない、the echo がひしめいている。

action機能の完全統御と、echo機能の完全統御、ただそれだけだ。

ひょっとすると、東洋人は文化圏として「気」「気魄」に元々素養があり、西洋人は文化圏として the echo(魂・霊魂) に元々の素養があるのかもしれない、東洋の言語発声より西洋の言語発声のほうが明らかに横隔膜的に響くのは今さらながら見逃せないところだ、そして西洋にはけっきょく「気」そのものに該当する語はない(一方で、「九折さんのレクチャーは英語で言われないと入ってこない」と言われたこともこれまで複数ある)。
まあ何にせよ、発見されればシンプルなことに、アクションセンター心臓と、エコーセンター横隔膜の、正式な分離と統御が出来たらそれでいいということなのだった、そして本ワークショップの目的は、「言語がアクションセンターに入るとバグ状態になる」=「呪いになる」という、アホな状況をいいかげんやめようということなのだった、言語はエコーセンターに入ると「言葉」になり「世界」になる、どう見てもこちらがまともだろう、バグ状態も一種のパワーを持つには違いないが、バグっていることを前提に生きるのなんかどう考えてもムチャクチャに決まっているだろう。

そのほか | comments(0) |
WS報告004(2)

ういえば、この話はぜひ聞け、おれはワークショップの始まるちょっと前、準備運動がわりに、棒きれを振り回して剣術の型稽古のようなことをしていたのだが、それを通りすがりに見ていられた老夫婦の方が、二人そろって「かっこいい」「かっこいい」と言って笑ってくださった。
「居合いですか」「あ、いや、居合いというのとちょっと違いますが」「いやあ、かっこいいです」と、わかるかお前ら、おれはかっこいいのである、だって実際見とれていたもんね、もちろんおれがやるからには剣道のようなアレとは違うのだ、もっと何かスゲー気配のやつだ。
まあ、あれぐらいご年配で、位の高い方々におかれては、物事の真贋というか、美醜というか、そういうものがわかるわけだな!! 目が利いていらっしゃるよ!! こういうときこそいろいろガンバってきてよかったとこころの底から確信するね。
わかるかお前ら、おれはかっこいいのである、何しろ老練のこころあるご夫婦の審美眼にかなったのだから間違いない、丸棒の木材を振り回していたのに、それが「剣」に見えたのは間違いないのだ、うーんもっとすげえワザを見せてさしあげてもよかったな!!

この報告記事は、つまり、おれがかっこいいということのみを報告している、お前らは深く納得しておれにラブレターを贈るように(女性限定)。
まあしかし、割と冗談でなく、集中した姿というのは、「ガンバっている」ではなく「かっこいい」に見えないといけない、しかも価値観としてかっこいいのではなく、実物そのものが「かっこいい」でないとダメだ。
繰り返して自慢すると、おれはスケートボードに乗っていたわけではないし、ヒップホップやラッパーな格好をしていたのでもなく、デニムを穿いたTシャツ姿で、丸棒の木材を振っていただけだ、しかしそれでかっこいいわけだから、これはもうかっこいいのだろう、こんなカネのかからない「かっこいい」はなかなかないぞ。
おれがそうして「かっこいい」と見とれられているとき、ちゃんと一人の参加者がその場面を見ていたから、これはおれのウソではないのだ、というわけでこの記事はとにかくおれの自慢である、お前らはハンカチを噛んでくやしがるように。

人を感動させたら、おれの勝利だ。

問答無用、それだけがおれの勝利で、それ以外は全部敗北だ、その他の価値観についてはおれは知らねー、おれは自分が評価されたいのじゃない、おれへの評価なんかどうでもいいが、おれはこの世界で感動を直接現成する確実な一人でありたい。
おれは、おれがかっこいいのがうれしいのじゃない、通りすがりの老夫婦に、かっこいいという感動をマジで与えられたのがうれしいだけだ、まあかっこわるいものが感動を与えることはありえないから、おれはこれからも永遠にかっこよくないとな!!

そのほか | comments(0) |
WS報告004(1)
夜のワークショップは偉大な成果をあげた。
偉大な成果というと言い過ぎか、偉大な体験に到達はした、まあおれにとっちゃ毎日アタリマエの体験だがな、とにかく本ワークショップの目標到達点にみんな触れることはできた(触れただけだ、見せたのはおれだ)。
誰が到達できるねんこれ、というツッコミはごもっともだが、ひとまずそれに触れられたというだけでもスゲーことだ、正直期待してなかったんだが←、思ったよりみんな食らいついてきやがった。
「世界って本当にあるんだ」とか「世界って奥が深いっすね」というあたりの、ベタな感想は、ベタだが率直なところだと思う、そしてこれらのすべては、けっきょくラブな励ましのおかげなのだ、うーんやっぱりラブがいいよね、それも純愛だけじゃないラブがサイコーだぜ。

困ったことに、いやこれは本当に困ったことに、どうやらこのワークショップのやり方は正しいらしい、マジに正しいらしいので半ばゾッとしている。
なぜゾッとするかというと、正しいということは、もう引っ込みがつかないからだ、行くところまで行かねばならない、そういうパターンはいつもいやあああああなのだった(ちなみに帰宅したらこのとおり朝の七時半で、今夜もどうせ朝までワークショップなのだ、アホちゃうかこれ)。
あとは何だ、「本当に、一ミリもふわっふわされないんですね、本当に徹底してサイエンスなんですね」というあたりが、僕としては気分のいい話だ、そのとおり、おれはわけのわからんことはしたくない、マジのことアンド当たり前のことだけがやりたい。
何があったのか、もう話す気にもなれないが、一晩で到達できる最高点としては上々じゃないか、どうせ寝て起きたらまた忘れてやがるんだろうが、まあいいよ、本当にいい夜があった、おれの伝えたいことを伝えることはできた(誰も掴めてはいないもよう、そんな簡単に掴めてたまるか)。

「余韻」の先にはマジのやつがある。

理論、セオリーは、どうやらバッチリ正しいらしい、原則を精密にやればやるほど、やはりクリアな事象が出てくる、「言葉が世界」だとかうんたらかんたら、それがマジなのだから不思議なもんだ。
理論、セオリーというのはあれだ、気魄は「触れるだけ、何もしない」ということ、そして霊魂は「世界に連れて行く」という話だ、「やっぱソウルですよソウル」という話が、けっきょく一番有効で信憑性がある、だってソウルがないと感動しねえもんという、割と当たり前のことではあるのだった。
 
そのほか | comments(0) |
WS報告003(3)

ゃんとレポートしないとな……
二日間で計36時間のワークショップを終え(えぇ……)、その後眠って起きると、身体が新しく確実な感覚を得ているのがわかる、まるで「身長が伸びたのか?」というような感覚だ/感覚が増えるということは身体のパーツが増えるということでもあるので、古い2DKの全身から新築の6LDKの全身に引っ越ししてきた、というような感覚が得られる、全身の充実感と確かさがまるで違うのだ。
身体を使い込むことで、身体はヘトヘト……にはまったくならず、むしろ細かいガタつきがなくなり、ワークショップ前よりも格段に軽く穏やかに、かつ静かになっている、そうして「使い込むことでラクになる」というのが、正しく使い込めている証拠だと僕は考えている。
僕はしんどい方向には決して進まない、極限にラクになる方向にしか進まない、何しろ「何もしない」ということに特化したワークで、「何もしないことによって最速で動く」ということなのだから、身体は極限のラクさに向かうのが当たり前だ、負荷をかけた運動で課される筋肉や関節の灼熱感というようなたぐいはまったくない、むしろそれらの炎症を徹底的にゼロにして最速を得るのが僕のワークの基本方針だ。

まあ、二日間で36時間も、全身の連結と切り外しを正式に行っていたら、当然そうなる。
僕は当然そうなるが、参加者の全員がそうなるわけではもちろんない、いきなりそうなれるなら何も人に教わる必要はないし、何より僕だって毎回驚いているのだ、「逆にこんなにラクになるのか、へえええ」と。
とりあえず、「身」を使い込まないことには、何も始まらない、だから基本として、まず自分の身が集中できることを探す/あまりにも「さっぱりわからん」ことには集中できないし、また何か感情的になったり心理的になったとしても、けっきょく「身」は何もしていないことが多いので、とにかく自分の「身」で集中できることを土台にする、具体的にはそういうふうに積み重ね始めるしかないのだ。
「ものっすごい集中して、ものっすごい丁寧にしたら、ちょっと出来る」ということを見つけて、そこに集中力と錬磨を注ぎ込むのだ、その蓄積の果てに毎日身体が変わっていく、昨日の身体と今日の身体がもう違うというのが「当たり前」という日々にしていくしかない、僕みたいな奴でも割とそこはありふれてマジメに考えるのだった。

昨日の僕より今日の僕のほうが、強くて速くて精密でラクだ、それが「当たり前」でなくてはいけない。

一方、スポーツや筋トレといったたぐいは、ピークを保っていないと、すぐスコアが落ちるじゃないか、僕のやっていることはそういうことではない、ピークを強化しているのではなく呪縛を取り去っていっているのだから、何かをキープするという必要はない/僕はステータスを強化しているのではなく、イグジスタンス(存在)を変化させているのだ、「永久脱毛すればその後がラク」というのと同じように、永久解呪したらその後がラクというだけで、こんなことはけっきょく、「思い切ってやっちゃおう」以外の何物でもない。
だからこれは、やはりフィジカルのワークではないのだ、右脳とか左脳とかいう捉え方は古いらしいが、仮にその右脳と左脳の回転と使い分けがおっそろしく速い人がありうるとしたら、それと同じように、魂魄(霊魂と気魄)の回転と使い分けがおっそろしく速い人になるまで根こそぎ鍛錬してやろうというだけだ、ただしそういったことは思念ではできないので(思念では霊魂も気魄も凝固していくだけだ)、具体的に身をもってやっていくしかない/シロウトがたこ焼きをひっくり返そうとすると、タコも小麦粉もグズグズになるが、名人がやるとパッと一瞬でひっくり返っていく、それと同じ速さの差が人間の全身と魂魄に起こるというだけだ。

そのほか | comments(0) |
WS報告003(2)

、ワザ的なものに興味はないのだ、ワザ的に捉えると、「出来ているか・出来ていないか」の判別がしやすく、またその修練で己の身が「練られる」のでグッドというだけで、ワザそのものに重きはない、ワザは単なる方便だ(競技者や職業人は除く)。
で、何から話したらいいものやら、けっきょく「言葉」というのは人に向けてよいものではないのだ、言葉は「世界」に向けるものだ、僕がこうして人に届けているのも、実体は言葉でなく世界だということになる。
まあもともと「言葉」イコール「世界」だと唱えているのだから、今さら同意義の循環ではあるが、今回はいよいよそのことが明確に発見されて、こうして書き話すことと、音声で話すことの、統合が得られるということが起こった、僕は「世界」を提供しているということなのだ/実際、僕がえんえん何かを話しているのだが、僕に何かを「言われた」という人はほとんどないはずだ、僕はずーっと「話している」のに、「人には何も言っていない」となる、それはひたすら「世界」を届けているからであって、言語の使い道がまったく違うということになる。
今、多くの人が、なぜか僕に向けて「食事代ぐらい出させてください!!」となっているのだが、これは何が起こっているのかというと、別に僕がエライわけではなく、これは「祝祭」の手続きなのだ、「呪い」の反対に「祝祭」があって、何か直観的にその祝祭の方向へ「参加させてくれ!!」ということが起こっているということ、ただそれだけにすぎない。

今回起こったのは、「呪い」の手続きを見ることで、逆に「祝祭」の手続きが見えてきたということだ、といってもそんなワークをしているわけではない、ワークをしているうちに背後の原理が見えてきたということ(ワークそのものは泣きたいぐらい具体的です)。
人のタマシイには魂魄(こんぱく)という二種類があり、魂はフィクション担当で魄はノンフィクション担当なのだが、この魂魄に関わる営為を「合っている」方向でやるとそれは祝祭になり、「反対でっせ」の方向でやるとそれは呪いになる。
簡単に言うと、「血」を神殿に捧げ、「詞」を人に向けると、それは呪いになるのだ、そりゃそんなことしたら呪いになるだろうよ/本来の正方向は、「神殿に祝詞が捧げられ、人に御神酒が下される」のだが、その逆方向が呪いになる、だから「血筋をあがめて人に詞をぶつけまくる」とかをやれば、呪いはガンガン掛かることになる、そして呪いはその性質上、祝祭と同じだけの力を持っている、祝祭の解放力と呪いの呪縛力は強度において同等だ。
「言葉」をどうすればよいか? たとえばオゾン(O3)は、天空で層をなすことで、われわれを守ってくれているのだが、このオゾンが直接体内に入ると、オゾンは人体にとっては猛毒なのだ、それと同じで、言葉は天に向けられるとき正方向で祝祭となるが、言葉は体内に入り込むと猛毒になる、そのことをわれわれは「呪い」と呼んでいる/一方、血は体内にあると生命だが、血を「世界」に流出させると、やはり「呪い」になる、正しい方向は逆だ、「血肉を為す気魄を人に向け」「言葉を世界に捧げる」が正方向だ、これを逆転して「詞を人に向け」「血肉を世界に捧げる」とするとゴリゴリに呪い方向へ進んでいってしまう。

[祝祭:世界に言葉が流れており、人々が血肉を為し合う]/[呪い:世界に血が流れており、人々が詞を為し合う]

これが祝祭と呪いのメカニズムだ、だから、人々が血肉を為し合えば、世界に言葉が流れ始めるし、人々が詞を為し合えば、世界に血が流れ始める/「食事代ぐらい出させてください!!」ということが起こっているのは、そうして「血肉を為し合う」ことに参加することで、祝祭に参加することになり、言葉が流れ始めた世界に参加できるからだ、その逆方向は、やれ陽キャだのセクハラだの「詞を為し合う」ことに、「おれにも言わせろ」と参加すると、呪いに参加することになり、血が流れ始めた世界に参加することになる。
魂魄を入れ違えに営為させると呪いになり、正方向(というか順方向)に営為させると祝祭になるわけだ/「飲めや歌え」という言い方があるが、これは「気魄が酒を飲み、霊魂が歌い出す」のが祝祭だということであって、逆方向に、「気魄が演説しだし、霊魂が酒を飲み始める」と、これは呪いの宴になってしまう(うーんこれってワークショップの報告になってねえな)。

そのほか | comments(0) |
WS報告003(1)

ークショップで得られる知見のことを、書き出すと膨大になりすぎる。
そもそも、ワークショップ関連ネタは、読み手にウケているのだろうか、ウケていないのだろうか……もしワークショップ関連のネタがもっと聞きたいよ〜という人がいたら、その人は横カラムの拍手ボタンから「WS関連ネタ希望!」とでも送っておいてくれ。
「伸ばすとつながる」「金魚法」「余韻法」「命令法」というように、シンプルで質のいいワークが形になってきた、命令法というのは本質的に「関係法」でもあるが、このことはまた説明しないとな。
「余韻法」は、やはり大いにウケたな、フィクションに入る方法として、マジに「具体的」なやつだ、ただ方法が超シンプルだとして、シンプルがイコール簡単というわけではない、まあそこはみんな全力で苦しみましょー。

追究していくと、すべては「アクション」と「余韻」のどちらかに分かれる。
そして、われわれの魂魄[こんぱく]のうち、(気)魄はアクション、(霊)魂は余韻に属する、というだけだ。
そこから、われわれが高性能かつまともになろうとするとき、つまり気魄は「触れるだけ」「他者に何もしない」を徹底すればよく、そのぶん霊魂は「やりたい放題」「自分も他者も一緒くたに連れていく」に到達すればよい。
手のひらを打ち鳴らすのが「アクション」で、パーンと打ち鳴らされた直後から生じているのが「余韻」だ、自分の全身がアクション側から余韻側へスルッと脱け出るかどうかの問題で、スルッと脱け出たとき、その人はキャラから脱け出しており、そのときその人の魂が見える。

気で留めて、霊でブッコ抜く。

これがバッッッチリ決まると、たとえば手首をひょいと捻られただけでも、人がスッテーンとひっくり返ることが実際にある、人はいつも自動的に、スッテーンと転ばないように「気をつける」という状態でいるのだが、このワザに掛かったときは、何しろ気のほうは「留まっている」ままなので、気をつけるといっても気をつけようがないのだ、気のほうは「大丈夫」という気がしたままスッテーンとひっくり返ってしまう、「大丈夫」のまま肉の座標だけが変わってしまうため、もうそのときには今さら「気をつけて」もすでに手遅れになる。
ということを、どうも僕は出来ているくさいが、他の誰かが出来ているわけではない、そりゃこんなヘンタイワザがそうそう余人に出来てたまるかよ、ただわれわれは何にガンバればいいのか、われわれが追究すべきは何なのか、その糸口を垂らしているだけだ、それをどれだけ上れるかなんて人と比べっこしなくていい(ただ糸口がないとか糸口が間違っているというのは単純に損だと思う)。

そのほか | comments(0) |
WS報告002(1)
ソみてーな話だが、本当のことを報告するしかない、フラフラなので話をこねくりまわす余裕がない。
まったくウソみたいな、合気道の高等技術が出来てしまった、これってアレでしょ、いわゆる気は接触しているのに(合気)、身はそこにはないってことでしょ/飛びかかってきた人がすっころんだりポーンと飛ばされたりして「ヤラセだろ」と見えるアレのことだ、マジでコンクリートの上では危なくて制限しないといけないぐらいポンポンできた。
僕は合気という捉え方はしないが、ノンフィクション・実感・接触の「気魄」は接触しているのに、フィクション・身・魂のほうは、ひょいっと抜けちゃうんだな、すると相手は「接触しているのに相手の身がない」ので、幻覚の手すりを掴んだみたいに「うおっ」と空振りしてしまう。
これ、考えようによっては本当に危ないぜ、逆にいうと、安全確認をしてから踏み出したのに「ガシャーン!」となって、「はあ?」みたいな感じだ、安全確認をしていなければ危険を予想するが、安全確認をしているだけ人は安心して踏み出してしまう、それで「ガシャーン」では本当に「はあ?」としか言えない。

来てくれた方へのワークとしては、後半、それは「金魚法」と呼んでよいものになった、これはとっっっっても有益だった。
つまり、「水槽の金魚は、どうして金魚同士でぶつからないのだろう」ということだが、「ぶつからない」「切る(外す)」ということをきちんとやっていくと、実際全員が認めるところ「ホントだ、金魚だわコレ」という状態になる。
合気道の天才だった塩田剛三が、金魚鉢の金魚を観察して合気道の動きを研究したという逸話があるが、この逸話は知られていても、人間の挙動が金魚化するというのは具体的にどういうことか知られていないだろう、これはちゃんとやるとシロウトでもできるのだ、もちろんストレスの高くない稽古レベルに条件は限定されるが、この糸口が掴めただけでもこりゃとんでもない神回だったと言っていい。
なぜ水槽で金魚同士がぶつからないかというと、金魚は「解放」のほうへパッと外れるからだ、金魚にはもともと呪縛がないので当たり前にそうなる、人間も呪縛がないと同じ動きになるのだ、こりゃなかなかシンプルでえげつなく有益だから誰かたまにはおれのことを褒めるように。

魂魄/気魄がつながるとき魂は世界から切れ、気魄から切れるとき魂は世界とつながる。

ちょっと、こんな短い話では伝わらないと思うが、逆に「ノンフィクションには実体がない」のだ、われわれは身をもってノンフィクションに関わるときの「気」を「魄」として、それをノンフィクションの「実感」にしているだけだ、身の実体である「肉」のほうは、実はフィクションの媒体なのだ/だから操作を分離していくと、「肉」の場所と「実感」の場所をずらすことができる、人は「実感」のところに触れに行こうとするので、そのとき「肉」に触れることができない(肉はフィクション世界の動きのほうへすでに溶けて出て行ってしまっている)。
そして、「実感」の位置を「肉」の位置とずらす、ということについては、その道の達人がいるかもしれないが、そのとき「肉」のほうが「世界」(というか、森羅万象からの「言葉」)とつながりうる、ということについては、教えようとするシステムはなかっただろう、うーんもちろん、こんな話を理屈で聞かされたってわけがわからないのだった、ただ僕が向かおうとする先はそちら森羅万象からの「言葉」(もしくは言葉の素)であって、合気道的なものにはまったく興味はないのだった(ただスゲーことが出来るとやっぱり盛り上がるのではあった)/「時間軸上ズレる」という言い方を僕はよくするが、まさかそのズレた二点を同時に出力できるとは思っていなかった。
そのほか | comments(0) |
<< | 3/14PAGES | >>