☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
WS報告011(4)/オモシロ入り身投げ(笑)
加者の中に、合気道の経験者、というか現役の女性がいる、それもけっこう、骨太にやってきた人だ。
朝五時にワークショップが終わって、まだスタジオのレンタル時間が残っていたので、一度正式に彼女のワザを受けてみた、僕自身「何回か受けてみねーとわかんねーわ」と感じるので。
そうすると、まあ、僕が体さばきが速すぎて――つまり彼女が僕を振り回すより振り回される僕の体さばきのほうが速いので――わざとらしく僕がモタモタしないと型が成立しないのだが、いちおう型どおりに受けてみると、「なるほど、暴力的なものがあるな」と感じた、「こんなワザ掛け合っていたらお互いに仲悪くならない?」「そりゃなりますよ、険悪というか」/彼女はとても躊躇してワザをかけており、つまり彼女はその暴力的な自分のワザがキライなのだった、「本当の合気道のワザに到達したい」と彼女は切実に望んでいる。
僕は合気道なんか習ったこともないし、いわば彼女から受けたワザが「初体験」ということになるが、よく知らないまま当たり前のことが言いたい/いかなる理由があれ、大切な「人の身体」を投げ飛ばしていいわけがないし、締め上げたりしていい理由はない、公式のルールだろうがリングだろうが道場だろうがダメだ、ダメに決まっている、冷静に問いたいが「人の身体を何だと思っているんだ?」、大切な人の身体をブン投げて締め上げて「道!」などと言える道理はどこにもない。

そこで改めて、僕自身が独自に開発している、オモシロアイキ道、そのワザのひとつである「入り身投げ(笑)/イリミナゲカッコワライ」を彼女に披露してみた、するとこのワザは、彼女にとって実に感動的だったようだ/まあ独自のオモシロアイキ道だから、マジメな人たちに怒られる心配もないだろう、前もってそれはオモシロであると申し述べておきたい。
相手が打ち込んできたとき、こちらは身体をさばかねばならないが、僕自身、入念に調べてみてわかったこととして、僕はなんと、"相手の打ち込みの力を使って自分の身体をさばいている"ということがわかった、なんて厚かましい奴だ、「向かってきた相手の火力で自分のチャーハンを炒めているんだな、こりゃ厚かましいわ」というぐらいわかった。
そして、彼女との組み合いで研究を進めていくと、どうも僕自身呆れるぐらいに、この「相手の打ち込みの力で自分の身体をさばく」というのが、僕はとてつもなく上手いらしい、「こんなん、九折さん何もしてませんやん」「せやな、こんなもん、おれはこいつに抱きついているだけやで」と、しかも打ち込んできた奴に「ホラもっといけるやろ」と励まして、それで元気が出たところをさらに利用しているという厚かましさが判明した/僕は身体をさばいたあと、フラつくのがイヤなので、「どこか掴まれるところはないかな」と、目の前の彼女に掴まっているだけだ、その結果、彼女が走り回って僕を支えてくれているのであり、彼女は僕の代わりに振り回されてくれているだけだ。
僕は武術や武道に興味はないし、もし僕のやっているオモシロ(略)を見せたら、こんなもん武術でも武道でもないと、マジメな人は怒るだろう、そのとおり僕は武術にも武道にも興味はない、僕が興味を持つのはオモシロだ、真に愉快痛快なものだけだ、そしてさしあたり合気道を求めている彼女は、僕のそれを真に愉快痛快なものと認めてくれたのだった、「この入り身投げならやりたい、できるようになりたい」と/まあこれはこれで、できるようになろうとすると激ムズではあるのだけれども。

入り身投げ(笑)が炸裂すると、人々は大爆笑に包まれる。

マジにそうなのだからしょうがない、なぜか打ち込んだ奴がぐるぐる回って、最終的には静かに床に寝かせられて「お疲れ様です(笑)」となる/いっそカッコワライを逆転して、「笑(入り身投げ)」と表記したほうがいいかもしれない、カッコの中はあくまで予備的なモンだからな。
大真面目な話、僕は彼女に、「いっそ抱きつく練習をしたほうがいい、そのほうが早い。今のあなたは、たぶん抱きつくときにも躊躇してしまうでしょう」と指導している、実際オモシロ入り身投げ(笑)は、打ち込んできた奴にこっそりへばりついて抱きついているだけだ、そしたらその後何か知らんがそいつが勢い余ってぐるぐる回るだけだ、大切な人の身体がぐるぐる回っている……モーメントが輸出されただけで僕は何もしていない/さてこんなアホな指導が続いているわけだが、どうぞ彼女が望むなら、そのオモシロワザが彼女のものに、身につきますように、われわれもそうでない人もそのことを一様に願っているのだった。
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WS報告011(3)/「誠心誠意」への脚光と眼差し
ィクションとは関係ない、「わたし」というノンフィクションの使い方、「誠心誠意」の正しいやり方を教えた、このことは大きなよろこびと共に受け入れられた様子だった。
胴体をまっすぐにして、相手にまっすぐ向けて、まっすぐにつなぎ、まっすぐ頭を下げるだけだが、ちょいとしたコツがあり、途中で胸が下がってはいけないのだ、胸が下がると相手との接続が切れてしまう/これを正しくやると「眼差し」が発生する、実は「眼差し」が発生するには科学的に"正しい要件"があるのだった。
多くの人には、とんでもない誤解があったらしい、そうして「誠心誠意」で頭を下げると、人に「触(ふ)れる」という現象があるのを、みんな知らなかったのだ。
「優劣とか優越感のものかと思っていた」「頭を下げてりゃいいんでしょと思っていた」とか、聞いてみりゃ話はめちゃくちゃだ、「頭を下げると(頭が下がると)コミュニケーションになるんだ」と、そのこと自体が大きな発見だった様子だ。

「なぜかはわからないけれど、この動作を何千回でもやりたい」「この動作そのものに、自分の全身が飢えている」と、多くの人が言っている。
僕は、「へえ、そういうものか」と驚かされたのだが、最近はこうしたときつくづく、「教わっていないというのは恐ろしいことだな」と思うようになった/僕もわざわざ誰かに教わったわけではないが、すべてはどこかで教わってきたことなのだろう。
多くの人は、「頭を下げる」というのが、イヌがよくする「服従のポーズ」と同じようなものだと感じていたらしい、んなアホな……と、もう笑ってはいられないのだ、"教わっていないというのは恐ろしいこと"なのだ、今はたして何%の人が確実に「誠心誠意、頭の下げ方を知っている」と断言できるのだろう。
ふとしたワークの合間に、誰も彼も、まっすぐに頭を下げる練習をしている、どうやら本当に全身がその動作に飢えているらしい、「こころに使い道があった!!」「キモチはこころではなかったんだ!!」と、あえて言えば今ちょっとしたブームだ/「眼差し」を持つようになって、それはつまり、自分を見たときに「ダメな人の目」を認めなくて済むようになったということだ。

僕が正しく「誠心誠意」を向けるという実験をすると、歩いていたプレイヤーは「うおっ!」と立ち止まった。

それぐらい、はっきりとした、正しいやり方と、正しい作用がある、こんなもん正しく教わらないでは、ただの損というか、ヤケクソで生きることにしかならない/このごろこうして色んなワークについて、「いちかばちかでやらなくていいんだ」「そりゃそーだよ、正しくやりゃ正しく成立するように初めから教えとるわい」という、実りの段階が生じている。
「誠心誠意」の"具体的"なやり方を、どこかで誰かに教わっておくべきだ、それが"クソみたいな平伏"ではなく、「コミュニケーションであり、"出会い"なんだ」とわかったとき、内心の奥でガマンしながら頭を下げていたという、"我慢"の悪魔が衰退していくだろう、この「誠心誠意」以外にはおそらく、空気がパンパンに詰まった「吾我」を縮小する方法はない。
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WS報告011(2)/フィクションは量子的
子テレポーテーションという、ヤバい現象がある、これは物理的な事実なのでしょうがない、どうヤバイかは物理に詳しい奴に訊いてくれ。
量子テレポーテーションは、つまり「観測、するとね……」ということなのだが、観測すると「性質」がテレポーテーションしてくるのだ、何を言っているんだコイツはという話だが、マジなのだからしょうがない/「んなワケあるか」と、かつては物理学者の大半も思ったのだ。
まあ、その量子テレポーテーションに、まさか関係あるまいということにしておいて、あくまで量子テレポーテーションに"なぞらえる"ということにしておくが、フィクションという現象はそのテレポーテーション現象を持つ量子「みたいに」仮想して捉えるとうまくいくのだ、それはもう見違えるようにうまくいくから、このナイスな方法を採らないテはない。
フィクションのコツは、第一に「観測不能」の状態を創り出すことにある、まあ初学者向けのテクニックだったとしてもだ/観測不能ということは、つまりシュレーディンガーの猫というやつだ、それ以前に二重スリット問題もそれだが、これは僕がヤバイのではなく物理がヤバイのであるから、僕に向けて「何コイツ」とは思わないようにヨロシク。

全員に「観測不能」の状態を創ってから、その後、ブラインドを開帳し、観測可能になった瞬間、つまり「初観測」を、Yesの状態で観測する、それによって性質がテレポーテーションしてくる、ように見える、まるで本当に「そのまんまですね」というように見える。
別にコジツケでもいいのだ、方法としてドンピシャを射貫いていればそれだけでいい、ただでさえ霊魂だの気魄だの言っているのだから、結果的にナイスになればいい、われわれの取り組みは「まともにジョークもユーモアも言えんのかキサマら」という、まともさへの取り組みだ。
初学者は、何かしらの物体をモチーフに、フィクションを構築して、ひとまずそれにブラインドをし、見た目に「観測不能」にする、という方法をやる、すると誰でもそれなりにフィクションの現象がプレイできるようになる、ただしこれはあくまで初学者のレベルだ。
このわかりやすい方法を敷衍するに、つまり僕は、ありとあらゆる「言葉」を、実は「観測していない」という状態で取り扱っていて、言葉が出現してから「後に」、言葉をYes観測しているということになる/ということは僕は、どれだけのアホウなのか、言葉に対して観測する・しないを、自己管理で操作できるのだ、そしてなぜそんなことができるかというと、「言葉の意味とか、観測するの面倒くさいから」という、えげつない退廃が理由なのだ、われながら……薄々わかっていたことではあるが、コイツは本当にどこかがメチャクチャな奴だ。

「空(くう)」というのは、つまり「観測しない」ということだ。

意外に思われることだが、言葉というのは、「わたし」の中に<<入ってはいけない>>のだ、言葉は実は人の発明品ではないので、人の体内に入ると毒になってしまう/言葉そのものは実体ではなく「空」なので、実は言葉というのは、真正面から「空回り」するほうが正しい、言葉が空なのだから空回りが正しい使い方なのだ。
「空」をYesで捉えると、「空」はすなわち「何でもアリ」になる、対して「空」を「No」で捉えると、「空」はすなわち「無」(何もない)になる、この「何でもアリ」「何もナシ」の結果は両極端であって、まるで何かの行き着く先の両極を表しているかのようだ/「何でもアリ」によって、性質をテレポーテーション(のごとくに見えるもの)で引っ張ってくるものは、原理的に「産霊(むすひ)」と呼びうる、「世界」をテレポーテーションで引っ張ってきたらそりゃあ産霊だろう。
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WS報告011(1)/「誠心誠意」のピンチ
眠時間が欲しいので駆け足で書くことになる、ご容赦願いたい。
今回、よく話す――「言葉」で――という、よい機会と状況を得たのだが、意外にみんな、このいかれぽんちなワークショップを、こころの底かワクワク楽しみにしているらしい、「毎回スゲー発見があって」「次々に新しいことを知って」と。
そういうことなら、もうちょっと普段からそのようにアピールするように、と思うが、まあしゃーない、とにかくみんな実は超楽しいようなので何よりだった。
パン祭りがあったり愛があったり、通りすがりの人がものすごく頭を下げていったり、もうそういうのにも慣れてきたが、とにかくとてもいいことをしている可能性があるので、このままコソコソといいところまで行ってやろうと思うのだった。

一方で、ノンフィクションの話、具体的に「こころの象(かたち)」として、「誠心誠意」とでも名付けるべきワークをやってみたのだが、とたんにボロが出た、まあ実力というのはそーいうもんである、「こころが真っ直ぐじゃない」「大人なのに頭も下げられんてなんやこれ〜うおお〜」と。
「全身全霊」というのは、フィクションへの取り組みだが、「誠心誠意」というのは、ノンフィクションの取り組みだ、胴体に流れているものの象(かたち)がそのまま「こころ」ということになるのだが、精密にやってみると、多くの人が身体をねじったり腰を引いたりして、「まっすぐ頭を下げないよう、躱している」ということがわかった、まあそれはそんなもんだな/その点、こころがまっすぐな人は、それだけで「こころまっすぐ先生」だ、それだけでそーとースバラシイ。
頭を下げる、といって、キモチが強い人、またキモチが善意の人は、自分をしょぼんと貶めて身体が屈する形になるのだが、これは「キモチの表出」であって「こころが届く」という現象とはまったく異なる、これができないのは当人も認めるところの「ピンチ」だ/ウーンこのことは、できないならできないで、どう「できない状態」なのかを、バッチリ知る必要がある、正直もうヘコんでいる時間が惜しい、ヘコむのは七分間ぐらいでいいだろう。
「おれは以前、日本料理の、ハイレベルな店に行ったんだけどね、そこで料理長とお弟子さん一同、揃って頭を下げられたことがあるよ、そのときの低頭のクオリティは空前絶後のものだった、こんなすさまじい低頭があるのかって驚いたね、『頭を下げる』と一言でいったって、そのクオリティにはそれぞれ雲泥の差があるよ、カンタンにできるなんて思わないほうがいい、本当の低頭なんて超一流の人間にしかできないもんだ、それで正当だしそれでいいじゃないか」

「頭を下げるとき、自分の中で『我慢』が騒いでいるのわかる?」

「これが我慢の実物だよ、本人に自覚があろうがなかろうが、こうしていつも互いに世話になっている仲間に対しても、頭を下げるとなったら『気に入らん』ということがあるんだ、気に入らんということに理由なんかないんだよ、ただ我慢という現象が実際にある、これは感情ではなく学門として捉えられないといけない、いわゆる善人には善意とキモチは強くあるのだけれど、『誠心誠意』はなくて、その背後に我慢があるんだよ」「あああ〜こころあたりある〜ガマンで生きてきましたあああ〜」
「こんなもん、いちいちヘコんでいるヒマはない、というかこんなもん、ちょっとでも深くつっこんでやると、誰だってそういうものなんだよ、よもや日常でこんなところまでつっこんでやらないから、ごまかされているだけだ、それでいつかの大事なシーンで、どえらいボロが出てしまうんだよ、じゃあこんなもんわれわれが長袖を着るころには解決してしまえばいいじゃねーか」
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WS報告010(4)/人が「バトル」するメカニズム

回は「金魚法」による呪縛抜けを、割と入念にやった、遠距離からの来訪組がこの技法を大いによろこんだからだ。
あらためて、きっちりやってみると、この技法はやはり面白いのだ、自分の「向いている方向」がコンマ一ミリでもずれると、もう「ぶつかる」ということは起こらなくなる、われわれはこの生理的なメカニズムを教わらずに放ったらかしにしているから、好き放題にバトル(ケンカ)が始まるのだ/このことがストレスを無限生産する現代社会を形成しており、また、バトルにならないよう「空気を読み合う」というかったるいことをわれわれはさせられている。
われわれは、人に嫌われたくないし、かといって逃避したくもないのだが、じゃあどうすればいいということを、まったく具体的に教わっていない、これはさっさと教わったほうがよいのだ、なぜなら教わったとしても本当にできるようになるには以降の経験を蓄積せねばならないから。
「われわれは、生理的に、"ぶつかってきたものとぴったりぶつかるように出来ている"から、バトルになるんだよ、つまりわざわざ精密にバトルを"発生させている"んだ、こんなのアホみたいじゃないか」「われわれの身体は精密にできていて、たとえば本棚に手を伸ばしたとして、身体の向きが一ミリでもずれたら、もう手の先は隣の本を掴むよ、そこが一ミリもズレないから正面衝突してバトルになるんだ、バトルをしたくなければズラせばいいんだよ、ただし身体がちゃんとひとまとまりになっていればの話だけどね」。

ラグビーの経験者がいるので、タックルに入ってもらった、さすが経験者なので手慣れており、体勢も安定している。
ラグビーの経験者なのだから、タックルに入られた状態で、上から押してやってもビクともしない、そりゃ当たり前だ/ただし、それは上から「敵が押している」からであって、敵から押されると反発するというメカニズムで成り立つものだし、また「敵を押す」という側も、実は身体をバラバラ(カチコチ)にしてしか「敵を押す」という行為はできないからだ、そういったメカニズムでタックル体勢の安定は形成されている。
それで、タックルに入られた体勢の僕が、別に何もしない、その場で急に「休憩」といって座り込むと、タックルに入っていた彼は「うわっ!!!」とその場にへたりこむことになった、これは実際にやられるとゲラゲラ笑うものだ、「急に重くなった!!」とペチャンコにされてしまう/タックルの体勢で押し合いへし合いが成り立つのは、あくまでラグビー的「バトル」がルール上で形成されているからであって、そんなところでいきなり「休憩」されたら、たまったものではない、肩から上に人間が一人「休憩」で乗っかって平気な人間などいるわけがない。
あるいは、右腕をガッと掴まれたとき、反射的にグッと力を入れ返すから、そこにバトルが生じるのであって、「素っ頓狂なことだけど、右腕をガッと掴まれたとき、左腕にガッと力を入れてごらん。そしてそこのベンチに向けて、全身全霊の左フックでも打ち込んでやるんだ」、そうすると、右腕をガッと掴んでいた人は、掴んでいる先が「敵」ではなくなってしまうので、感触が変わってしまい、もう「ガッ」と持ち続けていることができなくなる/われわれは、生理的なものを放っておくから際限なくバトルをさせ、それにより自ら疲弊していくという、思ったよりアホな者たちなのだった。

「本気」というのは気魄だから、霊魂の営為は失敗する。

「誰か気づくかな? Hちゃんはもう、自分で正解を言っているようなもんなんだよ、さっき、『本気でやればやるほど、"自分"が消えない〜うおお〜』って言っていたじゃない。そりゃそうなんだよ、われわれはずっと、魂魄の学門に取り組んでいて、魂魄を切り離して使えるようになろうという話をしているのだから……『本気』という気魄状態になったら、霊魂の現象は消え失せるという、ちゃんと学門どおりになっているでしょ、何の問題でもない、ちゃんと学門どおりのことが結果的に示されているんだ」/われわれは一般に、「本気」ということを高く評価する価値観の中を生かされているが、それは別の見方においては霊魂の全否定であり、バトルの礼賛でもある、「相手が『本気』で向かってきているのに、それを一ミリずらすとか、ふざけているにもほどがあるだろ? そのとおり、これはふざけたワザであって、ふざけているからバトルが消失するんだ」。
「前にチラッと言ったことがあるだろ、『生きている、というのはたいしたことじゃない』って。『本気』になるのは、『有利に生きるため』であって、なぜ有利に生きねばならないかというと、永遠の命がないからだな」、「実戦形式でやったらケガしちゃうでしょ、だから型にして練習しているんだよ、われわれは物事の、一番面白いところだけエッセンスにして、一番面白いところだけものにしてやろうと稽古しているの、これは本来、才能のある奴が五年か十年やれば気づく『かもしれない』ってたぐいのことだから、ここでさっさと身につけてしまえばヨソでマジメにやる五年分の値打ちがあるよ」。

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WS報告010(3)/まともで文化的

19時に始まったものが、朝5時まで続き、なぜか誰も休憩という発想にはならず、土曜日が明けて日曜日、朝食のつもりが昼食までデニーズに居座って……といつものとおり/「このデニーズの時間が楽しみでしょうがないんですよ〜」「あ、そうなの? そりゃ初めて知ったわ」。
僕はまともで、文化的な中を生きたい、奇怪なものや不穏なもの、気色の悪いものや得体の知れないものは、ごめんこうむるのだ、今回は「ナイスボス法」というユニークなメソッドが産み出され、これによって「いかにまともで文化的なことがちゃんとやれていないか」ということが浮き彫りになった/「引き受けていないというか、引き受ける気もないんですよ〜これじゃクズじゃないですかあああ〜うああ〜」。
僕は朝5時の締めくくりに、なるべく忘れずに話すようにしている、「ここは東京、世田谷区の世田谷公園だ、日本の代表的な住宅地だよ、それでも夕方から朝の5時までこんなバカなことをやっているのはわれわれだけだろう? 何十回やってもわれわれだけだよ、他のグループを見かけたことはない」「おれみたいなオッサンがこんなことをしていて、他の若い人々は何をやっているのか、もっとバカげたグループが、この公園に五つも六つもあっておかしくないんだ、本来そのほうが"まとも"だとおれは信じている」。
「こうして二夜連続、もともとは縁もゆかりもなかった連中が集まって、野ざらしで朝まで過ごしたわけだけれど、ヘタするとわれわれって、そのていどの経験さえ一生持たないことがあるじゃないか、そんなスッカラカンな日々を"まとも"だと、だまされてはいけないよ」「こうして朝5時になると、昨夜の19時のことなんか、はるか遠い昔のような気がするだろ、どこの世界の土曜日もこのようであっていい、何かをインスタにアップロードするヒマもなかっただろ? インスタが悪いわけではまったくなくて……ただおれはこのしょーもない活力が継続されてほしいと思っている、まともで文化的、ただそうあればいいのであって、本当はおれがこんなことをやらなくていいんだ」。

われわれの身体が、われわれの悪習によって、どれだけバラバラか/「立ったまま、右半身……まず右肘と右膝を同時に動かしてみろ、トントントンと、"同時に"だぞ、つながったように」「……えっ、これって意外にむつかしい」「できない」「な? 右肘と左肘は同時に動かせるだろ、そんで、右膝と左膝も同時に動かせるんだよ、でも右肘と右膝は同時に動かないだろ、それはわれわれが、"上半身と下半身"という、アホな認識で自分の身体をバラバラにしたからだ、本当にあるのは右半身と左半身なんだよ、さあとっとと修正しろ」。
「頭ではわかるし、九折さんがやっているのを見ると、スゲーかんたんそうに見えて、できる気がするのに、自分でやってみると……」「はいはい、いつも通りね笑、はーいその怖い顔やめて、瞳孔がにらんじゃだめよ、瞳孔がにらむとそれだけで力が入って全身バラバラになるよ」。
「動くなら陽気にしてね、陽気でないと動けないから。動かないなら陰気でいい、動かないときは気魄を全身にまんべんなくね……これは陰陽の性質だから、学門の話であって、この学門とケンカしても何もいいことないよ」「先生〜陽気にするのと、テンションを上げるということの、区別がつきません、ああ〜キャラが昂ぶってしまううう〜」「笑、まあそりゃ、そんなカンタンにはいかねえ、体中にクセが染みついているからな、学門を与党にしないかぎりクセは抜けませんよ〜実感が与党の人は脱けられませんよ〜」。
まあそんな感じだが、成果はメキメキ出ているのだ、ガイル青年は何か若返ったし、ニンジャ青年やたこ焼き姉さんは身体のつながりが出てきて均整が取れてきた、ああなるともう"思い詰める"という苦しみには無縁になってくる、ヴェジ青年はふつふつと本来の活力とユーモアを取り戻しているようだし、合気道姉さんもこわばりが抜けてきたから、合気道の本分に再燃するかもしれない、その他、まあ、熱心にやっている人はすべて顕著な成果を得ている/すべての成長は、にじり寄るがごとくだが、実は入口が奥義的なモンで出来ているので、にじり寄れただけでも巨大な変化なのだ、「む、むつかしい〜」とへたりこんだ一分間が、十年後の自分をまったく別のところへ連れて行ってくれる。

"まともで文化的"に生きるためには、えげつないものと出会っている必要がある。

明らかにレベルの違う動き、レベルの違う知性、レベルの違う感覚、レベルの違う速さ、レベルの違う技術、レベルの違う体験、レベルの違う発想、レベルの違うエネルギー、レベルの違う愛、レベルの違うやわらかさ、レベルの違う学門、レベルの違う声、レベルの違う覚悟、それらを目の前で見て体験して、「えげつねえ〜」「まじパないっすわ」「こんなことが本当に起こるんだ」「すげえええ〜」となること、このことが人をまともで文化的なほうへ導いてくれる。
そりゃ、いつもスマホをポチポチして、「ふーん」とか「ははは」とか、あるいは「何か楽しいことないかな〜」とか、それだけで"まともで文化的"にはならないだろうよ、漠然とした「わたし」の中に閉じ込められるだけだ/「えげつないもの」に出会っていないということは、まだ「世界」に出会っていないということだから、必然的に「わたし」の中に閉じ込められることになってしまう、そして「わたし」の思っていたことと、目前で出会った「世界」とが大きく違ったとき、それを受け止めそこねると、しばらくパン祭りが起こるのだった笑、まあそのへんは明るく気長にやるしかない。

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WS報告010(2)/速さの標準を書き換えること
部の人が掴み始めた、「けっきょく事情より学門が勝つんですね」ということ。
だからけっきょくのところは、本当のことを本当に積み重ねるしかない、根性ではなく学門なのだ、何が本質で何を積み重ねれば「勝てる」か、ひたすら知恵を研ぐしかない。
けっきょく、命や愛のないことはツマランということ、そして命や愛は「めっちゃ速い」ということ、ほんの少しでも間に合わないと、もう乗り遅れてしまう、急いだり焦ったりしても間に合わなくて、「逆だ間に合っていないから急いだり焦ったりするんだ」という、えぐるような知恵を優先するしかない。
「限界と思える最速のタイミングの、0.03秒前、その0.03秒間に、世界のすべてが詰まっている、どうするよ? まったく見たこともない世界が、その0.03秒間にギッシリ詰まっていたら」「その0.03秒間は、まだノーが発生していない空間で、だからこそ完全なイエスが得られる空間だ、その0.03秒が過ぎて、審査してから愛したって、もう間に合っていないんだ、考え方が逆だ、愛していないから審査したんだよ」

「イメージでも何でもいい、エジプトを完全に愛した0.6秒後に、ニューヨークを完全に愛せるか?」「それが脳みその速さだ、これに間に合わないといけない」/やってみて多くの人が発見する、「これ意外にできねーわ」「あ、ぜんぜん遅いですわ」、超音速の風が東西に吹きかっていたとして、その超音速の東西に脳みそが乗っかって旅行できるか。
合気道の開祖、植芝盛平氏によると、「空気」の気は重くて遅いものであり、「真空」の気は重さがなくて速い(なんてものじゃない)そうだ/ここで、ワークというレベルで冷静に考えると、とにもかくにも、みんなそこまでの速さで身体および脳みそが動くことに慣れていない、まずそういった「速さ」が既知のものにならないといけない、たとえ失敗するにしても、その速さに「びっくりしてしまう」ということを越えなくてはならない。
われわれがこれまでの日常で培ってきた、旧来からの「速い」ということの標準を、新しい標準に書き換えねばならないだろう/速さの標準を、これまでの「実感ベース」から、新しい「世界ベース」に書き換えねばならない、それはたとえば、「大きい」という標準のベースを、「東京ドーム一個分」から「太陽一個分」に切り替えるようなことだ、天文学者はそれに慣れっこであるように、われわれも新しい標準に慣れっこにならねばならない。
というわけで、本日土曜日のワークは、そういう「標準切り替え」を狙ったワークをこっそりやってゆきたい、馬車が往路をゆく速さではなく、未知の戦闘機が低空を飛び抜けていくような速さだ、「エネルギー」というのもパワフルな馬のことを刺すのではなく、戦闘機が空気を裂いて飛び去っていった圧倒的な残響のことを指すことになる。

到達も速いが、それより「発生」が早い。

そりゃそんな超音速で吹き込んできたスケボーに飛び乗るのだとしたら、滑走が「発生」するのはえげつなく早いだろう、そのスケボーに飛び乗るときに、「間に合う」のは相当なことだ、そのときすっとんで行く速度も速いだろうが、それ以上に滑走の「発生」が速いことになる、それが胴体の速さであり脳の速さだ。
というわけで、一眠りしたらまた行ってきます、うおー酒を飲みたいぜ、ささっと飲んじゃおうっと/「まだ土曜日ですもんね」と、遠方から来た人もけっきょく帰宅予定を変更し、一眠りして今日も参加することになった、さあ今日中に速さの標準を書き換えようか。
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WS報告010(1)/明るく気長にいきましょう
ークショップは着実に成果を上げている。
何しろ、当初はすべてがちんぷんかんぷんだったワークが、今はみんな「楽しみ」になっているのだ。
そりゃまあ、成果が上がらんものだったら、こんなアホな試み、誰が連日朝まで野ざらしで付き合うかよ。
余韻法は「楽しみ」になってきたし、「人の勢いを聞く」も「楽しみ」になってきた、「右半身」を獲得したかもしれない人もおり、成果は思いがけず急ピッチで得られてきている、それってふつうこんなペースで得られる成果じゃないからな。

なんというか、改めて、明るく気長にいこうな、と祈りたい心地がする。
みんな、意外に必死についてきてくれているところがあって、自覚があるかどうかわからないが、短期間にえげつない濃度の体験を得ているのだ、どうかリアクションに転倒しないように、僕はこころの底から祈っている。
転倒といって、われわれが「パン祭り」と呼ぶところのパニック症状も、ナイスな命名があって笑える管理下に治まってきたので、まあ体勢としてはこれ以上はない/そしてパン祭りを数回乗り越えた人から順に、「やっぱ学門なんだわ」と気づく仕組みになっている、それは僕がそう仕組んだことではなく、もともと学門というのはそういうものらしい(学門は実感に反するアンサーをもたらすので)。
パン祭りでダウンした人が、世田谷公園のコンクリの上で、「うぐぐ〜」とうつぶせに倒れていた、参っているのではない、学門をしているのだ、<<本当に取り組んだとき、人がブッ倒れない学門などない>>/彼女はこりもせず、再び立ち上がると、なぜか「右半身」を獲得していた。

すでに、「すごい夏」を体験している可能性がある。

われわれは現代の暮らしの中、ぼんやりしているから、自分が何をして、何を体験しているのか、しばしば見失いがちだが、われわれが笑いながら過ごしているこの夏は、後になって「すごい夏だった」ということになるのかもしれない、なぜかブッ倒れたりゲラゲラ笑ったりしながら、19時から朝の5時まで、休憩ナシで過ごしている、<<なぜか誰も休憩を発想しない>>、これはごくしょうもないことなのか、それともひょっとして……これはとても楽しみなことだ。
明るく気長にいこう、まだ始まったばかりのことだし、この時点で何も感情的になることはない、パン祭りはしばしばしんどいけれど、まあ僕が過去にブッ倒れてきた回数のほうがまだはるかに多いだろう、気長にいこう、今見えてきている地平がどういうスケールのものなのかは現時点では誰もわからない。
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パーティ報告83(4)/気分のいい一日だった
か知らないが、今回のパーティは、五周年……とは特に関係なく、初めから妙に気分のいい一日だった。
何か、ひとまず、全体的な軌道に乗ったのだと思う、そして軌道に乗ることによって、不毛な「問答」が根源的にカットされたのだ、別に誰もそのように打ち合わせしたわけではないが、今回は無条件に「上位の空気」が空間に付与されていた。
だからこそ逆に、本当に、五周年おめでとうございますということでよいのかもしれない、僕は表面上、五年前より無慈悲で横柄で暴君になったが、結果的にそれで空間は上位に安らぐのだから、けっきょくこのあり方が正しいのだと判断せざるをえない。
まあ、暴君といっても、けっきょく終始おれが全体を楽しくしているわけだからなああああ、誰がつまんねーものを五年間も続けられるかよ、おれが意地で続けてもつまんなければ誰も五年間も続けて来ねーわ。

あ、たった今、若いヤツから連絡があって、「神田で七軒目のBARを制覇したところです」と、報告されて思わず声に出して笑ってしまった。
「圧縮、リピート、一調子」という話で、そういうことを話したのだ、「別にBARに飲みに行ったからって、何も楽しいことなんかねえよ、そうじゃなく、平日の仕事あがりに七軒のBARを巡るなら、そりゃちょっと値打ちがあるねってことなんだ」「圧縮するんだよ、面白い旅先なんか存在していなくて、自分が面白いヤツになって旅に出るってことなんだよ」と、そういう話をした、そのことを即座に真に受けて(実に懸命なことだ)、即日という感じで行ってきたらしい、まあ少し面白いヤツとして今神田の街を歩いているだろう、ウーン若いというのは実にすばらしいことだな。
気分のいい一日があって、今もこうして、気分のいい夜が続いている、このとても小さなことが、後に大きな差になってくるのだ、本を読んで勉強しようか」というとき、コイツは一冊が基本ではなく七冊が基本になるのだ、それによって他人の七倍生きることになる、こいつの一年間は他人の七年間に相当し、当人はそれが当たり前だから、知らないうちに骨の太いヤツになってくれる。
「たった今七軒目を制覇してきました」と報告されたので、「速いな、それは間に合っているな!」と返信しておいた、こういうまっとうな、若年と年長者のやりとりがあるのは、よい夜だ、気分のいい日々が続いている。

「九折さんに、お返しができなくて……」「お返し? はっきり言っておいてやる、"出世払い"だ、そしておれにお返しなんか要らねーから、お前の後続に返してやれ、それでペイメントは合うだろう。お前から見ておれが"異次元"だというなら、お前も後続から見て"異次元"と言われるようになれよ、それでしかおれの本懐なんかありえねーよ」

「おれだって、過去に色んな人にお世話になって、教わって、今さらお返しなんかできねーから、お前らにぶつけてんだよ、だからお前もそうすりゃいい、それでつじつまが合うだろ」と、これはパーティで話したとおり、そしてこれまで生きてきた中で僕がいつも話してきたことのとおり。
気分のいい日々のために、どいつもこいつも目を覚ませ、さあ誰から目を覚ましていくかな、「お前から見ておれが異次元というけど、甘く見るんじゃねえ、おれからお前らに見せているものなんか、ほんの序の口の序の口だぞ」。
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パーティ報告83(3)/「カッコイイ」の喪失
のごろよくヒアリングしているのだが、現代の多くの人は、何かを見て「カッコイイ」とは、あまり感じられないらしい、つまり「か、かっけぇ〜」という直覚・悟性の機能を喪失したと言える、このことが水面下でわれわれの根幹を無力化・不毛化している。
僕はよく、「かっこよくなくちゃ話にならねぇ」と言うのだが、ここには僕の見落としがあったのだ、僕は「かっけぇ〜」という直覚と悟性が、万人において不具なく機能しているという前提でいた、だが実際には「かっけぇ〜」という直覚の現象がゼロないしは「混濁して常に曖昧模糊である」という人が多数派なのだ、多数派と言うより「基本的に全員そういうもの」と捉えておいたほうが実用的かもしれない。
「かっこよくなくちゃ話にならねぇ」といって、まさかその「カッコイイ」という直覚が前提として失われているのだとは、僕は考えていなかった、もちろんここ一連の学門と接続すると、「そのカッコイイという直覚が、器官として横隔膜に担われているのかもしれんね」という話にはなった。
さりとて、それで納得して何の解決になるわけでもなし、僕はこれまでガンバってきたつもりの、「おれだってそこそこカッコイイんじゃない〜?」と見せつけてきたはずのパフォーマンスが、基本的にすべて空回りだったことに、ハァ〜とため息をつきながら、まあしゃあないかと進んでゆくしかないのだった、もうこういうことには慣れたな。

ヒアリングしていくと、つまり、このごろは「イケメン」とか「イケボ」とか言われるが、そのイケメンやイケボというのを、別に「カッコイイ」と思っているわけではないらしい、イケメンはイケメンだしイケボはイケボだが、それに付随する感動というものは一切ないそうだ。
何か流行の歌があったとして、それは聴きやすいから聴くが、たとえそれがイケボでイケているふうの歌詞だったとしても、別にその歌い手や歌そのものが「カッコイイ」と感動しているわけではないらしい/何なら「どんな人が歌っているのかは知らないというか、そもそも見えてこないし、見てもフーンとしか思わないし、記憶にも残らない」そうだ。
このことに、僕は逆転的に、僕自身の特異性を認めねばならないことになった、つまり僕は、なんでもかんでもを基本的に「カッコイイ」と感動しているのだ、僕にとってマイケルジャクソンは超カッコイイし、なんだかんだ、北島三郎とかも歌い出したらカッコイイ、ピーターフォークはカッコイイし、高田純次(ジョニーデップ)だってカッコイイし、腕利きの板前さんだってカッコイイ、デカいトレーラーの運転手が車庫入れする技術だって、見ていると「うお〜すげ〜かっけぇ〜」と僕は感動してしまう、この感動が実はきわめて特異だということ/僕はけっきょく、何のガマンもなくこの「かっけぇ〜」だけですべてを得てきたというのが事実だ。
「カッコイイ」という直覚の喪失は、同時に、「自我がメラウルワーすることしかわからない」という現状を暗示しているのでもある、イケメンとかイケボとか言っているのも、それによって自我がメラウルワー方向に刺激されるというだけであって、そのイケメンやイケボの当人のことを「カッコイイ」と感動しているわけではまったくないのだ、つまりメラウルワーホルモンを分泌するためのトリガー薬剤に用いているというだけであって、それは別にたいしたことではないが、そのこと「だけ」を積み重ねて生きるというのは、実に闇の深いことになる。

僕は、えげつない文章・文脈・文体を、えげつない速度で産み出せるようになったら、それが「カッコイイ」と思ったので、こうしてものを書くことを選んだ。

「カッコイイというのがわからないということは、何もすることがなくなってしまうっていうことですよね?」「まさにそのとおり」、まさにそのとおりであって、少しでも冷静に考えれば当たり前のことだが、われわれはこの世のすべてを自我メラウルワーで消費するためにこの世に生を享けたわけではない、「カッコイイがわからない」という致命的な損失は、表面上は隠蔽されているが、隠蔽されていたとしても致命的なことは変わらないので、主要なテーマとしてフラグ付けをしておかねばならない。
「カッコイイ」ということへの、sureな直覚が恢復されないかぎり、いかなる激烈な感情も、激烈なのみであって「命」を持っていないことになる、「カッコイイ」ということは、幼児性においては漠然としたものだが、学門が進むにつれてよりいきいきと、クリアで明確なものになっていく/「カッコイイ」というのは単に「命のピーク的出現」ということに違いないが、このことも蒙昧に頭を垂れる者から順に目の前の道が啓けてゆくだろう。
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パーティ報告83(2)/速さと前線

曜の夜のことが、月曜の夜になって、ようやく冷静に眺められるようになり、つまり二十四時間やって二十四時間休んだ後にようやく眺められるようになるのだが、たかが四十八時間前のことが、はるか昔の思い出のように感じられる。
まあ、二日前のことが最近というのは思い込みだし、二千五百年前のことが大昔というのも思い込みだ、そんなものは幻想にすぎないのだと、僕ではなくアインシュタインが言っている、このことに反論しようとする者は、アインシュタインより「時間」の専門家でなければならないだろう、僕には到底ムリだ。
パーティでは「速さ」のことが言われた、例によって「速さに文句を言う奴はいない」と、そして速さというのは生産性につながっている、どんな高度な能力も思いも、「間に合っていない」という一点ですべてオジャンになるからだ。
「間に合っていないから、余計に急いで焦るんだよ、出るところが間に合っているからこそ、そこからゆっくり動けるし、ゆっくり考える時間も与えられるんだ」

一日が、二十四時間だという捉え方は、実はほとんど意味が無い、二十四時間というのはただの時刻表の問題でしかない。
圧縮、リピート、一調子なのだと、後のジョナサンで話したな、この「圧縮、リピート、一調子」という捉え方には、実は奥深いエッセンスが秘められている、このエッセンスだけで人は相当なところまで行けるが、なぜ相当なところまで行けるかは、そこへたどり着いてからでしかわからない。
「時代の問題だということで、ごまかしてここまで来ているけれどもね。もっと、前のめりになった自分のヴィジョンを持て。出来る出来ないの以前に、そのヴィジョンを持たないと……何かステキなものが、向こうから降ってくるってことは決してないよ、ボーッとしていると、本当に驚くぐらい、何もないまま年を取るだけだよ、そこは覚悟しておけ」
「遅いんだよ。なぜ遅いかというと、前線に立っていないからだよ。<<前線に立ってからでないと、見えないものがある>>んだ、むしろ前線に立たないと何一つ見えないだろうな。前線に立って、ヤケクソになることも許されず、前線に立って、頓死しながらもなるほどそうかと、いろんなことを盗んで学ぶしかないんだ、言われてみたらそりゃそうだって、本当は誰だって知っているだろ?」

一日は二十四時間じゃない、前線に立たないなら一日は0時間だ。

前線に立たないなら、人は自動的に「消費」を選んでいることになる、何を言っているかわからないかもしれないが、今何が言われているかなど、前線に立つまでは永遠にわからないのだ、わからないまま消費していくわけだ。
「前線というと、たとえば、新入生が大学に入学して一日目とかだな、そういう現場に立ったとき、<<これから先のことがすべて自分の選択によって決まってしまう>>ということを、誰だって知っている、一瞬ごとに決まっていくんだって」「前線の、つまり、命がある瞬間だね、その瞬間というのは、刹那のものだから、ちょっとでも遅れると、もう間に合わないんだ、そうして出遅れているうちは何一つ本当のことは見えてこないんだよ」

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パーティ報告83(1)

19時開始→朝5時退店→移動してファミレスに13時まで→歩いて帰る→途中カフェで休憩→さっき返ってきた、まもなく二十四時間。
もちろんフラフラだが、逆にもう、疲れるということはなくなった、ワークショップの成果でもあり、僕だけじゃなくて誰も疲れやがらねえ。
パーティは、いつもどおりだったが、同時に、どれだけのことがあったかはまったく説明しきれない。
五周年ということで、メンバーが店側に仕込んでくれた、ケーキとシャンパンをいただいた、もう遥か昔のことにように感じてしまうが、あれは昨夜のことだったか。

昨日から今日にかけて、どれぐらいもらい物を頂いたのだろう。
ナマモノは先に食べて、あとは数えないともうわからないが、土産物やら高級スコッチやら、タバコの差し入れやら、何か急にたくさん頂いてしまっている。
そしてなんと、ナイスガイが、「五周年だから」ということで、なんと五万円もパーティ費用として寸志をぶっこんでくれた、なんてオトコマエなのだろう、いやオトコマエどころか、厚意が巨大すぎて恐懼してしまった。
僕はもし、愛されなければ、なぜ愛されないのか理由がわからないが、仮に今愛されているとして――愛されていると判断するよりないとして――やはりなぜ愛されているのか、理由がわからない、いかんさすがに眠気でぶったおれそうだ。

誰も疲れない、そのぶん、すさまじい一夜だった。

この一夜に、何があったか、とてもじゃないが全部書けるわけがない、二十四時間で何が起こったものやら、よく二十四時間で足りたな、と気が遠くなる。
まあ、いつもどおり楽しかった、「いつもどおり」ではあるが、その「いつもどおり」が回ごとにヤバくなっている事実があり、今回のことを含めると、僕は「五年も続けてきてよかった」と思った。

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第83回Quali's Party[8月18日(土)]無事盛会!

8/20 Quali tweet> なんかフツーに健全で爆裂でイイものになったよなあ〜 pls entry

Recent entry: ひろみ、ゆか、ゆき、あきら、しおん、ともこ、まなみ、ゆうさく、かず、トム、くおり
日時:2018年8月18日(土)19時〜23時
場所:原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB


キラキラ次回[9月15日(土)]加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


今回も無事盛会でした、ありがとうございます!
まあさすが五周年って感じだったな、わっはっは〜 九折

宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!

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WS報告009(2)/たけむすあいきともうします
はすべてのことにシロウトなので、何もエラソーなことは言えないが、「たけむすあいきともうします」というフレーズがグッとよくて、これで朝方までさんざん遊んだ、みんなゲラゲラわらった、飛び込んでいったものが「な、なんだこれはwww」と。
まあむつかしいことは、専門の方がよそでバッチリやってくれるだろう、だから僕はテキトーにお茶を濁しておく(文面に残す資格がないので)、まあ別にこの世界で僕一人ぐらいコンコンチキでも世の中は破綻しないだろう。
「永遠の命」だけが本当のYesに到達しうるわけだが、それでいえばつまり、僕と出会うすべての人、またすれちがうすべての人に、永遠の命を与えられるようであれば何よりだろう、もしそこで永遠の命を与えられるなら、誰もそこで争う理由はないのだ、われわれは永遠の命が信用ならんし目に見えんからウゴーと争い、「生」を有利に引き延ばそうとするのである。
「たけむすあいきともうします」という、フレーズが好き☆、ということぐらい、許されるだろう、ソフトアイですよソフトアイ、そして真空の気がズバッと、こりゃ時間軸に関係ない世界のものだから、速いとか速くないとか……繰り返しになるが、そこで接触して永遠の命が与えられるなら、争う理由はその瞬間になくなってしまう、それで飛び込んできた人も「何をしに飛び込んだかわからなくなる」という現象に見舞われてゲラゲラとなる。

命令法というのは、具体的に「露骨」にやるだけでも、十分値打ちのあるものだが、本当のところは「命」であるから、「永遠の命」という学門の定義に則らなければ、本当の命令法にはならない、これを今回は「真・命令法」と呼んだ、アホみたいな呼び方だがまあ別にいいだろう。
いやあそれにしても、毎週毎週、次のステップに進めてゲラゲラなるな、だいたい午前三時ぐらいになると、僕が一人新しいステップに進んで「やった〜バンザーイ」となるので、みなさんも祝福でバンザーイとなるのだ、誰のためのワークショップやねんという問題もあるが、このときがみんな一番幸福なようである。
繰り返しになるが(しつこい)、すれ違いざまにでも、永遠の命が与えられたら、もうわれわれは争う理由がないのだ(スポーツのようにルール的に戦争を固定されていないかぎりは)、われわれは永遠の命を蹴り飛ばして争う理由がない、このとき真のYesが生じ、あとは刹那の「爆発」を捉えると、Yes以上の「産み出し」があるので、よりナイスになる、うーんなんだこのテキトーな説明は。
まあ僕は、すべてのことについてシロウトなので、エラソーに解説を文面に残す資格がない、来てくれた人にはいくらでもホントのことを口頭で話すがね、ちなみに昭和三十四年の合気道新聞第二号にも、「愛は争わない」という開祖の記事が書かれてある、僕は「永遠の命」が真の「愛」だと定義するのだが、そのへんも僕はシロウトなので詳しく知りたい人は専門家のところにゴーだ。

ぶつかるでもなく、いなすでもなく、永遠の命を与える(何ならそこに産み出す)。

まあ僕はよろこんでいるので、説明なんかどうでもいいかなーと……まあ説明しても伝わらんので、実地でやっているわけだし/僕はけっきょく、武人ではないので(あたりめーだ、文学者だっつーの)、武術そのものに道はないな、争いたい人はアサルトライフルを持って争い合えばいいじゃないか、僕は兵士ではなく民間人なので国際法で庇護プリーズである。
「たけむすあいきともうします」という、合気道新聞第一号のことばが好きなのだ、僕は永遠の命イコール愛が好きで、すれちがうすべての人にそれが与えられたらその他のことは知らねーということを目指している。
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WS報告009(1)/ユークリッド三角形の内角の和は永遠に180度
「永遠の命」という話がよくウケて、それでワークがグッと進んだ、全員が(マグレもあるが)余韻法の糸口を掴むことができた。
この、糸口を掴むというのがスゲーことなのだが、なぜスゲーかというと、肝心なことはすべて雲を掴むような話だから、その雲を掴んでいるうちに糸口を掴んだのだからこれはスゲーことだ、この糸口に一生触れられないのがフツーなのだから。
「永遠の命」という言い方は、正しくもあり、間違ってもいる、何が間違っているかというと、「永遠の命」といって、命は永遠なのが当たり前だからだ、このことには一般に大きな誤解がある。
「永遠」というのは、何もごたいそうなことではなく、「時間の流れと関係ないヤツがいくらでもあるやろ」というだけのことだ、たとえば三角形の内角の和は180度であって、これは去年も今年も変わらない、一万年前も一万年後も変わらないだろう、「時間」という尺度に無関係なのだから「時間軸がない」「時間そのものがない」、だから永遠だというだけだ、三角形の内角の和が古くなったりはしない、モーツァルトも古くはならない。

「永遠の命」というのは、誤解されているのだ、「永遠の命」というのは、「もし、DNAうんぬんのタンパク質でしかないわれわれに、『命』なんてものがあるのだろうか」という視点から始まることなのだ。
そして、もし利己的タンパク質のカタマリであるわれわれに、「命」なんてものがあるとしたら、その為すべき命令、為すべき勅令のようなものは、時間軸のどこかからは出現していないわな、時間軸と関係ないところから出ているわな、ということだ。
「永遠の命」というテーマは、われわれが永遠に生きるかという話ではなくて、そもそも「命」なる、時間軸と関係ない事象がこの世界にあるのかないのか、という話だ、だからもし、そんなものは「ない」と考える人は、どうぞ命のない生を過ごせばよいし、そういうものが「ある」と考える人は、命ある生を模索すればいい/もちろん僕は、この世界に生まれてきたすべての赤子に、「命なんかないんだよ〜」と吹き込んで生きる根性はない。
「永遠の命」というのは、「もし『命』なんてものがあるとしたら、それは有限のわれわれにはカンケーない、つまり時間軸にカンケーない、永遠のところにあるはずだ、そりゃ数学的にね」ということだ、この話がよくウケた、そしてなぜこの話をする必要があったかというと、この「永遠の命」を前提としてしか、われわれは真の「Yes」に到達できないからだ/有限の生は常に焦っており、Yesなんて寝言をやっているヒマはないのだ。

「あなたたちの命は(もしあるとしたら)どこにありますか〜」「永遠、にあります〜」

そりゃそうで、単に数学的な話、命というのはナマモノの話じゃないし、生鮮品の話ではないのだ、われわれの生身が生きているナマモノなのであって、そこにナマモノじゃない「命」が関係しうるか、しえないかの話なのだ、そして「命が永遠ならまあいいか」と学門が進まないかぎり、われわれの生身が本当のYesに到達することはない。
「永遠の命」といって、なんだそりゃと僕にケリを入れる前に、聖書やヨーガ聖典にケリを入れるように、永遠の命とか言い出したオリジナルはおれじゃねえよ、おれがウソつきというのは、おれがいつもテキトーにいう「ボクは童貞ですから」というあたりはウソつきなのであって、「永遠の命」がウソつきかどうかは、ありとあらゆる神殿のボスにケリを入れにいってくれ。
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WS報告008(4)/聖域とヒューマニズム
れわれは互いに助け合って生きるべきで、互いにヒューマニズムを尊ぶべきだ。
けれどもヒューマニズムは、「聖なるもの」ではない、ヒューマニズムを聖域に混入させてはならない。
ヒューマニストはしばしば、ヒューマニズムを価値観の最上位に置くが、それは知らず識らず「ヒューマン」をこの世界の最上位に据え付けていることになり、それは博物学的にも偏った考え方となる/ヒューマニズムをもって「聖なるもの」と拮抗せしむるがごときは、感情以上の根拠を持たない。
ヒューマニストは、ヒューマニズムにあふれてはいるが、多くの場合で、愛にあふれているとは言いがたい、ヒューマニストはしばしば恣意的に「困っている人々」をサーチし、困っている人々に援助を差し伸べるが、困ってはいない健やかな人々に愛を注ぐ力は持たない/結果的にヒューマニストの人々は、困窮なく愛し合うことへ登頂した健やかなる人々には背を向けて、不遇から苦しみ困り果てている人のみに鷹の目を向けるスタイルに行き着くことがある、そのようなときわれわれはヒューマニストの群像に「聖なるもの」が失せていることを嗅ぎ取り、不穏を覚える。

「聖」という字には、「耳」「口」が含まれている、辞書によるとこの字は、「聞きとる能力と、それをまっすぐに述べること」という字義らしい。
「聞きとる」こと、それを「まっすぐに述べること」……それに比較すると、ヒューマニズムというのは、己の心中に「思うこと」を基とし、己の内から湧いてくること、「聞く」よりはむしろ「言う」こと、さらには「言わずにおれないこと」に類している、ここにおいてヒューマニズムは、貴重なれども「聖なるもの」ではないことが改めて確かめられる。
まともな生者と死者のうち、ヒューマニズムに感謝を覚えない者はおらず、またそれを讃しない者もいない、されども、なおもヒューマニズムに愛を認めるか否かについて、賢明なる者は距離をとって慎重だ、<<ヒューマンごときが愛を自家生産できるのか?>> <<あの聖なる「愛」を?>> 仮に、神の言葉を預かったとされる預言者の存在が真実だったと認めた場合においても、もしヒューマンが「愛」を自家生産できるのであれば、愛については神と呼ばれる者に頼ることなく、われわれの「思う」をもって定義すればよいことになる、「われわれこそが愛の生産者であり創始者であるから」と、われわれは己に愛の「宗家」たるを自負することができる。
われわれは「生物」の仕組みを、かなりのていど解き明かしてきたように思える、DNAの解析情報はすでに基礎的なデータベースとして入手された、けれどもわれわれは、なぜそのタンパク質群が「生きろ」という命令を帯びるかについては解明できない、われわれは生物の仕組みを知ることはできるが、そこに宿る「命」の仕組みを知ることはできない/われわれはわれわれの手によって、タンパク質に命令を与えることはできない、われわれは「命」がどこから与えられているかを知らず……同様に「愛」がどこから与えられているのかも知ることはできない。

「あなたは感動した、それは何よりのことだ、そこであなたに問いたい、あなたはどういう仕組みで『感動』したのだ?」

われわれは、もっとも佳いときに、感動したり、よろこびを覚えたりする、われわれはそのことをよく知っていながら、どのように己に「感動」が生じているのか、またどのように「よろこび」が生じているのかを知らない、「よーしパチンコに行ってストレス発散しよう」「宝くじが三億円当たったらうれしいな」という発想と行動はできるが、われわれにとって「よーし感動しよう」という発想と行為は不可能だ、よほどのマガイモノでもやらないかぎりは。
われわれの身に起こる、あるいは霊魂に起こっているのかもしれぬ、もっとも佳き何かは、感動や愛のたぐいとよく知られていながら、<<それがどのように生じているかをわれわれは知ることができない>>、よってそれを人智外のこととして、われわれは「聖なるもの」と呼んだ/ヒューマニズムはよくわかる、よくわかる善いことだ、それはよくわかるからこそ、人智の内にあるものであり、だからこそ「聖なるもの」ではない。
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WS報告008(3)/ヒューマニズムの肯定と否定

ワークショップの、モットーがひとつ決定した、「ヒューマニズムの否定」だ、もちろんヒューマニズムを全否定できるほどわれわれはタフではありえないが、ヒューマニズムを残存させているうちは、われわれは命だの愛だの、エコーだの世界だのに会うことはできない。
われわれは、人間であり、ヒューマンなのだが、このわれわれがヒューマンであるということを、われわれ自身が過大評価しすぎなのだ、そのせいでヒューマニズムが、本来の領分を超えて主張を持ち出してしまい、愛や命の尊厳を侮辱してしまう/われわれはいっそ、「人間であってはならない」という考え方さえ持つべきだ。
われわれはどこか、自分(たち)が「まとも」な人間であり、もしカミサマというのがあれば、それは「偉大」な存在だと思っているが、このことにすでに増長があるのだ、ひょっとすると神々が「まとも」なのであって、われわれ人々は「極大のアホ」かもしれないではないか/われわれを「まとも」と前提し、神々を「偉大」と予想するわれわれの常識には気づかれない不遜が潜んでいる。
ヒューマニズムというのはどうしても、行き着くところ共産主義を再興せざるをえないし、そもそもヒューマニズムといえば、すでに十分に世の中に行き渡って満ちあふれている、このヒューマニズムを肯定するかぎりは、命だの愛だの光だのには接触できないのだ、このことは善意にあふれた人がしばしば愛の不能者であるという事実によく整合する。

とはいえ、われわれは誰もか弱き人間どもであるから、ヒューマニズムを全否定して掛かるのは、増長であり非現実的だ、即身仏になりうる者以外はヒューマニズムの世話になりながらでしか生きていくことはできない。
人々は、間違いなく助け合って生きていくべきだ、とはいえ、助け合って「生きた」として、そのうち加齢で中年になり、そのまま加齢で死去するのだが、そうして「生きた」というだけでわれわれが無尽の光悦に浴したりはできない、ただ「生きた」だけだとそのままただ「死んだ」という結果に直行することにしかならない。
「生きろ」というのも命(めい)のひとつだが、やはり本懐としては、生きるのが命なのではなく、命のために生きるのが本懐なのだ/われわれは楽屋と本番を区分するべきで、やはり本番を本命の場とし、楽屋を(本番のための)バックアップの場とせざるをえない。
われわれは助け合って生きるべき(ヒューマニズム)だが、それは常に向き合う、孤たる本番(本命)に立ち出でるためのバックアップ装置であって、<<本命にヒューマニズムを持ち込むことは許されない>>、<<本命にヒューマニズムを持ち込むことは、本たる命を殺すことになるからだ>>。

助け合って生き、見捨てあって命を為す。

「見捨てる」というと、寂寥感に慌てた悲痛を覚える人もあるようだが、その種の人々は命のことを甘く見ている、命(特に、本たる命)を為すとき、「見捨てる」というのは我が身も含めて他人事に見捨てるのだ、彼我の差分はない/「見捨てる」というのは、「勝手に生きたりくたばったりしろ」と見放すことだが、それは我が身も同一に含めてそのように見放すのであり、その見放される中に彼我の差分はない。
ヒューマンたるわれわれは、自分たちがヒューマンであることを過大評価しており、自分たちのヒューマニズムこそが愛さえも内包しうるのだと思い上がっているし、また神々に向けてそのように主張さえしているのだ、どおりでわれわれは「聞く」という能力を失っている/われわれはヒューマニズムを尊び、助け合って生きるべきだが、そうしてわれわれが生きるという自体、<<たいしたことではない>>のだ、われわれの増長と傲岸は、そうした己たちの生こそが「重要」だと勝手に聖典に書き加えたことから始まっている。

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WS報告008(2)/本命法

の中に命がある(本、台本など)。
日本中のあちこちにおフダが貼ってあったりするが、「文字の書かれたもの」そのものに、何かがあるのかもしれない。
であれば、電子書籍という発想は危険を含むな、これまで「紙媒体」と呼ばれていたものがあるが、実は紙はメディアではなくマテリアルである可能性がある。
本の中に命があり、その命令に従っているとき、他人のことは他人事になり、なんと自分のことも他人事になる。

そもそも、自分の肉体という座標の中に、「わたし」があるという定義がアヤシイのだ、自分の体内に「わたし」があるという根拠はどこにもない、我があるのはわかるが主たる「わたし」が体内に(固定的に)ある保証はない。
実際僕は、「本番」に魂が引っ張られていくのだ、「本番とは何か」ということを説明しようとすると、「練習というのは本番に向けての練習だろ、じゃあ本番は何のためかというと、本番というのはこうだ、つまり……」とやっていくと、そのまま「本番」になってしまい、「ああ〜連れていかれる〜」となる、本番を「説明」するのは至難というかきっと不可能で、本番に接触してしまうと本番になってしまうのだ。
僕は本番が得意な人間であって、それだけにワークショップの先生というのは、本性としては向いていない、ワークというのはエッセンス化した練習のことだからだ、もちろん何のワーク蓄積もなしに本番がまともに成功はしないので、ワークショップという考え方には正当きわまりない意義があるけれども……
といって、別におれはワークショップの先生としても無能ではないだろ? ただ本性としては、僕は本番の人間だ、「本番」はどのようにして始まるかというと、「本の命(命令)」にしたがって、自他もヘッタクレもない他人事にする、「わたしは『本』だ」という状態になる、そもそもこの肉体的なやつはおれの「本」ではねーよ/ここで言っている「本」に命令を受けること、これを「本命」という、このこともワーク化することは不可能ではない、すでに方法は試作されている。

本番中は、「本」があり、「誰」もない。

そこが「練習」との大きな差異だ、練習というのは「誰」と「誰」が何をする「関係」かという人間関係によって形成されていくが、本番はその「関係」から離脱するのだ、よって、<<「本番」は必ず「関係者以外」がいる>>、練習の場には関係者しかいない、関係者以外立入禁止が「練習」だ。
――本命者は「本」にのみ帰依するので、人間関係を断つ、よって本命者は必ず孤立である、本命者はそもそも人間関係という感覚を視認しなくなる/この本命者の孤立に報いるのが人々の「愛」である、この「愛」によって人々は、本命者を介し己を本命に触れさせることができる、この人々にとって己の愛がただちに己が命である/一般に人は、人間関係の中で愛を育むことを期待し目論むのだが、本命者のみはさにあらず、本命者だけは人間関係なしに愛だけを受けることができる、彼には愛のみしか触れられないのであるから……/「本」なる命に帰依した者がそこにあるとき、健やかなる人々は愛を捧げずにいない、こうして本命者のみ「愛を受けるのに人間関係を必要としない」存在となる/本命者はヒューマニズムを超克し「本」の命に帰依する、この本命者に人々は愛を報いるのであるから、われわれが救われるべく求むるのは愛ではなく(本の)命である。

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WS報告007(4)/「死ね」のこと
アリングすると、どうも現代の人には、何か「失敗したら死、なんすよ〜」という感覚があるらしい。
明らかに、意味不明な思い込みだと、本人もわかっているのだが、思い込みだとわかっていても、「失敗ができない」「入念な安全確保とセーフティネットの準備をしてしまう」という現象があるらしい。
このときに象徴的に取り出される「死」という語はなかなか面白いと思う、もともと「死ぬ」という言葉はヘンな言葉で、「死ぬ」と「往(い)ぬ」だけが、ナ行活用の動詞なのだ、死ぬも往ぬも同じ意味だが、つまり日本語では「死ぬ」だけが動詞として独自の活用形をもっていることになる、これだけ無数の言葉があるのにまったく不思議なことだ。
別にオカルティックなことを言おうとしているのではない、気づかれづらい事実を指摘しているだけだ、なぜか現代の人々はインターネットやメディア越しに、コメントあるいは内心で、「死ね」というメッセージを発するではないか? これは単なる悪意のように思われているが、実はその悪意が「死ね」の一点に収束することに説明がついているわけではないのだ、理由不明のまま悪意といえば「死ね」の一点に収束しているという事実がある。

このように考えてみてもよい、たとえばあなたが心の底から叫ぶとして、「飛べーーーーー!!」と叫ぶことはできるだろうか、あなたにはそれができず、あなたの「キャラ」で叫んでしまうのではないだろうか/それに比較すると、今多くの人が、「死ねーーーーー!!」と叫ぶのであれば、キャラではなくこころの底からそれを叫ぶことができると思う。
であれば、このような仮説が浮かんでくるのだ、つまり<<現代人には、「死ぬ」という言葉しか与えられていない>>という仮説だ、「死ぬ」とその五段活用(死なない、死のう、死にます、死んだ、死ね、死ぬこと、死ねば)だけが現代人の言葉として与えられている。
これは、人間と言葉の関わり合いなのだが、たとえば「エリー、my love... エーーーリィィーーーー!!!」と叫ぼうとするならば、「エリー」という「言葉」が必要なのだ/もちろんわれわれは「言語」を与えられてはいるのだが、「言語」は言葉ではないため、叫べないのだ、兵隊でないわれわれが本意気で「突撃ー!」と叫べないのと同じだ。
われわれは、存在として「言葉」であり、世界が「言葉」なのであるから(このあたりは説明が長くなるので投げやりに済ませている、すまん)、けっきょくほじくったところ「死ぬ」というナ行活用の言葉しか与えられていないのだから、この人は存在として「死ぬ死ねマン」でしかありえないし、この人が生きる世界も「死ぬ死ね世界」でしかありえない、「いとしのエリー世界」なんかではありえないわけだ/フムフム納得している場合ではなく、あなたのシャウトが「死ね」以外では説得力ゼロってことだぜ、ためしに「エリー、とシャウトしてみてください」と面前でやらされたらどーするんだ、おれはできるけどあなたはできねーだろ。

あなたの聖書は、開くと「死ね」だけが無数に書かれている。

怖すぎるやろ!!!!/そうは言っても、言葉が他に与えられていないということはそういうことだし、それしか言葉がないということは、それしか物語がないということだし、それしか物語がないということは、それしか世界がないということだから、やっぱりそういうことになってしまう、こんなヤベー世界があるかよ、「おはよう!!!(死ね!!!)」ってどんな挨拶だよ、でも「おはようございます」という言葉を与えられていないということはそういうことなのだ、言語の裏側には言葉があるのだが、言葉が「死ね」しかなかったら、発される言語のすべてが言葉として「死ね」になってしまう(マジです)。
「What a wonderful world」という歌に、「I see friends shaking hands saying how do you do They're really saying I love you」という詞がある、これは「わたしは友人らが握手をし、ごきげんようと"言い合っている"のを見る、彼らは本当には、アイラヴユーと"言い合っている"のさ」と歌っているのだが、そのThey're really sayingが、die die die!!! ということもあり得るということだ、どんなデスメタル世界だよということで草不可避だが、言葉というのはそういうものだ、言語の裏側に「言葉」があるのであって、常にWhat are you really saying? が、世界であり物語であり「あなた」なのだ、そこで「死ぬ死ね」しか言葉を与えられていないというのは非常にまずいので、誰しも言葉を与えてくれる世界や人や物語に出会うしかないのだった。
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WS報告007(3)/「長かった」

夜連続、朝までのワークショップだったが、なぜか異様に時間を長く感じた、二日目は特に全員が「長かった」と感じたらしかった。
沈滞して長く感じたのではない、何かまったく別の現象として長く感じた、日曜日の朝になると、金曜日の夜のことなど、「何かもう、ずっと昔のことの気がする」という状態だった、なぜか合宿明けのような奇妙なムードになった。
これは、仮説だが、おそらく、われわれは時間そのものを「長い」と感じるのではないのだ、なぜなら寝ている間の時間を「長かった」とは感じないからだ、寝ている間の時間を「よく寝た〜」と言うことはあっても、「長かった〜」と言うことはない、「○時間ぐらい寝た」という身体の感覚はあるのに、その○時間を「長い」とは感じないのだ、睡眠が「足りない」と感じられることはあっても「短い」と感じられることはない。
この、異様に長く感じた二夜連続のワークショップは、つまり体験が多かったのだ、より正確に言うと、「時間」という概念空間ではない感覚空間に触れているところが多くあったので、異様に長く感じたのだ、仮に言うなら、知らぬ景色の中にある映画館を五つまわって過ごすのならその一日は異様に長く感じられるだろうというようなことだ、映画の中の「二年後」は、ノンフィクションの二年とは異なり、物語の二年なのであって、実時間の二年ではない。

古くから言われる魂魄という捉え方で、横隔膜はメインとして魂(霊魂)の側を担当しており、この横隔膜には実は「聞く」という能力がある、つまり霊魂サイドのものが「聞こえる」ので、フィクション側・物語側の世界が見えてくる・聞こえてくるということになる、そしてこれはフィクション側なので物語時間しか存在しておらず、実時間の体験とは切り離されている(物語時間は存在であって「時が流れる」という事象ではない)。
まあ何はともあれ、対面歩法(露骨法)によって、相手を「聞く」ということの初歩的現成に至れたのだ、これにより命令法の初歩もおおむね出来るようになった、これはもうバンザーイと言うしかない、これは通常超えられない壁の典型例だったから、これが超えられたというのは実にワークがアタリで、そしてそれ以上に何かとうまく噛み合った結果なのだ、一種の奇蹟みたいなものじゃないかと僕は思っている。
そして、対面歩法(露骨法)が初歩的であれできるようになると、元々の「聞く」、特に「自分の腕を聞く(手命法)」が、基礎としてどれだけ重要なのかも理解されるようになった/自分の中心に行けばいくほど、そこには自分の「吾我」があって、自分の中心から離れれば離れるほど――つまり「世界」のほうへ行けばいくほど――そこにはわたしの「命」たりうるものがあるのだ、その「命」をどこまで「聞ける」か?
吾我が悪いということではない、吾我はわたしが「言う」もの、命はわたしが「聞く」ものだ/極小点に完全化した吾我が、世界の果てまでの「命」を聞き、合一できるかどうかだ、自分が生きているあいだに一番遠い「命」につながることができれば、生の終わりにも命はなくならない、これは信仰の問題ではなく論理の問題だ。

「命」を聞け、「生」と「命」は別の現象だ。

「命を受けている者」のことを、「命がある」というのだ、生きているから命があるのではなくて、「生きろ」という命令を受けているから「命がある」のだ、ただし命令というのは「生きろ」というそれだけではない、他にもいろいろある、自分の中心点から離れれば離れるほど、命(命令)はデカくなる、そりゃ球体の半径が大きくなればなるほど世界の体積はデカくなるのが当たり前だ。
ワークの原理は、どれもすべてカンタンだ、「聞こえてねえだろ???」というだけだ、おれからの命(エコー)が聞こえてねえだろ、ということであって、そのことは、「自分の右手からの命も聞こえてないよ、やってみなさい、こうして……」とやると、「ホンマや!!」と誰でもわかるのだ/自分の右手のエコーも聞こえていない奴が、この世界の何を聞き取れているわけがあるよ、そのことに「ふざけんな」という直面の実技をブッ込んで悟らせるのが当ワークショップの本旨だ、とてもわかりやすいので、わかりやすさには定評があるのだった。

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