☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
かっこいい奴であるべし2

れはもう愚痴みたいなものだが、本来、僕のような奴は、「何をやっているのか」をはっきり見せて進めばよいのだった。
しかしこのご時世、四方八方からクラッシャーが飛び込んでくるのだ、本人に悪気はないのだろうが、何しろクラッシャー当人は「人が何をしているのかが見えない」ので、非常なスマイルと協力のキモチで、交差点の真ん中に突っ立っているのだ、「そこにいられると邪魔なんですが」ということがどうしても言われるまでわからない。
まあこのご時世、しょうがないことだとは思うのだ、何しろ「生まれてこの方、何をしているのか見ていてわかる人をそもそも見たことがない」という人も少なくないようなのだ、そういうことならしょうがないと思うが、でもそれなら僕がここで改めて愚痴を言いたくなるのもしょうがないということの範疇に入るだろう。
何をやっているのかが、見ていてわかるということは、その人が魂を投げ出して魂で取り組んでいるということだし、それがアタリマエでかっこいいということなのだが、それがわからない人はどうしても誤解してしまうので、厄介なことなのだった/ちなみに以前も言ったことだが、わからない人に説明をして了解してもらっても、それは引き続き「わかっていない」ということなのだ、「交差点の真ん中にいられると困るんです」「わかりました」というのは「わかっていない」ということなのだ。

まあしかし、僕までかっこ悪い奴になるわけにいかないので、僕は「何をやっているのか」が見ていてわかることを続けなくてはならない(しかしよくよく考えると、これが「わからん」というのは何たることだ、ゴリゴリにアホじゃねえか)。
僕はあれをああして、こうしたいのだが、これをこうはしたくないのだ/と、ここまで数百のコラムと数千のブログがあるのだから、説明しなくても見ていりゃわかるというのでないとオカシイ、そして見えねー奴はいったい見えないままで何を協力するつもりなのか、考えてみりゃ「めちゃくちゃじゃねーか」と改めて問い質したい。
僕は何をやっているのか? そして何をやろうとしているのか? こんなもん、ミエミエにわかるようにやっているのに、説明が必要な奴はどう考えてもオカシイ、そして見てもわからん奴に説明なんかしたら「わかりました」と絶っっっ対にスーパー誤解するに決まっている。
なぜ現代になって、こうもスーパー誤解だけを拡大してゆける特殊なパーソンが際限なく増えているのか、まったくナゾだが、そんなことを言っているあいだに本旨を語るのを忘れた、見ろタイトルとまったく違う記事になってしまった(まあ別にいいだろ、愚痴だ愚痴)。

手抜きと本腰を共存させる。

見ろ、時代状況がヒドイせいで、こんな複雑怪奇なやり方を強いられるハメになっているのだ、<<見ていてわかること、見えることが、本来最大の情報だと思うが、今はそれがインビジブルの扱いを受ける>>ので、こちらとしてはそのインビジブル扱いされるところを敢えて真っ直ぐ突いていくしかない/しかしあの「説明を求める眼差しの洪水」はいいかげんストレスだし誰もトクをしないので何とかならないものだろうか、そんなにわからないことの説明って受けたい?(なぜ説明を受けたいという切迫感があるのかが僕の側にはわからん)
ふつうに見てりゃわかるんだから、ふつうに見ろよ、と言いたくなるのだが、今ふと気づいたところ、そうしてふつうに「見る」ということをしてしまうと、人によっては<<自分がかっこ悪いことが見えてしまう>>のかもしれなかった、それならあえて目を曇らせてインビジブルにしてしまうというのも、動機としてわからないでもないのだった(しっかしふざけなよオイという話ではある)。

できるオンナだね | comments(0) |
かっこいい奴であるべし

っこよくないものは疲れる。
そして疲れるということは間違っているということだ。
かっこいいというのはどういうことかというと、見栄えがどうこうという問題ではない。
かっこいいということは、「何をやっているかがわかる、見える」ということだ。

何をやっているのかわからん奴というのは、どこからどう見てもかっこ悪い。
接客態度が崩壊しているウェイトレスは、もう何をやっているのかが見ていてわからんのでかっこ悪い、近所から聞こえてくる夫婦喧嘩の声は、やはり何をやっているのか見ていてわからんのでかっこ悪い。
学校の先生が「教えている」のはかっこいいが、「何やよくわからんが教壇に立ってスマイルで何かをつぶやいている」という状態はかっこ悪い。
何をやっているのかわからん顔や声や姿を、見せないこと、何をしているかわからん奴を見せられても、それが「どういう人」なのかはまったく見えないのだ。

包丁を研いでいる動画を観た、すごくおもしろかったのだが、何をやっているのかさっぱりわからなかった。

何をやっているのか、そりゃ包丁を研いでいるんだろうが、そして包丁がピカピカになるのは何か見ていて気持ちいいのだが/何をやっているか、そりゃ包丁を研いでいるんだろう、それで「??? これって何やってるんだっけ???」となった、言っている意味がわかるだろうか(別にわかる必要はない)。
何をやっているのか、見ていてわからんというのは、僕の趣味においてはかっこ悪いと思うので、僕は何をやっているのかわかる奴でありたいなあと思うのだった。

できるオンナだね | comments(0) |
救われる奴のセンスは、「身の回りにある学門」

とえば僕は、洗濯物をたたむのがヘタだ。
ユニクロの店員さんなどがパパッとセーターをたたむのを見ていると「すげえ」と感じる、「なぜそうパパッと片付くんだ……?」と見ていて負けた気がしてならない。
そう感じるので、youtubeなどで「たたみ方」の動画を検索するのだが、それを見てマネをしてみても、いまいち上手くならないのだ/身につかないわけだが、そうして「身につかない」ということは、何か徳性が足りていないのだ、それで「くそ〜」と思いながら後回しにしている。
学門というのはこれだ、「あの人はできるのに、自分にはできない」「なんでだよ」「割と同じようにしているつもりなんだが?」「いや、何かが違うんだろう、だって結果が違うんだからな、ぐぬぬぬ」/このことを常に身の回りに見つけている人が結局救われていくと、僕は年の功から強く唱えることができる。

逆にいうと、救われない奴のセンスは、「十億光年かなたにある壮大な学門」だ、こいつは僕と同じくセーターをたたむのがヘタだが、そこでユニクロの店員に敗北していることを見ず、さも自分は宇宙の真理を追究しているがごとくに妄想し、自尊心を麻薬的に潤す。
もっと注目すべきことは、身の回りにいくらでもあるのだ、20tトレーラーをバックで車庫入れしている運転手を見て「すげえな、どんな感覚であんな正確に操作できるんだ」「おれなんかライトバンでもぶつけそうで怖いのに」と感じない奴は学門から逃避しているのだ。
救われない奴は、すっかり蛇に食われているので、たとえば魚を三枚におろしたときに、「ヘタクソか」「テメーぜんぜんできてねーじゃねーか」と言われることに恐怖し、もしそのように言われると、どんな理由があろうが憤怒と憎悪の炎が盛って止められないのだ、それで自分が傷つかずにすむ「壮大」なことへ逃避するのを日常にしている。
学門の入口は、明らかに身の回りにあるもので、「もう部屋が片付いたの? 早すぎない?」「パスタの茹で加減が完璧だな!」「そこを触るだけで果物の熟れごろがわかるのか」「お前ホタテを捌くの上手いな」「どうやってあんな奴に取り入ったんだ」「よくそんなにササッと適切な説明ができるな」「よくあんなときにあんなユーモアを思いついたな」「お前アイロンかけるの異様に早いな」「まったく枯れないけど、お前ってどういう感覚で水をやっているの?」というのが入口だ、僕の知る限り「壮大」に耽る奴は初代スーパーマリオもクリアできずにイラついて投げ出してしまうものだ。

卵チャーハンを上手に作れない奴は、解脱から一番遠い。

卵チャーハンなどが、一番シビアに思える、なぜなら材料や方法は誰だって同じだからだ、しかし人によって出来不出来は大きく変わってしまう、そこで「なぜこいつが作るとこんなにウマいんだ?」とハンカチを噛むのが学門だ/料理研究家でもそのへんのおっさんよりウマい卵チャーハンが作れるとは限らない、なぜなら卵チャーハンは「工夫」に逃げることを許さないからだ。
さあ、壮大なことを口で語るのをやめて、その手で身の回りに、己の学門の到達程度を証してみろ/僕は学門についてはしつこいので、いつかセーターをパパッとたたんで見せて、「ユニクロの店員かよ!」と言わせてみせよう、僕はそういうのが一番好きだ(ただしセーターたたみ道はいつまでも険しく遠いのだった)。

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吸収次元向上委員会「花より団子より」
遜ながら、この「所属する吸収次元」を、友人ともども向上させることを図っていきたい。
「吸収次元向上委員会」は、同時に「吸収方針向上の撤廃」をモットーにしている。
どういうことかというと、吸収するものを向上させよう、という「方針」を立てるのはダメなのだ、邪法なのだ、なぜなら本人がどうイキってみても、しょせん自分の吸収するものは自分の所属する吸収次元に決定されてしまうからだ、方針なんか三角コーナーにポイだ。
まずは誰しもが、「自分には何が見えているか、何が見えてしまっているか、何を主に吸収してしまっているか」、そのことを正直に認めて引き受けなくてはならない、そこで吸収の「方針」だけしゃかりきに上方修正することはご都合主義の邪法になるのだった。

たとえばよくある健全なスローガンで、「人の長所を見よう」「物事のよいところを見よう」「ポジティブシンキングだ」という言い方がされる、けれどもこれは突き詰めるところ邪法になってしまう。
なぜなら、「人の長所を見よう」と方針を定めたところで、自分の所属する吸収次元がアレな場合、どう工夫しても本当には人の悪いところがガッツリ吸収されてしまうからだ/ここをごまかしてもしょうがないし、ここをごまかすことで状況とプライドがややこしくなっていくケースをさんざん見てきた。
重要なことは、「自分の物の見え方からして、自分は外道モンでっせ」ということをまず引き受けること、自分は「外道吸収シート」みたいなものだから、「正道吸収シートには違うものが吸収されているんだろうな」ということを峻厳に見ることだ。
そして慎重な見聞の上で、「なるほど、これは本当に、人によって見え方が違うということだ……」「いやがおうにも、自分には悪い成分が突き刺さってくるし、この人には佳い成分が降り注いでいくんだ」ということを、確かめながら進んでいくことだ、「吸収シートの次元が変わるまでムリなんだわ」ということを笑い話にして進んでゆくのが唯一の方法だ。

あなたのために、「おれは違う」と言わせろ。

あなたにとって、ケンタッキーフライドチキンは油っこいかもしれないが、おれにとっては違うのだ、何しろおれは油のうち佳い成分だけを吸収するようにできており、あなたは油のうち悪い成分を吸収してしまう、吸収シートの性質が違うのだからしょうがないだろう/まるで冗談みたいな話だが、これは意外とマジなのだ。
「花より団子」という言葉があって、吸収シートの性質によっては「団子が桜を引き立てる」となったり、「桜が団子を引き立てる」となったりするのだが、その先もいろいろあって、「桜と団子とあれやこれやでもっと偉大なものが引き立てられているだろ!!」ということがあるのだ、そんなもん吸収シートの性質が次元として違うのだからしょうがない/僕があなたと同調して遊ぶのは実に気安く、僕だってこころ安らぐが、それではあなたの吸収シートは向上しないままだ、未来に向けてこっそり向上させていくためにはどこかで「おれさまは違うのだフハハハ」と言うしかないのだ、どうかそのことを許して。
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吸収次元と「ボス」の関係

間のチームには「ボス」がいる。
刑事ドラマでおなじみの「ボス」、マフィアの側にも「ボス」がいる、ドラクエの最後にいるのも「ボス」だし、戦国時代の大名だって「ボス」だ、本来われわれにとって「ボス」はわかりやすい。
噛み犬が飼い主に噛みつくとき、「スーッと眼の光が失われ」「何も見えない眼になって」、つまり飼い主が見えなくなって噛みついている、つまり吸収次元が変わることで「ボス」の存在が消失するのだ。
あなたの家庭の、ボスは誰だろう、仕事のチームの、ボスは誰だろう、授業中のボスは誰で、部活中のボスは誰で、試合中のボスは誰で、デート中のボスは誰だろうか、「その場」のボスは誰で、あるいは「目の前の友人と共有しているボス」は誰だろうか/そしてボスと部下はよく機能しているだろうか。

引きこもりのアニメオタクには、きっと「ボス」がいない。
男性不信で、自分の悩み事をずーっと抱えている女性も、きっと「ボス」がいない。
仕事でまじめに働いていても、また健全な男女交際を続けていても、部活で最大限の努力をしていても、「ボス」がいないという場合がある、その場合、どう努力しても「眼の光がスーッと消えていって」「何も見えなくなる」ということは止められない/何も見えていないのでその場で営まれることはすべて不発の不毛になってしまう。
あなたが吸収次元を落下させ、「ボス」という事象が見えない者になってしまうと、あなたはどこの人間関係にいてもやがて「死ね」と言われる身分になってしまう、それを避けるにはヘコヘコし続けるしかなくなるので/そんな不毛がイヤなら「ボス」という概念と事象を感得し、その感覚を必死で抱え続けることだ、いわば自分で自分にする「しつけ」だ。

「ボス」の感覚がない場合、就職および就職活動は「地獄」だったはずだ。

引きこもりのアニメオタクが、就職活動など不可能になってしまうのは、単にアニメ趣味のせいではないのだ、誰かを「ボス」として認識するという観念の事象がないのだ/所属する吸収次元が落下してしまっているので、もう家父長がどう説教しても効果がなく、逆に猛烈な「噛みつく」が発現してしまう。
「ボス」の感覚がない人は、人間関係でも勤め先でも、上の人には「ヘコヘコする」という付き合い方をしているはずだ、そしてそれは内心でとてつもなく苦痛であるはずだ/吸収次元の落下してしまった人にはとても通じないことだが、いちおう知識だけで言うなら、ボスと部下という関係は本来豊かなものであって、一方が一方を支配するというような貧しい状態ではない(「ボス」がわからない人は「奴隷」のことしかわからないはずだ)。
 

できるオンナだね | comments(0) |
あなたの所属する吸収次元(実践編)

収次元は、つまり六道輪廻と十二因縁に関係している。
たとえば同じ戦争映画を観ても、餓鬼道にいる人は「あのシーンの爆発がすごかった」「あの戦車がかっこよかった」「あの旗が印象的だった」ということしか見えていない。
地獄道にいる人は「戦争は悲惨だと思いました」、畜生道にいる人は「愛する人と別れるところで泣きました」、修羅道にいる人は「平和のありがたみがわかりました」、天道にいる人は「人の世の無情が描き出されていました」と、それぞれの道において感想するにすぎない。
その戦争映画に示されているものを「識る」、そのことによる独特の感動を胸に抱えて行くというのは、人間の道にいる人にしかできない、誰が偉いとかいうことではなくてただ所属する吸収次元が違うのだった。

われわれは人間に生まれている以上、たぶん、人間の道において吸収するというのが一番正道なのだと思う。
六道輪廻における人間道、つまり何かを「識り」、何かを「行う」ということ、また「何が行われたかを識る」ということが、本来われわれの吸収すべき次元の事象だ。
メラメラしたり、ウルウルしたり、ワーッとなったり、つまりメラウルワーだが、このメラウルワーはもっとも人間の道から外れているのだろう、道から外れているものは一般に外道と呼ばれる/われわれがわざわざ外道を志向する必要はない。
餓鬼道を極めていくと「テンションがあがる」、地獄道を極めていくと「恐慌に震える」、畜生道を極めていくと「死にもの狂いでわめく」、修羅道を極めていくと「得失しか見なくなる」、天道を極めていくと「無感動に傍観する」、われわれはそんなことのために戦争映画を観るのではないのだ。

多くの人は、「ニュートン方程式」という言葉にはテンションが上がるが、「f=ma」は何のこっちゃわからない。

餓鬼道の人は「ニュートン方程式とか、言葉としてかっこいいっすよね」と見当違いをのたまい、地獄道の人は「こういう方程式って、独特のゾクッする感じがありますよね」とセンスがあるつもりの貧しい自負に恥をさらし、修羅道の人は「こんなの知ったって役に立たないじゃん」と妙な高圧さで言い張り、天道の人は「ふーん、むつかしい話だねえ」と内心で帰宅のこころづもりを始める、そんなことのためにニュートンは方程式を示したわけじゃない。
人それぞれ、所属している道によって吸収次元が決まってしまうということ、すべての物事と光景には六種類の吸収の仕方があるが、われわれは基本的に一種類の吸収の仕方しかできないということになる/あなたに「f=ma」はどう見えますか。

できるオンナだね | comments(0) |
こめかみから血を流して倒れていたおっさんの話
黒いおっさんが、自転車で転倒したらしく、路地に倒れていた。
僕は「おっちゃん、大丈夫か」と寄り、背中に手を当てたのだが、おっさんは「飲みすぎたわ」と言っていた、こめかみを少し打って浅い傷から血を流していた。
「おっちゃん、ちょっと血ィ出てるわ」というと、「そうか、でもこれは、悪い血が出てるだけだから大丈夫や」とおっさんは言った、おっさんの苦しそうな顔に僕は「……そうか」とうなずくしかなかった。
たいていよくあることだが、僕がそうしておっさんに駆け寄ると、そのとたん周りの人もわらわらと寄ってくるものだ/さあここまではよかったのだが、このあとがサイテーだった。

みんなして、倒れた自転車を立て直したり、薬局のおじさん(医療従事者)が駆け寄ってきてくれたりで、まあ何のことはない、大丈夫そうだった、ただ酔っ払いのおっさんが転倒しただけだった。
だが、その自転車を立て直してくれた兄さんが、何を思ったのか、まあ想像はつくが、演説と説教を始めたのだ、「自転車でも、お酒飲んで運転すると、飲酒運転なんですよ」ということが言いたかったらしい、まあそれぐらいしか彼の脳みそでは思いつくところがなかったのだろう。
しかし僕は、まあ「いつもどおりやなあ」と失笑するしかなく、あとになって現場に居合わせた友人にこう話した、「頭を打って血ィ流している年長者に、いきなり縁もない若輩が法律をかさにきて説教を垂れるって、気が狂っているのかね、しかもあいつは、おれが駆け寄ったからそれに乗じて寄ってきただけじゃないか、どうせ自分では何もできないヤツなんだろ?」。
「薄黒い顔面と、身なりからして、おっさんが肉体労働のキツい暮らしをしているということはわかるじゃないか? そして、倒れた自転車のカゴを一瞥したら、食品が入っているのがわかる、そこでこのおっさんはキツい暮らしをしながら独り暮らしなんだということに気づかないのか? そしてこうして倒れている以上、おっさんは昼間から深酒をせずにいられないぐらい大変な思いを抱えて生きているというのがわからないか? そういうことはおっさんの自業自得だとおれは思うのだが、そこで頭を打って血を流しているところに、なぜいきなり若輩が都合に乗じてやってきて、司法の峻厳たるを説いて悦に入るのか? 何の経験もない、アニメしか知らない青二才が? 現代人はこんなものを正義だと思っているんだよ」

倒れているおっさんの背中に手を当てて気力を治癒してやれるのは僕しかいなかった。

この際は断言してしまおう、人が人の身体に手を当てるということは、それだけで治癒や回復の効果があるが(見えづらいが、大きくあるものだ)、それは誰でもできることではない、誰だって手を当てれば相手が回復するわけではないし、善意があったからといって回復させられるわけではない/その回復や治癒の実際を目の当たりにしたときに、「このようなことができる人が本当にいるのだ」ということに愕然と驚くまでは人間は一ミリも成長しない。
おっさんが無事回復して、今日はほどほどのお酒を飲んでいますように! そして愚かな青二才は、今になって自分の矮小さに慚愧を覚えていますように!
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道を行くリアルなむつかしさ
術、という高尚なものがあったとして、もう一方に、ブラック企業、という低級なものがあったとする。
この「芸術」と「ブラック企業」という、両極端の、中点を取ったあたりが、ちょうど「一発芸」ぐらいになる、だからボスが「おいそこの若いの、一発芸でもやれや」と命じる。
両極端の中点、それが「中庸」ということ、一発芸あたりがちょうど中庸だと思われる、もちろんその一発芸でスベってはいけない。
中庸というのはキビシイのだ、誰でも芸術に耽溺することはでき、ブラック企業でヤケクソになることもできる、だが「中庸」はどちらに甘えることもできないのでキビシイのだ、「一発芸」で「おお、あいつやるねえ」と言わせるのがとても難しいということ、それが真の道を行くリアルな難しさだと言える。

僕は桑田佳祐が車の運転がヘタだとは思わないし、桑田佳祐がルノワールで東スポを読んでいていいと思う。
桑田佳祐がスナックで唄ってスベるとは思えないし、一方で教会の結婚式で唄ってもスベるような人ではない、あの人はそんな生ぬるい人間じゃないだろう。
新興宗教にハマる人のダサさは、自分に都合のいい極端へ逃避するただの甘ちゃんだという点だ、てんぷらを揚げるのがヘタなババアが人々にカミサマを布教するなど愚かしいことだと思わないか?
劇団員がどれだけ発声練習をしても、合コンで盛り上がらない声なら、それが舞台だからといって盛り上がることになるだろうか? 中庸というのはキビシイのだ、一番リアルなところを突いてくるから、まず人は感情的になって逃げてしまう。

いじめっ子と、いじめられっ子、双方とつるめる豪胆が「中庸」。

いじめっ子に「イジメはいけません」「イジメとかって結局サイテーだよね」と言うのは簡単、一方でいじめられっ子に「きもーい」と言うのも簡単、自分は超越者だと思い込むのも簡単、自分はクズなんですと思い込むのも簡単、でもそんな甘い話じゃない、いじめっ子から見ても友人に見えいじめられっ子から見ても友人に見えるというのはそんなに甘い話じゃない。
日経新聞を読めない奴が、ブレイク詩集を読んだって、本当には読めるわけがないのだ、中庸というのは実にキビシイ、だがそのキビシサに「感情的」になるのだとしたら、それは自分の実力を甘く見積もりすぎなのだ、どうせ「おい一発芸やれや」と言われたらすべての虚妄が引きはがされてしまうよ。
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すべての文脈はもとより破壊されようがない
ローゼ! わたしは世界になりたい、世界はなんと神韻に満ち、すべての風景に真実の面影を見せてくれるのであろうか。
この世界には何一つのウソもありえない、あなたがたわいないウソをついたとしても、それはあなたがたわいないウソをついたという真実でしかない。
この夜風、夜風……ときに氷のようであり、ときに南国のようでもある、われわれが生きものであることを取り戻させる圧倒的なまでの夜風よ、都市はまるで胸に飾られたブローチのようにこの世界の平原にささやかに光り輝いている。
クローゼ、こうした日々が、無限に続くと思わないか? なぜならわれわれはすでに有限のわれわれではない、永遠の世界について解釈し始めているのだから。

永遠でなければよろこびはない/見よわれわれがときに陥る、有限で無為な、捏造で創り上げられた説得力のみに屈服せねばならない虚しい日々を。
クローゼ、われわれがずっと昔からそうであったように、はるかな永遠の先にもこのことは変わらず続くのであって、われわれはもともとこの世界の中にいたのだ、われわれにはこれを損なうことさえそもそもできようがなかったのだ。
われわれは花の咲くことに驚きはしない、灰色の雲から雨垂れが落ちてくることにも驚きはしないだろう、花の咲かぬ砂漠、雨の降らぬ砂漠も、この世界であればうつくしくあらざるを得ないように、われわれは元からこの世界だったのだから、この永遠に続き変遷してゆく出来事をよろこび続ける以外、われわれに何ができただろう?
東の浜から太陽が出(いず)るとき! それはなんと、新しい世界がまた剥きだされてゆくということ、漆黒の空は切り開かれて、われわれはまったく知らない朝という新しい世界を与えられるのだ/クローゼ、そのとき夜風は新しい温度をもった潮風となる。

もともとこの世界にあり、すべては常に新しいものでしかありえない。

たとえ時計の秒針が腕時計から蒸発したとしても、クローゼ、この世界の何もかもは止まりはしない、われわれはこの偉大なものに包まれたまま、元からあって、これから先もずっとゆく、すべての地名は無限小の時間のうち何億通りにも変化してかまわない。
すべてのものの文脈が、そもそも破壊されようがなく、われわれは初めから完全性を織りなしている文脈に庇護されるがごとく暮らしている、無限の断片がひとつなって永遠に運動しつづける運動体中の粛々たる一断片としてわれわれもあるだけなのだ。
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「教わる」ということ、その本来

ジメな話をいくつか。
「教わる」ということは、「問い質すことをやめるために教わる」ということ。
「教わる」というと、その直後に「それってこういうことですか」「こういう場合はどうなるでしょう」と、「疑問」を持つことがさも熱心なように誤解されているが、実はこの誤解は強烈な毒だ、今すぐ改めなくてはならない。
「教わる」ということは、「問い質すことをやめるたに教わる」ということ、このことは人間の進みゆきに三百倍ぐらいの差をもたらしてしまう、問い質しているうちは人間は絶対に進まない。

たとえば自動車教習所にいくと、ハンドルは10時10分に持つ、ということを教わる、これに対して「先生、10時11分に持つのはどうでしょう」と尋ねてみたとしよう。
「10時11分より、10時10分のほうがよりよいでしょう」と教えられる、「では先生、10時9分ではどうでしょう」「やはり、10時10分のほうがよいでしょう」「先生、10時12分では?」「10時10分のほうがよりよいでしょう」「では先生、10時10分30秒では」……
こうしているあいだにどうなるかというと、当たり前だが教習の時間が終わる、本人は「ハンドルを何時何分に持つかについて真剣に取り組んだ」と思っているが、これはよくよく見ると<<教わることを拒否している>>にすぎない、どうせ教わる気がないなら初めから好きなようにハンドルを持てばいいのに。
「女ってどうすればいいですか」「まずこのようにすればいいよ」「それってこういうことですか」、この時点で<<教わることを拒否している>>、これはビョーキにならないために断言しておく必要がある、「教わる」というのはもともとそういう甘いことではないのだ、問い質しをやめるために教わるのでなければすべては必ず時間の無駄とストレスの強化にしかならないだろう。

教わるのに「問い質す」という、致命的なビョーキが本当にある。

「教わる」というのは、本来そんなに甘いことではないのだ、教わるといったらイッパツで教わらないといけない、ただしその教わったものを必ずしも採用する必要はない/教わったものを、採用するかどうかはその人次第だが、教わったとしたら「どう教わったか」、そのイッパツ目で教わってその後はわずかも混ぜ返してはいけない。
単純に思い返してみて、多くの人は、これまでに自分は誰かから何かを「教わった」なんてこと自体がほとんどないはずだ、それは必ず「問い質す」ということで混ぜ返しをしてきたからだ、そのことが放置されているあいだは、必ずあなたの進みゆきは三百倍も遅くなってしまう。

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「カッコよくないと疲れる」
はダサいものが苦手だ。
馬鹿にしているのではなく、ただ、ダサいものを眼前に見ていると、エネルギーがヘナヘナ……と吸い取られていくのだ。
ダサいのはダメだから、おしゃれして……という発想になるかというと、そうではない、ダサいの反対は「カッコいい」であるべきで、人は何かしらカッコよさのあるものに対してしか、どう工夫してもエネルギーを保つことができない。
何がカッコよくあるべきかといって、当たり前だが、「人」がカッコよくないといけない、「こいつカッケえな」というヤツがいれば、それだけでエネルギーは最低限保たれるのだ、丸の内のビル街みたいなものだ。

久しぶりに、原点に戻ろうではないか、原点はつまり「カッコよくないと疲れる」だ、まるで今創ったような原点だが。
そして「カッコいい」というのは、「キャー」とか「わあ〜」という類ではない、<<ある種の人間の迫力>>のことを「カッコいい」というのだ、飾り物みたいな人間に色めき立つのは、どう見ても「極端にヒマな人なんだな」としか見えない。
僕はいわゆる「そそる」という類が好きでないのだ、「そそる」というのは緊張感がない、なぜこの人を疲れさせるもの(緊張感のないものは疲れる)がこのごろ人気なのかまったくわからない。
「カッコよさ」から逃避する人は、なぜニコニコしたり、善人ぶったり、活発ぶったり、激情ぶったり、パワフルぶったりするのだろう、そんなことをされても疲れるだけなのだ、かといってグッタリされたら「殺すぞ」ということで逆効果なのだが、とにかく人は一定程度「カッコよく」ないとどうしようもなく人を疲れさせてしまうのだった。

「ダサい」というのは、「集中力が荒廃している」に尽きる。

ダサい人は、全身に言い訳を着ていたりするし、内部では自家製の正論とヤケクソが入り乱れていたりするので、散り散りのバラバラなのだ、そうして意識も感覚も能力も散逸して焼けただれている、その救えない感じがパッと見で「ダサい」と映る。
集中力のないものを目の前にしているということは、つまり学級崩壊のガキを目の前に置いているようなものだから、そりゃ疲れるわな、ふと気づくとなぜこんなに何もかもがダサくなったのか、うーむ今考えてもちょっと見当がつかないのだった(注、おれはカッコいいぜ!)。
できるオンナだね | comments(0) |
知性は知識を最小限化する

識の多い女なんて、うっとうしいに決まっているし、同様に、知識の多い男だってうっとうしい。
じゃあ、知識ゼロで、知性がない女がカワイイかというと、そういうことではない、「知識が多いほど、知性のなさが目立つ」ということなのだ、それならまだ過剰な知識がないほうが品性としてマシだ、ということがある。
純正の知性はむしろ、知識を最小限化するほうにはたらくだろう、知識を最小限化するのが知性であって、知性のない人ほど決まって検索エンジンのように知識の羅列を吐き出してくる、たぶん本当に何もわかっていないのだろう、それで知識の羅列をひたすら吐き出してくる。
少なくとも僕は、モルトバーにスコッチを飲みに行ったとき、ウンチクを垂れたりはしない、それは別にかっこうをつけているからではなくて、単に知識なんてシンドイものをわざわざ取り出してくる動機がよくわからないのだ、本当に何もわからないレベルにまで知性を失うと、人は自動的に知識の羅列をやりはじめるのかもしれない。

「知識」はすでに、人々がスマートホンを手にした時点で、だいたいのケリがついている、どんなものでも調べればほとんど一発で出てくるので、もはや人が「知識」をありがたがる時代は過ぎた。
一方、「知性」はというと、これは機械ではゴマカシが利かないし、もちろん一夜漬けで伸びるものでもない、むしろスマートホンによる知識の万有化は、われわれが実はどれほど知性を欠いているかということを浮き彫りにしたようにさえ思える。
台所に立った女性が、手際よくおいしい料理を作ってくれると、男がホッとするのは、何も古めかしい価値観からではなくて、台所に立つ女性の姿に知性の現れが見られるからなのだ、レシピを検索してそれをなぞることしかできない女を見ると、「こいつは本当に知性がゼロなのだろうか」と思えて、不安でおっかないのだ。
知性は知識を最小限化する、よって知性のある日本人女性は、「和食って、日本料理ってわけじゃないのよ、酒と醤油とみりんを同量にして煮たら、ひとまずヘンな味にはならないわよ」ということを感覚的に知っているはずだ。

勉強とは、知識を最小限化させていく過程のことで、これが「楽しい」と感じる人に、知性がある。

知性のない人にとって、勉強は苦痛なのだ、なぜならその人にとっては勉強とは知識の最大化を意味するからだ/確かに最も単純な意味での受験勉強ならそれで突破できるかもしれない、ただし「学門」ではそれはまったく逆に作用する、膨張する知識はその人の知性をますます行方不明にするだろう。
学門としての「勉強」とは、知識を最小化していく過程なのだが、この過程が「楽しい」と感じる人には知性がある、勉強が「しんどい」と感じる人は必ず逆をやっているはずだ/そういう人はたいてい料理をすると台所がぐちゃぐちゃになり、しかも料理の完成にえらく時間がかかる、最小化していないので五分で済む料理に三十分も一時間もかかってしまうのだ。

できるオンナだね | comments(0) |
「吸収」すること!
っ込むな、そして出しゃばるな。
矛盾しているようだが、これが正しい、「引っ込むな」、そして「出しゃばるな」。
あなたが集音マイクを持っていたとする、それで野鳥のさえずりを録音するとしよう、あなたはどういう挙動になるだろうか。
むろん、集音マイクを野鳥に向けて突き出す、集音しやすいようになるべく近くへ突き出す/そして、あなた自身は「静か」にする、余計な音が混じり込まないように、ジャマせず慎重にそーっとする、「吸収」のコツはこれだ、実は誰でも知っているやり方なのだ。

あなたが経験を吸収する主体なので、あなた自身を、どこかへ突き出すということ、あなたは引っ込んでいてはいけない。
次に、あなたは「吸収」するのだから、あなたが「発散」してはならない、あなたは集音マイクのように、ひたすら周りに迷惑をかけないように静かにするのだ、とにかくジャマにならなければいい。
逆に考えるとわかりやすいかもしれない、「引っ込んでいて、かつ出しゃばる」ということはどういうことか/それはたとえば、部屋に引きこもっていろんなことのレビューをツイートしたりするようなことだ、これは「発散」であって、これをしているうち自分は何も「吸収」しない。
「引っ込むな」、必ず自分から「機会」を得に出て行くこと、それでいて「でしゃばるな」、「あなた」がそこで出しゃばってしまうなら、わざわざ新しい機会に踏み出す値打ちがないのだ、あなたはあなたに会いにいったわけじゃない。

年を取ってもコドモのままの人は、何も「吸収」してこなかったのだ。

明らかに、オトナになってかっこよくなった人と、コドモのままで厄介者になった人がいる、その理由は単純で、同じ時間を生きたからといって、同じだけ「吸収」して生きたというわけじゃないからだ、「吸収」せずに生きていったらいくら時間が経ってもコドモのままになる。
断じて出しゃばらなかった人、断じて自分から機会を得に行った人、そういう人が結果的に勝利する、これはもう年齢が大人になるとなかなか挽回は利かないのだ。
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自撮りを上手く撮る方法
通の方法はヨソでいくらでもレクチャーしているから、僕が言わなくてもいいだろう。
「顔」について……われわれは写真に、人の「顔」を見ているように思っているが、実は撮られる側としては「顔」に意識を集めるのはよい方法にならない。
本当は写真には、顔が「首とどうつながっているか」が映り込んでいる、首とよくつながった顔であるほど、結果的に「すっきりしていい顔」に見えるようにできている。
顔をどう写すか、ということではなく、胴体と首と顔がどうつながっているかを写すのだ、というようにこころがけると、顔の写り方がよくなる。

背景について……あなたは部屋の中で、あるいはお店の中で、「ある方向」を向いていると思う。
たとえば部屋の中ならテレビのほうを向いていたり、お店なら厨房のほうを向いていたりする。
自撮りをするとき、あなたがふだん向いているほうを背景にすること、背景にテレビが映り込み厨房が映り込む、というほうがよい、あなたは必ず楽しい景色のほうを向いているので、あなたの向いているほうを背景にするほうが楽しい写真になるのだ。
視線について……スマホで自撮りをすると、自分でスマホの画面を見るので、視線の焦点が近くなってしまう、視線はもっと遠くを見ているほうが印象がよいので、カメラレンズの向こうの遠いところに文字でも見つけて、「あれって何て書いてあるかな」と目を遣るほうがいい。

きれいは背景、発光は自分。

カメラというのは光を写すものだから、ライティングが最重要になるというか、最終的にはライティングしか撮れないのがカメラというものだ、だから常識的には被写体の自分は「きれい」にし、背景や周囲からライティングをもらおうとする、特に光源が近くにあれば光は丸くあたって有利になる。
とはいえ、それはカメラに向けて都合がよいだけであって、必ずしもいい写真になるとは限らない、われわれはプロカメラマンではないので逆に捉えるのがいい、「きれい」という成分は背景に任せて、自分は発光を担当する/キメ顔や「目ヂカラ」という表情づくりをするのではなく、発光しようとすればそのほうが自然にくっきりとした顔つきになる。
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「こころは胴体にある」
ういえば、日本人だが、外国から来てくれた人もあったのだった/もちろんどこの誰にだって、同じ人間ならこれは通用する。
改めて思い出すが、「こころは胴体にある」という説は、もう明らかに正しくて、もしこれさえ少しマシになればすべてが劇的にグッドになるだろうというぐらい有効な説だ。
胴体から胴体へ、特にその中心である「こころ(胸の中央)」へ、胴体の「流れ」が届く、流れ込む、すると体温さえガラッと変わり汗をかく。
「顔面」は意識であって、「こころ」は胴体にある、これが基本だ、今はそれどころじゃない、もっと高次元のコミュニケートで遊ぼうぜと、僕は自分のやりたいことばっかり推したがるのだが……

以前はワークショップで、毎週末二日間、両日とも夕方から朝まで徹夜で(えぇ……)やっていたが、あるいは次は、もしあったとしたら、一日二時間で毎日、単純なトレーニングをみっちりやる、とかいうのもいいのかもしれない/とまあ空想はするのだが、この類のことは、やったところで結果が出るとは限らないし、しくじってイヤなキモチになるということもあるから、まあ希望的に空想はできないのだった。
外国から来られた方は、時間がなかったので、ひとしきり初級から状況までを大急ぎで見せたあと、「出来なくて当たり前」ということを伝えた、「出来なくて当たり前で、出来ないのはいいんだ、ただ出来ていないものを出来ているつもりになってはいけない、出来ないということを引き受けたまま進むことが大事なんだ」という、割と僕にしてはマジメなことを伝えた。
その人は、「泣いているヨソの赤子を泣き止ませる」という僕の能力に注目していたようだったけれど、そんなこと、ふつうできるわけがないのだ、泣いている赤ちゃんに「面白い顔」を見せたところで、赤子は余計に泣くだけだ、「面白い顔」で笑うのはガキ以降の大人だけだから。
外国から来てくださったその方は、話し始めて七分ぐらいで、もうボロボロ泣き始めていた、「なんで泣いているか自分でわかる?」と僕は訊いた、「わかりません」と彼女は答えた、「そうなんだよなあ」「ただ、何かすっごくあったかくて」、僕が「こんなことの専門家になりたかったわけじゃねーんだが」と言うと彼女は笑っていた、僕は文学者だ、こんな余技は誰か他の奴がさっさとマスターしてくれ、「こころ」を開けば済むことだろ。

「わたしはどれぐらい深刻ですか」と彼女は訊いた、「症状は大きく出ているが、致命的、という感じじゃない、ただすんげえ苦労はするよ」と僕は答えた。

「こころは胴体にある」、このテーマはいつも単純で、胴体から胴体へ、「どうぞ!」というだけでしかない、胴体のない人はいないんだからいつでも目の前でやればいい/ただ、現象はシンプルなのに、トライアルはまるで雲を掴むようだ、何をどうしたらいいかわからないし、僕だってなぜ僕自身が出来ているのかは知らん(そんなことを知らねばならない用事はない)。
「僕はさっきからずっと、愛想笑い、スマイルのひとつもしないじゃない? でもあなたはさっきからよく笑うし、泣くし、体温は上がるしで……だからね、あの書いてあること、マジなの、あのいかがわしいブログとコラムに書かれていることがマジなんだよ」と僕は話した/「こころは胴体にある」という説は確実に正しい、ただ「そうか!」と意気込んだどころでその先の「その胴体が使えないでござる」という事実のほうが確実にデカいのだった、まあお互いがんばってまいりましょう。
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0.3秒か悪霊か
めること、急ぐこと、間に合うこと、愛すること。
定めているヤツを最近見ないぞ! そして間に合ったデタラメは間に合わなかった努力の一億倍の値打ちがある。
愛するということは「聴く」ということだ、思い耽るのはもうマリアナ海溝に沈んでからにしろ。
そういえばようやく東京に戻ってきました、さあて遊びたいやつと遊ぶぞ。

謝れ、謝罪しろ、頭を下げろ、礼を言え。
理由を聞くようなヤツはその舌が群青色になるであろう、五十センチの青い舌を垂らしてからでないとわからないのか。
間に合っていないからグズなのだ、そしてグズに悪霊は取り憑くのである。
僕は割と料理をするほうだが、僕の料理はたまげるほど早い、それは遅いものを料理とは認めていないからだ、さあさ遊びましょう。

定めろってばよ、どうせ決まんないんだから。

何かを決めると誤解している人があるが……確言していい、鎌倉時代から現代までじっくり考えたとしても何かが「決まる」ということはない、何も決まりっこないのでさっさと定めるのだ、定めるほうは0.3秒で完了する。
僕はこれまでに決意なんかしたことのあるヤツを見たことはないが、もし決意するヤツがいたとしたらそれは間に合っていないのだろう、0.3秒ってめちゃ長いぜ。
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背後の基本は学門にあり2

はこの世で学門をするために、生を享けている、という仮説を採用してみよう。
すると大転換が起こるはずだ、つまり佳い醤油をつくるために学門があったのではなく/学門を得るためにAは醤油づくりを生業に与えられたということ。
学門から醤油が得られたのではなく、醤油から学門が得られたということ。
このときAさんは、特別な「運」にバックアップされて生きてゆける、もちろんあくまで冒頭の「仮説」が正しかったらだけれども。

たとえばイチロー選手なんかは、バッティングを通して彼の「学門」を得ているように見える。
「野球こそ我が人生」という人は多くあって、プロ野球選手なんかは全員そうなのだろうと思うが、その中で「学門」に到達している人はそう多くないように思える。
冒頭の仮説、それが正しいかどうかなんて誰にも証明できないけれども、僕は経験的に、「運」は学門に関係していると強く感じる、学門から遠ざかった人を大きな運が支えているというケースを僕はほぼ見たことがない。
われわれはしばしば、「絶対に○○!」という強い感情に駆られるが、僕は学門の気配がないオバチャン化した人格が「人情」を主張することに、大いなる警戒と距離を準備する者だ、学門の支えがない人情は必ず八百屋お七を生み出し、ジャンヌダルクを生み出しはしない。

学門への希求なしに、高級な服と食事を漁っていると、たいてい「運」に報復される。

たとえばアインシュタインがふと最高級のキャビアを食べて、「美味いものだね」と笑っていても何の問題もないように思えるが、若くて乳がデカいだけのホステスがアフターで最高級キャビアを食べて自撮りしていると、何かが「不安」に感じられてくる、何か救いようのない不幸に「運ばれて」いくのじゃないか? という気がどうしてもしてくるのだ/あくまで「仮説」だけれども。
表面上、われわれはよい暮らしのために学門を必要としているように見えるが、真相の真相は、学門のためによい暮らしをせねばならないのであり、学門に向かっている日々を「よい暮らし」というのだ/経験的に、その中にいるとき「運」が味方するのだと唱えておく。

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背後の基本は学門にあり
油屋Aは、決められたレシピどおりに醤油をつくった、それでも毎年味が違うことに、「不思議だな」と首をひねっていた。
醤油屋Bは、決められたレシピどおりに醤油をつくった、それでも毎年味が違うことに、「そういうもんだよ」と、特に何も思わなかった。
AもBも、何十年と醤油をつくり続けた、そのうちAは「ひょっとして……」と味が変動する秘密に気づき始めた、そして実験を繰り返した、一方Bは、そのうち「毎回同じことの繰り返しだ、つまらん」と感じて醤油づくりに飽き始めた。
数十年の後、Aは誰にも真似できない驚異の知識と感覚で、傑作の醤油をつくる名人になった、一方Bは、レシピどおりにつくれば新人が作ったものでも同じ味で、それは機械が作った味でも同じだった。

AもBも、醤油屋としてまったく同じ労働をしている。
差は、その背後に学門を覚えたかどうか/Aはまったく自発的に、そこにある「不思議だな」ということに気づいた、この「不思議だな」と覚えた学門は、世界中の誰も教えてくれないものだ。
「発酵に最適な気温と温度」は、資料を調べたり、Google検索したら出てくる、でもその「最適」は、発酵に最適なだけであって、「おいしい醤油にするのに最適」というわけじゃない。
まして、2018年に収穫されたX地方の大豆が、文化的に継続されている日本の食卓に佳い味をもたらし、人々に生と健康とよろこびを与える醤油になるべきとして、手元にある木樽を用いて最適な発酵をするにはどうすればよいか、他の誰かが知っているわけがない、そうして検索したって出てくるはずがない重要なものを学門という。

あなたはBさんに、デートに誘われる。

なぜならBさんは、「毎回同じことの繰り返しだ、つまらん」と感じているので、生きることに刺激がほしいのだ、それであなたを合理的にデートに誘う、Bさんは「人生楽しまなきゃ損だよ」と笑顔で言う。
あなたがAさんと好(よしみ)を結ぶには、あなたも自ら「不思議だな」と首をひねって生きている人でなくてはならない。
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サイアクの「消費マン」にならないために2
快なふうの話に留めておきたいが、本当のところはそうはいかない。
本当は、危険なことが起こっていて、危険なことについて話している。
にこにこするのをやめて――にこにこしているのは頭がおかしいから――「僕」は何を言っている? あなたの目の前にいる「こいつ」は何を言っているだろう。
「あなた」が思うことではなく、「こいつ」は? 「こいつ」は何を言っているだろう、あなたはなぜ、あなたの思いだけでにこにこしているのだろう。

「宇治川は青い水を吐き出していた」、ではあなたの目の前で僕は何を吐き出している?
消費マンは、消費者という自分しか存在していなくて、目の前の他者が主体性を持っていることがわからない。
僕はこれまでに何度も、僕が何を話しているかに関わらず、まったく無意味に「にこにこ」している人たちを見てきた、別に僕はそれでかまわないのだが、僕はそうした人が早晩どういう状態に行き着くかをすでに知ってしまっている。
消費マンになりきってしまったとき、もう僕が何を話しても無駄だし、誰が何を話しても無駄だ、すべては「消費」されてしまう、いかなる大事なこともすばらしいことも「消費」され、消えて行ってしまうのだ、そのときの恐怖を知る前に、あなたは目の前の宇治川が何を吐き出しているのかを必ず観るようにしたほうがいい、僕は気楽な奴だがこんな話でにこにこしていないよ。

「あの人はこう言っていた」を100人、例に挙げてください。

映画でもいいし小説でもいいし、職人でも哲学者でもいい、友人でも恋人でも先生でもいい、10年も生きていれば100人の「こう言っていた」は獲得されているはずだ、それが「消費」されていない限りは。
誰でも知っている「天空の城ラピュタ」で、シータはムスカに「どう言った」の、もしそれが獲得されていなくて、あなたが「感動した」とウルウルしているなら、それはいささかおかしいよ/現代人が消費マン化している現象はまったくシャレにならないマジの恐怖だから、気づいた人から改善するべし。
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サイアクの「消費マン」にならないために

代人が陥るサイアクのパターンのひとつで、最も多いのがこれ、「消費マン」のパターンだ。
去年のブーム、二年前、三年前、若いころや学生時代、旅行先やら付き合った人やら食べたものや住んだところまで、「消費」されていって消えていってしまうパターンだ。
このことをエラソーに「オワコン」と言っている人もあるが、これは筋が悪いのだ、実はサイアクパターンに陥っているのは当人なのに/当人が消費マンになっていて、永遠に続く消費なんかあるわけがないのに、そのことに気づかずに「オワコン」を言いふらしているという、これは深刻なアホだ。
「消費した」ということは、その字義のまま、「消えてしまった」ということだ、消費したということはイコール「獲得はできなかった」ということだ/卒業間際の大学生に、一番楽しかったことは? と訊いたとき、「そうですねえ」とアホみたいな顔をして考え始めたら、彼はまさに学生時代を「消費」してしまったと言える。

現代サイアクの「消費マン」のパターンに陥らないために、「宇治川は青い水を吐き出していた」と覚えておこう。
「湯畑に夜のとばりがおりていった」でもいいのだが、とにかくここに「すてき〜」とか「きれい〜」とか「インスタ映え〜」とか言わないこと。
感想を言うということは、消費したということだ、高評価にせよ低評価にせよ、評価したということは消費したということだ、「宇治川は青い水を吐き出していた」ということには高評価も低評価もない。
消費マンというのは、この世に「わたしがどう盛り上がり、どう盛り下がったか」ということしかない状態だ、何万本の映画を観ても「面白かった!」「うーん、いまいち面白くなかった」ということしかないのだ、この消費マン状態に陥ると傍目にはわからないまま当人は生き地獄状態に陥ってしまう。

10人の異性と交際し、9人の消費で済んだら天才だ。

ふつう、10人の異性と付き合ったら、数年後、10人すべてがきれいさっぱり消えているものだ、現代というのはそういう消費の時代だから、そのことにビビる必要はない/実際、いくつもの映画やお笑い芸人がそれに引き当たっている、もう「アナ雪」や「ラッスンゴレライ」はとうに消費されて消えてしまっているはずだ(単に記憶にあるということは獲得されているということではない)。
「宇治川は青い水を吐き出していた」、主語と述語を見つめよう、主語は「宇治川」であって「わたしは」じゃない、主語が宇治川である以上そのことはあなたに消費はされない/消費マンは「わたし」という消費者だけがのさばって生きている状態だ、消費マンはアナと雪の女王がそれぞれどう生きたかなんてまったく眼中になくただ己が「消費」だけをしている。

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