☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
男尊女卑・全面撤廃のガッツポーズ3

校の先生といっても、今はだいたい、生徒とトモダチみたいなものだ。
それは正しいことで、これまでの旧時代が、横暴すぎたのだ、単に先生という立場だからといって、権力と権威をふりまわし、パワハラや体罰をしてきた、これはそれぞれが同じ人間だという平等性に対する侵犯になる、こんな許されざるものは、容赦なし、さっさと取り締まればいいのだ。
だがこのことも、大前提、マジの「先生」がいたらどうしよう、ということを捨象して成り立っている、本当に叡智と霊験に至っている「先生」がいて、学徒どもはただちに起立・拝礼しなければ呪われる、カルマが溜まってしまうというようなことがもしあったら、その場合はどうしようかということは、考えられずにきたのだ/先生といっても、しょせんショボイ俗人だろ、ということが前提にあって、先生平等トモダチ理論は成り立っている。
そして、やはり同じように、もう引き返すことはできない、<<尊いものと向き合える態度はすでに廃棄された>>のだ、廃棄されたそれを取り戻すことはもうできない。

もし、ホンマモンがいたらどうしよう……」ということなのだ、そのことがこれまでまったく考えられてこなかった。
あなたがもし、ホンマモンの「先生」に出会ってしまい、ホンマモンの「男」に出会ってしまい、ホンマモンの「愛」を向けられてしまい、ホンマモンの「世界」に触れてしまい、ホンマモンの「学門」を啓かれてしまい、ホンマモンの「叡智」を与えられて、ホンマモンの「命」が響いてきてしまったとき、あなたはどうするのだろうか。
今、男性というと、「まぢ、オレさあ」という感じで、女性というと、「えー、でもわたしはぁ」という感じだが、今この男性にせよ女性にせよ、ホンマモンの先生と異性と愛と世界と学門と叡智と命に一斉に包囲されたとき、どうするのだろうか、引き続き「ま、オレはさ」「うん、わたしってさ」を続けるのだろうか/本当にそれで無事で済むのだろうか。
ホンマモンの「尊いもの」に包囲されたとき、そのまま四時間、あなたは四方に向けて立ち尽くし、自分の言葉で自分の話をせねばならなかったとして、その四時間のあいだ、一度たりとも冒涜や破壊の何かを露出させずにいられるだろうか/これまであなたが己の身に培ってきたすべての態度や振る舞いの能力は、すべて「尊くないもの」に向けて適合するよう醸成されたものではないだろうか?

撤廃されたのは、男尊女卑じゃなく、「尊崇」という機能と態度のすべてだ。

ガッコのセンセーを、「先生〜」と呼ぶのはできる、簡単な話だ、金八先生のドラマでもそのようにしている、だが問題は、万が一、ホンマモンの「先生」に出くわしたときなのだ、ホンマモンの「先生」に出くわしてしまったときでさえ、これまで培った身口意の、平等爆弾はだまっちゃいない、どれだけガマンしても最後には「つっかかる」のだ、そのときはその先生がニセモノであることを祈るしかない、ニセモノならつっかかったとしてもその後何の禍(わざわい)も起きないだろう。
まあこんなことを、えんえんボヤいていてもしょうがないので、冷静に把握することだ、ホンマモンの「尊いもの」に出くわしたとしても、それと向き合う機能はすでに残されておらず、それどころか冒涜する機能が「だまっちゃいない」のだ、これはもうしょうがない、そのときに発生する呪いや業(カルマ)も、引き受けていくしかない、その後どうしたらいいかというと、どうしたらいいかは誰にもわからないのだ、とにかく今は、己の身に起こっていることを冷静に把握するしかない。

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男尊女卑・全面撤廃のガッツポーズ2

「ああ、ロミオさま、ロミオさま! なぜあなたは、ロミオさまでいらっしゃいますの?」と、ご存じ「ロミオとジュリエット」の一幕。
もはやこんなシーンも、憧れのシーンではないのかもしれない、ロミオとジュリエットなんかセンスのないクソだと罵るように/今さら急に旗色を変えることはできない、「ロミオさま」なんて呼び方は現代女性には許されないことだろう。
一部の女性には、たいへんツライことなのかもしれないが、しょうがないのだ、われわれ自身の作った文化状況なのだ、現代女性が「ロミオさま!」と叫んだところで、場内は大爆笑にしかならんのだ、「ロミオさま(笑)」/急にそんな「ワタシは殿方を尊崇するお姫様ァァァ」みたいなものに切り替われるわけがないじゃないか。
現代的に言うと、ラインチャットか何かで、「ロミオさ。ロミオがロミオなのって、まぢ不思議っていうか、なんでロミオなんだろうね笑。とか思った。なんであんたってロミオなの草」とでも送るしかない、これで女性の名誉が恢復されたという説は、うーんまぢかなワカンナイ。

尊い男性にはもう出会えないのだ。
こんな悲しい事実というか、致命的な事実を、年端もいかない少女に伝えねばならないとしたら、まったく身も凍る思いがする/「いい、○○ちゃん? あなたが尊ぶべき男性なんて、この世界に一人もいないし、あなたがそんな人に出会うことは絶対にないの。だからあなたは、どういう男かをよく見て、自分を大事にしてくれる人だけを正当に評価しなさいね。そのためにオシャレしなさい」と教えねばならない、うーん邪法の匂いがプンプンするぜ。
もし、聖なるジュリエットに、「ロミオさまとかいう呼び方、チョー男尊女卑だからやめなよ」と諭したとしたら、ジュリエットは首をかしげて、「なぜ? わたくしが尊び、他ならずお慕い申し上げているのは、あのロミオさまであって、わたくしを見つめてくださるあのロミオさまのことを、わたくしは不遜に呼び捨てることなどできないわ。あなたはどうして、このことがわたくしでない他の婦人方を貶めているのだとおっしゃり、そのことでわたくしをお責めになりますの、わたくしにあの愛の人を卑しめろとおっしゃいますの」と訊ねるだろう、どう答えたらいいか僕にはわからんので頭のいい人がサッと答えろ。
ジュリエットがロミオを「ロミオさま」と呼び、ロミオがジュリエットを「ジュリエット」と呼んだとすると、これは男尊女卑だが、このときジュリエットはロミオによって冒涜され、侮辱され、尊厳を奪われていたのだろうか、チョーかわいそーなジュリエットと、ジュリエット当人が否定するだろうが/一方でわれわれは、ジュリエットが「ロミオさま」と呼ぶのに対し、内心でその声を「ロミオさま(笑)」と茶化さずにいられないのだ、これではどちらがジュリエットという女性を冒涜しているのかわかったものではない。

ジュリエットの口からは、「ロミオさま」だけではなく、「お星さま」「お月さま」「お日さま」も出てくる。

<<尊いものと向き合う態度を持っている>>ということだ、そこで現代のわれわれが「お星さま」だの「お月さま」だの言ってみても、クサい芝居にしかならない、「○○さま」なんて言い方が通用するのは今はメイド喫茶のジョークだけだ。
正しい学門のために、さっさと断言して進めねばならない、<<あなたが尊い何かに出会うことはこの先一度もない>>、だから<<尊い何かが身につくことも決してない>>、ゲッと青ざめている場合ではないのだ、ガッツポーズしろ、そして書面に念押しの捺印をしろ、そうしたとき、近年のわれわれが何をしてきたかを本当に知ることができる。

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男尊女卑・全面撤廃のガッツポーズ
尊女卑などというのは、さすがにナイ、おとといきやがれスットコドッコイである、このことには何の問題もない。
ただ問題は、このことなのだ、「万が一、本当に尊い人に出会ってしまったらどうしよう?」ということなのだ、このことのケアがまったく為されなかった。
男尊女卑など、全面撤廃(済み)でよろしい、けれどももし、万が一、あるいは億に一つのこととして、<<本当に尊い男性と出会ってしまったらどうするのか>>だ/「キャー」で済まされるわけがない、んなアホな、本当に尊いものにそうした安物の侮辱を向けると、シャレでなく呪われるし、本当にカルマが身につもって動けなくなるものだ、そういうインチキで済ませられないから本当に「尊い」という。
男尊女卑など撤廃でよろしいが、問題はそういうことではなく、誰もが自らの選択として、尊いものに向き合える態度を己のうちから根絶したということが本質だ、蛇にでもそそのかされたのか、そうして自ら失ってしまったものはもう取り戻せない。

書面とハンコを用意して、捺印の準備をする。
何に捺印するかというと、「わたしは生涯、尊い男性とは出会いません」という書面にだ、ホレ早くしろ、「男尊」を全面的に禁じるというのはそういうことだから、何も躊躇する必要はない、<<あなたは生涯に一度たりとも尊い男性とは出会わない>>、そう定義したはずだ、あなたは平等なモンにしか出会わないのだから躊躇せず爆裂捺印しろ。
仮に、真に尊い男性と出会ったとしても、その男性を尊ぶという態度は、もう己の身には不能なのだから、出会ってもしょーがないじゃないか……いやシャレじゃなく、本当にもう残っていないのだ、自分でブッ壊したものが実は残っているなどという甘い話はない、自分で書面に捺印すればわれわれも目が覚めるかもしれない、われわれは尊いものと向き合う態度を自らの手で破壊した、われわれにはマンガを読む体質しか残されていない。
男尊女卑撤廃ということで、「尊い男性」というのは禁止されたんですよ〜、それで100%事実と実感に適合しますから〜、残念でした〜、ということなのだが、万が一、まさに万が一だ、99.99%の事実と適合するにしても、0.01%、真に尊い男性と出会ってしまったらどうしよう? ということが残っていた/そして同時に、尊い男性と出会う可能性が0%として規定された現在、女性は何のために生きているのか、「0%www 何しに生きるwww 我ながら草不可避www」という状況になったのだ、これはただの事後説明であって、今から巻き返しの利く状況ではない。

「尊い男性は存在しない」ということで、あなたはなぜかガッツポーズしている。

んなアホな、という、落語のオチみたいになってしまったのだ、本来女性にとって、自分の尊ぶべき男性と一度も出会えなかったら、それは「大ハズレの人生で落涙の果てに枯死」のはずなのだが、いつのまにかそれがガッツポーズになり、「そうです!! 尊い男性などいないのです!!」と勝利と歓喜の声を上げるようになってしまった、別にそりゃかまわんが、自分の行き先をコンクリで埋めて歓喜というのはなかなか正視しがたいギャグだ/あなたの人生に「あの人」がゼロなんですがそれは……
そして、きっちり公平なことに、男性のほうも「どうがんばっても、おれが女に尊ばれる可能性は定義上ゼロだな!」と前もって決まっているので、何も本格的に頑張れる気にはなれず、女を愛そうとも思わないのだった、男もそのようにして大変ヒマになってしまった、マンガでも読むかな/この状況で歓喜のガッツポーズが炸裂していることについてだけは、本当に意味がわからない。
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是正は悲劇を縮小するが幸福をもたらしはしない6

つのまにか「革命」になっていない? 気をつけよう。
理性的でなくなるというより、「もう理性が戻ってこない」という状態になる、気をつけよう。
平等の中で幸福になれる人は、格差の中でも幸福になれる人だ、気をつけよう。
不幸というのはありふれたもので、それを「悲劇」に演出すると様子がおかしくなる、気をつけよう。

異性を平等にするか、格差をつけるか/忘れなさい、思い出しなさい、必要なのは平等でなく幸福です。
「不当」には「是正」の要求を、闘争ではなく要求を/幸福でいなさい、さもなくばあなたは闘争の「戦士」になってしまいます。
あなたの感情が爆発する/それは、不当だからではありません、あなたが不幸だからです、あなたが叫んでいるのではなく不幸が叫んでいる。
幸福の中を歩きなさい、できれば愛し合える誰かと/正義と流血の中を歩くとき、あなたはそこを歩いているのではありません、あなたには行く場所がなくなったのです。

悲劇を忌みなさい/幸福は学びなさい。

悲劇を抱きしめると、あなたの血は革命に向けて騒ぎ始めます、その血には色んな人たちが寄ってきます、やがて引き返せなくなります。
幸福は学ばないと、あなたは自分の不幸が理解できず、自分の不幸を悲劇によるものと錯覚します、そこからあなたは悲劇を抱きしめることになります、最期までそれを抱きしめることになります。

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是正は悲劇を縮小するが幸福をもたらしはしない5

「イナゴの大群」が襲ってくることがあると、アフリカなどではよく言われる、あれは、緑色や茶色のバッタが飛んでくるのではない、真っ黒になって歯と翅を強化した大群の「飛蝗」が飛んでくるのだ、これが起こると、生きものとしての性質が大きく変わってしまう。
そのことを、「相変異」という、真っ黒の飛蝗は「群生相」だ、そういう秘められた遺伝子があるのだ/あまり知られていないことだが、われわれが夏場に見る日本のトノサマバッタも、狭い箱の中に多数で閉じ込めておくと、相変異を起こして真っ黒の「飛蝗」になるのだ、これは特定の環境下においてそういう遺伝子のトリガーが引かれるということだが、いったんこの相変異が起こると、もう元に戻るということはない、何でもかんでも囓り尽くす真っ黒な飛蝗のままその生涯の終わりまで飛び回るのだ。
この性質は、蠱毒(呪術)にも関連しているように思われるが……とにかく、人間のする「革命」というもの、革命というのも実は、人が政治的な意志によってするものではなく、革命に向けての相転移が起こるような遺伝子が仕込まれてあるのじゃないかという気がする、特定の条件[混み合い、地下、密閉、共(共食い)、絶え間ない情報と議論の声、生への執着、血、僻み、念、呪(言語)、最終勝者]が整うと、人が単に「革命相」に相転移するのではないか/実際、歴史的にも、革命というのは思想的というより、現場では流血的に起こっている。
今、男女、つまり「異性」ということについて、是正ではなく本当には粛清と流血の伴う「革命」が求められているのが実情だが、それは単に、環境から革命相に変異した人々が、たまたま「異性」という念をターゲットに方向づけられているだけではないのか、あるいは現象の根本が蠱毒に通じている以上、呪術によって意図的にこの状況を創出することも可能なのかもしれない、そういったことに僕は詳しくないので、あくまで想像の範囲でしかないが……

われわれは、人間の仕組みを、すべて知り抜いているわけではない/原因不明のことなんかいくらでもあるのだから、それだけよくわかっていない仕組みがいくらでもあるということだ。
たとえば「地下アイドル」というブームがあって、最近はもう当たり前になったが、地下アイドルの劇場のあのムードは、地上の者たちにはまったくよくわからないものだ、けれども地下劇場の彼らにとってはあれが自然に出てくるのだろう、そう考えると確かに地下アイドルが生じる場面は、先に述べた「特定の条件」群に当てはまる、あれも「革命相」のひとつの現れ方なのかもしれない/われわれの体内にそういった遺伝子がないとはいえないし、いわゆる「オタ」たちがこぞって「大出血」でアイドルに投資するのも原理的に説明がつくのだ。
そういうことであれば、やはり「特定の条件」が整った中で、ある念と呪で誘導すれば地下アイドルという革命が生じるし、また別の念と呪で誘導すれば、「異性」ということに向けての革命も生じるのかもしれない/僕も現代に生きる一人の男性として、女性たちから強く「流血」を乞われている感触をヒシヒシ受けている、それは女性たちの思想によってではなく、解発された遺伝子によってだ、思想的にはみんな僕のことを、なるべく守りたいと考えてくれているらしいのだが……
不当を是正する、という理性的なモットーから始まったいくつものことが、けっきょくそれだけでは盛り上がらないし、実効力を持たないのだろう、どこからか血眼が入り込み、かつて求められていた「不当の是正」は、不当な者を打倒する「革命だ」ということにすり替わっていった/「特定の条件」下で遺伝子のトリガーが引かれた人は「革命相」に相変異し、偽りのモットーの裏側で、ただ粛清と流血を求めている、「革命」が求めるものはひたすらの流血なのだ(革命においては血しか説得力を持たない)。

「革命」は、「差別」などという生ぬるいものとはケタが違う。

今、男女平等やLGBT解放の矢面に立つべき人として、求められているのは――さらにいえば、チヤホヤされうるのは――、そのことへの理性的な論者ではなく、そのことへの「革命戦士」ではないだろうか、「死をも恐れない」という戦士/かつての共産革命のときによく知られたことだが、共産革命で独特の奮迅を示す者は、みな「革命戦士」と呼ばれたのだ、そして何でもない電車の中で市民たちから一斉に励ましを受けるぐらい、当時の革命戦士たちはチヤホヤされていたそうだ、彼らがテロリストになって爆弾を仕掛けて回ったりする以前は。
むろん、何度も言うように、差別は不当であって、不当はさっさと是正されるべきだ、だがその是正で幸福が得られるというのは幻想だし、現在そちら方面に高まってとどまるところがない不穏の空気は、やがて幸福どころか流血に定義された者たちの大群を生み出すのではないか? かつての共産革命にせよ、ルワンダ大虐殺にせよ、われわれは未だ「異様な流血の時代」がどのように生じるのかについてわれわれ自身の仕組みを知らない、高まり続ける気運の中で、今日が革命前夜なのかもわからないし、明日が革命当日なのかもわからない。

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是正は悲劇を縮小するが幸福をもたらしはしない4

つて共産主義「革命」が、無辜の人民を「粛清」していった時代があった、ポルポトやスターリンや毛沢東を「指導者」として、粛清で殺された人々の数は、第二次世界大戦の死者数をはるかに上回っている。
共産主義というのは、それこそ「是正」のネタから始まったものであり、つまりは資本家と労働者のあいだにある「不当搾取」を是正しようということだった、この「是正」ネタが、結果的に世界大戦よりも多くの人を轢殺していったことは、いっそ落語のオチにでもしないでは正視も出来ないような、皮肉というには血まみれすぎる皮肉に満ちている。
マルクス・エンゲルスを代表とした、「不当搾取」への指摘と糾弾は、指摘としては正しかった、だがその指摘と糾弾が、今度は「不当粛清」を猛烈に生み出したことについては、なぜか自省することがまったくなかった、不当粛清が是正される気配はまったくないまま、たとえばカンボジアは当時「子供しかいない国」になった、そのときいた大人は根こそぎ殺されたのだ、今考えればそんなことが正当であるはずがない。
今、どうにも符合を覚えさせる感触で、男女のあいだにあるさまざまな「不当」を、是正すべきという指摘と糾弾が唸っている、そしてその指摘は、指摘としては正しいのだ、そして共産革命と同様、すでに多くの女性が、切実な第一の希望として、「とにかく粛清を」と待ち望んでいる、ひとたびその粛清のトリガーが引かれた後には、その粛清が不当かどうかというような思念じたいに用事がなくなるだろう。

すでに状況は、緊張感を増しているというより、実際的な瘴気を放出しだしている、もうありうべき局面は「始まってしまった」とみなすべきだろう。
最もわかりやすいことでいうと、たとえば今、一人の男性が、一人の女性に対し、「おれはこいつと一緒にいるときが何より幸福だな」と感じるということが、すでにないということだ、女性の側でも似たり寄ったりだとは思う。
性欲や、未来の経済力についての保身があるので、若い男女はほとんど強制的に、近接する機会を持たざるを得ないが、もはやとっくの昔に、男女の邂逅は「幸福」などではまったくないのだ、まるで虐殺前夜のルワンダ市民のように、ラジオが流れてきた翌朝には、「昨日まで親しかった彼女が今日は殺しにくるのじゃないか」という不安が満ちている。
今、ありとあらゆる男女の仲が、「おれとアイツの仲だ」ということで、安心されているということはまずない、特に女性はすでに、いついかなるとき、どれだけささやかなことを理由にしても、不可逆の発火を起こしておかしくないと、そういう予感がヒシヒシする、これまでにどれだけの愛を向けられてきた女だったとしても、現在から二分後、ひたすら報復の血に飢える憎悪の女になって消えなくなるということがありうるのだ/男性の多くは今、恋人からスマートホンに着信があると、第一に恐怖を覚え、着信がなかったとすると、こんどは着信がないことに恐怖している。

理性は平等を求めているが、血は「革命」を求めている。

ポル・ポトは、「たとえ親であっても、社会の毒と思えば微笑んで殺せ」と少年少女らに教えた、「微笑んで」殺せと/共産主義は、理性的には平等社会を希求したものだったが、共産「革命」はまた別で、革命はそれ自体に、「血」が不明のトリガーを引くという性質がある、これが始まった者は、もう引き返すことはできない(こころの問題ではなく、生物の定義として引き返せない)。
まだ気づいていない人が多いかもしれないが、女性が恋人にメールを送ったとき、彼氏はその着信に、第一に「恐怖」しているのだ、そしてその内容が、平穏なものだとホッとしている、「まだ今日は始まっていないらしい」と/今はまだ彼が恐怖しているだけだが、やがてあなたも恐怖することになるだろう、つまりあなた自身、現在から二分後に、これまで愛してくれた人を切り裂いて流血させるということを、突然やってしまい、自分で止められないかもしれないということなのだ、このことは「革命」そのものについてのナゾが解かれないと対処できない。

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是正は悲劇を縮小するが幸福をもたらしはしない3

っと簡単に話をすると、たとえばあなたが女性だったとして、あなたが僕の目の前にいたとしよう。
そのとき、僕があなたを、差別的に扱ったとしても、あなたは幸福にならないし、平等的に扱ったとしても、あなたは幸福にならないだろう。
僕があなたを、「姫」のように扱ったら、一時的にあなたは浮かれて満足するかもしれないが、そういった満足が人を幸福に至らしめることはけっきょくない、翌朝の頭痛で一気に本質的不幸を思い出すだろう。
あなたが幸福になりうる道筋は唯一、あなたが僕を愛し、僕があなたを愛し、あなたが世界を愛し、僕と共に世界を愛して歩くことだ。

男女平等と男女格差を、フライパンの上で次々にひっくり返しても、次第に両面が焦げていくだけで、そのことは避けようがなく、できることはただの時間稼ぎでしかない。
事実、僕が大切な女性に、靴磨きをさせても、その後オステルリーにエスコートしても、どちらのときもその女性は幸福だ、それがその女性の幸福にならないなら、僕はその女性との時間を持たないだろう、僕は男尊女卑といわゆるレディーファーストを同日のうちに入れ替えても何の破綻もしない。
幸福な女は、ただ僕によって幸福なだけで、僕による格差で幸福なのではないし、僕による平等で幸福なのでもない、そして不幸になる女は、ただ不幸の海に向けて出航するだけで、どの航路に舵を切ってもやがて不幸の海に到着することは変わらない。
「不当」は、さっさと「是正」されたらいい、「悲劇」なんて可能なかぎり縮小するべきだからだ、だが不当の是正はけっきょく不幸な人々をまったく救済はしないだろう、あなたはただ僕の前で、愛せないし愛されない、という事実に虫食まれていくだけだ。

誰かがあなたに、「ビューティフル」とは言ってくれない。

それはただの不幸であって、悲劇でも何でもない、いかなる不当を是正したとしても、あなたに「ビューティフル」と言ってくれる人はいないだろう、それは「ビューティフル」ということをあなたがナメすぎだからだ/僕だってなんとかそのように言ってもらえることがあってほしくて、これまでさまざまなことをして生きてきたが、その中でますます、「ビューティフル」なんて身分が遠いことを痛感する。
誰もわたしに、ビューティフルとは言ってくれないということは、激しく悲しいことだが、だからといってそれは「悲劇」ではない、あなたの劇的な感情が悲劇を定義するわけではないからだ。

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是正は悲劇を縮小するが幸福をもたらしはしない2
女差別や、ブラック企業、あるいはLGBTなどが近年の話題だが、とにかくテーマは「是正」に掛かっている。
「不当」があるので、「是正」しろ、ということなのだが、どうもこの是正テーマの周辺には、常に不穏な空気が漂っている、この空気の正体は何か。
むろん、正体はこれだ、と断定できるわけではないが、大きな可能性として言いうるのは、一部の誰かが、己の「不幸」を、己の「悲劇」と取り違えているのではないかということだ/不幸というのは悲しいものなので、ここに劇的なキモチが加われば、それは「悲劇」なのだと自分に加工拡張されるかもしれない。
誰しもにとって、己を幸福に至らしめるということは、なかなか困難なことであって、それが容易にゆかないということは、常に悲しみが漂うものだ、そのことは多くの人が弁えているものだが、一部の人においては、その弁えがないのかもしれない。

たとえば「いじめ」のような問題もある、「いじめ」はむろん不当なものだから、さっさと是正されればよいし、さっさとクラス替えや「監視」等の措置が執られればよい(むろん加害者側にだ)、ただしそれで「いじめ」の是正が為されたとしても、いじめられていた者が幸福になるわけではない。
何の理由もなく「いじめ」があれば、それは被害者にとって悲劇だが、その悲劇を取り去ったところで、当人の幸福が得られるわけではない、仮に彼が「つまんねー奴で、どこかうっとうしい奴」だったとしたら、措置が執られた後も彼は、やはり「つまんねー奴で、どこかうっとうしい奴」と扱われるだろう、そこにいじめの悲劇はもうないが、己の不幸は引き続き残るわけだ。
仮に、ある女性が、男性と同程度に就学できて、就職活動もできて、ひとたびは苦役させられたブラック企業からまともな企業に転職することもでき、バイセクシャルであることも「別にいいんじゃない」と認められ、かつて受けたセクハラやパワハラへの告発と報復が成功したとしても、それで幸福になるわけではない、やはりその当人が「つまんねー奴で、どこかうっとうしい奴」なら、そのとおりに扱われ続けるしかないのだ、友人や愛する人は得られないだろう。
目を背けたくなる瞬間があって……僕が思うに、その瞬間、ワッと誰かに火がついているのだが、その火がついた人々はつまり、自分の不幸を不当悲劇のせいにできるという勢力であって、その人々の起こすワッとした色めき立ちに、僕は思わず目を背けているのだと思う、自分が不幸なのは誰かのせいだと断定することが姑息救済になった人々の目つきには、独特の充血と粘り気がある。

僕は正当に幸福でありたいし、不当にも幸福でありたい。

ごく一部の人は、あまりにも強引に、「自分が幸福になるということは、誰かを踏みにじって蹴落とすということでしょ」と言いがかりをつけてくるが、これはまさに言いがかりであって、いくらなんでも投げやりな、根拠不明の感情の吐出でしかない、僕は誰かを踏みにじるとか蹴落とすとかいう、カッタルイことのすべてがない状態を幸福と呼んでいるのだ、それを得続けていくことは、そんなに容易なことではないけれども。
この現代においては、「信じがたいほど不幸な人」が、少なからず潜在しているのは明らかだが、その信じがたいほどの不幸が、実は不当や悲劇のせいではなく、純粋なオリジナルの不幸なのだと認めることは、壮絶なことかもしれない/実際、ここ数年で、いくつかのことは是正されてきたはずだが、それによって世の中に幸福のムードが満ちてきたという感じはまったくない、となると、あのワッと色めき立つ人々は、果たして何かに向き合っている人たちなのか、それとも正反対、何かに向き合わず逃げている人たちなのかもしれない、その可能性は大いにありうる。
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是正は悲劇を縮小するが幸福をもたらしはしない

女平等と、その格差についての揉め事は、すでに回復不能な混乱にまで陥っている。
どうせどこにも聞き入れられない意見だが、僕が切実に感じることは、端的に言って「幸福はもうない」ということだ、奇妙なことに聞こえるかもしれないが、たとえ男女平等が成り立っても、あるいは男女格差が保存されても、どちらにしても幸福はもうないだろう、たとえ平等社会が成り立ったとしても、そこにはなぜか「不幸な平等社会」しか残らない。
なぜかというと、逆に考えればわかりやすいが、われわれが幸福になろうと望むなら、格差社会も幸福なものでなくてはならないし、平等社会も幸福なものでなくてはならないからだ、「格差から平等へ舵を切れば幸福が得られる」というのは幻想で、それが幻想であることはかつての共産主義活動の破局を見ればよくわかる、平等を希求した活動はけっきょくナゾの血まみれで終わった。
格差社会は幸福でなければならないし、平等社会も幸福でなければならない、たとえ専制君主国家でも、民主共和制国家でも、同様に幸福でなくてはならないのだ、つまり「是正」で幸福を得られると発想するところに、本質的な逃避がある、この逃避はなぜか酸鼻を極める流血で報われるのだ。

むろん、言うまでもなく、男女差別は「不当」だ、女だから大学に行く価値がない、などという価値観を押しつけられるのは「不当」以外の何物でもない。
だが、ここで緊密なバランスが取られた悟性が必要になるが、われわれは生きるうちいくらでも「不当」というものに直面するとして、「不当」はわれわれの「不幸」の理由ではないのだ、これを混同することでわれわれは行方不明になって、加速すればするほど流血の池へ沈没していくことになる。
なぜ「不当」は「不幸」ではないと言いうるかというと、その対極、「幸福」のほうも、やはり「正当」に得られるわけではないからだ、正当なら幸福とは言えない以上、不当が不幸と定義するのも誤っていることになる。
「不当」というのは、何もいいことではないので、むろんさっさと是正されるべきなのだが、不当が正当へと是正されたところで、幸福はこれっぽっちも得られず、不幸度は何も変わらないだろう、そうなると単に、不幸な者が壇上に駆け上がるというシーンが創り出されるだけになる、当人は己の不幸を己の不徳に帰責するつもりがないので、次はまた新しい是正ネタを槍玉に挙げることになるだろう。

あなたは差別を受けても、幸福でなくてはならない。

最も前向きに言うと、そういうことになる、僕は人を不幸に導く言葉は発したくないので、当たり前のように前向きに言いたいのだが、われわれがこれから得ていく平等社会は、あなたを貧困国のボロ布を着た少女より不幸にさせる可能性が大いにある、われわれは叡智としての幸福論にまったく向き合わないまま差別論と平等論だけを取り扱ってきたので、幸福については無知蒙昧なのだ、そうした不遜の無知蒙昧はしばしば懲罰を受ける。
どれだけ平等になった社会でも、誰にも愛されず、誰を愛することもなく、目覚めが光り輝かず、夢心地の中でぐっすり眠れないのならば、幸福はない/不当は是正されるべきだが、そのことに幸福の可能性などわずかも見いだしてはならない、不当の是正は単に<<悲劇を縮小する>>というだけにしかならず、あなたは悲劇の主ではなく単なる不幸の主なので、不当の是正によって救済はされないわけだ。

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愛にあふれた奴でありたかった
こ数年で、何があったのだろう? 特にここ十年、あるいは、東日本大震災以降ということになるか、えげつない変化が、ほとんど万人において起こっている、そしてここ三年ぐらいでメチャクチャになったと感じている。
最もわかりやすいように言うと、少し前なら、僕は誰からということでもなく、「は〜、あなたは愛にあふれた人だねえ」と、感心して言われることが日常的にあったのだ、それで年下のOLさんが、「ちょっとねえ、オゴるわ、オゴらせて」と言い出して、手を引っ張って行ってくれることもよくあった(昔話)。
ところがここ数年、話はまったく逆になった、僕は感心され祝福されるどころか、迫害され攻撃されるようになってしまった、しかも赤の他人からではない、僕が何かを助け、何かを与えようとした人から、決まり決まったように攻撃されるのだ/ちょうど同じタイミング、かつて「は〜、あなたは愛にあふれた人だねえ」と感心されるタイミングと同じタイミングで、「死ね! 許さない! 壊れろ! 失え!」と無言の呪詛を全身から向けられる、何のことか理由はまったくわからず、呪詛の当事者は悪意の所有すら自分では認めていない。
このようなことではつまり、僕自身がかつてのような、愛の力を失ったと見るべきだが、それにしては状況が齟齬するのだ、何しろ僕と初めてあって十五分も経たないうちに、ポロポロ泣きだすような人もいるし、正直なところ僕と会った女性が泣くのは八割方の「定番」なので、僕としては自分の愛がクソになったとは安易に断定しづらいのだが、実際のところ返報されてくるのはなぜか「死ね」だ/僕としてはいつも、人にできるかぎりの愛を向けられたらよいと、とにかく這いずり回ってでも笑わせ、光を明るく灯すことをこころがけているつもりなのだが、その極点では必ず「死ね」と報われる、実際に殴られたりもするし、土下座もよくさせられた、なんのこっちゃわからんので正直もう放ったらかしなのだが、もし僕が土下座して回ることで何かが救われるのなら、いつでも土下座して回りまっせ、という発想は残している、どうせ土下座なんかタダだし、僕にはそこにプライドなんてものはないからな、これは僕の心境の問題ではないのだ。

唯一の、すんなりいく解決は、「僕の愛はニセモノのクソゴミ」と定義し、「Xさんの愛こそ真実で至高」と定義することだろう、そうすればさしあたりすべての迫害は消える。
そして、そのように定義すると、確かにそうかもしれんなあという気が僕にもしてくるのだった、けっきょくこの愛の問題が根っこですべてを台無しにしていると思う、正直なところこの状況を整合するには、僕→Xの愛をクソゴミに否定し、X→僕の愛を至高に肯定するしかない、つまり僕がXさんに向けて、「は〜、あなたは愛にあふれた人だねえ」と感心するしかないのだ、そうすればすべての人が納得するし、溜飲が下がると思う。
そうして考えると、いよいよ、そうかもしれんなという気がしてきて、「そうか、おれは愛がまったくない人間なんだ」という気がしてくる、そして次第に「それで合っているな」という確信が出てきて、「それじゃあ、よーし」という感じになってくるのだが、でもそれだと一方で通りすがりにグル(導師)呼ばわりされるのもヘンだし、わざわざ僕に会いに来て初対面からポロポロ泣き出す女性がいるのもヘンだ。
この問題について、少なからぬ人が、「わたしの側がこじれているんです、あなたの側はおかしくないです」と言ってくれるのだが、それについて「そうかいな」と僕が引き取ったとしても、なぜか僕への攻撃と迫害および、僕の愛に対する否定およびヘイトの感情は、毎年増強されていくのだ、実際に進んでいく事象は「僕の愛はニセモノでクソゴミ、Xさんの愛が真実で至高」という定義のほうだ/「ちょっとは僕の愛も認められるかナ〜」というおぼろげな期待はもろくも霧散し、「案の定だぜ!」という感じではあるが、年々投石の具合がキツくなってくる、しかも赤の他人から投石されるのではなく、僕がヒィヒィ言って何かを与えようとした人から投石されるのだ、それは断じて許されぬ正義の執行として為されるので、そのときは本当にそちらが正義なので僕としては対処のしようがない。

「あなたは愛にあふれた人です」と、上から言われることは増えたが、「は〜、あなたは愛にあふれた人だねえ」と、感心されることはなくなった。

そんな、無理に肯定してくれなくても……といつも思うのだが/つまり、称賛する気にならないものを、無理に称賛しなくていーじゃないか、問題は当人が何をこころの底から称賛する気になるかなのだから、そこでウソをついてもしょうがない。
それよりは正直、僕の愛がニセモノのクソゴミだと力強くみなせるとして、それがどういうふうにクソゴミに見えるかを話してもらえたほうが、僕としては助かる、僕は自分の愛(のつもりのやつ)が、クソゴミでないと抗弁するつもりは一ミリもない、むしろクソゴミかもしれないというのは大いにありえる路線なので、いつも自戒しているつもりなのだ/僕のクソゴミ度を戒告するという立場のほうが、ノリノリでやりやすいという人は少なからずあるのじゃなかろうか。
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粗雑と乱暴がもたらしたもの3/あなたが慣らされているニセモノ

「粗雑と乱暴」がどういうものか、わかりやすいようにサンプルを示してみよう、たとえば以下のように書き話すとき、「粗雑と乱暴」の直接の感触がよく得られると思う。

だいたい日本人は、周りの目を気にしすぎだ。同調性バイアスが支配するこの国に、わたしは異を唱えたい。
LGBTでもそうだが、そうしたい人はただそうすればいいのであって、何だかなあ。もちろん、そういう人たちだって、幸せになる権利はあるのだと思う。でもそれは、今あるような、注目の的にされるというようなやり方とは違うと思う。
わたし自身もそうかもしれないけれど、承認欲求がすごい強い人が多くて、その反面、否定されるとすごく弱いのだと思う。それで、特にLGBTの人たちは、傷つきやすい状況になっているのだと思う。それはとても悲しいことだ。

もちろん、差別がどれほどひどいものかということを、人間は歴史で学んできているので、差別はなくすべきだ。法律も改正すべき。外国はみんなそうしてる。でも人がどう思うかにまでケチをつけられたら、今度はこっちがしんどくなってしまう。
その結果、ミソジニーとかミサンドリーとか、お互いに嫌悪し合う人たちが増えてしまった、誰もそんなこと気にせず、自分が幸せになることを考えたらいいのに。とにかく人の目を気にしすぎなんだろう。「甘え」とはよく言われることである。
いかに人の目を気にせず、自分の幸せを追求できるか、それがひとつのテーマなのである。もちろんLGBTの人は、ブレずにそのことを続けていくべき。わたしはLGBTじゃないけど、そうすることでこそ、結局仲良くできると思う。長文失礼しました。

……と、こんな感じになる、これは典型的に「粗雑で乱暴」なので、いかにも「現代人」という感じの声が聞こえてくるし、人によってはとっさに、この文章に「表現力」を感じるかもしれない。

歌唱力、表現力、文章力、コミュ力、目力、女子力、それらすべて「力」の語は、「粗雑で乱暴」に由来して生成されている。

われわれの営為のすべては、「力」で為されるものではまったくないのに、「粗雑で乱暴」な人は、もう物事を丁寧に捉えられないので、すべて「力」で片づけようとするのだ、何かに堪えられなくなって/この「○○力」という語群は、何かを捉えての語ではなく、何かを投げ出しての語だ、営為の本質を捉えるのに必要な丁寧さと繊細さに、とても堪えられなくなってイライラしてギブアップし、何もかもを「○○力」で片づけようとする。
「粗雑で乱暴」な人は、こうして背後に「力」しかない語群で話すので、それがそうとバレないように、善人とかわいらしさの化粧を、声と語群にほどこすものだ、そして現代人のわれわれは、そうした化粧に反応して甘えたがる性質を自我に宿されている、あなたにもきっとその反応があるはずだ/つまり、上に示したサンプルにこそ、あなたは「かわいらしい善の人」を見つけたがるのではないかということだ、あなたは気づかなくてはならない、何しろ上のサンプルはたった今僕が作成したものだ、あなたが反応した「かわいらしい善の人」はどこにも存在しない、僕が化粧をほどこしただけ、そしてあなたがこのニセモノの甘さに慣らされているだけだ。

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粗雑と乱暴がもたらしたもの2(丁寧に過ごした10000時間)

し、大真面目に、「人と接する」とか、「人の話を聞く」とか、「恋あい」とか、勉強とか学門とか、音楽とか小説とか旅とか世界とか、すべてに向き合って得ていくということを求めるなら、何もかもを、めちゃくちゃ丁寧にしないとだめ、めちゃめちゃ静かに、繊細に、丁寧に、しかも途中で台無しにせず、休まず、息の続くかぎりずっと続けなくちゃだめ。
それは思ったよりもはるかにキツいことで、あなたはすぐに暴れて蹴飛ばしたくなり、何か余計なことを口先で独り言に云い、身体をごそごそさせ、何かテンションを上げたり下げたりし、また何か別の疑問などを思いついたりして、その思いついたことを大切にするふりをする、という逃避の方法を選ぶだろう、今多くの人の芯はそれぐらい衰えきっているのだ。
あなたはひょっとすると、これまで、自分を「弱い」と思ったことがないかもしれない、特に腕力や音声や目力、あるいは脚力というような自我の力を振り回していた人は、自分は「割と強いほうだ」という誤解をしていることが多い、何かを丁寧にやらされると三十秒で「ぶっ壊したくなるw」というのは、「自我」が強いのであって、「人」は弱いのだ、命のない人の典型的な症状がそれだ、三十秒というのは誇張ではなく、衰えた人はもう「丁寧に取り組む」と決めた時点ですでに死にそうになるぐらい衰えているものだ。
今、僕が何を言っているのかわからない人は、たとえばここまでに書いた上の文章↑を、なんとなく理解してもらって、今度は自分の手で同じような文章に仕立てて書き記してみればいいのだ、そうすれば自分の脳みそがいかに「粗雑で乱暴」かがはっきりとわかるだろう、ちなみに←ここまでの文章で、文字数は688字あるので、ツイッターならフルで5ツイート、原稿用紙なら一枚半強だ、あなたは小学校のころ作文で、原稿用紙一枚半の途中で脳みそが行方不明にならなかっただろうか/何かひとつのことでもまともな形にしようとすると、実はケタはずれに丁寧にしなくてはならない。

「丁寧にする、かつ、やめてはならない」ということ、これがひとつの、有効な対抗策になると思う、人と接するにせよ人の話を聞くにせよ、勉強、学門、恋あい、何に向き合って獲得するにせよ、「丁寧にする、かつ、やめてはならない」ということを続ける、真剣に聞くのではなく丁寧に聞くのだ、「真剣」と言い出すと、シリアスになりたがる人はすぐ自分のいつもの必殺技を繰り出して終わりにしたがる。
「丁寧にする、かつ、やめてはならない」ということで、ひとつの有効な対抗策になると思うが、同時にこのことが、「もういいわ」「対抗とかせんわ」と、人々に決定的な放棄とあきらめをもたらしもするだろう、つまりそれぐらいキツイのだ、僕の経験上、かなりの割合の人が、堪えられなくなって「死にた〜い」と投げ出してしまう/「努力」に自信のあった人ほど、こういった修行のたぐいは即座に投げ出してしまう、「努力」という粗雑で乱暴なことをさせてもらえないからだ。
そうした芯の強さ・弱さというのは、それぞれ現在の実力というものがあるので、取り繕っても無意味だし、破綻するまで無理をしても無意味だ、重要なことはただ、自分が自分の弱さを知ることだ、「丁寧にする、かつ、やめてはならない」となったとき、多くの人が自分の弱さ・活力とエネルギーのなさ・衰えぶりに直面することになる、その直面がつらすぎるとき、人はすべてを投げ出してしまうだろう、ときには異様に攻撃的になってでもその直面を忌避するものだ。
それにしても、現在ある状況に、まっとうな対抗策を持とうとするならば、とにかく「丁寧にする」ということ、かつ「やめない」ということ、これを可能な限り執拗にやっていくしかない、実力のていどは人それぞれだろうが、自分がどのように弱かったとしても、そのことを嘆いたり卑下したりすることはない、ただ「丁寧にする、かつ、やめてはならない」ということを土台に取り組むかぎり、それぞれがそれぞれのスタート時点が強くなっていくということ、それは他人と比べっこすることではなく、あくまで自分が自分に課すだけのことだ、そのことを正しくするかぎり、まったく強くならないという人はいない。

「人に話す」「人の話を聞く」、そんな丁寧なことが自分にできると思わないほうがいい。

「○○ちゃんと絡んで、ダベってたの。そんでさあ……」ということなら、問題なく成り立つだろう、別にそれで問題があるわけではない、だがそれで友人とか青春とか恋あいとか、学門とか感動とかいうことは期待するべきじゃない、粗雑で乱暴な者がいじくった畑に称うべき果実が生ることはない、すべてのまともなことは、おそろしく丁寧にやらねば得られないのだ、もしあなたが、僕が言葉を扱うときの脳みその実情を覗き見ることがあったら、端的に「キチガイ」だと思うだろう、その他すべてのことがそう、少しでもまともなものが生じていることの背後には、想像を絶するほどの丁寧さが隠れているのだ。
ある画家が、こんなことを言ったそうだ、不正確な記憶で申し訳ないが、つまり絵を上手に描けることをうらやましがる人に対して、「一時間に1cmずつ線を引いていくなら、誰だって上手に絵が描けるよ」と/少しでもまともなものが生じている背後には、それぐらい想像を絶する丁寧さが隠れている、そうして人はけっきょく「丁寧に過ごした10000時間」だけを己の命の入口にできるが、「丁寧に過ごした10000時間」がどれだけの年数の中で達成できるか、割り算で計算してみるのがいい。

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粗雑と乱暴がもたらしたもの

半紙にはラクガキするが、ケント紙にはあまりラクガキはしない、それはケント紙が媒体として高価で入手にコストが掛かるからだ、それが手漉き和紙になればさらにラクガキはしないだろう。
インターネット上には、本質的にラクガキのような雑言が大量発生しているが、これはひとえに、電子テキストという媒体が実質無料で消費財でないことから発生している/どんな雑言の発信者も、半紙に毛筆で墨を垂らして雑言を筆記発信するわけではないのだ、炎上と雑言の現代は人々の気質以前に実は「媒体」の革命によって形成されている、IT革命より直接的に媒体革命があったことを見なくてはならない。
かつてLPレコードだった媒体は、カセットテープになりCDになりMDになり、mp3になり「配信」になった、漫画やアニメはデジタルペイントになり、写真はフィルムからデジタルになった。
媒体革命は、われわれの生活空間を、ラクガキ空間に変質させていったことになる/そしてラクガキの本質は、表現そのものが「粗雑で乱暴」ということだ、われわれの生活空間はそのようにして、「粗雑で乱暴」ということに性質づけられていった。

そのように、生活空間が革命されていったとしても、われわれの心身が革命されるわけではない、われわれの心身はけっきょく「粗雑で乱暴」を「わが命」とすることはできない。
たとえば単純な話、youtubeでチャックベリーとジョンレノンの合奏などを視聴することができるが、彼らの気配は現代のわれわれと比較すると、おそろしく静かで繊細で丁寧だ/何かを感じ取るということは、決して腕力や音声を振り回すことではないのだということがわかる。
チャックベリーはロックンロールの創始者のようなものだが、それなのに現代のわれわれに比べると、やはりおそろしく静かで繊細で丁寧だ、それでいて当然、心身の活力やその声のエネルギーはわれわれをはるかに凌いでいる/たとえばわれわれは、「目力(メヂカラ)」というような言い方を平易にし、その言い方がどのようなものを指しているのかをよく知っているが、四十年前のアーティストたちの誰一人も、その「目力」というようなものは持っていない、「目力」という発想とその実物が、いかにも現代的で粗雑で乱暴なものなのだとわかる。
媒体革命という外的要因から始まった、現代の「粗雑と乱暴」さを、過ちとみなして消去しようとするとき、われわれはおそろしく静かで繊細で丁寧に生きることに振り替えねばならないが、そのように己の振る舞いを変えようとしたとき、いかに己の心身と声が芯からの活力とエネルギーを失い切っているかに気づくだろう/われわれは今や、己の虚弱と空虚を覆い隠すためにこそ、腕力と怒鳴るような音声を振り回しているのでもある。

「粗雑と乱暴」が、われわれの活力と声を失わせ、失われたそれを補うのにも、「粗雑と乱暴」が用いられた。

藁半紙という粗悪な媒体が土台となって、ラクガキを生じせしめるのだとしたら、われわれは媒体革命された生活空間の中で、まるきり「ラクガキのように生きている」ということになる、そして粗雑で乱暴なラクガキがわれわれを真に賦活するということはありえないので、われわれはラクガキを食(は)み、荒み衰えていった/現代の大学の合唱団と四十年前の大学の合唱団の、それぞれの演奏を比較すると、現代のわれわれの芯がどれほど荒み衰えているのかがよくわかる、このことの責はむろん個人や現代の若年層に帰されるものではない。
われわれが立ち直ることを選ぶのだとしたら、われわれは今から、おそろしく静かに、繊細に、丁寧に、すべてのことをし、しかもそのことを<<やめずに続けなくてはならない>>、荒み衰えた己の心身でそれを「やめずに続ける」というのは、ただならぬ負担をもたらすだろう、だがその堪えがたい負担こそまっとうな負担であって、腕力や怒鳴り声や目力でごまかす不誠実の生存はもはや息絶えたのだ/今や荒み衰えた己の心身の芯を「弱い」と認める者から順に誠実さの光を取り戻してゆくだろう。

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(大いなる被害者の構図)
険な話なので聞き流していただく。
あなたが女性だったら、このように想像というか、思考実験をするべきだ、つまり、「もし自分が男性として生まれてきたら、自分は完璧な男性でありえたか」「女性に一切の性的被害を及ぼさずに生きられたか」「それでいて異性を罵らず、異性を愛し、その愛を実現し、異性からモテモテで、愛されたか」、このことにイエスと断言ないしは誓いを立てられるかどうかが大前提になる。
このことにイエスと断言し、必ずそうであるという誓いを立てたとすると、その誓いが不誠実を含んでいた場合、それはカルマになりやはり相応の報いを受けることになる、思春期を境に男性の性衝動は強烈なものだ/仮に来世のようなものがあったとして、来世であなたが男性になったとする、そのときあなたがわずかでも姦淫の情動を持ったとしたら、そのとたんあなたの身には、現在のあなたが空想した男性への懲罰が降り注ぐことになる、それは因果応報なので逃れるすべはない。
シンプルな思考実験なのだ、もしあなたが男性であったら、この現今の世情の中で、例外的に完全無罪の男性かつ、愛の実現者であれたか、そのことの点検にすぎない/この世界に人間の男女がいて、「男」は性的に生まれつき有罪みたいなものだ、そして「女」は生まれつき無罪だという前提で、男性の存在は根源的に弾劾されている、その弾劾は正しいのだが、問題はもう一方、「女」のほうは「男」に生まれたときなおも完全無罪なのかどうかという疑問にある、もし「無罪ではあれないかもしれない」と思い当たったとしても、すでに状況は引き返せない。

危険な話なので聞き流していただく/正直なところ、その筋の人から見れば、僕などは典型的なクソチンポの代表みたいなものなので、今さらその有罪性を指摘されるまでもない、僕を弾劾するのにすでに審議や裁判は必要ない(そんな自明を審議しても時間の無駄だ)。
ただ、一部の、数少ない僕の友人に向けては、このことを申し上げておきたい、あなたが○○の被害者だとして、名乗りを上げて加害者の糾弾に与すれば、それは勇気ある行動だとして、あなたの名は称揚されるだろう、僕は実際そういう人に会ったこともあるのだ。
だが、このことは、事件の性質にかかわらず、「被害者としてのネームバリュー」「被害者としての大きな存在感」を持つようになる、つまり被害者として大きな旗手になるということだ、するといつのまにか、自分の「存在」が、当の事件に依拠しているという状態になるのだ、いわば加害され・被害を受けなければ「こうして大きな存在にはなれなかった」「仲間も得られなかった」「この人生もなかった」という状態が組み上がる、この状況はまったく気がつかないうちに組み上がり、気づいたときにはもう引き返せないし取り消しも利かない。
このことは、むろん責められるようなことではないし、否定されることでもない、この世界はなるべく正義に満ちていたほうがよいものだ、ただし正義はたいてい自己の完全無罪を前提にしていて、知らぬまに被害者としての自分の存在を急激に大きくしていく、この引き返せない正義の中で、人はとんでもない顔つきになっていくのだ、それは正義ではあるが幸福ではない/「大いなる被害者」は、いつのまにか加害者の存在に支えられているという構図になる、何でもなかった者が大いなる存在になれたのだ、それは加害者のおかげであり、それを糾弾するほどに自分は大きくなれることがわかった……という、不穏の構図が膨らんでいく、なるべくそういった不穏のものからは、どうか僕の友人たちは縁遠くありますように。

痴漢や強姦はサイテーだが、僕はもっとサイテーかもしれない。

これは単純な数学の問題で、何もむつかしいことはない、仮にそうした加害者どもをサイテー呼ばわりしたとして、そのことで僕が中庸でまっとうな人間だと言い得るわけではない/ステーキ肉を愛好する者に向けて、ベジタリアンやヴィーガンは、フル出力の弾劾を向けうると思うが、ベジタリアンやヴィーガンが完全無罪で清廉潔白と決定できるわけではない。
危険な話なので聞き流していただく、あなたは大きな存在になりたいし、大きな活躍と大きな力を為す者でありたいのだ、それはあなたの欲求であり願望だ、その背後からごく小さな声で、「被害者になれば大きな存在になれるよ」というささやきがあることを、こころのどこかに留めておいてほしい、あなたは被害者にならず大きな存在になることは不可能なのかもしれないが、それにしても、そんなふうに大きくなりたかったというのは、あなたの原初の希求ではなかったはずだ。
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「職業」と「仕事」
のような者が言い出すことではないが、誰も言い出さないので、僕が言うとして、単純に国語的にも定義的にも、「仕事」と「稼ぎ」はまったく異なるものだ、なるべく本分に仕えることがその人の「仕事」になるし、稼ぎといえばパチンコで儲かったぶんも「稼ぎ」になる、ただしどれだけ荒稼ぎをしてもパチンコはその人の「仕事」にはならない。
稼がないと生きていけないわけだが、それはわれわれが「生きる」という業を背負った存在だからで、だから主な稼ぎのことを「生業(なりわい)」という、そして「生きる」という業に務めることを「業務」という、ここにおいて生業や業務というのは「仕事」とは異なる。
たとえば近所のババアが近所の公園を掃除していることがあるが、もしそのババアが、「この土地に暮らす者として、この土地を少しでも清めて暮らすのは、この土地に暮らす者の本分ではないか」と言うのであれば、その公園の掃除はババアの「仕事」だ、ババアは己の見いだした本分に仕えている。
昔テレビに、西川口だったと思うが、一人のおっさんが映し出されていた、このおっさんは西川口のゴミを拾うのが仕事らしい、それでテレビカメラに向けて、「どんどん西川口に遊びにきて、どんどんゴミをポイ捨てしていってな、ぜんぶわしが拾うから」とニコニコおっしゃっられていた、まともな生業を持っているのかどうかわからない風貌だったが、彼はきっとその場所に何か本分を見いだされたのだろう、まあ誰だって有限の生命を生きているわけだ……

これを「ボランティアで」という言い方にすり替えると、話が気色悪くなる。
誰もボランティアの語源なんか気にしないだろうし、ボランティアというとつまり「無償」で、「本来はカネをもらってもよさそうなところをタダでやってあげている」という気配がミエミエだ、この気色悪さは仕事と稼ぎを取り違えていることから発生している、そもそも仕事というのは報酬を目当てでやるものではない、仕事というのは「仕える事」なのだから。
ネコにはネズミを追いかける業があり、男には女のケツを追いかける業があるのと同様に、われわれ「生きる」者は、カネを追いかける業がある、このカネを追いかける業のことを、「仕事」と読んでいるのではない、カネを追いかける業は「業務」だ、逆にこのことが見えていない人は業務においても「わかっていない奴」「トロい奴」になってしまう、業務ではしっかりカネを追いかけろ。
ババアが公園を掃除しているとして、それは全部が全部「ボランティア」ではないのだ、中には、これまで長年「生きる」という業ばかりに振り回されてきて、どうか自分が生きる中にも、業に振り回されるだけでない何かが欲しいと目覚められて、せめてこの場所に生きた者として、本分のことに「仕えたい」とされている方もいらっしゃるのだ/ババアは無償でやっているのではない、仕事でやっているのだ、称賛なんかしていないで、この世界の本分にビビれ。

「職業」と「仕事」は根本的に異なる。

そのことは、そのへんの職業人のおっちゃんを捕まえて訊いてみればわかる、「今日あなたは、仕事をしましたか」と訊けば、「いやあ、今日なんか、仕事という仕事はしてませんなあ」と肩をすくめることがよくあるものだ、これはわりと、おっちゃんとしては主流でありふれた感覚だ、職業として出勤しても必ずしも「仕事」をするとは限らない。
典型的には、政治家などが本来そうで、政治家が己の稼ぎに邁進しては、市民としてはタマランのだ、生業のために国会に出られたら迷惑だ/人は生業で稼がないと生きていけないが、逆に何の仕事もしなくても生きていくことはできる、仕事というのは自分の足しにするものではないからだ、職業で貴賎を競争している一部勢力があるが、彼らにはそれぞれの為した仕事そのものを誇ろうとする発想がない。
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仮称、「明るいうつ病」2

れは、医学的なうつ病ではない、医学的なことはお医者さまにまかせるべきだ。
そうではない、ナゾの現象に懸念を覚えている、それは、やさしさや愛が逆に「ダメージを与える」というナゾのケースがあることだ。
ふつう、アダルト・チルドレンや人格障害方面の問題というと、「受けた愛情が足りなくて……」という捉え方が基本なのだが、何かそれだけで話が済まない、やさしさや愛を受けるとそれが「刃」になって突き刺さってしまう、という類型があるようなのだ。
この人にとっては、やさしさや愛を受けた瞬間、それが「すごく痛い」と感じるようなのだ、まるで無数の棘に突き刺されるような……原因や機序はまったく不明だが、どうもそういう類型があるくさい、ということだけ報告しておきたい。

だからこの人は、やさしさや愛が「ない」ほうが、痛みがないのだ、それでわざわざ、やさしさや愛のない人や環境を選びたがる。
人にこころを向けられず、冷淡に、ないがしろにされるほうが、痛みがなくて「楽」だという状態だ、最新にはそういう研究結果もあるのかもしれないが、僕の古い心理学の知識には該当する類型はない。
この人の苦しいところは、やさしさや愛が「刃」「棘」「刺さる」「痛い」にもかかわらず、その突き刺さる痛みのほうへ自らが寄っていってしまうということだ、やさしさや愛に感動しないわけではないので、そちらにどうしても寄っていくのだが、寄っていけばいくほど「突き刺さって痛い」ということになる、これではやがてpanicと破綻は避けられない。
奇妙な話なのだが、これはどうも実際にある現象らしい、やさしさや愛を向けられると、パッと顔が和らぐのではなくて、「……ギャー!」となるのだ、そのときなぜ本人も「痛い」「刺さる」のか、そして「ギャー!」なのかは、よくわからないらしい、これは心理的トラブルよりもっと根源的な次元の事象という感じがする。

やさしさや愛が、宝だった時代は過ぎたのかもしれない。

いや、それは引き続き宝には違いないのだが、実効的には宝ではなく「刃」「棘」になってしまうということだ、そんな残酷な話があるかよ〜という気もするのだが、逆に何かの神話にはそういう構造の話も残されているかもしれない(詳しくないのでおれは知らん)。
実際、冷たいものや心ないものに、「癒される」と感じる人はすでに少なくないみたいだし、やさしさや愛はすでに人にダメージを与えるシロモノでしかないのかもしれない/これは僕がややこしい話をしているのではなく、ややこしくなった人の話をシンプルにしているのだ、おれ自身は何一つややこしくねえよ。

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仮称、「明るいうつ病」

とつの危機感を覚えている。
それは、あえて粗雑に言うと、「明るいうつ病」がありうるのではないか、という危機感だ。
これはいわゆる「非定型うつ」のことを言っているのではない、そもそも僕は医者ではないのでうつ病うんぬんを正式に言う資格を持っていない。
僕が危機感を覚えているのは、医学的にはうつ病ではなく、ただそのような言い方にすればわかりやすい、一種の「ジレンマ」があるのではないかということだ、つまり反動的な形から「明るいコ」がやめられない、という状況があるのではないかということ、これは社会生活上は「明るいコ」として機能できているので、医療マターとしてはうつ病に診断されない(ということはやはり、医学的にはうつ病ではない)。

「明るいキャラ」にならないと、朝起きられないし、「明るいキャラ」にならないと、人と話せない、というような状況があるのではないかということ。
このことについて、唯一の解決は、先に判明している/どんなに小さくてもいいので、「世界」との直接関係を恢復することだ、自分がこの「世界」に生きているということがわからないと、自分の生きる方法は、やみくもに人に対して「明るい」ということでしか定義できなくなってしまう。
「明るいコ」がやめられなくなって、対人関係が実はしんどいという人も、きっと少なからずいるのだろうが、その解決の糸口は、実は対人関係そのものにはない、世界との関係が恢復しないといけないのだ、世界との関係が恢復しないかぎり、「人とつながる」「人と打ち解ける」という発想は必ず誤解の温床になる。
カミサマを擬人化する必要はないし、「カミサマはいつも見守ってくださっている」というイメージを持つ必要もない、また「明るいコ」というキャラが悪いわけではまったくない、何はともあれ自分が「世界」に触れるしかないのだが、その決定打は「言葉」になる、言葉が獲得されればこの問題は、「そんな問題があったっけ?」と忘れ去られて解決する。

あなたが誰かとつながっていようが、つながっていなかろうが、「あなた」と「世界」の関係は変わっていない。

独り身であろうが既婚者であろうが、子供がいようがいまいが、「あなた」と「世界」の関係はずっと同じまま、変わっていないのだ/ここで「世界」とのつながりが得られていないと、人は人とどうつながるかだけが世界だと思うようになり、それだからこそ人とのつながりが正常化しない、その結果「明るいコ」「明るいキャラ」、そしてそれがやめられずに苦しみ続けている「明るいうつ病」になってしまう。
対人関係の中で露見する「明るいうつ病」は、対人関係が焦点ではない、「世界」との関係恢復が焦点になる/さしあたり重要なことは、そうした「明るいコ」の「明るいうつ病」が、どこにでもあるし、誰にでもあると、周知されることだ、第一にその知見が当然にならねばならず、第二にその解決は医学的でなく、「世界との関係回復」にあるということが知られねばならない、これは対人関係の問題ではないのだ。

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横隔膜で聞くべし!!
グってもらうとわかるが、電子機器としてのマイクとスピーカーは、実は構造上はまったく同じものなのだ、「空気振動を電気信号に転換し」「電気信号を空気振動に転換する」だけだから/そして転換された信号パターンを記録(保存)する場合はそこに「レコード」がつく(ちなみに、本当に、スピーカーラインにマイクをつなぐと、マイクから音が出てくる、ただしマイクが傷む可能性あり)。
さあそれで、シンプルな話だ、人の話を聞くとき、また言葉を聞くとき、音楽を聞くとき、あるいは景色を見るときでさえそうだが、すべては横隔膜で直接聞きたまえよ!! 「鼓膜じゃなくて横隔膜なのかああああ」と、アホみたいに驚いてよろしい、これはアホみたいに驚く奴のほうが賢いのだ。
何かを聞くというとき、単なる「音情報」と、それだけではない何かの「神韻」が含まれている場合がある、音情報は確かに耳(鼓膜)を経由して聞こえてくるのだが、「神韻」のほうは横隔膜なのだ、横隔膜というのは「神韻のマイクおよびスピーカー」と捉えてよろしい、「さらにはレコードも兼ねている!!」というスグレモノだ。
横隔膜はどこにあるか、というのも、まあググれば出てくるが、簡単にいうと肋骨の最下部の「底」をベターッと覆っているのだ、胸腔と腹腔の境目だ(「横に隔てる膜」だから横隔膜だ)、この横隔膜は筋肉で出来た膜なのだが、不思議なことに、随意筋と不随意筋の両方の性質を持っている、寝ているあいだにも勝手に動いて呼吸をしてくれるのに(不随意筋)、息を止めたり深呼吸をしようというときは、ちゃんと自分で操作できるのだ(随意筋)、随意かつ不随意でもあるとか超ヤバイ、皮膜アンド境目として超ヤバイ(なお横隔膜は哺乳類にしかないので、九官鳥が言う「オハヨー」に横隔膜からのソウルはない)。

「エコー」に直接触れられるようになると、実は、しゃっくりを自分で止められるようになる、慌ててメシを食ったときなど、この技術はたいへん重宝する(といっても、そんなことのために、イージーに手に入れられる技術じゃあないが)/しゃっくりというのは横隔膜のけいれんだが、エコー感覚を操作できるようになると、この横隔膜のけいれんを自分で止められるようになるのだ。
それはいいとして、「聞く」ということについてだが、「聞く」といって、耳(鼓膜)から聞いた音情報はどうなるかというと、耳から頭に入ったものは、「認識」され「理解」され、「区分」され「telling」され、保存ではなく「記憶」されるのだ/音楽でいうと、いわゆるメロディと和音とリズムに分割・理解され、歌詞が記憶される、ただしこうして分割理解されたものは、再統合しても元の音楽には戻らない(ツギハギの集成にしかならない)。
だからたとえば、「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山ぎは……」という詩文だって、横隔膜に直接入れないと、最終的に「何を言っているのかわからない」という記憶になってしまうのだ、もちろん逐語的に意味は「理解」できるし、「記憶」もできているのだが、それでも最終的に「何を言っているのかわからない」という情報の集成になる、ただしそれでも穴埋めテストには百点が取れてしまうから要注意だ。
すべては横隔膜で聞きたまえよ、アゼルバイジャンンンン!!! 横隔膜で聞きとらず、逐語的に鼓膜から頭へ聞きとろうとすると、ここで何が「アゼルバイジャン」なのかがわからない、そりゃわかるわけがない、別に意味があって言っているわけではないのだから、ハンモックでローストビーフを食うカモメの話を、nnab、逐語的に理解できるわけがない。

「マグロ・お米・酢・にぎる・わさび・しょうゆ」というのは、寿司の「レシピ」であって、寿司ではない。

そして、このレシピどおりにあなたが食材を集成したとしても、それは元の「寿司」にはならないのだ、あなたの横隔膜に直接寿司が入り、あなたの横隔膜から直接寿司が出てこないかぎり、あなたの握ったものは寿司にはならない、記号的に寿司と認識しうるものはできたとしても、「あのときの、あの寿司」には絶対にならない。
耳から入った音情報は、ちょうどこのように、原盤から分割・理解され、レシピにすり替わって「記憶」されていくのだ、このとき原盤は保存されず放棄されるので、記憶だけかさばっていくのに、元のものは「保存されていない」という状態になっていく/とにかく横隔膜で直接聞くことだ、そして横隔膜から直接話せる人になってゆくこと、鼓膜で聞いて記憶して声帯から発声するのではないのだ、マイクもレコードもスピーカーも「横隔膜で直接ですわ」と思いなされ。
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ガキに言うことをきかせる呪法

ず子供を物置や納屋に閉じ込める(拘束・閉じ込め)(このとき、「呪いを始めまーす」という、意識と気配を強く持つこと)。
「はい、もうあなたは、お母さんの子供じゃありません」(血を攻める)
「じゃ、他の人たちだけで、おいしいご飯を食べましょうね」(僻みを攻める)
「あーあ、お母さんしんどいなあ、他の家の人たちは、もっと楽しそうなのになあ」(僻みで攻める)

「あなたのせいで、お母さん、どこにも行けないの。お母さんかわいそうよね」(拘束・閉じ込め・僻み)
「お母さんは、お腹を痛めてあなたを産んで、あなたのオムツを取り替えて、育ててきたの」(血を攻める)
「たくさんお金もかかったなあ、お母さん、読みたいご本も買えなくなっちゃった」(僻み・血(カネは血の代用になる))
「お母さんの子じゃないから、ごめんなさいって言えないのかな? しょうがないよね、お母さんの子じゃないもんね?」(血を攻める・「呪」をやらせる)

「ごめんなさい、ごめんなさい」「僕は○○します」と、血がにじむまで言わせる(「呪」をやらせる)。

これで呪および呪縛が成り立つ、血と僻み(および拘束・閉じ込め)のピークを作り、その中で「語」を刷り込むと、それは「呪」となって、楔のように突き刺さって残存するのだ、よく言う「クギを刺す」ということの、意図的に苛烈化させたバージョンが、こういった「呪法」になる。
もちろん、「人を呪わば穴二つ」ということがあり、このときお母さんは解呪のやり方なんか知らないだろうので、自分にも強烈な呪いが掛かることになる、つまり自分が「お母さん」だという呪いも強烈に自分に掛かる/子供が言うことを聞くようになる代わりに、自分も自分の言うことを聞くハメになるのだった、しかもこの場合の「言うことを聞く」というのは「言葉」ではないので、お母さんもその子供も、「言うことを聞く」たびに内部的に血まみれになる。

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(グレートチャンネル)
「なんだこりゃ」「なんということだ」と打ちのめされるチャンネル。
一つの光景、一つの季節、暮れなずむ紫色の空、熱にけぶる大気。
僕は性欲で女を愛してはいない/「なんだこりゃ」と打ちのめされる景色の中で……
誰か窓の外にクーラーを置いたか? 室内の温度計は27.5℃を指している。

「なんだこりゃ」「なんということだ」と打ちのめされるチャンネル。
人は願望の先に進んでいくのじゃないし、お祈りでカミサマに導かれてゆくのでもない。
「なんだこりゃ」と打ちのめされる光景、その光景の中にわたしがいる。
われわれは、正しいことを探しているが、本当はそうではなく、この世界にはどうしようもない光と、どうしようもない光が潜んでいる、これは書き間違いではない/「どうしようもない光」と、「どうしようもない光」だけが潜んでいる。

光の対極に光がある。

ホホ、いわゆる対立構造を破却する不思議なもの、夏の空と地面に聞いて、夏は空と地面が一緒くただ。
茅ヶ崎の海の向こうには、茅ヶ崎の海があるんだよ、それじゃあ不思議だよなあ、Oh! グレートチャンネル。
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