☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
撤廃された「○尊△卑」

、たとえば「男尊女卑」などというと、いかにも冗談に見えるし、さすがにこの冗談を真に受ける人はもういないだろう。
しかし一方で、「じゃあ何が尊で何が卑なの?」と問われると、どう答えていいのか、それもすでにわからなくなっている。
男尊女卑が消えたのではなくて、「○尊△卑」という一切が消えたのだ、何が尊ばれるでもなく、何が卑しまれることでもなくなった/それは一見、憲法的な平等と「みんな自分の勝手にしていい」という権利の実践に見えなくもなかった。
けれども、「命」においては? 命においては、何かしらの「○尊△卑」が見えているかもしれない/この常識と命が背反する中、われわれは常識において○に唾を吐き、△に微笑みかけることを日常的にし、そのせいで命のレベルでおびえきっているという状態にある。

何かしら、○尊△卑というのはあるのだ、常識的にはないが命としてはある。
常識的には、この資本主義の中、お金を出す側が「尊」で、お金をもらう側が「卑」ということになっている、このことは徹底的に訓練されているので多くの場合で成立している。
つまり、何が尊で何が卑か識らないが、カネさえ払えばいかなる尊の人も卑に扱うことができ、またいかなる卑の人も尊の人として認められる、という状況を社会的に作り出している、それが「命」を根こそぎおびえさせているのだ。
カネやその他の利益供与を受ける以外には、頭を下げられないという生きものに、本当になってしまった、そのことに命がおびえきっている、それはまるで、「踏み絵」を足ふきマットにして神棚にカネを祀る日々を何十年も続けてきたというような怯えだ/今この社会はわざとそのようにデザインされているほどにさえ見える。

膨大なカネにはいくらでもひれ伏すが、膨大な「何か」にはタメ口になった。

もちろんカネが悪いわけじゃない、カネだって宗教的には弁財天のものだろう、しかし今、一億円の札束を踏んだら「バチがあたるぞ」という宗教状態になり、それ以上に鮮明に考えられることは何もなくなった。
「○尊△卑」という一切が消え去ったことで、あなたはいついかなるときも卑しくなることはなくなり、目の前の誰も尊いという可能性はなくなった、だからそれ以外の振る舞いは生じようがないのだが/「命」がその常識に反しておびえている、「命」がしつこく「間違っているのです」と言い続けている。

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「中国人よりひどい」

ょっと調べたのだが、最近、ぼったくりバーならぬ、ぼったくり居酒屋が流行っているらしい。
昔、キャッチのお兄さんについていくと、ぼったくりに遭うのはたいてい女の子のいる店や、ヘンな雰囲気のバーだったのだが、最近では居酒屋バージョンが流行っているらしい、なんともアホくさい話だ。
しかもそういったチンケな商法が、大都市各地のど真ん中で堂々と行われているらしい、居酒屋でぼったくってもしょーもない金額にしかならないだろうに、これはもう中国人よりひどい。
あえて差別的な言い方をするが、もう日本人はかなりのていど「中国人よりひどい」、中国人よりひどいと言われたら腹が立つというほど、われわれ日本人は自己認識を膨張させたアホになっている。

すでに数年前、銘酒に詳しいバーテンダーさんたちが、多数中国に流出してしまっている(ある精鋭のバーテンダーさんから直接聞いた)、なにしろ向こうで稼げる額があまりに違うらしいのだ、残念だが本来はそういったことが「ニュース」だと思う。
われわれはこれまで、日本の街中にフィリピンパブやチャイナエステがあることにまったく無頓着できたが、日本が凋落したら今度は日本人の番だ、中国の街中にジャパニーズパブができるということになる。
日本の女が外国の男に奉仕して食われて、日本の男は屈辱の中でションボリしながら、出稼ぎでその国の男に労働者としてコキ使われて早死にしていくということだが、こんな当たり前のことにショックを受けていたら、もう三十年さかのぼって「国際化の資格がない」と言われねばならない。
本当に日本の職人は外国の職人より技術が高くて、日本の学生は外国の学生より学力が高いのだろうか、本当に日本人は外国の人よりマナーがよくて、働けば外国の人より勤勉なのだろうか、もうじき平成の世も終わろうとしている。

外国の方、日本ではキャッチに気をつけて。

と、何であれば旅行ガイドブックに書かれねばならないくらい、日本の文化品位は低下している、この先の東京オリンピックで、外国人を狙ったスリ・ひったくり・詐欺・強盗が多発するという可能性はすでに有為にある。
知人のファッションモデルの人が、先日ブラジル人の男性にナンパされたそうだが、「日本の男性より外国の方のほうがよほどまともよ?」と言っていた/この先われわれの信じていた「日本」が残るか消えるかは、本当に五分五分だと思う。

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われわれトヨタ、ニンテンドー

民党が圧勝した。
小池百合子氏への脚光から引き起こされた一連の盛り上がりは、結果的に竜頭蛇尾に終わった。
ところで民進党ってどこいったの、もう解散したのかね? よく知らない、あと維新党はすっかり、共産党と同じぐらいの存在感になってしまった、これは露骨に凋落というべきだろう。
立憲民主党は、古い酒を新しい革袋に詰めただけだから、残存するだろうが、希望の党はこのまま自然消滅するのじゃないか、初陣がこれではな/けっきょくナントカ学園等で自民党を粘着攻撃していた戦法も含め、野党の攻勢はことごとく失策に終わったと見える、しかし野党は反省しないだろうから、この先はまたこの選挙がなかったかのようなムードで続いていくだろう。

改憲派の議席が増えたので、憲法改正がいよいよ発議されるかもしれない。
与党は憲法改正を目玉商品に数えている様子だが、憲法改正は国民投票もあるし、正直なところ憲法改正については、「要らんこと」に思えてならない、あくまで個人的な思議ではあるが(憲法改正というより憲法更改と呼ぶべき欺瞞があると思う)。
憲法は、国家構造の中枢なので、そこをいじくることは大きなインパクトをもたらすが、それが現在の日本の生産性低迷にクリティカルな作用をおよぼすとはまるで思えない/「大ニュース」にはなるだろうが、「大効果」は得られようがないだろう。
シャープに続いて東芝が凋落し、神戸製鋼の大不正が発覚し、日産の工場が止まり、日立の電車は海外の納入先で技術トラブルを起こしている、われわれはもはやトヨタに縋るしかなく、ものづくりをこっそり引退して観光立国を思いつくあたりは苦肉の策としか言えないところだが、その上でさらに旧共産圏と揉めながらこの先をゆかねばならないのだ/改憲発議を担当した議員はウキウキになるだろうが、少子化対策を担当した議員は逃げ口上だけの毎日に憂鬱になっていくだろう。

「国内」だけで戦っているのは、今や政治家だけだ。

外国の人は当然日本の選挙権を持っていないので、政治家は外国の人に一ミリも興味を向けなくて済む、しかしたとえばニンテンドーは違う、世界のどこよりも優れて面白いものを安く作らないと、消費者に「選んで」もらえない。
明治維新以来、つまり鎖国をやめて以来、日本は自由化した経済の中で世界と生産を競っているだけなのだが、政治家は「あくまで国内の人にだけ選んでもらう」という選挙の仕組み上、国内の感覚しか持たないだろう、よって政治家はわれわれの「指針」にはならない、政治家は構造上、今も「民主主義的江戸時代」の中にいるのだ(票にはならんが海外で遊説とかしてみたらいいのに)。

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二次元の世界へようこそ

ニメオタクさんが、よく「二次元の世界に行きたい」と言うけれど……
何を誤解している、この世界が二次元だ。
われわれは、三次元を錯覚させられている二次元アニメの登場人物たちである。
今さら「二次元の世界に行きたい」などと、やけに出遅れているじゃないか、われわれはとっくにアニメ世界の中にいる。

ダサいキャラや、鬱パートを担当するのはやめよう。
アニメにも、そういうキャラや、そういうシーンはあるけれどね、わざわざ志願してやるものじゃない。
お望みの二次元世界の居心地はどうだい、わりと普通だろ?
キャラが立っていないアニメはクソアニメだし、本筋のないアニメもやはりクソアニメなので、キャラも本筋もばりばり行きましょうぞ。

三次元なんて存在していない。

われわれはこの二次元アニメの世界に入ったっきりだ、われわれはこの作中で、世界を三次元でリアルなものだと錯覚しているあわれな登場人物たちだ。
ファンがつくといいな、せっかくのアニメキャラクターなら、人気投票に食い込むほどでありたい。

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僕の楽しさていど

しい状況があるが、その中でも、光の差すことがあるとすれば、ひょっとして僕は、他の人よりケタ外れに楽しい中を生きてきた&生きているのかもしれない。
「そのとおり」と強く言われることもあるし、「いいかげん自覚しろよ」と嘆息されることもあるのだが、こればっかりはよくわからないのだ、僕は他人がどのていど楽しく生きているのかなんて知りようがないし、そんなプライバシーに邪推もしたくない。
僕にはけっきょく他人のことはわからないので……少なくとも自分のこととして言えるのは、僕は生まれてこの方、楽しいふりをしたとか、楽しいつもりになったとか、そういう自分ダマシはしたことがないということ、これだけは絶対に確言できる。
なぜ確言できるかというと、僕は自分で自分をだませるほどの、気力と努力のキャパシティがなかったからだ、自分を偽らなかったということではなく、単にそのことが不能だったと言える、不能ならそりゃその要素はゼロに決まっているわな、ということでそのことだけが確言できる。

厳しい状況の中、光の差すことがあるとすれば、少なくとも僕は、僕の楽しさていどの楽しさなら、包み隠さずお話しできますよということ、こんなもんが足しになるのかどうかわからんが、僕にとってはそれぐらいしか話せることがないのだからしょうがない。
僕は、他人と他人が楽しそう&充実のふりをしていると、完全にコロッとだまされるので、ここ数十年、ずっと誤解の中にいた、僕は本当に楽しいときしか楽しいそぶりを出せない残念な人だからしょうがないのだと大目に見てくれ、人付き合いの能力がないカワイソーな人ということでいい。
今でもコロッとだまされるけどね……僕は、僕に向けてくれたお愛想にだまされることはまったくないが、他人と他人がやっているお愛想にはコロッとだまされる、それは基本的に他人のすることに無関心&不干渉というワガママな本性が露出していると言えよう。
僕は「僕の楽しさていど」についてのみお話しできると思うが、僕が確言できるのは、僕はこれまで「楽しいこと」を求めたことなんか一度もないということ、そして、僕自身に何かを足したことが一度もないということ、確言できるのはたぶんそれぐらいだ。

僕はそもそもスタートしていない。

この言い方で何か伝わるだろうか? 僕はそもそもスタートしていない、だって「スタート」したって何も変わりゃしないからだ、スタートするからゴールへ走らされるのであって、スタートしなけりゃそもそもゴールも生じ得ない、そういったスタート&ゴールのことは、正直「ヨソでやってくれ」とはるか昔から思っている/なんでヨソに合図されておれがスタートせにゃならんのか。
スタートしたら二歩ぐらいでくたびれるだろ……自前でスタートなんかしなくても、ずーっと常に、何か始まってませんか? 始まりもなければ終わりもない何かの中にわれわれはずっといませんか? その「何か」と、おそらく数十年、つながったまま来てしまった、僕の楽しさていどというとずっとそれだ、それ以外のことがあるなんて知ったのはごく最近だ。

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本当に楽しいことが何一つない

れわれは、生後6ヶ月まではインチキなしだが、生後11ヶ月にもなると、けっこうインチキをてんこもりにしているものだ。
これは割とマジであって、ウソではない、人間はハイハイをし出して、つかまり立ちをし、言葉らしきものをしゃべりだすと、もうダメなのだ、そこからは「クソガキ」になるのである。
インチキ、つまり、自己演出や、自己顕示、自己陶酔、自己欺瞞などをやりだすわけだが、これはもう生後11ヶ月にはけっこう根付いている、だからわれわれが「昔はわたしも〜」「ちっちゃいころかわいくて〜」とか言っているのは基本的にゴミである(口が悪いが許せ)。
われわれはふつう、そうしてインチキテンコモリの生きものなのだ、インチキテンコモリだから、生きているうち<<本当に楽しいことが何一つない>>、時代が進めば進むほどこのことは加速していく。

本当に楽しいことが何一つなかったとしたら、どうする? 誰でもご存じのように、何かしら娯楽や、愉悦物を取り込み、刺激に浸って恍惚状態になろうとする。
重要な視点は、そうした娯楽と愉悦と刺激と恍惚は、<<本当に楽しいことが何一つないから>>、慰めとしてしょうがなくむさぼられているということだ、本当には楽しいことが何一つないから、とっても楽しいことがあるつもりになりきろうと自己洗脳しているということ、ここを見誤ると軌道修正が利かない。
このところ、やたら笑顔がごり押しされたり、やたら充実風味がごり押しされたり、やたら液晶画面がビカビカ光ったり、やたらキメゼリフやキメ顔が連発されたり、やたら派手な名前がキラキラアピールされたりするのは、全部このせいだ、本当に楽しいことが何一つないので、刺激で覆い尽くして楽しいふりで強引に押し切ろうとしているのだ、しかしさすがにそんなことは無理がすぎるに決まっている。
正当な論理で、正しい認識にたどり着かねばならない、まずわれわれは、生後6ヶ月まではインチキがない、その後はインチキがテンコモリだが、インチキがテンコモリになったせいで、本当に楽しいことが何一つなくなった、つまり本当に楽しいことは生後6ヶ月までと現在にしかないということだ、ただしその意味での「現在」を所有している人はきわめて希(まれ)だ。

クソガキが奇声を発するのは、楽しいからではなくて、楽しいことがないからだ。

クソガキもそうだし、われわれもそうだ、本当に楽しいことが何一つないというのは、とても苦しいことなのだ、それでその苦しさを忘れるために、何かに酔おうとして、奇声を発さざるを得なくなっている/われわれもそうだ、そもそもわれわれがクソガキじゃないなんて誰も認めてはくれない。
繰り返し、原理原則をお忘れなきよう、「本当に楽しいことが何一つないというのは、とても苦しいこと」であって、「それをごまかそうと奇態を示すが、キリがない」、「本当に楽しいことが何一つないのは、われわれがもともとインチキテンコモリの生きものだから」だった、「ただし生後6ヶ月まではそうではなかった」ということ。

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元に戻れ

は、健全な状態なら、誰しも「新しいこと」「新しい自分」に挑戦しようと思っている。
けれども、この「新しいこと」「新しい自分」への挑戦、そのアプローチは、どういう仕組みで成り立つものであり、どういう心構えで挑まれるべきものか、ということはあまり言われないでいる。
「新しいこと」「新しい自分」といっても……それは「新しい」のだから、現在の自分にとっては未知であり、現在の自分には「わからない」はずだ、この「わからないこと」をやらされるとストレスが溜まる(かといって、すでにわかっていることをやっていてもしょーがない)。
どうすればよいのか? 僕は思いがけない視点を提出しておきたい/われわれは、本当にわからないことに取り組むことはできない、本当にわからないことに取り組もうとしても、それは時間と労力を浪費するだけだ、その浪費でストレスと徒労を憶えたら、あなたは健全さを失ってしまうだろう。

1.あなたが挑戦しようとする「新しいこと」「新しい自分」は、実は「本当には心当たりのあること」だ。
2.「本当には心当たりのあること」は、遠い昔に忘れてしまったことだ、その「遠い昔」は、最大で生後六ヶ月の時点まで遡(さかのぼ)る、これは「記憶にないレベルで、心当たりがあること」と捉えてよい。
3.「遠い昔」、つまり「あのとき」にあったはずのもの、それを取り戻すために、元の自分、原初の自分に回帰しようとするはたらきにおいて、あなたの「新しいこと」「新しい自分」への挑戦は発生している、だから「本当には心当たりのあること」にあなたは向かっている(記憶にはないので「新しいこと」と感じられる)。
4.だから「新しいこと」「新しい自分」といって、闇雲に突っ込まないこと、それが「わからない」まま突っ込むと、あなたは必ず<<自前でインチキなイメージを組み立ててしまう>>、だから未来のイメージを打ち立てないこと、元あったところに帰るということが、あなたの新しいことへの挑戦となる。

やり方は、回帰の中で見つかっていく。

われわれはかつて弱く……弱い代わりにインチキはしない存在だった、あれから時間が経ってわれわれは強くなったが、そのぶんインチキを豊富にする者になってしまった/われわれは生きていけるようになった代償に、時間をかけて、あの日見たものを取り戻さねばならない、今度は賢明な者として。
「新しいこと」「新しい自分」に挑戦するといって、自分を強くするほうへ駆け出さないこと/弱いままは生きられなかった自己欺瞞のツケを、現在になって償却してゆかねばならないのだ、それはけっきょく新しい技術やノウハウを付け足すようなことではまるでない。

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プラチナや ダイヤ嵌め込む セレブの音

[古池や]−[蛙(かわず)飛び込む]−[水の音]というのがあったとしよう。
この、美しいとされる芸術的俳句をパワーアップさせるなら、こうだ、「古池! 古い池!! ああ古いなあ! しかも池ですよ池! 池ってありますよね!」。
「蛙! 蛙飛び込むよ! 蛙飛び込むよねえ、蛙! ネイチャー!」「水の音! 水ですよ、水だから音しますよ、ポチャーン!!」。
ふる、いけ、やあああ、かわ、ず、とび、こむ、みず、の、おとっっっ!! ほらこうしたらパワーアップになるだろう、しかしこれを美しく芸術的と認めろというのにはいかにも無理があるのだった。

「古池」とか「蛙(かわず)」とか、そういう静止概念にこだわった瞬間、もう負けなのだ、静止概念というのはつまりイメージだ、詩文にわずかでもイメージを引き当てた瞬間、もうそいつの負けである、人間的敗北といってよい。
本当に尊ばれるべきは、[古池や]−[蛙(かわず)飛び込む]−[水の音]というのがあったとして、そのあいだに揺蕩っているハイフンのほうなのだ、このハイフン部分「だけ」が直接見えるようにならなきゃ話にならない。
ハイフン部分を何と呼べばいいか? そんなの何もむつかしくない、呼ぶとしたら「つながり」だ、そりゃ見たまんまそうだろ、ハイフンは左右の句の「つながり」ということで当たり前だ、こんなことがわからんヤツはいない。
僕とあなたがあったとして、あなたがあなたに注目し、あるいは僕に注目して「九折さんは……」という、そのパターンに疲れ果てるのである、なんで「つながり」に直接触れられねえんだ、おれはぜったい難しいことを言っていない!!

保証する、光っているのはハイフン部分だけだ。

そりゃそうだろ、オメエ、近所に古池があってバンザーイってなるかよ、またそこにカエルがいたとして「あ、カエルだ」としかならんだろ、まして水の音なんか毎日トイレで聞いているじゃないか、そんなどうでもいいものをピックアップして何がうれしいんだ。
[プラチナや]−[ダイヤ嵌め込む]−[セレブの音]、けっきょくこういう視点で、「プラチナ!」「ダイヤ!」「セレブ!」みたいなことにしか反応しなくなっているじゃないか、そんなのもうマトモな人間じゃないぞ、静止概念にこだわりズッキュゥゥゥンをやらかしている自分のアホぶりを反省するんだ、そこを反省しないと本当に「つながり」って見えてこないから。

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静止概念はただの罠
鼓を叩きゃ音が鳴るわな。
しかしアホだ、太鼓の「音」そのものが「いい」ということはありえない。
「音」は「音」だからな……その証拠に、いかなる名人の鼓(つづみ)にもミツバチが寄ってくるということはない。
センスがあるつもりで、音に「こだわる」人はアホである、見るところが違う、こんなしょーもない誤解で人はどれだけ時間を無駄にするのか。

幅跳び選手が幅跳びするわな……砂場にズサッと着地して、測定すると世界新記録で、電光板の表示と共に「ワー」と歓声があがる。
しかし、競技の本質は「幅跳び」であって、「幅着地」じゃない、「跳び」が優れていたのであって、「着地」が優れていたわけじゃない。
真の「幅跳び」を観るならば、踏切りと着地があったとして、踏切りにも着地にも用事は無いのだ、跳んでいる最中、その対空のあいだだけ彼は幅跳び選手である、着地した時点からもうどーでもよろしい。
A点とB点に「こだわる」のは、誰だってできる、そりゃ確認できるポイントだからな、だがA点とB点の「あいだ」という、確認はできないが実在するそれに、直接触れ続けたことはあるか。

静止概念にこだわるほどアホが増える。

静止概念に囚われると、人は「こだわり(拘り)」を生じるのだが、強く囚われると強くこだわることになり、強いこだわりはビッグパワーになる/パワーが掛かっているということは「動けない」ということだから、つまりこだわりビッグパワーで「超動けない状態」になる、これで「超動けない状態のままめっちゃ主張したくなる、『だってさあ!!』」、これもうホントにやめよう。
静止概念にこだわれば拘束されて動けなくなるのは見るからに明らかなのだが(だって「静止」概念なんだからさ)、ホントもうおそろしいよなあ、静止概念ビッグパワーは完全にただの「罠」だよ、飛行機を止めたら墜落するのが当たり前で、そんなことをしてポカーンと平気でいるのはやめよう!!
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完全燃焼は選ばれし者
きているうちに一度でも「完全燃焼」に至った人は別格だ。
人は「栄光」によって格差がつくのではなく、「完全燃焼」によって格差がつく。
ふつうわれわれは、「ヒートアップ」するばかりで、「完全燃焼」には至れない、われわれはふつう焼け付きを起こすことしかできず、完全にクリーンな光を放つ「完全燃焼」には至れないものだ。
「完全燃焼」に至ったとき、初めて余分のすべてが燃え尽き、人は最奥の信頼を得ることができる、そこまでいって初めて「その人」の本当の姿を見ることができるからだ、まあしかしそんなゼータクをわれわれ凡人が夢見るのは分不相応だと覚悟すべきではある。

いわゆる「選ばれし者」とは、まさにその「完全燃焼」に至れる人であって、単なる身分に気取っている人ではない。
だから、人は「選ばれし者」になんかなりたがらない、「完全燃焼」なんかさせられてはたまらないからだ、全エネルギーを一カ所に燃やし尽くせという話、それは癒やし文化の正反対だと言える。
「完全燃焼」に至った人は、自己説明や、いわゆる「人づきあい」のようなことをせずに済むようになる、なぜなら説明しなくても、その人の本当の姿がすでに露出しているからだ、説明しなくても「この人」というのがわかる。
「完全燃焼」……それは不可能を可能にする力だが、だからこそ人はそれを厭う、なぜなら人は、不可能に見えることをやらされるのが大キライだからだ。

越えられないものを越えて、止(と)められないものを止(と)める。

逆に、「越えられないものは越えられない(当たり前)」「止(と)められないものは止(と)められない(当たり前)」とするのが、癒やし文化だ、この文化の中で人々は話が合う。
不可能に見えることをやらされることほど、心理的に苦痛に感じられることは他にない、これに苦痛を感じない人は、不可能に見えるものを「不可能……?」と疑っているのだ、これでは人と話が合わないだろう。
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夢の中で動けるように訓練をする
の中で動けないと使えない。
夢の中で動けるように訓練をする。
夢の中でフワフワせず、夢の中で夢よりも静かに動く、しかもくっきりと早く動く。
そうしたら夢が続く、夢を壊さず、しかも夢に飲まれずに生きてゆける。

夢の中で動けるように訓練をする。
夢の中で話せるように訓練をする。
夢の中で察知できるように訓練をし、さらには、夢の中で戦えるほどに訓練をしてもよいかもしれない。
夢の中といって、眠っているときにそれをしろってんじゃないよ、起きているあいだも「夢」は続いている、夢の世界があるのじゃなくて、そもそも「世界」そのものが夢なのだから。

夢の中にしか値打ちはない。

そりゃそうだろ、どこの母親が、生後六ヶ月の赤子に、「あなたはスクワットをして大腿筋を鍛えるのよ」なんて話すんだ、人は夢の中を生き続けるに決まっている、そうでなきゃ人間らしくない。
夢の中で動けるように訓練をする、そうでなければ、あなたの何ひとつも人に夢心地を与えることがないだろう。
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遡る時計
二時、老いるというのはウソです、われわれは一週間後のセミを見て「老いている」とは感じません。
遡(さかのぼ)って十時、所有するというのはウソです、登記した土地や手に持ったペンを「所有している」と言い張る同士があるだけです。
遡って八時、ゲットするというのはウソです、食べた肉はアミノ酸になり細胞を増やすだけで「わたし」を増やしません。
遡って六時、傷ついたというのはウソです、記憶喪失になれば「傷」は具体に残っていません。

遡って四時、朱肉が赤いというのはウソです、視力がなければ赤色なんて見えません。
遡って二時、「この世界にわたしが生まれ落ちてきた」ということ、これをわれわれは未だ「ウソだ」と言えません。
我々は二時に生まれて、四時にはもうウソにだまされていた。
そのまま十時間が経って、「こうして老いて死んでいくんだよね」と最後のウソにまで行き着かされた。

生後六ヶ月まで、あなたはだまされていなかった。

遡っていくと、あなたは生後六ヶ月のところに行き着く、これほど確かなことがあるだろーか(当たり前すぎて笑える)。
ん? 生後六ヶ月のあなたと現在のあなたが、何か別の「わたし」だなどと言い張るつもりかね、そんなことはありえんよなあ。
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「人間のこころとは何か」
んだかんだ、パーティが楽しみだな……
明るい話にしなくてはならないし、大げさだが、人間のこころを取り戻さなくてはならない。
誰も人間のこころを失ったりしてないわい、と言いたくなるのも、重々わかるのだが、まあまあ。
「人間のこころとは何か」ということについて、誰だって思うところはあるだろうが、それについて入念に、十年がかりで再定義を得たなんてヘンタイはいるまい、僕は最短で美女の役に立ちたい。

たとえば僕は、小説を書いたり、こうしてブログを書いたり、とにかく文章を書いているが、実は人間世界に「文章を書いている人」などというものは存在しない。
これ、何を言っているかわからないと思うが、ここが現代社会の闇を直撃している部分なのだ。
あなたから見て僕は「九折さん」のはずだが、実は僕が文章を書くのをやめたとしても、あなたにから見て僕は「九折さん」のままなのだから、そこに「文章を書いている人」などというよくわからない存在はないのだ、虚妄だ。
たとえば僕が大工に転向したとしたら、僕は「大工をやっている人」になるのか、そんな「○○をやっている人」などという存在は虚妄だ、たとえばわれわれが「フィギュアの本田真凜ちゃん」などとうれしそうに呼んでいるのは、一人の人間を見られなくなっている、一種のビョーキなのだ。

この世に何かをしている人などいない。

「人間のこころとは何か」、その再定義は、「わたしとこいつ」によって得られる、そのとき目の前の「こいつ」に向けて、「何をしている人なんですか?」と視点変換が起こるのは、一人の人間を見られなくなっているビョーキだ、母が子に「この子は将来何をやらせようかしら」としか見られなくなるビョーキと同じだ、将来何になったってそいつはそいつでしかないのに。
一人の人間を見られなくなった代替に、われわれは偶像化視点(アイドル化して人を見ること)を用いている、つまり「文章を書いている人」も「フィギュアの本田真凜ちゃん」も「AKBの○○ちゃん」も全部同じなのだ/それは業者を指定するときの呼び方なのだが、この呼び方で友人関係を作ろうとするからごちゃごちゃになってしまう。
視点変えてこ | comments(0) |
未来を切り拓くということ
ういえば今週末はパーティなのだった、事情があって一週間繰り上げである。→参加エントリはこちらから
なぜ繰り上げかといって、十月後半は各地でハロウィンパーティがですね……それで会場の都合もあって日程を調整した。
以前にやっていたワークショップとかも、再開したほうがいいのだろうが、なんやかんやしているうちにタイミングを逸してしまった、まあでも近いうちになんとかしようとは思っている。
ダサい言い方をするが、未来を切り拓きましょう、未来がすでに無い人はもうダメだが(えっ)、未来があるうちにそれを切り拓くのは実に明るい話なのだった。

僕が思うに、一般的な認知は、識られるべき本来のことと逆転しているような気がする。
たとえば「十年間の修行」といったとき、「十年間もか〜」「きっと、膨大な、努力をされて」と感じられるのだが、これはまるきり逆だと思う。
十年間という時間は短いというか、人間の生きる時間そのものが絶望的に短いし、一方で「努力」というのは、ほんのちょっぴりでいいのだ、ほんのちょっぴりの努力で人間はえらい差のところまで行ける(だから本当はたいした差ではないのだが)。
ものすごく研ぎ澄まされた刃物があったとする、その刃物で蔦(ツタ)をちょいと引いてやると、プツッと蔦は切れるだろう、未来を切り拓くとはそういうこと、そのとき研ぎ澄まされた刃物が人間の「智恵」にあたる、優れた「智恵」を用いれば、未来を切り拓くにはちょっぴりした努力でいい。

切り拓くのは筋力じゃなくて刃物だ。

この刃物がビミョーに鈍いとだな……すごく力まないといけないし、すごくゴシゴシ繰り返さないといけないし、疲れるし、何か間違っている気がして、やる気が失せてくるのだ、「智恵」ということを今一度ナメないで見直してみるべきではないだろうか。
「みんなで力を集めよう」という発想はよくされるが、「みんなで智恵を研ぎあおう」という発想はほとんどされない、たぶん単純に「智恵」という存在がナメられているのだ。
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根源的なつながりについて

は生まれてこの方、人との「つながり」を探し求めたことがない。
友人であれ身内であれ、恋人であれ、その他の生きものであれ、「つながり」をわざわざ求めたことがない。
しかし一方で、おそらくその「つながり」というものを、平均より多く得てきているのだと思う。
正直なところ、僕は思う、僕はもともとの「つながり」だけがどうやら薄ぼんやりわかっていて、その「つながり」を見失った人の挙動が、ことごとく「わからん」と目に映ってきたのだ。

僕はずっと昔から、交友関係を、共同体に支配されることを厭っていた。
僕が誰と出会い、誰とつきあい、誰と遊ぶかは、僕自身によって決めたくて、もし僕自身の力によってその出会いがゼロになるのだとしたら、ゼロでかまわない、それでも自分の実力どおりでいたいと思っていた。
だから、身内とか、学級とか、出身とか、同窓とか、チームとか、団とか、そういうものの中に閉じ、その中で自分の実力によらない「人脈」めいたものを気取っているのは、気にくわないと思っていたのだ、すくなくとも僕自身に限っては。
そうして何十年も生きてきているが、これは今になって、社会的な仕組みのつながりを捨て、根源的なつながりを確かめに出る旅なのだと思う、「いろんな奴がおったなあ」というこの世界について、「こんなすばらしい世界はない」と僕は何度も確信してきた。

きずなも縁も全部ウソだ。

それらを全部ウソだといって、厭世しているのじゃない、そんなウソのものにしがみつかなくても、もともと根源的な何かのつながりがあるから、人工物は不要なのだ。
誰だって、生後六ヶ月まで、きずなとか縁とか「つながり」とか、欲していなかったじゃないか、それでいて誰に対しても、「赤の他人」と切り捨てて眺めることはなかったじゃないか、そこには根源的なつながりの感覚があった。

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エンディングにヒントがある、「いろんな奴がおったなあ」

ントは自分が死ぬときにある。
自分が死ぬとき、自分がどうだったかを考えず、「いろんな奴がおったなあ」と考えること。
この、「いろんな奴がおったなあ」という事実、これ以上間違いない事実は他に無い、これほど確かな事実は珍しいぐらいだ。
この、「いろんな奴がおったなあ」ということ、それが、生きているうちつながりがあったということ、そしてそれ以上のつながりなんて存在しないということ。

われわれはもともと、ひとつのつながりとして、この世界に生まれ落ちている。
まったく意外なことに、われわれは個人が何かになるのではなく、生きとし生けるものすべて、地球外の生命も合わせて、何なら生命ではない事象まで含めて、全体でひとつの「何か」になろうとしている。
もともとひとつのつながりとして生まれ落ちているので、わざわざ分割する必要もないし、わざわざ、人や何かとの「つながり」を飢えて探しまわる必要もないのだ。
人間はカミサマになるのかホトケサマになるのか、どういう呼び方にしてもよいと思うが、言うなれば「宇宙が修行中」なのであり、われわれはその中のひとつの部品にすぎない、真相はそれぐらいスケールがデカく、およそ人智の及びうる範囲ではない。

「いろんな奴がおったなあ」で終わり(一巡)、それ以上のことはないし、それ以外のこともない。

この宇宙全体の修行から、脱落してはいけない、宇宙全体の修行なんて理解できね〜というのは当たり前だけれど、それを謗ってはならない、理解できなくても、脱落はしてはいけない。
脱落すると、次回の修行に回されると予想されるが、その次回の修行というのがどえらい先だ、次の宇宙が生まれるなんて何十億年も先だ、最近は物理学も宇宙が多元に存在していることを突き止め始めている。

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身体の各部位がグレるということ
体の各部位、各臓器は、それぞれの「声」を持っているのだ。
口は食べたがるし、喉は話したがるし、足は歩きたがるし、胃は膨れたがる。
身体の各部位、各臓器が、それぞれ集まって全体の「ファミリー」を形成していると見ていい。
この「ファミリー」の中で、認められず、声を聞いてもらえない部位があったとしたら? その部分は「グレる」のだ、いわゆる「非行に走る」、非行に走ったらどうなるか? ご存じのとおり、ファミリーに復讐せんがために暴れる。

ペニスは挿入したがり、ヴァギナは挿入されたがる、乳首は吸われたがり、舌は舐めたがる。
これら各部位が、身体全体の「ファミリー」に統合されていたら、部位は暴れないのだ、各部位は「なにがなんでも」と欲しているわけじゃない。
ただ声を聞いてほしいだけ、そしてファミリーの一部として認められたいだけなのだ、一部として認められて声が聞きどけられていたら、少々ブーイングするだけで収まる、破滅的に暴れるというようなグレ方はしない。
口がグレたら摂食障害になり、胃がグレたら胃酸過多、胃が引きこもったら消化不良になる、足がグレたら貧乏ゆすりを始める、そしてペニスやヴァギナがグレ始めると、性癖とオナニーと、淫行への衝動が止まらなくなるのだ。

あなたは無欲だったのではなく、各部位の声を黙殺してきただけだ。

若いのに、食が細い人、あまり遊ばない人、話さない人、動かない人、いろいろあるけれど、これらは性格的に無欲なのじゃなくて、身体の各部位と関係が切れてしまっているだけだ、声の聞き取りが恢復したら若い人間の健全な欲求は取り戻されてくる。
身体の各部位の、声を黙殺しつづけて、自分のアタマだけで物事を決めていると、いつからか各部位がグレて猛烈な反発をするようになってくる、グレた部位がやがてあなた自身を危機に追い込んでしまうだろう/声を聞き取られず、ファミリーに認めてもらえず、無視され抑圧され強制された身体の各部位が、グレるのは理の当然とみなすべきだ。
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「獲得」を忌避してみる法
間は「やる気」で目が曇る。
「やる気はイコール堕落なんですよ」と看破した友人もいた(「わかったんです」とそいつは半泣きで言っていた)。
なぜ「やる気」で目が曇るかというと、たいていその「やる気」は、「獲得」をターゲットにして生じているからだ。
「獲得」ということに向かうとき、人がすることは「行動」であって、「行為」ではない、つまり動物的になってしまうのであり、それは人間の足しにはならないということが、やがて誰にでもわかってくるのだ/いや「誰にでも」ではないかもしれないけれども。

生きているうち、やる気にならなかった人のほうが少ないのであって、多くの人はこれまでの自分の「やる気」が、けっきょく自分に実りをもたらさなかったということを経験的に知っているはずだ。
であればいっそ、「獲得」という動機を捨ててみてはどうか? あなたは本当に「獲得」をモットーにしなければ何をすることもできないか、それはあまりに視野狭窄ではないのか。
本人は「やる気」のつもりなのだが、実は「獲得」に駆られることによって、ひどく不自由な状態になっている、不自由な状態で何かをしようとすると、不自由なものでやたら「ガンバる」ことを強いられるわけだ、するとそこには筋張った人間が形成されていってしまう/しかも肝心のものは得られてこない。
どうせヒマなわけだし、いっそ「獲得は忌避する」ぐらいのつもりで、やってみてはどうか、そのことがどういう心境をもたらし、功を奏するかどうか、試してみるだけの可能性は窺えるはずだ。

情けないことに、僕はこれまでに、何一つ獲得してきていない。

まったく自慢になるようなことではないが、この際はサンプルとしてわかりやすいのでやむをえないだろう、僕は実際何も獲得せずここまで生きてきてしまった、何しろ獲得とやらにガンバれるような根性がない者なのでしょうがないのだ(これでも本人としてはガンバっているつもりなのだが)。
獲得しなくていいというとき、人はとても自由だ/もし僕が、あなたを獲得したいと駆り立てられたなら、僕はあなたを決してデートに誘わないだろう、不自由な僕はあなたに迷惑を掛けるしか能が無いからだ。
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「実感」は学門ではない
とえば873という数字は、3で割り切れる、それは8+7+3=18であって、各ケタの数字の和が3の倍数である数は必ず3で割り切れるからだ。
なぜそれが「必ず」と言い切れるか/それは[8+7+3=3の倍数、800+70+3=873]を一般化して、[a+b+c=3n, 100a+10b+c=N]としたとき、⊆亜櫚ー阿魴彁擦垢襪99a+9b+0=N-3nと導かれ、N=3(33a+3b+n)となり、Nが3の倍数になるからだ。
このように、「いちいち数字をいじくっていたら埒(らち)があかないが、一般化したら一発でケリがつく」ということがある。
われわれにとっては、「873」とか「7911」とか、数字のほうが「実感」があるのだが、実感があるからといって、それが解答にケリをつけてくれるとはかぎらない、なぜなら「実感」は学門ではないからだ、学門にたどり着かないかぎりいかなる実感にもケリはつかない。

われわれは、おちょくられれば腹が立つし、高級品を見るとむさぼりたくなる、イケメンに微笑まれると女性は「キュン」となって、性格の悪い上司と仕事をすると疲れる。
これらの「実感」を、いくらこねくりまわしていても、何の発見もないし、何の解決もないだろう、毎回ひたすら「実感」を食らうだけだ、何一つケリがつくことはない。
腹が立つとかむさぼりたいとか、キュンとなるとか疲れるとかいうのは、いわゆる「感受性」だ、この中に学門はない、学門は「識」の能力だからだ、「識」がなければ人は延々と「感受性」の繰り返しを味わうことしかできなくなる。
繰り返し申し上げる、「実感」は学門ではない、だから「実感」に解決を探していると人は必ず行方不明になる、フィーリングとかいう馬鹿げたものがあなたを救ったことが一度でもあったか?

実感を離れる勇気を持て、数式はあなたの味方だ。

学門アレルギーの人は多いし、学門アレルギーの人はたいてい感受性の信奉者になるが、冷静に考えてみよう、どう考えても学門を捨てるということは「学ぶ」ことそのものを捨てることだ、学ぶことを捨てて努力するならその努力は初めから徒労じゃないか。
もちろん机上の空論や畳水練に意味はない、だが実践なき学門に意味がない以上に、学門のない実践は無意味なのだ/実感の中に解決を探すな、実感の中に学門を探せ、解決は必ず学門の形をもって現れてくるだろう。
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わかるものに肩入れしない

レビでもネットでも、とてもあわれで涙ぐましい人、が取り上げられることがある。
たとえば有名な演歌で言えば、「着てはもらえぬセーターを、寒さこらえて編んでます」という歌詞がある、これなんかとてもあわれだ。
勇気のいることだが、こういったあわれなものには、肩入れしない、「血も涙もないのか」と言われたら、それでかまわない。
そういったことが、あわれで涙ぐましいということが、わからないではないのだ、わかるからこそ肩入れしない、わかることに肩入れしていたら成長はない。

われわれは、「着てはもらえぬセーターを、寒さこらえて編んでます」という哀しさ、あわれさ、涙ぐましさがわかる、わかるからこそ同情したがる。
一方われわれは、キング牧師が「わたしは恐れない、神の国を見たのだから」と言い放って暗殺に斃れていったことや、ゲーテが「もっと光を」と言って死んでいったことなどがわからない、アームストロングの声に示された「すばらしき世界」もわからないし、チャックベリーに放たれたジョニーへの「GO」もわからない、わからないから同情も共感もできない。
わからないもの、未知のものを見、信じて追いつこうとするうち、われわれはまだ若いだろう、一方すでに知ってわかることだけを愛でようとしたとき、われわれは老人なのだろう。
着てはもらえぬセーターを、寒さこらえて編んでいることを、「女ごころの未練でしょう」と唄うのだが、僕はそこに「いやお前はセーターを編んだだけだ」と言い放ちたい、それで僕がわけのわからない奴になるのだとしたら、それは名誉なことだ。

血も涙もなくていい、それより上位のものがあるから。

寒さをこらえて編み物をしているなら、ダイキンのセラムヒートを買って押しつけてやればいい、セラムヒートの性能はすばらしいものだ、僕は着てはもらえぬセーターに同情せず、セラムヒートの発明を敬いたい。
わかるものだけに同情し、それで世界をわかった気になっていたら、世界は女ごころの未練で出来ていると誤解してしまうだろう/当の演歌だってshure社のダイナミックマイクで集音されてわれわれに届いていることを見落としてはならない。

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