☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
アカンアカンそれはマジにあかん5(終)
ーむ、本当はもっと別にいい話があって、こんなことを話したいのではないのだが、今ちょっと事情があってな。
僕は、自分の大切にしている女が、セクハラ被害や恫喝に遭って、吐き気がするほど厭な気持ちになったことがある(何度もある)。
けっきょく、女性が非力だということにつけこんで、サイテーサイアクのことしかしないよな男ってと、全男性の即時消滅を願ったことは何度もあるが(もちろん僕自身を含めてだ)、何しろ僕自身が男なので、どれだけ同情ぶっても意味がないというか、同罪人だけに逆にキモチワルイのだった、それよりはまだ目の前で舌を噛んで死んでくれたほうが女性にとっては誠実さが見えるだろう。
僕はきっと、多くの女性よりも力があるので、別にセクハラ男といわず、赤子まで含めて男という男を殺害してまわるという手もあるのだが、それを成し遂げて後ちゃんと自分も自殺するということまで含めると「うーんそれもアリだなあ」と思える一方、どうもそのことを正しい金剛乗で成し遂げられる自信がまったくない/金剛乗とは純密密教でいうところのヴァジュラ・ヤーナで、つまり帝釈天の持っている金剛杵で「殺害の功徳」(罪業しか生まない者は最速で殺すのが功徳)を積むというようなことなのだが、そんなことを正覚してやれる気が全然しない、何しろ金剛乗って大乗・小乗のさらに上位の「乗」だからね、凡夫にはムリ&ムリという気がする。

男というのは存在するだけで性暴力の装置だ、それがオメェ、非力な女性に力で詰め寄るなんて、カマドウマのオスよりもサイテーなもので、縛り上げて列車に轢殺させても何の痛痒も覚えないだろう、むしろ「功徳、功徳」という感じがして正当なものだ(そんなもん踏まされた鉄道会社は大迷惑だが……)。
まあしかし、縛り上げて列車に轢殺させるというのは、KKKが有色人種を処刑するときに使っていた方法だ、KKKも「蛮行が過ぎる有色人種どもを、こらしめて躾(しつけ)る」という精神からスタートしているから、いや逆にここは、KKKに倣ったほうがよいのかもしれない。
例外的に、愛があれば、確かに「わたしはこの人から性暴力を受けることが幸せなのに?」ということになり、例外的に男の罪業は消えるが、そんなありもしない可能性についてを、よりにもよって性暴力男連盟筆頭の僕が主張しても、何の値打ちも説得力もないのだった(うーむ、やっぱり黙って土下座しているのが最善だったか)。
何をどうすることもできないので、けっきょく男女双方とも、「愛はないので必ずリベンジ(復讐・報復)に行き着きます」ということを、前もって知っている道標にしておくしかない、生きる目標は復讐だ/そんな未来に向けて何十年も生きるのかよということにガックリくるが、よくよく考えれば、「愛をもたずに生きていくのはすっごく無意味」ということなので、もともとこれで合っているのだ、どこも間違っていない。

女性だけ拳銃を携行できる、というようになれば、バランスが取れて、大戦争が始まるだろう。

男性は頭がパーなので、女性に拳銃を向けられて屈服するぐらいなら、ここで死んだ方がいいわとなって、その後はピストルとチンコのどんちゃん祭りが始まるだろう、もともと現代の男性なんて憂さ晴らしに死ねる場所をいつも探しているようなところがある、「めちゃくちゃに襲ってから死んでしまえ」と男たちはノリノリのギャング団を形成して町中にはびこるだろう/そのときどれぐらいの加速度で流血が起こっていくものか、単なる学門として正直なところ興味はある。
うーんけっきょくのところ、僕のようなクズ男は、セクハラというクソと、そのクソを撲滅させるべきという切実さに、本心からの興味が持てなくて、愛のあるなしがどのように反映された結果をもたらすかにしか興味がないようだ、リベンジの魂が満たされたとき、何が得られるのか僕にはわからないが、せめて不幸ではないものが待っていますように、そのとき僕は日の差すところの岩陰にガスのように吹き込んで消えてしまっているだろう。
視点変えてこ | comments(0) |
アカンアカンそれはマジにあかん4
ーん、まずいぞ!!
これはもう、こういう煽られ方をすると、全体としては引き返しは不可能かもしれない。
愛というのは、原理的にはシンプルなのだが、現実的には「ありえん」のだ、突っ込めば突っ込むほど、実感的には「わっかんない!!」に行き着くのが「愛」という現象だ。
うーん、これはまずいぞ、つまり愛は基本的に「わっかんない!!」なのに、性暴力被害の憤怒と憎悪とリベンジ・アベンジについては「わかる!!」のだ、こりゃ当然情報を与えられれば与えられるほど「わかる!!」のほうに傾くのは自明のことだ、せめてこんな状況はオレが作ったんじゃねえぜという無意味な弁解だけしてマシな気分になっておきたい。

Metooに代表される、性暴力の被害レポートを受けて、胸の痛まない人間はいない、痛まないやつがいたら人間じゃねえよ。
ただし、その性暴力被害のレポートは「わかる!!」のに対して、僕がウダウダ言う「愛」とやらの話は「わっかんない!!」じゃないか、そこは、じゃあもうムリじゃねえか〜と言うしかなくなる、僕が言うところの「愛」についてのLoveMetooタグが人口に膾炙することは単純な事象の高低差においてありえないだろう。
まあ疲れてきたので急にテキトーにお茶を濁すことにするが、とにかく女性は、男の何も愛していないのに男に近づいたりしてはダメだ、どれだけときめきやハッピーがそこにあったとしても、男に近づいてはならない/わけがわからない? いやそうじゃない、文脈は確実に整合している。
あなたにどれだけときめきやハッピーがあったとしても、その男の何を愛しているわけでもない、つまり自分のときめきやハッピーしかないのであれば、男に近づいてはならない、あなたは必ず最終的に被害者になる、その男の何かを愛していたら気楽なものですべてはホホイのホイでかまわないが、その愛がないなら近づいてはだめだ/あなたの未来は必ず「わかる!!」のほうへ形成されてゆき、「わっかんない!!」のほうには形成されていかないのだ、だからあなたは必ず未来において愛の女にはならずリベンジの女になる、わざわざそんなことのために男に近づいてはならない。

胴体の配列上、叡智とセックスは、実は同次元の「わっかんない!!」エリアに置かれている。

人間の胴体の機能上、叡智というのはトップオーバーの位置にあり、セックスというのは究極のところボトムアンダーの位置にある、どちらも「遠い」ものだ……単純な性行為はカンタンだし、神学の単なる知識もwikipediaを漁ればカンタンだが、その本質的体験は人間の「身」から逸脱しているところにあるのだ、だからよほどの到達がないかぎり「わっかんない!!」にしかならない/だから必ず、どこかで「わかる!!」のほうへ転落していく、転落っつうかふつう二分も持たずに「わかる!!」のほうへ転向する。
もし、「異性の根絶」以外の方法で、セクハラゴミ地獄を脱出しようとしたら、その「わっかんない!!」に食らいつく精神、つまりやはり「学門」の精神で対抗するしかないのだ、ただし「わかる!!」を捨てて「わっかんない!!」に食らいつくのには、ただならぬハートがいる、特に「わかる!!」を捨てることは果てしなく辛くて耐えられないのだ、それはまったく「自分自身を捨てる」ことに他ならないから(実はこのことは完璧に説明しきれるのだが長大になるのでここでは話しきれない)。
視点変えてこ | comments(0) |
アカンアカンそれはマジにあかん3
には、大切な女がたくさんいるので、セクハラという事象の存在を、たいへん憎んでいる。
実際、僕がやっているパーティ企画でも、男性によるセクハラ行為に対しては監視が厳しく、男性陣の萎縮ぷりったらない、それについては女性陣からむしろ「男の人たちがかわいそう」という同情の声があがるぐらいだ。
けれども、そこは甘くできない、それどころかもっと厳しく取り締まらないといけない、これはマジだ、現代の男はとてつもなくバカなので、まともな入口に至るまでは決して甘やかしてはならないのだ。
まともな入口とは何か、それがだから「愛」だと、アホみたいなことを繰り返し言っている、たとえば犬を愛していないおっさんが、「この子犬かわいいな」と、ペットショップから買って帰ったら、そのあとは悪夢のような地獄絵図が待っているだろう、何しろ愛していないのだぜ、愛してもいないのに「欲しかったから」といって子犬を買って帰っていい世界がどこにある? 愛について覚醒するまでは毎日のドリンクが煮え湯でよろしい。

愛というのは、何も難しいことではなく、ただ「ありえない」というだけだ、それは不可解なだけであって難解なわけではない。
愛というのはつまり、「欲しい」の代わりに「あげたい」が出現するだけだ、欲しくてムラムラするのではなくあげたくてムラムラするというだけ、これは単純な話だが、ありえるかありえないかでいうと現実的には「ありえない」としておいたほうがバランスがよろしい。
まもなくやってくる初夏に、僕が女を拉致して、日本海側に連れて行く、そこで何をしたいかというと、僕が何を欲しがっているというのではなく、その女に富山湾のホタルイカを食わせて「あげたい」のだ、丁寧に仕事されたホタルイカの沖漬けを食わせて「あげたい」、見霽かす初夏の海を目の前にしたままナイロン袋から沖漬けを手づかみで食う光を見せて「あげたい」、そう思うとムラムラしてたまらなくなるぜウオオオオひゃっはー、というのが愛だ。
あなたは伊勢丹に行くと、「ヤバい、このバッグ、超欲しい」とはなるだろうが、「ヤバい、このペン、九折さんに超あげたい」とはならないだろうから、僕に対する愛はない、それが間違っているというわけじゃない、それで「合っている」のだ、だからあなたは僕の言うところ、「存在しているだけで性暴力」ということに対して、「うーん、それは確かにそうかも」と納得する、ただそれだけのことだ。

本当は、あなたが僕に「あげたくて」来るのが、あなたにとっても一番気楽だ。

なぜなら、あなたが僕に「あげたくて」来ているなら、僕がそれを奪うことは(性)暴力にならないからだ、これによってのみ(性)暴力の被害者は消滅する/ただしこの「愛」は現実的ではないのであくまで仮想の思考実験でしかない。
このことは原理的にはスッキリカンタンに見えるけれど、正しく現成しようとすると「原理的に不可能じゃね?」という循環に陥るのだ、なぜなら愛というのは、「あげよう」「与えよう」と努力することではなく、「こころのまま」にしてみたところ、「あげたい」「与えたい」というこころが爆発する>>ということだからだ/「こころのまま」にしてしまったら「欲しい」ばっかりになるでしょ? それが「愛」がないということだから、愛というのはシンプルだが現実的は不可能、さらにいうと「見当たらない」なのだ、努力で済むなら誰だってとっくに愛なんか獲得済みに決まっているだろう。
視点変えてこ | comments(0) |
アカンアカンそれはマジにあかん2
る男性が、精一杯健全のつもりではあったのだろうが、「まともに女性と接することができるようになりたい、ちゃんと勉強して練習したい」と言った、この男性は僕などよりはるかにイケメンの男性で、あこがれに足りるような自活を獲得している男性でもある。
それでその男性は、がんばりますという調子で、勇気をもって女性の横に座ったのだが、僕はその途端に彼の頬を軽く平手打ちせざるをえなかった/このことは感触的に、全員を驚かせはしたが、全員を何かよろこばせもした(当の男性も何か妙にワーイとなった、なんでだよ笑)。
僕は全員に聞こえるようにきっぱり言うしかなかったわけだが、「いかなる理由があったとしても、男が女を『練習』に使っていい道理はない、ましてカネを払っているわけでもないのにだ、いきなりひっぱたいてすまんかったが、ここでは罪を最小限で断ち切るにはこの方法しかないんだ、わかってくれ、みんなも、今の『罪』は即刻『罰された』ということで、『済んだ』ということにしてやってくれ」。
そのことは、なぜか当人を「ワーイ、叩かれちゃった」とはしゃがせたが(繰り返すがなんでだよ笑)、このとき僕はこの男性とほとんど初対面なんだぞ、なぜ僕だけこうして毎日のように魂をギリッギリにすり減らすようなことをしなくちゃならんのだ、これがさしあたり性暴力男連盟の筆頭者のライフスタイルです(やりたくてやっているわけではない)。

繰り返すが、僕は男性なので、存在しているだけで女性に対する性暴力だ、だからすべての女性は性的な安全保障の危急において、毎晩「すべての男性が即刻死滅しますように」と祈念するのが正しい、冗談ではなく本当に正しい、子孫の繁栄なんてこの先はバイオテクノロジーでどうとでもなるので、本当に男性が死滅するのが女性にとっての安全保障なのだ。
ただし、例外中の例外がひとつだけある、それは女性が男性を愛している場合だ、その場合だけ例外的に「殺さないで!」「彼の存在が、わたしの生の幸福なの!」ということになる/そのことは、何もむつかしいことではなくて、たとえば家の中にネズミが出たら「捕まえて放り出せ、あるいは殺してしまうのもやむをえない」となるが、それが愛して飼っているネズミのジェリー君だったら、「もしこのコが殺されるなら、わたしが死んだ方がマシです」となる、そのことと同じだ。
そして、ケーススタディとして理性的に言われねばならないが、いくつかの女性のグループにおいては、<<男性を愛することは決してない>>ので、男性の存在が性暴力でなくなるという例外が得られる可能性はゼロだと言われねばならない、その場合はあくまで冷静に、「あなたは生まれつき被害者で、最後まで被害者であり続けます、これは不動のことです」ということを受け止め、その中で不幸になりつくさないことを考えてゆくしかない(リアルに本当にそうなのであって感情論ではどうにもならない)。
理想論や希望のことはさておき、冷静なケーススタディが必要だ、幾人かの女性は、男性を愛することがないというより、「誰かの何かを愛する」ということ自体がないことが多い、それは何も珍しいことではなく、<<自己愛以外の愛を持っている人のほうがきわめてレアだ>>という前提に立ちなおして、<<愛していないすべてのものはゴミにしかなりえない>>という当たり前のことに回帰するしかない、そしてゴミに絡まれれば程度の差こそあれすべては「被害」にしかなりえないという自明が、あなたを永く救済するだろう。

他ならぬゴミ筆頭の説得力をもって申し上げる、僕があなたにコーヒー一杯をおごったって、あなたにとっては「被害」になる。

すべての恐れを脇に置き、冷静に偽りなく考えるべきだ、僕があなたにコーヒー一杯をおごったとして、「えーまた明日もコーヒー飲みに連れてってよ〜」「また明日もあなたの話を聴かせてよ〜」「明日はわたしにおごらせてよ〜」とはならない、僕に対してそうならないだけではなく、誰に対してもならないし、これまでにそんなふうになったことはないし、これから先もそんなことになることはないだろう/冷静に考えるべきだ、そういうふうになることが「ある」か「ない」でいえば、現実的には「ない」にBETするしかない。
「また明日も連れてってよ〜」「また明日も、あなたの話を、そして明日はわたしにおごらせてよ〜」とならないのは、当然ながら、あなたが僕のことを愛してはいないからだ、じゃあどうなっているかというと、「今日だけ」「コーヒー一杯の時間だけ」ということならば、「このゴミ被害にも、まあ耐えられる」「ガマンしてやってもいい」というだけだ/僕があなたの肩を抱いたら、あなたは耐えがたき嘆きと憤怒を覚えるだろうし、僕がカンボジアで地雷を踏んで死んだら、あなたは何の痛痒も覚えないどころか、何か痛快さでよろこびを覚えるだろう、それが間違っているのではなく「合っている」のだ、愛というのはそれが逆転する現象にすぎない、僕が地雷を踏んで死んだら「耐えがたい」と泣き、僕があなたの肩を抱いたら「何でもない」「何か痛快でよろこびを覚える」というのが、あなたが僕を愛しているということだ、ただしのこの「愛」というのはきわめてレアで現実的ではないと考えねばならない。
視点変えてこ | comments(0) |
アカンアカンそれはマジにあかん
れとしてはハッピーな発見が得られているのに、世間ではまったく逆の槍玉とさらし首で、逆方向に進んでいくなあ、もうおれのささやかな抵抗では何の効力もなさないぜ。
「リベンジ」ってあっさり言うけれど、リベンジって「復讐」でっせ、「報復」でっせ、つまり「怨恨」の感情を認めているってこった/じゃあどこで「怨恨」を覚えたかというと、当然記憶にあるだろう、「我慢」したときだ。
「我慢」というのは、何度もしつこく言うように、ひとつの悪魔だ、アートマ・マーラ(我慢)という、「ガマンガマン」というのが実は悪魔への帰依で、悪魔に覚醒の酒を注いでいる、その悪魔が「怨恨」という確信の力を帯びて人を絶対の「復讐」「報復」に駆り立てているのが見えないか、こんなミエミエのことがどうして見えないのだあああ。
人間の体内に「我慢の鬼」が育ち、それが「復讐の鬼」に転じることがわからないか、「ガマン」が「リベンジ」になって、まもなく無数のリベンジが集合して悪魔の「アベンジ」を形成するということがどーーーしてわからんのだ、これ以上ミエミエの状況はないぞ。

一人の女性の我慢(アートマ・マーラ)を弱体化させるのにも、どれだけ苦労するか、どれだけエネルギーとリスクを掛けねばならないものか、ちょっとは想像してくれ〜と言いたくなる/そこにおめぇ、集団でマーラに大五郎をガンガン注ぐみたいなことはやめろ、そんなもん沈静が追いつくわけがないじゃねえか。
いま世間では、Metoo運動が活性化しているが、それはあくまでセクハラを受けたというMetooに限定されていて、「わたしはこの男の人に救われました」のMetooは存在しない。
つまり、このセクハラ被害限定の女性たちのMetooは、男性たちに向けて、セクハラ加害の「Youtoo」を突きつけていることになる、それが本意だということぐらいさすがに誰だってわかるだろう。
女性にはセクハラ被害の「Metoo」が与えられ、男性にはセクハラ加害の「Youtoo」が与えられる、こんな中でオメエ若い連中に「恋あいしろ」「結婚しろ」「草食系はディス」「経済力が重要」とか、シッチャカメッチャカを強要するつもりなのか、これはあきまへんて、実際に「レイプされた苦しみを逃れたい」といって相談というか必死の対話が持ち込まれてくるのは僕のところになのだが、オメェこれどうする気なんだよ、一緒になって性暴力男を非難するのは簡単だが、当人は「男の人を愛せるようになりたい、男を愛せる女に戻りたい」と泣くほど健気なんだぞ、コイツには女の味方もいないんだ、「同情されたいわけではなくて」、コイツはヒサンな顔をしているがそれでも「復讐の鬼」になって人生をフイにしたくはないと言っている、コイツはまだこころの底から明るく笑うことを諦めたくはないと言っている。

あなたは果たして、誰かの何かを愛していたのだろうか?

僕は男性なので、はっきりわかることがある、あなた(女性)が僕を愛さないかぎり、僕は存在しているだけで加害者であり、存在しているだけで性暴力だ/あなたは女なのだから、僕を愛していないかぎり、僕に近寄ってきてはならない(当たり前)、たとえ僕があなたの身を励まし、胴体に健康と賦活を与え、知恵と気力によって未来を拓き、叡智によってめざましい「世界」を見せたとしても、あなたは「それが欲しいから」という自己愛で僕に寄ってきてはならない、いいものがもらえるからという理由で寄ってくるなら野良犬やサルと同じだ、あなたから与えたいというのでなければ男のところになんか近寄ってはならない(男女を逆転させても同じだ、僕は自分から与えたいということがないなら女には近寄らない)。
性暴力者・セクハラ男のリストがあったら、僕はその筆頭として自らを記名したい、女に軽蔑され忌避されることには慣れているので、今さらそんなことはどうでもいいのだ、ただ今もなお「男の人を愛したいの」という女もわずかながらいるのだ、彼女らにすべての抜け道を断つのはやめろ/どうかこの一点だけを可能性として考慮してくれ、僕が石を投げつけられても僕はヘッチャラだが、僕を愛してくれている女が泣くのだ、そりゃあなただって「全身全霊をなげうってわたしを救ってくれたあの人に、世間の女が無限に石を投げてリベンジしている」というのをえんえん目撃し続けたら泣くと思うよ。
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沈降と上昇、西洋と東洋
が沈降に向かっている人は、「けっきょくセックスに行き着くんじゃないですか」と感じている。
魂が上昇に向かっている人は、「セックスがすべてのスタートだな」と感じている。
魂が沈降に向かっている人は、「すべてはカミサマから始まっているんです」と感じている。
魂が上昇に向かっている人は、「すべてはカミサマに行き着くものだ」と感じている。

ひょっとすると、西洋が「落下の物語」を担っており、東洋が「上昇の物語」を担っているのかもしれない。
旧約聖書などは、人間がカミサマの国を追い出されたという描写が特徴的に強く、一方で東洋では、人間の出自より「修行、解脱」を説く向きが強い/つまり西洋は「人がどこから来たか」を唱えており、東洋は「人がどこへ行くか」を唱えている。
戦争の歴史があって、西洋人が東洋人を「見上げている」ということはごくまれだろう、だが西洋人が東洋人を「見下している」なら、西洋人の側が魂の沈降に向かっている/東洋人が西洋人を見上げて「キラキラしている」なら、実は魂の方向は東洋人のほうが有利だ。
揉める話だからあまり言いたくないが、「カミサマ」の前で「愛」を誓って、「はいじゃあセックスしてよろしい」とするやり方は、少なくとも東洋には向かないと思う、そのやり方はつまり堕落を防ぐやり方だが、そのやり方をこちら東洋に押し込まれてきたのは単に東洋人がナメられていたからだろうな。

「天から堕落するのを全力で防ぐ」という発想と、「地の底から上昇するのを全力でやる」という発想がある。

聖書世界などは、特に「堕天」ということが言われているのだから、前者の発想になりがちだろう、しかし僕などは堕落といっても、もともとゲジケジ虫みたいな自覚なので、堕落を防ごうという感覚はまるでなかった。
8階のエレベーターと、2階のエレベーターなら、屋上に近いのは8階のエレベーターだが、それぞれのエレベーターガールが「下へまいります」「上へまいります」と言ったとしたら、前者はエッとなるだろうな、前者は「ストップ! ストップ」となり、後者は「ゴー! ゴー!」となる/僕は堕落を防ごうという発想は持ったことはなく、ただ向上の足しにならんことは断じてやらんわという発想だけがあった。
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身分学、研究中9
えすぎてフラフラになっている。
突き詰めるところ、わかってくるのは、やはり見上げれば「エネルギー」で、見下ろせば「重さ」なのだということ。
重さとエネルギーはもちろん等価のものだ(相対性理論)。
人間は業(カルマ)の存在だが、見上げればキラキラしており、見下ろせば淀んでいる/下から目線の魂は上に向かっており、上から目線の魂は下に向かっている、そりゃ目線の方向的にそうなるだろうよ。

人間の業を、胴体の最下部から順に言うと、セックス、暴力、自己快活、友愛、面白さ、知恵、となり、最後はもう業から離脱している叡智につながる。
その各位の業を、見上げているか・見下しているか、ということがあるのだ、つまり見下している人にとってセックスは「罪に淀んだもの」(重さのもの)であり、見上げている人にとってセックスは「キラキラしたもの」(エネルギーのもの)となる。
たとえば、僕はよく、「ぷりんぷりんとのセックスは最高だああああああ」と言うが、こんな発言をする僕に対しては、PTAの全員は「下品」「破廉恥」と見下す目線を向けるだろう。
つまり僕から見て、セックスは「キラキラしたもの、エネルギーのもの」だが、PTAの全員から見て、セックスは「罪に淀んだもの、重さのもの」だ、もちろんPTAの見方のほうが究極的には合っている、ただしそれはPTAの全員が、すでに人を超え業をもたざる神霊的存在へと高まっていることを前提にする/もちろんPTAの全員はセックスに関わる業などとっくに超越しているので、僕などとはまったく身分が違うのだった(その証拠に、彼らは僕を見下すだろう)。

それぞれの業を、キラキラにクリアしたのか、それとも淀みに否定したのか。

PTAのおばさんは、セックスや暴力を感情的に否定するだろうが、それを感情的に否定する当人が、それをとっくにクリア済だというわけじゃない、下位の業がクリアできていないまま、上位の業に首を突っ込んだところで、それはモグリでしかない。
各位の業(カルマ)を償却すれば、たしかに身分は上がるけれど、各位の業を償却するって、ふつうタダゴトじゃないぜ、下着をひん剥かれて「キラキラ」、みぞおちにケリが飛んできて「キラキラ」ってことだぞ、男なら「この人が女の下着をひん剥いてみぞおちにケリを入れているところは何かキラキラしているな」と見える人ってことだぞ、ふつうに考えればもう入口から「ありえん!!」のだ。
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天地と人についての与太話3
「重さ」と「エネルギー」は、同一というか等価のものだ、これは相対性理論の結論なので僕が主張する筋合いではない、重さはエネルギーの一形態にすぎない。
われわれは「罪の重さ」という言い方をするが、相対論的にはこれは「罪のエネルギー」と等価だということになる/質量保存の法則があるので、「重さ」が消えることはふつうありえないが、この質量保存の法則は相対論において破れる(つまり核反応等なら質量はエネルギーの形に転じるので重さが"消える"ことは起こる)ので、「罪の重さ」が消えるという可能性は相対論においてはありうると言える。
そんな、「罪の重さ」なんて観念的なものを、物理的なものにコジツケても……とは思うが、いいのだこれで、表面上何かヤベー奴の話に聞こえてしまうのもしょうがない、そもそも「罪」なんて観念的なものを「重い」と言い出した奴が悪いのだ。xw
さて改めて、「罪の重さ」には何が報われるかというと、一般的には「重い罰」だ、罪に対しては罰が向けられる、罰によって罪を贖(あがな)うことになるのだが、実はこれ、「罰を受けた」からといって「償いをした」ことにはならないのだ/「罪と(刑)罰」の思想は、罪そのものは「消えない」という前提から成り立っているので、現在の罪刑法定主義は「償い」という可能性を放棄している、うーんこんな話こんな短い文面にまとまるわけがないだろ!!

人は罪を犯してしまうし、罪を犯してしまうと一般的には罰を受けることになるのだが、この罪と刑罰の発想は、人が罪を犯す原動力・そもそもの仕組みには立ち入らないことが前提になっている。
なぜ人が罪を犯してしまうかといえば、それは「業(ごう)」があるからだということになる、蛇にそそのかされたエヴァが禁断の知恵のリンゴを食べてしまった(原罪)のも、そもそも人の身に「優れたものを食べてみたい、向上したい」とさわぐ業があったからだ。
人間の身は、罪の重さによる「沈降」と、業のエネルギーによる「散華」が、同一等価でせめぎあって成り立っているのだ、人間の身は「上から見下ろす」と罪の重さに沈みゆくほかないと見えるし、「下から見上げる」と散華して光そのものになりゆく可能性があると見える。
仮にわかりやすいように、一般でもない特殊でもない、「秘密相対性理論」でも勝手に名付けておこうか、秘密相対性理論によると、人間の業は散華すると光(のエネルギー)になり、沈降すると罪(の重さ)になる、形態が変わるだけで同一のものだ、ただ散華と沈降では魂の行く先が異なってくる。

罪の重さには罰の重さが対応し、業のエネルギーには散華のエネルギーが対応する、この二つは形態が違うだけで等価のものだ。

簡単に言うと、誰だって自分の身は「ヤバイ」のだ、それは人間なのだから誰だって変わらない、その身のヤバさはけっきょく変わらないのだが、ヤバさのせいで地獄に沈降していくか、ヤバさのせいで天国に散華していくか、その「形態」が異なってくるということだ。
……この感じでいくと、ホーキング博士が指摘したブラックホールの蒸発のみならず、すべての質量そのものが、とんでもない"永劫"の時間の中で「蒸発」していっているということはないのだろうか? Dブレーンから蒸発したものがどこへ行くのか僕のような無学者にはさっぱりワケワカメだが、誰かいつか超絶賢いやつが本当のことを説き明かしてくれるだろう(誰かたのむ)。
視点変えてこ | comments(0) |
上から目線に鎮魂歌

筋と関係ない話だが、いわゆる「上から目線」の人がいる。
割と腹の立つものだが、あまり気にしなくてよろしい、なぜなら「上から目線」の目線は必然的に「下に向かって」いる。
「上から目線」ではなく本質は「下向き目線」なのだ、それは当人の魂が沈降に向かっているから生じている現象だ、だから「お気の毒に」ということでそっとしておいてやるのがいい。
たとえば芸能人が不倫をやらかしたりすると、上向き目線の人は「そりゃエネルギーの強い人たちの集まりだから、いろいろ一般のモンとは違うんだろう」となるし、下向き目線の人は「そもそもさぁ、芸能人なんて人たちは全員……」となる、後者は魂が沈降に向かっているのだ、それはまもなく人としてサヨナラを言わねばならない予兆でもある。

魂が上昇に向かったり沈降に向かったりする。
そのことで、人の視線の向きが決定する、「上から目線」=「下向き目線」は必定だが、これも責められたものではない、上向きの目線を保つのは人として根性がいるのだ。
たとえばオリンピックの試合を見たとき、下向き目線はすべてを見下ろし、「○○くんはとてもよくがんばった! すばらしい、感動した!」となるし、上向き目線ならすべてを見上げ、「こいつらなんやねん、どんだけ跳ぶねん、みんなバケモンばっかりじゃねえか!!」となる。
女子高生だろうがオジサンだろうが売春婦だろうがオタクボーイだろうが、関係ない、魂が沈降に向かっている者は、視線が「上から下を見る向き」になる、上から目線なら途上国は「貧しい国」だが下から目線なら途上国は「タフな国」になる/下から目線は合言葉を交わそう。

「おれにはムリだぜ」「わたしにはムリだよ!」、"明るい"目線の合言葉。

氷の上を滑ってジャンプして四回転するとか、ラーメン屋の湯気うずまく厨房に十二時間立ち続けるとか、少なくとも僕にはムリだ、どんな気迫とド根性が要るものやら、見当もつかん、だからいつも気構えだけでも、「がんばっていかんとな」と思うようにはしている、まあ実際に実力を問われたらヘナヘナの無様を見せてしまうとは思うけれど。
そんなわけなので、いわゆる「上から目線」にいちいち腹を立てる必要はない、腹を立てる必要はないというより、実はもっと恐ろしいことなので、腹を立てたりしているような場合ではとっくにないのだ、魂が沈降に向かっている、それは人としてサヨナラを言わねばならない予兆であって、そこで告げられたサヨナラはまず二度と帰参してこない。

視点変えてこ | comments(0) |
身分学、研究中8
体の最下部から頭上に向かって、償却と解放が起こっていく、これは胴体という実物に依拠しているものなので、価値観うんぬんで変更は利かない(頭の上におへそを移植したりはできん)。
第一の身分:過去、淫猥でないセックスをこなしてきたことがある。
第二の身分:「いらつく」等の、感情的にならず、怒るべきときにはっきり怒り、道を正してきたことがある。
第三の身分:困難極まる状況を、ガッツと快活さで突破し、事を為してきたことがある。

第四の身分:立場や共同体から離れて、個人として親しい友人と信頼を得てきたことがある。
第五の身分:「面白い」ということで、敵味方関係なしに、自分のすることに人がついてきたことがある。
第六の身分:自分が使ったペン(その他道具)が、他の人から見て「使い古し」にならず「神聖なもの」と扱われてきたことがある。
第七の身分:「自分」が存在することや「宇宙(この世界)」が存在することを、「あなたに触れてから初めて知った」と、限定的ではあれ「帰依」されてきたことがある。

道が合っていても、運転がヘボだと事故をする。

明らかに「第一の身分」からキツイじゃないか……身分を「思う」「考える」のは簡単だが、マジにエネルギーを吸い上げてドーンとやるのはキツイ、これは教習所じゃなくて路上のことなのだから、安全運転で堅実にいこう。
詳しいことはまた後にレポートできればいいなと思うが、まあ骨子はだいたいこれで変わらない。
視点変えてこ | comments(0) |
平等とドラゴンスレイヤー
かりやすいように、アホみたいな話をしよう、ファンタジー的な話にするとわかりやすいのだ。
あなたが、女性ばかり乗っている客船で、川を下っていたとする、女性ばかり100人が乗っている、日が暮れてくるが「このあたりは魔物が多い」ともっぱらのウワサだ。
何人かが、たいまつをもって甲板から見張りと警護にあたるが、いかにも心細い感触だ……そのときふと見ると、甲板の隅に一人の男が、暗がりに紛れ、目立たないように立っている、(あの人はなあに? 女性しか乗らないこの船にどうして)。
「あなた、どうして男の人なのに……」と誰何しようとしたとき、ひとりの女性がそれを制した、「待ちなさい、あれを見て」――男が腰にぶらさげていた長剣は、男の身分を明かしている、「なんてこと。あの方、ドラゴンスレイヤーの一人よ」/たしかにここ数年前から、洞穴に巣くう毒竜を滅ぼしてまわる一旅団があるとウワサされている、王府はすでに彼らにドラゴンスレイヤーの称号を正式に与え、国境の自由通過権を与えようとしているという話だが……

魔物が出ることで有名な難所にさしかかるとき、訳あってか偶然か、一人のドラゴンスレイヤーがそこに乗り合わせているなど、なんという頼もしさ、なんという僥倖だろう、もし少々の魔物が入り込むことがあっても、この方が先陣に立ってくださるなら……「少々の魔物どもなど、蹴散らされるに決まっているわ」、そうなると船内は明るい/「あの、どうかそんな冷えるところにいらっしゃらないで、どうぞこちらへ」という程度に、応接の態度も自然に表れてくるだろう。
これが現代においては、魔物はおらんし、ドラゴンスレイヤーもおらん(当たり前)、何が魔物かといえば「たしかに痴漢という色魔がいますね、だからそのおっさんが一番魔物ですわな」という有様なので、おっさんが間違って女性専用車両に紛れ込んでしまったときには、非難囂々で「出て行け」「死ね」としか言われないだろう。
あくまで架空の話だが、もしこの世に魔物がいて、ドラゴンスレイヤーなんて男がいたら、女性たちにとっても幸福なことだと思う、ドラゴンスレイヤーの剣士には、彼を援護する仲間として、峻厳な魔術師と陽気な狩人と、治癒を務める吟遊詩人がついている/そうしたら女性たちも、男とその仲間を「敬う」とか、自分の身を「弁(わきま)える」とか、そういったことをあれこれ考えずとも実現できるだろう。
しかし現実的なところでは、女性はドラゴンスレイヤーの男に出会う可能性はなくて、痴漢男から逃げ回らねばならない可能性――どころか蓋然性――だけが確然とあるので、どうしようもないのだった/而して問題は、この世に魔物がいるのかいないのかという一点に集約してくる、「この人がいてくれて助かった」ということが、本当にあるのかないのか、そこは誰にもわからない。

男女も年齢も勇怯も関係なく、万人は均一平等で構わないが、「ドラゴンスレイヤー」だけは別格にしよう。

どうせ存在しないのだからかまわないだろう、さすがにドラゴンスレイヤーがフェミニズムとイクメンをやらされて、駐輪場で小銭を取られて、煙草を吸うのに公営の喫煙所まで走らされるのは気の毒だ、どう考えてもそんなやつに毒竜を倒せるわけがないだろ。
世情から見て、「さすがにドラゴンスレイヤーなんて人がいたら別格でしょw」という感覚は、あと三年ぐらいは使えると思う(五年後には通用しないだろう)。
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正気を失ったツキノワグマを一喝で追い払え(たぶん無理)
の中で、ということにしておこう、実際夢の中で見たことだしな……
<<この世は魔物ばっかりである>>、魔を退治するには声を発するしかないが、いくらなんでも魔が多すぎ&デカすぎで、しかもイバっているやつが魔を放置して知らんぷりしているから、もう際限がないのである、もう収拾がつかんぜこんなもん。
わけのわからん情報を書き込んでおこう、<<魔を祓えない女が、魔を祓える男と同格(平等)になったので、男から見て女はキスをする対象ではなくなった>>、もちろんこんな情報は意味不明なので無視してよろしい。
実際、「キス」というのが意味不明になっただろう? キスをしても何も起こらなくなったはずだ、そして何も起こらないのに粘膜だけくっつけるので、それは何か「きもちわるい」と感じている人が多いはずだ。

あくまで夢の中で見た話だからね、あてにしないように、ただまあ「こういうものだよな」という実感はどうしてもある。
魔を祓うといって、そんなに神秘的なことではなく、単純なことだ、たとえば正気を失ってヨダレを垂らし、血と暴力に飢えたツキノワグマが完全獣化して突進してきたとする、それを気合いの一喝で追い払えるかどうかの話だ、そんなことができるやつはムツゴロウさんとかダウンタウンの浜ちゃんとかしかいないのじゃないか。
完全に正気を失ったツキノワグマが突っ込んでくるのに対して、気合い一喝、かつ怯んだ瞬間に木の槍を突き込んで仕留める、というようなことが、本当に現代の女子大生にできるのだろうか……できないとは言っていない、ただこれができないなら魔に食われっぱなしだ、その先にはえげつない未来が待っている。
魔を祓えたところで、何の値打ちもないというのが現代社会だが、そういう価値観をねじこんでしまったせいで、男たちもすでに魔を祓えなくなってしまった、それで魔に食われっぱなしになった穴ぼこ男に「近寄ってくんな〜!!」と女は悲鳴をあげざるをえなくなったのが現代だ、こんなもんどうしようもねーぞというか、別におれが悪いわけではないのでおれを責めないように(よろしく)。

そのとき、正直おれでさえギリッギリの気合いと恐怖なのだが、本当にみんなこれが「へっちゃら」なのだろうか。

完全に獣化したツキノワグマが、若輩の男や、女子大生に襲いかかったとして、僕にはその魔物を追い払う契りが与えられていないので、傍観するしかないのだ/今はっきりとわかるが、<<畏れと敬いを持たない>>という前提なので、すべての人はいかなる魔物の突撃も<<自分ひとりでなんとかする>>しかないという状況になっている、実際「はい、ぜったい自分ひとりでなんとかします、下に見られるのはどうしてもイヤなんです」という人が、特に女性においては大半を占めるだろう。
正気を失ったツキノワグマという、物理的なものが突っ込んでくるならわかりやすいのだが、魔物というのはいつもそんなにわかりやすい形では来てくれないので……まあぐだぐた言っても詮無きことだ、少なくとも現在は、あらゆる魔物に誰もが自分ひとりで対抗せねばならない状況にある、ちなみに向こうは単体で来るとは限らないので注意だ、何十体もひっきりなしに突っ込んでくることがある、こちらが一ミリでも恐怖したらその時点で負けなのでがんばれ。
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いつぞや試されたらしい「命の教育」とやらについて
名な話、どこぞの小学校で、豚のPちゃんを900日飼育して、屠殺する、という実験的教育をしたらしい。
僕は当事者でもないし、実態を詳しく知らないので偉そうなことは言えないが、一方的なキメツケとして、試みられた実験については「反対」だ、教育どころか子供たちに「罪」しかもたらさなかっただろうと、何の根拠もなく断言したい。
名前をつけて呼んだものを屠殺してはだめだ、名前をつけて呼んだということは、人から豚へ「わたし(たち)を信じて」と呼びかけたことになる/豚さんはきっとその呼びかけに応えただろう。
命の教育ということでいうなら、名前をつけなくても命の重さは十分にわかるだろう、名前をつけたものを屠殺したとき、そこに残る重さは命の重さではなく罪の重さ、生きものの「こころ」を殺した罪の重さだ、その重さを知ることは人を極道やギャングの方向にしか押し出さない/実態は知らないが、この実験的な試みの実行者たちの多くは、けっきょくのところ重たい後悔だけを残したのではないだろうか。

当たり前のことだが、「○○ちゃん」と名前をつけて呼んだら、その生きものには、その呼びかけに応える「こころ」が育ってしまう。
肥育したあと屠殺するというだけでも、人々は手を合わせなくてはならないほど命は重たいのに、そこにわざわざ「こころ」を育ててから屠殺するというのでは目も当てられない、そのことに専門の識者や業者は入れ知恵をしなかったのだろうか。
こんなこと、僕が世間の端っこから口出ししてもしょうがないし、思い入れのある人にとっては口論の対象にしかならないのかもしれないが、どうかこんな小さい僕のしょうもない発言は捨て置いてくれ、どうせ何にもなりゃしないただの吐露だ、僕が間違っているならそれでもいいので、それにしても僕は屠殺する予定のものに名前をつけて親しく呼んだりはしないことを選ぶだろう(ということを、どうしても述べなくてはならない状況に今ある)。
もしこのようなことで、われわれが口論することがあったとしたら、そのときはわれわれが互いを「○○さん」とは思っていないということだ、僕のことが大キライで論駁したいと感じる人は、僕のことを「九折さん」とは感じていないのだろう、そのことこそ逆に、親しく名前を呼ぶということが生きものにとってどういう意味をもつことなのかを雄弁に物語っている。

人間の堕胎だって、わざわざ名前をつけてから堕胎はしないだろう。

もし僕が、巨大な水槽にマグロの「まーちゃん」を飼っていたとして、適当に肥育したら食べてしまうだろうな、それはマグロという魚類がきっと僕の呼びかけに応えはしないからだ、とはいえそれでも、おいしく刺身をいただいたあとは、なんとなくその骨は埋葬して弔うかもしれない、一度は「まーちゃん」と名前をつけて呼んでしまったからには。
名を与えられ、呼ばれて応える、そのこころが育つ、その自己の存在(existence)と、楽しみにしている「毎日」が与えられてから殺してはいけないのだ、「生きるためには殺さなくてはならない」ということはカルマ(業)の理屈として成立するが、わざわざこころを育ててから殺すのは「生きるために」の理屈から逸脱している/僕は非難しているのではなくただ机を蹴飛ばしているのだ、どうか大目に見てくれ。
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身分学、研究中7
さまじい春の力を帯びた今日の夜の中で、今昔におとずれた天啓を書きのこして起きたい、最近は身分の話をしているがね……
おそらく、人間以外の動物に、「○○」と親しい名前を与えて呼び続けたこと、その経験のあるなしが、「身分」の感覚の獲得に大きな影響を与えている。
動物に「○○」と名前を与えて親しく呼び続けたことがある、そのことが「身分」という叡智を教えてくれるのだ、身分というのは生命の教えたもうところで人間が作り出したものじゃない。
もっと切ないことなのだ、身分というのは、そして僕がこれまで親しい名を与えて呼んだすべての生きものを、僕は一ミリも蔑んだことがないと確言しておく。

たぶん僕だって、あいつ(ら)がいなければ気づきえなかったのだ、身分ということについて。
どうしてわれわれは、人としか出会わないと思い込んでいるのだろう? 僕が振り返るかぎり、へたしたら人との出会いのほうが少ないと考えてもおかしくない。
生命だもの、僕は畑正憲師匠を私淑する者だ、僕には鳥類や爬虫類のことはわからないが、それでもガラス戸に張り付いたヤモリに対して「お前はえらいデカくなったな」と声をかけることはよくある。
今右腕に、家の猫がじゃれついて引っ掻いた後が、血を吹きだして赤い条線を生み出しているが、まったく「よろしい」と思う、われわれは生命だ、そして生命が身分の上で出会えるということを、この夜にひしめく春の力が証している。

すまんがこれは天啓だ、身分はすべての生命の上で考えろ。

これは天啓なので、誰の異論も反論も許す余地はない、生命に格差はないが身には格差がある、僕などわがままなものだから出会っていない生命に対しては無情だが、僕は自分が出会った生命についてだけはその侮辱を許さない。
生命が出会うために身分がある、この単純なことがわからないか、僕は出会ってきた生命に平等の地位は与えなかった、それは平等以上のかけがえなさを与えるためにだ。
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身分学、研究中6

ってもわかりづらい上に、長くなるので、分離しておきました。

もし興味のあられる方がいらっしゃれば以下の続きをどうぞ。

 

 

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身分学、研究中6
「目線の高さ」を設定するテクノロジーについて。
これはあくまで対話の設定であってショーの設定ではない(といっても何のことやらわからんだろうので無視せよ)。
ここに「ジョークとユーモアに長けたA男」があり、「欲と自己愛しかわからないB子」があったとする。
A男は胴体の接続が「喉元」まで来ており、B子は接続が「下腹部」までしか来ていないことになる、つまりA男は胴体が喉元まで「見えて」おり、B子は下腹部までしか「見えて」いないということになる。

なので、それぞれが「見えて」いるレベル、A男は喉元、B子は下腹部が、同列に並ぶように高さを調整しないといけない。
つまり、「見えて」いるレベルとして、「B子の喉元とA男の下腹部が対話可能」ということだ。
いつもわがままばかり言ってしまうB子が、A男の大腿に頭を乗せて「いつもわがままばかり言ってごめん」と言うとき、B子はA男の下腹部に「言う」のが「わかる」し、A男はB子の喉元が「言う」のが「わかる」ことになる。
もともと、特に男性は女性より身長が10cmぐらい高いことが多かったので、胴体の配列が自然に「目線の高さ」を調節してくれることが多かった、思春期に性器が覚醒しても男女の性器は胴体における高さの位置が異なっており、その差が身長差に充当されてうまく嵌まっていた/しかし携帯端末で対話するときには当然胴体がないのでこの配列の利益はもたらされない。

配列を上下したとき、「ひとつ」になれたら成功している。

いわゆる「上から目線」みたいなものは、うっとうしいに決まっている、「上から目線」が生じるのは「ひとつ」になれていないからだ、大将と足軽が「ひとつ」になって戦えるとき、騎馬の大将と歩行の足軽は身分が異なるが、そこに「上から目線」は生じない。
船長と船員の身分が上下にずらされているのは、船員にとって「上のことは船長がちゃんと見てくれている」ということで、船員としての任務に没頭できるということなのだ、船員が船長と同じ高さの目線になれば「船頭多くして船山に登る」となって遭難するように、A男とB子が同じ高さの目線になれば二人揃って遭難するだろう。
視点変えてこ | comments(0) |
身分学、研究中5
るほど、ここ数ヶ月の、学んだことと、ずいぶんな順調さと、そこはかとなくある気だるさの、理由がわかった。
僕はこの数ヶ月、いつのまにか制御しているのだ、これまでは奔放にしてきたデーモン(ヨーガ的に言うと「蛇」)の力の解放を。
僕はこれまで、「身分」という感覚とシステムがすべてを統御してきたなんて知らなかったし、思いもしなかったので、「それぞれ好きにしたらええやろ!」とテキトーに自由と平等を推進してきた、もともと僕はリベラル側の出身でもある。
しかし、そのテキトーな平等主義、「それぞれ好きにしたらええやろ!」の中で、僕の好き放題のデーモン解放に当てられて、周囲の人は自分では御せるわけもない量のデーモンを覚醒させてしまうことがよくあった、それで人がブッ倒れたりしていたのだ、今はもうそのことが原理的に判明したのでおおむね認識と管理が可能になっている。

しかし改めて、自説を唱えさせてもらいたく思うが、これはおれが悪いのじゃない、「身分」の感覚がないやつおよび、「身分」の感覚を否定してきた風潮が悪い。
だって、おれが逆の立場だったら、さっさと引き下がっていたもんね、「こんなやつに勝てるわけないだろ!」と、そうしてゲラゲラ笑うのが僕は好きだったし、僕は今現在も自分よりレベルの高い人を「おっかないぜ!」とよろこぶタチだ。
それがオメェ、こちらがどれだけ大デーモンを召喚して大爆発させても、何か「平然」として平等性を保っているやつがいたら、こっちとしては「ん? 何かウデに覚えでもあるのかな」と思ってしまうだろうよ、同じ身分のツラで座っているからには同じ胴体の力量があるものだとおれは想定するぞ、たとえそれが十代の女の子であってもだ(年齢や性別で差別する発想はもともと僕にはない)。
どうも同じ身分のツラで「ポカーン」としている人があると、「なんや、出力が足らんかな」と思い、こちらはますます強大なデーモンを召喚してエネルギーを上昇させるぜ、なぜそこで彼女に「引き下がりなさい」と教えてくれる人が誰もいなくなったのだろう/乗用車のエンジンで巡航運転するのにもヒヤヒヤする身分の人が、違法のバケモノエンジンでフルスロットル運転させられたら、恐慌するに決まっている、しかもこのエンジンは生きものなので停止できないのだ、いったん始めてしまったら使い切るまで運転をやめることはできない、そんなのキホン中のキホンだ。

「同じ高さの目線」で来られたので、礼儀として対等の土俵で組み合ったのだが、このパターンは例外なくその後「めちゃくちゃ」になった。

直接の友人はよく知ってくれているだろうけれど、僕はもともとがリベラルの出身なので、同じ高さの目線で来られることには、何の異存もないし何の不快もないのだ、ただ改めて言うなら僕自身は、単純に年長者に「同じ高さの目線」は向けられない者だ、それは今になって「あなただけ賢明でずるい」と言われるかもしれないが、それにしたって「どうしても同じ高さの目線でないとイヤ」というのが現代の風潮だろう、その風潮にむしろ僕が折れて苦心の末に迎合したのだからさすがに僕が非難される謂われはないはず。
就職活動で三回面接しただけでキモチが折れて悪口に荒れる若造が、マハトマ・ガンジーを相対的に批評してイケイケの公言する権利を持つのが「現代」じゃないか、またそれが間違っていると僕が思っているわけでもない/僕が研究している「身分学」においては、利益に向けて目線の高さを設定する単純なテクノロジーがあるのだが、このテクノロジーを否定して目線の高さは「全員同一」と提唱するのが現在のわれわれだ、僕はそこに生じる利益を観察する者でしかなく、また「目線の高さ」を調整したときに生じる現在の利益を観察して報告する者でしかない、つまりこちらのほうが「えらいうまくいくなあ」という事実が生じている。
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身分学、研究中4

ずデーモン(ダイモーン)を肯定する/男性には女性をレイプする能力があり、人は人を迫害・苛虐・殺害する能力を持っている。
ただしデーモンの力を肯定したとき、そこに「邪」が感じられるなら、それは己が力がデーモンに負けているということだ、これは身分が低級ということで、そこで引き下がることを発見せねばただのアホ犯罪者でしかない。
身分が高いということは、デーモンの力が邪を為さず聖を為すということだ、「やっていることは同じなのに」「まったく違う」、そこに愛が現れたり、面白さや知恵、さらには光と聖なる力が現れたりする、膨大なデーモンの力が膨大な光を表すということさえ起こる。
デーモンの力が解放されたとき、「身分」という知恵と制度がなければ、同席しているすべての人のデーモンも解放に向かうだろう、それを御するだけの胴体もなしにだ/このことは己が身の破壊に向かい、持っているものをすべて失う方向に向かう、また周囲を傷つけもするので、「身分」が認められない人はエネルギーゼロ(閉鎖状態)で生きることを勧めておきたい、実際多くの人が現在そうしているようにだ。

多くの青年は、いざとなれば自分は狂気の暴力が振るえると思っているし、多くの女性は、本気を出せば自分は度肝を抜くほどの淫乱になれる、と自負している、まるで最後の自尊心を保つ切り札のように。
だがこれらの自負と自信は、申し訳ないが低級で不毛に尽きるものだ、人が暴力にケイレンしたり女が淫乱にもだえたりするのは、人間なら当たり前のことであって、自分に宿された特別な才能などではまったくない、誰にだって当たり前にある素質だ、こんなものに選民意識を覚えるようでは単に育ちが悪くて勉強不足というよりない。
デーモンの力が、最下層で「行き詰まる」からこそ、その人は淫乱になるのだし、第二層で「行き詰まる」からこそ、その人は「欲まみれ」になるのだ、そんな無様を自負してどうする? それはまるで覚悟と技量の足りないドライバーが無謀運転で事故をしたことを自慢するような愚かしさでしかない。
解放されたデーモンの力が、淫蕩に向かい、欲望に向かい、己が活力を生じ、人々に愛まで教え、人々を醍醐味に目覚めさせ、人々に知恵までもたらし、人々に人智を超えた光まで触れさせたなら、その主体は「身分が高い」ということになる、だがここに強力な「身分」の知識がなければ、人は「自分にも同じことができる」と安易な妄想に転落し、結果ひどい「邪」を人々にもたらすだろう。

デーモンの力が使えるということは、己が身がデーモンに「破れない」ということだ。

根本的な誤解をしていて、身分の低い人は、自分の未発達の身が容易にデーモンに破裂することが「デーモンの力を使える」ことだと思っている、逆だ、それは「あなたがデーモンに使われている」のであって「あなたがデーモンを使っている」のではない、力量不足のせいでやすやすデーモンに食い破られているだけだ。
パイプオルガンに圧縮空気を送り込む、すると低音から順に、触、欲、活、豊、興、知、叡という七つの和音が鳴り響いていく、それは荘厳な和音だ、しかし配管が完成していなかったら? パイプは閉塞箇所で見苦しく破裂する/その未完成のパイプオルガンはひとしきり完成を得て和音を奏でているパイプオルガンと同じ「身分」だろうか。

視点変えてこ | comments(0) |
身分学、研究中3
近ネット上では「くっさ」「くさそう」の雑言が使われる。
こうして予感が「嗅覚」に偏ることは、身分の低下を表している(丁寧に説明している時間がない)。
虫が「においがあるものに寄ってくる」ように、「くさそう」「いいにおいしそう」の予感で生きている人はすでに身分が最下級付近に落ちている。
各感覚にも身分の序列があるのだ、下から順に(触覚A)・嗅覚・味覚・視覚・触覚B・聴覚・第六感という順番になる。

たとえば優れた女性の姿を見たとき、最上位の身分の人は、彼女の姿に何かを「読み取る」。
一つ下の身分の人は、彼女の姿に何かを「聴き取る」、もう一つ下の身分なら「この筋が力んでいるな」「この動作がやわらかいな」と感触を受け取る。
さらに下の身分になると「きれいなプロポーションだな」「きれいなラインだな」、もう一つ下になると「そそる」「おいしそう」。
さらに下になると、「くさそう」「いいにおいしそう」、さらに最下級の触覚Aの身分まで落ちると「おっぱい、おしり、ふわふわ、飛び込みたい」としか見えなくなる、こんなものもうとっくに恋愛どころではなく、食事や会話など「人」としてまともな営みができない。

「くさそう」「おいしそう」の身分に落ちた人は、もう「ばっちり」という感覚さえ失っている。

身分の落ちた彼は、「同じ仕事をやるならばっちりやれよ」「はい」と応答するのだが、実はもうその「ばっちり」という感覚じたいを取得できないのだ、「ばっちり」というのは割と視覚的な感覚だから。
人当たりを「やわらかく」しろとか、人の話していることをちゃんと「聴け」とか、今どういう状況か「読み取れ」とか、そんなことはとっくに無理なのだ/身分が低下するということは、人にバカにされるとかいうことではなくて、高次の感覚を失って高次のことは一切「見えなく」なるということだ、いかなる大聖堂にいてもフワフワといいにおいしか探さなくなる、彼はその身分を「平等」の観念に保障されているので脱出はできない。
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身分学、研究中2

末に向けて、時間が取れないので、テキトーに草稿じみて話す。
人間は、胴体の底からスタートして、上へ上へ、順につながっていかないといけないが、つまり最もわかりやすく言うと、「オナニーを覚えてからスタート」だ、どんな麒麟児もオナニー以後に覚醒を得ないのなら無意味になる。
人間のオナニーは、女性は最下部、男性はそれよりやや上に生じるので、女性のほうが一段階不利になる、ただし男性でも前立腺までいじってオナニーするようになれば状況は女性と同じだ。
どんな麒麟児も、生まれつきセックスやオナニーを知っているわけではないので、オナニーを覚えてからが勝負だ、胴体の各部を開発することはまだ簡単かもしれないが、それを胴体最下部からのエネルギーに接続して機能させるとなると、これは急に超難しいのだ、これをシロウトがヨーガ的に開発しようとすると本当に精神病になるのでやってはいけない(シャレではなくマジです)。

胴体が最下部から、上へ上へとつながっていく、つまりエネルギーの流路ができる。
下から順に言うと、「触欲活豊興知叡」という七ステージになる、熟語的に覚えるなら上から「知興豊活欲触」だ、エイチコウホウカツヨクショク、下三つの赤字は「自分」限り、上三つの青字は他の人とも「つながり」がある、最上位の紫字は自分とか他人とかを超えた人智以上の何かに至っている。
すごくカンタンに言うと、性器をまさぐってオナニーをするのが、リビドー的になるのは当たり前、また「カネが欲しい」「バッグが欲しい」「女が欲しい」「男が欲しい」もリビドー的で当たり前、次に「ガンガン走り回りたいっすよ」というのがリビドー的になるのもまあわからんでもない、それが「自分とこいつらを豊かにしたい」というのが「リビドー的」にまで至るかという「うーん?」、ビザンツ帝国の歴史を知り語るのにリビドー的になるかというと「いや……」、分子生物学や中医学にリビドー的になるかというと「それはちょっとw」、ガス灯を見ながら夜の二号線を走るのに世界が降り注いできてリビドー的になるかという「そんなやつヤバいやろ」という話、つまりリビドー的なエネルギーをどの高さまで引っ張り上げられるかということ。
エネルギーの流路が胴体の(身の)どこまで開通しているかによって、「身分」が分かれる、たとえば本当に身分が「叡」に至った人は、五人の美女から裸のフェラチオと愛撫を受け、松阪牛を食って目の前に札束が積まれて大画面に違法格闘技の流血試合が映されていたとしても、すべてのリビドーは上昇していって「叡智」に解き放たれていく/身分の低い人のリビドーは「げっへっへ」と汚らしいところにしか至らないのに対し、身分の高い人はすべてを天啓と同水準の詩文の高みにまで至らしめるのだ、「お前のアタマの中は本当に欲ばっかりだな」という人と対照して、「お前のアタマの中は本当に叡智としかやりとりをしていないんだな」という人がある。

アダルトビデオを観ながら、ガキは女性蔑視を養っていき、桑田佳祐は女神の詩文を紡ぎ出す。

ホンマモンの身分というのは、本人がどう気取っているかではないのだ、胴体の最下部をいじったときに本当の身分が現れる、オナニーやカネ欲しさを「ガマン」できるのが聖者ではないのだ、オナニーもセックスもカネ欲しさも爆発的にやって、それでも「なぜこの人は汚らしくならないの!?」というのが本当の身分の高さだ/正直なところもう実演もできるのだが、見た人が精神を損傷するので(マジで)そういう不健全なことは決してやらない。
ふつう、オナニーやらオマンコやらは「下ネタ」になるのだが、マジに胴体の性能として高い身分に至っている人は、オナニーやらオマンコまでが「カミサマのネタ」に引き上げられていってしまう/胴体の最下部をオープンにして、そこにいじくりたおしてエネルギーを流し込んだとき、「触」が爆発し、「欲」も爆発し、「活」も爆発し、「豊(愛)」も爆発し、「興」も「知」も爆発して、「どうして胴体の最下部をいじっているのに、この人は頭上(頭頂のさらに上)に向けて爆発が起こるの!? あたしいじっているのココだよ!?」ということが起こる、「胴体の下部から、エネルギーがそれぞれ順に大爆発を起こしていっているのに、エネルギーは最後頭上から『世界』へ解き放たれているので、この人の胴体(身)は爆発の中でもまったく損なわれなかった!」ということが本当にあるのだ、ただしわれわれのようなシロウトがその「胴体最下部からのエネルギー流入」というのを真似ると、本当にエネルギー量の本当で心身が「損なわれる」ので、これはイメージに駆られて実践してはいけない、今はただ身分の話をしている、オマンコエネルギーがどの高みにまで至って放たれますか? という身分の話、この話はイメージとしてはカンタンだが実践においてはもちろんヒサンな実態が予想される。

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