☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
とんでもないところのつながり、「何でもアリだ」と言っておきたい
に立たない奴で申し訳ない。
しかし、真のつながりというか、「つながり」という言葉も好きではないのだが、真のつながりのことを言おうとすると、それはやはり、「ここではないどこか」のことを言うしかない。
つながりは、認知や認識のものではなく、また人為でもなく、意図でもなく、そういう次元の世界があるということ、そのことがいかがわしくならないよう、僕はそれを「フィクション」と呼ぶ。
世の中には、個人的なことと、一般的なことがあると思われているが、どうやらそれ以外の「○○的なこと」があるみたいだ、だがそれは一般的にも個人的にも、ふつう追求も接触もできないようなところにある。

ブレイクやバシュラールはこれを「想像力(イマジネール)」と言うだろうが、まあ認識側から言うならそのように言うしかない、だが真相はもっと奥、そしてこの奥はけっきょく認識の機能では追求しきれない。
個人的なことと、一般的なこと、そしてにわかには知られようもない○○的なこと、なんじゃこれという感触のものだが、真の春風はこの奥の世界から吹き付けてきている。
何が言いたいのか、というと、その○○的なことの世界には、「つながり」があるということだ、人と人とのつながりだが、その世界における「人」は、それぞれ現在の思っているような自分とはほとんど異なる姿を持っている(それ以前に、向こうの世界では「姿」が固定的でないし、単数でもない、しかも場所も跳躍できる)。
それはドラマチックでロマンチックな世界なのだが、覚えておけ、音楽で最大のインパクトを持つ要素はヴォリュームだ、音量だ、鳴り響く大きさがそのまま世界の大きさを示しており、あるていど大きくないとそれは世界とは感じられない(なんじゃそりゃ)。

夕焼けは鳴り響いている、デカい。

「何でもアリだ」と言っておこう、「何でもアリ」というのは景気がよくていい、そして相当程度、いずれ気づかねばならないことに最も近い、平易な言い方の中ではベストに近い。
今しばらく、何の役にも立たない僕とお付き合いのほどをよろしく(だってこれでねえと動けねーもん)。
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現代女性の「身分」について新説

分で言いながら「なるほどな−」と感心してしまったのだが、この見方には新しい可能性が秘められている。
現代において、なるべく男尊女卑は撤廃され、半ばていどではあるかもしれないが、男女平等ということが成り立ってきている。
少なくとも、たとえば合コン的な状況においては、「よろしくたのみまーす」と頭を下げてヘコヘコすべきなのは男のほうだ、セックスおよびそのことへアプローチするトライアルの機会をぜひ下賜され度く、何卒、というのが健全な男性の立場だろう。
男女平等の上に、フェミニズムの思想も、その実効を結実させてきたと見るべきだが、新しい視点というのはこうだ、「男女平等およびフェミニズムの結実が、女性の身分を『向上』させたとは限らない」ということ/むしろその逆に、なぜか「女性の身分を谷底に落とした」という可能性も、改めて考えられなくてはならない。

ここでいう「身分が高い」というのは、社会的なことではなく、あくまで本当の「身」のこと、「身」そのものに現れる徳性について、その身分の格差を見つけることができる。
「身分が高い」ということは、1.身のたたずまいと振る舞いが、快活かつ清廉であり、肌は光るがごとく華やかでありながら静寂をその背後に保っている、身のそばには常に聖の香気が漂う、2.眼差しは清明であり、思慮は清澄で透徹、慈悲と慈愛にすぐれている、汚らしい発想が起こりえず、気心に荒廃が起こりえない、その身のうちに我慢を持たない、3.その声は濁りなく、野卑さをもたず、遠くまで清らかに響き、人々の耳ある身をよろこばせ恢復と栄進をもたらす、また思考は理に優れて明晰であり、話されることは理路整然として妙果に満ちている、4.その言葉には邪が伴わず、おのずと楽音のごとく並びたち流暢で、ユーモアとウイットに富みながらも、詩文の趣を形成していく、というようなことだ。
男女平等とフェミニズムが結実した後の世界、つまりわれわれの現代のことだが、この世界で、女性たちがこのような「身分の高い」存在になりえたかというと、そのことはいかにも肯定しがたい、どちらかというと現代の女性は、男勝りに乱暴であったり、逆転して人工甘味料のように甘みづけでかつ対価報酬的あったり、「ぶっちゃけさあ」と声は汚く、言葉はメチャクチャ、気分は毎日乱高下、眼差しは不明で混濁というかそれ以前に「目を見るだけで怖い、おっかない」だったりして、余計なことを言えばすぐ激昂しそうだから手がつけられない、という実態がある。
このことから総括的に見ると、「男女平等とフェミニズムが、女の身分を落とした」という仮説が有為に検証の値打ちを持ち始める、もちろん「どうしてそんなことになったの」と言われても「さあ」としか言えないし、「男はどうなの」と言われても「似たり寄ったり」としか言えない。

女性の「身分」を上昇させるには、まったく別のノウハウがあったのかもしれない。

たとえば中世の世界があって、町娘が男に向けて「だんなさま」「おまえさま」と呼びかけたりする、すると町娘の社会的身分は低いのだなとわかるが、このとき町娘の「身」そのものが荒廃している印象はまるで受けない、町娘が「ぶっちゃけさあ」「マジきっしょ」と口汚く言い出すとは思えない、この町娘の身分は低いけれども、「汚らしいもの」ではまったくない。
とはいえもちろん、そうして中世において女性の社会的身分が低く差別されていたという問題は見過ごせないし、女性の権利が男性との比較上で迫害されていたことは疑いないのだ、その不当な差別を撤廃することは正義だったに違いない、だがその正義が何の代償も必要としないという見立てだけが大甘だった/女性の権利回復のためにこそわれわれは「汚らしいもの」になったのだとすると、そのことは引き受けねばならないし、それを自らの「選択」だと誇るべきだ、われわれが「汚らしいもの」であることはナイスなのだ。

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幸福と感動の違い、視認できない「幸福リスク」
でも「幸福」というのはわかるのだ、その対極にある「不幸」というのがわかりやすいため。
ただ、一般に「幸福」というイメージは、けっきょく「穏健な暮らしと慈しみあえる家族」に行き着くわけで、幸福は何らの「感動」もその成立要件には取り込んでいない、究極的には幸福というのは「不幸から最も縁遠い」ということなのかもしれない。
一方、「感動」のほうはどのようなものかというと、「感動」は不幸のさなかにでも成り立つということだ/たとえば不幸の代名詞というと「戦場」だが、「戦場のピアニスト」「戦場のメリークリスマス」というような映画がある、これが「戦場でないピアニスト」「戦場でないメリークリスマス」だと「それは当たり前だろ」になり感動はなくなる。
ピアニストにせよメリークリスマスにせよ、それは戦場でないほうが幸福に決まっているのだが、それが単純幸福だと「感動」にはなりえないわけだ、つまり「感動」を希求する派においては、実は「幸福はいい、だが幸福より上位たる価値が存在するのではないか?」という前提的疑問が保たれているのだった(岡本太郎は「感動」ではなくこれを「歓喜」と呼んだが、ここではわかりやすいように「感動」と呼んでいる)。

ここで問題になるのは、幸福は「誰でもわかる」のに対し、感動は「誰でもはわからない」ということだ、幸福は誰でも視認できるが、その視認できるものより上位に、価値がある「かも」ということ、これは誰にでもは見えない。
幸福は不幸の対極として、むしろ不幸に対する恐れから視認しやすいものとなるが、「感動」(歓喜)にはその対極がないので、視認できない、視認できないということは、それが「見える」かどうかは、思考と学門による演繹によって「見える」かどうかになる、このことは単純に知性へのスタミナを要求するので、知性のスタミナがない人は途中離脱して「幸福が最上位の価値、もうそれでいいじゃん、それで誰も困らないし」と結論するのが自然だろう。
幸福は誰でもわかるので、自分の幸福に文句を言うアホは一人もいないのだ、だが「幸福なら完全に満たされているということなのか?」という問いかけ、これについて「そりゃそうでしょ」派と「それは違うな」派に分かれる、これが幸福派と感動派の分岐になる。
おそらく、本当に完全に「幸福だけあればすべて満たされる」と信じ切っている人はそんなに多くないのだが、かといって幸福と感動を明確に区別している人もそう多くはなくほとんどいない/よって多くの人は「半信半疑」の中にいて、幸福を当然に保全しながら、感動を眺める、しかし感動に手は出さない、という具合でいるのではないだろうか、慎重に考えているふりをして、その実は単に未知のリスクに怯みながら。

実は、感動が幸福を破壊することは少なく、幸福が感動を破壊している。

目に見えないリスクがあるものだ、つまり、「感動」という上位価値が視認できないものである補いに、「感動」に関わるリスクだけは視認できるようになっているのだ、それは逆に見ると、「幸福」という価値が視認できるものである補いに、「幸福」に関わるリスクは視認できないようになっているということ。
つまり、幸福にもリスクがあるということ、幸福があなたから「感動」という重大なものを奪うことはいくらでもある一方、「感動」というのはいかにも危険な感じがするが、そのリスクは視認できてしまうため、実際には感動が幸福を破壊するということはなかなか起こらないものだ/たとえるなら速度制限のないアウトバーンで、実際には交通事故は少ないというようなことだ、速度制限のない道路のリスクを視認しながら走るのだから、単純に事故が増えるという見通しは成り立たない。
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「悔しい」という原動力2

が100メートルを18秒で走ったとする/まともな人は16秒ぐらいで走り、早い人は14秒、さらに優れた人は12秒、あるいはもっと不得手な人は20秒以上かかってしまうだろう。
僕は16秒の選手には負けるわけだが、その「負けた」というとき、どのように感じているかというと、「脚の遅い奴が、脚の速い奴に、かけっこで勝てるわけないだろ」と感じている、そりゃ当たり前だ、人間がかけっこでチーターに勝てるわけがない。
僕はそこから、「よーし、14秒で走れるようになってやる」、という発想は起こさない、どうしてそういう発想が起こりうるのか、そちらのほうが僕には不思議だ、「なぜ僕が、脚の速い奴にならなきゃならんのだ」と、そのことの動機と理由がまったく見当たらない。
僕が、18秒で走れるものを、14秒に縮めるというのは、まるで一重まぶたを二重まぶたに整形する手術のように感じる、そりゃ比較すればそちらのほうが「優れている」と言われるのかもしれないが、僕にはそもそもなぜ自分が「比較的」に優れなくてはならないのか、その動機と理由がよくわからない。

幼稚園のころ、かつてのホームビデオにも残っていたはずだが、運動会の徒競走があって、ヨーイドン、その火薬銃がパーンと撃ちならされたとき、僕はスタートラインで「?」と突っ立っていた/なぜ大急ぎで向こうまで「走る」ということをせねばならないか、僕にはよくわからなかったのだ。
実はこのことは、その後小学校、中学校、高校、大学……と、今でも続いていて、僕はいつでも競技者のスタートラインに立たされたとき、そこから何が為されるか「よくわかっていない」のだ/昔、社会科のテストのときも、なんとなく高得点を獲るのがいやで、解答できるところを半分ほど空欄で提出したこともある、しかしそれは僕の「権利」ではないのか。
ハイスコアとロースコアの識別ぐらいは、僕にだってできるが、僕がハイスコアを獲らねばならない義務はないだろう、たとえ最上位のハイスコアを獲る能力があったとしても、テキトーなロースコアに収めてしまうという「権利」が僕にはあるはずだ、つまり僕が18秒で走るか20秒で走るかそれ以降で走るかは、僕自身が決める権利があるはず。
僕にとって、僕が生きていることは重要だが、僕が周囲と「比較的」に優秀であることは、僕にとって何も重要ではない、何しろその比較対象者は、僕と共に死んでいくわけではないからだ、僕が生きて僕が死んでいくのに誰と何を比べようというのか、僕には始終「意味がわからん」と感じられているのだった。

隣のメシが豪勢でも、そのメシがおれの胃袋に入るわけではない。

僕にとっては、僕の胃袋に入るメシが重要なのであって、厳密にいえば、この世界における「メシ」というのは、僕の胃袋に入るメシのみを「メシ」というのだ、コアラはユーカリの葉ばかり食べるそうだが、それは僕の「メシ」ではない、僕が何を食うかをコアラが知ったことではないように、コアラが何を食うかは僕の知ったことではない/それぞれの「メシ」は別世界だ。
もし検出装置があるなら、ぜひテストしてみたいが、たとえば僕の運転するレンタカーの横に、若者が乗るフェラーリが横付けされても、僕には「悔しい」という感情を覚えるメカニズムがないのだ、まず「比較」および「比較的」という機能が作動していないから、横でエンジンをブオンブオンされても「えっっ?」と戸惑ってしまう/僕は頭がクルクルパーなので、「オリンピックで優勝したら、金銀銅のうち好きなメダルを一つを選ばせてくれるんじゃないの? どうして優勝したのに選ぶ権利もないんだよ」と、わけのわからないことを本気で疑問に思っている。

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「悔しい」という原動力
近、目が利くようになり、スポーツ選手の表情がわかるようになった。
スポーツというのは、大柄の格闘技選手は別として、基本的にすべて「悔しい」という感情を原動力にしている。
眼の奥、額の奥、頬の奥に、「やっぱ負けたら悔しいんで」「あんな悔しい思いもう二度としたくないので」「勝ちたい」という感情が煮えたぎっている。
「悔しい」という感情は、どういうものなのだろう? そのことへの解答はありえないが、解答のないまま、「悔しい」という感情を完全肯定してフルブーストをかけたものが、スポーツの原動力だと思う。

確かに、「悔しい」という感情を、抑圧して隠し持っていたら、人はおぞましいバケモノになってしまうだろう。
だから堂々と、「負けて悔しいなら、自分が納得するところまで戦うしかないでしょ」と向きなおるという、このスポーツ的発想は順当だし、とても納得がいく。
とはいえ、「悔しい」という感情を、当然でしょと完全肯定して、フルブーストをかけることが、人にとってどういうことなのか、未だ誰も知らないし、僕も知ろうとは思わない。
僕がこれまで、スポーツのことがよくわからなかったのは、僕はこれまで<<栄光は感情ではない>>と思っていたからだ/果てしなく煮えたぎる悔しさの海の中に、一つだけ浮いた玉座があり、その玉座を勝ち得た者だけが、悔しさにまみれることなくすべてを見下ろすことができる。

この世にやさしい女などいない。

……と、見える、少なくともスポーツ分野を見ているぶんには、男性も女性も必ず「やさしい」より「悔しい」が上回っている/ちょっとしたことでも悔しさの溶岩はせりあがり、その眼の奥、額の奥、頬の奥に、もともとやさしさなどなかったという真実の表情が暴かれよう。
「悔しい、悔しい、悔しい」と、きっとこの言葉を何万遍も唱えるだけでも、人はその方向へ傾いていく、際限なく煮えたぎる「悔しい」という溶岩は、人にとって虚妄なのか真実なのか、僕はこれまで目が利かなかったので、その表情に「悔しい」という原動力がみなぎっていることが見えなかったのだ。
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「毒づく」というメカニズム
教的に言うと、修行とは煩悩の毒を抜きさることなのだから、いわゆる「毒づく」ということが、修行の「逆」を行くことになる。
つまり、「よーし、肉を洒脱し、身を進ませることの、わたしは逆をいくぜ!」というパンクな思想が、たとえば給湯室でえんえん「毒づく」という方法になる、それで給湯室のボスであるお局様は身が凄まじく濁ったおっかないものに育っていく。
そんなことになるぐらいなら、毒づくのをやめればいいのに、と単純には思われるが、そうはいかないのだ、なぜなら<<人は停滞に耐えられない>>からだ、人は道を進めないなら「穴の中を落ちていく」ということをよろこぶ。
人の生きる時間は有限なので、人は昨日の自分と今日の自分が「まったく変わっていない」ということに耐えられないのだ、それなら毒づきに毒づきを重ねて、昨日よりまた恐るべきババアに近づいたというほうが、癒されるし落ち着くということになる/もちろんすべては乱高下しながら、上昇するにも株相場のように上昇することを祈るしかないわけだが……

「行道のみが頭燃を救う」という言葉が、学道用心集にある、これは停滞の「うわあああ」から逃れるには道を行くしかないという意味だ。
だが行道と言われてもわれわれにはさっぱりわからないし、菩提心なんか起こりっこないので、われわれは頭燃を救うためには、外道でも「行ったれ行ったれ」となるのだ、そうしたらさしあたり「うわあああ」を忘れることはできるから。
停滞というのはキツいのだ、たとえばあなたが一年間小説を書けば、その一年は伸びるだろうが、その次の一年は伸びない、それどころかモチベーションがゼロどころかマイナスになって、苦痛でしかなくなってくる。
そのことに比べると、たとえば筋トレの裏切らないことといったらない、筋トレはやれば必ず進む、ハードな筋トレをしたら筋肉量は決して停滞しないのだ、すると自分は何かをやっている気になれるので「うわあああ」から逃れられる、何の解決にもなっていないがそういうことなのだった。

内心で「クソがあああ」と言いながら筋トレすれば、現代のマンガになる。

そういう「強化」が必要な状況も、生きているうちにはある、「毒づき、外道を用いてでも、この状況から脱出せねばならない」というようなときだ、ただしそのぶん、声や口や眼差しは薄汚れてしまう、そのことは引き受けるしかない。
ポイントはどこまでも、「人は停滞に耐えられない」ということ、<<進めないとなったら自動的に「毒づく」ということをやりはじめる>>、自分で止められるものではない、自分の進む道に踏み出せるときまで「毒づく」をやめる(またはやめさせる)ことはできない。
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VEPP+

「VEPP+」(ヴェップ)(プラスは読まない)という語は、語ですらなく、何の意味も無い。
まあ唐突な、ブランド名だとでも思ってもらええばいいかな、もちろんこんな無意味な造語を記憶したところであなたには何の足しにもならない。
すさまじい、解放の夢を見た、しかしいちいち報告する気にはならないのは、このところしょっちゅうというか、ほとんど毎日だからだ/朝起きたときなんとなく「VEPP+」と思っていた、それは昔からかわらずずっとあるすばらしいものにテキトーに宿った名前だ。
このところ、つくづく思い知らされるが、僕は他の人がどのように生き、どのように感じ、どのような価値観を重視しているのか、まったくわかっていないのだ、僕には「VEPP+」しか本当にわかっていないのだった。

僕には常識があり、またおそらく平均より世間知もあるほうなのだが、それは人とやりとりするためにお仕着せでこしらえたもので、正直なところ「僕自身」ではまったくない/こんなもん何に使うのかね? と、実は今になってもよくわかっていないのだった。
本来の僕自身は、説明不可能というより、「VEPP+」の中に「説明」という項目や観念自体が見当たらないので、説明という事象とはまったく関係のないところに存在している/僕には「意識」がないわけではないが、たぶんその「意識」もふつうの人が捉えているところの「意識」とはまったく違うものみたいだ。
きわめてワガママなことではあるが、僕は僕の思っているとおりにすべてが進みゆけばいいなあとホンネでは思っているところがあるし、そもそも僕には、人が人と「揉める」ということがわからないのだ/僕はこれまで、僕自身が引き金を引いて誰かと揉めたということが、おそらくゼロに近いほどない、僕は人と人が揉めていることのすべてが本当によくわかっていないのだ。
VEPP+、それは僕がわかる唯一のことで、他の誰にもわからないこと、かつ、僕を含めたすべての人を支配しているものだ(と僕には勝手に描かれている)、揉めて苦しんで人付き合いに努力している人に説明人格を向けることほど無意味なことはないと永遠に思っている、VEPP+以外に人と結ばれる作用なんてありえなかろうし、VEPP+をヘシ折る人に罪が増えていくのはそりゃ当たり前だろとしか実は見えていないのだった。

VEPP+以外のことにどれだけ説明がついたとしても、僕には聞こえていない。

僕の友人や、僕の恋人になるためには、VEPP+になってもらうしかないような……何しろVEPP+店内にVEPP+以外の商品が置いてあっても、それは何のこっちゃわからないとしか言えない、ハナコちゃんがハナコ(VEPP+)に扱われて何の問題があるだろう?/僕には「揉める」ということそれ自体がよくわかっていない。
僕は僕の生きる世界を認識しているわけではないし、他人の価値観を真に受けたことは一度もないが、僕の生きる世界にはVEPP+しかないのだからその他のことにウーンと詳しいふりをしても、何の意味もない、何年生きたらエライというのさえわからず、僕が僕より長生きするということは考えなくてもよいのではなかろうか。

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男女平等と天地陰陽2
とえば木の葉の一枚を見ても、その片面は陽に照らされ、反対の面は蔭に閉ざされている。
ここで僕が、「あいつはアホだな」と言ったとする、あなたも同調して「あの人はアホですね」と言ったとしよう、しかしそのとき、僕はその「アホ」という木の葉を日照側から見ているのに対し、あなたは日蔭側から見ている、だからあなたの「あの人はアホですね」は、陽が指していない。
僕とあなたで、同じことを言っているはずなのに、陰陽はまったく逆を帯びているのだ、僕は彼のおでこに「アホ」と書いているのに対し、あなたは彼の尻の穴に「アホ」と書いている。
ここに男尊女卑の、おそらく本来の定義を示そう、「天地」といえば天が上にあるのは物理的に当たり前だが、つまり上から順に「天男女地」と捉えればいい、[天|男|木の葉|女|地]と並べたとき、[光の方向:天→地]だから、男女それぞれが木の葉一枚について陰陽の逆を見ていることがわかると思う。

[光の方向:天→地][天|男|X|女|地]、この構造図でワイルドカードXにさまざまなものを代入するとき、これまで視認しづらかったさまざまな諍い、いざこざ、すれ違いの理由が説明されうると思う。
たとえば、[天|男|夜遊び|女|地]と代入したとき、男はとっさに「夜遊び」に陽気な力を覚える一方、女は「夜遊び」に蔭のある不穏な力を覚える、ということが示される/これにより「夜遊び」について、男は「へ?」、女は「……なによ」とすれ違うことが起こる。
天地のあいだにある万物について、女性は「蔭のある不穏な力」のほうを見てしまうものだから、女性は大前提として、この世界の万物から不穏なものを吸収してまわるという性質がある/「男尊女卑」というのは単に「女は卑しいもの」という意味ではなく、「女は卑しい側面を吸収してしまいがち」ということだ、もしそれが「身分」だと言われてしまうなら、それは甘んじて引き受けるしかきっとない。
たとえば最近は、芸能界などは不倫ネタが流行しているが、蔭サイドからものを見ることしかできなくなった人は、何をどう工夫しても、そのネタから「卑しい側面」しか吸収できなくなる、たとえば映画「タイタニック」でさえ、「あれは婚約者のある女が行きずりの男と不倫するふしだらなクソ話」「しかもけっきょく自分だけ生き残ってやがるし、ゲスの極み」としか見えなくなるのだ。

[光の方向:天→地][天|男|あなた|女|地]

こうして図式にあなた自身を代入した場合、もしあなたが女あるいは女化した男であれば、どう前向きに捉えようとしても、あなたは自分の「卑しい側面」「蔭のある不穏な力」しか受け取れないはずだ/何が起こっているかわかるだろうか。
僕があなたに、「輝く肌をしているね」と言ったとする、あなたは「ありがとう」と言うだろうが、そこであなたがほんのりと男女平等主義に育ってきているとき、あなたの見え方と僕の見え方が陰陽において異なるという前提があなたにはないので、あなたにはわけのわからないパニックや不快や叫びの感情が起こる/僕がときにあなたを見下ろしたふうに言うことをあなたが許し認めてくれないかぎり、この苦しみの感情はあなたから消えず、あなたがあなた自身に輝きを確信することはいつまでもやってこない。
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男女平等と天地陰陽
会的に男女平等を押し進めることは、確かに一面の正義であるには違いないが、社会的な理念を無視する具合で、男女にはそれぞれ「陰陽」の気が伴ってしまう。
たとえば北島三郎と石川さゆりをならべたとき、北島三郎を陰と言うのはムリがあるし、石川さゆりを陽と言うのにもムリがある/最近は陰に傾く男も増えたが、それにしても基本的に男が陽で女が陰という性質はなかなか覆しがたい(相当な力業を仕掛ければ一時的な転覆も不可能ではないとは思うけれども)。
北島三郎(陽)は、「は〜るばる来たぜ函館へ」と歌うのだが、石川さゆり(陰)は「わたしは帰ります」と歌うのだ、両者とも同様に津軽海峡を越えるのだが、北島三郎にとっては北は「行く」ところであり、石川さゆりにとっては「帰る」ところなのだ。
北半球に住むわれわれにとっては、北(極方向)が陰であり、南(赤道方向)が陽なのではなかろうか、だから女性にとっては「南の島」のほうが「行く」に当たり、男どもにとっては南国こそ「帰る」ところに当たるのかもしれない。

まさか、相当な強弁を言い張るのでなければ、「津軽三味線」を習うのと「フラダンス」を習うのが、陰陽において「同列!!」ということはあるまい、陰陽というのはどうしても存在する。
もし、男がもともと陽の国の出身で、陽を地元とするならば、陰の国では旅人のごとく振る舞うべきだし、女性も同じだ、女性がもともと陰の国の出身であるならば、陽の国では旅人のごとく振る舞い、勝手に出しゃばりな振る舞いをするべきではない。
陰陽の気というものがどうしてもあり、たとえば一枚の写真を見たとしても、「光の当たり方がきれい」と見える者もあれば、「陰影がきれい」と見える者もあるのだ、同じものを見ていても同質の見方をしてるとは限らない、陽の側から見る者もあれば、陰の側から見る者もある。
極端な話、たとえば「軍艦マーチ」を聴いていると、戦争さえ当時の男どもにとっては、少なくとも陰気なものではなかったのだと信じられてならない、たぶんどれだけ男女平等を強化しても女性の半数が「軍艦マーチ」に到達することは不可能だと僕は感じる。

天頂から眺めた森林は、陽を受けて青々と光っているが、地から眺めた森林は、陽を閉ざして鬱蒼としている。

上から目線でものを言うふうになることを、どうか許されたい、僕は上位を気取りたいのではなく、上から見てあなたの森林にどれほどの陽が降り注いでいるかを伝えたいのだ。
あなたから見上げた光は逆光で「まぶしい」でなくてはならず、僕から見下ろしたあなたは照らされて「輝いている」でなくてはならない/もしそれを男尊女卑だというならば、「そのとおり、あなたの輝きはあなたにはわからない」と僕は申し上げよう。
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裏帳簿の赤字と黒字2
なたは海辺の畑に花の種を蒔いた、しかし花は咲かず、隣町の海辺には花が咲いていることをねたみ、そねんだ。
あなたは翌年、倍の種を巻き、倍の水をやり、倍の肥料を与えた、誰よりも花が咲くよう祈った、しかし花は咲かなかった、隣町の畑では何の努力もなく「当たり前」に花が咲くそうで、あなたは納得がいかず焼けるようにキリキリした。
あなたはわけのわからない男から命令を受けて、山の上にある廃屋を片付けるように言われた、あなたは「えー」と不満に思い、「どうしてわたしがそんなことしなくてはいけないの」「そんなことしたくないし、するつもりもないし、そんなことをしているヒマもないのに」と感じた、しかしあなたはふとそのことをやってみる気になった/これまでどうしても、畑の花が咲かなかったから。
あなたはヘトヘトになるまで、山の上にある廃屋を解体し、片付けた、そして海辺の畑に戻ってくると、なぜか花が咲いていた、そしてその年から何もしなくても勝手に花は咲くようになった。

あなたの知る由もないところ、その廃屋は以前、罪深い化学者の住居で、地下に保管されていた物質が漏れ出していた、その物質自体は毒性のものではなかったが、川縁の石灰岩と反応し、川の水を毒性のものにした、その水が畑の土を犯し、花を咲かせないようにしていた。
そのような仕組みが、前もってわかるならいいのだが、<<われわれは自分の身に何が起こっているのか、仕組みがわからない>>のだ、だから自分がわかる単純な発想だけで自分の身を救うことはできない。
われわれが持つべきセンスおよび可能性は、「山の上にある廃屋を片付けなさい」「あなたが片付けなさい」と言われたとき、その荒唐無稽と理不尽の向こうに、「ん?」と何かを感じ取ることだ、表面上は自分にまったく無関係に見えるが、それでもどこか「自分はこのことをしなくてはならない」というナゾの直観がある。
山の上の廃屋を片付けるということを、荒唐無稽で理不尽であるにも関わらず「わたしがやります」と引き受けたとき、なぜか「何かがすっごくラクになった」「ぜひやらせてください」「具体的に、この身が救われるという感触がある」「呼吸がラクになった、声が出るようになった」等の現象が起こる、この現象を見落とさないこと、逆らわないこと、そして誤解しないことだ。

玄関掃除とボイストレーニングで、どちらが「声が出る」ようになるかはわからない。

ボイストレーニングに半年間通った人と、世話になった人の玄関を半年間掃除した人とで、「何か声がよくなったね」という結果に至るのはどちらか、わかったものではない。
「なぜこの人は、こんなに佳い声が出るのだろう」と思える人に、「どうすれば佳い声が出ますか」と訊ねたら、「お前は山の上の廃屋を片付けてこい」とわけのわからないことを言われるかもしれない、一方で「こういうボイストレーニングがあるんですよ」と別のことを勧めてくれる人もあるかもしれない/そのときにあなたは思い出すこと、<<われわれは自分の身に何が起こっているのか、仕組みがわからない>>わけだが、あなたの目の前の人は、その「仕組み」をあなたより高いレベルで看破しているのかもしれない、もしくは本当にただの荒唐無稽を言っているだけのバカなのかもしれない。
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裏帳簿の赤字と黒字

とえばまったく色気のない女子高生に、「別に大学受験がエライのじゃない、ただ人生の拡大からオリてはいけない」ということを熱弁しているとする、そのとき「なんでおれがこんなことせなあかんねん〜」という声が内側に起こる、この声は明るい。
これに比べると、たとえば「念願だったフィジーの旅行に行ってきました〜」という声は、なぜかそんなに明るくない/比較して「なんでおれがこんなことせなあかんねん〜」という声は、何か笑えるほど明るいのだ。
「なんでおれがこんなことせなあかんねん〜」という、納得のいかなさより上位に、「まあふざけんな、おれがオリてたまるか」というわけのわからない力強い声がある、それで「なーんでこんなことしているんだろうな、わけわからんぜはっはっは」という明るさが生じる。
その明るさの声は、「裏帳簿で黒字が出ている」ということを示している、「なんでこんなことせなあかんねん」というヤレヤレ感の背後で、真の利益が得られていることを、人はどこかで知っている、だからそのときの声は明るい/またその逆のときの声は暗い。

「はっはっは、なんでこんなことに必死こくハメになったんだ」と明るい声を発している奴は確かにいる、しかし声が明るいということは、裏帳簿では黒字、真の利益が得られているということだ、つまりカルマ的なものを償却しているので、身には光や徳性が啓かれていっている、つまり本当の意味ではトクをしている。
一方、表面上は自分の希望どおり、納得のとおりに満たされていくとき、声はなぜか暗くなっていくものだ/「給料も上がってきたし、前から考えていたとおり、広い部屋に引っ越したんです。すっごくいい部屋で。あとクルマも買おうかと思って」と、そのときの声はなぜか明るくない。
僕の後輩は就職面接のとき、「先輩にシゴかれました」という話の中で、その先輩の特徴について「そりゃもう、理不尽の専門家みたいな方で」と説明して面接官に大ウケし、無事内定を勝ち取ったが、その理不尽イコール納得がいかないという中にこそ、真の利益とむやみに明るい声がある/比べて希望通り・納得どおりの声はどうしても暗くて弱く、荒みやすい。
「なんでわたしがこんなことせなあかんねん〜」という嘆きの中で、嘆きの感情に取り込まれず、「はっはっは、やったろうやないか」と巻き返していること、それが正しく成り立ったとき、はじめてむやみに明るい声が生じる、それは裏帳簿に黒字が出ているということだ、この黒字が一部の負債を返済しきると、人間の身はポンと徳性を開放する、これまで見えていなかったものが見えるようになり、できなかったことができるようになるのだ。

実例、「部活のクソ環境をやり抜いたとき、なぜかアルバイトがすぽーんとラクになることが起こった」。

割と3K環境の激務アルバイトをしている人なのだが、なぜかそのアルバイトをこなそうという直接の目標と努力ではなく、部活側のクソ環境を乗り切ったときに、「あれ?」と、状況判断の能力が格上げされることが起こった/激務環境でなお、目の前に起こっていることが「見える」という徳性が一段階開放されたのだ、これは一般に知られる「トレーニング」という発想では到達できない境地になる。
人間には、視認しづらい「裏帳簿」があって、この帳簿が黒字に向かうまで、徳性は閉じたまま、どうしても明るくはなれない、自分が何をやるべきで、またやめるべきか/「裏帳簿」の出納を直観して、「なんでわたしがこんなことしなくちゃいけないの」と思えることに、「これをやるのが当然」「これだけはやらないと」ということを見いだしていく、そのことが掴めたとき人は初めて本当に明るい自分に近づくことができる。

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キチガイジーサンの話
心にいると、三日に一回はキチガイジーサンを見かける気がする。
知り合いの塾講師さんは、「三日に一回どころか、老人の八割から九割はそういうものだと思うので、めっちゃ警戒しているよ」と言っていた、まあそれもリアルなところだと思う。
キチガイジーサンは、自分を正義だと思っており、どうでもいいようなところに正義の使途として現れて、どうでもいいようなクレームを、気の狂った顔と声でぶちまけていく、しかも自信が無いので不快さとあわれみと不潔感がハンパではないのだ/ネット上ではよく「老害」と一括されている。
薬局で順番待ちをしていたキチガイジーサンが、何かどうでもいいようなクレームを受付に言っていた、クレームの内容より声がキチガイだった、そして驚いたことに、このキチガイジーサンはその後、待合にあるテレビに映し出された乃木坂か欅坂かのアイドル映像にグッと食い入っていたのだ、おそらく七十年ぐらい生きて行き着いた先がこの姿だという/このジーサンは自分が「醜態」の寄せ集めであることを自覚できなくなっていた。

家でおとなしくしていればいいものを、社交性が皆無のキチガイジーサンは、街中に出て必ず周囲にキチガイeyeとキチガイvoiceを振りまいてこの世界を暗鬱にするのだが、どう考えてもこういったキチガイジーサンは、現在の暮らしとこれまでの人生が幸福でなかったことから発生している/幸福な人間があんなキチガイvoiceを発するのは不可能だ、不幸が全身に染みていないとあんな声にならない。
そして、当たり前のことだが、ふつう自分が幸福に到れなかった場合、「何が間違っていたのだろう」「どこで道を誤ったのだろう」と、悔い改める方向へ考えるものだ、しかし何がどうなったのか、キチガイジーサンは自覚的には「正義のカタマリ」でいる/この矛盾を根本的な形質にするキチガイジーサンは、三十年前にはこんなに数多くなかった(ごくまれにはいた)。
キチガイジーサンは、もう「止まれない」ので、その点を責める気にはさすがになれない、なぜなら焼け付いた神経が常にオーバーヒートしており、神経のレスポンスがとっくに理性を置き去りにしているのだ/信号を見落として赤信号で飛び出し、クラクションを鳴らされると「ブチギレ」になるのがキチガイジーサンだ、これはもう神経が壊れているので投薬なしには制御不可能だろう、ジーサンにとっては常に自分が正義で、その自分にクラクションを鳴らした者が絶対反射的に「悪」になる。
このキチガイジーサンに、ニセの正義を与えてさらなる不幸に追い込んではならない、たとえば駅前の放置自転車とかポイ捨てとか、捕鯨とか戦争犯罪とか差別とかエコロジーとかポリコレとかハラスメントとか、そういうニセの正義を与えると、キチガイジーサンはますます正義の使途になってしまい、「何が間違っていたのだろう」と自分を振り返る機会を失ってしまう/ひどい話だ、「あなたは正義ですよ」とささやかれたときに、「いや自分は間違ってきたんです」と謝絶できるほど、すべての人は強くないぞ、明らかに日々近づく死におびえている者をもてあそぶな。

たとえ平等院鳳凰堂に住んだとしても、キチガイジーサンは朝から猛烈に不機嫌だろう。

なぜ猛烈に不機嫌かというと、朝起きたときから自分が「幸福を得られなかった老人」だからだ、この事実が常に彼を責めるので、彼は決して安楽になれない、また生のみが人間の存在ではないというような宗教的な救いも、老人は聞く耳を持たないだろう。
キチガイジーサンの問題は、シリアスだが解決は不能だし、そもそもわれわれは文化的に、年長者に対して差出口を禁止されている、解決は不能だしそもそもすべての問題が解決可能というわけでは決してないので/少なくともわれわれ自身は、なんとかキチガイジーサンおよびキチガイオバサンにならないよう、なるべく早い内に自分を悔い改めるこころを持つようでありたい、少なくとも自分が「正義」などというアホにならないかぎりはわれわれはキチガイにはならずに済むだろう。
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「かわいい服を着よう」という思い

1がレースクイーンを撤廃するそうだ。
「時代の規範に合わないから」という理由らしい。
いずれラウンドガールや、企業やデパートの「受付」を女性がしている、という形態もなくなるのだろう。
あなたが抜群のプロポーションを持っていて、努力による美性にいたるほどの知性を獲得していたとしても、それによってあなたが「華」がごとき扱いをされることは、この先なくなるということだ、それはまことにめでたいことだと思う人がいて/一方で、とても悲しいことだと思う人がいるだろう、現在の乙女が未来のレースクイーンになる可能性はゼロになった。

女性はきっと、毎朝目が覚めたときから、「かわいい服を着よう」と思っているのだと思う。
無条件で「かわいい服を着よう・着たい」と思っていることが、性差別の原点だ、女性が自分に「かわいい服を着せたい」と望んでいること、それ自体が自分で自分にする「セクハラ」になっていると思う。
「かわいい服が着たい」という思いは、女性を「アイドルになりたい」「ミスコンを獲りたい」「アナウンサーになりたい」「インスタにかわいい自撮りをアップしたい」という気持ちのほうへ押し出し、やがて「F1のレースクイーンになりたい」という気持ちのほうにも押し出してしまうだろう、だがF1のレースクイーンはすでに公的に忌むべき性差別と認められた/あなたは性差別主義者に与するか。
「かわいい服を着よう」「かわいい服が着たい」と思うこと、それ自体が性差別の始まりだ、僕は男だし性差別をしてしまう愚か者だから、あなたは僕と会うときには、メイクをせず寝癖のままとびきりダサい服でいらっしゃい、僕は絶対にその待ち合わせ場所にはいかないから。

せっかくF1がレースクイーンを撤廃するのに、地下アイドルや巨乳アナウンサーやインスタ女子が増えては元も子もない。

地下アイドルや巨乳アナウンサーやインスタ女子を撤廃するには、「かわいい服を着よう」とする思いそのものを死滅させねばならない、たとえば「スカートのほうがかわいいから」といってスカートを穿く女性があとを絶たないが、スカートというものそれ自体が明らかに性差別のものなのだから忌まねばならない/実際、中学や高校において、男女の制服の区別をやめようとする動きが起こっている、それは本来、男女差別を撤廃するなら第一に施行されねばならない当たり前のことだった。
男性がそう感じてはならないように、女性も「スカートのほうがかわいい」「かわいい服を着たい、かわいい服を(わたしに)着せたい」と感じてはならない/なぜあなたは無条件に「かわいい服を着たい」と望むのか、それは僕が無条件に「女の子はかわいい」と感じるのと同じだけ罪深い性差別の発想だ。

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僕にはわからない「ショック」のこと3

にはわからないことなので(以下略、あるがまま報告するしかない。
「魂の負債」(ほんまかいな)がある場合、そのことから目を背けたくなり、特別の現象が起こるそうだ。
たとえばエリマキトカゲのポスターが貼ってある場合、そんなものに興味はないが、「あ、エリマキトカゲだ!」とわざとらしく注目することで、自分の魂の負債から目を逸らせる、という効果があるらしい、それで一時的に元気になれるということ。
だから、たとえば派手な音やグラフィックが飛び交う動画やゲームが、「魂の負債から目を逸らせ続けられる」という理由から熱中される場合が少なからずあるということ、どうやらアニメや派手な歌や、映画やテレビ番組やファッションや流行飲食、自分でやるスポーツや○○会というようなものも、ただ「魂の負債から目を逸らせる」という理由だけで愛好されていることが少なからずあるみたいだ。

このことがあるので、現代においては作為的に、「視界から魂の営みを排除する」というバイアスが、人々の暮らしに掛かっていることになる。
このことは、「作為的ノーソウル」と呼んで差し支えないだろう、色んなメディアが実は作為的にノーソウルのコンテンツを創出し、人々は後ろめたい動機からそれらのコンテンツに「病みつき」を覚えずにいられなくなっている。
どうりでおれのブログなんか流行らんわけだぜ泣! 僕はアホなので「やっぱり魂から営まれてなきゃ誰もよろこばんでしょ」と単純なことしか考えてこなかった。
聞いたところによると、人は目の前に誰かの「魂の営み」を見た場合、1.自分の魂の負債を思い出して怯え、目を逸らそうとする、そのためにノーソウルコンテンツを欲する、2.自分もさも同列にあるかのごとくに思い込んで、自分の債務超過から目を逸らす、という、二種類の逃避をするらしい/僕にはわからないことなので、あるがままを報告するしかない。

休憩しながらでいいが、引き受けて立て。

「休憩」と「逃避」は、似て非なるものだ、どんなツワモノにも休憩は必要だろう、休憩しすぎは問題だが……「休憩」と「逃避」は似て非なるものだ、「休憩」は本分をおやすみしている状態、「逃避」は本分を錯覚している状態だ/人はきっと、エリマキトカゲに注目しているとき、休憩しているのではなく逃避している。
「魂の債務」は、明らかに「カルマ」と同義だと思うが、人によっては「魂が汚れている」という言い方のほうが実感的にわかりやすいらしい、それでカルマ償却に進まないと本人がキツイというのが本筋のようだが、カルマの償却というのはどうすればいいかというと、基本的には「まともなことをしつくす」「まともなことを一所懸命やる」ということだ、ただしその「まとも」というのは世間的にいう「まとも」とは少し異なる(全部は説明できねーよ、誰かまともな奴に訊け)。

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僕にはわからない「ショック」のこと2

にはわからないことなので、あるがままを報告しておく。
どうやら、僕が執筆(?)しているところをナマで目撃した人は、その姿とエネルギー(および速さ)に、「魂の問題」を見たそうだ。
「自分が生きていて、いつか死んで、この世に生まれ落ちた命としてやるべきことがあり、そのやるべきことをしている」という姿に見えたそうな。
そして、それを目撃した当人は、「自分はそのやるべきことをしていない、どうしたらいいのか見当もつかないのに、負債だけが溜まっている実感があって、目の前の姿に脅かされるのです」ということだった/僕にはわからないことなのであるがまま報告しておく。

そんなことがあるのだろうか? 何しろ僕は、直観だのみの人間ではないので、直観がなくてわからないのだ。
しかし、この目撃者の証言は、これまで僕が体験してきた不可解な態度の出現をうまく説明してくれるのでもある、僕の目の前でいかにも「???」の態度になる人は、今思い返せばたくさんいたし、「あなたが視界に入っただけでうわあってなる、何かが生き返って、そのぶん何かが壊れてしまう」というふうなことを、よく言われてきた。
僕はこれまでずっと、そのようなことは「何言うてんねんアホか」とリアルに無視してきてしまったのだが、どうやら単なる誤解やシャレやお世辞ということでもなかったらしい、魂の問題といって、「そりゃ誰でも魂はあるし、魂のこととかやるんじゃねえの?」とテキトーなふうに考えてきすぎたかもしれない(最近、こういう話をすると、リアルに「えぇ……」と呆れた顔で見られるのだ、ぼちぼちツライものがある)。
これまで不可解なまま、しかし何度も見てきた「あるある」があって、例えば僕がしょーもないことによろこびを覚えてウハハハとよろこびを上昇させれば上昇させるほど、何か一方で目の前の人が「もうやめてくれ……」と縮こまっていくということがあったが、これも何か「魂の問題」を直視させられて脅かされていたのかもしれない(おれに悪気はないぞ)/単に「すごーい、こんなに力の差が」ということなら問題はないが、「すごーい……あっこれって魂の差が」ということだと、マズいそうだ、つまり「能力の格差」ではなく「魂の負債格差」が見えてしまうらしい。

債務超過に陥っている零細の経営者がブルーなように、債務超過に陥っている魂の経営者もブルーなようだ。

いつもギリギリの資金繰りをしている零細の社長は、毎朝目が覚めるだけでキツイだろう、それでも取引先や従業員にはニコニコしていないといけないとなれば、これは想像するだけでキツイものがある、そんなこと考えたくもないが/もし人それぞれの魂にもそうした経営と債務の感覚があるのだとしたら、いつもギリギリでやりくりしている人は、毎朝どこかブルーであるに違いなく、それでもニコニコしていなくてはならないとしたら、それは相当にキツイだろう。
零細の経営者が、「もう何十年も昔に経営方針を間違えたのでは?」と今さら言われても、取り返しのつかない恐怖におののくしかないことのように、人それぞれも「もう何十年も前に道を間違えたのでは?」と今さら言われても、取り返しのつかない恐怖におののくしかないみたいだ/とはいえまともに考えれば、今からでも立て直しをするしかないのではある、切り替えてがんばりましょう。

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僕にはわからない「ショック」のこと

前、友人の前で、このブログ記事を書くところを、直接見せたことがある/タブレットに、僕の自慢の高級キーボードをつないで(汎用のキーボードだと入力速度にインターフェイスが追いつかないのだ)。
友人は僕の背後で、いそいそと、「この機会に、ちょっと勉強させてもらいたく……」と、僕がしていくブログ記事を、ノートに書き写し始めた/すると面白いことがわかった。
僕がブログを更新する速度に、友人がそれを書き写す速度が<<追いつかない>>のだ、僕がいつもどおりのんびりブログを更新していくと、「ちょ、ちょっと待ってください」と、それを書き写しているだけの友人のほうが置き去りにされていくのだ/陸上で長距離を走っていた友人が言うには、「自分が必死に根性で走っているのに、黒人さんにゆうゆうと抜かされて置き去りにされてしまう、あのときの感覚と似ています!」ということだった。
そして、僕の側からはよくわからないことなのだが、友人はショックを受けていた、「ものすごいショックなんですよ」「人間が変わってしまう、人間はどういうものかって、これまで思っていたものが破壊されてしまう、すごいショックなんですよこれ」と、確かにその様子は何かただならぬことに直面させられているふうだった(だが正直僕にはよくわからないのだ、「それよくわかります」という人はやはり少なからずいらっしゃるのだろうか)。

「今この場で、思いついて書いているんですよね? 準備していたわけではなく」「そりゃそうだよ」「それで、考えながら書いているんですよね? いつ考えているんですか、それがまったく見えないんですけど」「あ、言われてみたら確かに、いつ考えているんだろうな、ずーっとこうしているから、おれにもよくわからなくなっているわ」「うわあ、そういうの、もう本当にショックなんですよ」。
「考えながら書いて、しかもひとまとまりにして、伝わるようにして、そのあとは誤字脱字とか、校正もしてますよね」「そりゃそうだね」「それなのに、なぜ書き写しているだけのこちらが追いつかないのか、怖いんです、恐怖ですよこれ、同じタイミングでスタートしているし、同じ人間なのに」「そうかね」「はい。まるでお掃除ロボットのルンバが、いつの間にか天井の電球を交換していた、というような恐怖ですよ」「それは恐怖だな」「どうやってそんなことしたの? って、わからないんですよ」。
「でもそんなの、毎日ブログ見てりゃ、更新の時間からわかることじゃねえか」「そりゃそうなんですけど、こうやって並べてやってみたら、違いますよ。本当にめちゃめちゃ速いんですよ」「そうかぁ、確かに言われてみれば、このブログの記事一本だって、ふつうに1000字を超えたりするわけだし、慣れていない人にとっては、一苦労する分量だったりするのかもしれないな」。
「そこが、おっしゃるように、慣れもあるんだと思っていたんです。でも違うんですよ。これまで色んなことを、その気になって根性でやればなんとかなると思っていたんですけど、これって根性とか慣れとかじゃないですよね? こんなの根性じゃ絶対に追いつけないですし、あなた自身はめっちゃ気楽に書いてらっしゃるじゃないですか」「そうだね、これは根性じゃなくて、『境地』だからな」「そうなんです、だからショックなんですよ」「ショック、なのか。それはおれにはよくわからんなあ」。

友人は、半死半生になって、「ちょっと休ませてください」と倒れ伏してしまった。

僕には、この友人が語るところの「ショック」というのが、本当にわからないのだ、どういうことなのか誰か教えてくれんかなと単純に思っている/僕としては単純に、「たとえばぷよぷよの世界一のプレイとか観たとき、すげえ! となって、人間ってこんな境地に至れるものなのか〜とヤル気を出す、それだけでいいんじゃないの?」と思っていたし、その通りに話したのだが、やはり友人は「ショックなんですよ」ということだった、僕にはこの「ショック」というものがどういうものなのかわからない。
かねてから、「集中力の次元が違う」とか「おれのエネルギーはお前らの四百倍あるからな」とか嘯(うそぶ)いてきたわけだし、それは僕としては科学的な知見のつもりだったので、何を今さら驚かれてしまったのかわからないのだが、とにかく目の当たりにすると「ショック」があるらしい/「正直なところ、このブログ記事を書くのって、お前が今見たとおり、おれにとっては一日を始めるウォーミングアップみたいなものなんだが」と僕が話すと、やはり友人は「ショックだ」と言った、「めっちゃ鼻歌まじりで、本当にまったく疲れていらっしゃらないというか、むしろすっきりしてらっしゃいますもんね」と、とにかくそういうことに「ショック」を受けるということがあるらしい(僕にはわからんのであるがまま報告しておくしかない)。

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ノンフィクションに足を縛られた「情熱的」なダンサー

ういえば先日、友人に誘われてバレエの観劇に行ったのだったが、舞台が始まると僕はただちに「ん? え?」となった。
もちろん劇団名および演目名は伏せるが、世界的に有名なバレエ団であるはずなのに……僕の目には「えらいセクハラ感満載ですけれど……?」と見えた、もちろん「それがバレエさ!」と言われてしまったら僕にはどうしようもない。
僕は喫煙所で煙草を吸いながら友人に、「ものっすごい技術レベルの高い、ニワトリダンスに見えるが」と話した/僕の目にそのように見えるということは、僕にセンスがないか、国際的に有名なバレエ団にセンスがないかのどちらかだろう(もちろん双方にセンスがないという可能性もある)。
「いくら技術レベルが高くても、つまりどれだけ『上手く』ても、それでは上手い意味がない、ということがある、だってフィクションが成立していないんだからさ」と僕は話した/しかしそんな状況であっても、その中に含まれる誠実な天才は、孤立無援のまま天才の義務を果たしていた、僕はそれに向けてのみ拍手を贈る心地だった。

何しろ、世界的評価が高いのだろう、場内は割れんばかりの拍手……だったのだが、カーテンコールのときにゾロゾロ帰る人たちがいるので、場内は正直なところカオスだった/さっさと帰るムードならカーテンコールの必要はないし、そういうムードなら万雷の拍手を物理的腕力で作るのもおかしい。
まあここは、僕のような徳の低い者がエラソーに言ってやるが、何しろ技術レベルがどうで、世界的に評判の高いバレエダンサーだろうが、僕より若輩なのだ、そんな若造にはこの年長者のジジイたるおれさまがエラソーに言ってやる権利が、たぶんあるのだ(ねえよ)/「たぶん主人公の彼、おれが実演するフィクションの基本の基本でさえ、やらせてみたらできないと思うよ、自分の感情が舞台上のパッションだと思っていて、フィクションの基本がわかっていないから。まあ若い人にはありがちのことではあるけど」。
「でもそういう人が、ウケたり、監督のお気に入りだったり、ということはよくあるわけだな、『お気に入り』というのもこの場合は色んな意味がありうるしな……ただ今日おれは改めて確信した、おれがいつも実演するアホみたいなフィクションの基本、これがまともにできる人はたぶん世界的にも少ないんだ。見失われて、壊滅状態なんだよ」
「技術には訓練が必要で、プロ級とかアマチュアとかあるけれど、フィクションにはそんなのないからね、フィクションができるかできないか、掴めているか掴めていないかは、プロもアマも関係ない、男も女も関係ない、ガキも老人も関係ないよ。プロというのは本来、フィクションの中でその高度な作業ができるというだけで、それを生業にしているというだけだから/実際、フィクションが成立していないから、二時間も舞台を観たのにわれわれは、主人公とヒロインの名前さえ憶えていないだろ? われわれはバレエダンサーのガンバッテマスを見物しただけで、何かフィクションの物語を目撃したわけではないんだ」

バレエが好きな人はいくらでもいるだろうが、ジゼルを愛している人はそんなにいない。

バレエというのはひとつのショーの形式であり、踊りと表現の技法だ、それ自体はノンフィクションのものであり、バレエそのものがフィクションであるはずはない/一方「ジゼル」や「オデット」はフィクションの物語上の存在だ、正しくフィクションを捉えたとき、「ジゼルが好きだ、バレエがどうこうというのはおれは知らん、バレエなんかどうでもいい、ただジゼルというあの村娘をおれは愛している」とならないといけない、だいいち観客の者が舞台を観るときに技術レベルがどうこうというのは邪法の極みだ、ジゼルは村娘であって技術者ではない、ここを濫る者は来世は機織り機に生まれ落ちるだろう。
こんなフィクションの、基本の基本の概念もわかっていないし、基本の基本も実演できないのだ、「世界的に芸術性の評価が高く、また技術レベルでは他の追随を許さない」などという、ジゼルやオデットとは何の関係もないノンフィクションを見物して、われわれは拍手を贈っていたりする、それなら最新鋭の戦闘機が超音速で滑空するのを見て「すげえ!」と拍手するほうがよっぽとまっとうではないか、戦闘機の性能はノンフィクションなのだから。

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称賛の行方

現力の一切を持ちたくない。
技術の一切を持ちたくない。
ジャンルさえ持ちたくないし、一切の努力を持ちたくない。
つまり僕はサイテーの人間でありたい。

これはひとつの賭けだ、もう長いこと続いている。
僕はフィクションと、馬鹿げたスケベ心と、遊ぶことだけで勝負したいと思っている。
つまり、有利に見える一切を頼りたくない、有利になって勝っても得られるのは勝利ではなく罪業だと思っている。
僕は不利になるものを求め、足しにならないものを追いかけている、なぜなら僕にとって勝利とは、僕が笑うことではなくみんなが笑うことだからだ。

称賛は悲劇の始まりだ。

「表現力」を持ち、「技術」を持ち、「ジャンル」に幅を利かせ、「努力」を見せつけるようになったら、人はこの世間で称賛を受けるだろう、そのぶん有利になるわけだが、その先に幸福になった人を僕は見たことがない、その先はもう二度と本当には笑えなくなるのが称賛の先行きだ。
世間に横行する称賛の行方をよく見なさい、誰がその称賛の先に、当人の幸福を祈念しているだろう、野良猫にエサをあげる程度にも、われわれは称賛の先にその人の幸福に寄与しようなどとは思っていない(野良猫を称賛しているわけではないことをよく見なさい)。

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実は「儀式」から出現している男女平等思想
女平等の思想から、女性の地位が向上してきたわけではない。
逆だ、女性の地位が向上してきたから、男女平等の思想が主張され始めたのだ。
女性の地位を向上するにはどうすればいいかというと、これは機械的だ、男性をディスるといい、男性をディスると自動的に女性の地位が向上するというナゾの仕組みがある(本当にある)。
たとえば、僕は男なので、この記事の向こうにいる僕のことを指差し、「こいつサイテーだよね」と三回唱えてみるといい、するとなぜかスーッと気分が変わってきて、「上昇の快感」と共に、男女平等を言いたい気分になってくる、それはそういう「儀式的な現象」があるということなのだ、儀式をすれば機械的にそういう気分が生じてくる。

知っておかなくてはならないのは、男尊女卑であれ男女平等であれ、それらの思想は「自分で選べない」ということだ、「儀式」を経ると誰だってそういう気分になり、いったんその気分になるとまずその感情からは引き返せない。
あまり詳しくは言えないが、特に「口に出して言う」ということは、それぐらい尾を引く現象があるということなのだ、いったんディスってしまったものは長期に亘って取り返しがつかないということ、これはもう覚悟しておくしかない。
女性が男性をディスると、それは「儀式」となって女性の地位を向上させる、地位が向上するとそのぶん「恵み」は得られなくなる、「恵み」が得られなくなったぶんの喪失感を、今度は「上昇の快感」で埋めようとするから、男性へのディスりおよび男女平等を主張することは彼女にとって「必須の習慣」となる。
このことを踏まえると、やりきれないことだが、「ディスるしかない男と出会った女が不運で不幸」ということになる、もちろんさらに賢明には、その「ディスるしかない男」は、「女によって堕落させられた」という見方がありうるのだが、これはひとつの知恵であっても、社会情勢的にすでに市民権を得るまい。

「この人になら殺されていい」と思える男に、女はもう出会うことがなくなった。

そんなもの必要ない、という女性もいるだろうし、それがなければ生きている意味がない、という女性もいるだろう、どちらが正しいとも僕は言えないが、少なくともわかることは、男性へのディスりから始まった男女平等への「ムラムラ」の中で、女性はすっかり男性に殺されるような存在ではなくなったということだ/むしろすでに少なからぬ女性が、「むしろわたしのほうが男殺せんじゃね?」と力強い自信を得てきているところだと思う。
またそれに合わせて、男もすっかり蛇に入られて、ネタミソネミをふつうにするオカマになってしまっているから、困ったことに事実にはバッチリ適合するのだ、女性はこれから筋力を鍛えることがブームになり、やがて男から女に向けて「あなたになら殺されていい」と言い出すようになるだろう/それが真の解決なのか偽りの解決なのかは未だ誰もわからない。
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男性をdisると、女性の身分は機械的に上昇する
女平等やフェミニズム、ウーマンリブや、その先に必然あったミサンドリーの思想は、女性にとってひどい「罠」だった。
女性が男性をdisると、女性の身分は上昇する、自覚がなくても自動的に上昇している/これは機械的な仕掛け、そして身分の上昇とは必ずしも良いことばかりとは限らない。
身分が上昇すると、これまでは受けられていた恵みが受けられなくなるのだ、すると本来は恵みに満たされることで進んでゆけたはずが、恵みが受けられないので進んでゆけなくなる。
現代において、父親や上司や店長の男性をdisったことのない女性は皆無だと思うが、それらを「正当に」disることで、これまで女性に垂らされていた恵みの雫は絶たれてしまった、言うなればもう川の源流より高く上ってしまったので、この先は川の水に渇きを潤すことはできなくなってしまったのだ。

女性から男性へのdisは、「正当」だったところが、まさに罠だった、単純に言うと、僕だって男性なのだから、女性はもう僕からの恵みは受け取れないということなのだ。
もちろんそのことは、当の女性が、僕などからの恵みなど要らない、すでに必要としないという状態ならば何の矛盾もないのだ、実際動物たち(獣)のメスは別にオスの恵みによって豊かに生きられているわけではない、獣こそほとんどオスメス平等だろう。
男女平等というのは、単に男女の権利や扱いを平等にするというだけでなく、背後にあった恵みのもたらしも「放棄します」ということを含んでいた、もちろん僕から女性へ「恵みをもたらす」など、「ふざけるな」と言われてしまえばそれまでなのだが、それでも少数は「それでは困る」という女性もいたのだ。
今になってもし、少しでも「この人の話をアテにしてみよう」と思ってくれる人があったとしてもだ、しかしすでに身分が上昇してしまった以上、もう僕からその女性へ恵みをもたらすことは、地位の関係として不可能になった、考えてみれば当たり前のことだが、僕の気づくようなことや僕の到達するようなやり方は、あなた自身で当然に気づかねばならないしあなた自身で当然に到達せねばならないのだ、そう腹をくくらないとあなた自身が不快なストレスを溜め込んでしまう。

あなたは恵みに激昂するようになった。

いつのまにかそうなっているはずだ、あなたはきっと、まだまだ恵みを必要としているはずだし、恵みを乞おうとするこころさえ残っているのだが、その恵みはいざもたらされても、あなたの中へ入っていかない、それどころか何か拒絶反応があって、猛烈な不快と激昂が起こるはずだ/すでにあなたの身分は川の源流を越えており、川の恵みは「下賤の水」に感じられてしまうということ(この感覚は意志では変更できない)。
本当に単純に言って、男性からの恵みがすべて「オエッ!!」と、嘔吐をもよおす汚物に感じられるということだ、どう努力しても「受け付けられない」という生理反応が起こる、それは耐えがたい不快感でどうしようもない/ひいては差し当たり、男は女に恵みをもたらすなどど一ミリも考えないこと、および女性は男性の作ったものには一ミリも頼らないことだ、そうして嘔吐感を引き下げてから冷静に考えるしかない。
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