☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
愛は速く、人間関係は遅い
品はいつも光の中や風の中にある。
言葉の中にあったり、場所そのものにあったりするが、少なくともおれの中にはない。
そしていつも言うように、光の中や風の中、言葉の中や場所そのものにあるのが「おれ」だ、それから切り離した「おれ」はおれではない。
光や風に接続するためにはどうすればいいか? それは速さが要だ、疑問が湧いてくるようなタイミングまでチンタラしているのが悪い、疑問が湧いてくるタイミングには必ず「人間関係」が待ち受けている。

光の中のおれがあり、風の中のおれがある。
それは、フィクションでも何でもかまわないので、フィクションの中のおれに、経歴を積ませるべきだ、ノンフィクションのことはどうせ百年後には消えているし、百億年後には地球そのものから消し飛んでいるだろう、だからノンフィクションの自分にだけ経歴を積ませていたら後にぜんぶ露と消える。
なぜフィクションの中の自分につながらず、ノンフィクションの自分が何の意味もない「イメージ」や「空想」を膨らませるかというと、「記憶」に掴まれているからだ、われわれが記憶を所有しているのではなく、記憶の側がわれわれを掴んでいるのだ、記憶がわれわれの所有物なのではなく、われわれが記憶の虜囚だということ/記憶というのはそれじたいが毒なのだ、この毒を否定するには、けっきょく光や風の体験ばかりを肯定するしかない。
つまり、速さが要ということで、実際「愛」という現象は速いのだ、疑いがないから速い、そして愛には疑問が湧かないに決まっている/人間関係というのは行き着くところ疑問と調整でしかないから、それをいじくりだしたときにはもう何も間に合っていない、ああそれにしても愛は速いな、人間関係はすさまじく遅いな。

信じている者と疑っている者は、話せない。

信じている者は初めから誉れの状態にあるのに対し、疑っている者はすべてを検査に通してからしか手に取れないという憐れな状態にある、信じている者が疑っている者のペースに合わせるには、わざと相当イヤな気分にならないといけないし、疑っている者が信じている者のペースになることは不可能だ/よって、初めから誉れ状態にある同士か、初めから憐れな状態にある同士しか話せない。
おれは人間関係には冷淡だ、それは、おれまでが人間関係に与したら、もう誰にとっても手がかりがなくなるからだ、いつか本当に解決してやろうと思い立ったときのために、おれは残っている必要がある/ためしにおれが「人間関係」に降りてやってもいいが、そのとたんどれだけの絶望感が空間を閉塞するか、たぶん想像をはるかに超えるだろう、これは実験的にも知らないほうがいいぜ。
正しく見ないとな | comments(0) |
「命」はどこから3

はどうしても「親分」というタイプではないし、芸術家というのは分類的には「王」のタイプだと思う。
僕は誰に対しても「力関係」なんか持っていないし、「みんなやっているからやりなさい」なんて絶対に言わないタイプだ。
「命」はどこから、という話をしている、命はもちろんカミサマからだが、当人がダイレクトでカミサマにアクセスできるとは限らないし、むしろそんな奴は極小数派だ。
それで、あくまで理論上、どのように「命」が中継されうるかということを考えている、僕は「親分」とか「力関係」とか、「みんなやっているから」とかはどうしようもなく苦手だ。

僕は威張りたいのではなく、「命」という現象のディールがしたい。
それで「偉大なるおれさま」という言い方をしたりするが、こんなもの、代わってもらえるなら代わってもらいたいぐらいだ、おれなんか日常的に神通力めいていないと人に認めてもらえないんだぜ、いつのまにこんなしっちゃかめっちゃかになったのやら。
それで、いくら僕が日常ずっとビンビン来ていたとしても、命のディールは、タイプが異なる場合はリレーされないということがわかった、たぶんそういうことだ、人によっては「あなたは親分じゃないし」「あなたは上司じゃないし」「全員がやることではないし」ということで、能力的にではなく性質的にキックされることがあると判断できる。
四種類あって、まるで血液型みたいだが、その血液型が適合しないと血が固まるように、偉大なるおれさまの王型が必ずしも万人に適合するわけではないのだ、またこんにちにおいては、四種類のどれにも属さないという人もいるだろう、とにかく「命」が中継・リレーされるのには "性質" があり、性質の異なるルートではリレーされない。

ナウシカも王女だしシータも王女だ。

なぜこんな話をしているのか、意味不明だと思うが、さしあたりおれには必要なのだ、王が神授によって「命」を直接得るものなら、臣民はその「命」を下賜されることになる、そして臣民は王の前で常に「王の御前(ごぜん)」だ、このわけのわからんことがこの先に必要になる。
ナウシカは王女なので作中で「姫様」なのだし、シータが王女だからパズーが騎士(ナイト)なのだ、ナウシカ王女がいなければ風の谷の人々は「命」のない集落民だし、シータが王女でなければパズーはただの世話焼き少年だ/そんな話、なんの興味もないという人は、ヨーロッパに旅行してもお城を観に行くのは禁止だ、そもそもわれわれが建築物として「お城」にこころを惹かれる偏りがアヤシイと感じねばならない。

正しく見ないとな | comments(0) |
「命」はどこから2
難しい話というか、わけのわからない話になって申し訳ない、けれどもこの話が今最もクリティカルなのだ。
人類の歴史は、大雑把に言うと、中世までが封建制で、封建制の無秩序を解決する形で中央集権的な絶対王政が敷かれ(このへんから「近代」か)、絶対王政に疑問が持たれることで共和制が台頭し、共和制は資本主義が乗っ取ったから、アンチテーゼとして共産主義が試され(このへんから「現代」か)、共産主義の試みは失敗に終わった、そして現在は共和制の資本主義が主流になっている、という感じだと思う(詳しくないのだ、詳しい奴はおれに説明しに来い)。
ここで、それぞれの制度における「最上位理念」は何だったかというと、ざっくり、封建制においては「ファミリー」、絶対王政においては「王」、共和制においては「資本力」、共産主義においては「平等」だったのではないかと思う。
最上位理念というと、僕の造語でわかりづらいが、つまり封建制においては「ファミリー(皇帝・諸侯・家)のためには死ね」ということだし、絶対王政においては「王のためには死ね」ということだし、共和制においては「資本力のためには死ね」ということだし、共産主義は「平等のためには死ね」ということだったろう、僕はこのどれをも間違っているとは思わないし、そもそもこんなスケールのこと、誰がどう威張ってみても何が絶対に正しいとは言えない。

「命」はどこから、という話をしている、つまりこれら人類史上に試されてきた最上位理念に対し、命は「ファミリーから」なのか、命は「王から」なのか、命は「資本力から」なのか、命は「平等から」なのか、と考えているのだ/何に殉じれば単なる生ではなく「命」がありうるのか、もちろん宗教的なことに縋ってもロクなことはない。
なお、共和制における最上位理念が「資本力」となっていることに、違和感を覚える人はあるかもしれないが、共和制の建前においては、そもそも最上位理念を何とするかは個人に委ねるという発想なので、それだとただの「バラバラ」にしかならない、それでけっきょく共和制を牛耳っている理念は資本主義の絶対パラメーターである「資本力」だ、実際のところカネをくれる人を「主君」のごとくに奉っているのは共和制のわれわれのよく知るところだ。
このそれぞれの制度には、それぞれにつながりうる先があり、それぞれの得意・不得意、メリット・デメリットがあるのだと思う、実際「資本力」はおそらく「力」の勝負、つまり戦争が得意分野で、なまじ封建制を引きずっていた日本は旧大戦でアメリカに抗しえなかっただろう。
それで、こんな短い話をもって、何を結論づけるわけにもいかないが、さしあたり言えることは、今でも時代劇が好きな人は封建制、つまり徳川家あたりの「ファミリー」に命を見ているし、初代ドラクエが好きな人は「王」に命を見ている、スポーツ・ゲームが好きな人は「力」に命を見ているし、社会活動家はやはり「平等」に命を見ているのだろう、おそらくどこに「命」を見るかによって、それぞれの人が得る「世界」が違うのだ/それぞれが本当に「命」と「世界」を得るのかどうかについては、僕は確言できないけれども。

1.時代劇 2.ドラクエ 3.スポーツ 4.社会活動、あなたは「命」をどこに見るか。

言い換えれば、1.「親の命令は絶対」 2.「王の命令は絶対」 3.「力の命令は絶対」 4.「平等の命令は絶対」、この四つのうち、どれに己の「命」を見るかだ、この判別ができればさまざまな局面で不毛な手間を省ける。
たとえばあなたに、「サプリメントを飲め」と命じたとする、それが「親が言うから絶対」か、「壇上のあの人が言うから絶対」か、「上司が言うから絶対」か、「誰でも飲んでいるから絶対」か……人によって有効に「命」を得る場合はそれぞれ異なるのだ、すべてのことについてけっきょく母親が言うことだけが絶対という人は今も決して少なくない。
正しく見ないとな | comments(0) |
「命」はどこから
事情あって、疲れ果てていたのだが、さらに諸事情あって、超回復した、おかげさまで元気パンパンである。
さて常々、単に「生きている」ということと、「命がある」ということは、まったく別のことだと申し上げている、われわれのうちに生きていない者はいないが、万人に明確な「命」があるわけではない、生きてはいるが何の使命も天命も感じられないという人は多い。
作品に魂を吹き込むとか命を吹き込むという言い方をするが、それはまさにそのとおりで、そもそも魂・命が吹き込まれていないものは、ただの細工であって作品ではない。
われわれはこのところ、先輩だの後輩だの、教師だの生徒だの、男だの女だの、演者だの観客だの、店だの客だのという、差別を撤廃したが、そのせいで各人が「命」を失うことになった、差別を撤廃したことによって「各人が天才として自分で天命をゲットしろ、他に方法はないからな」という状況になってしまった、それがいいのか悪いのかは誰にも言えない。

あくまで僕個人に限った場合、僕は、幾人かの明らかな先輩がいなければ現在の僕の命はなかったし、明らかな先生がいなければ現在の僕の命はなかった、そして明らかな女がいなければ現在の僕の命はなかった。
「命」は基本的に上から下に与えられていた、そりゃそうだ、下から上に「命令」することはありえないのだから/ただしこれは、「業務」においては異なる、「業務」においては「重役」といって、重い人が上とされる定義があるからだ、重役は常に「生」を人質に取って命令というよりは単に強制をしてくる。
仮にここに「世界」があって、仮に世界に「命」があるのなら、その「命」は上から下に与えられるが、「力」においては別だ、「力」においては上から下へ、「命」ではなく「ストレス」が与えられる、力の弱い者が高いストレスを課されるのはただそれだけの単純な仕組みだ、資本力のない従業員は普通車で通勤して残業するが、資本力のある株主はグリーン車でバカンスに行くということ。
「命」はどこから、といって、あなたの上には誰もいないのだから、どこからも命は来ねえよ、と、割り切って考えることも必要だ、目が覚めていい/あなたの上にダイレクトにカミサマ的なものがいればいいのだが、ダイレクトにカミサマ的なものにつながれる人はきわめて優秀で例外的な人だ、平等というのはまさにこのことであって、ハズレが頭上にのしかかるリスクは消えたが、アタリを頭上に得るチャンスも失ったということ、「命」と「生」はカンケーなくて、むしろ相克の関係にあるが……僕は今日「命」の上下を視たのだ、それで元気パンパンなのであった。

問:すべてのおっさんと有料で寝る女は「業者」だが、すべてのおっさんと無償で寝る女は「キチガイ」扱いされる、それはなぜでしょう。

なぜでしょう、といって、別に答えは用意していないので、解答されても困るのだが、なんとなく「あれ?」という気がするはずだ、現代は基本的に命を否定しており、生だけを肯定している、そして生の仕組みは単純な弱肉強食だ、力の強いものから弱いものへ「ストレス」が課されるというのが生の仕組みだ、つまり業者の女はカネがないので性労働の「ストレス」を課されるということが肯定される/サービスとはもともと「奴隷」の意味もあるが、映画「風と共に去りぬ」の中で確かアシュリーが言ったか、「奴隷の扱いには気をつけていたよ」。
スーパー平等主義の結末として、たとえばポル・ポトによる大量殺戮などもあったのだが、けっきょく「人」にとって、上下の差別と「命」はどう関わっていたのか? むろん生まれや人種で差別するのは単純に言って頭が悪いだけだと思うが、なぜポル・ポトを含め共産主義者がことごとく善意から独裁の大量殺戮者になったのかは、現在に到っても理由がはっきりしない、もし王権神授説を土台にするなら、まるで平等魔授説が成り立つかのようだ、王の勅命はわかりやすい「命」だが、共産主義の独裁権は命のはっきりしない「書記長」によって執られている。
正しく見ないとな | comments(0) |
風のカミサマがなければ風はなく、男女のカミサマがなければ男女はない
に哺乳類のオスがそこに座っていたとして、それが「男が座っている」にはならないし、同様にメスだって、「女が座っている」にはならない。
単に気圧配置によって空気が移動していたとしても、それが「風が吹いている」にはならないし、同様に気圧差がないときも、「風が凪いでいる」にはならない。
ふと、中国の街中の写真を見たとき、現代の日本より、現代の中国のほうが、カミサマにつながっているのが視えた。
世迷い言だと思ってもらってけっこうだが、僕はずーっとしつこく視てきたのだ、それである種のことが視えるようになった/ただし残念ながら、これまでスピリチュアル好きの人の背景に、風が吹いていた試しはなかった、だからそういう行方不明の趣味を勧める意図は僕にはない。

 "仮に" 、風のカミサマなんてものがあったとして、そのカミサマから切断されていると、その人には「風景」が与えられない、という話をしている。
光のカミサマから切断されていると、光景はないし、響きの妖精から切断されていると、歌や音楽はない。
近年、われわれは、男と女のラブロマンスなんて映画は観なくなったが、それは男女のカミサマから切断されると、われわれに男も女も与えられないからだ、同じく映画の中に風景も光景もなくなってしまうし、音楽にも何の響きもなくなってしまう/それですべてがただ、娯楽の受容と自己主張と、産業と自己承認欲求の取引になってしまう。
かといって、イメージしたカミサマを拝み倒せばいいかというとそうではなく、どのような条件でカミサマから切断され、どのような条件でカミサマと接続されるかは、きわめて奥深く非常に繊細だ、とてもじゃないが通常の感覚で気づくような条件で構成されていない、具体的にどうすればいいかというと、うぬぼれを捨てるしかないのだが、それこそ捨てようという心意気で捨てられるようなものではないのだった、われわれのうぬぼれはここまで数十年と数千兆円をかけて膨らませてきたものなので、ロウソクの火のようにフッと吹いて消せるものではないらしい。

カミサマに従順な奴は、 "自由" だ。

カミサマに従順な奴は、カミサマのイメージを持たない、当人としては何に従順かというと、何も考えず "自分" に従順なだけのつもりでいる、そして思いがけずそれが正解のようだ、だからこそ聖書方面のカミサマは "主よ" と主格とみなされて語られる/カミサマに従順な奴はこってり「主」に従順なので、すっかり自分自身に従っていると思っている、そして「主」から受け取る信号を自分の信号だと思っているので、当人としては一定の「自信」があると思っている。
カミサマをイメージするたぐいの、スピリチュアル好き方面などはそうだと思うが、そちらの方面では、「我」が不動に存在していて、その「我」が我とは別個のカミサマをイメージして奉るという発想だ、こんなことの真相は誰が正しいなんてけっきょくわかりっこないが、僕の知る限りではカミサマというのはそういう現象ではない/おれは風のカミサマを拝み倒したことは一度もないが、風の中にずっと "あのときのおれ" が居続けているのは知っている、この "あのときのおれ" には時間が流れていない。
正しく見ないとな | comments(0) |
映像とライブの違い

んぜん関係ないような話をぶっこんで申し訳ない、色んなことでこのことが影響してくるので……
特にこれからますます動画サイトの世の中になってくるので、どこかでこの知識を得なくてはならない。
映像とライブの違いとして、伝えておきたいのは、思いがけないことだが、映像にはカメラマンの主観・自我が乗るということだ。
そしてたいていは編集もされるので、編集マンの主観・自我も、映像には乗っかってくる、ライブと映像の違いはそこだ、われわれは「カメラマンが見た光景」しか見られないということ、だからカメラマンが低級なら、いかなる高級な素材も低級視線としてしか摂取できないのだ。

例外というか、補償として、映像の有効利用もできる、それは自分が直接ライブ体験したことのあるものは、映像を通してもライブレベルで体験できるということだ。
ためしに、たとえば超一流のクラシックバレエ、コジョカルの舞台などを観にいって、その後 YouTube でバレエの動画を観るぶんには、映像に入っているカメラマンの主観や編集の作為を無視して、実際に「その場でありえたこと」に接続してそれを体験することができる。
これは、ジャンルの同一性に限らず、同レベル程度のライブ体験(生身の体験)を得ていれば、映像から「その場でありえたこと」に接続できるということだ、たとえば証券マンとしてトップセールスを続けている営業マンは、自衛隊のレンジャー訓練のキツさを、映像を通して体験することができるだろう/これが、何のライブ体験もない小学生では、いくら映像を観ても何の体験も得られないのだ。
だから、たとえば映画ひとつにしても、名画に深く感動できる人というのは、実は単に作中世界に感動するだけではなくて、それ以前に自分が直接生きている世界そのものを、これまでに深く体験してきたのだということ、生身で世界を体験しているので、映像を通して映画の作中世界も体験できているということだ/レビューサイトに素っ頓狂なレビューコメントが書き連ねられているのもこれが理由だ、生身で世界を体験していない人は、映像を通した作中世界も体験できないので、素っ頓狂なレビューコメントを書くことになる、このことは当人としては気づきようがないという仕組みだ。

映像は映像制作者の作品であって、基本的に出演者の作品ではない。

映像の中に映像制作者自身は出てこないので、誤解しがちだが、たとえばモネの「日傘をさす女」が、モネの作品であって女の作品ではないように、映像は基本的に映像制作者の作品だ、だから映像制作者側が下世話なものなら、いかなる素材もその下世話な性質のもとに統合されてしまう、同じ美人を二分間撮るのでも、下世話が撮るのとヒッチコックが撮るのとではまったく別の作品になってしまう/出演者は同じなのにだ。
だからライブ映像というのも、どうしてもどこかで、その映像を制作した人の作品になってしまい、そこにあったライブはあくまで作品のための「素材」になってしまう、ただしそれを観る側に万事のライブ体験(生身の体験)が深くあった場合は、映像制作者の限界を超えて「その場にありえたこと」を体験することができる/つまり観る側のライブ器量がなければ何も視えないということだし、ときには観る側の器量が大きく上回ることで、映像制作者の撮っていないものさえ観る側が視てしまうことがあるということだ、これから動画サイトの世の中が進んでいくにあたり、われわれはこの器量差のことを知っておかねばならない。

正しく見ないとな | comments(0) |
無能の覚悟/YouTuber に関わる警鐘3
YouTube からは色んなことが学べる、また学習可能型 YouTuber も多い。
そこで、高度な判断になるが、われわれの「思考停止」への衝動と習慣は、「学習」へも流れるということを知っておかねばならない。
われわれは、思考停止したいあまり、「学習」ということへも逃げ込むのだ。
わけもわからず、たとえば「アルゼンチンの歴史」という動画があって、陽気なアルゼンチン人が「ボクの国の歴史を紹介するよ!」と言っていると、アルゼンチンの歴史を学習するということへ流れ込み、自分の思考停止を実現することになる、そんなことをしているうちに、「色んなことに詳しい空っぽな奴」が出来上がるだろう。

僕は周囲に、「自己決定しろ」とよく言う、自己決定が先になくてはどうすることもできない、自己決定というのは「お前はどんな奴になるんだよ?」ということ。
自分はどんな奴になるかということを、先に自己決定している必要があり、その自己決定のプランが後に変更されることはかまわないのだが、何の自己決定もなしに日々をうろつくのは、今や無意味なだけでなく危険だ、何の自己決定もないままアルゼンチンの歴史を漠然と学習するようなことになると、はたから見ていると不気味な奴だし、当人は何の自己決定もないのに、あちこちに妙なこだわりだけ強く持っている人になってしまう、そうなるともうまともな自己決定は生涯できない。
自己決定した上で獲得していった有能さは、自分の有能さになるが、自己決定せずに漠然と押し込まれた有能さは、有能だけど自分の有能さではないのだ、だからそういう奴の有能さは気分が悪い、いくら有能でも「お前に活躍されても気分が悪いだけです」という最悪の状態が出来上がってしまう。
われわれの思考停止への衝動は、「学習」ということにも流れ込むので、その意味ではいっそ YouTube も、おせっかいな自分の母親のように捉えたらいい、この母親は次々にサジェストをしてきて、あなたの興味と学習を勝手に進めてくれるのだ、そうして色んな学習を進めたあなたは、この世で一番うっとうしい空っぽのマザコン野郎になっているだろう、「テメーの眼球で見てきたものはないのかチンカス」と言われてオワリだ。

おれがお前に idea を訊き、お前が十秒以内に idea を言わないなら、おれがお前を絞め殺してやろう。

十秒も待って何の idea も出ないというのはどういうことだ? 何が興味だ、何が関心だ、何が学習だ、このゴミクズめ、ということになる、これは悪口のように言っているが事実だ、万事の正体が自分の思考停止という衝動を満たすことでしかなかったので、何十年も生きているくせに、いざ idea を訊かれると沈黙するのだ、まともに自分で思考しているやつが十秒間も no idea なんてことはありえない。
おれがお前を絞め殺すというのは、おれが悪逆なのじゃない、おれがお前の命を救おうとしているのだ、 YouTube そのものは何も悪くないし、大いに利用したらよく、大いに楽しんだらいい、けれども自分の思考停止を実現するためにクリックするというリズムに耽っているなら、それは YouTube じゃなくお前がゴミだ、借り物の idea をコピーして吐き出す機能しか自分にはないとしたら、おれじゃなくてお前自身からヘドが出るだろ?
正しく見ないとな | comments(0) |
無能の覚悟/YouTuber に関わる警鐘2

は YouTuber を非難・攻撃しているのではない。
状況が危険水域に及んでいるので警鐘を鳴らしているだけだ。
たとえば YouTuberが「死ぬかと思った! 噂のデスソースを食べてみた(冷や汗が止まらない件……)」というタイトルで、タイトルどおりのことを動画で示したとする、すると面白げに見えるし、「デスソースってどんな辛さなんだろうなあ」という好奇心を刺激されるので、コンテンツとして魅力的に思える。
だがこのことは、よくよく見るとおかしいのだ、もし「デスソースを食べてみた」が面白そうで、好奇心が刺激されるのであれば、自分でデスソースを買ってきて味見してみればいいのだ/そうして自分でデスソースを舐めてみるということは、とたんに面白くなさそう――むしろさびしそう――に見えるのはなぜだ? だから「デスソースを食べてみた」というコンテンツが、面白そうで好奇心を刺激されるというのは "ウソ" なのだ、このことにはトリックがある。

このトリックの本質を、そのまま言ってしまうなら、仕掛けは実につまらないことだ、実はわれわれが YouTuber に刺激されているのは、関心でもなければ好奇心でもなく、ただ「思考停止したい」という衝動なのだ。
何度でも同じ方法で考えて、このことの真相を看破しなくてはならない、 YouTuber が「噂のタピオカランドに行ってみた! (あれ、意外に楽しくね?)」というタイトルを示したとき、思わずそれをクリックしそうになるが、自分はその場でタピオカランドに行ってみたいのかというと、ほとんどの場合そんな興味はゼロだ、本質は「興味」ではなくその逆、「思考停止」にあるということをあなた自身が看破しなくてはならない。
「思考停止」というのは習慣化し、ナポレオン・ヒルが言うように、あたかも催眠術のような一定のリズムを創り出す、このリズムが発生すると、思考のストレスが生じたとき即座にゼロ秒で、 YouTuber の動画をクリックするというパターン化行動が発想されるようになるのだ、思考停止のリズムそのものに操られるようになると言っていい。
この思考停止のリズム化は、老人が朝起きると無条件でテレビをつけるのと同じ仕組みで、とにかく自分の思考に向き合わない習慣でしかないのだが、こんなものが子供向けにも "常時" アクセス可能な状態で口を開けているのはとてつもなく危険だ、ちょっと想像してみたらよいが、五歳児が朝起きてきていきなりテレビをつけるおじさんのような習慣を持っていたとき、それが子供として危険な状態だと感じないだろうか。

何も流行なんかしていない/拡がったのはただ思考停止の "習慣" だ。

もちろん、常時激烈な思考を続けていくのもきついだろうから、そういうときは単なる娯楽として思考停止を随時に挟めばよいだろうし、また何か研究するテーマがあって YouTube から資料を漁るのはよいだろうが、今ある実態はそういうものではないだろう/自分の好みのチャンネルを登録して、動画が更新されれば通知が表示され、更新が無い場合も YouTube 側がサジェストを入れ替えてアピールしてくる、これは見方を変えれば「何がなんでも思考停止させようとアプローチしてくるシステム」だとさえ言いうる、これを続けていると早晩、あるいはすでにか、自分で何かを思考するという能力が本当に壊滅して機能しなくなる。
断言してよいことがひとつあって、 YouTube にアップロードされているスーパーチャレンジの動画を百本観たとしても、「あなた」の中で何かが豊かになっているという要素はゼロだ、本当にあなたの中では何も起こっておらず、あなたはただ自分の思考する能力を弱体化させただけだ/スーパーチャレンジ動画を百本観るより、あなた自身でこれまで降りたことのない駅で降りてみるというほうがはるかにあなたにとって足しになる、冗談ではなく紙飛行機でも折って部屋の中で飛ばしてみるほうがマシだ、あなたが自分で紙飛行機を折ってみるとき、 YouTuber の動画をクリックする手は止まるだろう。

正しく見ないとな | comments(0) |
無能の覚悟/YouTuber に関わる警鐘

いがけず重要なことを話しておきたい。
今、ウェブ上には、 "有用" な情報が大量に転がっている、たとえば YouTube 上で、英会話の勉強ができたり、スポーツのコツを学んだり、音楽の基礎が学べたり、歴史の勉強ができたりする、それはもう情報の宝庫だ。
もしそれらに名前をつけるとするなら、 Learnable YouTuber (学習できるユーチューバー)ということになるだろうが、僕は早くも勝手に警鐘を鳴らしておきたい、<<学習できるということに釣られてはならない>>。
もちろん、自分がモノにしたいことは、学習したらよいだろうが、そうではないのだ、われわれは必ずしも、<<学習したことを自分のものにできるとは限らない>>、学習をてんこもりにしたところで、結果、「自分はずいぶん優秀なのに空っぽだ」という状態に行き着くことはよくある、こうなってしまうと、優秀なだけにそこから自分の何かを獲得していくことは何倍もむつかしくなってしまう。

YouTuber が完全に無益なものなら、さして警戒は要らない、無益なものにこだわる人はいないからだ/そうではなく、人気のあるYouTuber は、何かしら有益だからこそ警戒が要る。
別に YouTuber に限ったことではないだろうが、現代は、学習や関心を深めるのに、あまりにも状況が好都合すぎるのだ、そしてけっきょくすべての学習と関心が、わたしそのものを形成しないということはいくらでもある。
自分でワークショップを主催している僕が言うのも説得力がないと思うが、肝腎なところ、半分は学習熱心でいて、もう半分は、無能でいる覚悟を持っておくべきだ、そうでなければ際限のない、「役に立ちますよ」という知識の洪水に流され続けてしまう。
現代は明らかに、 YouTuber の時代という一側面があると思うが、その恩恵にいくらあやかったとしても、それだけではあなたが生きたあなたの時代にはならない、今このときあなたが何に生き、何を学んでいたか、あなたにとって何の時代だったかということは、 YouTuber の時代で埋め合わせはできない/半分は学習熱心でよいけれど、もう半分は無能の覚悟を持ち、今生きているのがやがて自分の何時代になるのか、はっきりと思い出せるように生きるべきだ。

YouTube は学習できる、そして学習しかできない。

この<<学習しかできない>>ということを重く見るべきだ、どれだけ豊かに YouTube から学習を得ても、 YouTube が母校になることはありえないし、 YouTube が自分の生きた場所になることはありえない、だから「学習できる」というエサに釣られてはならない。
あなたが何のテーマもなく生きていても、 YouTube 側が必ず、サジェスト機能であなたを誘導し、あなたに何かを与えてしまうだろう、その与えられたものはあなたを楽しませて満足させるが、それは YouTube の発達の歴史であり、あなたの発達の歴史ではない/あなたは本当は、自分の日々を楽しく生きるなんて能力は持っていないのだ、自分の日々を楽しく生きるなんてどれだけ高度な能力か、そのことを知らされないまま YouTube に学習漬けにされてはならない、 YouTube が充実していることは、あなたの充実にとって欺瞞でしかない。

正しく見ないとな | comments(0) |
偉大なるおれさまのサービス

例のように「偉大なるおれさま」という言い方をするが、この言い方じたいが最大のサービスだ。
僕自身が世界の只中にいようとするとき、この言い方は必要ないのだが、さまざまな状況を勘案して、わざわざ「偉大なるおれさま」という言い方をしている。
いろんなことを研究していくほど、とんでもない差があることが明らかになってくる、まだその「差」を明確に見切っていないので、この先も思いやられる感じがするが……もうこの先はシャレにならんのだよなあ。
「偉大なるおれさま」という言い方が、現在できるところの最大のサービスだと思う、僕はこれからも先に進まねばならないので、この言い方もいつまでもつか怪しいものだが、さしあたり今日のところはまだ、「偉大なるおれさま」という言い方はサービスとして成り立っている。

偉大なるおれさまを、必死こいておがむ必要はない、そんなことをしても意味が無い。
「偉大なる」というのは、何かしら、吾我でない主体のことを、とりあえず「偉大なる」と称しておけばいいのだが、そのことはありふれたことであって、特別視するのはセンスが違う/「奴隷」というのを異様な酷薄さと残虐さで捉える的外れと、同レベルで、「偉大なる」をおがみたおすのはセンスがズレている。
「サービス」というのは礼拝のことだが、同時に語源として奴隷のことでもあるのだ、聖書世界としては人はカミサマの下僕(しもべ)なのだから/そしてその下僕がカミサマ(主)に対して為し捧げることをサービスと呼ぶだけだ、それはありふれた当たり前のことでなくてはならず、特別視するのは何かヘンな宗教が入っている。
奴隷であろうが主人であろうが、それをうぬぼれベースで眺めるから、事実と違うものを空想してしまうのであって、そうではない、「主」に対する「サービス」というのはもっとスッキリしたものだ、偉大なるおれさまをおがみたおせと言っているのではなく、ただ「醜くないものをプリーズ」と言っているだけだ、それこそ偉大なる主の思し召しというものだ。

サービス精神のない輩がボランティア活動をしていたら醜い。

ボランティア活動が、役に立たないとは言わないが、役に立っていたとしても、個としてサービス精神を持たない者がボランティア活動なんかやっていたら、美醜においては残念ながら醜だ/僕だって住み込みで一ヶ月もボランティア活動をしたことがあるのだから、それなりに経験談を話してもいいだろう、どこでだってサービス精神のある人がうつくしくて、サービス精神のない人が善人ぶるのは醜かった、そんなことはおれが言わなくても当たり前のことのはずだ。
われわれはどこか、礼拝というものを誤解している気がするが、礼拝する人が偉大ということはまるでないのだ、礼拝する対象たる現象が偉大なのであって、礼拝するマンが偉大だと思っていたらトンチキだ、礼拝というのは本来逆、われわれの「うぬぼれ」という不治の病を唯一消去してくれる方法であって、その実効が「サービス精神」と呼ばれる、つまり他人から見ても「サービス精神に満ちているなあ」と見えなければそりゃうぬぼれの権化だということだ、わかりやすくていいだろう/というわけで、偉大なるおれさまという言い方は、現状で最大のサービスなのだった、サービス精神で劣るということは、うぬぼれ係数でぶっちぎりだと理解すればいい。

正しく見ないとな | comments(0) |
「うぬぼれ」の反対は「ひたむき」3
れまでに、いろんな人に、いろんなことを話してきたと思う、僕は特に、そういう立場になることがこれまでに多かったように思う。
そこで、すべての記憶を省みて、さしたる感情もなしに思うけれども、人はけっきょく「うぬぼれ」か「ひたむき」の、どちらかに歩を進めるしかない、立ち止まることはできないのだ/立ち止まっているつもりでも、自動的に歩は進んでしまっている、単純な加齢と共に。
女性は誰でも、女王やプリマドンナ(プリンシパル)になりたがるものだと思うが、一方で、昭和からのコント劇の王は、自ら「バカ殿」を己の魂とした/よもや舞台に立とうとする人が、「バカ殿」を自ら見つけて志すことはほとんどないのではなかろうか。
わずかでもうぬぼれがあれば、「バカ殿」なんてやれないだろう、うぬぼれ屋がコメディを気取っても痛々しいものにしかならないものだ/かくのごとく、人はけっきょく「うぬぼれ」か「ひたむき」のどちらかに歩を進めるしかない、おれはどちらかというとバカ殿に進んでいきたい。

どうして「自分が興奮する」のか、正直なところ、僕は感覚としてわからない。
よほどの抑圧、コンプレックスがあるのか、もしそうだとしても、いまどき抑圧だのコンプレックスだの言っているのは、とてつもなく時代遅れだと思うのだ、今さらそんなものは精神科医だって鼻で笑うだろう。
どうして「自分が興奮する」のか、この正気の沙汰とは言えない現象を放置しておくなら、その先には何の話もない、話は初めからブチ壊されている、どんな聖域の神殿に行ったとしても「自分が興奮する」だけなのだから、そこには醜いものしかありえないということは先にわかっているはずだ。
どうして「自分が興奮する」のか、なぜそのことに疑問を持たないのか、理性のかけらさえ機能していないのか、その背後に数億の事情があったとしても、その一つたりとも僕は聞いてやるつもりはない、たとえ時間に永劫の余裕があったとしても、うぬぼれの事情を解するためにひたむきさの誰かを止めていいなんて時間は一秒たりともないからだ。

常に「うぬぼれ」だけが揉めているのであり、「ひたむき」が揉めていた試しはない。

どうして「自分が興奮する」のか? それは、自室でオナニーするときにだけ適合する態様であって、その他のいかなる状況にも適合はしていないはずだ、にもかかわらず永遠に「自分が興奮する」ということに世界を適合させようとする、これはまったくの無為な試みだ、「自分が興奮しよう」なんて標語が貼られた国はこれまでの人類史上にない。
人力で海に網を打ったとして、それを引き上げるときには総員で力を合わせることが必要だ、「ソーレ」と、そうして「何か」を為し遂げねばならないときに、一人だけ「自分が興奮する」というオナニー態様を示すのはどういうことなのか、少なくとも正気の沙汰ではない/かつても、こういうとんでもない醜さの者はごくまれにいたが、このごろはウジャウジャいるようになってしまった、どうして「自分が興奮する」のか、こういう人は毎日自分が興奮した状態で目覚めて、その状態のまま眠っているのだろうか。
正しく見ないとな | comments(0) |
「うぬぼれ」の反対は「ひたむき」2
真面目になる必要はないし、逆に、生真面目になってなんとかなるほど、甘いことはこの世界にない。
リラックスしていたらいいし、ヘラヘラしていればいいのだ、「ひたむき」かどうかは、生真面目さの演出や興奮で証されるものじゃない。
人はけっきょく、「ひたむき」になるタイプと、「自分が興奮する」タイプがある、「なんとかして成功させるぞ」というタイプと、その状況に「自分が興奮する」というタイプしかいない。
誰がどう考えても、ここでうぬぼれタイプの側になりたい人なんていないのだが、それでもしょうがない、人がうぬぼれタイプでなくなるということ、ひたむきタイプの側になるということは、そんなに容易ではないのだ、ものすごく厳しく自分を見つめてきた人しか、ひたむきのタイプにはなれない/ここではあえて「タイプ」なんて言い方をしているが、言ってみればこれはどうしようもない美醜の格差だ。

うぬぼれタイプは、必ずひたむきタイプを否定して生きてきている。
なぜなら、ひたむきタイプを真に "認めて" しまうと、自分が否定されてしまうからだ、このストレスに克てず、人はうぬぼれタイプの自分を正義と認め、ひたむきタイプの誰かを否認し、何かしらの侮辱をあてがう。
どれだけふだんを、現代にフィットした、常識とセンスのある自分と設定していても、けっきょくは馬脚を現すしかなくなる、<<目の前に「ひたむき」な人が現れたとき>>、どうしてか自分はその人を嘲弄し、侮辱し、何かしら攻撃し、否認するしかないという、無意識下からのはたらきが起こる、そのとき悪魔じみたもの――あるいは悪魔そのもの――が自分の内側にとっくに巣くっているということに、敏感な人は気づくだろう。
なんてくだらない仕組みなんだ、とおれは思う、守っても何の足しにもならない自分を守り、うぬぼれの自分を正義に言い立て、ひたむきな誰かを侮辱し、認めずにいこうとする、守っても何の足しにもならない自分なのに、それでも守られないと発狂してヒステリーの悲鳴をあげるのだ、それがどれだけ正しくないと知っていたとしてもだ/何を認めないかといえば、おれはこのくだらない仕組みのほうを認めないつもりだ、こんなことに一生を費やす値打ちがあるとはまるで思えない。

「ひたむき」で笑っている人と、「うぬぼれ」で笑っている人は、よもや同列ではない。

これはごまかせないのだ、自分のために上達しようとしている人と、何かのために上達しようとしている人とでは、表面上の努力は同じでも、根本的な美醜が異なる、向かっている先は正反対だ/一時的にはごまかせるように感じられても、一歩踏み出せば必ず馬脚を現す、一歩踏み出せば必ずうぬぼれ側はひたむき側を侮辱する、一歩踏み出したとき、うぬぼれ側がひたむき側を "認める" ことは決してない。
己にひたむきさを課す者は、うぬぼれから成り立っているものをついに認めることはできないし、己のうぬぼれを看過し続ける者は、ひたむきさから成り立っているものをついに認めることはできない、両者は相克どころか敵対の関係にある、いっそひたむきな人に唾をかけることですべては白日のもとに晒されるだろう。
正しく見ないとな | comments(0) |
「うぬぼれ」の反対は「ひたむき」
一のポンコツは、全身全霊でやらないこと。
第二のポンコツは、自分が興奮すること。
何をやらせても全身全霊でやらず、ちょっとやる気を出したら、自分が興奮している。
そういうポンコツが、一番使えない、使えないどころがダイレクトに "醜い" 、またその醜さをごまかせると思っているところがさらに醜い、周囲から見たら全部丸見えなのに。

チャーハンひとつ作るのだって、全身全霊でやればいいのに、それをちゃんとやらない。
全身全霊でやろうとすると、自分が興奮する、とたんに自己愛と自己中の本性が噴出する、この性質を「うぬぼれ」という。
うぬぼれがバレないよう、レシピどおりに挙動して、「問題ないでしょ?」と振る舞っている、そのことにさえしょーもないうぬぼれとプライドが透けて見えている。
チャーハンひとつを作るのだって、チャーハンのベストだけにひたむきであればいいのに、けっきょく自分ばかりが興奮している、自分を守り自分をおだてることにしか己が機能していない、よもやそんなことがごまかせると思うなよ、膨大な醜さは加齢と共に増大していくばかりだ。

第三のポンコツは、他人の全身全霊を認めないこと。

このポンコツのパターンは、いつもの定番なので、いちいちケースに分類する必要がない、必ずこのパターンになるからだ、チャーハンひとつを作るのだって、まともな奴はチャーハンのベストばかりにひたむきだ、自分が興奮するなんて醜い話があるか、けれどうぬぼれをごまかして生きている人は、そうしたまともの人のことを “認めない" /まともな人のことを認めると、ただちに自分が窮地に陥るからだ。
どう考えても、「ひたむき」と「うぬぼれ」なら、ひたむきが美であり、うぬぼれが醜なのだが、うぬぼれ側は自分を保護するために、ひたむきでいるものを無視し、侮辱し、足を引っ張ろうとする、ただ自分を守るためだけにだ/うぬぼれた人は、あわてて「ひたむき」になろうとしても、そうはいかない、これまでに蓄えたうぬぼれ係数がそれを許さない、「ひたむきな自分に興奮する」という自己愛しか加熱しない、この違いはどこにあるかというと、「ひたむき」というのは一般に思われているような容易な態度ではないということだ、気持ちひとつでそうなれると思っているところに根本的な甘さと侮辱がある、これまでずっと認めずにきたものにいきなり自分がなれると思うか。
正しく見ないとな | comments(0) |
「他人」には一ミリも期待しない2
「他人」には一ミリも期待しない、というと、冷淡に聞こえるかもしれないが、そういうことではない。
「他人」に熱心になる人は、基本的にビョーキだ、自分の中に何もないから、「他人」に熱心になってごまかし続けるわけだが、そうなると自分を保つために他人に取り縋っているわけで、この取り縋っているものが思うようにならず変動してしまうと自分が保てなくなるので、取り縋っているものを固定しつづけようとする/この現象を「身内」と呼ぶ。
自分の中が空っぽだと、たとえばアイドル的なものに取り縋ったりするのだが、このアイドルは自分を保つために存在している(と当人は思っている)ので、変動されては困るのだ、だからアイドルが恋人を作って熱愛発覚などすると、それは凶悪な裏切り行為として弾劾されることになる/ファンとしては「おれを(わたしを)保つための存在なのだから、変動することは絶対に許されません!」というのが本音だろう、それは構造上当然のことだ、だからアイドルが老けたり肥ったりするとただちに生ゴミのように扱われて唾棄される。
ごく一般の家庭で、両親が子供に取り縋るのも同じだ、自分が空っぽの親は、自分を保つために子供に取り縋る、だから子供には変動してもらっては困るのだ、その意味で子供には自己を成立させてほしくない、いつまでもわたしを保つためのユニットであってもらわねば困る、もしそうでなくなったときには、裏切りとみなして唾棄するだろう、この感情と現象を「身内」と呼ぶ。

おれには大切な人はいないが、同時に、見方を変えれば、大切な人がたくさんいる、ということにもなる。
「大切な人」という、わかりやすいカテゴリが存在しないので、おれはもっと、「わからない」ものの中を生きている/他人には期待しないし、身内は世界の毀損でしかないが、自分一人きりというような寒さではもちろんない、「他人」と「身内」、それ以外に「わからない」というものがあって、その中にのみすべてがある。
なぜこんなことになっているかというと、おれはおれ自身、「わからないもの」を「おれ」と認めているからだ/わかるものはおれではない、おれは今日現在に到るまで何か「わかる」ものに頼ったことはない。
おれ自身がわからないものだから、他人というわかりやすいものでもなければ、身内というわかりやすい迷いでもない、わからない誰かがいる、わからないおれとわからない誰かが常にいる、それ以外のものを認めるつもりはないし、頼るつもりもない/おれが最近眺めているのは、わかる他人とわかる身内について、えんえん評したり絡み合ったりしている人々の、不毛さの情景だ、しばしばこぼれる笑顔を見かけるが、その笑顔はどう見ても瞳が怯えている、そこにあるのは何も視えておらず怯えている瞳だ。

「他人」と「身内」と「わからない」、三つのうち最後のものだけがまともだ。

自分というのは、わかるのはニセモノだし、自分でない誰かについても、わかるのはニセモノだ、このニセモノ同士で比率のこねくりあいをしていたって、ことごとく時間の無駄に終わる/それが時間の無駄に終始するということは、おれが言わなくてもわかっている、わかっているからこそ目が怯えている。
YouTuberがわかりやすい指標になるが、今はYouTuberでなくても、多くの人が不明の「他人Tuber」みたいな様相をしている、そのことごとくが、率直にいって僕にとって "気に入らない" わけだ、責める気にはならないが単純に気に入らない/やたら元気な他人Tuberみたいなものは気に入らないし、デキの悪い他人Tuberはさらに腹が立つ、せめてデキのいい他人Tuberでなければ不快でしかない、それにしても他人Tuberなんてことごとく時間の無駄でしかない、まったく時間の無駄でない本当の世界があると知ったら今さらどうするつもりなんだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
「他人」には一ミリも期待しない
「地獄とは他人のことだ」とサルトルは言った。
何のことを言っているかわからないだろうが、そんなことは置いておいて、現代のように、「他人」が生活の中に入り込んでくる状況は歴史的に見て異例だ。
僕の知る限り、まともな時間のすべてには、たくさんの人たちがいたが、どこにも「他人」というのは存在しなかった。
「他人」が押し入ってくる感情と現象のことを、一般に「身内」という、サルトルはこうした自己中心性の身内感情が多数を為して襲いかかってくることを地獄と称した、本当にそうかどうかは知らん、おれはサルトルなんか研究したことがない。

おれはけっきょく、他人に何かを話すつもりがない。
他人というのは、究極「邪魔」だ、初めから邪魔であって、最後まで邪魔だ、その邪魔が何かに気づいて改心できるかどうかだが、そもそも改心をフェーズとして必要とするということじたいが負けフラグだ、ふつーそんなもん必要としない/「他人」のまま他者に押し入ってくることじたいがビョーキなのであって、サルトルはむしろおれが「お前のことなんか研究せんわ」と言ったほうが気楽だっただろう、サルトルはきっと周囲に「他人」しか持てない人だった。
この世界は光と香りに包まれているのだが、そこにYouTuberが「激辛焼きそばを食べてみた」という映像をもって押し入ってくる、どこの誰でもない「他人」が押し入ってきて一歩も譲らず居座りつづける、それが現代の「世の中」の定義になってしまった。
「他人」をどう評価するか、そして「他人」とどう付き合うか、ということに、現代の争点は集約されているけれども、これが争点になっている時点で負け戦だ、何の値打ちもない地獄のような時間を過ごすしかなくなる/YouTuberがわれわれにもたらしてくれるのは、「他人という地獄の洪水にまみれつづけろ」という生活の実態だ、もう己と身内のキョーレツな吾我のうっとうしさを逃れる機会は与えてもらえないのだ、おれは唯一のまともな方法として、原則「他人」に話はしてやらない。

どれだけ人気のYouTuberも、「すばらしい日々」ではない。

目を覚ますべきだし、目を覚まし続けているべきだ、ひょっとしたら一生知らないことかもしれないが、「他人」というのは自分の存在とまったく関係がないから「他人」なのだ、それが「身内」という感情と現象をたずさえて暴れまわることで、ますます状況が混濁していく、その混濁の中で固定されたのが現代だ、たとえ肉眼であろうがYouTube越しであろうが、認識上「他人」と扱われるものが何をどう踊っていても、それは惑いをもたらす時間の無駄でしかない/本当に「時間の無駄」という罠が目の前にあるということを甘く見てはならない。
「他人」の身内化と闖入が現代であって、その現代の中、次第に自分も「他人」へ闖入していく当事者となるのだが(つまりYouTuberに熱心にコメントを入れている人がそれだ)、おれはこのことに冷静に見切りをつけていきたい、「他人」に励まされるとか「他人」に笑わせてもらうとか、そんなわけのわからないことで自分の世界は成り立たない/自分の世界は「すばらしい日々」でしか成り立ちようがないのだから、「他人」に可能性を一ミリだって見るはずはないのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
芸術と具体と「エロい」ということ
アノの鍵盤を指でぐいっと押したら、ポーンと音が出るはずだ、けれどもそれは普通、「わたしの音」にはならない。
日本刀をエイヤっと振ってみたとして、それで巻藁が少々斬れたとしても、それはただの刃物の性質にすぎず、それが「わたしの剣」にはならない。
すべての芸術家――を志す者――はこれで苦しんでいるのだ、どれだけ絵が上手でも、それが「わたしの絵」にならないし、いくらコンクールで優勝しても、「わたしの演奏」にはならない。
何をやっても、「わたしの○○」にならないということ、このことにまったく気づかないぐらい鈍感だと、いっそ気楽でいいかもしれないが、それはそれでわけのわからない感情だけで生きていくことになるので、どちらもそれなりに厄介なのだった。

万事が「わたしの○○」にならないどころか、実は多くの人にとって、自分の手でさえ「わたしの手」ではないし、自分の脚さえ「わたしの脚」ではないのだ。
われわれは、さしあたり生きていけるように具体は与えられているが、この具体のすべてだって、実は霊的に再獲得しないでは、「わたしの○○」にはならないのだ/実はほとんどの人が、自分の身体さえ「わたしの」ものとして獲得はしないまま生涯を終えていくのが事実だ。
手などは最も酷使する部位なので、せめて手ぐらいと思うのだが、おそらく多くのお疲れ中年サラリーマンと握手した場合、それはただの握力反射でしかなく、「誰かの手に触れた」「誰かに触れた」ということは起こらない/もちろん女子大生と握手したって同じだ、全身の基本的な部位さえ「わたしの○○」として霊的に獲得されていないことが実に多い。
当人のものとして獲得されていない身体(の各部位)は、生理的・本能的な機能だけを持つ、「人ではない生身」としてそこにぶらさがっていることになる、それは特に若い女性において、現代では「エロい」と呼ばれる印象になるのだが、今よく言われる「エロい」というのはつまり、「人ではない生身」、生理的・本能的な機能しか宿っていない肉だということになる、だから本当に電動マッサージ器で揺さぶるとアンアン言い出して「エロい」になる、でもそれはただのバケモノ遊びだ、やがて「人ではない生身」が人を支配し、人が機械的にアンアン言い始める、そのことがまざまざ視えるようになるとひたすら寒気がする。

今、異様にムキムキと巨乳が流行っているのは、身が「わたしの身」でないことの反映だ。

今、多くの人にとって「身体」は、「わたしの身」ではなく、自分にぶらさがっている「生理的な物体」なのだ、この「生理的な物体」は、当人の意志とはまったく無関係に、繁殖を求めて反応し、業に従って燃え盛る、当人の意志などはもはや存在せず、「生理的な物体」たる肉の分泌物が当人の生を最後まで支配し続ける、そしてわけのわからない感情とわけのわからない欲求に振り回され、わけのわからない人生にずっと焼かれながら生きていくことになる。
アルコール中毒患者が、当人の意志および、当人の感覚としては「吐きそう、もう酒は飲みたくない」と感じていても、酒を飲まずにはいられないのもこの現象だ、全身が「生理的な物体」と化し、当人の意志や感覚を無視して欲し、暴れ回るのだ、それはもう「わたしの身」ではないので制御のしようがない、当人は「生理的な物体」の猛烈な支配に服従し続けるしかない/すべてが「わたしの○○」にならないというのは、このような苦しい行状を生み出す。
正しく見ないとな | comments(0) |
夢が「在る」ということ
ィクションは存在する/少なくとも、フィクションという「現象」は存在する、そうでなきゃTSUTAYAに並んでいるDVDが何なのか説明できないだろう、かくのごとくフィクションは歴然と存在する。
フィクションは歴然と存在するので、頑張ってそれを「信じる」という必要はないのだ、頑張って何かを信じようとするのは、何かありもしないものを「ある」と信じ込もうとする自己洗脳だろう。
そんな自己洗脳をしなくても、フィクションは「在る」のだし、夢という現象も「在る」のは歴然と知られているのだから、それを無理やり信じ込もうとする必要はない/そもそも「疑う」というのはノンフィクション上でしか成り立たない状態で、フィクションにおいては何かを「疑う」ということじたい成立しないのだから、フィクションが「在る」という事実だけで、自動的に「信じる」ということは成り立っているはずだ。
「疑う」も「確かめる」も、ノンフィクション上でしか成り立たない機能だが、この機能をフィクションと混同しているのは、単に頭が悪いだけだ、ジャックと豆の木においては「豆の木がぐんぐん伸びた」と書いてあるのだから、しゃーないだろう、それでノンフィクションの植物と照らし合わせるのはただのアホだ/一部の人は、なぜか遠回しに、そうしてフィクションは「ない」と言い張ろうとして、ナゾの立ち回りを始める、何かフィクションを破壊しようとする悪の組織にでも操られているのだろうか。

ここで、人が「在る」ということについても、フィクションや夢と同じだということがわかる、なぜかというと、たとえば「イチロー」を塩酸で分解して、その後まったく同じようにタンパク質を並べても、それは「イチロー」にはならないからだ/もちろんイチローに限らず、誰か「人」が「在る」ということは、実は確かめようがない、ノンフィクション上では成り立っていない現象だ。
だいたい、ノンフィクション上では、人だってDNAに記録された塩基配列のコピーでしかないのだから、それをいくら発展させても「誰」ということにはならないはずだ、だが歴然とわれわれの世界は「誰」かが存在しているので、人の存在は本質的に夢でありフィクションだということがわかる、ジャックと豆の木でいえば、世界中にいる「ジャック」がそもそもフィクションだということだ。
フィクションが「在る」のだから、人もそうして「在る」ということで、話は完結しているのだが、それでもどこかモヤモヤするのは、今われわれの周囲がすっかり、ノンフィクション同盟という悪の組織にこっそり操られているからだ、そのせいでいつまで立ってもフィクションが「在る」ということじたいを攻撃しようとするので、初めから完結している話にいつまでもケチをつけようとする。
人が「在る」ということ、その本質が「夢」なのだから、人に会う・出会うということは、夢に会う・出会うということだ、この話は初めから完結しているので、何の工夫も凝らしようがない、「人」が表示されるということは、「夢」が表示されるということだ、人の眼には夢しか映らない、だから夢だけを表示しようということ、これが夢の原則だ、フィクションが「在る」ということにいつまでも疑義を覚える人は、いますぐTSUTAYAを爆破しにいって店員に返り討ちにされてこい。

ノンフィクションの凄みが「本質」に到ることは永遠にない。

たとえば、重量挙げの選手が巨大化して、「ついに一トンを持ち上げました」となると、それはスゲーことなのだが、その凄みはノンフィクションのものなので、「膨大な筋肉だ」ということにすぎず、それが「誰」ということにはまったくならない、握力が54kgの橋本さん、というような人はない、課長の高村さんというのも存在していない、なぜならそれが課長かどうかはその会社の人事部に確かめるしかないからだ(そしてその人事部の人が本当に人事部の人かも確かめなくてはならない、確かめる作業は永遠にゴールしない)。
まあそのあたりのことは、僕はけっきょくまるで興味がないので、どうでもいいのだ、僕が必要としているのは夢の原則だけ、夢を表示するということが、人を表示するということ、それが「誰か」であり、その誰かに出会うということ、古い黒人の映画のように踊っているだけで十分だ/このごろはフィクション作品でさえ、内容としてノンフィクションの凄みを使おうとする、なぜそうまでして自ら本質を否定しようとしているのか、まさに悪の組織に操られているのじゃないかといいかげん本気で疑わしくなる。
正しく見ないとな | comments(0) |
「夢」の原則/古い黒人の映画のように踊れ

がないといけない。
というのは、訓話としてではなく、事実かつ具体のこととして。
人はノンフィクションに用事がないのだ、「夢」がないと人に映らないという直接の問題がある。
人の眼に映るということ、それも魂においてというのは、「夢」が映っているのだ、だから夢がないと「映らん」という直接の問題がある。

「夢」とは何かというと、代表的には「ジャックと豆の木」だ。
庭に豆をまいておいたら、翌朝には雲の上まで豆の木が伸びていた、という話、これが「夢」の代表だ/「夢」というのは決して、自分の願望を空想に膨らませて目の色をおかしくすることを言うのではない。
ジャングルの奥地には七色の翼を持つ鳳凰がいていいし、羽を回すとドル紙幣が噴き出してくる扇風機があっていい、戦争に出たまま行方不明になっている戦車が今も砂浜でツーリングしていていいだろう、古い黒人の映画のように踊れ/これを「夢」だとわかっていない人が、がんばって空想したり、願望に鼻息を荒くしたりする。
空想がちな人というのは、世の中にとても多いものだが、空想がちというのは夢がたくさんあるということではなく、夢がないということだ、夢がないから空想しているのだ、「ジャックと豆の木」は夢であって空想ではない/ジャックと豆の木、古い黒人の映画のように踊れ。

夢だけを表示しろ、夢しか映らないのだから。

これを夢の原則と呼ぼう、「夢しか映らない、だから夢だけ表示すること」、「夢」がある人は頑張って空想を膨らませる必要がない/「これは夢の話をしているのよ、あなたは夢と現実をごっちゃにしているの? いくらあなたが現実しか愛好していないからといって」。
夢がないというのは、思い出がないというのと同じだ、思い出は実際にあったことかもしれないが、「現実」といったとき、思い出は「現」のことではないのだから、「現実」ではない、強いていえば「過去実」だ、そして思い出がないと決まっていたら、生きていてもしゃーないじゃないか、われわれが生きるのはすべてうたかたの夢だが、まさかそれがハッピーだと気づいていないのか? まさかノンフィクションで庭に豆をまかないだろ。

正しく見ないとな | comments(0) |
生を取るか、命を取るか

れわれはふだん、死を否定して生きている。
自分を含めて生きものはすべて、いずれ死ぬ(生が終わる)ということを、知識としては知っているのだが、その知識に矛盾して、実際には死を否定して生きているのだ。
死を否定することで生が肯定され、逆に、ありうべき死を肯定することで、命が肯定される。
このことは、「ありうべき死」を肯定するまで発見することができない、「命」と呼ぶべき魂の現象があることは、ありうべき死の肯定が起こるまで発見されない。

といって、ただちに即死しろ、ということではない。
ありうべき死、というが、そんなものは、高所から飛び降りたり、幹線道路を走行するトラックの前に飛び出したり、包丁で自分を刺したり水に飛び込んだり首に紐を括ってぶらさがったりすれば、ただちにやってくるのだ、「死」との距離はコンビニよりは遠いが小旅行より近いというのが事実だろう/戸棚に拳銃がしまってあるアメリカの家なら死はコンビニよりずっと近い。
だから、「ありうべき死」なんて大仰に言っても、それは即興でインスタントにありえるという、ただの事実のことでしかない、ふだんわれわれはこのことを消去しているのだ、消去して否定することで「生」ということを仮に肯定しているにすぎない。
もちろん、自殺や事故死を勧めているわけではまったくなく、それどころか死というのは、放っておいてもいずれ向こうから来てくれるというのがいいところだ、わざわざこちらからお急ぎ便で購入する必要はない、誰にとってもすでに「配送中」のそれを再発注する必要はない/ありうべき死を肯定したとき、この世界には「命」が流れているのが発見される、だからこそ慌てて死ぬ必要はない、ただ必要なのは己が命につながることだ、命につながるために生をつないでいるという、ただそれだけのことだ。

大手企業に勤めようとするヴァンパイア(吸血鬼)はいない。

なぜかというと、ヴァンパイアはすでにアンデッドであって、「生」を肯定する必要がないからだ、ヴァンパイアは赤十字に勤めて輸血液を横領して生きながらえようという発想はしない/命を発見するというのは、今回で大手企業勤務の人を探すということよりも、夜空に飛ぶヴァンパイアを探すということに近い。
なぜいまいち「命」につながれないかというと、不老不死じゃないテメーが悪い、ということになる、永遠のエデンから追放される奴が悪い/生身の生は有限だが、命とか魂とかは有限じゃない、それが有限じゃないということは、ありうべき死を肯定したときにわかる、それは永遠の命を信じろということではなく、死に前後して命や魂は「有限とは思えない」というだけだ、そんなもんおれが少し首に手を掛けるか、剣の切っ先を向けてやりゃわかるよ。

正しく見ないとな | comments(0) |
愛があると「動けなくなる」という現象

近、いよいよ認めざるをえないのだが、「愛」という "現象" がこの世界にはある。
そして、思いがけないことに、愛がないほうが動ける、という逆転的な現象もあるのだ、そのことについて話しておきたい。
特に女性において顕著なのだが(といって男性もほとんど同じだが)、大きすぎる・ハイレベルすぎる「愛」に接触すると、その接触の中では逆に動けない、という現象が出てくる。
そこで逆転して、愛がないほうが動ける、ということがあるのだ、そして多くこの現象に支配されて、世の中の男女関係などは成り立っているように思う、人が「愛がないほうに傾く」というのは構造上 "よくある" ということ。

「愛」は、現象として「届く」のだが、けっきょく当人の身がそのレベルに釣り合えない場合、動けないみたいだ、僕は当事者ではないがなんとなく感覚でわかる。
それはなんというか、十万人が集まった荘厳を極めるホールの舞台上に、何の台本もなく普段着のまま単独で立たされた、という状態に似ている、そこで「お前はどのようか」というのを台本無しで問われる/そこで一言でも発し、わずかでも身体を動かせば、己の声と己の姿が、そのホールの荘厳に反するということが晒されるのだろう、そのような、つまり「畏(おそ)れ」によって動けないという現象が出てくる。
よって、実際のこととして、ハイレベルな愛と接触している中で動こうとすると、1.何もかもを無視して無神経に振る舞う、2.引きこもって何も見ていないように振る舞う、3.空想に逃げ込んでキャラで白痴化してごまかす、4.性懲りもなく身内のごとく甘えて好意的に迎えてもらおうとする、というような動き方にならざるをえない/このことから、事実上「愛が苦手」という人が少なからずいて、多くの人が実は「愛」に対して否定的という向きがある。
まして、ふだんはそこはかとなく、イケている自分や、何か自負のある自分でいたのに、急にハイレベルな「愛」に接触すると、たちまちその中では何もできない・動けないことがわかるので、そこからやけくその挙動に出る人も少なくないし、愛そのものを罵って否定する人も少なくない/そうなると必然、自ら愛のない空間を探し求め、愛のない空間にたどり着いてそこに住むことになるのだが、当人はそこが居心地よく感じながらも、やはりその中に住み続けるのには魂魄が腐敗していくのだ、どうやら「愛」というのはこのように、思いがけず "苛烈な" 現象らしい。

「愛がない空間なら動ける」

「愛がない空間なら動ける」「愛がない関係なら動ける」「愛がない世界ならアクティブになれる」ということが、思いがけずあるのだ、この逆転的な視点で自身と周囲を見つめ直すことで、逆に「愛」という現象がよくわかるかもしれない/そして自身と周囲の現状についても、愛についてどのような状態にあるのかということが、あらためて本当にわかるかもしれない。
別にむつかしい話ではなく、たとえば犬が百匹いる空間があったとして、そこにいる犬たちと本当に同じ無邪気さで「わー」となれるかというと、案外そうはいかないものだ、われわれはうさんくさい芝居をしてそれを日常の「わたし」だと思っている/われわれが急に永遠のバラ園の真ん中に立たされたとして、己の姿と声と言葉と魂のすべてがそのバラ園の清冽を穢さずにいられるかというと、急にそんなことを言われたらバラ園の真ん中で立ち尽くすしかないのだ、そのようにして「愛があると動けなくなる」ということは当然に起こる。

正しく見ないとな | comments(0) |
<< | 3/100PAGES | >>