☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
力とやさしさの原理2

は物事をバラバラに――分割――するのだ、これを原義的に「分かる」という/「分割」の意味だから「分かる」というのだ、このことは英語の tell A from B にも表れている。
力というのは、「分かる」ということで、「分かる」ものの果てが、「記号」ということだ、記号は交通標識のように「分かる」だけの機能しか持たない。
「分かる」ということは、実は、「分からないものの抹消」でしかない、たとえば父性原理と母性原理を考えたとき、それ以外の原理は「分からないもの」なので、この「分からないもの」を抹消することでしか、父性原理と母性原理の「分かる」は成立していない。
「知る」というのは、危険なことなのだ、何かを「知る」ということはしばしば、知らないもの・知りえないものの抹消でしか成り立っていないから/よって「知力」という力の原理を、よくよく警戒する必要がある、知力はわれわれを、生きるに有利にするが、生きることを豊かにはしない、むしろ滅ぼすものに加担している。

「分からないもの」が必要だ。
「分からないもの」は、原理的に、「やさしさ」に当てはまるはずだと推定できる。
人の話が「分かる」ということほど、危険なことはない、そもそも人の話、あるいは小説や映画や音楽もそうだが、「分かる」ように聴くものではない、今すべての聴き手は聴き手ではなく形態を変えたバトラーになっている。
物事には、もちろん「分かる」成分、正しくは「分かりうる」成分もある、その部分は分かってもいいのだが、そのことはあまり意味がない、「分かる」ということはフェイクなのだ、「分かる」ものが「やさしい」ということはありえない。

分かりつつ、分からせつつ、裏切り続けること/<<真実を分からせないこと>>。

真実は「分からない」のだから/それでも人は、分かることを求めるので、さも分かることがあるように、偽装する、真実を分からせようとするのは構造上の破綻なのだ、われわれは真実に対してトリックを示すことしかできない、<<やさしさは常にトリッキーにしか実現されない>>。
要するに、われわれの取りうる最も誠実な態度、最も真摯な取り組みは、真実を<<遠ざける>>ことなのだ、わたしは真実から最も遠いことを――遠巻き・遠まわし・回りくどいことを――言う者でありたい、それで初めて僕は自分を軽蔑せず生きてゆくことができる。

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力とやさしさの原理
りあえず、現状、判明しているところで言うと、1.力は物事をバラバラにする、飴玉を噛めば砕けるのが道理で、身体だって力をわずかでも入れるとバラバラになる。
2.「力」は「重さ」である、力の単位は例えばkgwだから/この世界に重さが存在しなければ力もまた存在できない、すべてが重さゼロでは力の使いどころがなくなってしまう(力学そのものの出番がない)。
3.人々は今、「バトル」の中を生きているので、力の原理に偏り、やさしさの原理に回帰できない/歴史的に明らかなように、力はバトルの道具であり、力は同時にバトルの「原因」でもある。
4.旧時代より、現代のほうが、明らかに「やさしさ」がない、これは「バトルの時代に人々が力に帰依している」という実態を示している。

5.重要なことは、力は物事をバラバラにし、バラバラの果てに、物事は記号化するということ/昨今、人々が無個性化し、キャラを演じるようになり、またアニメキャラクターもいわゆるハンコ絵になって好まれるのは、「力で砕かれた果てに万物は記号化する」という現象による(識業の隆盛が万物を記号認識することしか許さなくなるという構造だろうが、この点は今取り扱わない)。
6.内面からやさしさを駆逐し、自己の記号化に徹した者が、強い「力」を振るうという現状が出来上がっており、このことに通じた者は、たとえば完全な記号化を果たした「笑顔」を最大の力の武器に用いている/この点、すでに記号でない人の存在は少なくなってきている。
7.バトル環境下において、多くの人々は力に帰依し、その結果、記号化を果たしたので、すでに「誰」という概念が通用しなくなっている、バッタの性質(群生相)と同じように、人もまたバトル環境下においては悪霊に取り憑かれ「誰」ということを失い無個性化する。
8.力の原理(バラバラ・記号化)が主権を得た世界と、やさしさの原理が主権を有する世界は、それぞれ異なる別世界だ、互いの世界において他方の世界を模倣・輸入することはできない/すでにやさしさの原理が主権を有していた世界は、人々の記憶や想像からも追放されようとしている、<<われわれはいったんこの記号の群れを承認しないとますます混乱する>>。

9.概して、「バトル」(競わせる)ということの効果を甘く見積もりすぎた。

10.今やすべてのものがバトルと力のデビルに吸い込まれ、いかなる力の奉仕も、バトルと力のデビルに血肉を奉納する儀式と化す、バトルのない世界を空想することはもうできない。
11.やさしさが支配していた世界がかつてあった、当時、人々は「バトル」が何のことなのかよくわかっていなかった/現代はちょうどその逆にあたり、「やさしさ」が何のことなのかよくわかっていない。
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おれがやることへ向けて(定義が要るよォ〜)

れないうちに書いておきたいが、そういえば前回のパーティは、大いに盛り上がったが、あれはもうほとんど、一種のレイヴ・パーティの様相を示している、もちろん薬物なんか使わないが、逆に考えて、レイヴ的なものは到達できない人たちが薬物を使うのだ、原理的にはただの「ドーピング」にすぎない。
そして、自分で主催しているわけだから、僕が盛り上げるし、盛り上げたら行くところまで行くわけだが、それにしても、やはりつくづく思うところ、そうしたプレイは僕にとってあくまで余技だ、そうしたことも必要だろうと思うからやっているだけで、レイヴ状態を作り出したことは僕の自慢にはならない、そんなものおれがやればアタリマエにできるわという、それぐらいの確認にしかならない。
僕は感覚がおかしいのだ、なぜおかしくなったかといって、他人の情報がなさすぎるのだ、きっと多くの人はSMクラブに行ってムチで打たれた男女がオーガズムに到達してビクンビクン痙攣していたらトリップ的な気分になるのだろうが、僕にとっては性的関係の中でムチで打ってやれば女性がオーガズムに至るのは当たり前のことであって、目の前で見せられても何も思わないし、何であれば「僕がやりましょうか?」とさえ申し出ることができる/たいていの場合、そりゃおれがやったほうが速いよ!! やれと言われたらムチなんか要らなくておれが指先でやったほうが速エーよ。
僕は、あまりに他人の情報を持っていないので、多くの人がたくさんの「抑圧」の中を生きているのが感覚的にわからないのだ、だから抑圧の解放を人々が求めているということについても、実はよくわかっていない、レイヴやSMクラブうんぬんのトリップ状態を作り出すのに、衣装やらスモークやらライティング等は必要ない、僕は抑圧がないからボーッとして見えるが、僕をナメるのはよし、ただしあまり学門をナメないでいただきたい。

パーティは、パーティなのだから、レイヴ感ぐらいなくてどうする、という、この当たり前のことに、到達するまですいぶん時間が掛かったのだ、抑圧がない者が集まって飲めばそれは工夫しなくてもレイヴ状態になっていく、薬物は使わないといったがアルコールは使っているな!! 僕に限ればアルコールなしでもレイヴ状態になれるが、他の人はさすがに無理だろう、そういえば僕は先月など、パーティ以外ではけっきょく一度も酒を飲まなかった(忙しかったのだ)。
そんなことはいいのだが、ここにきてやはり、レイヴうんぬんというていどのことに、僕が詳しくなってもしょうがないとつくづく思うのだった、それは霊魂の話と同じで、そんなていどのことに、僕が詳しくなってもしょうがない、たいへん不遜な言い方だが、もうこのことを弁えていかないと僕は本質的な生産ができないのだ。
霊魂うんぬんや、レイヴうんぬんは、今そのあたりがテーマだぜ!! という、新進気鋭のところの奴に、できたら一任したいところだ、なにもかも僕がやるというのはいかにも不自然で、もともとワークショップの先生というのも、やっぱり僕は不自然なのだった。
仮に、物事を「教えられる」人が、先生やコーチであったとして、さらに直接触れることで「与える」ことができる人が、たとえば「導師」だったとしよう、僕はそのどちらでもないのだ、「教える」こともできるし、ちょいと触れて「与える」こともできるが、そのどちらも僕の本分ではないのだった、僕にしかできないことをしようとするなら、それら余技のことはいったん放逐せねばならない、そういうわけで中間人材が至急に求められているので、先生格、レイブ屋と霊魂屋、導師格、そのあたりにみんなササッと上昇してくれ、おれはおれのことをやらなくてはならんのだ、これがもうハードスケジュールとかいう次元ではなくてハードなのだ。

僕をグル呼ばわりする通りすがりの方々へ、僕はしゃあなしに余技でやっているだけでグルではありません!!

うーん、たくさんのことが見えてきたぜ、あれだね、おれ自身にだけわかるようにメモしておけば、おれがやさしく、にこやかにしないとダメなんだな、そうでないとみんなおれがコワイんだな、おれみたいな奴にどう接するべきかなんて、態度のライブラリにインストールされているわけがないものな、先生やら導師やら、敬うやら尊崇やら、常識的なやつはそれで済むが、僕の場合はそういうのでは済まないからな、僕の側から緩和してやらないといけないというのが、さすがにいいかげんわかってきた。
なんというか、やはり、大きく見て二段階ぐらい、態度や身分についての情報が抜け落ちている、基本的にそれを「愛」という現象でくくるなら、愛にもいくつかの「段階」があるようだ、これを一歩ずつ歩まないといけないので、至急中間管理の人々が現れてくることを期待する/僕がふと笑うと、どうやら苦しかったらしい緊張感がドッとほぐれるのを見て、さすがに気の毒だと思った、僕の側から緩和的方策を取らねばならないのはよくわかったが、どうかこのことが、また一部の人をあらぬ誤解のほうへ押し出してしまいませんように。

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人の愛なんか要らない2
ークショップ等を通じて、やれ魂魄だの、気魄だの霊魂だのと教えている。
そこで教えていることは、間違いではないし、とっても大切なことで、必要なことなのだが、ゴールなどでは決してない。
たとえば霊魂うんぬんというと、何か奥の院を覗いている気にさせられるが、そんなことはないのだ、冷静に考えて、霊魂うんぬんの話は、本丸の二段階ぐらい手前の、イージーで容易でわかりやすい話をしている、それはしょうがないのだ、「わかる」という領域をはみだすものをどうやって「教える」ことができるものか/「教える」という形態にそもそもの限界がある、それはしょうがない。
最近は、悪霊がどうこう、という話を、わかりやすいかなと思ってお伝えしているが、実は本当のところを言えば、より本丸をかすめるぐらいに手が届けば、もう人は互いの霊魂になんか接触しなくなるのだ、霊魂に接触しないので、別に悪霊だろうが何だろうが「知らんし、知る必要がない」ということになるのだ/悪霊なんて、あくまで「人」レベルで考えたときに問題になるだけだからね。

人にとって、知識がないという状態は、リスクであるとともに、チャンスなのだ。
だから誰しも、子供のときはチャンスだったのだが、今はマスメディアおよび通信端末が、幼いうちにも大量の「知識」を与えるようになったため、人々はチャンスを失ってしまった。
人はアタリを掴むことなどできないのだ、掴めるのはハズレだけだ、そして子供というのは、まだ何も掴んでいないので、アタリとハズレ、どちらにも触れるチャンスがあった/人は知識を得ることで、森の中の毒キノコを拾い食いしなくなるのだが、そうしてわけのわからないものは食わなくなるぶん、わけのわからないものを食うことがなくなってしまう。
自分が知っているものをディールするのは簡単なことだが、ここで数学的な疑問が提出される、つまりわれわれは、自分の知らないものをディールできてしまうかもしれないという可能性だ、ナンノコッチャということになるのだが、ナンノコッチャに意味が「ない」とは、本当はわれわれは断定できないのだ、このことに自己が接続すると、確かに何かがズバンと爆発する心地がある。

霊的なことうんぬんは、必要で必須で有為なことだが、本当には、レベルが低すぎて、それだけでは使い物にならない。

だが、そういう基礎も、ちゃんとやっておかないと、本丸との接触は、僕でさえ数秒で「身がもたない」と感じるのだから、基礎に何の訓練もない人は無理だ、「わたしはいけます!」と奮い立つ人は、例によって悪い力を借りようとしている気配がミエミエなので、そういうことじゃない/これはもう「能力」とかいう次元のことではないのだ。
言ってみれば、これは能力という次元ではないどころか、超能力という次元でさえないのだ、超能力とかレベル低すぎてダサーイだ、そうして「能力」なんぞにこだわっているようでは話にならない/これはあなたをゲッと言わせるためのものではない、僕自身がゲッと言わされる側なのだ、身を投げ込むというのはそういうことだから……うーん能力開発とか気色悪いことを言っているようではダメだね、おれは自分のことをスゴイと思ったことはこれまでに一度もない、だっていつもそういうことの話ではないからな(たとえばどんな読書家でも世界中のすべての図書館が一斉に襲い掛かってきたらどうしようもない、そんなもの数秒も「身がもたない」に決まっているじゃないか)。
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人の愛なんか要らない

「神の愛がどうこう」とか、アホみたいなことを言っていてもしょうがない。
本当のことは、もっと信じられないレベルでやってくるからだ。
禁断の知恵の実という伝説は、本当に禁断の知恵の実だったのかもしれないな/大人になり、成長していくと、「知る」ということが増えるのだが、この「知る」というのが業(カルマ)であって、ハズレなのだ。
仮に、真実を知ったということがあったとして、知ったのであればそれは真実じゃねーよ、ド神様であれド悪魔であれ、その作用は常に「未知」の領域からやってくる/われわれはみな、「わたし」を知っていると思っているが、それがハズレなのだ、なんなんだこの仕組みは、ホンマモンの「わたし」はカミサマと同様、常に未知の領域に存在している、この未知が既知になることはありえない。

これに「身を投げこめ」ということね、そりゃまあ話の筋道はわかる/知っているものなら、身を投げ込むのは別に怖くないし、投げ込むのもわかりやすいものな。
でもそういうことではないのだ、「どれに身を投げ込めばいい」といって、「お前の知らんやつに投げこめ」「ええええ、知らんとこには無理ですやん」という、この構造がずっと続くのだ、だから厳しい、ラクになることがない。
そして、僕はこの「身を投げ込む先」「身を投げ込む対象」について、心当たりがある、その対象を既知にはできないが、営為の形態は知っているのだ/これがかつて、僕の自殺を止めたやつだ、昔のおれの自殺を数度にわたって止めたやつの正体がこいつだ。
こんなもん、ノウハウなんかないが、もしノウハウがひとつでもあるとすれば、「失敗を恐れるな」だ、それは失敗にひるまず果敢に挑むということではなく、何かを「失敗」と、「知って」しまっているということ、これがもうハズレだということ、もう説明する気にはなれないが、どうせたぶん、例によって一般には想像を絶するようなことなのだろう、僕にとってはなつかしい再会であり、「またお前か」「やっぱりお前か」という気もするのだけれども。

心臓がバクバクする、これは、人の愛ではない。

人の愛というレベルではないし、高揚でもない、自律神経という感じもしない、そして、集中力の向こう側まで行ってしまう、<<自分の知らないものに集中してしまう>>からな/これは人の愛ではない、なぜなら、<<人の愛なんか要らない>>というのがわかってしまうからだ、この愛はむちゃくちゃだが、この愛に人が抗せないことを、僕は感覚的にも経験的にもよく知っている。
人の愛なんか要らない、つまりおれの愛なんか要らないし、おれの才能なんか要らないのだ、おれが「おれのもの」と思っているものは、単におれが「知っている」ものというだけでしかない、そして「知る」という範囲に収まっているすべてはハズレだ/おれが正しくなる日は永遠に来ないな、だからおれは間違い続けるしかないのだ、おれはそういうやつが好きだったし、そうすることでしか自分がアタリをかすめることは起こらないからだ。

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すべての音楽はひとつ
や、ホントかどうかは知らんが、何かブログ更新しておかないとな……
女の子って基本、霊感ばっかだよな、変な思い入れを持たなければだいたい女の子の霊感が正しい(が、どうせ思い入れでめちゃくちゃになるのだ)。
仮にも元商社マンとして、人種差別は意味不明だと思うが、差別は大事だ、愛されたことがある人とない人で差別しよう。
愛されたことのないパワーパーソンについていくと、あんまりいいことないぜ、何しろ愛されたことがないぶん、思い入れが莫大なのだ。

この世で最も貧しい人間は、わかっていないことを、笑顔でわかったふりを続ける人だ。
たとえば、もし、いわゆる文化人のような人がいて、この人が実は文化的なことのすべてを、ちっともわかっていないとしたら、この人は最も貧しい人になる/数学がわからないまま数学の教師になったら、それはすさまじい貧しさなのだ。実は空っぽで超エラそうという空前絶後の最悪さんになってしまう(しかもそれで一生いく)。
典型的には、愛のわからない人が、恋愛論を語ることはよくある、手に入らないぶん思い入れを語りボンバーしているだけなのだが、こういう人は文化のわからない文化人と結婚ボンバーでもしたらいい、それが悪いということではなく、お互いにお互いの差別されたボンバーしようぜ、という話なのだった。

決定的に差別するのは、そっちも含めて「一つ」だからだ。

愛されたことのある人と、ない人は、決定的に差別されていい、それは文化のわかる人とわからない人のように/差別していいのだ、差別でぶった切ってよい理由は、ぶった切られた双方が、断絶して「一つ」だからだ、そうでないと「一つ」ということが正しくわからない。
ただ僕は、愛されたことのない側はイヤだなと、そして文化のわからない側や思い入れをボンバーするだけの側はイヤだなと、個人的に思っているだけだ、そっちはそっちなのだろうが、おれはイヤだよ! ということに過ぎない、いろんな音楽があって、音楽じゃねーよというやつもあるが、そっちはそっち、完全な差別があって、初めてすべてが「一つ」なのだとわかる。
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Oh, 二種類の「わたし」がある!

ほほおおお、うぇえええい、ついに看破したぜ、さすがおれだ。
われわれの言うところの「わたし」は、二種類あるのだ、一種類の「わたし」しかないと思い込んでいるから、整合しないのだ。
「わたし」のアルファ状態とベータ状態があるのではなく、それぞれの「わたし」は異なる存在だ、ふたつの「わたし」は、表裏一体ではない、むしろまったく別モノと捉えたほうがいい。
ひとつのわたしは、キリスト教的にいえば「神の子」たる「わたし」、もうひとつのわたしは、「サタンの子」たる「わたし」だ、このどちらをもわれわれは生きられるのだ/うーん「わたし」そのものが二種類あるとはなかなか気づかんわな!!

「わたしが○○する」というときの「わたし」と、「○○するわたし」というときの「わたし」は、前者が「行(う)」のわたしで、後者が「受」のわたしだが、この二種の「わたし」は、「わたし」を捉える向きが違うということではなく、そもそも別の「わたし」なのだ、前者が後者になることはありえないし、後者が前者になることもありえない。
仏教的に言えば、「行」の「わたし」、「わたしが○○する」というときの「わたし」は、薩埵(さった)であり、それじたいが「僧」と捉えるべきだろう、一方で「○○するわたし」という、「受」の「わたし」は、それ自体が「カルマ」なのだ、ちゃんと仏典には「カルマが、わたしである」と書かれてある。
悪霊入りの「わたし」と、聖霊入りの「わたし」は、まったく別モノなのだ、あんぱんとクリームパンが別モノであるように/悪霊入りの「わたし」は、「○○させられている」という受のわたしであり、聖霊入りの「わたし」は、「○○している」という行のわたしだ、このことを指してトルストイは、「労働はよろこびだから」と言った。
そして、布教者が人々に聖霊を伝播するのと同じ仕組みで、悪霊だって人々のあいだを伝染するのだ、そしてわれわれの周囲は今、悪霊入りのグッズとパーソンであふれかえっている/悪霊って、「悪霊だぜオロロローン」というような、オバケチックな形で現れてくるのではない、実際に受けるのはその「力動作用」だけだ、「受」の「わたし」が目覚めるという力動作用があるだけで、それ以外には何もない、だからこそこのことはまったく気づかれない。

今多くの人の自室は、本棚にマンガがキチッと並び、テレビがあって、スマートホンがあり、SNSがあって、身体を鍛えるバーベルが少々あり、ちょっとしたトロフィーと賞状があって、「わたし」はどこにもないのではないだろうか?

察するに、今多くの人はそういう部屋で暮らしているのだが、これが悪霊包囲状態の実物なのだ、無理無理、こんなの自分で気づけるわけねーよ/人々はみな善良なのだが、善良でも悪霊入りのサタンの子としての「わたし」が生きて活動しているなんて、気づけないし発想できるわけがない、この善良な人々が互いを包囲し合ってサタンの子たる「わたしたち」を保護しあっているのだから、よくできた話だ、こりゃ善良な人ほどこの組合から脱出できねえじゃねーか。
人々はみな善良であって、善良な人ほど、他人のことを尊重し、重視しようとしているのだが、そうした善良な人々の組合は、それでいて互いにまったく愛し合うということが起こらない、そりゃそーだ、愛し合うという仕組みは聖霊入りの「わたし」がやることであって、悪霊入りの「わたし」はそんなことしないからな、悪霊入りの「わたし」は、重要・重視・尊重・丁重と、互いに「重さ」を掛け合うことをする、重さは力だから、このことは人々の権力・暴力とつながっており、また「魅力」ともつながっている、うーんこんなことにいきなり気づける奴があってたまるか!!/とにかく二種類の「わたし」があって、それぞれは別個のものだ、この包囲状況でもう一方の「わたし」が覚醒することなんて、ほとんど不可能だろう、たいへんマズイ状況だがこれはわかりやすい状況でもあるのだ。

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「業務」と「仕事」の違い2

は、じっくり見ると、「業務」と「仕事」は関係がない。
なぜかというと、業務というのは「業」のものであって、はっきりと観測可能なことしか「業務」にはできないからだ。
たとえば料理人は、メニューに書かれているとおりの料理を、客に提供するのが業務だが、その料理の中に「季節を感じさせる」というようなことは、業務に組み込めない、なぜなら客がそこに「季節を感じているかどうか」などは、観測のしようがないからだ/せいぜいアンケートを取るぐらいしかないが、そんなことのアンケートなんてアテになるわけがない、またアンケートにどう書かれても、季節を感じさせるというような「方法」がない。
だから、いかなる腕前の料理人も、あくまで業務としては「飲食業」になる、「料理に季節を感じさせる業」なんて観測不能な業務はない/こうしてじっくり見ていくと、飲食業という「業務」と、料理人という「仕事」は、実は無関係だということがわかる。

Aさんが、50人分の食事を、30分で運搬しなくてはならないというとき、厳密にそれを「業務」として見るのならば、その業務については「高速運搬ロボット」が最強だ、もちろん「業務」も重要だから、従業員は具体的にその能力も身体に養わねばならない。
だが、冷静に考えれば当たり前のことだが、その食事を提供される50人の側から見れば、「いつものAさんが運んできてくれる」という環境と、「いつもの高速運搬ロボットが運んでくる」という環境では、住んでいる世界が違うはずだ、前者の世界では食事の運搬をAさんが「手がけている」のであり、後者の世界では誰も「手がけて」はいない/もしこの差分が不要だという人は、卒業証書の授与も授与マシーンがやればいいと主張していることになる、まあ中にはそういう極端な世界観を言いたがる人もいるのかもしれない。
数学的に純粋化して、「業務」だけを抽出すれば、「業務」とは極言するところ、「人間がロボットの代わりをしている」とも言える、人類がまだそんな便利なロボットを発明していないから、人間が代行しているだけで/実際、優秀で低コストの機械が発明された分野においては、業務はどんどん機械化されていく、だがどこまでいっても、機械やロボットがそれを「手がける」ということはありえない、どれだけ将棋の強いAIがいても、AIは演算しているだけで一切「対局」などしていない。
こうして考えていくと、けっきょく「業務」と「仕事」の違いは、「業務」が機械化も可能な、 "はっきりと観測可能なこと" に限定されるのに対し、「仕事」は "はっきりと観測はできないこと" に収束するのだ、その違いはやはり根本のところ、仕事が「わたしのすること」に起因しているから生じている/「こうしなさい」という務めのすべてはやがて機械化できるだろう、観測可能なすべてはやがて機械化できるはずだ。

機械とは永遠に「握手」できないが、Aさんとは「握手」ができる。

われわれは「握手」という、わけのわからないことを当たり前にする、わけがわからないというのは「観測不能」ということだ、握手したからといって何がどうなるというわけでも――観測上は――ない、だからAさんが手掛けてくれたメシを食べたとしても、観測上は何もないだろう/厳密に、業務のみでなく仕事に長けるということは、<<握手にあるナゾの力に長けるということだ>>、<<観測不能の力に長けるということだ>>、それは厳密には「力」ではないが、グダグダ言わずに長けてしまえばいい、長けてしまえばそんなことに文句を言うヒマ人はいない。
われわれが、業務と仕事に長けようとするとき、大前提は、業務を仕事の言い訳にしないこと、および、仕事を業務の言い訳に、なるべくしないことだろう/業務のこなしはわれわれの、生きていく者としての問題だ、個人的な問題じゃない、一方で仕事のこなしは、われわれの問題じゃない、お前の問題だ、お前の「すること」なのだから、この二つをごちゃまぜにしないことだ。

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「業務」と「仕事」の違い

来、こんなこと、胡乱代表の僕が言うようなことではないけれども……
たとえばAさんが、50人分の食事を、30分で運搬しなくてはならないとする。
このことを、「業務」として見た場合、「業務」とは何であるか/当たり前だが、「50人分の食事の運搬を、30分で完了させる」というのが "業務" だ、それを「しなさい」ということ、これは「務め」だから「業務」と呼ばれる。
では、「仕事」とは何かというと、これは「しなさい」ということではなく、「わたしがすること」になる、わたしが「仕える事」だから、それを "仕事" と言う/この場合、業務に仕事を見つけるならば、「わたしはみなさんの食事を、ちゃっちゃと運んで気分のいい、そういう快活ですばやい奴になります」というのが、わたしの "仕事" ということになる、しぶしぶ業務をこなすのではないのだ、「これをちゃっちゃとやるのが、わたしの仕事なの」と、それは「わたしがすること」に切り替わる。

表面上は、同じ作業のように見えても、「業務」と「仕事」では、人間の使っているチャンネルが違う/「業務」というのは上から下に掛かってくる「力」のもので、「仕事」というのは下から上に向かう光・悟性のものだ。
最も簡単に言うと、「仕事」というのは、上役がいなくても成立するものだ/たとえば、すでに財を成した偉大な作曲家が、「なんとしてもこのオペラを完成させなくてはならない」とその作曲に打ち込むとき、上役は存在しえないので、彼にとって作曲は業務ではない、しかしそれは彼にとって「わたしのすること」なので、彼の「仕事」になる。
一方で、業務といえば、たとえまったく「わたしのすること」でなくても、上役から指示されれば、その務めを果たさねばならない、「特に意味はないけれど、この地域の竹林の写真を撮ってきて。うふっ」と言われても、それが業務だと言われれば力の関係として抵抗はできないのだ(職業倫理や労働組合、コンプライアンス等がより上位の力を持つ場合は除く)。
仮にAさんが、50人分の食事を30分で運搬するという、その勤務先を辞めたとする、それでAさんがもう、「ちゃっちゃと動いて気分のいい、快活ですばやい奴」でなくなるのならば、それはAさんの "仕事" ではなかったということになる、あくまで業務としてちゃっちゃと動いていたにすぎず、それは上から下への力、要するに給金で作られた力関係に従っていただけということになる(それが悪いわけではないが、それはあくまで「仕事」ではない)。

お医者様は、休日でもお医者様だ。

同じようなことはいくらでもある、たとえば武士道を往くサムライは、業務として武士道を往っているのではないし、ボブ・ディランは、業務中だけボブ・ディランなわけではない/しかし気品にあふれて見えるキャビン・アテンダントも、休日にはまったく気品にあふれていないかもしれないし、勢いがあるように見えるお笑い芸人も、楽屋ではちっとも元気がなく退屈な人かもしれない。
基本的に、業務から離れるとその命が消えるという場合は、その業務は仕事ではないのだ、あくまで業務中に掛かってくる「力」に従って、「こうしなさい」ということをやらされているだけで、「わたしがする」ということではない/われわれは、大半が何かしらの業務を課されて生きることになるが、その中で "仕事" を見つける人はごく一部だ、それは別段嘆かわしいことではなく、「わたしがすること」なんて一生見つからないのがごくフツーで当たり前のことだ、そこから「仕事」うんぬんというのは、あくまでわれわれ自身が一人一人でする「挑戦」ということになる。

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雑用4

用レベルで生きている人は、全身が低級霊の棲みかになる。
そうなってくると、次第に逆転現象が生じて、「雑用モノのほうが心地いい」「雑用モノのほうが身に馴染む」ということが起こってくる。
逆に、低級霊の棲みかになった全身に、高級霊のものを入れようとすると、全身が凍えたり、身体が動かなくなったり、嘔吐してしまうことがある/現象が逆転するのだ、十字架を見てグエッと苦しむ吸血鬼みたいに。
それだけで済めばまだいいのだが、次第に逆に、低級霊というより悪霊のレベルに達し、呪いも強い力を持ち始めると、この者は高級霊の宿っている物を「攻撃」するようになる、この攻撃は衝動さえ感じないまま突発的に出現し、対象を破壊(ないしは汚損)完了したときにも、まったくその行為に自覚がない、という場合が多い、この現象は実際のこととして大変危険だ。

僕は実際、あるレベルから、人にはっきりと、「人の大切なものに決して触れないほうがいい」と忠告することがある/ここまで言うのはもう、危機的状況が目前まで差し迫っている場合だ、なるべくそんな破滅的なことは言いつけたくないので。
人は、意識的に「大切なもの」を捉えることはできるのだが、その大切なものを、大切にできるかというと、そうはいかないのだ、身の内に低級霊が一切いないという人はほとんどない、そしてこの低級霊ないし悪霊が、高級霊(ないしは聖霊)の宿った対象を、暗殺者のように「攻撃」してしまうという現象がある、この現象は本当に自覚のないまま突然発現するので、よほど警戒してこの知識を持っていないと防げない/いわゆる「魔が差す」という現象だ、体内に棲みついた悪霊が、ここぞというときに突然出てきて「大切なもの」をズバッとやるのだ、まったく "狙いすました" かのように。
人は余裕のあるとき、そんなわけのわからない現象に巻き込まれずに済む、余裕のあるときは単に体力で作業をしているのであって、このときにトラブルは発生しない、問題は余裕のないときだ、全力を使い果たしてなお何かをせねばならないときや、体力やキャラでごまかしの利かないことに向き合った瞬間、あるいは本当に大切な何かが目の前にあるときなど、そういうときこそ注意せねばならない/また、何か良いことがあって、浮かれているときも注意だ、いわゆる「好事魔多し」ということが実際にある。
余裕のあるときは問題ない、問題は余裕のなくなるときだ、余裕のなくなるとき、「命がけ」が出現するとき……つまり「雑用」ではなくなるときだ、そのとき身の内からザワッと、まったく心当たりのない何かが飛び出してきそうになる/雑用レベルで作られたモノ、「雑用モノのほうが心地いい」「雑用モノのほうが身に馴染む」という人は、高級霊・聖霊・命がけで作られたモノに触れたとき、身の内からザワッと、まったく心当たりのない何かが飛び出してきそうになるので、そのことを避け、自然に雑用モノを自ら選ぶようになっているのだ。

ビビらずにできる仕事はない。

僕なんか、今からコンビニのレジ打ちの仕事をしろと言われても、ちゃんとできるかどうか、緊張感があってビビってしまうけどな/僕は第一にビビるのが正しいと思っている、そうして真に受けて、直面して、ビビりながら、その緊張感を正面突破していかないと、きっと自分はまともになれないと思うのだ、居直るのは人間の弱さであって強さではない。
僕のなつかしい経験を掘り起こすところ、初めて舞台に立つ一年生や、初めてセックスをする女性、初めて面接を受ける青年、みんなそのときには、どうしようもなく膝が震えていた、それはきっと正しいことだったのだと思う、「教えてくださいよ」という態度ではなく、身をもって自分でなんとかしようとしていた/今の若年層は、何事にも膝が震えるなんてことないだろうが、それは単に優秀になったということではないと思う、「教えてくださいよ」という言い方はまっとうに聞こえるが、きっと教えて済むことなんて雑用でしかないのだ。

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雑用3

「雑用」という、発想そのものが危険だ。
たとえば、アルバイトのウェイトレスがハンバーグ定食を運ぶとき、それを「雑用の忙しいやつ」と捉えて働き続けることは、誰もトクをしない悲惨な結果をもたらす。
ウェイトレスさんは、せっかくアルバイトしたのに、全身が低級霊の棲みかになるし、ぶんぶん振り回されて投げ置かれたハンバーグ定食は、低級霊の入り込んだいただけないメシになってしまうのだ/表面上の「味」は変わらない、そりゃ物理的な味は変わらねーよ、だが味というのはすべてが物理的なものではない、むしろまともな感覚の奴なら物理的なもの以外の「味」を食事のよろこびにしているものだ。
こんなこと、今さら言う必要あるかね……というのは、誰だって、「こんな奴とは握手もしたくない」という体験を、誰だって日常的にしているはずだからだ、握手だって物理的・化学的に見れば、蛋白質と筋力と何kg/屬箸いΔ海箸靴ないのであって、誰と握手してもトクにはならないし損にもならないはずだ、そんなこと言い出せば女性のヴァギナに何を突っ込んでも物理的にはタンポンと変わらないはずだろう。

「何でもやりますよ」という人、あるいは逆に、「これといって、何をする気にもなれない」という人は、ひょっとすると、すべてのことを "雑用レベル" で捉えているのかもしれない。
ふつう、まともに生きてこられたそのへんのおばあさんを捕まえて、「百人の前で歌え」と言いつけたら、「無理です、そんなこと」と拒絶するに違いないが、きょうびの女子中学生を捕まえて同じことを言いつけたら、「えー、歌うんですかあ」と、まんざらでもなく乗っかってくるような気がする。
これはきっと、人前で歌うということ、まして、マイク(アンプ)をかけて拡大して人々に聴かせるということが、評価されるうんぬん以前に、霊的に干渉することだということがわかっていないからではなかろうか/もしそのような営為をして、自分から多数の人に低級霊を送り込むようなことをしたら、それは「呪い」を行使した当事者ということになる、そして「人を呪わば穴二つ」といって、呪いをかけたぶんは自分にも返ってくるから、百人に向けて「呪い」を行使してしまったら、一挙に百の穴を自分のために掘ったことになるのだ、このようにレバレッジされた業(カルマ)を不徳に積んでしまうと、もう当人の力では生涯をかけても償却はまったく不可能になってしまう。
「雑用」という発想があって、もし人が己に「仕事」を課すのではなく、「雑用レベル」をこなすことを仕事だと捉えていたならば、この人は日々生きていくごとに、醜く低級な存在になっていってしまう/そもそも自分に任せられた仕事を「雑用」と捉えるのはどういうことだろう? 命がけで生きている感触がない人は、きっとどこかで万事を「雑用レベル」で捉えているところがあるのではないだろうか。

「雑用レベル」で生きてきた人は、自分の「手がけた」ものが残っていないはずだ。

どれだけ忙しく仕事しているように見える人でも、「雑用レベル」で生きている人は、何かを「手がけた」ということが残っていないはずだ、それこそ雑用は「手がける」ものではないのだから/先に挙げた、歌う女子中学生の例で言えば、女子中学生はそのとき、何かしらの舞台を「手がける」という感覚はまったくなしに、ただ自分の思うとおり「歌う」ということしか考えていないはずだ、それでも当人は、自分のキモチだけで「めっちゃがんばった」と誤解してしまう。
誰が手掛けたものでもなく、雑用レベルで形だけ作られたものを、目にし、耳にし、口にし、飲みこんでいる、それを摂取しつづけてへっちゃらなのは、よほど当人が鍛えられた者である場合だけだ、鍛えられていない者はすさまじい速度で低級霊に蝕まれてゆくだろう。

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雑用2
回のことは、よい発見になった。
僕は以前、みんなのぶんのスクランブルエッグを作っているとき、「割と塩を使うんですねえ」と楽しそうに声をかけられて、「しゃしゃり出てくんな!」と怒鳴りつけたことがあった、そのときのナゾが今になってわかる/きっと多くの人にとって、何か人に出す料理を作るというようなことも、「雑用」のひとつなのだ、だからみんな、何か余計に浮ついた顔つきをして、人が料理しているところを覗き込みにきたのだろう。
覗き込みに来るのは構わないのだが、僕は断言する、そういう雑用レベルで料理したものを食えば、必ず人は体調を低下させる、体調というより霊的にコンディションをガタ落ちさせるだろう/多くの人が「雑用レベルで生きている」と捉えれば、この現代のことがわかりやすくなる、そりゃわけのわからない病気や、正体不明のこころの陰鬱、世界の喪失が起こって当たり前だ。
僕は几帳面なタイプではないが、自分が人に与えるものを、雑用レベルの、つまり悪霊が混入していてもヘーキヘーキというような、粗雑なものにすることは許さない、他人のことは知らないが僕自身においては許さない/逆にどれだけ几帳面に、どれだけ丁寧にしても、精神が「雑用」の奴はダメなのだ、丁寧にすると「高品質な雑用」というものが出来てしまう、それだと不思議なことに、キッチリそこに悪霊的なものは残っているのだった、悪霊というとアレだが、 "雑用" をしたらそこには低級霊が棲んでしまうと言うほうがわかりやすいか。

以前、僕の知るバーテンダーさんが、カクテルをステアするとき、「混ぜる回数も、一応あるんですけれど、モノや季節によって違いますし、実際には、何か指先でわかるんですよ、粘度が変わるというか」と話していた。
カクテルをステアするといって、単にマドラーで混ぜるだけだが、やはりある次元でマズいカクテル・ウマいカクテルというのは存在する、むかしシェイカーを振るのでも、見習いの黒人が振ったものを飲んで「な、なんじゃこれ」というマズさだったことがある、そんなことはいくらでもあって/たとえばむかしから続いているお茶のババアが、茶葉にポットの湯を注いだだけでも、何かやたらにウマい緑茶になることがある、こういったことは本当にナゾでまったく猿まねが利かないものだ。
雑用レベルで生きている人は、ウマいカクテルを飲むべきではないし、野球部の握力で握られたような気取り寿司を食うべきだ、あるいは使い古しのタイヤのように運ばれてきた皿のスパゲティを食べるべきだし、「鶏肉と鶏卵の混合物」というような親子丼を食べるべきだ/外科医が雑用のレベルで作業しても、方法さえ合っていれば手術は「成功」するので、いつかそういう手術を受けるハメになるかもしれない、そのときもお怨みする筋合いではなくなる。
こういうことは、信じなくてもいいし、信じるか信じないかは、まさにその人次第だ/僕は "入魂" の有無で、出来上がった物に霊的な作用に差異が生じることを、あっさり信じる派だ、物の品質が高くても、霊的に上級と低級があり、そのことに比べれば、僕は物の品質なんか二の次だと感じている、低級霊入りの高級品なんぞ僕はまったく触れたくもねえよ。

その「雑用の手」で、愛するものに触れると言い張るのか?

これは万人の利益と、万人の良心のために、誠実にお伝えしておきたい、雑用レベルで生きている人に、自分の愛する何かを触れさせるべきでは決してないし、また雑用レベルで生きている当人も、人が愛している何かに触れようとするべきでは決してない、必ず、全力で、己のすべてを懸けて、その手をひっこめろ、本当に取り返しのつかないことをしでかす前に、雑用レベルで生きてきた自分の手をひっこめろ、自分の全身が低級霊の巣窟と認めることには非常な屈辱と不快が伴うのはわかるが、それにもまして優先しなくてはならないことがある、どれだけ丁寧に、大切にしますと誓っても、そんなことは通用しない厳しい事実がどうしてもあるのだ、このことに踏みとどまれるか否かが、けっきょく当人の一生を決定する。
また誰しも、この世で生きていく以上、どうしても、雑用レベルで作られた食事や、雑用レベルで生きている人との談合を、摂取しながら生きていかなくてはならない側面がある、このことについて、やたら防衛しようとしたり、やたら嘆いたりするのは、かえってマイナスになり深手が生じる/侵入してこようとする悪霊・低級霊は、己の身で「焼き払ってしまえばいい」と気丈に考えるべきだ、<<ファイヤーウォールをくぐった時点で、悪霊はすでに揮発している>>、この場合のバリアというのは城壁ではなくファイヤーウォールとして機能するのがベストだ。
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雑用

とえば先日、「月刊ワーQ第二号」を作成し、プリントアウトした、プリントアウトしたらステイプラー(ホチキス)で製本し、各員に配布する。
プリントアウトといっても、両面印刷できるプリンターは僕しか持っていないだろうし、書籍めいた用紙も僕しか持っていないだろうから、そこまでは僕自身がする、あとは、「製本ぐらいはみんなでやってもらうか」と考えた。
右端を三か所、ホチキスで留めるだけなのだが、僕はその種の几帳面な作業が苦手で、疲れ果ててしまうので、「だれか几帳面な奴がやれ」と、中型ホチキスと本文を押し付けた/みんなふだんから、「雑用は何でも申し付けてください!!」という感じなので、一も二もなく引き受けてくれた。
が、結果的に、ホチキス製本も、僕自身がやるしかないと判断することになった、今回はまあしょうがないとして、今のところすべてのことは僕がやるしかないというのが率直な現状だ。

これは、誰が悪いという話ではなく、根本的に善し悪しの話でもなく、こういうことでもないと、僕だって気づかないということなのだ/僕が製本で「疲れ果ててしまう」のは、ホチキスひとつを留めるにしても、モノがモノだけに、ひとつひとつを "入魂" でしているからだ、しょーもない冊子のホチキス製本だったとしても、それが誰かの手元に渡るのであるから、なるべく宝物のようであってほしいと、僕は大前提として願っている(それが当たり前だと、僕は勝手に思い込んでいた)。
各員に製本作業を任せたところ、ガションガションと、手早く作業する音が聞こえ始めた、僕はジロジロ見なかったが、正直なところギョッとしていたのだ、やがて宝物になるかもしれない冊子に向かって、そんな作業の仕方がある? と、僕にとっては想定外の作業音だったので、とっさに引き留めるというよりは、何が現れているのかを観察してしまった(しょせん、どうでもいいようなしょーもない冊子のことだ)。
ふだん、事務方の仕事をしている人が多いので、そのクセが出たのだと思う……と、そういうふうに言えば尤もらしいが、しょせんウソだろう、そういうことではない、そもそも何かを手作りするということや、人の宝物に触れるということの、経験や感覚がないのだ、これは善し悪しの問題ではない、こんなものを怒鳴りつけたところで、当人は本当にわかっていないのだということを、この数年来さんざん見てきた。
製本というのはいわば、「出来上がった料理を皿にのせる」というような段階だと思う、「どうせ腹の中に入ってしまえば同じよ」「皿にのってりゃダイジョーブ」という捉え方もあるだろうが、僕はそうは思わない、最後の最後でいくらでも宝物を台無しにすることが当然に可能だと思う/くれぐれも、僕はこれを非難しているのでもなければ、善し悪しを言っているのでもない、こうした見えづらいところで「差分」が生じているのだ、この差分の生成が気づかれないままわれわれの社会は進行している。

正しくは、「雑用」なんて存在しない。

僕自身、こうして目撃するまで気づきようがなかったのだ、僕自身が製本する場合、端にステイプルの一つ目を打ち込むのに、紙の反りや馴染みが合わないということで、ぐぬぬぬと格闘したまま、打ち込むのに三分ぐらい掛かっていることがよくある、なるべく冊子の背に、平行にステイプルが並ぶようにと、床の木目をガイドラインにしながら、ホチキス本体が冊子に直交するように設置して……と、僕は几帳面にしているのではない、僕には確信があるのだ、ホチキスを雑に留めたら、そんなもの絶対に人にまともに読んでもらえない。
みんなで苦心して作り上げた冊子の本文をホチキスで留め、本にする、製本するというのは、「雑用」だろうか? 僕にはそれは、営為の出来を最終的に決定する重大な締めくくりの作業に思える、くれぐれも善し悪しを言っているのではない、目撃するまで僕自身気づきようがなかったのだ、その意味では僕には「雑用」は存在していない/僕は十人分の冊子を一人でホチキスで留めたりしたら、それだけで精魂を使い果たしてヘトヘトになるので、その意味で「誰か代わりにやってくれ」と言ったのだ、これは善し悪しではなく、僕が僕自身のことをどういう奴なのか・何をやっている奴なのか、差分において理解していなかったことに問題がある。

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天国行きと地獄行きの分岐点3

存知のとおり、僕の書くものには、「自己紹介」の感じがない、ずっと僕自身の情報を元に書き話しているにも関わらずだ。
なぜ「自己紹介感」がないかというと、僕には、「○○をするわたし」という感覚がないからだ、僕には能動の方向、「わたしが○○をする」という感覚しかない。
なまじ僕自身に、「○○をするわたし」という、つまり「受」方向の感覚がなかったので、このことを見落としていたのだ、今もなお、このことは意識して捉えない限り、僕の中からは消えてしまう、僕にはこの「受」の発想じたいがない。
僕には「受」の感覚がないので、たとえば誰かに悪く言われたとか、侮辱されたとか、逆に褒められたとか、そういう「わたしが○○された」という感覚もない、僕にあるのは「わたしが○○する」という「行」の感覚だけだ/僕は努力して能動的になっているのではなく、発想の根本に能動の感覚しか持っていないだけだ。

人間が上昇するためには、いついかなるときも、目の前のものに「力を尽くす」ということが必要だ/力を尽くすからこそ、力(重さ)が使い果たされ、己の身に力・重さがなくなり、上昇するというのが正規の仕組みだ。
このとき、「行」ではなく「受」の発想だと、「○○するわたし」ということに、力(重さ)を集めてしまう、すると「わたし」に力が集まり、「わたし」が重くなっていってしまう、そして「わたし」は重さによって落下してゆき、重さゆえに「脱出不能」になる/「下降してゆき」「脱出不能になる」からこそ、それは「地獄/地の獄」と呼ばれた。
「行」という方向においては、「わたしが○○する」ということで、「わたし」の力(重さ)は無限の方向へ発散してゆけるが、「受」という方向は逆だ、何もかもが「○○するわたし」or「わたしは○○された」ということで、すべての力(重さ)が己の身に降りかかってきてしまう、すると物理的にブラックホール様態を形成していってしまい、ついには光をもってしても脱出不能という重力に到達してしまう。
今すでに、多くの人が、人に○○しろと「言われた」ならば、そのことを実行でき、あるいは「○○をするわたし」ということであれば、そのことを "魅力的に" 実行できるのに、何もなしに「わたしが○○する」ということでは、行動が能発できないはずだ、人が「力(重さ)」に帰依しているというのはそういう状態だ/魅力・権力・暴力・経済力・実力・努力という「力(重さ)」に動かされるパターンをやめなくてはならない、感受性の開発が一定のラインを超えると、もう力(重さ)の感受性に知性では対抗できなくなる。

魅力・権力・暴力・経済力・実力・努力/すべての「力」は、「死」への怯えから生じている。

人は、永遠の命でも得られないかぎりは、死に怯えつづけねばならず、死を遠ざけたいと願い、そこから力を欲し、力を希求することになる/この原理はそもそも、われわれが死に首根っこを掴まれて、死の掌中で悪あがきしていることから生じている、だからたとえどれだけの力を得たとしても、むしろその重さによって動けなくなり、死の申し子として地の底へ落下していくよりなくなるのだ。
つまりわれわれは、<<死を遠ざけるために力を得ようとするかぎり、この仕組みから脱することはできない>>、もし死の掌中たるこの仕組みから、脱出できるとすれば方法はただひとつ、生死ではなく<<「命」に力を尽くす>>ことだ、われわれはもし永遠の命を授かれるのであれば、「力」を得る必要はなくなる、これは信仰心の問題ではなく、数学的な仮想の問題だ。

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天国行きと地獄行きの分岐点2

まり「感受性」がまずい。
「感性」は悪くないし、「感覚」は当然の機能だが、「感受性」はまずい。
感受性というのは、力(重さ)の作用を「受」けて、「グッとくる」という性質のことだ、人によって様々なレベルがある。
感受性というのは、いわば悟性の反対であり、己がどれほど「力(重さ)」に帰依しているかの、具体的実態を表している/すべての力・重さは「死」から生じており、死が最大の「キャアアア(感受性)」となる。

すべての毒も、ウイルスも、感受性がなければ中毒しないし、感染もしない。
アメリカで猛威をふるうオピオイド麻薬も、人体にオピオイド受容体があるから蔓延するのだ、オピオイド受容体がなければ中毒も依存も起こりようがない。
多くの人々は、自分自身も含め、人は「力(重さ)で動く」ものだと思っている、権力や暴力、経済力、魅力、実力、筋力によって動き、動かされるのだと/だが本来、物事は重さを増せば増すほど「動かない」はずだ、そこで「重くて動かないなら、より重大なパワーを……」と、人々はさらなる力を求め、力(重さ)への帰依を極点に高めていく。
より重大なパワー、および、その重大なパワーの持ち主に向けて、「グッとくる」という反応があるのだ、これを「感受性」と呼ぶ/人々は力で動いているのではなく、その機序はこうだ、力が感受性に届き・グッときて・動いている、体内物質が受容体に受け取られた瞬間、その感覚は「グッときた」と感じられるのだ、これが感受性の正体だ。

「感受性が豊か」というのは、「力(重さ)の作用に好き放題にやられまくりで、光への悟性はわずかもない」という状態だ。

だから感受性の豊かさで言えば、政治家などがその代表格に当たる、普通の人間はそこまで「権力」への感受性を持ち合わせていないものだ、だが彼らにとってその力(重さ)は実用のものではなく信仰・帰依の対象であるから、その希求は元より際限も躊躇も持たない(その筋の権力者を重役・重鎮等と呼称することに、力が「重さ」であることがよく表れている)。
光(重さのないもの)に帰依する者にとって、力(重さ)は実用的に「適宜必要」というだけのものだが、感受性をオープンされてしまった者は、体内の受容体を蝕まれ、「グッとくる」ということ自体が信仰の対象になるのだ、そうして際限のない力と重さを信仰した者は重力によって地の牢獄へと落下してゆく、このことを古代の人々は「地獄」と呼んだ。

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天国行きと地獄行きの分岐点

、移動中だし、わかりやすさだけを考えて言う。
天国行きと地獄行きの分岐がわかった。
輪廻図と十二因縁に、地獄道と「受」の因果が書かれている、どこかで輪廻図の画像でも検索してくれ。
十二因縁において、「行・行く・行う」が人間道だ、そしてこの、「行う」の反対が「受」(地獄道)なのだ/単純にいうと「受け身」のことであり「受動態」のことだ、こんなささやかな、しかし決定的なことが、われわれの分岐点になっている。

「わたしが祈る」というのはいいのだ。
けれども、おそらく多くの人がこんにち、「わたしが祈る」ではなく「祈るわたし」になってしまっている、「受」なのだ、このことは近年隆盛した「自撮り」の圧倒的横行の原動力でもある。
「わたしが祈る」というのは「行」だから人間道の因果だ、しかしそこに「祈るわたし」という魅力的成分が混ざっているなら、それは「受」であって、地獄道の因果だ、こんなことでこんにちのわれわれは、地獄行きを大量生産されているのだった。
もちろん「地獄」というのは、一般にも恐ろしい概念であって、われわれごときが軽々に扱える言葉ではない、今ここではわかりやすさを重視して最も単純な形で書き話している。

「わたしが◯◯する」と、「◯◯するわたし」は、分岐点で、魅力的なほうが地獄行きだ。

なぜ魅力的なほうが地獄行きかというと、力はもともと「重さ」であり(kgw単位を見よ)、重さは天から地に向かうからだ/「魅力」は魑魅魍魎のうち「魅」の力を指しており、語源として悪霊のひとつを指している。
わたしがやる、わたしが頑張る、わたしが歌う、わたしが笑う、それらはまだよし、しかし現代の主流は「やるわたし」であり、「頑張るわたし」「歌うわたし」「笑うわたし」だ、これはわたしの行ではなく受であって、だからこそ魅力的に、われわれを地獄道へ案内してゆく。

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「偶像崇拝」という盲点

ぜか、クリスチャンやムスリムでなくても、われわれは漠然と、「偶像崇拝はいけない」ということを知っている/本当にいけないのかどうかは知らないが、「たしか、いけないんですよね」と漠然とどこかで教えられている。
どこかのお寺や、あるいは自宅にも、阿弥陀如来等の尊像が掲げられているところがあれば、その尊像の脇や裏には、ちゃんと「方便法身」と但し書きがあったりする、方便法身(ほうべんほっしん)とは、「本来、真如とは、わかりやすーい形を具えているものではないが」「それではわれわれのようなアホには理解不能なので」「やむをえず方便としてわかりやすい形を表してくださっている」「この形をそのまま崇めるのでは、本当はない、らしいぜ」という意味だ。
このようにして、いわゆる世界三大宗教が、偶像崇拝を警戒しているのだが、一方でわれわれはというと、「金メダル」とか「オスカー像」とかを、何の躊躇もなく崇拝しまくっている/力とライトアップの果てにある頂点のそれを、偶像に結集して崇拝しているのだが、なぜかこれを偶像崇拝とは誰も気づかないようにできている。
誰かが何か、巨大なピアノコンクールで優勝したとする、その優勝者には女神像のついたトロフィーでも贈られるかもしれないが、当然ながらそのトロフィーからは何の音楽も聞こえない、そしてわれわれの悟性には、何の音楽も聞こえないのに、トロフィーのパワーだけは燦然と輝いてわかるのだ、これではむしろ全力で偶像崇拝の道を突っ走ってきたかごとくだ、それが偶像崇拝だということはなぜか誰も気づかないし、誰にも教えてもらえない。

そして、金メダルもそうだが、そういうトロフィーは、たいていゴールドが一番偉く、造りも主張的で、「力」を顕示する趣となっている/そのあたりわれわれの性根は、豊臣秀吉とあまり変わらないのかもしれない。
そりゃ誰が考えても、アカデミー賞を受けた者に、木彫りの民芸品を与えようとは思わないわな/このように、われわれは日常、あっさり「力」に帰依しており、その周辺は何の躊躇もなく偶像崇拝に包囲されている、オスカー像をさすがに「方便」と言い張る人はいないだろう。
偶像崇拝という観点から考えると、あまり家に、不明な人形を連れて帰らないほうがいい、自分で連れて帰ったものはどうにも防ぎようがないからな/かといって、帰宅途中にトロフィーを大黒屋に売っぱらってしまえというのは、それこそボブディランぐらいでないとできようがない荒行だ、まあそういう偶像モンにはなるべく地位を与えないほうがいい。
偶像的なモンは、捨てちまえとはさすがに言えないのだが、せっかく獲得したトロフィーを捨てられないというのは、それこそ崇拝している証拠なのでもある、だからほどほどにして、あまり地位を与えないように、「何かくっついてきやがった」という程度にして、家族の一員にはせず、「おう、なんやお前」というぐらいで気長に扱うのがちょうどいい按配だろう。

偶像の反対は「理性」だ。

偶像崇拝を警戒するために、理性を崇拝すればいい、トルストイも言っているように、理性はステキなものだ、そして理性的に何かを信じられないなら、それは正しくわかっていないのだ、偶像崇拝というのは理性のない妄信者にうってつけのアイテムになる、しばしば偶像は<<理性を失わせる恣意的なアイテム>>として用いられている。
よくよく考えると、すっきりとした理性を保ち続けているステキな人、というのは世の中に数少ないものだが、この「すっきりとした理性」の中にいられない人は、意外に偶像の呪縛にかかっているというパターンが多いものだ、追及してみると当人の自室がお人形さんで一杯だったとか、そういう例は思いがけず多い(人形に限らず、部屋にモノが多い人は注意)。

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「ライトアップ」という盲点

ーニバルを例外として、神像・仏像は、みだりにライトアップしないものだ/言われてみれば「そういえば」と、誰でもわかるはずだ。
神像・仏像は、みだりにライトアップしない……なぜかというと、光をもたらすものに、光を当てるというのは、もともと誤解のある構造だからだ、「太陽をライトアップはしないだろ」という話/ただしカーニバルは例外なのだが、なぜカーニバルは例外かとまで言い出すと、話が長くなってしまう、カーニバルは「仮に」神の国が降りてきたらという話なので、そのときはタブーやNGがなくなるのだ(それ以上はもう民俗学の専門書でも調べてくれ)。
神像・仏像が、「ありがたいもの」なら、ガンガンライトアップすればいいじゃない、と思えるのだが、ご存じのとおり控えめだ、東京タワーがライトアップされていても、街のお地蔵様のほこらは、ひっそりとしたものだ/ライトアップされるものは、基本的に「地上のもの」に限られる、たとえば夜桜や夜の庭園などは、ライトアップされていておかしくない、比べて神像や仏像はモチーフとして「地上のもの」ではないのでライトアップは理に適わないのだ。
この「ライトアップ」というのが、存外くせもので、正しい知識なしにライトアップを見たり浴びたりすると、人はあっさり気が狂ってしまう、「恍惚」という字を見てもわかるが、りっしんべんに「こころがぼける」と書いてある/「地上のものだからライトアップされる」という頑健な知識があればいいのだが、それがないと、人はライトアップされたものを「天上のもの」と誤解するものだ、特に天上のものを見られない(見神の事実が得られない)人は、このライトアップ誤解にすっぽりハマるので気をつけよう。

構造上、一番まずいのは、「力のある人をライトアップする」ということだ、考えてみれば誰だってわかると思うが、力は光の反対なのだから、力のある人を「光の権化」のように見立てるのは構造がおかしい、このしょーもない誤解がわれわれをいくらでも迷妄の中に引き込んでしまう。
正しくは、このように見えなくてはならない、「力」が悪いというわけではまったくないのだ、ただ力のある人に光を当てるとき、「この人は力がなければ認めてもらえなかった」という見方を忘れてはならない、言われてみれば当たり前なのだが、なぜかこのことはすっかり忘れられてしまう/百億円を稼いだ人は、百億円という力(財力・権力)を持っているから、われわれが注目するのであって、その力を失えば、われわれは彼に注目しないし、彼の存在をまったく認めない、だからこそ力の持ち主は己の力に呪縛されるのでもある(筋力ムキムキの人も同じ、われわれは彼を「力」においてのみ認めて注目している)。
「力」そのものが悪いわけでは決してない、けれども、おなじ「力」といっても、「力を尽くした者」と「力を溜め込んだ者」とでは、性質がまったく異なるのだ、「力を溜め込んだ者」をライトアップし、それを光の権化のように誤認するのは、たいへんよくない、誤解している当人に何の自覚もなくても、身の内にはそれに応じた現象がきっちり起こり始めてしまう。
先に、「魅力」という話をしたが、「魅力」も魔力のひとつであり、言ってみれば「力」というのはすべて魔のものだ、百億円を貯め込んだ人の「財力」は、それ自体「魅力」となって、魅力を追う人を惹きつけるだろう、芸能人の女性が財界人やスポーツのパワープレイヤーと結婚するのは、単にカネ目当てということではなく、あらゆる力を「魅力」と認めて交換する世界に住んでいるということだ、あくまでそれが悪いということではなく、そうした「力」の世界では、背後にまったく知られざる代償が支払われているということ。

「魅力」を、ライトアップする――光を、力に従わせる――のが、術の基本だ。

術の基本、それがつまり、「演出」の基本ということになるが、UGLYなものをライトアップすれば、それだけで人は動転し、道を踏み外すのだ、「魔力」に光を当てて、天上のものと錯覚させればいい/最も単純なやり方としては、カネの匂いをライトアップすればいい、そうした「アーティスト」の映像が、いくつもわれわれの脳裏には刻まれているはずだ、一方でボブディランにはカネの匂いはないし、「ライトアップ」という印象もない。
<<「力」に人為の光を当てる>>という、ただそれだけ……われわれは路上で半裸の男たちが殴り合っていても拍手はしないだろうが、ライトアップされると拍手してしまう、人為的に光のあて方を偏らせることで、われわれは「光とは何か」をいくらでも誤解させられるのだ/そうしていつの間にか、「力」(魅力、財力、魔力)に帰依すると、ふだんから「力」がギラついて見えるようになり、目が自動的に「力の暗闇」を追い求めるようになってしまう。

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「魅力」という盲点

い女性は特に、自分の「魅力」について、こころを砕いていると思う。
が、およそ気づきようのないことに、「魅」力というと、「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」の一字なのだ、魑魅と魍魎があり、魑・魅・魍・魎はそれぞれ別の霊的存在を意味している、そして基本的にどれも、語源的には悪霊の扱いだ。
こんなもん、誰が気づくねんという話だが、「魅力というと、魑魅の力ですよね、つまり "すだま" の力ですよね」ということになる、われわれが平易に使っている「魅力」という語、また漠然と求め続けている「魅力」というのは、そういう意味だ、それはまあ国語的にそういう意味なのだからしゃーない。
このごろの僕はよく、「魂魄(こんぱく)」という言い方をするが、そうして漢字の中に「鬼」が入っているのは、すべて霊的なウンヌンのことを意味している、「魔」もよくよく見ると鬼が入っているしな、「小悪魔・美魔女の魅力」とかヘーキで言うじゃないか、字を見ると鬼だらけであり、字が鬼だらけということは、霊的なことにこだわりますよねえということなのだった、それはまあ国語的にそういう意味なn(ry。

魅の力は、「力」なので、「重さ」となり、基本的に人を束縛し、人に取り憑くように作用する、そりゃ元が悪霊なのだからそのままだと呪術的に作用するだろう/魅力は霊力のひとつなので、それが元からスッカラカンでは人は何の面白みもないが……
だがここで重要なのは知識だ、何も知らないで自分が「魅力」を希求していると、知らず識らず「力」を求めていることになり、知らず識らず「力」を貸し与えてくれるように、何者かに祈りや儀式をしてしまうことになる、そうすると知らないうちに契約が結ばれてしまい、その契約は後に代償を取られるのだった/一時的に強烈な魅力を放って、その後何か「虫食まれていった」人のことを、知人にも著名人にも思い当たることができるだろう。
知っておくべきことは、光る海や春の光、吹き抜けていく東風には、何の「魅力」もないということだ、<<心洗われるようなやつは「魅力」が含まれていない>>と暗記しておけ、<<光には魅力がない>>のだ、だから<<「魅力」に帰依している者は光モノから目を背ける>>という法則が成り立つ、このあたりのことも暗記しておけばいつかの未来に役に立つ(かもしれない)。
トルストイに魅力はないし、ウィリアムブレイクにも魅力はない、西田幾多郎や澤木興道にも魅力はないのだ、「魅力」は大前提としてUGLYなものだからだ、だから現代ではUGLYなコンテンツとUGLYな芸風が流行する、グロマンガオタクがトルストイを読むわけがない/知らず識らず「魅力」を上位に掲げていると必ずこの悪い方のトリニティに吸い込まれるのだ、魅の力を「光」の側へ引っ張ってこられるかどうかが大勝負なのであって、あっさり魅の力のほうへ引き込まれるのは、どこが勝負所かの知識がなく、なしくずしにバッドゲームに引き込まれているのだ。

魅力を追った人よ、内面は "なぜか" ボロッボロだろ。

銀座や六本木のホステスさんで、特に売り上げ姉さんや各店のナンバーワンになる人は、やはり異様な魅力を放っているのだが、この魅力はどうしても背後に大きな代償を支払っているのだ、それが悪いということではないが、仕組みを知らなければなぜ自分がボロボロになっていくのか、まったくわからなくて制御が利かないはずだ/自傷行為や、内臓が出血するようなこと、血の滲むような努力や、大出血というような出費、そのようにして代償はたいてい「血の沙汰」で支払うことになる、あまり言うとグロテスクになるのでぼんやり申し上げておくが……
われわれは、誰かと愛し合う必要があり、この世界そのものを愛する必要があるが、ここで言う「愛」とは「光」のことであって、「魅力」という力ではないのだ/魅力を追ってきた人は、「魅力」をやめると、「自分に光がない」という事実が露出してきて、状況が進行すれば、「自分に闇がある」という事実が噴出してくるだろう、だからますます「魅力」をやることがやめられなくなる……「魅力」を追ってパワーチャージすると仕組み上必ずそうなるのだ、それはあなただけではないのでその点はある意味安心していい。

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目指すのは、「ギンギン」ではなく「スカスカ」

憩を取りたい、というより、休憩を「取らねばならない」と感じているのだが、「あとこれだけ済ませてから……」とやり始めると、けっきょく休憩なんか取れなくて、ふと気づくと昏睡している/そして目が覚めると、「休憩を取らねばならない」とマジメに考えさせられる。
ううーむ、いつも、鼻歌まじりにやっているつもりなのだが、何か目に見えない部分で、デカいことにはデカい負担があるようだ、光と力のトリニティのあたり、フンフーンと考えながら書き話していても、それは表面的なことであって、内部的にはもっと別のことがあるらしい、あっというまに何かを使い果たしてしまう。
確かに、学門として取り扱う以上、本当の仕組みへさっさと到達せねばならないのだが、その到達へ切り込むときの、一種の精神的なエネルギーだろうか、このエネルギーが、僕の自覚のないところで桁外れに使い果たされているのかもしれない、外見上は僕など、ヒマそうの余裕そうに見えているはずだが……
「愛」といって、そのストリームは、上下方向によって異なる形態(光・力)を取るというのは、きっとフンフーンと言いながら、何かとんでもない発見であり、到達なのだろう、何しろこれですべてのことの説明がつくからな/ひょっとすると、あなたから僕を見たとき、僕から光を感じるかもしれないが、僕自身の感覚はそうではないのだ、僕は光についていくために、力を尽くしている、僕はいつも力を使い果たしてフラフラであり、フラフラにならずに眠る日なんて一日もない。

「力」といって、もちろん筋力を単純に振り回すわけではないが、じゃあ「力を尽くす」いえばどういうことかというと、「命がけ」ということになる、「命がけ」とは何かというと、スプーンぐらい念力で曲げたるわという、ムチャクチャなことこそが「命がけ」であって……もしこれを「祈り」というのならば、<<祈りとは実にパワフルなものだ>>、メルヘンチックな気分に浸ったり脱力して縋ることは祈りでも何でもない。
スプーンぐらい念力で曲げたるわというアホの気概と、クソ重たい神輿をセイヤセイヤと「奉納したるわ」という力の使い尽くし、それが祈りなのであって、祈りとはパワフルなものだ、祈り自体が聖なるものではない、おそらくこの「祈り」=「聖なるもの」というイメージがよくないのだ/祈りを捧げるということは、己の(精神)力を捧げるということであって、パワフルなものだ、これを逆に捉えているから、祈る先が自動的に切り替わってしまい、よろしくないものに帰依したナゾの結果が現れてしまうことになる。
祈りが聖なるものというのは、天皇陛下や神父さんがわれわれ愚民のために祈ってくれたとか、あるいは神そのものが地の民を祈ってくれているとか、そういう「上から下へ」の場合が「聖なる祈り with 光」なのであって、われわれの側はそんなご身分にない、われわれの祈りは下から上へ、「合金スプーンもおれっちの念力で曲げるぜ」というようなアホナイスの精神力だ、気力と体力と精神力の奉納が祈りだ。
僕は休憩を必要としているのだが、一息つくと、つい「ンンンンそれどころじゃないンンンン」というエネルギーが湧いてきてしまう/実際毎日のことだが、目の前に白紙の原稿用紙がどっさりあったらどうするの、聖なる光とか祈りとか、そんなフワフワした幻想は何のアテにもならない、「うおおおお〜」と命がけだ、それ以外に方法はないし、しかもその命がけの精神力が何かに奉納されないとハズレだという、構造がシビアなのだ。

精神力を高めるのではなく、精神力をスッカラカンに使い果たせ。

最近はあちこちで「瞑想」が流行っているそうだが、その方法は何も悪くないにしても、瞑想に「ハマる」というような発想は、僕としてはおすすめできない、自分を高みに押し上げるというようなウサンクサイ発想はやめろ、<<他人から見て光が見えることが重要であって、自分からフワフワ光が見えているのは確実にハズレだ>>、当人は「うおおおお〜」と命がけで、当人にはそれしか見えていないが、他人から見ると光が見えているということ、天上の光に到達するためには、時速十万キロに到達するロケットエンジンが必要なのだ、その燃料がスッカラカンに使い果たされたとき、ようやくロケットは重力圏を離れている、ロケットの一心は「命がけ」に尽きるだろう。
具体的に、「コイツの精神力は何なんだ」と、周囲をドン引きさせるぐらいでないとダメなのだが、ここで多くの人が、エセパワフルで自分を取り繕うために、ヨソからそういう力を借りてきたりする、それがとてもよくないことだ/自分が力を借りてくるのではなく、自分が力を使い果たすということだ、<<自分がギンギンになるのはインチキさん、自分がスカスカになるまでやれないのだろう?>>、現代人は自分がギンギンになることが「パワフル」だと思っているが、その発想は構造上必ず闇のほうに落ちていってしまう、目指すのはギンギンではなくスカスカです。

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