☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
相手の世界を奪うこと
ることが多すぎて顧客満足なんて考えてらんねーよ。
必要なのは、「世界」のこと、しかもむしろ、世界を「奪う」こと、向こうの世界をなくすこと。
向こうの世界とこっちの世界がぶつかると、たいへん居心地の悪い、見るに堪えないものになってしまうからな。
おれがまともなことを話す必要はない、それよりは、少しでもかっこよさがあるほうがマシだ、かっこいい人ってのは、失った世界を取り戻させてくれる人のことだ/そのためにはまず、世界を「奪う」ことが大前提になる。

どうしようもないバカだっているよ、このご時世だから。
でも、そのことは問題じゃない、共に生きているのだから、なんであれ助け合わなくちゃいけない、こちらは向こうにとって一番必要なものを提供しているんだから……そのことについては、傲慢に、さらに、もっと高い能力と集中力を持とうとおれは思っている。
観客のこころを掴むって、よくそういう言い方をされるけれど、そうじゃないんだ、それ以前に、奴らを観客に「してやる」ということが大事なんだ、観客にしてやるということは、向こうの世界を奪ってやるということだよ、向こうの世界が残っていたら向こうはジタバタして観客になれないもの/観客になれなかったら、もう何も入ってこないんだよ。
だから、アメリカ人や、とにかく西洋人のほうが、映画を作るのはうまいんだ、なぜなら植民地政策を敷いてきた歴史があるからだよ、この植民地マインドが必要なんだな、単なる帝国主義じゃない、植民地を持って当地の人々を植民地の民にしてやるという発想が常識レベルに必要なんだ、むろん今は政治や戦争の話をしているのじゃない。

植民地が世界を救う。

だからこの文章だってマシだろ? こんがらがった、世界ではない世界の容れ物にすぎないものを、とっぱらって本当の世界を与えてやるには、まず向こうの持っている世界を奪って、世界をなくしてやることが必要なんだ、それで初めて赤子のようにもう一度世界に出会うことができる/何度でも繰り返すぞ、最重要なのは、相手の世界を「奪う」ことだ、世界は二つも要らないんだから。
ここでは何のドラマも始まらねえよ、だって、ドラマよりもっと大事なものを与えているからだ、ドラマってのは基本的に飾りなんだよ、世界がぶつかったまま味付けの濃いドラマを見せつけられることほど不快なことはないものだって、まともな奴なら誰だって気づいているもんだぜ。
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合気道は和合のm(ry3
芝盛平(敬称略)は、極めて神道に造詣の深い方だったから、すさまじい日本語で語られるのだが、われわれ現代人は日本語を軽蔑しきって侮辱を完成させているので、われわれが日本語で当該のことを語ることはできない、われわれが当該のことを日本語で語ろうとしても呪われるだけで、その点はすでに諦めている([復習]言語が魂に入らず魄の側に入ると、言語は言葉ではなく呪いになる)。
そんなわけで、現代の僕としては、宗教色を出すつもりはまったくないし、僕自身その筋に跳梁跋扈するスピリチュアル系の人たちが好きでないので、言葉も「アクション」とか「エコー」とか外来語にして、めちゃくちゃカジュアルにやるしかないのだった、そのぶん、カジュアルかつ、すべてのことを、実技的、実演的、実効的、実利的、実際的に、点検する、という容赦ないスタイルになっている/当人がどんなキモチでも、そんなもん知ったことかで、「できてねーわボケ〜」と後ろからケリを入れるという容赦のないスタイルにならざるをえないのだった、こんな中で魂魄の境界に至れというメチャクチャがわれわれの自業自得状況だ。
しかしここまで来ると、僕自身、まるで他人事のように首をかしげてしまうが、こいつはいったい、どういう奴なんだろうな? 正当に予想されるとおり、何かカンチガイしているマガイモノの奴なのか、それともひょっとして、マジのマジに、何かどえらいレベルに指先が届いているスゲー奴なのだろうか。
どこまでいっても、僕は、自分がスゲー奴なのだと思い込める実感がない、僕は(これを言うとまた評判が悪くなるのだが)、どうしても自分のことを、これまでどおり「おれが人として最低レベル」だと思ってしまっている、うーんしかし、もうこのことは本当に考えないほうがいいのかもしれないな、まあもともと自分を誰かと比較してレベルがどうこうなんて実際には考えていないわけだし……そして同時に、また先日も、「九折さんにオゴると決めたらとたんに身が軽くなった!! なんじゃこりゃ!!」という連絡を頂いている、そういうこともレポートしないとやっぱりフェアではないのだろうな(ウーン苦手で気色悪いぜ〜[拒絶反応])。

よし、決めた(話の脈絡がなくてすまない)(が、また、聞こえてしまったので)(ぬおおお ←イヤがっている)。
どうも僕は、いいかげん一側面として、ガチの「先生」として、偉いんだぞ〜という自覚を持たねばならないようだ、うーん天才と言い張って遊ぶのは得意だったのだが、先生というのは厳粛でイヤだな……でも周りの連中は、勝手におれを「先生」って呼ぶしな……
あのさあ、急に別のテンションになるけどさあ、たぶんおれが先生をやらされるのがイヤというよりも、一般的な「先生」の立て方がダセェんだと思うんだが、そこのところどーよ、おれとしてはこの愚痴ぐらい言っておかないと身が持たない/お前らが、どこで仕込まれたか知らんが、生徒根性で人を先生呼ばわりすんじゃねえよ、おれが先生なのはいいがそっちが生徒とか弟子の感じになるのはダセーよ、もっとカッケェ先生像を模索するように強く要請したい。
いちおう、「先生」という一側面を持たねばならないのは、僕が生きていくのに必要アンド求めている有利さのひとつなのだろうな、それはおれの選択とか判断ではなく、そう「聞こえている」というやつだ、とほほ……まあしょうがない、ただしそんなものは一側面にすぎず、おれの本質はいつまでも変わらないあのときのアイツかつあの人のままだということでよろしく、それさえわかってりゃ「先生」に何でも訊けよ。

じゃあ真面目な話、格下をあがめろ。

だいたい、文部省のあたりがよろしくなくて、学校の「先生」を、格式であがめさせるから、こんなヘンなことになるのだ、神輿に担がれているのが「先生」じゃねえぜ、ぼろ布を着て独り歩いているのに威光を放っていて頭が下がるから「先生」なのだ、おれはリムジンに乗りたいのじゃない、リムジンに乗っても軽自動車に乗っても同じボロボロのおれでありたいのだ、そのための訓練を積んできている、そのことがわかっている奴だけおれを先生と呼んでよろしい。
まったく、文部省の頭でっかちめ、先生が学校を一歩出たら先生じゃないってどんな世界観だよ、先生というのは道ばたに座ってTシャツで無精髭でタバコを投げ捨てていても先生に見えるから「先生」だろ、格上に設定してそれっぽくするというのは、それってつまり「格好」だぜ? ちゃんと「格好」じゃなく霊魂のレベルで「先生」を見つけるようにガキどもに教えろ/あーあ、とにかく新しい「先生」像を構築せねば……しかもタイトルとまったく関係ない内容になってしまった。
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合気道は和合の道である2

は本当に合気道なんかは一秒も習ったことがないドシロウトなので、その筋の人はどうか目くじらを立てないように、どうせおれのほうが年上だろ、こんなオッサンの与太話にマジメに食ってかかるものではない、世界にはもっと楽しいことが満ちているよ(はぁと。
さて、先日の話と突き合わせると、古代ギリシャから急に近代日本に立ち寄ったことになるのだが、ありましたよ、おれがこのところ話していることそのまんまのことを、先に語ってくれている方がいらっしゃった。
それはなんと、合気道の、名人である塩田剛三ではなくて、開祖だった植芝盛平だった、植芝盛平は塩田剛三の師匠に当たるので、それはもうとんでもないスゲー人だ、今ある合気道のほとんどの源流がこの植芝盛平に行き当たる(んだよね? あまり細かくは知らんが)。
で、この植芝盛平は、合気道について無数の教えと、ほとんど啓示のようなものを残されたのだが、そこにズバズバ書いてあったよ、この話はわかりやすいように、前半にアホ九折説と、後半に植芝盛平説を並記してみる(ほとんどおれ自身の確認のためだが)。

九折説「フィクションの速さ、ノンフィクションは呪縛で重い、重い(重量がある)ってことは光じゃないってことだぜ」植芝説「真空の気は宇宙に充満しています。これは宇宙の万物を生み出す根源であります。空の気は物であります。 それがあるから五体は崩れずに保っております。空の気は重い力を持っております。また五体は空の気で働きます。 身の軽さ、早技は真空の気を以てせねばなりません。空の気は引力を与える縄であります。 自由はこの重い空の気を解脱せねばなりません。これを解脱して真空の気に結べば技が出ます」

九折説「自分からじゃだめ、本分からじゃないとだめ、自分は『何もしない』、自分をやめて横隔膜で本分を聞け」植芝説「我々は大神の分身分業であり、宇宙経綸の分身分業であり、世界家族の一員と成り、益々地球をして栄えしめ、宇内を浄め、清い清い世界の楽土建設の為、宇宙建国精神へ御奉公する道が合気道なのであります。合気道はこの使命の実を結んで行かねば成りません」

九折説「メラウルワーは業(カルマ)でしかない」植芝説「宇宙の真理に合しない業(わざ)は全て己れに返り、身を滅ぼす」

九折説「魂魄分離、魂は霊魂でフィクション的なもの、魄は気魄でノンフィクション的なもの」植芝説「魂の氣というのは、宇宙組織の氣である。造り主の事である。魄は物の霊を魄という」

九折説「言葉が世界であって、その言葉は『エコー』としてある」植芝説「宇宙組織の魂のヒビキというのはコトダマのことである」

九折説「言葉の素(モト)みたいなものがあるな、それ自体がまあ『世界』なんだが」植芝説「言霊とは文字や音声に出ずる想念以前の響き、即ち光そのものの響き、神である、音声や文字に出た時は既に言霊の役目、働きが果たされた後のものである」

というわけで、引っ張り出せばいくらでもあるのだが、キリがないのでやめておく(おれにしかトクにならないし)、まあほとんど完全一致と見て問題ない、違いは単におれの側が超絶ちゃらんぽらんというだけだ、おれは何の開祖でもないからな/で、何も、こんなユニバーサルな話を聞いてフワフワしろって話じゃないんだよ、これぐらいのことゴリゴリに掴んでいないとまともなワザ(術)は出てこねえってことなんだ、そしておれみたいな奴は、まともなワザなり術なりがないと女の子とムフフないいことができないので、必死でやりこむしかないのだった、嗚呼おれだけに愛が降り注ぐといいなあ〜。

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合気道は和合の道である

気道は和合の道だ!! まあ僕は合気道なんかやったことないけどな!!
まあ、開祖も塩田剛三も「和合の道だ」と言っているから、和合の道なのだろう、僕は未経験者なのでウンチクを垂れる資格は無いが、それはともかくとして、昨日僕は諸事情あって、人をポンポン投げてきた。
わかったのですよ〜いきなり結論から言うと、人間にはイエスとノーの機能があるのだから、こちらがノーの機能を使わずイエスの機能ばかり使えば、相手は止まること(ノー)ができずに勢いのまますっ飛んでいってしまうのだな、気づいてみりゃアタリマエだったが、これはなかなかの盲点だった。
合気道はよく、「相手の勢いを利用する」というが、それどころじゃねえじゃん、相手の勢いにめちゃプラスアルファを乗っけるんじゃん、こりゃ信号無視して突っ込んできた奴のアクセルを踏んで差し上げて「ゴーゴー♪」とけしかけるような激アツの発想だぜ、よくまあこんな方法を考えつけるもんだ!!

塩田剛三が、合気道の最強の技を訊かれて、「自分を殺しにきた奴と、友達になることさ」と答えたというが、それも納得だ、それは何も難解な極意のことを言っているのじゃない、そこに特殊な奥義があるのではなくて、逆、普段のわれわれこそがアホで特殊なことをしてしまっているのだ、まあ僕は自分を殺しにきた奴にそんなラブリーな方法を採れる自信はないが……(誰もそんな武術家になろうという話はしていない)。
まあ何にせよ、わかったのだ、なぜ塩田剛三が、その人生の後半、いかにも「塩田剛三らしい」というべき実演を見せて回っていたのか/あれは、当人が言ったように、「人を倒すための武術でない合気道」を後世に伝えて回っていたのだ、塩田剛三は有名な言葉として、「人が人を倒すための武術が必要な時代は終わった。そういう人間は自分が最後でいい。これからは和合の道として、世の中の役に立てばよい」と弟子に語った、このことから現在の合気道は一般的に護身術と思われているようだが、そうではない、現在の合気道は塩田の遺したように「和合術」だ。
映像を見ていると気づくのだが、あれって多くの場合(おれは詳しくないので知らんのだが)、左手と右手を陰陽(魂魄)に分離しているよな? で、相手の攻撃は陰のほう(ノーのほう)に向かうのに、技が掛かるのは陽のほうなんだろ、つまり相手は左手(陰)と喧嘩しに突っ込んでくるのに、トモダチの右手に大激突するのだ、だから塩田の技に掛かった人は「元気よく」ブッ倒れて、すぐに「元気よく」立ち上がってくるのだ、まるで励まされたように、そりゃトモダチと出会ったのだから励まされて立ち上がってくる/攻撃者はいつまでも敵(陰・ノー)に触れられないまま、「トモダチ」に大激突し続けることになる、だから見ていて何か愉快な感じが高まっていく、フッ飛ばされた側も何か楽しくなってやめられなくなっていく。
ここで言う「トモダチ」とは何か? そりゃもちろん、敵が「陰・ノー・やめろ、来るな、死ね」なのだから、トモダチのほうは「行けーぃ」「行かんかい〜」「行ったれー」とけしかけるほうだ、それでじっさい、相手はけしかけられて「行ってしまう」ことになる、その結果飛んでいくというだけであって、こちらがブン投げて飛んでいくわけではない。

ブランコの背中側に立ったとき、自分が出来ることは、迫り来るブランコをグッと「止める」か、もしくはグッと「行けー」とするかだ。

ブランコを押された側はどうなる? むろん勢いが増して「キャッキャッキャ」となる、そんな感じでフッ飛んでいく、向こうはもともと「行くで!」とブランコを漕いでいるのだから、後ろからエネルギーを足してやれば「キャッキャッキャ」となるだろう、そんな単純な原理なのだ、それをわざわざブランコの前に立って蹴飛ばされている普段のわれわれのほうが特殊であってアホなのだ。
というわけで、これだけでも大発見で、大展開で、大爆笑だったのだが、発見はそれだけではなかったのだ、話はその2に続きます、あーもう朝になっちゃったよ。

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僕の見ているものが他の人に見えているわけではない
とんど例年どおりのことだが、葛飾区の花火大会に行ってきた。
僕はあいかわらずなので、打ち上げのほとんど最近傍までゆき、その後はずっと夜空と打ち上がる光跡を見上げているのだが、僕も少し賢くなった。
少し賢くなって、「そういえば、こんなに必死に花火を見上げているのも、ひとつの特異体質なんだ」ということに気づいた。
目の前には、浴衣を着た四歳ぐらいの女の子が母親に連れられていて、右隣には、慌てて来たらしいカップルがいたのだが、周りの人は誰も、そこまで必死に夜空と光跡を見上げているわけではないのだ、みんな割と遊興のムードで、花火を肴におしゃべりをしているのであって、僕一人だけが異常に「うおおおお〜(内心)」となって夜空と光跡を見上げているのだ、このごろになってようやく「そういうもんだ」ということが理解できるようになった。

今はもう、むつかしいことを言わなくてもわかる、「まあまあ」と人を宥めたいほどだ/つまり、僕の目に映っている花火と、隣の人の目に映っている花火は、同じではないのだ。
そのことには自信がある、なぜなら、もし僕の目に映っているものと同じものが視えているなら、決してよそ見なんかできないし、横を向いておしゃべりなんかしていられないからだ、僕の目にはそれほどのものが映っている、例えて言うならば、僕の目には天空に散るすべての光弾が一個ごとに映り込んでいる、「ピュー」「ドーン」「た〜まや〜」とは映っていない。
ここ数年で、僕が知ってきたことの、ごく簡単な総括がここに為される/つまり、僕の見る花火とか、僕の聞く音楽とか、僕の見る景色、僕の見る女性、僕の嗅ぐ香り、僕の吸う空気、僕の触れる肌、僕の触れる言葉、そういったものはすべて、他の人の受け取るそれとは違うのだ、それは別に僕が優れているということではなく、実は人それぞれ「届いているもの」「届いている質」「届いている量」は異なるということなのだ、もちろんこんなものはクオリア問題だから証明のしようがないが……
ある女性は、僕に対して、「あなたが音楽を聞いているところを、横から聞くと、いくつもの不思議な光景をパッと見るの、あなたはこんな音楽の聞き方をしているのかしらって、たぶんそれでもわたしはまったく聞き取れていないのだろうけれど、それってものすごくうらやましいことだわ」と言った、僕はそういうとき、よく冗談――でもないこと――として、「おれが見ているもの、聞いているものを、もし同じだけ受け取ったら、ふつうの奴は死んじゃうと思うぜ」と嘯(うそぶ)くのだった。

届いている量が違う。

葛飾区の花火は、1万3000発らしいが、それは花火の小玉・星をカウントしてのものではないだろう、僕は空に散る小玉のすべてが見えているから、1万3000発どころじゃない、数百万のきらめきを一度に見たような気がしている、気がしているというか実際そのように見えている、僕は光っているものを見ているのではなく光そのものを見ていよう。
単純に考えて、高性能のコンデンサマイクは、微細な音も正確に拾うのだから、人間だってそういう機能のレベル差はあるだろう、マイクごとき、機械ごときにさえその差があるわけだから、人間における差はもって果てしなく大きいだろう、それは単に感覚が鋭敏とか繊細とかいうことではなく/数百万のきらめきが、場所も空気も風景も季節も吸い上げて、「ひとつの夜」となって届いているということだ、僕も賢くなって、僕の見ているものが他の人に見えているわけではないということが自然にわかるようになった。
正しく見ないとな | comments(0) |
???「霊魂は横隔膜にある」

近はもう、このブログは、ナゾの学門ブログになってしまっているよなあ……こんなつもりじゃなかったのだが、今しばらくお待ちください。
学門の続き/先日ワークショップで、「余韻法」をやっていたら、いつのまにかそれがギリシャ神話の妖精「エコー」の物語にピタッと重なっていたということをお伝えした、歌と踊りの妖精エコーはパン神(パニック神)に嫉妬されて、身体の「節」(同時に音楽の節)をバラバラに八つ裂きにされたのだが、ワークショップはちょうどその逆、身体を「ひとつなぎ」にして、「余韻の中に入れ」ということをしていた、これは妖精エコーの再生をもくろんでいることに他ならなかった。
で、実際に身をもって研究していくと、つまり僕自身、「おれって、この感覚、どこを使って得ているんだ?」と、フィクションの感覚(ソウル・霊魂の側の感覚)を点検していくと、その感覚が横隔膜に起こっていることが発見された、それで「横隔膜がエコー授受の器官で、霊魂・フィクションの器官なんだわ、へえええ〜」という理論が見いだされた(理論はそうでもお前らに使えるかどうかは別)。
そして、その後も研究は続き、まあ僕が調べるのは面倒なので他人に調べさせるのだが、調べさせてみると、やはり「霊魂は横隔膜にある」と考えていた人たちがいたのだ、それは古代ギリシャの人々だった、僕が現在、「全身の節をひとつなぎにして横隔膜でエコーじゃね?」と言っているのは、古代ギリシャの神話や医学とまったく重なってしまうのだった。

まあこういうケースは、驚いたらいいし、祝福すればいいのだ、これまでにもいくつか心当たりがある/念のため申し上げておくが、僕が古代ギリシャの考え方を借りたのではない、僕が世田谷公園で「ぐぬぬぬ?」と研究&発見していたら、それが勝手に古代ギリシャの考え方に重なっていっただけだ、僕はもともとギリシャ神話の世界観は趣味として好かなかったので、そもそもギリシャ神話自体を詳しく知らない。
僕はただ、「余韻」という現象と方法を知っていて、「なぜお前らにはこんなこともできねーんだ」「なぜお前らにはこんな初等の感覚もねーんだ」と若造どもをシバキ倒していただけだ、たとえそれがスパルタ教育だったとしても、その背後に「古代ギリシャを意識していました」なんてことはない、そんなアホなことをしているわけがない。
というわけで、整理すると、気魄のことはいったんおいて、「霊魂は横隔膜にあるぞ」と言っているのは、僕だけではなく古代ギリシャの人々もそうだったということだ、だからここで僕がギリシャ神話の妖精エコーの名を連呼しているのはまるで冗談のような符合であって、非常にまとまりがあってよろしいのだった。
ちなみに、いわゆる統合失調症、昔でいうところの精神分裂病というのは、古くからスキゾフレニア/Schizophrenia(英語)というらしいが、これはSchizo(分裂)+phrenia(横隔膜の)という意味だそうだ、古代ギリシャでphrenが横隔膜・魂の意味だったそう/ウーンもう面倒だからさっさとお前らの横隔膜を解決しろよ、そしたらややこしい話はしなくて済むぜ。

実は僕は、しゃっくりを自分で止めることができる。

しゃっくりというのは、横隔膜のけいれんだそうだが、それを自分で止められるということは、横隔膜を直接操作できているということなのだろう、これまではそんなこと知らんでやってきたが/でもこのところ自分で確かめてみると、やはり呼吸とは関係なしに横隔膜そのものを操作できているみたいだ、そりゃ随意筋でもあるのだから操作できるのはもともと不思議なことではないのかもしれない(が、どうやら、ふつうはかなり訓練を積まないと操作はできない様子)。
それにしても、先日までチャクラだのウパニシャッドだの言っていたのに、気づいたらいつの間にか古代ギリシャに飛ばされていたぜ、日本語の「言葉」を頼りにスタートして、インドやエジプトやギリシャへ、こりゃいつか世界一周してしまうんじゃないかな、むろんよろこんでいるわけではなく面倒くさがっているのだ。

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QHz(3)

隔膜のない人はいない/人体の構造は誰だって基本的に同じだ。
「打てば響く」という慣用句があるが、横隔膜は膜なので、エコーを生じないわけがない、だから誰だって「打てば響く」はずなのだが、中にはそのエコーが「ひどい」という人もあるのだろう。
その人は、己の横隔膜から生じるエコーが「ひどい」ため、それを隠すために、偽りの音を返す……ずた袋のようなエコーは隠しておいて、「人格」で捏造した偽りのエコーを返すのだ、だからいちおうは返答するのに、「打てば響く」という感じがまったくしない。
もう長いことそれを続けているので、当人もそのやり方が当たり前になってしまい、本当はそんなことをしていたらメチャクチャ疲れるのに、そのことも最早わからなくなったのだろう、それで異様に人当たりのよい人々の社会が、同時に猛烈なストレス社会でもあるという状況が形成されている。

横隔膜説を信じてもらう必要はないが、仮にそういう「膜」が原因だったとして、膜がピンと貼られていたら、スネアドラムのようなかっこいいエコーが返ってくるところ、膜がずた袋状態なので、慌ててシンセサイザーで合成して返すのだ、そうして「打てば響く」ということはインチキされ、誰も彼も異様に疲れる、鬱になる、という状態になっている。
これに関しては、年長者として意見するが、もし若いうちから横隔膜に「受け取る」「応える」「応じる」という経験を積ませていなければ、応答はガッタガタになっていて当たり前だ、横隔膜そのものが浄化されず、償却されていないカルマでゴリゴリに固まっているという状態なのかもしれない、何にせよ経験量が足りていなければ、「まともな横隔膜」が成り立たなくて当たり前だ、ごまかしの利くところではまったくない。
極めてダッセエ話だが、おそらく寝たきり老人のリハビリのように、横隔膜にエコーのリハビリを、たっぷりやらせるしかないのだ/人格で受け答えするというイタい状態を即刻やめて、どれだけダサくても、ヨレッヨレの横隔膜でピュアに応答するということを、まさに応答次元でやるしかないのだ(うーむその光景は、想像するだけでとてつもなくダサいであろう)。
要点を、繰り返し申し上げておく、<<人格で応答してはダメ>>なのだ、エコーにはエコーで応答するしかない、横隔膜には横隔膜で応答する/人格(というか、「キャラ」)で応答するのは、自分のエコーのダメさを隠蔽するために、シンセサイザーで合成・捏造したものを返すということだ、もしその隠蔽したやり方がお好みだというなら、それを一生続けていくしかない、もちろんそういう人も少なからず存在はする。

100万の過信を奪われて、10の自信を与えられるだろう。

さまざまな無理難題が、障壁として立ち塞がることになる、まず100万の過信を奪われることに、普通は耐えられるものではないし、それ以上に、これまで自分が蓄積してきたウソに耐えられるか、という問題がある、何しろ何十年も、シンセサイザーの合成音でウソを返してきたのだ、その壮絶なカルマを受け止めきれるか、自分の積み重ねてきたカルマは自分で償却しなくてはならない。
さらには、カルマの最大として、これまで横隔膜から直接向けられてきたエコーを、ことごとくゴミ箱に捨ててきた、ということもありうる、このカルマを認めて償却に向かうのはタダゴトではない、これから先に同量だけ、自分もゴミ箱に捨てられるということだから、それはリアルに精神の強度として履行不可能かもしれない。

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QHz(2)

きなナゾが解けた。
僕は常に、超ごきげんで生きているが、それでもたまに、わけのわからない疲労を抱えることがある、それの出どころがわからなかったのだが、このナゾが解けた。
ナゾの解答は、「多くの人はウソをついて生きている」ということだ。
逆にいうと、僕はウソをつかずに生きているので、人を疲れさせないということなのだった、疲れる・疲れないというのは、優秀さ・拙劣さの問題ではなかったのだ。

僕はどうせ、遊んでいるうち、自分の周波数に帰っていってしまう、そうすると空気がガラリと変わり、周囲は「もうこの人のこれでいいじゃないか」という平和の空気になる、このとき何が起こっているのか疑問だった。
多くの人は、ウソをついて生きているので、ある地点からは防御と攻撃に切り替わらざるをえないのだろう、そして間違っても攻撃なんかしないように、ぐっとこらえている、それで石像みたいに固まっていってしまう(それはひとつの、やむをえない誠実さだと今になってわかる)。
大前提、ウソをついて生きているのだな、出来が悪いとかそういうことではなく/おそらく、そのウソを取っ払って、本当の(今の)自分の周波数を開放すると、とてもじゃないが人付き合いなんかできないレベルなのだろう、すくなくとも「人付き合いなんかできないレベル」だと、当人に信じられているのは間違いない。
だがここでは、冷静に申し上げておきたい、自分の周波数を開放すること自体は、迷惑になることではなくて、迷惑になるのはそのことに関連して攻撃が生じることだ、人に攻撃や危害を加えることなく、ただ周波数を開放するぶんには、それ自体が迷惑になるわけではない/ただそこを割り切るには、本当の(今の)自分の周波数を、人前に晒して認めるということが不可欠だが。

周波数を開放するのが痛いわけではなく、事情をぶちまけるのが痛いだけだ。

たとえば、「オレは他人のことなんか考えられないんだ、オレはオレがいい思いをする幻想しか胸の内に持てないんだ」ということなら、ただそれだけを堂々と悲嘆すればいい、その悲嘆を肴に、いちおう酒は飲める、なぜなら他人事だからだ、他人事だから同情はしないし、事情をぶちまけられても迷惑で困る、そこでただ悲嘆するだけなら酒の肴にはできる、そしてそうしてウソをやめるというのはまともに生きていくための第一の入口だとも思う。
光がなさすぎてどん底の周波数が、開示され、堂々と悲嘆されるのは、おれの周波数を引き立てる効果もあって、気分は悪くない、それは人間模様というやつなんだろうな、おれはウソが続いている小説よりはサイテーな小説のほうが好きだし、誰だってそっちのほうが好きだと思うぜ。

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QHz
や膜は、固有振動数を持っている、そりゃ当たり前だ、形質が変化すれば振動数も変化する。
それでまあ、なんというか、われわれはエコーで世界を視るわけだから、僕は僕の振動数、周波数、frequencyをやっていくしかない。
やさしくない人というのは、この振動数を、止めに来る人だ。
僕はけっきょく、その人が、その人の周波数を偽っているのが好きでないらしい、自分の周波数なんて、初めはブッ壊れているから実現できないのだけどね、あくまで他人事としては、ブッ壊れている人は、そのブッ壊れのまま実現しているほうが好きだな、あくまで他人事であって巻き込まれるのはたまらんけどね。

周波数といって、この世界には純音なんて存在しない、純音はむしろ、とても耳障りなものだ、周波数はハーモニクスを形成しているからこそ美しいのであって、まあそんなことはウィッテン博士もおっしゃっている。
チャクラ的な考え方を採れば、チャクラのほとんどは、前方を向いているものと感じられるが、ルートチャクラと頭頂部のチャクラのみ、それぞれ天底・天頂方向を向いているように感じられる、これに中央の横隔膜を含めて、三つの水平膜が連動しているように感じられる、まあホントかどうかは知らないが、おれが使えたらそれでいいのだ、他に用事はない。
振動数に同調できない奴、ハーモニクスに参入できない奴は、本当に困る、同調も何も振動数そのものがないカチコチの奴もいるからな……それでイイ思いをしようというのは虫が好すぎるぜ、別に生きるのにエコーとか世界とかなくたっていいじゃないか(他人事)。
まあ、今になって思うのは、僕は僕の周波数でやっていくしかないということと、他方では、多くの人は実はウソをついて生きているね? ということなのだった、自分の本当の振動数をバラすと、実はぜんぜんダメなのだろう、どうやら僕はそのパターンにのみどうしても疲れてしまうようだ/責めるつもりはまったくないが、本当にすっごく疲れるのだ。

僕は、遠くから眺めるぶんには、どうしようもない感情だけのギャングたちが大好きだ。

宝石店に車で突っ込んで、ブタみたいな女と付き合っているような男だが、なんというか、ウソや偽りはない、本当にそういう周波数の生きものなのだろう、巻き込まれてはかなわんが、見ているぶんには愛おしささえ感じる、僕は自分が彼らより優秀だとは思わなくて、同じく何かの慈悲にすがるしかない存在だと思っているが、唯一、ウソや偽りを続けている人に対してだけは、どうしようない疲労を覚える。
本当のことに向き合わねばならないが、本当のことに向き合うというのは、感情的にワーとぶちまけることではなくて、周波数の実態をごまかさないということなのだろう、ちなみに感情的にワーとなるのは、感情ではなくて「抵抗」だよ、自分の本当のありさまを認めないためにpanicを起こすという防御反応がはたらいているだけだ。
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何かをするということは不可能だ
は何かをしたことがない。
何かを書くことや、恋愛沙汰、何かを読み聞きすることや、その他、何かをしたということが一度もない。
僕には思い出もない、そりゃ過去も未来も存在しないのだから思い出なんかあるわけがない。
僕には思い出がない/何しろ今しかないのだから/今だけしかない永遠がずっと示されているだけ/僕は思い出を思い出しているのではなく、あのときのあれを今もまた始められるというだけ/なぜなら時間は今というひとつしかないのだから。

けっきょく、永遠のエコーを聞いている。
永遠のエコーを聞いているということは、今のエコーを聞いているということだ、不変の今が、永遠のエコーだ。
ニーチェだったか、同じ事が繰り返されると見做したのだが、それもわからんではない、でもそもそもがひとつのものを、「同じ事」に限定する必要はない、別のものにしても「同じ事」だ、ニーチェはきっと誤解していたな。
僕は生意気にも、僕を慕ってくれる友人だけ、最後の時間、それはまた同時に原初の時間でもあると思うが、そこにつなぎとめておける手がかりを、工作しておいてやりたいと思っている、最後の最後にでも、僕の示したことが思い出されてくれますように。

何かをするということは不可能だ。

何かをするということは、僕が何かをするということだろうが、「僕」というのがそもそも思い込みだから、僕が何かをするということは不可能だ、<<僕が存在しなくても僕は存在している>>、何かを頑張るという必要はまったくなくて、ただたまに強烈な香りが届いてくる。
まあ、たまに、容れ物のことでアツくなるのも、悪いことではないさ、むしろそちらが本来の目的なのかもしれない、容れ物の解決が本来の課題なのかもしれないな/だがそれにしても、それは何かをするということにはならない、僕は何かをしたことがない、何かをするということは不可能だ。
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陰陽はイエス・ノー3
、もうこのへんから、役に立つ話ではなくなってくるけれども。
気魄(生命力の側)は、基本的に「ノー」だ、基本的にノーということは、全般的にノーであって、全般的にノーということは、「すべてを禁じる」ということだ、すべてを禁じた上で何をどうすることができるか。
すべてを禁じる、ということにおいて、唯一有効なのは、その禁則そのものを共有することだけだ、お互いに「全て禁じようね、全てノーだ」と、禁則を共有するということ、ここにおいて気魄というのは、相手に「触れるだけ、何もしない」という鉄則が成り立つ。
これも劇場を例にとればわかりやすい、われわれは劇場の客席にいて、演者に「何かされる」ことがあるだろうか、また客席側から、演者側に「何かする」ことを許されているだろうが、許されていないはずだ、ここにおいて舞台と客席は互いに<<禁則を共有>>している、われわれの気魄・生命力・ノーが為すべき仕事はこれなのだった。

気魄の側がそうして「すべてを禁じる」のであれば、霊魂の側は逆だ、霊魂の側は「オールイエス」ということになる、「お前のばあちゃんが来世でカボチャの天ぷらを揚げる名人になりますように」と言い出しても、それはイエスになる。
なぜオールイエスになりうるかというと、<<禁則を共有>>しているから、相手に「何かされる」ということがないからだ、何もされないのならば、そりゃオールイエスでかまわないだろう、こうして気魄と霊魂は互いの本分を十全に尽くす。
また逆に考えれば、世界を否定し、すべてを台無しにする人は、この気魄と霊魂の仕事を入れ替えることになる、つまり霊魂は引っ込んで何もしないようになり、気魄は禁則を放棄して暴れ回り、「何かしまくる」ということだ、こうすると世界のすべてを台無しにできる(そりゃこんな客が一人でもいれば劇場はオシマイだ)。
気魄と霊魂の仕事を入れ替えると、一般に「呪い」という状態になるのだが、現代では特級に呪われた人々が、たとえば成人式で壇上に乱入したりする、あれはもう呪われているので止められないのだ、基本的に地方で起こることが多いが、それはその地方が中央に対して生き残るために呪いの力を使ってきたことの残滓だと思われる/まあそんなことになってもカワイソーでしかないので、誰だってそんなことにはならないよう、まともに気魄と霊魂の本分を尽くすべきだ。

ノーは人の声だが、イエスは世界の声だ。

イエスとノーは、それだけ出どころが違うのだ、われわれはノーを「言う」のだが、イエスは「聞く」のだ、われわれは、人を一ミリも揺さぶってはならないが、同時に、世界の揺さぶりには果てしなく合一せねばならない。
ダンダンダン! と物音を立てて、「ノー」と言ってみると、それはいかにも「ノー」の感じがする、それは自分の立てた物音で「聞く」ということがなくなるからだ/一方で、静かにして、耳を澄まし、横隔膜でこの世界を聞き取りながら「イエスイエスイエス……」と言ってみる、イエスは聞きながら言うのだ、聞いたイエスが口から出てくるだけという感じだ、われわれの内側からイエスが出てくることは決してない、われわれが内側からイエスを引っ張り出してきたらそれは必ず捏造でありニセモノだ、イエスとノーはこれぐらい違うもので、イエスは「言葉」だが、ノーは言語であって言葉ではないのだ。
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陰陽はイエス・ノー2
陽はイエス・ノーであり、生命力・気魄・アクションが「ノー」(陰)、世界・霊魂・エコーが「イエス」(陽)だ。
それが実際にどのように作用しているかというと、たとえば劇場を見るとわかりやすい、劇場において、観客たちは客席でジッとしている、なるべく静かに、モソモソ動かないように/これは生命力・気魄・アクションの側において、客席に「ノー」が突きつけられているということだ。
一方で、舞台上に、たとえば強大な力を持つ「魔女」が出現したとしても、そのとき「魔女なんかいるわけないだろ」というノーの声は上がらない、それは舞台上のことは世界・霊魂・エコーの側であって、そこには「イエス」しかないからだ。
われわれが劇場にいるとき、客席でジッとしていること(ノー)や、舞台上に魔女が出現すること(イエス)は、ごくありふれたことで、当たり前のことだ、このように陰陽はイエス・ノーということは、何も摩訶不思議なことではない、われわれがそこにある理法をいちいち自覚はしていないというだけだ。

イエスの力を帯びなさいよ、ということ/イエスの力を帯びないと、演劇どころか、実はまともに人と話もできないよ、ということ。
たとえば「キレーな脚してんなあ」と発言すると、セクハラになるのだ、なぜセクハラになるかというと、陰・ノーの力で発言しているからだ、イエスの力を帯びていないので、「あら、ありがとう」という話にならない/もちろんおれが言えばスカートの裾ぐらい捲ってくれる勢いだけどな(陽・イエスの力)。
全身がノーの力を帯びているのに、女性をデートに誘ったら、そりゃノーが返ってくるに決まっている、別に誘いを断られるのはいいのだ、イエスの力を帯びていて、「あら、ありがとう」という話になればそれだけでいい。
最近は「陽キャ」という言い方と、そのキャラづくりが流行っているが、たいてい怒鳴っているだけで、全身にイエスの力を帯びている奴を見ることはほとんどないな……そりゃまあ、そんな専門的な見方をするヘンタイがいてたまるかという話なのだが、何にせよ、それは陰キャに対するノーから発生している陽キャなので、本質的には陰なのだ、とにかくノーの出どころからイエスの力が出ることはない。

紳士服のフロアに婦人服は売っていないように、ノーのフロアでイエスの力は売っていない。

それぐらい、イエスとノーは別モノなのだ、ノーのフロアをどれだけ探し巡っても無駄だ、案内に訊いたら「下のフロアにございまして……」と言われるのがオチだ。
問答や議論というのは、どう笑顔で取り繕っても、根本的に陰・ノーの力を帯びてしまう、だから仲が悪くなる、一方で「話」や「言葉」というのは、正しく使えれば、陽・イエスの力しか帯びない/だからイエスのフロアで話さないかぎり、人は人とまともに話すこともできないのだ。
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陰陽はイエス・ノー

効的な話をしたい、実効的かつシンプルな話を。
全身が「イエス」で満ちるといいな、それは己の顔と身体と声が「イエス」のカタマリになるということだから、これほど手っ取り早くナイスな方法はない。
陰陽、という言い方は誰でも聞いたことがあって、魂魄という言い方でいうと、気魄(生命力のほう)は「陰」なのだ、生きものは血で生きているから。
そして、霊魂のほうが、思いがけず「陽」なのだ、霊魂のほうには「ノー」がないということになる、そりゃ幽霊が出てきて「No, No」と言い出すのはヘンだもの/まあ丸暗記しておいたらいい、陰陽とは実は「イエス・ノー」のことで、イエスが陽、ノーが陰、そして実は霊魂の側が「イエス」であって、生命力の側が「ノー」なのだ。

ここに決定的でガビーンな新説が示されているのがわかるだろうか、つまり、人間の全身において、「イエス」と「ノー」は出どころが違うということだ、イエスとノーは互いに「反対」ではなく、それぞれ「別モノ」なのだ、こりゃ一般には気づかねーだろう。
生命力・気魄のほうは陰であり「ノー」だから、いくら生命力で「イエス! イエス!」と連呼しても、ダメなのだ、そのとき全身に宿っていく力は「ノー」の力なのだ、じゃあこれってものすごく不運アンド不穏の人間になっていく気がしません?
そりゃ誰が考えたって、直観的に、全身に「イエス」の力がみなぎっているほうがいいに決まっている/わかりやすくいうと、生命力で「全力!」とやっても、得られるのはノーの力なのだ、一方で「全身全霊」というと、こちらは全身が霊魂なわけだから、イエスの力に満ちる、これは原理が底から違うのだからどうしようもない。
さあそれで、もちろんイエスもノーも両方ビシッと使えないといけないわけだが、実際にそれが「できる」かな? という問題になる、横隔膜から出るエコーが「イエス」で、心臓から出るアクションが「ノー」だ、イエスとノーはそうした機構の陰陽から生じていて、字面で使い分けられるものではない、いやあ知らぬ間に全身が「ノー」だけで満ちているとかコワイじゃないか。

断られやすい人・長く一緒にいられない人・頑張っているのにどこか憂鬱になる人は、全身に「ノー」の力が満ちている。

単純に、「イエ〜ス」「ノー!」と、口に出して言ってみてもいい、「イエ〜ス」のほうが口にしやすいという人は、今はほとんどいないと思う、「ノー!」のほうが力強く言えるだろう、ためしに「胸焼けが苦しくて息がつまるふう」にして、それを振りほどくごとくに「ノー!」と言ってみればいい、「ノー!」は力強く言えるはずだ、これは気魄の側、生命力の側で陰の側だ。
現在、インターネットに噴出する口論は、まるですべてを「ノー」と否定することを土台にしているかのごとくだが、それは陰陽において全身が陰でギンギンになっているからなのだ、ユーザーが口論のスレッドとエッチ画像のスレッドを交互に閲覧するのは、否定的口論が「陰」で、エッチ画像も「陰部」だからだ/この人にはもうイエスの力が残っていないので、自動的に「断られやすい人」「長く一緒にいられない人」「頑張っているのにどこか憂鬱になる人」になる。

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(五感じゃないじゃん)

ワッキワのこの世界
あれはあの世の花の匂い
ちげえじゃん、五感じゃないじゃん、てっきりだまされたわ
すべての柱か影がわたしを取り巻いて立ち上がるのをわたしはみた

「たかが歌詞じゃねえかこんなもん」って本があってね
あかんわ、だまされているわ、五感じゃないじゃん、五感なんか感じたことないじゃん
唯一あるのは、「接近」なのか〜、なぜわざわざ、こんなだまされやすいシステムを作ったの/おれは何もかもに接近していたのか
そうだよやっぱ、「接近」だよ、五感なんかはたらいていたら、何も感じられなくなっちゃうじゃないか

五感じゃないじゃん、虚数iを認めたとして、これは五i感じゃん

この世界に接近するだけでよかったのか〜、どおりで僕は、夜や、空や、夕焼けの色や、季節や、雲や、天空から降りてくる風や、女の子の匂いが、好きすぎると思った、これって五感じゃなかったのね、接近したから五感がはたらいているのかと思った、てっきりだまされたわ
気魄が引きちぎれるまで人に触れ、霊魂が引きちぎれるまで言葉を使えってことね? この世のすべてと出会えなくなるまで使い切れということね? それだとわりといいセンいっているんじゃないか、ぬほほほほ

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panicはひとつの「生き方」3

panicはひとつの「生き方」だが、僕はそれを否定しているわけではない。
僕自身の生き方は、きっとpanicではなく、他の生き方を選択できているのだと思うが、僕が自分のその生き方を肯定しているわけではない。
僕は自分の生き方を肯定するわけではないし、他人の生き方を否定するわけでもない、もちろんその逆でもない、じゃあ「人はどう生きるのが正しい生き方か」と訊かれたとしたら、僕は断じて「知らん!!」と即答するだろう、「聖書か仏典に訊いてこい」としか思わない/だってそのために聖書とか仏典とかがあるのだし、もし僕が「正しい生き方」なんて解答できるのなら、聖書も仏典もこの世に要らないじゃないか、僕にはそんな神々のブツを漬物石にするような根性はない。
僕は自分の生き方を肯定するわけではないし、他人の生き方を否定するわけでもない、なぜ肯定も否定もしないかというと、別に哲学があるわけじゃなくて、「そんなにヒマじゃない」からだ/僕は正直なところ、「正しい生き方とは」と言われても、「人が生きたらそれが生き方じゃね?」としか思わない、それが正しかろうが誤っていようが「生き方じゃね?」としか思わない、そもそも「正しい生き方」なんてできるという前提が僕にはブッ飛びすぎて失笑を誘われる。

僕はこれまで、実にたくさんの人に、僕の生き方を否定されてきたが、そのとき僕の側は、先方の何も否定しなかった。
また、今になって、僕の生き方を絶賛というか、崇めるがごとく肯定してくれる人もあるが、それについても冷淡なものだ/肯定でも否定でも、「したけりゃ勝手にどうぞ」としか僕は思っていない、僕はそもそも生き方の否定や肯定という発想がどこから出てきているのかがわからない。
panicという生き方は実相だし、そうでない生き方も実相だろうし、「その両方が実相です」と見えているのが正解だろうが、それは学門として正解なのであって、正解だから肯定するというわけではないし、何であれは「正解のほうが正しい」のかどうかさえ、僕は「知らん」と感じている、正直「そんなことはどうでもよくね?」としか思っていない、だって他人の生き方に口出しをするほど僕はヒマじゃない。
あくまで前提に、もしpanicという生き方を、離れたがる人があったとしたら、という限定条件で考えると、panicを「実相じゃない」とか否定している奴はダメだろうな、という判断を述べているだけだ、別にそのままでかまわない/数学的誤解をしたままギャアアアと生き続ける人があったとして、その人の何が否定されるべきとも僕は思わない、ただ本人が「ギャアアア」であることの事実は免れないというだけで、わざわざ「ギャアアア」の実相を選ぶのは、変わった趣味だなと思うだけだ。

それをした人は、それをしたのだ。

別にそれがいいとも、悪いとも思わない/もちろん、おれの大切なものに余計な手出しをした奴はブッ飛ばすが、それはただブッ飛ばすのであり、何が正しいとも悪いとも思っていない、おれは悪い者をブッ飛ばすというような善人でもないしヒマ人でもない。
panicというのは、「何か」から目をそらし、否定し、逃避するときの「無敵モード」として用いられるのだが、それをした人はそれをしたのであって、そういう生き方をしてきたのだ、それを反省したけりゃ反省したらいいし、後悔したけりゃ後悔すればいいが、そんなことをしても木星の公転軌道は変わらない/これまでに何かを肯定し、何かを否定してきたのだろうが、同じ実相に肯定と否定を貼り替えているのは、僕には「ヒマなことをしている」としか見えていない。

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panicはひとつの「生き方」2

ルト宗教者が、そのカルト宗教に疑心を抱いたとしても、けっきょくそのカルト宗教から脱却することはできない。
なぜかというと、ことの本質が、カルト宗教への信仰で成り立っているわけではないからだ/ことの本質は、俗世の否定で成り立っている。
冷静に見れば、実は簡単な話で、俗世の否定からカルト宗教に入信した者が、次にカルト宗教を否定したとしても、それは「俗世とカルト宗教の両方を否定した者」になるだけであって、俗世に帰ってこられるわけではないのだ、それではけっきょく行き場所がなくなるので、彼は引き続きカルト教団に居続けるしかなくなる。
これは数学的な話になるのだが、仮に「俗世」という集合と「カルト宗教」という集合があったとして、互いは補集合ではないのだ、スキマがあるのである、俗世からドロップアウトしてカルト宗教に入ったとして、次にカルト宗教をドロップアウトしても、俗世集合に戻るのではない、そのどちらでもない空集合Φにいくらでも落ち込めてしまうのだ、おそらくサルトルが嘔吐したのがこの空集合Φだ。

これは、勝手に事象を集合化して捉えるという、軽薄な知性の誤解によって起こっているだけのことだ。
つまり、わかりやすくいうと、たとえば異性愛を否定した者が同性愛者になれるわけではないし、同性愛やトランスジェンダーを否定した者が異性愛者になれるわけではないということ。
異性愛を否定し、同性愛を否定し、バイセクシャルを否定し、トランスジェンダーを否定すると、単純に「性愛のない奴」に行き着くだけであって、自動的にどこかの受け皿に入れてもらえるわけではないのだ、空集合Φに放り込まれてグッバイにしかならない。
人は、何かを否定して逃避するために、panicを用いる、それはいつものクセになり、やがてそれはひとつの「生き方」に固定されるのだが、そのpanicという「生き方」を今になって否定したところで、別の「生き方」へ参入させてもらえるわけではない/男を否定した男がオネエになったとして、このオネエが今になって女を否定したとしても、このオネエは男に戻れるわけではない、どうなるかというと、わけのわからない空虚の穴に転落していくのだ(だからこのオネエはもうオネエをやめることはできない)。

唯一の正解は、「どちらも実相です」。

この世界に、実相でないものなんてないのだから/しかしどうやら、多くの人が、たとえば panic と echo があると、そのどちらが虚であり、どちらが実相か、という振り分けをしたがるようだ、「どちらも実相」ということが数学的に掴めないらしい(見たまま掴めばいいのだが、思念がそれを許さない様子)。
何もむつかしい話ではなくて、たとえば大企業を否定してベンチャー企業に就職した人が、今度はベンチャー企業を否定したとしたら、それで大企業に入れるわけじゃなくて、単に無職になるというだけだろう、大企業もベンチャー企業も「実相」であるのが当たり前なのだが、どうも多くの人は「どちらが正しいか」という根拠不明の振り分けをする準備が前もってあるらしい/panic も echo も実相だ、不明の振り分けをするpanic病・echo病の人も実相として存在する。

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panicはひとつの「生き方」

とえば、母親のことがきらいな娘がいたとして、その娘は母親に、「わたしはあなたのことがきらいです」とはなかなか言わない。
なぜ言わないかというと、そんなことを直言したところで、母子ともども急激な「panic!」になるのがミエミエだからだ/panicになると、その後は呪い合戦になるだけで、本当に意味ゼロのストレスだけが溜まるので、誰もそんな不毛なトリガーは引かない、そんなトリガーを引くのは本当にヤケクソになったときだけだ。
人それぞれ、捉え方はあると思うが、少なくとも僕自身は、panicの一切にドラマを認めないという考え方だ、世の中にはいろいろヒサンな人がいて、またわれわれもいつヒサンな状況に置かれるかわからないのだが、ヒサンさにpanicで対抗することに、僕はドラマツルギーの存在を感じない/けいれん的に涙を流して自分も逃避したいという人にはウケるのかもしれないが、と、ここまで言えばいかにも言い過ぎなのであった。
panicというのは、一種の無敵状態を作るから、自分の幼児的万能感を保全するためには、panicというのはうってつけの方法に思える/当人は「panicしたくてpanicしているんじゃないんです!!」と言うだろうが、それがpanicなのであって、そのことを責めているのではなく、そのpanicというのが「生き方」なのだという知見を述べているのだった。

panicは、ひとつの「生き方」なので、それはずっと繰り返されてゆく/食事や睡眠と同じように、日常生活において定期的に、必須のものとして摂取されていく。
panicは、メラメラしたり、ウルウルしたり、ワーッとなったりという実感で起こるので、わかりやすく「メラウルワー」とも僕は呼んでいる、これはひとつの「生き方」であって、この生き方はすでに言語で固定されているので脱け出せない/メラウルワー・panicが起こったとき、誰だって、内心で無言ではなく、内心でふつふつと呪詛の文言が湧いてくるはずだ、そしてその文言は「これこそ本当のわたしの声」というふうに自分自身に聞こえる。
そういう仕組みで生きることが、悪いことではないが、仕組みに自覚がないのは、自他ともどもを疲れさせるだけなのだ/何を自覚せねばならないかというと、1.panicを否定するということは、自分の生き方を否定することだということ、そして、2.自分の生き方を否定されては誰だってたまらないということだ。
もしヒントがあるとしたら、3.自分の生き方が否定されるように感じるとしたら、これまで自分も、誰かの生き方を否定してきているはずという、そのことが背後に隠れているということだ、だから、4.生き方の否定について、自分は被害者の前に加害者であるはずということに気づかないといけない、ちなみに僕の経験上、僕の生き方を否定しない人なんてものすごく少ない。

カルト宗教者の本質は、カルトへの入信にあるのではなく、俗世の否定にある。

カルト宗教者のことについては、他人事なので、冷静に眺めやすい、その本質は「俗世の否定なんだろうな」ということが冷静にわかる。
このカルト宗教者の例と同様に、panicという「生き方」を選んでいることの本質は、panicへの入信ではなくて、panicではない他方の「生き方」の否定にあるのだ/カルト宗教者が、疑心からカルトを脱却することは不可能なように、panicという生き方も、疑心からpanicという生き方を脱却することはできない(つづく)。

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エコーの反対にパニック・ピープル

ークショップの進展に関連して、僕は今、急激に「エコー」に肩入れしている。
「エコー」というと、ただちに、ギリシャ神話の妖精エコーに引き当てられざるをえないのだが、もともと、この歌と踊りにすぐれた妖精を、嫉妬のあまり八つ裂きにしたのが半獣神パーンだという、そして笑えない話、この「パーン」という神の名が、「パニック」の語源なのだそうだ。
実際、僕は先立って、ワークショップで話していたのだ、「この『世界』を見るのに、人によって、一日あたりの許容量があるらしく、この許容量を超えると、どうやらパニックになるみたいなんだ、そうなるとしばらく休憩するしかない」、実際それはもう「いつものこと」なので、ワークショップの途中でぐったり「休憩」という人が数名出るのだった。
実際僕が、「そうか、これって、the echo なんだ、神話に出てきた……」と話した途端、なぜかわからないが血相を変えて、何か「八つ裂き」の剣呑な気配を立ち上がらせる人があった、ということも起こっているのだ、本人にはまったく心当たりがなかったそうだが、僕がエコーの名を口にして採用したとき、急に不穏な血と呪いと八つ裂きの気配が起こった、まるで何かの禁忌に触れたかのように/それが後になって調べると神話に引き当たるので、エエエエエということになるのだった、ある青年は「さっきから鳥肌が止まらないんですが」と笑っていた。

何も摩訶不思議なことはないのだ、だって、「パニック」はすでに、誰にでもよく知られているし、医者だってそれをひとつの症状に認めているじゃないか。
神話に出てきたパーン神(pan)から、「panic」が認められるなら、同じ神話に出てきた妖精エコー(echo)から、「echoic」が認められてもまったくおかしくない、実際「echoic」という単語も辞書にあるのだ。
シンプルな話、体験データに神話を引き当てたら、「パニックの反対はエコーです」という、意外なことが言えるというだけだ、そして「エコーがわからない人、エコーとつながれない人は、世界や言葉と切り離されて、パニック的に生きるしかないようです」という推定が力を持ち始めるだけだ。
「パニック」の語源になっているパーン神は、好色・性豪で、半獣、インキュバス的、見栄・嫉妬が強く、音楽演奏がまるでダメ、そしてときには勃起した陰茎を剥き出しに具えて描かれるほど、荒々しく原始的な性質の神らしい、それは妖精エコーが最も軽蔑するタイプの男だったろうから、エコーはパーンの求愛を断った、するとパーンは激昂して山羊使いたちを使役し、エコーの全身の節を八つ裂きにしたそう/つまり「パニック」というのは、「嫉妬と充血によってエコーさんを八つ裂きにする衝動状態」ということだ、そりゃ当人は言葉も身体も歌も木っ端微塵になっていて当たり前だ。

「嫉妬と充血によって佳人を八つ裂きにしたがる panic people」は事実、現代にたくさんいる。

僕は古代ギリシャ人ではないので、ギリシャ神話を信仰しているわけではない、ただ信仰しなくても、神話にはヒントがあるものだ、潜在的な八つ裂きマン(八つ裂きウーマン)なんて、現代にいくらでもいるのだろう、そのことを憂いていても、まるでヒマな老人みたいになるので、けっきょくは学門で対抗するしかない、じゃあ対抗策はやはり「エコーの恢復」になる。
「エコーがわかりません!!」という人に対して、「そりゃキミがパニクっているからな!!」と答えるのも、筋道として有効になる、「パニックはどこから来ますか!?」という問いに対して、「勃起した陰茎と見栄と嫉妬と獣心からだよ!!」と答えるのも有効になる、この世にはエコーピープルとパニックピープルがあるのだ、そして僕は断然エコーちゃんラブなのであった(ただしカラオケのリバーブは切ります、エコーってそういうことじゃねえ)。

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アクションと余韻/呪と言葉

うせやるからには、クリアに徹底的にやる。
部活動じゃなくて、学門のことなので、「このキモチ、それも一興かァ〜☆」というわけにはいかない、違うことをやったら違うことになってしまう。
古くからある言葉を担保にとり、「魂魄」を分離して考える/魄・気魄は「アクション」の中にあり、魂・霊魂は「余韻」の中にある、これは実演で確かめられる。
僕の方針は、唯一、言語を余韻の側へ帰し、言語を呪でなく「言葉」に戻すことだ、このことの実現のために、「アクションと余韻」の実技に熟達する必要がある。

アクションの側、魄・気魄の側は、ある一点に向けて訓練する必要がある、それは「触れる」かつ「何もしない」だ。
魄・気魄が「何かしてしまう」と、もう余韻の側へ入り込むことはできなくなる/また、魄・気魄が「何かしてしまう」と、相手も「何かしてしまう」ので、これは揃ってアクション界(ノンフィクション界)に囚われてしまう。
では、魄・気魄が相手に「触れる」、かつ、「何もしない」にはどうしたらよいかというと、<<偏りをなくす>>しかない、偏りがゼロになれば自動的に「何もしない」が実現する。
原理はこれだけだが、人によっては、この原理を追求する以前に、この原理を「憎悪」する人もある、この人は能力の問題でなく、呪を信奉し、呪を愛しているので、この人の追求は自動的に逆に向かうようになっている/このことを見分けるのには、a.言葉原理に向かう人の訓練は格調が下がっていくのに対し、b.呪原理に向かう人の訓練は格調が上がっていく、という性質がある、これは「格」そのものが呪で生成されるものだからだ。

現代は、「偏りで言語が止まらない」という状態を、正義とみなしている。

思想的に、右と左が、それぞれの偏りから正義を呪いあうのは常時の光景だし、つい先日も、被災地に千羽鶴を送るなとか否定するなとか、それぞれの偏りから正義が呪われた/僕の志向は、偏っている人たちに興味はないが、ただそこに「言葉」は原理上生成されないということだ、僕は思想の追求ではなく「言葉」の現成を探求しているにすぎない。
よって僕は、ご存じのとおり、僕に味方してくれる人に対して冷淡だし、僕にアンチ(敵対)する人に対しても冷淡だ、それは僕の思想によってではなく、この場合「言葉」の現成を探求する学門からは外道に当たるからだ。

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魂魄は水質と水路

イプに水を流す/このとき、パイプと水が別物だというのは誰でもわかる。
そして、パイプが繋がっていなければ、水は流れてこない、これも誰だってわかる。
あなたは、風呂でシャワーを使うが、シャワーの水量はチョロチョロがいいか、ザーザーがいいか、これだってザーザーのほうがいいと誰でもわかる。
魂魄のうち、魄・気魄というのは、単にこのパイプ具合と水量のことだ、あなたがシャワーのバルブをひねったとき、水が出なければ「なんだこいつ」と思うように、魄のパイプが繋がっていない人は、どうひねっても何も出てこない(しかも何か圧力で破裂しそう)ので、「なんだこいつ」と見えるのだ、そう見えるというよりは実際に「なんだこいつ」なのだった。

もう一つ、見落としがちなのは、このパイプに流れる水の、「水質」についてだ。
何の混入物もない、水道水なら、それは必要なものだし、汚染されていないだけマシだが、贅沢を言うなら水質は霊泉のごとくであってほしい。
深い原生林に雨が滴り、ミネラルの地層を潜り抜けて、磨かれた上に滋養と霊験と浄化のある水となるような、他では手に入らない水であってほしい。
魂魄のうち、魂・霊魂というのは、この水質のことを言うのだ、実際には肉に宿った「思い出」が、湧き水となってパイプに滲み出るという感じなので、ごまかしは利かない、神聖な思い出だけがそういう霊泉を為すので、これは気合いや想いではどうにもできないのだった。

「膨大な水量と、深遠の水質」がありますように。

魂魄というのは、ただそれだけのことだ、誰だってシャワーの出が悪いとガッカリするし、その水質が無粋のカルキまみれだと、いまいちよろこびはしないのだった。
こんなこと、普通は突っ込んで考えはしないのだけれど、突っ込んで考えたい人は、単純な話、パイプ接続の「点検」と水源の「調査」を依頼すれば(若しくは自分ですれば)いいわけだ、ただしそこから先は本当に身もふたもない話になる/パイプが繋がっていない奴は、ただ繋がっていないのだし、上位水源のない奴は、ただ上位水源がないのだった、これは身もふたもなく差別的な話になってしまう、ただおそらく、この調査結果に目を背けるのなら、無理に「開発」を考えるべきでもない、調査せずに開発に突っ込むというのはどう見てもむちゃくちゃだからだ。

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