☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
「女心」の究極解[異なるg]3

代の男性の、尊厳に対するホロコーストおよびジェノサイドが、どのように起こったか、また今もどのようにして起こっているか。
それは平たくいえば、男性が女性の下僕、「glad製造機」になり果てているということだ、男性はもはや女性に対するglad製造機になることでしか、女性に近づかせてももらえないし、セックスもさせてもらえないので、しょうがないという状況にある、男性は今やglad製造機になるかホモセクシャルに転向するか、さもなくば自慰のマニアに耽るしかない。
女性は女心の上昇する先に、○○様という神聖なものを見据える、それはガガ様であったりマリコ様であったり、エリカ様であったり、典型的な「セレブ」であったり、今では(ブルゾン)ちえみ様であったりする/これらの「○○様」は、ただ「下僕を従えている感」によって規定されているのだが、これは「女心はglad下僕の獲得に向かう」と一般化していい。
一方、たとえばボブディランは下僕を従えていないので、ボブディランの言葉が女たちに伝わっていくことはない、彼がいかに偉大な詩人でありシンガーであったとしても「?」だ、それよりはブルゾンちえみ様の「男なんて」というネタのほうが女心には響く、ちえみ様がglad下僕を従えているからだ。

今、たとえばイケイケの二十一歳の女性がいたとすると、彼女は二十も年上の僕に対しても、容赦なく「glad下僕」を尽くすように、フルスロットルで要求してくる/本人は本当にノリノリで、イェーイと実際にいうし、僕のような珍しい方面での高性能を下僕にするのが「うれしくて」たまらないのだ、glad, glad, glad, イェーイ!!となる(本当になる)。
そのとき当の女性に、何の悪意があるのでもなくて、ただ「素直」に「自然体」で「あるがまま」、僕にglad下僕たるを要求しているのだ、別にそれは下僕を死滅させようという悪意があってのことではなく、ただただ「うれしい」という利益に純粋なだけだ。
僕のような初老の冷血漢でさえそうなのだから、温厚で善良な青年なんてもうひとたまりもないだろう、無限にgladを吸い上げられるだけの犠牲霊体みたいな状態になっているはず、セックスでさえ彼女にgladを献上する腰振り装置になっているはずだ、「こっちは虚無でヘトヘトの絶望感の中にいるのに、潤んだ眼で『大好き』とか言われるんですが……」というような恐怖体験を多くの男性が経験してきているはずだ。
そして、女性はやがて、そのパターン化したgladには飽き、gladではなくなるので、「あなたの男らしくないところに耐えられないのよ」とまずセックスの方面が破たんしてこじれる、まあ別れるしかないが、別れてもじきにどこかの男に言い寄られるとまた「glad!!」になるので、特に問題はない、女性はこのような形で女心に従っているのみで、男性に非道を為したとはわずかも思っていない。

言い寄られてglad、告白されてglad、プロポーズされてglad、祝福されてglad、ドレスを着てglad、新婚旅行でglad、新婚生活でglad、やがて「愛しているか」と言われると「全然? もうあの人はgladをくれないもの」。

彼女は別にインチキで生きているのではなく、愛とか「偉大なこと」とか、そういうことのほうがインチキだと感じているだけだ、自分が「うれしい」と感じること以上の偉大さなどありえないと確信しているにすぎない、だから本当に悪意はなく、本当に「ピュア」だ、この女性を否定できる文脈は男の側にも女の側にもない。
あるお調子者チンコAが、「キミかわいいね」と女の子Bに言っていたとする、そのチンコAと比べたら、まだこいつ(僕のこと)のほうがマシじゃないかとあなたは思ってくれるかもしれない、けれどもチンコAが「あなたに」、「キミかわいいね」と言った場合はダメだ、あなたは数回のうちにgladになり、僕のことなどただのめんどくさいカスに感じる、女心というのはそうして純粋に自己の「glad」のみを追跡する装置としてあなたの人格を支配している。

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「女心」の究極解[異なるg]2
は、たとえば偉大な先生が何か偉大な活動をされていたとき、無償でそこに参加し、協力するということが能動的にできる。
そこでもし、先生に礼でも言われようものなら、「いやいやいやいや、そんなもん、わずかでもお役に立てたなら光栄ですわ」と、別に何の努力もなく下っ端なり下僕なりの役割を果たすことができる/ただしもちろん、極端に女々しくなってしまった男は別だ、女々しくなった男にはやはり「女心」が芽生えている。
女は、たとえ偉大な先生が偉大な活動をされていたとしても、そこに能動的に無償で参加する、ということができない、それは必ずしも有償でなくてはならないということではなく、「きみが参加してくれたら、一気に華やかになるね」というような、gladへの一言が要るということだ、女性はそれが「うれしく」ないと一切の活動をすることができない。
男と女のあいだには、この「glad」に関わる巨大な相違があるのだ、ここにおける「要る」「要らない」がとてつもなく違う、これは男女のあいだで確認し合えば、互いに「えええええ? そうなの!?」とびっくりするほどの違いがあるのだ。

たとえばグラビアアイドルが、冬の海辺で水着を着て、とびっきりの「スマイル」を見せている、あれは何の「スマイル」なのか。
あれは、特別な場所に来られて「うれしい」、特別な水着を着られて「うれしい」、撮影のヒロインになれて「うれしい」という、「glad」のスマイルなのだ、本当に女はただ「うれしいから笑っている」だけで、男にはけっきょくこのことがわかっていない、このgladはおおよそ男にないものなのでどうしても男にはわからない。
たとえば誰か亡くなられた老婆の葬儀があったとして、その遺品を形見分けするとき、一番大きくうつくしい宝石を、「これはあんたがもっていき」と十六歳の少女に授けたとする、するとそれは形見分けでも何でもなくなり、「宝石」=「うれしい」ということで消化される、このとき少女の瞳は驚き輝いてウルウルと震えているが、それは思いがけず急にデカい宝石をゲットしたから「うれしくて」潤んでいるだけだ、何かの偉大さに打たれて潤んでいるわけでは決してない/彼女は「うれしい」のでこの世界が「大好き」になる。
桑田佳祐の歌うところに、「おれよりもいい人がいるならそれでいいのさ、泣いたのは幸せなお前が見れたから」という歌詞があるが、これを女心が受け取ったとき、「何か知らないけど『お前』とか言われちゃった、うれしいエヘヘ」というgladにしか消費されていない、実際ここに「偉大な男気が……」と唱えても、「?」となるだけだろう。
「女心」とは何かという究極解は、「nothing great, only glad」という異なる二つの頭文字gに尽きていく、女心においては<<偉大なものは神殿ではなく、うれしいものが神殿>>であって、おしゃれとオゴりと褒め言葉、および特別感とプレゼントが神殿なのだ、そうして自分をうれしがらせないもののすべては女心において無意味であり、女心は次第に自分をうれしがらせないものを「破壊するべき」という衝動を覚えていく。

Please don't smile, 僕は女を愛しているので、あなたの女心を否定する。

これほど女ウケの悪い主張もないだろうが、まあ成り行き的にしゃーない、僕は女心が女を恒久的に幸せにしないことを知っているつもりだし、同時に、その女心がどれほど強烈な作用として女のこころを服従させているか、その脱け出しがたさも知っているつもりだ。
女は、「うれしさ」のすべてを絶たれたら、それこそ死んでしまうのじゃないかとさえ感じられるだろう、けれどもそれは、物事の「偉大さ」を知らないからにすぎない、偉大さを知ることがあればうれしさなんてささいなことだと努力しなくても落着してくる/やがて向き合わざるをえないこととして、「うれしかったんです」とウルウルしている女の瞳は、究極ただの「ものっそいアホ」でしかないということを先に申し上げておきたい。
 
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「女心」の究極解[異なるg]

れまでのすべての知識と体験を総動員し、僕なりの最大の良心をここに傾けて、この新しく発見されたことについて話す。
おおよそ女には、「女心」と呼ぶべき、特徴的なキモチのはたらき方があり、男にはおおよそこれがない。
男が女に惚れるとき、そのこころのはたらきは「great」なのだ、女のやさしさや愛、あるいはそのうつくしさを「偉大だ」と感じて男は女に惚れる。
女が男に惚れるとき、そのキモチのはたらきは「glad」なのだ、何かをしてもらったとか、褒められたとか、何かをプレゼントされたりデートに連れられたりして「うれしい」、女はこの「うれしい」によって「自分のこころが相手に向けて開けていく」と感じる、それは錯覚なのだが自覚的にはそのように感じてしまうようだ。

ある女性歌手が歌うところの歌詞で、「うれしい、楽しい、大好き!」という語の連なりがある、これはまさに女心そのものを言い当てている/女性が「大好き」に至るためには、愛ややさしさ、偉大さといったものは必要ないのだ、ただ自分の「うれしい」の蓄積がオーバーフローすると「大好き」に至りうる。
重要な着目点は、この「glad」という女心の現象が、男には「ない」ということ、男はそれをガマンしているのではなくて、そもそもその「glad」が起こらないのだ、これがこころの仕組みの上で男女を大きく隔てている。
女は、わけのわからない理由で花束をもらったとしても、とっさにそれが「うれしい[glad]」というキモチが起こる、男はわけのわからない理由で腕時計をもらうと、単純に「???」となる/男はそれをガマンしているのではなく、本当に「glad」が起こらないのだ。
男は、たとえば先輩が「おれも昔、先輩に、腕時計をもらって、そこから社会人を始めたから」と言ったとする、その上で改めていただいた腕時計を「なるほど」と感じ、粛然とその腕時計の重みを「偉大なことだ」と感じて胸を打たれる/女性においては、後天的に男気を獲得しない限り、ことの「偉大さ」ということがわからず、愛ややさしさのすべては真っ先に「glad」で上書きされて消し飛んでしまう、僕はすべての知識と体験を総動員し、最大の良心を傾けてこのことを報告しておきたい。

過去、無数の男たちの愛ややさしさが、「glad」の項目にすり替えられて、消費されていった。

そんなことはない、と、健全な女性は思われるかもしれない、だがそう思えるのは他人事においてだけだ、女性は自身がgladの媚薬に包まれたとき、すべての判断力を失う、だから他人事においてはその不徳がわかるが、自分のことにおいてはそれがわからなくなる/わからなくなるので、女はその道を無限に進んでしまう。
女は、どこかで男気のたぐいを学んでいないかぎりは、過去に「うれしかったこと」だけを覚えていて、「偉大だったこと」は覚えていないはずだ、そして冷静に顧みてみれば、「うれしかったこと」の蓄積が自分を幸福のコースに押し出してはいないということも見えてくるはずだ、その麻薬的なほどのはたらきに反して。

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ホロコーストおしゃれについて

かりやすさのために大げさな呼称を採用する由、どうかあしからずご寛恕のほどを/この「ホロコーストおしゃれ」の可能性については、説明がそんなにむつかしくない。
まず現代の女性にとって、日本の男性というのはことごとくキモいのだ、それは本当にキモいからしょうがない、いくらスキンケアをして眉毛を整えてリア充路線やモテ路線を狙ったとしても、絡みやすくはなるだけで内実的にはキモいのだ、このキモさに毎日耐えている女性たちの健気さを、誰か褒めてよ、というのが現代の女性たちの偽らざる心情だと思う/僕は男性の一人としてこの現況を常に申し訳なく感じている、このキモさに物も言わず耐えていることが、日本の女性たちの栄光だと、少なくとも僕は称えたく思っている、称えるしかできないのがまったく申し訳ないところだが。
一方、たとえば女性専用車両がどうこうというのではなく、何かもっと根本的な、昔でいうアパルトヘイト的な、「女性専用の道路や電鉄を通して、男女で生活の空間を区分けしてよ〜」という隔離生活への希求があるのだが(これはホントに同情する、本当に申し訳ない)、そうして生活上の男性存在のすべてに×印をつけていくと、今度は自分が女性という機能性を具有していることも無意味になってくるわけだ/この具有の無為化強制は非常に屈辱的に感じられ、「男性たちがキモいせいで、わたしが女性であることまで無駄にされた」という怒りが生じ、「これ以上の侮辱はない」という正当な観念から、「わたしが男性を根本的に許すことはこの先も永遠にないだろう」という女性たちの立場を作っている(ただしそれは歩み寄りを否定するものではなく、ただ歩み寄りの「限度」を先に形成する)。
性機能を否定されるという、これ以上ない「許しがたさ」、この最大の侮辱空間において、しかしその苦杯を毎日飲み干しつつ生きていくしかないという中で、唯一その女性性の具有を受け止めてくれるパートナーが「おしゃれ」だった/現代の女性は、それこそ本当に死に物狂いで、「○○がいてくれるからわたしは女性でいられるの」という叫びと完全に同一の崇高さにおいて、「おしゃれがあるから女でいられるの」という中を生きているのだ、おしゃれを否定されるということは、女として最愛の男を殺害されるのと同じことなので、これは論を俟たず「ありえない」と否定されるしかない。

現代の女性は自分を誇示するためにおしゃれをしているのではなく、女として生き、この世で女として生きた時間を得ていくために、「おしゃれ」を追いかけているのだ、自分が「女」という生を享けたことを認めて肯定してくれるものが、唯一その「おしゃれ」なのだから、女性にとってこれは神聖な存在に他ならない/女性が真夜中に自室で一人でも、その胸の内で篤く信仰しているものがこの絶え間ない「おしゃれ」なのだから、この信仰はすでに血が通っており、否定されるわけにはいかない、「これだけは絶対に取らないで」と両腕の中に抱え込んでいるのがこれであって、これについて庇護されることはさしあたり無期限に保障されるしかない、「女性におしゃれを否定することは、性機能を去勢することと同じ、グロテスクな流血と汚辱の行為」と、このことは尊厳をもって重く捉えられねばならない。
この観点から正しく見直せば、女性は自ら「おしゃれ」をすることで自分の女性性を肯定することができ、この肯定があるからこそ、世にうろつく現代の男性を完全否定せずにいられるのだと言える/現代の男性はキモいので物理的に害とリスクのある「敵」だが、それを上回る「味方」が自分を支えてくれているので、女性はこの世界を否定せず生きていけるわけだ、だからもしこの世でおしゃれが衰退すれば、女性にとってこの世界は害とリスクしかない阿鼻叫喚の世界でしかなくなる……そこで戦っていくことも不可能ではないにせよ、そんなところで戦って生きることに何の意味もないという結論が先に見えている、これらすべてを踏まえれば、「おしゃれ」は偽りなく女性たちにとっての「救世主」だと定義されて明らかになる。
しかしここに来て、もう一段階裏側にありうる仮説が疑われ始めた、つまりこの「救世主が必要なほどの世の中」を創りあげたのが、他ならぬ女性たち自身ではなかったか? という仮説だ/いつのことからかは明らかではないが、女性たち自身の選択や行為によって、本来は誇りと光輝のありえた男性たちが、陰茎の生えてうごめく魑魅魍魎どもの地位にまで貶められた――そうしたホロコーストがあった――もしこのことの罪業が女性たち自身にあることが忘却され、女性たちがこの世の陰茎ども、その百鬼夜行を嘆き、自らは救世主の元にあることを誇示するふうは、その座の栄光に浴すること能わず、その見えざる欺瞞が、女性たちを奥底から暗い直観の気分に引きずりこんでいるのではないか? という可能性だ、この可能性まで含めると確かに、一部極点まで上昇した事象に出現する不穏の感触について説明が整合するというのでもある。
現代の女性たちにとって、「おしゃれ」が救世主なのは間違いなく、これを否定されることは許されない、これを剥ぎ取ったところでますますひどいことになることは確実なので、あくまで合目的的にも「おしゃれ」の権利と義務は庇護されるのが不可欠の善だろう/ただしその救世主の元において、この救世主に縋るしかないだけの陰茎百鬼夜行の世界を作り出したのが、他ならぬ自分たちであったという捉え方も、女性たちにおいて保持されてゆかねばならないわけだ、あくまでホントかどうかはわからないのだが、この「おしゃれ」の背後にはそうしたホロコーストがあったという可能性が、珍説としてでもその書庫に保存されている必要がある。

現代の女性が取り得る選択肢は二つ、1.おしゃれをして男性たちに温情を向けるか、2.おしゃれをしてなおも男性たちを惨殺するか、この二つだけだ。

冗談でなく、現代の男性はキモいので、女性たちは防犯と防御を励行しなくてはならない、防御なしに現代の男性と寝たら女性は本当にビョーキになってしまう、ここはリアルに現実的に考えることだ/たとえば西洋諸国がアフリカを植民地化し、プランテーション搾取によってその土地を荒廃させ風土病を蔓延させたというようなことがあったとしても、その恢復に歩み出す西洋人がいたとしたら、ワクチンや防護服をまとって現地に踏み入るしかないのだ、そこで原罪風味を気取って無防備に飛び込んでもあっさりビョーキに喰われるだけだ、そんなことは誰のトクにもならないし、そのような捨て鉢はけっきょく不誠実な逃避でしかないし、むしろ現地の禍々しさにさらなる一滴を追加することにしかならない。
現実的なところとしては、選択肢は「なるべく1」という努力目標で、さすがに「2は禁止」という、さしあたり罰則はない条例を定めるぐらいしかないだろう/とはいっても実際に、キモい男性をディスらずにいることや、キモい男性に温情の余地を向けることは、それがわずかなことでも現代女性にとってすさまじいストレスを与えるものなので、とてもじゃないが無理をするべきじゃない、何億円のおしゃれをしていたとしてもそのストレスは生身に強烈に負荷をもたらし、自らの精神衛生がいかに重要なものかを病床で痛感するだけになるだろう、よって僕が路上に煙草をポイ捨てする程度には、おしゃれしながらキモい男性をディスってかまわない。

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或る法則(最大限の警報と共に)10

つもの僕のファンキーなブログネタより、「女性たちの罪〜」ネタのほうが人気があるようで困る。
キリがないので、いいかげんひとまとめにコラムに書こうかなと思うのだが、いつもそんなことを言いながら、時間が足りなくてエッサッサになるパターンを、なんとかやめにしなくてはならない。
女性が男性を、本来は「尊び愛する」のだという説は、説としてまったく盲点だったし、追究されてみれば「たしかに」と、現代にある多くの不穏な事象の源泉メカニズムがこの本来性の汚損から生じているという線で追っていくと、いくつものことが有為な整合性を見せるのだった。
現代において、女性が男性を尊び愛するなど、事実上は不可能であって、そんなことを要求しうる存在はこの世のどこにもすでにないが、一方でそうした男女関係のありようを「本来そうだということを、忘れたくない」と感じる女性が実は潜在的に少なくないということは、光に属することだと思う/われわれはこの光を見ていかなくてはならない。

一方でもちろん、女性が男性を尊び愛するなどというのは、現状では完璧な戯論であり、現実的にはただの逃避的おとぎ話でしかないということも、肝に据えておかねばならない。
たとえばわかりやすく、このブログを例に取ると、このブログがもし「シャネルを着た四〇歳の女性が書いている」ということだったならば、そのかっこよさはただちに尊崇の対象になるはずだ、「頭いい」「こんな形で頑張れるなんて」と/これを僕のようなオッサンが書いているというだけで、どこからともなく「草」という感触がやってくる、これは僕自身にもやってくる感触で、決して僕のきらいな感触ではない。
もし渋谷の女性100人に、「僕と手をつないで歩いてほしい」と申し出たら、慈善の病気に罹っている老婆以外のすべてからは、「キモすぎてホント死んでほしい」という反応が返ってくるはず、これは生理的な反応だし、かつどこからどう見ても正当の反応だから、ここで100人の女性には何の咎もない/そこで「光栄です」なんて反応が返ってくる可能性は、完全な盲点で、数十年前にはごくまれにありえた反応ではあったが、今となっては悪霊に取り憑かれた人の反応でしかないので、冗談でなくそういった発想はやめなくてはならない。
続いて、渋谷の女性100人に、「このシャネルの服を試着して歩いてほしい」と申し出る真摯な業者があったら、こちらは100人が100人とも「光栄です」という反応になるだろう、何の偽りもなく「超アガるんだけど」と内心にときめくはずだ、「男性を侮辱し」「自分たちはおしゃれをする」という営為は、こうして何の咎もない、肌身にある実直の感触に沿って起こっている/これが「本来」ではないという話は、「そうかもしれない」と思わされるが、ただしその距離は現代と古代エジプトぐらい遠いので(冗談でなく)、そのことも冷静に理解されなくてはならない。

復興は光だが、復興は感情では為されない。

一時に起こったクラッシュに比較して、復興というのは何万倍もの時間と労力が掛かってしまう、そして実際に復興を進めていくのは市民の熱情ではなく行政の政策、つまり「ポリシー」だ(policy/政策)、「責任を取れ!」とデモ行進が騒がしくなるのは基本的に破壊行為でしかなく/人はときに破壊に破壊を上書きすれば何かが解決するのではないかという逃避に呑み込まれるが、そんな虫の好い話はなく、復興というのはひたすらダルいのだ、植林した挿し木がなかなか育たないのを見ると、どうしても腹が立ってくる、たとえ野山に火をつけて豊かな森を焼き払った当人であっても、その復興には「腹が立つ」というのが人間の偽らざる心情の仕組みだ。
僕は今さら、女性に「男を尊び愛するように」と求めることは一切しない、なぜならそんな短絡で急激な発想は、虫が好すぎてトラブルの温床にしかならないからだ、よって道義的な意味からではなく単にノー・トラブルの精神において、僕は今さら「女は男を尊び愛すること」と主張するつもりはない、むしろここに「言うことが面倒くさすぎ、とりあえず死ねw」という反応があることのほうが、僕はノー・トラブルの気配があって好ましく感じる、そうして現実的に笑いながら進むしかないのだ/女性が自らの身体に本来の香気を取り戻す道は果てしなく遠いだろう、そういった道のりは、長く笑いながらしかも見失わずに歩いて行くことでしか踏破できないものだ。

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或る法則(最大限の警報と共に)9

斉に、いろんな方から賛同のメールを頂いているので、僕が驚いている/まさか女性の中に、こんなに「男を尊ぶ」ということへの残滓があるとは、まったく想像していなかった、とっくに枯渇しきってレアメタル程度にしか残っていないと思っていた。
誰が見てもぶっとびにうつくしい、或るファッションモデルの方からも、本旨に賛同するメールをいただいているので、どうやらこれはマジっぽいと、僕自身も改めて思い知らされている、そしてこれがマジだというのなら、単に事象の大きさと罪深さとして、男の僕としても青ざめるところがある。
つまり、端的にいえば、現代において「女性による、男性の尊厳のホロコースト」があったか否か? ということが主題だ、もしそのホロコースト(虐殺)があったとするならば、その上に成り立っている「おしゃれ」へのマニア(熱)は、「ホロコーストおしゃれ」と呼んで差し支えないことになる/そういうカルマの現れはいかにもパターンとしてありそうな感じだ。
つまり、感覚の深いところで、女性として男性たちに、「取り返しのつかないひどいことをした」「それはしかも、女から男に向けて、最もしてはならない重大な禁忌だった」という罪の感触が、あるか否かということだ、もしその罪がいくぶんかでもあったとするなら、その割合にかかわらずその罪は巨大なものになるだろう、何しろ実際に現代の男性たちはもう「再起不能」で、尊厳も誇りも生きる意味も奪われたまま、この先を何十年と生きていかねばならないのだから。

僕自身、ごくわずかな古い付き合いを除いては、女性から「ごめんね」と言われたことがない、ここ十年ぐらいはまったく聞いたことがない。
僕のほうは、ここ数年間は特に、複雑化した理由から、男性として年下の女性に土下座するということを何度もしてきたし、そのたびに「土下座ってされると以外に気分いいですね」とテンションが上がって言う女性がけっこう多いことを確認してきたのだが、逆に女性から「ごめんね」と言われることがあるかというと、実質ゼロだ、女性から男性への「ごめんね」がすでにありえないことは、感覚的に確認済みなので今さらやりとりの候補にカウントしていない。
現代の女性にも、「悪いことをした」という感覚や、「罪の意識」などは当然あるだろうし、何であれば反省の気持ちは大きな強度であるかもしれないが、そこから男性に「ごめんね」と詫びるというような選択肢は絶対に存在しない、なぜなら女性としては「それだけは絶対にできない」という感覚があるはずだからだ、あるいは「それだけは絶対に許せない」という感覚かもしれない/罪は認めるが男性に「詫びる」ということは許されない、そんな屈辱をさせられたらとてつもない激怒が起こり末代までの怨みが残るだろう。
男女の関係というとそれが土台だし、僕はそれでかまわないと思っていた、僕は何か完全男性側の不徳によって、男たちは再起不能にさせられたのだと思っていた/しかし僕はそれでかまわないとノンキであっても、女性たちの側にとってはそうではなかったようだ……「ホロコーストおしゃれ」の詳細は次に回すとして、ひとまず僕は、少なからぬ女性が「男を尊び愛する」ということが正しくありえたはずだったという感覚を未だ残していたことに、ひたすら驚いている。

今もなお僕を慕ってくれる奇特な方へ、命令です、防犯の万全化を励行してください。

なぜという理由はなしです、これは命令です、僕はトラブルの一切を好みません、必ず防犯意識を強化してください、少なくともここから一ヶ月間は(特に年末だし)。
幸いなこととしては、僕は「世界」の記憶が消えない特殊なタイプの人間なので、「女が男を尊び愛する」ということが、どういう状態のものなのか、今もまったく見失わず覚えている、まあ神話世界に接続すればイチコロだしな……というわけで、「女が男を尊び愛する」ということは、消えてなくなったわけじゃない、おれはまだキッチリ覚えている、それは現代人の胴体にはヒジョーに難しいレベルのことになると思うが、まあ慌てる必要はない、ナメてかからない賢明さがあれば前進はできるだろう。

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或る法則(最大限の警報と共に)8
は基本的に「おしゃれ」そのものは好きだし、僕自身はこれというおしゃれなんてしないが、おしゃれな女の子自体は好きだ、またTPOによってはおしゃれをしないわけにもいかないだろうので、つまり女性は今さらおしゃれベースを捨てられないだろう、世捨て人みたいになるのも現実味のない捨て鉢の話だし、このあたりを現実的にうまく整えていかないといけない。
また、何よりタチの悪いのは、「おしゃれ」というのは、ガマンしたところでカルマ度数はあまり変わらないというところだ、内心にはコンプレックスのあるおばちゃんが自分の娘に「また派手なカッコして!!」と叱ったとしても、内心では自分もあこがれてガマンしているので、増大するカルマ度数はあまり変わらないことになる、おばちゃんもしっかり同じ程度のカルマワッショイを育てることになるのだ。
だからそういうおばちゃんが、「人間は見た目じゃないのよ」と申し立てても、あまり説得力がなく、むしろ多くの人々に「正直、こういうおばちゃんにはなりたくないなあ」と思わせてしまうのだ、これは典型的な逆効果になる/それよりは、もっと精密な学門として、おしゃれということのリスクを説明したほうがいい。
「おしゃれ」というのは本来、どれだけ飾っても蠱惑的に「ならない」ということをよろこぶ文化だ、ヒマな人は語源まで調べてみてもいい/現代ではここが誤解されていて、おしゃれイコール蠱惑的、つまりおしゃれイコール「即ハボ」に近づくものだと思っている、おしゃれのリスクというのはここだ、正しい学門がないと人を陳腐な虫のエサにしてしまうということだ、「虫が騒ぐ」ような飾り立ては本当にはおしゃれじゃないということだ。

ここに、240年の歴史がある聖堂があったとして、この聖堂にはこれまでにのべ一億人が礼拝を、渾身で捧げてきたとする/この聖堂に純金のイコンを据え付けたところで、その黄金は蠱惑的にはならないだろう、それは由緒正しき正統の黄金に見える、このことは語源的に正規の「おされ」と言える。
一方、まだ建てられて何の歴史も過ごしていない、また誰も真剣に礼拝などしない形だけの聖堂があったとして、ここに純金のイコンを据え付けたりすると、それはたいへんいかがわしい、「うお、二十四金だってよ」という蠱惑的なものにしかならないだろう、そういったものはインスタ映えの「虫が騒ぐ」という人々によってターゲットにされるばかりだ。
一人の女性が、これまで240ヶ月の歴史を生きてきたとして、彼女はのべ一万回は男を尊び、愛し、おじぎをしてきただろうか、もしそうであったら、その胸元に純金のブローチが飾られても、その純金は蠱惑的にならず、正規の「おされ」になるだろう。
現実的には、現代の女性は、おしゃれをブン投げて生活していくことはできないだろう、だがこれ以上ヘンなことにならないために、そのおしゃれは「前借り」で「ツケ」だと捉えてかかるしかない/「これはこの先、女として男を尊び、愛し、奉仕することを、引き受ける覚悟を持っていますという意思表示なの」という誓いの上で、おしゃれを許容する論理的な枠を自分の中にこさえるしかない、もちろんその誓いを自らないがしろにした場合は、もうどうなっても誰も知ったこっちゃない。

男を尊ばず洋服だけを着るとしたら、ココ・シャネルにもクズ女呼ばわりされるだろう。

ココ・シャネルは、服だけ目立つ女を「下品」とみなして憎悪し、自らの仕事を「下品さと戦う仕事」と定義していた、そして明らかにファッションを男への愛や出会いと切り離さず捉えていたのだから、少なくとも現代の「男を小馬鹿にして、女たちはおしゃれ」という文化には、もし生きていたら激怒されたに違いない/「どうしてあなたは男を小馬鹿にすることしか知らず、男を尊びもしなければ愛したこともない下品女なのに、バケモノのようにおしゃれにこだわるんです?」と、ココ・シャネルに問い質されたときに破綻しない回答を用意しろ。
本旨上、これでもなお「せめてそうしよう」という範囲だ、本質は女から男に向けての尊厳のホロコーストがあったか否かだから、そのことを抜きにして女性がボロ布を着ても意味が無い、単純におしゃれより男のほうが明らかに大切ということになればそれだけで「まとも」になりうるのだが、ここで「そのつもりですよ」と言い張る女は本当にヤバいので、ひとまず話を聞いてもらいたい、服装は変えなくていいが考え方や捉え方は本当に変えなくてはならないところがある。
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或る法則(最大限の警報と共に)7

ーっと、もう暴論でいいよね? 聞き流してね、たぶん暴論で話したほうが「わかりやすさ」だけは増すから。
女が高価な服を着るということは、男を激しく尊び、愛し、奉仕するということと、釣り合っていないとダメだ、この釣り合いが取れていないとカルマ違反になる。
カルマ違反になるとどうなるか、わかりやすい不幸やダメージ、汚らしさやしんどさがテンコモリでやってくる、これメチャメチャ暴論の言い方だけど、もう「わかりやすく」というとこの言い方しかないのだ。
むかし、赤の他人が僕の文章を読んで、「うなぎをオゴりたい!!」と唐突にやってきたことがある/本当にうなぎをオゴってくれただけだったのだが、その後「持病だった不整脈が、あれ以来ケロッと治った」と報告がきている、僕は何もしていないが、本当にそういうことはあるし、けっこういくらでも続発していると、正直なところ申し上げるしかない、僕はわざわざ自前でやっているブログ記事に調整されたウソなんか書きたくないのだ。

こんなアヤシイ宗教みたいな話はしたくないのだが、さすがにここまで露骨に同系統の現象が起こると、もう見て見ぬフリをしているわけにはいかない。
うなぎをオゴってくれた人の逆、何か知らんが僕を罵っていった人には、もちろん逆のことが起こって、個別のことは話せないが、人によっては本当にひどいことになっているケースもある、聞いたら誰だって「えっ……」と血の気が引くような話がいくつもある。
とはいえ、そんなことを急に言われても、今ある暮らしや、やり方や考え方、スタイルを急に変えることは誰にとってもムリだから、いきなり真に受けて混乱しなくていい、ただ積み重なることとして「男を小馬鹿にして、自分たちはおしゃれをする」という女性のパターンは、典型的にマズいらしいから、徐々に切り替えをしていくべきだ、もちろんベストにはさっさと激しく尊んで激しく愛して激しく奉仕できる男を見つけておしゃれの資格「あり」になるのがいい、そうしたら何の問題もないのだから。
男を激しく尊び、激しく愛し、激しく奉仕するということは、そんなにヘンなことだろうか、まあ実情としてむつかしいのはわかるけれど/でも僕自身はきっと、平均より激しく女性を尊び、激しく女性を愛し、笑いながら激しく奉仕してきた、文化や芸術に対してもそうしてきた、それがヘンなことと言われたら「確かにな」と思うが、僕はもともとずっとヘンな奴だったから、人に笑われずに生きてきた時間がそもそもない。

もし、「A子さんはブランド服を着て僕に激しく石を投げる」「B子さんは単純な服を着て僕の足を激しくマッサージする」という一時間の実験をしたら、本当にA子さんとB子さんの人相には「取り返しのつかない差」がつく。

これ、本当にそうなる、僕だって認めたくないが本当にそうなるので、実験結果を曲げないという科学の精神において、このことは曲げずに報告するしかない、「こんなに人の顔って変わるの!?」と、驚くというよりは恐怖するだろう/なんだったら、実際に実験して見せてもいいのだが、これは石を投げる側を誰も引き受けたがらないので(当たり前か)平和に実験というのはなかなか実現しない。
実際に僕に石を投げ続けたA子さんはどうなるか……途中で「もうやめたい」という表情になりつつも、なおやらされるので何かがガタガタになり、目の色がおかしくなり、アゴまわりと歯茎の色がおかしくなってくる、「こんな顔してたっけ?」、声は引きつって、表情は猛烈な「おびえ」に虫食まれ、恐慌に向かっていく/取り返しのつかないカルマ蓄積が急激に起こっていることをどこかで感じているのだ、こんな「A子さん的行為」をマイルドにごまかしたものをわれわれは自分の毎日に推奨して習慣化しているわけだが、これはさすがにどこかで切り替えていかないとまずい。

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或る法則(最大限の警報と共に)6

とえば、東芝が凋落し、シャープが身売りに出され、日産がやらかし、神戸製鋼がお白洲に座らされているわけだが、これらは全部「男の責任」とみなされている。
福島の原発が吹っ飛んだのもそうだし、過去の戦争で大敗したのもそうで、この国で起こったすべてのマイナス・チョンボは、何の前提もなく無条件に「男の責任」とみなされている。
それは典型的に「男社会」だったのだから、やむをえないというか正当なところだろうが、ただし一歩引き下がって全体を眺めたとき、その「男社会」の男たちを支えている背後に「女」の影響はまったくゼロだったのか、ということは一切考慮されていない。
成長中の企業があれば、その中からえぐり出したように「女性の社会進出と活躍」ということがわざわざ言われるが、その企業がコケたときには、「女のせい」は一言もいわれないだろう/オリンピック競技などでは女性選手が特に活躍をクロースアップされるが、一方でたとえばトヨタがなおも世界企業でありつづけることに、「男のおかげ」という見方は一切されない。

女性選手に、男のコーチがついていて、もし女性選手が試合中にメンタルを保てなければ、その点は男コーチの責任にされそうだ/当人たちはそうでなくても、世情とメディアの側においては。
そういえば、何かにつけ「どう責任を取るのよ」「責任取ってよ」というのは漠然と女性の決めゼリフという感触があるが、確かに女性の声が「わたしの責任です」と責任を引き受けて立つところを、あまり聞いたことがない気がする。
僕は桑田佳祐がGパンにTシャツという姿で、アホみたいな顔を(わざと)して、「君こそスターだ」「裸のヴィーナス」を歌って賛嘆するということは、実に正しいと思うし、もしできることなら僕もああやってアホみたいにして死んでいきたいと思っている。
一方で、考えてみれば確かに、女性がGパンとTシャツで出てきて「わたしのヒーロー」を歌い、アホみたいな顔で男を賛嘆するという光景はあまり見ない気がする、女性はむしろ着飾って「わたしが女神」「ディーバ」と主張する形が多いように見える/それがいいのか悪いのか、正しいのか偏っているのかは、どうしても男の僕にはわからないのだ。

「女子会」の給仕を、アルバイトの男子大学生がしている。

そりゃ飲み屋やレストランで「女子会」をすれば、そういう形になるわけだが、本当にそれで「いい」のだろうか、それで男子大学生(21)が優秀な国立大の学生だと知って、女子会のメンバー(32)が「えー、超いいじゃん」「ひゅーひゅー」「ねーこっち来て一緒に飲まなーい?」「ぎゃはは、超ユニクロ着てる」というのがあったとして、よくわからないがそこから婚活まがいのセックスがあったりしたとして、それで「いい」のだろうか、そこからわれわれは急に「気持ちの持ちよう」ひとつで神話世界に接続したりできるのだろうか、それは単に技術と学門のレベルとして困難なことに思える。
まあ、こうなってしまったものは、今さらしょーがないのだが、日本の凋落は、しょせん自業自得、ただし「男の自業自得」であって、女の自業自得は勘案されていないだろう/別にそれでまったくかまわないと僕は思っているが、問題は今になって女性の側から、「イヤな予感がする」という悲鳴が上がっているということなのだ、日本の凋落に責任のない「女子会」の給仕を、日本の凋落に責任がある男子大学生が務めているという見方に、「イヤな予感がする」ということは僕にもなんとなくわかってしまう。

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或る法則(最大限の警報と共に)5
ういちど話をまとめておきたい/ある女性は「どう責任を取るの?」と突きつけられている感触がするという。
「どう解決するの?」ではなく「どう責任を取るの?」だ、つまり状況は分岐点をとうに過ぎ、resultの局面、報いがどのようにもたらされるかという局面に至っている/もう解決を考えるのはとっくに手遅れだといえよう。
当の女性の直観によると、「女性たちはこの国の男性たちを侮辱してメチャクチャにしてしまった」のであり、しかも「それで女性たちは自分たちだけおしゃれしていればいいと思っている」、そのことまで含めると女性たちはすでに「巨大な罪」を犯してきてしまったというのだ、よってもし来世というものがあるならば、女性たちはすさまじく罪業(カルマ)の深い世界に落ちなくてはならないことになる/もちろんこんなことは、ウソかホントかは誰にも証明できない、せいぜい誰しも「予感」ぐらいしかない。
僕は自分自身を含めて、現代男性はみな品質の低いチンカスで当然、「恋あいなんて高度な用途に堪えるわけがないだろ」と笑っていたし、ことあるごとに「男性の一人としてお詫びします」と低頭謝罪することを繰り返してきたのだが、その背後に女性の側の罪業がありうるという可能性についてはわずかも考えたことがなかった/女性の側の罪業なんて、男性の僕がわずかでも考えることではまったくないが、それでもこの新しい説を取り入れると、これまでに起こった不可解な現象がすべてビタッと整合して解き明かされるとも言えるのだ、それで僕はいささかビビりながらこの説を重く見ている。

単純にいうと、ごくわずかなパーセンテージだが、僕のことを「尊んで」くれている女性もいて、率直なところ彼女たちはまだ「生き残って」いる、つまり彼女らには心身や生活の荒廃が起こっていない/中には「何か少しでもあなたの身の回りの世話をさせて」とまで言う女性がいて、その女性はなぜかその一言ごとに心身を恢復するという不思議な現象がある、その現象は「目の当たりにする」というレベルではっきりと起こる。
逆に、先の記事で述べたように、[男性不信→軟化→慕情→攻撃→「対等」→妄想→修正→クラッシュ]という手続きで、僕を一方的に利用して自己を恢復し、慕ってきたくせに気分の調整に僕を攻撃し、「対等」を申しつけることを思いついて上機嫌になった後は、「相思相愛」を妄想して僕の人格をないがしろに悦に入り、それをなだめられ修正されると何かが瓦解してクラッシュする、それが急激であれば「クラッシュ」だし継続的であれば「荒廃」になる……という現象もある、これはつまり、こちらをやった女性は「生き残らない」と端的に言いうる、まともな生活とまともな健康状態に復帰するにはずいぶんな苦労をさせられることになる。
このことを、件の女性の直観に準じて、「女が男を尊ぶこと」によるカルマ償却と、「女が男を侮辱すること」によるカルマ増大との比較ということで引き当てれば、つじつまが合うのだ/こんな男尊女卑のキワミみたいなことを主張したくはまったくないが、この十数年(あるいはそれ以上)で目撃してきたいくつもの現象が、この構図にことごとく符合することを、今さら報告しないわけにはいかない。
またこれまでに、「男性を侮辱して愉しみ、自分はおしゃれして愉しむ」という女性のカルマがすでに蓄積している場合、この女性にはカルマの証として「人の話が聞けない」「学門の一切が身に入らない」「常に感情が奔騰して理性が役立たない」「心身が常にだるい」「刺激物の誘惑に勝てない」「声、顔つき、瞳、口もとが汚い」「身体に香気がない」「声や口調に抑えがきかない」「顔がいかつくなり、老いの印象が急速に進む」「日々ヒステリー気質が進行する」「気分屋、急に不機嫌になることを制御できない」「露出癖や自己承認欲求が病的衝迫力をもつようになる」「性的嗜好の変態化が止められない」等の懲罰的特徴が現れるようになる、いったんそうなってしまうともう説諭も入らなくなるので、荒廃の進行を止めることは非常に困難になる。

女性が「男性を侮辱し、おしゃれを尊ぶ」のは、気分爽快で「正義」だが、カルマは致命的に上昇する。

こんな男尊女卑のトンデモ理論などわずかも唱えたくないが、これまで目の当たりにしてきたことごとくの事象を整合して解き明かせる説を、報告しないわけにはいかない/そういえばかつて、「もう男性が、要らないってなったの」と泣きながら報告しにきた女性もあった、その涙がどういう意味のものなのか僕にはわからなかったが、今になって思えばそれは、大きな流れとしてのカルマ増大の道へ引きずりこまれたということの絶望の涙だったのかもしれない。
むろんここにおいて、男女平等やレディーファーストが「間違っている」ということではない、ただ男女平等とレディーファーストを実現するということには、「思ってもみなかった致命的なコストと犠牲を要するのかもしれない」という説が見つかっただけだ、つまり男性において生は無意味になり、女性おいて生活と心身は荒廃なりクラッシュなりするが、そのことを引き受けた上でなお追求しなくてはならないのかもしれない/とはいえ、こんな説を男の僕がいくら唱えても無駄だ、エマ・ワトソンあたりが言ってくれたらまだ効果があるかもしれない。
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或る法則(最大限の警報と共に)4
は、女にバカにされると、それだけで九割方死ぬというか、リアルにペニスが勃たなくなり、ペニスを勃たせるには性癖を変態化させるか狂気を脳内に導入するしかなくなる、割と繊細なもので、「勃たなかったw」と言われたらそれだけで引っ越しして何もおかしくないし、引っ越し代をいくらかカンパしてやりたいというのが、男という生きものだ。
とはいえ、現代において、女性の眼差しと声とその胴体は、常に男性を軽く侮辱するスタンバイ状態にあるので(悪意はない、ただの習慣だ)、男性は半笑いキャラにならないと女性の眼差しや声の前に立つことができない/もし今どき「男を尊ぶ」なんて眼差しや声を持っていたら、年間に二桁の勢いで男からプロポーズされるはずだ、実際そういう女性のレポートも受けている(さすがおれの教育した女はすばらしいぜ)。
さて、とはいっても、男はヤワでいてはならないので、ありとあらゆるタイプの女性の二十名に囲まれて自分のダサさはただちにツイッターでリツイートされうるという状況があったとしても、わずかも怯んではならない、半笑いキャラに逃げず、かといってオラつく野卑もせず、かつどんな視線や声や揶揄を受けても一ミリも傷ついてはならない、傷ついたら隣の県に引っ越しで費用が掛かるしどうせそのまま再起不能になる。
男にとって、女にバカにされるというのはとんでもないダメージだ、しかも女に詰め寄って襟首を掴んだりしたらただちに通報されて停学か懲戒処分になるので、まあ男は女の前で常に頓死するしかない、女に頓死させられるのがいやなら媚びて助命を乞うておくしかないのだが、そうなればやはり男はつらいので裏側では二次元のアニメキャラクターに「僕をバカにしない子」を見つけて救われるか、あるいは母親を頼るか、もしくは自分は暴力に長けた裏世界のオスであるというような空想に耽って自分を慰めるしかないのだった。

もちろんそんなふうに、「逃げてはいけない」、すべては自分が女ごときに傷つかなければいいだけだ。
女に傷つけられないようになるためには……胴体に流れているものを感得し、おおよそルートチャクラからサハスラーラチャクラまでが開通していて、時間軸上フィクションの速さで動くことができ、基本的に「流れ系」かつ真っ直ぐ一調子でしか動かず、ジョークとユーモアと、愛と学門のなんたるかを掴んでいて、おおよその色即是空と梵我一如にバメンで入ることができて、自己が永遠の相貌へ絶え間なく接近しており、それを他者にも感応共有できるよう「届ける」ということができていて、それらが努力でなく徳性として身に現れていれば大丈夫だ、あとはまともな青春とまともな学歴、まとも以上の就職と明らかな未来、わかりやすく目立つ才能の二つか三つ、加えて五人ぐらいは本当に愛し合った恋人の経験があればいい、十年ぐらいは何か一つのことを続けてきていて、あとさりげないファッションセンスとテーブルマナーとレディーファーストと気配りが滲み出ているのは必須なと、このあたりはいつも勧めているとおりになる。
しかし今になって冷静に考えれば、これらを「入口」の前提条件にするのはあまりにムリがある/ムリがあるのだが、実際僕はこの時代で殺されないためにこういったものを大慌てで身につけてきたのだし、これらの技芸と徳性がなければ僕だってただちに頓死するだろう、僕を見て侮辱の眼差しや声向けない女の子が現れるなんて一ミリも期待していないので、正直僕は朝起きたときからこのレベルでないと生きていけない感じがしている。
僕は今もなお、「若い女の子が、おれみたいな老人にやさしくするなよ気色悪い、もっとクズを見るような目でおれを見ろ、それでも笑わせてやるから楽しみにしておけ」と、この状況を利用してヒマな自己研鑽の材料にして平気でいるが、これは僕が気が狂っているから成り立つことであって、おそらく健全な男性についてはこんなことは成り立たない、やり方はわからないがやさしくしてあげたらいいし、やり方はわからないが侮辱以外の眼差しと声も向けてあげたらいい。

二次元の女の子は、男を侮辱しないし、二次元の男の子を、女は侮辱しない。

女性が、二次元の女の子になるのはムリだし、そんなことを求めるのは女性蔑視になるので許されない/だからあとは、男性が現代マンガの主人公のようになればいいのだ、そうしたら女性も男性を侮辱しなくなる、むしろ女性は「こういう人だったら尊敬できるの」とこぞって言うのではないだろうか。
実際、「そういうことは習ったこともないのに」、後ろから斬りかかってきたものを見ずによけて「無刀取り」とかするんだぜ、「youtubeで見たからできる」と言い放つ、それぐらいできなきゃ九折さんじゃない……と僕自身もふざけてやってきたが、これは確かに「マンガじゃねえんだから」というような話だ、どこの誰に罪があるのかよくわからんが/ところで僕は、女の子が非人格的に「かわいい」と描かれている二次元のマンガが大キライだ、あんなもん女性を侮辱する悪意にしか感じられない、僕は正直もうペニスは勃たなくなってもいいしそのときはリツイートされてかまわない。
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或る法則(最大限の警報と共に)3

に今、目の前に6歳の女の子がいたとして、僕はその女の子がこの先に「おしゃれ」に熱意を燃やすだろうことには、あるていど確信がある。
一方、その女の子が、生涯のうち誰か一人でも男をこころの底から愛するかというと、「それはまずない」と感じている。
感じているというよりは、すでに「断じている」と言ったほうがいいかもしれない、僕は心情による欺瞞はなるべくしたくないので、合理的な判断に重きを置きたい/現在6歳の女の子が、その先の二十年にわたり、「おしゃれ」に身をやつすことはほとんど規定路線だが、「尊ぶべき男性への愛」に身をやつすという説は、すでに男女両側の実情において現実味がない。
別に僕でなくても、人工知能でも同様の回答を選ぶだろう/6歳の女の子に限らず、すべての女性は同様のはずだ、この先に「男を愛する」なんてことはまずないだろうと、それは既定路線だしすでにわれわれにとって合意済みのことのはずだ。

むろん、誰だって男女交際はするだろうし、イケメンも含めて「好き」にはなるだろうし、セックスもするだろうし、結婚もするだろう、けれどもそれは「女が男を尊び愛する」というようなこととは別だ、女が男を「尊ぶ」などという時点ですべての説は失笑ものにしかならない(男の側としても「尊ばれる」とかいうのは草不可避のジョークにしか聞こえない)。
6歳の少女が育つ先、もし男性への侮辱遊びと自分へのおしゃれ遊びに強く耽った場合は、侮辱すべき男性に「抱かれる」などというのはもはやキモチワルイ失笑にしかならないので、彼女は侮辱をハメ合う「男性同士のセックス像」を作り出してリビドーの対象にするだろう/実際、現代における「腐女子」のブームは巨大すぎ、それはブームではなく性的マイノリティを為す大きな一角だと認めねばならない。
今6歳の少女は、「男性イコール侮辱するもの」という習慣的定義に何の違和感もないだろうので、たとえば過去の戦争で散っていった特攻隊の兵士たちなど、あれらをネタにして「腐女子」「BL」の創作をするだろう/冗談じゃなく「侮辱」というのはそういうものだ、「侮辱」の度合いが高いほどネタとして興奮するのだからしょうがない、正直このあたりで「そんな侮辱は許せない」と感じるのはすでに相当な年寄りだけではなかろうか。
過去の日本を守った男たち、これまでの日本を創った男たち、今の日本を支えようとする男たちがいたとして、それを「女としてどう受け止めるか」なんてことは、誰も一ミリも考えないだろう、まして「どう愛するか」など確実に「何それw」だ、女性はさしあたり「男を侮辱して」「自分たちはおしゃれをする」というシンプルな原理で生きているだけであって、僕が驚いているのは、この合意にまさか一部の女性の側が疑義を抱き始めているということだ。

「尊ぶべき男性」は、おそらく女性の手によってことごとく駆除されたが、それが何か女性にとってまずかったか。

ご存じ、毛沢東が雀を駆除したので、害虫が増えて農作はパアになったが、もう駆除してしまったものはどうしようもなかったし、ポルポトが自国の知識人を全部駆除してしまったので、ポルポト自身が医者に掛かりたいときは、もうどうしようもなかった、それと似たような形で、たぶん今になって「男を愛したい」と言われても、すっかり駆除されてしまっているのでどうしようもない/たぶん男の側も、「尊ばれる」などという感覚機能は死滅しているので、今さら言われてもどうしようもないのだ(半笑いor破裂ぐらいしかできない)。
この先、タフな中国人を輸入したりする以外には、「男たちが帰ってきた」というようなマンガ的状況は起こりえないと思うが、やはり問題はこの駆除が「罪」だったかどうかだ、僕は男性なのでそっち側の罪がありうるという説は完全に想定外だった/ちなみに僕は、男の友人が女の悪口を言った場合には、容赦なくゲスの罪があると感じてきたので、ソッコーで襟首を掴んで「口が曲がるぞ、取り消せや」と恫喝してきたのだった、その逆の女バージョンがありうるという可能性は、なぜか僕は一度も考えたことがなかった。

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或る法則(最大限の警報と共に)2

る女性が直観で言うには、「この状況を、女はどう責任取るの?」と、巨大な危機を突きつけられている状況がある、ということだ。
時間がないのであまり説明はできない、ただ僕はその女性の言いように何か捨て置けないものを感じた。
最短距離で言うと、現代の女性は今、「大半の男性を侮辱し」「自分たちはおしゃれをする」ということを当然の日常にしている/そのことが彼女の直観においては、女性たちの「巨大な罪」になっているそうなのだ。
いかにも聞き捨てならないような感触がした/何しろ僕は、口が裂けても「男を愛さない女は罪を背負う」なんて言えない、僕自身が男なのだから、だがもし彼女が直観するように現代の女性が日常的に「巨大な罪」を最大レバレッジでやっているとしたら……逆にいろんなことが整合して怖いのだ、このことは報告しないわけにはいかない。

現代、男性は明らかに劣化して、とてもじゃないが恋愛の対象ではなくなってしまったという、どうしようもない実情があるが、或る見方によっては、「そのとおりだけど、まず女性たちが男性たちをそこまで貶めたの」ということだそうだ、そう言われてみたら確かにそういうことはあるのかもしれない。
もし彼女の言うように、現代の女性たちが、自分たちの手で男性たちを侮辱し、その品質と尊厳を低劣なるまでに貶め、男たちの人生を完璧に無駄なものにさせ、さらにはその苦しむふうを侮辱して悦に入り、一方で自分たちはおしゃれ遊びにフフンと鼻息を荒くするばかりというのが真相だったとしたら、確かにそのことはすでに「巨大な罪」として償却不可能な大きさにまで膨れ上がっているかもしれない/もしそのとおりのことをカミサマが見ていたら、だが。
しかし今さらになって、われわれは金科玉条たる「男女平等」と「レディーファースト」を、もはやわずかも捨てることはできない、たとえ祖母が遺言をもってそれをなだめても、「男女平等」と「レディーファースト」は遺言を踏みにじって優先されるだろう、このことはもはや誰も捨てられないし、僕も捨てるつもりはもちろんない、今さら誰もそこに疑義を抱く権利は残されていない。
正直、僕は女性ではないのでわからないのだ、女性はハッピーではなかったのか?/女性が男性を尊ばず、愛さず、男といえば侮辱するものとして、あとは自分たちでおしゃれを愉しんでいたらいいというのは、女性にとってハッピーなことではなかったのか、それは何かまずいことになるのか? 僕は男性なので、すでに女性にチンカス呼ばわりされることには何の異存も違和感もないのだが、それは当の女性側にとって何かまずいことなのか、そんな話はこれまでに聞いたこともなかった。

僕自身、女に尊ばれようなどということは、とうに99.9%諦めている。

100%にしないのは、単に数学的に否定できないから可能性を残しているだけだし、まれに奇特な人が1000人に1人ぐらいいるかもしれないというだけで、まったくアテにしていない/今さら女性が男性を尊ぶなんて「ムリ」だと、諦めきっているというか、そもそも僕自身はすでにそんなものは「要らない」と決定済みだ、僕はもう十分な中を生きてきたし、僕は男として女の考え方に「干渉」するような悪趣味は持ちたくない、尊ばれているかどうかなんて関心が向くことがそもそもない。
今さら「女は男を尊ぶべし」なんて、問答無用で「サイテー」になるに決まっているだろう、そしてそれ以上に、すでに女性の心身や血肉のレベルで「男性を尊ぶ」なんて機能は死滅しているはずだ、男性を尊ぶ声や眼差しがその身から出てくるわけがない、その声と眼差しは侮辱遊びとおしゃれ遊びにはしゃぐためのものに仕上がっているはずだ/僕はそうして生きる意味がなくなる男同士で「ははは」と笑い合うことはしてきたが、まさかそれが女性側にとってまずいことになる可能性があるとは一ミリも考えてこなかった。

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或る法則(最大限の警報と共に)

大限の警報および慎重さの感覚と共に、僕は以下のことを報告せねばならない/このことを僕のみの知識に隠蔽することは、すでに節度というよりは不誠実さのあらわれとみなされるべきだ。
1.ワイルドカードで示される女性Xは、男性不信あるいは男性に対して侮蔑的である。
2.僕はXに接触し、陽気に積極的にXを構う(なるべく男性不信あるいは人間不信が軟化するようはたらきかける)。
3.Xは僕に親しい情を見せるようになる、同時に、僕に対して「攻撃的」にもなる(理由は不明)。

4.Xは僕に対して「対等」を主張することを思いつき、その主張を声高に示す(理由は不明)。
5.同時に、Xが僕を慕う程度と、同程度に僕もXを慕っているはずだという(精神医学的な意味での)妄想が生じる(理由は不明)。
6.僕はXに対して妄想をなだめ、その修正を求める、Xは状況を理解する。
7.Xの生活がクラッシュする(退学、失業、入院、劇症の頭痛や肌荒れなど)(理由は不明)。

この法則には何かある。

こんなことをレポート風味で言うべきではないという慚愧の念もあるが、これはもう言わないわけにはいかない、統計的に明らかな確実さでこの「法則」があることを報告する/理由はまったくわからないが、この「法則」があるということだけ、さしあたり報告しないわけにはいかない。
僕の知るかぎり、臨床心理学ではこの法則はまったく説明できない/不信→軟化→慕情、ここまでは何の問題もないように見える、しかしなぜかその先に、慕情は攻撃性を伴って、慕情→攻撃→対等→妄想→修正→クラッシュに行き着く、特に「対等」というあたりに非常にシリアスな危険因子の破裂を感じる、何の根拠もないがこのルートで「対等を主張することを思いつき、その主張を声高に示す」まで踏み入ってはならない、ここには何かわけのわからない仕組みがあることを報告しておく。

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この世界を「クソのカタマリ」に感じる原動力3

るほどな、という感じがする。
学門でない学門を脳みそに突っ込まれ、食事でない食事を口腹に突っ込まれ、ワークでないワークを四肢に突っ込まれ、セックスでないセックスを性器に突っ込まれ……と、すべてがそうして侮辱に満ちていたら、現実的に考えればもう復帰は不可能だろう。
家族でない家族を突っ込まれ、友人でない友人を突っ込まれ、恋人でない恋人を突っ込まれ、青春でない青春を突っ込まれ、とすると、それは単なる虚無では済まないのだ、「侮辱」となって怨みの人生をスタートさせてしまう。
一見すると善良で穏やかな人が、一歩踏み込んでみるとすさまじい怨みのカタマリだったということは今どきまったく珍しくないが、そのことはこの構造から起こっている、いくら当人の性格が善良でも臓器や血肉の性質はそれとは異なるのだ/ある意味完全な虚無に生きた人など存在しなくて、虚無イコール「膨大な怨み」と見立てたほうがいい、おっかないことだが知らずに放置するほうがよほどリスクが高いだろう。

リアルな話、女性から見て、「抱きしめたくなる男性」なんてほとんどいないのじゃないか。
男女どちらにおいてもそうだが、若い美貌が性欲や情動を刺激して、変態的に「抱きしめたい」という衝動を起こすことはあっても、ただ安らいだ人の身体として「抱きしめたい」かというと別だ、そんな身体はほとんどこの世に現存せず、あったとしてもとても希少な存在になる。
それが犬や猫の場合、犬は少々インチキな調教を仕込まれることがあったとしても、まあ人間ほどではないので、犬や猫は、その臓器と血肉に「侮辱的強化」を突っ込まれていることがとても少ない、それでおおむね人里に生きている犬や猫は人から見て「抱きしめたい」の対象に入る(向こうが「抱きしめられたい」のかどうかは知らない)。
マガイモノを突っ込まれた全身、その臓器と血肉は、消えない「侮辱」を受けており、当人の感情とは関係なく「怨んで」いる、われわれは今やそんなものだから、うかつに馴れ合って近づくべきではないし、同時にお互いにさらに怨みあうべきでもない、お互いに本来の営みの恢復に協力し合うしかまともな道筋はありえないだろう。

学門のない詰め込み知識は、教育ではなくハラスメントだった。

残念だが、われわれは公的に、少年少女たちに詰め込みハラスメントを行う機関を認め、それを推進していたことになる、ハラスメントを受け続けた人が防衛と怨みの反射感情を持つのは当然であってやむなきことだ。
実際、僕自身が誰かに、学門の話を突っ込んだり、食事をその口腹に突っ込んだり、ワークをその胴体に突っ込んだりするとき、そのことをイヤがる人は一人もいない/おそらく多くの人はすでに、「臓器および血肉」と「正しい営み」が感覚的にわからないのだ、だから表面上は強化になる「詰め込み」を突っ込んで、その後のことは知らんぷりをしているのだろう、こんなことは社会的な問題なので、僕一人がブーブー言っていても解決はされない。

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この世界を「クソのカタマリ」に感じる原動力2

とえば臨床的に無毒とされる、食品ではない物質Aを、毎食200グラム食べさせられたとする。
すると、これは無毒なので無害だが、食べ物でもない物質を喰わされた口腹は、臓器として「侮辱」されたことになる。
臨床的に無毒であっても、「食事」でないものを食事させられた口腹は、その侮辱を忘れることはなく、この世界にいつか「報復」をもたらそうと怨みを持ち続ける。
脳みそに受験勉強を詰め込むのも同じだ、穴埋め式の知識は臨床的には無毒だが、「学門」でないものを学門させられた脳みそは、その侮辱を忘れず、この世界――クソのカタマリ――にいつか報復をもたらそうと怨みを持ち続ける。

たとえば「ズニョー!」という音声を、最大出力で発声させつづける、とにかく大きな声で、先ほどより大きな声で、ズニョー! ズニョー!! ズニョー!!! と繰り返し強化させる。
すると、それは言葉ではないし、人間の声でもないので、その口と喉は臓器として侮辱されたことになる、よってその先は、もう怨みのない音声を発することはなくなる。
こうして人間を、マシーン化することは可能だし、マシーン化した上でその性能を比較競争させることもできる、ただしマシーン化された臓器と血肉は「侮辱」を覚え「怨み」を持ち続けるという性質がある、この性質は消せない。
本人が怨むつもりはなくても、臓器および血肉のレベルにその怨みは所有されるので、怨みの所持を拒絶することはできない、その解消は、臓器および血肉に正しい営みが返納されるまでもたらされない。

作り笑顔をすれば、感情は楽しくなり、臓器と血肉は怨む。

「感情は楽しくなる」というのがミソだ、臓器および血肉の侮辱的強化をすると、強化の実感によって人の感情はそれをエンジョイすることができる、けれども臓器および血肉は営為でないものを突っ込まれているので、侮辱されている/この臓器と血肉に蓄積する侮辱と怨みにはなかなか気づけない、気づかないまま噴出してくるから当人も「わけがわからずそうなる」と感じる。
本来、健常者同士であれば、臓器や血肉の性能にはたいして差がないので、もともとは学門をよろこばない脳みそはないし、食事をよろこばない口腹はない、言葉や声をよろこばない口や喉はないし、笑うのをよろこばない顔や横隔膜はなく、そもそも動くのをよろこばない身体はないのだが、むしろ生きているうちの「強化」によってそれを怨むようになる/侮辱と怨みは決して消えず、また報復を為しても消えはしない、あくまで正しい営みが返納されたときのみ解消される。

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この世界を「クソのカタマリ」に感じる原動力

夜から今朝にかけて考え事をしていた。
たいした内容ではなかったというか、ただのクイズだったので、「知恵袋」に投稿してみたところ、知恵のある人が瞬殺で回答してくれて、それだけで済んだので、僕が一晩考えたことには何の意味もなかった(それにしても投稿してから10分も経たず回答されるとは、どんなバックヤードになっているんだ、すさまじすぎるだろ)。
僕はこれまで、「知恵袋」に質問を投稿することなんてなかったし、未来永劫そんなものを利用することはないだろうと思っていたのだが、意外なことでその効能を知ってしまった、ああいったものが何のために存在しているのかよくわかった。
人は、不毛なことを考えることができるが、不毛なことを考えることで、たちまち人格的に死ぬのだ、それで不毛なことを考えるのに「代行」が必要になってくる、「知恵袋」は近いうちに人工知能に代替され、その効能をさらに向上するだろう。

不思議なことに、昨夜から今朝にかけて、その「考え事」をしているとき、この世界はまるでつまらないというか、すべてはクソのカタマリのように感じられた。
「考え事」の、その内容にかかわらず、それを「考えさせられる」ということによって、人はこの世に生きている意味を失うのだ、人は考え事を持っているとき、ミサイルが落ちてきて即死しても「なんとも思いません」という状態になる。
仮に、親が子に、また教師が生徒に向けて、その人格の虚無化を図るなら、常に厳しくクイズを出題し続けるのがいい/それは、本来は叡智を授かるための「理知」という機能に、何の栄養もないクイズを喰わせ続けるという行為だから、特に幼い子供ほど侮辱的にその機能の美を喪失していくだろう。
たとえるならばそれは、本来は食事をするために「噛む」という機能を具えている「口」に、絶え間なく雑巾を絞らせ続けるような行為だ、たしかに口で雑巾を絞ることは不可能ではないし、そのことは噛む力の強化にはなるかもしれないが、口は食事とはまったく関係ない営為をやらされるので、口は口であることを投げ出して腐敗する、それと同じように、脳が脳であることを投げ出して腐敗しているケースが世の中に多数ある。

「詰め込み式」の受験勉強は、本当の学力にならないという以前に、世界をクソのカタマリにする。

腕や足に錘りをつけて往復運動をさせられるのも同じだ、それはただ強化にはなるかもしれないが、営みとして何の栄養もないので世界をクソのカタマリにする、親が子に「この重いやつ持ち上がる?」ということを課し続ければ、子供の四肢は身体であることを投げ出して腐敗する(カチカチに強化はされる)。
この「臓器および血肉の侮辱的強化」が、この世界を「クソのカタマリ」にしている社会的原動力だ/少なからぬ人が、「勉強」や「ワーク」をしようとするとき、「がんばるぞ」と共にこの世界をクソのカタマリのように感じるというスイッチが入ると思うが、そのスイッチはこれまでに臓器と血肉を侮辱されてきたことに起因している、勉強をすればするほど、またワークをすればするほど、この世界がますますクソのカタマリのように感じられてくるはずだ。

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カミサマの誰かと会う準備をする
二月の風ふきすさぶ
西から東へ、高層から低層へ
ちぎれた氷の雲荒れ狂う
人々はコートを羽織り謹厳実直/クリスマスがやってくる

都会はビルヒルズの許に/街路樹の並びに
合意した人々はそれぞれ黄光に溶け合い
24から25へ過ぐるのを待つ/寒さに耐え笑いながら
生身に神話世界はいささかつらいねと笑いながら/カミサマの誰かと会う準備をする

誰も記憶によっては生きていない

誰が誰という記号もなく
人の世のためにカミサマがあるのではなく/カミサマの世のために人がある/神官などその混雑する出入口にすぎぬ
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妄想→こころ→世界→光[この手続きはスキップできない]

近「神話世界」の話をよくしている。
「神話世界」を、イメージとして追いかけるのは、まあ健全な趣味の範囲だが、正直なところを言えば僕自身は、しばしば神話世界に「襲われて」いる。
それが正しいのはわかるのだが、なんというか、反対側にままならない「事情」というのもたくさんあってだな、しょっちゅう「両極端すぎんだろ」ということに困らされている。
男女の出会いは神話世界のものでなくてはならず、そういうのって「あるよなあ〜」とつくづく思うのだが、実際にそれがすんなり成立するのはまれだ、なんの説明もできないが僕自身はいろいろとわかるようになってきた(説明しようとする根気が……まあな)。

「サンキューとノーサンキュー」の話もしたが、神話世界からの作用によって(うわぁうさんくさい)出会っている二人は、なぜかお互いに初めから「サンキュー」の関係になっており、それが通じ合っているので、あまり口に出してそのことは言われなくなる。
神話世界からの作用が、半分だけ届いている場合は、一方が一方に「あなたがいてくれてありがとう」という関係になっている、このことは初めのうちよく口に出して確認で言われる。
神話世界からの作用がない場合、二人はお互いに「好き?」「好き!」というような、人としての確認をしあう、けれども人心はいくらでも惑うので、これはやがて「わたしってあなたにとって何なの?」「お前こそおれとのことどう考えてんだよ」ということに変質する、仲直りしたら「好き?」「好き!」に戻るが、この行ったり来たりを繰り返す。
神話世界の反対には、虫の棲む闇の世界もあって、こちらは「ありがとう」もなければ、人として確認しあうということもしない、ただお互いが虫の騒ぐままに妄想を膨らませるだけだ、虫が妄想を産出しているのだから当たり前とも言えるが/「神話世界」などと言っているアホの大半はこちらの虫の棲む闇からの妄想にすぎない、自分で言うのもヘンだがふつうそんなもんだ。

1.ガキは妄想する→2.少年少女はこころを確かめ合う→3.大人は「いてくれてありがとう」と有限の生を知る→4.光は有限の生を忘れる。

この手続きを経ずに、いきなり光ぶってもムダだし、いきなり神話世界ぶってもムダだ、1〜3の手続きにおいて、膨張した妄想は「確かめ合ったもの」だけに削減され、その後はさらに「片側から知ったもの」に削減されるので、当人にはむしろ縮小と退歩に感じられる、だからガキはなかなか妄想を手放さない、一生そのままでいく人も多い。
A子さんはB君との恋愛関係を妄想して無敵でフフンと「ハッピー」だった、それが「嫌われているってことは、嫌われているってことだよw」と通告されるのは腹立たしく辛かった、その先さらに「腹立たしかったけれど、なんて愚かなことだろう、B君はわたしにやさしくしてくれたのに、わたしは自分のことしか考えずしかも逆恨みまでしていたんだわ」と自分の愚かさに気づいたときにはマジで死にたくなる、その絶望の際に「もうわたしのことなんかどうでもいい、けれどせめて、何かほんのわずかでも、まともなことをしてから死にたい」と誠実さを――自己の有限生と引き換えに――得る極薄のチャンスがある、そこで初めて小さな光が宿る(ことがある)/ただしこのとき、当人は自分を諦めきっているのに、周囲から見て「光がある」と見えるものだ、自分で自分用の光が見えるというほど都合良くはできていない、自分用の光は要らないと確信しているから、自身がすでに光を得ているのだ。

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サンキューとノーサンキューの狭間
者性、ということについて、まともなことを書こうと苦心している。
が、なんというか、無理デースという気がしてきたので、ひとまず諦めることにした。
他者性がないというのは、要するに、他人の「ノーサンキュー」を断じて認めないということに尽きるので、こんなもんどうしようもないのだ。
他人にノーサンキューと言われることが、「妥当」ではなく「不満」になるのだから、もうどうしようもない、ドラえもんでもやってきて世界征服でもしないかぎり解決しない、いや世界征服しても解決はしないだろう。

突き詰めるところ、他者性というのは、サンキューとノーサンキューの狭間に尽きる。
他人とサンキューの関係になれないのだ、そりゃ根本的に不誠実だからサンキューの関係にはなれっこないのだが、ノーサンキューグループの人は土台「誠実」ということを甘く見ているのだろう。
ノーサンキューグループの人はたいてい、自分が善意を押し付けたら、「善意」という威光によって他人にサンキューを強制できると思っているのだが、そうはいかないのだ、要を得ていない善意なんか誰だってノーサンキューだ。
欺瞞的、エセサンキューの中を生きたら、そりゃ報いがあるだろうというだけなのだが、まあそんな殺伐としたくはないし、何か本当にサンキューが交わされる中で死ねたらいいな。

サンキューの「タメニ」派、ノーサンキューの「ワタシ」派。

他者性、ということについて、まともなことを書こうと苦心していたのだが、ここにヒントがある、そうして自分には何の利益にもならんことに苦心したことがありますかという話。
僕がここに書き話すこと自体、誰かにとってサンキューになりうるかどうかが問題なのだ、他人にサンキューの関係を向けるのはそんなに簡単じゃない、誰か純喫茶のプリンでも食わせてくれ。
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