☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
カルマ肉の真相7(繰り返し)

ルマ肉は「人」じゃない、などというと、何かもう残酷で悲しい気がする。
が、このことは、お守りのような知識として、こころのどこかにぶら下げておかなくてはだめだ。
われわれが、自分と友人を、そして身近な人たちを、なるべくすべて「人」として愛していけるように、またなるべく多くの友人が、「人」でなくなることを防ぐために、この知識は必要になる。
共倒れになるのが一番よくない/いざというとき、カルマ肉を見切るということを知っているヤツがいるのはとても頼りになる。

カルマ肉は「繰り返される」ということ/なぜかこのことは、見切りに大事だ。
何百年か、何千年か、何万年かわからないけれども、これはその人がどうこうということではなく、生きものの身には「カルマ」と呼ばれる仕組みが宿っているのだ、そしてそのレコードされたディスクのようなものは、どういじくってみたところで、繰り返し再生されるのは<<止まらない>>のだ、だからこれに肩入れすることは誰のことも益さない(当人さえも益さない)。
われわれは、イヌやネコや、あるいはイグアナと同棲することには、大してストレスを覚えない、それは所有するカルマの成分が遠いからだ/人とサル系は種族が近いからケンカしてしまうが(同種間ストレス)、人とイヌはケンカしないし、人と金魚などではケンカすることは不可能になる、その仕組みで、身内関係に近いほど、カルマの成分が近くて凄惨なケンカと共倒れのリスクが高まる。
われわれにはそれぞれ、もっとやるべきことがあるし、もっとやりたいことがある、ただそれだけだ、もしカルマディスクが抜けてくれたら、「やりたいことがある」のが「人」なのだ、カルマ肉は何千年と<<繰り返されている>>ということを忘れるな、それを一日や二日でわれわれが止められるわけがない、われわれにはもっとやるべきことがある。

この人に「永遠に会いたい」と思えるなら、あなたは「人」に会っている。

われわれの身に、カルマ肉の成分がゼロになることはありえない、が、そこまでケチくさいことを言わなくても、「わたしはこの人になら永遠に会いたいけどなあ」という人があるはず、じゃあそれは、継承されるカルマ肉を超えて、その「人」そのものに会っているのだ/どれだけ微弱でも、その「人」に会えるということの、なんとすばらしいことか。
あなたはイヌやネコと、第一に何をするだろうか、第一に「遊ぶ」だろう、あなたはメシを食わないといけないし、イヌやネコだって病気をすることがあるだろうが、それにしても「遊ぶ」だろう、そうしてカルマから離れて「遊ぶ」とき、「このコになら永遠に会いたい」ということには何の欺瞞もない/逆にわれわれがしばしば感じる、「これっきりにしたい」というウンザリの感触、この背後にカルマディスクの繰り返し再生がある、そこに手を突っ込んでも、必ず何千年でも「繰り返される」ということを忘れるな、カルマディスクに肩入れするということは、われわれが人にやさしくするということではまったくない。

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カルマ肉の真相6(執着)
れわれの、生命活動の基本は、カルマディスクに書き込まれており、われわれはこのカルマディスクによって、自動的に生命活動を営むようになっている。
つまり、第一には「死を恐怖する」、第二には「食べ物を求める」「痛み、ケガ、病気を避ける」「老化に恐怖する」というようなことだ、その先に「上等な衣服と食事と住居を求める」「名誉を求める」「異性を求める」「評価を求める」「バカにされたくない、バカにされると腹が立つ」「負けたくない」「優越感に浸りたい」「むさぼりたい」というようなこともすべてカルマディスクに書かれている/その中に、やけに粗暴であったり、やけに見栄っ張りだったり、やけにプライドが高かったり、何か特殊な性癖や恐怖症やコンプレックスがあったりすることも書かれている。
仮に、人格というものをまったく持たない人体があったとしても、内部にこのカルマディスクが入っている以上、表面上はまったくつつがなく「人」のように暮らしていけるのだ、よく働くし、異性を求めるし、バカにされるとすごく怒るとか、権力に敏感で、おだてられるとあっさり真に受けるとか、割と説教もするしとかで、まったくそういう「人」であるかのように表面上は見える。
しかしそれは、カルマディスクのはたらきであって、どこまでもその「人」のはたらきではないのだ、そしてこのディスクは、どうしても避けようがない「死」という滅びに向かっていることから、次第にわけのわからないコードを排出し始める/カルマディスクに書かれているコードは、もともと肉の身に成立しないことばかりなのだ、どれだけカルマディスクの指令どおりに強力に生きた人があっても、最終的には「何一つ得られない」ので、カルマ肉は必ず最後には「破綻」するように作られている、仏教ではこれを「一切皆苦」という。

カルマ肉は、カルマディスクが吐き出すコードによって、さまざまな切り替えや、立て直しをするかに見えるが、実のところ何一つ変わってはいない、その背後には「人」がいないのだから、カルマ肉としての「バリエーション」が変化したにすぎない/またこのバリエーションがそれなりに豊富なだけで、いちいち注目を集めるという余計な性質がある。
カルマディスクは、第一にはカルマ肉に生命活動を維持させるためにはたらいているので、カルマディスクがタイミングに合わせたコードを吐き出すたび、カルマ肉は「元気」になる、何につけここぞというときに「怒鳴る」という人があるのはこれが原因だ、この怒鳴り声は人の肉を損傷する典型的な「カルマ声」となる。
われわれが気づかなくてはいけないのは、ただ一点、「死を恐怖する」のは<<誰でもそう>>だし、「バカにされると腹が立つ」のは、やはり<<誰でもそう>>ということだ、これはその「人」の性質ではなく、生命活動をするわれわれに共通に付与されたカルマディスクのはたらきによる、「誰でもそう」ということは「当たり前」ではなく逆に「不自然」だと気づかねばならない。
別にその人に「人格」がなくても、カルマディスクがある以上、定められた刺激に対して定められた「大暴れ」をするのだ、これはカルマ肉の現象であって「人」の現象ではない、だからカルマ声で大暴れしているものの向こうに「人」を探してはならない、必ず「人」と「カルマ肉」を混同し、カルマディスクの説得力に己のカルマディスクが反応してしまう。

「執着=誰でもそう」が、カルマ肉の針。

カルマ肉は、カルマディスクによって、強力に「執着」をする……多く身内なんか、残念なことに、人が人を愛しているのではなく、カルマディスクによって「執着」しているだけというのがほとんどだ/母親が娘に対してなど典型的にそうで、母親は常に「母親が娘を放っておけないのは、当たり前、誰だってそうでしょう?」と思っている、この呼びかけの針が、こちらのカルマディスクに干渉する。
カルマディスクに書き込まれているコードは、すべて「執着」というコードで書き込まれている、そしてカルマ肉はけっきょくすべての執着について「得られなかった」という結論に行き着くしかないので、初めから苦しんで滅ぶようにできているのだ/われわれは単純に、カルマディスク外の行為、執着外の行為を得なければならない、それは生命活動とは直接関係のない行為だから、吐き出されるコードは永遠と不死のコードだ。
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カルマ肉の真相5
部には大ウケの、「カルマ肉」という言い方/この「カルマ肉」の定義は、どうしても為されねばならない。
「カルマ肉」は、「人」ではないということだ、なぜこのことがしつこく定義されねばならないかというと、人の想像力を摩耗させ、失わせてしまうからだ。
「カルマ肉」というものの仕組みが、思いがけず入念で、壮絶、ということなのだ、余人の想像を超えるほど、カルマ肉というのは人を騙すように作りきられている。
カルマ肉というのは、「渦」のようなものだ、覗き込もうとするといつの間にか呑まれてしまう、人が誤って真に受けてしまう性質の、精髄がカルマ肉だと捉えていい、それはただの渦であって人ではない、直視すると人に見える気がするが、その錯覚のうちにアッというまに渦に呑まれていってしまう。

カルマ肉と化した当人、と捉えた場合、そのときすでに「当人」と呼ぶべき「人」は存在していない、内部のカルマディスクが回転して、カルマ肉を渦化しているだけなのだ、そのカルマディスクはずっと昔からあって、もはや当人のものなのか何なのかわからない、どこかで拾ってきたんじゃないかという正体不明の感触さえある。
このカルマ肉が、人の想像力をどう摩耗させるかというと……とにかく仕組みの根源が「ディスク」なので、「ぶっとび」なのだ、当人が昨日言ったことを忘れており、一昨日言っていないことを「言った」と誤認して覚えているのだ/これではこの「人」の心中を忖度しようにも、こちらの想像力が壊れてしまう。
冗談ではなく、それはもう「人」ではないのだ、多くの人を励ますために言うならば、よくあるパターン、あなたの母親はもう「人」ではないのだ、あなたの母親はあなたの肉親で、身内だから、特にカルマ肉としての挙動に埋め尽くされるのだ、本人はカルマディスクなんて知識を持っているはずがないので、好き放題にその肉を蹂躙されまくっている/支配されきっていて、もう「人」ではないのだ、「渦」となって、昨日言ったことを忘れ、一昨日言っていないことを主張し始める、わけのわからない強力な表情をふんだんに見せつけるようになっている。
「カルマ肉」を、「人」だと思って、忖度したり拝察したり、理解しようとしたりしないことだ、絶対に混乱して想像力が損傷するから/あなたがそのカルマ肉を「人」として理解することはありえないんだよ、だって、向こうはあなたのことを「人」として見ていないのだから、ただただディスクが読み上げるコードが再生されているだけで、あなたに向けられた何かというものはその中に存在しない、ただあなたの内のディスクに強く干渉する力を持っているので、あなたがカルマ肉にならないよう全力で注意しなくてはならない。

あなたの母親を、ニューヨークの真ん中に一人で立たせ、三ヶ月後、どうなっているかが本当に「その人」の姿だ。

ニューヨークの真ん中に立たされると、さすがに自分のカルマディスクが周囲の人に干渉できないため(あまりにも「身内」から遠いので)、そのときあなたの母親は「人」として周囲との関わりを探すしかなくなる、そのとき本当に強力で優秀な「人」であれる人はそんなに多くない、あなたの母親は、あなたに対しては強気で横暴だが、ニューヨークの市民に対してはきわめて臆病だ。
カルマディスクは、あなたの母親に、生きていく方法を教えたのだ、ただし生きていける代わりに、やがて自分が「人」ではなくなるということは警告されなかった/あなたは詳しく知らなくてよいことだが、ディスクにはちゃんとそのことが書かれており、そのディスクに書かれているとおりに、ちゃんとなっている。
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んっふwwww

は基本的に、クッソ前向きなことしか言わない。
つまるところ僕は、カルマ VS 解放の戦いにおいて、解放の側に与しているという、ただそれだけだ。
なぜ解放の側に与するかというと、この戦いにおいて、解放の側を勝利せしめるのは、きわめて困難なことだからだ。
動機なんて、「容易な側に与してどーするよ」ということでしかない、どうせあきらめたらカルマの側へ転落するわけだし、じゃあ行けるところまで全身全霊でいってやろうじゃないかという、ただそれだけのことでしかない。

学門の旗を取り下げるつもりはまったくない/学門をやめてカルマ待ちするだけでは、この先いくらなんでもヒマすぎるだろう。
学門といっても、ハードすぎるのはおすすめしないから、ひとまず「遊ぶ」のがいいよ、遊ぶのが学門の第一だから/逆にいうと、いかなる高度な学門も、遊びに到達していなければ学門になっていない。
解放の側に与するということは、最後まで「笑える側」に与するということだ、このところ世の中は笑えないムードのことが蔓延しているけれど、だからこそ僕のようなドアホは粘らないといけないだろう。
永遠不死の名乗りをあげろ、生業の中からこっそりと、生業を超えた死なない自分を見つけ出せ/「繰り返されるカルマ肉」があったとして、それがあなただと言っているのじゃない、「あなたはそんなものじゃない」と僕は言っているんだ、あなたがあなたを冒涜することを僕は決して認可しない、なぜなら学門として正しくないからだ。

「繰り返されるカルマ肉」を、他人事として「んっふwww」と笑うのが学門の結論だ。

いつから繰り返されているかわからない、ナゾのディスクがブーンと回転再生されている、それがわれわれの身というものだが、われわれというのはそれ「だけ」ではない、たまに明確に「ディスクやめる!」と言い出す奴がいるものだ、そりゃそうなれば一緒にがんばろうというだけのことだ、トルストイもダライラマも西田幾多郎も「一緒にがんばろう」と言ってくれるだろう。
ディスクに支配された99%の中に、1%だけでいい、他人事として「んっふwww」と笑う正しい学門を、せめてその知識の断片だけでも/何千年か先にでも「あれがよかった」とニコニコよろこべるときがくるように。

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カルマ肉の真相4

やぁ、まあなんというか、われわれの世間は一皮剥くと、「カルマ肉保存センター」みたいな趣(おもむき)があるな!!
都会には主にオープン派のカルマ肉が保存展示されており、田舎には主にクローズ派のカルマ肉が保存展示されている、この両者は不仲で共食いをするのであるていど隔離しておいたほうがよいのだ。
むかし、「野生の王国」という有名なテレビ番組があったけれど、それに引き当てていうと、確かにわれわれは野生のモンではないかもしれないが、カルマのモンだな、だから「カルマの王国」という番組を制作していい/世界各地に「自然保護区」があるように、われわれも「カルマ肉保存区」みたいなセンターにぶちこまれているのだ。
「カルマ肉保存センター」と定義すると、「んっふ」と笑ってしまうぐらい、ばっちりホントのことが見えてきてしまうところがあるが、それにしてもこのセンターでいつまでもヒマつぶしをしているヒマはないのだった、正直ここには見るべきものが何一つない。

僕としてはもうナゾが解けたが、一般的にはそうもいかんだろう。
僕だって数日前には、ここまで完全にナゾが解けてはいなかった。
僕はてっきり、「人にカルマがある」と思っていたので、「カルマ肉と人は別モノ」ということには気づかなかったのだ。
カルマ肉は、えんえん循環を繰り返すのだが、これは「人ではない」ということ以上に、「そりゃまだ人じゃない」ということだ、「人」というのは<<カルマ肉の循環をやめることに思い立ったところに初めて出現する>>ものなので、これはやはり人を悪く言っているのではない/仮に、僕だって急遽、カルマ肉の循環の側に与したら、もうその日から「人」ではない、気をつけるべきは、カルマ肉を人扱いすると、自分も人ではなくなりカルマ肉になってしまうということだ、これがシャレにならないので、われわれはよくよく気をつけないといけない。

ディスクが「ブーン……」と回転しているが、そのディスクは誰のものでもない。

ディスクが存在しているのは事実かもしれないが、それは「誰」というわけでもないので、これに肩入れする必要はないのだ、せいぜい「何かのディスクでしょ?」というだけでよいのであって、放置しておいてもよいし、いじったところでディスクの回転は変わらない、操作方法もわからないのにあれこれいじると音量がデカくなって「うわっ」と迷惑度がアップするだけだ、あくまでディスクは「人」ではない。
○○という人に肩入れしようとしたところで、「○○なんて人いませんけどね」と答えるしかない、「でも、この大暴れしているものは……」「これはただのディスクですよ」、本当にそうなのだからしょうがない/僕は人には決して冷たくするべきではないと思う、ただそこで「ディスク」が出てくるのだけが僕にとっては終始意味不明なのだ、ディスクについてはカルマ肉保存センターの職員に訊いてくれ、おれに訊かれてもおれは職員じゃないのでよくわからない。

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カルマ肉の真相3

れわれの「身」には、カルマ(業)がてんこもりのミッチミチだ。
「身」はそうして、カルマでこってり縛り上げられているので、もうどうしようもない。
わかりやすくいうと、たとえば男性なら、見栄えのいい女子高生を自宅に呼んでチューするというというようなことを、連日連夜でも「したい」のが当たり前であって、そこに法律やら倫理やらを言い出すのは、アホすぎて話にならないということだ。
極端な聖者を除いては、万人の身にその業(カルマ)がミッチミチにあるのが当たり前なので、それをまるで「自分は違う」というふうに一方的に非難する輩は、本当に頭がどうかしているのだ/自分が実際にそういうことを「した」か「しなかった」かに関わらず、身に満ちている業(カルマ)は同じだ、つまり同罪とは言えなくても、確実に「同業」ではあるのだ、近年はもうこの否認的同業者が暴れまくって騒ぎまくるので、われわれの世の中は「醜悪」の一語に尽きるのだった。

カルマに縛られた、己の「身」について、どう向き合って処理するかは、おおむね次の三つに区分けされる。

1.カルマが「ない」ふりをし、清廉潔白のふりをして生きる、少なくとも身のカルマを現実に表出させないように、徹底的に己を抑圧する、つまり<<死ぬまで我慢する>>気概でいく/そして我慢してきたぶん内心で自分を威張り、自分は「善人」として悪人よりも圧倒的な権利と誉れを得ていると内心で確信する、よって、「我慢」をしていない誰かを見つけると、それを「悪」として蔑視攻撃する衝動が制御不能のレベルで生じる、またこのときの攻撃の炎こそが自己肯定の最大の養分となるので、この者は定期的な蔑視攻撃をやめられない。

2.カルマが抑えきれず、また抑えきるべきよりも「明らかにするべき」と感じ、現実に炸裂させる、ただしバレるとまずいので、もちろん最大限に隠そうとする、ただし一部の「話のわかる人」には、話を開示して特別感を味わうこともする/内心で自分は、他の人よりも真実を深く知り、体験もしてきている、そのぶんだけ己を「選民」だと信じるが、炸裂させたカルマのぶんだけ身はヨレヨレに弱くなっている、そして選民意識のぶんだけ、1の善人に対する蔑視攻撃が制御不能のレベルで生じ、その蔑視攻撃が自己肯定の最大の養分となるので、この者は定期的な蔑視攻撃をやめられない。

3.カルマがないふりもせず、カルマを明らかにし、カルマの只中に立ちながら、なお何かしらの「道」を見つけ、やがてカルマが償却されていく/この者には、「我慢」もなければ「選民意識」もなく、また自己肯定を必要としないので、自己肯定養分に引き当てるための蔑視攻撃の一切を必要としない。


カルマについては、クローズ派と、オープン派と、クリア派の三つに分かれる。

クローズ派は、トラブルのリスクが減るが、クリアに至る道が閉ざされてしまう、オープン派はクリアに至る道が見えそうではあるが、多大なトラブルに見舞われることによって、クリアに至る歩みを曲げられてしまう。
クローズ派は、生活はたくましくしてゆけるが、加齢と共に病的な性癖から逃れられなくなってくるし、オープン派は、性癖と向き合ってゆける反面、生活の側で実際的なビョーキになってしまう/何にしても、何十年間も、カルマ肉をカルマ肉のまま放置してきたならば、どうごまかしてバランスに工夫をこらしても、実際にはドエライことになるしかないのだ、クローズ派であれオープン派であれ、非クリア派であることには違いないので、互いに蔑視攻撃していても、自己肯定の中でカルマはパワーアップしていくだけだ。

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カルマ肉の真相2

は蛇として生まれ、生涯シャーシャー言い続けるし、猿は猿として生まれ、生涯キーキー言い続ける。
カルマというのはそういうことなので、何もむつかしいことはない。
ホモサピエンスの場合、表出は多様化するが、それは表面上のことにすぎず、カルマの原理はシンプルなままだ、やはりホモサピエンスも、生涯シャーシャー言い続けたり生涯キーキー言い続けるのだ。
重要なことは、それが一切「変わらない」ということ、生涯に亘って変わらないというのもそうだし、先祖から末裔までずーっと「変わらない」ということだ、色んな波瀾万丈があるように表面上見えるが、それは欺瞞であって、カルマが繰り返されているという本質には一ミリも変化がないのだった。

だから、言ってしまえば、われわれが一般に思っている「人生」など、存在していないとみなしていい。
カルマが循環しているだけなので、人生といっても、ただのコピー&ペーストなのだ、同じハンコが繰り返し捺されると見てもいいし、同じ版画が繰り返し刷られると見てもいい、その木版がすり減って消え失せていく劫のかなたまで繰り返される/この版画ボンバーのいちいちをじっくり見せられても何の利益もないのだ、だって「前回と同じでしょ」ということが先にわかっているのだから。
われわれは「時の流れ」みたいなことを言いたがるが、確かに時空として時間は流れているにせよ、カルマ肉的なものはずっと同じ循環をしているだけなので、「時の流れ」みたいなことは関係ない、その関係ないことを言いたがるということを、過去もやってきて、現在もやっており、未来もやるというだけだ、こんなものをいちいちじっくり見せられ&聞かされていたらヒマで退屈でしょーがない。
千年前の蛇は「シャー!!」だろうし、今年の蛇も「シャー!!」だろうよ、千年後の猿も「キー!!」だろうな、これは時が流れても変わらないということではなく、カルマという事象平原に時間が流れていないということだ、劫末まで同じディスクを回転再生しているだけなんだよ、「いいかげんに飽きろよ」と言われたらぐうの音もでない。

シャーシャー、キーキー、ドッカーン言っている人があるが、それは人ではなくてディスクです、お疲れ様でした。

だから、本当にそこに注目しても、何の意味もないのだ、だってそのディスクが大画面・大音量で再生されるか、ミニモニタ−・微音量で再生されるかという違いしかないからな/えげつないことを言っているみたいに聞こえるが、おれがえげつないんじゃない、真相がえげつないから自動的にえげつない話になるのだ、しゃあないだろう。
まさか「人」ではなくて「ディスク」だったとは……僕は人を罵っているのじゃない、人を愛しているからディスクを罵っているのだ/単に凶暴化したカルマ肉なら大画面・大音量でディスクを再生するというだけ、縮こまった肉ならミニモニター・微音量でディスクを再生するというだけだ、内容は同じだ、僕はすべてのディスクが放棄され「人」の姿が生じてくる光景にずっとあこがれ続けている。

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カルマ肉の真相
「カルマ肉が循環しているだけですやん」という看破は、一部の人に大ウケしたようだ、「目が覚めるようでしたよ!」と/確かに僕自身、改めて「んっふwww」と笑ってしまうだけのパンチ力がある。
僕は人をバカにするのではなくて、こんなものを「人」とは認めないというだけだ、だって本当にカルマ肉が循環しているだけなんだものな、<<どうりでコイツ何も勉強しねえなと思ったよ>>、人として存在していないものなら勉強しないのは当たり前だ。
カルマ肉は、もう長いこと「人」のふりをしているので、ここまで膨大な「裏切り」を蓄積してきているはずだ、そしてその「裏切り」を、いざというときには泣き落としで許してもらおうという魂胆でいるな、なぜ彼(彼女)の中でその甘い見通しが独自に成り立っているのかは意味不明だが……
カルマ肉はけっきょく、立ち回ったり、恫喝したり、立場や慣習を利用したりで、本当のことを引き受けて対峙することを避けてきたのだ、そこには罪というより近所迷惑が生じた、そして本当にただのカルマ循環の時間しか過ごさなかったというのは、懲罰というよりはただの「妥当なところ」だった。

「カルマ肉循環」or「学門」という、単純な二者択一だけがあるのだ。
すべての生きものは、放っておけば、生来的に付与されたカルマのとおりに、その生涯をぐおんぐおんさせるだけだ、「なんだこれ」と言われても、本当に何でもないのだ/木星が木星として浮かんでいることが、「ただそれだけ」としか言えないことのように、カルマ肉の循環というのも、「ただそれだけ」しかないのだ。
生きものは、いったん生まれたからには、死に向かっていくしかないので、ゆくほかはないのだ、<<下へ下へとゆくほかはない>>、何に焦がれていようとも、どれだけ焦がれていようとも、下へ下へとゆくほかはないのだ/その唯一の例外が「学門」にあたる。
おれの言うことより、カルマ肉の誰かが言うことのほうが、ドーンとした迫力と説得パワーがあるよ、なぜならそれはカルマ肉の呼応があるからだ、おれの話すことは笑えるだろ、あちらさんの話すことはけっきょく「笑えないこと」に行き着く、それがドーンとした説得力の正体だ、アンド、グッバイだ。

カルマ肉の真相は、「人」の真相ではなかったのさ、グッバイ。

だからカルマ肉の真相を、見つめて追究することには、畢竟何の意味もない、意味のない苦しみが猛然と繰り返されているだけだ、<<繰り返されるものの始まりや終わりを探して何かが見つかる可能性があろうか?>> 今さらグッバイではなく、初めからグッバイだったのだ、そこにもともと「人」なるものは存在しなかったから。
カルマ肉は、いっそ、すさまじいと呼ぶべきほどの執念で、「人」のふりを続けている、その涙ぐましさまでちゃんと計算に織り込んでだ/しかしその執念的なやり方をいかようにしても、カルマ肉が「人」の身分に昇格することはありえない、どれだけ焦がれてもがいたとしても、下へ下へとゆくほかはないのだ、なぜそうなるかというと、うーん、正しいやり方を知らないからだ、シンプル過ぎて笑える結論だな。
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「やることがある」というすばらしさ
は安定して暮らしたいものだ。
だから多くの人は、安定して暮らすことに成功する。
だが、今日も一日、安定のために頑張りましたということをずっと続けていると、ふと寝床についたとき、「何のために毎日を安定させているのだろう?」という想念に襲われる。
翌朝、予定通りに目が覚めるのだが、「さあ今日もがんばろう」と思いつつ、その向こう、「こうして安定を続けていってどうするのだろう」という想念に襲われる/とりあえず「いってきまーす」と言って出て、がんばって、帰宅するしかないが、また寝床では同じ想念に駆られる、このことはいずれ宥めるのに酒や薬物や刺激物を必要としてくる。

誰もが大企業に勤めているわけではないし、誰もが大都会に暮らしているわけではない、むしろそんな人は一握りだ。
ありふれた街で、ありふれた立場にいて、具体的に、毎朝起きたら何をしたらいいのだ? そして何をやりきって夜眠ればいいのだ? けっきょくその問いかけには誰も答えない、年配の方などほとんどが漠然と「テレビを観ている」だけで、何かを特別に「やっている」ということはほとんどない。
若年層は、マンガを読んだり、アニメを観たり、アイドルを観たり、ユーチューバーや動画を観たりしているだろうが、それだって積極的に「やっている」わけではない、何もしないのが「怖い」ので、その埋め合わせに娯楽を補充しているだけだ。
「やることがない」という状態に、二週間でも置かれると、人は朝も夜も怖くてしょうがないのだ、朝は何のために起きるのかわからないし、夜は何のために今日起きていたのかがわからないのだ/それで、本当はやることがないからマンガを読んでいるのに、マンガを読んでいることを「充実」とすり替えるようになる。

「忙しい」は不幸で、「時間が足りない」は幸福だ。

サグラダファミリアは今もまだ建設中だが、あれは時間が足りていないということだ、忙しいということではない、忙しいというのは誰でもトラブルとリソース不足を抱えれば強制的に忙しくなる、そのときに人は「時間が足りない」とは言わない。
マンガを読んじゃダメとか、ゲームをしちゃダメとか言っているのじゃない、マンガを読んでゲームをきっちりクリアするのに、「うおおお、時間が足りないいいいい」と感じるのが幸せだということだ/ゲームをしちゃダメと説教してくる教師がいたら、それはその教師当人が時間を余らせているということだ、やることがないから人にしょーもない口出しをしているのだ。
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多くの場合、人生はびっくりするぐらいつまらない3
いこと、「どうしてこの人は他人のことがわからないのだろう」という疑問に直面することがあったのだ。
その回答はどうやら、他人がわかるどうこうの前に、本人が「人」ではないということらしい、どうやら単なる生命体というのは本当にただのカルマ肉のようだな、そりゃ他人のことなんかわかるわけなくて当たり前だ。
他人のことを、わかろうとしてわからないのではなく、そもそもわかろうとするメカニズムそのものを所有していなかったのか……そりゃ同じことがえんえん繰り返されるわけだよ。
これは人のことを悪く言っているのではない、<<無存在を看破>>しているだけだ、そりゃライブ会場がスカスカに見えるわけだよ、まさか人の集まりではなかったとはな。

カルマ肉は、繰り返ししかできない、のではなく、繰り返しを選択している。
それはカルマ肉の意志なのだ、だからこちらから口出しする筋合いはない。
カルマ肉は、人ではないので、何かを理解するということがない、円周上の点Pのようにぐるぐる回り続けるだけだ。
朝、目が覚めたときから、夜、トイレに行き、夜中、眠るときまで、何かしらの幾何図形の上を点Pが巡回しているだけだ/カルマが歩いているのだ、これは幽霊が歩いているという話とは違ってオカルトではない。

アナログ時計がぐるぐる回っているのが珍しくないように、カルマ肉がぐるぐる回っているのは何も珍しくない。

一種の時計が歩いているようなものだと思えばいい/人は時計で時刻を理解できるが、時計が人を理解できることは永遠にない。
時計が何かを所有するということはないし、何かを命じるということもない、人が時計とのかかわり方を誤解しないことだ、時計はけっきょく人の正当な利用物でしかない。
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多くの場合、人生はびっくりするぐらいつまらない2

、これはどうやらマジで、ドエライことに気づいてしまったらしい。
「カルマ繰り返されるマン」は、正確に言えば、マンでさえない、「カルマ繰り返される肉」だ、本当に「カルマ」という現象が肉の姿に成り立っているだけだ。
カルマ肉が生成されて、カルマ肉が滅んでいくだけなんだな、そりゃ何も変わんねえわけだ、それはなんというか、「紙芝居に描かれている絵が変化するわけないだろ」というような次元のことだ。
なんというか、本当に繰り返される「だけ」なのだ、そりゃ何にも出会っていないんだものな、同じ肉の同じ具合が繰り返されるだけに決まっている(と、理知としてはわかるが、それにしてもあまりにもオドロキだ)。

もはやここにきて、こころのある人とない人、という分類さえ意味がないじゃないか。
分けるとすれば、「人」と「カルマ肉」を区分しないといけない、後者は言ってしまえば「人」ではない。
でも確かに、考えてみれば、「人」という感触はしねえもんなあ、とはいえまさか、「人」と対話しているのではなかったとは……ある意味「カルマ肉」だからこそ、何も進まないその生き方にまったく疑問も迷いも生じないということなのね、それなら逆に話はわかるわ。
そりゃカルマ肉が何かと「出会う」なんてことはありえねーわ、カルマ肉の機嫌がよくなったり悪くなったりするだけなんだな、そしてカルマ肉の生産活動が、向上したり下落したりするだけということか、でも確かに、それがこの世界だという見方は実態にも学門にも合致している。

カルマ肉に何かが届くことはないし、カルマ肉から何かが届いてくることはない。

届くとしたら、カルマ反応物質が届くだけで、また届いてくるとしたら、カルマ反応物質が届いてくるだけだ、だからキャバクラのねえちゃんに褒められてごきげんになるという人が、ガチで存在しうるのだ。
僕は人に冷たくするようなダサ男じゃない、が、カルマ肉にやさしくするというのは理論的に不能だし、カルマ肉に「人」という性質を恢復してやるというようなことは、正直僕にはさっぱりやり方がわからん、そんなやり方は存在しないのじゃないかとさえ思える。

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ポル・ポトが理想的全体主義社会を希求して市民を殺しまくった理由

ほどの記事に、拍手ボタンをつけてみたのだが、たまにはいいものだな、ラブメッセージをまだ入れていない奴は早く入れるように。
それで、もういいかげんわかってきたよ、「社会」を幻想している人は「全員」という事象が見えていないんだろ。
それで、「全員」という事象が本当に見えない人が、絶望的に全体主義社会を希求して、そのなれの果てが共産主義国家になり、独裁者を生み出して、市民の虐殺を生んだということだ。
つまりポル・ポトには、「全員」という事象が本当に見えていなくて、「社会」という幻想しか見えていなかったんだよ、それで完璧な全体主義社会を作ろうとした、完璧なそれを作るためには、わずかでも個性を持ちうる人を殺すしかなかった(ムリ)。

「全員」という現象がある。
というのは、現在のわれわれは、たとえば聖書に倣えば、もともと一個の「アダム」(ウパニシャッドでいうと「アハム」)が分散したものにすぎないからだ。
われわれはもともと、一つの存在なのです……と、ウルウル神秘主義に耽っても意味ねえよ、そういうことじゃなくて、「全員」という感覚事象があり、その事象と己が接続可能だということ/おれはマジの話しかしねえよ。
ポル・ポトの対極に、たとえばチャビー・チェッカーがいるな、別に不思議がることでもなく、「全員」というナゾの力に接続している奴は実際にいるということ/この接続を得られない奴が現代で「社会」を幻想しているという、ただそれだけの話だ、たいして悲しい話でもねえな。

他人を傷つけてしまう病気を「社会人」と呼び、また、他人に同情してしまう病気を「社会人」と呼んでいるだけだ。

なぜかというと、「全員」という事象が捉えられていれば、他人を傷つけることは「全員」のテンションを下げることなので、そもそもそんな発想が出ること自体おかしい、他人をボコボコにするのはかまわないが傷つけるのはいけない、「全員」という事象を弱らせてどうする/もともと「全員」が視えている人は、そもそもそんなアホな発想を持たない。
ビートは万人に平等、ということではなくて、ビートは初めから「全員」という事象に届いている、疑問とか迷いとか躊躇とかが出てくる時点で土台が根こそぎ大間違いだ、「わざとらしさ」が出てくるようでは毎日がツラ〜イでしょ/映画「フットルース」には何のわざとらしさもないし、どのシーンを見ても「社会人」なんて映像はない。

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社会幻想と野垂れ死に

を聴いていると、どうやらマジに、自分には仕事や愛や結婚が与えられると思っているらしい。
どこでそう誤解したのかは知らないが、完全に誤解だ、われわれに仕事や愛や結婚なんて与えられはしない。
われわれは<<野垂れ死に>>するのだ/「何も悪いことはしていない」「ずっとマジメにやってきた」なら、野垂れ死にするのだ。
だって、与えられるはずがないものを、与えられると思ってずっと待っているのだから、遅かれ早かれという差だけがあって、けっきょくは野垂れ死にする/いったい何をもって、「与えられる」と思い込んだのだろう?

いったい何をもって、誤解に至ったのかわからないが、この社会があるとして、この社会はあなたの野垂れ死にを防ぎはしない、ニュートラルに生きたらあなたは野垂れ死にするコースが確定だ、もともとそういう合意で成り立っているのがこの社会だ。
「助けてくれるはず」って……自分は誰も助けないのに? どうやらすでに、少なからぬ人が、この世には「人」以上の存在があって、そういう巨大な何かがズーンと自分を救済するものだと思い込んでいるふしがあるようだ/そんなもん、野垂れ死に寸前の人に手を差し伸べる人なんて、タコ部屋管理のヤクザさんしかいませんぜ、いったい「社会」に何の夢を見ているのだろう。
社会が悪いとか、いろいろ言うし、いろいろ思っているようだけれど、それをどう思うかは自由だとしても、どれだけ健全な社会であっても、あなたの野垂れ死にを防いだりはしないよ、ロールプレイングゲームじゃないんだから、次のイベントなんか設定されていないんだって。
誤解という以上に、巨大な幻想を抱え込んだようだな……まあ別にいいけど、結婚とか、「したい人はどうぞ」という社会があるだけで、市役所の側から結婚を持ってきてくれるわけじゃないよ、若いうちは青春のチャンスがあるというだけであって、若ければ青春が供与されるということではまったくないからね/あなたが何十年も間違っていたとしても、社会はあなたに何の口出しもしないよ、社会についてボヤいているとして、「社会」なんて実体は存在していないんだよ、どうもそこのところに幻想があって、何かヌーンと実体として存在している「社会」があると思い込んでいるみたいだ。

ひょっとして、自分の番が回ってくると思っている?

そんな、共産主義国家じゃないのだから、配給制で仕事とか結婚とか青春とか、回ってこねえよ、みんな大学を卒業したら就職だね〜というのは、おおむねそういうタイミングになるのが一般的だよねというだけであって、自動的に就職というイベントがやってくるわけじゃねえよ、また適齢期になったからって結婚イベントが発生してくるわけじゃねえよ、自動的にやってくるものは「野垂れ死に」だけだ。
われわれには、青春も、恋あいも、学門も、仕事も、結婚も、夢も、与えられたりはしないよ/情報を集めこんで、それを冷暗所に保存して、熟成させて……としたとき、その情報は熟成なんかせず、単に「古くなる」だけだよ、「いつかきっと何かになる」って、ならねえよ、そこを誤解しているから何かずっとスマイルでいるのか。

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頭上からの涙
「全員」は「ビシャッ」だ。
そして、頭上の感覚は、天というか星空というか宇宙だが、この「ビシャッ」と「天」が同時に起こってつながると、涙が出るわ。
「天」のほうとつながると、「あ、これは涙だわ」というのがわかる/「全員」イコール「ビシャッ」のほうは、唸りであり無限の間熱であり咆吼なのだが、そのとき天は星空だ、たぶん同時にやるのはけっこうむつかしいことだが(おれは余裕だ)、おれは昔このビシャッと星空を淡路島の夜に見たことがあるぞ。
「個人」って何だろうな、たぶん「個人」というのは、本当にただの「容れ物」だぜ、この「個人」という感覚事象をあれこれしてみるということは、本当に何も本番じゃない、「弁当箱をかじっている」というような状態だな。

「個人」というのは「箱」なのだ、いわゆる「殻を破れ」というときの殻にあたるのかもしれない。
自分を解放するというのは、自分という「個人」を解放するということではないな、薬のカプセルみたいに、カプセルが溶けないと薬効がないよ、というようなことだ。
その薬効をステージに並べるのに、カプセルを並べる人は、「何やってんねん」という状態だな、おれは薬効であって、カプセルになっている「個人」はおれの容れ物でしかないよ、このカプセルが対話することにはまったくといっていいほど意味が無い。
自分を解放するということは、個人(カプセル)の中の、「全員」という事象を解放するということだ、「全員」こそ真のおれだということ、おれを解き放つということは「全員」という事象を解き放つということだ/いやあまさか「おれ」は「全員」だったとはな。

すべての景色に情熱と涙がある理由がわかった。

ついにわかった、ということかもしれない、そしてこの「全員」というのが、たぶんヨーガ的な「真我」でもあるのだろう、よって、真我イコール全員という、結論だけ聞くと「なにそれ」必至の、おもしろい話ばかりなのだった。
「全員」が「ビシャッ」なら、「天」は「キー」だ、耳鳴りのような高い音が鳴っている、これは涙になる、楽器の音色でいうとバイオリンの高音に近い、直撃すると涙のみならず鼻血になる可能性もある/バイオリンが涙の鼻血を出させた、という事例が過去のレポートにあるかもしれない(調べようはない)。
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「ビシャッ!!」

「全体」より「全員」がいい(言い方としてステキだ)。
そして「全員」とは、個人の集合ではない。
「全員」は「全員」という事象だ。
個人たちの総意が全体の意思になるのではなく、初めから「全員」という事象があるのだ、言ってみりゃ一人でも全員だ。

「全員」には意思があるのかないのか……おそらく「ない」と思う、思うというか、見当たらない。
「全員」には、ただ作用だけがある/その作用は合図的にはたらき、この合図は意思以上の強制力を持つ。
ひょっとして、ダンサー大野一雄が言っていた宇宙意思ってこれのこと? 宇宙意思って個人に届かず「全員」に届くの? と、またこんなことを言い出すとわけがわからんのだった。
「全員」というナゾの作用がある、それはわれわれに、踊り続けることを命じている、雰囲気で言っているのではない。

音楽から統一が生じるのではなく、統一から音楽が生じている。

個人の思念より、ずっと底のほうに、「全員」という事象エリアがあるわ、これすげーわかるし、感覚的にカチッとつながれるぜ、あーコレはコレだわ、これはおれだが個人ではなくて「全員」だわ(意味不明だがこの表現で合っている)。
個人キラ〜イ、全員なら「ビシャッ!!」だわ、なんの説明にもなっていないが「ビシャッ!!」なのだからしょうがない、これたぶん永遠に生きているおれだよ、いわゆる個人という感覚事象のほうはやがて死滅するわ(つまり寿命で)。

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I love you

れのつまんねー話を聴けよ〜何しろボクには愛があるのだ。
そりゃ僕が愛の人だから当たり前だが、愛なんて僕だけがやっていればいいのだ、不向きな人がやらんでもよろしい。
おれが愛をさんざんやるということは、ラーメン屋がラーメンをガンガンやるということだ、店主が湯切りするとき、自衛隊員はアサルトライフルを発砲する。
われわれは愛とラーメンとライフル発砲を同時にこなせるということだな!! そりゃ当たり前だろうよ!!

ボクに愛を向けられたからといって、女の子は驚くことはないし、猛ダッシュで逃げる必要もない。
そりゃボクは愛の人なのだから、愛が向けられて当たり前じゃねーか、ラーメン屋でラーメンが出てきて走って逃げる奴があるかよ。
何も意識高くなる必要はないというか……そもそも「意識」って何に向けて持てるんだよ、天ぷらが動物園のカバを意識したりはできなくないか? 今頃ポリネシアの海には颱風の種が芽生えていると思うが、揃ってゆさゆさ揺れる椰子の木の影にどうやって「意識」なんか向けるんだ、あっちもまだ早朝で薄暗いだろ。
われわれが全員で連動するというだけの話/人が陥る「ピンチ」というのは、この連動から外れた「穴」に落ちてしまう場合のことだけを言うんじゃないかな、まあおれはピンチなんてイヤなので知らんし、知りたくもないけどな〜。

すべてのカーストがダンスする。

掃除婦のババアは箒を振るうし、王族は処刑のシャムシールを振るう、エジプトのラクダはオアシスの水でも飲んでろや、馬喰町の証券マンはどれだけ頭を下げられるか競争中だ。
個人的におれは愛を担当できてよかったと思っている(サイテー)、もし来世があったら、僕は正直またこの担当でヨロシク。

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オール・ダンス・ダンサーズ

は女の子が好きなんだよ!!
女の子のことは、そんなに好きじゃないなという男もいるかもしれない。
それは個性ではなく、全体性だ。
全体性とは、全体が揃うことじゃないよ、全体が揃ったら、それはむしろ全体性の喪失だ。

夏になれば海に行く奴、山に行く奴、それぞれいるだろ。
そして、海に行く奴と、山に行く奴は、趣味が違う……とかではなくて、それぞれが全体性を担っている。
海辺で乾杯する奴は、山にいる奴と乾杯なんだよ、山で寝ているやつは、アーバンホテルで寝ている奴と「おやすみなさい!」なのだ。
何もむつかしいことはない、一つのビート音の上で、それぞれの楽器が鳴るだろというだけのこと、それが「全体性」って、何もむつかしくない、当たり前のことだ。

同じ小説に出てくるバラバラの人なんていない。

ひとつの小説なのだから、同じ世界の登場人物だろ、海で叫んだ奴がいたら山で告白している奴がいるよ、そんなの見えないし聞こえないって? そりゃあどうだか。
舞台の上で踊っている人がいれば、客席の人は踊っていないだろうが、それはダンスではないのかいね、この世界にダンスが一体でもあればそれは全員がダンスしてんじゃない?

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全員の思い出
ょーもないものまで含めて思い出に残る。
否定しなかったものはすべて思い出に残る。
自分の思い出だけじゃなく、全員で選んだ思い出というのがあるので、それが残る。
自分の思い出じゃないつもりでも、全員の思い出だねと、そしてその全員の中に自分もいたことを否定しなければ、その思い出は残る。

赤の他人とでもつながっているからな。
お互いのことを知らなくても、何かで通じ合ったことがあれば、こころあたりがなくても友人だ。
われわれは個人ではどうしようもないアホだが、「全員」ならそこまでアホでもない、それなりに強い。
誰だって、「今でしょ」を見ればわかるだろ、それがいつ現れて、どう現れたか、どうでもいいことでも、われわれは知っているだろう、じゃあそれは全員の思い出だ、もし走馬灯を見ることがあったら楽しみにしといて。

全員の思い出には、全員が拍手する。

われわれは今、個々人として生きているので、その拍手が生じづらいが、やがて個々人ではなくなった先、全員の思い出を「そっかあ」と再発見する、そのときになってあなたは「なるほど、このことを言っていたのか」と、おれの言っていることにびっくりすると思うぜ/そう思えば、実は本当に悪いことなんてなかったんだなあと、そのときになってわかるだろう。
自分としての思い出や、二人きりの思い出というのもいいけどね、まだそれはわかりやすい、「全員の思い出」があるというのは、なかなかわかりにくいんだよ、でもいつかのときにそれは必ずあるからそのときがくるのを楽しみにしといて。
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勉強するということ

強するということは、賢くなるということじゃない。
勉強するということは、己がどれだけ愚かであるかを知るということだ。
慈愛について勉強しなさい、そうしたら、自分にとって「慈愛」がどれだけ真に困難かが理解できる。
こころについて勉強しなさい、そうしたら己のこころが、いかに業や思い込みに振り回されて正体を失っているかが理解できる。

盲目的な自信が欲しいなら、むしろ一切の勉強をしないことだ。
勉強して、蒙が啓けたら、いかに自分の身が小さいか見えてしまう、そしてこれからどれだけ気の遠くなるような努力が必要になるかが見えてしまう。
何もかもわかっている気でいたいなら、勉強はしないことだ、勉強すると「何ひとつわかっていない」ということが見えてしまう。
正義でいたいなら、勉強を遠ざけ、足蹴にすることだ、勉強すると己の不潔や不正義がいかに救いがたいものかが見えてしまう/勉強はあなたが誰かを笑うためにあるのじゃない、あなたがあなたを笑うためにあるのだ。

今夜あなたの向かう先は、「謎」か「正論」のどちらかだ。

謎に向かうのが勉強で、正論に向かうのが炎上だ、「わからない」に迫っていくのが勉強で、「わかる」に迫っていくのが炎上だ。
あなたの部屋の、あるいはあなたの手元の、時計をみなさい、時刻が「わかる」だろう、でもその時間がどうやって計られているのかは「わからない」だろう/「わからない」に向かうのが勉強だ、勉強するということは、自分がどれだけ無知でアホかを思い知らされるということだ。

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マジヤバイ現代社会に巻き込まれない唯一の方法

いうわけで、現代社会はマジヤバイというお話でした。
で、どうしたらいいかというと、勉強しろ。
勉強して、その先に何かに出会え。
自動的に飛び込んでくるゴシップのトピックに、自前の正義で反応するというようなことは、生きる時間の1%だけでいい、そうして自動的に飛び込んでくるものに育てられるのじゃなくて、自分から獲得しにいったものを吸収して育て。

慈愛のない正義風情が横行し、慈愛のない者が人道風情を説いているというありさまを、今から0.5秒で看破しろ。
われわれは、この社会の全員と出会うわけじゃない、それどころか、百人とでも”本当に”出会えたならば、それは大豊作の人生だ。
あなたは社会に寄与しなくてはならないが、社会に寄与するということは、「現代社会に寄与する」ということではない、現代社会を本当によろこんでいる人なんて一人もいないのだ/炎上社会に寄与することなく、本当に機能している社会のほうに寄与しろ。
今日お世話になった薬局のおねえさんは、すごく美人なのに、すごく感じのいい、明るいこころの向かってくる人だったよ、こっちが本当の社会だ/騒いでいる人は社会ではない、あっちは炎上界の人たちだ。

この世には勉強家と炎上家しかいない。

よく見てみろ、現代社会の「炎上」の仕手には、必ず「勉強しない人たち」しか集まっていない、あなたが勉強を放棄するということは、己を彼らの側に所属させるということなのだ/勉強しない人は必ず不毛な炎上の仕手に行き着く、「必ず」だ、なぜならわれわれはもともと、学門をするためにこの世に生を享けたのだから。
今はもう、電車の中でむつかしい本を読んでいる人がいなくなっただろ、全員がスマホを見ているじゃないか、現代社会がマジヤバくなったのはそれが原因だよ/あなたは、勉強している気配がない人とは何の関わりも持たなくていい、彼らはもう寄与のすべてからドロップアウトした人たちだから。

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