☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
サービス精神とガマン精神4

「礼拝」の具体的なやり方は前に示した。
胸にピタッとつけて合掌し、こころに収まりきらない「身に余る」ものを、カミサマにお返しする、こころの過剰をガス抜きして破裂を防ぐ、そのために合掌という印を結ぶのだと言った。
礼拝の本質がそれなら、別に合掌を使わずとも同じ、特に「声」もそれだけで礼拝の力を持ちうる/「勤行」のこともserviceという。
だから、青空の下、もしその好天の光が「身に余るほど」と感じられたら、身に余るものはカミサマにお返しする、そのために「なんていい天気だ!」と声を発する、サービス精神に満ちた者は、その一声でさえ礼拝そのものになるのだ。

この数年間、僕が最も多く人に向けてきたのは、おそらくその「声」だっただろう、文章を通してさえその本質は「声」だ。
こんなことを自分で言うのはまったく好かないが、この際はもうごまかしている権利さえなくなった、僕はなんとか、僕を慕ってくれる人を笑わせ、頼ってくる人をひらめかせようと、精一杯の声を使ってきたのだ、それ以外は何も考えていなかった、その結果だ、チャクラと呼ばれるらしいものがぶち抜き開通して、「天地」のエネルギーまで直接使えるようになったのは/こんな馬鹿げた状態を、僕自身が志向したわけではまったくなかった。
僕がますます「声」を向けるようになると、全員が固まり、少なからぬ人が恐慌し、人によっては「あなたが視界にいるだけで倒れそうになる」と、直視さえできないようになった、全員が僕の声を聴きたがってくれて、僕はいくらでもどうぞと大きく笑う、しかしそれを続けていくと、みんな次々に倒れていくのだ。
「サービス精神」と「ガマン精神」、こんなくだらないことの二分化が、人の魂を決定していた、これまでガマンを重ねてきた善人の人は、何のガマンもないサービス精神のカタマリである僕の声を受けて、それが直撃して流入すると、魂がでんぐりがえって倒れるのだった、身体が震えてものが言えなくなる人も出てくる。

結論できる、「サービスがカルマを償却し、ガマンがカルマを焦げ付かせる」。

また、身分の低い者が、あやまって身分の高い者からサービスを受けると、カルマは「増大」する。
だから、サーピス精神のカタマリになれない者は、1.カルマ償却の方法が断たれる、2.サービスを「受ける」しかできなくなり、カルマが増大する、3.サービスに努力しようとしても「ガマン」にすりかわり、カルマは固く焦げつく、という悪循環に陥る/ときにこの悪循環は加速度的に進行し、大クラッシュをもたらすこともある。

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サービス精神とガマン精神3

れわれが、明るさを覚える声。
それはすべて、サービス精神から発されている。
サービス精神を帯びた声のみ、明るいと聞こえて、われわれを助ける。
ごくたまに、無条件に気分のいい声を向けてくれる、居酒屋のおばちゃんなどがいる、あれは「サービス精神」だ、サービス精神のカタマリだから、身からそういう声が出る/そのよろこばしいものを、横柄に評価しながら、われわれの未来は、それとはまったく逆方向に進んでいる。

僕の知る限り、悪意をもって生きてきた人など、ほとんどいなかった。
まして、僕のことを慕ってくれて、友人であろうとしてくれる人たちが、悪意に満ちていたりするわけがない。
けれども、善意も悪意も関係なく、と結論を示さねばならない、人はサービス精神を遠ざけられたとき、もう二度と明るい光の者にはなってゆけない/それはよくよく考えれば、「当たり前」のことではあったのだ。
今も巷には、正義の実現を為そうとする声があふれている、「女性にサービスをさせるのはセクハラという犯罪だ」「サービス残業に順応する者は社畜だ」、これらは今完全な正義として成り立ち、残っていたことごとくの「サービス」の道を埋め尽くすのに成功した。

「サービス精神」と書いた札を、あなたに突きつけてみよう、するとあなたは、ロザリオを突きつけられた吸血鬼のように激昂する。

経験に立って、事実だけをお伝えする、僕のことを慕い、何なら僕のことを愛し、尊敬し、尊崇し、カミサマみたいだとまで言う人でさえ、「サービス精神」という札を突きつけられると、その札の前には拒絶を起こした、キモチの問題ではなく魂の問題だ、魂がすでに「サービス」という精神を受け付けない。
わかりやすく言う必要があるね、「サービス精神が正解だったの」、礼拝のことをserviceという、のじゃなくて、サービス精神がわれわれのリアルな礼拝だったということだ、カミサマに目を掛けてもらう唯一の方法がそれだった、われわれが投げ捨てて唾を吐いたものがそれだったのだ。

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サービス精神とガマン精神2
ービス精神のカタマリになること。
あなたが唯一、こればっかりはできないこと。
そしてあなたが唯一、これだけはやるべきだったこと。
サービス精神は、まるで負け犬の代名詞のように侮辱された/「サービス」はもともと「礼拝」の意味をもっている。

あなたに、「サービス精神のカタマリになって」とお願いしてみよう。
するとあなたは、「それだけは無理」「それだけはイヤ」と答えるだろう。
どうしても、と僕がお願いすれば、あなたは「うーん」といい、内心で「ガマン」してそれに応じるだろう。
僕はもう何年間も、サービス精神のカタマリぶりを見せつけてきて、そのたびあなたはゴキゲンになってくれたのにな……そう、それでもなお、「それだけは無理」「それだけはイヤ」になる、無理をしてもどうせ「ガマン」になる、これが今われわれの、どうしようもない魂の問題。

あなたはサービスを受ける身分になるために、ここまで猛烈なガマンを重ねてきた。

アートマ・マーラ(我慢)という悪魔が、サービス(礼拝)を受ける身分になるということは、どういうことになるだろう? もちろん悪魔が崇拝される形だ、このような形に行き着くよう、仕組まれた何かがあった。
まるで悪魔的な儀式みたいだが、そうじゃない、悪魔的な儀式みたいではなくて、本当に「悪魔の儀式」が為されたのだ、だから今、子供までもが奇声をあげて叫んでいる/そのへんの子供に、「あなたはサービス精神のカタマリになりなさい」と親が教えたとする、すると子供はすでに、ほほえみとうなずきはなく、叫喚して拒絶するだろう。
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サービス精神とガマン精神

あ、とっても重要な話をしようか。
人は、サービス精神の者と、ガマン精神の者に二分される。
魂が上を向いていれば、サービス精神の者になるし、魂が下を向いていれば、ガマン精神の者になる。
あなたは「サービス精神のカタマリ」だろうか、それとも「ガマン精神のカタマリ」だろうか。

そして、もうこれはごまかしても意味がない、今われわれの中に、サービス精神のカタマリという人はとても少ない。
サービス精神とガマンの精神は、「わたしはどちらともつかないかなあ」ということはなく、残念ながら、サービス精神のカタマリでなければ、あなたはガマン精神のカタマリということだ。
「サービス精神」という、ありふれた用語が、実は唯一、魂の正方向を指し示していたなんてな/それなのにあなたは、きっとどこかで「ガマンしなさい」「ガマンでしょ」と教え込まれてきた、またあなたの精神もそれに乗った。
「サービス」は「礼拝」という意味をもっており、「ガマン(我慢)」というのは「アートマ・マーラ」という悪魔のことを指している、これは言葉の意味なので辞書を調べていけばそのとおりに表記されている/何も間違いはなくて、われわれには「結果」だけが与えられている。

あなたの首に、「サービス」という札をかけたら、あなたはその役を「ガマン」して引き受けるだろう。

このことが、現代のすべて、およびあなた自身のすべてを支配している、今僕は真に決定的なことを開示してお話ししている。
あなたの首に「サービス」の札をかけ、それでもあなたに機嫌良くいてもらおうと思ったら、時給いくらが必要だろうか、その時給はあなたの「ガマン」という悪魔をなだめるのに必要な奉納金だ/別にそれが悪いと言っているわけじゃない、ただあなたは、自分がこうもはっきりと「悪魔」になることを予定して生きてきただろうか。

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ユーアー、イン・ザ・サービス!

You, サイテーの英語力でいいので、次の文章を自分のハートで読むように。
I'm in the service of Golden Kingdom !
I'm in the service of Queen's Garden !
I'm in the service of God !

どう読めた?
「黄金の王国とか、女王の庭とか、カミサマとか、そういうキラキラしたものに包まれていて……」というのは違う、泣きながら鼻毛を二十本抜け。
ドアホウめ、「in the service of〜」は、「〜に仕えている」だ、「〜のサービスを受けている」じゃない。
「わたしは黄金の王国に仕えており、女王の庭に仕えており、カミサマに仕えている」だ、どれだけサービスを「受ける」側の根性が染みついとるねん、「わたし」が「イン・ザ・サービス」だったら、自分がサービスする側に決まっとるわい。

サービスは、常時お前がやるもんだ、もう一生サービスを受ける発想は持つな。

本当にこれ深刻なのよ、どうして「黄金の王国」とか「女王の庭」とか「カミサマ」とか、そういうえげつないレベルのものが、次々に自分に何かをもたらしてくれるっていう発想になるのか、これ本当にまずいんだよ、狂人のレベルだ、これに関してはおれも節度を越えて言うしかない、本当に気が狂っているからいいかげん引き返してくれ〜(もうムリなのかもしれん)。
気が狂っていなかったらね、第一に、自分はこの世界のすべてに仕え、奉仕するっていう発想が基本なんだ、それ以外ありえないの、気がついたらいつもサービスで意識が飛んでいたっていうのが本来の「ふつう」なのよ、それがオメェ、「この世界のすべてが自分に奉仕する」なんて本当に気が狂っているのよ、ゴールデン・キングダム(!)が自分をキラキラにしてくれるという発想がナチュラルに出てくる脳神経はガチでヤバい、この「スーパーわたし」の誤解を抱えたまま一生いくんだぜ/頼むから目を覚ましてくれ〜あなたは一生サービスをしまくるだけで死んでいけばいいの、それが正しいの、誰だって同じ、おれだってそうだよ、それで光がちゃんと差すの、そこで「ガマン」が必要な人はもう悪魔に憑りつかれているの、ずっと先にはわかるかもしれないから少なくともこころの隅に留めておいてくれ。

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「動力」について、身も蓋もない話2
が商社にいたとき、残業代はいっさい支払われませんでした。特に若手は、残業代など請求するものではないというムードがあって、そういうものなのかなと、請求の書類さえ手にすることがありませんでした。そうすることで、当時の僕はその場のしきたりに素直に従っているつもりでいました。今考えれば、それは不当以外の何物でもないとわかります。一方、若手の僕に向けられる上司の口調は、いつも指導というよりは「ののしり」でしかありませんでした。上司は典型的な気分屋で、その日の気分によって人を罵倒し、気が済むまでネチネチ言うのをやめてくれません。僕はやがて、ストレスから耳がおかしくなったのか、電話のベルがどの方向から鳴っているのかわからなくなっていきました。そんな中です。当時、残業代が支払われたことは一度もありませんが、思い返せば、残業しなかった日は一日もなかったのです。いつも時間外の、通用口から退社して、正門から退社したことは一度もありませんでしたから。
細かく計算したことはないですが、あのころ、残業代がきちんと払われていれば、僕はいまごろ、まともな新車の一台でも余裕で乗れていたはずです。残念ながら今はお出かけはいつもレンタカーですが。今さらになって、あのころのことをぶつくさ言うつもりはありません。そういう時代だったのだと思います。ただ、今こうして僕がお話しすることが、かつてのような悪習を撤廃する一助になればと思い、また僕自身、過去の事を振り切るためにも、こうしてお話しすることに決めました。みなさんそれぞれに、色んなことがあると思いますが、とにかく自分は前向きに生きるのだということを忘れずにいましょう。自分が彼らのようにならず、かつ幸せになってみせることが、最大の報復になると思いますから。
↑たとえばこういうふうに書けば「いいね!」をつけてもらえたり、シェアしてもらえたりするのだろうか、いちおう書かれてあるエピソードは事実で、残業代は0円だったし残業のない日も0日だった、電話のベルがどの方向から鳴っているかわからなくなった時期も実際にあった。
実際に相当キツかったし、相当ツラかったはずだし、給料も月末には本当にカツカツで暮らしていたのだが、なんというか、正直あんまり何も考えていなくて、夜遊びにいくと「お前いっつも幸せそうやなあ」と言われる始末だったのです……何もかもにシャカリキになっていて、もちろん上司にはウンザリしていて、ときには「このヘタレが」と怒号で反撃したりもしていた(ひでえ新人だな)けれど/そしてもちろん辞職したわけだから、それだけ「やってられるか」という状態だったわけだが、正直そこはあんまり覚えていない、ただ銀座や六本木の夜の景色や、有楽町の喧騒、そしていろんな人に出会って、追いかけたり笑ったりセックスしたり、今思えば「ビョーキかというぐらい若かったな!」ということだけが笑いたくなるほど残っている。

まあ夜中の二時から合コンとか行っていたからね! 某日朝にはガチで「わたしとのことは遊びだったのね」とメールをもらい(リアルには珍しいだろ)、しかもそのメールをくれたのも正直誰のアドレスだかわからんというありさま、そして連日の放蕩から睡眠不足で、通勤路を歩きながら眠ってサザンカの植え込みに突っ込んだり、オフィスのトイレのウォシュレットを尻穴に受けながら四十五分間昏睡したり、朝起きると真っ白なラブホテルにいて場所を調べてみると「なぜおれは吉祥寺にいるんだ」と真剣にビビってみたり、クリスマスイベントに向けた準備のせいでついに帰宅時間がなくなり一カ月ぐらいは会社の地下室に勝手に自室を作って住みこみ「ウチくる!?」ごっことかやっていたりした(正直あの地下室住みは、風呂が無いことを除いてはとても快適だった)。
こちらのほうもすべて事実なのだが、こちらの話には「いいね!」をもらえない気がする、こんな思い出話がシェアされてバズった例はないものな/なぜなら、ここには何の正義も教訓も含まれていないし、何より「共感」が湧かないからだ、「チラシの裏にでも書いてろ」と言われるたぐいだ、なぜかこういう話は多くの人が好きじゃないというか積極的に「きらい」という向きまである。
しかし、冷静に考えてしまうのだが、先に話した「ストレスの中で残業代もなかった」という話のほうが、こちらの話よりも「いいね」なのだろうか、僕は自慢話がしたいのじゃないし、自分の話の押し売りをしたいのでもない、僕は割と元気な奴だったのだと思うが、それを誰もが同様にすべきだと誰かに強いるつもりもない。
ただ、「体質」が怖いのだ、怨恨ブラックには数万から数十万の「いいね」がつき、祝福のわっはっはには「共感が湧かない」というのは、体質としてヤバいじゃないか/僕のバカ話を聞いて「エネルギーをもらった」という人はとても少なくなったが、時代をさかのぼれば、僕はいつも「エネルギーをもらった」と言われる側だったのだ、何が変化したかというと、生身のエネルギーの問題なのだから、「体質」が変わったというしかない。

二度とやりたくねぇが、あのときの体験と記憶を愛している。

まさにこれに尽きると思うのだが、愛していない体験と記憶、つまり怨嗟している体験と記憶に、「いいね」がついてまわるのはなぜだろう、僕は僕の友人に向けては伝えておきたい、怨嗟に火が点き、「癒し」にホワワーンとなる、そういう体質になってはダメだ、もうすでに、根本的に世の中と人々を憎むことをエネルギー(動力)にしてしか生きられなくなった人がたくさんいるのだから/「真似できねぇし、真似したくもねぇけど、グレートだわ」と笑えることに「よーし」と火が点くようでぜひあってくれ。
僕は受験生のころは、短期集中で一日十五時間勉強していたし、就職活動中はまた睡眠不足で、東京駅の地下コンコースの階段で寝ていて駅員に怒られたぞ、そのあとは神田のガード下のベンチで寝ていて、しかも活動資金がなくなったので後輩に五万円借りたのだが(未だに返済していなくてたまに脅されている)、そういうなるべく元気でいこうということは現在も続いている、「体質」がこっち側にくればこんなもん、さして無理してやっているたぐいでもないよ(あ、無理をするのは当然ダメです、ナチュラルにいきましょう、僕は何一つガンバってはきていない)。
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「動力」について、身も蓋もない話
、たとえば「こういうパワハラがありました」「なくなるべきだと思います」という詳細なレポートが報告されれば、大いに「共感」を呼び、レポートは多数の人にシェアされる。
一方、たとえばマハトマ・ガンジーが、非暴力主義を保って「塩の行進」を成し遂げたということが話されても、まったく共感を呼ばない、「ふーん」「すごいよね」という感想しか出てこないのだ。
なぜこうして、「共感」に差が出るかというと、身も蓋もない話、全身が「イヤな身体」になっているからだ、「イヤな身体」になっているので、「イヤな話」にだけ共感が起こるようになっているのだ。
ひっでえ話だが、これがガチのマジだから、しょうがないぜ、体内に「イヤな」物質が流れているので、イヤなものにだけビビッと反応する「体質」なんだよ、そして「偉大な」「光ある」「世界愛」のものには、反応する気質がすでに体内に残っていないのだ、このシャレにならんヤバさが本質であって、正直もうヨソのことに首を突っ込んでいる余裕は誰にもないぜ。

たとえば、ある男が、世界旅行をしている中、貧しい国の人々がマクドナルドに行列を為しているのを見て、「貧しいということは、なんと悲しむべきことだ」「大好きな人と、大好きな食事をする、それが第一のことで、かつ最高のことじゃないか」「おれはそのことを実現するための仕事を為そう」と決意した、そしてこの男は、安くおいしいものを豊かに食べられる飲食チェーン店を創りあげていった。
これは、「ワタミ」の社長の実話だが、今「ワタミ」の社長というと、どうよ、ただちに「ブラック企業!」「過労死!」「サイコパス!」ということしか反応が出てこない、そりゃそういったトラブルがあったことは事実だが、かといってここに話された逸話も別にウソというわけではない、だがこちらの逸話にはすでに体質的に反応も共感も起こらないのだ。
人は、共感のない中を生きてはいけない、エネルギーが得られなさすぎるからだ、だから「共感」を探しながら毎日を生きているのだが、結果的に「憂鬱探し」「最悪探し」「怨恨探し」をして、そこに起こる共感をエネルギー(動力)にして毎日を生きていっているのだ、そうなると今日のぶんのエネルギーは得られるかもしれないが、当の「体質」はますます深まっていってしまう。
ブラックで怨恨のつもることに対して、「許せない!」と声を発してみろ、するとその声は血気を帯びて強く出ることがわかる、一方で、たとえば杉原千畝がユダヤ難民を救ったことに対して、「偉大なことだ!」と声を発してみろ、するとその声は上の空になり強くは出せないことがわかる、それは「ブラックな怨恨に力を得る体質」になっているということだ、おめぇの全身、その血と肉と神経がだよ、これはいったんそういう体質になると、もう逆方向の体質がありえることがわからなくなるんだ。

正義を確信しているわりには、腹の底から「あっはっはっは!」と笑えなくなっているだろ?

「正義」という看板が出ていたとしても、実際にそのテーブルで啜るのは怨恨ブラックの暗愚の毒なのだ、この毒には人を駆り立てる力がある、それは蠱術といって呪術のひとつだ、この毒で今日は駆り立てられてエネルギッシュに過ごせるが、体質はどんどん沈降していく/「怨恨ブラック体質」になるというのが、どういうことだかわかるか? 自分の発するすべての声に、その怨恨ブラックの波長が乗っかるということだ、そうすると同じ体質の人を強力に呼び寄せ、異なる光の体質の人から忌避されるようになる、そしてこの体質は、多くはもう一生変わらないのだ、まして光の体質の人からは「その声と目の色がムリ」と言われて遠ざけられるのだから本当にもうどうしようもなくなる。
というわけで、僕のこのブログは、もう十数年やっているのに、ちーっとも誰にもシェアされないし、誰の共感も呼ばないのだが、それは僕の声が怨恨でもなければブラックでもないからだ! 僕の小論がつまらないからでは決してないぞ/当ブログは、多くの人には「体質に合わない」と言われるだろうが、そりゃこちとら本望だし本分よ、ということなのだが、それにしてももうちょっとカウンターが伸びないかなーと、そういう希望もないではないのだった(具体的な方策はまったくない)。
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身分学、新発見(円満法)4

分の格差は壮大すぎて草不可避なのだが、「わたし」は誰しも同列だ、今はっきりとこのことが確言できる、「わたし」は誰にとっても平等だ、格差なし、これでようやく「人類みな平等」と断言して構わなくなる。
ただすべてのことの前に、約束がある、やはり「わたし」は「ここ」だと、自分の心臓に「わたし」があることを、それぞれが責任を持って言わねばならない。
「わたし」は、「ここ(心臓)」だと/もし身のあちこちがぐちゃぐちゃで毒まみれのコワバリだらけだったとしても、なお「わたし」は「ここ」だと、自分の存在を心臓に定義しないとどうしても話が進まない、顔面やチンコやマンコに「わたし」があるわけではやっぱりないんだよ、特に顔面は誤解しやすいけれども。
なぜこうして、おのおのが儀式のように「わたし」は「ここ(心臓)」と責任を持たねばならないかというと、「負ける」ということができないからだ、どれだけ身がへっぽこでも、心臓に「わたし」がいてくれたら、少なくとも「負ける」ということができるのだ、すべてはそこから始まるので、まずは「ハートで負ける」というクリアなハートの体験が必要なのだ。

どうぞよろしいか、少なくとも、ハートに「わたし」が踏みとどまっていたら、あなたは何であれ、「メイン」としての「わたし」をその場で持つことができるわけだ。
「わたし」がハートから出奔し、どこかよその部位にこわばりついていたら、いろんな形での「サブ」の「わたし」しか、その場で持てないことになる。
こうして、その場にいる「わたし」は、「メインか、サブか」という問題があって、そこに「メイン」のわたしがあれたならば、少なくとも誰かと「出会う」ということはできる、そうしたらその瞬間、出会った人に「あ、負けた」とか、「あ、これは勝てんわ」ということを体験することができる。
そうしてメインのわたしが「あ、負けた」と体験したら、おのずと身分差の中で振る舞って、自然な関係になるようにできているのだ、これがサブの「わたし」を出し合いしているようでは、誰が大きくて誰が負けたものやらよくわからんのだ、それで身分差は不明になって余計にイライラする、それを強引に「対等」と言い張ってもその約束事コレクトネスに互いが疲れるだけなのだ。

「負けたくない」とやっきになるのは、平等がわかっていないからだ。

誰の「わたし」であっても、互いの「わたし」は平等だ、対等で同格だ、それがちゃんとわかっていれば、メインで向きあって「あっ、負けた」というのは、むしろ快感と感激の出会いであって、ムッとするようなことではまったくない、だいたい平等主義&対等主義の人はここのところで病的な"差別フリーク"なのだ。
誰の「わたし」も平等だ、そのことがわかっていない、水面下でバチバチの差別主義(というより優越主義)の人は、単に「マウントの取り合いに敏感」というだけでしかない、そんなアホな駆け引きをやっとらんで/人間の豊かさおよび、積んできた経験の豊かさとはイコール、「あ、負けた」と悟った経験の量のことだよ、その「あ、負けた」の経験がないなら、残念ながら人間としての経験はまったく得てきていないということになる(そっちのほうがよっぽど劣等な感じでピンチじゃないか)。

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身分学、新発見(円満法)3
「原点」とか「第一円」とかでは味気ないので、それっぽい名前でも付けておくか。
原点は「わたし」なので、これは「イグジスタンス・ポイント」と呼ぶことにしよう、実際「愛」とか「友」とかが得られれば、自分の存在としては満足だもんな/ただしメシを食うし欲望も持ち始める人間が、イグジスタンス・ポイントに「留まる」ということは、むしろ必死に努力しないといけないことで、「わたしは愛」とか浸っていられるような虫の好い話はないんだけどね。
第一円は、「グッドライフ・サークル」と呼んでいいだろう、「快活に、かつ面白く」生きるということ、それがハートに飛び込むから友も愛も満たされていく、これがグッドライフでなくて何であろうか、ガッツの活気とユーモアの笑いがハートに飛び込んで愛増大のグッドライフだ、欲の浅いタイプならこれでサイコーの人生かもしれない(欲の浅い人間なんか存在するのかどうか知らんが)。
第二円は、「クリエイティブライフ・サークル」と呼んでいいだろう、もちろんグッドライフが先にあって、その土台の上に成り立つのだが、知恵と言葉とideaに優れ、自らの求める意志と正義と欲求を満たしていく、つまり頑張るだけでなく「創りあげる」人生だ、絞り抜かれた知恵とideaが、激しいほどの意志と欲求を伴って、これまでになかったものを形成していく、それがハートに飛び込むのだから愛もとびきりインパクトでズドンだ、これがクリエイティブライフでなくて何であろう。

第三円は、「オーバーライフ・サークル」と呼んでいいだろう、これまで人類が保存してきた、まるでナゾのような詩文、聖書や仏典、あるいはヴェーダやウパニシャッド、エジプト神話やギリシャ神話、古事記や日本書紀、あるいは膨大なクラシック音楽は、いったい何を言わんとしているのだろう? そしてこれらの神話に引き当てられるように、われわれに実際ペニスやヴァギナがついているのはなぜだ? 「そんなこと、生きるのには何の役にも立ちませんやん」ということが、しかし覚醒されてハートに流入する、すると「世界そのものでは」というような愛が得られる、これが人生以上のオーバーライフでなくて何であろう、ただしこれはあくまで内側の円がきっちり満たされた上でしか成り立たない、引き続き虫の好い話はない。
次に、地から天へ吹き上げているエネルギーが、胴体に流入して、頭頂まで抜けるかねえ、という話だが、これによって成り立つものを、「ユニバーサルライフ・ストリーム」と呼んでいいだろう、この名前はダサいが、まあ意味的にしゃあない/これまではすべて「わたし」の人生だったが、「究極、これって『わたし』とか関係なくない? もともと全部ひとつで、ずっと永遠じゃね?」ということが、「別にガンバらなくてもそうとしか感じねえよ」という状態だ、こうなるともう「愛」は、「世界以上の世界というか、ふつうは見えていない宇宙的なやつが見えてくるように感じられてくるんですが……」という次元になる、カレンダーより仏像のほうが「マジ」なんでは? という見え方が自動的に起こってくる。
その次は、そのユニバーサルライフ・ストリームの極大化した中で、あえて「わしは人間なんじゃ〜い」とハート推しに還ってくるという状態だ、これはどういう様相をもたらすのか、僕もまだよく知らない、だから名前もつけられないが、さしあたり「どこにも行かんのかい! プレーン」と呼ぼう、プレーンとは平面・平原のことだ/これは「愛だけ」のところに戻ってくるわけだが、その平原は数学的に厳密化しており、また平原に移る上層・下層は奥行きがえぐいので、平原に生じるエネルギーは爆裂だ、数学的厳密さで「どこにもいかない(上下しない)」、上下のどちらにも行く用事はなくなったわい、という人間がおそらく一番強いのだ、まあいくらか僕のあこがれも入っているけれどね、どうせ誰もマジメに聴くような話じゃないから別にいいだろ。
こう書くと何か壮大な話に聞こえて、空想好きな人はウフフーンと耽ったりするのかもしれないが、実際に手元にあるのはそういうもんじゃねえよ、「ガッツはあんのか、見せてみろ」「ジョークのひとつぐらいかまして見せろよ」「とりあえず愛っぷりを見せてみろよオラァ、まさか自己愛とか出さないよね?」というのが実際に直面するところなので、まあいつもどおりがんばりましょうねということなのだった。

身分の格差が壮大すぎて草不可避。

実際さ、たとえば「この人はいつもステキなジョークを飛ばしてくれるの」とか、「あいつはガッツに関しては信頼できるから」とか、そういう人って、実際にはそんなにいなくない? そのレベルのグッドライフを確かにしている人でも、そりゃそーとーなモンだと思うよ、僕だってガッツを問われたら、たとえば餃子の王将でアルバイトしたら三日で逃げ出す自信があるからな、第一円グッドライフ・サークルのレベル初級ったってそんなにカンタンなことじゃねえぜ(お互いがんばりましょう)。
ユニバーサル(普遍性)の前にオーバーライフを円満させてこい、オーバーライフを気取るより先にクリエイティブライフを実現してこい、クリエイティブを標榜する前にグッドライフを尊敬されてこい、グッドライフを志望する前におのれの「愛」に欺瞞がないかきちんと向き合ってこい、そして、「本当のわたし」なんてものにたどり着くのはユニバーサルのさらに後だぜ、そこまで行ってようやく「わたしはどこにもいかないの」だ、おれたちゃ死ぬまでやらなきゃならんことがてんこもりだな。
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身分学、新発見(円満法)2

ろ、ためしに作図してみたらヘタクソな上に典型的にヤベーやつの図になったぞ! もうこんな話はしたくないでござる。
ど真ん中にあるのが[原点/わたし]で、あ、本当は[原点/わたし]はもっと小さいよ、極小点だからね。
まあ、原点を中心に、第一円、第二円と、円満に、上層下層の両方をバランスよく開拓していく、第三円は……ヤバめだから後回しにしよう、というところだ、いちおう図としてはわかりやすいだろう(ガンバって作ったのでバカにしないように)。
バチバチつりあい鏡平面って何やねんという話だが、もうそのことは気にすんな、ここでつりあって上にも行かんし下にも行かんから人間のシャウトが出るんだろYeahhhhhhということだ、明鏡止水には上面と下面があって、上面には天の光が映るが下面には地の底のデーモンが映る、そこでバッチバチだ。

第一円をバランスよく鍛える、開発する、たとえば五時間ぐらいマラソンする人は五時間ぐらい志の輔の落語を聞くほうが「わたし」イコール「ハート」が発達してくれる、そこのバランスを失ってひたすら走ると「わたし」は成長せずただのガッツマンになってしまう/まあガッツマンになりたいのならそれでかまわんが、しかしハートスカスカのガッツだけマンというのはぼちぼちキツイぜ。
第二円をバランスよく鍛える、開発するということは、たとえば学会での発表で割と注目を集めているが、同時に峠攻めでスカGのタイヤをズキャキャキャと鳴らすのが日常でもあるというほうが、「ハート」は発達してくれるということ、研究室だけにいると人と付き合えないアレな学者さんになるし、峠だけ攻めていてもやはり人と付き合えないアレな走り屋さんになる。
第三円は、スケベと叡智というド反対のことにバランスを実現せねばならないのだが、このことはおそらく、内側の円が相当程度育っていないとまずムリだ、別にセックスするなということではないが、セックスの特殊な体験が自分の行く先を切り拓いてくれるということはまったく起こらないので、その点については諦めること/叡智なしにハードセックスを重ねてもそれは本当に単純な「バカ」になります、特に女性は(ひどくすると回復不能になることもある)。
なぜ第一円、第二円と鍛えてきて、第三円まで鍛えなきゃいかんのかというと、第三円まで鍛えて、できれば「天地」と合一したいからだ、天地と合一するとか言い出すといかにもイタい方面から悪手を求められそうではあるが、僕の唱えるところはそういうことではない、僕の唱えるところでは「天地と合一する」ということは「人そのものになる」(ハートに踏みとどまり続ける)ということだ/そっちのほうがはるかに難しくてロマンがあるんだよ、実のところ天の光に飛んでいったり地の底に落ちていったりとかはそんなに難しくないのだ、そんなカンタンにできてしまうスピリチュアルごっこに大人が首を突っ込んでいられるかよ。

瞑想で「天」や「地の底」に触れるのはカンタンだ、そうじゃなくて、「人」のまま「天」と「地の底」に同時に触れ続け、そのまま走り回っていられるか、という話だ。

最近は瞑想とか流行っているらしいけれどね、僕の勝手な趣味を言わせてもらうと、瞑想で「高い次元に引き上げられていく〜」みたいなことは、カンタンなんだ、そりゃ誰でもそうなるんだよつまらん(言い過ぎ)、そうじゃなくて厳密に「人」の次元に踏みとどまり続けること、その上で高い次元にも低い次元にも接続するということ、「引き上げられていく〜」ではなくて、「こっちに引きずりこんでやる、来いコラァ」ということだ、天の光を引き込むにはデーモンの力だって使うし、デーモンを引き込むには天の光だって使うぞオラァというようなことだ。
僕は正直、そっち方面にはまったく詳しくなくて、すべて僕自身の体験と体感から話している、その僕から余計な意見を差出口するが、「高い次元に引き上げられていく〜」的なことは、一見それっぽいけれど、よくよく後に見ると「自分が行方不明になっただけ」だと気づくと思うぞ/人間の「わたし」はハートにある、人の身が滅ぶときまでそこを動くな、最後までその位を務めるのが人の道だと僕は思っている。
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「わたし」が迷子になる6パターン

間の「わたし」は、心臓に住んでいる、これが本拠地ということはもう変えられないので、その他に移り住んだフリをしてみても、それは「サブ」にしかならない、本拠地を追い出されたとしても行く先は「サブ」にしかならないのだ。
幼い頃、「愛」がうまくいかない場合、愛はネガティブ化した「自愛(自己愛)」に変貌し、苦しくなる、そこで心臓にいた「わたし」はどこか別の場所へ逃げようとする/上に逃げると喉に至り、下に逃げるとみぞおちに至る(なんじゃこの話だが聞き流せ)。
喉に逃げ込むと、そこは文化的なエリアだが、メインとはつながっていないので「サブカル」になる、あるいは「のど自慢」にわかりやすい「自慢」になる、一方下に逃げ込んだ者は「ガッツ」になる、スポーツマンになったりやたら前向きなガリ勉になったりする、こちらは「自負」を形成する。
その先、もちろんサブカル自慢方面も、そこに耽っているには限界があるし、のど自慢もえんえん続けていられないだろう、さらに上方向、次のエリアに逃げると額(ひたい)になる、額は知恵の場所だがメインとつながっていないので、「頭でっかち」になる、おうおうにして自分の思考で「自滅」する。

自滅していられないので、額からも逃げるとなると、今度はもう頭頂部になる、頭頂部は「叡智」のポジションだが、メインとつながっていない叡智はどうなる? よく知られているように「電波」になる、上に逃げ込んだ人の行き着く先はこの電波になる、たいていカルト宗教うんぬんに取り込まれる、これは「自失」の状態と言える。
一方、ガッツに逃げ込んだ人はどうなるか、加齢と共に、どこかでガッツだけではやっていけなくなる、その先は下腹部に逃げるしかないのだが、下腹部は「怒り」だ、憎悪や頑固さ、怨恨、「許せなさ」や、自分の意志の暴力的断行につながり、つまり「自説」の徒になる。
下腹部の自説マンが、うまくやっていけなくなったら、今度はもう胴体の最下部、女性でいえばヴァギナにあたる部分に逃げ込むしかない、こうなると男女共ドスケベしか頭にないという状態になるが、メインとつながっているわけではない、だから「自慰」になる、たとえ相手がいても互いに濃厚な自慰に相手を使っているという状態になる、そのことへの依存はもちろん愛とはまったく異なる。

[天]自失←自滅←自慢←自愛→自負→自説→自慰[地]

自己愛しか湧いてこない心臓に嫌気がさした「わたし」は、やれガッツに移り住んでみたり、サブカルに移り住んでみたり、その後は力関係の世界に住んでみたり、屁理屈の世界に住んでみたりしたのだ、けれど、どれもこれも「わたし」そのものにはならなかった、わたしの「こだわり」を移しただけで、どれも「わたし」そのものではない。
人間の「わたし」が、もともと心臓に住む以上、もしその他のすべてを掴んだとしても、本分は愛(豊かさ)にしかありえない、どこか別の世界へ移り住んだつもりにしてもダメなのだ、自愛マンがイヤだから自負マン、あるいは自慢マン、また自説マンや自慰マン、自滅マンや自失マンになってみたって、そこに本当の「わたし」はない、サブのわたしがデカい面をしているだけだ、メインが自愛に陥ったままその他をどう努力してもその全身は決して天地のおかげと接合しない/せめて「誰のことも愛せない」と泣くなら、それはトラブルではあるが迷子ではない。

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おれは人間だ
の他、報告すべき、いい話がいくつもあるのだが……
さしあたり、「おれは人間だ」と宣言しておきたい、なんだこの宣言はという話だが、「おれは身が滅ぶまで心臓(ハート)に住み続ける」と宣言しておこう、ここから下に行くのはいやだし、上にいくのもいやだ、「おれ」はここにいる、ここにいる以上に、一ミリも一ナノも上下には動かない。
おれの功夫(クンフー)を食らってみるかい? といって、ちょっとやらせてみると、習ったこともないのにちょっとマジっぽいのがさすがおれだ、功夫には心臓不動の原理なんてものがあるのだろうか、あるのかもしれないな、まあどうでもいいが功夫というのはまさに人間の戦いだ(暴力ではない)。
おれは上にはいかないし、下にも落ちない、ずっとこのままだ、身は上昇するが「おれ」はここだ、けっきょくおれがスピリチュアルうんぬんと決定的に違うのはここだ、スピリチュアルうんぬん方面もやれと言われたらできるが、やらない、「おれ」はずっとここに居続ける/おれは人間なので、人間の叫びを発し続ける、そういえばそもそもこんなに叫びまくるやつにスピリチュアルうんぬんはねえよな。

明鏡止水ということはわかりやすい、辞書で調べたら誰でも「なるほど」とわかる、東洋人なら誰でもわかりそうな概念だし、天上人を目指すのなら、明鏡止水に月が映る、ということだけを追求していけばいいだろう。
でもおれは違う、ここはさすがおれ、おれにしか気づかないようなことをブッこんでやろう、なぜおれが一ナノも上に行かないし、下にも落ちないのか、それは明鏡止水にヒントがある、ふつうの人が気づかないことだ、こころの鏡は上下を映していて、明鏡止水の上面には月が映る、だが下面には実は地の底のデーモンが映る。
両方が等分に映るから、おれは上にも下にもいかない、上下しない人間がおそらく一番強い(厳密にやれたら実はハチャメチャに強い)、天上の月と地の底のデーモンが無限薄面で向き合うときがエネルギーの最大になる、人間が持つ他の動物とは異なるエネルギーの爆発がこれだ、膨らまず先鋭するという能力、デカい掛け算をするだけでなく極小で割り算をするという能力。
人間以上のものになるのなんて、人間の身が滅びてからで十分だ、直立歩行しているくせに獣ぶったりするのも実にくだらん、おれは人間から一ナノも動かん/人間のままでも天上の光や地の底のデーモンにつながることはできるわな、おれが天上に行くのも地の底にいくのもまっぴらだ、天上やら地の底のモンがこっちに同時に力を貸せ、おれは一ナノも上下しない人間だ。

身分にはえげつない格差があるが、それぞれの「わたし」には一ナノも上下差はない。

ハイレベルな「身」というのはあるのだが、ハイレベルな「わたし」というのはないのだ、仮にハイレベルな「わたし」というのも実現はできるのだが、それは究極的にはニセモノになる、僕はたまにネタみたいに「霊視」したりアカシックレコードにアクセスしたりしているが、そのたびに「こんなもん役に立たん」と必ず言うのはそれだ、人間が人間以上のものぶるのは究極「ニセ」のつまらんものにしかならないのだ、たとえどれだけ超能力風味のことができてもだ。
ニセになるというか、正確に言うと「サブ」にしかならんのだ、人間なのだからメインは人間にしかならん、人間の「わたし」はあくまで心臓、ハートのもの、どれだけ優秀でどんな超能力があろうが、人間の本分は「愛」だ、人間のカルマ(識)における失敗が「差別」であり、償却の成功が「愛」なのだ、どれだけ上に階層があったとしても、それは人間の身の本意じゃないからほっとけ、上層や下層も「掴む」べきものだが、そこにわたしが「行く」ものじゃない。
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「おかげのかたまり」理論2

とえばこのブログがえんえん続いているのだって、誰ぞ読んでくれる人がいるおかげだ、つまりあなたのおかげで続いているといって、何らウソではない、少なくとも「僕のおかげ」で続いているわけではない/誰も読んでくれなかったら僕はソッコーでやる気をなくすだろう。
このブログもそうして、クソみたいなお前らのおかげ、たまには一通のセクシー写真つきメールでも送ってくればいいのに、何一つ送ってきやがらねえお前らのおかげだ、もちろんお前らのおかげだからといって、「感謝」なんかしない、「おかげ」というのは構造だから感謝なんて必要ない。
まあ、感謝というのも、ほじくられるとこっそりあったりもするが、それがあるにしても、それを打ち出すことは何の足しにもならないハズレだ、必要なのは理知的に「おかげ」の構造で万物が成り立っていることを見抜くこと、これが見えないのは「ただのバカじゃん」でOKだ。
このブログでさえ、何ぞの「おかげ」で成り立っていて、別に僕の「おかげ」ではないのだったら、こんなブログなんぞ、その何ぞの「おかげ」に放り込んでしまえばいい、そして万物がもともと「天地のおかげ」だというなら、放り込んだものは元の天地のつながりに返納されて機能するだろうよ、じゃあそれでいいじゃないか。

要は、すべては「天地のおかげ」と、思え、ということではなく、「天地のおかげ」ということに、気づけ、ということ。
そうしたら当然、「こんなもんわしゃ知りませんわ〜」となって、全身全霊、天地の仕組みに放り込んで「好きにしてくれ」となる、そうしたら割と、何が疲れるというわけでもないし、割と以前よりナイスグッドで活躍する。
風習的な「おかげさま」で、頭を下げてヘコヘコしろということではない、たとえば僕が何となくの気分で後輩の尻にケリを入れるのだって、天地の「おかげ」なのだ、そもそも天地がなかったら後輩の尻にケリを入れたりはできないからな、そして天地に与えられた万物のあるがままにケリを入れているだけだ、そういうとき誰もイヤな気分にはならない、自分たちが世界と剥離していないことがよくよくわかる。
今日も太陽がウォリャーと光っていたわけだが、何もおれのおかげで光っていたわけではないので、「今日も太陽さんはがんばってるね、うふっ」みたいなことは言わなくていい、「うむ、今日もおれのタメニ光っているな」というのはまあ間違いではない、ただ「おかげにしても世界が照らされすぎやろ、なんやこの太陽ゆうやつ……」とどこかでビビるぐらいの気持ちはあっていい、よくよく見渡すとあまりに多くの万物の「おかげ」に包まれていて、「マジか」とビビるぐらいが人間としてまともな感覚だ。

頼むからmy感謝をやめろ、そんなものなくたって万物の「おかげ」だ。

「わたし」が心臓から出奔している状態だと、万物の「おかげ」はわからなくなる、そのぶん何につけ、誰かの「せい」、何かの「せい」ということに、爆発的な苛立ちが起こるようになる、「信号のおかげで交通が成り立っとる」とは見えなくなり、「信号のせいで停止させられて移動に時間がかかる」とイライラするようになるのだ、まさに気が狂っているのだが本当にそうなるのだ。
よくよく見ろ、誰がどう見たって本当に、信号のおかげで交通は成り立っているだろ、そんなところに「my感謝」なんかするのは絶対にやめてくれ/現在の僕があるのはイニシャルAさんとBさんとCさんと(中略)Zさんのおかげだ、何一つ「おかげ」で成り立っていないものは存在しない(なんて春の風が取り戻される話だ!!)。

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「おかげのかたまり」理論
てそんなどーでもいい話より、もっとステキな話があるのだ。
「わたし」というのは、心臓の内の極小点にあって、それ以外のすべてのものは「おかげ」だ、「おかげ」のかたまり。
「わたし」というのは、何もパワーアップしないし、どこかに行ったりもしない、すべての始まりの極小点だが(という言い方を前にしたよな?)、その他のすべては何ぞの「おかげ」だ。
「おかげさま」という言い方は好きじゃないし、うさんくさいのでナシだ、わたしというのはすべての始まりで不変の心臓極小点、その他のすべては「おかげ」だ、何のおかげかといって、ざっくりと「天地のおかげ」としておけば誰にとっても間違いではない。

高次元で考えると、すべての「おかげ」は「タメニ」とつながっており、能動側が「タメニ」、受動側が「おかげ」なのだが、まあそのことはいずれ後にわかればいいだけの付け足しだ、重要なことは極小点を除いては全部が「おかげ」だということ(いい話だなあ)。
ただし、この「おかげ」というのは、「わたし」が正しく心臓の極小点、少なくともその近傍に収まっていないといけない、そうでないと「わたし」が行方不明になる/「わたし」が行方不明になると、どうなるか? なぜか「すべてはわたしのおかげ」になってしまう、まあそれもいずれ話そう。
われわれが作物を食えるのは畑のおかげだし、畑に作物が生るのは土のおかげだし、じゃあ土は何のおかげかというと、よくわからんがだいたい「天地のおかげ」で合っているだろう、そりゃ誰が考えたってアタリマエだ、そうして考えてゆくと、「わたし」というのは「天地のおかげ」で万物を恵まれている存在だというのかよくよくわかる。
物理に偏りたい人は、宇宙の創生期に光と重さに分かれて以来だと捉えればいいが、光と重さに分かれて以来なら「天地」と言っているのと同じだ、とにかく自分の全身にしたって天地の「おかげ」から成り立っており、「わたし」自身の「おかげ」というものは何一つない、これですべての具合の悪いやつが解決するのだ。

極小点と、その他は「おかげ」のかたまり。

「なんで? あなたのおかげじゃん」「実はあの人のおかげなの」「あのときの誰かのおかげでね〜」と、口に出して言ってみよう、するとなぜかスッキリと言えないということがあるはずだ、われわれがいかに「おかげ」ということから離れてしまっているかよくわかる/頭で考えたらどう見ても「おかげ」なのに、そのことになぜか納得しきらず不快感ボンバーが生成する、という現象があるのだ。
まあ何はともあれ、「こんなもん、すべてが『おかげ』のかたまりですやん」と言っておけば間違いない、そのほうが理に適っているからいくらでもオカゲオカゲと言っておけばいいのだ、その「おかげ」というのにモヤモヤと不快感や不納得感が伴うなら、必ず「わたし」を見失っている/いやあそれにしてもいい話だ、極小点とその他はすべて「おかげ」のかたまりだ、これほど間違いようのない理論もないだろう。
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正しき助手席のガーリー
流ドライバーが、スポーツカーを運転するその助手席に、あなたが乗っていたら、あなたは鮮やかに流れる景色と、躍動するエンジンおよびステアリングから、「高い世界」を見ることになるだろう。
それで、高い世界を見たからといって、自分が運転席でハンドルを握れば、同じ世界が……見えるわけがない。
どれだけ高い世界を見せてもらったとしても、自分はヘボドライバーのままだ。
ヘボドライバーが運転すれば、ヘボ景色とヘボエンジン、ヘボステアリングによる「ヘボい世界」を見ることになる、それについて「あれー、おかしいなあ、こんなものじゃないはず」ということ、それが間違っている、それは「おかしいなあ」ではなく「合っている」のだ、自分の実力から見た世界はそのようなヘボさで「合っている」のだから、疑問をもつべき由はない。

同じことが万事について起こる。
一つの音楽、一つの歌、一つの場所、一つの景色、物語や世界愛、一つの夜や詩文について、「高い世界」が見えることがある/「見せてもらっている」ことがしばしばある、あなたが助手席に座っていて。
助手席に座って、「高い世界」を見せてもらっているとき、自分の身がヘボプレイヤーだというようなことはすっかり忘れているものだ、自分も「高い世界」の住民であるように錯覚する。
助手席の時間がすぎ、助手席から降りたら、いつもどおり自分の車の運転席に座らなくてはならないのだが、そこから見える「低い世界」に落胆する、それで女の子は「こんなのわたしの世界じゃない」と言い張りたくなり、「わたしがこんな低い世界に押しやられているのは誰のせい!? あなたのせい、それともあの人のせい!?」と狂い始める。

高い世界を見た/見上げてはいなかった。

正しき助手席のガーリーは、「高い世界」を見たとき、目を丸くして口をあんぐり、「す、すっごーい!!」となるべきだった、しかし現代ではそういう教育を受けていないだろう、貧しき助手席のガーリーは「いぇーい」となった、平等ということは誰もがその高い世界の身分を己に認めるということだ。
貧しき助手席のガーリーは、本質的な努力ができない、努力せずとも元々高い世界に住んでいるはずだからだ、そこに実際には出現してしまう低い世界について、耐えがたい憎悪と憤懣が起こる/「お前の車線変更は危なっかしいなあ」と言われると、低い扱われ方に殺意が湧くのだ。
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ナゾの現象、「おかげ」発想への不快感

う数年来、ナゾの現象に包まれている。
僕がエネルギーを分け与えると、分け与えられた人はエネルギーを上昇させるが、それが「僕のおかげ」と捉えられることはまずない。
一方、たとえば親とか環境に、エネルギーを引き下げられると、それは「絶対○○のせい!」と、強烈に断じられる。
いうなれば、ブラック企業があった場合、人々はその経営者を「こいつらのせい」と断じて責めるが、ホワイト企業があった場合には、人々はその経営者を「この人たちのおかげ」と奉じたりは決してしないのだ、この現象はここ五年間ぐらいで急激に起こっており、発生の理由もわからないままだ。

ごまかしてもしょうがないので、ありのままをレポートする/僕はナゾの現象のナゾを解き明かすのが好きだ。
特に根拠はなしに、「自分はもともとエネルギーの高い存在」と思い込んでいるフシがある/よって、状況的にエネルギーが引き下げられた場合は、「これは本来の自分じゃない」「だから、これは絶対に○○のせい」という文脈が生じる。
逆に、エネルギーが分け与えられ、エネルギーが引き上げられた場合は、「これが本来の自分」「だから誰のおかげでもない」という文脈が生じる。
僕がエネルギーを分け与えた人は、僕から離れて二日ほどするとエネルギーが下がるのだが(当たり前だ)、このときどうやら激烈にイライラするらしい、つまりエネルギーが上昇しているのが「本来のわたしの姿」なのだから、そうでない姿に陥っていくのは激烈にイライラするらしい、そこに僕がどう関わっていたとして、「あなたがエネルギーを分け与えてくれていたのね」という発想はみじんもない/これは非難しているのではなくナゾの現象について指摘しているのだ、五年前はその発想が誰にでも当然にあったから。

エネルギーは「あの人のおかげ」なのだが、そうと認めるには"耐えがたい不快感"がある。

実際に起こることをレポートするなら、そう述べておくしかない、僕はそんな不快感の伴うことを人に強いるつもりは毛頭ない、ただこのとき生じる強烈な「不快感」は、どこから発生しているのかわからないのだ。
僕がエネルギーを保ち、誰かにエネルギーを分け与えると、エネルギーを分け与えられた人は「そうそう、これが正しい、このときのわたしが正しい」と感じるようで、目の前の僕に向けて「この人が正しい」とは感じないようだ、なぜかこの現象は五年前から急激に起こってきており、今では変更不能の絶対感覚にまで育ってしまっている(理由は不明)。

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恋人以上に離れられないもの
い=光ということは、つまり、自分が生きているか死んでいるかはわからん、ということだ(意味不明)。
たった今、その超克と償却が終わった、なんだこりゃ、電灯が光っているだけなんだがな。
僕はさっき死んだのかもしれないし、今も生きているのかもしれないし、つまりさっき死んだとしても、それが自覚できないのかもしれないので「わからん」ということなのだ、これまでに何万遍も死んでいるのかもしれない。
死ということがわからなくなったので、生ということもまあいいかというふうになった、だって「わからん」のだものね、ただそのとき光があった、光といってもただの電灯だけど(電灯は光っているだろ)。

自分が光になるということは、生きているか死んでいるか「わからん」ということに、自分が気づくということだ。
わざわざ自分から闇になりたがる変わり者はいるまいよ/光が老いるということはありえないのだろう、生きているか死んでいるかわからんということなら老いるということもありえない(だってさっき生まれたのかもしれんのだから)。
毎秒、毎秒、こりゃ生きているのかいつ死んだのか「わからん」ぜ、電灯がリアルに「光」をもたらしているのだから自分はその「光」になればいい。
リア充になるよりカンタンだろ、自分が光だということ以上の若さと自信はないぜ。

電灯は実際光っているので、光は確信してもダイジョーブ。

目下の、あるいは天井の、白い光がそれだよ、光は「光」という以外に描写はできんけれども。
光になれれば、われわれは近づく必要がないし、わざわざ友人や恋人になる必要もない、それは友人より親しい人であって、恋人以上に離れようがない永遠のものだから。
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何も知らないということ
爛漫だねえ。
本当にいいことがきっとやってくる。
本当にいいこととは、つまり、若いということだ。
若さの前にはすべてが消し飛ぶだろうよ。

若いというのは、知らないということ。
知る必要がないということ。
何かもうたまんないってことだ。
何も知らないということ。

幸福は人の力じゃない。

幸福とは、光だ、光といえば何か、そりゃ電灯でもかまわない。
電灯が光っていないわけがない、光ってまさにそれだよ。
 
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「内心で自分の声が止まらない」
の話を聴けない人がいる。
そういう人は、気をつけて、改善の努力をしよう、ということになるのだが、まあ努力なんてたぶん効果がない。
なぜなら、人の話を聴ける人は、努力して聴いているわけではないからだ。
人の話を聴けない人は、努力の問題ではなく、「内心で自分の声が止まらない」のだ、だから話を聴いているつもりでもずーっと心の底でブツクサ言っているのだ、たとえ表面上は黙っていても、その心の底でずーっとブツクサ言っている、これは本人では「止められない」のだ。

何度も言うように、非自分性の存在を設定する仕組みを得ずにくると、この世界は「自分」だけになる。
他者性がないとか、他人のことが思いやれないとか、それ以前に、実は「自分性」から離脱できないのだ、このことを僕は完全自分性と呼んでいる。
一幅の絵画を見たところで、絵画の「語りかける」ところなんて、わかりゃしないし聞こえもしない、どんな名画を見たって「自分の声」が湧いてきて、自分の声しか聞こえないのだ、そんなありさまじゃ人の話なんか聴けるわけがない。
現代において、多くの人が常時ツイートを飛ばしていて、各サイトにはコメントやレビューが書き込まれているのだが、あれらはすべて「自分の声が止まらない」だけなのだ、何かが伝えられたり表現されていたりするわけでは決してない/こうして「内心で自分の声が止まらない」という人は、どう努力しても人の話や人の声を聴きとることはできない、一幅の絵画を目にしたところで、眼球はどこか破裂しそうに膨らんでしまっている。

人の話を聴くのが「愉快」となって、初めて人の話を聴けている。

人の話を聴くといって、人の話していることの「情報」を受け取ることだと思っている人がいるが、それはもう「内心で自分の声が止まらない」という人の苦肉の策なのだ、熱心に聴いている「つもり」のその顔は申し訳ないが典型的なアホに見えてしまう/「内心で自分の声が止まらない」ので、話が中に「入っていかない」のだ、それでやむをえず「情報」を覚えるということで、話を聴いているフリをするしかない。
情報を受け取ることは、しんどいしつまらないので、次第に「はあ」となってゆき、「覚えておきます」「がんばります」と申し出て打ち切ってもらうしかなくなる、アホだなーと感じるのでアホだなーと書いておくが、まあ土台の定義だけ変えてあとはじっくり行くしかない、まともな人の話を聴いていて「愉快」になれないのは、自分の内心の声が止まらないからだ、別に人の話に限ったことではなく、この世界のありとあらゆるものの「語りかける」ところが、「自分の声が止まらない」ことによって聞こえないのだ、だからウハハハと愉快になりようがない、この先ずっと愉快になれずに生きていくというのはどうしてもきついぜ。
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「カミサマはいると思いますか」と問われたとき

「カミサマはいると思いますか」と問われたとき、どのように答えればよいか。
1.「いると思います」、これは間違い。
2.「いないと思います」、これも間違い。
3.「わからん、知らん」、これが正解、このことは意外に大事なので忘れないように。

カミサマというのは、第一に「非自分性」の存在だ、「わたし、以外のものがこの世界にある」という概念だ、この概念を仕込まれていないと人は永遠に自分ボンバーでしか生きられなくなる(完全自分性)。
で、1.の回答を見ればわかるのだが、「いると思います」といって、「自分がそう思うから」という自分性を押し出すのでは、すべてが水の泡なのだ、これはカミサマをネタに自分性をボンバーしたということにしかならない。
もちろん、2.の回答も同じだ、どちらも非自分性の真意を捉え損ねているので、この1.と2.はケンカになってしまう。
正解は3.「わからん、知らん」ということ、しかも「わからん、知らん」ということに加えて、「ただ、超絶アタマのいい人たちが何千年も語り継いできたことを、全部ウソと言い放てるほどわたしは根性ありませんね」と言っておけばベストだ。

「僕に十五歳のガールフレンドはいると思いますか」/それさえあなたは「わからん、知らん」なのに、なぜカミサマのことなんか断定できるんだ。

僕に十五歳のガールフレンドがいるかいないか、それがあなたに「わからん、知らん」なのは、あなたが「僕」ではないからだ、つまり僕があなたにとって非自分性の存在だから「わからん」のだ、あなたの「思う」ということは何の役にも立たない、北朝鮮がミサイルを打ってくるかどうかさえわれわれには「わからん」じゃないか。
よくよく考えろな、「いる」と断定できるのなら、信仰心は要らないじゃないか、あそこのコンビニに店員は「いる」と断定できるのだから、コンビニ店員の存在を「信じる」必要はない/われわれが断定できるのは、どうやらマジに叡智につながっていたと認めざるをえない感じの人が、そういう「教え」を遺してくれて、その「教え」が現代まで保存され伝達されているという事実だ、そこまでは断定していい、あとはその伝達されている「教え」が、ただのシャレなのか、それとも……というだけだ。

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