☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
何のために身体を高度操作するか2
ーい面倒くさいので、勝手にどんどん言うと、よく「空間を広く取って」と言っているが、そのときあえて地面は無視している/いきなりすべてのことをまとめてやることはできないからだ、ひとつずつやるしかない。
本当は、「生」ということは「地」につながっていて、生体としての肉体は「地」に立っている、肉体と地は一緒くただ、本当は肉体と地はつながっていなくてはならないが、それを「つながり」というと、どうせ癒着してくっついてしまうので、そういうことじゃない/身体をすばやく操作・変化させられるということは、「地」もすばやく操作・変化させられるということだ、そうでなきゃ演者によって「舞台」がコロコロ変わるということに説明がつかない。
そして、地と共に身体をすばやく操作・変化させるのは、何のためかというと、すべてを魂に従属させるためだ、地も身体も「モタモタしてんじゃねえよ」ということ、その瞬間に変化していないともう「間に合っていない」だろ/身体が動いたからといって何かになるわけではないのだ、そりゃただの運動でしかない、そうじゃない、魂の往く先に「間に合っているか」ということだけが問われるのだ。
人の肉体には「実感」があって、「生」ということにも実感があるから、人はその観測可能な実感モノだけを追跡していってしまい、実感を膨大に確信しながら、同時に「でもわけがわからない」という状態になっていくのだ、それは観測不能の側に人の本質があるからだ/そこを理屈として知ったとしても、それだけではどうしようもなくて、地と身体が一緒になって、霊魂に「間に合って」動くということが主眼だ、これはわけのわからない話ではなくて、本当はとてもシンプルなことを話している。

たとえばわかりやすく、人の「声帯」の機構を見てみよう、声帯というのは喉仏に入っている小さな唇のよう器官で、この唇の隙間に呼気が通ると唇が振動し、それが声帯原音となって響き、人の声・音声になるということだ、単に声帯がビーンと振動して音が鳴りますということ、こんなことは子供だって知っていよう。
ところが人は、単純な思い込みによって、そのビーンと振動している声帯のほうを「わたし」だと思うのだ、なぜそっちが「わたし」かというと、単にそちらが肉体であって、肉体には実感が伴うからだ、実感もあるし生存本能から肉体を守ろうとする衝動も伴っている/そこでよもや、声帯を吹き抜けていく呼気のほうを「わたし」とは思わないだろう、呼気ってただの窒素と酸素のガスなんだから。
だから、同じ声帯原音が発生するとしても、声帯粘膜の側が「わたし」だと思っている歌手がいたとしたら、その歌手にとっては、「わたし」とは歌のことではなく粘膜のことなのだ、またこの粘膜を非常にテクニカルに使ったりしてスゲーという場合があるのでタチが悪い/それは字義どおり「のど自慢」でしかないのだが、むしろそっちのほうが好きで感動すると言い張る消費者も多いのだから、もう何がどうなのか本当のことが行方不明になるのだ。
なぜ声帯粘膜の側が「わたし」であって、そこを吹き抜けていくガスのほうは「わたし」ではないのかというと、別の言い方をすれば、自分の肉体が自分にとって「親しい」からだ、窒素と酸素の混合ガスに「親しい」という人はいないだろう/つまり「のど自慢」方式においては、声帯粘膜が主であって、吹き抜けていくガスのほうが従であるということ、ふつう逆の発想は取れないのだ、吹き抜けていくガスが主であって、結果的に振動している声帯粘膜のほうが従であるなど、親しさの原理において承認できようがない、ただし愛の原理で考えてみると、自前の粘膜は自分のものでしかないので、声帯の粘膜が誰かに届くということはない、だから愛の原理で身体操作を考えると、身体操作は「呼気(主)が通るために声帯(従)が道をゆずる」という方向にはたらくことになる、僕が唱えている身体操作の原理はそちらのほうであり、それは「○○自慢」のためにする身体操作とは逆のものだ。

地と肉体よ不細工であれ、「わたし」が通る道を空けよ。

少女マンガに出てくる登場人物は、男も女もきわめて端正だ、それは端正なものが親しみやすいからだ、十二歳の少女が読むマンガがすべてピカソの絵だったり笑顔がルイ・アームストロングだったりでは親しみづらくて投げ出されるだろう/地と肉体は不細工でよい、ただし、そこで上昇する魂の「わたし」があればだ。
そこに上昇する魂の「わたし」がない場合、地と肉体を不細工とし、しかもその地と肉体と生こそが「わたし」であったならば、その無意味で不細工なものの集合に、サルトルがした「嘔吐」をしなくてはならなくなる、のど自慢が声帯粘膜を「無意味で不細工」と確信したらそりゃあ嘔吐するだろう/まあそんな感じで、諸事情から阻害要因もあるのだが、原則として身体操作は、魂が通る道をすばやく空ける・整えるために為されるもので、身体操作そのものに美はない、どんなカッコイイ車だって、人を乗せて人を運んでいるから結果的に「車がカッコイイ」のであって、人が乗っていないのに「速いぜ、高性能だぜ」では意味がわからない、花火職人がカッコイイというのも、花火が打ち上がるからカッコイイのであって、花火を打ち上げる土台たらない花火職人なんか何もカッコよくないだろう、人の肉体と地というはそういうものだ、少なくとも僕の方針としてはそのような捉え方だ。
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親切、「親」という機能を切ること
人の荷物を運んでやると「親切」だが、身内の荷物を運んでも「親切」とは言われない。
以前、親愛といって、「親」と「愛」は類似ではなく相克の事象だと指摘した。
人の血と筋肉には「親しむ」「親しい」という機能が入っている、この機能を切らないとすべてのことが曲がってしまう。
「曲がってしまう」は言い過ぎか、少なくとも、僕が言っている愛の現象には接触できなくなってしまう。

「親」という機能はとても具体的なものだ、身に起こること・血に生じる機能であって、これを切断(OFF)しないかぎり愛の現象には触れられない。
人は、特に現代において、勝手に他人に「親しんで」いるのだ、そうすることで、実は他人の領域を侵害し、愛がないことをごまかし、誤解に苦しんだり、何かをひた隠しにしたりしている/「親しい」という機能はまるで暴力のように振る舞われてこんにちの世間を跋扈している。
人の血と筋肉は、同じように腹が減り、同じように苛立ち、同じように悔しがり、同じように困るものだ、この性質の共通につけこんで、人は他人と「親しい」という状況を作りだす、だがそれは愛ではない、なぜならそもそも血と筋肉は「人」ではないからだ、それはあくまで生存本能をもった「肉体」でしかない。
「わたし」とは何なのか、誰だって自我のことはわかるが、では「真我」とは何なのか? そのことへ接近するために、思いがけない手続きが要るのだ、「親しさ」を切ること、しかも……

己の肉体との親しさを切れ。

人は第一に、己の肉体に対し、最大の「親しさ」を築いている、そのせいで「わたし」が行方不明になって……つまり腹が減り・苛立ち・悔しがり・困っているのが「わたし」だと思い込むようになる、そうしてすべてのことが我慢(吾我の驕慢)に結論づけられていくことになる。
古く、魂魄(こんぱく)という言い方があり、肉体とその生きる機能――地につながったもの――を、魄(気魄)と呼んだ、一方で、生きる機能とはいえない、観測不能の何かのことを魂(霊魂)と呼んだ/人はつまり「わたし」というのが魂と魄のいずれに属するものかがわかっていないのだ、そして多くの場合、観測可能な上に実感の伴う魄(気魄)のほうを「わたし」だと定義してしまう、その上で「これは真我じゃない」という違和感も抱え続けていかねばならないのだ、なればこそ逆のアプローチを生あるうちに考えなくてはならない。
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ソウルリレー
ちょっと、細かく説明する時間がないが、われわれは遺伝子をつないでいるようでいて、実はまったく別のものもつないでいる。
それは命のリレーであり、魂のリレーなのだが、どうしてもイメージしてもらえるものと、本当のことは違っている、<<人は実は自分ひとりでは本当に何もできない>>。
自分一人では何もできないといって、だから「協力」とか「共生」とかを考えるのだが、そういうことではないのだ、人と命は無関係なのだ、命は命であって、その「命」という、空中に何かあるようなものを、人はリレーしているのだ、それは一種の雰囲気とか風とか、とにかく観測不能だが「ある」ものだとしか表現できない。
人は、何かとつながってはじめて「人」であって、この継承されている命・魂から切り離されると、一人では本当に何もできないのだ、本当にギャーギャーわめくことしかできない、この切断が非常に致命的だった、こんな単純な、かつ想像を絶する現象が人の本質を支配しているとは……

一般にいう「人とのつながり」とは無関係だ、人とのつながりというものではなく、それでいてもっと直接的な「つながり」だ、自分が何の中に立っているかというぐらいのつながりだ。
ボン、と空間に蒸気が満ち、急にそれが「世界」として存在を恢復する、これをリレーしているのだ、魂だがもっと巨大な魂だ、こんなものは先にあるのであって、人がねちねち加工して出現するものではない。
つながれ〜つながれ〜蒸気とつながれ〜という、アホみたいなことしか言えない、でも本当にこれなのだ、僕がよくいう「急に天から降ってくる風」もこのたぐいの一つだ、人は実はそれぞれの出来のよさなんかまったく比べっこしていないのだ。
これを絶やしてはいけない、というより、これから切断された人は本当にもう何もできないじゃないか、いくら生きていたってだよ、<<世界って運搬物なのかい!>> 世界は時間軸の歴史で考えるより、一種の「伝説」がずーっと漂っていると捉えたほうがいい、伝説の匂いをかげ。

運搬物は「記憶」の逆だ。

たしかウィリアムブレイクが(だっけ?)、「記憶」ということをずっと悪く言っていたが、その理由がこれなのだ、「記憶」の逆に「運搬物」があるのだ、これはヒジョーに紛らわしい、記憶は過去のものだが運搬物は「今も運ばれているもの」だ。
人は、愛とか美とか物語とか歌とか言葉とか、男とか女とか、自分でディールできるわけではないのだ、運搬物につながることでしかそれは出てこない、「記憶」から引っ張りだして言葉がディールできると思っているだろ? そういうことじゃない、たくさんの人がいる(いた)理由がこれだ、天元の連帯は運搬物をリレーしているのだ、それは記憶の反対だ(うええこりゃ厄介だぞ、そりゃ男女も消失して当たり前だ)。
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女は邪魔だから愛されていろ!!2

「魅力」において、男が女に勝てるわけがない。
美青年のグラビア写真集が、美少女のグラビア写真集より売れるということはないだろう、美青年のグラビアを買うのはあくまで彼のファンであって、美少女のグラビアは別にファンでなくても「おっ」と思えば買う可能性が十分にある。
「魅力」において、男が女に勝てっこないように、何か別の成分においては、女は男に勝てっこないのだ、街中に男性のブティックのほうが多くなる可能性はゼロだし、一方で女性たちが「鉄人28号」を作るということもありえない。
つまり、ブティック的な局面になれば、男は引き下がるべきだし、鉄人28号的な局面になれば、女は引き下がるべきなのだ、引き下がるといっても一歩だけでよく、ふてくされてトンズラしてしまう必要はない、何も「平等」といって鉄人28号に一歩踏み込んでくるような動機が本当にあるのか。

男同士は、魂で勝負しあわなくてはならないし、女同士は、魅力で勝負しあわなくてはならないのだろう、本来そこは堂々としているべきで、ヒステリーを起こすべきではない、男は「奴の魂はデカかったぜ」と負けるべきだし、女は「あのコの魅力には勝てないわ」と負けるべきだ(まさか全部には勝てねーだろ)。
それが、魂で負けた男が、髪型をかわいくしたり母性本能系で利益を得ようとしたり、魅力で負けた女が、力業方面で沽券を恢復しようとしたりするのは、相互にとってよくない、ごまかし男とごまかし女が野合するのは底意地が見え透いていて不潔だ、ましてごまかし男が正当な女に言い寄ろうとするのは恥知らずだし、ごまかし女が正当な男にすり寄ろうとするのも醜いことだ。
仮に、人間の特性が七つあるとすると、男は[BCDEFG]の徳性で生きており、女は[BCDEFG]の徳性で生きている――1個ズレている――ということになる、そうなると分野は男の特権ということになるし、分野は女の特権ということになるだろう、だからそれぞれはその分野においては一歩引き下がっていたらいいし、差別分野においては、異性を頼って異性にその徳性を借りれば済むことだ/つまり女は男なしにはできないし、男は女なしにはできないという、ただそれだけのことだ。
男同士でをしようとしたら無理があるし、女子会でをやろうとしても無理があるだろう、男が女にを頼られるのは本来光栄なことだったし、女が男にを頼られるのも本来光栄なことだっただろう、男女のどちらが上なんてのも定義次第のことであって、男を上にしたら人々はAの向こう側へいくし、女を上にしたら人々はZの向こう側へいくというだけのことだ、とにかく男女は互いに邪魔をするべきではない/とりあえずこれらの話で、僕自身は新しい体勢が得られた(だからまあ、おれはもうOKだぜ)。

女が邪魔な場合、上に置いておくに限る。

うーむ、やっぱりこうなる!! じゃあやっぱりおれがボトムじゃないか/となると、トラブルは二重に起こっているということだ、ひとつは男女が互いの邪魔をするということ、もうひとつには、邪魔をしないように棲み分けをつくると、現状では女を「上」に棲ませるしかないということだ、このことが当の女性の側から「やめてほしい」と言われ出すという状況があり、そんなこと言われましてもという、まるで面倒に巻き込まれた不動産屋のような状態があるのだった。
何はともあれ、男は女と関わってはいけない、女と関わるということは、男が己のを捨てるということだし、そんな男に関わる女というのは、やはりを捨てた女だからだ、男と女は関わりなどもたず、だからこそ相互に愛し合っていないといけない、むろん[BCDEFG]の六つは男女共有だからいいのだ、共に生きましょう、ただ残りのひとつずつについては相互に愛し合うしかないということ、そして、その相互のどちらが上とかいうのはもうそれぞれがラクなほうでいいんじゃないかな〜(無責任)。

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女は邪魔だから愛されていろ!!

めだ!! さまざまな情報を統合した結果、現代は「失敗」したという結論に行き着かざるをえない!!
なぜかといって、女が邪魔すぎるのだ、女が邪魔な上に、女に毒された男も、使い物にならなくなってしまった/これは男女差別の話をしているのではなく、平等……ではなく、もっとヒデエことについて話している。
なぜ女が邪魔かというと、女は「ワッショイ」を言えないからだ、女に毒された男も、「ワッショイ」は言えなくなってしまったが……すべての女は、「オカン」と同じだけの存在力を誇っている、だから猛烈に邪魔なのだ、われわれはどうしても「落語家」をイメージしたとき、それを女性の像と声でイメージはしない。
そのことをもって、女はクソということではないのだ、女は邪魔だから、愛されていたらいいのだ!! 女がイライラしているのは、女性差別のせいじゃない、女に毒された男が、女から見てもなーんか気分悪いので、しかもなぜか誰も自分のことを愛さなくなったので、そのことに袋小路になってイラついているだけだ。

男とはいうのは何か、男というものを定義しよう、男というのは「女と関わりのないもの」を男というのだ!! うーんこれでスッキリする。
男というのは、女と関わりがないから男なのだ、そして関わりがないから何もないかというと、そうではない、関わりはなくても男は女を愛していたのだ、だから昔の歌手は晩年まで歌い続けることができた(近年の歌手はすぐ活動終了させられる)。
女が、技術的・技能的に男より劣っているということはない、だから技術的なことは女もバリバリ頑張ればいい、だが男と女には決定的な差があって、女はシャウトしないのだ、実際 YouTube などで検索しても該当例はほとんど出てこない、女がシャウトしようとすると例外的にデスボイスになってしまう(デスボイスは魂が死んでいる声だからシャウトの意味が違う、スクリームだ)(ごく一部、シンディローパー等を除く)。
なぜ女はシャウトしないのか、また、仮にシャウトしたとしても何が違うのか、それは簡単に言うと、女の声には成分がひとつ足りていないのだ、男のシャウトには感情とは異なる "何か" の成分が一つだけ乗っかっている、だから女のシャウトと男のシャウトはどうしても異なるのだが、女にはこれがわからないのだ、そもそも女は、男が何に叫んでいるのかが根本的にわかっていないはずだ。

男と男は、魂の勝負をしているが、女はそれが感覚的にわからない(男性固有のパラメーターだからだ)。

いわば高齢者にとってのモスキート音みたいなものだから、女にはその戦いが見えなくて当たり前だ、そこで女がずっと首を突っ込んでいると、戦いの場にポカーンと女が突っ立っているということがよくあるのだ、それで「邪魔!!」となる、しかしそんなことで罵倒されたら、女はわからないので非常に気分を害してしまう。
しかも最近は、男も女に毒されてしまって、その男性固有のパラメーターが男にもわからなくなってしまった、それで男性も、技術的・技能的には向上しているのだが、魂の勝負というものはスッカラカンになってしまった、何をどうやっても石原裕次郎や松田優作みたいになりえないのはそれが理由だ(なりたいとも思わないだろうが)/女が邪魔だというのは、女が無能だということではなく、そもそも男の勝った・負けたと、女の勝った・負けたは違うのだ、男は女の知らない "何か" の成分で勝ったり負けたり、していたのだ、過去形で言わねばならないのがたいへん残念なところではある。

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近年の男女のつじつまを解明する方法

まりむつかしく考えずに、「女性が男性にありがとうを言う構図は絶対に許さない!!」と書いて壁に貼っておけば、近年のすべてのつじつまが解明される。
僕はこのあたりの経験とデータがとても多いので、よくわかるつもりだ、僕に向けて「ありがとう」と言う女性と、決してそれだけは言わない女性、この両者は明瞭に分かたれている/別にどっちが正しいというわけでもないが、一方はごく素直に「ありがとう」と言って幸福に上気するようであり、一方は「ありがとう」と言うときには強いストレスを押し切っている様子がある(慇懃無礼の例もある)。
「女性が男性にありがとうを言う構図は絶対に許さない」、これは現代のルールであり、人々の知らないところで為された何かの「契約」だから、しょうがないのだ、女性が男性に対して「ありがとう」と言うのは、自分の場合であれ他人の場合であれ大きなヘイトと拒絶感が発生する/なぜという理由はなく、ただ契約なのだ、たとえ自分がその契約に対して不本意でも、契約そのものは消えないので、自分の内でその契約と衝突しながら、けっきょくはそれに従って生きなくてはならない、つまり思想的にではなく契約的に、現代の女性は男性に対して「ありがとう」は言えないということだ。
別にそれで何が悪いというわけでもないし、誰が困るというわけでもないので、このまま行けばいいのだが、ときにより不明の「危険」が生じるので、たとえば僕の場合、やむをえずワークショップの先生という立場を新たに作ったのでもある/先生に対して「ありがとうございます」と言うことは、まだ契約上禁忌とはされていないから、このことは「ありがとう」のガス抜きに機能しているのだった。

このことは、思考実験してみてもわかる、たとえばあなたが女性だったとして、同年代の「Aさん」に、何か特別な場所に連れていってもらったとする、そしてそのときAさんに、「ありがとう、こんなすてきなところに連れてきてくれて」と言うとして……そのとき「Aさん」が女性なら何のストレスもないが、「Aさん」が男性だった場合、あなたは何か特殊なキャラづくりをしてから、当該のセリフを言うしかないはずだ、何かただならぬ抵抗とストレスが掛かり、女性は男性に「ありがとう」とは言ってはならないというルールが水面下に潜んでいることが顕(あきら)かになる。
もちろんこのことは、男女観にも関係しており、「こんなものが男性と呼べるのか」という場合には、逆にすんなり「ありがとう」と言えたりするのだ、だからこそ現代の歌手(俗にいうアーティスト)は、男性の中でも特に線が細く、女性と変わらない髪型をしている人が多い、そのほうが女性が素直にキャーキャー言えるということがあるのだ/つまりAさんが、そういうマッシュルームヘアーの、細身の、物憂げなタイプなら、女性は素直に「ありがとう」と言えることになる。
さらには、もっと典型的な例を考えるなら、Aさんがオカマなら、女性から「ありがとう」と言うのは最もイージーになる/このようにして、現代の女性のほとんどには、本人の思想にかかわらず、何かしらの契約によって先に、男性および男性性への強力なヘイトルールが課せられているのだ、それは即座に全男性の死滅を熱望するものではないが、やがてストレスが蓄積する先、実際にそうしたマニアックなフェミニズム・ミサンドリーが出現しているという事実がある。
いわば幼少期から、反日教育を受け、日本を敵国とみなせという刷り込みを受けてきた一部の勢力のようなものだ、そうした人々は、もはや無条件で原始契約上の反日・ヘイト感情を持っているので、日本人を見ただけで深奥に「敵」とみなす反応が起こるし、仮にその後日本人に何かの愛を受けたとしても、まかりまちがっても「ありがとう」なんて言うことは "絶対に許されない" だろう、それはこころの問題ではなく精神の構造の問題なのだ/よって現代の女性にとって、男性に「ありがとう」と言うことは、「イヤ」というより「正義に反している」とみなされることになる、だからすべての女性は今、あくまで「正義」の名の下で男性に激怒している。

先に僕が土下座すれば、女性も僕に「ありがとう」が言える。

不思議なものというか、実は不思議なものではなく、すでに解明済みのことなのだが、そういう契約が為されているのだ、「絶対に許さない」という契約が先にあるので、僕が土下座をすると、女性は僕を許すことができ、許した上でなら素直に「ありがとう」が出てくる/これは本当に、実験をしてみたらわかる、「そんなわざとらしいことをされても」と初めは思うのだが、僕が土下座をした瞬間、何か自覚のない未知のものが精神の底からワッと湧き出てきて、「よろしい」という感情が起こるのだ、本当にそういう契約が為されている、だいいちそうでなければ現代のわれわれが「騒動を起こした芸能人のことごとくについて謝罪(低頭・土下座等)を心待ちにしている」という現象の説明がつかない。
一種のイニシエーションみたいなものだ、人間の精神は、いわゆる「こころ」よりも根底にあって、構造化されてその当人を支配している/実験してみるとわかる、あなたが女性だったとしたら、あなたは僕に向けて、わけのわからないまま「許します」と言ってみればいい、それが何のことなのか、当人がわからなくても……あなたが僕に向けて、「許します、許します、許します……」と言い続けると、なぜかそのたびに、精神の奥がぐらつき、「何これ?」と不穏になっていくという現象がある(注・それ以上は精神構造が損傷するので実験ていどにしかするべきではない)、そのように、あなた自身がそのことをまったく知らなかったとしても、現代の女性であるあなたが僕に向けて第一に覚える感情は、実は僕に対して「許すか・許さないか」なのだ、人はそのように、実は当人の「こころ」ではなく、契約で組まれた「精神」の構造に支配されている。

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何かを話すのは何かを愛している人だけだ2
々の知り得ないレベルで、「話せない」ということが、人々に多大なストレス環境をもたらしている。
正確には、話せないことがストレス環境なのではなく、話せないということが、「ストレス環境」を何の値打ちもない「ストレス環境のまま」にしてしまうということだ/かつて人々は、それを単なるストレス環境でないものにする営みを持っていたということ。
すでに「話す」ということは失われてしまったので、今さら「そうか、話せばいいんだ」と、安直に捉えることは適切でない、すでに失ったものを今さら「話そう」とやりだすと、それは必ずただの言いつけか、悪くは「呪」か、そうでなければ、最善でもただの「問答」になってしまう/人々はなるべく早急に、自分が「話す」という徳性を失ってしまったことを発見しなくてはならない、なるべく早期発見がいいというのは誰だって知っていることだ。
人は、何かを愛しているから話せるわけで、つまりかつては、何かを愛していたから話せていたわけだ、しかしすでに「愛する」というのも、不思議なものではなくわかりやすい「思い入れ」と誤解されてしまったので、この誤解に基づいてさらなる誤解の「話す」をやり始めると、ますます迷いの森に入っていくことは確実だ/だから今のところ知っておくべきは、人々は「話す」ということを失ったせいで、ひどいストレス環境の直撃下を暮らしているということ、それはまるでオゾン層を破壊された直射日光下を暮らしているようなものだ、そのことを認めずに日光浴なんかしたらとんでもないことになってしまう。

ワークショップ方面では、大前提として「言葉の恢復」「言葉の獲得」を最終目標にしているので、やがてこの「話す」ということにも直面しなくてはならない、今はその前段階として「物語」をやっているところだ/なんというか、やっていることはまるで古代の大学みたいだ。
「話す」ということは、実は話の内容が主体ではなく、やがて話の中から形成される――恢復される――「言葉」のほうが主体だったのだ/すべての「言葉」には、その言葉という事象そのものに、すべての人が(生きものが?)愛せる普遍的な愛があった、その「言葉」という事象に到達することが、本来の「話す」ということの目的(動機)だった、だがこの話はハイレベルすぎて一般には何の指標にもならないだろう。
たとえ金曜日に飲み会を開いて、そこでヤンヤヤンヤと盛り上がったとして、またそこで何かが大声で忌憚なく話されたように思えても、月曜日になって上司と部下のあいだで――頭上で――ひとつの「言葉」が共有されているということはまずない、そうして共有されているものがない以上、人々のあいだにはひたすらストレスしかない。
共有されている「言葉」が、全員の頭上にあって、その人々の場に今日もゆくというのは、なぜか無上のよろこびがあるものなのだ、それはワークショップに来ている連中なんか、スタジオの階段を下るあたりでヒシヒシ感じたりしない? こうして頭上に共有される「言葉」があるということが、物語の本質なのだ/この頭上の言葉が恋しくて、でもそれが現成しないから、さまざまな業界はさまざまな業界用語を生み出すのだ、だがその語は業界にはびこっているものであって、頭上で人々をつないでいるものじゃない、証券マンがいい「ペロ」を切ったとして、そこには一抹のうれしさがあるものの、それだけでは背後の膨大な寂しさには対抗できていない。

「言葉」はマジで空の上にある。

これは僕がイタいことを言っているのではなく、空の上にある「言葉」が視えないポンコツであるお前らが悪い、空の上にある「言葉」が視えないから、空の上に言葉があるというような「イメージ」を自作するのだろう/マジで空の上にあるものを、どうして「イメージ」する必要があるのか、空の上に宇宙があるのは当たり前だが、そうして実際にあるものをわざわざ「イメージ」する必要はないだろう。
そして、この空の上にある「言葉」だけが、われわれを赤の他人同士、殺し合いのストレスものではなく、ひとつの能動的なつながりにしてくれる、なぜそんな作用があるのかはよくよく考えるとわからないのだが、実際にその作用があるのでそれを「愛」と呼んでいる、つまり愛というのは人為的なものではなく、さらには人智が及ぶものではない、あるのはただその作用を帯びるか否かという差だけだ/まったく想像がつかないと思うが、その差がつくのは空の上の「言葉」が視えるか・視えて共有されるかというところなのだ。
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何かを話すのは何かを愛している人だけだ
業マンというのは、「業務」そのもののニオイが嗅ぎ取れるようでなくてはならない、マンガに出てくる営業マンの話はまったく的外れだ/営業マンは、「誰でも必ず、何か困っていることがある」という前提で、その困っているニオイを嗅いでいるのだ、もしそのニオイが見当たらないときは、自ら工作して相手を「困らせれば」いい。
人は何かしら、困っていることがあり、あるいはこの先に、何か困る局面に陥り、そのときの脱出口として、営業マンとコンタクトを取ることになる、営業マンがいつもあちこちに出向いているのは、そのときに何かを売ろうとしているのではなく、相手が困ったときに自分を思い出すように印象づけをしているのだ、「お困りのときはご相談ください」と、だから営業マンはずっと外回りをやらされている、そのときが空振りでも、やがて相手が困ったときに網に掛かるというのが本当の狙いだ。
一方、その「営業」から離れたとき、人は何をするのかというと、いっそ何もすることはないのかもしれない、余暇は休憩して、何か好きなテレビでも見てビールを飲んで、少しは身体を鍛えたりして……と、実際に人々はそのようにして生きている、人はこうして、多く「営業」を学ぶと、その後はもう営業以外のことは消失してわからなくなってしまうというのがパターンだ。
仮に、上司に「お前もそろそろ結婚したら」と言われて、出世も考えるとまさにそのとおりと思えて、街コンにでも参加してみることにすると、いざ街コンの場で何を話すかというと、「こういう会社で、ふだんこういう営業をしていて……」ということぐらいしか、やはり話すことはない、あとはやはり、「休日はジョギングと、あとはテレビとビールですね」「アメリカの連続ドラマが面白いんですよ」という感じで、余暇の趣味が合うということぐらいしか、話すことがない、それが今のところ人々の大きな現実だと思う/そもそも人が「話す」というのは何だったのだろうか。

営業マンが業務を持っていなかったら、何も話すことがないように、人は何かを愛していなかったら、実は何も話すことがない、これは鉄則だ、営業マンが業務という主体を背後においてしか話しえないように、人は愛という主体を背後においてしか話しえない。
それでも、人は何も愛していなくても、何かしら話をしているように見えるが、これは上手に欺瞞されたスリカエなのだ、ツイッターが大流行して人々の必須ツールになったように、人はそのとき話すのではなくて「つぶやく」のだ、「○○という映画を観ました〜、うーん、わたし的にはイマイチだったなあ笑♪」というように/人は本来、愛した映画についてしか「話す」ということはできない、だから何かを愛することがない人は、話すということをスリカエて上手に「つぶやく」ということまき散らす。
営業マンが、業務のニオイ、人が「困る」ということのニオイを嗅ぎながら、営業トークをするように、人は本来、愛の気配、その光を脳裏のどこかに垣間見ながら、何か愛していることについて話し合うのだ/営業トークの本質が、実は人の「困」にあるように、人が話すことの本質は、実は人の「光」にある。
「困ったときはご相談ください」と、営業マンは「困」に対する脱出口を売り込んでくるように、「光ある人は話そう」と、人は愛に向けて解放を与えあっている/それが本来の営みだが、今は何も愛することがない人の、大声のつぶやきが交わされあっているという状況がある、さらにはその横暴ぶりを逆にコミュニケーション能力と呼ぶ側面さえある、実際こうまで人が「話す」ということがなくなっていくと、いざ「話す」ということが目の前に展開されたときも、もう話を「聞く」という機能が立ち上がらないということがあるのだ、だからいっそ「つぶやきこそコミュニケーション」? 人々は今そういう局面に至っている。

今や、「話す」と「つぶやく」は、「剣術」と「剣道」ぐらい違う。

明治時代、廃刀令が施行され、サムライが刀を振るうという時代は終わったので、剣術は竹刀で相互を打ち合うスポーツへと変化していった、剣道においては、素人目には相打ちに見えても、コンマ数秒でも先に相手を打った者が勝ちとなるのだが、もちろん真剣でそれをやったら二人とも死んでいることになる、「じゃあコンマ数秒だけ早かったなんて意味ないじゃん」というのは、剣術の考え方だ、だがもう剣道の思想が剣術に戻る道筋はないし、剣道家は剣術性に戻る必要を覚えないだろう/そうして剣術が時代の主流ではなくなっていったように、人が「話す」ということも、この現代で時代の主流ではなくなっていった、「つぶやきあうのと話すのは意味が違うじゃん」という主張は、きっといつまでも正しいのだろうが、その主張はもう必要とされなくなったと言える。
このことは、実験して確かめられるほどすでに明らかなことだ、僕が何か愛していることについて「話した」として、それを聞いていたはずのAさんが、僕に向けて「話そう」とすると、声の性質そのものが違う・声の性質が噛み合わないということがその場でわかる、それはつぶやくことに使われてきた声なので、そこで話された何かに対する愛を否定する音色を持っているのだ、何かがドスンと落下する感触がある、数回も実験すればこのことは誰にでもわかることだ/このことは、すでに嘆くような段階にはなく、疫学的な現象として認知し、現在の出立点として認めるしかないという状況だ、そこから「話す」ということを恢復するかどうかは、この時代に剣術を覚えるかどうかに似ているだろう。
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言葉を信じること、世界(という錯覚)を信じないこと
「愛の世界」についてコラムを書き上げたので、もうじきアップロードされるだろう、お楽しみに。
それにしても、書き切れないことがいくらでもあって、「言葉」というものに今さらながらナゾを感じる、もはやナゾを確信すると言ってもいいかもしれない。
ふつう、小説などを読むと、言葉から文章が成り立ち、言葉から物語が書かれているように見えるが、どうも真相はそうではないようなのだ。
言葉は物語の道具ではなく、物語が言葉の道具なのだ、言語が言葉になるために物語を必要とするというか、とにかく「言葉」にはわれわれのまったく知らないナゾのよろこびがある、生きるために言葉が必要なのではなく、言葉のために生きるということを使えということのようなのだ。

言葉は物語を為していなくてはならない、それは、物語でないと「言葉」が生じないからだ/物語を表現する便宜に言葉が使われるのではなく、言葉を現成させる便宜に物語が使われるということのようだ。
われわれはさまざまな思いをもち、その思いを言葉にする、ように見えるが、おそらくそうではない、われわれがいずれ言葉に到達するために、われわれのこころには思いが起こるように設計されているのだ、これはとんでもない方向転換だと思う。
ふつう、言語というのは物事を分割するために使われ(tell A from B)、分割するために言語は「力」を持つ、物事を分割するのは「力」だからだ、この力のことを「呪」という、だが「言葉」というのはまったく不可解で、たとえば「男と女」というとき、それが呪なら男と女は分離・分割されるのに、それが言葉なら男と女は「男と女」というひとつの事象に統合されてしまう。
たしか聖書には、人がバベルの塔をおっ建てたから、神の怒りに触れて言語をバラバラにされたというような記述があったと思うが、それで言うと、バラバラにされる前の言語はどのようだったのだろう? これだけ無数にある言葉のすべてが、ことごとく統合の力を持っているのなら、もういっそ言葉のひとつごとに、引き当たる宇宙が用意なり生成なりされているとさえ考えたくなる/言葉というのはそもそも何次元なんだ、いろんなことがわかりやすいこの世において、「言葉」だけ急に理解をぶっちぎっているのが困る。

「言葉」は「世界」より先にあるのかもしれない。

そうでないと、つじつまが合わないのだ、そもそも世界というのは状態的には存在していないのじゃないかね、存在と非存在を同時に成り立たせているときだけ、特殊な事象として「存在」を生じていないか?
言葉を信じるということは、状態的な「世界」(という錯覚)を忘れることだと思う、これまでに「時間が流れているというのはウソっぽい」ということは指摘してきたが、世界は基本的に存在していないというのは割と新しい指摘のはずだ、「世界」という事象が生じるのは、「世界」が存在と非存在の二つの状態を同時に取ったときだけだ、そして世界の存在も非存在も、同じ「言葉」が同時に作り出している気がする、いっそこの世界には世界なんかなくて言葉しかないと捉えたほうがよいぐらいだ、たとえば「目黒区」という言葉より先に「目黒区」という世界があると錯覚していたら、その人はもう目黒区という世界を歩くことはできない、真相は目黒区なんて存在しておらず、目黒区という言葉がその存在と非存在の状態を同時に成り立たしめるから、そのときだけ目黒区という世界の事象が生じるのだ/となるとやはり、言葉より先に世界があると思っていたら、それだけですでに言葉を信じていないということになってしまう、言葉を信じるというのはなかなかシビアな階層だな。
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男女における美の格差2
力は「力」だから、重さに属している。
美は「命」だから、光に属している。
重さと光はそれぞれ反対だから、魅力と美も、実は反対方向にある/美術学校の人がアイドルのデッサンをしないのはそれが理由だ。
ときおり女性のバレエダンサーが、衆目の前で半裸のまま踊ったりすることがあるが、その舞台はストリップショーの魅力とは明らかに異なる性質を持っている/それは漠然と「ゲージュツ」と言い張っているものではなく、性的な力を消し去って美の命・光を現出させようとしているものだ、美術館に置かれているどの裸婦像もオナニーのオカズには(ふつう)ならないのと同じで、バレエに示される女性の半裸に性的な「魅力」はない。

力があるほうが、生きていくには有利だ(生存競争)、だから若い女性は、自分の「魅力」が失われないうちに、金持ちと結婚して勝ち組になろうとする/これは「魅力」という力を「お金」という力に為替取引していると言える、そしてこの取引は何も不当なものではない。
ただ、お金持ちのおじさんのまわりに女が集まってくるのは、たいてい純粋な「お金」という力の作用であって、そのお金持ちのおじさんが「美」を具えているからということはごく少ない、そりゃ女性なら誰でも知っているだろう、カネの尽きた金持ちに誰も用事はない/あくまでお金持ちのおじさんは、女性にとっては「生存競争」の上で最高のグッズということにすぎず、だから正直なところを言えば、お金持ちのおじさんは自分と結婚してくれて、その直後に安らかに急死してくれるのがベストなのだ(惨死を求めているわけではない)、それも別に不当なことではなく、当のおじさんもそれぐらい自明のことは前もって認知していなくてはならない。
われわれに内在している、生存競争という本能によって、お金そのものが魅力を持つように、若く性交を誘引して目立つ女体も、それ自体が「魅力」になる、この場合の生存競争というのは、自己の生存ではなく自己遺伝子の生存・拡散の競争ということなので、本能は "目立つ受け皿" に誘引されるのだ/それはブサイクな子孫より目立って魅力ある子孫のほうが拡大して繁栄するということを遺伝子が見逃さないということだ。
若い女性、特に「かわいい」「エロい」とみなされる女性は、魅力ある "目立つ受け皿" としてチヤホヤされるが、その中で「きれいだ」「美人だ」と言われることで、女性はしばしば自分にうつくしさがあると誤認することがある/残念ながら魅力たっぷりのあなたも、そこに美があるかというと話は別だ、むしろ経験的には賢明な――聡明な――女性ほど、自分の「魅力」が美とはまったく異なるということを先に知っていて、その落差を厄介で呪わしいことだと感じて苦しんでいることが多い、だから魅力に寄ってくる男どもをどうしても毛嫌いしてしまうということになる(実際に迷惑千万でしょうがないという正当な実情もある)。

ほとんど場合、終生「魅力」にしかセンサーがない。

われわれは生きものだから、生存競争は半ば強制的にあり、そのまま生存競争以外のものには触れずに生きたら、むろん生存競争だけの生きものになる、魅力と財力と体力と筋力という、力しか生存競争においては必要とされないのだ、あとはせいぜい知力や判断力ぐらいのものであって、そんなものは基本オマケでしかない/これら「力」への希求は加齢によって死が近づいてくるほど露骨になり、莫大な力で最大まで生き残ろうとする(生存本能)、そしておそらくは死のギリギリ直前になって、「こんなものすべて、何一つ本当に欲しいものではなかった」と気づくようだ、むろんそのときになって人が救われるというわけではなく、手持ちが空っぽ、「うつくしいとき」がひとつもなかったという悲嘆を抱えて、そのことに思索もできないまま死んでいくしか実際にはないようだ。
われわれの大半は、「生存本能」イコール「力」、というだけの原理で生きてゆくので、「魅力」についてはハアハア詳しくなる一方、「美」などというものには最後まで無縁なのだ、別にそれが悪いということはまったくなくて、われわれには基本「魅力」についてのセンサーしかないために、そもそも男女でいえば女性のほうが美においてビハインド(不利)だということが、いつまで経っても気づかれないということをここに報告しているだけだ/戦争で犬死にするのは男性市民の役目であるべきで、女性市民が前線に出て犬死にするべきではないが、それは女が出産能力を持っているという事情に加えて、「美」において不利な女性をすっぴんのまま銃弾で死亡させることにはあまりにも美がないからだ、「ふつう」のおっさんたちがオラオラ言いながら戦場でバタバタ死んでいくことにはまだギリギリの美がある、これはおっさんたちが戦場で犬死にできるだけの「美のアドバンテージ」を生まれつき持っているということだと捉えていい。
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男女における美の格差
いがけない話がある。
たとえば男は、無精髭の、寝癖頭のまま、咥え煙草をして、熱心に本を読んでいてもいい。
女はそういうわけにはいかない、女がすっぴん寝癖でルノアールで咥え煙草というのはキツい、女は身だしなみを調えてお化粧などをしなくてはならない。
それはなぜかというと、女のほうがうつくしさの属性が高いから……ではないのだ、実は女性のほうがうつくしさにおいては生まれつき「不利」なのだ/女性は美に特権があるのではなく、実は美において生まれつき不利だから、美を補ったり調えたり飾ったりしなくてはならないということなのだ、このことは一般に真逆に捉えられている。

男性が、すっぴんで、ヨレヨレのTシャツとデニムを着、まともに美容院にも行っていないという、つまり「何もしていない」状態だと、男性は「ふつう」になる。
同じく女性が、すっぴんで「何もしていない」状態だと、女性は「ふつう」にはならないのだ、女性は「あばずれ」になってしまう/「あばずれ」はあいまいな意味だが、もともと「ビッチ(売女)」の意味は含まれていない。
美において、ニュートラルにすると、男性は「ふつう」になるのに、女性は「あばずれ」になってしまう、だから女性は美について補ったり調えたり飾ったりせねばならず、またそのように正当な努力をしているぶんには、誰もその女性のことをバカにしない。
なぜこの、 "女性のほうが実は美において生まれつきビハインドである" ということが、まったく逆に捉えられているかというと、「美」と「魅力」を混同しているからだ、あるいは「魅力」に酩酊したがる逃避者が美のことをまったく知らず、女体を魅力においてチヤホヤ囃し立てるので、情報が混乱したのだ/そこでわれわれはまで混乱することはない、女性は生まれつき身体ごと「魅力」に偏っており、「美」においてはビハインド(不利)の状態にある、男とはスタート地点が違う。

50歳のおじさん連中と、50歳のおばさん連中を、それぞれふんどし一丁の姿にして街中を歩かせたら、女性のほうがキツいということがわかる。

女性は一般に、「花の命は短い」と言われ、若いうちに美を失うと思われているが、実はそうではないのだ、失っているのは美ではなく「魅力」なのだ、そして「魅力」が失われると、実は「美」が低いという本質が露見してくるという仕組みだ、もちろんそのビハインドはスタート地点のことであって、その後の巻き返しによっていくらでも女性は単なる魅力とは異なる美を獲得することができる。
実は「美」そのものはエイジングとはあまり関係なく、エイジングで失われるのは生物的な(遺伝子的な)「魅力」のほうだ、魅力というのは「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」のうち「魅」の力とされていて、人の弱みに作用して引きずりこむ不穏の力のことを指している、若いうちはまずこの魅に取り憑かれる/「美」そのものがエイジングにはあまり関係していないというのは、たとえば「大野一雄」あたりで画像検索をすると一目瞭然にわかる、一見すると「なんだこれ」とみえるが、これを「はしゃいでいる男子中学生の映像を見せられる」ことに比較すれば、その姿に明らかな美がひしめいていることがよくわかる。
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言葉とミリ秒
の世界には言葉がある。
人が言葉を使っているように見えるが、それは逆で、もともと言葉は人より先にこの宇宙にある(説明はめんどくせえ)。
人が使っているのは「言語」であって、これは言葉の中から、その一成分である「意味」を取り出して、道具的に使っているにすぎない。
われわれは、人の中から言葉が出てきているように思っているが、逆だ、本当は言葉の中から人が出てきている、ただしそこでいう「人」というのは、われわれが一般に認識している「人」ではない。

つまり、ミリ秒的な考え方でいうと、人は言葉に接触したとき、きわめて短い時間、何万分の一秒というような単位で、言葉そのものを目撃している。
その直後に、「言語」という認識がやってきて、そのときにはもう、認識は「人」→「言語」→「意味」という認識にすり替わっている、つまりミリ秒のうちに「言葉」という体験の時間は終わってしまっているのだ。
このミリ秒の時間は、「疑う」という装置を自分にかけているうちは、もう絶対に間に合わないので、疑っているうちは「言葉」そのものを体験することは不可能になる。
疑うも何も、どう見たって、目の前には明らかに「言葉」が示されているのだが、われわれはアホなので、言葉と言語の区別がついていないのだ/われわれはまったくアホなことに、言葉がイコール世界だという性質をわざわざ切り捨てて、世界とは無関係になった「言語」のほうをありがたがって、その意味を追跡している、そのほうが「わかる」からというしょうもない理由によってだ。

名札を背中につけるバカはいない。

人より言葉のほうが先に届いている、よーく目の前のものを見てみりゃわかるよ、当たり前だろ、こんなテキストブログ、言葉が先になくてどうやって何かが届くわけがあるんだ。
言葉より先におれがあるわけがない、おれはおれを届けているわけではない、そんな無価値な商品を届けるほどおれはバカじゃないぞ、おれは言葉の中に棲んでいるおれを届けているだけだ、よーく見ろ、先にあるのは言葉の命であって、おれはその命を借りて生じている人にすぎない、おれが命を持つとしたらそういう手続きしかないのだ、人が何かのスタート(起点)になれるわけがあるか。
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男女関係と上下関係8
いうわけで、いつまで続くんだこの話、もうそろそろ引き上げて、春の陽気でも浴びにいこうかな。
男尊女卑なんてダサいし、間違っているに決まっている、そしてセクハラなんて、是非の以前に「キモい」に決まっているので、そんなことは一考する値打ちもないのだ、根本的にそういう話ではない/セクハラ基準で考えるのは、空想マンガ基準で男女のことを考えるのと同程度にアホくさい。
本当に言いうることは、恋あいというのは、一般に思われている恋愛なんかより、本当はずっといいものだということだ、一般に思い描かれている「ベスト恋愛」そのものが見当違いなせいで、そもそものモデルが破綻していると言える/何の神話にも物語にも接続できない月9めいたイメージのそれを「恋あい」と思っているから全体の話がしょーもなくなるのだ。
男尊女卑だろうが、その逆だろうが、男女が性的にも全体的にも、抑圧されるようではいけない、そこでまた誤解があって、男女関係に上下があったとして、それで女性が抑圧されるとは限らないということなのだ、上下関係があったほうが解放されるということはいくらでもありうるだろう/あなたは自分が見上げてしまう男性を慕って生きることに解放を覚えないだろうか、そのことを「抑圧!」と感じるだろうか、んなアホな。

人はゲンキンなもので、自分が神話の現成の一端にまみえられたら、そのとたん、スッとおとなしくなって、やれ男女平等とか女性の権利とか言わなくなるものだ、「なんだ、神話がなくてさびしかっただけかよ、十数年も暴れておいて」というような話になる/そりゃ神話に接続したら、魂の得る光の量がケタ違いだから、考え方も変わろうってものだ。
そしてその後、神話があまりにも誇らしいものだから、神話が現成したのは自分の功績だと思い込んで(永遠事象の強奪)、自分の身分を格段に引き上げ、でも自分では「ぜんぜん神話なんか現成しないじゃん」という恥をさらすことになるんだな、この恥はたいへん屈辱的なので、このときに軸を転向させてもう戻ってこない人は多数ある。
僕は実際のところ、男が上とか女が下というような感覚はまったくない、ただ上下の組み方によって、神話が近づくか遠のくかという感覚の違いは如実にある/神話が遠のくセックスについて、若い人が興味を持つのはわかるが、実際にやってみるとたいしていいものじゃないぞ、獣のようにセックスしてみたいのはわかるが、本当にそれをこなすと「獣ってこんなに薄暗いのか、こりゃしんどいわ」としか感じないものだ。
神話の現成というのは、ゼクシィに頼って神話風味のイメージでパンパカパーンとすることで為せるわけではなく(当たり前だ)、なぜこの音符の配列で「命」が生成されるのだろうというような楽譜レベルの「不思議」、その「一連の形式」の厳密な履行によってのみ為される、そんなわけのわからないことに自信のあるやつは手を上げてみろ、二日間で496行の愛の韻文を書いて、その詩文に命が生成していたら、あなたは「一連の形式」について冴えているということになる、僕はウソ隠しなく、そういう奴を「上」として認めればいいと思っている、何も男女というファクターだけで上下関係を決める必要はない。

あなたが下なのは、女だからじゃなく、単に愛の言葉が降りてこないからだ。

もちろん同様に、愛の言葉が降りてこない男は、愛において女より上を言い張ることはできない、そのときゃ男も女もただの行方不明者でしかない/そもそも愛の言葉が降りてこない奴が「恋あい」とか言い出してんじゃねーよ、ラブレターが書けないのにどうして恋あいができると思ったのか、涙で七本のアロエが育ちきるまで反省しろ。
愛の言葉を得られる者が「上」になれば、そのまま「下」にも伝達できるから、愛の言葉が上下に流通するじゃないか、そうしたら「解放」だろ、それをオメェ、愛の言葉を得られない者を「上」にしたら、上も下も愛の言葉ナシになるじゃないか、じゃあ「抑圧」だろ、かといって左右に並べたとして、それだと愛の言葉を得られる者「だけ」がその言葉を持つことになるじゃないか、そいつだけ解放されて一方は抑圧されたままという、そうしたら結果的に不平等になるだろ、じゃあ順当の上下が必然の選択じゃないか/それが「恋あい」というものなのに、揉めている連中はどこのインチキ恋愛の話をしているんだ、もともとの恋愛のモデルがブッ壊れているんじゃないのか、そこには愛の言葉ではなく月9のBGMが流れていたりしないか。
正しく見ないとな | comments(0) |
男女関係と上下関係7

が長くなって、われながら気にくわないが、このネタはやはり「ずっと続いている」のだと思う、揉めごとのネタとしてではなく、僕が解放せねばならないネタとしてだ。
話が長くなるのは、いちいち配慮を含ませているからであって、話の本筋そのものはシンプルなものだ、現代において女性は僕のことをゲジゲジ虫として見るが、その視線の決定は、もう自分では変えられないよというだけの話でしかない、ただあくまで学門として僕は捉えたいので、「上下」の決定が実は定義によるということにつなげて話したかった、定義上で下に属する以上、僕がゲジゲジ虫のように見られることは正しいのであって変更のしようはない。
ただ僕の場合、何が例外だったかというと、僕はそのゲジゲジ虫扱いの視線をまったく曲げずに、そのまま引き受けて、なおかつ女の子への Love を継続したというところだ、こんなことは明らかに気が狂っているのであって、普通の人が同じことをしようとしたら確実に精神が崩壊するだろう/こんなハチャメチャな選択は、もはや自殺するまでもないというようなクレイジーな奴しかしてはいけないことだ、ゲジゲジ虫扱いされながら Love は濁らせず性癖はこじらせずにセックスのときはハードに勃起してテクニカルかつやさしくして依存されたらケアするが自分の不満は一ミリも持つなとかいうのは、もはや全身の血液とリンパ液を全部取り替えてみようという人体実験の上で「元気出せ」と言っているような仕打ちだ、僕は他の誰に対してでも「やめといたら(笑)」としかおすすめできない。
ただ僕自身は、僕自身がどこまでやれるものなのかを知りたくてこのように踏み出したわけだし、自己決定した理知でどこまで死なずにゆけるかを試してみたかった、その結果、われながら「コイツなかなか死なねーな」「こいつ死なないのいいかげんおかしくね?」ということになって、その果てに魂やら命やら永遠ということに気づいていったということだ、僕はこの経緯と現状について、誰のことも責める意図はなく、また何を誇るという自負も持っていない、というのは、責めるやら誇るやらという機能がこの局面で何かの役に立つとはさっぱり思えないからだ、僕はそのように考えているが、このあたりはさすがに人間味がなさすぎて自分でも不気味だと思うので、やはりここまでのことは他の誰かにはおすすめできない/僕はけっきょく、自分の人間味より優先したいことがあるし、僕みたいなものが人間味なんか持っても気色悪いと思っているのだろう、たまには例外的にこういう奴がいないと話が進展しないというものだ。

そして、人間味のないままレポートするしかないのだが、ここまでどのような経緯で現在の僕とその知識があったとしても、僕が何かをガンバったとは、一ミリも評価されない、むしろ今はその一ミリも評価されないというところに焦点を置くべきだろう/なぜ評価されないかというと、定義された軸において僕は「下」だからだ、この軸定義の絶対性と永遠性を、今僕はしつこく唱えているところだ。
僕が十数年か何か知らんが、何をどうしたところで、たとえばそのへんの二十代半ばのおねえちゃんが、「バイクの中型免許取りました〜すっごい苦労した!」というほうが、僕などより万倍ガンバったと評価されるのだ、それに不服があって言っているのではない(どんな不服だ)、ただすべてのことはそのように定義軸の上下で決定されていて、この決定から自分自身、もうずっと逃れることはできないという仕組みについて指摘したいのだ、何が上であって何が下であるかを、われわれは操作できず、魂の行き先はもう自分では決められない、このおっかない仕組みをまったく知らないまま生きていくのでは、われわれが生きるということはあまりに無謀すぎる。
この十数年間で女性たちの視線は、男性を見るのに「下」ないしは「ゲジゲジ虫」という、侮蔑と嫌悪と、敵愾と否定、ありていに言えば「死ね」「死んでほしい」の色を如実に含むようになった、ましてや「慕う」という光などありえようもない/そこで多くの場合、男女とも、お互いにキャラをやりあったり、相互に地雷を警戒しつつ空気を読みあったり、むろん愛するなんてことには踏み出さず……ということを続けてきたのだが、そのあたりは僕の苦手分野なので、僕は一切のキャラをやらず、空気を読むということもまったくせず、堂々とゲジゲジ虫扱いを本分として引き受けて来、さらに女の子への露骨な Love を続けてきたのだった、それで現在の僕が持っている知識やノウハウは、一般の人といささか以上に異なっているという結果に至っている。
これはむしろ、今になってようやく、新しいお話が申し上げられる、その土台が整ったということなのかもしれない、僕はこれまで一度も、僕をゲジゲジ虫と見るその目をやめてくれとは、女性に対して言ってこなかった、こころの一分子さえ、それをやめてくれと僕は望んだことがない/それは、人の自由であり、女性の自由だからだ、あらゆる女性は僕をどのような視線で見るかについて誰にも口出しされないという権利があるだろう、僕はその権利を侵害するつもりはこの先も一ミリもない、ただここに来て女性の側からそれを「やめたい」と言い出すのであれば、話は別で、今ようやく、そのことについてお話できる準備が整ってきたようなのだ……ただし第一には、「それは永遠にやめられません」と言わねばならないのが酷なところではある(だがそれをスタート地点にするしかない)。

あなたの目が、僕をゲジゲジ虫と見るのはやめられないから、唯一の方法は、僕があなたの目をあなたの目と認めないことだ。

これが、思いがけない抜け道で、今のところ唯一の方法になる、別にあなた(女性)だけに限ったことではなく、そのほかの色んな人のことについて……目の色にさまざまな情報が含まれていながら、「これはそもそも "目" じゃない」ということがある、そりゃもちろん生体としては眼球であり視覚のインターフェイスなのだが、それとは別に、「これを目とは認めないことで、逆にこの人の魂と少しお話できる」ということがある/そりゃ当たり前で、よくよく考えれば、世の中には生まれつきや事故によって、眼球そのものがない人もいるのだ、眼球のない人に魂がないわけではないし、眼球がない人についてはその人の目を見るということが物理的に不可能になるのだから、眼球がある人に対しても「これは "目" じゃない」とみなして掛かる方法は十分に有為性があるのだ。
だいいち「目」といっても、すでに僕の目の使い方は、一般の使い方とは大いに異なる、僕は色を見るためではなく光を視るために目を使っている、正しくは「目も」使っている、それは色を見るために使っているのではないから、あなたの目の色がどのように侮蔑や嫌悪を含んでいても無意味なことだ、そこに光がないかぎりは、僕はそれをあなたの "目" とは認めないだろう、このトリッキーな方法が唯一の抜け道になる/実際にはトリッキーも何も、こちら側からはもはや「視たまま」でしかないのだけれどね。

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男女関係と上下関係6
ととおりの経緯を話しておきたい、現代、ほとんどすべての女性は、まず僕に基本的な蔑視と嫌悪の視線、「下種(ゲス)」を見る視線を向けてくる/それは僕が男性だからだ、誰でも承知のとおり、現代は男性を、特に陰茎と射精の持ち主として侮蔑・嘲弄するのが社会通念上の基本になっている。
現代においてまともな男性というのは、単に「セクハラをしない男性」にすぎず、それ以上の地位が男性に与えられることはない、例外はアイドル男性だけだが、アイドルは偶像であって、男性として特別の地位が与えられているわけではない/女性は巧妙に、個々の男性について、その社会貢献度や、女性の幸福へ寄与する度合いなどをもって評価し、蔑視がないように見せようと計らっているが、それは偽装に過ぎず、現代における男性の定義はあくまで「セクハラ要因」でしかない、また実際にそのように扱われてもしょうがないという側面が多分に過ぎるほど男性の側にもあり、このことに女性の悪性は問えない。
だいいち、悪性というより、もっと別の次元で、わけのわからない手続きを踏まされて、このようになったのだ/けっきょくのところ女性の側も、なぜこんなに猛烈に男性へ蔑視や殺意が湧いてくるのか、その理由はよくわからず、その理由づけの正当性を得るために、セクハラ事件のひとつごとを最大まで拡大して捉えているようなところもある、だから実際のことをいうと、現代の女性は、生涯に一度もセクハラをしなかった男性についても、本音をいえば大キライで「死ね」と思っているのだ、「セクハラしていなくてもとにかく死ね」、この猛烈なヘイト現象は、隠すことができるだけで、その発生と進行を当人の意志で止めることはできないし、また隠していても、必ずどこかの段階で最後は噴出せざるをえない。
僕はこの五年間、あるいは十年間か、場合によっては二十年間、女性の目に絶対的な蔑視と嫌悪の色が宿るのを直視して来、それでもなお、僕にとって女の子ちゃんはハッピー以外の何物でもないという考えを貫き通してきた、いわば僕は女性たちの視線をそのままに受け取り、女性たちの視線の性質に大いに従って振る舞ってきたと言えるが、僕が「下種」として振る舞い続けると、僕はそういう自己決定について容赦も際限もないため、ついに女性のうちに「地獄に落ちる」というヴィジョンを直視した者がおり、悲鳴をあげて救急車を呼ぶハメにまでなったので、これは僕自身の思想によらず公共の福祉においてマズいということになり、現在のスタイルに移行した、今となっては僕が下種男を振る舞ったら、「絶対にやめて」と僕の側が確実に怒鳴られるという状況だ。

むろん、僕がそのようにスタイルを変えたとしても、僕のことをまったく知らない人と出会うかぎり、その視線は僕に向けて、基本的な蔑視と嫌悪の色を帯びている、それは何も女性だけではなくて、老人・地方・業者において、女性の視線と同じ視線を向けてくる、加えて言うならば前もっての敵愾心や、殺意(というよりは「死ね」感)が含まれているとも言えるが、とにかく当然ながらそういう視線が向けられてくる、僕自身はそのことにはもう慣れっこというか、それ以外の視線が来ることをすでに初めから想定していない。
何しろ僕の側は、少なくとも十数年、その蔑視の視線を本分として受け続けてきたのだから、今さら何を動揺するはずもない、僕はその視線をそのまま受けるが、あまり以前のように下種のきわみを振る舞うのはやめた、それでも実際のことを言えば、僕に蔑視を向け続けた人は、どうしてもその後、急激な理由不明の体調悪化があると報告せねばならない、こういったことは隠蔽なくレポートしないと不誠実だと思うので、実際に起こることだけをお話ししている。
一方で、僕の新しいスタイルで接触したとき、特に若い女性において多いことだが、ただちに目の色から蔑視や嫌悪が消え去り、何なら「自分でもびっくりしている」というように、目を丸くし、ともすれば僕のほうへふらふらと寄ってくる人も少なからずある/そのことは以前からすでにあるのだが、今になって、その目・視線がはっきりと「まるで違う」ということを報告できる。
こうして、今何がお話しできるかというと、だいいちには自覚がなくとも、女性は男性に対して蔑視・嫌悪の視線しか向けられないということだ、どれだけ表情を取り繕って、声や振る舞いをアイドル風味にしてみたところで、人はダマされてくれるが、相互の魂に起こることは変化してくれない(まあ人をダマせればそれで十分ともいえるが)、あなたにはもちろん、男性にそんな視線を向けているつもりはないだろうし、そんな視線を向けることはやめたいと望むだろうが、あなたがどう望んだとしても、あなたの目の色をあなたが変更できるわけではない/このまま単純に、疫学的に考えるならば、あなたの目に男性を慕う光が現れることは永遠にないということになる、だからどれだけ恋あいを丁寧にやろうとしても結果的にはシッチャカメッチャカにしかならないだろう、もしこのことを根源的に変えたいと望むなら、あなたの意志によらず「目の色」そのものが変わるような出会いと体験をどこかで得るしかない。

侮蔑と嫌悪の目、そして敵愾と否定の目だが、 "今さら" 慌てないように(もう何年も前からそうだよ)。

何をどうやったって、今さら、あなたの目に僕を慕う光なんて宿るわけがないじゃないか、僕にとっては十数年にわたって続いてきたものを、今になって急に新しい事実みたいに驚くなよ、タイムラグというにも度が過ぎていて笑えねえ……と、割り切って考えたほうが今は有益だろう/あなた自身、この十数年にわたって、特に男性に向けては侮蔑と嫌悪、敵愾と否定の視線をプレゼントしてきましたと考えるほうが、さまざまなことに辻褄が合ってわかりやすいのじゃないか、「あなたは僕にとって最高の女性でした」と言われたことがないのも容易にうなずけるだろう、そりゃ十数年間もヘイト視線をぶっ放してきたのだから当然と言うしかない結果だし、よもや最高の女性のように言われたかったなどと今さらになってあなたも言うまい。
今現在の僕は、女性に対してあわれなゲジゲジ虫のように振る舞うのはやめたが、それは公共の福祉に配慮してのことにすぎず、女性の視線に従うなら、引き続きゲジゲジ虫として振る舞うべきだ、今さらわざわざ繰り返して言う気になれないが、だって「そういう視線」を向けられているのだから/男尊女卑は正しいわけがないし、かといって女性上位も正しいなんて保証はないのだが、そんな理屈はどうあれ、魂が定義した上下軸が、その目の色と視線に出ている、だから単純に、「どうしたらこの、男性をゲジゲジ虫として見る視線をやめられるのかしら」ということが問題の焦点だ……ひとつの解決方法はむろん、すべての男性を消滅させることだから、そのホロコーストも視野に入れたまま、冷静に考え続けねばならない(ホロコーストは人類史上に珍しくない事実として存在している)。
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男女関係と上下関係5

れでようやく、実用的な理論になるだろうか。
もともとこの宇宙に「上下」はないため、「上下」は各々の「定義」によって決定する。
われわれの魂には向上心があるので、何をどうやっても魂は「上」へ行こうとする、ただしその「上」というのは天とは限らず、何が「上」なのかは先に述べた「定義」にのみ基づく/人によっては地を「上」とし、天を「下」と定義していることはまったく珍しくもなくある。
ここで最も重大なことは、定義された上下軸の方向は、その後自分でハンドリングはできないということだ、「やっぱり間違っていたから切り替えます」というように、反転に舵を切るということはできない、定義の変更には大きな手続きが要るようで、この手続きについてはむろんまったく内容が解明されていない/ただ重大なことは「己が何を上とするかの定義に、自分は(ほぼ)永遠に従い続けねばならない」ということだけだ、どれだけ自分が震え上がって拒絶しても、自分の魂は自分の定義した「上」へ恭順しなくてはならない。

おそらく、男尊女卑というか「関白宣言」をしようとする男がいたとしても、今さら無駄なことで、そうしていくら自己の思想を塗り固めてみようとしても、未知の手続きですでに定義された上下軸はもう変わらないのだ/逆にいうと、もう長いあいだ女の子に奴隷的奉仕をしてきた僕のほうも、けっきょくその上下軸は変わらなかったといえる、僕が卑しい男のきわみを振る舞おうとし続けた先、ついにやめてくれという悲鳴が女性たちのほうからあがったのだから。
あくまで結果だけを総じて考えると、僕のことを見下げて侮蔑して去った人は、その後ろくなことになった試しがない、そのことはもうこれまでに何度も報告してきたのでご承知のとおりだと思う/ただここに来て明らかになったのは、僕のことを見下げて侮蔑するか否かは、当人が決められることではないということだ、当人はすでに上下軸を定義しているので、その軸上で僕が「下」に定義されるのならば、その人は僕のことを「下の下」として見下げて侮蔑するしかない、たとえその瞬間に胃の腑が凍りついて身が凍えるようだったとしても、当人にそれを差し止める権利は付与されていないのだ、どうしても僕に唾を吐きかけるしかない。
よって、現在のフェミニズムや、男女平等とミサンドリーの思想が、正しかろうが正しくなかろうが、それはすでに定義された上下軸の主張として、これから当人たちにおいて、永遠に変更は利かないということだ、たとえその主張を繰り返すたびに、内なる悲鳴が我が身を切り裂くようであったとしても、当人がその主張を取り下げたり、差し控えたりすることはできない、表面上は変化させられても、魂の方向は定義のとおりに「上」を目指し続けるしかないからだ、永遠の男性蔑視というコースに入り込んだ人々がこの先どうなるのかを、われわれは人類規模でまだ知らない。
おそらく全体のこととして、われわれは男性蔑視の決定的な軸定義をし、そのときに代償として「恋あい」という歓喜の可能性の一切を破壊したのだが、そこで一度大きな悲鳴が起こっているはずなのだ、その悲鳴がどこへ噴き出したものかは、さしあたり明快に回答することはできない/ただ当たり前のことだが、女性が「見上げる男性に出会ってしまう」とするのが、恋あいの定義としては一番スムースだったのであって、この定義を破壊されたことを、「恋あいの絶滅」と認めて土台にするしかない、僕は確信をもって申し上げるが、二十年前と現在とでは男の僕に向けられる女性の眼差しが性質としてまったく異なっている、現代の女性は男性をまず「下種(ゲス)」として眺めるしか方途がない。

恋あいが絶命したことの悲嘆はとっくに終わっており、今は「恋あいでないもの」へ向かわされることの恐怖の悲鳴が上がっている。

本質はまさにそこだと思う、男性と女性があって、男女はもともと恋あいを得るものだったろうが、それを定義上で反転・破壊したということは、男女には何もなくなるのではない、反転した先にあるものへ向かわされるということになるのだ/かつては「恋に落ちる」ということがあったように、これからは男女ともよくわからない「何かに落ちる」ということになっていく、かつて「どうしようもなく恋に落ちた」ということが歌われてきたことのように、これからは「どうしようもなく●に落ちた」ということが歌われるようになる(●というのが何なのかはまったくよくわからない、ひょっとしたら僕には最後までわからない何かかもしれない)。
わけのわからない「●」に、魂が強制的に向かわされるということが、奥底でおそろしくて、今になって男性の尊重や、恋あいの恢復を求める動きがあるように感じているが、それはもちろん恋あいそのものではなくて、単に今になって「●」から逃れたがっている悪あがきにすぎない、今さらそんな手は間に合わないにもほどがあるだろう/自分の書くラブレターがなぜかラブレターでなく「●レター」になるということには恐怖を覚えて当然だと思うが、パニックになってもしょうがない、僕だってここに書いているものはラブレターの一種にすぎないだろうが、これが「●レター」になってしまう日がきたら、僕はこんなわけのわからない記事群を書くのは即日やめてしまうだろう、そのあたり状況は誰だって同じようなものだ。

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男女関係と上下関係4
いうわけで、何にせよ、明るい話にしておかないとな。
つまるところ、何が言いたいかというと、僕の知る限り、かわいい女の子ちゃんというのは、僕を慕ってきてくれるだけで、その結果として無理やりな平等性はなくなっているということだ、それが事実なのだから個人的なものとしてしょうがないだろう。
僕を慕ってきてくれる人は、僕が不意に「なんかわかってきたぞ」と宙を見つめて言い出すようなところを、慕ってくれているわけで、そこで「缶コーヒー買ってきてくれ」と言っても、別にブーブー言われたりしないということだ、僕は女の子ちゃんがパタパタ歩いて缶コーヒーを買いにいくところを慕っているし、女の子ちゃんのほうも、僕が突然ヘンなことを考え始めるところを慕ってくれているのだろう。
僕は空を見上げて、吹き降りてくる春の風などを慕っており……そのときの僕を慕ってくれる女の子ちゃんがいるとすれば、そうして空を見上げている僕を慕って、僕のことを見上げてくれているのだろう、そこで僕が空を見上げるのをやめて、彼女のために「缶コーヒーを買ってくるよ!」と言い出すようでは、女の子ちゃんのほうが悲しんでしまう、せっかく彼女が見上げていたものが途絶えてしまうからだ/そういうわけで男女関係の上下関係は成り立っている、これは僕の思想を述べているのではなく、僕の体験する日々の事実について述べているにすぎない。

だから、やはり本質は「男女」の上下がどうこうではなく、ただの「上下」の問題なのだ、この宇宙にはもともと上下はなく、さしあたり重力の方向とその反対を上とか下とか呼んでいるにすぎない。
たとえば僕は今、このわけのわからん記事を、ご覧のとおり書き続けているわけだが、このことじたいだって、ある人にとっては「見上げてしまうわ」と感じるかもしれないし、ある人にとっては「見上げる気にはなれない」「むしろ逆っていうかw」と感じるかもしれない。
人は、己の魂の行き先をどこかで定義していて、その定義軸に則る以上、何を見上げるか・何を見下げるかは、もう自分では操作できないのだ/仮に、今僕が書いているこのアホみたいな記事群を見て、「むしろ逆っていうかw」と見下げるこころが起こったとき、たとえその瞬間に自分の何かに冷たくゾッと震え上がったとしても、なおそうして「見下げる」ということをやめることはできない、それはどうごまかしても、自分の魂の行き先として定義された軸上に指し示されていることだからだ。
そうした、自分の魂の行き先について、どのような手続きで定義が行われるのかは、けっきょくわれわれにはよくわからない、ただその定義が為されるのは事実であって、その定義が為された以上、もうあなたという女は永遠に男を見上げることはできないかもしれない、少なくともその定義が更新されるまでは表面上だけいくら男を立てたり認めたりしてみても無意味なことだ、たとえそのことが自分でどれだけ呪わしく、何かが恐ろしくてゾッとしたとしても、そうした感情だけで行き先の定義は変更できない、それがどのようにしたら定義レベルから変更できるのかは、むしろ僕が誰かに訊きたいことだ、少なくとも宗教かぶれでは何にもならないどころか逆効果だということだけ現在のところは判明している。

あなたはきっと、恋あいより先に "何か" に出会ったのだ。

あなたはその "何か" に出会ったとき、魂の行き先を定義されて、その後は永遠に男を見上げることはなくなり、恋あいということの可能性と必要性を失ったのだ/あなたの思春期や青春や学生時代や若い今には「恋あいがなかった」のではなく、別の「 "何か" があった」ということになる、キューピッドとは異なる何者かの矢に心臓を射貫かれたと考えるとわかりやすいだろうか、それであなたの若い時間に恋あいはなくなり、そのぶんのエネルギーは別の何かに奉じられたことになる、その奉じた先は、何かしら軸の反転に関わって決められていると考えれば、おのおのに察しがつくかもしれない。
ごく単純に考えれば、女性にとって恋あいというのは、「見上げてしまうような男性に出会った」ということで生じるほうが、当の女性にとっても幸福だと、とてもわかりやすいはずだが、そもそもそういったものを「見上げる」ということが、定義上できなくなり、禁忌になっているという現象があるはずなのだ、そのことのミソは実に、その定義がどれだけ呪わしくても、その定義を自分で変えることはできず、自分はその定義に従い続けねばならないというところだ、ヒエーおっかない/現代人はいったい何に出会ったのだろう? その出会いは自然な成り行きだったのだろうか、それとも何者かによる恣意的な操作だったのだろうか。
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男女関係と上下関係3
「男女」については、現在の一般的な状況を中心に据えると、どうしても暗くなってしまうので、もう一般的なことは考えるのをやめよう。
投げやりな話になるが、今、一般的な男女像の論争について、どの視点に注目したとしても救いがないのは、もう論争している当人たちが、とっくの昔に男でもなければ女でもないからだ/よくセクハラ男という言い方をするが、性的なアプローチがセクハラに感じられる以上、その人はとっくに「男」ではないのだ、この男でなくなっているものを男の基準に取るから、何もかもがメチャクチャになってしまう。
セクハラについては、女性はただの被害者でしかないだろうが、かといってその被害者が、無数にセクハラはされるけれども、これまでに一度も男に愛されたことがないし、男を愛したこともないということであれば、それももはや「女」なのかどうかはよくわからないものだ/別に男女のどちらも、このことにおいては同格であって、これまで生きてきた中で異性を愛したことがないのであれば、もはや自己の性的同一性は失効しているとみなすしかない、この性別失効者が男女像をとやかく言うから話がメチャクチャになる。
性別失効者は、たとえオスとしてメスをレイプしても、その性的同一性は恢復しないし、たとえ世の中が男尊女卑に逆行しても、やはり性的同一性は恢復しない、メスの側も同じだ、たとえ完全な男女平等とフェミズニムが実現して、結婚して出産してエステに通いつづけて自撮りに百万いいねをもらったとしても、自分が女だという性的同一性は恢復しない、だから絶望しろということではなくて、だからこそ逆に、もうそんなにジタバタして、躍起になる必要もないじゃないかということなのだ、もともと性的な同一性において成功して魂からの「恋あい」を得る人なんてごく一部だったのだから、そのことにいつまでもしがみついているべき道理はない。

うーんどうしても、これはマズイな、そもそも現代の風潮として、すでに「女に慕われている男」というものが存在しないのだから、その時点で絶命している、あとはもうアイドル文化に入り込んで、恋あいの代償的体験をするしかない(そう思うと、ドルオタやアニオタというのも切実なところがある)。
「女に慕われている男」が存在しない以上、「男を慕っている女」も存在しないわけで、じゃあどうなっているかというと、女に慕われていない男と男を慕っていない女が、よくわからないままセックスをしているということになる、そりゃ当然そういう構図にならざるをえない/そして慕われていない男と慕っていない女がセックスをするのはよくないのだ、当たり前だ、そこに合意があろうがなかろうが、その営みは性質じたいがよろしくないものになる、そりゃいくら性欲があるからって、互いに慕いあうわけでもないものがセックスして不健全にならないわけがない。
別にすべての女が、すべての男を根こそぎ軽蔑しているわけではないだろうが、男を「慕っているか」と言われると、そのあたりがリアルにむつかしいところになる、いくらでも「割と好き」とか「リスペクトしてる」とか「いい人だと思う」とかは言えるのだが、「慕っているか」と言われると「……えーと、そうですねえ、まあ」と口ごもってしまう/そのあたりは、無理にウソをつくべきではない、生まれてこのかた異性を慕ったことなんかありませんというほうが今はずっと多いはずだ。
セックスどうこうの以前に、男女というのはだいいちに慕いあうから男女なのであって、本来はまず慕いあっている前提の上で、なおセックスをどうするかということが問題になる、慕いあっていないのならセックスなんかしてもしなくても根本的にサイアクな状況というのは何も動かないだろう/異性を慕ったことがない者までを、単純な性機能から男だ女だと認めるから話がメチャクチャになる、オナニーの回数や激しさはニホンザルでも同じ現象が起きるのでセクシャリティの定義には持ち込めない、輿論はどうあれ内心でわれわれは「異性を慕ったことがある者」についてだけうっすらと性的同一性を認めるべきだ、それでさえ基本というか入口であって性的同一性は「うっすら」としか認められない。

「慕う」という機能が失われた以上、どんな理想像を持ってきても恋あいは成立しない。

思うに、特に若年層においては、単純に首をかしげているところがあると思うのだ、「どうして恋あいが成立しないのだろう?」と/中には、お互いに求め合って、お互いにステキと確信しあって、デートもしたしイチャイチャもしたし、恥ずかしいラインも日夜繰り返したのに、「あれ? なぜか恋あいの感じにはならない」というナゾの体験をした人が少なからずあると思うのだ、「お互いに理想的な相手なんです」という場合でさえ、「なぜかすっごくしんどいんです、彼に悪いから決して言えないんですけど」となる。
だから本質は、男女がどうこうではないということがよくわかる、友人でも先輩でも、先生でもバーのマスターでも、そもそも「慕っている」という現象がもうないので、本来の破綻はそちらのほうなのだ、そこで男女のことだけ常に炎上が巻き起こっているのは、やはり慕いあうことがないのに男女においては性欲とセックスだけが接触してしまうからだ/何一つ「慕う」ということがないと決定したまま生きるというのは、魂にセメントでも流し込まれたのか、あまりにも命として粗末で寒すぎるだろう。
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男女関係と上下関係2
こだけの話、フェミニズム過激派と、ミソジニー・ミサンドリーの相互カウンター勢力とその活動によって、あなたが今後、性的被害者になる可能性は有為に減ったのだが、それと同等以上に、あなたが性的果報者になる可能性も減ってしまった。
あなたが性的果報者になる可能性はもはや、皆無に等しいまで減殺されたと冷静に言わねばならない、といって、性的被害者になるリスクは、皆無というまでは減殺できないので、そのあたりは引き続き警戒しつつ、戸締まりはしっかりと、夜道ではあまり気を抜かずに、個人情報はちゃんと管理して、とにかくヘンな人には接近しないように……ということなので、果たしてこの現状が女性たちにとって有益だったのかどうかはどこまでも不明だ、被害のリスクは有為に減ったが、代償に果報の可能性は極限まで失われてしまった。
男というのは本来、日常的にはスケベで、その裏では実はこっそり英雄でなければならないと思うが、現在の制度はこの男性像をまったく逆転させ、日常的には英雄ぶり、その裏では実はこっそりスケベという、キモチワルーイものにしてしまった、もちろんこれをキモチワルイと感じるのは僕の価値観でしかないかもしれないけれども。
正直、もういい年をした連中はどうでもいいと思うのだが、まだ若い、思春期や青春や若者の時間を生きている人にとっては、このセクシャリティ状況は、とんだ大迷惑だったかもしれない、セックスが廃止された青春というのはやっぱりちょっと夢がない/セクシャリティ状況どころか、ホモもヘテロも同列に扱う以上、もうセクシャリティという現象それ自体がないと捉えるべきかもしれない、実際もうバレンタインデーなんか誰も真に受けなくなっただろう、そうした風潮は時代についていっているのではなく、もちろん流されているだけだ、とはいえこんな大きなものの流れに逆らえるほど、誰が鍛えられてきているのかという話だ、そんなこと凡人の個人には不可能に決まっている。

単純な話、男女を同列にし、あるいは男より女を上に立てたとしてだ、そのことは別に簡単なことだけれども、そこで女性としては、女と同列ないしは女以下の男に、ファックされて射精されなくてはいけない、という構図が当然ながら出来上がってしまう、そのことに当の女性たちが本当に耐えられるのかという、わかりやすい問題があるのだった。
どうも状況を疑ってかかると、そもそもの男女像について、声高な人ほど、実は妄想というか空想の中でしか、その男女像を作り上げていないのではという気がしてくる/つまり、男女の恋あいでまともな歓喜を得たことのない人が、空想の中で「こういうのがステキ!」というのを、安いマンガのように膨らませてこしらえたのが、現在の男女像ではないかと思うのだ、実際マンガやドラマやエロ小説の空想以上に自分の恋あい体験のほうが多いなんて人は現代にどれだけいるのだろうか。
現在の典型的な男女像のまま、ベッドでうっふんあっはんしようとしたとき、どれほど醜い実情が出現するか、多くの人は知らないのではないだろうか、それはマンガのようにはいかないのだ/現在の男女像の中で、男性がベッドで勃起しようとすると、男性は相当ていど発狂していなくてはならないというか、物語性のない壊れた人格になっていなければならないし、また現在の男女像の中で、女性の性感帯がどれほど汚らしくなるか、またそのとき自分からどれだけ醜い声が出るか、多くの人はまったく知らないのではないだろうか。
もうそんなセクシャリティの問題で、悩むとか苦しむとかいう時代もとっくに終わっているのだとは思うが、それでも一部、どことなく未練というか、気になったまま残り火を抱えている人もいるだろう、最も典型的な例としては、あなたが彼とベッドでうっふんあっはんしようとするとき、あなたはベッドに寝転んだとたん、自分の全身がすさまじく無気力になっていくということがあるのではないだろうか? 特に下着を脱いだあたりでドッと……そのことについて僕が話せるのは、それが典型例だということと、今は誰でもそうだから別に心配は要らないということだけだ/その全身の無気力は、自分が夢のために努力しようと奮起したはずのものが、三日目にはもうどうしても全身が無気力にダウンしていくという現象に通じている、いくら奮い立てても一時的なその場しのぎしかできない。

女より下の男と三度寝たら、空想との違いがわかる。

全身に、どうしようもない無気力・不快な倦怠感がのしかかってきて、わけのわからない強烈な苛立ち、どうしようもない嫌悪感、不快感、おぞましさ、不潔・不衛生感、それが相手の男から漂ってきて、全力で殺意を覚えたりするのだ、にもかかわらず、その男は各種の要素として、割と自分が望んだとおりの男性像だったりする、あなたは彼の性格や考え方に100%合意できるのに、その身が至近に来るとどうしても「死ね」と呪ってしまう。
細マッチョな彼が、頭をぽんぽんしてくれて、なんだかんだ自分にだけやさしくしてくれて、タバコなんか吸わないしギャンブルもしない、たまに料理を作ってくれたら上手で、髪がやわらかくていい匂いがする、そして添い寝していたら照れくさそうに「したい」と言い出すから、「かわいい」とキュンとなって、そのままうっふんあっはん……とは、ならねーよ、どうして恋あいを失った人々の描いたマンガをあてにしたのだ、マンガのような男女像はSNSの写真で見かけるだけで実際にライブで目撃したことはないはずだ。
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男女関係と上下関係
ともとこの宇宙に「上下」は存在していない/じゃあ何を上下と呼んでいるかというと、ただ重力の方向を「下」と呼び、その反対方向を「上」と呼んでいるだけだ。
つまり鉛直方向の、どちら向きを上と呼んでも下と呼んでも、定義上は差し支えないのだ、この世界にもともと天地はあるので天地そのものは曲げられないが、天地のどちらを「上」「下」とするのかは、 "お前らで勝手に決めろや" ということになる。
たとえば会社の場合、重役というのは「上」に設定されているが、これは本来の天地のルールで言うなら逆で、天地のルールにおいては重いものは下へ行くはずだ、なぜ会社の場合はこれが逆転しているのかというと、会社のルールは天地ではなく「力」で決まっているからだ、重さと力はほとんど同じものだが、会社では力が尊崇されるので、力が上位になり、ひいては上位が「重役」「重鎮」になる。
それはただのルールの問題であって、たとえば重量挙げというスポーツにおいては、より重いものを持ち上げる力を示した者が上位にランキングされる、会社における上位というのも、この重量挙げのルールと大差ない/生きもののすべては、生きることに囚われざるをえないので、生きるとなると力が決め手であり、「じゃあ力が上位だな!」となるので、生きものが発起人のルールでは力(重さ)が上位になるというだけだ、サル山のボスだって力のあるものが頂点に君臨している。

だから男女の場合も、男女というのはこの世界に元々あるので、男女そのものは外科手術とホルモン投与でもしない限り曲げることはできない、だから男女における上下をどうこう言う場合、どちらを「上」「下」とするのかは、 "お前らで勝手に決めろや" という元の原理に基づくべきだ。
よく、同じ人間なのだから平等、という言い方を聞くのだが、それは当たり前というか、当たり前に無理があるのであって、同じ人間なのに違う男女だから揉めるのであり、同じ人間ということを言い出すと、それは社会的な平等性にしか言及できない、もちろん社会的には、憲法で男女の定義が為されていない以上(女国民とか男国民とかは書かれていない)、とやかく言わなくても法文的に平等というか同一としか言いようがない。
何をもって男で、何をもって女なのかはさておき、とりあえず、仮に女を「上」と決める、すると男女二人の向上心は、揃ってそこで定義した「上」に行くことになるだろう、逆の場合も同じで、仮に男を「上」と決めたら、二人の向上心はそこで定義した「上」のほうへゆく、そのどちらが正しいのかは、どうせわれわれ凡人にはわかりっこないので、確率は五分五分だ、「そりゃこっちでしょ」というほうへギャンブルとしてベットするしかない。
おそらく男女のそれぞれどちらかが、天に寄っているとか地に寄っているとか、命に寄っているとか生に寄っているとか、愛に寄っているとか親に寄っているとかがあるので、その寄っているところのどちらが「上」かを、定義することになる、天に寄っている側を上にしたら、二人の魂は天の国を目指すだろうし、地に寄っている側を上にしたら、二人の魂は地の国を目指すだろう、どちらがいいとか悪いとかではない、この宇宙にもともと上下はない、あるのは地の重力と天の光だけだ(重力は空間を曲げはするがあくまで光には作用しない、光に「重さ」はない)。

僕が女の子を下に見ないというのは、そもそも「女の子のことなんか見ていない」というだけだ。

そりゃそうだろ、そんなことは冷静に考えたらわかる、僕が女の子をジロジロ見て、「キミってさあ」なんてやりだしたら、キモチワルくて銃殺は免れない/僕はあくまで、女の子が僕を愛してくれるという事象がうつくしすぎて、燦然たるその輝きを見上げてウヒョヒョと言っているだけで、それとは関係なく女の子そのものを物体として眺めたことはない、僕を愛してくれないナゾの淫猥物を眺めていたところでいったい僕の何が慰められるというのか、食いかけのチキンラーメンを鼻から噴き出してしまうほどの悪いジョークだ。
女の子が何かを見上げたとき、その見上げたところに僕がいないなら、僕はそのへんの地べたのゴミなのであって、そのときは別にどうもできないし、女の子が僕を見上げてくれていたって、僕がその女の子をジロジロ見下げる必要はないだろう、僕だってそのときは何かを見上げ続けている/僕が女の子に対して履行できる唯一のマナーは、女の子をジロジロ見ないことだ、僕はデートの途中で女の子が急にフッと消えて帰ったとしても、その後まったく変わらず食事を続けるだろう、そもそも僕はデートのときに横に女の子がいるかどうかなどあまり気にしたことがない、僕は夜の街や春の風にある何かの空間に浴し続けているだけだ、女の子にもその飛沫が届くのであればそれに越したことはない。
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