☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
一般という感覚を持たないこと
般に分かるようには絶対に書いてやらん。
そもそも、「一般に分かる」ということ自体が致命的なハズレだ。
いつの時代からか、人は人に対して冷淡になり、同時に、人に対して気を遣うようになった。
冷淡なのに気を遣うというのはどういうことだ、フレンドリーな工作で自分の一生をつぶす気かよ。

なぜ「冷淡な親身」になり、「ハズレフレンドリー」になったのか、理由はよくわかっている。
魂が見捨てられたからだ、場合によってはカミサマから切られたと言ってもいい、そうなるともうどうやっても人とつながるようなことはできない/そもそもつながりを得ようとしている人はつながりを失ったからそれを得ようとしているにすぎない。
一般に分かるようには絶対に書いてやらんが、そもそも、現代における「一般」というのが、もう「終わっている人」と同義だ、人って本来もっとワガママなもので、そのワガママな世界の中に特別な連中を得たものだろう。
ヒューマニズムを主題にする時点で、もう誰ともつながりはないし、何の世界も残っていないのだ/初めからそれは何かを得ようとしているのではなくて、すでに失ったものを、これから得るものだと恣意的に誤解してごまかしているだけだろう、これは「死ね」と言っているのではない、それでも死なずに最後まで自分を見届けるべきで、だからこそキツいだろと言っているのだ。

生にせよ命にせよ、ハズレていない奴は主題なんか持たない。

恣意的に「主題」を設定すれば、あたかも自分には道が拓けているように見えるが、それは錯覚だ、まともな奴は自分のやっていることに興味なんか持たないし、自分のやっていることを意識したりしない。
どのように解決のすべがあるかというと、解決のすべはないのかもしれないが、ただ本来あるべき唯一の状態は、「一般」という感覚を失うことだ、おれだけは周囲の一般的状況を認識しない、それでおれは少しだけ女がデートする価値のある男になるだろう。
バカをやろうかあ | comments(0) |
音と光、音のうたと光のうた
れわれは、特別にうつくしい景色を見たり、特別にいい歌を聞いたりする。
当たり前だが、鳥は「うつくしい景色」を見たりはしない、鳥の視力は人の視力をはるかに上回っているが、それはあくまで「視力」であって、鳥はその視力で「うつくしい景色」を見てはいない、夕日に見とれているカラスというのは、少なくとも野良のカラスにおいては見つからない。
猫がネズミの足音を聞きつける能力などを見ていると、猫の聴力は人をはるかに上回っているのがわかるが、猫がカラヤンやバーンスタインを聞いたりはしない、またどれだけ鼻のいいイヌやイノシシだって、ドットールブラニエスのフレグランスコーナーに集まってきたりはしない/特別にいい景色、特別にいい歌、特別にいい匂い、そういうものを感得するのはあくまで人だけだ。
そして、ノンフィクション的には動物たちのほうが正しく、ノンフィクション的には動物たちのほうが能力が高い、ノンフィクション的に考えれば「いい景色」などというのは錯覚であり存在していない、あくまでノンフィクション的に考えればだが、特別にいい○○などというのは存在していない錯覚のゴミなのだ、あくまでノンフィクション的に考えれば。

ノンフィクション的に考えれば、そうして錯覚にすぎず存在していないものを、あたかも存在しているふうに感得することはできない、だからここではノンフィクションではない存在について考えねばならない、その「ノンフィクションではない存在」を考えると、単純にカミサマになる。
いいかげん、僕は単純なことがわかったのだが、われわれは光と音をメインにして生きているとして、光には光のカミサマがあり、音には音のカミサマがある/匂いや味にも、あるいは感触にも、カミサマがあるはずだが、そっちまでは僕はあまり詳しくないので、僕にはとりあえず光のカミサマと音のカミサマがあることがわかっている。
ルイ・アームストロングの「What a wonderful world」という歌があるが、あれは光の歌だ、そしてコールド・プレイの「Viva la vida」は音の歌だ/なぜそう言いうるかというと、堂々とそのまま歌詞の中でそう唄われているからだ、前者は「I see trees of green」と "光景" 唄っているし、後者は「I hear jerusalem bells are ringing」と "音" を唄っている、それぞれ "see" と "hear" をはっきり言っている、これらはなんとなくで言われているのではないのだ、本当にそのままだからそのまま唄っているのだ。
僕はもともと、光のカミサマとは接続があって、最近になってあらためて音のカミサマと接続したように感じている、まあ感じているというか、はっきりと確信が正直なところあるのだが/もともとこの世界について、すべてをたとえようがなくうつくしく感じてはいたが、これまでそのうつくしさを自分がどう使役すればいいのかわからなかった、光については使役できていたのだが、音についてはごく最近に使役できるようになった。

本当のことはけっきょく、カミサマを使役することだ。

カミサマを使役するなんて、不遜でバチあたりめ、ということになりそうだが、そういうことではない、この場合のカミサマというのは日本的な考え方であって、日本のカミサマは八百万といって無数にあり、唯一神を使役するということではない、カミサマにもさまざまなランクがあって、それでいえばたぶん光のカミサマのほうが音のカミサマよりややランクが高い(ような気がする)。
カミサマを使役するというのは、何もおれがカミサマより偉いということではなくて、「どちらが偉いとかそんなことはもうどうでもいいっす」ということにすぎず、ただ何かまともなことをやろうとすると、「おれがおれを使っても無理、何にもならねー」「だからカミサマを使うしかねー、カミサマを使役するしかねー」ということなのだった/おれがおれ自身から何かうつくしいものを出力することは不可能だが、カミサマを使役すればおれにだって何かうつくしいことができる、おれにとって唯一の謙遜といえば、こうして「おれには無理だからカミサマがやれ」とカミサマを使役することなのだった。
正しく見ないとな | comments(0) |
WS報告055(2)/数学的フィクション法
「フィクションだから別にいいでしょ」という言い方は、ほとんど無敵なのでいつもありがたい。
フィクション、つまり「仮に」ということ、「この空間に数学的な直線があったとして」「線分ABじゃないよ、 "直線" ね、直線は無限につづく」「実線じゃないので太さの無い、あくまで数学的な直線ね」「仮に、この数学的直線の側に "主体" があって、直線の側が "思って" いるとしたらどうだろうか」「われわれが直線を思うのではなく、直線の側が何かを "思って" いたとしたら?」。
「フィクションだから別にいいでしょ、仮に、直線の側が "思って" いるとしたら」「つまり、たとえばメロディラインというものがあったとして、メロディラインという "ライン" の側に命があるのだとしたら」。
ワークショップ中に一部誤った説明をしたが、セルバンテスではなくローレンス・スターンの「トリストラム・シャンディ」だ、そうした古い小説の中でも示されているのだが、「物語というのは、実は数学的な直線・曲線のことなんだよ」「直線やら曲線やらはもちろん無限に存在しうるが、まずは一番わかりやすいように、直線、自分の身にとって、前後左右と上下をやろう」「見ている人は、演者の思っていることを見るのではなく、舞台上に "何かある" のを見るんだよ」。
このわけのわからない話を、実際にワークとしてやってみることができ、しかもそれぞれが動画でそれを点検できるのだからおもしろい、「このワークは、明らかにレベルオーバーだけど、先にハイレベルなものに触れたほうが、手前にあることを突破できるということもあるからさ、とりあえずやってみよう」。

どうでもいいことだが、「文字」と「記号」には根底に違いがある/そう証明されたわけではないが、僕は勝手にそう思っている。
というのは、「文字」というのは、直線と曲線、つまり「線・ライン」で現されていて、塗りつぶされる「面」をもたないのだ/これは記号の表現方法として有為な方法が文字においては否定されているということになる、単なる有用性の観点からは不自然なことだ。
たとえば記号といえば、「○●」というのがありうるし、「△▲」というのがありうる、にもかかわらずわれわれは、文字を書いたときにどこかを塗りつぶした覚えはない、文字というのはなぜか面を否定して線だけで書かれている。
まあ、だから何だということはないし、だから何ということを今ここでお話しはできないのだが、とりあえず数学的フィクション法と呼んで、前後左右と上下の「直線」をやった、空間に直線があったとして、直線が「思って」いるのではないかということ、空間に何かあるんじゃないかということを、われわれはよろこんで視る、それがなぜか理由はわからずよろこんで見られるなら、それはあいまいだが確かにある魂や命ではないかということなのだった。

大野一雄は「宇宙意識」としつこく言ったが、確かに、必ずしもノンフィクションだけが何かを「思う」とは限らない。

僕はそのへんの路傍の石が何かを思っているというような空想はもたないが、太さを持たない直線や曲線という数学的なフィクション事象が、何かを思っているという可能性を否定できない、「思っている」というのはおおざっぱな言い方だが、つまり数学的な直線・曲線に「命」があるということ、むしろ真に「命」があるのはそっち側じゃないのかと、僕は経験から思っている。
仮に数学的な点Aと点Bがあり、そのABは直線ABを為して、両点は同一直線上にあると言えるのだけれども、数学的な点は大きさを持たないし、数学的な線も太さを持たないので、われわれがそれを実感上で認識することはできないだろう、だから「仮に」という言い方をはじめに置いて、形而上にしか数学は語られない/人類は種族としては三百万年ほど二足歩行のサルとして生きてきたのだが、「文字」を得てからわずか数千年で現代まで発展している、手前の三百万年とはえらい違いだ、数学的な直線・曲線の側が何かを「思って」いるのじゃないかという話で、すべて「フィクションで言っているんだから別にいいでしょ」で済ませているのだった。
ワークショップ | comments(0) |
WS報告055(1)/イキの悪い奴は使えない
「生命」という熟語を見て、「生きる」と「命」を別に捉える。
「生きる」というのは他ならぬ自分自身だ、それを「自分」と呼ぶのは、まさに個人として「分かれて」いる存在だからだ。
一方、ワークショップではこれまで「命」について追究してきた、命とは何なのか、魂とは何なのか……それは、空間にあるYesであり、エコーであり、言葉であり、という言い方をしてきた/それは「分からない」もの、分割されない「ひとつ」のものだ。
気魄の「魄」の偏にある「白」は、明白・はっきりとした・分かるものという意味であり、これは「生きる」「自分」を意味している、一方で霊魂の「魂」の偏にある「云」は、雲の意味であり、あいまいな・はっきりとしない・分からないものという意味だ、これは「命」「世界」を意味している/この二つをまとめて言うのに、昔から「魂魄(こんぱく)」という熟語があった。

今回、これまでの「命令法」にプラスして、マスター側でなくプレイヤーの側、命のディールにおいてはサーバー側でなくクライアント側に注目して、「劇場型クライアント法」をやってみた、変な呼称でわかりにくいのだが、具体的にやってみると内容はむしろ一番わかりやすい。
マスターの命令を受けて、プレイヤーが本当に「やれるのかよ」ということをチェックする方法なのだが、これをやってみると、まさに「生命」の仕組みとして、<<生きの悪い奴は使えない>>ということがよくわかる。
相互の関係をマスターとプレイヤーに設定し、マスターが空間の「命」を掴んでいるかということ、プレイヤーがその「命」をマスターから受け取るかということをチェックするのだが、マスターが空間の「命」を掴むことのむつかしさと同等に、実はプレイヤーとしてマスターの「命」「命令」を受け取るのも、そんなに簡単じゃないということがわかる/みんな撮影した自分の動画を確認するのだが、動画を確認すると、そこにはてんでマスターの命令を聞きとっていない、ただ自分が独りよがりでプレイする孤立・ごまかし体質の自分がまざまざと映っている。
プレイヤーとマスター、まともな「生命」が成り立つためには、プレイヤーは生きがよく、かつ命令に対して従順でなくてはならない、「この映像を見て、 "さすがわたし、イキがいいわ" と感じられるか?」、そう言われてみると問題は初めからミエミエなのだった、マスターは天才のごとく空間の「命」を掴んでいなくてはならないし、プレイヤーは燃えさかるがごとく「生きのいい」奴でなくてはならない、そんなことてんで成り立ってやしないということは、本当はワークなんかやらなくても前もって視えているはずだ。

「一番使えないのは、イキが悪いのに態度だけデカい奴だよ」

実演として、まず「イキがよくて、命には従順でよく聞く奴」を見せ、その後やはり実演として、「イキが悪いのに、態度だけデカい奴」を見せてみる、そうすると明らかに、後者は「こんな奴が何かに使えるわけがない」と馬鹿馬鹿しく見える、にもかかわらずこれまで正しい仕組みも訓練も与えられていないので、実際に自分がやってみると、自分はまさに「イキが悪いのに態度がデカい奴」をやってしまうのだ、これを今さら取り戻そうとするのはたいへん困難かつキツいことで、即座に意識を眠らせて何もかもなかったことにしようとする体内の悪魔がはたらき始める。
かつて人々は、仕事の中でこの「生命」のはたらきを実現しようとした、だからイキのいい新入社員が、ボスからの「命令」でシゴかれるというモチーフを履行してきた、今その手法は完全に廃棄され、イキの悪い新入社員にボスがていねいに「お願いする」というスタイルに変わった、旧来のモチーフは「ブラック」と呼ばれるようになり、社会通念上の絶対禁忌となった/実際、イキのいい若者に、世界につながったボスが命令してシゴくという方法は、もう成立しないので、はっきりと「ブラック」と烙印して廃棄したほうがいいと、僕自身も思う、なぜならこのカミサマに見捨てられたような世の中において、もう世界や命や魂につながったボスなんてほぼ存在していないからだ、命がディールできないならボスは命令ではなくお願いしかしてはならない、それが事実なのだからしょうがなくて、仕事や職場に関してはすべて諦めるしかない、今誰も彼もが生命の両方を無しに生きねばならないという激しい苦しみは、まったく別の方向から救済されなくてはならない(ただし今のところ救済される手段や見込みはまったく見当たらない)。
ワークショップ | comments(0) |
コンテンツブロッカーのすすめ
ういえば先日、偉大なるおれさまを祝福するために、民草どもからiPadの奉納を受けたのだった、ちょうど以前のタブレットを紛失して困っていたところだ、おれはiPhoneだしタブレットはやっぱiPadが便利でいい。
で、iPadを使ったときに思ったのだが、久しぶりに何のブロッカーも入れていないブラウザを開くと、どのサイトも馬鹿デカい広告ばかりが表示されて、一瞬本当に、iPadが壊れたのかと思った、そして直後、「あ、そうか、ふだんは広告ブロッカーを入れているからすっかり忘れていたが、本来はこうして広告まみれなのだったな」と思い出した。
そんなわけで、急に別の話になるが、ひょっっっっとしたら知らない人もいるかもしれないので、インターネットを見るアプリ(ブラウザ)には、各種のコンテンツブロッカー、広告ブロック、アドブロックを入れましょうということなのだった、こういうのはどこかの誰かナイスな奴がナイスなアドオンを作成してくれているものだ。
PCのブラウザ、Google Chrome や firefox なら、そのまんま「アドブロック」と「アドブロックプラス」がいいし、iOSで使われている safari なら、「280blocker」というのが最終的に具合がよくて、僕は使っている、即検索しろ/もちろんブラウザの広告をブロックするだけなので、YouTubeアプリ等の広告には干渉できないが、とにかくコンテンツブロッカーなしにウェブ閲覧をするなんて現在の僕には考えられない、久しぶりに広告の嵐を見たら、本当に「こんなん頭おかしなるで」と思った。

インターネットの各コンテンツが、広告料によって成り立っており、うんたらかんたらと、そういう話はわからないではないが、とりあえず実際に表示された広告を見た瞬間、僕は「げっ」としか思わないし、「こんなん広告でも何でもないわ」「頭おかしいやつや」としか思えない/そう思ってしまうものはしゃーないだろう、なぜおれがウェブページを開くと、乳デカアニメ女の映像がガッツリ表示されるのだ、意味がわからん、何の用事もない乳を断りなしにブッこんでくるな。
もちろん僕がふだん、スケベサイトを閲覧しているから、その情報がトレースされて、僕に向けのスケベ広告が選ばれて表示されているのだろうが、それにしても知らん、乳に用事があるときはこちらから行くので、勝手に割り込んでくるな、用事のないときに乳を出されても無関心だし、そもそも乳を広告に使うというのは用途として誤っている。
これまでのところ僕はウェブ広告をクリックしたことはないし、クリックした先で何かを購入するということもありえない、もしユーザーの全員が僕なら広告の効果は「購入者ゼロ」ということになるはずだが、実際にはそれなりに効果があるから広告を出しているのだろう/おれはエロサイトのエロコンテンツを漁るが、それを購入するということはないので、広告はやめてもらえないだろうか、そういえばそもそも僕は広告に影響されて何かを買うということがまったくない、近所のスーパーの特売チラシぐらいしか広告というのは僕の側で採用していない。
広告にしてもそうだし、そういえばSNSにしてもそうだが、万事において「向こうから勝手に割り込んでくる」という手法が多くなった、まあ営業というのは基本的にそういうものかもしれないが……その点おれのこのブログなどは、どう更新しても誰のところにも何のお知らせもいかないのだ、あなたの側から用事があって来訪しないかぎり、こちらの側からの割り込みはない、全員このスタイルにしてみてはどうか(否)/僕の本サイトとブログは2005年くらいからあるのだが、当時はまだウェブ上に広告という概念はほとんどなかった、若年の方は知らないだろうが、インターネットにもかつて営業性のないユートピアみたいな時代があったのだ。

コンテンツブロッカー(広告ブロッカー)を入れると、ウェブは快適になり、そのぶん世の中を誤解する。

事実、僕はそのことによって、世の中を少し誤解していたので、ブロッカーがないブラウザを開いたとたん、「うわあああ」となったのだ、そちらのほうが世の中の実態だから、リアルに生きたいぜという人は、ブロッカーなんか入れないほうがいいかもしれない/おれはその点、リアルとかどうでもいいので、快適さのためにブロッカーを入れさせていただく、うーん世界中で広告そのものを禁止にできねーかな(否)。
テレビを観ているときは、広告が入っても何も思わないのだが、いまだにYouTubeを見ていて、広告が入ると「うわっ」とびっくりする、それはつまり、テレビを観ているときの僕というのは相当に受け身というか、受動的・消費者的なのだろう、それ以外のときは常に僕は能動的なので、自分がアクセスした覚えのないものが割り込んでくると、第一に「うわっ!?」「誰だテメー」と驚いてしまう/広告が出るたびに「うわっ!?」と驚き、そのたびに「あ、広告か」と理解しなおしているのだった、
できるオンナだね | comments(1) |
魂を眠らせないこと2
「魂を眠らせないこと」、そのように言うだけでも、少しご利益のような効果がある、これはよい言葉だ/ただし自分の体内に言うのではなく、目の前の空間に声明すること、ただ思うだけでも体内に向けて思わないこと、魂というのは外側にあるものだから。
人の魂を眠らせる――自分で考える力を奪う――のには、リズムを使うことだ、実際にどのようなリズムがあるかというと、YouTuberの動画を観てみればいい、じっくり見ないとふつうの人は気づかないと思うが/つまり、映像の「カット」、および「テロップの出現」、そこにSE(効果音)が乗っかっている、これを適宜挟むことで人の魂は眠ってゆき、自分で考える能力を失っていく。
今、ふと気になったので、代表的なYouTuberの動画を観てカウントしてみた、すると3分弱の動画に、SE(効果音)は29回入っていた、つまり6秒に一回は編集で効果音が挿入されていることになる/BGMの差し入れ・差し替えは11回、つまり15秒に一回、テロップの出現は49個、つまり4秒に一個、カットは28回、つまり6秒に一回、15秒を超えるカットには映像にも音声にもエフェクトが足してある。
そしてこの三分弱の動画に、これという面白い内容はないのだ、当たり前だ、三分弱の単独動画に面白い内容を入れられるのはチャップリンぐらいのものだ/いいかげん知っておいたらいいと思うが、これらのコンテンツに「内容」があるわけではない、あるのはただ巧みに分散されてリズム化された情報だけだ、その情報に内容はなくて、ただリズム化されているから催眠にかかるという、本当にただそれだけの仕組みなのだ。

3分弱の動画に、カットが28回も入っているなんて、映像関係の業者しか気づかないだろう。
あなたは一連の動画を観ているのではなくて、6秒のカットをつないだ28個の動画を観ているのだ、そりゃ映像技術とはそういうものだが/なぜそのように編集されているかというと、人は「内容がなくてつまらないものでも数秒は見られる」からだ、断言していいが内容のないものを人は60秒も見ていられない、6秒ぐらいならまだ判断が起こらないので、その判断が起こる前に次のカットに移るのだ、そしてまた判断までの時間差を利用してそこに居座りつづける。
4秒ごとにテロップが入るので「いちおう」見るし、6秒ごとにカットが変わるので「いちおう」見るし、15秒経てばBGMが変わるので「いちおう」見るし、そこに随時エフェクターが掛かったりするので、そのたびに「何かあるのかな」と、人は注目する機能(アテンション)を向けてしまう、ただそれの繰り返しなのだ、その繰り返しの中でけっきょく何の内容もないので、人の魂は眠ってしまう。
ツイッターの文字数制限は、日本語だと140文字だが、ふつうの人の読書速度はだいたい一秒あたり10文字なので、1ツイートあたり最大14秒で読むことになる、つまりテレビCMと同じで、15秒以上は関心がもたないのだ、だから15秒後にはパッと別の関心が表示される必要がある/より正確に言うなら、魂を眠らせた人は、15秒ごとに次のものに釣られるだけ、ということだ、魂を眠らせた人は、何しろ魂が寝ているのだから、何かに関心があったりはもうしない、ただ15秒ごとに自分を釣ってくれるものにハマり、それを習慣化させていくだけの生きものになる。

あなたはわけのわからない15秒だけを繰り返して、わけのわからないまま死ぬ。

本当に、何らの悪意でもなく冗談でもなく、また大げさでもなく、そういう状況になっている、魂が眠るというのはそういうことなのだ、生きものとしては生きていても霊的には死んでいるということ、生きてはいるが命はないという状態だ/今実際に、僕が誰かに何かを話すとして、30秒でも聞いていてくれたら、優れて献身的だと思う、30秒も途切れずに話を聞くというのは、現代のわれわれにとっては難事業で、頑張れば実験的にはできるだろうけれど、もはやそれを巡航のペースにはできないだろう。
魂が眠るというのは、「ハイル・ヒットラー!」という状態と同じだ、人は月曜日に起きて出社することのように、一定のパターンを何度も繰り返されると、何も考えなくてもそのパターンをなぞるようになり、何も考えなくていいからこそ、魂は眠っていく/一定のリズムで魂を眠らせていく手法とコンテンツについて、それは「センスがある」のではなくて、「センスを失わせている」ということなのだ、何の輝きもない人だって、音楽と照明が明滅するリズムの場に立たせれば、人々のセンスはリズムによって消されるので、何かカッコいいのかな、と誤認されうるということだ、まっとうなセンスが失われると自我が欲求どおり膨張するのでそのことを「アガる」という。
正しく見ないとな | comments(0) |
魂を眠らせないこと

画やツイッターやSNSが、次々に更新されていく。
ひととおりチェックし終わったところで、麦茶を飲むと、またツイッターが更新されているので、チェックして「いいね」をつける。
そうしたらまたインスタグラムが更新され、フェイスブックの記事がシェアされ、それを見ているうちに、動画サイトが新しいサジェストを提供してくる。
オンラインコンテンツと、ブラウジングシステムが、一定のリズムを作りだし、軽快なクリック・タッチと共に、人の魂を催眠術にかける、そして魂は眠ってゆき、眠り続けることに慣れ、やがて叩き起こしても機能しない魂になっている、すでに催眠に慣れた魂は、いざフルパワーのつもりにしても、45秒ぐらいでフッと眠りに落ちるのだ、自己啓発書で有名なナポレオン・ヒル博士によると、これは「ヒプノティックリズム」という現象らしい、悪魔の手口とみなすべき現象で、ヒプノティックというのは催眠という意味だ、すでにすぐ眠るように魂に催眠のリズムが刻み込まれている/ナポレオン・ヒル著「悪魔を出し抜け!」をご参照あれ。

未だに僕は、やれ芸術だの文学だの、世界だの愛だの、おれに抱かれたくない女は頭がおかしいだの、時代錯誤なことを言っている。
未だに僕は、夕焼けの向こうに別の国があるということを信じているのだ、「くっさ」の一言で済まされることだが、まさにそのとおりだとして、これは僕の頭がおかしいのではない、ただみんなの魂が眠ってしまっただけだ。
誰がどう見たって、五十年前の映画に、現代の映画は勝てないし、三十年前のライブシーンに、現代のライブシーンは勝てない、現代は「半笑い」と「きつめの願望」で、居眠りとヒステリーを繰り返しているだけというような状況だ/ただ僕は眠らなかった、僕はすべての友人を裏切ってでも、夕焼けの向こうに別の国があることを信じるほうを選ぶだろう。
ナポレオン・ヒル博士によると、眠った魂は自分で考える能力を失い、そのままゆらゆらと、死後の門をくぐったところで、その魂は悪魔にバックリ餌として食われるらしい、それが本当かどうかは知らないが、ナポレオン・ヒル博士が自己啓発における世界的な第一人者であることは周知の事実だ/おれはおれがこの世界を歩くのだし、おれはおれがこの世界のすべてに触れよう、僕の魂を眠らせようとする嫌味が降り注ぐ手法にも、僕はもう慣れてしまったのだ、「それ多分もう引っかからないと思うよ」と僕は堂々と言うようになった。

「あなたはどうするの」× 31,536,000 。

魂を眠らせず、自分で考えるというのは、ただ「自分はどうするのか」「自分は何をするのか」というだけのことだ、ただの自己決定と自己の行動だ、そう言われると「確かにそうだ」と、目覚めた心地がして、十秒ほどで解決したように思えるが、それは違う、その解決には十秒でなく十年かかる、だからあなたが予想しているより3153万6千倍のエネルギーを要する/十秒でなく十年だ、それよりはポックリと催眠で眠りたいか。
「自分はどうするのか」「自分は何をするのか」と、十秒考えろと言っているのじゃない、十年考えろと言っている、考え続けて行動し続ける十年を過ごせと言っている、そうしたらひとまず、自分で考えるというのが自分のスタイルになるだろう、今日から一秒も休まず十年だ、一秒も休むなよ/十秒で解決するように思って、十秒で解決した心地がしているのは、理性のはたらきじゃない、十秒であなたの魂に催眠がぶり返してフッと眠りに落ちているだけだ、 "眠りに落ちているだけだ、ごきげんな消費者さん" 、あなたは毎日ウェブトピックスをクリックするだけで自分の内にあるトピックはまったくクリックしないじゃないか。

正しく見ないとな | comments(0) |
ratio(比) と forms(かたち) /あなたの根本的な装置について4
いうわけで、この話は難しすぎるので、エリマキトカゲから始めろ。
お前から始めるな。
エリマキトカゲからこの世界を始めろ、お前からこの世界を始めるな。
なぜなら、エリマキトカゲはお前のものじゃないだろう? エリマキトカゲはこの世界のものだ、世界のものなのにお前から始めてどうする、世界のものなのだから世界から始めないといけない、ただのそれだけの当たり前のことだ。

世界にはエリマキトカゲがいる。
ただそれだけのことだ、それだけでパッと、フィクションの速さで、勝速日、 forms が生じる、もともとある forms がわれわれに届く、世界にはエリマキトカゲがいるというただそれだけでだ。
お前が知らなくていい、お前が知らなくても、この世界にはエリマキトカゲがいるのだ、たとえ人知れず絶滅したって、「エリマキトカゲ」という forms は初めから永遠にあるのだ、世界にエリマキトカゲという forms があるというのはそういうことだろう。
世界にはエリマキトカゲがいる、それだけでいい、お前から始めるな、世界にはエリマキトカゲがいるというのが聖霊であり、お前が ratio(比) をおっ始めようとするのが邪悪の始まりだ、お前がぐりぐりエリマキトカゲにこだわる理由はさっぱりわからない、そこまでして自分しか存在を認めないのはいくらなんでもビョーキだ。

冗談でなく、多くの人は、エリマキトカゲさえ、自分の比率においてしか存在を認めない。

多くの人にとってエリマキトカゲは、「自分に何の関係もない」と感じられるのだが、そこから関係を捏造することは元より、「自分に関係あるものしか認めない」「自分との関係においてしか認めない」という構造じたいが、ぶっ壊れているのだ、造物主でもあるまいに、「自分と関係していないものは存在していると認めない」というのはムチャクチャだ/エリマキトカゲは確かにあなたと無関係で、ただし世界の forms として存在している、あなたとの関係ではなく世界との関係があって存在しているのだが、そんなにどうしても「世界じゃなくわたし」と言い張りたいか、自分が造物主でもないのに。
ところで造物主ではないといえば、おれだって造物主ではないのだが、そこはおれの場合は工夫してあって、造物主のことをおれは勝手に「おれ」と一人称で呼んでいるので、偉大なるおれさまにおいてはこの世界イコールおれでいいのだ、この世界から forms がビンビンに飛んでくるのだが、このビンビンに飛んできているものがつまり「おれ」だったとは……というわけで、おれはエリマキトカゲではないが、エリマキトカゲが地を健脚で駆けている世界が「おれ」だ、それを「おれ」とは認めなくてけっこうだが、「世界」だとは認める必要がある/世界とエリマキトカゲの側からスタートしろ、自分の側からは決してスタートするな。
正しく見ないとな | comments(0) |
ratio(比) と forms(かたち) /あなたの根本的な装置について3

「12とはどのような数か」と訊かれたとき、「12を言い表すのに、12より優れた言い方はねえよ」と答えねばならない。
「12とはどのような数か」と訊かれたとき、「ああ、12ですわ、12、ドッカーン!!」というのが正しい言い方だ、数学者はこれぐらいわかっていなければ、数を愛していないから、数学に見放されるだろう。
明らかに、一般には誤ったことを述べるが、言うなれば「12は素数のひとつ!」とまで言ってしまっていいだろう、もちろん素因数分解すると 12 = 2 × 2 × 3 となるのだが、そんなケチなことを言わず、12だってこれまでガンバってきたのだから、そろそろ素数だと認めてやってもいいじゃないか、素因数分解が計算式として合っているからといって、そのことで12をバラバラにする必要はない。
「12とはどのような数か」と訊かれたとき、2 の 2倍の 3倍です、と比率で答えてはならない、「12を言い表すのに12より優れた言い方はねえよ」と答えろ、この答えは数学の教師にペケをつけられるだろうが、その代わりトルストイにはよろこんで頭を撫でてもらえるだろう。

身長が 170cm の人に、5cm を足しても、身長 175cm にはならない。
年収が 500万円の人に、300万 を足しても、年収 800万円 にはならない。
んなアホな、と言われたらそのとおりで、これは明らかに僕が誤っていて、一般が正しいのだが、そんなこと知るか、身長 170cm の人はそういう「かたち」なのだし、年収 500万円 の人は、そういう「かたち」なのだ、そういう「かたち」のものに何かを足したり引いたりはできない/すべての「かたち」を無視して、独自の「ものさし」をあてがわないかぎり、何かを足したり引いたり、比率を計算したりはできない。
それぞれのパラメーターに、「cm」「万円」というような、「単位」がくっついている、素因数分解においては、無限に出現する素数そのものが単位群ということになるのだが、比率というのは「ものさし」であると、ちゃんとこの「単位」の表記が宣言している/たとえば 身長170cm と 年収500万円 を掛け算すると、積は 85000cm万円/年 だ、これはデタラメではない、この「cm万円/年」という単位がわからない人は物理数学の初等を理解していない、「85000cm万円/年」が意味不明に思えるのは、実は「比べる対象がないから」にすぎない、だからそもそもの 170cm も 500万円 も、比べる対象がなければ意味不明なのだ、それがわかりやすい意味に見えているのはわれわれの習慣からの錯覚にすぎない。

令和元年9月11日は、令和元年9月10日の翌日ではない。

それが「翌日」に思えるのは、単に便宜上、カレンダーにそう並べたからであって、そのカレンダー表示の習慣に、われわれが染まりきっているだけだ、もちろんその習慣に迎合しないと社会生活がメチャクチャになるので、便宜上はしょうがないが、それでもどこかで真相を知っているべきだ/10日の翌日を11日とする、偉大な遊びの中でわれわれは遊んでいるにすぎない、遊びだとわかっていれば悪くないものだ、31日の翌日は1日だが、それはルールではなくてそういう「遊び」だ、だからそれぞれに晦日(みそか)・朔日(ついたち)という(つごもり、三十日[みそか]、朔日[さくじつ]とも言ったりする)。
12 には 12 の forms(かたち)があるのに、それをどうやって 2 や 3 と比べるのか、9月10日 の「かたち」と 9月11日 の「かたち」があるのに、それぞれをどうやって比べうるのか? こうして、われわれの「比べる」という機能は、われわれの恣意から、限定的・偽装的にしか成り立っていないことがよくわかる、「比べる」というアホな機能から離れれば、9月11日 は完璧な 9月11日 であり、その永遠の相貌は滅びようがないということがわかるだろう。

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ratio(比) と forms(かたち) /あなたの根本的な装置について2
確に、かつ、最も有益に話そうと思う。
正確に言うならば、あなたの根本的な装置として、あなたがどう世界を捉えるかには二種類あり、ひとつは「わたしが "比(べる)" において対象を捉える」という仕方であり、もうひとつは「世界が "かたち" において対象を視せてくれる」という仕方になる。
たとえば、エリマキトカゲという生きものがいたとする、このエリマキトカゲを対象に捉えるとき、1.「わたし」が認識をぐいぐい近寄らせてその対象を捉えるのか、それとも、2.「世界」がそのかたちをパッとわたしに視せてくれているのか、という違いになる。
だから、「あなたの根本的な装置」とは言ったものの、正確にいえば、われわれが所有する自分の装置としては、 ratio(比) という機能しかないのだ、そしてもうひとつには、自分の装置ではなく「世界」の側の装置に、 forms(かたち) という機能があるのではないかという話だ、仮定にしていたら話が進まないので断定して話を進めるけれども。

「世界」に、エリマキトカゲという「かたち」があって、それがわれわれに届くということ……「世界」がわれわれにそれを "視せて" くれているということ、これが forms のはたらきだ。
一方、「自分」に ratio(比) という機能があって、自分のものさしと ratio をぐんぐん対象に近づけていくということ、それでエリマキトカゲを ratio(比) において測るということ、これが ratio のはたらきだ。
夏目漱石が I love you を訳すのに、「月がきれいですね」とでも訳しておけと言ったという、逸話が有名だが、きっとこれはガセだと思う、僕は夏目漱石を愛好してはいないが、さすがに夏目漱石がそんなつまらないことは言わないだろう、だいたい一般にとってわかりやすいものというのはすべてガセのつまらないものだ/自分の ratio の機能をぐりぐり寄せていって、「月」を捉えるから、「月がきれいですね」という発想になる、まともな文学者なら月が照っている夜空を見上げると「ほえ〜」としか思わない、その forms に「ほえ〜」としか感嘆できない。
だから、文学的な表現としては、「夜空に月が照っている」だけでいいし、「I love you」の翻訳なら、「わたしはあなたを愛しています」だけでいいのだ、そこにゴテゴテと修飾を貼り付けるのは、文学ではなくて自分の ratio の機能によって、ものさしをぐりぐり近寄らせてこの世界を捉えているから、その ratio ぶりが言語となって噴き出してきているだけだ、エリマキトカゲは健脚で地を駆けているだろう、「世界」がそういう forms を視せてくれている。

自分からスタートすると ratio、対象からスタートするのが forms。

何度も同じことを言うしかないが、自分の「ものさし」「尺度」をぐりぐり押しつけていくことで、対象を捉えること、これを ratio というのだ、この機能は人の身に具わっており、能力というよりは業(カルマ)として、弱い者の身から噴出して現れてしまう、だからレビューサイトには多数の「ものさし」が噴き出してコメントがあふれている。
自分からぐりぐりぐり、にらにらにらと、発生して近寄っていってはいけない、そうではなくてまず対象の存在そのものからスタートする、向こうからこちらへパッと届いているものが forms だ、海洋を往くクジラを「自分から」ぐりぐりぐりと近寄って認識すると、数日後には捕鯨反対活動に参加するナゾの市民になってしまうだろう、自分からぐりぐり近寄らなくても、先に「世界」に海洋とクジラは存在している、それが向こうからパッと届く、このことを forms といい、自分からにらにら発生させる ratio は何の関係もない。
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ratio(比) と forms(かたち) /あなたの根本的な装置について
ィリアムブレイクが、ratio と forms の違いについて言及している。
どうせわけがわからないので、読んでもしょうがないと思うが、逆にいうと、わけのわからないものだけが読む価値があるともいえるので、ここに引用しておく(大江健三郎訳)、

そこで汝自身の自己(セルフ)を判断せよ、汝の永遠の相貌を探索せよ、/なにが永遠であり、なにが変わりうるものであり、なにが絶滅しうるものであるか。/想像力は状態(ステイト)ではなくて人間の生存(イグジスタンス)そのものである。/愛情あるいは恋は、想像力から切り離されては状態(ステイト)となる。/記憶はつねに状態(ステイト)であり、理性も状態(ステイト)であって/絶滅させられるためにつくりだされ、そしてまた新しい比(レイシオウ)がつくられる。/すべてつくりだされうるものは絶滅させられるけれども、形式(フォームズ)はさにあらず、/樫は斧によって伐り倒され、仔羊はナイフによって屠られるけれども、/それらの形式(フォームズ)は、永遠に存在する。アーメン。ハレルーヤ!

いきなりこれでは何のことかわからないし、これをもって自分が何をどうしたらいいのかさっぱり不明なので、いったん忘れて、このように考える、僕は今あなたの内部にある根本的な装置について言及しようとしている。
人は確かに、「比」「比率」「ratio」を捉える機能を持っているのだ/東京タワーは高い建物だが、富士山に比べれば低く、その富士山だって、火星のオリンポス山に比べれば低い、だがそれはあくまで「比べれば」であって、「比べる」という能力がなければ、あなたはあなたのかたちであり、東京タワーは東京タワーのかたちにすぎない、何が高いとか低いとかいうことは言えない、すべてはあくまで「比べる」という機能のもとに発生しているので、それらの比較結果は実は真相ではないということなのだ。

大江健三郎は、forms を「形式」と訳しているが、そこに「式」が入るのが妥当かどうかについて、僕にはやや躊躇がある、そこで僕は今のところ forms をただ「かたち」としている、あてがう漢字としては「象(かたち)」のほうがよいかもしれない。
それで、ごたごた言った上で何の話かということなのだが、話は簡単で、人は ratio(比) という機能を持っている以上、自動的に「ものさし」の機能を持っているということだ/自分の中に「標準」という、実はわけのわからない「ものさし」をわれわれは抱え込んでいる。
人の機能には、「ものさし」たる ratio の機能と、「かたち」たる forms の機能があるのだが、世界のすべてをどちらの機能において捉えているかは、人によって異なっており、実は forms の機能でこの世界を捉えている人はとても少ない。
たとえば、「エリマキトカゲ」という生きものがいたとする、そうすると、 forms の人にとっては、ただちにエリマキトカゲの象(かたち)が直接捉えられるのだが、 ratio の人にとっては、まず自分の「ものさし」があって、そのものさしがぐんぐんエリマキトカゲに接近していく、という仕方で捉えられるのだ/これだけでは何のことかわからないだろうから、さすがに次の記事で説明する。

六畳と十二畳では、広さが倍だと思われるが、それはあくまで「比べれば」であって、比べなければそれぞれは六畳と十二畳だ。

われわれには「比べる」という能力があって、それは能力というよりは、背負った業(カルマ)の機能として、自動的に発現しているというたぐいだ、われわれは自分が六歳のときと十二歳のときを比べて、「十二歳のときのほうが倍の時間を生きている」という捉え方はしない、それは「単位時間」というものさしにおいてしか「比べる」ということが成り立たないからだ/自分が六歳のときには、六歳のわたしというわたしの「かたち」があり、十二歳のときにはやはり十二歳のわたしの「かたち」がある、それをわざわざ「時間」というものさしで比較するのはあまりにも恣意的で不自然だ。
ところがわれわれは、たとえば自分が二十歳だったときに、十歳の少年を見ると、「わたしの半分しか生きていないのだ」という見方をする、それは、自分以外に主体が存在することを認めていないからだが(だから十歳の自分を二十歳の自分の「半分」とは感じない)、つまりわれわれはまともな導きか発見を経ないかぎり、自分だけがこの世界に存在していて、その他のすべては自分のものさしからの「比較」でしか捉えられないのだ、その比較は数値・比率として間違っているわけではないが、やがて具体の死と共に滅びる、だからブレイクは ratio を「絶滅させられるためにつくりだされ」と表現した。
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言葉の中に人が入るということ3
いうわけで、「人の中に言葉が入るのではない」「言葉の中に人が入るのだ」として、その「言葉の中」に入るのに、身の潔白に関わる一種の "ゲート" のようなものがあるのだとすると、途端に話は面白くなる。
人は能力によって、言葉の国・言葉の世界・言葉の中に入るのではなくて、身の潔白によって入国を認められるのだ、そうすると、たとえば清楚・純潔のイメージで押し出している少女アイドルなどは、本当に清楚で純潔なのか? ということが審査されることになる。
別にアイドルに限ったことではないが、おおむね女性は、自分のことを清潔で汚れていないとアピールしていると思う、それで若い女性と僕とが並ぶと、たいてい美女と野獣ならぬ、清純と汚穢みたいな感じになる、だが見た目がそのような印象であっても、血と肉と言葉と呪、およびこれまでの身口意の行いについて、必ずしも両者が見た目の印象のまま清純と汚穢とは限らない。
この仮説を採用することで、ここまで長いことあった、ひとつの疑問・矛盾・不整合が、ようやく整合するのだ、つまり印象や社会通念、あるいは信念においても、「どう見ても女性のほうが偉くて、うつくしくて貴い」というのが常識であるのに、その常識の中でなぜか当の女性は、まったく祝福を受けられないのだ、どう見てもあわれで醜くて卑しいのは僕のほうなのに、僕のほうが祝福を受けるというナゾが、これまで二十年近く続いてきた、このナゾを解明するのに、この仮説は最善の可能性を示している/言葉の中に入れない女性は、これまで内心で、さんざんなことを蓄えてきているのではないか? こっそりやっているうちに、その習慣は自分にも無自覚になったとして。

年の功というやつで、僕はこれまで色んなものを見てきた、そして魂の単純な問題というやつは、いくらごまかしても、長いあいだずっと放置されていたままに、きっちり残っているものだということを、経験から確信することができる。
いくら表面上が充実しているように見えて、いかに言い訳が立つ状況が醸し出されていて、強気で上向き、何の問題もなく順風満帆、人に必要とされているよ……と覆ってみたところで、単純な魂の問題は、数年間も数十年間も、以前に放ったらかしたままに、きっちり変わらず残っているのだ、どれだけ過ぎ去った問題のふりをしてみても、それは一ミリも過ぎ去ってくれず、目の前の世間的な問題に関わっているふりをしていても、魂の問題は端然とその場に待ち続けている。
「実は何も変わっていないんだよ」と、僕は告げるように話すことができる、「ただどんどん時間はなくなってしまった」、ひょっとしたら思春期前の少女は、学芸会のお遊戯で、言葉の中に入れない自分について、魂の危険を察知したかもしれないけれど、その後に第二次性徴が起こって男どもを性的に誘引する力を具えると、その力に暗い発想を得て、「しめしめ」と、言葉の中に入れない問題は置き去りにして、ただ力をもって暗躍することに耽ったかもしれない、だがそれらのやりのこしは今もずっと残ったままで、自分が血の力で暗躍したぶんはただ自分の状況をますます困難にしただけだった。
清潔で汚れていないイメージの、アイドルじみた女性像が、現代の女性の背後に、ひっそりとモデルとして立っているのだろうけれど、今や男も女も関係なく、また老若男女も関係なく、本当にあなたはゲートをくぐれるだけ清潔で汚れていない魂の者なのか、まさか思い入れのあまり大粒の涙をこぼす可憐で清楚な若い女性が、僕よりも腹の中が卑しいというようなことは、あまりにも想像しがたいけれども、それにしても理屈でいえば、僕ごときが通れる潔白のゲートは、若い可憐な女性のすべてはやすやすと通れないとおかしいのだ、どうしてその直前に立たされたときに急に青ざめる? 年の功というやつで、僕は何度もその自白が現れる決定的な瞬間を見てきた。

ゲートの目の前に立たされると青ざめ、やがて、ゲート周辺じたいを破壊しようとする。

人はそのようにして、ババアになるのだ、いざ自分がそのゲートを通ろうとするとき、自分がこれまでの身の行いと、所有し溜め込んでいるものによって、ゲートがくぐれないということが明らかになる、そのときの恥と恐怖に向き合えなくなると、今度はその脅威のゲートそのものを否定し、その周辺にいる人々を破壊するように目論む、自分に起こる恥と恐怖のあまり、「誰にも栄光のゲートはくぐらせない」「人は平等であるべきだから」と自動的に主張・行動するようになる/特に田舎のほうと血族のほうで顕著なことで、田舎と血族は誰か潔白の者が言葉の国へのゲートをくぐることを断じて否定し、妨害しようとする。
その妨害はもちろん、自分の防御となぐさめのためだし、すでにゲートをくぐって今燦然とある人だって、なんとかして引きずり下ろそうと、こっそりと呪の血眼を向けている、それでもけっきょく暗い呪は、燦然たる光の門に打ち勝たないのだが……そうしてけっきょく、破壊工作的な立ち回りは真実に打ち勝たないのなら、無駄な立ち回りはやめて、さっさとゲートの前で青ざめるという明白な事実に向き合えばいい/自分が言葉の中に入るだけだ、何の能力も要らない、それじたいは最も難度の低い営為だ、これは何も「難しい」のではなく、ただ真相のすべてが明るみに出るという、「都合の悪さ」があるだけだ。
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言葉の中に人が入るということ2

の中に言葉が入るのではなく、言葉の中に人が入るということ。
人の中に言葉が入ると、それは言葉ではなく「呪」になる、呪は呪縛の力を持つ、たとえば母親が娘に繰り返し「あなたはお母さんの娘なんだからね」と "血" の力で言い続けると、それは呪の力をもって娘を縛りつける/まあそんなもん「知らんわ」といえばそれでオワリなので、呪というのは最終的にはただのまやかしでしかないが、一般的にはよく「呪」は機能するものだ。
「呪」というのは、生きる上で、人を縛りつけておく「安全装置」としても機能している、たとえば自動車教習所の教官が何度も、血相を変えて「後方確認!」と怒鳴りつければ、教習生は卒業後も発進や左折のときに「後方確認」という呪縛を思い出すことになる/自動車の運転なら何より安全が第一だから、これは呪の有効活用という側面を持つ、それにしてもやはり呪は呪というネガティブな性質をもたざるをえないが、それにしてもたとえば誰にでも覚醒剤の禁止を縫い付けておこうとすると、やはり誰でも持っている「血」に作用して、「人間やめますか、覚醒剤やめますか」というようなコピイを繰り返し言いつけるしかない。
「呪」とはそういうものだし、そういうものでしかないのだが、この「呪」が強く入っていると、いざ自分が「言葉の中」に入ろうとしたとき、自分が「言葉の中」に入れないのだ、まるで手荷物検査に引っかかって飛行機に乗れない人みたいに/単純な理解としては、<<腹の中に言葉(呪)を持っている人は、言葉の中に入れない>>、<<言葉の中に入れるのは、腹の中に言葉(呪)を持っていない人だけ>>、と知っておけばいい、表面的には同じ「言語」なのだが、使い方を違反した人は言葉の中に入れないのだ。

たとえば、誰でも経験的に理解できることだが、ここに「元カレのことをさんざん罵って毒づいた人」がいたとする、当人はもうそのことをすっかり忘れているのだが、この人は透き通る氷のガスのような、秋の青空の真下に立てるだろうか、その広大さと冷涼さに合一して「秋」を体験できるか/というと、そりゃあ一事が万事、人のことを罵って毒づいてエキサイトするような人が、その所業を無かったことにしていきなり歓喜にまみえることはできない、そんな人はどうしても汚い世界の中を生きていくしかない。
ふつう、そうしたことは、単に当人の性格の問題だと思われていたのだが、突き詰めると、どうやら単純にそういうことではないらしい、ここに「言葉」と「呪」の性質があるのだ/人を内心でも罵って、言語を「呪」として使うと、もう「世界」を作りだしている「言葉」の中には入れなくなるのだ、自分が「呪」を使ったぶんは、自分も呪われるしかないという、これは呪術の基本で、「人を呪わば穴二つ」という性質がある。
つまり、たとえ内心ででも、何かを強く罵り呪ったり、微弱にであれ、茶化すように呪ったりすると、そのぶん自分が「言葉の中」に入る権利はバカスカ失っているようなのだ、本人の知らないところで無条件に/身口意という言い方でいえば、呪うように振る舞い、呪うように言い、呪うように内心で思うと、それはきっちりカルマとして即座に計上され、そのぶん「言葉の中」には入れなくなっていく、そういうシステムらしい、まったく「そういうことなら先に言ってくれよ」と言いたくなるような、これは冷淡で合理的なシステムだ。
というわけで、ここにきて「ん?」という疑問が浮上してくるのだが、つまり「言葉の中」に入れない――フィクションの中に入れない、「世界」の中に入れない――という様態が顕かになる人について、「あなたってふだん、内心で何かぶつくさ呪っているの?」と、問い質さねばならないという仕組みなのだ、たぶん僕自身はこの性質がまったくなく、内心でぶつくさ言うぐらいなら、呪うよりもはっきりと「殺すぞ」と表明してしまうので、僕の内部にはおそらく呪の履歴がない、だからすんなり「言葉の中」に入れるのだが、そこですんなり入れない人は「ひょっとして……」と、これはなかなか面白い状況証拠が白日に晒されてしまうのだった。

言葉の国に入れないのは、言葉を違法使用したことがあるからだ。

当人はこっそりやってきたつもりだろうが、いざ言葉の国に――言葉の「中」に――入ろうとしたとき、そのこっそりやってきたものの履歴が全部バレるんだな、これはなかなか退っ引きならないシーンだ、公明正大のふりをしながら、いざ税関を通ろうとするとブザーが鳴って「あなたちょっと」と税関員に止められるという始末。
言葉の中に入れないというとき、言葉に関わる不正・不法の行為はもうひとつあって、それは称えるべきを称えなかったとか、讃するべきを讃しなかったとかだ、この場合も不正・不法の行為とみなされるので、やはり税関で止められて、言葉の国には入国できなくなる/いよいよ笑える話、つまり人が「言葉の中」に入るということ――フィクションの中、「世界」の中に入るということ――は、能力の問題ではなくて、身の潔白程度の問題だということだ、能力が低いというなら平気なものだが、唐突に自分の罪が暴露されるというのはなかなか胃の腑が冷えるところだ。

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あなたにとってわからないことについて
しい台風が過ぎたと思ったら、思いがけない猛暑のぶり返しで、身体が参る、別の国の夢を見そうだ。
別の国の夢を見ても、そちらの世界のほうが実に世界らしくて、われわれの日常のほうがどこかうつろな夢に思えることもあるが、そのどちらもないがしろにするべきではないだろう、すべてのものは語りかけてきている。
YouTuberが作る動画のタイトルは、どれも気になるものばかりで、けれどもYouTuberの動画には脈絡も内容もないから、あまりそれに振り回されないことだ、YouTuberが悪いとは思わないが、動画タイトルに操られていると早晩どうしてもビョーキになってしまう。
僕は今日も、世界を見失わずに無事にいられている、まるでどこかの湖のほとりや、あるいは岩石砂漠を歩いているような景色において/現実に振り回されるということは、あまり意味がなくて、どのように意味がないかというと、宗教に振り回されるのと同じていどに意味がないという感じだ。

何かしらの世界が視えればそれが一番いいのだが、そんなもの視えないから困るのであって、世界が視えないなら日常の誤情報ばかり目に入ってしまうのは致し方ない、いわゆるイメージという現象だが、イメージというのはものが視えなくなった人において自動的に膨らむのだ/「イメージ」というのは思いがけず典型的にネガティブな現象だということ。
その点、たとえば聖書なんかはよく出来ている、そりゃ聖書なのだからよく出来ていて当たり前だが、何がよく出来ているかというと、聖書というのはどう口語訳にしても、「イメージ」が膨らまないように出来ている、つまりプロモーション性がないのだ、何しろ購買にアプローチしない本(「商品」ではない書物)というのは世の中にほとんどないので、それだけでも聖書が聖であって俗でないことがわかる。
あんまりワークショップの話はしたくないし、そうなるとやっぱり書物だな、おれは書き話すのが専門だし/書物というのもこのごろはすっかり様変わりして、消費者のニーズを読み取って生じた、つまりマーケティングありきの商品になってしまった、それはつまり、何の秘密もない書物が発行されているということになる、それはもう狭義には「書物」ではないかもしれない。
やはり僕自身は、しかるべき書物を生産して、生きていきたい、おれの書き話すことは誰のニーズにも適合しないが/だってそりゃ、視えていない世界があるという前提で書き話しているのだから、視えていないものに対するニーズは無いに決まっている、おれの話はいつもわけがわからないが、これで「合っている」のだ、あなたにとって理解できないものを、どこか信じてみるというのも悪くはあるまい、それがいわゆる「受容」ということだ。

わからないだろうので、アテにせず、信じておけ。

人は何かを信じているべきだし、あなたも何か信じるものを見つけるべきだが、たいてい信じるべきものというのは、さっぱりわからないものなのだ、このことぐらいは覚えておいてよいかもしれない、あなたにとってわかりやすいものは、あなたにとって信じやすいものかもしれないが、そりゃ単にダマされているのだ、誰かがあなたをダマすために、あなたにとってわかるものをアピールしているのだ、だからYouTuberの動画はすべてあなたのわかるものばかりだ。
おれの書き話すことは、いつもわけがわからんが、これで「合っている」し、あなたが「立ち去りがたい」と感じているなら、それはあなたにとって理解できない何かがあるということだ/よくよく考えれば当たり前のことだが、あなたにとってわかるものは、あなたを調子づかせるというだけで、そんなに貴重なものではないのだ、そしてあなたは決して魂の底から、調子づきたいとだけ望んでいるような生きものではないので、やはりこれで「合っている」のだ、このわけのわからない話はきっと、あなたにとって「信じるべき」という訴えかけを持って作用しているだろう。
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言葉の中に人が入るということ
んな人が、色んなふうに、僕に良くしてくれる、本当にありがたい。
駅前にコーヒー豆を買いにいって、ふと思った、作品の実際が「作品」という言葉から離れるように、恋あいの実際も「恋あい」なんて言葉からは離れている。
離れている……と思えるのだが、きっと真相は逆で、 "実際" において言葉が消失しているように見えるのは、おそらく言葉の "中" に入っているからなのだ/人の中に言葉が入るのではなく、言葉の中に人が入るのだ。
僕は今夜も、とんでもない街の光景を見たように思う、色んな人が色んなふうに、僕に良くしてくれる、本当にありがたくて、僕は感謝するのではなく、ただ現象を愛することしかできない。

「言葉の中に人が入る」というのは、奇妙な言い方だが、これがきっと正しい言い方だ/これを逆転して、「自分の中に言語を入れる」と、これはただの呪になってしまう。
つくづく思うが、やはり言葉は人のものではないのだ、言葉はもともと事象空間にあるもので、言葉は人の発明品ではない、そもそも自分の身さえ人の発明ではないのだから。
僕はこれまで「恋あい」なんてしたことがないし、「作品」なんて作ったことがないし、「おれは男だ」なんて一度も思ったことがない、「音楽」というのも聴いたことがないし、「映画」というのも観たことがない。
魔法の言葉なんてあるわけがなく、また、魔法の言葉なんて必要ないのだ、本当は言葉そのものに魔法以上のものが具わっている、だから魔法の言葉なんて要らない/魔法の言葉なんて求めるから、人は呪に掛かるのだろう、人の中に言語を押し込むというのは、「言葉」をナメているゆえの使い方の誤りだ。

言葉の中におれはいるが、おれの中に言葉はない。

人には、言語を「認識する」という能力があるが、「認識した言語」と「言葉」そのものの性質はまったく別物であって、認識した言語というのはいわば、撮影した景色という具合のものにすぎない、撮影した景色は景色と相違なく見えるが、撮影されたものはすでに写真や映像であってそれ自体は景色ではない、だからこそ正しく作られた映画はそれが「映像」に見えない。
われわれが、恣意的にたとえば「呼吸」を捉えると、空気が肺の中に入っているように見えるが、どう見ても正当なスケールから考えれば、人が空気の中に入っているのであり、空気が人の中に入っていると捉えるのは極端に局所的な捉え方だ、水中でこの記事を読んでいたりしないかぎり、あなたも確実に空気の中にいるだろう、それと同じように、「言葉」も人の中に入るものではない、言葉の中に人が入っているのだ。
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WS報告054(2)/祝101回
ークショップが、第100回&101回ということで、根こそぎ祝われてしまった。
小劇場と作品としもべ法を駆使して、お祝いの寸劇を見せてもらったが、なぜかあの瞬間の寸劇は完璧だった、何かが取り憑いたように完璧だったので、そのことは正式に報告しておく。
そういえば、「正式」とか「様式」とか「公文式」とか、僕は「式」と呼ばれるものに一切センスがない、それは式そのものが厳密には呪と呪縛の力を持つからだが、それにしてもこれは使いようではないのかという気がしているので、少し自分として「式」に別の眼差しを向けてみようと思う。
式というのはつまり、 1×2×2×2=8 のように、素因数(素となる要素)の掛け算を「並べて」、元の数の代理と為すことをいうが、それが僕には本質のごまかしに見えるし、本質のごまかしには違いない、トルストイも同じことを言っているので(今説明するエネルギーはないが)、きっとそうなのだろうが、「式」が本質の補足ないし補助として機能するなら、使ってよいのではないかという気がしている、「式」というのは「規則的に並べる」ということだ。

ワークショップはけっきょく、身体操作とフィクションをゴリゴリに教えているのだが、どちらについても覚醒するメンバーが出て来た、「作品」はまだ遠いが、それとは別に次のステージに進まねばならない/これ以上の速度で進むつもりかと、各員からは青ざめた半笑いが返ってきそうだが、先のものを見たほうが手前のものが視えるようになるということはあるし、何より僕自身が僕の本分・本意たることに早く実態を近づけてやりたい。
「フィクション」については、本当に一部のメンバーには、はっきりと視えるようになったみたいだ、これ以上よろこばしいことはない/となると、次は「フィクション上の事実」をやらねばならないと思うし、それをやらないと僕自身が燃えてこないので、いよいよ本当のことをやろうぜと言いたいのだが、ここまでのことが「まだ本当じゃなかったのか」とドン引きされそうだ、でもそりゃあ僕の側から見ればまだまだ奥があるのだ、ノンフィクションからフィクションへの穴が開通したなら、フィクションからノンフィクションへの穴も貫通させるべきだ、それで双方は同一で構わないということになるから。
それで、祝100&101回ということで、ちょっとシャレにならないような、祝いの品もいただいてしまったのだった、あまり自慢するたぐいではないので控えるが、ここまで渾身で肯定してもらえるなら、僕の側としてはひたすら僕の知っていることをぶちまけるしかない、おれは祝いに対して感謝ではなく驚愕で返報しようと思っている。
われわれがフィクションに到達したがるように、フィクションもノンフィクションに到達したがっているのだ、到達したけりゃ相互に到達すりゃいいだろというだけのことだが/ワークショップで腐るほど繰り返しているように、おれは演技の一切をしないし、誰にも演技や小芝居をさせるつもりはない、ノンフィクション側から見ればフィクションがフィクションだが、フィクション側から見ればノンフィクションがフィクションということになる、まあこんなナゾの理論と現象も、やっているうちに本当に誰かがモノにしていくのだろう、それはまるで他人事のように「よくやるなあ」と感心する。

おれは100億人いる。

こんなナゾのメッセージを、書き記しておこう、これがなぜナゾのメッセージかというと、これが何のことを言っているのか、おれ自身にもわからないのだ、ただおれがそう言うからにはきっと何かあるのだろうと思う、まあ何かあったとして、そんなものがわかる必要は別にないが/100億といったが、つまりおれは個数的に存在しているのではないので、おれは何人いてもかまわないのだ、求めるかぎりの数だけ、おれは無数にいる。
おれが100億人もいると思うと、これはなかなか頼もしいことだ、あくまでおれにとっては頼もしいというだけだが/このごろになってようやく、あのときおれに吹き付けた風は、風が「おれ」だったのだということがわかったが、そう考えればたしかに他の誰かがおれであってもかまわないし、いわゆる「無」さえも「おれ」であってかまわないのだ、うーんこの世界はおればっかりだし、けっきょくぜんぶおれで出来ているじゃねえか、というわけで第102回もよろしく、摩訶不思議なワークなんぞで済ませられたら気楽なのだが、ご存じのとおりワークそのものはきわめて合理的で具体的だ、リアルに「できねー」という阿鼻叫喚をこれからも続けていこう。
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WS報告054(1)/祝100回
100回、いろんな人が来てくれて、華やかで推進力があった、もちろんいつもの顔ぶれも100回記念に万感(かどうか知らないがたぶんそう)だ。
100回は記念だが、101回目のほうが大切かもしれない、というわけで今日もゴリゴリいきましょう、ゴリゴリいく理由を探すようになった奴は軟骨魚類に食われて死すべし。
意味が無いことを突き詰めると初めから決めているのだし、なぜ突き詰めるかというと、ヘトヘトのボロクズになりたいからだ、とにかく誰にも納得や理解がされないようでありたい。
第100回は、肘やら膝やら、肩やら股関節やら、胴体やら背骨やら、具体のワークを硬派になり、その後ただちに小劇場等のワークに移った、こちらのワークもどうせ硬派だ、ぜんぶワークの形をした実質は学門だからな。

集合と離散、離散というと「分かれる」「分かつ」ということだが、これが気魄の現象で、つまり「分かる」と「分からない」の交錯、という遊びになる、分かる側がはっきりとした気魄で、分からない側がこれも認めざるをえない霊魂だ、その双方を古く「魂魄」と言った。
それは、そのとおりなのだが、まあ100回もやったのだし、今日はまた第101回だし、どうでもいいじゃねえか、という気がする、その何もかもがどうでもよくなるところまで到達しようとして、意味のないことを突き詰める覚悟をしている/おれは自身はもう何十年もそうだ。
神話には「天地創造」「天地開闢」という話があるものだが、天地が開闢されるまでは、天地も「分かたれて」おらず、ひとつながりの「分からない」状態だったのだろう、今もそういった事象はあるのかもしれない、「分からない」というのはそういうことだ、そして分からないことを追究する以上、意味のあること――分かること――を追究するわけにはいかない。
おれ自身、なぜこんな状態になっているのか分からない、そしてなぜこんな状態を最後まで続けていくのか、それも分からない、分からないということは、おれにとっては求めているとおりということだ、おれごときが分かるような状態を愛でていたくない、空間・言葉・作品・物語等々に「命」「魂」があるのは視えるが、なぜそれがあるのかは分からないし、それがあったから何だというのも分からない、ただおれの分からず求めているものに適う、それ以上の話は誰か分かったふりをする奴に聞け。

分からないものを分かろうとするのはただの混乱だ。

右手と左手を打ち鳴らすと、パーンと音が鳴るが、右手からはどのような音が鳴り、左手からはどのような音が鳴ったか、そんなもん「分からん」「離散しない」「集合である」でオワリだ、そんなことで禅問答ごっこをしている場合ではない、なぜもともと性質として「分からない・分かたれない」ものを、分離・分かろうとするのか、それはただのアホの混乱だ、性質的に分かるものだけ分かればよく、分からないものは分からないまま直接扱えばいい、指の爪を剥がしてから――分離してから――爪として使おうとするアホがいてたまるか? 分離したらもう指の爪じゃねーじゃん。
第100回を終えて第101回に向かうわけだが、それについてどう思うかというと、時間が押しているから寝たい、と思うのだった、最近はチェーン店のコーヒーでもすごくウマい、おれに分かるのはそれぐらいのことであって、ワークショップのことはよく分からん、分かるものならおれは第1回から馬糞を投げつけてトンズラしていただろう/分からないものを分かろうとするのは逃避であり、分かるものを分からないふりでいようとするのもやはり逃避だ、もれなくアツアツの馬糞をプレゼントしよう。
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速さを求める経緯
べての「命」は、やっぱり速いわけだが、なぜその速さを追究し、それに間に合うように僕自身が求めたかというと、とにもかくにも、カッコ悪いのがイヤだったのだと思う。
カッコ悪いのがイヤだったし、何より、なににつけても「成功」しなくてはいけない、そしてカッコ悪いものはどう理屈をつけたって失敗だ、カッコ悪いというのは魂のレベルにおいて失敗だ。
たとえばおじさんがそのへんの幼児をいじめようと考えて、頭をゴチンとやったら幼児は泣くだろうが、そんなことは「成功」とはいえない、何しろカッコ悪いのだから失敗に決まっている。
カッコ悪いのはすべて魂のレベルで失敗であり、カッコ悪いのはイヤだから、じゃあどうするかというと、ふつうは「カッコつける」という方向へ考えるようだ、しかし僕は、そこで頑張ってカッコつけるほど努力家になれなかった、カッコつけるのは面倒くさいし、カッコつけているだけで中身は失敗じゃねーかというのも明白だったので、じゃあどうすればということで、命に「間に合う」しかなかったのだ、僕の話すことが人にまったく利益を与えないのはこれが理由だ。

何しろ僕は、人に理解されるより、僕の魂が成功することのほうを選んでいるので、僕としては命に間に合っていればいいのだ、そう考えると全体がすっきりする。
たとえば、「生きるのに夢が必要だろうか」と考えたり、訊かれたりするとする、そうすると答えを考えて、「うーん」となるわけだが、もう「うーん」となったら間に合っていないし、最短で「必要です!」なんて答えたって、それはもう間に合っていないのだ、そんなしょうもない問いかけを認識して、問いかけに応答した時点でとっくにすべてのことに間に合っていない。
そこで、僕が仮に、「生きるのに夢が必要でしょうか」と訊かれたとする、その瞬間、僕の脳裏に走っている答えは、「見えます……あなたの将来の夢は、自前でワニ園を経営することです……そしてワニはぜんぶ伝染病で死にます」だ、それが速さであって、この速さは出遅れてから加速したってぜったいに間に合わないのだ、これは常に「止まっていない」のが最低条件で、止まっていたものが動き出したってそんなものは遅すぎてもう何一つ間に合うことはない。
そんなわけで、速さを求める経緯についてだが、何より「成功」を第一義に考えていたらいいのじゃないだろうか、成功したい奴というのはまともな奴で、ただひっそり生きられたらいいという奴は、たいてい「人間関係」を悪用して足を引っ張る奴になっていく、成功というのは願望ではなくてロマンなのだ、成功というのは「命(めい)」を為すということだから、そのことだけを第一義にしていたら、必要とされる速さの水準が視えてくるかもしれない。

成功するまでヨソを向かない、それが「視える」ようになる手続きだ。

ある意味、その成功させるべきひとつのことに、ずっと向いていられるということ、ヨソを向かないということが、才能があるということかもしれない、ふつうそんな程度の集中力も持ち合わせていないものだ/ずっと向きつづけるという集中力を持たない人は、自分を騒がしくして、つまり願望や怨みや嫉みで自分を呪縛して固定するしかないのだが、それは必ず「ありもしないもの」が視えるようになってしまう、まあその場合はお好きにどうぞというパターンで、ただおれの近所でやらなければ何の問題もないパターンだ。
どんな些細なことでも、成功するまでヨソを向かないということ、成功するということはイコール「カッコいい」ということだから、そのカッコよさのためには根本的な「速さ」がいるということを、向き合っているうちにいつのまにか知っている状態になる、それが「視えている」という状態だ、愛とか命とかはとにかく速いから、けっきょくゼロ秒のうちにコンタクトするしかつながる方法はないのだった、そりゃカッコよくなって当然だ。
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愛は速く、人間関係は遅い
品はいつも光の中や風の中にある。
言葉の中にあったり、場所そのものにあったりするが、少なくともおれの中にはない。
そしていつも言うように、光の中や風の中、言葉の中や場所そのものにあるのが「おれ」だ、それから切り離した「おれ」はおれではない。
光や風に接続するためにはどうすればいいか? それは速さが要だ、疑問が湧いてくるようなタイミングまでチンタラしているのが悪い、疑問が湧いてくるタイミングには必ず「人間関係」が待ち受けている。

光の中のおれがあり、風の中のおれがある。
それは、フィクションでも何でもかまわないので、フィクションの中のおれに、経歴を積ませるべきだ、ノンフィクションのことはどうせ百年後には消えているし、百億年後には地球そのものから消し飛んでいるだろう、だからノンフィクションの自分にだけ経歴を積ませていたら後にぜんぶ露と消える。
なぜフィクションの中の自分につながらず、ノンフィクションの自分が何の意味もない「イメージ」や「空想」を膨らませるかというと、「記憶」に掴まれているからだ、われわれが記憶を所有しているのではなく、記憶の側がわれわれを掴んでいるのだ、記憶がわれわれの所有物なのではなく、われわれが記憶の虜囚だということ/記憶というのはそれじたいが毒なのだ、この毒を否定するには、けっきょく光や風の体験ばかりを肯定するしかない。
つまり、速さが要ということで、実際「愛」という現象は速いのだ、疑いがないから速い、そして愛には疑問が湧かないに決まっている/人間関係というのは行き着くところ疑問と調整でしかないから、それをいじくりだしたときにはもう何も間に合っていない、ああそれにしても愛は速いな、人間関係はすさまじく遅いな。

信じている者と疑っている者は、話せない。

信じている者は初めから誉れの状態にあるのに対し、疑っている者はすべてを検査に通してからしか手に取れないという憐れな状態にある、信じている者が疑っている者のペースに合わせるには、わざと相当イヤな気分にならないといけないし、疑っている者が信じている者のペースになることは不可能だ/よって、初めから誉れ状態にある同士か、初めから憐れな状態にある同士しか話せない。
おれは人間関係には冷淡だ、それは、おれまでが人間関係に与したら、もう誰にとっても手がかりがなくなるからだ、いつか本当に解決してやろうと思い立ったときのために、おれは残っている必要がある/ためしにおれが「人間関係」に降りてやってもいいが、そのとたんどれだけの絶望感が空間を閉塞するか、たぶん想像をはるかに超えるだろう、これは実験的にも知らないほうがいいぜ。
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「命」はどこから3

はどうしても「親分」というタイプではないし、芸術家というのは分類的には「王」のタイプだと思う。
僕は誰に対しても「力関係」なんか持っていないし、「みんなやっているからやりなさい」なんて絶対に言わないタイプだ。
「命」はどこから、という話をしている、命はもちろんカミサマからだが、当人がダイレクトでカミサマにアクセスできるとは限らないし、むしろそんな奴は極小数派だ。
それで、あくまで理論上、どのように「命」が中継されうるかということを考えている、僕は「親分」とか「力関係」とか、「みんなやっているから」とかはどうしようもなく苦手だ。

僕は威張りたいのではなく、「命」という現象のディールがしたい。
それで「偉大なるおれさま」という言い方をしたりするが、こんなもの、代わってもらえるなら代わってもらいたいぐらいだ、おれなんか日常的に神通力めいていないと人に認めてもらえないんだぜ、いつのまにこんなしっちゃかめっちゃかになったのやら。
それで、いくら僕が日常ずっとビンビン来ていたとしても、命のディールは、タイプが異なる場合はリレーされないということがわかった、たぶんそういうことだ、人によっては「あなたは親分じゃないし」「あなたは上司じゃないし」「全員がやることではないし」ということで、能力的にではなく性質的にキックされることがあると判断できる。
四種類あって、まるで血液型みたいだが、その血液型が適合しないと血が固まるように、偉大なるおれさまの王型が必ずしも万人に適合するわけではないのだ、またこんにちにおいては、四種類のどれにも属さないという人もいるだろう、とにかく「命」が中継・リレーされるのには "性質" があり、性質の異なるルートではリレーされない。

ナウシカも王女だしシータも王女だ。

なぜこんな話をしているのか、意味不明だと思うが、さしあたりおれには必要なのだ、王が神授によって「命」を直接得るものなら、臣民はその「命」を下賜されることになる、そして臣民は王の前で常に「王の御前(ごぜん)」だ、このわけのわからんことがこの先に必要になる。
ナウシカは王女なので作中で「姫様」なのだし、シータが王女だからパズーが騎士(ナイト)なのだ、ナウシカ王女がいなければ風の谷の人々は「命」のない集落民だし、シータが王女でなければパズーはただの世話焼き少年だ/そんな話、なんの興味もないという人は、ヨーロッパに旅行してもお城を観に行くのは禁止だ、そもそもわれわれが建築物として「お城」にこころを惹かれる偏りがアヤシイと感じねばならない。

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