☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
WS報告033(1)/記号法あらためしもべ法に宿る魂
直、もう内容を詰め込みすぎて、二日間やったことを今すべて思い出すのなんか絶対に不可能なのだが、まあしゃーない。
今回は記号法(改め「しもべ法」)を通して、「なぜ当人は何も思念していないのに魂が宿るんだ!? なぜ表示が成り立つんだ!?」という発見をもたらした、このことがどれぐらいウケるか不明だったのだが、やってみると異様にウケたので、やっぱりみんな魂に餓えているんだなということを改めて思い知ったのだった。
しもべ法というのは、ごく単純な記号的な動作を、僕が(マスター役が)命じ、また「それ以外のことをしたら殺す」と僕が念押しし笑、僕がキューを出して、その動作だけをさせて、そこに言葉(余韻等)を重ねるという方法だ、プレイヤー側はその本番が来るまで自分に命じられた動作が何を意味するものかまったく教えられていない。
プレイヤーは、キューを受けると命じられたとおりの動作を、まったくわからないまま、しかし殺されてはかなわんので命じられたとおりにするのだが、そこに言葉が重ねられると、「あれ?」というぐあいに、自分のしている動作が、その「言葉」を忠実に示していることがわかり、その「言葉」の魂・命が、自分の身体と動作に宿り示されることがわかる、それで「な、なんだこれ?」となる/体験した人はわかると思うが、すべての「作品」を通してみんなが体験してきたナゾの現象の、エッセンス化したものがこれだ、一般に思われているように、自分の思念や気持ちや演技や表現力が、この世界に表示をもたらすわけではないということ、一般には知られざる本当の「原理」があるということだ、このことは発見してしまえば実は何もむつかしい原理ではない。

ただ、むつかしい原理ではないといっても、それは構造的に単純だというだけで、その構造にアクセスすることが気楽だということではない/むしろその構造そのものが単純を極めるゆえに、「けっきょく神がかりで草」ということさえあるかもしれない。
なんというか、もうこんなこと説明しても無意味かもしれないが、メモとして書いておくと、たとえば人の声とか言葉といっても、本当の声や言葉は「無音」なのだ、それを人の認識機構は「音声」と認識してしまうから、ここで誤解と混乱が生じる、この誤解の結果多くの人は「筋が悪い」と僕が表現するところのコースに入り込んでしまう、当人が熱心であれば熱心であるほどにだ。
言うなれば、「頑張る」ということと「表示が成り立つ」ということは、無関係どころか正反対ということなのだが、こんなことふつう気づくわけないし、気づく可能性なんて、何かしら「すべてを捨ててでも表示だけを成り立たせたい」と振り切った人にしかありえない、だからほとんどの場合、これは自分で気づくというより、気づくように誰かに導かれるということでしか、そもそもこの現象に触れる機会じたいが与えられない。
というわけで、うまく説明できないし、うまく説明する気はもともとないのだが、何ともいえず佳いものがあるなあ/記号法改めしもべ法をやると、みんな急に尻尾をパタパタ振り始めて、とても佳いし大好きだからこれをもっとやろうと、全身で表し始めるのだが、その佳さを確信しながら、何が「佳い」のかは誰一人「まったくわかりません笑」という状態なのだ、まあ現状それはしゃーないと思うが、これをなんとか自分で端緒だけでも掴めという話になる、そうでないといつもおれ一人がアクセスしてマスターとなり「命じていないことをしたら殺す」と活躍しつづけねばならなくなり、さすがにそれを単独でえんえん続けていくのはタフすぎるのだった、というわけで全員さっさと魂と命と空間の真実に気づけ(いいかげん気づいてはいると思うが自前でアクセスできるようによろしく)。

×己の記憶に頼る ○目の前の共有空間に "だけ" 頼る

実際に体験されたしもべ法は、そういう体験だったと思う、何しろ他のことをしたらブッ殺すと言われて、キューを待って、キューが出されたら命じられたそれ "のみ" をする、するとなぜかその場の空間から「あれ?」と、ナゾの魂が己の身に重なって得られ、自分がそこに存在していること、および「表示」を果たして世界の一端を担っているということが直接得られる、自分はそんなことに思念を向けた覚えなど一切ないにも関わらずだ、このまったく予想外に生じる事実に、なんとかして自前でアクセスできるようにならないといけない。
ということなのだが、それにしても「記憶に一切頼らない」ということが、実はとてつもなくむつかしいのだった、過去(記憶)という既知に基づいて動くというのはわかりやすいし確かなことだが、未来という未知に基づいて動くというのは、「……いやいや、基づけないじゃん」としかふつう思わない、そうなると、それはもう「目の前の空間にあるじゃん」「目の前の空間に聞けよ」としか言えない、客の知らんことを主は先に知っているというようなことだが、その主というのが客の頭上空間にあるというような、わけのわからん話になるのだ、このあたりからはもう、理解するより出来るようになったほうが早い/客の頭上にある未来を「狙う」というとき、主のしもべになるのだ、客の頭上というのはつまり、そこには空間しかないということだけどね、うーんこんなハチャメチャな話が了承されてたまるかということなのだが、実際には「それしかやり方がない」のだった。
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魂をイージーに考えよう!!(罠つき)2

の前に、十人ぐらい赤の他人がいて、そこに向けて己の魂の言葉を叫ぶ・響かせるとなると、実際、人はどうするだろうか。
まあおそらく、顔を真っ赤にして、何かとてつもない陳腐なことを、甲高く裏返りそうな声で、発するのだろうな/改めて驚くべきは、この単純さだ、人は赤の他人10名に向けて「自分の言葉」を発するだけで、こんなにしっちゃかめっちゃかになってしまうということだ、そして「これなら営業マンのキャラを作り上げたほうがマシだ」というぐらい、このプレッシャーから逃避したがる(だから営業マンのための自己啓発セミナーは駅前でそういうことをやらせる)。
実際には、そうしてケンカを売ってもしどろもどろ、愛を叫んでもしどろもどろ、「余裕、なし!w」「顔真っ赤w」「必死な割に内容が小学生www」「出、出た〜w」「いやあ、全力でキモいっす、全力でイタいっす」「こーゆー奴だけにはなりたくないはw」という有様になるだろう、それは情け容赦ないことだし、そんなところでカワイソウゴマカシをしていたらキリがなくなる、そういうエセ善人は去れよ/キモいものはキモいし、イタいものはイタいのだ、そのあたりは「当たり前でしょ」とイージーに捉えていなくてはならない、ごまかしてむつかしいフリをしないことだ。
こうして、このあまりにもキツすぎる愛と魂の事実を見据えた上で、選択肢はただ二種類、1.それでも魂ごとキモくない奴に進んでいくか、2.いくらなんでもキツすぎるので全面的に降伏アンド大抑圧ライフのまま生きていくかという、二種類の方向しかないのだ、ただしこれは方向性の問題なので、どちらを選んだとて即日にそれが完成するわけではない(抑圧されるほうも、数十年をかけて「これは……」と青ざめるほどのものが完成することになる)。

多くの人は、お察しのとおり、己を「炸裂」させると、ただちに友人と地位のすべてを失うだろう、それは僕自身でもそうで、僕はこうして毎日「炸裂」しているのに、なぜ友人が逃げていかないのか不思議なぐらいだ、これは本当に「よく付き合っていられるなお前ら」と、実は本当に不思議がっている。
そして、イージーに考えると、「炸裂」してただちに消えていってしまう友人なら、それは本当の友人ではなかったのだろうし、その友人と付き合っていた自分も、本当の自分ではなかったのだろうな、ということになる/そりゃ悲しいことだが、悲しいからってむつかしいフリをしてもしょうがない、構造はあまりにもシンプルだ、「炸裂」の結果として女に惚れられるのでなきゃそりゃインチキ男に決まっている、抑圧のどん底で愛されているフリをキープとか最終的にはムリがあって破綻するだろう。
「炸裂」というのは、「魂まるごと」というイメージだし、そのイメージで間違っていないのだが、何が間違っているかというと、自分の魂がバラバラでないという前提が間違っているのだ、魂が統合されていたら「炸裂」イコール「魂まるごと」だが、ふつうそんな人はありえなくて、「炸裂」するといかにその人の魂がシッチャカメッチャカのバラバラかが露見するのだ、それで「うわw」となる/もちろんその「うわw」と言っている当人も、当然「炸裂」をやってみると同じ状況なのだ、そのことが実は内部で致命傷だという知識を持っていないだけにすぎない(あるいはその知識なり直観なりがあるからこそ、全力で目を背けているということもあるかもしれない)。
魂の問題というのは、それじたいはかくもイージーなもので、「あなたの言葉」を炸裂どーぞという、ただそれだけで主題は足りる、ややこしいのはそこで露見するキモさ満点の実情が、醜悪でキツすぎて取り扱いに困るというだけだ/仮に、一人のババアの魂が「炸裂」したとして、一般にはそこに秘めたる愛の叫びでも響くのではと期待されるのだが、そうではないのだ、本当に露出するのは「うわw マジでババアなんだwww」という、あまりにもわかりやすくて救いのない事実だけなのだ、場合によってはこれを文学とか芸術と思って己の魂に刻んでいくアホ目撃者もいるらしい……まあとはいえ、それだけのイージーなことなので、「あなたの言葉」を便利な一手として知っておこう、ご存じのとおり僕はいつもかわいい女の子ちゃんラブを炸裂で叫んでいるのでサンプルには困らないはずだ、すべての春夏秋冬は女の子ちゃんにラブユー。

何も問題はなく、ただあなたの「魂」はあなたの「内心」を裏切るというだけだ。

多くの場合、人は自分の「内心」において、自分は愛を秘めており、本当は何か叫びたい、愛や世界やセクシャリティを誇っていると思っているものだ、ところが「あなたの言葉」ということでそれをババーンと炸裂させてみると、当人が「あれ?????」とその場でドン引きするぐらい、内心で期待していたものとは違うブツが出るのだ、つまり「内心」とは違う層で、あなたの言葉と姿と声は決定しているということ、それが大炸裂する/それで、あまりにもヤベーのでごまかすしかなくなるのだが、そのヤベー事実は、ある意味ですべてのことに整合をもらたすのではある、どうして自分はいまいちウソっぽく、いまいち愛されず、どうにも「しんどい」のがシャレにならなくなってきているのかが、「逆に説明がつくわ」という理解と納得がもたらされる(大ダメージを伴っているけど笑)。
というわけで、「あなたの言葉」を "炸裂" させるだけという、イージーなコースだ、その逆のコースもイージーで、「あなたの言葉」を "ごまかす" だけという、これもやはりイージーなコースだ、何もかもを解放するということで、とてもカンタンだが、そこに但し書きとして、「※それがキモい場合は全員で容赦なくドン引きして軽蔑してディスってキモがります」という条件がつくにすぎない/「永遠の観客」を決め込み、他人のキモさだけに注目していくのも自己安全アンド合理的な一手だが、この手法は、人が "すさまじい老人" になることを忘れている上でしか成り立たない手法だ、そのことにはできたら思春期ぐらいには気づいておいたほうがいい。

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魂をイージーに考えよう!!(罠つき)

「魂」をイージーに考えよう……魂というのは、なんのことはない、「あなたの言葉は?」「あなたの姿は?」「あなたの声は?」ということでしかない/ここではわかりやすく、「あなたの言葉は?」と考えよう。
あなたの言葉は、あなたの言葉だから、何の前フリもない、「ほれ、どうぞ」というだけ、さああなたの言葉をどうぞ、あなたの感想とかあなたの意見じゃなくて、あなたの「言葉」だよと。
なぜ感想とか意見とかではダメなのかというと、感想や意見は遡る元ネタが存在してしまうじゃないか、何かについての感想であり、何かについての意見だから/そうではなく、何かに遡ることのない「あなたの言葉」だ、ある意味最もカンタンなものでもあるな、何に遡る必要もない「あなた」の言葉だから。
わかりづらかったら、「これはわたしの言葉です」と先に宣言してから、その後に続けてもいい、わかりやすく「あなたの言葉」だ、それを赤の他人に向ける・叫ぶ・ぶつける・響かせるというのが、「あなた」という存在だ、だから何もむつかしくはない、考えてみりゃそれがあなたの魂であるのは当たり前のことだ。

ところが、目の前に赤の他人が十人いて、「ほれ」と言われると、たいてい人は「社会的」な口上に逃げてしまう/やれ、出身はどこで、学歴はどうこうで、そのとき部活をあれこれしていて、現在はこういう職業につき、どこに住んでいて家族はどうこうです、というような話に逃げる。
だがそうした社会的な情報は、「あなたの言葉」ではない、あなたが農家であるかあなたがパイロットであるかなどは、あなたの言葉には関係ない/さまざまなことがあなたの魂を育ててきたかもしれないけれども、それならその育った魂を見せればそれでいいのであって、魂がお世話になった先を説明されてもしょうがない、あなたは海産物ではないので産地を表示してもしゃーないのだ、四の五の言わずに「あなたの言葉」をさっさと表示せよ。
仮に、目の前にかわいい女の子がいたとき、あるいはステキな男性がいたとき、どうするのだ、そりゃ「あなたの言葉」が表示されないとおかしい、なぜ目の前にかわいい女の子がいたときに、「僕はエンジニアさ」みたいな意味不明の話をするのだ、月を見上げて「最高の夜だ」というときに、「わたしは編み物の趣味サークルで熱心に活動しています」ということは何の関係もないじゃないか。
こうして、「ほれ、あなたの言葉を」と言ったときに、十中八九、人は「ええっと……」と "探し物" をする、いったい何を探しているのか、「あなたの言葉」は今居るあなたにしかないだろうのに、いったい何を探しに出かけているのか/僕は目の前にかわいい女の子がいたらアイラブユーしか出てこないが、この単純なことがぐっちゃぐちゃの汚穢物になり、いろいろごまかしているということがあるのだ、そりゃおれは何十年もアイラブユーしか言ってこなかったからな、他の人が何十年も何をしてきたのかはおれは知らんぜ。

あなたがキモくない、ように見えるのは、あなたが「あなたの言葉」を発していないからにすぎない。

単にそういう立ち回りを覚えた・覚えてしまったというだけで、あなたがキモくない人になれたわけではない、ためしにウオーと叫んでから異性への愛を語ってみればいい、そうしたらあなたは必ずごまかしをする、なぜごまかしをするかというと、ごまかしをしないとキモいのがバレるからだ、しかしシャウトと共に異性への愛が語れない、あまつさえそれを「ごまかす」ようでは、いったい何が「魂」なのか、冷静に見たら土台が超インチキなのが初めからバレバレだ。
問題は、あなたが「炸裂」して、その炸裂しているあなたがキモくないかどうかの問題であって、ごまかして立ち回るようにキツキツに設定してあるあなたが表面上キモくないことは、当たり前である以上に、あまり意味がないことなのだ/炸裂するあなたに出身地とか経歴とか職業とか何のカンケーもねえよ、いいかげんそのごまかしネタはやめたら。

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「借り物を既製の型に押し込む」という作業しかできない人

「コミケ」に象徴されるように、今は膨大な数の同人誌、二次創作、特にエロ同人が創作されている。
エロ同人はさまざまな嗜好に分類され、やれNTRだったり快楽堕ちだったり触手ものだったりおねショタだったりと色々ある。
そういうものなのだろうか、と思っていくつかのジャンルをざっと見てみたのだが、うーむこれはと、余計なお世話だが、とてもかわいそうな気がした、こんな勝手な思い入れはジジイ特有のものだとして聞き流してくれて結構だが……
つまり、「モチーフを借りてきて、規定の嗜好ジャンルに当てはめる」ということしかできないのだ/「どういう世界があって、どういう人がいて、どういう物語が生じうる」ということについて、当人の心当たりが一切ないのだろう、だから "借り物を既製の型に押し込む" という作業しかできない、そのことに僕は深刻な悲哀を覚えた、これは煽って言っているのではなく本当に切実な悲哀を覚えたのだ。

別にエロ同人に限ったことではなく、今は――あるいはずっと以前にもか――多くの人が、自分では世界や人や物語に直接の心当たりがなくて、借りてきたイメージを既製の型に押し込んでいるだけなのかもしれない、陽キャとか陰キャとかもそうで、グラビアアイドルの卵が水着姿で一般のポーズを取っているのも、何かの意図があってそうしているのではなく、本当に借りてきたイメージを既製の型に押し込んでいるだけなのだろう、これではあまりにも時間とエネルギーがもったいなさすぎる。
物事には一定の「型」というものがあり、「型」の中には人智を超えた妙が含まれていたりもするが、それは「型の中に身を入れて学ぶ」ということであり、型に押し込んで完成バンザーイということではない、たぶんこの「型」のことを根こそぎ誰にも教わっていないので人々はドエライ損をしているのだ。
たとえばこのブログ記事だって、もう長いあいだ、四文+四文+一文+二文という「型」を保っているし、文章そのものに当然の文法と、それ以外にも実は文学の型が入り込んでいて文脈と文体を為しているのだが、それが「型の中で我でない主の自由を得る」ということだとは、たぶんほとんどの人は知らない、たぶんほとんどの人が根こそぎ本当に何一つわかっていない。
ワークショップ等々をやっていても、すぐに気づくことだが、状況の障害は何も複雑なものではなく、あえて単純化するなら、「僕のようなアホができることをあなたができないのはおかしい」という、その一点に尽きるのだ、いわばエロ同人のえげつないジャンルをえげつなく描ききる才人なら、たとえば「鉄腕アトム」のようなイージーな世界観はゼロからホイホイ産み出されないとおかしいのだ、そのことについての論理的整合性を放置しているので、状況が息苦しくなっている。

知恵の結晶たる老人たちが村おこしできないのはおかしいし、感性の権化たる女子高生の美術館が設立されないのもおかしい。

老人が若年者の知恵を授かるということはありえないし、女子高生がおじさんから感性を学ぶということもありえない、授かったり学んだりはしないから、どうするかというと「借りる」のだ、たいていは無断で借用して、でも使い道がわからないのでどうするかというと、既製の型に押し込めてみて「できた」とする、ほとんどの「ジャンル」は現在それで認められて成り立っている/そういう構造でエロ同人は大量生産されているし、その他のものも同じ構造で今大量生産されている。
これは別に陰険な意図で言っているのではなくて、状況が深刻かつ、痛みと悲しみに満ちているということを述べているつもりだ、自身でもう何十年も生きていながら、「世界と人と物語」の直接の心当たりがないというのは、とてもつらくて苦しい、受け止められないほどさびしいことなのだ/何もかもを借りてきて既製の型に押し込めるという作業しかできない、それでも人はなんとかして「自分」として生きなくてはならないから、この状況のまま放置されているのは本当に無慈悲だ、息苦しさの構造を隠蔽するために人生の九割のエネルギーを割き続けねばならなくなる。

正しく見ないとな | comments(0) |
ケンカを売れ2

ウル・魂の発露というのは、けっきょくのところ、街ゆく人にケンカを売ってションベンをチビらせること本質的に同じだ。
ただしそれが、「恫喝」になってはいけない、「恫喝」は魂の勝負ができない人の卑劣な工作にすぎない、恫喝はただの血の圧迫だから、どうせ徒党を組む連中の発想だ。
では何が違うかというと、魂の勝負でケンカを売るというのは、たぶん想像を絶することと思うが、友人よりも至近に魂を接続するということなのだ、急に魂をこの世界に二人きりにするということ/だから男同士の「やるのか」と、男と女の「やるのか」は同質なのだ、よってケンカが売れない人はナンパなんかするべきじゃないということになる。
この魂の勝負は、子供に対しては起こらず、老婆等に対しても起こらない、なぜなら子供や老婆は家や家族という甘え(マザコン)の中に百パーセント引っ込んでおり、一人の魂としてこの世界には出てこないからだ/仮に老婆にケンカを売ったとすると、老婆はすべての抗弁をもって「家の者です! 家の者です!」と言い続ける(つまり魂のすべては家主が所有していると宣言する、これは子供の場合は当たり前だ)。

まあそれはいいとして、本質を突くためにここでは「ケンカを売れ」と言っているが、それで本当の取っ組み合いになってもしょうがないのだ、それではただの貧民街みたいになってしまう。
「愛」というのは何かというと、全力でケンカを売って、魂の勝負として友人よりも魂が至近に接続するのに、そこに何のゆがみも偏りも憎悪もないため、魂の勝負として相手は「殺される」と直観すると同時に、「殺されることに抵抗する理由が見つからない」とも直観するのだ/つまり魂が至近に接続して「殺すぞ」と言っているのに、何かがやさしい気がして「……はい」と応えてしまうということ、その現象が「愛」だ。
これは男女のほうがわかりやすいかもしれない、まだ一部の女性には、そういう感覚が残っているだろう、つまり魂が急に至近まで接近してきて、「殺すぞ(犯すぞ)」と言っているのに、抵抗する理由が見つからず、何かがやさしい気がして「……はい」と応えてしまうということ/こうして、街ゆく人にケンカを売るという極悪非道の行為であるにも関わらず、「この人が正しい」「この人に殺されていい」となり、ケンカが生じないということ、それが愛だということ、そこまでいかなければけっきょく魂の交わりとして佳き決着はないのだ。
技術的に言うと、このことは、(ほぼ)完璧というほど魂の統合が為されていないと実現されない、魂の状態はそれぞれ解体(バラバラ)と統合(ゆがみ・曇りがなく一つ)の二つの方向性があるが、統合というのは全身のすべての末端まで力みの偏りがなく、末端まで完全に中心からのソウルが行き渡っているという状態を指す、その状態が、ゴリゴリにケンカを売っている緊迫の最大ピークのときに生じなければダメだということだ、そこまでいって初めて人は一生の「誰か」に出会う。

ケンカを売ったとき、わずかでも力が末端力と中心力に分離していたら、それはただのしょーもないケンカになる。

昔で言うところのツッパリやいわゆる「不良」というのは、このことを探していた連中なのだ、何しろ魂の統合度でいえば、学校の先生と十代の少年とで、どちらが上だなんて決まっていないのだから、そこにはただ二人の魂しかない/それで「不良」は、教師に悪態をついて、言外に「ケンカ売れるもんなら売ってみろや」「魂で勝負に来てみろやコラ」と本質的な問いかけをぶっ放していたことになる、よもやその "テスト" で満点を取れる教師などほとんどいなかっただろう。
現代、そういったツッパリや「不良」はいなくなったが、それは人が優等生になったからではなく、単に全員の魂がバラバラに解体されたからだ、魂がバラバラのままケンカを売ると(末端力と中心力が分離していると)、ご存じのとおりただのキチガイや通り魔になってしまう、そしてキチガイの破裂は常に卑劣で不潔で誰にも何の利益もないことがすでによく知られている/だから世の中に「なんだコラ」と "単独で" ケンカを売ってくるツッパリや不良はいなくなり、代わりにコンビニの前で徒党を組んで座り込んでいるか、そうでない組は通信の匿名性を介してさまざまなものを攻撃・炎上させることに耽るようになったわけだ、魂の勝負なんか出来ずに自分が「発狂」しかできないことを、技術的にも感覚的にも知っているということの結果だ。

正しく見ないとな | comments(0) |
ケンカを売れ
ろいろ準備も整ってきたので、本当のことをドーンと表示して、絶望と希望を同時にワッショイするか、みんな準備はいいのだろう(よくない)。
最も多くの人々が、最も "しない" ことは何か、それは、街ゆく誰かに「おい、そこのワレェ」と、ケンカを売ることだ。
そして、最も困ったことに、けっきょくソウル・魂・霊魂を人に向けて表示するということは、そうして街ゆく誰かにケンカを売ることと、本質的に同じなのだ、だからこれができなゃ最終的にソウルはムリ、という厳しい障壁がある。
友人に向けて、絡むごっこをするのではないし、通りすがりの誰かに向けて、絡む芝居をするのでもない、マジで「おいコラ」と、いきなり魂をぶっつけるのだ、そんなバカなことを誰がやるだろう/自分からそんなことしないどころか、受けて立つことさえしないという人が99.9%ではないだろうか。

しかし、しゃーないのだ、けっきょく人と人の関係は、通りすがりの赤の他人に対し、1.「男同士だろ、やんのか」 2.「男と女だろ、やんのか」という二種類しかない/女同士の場合はどうなのか僕は当事者でないので知らない。
僕の直接の友人は、何度か目撃したことがあると思うが、たまにたとえば路上の客引きがしつこいとき、急に魂をぶっつけて「おい……おい!」とやると、急にシチュエーションが変わって、目の前の客引きは本当に僕の目の前に立っていられなくなる、わけのわからない作用でねじれてまわるのだ、膝が震えて当たり前、冗談じゃなく小便をもらすケースもある。
その急なシチュエーションの変化、急な現象は、いっそのこと「神秘的」とさえ言いたくなるところがある、そこに何かとてつもないことが急に起こるのだ/魂をぶっつけられた側は、本当に、急に巨大な銀色の十字架を目の前に置かれたドラキュラみたいに、「ううう! あああう!」と身体をねじって正面から逃れようとする、本当に「人ってこんな挙動をするの?」と驚くほどにだ。
つまりそこに起こるのは、ふだんは認識しえない、場合によっては生涯知ることのない、 "根源的な恐怖" なのだ、それは一般的な「怖い」というのとはケタが違う、この根源的な恐怖に直面すると、人は恐怖を避けたいがあまり、「恐怖を避けられるなら破滅してもいい」という行動をとっさにとることがある/基本的にこれがソウルの入口、だから魂とか霊魂というのは本当にやるのはむつかしいのだった、よもや自分が街ゆく人にケンカを売ってションベンをチビらせるとは発想さえしないものな。

嫌味を言う上司・親・オバハンは、街ゆく人にケンカを売れない引け目を生涯ごまかし続けるために、嫌味を言い続けている。

そりゃそうだ、嫌味を言う上司が、「今日もまた商店街でチンピラをシバいていたよ……」なんてことあるわけがない、どうせ誰も彼も法律がどうこうで野蛮だどうこうと言うに決まっているのだが、それはそれ、社会通念上正しい、だが魂が小さく弱いという事実は覆されない(当たり前だ)。
気合いの入っている "つもり" の人、大声で興奮している人も、実は同様で、魂が小さく弱いことをごまかしており、たとえそれでごまかせたとしても、やはり事実は覆されない、気合いが入っているつもりで大声を出して威嚇してくる人は表面上「怖い」が、それは根源的な恐怖ではなくただの危険性への警戒だ、根源的な恐怖はそれと違う、もっと空間が曲がるナゾの現象だ、周囲の人がなぜか「感謝」を覚えたり、手を合わせて拝んだりするようなことが実際にある。
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全身全霊とは、ひとつをすべてにするということ
れの代わりに誰かが頑張ればいいと思う、おれはMAXサボりたいのである。
人は全身全霊であるべきだが、「熱中」と区別がつかないので、人はむしろそれで失敗してきた、いや失敗というのは大げさだが……
全身全霊に、なれると思ったら大間違い、全身全霊にはノウハウが要るのだ、そしてノウハウだけでやれるのは天才であって、たいていの場合は誰ぞの導きがいるのだ。
導きは必要であって、不必要なのは感謝だ、恩というのはあるかもしれないが、恩返しなんてものは必要ない、恩なんか恩のまま無限に放置しておけばいいのだ、恩や感謝によって上下関係ができるのはまったくクソであって、それよりは暴虐で上下関係ができるほうがずっといい/つまりおれが暴君でゲラゲラ笑い続けないと、人々は全身全霊になれないだろうという、ステキな結論が導き出されるのだった、うーむこの世は正義に満ちているな。

目の前のひとつのことが「すべて」にならなくてはならない、つまりどんな美人でもおれの目の前を通ればただちに「キミがボクのすべて」だ、これを全身全霊という。
「なぜそんなテキトーが全身全霊なのか」と、立派な人は疑問なり不平なりを覚えるかもしれないが、そこで「なぜ」なんて疑問を覚える時点で、もう何も「すべて」ではないということだ/なぜ美人がボクのすべてかは、美人に訊いてくれ、そこにボクのすべてがあるのだから、訊きたいことの答えだってすべてそこに含まれているだろう。
そして、なぜ通りすがりの彼女が美人なのかというと、ボクのすべてだからだ、そりゃ造形だけどうこうで美人は定義できないだろう、造形が上等でもボクのすべてとして存在していないのであればそれは美人として存在していない、「存在」していなければ美人を「体験」することもできないので意味がない、せっかくの造形も持ち腐れということになる。
「熱中」と「全身全霊」は、いつまでも区別がつきづらい、ただひとつのことが自分のすべてにならないといけないが、そこで「願望」が邪魔になる、よくよく見極めることだ……ただひとつの願望に熱中、執心、これは全身全霊か、いやいやそれはよく見たら、 "ただひとつの自分のすべてのこと" が「手に入っていない」という状態だろ? だから願望が燃え盛っている、全身全霊というのはそれじゃない。

美人にフラれるのもボクのすべてだ。

美人がボクのすべてだとして、どうしてそれが、ゲットした・フラれたで変動することがあるんだ、変動するのはかまわないが、それを全身全霊と言い張ってはならない、それはただの虚言になってしまう。
美人と芸術と金銀財宝がボクのすべてだが、そこに成功と失敗がつきまとう奴は知性が残念だ、僕はただ「ボクのすべてがすでにこの世界にある」という話をしているにすぎない、目の前のひとつがすべてならもう成功も失敗もないだろ?/成功と失敗で分岐するなら、それは何もひとつではないし、すべてでもないな、成功と失敗を比較(ratio)に掛けて熱中するのは、典型的な熱中で、比較の上でひとつのことしか見えなくなるに見せかけて、本当は二元論に取り憑かれるのだった、つまり本当に一つをすべてにする人と、二つ(二元)をすべてにしてしまう人とがあるのだった。
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世界があるという冒涜(世界と接続する必要はない)
リッキーなタイトルだが、奥義に近いほうが作用能率がいい場合がある。
「現実」は存在していなくて、「世界」は存在している、そして世界は「魂」なのだが、これ、そもそも「存在していないもの」と「存在しているもの」を並べて考えること自体がおかしい。
「存在していないもの」と「存在しているもの」は、 ratio (比較)の関係にないので、この発想じたいが間違っているのだ/こういう「説明」というのは、わかりやすさと間違っている度がどうしても比例するものだから、あるていど説明上はしょうがない。
「現実」と「世界」の違いというのは、そもそも事象平原が違うので、何が違うとも言えない、「空き瓶とジュースの違いは?」と訊かれているようなものだ、「空き瓶」は「入り瓶」との ratio で成り立っており、ジュースはただのジュースなのだから、この両者は単に「無縁」だ、入り瓶を空想したところでそれはやはり「瓶の状態」に過ぎずジュースではない、容れ物の瓶がなければジュースが存在しないなんてことはない。

「世界」(魂)が存在しているというより、「それしか存在していない」というのが、まだ少しだけ正しい。
そして、それしか存在していない場合、わざわざそれを存在しているとは言わない/たとえば「三丁目」しか存在していない場合、それを三丁目が存在するとはわざわざ言わない、「三丁目が存在する」と言うときは、他の○丁目が存在するときにその ratio として言われるだけだ。
じゃあ世界(魂)の存在についてはどう言えばいいのかというと、まだ「ギャーン」とでも言うほうが正しい、世界と接続する必要はなく、そもそもすべての「存在」は「世界」の一部で相互は合一(区分されていないもの)なのだから、公園と敷地を接続する必要がないように、魂を世界と接続する必要はない、公園の敷地は必ず公園の一部のはずだ。
となると、ここでやはり、「時間は流れていない」ということが必要になってくる、なぜここで急に時間の話になるのかということについては、正直なところ説明しきれないところがある/流れていない時間は "秘密の時間" (秘密の永遠)だ、一方、一般に流れているとされる時間は、時計やカレンダーで打ち合わせされて共有され、これがつまり「現実」の入口になっている、この「公然の時間」がまるで黒魔術の魔方陣のように、現実のバケモノを闖入者として呼び込んでしまう。

秘密の中にいる組は、秘密に接続する必要がない。

そして秘密の外にいる組は、秘密に接続などできない、外にいる組が接続できるものは「秘密」ではないからだ、何か別のものをこしらえて勝手に別のものに接続する/それに対して、秘密の中にいる組、その同士は、いちいち秘密があるとは言わない、同士においてはそれは秘密ではないからだ。
つまり、世界は秘密の unique であり、公然の common (general) ではない、「唯一絶対のもの」というのは、何も気合いを入れた心構えのことを言っているのではなく、 unique のものは相対的でありえないというだけだ/わざわざ「世界がある」と言い立てることは、ときに unique の世界を相対的に主張しようとしていることにもなり、冒涜にもなりうる、よって「世界」などなくてもよい、あくまで「世界がある」と言い立てるのは、便宜上 common の文脈に寄り添わせて言っているだけだ……そしてけっきょくこの文脈だけで秘密の外組が秘密の中に入れはしない、現実は本当には存在していない以上、現実の文脈も本当には存在しておらず、 common なるすべてのものは本当には存在していない、よって「誰にでもわかること」はすべて誤りであり、「誰にもわからないこと」という非共有が世界の立脚点となる。
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脳天から魂がビュンビュン出る

のごろは、朝起きたときにはっきりと気づくことだが、脳天から魂がびゅんびゅん出ている、それは本来、僕の身を右へ左へと動かすものだ。
なんというか、煙突の煙が、流されるのではなく指向性を自ら持って、自我とは無関係の能動性で、びゅんびゅん動いているのがわかる、ある意味「なんだこのわかりやすい仕組みは」という感じさえする。
いくつかのシチュエーションで点検済みなのだが、わかりやすい代表例としては、たとえば隣に女性(老いていない女性)が座ったとき、僕の魂はそちらのほうへスーッと飛んでいっているのがわかる、男に対する寄り方とはまったく違うので、「これが男女か」といつも不思議がらされている。
いわゆる「気がある」「気が向く」「気を引く」というのとは違い、魂が吸い寄せられているのは、ほとんど女性の「頭上」だ、あとは気があるとか気が向くとか気を引くとかは、女性の側から僕に向けてのことではないだろうか/といって、僕のほうはもうほとんど「気」とアクセスしていないので、女性の側がどうなっているのかはよく知らない、少なくとも僕の側から女性に気を送るということはしない。

男尊女卑というアホな言い方があるが、それは論外として、「男霊女気」「男魂女魄」「男命女生」というようなことはあるのかもしれない/ただしあくまでニュートラルの状態でだ、必ずしもこの関係を絶対にする必要はない、こんなもん個々人のレベルでいかようにも変転する。
女性が僕を見上げるということはあっても、僕が女性を見下ろすということはほとんどない、僕は女性の頭上を見ていて、つまり世界を視ているからだ、もちろんこれは極端な例であって、つまり僕に「男気」がないということだ、ほとんど「気」とアクセスしていないので結果的に男気も出力されなくなる。
おそらく、僕がこの世界の命やら言葉やらを視つづけて、魂のままに挙動し、その下で女性が僕の生を補助しているというのが、(女性たちにとっても)一番リラックスできる構造ではあるのだろう、実際いつも大勢でファミレスにいくとそんな感じだ、僕一人だけドエライことになりつつ、みんなそれを見上げつつ、テーブルの上のメシやコーヒーは誰かがササッとなんとかしてくれている/そういうリラックスの限界構造まで至らなければ、ぶっとおしで三十時間も遊んでいられない。
多くの女性が僕を好いてくれるかどうかわからず、一部の人にとっては僕などはクソ男の最たるものかもしれないが、そのあたりは正直どうでもよくて、ただ朝起きたときからはっきりわかることは、こういう奴が「必要」で、そういうものを女性の魂が「求めている」ということは直接わかる、求めていたってそのとおりにというわけにはいかないだろうけれども/僕が魂どおりに挙動すると、僕は女性の頭上とつながりにスーッと寄っていくことになり、ときにそれを「これでいいの」と反応した女性が、入れ替わりに胸元にビタッと入り込んでくることがある、そのとき「誰だコイツ」という気がするのだが、「誰か知らんが女だな」という感触だけで安定する、そうするといわゆる「太極図」が正しいのだなということがよくわかる。

ただしこれは恋ではないので、恋希望の人にはウケが悪い。

恋というのは、もともとは「戀」(旧字体)であって、「思うようにいかないこころのもつれ」という状態を指す、そこで太極図にビタッと嵌まるのは愛であって恋ではない、恋はむしろ原義的にこの太極図が歪んで "こじれる" 状態を指す/確かに、思春期の少女がいきなり「太極図!」とか言っているのはどーかと思うよ、だから太極図のような男女の結合は、ひととおり恋の焦がれと恋のむなしさ、恋が「思っていたものと案外違う」ということを、ひととおり経験した人が、ようやく本来必要なものがそれだったと気づいて到達するものかもしれない。
まあいいや、とにかく朝起きたとき、すでに頭上から魂がビュンビュン出ていて、それは老いていない女性に対してその頭上へずいぶんな指向性で飛んでいってしまう、女性の魂の側にはそれは「欲求」ではなく「必要」なものであって、そのとき確かに「世界」がある/ただし「恋」とは原則異なるので、何というか、「恋は盲目」ということの真相がここで逆に暴かれるとも思う、「恋」とはむしろ "世界を見失う甘露" なのだ、それはとても魅惑的で、だが最終的には魅惑という範囲からは出られない、だから誰かが恋に "落ちて" いるとき、少しのうらやましさを覚えながら、逆に他人事としての距離感が増大する。

正しく見ないとな | comments(0) |
「ヨーイ、ドン」がすべてをダメにする
度な理論なので誰にもわかるわけねーが、「ヨーイ、ドン」が実はすべてをダメにしているのだ。
「ヨーイ、ドン」は、それだけでもうルールだからだ、「ヨーイ」のときは動いてはならず、「ドン」が来たら動かねばならないルールだ。
これをやることで、すべてのことは力の衝突、すべてのことは気魄のマウント合戦になってしまう、「ヨーイ、ドン」で取っ組み合えば塩田剛三だってそのへんのチンピラに腕力で投げ飛ばされてしまう。
そんなことは、相撲を見ていたってわかるだろう、相撲の行司が「位置について……」「ヨーイ」「ドン!」とやったら、相撲はまったく別の重量スポーツに変化するはずだ/だから腕相撲はアームレスリングというスポーツになっている、ヨーイドンの代わりに「レディセット……ゴー!」だ。

ワークショップに来てもらえばわかるが、魂魄を本当に操作できると、指一本で腕相撲に勝つことができる/誰だって「んなアホな」と初めは思うのだが、やられた瞬間に「ふおっ!?」とヘンな声をあげてステンと組んでいる手が転ぶ、それは気魄で押していたところ、急に気魄は引いて、その瞬間に霊魂の動きで押すからだ、組んでいる相手は気魄上「引いた」と感じられるのに、挙動は逆に押してきているから、対応できずに(つまり力を入れる瞬間がなくて)ステンといってしまう。
まあ正確には、霊魂に押すなんて機能はないので、ただ移動しているだけなのだが、これは剣術に似ている(誰がわかるんだこの話)、気魄で押して臨界点を作り、気魄が引いて(消えて)霊魂で前に出るのだ、すると相手は己の気魄の残存で "前に出てしまう" から、斬撃がかわせなくなる、つまり動けないというより斬られに出てしまうという感じになる/うーんこんな話をしていても誰のトクにもならんな!!
指一本で腕相撲をし、相手をステンと倒すといっても、「ヨーイ、ドン」でやったらダメだ、そりゃダメに決まっているだろ、それはつまり「ヨーイ、ドン」が魂の可能性を根こそぎ奪っているということだ/「ルールに準じる」という機能を使うと、それだけでもう魂はダメになるのだ、魂にはルールという機能がないので、ルールに準じるためには魂をベンチに下げておくしかない。
なんというか、人の「動く」という機能、移動・近づく・前進・後退というような機能は、実は「力」の機能ではないのだ、だから「ヨーイ、ドン」で "瞬発力" で動くという教育と訓練が、人々の魂へのアプローチをさらに困難なものにしている、本来の正しい動き方は「ヨーイ……消える」だ、これは何も特殊な動き方ではなくて、本来は気魄で「押し」、消えて霊魂で「動く」のが元々の身体の仕組みだ。

「ヨーイ、ドン」という、気魄法の訓練を受けてきていると前提したほうがよい。

酒宴が怒鳴り声になり、友人がマウントの取り合いになり、さまざまな会合がストレスになるのは、これが理由だ、すべての「タイミング」が構造的に内心の「ヨーイ、ドン」だから、そりゃあマウント合戦になるのも当たり前なのだ、むしろヨーイドンの後にマウントを取りにいかない奴は競技をサボっているだけでしかないだろう。
わかるだろうか? 学校あるいは社会は、あなたに魂をやらせないために、「ヨーイ、ドン」という方法と呪縛をかけているのだ、だから学校や社会は、あなたに身近でありながら、あなたの味方という気はまったくしなかっただろう/学校や社会は間違った方法をあなたに与えたのではない、あなたに魂をやらせないという目的に向けて、まったく適切な処置をほどこしたのだ、つまりあなたの直観どおり、学校や社会はあなたの味方ではなかった――もっと別の何かに与したものだった――という、ただそれだけのことだ、冷静に考えたら当たり前のことではある。
視点変えてこ | comments(0) |
No. 390 今日は夜桜の人、人情派と非人情派

掲題のコラム、本サイトにアップしました。
 

 

No. 390 今日は夜桜の人、人情派と非人情派

比較( ratio )なんて、<<どちらに昂ぶるか>>でしかないじゃないか。

 


よろしくお願いします。
九折

本サイトコラム | comments(1) |
現状分析/学門派、人情派、非人情派

明は抜きにして、現在、以下の三つの勢力があると推定する。
1.学門派(極少数)
2.人情派(保守派)
3.非人情派(新興勢力)

僕はこれまで、人情派が学門派に抵抗を示しているのだと思っていた。
だがどうも、この切羽詰まった感じは、別の理由があるという気がしてきた/現在の人情派は、学門派に抵抗しているのではなく、新しく生じた「非人情派」に対抗しているのではないだろうか、あるいはもっとはっきり言えば、新しい「非人情派」に、率直に "恐怖" しているのではないだろうか。
非人情派というのはつまり、現代に明らかなところ、何でもパワハラ、何でもセクハラ、サービス残業は犯罪、会社の飲み会は業務でしかない、あくまで生活費のために働いているのであり、それ以外には一ミリの関係も覚えない、喫煙者は死ね、という、現代では最も合理的な、かつ現代においては最大の説得力を誇る勢力のことだ、旧来から残存している人情派は、ただこの新興勢力に殺されることに怯えているだけではないのか。
はっきりいって、現代はもう人情派は、解体されるしかないというか、すでに中枢的には解体されたとみなすよりない、今さら「男はつらいよ」なんて映画が成り立つわけがないし、もう年末に「忠臣蔵」で視聴率を獲るのも無理だからだ/ここで現在の状況は、すでに解体されて説得力のない人情派勢力と、もともとやけくそでしかない非人情派勢力とが、一方は恫喝を武器に、一方は酷薄さを武器に、不毛な血みどろの対立をしているような気がする、僕はそういう他人の状況に疎いのだが、よくよく考えればフツーの感覚として、根幹に人情をまったく持たない、人情ゼロ人間の大量出現が怖くないわけがないのだった。

事実僕は、非人情派の台頭に合わせて、明確な学門(ソウル)派に移行した。

かつて、人は人情の中を生きていて、人情の中で、それを越えるものを探していたのだ、「人情のごり押しに矛盾があるのはわかるけれど、ちょっと待ってくれ、わたしは何かを探しているのだ」「会社の飲み会が正しいわけじゃないのは知っている、でも、それをなくすのが正しいとも思えないんだ、ちょっと待ってくれ……」ということの中に人々はいた、だがいつのまにか「待つ時間など与えられない」ということで、新興勢力が人情派を切り刻みにやってきた/そのことに、保守派の人々は震え上がり、しゃにむに防壁を作り上げているだけなのでは。
いつもの僕の、悪いパターンとして、「僕がへっちゃらなものは、他の人もへっちゃらだと思い込む」というのがある、でもよくよく考えれば、眼の奥に何もない、また声の奥にも何もない人々の大群に向き合わされて、ほとんどの人はへっちゃらであれるはずがないのだった、そりゃ強引にでも人情を信じてそれを押し込もうとするのも当たり前のことかもしれなかった。

正しく見ないとな | comments(0) |
「人」→「表示」→「言葉」/「言葉」→「表示」→「人」
のネタは説明すると長引くので、必要な情報だけ。
「人」が表示されて、初めて「言葉」になるということ、これは実験したら誰でも視認できる、これはつまり、人の魂(命)が表示されて、初めて「言葉」が成り立つということ、よって「言葉」は魂のモノだということがわかる。
それで、じゃあその魂をどこからもらってくるんだよということになるのだが、これは元々、「言葉」の側から魂をもらってくるのだ、逆転というか逆流の発想だが、タイトルに書いたように、元をたどると人の魂は「言葉」からもらっており、どのような手続きでそれをもらうのかというと、やはり「表示」を媒介にしているのだ。
魂そのものは観測不能のものだが、観測不能でも作用や事象は起こるのであって、その事象が「表示」だと言える、その身に魂を持つ者が「表示」をすると、魂のモノである「言葉」が現成するし、未だ魂を持たざる者が言葉の「表示」に導かれると、その身に魂が宿るのだ、多くの人がこれまで「何これ、何だこれ」と言ってきたやつの正体がこれだ、この現象は非常に体験する機会が稀だというだけで、現象そのものはまったく複雑怪奇ではない。

このことの本質は、すでにウィリアムブレイクの詩文に書かれていて、つまり魂は form (形式)にあるのだ、そして form の反対が ratio (比・比較すること)にあるということ。
よって学門・言葉・数式に「魂」があり、「人情」のすべては実は ratio から生じているということ/人は学門派と人情派に分かれているように見えるけれども、その本質は form 派と ratio 派に分かれているということだ。
たとえば世の中には、美人と不美人がいるが、ここで不美人Aは自分の顔について、不美人の自分の顔を form (わたしの顔かたち)と捉えているのだが、不美人Bは自分の顔を ratio (あのコよりはブスだけど平均よりは少し良い)という比較で捉えている、もちろん美人Aと美人Bも同じだ/そしてお察しのとおり、「あのコよりはブスだけど平均よりは少し良い」と捉えている人のほうが、実態として「人情派」ということになる。
人情派、 ratio 派、「比較」によって捉えている派、つまり「どうしてあんな人のほうがわたしよりも幸福になるのだろう、なぜわたしの負けになるのか、理不尽だ、許せない」と物事を捉えている ratio人情派の人は、たとえば y=ax+b という直線の一般式が根本的に「ピンとこない」はずだ、それはどれだけ勉強しても、またいつまでたっても、永遠に「ピンとこない」のだ、それは y=ax+b という数式にある魂と接続できないからだ/すべてのことを form ではなく ratio で捉えているので、「 y=ax+b という式は、他のノウハウと比べてどう役に立つのだろう?」という疑問で数式を見つめ続けている、それ以外に視力がないのでそうならざるをえないのだ。

驚いたことに、人情派は「魂の放棄」に行き着く。

現代にはうまい言い方があって、人情派というのはいわゆる「エモい」(エモーショナルということのスラング)ということと結びつけることができる、たとえば「わたくしの母は、まさに不運の人で、すべてを我慢せねばならず、それはあわれな生き方でした……」という人情へのくすぐり表現は、古典的に「エモい」と言いうる/この「エモさ」は ratio を煽ることで引き立ってくることが誰にでもわかる、たとえば「正直にさ、今よりもっといい暮らしをしたいと思わないか?」と悪徳商法が煽るように。
ratio の煽りたてに、エモエモになるのが人情というものだ、誰だってそういう業(カルマ)をもって生きている、だから誰もそのことをバカにする気にはなれないのだが、よくよく冷静に考えてみれば「人情派はノーソウル」というのは割と当たり前のことなのだった、エモエモしていたらそりゃソウルはないし、エモエモしている人が急に y=ax+b に眼ざめたりしないわな。
正しく見ないとな | comments(0) |
パーティ報告90(2)/ハッピーかい☆
人のプロダンサーが、舞台で一つの成功を収めてきた、それは革命的な成功だった、まったく新しい面構え、新しい人が眼ざめて戻ってきたのはとても素敵だ。
気魄じゃなくてソウルだということを、僕は執拗に言い続けているのだが、一つの舞台の成功の裏の、端っこに僕がきっと引っかかって作用しているというのは、酒を飲んでいても気分がいい(バンザーイ)。
実際に何か事を為そうとすれば、誰かが自ら最前線に立つしかないわけで、その最前線に勝る誉れはない、まあ実際にスゲーことだと思うよ、当初から言っているとおり「よーやるわ、おれには無理だ」とおれはビビるばかりだ。
僕の言っていることは、もともとこの世界にあることばかりで、いわばそのへんの石を拾って見せているのと変わらない、だからいまいち自慢する気になれないのだが、かといって僕が自分をあまり安物に言うと、また一部の連中が怯え始めるので、そこそこにしておこうと思うのだった、今回は実にハッピー回だったな。

一つの成功を為し、ソウルプレイヤーとしての明らかな端緒に踏み入った彼が言うには、やはり一切のセオリーが、オカルトではなくゴリゴリに理詰めだったのがよかったとのこと、確かに僕は当該のことを「学門」だと言い張り、どのように詳細を聞かれても相手をドン引きさせるぐらい具体と聖典を緻密に紐付けていたわけだから、けっきょくはそういうものしかアテにならないのだと僕は信じる、信じるも何も結果的にそうなのだからしょうがない/かくして、ソウルプレイヤーとして一人の旗手となった彼は、「これからもガンガン、パクっていきますよ〜」とのこと、となると僕としては、パクりきれないほどのネタをこれからも供給し続けていくしかないな。
あとは何だっけ、情熱家○○氏について、「○○とは!」の会、うーんいくら酒の肴がほしいからといってなかなかひどいテキトーをやるものだ笑、さて音に聞こえた情熱家は、男と女の光と闇へ、都会の光は人を新しいステージに誘うが、その飛翔を追い切れなかった者は……ともあれ合言葉はノートラブルだ、情熱以上のものへ接続して、「あいつの場合はしゃーない」という次元へ到達できるか、到達したけりゃ出発すりゃいいじゃん(笑顔)。
そういえばニンジャ青年も、「やべ〜、何かがやべ〜」という調子で、妙に幸せそうだ、いつからかの「作品」以来そうなっているな、旧ヴェジ青年も、ここにきて逆に「健全」というテーマが下賜された、健全っていいよな、現代へ続くすべての健全さは80〜90年代のアメリカ映画に支えられているので、まずはフットルースとフラッシュダンスを観ること(おれも内容はもう忘れてしまったが)。
人が言葉を発するように見えるが、元は言葉が人を作ったんだぜ、496miles, トレビの泉、夕暮れにベランダに出たら彼女のことを……デル・ソーレは太陽の日! 魂の言葉があり、実は言葉が物語と魂をくれた、このことをナメてかかったから、現代は呪詛の業界になってしまった、まあそんなことはどうでもいいのだが(よくない)、今回は実にハッピー回で、われわれハッピー会はこれからもハッピー界なのであった、みんなハッピーか〜い。

新しいダンサーは、何かを聞き続けていた。

そんなことはまあ、おれほどの視力になると、見たらすぐわかるのだ、その横隔膜の佇み具合ね/なんというか、盛り上がりもそこそこの大騒ぎだとして、せいぜい「大麻は要らん」というぐらいは自慢しておこうか、そりゃもともとがハッピー界なら大麻は要らない、全員が最初から最後までハイボール縛りになる必要もないと思うが笑、何かもうそういうことは忘れているんだろうな、バリエーションという概念が蒸発しているのだ。
理屈でなく、信じるものがあるということは、逆にゴリゴリの理で詰め切られていて、「理がむしろ飛翔だよワロタ……」ということ、そうして信じうるものに触れるということが、自信を得るということの入口だろう、容赦なくシバかれるくせに、毎日来られるものなら毎日来たいという、酔狂か真実かわからぬことがあって、そんな感じで原宿竹下口の朝までゆく、こんなことが生きている中であるなんてと、思われているところ僕はこんなことしか生きているうちになかったのだ、そんなわけで次回もよろしく。
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パーティ報告90(1)/冷静な愛のシャウト
銃からは弾丸が出る。
それと同じで、いいかげん自覚がある、朝起きたときからずっと、冷静な愛のシャウトがある。
拳銃からは弾丸しか出ないように、けっきょく僕みたいなものは、どう揺さぶっても目と声から冷静な愛のシャウトしか出ない、別に僕が出そうとしているわけではなく、たぶん単に「他のことはよく知らん」のだ。
冷静な愛のシャウト、愛というのはそもそも「比較( ratio )」という事象平原にないので、比較分野の人々とへ説明しようとすると、比較用言語に取り込んで説明するしかなくなり、おれなんか頭がイイので翻訳は完璧なのだが、その説明はひたすら容赦のないものになってしまう、つまり内容は合っているのに本意は作用しなくなるのだ、それでも ratio しか受け付けないというのであればもうそれを繰り返すしかないのだが、それはまるで安全運転の理論をえんえん聞かされながら永遠に路上には出ないというようなありさまなのだった、別にそれを無駄とも皮肉とも思わないが、そっち方面はパーティにはならんだろうなと当然ながら思うのだった。

冷静な愛のシャウト、という、なぜか朝起きたときからある、あるいは僕が生まれる前からそれはずっとあるのだろうが、そういうものがあって、別にそのことには関心さえ持ちようがないのだが、とりあえずこれはパーティ報告ではないな、これはいつも僕が朝起きたときのことだ。
冷静な愛のシャウトというのがどうやら僕の真実らしく、それ以外のものは、何をやっていても僕ではない、別に不満ということもまったくなくて、僕を揺さぶったときに出てくるものは初めから最後までそれしかないのだ、いちいち何かを感動的と思うことさえまったく起こらない。
冷静な愛のシャウトという事実があり、テーマとか笑顔とかに注目したことは一度もないな、いいとか悪いとかいう評価もけっきょく ratio の中にしか発生しえないものだから、僕はまるで一人だけバグっているというようなありさまだ、ただ景色だけがあり何のスイッチも存在していない。
ratio がないので、正しいとか間違っているとか、善とか悪とかいうのもないな、説明の平原にないので説明しても事実には至らないのだが、僕における冷静な愛のシャウトは、僕の決定を要さずむしろ向こうが僕を決定しやがっているだけなので、もう何をどうだか、女の子なんてホッチキスのようであればいい、ホッチキスがあって困ることは誰にもないし、ホッチキスはいつも仕事熱心だ、紙の束をいつでも咥えます束ねますと、いつもきれいな目をして自分のできる仕事を与えられるのを見上げて待ち続けている。

ホッチキスはかわいい。

正式にはステイプラーというらしいが、まあ通称でいいだろう、朝起きたときにはすでにもともと冷静な愛のシャウトがあって、かわいい女の子がホッチキスのように健気に仕事を待ちわびている/それ以上何も必要ではないが、できたらもっとにぎやかなほうが、うれし涙が多かろう。
今回もパーティは無事盛会だったが、僕はどうやら、すべての日々を朝起きたときから夜寝るときまで、ずっとパーティの中にいるらしい、この空の下すべてがパーティ会場だから、パーティから逃れるすべがない、本当にもう何十年もすべてのことがわからないまま生きてきてしまった、肯定も否定もないので、僕には愛を肯定する権利さえ与えられていない、何かもうひどいのかどうかさえもともと考える権利が与えられていなくて満足も強制的に与えられているというのが事実だ。
パーティ | comments(0) |
WS報告032(1)/地の中に伸びゆく力の樹

んなむつかしい技術、わからなくて当たり前だからね!!
一部、ここにきて急にスパスパ出来るようになっている奴がいるが、ありゃあホントに何か急にスゲーことになっている奴で、特殊な例だ、サンプルにならん/いちおう、おれが説き明かしている方法がどうやら正しいという担保にはなるが……
どこか吹っ切れていないと先に進めないネタばかりだが、吹っ切れるためにも、腰を据えてかかろうぜ、おれは誰かのためにやっているわけではなく、おれ自身の夢があってやっているのだ。
こういうのがすばらしいものだから、みんなにぜひ、と言っているのではなくて、おれ自身がずっと面白いことの中に居続けたいだけだ、だから今後ともよろしく、みんな自分のためじゃなくおれのためにがんばれ(強制)。

今回は、空間と地の関係をやったのだが、これって相当ハイレベルだぜ、言われていきなりできる奴が混ざっているのがビビるぐらいだ、まあこれからじわじわ取り入れていこう、地の力と空間のエコーの対称性だ。
ロミジュリ法は、思いがけず命令法への新しい道を拓いたな、思いがけずというか本当は計画的(構造的)なのだが、とにかく命(魂)というのがフィクションに属しているというのがよくわかったと思う。
「中途半端法」は、もはや明確なメソッドではないけれど、脳みその機能としてぜひ必要なものだ、どこかの機会で独自にもテキトーに練習しろ(方法も中途半端のままやれ、知らん)。
圧倒的に「言葉」が足りない、言葉の数ではなく言葉の体験が少なすぎる、言葉の呼応そのものを一定量ブッ込むしかなさそうだな、また次回から一種の罰ゲームのようにブチこんでやろう、お前らみたいなモンはワークより罰ゲームのほうがしっくりくるだろう!!

生(魄)は地に帰らせろ、命(魂)は天に帰らせろ。

二層ぐらい同時処理できるだろ、二層ったってこれがもともとひとつなわけだが/二層がひとつというのは、こんがらがって一緒くたになっていることを指すのではない、生が永遠でないということは命が有限でないということと同時だ。
あと何だっけ、そうそう、「作品」というのは、本当に向き合うとおっかないもので、自分から「作品」をマジで出そうとすると、ゲロを吐いて二週間寝込んだりすることもあるのだ、寝込んだ上でさらに「出ない」のだが笑、それぐらい本質的におそろしい事実に直面する仕掛けがあるのだ、「この宇宙で自分がいなければこの作品はなかった」という関係は、宇宙のナマ体験になるので本質的に超ビビるのが正しい/だからおれが毎回サクサクやっているアレに、「何か肝が冷える気がするんだが……」と感じ始めたら、それは何かが視え始めている証だ、さあこれからもどエライめに遭わされる毎週を過ごそうぜ。

ワークショップ | comments(0) |
第90回Quali's Party[3月23日(土)]無事盛会!

3/25 Quali tweet> へちま、注力するジャンルなんか存在しないへちま  pls entry

(今回のポスターはともこさん作です、ご協力tks)
joined: ひろみ、あきら、ともこ、ゆか、しおん、かず、マナセ、ゆうさく、やじー、くおり
日時:2019年3月23日(土)19時〜23時 場所:原宿竹下口交差点DinningBar CLIMB


今回も無事盛会でした! 次回もよろしくお願いします。
何かもう、盛り上がったというか、逆に不思議な感じになってきたぜ!! これでいいグッド!!
九折

キラキラ次回[4月20日(土)]加エントリはこちらから!キラキラキラキラキラキラ


費用男性5000円 女性3000円
参加資格ブログorサイトのファンであること
→その他詳細はこちらから

宣伝コラム「パーティへの誘い その1」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その2」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その3」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その4」はこちらから!
宣伝コラム「パーティへの誘い その5」はこちらから!

パーティ | comments(0) |
何のために身体を高度操作するか3

とえば母音「ア」を発したのち、母音「オ」を発するとしたら、何かしら身体の変化が必要なはずだ(当たり前だ)。
そのとき、まず全身と大地が「ア」に応じているか、そののち、全身と大地が「オ」に応じているか。
そこをモタモタしてんじゃねえということ、口をゴニョゴニョしてアとかオとか言っているのは全身全霊じゃない。
全身全霊じゃないと、見るからに「まさにア」「まさにオ」ということにはならないだろう、人がアになるか、また人がオになるか、ということをやっているのだ、肉体は地とつながっているから、地ごとアになりオにならないと、人が「まさにア」「まさにオ」にはならない(ハイレベルすぎて無理)。

どれだけカッコイイポーズを形作ってもムダだ、それは「まさに○○」ではないからだ、外形だけ似せてもそこには何の魂も通っていない。
竹を割って作った流しそうめんの台を考えろ、流しそうめんの台は、あくまでそうめんを流すための台であって、もし、そうめんを流すことを知らない奴が、その外形だけ真似てその台を作ったとしても、「……何か違う、何これ」となるだろう、そりゃ当たり前だ。
われわれの身体と地はそのように、「流したましいの台」みたいなものだと思えばいい、ただし魂は言葉等でぐいぐい変化するので、その変化のたびにビシッと最高の形に変化する台でなければならない、つまり「流しアの台」から「流しオの台」へスッと変化しきってノイズがないということだ。
人の観測可能な身体と地は、この世界の観測不能な何かの通り道を形成して示すのだ、その姿が結果的に「カッコイイ」と見えているにすぎない、だからこのことを正しくやれている人は、身体と地においてはむしろ「カッコ悪い側」をやっている感覚なのだ、だってカッコイイものは観測不能物として通り抜けていく何かのほうなのだから。

風車にモーターを入れたらアホだ。

風車が回っているのは、風が通り抜けているからであって、その外形だけを真似して、モーターで回してどうする、その風車がカッコいいデザインになることは永遠にない、代わりに「トルクを水のくみ上げにでも使えば?」と言われるのがオチだ。
あなたがくるくる回るとして、あなたが自前のモーターでくるくる回っていたら、そのダンスがカッコよくなることは永遠にない、正しい仕組みと正しいやり方に気づかねばならない。

正しく見ないとな | comments(0) |
何のために身体を高度操作するか2
ーい面倒くさいので、勝手にどんどん言うと、よく「空間を広く取って」と言っているが、そのときあえて地面は無視している/いきなりすべてのことをまとめてやることはできないからだ、ひとつずつやるしかない。
本当は、「生」ということは「地」につながっていて、生体としての肉体は「地」に立っている、肉体と地は一緒くただ、本当は肉体と地はつながっていなくてはならないが、それを「つながり」というと、どうせ癒着してくっついてしまうので、そういうことじゃない/身体をすばやく操作・変化させられるということは、「地」もすばやく操作・変化させられるということだ、そうでなきゃ演者によって「舞台」がコロコロ変わるということに説明がつかない。
そして、地と共に身体をすばやく操作・変化させるのは、何のためかというと、すべてを魂に従属させるためだ、地も身体も「モタモタしてんじゃねえよ」ということ、その瞬間に変化していないともう「間に合っていない」だろ/身体が動いたからといって何かになるわけではないのだ、そりゃただの運動でしかない、そうじゃない、魂の往く先に「間に合っているか」ということだけが問われるのだ。
人の肉体には「実感」があって、「生」ということにも実感があるから、人はその観測可能な実感モノだけを追跡していってしまい、実感を膨大に確信しながら、同時に「でもわけがわからない」という状態になっていくのだ、それは観測不能の側に人の本質があるからだ/そこを理屈として知ったとしても、それだけではどうしようもなくて、地と身体が一緒になって、霊魂に「間に合って」動くということが主眼だ、これはわけのわからない話ではなくて、本当はとてもシンプルなことを話している。

たとえばわかりやすく、人の「声帯」の機構を見てみよう、声帯というのは喉仏に入っている小さな唇のよう器官で、この唇の隙間に呼気が通ると唇が振動し、それが声帯原音となって響き、人の声・音声になるということだ、単に声帯がビーンと振動して音が鳴りますということ、こんなことは子供だって知っていよう。
ところが人は、単純な思い込みによって、そのビーンと振動している声帯のほうを「わたし」だと思うのだ、なぜそっちが「わたし」かというと、単にそちらが肉体であって、肉体には実感が伴うからだ、実感もあるし生存本能から肉体を守ろうとする衝動も伴っている/そこでよもや、声帯を吹き抜けていく呼気のほうを「わたし」とは思わないだろう、呼気ってただの窒素と酸素のガスなんだから。
だから、同じ声帯原音が発生するとしても、声帯粘膜の側が「わたし」だと思っている歌手がいたとしたら、その歌手にとっては、「わたし」とは歌のことではなく粘膜のことなのだ、またこの粘膜を非常にテクニカルに使ったりしてスゲーという場合があるのでタチが悪い/それは字義どおり「のど自慢」でしかないのだが、むしろそっちのほうが好きで感動すると言い張る消費者も多いのだから、もう何がどうなのか本当のことが行方不明になるのだ。
なぜ声帯粘膜の側が「わたし」であって、そこを吹き抜けていくガスのほうは「わたし」ではないのかというと、別の言い方をすれば、自分の肉体が自分にとって「親しい」からだ、窒素と酸素の混合ガスに「親しい」という人はいないだろう/つまり「のど自慢」方式においては、声帯粘膜が主であって、吹き抜けていくガスのほうが従であるということ、ふつう逆の発想は取れないのだ、吹き抜けていくガスが主であって、結果的に振動している声帯粘膜のほうが従であるなど、親しさの原理において承認できようがない、ただし愛の原理で考えてみると、自前の粘膜は自分のものでしかないので、声帯の粘膜が誰かに届くということはない、だから愛の原理で身体操作を考えると、身体操作は「呼気(主)が通るために声帯(従)が道をゆずる」という方向にはたらくことになる、僕が唱えている身体操作の原理はそちらのほうであり、それは「○○自慢」のためにする身体操作とは逆のものだ。

地と肉体よ不細工であれ、「わたし」が通る道を空けよ。

少女マンガに出てくる登場人物は、男も女もきわめて端正だ、それは端正なものが親しみやすいからだ、十二歳の少女が読むマンガがすべてピカソの絵だったり笑顔がルイ・アームストロングだったりでは親しみづらくて投げ出されるだろう/地と肉体は不細工でよい、ただし、そこで上昇する魂の「わたし」があればだ。
そこに上昇する魂の「わたし」がない場合、地と肉体を不細工とし、しかもその地と肉体と生こそが「わたし」であったならば、その無意味で不細工なものの集合に、サルトルがした「嘔吐」をしなくてはならなくなる、のど自慢が声帯粘膜を「無意味で不細工」と確信したらそりゃあ嘔吐するだろう/まあそんな感じで、諸事情から阻害要因もあるのだが、原則として身体操作は、魂が通る道をすばやく空ける・整えるために為されるもので、身体操作そのものに美はない、どんなカッコイイ車だって、人を乗せて人を運んでいるから結果的に「車がカッコイイ」のであって、人が乗っていないのに「速いぜ、高性能だぜ」では意味がわからない、花火職人がカッコイイというのも、花火が打ち上がるからカッコイイのであって、花火を打ち上げる土台たらない花火職人なんか何もカッコよくないだろう、人の肉体と地というはそういうものだ、少なくとも僕の方針としてはそのような捉え方だ。
正しく見ないとな | comments(0) |
何のために身体を高度操作するか
とえば今日もまたワークショップなんてものがあるのだが、そこでは「基本」として、やはり身体操作のことを説き明かしている、具体が行き詰まっているのに理屈をこねたってしゃーないからだ/そりゃ姿も動きも「まさに」と見えるようでなければ何の説得力もない。
それで、身体操作をそれだけ高度にこなしたとしてだ、そういったワークショップはすでに世の中にいくつもあって、純粋に身体操作のレベルだけを言えば、はるかに上位で精密な人たちがいるだろう、いや案外そうでもないという意見も多いのだが、まあいいや、そのことはさておき、僕がブーブー言いながらやっているのは本質的にはそういうことではない。
高度に身体操作をしたとして、またそれができたとして、「何のために身体操作するのか」という問題があって、ふつうこのことに、身体操作の技術者は踏み込まないものだ、なぜならその先は身体操作という技術とはまったく別の話になるからだ、どの料理教室も「なぜ人は料理をするのか」というようなアホな哲学に踏み込んだりはしないだろう、「そもそも料理に用事のない奴は教室に来ないでしょ……」というのがまっとうなところであって/ただし「身体」というのは違うのだ、身体というのは本人の用事によらず、誰だって強制的に初めから持っているものであり、誰だって強制的に最後までこれを持ってゆかねばならないジャンルなのだ。
なぜ高度に身体操作するのか、といって、ふつう健康増進とか、「日々をラクに生きるために」とか、「しなやか」とかアンチエイジングとか、場合によっては護身術とか、自信を持つためとか、色んな言われ方が便宜上されるのだけれども、僕の場合はそれらすべて便宜上の理由をゴミ箱に叩きこむのだ、もちろん健康になればいいし、ラクになってしなやかになってアンチエイジングと護身に役立てばいいが、そんなものは付録にすぎず、もっと別の理由があるのだ、その理由を直接ブッ込んでいこうぜというのが、当方のワークショップの独自性なのであった/その独自性がなきゃ、僕がわざわざこんなやり方にしゃしゃり出ることはなかっただろう。

古く「魂魄(こんぱく)」といって、人の構成要素には「霊魂」と「気魄」があるというのが古代の考え方だったが、これは実際に取り組んでみると、天才なら誰だってすぐにわかることで、「魂のことをやるには魄が邪魔」なのだ、つまり身体操作をあれこれ言いながら、最終的には「身体(血肉)が邪魔」ということになる。
では何のために身体操作するかというと、<<身体を排除するため>>に高度操作するのだ、人の魂にとって実は身体はノイズなのだ、このノイズのせいで魂はまったく見えなくなるから、このノイズを排除するために、パパッと身体が高度に、かつ速く操作できなくてはならない、というのが根本の idea になる。
このことについては、一般に完全な誤解がまかりとおっていて、たとえば舞台上にマイケルジャクソンが立っていると、すげーカッコよくてビリージーンそのものが立っているように見えるが、そのとき人が視ているのは「身体」ではないのだ、身体が排除された魂の姿が視えているのだ、魂を邪魔しない身体――主権を放棄して魂に従属した身体――が視えており、だからこそ「ビリージーンそのもの」がそこに立っているように視える。
ふつう、人が「ビリージーン」をやろうとしても、身体(血肉)がデーンとそこに居座っているので、ノイズまみれになり、つまり「++++++++++++++ビ++++++++リ++ー+++++++++++++++++++ジ+++++++ー++++++++++ン++++++++」というものが表示されてしまう、それでは観ている側は「???」となるのだ/人は自分の表示性を、ぐいぐい増やしてもダメなのだ、ノイズが増えて了解不能になっていくばかりになる、そこで何のために高度に身体操作するかというと、「+」を増やしてテンコモリにするためではない、「+」を除去しつくして「ビリージーン以外の何物でもない」というものだけを残すのだ。

魂に道をゆずるために身体を操作する。

身体操作が幅を利かせていてはダメなのだ、身体操作のレベルが偉いのはあくまで身体操作の技術を追求している練習中だけだ、練習中以外は身体操作など「どけよ、ゴミ」という扱いだ、ここのところをくっきりさせているのが当ワークショップの独自性であり、また一般ウケを悪くしている要因だろう/しゃーねえだろ、おれは万事において一般ウケがよかったことはこれまでに一度もない(トホホ)。
魂そのものにならねばならない、けれども、実際には身体が邪魔すぎて、まず相当なレベルで身体が片付けられないと、魂なんてカケラも視えないのだ、その意味でこの取り組みは矛盾をはらんでぐぬぬぬとむつかしくなるのだった/何しろさんざん身体操作をやらされた上に、その操作そのものには何の思い入れも持ってはいけないというのだ、ノシノシ幅を利かせるためにハイレベルになるのではなく、サッと道を空けるためにハイレベルになるのだという、このことが受け入れられるかどうかは、もう最終的には思想と信仰の問題になる。
できるオンナだね | comments(0) |
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