☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
パーティ報告81(2)

前、軸足と浮き足がリーダーシップとパートナーシップどうたらという、難解すぎて誰の役に立つんだよという話をしたのだが(→これ)、以外にこの話がウケがよくて、ひとしきり盛り上がった。
まじめにいうと、たとえばバレエや社交ダンスのようなものは、基本的に貴族のするものであって、貴族のするものであるから、そのモチーフは愛であったり恋であったり、神話的なものであったりする。
一方で、ストリート系のダンスというのは、貴族のするそれとは違い、もっと「フラストレーション」があるのだ、むしろフラストレーションが根源だと言ってもいい、ストリートで踊るからストリートダンスなのではなくて、「おれたちにゃダンスフロアなんて立派なものは与えられない」というフラストレーションがストリートダンスだ。
僕はこのところ、「満足」ということについて話している、よって貴族のダンスは、貴族の憂鬱と倦怠がダンスの中でどう満足に昇華されるかという問題になり、ストリートのダンスは、フラストレーションの不平と炎がダンスの中でどう満足に昇華されるかという問題になる。

「シャウトの中に満足が現出するなら、それはロック音楽になりうるが、不満で叫んでいるだけなら、そりゃモーレツな夫婦喧嘩と同じになってしまうな」と僕は話した。
「意味のあることをしないといけない」と僕は話した、「ダンサーが、あるいはラッパーが、空間をキックし、何かを言い立てることの中に、フラストレーションの昇華を見る、この瞬間だけ『おれっちは満足なんだ』というふうにさ、だから、それは若い人たちにとって、『おれたちの代弁をしてくれている』と感じるのさ、だからそれを見に行く・聴きに行くというのは意味のあることになる」。
その先は、こまごま話さなかったが、われわれは「満足」している瞬間のみ、そこを「魂の還る場所」とすることができる、なぜなら「満足」の中にだけ、われわれは永遠に住めるからだ。
われわれは、別にダンサーではなかろうが、それぞれに貴族の憂鬱と倦怠か、もしくはストリートのフラストレーションを抱えている、この中でどのようにして「魂の還る場所」を作れるだろうか? われわれが「そこに永遠に住んでもかまわない」と思えるような場所をだ。

満足がないなら、反省会はしないほうがいい。

満足なしに反省をすると、その反省は必ず「否定」にしかならないからだ、そして否定というのはダメなことのダメさを反芻するだけになるので、ダメージを負うだけであまり意味が無い。
物事のレベルでいうと、たとえば「ハンバーガー屋」はレベルが低いだろう、だがビッグマックで満足するか反省するかは人の選択であって、反省しながらビッグマックを食う奴は、消化にも悪いだろうし、次第に闇に落ちていくことになる。

そのほか | comments(0) |
「突破力」は、「異性を愛する度」に比例する2
足と浮き足の使い方にも二種類あって……
僕が想像するに、ヒップホップやジャズダンスの達者な人というのは、異性にキャーキャー言われながら、実はモテるかというとそうでもなく、そもそもリーダーシップを取ることが苦手で、だから「仲良くはいちおうなるんスけど、そこから先が……」という人が意外に多いのではないかと思う。
それはなぜかというと、いわゆるヒップホップやジャズのダンスステップにおける軸足の使い方は、武道やクラシックバレエやボールルームダンスの軸足の使い方と異なるからだ/使い方が異なるというか、動く方向が実際に逆だ。
武道やクラシックバレエやボールルームダンスにおいては、軸足が「リーダー」になり浮き足がフォロワーになるのだが、ヒップホップやジャズにおいては、軸足は浮き足の「パートナー」になるのだ、前者は浮き足が軸足の同方向へ牽引されるのに対し、後者は浮き足と軸足が鏡像で動く/だからそちらのヒップホップやジャズダンスが達者な人は、リーダーシップが苦手でパートナーシップを得意にしていると思う、これはコジツケではなくて、人間の得手・不得手の感覚というのは身体を根源として形成されるのだ。

なぜヒップホップ・ジャズのステップにおいては、軸足と浮き足がパートナーシップを形成するかというと、ヒップホップやジャズのダンスにおいては、ダンスステージにおける「進行方向」がないからだ/「進行方向」がないからリーダーシップが根本的に要らない。
比べると、武道における歩法は敵との間合いという進行方向があり、バレエも舞台上を明らかに「移動」するし、ボールルームもフロア内を「移動」するものだ、こうして「移動」「進行方向」がある歩法には軸足による浮き足へのリーダーシップが生まれる。
……というか、この話、「なるほど!!」と思っている人は一人もいないんじゃないかな!! こんな話、誰がわかるねんとは思うが、まあしょうがないだろう、僕はなるべく何にも迎合せず、今このときの僕が「マジだぜ」と追究していることだけを書くのだった。
とはいえ、さすがに何の訳にも立たない話を続けるわけにもいかないので、「軟派がないと突破はないですよ」ということだけスパッと申し上げておこう、堅気は「継続」「踏破」は得意だが「障壁突破」は不可能だ、軟派がないかぎり軸足は動かない/もちろん軟派ってナンパ行為のこと言っているんじゃないからね、ただの気質のことだよ。

男女平等と男尊女卑は、平行概念であって対概念ではない。

先輩と後輩や、教師と生徒、大人と子供や、店と客もそうだ、これらは主従関係でありながら、同時に平等関係でもありうる、両方の関係は平行に成り立ちうる/うーむやっぱり、こんな話じゃ誰の役にも立たねえよ。
つまり、武術的歩法とポップコーンステップの両方ができたら、男尊女卑とか平等とかで揉めることはないのだった、だからさっさと「進行方向を持つ軟派軸足」と「進行方向を持たない軟派軸足」の両方を獲得しよう(無理っス)。
できるオンナだね | comments(1) |
「突破力」は、「異性を愛する度」に比例する

ても奇妙なことを考えている。
人の「突破力」は、「異性を愛する度」に比例するのではないか、という仮説を考えている。
たとえば僕の場合、僕は女の子ちゃんが大好きなのだが、いくら女の子ちゃんを愛したとしても、僕自身が女の子ちゃんになるわけではないのだ。
とっても愛しているのに、その愛しているものに自分が「ならない」というのはどういうことなのだろう。

このように仮説を考えている/たとえば僕の場合、僕が男性であるということは「軸足」だ、逆に僕にとって女の子ちゃんの存在は、軸足でないほうの足、言うなれば「浮き足」のほうになるだろう。
そして、誰でも片足立ちになってみればわかるが、力ずくのジャンプやダンス的な動きをしないかぎり、軸足というのは体重が乗って「動かない」ものなのだ。
そこでダンスステップなどでは、ポップコーンやスポンジボブに典型的に見られるように、「浮き足のアクションに連動して、軸足もアクションが可能なのでは?」という発想に目を付けている、ふつうは動くはずのない軸足が「動く」から、それは通常の歩行や移動と異なる「ダンス」のステップになる。
軸足に体重を乗せて、軸足をジッと見つめている場合、軸足は決して「動くはずがない」、だから変化もできないし、その硬直は突破されない、軸足が「動く」可能性があるのは、浮き足を愛している者だけだ/浮き足と一緒に遊びたい軸足だけが、軸足のまま動くことを可能にする。

ダンスは堅気ではありえない。

堅気(カタギ)というのは、そのまま「気が堅い」という意味だから、堅気においては軸足はピーンと突っ張ったまま(気が堅い)、ダンスが生じることはありえない、そこに「軟派」が生じないかぎり軸足が動いてダンスが生じることはありえない。
本来は動くはずがない軸足が動くためには、浮き足を愛して付き合いたがる「軟派」が必要なのだ、これまで僕がわけのわからん突破を繰り返し、いくらでも「まったく別の男」になってきたのは、かわいい女の子ちゃんを愛して付き合いたかったからなのだ/別に何かを突破しようと努力してきたわけではまったくなくて、ただ障壁を突破する力は異性を愛する度合いに比例するようだった。

できるオンナだね | comments(0) |
| /PAGES |